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2 ヨーロッパの再編
ア.東方問題とクリミア戦争
 東方問題 19世紀、オスマン帝国の混乱の中で、帝国に支配されていたギリシア人やスラブ人、アラビア人、エジプトなどでの民族独立が起きると、ロシア、イギリス、フランスなどのヨーロッパ列強が介入して抗争したことを東方問題という。バルカン半島・黒海、中東への進出をねらい南下政策をとるロシアと、それを警戒しつつ、同様な進出をはかろうとしたイギリス、フランスが抗争した。19世紀を通じ、セルビアの独立運動、ギリシア独立戦争エジプト=トルコ戦争クリミア戦争露土戦争などが起こったが、19世紀後半に急速に力をつけたドイツのビスマルクが調停した1878年のベルリン会議で一応の終結を見る。しかし、その後も列強の対立はバルカン問題として継続し、第1次世界大戦の要因となっていく。
a オスマン帝国  
b ロシア  → 第9章 4節 ロマノフ朝ロシア
c 不凍港  
d 南下政策(ロシア)18〜19世紀のロマノフ朝ロシアによる、オスマン帝国支配下のバルカン半島、黒海沿岸を奪い、東地中海から中東方面に進出することをめざす政策。18世紀のピョートル大帝エカチェリーナ女帝の時代に始まり、19世紀にはバルカン半島でのオーストリアとの対立、中東におけるイギリス、フランスの利権にとって脅威となり、いわゆる東方問題の直接的な要因となった。南下政策の口実となったものが聖地管理権とギリシア正教徒の保護、パン=スラブ主義であった。ギリシア独立戦争、エジプト=トルコ戦争への介入を経て南下政策を進めたロシアは、クリミア戦争で敗れて一旦挫折したが、19世紀後半、アレクサンドル2世は国内の改革を進めるとともに、再び南下政策をとり、露土戦争で大幅な進出を勝ち取ったが、西欧諸国の反発により、ベルリン会議で後退を余儀なくされ、南下政策は失敗に終わった。
ロシアの南下政策はバルカン半島と黒海方面だけではなく、黒海とカスピ海の間のカフカス地方でのカージャール朝イラン領への侵攻、中央アジアへの侵出(カザフ草原からトルキスタン方面)、さらにアフガニスタンへの侵出、そしてピョートル1世以来の中国との国境協定と東方への侵出(満州から日本海方面へ)の侵出も行われていた。
イラン及び中央アジア方面へのロシア(及びその後継国家としてのソ連)の進出は、アフガニスタンとインドでの権益への脅威であると捉えたイギリスとの厳しい対立を生むこととなる。また、東アジアと中央アジア方面における18世紀の中国の清朝との国境紛争、日本海方面での不凍港建設の動き、日露戦争の要因となった20世紀初頭の満州進出なども広く南下政策に含まれる。
 第1次エジプト=トルコ戦争 オスマン帝国の宗主権の下にあった、エジプト総督ムハンマド=アリーがオスマン帝国(トルコ)からの独立を企てた戦争で、ロシア・フランス・イギリスなどが介入し、東方問題の典型的な国際紛争となった。第1次と第2次がある。エジプト事件とも言う。
第1次エジプト=トルコ戦争(1831年〜33年)は、ムハンマド=アリーがギリシア独立戦争でオスマン帝国を支援した功績で、クレタ島・キプロス島を得たが、次いでオスマン帝国からの独立運動を始め、シリアに進出した。この機に黒海から地中海への進出をねらったロシアはトルコを援助した。ロシアの進出を警戒したイギリスとフランスはトルコに干渉し、シリアや北アフリカなどの統治権をエジプトに譲渡することを認めさせた。それに不満なトルコのマフムト2世は、ロシアとウンキャル=スケレッシ条約(1833年)を結び、黒海とダーダネルス=ボスフォラス海峡のロシア艦隊の航行権を認める条件でその支援を受けることとなった。 → 第2次エジプト=トルコ戦争
a 第2次エジプト=トルコ戦争 第2次エジプト=トルコ戦争(1839年〜40年)は、オスマン帝国(マフムト2世)はシリア奪還を目指して出兵したが、ネジブの戦いで大敗した。優位に立ったエジプト総督ムハンマド=アリーがエジプトとシリアを合わせた総督の世襲権を要求した。フランスは当時アルジェリアに侵攻し、アブドゥル=カーディルの抵抗を受けていたので、それを挟撃するためエジプトと結ぼうとしていた。イギリスはエジプトの強大化とフランスの進出を警戒し、トルコ支援に動いた。ロシアもウンキャル=スケレッシ条約に基づいてトルコを支援、オーストリア・プロイセンも同調した。結局、フランスも孤立を恐れてエジプト支援を断念した。ムハンマド=アリーは単独で出兵し、イギリス軍に大敗し、全占領地を放棄した。1840年、フランスを除外したイギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアの4ヵ国とオスマン帝国の間でロンドン協定が締結され、結局ムハンマド=アリーはエジプト・スーダンの総督の世襲権を認められただけで終わった。→ ロンドン会議  
a フランス  → 第12章 1節 フランスの七月王政
b ロシア  
 クリミア戦争 1853〜56年、いわゆる東方問題の中で起こったロシアとオスマン帝国(タンジマートの進行中であった)の戦争。フランス(ナポレオン3世)とイギリスがトルコを支援し、実質はロシア軍対フランス・イギリス連合軍の戦争となった。
オスマン帝国の弱体化に乗じ、黒海から中近東方面への南下政策を強めるロシアに対し、イギリスとフランスが警戒し、まず、フランスナポレオン3世がトルコに対し、パレスティナの聖地管理権を要求し認めさせた。ロシアニコライ1世は、トルコ領内のギリシア正教徒の保護(1774年のキュチュク=カイナルジャ条約で認められていた)を口実にトルコに同盟を申し込む。トルコがそれを拒否したので、1853年7月、ロシアはトルコに宣戦、両国の戦闘が始まった。54年3月、イギリス(パーマーストン内閣)はナポレオン3世にはかり、トルコを支援するため参戦した。またサルデーニャ王国がフランスの好意を得ようとして英仏側に参戦。戦いの焦点はクリミア半島セヴァストポリ要塞の攻防戦になり、英仏軍の補給も困難で、戦闘は長期化し、ようやく55年8月、セヴァストポリが陥落してロシアの敗北で終わった。翌年パリ講和会議が開催され、講和条約としてパリ条約が締結された。この勝利の結果、フランス国内におけるナポレオン3世の人気は高まった。なお、この戦争の時、イギリスの看護婦ナイティンゲールが従軍し、敵味方の別なく負傷者の看護にあたり、国際的な救援機関としての赤十字運動の基となったことは有名。この時期、世界では、インドの大反乱(シパーヒーの乱)、中国で太平天国の乱日本の開国などがあり、まもなくアメリカで南北戦争が勃発する。クリミア戦争の敗北の中で、ニコライ1世は戦争中の1855年に死去し、代わって即位したアレクサンドル2世は、ロシアの近代化の必要を痛感し、1861年に農奴解放令などの「上からの改革」を進め、1870年代には再びバルカン方面への侵出を行うこととなり(露土戦争)、また並行して東アジアへの関心を強めていく。
a 聖地管理権 クリミア戦争のきっかけとなった、聖地イェルサレムの管理権をめぐるロシアとフランスの対立。パレスティナのイェルサレムはオスマン帝国領内に取り込まれていたが、その地の聖墳墓教会やベツレヘムの聖誕教会などのキリスト教聖地の管理権は、オスマン帝国がフランスに対して認めたカピチュレーションを根拠に、16世紀以降、フランス王が持つようになった。フランス革命の混乱の中でフランスが後退したすきに、ロシアに支援されたギリシア正教徒がその管理権をオスマン帝国に認めさせた(1851年)。1852年に即位したフランスのナポレオン3世はカトリック教会が支持基盤であったので、聖地管理権を回復しようとオスマン帝国に要求して認めさせた。ロシアのニコライ1世はフランスの進出に対抗して、オスマン帝国に対し聖地管理権の復活と、ギリシア正教徒の保護を口実に同盟を申し込んだがトルコに拒否されたので、1853年、オスマン帝国に宣戦布告し、クリミア戦争となった。
b ニコライ1世 ロシア皇帝、在位1825〜55。兄のアレクサンドル1世の急逝によって皇帝となり、その即位の時にデカブリストの反乱が起こり、即位とともに鎮圧した。ツァーリズムの強化に努め、ウィーン体制の保守反動体制の一翼を担った。1848年にヨーロッパ各国の革命が勃発すると、オーストリアやポーランドでの革命運動を鎮圧し、「ヨーロッパの憲兵」といわれた。さらにオスマン帝国の弱体化に乗じ、エジプト=トルコ戦争に介入、黒海方面への進出を図り、さらに南下政策を強めて聖地管理権をめぐってオスマン帝国・フランスとの間で1853年にクリミア戦争を起こし、敗北が決定的となる中で病死した。東方への進出にも積極的で、クリミア戦争の最中、プチャーチンを日本に派遣し、1855年、日露和親条約を締結した。
c フランス  
d イギリス  
e クリミア半島  → 第10章 1節 クリミア半島
f パリ条約 クリミア戦争の講和会議であるパリ講和会議の結果、1856年3月30日に締結された講和条約。イギリス、フランス、プロイセン、オーストリア、サルデーニャ、オスマン帝国の間で締結。ロシアの南下政策を阻止するのが目的。結果的にイギリスの主張する方向でオスマン帝国(トルコ)の領土保全が図られた。
主な内容は、
 ○オスマン帝国(トルコ)の領土尊重
 ○1841年のダーダネルス・ボスフォラス海峡閉鎖の確認と黒海の中立
 ○ドナウ川自由航行の原則と航行国際監視委員会の設置、
 ○ロシアはベッサラビアをモルダヴィアに譲る、
 ○モルダヴィア・ワラキア(ルーマニア)、セルビアの自治の承認など。
これによってロシアの南下政策はいったんおさえられることとなったが、1870年代のアレクサンドル2世はふたたび南下政策を強め、1877年に露土戦争を起こし、78年のサン=ステファノ条約でバルカン進出を図ったが、イギリスはロシアの行動をこのパリ条約違反であると非難して問題化し、ベルリン会議開催となり、ビスマルクの巧妙な外交によりロシアの南下政策はふたたび抑えられることとなる。
g ダーダネルス=ボスフォラス両海峡 エーゲ海と黒海を結ぶ海峡。エーゲ海側にダーダネルス海峡、黒海側のボスフォラス海峡、その間にマルマラ海がある。イスタンブルがあるのはボスフォラス海峡。古来東西交渉の要地である。オスマン帝国(トルコ)の登場以来、その支配下に入っていたが、特に南下政策をとるロシアにとっては黒海艦隊を地中海方面に進出させるためにはどうしても通過しなければならず、その航行権の獲得を狙った。その経過を見ると次のようになる。
1774年 トルコ、キュチュク=カイナルジャ条約で、ロシアに商船の通過を許可する。
1809年 列強の妥協により、すべての国の軍艦の航行禁止される。
1833年 トルコとロシアでウンキャル=スケレッシ条約締結。ロシア軍艦の航行を認め、他国の軍艦の航行は禁止。
1841年 ロンドン会議5国海峡協定締結。ウンキャル=スケレッシ条約を廃棄、各国軍艦の航行禁止、海峡封鎖。
1856年 クリミア戦争後のパリ条約で、海峡封鎖の原則確認。
1878年 露土戦争後のベルリン会議でも海峡封鎖の原則維持。
1920年 第1次大戦後のセーヴル条約で、海峡支配権は、英、仏、伊、日、ギリシア、ブルガリア、ルーマニアからなる国際海峡委員会が運営。トルコは各国の船舶、軍艦、航空機の通過の自由を認めた。
1923年 ローザンヌ条約でセーブル条約の原則を継承
1936年 モントルー会議、ソ連の提唱で開催され、黒海沿岸国以外の軍艦・航空機の通過は制限される。
h 黒海の中立化  
イ.ロシアの改革
 アレクサンドル2世 クリミア戦争の最中の1855年3月2日に死去したニコライ1世にかわって即位したロシア帝国ロマノフ朝の皇帝(ツァーリ)。クリミア戦争の敗北からロシア帝国を再起させるために、農奴解放令の公布などの上からの近代化を図り、国力の回復を図った。その上で積極的な南下政策を再開し1877年に露土戦争(ロシア=トルコ戦争)を起こし、オスマン帝国に勝利してバルカン半島から地中海方面への進出を実現させかけたが、ベルリン会議でのビスマルクの巧妙な外交によってその動きは阻止された。近代化とは裏腹な専制政治は、めざめ始めたロシア民衆から離反し始め、1881年テロリストによってアレクサンドル2世が暗殺された。その後ロシア帝国のツァーリズム専制政治は矛盾を強めていく。
アレクサンドル2世の内政:クリミア戦争での敗北は、ロシア陸軍の不敗−あのナポレオン軍に勝利した−の神話をうち砕き、その帆船を主体とした海軍は連合軍の蒸気船海軍に惨敗し、ロシアの後進性が明かとなった。アレクサンドル2世が取り組まなければならない課題は、まず遅れたロシアの社会の近代化であった。中でも農奴制は、自由な商業や産業の発達の足かせとなっていたので1861年農奴解放令を公布した。また司法制度、軍事制度、教育制度などでも近代化を図る改革を進めた。 60年代にはロシアの産業革命も始まった。しかしその上からの改革は、ツァーリズムの圧政に対する反発を呼び覚まし、1860〜70年代にはナロードニキ運動が盛んになった。1881年には、アレクサンドル2世暗殺がおこることとなる。
アレクサンドル2世の外政:対外的には、1863年のポーランドの反乱の弾圧など、自由主義・民主主義・民族主義に対しては厳しく弾圧する姿勢を続け、依然としてヨーロッパの憲兵と言われている。1873年には、普仏戦争の勝利で成立したドイツ帝国のビスマルクの働きかけに応じて、三帝同盟を結成した。またバルカン、東地中海方面への南下政策を再開し、1877年には露土戦争でトルコを破り、サン=ステファノ条約でバルカン半島進出を実現しかけたが、イギリス・オーストリアの反発を受け、ドイツのビスマルクの調停によりベルリン会議が開催された結果、そのバルカン進出は阻止された。その後も三帝同盟、独露再保障条約など、の巧妙な外交によってその枠組みの中に組み込まれてしまった。また、財政難からアラスカをアメリカ合衆国に売却したのもこの時代である。一方、中央アジア方面での南下政策に転じ、トルキスタンへの侵攻を展開し、1876年までにほぼ征服してタシケントにトルキスタン省を設置して植民地支配を開始し、イラン・アフガニスタンを緩衝地帯としたイギリスとの対立が厳しくなった。
a クリミア戦争  → クリミア戦争
b 農奴解放令 19世紀中頃の帝政ロシアでは、人口6000万人、そのうち1200万人が自由民で、その中の約100万が貴族であった。貴族のうち、農奴を所有したロシア人貴族は約9万とされる。かれらは上は1000名以上の、下は100名以下の農奴を所有し、領土を耕作させていた。農奴は2250万を数える。<世界各国史『ロシア史』p.296による。>
かれら農奴は、土地に縛り付けられ、両種である貴族に、賦役や年貢を負担していた。このようなロシアの農奴制ツァーリズムを支えていたが、19世紀に入りアレクサンドル1世やニコライ1世の時代にはその廃止を求める声も強くなってきたが、実現しないままであった。クリミア戦争に敗れたアレクサンドル2世は、「上からの改革」によるロシア社会の近代化を必要と考え、1861年2月に「農奴解放令」を公布した。
農奴解放令の要点:その要点は次のようなことである。
・農奴は人格的に解放された。
・しかし、農奴が耕作していた土地は、有償で分与される(地代の約16倍で)ことになった。
・分与地を買い取る代金は国が肩代わりし、農民は国に49年年賦で支払うことになっていた。この支払いは解放された農民にとっても重い負担とになった。
・分与地は農民個人に与えられるのではなく、まとめて共同体(ミール)に渡され、そこから農民が支払額に応じて分与地を得ることになっていたが、支払える農民は稀で、ほとんどが共同体の所有となった。
意義:このように農奴解放令は、ただちに自作農を創出することにはならず、ロシアの後進性は依然として根強く残存した。アレクサンドル2世の農奴解放は不十分なものであったが、これを機に1860年代以降、ようやくロシアでも産業革命が始まることとなる。<外川継男『ロシアとソ連邦』講談社学術文庫 p.252 など>
c ミール ロシア社会に形成された農民共同体をミールという。自治的な共同体であるとともに、ツァーリズムの農村支配にとっての重要な単位となった。ミールでは構成員の戸主の中から長を選び、租税などでの連帯責任を負い、アレクサンドル2世の改革では土地を分与される対象ともなった。またロシア第一革命後のストルイピンの改革は、ミール共同体を解体して自作農を創設しようとしたがいずれも失敗した。→ ミールの解体
d ポーランドの反乱 ウィーン体制下のポーランド独立運動に続き、1863年1月、ロシアの支配下にあったポーランドで起こった反乱。1月22日に蜂起、「臨時国民政府」を宣言し、「農民解放令」を発布して農民に無償で土地を与え、地主には補償を約束した。反乱は18ヶ月にわたって続いたが、最終的にはロシア軍に鎮圧され、ポーランドは自治権を奪われ、ロシア語の強制などが進んだ。しかし、ロシアも反乱側と同じ農民解放令を出すなど、妥協しなければならなかった。なお、この時イギリス・フランスの労働者の中に、ポーランド救済のための国際的な組織の必要が叫ばれ、1864年ロンドンで第1インターナショナルが結成されている。しかし、同時にアメリカで南北戦争が始まっており、列強の耳目はそちらに向いていっため、ロシアに対する圧力にならなかった。独立を目指す運動はさらに継続され、第一次世界大戦後にようやくポーランドの独立が達成される。
Epi. 猟銃や大鎌で戦ったポーランド人 当時「赤党」と言われた愛国派の青年たちは1月22日に決起した。ロシアは蜂起を予想して約10万の軍隊をポーランドに駐留させていた。それに対して蜂起したのは6000人足らず、武器は猟銃や大鎌であった。戦闘はほとんど成功しなかった。この一月蜂起ほどの悪条件で立ち上がった例はない。しかし、パルチザン闘争は蜂起に批判的だった有産者たちの独立派である白党も加わるようになり、「臨時国民政府」も秘密の行政機構を張り巡らし、抵抗を続けた。<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』1980年 三省堂 p.110〜>
 ナロードニキ運動 1860〜70年代に活発になったロシアの革命運動。ツァーリズム支配を倒し、社会主義を実現する運動を、ロシア独自のミール(農村共同体)にひろめることで革命に結びつけようとした。バクーニンのアナーキズムの思想の影響を受けた青年、学生などのインテリゲンツィアが、「ヴ=ナロード」(人民の中へ)を合い言葉に、農村の中に入り革命思想の宣伝に勤めた。しかし、保守的な農民を動かすことが出来ず、次第に絶望して、一部はテロリズムに走り、一方ではニヒリズムに陥っていった。
a インテリゲンツィア 貴族や豊かな階層の出身者の「知識人」で、西欧社会の進歩思想や、社会主義思想に共鳴し、ロシアの後進性を克服し、社会改革を行う必要を説いた。1830年のゲルツェンやベリンスキーなどが先駆的な人物である。ツルゲーネフの『父と子』などの作品はインテリゲンツィアの苦悩を描き、ドストエフスキーは一時その運動に加わり、流刑となっている。
b  ヴ=ナロード(人民の中へ) 1860〜70年代に、ロシアのインテリゲンツィアの青年の間でひろまった、農民の中に入り革命思想を広める運動のスローガンとなった言葉で、ヴ=ナロードがロシア語で「人民の中へ」という意味。そこで彼らをナロードニキと称した。
c テロリズム ナロードニキ運動が行き詰まる中で、社会改革を大衆的、組織的に進めることに限界を感じた人々は、直接的な暴力で権力者を倒すことに走った。1881年のアレクサンドル2世暗殺事件の他、70年代に多発した。
d  ニヒリズム 革命運動の挫折によって、方向性を見失い、あらゆる権威や秩序を否定するようになったインテリゲンツィアの思想。虚無主義。 
e アナーキズム(無政府主義)社会改革の方向性で、国家の存在を否定し、権力からの個人の完全な自由を目指す思想。無政府主義といわれる。国家機構に代わる、労働組合を通じて労者が社会に参画するアナルコ・サンディカリズムにつながっていく。19世紀前半のフランスのプルードンに始まり、後半にロシアでバクーニンクロポトキンなどが出現し、一つの勢力となった。やがてボルシェヴィズムが台頭すると激しい論争と路線闘争を展開する。
アナーキズムの語源:古代ギリシアのポリスで、執政官(アルコン)が以内状態を「アルコン無し」の意味で「アナルキア」といった。それがアナーキズムの語源である。 
