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2.南アジア・東南アジアの植民地化
ア.西欧勢力の進出とインドの植民地化
 ポルトガルのインド進出 ポルトガルのインド進出は、1498年のバスコ=ダ=ガマのインド航路開拓、カリカット到達にはじまり、1509年にはディウ沖の海戦でマムルーク朝エジプトの海軍を破って紅海・アラビア海の制海権を握り、アルメイダを初代インド総督に任命し、1510年には次のインド総督アルブケルケがゴアを攻撃して占領、ポルトガル領とするに及んで本格化した。ゴアはアジアにおける最初のヨーロッパ諸国による植民地となり、実に1961年にインドに返還されるまでポルトガル領であった。ポルトガルのインド経営は、アジア産の香辛料などの品々をゴアに集積し、本国のリスボンに運び、ヨーロッパ諸国に売りさばいて利益を上げることであって、インドを直接支配するものではなかった。17世紀にはいるとオランダ・イギリスの押されて次第にふるわなくなった。 →ポルトガルのアジア進出
ポルトガル人来航の頃のインドの状況ポルトガルバスコ=ダ=ガマの指揮する船団が、カリカットに来航したのは1498年。インドにムガル帝国が成立するより以前のことであり、当時インドには統一的政権は存在せず、とくに南インドにはヴィジャヤナガル王国(ヒンドゥー教国)やバフマン王国(イスラーム教国)などが対立している状態であった。またポルトガル進出以前のカリカットは、アラビアやエジプトからのムスリム商人が来航し、アラビア海はマムルーク朝の制海権のもとにおかれていた。また、15世紀の前半には明の鄭和艦隊がカリカットに来て、さらにアラビア海に進出していた。中国商人の活動は明が海禁政策をとったため衰えるが、アラビア海からベンガル湾を経て東南アジアに至る海域で、ヨーロッパ商人が進出するより遙か以前から、ムスリム商人・中国商人による活発な交易が行われていたことはしっかり認識しておく必要がある。
a ムスリム商人  → 第5章2節 ムスリム商人
b インド商人  
c 銀  → 第8章1節 銀(中国) 第9章1節 銀(西洋)
d 香辛料  → 第7章 1節 香辛料
e 綿布  → 第11章 1節 産業革命 インド産綿布
 インド経済の変化  
a ムガル帝国  → 第8章 4節 ムガル帝国
 ムガル帝国の衰退  
a イギリス  → 第10章 2節 イギリス東インド会社
b フランス フランスは1664年、ルイ14世の時、コルベールの提議によって東インド会社が設立され、東海岸のポンディシェリ、ベンガル地方のシャンデルナゴルを拠点としてインド進出を図った。(ポンディシェリ、シャンデルナゴルともに1954年までフランス領であった。)18世紀半ばにはインド総督デュプレクスのもとで、イギリスと激しく抗争するようになる。1744年から63年の南インドにおけるイギリスとの抗争をカーナティック戦争といい、フランスは敗れて、さらにプラッシーの戦いでも敗れてインドの主導権を失う。
c アウラングゼーブ帝  → 第8章 4節 アウラングゼーブ帝
 イギリスのインド支配  
a カーナティック戦争  → 第10章 2節 カーナティック戦争
b プラッシーの戦い  → 第10章 2節 プラッシーの戦い 
c クライブ  → 第10章 2節 クライブ
d ベンガル太守 もともとベンガルはムガル帝国の一州であったが、ムガル帝国の分解によって事実上独立し、州長官が太守(ナワーブ)と称して地方政権となっていた。プラッシーの戦いでこの地方の支配権を得た東インド会社は、1758年、ベンガル知事をおいて初代にクライブを任命、ベンガル太守を傀儡化した。1765年、それまでベンガル太守が持っていた徴税権をムガル皇帝から与えられた。73年にインド統治法を改定してベンガル総督を設置、ヘースティングスを初代総督とした。
e 徴税権(ディーワーニー)ムガル帝国で徴税権をディーワーニーという。これはディーワーンに与えられる権限、という意味。ディーワーンとはイスラーム国家で本来は征服活動に参加するアラブ人戦士にアターを支給するための台帳を意味した。やがて王朝のすべての官庁を意味するようになった。ムガル帝国では地方行政の中の財政や民事裁判を担当する官職がディーワーンといわれ、その権限、つまり徴税権がディーワーニーであった。1765年、イギリス東インド会社は、ベンガル、ビハール、オリッサのディーワーニーを獲得したが、それは税収入を得ることができるとともに、徴税を通して土地を支配することでもあり、イギリスが領土支配に及んだことを意味する。
f ベンガル総督 イギリス本国政府は、イギリス東インド会社がベンガル地方の徴税権を得て、単なる商社ではなく実質的統治機構となったことをうけ、1773年に法改正を行い、東インド会社の権限に制限を加え、本国の指示によってインドの行政に責任を持つ総督をカルカッタに設置した。初代ベンガル総督はヘースティングスが任命された。
 イギリス支配の拡大  
a マイソール戦争 18世紀後半、イギリスのインド植民地拡大に対し、最も激しく抵抗したのが南インドのマイソール王国であった。マイソール王国はヴィジャヤナガル王国の崩壊後、ムガル帝国の衰微に乗じてヒンドゥー教徒の首長が再建した王国。ハイダル=アリーとティプー=スルターンの親子は農業を奨励し、国力を高め、マドラスのイギリスに対抗した。1767年から4次にわたるイギリスとの戦争を展開、1780年には8万の軍でマドラスに迫り、イギリス軍に脅威を与えた。イギリス(ベンガル総督)は1799年総攻撃をかけ、王都セリンガパタムを落とし、ティプー=スルタンは戦死して戦争が終わり、イギリスは南インドに勢力を拡大した。
b マラーター戦争

マラーター同盟とは、デカン高原一帯のヒンドゥー教徒であり、17世紀にシヴァージーによって一つの政治勢力となってイスラムのムガル帝国と対立するようになった。ムガル帝国の第8代皇帝アウラングゼーブの時代には26年にわたる戦いを展開し、その死後は独立した地方政権となっていた。1775年から3次にわたってイギリスと戦ったのがマラーター戦争。1803年、イギリスはマラーター同盟軍を破り、事実上崩壊に追い込んだ。

c シク戦争 パンジャーブ地方のシク教徒はムガル帝国から自立してシク王国をつくっていた。シク教徒の兵士は、ネパールのグルカ兵とならんで勇猛果敢で知られる。イギリスは19世紀中期の1845年から2次にわたりシク教徒と戦い、1849年にパンジャーブ地方を併合した。 
d 藩王国  
e グルカ戦争ネパール戦争、またはネパール=イギリス戦争とも言う、1814〜16年のネパール王国グルカ朝とイギリス東インド会社軍の戦争。ネパールは敗れ、領土を割譲して実質的な保護国となった。17世紀後半、インド植民地支配を進めたイギリス東インド会社のベンガル管区と、その北側に接するネパールとの国境紛争が起こった。1814年から戦闘は開始された(この時期は南インドでマラーター戦争が続いていた)が、当初は地勢を生かしたネパール軍がイギリス軍を破ったが、次第にイギリス軍が盛り返し、1816年、サガウリ条約で講和し、ネパールは最西端のガルワール地方を割譲し、南側の平地タライ地方は年額20万ルピーで東インド会社に譲渡した(後に返還される)。これによってネパールは実質的にイギリスの保護国となり(征服されたのではない。より正確には「従属的な友好国」とされた)、ネパール兵はグルカ兵と言われてイギリス東インド会社の傭兵とされるようになった。 
イギリスのシッキム保護領化 グルカ戦争の翌年、1817年には、イギリス東インド会社はネパールの東に隣接するシッキムのラージャ(領主)と条約を結び、事実上の保護国とし、さらに紅茶プランテーションで有名になるダージリンを譲渡させた。
f セイロン島  → スリランカ(植民地化) 
イ.植民地統治下のインド社会 と大反乱
 東インド会社の変質  → 第12章 1節 イギリス 東インド会社
a 自由貿易  → 第12章 1節 イギリス 自由貿易主義の実現
