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3.第3世界の多元化と地域紛争
ア.第三世界の分化
 南北問題 1960年代に明らかになってきた、先進工業国と発展途上国の経済格差に伴うさまざまな対立。先進工業国が主として北半球の中緯度地帯(温帯)にあり、発展途上国はその南の低緯度地帯に多いので南北問題と言われる。1950年代までは西側先進資本主義国はアメリカの経済力が群を抜き、他は第2次世界大戦の痛手から回復することに勤め名蹴れればならなかった。イギリス、フランスは低迷したが、西ドイツと日本はめざましい回復を遂げた。それに対してソ連を中心とした東側諸国は社会主義経済の建設という形で対抗し、両者の対立は東西問題として戦後の基本的な対立構造となった。その50年代に民族独立を遂げた旧植民地(または半植民地状態であった国)が国際政治の上でも台頭し第三世界を形成していったが、社会資本の未整備などにより経済成長は遅れ、先進諸国との格差は広がり、国内では貧困問題、民族対立などに悩まされるようになった。途上国は先進工業国への原料提供と市場としての地位にあり、先進国はかつてのような領土的支配はしないものの、途上国を経済的にコントロールするという新植民地主義が横行するようになったため、途上国の反発が強まった。国際連合でもこの問題が取り上げられるようになり、1962年の国連第17回総会では発展途上国の開発と経済発展に全世界が協力することが決議され、国連貿易開発会議(UNCTAD)が創設された。
1870年代にはベトナム戦争などを要因としたアメリカ経済の落ち込みもあって、1980年代には日本及びヨーロッパ経済共同体が成長、世界経済は三極時代となり、1985年のプラザ合意でアメリカ経済を大国間で救済する措置をとった。ついで東欧の社会主義国家崩壊から一気にソ連の解体にまで進んで、東西冷戦時代は終わりを告げ、一方で途上国の中にNIEsが成長し、また資源ナショナリズムも高まる中で新たに南南問題が浮上してきた。1990年代から21世紀にかけて湾岸戦争を機にアメリカの世界戦略が強まると、中東での民族・宗教対立から発したアラブ原理主義のテロ攻勢が世界を震撼させた。これは南北問題が継続しているともとらえられ、さらに新たな多国籍企業による途上国民衆の生活と環境の破壊というグローバリゼーションが問題となっている。
 先進工業国  
 発展途上国 発展途上国の抱えている主な問題を整理すると次のようになろう。
(1)インフラ整備の遅れ 永く植民地支配を受けていたため、インフラストラクチャー(道路、鉄道、通信、港湾など産業発展の前提となる社会資本)の整備が遅れた。宗主国側は植民地支配には産業基盤を整備する側面があったが、あくまで本国の利益のためであり、独立後の経済自立には不十分であった。インフラの整備の遅れだけではなく、教育の遅れからくる技術力の低さは途上国の自立を妨げてきた。
(2)モノカルチャー モノカルチャーとは単一作物に依存する農業のことで、植民市支配に際して本国にとって有利な天然資源や農作物を限定して生産させた。たとえばポルトガルのブラジルにおけるコーヒー、イギリスのインドにおける綿花やアヘン、またマレー半島におけるスズとゴム、オランダのインドネシアにおけるコーヒー、藍の強制栽培制度などである。これは植民地の多様な産業の発展を、独立後も阻害する要因となった。
(3)人口圧力 途上国は高い経済発展を示しても、人口増加率も高いため、一人あたりの生産性はなかなか高まらない。その現象を人口圧力という。現在においても世界の人口は低所得国30.6億、中所得国10.9億、高所得国8.2億と中・てい所得国に偏在している。
※現代においては露骨な新植民地主義はみられないが、1970年代からび世界経済のボーダーレス化が進む中で、多国籍企業の経済活動がより安価な原料と労働力を求めて進出し、そしてなりふり構わない市場原理を途上国の国内企業にもしかけてきて、新たな地域格差と自然破壊をもたらしているという、いやゆるグローバリゼーションの脅威にさらされている。
c GATT  → 第16章1節 関税と貿易に関する一般協定
d 経済協力開発機構(OECD) Organization for Economic Co-operation and Development 1961年に発足した、先進工業国諸国の協力機関。ヨーロッパ経済協力機構(OEEC。戦後の経済復興のため、マーシャル=プランの受け入れ機構として結成された)が役割を終えて解消されたのに替わって成立した。アメリカとカナダなどの先進国があたらに参加し、日本も1964年に加盟した。本部はパリに置かれている。
OECDの目的:1.加盟国の経済成長、2.発展途上国に対する経済援助、3.貿易の拡大などをはかるものである。当初は社会主義経済圏に対抗するという性格が強かったが、冷戦解消後は途上国援助が主たる目的になっており、現在は「先進国クラブ」と言われている。
OECDによる途上国援助:組織内部に開発援助委員会(DAC)があり、加盟国の政府資金の援助(ODA)と、民間資本による援助とを平行して行うよう調整されている。
途上国支援の問題点:途上国援助の政府開発援助(ODA)は技術協力や無償協力もあるが、多くは資金の貸し出し(融資)であったので、夫妻として途上国に大きな負担となった。債務を返済できず、累積債務が増加し、破産する例も現れた。1970年代に工業化の資金を先進国や国際機関の他に、国際金融市場から借り入れ、返済ができなくなったブラジルやメキシコの例など、中南米にそのケースが多かった。この累積債務問題は、先進国首脳会議(サミット)や7カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G7)において解決がはかられ、元本の削減や金利の減免などによって1990年代に解決がはかられた。このような債務超過国の経済再建の理論として台頭してきたのが、1970年代の新自由主義(シカゴ学派の経済学)であった。
補足 日本のOECD加盟と「第2の黒船」 日本は1964年にOECDに加盟した。OECD条約第8条は「資本移動の自由」を「維持、拡大すること」を規定しているため、日本もいわゆる「資本の自由化」に踏み切ることになった。日本はそれまで国内企業を保護するため、外国人による株式取得を制限(総株数の半分以下)していたが、OECD加盟によって資本取引は自由化されることとなった。同時にIMF協定第8条により貿易の自由化(さらに為替の自由化)に踏み切ることとなった。これは戦後経済の復興という名目で保護されていた戦後の日本経済が、新たな国際競争にさらされることを意味し、外国資本による日本経済支配が懸念されて「第2の黒船」などと言われた。しかし、60〜70年代の日本は(ベトナム戦争のため低迷したアメリカ経済にくらべ)急速な経済成長をとげ、70年代後半にはかえって日本資本がアメリカの企業を買収する状況となった。一方、日本のODA(政府開発援助)実績は、アメリカ(109億ドル)についで第2位(97億ドル)であるが、GNP比では0.23%(アメリカは0.11%)の低水準にとどまっている。(数字は2001年)
e 国連貿易開発会議(UNCTAD) United Nations Conference on Trade Development アンクタッド。1962年の国際連合第17回総会において創設された、発展途上国の開発と経済発展をはかる機関。国連総会に附属する自治的機関と位置づけられ、ほぼ4年に1度、総会が開催されている。国連における南北問題の解消のための機関として重要である。
1964年の第1回国連貿易開発会議では、いわゆる南の立場の77カ国が77カ国グループ(G77)を結成、G77はその後も加盟国を増やしている。しかし、1980年代には途上国のなかに工業化に成功した国と、資源(特に石油資源)を保有する国は豊かになり、そうでない途上国との格差が拡大するという南南問題が表面化し、難しい局面に来ている。
 南南問題 南北問題は先進工業国と発展途上国の格差拡大の問題であったが、70年代後半から80年代にかけて、途上国側のなかで、工業力を発展させた国と資源保有国で資源ナショナリズムを主張してその利益を得た国は豊かになり、そのいずれにも属さない貧しい国の格差が生じてきた。このような、発展途上国内の経済格差の拡大を南南問題という。工業化も進まず、資源も保有しない国は後発発展途上国(LDC、Least Developed Countries)と言われている。
・工業化の進んだ国 = アジアNIEs 韓国、台湾、香港、シンガポールなど
・資源を保有する国 = 産油国(OPEC、OAPEC諸国 サウジアラビア、クェートなど) 
・工業化も進まず、資源も保有しない国 = 後発発展途上国(LDC)
a オイル=ショック  → 第1次オイル=ショック
 産油国  
 資源ナショナリズム 1960年代以降、南北問題が深刻になるなかで、発展途上国側が自国の天然資源についての権利を強く主張するようになったこと。特に1973年の第4次中東戦争に際して、アラブの産油国諸国がOAPECに結集して、イスラエル支持の先進資本主義諸国に対して石油の輸出削減、原油価格引き上げの対抗措置をとって、オイル=ショックを引き起こしたことに典型的に現れている。
その後も、翌1974年に国連資源特別総会において、G77(国連貿易開発会議で結束した途上国グループ)は、「援助より公正な貿易の拡大を」主張し、新国際経済秩序(NIEO)の決議を成立させた。
 新国際経済秩序(NIEO) 1974年、国連資源特別総会において、途上国グループであるG77が主張し、「新国際経済秩序宣言」として可決された。資源ナショナリズムの考え方に基づき、「援助よりも公正な貿易の拡大」を実現しようとしたもの。
(1)主権平等、内政不干渉、公正の原則にもとづく新秩序形成への第三世界の参加
(2)天然資源に対する国家主権の行使と多国籍企業の影響の排除
(3)資源生産国同盟の結成と一次産品価格の交易条件の改善
(4)工業製品輸出拡大のための特恵関税と先進国の保護主義の撤廃
(5)先進国による公的開発援助の拡大と条件の緩和 など
b 新興工業経済地域(NIEs) Newly Industrializing Economies を略して、NIEs(ニーズと読む)。一般に、韓国・香港・台湾・シンガポールとブラジル、メキシコなどの1980年代に急速に経済を発展させた国、地域のこと。当初は経済協力開発機構(OECD)で、途上国のなかで経済発展を遂げた諸国を広く含めていたが、次第に韓国・香港・台湾・シンガポールを指すようになった。このアジアの4地域は「アジア4小竜」と言われ、世界経済に強い地位を築いた。当初は Newly Industrializing Coutries の略でNICs(ニックス)と呼ばれていたが、香港と台湾の立場を考慮し(国ではないので)1988年のトロント先進国首脳会議(サミット)でNIEsと呼ぶことに改められた。
背景と条件:これらの地域は、1970年代にアメリカ、西欧(EC)、日本の先進経済諸国がオイルショックなどで成長が止まったのに対し、加工業や仲介貿易で利潤を挙げ、80年代に輸出を中心に台頭してきた。また韓国とこれらに次いで経済成長を遂げたインドネシアやフィリピンにように、民主政治が抑圧されるなかで、開発独裁という開発優先の工業化がはかられ、民衆生活を犠牲にした成長であった。またNIEsの成長が80年代を通して続いた条件として、低賃金労働と通貨安・原油安・金利安の「3低現象」があったとされている。
NIEsの終焉:また、これらの諸国はアメリアに対する輸出が主力であり、次第に対米貿易黒字が増大したため、アメリカはこの地域に対し、通貨切り下げや市場開放を強く求めるようになった。NIEsの好景気は90年代も続いたが、1997年にタイの通貨バーツの暴落をきっかけに起こったアジア通貨危機が一挙に波及し、急激に経済が悪化し、NIEsということばも聞かれなくなった。アジア通貨危機は、この地域の通貨管理が不十分であったために、欧米の通貨投資家に狙われ、短期間にその資金が引き上げあられたためと言われている。インドネシアのスハルト政権はその処置を誤り崩壊した。
※最近、経済成長の著しい国としてブラジル、ロシア、インド、中国の4カ国をあげ、BRICs(ブリックス)という言葉が聞かれるようになっている。
c 韓国  → 韓国
d 台湾  → 台湾 
e 香港  
f シンガポール  → シンガポール
g ASEAN(東南アジア諸国連合)  → 東南アジア諸国連合  → ASEANの拡大
イ.アラブ世界の分裂とその影響
アラブ・イスラエルの対立激化スエズ戦争(1956年、第2次中東戦争)の後、国連軍がガザ地区とシナイ半島南端のシャルム=エル=シェイク(アカバ湾入り口)に駐屯して監視し、平和の維持がはかられた。しかし1963年、イスラエルがヨルダン川の水を一方的に分流してイスラエル南部のネゲブ砂漠に導水管を引く計画を実行に移すと、翌64年エジプトのナセル大統領はカイロにアラブ首脳国会議(13ヵ国が参加)を召集、ヨルダン川の分流に対抗してアラブ側にも導水路を建設すること、パレスチナ解放機構を組織することを決定した。それに前後してパレスチナ人によるゲリラ組織であるアル=ファタハ(アラファトが組織)などの活動が始まった。イスラエルはパレスチナ=ゲリラに武器を提供しているとしてシリアを非難、シリアも反撃して衝突が繰り返された。1967年、ナセルは国連軍の撤退を要求、アカバ湾を閉鎖してイスラエル船の航行を禁止、戦時態勢を整えた。イスラエル側も軍備を増強し、一触即発の状態となった。 →第3次中東戦争
 第3次中東戦争 1967年6月5日、イスラエル軍がエジプトに侵攻、空軍がエジプト空軍基地を爆撃し、わずか3時間で破壊した。エジプト空軍の反撃を無力化した上で、イスラエル陸軍はシナイ半島ガザ地区を制圧し、スエズ運河地帯まで進撃した。北方ではシリア領ゴラン高原と、ヨルダン領ヨルダン川西岸地域と東イェルサレムを占領した。6月10日、イスラエル・エジプトは国際連合の停戦決議を受諾し、停戦。戦闘はわずか6日間で、イスラエルの圧倒的な勝利となった。イスラエル側は「六日間戦争」とも言っている(アラブ側では6月戦争という)。イスラエル軍の電撃作戦を指揮したのは隻眼のダヤン将軍であった。戦死者はアラブ側が3万人であったのに対し、イスラエルは670人にとどまり、イスラエルは領土を4倍近くに増やした。また首都イェルサレムに隣接する旧市街を含む東イェルサレムはヨルダンが支配していたが、これで20年ぶりに奪回した。またこの戦争によってパレスチナ難民が100万人以上発生、そのほとんどがヨルダンに避難した。国連は安保理決議242でイスラエルの撤退を決議したが、実行されなかった。エジプトのナセル大統領は敗戦の責任をとって辞任を決意したが、国民の辞任反対の声が強く、辞意を撤回した。 → 第4次中東戦争
a パレスチナ解放機構(PLO) 1964年に、エジプト(ナセル大統領)などのアラブ諸国連盟の支援を受けて組織された、パレスチナのイスラエルからの解放を目指す組織。1969年以降にアラファト議長の下でヨルダン、レバノンと拠点を移しながら過激なテロを敢行した。1980年代終わりからは和平路線に転じ、パレスチナの政治勢力として自治政府を支えている。 Palestine Liberation Organization
パレスチナ難民とイスラエルに占領されているヨルダン川西岸地域とガザ地区のアラブ人住民が組織したもので、当初は話し合い主体の活動にすぎなかったが、第3次中東戦争(六日間戦争)の後の1969年に、過激派組織アル=ファタハの指導者アラファトが議長となってから、対イスラエル・ゲリラ戦を積極的に展開し、パレスチナの反イスラエル闘争の代表機関となった。1970年にはパレスチナ・ゲリラが旅客機4機をハイジャック、爆破するという事件を起こした。パレスチナ・ゲリラはヨルダンを基地に活動し、ヨルダンの王政を非難するようになったので、ヨルダン(フセイン国王)はパレスチナ・ゲリラ基地を攻撃し、PLOと戦闘を開始、ヨルダン内戦となった。このアラブ同士の闘い(エジプトのナセルが和平交渉を仲介しようとしたが急死したため失敗した)の結果、PLOはレバノンに逃れる。1970年以降は本拠地をレバノンのベイルートに移したが、そのころからアラブ過激派は分裂を繰り返し様々な集団が出現し、それぞれ競うように、72年のイスラエル・ロッド空港でのテロ事件(日本赤軍を名乗る日本の過激派が参加した)、「黒い9月」を名乗る武闘団によるミュンヘン・オリンピック選手村襲撃事件などのイスラエルに対するゲリラ闘争を展開した。それに対するイスラエルの報復攻撃もレバノンのPLO基地に対して激しく加えられた。1974年にはアラブ首脳会議にパレスチナの代表として認められて参加したが、翌75年からレバノンのキリスト教マロン派民兵組織などがPLOの退去を求めて戦闘を開始、レバノン内戦となった。内戦は泥沼化し、シリアが介入してPLOを攻撃、PLOは苦境に立たされた。一方アラブ諸国のリーダーだったエジプトは1973年の第4次中東戦争で一定の勝利を収めたが、サダト大統領は姿勢を転換しPLO抜きでイスラエルとの和平交渉を開始、1979年3月エジプト=イスラエル平和条約を締結した。さらに1982年にはイスラエル軍(シャロン将軍の指揮)がレバノン侵攻を行いベイルートを猛爆し、PLOはやむなく本拠地をチュニジアのチュニスに移した。PLOの影響力の少なくなったパレスチナでは87年からインティファーダによる抵抗が始まった。この時期からPLOは過激な武装闘争を放棄して現実的な話し合い路線に転換し、88年にはPLO議長アラファトは国連で演説、イスラエルを認め、テロ行為の放棄を表明した。1990年の湾岸戦争後、アメリカ主導の中東和平交渉が開始され、91年からマドリードで中東和平会議が開催されたが、イスラエルがPLOを唯一のパレスチナ代表とすることに反対したため、PLOは機関としては参加できなかった。アメリカ主導の和平交渉の失敗を受けて、スウェーデン外交官を仲介として秘密裏にPLOとイスラエルの交渉が始まり、両者は1993年にパレスチナ暫定自治協定に調印し、ようやく和平実現への端緒をひらかれパレスチナ暫定自治行政府が成立した。しかし、イスラエルでは和平を進めたラビン首相が暗殺されて再び強硬路線に転じ、またパレスチナでも妥協的な和平に反発したハマスなど、イスラーム原理主義に属する勢力が台頭しPLOとの対立が起こっている。2004年にはアラファト議長が死去、PLO事務局長アッバスが議長となったが、中東問題はなおも予断を許さない状況になっている。
b イスラエル(建国後)
1948年、パレスチナ戦争(第1次中東戦争=イスラエルから言えば独立戦争)で勝利したイスラエルは、それまでのヨーロッパ各地からだけではなく、中東地域からも多数のユダヤ人が移住してきた。1948年から51年までを「ユダヤ大移民時代」とよび、人口は70万から140万に倍増した。しかし、ユダヤ人と言っても、戦前のヨーロッパからナチスドイツの迫害を逃れてパレスチナに移住していた「アシュケナージム」と言われる人々と、建国後にアジア・アフリカ地域かあ移住したユダヤ人との間に、貧富の格差が大きくなり、経済危機が広まった。イスラエルには戦前の入植時代からロシア系ユダヤ人によって社会主義的集団農場であるキブツが作られ、移住者を吸収し、独特の生産と軍事的性格を持つ制度として存在していた。イスラエルはアメリカ・イギリスからの支援と、西ドイツからの賠償金で経済を維持していたが、一挙に国内の不況を解決したのが、1967年の第3次中東戦争であった。この戦争でヨルダン川西岸(東イェルサレムを含む)、ガザ地区、シナイ半島、ゴラン高原を占領、積極的に入植者を送り込んだ。このイスラエルの建国と領土拡大に伴い、多くのパレスチナ人が難民となって周辺に移住した。その中からパレスチナをイスラエルから解放することをめざすPLOとの激しい対立が続いている。
c 六日戦争 1967年の第3次中東戦争は、わずか6日間でイスラエルの勝利に終わった戦争だったので、イスラエル側で六日戦争(六日間戦争)という。アラブ側は6月戦争という。
d シナイ半島 スエズ運河とイスラエルにはさまれ、地中海・紅海・アカバ湾にかこまれた地域。大部分が砂漠で、南部にユダヤ人が「出エジプト」の途中でモーゼから「十戒」を授けられたというシナイ山がある。エジプト領であったが、1967年の第3次中東戦争でイスラエル軍が電撃的に占領した。1973年の第4次中東戦争ではエジプトが奪回を目指したが、途中からイスラエル軍の反撃にあい奪回はならなかった。エジプトのサダト大統領は一転してイスラエルとの和平交渉に乗りだし、1979年のエジプト=イスラエル平和条約によって返還を実現させた。
e ゴラン高原 シリアの東南部の大地状の高地。シリア領であったが、1967年の第3次中東戦争でイスラエル軍が侵攻し、そのまま占領を続け、ユダヤ人の入植を進めた。第4次中東戦争ではシリア軍が奪回を試み進撃したが、イスラエル軍が反撃し、激しい戦闘の結果、イスラエルが確保し、1981年にはイスラエルに併合することを宣言した。しかし国際法的にはまだ認められていない。 
f ヨルダン川西岸 パレスチナのヨルダン川の西岸一帯で、エルサレムの東半分を含む。広さで言えば大分県とほぼ同じ5800平方km。1947年の国際連合パレスチナ分割決議ではパレスチナ人の国家とされていたが、翌年起こった第1次中東戦争で隣国ヨルダンが占領し、49年休戦協定でヨルダン領となった。1967年の第3次中東戦争イスラエルはこの地域に侵攻し、占領した。イスラエルはこの地をユダヤ民族が神から与えられた「契約の土地」であると主張して、積極的な入植を進めている。2001年2月にイスラエル首相となったシャロン(第3次、第4次中東戦争を指導した軍人)は、ヨルダン川西岸のユダヤ人入植地をパレスチナ・ゲリラから守るという名目で、高さ4〜8mの壁を築き始め、その長さは、680kmに及んでいる。なお、ヨルダン川西岸の領有権を主張(50年に併合宣言)していたヨルダンは、1987年以降のインティファーダの高揚が、ヨルダン本土のパレスチナ人に波及することをおそれ、1998年にヨルダン川西岸を放棄する宣言を行った。これを受けてアラファトPLO議長は、同年11月、パレスチナ独立国家樹立を宣言したが、1990年の湾岸危機でPLOがイラクを支持したためアメリカなどが承認せず、幻に終わった。2005年にガザ地区のパレスチナ人は自治が認められ、次いでヨルダン川西岸が焦点となっている。
g ガザ地区 パレスチナ南西の地中海岸で、シナイ半島に接し、交通の要衝。1947年の国連パレスチナ分割案ではパレスチナ人地区とされたが、48年第1次中東戦争が起きるとエジプト軍が占領し、第2次中東戦争では国連軍の監視下に置かれた。1967年の第3次中東戦争で、イスラエル軍が軍事占領し、以後ユダヤ人の入植が進み、パレスチナ人との間の衝突が続いた。広さは約360平方km、奄美大島ほどにすぎないが90万人のパレスチナ人が難民が生活し、その地をイスラエルの入植者が奪い、人口密度は世界で最も高い地域になっている。1987年にはガザ地区のパレスチナ人の自発的暴動(インティファーダ)が起こり、はげしいイスラエルの軍事占領に対する抵抗運動を展開た。冷戦終結後の1993年のオスロ合意でパレスチナ暫定自治が成立、PLOのアラファトが帰還した。しかしその後イスラエルに右派政権が出現したため対立は継続した。2001年の同時多発テロではイスラエルはガザ地区のイスラーム過激派を制圧するとして軍事行動を行い、戦車を侵入させた。このようなイスラエルの高圧的姿勢は次第に国際的な反発を強め、アメリカはイラク戦争と並行してパレスチナ和平のためのロードマップ作成に乗りだした。
イスラエルのガザ地区撤退:2004年1月イスラエルのシャロン首相は一方的にガザ地区の入植者と軍隊の撤退を発表したが、それは残るヨルダン川西岸の確保と引き替えという面が強いと言われている。2005年8月22日、予定通りイスラエルはガザ地区から撤退した。しかし、ガザ地区にはヨルダン川西岸のPLO主流派ファタハのアッバス政権の和平推進路線に反対するイスラーム原理主義系のハマスが台頭し、06年には選挙でハマスが勝利して政権を握りるとにわかに対立が再燃し、イスラエル側はハマスをテロリストとして交渉を認めず、和平は中断し、2008年12月にはイスラエル軍がハマスのロケット弾攻撃に対する報復として大規模な反撃を開始、深刻さをましている。
 ヨルダン内戦(「黒い9月」事件)1970年9月のヨルダン(フセイン国王)によるパレスチナ=ゲリラ弾圧(「黒い9月」)から始まった、ヨルダン軍とパレスチナ=ゲリラという同じアラブ同志の戦い。
ヨルダン王国はアラブ諸国の一つ、パレスチナの東に位置するため、第1次中東戦争と第3次中東戦争で生じたパレスチナ難民の多数が移住してきた。パレスチナ=ゲリラPLOもヨルダンを拠点に活動し、イスラエルを攻撃したので、イスラエルもしばしばゲリラ鎮圧する名目にヨルダン領内に侵攻してきた。ゲリラの中にはヨルダンの王政を批判するものも現れたので、フセイン国王はパレスチナ難民とPLOの存在をヨルダンを危険にさらすものと考えるようになり、1970年9月にPLOに宣戦し、弾圧を加えた。同じアラブ人同士が戦うこととなったので、エジプトのナセル大統領が仲介に乗り出したが、同月に急死し、調停は成立しなかった。PLOは敗れて首都アンマンを撤退し、レバノンのベイルートに移らざるを得なくなった。
Epi. 「黒い9月」 ヨルダン内戦では、パレスチナ難民のキャンプが戦場となり、4000人近いパレスチナ人に死者が出た。この屈辱をパレスチナゲリラ側は「黒い9月」と呼んだ。ファタハなどのゲリラは「黒い9月」グループを組織し、報復に出て11月にはヨルダンの首相を暗殺した。さらに「黒い9月」グループは1972年、ミュンヘン・オリンピックの選手村を襲撃しイスラエル選手9名を人質にする事件を起こした。追いつめられたゲリラが極端なテロに走るという、パレスチナ問題の深刻な様相がますます深くなっていった。
 ヨルダン王国
ヨルダンは第1次世界大戦後イギリスの委任統治から1928年にトランス=ヨルダン王国として独立。46年に正式独立、49年にヨルダン=ハーシム王国に改称。王家の名称であるハーシム家の戴く君主国である。なおハシミテ、あるいはハシュミトなどとも表記するが、略称のヨルダン王国が一般的である。に改称。「アラブの反乱」を起こしたハーシム家のフセインの子でイラクのファイサル王の弟であるアブドゥラ王(正確にはアブド=アッラーフ=ブン=フサイン)が国王であった。アブドゥラ国王はイギリスの支援を受けて「アラブ軍団」を育成し、シリアの統合を策し、1948年の第1次中東戦争に際してはパレスチナのヨルダン川西岸を併合した。しかし、イスラエルの建国とその領土拡張によって多数のパレスチナ人がパレスチナ難民としてヨルダンに避難し、パレスチナ解放機構(PLO)などもヨルダンを拠点に活動するようになった。1951年、イスラエルと単独講和を結ぼうとしたアブドゥラ国王がパレスチナ人に暗殺されると、代わって18歳で即位したフセイン国王は、独自外交に乗り出してイギリスとの関係を切り、アメリカとの関係を強めた。1967年の第3次中東戦争でヨルダン川西岸とイェルサレムを奪われ、さらにパレスチナ難民多数がヨルダンに流入した。フセイン国王は、王政批判を始めたPLOなどパレスチナ人勢力の排除をめざし、1970年9月ににパレスチナ難民キャンプをゲリラ基地であるとして攻撃を開始、ヨルダン内戦が始まった。ヨルダンはPLOの国外退去に成功したが他のアラブ諸国からは孤立することとなったが、1973年の第4次中東戦争以後は関係を修復した。1999年2月、54年にわたって統治したフセイン国王が死去し、現在はアブドゥラ(2世)国王。国内のパレスチナ難民は人口の約7割をしめ、なお情勢は予断を許さない。
h サダト アンワル=サダト(サーダートとも表記)は1970年、ナセル大統領の死によってエジプト大統領となり、中東和平に大きな転機をもたらした政治家。もと自由将校団の一員でエジプト革命以来のナセルの同志で、その副官であった。しかし大統領に就任すると、ナセル主義を放棄し、親ソ連路線を改めて、ソ連軍事顧問団や技術者を追放、さらに社会主義政策を改め、自由経済の導入を図るという「開放」(インティターハ)政策を進めた。1973年10月、イスラエル側の不意をついてシナイ半島に進撃(第4次中東戦争)し、緒戦で勝利を占めてイスラエル軍不敗の神話を崩し、またアラブ諸国の石油戦略を背景に、イスラエルに圧力をかけた上で、1977年11月、アラブ首脳としては初めてイスラエルを訪問、ベギン首相と直接交渉に入った。これはイスラエルの存在を認めた上で、占領地の回復を認めさせようと言う現実的な政策であり、中東情勢を大きく転換させることとなった。翌78年9月、アメリカ大統領カーターの仲介でイスラエルのベギン首相との間でキャンプ=デービッド合意に到達し、さらに1979年3月26日、エジプト=イスラエル平和条約を締結した。この功績でベギンとともにノーベル平和賞を受賞した。中東和平には大きな前進となったが、他のアラブ諸国はエジプトのイスラエル承認を裏切りと捉えて反発し、エジプトはアラブの盟主という地位を失い、サダトも81年10月6日、イスラーム過激派のテロに倒れた。 → サダト大統領暗殺
