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3.アジア・アフリカ民族主義の進展
ア.第1次世界大戦と東アジア
 中国民族資本の成長 ヨーロッパ列強が第1次世界大戦で輸出能力を失い、中国への外国商品の流入が減少したので、紡績・製粉・マッチ・タバコ・石けんなどの軽工業を中心に、民族資本が急速に成長した。民族資本の投資総額は1914年から19年の6年間で2倍近くに増えた。その担い手となった民族ブルジョワジーは、基幹産業である鉄鋼・石炭・機械などが依然として外国資本に握られ、軍閥政府が外国の帝国主義と結びついていることに次第に不満を抱くようになった。また、外国資本の工場における労働者の賃金は非常に低く、団結権やスト権もなく劣悪な条件のもとにおかれていた。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』岩波新書 1986 p.84->
a 民族資本 帝国主義列強の植民地支配が進む中で、植民地経済は外国資本に支配されてきたが、次第に植民地側の民族の中に独自の資本を形成する動きが出てきた。そのような植民地の自国民の中から生まれた資本を民族資本、または民族産業、その担い手を民族ブルジョワジーという。民族資本の成長が植民地の独立の重要な条件となってくる。
中国における民族資本の形成は1870年代の洋務運動の中で李鴻章によって、半官半民の経営方式をとり、多額の国家資金が貸与され、経営には官僚が加わるいわゆる官僚資本主義(明治期の日本の官営工場にあたる)として始まったが、関税自主権の喪失という半植民地化の中で、外国資本に押され十分な発達が遂げられなかった。辛亥革命後も政情は安定せず、社会の改革も進まなかったので、民間企業の成長は進まなかったが、ヨーロッパ列強が第一次世界大戦で忙殺されている間に紡績業、製粉業などを中心に中国の民族産業の成長がいちじるしくなった。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』岩波新書 1986 p.36、p.84>
b 紡績工業 中国の紡績業は初め日本資本よりも劣勢であったが、第一次世界大戦中に急成長をとげ、五・四運動の時期には民族産業の花形となった。しかし、大戦後の1921年になると早くも不況に陥り、世界的規模で原棉調達・製品販売のルートを持つ外国企業に太刀打ちできず、22〜23年には多くの企業が操業短縮・停止や、外国資本に吸収合併されたりした。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』岩波新書 1986 p.98>
d 民族自決  → 第15章 2節 民族自決
e ロシア革命  → 第15章 1節 ロシア革命
 文学革命 1915年、中華民国成立後の中国で始まった新文化の創造をめざす運動。新文化運動とも言われる。辛亥革命で清朝が滅亡したが、誕生した中華民国は安定せず、袁世凱の独裁政権を許し、民主的な近代国家への移行はならなかった。さらになお列強の圧力は強まっていた。このような状況に危機感を募らせた若い知識人の中から、まず思想面での改革を必要と考える人々が現れた。その運動の中から、マルクス主義の受容もはじまり、共産党に結成につながる。かつての洋務運動が、「中体西用」を掲げ、中国の伝統的な儒教思想を保持しようとしたことに限界を感じ、儒教そのものを批判し、克服することを掲げたのである。
1915年の陳独秀による雑誌『新青年』の刊行に始まり、ついで1917年1月、北京大学の学長となった蔡玄培は、学制の改革を行うとともに、若い改革派の文化人を招き、新文化の発信地とした。文学者の陳独秀胡適、学者の李大サ・周作人(魯迅の弟)などが招かれ、彼らは雑誌『新青年』を舞台に新しい文学と思想を提唱していった。その中心は文学における白話文学の考え、つまり口語文学による新しい表現追求と、古来の儒教道徳への批判であった。新しい文学の代表作とされるのが、魯迅の『狂人日記』『阿Q正伝』などである。 
a 陳独秀 中国の文学革命の指導者であり、また中国共産党の初代委員長。安徽省の出身で日本留学の後、1915年に上海で雑誌『新青年』を刊行し、文学革命の口火を切った。彼はその創刊号に論文「敬んで青年に告ぐ」を寄稿し、来るべき新中国の精神として「デモクラシーとサイエンス」をかかげ、青年の自立を促し、儒教こそは2000年来の専制政治を支えた決別すべき思想であるとしてきびしく批判した。1917年、北京大学の学長蔡元培は陳独秀を説得してその文学部長として招き、以後は北京大学が文学革命の中心地となった。1919年の五・四運動で政治への関心を強めた陳独秀はマルクス主義に傾倒し、上海でコミンテルンと連絡を取りながら準備を進め、1921年に中国共産党が誕生するとその初代委員長(総書記)となった。初期の共産党の指導者として、第1次国共合作を進めたが、1927年には蒋介石の上海クーデターが発生、その後の共産党の敗北の責任をとらされる形となり、「右翼日和見主義者」として幹部の地位を追われた。その後中国共産党は、都市での武力蜂起方針(スターリンの指示で李立三が進めた)をとると、トロツキーに共鳴してソヴィエトの建設を主張したが、ソ連でスターリン派がトロツキー派を排除したのに合わせて、陳独秀もトロツキストとして1929年に除名された。31年5月には陳独秀はトロツキスト組織を統一し、上海で中国共産主義者同盟を結成し活動を継続したが、32年10月国民党による一斉検挙によって逮捕され、組織は壊滅した。<横山宏章『中華民国』中公新書 p.93 p.117 p.121 p.144 p.216 p.208>
b 『新青年』 1915年9月、上海で陳独秀を編集長として創刊された雑誌(創刊号は『青年雑誌』、第2号から『新青年』と改題した)。青年に古い中国の儒教思想を脱却して、西洋の文化を受容して新しい文化を創造することを呼びかけ文学革命の舞台となった。そこに参加した若い知識人は1905年に科挙が廃止されたあとに新しい教育をうけた人々だった。彼らは儒教思想を中国二千年の専制政治の精神的支柱としてとらえ、そこからの人間の解放を唱え、デモクラシーとサイエンス(民主と科学)を標榜した。また文学運動では胡適や魯迅の白話文学の発表の場となった。1920年代になると、陳独秀はマルクス主義に傾倒し、『新青年』はもっぱらマルクスやレーニンの文献を紹介する場となり、ボリシェヴィズムに批判的であった胡適や魯迅は運動から離れた。
c デモクラシーとサイエンス 1915年、中国の文学革命の舞台となった雑誌『新青年』(創刊号は『青年雑誌』)で、陳独秀が論文「謹告青年(つつしんで青年に告ぐ)」において提示した言葉。「民主」と「科学」を新しい思想として受容し、古い中国の儒教思想を克服することを主張し、それによって自立した青年が滅亡に瀕した中国を救うことができると述べた。
c 胡適 こせき。中国革命期の文学者、哲学者。アメリカに留学して、デューイのプラグマティズム哲学を学ぶ。また、ノルウェーの作家イプセンに傾倒して、帰国後、口語体による文学、いわゆる白話文学の提唱し、文学革命を指導した。雑誌『新青年』はその運動の主な舞台となった。しかし、1920年代に入って陳独秀の主催する『新青年』がマルクス主義色を強めると、アメリカに倣った近代化を考えていた胡適はその運動から離れ、五・四運動後は反共の立場を明確にした。1938年には中華民国の駐米大使となり、アメリカの対日政策に影響を与えた。戦後は一時中国に帰ったが、49年にアメリカに亡命、58年以降は台湾で中央研究院院長を務めた。62年に死去。
d 白話文学 文学者胡適らが提唱したもので、これまで正統とされてきた文語の文学に対して、自らの思想と感情をいつわりない口語で表現しようという文学である。たんに表現方式の革新にとどまらず、文語を支えている伝統的な思考方法から精神を解放し、特権的な知識人たちによる文学の独占から、広く大衆に開放することを意味していた。1918年、『新青年』に発表された、魯迅の「狂人日記」がそのはじまりとされる。
e 魯迅 1902年から1909年、日本に留学し仙台医学専門学校(後の東北大学医学部)で医学を学びながら文学にひかれ、帰国後辛亥革命に遭遇。しかし新政府のありかたや折から強まった列強の支配の中で絶望的となり、その苦悩の中から1918年に『新青年』に発表した「狂人日記」が新しい文学運動としての白話文学の先鞭となる。その後、1921年の『阿Q正伝』など社会性の強い小説や評論に活躍した。国民党の反動化に反対し、1930年からは左翼作家連盟を結成する。1936年没。
f 李大サ りたいしょう。中国最初のマルクス主義者の一人とされ、中国共産党の創設に関わった。日本に留学して早稲田大学に学んでいるとき、日本の対華二十一カ条要求に憤激して反対運動を起こした。また河上肇らの著作からマルクス主義を知り、次第にそれに傾倒した。ロシア革命が起こると翌18年11月に雑誌『新青年』に論文を発表し、ボリシェヴィキ革命の勝利を評価し、中国人民の決起を呼びかけた。それは啓蒙的な運動から、実践的な運動を画することとなり、彼自身がその年、北京大学で学生たちと「マルクス学説研究会」をつくり、中国におけるマルクス主義運動の先駆となった。北京の李大サは、上海の陳独秀、長沙の毛沢東らと共産党設立の準備を進め、コミンテルンとの連携により1921年に中国共産党が創設された。その後、共産党の指導者の一人として国共合作を進めたが、1927年奉天派の軍閥張作霖によって捕らえられ、殺害された。
北京大学 北京大学の前身は、1898年に建てられた京師大学堂である。戊戌の変法の唯一の成果として存続していた大学堂を、日本の東京帝国大学に倣った近代的な大学に改組しようとして、1912年に北京大学と改称し、進化論の紹介で知られる厳復が学長となった。しかし当初は学問は科挙受験のための準備という伝統が生きており、北京大学も官吏養成所という性格から抜け出せなかった。1916年、袁世凱の死後、改革派の蔡元培が学長に就任し、大学を自由な学術研究という本来の使命を持たせようと考え、大胆な教授陣の刷新を行った。雑誌『新青年』を刊行して文学革命の口火を切った陳独秀を文学部長として招いたのを初め、白話文学を提唱していた胡適、中国にマルクス主義を紹介した李大サらであった。また若き日の毛沢東も北京大学付属図書館の事務補佐員として勤務していた。こうして、北京大学は文学革命、新文化運動の拠点となった。また五・四運動では北京大学の学生が運動の先頭に立って闘った。
Epi. いち早く女子の入学を認めた北京大学 1919年、ケ春蘭という女子学生が、北京大学学長の蔡元培に手紙を出し、入学を申し出た。蔡元培は保守派や政府の圧力をはね返し、学力さえあれば入学は可能という見解を示し、20年9月の試験で春蘭を含む9名の女子受験生全員が合格し、入学が認められた。女子新入生入学のニュースを報じた『北京大学日刊』はまたたく間に売り切れたという。東京帝国大学は戦前には女子には聴講しか認めず、入学を許可したのは戦後のことであるから、大学での男女共学は中国の方が早かったことになる。<菊地秀明『ラストエンペラーと近代中国』中国の歴史10 2005 講談社 p.207>
 日本の大正デモクラシー 大正は1912年から26年までの15年間。明治末の1911年に条約改正を達成し、それまでに日清・日露の戦争に勝利し、日本は近代的国家に移行することに成功した。政治上では藩閥政府の流れをくむ超然主義内閣を民衆の抗議行動で倒した護憲運動の高まりがあり、政党政治が実現する。また第1次世界大戦後は、欧州諸国の困窮を尻目に生産力を高め、世界の「大国」の一角を占めるに至る。また資本主義経済の進展に伴い労働運動、社会主義運動も活発となり、とくに1917年のロシア革命後は著しくなる。このような中で吉野作造の「民本主義」や美濃部達吉の「天皇機関説」などに見られるようなデモクラシーの風潮が一般化していった時代であった。しかし、1923(大正12)年の関東大震災を機に、経済は深刻な不況に突入し、次第に軍国主義の風潮が強くなっていく。
a 米騒動  → 米騒動
b 政党内閣 日本における本格的な政党内閣(議会の中で多数を占める政党が内閣を組織する議会制民主主義)は、米騒動のあとの1918年に成立した原敬を首班とする立憲政友会内閣である。その後、1924年加藤高明護憲三派連立内閣を経て、憲政会(立憲民政党)と立憲政友会の二大保守政党が交互に政権を担当する「政党政治」の時期を出現させた。しかし1932(昭和7)年、五・一五事件で犬養毅内閣が倒されてからは軍人や官僚による議会を基盤としない内閣が続くことになる。
 関東大震災 1923(大正12)年9月1日、東京・横浜など南関東一帯をおそったマグニチュード7.9の大地震。死者10万人、行方不明4万人という大災害となった。東京本所の陸軍被服廠跡地だけで4万人の焼死者が出た。このとき、戒厳令がしかれるなか、朝鮮人暴動のデマが流れ、住民が組織する自警団によって数千人の朝鮮人、数百人の中国人が殺害された。また亀戸署では平沢計七らの労働運動家が殺害され(亀戸事件)、無政府主義者大杉栄は内縁の妻伊藤野枝と甥と一緒に憲兵隊に捕らえられ、甘粕正彦大尉によって殺害された(甘粕事件)。関東大震災は日本経済に大きな打撃を与え、昭和恐慌につながる日本経済の破局の先触れとなった。
c 男子普通選挙法 1925(大正14)年、加藤高明内閣の時に成立。25歳以上の男子に選挙権が与えられ、男子普通選挙制度が実現した。大正期を通じての普通選挙運動が成功し、大正デモクラシーの最後の成果であったが、同時に治安維持法が成立し、国家主義・軍国主義への傾斜がはじまった。
d 治安維持法 1925(大正14)年、加藤高明内閣で普通選挙法と同時に成立した。国体(天皇制)の変革や、私有財産制の否定を目的とした結社とその運動を禁止した。はじめは共産党(1922年結成)などの社会革命をめざす運動を取り締まるものであったが、次第に政府の政策を批判する自由な発言も取り締まりの対象となり穏健な自由主義者や労働運動なども取り締まりの対象となっていった。また1928年の田中義一内閣は勅令で最高刑に死刑を加え、軍部に対する反対運動や反戦活動を厳しく弾圧する手段とされた。
イ.日本の動きと民族運動
 第1次世界大戦参戦(日本)ヨーロッパで大戦が始まると日本は「日本国運の発展にたいする大正新時代の天佑」(元老井上馨のことば)ととらえられた。1914年8月7日にイギリスが、膠州湾の青島を拠点としたドイツの東洋艦隊によってイギリスの商船が脅かされているので、ドイツ艦隊を撃破してほしい、と要請してきたとき、時の大隈重信内閣(外相加藤高明)は、日英同盟の「情誼」と日本の国際的地位を高める機会であるという理由で青島攻撃を含む参戦を決定しイギリスに解答した。イギリスは日本の大陸への上陸は中国とアメリカを刺激する恐れがあるので躊躇したが、日本は戦闘地域を限定することでその同意を取り付け、8月15日ドイツに対し中国海域からの艦隊の撤退と、膠州湾租借地を中国に還付する目的で日本に引き渡すことを勧告し、最後通牒を送った。ドイツからの解答がないので8月23日、ドイツに宣戦布告し参戦した。海軍の一隊は膠州湾を封鎖し、9月2日陸軍が上陸、青島要塞を包囲し、11月7日にドイツ軍は降服した。青島を占領するとそれを中国に還付せず、日本は軍政を敷いた。またドイツ艦隊を追った海軍の別の一隊は、10月中にマーシャル、マリアナ、カロリンのドイツ領北太平洋諸島を占領した。
なお、1917年2月には、日本は特殊艦隊を編成して地中海に派遣し、連合国側の艦船の護衛に当たり、その際、イギリス・フランス・ロシア・イタリアから、山東と太平洋のドイツ権益を日本が継承することを保障する秘約を行った。
 二十一カ条の要求 1915年1月18日、日本の大隈重信内閣は、中国の袁世凱政府に対し、二十一ヵ条の要求を突きつけた。それは五項と二十一条からなっている。
第1項「山東省に関する件」日本のドイツ権益を継承を認めることと、芝罘(煙台)と膠済鉄道(青島−済南)をつなぐ新鉄道の敷設権を要求。<全4条>
第2項「南満州および東部内蒙古(モンゴル)にかんする件」<全七ヵ条>その主なものは
 (1)旅順・大連の租借期限を九九ヶ年延長すること
 (2)日本人の土地租借権と土地所有権を認めること
 (3)日本人の居住と営業の自由
 (4)鉱山採掘権の承認
 (5)政治、財政、軍事についての顧問を求める場合はまず日本政府と協議すること
第三項「漢冶萍公司※にかんする件」漢冶萍公司を両国合弁事業にすること<全2条>
第四項「中国政府は中国沿岸のすべての港湾と島嶼を他国に譲渡または貸与しない旨約束すること」
第五項は「懸案解決その他にかんする件」
 (1)中央政府の政治、財政、軍事顧問に有力な日本人を就任させること
 (2)必要な地方の警察を日華合弁とするか、あるいは警察官に多数の日本人を採用すること
 (3)兵器は日本に供給を仰ぐか、日中合弁の兵器工場を作ること
 (4)武昌と九江・南昌を結ぶ鉄道、南昌・杭州間、南昌・潮州間の鉄道敷設権を日本に与えること
 (5)福建省の鉄道・鉱山開発等はまず日本と協議すること
 (6)日本人の布教権、など<全7条>