 露土戦争(ロシア=トルコ戦争)1877年〜78年に起こった、ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の戦争。ロシアのアレクサンドル2世は、南下政策の意図のもとにバルカン半島への勢力拡大をはかり、ギリシア正教徒の保護を口実にオスマン帝国に対し宣戦した。勝利したロシアが、78年のサン=ステファノ条約で有利な条件を獲得したが、イギリス・オーストリアが反発し、ドイツのビルマルクの調停によりベルリン会議が開催されることとなる。
オスマン帝国支配下のバルカン半島で、まずボスニア・ヘルツェゴヴィナのスラブ系民族が反乱を起こし、セルビア人、モンテネグロも同調した。パン=スラブ主義を標榜して南下政策をとるロシアはバルカン進出の好機と捕らえ、1877年4月、アレクサンドル2世はスラブ系民族キリスト教徒(ギリシア正教)の保護を口実にトルコに宣戦布告した。イギリスはロシアに対し、パリ条約違反にあたると警告したが、ロシアは軍を進め、翌年1月アドリアノープルを占領し、イスタンブルに迫った。やむなくオスマン帝国は講和に踏み切り、1878年3月イスタンブル近郊で講和会議を開き、サン=ステファノ条約を締結した。
このロシアのバルカン進出を警戒したイギリスとオーストリア=ハンガリー帝国が強く反発し、ドイツのビスマルクがベルリン会議を召集して調停した。
オスマン帝国は露土戦争勃発の前年、タンジマートが推進される中、ミドハト憲法を制定したが、アブデュル=ハミト2世は戦争勃発を理由に憲法を停止し、再びスルタンの専制政治のもとに置かれることとなった。
a パン=スラブ主義 ロシアが、バルカン半島に居住するスラブ系の諸民族が統合し、連合してオスマン帝国支配下から脱しようと言う動き。ロシアは同じスラブ系民族と言うことでその運動を応援し、自らのバルカンへの進出という南下政策の足がかりにしようとした。
1875年バルカン半島のボスニアとヘルツェゴヴィナで、スラブ系のセルビア人がトルコに対する蜂起を始めた。かれらはギリシア正教徒であり、支配層のイスラム教徒への反発が根強かった。翌年は、ブルガリアでも正教徒の反乱が始まった。ロシアは正式な介入はしなかったが、多数の義勇兵が「バルカンの同胞を救え」というキャンペーンのもと、セルビアなどに支援に向かった。
b サン=ステファノ条約 1878年締結のロシアとトルコ間の露土戦争の講和条約。ロシアは黒海沿岸に領地を拡大、セルビア・モンテネグロ・ルーマニアのオスマン帝国からの独立、ボスニアとヘルツェゴヴィナでは改革の実施、ブルガリア公国はトルコの宗主権のもとで自治公国となり、黒海からエーゲ海に及ぶ広大な領地を認められた(これを大ブルガリアという)。しかし事実上はブルガリアはロシアの保護下におかれ、ロシアの勢力が地中海の呼ぶことを意味していた。このように露土戦争でのロシアの勝利とサン=ステファノ条約締結はロシアのめざすパン=スラブ主義の大きな前進であり、バルカン半島の力関係を揺るがすことになるので、イギリス、オーストリア=ハンガリー帝国が強く反発した。特にイギリスは1856年のパリ条約(クリミア戦争の講和条約)に反するとしてサン=ステファノ条約の破棄をロシアに迫った。オーストリアの主張によってバルカン問題に関する国際会議が開催されることになり、ドイツ帝国のビスマルクが調停に乗り出し、同年にベルリン会議が開催された。その結果成立したベルリン条約ではサン=ステファノ条約が大幅に修正され、スラブ系諸国の領土は削減、ロシアのバルカン進出も阻止された。
c ベルリン会議  → ベルリン会議
d アレクサンドル2世暗殺1881年、ロシア皇帝アレクサンドル2世を暗殺したのは、ナロードニキの流れをくむ「人民の意志」を名乗るテロリストたちであった。アレクサンドル2世の後を継いだアレクサンドル3世は、ツァーリズム強化をめざし、反体制派の徹底した弾圧に乗り出した。また、暗殺をユダヤ人の犯行であると決めつけ、ユダヤ人に対する激しい迫害(ポグロム)を始めた。このころからロシアを逃れてアメリカなどに移住するユダヤ人が急増した。
Epi. 27歳の女性テロリスト、アレクサンドル2世を暗殺 テロリストの中心となったのはソフィア=ペロフスカヤという看護婦で、27歳という若さだった。彼女は貴族の出だったが、ヴ=ナロードの運動に共鳴して家を出、農民を助けるために薬学を学び看護婦となった。労働者に対する政府の激しい迫害を体験し、社会変革のためには専制君主を暴力で倒すしかないと決意し、テロルを実行することを決意したのだった。1881年3月1日(旧暦)、ソフィアたちはかねて準備したアジトで宮殿に帰る途中のアレクサンドル2世を爆弾で襲撃し、その命を奪った。ツァー殺害は世界中を驚かせ、政府は犯人逮捕に狂奔し、10日にソフィアも逮捕され、4月15日に仲間とともに処刑された。<荒畑寒村『ロシア革命運動の曙』1960 岩波新書 p.74〜>
ウ.イギリスのヴィクトリア時代
 ヴィクトリア時代(朝)イギリスのヴィクトリア女王の統治は、1837年から1901年までであるが、特にヴィクトリア朝と言われるのは、19世紀後半の半世紀間。イギリスの「世界の工場」といわれる工業力が他国を圧し、1877年にはインドを併合して、その広大な植民地ではパックス=ブリタニカといわれた大英帝国が繁栄した時代。
イギリスでは、16世紀後半のエリザベス1世の時代と、この19世紀後半のヴィクトリア朝という女性を国王として戴いた時代に繁栄したと言われている。
a ヴィクトリア女王 1837年、伯父ウィリアム4世の死によって、わずか18歳でイギリスの女王となった。それから64年間、イギリスに君臨し、20世紀の初頭の1901年に死去した。彼女の統治時代の19世紀後半は、まさにイギリス帝国が最も繁栄した時代である。国内政治では保守党と自由党の二大政党による典型的な政党政治が行われ、外交では1877年にインド皇帝を兼ね、インドをはじめとする広大な海外植民地を支配し、自治領と併せて、「大英帝国」の繁栄を謳歌した。女王は家庭生活ではアルバート公と結婚し、9人の子供の母となった。その子供たちはヨーロッパ各国の元首と結婚するなど、血縁政策を進めた。
b ロンドン万国博覧会 1851年、ロンドンで開催された世界最初の万国博覧会。イギリスのヴィクトリア朝の繁栄を象徴する祭典であった。ヴィクトリア女王の夫アルバートを総裁としてイギリスの国家的事業として準備され、その象徴は全館ガラス張りの水晶宮(クリスタル・パレス)と名づけられたパビリオンであった。5月から10月までの会期に800万を動員、イギリス全土から団体割引の切符で鉄道を利用し見物客が集まった。先進工業国としてのイギリスの威信を世界に示したものとなった。
 二大政党制 19世紀中頃のヴィクトリア朝からイギリスで始まった、二大政党が交互に政権を担当しながら国政を運営する政治形態。二大政党が交替することによって、長期政権による政治の腐敗や停滞を生まないという利点がある。ブルジョア議会政治の一つのあり方として、イギリスの保守党と自由党(20世紀には保守党と労働党)、アメリカの民主党と共和党、ドイツのキリスト教民主同盟(CDU)と社会民主党(SPD)などが典型的な例である。戦前の日本も、政友会と民政党という二大政党の時代があったが、戦後は自由民主党の長期政権が続き、様々な腐敗が生じたため、二大政党制の実現が叫ばれるようになり、それを生み出す装置として小選挙区比例代表制が導入されたが、いまだにうまく機能していない。
a 保守党 1830年代、トーリ党が保守党(Conservative Party)と呼ばれるようになった。おおむね農業的利益を商工業的利益に優先させる傾向がある。1846年の穀物法廃止をめぐって分裂し、自由貿易派(ピールなど)は自由党に吸収された。残った保守党を指導したのがディズレーリであり、60〜80年代にグラッドストンの指導する自由党との二大政党政治の一翼を担う。1886年アイルランド問題で自由党が分裂して成立した自由統一党(ジョセフ=チェンバレンら)が接近、両党合わせて統一党と言われるようになる。第1次大戦後、労働党が台頭し、自由党が没落するとその保守的な部分を吸収し、1912年に保守党に正式に統合された、それ以後は、労働党と二大政党政治を展開、ネヴィル=チェンバレンらが労働党のマクドナルドらと対抗した。第2次大戦以後の保守党は、チャーチル(戦前には一時自由党に属す)、イーデン、マクミラン、サッチャー、メイジャーなどが内閣を組織した。
b 自由党 それまでのホイッグ党が、1830年ごろに自由党(Liberal Party)と呼ばれるようになった。産業ブルジョアジーの利益を代表する政策を主に主張したが、その指導者グレー(第1回選挙法改正)、メルバーン、ラッセル、パーマーストンらはいずれも地主出身である。1865年以降、グラッドストンが指導した時期はブルジョア的自由主義の政策をとって保守党との二大政党時代を現出した。1886年、アイルランド問題をめぐってジョセフ=チェンバレンらが分裂して自由統一党を結成、自由党は党勢を次第に失う。20世紀初頭には党勢を回復し、アスキスが積極的な改革を進め、ロイド=ジョージが第1次世界大戦期と戦後のヴェルサイユ体制の指導で活躍したが、戦後は労働党に押され、1922年の総選挙では第3党に転落、その後は少数政党として低迷している。現在のイギリスの二大政党は保守党と労働党である。
c ディズレーリ 政治家であると同時に小説家でもあった。19世紀後半の保守党の代表的な政治家であるが、保守党を単なる地主階級の政党ではなく、民主主義的な国民政党に脱皮させることを目指した。1867年の第2次選挙法改正は彼の提案で実現した。70年代にかけて2次の保守党内閣を組織、スエズ運河の買収(75)、ヴィクトリア女王をインド皇帝とし、インド帝国を成立させ完全支配する(77)、第2次アフガン戦争によるアフガニスタンの保護国化など、19世紀末からの帝国主義政策につながる膨張策を推進した。
d グラッドストン 19世紀のヴィクトリア朝、二大政党時代の自由党を代表する政治家。また、好敵手であった保守党のディズレーリが帝国主義政策を推進したのに対して、19世紀的なブルジョア自由主義の代表的政治家といえる。はじめ保守主義の政治家として出発したが、穀物法廃止に賛成して次第に自由主義貿易を主張するようになる。パーマーストン内閣の蔵相として実績を上げ、1868年(明治元年に当たる)から1894年(明治27年、日清戦争の年)までの間に4次にわたって自由党内閣を組織した。
第1次グラッドストン内閣(1868〜74年):アイルランド国教会制廃止法(69年)、アイルランド土地法(小作人保護を目的とする第一次法、70年)、初等教育法(70年)、労働組合法(71年)、秘密投票法(無記名投票法、72年)など一連の改革を矢継ぎ早に実現させた。
第2次グラッドストン内閣(1880〜1885年):第2次アイルランド土地法(81年)、第3次選挙法改正(84年)を実現。
第3次グラッドストン内閣(1886年):第1次アイルランド自治法案を提出するも自由党内のジョセフ=チェンバレンが反対し、自由党は分裂し、議会でも否決された。
第4次グラッドストン内閣(1892〜94年):第2次アイルランド自治法案を議会に提出。下院では可決されたが、上院で否決される。
彼が追求したアイルランドの解放は、保守勢力の抵抗でついに生前には実現できなかった。 → 19世紀のアイルランド問題
 選挙法の改正(イギリス)イギリスの選挙法改正の歴史は、次の3段階、5次にわたっている。
19世紀前半:産業革命後の産業資本家、労働者階級の成立を受けて、19世紀初めの選挙法改正運動の気運が高まる中、1832年に第1回選挙法改正が行われ、腐敗選挙区が無くなり、都市の中産階級に選挙権が拡大された。しかし財産制限は残り、普通選挙は実現しなかったので、30〜40年代にチャーティスト運動が展開されたが、普通選挙は実現できなかった。その間、トーリー党とホイッグ党は分裂と統合を繰り返しながら、次第に近代的な政党に変質し、保守党と自由党という2大政党に変質した。
19世紀後半:この時期の二つの政党は保守的と革新的という性格の違いはあるが、いずれもブルジョア政党であり、当時の代表的政治家の保守党ディズレーリ、自由党グラッドストンは共に選挙法改正は不可避と考え、それぞれ党内の保守派の抵抗に遭いながら、改正案を議会に提出した。その結果、1867年第2回改正は保守党ダービー内閣(ディズレーリが内務相)のもとで選挙資格を下げて都市労働者に有権者が広がり、1884年第3回改正は自由党グラッドストン内閣のもとで実現し、農村労働者に広がった。労働者階級に選挙権を付与することによって、民主主義の実現を図るべきであるという思想は、産業革命期の政治思想家で「最大多数の最大幸福」を説いたベンサムや、ヴィクトリア時代のジョン=ステュアート=ミルなどの功利主義者によって理論づけられていた。しかし、イギリスでは19世紀中は財産制限の完全な廃止、つまり普通選挙は実現されなかった。男子普通選挙はフランスではすでに1848年以来、実施されている。
20世紀前半:イギリスで普通選挙制が実現するのは、1918年の第4回選挙法改正の時で、そのとき21歳以上の青年男子と、30歳以上の女性に選挙権が認められた。また1928年の第5回選挙法改正で、21歳以上の男女と改正されて、完全な男女平等の普通選挙が実現された。 → 男子普通選挙 女性参政権
a 第2回選挙法改正 第2回選挙法改正は、1867年、保守党のダービー内閣の時にディズレーリの提案で行われた。(前年自由党のラッセル内閣でもグラッドストンが同様の提案をしたが、同党内の保守派の反対で総辞職していた。)この改正では、11の選挙区を廃止し、35の選挙区の定員を各1名とし、その余剰の議席を他の選挙区に配分した。選挙資格も引き下げられたため、都市の労働者の殆どが有権者となり、有権者は約100万人以上増加した。
 都市労働者 
b 第3回選挙法改正 第3回選挙法改正は、1884年、自由党グラッドストン内閣で実施された。その結果、農村労働者の大部分が有権者となり、700万人のイギリス成人男性の中の約500万人が有権者となった。しかしまだ完全な普通選挙ではなく、女性の選挙権も認められていない。
 農業労働者 
c 教育法 イギリスはフランスに比べて初等教育の普及では大きく出遅れており、教会が建てた学校に政府が補助費を出すだけであった。そこで1870年には自由党のグラッドストン内閣の手で教育法が制定され、公立学校が設立され、後に初等教育は義務制となった。これによってそれまで4分の1にすぎなかった初等教育の普及率が、1910年には4分の3まであがった。しかし中等教育を受けることができたのは一部の貴族がイートンやハローなどの伝統的なパブリック=スクール(私立学校)で学ぶだけで、教育の身分格差は大きかった。
d 労働組合法 イギリスの労働組合運動においては、1840年代までにチャーティスト運動の時代は終わり、労働者の運動も資本主義の中で合法的な地位を占め、資本家と対等に交渉して、労働条件や賃金を改善する範囲では労働組合の活動は一般化した。1867年の第2回選挙法改正で選挙権を認められた都市労働者は議会に進出し、1871年にグラッドストン自由党内閣のもとで労働組合を合法とする労働組合法を制定するのに成功しストライキ権(争議行為)も認められるようになった。
 アイルランド問題 (19世紀)イギリス宗教革命で成立したイングランドの国教会がアイルランドにも強要されると、カトリック教徒の反発が始まった。17世紀にはいり、ジェームズ1世の時代に北アイルランドにプロテスタントが入植するようになって、特に北アイルランドには新旧両派が混在する状態となった。1649年、ピューリタン革命によって権力を握ったクロムウェルは、カトリック勢力を抑えることを名目にしてアイルランド征服を行い、カトリック系住民の土地を奪うなど、実質的な植民地化を強行した。こうしてアイルランドの土地はイギリス人地主の所有となり、アイルランド人は小作人の立場におかれてきた。17世紀後半の王政復古期にはスコットランドの長老派信者が弾圧を逃れてアイルランドに移住して、北アイルランド(アルスター地方)ではプロテスタン住民の方が多数となり、信仰の違いからたびたびカトリック信者と衝突するようになった。
アイルランド併合と融和策:アメリカの独立、フランス革命などでアイルランドでも独立の気運が高まったことに対し、イギリスのピット首相は、1801年1月1日、一方的にアイルランドを併合し、これによって国号は「グレート=ブリテンおよびアイルランド連合王国」となった。カトリック教徒であった住民の多くは審査法によって公職に就けなかったが、オコンネルらの努力で1828年には審査法が廃止され、さらに1829年にはカトリック教徒解放法で信仰の自由と公職への就任が認められるようになった。これらはアイルランドとの融和を図る目的もあったが、カトリック教徒の公職への進出をプロテスタント側が反発し、その対立はかえって強まってしまった。
ジャガイモ飢饉と独立運動の激化:産業革命に取り残されたアイルランドの小作人の貧困は1845〜48年の大飢饉(ジャガイモ飢饉)でさらに進行し、多くのアイルランド人が移民としてアメリカなどに移住していった。そのような危機の中で、19世紀後半の民族主義(ナショナリズム)の高揚の影響を受けて、土地の獲得と自治の実現を激しく要求する運動が起こった。まず、1848年には青年アイルランド党が民族独立、イギリスとの分離を掲げて武装蜂起したが、鎮圧された。その後も、フィニアンと名乗る秘密組織が独立運動を続け、1867年にイギリス殖民地の白人支配地であるカナダの自治が認められたことに刺激されて、武装蜂起したが鎮圧された。
アイルランドの土地戦争:1870年代には、アイルランド国民党が議会内で自治獲得の運動を行い、またアイルランド土地同盟が結成されて、小作人の解放を求めて起ち上がった。1870年、グラッドストン自由党内閣は「アイルランド土地法」を制定し、問題の解決をはかったが農民の不満は解消できなかった。1880年にはイギリス人地主と小作人の対立は激化し、アイルランド各地で両者が衝突する「土地戦争」(1880〜83年)に発展した。しかし、アイルランドの農民を指導したアイルランド国民党のパーネルらも投獄され、本国の弾圧により、運動は退潮した。
アイルランド自治法案の否決:1884年の第3次選挙法改正でアイルランド国民党が議席を伸ばすと、グラッドストンは議会内で国民党の支持が必要であったため、アイルランド自治法案を議会に提出しることにした。86年の第1次をはじめとして、3次にわたり提案したが、下院は通過しても、上院(貴族院)で阻まれ、成立しなかった。20世紀に入ってもアイルランド問題は、イギリスにとっての「のどに刺さったトゲ」として引き継がれていく。 → アイルランド問題(20世紀)
Epi. 「ボイコット」の語源 ”仕事をボイコットする”などのように「ボイコット」という語は日本語化しているが、もとはこの時代のイギリス人のある人の姓から来ている。1880年、イギリス人地主の土地の管理人ボイコット大尉が、小作人のアイルランド人を追放しようとしたに対して、小作人は彼との交渉の一切を絶ち、召使いは家を離れ、商人は物を売らないという抵抗を行った。そのためボイコット一家が餓死に瀕して屈服するという事件が起こった。このことから、この法律に触れない抵抗運動は「ボイコット運動」というようになり、全国に広がった。
a アイルランド併合 1801年にイギリスがアイルランドを併合し連合王国となった。アイルランドはクロムウェルによる征服後、事実上イギリス(イングランド)の殖民地となっていたが、アメリカ独立、フランス革命の影響で独立を求める運動が活発になってきた。アルスター義勇軍を組織したグラタンなどの活動によって、アイルランド議会の一定の自治も認められた。しかし、運動の過激化を恐れたイギリス政府は弾圧を強めた。さらに秩序を回復するため、ピット首相はスコットランドと同じように合同することを考え、アイルランド議会の議員を買収し、イギリス議会でも1800年に「合同法」(Act of Union)を成立させ、翌年、アイルランドを併合した。これによって国号は正式には「グレート=ブリテンおよびアイルランド連合王国」となった。アイルランドの議会は解散し、プロテスタント系(非国教会信者でノンコンフォーミストといわれた)は代表をイギリス議会(ウェストミンスター)に送ったがそこに埋没することとなり、またアイルランドの多数を占めるカトリック教徒は差別され、代表を選出することさえできなくなった。また、経済的にはイギリス産業革命の波にのまれて、その農業は破壊されることとなった。 → 19世紀のアイルランド問題