i アラファト パレスチナ解放機構(PLO)議長として、1970年代以降のパレスチナ人の対イスラエル闘争と独立運動を指導し、90年代には中東和平交渉のパレスチナ代表として活躍した人物。1929年にイェルサレムに生まれ、パレスチナ戦争、スエズ戦争にアラブ軍兵士として参加、1959年頃、数人の仲間と「アル=ファタハ」という武装集団を結成した。アル=ファタハは、パレスチナの解放はアラブ諸国の首脳の政治的駆け引きで実現されるのではなく、パレスチナ人自らが武器を取って立ち上がるしかないと考え、ヨルダンを基地として、シリアからの武器援助を受け、65年からイスラエルに潜入して破壊活動を開始した。1968年3月21日の戦闘で、PLOのゲリラ戦術がイスラエル軍に勝利し、アラファトの名声があがり、翌年PLOの議長となり、パレスチナ側の代表格となった。しかし、ヨルダンのフセイン国王は、国内での反体制運動に転化することをおそれ、1970年にPLOに国外退去を要求、アラブ同士の戦闘(ヨルダン内戦)の結果、PLOはレバノンのベイルートに移った。1970年代にはPLOの激しい武装闘争を指導した。レバノンではキリスト教徒(マロン派)が多数を占めていたので、PLOを支持するイスラーム教徒との内戦(75年レバノン内戦)が起こった。1982年にはイスラエル軍がレバノンに侵攻、ベイルートを占領したため、アラファトらPLO指導部はチュニジアに移動、そのころから武装闘争路線を後退させた。1987年、ガザ地区で自然発生的なパレスチナ人の暴動(インティファーダ)が起こり、国際世論がパレスチナ自治実現の方向に向き、88年12月アラファトは国連で演説して「イスラエルの生存を認め、テロ行為を放棄する」ことを宣言した。91年からオスロでイスラエル側と交渉に入り、93年暫定自治の実現でのオスロ合意に達し、ガザに戻ってパレスチナ自治政府議長となった。翌年にはラビンイスラエル首相らとともにノーベル平和賞を受賞した。しかし、95年にラビン首相が暗殺されて和平路線は停滞、イスラエルにネタニエフ政権やシャロン政権の右派政権に代わり、パレスチナ側の自爆テロとそれに対するイスラエル軍の報復という悪循環が続き、アラファトもヨルダン川西岸の拠点ラマラで軟禁状態に置かれ、次第に実権から離れた。2004年11月、パレスチナの解放を見ることなく死去した。
 ミュンヘン=オリンピック襲撃事件  
 南イエメン  イエメン共和国
 アラブ首長国連邦
英文では United Arab Emirates なので略称がUAE。emirate はemir(首長)の治める国の意味。emir はイスラーム世界のアミールのことで、王族や指揮官を意味する。首長国は王政の一種で、その地位は世襲でありクウェートやカタールなどの中東諸国に見られる。アラブ首長国連邦は首長制国家の連合体である。現在は7首長国の連合国家であるが、大統領はアブダビ、副大統領はドバイの首長が世襲的に任命されている。議会もあるが、議院の半数は各首長が選び、半数について2005年にはじめて国民が直接選挙することとなった。首都はアブダビ。石油輸出国として経済発展がめざましく、とくに最大の都市ドバイでは、高層ビルラッシュや、大規模な海上リゾートであるパームアイランドの建設など、世界の耳目を集めている。
歴史:ペルシア湾南岸に位置するこの地域は、7世紀にはイスラーム帝国の領域に入り、次いでオスマン帝国領となった。15世紀末にポルトガルの勢力が伸びてきて、1508年にはホルムズ島に基地を設けてペルシア湾に進出した。ペルシア湾にはついでオランダ人、さらにイギリスが進出し、ポルトガル勢力は次第に後退した。1622年にイギリスはサファヴィー朝イランのアッバース1世と協力してホルムズ島からポルトガルを追い出してバンダル=アッバースに基地を設け、さらに1778年ペルシア湾北岸のブーシールに拠点を置き、「インドへの道」の確保に努めた。その遮断を狙ったナポレオンがエジプトに進出し、さらにアラビア半島のワッハーブ王国と結んでペルシア湾岸(現在のアラブ首長国連邦)の諸部族をイギリスに対する反乱にけしかけた。彼らはイギリス東インド会社の船舶を盛んに襲撃しアラブ海賊として恐れられた。しかし、ナポレオンが没落し、ワッハーブ王国もエジプトに滅ぼされるに及んで、1820年、ペルシャ湾南岸の諸部族の首長とイギリスの間で「海賊行為停止に関する休戦条約」を締結した。この結果、「海賊海岸」から「休戦海岸」と言われるようになり、1892年にイギリスの保護国として「オマーン休戦土侯国」となった。第2次世界大戦後の1968年、イギリスがスエズ以東からの撤退を表明すると独立の動きが活発となり、1971年にアブダビとドバイを中心とする6首長国が連合して「アラブ首長国連邦」として独立した。<牟田口義郎『石油に浮かぶ国』 1965 中公新書 p.27 などによる>
 第4次中東戦争 1973年10月6日、エジプト軍はシナイ半島で、シリア軍はゴラン高原で、一斉にイスラエル軍に攻撃を開始、不意をつかれたイスラエル軍は後退を余儀なくされ、ようやくしかしシナイ半島中間でイスラエル軍は反撃に転じ、その時点でアメリカが停戦を提案、開戦後ほぼ1ヶ月で停戦となった。アラブ側ではこの戦争を「十月戦争」または「ラマダン戦争」といい、イスラエル側はちょうど開戦の日がユダヤ教の祝祭日ヨム=キプール(贖罪の日)だったので、「ヨム=キプール戦争」といっている。この戦争でイスラエル軍不敗の神話が崩れ、エジプト大統領サダトはこれを有利な材料としてシナイ半島の返還をイスラエルに迫った。またサウジアラビアをはじめとするアラブ諸国の産油国の組織であるアラブ石油種出国機構(OAPEC)は、イスラエル支援国に対するアラブ原油の販売停止又は制限をするという石油戦略をとり、さらに石油輸出国機構(OPEC)は原油価格を4倍にしすることを声明した。これはイスラエルを支援する欧米や日本に大きな打撃を与え、第1次石油危機(オイル=ショック)と言われている。
a エジプト・アラブ共和国

近代以前のエジプト:エジプト文明にさかのぼる世界最古の国家の一つ。紀元前32世紀頃統一王朝が成立し、ピラミッドに代表されるエジプト文明を発達させた。ペルシア帝国の支配を受けた後、ギリシア系のアケメネス朝時代となり、アレクサンドリアが繁栄。紀元前1世紀よりローマ帝国領となり、4世紀からは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)領となる。7世紀にイスラム化し、大きく転換。ファーティマ朝(カイロはこの王朝の都として建設された)やアイユーブ朝、マムルークなどが起こる。16世紀からはにオスマン帝国領。
19世紀以降のエジプト:1805年からエジプトは太守(パシャ)ムハンマド=アリーが実権を握り、オスマン帝国の宗主権のもとで実質的に独立した。これをエジプト王国(ムハンマド=アリー朝)という。ハンマド=アリはマムルーク勢力を一掃して近代化に着手し、アラビア半島のワッハーブ王国を滅ぼし、さらにシリアの領有をめぐってオスマン艇庫kと対立してエジプト=トルコ戦争を2度にわたって戦った。その過程でイギリスが介入し、エジプトは負債に苦しめられ、イギリスの実質的支配を受けるよう成る。このイギリスの支配に抵抗してウラービーの反乱(1881〜82)が起こったが、それを鎮圧したイギリスの保護国とされることとなった。1922年、イギリスより王制の国として独立したが、スエズ運河の営業権など事実上はイギリスの支配が続いた。
第2次大戦後のエジプト:第二次世界大戦後の1952年、ナセル率いる自由将校団によるクーデターを経て共和制に移行、エジプト共和国となった。ナセルはアラブ世界の指導者として大きな力を振るい、1956年にはスエズ運河の国有化を宣言、イギリス・フランス・イスラエルと戦った(第2次中東戦争=スエズ戦争)。1958年にはシリアと合併してアラブ連合共和国をつくったが、61年にシリアは離脱した。しかし、1967年の第3次中東戦争ではイスラエルに敗れ、シナイ半島を奪われた。1970年にナセルが死去、翌年には国号を現在のエジプト・アラブ共和国とした。
現代のエジプト:ナセルに次いで大統領となったサダトは1973年に第4次中東戦争で緒戦の勝利を収め名声を高めたが、シナイ半島の奪還には失敗、そのご急激にイスラエルとの和平に転換し、1979年にエジプト=イスラエル平和条約を締結した。その結果、アラブ連盟から脱退することとなった。サダトはイスラエルとの和平に反対するイスラーム原理主義者によって1981年に暗殺され、ムバラクが大統領となった。その後、1989年にアラブ連盟に復帰した。1990年の湾岸戦争においては多国籍軍に参加した。しかし、かつてのナセル時代のようなアラブ世界・第三世界のリーダーとしての影響力はない。 1997年11月には、ナイル川上流の遺跡見学中の日本人を含む観光客がイスラーム原理主義者のテロによって多数死傷するというルクソール事件が起こっている。
b シリア(現在)

現在のシリア=アラブ共和国国旗
シリアでは1947年、首都ダマスクスにアラブ民族の完全な統合を目標とするバース党が生まれ、スエズ戦争後のナセル主義(アラブ民族主義)の隆盛とともに力をつけていく。政権を握ったバース党のシリアはアメリカの圧力を避けるため、1958年にナセルの率いるエジプトと合同し、アラブ連合共和国を結成した。しかしエジプトの統制が及ぶとシリアでも反ナセルの動きが出てきて、61年に連合は解消された。1963年にはバース党クーデターによってバース党政権が成立し、70年からはアサド将軍(ハーフィズ=アサド)が権力を握り(71年から大統領)、独裁政治を始めた。また第3次中東戦争以来、ゴラン高原をイスラエルに奪われており、1973年の第4次中東戦争ではエジプトともにイスラエル占領地奪還をめざしたが、ゴラン高原の奪還には失敗した。1975年から西隣のレバノンの内戦に介入し、その実権を奪った。アサド大統領はアラブ民族主義の立場に立ちながら、巧みな外交で中東の力のバランスをとり、独裁権を維持し、2000年に子のバッシャール=アサドにその地位を後継させた。現在はシリア=アラブ共和国と称している。
d アラブ石油輸出国機構(OAPEC)  → 第16章4節 アラブ石油輸出国機構(OAPEC)
e 石油輸出国機構(OPEC)  → 第16章4節 石油輸出国機構(OPEC)
c 第1次石油危機(オイル=ショック) → 第16章4節 第1次石油危機(オイル=ショック)
 レバノン(現代)

レバノンの国旗。レバノンは古代から中東では貴重な杉の産地だった。現在では長い期間の伐採でほとんど残っておらず、わずかに残った杉の巨木は世界遺産として保護されている。
1943年、フランス委任統治領のシリアから分離独立してから、レバノンは宗教各派の勢力の均衡をとりながら、西欧型の経済を発展させてきたが、48年に隣接する南部にイスラエルが建国され、パレスチナ難民がレバノン領内に移住し、民族構成はますます複雑となった。1958年にはエジプトやイラク革命の影響を受けたイスラーム勢力が力を付け、キリスト教マロン派と衝突してレバノン暴動となり、革命を恐れたアメリカが軍隊を派遣して鎮圧した。1970年からはパレスチナ解放戦線(PLO)もベイルートに移り、レバノンの政治を大きな影響を与えるようになた。ついに1975年にキリスト教マロン派の民兵組織ファランジュ党とPLOが衝突し、レバノン内戦に突入した。隣国シリアアサド大統領はレバノン内戦に介入し、内戦は複雑な宗教、民族対立を背景とした国際紛争化した。中央政府の統制はとれなくなり、シリアの実質的支配が行われるようになる。さらに1982年にイスラエルはベイルートのPLO本部をたたき、パレスチナゲリラの活動を封じるという目的でレバノン侵攻を実行した。このとき、右派民兵組織(ファランジュ党=ファランジスト)によるパレスチナ難民キャンプ襲撃による虐殺事件が起こった。またこの年、レバノン国内にはシーア派武装組織ヒズボラ(ペルシア語発音でヘズボッラーであり、アラビア語で「アッラー(神)の党」の意味)が生まれ、イランの支援のうけて反イスラエルのテロ行動を展開するようになった。彼らは1985年頃から南部を中心に活動を活発にしてイスラエルへのロケット弾攻撃を開始、イスラエルはヒズボラ勢力の排除を狙っって2006年夏にはレバノン南部に侵攻したが国際世論の反発から停戦に応じた。
 レバノン内戦 1975年に、レバノンのキリスト教勢力(マロン派)とPLOを主力としたアラブ人との内戦。他の宗教各派がからみ、さらにシリア、イスラエルが介入して泥沼化し、約15年にわたって続きレバノンを荒廃させた。
1943年にフランス委任統治領からレバノンが独立したが、民族的、宗教的に複雑で、キリスト教系とイスラーム教徒の争いが絶えなかった。1948〜49年のパレスチナ戦争によってパレスチナ人難民が多数移住し、さらに複雑な民族・宗教攻勢となった。そこに1970年にヨルダン内戦で追われたPLOが多数のパレスチナ難民とともに移ってきて、ベイルートを拠点に対イスラエル武装闘争を展開した。ヨルダン内部では宗教・民族対立にパレスチナ勢力がからみ、1975年からレバノン内戦となった。内戦はまずキリスト教徒マロン派民兵組織のファランジュ党(ファランジスト)対イスラーム教徒・パレスチナ人(PLO)の連合軍という構図であったが、途中から隣国のシリア(アサド大統領)が介入、キリスト教徒側についてPLOと闘い、一応は終結させたが、パレスチナ人はレバノン南部に拠点を確保し、PLOもベイルートに残った。それ以後もシリアの影響力が強まったが、1982年にはPLOの排除をめざしてイスラエル軍が侵攻し、首都ベイルートを攻撃した。PLOはそれによってベイルートを退去し、チュニジアに移った。80年代後半からはイスラーム教シーア派の民兵組織ヒズボラ(神の党)が台頭し、内戦状態が続いている。
 マロン派 中東アラブ世界のレバノンで大きな勢力を持つキリスト教徒(ローマ=カトリック教会)の一派。親西欧の立場で、イスラーム教徒であるパレスチナ難民と対立し、たびたび虐殺事件などを起こしている。
マロン派とはもとは5世紀初めに東ローマ帝国内で分化したキリスト教の一派で、修道僧マロンを始祖とする。この地にイスラーム教が入ってくると、迫害を逃れてレバノンの山中で共同体をつくって生活し、キリスト教信仰を守った。十字軍がやってくるとその味方をしてイスラーム軍と戦い、東方教会(ギリシア正教会)の祭式と儀礼を守りながらローマ教皇に帰属することとなった。その後レバノンではイスラーム教シーア派のドゥルーズ派が勢力をまし、両派は混在しながら対立を続けている。現在はレバノンに約120万、海外に400万の信徒がいる。
キリスト教徒であるためフランスと関係が強く、レバノン独立後も経済的にはマロン派が支配している。イスラーム教とのシーア派、スンナ派と三つどもえの対立をつづける中、ファランジュ党(ファランジスト)という民兵組織を持ちたびたびイスラーム勢力と戦っている。特に1975年から90年まで泥沼化したレバノン内戦ではイスラーム教とに対する虐殺行為で国際的な批判を受けることになった。
 シリア  → シリア
 アサド ハーフィズ=アサドはシリアの大統領(1971〜2000)。軍人出身で、1963年のクーデターで政権を握ったバース党を率い、1970年に首相兼任、1971年から大統領となり、ナセルと並ぶアラブの指導者の一人となった。彼はイスラーム教としては少数派のアラウィー派に属していたが、多数派のスンナ派を巧みに味方に付け、独裁的な権力を獲得した。1973年の第4次中東戦争では、エジプトのサダトと共にイスラエルと闘い、ゴラン高原の奪回をはかったが失敗した。1975年からは西に隣接するレバノンに介入し、国際的な批判を受けた。2000年に死去し、大統領の地位は息子のバッシャール=アサドに「世襲」された。
 エジプト=イスラエルの和平 1978年9月、カーター米大統領の仲介でエジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相の間で行われた中東戦争の和平。エジプトはイスラエルを承認し、イスラエルはシナイ半島をエジプトに返還した。
第4次中東戦争まではイスラエルは中東で孤立し、周囲のアラブ諸国に包囲される中で、アメリカの支援があるだけで孤立していた。そのような中で1977年6月、イスラエルに右派リクード党が初めて選挙で勝ち、党首ベギンが政権を握り、状況の打開を探っていた。一方、エジプトのサダト大統領はイスラエルとの軍事対立が財政を圧迫し、アメリカの経済援助を期待するようになった。そこで1977年11月19日、サダトは電撃的にイスラエルを訪問、イェルサレムの国会で演説して世界を驚かせた。ベギンにとってはシナイ半島を返還してもエジプトと和平することによって宿敵PLOを孤立させ、叩く機会がくると考えた。そのような両者の利害が一致し、パレスチナ問題の最大の当事者であるPLOを抜きにして中東和平交渉が始まった。1978年9月17日、両者はアメリカのカーター大統領の仲介という形でキャンプデーヴィッド合意を発表し、翌79年3月にエジプト=イスラエル平和条約に調印、イスラエルはシナイ半島をエジプトに返還することに合意した。
和平後の中東情勢:世界は中東和平の実現ととらえ歓迎したが、他のアラブ諸国とPLOは激しくエジプトを批判、エジプトはアラブ世界で孤立し、「アラブの盟主」という立場を放棄した。エジプトにとっては国内経済の立て直しと発展のためにはアラブ世界での孤立を厭わなかった。またこれが中東和平を実現するものではないという懸念は間もなく現実のものとなり、ベギンのイスラエルは南部の憂いをなくした上で、北部のレバノンのPLOを叩くためにレバノン侵攻に踏み切り、対立は新しい段階に突入することになった。
パレスチナ問題の転換パレスチナ問題は第1次から第4次中東戦争に至るまで、イスラエル対アラブ諸国(その中心がエジプト)という国家間の対立として続いたが、エジプト=イスラエル和平以後の対立軸はイスラエル対パレスチナ・ゲリラ(PLO)に移る。アラブ側は一枚岩が崩れ、PLOの孤立した戦いが続く。そのような中でアラブ側の若い世代のイスラエルやエジプトに対する怒りは、よりラディカルなイスラーム原理主義を拠り所とした自爆テロ戦術に転換して行き、9.11につながることになる。 → パレスチナ問題の深刻化(1980年代)  パレスチナ問題の転換(1990年代〜現代)
b ベギン 1977年からイスラエル首相で1979年にエジプト=イスラエル平和条約を締結した。それによってシナイ半島をエジプトに返還したが、1982年からは北部でレバノン侵攻を実行した。ベギンは1948年のイスラエル軍によるパレスチナ人虐殺事件であるディル・ヤーシーン村事件の責任者であり、リクード党党首でタカ派として知られていたが、1977年に選挙で勝って政権を獲得、エジプトのサダト大統領の和平交渉に応じ、平和条約を締結しシナイ半島の返還を認めた。しかし、パレスチナ人の自治問題ではほとんど取り組むことがなかった。エジプトとの和平を実現して南方の安全を確保したベギンのイスラエルは、ベイルートのPLOの拠点をたたくことに転じ、1982年にレバノン侵攻を実行した。エジプト=イスラエル平和条約は中東和平は実現せず、新たな対立を生み出した。レバノン侵攻では親イスラエルのキリスト教マロン派武装勢力(ファランジスト)がパレスチナ人を虐殺する事件も起きて国内にも批判が生じ、ベギンは辞任、右派のシャミールが首相となった。
c リクード 現代のイスラエルの政党で、イスラエルの拡大を主張しており対アラブで最も強硬な右派政党。ベギン首相や最近のシャロン首相を出しており現在も労働党と並ぶ政党である。
もとはシオニズム運動の中の、イギリスがパレスチナの範囲をヨルダン川西岸に限定したことに反発し、「大イスラエル」を主張する右派勢力が結成したもの。1977年の選挙で労働党に替わり第一党となり、ベギン政権を樹立、エジプトと和平を実現する一方、PLOとは対決姿勢を強めた。その後も、シャミール、ネタニヤフ政権を経て1999年に労働に敗れバラク政権にゆずったが、2001年にリクード党のシャロン首相が首相に選ばれた。シャロンは軍人出身で対パレスチナ強硬派として知られていたが、首相就任後は初めてパレスチナ国家の存在を認め、和平構想のロードマップ合意にも応じたため、リクードは分裂し、シャロンは新たに中道派政党ガディマを立ち上げた。右派としてのリクード支持も根強く、とくにガザ地区でのパレスチナ過激派のハマスの台頭に対して敵愾心を強めており、中東情勢不安定化の要因となっている。
c カーター  → 第16章 4節 アメリカ大統領カーター
d キャンプ=デーヴィット合意 1978年9月、アメリカ大統領カーターの別荘キャンプ=デービッドで、エジプト大統領サダトと、イスラエルベギン首相が会談、12日間にわたる協議の結果、エジプトはイスラエルを承認し、国交を開くこと、その代償としてイスラエルはシナイ半島を返還し、ガザ地区とヨルダン川西岸のパレスチナ人の自治について交渉をすることで合意した。合意は翌年3月エジプト=イスラエル平和条約として結実したが、シナイ半島はエジプトに返還されたが、その他の地区の返還は実現しなかった。
e エジプト=イスラエル平和条約 1979年3月に調印された、エジプトとイスラエルの平和条約。78年のキャンプ=デービッド合意に基づいて、アメリカのカーター大統領の仲介で、エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相の間で調印された。これによってイスラエルはシナイ半島の返還を約束、両国間の大使の交換などが決定された。これに対して他のアラブ諸国は、エジプトがパレスチナ人を見殺しにして自国領だけを回復したとして反発を強め、エジプトは孤立した。結局、エジプトはアラブ諸国連盟を脱退し、他のアラブ諸国とパレスチナ解放機構(PLO)はエジプトと断交した。このような情勢を受けてイスラエルはレバノン侵攻を開始し、結局この平和条約は中東和平を実現することはできなかった。
f サダト大統領暗殺 1981年10月6日、エジプト大統領サダトは、先の第4次中東戦争(エジプトでは十月戦争)の勝利を記念する軍隊行進の閲兵中に、式に参加していた兵士から銃撃を受け死亡した。犯人はイスラーム原理主義を唱えるムスリム同胞団の一員だった。サダト大統領はナセルの後継者として、当初はアラブ盟主として反イスラエル、反アメリカ政策を継承し、1973年には第4次中東戦争での緒戦の勝利を勝ち取った。しかし一転してイスラエルとの和平策に転じ、79年にエジプト=イスラエル平和条約を締結、またアメリカとの経済協力も強くした。これはアラブ諸国、および国内のイスラーム過激派に大きな反発を呼び起こし、サダトは「裏切り者」と名指しされた。しかし、サダトはアメリカ資本によるエジプト経済テコ入れを推進し、反対派を除き、一族を重用するなど独裁色を強めた。またサダトはイスラーム原理主義を懐柔しようとして親衛隊に編入していたが、その兵士によって銃撃されてしまった。その後継者ムバラクもサダト路線を継承し、現実的な経済発展を進めながら、原理主義など反体制運動をきびしく取り締まっている。 
g ムバラク エジプト空軍の元帥から、サダト大統領の副大統領となった。1981年、サダト大統領の暗殺により、非常事態を宣言し、国民投票で大統領に選出された。エジプトの課題は産業基盤の確立と経済近代化であるとするサダト大統領の政策を継承し、サダト時代の1975年から80年までのスエズ運河拡張(スエズ運河は幅と水深が不足し、大型タンカーが通過できなかったので、それを可能にするような拡幅を行った)を主として日本の援助で行っていたが、現在、第2期拡張(運河の複線化)が計画されている。しかしその世俗路線に反対するイスラーム原理主義勢力には厳しい弾圧を行っている。ムバラク大統領は国軍最高司令官を兼ね、首相・閣僚の任免権、議会の解散権を持ち、2009年現在も大統領に留まっている。一方で反体制派に対しては令状なしの拘束によって排除するなど、人権抑圧が問題となっている。2005年に初めて複数候補による選挙が行われたが、ムバラクは90%の得票で再任され、次点の野党ガッド(「明日」の意味)の候補者は7%だった。その候補も政党設立で書類偽造があったという疑いで収監されてしまった。<朝日新聞 2009年4月22日朝刊>
 パレスチナ問題の深刻化 1979年のエジプトのサダト大統領イスラエル承認以来、アラブ諸国でもイスラエルを無視することはできなくなり、全面的な戦争は起こっていないが、完全な中東和平への道のりはかえって困難になってしまった。アラブ側の主体は、パレスチナ解放機構(PLO)が担うようになったが、その過激な武装闘争は次第に国際的な支持を失い、イスラエル側の強硬姿勢もあって、その拠点をヨルダンからレバノンに移さざるを得なくなり、さらに82年のイスラエル軍のレバノン侵攻によってベイルートからチュニジアに避難した。このようなパレスチナ側の運動の手詰まりを打開したのが、1987年、ガザ地区のパレスチナ人民衆の中から始まったインティファーダ(民衆蜂起)であった。いままでの軍隊同士の闘いではハイテク武装したイスラエル軍が圧倒的に有利であったが、女性や子供も含む民衆が武器を持たずに立ち上がるという形態にはイスラエルも手を焼き、中東和平を望む国際世論を無視できなくなった。また一方で1988年、PLOはパレスチナ国家樹立を宣言するとともに議長アラファトが国連総会で演説してイスラエルの存在を認め、テロ活動停止を表明し方向を転換し、1990年代の和平交渉の時代につながっていく。 → パレスチナ問題の転換
b レバノン侵攻 1982年、イスラエルがパレスチナ側のテロ活動の拠点と見なしたレバノンに侵攻し、ベイルートなどの激しい爆撃を加えた。そのため、PLOはベイルートから退去し、チュニジアに本拠を移し、武装闘争を転換した。
イスラエルのベギン首相は1979年にエジプトとの和平を実現し南部での戦争の恐れを無くした上で、北部のレバノンを拠点とするパレスチナ解放機構(PLO)を一挙につぶそうと、1982年、陸上部隊をレバノンに侵攻させ、ベイルートを激しく空爆、またパレスチナ側を支援したシリア空軍を一方的にたたいた。当時、イラン=イラク戦争や、フォークランド戦争の最中で世界のパレスチナに対する関心が薄れたことを狙ったものであった。この軍事作戦を指揮したのがシャロン将軍(のちの首相)であった。これはレバノン戦争ともいうべき事態であり、イスラエル軍はクラスター爆弾(触れただけで爆発する)などの最新兵器を投入、6月初めに始まり、国連の停戦勧告にもかかわらず8月まで戦闘を続け、ベイルートは瓦礫と化してしまった。レバノン内部からもPLOに対して退去を求める声が強くなり、結局9月1日までにすべてのPLO部隊はレバノンを離れ、アラファトもチュニスに退去した。この戦争の犠牲者は、使者1万9085人、負傷者3万302人、孤児となった子供約6000人、家を失った人約60万人。<広河隆一『パレスチナ(新版)』2005 岩波新書 p.79 この時のイスラエル軍とそれに協力したキリスト教マロン派民兵組織ファランジストが、ベイルート郊外のパレスチナ人難民キャンプで虐殺行為を行ったことを現場で目撃した著者が写真とともにこの本で詳しくレポートしている。>
Epi. 9.11の遠因となったレバノン侵攻 9.11同時多発テロの後に、アルカーイダのビンラディンらが犯行声明の中でアメリアに対する憎しみとして挙げていることは、湾岸戦争の際にアメリカ軍がイスラームの聖地アラビアを軍靴で汚したこととともに、このイスラエル軍のレバノン侵攻の際のベイルート爆撃で多数のアラブ市民が殺害されたことをあげている。現在に続くイスラーム過激派の反イスラエル感情の出発点となっていることはたしかなようだ。
 パレスチナ問題の転換和平機運の高まり:1991年の湾岸戦争は、アラブ側が一枚岩になりきれないことを明らかにし、アメリカの中東に対する発言権を強めた。1991年からアメリカとソ連のリードでマドリードにおける中東和平会議が開催された。そのような変化の中で、1993年にスウェーデンの仲介で中東和平に関するオスロ合意が成立し、アメリカのクリントン大統領のもとでPLOアラファト議長とイスラエルラビン首相の両代表が握手し、パレスチナには暫定自治政府が設立されることになった。1990年代はパレスチナ問題に関して和平機運が盛り上がった時期であったが、永続きしなかった。