b インド貿易独占権廃止 1813年、イギリスは東インド会社のインド貿易独占権を廃止した。これは産業革命が進行し、イギリスの機械生産による綿布が大量にインドに売り込むためには東インド会社1社の独占体制が障害となったためであり、国内の自由貿易主義の要求が高まったためであった。なお東インド会社のインド統治権と地税徴収権は継続しており、また中国貿易の独占権は依然として認められた。
c 商業活動を全面的に禁止 1833年、東インド会社は領土をイギリス国王に委譲し、商業活動全般を停止した。これによって東インド会社は完全にインド植民地統治の機関となった。同時にベンガル総督をインド総督と改称した。
d インド統治機関  
 東インド会社のインド統治 イギリスは19世紀はじめまでにインド総督が東インド会社という統治機構を通じてインドを支配するという体制をつくりあげた。その支配に抵抗する勢力は武力で制圧し、服従した地方政権は藩王国として自治を与えつつ、互いに連携がとれないように分割統治を行い、19世紀中頃までには、内陸の一部を除いてほとんどイギリスが支配し、ムガール帝国はその保護を受けて名目的に存続するのみとなった。イギリスはインド統治の財源として、植民地人から税を徴収した。そのやりかたは、地域によってザミンダーリー制ライヤットワーリー制という二つのやり方があった。インド植民地は本国の産業革命の影響を強く受けた。それ以前は綿製品の輸出国であったインドが、立場が逆転し、イギリス産の綿製品の市場となり、農村の家内工業は崩壊してしまった。イギリスは1857年のインド大反乱を鎮圧した後、東インド会社を解散し、イギリス政府の直接支配に切り換え、より効率的な植民地支配を展開していくこととなる。 → イギリスのインド植民地支配
a ザミンダーリー制 ムガル帝国のインドで地主のことをザミンダールと言った。ザミーンが土地、ダールが所有者の意味。イギリス東インド会社は、インドを支配するに当たり、ザミンダールを近代的な土地所有者と扱い、かれらを地租の徴税請負人と位置づけた。彼らは実際の耕作者である農民から過大な地代を徴収し、地租との差額を着服し私服を増やした。そのような地税制度をサミンダーリー制といい、1793年のベンガル地方に始まる。
b ライヤットワーリー制 イギリス東インド会社によるインドでの税制の一つ。ライヤットとは農民のことで、彼ら直接耕作者に納税義務を負わせるのがライヤットワーリ制であり、19世紀初めのマドラス、ボンベイなど南インドに見られる。 
 産業革命の影響(インド)はじめはインドは農民の家内工業によって生産される綿織物(インド産綿布)の産出国であり、イギリスがそれを購入するという図式であったが、イギリスで産業革命が起こると、逆にイギリスの綿工業で生産された機械製綿布がインドに輸出されるようになった。そのため、インドの綿織物工業は打撃を受けて衰退し、インドはイギリスに対して原料の綿花を提供するし、製品としての綿織物を輸入することとなった。18世紀の終わりごろからこのような事態が進行し、インドはイギリス資本主義の原料供給地と市場として組み込まれ、自国の工業発展の可能性を奪われ、深刻な貧困に陥っていく。<吉岡昭彦『インドとイギリス』岩波新書>
a 機械製綿布  → イギリスの綿工業
b 綿布輸出国から輸入国へ それまでインド産綿布を購入していたイギリスは、イギリス産業革命で大量の機械製綿布を生産するようになると、一転してインドに対して綿布を輸出するようになった。このイギリス産業革命の影響によって、インドの綿織物工業は壊滅的な打撃を受け、特にインドの綿織物は家内工業であったため、インド農民は急速な貧困化にみまわれることとなった。18世紀の終わりから1830年代にかけてこのような動きが顕著となり、それが1850年代のインド大反乱の背景となった。
イギリス産業革命とインド:「東インドは、東インド会社に奨励された伝統的な綿製品の輸出国であった。しかし、産業家の既得権益がイギリスでは優勢になたので、東インド商業の利害関係(インド人のそれはいうまでもなく)は、後退させられた。インドは組織的に非産業化され、かわってランカシャー綿製品の一市場となった。1820年には、この準大陸は、千百ヤードしか買いいれなかった。しかし1840年になると、それはすでに1億4千5百万ヤードを買いいれていた。これは、ランカシャーの市場の満足すべき拡大ということだけではなかった。それは、世界史における一つの主要な指標だったのである。というのは、歴史のあけぼのいらいヨーロッパは、東方に売るよりもそこから輸入する方が、いつも多かったからである。なぜなら、オリエントは、ヨーロッパにおくりこんだ香料、絹織物、インド綿布、宝石などの見返りとして、西からはほとんどなにも必要としなかったのである。産業革命の木綿のシャツが、はじめてこの関係を逆転させたのであって、この関係はこれまで、地金輸出と略奪との混合物によって、平衡を保ってきたのである。保守的でひとりよがりの中国人だけがまだ、西洋あるいは西洋の管理する諸経済が提供するものの購入を拒んでいたのであって、それは、1815年と1842年のあいだに、西洋の貿易商人たちが、西洋の軍艦の助けを借りて、インドから東洋に大量をひとまとめに輸出しうる一つの理想的商品、すなわち阿片を発見するまで、そうであった。」<ホブズボーム『市民革命と産業革命』安川悦子/水田洋訳 岩波書店 p.54> 
 インド大反乱 1857年5月10日、メーラトの東インド会社軍の基地で、シパーヒーが反乱をおこした。彼らに新たに支給されることになっていた新式のエンフィールド銃の薬包を包む紙に牛脂・豚脂が塗られていることに反発したことに始まる。ヒンドゥー教徒であるシパーヒーは聖なる動物の牛を殺して得られる牛脂を口に触れることは許されないことであった。反乱を起こしたシパーヒーは、デリーに進軍、ムガル帝国の皇帝バハードゥル=シャー2世を擁立して、デリーに政権をうち立てた。反乱軍には、イギリスの藩王国とりつぶし政策に反発した、小国の女王ラクシュミー=バーイーもくわわっていた。反乱は全インドに拡がり、各地に反乱政権が生まれた。反乱軍とイギリス東インド会社軍の戦闘は、9月まで続いたが、東インド会社軍が態勢を整えたのに対し、反乱軍は内部対立が生じ、またムスリムとの対立もあってまとまらず、デリーが陥落し、反乱は鎮圧され皇帝は逃亡する。これによって、ムガル帝国は名実ともに滅亡した。また、デリーは陥落したが、各地の農民反乱はさらに1年以上にわたって続き、1859年1月に鎮圧される。
この反乱はイギリスの支配者は「シパーヒーの反乱」(日本では「セポイの反乱」)と呼んでいたが反乱を起こしたのはシパーヒーだけではなく、さらに広範な民族的反英闘争であったという主張が現れ、現在では「インド独立戦争」や「1857年インド大反乱」などと言われる。<長崎暢子『インド大反乱一八五七年』1981 中公新書>
a 1857 インド大反乱が起こった1857年は、イギリスのインド支配の第一歩となったプラッシーの戦いからちょうど100年後である。また、ヨーロッパではクリミア戦争(1853〜56年)の終わった翌年、中国では太平天国の乱(1851〜64年)、アロー戦争(1856〜60年)の最中であった。また、日本の開国(1858年、日米修好通商条約)のころであり、明治維新の時期にあたっている。日本の歴史学者羽仁五郎は、『明治維新研究』(1932〜)などで、セポイの乱(インド大反乱)、太平天国の乱、明治維新をアジアにおける反封建、反植民地の民族運動として評価した。またセポイの乱、太平天国の乱という明治維新に先行するアジアの反植民地闘争を体験した欧米列強が、日本に対しては民族抑圧的な武力行使には出ずに、自由貿易の強要という外交交渉を優先させたとも説かれている。 
b シパーヒー(セポイ)の乱 1857年に起こった、イギリスのインド支配に対する、東インド会社インド人傭兵であるシパーヒーたちの反乱。彼らの反乱を機に、反英闘争は全インドの各地域、各層に広がったので、この反乱は現在では「1857年のインド大反乱」と言われている。