※湖北・湖南両省にまたがる鉄鋼コンビナートで、漢陽製鉄所、大冶鉄山、萍郷炭鉱から成る。日本にとっては大冶の鉄鉱石が八幡製鉄所の原料として重要な意味を持っていた。 → 二十一カ条の要求の受諾
a 山東省  
b 袁世凱  → 第14章 3節 袁世凱
二十一ヶ条要求の受諾 中国の袁世凱政府は、1915年5月9日、日本の二十一ヶ条要求を受諾した。日本政府(大隈内閣)は、交渉の過程で第五項を秘密にし、第一から第四項までを英、米、仏、露に内示していた。中国政府はそのことを知ると、第五項を強調して宣伝した。米英政府は第五項の内容を日本に問い合わせてきたので、外相加藤高明は第五項は「希望条項」にすぎないと弁明し、不信を買った。中国との交渉は2月からはじまり、二十回ほど交渉し、満州・山東などの駐留軍を増強して圧力を加えたが歩み寄りはなく、5月、日本は最後通牒を発することとしたが、加藤外相の交渉に不満な元老山県有朋の意見で第五項を削除して最後通牒とした。5月7日、日本は最後通牒を中国側に手渡し、九日までを期限とした。袁世凱政府はやむなくこれを受諾した。ただちに反日運動が各地に起こり、5月7日と9日は中国の「国恥記念日」として長く記憶されることとなる。 
c 石井・ランシング協定 1917年11月に成立した中国に関する日米協定。アメリカは日本の中国における特殊権益を認め、日本は中国の領土保全と門戸開放などを認めるというもの。
日本が中国における権益をアメリカに承認させるため石井菊次郎特使を派遣、国務長官ランシングと協議した。ランシングは中国の領土保全と門戸開放を尊重する共同宣言を提案、結局両者の要求を容認する曖昧な表現で決着した。すなわち、アメリカは日本が中国において特殊な権益を有することを認め、同時に両国は中国の領土保全と門戸開放・機会均等を尊重することを表明した。これによってアメリカはヨーロッパ戦線に全力を傾けることが可能となり、日本は中国での特殊権益をアメリカに認めさせたことで満足が得られるという、日米の帝国主義による中国分割協定であった。しかし、アメリカは次第に日本の中国大陸での勢力拡大を警戒するようになり、イギリスと歩調を合わせて1922年にワシントン会議を開催、中国に関する九ヶ国条約を成立させ、翌年四月にこの協定を破棄した。
段祺瑞 1916年、袁世凱が死んだ後、黎元洪が大総統となったが、実権を握ったのは国務総理の段祺瑞であった。北洋軍閥は袁世凱の死後、段祺瑞の「安徽派」と馮国璋の「直隷派」に分裂し、抗争していた。段祺瑞は袁世凱に続き、日本と結びつき、1917年には日本にならってドイツに宣戦布告した。また対抗する直隷派が英仏の支援を受けていたので、それと戦い中国の武力統一を実現するために日本の寺内内閣から巨額の支援を受けた(寺内首相の個人的な代理人西原亀三を通じての借款だったので西原借款といわれ、総額1億4500万円にのぼるといわれている)。しかし日本よりのその姿勢は国民の反感を買い、国内の安定を望む民族資本家の支持もないまま孤立し、1918年総理を辞任した。その後の北京政府は軍閥の抗争が続き、中国は実質的には軍閥の割拠する分裂国家となる。
 シベリア出兵(日本)欧米列強のロシア革命への干渉であるシベリア出兵に、日本も参加した。西シベリアのチェコ軍救出を口実としてロシア革命へ干渉し、北ロシアのムルマンスクに上陸したイギリス・フランスは、東シベリアへのアメリカと日本の出兵を要請してきた。日米は兵力を同数とし、出兵範囲をウラジヴォストクに限定するという約束であったが、1918年8月2日にウラジヴォストクに上陸した日本軍は参謀本部の独断で増派を続け、北満派遣軍を含めて7万2千の大軍を派遣した。シベリアではソヴィエト政権を支持するパルチザンのゲリラ戦に苦戦し、1920年にはニコライエフスク(尼港)事件の悲劇も起こった。日本軍は他の干渉軍が引き上げたのちもシベリアに居座り、最終的には1922年10月25日に軍を引き揚げた(ニコライエフスク事件の報復として占領した北樺太には1925年まで)。
a ロシア革命  → 第15章 1節 ロシア革命
b 米騒動 1918(大正7)年8月3日富山県の漁村の女性の米よこせ暴動が全国に広がり、約70万人が加わった全国的な暴動となった。寺内正毅内閣は軍隊を出動させて鎮圧した。暴動の原因は第1次世界大戦への参戦以来、物価が高騰していたところに、シベリア出兵を見越した米商人・地主の投機的な買い占めのため米貨が急騰(戦前の1升約12銭が、18年8月には50銭になった)したため。また背景にはロシア革命の影響などで労働運動、普選運動などが高まっていたこともあげられる。寺内内閣はこのため倒れ、原敬内閣となる。
c ニコライエフスク(尼港)事件 シベリア出兵の時に起こった日本軍とロシアのパルチザンの衝突事件。1920年2月、カラフトの対岸にあるニコライエフスクに駐屯した日本の守備隊と居留民がパルチザン(革命派のゲリラ部隊)と衝突、122名が捕虜となった。5月、日本の救援部隊が到着するとパルチザンは捕虜の日本人と反革命派のすべてを殺害して撤退した。日本ではボリシェヴィキ=過激派の残虐行為として報道され、日本は報復として北カラフトの占領を声明した。ソヴィエト側はこの事件の責任追及を行い、パルチザンの司令官を処刑、事件の原因は日本軍がロシアの軍師を殺害したため、とした。日本側にもこれが無理な出兵と理由のない中塀に原因があるとの声も出て、1922年10月に撤退する。
 三・一独立運動 1919年3月1日、ウィルソンの「民族自決」の原則に期待し、日本の植民地支配を世界に訴え、独立宣言を発表してパリ講和会議に請願しようとした孫秉煕ら33名が日本の官憲に逮捕された。彼らを支持した学生や民衆が数千名、京城のパゴダ公園に集まって独立宣言を読み上げ、「朝鮮独立万歳」を叫んだ。日本の朝鮮総督府は軍隊と警察で弾圧したが、動きは全土に拡がり5月まで断続的に繰り返され数千人の死者、5万人近い逮捕者が出た。日本では万歳事件と称した。
a 1919年3月1日  
b 朝鮮独立運動  
c ウィルソンの十四ヶ条宣言  → 第15章 2節 14ヵ条の原則
d 「文化政治」 1919年に朝鮮で三・一運動が起こると、日本の原敬内閣は朝鮮総督と台湾総督の官制を変更し、現役武官制を改め、文官任用に改めた。朝鮮総督は陸軍元帥長谷川好道から海軍大将斎藤実に交替した。結局敗戦まで文官の総督が任命されることはなかったが、新総督はそれまでの憲兵による強圧的な「武断政治」を改め、ソフトな「文化政治」と言われる統治方式を採用し、憲兵制度をやめて普通警察制度を導入し、地方制度では朝鮮人を登用することとした。この新しい統治方式を進めたのは、原敬(平民宰相と言われた日本最初の政党政治家といえる)につながる朝鮮総督府の官僚たちであった。<小林英夫『日本のアジア侵略』世界史リブレット p.22 山川出版社>
e 大韓民国臨時政府 1919年4月、三・一独立運動の直後に、朝鮮独立をめざす朝鮮人が上海で結成、初代大統領には李承晩を選出した。1925年からは独立運動家の金九が国務総理として指導に当たった。1932年に上海事変(第1次)が勃発した直後の4月に、金九は天長節(天皇誕生日)の祝賀会場で爆弾テロを起こし、日本の白川義則大将らを殺傷した。それを機に上海の朝鮮独立運動に対する弾圧が強まり大韓民国臨時政府の活動は衰えた。この間、李承晩は本拠をアメリカに移して活動を続け、金九は中国国内で韓国独立党の結成などを続けた。なお、日本敗戦後に二人は祖国に帰ったが、李承晩はアメリカの支援による独立の路線をとって大韓民国初代大統領に選出され、自立路線をとる金九は1949年に暗殺された。
 五・四運動 1919年1月のパリ講和会議には、中国は北京政府・広東政府合同の代表を送った。国民はウィルソンの提示した「民族自決」の原則に期待し、代表団は不平等条約の撤廃、山東省の旧ドイツ権益の返還、対華二十一ヶ条の無効を訴えた。しかし、4月29日、イギリス・フランス・アメリカ・日本の四ヶ国会議で中国の主張は退けられ、日本の中国での権益はほぼ認められた。そのことが中国に伝えられると、5月4日北京大学の学生三千人あまりがデモをおこない、パリ講和会議の山東に関する条項の承認を拒否し、売国奴(日本との交渉に当たった役人)を処罰することを政府に要求するとともに、かれら自身で人民による処罰を実行したのである。趙家楼にある曹汝霖(交通総長)の邸宅が焼かれ、章宗祥(駐日公使)は大衆に殴打された。しかし三〇数名の学生がデモの途中で北京政府に逮捕された。北京市旧城内におけるこの日の行動は、ただちに全国にひろがり、これ以後、一連の行動が開始された。
6月3日には学生は授業を放棄(罷課)そて街頭で山東の返還、日本製品ボイコットを口々に訴え、商店は一斉に抗議の店じまい(罷市)をし、労働者はストライキ(罷工)によって呼応し、上海は都市機能がストップし、他の都市にも動きは広まった。(三罷闘争)6月10日、北京政府はついに民衆の要求に屈し、売国奴とされた3人を罷免、28日はヴェルサイユ条約の調印を拒否した。後の中国革命の中心となる毛沢東(26歳)や周恩来(21歳)などもこの頃から革命運動に参加し始める。このような五・四運動は、中国のナショナリズムの最初の高揚を示すもので、孫文の新たな国民党の組織化と、共産党の出現、そして両者による第一次国共合作の成立、軍閥政府の打倒へと展開していく。
a 1919年5月4日  
c 二十一ヶ条要求  → 対華二十一ヵ条要求
d ヴェルサイユ条約の調印拒否 中華民国(中国と略称)は第1次世界大戦に参戦していたので、1919年1月に始まったパリ講和会議に代表顧維均らを参加させた。なお、このころ中華民国(中国)の中央政府は北京政府であるが、華南は広東軍政府が実権を握っており、いわば南北内戦状態であった。しかしパリ講和会議参加にあたっては内戦を停止し、双方の政府から代表を参加させた。代表は北京政府の外交総長陸徴祥で、同じく北京政府の駐米公使顧維均、広東軍政府の駐米代表王正廷ら、若い親米派のエリートが加わった。中国は、パリ講和会議が、アメリカ大統領のウィルソンが14カ条で提唱した民族自決の原則に沿って、中国人の主権回復に理解を示すことを期待して、日本が対華二十一ヵ条要求でドイツから継承した山東省権益の返還を強く主張した。この問題は講和会議では山東問題と言われ、議題の一つなったが、イギリス・フランスが大戦中に日本権益を認める密約があったため、中国の主張は認められなかった。そのことが中国本土に伝えられると激しい反対運動が盛り上がった。それが同年5月の五・四運動である。本国の北京政府は代表団に調印を指令したが、顧維均らは本国の民衆の調印反対の声が強いことを聞いて、独自に調印の拒否を判断したという。こうして中国は同年6月のヴェルサイユ条約(ドイツと連合国の講和条約、その中で国際連盟の設立が含まれている。発行は20年1月。)の調印に加わらなかった。<菊地秀明『ラストエンペラーと近代中国』中国の歴史10 2005 講談社 p.216-219>
中国の国際連盟加盟:北京政府は国際的な孤立を避けるため、まもなくヴェルサイユ条約に調印、1920年6月29日に正式に国際連盟に加盟した。 国際連盟はその年1月が発足であるから発足時は加盟していないことになるが、国際連盟の第1回総会が開催されたのは同年11月15日で、その時は中国は参加している。従って中国は国際連盟規約では原加盟国に加えられている。代表はパリ講和会議に続き顧維均が務めた。顧維均はコロンビア大学に留学し、北京政府の駐米公使となり、ウィルソンを信奉する「ヤング・チャイナ」と言われるエリートの一人だった。 
 反帝国主義運動  
 中国の領土保全 第一次世界大戦で欧米列強が後退したのに乗じて、日本は対華二十一カ条要求を認めさせ、独占的な権益を得た。またこの大戦によってロシア帝国・ドイツ帝国は消滅し、イギリス・フランスも相対的な地位を後退させ、代わってアメリカが中国に大きな発言権を持つようになった。アメリカは1921年〜22年、ワシントン会議を開催して日本の中国における権益を抑えることに務めた。その結果成立した九ヵ国条約において、アメリカの主張のとおり、「門戸開放」の原則に基づき、中国の主権尊重、領土保全、および機会均等が約束された。また別に「山東懸案の解決」がはかられ、日本は山東における旧ドイツ租借地を返還し、二十一カ条要求の留保項目を放棄することが決められた。こうして中国の国際社会での地位はいちおうの保全がなされたが、同時に「門戸開放」によって外国資本の進出は前に増して激しくなり、大戦中に芽生えた中国民族資本の成長はたちまち抑えられることになる。
a 委任統治権  → 第15章 2節 委任統治領
b 常任理事国  → 第15章 2節 常任理事国
c ワシントン会議  → 第15章 2節 ワシントン会議
d 山東省  → 山東省
e 九ヵ国条約  → 第15章 2節 九ヵ国条約
ウ.国民党と共産党
 中国ナショナリズムの高揚 「第一次世界大戦中における中国資本主義の発展は、毛沢東の言葉で言えば「新しい社会勢力」すなわち「労働者階級、学生大衆および新興の民族ブルジョア階級」の政治的台頭を準備した。民族資本家は帝国主義列強の外国資本と対峙することとなり、自然と民族的自覚を深めていった。また中国人労働者も、雇用者である外国資本家と闘争するなかでから、資本家に対する経済闘争としての階級意識、そして外国資本に対する民族闘争としての民族意識が高まっていった。」
ナショナリズム(民族意識)の高まりという質的拡大に転化させた要因としては
1.第一次世界大戦が火をつけた、世界的なナショナリズムの高揚、反帝国主義。
2.新文化運動(文学革命)が進めた思想革命の影響。それは文字の読めない労働者に文字を与え、人間としての自覚を植え付けた。
3.ロシア革命によるマルクス主義の伝播。新文化運動で思想的な自覚の素地が生まれた中国に、強烈な救済思想としてのマルクス主義が現れ、労働者が団結を始めた。
以上のような中国ナショナリズムの最初の高揚が五・四運動であった。<以上、横山宏章『中華民国』中公新書 1997 p.103〜> 
a 孫文  → 第14章 3節 孫文
b 中国国民党 1919年10月、孫文が中心となって結成された中国の大衆政党(公然とした活動をする政党)。理念は孫文の提唱する三民主義。以後、国民革命を進め、1928年には中華民国の実権を掌握。その後、中国共産党との対立が生じ(国共内戦)、敗れて国民政府とともに台湾に移り、現在も台湾で一政党として重要な役割を担っている。
中国国民党の前身:いずれも孫文の関わった中国同盟会(1905年〜1912年)→国民党(1912年〜13年)→中華革命党(1914年〜1919年)がその前身。中国国民党を略して単に「国民党」という場合も多いが、最初の国民党(1913年に袁世凱によって解散させられている)とは異なるので注意する。
結成から改組まで:上海で五・四運動を目撃して、人民大衆のもつエネルギーを認識した孫文は、かつて東京亡命中の1914年に結成した中華革命党が秘密結社的であったのを反省し、三民主義を掲げながら、より大衆的な政党として、中国国民党を結成した。さらにコミンテルンの働きかけがあり、中国共産党(1921年年結成)との提携を考えるようになり、1924年に中国国民党一全大会を広州で開催し、第1次国共合作を実現させ、共産党を党内に取り込んで「反軍閥、反帝国主義」を掲げて「国民革命」を推進する態勢を整えた。
蒋介石の北伐:1925年に孫文が死去したが、広州に最初の国民政府広東政府、主席汪兆銘)を樹立した。1926年以降、蒋介石が率いる国民党軍による北伐を展開したが、党内に共産党との合作を排除する右派が台頭し、27年には蒋介石が上海クーデターで共産党勢力を排除し南京国民政府を創設、国共合作路線を継承した武漢政府と対立した。しかし武漢政府自身も国民党と共産党の対立が生じて消滅し、国民党は南京の蒋介石のもとで統一された。1928年には北伐を完了し、蒋介石を主席兼陸海空総司令とする国民政府が本格的に発足した(国民党では孫文の三段階論で軍政から訓政へ移行した、とされた)。
日中戦争と国共内戦:以後、中華民国は国民党の一党独裁による南京国民政府によって代表されることとなるが、国民党ではその後も蒋介石の独裁的な党運営に反発が強く、安定を欠いた。特に孫文の後継を自認する汪兆銘(汪精衛)は蒋介石との対立を深め、日中戦が始まり第2次国共合作を成立させ重慶に移った蒋介石政府に対し、日本との和平を主張して独自に南京に国民政府を樹立した。しかし、重慶政府は共産党との協力、米英の支援を受けて日本との戦争に勝ち抜き、1945年に南京を首都として復興させた。それ以後、共産党との対立が表面化、再び激しい国共内戦に突入、敗れて1950年には国民党政府は台湾に逃れ、現在に至っている。 → 中国国民党(国共内戦の敗北)
 → 戦後の中国国民党
c カラハン宣言 1919年7月と20年10月の二度にわたりロシア・ソヴィエト政権の外交人民委員(外相)カラハンが中国に対して出した宣言。中国人民および中国南北両政府に対し、帝政ロシアが中国から奪った利権を無償で返還し、秘密条約をいっさい破棄することを宣言した。この宣言は、パリ講和会議でウィルソンの民族自決原則が中国にはあてはめられなかったことに幻滅を感じていた人々の熱狂的な歓迎を受けた。その結果、国民党孫文はソヴィエト政権の援助を受け入れ、1924年1月に第1次国共合作が成立することとなる。また国民のあいだにソヴィエト=ロシアとの国交樹立を求める声が高まり、同じく24年6月にソ連を承認し国交が樹立された。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』岩波新書などによる>