対立の再燃:しかし、湾岸戦争でのアメリカ軍の進駐に反発したアラブ過激派のイスラーム原理主義運動が盛んになり、パレスチナの中にもアラファトなどPLO幹部の和平路線に反発する新たな勢力が台頭した。一方のイスラエルでも和平を進めてきた労働政権がラビンが暗殺されて後退し、2000年にはイスラエル右派のイェルサレムのイスラーム教神殿への立ち入りに対するパレスチナ人による抗議運動第2次インティファーダが起こり、再び対立の時代に戻ってしまった。翌2001年にはイスラエルに右派リクードのシャロン政権が登場して対パレスチナ強硬路線が強まった。
パレスチナ問題の混迷:2001年のアメリカでの同時多発テロはアラブ過激派の活動とされ、さらに緊張が高まり、イスラエル側では右派リクードのシャロン政権がPLOに対する対決姿勢を強め、アラファトを事実上軟禁状態にした。一方アメリカはイラク戦争を遂行する上でその大義のためにはパレスチナ和平を進める必要があり、2003年ブッシュ大統領とイスラエルのシャロン首相、パレスチナ自治政府のアッバス首相のアカバ会議で中東和平ロードマップを作成、国連もそれを支持することとなった。シャロンも強硬姿勢を転換させ、ガザ地区からの撤退を推進することに転じた。一方2004年11月にはPLO議長のアラファトが死去し、穏健派のアッバスが後継者に選出され、和平交渉の進展が期待された。
現状:イスラエルは一方的にガザ地区からの入植者の撤退を表明、2005年8月にそれを実現させた。しかし、さらに広大なヨルダン川西岸地区のイスラエル占領地区ではユダヤ人の入植と、入植地を守るための壁の建設が進められており、対立はなおも続いている。パレスチナではイスラーム原理主義のハマスが台頭し選挙で政権を担当するようになった。イスラエルではガザ地区撤退を進めていたシャロン首相が2006年1月に脳卒中で倒れ、国内での右派の発言力亜強まり、同年8月にはイスラエル軍がヒズボラのテロ活動を排除するという理由でレバノン南部に侵攻した。2008年現在は、特にガザ地区をめぐっての緊張が深まっている。
 インティファーダ 1987年頃から、イスラエル占領下のパレスチナ人が展開した、投石などを主体とした民衆の抵抗によるパレスチナ解放運動。インティファーダとは、「一斉蜂起」を意味するアラビア語。インティファーダは1982年にPLOがイスラエルに押さえ込まれて、アラファトがチュニスに移った後に、ガザ地区のパレスチナ民衆の中から自然発生的に始まった。パレスチナ人は大人も子供も女性も石を投げたりタイヤを燃やしたりしてイスラエル軍に立ち向かい、最初の一年で2万人が逮捕され、3百人が死亡した。このような従来と違った民衆運動にイスラエル当局も当惑したが、その背景には「ハマス」や「ジハード」と称するイスラーム原理主義運動の活動家がいた。
この第1次インティファーダは世界の世論をパレスチナ自治に向かわせる上で大きな力となり、湾岸戦争後に中東和平交渉が進捗し、1993年のオスロ合意の背景となった。その後、イスラエルに右派勢力が台頭、かつての第4次中東戦争の指導者シャロン将軍(リクード党党首)がエルサレムのイスラーム教の聖地に立ち入ったことに反発して、2000年9月には第2次インティファーダが起こった。この運動を指導したハマス(非PLOでイスラーム原理主義を掲げる組織)が民衆の支持を得て、2006年1月には選挙で圧勝、パレスチナ自治政府の政権の座に就いた。
Epi. 「石を投げる者の手足を折れ」 これはパレスチナ人のインディファーダに手を焼いた時のイスラエル国防相ラビンの有名な発言。ラビンは対イスラエル強硬派で、パレスチナの民衆反乱を徹底的に弾圧した。その彼が後に中東和平の立役者となり、ノーベル平和賞を受賞するのだから皮肉なものである。結局彼自身が和平反対派によって暗殺されてしまう。<広河隆一『パレスチナ(新版)』2002 岩波新書 p.103>
 パレスチナ国家樹立宣言  
c 湾岸戦争の影響(中東和平の進展)アメリカの発言力強まる:1990年のイラクのクェート侵攻、91年の湾岸戦争の際には、イラクのフセイン大統領はパレスチナ問題とのリンケージをアピール、ミサイルを撃ち込んでイスラエルを挑発した。イスラエルが反撃すれば第5次中東戦争に発展する危険が大きかったが、アメリカがイスラエルに自重を要請し、またアラブ諸国の足並みもほぼ反フセインで同調したため、戦争は湾岸だけで限定されることとなった。PLOのアラファト議長のみはイラクを支持したため、イラク敗戦後の発言力が弱まった。この結果、発言力が強まったアメリカが主導する中東和平交渉が進むこととなった。
中東和平会議の開催:アメリカはイラク問題でアラブ諸国の理解を得るためにも、対イスラエル和平交渉を積極的に進める必要が生じた。湾岸戦争後は中東問題へのアメリカの関与が強まったのはそのような事情があり、まずブッシュ大統領はソ連のゴルバチョフに働きかけ、1991年から中東和平会議(マドリード)を開催した。アラブ諸国とイスラエルは参加したがPLOはパレスチナ代表とは認められず参加できなかった。そのためこの和平会談では実質的な成果を得ることはできなかった。
オスロ合意の成立:その間、秘密裏にスウェーデンの外相の仲介でオスロでイスラエル側(ラビン首相)とパレスチナ側(アラファトPLO議長)の当事者交渉が持たれ、互いに相手を承認することで合意、1993年にアメリカのクリントン大統領が仲介する形でパレスチナ暫定自治合意(オスロ合意)が成立、パレスチナ自治政府が発足した。
パレスチナ側の変化:またこのころから過激派といわれるイスラーム原理主義グループの成長が顕著となり、PLOの統制も及ばなくなっていた。レバノンのヒズボラ(シーア派民兵組織)やパレスチナのハマスなどがその代表的な存在であり、その中で最も過激なグループがアフガニスタンで活動したタリバーンアルカーイダであった。こうして和平合意ができたにもかかわらず、アラブ過激派の自爆テロとそれに対するイスラエル軍の軍事報復という悪循環は跡を絶たず、現時でも深刻な様相を呈している。
d 中東和平会議 1991年10月30日から3日間、スペインのマドリードで開催された。米ソ冷戦と湾岸戦争の終結を受けてアメリカのブッシュ大統領が呼びかけ、ゴルバチョフ・ソ連大統領との共同主催という形で、中東の関係諸国が招集された。パレスチナ代表を誰にするかが懸案であったが、ヨルダンとの合同代表団という形で加えられた。ただし、PLOはアメリカとイスラエルがパレスチナの唯一の代表とは認めなかったので、排除された。会議は全体会議と、イスラエルと周辺諸国の2国間交渉ですすめられたが具体的な成果はなく終わった。パレスチナ難民の中でもっとも大きな力を持つPLOを排除した形では具体的な和平を実現することが困難であることがはっきりしてきた。
 パレスチナ暫定自治協定 1993年、オスロ合意に基づき、アメリカのクリントン大統領を仲介として、イスラエルラビン首相と、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長の間で締結された、「パレスチナの暫定自治に関する原則宣言」。その内容は、
・5年間のパレスチナ暫定自治を行い、その三年目までに最終的地位に関する交渉を開始し、暫定自治の終わる5年後に、最終的地位協定を発効させる。
・最終的地位協定には、イェルサレムの帰属、パレスチナ難民の処遇、安全保障、国境確定などを含む。
となっていたが、実際の交渉は大幅に遅れ、実現しなかった。しかし、イスラエルとパレスチナという当事者同士がテーブルに着き、和平の道筋について大筋で合意したことの歴史的意義は大きい。この功績によってラビンとアラファトは94年のノーベル平和賞を受賞した。またこの協定に基づき、7月1日にアラファト議長が25年ぶりにパレスチナに戻り、翌年にはパレスチナで総選挙が行われ、暫定自治政府代表にアラファトが選出された。
しかし、現実には和平反対勢力のテロの応酬や各地で両者の衝突事件が相次ぎ、オスロ合意の最終的地位協定に関する協議は始まらなかった。95年11月にはラビン首相が暗殺され、イスラエルでは右派のネタニエフ政権が誕生し、交渉は完全に行き詰まった。
 オスロ合意 1993年に、ノルウェーの仲介で成立した、パレスチナとイスラエルの和平に関する合意。湾岸戦争後の1991年に始まったマドリードでの中東和平会議は、PLOを参加させない形であったため、具体的な進展がないまま終わり、その後のワシントンを舞台とした交渉も進展なかった。ところが、1992年イスラエルの総選挙で25年ぶりに労働党が政権を奪取し、ラビンが首相となった。ラビンはかねて親交のあったノルウェーのホルスト外相の仲介によって、オスロでPLOとの秘密交渉を93年から開始した。その結果、両者は相互承認を行い、それを受けてアメリカのクリントン大統領もPLOをパレスチナの唯一の合法的代表と認め、9月13日にワシントンのホワイトハウスで、ラビン首相とPLOアラファト議長との間で「パレスチナ暫定自治に関する原則宣言」が調印された。この合意をオスロでの秘密交渉の結果生まれたものであるので、「オスロ合意」という。 
 クリントン  → 17章1節 クリントン大統領
 ラビン ラビンはイスラエルの軍人出身で、国防軍参謀総長を務め、第3次中東戦争を「片目のダヤン将軍」らとともに大きな勝利に導いた立役者であった。退役してから労働党の政治家に転じ、68〜73年と74〜77年、92〜95年の三度、首相を務めた。1980年代は国防相と知ってパレスチナ民衆のインティファーダを厳しく弾圧した。その後和平路線に転じ、1993年にはノルウェーの仲介による和平交渉に応じてオスロ合意を成立させ、PLOのアラファト議長との間で、パレスチナ暫定自治協定を締結することに成功し、中東和平に大きな成果をもたらした。翌年アラファトともにノーベル平和賞を受賞した。しかし、1995年にユダヤ教徒の青年に射殺され、和平プロセスは大幅に遅れることとなった。
ラビン首相暗殺 1995年11月4日、テル・アヴィヴの広場で10万人よる平和のためのラリーに参加し終わり、車に乗り込もうとしたところを至近距離から射殺された。犯人は狂信的なユダヤ教徒の青年であった。一部のユダヤ教の指導者(ラビ)の中には、ラビン首相のパレスチナとの和平政策をユダヤ教徒を迫害の危機にさらすものであり、裏切り者であるとして非難していたが、この青年はそれを盲信しユダヤの法にもとづいてラビンを処刑をしたのだという。イスラエルの歴史の中では首相暗殺は最初のことであった。
Epi. タカからハトに変身しノーベル平和賞受賞 ラビンは首相としてPLOとの和平を実現し、ノーベル平和賞を受賞したのでハト派のイメージが強いが、もとは軍人で対パレスチナ強硬派だった。1948年のパレスチナ戦争ではパレスチナ人の村を襲い、難民を大量に出したときの指揮官であったし、第3次中東戦争ではダヤン将軍のもとで参謀長を務め電撃的勝利をもたらした。インティファーダを力で抑えつけようともした猛烈なタカ派だったが、労働党の政治家として首相になると、ペレス外相と協力して和平派に転じた。イスラエルの首相は常に対外的に強い姿勢を示した人物でないと、内部も抑えられないらしい。最近のシャロン首相も軍人出身で対アラブ強硬派でならした人部であるが、そのような人物だからか、国内の反発を抑えてガザ地区の撤退を実現できた。しかしそのようなラビンも国内の強硬派によって暗殺されてしまったところにイスラエルの深刻な国情が感じられる。。
 パレスチナ暫定自治行政府 1993年のパレスチナ暫定自治協定の成立に伴い、94年からパレスチナ人による暫定的自治がガザ地区ヨルダン川西岸イェリコ(ジェリコ)地区で開始された。その自治政府をパレスチナ暫定自治行政府(英語では Palestinian Interim Self-Government Authority であり、略称をPA)と言い、パレスチナ解放機構(PLO)がその実体を構成している。行政府長官はPLO議長を兼ねており、当初はアラファトが務め、04年のその死去の後、05年に選挙によって現在のアッバースが就任した。国会にあたるパレスチナ立法評議会が設けられており、議員も選挙で選ばれるが、06年の選挙ではイスラーム原理主義組織であるハマスが過半数の議席を獲得し、ハマス主導の内閣が発足した。その後、PLO穏健派と急進派のハマスの内部対立が始まり、2007年6月にはガザ地区をハマス武装勢力が掌握し、アッバース大統領(PLO議長)が緊急事態を宣言するなど深刻な事態となっている。
 第2次インティファーダ 2000年9月28日、イスラエルの野党リクードの党首シャロンは護衛の警官1000人とともにエルサレムの「ハラム・アッシャリーフ(高貴なる聖域)」(ユダヤ教では「神殿の丘」と言われるところ)に登った。ここにはアルアクサ・モスクと岩のドームがある。多くの反対の声を無視した、明らかな挑発行為だった。これまでもイスラエルの右翼過激派によるアルアクサ・モスク放火事件や、爆破未遂事件などが起こっており、極右勢力は、イスラームの建物を破壊してユダヤ教神殿を再建することを主張していたという経緯があるため、パレスチナ側は警戒心を強めていたのである。首相バラクはこのシャロンの行動を阻止しなかった。翌29日に二万人のイスラーム教徒が抗議行動を開始し、「嘆きの壁」に祈祷に来ていたユダヤ教徒に投石した。この民衆蜂起は「第二次インティファーダ」あるいは「アルアクサ・インティファーダ」と呼ばれる。10月1日までに死者は30人以上に上った。・・・<広河隆一『パレスチナ』新版 2002 岩波新書 p.171>
 シャロン 2001年〜2006年のイスラエル首相。元は軍人で、第3次と第4次の中東戦争で活躍し、国民的人気が高かった。イスラエルの対パレスチナ強硬派であるリクードの党首となり、2000年9月、エルサレムのイスラーム教聖域に立ち入ってパレスチナ側の激しい第2次インティファーダを呼び起こした。これは1993年のオスロ合意で形成されたパレスチナ和平の流れを押しとどめ、対立を激化させる引き金となった。その後、2001年に首相となったが、就任後は和平推進に立場を変え、イスラエル首相として初めてパレスチナ人の国家の存在を容認し、2003年のロードマップに合意、さらにガザ地区からの完全撤退を推進した。そのためリクード内で対立が生じ、シャロンは2005年11月、リクードを離党して中道政党ガディマを結成した。この結果、イスラエルは右派(強硬派)のリクード、中道派のガディマ、左派(和平派)の労働党という三党が争うこととなった。シャロン政権はガディマと労働党の連立を組み、和平実現に国際的にも期待が高まったが、2006年1月シャロン首相が脳溢血で倒れガザ完全撤退は頓挫した。その後、イスラエルではガディマのオルメルトが首相となったが、リクード(元首相ネタニエフが率いる)も力を増し、一方のガザ地区のパレスチナ人の中でも自治政府のアッバス議長の和平路線に反対する強硬派のハマスが台頭し、2008年末には軍事的緊張が高まっている。
 ロードマップ 2003年4月30日、アメリカ合衆国・ヨーロッパ連合(EU)・ロシア連邦・国際連合の四者連名で合意した、パレスティナ問題の包括的解決を段階的に目ざす「中東和平構想工程表」。次のような三段階での解決を構想していた。
 第一段階 2003年4月〜5月 テロと暴力の停止、パレスティナの市民生活の正常化、パレスティナの諸制度の構築。
 第二段階 2003年6月〜12月 新憲法に基づき、暫定的領土と主権国家としてのパレスティナ独立国家創設。
 第三段階 2004年〜2005年 パレスティナの完全独立とイスラエル・パレスティナ紛争の終結。
パレスティナとイスラエルはこれを包括的に承認したが、イスラエル側は15項目に渡る留保点を付けた。重要な点は、・テロ組織の解体、・パレスティナ難民の帰還権放棄、などであり、結局、目標の2005年までには解決は実現せず、なおも厳しい対立が続いている。<高橋正男『物語イスラエルの歴史』2008 中公新書 p.356>
 ハマス  
2.イランとイラク  
 イラン革命 1979年、パフレヴィー朝が倒れ、イラン=イスラーム共和国が成立した革命。パフレヴィー朝はアメリカ資本と結んで石油資源の開発などを進め、その利益を独占する開発独裁の体制を続けていた。皇帝パフレヴィー2世の強行した「白色革命」以来、政治、文化、日常生活などあらゆる面で西欧化を進めていたが、国民生活は向上せず、対米従属の度合いを増していた。それに対して16世紀以来のイランの国教であったイスラーム教のシーア派(十二イマーム派)の信仰に立ち返ることを求める民衆の反発が強まった。皇帝政治を批判して国外追放になったシーア派最高指導者のホメイニ師は国外から反政府活動を指導し、活発に活動した。1978年、ホメイニを誹謗する記事が新聞に掲載されると、それを政府の陰謀であるとして暴動が起こり、聖職者に指導された学生や労働者、農民、市民が王制打倒を叫び始め、収拾をつけられなくなったパフレヴィー2世は1979年1月イランを離れ、皇帝政治が倒された。代わって亡命先のパリから戻ったホメイニが2月11日、政権を掌握した。ホメイニは、シーア派の十二イマーム派の教義に忠実な「ファギーフ(イスラーム法学者)」による統治を掲げ、それまでのアメリカ文化の模倣を否定して厳格なイスラームの日常生活の規範を復活させた。裁判ではシャリーア(イスラーム法)が適用され、映画や文学、絵画もイスラームの教えに沿ったもののみが許され、女性には外出時のヘジャーブ(頭髪と肌の露出をさける衣服)の着用が義務づけられるなど、宗教色の強い、イスラーム原理主義を理念とした政治が展開されることとなった。79年11月にはイラン人によるテヘランのアメリカ大使館占拠事件が起き、81年1月まで占拠が続いた。革命政権は1979年から国号をイラン=イスラーム共和国と改め、イスラーム教シーア派の聖職者の指導する国家として出発し、さらにメジャーズ(国際石油資本)が革命の混乱を避けて撤退したのを受けて、石油国有化に踏み切り、資源保護の立場から石油輸出を制限する措置を打ち出した。そのため石油の国際価格が急上昇し、第2次石油危機をもたらすことになった。
a パフレヴィー2世  → パフレヴィー2世
b シーア派(イラン)イランは、1501年に建国されたサファヴィー朝以来、イスラーム教のシーア派のなかの十二イマーム派を国教としている。1960年代にパフレヴィー朝パフレヴィー2世は白色革命と称して近代化をはかり、同時に世俗化も進んだが、国内のシーア派勢力は国王の政策を西欧=アメリカへの従属、イスラームの教えからの離反と捉え、反発するようになった。その指導者ホメイニ師は1964年に国外追放となった。1979年、パフレヴィー朝打倒を叫ぶ民衆暴動が起きると、亡命先から帰国したホメイニ師は絶大な支持を受けて政権を掌握、イラン革命を指導することとなった。現代のイランはシーア派十二イマーム派の法学者の中の最高指導者が統治(実際の政治は国民から選出される大統領が行う)する宗教国家となっている。 → 18世紀のイラン  イラン=イスラーム共和国
c ホメイニ

Khomeyni 1902-1989
1900年、イランのホメイン村に生まれたイスラーム教シーア派の十二イマーム派に属する聖職者。青年時代にすでにレザー=シャーの世俗政策に反対し、イスラーム信仰にもとづく政治のあり方を説きいた。20世紀のイスラーム原理主義の一つの典型といえる。1963年、パフレヴィー2世の「白色革命」を激しく批判し、民衆暴動を指導したとして逮捕された。その後政治活動をしない約束で釈放されたが、対米従属を加速するパフレヴィー2世に対し、再び批判を開始。64年から国外追放となり、トルコ、イラク、パリなどを転々としながら、国外からイラン民衆に呼びかけた。1979年、暴動が起こり国王が退去するとイランに戻り、イラン革命を指導。そのイスラーム教シーア派の十二イマーム派信仰による「ヴァラーヤテ=ファギーフ」(イスラーム法学者による統治)の理念に基づき、最高指導者として君臨した。翌年始まった隣国イラクとのイラン=イラク戦争を九年間にわたって指導し、89年に死去した。
d イラン=イスラム共和国

イラン=イスラム共和国国旗
1979年のイラン革命によって成立した国家。大統領(初代はバニサドル)を公選する共和制国家であるが、革命指導者ホメイニの「ヴァラーヤテ=ファギーフ(イスラーム法学者による統治)」の思想によって主権は神(アッラー)にあるとされ、実際の国家の最高意志決定は、イスラーム教シーア派の十二イマーム派の聖職者から公選される専門家会議で選出される最高指導者があたる。1980年から88年、隣国のイラクとの間でイラン=イラク戦争を展開した。1989年にホメイニが死去してからは最高指導者はハメネイ。大統領は1997年の選挙で解放路線を掲げたハタミ(またはハーターミー)が当選。イラン革命当時のような日常生活での宗教的な締め付けはかなり緩くなったと言われるが、依然としてイスラーム原理主義的な宗教理念を基本とした政治が行われている。最近では核開発をめぐってアメリカのブッシュ大統領により「悪の枢軸」の一つと名指しされ、アメリカとの関係は悪化している。2005年の大統領選挙では対米強硬論者、反西洋文明を訴えたアフマディネジャドが、穏健派ラフサンジャニを破って当選、さらにアメリカを警戒させている。  → シーア派(イラン)
 イラン・アメリカ大使館人質事件 イラン革命のさなか、1979年11月、イランのテヘランでアメリカ大使館が革命派の学生に占拠され、大使館員が人質となった事件。イラン革命政府はアメリカに亡命したパフレヴィー2世の引き渡しを要求していたが、アメリカがそれを拒否したことに憤激した学生がアメリカ大使館を占拠し、館員52名を人質にした。アメリカ政府は報復をほのめかしながら交渉に当たったが難航し、苦境に陥った。翌80年4月、人質救出を試みたアメリカのヘリコプターが砂漠の中で故障して救出に失敗し、カーター大統領の人気は急落、その年の大統領選挙で「強いアメリカ」の復活を掲げたレーガンに敗れることとなる。現在のイラン大統領のアフマディネジャドはこの占拠グループの一員だったといわれている。なお、最終的には取引があり、ようやく1981年1月20日に人質は解放された。その日はちょうど、ワシントンでアメリカの新大統領レーガンの就任式の日だった。
Epi. 「鷹の爪」作戦の失敗 「1980年4月24日の深夜、八機のヘリコプターが、アラビア海に停泊中のアメリカ艦船から飛び立った。時を同じくして、六機の輸送機が、エジプトから離陸した。乗組員たちは、イランの砂漠で落ち合い、また別な場所に移動してから、陸路テヘランへ向かうことになっていた。イランの革命勢力によって、テヘランのアメリカ大使館で5ヶ月にわたって人質にとられていた53名のアメリカ人を救出するためである。「鷹の爪」と名づけられたこの作戦は、無残な失敗に終わった。三機のヘリコプターが砂塵のためにイランに到達できず、もう一機も故障に見舞われた。作戦の中止が決定されたあと、混乱の中で、ヘリコプターと輸送機が衝突し、八名が死んだ。衝撃を受けたカーター大統領が、国民に秘密作戦の失敗を告げたのは、それから数時間あとのことであった。「この任務を開始した責任は大統領としての私にある。この任務を中止した責任も、大統領としての私にある。」アメリカの威信が、この事件で大きく傷ついたのは言うまでもない。イランの指導者アーヤトッラー=ホメイニは、アメリカ軍の失敗を導いたのは神の思し召しであると宣言した。」<西崎文子『アメリカ外交とは何か −歴史のなかの自画像』2004 岩波新書 p.183>
f 第2次石油危機 1979年のイラン革命の混乱によって、産油国イランの原油生産が激減したために起こった原油不足、価格上昇のこと。イランは当時、サウジアラビアに次ぐ世界2位の産油量があり、いわゆるメジャーズ(国際石油資本)に独占されていたが、78年から活発化したパフレヴィー国王の王政に反発する民衆蜂起により、79年1月に国王が亡命すると、その保護のもとにあったメジャーは撤退し、革命政権は石油国有化を実現させた。イラン革命政府は資源保護を目的に原油生産額を大幅に減らしたため、輸出は一時的に停止するまでになった。またOPECもイランに同調して増産に慎重な姿勢を取ったため、世界的な原油不足となり、1973年の第4次中東戦争の時の第1次石油危機(オイル=ショック)に次ぐ、第2次石油危機といわれることとなった。6月には第5回先進国首脳会議が東京で開催(東京サミット)され、アメリカ(カーター大統領)・日本(大平首相)・イギリス(サッチャー首相)・西ドイツ(シュミット首相)・フランス(ジスカールデスタン大統領)などの首脳は共同声明で産油国側を非難するとともに、石油輸入抑制とエネルギーの節約をよびかけたが、実際には足並みはそろわず、先進国経済は一層の低成長の時代に突入した。
 イラン=イラク戦争 1980年9月から88年8月まで9年間にわたって続いた、イランイラクの戦争。
戦争の原因:ペルシア湾岸の石油資源をめぐる対立、以前から続いていたシャトル=アラブ川をめぐる領土対立などがあげられるが、イラクのサダム=フセイン大統領が前年に始まったイラン革命の主体となったシーア派のイスラーム原理主義が、シーア派が国民の半数を占めるイラクに及ぶことを恐れたものと思われる。バース党のサダム=フセイン政権は、北部のクルド人と南部のシーア派を抑圧して政権を維持していた。
戦争の経緯:戦闘は始めイラクが優勢であったが、隣国シリアがイランを支援して石油パイプラインを閉鎖したため、イラクは劣勢に陥り、イラン軍が国境を越えてバスラに迫った。アメリカはイラン革命の輸出を恐れたため、イラクに軍事援助を行った。またフセイン大統領は巧みな外交によってソ連からも武器援助を受けた(当時はソ連はアフガニスタン侵攻を行っていた)。さらにイラクはペルシア湾のイラン原油積出港のカーグ島を空爆、石油危機を警戒した国連が停戦調停に乗り出し、88年に停戦が実現した。直後にイランのホメイニ大統領が死去し、イラン革命の影響が消滅した。イラクのサダム=フセイン大統領は戦争で疲弊したのもかかわらず、膨大なアメリカの軍事援助を受けて独裁権力を強めることとなった。<主として、酒井啓子『イラクとアメリカ』岩波新書 2002 による>
イラン=イラク戦争でサダム=フセインは、国内のシーア派がイランに通じているとして厳しく弾圧、また独立の姿勢を示しているクルド人勢力に対しても化学兵器を使用するなどして弾圧した。これらはイラク戦争後、フセイン政権が崩壊して明るみに出て、フセインを断罪する要因となっている。
 イラク共和国


イラク共和国国旗
1958年のイラク革命イラク王国を倒し、イラク共和国を樹立したカセム将軍は石油資源の確保を狙い、ナセルのコントロールを嫌ってエジプトから離反した。しかしカセムは、1963年、アラブの統合を主張するバース党のクーデターで殺害された。イラク共和国ではその後もクーデタが相次ぎ、1979年にサダム=フセインの率いるバース党の独裁支配下におかれた。サダム=フセインは1980〜88年のイラン=イラク戦争、1990年のクウェート侵攻を引き起こして国際的に孤立し、91年に湾岸戦争でアメリカを中心とする国連軍の攻撃を受けた。その後もフセイン政権は存続したが、2003年、アメリカのブッシュ大統領は、イラクが大量破壊兵器を隠匿しているとしてイラク戦争を開始、サダム=フセインはアメリカ軍によって拘束された。戦後はアメリカを中心とする軍隊が駐屯し治安維持にあたり、選挙によって成立した新政権(マリキ首相)のもとでフセインに対する裁判が行われ、2006年12月に処刑された。しかし、イラクは、東部を中心に多数を占めるシーア派の支持する現政権に対して、西部で多数を占めめるスンナ派は現在もフセイン支持を変えておらずバグダードの現政権をアメリカの傀儡と非難し、内戦状態に陥っている。また東北部のシリア、トルコとの国境地帯にはクルド人の居住区があり、独立運動(クルド人問題)も起きているが、現在は一定の自治が認められてイラク現政権を支持している。
問題の淵源は、中東を支配していた英仏が第1次大戦後に委任統治するためアラブ地域を分割する際、民族や宗教の違いを無視して英仏に都合の良い分割を強行し、そのためにイラクという宗派の違い、民族の違いを内包する国家が人為的(しかも住民の選択ではなく外国の手で)に作られたことにある。
ポスト・フセインのイラク:フセイン政権崩壊後、イラクではアメリカ軍による軍政支配下に置かれ、連合国暫定当局(CPA)の指導で、7月に亡命イラク人らを任命した統治評議会を発足させ、憲法制定・議会開設などの準備に当たらせた。2004年6月にCPAからイラク暫定政府に行政権を移譲、2005年1月に選挙によって国民議会が成立、憲法の審議に入り、10月に国民投票によって新憲法を成立させた。2006年に憲法に基づく総選挙が実施され、議会と政府が成立した。国民議会議長にはスンナ派、大統領にはクルド人(タラバーニー氏)が選出され、同大統領が首相にシーア派のマーリキー氏を指名した。この間、アメリカ・イギリスなどが「イラク復興支援」としてそれぞれ軍を駐留させているが、追放された旧バース党員や、フセイン支持派とみられるテロ事件、スンナ派とシーア派の衝突事件、クルド人の独立要求など、多難な状況が続いている。2004年4月にはファルージャで大規模なアメリカ軍と反政府武装勢力の軍事衝突が起こり、約600人以上という民間人の犠牲者が出た。