 グレート=ブリテンおよびアイルランド連合王国 アイルランド併合によって、1801年1月1日をもって成立した、イングランドスコットランドアイルランドの連合王国。1800年のピット内閣の時に制定された合同法によって定められた。この合同によって、イギリスの国旗に「ユニオン・ジャック」が用いられるようになった。イギリスのこの前の正式国号は、1707年のイングランドとスコットランドが合同した時の「グレート=ブリテン王国」であった。なお、1922年、北アイルランドを除いたアイルランドが独立し、アイルランド自由国が成立したため、それ以降、現在までは「グレート=ブリテンおよび北アイルランド連合王国」(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)というのが正式国名である。
 ユニオン・ジャック1801年の「グレート=ブリテンおよびアイルランド連合王国」成立に伴って制定されたイギリス国旗。ユニオン・ジャック(Union Jack)はイングランド、スコットランド、アイルランドの旗を組み合わせて作られたもので、連合王国であることを示している。まず、1277年にイングランド王国の国旗となった聖ジョージの旗(白地に赤い十字)に、1603年スコットランド王国からジェームズ1世を迎えたときに、その聖アンドリューの旗(青地に白の斜め十字)を組み合わせた。さらに1801年のアイルランド併合の時、その聖パトリックの旗(白地に赤の斜め十字)を加えて、今日のユニオン・ジャックになった。ユニオン・ジャックは「大英帝国」の象徴として、世界各地の植民地に翻っていた。またイギリスの自治領のカナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどでも国旗の竿側上部に描かれていた。しかし、1965年にカナダがカエデの旗に変更、オーストラリアでも共和制への移行と国旗の変更を求める動きもある。スコットランドを示す白の斜め十字と、アイルランドを示す赤の斜め十字は、同格であることから同じ幅で描かれているが、アイルランドは1922年に独立し、その一部北アイルランドを残すのみとなり、北アイルランドも将来完全に独立することもあり得るので、ユニオン・ジャックから赤い斜め十字が消えるかも知れない。なお、ジャックとは人名ではなく、船につける旗章のこと。
b ジャガイモ飢饉 1845年にアイルランドで起こった ジャガイモの不作による大飢饉。アイルランドはそのために貧困化が進み、多くの人がアメリカなどに移民として移住したために急激な人口減少が起こった。また、当時イギリスに併合されていたアイルランドでのイギリスからの分離独立運動が激しくなり、青年アイルランド党の蜂起などが起こったが、運動は鎮圧された。 → 19世紀のアイルランド問題
「1845年の夏、アイルランドは長雨と冷害に祟られ、それだけならまだしも、この年の8月、イングランド南部に奇妙な病害が発生した。それは三年前に北アメリカの東岸一帯を荒らしたウィルスによる立ち枯れ病の一種であった。しかもヨーロッパにはなかったこのジャガイモに取りつく菌は、9月に・・・アイルランドに上陸するや、またたく間に全土に拡がり、その被害は三年間にも及んだのであった。」<波多野裕造『物語アイルランドの歴史』1994 中公新書 p.167>
アイルランドの人口減少:このジャガイモ飢饉はアイルランドに100万人以上の餓死者を出し、人々は生き延びるために先を争ってアメリカ、カナダ、オーストラリアなどに移民として移住していった。アイルランドの人口停滞は続き、1990年現在でアイルランドの人口は350万にすぎず、一方、アメリカには4300万、全世界では7千万のアイルランド系の人が住んでいるといわれる。<同上 p.169> →
c アメリカ移民  
c 青年アイルランド党 アイルランド問題が進行する過程で、1948年にアイルランドの独立を目ざして武装蜂起し、弾圧された組織。1842年、アイルランドの青年弁護士トーマス=デイヴィスによって組織された。イタリアのマッツィーニが組織した「青年イタリア党」を模して「青年アイルランド党」と称した。デイヴィス自身はプロテスタントで、はじめはカトリックとの融和を唱えていたが、1845年のジャガイモ飢饉に遭遇して武装蜂起に転じ、フランスの二月革命、イギリスのチャーティスト運動など、ヨーロッパ各地の革命運動に刺激されて1848年に蜂起した。しかしイギリス軍の弾圧によって鎮定されてしまった。
c フィニアン アイルランド問題の中で生まれた、独立を目標に結成された秘密組織で1867年に蜂起を計画したが失敗した。フェニアンとも表記。フィニアン運動とも言う。1858年に、青年アイルランド党の蜂起に加わった共和主義者(アイルランド共和兄弟団=IRB)がアイルランド系アメリカ人の支援を受けて組織した、反イギリスの武装秘密組織であった。フィニアン(フェニアン)とは古代アイルランド神話の戦士団フィアナに由来する。1865年にアメリカの南北戦争が終わると、実戦を経験したアイルランド系アメリカ人が加わり、軍事指導に当たった。1867年、カナダで自治権獲得の動きが始まると、それに呼応して蜂起を計画したが、事前に察知したイギリス当局によって全員逮捕され、失敗した。蜂起には失敗したが、翌1868年に成立したイギリスのグラッドストン自由党内閣がアイルランド問題の解決に乗り出す一因となった。フィニアンの名はアイルランド民族主義(ナショナリズム)の象徴となった。  出題 04年 早稲田大学 社会科学部
c アイルランド国民党 19世紀から20世紀初頭のイギリスで、議会での活動を通じてアイルランドの自治の拡大を目ざした政党。指導者はパーネルなど。フィニアン運動の武装蜂起路線が失敗した後、議会活動に主力を転換させることとなり、土地問題などの要求と結びつけながら大衆を組織していった。特に1884年の第3次選挙法改正で選挙権が拡大された結果、議員数を増やし、議会の中で再三勢力の地位を獲得し、自由党のグラッドストンとの連携で第1次アイルランド自治法案を議会に提出させるところまで行った。しかし、議会の保守派や産業資本家の一部の反対で自治は実現できなかった。20世紀にはいると、より行動的な独立運動を主張するシン=フェイン党が台頭し、1918年の選挙で敗れて勢力が衰えた。
d アイルランド土地法 イギリス人不在地主によって高額の借地料を取り立てられ、払えない場合は立ち退きを命じられることに対するアイルランドの小作農たちの中に、「小作権の安定・妥当な地代・小作権売買の自由」の三つを要求する「三F運動」が1850年代から激しくなった。1870年、第1次グラッドストン自由党内閣はアイルランド問題の解決を掲げて、三つの要求を認める「土地法」を制定した。しかし、農民の不満は解消されず、80年代初頭に「土地戦争」が激化した。81年に第2次グラッドストン内閣は「新土地法」を制定し、三要求を完全に認め、補助金を出して小作人が土地を購入できるようにして自作農創出を目指した。同時に過激な運動への取り締まりを強化した。農民の運動が土地国有化を目指しはじめると、中産階級も運動から離れ、土地戦争は沈静化した。19世紀末から20世紀初頭までに次第に小作農が自作農化し、農民の不満も解消されるが、政治的には自治は認めれず、運動は次に自治権の獲得を目標とするようになる。 → 19世紀のアイルランド問題
e アイルランド自治法案 19世紀のアイルランド問題が深刻化する中、1870年代から20世紀初頭にかけて、グラッドストン自由党内閣のもとで模索された、アイルランドに自治を付与する法案。数回にわたって議会の反対に遭い、ようやく1914年に成立する。
青年アイルランド党やフィニアン運動が挫折した後、議会の中でアイルランドの自治権を要求するアイルランド国民党が運動の中心となった。グラッドストン自由党内閣は、国民党が自由党と保守党に続く第三の勢力を持つようになると、議会運営上も国民党の協力が必要であるとして自治を認める法案を作成した。第1回自治法案(1886年)はアイルランドのダブリンに議会を作ることを認める法案であったが、アイルランド内の産業資本家や自由党内のジョセフ=チェンバレンなどイギリスとアイルランドの合同(ユニオン)の維持を主張するグループが自由統一党(統一主義=ユニオニスト)を結成して反対したため成立しなかった。第2回自治法案(1893年)は第4次グラッドストン内閣で、アイルランドに議会を設けるほか、イギリス議会にも議員を送るという妥協的な内容で下院では可決されたが、上院の否決で成立しなかった。グラッドストンは辞任。その死(1898年)後、1912年にアスキス自由党内閣が第3回の自治法案を提案、内容はほぼ前回と同じで、再び上院の反対で否決される。 → アイルランド自治法(1914年)
エ.フランス第二帝政と第三共和政
 第二帝政 1852年から70年までの22年間のナポレオン3世による統治時代のフランスをいう。この時期の政治形態は、ナポレオン1世の時代と共に、ボナパルティズムと言われている。産業革命の進行に伴って資本家階級(ブルジョアジー)が成立したが、議会政治の未発達のもとで、皇帝が労働者、農民の大衆的な支持を受け、軍隊と官僚を駆使して独裁的な政治を行うことができた。「人気取り」のために膨張的な外交政策をとったが、それは常に危険な冒険を伴っていた。
第二帝政の帝国憲法の特徴:行政・軍事・外交の全権は皇帝に集中、あらゆる官職は任命制となり、大臣は皇帝だけに責任を負い、法律の発案権は政府が握り、皇帝の任命する国家参事会が起草する。また勅撰議員からなる元老院が憲法改正の発議権を持つ。立法院は男子普通選挙で選ばれる任期6年の議員からなるが、発議権や修正権はなく、討議・採決するだけであった。普通選挙そのものも官選候補制と知事の露骨な干渉で骨抜きになっていた。
a ナポレオン3世 第二共和政の大統領ルイ=ナポレオンは、1852年11月元老院の帝政復活提案を受け、同20日国民投票。その結果、783万対25万の圧倒的支持で承認される。12月2日クーデタ記念日にルイ=ナポレオンはナポレオン3世として帝位につく。こうして第二帝政が始まった。
ナポレオン3世の政治は、小農民層の支持を受けて大国フランスの威信を発揮することによって支えられていたので、対外戦争の連続であった。まず皇帝となった翌年にはクリミア戦争を仕掛け、大勝して名声を挙げ、次いでサルデーニャ王国のカヴールとプロンビエールの密約を結んでオーストリアに宣戦(イタリア統一戦争)、さらにアメリカ合衆国の南北戦争に乗じてメキシコ出兵などを続けた。またアジア方面でも中国とのアロー戦争、さらにインドシナ出兵に続くベトナムなどの植民地化を行った。しかし、メキシコ出兵の失敗から次第に国民の信望を失い、ついに1870年の普仏戦争のセダンの戦いで敗れてプロイセン軍の捕虜となり、退位せざるを得なくなった。 
b カトリック教会  
c 資本家  
d 農民・小市民  
e パリ万国博覧会  
f パリ  
 クリミア戦争  → クリミア戦争
a オスマン帝国  
 積極的外征 ナポレオン3世は、国民の支持を得るために、積極的な外征に乗り出した。クリミア戦争に続き、アロー戦争、インドシナ出兵、メキシコ出兵を行った。クリミア戦争での勝利はナポレオン3世の名声を高め、インドシナ出兵での植民地の獲得はフランス資本主義の発展を促したが、メキシコ出兵の失敗はその権力の崩壊の第一歩となった。 
a アロー戦争  → 第13章 3節 アロー戦争
b インドシナ出兵  → 第13章 2節 ナポレオン3世(インドシナ出兵)
c イタリア統一戦争  → イタリア統一戦争
d メキシコ出兵 メキシコは1821年、スペインから独立。24年共和国となる。46〜48年のアメリカ=メキシコ戦争で、カリフォルニア・テキサスなどの領土を失った。50年代からベニト=ファレスによる自由主義運動が起こったが、保守派の抵抗があって混乱した。それに乗じて介入してきたのがフランスのナポレオン3世で、アメリカが南北戦争で手が出せないことに乗じ、1861年スペインと共同でメキシコに出兵し、1864年共和政を廃してマクシミリアン(オーストリア皇帝の弟)を皇帝に着けた。しかしメキシコ人民の反抗によって67年、フランス軍は撤退し、マクシミリアンは処刑され、ナポレオン3世のたくらみは失敗した。 
e マクシミリアン  → マネの描く「マクシミリアンの処刑
f レセップス 19世紀のフランス外交官、実業家で、1869年にスエズ運河を完成させた。さらに1880年からパナマ運河開鑿の事業を開始したが、こちらは資金難に陥り、失敗した。
フェルディナンド=レセップスはフランスの外交官で、エジプト在勤中に、スエズ地峡に運河を通し、地中海と紅海を結ぶことを考えた。そのアイディアはすでにナポレオンが持っていたが、当時の技術では不可能と考えられていた。当時エジプトはオスマン帝国から半独立したムハンマド=アリ朝のもとで、イギリスとフランスが影響力を及ぼそうと競争していた。1854年、ムハンマド=アリの末子サイードが副王(エジプトの実質的な国王)になったが、サイードはかつてレセップスがムハンマド=アリからその教育を任されたことがあったので、レセップスは好機到来と考え、サイードにスエズ運河開削の申請をし、許可された。イギリスの妨害があったり、エジプトの本国オスマン帝国は未承認だったが、レセップスは国際スエズ運河会社を設立して1859年から掘削を開始した。1869年11月17日、サイードにちなんでつけられたポートサイドで、盛大に開通式が開催された。レセップスはその後、パナマ運河の開削を計画したが、こちらは彼の時代には成功せず、後にアメリカ主導で完成した。
Epi. レセップスの結婚 1869年、スエズ運河の開通式を終えたレセップスは、21歳のルイズ=ブラガールとスエズ運河の側のイスマイリアの小さな教会で結婚式を挙げた。レセップスは64歳になっていた。「世間はこの結婚の知らせを聞いて、唸った。更にこの夫婦の間に、後年、男の子と女の子が半ダースずつ生まれたと聞いては、人はもう驚くことも止めてしまった。12人の子供が生まれたのである。・・・レセップスは、89歳まで生きて働く約束になっていたのだから、12人の子供が生まれても算術が間違ったのではなかった。」<大佛次郎『パナマ事件』1959 大佛次郎ノンフィクション全集9 朝日新聞社 p.89>
g スエズ運河 フランス人レセップスが、1859年に着工し、69年に完成させた。レセップスは54年、ムハンマド=アリー朝エジプト総督(パシャ)サイード(彼の名から命名された運河の出入り口の新しい港がポートサイドである)から運河掘削権を獲得し、58年国際スエズ運河会社を設立、フランスとエジプトが株を引き受けて工事が行われた。スエズ運河の掘削は、エジプト農民の無償労働で行われ、難航を極めた。開通後は予測したような利益が上がらず、経営難に陥る。1875年、ディズレーリ首相の時、イギリスが買収。イギリスのエジプト進出の契機となる。1882年にはアラービー=パシャの反乱に乗じてイギリス軍が出兵、軍事占領し、実質的な支配を始める。スエズ運河は海上輸送の要衝であったのでイギリスはその管理を通じてアジア・アフリカに対する帝国主義支配を推し進めた。1922年、イギリスはエジプト王国の名目的な独立を認めたが、スエズ運河地帯の駐兵権は保有し続け、エジプトの反英闘争がなお続くこととなる。第2次大戦後、1952年にエジプト革命が勃発、1952年にナセル大統領が国有化宣言をこない、スエズ戦争(第2次中東戦争)が起こる。現在ではエジプトの国有化におかれている。 → ディズレーリのスエズ運河株買収  → スエズ運河国有化
 普仏戦争  → 普仏戦争
ビスマルク  → ビスマルク
b セダンの戦い  
c 第二帝政  → 第二帝政
a 臨時政府 1870年9月1日、普仏戦争のセダンの戦いでナポレオン3世が敗れて捕虜となったことを受け、4日にパリで民衆が蜂起して第二帝政政府は崩壊。かわって穏健共和派を中心とした臨時国防政府が成立した。臨時政府は急きょ兵士を徴募したり、国民衛兵を同心して防衛に努めたが、9月19日にはプロイセン軍にパリを包囲され、武装した市民は徹底抗戦を主張して二重権力状態となったが、ティエールを行政長官とする臨時政府は降伏を決定し、翌1871年1月26日に降伏した。2月26日には50億の賠償金の支払いと、アルザス・ロレーヌの割譲を呑んで、仮条約に調印、3月にパリ市民・労働者が蜂起してパリ=コミューンを樹立すると臨時政府はヴェルサイユに逃れ、その地からドイツ軍の助力によってパリを攻撃し、5月28日に全滅させた。ついで1871年8月にティエールを初代大統領とする第三共和政が成立した。 
b ティエール 18世紀フランスのブルジョワ政治家で、長く活動し、最も重要な役割を担った一人。王政には反対し、共和制の立場であったが立憲君主制とは妥協し。普仏戦争後、穏健共和派として臨時政府の首班となりパリ=コミューンの弾圧にあたった後、第三共和政の初代大統領となった。
まず、1830年にシャルル10世の復古王政を批判する新聞『ナシオナル』を銀行家ラフィットの出資を得て発刊し、イギリス流の立憲君主政を主張して、ルイ=フィリップの擁立を提唱し、七月革命を指導した一人となる。七月王政が成立するとその間、首相を務め、1840年代にはパリ市街の都市計画を進めた。次第に保守的になり、1848年の二月革命後の第二共和制では、秩序党を組織した。しかし、ルイ=ナポレオンの進出には反対したので、1851年のクーデターによって逮捕された。第二帝政下ではナポレオン3世の帝政に反対を続け、普仏戦争で敗れたナポレオン3世が退位し第二帝政が倒れると、1871年2月末、臨時政府の行政長官となった。2月、ドイツとの仮講和を締結し、3月にパリ=コミューンが蜂起すると議会とともにヴェルサイユに避難し、5月にプロイセン軍の支援を得て総攻撃を加えて鎮圧に成功した。それをうけて、フランクフルトでドイツ帝国との正式な講和条約を結び、同年8月、議会において第三共和政の初代大統領に選出された(第三共和政の発足時期についてはその別項参照)。しかし、議会は王党派が多数を占めていたので共和政を目ざしたティエールは、1873年に不信任決議によって退陣した。歴史家としても『フランス革命史』の著作で有名である。
 パリ=コミューン 労働者政権の成立:1871年3月18日、臨時政府側が国民軍の武装解除に当たろうとしたことに激高したパリ市民が蜂起。臨時政府のティエールはパリを放棄しヴェルサイユに逃走し、パリは革命派の市民が権力を握った。一気にヴェルサイユ進撃を主張するグループもあったが、まずパリの掌握が優先された。3月26日、コミューン議会の議員選挙が行われ、91名の議員が選出された。翌日、パリ市庁舎前に20万の市民が集まり、赤旗が立てられ、コミューンの成立が宣言された。ついで執行委員会以下、10の委員会が設置され、コミューン政治が開始された。
労働者政権の政策:ブルジョア的三権分立はとられず、官吏は徹底したリコール制のもとにおかれ、その俸給は労働者の賃金水準を超えないこととされた。また常備軍の廃止、政治と宗教の完全な分離、教育の世俗化、などが打ち出された。
労働者政権の構成:しかし、コミューン内部には、ブランキ(彼自身はヴェルサイユ政府に捕らえられていた)の影響を受けた急進派や、プルードンの影響を受けた無政府主義者などを含み、マルクス派は少数派であった。またパリ以外の都市でもコミューン運動が起こったが、保守的な農村部の中で連絡が取れず、パリは孤立していた。
労働者政権の崩壊:態勢を整えたヴェルサイユ政府軍は4月2日から攻撃を開始、5月21日にパリに突入し、激しい市街戦となった。パリ東部にはドイツ軍がコミューン軍の退路を断ったため、コミューン軍はパリ市街に火を放ち抵抗した。ペール=ラシェーズ墓地に追いつめられたコミューン兵士は28日全滅し、敗北した(「血の週間」)。その後もコミューン派への弾圧が続き、約4万人が逮捕され、270名が死刑となり、多数が強制労働、禁固、流刑に処せられた。その中には有名な画家クールベもいる。
労働者政権の歴史的意義
a 自治政府  
b 世界史上最初の労働者自治政権  
c 血の週間  