c シパーヒー 東インド会社に雇われているインド人の兵士のこと。その始まりは、1757年のプラッシーの戦いの時、東インド会社が雇ったインド兵である。日本ではセポイという表記が一般的だった。彼らは高カーストに属し、規律正しく、有能であったので次第に重く用いられるようになり、19世紀には東インド会社の兵力の中心となっていた。反乱当時は20万のシパーヒーが存在したとされる。1875年のインド大反乱は、このシパーヒーの東インド会社への反発から始まった。<長崎暢子『インド大反乱一八五七年』中公新書> 
d セポイ インド大反乱のきっかけとなった東インド会社のインド人傭兵のこと。現在では原音に近いシパーヒーと表記されることが多い。
 ラクシュミー=バーイー Epi. インドのジャンヌ=ダルク、ラクシュミー=バーイー インド大反乱の中で、最後までイギリス軍に抵抗した女性がいた。ラクシュミー=バーイーである。彼女は藩王国ジャンーンシーの女王だったが、子供がいないことを理由にイギリス領に併合されてしまった(藩王国とりつぶし政策)。反乱が勃発すると住民も蜂起し、彼女を指導者として押し立てた。23歳の彼女は「男たちと同じ乗馬ズボンをはき、絹のブラウスに腰帯を締め、短剣を吊し、頭にターバンを巻く」姿で反乱軍の先頭に立ち、戦ったが58年6月、イギリス軍の総攻撃の中で、誰一人気づかぬうちに死をとげた。<長崎暢子『インド大反乱一八七五』1981 中公新書 p.209−218 など>
e デリー 1648年、それまでのアグラにかわりムガル帝国の首都となった。第5代シャージャハーンが建設した都市。七つの城門と八つの砲台を持つ堅固な赤い砂岩の城壁に囲まれ、レッド・フォート(赤い城)と言われた。中心部には白大理石で作られた宮殿がそびえ、モスクと市場が作られていた。現在のニューデリーは、このデリーの東南にイギリスが新しく建設した都市である。 
f ムガル帝国滅亡 ムガル帝国のムガルとは、モンゴルの音の転化したものであり、彼ら自身、ティムールの血筋をひくと自称していたがトルコ系の民族である。西北部からインドに侵入し、16世紀前半にインド亜大陸を征服した。宗教はイスラムの正統派(スンナ派)であり、インド人の多数を占めるヒンドゥー教徒を抑えていた。ヒンドゥー教徒の有力部族であるラージプート族と結び、さらに異教徒に対する人頭税(ジズヤ)を廃止するなど現実的な政策を採り、インドを長期にわたって支配した。16世紀にはポルトガル、17世紀にはオランダ・イギリス・フランスが進出、次第に圧迫されてくる。また、18世紀中ごろからはデカン高原のマラータ同盟やベンガル地方、パンジャーブ地方、マイソール王国などヒンドゥー勢力が台頭して各地に自立し、ムガル帝国の直接支配する地域は首都デリーの周辺のみであった。1757年のプラッシーの戦いから1857年のインド大反乱までの百年で、実質的なイギリス東インド会社による支配が確立し、大反乱を機にムガル帝国は滅亡する。 
g インド独立戦争 1857年に勃発した、イギリス植民地支配に対するインド人民の独立闘争。一般にシパーヒーの乱(またはセポイの乱)と言われるが、最近では「インド大反乱」とされることが多い。インド独立運動の最初の大きな盛り上がりであり、ついで19世紀後半からの国民会議派による独立運動がおこる。これは第一次世界大戦によって中断されるが、大戦後、ガンディーらによる独立運動につながり、1947年のインド独立が実現する。
 インド帝国の成立 実質的には1857年の大反乱が勃発すると、翌年東インド会社を解散して、インドはイギリスの直接支配に入った。形式的には1877年、ディズレーリ首相のもとで、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねることによって、インド帝国が成立した。これは、19世紀末のイギリスの一連の帝国主義による植民地政策である。 
a 東インド会社解散 イギリス本国政府は、インド大反乱の勃発は、東インド会社のインド統治の失敗と考え、1858年8月に、インド統治法を制定し、東インド会社を解散させ、インドは本国政府が直接支配下におくこととした。これはランカシャーを中心とする綿工業の産業資本家の要求でもあった。これによって1600年に特許状を与えられて始まった東インド会社が終焉した。なお、東インド会社の株主に対しては、なお1874年まで配当金を支払うと約束していたので、東インド会社の残務処理業務はまた存続し、その残務整理のすべてが終わった1877年にインド帝国の成立となった。東インド会社解散後の19世紀後半、イギリスのインド植民地直接支配の時代になって1869年にはスエズ運河が開通し、また帆船から蒸気船、木造船から鉄鋼船への転換がなされた。<浅田実『東インド会社』1989 講談社現代新書>
b ヴィクトリア女王  → 第12章 2節 ヴィクトリア時代
c インド皇帝 インド皇帝は、ムガル帝国の滅亡後、1877年にイギリスのヴィクトリア女王が兼ねることとなった。
d インド帝国 1877年にイギリスのヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねることとなって成立した、イギリスの植民地。この後、インドはイギリス植民地帝国の最も重要な一部として、その帝国主義政策の基盤となる。1947年のインド独立までイギリスの植民地支配が続く。
e 藩王国 藩王国とは、イギリスがインドを植民地支配していた時期に、地方政権でイギリスに服従した場合に、旧来の支配者を残し、イギリスが間接的に統治したもの。一応の自治は認められたが、軍事と外交はイギリスが握った。しかも国王に後継者がいない場合にはイギリス領に編入するという、「藩王国とりつぶし政策」には反発が強かったが、インド大反乱以後も藩王国を通じて「分割支配」を続けた。ハイダラバード、カシュミールなど大きなものから全部で約600の藩王国が存在した。藩王がマハラージャである。これらの藩王国は1947年のインド独立に際してその帰属が問題となった。
f 分割統治 分割統治は、古代のローマが地中海世界を支配した際、征服した都市に対して個別に同盟関係を結んで、横に連携してローマに対抗出来ないようにした統治法を言うが、この場合はイギリスのインド植民地支配において、主としてヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用して、個別に対応することによって独立運動を妨害しようとした政策のこと。 → ヒンドゥーとイスラームの対立
ウ.東南アジアの植民地化
 インドネシア ジャワ島、ボルネオ(カリマンタン)島、スマトラ島など多数の島(といってもスマトラ島、ボルネオ島は日本列島よりも広い)からなる東南アジアの大国。17世紀以来の長いオランダの植民地支配を受けていたが、長い独立運動の末、第2次世界大戦後の1950年にインドネシア共和国として独立した。
インドネシアという名称について:現在では「インドネシア」という地名としても定着しているが、この名称は比較的新しい造語である事に注意する。1850年にシンガポールのイギリス人弁護士でジャーナリストだったローガンが、東南アジア諸島部全域を示す地理的用語として、「インド」にギリシア語で島の意味のネーソスの複数形ネシアをくっつけて造語した。一般に広がったのは、1920年代にマレー人の民族運動が強まった時期に、彼らは「オランダ領東インド」という呼称を嫌い、「インドネシア」を民族のアイデンティティを示すものとして使用するようになってからである。マレー語やマレー人に替わってインドネシア語やインドネシア人という言い方も普通になった。そしてオランダから独立したときにインドネシア共和国という国号が選ばれた。
 → オランダの植民地支配 インドネシアの民族運動 インドネシアの独立運動  
a オランダ(インドネシア支配)オランダによるインドネシア植民地支配の歴史は、1602年〜1798年の「オランダ東インド会社による植民地経営の時代」と、1799年〜1949年の「オランダ政府による直轄時代」に分けられる。