 バース党 バース党(バアス党)は、シリアイラクなどで活動するアラブ民族主義政党。バースとは「復興」という意味で、正式な政党名はアラブ社会主義復興党といい、「大西洋からペルシア湾に及ぶアラブ語民族完全な統合」を第一目標とし、さらに社会主義経済の建設を目指すというが、社会主義といっても私有財産制は認めるのでマルクス主義ではなく、主たる敵は欧米の資本主義とシオニズム(及びそれによって成立したイスラエル)であると主張する。その起源は古く、1947年にシリアのダマスクスで二人の青年によって始められ、レバノン、イラク、ヨルダンに広がり、各国にバース党支部ができあがった。シリアでは1963年に、イラクでは68年にクーデターによって権力を握った。特にイラクでは1979年からサダム=フセイン大統領を出し、独裁権力を握った。シリアでは1970年からバース党のアサドが大統領として独裁的な権力を握った。
<藤村信『中東現代史』岩波新書 1997 および 酒井啓子『イラクとアメリカ』岩波新書 2002>
 サダム=フセイン

Saddam Hussayn 1937-2006
現代のイラク大統領(1979年〜2003年)。バース党、スンナ派を基盤として独裁的な権力を握り、イラン=イラク戦争(1980〜88年)ではシーア派イランと戦い、さらに90年、隣国クェート侵攻を行って国際的な非難を浴び、91年には米軍を中心とした多国籍軍と湾岸戦争を戦い、敗北。98年には大量破壊兵器の保有疑惑に対する国連査察を拒否し、空爆を受ける。2003年にはアメリカのブッシュ政権はフセインの亡命を要求したが拒否されたためイラク戦争を開始、12月13日に拘束された。05年からの裁判の結果、シーア派に対する「人道に対する罪」を犯したとして06年12月30日に処刑された。
フセイン政権の成立:サダム=フセインは1937年、イラク北部のティクリートで生まれた。ここはスンナ派地域で、バース党の有力者が多かった。サダムは叔父の影響で反英闘争に参加するようになり、20歳でバース党に入党、59年のカシム大統領暗殺計画に加わり、失敗して逃亡し砂漠を放浪し、シリアとエジプトで亡命生活を送った。帰国後も地下活動に従事し、68年バース党のクーデターでバクル大統領政権が成立すると、翌年32歳の若さでバース党最高決定機関の革命指導協議会の副議長に抜擢された。バクルがティクリート出身であったからといわれている。サダムは軍人ではなかったが、巧みな権謀術数で古参党員や軍人を排除し、糖尿病のバクルに替わってバース党の実権を握った。79年にバクルが引退して大統領を継承すると、バース党独裁色を弱め、国民議会を再開したりクルド人の自治を認めるなど「民主化」のポーズをとって国民の支持を得た。しかしその権力の実態は、石油を国営会社で独占してその利益をばらまき、軍と治安組織を押さえて反対派に対しては諜報監視網をめぐらして弾圧する「恐怖の共和国」であった。クルド人やシーア派に対して化学兵器をしようして弾圧する一方、「サダム病院」や「サダム空港」を建設し、国の隅々まで肖像を掲げさせて、国父として振る舞うのがその手法であった。<酒井啓子『イラクとアメリカ』岩波新書 2002>
フセイン裁判と処刑:サダム=フセイン元イラク大統領に対する裁判は、国際法廷ではなくバグダードのイラク高等法廷で2005年10月から始まった。罪状は、イラン=イラク戦争中の82年のドゥジャイル村でのシーア派住民148名の虐殺、クルド人に対する化学兵器による虐殺(アンファル作戦)など全部で13件に上っていたが、2006年11月5日、高等裁判はドゥジャイル村事件のみで「人道に対する罪」を犯したと認め死刑判決を出した。12月26日にはフセインの控訴を棄却して、わずか4日後の30日に処刑した。<『朝日新聞』2006.12.31 などによる>
Epi. サダム=フセインと三人の歴史上のモデル イラクのサダム=フセイン大統領は、自らを戦争の英雄として国民に訴えるために三人の歴史上の英雄をモデルとした。まず、12世紀に十字軍からイェルサレムを解放したサラディン(サラーフ=アッディーン)。この人物はクルド人であったので、対イラン戦においてクルド人を動員するのに役だった。ついで、7世紀にササン朝ペルシアをカーディシーヤの戦いで破った第2代カリフのウマル。イラン=イラク戦争は「サダムのカーディシーヤ」と呼ばれた。さらに「対イスラエル」という点では古代にバビロン捕囚を行った新バビロニア帝国のネブカドネザル2世に擬せられた。<酒井啓子『イラクとアメリカ』岩波新書 2002 p.83-84>
 ソ連  
 アメリカ(のイラク支援)イラン=イラク戦争が起こると、イラン革命アメリカ大使館員人質事件など被害を受けたアメリカは、シーア派原理主義政権に敵対するイラクのサダム=フセイン政権を支持し、大量の武器、資金の援助を行った。フセイン政権はアメリカによって維持されたとも言われる。イラン=イラク戦争後、多額の負債を抱えたイラクのフセイン政権はクウェートに侵攻しその石油資源を狙うが、フセインは事前に駐イラク・アメリカ大使と会い、アメリカの黙認を取り付けたと言われている。アメリカ側はその事実を否定しているが、「アメリカに育てられた」といわれるフセイン政権がアメリカの黙認を期待したことは考えられる。しかしブッシュ政権は、冷戦後の世界戦略の中で、アメリカは国際平和や秩序を乱す国家の存在を許さないという姿勢を強めていたため、フセインの身勝手を認めるわけにはいかなかった。アメリカはイラン=イラク戦争の時と異なりイラク制裁を実行したが、フセイン政権打倒が可能であったにもかかわらずその存続を許したのには負い目があったことをうかがわせる。
 湾岸戦争 1991年1〜2月、アメリカを中心とする多国籍軍が、イラクを空爆、ついで陸上部隊がクウェートに展開してイラク軍を撤退させた戦争。1990年8月のイラクのサダム=フセイン大統領によるクウェート侵攻は国際世論の反発を受け、国連はただちに安保理が撤退勧告を行い、さらに経済制裁を決定した。イラクが撤退に応じず、「クウェートを19番目の州とする」と宣言して併合したため、アメリカのブッシュ大統領は武力行使を決定し、多国籍軍を編成してイラクを攻撃した。空爆が始まるとイラクはイスラエルに向けてミサイルを発射してパレスチナ問題との「リンケージ」をはかったが、アメリカがイスラエルの反撃を自重させ、中東全体の戦争に拡大することはなかった。戦闘はほぼ100時間で決着が付き、イラクが国連決議を受け入れて敗北し、クウェートから撤退した。戦後はサダム=フセイン政権は存続したものの、イラクは多国籍軍の監視下におかれ、厳しい経済制裁下におかれることとなった。 → イラク戦争
湾岸戦争の影響:1980年代までの地域紛争では何らかの形でアメリカとソ連という2大国の対立(冷戦)が影を落としていたが、この湾岸戦争ではソ連もアメリカを支持し、先進国が一致し「国連決議」のもとに動いたことが大きな特徴である。冷戦後の世界において、アメリカが唯一の軍事大国として行動するという状況がここから始まった。 → 中東情勢への湾岸戦争の影響
湾岸戦争と日本:日本は湾岸戦争に際して、多国籍軍に加わることはなかったが総額110億ドルの資金を提供するという経済的支援を行った。この額は国民一人あたり約1万円に相当する巨額であったが、国内から日本はお金の提供という貢献だけでいいのか、「血を流す」貢献も必要なのではないか、という議論が持ち上がった。自民党政府はそれらの声に押されて「自衛隊の海外派遣」の検討を開始、湾岸戦争の陸上戦闘は終わっていたが、同年6月、ペルシア湾に海上自衛隊の掃海艇を派遣した。これは自衛隊の最初の海外派遣であった。さらに、1992年には国連平和維持協力法(PKO法)が成立し、国連の平和維持活動(PKO)への参加の道が開かれ、カンボジアへの自衛隊の派遣、アメリカ軍のアフガニスタン攻撃に際してテロ特措法による海上自衛隊のインド洋給油活動、2004年にはイラク戦争での陸上自衛隊の派遣が行われた。戦後一貫して専守防衛に徹していた日本が、初めて自衛隊を海外に出すという転換を遂げ、「国際貢献」という美名の下に大転換がはかられたのが湾岸戦争の日本にもたらした影響であった。  → アメリカの外交政策
a クウェート侵攻1990年8月2日未明、突如イラク軍がクウェートに侵攻、わずか8時間でその全土を制圧した。イラクには、1961年のクウェートの独立の際にも、時のカセム政権がその併合を唱えて侵攻をしかけたこともあり、領土の一部をイギリスに奪われたという主張があった。サダム=フセイン大統領は、国内におけるイラン=イラク戦争からの復員兵の不満がくすぶり、クウェートが原油価格引き下げによって販路をひろげていることにも反発を強めていた。クウェートは1961年にイギリスの保護領から独立したが、豊富な石油資源を握る王族が支配する首長制国家であり、憲法と議会は存在したが全く機能せず、イラクの侵攻を食い止める力が無かった。 → 湾岸戦争
 クウェート
ペルシア湾の最奥部に面した小国家。国民の多数はアラブ人で、公用語はアラビア語、宗教はイスラーム教スンナ派。国家形態は18世紀以来のサバーハ家を世襲の首長(アミール)とする首長国。議会は存在するが、政党の結成は認められて織らず、事実上は協賛機関となっている。世界第4位の埋蔵量という豊かな石油資源をもとに、オイルマネーによる高い経済力を誇り、教育や社会保障も高いレベルにある。そのような政治の非民主的な実態と経済の繁栄の矛盾が、1990年のサダム=フセインのイラクの侵攻を受ける背景にあった。
歴史
イスラーム教化:その一部、ファイラカ島にはメソポタミア文明期からアレクサンドロス時代に至る遺跡があり、古くから交易地としてさかえていたが、特にバグダードのアッバース朝の支配の時代には「船乗りシンドバット」などの説話の舞台となったペルシア湾交易圏の中心地の一つであった。13世紀にはモンゴルの侵入によりバグダードやバスラが破壊され、この地も荒廃したが、オスマン帝国のスレイマン1世はサファヴィー朝イランとたたかってバグダードを占領、その後17世紀にはこの地もオスマン帝国の一部となった。
ポルトガルの進出:一方、16世紀初頭からポルトガルの勢力が伸びてきて、1508年にはホルムズ島に基地を設けてペルシア湾に進出した。そのころポルトガル人がこの地に城を築いたがことから、この地を現地の言葉で「小さな城」を意味するクウェートと呼ばれるようになった。オスマン帝国の支配は名目的となり、ポルトガル勢力もまもなく後退した。
サバーハ家の首長支配:18世紀に入り、アラビア半島内陸のネジト地方のアナイザ部族が移住し(増加した人口をオアシスだけでは維持できなかったからか)、1716年頃都市を建設した。それが現在のクウェート市の起源である。彼らはペルシア湾からインド洋の交易に進出し、造船(木材はインドやアフリカから輸入した)や真珠などを輸出して人口を増大させた。1756年頃サバーハ家が首長(アミール)に選出され、オスマン帝国の宗主権のもと、この地を統治したが、次第に「インドへの道」の中継地としてこの地を重要視するイギリスの介入が強まった。またドイツも3B政策の延長上でこの地に関心を強め、さらにロシアも「南の海」への野望をあからさまにするようになり、19世紀後半には激しい帝国主義諸国の競争にさらされることになった。
イギリス保護領:結局サバーハ家の首長はイギリスの保護を求め、1899年に保護条約を締結してその保護国となった。第1次世界大戦後にはクウェート併合を狙うアラビア半島内陸のイブン=サウドの攻撃をイギリスの保護にあることで回避させ、1922年にはイラク(イギリスの委任統治領)・イブン=サウド(後のサウジアラビア)との間の国境に中立地帯を設けることで合意した。その後、この地域の石油埋蔵が予想され、イギリス・アメリカ・フランスなどの石油資本による激しい採掘権の獲得と試掘競争が展開され、1938年にクウェートのブルカン地区で大油田が発見され、にわかに世界の注目を浴びることとなった。第2次大戦後は石油需要の増大ともなってクウェート経済は急成長した。
独立と石油立国:1961年にイギリスとの保護条約を廃棄して独立を達成し、同時に石油収入はすべて国家予算の中に組み入れることとなった。なお、この時、隣接するイラク共和国のカセム首相は、クウェートはイラクの一州であると主張して軍を進撃させる構えを見せたが、アラブ諸国の支持を得られず、カセム政権もまもなくクーデターで倒されたので実行されなかった。ところが、1990年、サダム=フセイン政権のイラクがクウェートに侵攻し、一挙に制圧され、クウェートの首長はサウジアラビアに難を避ける事態となった。翌1991年1月、湾岸戦争となりアメリカ軍を主体とする多国籍軍がイラク軍を撤退させ、クウェートは滅亡の危機を脱した。<独立までは、牟田口義郎『石油に浮かぶ国 −クウェートの歴史と現実』 1965 中公新書 などを参照> 
b ブッシュ(父)  → G.H.W.ブッシュ
c 多国籍軍 1991年の湾岸戦争において、アメリカ軍を中心とした28カ国の68万(うちアメリカ兵は54万)で編成され、クェートに侵攻したイラク軍と戦った軍隊。国連の安全保障理事会の決議によって、イラクの行為を平和を破壊する侵略行動であると認定し、イラク軍のクェートから排除するための出動であった。朝鮮戦争の時の「国連軍」も多国籍軍であったが、一般にこの名称が用いられた最初はこの湾岸戦争の時である。国連の決議に基づいた「軍事的制裁」活動であるが、国連憲章第7条の手続きを経た「国連軍」ではない。また、イラクという共通の敵に対する軍事的行動なので、中立的な活動である平和維持活動(PKO)でもない。このようなアメリカ主体の多国籍軍が可能であったのは、冷戦が終わりソ連(この年12月に消滅する)が参加はしなかったが反対もしなかったためである。<岩波小辞典『現代の戦争』p.271 などによる>
多国籍軍:湾岸戦争で動員された多国籍軍は、開戦時に(最大で)85万人、2900機の戦闘機であった。地上戦が始まるまでの空軍の出動回数は6万5千回であった。戦闘そのものは2月28日に終了、史上最短の「100時間戦争」であったが、空爆の開始から1ヶ月半弱の間に多国籍軍の死傷者は500人、イラク軍は2万5000人から10万人という。<酒井啓子『イラクとアメリカ』岩波新書 2002 p.114,120> 
 イスラーム原理主義 イスラーム教の中には、スンナ派にもシーア派にも、常に世俗化に反発し、ムハンマドの教えの原点に回帰しようとする動きがあった。近代では18世紀のアラビアに起こったワッハーブ派の改革運動がそれにあたり、オスマン帝国の支配から自立しようとする民族運動でもあった。19世紀から20世紀にかけて、イギリスなどの帝国主義の支配が及ぶと、イランにアフガーニーが現れ、エジプトのウラービー運動やイランのタバコボイコット運動などの反帝国主義の指導原理となった。これらの流れをくみ取りながら、現代のイスラーム原理主義は、まずエジプトで1920年代に生まれたムスリム同胞団から始まる。彼らはエジプトの政権を世俗化し、堕落したものと見なし、西洋文明のお仕着せではなく、イスラーム法(シャリーア)による正しい政治を実現すべきであると考えた。彼らはテロ活動は否定したが、1940〜60年代の指導者サイイド=クトゥブは戦闘的な改革を唱え、その影響受けたテロ集団がいくつか生まれた。クトゥブは、現代社会をイスラーム以前の無明時代(ジャーヒリーヤ)に戻ってしまったと見、それに対する「聖戦」(ジハード)を呼びかけた。70年代に入って米ソ冷戦構造が揺らぎはじめ、パレスチナ問題の行き詰まり、アメリカ資本主義の行き過ぎやソ連型社会主義の閉塞性のいずれにも反発を強めていたアラブの若者の中にイスラームへの回帰が素直に受け入れられたようだった。まず、イラン革命でホメイニの指導するシーア派原理主義が勝利を占め、同年、ソ連軍のアフガニスタン侵攻に対するアラブ各地からの原理主義者の支援による戦いが始まった。タリバーンを組織したビンラディンもこのときアラビアからアフガニスタンにわたってきて頭角を現した。アフガニスタンでソ連軍を撃退したイスラーム原理主義勢力は、アラブ各地に戻っていって各地で世俗権力との戦いを始めた。97年11月のエジプトのルクソール事件、98年のケニヤのナイロビとタンザニアのダルエスサラームでのアメリカ大使館爆破事件、などが続いた。特に湾岸戦争後、アラブへの介入を強め、軍事占領を続けるアメリカに対する反発が強まり、それが2001年の同時多発テロとなって現れたと考えられる。現在、極端なテロ活動に走る過激原理主義には反発も強まっており、アラブ各国も正面切っては認めてはいないが、2005年にはイラン総選挙で改革派が敗れ、原理主義者の首相が選出されたように、なお根強い支援があるのは間違いない。テロに対する軍事報復という悪循環は今年になってからもロンドンの地下鉄爆破事件をもたらした。このような対立をなくしていくためにも、過去の歴史を見正しく知ることが第一歩になるのではないだろうか。<藤原和彦『イスラーム過激原理主義』2001 中公新書 など>
Epi. 文明の衝突? イスラーム原理主義と西欧 1993年にはアメリカの歴史家サミュエル=ハンチントンが『文明の衝突』を発表し、現在のイスラーム原理主義の台頭を、キリスト教西洋文明とイスラーム文明の衝突ととらえる見方が出されている。ハンチントンはさらに文明間の枠組みが変動し、2010年に米中戦争が起こるという大胆な予測して話題となった。しかし、相互理解の不可能な「文明間の対立」を宿命的で避けられないものと言ってるわけではない。そのような事態に陥らないようにしなければならないし、また可能であることを世界史の中から見いだしたいものである。<参考 山内昌之『イスラームと国際政治』1998 岩波新書、>
 イスラーム復興運動  
a ターリバーン ソ連軍が撤退した後のアフガニスタン内戦の中で急速に台頭し、1996年にアフガニスタンの権力を握ったイスラーム教スンニー派の原理主義武装集団。ターリバーン(タリバン、タリバーンなどとも表記)はイスラーム教の神学校(マドラサ)の生徒(神学生)を意味する「ターリブ」の複数形。そのメンバーはいずれもパキスタンのアフガニスタン難民キャンプで育ったパシュトゥーン人の24、5歳以下の青年であった。1994年7月、南部の古都カンダハールに忽然と現れて地元の武装勢力を排除、翌年には西部のヘラートを押さえ、96年には首都カーブルを占拠し、2000年までには国土のほぼ90%を支配した。北部にはマスード司令官を中心とした北部同盟が僅かに抵抗を続けるという状態であった。最高指導者はカンダハールにいる宗教指導者ウマルで、教団はスンニー派の一分派であるハナフィー派に属し、教団の源流は1867年、イギリスの植民地支配に反発するグループが結成した。その主張はシーア派との妥協を一切認めず、聖者崇拝を禁止し、歌や踊りなど娯楽的な要素を全面的に否定する。寛容なスンニー派でありながらシーア派的な厳格な側面を持っている。
ターリバーン登場の背景:パキスタンのアフガニスタン難民キャンプではサウジアラビアなどの資金援助によってモスクと附属する神学校が多数建設され、その中で急進的で狭隘な宗教教育が進められた。パキスタンのブット政権は、旧ソ連から独立したトルクメニスタンの原油を、アフガニスタン経由でカラチまでパイプラインを建設することで経済的な利益を得ることを目ざしていた。そこでアフガニスタンに親パキスタン政権を樹立しようと画策したがうまくいかず、直接介入はできないので、アフガン難民の中に育っていたタリバーンに積極的に武器、資金援助を行った。
ターリバーン政権の恐怖政治:権力を握ったターリバーンは、反対派を次々と公開処刑するなど恐怖政治を行った。徹底したイスラーム原理主義による政教一致をめざし、コーランやハディーズに基づいて一切の欧米文明を否定、市民生活に対しても女性の就職や教育を禁止、女性にはブルカ(ヴェール)着用、男性にはひげを伸ばすことが強制され、テレビ・ラジオ・映画なども禁止された。2001年2月末にはバーミヤンの石仏などの仏教遺跡を偶像崇拝であるとして破壊するなど、世界の情報から隔離された中で独自の政策を展開した。
ターリバーン政権とアルカーイダ:1979年、ソ連軍のアフガニスタン侵攻が始まると、サウジアラビアはアラブの青年に呼びかけて義勇兵をアフガニスタンに送り込んだ。彼ら、「アラブ=アフガン」の中に、22歳のビン=ラディンもいた。彼らはムジャヒディーン(戦士)として訓練され、ソ連軍と戦ったが、ソ連軍撤退後のゲリラ同士の内戦に失望していったん国外に去った。96年5月、スーダンを追われたビン=ラディンは自ら組織した国際テロ組織アルカーイダの拠点を建設するためにアフガニスタンに戻り、ターリバーンに資金と武器を援助し提携した。1998年にはケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件(アメリカ人を含む234人が死亡)が起き、アメリカのクリントン大統領はビン=ラディンらの組織の犯行と断定し、アフガニスタン(およびスーダン)のテロ組織活動拠点に巡航ミサイル「トマホーク」を打ち込み報復した。そして、2001年9月11日、同時多発テロが起きるとアメリカのブッシュ政権は国際テロ組織アルカーイダの活動拠点となっているとしてアフガニスタンを攻撃し、ターリバーン政権は崩壊した。しかしターリバーンは未だに山岳部などで勢力を保持している。<渡辺光一『アフガニスタン』 2003 岩波新書 などによる> → 現在のアフガニスタン 
 同時多発テロ 2001年9月11日、ほぼ同時刻にアメリカ合衆国のニューヨークの貿易センタービル(ツインタワー)、ワシントンの国防総省(ペンタゴン)にハイジャックされた旅客機が激突した。ニューヨークでは二つのビルが崩壊し、約5400人が犠牲となり、ワシントンでは約190人が死んだ。他にもハイジャックされた思われる飛行機がペンシルヴェニアに墜落した。旅客機4機はアメリカの飛行場を飛び立ってからハイジャックされたものであった。これは、アメリカの政治経済の中枢を狙った「同時多発テロ」であり、アメリカ政府・ブッシュ大統領はその犯人は19名のイスラーム原理主義者であり、彼らに指示を与えたのはオサマ=ビン=ラディンであると発表し、10月その潜伏先と思われるアフガニスタンに対し、大規模な軍事行動を行い、イスラーム原理主義政権であるターリバーン政権を倒した。しかし、主犯格と思われるオサマ=ビン=ラディンを捕捉することはできず、その組織とされるアルカーイダを壊滅することもできなかった。ブッシュ大統領はその後もテロとの徹底した戦いを表明し、イラクのサダム=フセイン政権が大量破壊兵器を所持しているとしてその打倒に乗りだし、2003年3月にイラクに侵攻、イラク戦争に発展させた。しかし、イスラーム原理主義勢力のテロ活動はその後もスペイン、イギリス、エジプトなどで相次ぎ、イラクの混乱も続いている。   → アメリカの外交政策
 2001年9月11日  
 アルカーイダ アル=カーイダ、またはアル=カイダとも表記。イスラーム原理主義者のビン=ラディンが組織した国際的テロ組織。カーイダとは「基地」の意味で、ソ連軍のアフガニスタン侵攻に対してソ連軍と戦ったイスラーム戦士(ムジャヒディーン、またはアラブ=アフガニーといわれる)の家族たちを保護するセンターだったという。実態はよくわからないが、ビン=ラディンの指導する最も過激で広範囲な活動を展開する国際テロ組織となった。サウジアラビア生まれのビン=ラディンはアフガニスタンで対ソ連のゲリラ活動を展開し、ソ連撤退後サウジアラビアに戻り、湾岸戦争から反米姿勢を強め、サウジを追われてスーダンに移って事業を展開して資金を獲得し国際テロ組織「アルカーイダ」を組織した。1996年にふたたびアフガニスタンに入り、カンダハルなどを拠点にアルカーイダとしての活動を展開した。当時アフガニスタンの権力を握たターリバーンにも資金を援助する代わりにその保護を受けたという。2001年のアメリカ合衆国で起きた同時多発テロはこのアルカーイダの犯行とされ、ビンラディンも犯行声明を発表した。アメリカ軍によるアフガニスタン侵攻によってタリバーン政権が排除されてからは、まとまった活動よりは小さな分派に分かれて活動を継続しているようである。
 ビン=ラディン オサマ(ウサマ)=ビン=ラディン。イスラーム原理主義武装集団アルカーイダの組織者で、9.11の同時多発テロの首謀者とされる人物。1957年、サウジアラビアの富豪の家に生まれる。1980年頃、ソ連のアフガニスタン侵攻に対して戦う原理主義集団に加わり、アメリカの武器支援を受けてソ連軍と戦う。その後サウジに戻るが、湾岸戦争でアメリカ軍がサウジアラビアに駐屯したことに反発、サウジアラビアとアメリカ政府を激しく非難。湾岸戦争終結後の1991年ひそかにスーダンに入り、建設業はじめいくつかの事業を興して資金を獲得、同時に国際的原理主義組織「カイーダ(基地)」の名前で、エジプトやアルジェリアなど原理主義勢力の反米闘争を積極支援した。これに対してアメリカ政府は、ビン=ラディンが事業で得た資金を世界各地の原理主義テロ組織に与えていると断定し、彼を「テロのフィナンシャー」と呼んで警戒した。94年4月、サウジ政権はビンラーディンの国籍を剥奪、ビン=ラディンは96年5月、家族や仲間たち約五〇人と共にアメリカやサウジの追及の手がおよばない「原理主義運動の聖域」アフガニスタンに戻り、ターリバーン政権の保護を受けることとなった。この年の8月23日、ビン=ラディンは「ジハード宣言」を発表、二大聖地(メッカとメディナ)があるイスラム教の聖域を異教徒の米軍兵士が汚しているとして、その殺害を呼びかけるた。98年2月、中東・南西アジアの過激原理主義五組織と「ユダヤ人と十字軍に対する聖戦のための世界イスラム戦線(略称・世界イスラム戦線)」を結成した。「戦線」の参加組織は、ビン=ラディンの「カーイダ」、エジプトの「ジハード団」と「イスラム集団」、パキスタンの「パキスタン・ウラマー連盟」「アンサール運動」(後にムジャヒディン運動」と改名)、バングラディシュの「ジハード運動」だった。<藤原和彦『イスラム過激原理主義』 講談社現代新書p.125>
2001年9月11日のアメリカ・ニューヨークの世界貿易センタービルなどに対する同時多発テロはこのビン=ラディンの犯行とされ、アメリカはその捕捉をめざしアフガニスタンのターリバーン政権を倒したが、など身柄を拘束することが出来ず、テロの危険も去っていない。
 アフガニスタン内戦アフガニスタンでは、アフガン王国がイギリスの保護国から1919年に独立を回復し、ザーヒル=シャーの長期政権の後、1973年にクーデターによって王政は倒され共和国となった。その後、ソ連の影響を受けた共産主義勢力(人民民主党)が台頭し、1978年に社会主義政権が成立したがアフガニスタンに共産政権が成立したが、内部対立が続き安定しなかった。1979年にはソ連がアフガニスタン侵攻を実行して共産政権の維持を図ったが、反政府勢力を鎮圧することができず、ゴルバチョフ政権は1988年に撤退を決定した。ソ連は撤退後もナジブッラー政権に対し軍事・経済援助を続け、反政府側はアメリカとイスラーム諸国から支援され、対立が続いた。しかし、1991年にソ連が崩壊したこと受けてアフガニスタンの共産政権も92年に倒れ、ゲリラ勢力による暫定政権が樹立され、国名もアフガニスタン=イスラーム共和国に改められた。しかしゲリラ勢力は、北部のタジク人を中心としたイスラーム教会(指導者がラバニ、軍事指導者が「パンジシールの獅子」と恐れられたマスード司令官で彼は2001年9月、アルカーイダのメンバーの自爆テロで殺害された)、パシュトゥーン人を中心としたイスラーム原理主義集団イスラーム党(指導者はヘクマティアル)、さらに北部のウズベク人を組織したドスタム将軍などおよそ8派が対立し、92年〜94年にかけて首都カーブルをめぐって激しい内戦となった。1994年、突如イスラーム原理主義を掲げるターリバーンが台頭、1996年に首都カーブルを攻略して権力を握った。タリバーン政権は極端な原理主義改革を推し進め、バーミヤンの遺跡を破壊するなど国際的な非難を浴びた。2001年9月の同時多発テロが起こると、アメリカのブッシュ大統領はその実行グループ、ビン=ラーディンらアルカーイダが潜伏しているとしてアフガニスタンを攻撃してタリバーン政権を倒した。国際連合の調停で2002年に暫定政権が成立、その後大統領選挙が実施されてカルザイ大統領が当選、安定化を進めているが、なお内部に民族対立を含み緊張が続いている。 → 現在のアフガニスタン 
 アフガニスタン(アメリカの侵攻)2001年10月7日に開始された、アメリカ合衆国・イギリス軍による軍事行動で、アフガニスタンのターリバーン政権が国際テロ組織アルカーイダを匿っているとしてその排除をめざしたもの。同年12月7日、ターリバーン政権は崩壊したが、ビン=ラディンの捕捉には失敗した。