d 中国共産党(結成)中国でのマルクス主義の受容『新青年』を舞台とした陳独秀李大サにはじまるが、五・四運動は中国の革命運動に決定的な意味を持ち、また大きな画期となった。それは中国の現状を、帝国主義による植民地支配と、軍閥による封建的な支配の二重苦にあるものとしてとらえ、それまでの外国に依存した近代化や、軍閥の武力による権力闘争ではもはや救済できない、ということを民衆が自覚したことである。そしてこれを機に中国各地に、民族の独立と社会改革と求める、主として学生と青年による結社が多数現れてくる。
中国共産党の結成:1921年7月、上海で創立大会を開催。党員は57名、委員長には陳独秀がなった。中国共産党の創立はコミンテルンの指導があった。コミンテルンはヨーロッパの革命運動の行き詰まりから、前年7月「民族および植民地問題にかんするテーゼ」を採択し、先進国のプロレタリアートの革命運動を支援することと並んで、帝国主義に抵抗する植民地の民族解放運動をも積極的に支援する方針を決定した。その中で、使者を何度か中国に派遣し、新文化運動に参加し、五・四運動の中心となっていた陳独秀李大サらに共産党結成を働きかけた。その結果各地に共産主義グループが結成され、21年の共産党結成を準備した。  → 中国共産党
Epi. 中国共産党の「船出」 創立大会は、大会の途中で警察の密偵にかぎつかれたため、最終会議を浙江省の南湖の船上で開いた。文字通り中国共産党の”船出”となった。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』岩波新書による>
d 陳独秀  → 陳独秀
ヨッフェ 1922年夏、ソヴィエト政権の全権代表として中国に渡り、中国国民党の孫文と接触、翌23年1月に「孫文・ヨッフェ共同宣言」をまとめた。この共同宣言で孫文はカラハン宣言の完全実施を求め、ヨッフェは中国の独立と統一のたために援助を確約した。孫文は同時に中国にはソヴィエト体制をそのまま移入することはできないと主張し、ヨッフェもそれを認め、民族独立と統一のための共産党との協力を求めた。その結果、翌24年1月、孫文が国民党の改組(共産党員の加入を認めること)を打ち出し、第1次国共合作が成立した。
 第1次国共合作 1924年に国民党の孫文がソ連の働きかけを受けて共産党との連繋に踏み切り、軍閥勢力および列強の植民地支配に対し中国の統一と独立を図った運動。1927年、蒋介石の上海クーデターによって共産党が排除され解体した。
ワシントン体制のもとで中国の門戸開放がはかられた結果、外国資本の流入が進み、中国の民族資本を圧迫し、各地で労働運動、農民運動が激しくなってきた。そのようななか中国ナショナリズムの高揚が続いたが、北京の軍閥政権は依然として国民生活を顧みず、帝国主義勢力と結んで抗争に明け暮れていた。中国国民党を率いる孫文は、ブルジョア民主主義の立場であったが、1921年コミンテルンの使節マーリンと会談し反軍閥・反帝国主義を掲げる共産党との共同戦線に傾いていった。22年には上海で李大サ陳独秀と接触、23年1月にソ連代表ヨッフェとともに「中国にとって最も緊急の課題は民国の統一と完全な独立にあり、ソ連はそれに対して熱烈な共感をもって援助する」という共同声明を発表した。孫文は広東にソ連から政治顧問ボロディンらを迎え、共産党との連係を進める。共産党も23年、コミンテルンの指示で国民党との「合作」を決定し、全共産党員が個人の資格で国民党に加入することにした。この結果、1924年1月、中国国民党一全大会広州で開催し、共産党員の加入を認める改組(国民党改組)を行い、「連ソ・容共・扶助工農」を加えた新三民主義を掲げて国共合作が成立した。この段階から中国革命は新たな国民国家の建設を掲げた、「国民革命」と言われるようになる。孫文は翌25年に死去し、同年広東に国民政府が成立、孫文の後を次いだ蒋介石によって軍閥勢力に対する北伐が開始され、統一の戦いが進んだが、次第に国民党と共産党の理念の違いが表面化する。ついに1927年の蒋介石による上海クーデターで共産党が排除されて第1次国共合作は解体され、両者は激しい国共内戦に突入することとなる。
国共合作の第1次と第2次:中国近現代史のなかで、国民党と共産党の協力、つまり「国共合作」は2回行われた。
1924年〜27年の第一次国共合作は、封建的軍閥と帝国主義列強の侵略と戦う態勢であり、孫文の決断によって生まれ、最後は蒋介石政権による北伐の進行中に決裂した。軍閥政権打倒という目標はほぼ達成されたが、国共分裂によって内戦に突入、1930年代の日本の侵略を許すこととなった。
1937年〜45年の第二次国共合作は、日本帝国主義の侵略と戦う態勢であり、36年の西安事件を機に成立し、日中戦争に勝利することができた。大戦後は両党の話し合いに失敗、再び内戦となり、1949年の共産党の料理、中華人民共和国の成立となる。いずれも中国近現代史の重要な動きであったといえる。
 中国国民党一全大会1924年1月、広州で開催された、中国国民党の第1回全国代表大会の略称。中国国民党の孫文は、北京の軍閥政府を倒し、帝国主義列強による植民地化を阻止して中国の国民的な統一をなしとげる国民革命を目ざし、コミンテルンの要請を受けて中国共産党との第1次国共合作(協力態勢)に踏み切ることを決定した。孫文はこの大会で新三民主義と「連ソ・容共・扶助工農」の三大政策を提起し、採決された。これによって中国国民党は共産党員を国民党員として受け入れる「国民党改組」が行われた。
a 孫文(国共合作期)孫文は、1924年1月、中国国民党一全大会を広州で開催、国共合作を正式に成立させた。大会宣言で孫文は「新三民主義」と「連ソ・容共・扶助工農」の三大政策を発表した。三民主義は、民族主義=帝国主義に反対し民族解放と国内民族の平等を実現する、民権主義=軍閥の専制に反対し民衆の自由と権利を獲得する、民生主義=土地集中と独占に反対し民衆の生活の安定を図る、というもので、それに加えて「連ソ」=ソ連(コミンテルン)と連繋し、「容共」=共産党を容認し、「扶助工農」=労働者・農民を支援すること、という三政策を加えた。孫文のこの大胆な方針転換によって、孫文は北京を中心に各地に分立する軍閥勢力を倒し、日本などの列強の中国支配からの解放を目指す「国民革命」を目指す子段階に入った。しかし北伐を実現することなく、1925年病を得て、「革命いまだならず」という言葉を残して死去した。孫文は中国統一を実現することはできなかったが、辛亥革命の指導者、中華民国の建国に最大の功績のあった人物として現在でも最大限の尊崇を集めている。その墓地が南京の中山陵である。
b 国民党改組 第1次国共合作の成立によって行われた、中国国民党の組織原則の変更のこと。中国国民党は1919年に孫文が中華革命党から改組したものであったが、依然として秘密結社的な革命家の集団という性格が強く、また孫文に対する忠誠心によって結びついている面が強かった。しかし1921年以来、ソヴィエト政権と接触した孫文は、1824年にその支援を受けると共に国共合作に踏み切った。孫文はソ連共産党に学んで国民党を個人的な結社から、組織的な公党としての政党へ脱皮させようとした。具体的には民主的、大衆的な討論を保障し、党幹部は選挙で選出し、委員会制を導入するなどの改革を行った。また開かれた政党として、共産党員のまま国民党の党籍を持つことを認めた。 → 新三民主義
c 中国共産党(戦前)1921年に結成されたマルクス主義政党。当初はソ連(コミンテルン)の影響を強く受け、24年に第1次国共合作を実現させたが、27年に国共分裂、激しい第1次国共内戦の中で、農村を基盤とした路線に転換、31年には瑞金に中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立した。長征(大西遷)を通じて次第に中国独自の革命理論を持つ毛沢東が台頭、その間日本の侵略が強まって、37年第2次国共合作を成立させた。日中戦争を独自のゲリラ戦で戦い抜いた後、第2次の国共内戦で国民政府軍を破り、49年に中華人民共和国を樹立、中国の社会主義革命に着手した。戦後は中ソ対立、66〜76年の文化大革命の混乱期の後に、改革開放路線に転換したが、一党独裁体制を現在まで維持している。
結成から第1次国共合作へ:1921年、コミンテルンの直接的な指導によって中国共産党を結成し、陳独秀を初代委員長として、マルクス主義に基づく民族運動と社会改革運動を指導した。結成間もない1923年には、やはりソ連の中国政策を受けたコミンテルンの指導により、反帝国主義闘争と反軍閥闘争のために従来のブルジョア民主主義革命を目指す勢力である孫文の中国国民党と協力の方針を打ち出し、1924年に「第1次国共合作」を成立させた。そのもとで共産党員の党籍のまま、国民党に加わり、1925年には反帝国主義闘争の高まりである五・三○事件を指導、さらに翌年26年からは蒋介石国民革命軍の軍閥打倒の戦いである北伐を支援した。しかし、共産党の勢力が強まるにつれて、国民党内の資本家との連携を強める蒋介石グループとの対立が激しくなり、1927年の上海クーデター(四・一二事件)で激しい弾圧を受け、国共合作は崩壊した。
国共内戦と毛沢東指導権の確立:その後都市での蜂起に失敗した共産党は、毛沢東の指導により井崗山など農村にソヴィエト根拠地(解放区)を建設する方針に転換し、農村部で共産党の台頭が顕著となり、1931年に瑞金に中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立した。同年、東北地方では満州事変が勃発、日本軍の侵攻が始まったが、北伐を終えた蒋介石国民政府は、共産党討伐を優先して瑞金を総攻撃し、共産党はやむなく瑞金を放棄し、「長征」という大移動を余儀なくされた。その途中の遵義会議において、毛沢東の指導権が確立し、延安に拠点を移して国民党軍と対峙を続ける。 → 第2次国共合作 共産党の台頭
 ソ連(コミンテルン)の中国政策この時期のソ連は、1924年にレーニンが死去し、スターリンとトロツキーの激しい路線対立が始まった時期であった。その対立は、コミンテルンの中国政策にも持ち込まれ、スターリンは中国国民党との第1次国共合作を推進することを指導し、トロツキーは中国国民党は反動的なブルジョア勢力であるからそれと決別して労働者農民のソビエト建設を主張していた。スターリンの主張が通りコミンテルンはさらに国民党への支援を強めたが、孫文死後の国民政府の実権を握った蒋介石による上海クーデターで大きな犠牲を出すこととなった。
Epi. トロツキー、スターリンの中国政策を批判 「中国に対するエピゴーネン<スターリン等>たちの指導は、ポリシェヴィズムのあらゆる伝統を踏みにじったものであった。中国共産党は、その意志に反して、ブルジョア政党である国民党に加入させられ、その軍事的規律に服従させられた。ソヴィエトの創設は禁止された。また、中国共産党員は、土地革命を抑え、ブルジョアジーの許可なくして労働者を武装させないょぅに勧告された。蒋介石が上海の労働者を粉砕し、権力を軍閥の手に集中するよりもずっと前に、われわれはこのような結末が避けられないことを警告していた。私は、一九二五年から共産党員を中国国民党から脱退させるよう要求していた。スターリン=ブハーリンの政策は、革命の粉砕を準備し、それを容易にしたばかりでなく、国家機関の弾圧によって、われわれの批判から蒋介石の反革命活動を守った。一九二七年四月に、スターリンは、クレムリンの円柱の広間での党の集会であいかわらず蒋介石と連合する政策を擁護し、蒋介石を信頼するよう呼びかけた。それから五、六日後に、蒋介石は上海の労働者と中国共産党を血の海に沈めたのである。……だが、何百万人の人々にとって決定的意味をもっているのは、予測ではなく、中国プロレタリアートが粉砕されたという事実そのものである。一九二三年のドイツ革命の敗北、一九二六年のイギリスのゼネストの挫折、こうしたあとに起こつた中国におけるこの新しい敗北は、国際革命に対する大衆の失望を強めるだけかもしれない。そして、この失望こそスターリンの一国改良主義政策の基本的な心理的源泉として役立っているのである。」<トロツキー『わが生涯』下 p.440 岩波文庫> 
 「連ソ・容共・扶助工農」 孫文が中国国民党第1回全国大会(広州)で掲げた、ソ連と連帯し、共産主義を容認し、労働者・農民の戦いを助けようという、第1次国共合作の三大政策。孫文は必ずしも社会主義やマルクス主義を採用したわけではなく、自身の理念としては三民主義を堅持していた。また、軍政・訓政・憲政という独自の三段階革命論を持っており、ボリシェヴィキ的な暴力革命や、一気に議会政治を実現する考えはなかったが、自らが指導した辛亥革命において結局は袁世凱の軍閥権力に敗れてしまったことを反省し、革命には武力が必要なこと、必要な武力を得るには、経済的基盤のない国民党のみでは不可能であると考え、ロシア革命の成功に倣った革命軍の創設を目指し、その手本として、また実際的な資金、武器の援助を期待してソ連および共産党と手を結ぶこと踏み切った。 → 新三民主義
 新三民主義 孫文が中国同盟会の綱領とした三民主義に加えて、第1次国共合作に際して「連ソ・容共・扶助工農」の三大政策をくわてたもの。「連ソ」はソ連(具体的にはソ連共産党を中心としたコミンテルン)との連繋をとること、「容共」は中国共産党を容認して共産党員が党籍を持ったまま国民党に加わることを認めること、「扶助工農」は労働者・農民を支援することを意味する。 → 連ソ・容共・扶助工農
f 「革命いまだならず」  孫文の死:なおも抗争を続けていた北京軍閥政府は、直隷派と奉天派が争い(奉直戦争)、混乱を極めていた。国民の中に孫文の北上を求める声が強まり、ついに北京政府も孫文の北上を要請、孫文は北京に入り、新たな「国民会議」を開催しようとした。しかし、1925年3月12日、肝臓ガンのため「革命いまだ成らず」という有名な遺書を残して死去する(59歳)。
g 五・三〇事件 1925年5月30日、第1次国共合作の時期に上海租界での中国人労働者殺害事件から発した大規模な反帝国主義運動。「五・三○運動」ともいう。
1925年5月、上海で日本人経営の在華紡の工場でのストライキ中に日本人監督が中国人組合指導者の一人を射殺した。それに抗議した学生が抗議行動をおこなって多数が逮捕された。5月30日その裁判がおこなわれる日に青島でも日本資本の紡績工場で争議中の労働者が奉天派軍閥の保安隊によって射殺される事件が起き、抗議行動が一気に爆発し1万人の市民・労働者が集まった。上海南洋大学の学生を先頭にした「上海人の上海を」や「租界を回収せよ」と叫ぶデモ隊と上海租界のイギリス警官隊が衝突、警官隊の発砲によって13名の死者が出た。この事件を契機に上海総工会(労働組合)ではゼネストを指令、イギリス・日本・アメリカ・イタリアの各租界当局が陸戦対を上陸させ弾圧した。運動は香港にも広がり、ストライキを弾圧するイギリス・フランス軍により52名の労働者が殺害された。香港のストライキ(省港スト)は翌年10月まで続き、香港は麻痺状態に陥った。
五・三○事件は第1次国共合作のもと、労働者・市民・学生が立ち上がった反帝国主義運動であり、世界的な衝撃を与えた。7月には国民政府が成立し、翌年には国民革命軍による反帝国主義・反軍閥の北伐が開始されることとなる。反面、国民党の中に、労働者の革命的な動きとそれを指導する共産党の進出を恐れる右派が形成され、国共は分裂に至ることとなる。
h 在華紡 中国内の日本資本による紡績会社。1925年の五・三○事件のきっかけとなったのは、上海の在華紡である「内外紡績」の工場でのストライキで中国人労働者の一人が日本人監督によって射殺された事件であった。これを機に上海と青島にあった30ほどの在華紡の工場にストライキが広がった。
 北伐  → 北伐
a 国民政府(中華民国)「国民政府」とは、「中華民国国民政府」のことで、中華民国の政府のことであるが、時期によって、いくつかの国民政府があるためわかりにくくなっている。段階的にまとめると次のようになる。
1.広東国民政府:辛亥革命によって1912年正月に孫文を臨時大総統とし南京を首都に中華民国が成立したが、北京(当時は北平といわれた)には袁世凱がなおも実権をにぎったおり、中国は分裂状態となった。1913年には孫文らを弾圧した袁世凱が北京で正式な中華民国初代大総統に就任した。その後、1916年の袁世凱の死後も北京には軍閥政権(北京政府)が交代した。それに対して孫文(中華革命党)は、1917年に広東軍政府を組織して軍事的に抵抗した。そのような中で起こった1919年の五・四運動の後、孫文は新たに中国国民党を結成し、新たな中華民国の政治勢力を作り、「国民革命」を実現しようとした。一方、1921年にはマルクス主義政党の中国共産党が成立し、この両者はコミンテルンの働きかけもあって北京軍閥政府と帝国主義の侵略に対抗しようとして1924年に第1次国共合作を実現させた。孫文はその直後死去したが、広東一帯の地方軍閥軍を討伐した1925年、広州で「広東国民政府」(広東政府とも言う)が樹立された。主席は汪精衛(汪兆銘)。これが最初の「国民政府」を名乗る政府である。