 第三共和政 普仏戦争の敗北によって1870年のナポレオン3世が退位し第二帝政が終わった後の1870年9月から、1940年第2次大戦までのフランスの政体。当初はパリ=コミューンの混乱などで安定せず、また王党派の巻き返しなどもあったが、ようやく1875年に共和政憲法が制定され、一応の安定を見る。しかし19世紀末には共和政の危機と言われる、1887〜9年のブーランジェ事件、1892年のパナマ事件、1894年のドレフュス事件などの右派の台頭が続き、また労働組合主義(サンディカリズム)の台頭、フランス社会党の進出という労働運動、社会主義勢力の成長も進んだ。一方でこの時期はフランスの工業力も発展し、フランスも帝国主義段階に入り、20世紀初めにかけてアフリカインドシナで殖民地を拡大した。
外交的には普仏戦争の敗北以来、常にドイツを仮想敵国としており、1970〜80年代にはドイツ帝国のビルマルク外交によって孤立を余儀なくされたが、90年代にドイツの世界政策との対立がが明確になると、イギリス・フランスと提携して三国協商を形成し、第一次世界大戦を戦った。大戦で勝利したフランスはヴェルサイユ条約でアルザス・ロレーヌを回復し、国際連盟の常任理事国としても大国の役割を担うこととなったが、敗戦国ドイツに対する苛酷な賠償金要求などはナチスドイツの登場をもたらしたと言える。
ドイツにナチズム、イタリアにファシズムが台頭すると、フラン経済圏を形成してブロック経済体制をつくるとともに、1934年以来、社会党を中心に人民戦線を結成してファシズム防衛にあたったが、第2次世界大戦で1940年ドイツの侵攻が始まると、6月にはパリ陥落、フランスは降服し、対独協力を表明したヴィシー政府が成立した。ヴィシー政府はファシズム体制を標榜したので、第三共和政は終わった。大戦後、1946年に第四共和政が成立、第三共和政を政権不安定を反省して内閣の権限強化が図られたが、なおも小党分立が続いて不安定であったため、1958年にド=ゴールが首相に迎えられ、憲法改正を行い第五共和政を樹立する。
フランス第三共和政の成立時期: 2007年センターテスト本試験の32問で、「フランスでは、普仏戦争(プロイセン=フランス戦争)の敗北後、第三共和政が成立した」という文の正誤判定問題が出された。皆さんはどう答えるだろうか。一般に「第二帝政」崩壊後に成立したのが「第三共和政」とされる。その経過を正確に見ていくと、ナポレオン3世は普仏戦争中の1870年9月にセダンの戦いで敗れて捕虜となって退位し、国民防衛政府が成立した。まだ戦争は継続していて、翌71年1月パリ開城、2月に仮講和、総選挙の結果臨時政府(ティエール首班)成立、3〜5月パリ=コミューン、5月フランクフルト講和会議で正式講和となって終戦となる。従って第二帝政に代わる政体である第三共和政の成立は「普仏戦争中」の1870年といえるので、「普仏戦争後に成立」というのは誤りとなる。しかし、正解は「正しい」と発表された。ただちに幾つかの予備校から疑問の声が出されたが、「第三共和政の成立時期には諸説あり、普仏戦争後とするのも有力な説である」ので訂正はされなかった。たしかにティエールが第三共和政初代大統領となったのは1971年8月であり、「第三共和政憲法」の成立は1975年であるのでその見方も成立する。その考えでは1970〜75年は「国民防衛政府」や「臨時政府」といった過渡期であって、正式な第三共和政の発足は憲法の制定された75年ということになる。センターテスト本部はこちらを正解としたわけだ。だが、手元にある辞典、用語集、年表の類は「第三共和政」は1870年からとしている。実質的発足なのか、正式発足なのか、そのいずれをとるか、ということであろうが、いずれにせよ微妙なところであり、設問としてはふさわしくなかったと言えよう。
a 第三共和政憲法 1875年1月に1票差で承認された。三権分立・二院制(上院は地方自治体の代表者による間接選挙。下院は男子普通選挙。)・大統領制(任期7年)がその主な内容である。 
オ.イタリアの統一
イタリアの統一 イタリアの分裂状態は中世を通じて続き、そのためオーストリアやフランス、スペインなどの他の西欧諸国の介入を受けてきた。北イタリアはオーストリア帝国の支配を受けていたが、1796年にフランス革命政府が派遣したナポレオンのイタリア遠征軍がオーストリア軍に勝利して、自由の理念をもたらして以来、その影響で市民階級による統一国家をめざす動きが始まった。このイタリアの統一と独立を目ざす運動をイタリアではリソルジメントという。
カルボナリの運動:19世紀前半にウィーン体制のもとでは再びオーストリアの支配と旧体制が復活したが、イタリアの統一と独立を求める運動はカルボナリの蜂起となってまず現れた。1821年にカルボナリはピエモンテ、ナポリなどで反乱を起こしたが鎮圧された。続いて1831年にはフランスの七月革命の影響を受けて、中部を中心としたイタリアの反乱が起こったが、これもオーストリアによって鎮圧された。
青年イタリアの運動:これらの秘密結社による運動に代わって、初めて組織的な統一運動の担い手となったのがマッツィーニらが組織した「青年イタリア」であり、彼らは共和政国家による統一を目指して運動を展開した。彼らが求めた過去のイタリアの栄光とはローマ帝国のことではなく、共和政ローマ、そして神聖ローマ帝国と戦いルネサンスの繁栄をもたらしたコムーネの栄光であった。ウィーン反動体制に対する民族主義と共和政を求める戦いが高揚した1848年には、ミラノとヴェネツィアで市民が蜂起し、共和政を宣言した。しかし、それらを支援したサルデーニャ王国がオーストリアと戦って敗れたため、これらの独立運動は抑えられてしまった。またマッツィーニらは1849年、ローマ共和国を実現させたが、これもフランスの介入で潰されてしまった。
サルデーニャによる統一運動:19世紀後半のイタリア統一運動の主導権を握ったのがサルデーニャ王国(北西イタリアのピエモンテ地方とサルデーニャ島を領有していた)の首相カヴールであった。彼はクリミア戦争に参戦するなど巧みな外交でヨーロッパ列強のなかでのサルデーニャの地位を高めてフランスの支援を獲得し、北イタリアを支配していたオーストリアに戦いを挑んだ(イタリア統一戦争=伊墺戦争)。この戦いはフランスのナポレオン3世が途中でオーストリアとの単独講和に走ったため、サルデーニャはロンバルディアを得るに留まった。カヴールは1860年にはサヴォイアとニースをフランスに割譲する代わりに、中部イタリアを併合した。しかしまだローマを中心とした教皇領、シチリア島・南イタリアのナポリ王国が別個な権力として存続していた。
イタリア統一の実現:そのような状況を一気に打開し、イタリア統一を急速に実現させたのが、1860年のガリバルディシチリア占領とそれに続くナポリ占領であった。ガリバルディはもともと共和派であったが、その占領地の統治権をサルデーニャ国王ヴィットリオ=エマヌエーレ2世に献上することによってイタリアの統一を実現させる道を選んだ。こうしてリソルジメントは一応完成し翌1861年正式にイタリア王国が成立したが、都はピエモンテのトリノに置かれ、北東部のヴェネツィア地方(ヴェネト)と教皇領のローマはまだ含まれていなかった。
統一の完成と残された問題ヴェネティア併合は1866年の普墺戦争でオーストリアが敗れたため実現し、ローマは1870年の普仏戦争でフランスが敗れたため、フランス軍が撤退してイタリア王国に併合されて実現した。こうして翌1871年に首都となり、これによってリソルジメントは完了した。しかし、教皇領を奪われたローマ教皇はイタリア王国に敵対し、問題を残した。また、イタリア人住民の多いトリエステと南チロルがオーストリア領として残されたことは、「未回収のイタリア」と言われて第1次世界大戦の要因となっていく。
イタリア統一に至る二つの道筋:イタリア統一の経過には二つの相対立する路線が絡んでいた。一つはマッツィーニからガリバルディに至る共和主義者による統一運動であり、それは共和政国家としてのイタリアを望み、中には連邦制の構想も含まれていた。それに対して、カブールが推し進めたサルデーニャ王国の拡大によるイタリア統一の路線があり、これはあくまで国王のもとに統治される君主制国家としての統一を目指した。両者は相対立しながら統一運動を進め、最終的にはガリバルディの共和派が妥協し、サルデーニャ国王による統一を承認する形で終わった。しかし、この対立は統一の後のイタリア王国に多くの課題を残すことになる。<イタリア統一については、『世界の歴史』22 1999 中央公論新社 第6章(北原敦執筆)、ダガン『イタリアの歴史』2005 第4、5章を参照>
イタリア統一の意味:このようにイタリアの統一はようやく19世紀の後半になってからのことであったことは十分理解しておく必要がある。1961年以前にはイタリアという国家は存在せず、単なる地域名にすぎなかった。ドイツも同じことが言え、国家統一をとげたのは1871年のドイツ帝国の成立の時である。それに加えてアジアの日本も同じ時期に近代国家への歩みをはじめており、この三国が後に全体主義国家として枢軸を形成することになるのは興味深いところである。 
 リソルジメント 19世紀初めから1860年代までに行われた、イタリアの国家統一運動のこと。リソルジメントとは、「再興」または「復興」という意味で、本来はかつてのイタリアの栄光をよみがえらせる運動を意味していたが、一般的にはその一面である国家統一運動のことを指すようになった。ウィーン体制下のカルボナリの運動、1831年の中部イタリアの反乱、マッツィーニの青年イタリアの運動、サルデーニャ王国の首相カヴールによる統一政策、オーストリアとの戦争などを経て、1860年のガリバルディによるシチリア島、ナポリの占領とサルデーニャ王へのその統治権の献上によってリソルジメントが完成した。
 青年イタリア 「青年イタリア」(ジョーヴィネ=イタリア)は1831年、マッツィーニが中心となって結成した組織。オーストリアに支配されている北イタリア、ローマ教皇の支配する中部イタリア、ブルボン家の支配する南イタリアのナポリ王国とシチリア王国、という他民族支配と分裂状態であったイタリアの、自由・独立・統一を求める運動を展開した。カルボナリに似た加盟儀式なども持っていたが、それよりも明確な組織原理と綱領を持ち、戦術としてはゲリラによる民衆蜂起という形態をとった。活動期間は短かったが、イタリア統一運動を進める上で大きな働きをした。1834年のピエモンテでの蜂起には失敗したが、1849年にはガリバルディも加わり、ローマ共和国の樹立を実現させた。しかしフランスの介入で弾圧され、組織は消滅した。
a マッツィーニ イタリアの統一運動の指導者で、自由主義・共和主義者。はじめカルボナリに属していたが、その神秘主義的、儀式重視の手法に飽きたらず、亡命先のマルセイユで、イタリアの独立と統一、共和制国家の樹立を目指す新しい組織として1831年に「青年イタリア」を結成した。これは明確な綱領と組織原則を持つ政党としての性格を持っていた。1834年にピエモンテなどで蜂起を試みたが失敗。1848年、フランスに二月革命が起こると、イタリアでも独立と統一を求める声が強まり、三月革命でオーストリアのメッテルニヒが倒されると、ヴェネツィアとミラノで市民が蜂起し、共和政を宣言した。マッツィーニも亡命から戻り、ローマで市民の蜂起を指導。翌49年2月、革命をおそれてローマ教皇ピウス9世が国外に脱出した後、ローマに「ローマ共和国」を樹立し、三人の執政の一人となった。しかし、フランスのルイ=ナポレオンは混乱に乗じてオーストリアの進出してくるのを恐れてローマに軍隊を派遣、マッツィーニらは敗れ、ローマ共和国も7月に倒れたため、彼はロンドンに亡命した。その後、イタリア統一運動はサルデーニャ王国の主導権のもとで展開されるが、マッツィーニの共和政による統一国家という思想は実現されず、君主政国家として統一されることとなる。
b ミラノ(革命) 1848年、ウィーンでの三月革命に刺激され、オーストリア支配を倒すためミラノ市民の暴動が起きた。1848年の革命運動の一環と捉え、ミラノ革命と言うこともある。ミラノ市民は5日間の凄惨な市街戦の後、オーストリア守備隊を町から追い出し、共和政を樹立を宣言した。しかし、ミラノを支援する口実で乗り込んだピエモンテ(サルデーニャ王国)の国王カルロ=アルベルトはロンバルディア(その中心がミラノ)とピエモンテの合併を宣言し、そのための住民投票を表明した。その上で、5月に軍を進めてオーストリアに向かったが、7月のクストーヅァの戦いで、ラデッツキー将軍に率いられたオーストリア軍に敗れた。カルト=アルベルトはロンバルディアをオーストリアに返還したため、イタリア各地の革命運動は急速に衰退した。ヴェネツィアの共和政もミラノと同じく崩壊し、北イタリアは再びオーストリアの支配下に入った。
c ローマ共和国 1849年1月に、中部イタリアのローマ教会領に成立した共和制国家。前年の一連の「1848年革命」の中でイタリアでも市民の自由と独立、統一を求めるマッツィーニの青年イタリアなどの運動が展開され、ローマでは教皇ピウス9世がナポリに亡命、共和派が実権を握った。1月には男子普通選挙が行われて議会が発足、2月9日に「ローマ共和国」の成立を宣言した。マッツィーニは三人の執政の一人となり、議会は教皇の世俗権を無効とし、聖職者財産の国有化、司法・教育制度の改革、出版の自由、税制改革など次々と打ち出した。しかし、フランスで大統領に当選したばかりのルイ=ナポレオンは、ローマ教皇を復帰させることを名分とし、実はイタリアの混乱に乗じてオーストリアが侵出するのを恐れ、先手を打って軍隊をローマに派遣した。6月〜7月、フランス軍とガリバルディらが指導するローマ共和国軍の戦闘となり、ローマは敗れ共和国は崩壊した。一方、サルデーニャやトスカーナはオーストリア軍に制圧され、シチリアはナポリ王国が島民の反乱を制圧した。さらにヴェネツィアも8月下旬にオーストリアに降伏して、イタリアの独立と統一は再び抑えつけられることとなった。 
 カルロ=アルベルト サルデーニャ王国サヴォイア家の国王。1848年、フランスの二月革命に刺激された共和派の要求を入れて憲法を制定し、サルデーニャを立憲君主国とした。続いてウィーンで三月革命が起こりオーストリア領ロンバルディアの中心都市ミラノで独立運動が激化すると、それを助けてオーストリアに対して宣戦布告した。しかしカルロ=アルベルトの本心はミラノの独立を支援するより王国の領土の拡張にあったので共和派との連携はうまくいかず、オーストリア軍に大敗してしまった。翌49年にもオーストリア軍と戦ったが再び敗れ、退位して王位を息子のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に譲った。<クリストファー・ダカン『イタリアの歴史』2005 p.160-165>
 サルデーニャ王国 サルデーニャ王国とは、北イタリアのピエモンテ地方を支配していたサヴォイア家が、サルデーニャ島も支配(1720年)してからの国号。都はピエモンテのトリノ。サヴォイア家(英語ではサヴォイ、フランス語ではサヴォワ)は11世紀から続くサヴォイア地方(現在はフランス領)を拠点とした豪族で、北西イタリアのピエモンテ地方を併せ、トリノを拠点にアルプス南部一帯を支配する公国であった。18世紀初頭のスペイン継承戦争ではイギリス・オーストリア側に付き、トリノの戦いでフランス軍を破り、ユトレヒト条約でシチリア王国を併合して「王国」となった。1720年にはシチリア島とオーストリア領のサルデーニャ島(地中海で最大の島)とを交換し、「サルデーニャ王国」となった。<この経緯については、藤沢道郎『物語イタリアの歴史』1991 第8話参照>
したがってサルデーニャ王国と称するが、その国力の中心はトリノを中心とした北西イタリアのピエモンテ地方であった。常に隣接するフランスとオーストリアの両勢力の圧力を受けながら、巧みにバランスをとり、また豊かな農業生産力に加え、ウィーン会議でジェノヴァの領有を認められ、分裂しているイタリアの中でも最有力の国家となった。また工業の発展を背景とした市民層の成長も早く、1821年にはカルボナリによるピエモンテ蜂起が起こり、オーストリア軍に鎮圧されたが、以後イタリア統一運動(リソルジメント)の拠点となった。全ヨーロッパで自由主義の高揚した1848年には国王カルロ=アルベルトが憲法制定に同意し立憲君主国となった。しかしミラノ・ヴェネツィアの反オーストリア暴動を支援してオーストリアと戦ったが敗れ、イタリア統一は一歩後退し、北イタリアのオーストリア支配が復活した。次のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の時、首相カヴールが登場、国家体制の近代化をはかるとともに巧みな外交政策によってクリミア戦争に参戦するなど国際社会での地位を高め、イタリア統一運動の中心勢力となっていく。カヴールはフランスと結んでロンバルディア(中心がミラノ)とヴェネチアを支配していたオーストリアの勢力を排除しようとして宣戦布告(イタリア統一戦争=伊墺戦争)、しかしフランスのナポレオン3世がオーストリアと単独講和したためロンバルディアを得るに留まった。その後、サヴォイア(つまり王家の発祥の地)とニース(青年イタリアの指導者ガリバルディの出身地)をフランスに譲る代わりに中部イタリアを併合、1860年にはシチリアとナポリをガリバルディが占領し、彼がその地の統治権を国王に献上するという形で、イタリア統一をほぼ成し遂げ、翌61年に国号をイタリア王国に改める。しかし国王は依然としてヴィットーリオ=エマヌエーレ2世を名乗り、首都もトリノであり、国家制度や法律もそのまま継承された。
a ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世 サヴォイア家のサルデーニャ王国国王。父カルロ=アルベルトは、自由主義的な憲法を制定し、オーストリアとも戦ったが敗れて退位した。次いで国王となり、首相にカヴールを登用して国内の経済・軍事力の充実に努め、イタリアの統一を進める。1860年、ガリバルディが占領したシチリア島・ナポリでは住民投票でヴィットーリオ=エマヌエーレ2世を国王とする統一国家へとの併合を可決したのを受け、国王は軍を率いて南下し、10月25日、ナポリ北方のティアーノでガリバルディと会見、ガリバルディが統治権を国王に献上して統一がほぼ達成された。翌1861年、イタリア王国の初代国王として議会の承認を受けた。なお、サヴォイア家のイタリア王位は第二次世界大戦の1946年に国民投票で共和制になるまで続く。
b カヴール 1852年からサルデーニャ王国ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世のもとでの首相を務める。イギリスの立憲政治・フランスの産業振興策などに学び、農業生産の拡大、鉄道・灌漑施設・銀行などの建設、ローマ教皇の影響力の削減(世俗化の推進)、などの近代化政策を遂行する一方、巧みな外交でサルデーニャ王国をイタリアの統一(リソルジメント)の軸に仕上げた。
1855年、イギリス・フランスの要請で、クリミア戦争に参戦。56年のパリ講和会議でもサルデーニャの国際的地位を高めることに成功した。1858年、フランスのナポレオン3世と、「プロンピエールの密約」を結ぶ。フランスはサルデーニャのオーストリアとの戦争を支援、そのかわりサルデーニャはサヴォイアとニースをフランスに割譲するという内容だった。フランスの支援を得たカヴールは、オーストリアに宣戦、イタリア統一戦争(1859年4月)が始まる。サルデーニャが有利に戦いを進めたが、7月、ナポレオン3世はカヴールにはからずオーストリアと和約(ヴィラフランカの和約)してしまう。ナポレオン3世は、戦争の長期化がフランス国内の反発を増すことを恐れた。怒ったカヴールは一時首相を辞任。しかし、一方でマッツィーニなどの共和派による統一運動が盛んになってきたことに対し、立憲君主政体による統一を目指していたカヴールは危機感を募らせて首相に復帰し、再びナポレオン3世と協議し、1960年に中部イタリアを併合する代償にサヴォイアニースのフランスへの割譲を約束、サルデーニャ王国によるイタリア統一の主導権を維持しようとした。カヴールの政策に反発したガリバルディが独自にシチリア遠征に向かうとそれを妨害しようとしたが失敗し、ガリバルディの占領したシチリアとナポリに住民投票を働きかけ、サルデーニャ国王のもとへの併合を可決させた。一方で国王は急ぎ南下してローマ教皇領に進軍し、60年10月25日に会見したガリバルディから南イタリアの統治権を献上させた。こうしてサルデーニャ王国によるイタリア統一という路線を完成させたカヴールは、イタリア王国の成立を見届け61年6月病に倒れ急死した。