9.11同時多発テロが起きるとアメリカ合衆国のブッシュ大統領は直ちにビン=ラディンらアルカーイダの犯行と断定し、その引き渡しをアフガニスタンのターリバーン政権に要求した。ターリバーン政権の拒否を見越して武力行使を準備、周辺国への根回しを開始した。また国連安全保障理事会、NATO、EUなども次々とテロへの非難決議を採択し、ロシア・中国を含む60ヵ国以上がアメリカ合衆国を支持する声明を発した。一方でブッシュ大統領は、この戦いはイスラーム教徒を相手にする十字軍の戦い「クルセード」と表明し、世界各地のイスラーム教徒の反発が起きたため発言を取り消したが、イスラーム圏では反米暴動が各地で起きた。10月7日、アメリカ・イギリス軍はインド洋の艦船から戦闘爆撃機による攻撃を開始、また潜水艦から巡航ミサイルを発射して、カーブルのターリバーン政権中枢やアルカーイダの訓練所などの空爆を開始した。この空爆でアフガンに投下された爆弾は、第2次世界大戦中、1941年から42年のロンドン大空襲でドイツ軍が投下した爆弾の半分に相当する1万トンに達した。空爆に加えて、武器や砲弾の援助を受けた北部同盟が攻勢に出て、マザリシャリフ、ヘラート、首都カーブルを制圧した。アメリカ・イギリス地上部隊は最後のターリバーンの本拠カンダハール攻略に参加した。こうして戦闘2ヶ月でターリバーン政権は崩壊した。<渡辺光一『アフガニスタン』 2003 岩波新書 p.202-204> → 現在のアフガニスタン   アメリカの外交政策
 アフガニスタン(現在)
正式国名はアフガニスタン・イスラム共和国。首都はカーブル(日本ではカブールと言われることが多い)。
アフガン人とは現在ではアフガニスタンの国民をさすが、その多くはパシュトゥーン人であり、それ以外のタジク人など多数の民族からなる多民族国家であり、統一に困難が生じている。
アフガニスタンを構成する主な民族:アフガニスタンの民族集団は20以上にものぼる。そのうち多数を占めるのが、1.インド−イラン系パシュトゥーン人(アフガニスタンで最も人口が多く、40%を占める。)、2.イラン系タジク人(25%)、3.モンゴル系ハザラ人(10%)、で、ほかにトルコ系ウズベク人と南方のパルーチ人、西北のトルクメン人などがいる。アフガニスタンの宗教は98%がイスラーム教で、そのうち85%はスンニー派(の中のハナフィー派)に属しているが、中央部に居住するハザラ人などはシーア派を信仰している。<渡辺光一『アフガニスタン−戦乱の現代史』岩波新書 2003 p.18>
パシュトゥーン人の分布:アフガニスタンで最も人口の多いパシュトゥーン人は一般にアフガン人ともいう。彼らは人種・言語的にはインド=アーリア系に属し、前2000年頃西アジアから移動してきて、そこにイラン人やモンゴル人の血が流れこんだ。彼らはアフガンとパキスタンの国境線付近の山岳地帯を有効に使い、外敵の圧力に耐えてきた。かつてこの地を支配しようとしたイギリスは彼らを「パターン」と呼び、「山の民」と定義した。現在はアフガニスタンの平野部にも広がっているが、国境を越えたパキスタンにも約600万人が住んでいる。スレイマン山脈の西側、つまりアフガニスタン国内に住む集団には「ドゥッラーニー」と「ギルザイ」という二つのグループがある。山脈の東側、つまりパキスタン国内にはペシャワール周辺の平野部に定着している集団と、山岳部に住む集団に分けられる。さらに居住地域、方言、指導者の家系などによって40以上の集団に細分化される。このようにパシュトゥーン人はアフガニスタンとパキスタンの国境線をはさんで居住しており、そこにあとから国境がひかれ人為的に分断されてしまった。<渡辺光一『アフガニスタン−戦乱の現代史』岩波新書 2003 p.22>
Epi. パシュトゥーン・ワリーとジルガ パシュトゥーン人の各集団は農耕牧畜の土地や水をめぐって争いが絶えなかったが、「パシュトゥーン・ワリー」という独自の社会規範を持っており、来訪者へのもてなしや復讐、逃亡者の保護など、争いを調停する役割をもっていた。国際テロリストのビン=ラディンがアフガニスタンにかくまわれたのにはこのようなパシュトゥーン・ワリーがあったからである。またパシュトゥーン人社会には「ジルガ」(ジェルガとも表記)と呼ばれる長老らの会議があり、対立や紛争を調整し、組織全体の利害や方向を決めていた。現在のアフガニスタンの政治体制でも国会に当たる立法機関として「ロヤ・ジルガ」(国民大会議)が設けられた。 <渡辺光一『アフガニスタン−戦乱の現代史』岩波新書 2003 p.25>
アフガニスタンの復興:アメリカ・イギリス軍のアフガニスタン攻撃と並行して、国連のアナン事務総長主導で、アフガニスタンの暫定政権樹立の準備が進んだ。それはイスラーム教以外の宗教も認める「共和制の世俗政権」とされ、同時に多数派であるパシュトゥーン勢力に配慮して彼らの伝統であるロヤ・ジルガ(国民大会議)を取り込みながら西欧的議会制民主主義を実現させることとなった。2001年11月ドイツのボンで国連主催の国際会議を開催、アフガニスタンの反タリバーン勢力の4代表を加えてて「ボン合意」を作成、暫定政権を発足させることとなり、カルザイが議長に選出された。同12月22日、カーブルで暫定政権が発足し、23年にわたる内戦に終止符を打った。2002年1月には東京で「アフガン復興支援国際会議」が開催された。さらに02年6月、緊急ロヤ・ジルガが開催され、カルザイが大統領に選出された。また治安の維持のためには国連安保理決議に基づき20ヵ国から国際治安支援部隊(ISAF)として約5000人の兵士が派遣された。しかし、内戦による国土の疲弊は深刻で、復興は十分ではなく、ターリバーンの一部が残存する地域もあり、テロも頻発している。
アフガニスタンと日本:アメリカ・ギリス軍のアフガニスタン攻撃はテロに対する戦いという大義名分があるとして、小泉純一郎内閣はいち早く支援を表明、2001年11月2日に時限立法としてテロ対策特措法を成立させ、自衛隊派遣に踏み切り海上自衛隊がインド洋で給油活動に従事することとなった。テロ特措法による給油活動に関してはイラク戦争への転用疑惑などがもちあがり、2007年の参議院選挙で民主党が多数を占めて継続反対に回ったため、11月に時限切れで終了した。一方、民主党小沢党首は、イラク派兵は国連決議を受けていないと反対し、国連安保理決議によるアフガニスタンの国際治安支援部隊(ISAF)には自衛隊の国際貢献として参加すべきであるという意見を公にしている。政府はISAFへの参加は自衛隊の海外での実戦への参加に当たるとして認めていない。自民・公明両党はテロ特措法の後継法律として新テロ特措法を提案、解散がらみの政局で審議が長期化したが、2008年12月12日に参議院は否決したものの、衆議院で再可決されて成立し、インド洋での補給活動が再開されることとなった。
アフガニスタン関連項目 → アフガニスタン  アフガン王国  アフガン戦争  アフガニスタン保護国化  アフガニスタン独立回復  第3次アフガン戦争  アフガニスタン王政廃止  アフガニスタン共産政権  ソ連のアフガニスタン侵攻  ソ連軍の撤退  アフガニスタン内戦  ターリバーン政権  アメリカのアフガニスタン攻撃    
 イラク戦争 2003年3月、アメリカ合衆国G.W.ブッシュ(子)政権が、イラクが大量破壊兵器を保持しているとして空爆および地上軍によって侵攻し、そのサダム=フセイン政権を倒壊させた戦争。アメリカ合衆国は国連安保理決議に基づかず、「テロとの戦争」の一環として、イギリスなどの「有志同盟」による軍事行動として実行した。5月には戦闘が終了、後にフセイン大統領を拘束し、新たなイラン政府も成立したが、その後もイラン情勢は安定せずにテロ活動がやまず、アメリカ軍・イギリス軍などが依然として駐留を続け、問題は長期化している。     → アメリカの外交政策
開戦の経緯:2001年9月の9・11同時多発テロ以降、テロとの戦争を宣言、アフガニスタンのタリバン政権を倒したアメリカ合衆国のブッシュ政権は、さらに2002年1月にイラク・イラン・北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しし、世界平和に対する脅威と人権抑圧を続けているとして非難した。特にイラクは1991年の湾岸戦争後、フセイン政権は経済制裁を受けながら核開発疑惑に対する国連の査察を拒否しているとして、査察受け入れを強く要求した。一方のイラクのフセイン大統領は、湾岸戦争後国内の反対勢力を厳しく弾圧し、ますます独裁権力を強めていた。2002年7月、ブッシュ大統領は「イラクは排除されなければならない」と宣言、核査察の拒否が国連決議違反にあたることをその理由とし、パウエル国務長官が盛んに国連の場でイラクを糾弾した。11月8日「国連決議1441号」が採択され、「1週間以内の査察を受け入れと30日以内にすべての大量破壊兵器に関する情報を開示」など、厳しい条件がイラクに提示された。フセイン大統領はしぶしぶ査察受け入れを表明、査察団を受け入れたが、2003年1月の中間報告は「大量破壊兵器」の確証は得られなかった。しかしアメリカは疑惑を払拭できないとして武力行使を決意、イギリスは同調したがフランス、ロシア、中国などは査察継続を主張して国連安保理は意見が一致しなかった。しかし、ブッシュ大統領はイラクにおける人権抑圧とアルカーイダなどテロ組織との関係が強いことなどを理由として先制攻撃論を掲げ、3月19日にフセイン大統領とその一族の国外退去を求め、それが実現しなければ軍事行動を行うという最終通告を行い、フセインが応じなかったため翌日、空爆を開始した。
イラク戦争の背景:国際的な非難にもかかわらず、アメリカ合衆国のブッシュ政権がイラク攻撃に踏み切った理由については、公式には「大量破壊兵器の隠匿」が「国連決議」に違反するということとされているが、その後、大量破壊兵器の存在は証明されておらず、アメリカ政府もすでに破棄されていたことを正式に認めた。また国連決議についても、フランス・ドイツなどは査察の継続を主張して反対したため、その軍事行動は国連の平和維持活動(PKO)でも、国連決議による多国籍軍でもない、アメリカ軍とイギリスなど30数ヶ国の「有志連合」による一種の集団的自衛権の行使という形をとらざるをえなかった。その背景には、政権内の新保守主義(ネオコン)といわれる勢力(国防長官のラムズフェルドや、ブッシュ政権を支えていたウォルフォヴィッツ、ボルトンといった人たち)が台頭し、冷戦終結後のアメリカ合衆国の単独行動主義(ユニラテラリズム)が強まった現れと見られる。また、穿った見方としては、アメリカ合衆国が中東での石油資源の独占を狙ったものであり、フランス、ロシアが反対したのはフセイン政権と石油利権を通じて結びついていたからだという説もある。
戦争の経緯:2003年3月20日、米軍はバグダードを空爆、ピンポイントでフセインの殺害をねらったが失敗した。アメリカ合衆国のもくろみはフセインさえ殺害すれば、イラク国民が起ち上がるであろうという楽観的なものであった。しかし、フセインはその後TVに顔を現して健在ぶりをアピール、同夜アメリカ軍とイギリス軍はクウェートから陸上部隊を侵攻させ、空爆も本格化させた。イラク軍は想定以上の抵抗があったが、アメリカ軍は劣化ウラン弾やクラスター爆弾を投入してその抵抗力を抑え、4月4日にはバクダードに突入、9日には市民とアメリカ軍の手によってフセイン像が引き倒されて、フセイン政権は倒壊した。5月1日にはイラク軍の組織的な抵抗は終わり、ブッシュ大統領は勝利宣言を行った。フセイン自身はその後も潜伏を続け、同年12月にようやく捕捉された。2005年10月からイラク高等法院で裁判に付され、2006年12月に死刑判決、ただちに処刑された。
イラク戦争と日本:アメリカ軍のイラク侵攻直後に小泉首相は支持を表明。自衛隊派遣の検討に入り、本格的な戦闘の終了後の7月に「イラク特措法」が成立し、2004年1月に陸上自衛隊・航空自衛隊を、「非戦闘地域」に限定した人道的復興支援を目的として派遣した。4年間の時限立法であったので、2007年7月に2年間延長された。この間、陸上自衛隊は2006年7月に撤収し、航空自衛隊は2008年度中に撤退する予定となっている。イラクへの自衛隊派遣については、違憲訴訟が行われたが2008年の名古屋高裁で原告敗訴となった。しかし、航空自衛隊の活動には「非戦闘地域」に限定できない活動が含まれており、憲法違反に当たるという「傍論」が併記された。それに対して当時の田母神航空自衛隊幕僚長は「そんなの関係ネー」と発言した。
Epi. イラク博物館、6年ぶりの再開 フセイン政権が崩壊した03年4月、無政府状態に陥ったバグダードでは略奪・強盗が横行し、イラク国立博物館も襲撃の対象とされた。約1万5千点が略奪され、密売目的で外国に持ち出された。こうしてメソポタミア文明以来のイラクの貴重が文化財が離散するという事態となったが、その後、ヨルダン、シリア、アメリカなどから約6千点が返還され、2009年2月に博物館は部分的な再開にこぎつけた。準備不足なのに一部再開に踏み切ったのは、治安回復をアピールする政府的決定だ、との超えもある。<朝日新聞 09.02.25朝刊>
a ブッシュ(子)  → G.W.ブッシュ 
c 自衛隊派遣 日本は憲法第9条の原則に基づき、自衛隊は専守防衛に当たるものとされ、海外派遣は行われてこなかった。また国連憲章で認められる「個別的または集団的自衛権」のうち、集団的自衛権は行使できないと政府見解が維持されている。ところが、1991年に湾岸戦争が勃発すると、日本も国際貢献を金銭的な面だけでなく、人的にも果たすべきだというアメリカからの圧力と、国内の一部の主張によって、自衛隊の海外派遣が検討されるに至った。政府原案は国会審議でたびたび廃案に追い込まれたが、ついに1992(平成4)年6月、国際平和協力法(通称PKO協力法)が成立し、同時に国際援助活動への自衛隊の参加を可能とする国際緊急援助隊法が改正施行され、自衛隊の海外派遣に法的な根拠が与えられた。また2006(平成18)年12月15日には自衛隊法が改正され、海外派遣が付随的任務から通常任務に位置づけられ、海外派遣は自衛隊の「本業」にされるに至った。また安倍内閣の下で、首相の私的諮問会議として現憲法の下で集団的自衛権を可能にする法解釈や法改正を探る検討が開始された。憲法9条の理念からまったく離れて、自衛隊が海外でアメリカ軍などと共同活動を行う道筋がつけられる恐れが出ている。
自衛隊の海外派遣の実績:現在は自衛隊の海外活動は「後方支援・復興支援」に限定されており、次の実績がある。
1991年6〜9月 湾岸戦争後の海上自衛隊のよるペルシャ湾掃海派遣(これが最初の自衛隊海外派遣であった)。
2001年11月〜2007年11月 アフガニスタンにおけるアメリカ軍などの対テロ作戦を後方支援するため、海上自衛隊がインド洋で給油活動に従事 テロ対策特措法に基づく活動が再三延長されたが、2007年参議院で同法に反対する民主党が多数を占めたため、延長されず11月に終了した。政府自民・公明党は新テロ特措法法によって再開を目ざし、2008年12月12日衆議院で再可決して成立、インド洋上の給油活動が再開されることとなった。
2004年1月〜現在継続中 イラク戦争に当たり、イラク特措法に基づきフセイン政権崩壊後のイラク人道復興支援活動に、陸上自衛隊と航空自衛隊が参加。陸上自衛隊は予定期間終了で帰国したが、航空自衛隊はまだ残留(2008年中の撤退の予定)している。
自衛隊のPKO参加実績:国際連合平和維持活動 (PKO)への自衛隊の参加は次のように行われた。
1992年(平成4年)9月17日〜1993年(平成5年)9月26日。国連カンボジア暫定統治機構 (UNTAC)
1993年(平成5年)5月11日〜1995年(平成7)1月8日。国連モザンビーク活動 (ONUMOZ)
1996年(平成8年)2月1日〜継続。国連兵力引き離し監視隊 (UNDOF)
2002年(平成14年)2月〜2004年(平成16年)6月27日。国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET、2002年5月20日以降は国連東ティモール支援団 (UNMISET))
2007年(平成19年)3月30日〜継続。ネパール政府と共産党毛沢東主義派の停戦監視を行う国連ネパール支援団 (UNMIN)  防衛省移行後初の海外派遣。
その他、難民救済(UNHCR支援)や地震、津波など自然災害に対する救援活動を行っている。
d ロンドン地下鉄テロ 2005年7月7日、ロンドンの地下鉄と路線バスで時限爆弾が同時に爆発、50人以上の死者と多数の負傷者が出た。犯人としてパキスタン系のイギリス人が逮捕され、当時開催中の北部イギリスのグレンイーグルスでのサミット(主要国首脳会議)に併せて実行されたイスラーム過激派の犯行とされた。 
ウ.第三世界における強権支配の後退
1.アジア  
 韓国(70年代〜現代)


太極旗といわれる大韓民国国旗。
中央の円が太極で赤が陽、青が陰を表す。四隅の記号は易学で東西南北の宇宙の構成要素に対応している。
大韓民国は、1961年からの朴正煕政権の「維新体制」と称する開発独裁のもとにあったが、1965年には日韓基本条約を日本と締結してその資金援助を得、さらにベトナム戦争の特需を背景に経済を成長させた。以下、1970年代から現在までの韓国の動きのまとめである。<主として文京洙『韓国現代史』2005 岩波新書による>
朴正煕の維新体制:1970年に入り、ベトナム戦争の行き詰まりなどの中で韓国でも民主化運動が活発となり、71年の大統領選挙では民主運動家の金大中が善戦し、朴正煕はわずか95万票で三選された。朴正煕は民主化運動を抑えるため「北の脅威」のもとで「平和統一」を達成するには国民総和が必要であるとして、1972年には戒厳令を布告し、国会を解散、政党・政治活動の停止、大学の封鎖を強行した上で国民投票を実施して憲法を改正、大統領を国民会議による間接選挙に改めるという「維新体制」を作り上げた。また金大中を東京で拉致してその政治活動を妨害した(金大中事件)。
漢江の奇跡:1970年代、朴正煕の開発独裁のもとで工業化、開発を推し進めた。続く全斗煥軍事政権も含め、70〜80年代の経済急成長は「漢江の奇跡」といわれた(漢江=ハンガンとはソウルの中心部を流れる川)。1973年、朴正煕は「重化学工業化開発政策宣言」を発表し、鉄鋼・化学・非鉄金属・機械・造船・電子工業など重点開発部門を設けて、財政と金融面で優遇した。その結果、浦項(ポハン)総合製鉄所、大韓造船所、蔚山(ウルサン)石油化学コンビナートなどが拡張され、起亜産業、現代自動車による国民車生産などに象徴される高度経済成長を遂げた。1977年には悲願の輸出100億ドルを達成し、建国以来初めて国際収支の黒字に転じた。1978年にはOECDは韓国を新興工業経済地域(NIEs)の一つと位置づけた(当初は新興工業諸国=NICsと言われたが、80年代にNIEsと言われるようになる)。その背景は、石油ショックによる工業先進国が停滞する間に、アラブなど第三世界への輸出が急増したことが挙げられる。
朴政権の終わりと光州事件:しかし、1970年代後半になると、経済発展によって成長した中間市民層が、政治的自由を要求するようになり、またアメリカにも人権外交を標榜するカーター大統領が韓国批判を強め、朴正煕政権は苦境に立たされるようになった。そのような中で政権内部に矛盾が強まり、1979年に朴正煕射殺事件(中央情報部部長金載圭に射殺される)という突発的事件が起き、朴政権は一挙に崩れ、韓国社会には一気に民主化の動きが高まった(ソウルの春)。しかし、翌1980年5月、軍を掌握した全斗煥は、金大中ら民主化運動家を逮捕して、政党活動の停止・言論、出版、法曹などの事前検閲・大学の休校などの措置をとり実権を握った。これが五・一七クーデターである。南部の光州では大学生・市民による大規模なデモを軍が鎮圧して多くの犠牲が出るという光州事件が起きた。
全斗煥の政治:1980年5月の光州事件を鎮圧した全斗煥による軍政(新軍部政権)が開始され、新憲法の下で間接選挙による大統領選挙の結果、全斗煥が大統領に選出された。全斗煥政権は民主化運動を厳しく取り締まり、金大中は亡命、金泳三は自宅軟禁となり、学生運動に対しては学習塾の廃止、入試の廃止などとともに卒業定員制を設けて学生を大学に封じ込めておくなどの措置がとられた。その他、労働運動、言論制限など、韓国はソウルの春が一挙に終わって冬の時代に突入した。またこの時期はアメリカ大統領にレーガンが登場し、米ソの新冷戦が始まり、それが朝鮮半島情勢にも影響して、1983年には北朝鮮によるラングーン事件、87年には大韓航空機事件などが起こり、緊張が高まった。
改憲と民主化:1987年、ソウルや光州などの学生・市民が大統領直接選挙を求める民衆デモに対して全斗煥政権が改憲を拒否して運動の弾圧をはかると、全土にデモがさらに激しくなり、ついに6月29日、全政権も改憲して大統領直接選挙、言論の自由の保障、反体制運動家の釈放などを約束した(六月民主抗争)。これによって憲法が改正され(第六共和国憲法)、年末に国民の直接選挙による大統領選挙が行われた。改革派は金大中と金泳三の二人が立ち一本化できなかったため、軍人出身で全政権の継承を唱えた盧泰愚が当選した。経済成長は続き、その象徴として1988年にはソウル・オリンピックを開催した。また1989年の冷戦終結という大きなうねりの中で、1991年には南北朝鮮が同時に国際連合に加盟した。次いで大統領選挙で1992年には金泳三、97年には金大中という長い間民主化運動を進めていた人物があいついで当選した。この間、95年には前大統領の盧泰愚や全斗煥が在任中の不正蓄財・人権抑圧などで告発され、有罪とされた。
現在の韓国:金泳三政権は、90年代中期の世界的なグローバリゼーションの波に乗り、「世界化プロジェクト」と称して市場開放、合理化(労働組合運動の排除)を進めたが、1997年にタイのバンコクに始まったアジア経済危機が波及し、韓国経済は深刻な危機に襲われた。金大中政権はIMFの財政再建、規制緩和、公共事業削減など構造改革(経済調整政策とも言う)に応ずることによってその融資を受けることにして、その危機を切り抜けた。一方、北朝鮮との関係では太陽政策を掲げて対話を開始し、2000年には北朝鮮を訪問して金正日との間で初の南北首脳会談を行った。2003年に代わった盧武鉉大統領も太陽政策を継承したが、北朝鮮側がNPTを脱退して核実験を強行したため関係は急速に悪化し、2008年からの李明博大統領は太陽政策の廃棄、北朝鮮との対決姿勢を強めている。
最近の日韓関係:韓国は日本文化の解禁に踏み切り、2002年にはワールドカップの日韓共同開催を成功させて、日本でもTVドラマなどで「韓流ブーム」が起こって関係は良好になった。しかし、竹島(韓国側では独島)の領有をめぐっては対話が途絶えることとなった。また小泉首相の靖国参拝などには中国とともに韓国も強く反発し、植民地時代の対日協力者を糾弾する動きがおこったが、2005年には盧武鉉大統領が光復60周年記念演説で過去の清算を呼びかけた。
退任後の不祥事告発がつづく韓国大統領 2009年5月23日、盧武鉉前大統領が自殺した。親族の不正事件(妻が100万ドルの不正献金を受けたという疑惑に責任を感じてのことであるらしい。韓国の大統領の在職中の不正事件が連続しており、いずれも退任後に発覚して告発されている。今回も同じような事態となってしまった。その背景には、韓国の大統領には権力が集中していることと、韓国政界の金銭体質などがあげられている。最近の韓国大統領の退任後に明るみに出た不正事件は次の通り。
全斗煥 財閥から数千億(ウォン)の秘密資金を受領。クーデター関与で内乱罪に問われ、有罪となり死刑判決。後に赦免される。
盧泰愚 全斗煥と同様の罪状で有罪となり、懲役22年6ヶ月の有罪判決。後に赦免される。
金泳三 次男が企業から資金を受領。斡旋収賄で有罪。
金大中 次男と三男が企業から資金を受領。斡旋収賄で有罪。
盧武鉉 妻が企業から資金を受領。大統領自身も収賄容疑で事情聴取され、自殺。
a 朴正煕  → 朴正煕
b 光州事件 1980年5月、ソウルでの全斗煥らの軍部クーデターに抗議した韓国南部の光州市の大学生・市民と軍が衝突、学生・市民は一時市の中央部を抑えたが、軍による全面的な弾圧によって多数の犠牲者を出した事件。
全羅南道の光州は、維新体制(朴政権)下で学生運動や在野運動、農民運動の有力な拠点となっていた。その他にキリスト教系の農民会やYMCAなどの宗教団体、韓国アムネスティ、青年学生団体などが組織され、国立の全南大学は全国的な学生運動の拠点の一つだった。ソウルの春に呼応した5月16日の学生・市民のデモは5万人にふくれあがりあがった。翌日、警察は一斉に学生逮捕に乗りだし、さらに18日には学生と軍隊が衝突、市民も学生を支援して市中は騒乱状態となった。学生と市民は市の中央部の噴水台を占拠して自治共同体を組織して執行部を選出し、最後まで戦うことを決議した。しかし、5月26日、市民軍に対して武装ヘリを動員した空挺部隊が鎮圧に乗りだし、死者は民間人で168人、軍人23人、警察4人、負傷者は4782人、行方不明406人という大きな犠牲をだして終結した。背景にはソウルなど韓国北部地域の人々の、全羅南道など「湖南人」に対する地域的偏見があるという。<文京洙『韓国現代史』2005 岩波新書 p.142-147>
c 全斗煥


法廷に立つ二人の元大統領 右が全斗煥、左が盧泰愚
チョンドゥファン。韓国の軍人で第12代大統領(在任1980〜88)。大統領退任後、収賄と光州事件の弾圧責任を問われ無期懲役となって収監される。
クーデターで実権に義理、光州事件を弾圧:盧泰愚らと同じく陸士十一期生グループ。1979年の朴正煕大統領射殺事件を機に軍の実権を握り、5月17日クーデターで軍政を開始する。全羅南道で起こった民衆反乱の光州事件を軍を動員して弾圧、大統領に就任した。その政治は新軍部政権といわれ、朴政権と同じように経済開発とアメリカ合衆国との同盟関係を優先し、NIEsの一つとしての経済発展を継続したが、一方で国内の民主化運動、反政府活動を厳しく取り締まり、言論を統制した。1984年には韓国大統領として初めて来日、昭和天皇は挨拶で「不幸な過去」に遺憾の意を表明した。
六月民主抗争:1987年6月、全国で100万を超える学生・市民が民主化運動が起きるとやむなく「六月民主化宣言」を発表し、大統領直接選挙などを確約せざるを得なくなった。憲法は同年中に改正され、大統領は国民の直接選挙で選ばれ、任期5年で再任は認められないこととなった。大統領には全斗煥と同じ軍出身の盧泰愚が当選したが、翌1988年、野党民主派が多数を占める議会で全政権時代の政経癒着と人権弾圧の追及が大々的に始まり、その在任中の疑惑が表面化した。11月、全斗煥は国民に謝罪、江原道のお寺で隠遁生活に入った。
光州事件の弾圧責任を追及される:さらに民主化の進んだ金泳三政権下の1995年には、盧泰愚前大統領に続いて全斗煥も在職中の収賄容疑で逮捕され、さらに光州事件での民衆殺害の責任も追及された結果、97年に大法院によって無期懲役、追徴金2205億ウォンが課せられ収監された(ただし、同年の金大中当選直後に特別赦免となり釈放された)。
d 盧泰愚 ノテウ。韓国の軍人で第13代大統領(在任1988〜93)。平和的な国民の直接選挙で選出された大統領であったが軍人出身としては全斗煥の新軍部政権を継承した。しかし退任後に収賄などの不正を追及され、有罪となって収監された。全斗煥と同じく陸士十一期生グループの軍人で、1979年の朴正煕大統領射殺事件を機に台頭。全大統領を補佐する。1987年の六月民主抗争の大市民デモで全大統領が退任、憲法が改正されて国民の直接選挙となる。民主化運動側は金大中と金泳三が並立したため票が割れ、盧泰愚がわずか36.6%の得票率で当選した。盧泰愚大統領時代には経済成長も続き、ソウルオリンピックを開催(88年)し、またドイツ統一、冷戦終結の世界的流れの中で91年には南北朝鮮が同時に国際連合に加盟した。並行して1990年にはソ連を、ついで92年には中華人民共和国を承認した。民主化運動も進み、88年には前大統領の全斗煥の不正蓄財が追及され、光州事件の実態も次第に明らかになってきた。1992年の大統領選挙では金泳三が大統領に当選した。この文民政権のもとで、全斗煥・盧泰愚の二代続いた新軍部政権の不正や人権侵害の追及が始まり、盧泰愚は1995年に逮捕され、97年には有罪の判決が出て懲役17年、追徴金2268億ウォンとされ収監された(全斗煥と同じく、特赦で釈放された)。 
e 国際連合加盟  
f 金泳三 キムヨンサム。韓国の民主派政治家。第14代大統領(1993〜98)。32年ぶりに実現した文民大統領であった。同じ民主派でもライバル金大中が保守的民主派で全羅南北道を基盤としていたのに対して、金泳三は革新的民主主義を唱え、慶尚南道(釜山中心)を基盤としていた。この二人に金鐘泌(忠清道が基盤)を加えて、「三金」といわれた。1992年の大統領選挙に当選して、朴正煕−全斗煥−盧泰愚と続いた軍人出身大統領に代わり、32年ぶりの文民出身の大統領となった。金泳三大統領の下で軍の政治関与の制限など、民主化が進み全斗煥・盧泰愚の二人の軍人大統領の在任中の不正と人権抑圧が法的に断罪され、二人とも有罪となった。北朝鮮との関係では93年に北朝鮮がNPTを脱退して核開発疑惑が強まり、94年には北朝鮮の「瀬戸際外交」(核戦争も辞さない姿勢で相手の妥協を引き出す手法)によって緊張が高まった。金泳三は南北対話を模索したが、同年7月に金日成が急死したため頓挫した。