2.北伐と南京国民政府の成立:1926年、広東国民政府は、蒋介石を司令官として北京軍閥政府を打倒するための北伐を開始。翌27年、本拠地を北上させて武漢に移し、それからは「武漢国民政府」と言われるようになるが、その内部には孫文の意志どおり国共合作を維持しようとする左派の汪兆銘と、共産党の排除をねらう蒋介石ら右派の対立があった。蒋介石の背後には上海の浙江財閥があった。同年、蒋介石は上海クーデターで共産党弾圧を開始、共産党を排除して「南京国民政府」を樹立した。武漢政府でも右派が台頭して、汪兆銘は失脚、南京国民政府に統合された。1928年、南京国民政府(国民党の蒋介石政権)は北京の軍閥政府を倒し、北伐を完了させ、国民政府による中国統一を達成させ、さらに同年末には満州軍閥の張学良が「易幟」を行って国民政府への帰属を表明したため、国民政府の統治領域は満州に及んだ。それ以後は南京国民政府と共産党勢力の国共内戦となるとともに、この間、日本の大陸侵攻が強まってくる。
3.国共内戦から第2次国共合作:そのような中で1931年の満州事変が起こったが、南京国民政府は共産党の殲滅を優先させ日本軍に対する抵抗を二の次とする姿勢をとった。一方共産党は1931年に瑞金中華ソヴィエト共和国を樹立して独自政権を発足させ、国民政府軍の攻勢を受けて瑞金を放棄して1934年、長征を開始し、その途中の遵義会議で毛沢東の指導権を確立させ、1935年には延安に入り、抗日戦の根拠とし、中国国民党に対しては抗日武装戦線の結成を呼びかけた。1936年の西安事件を機に、翌37年に第2次国共合作が成立した。第2次国共合作は第1次と違い共産党員が国民党に加盟するというのではなく、二つの党はそれぞれ独自の党として活動しながら、日本の侵略に対しては協力して闘うという形態をとった。
4.抗日戦と戦後の国共内戦の再開:1937年、日中戦争が勃発、南京国民政府は首都南京を日本軍に攻略されたたため、武漢に移りさらに重慶に移動した(重慶国民政府)。日本軍は「国民政府を相手とせず」と表明し、国民党の汪兆銘を担いで別に「南京国民政府」(中国では偽政府とされている)を作らせ交渉相手とした。しかし国際的には承認されず、重慶国民政府は連合国の一員として国際連合の設立にも加わった。1945年8月に日本軍が敗北、46年5月、国民政府は南京に帰り「南京国民政府」を唯一の政府とする中華民国を表明し、翌47年には中華民国憲法を制定、翌年には蒋介石を正式に中華民国総統に選出した(これ以後は「中華民国政府」と称する)。しかし、共産党との対立は軍事衝突に発展し、再び国共内戦に突入した。
5.中華民国政府の台湾統治:国共内戦は共産党の勝利となり、1949年10月、「中華人民共和国」が樹立された。1949年12月に「中華民国政府」は台湾に撤退し、1950年から現在まで、台湾を統治している。蒋介石国民党政権の「中華民国」は国際連合の議席も継承した。この国民党による中華民国の台湾統治を行う政府を「国民政府」と言う場合もある。国民党政権は本土出身者によって固められ、台湾人との対立の問題もあったが、東西冷戦のなか、アメリカの援助を受け、輸出産業を発展させていった。しかし、1971年にはアメリカが中華人民共和国を承認、「二つの中国」を認めない立場に変わったため、台湾の「中華民国」は国連の議席を失い、諸外国との外交関係も絶たれた。蒋介石は1975年に死去、78年に息子の蒋経国が総統となり、国民党以外の政党を認めるなど改革を進めた。1988年には初めて台湾出身者である李登輝政権が成立、大胆な民主化を進めた。
b 蒋介石

→蒋は、が正しいが、通常のパソコンでは表示できないので、略字体を使用した。→正字の拡大
しょうかいせき。1887〜1975。日本の陸軍士官学校に留学(1907年)した軍人。孫文中国同盟会に加わり、辛亥革命に参加。その後、中国国民党の軍人として孫文に従い、1924年第1次国共合作では革命軍の養成にあたる黄埔軍官学校の校長を務めた(政治部副主任は周恩来だった)。黄埔軍官学校出身の学生を中心に国民革命軍を組織してその総司令となり、次第に発言権を強め、右派の中心となる。孫文死後、その遺志を継いで1926年7月、「北伐」を開始、たちまち武漢・南京・上海などを占拠した。北伐の途上、1927年上海クーデタで共産党を排除し、反共に転じて南京国民政府を樹立。28年に北京を占領して北伐を完了、中国の一応の統一を達成した。以後「中華民国」の中心にあって独裁的な権力を振るい、アメリカ・イギリスの支援と浙江財閥の援助によって共産党との戦いを進める。1931年、満州事変が起こり日本の中国侵略が開始されてもそれとの対決を避け、共産党勢力との戦いを優先(「安内攘外」策という)し、日本軍と塘沽停戦協定を締結した。34年には瑞金の共産党政府を西遷(長征)させ、延安に追いやった。1936年、西安事件で東北軍の張学良に軟禁され、その要請を入れて共産党との内戦を停止した。1937年に日中戦争が始まるととの第2次国共合作に合意、抗日戦争を指導した。日本軍の攻勢を避け、重慶に政府を移して抵抗を続け、1941年に第2次世界大戦に拡大すると連合国の一員となり、1943年11月にはカイロ会談に参加して英米首脳と対日戦後処理を話し合った。大戦後は中国共産党と決別して、国共内戦に突入、アメリカの支援を受けて1948年には正式に中華民国総統に選出された。しかし、翌年m共産党軍に敗れて国民政府ともども台湾に移った。その後も台湾で「中華民国」総統として君臨、1975年に死去し、権力は息子の蒋経国が継承した。
Epi. 蒋介石の夫人、宋美齢の活躍 1927年、蒋介石は上海で宋美齢と結婚した。宋美齢は、孫文の未亡人宋慶齢の妹で、著名な浙江財閥宋子文を兄としていた。蒋介石は宋美齢の母親に結婚の許諾を得るため、当時母が住んでいた神戸までやってきた。これで蒋介石は孫文の義弟となり、上海財閥とも閨閥で結ばれることとなり、その権力の基盤となった。なお宋美齢は若い頃アメリカで育ち、英語が堪能なクリスチャンであった(その影響で蒋介石もクリスチャンになった)。西安事件で蒋介石が監禁されたときは自ら西安に飛び、共産党と交渉したり、日中戦争の時期はアメリカで盛んに中国支援を訴えた。2003年10月、ニューヨークにおいて103歳で死んだ。
 黄埔軍官学校 1924年6月に孫文の指導する中国国民党が設立した軍幹部を養成する学校。黄埔は広州から40キロの地点。校長にはソ連視察から帰国した蒋介石が任命された。国共合作のもと、共産党員の周恩来が政治部主任となり、葉剣英らが教官として加わった。孫文は「ロシア革命が成功し、中国革命が依然失敗し続けているのは何故か?」と問い、その答えを「中国に革命軍がなかったからだ」と考え、国共合作がなり国民党を改組するにあたり、革命軍の組織化を掲げた。その目的で前年、蒋介石をソ連に視察に派遣した。その蒋介石を校長に任命し、ソ連からの資金と武器援助を受け、黄埔軍官学校は2年足らずのうちに約2300名の国民革命軍の幹部を養成した。<野村浩一『蒋介石と毛沢東』アジアの肖像2岩波書店1997 p.12>
後にはこの黄埔軍官学校卒業生を中心(戴笠ら)として、国民党蒋介石系の特務機関「藍衣社」がつくられ、陳果夫、陳立夫兄弟の「C・C団」とともに、国共内戦時代に共産党員に対する白色テロが行われる。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』岩波新書 p.150>
c 国民革命軍 1925年8月に中国国民党が国民革命を推進するために組織した軍隊。前年に設立した黄埔軍官学校で養成した幹部を中心に組織し、はじめ五つの軍団を構成し、それぞれに国民党員が政治的指導員として配置された。国民革命軍は当初から蒋介石が総司令として掌握し、国民党内で汪精衛(汪兆銘)などのの主流に対抗する力をつけていくこととなる。蒋介石は国民革命軍を率いて1926年から北京の軍閥政権打倒をめざし、北伐を開始ることとなる。この国民革命軍は、有力者の私兵集団ないしは傭兵集団に近い軍閥の軍隊に比較すれば、革命のために戦うという戦闘意欲も高く、また組織化され、命令系統が一本化されているなど、近代的軍隊として造られたが、それでもなお徴兵制に基づく軍隊ではなく、募兵制であり、地域的な集団意識などがなお強く残っていた。特に北伐再開後は反帝国主義・反軍閥の目標は希薄となり、降伏した軍閥軍を含み、軍閥連合軍の様相を呈していた。国民革命軍は軍閥との戦闘では勝利を占めることができたが、共産党軍との内戦になると、次第にその古い体質があらわとなって、結局は敗北することとなる。<野村浩一『蒋介石と毛沢東』現代アジアの肖像 岩波書店 p.36〜39>
Epi. 蒋介石のパターナリズム 蒋介石は黄埔軍官学校の校長としてほとんど毎週、自ら講話を行い、「三民主義革命」を説き、「一身を犠牲にして革命のために死ぬ」ことを教えた。そこで強調されたのは彼を家父長とする家族・宗族的結びつきであった。蒋介石自身も腹心の部下と義兄弟の契りを結ぶことを好んだ。このような「黄埔原型」は国民革命軍に色濃く、「革命軍連座法」があって「敵前で隊員が退却すればその隊長を殺す」とされていた。このような家父長主義(パターナリズム)は儒教的道徳観であると共に、蒋介石が日本陸軍の軍営経験の投影であるかもしれない。<野村浩一『蒋介石と毛沢東』現代アジアの肖像 岩波書店 p.53〜57>
 北伐 1826年から28年にかけて、中国(中華民国)の国共合作(第一次)のもとで展開された国民革命の一環として行われた国民革命軍による北京(当時は北平)の軍閥打倒の戦い。1926年7月、前年に死去した孫文の遺志を継いで、蒋介石は「帝国主義と売国軍閥の打倒と人民の統一政府の建設」を掲げ、国民革命軍総司令として北伐(出師北伐)を開始。10万の国民革命軍を動員し、軍閥勢力との戦争となった。北伐軍は各地で軍閥軍を撃破、武漢・南昌・福州・杭州・南京を落とし、翌年3月には上海に達した。北伐に呼応して各地で民衆蜂起も起こったが、社会主義への傾斜を恐れた蒋介石は上海クーデタを起こして共産党勢力を排除、大弾圧を加えた。第1次国共合作が崩壊した後、独裁的な権力を握った蒋介石は1928年4月、北伐を再開、北京の奉天軍閥張作霖も戦意を無くして満州に退き、蒋介石は同年6月北京に入り、北伐を完了した。なお、この北伐に対し、日本は居留民保護を名目にたびたび干渉し山東出兵を行った。特に1828年5月には、山東省済南で、北伐軍と日本軍が衝突し済南事件が起こった。また東北では関東軍が満州に戻ろうとした張作霖を殺害した(同年張作霖爆殺事件)。
d 国民革命 1924年の第一次国共合作の成立以降、中国革命は「国民革命」と言われるようになる。1911年の辛亥革命によって清朝の専制支配が終わったにもかかわらず、中国社会は依然として封建的な地主−小作人関係が残存し、不平等条約のもとで外国資本の支配を受け続けていた。しかも政治的には「中華民国」の実態は北京(当時は北平といわれた)の支配権をめぐって軍閥の安徽派、直隷派、奉天派などが入り乱れて抗争し、国民不在の状態が続き、帝国主義勢力の侵出を許していた。
孫文三民主義は清朝の専制支配に代わる中国の新たな国家の指針として有効であったが、軍閥の台頭、帝国主義の侵略の前には無力であった。第1次世界大戦中に始まった反軍閥・反帝国主義は五・四運動となって高揚し、また新たな勢力として共産党が出現した。そのような動向を受けて孫文は大胆に方針を転換、国共合作に踏み切り、真の「国民のための政府」を作り出す戦いに転換した。この段階が「国民革命」であり、「国共合作を基盤とした反帝国主義・反軍閥の民族民主革命」<横山宏章・前掲書p.126>と定義することができる。この国民革命は、北伐という動きで実践された。 
e 武漢政府 1927年2月、中国国民党の国民政府が、広東から武漢に移動してからをいう。第一次国共合作のもとで、国民党左派の汪兆銘(汪精衛)を中心とし、共産党員も加わっていた。しかし、国民革命軍を率いて北伐を進めていた蒋介石は、4月12日、上海クーデターを決行し共産党に大弾圧を加え、南京に武漢政府とは別に独自の南京国民政府を樹立し、国民政府は武漢と南京に分裂した。しかし、7月には武漢政府内でも国民党と共産党が決裂して共産党が排除され、第1次国共合作は崩壊した。その後、武漢政府は実質的に消滅し、南京政府に吸収される。
f 南京事件 国共合作下の北伐が迫った1927年3月24日、南京で暴動が起こり、アメリカ・イギリス・フランスの領事館・外国人住居・教会などが暴徒に襲われ、外国人6名が殺害されるという事件が起こった。アメリカとイギリスは報復として長江に軍艦を派遣し南京を砲撃、中国側に約2000人の死傷者が出た。暴徒は敗走する軍閥兵に扇動されたらしいが、アメリカ・イギリスは共産党員のしわざとして蒋介石に共産党排除を強く要求した。蒋介石はそれを受けて4月12日、上海クーデターで北伐軍から共産党勢力を排除した。なお、南京事件の際、日本の若槻首相・幣原喜重郎外相はアメリカ・イギリスからの共同出兵を要請されたが断り、国内の軍部・右翼から軟弱外交と非難され総辞職し、次の田中義一内閣は積極外交に転じ、山東出兵を行うことになる。(1937年の日中戦争中の日本軍による南京虐殺事件とは別なので注意すること。)
 上海クーデター 1927年4月12日、北伐途上の蒋介石上海で行った反共産党のクーデター。四・一二事件(しいちにじけん)ともいわれる、共産党に対する大弾圧。
上海では北伐軍が到着する前、3月、共産党の周恩来などに指導された労働者が武装蜂起、軍閥軍を撃退し臨時政府を樹立していた。共産党の力を恐れた蒋介石は上海の労働者政権の弾圧を決意、4月12日、上海のチンバン・ホンバン(上海のギャング団)が労働者団を襲撃したのをきっかけに国民革命軍を市内に突入させ、労働者・市民を虐殺した。周恩来は脱出したが、共産党は上海から排除された。さらに広東・北京でも共産党員に対するテロがひろがり、多数が殺害された。(李大サもこのとき北京で張学良軍によって逮捕され処刑された。)武漢政府はなおも共産党員が残ったが、同年7月には離脱し、第1次国共合作はこれによって瓦解した。
b 南京国民政府 国共合作のもと、北伐の進む中で、共産党員を含む国民政府は広東から武漢に移動し武漢政府と言われていたが、蒋介石は上海クーデタを機に共産党員を排除して、1927年4月18日独自に南京国民政府を樹立し、国民政府は分裂した。しかし、武漢政府も右派が台頭し、7月共産党が武漢政府を離脱、9月には武漢政府は南京政府に合流した。翌28年、北伐を再開し、6月には北京に入城して中国統一を完成し、蒋介石は同年10月、国民政府を改組、政府主席に自ら就任した。しかし、反蒋介石派も活動を続け、1931年5月には広州に汪精衛らによって臨時国民政府が作られた。このように南京国民政府は不安定であったが、一応の統一権力として存在し得たのは、蒋介石の国民革命軍の軍事力と、共産党の台頭を抑えるためにも蒋介石を支持していた浙江財閥および外国資本であった。 
a 国共分裂 1927年4月の上海クーデタで蒋介石は共産党の排除に転じた。蒋介石が左派を排除して南京国民政府を樹立したのに対し、汪精衛ら国民党左派と共産党勢力は武漢政府を樹立して蒋介石を国民党から除名するなどして抵抗した。しかし武漢政府内にも反共勢力が台頭して分裂。コミンテルン(実質的にはソ連のスターリン)は国共合作の継続を継続したが、7月共産党は武漢政府を離脱、国民党も容共政策の破棄を声明して第1次国共合作は破綻した。
 北伐再開 上海クーデターで一時中断された北伐は、1928年4月に再開された。蒋介石が再び国民革命軍総司令として指揮を執った。再開された北伐は、反軍閥、反帝国主義の「国民革命」という基本的な使命を失い、南京政府による全国統一の仕上げという権力闘争の様相を呈した。国民革命軍もその内実は、もと直隷派軍閥の馮玉祥、山西軍閥の閻錫山、広西軍閥の李宋仁らの軍からなる混成軍であった。また、最初の北伐の時のような民衆の協力や、多くの知識人の参加などの国民的な盛り上がりはなくなっていた。迎え撃った北京の張作霖軍と呉佩孚、孫伝芳らの軍閥軍は次々と敗北し、6月3日には張作霖は北伐軍の入城の前に北京を脱出し、8日、北伐軍は北京に無血入城した。 → 北伐の完成
 東三省 中国の東北地方は清代には、奉天省、吉林省、黒竜江省の三省がおかれていたので、まとめて東三省といわれた。この地に侵出した日本が後に満州国を建国した地域にあたる。
d 奉天軍閥  → 第14章 3節 奉天派
e 張作霖 中華民国の初期に現在の東北地方、当時のいわゆる東三省(満州)を基盤とした奉天軍閥の指導者。馬賊出身であったが、奉天を中心とした軍閥を形成した。辛亥革命後はたびたび北京進出をねらい関内に入った。はじめ直隷派と結んで安徽派段祺瑞政権を倒し、ついで直隷派と争って1924年には北京の実権を握り、27年には大元帥に就いた。しかし、28年、蒋介石の国民革命軍の北伐軍が近づくと、北京を脱出し、奉天に戻る途中に日本の関東軍によって列車ごと爆殺された。関東軍は一気に満州の支配をねらったが、奉天軍閥を継承した息子の張学良が国民政府側についた。