 ナポレオン3世  → ナポレオン3世
 プロンビエール密約 1858年7月、フランスのナポレオン3世とサルデーニャ王国のカヴールの間の密約。プロンビエール(Plombiere)両国国境付近の温泉地。秘かに会合した両者はフランスとサルデーニャが同盟してオーストリアと戦う密約を結んだ。サルデーニャ側はフランス軍の支援の見返りとして、サヴォイアとニースをフランスに割譲することと、ナポレオン3世の従弟とサヴォイア家の王女との結婚を承認した。ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は反対したが、カヴールに無理やり納得させられた。この密約に基づき、翌59年4月、フランス・サルデーニャ同盟軍はオーストリア支配下のロンバルディアに侵攻し、イタリア統一戦争が始まる。
Epi. ナポレオン3世の空想趣味と裏切り 対オーストリア戦争にナポレオン3世を誘い込もうとしたカヴールの申し出に対し、ナポレオン3世はなぜ同意し、そして結局裏切ることになったのだろうか。彼はまず、イタリア遠征で最初の名声を挙げた叔父ナポレオンにあやかろうとした野心があり、また若い頃カルボナリの一員だったこともあって「第二の故郷」のために役立ちたいと個人的な気持ちも表明した。しかしこのような「空想趣味」は現実の前ではどこかに消えてしまう。イタリア統一が進みローマ教皇領が消滅したら、フランスのカトリック勢力の怒りを買うことになるのではないか? そのことに気づいたナポレオン3世はカヴールとの約束をあっさり反古にしてオーストリアとの単独講和を結んだのである。<クリストファー=ダガン『イタリアの歴史』2005 創土社 p.179-180 などによる> 
 イタリア統一戦争 1859年、サルデーニャ王国がフランスのナポレオン3世と同盟して、オーストリアに宣戦、北イタリアの解放によるイタリア統一を目指した戦争。前年のナポレオン3世とカヴールのプロンビエールの密約に基づき開始された。4月にロンバルディアに侵攻した同盟軍はフランス軍12万8千、サルデーニャ軍7万、それにガリバルディの義勇部隊「アルプス猟歩兵旅団」3200人が加わった。迎え撃つオーストリア軍は22万。皇帝フランツ=ヨゼフが陣頭指揮を執った。6月、ソルフェリーノなどの激戦でかろうじて同盟軍が勝利したが、オーストリア軍もヴェローナ、マントヴァに要塞を築き防衛を強化した。7月になって突如ナポレオン3世は、サルデーニャ側にはからずにオーストリアとヴィラフランカの和約を結んで単独講和、戦場から撤退した。ナポレオン3世は戦争の長期化を恐れたことと、サルデーニャ王国が全イタリア統一に進みローマ教皇領まで併合するに至ればフランスのカトリック信者の反発を招くであろうと読んで、適当なところで手を引くと判断したためらしい。カヴールは激しく怒り首相を辞任。サルデーニャの北イタリア制圧はロンバルディアまでで終わり、ヴェネツィアは依然としてオーストリアの支配下に残ることとなった。
 オーストリア  
 ヴィラフランカの和約 1859年、イタリア統一戦争のさなか、フランスのナポレオン3世がオーストリア皇帝フランツ=ヨゼフとの間で結んだ単独講和。同盟国サルデーニャ王国の首相カヴールに通告なしに行われた。ナポレオン3世は戦争の長期化と、サルデーニャ王国による統一が実現した場合、ローマ教皇領が併合されればフランス国内のカトリック勢力が反発して、自らの人気にもマイナスだと考えた。裏切られた同盟国サルデーニャ王国はオーストリアとの戦いを中断せざるを得なかった。同盟軍が占領したロンバルディアはオーストリアからフランスに渡され、フランスからサルデーニャ王国に与えられるという形で併合されることとなった。
 ロンバルディア 北イタリアのポー川沿岸の平野一帯のこの地名は、かつてこの地を支配したランドバルド族に由来する。イタリア半島で最も生産力の高い農作物地帯であり、有力な都市が生まれ、ミラノを中心にロンバルディア同盟が形成され、ルネサンス期にはミラノ公国が栄えた。現代ではミラノを中心とした工業地帯となっている。イタリア戦争の時カール5世に領有され、ついでフェリペ2世に譲られてからスペイン・ハプスブルク家にその支配権が継承されてきたが、18世紀初頭のスペイン継承戦争の結果、オーストリア領とされた。1796年、ナポレオンの遠征をうけ、一時オーストリアが後退し、イタリアに民族統一と独立の機運が芽生えた。しかし、ウィーン体制下ではオーストリア支配が復活し、ロンバルド=ヴェネト王国と称しする従属国となった。1848年、ウィーンに三月革命が起きると、ミラノとヴェネツィアで反オーストリアの暴動(革命とも言える)を起こり、一時共和政を宣言したが、それを支援したサルデーニャ王国がオーストリア軍に敗れて、オーストリアの支配が復活した。1858年、フランスとサルデーニャ王国がオーストリアに宣戦し、イタリア統一戦争の舞台となる。翌年フランスがヴィラフランカの和約でオーストリアと講和し、ロンバルディアはフランスに譲られ、フランスから与えられる形でサルデーニャ王国に併合された。
 サヴォイア サヴォイア(フランス語ではサヴォア Savoie)は現在はフランス領。イタリアとの国境に接したアルプス山脈の西側の一帯を言う。シャモニー、アルベールビル、グルノーブルと冬のリゾート地が多い。この地は中世のサヴォイア家の支配地であったが、サヴォイア家はアルプスを越えて北イタリアのピエモンテ(中心はトリノ)に次第にイタリア経営に重点を移つし、18世紀にはサルデーニャ島を併せて、サルデーニャ王国となる。フランスはこの地の併合をたびたび狙っていたが、1858年にサルデーニャ王国がオーストリアとの戦争を始めるにあたってプロンビエールの密約を結び、その首相カヴールからこの地とニースの割譲を約束させた。サヴォイア家としては王家発祥の地であるので割譲には反対したが、イタリア統一を進めるカヴールの策に押し切られた。この密約はフランスがヴィラフランカでオーストリアと単独講和したため実現しなかったが、1860年にサルデーニャ王国が中部イタリアの併合を認めてもらう代償として改めてニースとともにフランスに割譲された。サヴォイア、ニースとも帰属決定は住民投票によって行われた。
 ニース 現在はフランス領の地中海に面した保養地として有名なところ。カンヌとモナコの中間。サヴォイア家の領地であったためサルデーニャ王国に含まれていたが、サルデーニャ王国の首相カブールはイタリア統一を進めるにあたり、フランスの支援を得るため、サヴォイア地方とともにこの地をフランスに割譲することとした。最終的にはイタリア王国成立後の1860年に中部イタリアの併合の代償としてフランスに割譲されることになり、住民投票の結果フランスへの帰属が決定した。イタリア統一のため各地を転戦していたガリバルディはニースの出身だった。彼はニースのフランスへの割譲を「革命を外交化する」ものとしてカヴールを非難、独自にイタリア統一の突破口を開こうとシチリア遠征に向かうこととなった。
 中部イタリア併合 サルデーニャ王国の首相カヴールは、ヴィラフランカの和約を結んでイタリア統一戦争を裏切ったナポレオン3世に激しく怒り、いったん首相を辞任したが、その後イタリア各地で共和派による統一運動が激しくなるのを見て、サルデーニャ王国の王政によるイタリア統一というカヴールの路線が危機にあると判断して首相に復帰し、再びナポレオン3世に接近、1860年1月に両者は、サルデーニャ王国が中部イタリアを併合する代償としてサヴォイアニースを割譲するということで合意に達した。3月、中部イタリア諸国(小国の分立状態だった)で併合の賛否を問う住民投票が実施され圧倒的多数でサルデーニャ王国への併合が決まった。約束通り、サヴォイアとニースでも住民投票が実施され、こちらはフランスへの帰属が決定した。
 ガリバルディ ニース生まれの船乗りで、はじめマッツィーニに会ってその理念に共鳴し、青年イタリアに参加した。1834年の最初の蜂起の失敗後、南米に亡命。その地でウルグアイなどの独立運動に加わり、ゲリラ戦術を身につけた。1848年、革命の嵐がヨーロッパに巻き起こると直ちに帰国し、マッツィーニとともにローマ共和国の建設に加わる。フランス軍の介入により敗北した時に、身重の妻アニタと共に脱出したが、途中妻は過労で死亡するという悲運にあう。熱烈な共和主義者であった彼は、カヴールの進めるサルデーニャ王国によるイタリア統一には初め反対であったので、事態打開のため独自の行動をとった。1860年「千人隊」(またの名を赤シャツ隊という)を率いてシチリア島を占領、ブルボン家の支配する南イタリアの両シチリア王国を征服した。ガリバルディの優れた軍事的指導力で南イタリアは平定され、住民投票が行われた結果、圧倒的多数でヴィットーリオ=エマヌエーレ2世を国王とする統一が可決された。ヴィットリオ=エマヌエーレ二世も急きょ半島を南下し、10月25日ナポリ北方のティアーノで両者は会見し、共和政を断念したガリバルディはシチリアとナポリの統治権を無条件で国王に献上した。これによってサルデーニャ王国主体のイタリアの統一が完成する。ガリバルディはやむなくナポリを去り地中海に浮かぶカプレラ島に隠棲した。その後もローマ遠征と共和政の実現に意欲を燃やしたが実現することなく1882年まで生きた。
Epi. ガリバルディと赤シャツ隊 ガリバルディのシチリア遠征は急に決まったのでジェノヴァの近くの港を出たときの人数は1089名にすぎなかった。そこから「千人隊」の名称が付けられた。またガリバルディの赤シャツ姿はすでに有名だったので「赤シャツ隊」とも言われたが、全員のユニフォームだったわけではなく、実際に赤シャツは50着しか用意されず隊員は普段着のまま参加した。ガリバルディの赤シャツは目立ちすぎて標的になたため、隊員はできるだけ彼の前に立ちはだかるようにした。<『世界の歴史』22 1999 中公論新社 北原敦執筆 p.250>
 シチリア占領 1860年5月、ガリバルディの指揮する千人隊(赤シャツ隊)がシチリア島の西端マルサラに上陸、「イタリア王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の名において」ブルボン朝両シチリア王国の正規兵と戦闘を開始した。武器と兵力に勝るブルボン朝側が優勢であったが、ガリバルディは「ここでイタリアが生まれるか、滅びるかだ」と叫んで奮起を促し、死闘を制してブルボン軍を破った。ガリバルディ軍はパレルモに進撃し、市街戦を制してシチリア島を制圧した。ブルボン朝支配に反発していたシチリア島の支配層はガリバルディ軍を歓迎し、また農民は土地改革などの変革を期待してガリバルディ軍に加わるものも多かった。<『世界の歴史』22 1999 中公論新社 北原敦執筆 p.251>
Epi. 映画『山猫』の描くシチリア貴族 ルキノ=ヴィスコンティの監督作品『山猫』は、ガリバルディ軍のシチリア侵攻を背景にしたパレルモの貴族社会の動揺を重厚に描いている。パレルモの市街戦では赤シャツ隊(アラン=ドロンがその一人)とブルボン軍の戦いに市民が巻き込まれる様子が生々しく活写されている。また主人公の貴族(バート=ランカスター)の俗物ぶりと没落を自覚しながら悩むあたり、また10月に行われた住民投票のインチキぶり、なによりも時代の大きな変革と無縁のような豪華な舞踏会など、見所の多い映画である。
 ナポリ王国  → ナポリ王国
 イタリア王国 1861年3月、制限選挙で選ばれた国会が、ヴィットリオ=エマヌエーレ2世を初代国王とすることに決め、イタリア王国が成立した。これによってイタリアの統一運動(リソルジメント)は一応達成された。首都は、サルデーニャ王国時代と同じくピエモンテ地方のトリノ(65年まで。その後71年までははフィレンツェ)。国家の主要ポストもほとんどピエモンテ出身者によって占められていた。憲法もカルロ=アルベルトの制定したサルデーニャ憲法が用いられ、その他の制度や法律もサルデーニャのものがそのまま使われた。
この段階では、ローマとその周辺のローマ教皇領と、オーストリア領ヴェネツィアはまだ含まれていない。ヴェネツィアを併合するのは、1866年、普墺戦争でプロイセンを支援した結果、その講和条約によって実現した。またローマ教皇領を併合するのは1870年の普仏戦争でフランスが敗れ、ローマに駐在していたフランス軍が撤退するのを待たなければならなかった。1871年、ローマが正式に首都となり、ようやくイタリアは半島のほぼ全域を統治する国民国家を形成させた。イタリア王国は第2次世界大戦後の1946年に国民投票で共和制に移行するまで続く。
Epi.  『クオーレ』と『ピノキオ』 イタリア王国の統一から間もない1886年、デ=アミーチスの『クオーレ』が発表され、人気を博した。『クオーレ(心の意味)』は「母を訪ねて三千里」が日本でもアニメになったりして特に有名であるが、それは一つの挿話であり、本編はトリノを舞台に少年エンリーコの公立小学校の話である。平凡な《小国民》エンリーコの周りで、優等生や悪童たち、いろんな先生、こどものけんかに口出しする親たち、などなど19世紀イタリアの小学校生活が描かれており、現代の日本に通じている感じがして興味深い。一貫しているのは家族愛や祖国愛を涵養しようとしていることである。作者デ=アミーチス自身が統一戦争に従軍した経験があり、国王ヴィットリオ=エマニュエレ2世への敬愛や、カブール、マッツィーニ、ガリヴァルディなど独立の英雄への尊敬が作品に顔を出している。同じ時期にコッローディの『ピノキオ』も発表された。作者カルロ=コッローディも同じようにイタリア統一戦争に従軍した人であり、童話作家となってピノキオを創作した。ピノキオは親方のもとから飛び出した操り人形で、エンリーコとはちがってハチャメチャな冒険をくりかえすが、そこに色濃く出ているのは、たとえば嘘をつくと鼻が伸びるぞ、最後はよい子になって人間になるといった教訓である。コッローディも、統一と独立を達成した祖国イタリアの子どもたちに、正直で勤勉な生き方を期待したのであろう。発表当時は『クオーレ』は爆発的に売れたが、『ピノキオ』の方は評判にならなかった。ところが第1次世界大戦後のファシズムの台頭期になると、『クオーレ』の方は敬遠され、『ピノキオ』の人気が出てコッローディは《国民的作家》となる。<デ=アミーチス『クオーレ』和田忠彦訳 平凡社ライブラリー2007、コッローディ『ピノッキオの冒険』杉浦明平訳 岩波少年文庫 1958>
 トリノ 北西イタリアのピエモンテ地方の中心都市。ピエモンテ地方とサルデーニャ島をあわせて領有していたサヴォイア家サルデーニャ王国の都であった。また、イタリアの統一が進み1861年に正式に成立したイタリア王国の首都ともなった(1865年まで)。現在では自動車工業など代表的なイタリアの工業都市として発展、2006年には冬季オリンピックが開催され、女子のフィギアスケートで日本の荒川静香選手が優勝した。
a ヴィットーリオ=エマヌエエーレ2世  → ヴィットリオ=ーエマヌエーレ2世
b ヴェネツィア併合 ヴェネツィア(とそれを中心としたヴェネト地方)は、ロンバルディアとともにウィーン会議でオーストリア領とされていた。1858年のイタリア統一戦争ではサルデーニャ王国がその併合を目指したが、同盟国フランスが単独でオーストリアと講和したため実現できなかった。1860年のイアリア王国成立に際してもオーストリア領のまま残されていた。1866年にプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)が勃発すると、イタリア王国はプロイセンを支援し、プロイセンの勝利によってオーストリアにヴェネツィア(ヴェネト地方)の併合を認めさせた。しかし、ヴェネツィアの東方に隣接するトリエステや南チロル地方などのイタリア語地域はオーストリア領として残っていたので、それらの地域は「未回収のイタリア」と言われ、その後もイタリア政府と世論がオーストリアからの奪還を目指すことになる。
 ローマ教皇領占領 イタリアの歴史と地理のいずれにおいても中心に位置しているローマを併合することはイタリア統一の悲願であったが、ローマ教皇(ピウス9世)は駐屯するフランス軍に守られてローマ教皇領に対する世俗的支配権を主張し、王国への併合を拒否していた。しかし、1870年、普仏戦争が勃発して、ローマ駐留フランス軍が撤退したあと、イタリア王国軍はローマ教皇領を占領し、併合を強行した。これによって中世以来存続したローマ教皇領は消滅し、イタリア王国は半島ほぼ全域を統一した。翌1871年には首都をローマに移し国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世もローマに入り、リソルジメント(イタリア国家統一運動)が達成された。ローマ教皇はすべての教皇領を失い、狭いヴァチカンに閉じこもることとなった。イタリア王国とヴァチカンはその後も対立が続く(ローマ問題という)。この問題は、1929年にムッソリーニラテラン条約をローマ教皇と結び、ヴァチカン市国の存在を認めることによって解決した。
 1871 普仏戦争が終わり、1月18日にドイツ帝国が成立。3〜4月はパリ=コミューンの激闘が展開された。7月にイタリア王国のローマ遷都、8月にフランスの第三共和政が成立。アメリカはな卜戦争終結(1865年)後の再建途上であり、大陸横断鉄道の完成(69年)など、いよいよ国力を充実させる時期に入っていた。日本は明治4年、廃藩置県が行われた。そして、この年末、岩倉具視を団長とする遣外使節団が欧米歴訪の途に付く。条約改正の下交渉のためと、欧米の近代社会と国家制度を視察する目的であった。彼らが見た欧米は先進国のイギリス、フランス、オランダに互してドイツとイタリアが台頭し、大西洋の向こうではアメリカ合衆国が大国化の一歩を踏み出した時期であり、いわば主役がそろった時期であった。
 ローマ(近代)古代の都市国家としてのローマ、帝国首都としてのローマの繁栄は、5世紀のゲルマン民族の侵攻の際に何度かの略奪を受け、終わりを告げた。その後のローマ市は、ローマ教皇の居住地という宗教都市として存続したが、14世紀の「教皇のバビロン捕囚」の時期には衰えた。ルネサンス期には再び繁栄を取り戻したが、イタリア戦争で1527年に神聖ローマ皇帝カール5世によって破壊(ローマの劫略)され、再び長い衰退期を迎える。1798年からはフランスのナポレオンの支配下に入った。19世紀前半のイタリア統一運動(リソルジメント)の高揚期には1849年にマッツィーニらのローマ共和国が樹立されたが、これもフランス(ルイ=ナポレオン)の介入で潰された。それ以降もローマ教皇と自治を求めるローマ市民の対立が続き、1860年のサルデーニャ王国によるイタリア統一もローマには及ばなかった。ローマがイタリア王国に併合されたのは、1870年の普仏戦争でフランス軍が撤退した後、イタリア王国軍によるローマ教皇領占領が行われた結果であり、翌1871年に古代ローマ帝国以来、ローマが統一イタリアの首都として復活した。それ以後はイタリアの政治・経済の中心として現在に至っているが、市民とローマ教皇の関係は必ずしも平穏ではなく、「ローマ問題」として継続し、1929年にカトリック勢力の抱き込みをはかったムッソリーニラテラン条約をローマ教皇と結び、ローマの中心部にローマ教皇を君主とするヴァチカン市国が存在を認めるまで続く。
 トリエステ アドリア海の最も奥まったところに位置する港市。ヴェネツィア領を経て1382年からオーストリア領となり、1866年普墺戦争の結果ヴェネツィアがイタリア王国に併合された後も、南チロルとともにオーストリア領として残され、1871年のイタリア王国の半島統一後も同じ状態が続いたので、「未回収のイタリア」と言われる。住民の約4分の3がイタリア人(他はクロアート人)であったため、これらの地の奪回を叫ぶイタリアのナショナリズムが高揚していく。第1次世界大戦でオーストリアと戦った結果、サン=ジェルマン条約でイタリア領に編入される。ところが第2次世界大戦ではイタリアは枢軸側について敗戦国となったため、戦後の1946〜47年のパリ講和会議の結果、イタリア講和条約でトリエステは国連の監視下でA,B両地区に分割され、A地区は英米が管理し、B地区はユーゴ領とされた。トリエステは戦後も重要な貿易港であり、工業も発展していたので、イタリアとユーゴの間に「トリエステ問題」と言われる紛争が生じ、ようやく1954年に協定が成立、ほぼA地区はイタリア、B地区はユーゴ領とすることで収まった。またチャーチルは、バルト海に面したステッテンとアドリア海に面したこのトリエステを結んだ線をソ連の「鉄のカーテン」として非難した。