東インド会社の経営時代:前半17〜18世紀の東インド会社による独占的経営は、領土的な支配ではなく、香料などを中心とした交易を拡大することに主眼をおいたもので「交易の時代」ともいえる。これは貿易の利益を国家財政にあてるという重商主義の一環であった。この間、オランダは東南アジアで先行するポルトガルを追い出し、同時期に進出を図ったイギリスと争い、1623年のアンボイナ事件で主導権を獲得した。しかし18世紀には香辛料貿易が次第に不振となり、会社内部の腐敗も進んだ。1755年にはジャワ島のマタラム王国に支配権を譲渡させ、直接的な領土支配に転換し始めた。しかし、フランス革命の影響で1795年に本国でバタヴィア共和国が成立、続いてナポレオンがオランダを征服したことにより、1799年に東インド会社は解散した。1815年、オランダ王国として復活後はジャワ島を政府直轄として植民地政庁を置いて支配する形態に転換した。
政府直轄時代:「政府直轄時代」はさらに三分して19世紀前半の「強制栽培全盛期」、後半の「私企業プランテーション期」、そして20世紀における「宥和政策の時期」に分けられる。<斯波義信『華僑』岩波新書p.119>
強制栽培制度の時代は1830年から1870年ごろまで。ジャワ戦争やベルギー独立によって財政難に陥ったオランダが植民地に押しつけた特定作物の強制的栽培。これは重商主義の徹底したもので、全土がコーヒー、サトウキビ、藍の国営プランテーション化したとも言えるが、農民への負担が大きく反発が強まり、また自由な農場経営を望む白人入植者や華僑の要求も強まったために廃止されて、私企業プランテーションの段階となり、主力産品はスズやゴムに移行する。20世紀になるとようやく植民地支配に対するインドネシアの民族主義運動が台頭すると、オランダは宥和的な政策をとる一方、帝国主義的な領土獲得にも動き、アチェ戦争などが起こった。
オランダ植民地支配の終わり:帝国主義は日本軍の侵攻という形でインドネシアに及び、日本の敗北後にスカルノらによってインドネシア共和国独立宣言を行った。一旦敗退したオランダは植民地支配の再現をねらい、その独立を認めず、インドネシア独立戦争が展開され、ようやく1950年、インドネシア共和国が完全独立を獲得した。
b オランダ領東インド ジャワ島を中心に、現在のインドネシア全域を含む島々をオランダが支配、オランダ東インド会社を通じて植民地化を進めた。
1596年、オランダ艦隊がジャワ島のバンテンに来航、1602年にオランダ東インド会社を設立。1619年に総督クーンが、その中心地としてバタビア(現在のジャカルタ)を建設した。1623年にはアンボイナ事件でイギリス勢力を追い出し、この地方の主導権を握った。オランダ東インド会社は株式会社として初めは貿易のみに従事したが、次第に領土支配に乗り出し、ジャワ島・セレベス・スマトラ・モルッカ諸島に支配地を広げ、オランダ領東インドを形成していった。ナポレオン戦争では一時イギリスに占領されたが、戦後返還された。この間、1799年には東インド会社は経営不振になって解散し、直轄支配に組み入れた。19世紀にはジャワ戦争パドリ戦争など、反オランダの反乱を鎮圧して植民地支配を強化し、1830年からは総督ファン=デン=ボスによって強制栽培制度が導入されて収奪を強め、以後も長く支配した。さらに20世紀初めまでにスマトラ北部のアチェ王国アチェ戦争によって滅ぼし、オランダ領東インドに編入した。20世紀には植民地側の人々にも民族意識と独立の要求が強まり、インドネシアの民族主義運動が起こったが、オランダは弾圧と宥和を巧妙に行って植民地支配を維持した。第2次世界大戦で日本が進出、オランダに代わる軍政が敷かれた。日本降伏後の1945年、インドネシア共和国として独立した。
 イギリス=オランダ協定(英蘭協定)1824年に締結された、東南アジアおよびインドにおける、イギリスとオランダの勢力圏分割に関する協定。ロンドン協定とも言う。インド・マレー半島・シンガポールはイギリスが、スマトラ島・ジャワ島などの諸島はオランダがそれぞれ勢力圏とすることで合意した。なお詳細にみると次のような合意からなる。
(1)植民地分割線はマラッカ海峡を境界として、以東がイギリス領、以西がオランダ領とされた。その結果、スマトラにあったイギリス領のベンクーレンとマレー半島のオランダ領マラッカが交換された。ボルネオ島については問題があり残り、棚上げされた。
(2)分割によってシンガポールはイギリス領として承認された。現地側にたって言えば、ジョホール王国(マラッカ王国の後身)の分裂が確定し、スマトラとマレーは切り離された。
(3)マラッカ海峡の自由航行が認められた。しかし当時の条約はまだ自国中心で、第三国船舶の自由航行についてはふれていない。<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.174>
c ジャワ戦争 1825年〜30年にインドネシアのジャワ島で起こった反オランダ武力闘争。その指導者の名前をとって、ディポネゴロ戦争ともいう。ジャワ島では1755年にマタラム王国が実質的に消滅し、王侯はそれぞれ領地が与えられ、オランダ東インド会社の主権が確立していた。オランダは1799年にはオランダ東インド会社を解散して直接支配に改めた。その間、オランダ人や華僑の経営する農園が拡大して王侯領を圧迫したことで、ジャワ島の旧支配層と農民が反オランダ感情を強くなったところで、ジョクジャカルタの王族ディポネゴロが反乱を起こすと、たちまち反乱が拡大した。しかし、各地に要塞を築いたオランダは次第に反乱軍を追いつめ、ついに1830年にディポネゴロを捕らえ、反乱は収束した。この反乱は王位継承戦争の側面もあるが、マタラム王国系の支配層による最後の反オランダ武力闘争というのが基本的性格である。20万以上の死者を出した反乱で中部ジャワは荒廃し、オランダ当局は財政難もあって、反乱を鎮圧した1830年から強制栽培制度を導入する。<『インドネシアの事典』同朋舎 マジャワ戦争の項などより> 
 ディポネゴロ インドネシアの反オランダ民族主義の戦いであったジャワ戦争(1825〜30)の指導者。ディポネゴロはマタラム王国の王位を継承する人物で、ジョクジャカルタに自治領を持っていたが、オランダから王侯の地位の継承を拒否されたこと、自分の王侯領に会社が勝手に道路を造ったことなどに反発し、1825年に反乱を起こし、ジャワ戦争(ディポネゴロ戦争ともいう)がはじまった。農民の支持を受けて大きな勢力を得たが、27年ごろから劣勢になり、30年に和平交渉に応じたが交渉の場で捕らえられて反乱は終わった。
出題  2006年 早大政経 第1問(改) 次の文の正誤を判断せよ(原題 4択正答選択の一部) ジャワでは、総督ファン=デン=ボスのもとで展開された強制栽培制度に対する反発から、ディポネゴロの指導する反乱が起こった。  解答→ 
 パドリ戦争 1821年〜1837年ごろまでのインドネシアのスマトラ島における、反オランダ武力闘争。パドゥリ戦争とも表記。パドリ(パドゥリ)とは、イスラーム教改革派のワッハーブ派(18世紀半ばにアラビア半島に起こったイスラーム教の純化運動)信者のことで白派ともいう。それにたいして反改革派をアダットまたは黒派といった。1803年ごろメッカ巡礼から帰った3人のパドリ派が、スマトラ島中西部のミナンカバウでイスラーム改革運動を開始した。彼らはコーランと相反する慣習の廃止を主張し、コーランに逆らう行為は死をもって罰するという過激なものであったので、ミナンカバウの首長ら保守派(イスラーム教でも土俗的な慣習を維持していた)は恐怖を感じ、オランダ植民地当局に介入とパドリ派の取り締まりを要請した。オランダ当局はマレー半島に進出を強めるイギリスに対抗する目的もあって介入を開始しパドリ派を排除しようとしたが、イスラーム教徒の民衆は異教徒の攻撃に対して結束して戦うという逆効果となった。オランダ軍によってパドリ派は壊滅したが、現在では同時期のジャワ戦争とともにインドネシアの反オランダ闘争として評価されている。<『インドネシアの事典』同朋舎 パドゥリ戦争の項などより>
d 強制栽培制度 1830年からオランダ領東インド(現在のインドネシア)で実施された植民地経営の方式。オランダが現地農民に対しコーヒーサトウキビ、藍などの商品作物を強制的に栽培させた制度。