Epi. 馬賊から軍閥にのし上がった張作霖 馬賊とは満州の平野を騎馬で疾走する、武装盗賊団。彼らは単なる盗賊ではなく、有力者に雇われて縄張り内の貨物や人員の輸送の護衛を請け負い、「保険隊」ともいわれた。<澁谷由里『馬賊で見る「満洲」』講談社メチエ 2004 p.26>
張作霖は祖父の代に奉天近くに移住してきた漢人で、貧しい農民として生まれ、若くして馬賊に加わり、勇気と行動力でその頭目にのし上がった。さらに有力者の娘を略奪婚で結婚し、質屋や油屋も営んで財を設け、配下を増やしたという。義和団事件以後ロシアの満州進出に備えて清朝が馬賊を正規軍に編入したときに帰順し、次第に奉天を中心とした大勢力となった。<白雲荘主人『張作霖』1928初刊 現在中公文庫所収>
e 関東軍 日露戦争講和条約のポーツマス条約にもとづいてロシから受け取った東清鉄道の旅順・長春間の鉄道運行にあたる南満州鉄道株式会社が1906年に設立された。日本は鉄道経営とともに撫順炭坑、鞍山製鉄所などの付帯事業と、鉄道付属地(線路の両側と駅周辺)の行政権および守備隊駐留権を得た。この南満州鉄道守備隊と、遼東半島南端の租借地「関東州」(旅順と大連)守備隊を合わせて1919年に参謀本部直属の「関東軍」が設置された。関東軍は日本政府や、軍中枢のコントロールが次第に効かなくなり、独自の判断で1928年の張作霖爆殺事件や1931年の満州事変などを引き起こし、満州国建国の中心になっていく。1945年8月、ソ連軍の侵攻を受けて崩壊した。
f 安徽派  → 第14章 3節 安徽派
g 直隷派  → 第14章 3節 直隷派
c 山東出兵 北伐軍に対し、軍閥軍は次々と敗北したが、帝国主義諸国はそれぞれ軍隊を派遣して権益の保護にあたった。日本でも積極外交を掲げた田中義一内閣は、北伐に伴う混乱からの日本人居留民保護を名目に1927年5月以後、3度にわたる山東出兵を行った。1928年4月には国民東軍との武力衝突(済南事件)が起こった。日本軍は1929年に撤兵したが、中国での反日感情はさらに強くなった。
 済南事件 日本政府は北伐軍の北上が進むなか、居留民保護を名目に第2次山東出兵を行い、大陸深く進出して、黄河河畔の済南に陣を布いた。1828年5月、両軍が衝突し、日本側は23名、中国側は1000名の死者を出した。日本の現地軍はさらに謝罪を求め、容れられないと一般市民も巻き添えに3900名を殺害した。中国側ではこの事件を「済南惨案」といっている。中国民衆は憤激したが、蒋介石は日本軍との前面衝突を避け、本隊は済南を迂回させ、北京を目指した。 
h 張作霖爆殺事件 1928年6月4日、北伐軍に追われ北京を撤退し奉天に戻る途中の張作霖が列車毎爆破され殺された。日本の関東軍(南満州鉄道の保護などを目的に設置された日本の軍隊)の河本大作参謀の反抗であった。関東軍は張作霖を動かして満州支配をねらっていたが、張作霖がその意のままにならなくなっていたので、謀略で排除し、満州地方の支配を強めようとしたもの。当時の日本では事件の詳細は報道されず「満州某重大事件」といわれただけで国民が知ることはなかった。
 国民政府の全国統一 1928年6月、蒋介石の率いる国民革命軍が北京に入城し、北伐が終わり、国民政府による全国統一が完成した。6月15日に、南京国民政府は正式に全国統一を宣言した。これによって北京の北洋軍閥以来の軍閥勢力は排除されたが、なお東北地方には旧奉天軍閥の張作霖が日本軍によって爆殺された後、張学良が継承していた。張学良は日本の働きかけを断り、同年末の12月29日に国民政府への帰属を声明し、一斉に国民党の青天白日旗を掲げた。この「易幟(旗を変えること)」によって、国民政府の全国統一は最終的に達成された。
統一後の国民政府:以後は南京を首都とする「中華民国」国民政府が中国を統治することとなるが、今度は蒋介石に対して馮玉祥、閻錫山や李宋仁などの旧軍閥勢力が反発し、なおも激しい内乱(1930年の中原大戦など)が継続し、ようやく1930年末に蒋介石の独裁権力が確定した。蒋介石は続いて30年12月から、囲剿戦(いそうせん)といわれる共産党勢力への攻勢を開始した。国民党政府軍と共産党軍の激しい内戦が続くなか、1931年に満州事変が起こり、関東軍が満州で軍事行動を開始、日本の侵略が始まるが、蒋介石は「安内攘外」と称し、共産党との内戦を優先して抗日戦を回避する戦略をとった。日本に抵抗しない国民政府への不満も強まる中、1936年の西安事件で抗日民族統一戦線への素地ができ、1937年日中戦争が始まると国共合作(第2次)が成立して、日本軍の侵略と共に戦うこととなった。37年末、首都南京を占領されたため、国民政府は武漢、さらに重慶へと移り、抵抗を続けた。1940年3月には国民党の中で以前から蒋介石と対立していた汪兆銘が重慶を脱出、日本軍と結んで南京に独自の国民政府を樹立した。重慶国民政府はその後、1945年までアメリカ、イギリスなど連合軍の支援を受けて日本軍と戦い、1945年8月に日中戦争が終わると、国民党と共産党の協力は決裂、翌年再び国共内戦が始まり、国民党はそれに破れて台湾に移ることになる。
a 北伐完成 国民革命軍は、1828年6月8日北京に入城し、北伐は完了した。6月15日、南京国民政府は正式に全国統一を宣言した。7月6日には、蒋介石、馮玉祥、閻錫山、李宋仁の四司令がそろって北京西山碧雲寺の孫文の墓前に、北伐完了を報告した。 
b 張学良 1928年父の張作霖が日本の関東軍に謀殺され、さらに日本軍から脅迫を受けたが屈せず、12月29日、東三省(中国の奉天・吉林・黒竜江の三省。満州の別称。)に一斉に青天白日旗(中華民国の国旗)を掲げ、蒋介石の国民政府に従うことを明らかにした。これを易幟(旗を変えること)といい、これによって中国は蒋介石の国民政府によって統一されることになった。1931年、満州事変がおき日本の中国侵略が激しくなったが、初めは国民政府の蒋介石の方針に従い、共産党との戦いを優先し、日本の侵攻にほとんど抵抗しなかったため「不抵抗将軍」とあだ名された。しかし延安で共産党軍との戦いを続けるうち、中国人同士の殺し合いに疑問を感じ、共産党の抗日民族統一戦線の考えに共鳴するようになり、1936年西安事件で蒋介石を監禁して、内戦を停止し共産党と協力して日本軍戦うことを同意させた。これによって翌年日中戦争が始まると国民党と共産党による第2次国共合作を成立させた。張学良は西安事件後、自ら国民政府の裁判を受けその拘束下に入り、戦後も国民政府と共に台湾に移って生涯を送り、2001年に100歳で死去した。
Epi. 張学良、日本の若者へのメッセージ 1990年、NHKは台湾でひっそりと暮らしていた張学良のインタビューに成功、その模様を放映した。それまで、一切の取材を拒否していた張学良が口を開いたと言うことで世界中に大きな反響を呼んだ。その内容は『張学良の昭和史最後の証言』に詳しい。番組の最後に、張学良は「日本の若者に話したい」と次のような話をした。
「私は、一生を日本によって台なしにされました。私は日本に父親を殺され、家庭を破壊され、財産も奪われたのです。・・・・私は日本の若者にぜひとも言いたいことがあります。日本の過去の過ちををまずよく知ってください。そして過去のように武力に訴えることを考えてはいけません。(・・・孔子の言う「忠恕」の忠は国に対する忠誠でで、恕とは他人を許す心です。)日本は忠のほうはありますが、恕が少なすぎます。つまり思いやりが少ないのです。日本政府は外国に対しても、また国民に対しても、恕がないのです。・・・・私は日本の若者だけではなく、日本の責任ある立場の人にも、他人を思いやる気持ちを持ってほしいと願います。・・・私はもし昔、日本の若者とよりよく理解し合っていたならば、歴史はどうなっていたかとさえ考えさせられます。だから私は世界の若者に期待を抱いています。・・・」
また同書に拠れば、インタビューの最後に張学良から取材陣に対し、「日本は何故東条のような戦犯を靖国神社に祭っているのか。靖国神社に祭られる人は英雄である。戦犯は日本国家の罪人ではないのか。彼らを祭っているのは、彼らを英雄と認めたからなのか。」と質問したという。そしてこの部分は放送ではカットされた。<NHK取材班『張学良昭和史最後の証言』1991 角川書店 p.241〜、p.260>
c 浙江財閥 蒋介石の国民政府を支持した、上海を本拠にする浙江省・江蘇省出身の金融資本の総称。海外の帝国主義諸国の大資本と結び、中国経済を支配した、買弁資本の代表的な例である。宋子文・孔祥煕・陳立夫・蒋介石のいわゆる四大家族がその中心。彼らは高級官僚の地位を利用して投資に成功し巨富を蓄えたもので、官僚資本などとも言われる。共産党の進出に恐怖を感じ、国民党の右派を支援して反共に転じさせた。その後も国民党蒋介石政権と癒着しながら、上海を中心に勢力を強め、1935年の通貨統一(幣制改革)でさらに独占体制を確立した。
Epi. 華麗なる宋姉妹 浙江財閥の代表的な存在である宋子文の三人の姉妹はそれぞれ有力者と結婚して著名であった。一番上は同じく財閥の孔祥煕の妻、二番目の宋慶齢は孫文の夫人、下の妹の宋美齢は蒋介石の夫人となった。そのうち、宋慶齢と宋美齢は対照的な生き方をすることになった。宋慶齢は蒋介石と対立、孫文の三民主義の理念を継承する民主勢力の代表として、中華人民共和国の副主席となり、1981年に死去。宋美齢は西安事件で夫の蒋介石救出に大活躍し、戦後は国民政府の要職を歴任し、アメリカ生活が長く英語に堪能であったので外交で活躍した。後にアメリカに渡り、2003年に103歳で死去した。
d 買弁 1842年、南京条約で上海での外国貿易が始まると、外国人居住区である租界において、外国商社に雇われて商品の買い付けや売り込みなどに従事し、手数料を得る中国人商人が現れた。このような、租界で成長した外国資本の手先となった商人を買弁と言った。彼らは買弁資本とも言われ、民族資本家に成長していくものも現れたが、中国の民族運動が激しくなってくると、彼らは海外資本と結びついて民族の利益を害するものと見られるようになり、買弁ということばは非難をこめて使われるようになる。特に有名な買弁資本が、浙江財閥といわれる、蒋・宋・孔・陳の四大家族であった。
出題  1999年 東大第3問 アヘン戦争後に結ばれた南京条約で、清朝はイギリス人が開港場に居留することを認めた。その後、こうした外国人の居留地は清朝の行政権が及ばない特別な地域として拡大し、対外関係の窓口として特殊な発展を遂げた。(1)このような地域は何と呼ばれるか。(2)又、こうした地域では外国商社と特に関係の深い中国人商人が成長した。彼らは何と呼ばれるか。それぞれ漢字二字で名称を記せ。  解答→ 
e 関税自主権回復 南京条約その他の不平等条約の締結によって半植民地状態に置かれた中国では条約改正が悲願であり、ナショナリズムの勃興に伴い、その要求はさらに強まっていた。ワシントン会議後に、中国は列強との間でまず関税自主権の回復の交渉を始めたが、集団交渉方式であったことと軍閥政権が安定しなかったためにほとんど進捗しなかった。1928年、蒋介石の国民革命軍が北伐を完成させ、南京国民政府の統一が実現したことを受け、まずアメリカが中国の関税自主権を承認、同年末までにイギリスその他の諸国とも関税交渉を終えた。日本だけが済南事件の解決が長引き、やっと1930年5月に日華関税協定が結ばれ、これによって中国は開国以来苦しめられていた関税自主権を回復することができた。
残る不平等条約の改正点である治外法権の撤廃については、満州事変の勃発などで中断され、太平洋戦争開戦に伴って欧米が日本との対抗上、中国の条約改正要求に応じたこと、日本は汪兆銘政権との間で条約改正に応じたことによって、1943年に不平等条約の撤廃が実現する。<横山宏章『中華民国』中公新書1997 p.157-161>
 共産党の台頭 中国共産党は、1927年の蒋介石による上海クーデターの大弾圧をうけ、全国の都市で共産党員は殺害、逮捕され大きな打撃を受けた。共産党指導部は反撃を試み、8月から9月にかけて南昌蜂起など都市での再起を図ったがいずれも失敗した。残存勢力は農村や辺境に根拠地を設け武装闘争を継続する方針に切り替えた。江西省井崗山には毛沢東が根拠地を築き、各地の共産党員は「紅軍」を組織し、ゲリラ戦を展開した。1931年、江西省瑞金中華ソビエト共和国臨時政府を樹立、毛沢東を主席としたが、その主導権はコミンテルンの指示を受けたソ連派が握っており、都市に対する全面的な攻勢という路線は維持された。「中華民国」内に共産勢力の独立国家が成立したことは、南京国民政府の蒋介石に大きな危機感を抱かせ、蒋介石はその年に満州事変が勃発して日本の侵略が本格化したにもかかわらず、共産党討伐(囲剿戦)に全力を挙げることになった。この国民政府軍の攻撃に遭い、共産党は瑞金を放棄せざるを得なくなり、いわゆる長征を行い、この途中の1935年1月の遵義会議において、コミンテルンの指示に忠実なソ連派に代わって毛沢東が指導権を確立し、延安に移ることになる。
a 毛沢東 1893〜1976。湖南省の農民出身の革命家。長沙の師範学校に学び、五・四運動の頃農民運動にはいる。1921年の中国共産党創立大会に参加。1924年の国共合作(第1次)の成立により、国民党に入党、農民運動に関わるようになり、地主支配に苦しむ中国農民の解放を強く意識するようになった(1927年の「湖南農民運動視察報告」)。1927年の蒋介石による上海クーデター後の国共分裂後は国民党軍との戦闘で苦戦を強いられ、9月、江西省の山岳地帯に逃れ井崗山(せいこうざん)を拠点として抵抗を続けた。井崗山根拠地では朱徳と共に共産党軍=労農紅軍(紅軍)の組織化にあたった。1931年に江西省瑞金に「中華ソヴィエト共和国臨時政府」を建設してその臨時主席となる。蒋介石軍の執拗な攻撃に追われて瑞金を放棄し、1934〜36年には国民政府軍と戦いながら「長征」を行った。当時中国共産党内には、コミンテルンの指示に忠実なソ連留学から帰国したグループが都市での一斉蜂起を主張して主流派を占めていたが、長征の途中の遵義会議において農村に拠点をつくり解放区を広げるという毛沢東の路線が採択されて、ソ連派を排除し、主導権を確立した。長征の後、拠点を陝西省延安に設け、国民党軍や張学良の東北軍と戦った。おりから強まっていた日本の帝国主義的侵略と戦うため、国民党に対し抗日民族統一戦線統一戦線の結成を呼びかけ、1936年の西安事件を機に両者は接近し、1937年に日中戦争が勃発すると、第2次国共合作を成立させ、以降は抗日戦争に全力を挙げることとなる。八路軍などと改称した共産党軍は日本軍と戦うと共に各地で解放区を広げ、土地改革を進めて農民の支持を拡大していった。1945年8月の日本の敗北後は国民党と連携を模索、蒋介石と重慶会談を行っていったん協定を成立させたが結局は決裂し、再び国共内戦に突入した。共産党軍(人民解放軍と改称)は各地で国民党軍を破り、毛沢東は人民解放軍を率いて北京に入り、1949年12月、中華人民共和国を樹立して国家主席に就任した。このように毛沢東は中国民族を帝国主義侵略から救い、封建社会を一掃して新国家を建国した、救国・建国の英雄として、1976年まで絶大な権力を振るうこととなる。 → 毛沢東(建国後)毛沢東(文化大革命期)
Epi. 「政権は銃口から生まれる」 毛沢東の有名な言葉。1927年、国共合作が崩壊して大弾圧を受け、農村に拠点を移した共産党は、都市奪回を目指して秋収蜂起を決定した。そのときの八・七緊急会議の席上での発言「政権は銃砲から得られるということを、どうしても理解しなければならない」からきた。農民のエネルギーに依拠し、武装権力を打ち立てようという明確な路線を示したものであった。
b 紅軍 1927年から中国共産党が農村や辺境の拠点で組織した軍隊「労農紅軍」のこと。初めは在地の農民の武装集団である「土匪」とかわることはなかったが、次第にマルクス=レーニン主義を学習し、きびしい規律で農村の解放を進めたので農民の支持を受け、その支配地を急速に拡大した。
1928年、毛沢東は、井崗山で紅軍兵士に対し、三大規律・六項注意を示し、厳格な規律の下、農民の支持を受けることとなった。29年4月には湖南地方を転戦していた朱徳の率いる共産党軍と合流、総兵力1万の「労農紅軍」の成立を宣言した。軍長は朱徳、政治委員が毛沢東で、「朱毛軍」ともいわれた。紅軍は蒋介石軍の圧迫を受け、瑞金から延安への大西遷(長征)を行い、日本の侵略軍とも戦った。日中戦争が始まり、第二次国共合作が成立すると、紅軍は形の上では国民政府軍蒋介石の指揮下に入り、八路軍および新四軍といわれるようになり、日本軍にゲリラ戦術によって激しく抵抗する。国共内戦下では人民解放軍と改称し、現在に至る。
c 井崗山 江西省の湖南省との境の山岳地帯。井岡山とも表記する。1927年10月、共産党の毛沢東は、約1000名の兵士を率い「労農紅軍」を組織した。翌年には南昌蜂起以来各地を転戦していた朱徳の軍と、彭徳懐の軍などが合流、1万の兵力を持つこととなった。毛沢東は井崗山根拠地で1928年12月から土地改革に着手、地主の土地を没収して農民に分配し、革命のいわば実験を進めた。中国共産党の正使ではこの井崗山から中国革命が始まったとされている。