 南チロル オーストリアのチロル地方のアルプスをはさんだ南側の地域で、トレントが中心都市。イタリア人住民が多いが中世以来オーストリア領とされてきた。ブレンナー峠をへてドイツと結ぶ重要なルートにある。1871年にイタリア王国が半島を統一した後もオーストリア領として残されたので、トリエステとともに「未回収のイタリア」と言われ、その奪回をめざす運動が19世紀末に強まる。結局、第1次世界大戦でイタリア軍がオーストリア軍を破ったあめ、オーストリアと連合国のサン=ジェルマン条約によりイタリア領に編入された。
 未回収のイタリア イタリア王国が1870年にローマを占領し、ほぼ半島全域を統一した後も、イタリア人居住地でありながらオーストリア=ハンガリー帝国領として残された地域をいう。特に、アドリア海に面したトリエステと北方へのルート上にある南チロルの併合を要求するイタリア国内の声が強くなり、その奪回をめざすナショナリズムが台頭する。この「未回収のイタリア」(Italia irredenta)の解放を目指す運動をイルレデンティズモという。統一達成後のイタリアはフランスのチュニス侵出に反発して、1882年にドイツ、オーストリアと三国同盟を締結するが、第1次世界大戦が勃発するとこの奪回の機会と捉え、協商側に参戦してオーストリアと戦い戦勝国となった。その結果、連合国とオーストリアのサン=ジェルマン条約によってそのイタリア編入が決まり、「未回収のイタリア」は解消したが、一部強硬派はなおも隣接するフィウメなどの領有を主張して紛争の余地が残ることとなる。
 ヴァチカン ローマ市内のサン=ピエトロ大聖堂に隣接する、ローマ教皇庁の所在地。ヴァチカン宮殿にローマ教皇は居住するので、ヴァチカンが教皇庁を意味するようになる。その起源は、1世紀の中ごろ、ネロ帝の迫害で倒れたペテロの墓所であるという。その地は349年にサン=ピエトロ大聖堂が建てられ、カトリックの総本山となった。その後、教皇のバビロン捕囚や教会の大分裂など、教皇がローマを離れた時期もあるが、ヴァチカンはカトリックの中心地として続いた。その間、教皇は一国の君主としても教皇領を支配していたが、近代に入りイタリア統一の気運が高まって1870年には教皇領はイタリア王国に併合された。しかし、ローマ教皇はイタリア王国がローマ教皇領を占領したことに反発、両者の深刻な対立が続いた。この対立をローマ問題という。1929年、ムッソリーニのイタリアとのラテラン条約が結ばれ、独立が認められてヴァチカン市国となってローマ問題は解決した。
カ.ドイツの統一
 ドイツ関税同盟 プロイセン主導のドイツ統一運動の最初のもので、分裂していたドイツを、まず経済的な面で統合することを目指した。加盟した国(邦)は、相互間の関税障害を撤廃して自由な通商を行い、同盟外の諸国との貿易では共通の関税率を設ける。
a プロイセン  → プロイセン王国
b オーストリア  
c リスト  
d クルップ社  
 フランクフルト国民議会  
a 大ドイツ主義 オーストリアのドイツ人居住地域を含む全ドイツ国家を建設することを主張した。この考えでは、オーストリアはドイツ人居住地域と非ドイツ人居住地域(ハンガリー人やチェック人の居住地域)とに分割されることになるので、オーストリアは反対した。
b 小ドイツ主義 ドイツの統一に当たり、多民族国家であるオーストリアを含まず、プロイセン国王を世襲のドイツ皇帝としようとる考え。 
c ユンカー階級  → ユンカー
 ビスマルク プロイセン王国の純粋な土地貴族ユンカーの家に生まれ、外交官となる。1851年のフランクフルト国民議会にはプロイセン代表として参加し、小ドイツ主義の立場に立ち、オーストリアと対立。プロイセン王ヴィルヘルム1世に乞われて首相となる(1862〜90年)。有名な「鉄血演説」を行って議会と対立。以後は、議会を無視して、鉄血政策という軍備拡張政策を推し進める。まず、64年にシュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題でオーストリアと共同してデンマーク戦争を起こし、デンマークを破る。次いで普墺戦争普仏戦争を勝ち抜き、1871年にはドイツ帝国を成立させる。以後約20年にわたって、ドイツを支配し、ヨーロッパに「ビスマルク体制」といわれる秩序をうち立てた。国内政策では、ユンカー階級の利益を優先したドイツ帝国の維持に努め、それに敵対する勢力としてカトリック勢力、ついで社会主義勢力を厳しく弾圧した。南ドイツを中心としたカトリック勢力とは文化闘争を展開し、社会主義政党に対しては社会主義者鎮圧法を制定する一方、社会政策を推進して労働者の懐柔にあたった。また、外交政策ではフランスを孤立化させてドイツ帝国の国際的威信を高めるというビスマルク外交を展開、「公正なる仲介人」と称して露土戦争後のベルリン会議や、アフリカに関するベルリン会議を主催し、1870〜80年代のヨーロッパ外交の主役となった。ビスマルク時代に形成された三国同盟などの秘密軍事同盟は、帝国主義列強の対立軸をつくりだすこととなり、第1次世界大戦をもたらすこととなった。
1888年、ヴィルヘルム2世が即位すると、若い皇帝はビスマルクを嫌い、ことごとく反発し、1890年ビスマルクは辞任に追い込まれる。
a ヴィルヘルム1世  
 鉄血政策 プロイセン王国ビスマルクの推進した、軍備拡張政策。とは武器、とは兵士を意味する。この政策のもとで、モルトケなどの名将が排出し、参謀本部を中心とするプロイセン軍が形成された。 
 “鉄と血” プロイセン王国首相のビスマルクが、1862年9月30日に行った演説の一節。当時議会は政府・陸軍の進める軍制改革に対し、自由主義者が反対。予算案は議会を通過できなかった。そこでビスマルクは「現下の大問題は言論や多数決−これが1848〜49年の大錯誤であった−によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」と演説し、「鉄血宰相」のあだ名が付いた。そして議会で予算が不成立でも、国家活動は一刻も停止できない以上、政府は予算なしでも執政権を行使しなければならない、という「隙間論」で乗り切った。 
 デンマーク戦争 1964年に起こった、プロイセン・オーストリア連合軍とデンマーク王国の、シュレスヴィヒ・ホルシュタインをめぐる戦争。ビスマルクはこの両州でのデンマークからの分離運動を利用し、オーストリアを誘って軍を起こし、デンマークに侵攻し、勝利を収めた。1865年8月にシュレスヴィヒをプロイセンが、ホルシュタインをオーストリアが分割統治すること(ガシュタイン協定)で終結した。次いでホルシュタインの統治をめぐってビスマルクがオーストリアとの対立を煽り、1866年に普墺戦争へとつながっていく。結果として、この戦争は、14世紀のカルマル同盟以来の北欧の大国デンマークが凋落し、プロイセン王国が領土を拡大し、さらに後にドイツ帝国としてヨーロッパの覇権を握る第一歩となった。
 シュレスヴィヒ・ホルシュタイン シュレスヴィヒ州とホルシュタイン州はデンマーク王国の州であったところ。ユトランド半島の基部にあり、北部がシュレスヴィヒ、ドイツに近い南部がホルシュタイン。中世ではシュレスヴィヒがデンマーク王国に属し、ホルシュタインが神聖ローマ帝国に含まれていた。そのため、前者にはデンマーク系、後者にはドイツ系の住民が多かった。15世紀以降は両方ともデンマーク王国が領有することとなったが、デンマーク王はこの二州を公国として自治を認めていた。19世紀の民族主義の風潮の中で、これらの地のドイツ系住民がデンマークからの分離独立を要求するようになり、1848年のシュレスヴィヒに反乱が起こったがこれはデンマーク軍が鎮圧した(第1次シュレスヴィヒ戦争とも言う)。1863年にデンマークは憲法を制定、それをシュレスヴィヒに適用しようとしたことから、対立は緊迫し、ドイツ系住民の要請を受けたことを理由にしたプロイセンのビスマルクは、オーストリアをさそって1864年にデンマークと開戦した。これがデンマーク戦争(第2次シュレスヴィヒ戦争)である。その結果、1865年のガシュタイン条約によって、シュレスヴィヒはプロイセンに、ホルシュタインはオーストリアに割譲された。後に、この処分をめぐってプロイセンとオーストリアの間に対立が生じて、1866年の普墺戦争となり、その結果、プラハ条約でホルシュタインもプロイセンの領地なった。
 プロイセン=オーストリア戦争 1866年6月に起こったプロイセン王国とオーストリアの戦争。普墺戦争とも表記する。シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題から始まった両者の対立から、ビスマルクが巧みにオーストリアを挑発して戦争に持ち込んだ。モルトケの指揮するプロイセン軍が「7週間戦争」と言われるような短期間で圧勝し、ホルシュタインをプロイセン領に組み入れた。オーストリアはドイツ統一の主導権を失い、ドイツはプロイセンの「小ドイツ主義」によって統一されることになる。敗れたオーストリアは、翌1867年、ハンガリーの名目的独立を認めるアウスグライヒを結び、オーストリア=ハンガリー帝国となる。また北イタリアのヴェネツィアもオーストリアの支配から脱し、プロイセンを支援したイタリア王国に併合された。
 北ドイツ連邦 1867年にビスマルクの主導によって結成された、プロイセンを盟主とし、北ドイツの22の諸邦が参加した連邦。これによってウィーン議定書以来のドイツ連邦(オーストリアを盟主としたドイツの君主と自由市の連邦)は解体した。北ドイツとはマイン川以北を示し、これによってオーストリアおよび南ドイツ4カ国(バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセン=ダルムシュタット)は除外され、1871年のドイツ帝国成立を準備することとなった。
 普仏戦争 1870年に起こった、プロイセン(普)・フランス(仏)の戦争。スペインの王位継承問題に端を発した両国の対立であるが、ナポレオン時代のフランスに復讐することでドイツ統一の主導権を握りろうとしたプロイセンのビスマルクが、フランスのナポレオン3世を挑発して戦争に持ち込んだもの。プロイセン軍の大勝に終わり、翌71年、ドイツ帝国が成立した。
戦争の口実と発端:1870年、プロイセン・ホーエンツォレルン家の分家ジグマリンゲン家の王子レオポルドがスペインの王位継承者となるが、フランスのナポレオン3世は強く反対。両者の対立は厳しくなる。フランスの弱体化をねらうプロイセンのビスマルクは、エムス電報事件(プロイセン王とフランス大使の会見をプロイセン王に報告する電報を、ビスマルクがフランス大使がプロイセン王を侮辱した内容に改ざんして発表したため、プロイセン国内に反フランスの声盛り上がる。フランスでも反プロイセンの感情が強くなり、10月9日、フランスが宣戦布告し戦争が始まる。
戦争の経過:フランスとの戦争となって他のドイツ諸国(バイエルンなど)もプロイセン軍に加わり、全ドイツとフランスの戦争の様相となった。(したがってこの戦争を独仏戦争という場合もある。戦争は、圧倒的に優勢な兵力と火器を有し、輸送と兵站(後方支援)の準備を終えていたプロイセン側がフランス領内に進撃し、9月1日セダンの戦い(フランス語の発音ではスダン)で、ナポレオン3世が8万3千の将兵と共に降伏し、フランス第2帝政は崩壊した。
戦争の結果:パリに迫ったプロイセン軍は、翌1871年年1月18日にヴェルサイユ宮殿を占領し、そこでドイツ帝国の皇帝戴冠式を行い、その10日後にパリは開城した。2月26日、フランス臨時政府(行政長官ティエール)は、50億フランの賠償金と、アルザス・ロレーヌ地方(ロレーヌ地方には厳密にはその三分の一)を割譲する条件で講和した。勝ち誇ったプロイセンは、3月1日、パリに入城した。パリ市民は抗議の黒旗を窓に垂らした。フランス臨時政府の屈辱的な講和に反対したパリ市民は、パリ=コミューンを組織して、労働者政権を樹立する。しかし、臨時政府側とドイツ軍によって包囲され、5月に崩壊した。こうしてフランスはブルジョワ共和政の第三共和政となる。
普仏戦争と他のヨーロッパ諸国:なお、普仏戦争に際し、イギリスのグラッドストン内閣は不介入の姿勢に終始し、ロシアのアレクサンドル2世はその隙に南下政策を再開させる。またフランス軍が敗れ、ローマ駐留軍(イタリア統一戦争からローマ教皇を守る名目でナポレオン3世が派遣していた)が撤退したため、イタリア王国軍がローマを占領し、イタリア統一が完成したのもこの結果である。 
a ナポレオン3世  
b セダンの戦い  
c アルザス・ロレーヌ 中世以来、フランスとドイツの国境紛争が続いたのがアルザス(ドイツ語でエルザス)とロレーヌ(ドイツ語でロートリンゲン)地方である。ライン川中流の左岸にあり、交通の要衝、また鉄・石炭という地下資源が豊富であるので、常に両国がその領有を巡って争った。人種的にはドイツ系住民が多いが、文化的にはフランス文化の影響の強い地域といわれる。まず、フランス革命・ナポレオン時代にフランス領となり、ウィーン会議ではかろうじてフランスは領有を維持したが、この普仏戦争で両地方の大部分はドイツ帝国領となった。ドイツはこの地の鉄と石炭で、産業革命を達成することになる。フランスはその後、この地の回復を目指し、第1次世界大戦の結果、フランス領に戻される。
Epi. 『最後の授業』の真相 19世紀後半のフランスの作家アルフォンス=ドーデの『月曜物語』の冒頭の一編「最後の授業」は、普仏戦争でアルザス地方がドイツ領に編入されたときのことを題材にしている。明日からはドイツ語で授業をしなければならないという最後の日、フランス語の先生は子供たちにフランス語は世界で一番美し言葉だと教え、忘れないようにと説く。そして最後に黒板に大きく「フランス万歳!」と書く、という話で、かつては日本の教科書にもよく見られたが、最近はすっかりみられなくなってしまった。それは、このドーデの作品の虚構が明らかになって来たためである。実は、アルザス地方で話されていた言葉はフランス語ではなく、もともとドイツ語の方言であるアルザス語であったという。つまりドーデの作品は「対ドイツ報復ナショナリズムのお先棒を担ぐイデオロギー的作品」だとされるようになったのである。<谷川稔『国民国家とナショナリズム』1999 世界史リブレット 山川出版社>
キ.ドイツ帝国の成立とビスマルク外交
 ドイツ帝国 1871年から1918年までのホーエンツォレルン家の皇帝の統治したドイツの統一国家をドイツ帝国という。
それまで多数の領邦国家に分かれていたドイツを、普仏戦争の勝利によって優位となったがプロイセン王国が中心となって統一した国家。普仏戦争の講和に先立ち、1871年1月18日に、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でヴィルヘルム1世ドイツ皇帝即位式を挙行した。同年4月、ドイツ帝国憲法を制定し、プロイセン王(ホーエンツォレルン家)がドイツ皇帝の帝位を世襲し、プロイセンの首相がドイツ帝国宰相となる立憲君主政国家となった。立憲政治ではあるが、皇帝およびそれを補佐する帝国宰相の権限は強大で、帝国議会の権限は制限されていた。
ドイツ統一問題は、フランクフルト国民議会でも大ドイツ主義と小ドイツ主義の対立があったが、ドイツ帝国はオーストリア(ハプスブルク家)を除外し、プロイセン中心の連邦制国家として統一を実現した。宰相ビスマルクのもとで中央集権化が進められ、ドイツ最初の近代的な統一国家となった。かつての神聖ローマ帝国を第一帝国といい、このドイツ帝国を第二帝国という言い方もある。帝国成立後、普仏戦争で得た賠償金やエルザス・ロートリンゲンの鉄・石炭などによって産業革命を進めて、急速に工業化を遂げると共に軍備を増強した。帝国主義時代に突入すると、ヴィルヘルム2世はイギリス・フランスなど先行する帝国主義諸列強に戦いを挑むように領土的野心をあらわに、第1次世界大戦の要因を作った。1918年の敗北によって皇帝ヴィルヘルム2世は亡命してしドイツ帝国は崩壊、ヴァイマル共和国となる。なお、その後台頭し、1934年に総統となったヒトラーは、ナチス=ドイツをドイツ第三帝国と称した。 
a 1871  
 ヴィルヘルム1世 ドイツ帝国の初代の皇帝。ホーエンツォレルン家のプロイセン国王であったが普仏戦争での勝利の結果、1871年1月18日、占領したヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」で、ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式を挙行した。ブルボン王朝ルイ14世の栄華の象徴であるヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の戴冠式を挙行することで、ナポレオン1世によってベルリンが蹂躙されたことへの報復となった。もっとも、ビスマルクのお膳立てでドイツ皇帝となったヴィルヘルム1世は、プロイセン王であることにこだわり、皇帝となることに不本意であり、号泣したという。
ドイツ皇帝としては宰相ビスマルクに全幅の信頼を寄せ、政治外交を一任していたが1888年、91歳で死去した。
 ドイツ帝国憲法 1871年4月14日に成立したドイツ帝国の基本法。プロイセンを中心として結成された北ドイツ連邦憲法をもとに修正を施したもの。主要な内容は次のような点である。
・ドイツ帝国は22の君主国と3つの自由市からなる25の邦と帝国直轄領(エルザス・ロートリンゲン)からなる連邦制国家である。
ドイツ皇帝はプロイセン王と一身同体であり、プロイセン首相が帝国宰相を兼ねる。
・二院制立法府で上院に当たる連邦参議院は邦の代表で構成される。議長は帝国宰相が兼ねる。
・同じく下院に当たる帝国議会は成年男子普通選挙で議員を選出するが、権限は小さかった。
帝国宰相は皇帝が任命し、皇帝に対して責任を負う。
このドイツ帝国憲法は1918年の第1次世界大戦でのドイツ帝国の敗北、解体により消滅。ドイツ共和国ではいわゆるワイマル憲法にかわる。
 ドイツ皇帝 ドイツ帝国皇帝でドイツ語でカイザー(Kaiser)という。神聖ローマ帝国、オーストラリア皇帝も同じくカイザーと称しており、ロシア帝国のツァーリと同じく、ローマ時代のカエサルに由来する。ドイツ帝国憲法でドイツ皇帝はプロイセン王が兼ねることとなっており、初代は1871年即位のプロイセン王のホーエンツォレルン家のヴィルヘルム1世。1888年に91歳で死去し子供のフリードリヒ3世が即位したが在位わずか99日で喉頭ガンで死去、その子ヴィルヘルム2世が29歳で即位した。ヴィルヘルム2世はその後、ビスマルクを罷免して皇帝独裁体制を固め、第1次世界大戦に突入、敗北して退位し、オランダに亡命してドイツ帝国の皇帝位は終わりを告げた。
 連邦制(ドイツ帝国) ドイツ帝国は、それ以前のドイツ連邦、北ドイツ連邦の形態を継承して、連邦制をとった。しかし以前の連邦に比べて、ドイツ帝国には皇帝とそれを補佐する帝国宰相が置かれ、行政・軍事・外交面で強大な中央集権的権限をもち、二院制の議会も有した。また帝国を構成する邦の中でも、統一の中心となったプロイセンの絶対的な優位が確保されていた。各邦は内閣、上下両院を持ち、外交使節を国内および国外に派遣する権限を有していた。ドイツ帝国としての軍隊統帥権は皇帝が持っていたが、バイエルンだけは平時にバイエルン王が軍の統帥権を認められた。 
 連邦参議院 連邦参議院(ブンデスラート)はドイツ帝国のもとでの二院制立法府のうち、帝国議会に対して上院にあたる。ドイツ帝国を構成する25の邦の代表によって構成され、議長は帝国宰相が兼ねる。プロイセンが17票をもち、他にはバイエルンが6票、ザクセンとヴュルテンベルクが4票、バーデンとヘッセンが3票などと邦によって差があり、プロイセンの優位が確保されていた。法律批准権、宣戦・条約締結に関する発言権、帝国議会解散決議権をもっていた。
 帝国議会(ドイツ) 帝国議会(ライヒスターク)はドイツ帝国での二院制の立法府で、連邦参議院に対して下院にあたる議会。議員は25歳以上男子の普通選挙で、直接投票・秘密投票で選出される。人口10万人に1人の議員が先取され、法案の発案権、審議権と予算の審議権を持っていた。