植民地政庁は役人と村の首長に生産を管理させ、量を定めて農民から買い上げたが、農民は地租を支払わなければならず、結局、植民地当局に環流する仕組みだった。生産された作物はヨーロッパ人か華僑の商人が加工し、オランダ商事会社によってすべて輸出に回され、当局の利益となった。1830年に赴任した総督ファン=デン=ボスが実施したとされる貿易の利益を国が独占する重商主義政策の一つといえる。いずれにせよこの強制栽培制度によって、ジャワ島などの農民の自給自足経済は破壊され、世界市場に直結する商品作物の生産を強制されて、米価騰貴や飢饉に苦しめられることとなった。次第に農民の反発が激しくなったため、オランダ当局は1870年にこの制度を廃止した。
強制栽培制度の背景:1830年のオランダ本国の財政難にあった。この年、フランスで七月革命が起こり、その余波がオランダに波及、オランダ領とされていたベルギー独立運動が起こった。オランダは軍隊を派遣して抑えようとしたが、結局ベルギー独立は認められた。オランダにとってその戦費が財政難をもたらしただけでなく、工業地域であったベルギーの離脱は大きな痛手であった。またオランダ領東インドでも1830年まで激しい反オランダ民族主義の戦いであるジャワ戦争が続いており、その戦費も大きな負担となっていた。それらを補うために植民地に課せられたのが強制栽培制度であった。オランダは植民地農民の犠牲の上に、ようやく産業革命を達成することとなる。
e ファン=デン=ボス オランダ領東インド総督(任期1830〜33年)。ジャワ戦争(ディポネゴロ戦争とも言う。1825〜30年)でインドネシアの殖民地反乱を鎮圧した後の総督に就任し、反乱鎮圧で悪化した殖民地財政を立て直すために、強制栽培制度を導入した。それによって財政を立て直したが、ジャワの農村社会はそのために壊滅的な状態となった。総督退任後は、植民地相としてオランダの植民地政策の遂行に当たった。
e アチェ王国  → 7章 アチェ王国  → 17章 アチェ紛争
アチェ戦争 1873年〜1912年に起こった、スマトラ北部のアチェ王国による、オランダの侵略に対する抵抗戦争。
アチェはスマトラ島の北端部の地域で、インド洋と東南アジア海域を結ぶ重要な地点であったのでイスラーム教が早く伝わり、アチェ王国が成立していた。ジャワ島を拠点に植民地を拡大してきたオランダは、19世紀後半になってイギリスがマレー半島への進出を強めていることを警戒し、マラッカ海峡の西からの入り口にあたるアチェ地方を抑えようとして1873年に侵略を開始した。これに対し、アチェ王国は激しく抵抗し、戦争が長期化した。1880年ごろからは、ウラマー(イスラーム指導者)たちが聖戦(ジハード)を唱えて戦いは帝国主義に対する民族抵抗戦争と宗教戦争が合体する様相となり深刻化した。オランダ側はジャワ人を兵卒として動員して攻勢をかけ、1903年にはアチェ王国が降伏して滅亡、1904年までにほぼ鎮圧に成功したが、その後も散発的な抵抗が1912年まで続いた。アチェ王国の滅亡によってオランダ領東インドが現在のインドネシアのほぼ全域に拡大され、完成した。しかし、民族的、宗教的な反オランダ感情は強く残り、アチェの人々の独立の要求は今でも強いものがある。 → 17章 アチェ紛争
 マレー半島  → マレー半島
a イギリス領マラヤ19世紀イギリスが植民地化したマレー半島(マラヤ)を総称してイギリス領マラヤという。マレー半島はマラッカ王国が衰退した後、多くのイスラーム教国の小国に分裂している状態であった。その地に19世紀に入ってイギリスの進出が積極化する。その形成過程は次のようにまとめられる。
 1786年 東インド会社、マレー半島西側のペナンを獲得。
 1819年 ラッフルズ、シンガポールに上陸。ジョホール王から商館建設を認められる。
 1823年 シンガポール、イギリス領となる。
 1824年 イギリス=オランダ協定 マレー半島を勢力圏とすることをオランダが認める。
 1826年 ペナン、マラッカ、シンガポールを海岸植民地とする。
 1867年 海峡植民地三カ所を直轄地とする。
 1870年代 マレー人の小国、セランゴール、ネグリセンビラン、パハンなどの内紛に介入する。
 1874年 パンコール協定 マレー人の小国にイギリス人理事官を起き助言する権限を認めさせる。
 1895年 マレー人の小国4カ国を保護国とし、マレー連合州とする。
 19世紀末 非連合州に対する圧力を強め、事実上植民地支配下に置く。
こうしてマレー半島は、直轄植民地(シンガポール、マラッカ、ペナン)、マレー連合州4州、その他非連合州という程度の差こそあれ、ほぼ一括してイギリス植民地となった。イギリスはマレー半島で19世紀にはスズ、20世紀にはゴム園プランテーションで大きな利益を上げ、シンガポールは自由貿易港として東南アジア最大の貿易港に発展した。しかしその反面、マレー半島には中国の華僑資本が進出し、さらに多くの中国人労働者(苦力)やインド人労働者(印僑)が流入して土着のマレー人は少数派となり、独立後も複雑な人種問題を残している。 → マラヤ連邦の独立
b ペナン マレー半島の西海岸、マラッカ海峡にある島。1786年、その地のスルタンが、イギリスに譲渡して以来、イギリスのマラッカ海峡支配の拠点とされた。1805年、ラッフルズはこのイギリス商館書記官補として赴任した。1826年には、イギリスの海峡植民地の一つとされ、1946年まで続いた。
c シンガポール マレー半島の最南端に位置する交通の要地。ジョホール水道をへだてて陸地に近い一つの島で、面積はほぼ淡路島ぐらい。イギリスの植民地行政官のラッフルズが1819年に現地を支配するジョホール王国のスルタンから、この地に商館を建設することを認めさせた。ラッフルズが上陸したときのシンガポールは人口300ほどの貧しい漁村だったという(鶴見良行『マラッカ物語』p.179)。さらに1823年には土地割譲させ、24年に正式にイギリス領となった。ラッフルズは、この地に「商業の自由」の原則に立った自由港を建設した。これを機にシンガポールは急速に発展、中国系(華僑)商人やインド人労働力が多数流入し、一大都市となった。1826年にはペナン、マラッカと共にイギリスの海峡植民地の一部となり、マラッカ海峡を抑え、イギリスのアジア進出の拠点となった。
 → 日本によるシンガポール占領  シンガポールの独立 現在のシンガポール
 ラッフルズ シンガポールの建設者」として知られる、イギリスの東南アジア植民地支配に活躍した植民地行政官。1819年、ジョホール王国からシンガポール島を買収し、商館と植民地を設立した。
ラッフルズは父が船長で、ジャマイカ沖の船上で生まれた(1781)。14歳で東インド会社の臨時雇いとなり、勤勉に勤め、19歳で正社員となった。1811年、イギリス軍がフランス・オランダ連合軍(当時オランダはナポレオンの征服されていた)からジャワ島を奪回すると、ラッフルズは副総督としてその統治にあたった。しかし、ナポレオン戦争後、ジャワはオランダに返還されたため、一旦イギリスに召還された後、スマトラのベンクーレンに赴任した。その地でオランダに対抗して現地の首長と協定を結び、イギリス勢力の扶植に努め、1819年にシンガポール島に上陸してジョホール王国のスルタンに商館建設を認めさせた。さらに1823年にはその土地と主権をイギリスに譲渡させた。ラッフルズはシンガポールを自由港として貿易を振興させると共に、マラッカ海峡を抑える交通の要衝をイギリスが抑える足場を築いた。現在シンガポールの名門ホテルとして知られるラッフルズ・ホテルは彼の名前による。