Epi. 山賊を仲間にした毛沢東 井崗山一帯は、袁文才と王佐という二人の男を頭目とする百人ほどの山賊の巣窟だった。そこに乗り込んだ毛沢東は二人の行動を「革命行動」であると賞讃して共に戦うことを呼びかけ、仲間にしてしまった。もっとも翌28年7月にモスクワで開かれた中国共産党大会は、盗賊の首領を革命運動家とは認めず、頭目は殺し部下は吸収するという方針を伝え、それが実行されて二人の頭目は殺されてしまった。<高島俊男『中国の大盗賊・完全版』2004 講談社現代新書 p.280>
 三大規律・六項注意 1928年1月、毛沢東井崗山根拠地で紅軍兵士に与えた軍の規則。三大規律(紀律)とは、1.行動は必ず指揮に従うこと、2.土豪から取り上げた金は公のもにすること、3.農民からはサツマイモ一本(後に針一本、糸一筋となる)取らないこと。六項注意とは、1.話しは穏やかに、2.売買は公平に、3.借りたものは返し壊したものは弁償する、4.寝るとき使った戸板は必ず元に戻し、敷きわらは束ねておくこと、5.やたらなところで大小便をしない、6.捕虜の財布に手をつけない、をいう。これはさらに整理され、八項注意としてまとめられ、人民革命軍の軍規となった。このような規律を持つ軍隊は、従来の軍閥軍、あるいは国民革命軍と全く違って農民から徴発して苦しめるようなことはなかったので、その支持を受け、勢力を拡大することができた。
d 瑞金 1931年11月に中国共産党がこの地を本拠地として、「中華ソヴィエト共和国臨時政府」を樹立。江西省。中国に出現した最初の共産党に指導された労働者・農民の権力が成立したところである。
1928年から31年にかけて、毛沢東は「農村を武装して都市を包囲する」戦略を立て、井崗山以外の紅軍の根拠地を農村に建設することを進めた。しかし共産党の主流は、ソ連に留学したグループ(李立三ら)が握り、都市での蜂起を主とした全国武装蜂起を企てた。しかし1930年7月の「長沙ソヴィエト」樹立を除いていずれも失敗し、蒋介石の指揮する国民政府軍の攻勢(囲剿作戦)によって次第に後退した。その間も毛沢東は農村根拠地の拡大に努め、1931年の満州事変の勃発後、江西省瑞金で中華ソヴィエト共和国の建国を宣言した。
e 中華ソヴィエト共和国 1931年11月7日(ロシか革命記念日)、江西省瑞金で中国共産党を中心とした各地のソヴィエト政権の代表が集まり、第1回中華ソヴィエト代表大会を開き、中華ソヴィエト共和国臨時政府の樹立を決定した。主席には毛沢東を選出した。瑞金を首都とするこの国は、人口1千万にすぎない小国であったが、中国共産党が実現した国家建設として重要である。32年4月には「対日戦争宣言」を行っている。その後4年間存続したが、抗日戦よりも共産党撲滅(囲剿作戦)を重視してそれに全力を挙げる蒋介石の国民党軍の包囲攻撃を受け、34年10月に瑞金を放棄して「長征」(大西遷)を敢行する。
エ.インドでの民族運動の展開
 反英闘争の激化 第1次世界大戦が勃発すると、インド植民地では、当初イギリスの戦争に協力し、多数の兵士をイギリス軍に参加させた。イギリス国内でもインドへの一定の自治を認める声が出始め、インド担当相のモンタギューは、大戦後のインドの自治を認める案を作成した。しかし戦争が長期化する中で反英闘争も復活し、イギリスは一転してインド支配の強化にのりだし、1918年にローラット法を制定、翌年施行して弾圧を強化した。それに対してインド民衆の反英闘争は激化、1919年アムリットサル事件が起こった。1919年に制定され、21年に実施されたインド統治法(モンタギュー=チェルムズフォード改革)は、地方分権を導入したが財政・警察は中央政庁が握り、議会に対してはイギリスのインド総督が拒否権を持つという自治を認めるには不十分なものであった。反英闘争はガンディーの指導によって、第1次世界大戦後の1919〜22年に第1次非暴力・不服従運動〜非協力運動として盛り上がり、イスラーム教徒のヒラーファット運動とも結びついてもりあがった。ガンディーの逮捕などで一時中断された後、1930年代からは塩の行進という第2次非暴力・不服従運動が2度目の盛り上がりを見せた。この間、何度かの英印円卓会議がもたれたが、独立は実現されなかった。第2次世界大戦が起こると、ガンディーは「インドを立ち去れ」とイギリスに迫まり、逮捕された。一方では日本に協力してイギリスからの独立をめざすチャンドラ=ボースの運動も現れた。このような複雑な経過をたどり大戦後の47年に独立が達成されたが、ガンディーの理想としたヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の協力による全インド一体となった独立はできず、イスラーム教徒はパキスタンとして分離独立することとなった。
a 戦後の自治  → 第15章 1節 第1次世界大戦 インド自治の約束 
b インド統治法 インド統治法は一個の法令の名称ではなく、広義にはイギリス議会でインド統治のために制定されたあらゆる法律が含まれる。一般的には、狭い意味で、1858年以降のインド統治法、特に1909年のモーリー=ミントー改革で制定されたもの、1919年のモンタギュー=チェルムズフォード改革で制定されたものが重要。また1935年に制定されたものは新インド統治法とも言われる。
c ローラット法 第1次世界大戦後の1919年に施行されたイギリスによるインド民族運動弾圧法。逮捕状なしに逮捕し、裁判なしに投獄できる権限をインド総督に与えたもの。イギリスは、これによって第1次世界大戦中に高まってきた国民会議派を中心とするインドの民族主義運動を、厳しく弾圧した。ローラットはイギリスから治安状態の調査のためインドに派遣され、この法律を作成した人物の名。この法律に対し、インド民衆は激しく反発、ガンディーサティヤーグラハ運動を展開し、また民衆の反英暴動に対してイギリス軍が発砲して多数の死傷者を出したアムリットサール事件が起こった。
d アムリットサール事件 1919年3月、インドのパンジャーブ地方のアムリットサル市で、市民によるローラット法に反対するストライキが発生、国民会議派の指導者が逮捕された。その釈放を求めてデモを行った民衆に対し官憲が発砲、数人の死者が出た。激昂した民衆が白人を殺害し、建物に放火するとイギリスは軍隊を出動させ、機関銃を民衆に向けて発砲し379名を殺害、多数の負傷者を出した。この事件はインド民衆に決定的な反英感情を植え付けることとなった。
Epi. ガンディーの「ヒマラヤの誤算」 ローラット法が施行されたことにガンディーは大きな衝撃を受け、ただちに民衆に一斉休業(ハルタル)を呼びかけた。それは一日の仕事を休んで断食することでイギリスに抗議しようとするもので、デリーを始め各地で実行された。イギリスはガンディーを危険人物として逮捕した。その報が伝えられると各地で抗議デモが広がり、ボンベイでも衝突が起こり、アムリットサールではついに多数の死者がでた。ガンディーは、この事態に、自らのサティヤーグラハ運動が十分理解されていないことを知り、自分が重大な間違い−彼はそれを「ヒマラヤの誤算」と呼んだ−だったと気づいた。なぜそれが誤算だったのか、自伝で彼の言っていることはこういうことである。
「考えてみると、早すぎた非服従運動のようにわたしにはみえたからであった。・・・人が非服従運動の実践に適するようになるには、その前に、国家の法律に積極的かつ尊敬をこめてた服従を行っていなければならなかった。たいていの場合、私たちは、法律に違反すると罰せられる恐れから法律に服従している。・・・けれどもこのような服従は、サッティヤーグラハに要請されている積極的自発的な服従ではない。サッティヤーグラハ運動者は社会の諸法律をよく理解し、そして彼自身の自由意志からそれに服従する。それはそうすることが、彼の神聖な義務だと考えているからである。このように一人の人が社会の諸法律に忠実に服従しているときに初めて、彼はどの特定の法律が善で公正であるか、そしてどれが不公正で邪悪であるかについて、判断を下すことができる。そのときになって初めて、はっきりと規定された状況のもとに、ある法律に対して非服従を行う権利が生まれるのである。わたしのあやまちは、わたしがこの必要な限定性を守らなかったところにある。」<ガンジー『ガンジー自伝』 中公文庫 p.406-408>
 ガンディー

Mohandas Karamchand Gandhi(1869-1948)
チャルカで糸を紡ぐガンディー(『南アジア史』山川出版社刊世界各国史7 p.387)
1869〜1948.インド独立の父、マハートマ(偉大な魂の意味)といわれる。インド西部のカチャワル半島の商業カーストに生まれ、1888年18歳でイギリスに留学、弁護士資格をとる。はじめ南アフリカに渡り、インド人への差別と戦い、そのなかからサティヤーグラハという理念と、非暴力・不服従という独特の運動手段を作り上げた。1915年、インドに帰り、国民会議派に加わり、アーメダバードにサティヤーグラハの道場をつくって活動を開始、各地をめぐって労働者の争議や農民の反税闘争を指導してインド民衆の心をつかんでいった。ガンディーは熱心なヒンドゥー教徒であったが、その真摯な姿はイスラーム教徒を引きつけ、またカースト外の不可触賎民を神の子(ハリジャン)と呼んでその解放を訴えた。第1次世界大戦でははじめイギリスに協力し、戦後の自治承認を期待したが、それは実現せず、かえってローラット法が制定されると、反英独立の運動に転化させた。彼のサティヤーグラハ運動は、抗議の意を表すために仕事を放棄し、断食と祈りによってイギリスへの抵抗を呼びかけ、それは大きな運動となってイギリスを追いつめた。しかし、ガンディー自身が逮捕され、民衆は次第に暴力に訴えるようになり、それをイギリス側も暴力でおさえるという事態が生じ、ガンディーの理想の非暴力主義は貫くことが出来ず、1919年3月、パンジャーブ地方でアムリットサール事件が起きる。彼自身も「ヒマラヤの誤算」といってサティヤーグラハの撤回を宣言した。その年の終わりから翌年にかけてイスラーム教徒が始めたヒラーファット運動(オスマン帝国のカリフ制を擁護する運動)に協力して「非協力運動」を提唱し、インド独立運動の中心人物となったが、やがてイスラーム教徒との対立から運動はしばらく停滞する。1930年から再びサティヤーグラハ運動を開始、塩の専売制度の反対して「塩の行進」を行ったり、何度かの英印円卓会議で粘り強く交渉を続けた。第2次世界大戦では戦争協力を求めるイギリスに対して即時独立を主張し、独立を認めないならばイギリスは「インドを立ち去れ(クウィット・インディア)」と迫ったため、また逮捕された。この間、ガンディーは一貫してインド独立のためにヒンドゥーとムスリムの協力が必要であると説いてきたが、少数派であるムスリムは一括した独立によってムスリムの権利が奪われることを警戒し、分離独立を主張するようになった。第2次世界大戦後の1947年、イギリスはついに、インド独立を認めたが、しかしその独立は、ヒンドゥー教のインドと、イスラームのパキスタンへという分離独立であった。ガンディーはあくまでイスラームとの融和を説き、ヒンドゥー教徒の思い上がりを戒めていたが、1948年狂信的なヒンドゥー教徒の青年によって暗殺された。
Epi. ガンディーと手紡ぎ車(チャルカ) ガンディーが粗末な衣装(ドーティ)をまとい、手紡ぎ車の前で糸を紡いでいる写真をよく見かける。これは、国民会議派のスローガン、国産品愛用(スワラージ)を具体化しようとしたガンディーが進めた、カーディ(手織り布地)運動の象徴だった。ガンディーはすでに全く忘れられていた手紡ぎ車で綿布を織る技術を再現しようとして奔走し、そのやり方を学び、自ら紡ぐことでその運動を広めようとしたのだった。<ガンジー『ガンジー自伝』1929 中公文庫>
a 『ヒンド=スワラージ』  
b 非暴力・不服従 ガンディーサティヤーグラハ(真理の把持)の思想にもとづく、イギリス植民地支配に対するインド民衆の抵抗手段。この方法はヒンドゥーとイスラームという宗教の違いを超えてインド人に受け入れられた。
c サティヤーグラハ サティヤーグラハとは、ガンディーがインド独立運動の理念として掲げたことばで、「真理の把持(把握し堅持すること)」の意味であり、非暴力による独立の達成を目ざすことを言う。る。ガンディー自身の言葉によれば「精神の力、愛の力による真理の勝利」ということとなる。「悪」と戦うとき、決して暴力を用いず、自己犠牲と博愛によって勝利しようという、ヒンドゥー教の不殺生(アヒンサー)の教えにつながる思想であり、バガヴァッド=ギーター(グプタ朝時代の叙事詩『マハーバーラタ』の一部をなす聖詩)からガンディーがまなんだことである。かれはこの理念をイギリスの植民地支配との戦いにもあてはめ、「非暴力・不服従」による抵抗を民衆に呼び掛け、大きな共感を得た。また彼はイギリスのインド支配の背景にある近代文明の物質主義にも批判の目を向け、インドに帰ってからは素足に粗衣というスタイルを守り、静かにチャルカーという手紡ぎ機を回す姿がインド独立運動のシンボルとなった。ガンディーが展開したサティヤーグラハ運動(非暴力・不服従運動)は第1次が1919〜22年のヒラーファット運動と連携した非協力運動第2次が1930〜34年の塩の行進の時期の2回行われている。 
資料 サティヤーグラハの起源 ガンディーが南アフリカで弁護士としてインド人の人権擁護活動を行っていた1906年、トランスヴァール政府はインド人をアジア人登録係に登録し、指紋を押捺し、常時登録証を携帯する義務を負わせ、警官は登録証の検査をするために個人の住居に立ち入ることが出来るという法令を制定しようとした。ガンディーらインド人は、この法令に従わないこと、非服従に対して科せられるあらゆる懲罰を甘受することを決議した。ガンディーはその運動をはじめ「受動的抵抗」と名付けたが、英語の名称ではない、インド人の闘争にふさわしい名称をつけることにし、公募することにした。ある人が「よきたてまえを堅持する」意味の「サダグラハ」を提案した。ガンディーいう。「わたしは、それを”サティヤーグラハ”と訂正した。真実(サティヤー)は愛を包含する。そして堅持(アグラハ)は力を生む。したがって、力の同義語として役立つ。こうしてわたしは、インド人の運動を”サティヤーグラハ”、すなわち、真実と愛、あるいは非暴力から生まれる力、と呼び始めた。そして、これとともに”受動的抵抗”という言葉の使用をやめた。」<『ガンジー自伝』 蝋山芳郎訳 中公文庫 p.265-268>
 非協力運動 第1次世界大戦の終結に伴い、オスマン帝国のスルタン政府に対し、連合国はセーブル条約の過酷な要求を突きつけ、一方ギリシア軍がトルコ領に進軍し、オスマン帝国は危機に陥った。その時、インドのイスラーム教徒(ムスリム)の中に、イスラーム世界の最高権威であるカリフを援護すべきであるという運動が起こった。それをヒラーファット運動という。イスラーム教徒はガンディーサティヤーグラハ運動との協力を求め、ガンディーもそれに答えて、イスラーム教徒とヒンドゥー教徒が協力してイギリスに対する非協力運動を始めることを提起した。国民会議派も1919年末、春に惨劇のあったアムリットサールで大会を開き、非協力闘争を決定した。こうしてガンディーの指導のもと、宗教の壁を越えて1920年に「非協力運動」という反英闘争が盛り上がった。
 ヒラーファット運動 オスマン帝国(トルコ)のカリフ及びカリフ制を守るべきであるという、インドのムスリム(イスラーム教徒)の運動。キラーファット、カリフ擁護運動ともいう。ヒラーファットとはカリフの地位を意味する。オスマン帝国では政治上の権力者であるスルタンがイスラーム教(スンナ派)の最高指導者であるカリフ(ムハンマドの後継者とされる)を兼ねるスルタン=カリフ制がとられていたが、第1次世界大戦で敗戦国となるとセーブル条約で広大な領土を失い、また国内にも近代化を目指す改革運動が強まり、カリフの地位は危機に陥った。インドのムスリムは、カリフの地位を脅かしているのはイギリスであると捉え、1919年から、カリフ制擁護をかかげて反英闘争を開始した。このヒラーファット運動に、ヒンドゥー教徒であるガンディーの率いる国民会議派が同じ反英の立場で協力し、非協力運動を展開、1920年代初めのインド独立運動の一つのテコとなった。しかし、カリフ擁護の運動は、ムスタファ=ケマルによるトルコ革命が進行し、1922年にスルタン制が廃止されてオスマン帝国が滅亡し、さらに1924年にはカリフ制度も廃止となると意味を無くし、消滅した。
b 全インド=ムスリム連盟  → 全インド=ムスリム連盟
c ヒンドゥー対イスラーム(コミュナリズムの対立)宗教集団が、自己の集団の優位を主張して、他の集団を排除する思想をコミュナリズムといい、特に近代インドにおけるヒンドゥー教とイスラーム教の対立の問題がその例に挙げられる。