韓国版新自由主義経済:韓国経済は70〜80年代の経済成長を続け、95年には国民所得を1万ドルの大台に乗せ、96年にはOECD(先進国クラブといわれている)に加盟した。金泳三政権は周辺を新自由主義的なエコノミストで固め、経済繁栄を背景に、「無限競争の時代」に突入したと宣言し、グローバル経済に対応した国際競争力を強める戦略をとった。93年のウルグアイラウンド交渉妥結により米を含む例外なき関税化を受け入れ、WTO発足(95年)に対応して農産物の大幅な市場解放措置をとった。また国際競争力を付けるためと称する合理化や労働基本権の制限(解雇権の拡大、臨時雇用の拡大など)を許す労働法の改正を強行した。これらは農民と労働者の激しい反対運動を呼び起こした。
韓国でのアジア経済危機:1997年、タイのバーツの暴落に始まるアジア通貨危機が韓国にも波及し、経済は危機を迎えた。金泳三政権の「世界化」プロジェクトは「先進国への無理な背伸び」であり、強引な金融自由化におどらされたこと、財閥大企業の古い体質が対応しきれなかったことなどが傷口を拡げ、韓国経済の成長率はマイナス5.8ポイント(前年比10ポイント以上の下落)、失業率8.6%という激しい経済危機となった。政府はIMFの融資を決定したが、解決の見通しを立てられず、12月の大統領選挙で当選した金大中がその処理に当たることになった。<文京洙『韓国現代史』2005 岩波新書 p.183-186>
g 金大中 キム=デジュン。韓国の政治家で第15代大統領(在任1998年〜2003年)。韓国南西部の全羅南道出身で、70年代から朴正煕の独裁政治に反対して政治の民主化をかかげ、4度目の挑戦で大統領に当選した。2000年には分裂後初めての南北朝鮮の首脳会議を実現させて、ノーベル平和賞を受賞した。
独裁政治と戦う:1970年代に朴正煕軍事政権の独裁政治に反対する民主化運動を指導し、71年には新民党から大統領選に出馬し、惜敗した。1973年8月に東京で拉致され5日後に解放されるという金大中事件に遭遇した。77年には政権批判の罪で禁固刑となり、翌年特赦された。さらに1980年の光州事件での関与を理由に逮捕され、全斗煥軍事政権下で死刑判決を受けた。このように軍事政権下で一貫して民主化運動の先頭に立ち、弾圧を受け続けた。82年に死刑執行は停止され政界に復帰、87年、92年に大統領選に立候補したがそれぞれ盧泰愚、金泳三に敗れた。1997年、アジア通貨危機に見舞われた韓国の経済再建を課題とする大統領選挙で国民会議から立候補、ハンナラ党の李会昌をわずか39万票の差で破って、4度目の挑戦で大統領に当選した。
構造調整政策:韓国政府はIMF自身の210億ドルを含めた583億5000万ドルの巨額な融資をうけ、IMFの管理体制下に置かれ構造改革を進めることを確約した。IMFの提示したプログラムに従い、まず新たな金融監督機構を設置し、金融機関の統合、公的資金を投入して不良債権の整理などに当たり、一方で資本市場の自由化を図り銀行・証券などの金融部門への外資の流入を認めた。またIMFが強く求めた労働市場の柔軟化も進められ、整理解雇の容認、派遣労働の導入とその一方での公務員・教員の労働組合が承認された。このようなIMF主導の構造調整政策の結果、労働現場は混乱し、解雇反対闘争やストライキが多発した。経済は危機を脱し、2000年にはふたたび成長に転じたが、その後急速な市場原理主義の浸透の結果、中間層の解体と格差の拡大、大学入試の異常な加熱、金銭万能主義などの病理もまた深まり、政治的な保守化と若者層の無関心が広がった。<文京洙『韓国現代史』2005 岩波新書 p.188-195>
北朝鮮政策:対北朝鮮外交では「太陽政策」(北朝鮮への開放宥和政策)をかかげ、2000年6月には北朝鮮を訪問し、金正日総書記との初の南北首脳会談を実現させ、「南北共同宣言」を発表した。南北対話が実現したことによって、北の脅威を理由とした自由や言論の制限が意味を持たなくなり、韓国の民主化は一段と進むこととなった。
 太陽政策 韓国の金大中大統領が1998年就任に際して打ち出した、対北朝鮮政策。包容政策とも言う。
 1.朝鮮半島での一切の武力挑発を許さない。
 2.北朝鮮による吸収・統一を排除する。
 3.南北間の和解協力を推進する。
この三点を原則として、北朝鮮との対話を進めるとした。凍りついている北朝鮮の姿勢を、韓国側の熱意ある働きかけで溶かすことができる、という意味で太陽政策と言われた。当時、北朝鮮は金日成の喪が明け、金正日が党総書記に就任(97年10月)していた。太陽政策を地ならししたのは現代財閥(ヒョンデ・グループ、韓国最大の財閥)の総帥鄭周永が直接北朝鮮を訪問して金正日と会談、金剛山観光の許可などの交流を実現させた。それを受けて2000年6月、金大中が平壌を訪問し、分断後初めての南北首脳会談が実現し、6月15日に南北共同声明が発表され、統一原則、親族訪問などの人道問題、多角的交流などが合意された。<文京洙『韓国現代史』2005 岩波新書 p.195-197>
 盧武鉉 ノムヒョン。韓国の政治家で第16代大統領(在任2003〜2008)。韓国で初めての戦後生まれ(日本の植民地支配を経験していない)大統領。高卒後に独学で司法試験に合格し弁護士となり、人権派として知られる。政界に入り、金泳三、金大中らの下で活動。1990年代に台頭した三八六世代(30歳代、80年大学入学、60年代生まれ)のインターネット世代の支援で、従来型の政治家にない清新さが期待され、50歳代で大統領となった。この盛り上がりを韓国では盧風(ノプン)といった。
盧武鉉は民主化の確立を掲げ、そのためには「歴史の見直し」が必要であるとして、それまでほぼ封印されてきた1948年の済州島での四・三蜂起事件の見直しに着手、2003年10月には自ら済州島を訪れ、犠牲者と島民に国として初めて公式の謝罪をした。しかし、イラク戦争ではアメリカ合衆国の派兵を支持、韓国軍の派遣に応じたことから任期にかげりが出始め、また北朝鮮政策では金大中の太陽政策を継承したが、それが金正日を強気にさせ、核実験の強行に向かわせたとして批判されるようになった。その結果、2008年の大統領選挙では後継候補が保守派の李明博(ハンナラ党党首。ハンナラとは「大いなる国」という意味)候補に敗れる要因となった。
前大統領の自殺 2009年5月23日、盧武鉉前韓国大統領は釜山の自他記の近くの岩山から飛び降りて自殺した。親族の不正疑惑で自らが聴取されるという事態になっていた。退任後、李政権の下で、前大統領の盧武鉉夫人が100万ドルの不正献金を受け取っていたという疑惑が表面化し、4月末には前大統領自身も聴取されていた。前大統領は在任中クリーンな政治を特に強く主張していたので、親族の不正についても弁明しきれないと感じたらしい。韓国大統領にまつわる金銭的な不正事件はこのところ連続しており、その政治体質が問題となっている。
 台湾(現在) →、台湾  台湾の解放、 戦後の中華民国(台湾=国民政府) 
蒋介石は1975年に死去、78年に息子の蒋経国が総統となり、国民党以外の政党を認めるなど改革を進め、高い経済成長を実現し、NIEsの一つに数えられるようになった。
台湾の民主化:1988年には初めて台湾出身者(本省人)である李登輝政権が成立、大胆な民主化を進めた。1996年には、台湾で初めて国民の直接選挙による総統選挙が行われ、李登輝が再任された。李登輝までは国民党政権であったが、2000年の李登輝退任後の選挙では民進党陳水扁が当選し、戦後50年続いた国民党政権からの政権交代が実現した。この間、経済的な発展を遂げ、民主化も進めた台湾は、中国からの分離独立と「台湾」としての国際社会での承認を得る動きが強まっており、北京の中華人民共和国政府は強く反発している。
a 中国国民党(戦後)中国国民党(略して国民党という場合もある)は、共産党との国共内戦に敗れ、1949年、中華民国(国民政府)とともに台湾に移った。依然として蒋介石は総統として党を指導し、台湾を統治した。
b 李登輝 1988年〜2000年の総統として中華民国(台湾)の民主化、近代化を推進した国民党の政治家。蒋経国総統の死去にともない、副総統から昇格して、台湾生まれ(本省人)としての初めての総統となった。1996年には台湾で最初の国民の直接選挙による選挙で総統に選出された。彼は1923年、日本統治下の台湾で生まれ、日本の京都大学農学部で学び、戦後に国民党に入党、蒋介石・蒋経国の国民党政権の下で実務に当たり、1988年、台湾生まれ(本省人)として初めて総統に当選した。李登輝は、それまでの国民党のスローガンであった「反攻大陸」(中国共産党に追われた大陸に戻ること)を取り下げ、中華人民共和国の大陸実効支配を認め、中華民国の本拠は台湾であるとして「台湾中華民国」という国家の呼称を提唱し、その主張は「二国家論」といわれた。在任中は、NIEsの一つに算えられるようになった台湾の経済発展に努め、中国との関係も現実路線を強いたため安定し、大きな実績を上げた。2000年には自ら退任したが後継者問題から国民党が分裂選挙となり、民進党の陳水扁の当選を許したことから責任をとって国民党を離党、現在は台湾団結同盟を結成して台湾独立に関する発言を続けており、中国政府の反発を呼んでいる。
Epi. 「22歳までは日本人」 李登輝が台北高等学校に入学したとき、台湾総督府は皇民化政策の一環として、創氏改名を進めた。李登輝もその時、岩里政男と改名した。1943年に京都大学農学部に入学し、マルクス経済学も学んだという。しかし学徒動員で44年には日本兵として45年3月10日の東京大空襲では高射砲の射手としてB29を迎え撃ったという。このような経歴から李登輝は自ら「22歳までは日本人だった」と述懐しているという。現在も病気療養や講演、あるいは「奥の細道」の旅と称して時々来日(中国は李登輝の来日に対し神経をとがらし、ビザ発給に抗議している)しているが、その時は日本語を話している。
c 陳水扁 2000年の総統選挙で民進党(民主進歩党)から出馬し、第10代中華民国総統となった。これは半世紀に及ぶ台湾の国民党政権を終わらせる画期的な出来事であった。陳水扁は台湾生まれで、台北市長としての実績はあったが、当選したのは国民党が李登輝大統領の次期候補擁立で一本化できず分裂選挙となったためで、彼自身の得票率は39.3%に過ぎなかった。2004年には、台湾独立を掲げて支持を広げ、再選された。彼は国名を「台湾」として国際連合に加盟することをめざしたが、「二つの中国」は認められないとするアメリカなどの支持を得られなかった。一方で大陸の中国政府との関係は悪化し、緊張がたかまった。2期目には夫人の公費流用疑惑などスキャンダルが続いて人気が急落し、2008年5月に大統領を辞任、11月には不正送金、収賄などの嫌疑で逮捕・起訴された。台湾は2008年3月の総統選挙で国民党の馬英九が当選し、国民党政権に復帰し、中国政府との関係も修復されつつある。
 フィリピン
フィリピンの国土と民族:フィリピン共和国はルソン島、ミンダナオ島など多数の島からなる。国土は約30万平方km。人口約6400万。首都はマニラ。国語はフィリピノ語(ルソン島の現地語であるタガログ語をもとに、1987年の憲法で国語とされた)であるが、アメリカ統治時代以来の英語、さらにそれ以前のスペイン統治時代以来のスペイン語も使われている。民族はマライ=ポリネシア語族に属するフィリピン人。宗教も複雑で、北部はスペインの統治政策もあってカトリックが優勢だが、南部のミンダナオ島にはイスラーム教徒(モロと言われる)も多い。またマニラなど都市部には中国系の華僑も多い。
現代のフィリピン:第2次世界大戦後の1946年、アメリカから独立。1965年からマルコス大統領のいわゆる開発独裁が続いたが、1983年に政敵ベニグノ=アキノ暗殺事件を機に、経済危機も相まって一気に独裁反対の声が強まった。1986年の大統領選挙でアキノ未亡人が当選すると、マルコスはその当選を無効としようとして工作したがかえって民衆の反発をうけ、マニラ市内で市民が結集、軍やカトリック教会も反マルコスで一致したためマルコスは夫人と共にアメリカに亡命、ビープルパワー革命と言われた民主化が実現してアキノ大統領が出現した。以後、アキノ政権のもとで民主化が進められ、大統領は1992年にラモス、1995年にエストラダ、2001年にアロヨといずれも民主的な選挙で選出されたが、なお貧困層の拡大、イスラーム系の分離運動など困難が続いている。
フィリピン史関連項目
 第9章1節 16世紀のフィリピン
 第13章2節 スペインのフィリピン統治
 第14章1節 19世紀末のフィリピン
 第14章3節 フィリピン革命 ・ フィリピン=アメリカ戦争
 第15章3節 アメリカのフィリピン統治 ・ フィリピン独立法
 第15章5節 日本軍のフィリピン侵攻
 第16章1節 フィリピン共和国(独立)
 第16章3節 フィリピンの開発独裁
a マルコス フィリピンの大統領として約20年(1965〜86)にわたって君臨し、典型的な開発独裁といわれる体制を維持したが、1986年に民衆の運動によって失脚し、アメリカに亡命した。
1965年にフィリピン大統領に当選。69年には再選され、憲法では三選が禁止されていたにもかかわらず戒厳令を発布して強引に新憲法を制定、74年に三選を果たした。マルコスの開発独裁政策は、外国資本と結んで開発を進めていくもので、当初から利権の口利きで私腹を肥やし、ウラ社会の人脈で反対派を黙らせるという手段で権力を握った。またベトナム戦争を展開中のアメリカを巧妙に利用し、基地提供などの見返りを得ながら、体制を固めていった。その結果、マルコス政権の長期化のもとで、政治家、官僚の腐敗が進行した。フィリピン財政は外債に依存し、国民生活は苦しくなったにもかかわらず、マルコス夫妻はマラカニアン宮殿(大統領府)で豪華な生活を楽しんでいた。国民的な人気のあった政敵ベニグノ(ニノイ)=アキノは、マルコスの非民主性を激しく論難した。1971年、学生の反マルコスのデモが起きると戒厳令をしき、ただちにアキノを逮捕。裁判で死刑を言い渡したが、国際世論に押されてその病気治療にアメリカ出国を認めた。1970年代には、北部では共産党系の新人民軍の反政府活動、南部のミンダナオ島でイスラーム教徒であるモロ民族解放戦線の分離独立運動が激化していた。1983年、アキノが治療を終えて帰国したところ、マニラ国際空港で警察によって殺害されるという事件(ベニグノ=アキノ暗殺事件)が起き、一気にマルコス体制への反発が強まる。1986年の大統領選挙でアキノの未亡人コラソン=アキノが当選したことを機に爆発した「ピープルパワー革命」によってマルコス夫妻はハワイに亡命し、その独裁体制は終わった。マルコスは1989年、亡命先のハワイで死亡した。
Epi. 大統領夫人イメルダの贅沢 マニラでピープルパワー革命が爆発し、民衆はマラカニアン宮殿に突入した。すでに脱出した大統領夫人イメルダの部屋から発見されたものは、3000足にもおよぶ外国製の豪華な靴をはじめ、衣装部屋一杯になった贅沢な装飾品の数々だった。貧しい暮らしを送っていたマニラの民衆はその豪華さに驚いたという。ところがイメルダは89年に夫が死ぬとフィリピン帰国を望み、92年にはそれを実現し、95年には何と下院議員に当選して中央に復帰した。しかし、2001年、不正蓄財の疑いで検挙され、監獄にはいるという波乱の人生を送っている。 
 ベニグノ=アキノ暗殺事件 1983年、フィリピンマルコス独裁政権による、政敵に対する暗殺事件。これを機に独裁政治に反対する声が強まり、86年のピープルパワー革命、マルコス退陣にいきつく。
Epi. マニラ国際空港でのアキノ暗殺事件 1983年8月21日のマニラ国際空港での白昼の暗殺事件は世界の人々を驚かせた。この日アメリカでの心臓治療を終えて帰国するベニグィノ=アキノは、暗殺の危険があることを十分察知し、防弾チョッキを重ね着して飛行機から降りようとした。その時制服の警官が機内に乗り込んできた。彼らの一人がアキノがタラップから降りるところをその後頭部めがけて拳銃を発射した。同行の記者団などが見ている前の、わずか1分たらずの出来事だった。しかもその映像はテレビ似つつし出され世界に配信された。実行犯とされたものが逮捕され、裁判にかけられたがいずれも証拠不十分で無罪となった。しかしそれがマルコス政権の中枢と関係があることを疑うものは誰もいなかった。<鈴木静夫『物語フィリピンの歴史』1997 中公新書 p.268-270> 
 ピープルパワー革命 1986年2月、フィリピンマルコス独裁政権に対して起こされたフィリピンの民主化を実現させた革命。エッドサ革命(市民が結集したエッドサ通りにちなむ)、フィリピン二月革命とも言われる。
1983年にベニグノ=アキノ暗殺事件以後、急速にマルコス独裁に対する反発が強まり、1986年の大統領選挙にアキノ未亡人のコラソン=アキノが立候補すると民衆の支持を受けて当選した。それを認めないマルコスは戒厳令を敷いて軍を動かそうとしたが、軍内部の反発、カトリック聖職者の離反などが相次ぎ、反マルコスの声が強まった。またアキノ新大統領を支持する多数の市民がマニラ市のエッドサ大通りに集まってマルコス側の軍の動きを封じ、マルコスもやむなくイメルダ夫人と米軍のヘリコプターで脱出し、ハワイに亡命した。この変革は、開発独裁を終わらせ、アジアの民主化を実現した象徴的な出来事となった。 
b コラソン=アキノ フィリピンの女性大統領(1986〜1992)。マルコス独裁政治が倒れた後のフィリピンの民主化を主導した。
コラソン=アキノはマニラの富豪の娘で、政治家ベニグノ=アキノの夫人となる。マルコスと対立してアメリカに亡命した夫に同行。1983年にベニグノ=アキノ暗殺事件の後、1986年の大統領選挙に立候補し当選、それを認めないマルコスが戒厳令を敷いたことに反発した多数の市民がたちあがり、マルコスはアメリカに亡命するという「ピープルパワー革命」が起こった。アキノ大統領は軍部(国防相ラモスら)の支持を受けて、フィリピンの民主化と農地改革、国語問題などに取り組みんだ。在任中91年にはアメリカ軍の基地の撤廃が決まり、92年までに撤退した(アキノは延長しようとしたが、議会が反対した)。91年の湾岸戦争でアラブに出稼ぎに行っていた労働者が帰国して労働力過剰となり、またピナトゥボ火山の噴火などによる経済悪化などに見舞われた。1992年、任期満了に伴う大統領選挙では後継者に前国防相ラモス(マルコス失脚の際に軍を抑えた)を指名、反アキノ派との激しい選挙戦となったがラモスが大統領に当選した。
 ラモス フィリピン大統領(1992〜1995)。もと軍人で、マルコス政権下の国防相であったが、1986年のピープルパワー革命の際に、反マルコスに転じて軍を抑え、アキノ大統領を支持し、その政権の重要な市中となった。1992年のアキノ任期満了に伴う大統領選挙では後継者に指名され、反アキノ陣営の激しい選挙戦となったが、ラモス政権が成立した。ラモス大統領は国内の反政府勢力であった共産党系の新人民軍(NPA)との和解、共産党の公認に踏み切り、またミンダナオ島のイスラーム反政府勢力であるモロ民族解放戦線(MNLF)とも和平を進めた。 
 エストラダ フィリピンの大統領(1995〜2001)。もと人気俳優と言うことで1995年の大統領選挙で圧倒的な支持を受けて当選した。しかし、統治能力に欠け、政治献金の不正が発覚して、辞任に追い込まれた。現代においてポピュリズム(大衆政治)が失敗した典型的な例。 
 アロヨ 現在のフィリピンの女性大統領。フィリピンでアキノ大統領に続く二人目の大統領。彼女はフィリピン第9代大統領マカパガル(マルコスの前)の娘で、アメリカに留学(ジョージタウン大学でクリントンアメリカ大統領と同級だったという)、帰国後フィリピン大学の経済学教授となる。アキノ大統領に見いだされてそのスタッフとなる。1998年、副大統領選挙に当選、エストラダ大統領の副大統領となった(フィリピンでは正副大統領が別に選出される)。2001年、エストラダ大統領が弾劾を受けて辞任した後に大統領に昇格。2004年に大統領選挙で選出される。しかしその金銭疑惑などからしばしばデモが起きるなど、政権は安定していない。
 インドネシア共和国(3)

インドネシア国旗(赤と白は男性と女性、天と地、太陽と月を表し、マジャパヒト王国時代から用いられている標識であるという。)
国土と人口:インドネシアは東南アジアの赤道に沿って広がる多くの島々からなる国家。面積は約190万平方km、人口2億4千万人を有する。面積では日本の約5倍。人口で約2倍。首都はジャカルタ。主な島は、ボルネオ島スマトラ島、スラウェシ島、ジャワ島で全部で1万7千以上の島々からなる。
民族と宗教:民族はマレー人(マライ=ポリネシア語族)であるが、地域的、文化的な違いから、ジャワ人、スンダ人、ミナンカバウ人、アチェ人、など多くの「エスニックグループ」に分かれている。言語においても同様であるが、現在は「多様性のなかの統一」が叫ばれ、「インドネシア人」意識と共通語として「インドネシア語」(マレー語に近い)の普及が進んでいる。宗教は88%がイスラーム教徒。しかし、地域によってはキリスト教(カトリックとプロテスタント)、ヒンドゥー教、仏教が多いところもある。 → 建国五原則(パンチャシラ)
現代のインドネシア:1998年に前年のアジア通貨危機をきっかけにスハルト独裁政権が倒れてから民主化が進み、2004年には初めて国民による大統領直接選挙が実現した(それまでは選挙人選挙)。スハルト以後の大統領は次の通り。
 ハビビ 98〜99年 スハルトの副大統領から昇格。政党の自由化を行う。1999年に総選挙。
 ワヒド 99〜01年 イスラーム教政党ナフダトゥール=ウラマー党首。総選挙で勝利し、大統領就任。
 メガワティ 01〜04年 スカルノ前大統領の娘。ワヒド政権が不信任され、大統領就任。02年には東ティモールの独立が実現した。一族への利益供与の疑惑が生じ、04年大統領選挙で敗れる。
 ユドヨノ 04〜現在 初の直接大統領選挙で当選。軍人出身。2004年12月26日、スマトラ沖大地震(マグニチュード9.3)と大津波で、大きな被害を被った。05年にはアチェ紛争の和平が実現したが、インドネシア共和国内には西イリアン(ニューギニア島西部)の分離独立運動などを抱えている。また2006年5月にはジャワ島中部地震、ついで7月にはジャワ島西部地震と自然災害が続いている。
インドネシア共和国史関連の主な項目
 第13章2節 インドネシアの意味 オランダの植民地支配 強制栽培制度
 第14章3節 インドネシア民族主義運動 ブディ=ウトモ イスラーム同盟 
 第15章3節 インドネシアの独立運動 スカルノ(1)
 第15章5節 日本による軍政 
 第16章1節 インドネシアの独立 スカルノ(2) インドネシア共和国(1) 
 第16章3節 インドネシア共和国(2) 九・三〇事件 スハルト政権 
 スハルト  → 第16章 3節 スハルト
 アジア通貨危機 1997年7月、タイ・マレーシア・韓国・インドネシアなどで一斉に通貨が暴落し、アジア全体が不況に陥り、さらにロシアにまで飛び火した経済危機。
1980年代経済成長を続けていた東南アジアやNIEs諸国では金融自由化などの世界経済のボーダーレスが進み、海外から多額の資本が流入して不動産などに投資された。特にタイでは90年代にかけて、いわば「バブル状態」にふくれあがった。そのような中で1997年にタイの通貨バーツが突如、暴落した。それは外国の通貨や株式の売買で巨額な利益をあげるヘッジファンドとよばれる投資家グループが、タイ経済の先行きの悪いことを見通し、一気にバーツ売りに走ったからであった。当初バーツを買い支えていたタイ当局も買い支えられなくなり、バーツは変動相場制(東南アジアの通貨は当時は固定相場制だった)移行を宣言した。このタイの通貨暴落はマレーシア、インドネシア、韓国に飛び火し、アジア通貨危機が急速に深刻化した。タイや韓国はIMF(国際通貨基金)の管理下に置かれ、銀行再編や不良債権の整理などが行われたが、経済悪化はしばらく回復できなかった。マレーシアはIMF管理を拒否し、投機取引規制や為替相場に対する管理強化などで通貨危機を乗り切った。しかしインドネシアでは、IMFの緊急融資を受けるこをが決めたが、IMFによる経済支配に反発した民衆が反対運動を展開、ついにスハルト大統領は32年続いたその地位を降りるという事態となった。このアジア通貨危機は、急成長を遂げたこれらの国々が、現実には通貨管理態勢などが不十分であったために、欧米の投機的な通貨投資家に狙われ、短期融資の資金が引き上げあられたためと言われている。いわば東南アジア版のバブル崩壊であり、国際的なヘッジファンドの力によって起こされた「新しい型の金融危機」であった。現在ではASEAN諸国に日本、中国、韓国が加わり、「アジア通貨基金」の設立の構想などや二国間の資金融通協定が生まれており、通貨危機に対する対策がとられている。
このアジア通貨危機によってNIEsの時代は終わり、2001年以降は中国経済の急速な成長がアジアだけでなく、世界経済の最も注目すべき動きとなっている。
 インド  
 パキスタン  → 第16章 1節 パキスタン
a カシミール パキスタン北部とインド北西部にまたがるカシミール(カシュミール)地方は、イギリス統治時代は藩王国とされ、国王はヒンドゥー教を奉じていたが住民は多数がイスラーム教徒であった。1947年、インド・パキスタンが、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が分離して独立した際、カシミール王国は帰属を明確にしなかった。そのため、インド・パキスタン双方が領有を主張し、同年の第1次と、1965年の第2次のインド=パキスタン戦争の原因となった。現在も両国の国境線は画定しておらず、対立が続いている。
b インド・パキスタン戦争 双方の独立した1947年以降、インドとパキスタンは3次にわたる戦争を展開した。第1次と第2次はカシミール帰属問題をめぐって起こった。
第1次 1947〜 独立に際し、藩王国のカシミールはいずれに加わるか明確でなかった。そこにパキスタン軍が侵入、藩王国がインドに支援を求めた。
第2次 1965〜 カシミール地方の国境上で両国が武力衝突した。
第3次 1971〜 パキスタン軍事政権が、東部パキスタン(ベンガル)の独立運動を弾圧。多数の難民が発生した。インドが東部パキスタンに対して軍事援助を行って、独立を支援。その結果、東部パキスタンは独立してバングラディシュとなった。
c バングラデシュ人民共和国  
d インディラ=ガンディー  
e ラジブ=ガンディー  
 インド人民党 現代インドの政党で、結成は比較的新しく、1980年。ヒンドゥー至上主義をその理念とし、戦後のインドの政治を支配していたインド国民会議派が企業の国有化など社会主義的な政策を採るようになったことに反発し、自由主義経済の徹底を主張、汚職などの政権の腐敗を根絶することをかかげている。指導部には上位カースト出身者が多い。1996年の総選挙ではじめて第一党となり、1998〜04年まで、政権を担当した。この間、イスラーム教徒に対する強硬姿勢をとり、2002年にはアーメダバードでヒンドゥー至上主義者によるイスラーム教徒襲撃事件で約千人の犠牲が出るなど宗教対立が相次いだ。2004年の総選挙で、穏健なヒンドゥー教徒の支持を無くし、インド国民会議派に第1党の座を譲った。
f インド・パキスタンの核実験   
g ベナジル=ブット  
h ムシャラフ  
i ネパール

ネパール国旗。
ネパールは北はヒマラヤ山脈を境に中華人民共和国チベット自治区に接し、南と西と東はインドに接する。面積14.7万平方km(北海道の1.8倍)、人口は約2500万。首都はカトマンズ(カトマンドゥ)。言語はネパール語、宗教はほとんどがヒンドゥー教であるが、民族的には多民族国家で、様々な民族から構成され、パルバテ=ヒンドゥー(山地のヒンドゥーの意味)といわれるインドヨーロッパ語族が半数を占めるが南部の平原部にはインド人も多い。インドとは異なるカーストが現在でも根強い。