ドイツ帝国での帝国宰相と議会:帝国宰相は皇帝が任命し、議会に責任を持つ必要がなかったので議院内閣制とは言えなかった。その点で大日本帝国憲法と同じである。また帝国宰相は皇帝の補佐機関であり、分担して行政に当たる内閣は存在しなかった。ビスマルクは国民に普通選挙を認め、保守的な大衆を政治に参加させ、政権支持を固めようとしたらしいが、選挙によって自由主義諸政党が進出する結果となったので、たとえば陸軍予算では議会の反対をおさえるため7年制予算などを強引に通すなどによって議会の無力化を図った。
i ユンカー  → ユンカー
 ビスマルク時代 プロイセンからドイツ帝国に至る1862〜90年の約30年間ビスマルクが政権を担った時代。内政では、一貫した鉄血政策と言われる軍備拡張を行うと共に、中央集権的な国家体制の建設をすすめ、カトリック教会などの保守派と社会主義者などの革新派のいずれをも押さえ込むことに力を注いだ。また、外政ではフランスの再興を警戒し、その勢力をそぐことに主眼をおいた、いわゆるビスマルク外交を展開し、19世紀後半の国際政治の中心人物となった。ビスマルク時代はヴィルヘルム2世によって1890年にビスマルクが罷免されたことによって終わる。
a 文化闘争 ドイツ帝国の統一を進めるビスマルクが、カトリック教会を国家の規制に服させるために行った弾圧政策ととれに対するカトリック勢力の抵抗。
ビスマルクがドイツの統一を進めようとした時、それに敵対した勢力がカトリック教会であった。当時のローマ教皇ピウス9世は、プロテスタントの多いプロイセンが中心となり、カトリックの多いオーストリアが排除される形のドイツ統一に大きな危機感を抱いていた。またドイツのカトリック教徒も同様の不安を抱き、1870年に中央党という政党を結成してプロテスタント主流のドイツ統一に反対し、国家に対するカトリック教会の自主権と、カトリック諸邦の独自性の尊重を掲げた。そのようなカトリック勢力に対し、ビスマルクは、ローマ教皇庁に操られ、ドイツ帝国の統一を妨げるものであると闘争を挑んだ。それを「文化闘争」という。はじめはビスマルク側が「文化のための闘争」の意味で使った言葉だが、カトリック側は「文化に対する闘争」の意味で用いた。
1871〜74年に一連の法律を制定して、出征や結婚、死亡の届けを教会ではなく役所にすることなどの改革を打ち出した。ビスマルクは、かつての神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ4世と、ローマ教皇グレゴリウス7世の争いである「カノッサの屈辱」になぞらえ、自分は「断じてカノッサには行かぬ」と議会で演説している。しかし、カトリック教会と中央党の抵抗は根強く、ビスマルクも次第に妥協的となり、次第にその攻撃の矛先は社会主義勢力であるドイツ社会主義労働者党に向けられていく。
b カトリック勢力  
b 社会主義運動(ドイツ) 1840年代のドイツ産業革命によって労働者階級の形成が進み、その中から資本主義を否定し、労働者の解放を目指す思想が、1848年のマルクスエンゲルスによる『共産党宣言』が発表され、マルクス主義の政治と思想の潮流が生まれた。一方でドイツの社会主義・労働運動には、マルクス主義とは別に、ラサール派の動きがあった。ラサールは労働者の選挙権獲得によって国政に参加し、社会改良を実現しようとし1863年に全ドイツ労働者協会を創立した。一方、マルクス主義をとるベーベルやリープクネヒトは1869年、アイゼナッハで社会民主労働者党(アイゼナッハ派)を結成した。このラッサール派とアイゼナッハ派が1875年にゴータで合同大会を開催、ドイツ社会主義労働者党となった。ロンドンに亡命中のマルクス(1867年に『資本論』第1巻を発表していた)とエンゲルスは、この「ゴータ綱領」でのラッサール派との合同を革命の後退であると批判した。ビスマルク政権のもとで、1878年、皇帝ヴィルヘルム1世暗殺未遂事件を口実とした社会主義者鎮圧法が制定され、非合法とされて弾圧されたが、かえって労働者の中に支持を広げていった。1890年、社会主義者鎮圧法が撤廃された後、「ドイツ社会民主党」と改称され、現在に至っている。 
b ラサール ラサール(またはラッサール)はドイツの社会主義者で、1863年に「全ドイツ労働者協会」を創設して普通選挙による労働者の国政参加を目指して活動した。マルクスとは別個に、独自の社会主義思想を展開し、労働者権力の樹立を目指したが、あくまで国家の枠組みの中での社会改革の主張にとどまり、マルクス主義とは一線を画した。マルクス主義のベーベルとは対立したが、その影響下にあるラサール派は後の社会民主党にも加わり一つの潮流となった。 
b ベーベル  
g ドイツ社会主義労働者党  
f ドイツ社会民主党  → 第14章 1節 ドイツ社会民主党
d 社会政策 ドイツ帝国の首相ビスマルクは、社会主義者鎮圧法を制定して労働者の運動を徹底的に押さえつけたが、その一方、労働者の保護政策や社会保障政策を推し進めた。そのような二面性を「アメとムチの政策」という。80年代にビスマルクが制定した社会保障制度には、医療保険法災害保険法養老保険法がある。これらは当時の世界では最も進んだ社会保障制度であり(イギリスではようやく1911年にビスマルクの社会保障政策をまねて国民保険法を制定した)、それ自体優れたものであった。これらの政策は社会主義者に対する懐柔のためのものでもあったが、社会主義の進出を抑えることはできず、なおも弾圧を強化しようとしたビスマルクは退陣せざるを得なくなり、1890年には社会主義鎮圧法も廃止される。 
d アメとムチ  
e 社会主義者鎮圧法 ドイツ帝国のビスマルク政府が社会主義に対する抑圧策として1878年に制定した法律。
1870年代、統一と共に産業革命が進行したドイツでも多くの工場労働者が生まれ、その中から労働者の解放を目指す社会主義運動が起こってきた。社会主義者ラサールとマルクスがその指導者であった。1875年にはラサール派とマルクス主義派(アイゼナッハ派)がゴータで合同大会を開き、世界最初の労働者の単一政党である、ドイツ社会主義労働者党(90年、ドイツ社会民主党に改称)を結成した。ビスマルクは社会主義者の進出を恐れ、皇帝狙撃事件が起こるとそれを社会主義者の仕業であると宣伝して恐怖心をあおり、1878年社会主義者鎮圧法を制定した。これは社会主義、共産主義の集会、結社、出版、デモなど一切を喫し磨るもので、ドイツ社会主義労働者党は非合法とされ、地下に潜った。ビスマルクは一方で社会主義者を労働者から遊離させるため、独自の社会保障制度の制定などの社会政策を進めた。 
h 社会保険制度  
i 保護関税法  
 ビスマルク外交 プロイセン、およびドイツ帝国の首相ビスマルクの外交政策。特にドイツ帝国の1970年の成立から、ビスマルク辞任の1890年まで、ビスマルクが強力な指導力によってヨーロッパ各国の関係をコントロールしたことを言う。
ビスマルク外交のねらい:ビスマルクの最大の関心は、普仏戦争後に敗れたフランスが、再びドイツの脅威とならないようにお竿込んでおくことであった。そのために、まずドイツの背後にあるロシアとオーストリアとの同盟関係を強めることをねらい、1873年に三帝同盟を結成した。特にドイツがフランスとロシアの両国と戦うことは東西両面に敵をおくことなるので何としても避けなければならないと考え、フランスとロシアが同盟することを最も恐れた。(ビスマルクが恐れたことはその後第1次世界大戦、さらに第2次世界大戦で現実のものとなり、その二度ともドイツの敗北となった。)また、当時、資本主義列強の植民地分割競争は激烈をきわめていたので、ビスマルクはその調停を行い、ヨーロッパの秩序の維持に努めた。とくにバルカン問題ではロシアとオーストリア間の対立要因があり、放置すると三帝同盟崩壊につながるため、ビスマルクは「公正なる仲介人」と称して1878年にベルリン会議を開催し調停し、いわゆる「東方問題」の解決にあたった。またアフリカに関するベルリン会議を開催して調停にあたった。
ビスマルク外交の要であった三帝同盟は、その努力にもかかわらずロシア、オーストリアの対立が解消されず、不安定であった。そこで1882年にはオーストリア、イタリアとの間で三国同盟を締結した。それはフランスを仮想敵国とする秘密軍事同盟であった。1887年にはロシアとの間に再保障条約(二重保障条約)を締結した。このようなドイツの安全を他のヨーロッパ列強の関係を利用しながら維持するという姿勢は、新たに皇帝となったヴィルヘルム2世には消極的ととらえられ、ビスマルクは罷免され、外交的な駆け引きで列強がバランスをとる時代は終わり、列強が軍備増強を競い、力で決着を付ける帝国主義時代に入ることとなった。
a 三帝同盟 1873年締結のドイツ・オーストリア=ハンガリー・ロシアの三国による対フランス防衛のための同盟。普仏戦争の結果、アルザス・ロレーヌ地方がドイツ領とされたことで、フランスの対ドイツ復讐熱は強くなっていた。ビスマルクはそのようなフランスがナポレオン時代のようなヨーロッパの脅威とならないよう、封じ込めておくことに最大の外交目標を置いた。特にフランスと戦う場合に、ドイツの背後にあるロシアとオーストリア=ハンガリーとは同盟関係を作っておくことが必要と感じたようである。それでドイツヴィルヘルム1世オーストリア=ハンガリー帝国フランツ=ヨゼフ1世ロシアアレクサンドル2世が、三帝同盟を結成したのである。
しかし、バルカン半島でのパン=スラブ主義とパン=ゲルマン主義の対立といういわゆる東方問題が深刻になるとロシアとオーストリア=ハンガリー帝国の関係が悪化した。1877年の露土戦争に勝利したロシアがバルカン半島への進出を図ると、1878年のベルリン会議でその対立が表面化したため、翌79年にロシアが三帝同盟から離脱し、効力を失った。その後、三帝同盟は1981年に復活し、87年まで存続した。しかし、一方では1879年にドイツとオーストリア=ハンガリー帝国間で独墺同盟が別に締結され、1982年にはイタリアが加わって三国同盟が成立したため、意味を持たなくなった。 
b ドイツ  
c オーストリア  
d ロシア  
e パン=スラブ主義  → パン=スラブ主義
f ロシア=トルコ戦争(露土戦争)  → 露土戦争
g サン=ステファノ条約  → サン=ステファノ条約
h イギリス  
i オーストリア  
 ベルリン会議 1878年6月からベルリンで開催された露土戦争後の調停のための国際会議。サン=ステファノ条約で領土を拡大したロシアに対し、その東地中海・南アジアへの進出を恐れるイギリスと、バルカンへのロシアの進出を警戒するオーストリア=ハンガリー帝国が強く反対した。この危機の調停に乗り出したのがビスマルクであり、彼は「誠実な仲買人」(または「公正な仲介人」)の立場をとると表明し、ベルリンにロシア、オーストリア=ハンガリー、イギリス(ディズレーリ)、トルコ、ドイツ、フランス、イタリアの六カ国会議を開催しその議長を務めた。その結果、同年8月のベルリン条約で、サン=ステファノ条約は修正され、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの三国の独立は承認されたが、ロシアの獲得した領地は縮小された。ボスニア・ヘルツェゴヴィナはオーストリアが占領支配することとなった。結局、ビスマルクの調停は公正中立なものではなく、ロシアを抑え、イギリスに有利な調停であった。この会議でいわゆる東方問題は一応解決し、次はバルカン諸国をめぐるロシアの汎スラブ主義とオーストリアの汎ゲルマン主義の対立と結びついた、バルカン諸国間の争いであるバルカン問題に移行することとなる。
19世紀の三大国際会議:なお、ナポレオン戦争後のウィーン会議、1856年のパリ会議(クリミア戦争の講和会議でパリ条約が締結された)とこのベルリン会議を、19世紀の三大国際会議という。これらの会議は、ヨーロッパ列強のみで構成された国際会議であり、ベルリン会議はその最後にあたるものであった。20世紀の国際会議には、ヴェルサイユ会議のように、アメリカと日本という、非ヨーロッパ国家が加わることとなる。 
a バルカン問題  → 第14章 2節 バルカン問題
 「公正なる仲介人」  
 ベルリン条約 1878年のベルリン会議の結果、「東方問題」の最終的な解決として、ドイツ帝国のビスマルクの調停によって成立した条約。主な内容は、
ルーマニアセルビアモンテネグロの三国の独立とそれぞれの領土拡張。
ブルガリアは領土を3分の1に縮小され、オスマン帝国を宗主国とする自治国とする。
・ロシアは、コーカサス山脈以南の諸都市をトルコから、ベッサラビアをルーマニアから獲得。
・オーストリアは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を獲得。
・イギリスは、オスマン帝国からキプロス島の統治権を認められる。
・フランスのチュニス進出の承認。(いつチュニスを占領してもいいということで、フランスは1881年に実行する。)
ベルリン条約の意義露土戦争で頂点に達したロシアの南下政策はいったん抑えられ、オスマン帝国領でのバルカン諸国の独立、イギリスとオーストリアにとって有利な領土調停が成立した。この結果、ドイツとロシアの関係は次第に悪化し、ロシアはフランスに接近する。危険を感じたビスマルクは、1882年に三国同盟でオーストリア、イタリアと手を結び、さらにロシアに働きかけ、1887年に独露再保障条約を締結する。
 ルーマニア ルーマニアはルーマニア人が多数を占めるがハンガリー人なども居住し、ロマという少数民族も含んでいる。オスマン帝国の宗主権の下で、ワラキアとモルダヴィアの二公国が次第に自治権を獲得していった。19世紀以降ロシアの影響が強まり、近代的な国家制度の下で両公国の統合要求が強まり、クリミア戦争後の1859年に統一を実現し、66年には正式にルーマニア公国となった。露土戦争後の1878年のサン=ステファノ条約でオスマン帝国からの独立が認められ、さらにベルリン条約での正式にルーマニア王国となった。
 →第一次世界大戦後のルーマニア 第二次大戦後のルーマニア  東欧革命時のルーマニア
f セルビア王国(近代)セルビア人は12〜13世紀にはバルカン半島にセルビア王国として繁栄していた。しかし14世紀にオスマン帝国がバルカン半島を征服、セルビア王国も1389年のコソヴォの戦いに敗れ、その支配を受けることとなった。長いオスマン帝国の支配が続くが、その間、ギリシア正教の信仰は維持することが出来た。19世紀にヨーロッパの民族意識が高まる中、1804〜13年の第一次セルビア蜂起、さらに1815〜17年の第二次セルビア蜂起というオスマン帝国に対する独立運動を展開し、1830年にセルビア公国として自治が認められた。セルビアの独立運動は同じスラブ民族で、パン=スラブ主義をとるロシアが支援し、それに対してオスマン帝国と同じように帝国内でスラブ系の民族を支配しているオーストリアはスラブ系民族の独立を抑えながらゲルマン人のバルカン進出を図ろうとして、いわゆる東方問題が起こる。その過程でロシアがオスマン帝国に全面的な対決を挑んだ露土戦争(1877年)で、セルビアもロシアを支援した。ロシアの勝利によって露土間でサン=ステファノ条約が結ばれ、セルビアのオスマン帝国からの独立が認められ、さらに1878年のベルリン会議の結果、ベルリン条約が締結され、セルビア王国の独立が承認された(これを近代セルビア王国という)。セルビア王国はバルカン半島の中心部に位置して次第に重要性を増し、オーストリア=ハンガリー帝国との対立を深め、第1次世界大戦に至ることとなる。 ユーゴスラヴィア王国  ユーゴスラヴィア(第2次大戦後) ユーゴスラヴィアの解体 
g モンテネグロ モンテネグロとはイタリア語(ヴェネツィア方言)で「黒い山」を意味し、モンテネグロでは同じ意味で「ツルナゴーラ」という。自国での正式な国号は「ツルナゴーラ共和国」である。黒い山と言っても実際には樹木は少なく、白っぽい山地が多い。住民はモンテネグロ人というが、南スラブ系でセルビア人とはほとんど違いが無く、言語もセルビア語の方言程度の差しかない。また南に隣接するアルバニア系の住民、ムスリム人なども多い。中世にはセルビア王国に属していたが次第に独自の道を歩むようになり、ヴラディカという正教会の主教が政治をとる一種の神政政治が行われた。16世紀にはオスマン帝国の圧迫を受けたが、完全に支配されることはなく、バルカン諸国の中で一定の税を納める貢納国として自治を守りモンテネグロ公国となった。この歴史的経緯がモンテネグロ人意識を強めている。19世紀には政治体制も近代化され、またロシアの主唱するパン=スラブ主義に同調し、露土戦争(1877〜78年)のロシアの勝利によってモンテネグロもオスマン帝国からの独立した。さらに同年のベルリン条約によってセルビアとともに国際的にも承認され、モンテネグロ王国となった。第一次世界大戦でもロシアとの関係から、セルビアとともに協商側に付き、戦後は南スラブ人の統合に合流し、ユーゴスラヴィア王国を構成した。 → ユーゴスラヴィア(第2次大戦後) ユーゴスラヴィアの解体 → モンテネグロ独立
h ブルガリア(自治公国)ブルガール人ははじめトルコ系であったが先住の南スラブ人と同化しながらバルカン半島東部を征服して建国されしだいにスラブ化した。7〜13世紀に第1次ブルガリア王国第2次ブルガリア王国が繁栄したが、14世紀の末までにオスマン帝国の支配下に入り、それ以後長くその支配を受けることとなった。19世紀にオスマン帝国の衰退に乗じてギリシア正教徒の宗教的な自立を掲げて独立運動が活発になり、1877年の露土戦争ではロシア側に立って戦い、サン=ステファノ条約で自治国となり領土も拡張、黒海からエーゲ海に面する地域までを含む大ブルガリアを実現させた。しかしこれはロシアの勢力拡大を意味していたのでイギリス・オーストリアの反発を受け、ベルリン会議の開催となり、その結果ベルリン条約では領土を3分の1に縮小され、オスマン帝国を宗主国とする自治国(自治公国)とされることになった。その後も完全独立を目指し、85年には東ルメリア(ベルリン条約でオスマン帝国内の自治州とされた、ブルガリア東南部に隣接する地域)のキリスト教徒が反オスマン帝国の暴動が起こったのを機にそれを併合、反発したセルビアとの戦いにも勝った。1908年に青年トルコ革命が起こったことを機にブルガリア王国として独立を宣言する。 → ブルガリア(第1次世界大戦への参戦)  ブルガリア(第一次世界大戦後)
i キプロス  →第17章 1節 キプロス
j ボスニア・ヘルツェゴヴィナ バルカン半島の中心部にあるスラブ系セルビア人やクロアチア人、ムスリム人などの多民族からなる国家。中心都市はボスニアのサライエヴォ。ビザンツ帝国の時代にギリシア正教が広がり、また南スラブ系のセルビア人が南下して定着した。次いで長くオスマン帝国の支配を受けて、その間イスラーム教とともにムスリムが移動してきて混在する地域となった。オスマン帝国領であったところを1878年のベルリン条約オーストリア=ハンガリー帝国が統治権を獲得、さらに1908年にオーストリアによって併合された、その東に国境を接するセルビアが反発した。1914年、ボスニアの首都で、セルビア人青年によるオーストリア皇位継承者暗殺というサライエヴォ事件が起きる。
 独墺同盟1879年に、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国間に結ばれた軍事同盟。1882年にイタリアが加わり、三国同盟に発展する。まず二国間で締結された経緯は、ビスマルクがフランスを抑えるためにオーストリア=ハンガリー帝国とロシア帝国との三国で三帝同盟(1873年)を結成したが、オーストリアとロシアがバルカン問題で対立、1877年の露土戦争によってロシアがバルカンに大きく勢力を伸ばしたことに反発したオーストリアがイギリスと共にベルリン会議でロシアに圧力をかけた。このため、ロシアのバルカン進出は抑えられ、1879年、ロシアも三帝同盟から離脱した。そのため、ビスマルクは改めてオーストリアとの提携を強める必要から、同年独墺同盟を締結した。この両国の軍事同盟は、第一次世界大戦の同盟国(オスマン帝国とブルガリアが加わる)の核となり、敗戦まで続いた。 
 三国同盟 1882年に成立した、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリア三国の秘密軍事同盟。