Epi. ラッフルズの人物評 1805年、ラッフルズはイギリスのペナン商館書記官補として初めて東南アジアに姿を現した。ポルトガルのアルブケルケがマラッカを陥れてから300年、オランダがポルトガルからマラッカを奪ったのが1641年。イギリスはインドに時間をとられ、ようやく東南アジア進出を本格化させた。ヨーロッパではフランス革命からナポレオン戦争へと発展した大動乱の時代である。ラッフルズは大のオランダ嫌いで、フランスには好意的。一時帰国のおり、セントヘレナのナポレオンを訪ねている。・・・「彼がペナンに到着したのは、一つの時代が終わり、新しい時代が始まる区切り目だった。機械制生産によって可能となったヨーロッパ産業主義と市場経済が、アジア住民の生活を根本的に変える時が迫っていた。」「ラッフルズについては、さまざまな評価がある。・・・人道主義的啓蒙家、自由貿易論者、すぐれた地域研究者(ジャワに関する著作があり、ボロブドゥール寺院の発見者としても知られている)、奴隷廃止論者、住民や文化に強い愛情と執着を持った人物、帝国主義者などである。どちらかというと、かれは評判のいい植民地主義者である。・・・(しかしラッフルズによって)マラッカ伝統は崩壊し、土地と主権は割譲されていった。それはこうした形で新しい主人の私腹を肥やしていった。清潔なイギリス植民地主義が、インドやマラヤでよき官僚制を育てたというのは神話だ。他人の労働を搾取する人間が腐敗しないわけがない。ラッフルズもその例外ではなかった。」<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 第4章>
 ジョホール王国 1511年、ポルトガルによってマラッカを占領された後、マラッカ王国のスルタンがマレー半島南端に移動して建設した王国でイスラーム教国の港市国家。17世紀を通じてマラッカのポルトガル、スマトラのアチェー王国と抗争し、1718年に一旦消滅した。その後、セレヴェスを拠点に海上貿易や海賊活動を展開していたブギ人がオランダと対抗するために、マレー半島の先にあるビンタン島のリオウにジョホール王国のスルタンを再興し、リオウ=ジョホール王国(ジョホール=リオウ王国)とも言われる。かつてのマラッカ王国の繁栄は失われたが、それでもマラッカ海峡の中継貿易で活動し、スルタンはマラヤ世界の象徴としての権威を持ち、オランダの勢力と対抗していた。しかし政治の実権はマラッカ王国以来の最高司令官の家柄であるトゥムンゴン家とブギ人から出される副王に握られており、スルタンの宗族をめぐって内紛が生じ、オランダとイギリスの介入を許した。内紛の中でスルタンはイギリスのラッフルズの強制により、1819年、シンガポール島へのイギリス商館建設を認めるに至った。その後、リオウ=ジョホール王国は分裂状態が続き、実権も失う。1824年のイギリス=オランダ協定により、リオウ=ジョホール王国はジョホール、シンガポールとリオウ、リンガ諸島に分割され、前者はイギリス、後者はオランダの勢力圏とされた。ジョホールのスルタンはその後も名目的に存続し、1957年のマレーシア成立によって正式に消滅し、現在はそのジョホール州となっている。
 マラッカ マラカとも表記。マレー半島のマラッカ海峡に面した港市で、マラッカ王国の都であったが、1511年にポルトガルアルブケルケによって占領され、そのアジア進出の拠点とされた。その後、1641年にオランダが進出、ポルトガル人を追放してオランダ領とした。その後、東南アジアの支配権をめぐるオランダとイギリスの抗争の舞台となったが、オランダがフランスに占領されたナポレオン戦争中にイギリスが奪取、1824年のイギリス=オランダ協定によりマラッカのイギリス支配が認められ、替わりにオランダはスマトラ島のベンクーレンを獲得した。イギリスは1826年、この地を海峡植民地の一つに加えた。
d 海峡植民地 マレー半島南部のマラッカペナン島シンガポールの三植民地を合併して1826年に成立したイギリスの植民地。初めイギリス東インド会社の管轄下に置かれたが、1867年には本国の直轄領となり、政庁はシンガポールに置かれる。イギリスはこの海峡植民地を拠点としてマレー半島植民地化を進め、マレー連合州と合わせてイギリス領マラヤとして植民地支配を行った。
e マレー連合州 イギリスのマレー半島支配は、スズ鉱の開発に始まり、ゴム園、鉄道の開設によって経営的に完成した。しかしそれはこの土地に押し込められた人間にとって分裂の始まりであった。東岸と西岸が分裂し、それぞれに人種集団の相違が絡んだ。西岸ペラク、セランゴール、ネグリセンビラン、パハンの各国(かつてのマラッカ王国が衰退した後に生まれたイスラーム系小首長国)では内陸にスズ鉱が開発され、イギリスの手によって鉄道が敷設された。ゴム園も鉄道沿線に開かれて、イギリスの市場と直接結びついて発展した。1895年、この4カ国はイギリスの傘下に入り、協定によってマレー連合州となった。これはイギリスの保護国であり、イギリス人理事官がいっさいの行政権限を確保していた。マレー連合州の成立により、マレー半島は次のように三分された。
 ・イギリス直轄植民地(海峡植民地)=シンガポール、マラッカ、ペナン島
 ・マレー連合州(イギリスの保護国)=西岸ペラク、セランゴール、ネグリセンビラン、パハン
 ・非連合州=北部のケダー、ケランタン、トレンガヌー、および東南部のジョホールなどの小首長国
このうち北部三国はシャム(タイ)への帰属意識も強かったので英領化が遅れた。20世紀初頭までにはこれらの非連合州も事実上イギリスの植民地支配を受けることとなる。 → マラヤ連邦の独立
 スズ スズ(錫)は金属元素の一つ(Sn)で、延性・展性に富み、錆びない特色があるので、食器や錫箔としてタバコや菓子の包装に用いられた。また鉄板にスズのメッキをしたものがブリキで生活用品や建材など多方面に使用される。なお、銅とスズの合金が人類が最初に作った金属器である青銅器。
スズの世界史:「19世紀中頃まで、スズの主な用途は、うすい鉄板にスズメッキをした食器だった。陶磁器が早くから普及した日本や中国と違って、欧米では、ブリキ皿が庶民の食器である。陶器はブルジョアの家庭や宮廷で使われたにすぎない。ところが、19世紀半ばになると、クリミア戦争、南北戦争に伴う缶詰め工業の発展、アメリカの西部開拓によるブリキ屋根材、石油缶の需要増大が起こり、スズ消費量が急増する。1825〜75年の50年間に、イギリスのブリキ食器生産は、五倍に伸びている。ブリキ食器は、今日のプラスチック食器に当たるだろう。・・・(ヨーロッパのスズの産地であるイギリスの)コーンウォルの山スズも19世紀末、ようやく枯渇の時を迎えていた。こうして世界大の産業発展が、マラヤのスズ生産を促すことになる。」<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.236>
マレー半島を初め、東南アジアのスズは鉱脈を掘るのではなく、風雨で崩されたスズが永い年月の間に河床に堆積した河スズだったので、河の流域ごとの地域が採掘権を持っていた。<同 p.195>イギリス領マレー半島のスズ鉱山では華僑商人が流入した華人労働者(苦力)から買い集める形が多かったが、オランダ領スマトラ島に属するバンカ島では政府直営のスズ鉱山会社が作られた。その結果、次第にスマトラ産スズの生産量が増大した。<同 p.237->
マラヤ半島のスズはアヘンとともに増大した。スズ鉱山の華人労働者は低賃金で苦しむ中、アヘンで気を紛らわすしかなかったが、そのアヘンはイギリスが専売制度で利益を独占していた。アヘンが広がったのは中国だけではなかったし、またその利益を得たのはイギリスだけではなく、東インドにおけるオランダも同様であったことに注意する必要がある。<同 p.251-266>
 ゴム ゴムは、植物のゴムの木の樹皮から分泌した樹液を凝固した生ゴムを原料に、亜鉛華、カーボン粉などを混ぜて加工したもの。天然ゴムは東南アジアには自生していなかったが、イギリスがブラジルのゴム苗をもたらして、1895年セランゴールで最初のゴム園を解説したのが始まり。マレー半島の栽培ゴムが、南米の自然採取ゴムに対して市場競争力を持つようになるのは20世紀に入ってからであった。自動車タイヤの需要が、マラヤのゴム園を支え、半島の二大産物、スズとゴムは、1910年前後に、最初の好景気を迎える。しかし、1929年からの世界恐慌はマレー半島のゴムに大きな打撃を与えた。
 ミャンマー(ビルマ)  → ビルマ 
a コンバウン(アラウンパヤー)朝  → コンバウン朝
b イギリス=ビルマ戦争 ビルマ戦争ともいう。第1次は1824〜26年、ビルマのアッサム占領、ベンガル侵入に対し、イギリスのインド総督アマーストが宣戦布告。ビルマが敗れてアッサムなどの権利を放棄した。第2次は1852年、イギリスがビルマを挑発して開戦、南部のペグーを併合した。第3次は1885〜86年、ビルマがフランスと結ぼうとしたのをイギリスが阻止しようと開戦。ビルマは敗北し、コンバウン朝(アラウンパヤー朝)は滅亡し、インド帝国の一州としてイギリス植民地に併合された。 