歴史 南ネパールのカピラヴァストゥはシャカ(ガウタマ=シッダールタ)の生誕の地(ルンビニー)とされている。マウリヤ朝時代にはアショーカ王の支配に入っていた。4世紀頃からチベットとの関係も強くなり、その後いくつかの王朝が交替した後、1769年にカトマンズを制圧したシャハ王朝(グルカ王朝とも言う)がほぼ現在のネパールと同じ領土を統一支配するようになった。インドの植民地化を進めたイギリスとの間で、1814〜16年のグルカ戦争(ネパール=イギリス戦争)を戦って敗れ、領土を割譲し、実質的な保護国となり、ネパール兵(グルカ兵と言われる)をイギリスおよびインドに提供することとなる。1951年、トリブバン国王の立憲君主政となるが、1955年即位したマヘンドラ国王は独裁体制を強め、60年には議会は解散させられ、政党も禁止され、独自の間接民主制であるパンチャーヤット体制が敷かれた。1990年に民主化運動が始まり、ビレンドラ国王も国民主権を謳った新憲法を承認した。91年には複数政党による選挙が行われ、ネパール会議派が第1党となる。
毛派の台頭と王政廃止 1995年、王制打倒と人民共和制の樹立を掲げるネパール共産党毛沢東主義派(毛派、マオウイストという)が結成され、翌年から武装闘争を開始し、ネパールは内戦状態となった。毛派の台頭の背景には、長くつづく王政と封建制の下で、農村部の貧困がますます深刻になってきたことがあげられる。2001年には王家の内紛から宮廷内での王族殺害事件が起き、ギャネンドラが新国王となるが、急速に求心力を失い、毛派が優勢となる。2005年、国王が議会・政党を解散させ絶対王政を宣言すると、議会派と毛派が共闘して反国王の連合を形成し、2006年ゼネストを決行して、国王は民政復帰を表明。ネパール会議派が率いる新政権が成立し、毛派との間で和平協定を締結。同年11月に国軍と毛派の内戦が終結した。その間、ヒンドゥー教の国教廃止、その他の民主化が図られ、2008年5月に国王が退位し、ネパールは連邦制の民主共和国となった。2008年4月の制憲議会選挙で毛派が第一党となり、毛派を中心とする連立政権が誕生。しかし2009年になって毛派出身の大統領とネパール国軍が対立したため連立政権が崩壊、その後も混乱がつづいている。
a スリランカ
インドア大陸の南にある島国。古代のスリランカは、インド洋交易の中継地として栄えていた。インドへのポルトガル人の渡来以来、ヨーロッパ人の侵出が始まり、スリランカの植民地化が進み、最終的には1815年にイギリスの植民地となった。第2次世界大戦後の1948年にイギリス連邦内の自治国として独立した。56年から首相を務めたバンダラナイケは世界初の女性首相として知られ、第三世界のリーダーの一人として活躍した。1954年にはインドのネルーの提唱で、南アジア5ヵ国首脳会議であるコロンボ会議が首都で開催され、そこで翌年のインドネシア・バンドンでの第1回アジア・アフリカ会議の開催を決定した。
1972年にイギリスから完全独立を果たし、国号もセイロンから本来の民族的呼称であるスリランカと改称した。古来、この地はシンハラ人の土地で、彼らは小乗仏教が伝わってからの仏教国であったが、次第にインド本土からヒンドゥー教徒であるタミル人が移住してきて、両者の間の宗教対立が政治的な対立となり、少数派のタミル人による分離独立運動が現在も続いている。現在は人口比ではシンハラ人(72.9%)、タミル人(18.0%)、宗教人口では仏教徒(70.0%)、ヒンドゥ教徒(10.0%)、イスラム教徒(8.5%)、ローマン・カトリック教徒(11.3%)となっている(外務省ホームページによる)。首都はスリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ。
スリランカ内戦 独立後の1950年代、多数派で仏教徒であるシンハラ人を優遇する、シンハラ語の公用化や仏教保護政策が採られたことに対して、少数派でヒンドゥー教徒のタミル人が反発し、1970年代からタミル人の分離独立運動が始まった。 →  タミル人問題
1883年から、政府軍とタミル人の武装組織「タミール・イーラム解放の虎(LTTE)」の内戦が勃発、政府はタミル語も公用語とするなど妥協を図ったがうまくいかず、戦闘が激化した。2002年、停戦に合意したが、翌年には停戦は延期され、06年に強硬派のラジャパクサ大統領がLTTEへの攻撃を開始し、内戦が再開され、LTTE側は北部を拠点にテロ活動を活発化させた。08年には正式に停戦を破棄、政府軍の攻勢が強まり、2009年5月、LTTE側は敗北宣言、内戦は一応終結した。
 シンハラ人  
 → シンハラ王国 
b ビルマ(軍事政権)ビルマ独立後、議会制民主主義の国家ビルマ連邦なったが、少数民族カレン族やシャン族の不満、各勢力の対立などから内乱が絶えず、安定しなかった。その内乱を鎮圧し、国家統一を実現した国軍(アウンサンらの創設したビルマ独立義勇軍の後身)が次第に政治面でも発言権を強めていった。1962年、軍部クーデターによってウー・ヌ首相が退陣、国軍のネウィン将軍が権力を握って軍事政権を建て議会制民主主義を否定した。政党はビルマ社会主義計画党(BSPP)しか許されず、国家機構の役職はすべて軍人か退役軍人によって占められた。国号は74年からビルマ連邦社会主義共和国とされたが、マルクス・レーニン主義ではなく、「ビルマ式社会主義」を標榜した。経済、教育なども国営とされ、国家への奉仕が強要された。その紙幣廃止令などの強引な政策によって経済は混乱、貧困化が進行した。そのような閉塞状況を打破しようと、学生を中心として民主化闘争が始まった。1988年、ネウィン将軍は退陣、BSPPも解散し、さらに8月8日民主化デモは最大の盛り上がりをみせた。それに対して国軍は武力を行使し、発砲して民主化運動を弾圧、軍部独裁政権を樹立、ソオマウン大将を議長とする国家法秩序回復評議会(SLORC)が権力を奪取した。翌年、軍事政権は英語国称をミャンマーに、首都名をラングーンからヤンゴンに変更、民主化運動の指導者アウンサンスーチー女史を自宅軟禁した。現在は社会主義体制は放棄し、市場経済化や外資導入を図っているが、基本的人権や民主政治は否定され軍政が続いている。2007年9月にはヤンゴンなどで僧侶を中心とした大規模な民主化デモが発生、日本人ジャーナリストが射殺される事件が起こり、国際的な批判が強まったが、運動は抑圧されている。
c ミャンマー 1989年6月、ビルマ軍事政権は国連に対して英語国称をそれまでの Union of Burma から、Union of Myanmar に変更する届けを出した。日本ではこれによって「ミャンマー」と表記するようになった。軍事政権は変更の理由を、英語の Burma のもとになったバマーは「ビルマ族」をさし、他の多くの民族が共生する連邦国家としてはそのすべてをふくむ Myanmar がふさわしい、というものであった。しかし、バマーとミャンマーはもともと両方とも「ビルマ族」とその国土を意味しており、バマーは口語であり、ミャンマーは文語的な表現で国称に使われている(ビルマ語では以前からミャンマーと言っていた)ので、この説明は正しくない。それよりも国称を変更した軍事政権が、民主的な手続きを経ていない政権であり、民主化運動を弾圧しているので、この国称変更には従えない、という意見の人が多い。ビルマ人の多くは、ビルマ語では「ミャンマー」、英語表記では「Burma」、その日本語読みであるビルマを使うべきだ、と言っている。<田辺寿夫『ビルマ』1996 岩波新書>
d アウンサンスーチー 現代のビルマ民主化運動の指導者。1988年の軍事政権クーデターに反対して、民主化を求めて立ち上がったが、彼女の言動が国家防御法に触れるとして1989年7月20日に自宅軟禁とされ、1995年7月10日に解放されたが、現在も政治活動の自由は認められていない。1991年にはノーベル平和賞が授与されたが、ビルマを出濃くすることはできなかった。現在もその完全な自由を求めてビルマの軍事政権に働きかけがなされている。
Epi. アウンサンスーチーの表記 彼女の名前を日本ではさまざまに書き表している。英語表記では Aung San Suu Kyi と書き、アウン=勝つ、サン=稀に、スー=集まる、チー=清らか、という一語ずつに意味があるので、アウン・サン・スー・チーと書く人もいる。また彼女の父がビルマ独立の父アウンサン将軍なので、アウンサン=スーチーと書くこともある。しかし、ビルマ人に姓はなく、名前だけである。従って分かち書きにする必要はなく、アウンサンスーチーでよく、彼女自身もそう表記されることを望んでいるという。<田辺寿夫『ビルマ』1996 岩波新書>
 シンガポール
 シンガポール  シンガポール占領  シンガポール独立
e リー=クアンユー  
 マレーシア  
f マハティール  
 タイ(現代)

タイ国旗(中央の紺色は国王、その外側の白は宗教、赤は民族を象徴する。1917年ラーマ6世の時制定された。)
国土:現在のタイはインドシナ半島の中央部に位置し、チャオプラヤ川の流域全域とマレー半島中部を占める。東はラオスとカンボジア、西はミャンマー(ビルマ)、南はマレーシアに接する。国土はチャオプラヤ川流域には平野が多く、古くから米その他の農業が盛ん。その東側は国境のメコン側までなだらかな高原が続く。
民族と宗教タイ人はタイのほかにラオスやカンボジア、ミャンマー北部、中国南西部にも存在している。シナ=チベットぞぼくに属し、最初からこの地にいたのではなく、11〜13世紀頃、中国南西部からチャオプラヤ川流域に移動してきたと考えられている。文化的にはインド文化の影響が強く、ビルマなどと同じく小乗仏教が盛んであり、現代においても寺院・僧侶は崇拝されており、建国の理念の一つとされている。なお、南部のマレー版と運はイスラーム教徒が多く、彼らの中には過激な分離運動を行っているものもある。
政治と経済:政治はラタナコーシン朝の王をいただく立憲君主制。憲法と議会があり選挙も実施されているが、時として軍部クーデターが起きることが多い。最近でも2006年に軍部クーデターが起こり、タクシン首相が失脚、現在も戒厳令が続いている。
経済では1980年代からの工業化が著しいが、NIEs諸国に比べ、米などの農作物の比重が大きいのが特徴で、最近はアグリビジネスといわれるエビの養殖(日本への輸出向け)などが急速に発展している。バブル気味であった急速な発展は1997年のアジア通貨危機で破綻したが、現在はその打撃からも回復している。
タイの歴史関連の主な事項
 第8章2節 タイ(1)王朝の変遷 ラタナコーシン朝
 第13章2節 タイ(2)近代のタイ ラーマ4世 ラーマ5世
 第15章3節 タイ(3)戦前のタイ タイ立憲革命
 第15章5節 タイと第2次世界大戦
 第16章3節 タイ(4)戦後の開発独裁期
 第17章3節 タイ軍事クーデター
 タイ軍事クーデター 戦後のタイピブン政権、サリット政権の軍事クーデター以後、クーデターと政権の成立には、軍事政権の登場→憲法制定→政党政治の復活→政治権力の腐敗→軍によるクーデター→軍事政権の登場、という悪循環が何度も繰り返されて、場合によっては市民集会やデモに軍が発砲して犠牲者が出るという痛ましい事件も相次いでいる。サリット政権以後の主な権力権力と、クーデター及び民衆弾圧事件にはには次のようなものがあった。<末廣昭『タイ 開発と民主主義』1993 岩波新書 などより> → 現代のタイでも2006年にクーデターが起こっている。
タノム=プラパート政権:1963〜73年 サリット政権を引き継いだ開発独裁政策を推進。ベトナム戦争が深刻化。ASEAN結成。70年代、学生運動激しくなる。60年代、日本商品の流入が増大してきたことに対して、1972年、日貨排斥(日本製品不買)運動起こる。
10月14日政変:1973年 権力中枢の不正蓄財が明るみに出て、反政府運動激化。軍が発砲して市民多数が死傷。国王が特別声明を発し、タノム首相ら辞任、国外に逃亡。民衆運動で民主化が進み、労働運動、学生運動、武装闘争方針をとるタイ国共産党の活動が活発となる。ベトナム戦争終結後、ベトナム、ラオス、カンボジアに社会主義政権が生まれたことが、軍部・右翼保守派の危機感を増した。
血の水曜日事件:1976年10月6日 民主化の進展を警戒した軍部と右翼が学生運動の拠点タマサート大学を武装襲撃し発砲、死者46名・逮捕2000名(じっさいは死者100名以上、行方不明100人以上)。
プレム政権:1980〜88年 プレムは軍人出身だが、政権にテクノクラートを配して調整型の政治を行い、国王権威を最高に利用する。経済成長に成功し、NIEsに近づく。民選首相の声強まり88年総選挙に敗れ退陣。
チャートチャーイ政権:1988〜91年 タイ民族党党首。血の水曜日事件直後に成立したが短命だったセーニー内閣に次いで、12年ぶりの文民首相。「インドシナを戦場から市場へ」と提唱。一族や実業人で内閣を組織、国営企業の民営化をIT関連を中心に急激な経済成長を実現したが、金権内閣と比非難されるようになる。
1991年軍部クーデター:2月23日の金権内閣打倒を掲げる軍人が決行。国民もクーデターを暗黙の内に支持。チャートテャーイ内閣倒れ、暫定内閣を経た後、憲法を制定、92年スチンダー陸軍司令官が首相就任。
1992年5月の流血事件:5月14日 スチンダー司令官の総理就任に対し、軍人内閣に反対した市民が集会。たちあがったのは都市中間層で「携帯電話を持った市民」といわれた。軍が集会に向かって発砲、53人の死者が出る。事態収拾に乗り出したプミポン国王がスチンダーを辞任させ、チュアン(穏健な民主党の党首)が首相となった。
チュアン政権での経済成長:文民内閣のもとでバブル経済が続いたが、次の軍人内閣チャワリット内閣の期、1997年にアジア通貨危機が勃発、再びチュアンが首相となった。 → タクシン政権
 タクシン 現代のタイの実業家、政治家。2001年から首相を務めるが、2006年に不正疑惑で国民の不審を買い、9月の軍事クーデターで失脚した。タクシンは警察官僚出身であるが実業家としても有能で、一代でシン・グループという企業集団を作った。その後タイ愛国党を組織、2001年総選挙で勝利して首相となった。その低所得者救済を掲げた経済政策(タイ愛国党とは右翼政党ではなく、タイ共産党系やかつての学生運動家たちが含まれている)や麻薬撲滅運動、アメリカにも一言いう外交姿勢などが国民的な人気を博した。しかし反面、家族への利益供与や親族企業のインサイダー取引、娘の不正入学疑惑、タイ南部のイスラーム系反政府勢力への強硬姿勢、麻薬撲滅を口実とした人権抑圧、マスコミ統制など批判も多くなった。2006年、タクシン首相のインサイダー取引疑惑が明るみに出ると、反撃して下院を解散し選挙に打って出たが野党が選挙をボイコット。首相は一旦退陣を表明したが居座りをつづけた。それに対して2006年9月、軍部が「民主主義を守る」と称して軍事クーデターを決行し、タクシン首相は失脚した。  
 2006年タイ軍事クーデター 2006年9月19日 タイのタクシン首相が国連総会に出席して留守の間に軍がクーデターを断行。ソンティ司令官が実権を握り、暫定首相として元軍人でスラユットが就任した。プミポン国王はクーデター支持を表明。政府は愛国党に解散命令を出した。タクシンは非常事態宣言を出して対抗しようとしたが、裁判所はその無効を判決し、彼自身がタイに戻れない状態になっている。アメリカなど各国は戒厳令を早く解除し完全な民政への移行を勧告しているが、国内にはまだタクシン支持者も多く、事態は収まっていない。しかし、これもタイ「名物」の軍事クーデターという感じで、国民は冷静に受け止めているようである。 
 ブルネイ  
2.ラテンアメリカの動向  
 解放の神学  
 チリ チリは1932年以来、ラテンアメリカでは珍しくクーデターのない、安定した政治が続き、民族統一戦線政府が続いた。その伝統の上に、1970年〜73年のアジェンデ社会主義政権が成立した。アジェンデ政権の出現をこの地域での共産主義の台頭につながることを危惧したアメリカは、国内の保守派を援助し、1973年9月11日、ピノチェト将軍によるチリ軍部クーデターを決行、アジェンデ政権を倒した。ピノチェトは軍事独裁を開始、それが1990年まで続いた。この間ピノチェト独裁政権はアメリカの援助のもと、「新自由主義」経済政策を導入し、一定の経済成長を実現したが、人権抑圧に対する不満が強まり、軍事政権は1984年には戒厳令を施行した。90年の選挙で民政移管したが、ピノチェト将軍はなおも軍総司令官として権力を維持した。
Epi. 『戒厳令下チリ潜入記』 1984年の戒厳令施行直後に、亡命中のチリの映画監督ミゲル=リツィンは、変装してチリに潜入し、ドキュメンタリー映画を作成し、軍事独裁を告発した。その潜入記を、ノーベル文学賞(『百年の孤独』などの作品で有名)作家のG.ガルシア=マルケスが書いた。それが『戒厳令下チリ潜入記』である。国家警備隊員の目を盗みながら撮影を進めるリツィンのスリリングな活動と、軍事独裁下のチリの人々の生活が描かれている。<G.ガルシア=マルケス、後藤政子訳『戒厳令下チリ潜入記』1986 岩波新書>
a アジェンデ サルバトル=アジェンデはチリの社会党の政治家。1970年11月に大統領選挙に、社会党と共産党のほか四つの中道政党から構成された政党連合「人民連合」を基盤に出馬し、最高得票を獲得したものの過半数に達しなかったため、国会で中道政党のキリスト教民主党の支持を受けて大統領指名をかちとった。アジェンデ政権は議会制のもとで社会主義社会を実現することを目指した世界で初めての政府であり、その動向は「チリの実験」として国際的な注目を浴びたが、成立後三年足らずの1973年9月11日、軍部クーデターによって倒された。アジェンデ自身も軍に捕らえられ、殺害された。
 チリ人民連合政権  
 チリ軍部クーデター 1973年9月11日、ピノチェト将軍の指揮する軍部によって、アジェンデ大統領の人民連合政権が倒され、軍政を強行したクーデター。アジェンダ大統領による社会主義政策により産業の国有化が進めれたことに反発した軍部及び保守派は、アメリカ(ニクソン政権))の支援を得てクーデターを断行した。このクーデターには選挙で合法的に選ばれた政権を武力を用いて倒したということで世界各地から非難の声があがるなど国際的な反響も非常に大きかったが、それよりも人々を驚かしたのは人民連合派にたいする軍部の迫害の激しさであった。クーデターと同時に、アジェンデ派と目される人々は根こそぎ逮捕され、臨時の強制収容所と化したリチ・スタジアムに連行されて、食べ物も水も与えられず何日も放置されたあげく、拷問にかけられて多くの人々が死亡した。クーデター直後に殺害された人々は二千人から三千人、またクーデター一年後になお投獄されていた人々は七万人とも言われており、その凄まじさがわかるであろう。<G=ガルシア=マルケス『戒厳令下チリ潜入記』の後藤政子解説などによる> 
b ピノチェト政権 1973年、チリ軍部クーデターで権力を握ったピノチェト政権は、アジェンデ政権が推進した国有化政策からの180度の転換を図り、公営企業体の民営化、森林・漁業資源の私有化、さらに社会保障の民営化、外国資本の直接投資の促進などを推進した。この民営化と外国資本の流入は一時的な経済の活況を見せ、「チリの奇跡」と言われるたが、この経済政策は新自由主義経済を主張するアメリカのシカゴ大学のミルトン=フリードマンの下で訓練を受けた「シカゴ・ボーイズ」という経済学者たちが、アメリカ政府の意を受けて行ったものであった。また、この改革は労働市場の自由化と労働組合運動の破壊を通じて短期雇用と流動化を強制していった。結果的に、貧富の差が拡大し、1980年代には停滞に逆戻りしてしまった。一方で、軍事独裁政権のもとで、言論の自由が抑えられ、多くの左派系の人々が誘拐され「行方不明」となった。1983年以降は、全国ストライキを初め、独裁反対運動が激化し、84年には戒厳令が出された。1988年の大統領選挙ではピノチェトが民主政党連合の候補者に敗れ、90年からの民政移管が実現した。
Epi. ピノチェト裁判 ピノチェト将軍は1998年病気療養のためイギリスに渡ったが、そこでスペインの要請で拘束された。理由は在職中にチリ在住のスペイン人に対する人権抑圧を小なった容疑があると言うことだった。しかし、病気を理由に釈放され、帰国が許された。その後も、チリ本国で、在職中の人権抑圧、不正蓄財などが明らかになり、2001年、2004年にも告発されたが、痴呆状態であると言う理由で罪に問われなかった。しかしかつての独裁者の権威はなく、その財産のすべては現在差し押さえられているという。 
ピノチェト元大統領死去:元チリ大統領ピノチェトは2006年12月10日、急性心不全で死去。91歳だった。その軍事独裁政権下の反政府活動弾圧で3000人以上の犠牲者を出した責任を問われ裁判中であった。10月の裁判では、特に秘密収容所ビジャ・グリマルディでの拷問や殺人への関与が問われたが、元大統領は「記憶にない」と答えていた。元大統領の死去に伴い、国葬にすべきか問題となったが、国民の55%が反対だという。ピノチェト政権の人権抑圧には反発が強く、現在のバチェレ大統領もかつて民主化運動に関わり、ビジャ・グリマルディで拷問を受けたことがある。一方で元大統領が「新自由主義」をいち早く取り入れ、チリの経済を立て直したことを評価する支持者もまだいるということである。<朝日新聞 2006年10月20日、同年12月11日の記事による>
 チリ・民政移管 1990年2月、16年半にわたったピノチェト軍事政権に代わって、民主政党連合のエルウィンが大統領に選出され、チリは民政に移管した。しかし、ピノチェト支持の保守派の勢力も根強く、ピノチェト将軍は1997年まで軍総司令官としてとどまり、終身上院議員としても勢力を保持することとなった。また新政権は、軍事政権の新自由主義政策を継承し、アメリカの要求する自由貿易を進め、経済発展をはかった。民政移管と共にピノチェト独裁政権による反対派に対する誘拐、殺害などの犯行や、大統領の不正蓄財などが明るみに出て、ピノチェトを告発する動きが起こり裁判が始まったが、元大統領は老衰などを理由に出廷しなかった。
2006年1月、大統領に社会党員で女性のバチェレが当選(チリで最初の女性大統領)、ピノチェト裁判への元大統領本人の出廷も実現した。しかし、同年12月にピノチェトもと大統領は死去した。
Epi. 拷問被害経験のある現大統領 ピノチェト政権下で拷問の被害者であったバチェレ現大統領が、2006年10月14日、秘密収容所「ビジャ・グリマルディ」を31年ぶりに再訪した。バチェレ氏(女性)は医学生だった1975年1月、母親と共に秘密警察に拉致され、グリマルディで2ヶ月半、尋問と拷問を受けた。反ピノチェト派の空軍将校だった父は拘束中に死んだ。現在は公園となっているグリマルディを母と共に訪ね、「痛みと悲しい記憶、恐怖が呼び戻された」と当時を振り返る一方、「命と自由と平和を取り戻す機会でもあった」と語った。<朝日新聞 2006年10月16日の記事より>
 アルゼンチン  
a ペロン  → 第16章 3節 ペロン
 フォークランド島  
c フォークランド戦争  → 第17章 1節 フォークランド戦争
 ニカラグア  
a ソモサ  
 サンディニスタ民族解放戦線  
b ニカラグア革命  
補足 ニカラグア事件裁判でアメリカが敗訴 アメリカのレーガン大統領は1981年に就任すると、ニカラグアのサンディニスタ政権が周辺諸国の反政府ゲリラを援助しているという理由で、爆撃や港湾への機雷敷設など介入を開始した。さらにニカラグアの反政府組織コントラに武器を供与するなどしたため、サンディニスタ政権はアメリカの行為を侵略行為として1984年に国際司法裁判所に訴えた。アメリカは裁判で、ニカラグアへの攻撃はエルサルバドルなど周辺諸国の要請による集団的自衛権の行使であると主張した。この裁判ではアメリカの主張は否定され、集団的自衛権の行使条件として、攻撃の犠牲となった国家が武力攻撃を受けたことを自ら宣言することと当該国家ら要請という二要件があると認定した。<最上敏樹『国連とアメリカ』2005 岩波新書p.170〜 豊下楢彦『集団的自衛権とは何か』2007 岩波新書p.31〜>
 パナマ  → 第14章 2節 パナマ
a 新パナマ運河条約  → 第16章 4節 新パナマ運河条約
b パナマ侵攻  
 グレナダ侵攻  
 エルサルバドル  
 ペルー  
 メキシコ  
 メキシコ経済危機  
 トラテロルコ条約  
 コンタドーラ=グループ  
 南米南部共同市場(MERCOSUR)  
 中米自由貿易圏  
3.アフリカ  
 ジンバブエ  
a ローデシア  → ローデシア
 南アフリカ共和国  
a アパルトヘイト  
b アフリカ民族会議  
 ナミビア ナミビアは第1次世界大戦までドイツ領西南アフリカだったところ(ドイツのアフリカ進出)。大戦後、南に隣接する南アフリカ連邦(イギリス連邦の自治領のひとつ。現在の南アフリカ共和国)の委任統治領として管理された。第2次大戦後、1961年からは南アフリカ共和国(南ア)による信託統治領とされたが、南アの白人政府は一方的にこれを自国領土に編入してしまった。それに対して、黒人は南西アフリカ人民機構(SWAPO)を結成し、独立を目ざして起ち上がった。1966年に国際連合は南ア共和国の統治を認めないことを決議し、68年にはSWAPO政権を認めて「ナミビア」と呼称することとしたが、南ア政府は無視し、闘争が続いた。南アによるナミビアの不法占領は、そのアパルトヘイト政策と共に国際世論の激しい批判を受けたが、80年代まで続き、南アはさらにナミビアを拠点としてその北のアンゴラの内戦にも介入、多数の犠牲者を出した。78年、国連安保理はナミビア独立の手続きを決定し、その後も国連が仲介して和平交渉に当たり、ようやく1990年3月にナミビアは独立を達成した。
c デクラーク  
 アパルトヘイト諸法撤廃  
d マンデラ  
 ビアフラ戦争  ナイジェリア
a リビア  リビア
b カダフィ大佐 1969年のリビア革命の指導者。現在もリビアの最高権力者としてアラブ世界に重要な影響力を持っている。一般に「カダフィ大佐」と言われるが、リビアではカザーフィまたはガザーフィと発音する。中部リビアの砂漠の遊牧民の子として生まれ、士官学校に入学、ナセルのエジプト革命の影響を受け、自由将校団を結成して革命運動を指導、1969年9月、リビア革命と言われる無血クーデターによって王制を倒して軍事政権をつくった。公式には大統領ではなく革命指導者という称号を用いているが、事実上の実力者・元首として権力を一身に集中している。その豊かな石油収入を背景とした強硬な外交政策はアメリカからも危険な独裁者と見なされ警戒されている。その著書『緑の書』3巻(1976〜79)では、資本主義でも社会主義でもないという意味での第三の普遍理論を目ざしている。
1972年からのインドネシアのイスラーム教徒の分離独立を掲げたモロ民族解放戦線(MNLF)を支援、76年のトリポリ協定を仲介した。
 アフリカ連合(AU)   アフリカ統一機構(OAU) 
構造調整政策  
エ.地域紛争の多発と国際連合の活動
a 地域紛争  
b エスニック=グループ  
c 民族紛争  
a ケベック問題 カナダのケベック州は1603年フランス植民地として成立した。フレンチ=インディアン戦争(1755〜63年)が起こり、1759年にイギリス軍に占領され、1763年のパリ条約でカナダ全体がイギリス領となり、1867年にカナダ連邦が成立するとその一州となった。現在でもフランス系カナダ人が多数を占め、フランス語圏となっており、1960年代から分離独立運動が始まった。1980年と95年に独立に関する州民投票の結果、独立は否決された。
b 北アイルランド問題  → 第17章 1節 北アイルランド紛争
c バスク問題 スペインのバスク地方で起こっている分離独立問題。バスク地方は、大西洋に面しピレネー山地をはさんでスペインとフランスにまたがる地方。この地域の住民には独自のバスク語という、インド=ヨーロッパ語系でない言語を話す人々がいる。現在はスペイン側のバスク自治州は人口約210万人、うち約40万人がバスク語を母国語とする。バスク地方は鉄鉱石の産地で中心都市ビルバオは重工業都市として発展している。ピカソの「ゲルニカ」はビルバオの近郊の町。フランコ独裁時代にはバスク語が禁止されるなどの抑圧を受けた。戦後、独立運動が強まり、1959年に武装集団「バスク祖国と自由(ETA)」が結成され、68年から爆弾テロや要人暗殺などの過激な行動を展開、73年にはスペインのブランコ首相暗殺などを起こしている。79年には自治権を認められ、バスク自治州となったが、ETAは隣のナバラ地方やフランスの一部を含む独立を主張している。2006年3月、ETAは停戦を宣言したが、独立をめぐってなお緊張が続いている。<朝日新聞2006年5月18日記事などによる>
Epi. 戦国時代の日本に来たバスク人 日本にキリスト教を伝えたフランシスコ=ザビエルはバスク人であった。バスク語は膠着語といって、日本語に近いアジア系と言われ、バスク人の風貌も日本人に似ていると言われている。ザビエルがマラッカで日本人アンジロウとあい、日本に興味を持ったのも彼がバスク人であったからかもしれない。戦国時代に日本に来たもう一人のバスク人の話が、司馬遼太郎の短編「奇妙な剣客」に出てくる。彼はユイズといい、ゴアからポルトガル船に乗って平戸にきた。多くのバスク人と同じく彼もフェンシングのような剣の達人であったが、平戸で騒ぎに巻き込まれ、日本人の剣士と闘うという話である。世界の東西のバスクと日本に何かのつながりがありそうで、おもしろい。<司馬遼太郎『真説宮本武蔵』講談社文庫所収>