13世紀にイスラーム王朝のデリー=スルタン王朝が北インドに成立してから、インドにおけるヒンドゥーとイスラームの混交が始まった。ムガル帝国では支配者がイスラーム教徒(ムスリム)で、被支配者がヒンドゥー教徒という関係であり、ヒンドゥー勢力は次第に圧迫されてきた。アクバル帝はヒンドゥー教徒とのジズヤを廃止するなどの融和を図ることによってムガル帝国の繁栄をもたらした。アウラングゼーブ帝はイスラーム教の立場を強めたが、概してムガル帝国のもとで両宗教は融和していたと言える。その対立が明確に出てきたのは、イギリス植民地支配が「分割統治」策をとったこと関係が強い。イギリス統治時代は、ヒンドゥー教徒が植民地官庁の下僚などに登用されたので社会的に上昇し、イスラーム教徒は非協力的だったので高い地位に就くことはなく、貧困層を形成した。またイギリスの肝いりでインド国民議会がヒンドゥー主体に形成されると、それと対抗する形で全インド=イスラム連盟が結成された。ヒンドゥー教徒のガンディーは両宗派の協力を呼びかけ、ヒラーファット運動を通じて友好な関係ができたが、次第に社会的立場の違い、地域的対立などが表面化して、1922年以降は協力関係が崩れ、それぞれ他宗派を批判、攻撃する事態となった。このような、宗教集団が、自己の集団の優位を主張して、他の集団を排除する思想を、コミュナリズムといい、近代インドの大きな問題となった。ヒンドゥー教徒の中にも、カースト間の対立、あるいは不可触賎民を排除しようと言うコミュナリズムも存在した。イギリスは終始この対立を利用しようとした。その結果、1947年に独立を迎えたインドは、ヒンドゥー教徒主体のインドと、イスラーム教徒主体のパキスタンに分離することとなった。
Epi. ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒 決定的な違いは、ヒンドゥー教が多神教、イスラーム教が一神教である。その他、ヒンドゥー教では牛を神聖視して食べず、肉食は不浄として嫌う。イスラーム教では豚は不浄の動物と『コーラン』に書いてあるので食べることは許されない。他の生き物の、血を抜いたものでないと食べてはいけない。酒は両宗教とも禁止されている。死者にたいしては、ヒンドゥー教では火葬にしてガンジス川に遺骨を流すのが理想とされる。イスラーム教では火葬は許されず、土葬でなければならないとされている。このように日常生活で違いのある両宗教が共存している地域では、ヒンドゥー教徒がイスラーム教徒を「ブタ!」と罵ったことから大紛争が起こったりする。
 インド共産党  
 自治要求の激化  
a 憲法改革調査委員会 イギリスがインド独立問題の調査にあたるために設けた委員会で、委員長の名前をとってサイモン委員会、あるいは法定委員会とも言われる。1927年11月に設置されたが、委員が全員イギリス人で、インド人が含まれていなかったので、インドで反発が強く起こった。1928年2月にサイモン委員会がボンベイに上陸したが、インドをあげて反対運動が起き、委員会は各地で「サイモン帰れ!」という声に迎えられ、警察官がデモ隊をムチをふるって弾圧した。ここから1930年代の第2次の非暴力・不服従運動が盛り上がっていく。
b ネルー

Jawaharlal Nehru (1889-1964)
1889〜1964.父のパンディト=モーティラール=ネルーも国民会議派の独立運動家でガンディーの協力者。その子がジャワハルラル=ネルーで、ケンブリッジ大学に留学後、父と同じく国民会議派に加わりガンディーの運動を支えた。ロンドンで社会主義の影響も受け、国民会議派内では左派のリーダーとなった。1929年のラホールでの国民会議派大会では議長を務め、第2次非暴力・不服従運動を指導した。インドが独立を達成すると初代の首相となり、戦後は中国の周恩来、インドネシアのスカルノらと並んで第3勢力と言われるアジア=アフリカ諸国の指導者として国際政治にも大きな貢献をした。 → ネルー(戦後)
Epi. 獄中から娘に書き送った『世界歴史』 ネルーは、1930年11月から33年8月までの3年間、イギリスによって監獄に入れられていた。その間の「余暇と隔離」を生かして、彼は一人娘(後のインド首相インディラ=ガンディー)への手紙で世界の歴史を書き送った。現在それは『父が子に語る世界歴史』全6冊として読むことができる。<ネルー、大山聡訳『父が子に語る世界歴史』1〜6 みすず書房>
c ラホール(国民会議派大会)1929年末、インド国民会議派の大会がラホールで開催され、ネルーが議長となって、運動方針として「完全独立」(プールナ=スワラージ)を目標とすることを定め、イギリスとの円卓会議への不参加、翌年の1月26日を「独立の日」として「独立の誓い」を行った。
d 完全独立(プールナ=スワラージ) 1929年、インドのパンジャーブ地方の中心都市ラホールで開かれた国民会議派大会で掲げられた運動方針。完全独立の他、イギリスが提案していた円卓会議への不参加を決定した。
 不服従運動 1929年のインド国民会議派のラホール大会で「完全独立(プールナ=スワラージ)」を掲げ、「これ以上服従することは人と神とに対する罪悪である」と主張し、非協力運動を非暴力不服従運動で進めた。
b 塩の行進 1930年代に再び盛り上がったインド独立運動(第2次非暴力・不服従運動)を指導したガンディーが、独立をインド民衆に訴えるための行動。当時塩は専売制がしかれていたので、自由に作ることはできなかったが、ガンディーは敢えてその法律を破り、海水から塩を作る作業を行うため、各地の海岸を訪れた。ガンディーの一行が進んでいくと、至るところで大群衆が集まった。このガンディーの運動は「塩の行進」とか「塩のサティヤーグラハ」と呼ばれ、塩の製造とともに外国商品のボイコット、植民地法への不服従、ストライキが始まった。
c 英印円卓会議 イギリスがインドの独立運動(第2次非暴力・不服従運動)の高揚に対し、自治に関する話し合い提唱したもの。ねらいは国民会議派のガンディーなどを抱き込み、懐柔するところにあったが、成功しなかった。ロンドンにインド代表(ガンディーら)を招いて、第1回は1930年11月〜31年1月、第2回は31年9月〜12月ガンディーが出席、第3回は32年11〜12月に行われた。イギリスはマクドナルド挙国連立内閣で、インド独立を巧妙に抑えようとしたが失敗したが、一応の成果として1935年に新インド統治法が成立した。
Epi. ガンディーに対するチャーチルの感情 英印円卓会議が開催されることになったが、イギリス保守党の政治家、チャーチルが、「ガンディー氏が……(イギリス国王の)代表と対等の資格で話し合うために、副王宮の階段を素足で上がっていく……と考えると吐き気を催す」と述べているように、インドに対する蔑視はぬきがたいものがあった。 
 新インド統治法 1935年、イギリスが英印円卓会議の結論として作り上げた、新しいインド統治法。1935年憲法ともいう。その主な内容は、1)藩王国も含めた連邦制の採用、2)各州の責任自治の導入など、インドの自治を原則的に与えることを認めたが、実際には様々な保留事項を設けて、自治は見せかけのものにすぎなかった。
b ジンナー  
オ.東南アジアでの独立運動の展開
 インドネシア  → インドネシア
a オランダ  → オランダのインドネシア支配
b インドネシア共産党 1920年に結成されたアジア最初の共産党。1920年代にはイスラーム同盟(サレカット=イスラーム)にかわってインドシナ民族主義運動の中心勢力となったが、26年に武装蜂起に失敗して一時衰える。第2次世界大戦後再建され、1950年代には大衆路線をとって党勢を拡大し、スカルノナサコム体制を支えた。このころは党員360万を数え、社会主義国以外では世界最大の共産党となった。しかしスカルノ体制を支えるもう一つの勢力である軍部との対立が次第に深刻となり、1965年の九月三〇日事件という軍部クーデターで政権から排除され、多数の党員が殺害されて解体された。翌66年には非合法とされた。共産党非合法の根拠は、インドネシア共和国憲法に掲げられた建国五原則(パンチャシラ)の第一項、唯一神への信仰を国是とすることであった。
Epi. 「インドネシアの紅はこべ」タン=マラカ 初期のインドネシア共産党の指導者にタン=マラカがいる。彼は西スマトラのイスラーム教徒の家に生まれ、オランダ留学中にロシア革命の影響を受けてマルクス主義者となった。帰国後、第二代のインドネシア共産党議長となり、イスラーム同盟との連帯を進めたが22年に国外追放となる。20年にわたる国外追放の間に、コミンテルンの工作員として活動、武装蜂起失敗後は国際共産主義運動とは一線を画して独自の運動を進めた。その活動は国内で出版された政治小説『インドネシアの紅はこべ』のモデルとされ、変幻自在の妖術を使って帝国主義とスターリニズムと戦うヒーローとなった。42年に帰国後も独立運動のシンボルとされ大きな影響力を持ったが、49年に殺害された。彼はイスラームを反帝国主義勢力として評価し、また東南アジアを一つの単位とした「社会主義世界連邦」を構想するなど遠大なものがある。<『インドネシアの事典』同朋舎 p.77,271>
c スカルノ(1)
1901〜70.インドネシアの独立運動家、政治家で初代大統領(在任1945〜1967)。ジャワ島スラバヤに生まれ、バンドンで建築を学んだ後、民族運動に投じた。インドネシア共産党の武装蜂起が失敗した後、1927年インドネシア国民党(厳密には27年にインドネシア国民連盟と称し、翌28年に国民党を称する)を結成、その党首となり、大同団結と植民地政府への非協力を主張して新たな民族主義運動のリーダーとなった。弾圧によって29年に逮捕され、さ党は31年に解散。33年から42年は流刑となる苦難の時期を過ごした。1942年、日本軍がインドネシアに侵攻すると釈放され、日本の協力による独立を模索した。1945年日本軍の敗北後の8月17日、インドネシア共和国独立宣言を発表し翌日には、初代大統領に選出された、オランダが再び植民地支配に乗りだしたため、47年から独立戦争を戦い、国連の調停(ハーグ協定)によって成立したインドネシア連邦共和国で改めて初代大統領となった。1950年に単独のインドネシア共和国となる。 → 独立後のスカルノ(2)
d インドネシア国民党 1927年にスカルノなどが結成した、インドネシアの民族独立を目ざす政党。指導者の多くはオランダ留学から帰った知識人であったが、スカルノには留学経験はなかった。インドネシア共産党の民族運動が、武装蜂起に失敗した後、インドネシア国民党は植民地政府に対する非協力を呼びかけ、統一と団結を訴えた。その「独立(ムルデカ)」という合い言葉は各地に広まり、人々の支持を受けたが、29年末にスカルノらが逮捕され、31年に一旦解散した。戦後の46年に再建され、55年の選挙では4大政党の一つに躍進した。しかし66年以降の軍部の台頭と、スハルト独裁体制を支える政府与党ゴルカルに押されて衰退し、73年には他の民族主義政党と共にインドネシア民主党に統合された。<『インドネシアの事典』同朋舎 p.81>
 インドシナ  
a フランス  
b ホー=チ=ミン

 Ho Chi Minh 1890?-1969
1890〜1969.ベトナム独立運動の指導者。1960年代のベトナム戦争の時の北ベトナムの指導者。1911年、船乗りとしてヨーロッパに渡り、1919年のヴェルサイユ講和会議が開催されると、ベトナムの自由を訴えた。パリでマルクス主義のグループに加わり、グエン=アイ=クォック(阮愛国)の名でフランス共産党の創立大会(1920年)に参加。モスクワからコミンテルンの支持によって広東に渡り、1925年広東でベトナム青年革命同志会を組織。フランスからの独立を目指す。1930年には中国でのベトナム共産党(間もなくインドシナ共産党と改名。現在はベトナム労働党)の結成にかかわる。日本軍がベトナムに進駐した1941年に、30年ぶりにベトナムに戻り、ベトナム独立同盟(べトミン)を結成、日本の敗北とともに45年ベトナムの八月革命を成功させて社会主義政権を樹立、ベトナム民主共和国の大統領となった。翌年、フランスがベトナム支配の回復をねらってバオダイを主席とする臨時政府(ベトナム共和国)を作るとそれに反発し、フランスとのインドシナ戦争に突入、54年フランス軍の拠点ディエンビエンフーを陥落させ勝利した。さらに1960年からはアメリカに支援された南ベトナムとのベトナム戦争に突入した。1975年のサイゴン陥落によるベトナム戦争の終結を待たず、69年に死去した。南ベトナムの首都サイゴンは南北統一後、彼の名前を冠して、ホーチミン市と改称された。
Epi. ホーおじさん ホー=チ=ミンは1890年5月19日に生まれたといが正確にはわからない。また30年間も海外で革命運動に従事して「放浪の革命家」と呼ばれ、その間、パリ、モスクワ、広東でいくつかの偽名を名乗っていた。本名はグエン=シン=クンといい、もっとも好んで使った偽名がグエン=アイ=クォック(阮愛国)だった。ホー=チ=ミンと言う名は、1942年に中国に潜入したときに使ったもの(中国名は胡志明)である。彼はフランスや中国で獄中生活を送り、何度か死亡説が流れるなど、ベトナム本国での活動歴は少なかったが、45年9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言の時、始めて国民の前に姿を現し、その熱弁と親しみやすいあごひげを生やした風貌から「ホーおじさん」(ベトナム語では「バック・ホ」)と慕われるようになり、インドシナ戦争、ベトナム戦争を通じてベトナム人のリーダーを務めた革命家であった。<チャールズ・フェン『ホー・チ・ミン伝』上下 岩波新書 1973、小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史』中公新書 1997 などによる>
c インドシナ共産党 1930年2月、中国で活動していたホー=チ=ミンを中心に結成されたベトナム共産党が、10月にインドシナ共産党と改称し、カンボジア、ラオスも含むインドシナ半島三国の共産党勢力を統合した。1941年にフランスからの独立をめざして結成された民族統一戦線ベトナム独立同盟の中核となる。フランスに代わった日本が撤退した後、ベトナム民主共和国の独立を達成。以後、フランスとのインドシナ戦争を戦う。1951年、ベトナム、カンボジア、ラオスの共産党に分離。ベトナム人はベトナム労働党となり、インドシナ戦争、ベトナム戦争を指導。ベトナム戦争後の1976年にベトナム共産党と改称、現在もベトナム社会主義共和国の唯一の正当である。
 ビルマ(独立)イギリスの植民地支配を受けていたビルマでは1930年に、反イギリス組織「我らビルマ人協会」(タキン党)が結成された。1935年、イギリスは新インド統治法を制定、ビルマはインドと分離され、その直轄植民地とされた。タキン党の指導者アウンサンらのもとで1838年から反英独立闘争を展開し、おりから援pルートであるビルマルートの攪乱を狙う日本軍(南機関)がビルマ独立闘争を支援、その援助で1941年にタイのバンコクでアウンサン、ネウィンらがビルマ独立義勇軍(BIA)を創設した。42年、日本軍はビルマに侵攻し、軍政をしくと独立義勇軍のアウンサン将軍は表面は日本軍に協力しながら地下活動の共産党などと連絡を取り、密かに抗日運動を指導した。43年、日本の東条内閣は大東亜共栄圏の一国としてビルマの独立を認めたが、国家主権のない名目上の独立に反発、独立義勇軍も参加して反ファシスト人民自由連合(AFPFL、アウンサン総裁)を結成、45年3月から抗日武装闘争を開始した。日本軍敗退後は再びイギリスと戦い、47年アウンサンとイギリスのアトリー内閣の間で独立協定に調印、国内の諸勢力の統合を進め、48年イギリス連邦に加わらない形でビルマ連邦として独立を達成した。 → ビルマ(軍事政権)
a イギリス   
b タキン党1930年、ビルマで結成された、反英組織「我らビルマ人(ドバマ)協会」のこと。「ビルマの主人(タキン)はビルマ人である」ことを掲げたので、タキン党と言われた。この運動は、青年知識人を中心としたビルマ独立運動を展開し、その指導者のひとりがタキン=アウンサンであった。
アウンサン ビルマの「我らビルマ人協会」(タキン党)のリーダー、はじめラングーン大学の学生連盟書記長として学生運動を指導した。1838年から反英独立闘争を展開し、日本軍の援助で1941年にタイのバンコクでビルマ独立義勇軍(BIA)を創設した。42年、日本軍とともにビルマに進軍し、日本軍政下で表面は協力しながら地下活動の共産党などと連絡を取り、密かに抗日運動を準備した。43年、独立義勇軍も参加して反ファシスト人民自由連合(AFPFL、アウンサン総裁)を結成、45年3月から反日闘争を開始した。日本軍敗退後は再びイギリスと戦い、47年イギリス首相アトリーの間で独立協定に調印した。独立宣言(48年)の直前、47年7月に政敵によって暗殺された。ビルマ独立の父とされ、まあ国軍の創設者でもある救国の英雄でアウンサン将軍と称される。その娘がアウンサンスーチー女史である。
Epi. 「ビルマ独立の父」アウンサンと日本 タキン党の指導者アウンサン(オンサンとも表記)は同志のラミヤンとともにイギリス官憲の追求を逃れてアモイに逃れた。そこで日本軍の憲兵と接触、1940(昭和15)年日本に行き、東京で参謀本部の鈴木敬司大佐と会い、二人は面田紋二と糸田貞二という日本名でしばらく浜松などに潜伏した。鈴木大佐は二人を利用してビルマで反英闘争を起こさせようと考え、参謀本部に提案し、南機関という諜報機関をバンコクに開設した。こうして鈴木大佐とアウンサンらの協力で結成されたのがビルマ独立義勇軍であった。<泉谷達郎『ビルマ独立秘史』1967 徳間文庫> 