 フィリピン(スペイン統治)フィリピンは、マゼランの到着以来、スペインの勢力圏となり、1571年以来、スペインの植民地支配を受けた。このころフィリピン原住民は50〜70万、中国、ベトナム、日本などからも商人がやってきていたが、民族や国家の意識はなく、スペインの銃火の前に屈服させられた。当初のスペイン支配はラテン=アメリカ地域と同じくエンコミエンダ制がとられ、フィリピン占領に功績のあったスペイン人に一定の地域の原住民の管理を任せ、キリスト教の布教を条件に租税の徴収をさせた。フィリピンのエンコミエンダ制は1884年まで存続し、その間スペイン人受託者(エンコメンデロ)が大きな力を持ち植民地での収奪、腐敗が起こった。スペインのフィリピン支配の特徴はカトリックの強制布教と結びついていたことである。教会はマニラ総督を後ろ盾に、教区司祭を通じて聖俗の両面から原住民を支配した。フィリピン原住民の反抗は、ミンダナオ島を中心としたイスラーム教徒の抵抗(スペイン側はこれをモロ戦争といった)がスペイン支配時代を通じて続いた。またキリスト教化した原住民の中にも、総督府と教区司祭の支配に抵抗が始まり、それは独立まで続いた。マニラは植民地支配の中心地、ガレオン貿易の拠点として栄えたが、次第に華僑(中国人及び、中国系メスティーソ)にその経済の実権を握られていった。 → フィリピン(19世紀〜)
Epi. 333年のスペイン支配 1571年5月16日、レガスピが230人のスペイン兵と600人以上の傭兵を乗せた20隻の船団でマニラに再入港した。フィリピン史で言う「333年のスペイン支配」とは、1565年のレガスピのセブ島到着から起算し、1898年のフィリピン共和国の成立で終わる期間を指している。実際には1571年のレガスピ隊のマニラ転進で本格的なフィリピンの植民地化が開始されたのである。<鈴木静夫『物語フィリピンの歴史』1997 中公新書 p.26>
a スペイン  
b マニラ  → 第10章 2節 マニラ
c アカプルコ  → 第10章 2節 アカプルコ
d ガレオン貿易  → 第10章 2節 ガレオン船
e メキシコ銀  銀(西洋) 銀(中国) トポシ銀山 スペイン銀貨 日本銀 価格革命
e 絹織物・陶磁器   
f カトリック強制   
モロ戦争16〜19世紀末のフィリピンのスペイン支配時代に、スペイン入植者とミンダナオ島のイスラーム教徒との間に続いた戦争。フィリピン諸島にイスラーム教の布教が行われたのは14世紀と考えられ、南部のミンダナオ島やスルー島に多かった。スペインは土俗的な精霊宗教を信仰する者は容易にキリスト教化していったが、イスラーム教徒つまりモロは激しく抵抗し、時に武器を取って戦い、また海賊としてスペイン入植者を悩ませた。スペイン入植者とモロの戦いであるモロ戦争は、19世紀末のスペインの撤退まで続いた。また第2次世界大戦後の1970年代にはミンダナオのモロ民族解放戦線(MNLF)が結成され、フィリピンからの分離独立を掲げてマルコス政権と戦った。
モロの意味:16世紀以来、フィリピンを支配したスペイン人は、フィリピン土着のイスラーム教徒をモロと言った。それは北アフリカからスペインに進出したイスラーム教徒ムーア人に対する蔑称だった。「ミンダナオのムスリムは、クリスチャンにたいする抵抗を示すために、あえてその蔑称を選び、みずから「モロ族」と自称するようになった。そのモロ族は、カトリックに教化したクリスチャン・フィリピノの中央政府に、今日でも容易に服従しようとはしない。」<鶴見良行『バナナと日本人』1982 岩波新書 p.18>
Epi. ミンダナオの英雄 クダラート:ミンダナオ島西部のコタバト付近のイスラーム教徒マギンダナオ族の指導者クダラートは1642年に君主(サルタン)を名乗り、王として権威を確立した。彼はマニラから南下してくるスペイン、バタヴィアから北上してくるオランダのいずれにも屈服しなかった。その年、台湾に進出したオランダを恐れたスペインがマニラに兵力を集中させる必要があったため、クダラートに和平を申し込んできた。1645年、クダラートはそれに応じてスペインと条約を結び、ミンダナオ南岸の大半の領土として認められた。それが「フィリピンの土地で初めて成立した国家らしい国家」だった。<鶴見良行『マングローブの沼地で』1984 朝日新聞社 p.62>
g マニラ開港 マニラは16世紀以来、ガレオン貿易の拠点として繁栄し、スペインは他のヨーロッパ諸国の船が入港することを排除していたが、17世紀にはいると本国スペインの衰退、オランダ、イギリスの台頭という変化を受け、マニラへの入港を求める外国船も多くなった。1762年から64年まではイギリスの東インド会社が武力でマニラを占拠する事件も起こった。18世紀にはいるとアメリカ船も加わり、フィリピン産品を求めて来航するようになった。それらを受けて1834年にスペインは正式にマニラを開港せざるを得なくなった。この結果、フィリピンは砂糖などのプランテーション主体の産業となり、またマニラ経済は華僑(中国人及び中国系メスティーソ)に握られることとなった。 
 ベトナム ヴェトナムとも表記。中国名では越南と表記する。紀元前111年、漢の武帝が中国南部の南越を征服してから、漢の文化が現在のベトナムに及び、中国文化圏に組み入れられる。漢は北ベトナムに交趾郡、中部ベトナムに日南郡などをおいて直接統治し、後漢に継続された。後漢時代には徴姉妹の反乱(チュンチャク・チュンニ姉妹の反乱)という抵抗はあったが、唐代にはベトナム北部には安南都護府が置かれ中国王朝の支配を受けた。唐滅亡後独立し、丁朝・黎朝をへて1010年に李朝が成立、これが国号を大越国と称し、ベトナム最初の長期王朝となった。都は昇竜(現在のハノイ)。13世紀に陳朝に代わったが、この王朝の時、漢字をもとに独自の文字である字喃が作られた。陳朝の時には3度にわたるモンゴルの侵入を撃退した。1400年に胡朝に代わったが、1407年に明の永楽帝の遠征を受けて併合された。まもなく、1428年に黎朝が独立を回復したが、明への朝貢は続いた。実権は次第に部将たちに移るようになり、17世紀初めから部将の鄭氏、阮氏が争うようになった。18世紀に西山党の反乱が起こると、阮福暎がフランスの援助でそれを破り、1802年にベトナムを統一した(阮朝)。清朝が阮福暎を越南王に封じ、ベトナムの名はこのときに由来する。19世紀中期にはフランスのナポレオン三世の介入が激しくなり、1884年にその保護国となり、清仏戦争を経て1887年、フランス領インドシナに編入された。
 → ベトナムの独立運動   ベトナムの独立  ベトナム社会主義共和国  現在のベトナム
a 阮福映  → 阮福暎
b フランス  
c ナポレオン3世(インドシナ出兵)ナポレオン3世は、宣教師迫害を口実にスペインと共同でベトナムに出兵、1858〜62年のフランス=ベトナム戦争(仏越戦争)を起こした。その結果、1862年にサイゴン条約を結び、キリスト教の布教の自由、コーチシナ東部三省とサイゴンのフランスへの割譲を認めさせた。さらにカンボジアに干渉して、1863年に保護国化した。このナポレオン3世のインドシナ出兵は、かれの一連の外征政策の一環であり、国民的な任期を得るための膨張政策であった。 
d サイゴン条約  
d 劉永福  
e 黒旗軍 清朝末期に、劉永福は天地会に属し、太平天国の乱に加わり、乱後ベトナムに移って安南で農民軍を組織。それを黒旗軍という。安南でフランスに対する抵抗を続けた。清仏戦争では清軍に協力、日清戦争では台湾で日本に抵抗した。 
f カンボジア保護国化 カンボジアに居住する民族をクメール人という。6世紀以降は真臘が繁栄し、9世紀にはアンコール=トム、12世紀にはアンコール=ワットが建設された。シャム(タイ)とベトナムに挟まれ、次第に衰退。1863年フランスの保護国とされた。1945年独立を宣言したが、戦後はベトナム戦争に巻き込まれ、また激しい内戦が展開されて国力を消耗した。 → カンボジア(独立) カンボジア(内戦) 
g ユエ条約  
h ベトナム保護国化  