d コソヴォ問題 ユーゴスラヴィア連邦を構成するセルビア共和国の中のコソヴォ(コソボ)自治州は、アルバニア系住民が多く、しかも彼らはイスラーム教徒(ムスリム)であったので、1980年代からセルビアからの分離独立を求める声が強くなった。セルビア政府はその動きを厳しく抑えてきたが、ユーゴスラヴィア連邦の共和国が次々と分離独立を達成していった90年代末にはコソヴォの独立運動も激化し、国連が仲介する事態となった。セルビア(新ユーゴスラヴィア)のミロシェヴィッチ大統領はアルバニア系住民に対する虐殺行為を容認したとして、国際社会から厳しく非難された。1999年にセルビアがNATOによる治安維持という調停案を拒否し、アルバニア系住民に対する虐殺行為を続けると、アメリカ合衆国大統領クリントンはアメリカ軍を含むNATOは「人道的介入」を掲げてコソヴォ空爆に踏み切った。こうして「コソヴォ紛争」は大規模な戦争となり、アルバニア系住民によるセルビア人襲撃も頻発し泥沼化した。そのような中、2000年の総選挙でにミロシェヴィッチ大統領が落選したのを機に、彼はハーグの国際特別法廷で裁判にかけられることになる(現在も進行中)。2005年からアハティサーリ国連特使の仲介により、アメリカ・ロシア・EUもくわわって解決が模索され、07年にはコソヴォ独立案が国連安保理でも審議されたがロシアの反対で成立せず、ついに2008年2月、コソヴォは一方的に独立を宣言した。このコソヴォ共和国に対してアメリカや日本などは承認したが、ロシア、セルビアは未承認であり、まだ国際的に認知されたとは言えず、国連にも未加盟である。セルビア内にはコソヴォに対する軍事行動を起こす動きもあり現在もなお予断を許さない、緊張が続いている。
なぜセルビアはコソヴォの独立を許さないか:その背景には長い歴史がある。まずコソヴォの地は現在でこそアルバニア系住民が多く、セルビア人は少数派になっているが、かつてはセルビア王国の発祥の地と言われ、セルビア人にとっては故郷のように考えている。ところがオスマン帝国がバルカンに進出し、1389年にこの地でセルビア王国はオスマン帝国を迎え撃って「コソヴォの戦い」となった。そして戦いに敗れ、セルビア人は北方に押しやられてしまい、結局オスマン帝国の領土はハンガリーまで伸びていくことになる。ようやく1913年、第1次バルカン戦争でオスマン帝国に勝利したセルビア王国(近代)が奪回し、 大戦後の1918年にはユーゴスラビア王国の一部となり、大戦後はユーゴスラヴィア連邦を構成するセルビアの中の一つの自治州となった。またセルビアにはその北部に、ボイボディナ自治州を抱えており、そちらの独立運動に火がつくことも恐れている。このように、コソヴォの地はセルビア人にとっては譲れない土地と考えている。 
e チェチェン紛争 カフカス地方のチェチェン共和国内の武装グループによるロシアからの分離を求める武装闘争。1994年、ロシア軍が軍事行動、停戦が成立。現在もテロが続いている。ロシア連邦では他にグルジア共和国内のアブハジア人の分離独立運動がある。
Epi. 「恐ろしい」という意味の首都名 独立をめぐる武力紛争が続くチェチェン共和国で、首都グロズヌイの名を変える動きが表面化している。共和国議会下院が、2004年5月に独立派武装勢力に暗殺されたアフマド・カドイロフ前大統領にちなんで「アフマド・カラ(アフマドの町)」と変えたいとロシア連邦政府に要請する決議をした。「グロズヌイ」の意味は「恐ろしい」。1818年にチェチェンの属するカフカス地域征服のため、帝政ロシア軍が築いた要塞に由来する。下院はチェチェン民族の悲劇に結びついた名は変えるべきだという。これに対してロシア連邦側は、プーチン大統領が改名を認めなかった。連邦側ではカフカス制圧の歴史に結びつくグロズヌイへの愛着が強い。<2005年12月31日付『朝日新聞』による>
 グルジア問題  
f スーダン内戦 現在のアフリカ諸国で最大の領土を有するスーダンは、1956年にイギリス殖民地支配からの独立しスーダン共和国となった。北部には首都ハルツームを中心にイスラーム教徒が多数を占めているが、南部の黒人地域では非イスラーム教徒の民族宗教(アニミズム)やキリスト教が根強く、1955〜1972年にも第1次スーダン内戦といわれる内戦があった。さらに、1983年に北部を基盤とする政府が、イスラーム化政策を強めたことに反発した南部勢力が反政府組織スーダン人民解放軍(SPLA)を結成し自治権をめぐって武力闘争を開始した。長期化した内戦はいったん鎮静化したかに見えたが、1989年にイスラーム原理主義を掲げる民族イスラーム戦線(NIF)の支持を受けたバシル軍事政権がクーデターで成立し、SPLAとの対決姿勢を強め、再び内戦は激化した。90年代にはスーダンの石油資源に関心を持つアメリカが仲介に動き、カーター元大統領などがスーダンを訪問、次第に和平機運となり、2002年に停戦し、2004年5月に政府とSPLAの間で包括的和平が実現し、停戦監視のため1万人規模の国連平和維持活動(PKO)が展開されることとなった。この長期にわたる内戦で、約200万人が死亡し、400万人が家を失ったと言われる。ところが内戦とは別に、スーダン西部の非アラブ系順民地域のダルフール地方で、2003年に政府が支援するアラブ系民兵が黒人住民を虐殺し、ダルフール紛争が発生し、現在も深刻な人権問題となっている。
 ダルフール紛争 スーダン共和国の西部のダルフール地方における、非アラブ系住民とアラブ系住民の対立から起こった内紛。スーダン政府がアラブ人組織による虐殺行為を黙認、あるいは支持しているとして国際的に非難されている。ダルフール地方はサハラ砂漠に含まれ、非アラブ系のオアシス農耕民と、アラブ系の遊牧民が生活している。彼らはいずれもイスラーム教徒であるが、民族の違い、農耕民と遊牧民の違いから日常的に対立していた。この対立は、1983〜2004年のスーダン内戦のイスラーム教徒と非イスラーム教徒の対立とは異なり、同じイスラーム教徒のアラブ系と非アラブ系のエスニックグループの対立という構図である。2003年からジャンジャウィードと言われるアラブ系民兵が非アラブ系村落を襲撃し、「民族浄化」さながらの虐殺や暴行をくり返すようになり、それに反発した武装グループも反撃し、首都ハルツームを攻撃するなど、紛争が拡大し、国連やアフリカ連合(AU)が調停に乗り出しているが、2009年現在、事態は収束していない。
国際刑事裁判所がスーダン大統領を告発 2009年3月、国際刑事裁判所(ICC)のモレノ=オカンポ主任検察官は、現職のスーダンのバシル大統領に対する逮捕状を発行した。嫌疑は、2003年にはじまるダルフール紛争で住民虐殺を容認し、指令したというものだ。特別の国際法廷ではなく、常設の国際刑事裁判所が現職の大統領の告発に踏み切ったのは初めてである。バシル大統領はICCの行為は内政干渉であると強く反発し、出頭の意志はないとしている。スーダンはICCに加盟していない。アメリカはまだICC未加盟だが、オバマ政権は加盟に前向きで、ICCを支持している。しかし、中国は石油をスーダンから輸入するなど関係が強いことから、バシル政権を支持している。国連もスーダンでのPKO活動には現政権の協力が必要と言うことでバシル告発には積極的でない。「世界最悪の人道危機」といわれるダルフール紛争の解決につながることになるのか、世界が注目している。 
g コンゴ内戦 1997年、大統領を巡る権力闘争が内戦に発展。隣国のアンゴラが介入。  
h アンゴラ内戦  → アンゴラ
i ルワンダ内戦 ルワンダはアフリカ中央部にある小国。フツ族とツチ族の部族対立から1990年〜94年に内戦となった。特に1994年には、フツ族民兵によるツチ族に対する大量虐殺が行われ、100万人の犠牲という、アフリカ史上最悪といわれる事態となった。現在はNGOによる国際支援活動により、安定を回復しつつある。 
ルワンダ紛争の背景:ルワンダは第一次世界大戦まではドイツの植民地であった。大戦後、ベルギーの委任統治領とされたが、ベルギーは植民地支配を行うようになった。その際、ベルギー当局は、現地の住民をフツとツチに分けその対立を利用した。フツもツチも、同じ言葉を喋り、同じ宗教を信じ、結婚もしていたが、ベルギーは外観の違いから人種として区別、平らな鼻と厚い唇、四角い顎をものをフツ、薄めの肌に細い鼻、薄い唇に尖った顎ものをツチに分け、人種が記されたIDカードまで発行し、小学生にまで人種差別の思想を植え付け、少数派のツチを経済的にも教育的にも優遇して役人などに登用し、多数派のフツを支配させた。
独立と内戦:ルワンダは1962年にツチを中心とした国家として独立した。しかし、フツを中心とする勢力が1973年にクーデターを起こし、逆にフツがツチを支配することになり、ツチはルワンダ愛国戦線(RPF)を組織して、隣国のウガンダを拠点に反政府運動を活発化させることになった。
大虐殺の始まり:1990年10月にはRPFがルワンダ北部に侵攻し、内戦が勃発。1993年8月にアルーシャ協定が結ばれ、和平合意に至ったものの、1994年4月6日にフツのハビャリマナ大統領を乗せた飛行機が何者かに撃墜されたことに端を発して、フツによるツチの大量虐殺(ジェノサイド)が始まった。一説には約100日間で国民の10人に1人、少なくとも80万〜100万人が虐殺されたとされる。
国連のPKF活動:国連はルワンダ虐殺に対し平和維持軍を派遣したが、前年のソマリアでの国連平和維持軍が失敗したことを受けて、その活動は積極的ではなかった。国連やアメリカが人道的介入を避け、国際的な対処が遅れたことが被害を拡大したと言う見方が強い。なお、日本の自衛隊も、ルワンダ難民救援国際平和協力業務として、1994年9月21日〜12月28日、先遣隊23名、難民救援隊260名、空輸派遣隊118名を近隣国に派遣した。
内乱の終結とコンゴ情勢の悪化:1994年7月にRPFが全土を完全制圧し、新政権が発足して紛争は終結した。現在は特別法廷で虐殺に関与した人物に対する裁判が進行しているが、フツ族の民兵の多くは隣国のコンゴなどに逃亡している。コンゴに逃れたフツ系民兵は新たにルワンダ解放民主軍(FDLR)を組織して再武装し、ツチ系難民の組織した人民防衛国民会議(CNDP)とコンゴ領内で戦闘を続けている。コンゴ住民にも被害が及んでおり、2009年3月にはルワンダ・コンゴ両政府がFDRLの掃討作戦に乗りだし、ルワンダ難民にはルワンダへの帰還の呼びかけを強めているという。<朝日新聞 09.3.12朝刊>
Epi. 映画『ホテル・ルワンダ』 2006年に公開された映画『ホテル・ルワンダ』は、ルワンダ内戦のとき、首都キガリのホテル・ミルコリンで、フツ族民兵に追われてホテルに逃げ込んだ1200人ものツチ族を助けたホテルの現地支配人を主人公に、この大虐殺を描いた作品である。主演のドン=チードルが熱演する支配人ポールはフツ族だが、彼の妻はツチ族。からの家族愛と勇気、そして政府軍の将軍を賄賂を使って危機を乗り切るなどの機転が多くのツチ族を救った実話である。また国連のPKF部隊が治安を維持できない、歯がゆさがよく描かれている。この虐殺を風化させないためにも、多くの人にみてもらいたい映画である。現在、DVD化されている。監督テりー=ジョージ。
j ソマリア内戦  → ソマリア
エチオピアの東部に位置し、紅海とインド洋に面する。1980年代から内戦状態。エチオピアやスーダンの介入で混乱し、国連のPKOも展開されたが、失敗。 
 シエラレオネ内戦  
 エチオピア・エリトリア国境紛争  
 リベリア内戦  
k クルド人問題 クルド人はトルコ、イラン、イラク、アルメニアの国境の接する山岳地帯(クルディスタンと呼ばれる約40万平方km)に居住する民族で、人口は約2千数百万と推定されている。インド=ヨーロッパ語族のペルシア語系に近く、イスラーム教のスンニ派が大半を占め、少数がシーア派である。中東ではアラブ人、トルコ人、イラン人につぐ大きな民族であるが、国家を持たない最大の民族となっている。近代では多くがオスマン帝国領内に居住したが、第1次世界大戦でオスマン帝国が消滅し、多くの国が独立したがクルド人は結局独立が認められず、トルコ共和国・イラク・アルメニアなどに分割された。その独立運動は1925年頃から主にトルコ領で起こり、イラク領にも及んできたが、特にイラクでは北部のモスル、キルクークの油田地帯がクルド人地域なので、独立運動は厳しく抑えられた。イラクのサダム=フセイン政権のもとで化学兵器によるクルド人の大量殺害の疑いがもたれている。クルド人の独立は、トルコ、イラン、イラク三国の利害が絡むだけに困難が予想されている。なお、12世紀にアイユーブ朝を建て、第3回十字軍と戦ったサラーフ=アッディーン(サラディン)はクルド人である。<藤村信『中東現代史』1997 岩波新書 p.64>
出題 01年 センターテスト世界史B本テスト (第1次世界大戦後にオスマン帝国の領域に)国境線が引かれる過程で、多くの民族問題が生まれた。トルコやイラクなどの国境線で分断されたクルド人の問題はその一例である。
問 下線部の問題の発生について述べた次の文の空欄( a )と( b )に入れる条約の名をあげよ。(一部改訂。選択肢省略。)
1920年に、敗戦国オスマン帝国が連合国と結んだ( a )は、領土の大幅削減のほか、アナトリア東部のクルド人への自治権付与を認めていた。しかし、帝国滅亡Dの1923年に、トルコ新政府が独立を確保するために連合国と結んだ( b )は、クルド人の自治権には触れていなかった。
  解答→ a.   b. 
l インド・パキスタン紛争  
m タミル人問題 現代のスリランカにおける民族紛争。スリランカでは多数(約7割)を占めるシンハラ人(インド=ヨーロッパ語族のアーリア系)と少数(約20%)のタミル人(ドラヴィダ系)がいるが、シンハラ人は仏教徒、タミル人はヒンドゥー教という対立もある。1983年から、少数民族のタミル人が分離独立を要求、「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」がテロ活動を開始した。対立は内戦に発展し、双方で計約6万5千人(『朝日新聞』2005.8.14)が死亡している。2002年に停戦に合意、和平交渉が行われているが、大統領の暗殺(93年5月)が起こった。8月には外相が暗殺されるという事件も起こり、停戦が揺さぶられている。
スリランカ内戦の終結 「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」はスリランカ北部に拠点を設け、全盛期には国土の3分の1を制圧したが、08年から政府軍の攻勢を受けて次々と拠点を失い、最後は北部の狭い地域に20万近い民間人を「人間の盾」にして立てこもる戦術をとった。国連が憂慮を表明する名か、政府軍は攻勢を強め、2009年5月17日に民間人全員を解放し、18日にはLTTEの議長を射殺して全土の解放を宣言し、内乱を一応終結させた。
n アチェ紛争 アチェはインドネシアのスマトラ島北西部の、現在のナングロアチェ州。この地はかつてイスラーム教国のアチェ王国が交易で繁栄したところで、独立心が強い。オランダの植民地支配に最後まで抵抗したという自負もある。第2次世界大戦後、インドネシア共和国に編入され、その州となったが、政府がこの地の石油や天然ガスなどの資源を握り、地元に還元しなかったことに反発が強まり、1950年代から独立運動が起こった。1976年12月に「自由アチェ運動(GAM)」が独立を宣言したが、80年代にスハルト政権のもとで激しい弾圧が行われた。GAMはイスラーム急進派とも結んだ激しい独立運動を展開しており、インドネシアは東ティモールの独立に続き、アチェ州の独立を認めるかどうか問題に直面した。
アチェ和平の成立:2004年12月のスマトラ沖大地震と津波でアチェ地方は16万人の被害が出て停戦機運が生じ、2005年7月には和平協定調印に双方が合意した。アチェ紛争の和平はフィンランドのアハティサーリ元大統領が代表を務めるNGOが仲介した。またEUがヘルシンキで開催された和平交渉の費用を負担し、和平合意の実施の監視のため監視団を派遣し、インドネシア軍の撤退監視とゲリラからの武器回収にあたり、同年12月までにゲリラ側の武装解除を完了し、アチェ州には大幅な自治が認められることとなった。和平合意には80年代の国軍、GAM軍双方による人権侵害の真相究明が盛り込まれているが、あまり進んでおらず、治安の悪化も懸念されている。なお、和平を仲介したフィンランドのマルッティ=アハティサーリ元大統領は、コソヴォ和平などでの功績も加えて、2008年のノーベル平和賞を受賞した。
o 東ティモール
東南アジアの小スンダ列島の東端にあるティモール島の東半分(一部、西半分にも領土がある)にある国家。2002年にインドネシアから独立。なお島の西半分はインドネシア領。人口推定約65万、公用語はポルトガル語とテトゥン語。カトリック教徒が約90%を占める。
東ティモールの独立:16世紀以来、ティモール島は西半分がオランダ領、東半分がポルトガル領とされていた。第2次大戦後、旧オランダ領がインドネシアとして独立した後も、東ティモールはポルトガル植民地として続いていた。東ティモールでも独立運動が強まり、東ティムール独立革命戦線(略称フラティリ)を中心に独立運動が始まった。1974年ポルトガル革命が起こって本国の新政権が植民地独立を認めたため、1975年に独立宣言した。しかし、独立派とインドネシア併合派が対立し、内戦に突入、翌76年にインドネシアのスハルト政権は武力併合に踏み切った。国連総会はインドネシアを侵略行為として非難したが、アメリカ・日本などはスハルト政権を支持し、講義しなかった。反発した住民組織による武装闘争が激化し、スハルト政権下で約200万人が犠牲になったと言われている。1998年にスハルト政権が倒れ、代わって成立したハビビ政権は住民投票を認め、1999年の国民投票で独立賛成が多数を占めた。それに対して独立反対派の民兵が暴動を起こし、多数の死者が出た。10月に国連の多国籍軍の介入によって暫定統治機構が成立、治安を回復して2002年2月から国連平和維持活動(PKO)が実施され(日本の自衛隊も参加)、5月に独立を達成した。 
紛争続く東ティモール 2002年5月に独立を達成したが、東ティモールはその後も内紛が続いている。2006年4月には軍隊内の東部出身者と西部出身者の対立から内紛が起こった。人事などで主導権を握る東部出身者に対して西部出身者の不満が高まったため、とされている。東ティモール政府は自力での治安維持が困難としてオーストラリアなどに軍隊の派遣を要請した。オーストラリア軍などの活動で治安が回復されたが、2008年2月にはラモス=ホルタ大統領(1996年度ノーベル平和賞受賞者)が反政府勢力に狙撃されて重傷を負うなど、紛争がつづいている。 
 ネパール問題 → ネパール
 イエメン共和国
イエメン王国(北イエメン)は1962年に共和派がクーデターを起こして王政が廃止され、イエメン=アラブ共和国となった。しかし、サウジアラビアの支援を受けた王政派と、アラブ連合共和国の支援を受けた共和国軍による内戦が続いた。1967年には共和派政権がクーデターで倒されるなど政情不安が続いた。その南のイギリスの保護下にあった南イエメンが同年1967年に独立してイエメン人民共和国が成立、さらにソ連よりの共産政権によって1970年にイエメン人民民主共和国と改称した。この南イエメンはアラブ世界唯一の社会主義国家であったが、経済が破綻し停滞した。その結果、1990年に南北イエメンが合体し、イエメン共和国となった。1839年のイギリスの南イエメン占領以来分断されたイエメンがようやく統一を回復したが、1994年には南イエメンが再独立をとなえて内戦が勃発し、同年中に北イエメンの勝利となって停戦が成立した。イエメン共和国は、サウジアラビア王国やアラブ首長国連邦などのアラビア半島諸国が王政や首長制であるのに対して、半島内の唯一の共和国として、民主化を進めている。
 国連の活動(国連の変質)1960年代、旧植民地諸国の独立が相次ぎ、国際連合に加盟、構成国が急増した。一方、安保理中心の集団安全保障という国連当初の理念は、米ソの対立という現実の中で十分機能することができず、40年代から50年代にはインドシナ戦争、パレスチナ戦争、朝鮮戦争、50年代後半からは第2次〜第4次の中東戦争、ベトナム戦争など激しい戦争が相次いだ。そのような中で、安全保障理事会は平和維持活動(PKO)を中心とするようになった。
また加盟国が増加したことは、総会の中でアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの小国群の発言が強くなったことを意味し、相対的に安保理に対する総会の位置づけた強まっていった。また資源問題、人口問題などでのいわゆる南の諸国が、北の先進国に対する非難が強まってきた。
このような、安全保障の面、総会の地位向上などは、1970年代後半から、アメリカ合衆国の反国連意識を強めることとなり、国連批判を強め場合によっては脱退(アメリカ合衆国はILOからは1977〜1980年、ユネスコから1984〜2003年の間脱退していた)し、単独行動主義(ユニラテラリズム)の傾向が明確になってきた。また先進国グループはサミットの開催など、国連の枠外で共同行動をとる傾向が顕著となってきた。
また安全保障理事会の常任理事国の構成や、権限や決定プロセスの見直し、国連の機構拡大に伴う財政支出に対する負担金の問題など、「国連改革」もテーマとなってきた。
a 平和維持活動(PKO) 平和維持活動(Peace Keeping Operations)は、国際連合による国際紛争への対応の一つで、非武装または軽武装の要員が、基本的に停戦合意が得られた後で紛争当事者の間で紛争拡大の防止に努める活動のこと。国際連合憲章に具体的な規定はなく(第6章の「紛争の平和的解決」と同第7章の「軍事的強制措置」の中間に当たるので、「6章半の任務」などと言われることがある)、冷戦の中で安全保障理事会が米ソの拒否権行使のため機能しなくなったため、便宜的に始まったものであるが、冷戦後も地域紛争が多発したため、現在さらにその活動が増えている(2006年現在で108カ国で展開されている)。例外はあるがほぼ安全保障理事会の決議に基づいて実施されている。
平和維持活動は、国連憲章で規定されている安保理の権限としての国際平和を乱す侵略的な国家に対する軍事的強制力(つまり国連軍)とはまったく異なり、武力を行使する実戦部隊ではない。つまり湾岸戦争の時の多国籍軍はPKOではない。
PKOの活動三原則 これまでの活動の中で、活動三原則がつくられている。
(1)兵力の派遣を受け入れ国の同意を得た上で行うこと。受け入れを強制的されることはない。(同意原則)
(2)紛争当事者のいずれか一方に加担するような行為を慎むこと。(中立原則)
(3)要員は護身や活動拠点の防護など自衛に必要な場合を除いて火器の使用は行わないこと。(自衛原則)
PKOの活動内容 活動内容は紛争の性格、規模によって多方面にわたっているがおよそ次のの三面がある。
(1)平和維持軍(PKF) 軍事要員が主力を構成し紛争拡大の防止などに当たる活動。
(2)停戦監視団
(3)選挙監視団 など
PKOの活動例:1956年のスエズ動乱の時に派遣された平和維持軍に始まる。1989〜90年のナミビア独立に際する支援の頃から、選挙の監視や行政機構確立の支援など文民が行う任務が増えている。回数としては冷戦期(1990年まで)には通算14活動を展開した。冷戦後は急増し、2004年までで59活動に上っている。
 国連平和維持軍(PKF) 国連による、国際的な紛争解決のための平和維持活動(PKO)のうち、軍事要員が主力を構成し、紛争拡大の防止・監視、停戦の監視、治安維持などに当たる。交戦を前提とした実戦部隊ではなく、PKO活動三原則に基づき、受け入れ国の同意、中立、火器の使用は時絵にの範囲に限定されるなどの、あくまで平和的な解決を目指すものである。具体的には国連事務総長が最高指揮官となる。
 PKO協力法  
 イラク派兵  
 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)  
 非政府組織(NGO)  
 化学兵器禁止条約  
 対人地雷全面禁止条約  
 国際刑事裁判所(ICC) the International Criminal Court 戦争犯罪や集団虐殺、人道に反する罪を犯した個人を裁く常設の裁判所。1998年の各国外交官会議で裁判所設置に関するローマ規定で設立が決定し、60ヵ国以上の批准を経て2003年にオランダのハーグ(「国際法の街」と言われ国際司法裁判所もあるところ)に設置され活動を開始している。従来の旧ユーゴスラビアやルワンダ、カンボジアなどの個別の国際法廷とは異なり、常設である。EU諸国は全面的に賛同しているが、アメリカは自国の兵士が標的にされることを懸念して終始批判的で、クリントンは渋々署名したが、ブッシュ(子)は署名を撤回、ICCから脱退した。このようなアメリカは反国連、単独行動主義と非難されている。ロシア・中国という大国も加盟していない。日本も長く未加盟であったが、2007年10月に105ヵ国目の加盟国となった。2009年には常設の国際裁判所ととしては初めて、現職の国家元首であるスーダン共和国のバシル大統領をダルフール紛争の残虐行為の責任者として逮捕命令を出し注目されている。
なお、国際司法裁判所(ICJ)は国際連合の司法機関で、国家間の紛争を裁く裁判所であり、ICCはそれとは異なる機関である。
 ASEANの拡大 東南アジア諸国連合(ASEAN)は、   2005年、マレーシアのクアラルンプールで、ASEAN10ヵ国に日本、中国、韓国、それにインド、オーストラリア、ニュージーランドを加えた初めての「東アジアサミット」が開催された。これは2002年に小泉首相が提唱したものであったが、コンゴの枠組みとしてASEANに日中韓を加えた「ASEAN+3」を主張する中国と、インド・オーストリア・ニュージーランドを加えた広域機構とすることを主張する日本との主導権争いから、見るべき成果はなく、アチェ紛争やタイ南部の分離独立運動などに対する有効な対応もできずにいる。
 ASEAN自由貿易地域(AFTA) ASEAN Free Trade Area 自由貿易圏、自由貿易帯などともいう。
 アジア欧州会合(ASEM)  
 アジア・太平洋経済協力機構=APEC  
 アフリカ連合  → アフリカ連合(AU)
 南米南部共同市場(MERCOSUR)  → 南米南部共同市場(MERCOSUR) 
 NATOの変質  → 第17章 2節 NATOの変質
 環境問題  → 環境問題
a 国連人間環境会議 1970年代にはいり、国際的な環境問題に対する関心の高まりから、1972年にストックホルムで開催された、環境問題に関する最初の国際的対策会議。114ヵ国が参加し、「かけがえのない地球」をスローガンに掲げ、「人間環境宣言」を採択した。この会議について、ワルトハイム国連事務局長は「産業革命以来200年の歴史に修正を加えた」と評価した。さらに国連総会は「国連環境計画」(UNEP)を設立した。
先進国と発展途上国の対立:しかし、先進国と途上国は「環境か開発か」という点で意見が対立した。先進国は、開発を抑えて環境をよくすることが必要と主張し、これから経済成長しなければならない途上国にとっては環境問題はあとまわしにすべきことであった。国連人間環境会議でのインドのガンディー首相の主張「貧困こそが最大の環境汚染である。」というのは途上国の主張を代表している。
環境問題の後退:しかし、翌1973年には、第1次石油ショックが起こり、世界は低成長の時代となった。そのため、1970年代は環境対策に票を回す余裕がなくなり、環境問題に関する関心は低下し、政策も停滞してしまい、次に国際的な環境問題に関する会議が開かれたのは、20年後の1992年のリオデジャネイロでの「国連環境開発会議(地球サミット)」開催まで待たなければならなかった。 
b 人間環境宣言  
c 国連環境開発会議 1992年、ブラジルのリオデジャネイロで開催された国連の主催による環境問題に関する国際会議。「地球サミット」ともいわれ、172ヵ国が参加する大規模な会議となった。国連人間環境会議(1972年)から20年目に開催されたこの会議では、「持続可能な発展」という理念を取り入れた「リオ宣言」が採択され、さらに「アジェンダ21」(具体的な行動計画)が策定された。さらに温暖化防止に関して、「気候変動枠組条約」が締結された。この会議には各国とも首脳クラスが参加した。が、日本は時の宮沢首相が不参加であったため、環境問題への取り組みには一歩遅れている印象を世界に与えた。  → 京都議定書 
 アジェンダ21  → アジェンダ21 
 京都議定書  → 京都議定書