露土戦争(1877年)の後のバルカン問題を協議するベルリン会議(78年)で、オーストリアとロシアの対立が表面化し、1879年にロシアが三帝同盟から離脱し、事実上破産したあと、ドイツ帝国のビスマルクはオーストリア=ハンガリー帝国との間に同年、独墺同盟を結んでいた。一方、フランスは、ベルリン会議で、イギリスのエジプト進出を認める代わりに、チュニス進出を認めてもらい、1881年出兵して保護領とした。イタリアは自国の対岸のチュニスにフランスが進出したことに大きく刺激され、それまで「未回収のイタリア」問題で敵対していたオーストリア=ハンガリー帝国と近づいた。これによってドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアの三国同盟が形成された。このように三国同盟は、三国の利害が、対ロシアおよび対フランスで一致したことによって締結されたもので、一方のイギリス・フランス・ロシアの三国協商の陣営と対立することとなって第1次世界大戦の対立する二陣営を形成することとなった。しかし、イタリアは、「未回収のイタリア」問題でオーストリアと対立していたのでイギリスとロンドン秘密協定を結び、三国同盟を離脱して協商側に立つことになる。 
a イタリア  
b ドイツ
c オーストリア  
d ロシア
c 再保障条約 1887年締結のドイツとロシアの秘密軍事条約。二重保障条約とか、再保険条約とも訳される。
ビスマルクのドイツは、フランスと対立しているので、ロシアが中立でいることが必要である。ビスマルクは、三帝同盟が解体してしまったので、新たにロシアとの二国間同盟を働きかけた。ロシアは、アジアでイギリスと、バルカン方面でオーストリア=ハンガリー帝国と対立しているので、ドイツとは事を構えることは出来ない。そのような二国の利害が一致して、ドイツがフランスと戦争となった場合はロシアは中立を守り、ロシアがイギリス・オーストリア=ハンガリーと戦争になった場合はドイツは中立を守ることを約束、またドイツはロシアのバルカンへの介入を認めた。ドイツは一方でオーストリア=ハンガリーと同盟を結んでいた(1879年)ので、この条約の存在を公表せず、秘密条約とした。1890年に期限が切れたが、ビスマルクを辞任させたドイツのヴィルヘルム2世は、その継続をせず、ロシアはさらにフランスに接近するようになる。 
d ビスマルク体制  
d ヴィルヘルム2世  → 第14章 1節 帝国主義 ヴィルヘルム2世
b アウスグライヒ アウスグライヒとは、妥協を意味するドイツ語で、1867年にオーストリア帝国からハンガリー王国を独立させた時、オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世がハンガリー王を兼ねて、ハンガリー王国の国会との間に結んだ協定のことを指す。この協定によって、ハンガリー王国はハプスブルク家の国王のもとで独自の政府と国会を持つが、外交・軍事・財政ではこの二国は共通であるという二重帝国の形態がとられた。これがオーストリア=ハンガリー帝国となった。 → ハンガリー王国
c オーストリア=ハンガリー帝国 中欧に大きな勢力を持っていたハプスブルク家のオーストリアは、1866年のプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)での敗北し、帝国内の諸民族の独立運動が強まったため、翌67年、ハンガリーの独立運動を懐柔しようとしてその形式的な独立を認めた(アウスグライヒ)。その体制は、ハンガリー王国の王位はオーストリア皇帝が兼ね、その下で二国がそれぞれ別な政府と国会を持つというもので、二重帝国といわれるものであった。この国家をオーストリア=ハンガリー帝国という。したがってハンガリー王国は形式的には独立したが、外交・軍事・財政ではハプスブルク家のオーストリア皇帝に実権をにぎられていた。実質的には「ハプスブルク帝国」であった。その領域には、現在のチェコとスロヴァキア、スロベニア、クロアチア、を含み、南チロル地方とトリエステも入っていた。
1871にドイツ帝国成立以後は、皇帝フランツ=ヨーゼフ1世は、ビスマルクの対フランスを軸とした外交に協力し三帝同盟(1873年)に加わった。しかし、ロシアがパン=スラブ主義を掲げてバルカン半島に進出すると、対抗してパン=ゲルマン主義を唱えてロシア及びスラブ民族のとの対立を深めた。1877年ロシアが、露土戦争でオスマン帝国を破り、翌年のサンステファノ条約で大ブルガリアを成立させて大きな脅威となると、イギリスと共にその条約の破棄をロシアに迫り、ベルリン会議でビスマルクの調停が成立しベルリン条約ボスニア=ヘルツェゴヴィナの統治権を認められた。その後もロシアとの対立が続き、1882年にはドイツ、イタリアと共に三国同盟
、さらも1908年にはボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合したため、スラブ系住民の激しい反発を受け、1914年皇位継承者フランツ=フェルディナント夫妻がボスニアでセルビア人青年に暗殺されたサライェヴォ事件を機に第1次世界大戦に突入した。大戦ではドイツと一体となって英・仏・露の三国協商側と戦い、敗北して解体されることとなる。 → 第1次世界大戦期のオーストリア
d フランツ=ヨーゼフ1世 ハプスブルク家のオーストリア皇帝。1848年、三月革命の混乱の中で18歳で即位し、以後約70年近くにわたって皇帝であった。しかし彼の治世は、まさにハプスブルク家のオーストリア帝国が解体に向かって傾いていった時期であった。まず、1866年のプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)で敗れたたために、いわゆるアウスグライヒ(妥協)を行ってハンガリーとの二重帝国体制をとることとなった。ドイツ統一の動きでもプロイセンに主導権をとられ、オーストリアを除外するかたちで1871年のドイツ帝国の成立を見た。1873年にはビルマルクに協力して対フランスで結束し、ロシアと共に三帝同盟を結成したが、その後はもっぱらバルカン進出に向かい、スラブ系民族とその背後にあるロシアとの対立を深め、三帝同盟は事実上効力を失った。1878年のベルリン条約で統治権を認められたボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合を併合(1908年)し、それが第1次世界大戦への導火線となった。フランツ=ヨゼフは大戦中の1916年に死去し、次のカール1世が継承したが、1918年の敗戦と共にハプスブルク家は中世以来の皇帝の位を失った。
Epi. 悲劇の皇帝 実質的な最後の皇帝であったフランツ=ヨゼフは、私生活においても悲劇がつきまとっていた。彼の弟マクシミリアンは人望のある人であったが、ナポレオン3世に担ぎ出されて、メキシコ皇帝となり、1867年革命に巻き込まれて異国の地で銃殺され、その王妃シャルロッテは狂気に陥った。フランツ=ヨゼフの皇太子ルドルフは科学を愛する青年であったが、一方で自由な恋愛に走り、容れられずに1889年に自殺してしまった。また美貌で知られた皇后エリーザベートは1898年にスイスでアナーキストによって暗殺された。そして皇位継承者にした彼の甥フランツ=フェルディナントは妻のゾフィーとともに1914年、サライエヴォ事件で暗殺された。あいつぐ身内の不幸に、老皇帝はしだいに政治に無関心になっていったという。<アーダム=ヴァンドルツカ『ハプスブルク家』1968 江村洋訳 谷沢書房 p.230〜 江村洋『ハプスブルク家』1990 講談社現代新書>
ク.北ヨーロッパ諸国
a スウェーデン(19世紀)スウェーデンは、スカンディナヴィア半島東部のノルマン人の王国で、1523年にカルマル同盟から脱して、バーサ朝が成立。17世紀には国王にグスタフ=アドルフが出て中央集権化を達成し、バルト海全域を支配する大国となった。しかし、18世紀初頭に北方戦争でロシアと戦って敗れ、領土を縮小させた。七年戦争ではフランス側に立ってプロイセンと戦った。得るところはなかったが、このとき兵士たちがジャガイモを持ち帰り(このためこの戦争は馬鈴薯戦争とも言われた)、その栽培が始まった。1771年即位したグスタフ3世は王権強化を図ると共に文化の保護にもあたり、人気の高い王であったが、1792年の仮面舞踏会で近衛士官に銃撃されたのがもとで死ぬという事件が起こった。ナポレオン戦争ではイギリスに付き、大陸封鎖令に従わなかったので、フランスに付いたロシアとの間で戦争となり、大敗してフィンランドを失った。1810年、バーサ王朝のカール13世に継嗣がないため、議会はナポレオンの将軍ベルナドッテを皇太子として迎えることに決定した。ところがベルナドッテ王は国益を守るためナポレオンと対立するに至り、1813年の諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)に参加し、ナポレオン軍を破る。その結果、1814年にはデンマークからキール条約でノルウェーを獲得し、スウェーデン・ノルウェーの両国は同君連合となり、1818年にはベルナドッテが国王(カール14世)としてベルナドッテ朝(現在のスウェーデン王室)を開くこととなった。スウェーデンでは身分制議会が続いていたが、1866年に二院制の議会制をとることとなり、近代化に進み始めた。 → 現代のスウェーデン 
b フィンランドフィンランドは北欧諸国の一つで、国土の三分の一が北極圏に属する、森林と湖の国。民族のフィン人は、アジア系と言われるが、スウェーデンの支配やロシアの支配を受けた結果、現在では他の北欧の人々と区別は付かない。
スウェーデンの支配:長くフィン人の独自の社会が続いたが、1155年からスウェーデン王による「十字軍」が始まり、キリスト教化すると共に、スウェーデンの支配を受けることとなった。13〜14世紀にはロシア国家の北上とともにギリシア正教の布教が始まり、しばらく両者の抗争がくり返され、フィンランドの北部がカトリック、南部がギリシア正教とに分かれる形となった。スウェーデンがカルマル同盟に属することになるとロシアの圧力が強まったが、1523年にスウェーデンが独立しバーサ王朝がはじまるとともにふたたびスウェーデン支配が強まりロシアの勢力は駆逐されると共に、スウェーデンと同じくプロテスタントが浸透していくことになった。スウェーデン支配が続く中、女王クリスチーナは1640年トゥルクに大学を設けるなど、フィンランドの文化の向上に努めたが、一方でスウェーデンがくり返した三十年戦争やデンマークとの戦争にフィンランドからも兵士を挑発され、その負担は大きかった。18世紀に入り、北方戦争でスウェーデンがロシアに破れたため、1721年のニースタット条約で東部カレリアおよび南東部はロシア領に割譲された。このころからフィンランドの民族的自覚が始まり、反スウェーデンの動きが強まった。
ロシアの支配:ナポレオン戦争が始まると、ナポレオンは大陸封鎖令への参加の代償としてロシアのフィランド領有を認めた結果、ロシア軍がフィランドに侵攻し、スウェーデンもそれを支えられず1809年にフィンランドをロシア領とすることに同意した。ロシアのアレクサンドル1世はフィンランドの自治を認めると発言し、フィンランド人に期待を持たせたが、ニコライ1世はロシア化政策を押しつけ、フィンランド語による出版を禁止したり、クリミア戦争での徴兵を強行した。アレクサンドル2世はふたたびフィンランドの自治を大幅に認める転換を行い、この間、フィンランドはパルプやタール産業、造船業などの工業化が進んだ。次のニコライ2世はふたたび強圧策に戻ったため、総督がフィンランド青年に暗殺される事件などが起こった。日露戦争では、日本の工作員明石大佐がヘルシンキなどで対露工作を行った。 → フィンランドの独立  ソ連=フィンランド戦争  現代のフィンランド共和国
c ノルウェー(19世紀)スカンディナヴィア半島西部で、9世紀から続くノルマン人の王国。カルマル同盟解体後もデンマークを同君連合として実質的にその支配を受けていたが、ナポレオン戦争のときデンマークがスウェーデンに敗れたため、1814年からはスウェーデンに割譲された。反発したノルウェーでは、同年5月17日に憲法を制定してノルウェー王国として独立宣言を行った(この日が現在もノルウェーの独立記念日とされている)が、スウェーデンは軍隊を派遣してそれを抑え、内政面の自治を認めたが、外交・防衛はスウェーデンが握り、カール14世が統治する同君連合となった。ノルウェーが単独の独立王国となるのは1905年のことである。  → 現代のノルウェー
d デンマーク(19世紀)デンマークはスカンジナヴィア半島の南にある島々とユトランド半島のノルマン人の国。15世紀にはカルマル同盟の盟主として北欧三国の中心となって最も強大であったが、三十年戦争に介入してスウェーデンなどに敗れ衰退。さらにナポレオン戦争でナポレオン側に付いたが、1814年にスウェーデン軍に破れ、キール条約でそれまで同君連合であったノルウェーを失い、国土を縮小させた。アイスアンドとグリーンランドは海外の領土として維持していたが、1864年にはデンマーク戦争でプロイセン・オーストリア連合軍に敗れ、ヨーロッパのドイツとの国境地帯シュレスヴィヒ・ホルスタイン地方を奪われた。それ以後、デンマークは小国主義をとり、国土の開発と酪農を中心とした農業国への転換を図り、現在に至っている。 → 現在のデンマーク
デンマークの小国主義:デンマークは1865年にプロイセン・オーストリア軍との戦争に敗れ、最も肥沃なシュレスヴィッヒ・ホルシュタインの両州を失った。それはデンマーク国民にとって屈辱的なことであったが、しかしデンマークは、領土回復の夢を追わず、残された国土をフルに活用しようという小国主義に転換した。それを指導したのがダルガスという一人の工兵士官だった。彼は「外に失ったものは内に取り返そう」と呼びかけ、ユトランド半島北部の土地は沼地と原野の広がる荒蕪地を森林に変え、それによって冷害と水害を防止し、ジャガイモ畑と牧場を可能にした。植林にはさまざまな失敗の末、親子二代で樅の木を育てることに成功した。それを支えたのは熱心なユグノー(プロテスタント)の信仰心であった。この話は、1911年に内村鑑三が講演で紹介し、教科書にも登場して広く知られるようになった。内村鑑三が『デンマルク国の話』で説いた、
・戦争に敗れることは不幸ではない、戦争に敗れて精神に敗れない民が真に偉大な民である。
・天然は無限の生産力を持つ、よく開発すれば小島もよく大陸に勝る産を得ることができる。
・国の実力は軍隊や軍艦、または金ではない、信仰(にもとづいた勤勉な精神)である。
という考え方は、戦前には無視されたが、特に第2次大戦敗戦の後の日本の復興に大きな力となった。
内村鑑三は日露戦争の際に非戦論を主張したキリスト教指導者。<内村鑑三『後世への最大遺物・デンマルク国の話』1946 岩波文庫>
ケ.国際的諸運動の進展
a 第1インターナショナル 1864年、ロンドンで結成された、世界最初の労働者の国際組織。63年のポーランドの反乱を支援することが契機となって結成された。マルクスが創立宣言と規約を起草した。しかし、マルクスの政党による政治権力の奪取という路線に対し、労働者の解放は政治権力を否定するところから実現すると考えるプルードンやバクーニンのアナーキズム派との対立があり、戦線は統一できなかった。パリ=コミューンが起こると、それを支援したが、かえって各国政府の弾圧が強まり、72年には活動を停止しなければならなかった。 → 第2インターナショナル
b マルクス  → カール=マルクス
 国際労働運動 主な国際労働運動とアメリカの労働運動  18世紀イギリスの労働組合運動については11章1節の労働組合を参照
 1848年 マルクスとエンゲルス『共産党宣言』発表:「万国の労働者、団結せよ!」と呼びかける。
 1864年 第一インターナショナルの結成:最初の労働組合の国際連帯組織。マルクスが指導。
 1886年 アメリカでメーデー始まる。5月1日が労働者の祭典として以後定着する。
       同年、アメリカでアメリカ労働総同盟(AFL)結成:サミュエル=ゴンパースが指導。職業別の連合組織。
 1889年 第二インターナショナルの結成:エンゲルスの指導による国際労働運動組織。
 1919年 第三インターナショナルの結成:ロシア革命後のボリシェヴィキ(レーニンら)の指導。
       同年、国際連盟の一機関として国際労働機関(ILO)が発足。
 1935年 アメリカでワグナー法制定:全国労働関係法のこと。ニューディールの一環。団結権、団体交渉権を認める。
       同年、アメリカの産業別組織会議(CIO)結成:38年にAFLから分離独立。未熟練労働者の全国組織。
 1945年 世界労連(WFTU)結成:ソ連、東欧諸国の社会主義圏の労働組合国際組織。
 1949年 国際自由労連(ICFTU)結成:西側諸国の労働組合国際組織。反共産主義を標榜。 
 メーデー 5月1日を労働者の祭典メーデーとするのは、1886年、アメリカのシカゴで8時間労働を要求する労働者の大集会が開催されたのが始まりである。その後の5月4日に同じシカゴのヘイマーケット広場で労働者と警官隊の衝突事件が起き、労働者4人が証拠もないままに乱闘の首謀者とされて死刑になった(ヘイマーケット事件)。労働者側はそのことを忘れないように、直前に行われた5月1日を労働者の日として毎年集会を開くことにした。なお、同年12月にはアメリカ労働総同盟が結成されており、労働組合運動では画期的な年となった。メーデーはその後、1889年の第二インターナショナルの発足大会で、8時間労働の実現を世界的に訴える示威行動の日として定められ、ヨーロッパでも行われるようになり、国際労働運動の象徴的な行事となった。日本でメーデーが初めて行われたのは1920年だった。 
c バクーニン  
国際赤十字社  
d クリミア戦争  
ナイティンゲール  
e デュナン 1859年6月、イタリア統一戦争の時、北イタリアのソルフェリーノでサルデーニャ・仏連合軍と墺軍が衝突した。そのときジュネーヴ出身のアンリ=デュナンが従軍し、戦死者や負傷者が放置されている悲惨な現実を見、その体験を六二年に『ソルフェリーノの思い出』として書き、敵味方を越えた負傷兵の救援団体の必要を世に問うた。それがきっかけとなり、1864年にデュナンの呼び掛けで国際赤十字運動が始まった。スイス連邦政府が後援し、ヨーロッパ一六カ国とアメリカ合衆国の署名を得た「ジュネーヴ協定」ができ、国際赤十字が誕生した。設立へのスイスの功績を認めて、赤十字の旗はスイス国旗の赤地に白十字を裏返したマークに定められた。ただし、イスラム圏の諸国が赤十字に参加するようになると、十字に対する反感からこれらの国では赤新月旗を用いている。<森田安一『物語スイスの歴史』p.190>
なお、デュナンは1901年、最初のノーベル平和賞の受賞者である。
f 赤十字条約  
g 国際オリンピック大会 近代オリンピックの第1回は、1896年に古代オリンピック発祥の国ギリシアの首都アテネで開催された。以後、第2次大戦中を除き、4年ごとに開催されている。この近代の国際オリンピック開催が決定されたのは1894年6月23日(現在この日はオリンピック・デーとして記念日とされている)、パリ国際スポーツ会議においてであった。この会議を提唱したのがフランスのクーベルタン男爵であった。19世紀前半に興った古代ギリシア賛美の文化運動であるギリシア愛護主義の運動が最高潮に達していたこと、ちょうどこのころ、ギリシアでシュリーマンのトロヤやミケーネの発掘に続いて、ドイツ人のクルティウスが古代オリンピア遺跡発掘を成功させていたことが背景にあった。クーベルタンは、競技会開催中は戦いを止めること、ポリスの名誉のために戦い、勝者には月桂樹の冠が与えられるだけというアマチュアリズムなどの古代オリンピックの精神にもとづいた国際大会の開催を提唱し、満場一致で採択されたのだった。以後、20世紀を通じて国際的な友好を深める上で大きな役割を果たしたが、1936年のベルリン大会のようにナチスドイツの国威発揚に利用されたり、2度の大戦での中止、1970年のミュンヘン大会でのテロ、1980年のモスクワ大会での西側諸国ボイコット、84年ロサンゼルス大会でのソ連などのボイコット、など国際政治の荒波に翻弄された時もある。また現在では当初のアマチュアリズムは姿を消し、商業主義への傾斜が強いことを批判する声も強い。
h クーベルタン