i 清仏戦争 フランスはナポレオン3世の時代の19世紀後半、第1次、第2次サイゴン条約、ユエ条約などでベトナムを保護国化した。ベトナムへの宗主国を主張する清はこれを認めず、トンキン地方に出兵し、黒旗軍と協力してフランス軍に対抗し、1884年6月、清仏戦争となった。はじめフランス軍が優勢であったが、清軍もよく戦い、台湾ではフランス軍の軍旗を奪ったり、鎮海湾(浙江省)の戦闘では正確な砲撃でフランス軍を攻撃、海軍司令官クールベ提督を戦死させ、ベトナム国境の鎮南関では激しい白兵戦の結果、清軍が勝った。また黒旗軍もベトナムでフランス軍を破った。フランス本国では責任をとってフェリー内閣が倒れた。しかし、現地で善戦しているにもかかわらず、北京の西太后は李鴻章の意見を容れて講和を急ぎ、フランスに譲歩して天津条約を締結した。李鴻章が講和を主張したのは、戦争が長期化すると自分の虎の子の北洋軍閥の兵力をさかなければならなくなることを恐れたと考えられる。<加藤徹『西太后』中公新書2005> 
j 宗主国  → 第8章 2節 宗主国
k 天津条約  
l フランス領インドシナ連邦 インドシナのフランス植民地。「フランス領インドシナ」(仏印)ともいう。直轄領コーチシナ(南部ベトナム)、半直轄半保護国のトンキン(北部ベトナム)、3保護国のアンナン(中部ベトナム)、カンボジアラオスから構成される。 
m ラオス インドシナ中部、メコン川の上流にあり、北は中国とビルマ、東をベトナム、西をタイ、南をカンボジアに囲まれている内陸国。国民はラオ人であるが、山岳部などに多数の少数民族が居住する多民族国家である。14世紀にラオ人のランサン王国が栄えたが18世紀には分裂して衰退、隣国のタイ(当時はシャムといった)の支配を受けた。1893年、フランスとシャムの間の条約によってメコン川以東がフランス領となり、99年にはフランス領インドシナ連邦の一つとしてフランスの植民地支配を受けることとなった。 → ラオスの独立  ラオス内戦  アメリカのラオス侵攻 ラオス人民民主共和国(現在) 
 タイ(2)19世紀までのタイ(1)の王朝の変遷はこちらを参照してください。
近代のタイ(この時代は国号はシャム)のラタナコーシン朝は、19世紀からイギリス、フランスの侵出が始まり、植民地化の危機を迎え、1855年、ラーマ4世はイギリスとの通商条約であるボーリング条約を締結、さらに同様な不平等条約を欧米諸国と結び自由貿易を受け入れた。同時に外国人顧問を多数受け入れ、近代化を図った。次のラーマ5世(チュラロンコン大王)は巧みな外交でイギリスとフランスを操り、両者が牽制し合ったこともあって、タイは国土を大幅に割譲せざるを得なかったものの、東南アジアで唯一、植民地化の危機を脱し、独立を維持することができた。 → タイ(3)第2次世界大戦前 タイ(4)戦後 タイ(5)現代
タイが植民地化しなかった事情:ラーマ4世とラーマ5世の時代、19世紀後半はイギリスとフランスの双方から、激しく領土の割譲を迫られ、その主権も脅かされた時期であった。1893年(日清戦争の前年)7月13日、フランスはチャオプラヤ川河口のパークラムから軍艦をさかのぼらせ、バンコクのフランス領事館前に停泊し、メコン川東岸のタイ領ラオスの割譲を迫った。パークラムでは両軍が衝突しタイ側に20人の死者が出た。やむなくラーマ5世はフランスの要求をのみメコン東岸のラオス全域の割譲などを受け入れた。フランスの侵攻をみたイギリスは1896年、英仏宣言でチャオプラヤ川流域を両国の緩衝地域とし、さらに1904年の英仏協商で緩衝地域の西部と西南部はイギリス、東部と東南部はフランスの勢力圏と承認し合った。このようにタイが干渉地域とされたことによって老国の直接侵攻はこれ以上進むことはなかった。またラーマ5世は、近代化に当たり、欧米各国から顧問を招いたが、特定の国から多くなるとその力が強くなるので、その数のバランスをとるなどの工夫をした。
a ラタナコーシン朝  → 第8章 2節 エ.清朝と東南アジア ラタナコーシン朝
b ラーマ4世 タイ(シャム)のラタナコーシン朝の第4代の王(在位1851〜1868)。王子時はモンクットと称した。若い頃、27年間の出家生活を送る。その間、さまざまな学問を修め、ヨーロッパの文明を積極的に取り入れる姿勢を身につけた。1855年、イギリスの特使ボーリングとの間で通商条約(ボーリング条約)を締結し、宮廷の貿易独占を改めて自由貿易を受け入れたが、同時に定率3%の関税と領事裁判権を認めた。ラーマ5世の父。
Epi. 『王様と私』 ブロードウェイのヒット・ミュージカルを映画にした『王様と私』で、家庭教師デボラ=カーを手こずらせる粗野な王でユル=ブリンナーが演じていたのがラーマ4世だ。これは実在の家庭教師イギリス人女性のアンナ=レオノーウェンスの体験談を本にした『アンナとシャム王』が原作。ただしこの映画は、タイ側からすればラーマ4世(モンクット王)を正しく伝えていないと評判が悪く、タイでは上映禁止になっているという。<『タイの事典』p.69 黒田景子>
 ボーリング条約 タイ(当時はシャム)のラタナコーシン朝ラーマ4世が、1855年にイギリスと結んだ通商条約。ボーリングはイギリスの特使、ジョン=ボーリング Bowring 。イギリスはこの前年に日英和親条約を締結している。この条約では自由貿易の原則、低関税(一律3%)、領事館の設置と治外法権の承認などが定められており、日本と同じ不平等条約であった。タイは同様の条約をアメリカ、フランス、オランダなどの西欧諸国と締結していく。この条約によってそれまで宮廷が独占していた貿易を一般の商人に開放したので、王室や貴族にとっては大きな減収となるがラーマ4世はそれを断行した。
タイの条約改正:ボーリング条約をはじめとするタイが諸外国と結んだ通商条約は、1858年に日本がアメリカなどの諸国と結んだ日米修好通商条約と同様の不平等条約であり、特に領事裁判権は中国人などが英仏の領事館の保護民となって多数流入し、不法を働き、治安が悪化するという問題が生じていた。明治の日本と同じく、近代タイ国も条約改正は悲願となり、繰り返し交渉を試みた。タイは条約改正の見返りとして英仏に領土をそれぞれ割譲せざるを得なくなり、フランスに対してはラオス、カンボジアに隣接する領土、イギリスに対してはマレー半島のタイ領をそれぞれ割譲し、そとのため、タイの最盛期の領土の約半分を失った。それが現在のタイの領土である。そして条約改正が完了するのは締結から85年もたった1940年であった。<『タイの事典』同朋舎 p.158>
c チュラロンコーン(ラーマ5世)  タイ(シャム)のラタナコーシン朝第5代の王(在位1868〜1910)。王子名がチュラロンコーン。ヨーロッパの近代国家の制度を導入、近代化に努め、イギリスとフランスの対立を利用して、独立を維持した国王として、現在も国民の敬愛を受けている。若い頃、イギリス人女性アンナから英語と世界の情勢を学んだことは有名。国王として親政を行い、法律の制定、教育制度や交通、郵便制度などの近代化を実現した。しかし、彼が王政を行っていた時期は、ヨーロッパ列強が植民地拡大から帝国主義に移ろうとしていた時期で、タイにとっても最も困難な時期であった。イギリスはビルマとマレー半島から迫り、フランスはベトナム・ラオス・カンボジアからタイ領をねらっていた。ラーマ5世はイギリスとフランスの対立を利用しながら巧みに独立を維持することに成功したが、反面、領土的には大幅な割譲を認めざるを得なかった。国家の独立と主権の維持の代償として、身を削ったことになる。彼はタイの最大で最高の学府、チュラロンコン大学に名をとどめている。
Epi. ラーマ5世と明治天皇 ラーマ5世の在位した1868年から1910年という年代をみて、気がついただろうか。そう、彼の在位期間は明治元年から明治43年に当たり、明治天皇のほとんど同じなのである。またいずれもこの時期の両国とも欧米の圧力を受けて開国しながら植民地化の危機を脱し、国家・社会の近代化を進め、条約改正に努力したことも、共通している。そんなこともあって、タイと日本の皇室は親近感を感じているらしい。しかし、明治の日本が富国強兵から軍国主義に傾斜していくことになり、その後の歩みはかなり違うものとなった。