 フィリピン(アメリカ統治下)1898年に米西戦争の講和条約でフィリピンの主権を獲得したアメリカは、始め軍政を敷き、ついでフィリピン=アメリカ戦争の終結後、マッキンリー大統領はタフト(後の大統領)を総督に任命、民政に移管し「友愛的同化」をはかりながら、依然続く独立運動のゲリラを厳しく弾圧した。1907年にはフィリピン議会の開設、自治を認めたが独立は認めなかった。フィリピン国内にもアメリカへの併合を求める動き(連邦党はフィリピンをアメリカの州にすることを主張)もあったが、アメリカと協調を図りながら独立を実現するというケソンなどの運動が実り、1934年にフィリピン独立法がアメリカ議会で成立し、10年後の1946年7月に独立することを約束させた。翌1935年には自治領となり、「フィリピン独立準備政府」が発足した。アメリカがフィリピンの将来の独立を認めたのは、フィリピン産の安価な製品が本土にもたらされ、アメリカ国内産業を圧迫したため、産業界からフィリピンを分離してその産品に課税すべきでるという要求が出されたからであった。
 → フィリピンの独立 戦後のフィリピン
Epi. フィリピンの英語 フィリピンにはタガログ語など、現地の言葉があったが、スペイン統治下ではスペイン語が公用語とされてきた。1898年、フィリピンを統治することとなったアメリカはすべての教育を英語で行わせた。小学校の教室にはワシントンの肖像がかけられた。それでも公共の場での演説はスペイン語で行われていたが、1919年に下院で初めて英語で演説する議員が現れた。マニラ市議会は22年に議会用語に英語を採用し、その後25年までには裁判や官公庁の採用試験もすべて英語で行われるようになった。この英語の強要は「アメリカの文化帝国主義」として国内でも反対する声もあった。現在もフィリピンは「英語国」であるが、教育では「二言語教育」が小学校から行われ、フィリピン語を教育用言語として国語、社会、図工、体育などを教え、英語は英語、数学、理科などで使われている。これは教育現場に大混乱をもたらしており、学力低下や不登校の原因になっているという。<鈴木静夫『物語フィリピンの歴史』1997 中公新書 p.162,p.186>
 フィリピン独立法 1934年、アメリカ合衆国のF=ローズヴェルト大統領の時、アメリカ議会で成立した、10年後にフィリピンの独立を認めた法律。提案者の名前から、タイディングス=マクダフィー法ともいう。同法はフィリピン議会でも承認され、これによってフィリピンは1946年7月4日に独立することが決まった。アメリカ合衆国の統治下にあったフィリピンでは、独立を要求する運動が続いていたが、1930年代にアメリカ国内でもフィリピン分離論がおこってきた。その理由は、フィリピンからの安価な砂糖とタバコの輸入がそれぞれ国内産業を圧迫していたこと、低賃金のフィリピン人労働者の流入を労働界が恐れたことなどがあった。フィリピン内部でも米軍基地の存続を認めるかどうかで意見が対立し、何度かの法案の否決を経て1934年に成立した。時のF=ローズヴェルト大統領のカリブ海での善隣外交、あるいはソ連の承認などの流れの中で実現した。この独立法によって、翌年自治政府であるフィリピン独立準備政府が発足し、41年からの日本軍の支配の後、1946年にフィリピン共和国が成立した。<鈴木静夫『物語フィリピンの歴史』1997 中公新書 p.159-160 などによる>
アメリカのフィリピン独立約束:「米国は、フィリピンを領有後、植民地と本国内における砂糖産業の競合のゆえに、早くから独立付与を考えている。だが、ミンダナオだけは”未開の野蛮人”の土地で、資本にとっての別天地だった。だから、ミンダナオを米国の恒久的なプランテーションの土地にして、かつて一九〇〇年代にイタリアからの移民をアラスカに導入したように、黒人をここへ植民しようなどという議論が一九二〇年代の米国議会で行われている。このようなミンダナオ特殊視は今日までつづいている。」・・・「日本もフィリピンも同じマッカーサー将軍とともに戦後を歩み始めた。だが占領軍は、日本では農地改革を行ったのに、フィリピンでは大地主を保護し、戦災保証金などを与えている。日本でも台湾でも米国の指導で農地改革が行われたのに、フィリピンでは行われなかった。それは、なぜか。戦前から米国資本がフィリピン地主層と結んでいたから、農地改革をしたくてもできなかったのである・・・。もっとも、地主に対する農民の不満が共産主義革命にゆきつくことを恐れていた(引用者注・中国の共産革命がそうだった)米国政府は、何度も農地改革案をつきつけたが、地主層の支配するフィリピン議会でいずれもつぶされている。・・・」<鶴見良行『バナナと日本人』1982 岩波新書 p.18>
b フィリピン独立準備政府 1934年にアメリカ議会がフィリピンの10年後の独立を認めたフィリピン独立法によって、翌1935年に発足させたフィリピンの自治政府。10年後の1946年の独立の準備にあたった。アメリカの主権下にあったが、国民投票で憲法を制定し、普通選挙で大統領を選出、議会も発足した。自治領初代大統領がケソン。しかし、1941年末、日本軍の侵攻によって独立準備政府はアメリカに亡命。44年のアメリカ軍のフィリピン帰還とともに戻り、46年にフィリピン共和国として正式に独立した。
 タイ(3)戦前のタイタイ(2)(シャム、ラタナコーシン朝)は第1次世界大戦では戦勝国に加わり、国際的地位が上がったが、一方国内では国王による絶対主義の政治を立憲政治に改めるべきであるという知識人や軍部の一部に現れてきた。1932年、フランス留学から帰った軍人のピブンや官僚のプリーディーらが、人民党を結成し立憲革命を実行、国王ラーマ7世もそれを受け入れ、タイは立憲国家となった。ピブン政権は近代的主権国家の樹立を目ざし、またタイ人の国家である自覚をたかめるため、1939年に国号をシャムからタイに変更した。 → タイ(1)の王朝の変遷 → タイ(と第2次世界大戦) → タイ(4)現在のタイ国
Epi. 国号変更のねらい 1939年6月24日に立憲革命記念日に際し、ピブン首相は総理府布告をもって、それまで用いられていた国名を「シャム」Siam から「タイ」Thailand に改めた。タイ人はタイ語の thai が「奴隷」に対して「自由」を意味すると主張しているが、語源的には語頭に無気音をもつもう一つの民族名 tai に近い。知識人の中にはこの変更は国境外にいる「タイ族」をも勢力に含めようというピブンの覇権主義にほかならないとして、タイを使用するのを拒否する少数派もいる。<『タイの事典』同朋舎 p.191 石井米雄>
※そういえば、タイ映画『少年義勇兵』には、少年兵を前に指揮官がタイに変更した意義を演説する場面がありました。この映画は、ピブン時代のタイで組織された少年義勇兵が日本軍と戦うという映画です。 
 タイ立憲革命 1932年6月に起こったタイでの立憲政治を実現させた革命。国王ラーマ7世が憲法制定に合意し無血で成功した。
タイ(シャム)における立憲君主制への移行は、ラタナコーシン朝のラーマ5世の時、一部官僚の意見書として提出された(1885年)が、王は立憲政治を否定し絶対王政を強められた。その後も立憲政治の実現を目ざす動きはあったが、抑えられてきた。しかし、20世紀に入りタイは植民地化の危機は脱したものの、絶対王政では激変する世界に対応しきれないことは明らかになっていた。とくに1929年の世界恐慌はタイにも深刻な影響を与え、政治・経済などあらゆる面での合理的システムの構築が必要になってきた。そのような世界の情勢を素直にタイに持ち込んだのが、よー路派に留学した若い知識人層であった。官僚のプリーディーと軍人のピブンらは1927年に留学中のパリで人民党を結成し、帰国後の1932年6月24日にクーデターを決行、王族の一人を人質に、国王ラーマ7世に立憲政体の実現を迫った。かねてから立憲体制への移行が不可避であると考えていたラーマ7世は保守派の反対を抑えて、要求を入れ、ここにタイ立憲革命は無血で成功し、27日にはプリーディが起草した憲法に国王が署名した。
 ピブン タイの軍人、政治家で1932年のタイ立憲革命を成功させた。その後、戦前の1938年から1945年までと、戦後の1948年〜1957年までの2度にわたり、首相を務めた。その名ピブンは省略形で正しくはピブンソンクラーム。戦前期のピブン:戦前においては国王が若かったこともあって、強大な権力を持ち、1939年にはそれまでの国号シャムをタイに改めた。これはインドネシアのタイ族を含む大国家の建設をねらう面がったと言われている。1940年には、フランスが本国でドイツに敗れたことを受けて、インドシナでフランスに割譲した領地を奪回しようとカンボジアに侵攻し、日本の調停を受け、その一部を奪回した(戦後にフランスに返還)。日本軍がフランス領インドシナに進駐してくると中立を声明した。しかし1941年12月、太平洋戦争が始まると日本軍がタイに上陸、若干の交戦の後講和に応じ、日本軍の南方作戦に協力することとなった。1943年7月の日本の東条首相とのバンコク会談では、日本のビルマ侵攻に協力するかわりに、ビルマの一部とマレー半島の一部をタイ領に編入するという共同声明を発表した。ただ、同年11月の東京で開催された大東亜会議にはピブン自身は出席せず、代理を参加させた。日本が敗北するとピブンは対日協力者として捕らえられたが戦犯には問われなかった。  → タイ(と第2次世界大戦)
戦後のピブン:1947年軍部を背景にクーデターを決行して48年に政権に復帰した。外交面では親米反共路線をとり、アメリカ・日本からの援助による経済の安定をはかるとともに、政党活動を自由にして、西欧型の議会制政党政治を定着させようとした。しかし、政党活動が活発になるとピブン自身が選挙に勝つため金銭選挙に走り、政党も乱立して政情が不安定になった。このような未熟な政党政治が混乱に陥ると、共産主義勢力の侵出を恐れた軍部は、1957年にサリット将軍を中心にクーデターを決行し、ピブン政権は倒れ、ピブンははじめアメリカへ、後には日本に亡命した。
Epi. 日本で死んだピブン首相 ピブーン首相は、クーデタ後、太平洋戦争時代のタイ駐屯軍司令官であった中村明人中将などを頼って日本に亡命し、そのまま1964年に、神奈川県でその生涯を閉じている。<末廣昭『タイ 開発と民主主義』1993 岩波新書 p.22>
カ.トルコ革命とイスラーム諸国の動向
 トルコ革命 第1次世界大戦の敗北とギリシアの侵入 1918年10月、スルタンのメフメト6世は連合軍に降伏、イスタンブルはイギリス、フランス、イタリア、ギリシアの連合軍に占領され、エンヴェル=パシャなども国外に逃亡し青年トルコ政権も崩壊した。一方、シリアのアレッポでは、ムスタファ=ケマルの率いるオスマン帝国軍は降伏を拒否して抵抗を続けた。翌1919年5月、ギリシア軍はイギリスのロイド=ジョージ首相の支持を受けて、突然アナトリア西部のイズミル地方に侵入し、ギリシア=トルコ戦争が勃発、ムスタファ=ケマルはトルコ国民軍を組織してゲリラ戦で抵抗し、20年にはアンカラにトルコ大国民会議を招集した。
トルコ共和国の成立  スルタン政府は連合国に強要されたセーヴル条約を承認し、オスマン帝国は領土の大半を失うこととなった。しかしムスタファ=ケマルのトルコ国民軍は1921年8月のサカリャ川の戦いでギリシア軍を破って形勢を逆転させ、またフランスやソヴィエト政権の支援を受けて1922年、ローザンヌ講和会議で新たな講和条約の交渉に入った。この間、国民会議は満場一致で帝政廃止を可決、メフメト6世はイギリス軍艦でマルタ島に亡命し、オスマン帝国は滅亡した。1923年7月、ローザンヌ条約、アナトリアの領土と独立を回復し、アンカラの大国民会議はトルコ共和国を宣言し、ムスタファ=ケマルを初代大統領に選出した。ムスタファ=ケマルは次々と内政改革を実行し、トルコ革命が進展することとなった。
トルコ革命の進展 
a ギリシア=トルコ戦争 オスマン帝国から1830年に独立したギリシアは、またオスマン支配地に残るギリシア人を統合して大ギリシアを建設するという願望を持ち、第1次大戦の終結後、敗戦国のトルコの混乱に乗じて(一方でイタリアが小アジア進出を狙っていたこともあって)1919年5月、小アジアのスミルナ(現在のイズミル)に侵攻した。こうしてギリシア=トルコ戦争が始まり、イスタンブルのスルタン政府はなすすべがなく、ギリシア軍は進撃してアンカラに迫った。アンカラではムスタファ=ケマルが新政権を樹立して態勢を整え、反撃に移り、21年にサカリャ川の戦いでギリシア軍を破り、さらに追撃して22年にはイズミルを奪回、ギリシア軍を撤退させた。この戦いは、トルコ共和国にとってはまさに独立のための戦いでありそれを勝利に導いたケマルの名声が一挙に高まることとなった。
b ムスタファ=ケマル 1881〜1938.トルコ共和国の初代大統領。ムスタファ=ケマルは本名で、ケマル=パシャ(パシャとは、文武の高官に与えられる称号)とも言われ、後にアタチュルク(「トルコ人の父」の意味)の姓を贈られた。1905年、日露戦争での日本の勝利などに刺激されて、オスマン帝国の改革運動である青年トルコ革命に参加した。しかしその中心人物エンヴェル=パシャとは生涯友好的ではなかった。軍人として活躍を続け、トリポリでのイタリア=トルコ戦争、数度にわたるバルカン戦争に従軍した。第1次大戦ではガリポリの戦いでイギリス・オーストラリア軍の上陸を阻止し、名声を上げる。敗戦後、オスマン帝国政府が連合国との間に領土分割その他の屈辱的なセーブル条約を結ぶと国民的な抵抗運動が起こると、ケマルはその指導者となり、1919年5月にイズミル(スミルナ)侵攻を企てたギリシア軍と戦った(1919〜22年、ギリシア=トルコ戦争)。1920年トルコ国民党を率いてアンカラにトルコ大国民議会を召集、イスタンブルのスルタン政府と絶縁して新政権を樹立した。1921年8月、サカリャ川の戦いでギリシア軍を大破し、国民軍最高司令官としてガージーの称号を得る。ギリシアとの講和後、1922年にスルタン制を廃止し、連合国とは改めてローザンヌ条約を締結して領土を確定し、独立と治外法権を認めさせた。1923年トルコ共和国の成立を宣言し、共和人民党(トルコ国民党)を率いて初代大統領に選出された。翌年憲法を発布し、カリフ制を廃止して政教分離を実現、トルコの世俗主義化につとめた。ケマル=パシャによる一連の改革をトルコ革命といい、これによってトルコは近代国家として自立し、1934年、アタチュルク(トルコ人の父)の姓を贈られた。
Epi. ガリポリの戦いでのケマルの指揮 このときケマルは兵士に対し、「自分は諸君に対し攻撃は命じぬ。死を命じる!」といって兵士を鼓舞したという。<ホサム『トルコ人』みすず書房 p.35>
c トルコ大国民会議  
d セーヴル条約  → 第15章 2節 セーヴル条約
e スルタン制廃止オスマン帝国のスルタン政治は1908年の青年トルコ革命で実権を失い、形骸的なものになっていたが、なおも形式的にはスルタン(政治権力者)はカリフ(宗教上の指導者)を兼ねるというスルタン=カリフ制が維持されていた。第2次世界大戦で青年トルコ政権が倒れると、スルタンは国家主権者として連合国とのセーヴル条約の交渉当事者とされ、結局、屈辱的な条約に調印した。このようなオスマン帝国のスルタンの危機は、同時にイスラーム世界の宗教的指導者としてのカリフの危機であったので、イスラーム教徒の間にその擁護の運動が起こった。特にインドでは、反英闘争と結びついてカリフ擁護運動としてヒラーファット運動が起こり、ガンディーがそれを強く押し進めた(彼自身はヒンドゥー教徒であったが)。しかし、1922年にムスタファ=ケマルの指導するトルコ大国民会議は、スルタン制の廃止を決議し、最後のスルタン、メフメト6世はマルタ島に亡命し、スルタン制度は終わりを告げた。そのためヒラーファット運動は意味を失った。なお、カリフの地位はイスラーム教徒の気持を抑えるためなおも存続したが、それもトルコ共和国の世俗化政策のなかで、1924年にカリフ制も廃止され、最後のカリフ、アブデュル=メジト2世は国外追放となった。
補足 最後のスルタン、メフメト6世 第1次世界大戦での敗戦が続いたオスマン帝国スルタンのメフメト6世は、1918年10月、連合国に対して降伏、イギリス、フランス、イタリア、ギリシアの連合国はイスタンブルを占領した。こうしてメフメト6世はその支配下に置かれ傀儡政権化した。1920年8月、連合国側が講和条約としてセーブル条約を押しつけてきたが、それはオスマン帝国の領土をほぼ奪い、軍備の制限、治外法権の維持、財政は英仏伊三国の共同管理下に置くという苛酷なものであった。「メフメト6世は連合国による一身の安全と財政保障を密約条件として、事実上祖国の滅亡を意味するこの条約に調印してしまう」。それに対してムスタファ=ケマルを中心とするアンカラ政府が受諾を拒否した。ムスタファ=ケマルは、当初スルタンへの忠誠を表明していたが、ギリシア軍の侵攻に対してアンカラにトルコ大国民会議を招集して新政府樹立を諸外国に通告すると、メフメト6世はそれを越権行為として激怒し、ケマルらを欠席裁判で死刑を宣告した。しかし、ケマルの指導するトルコ国民軍が善戦し、ギリシア軍の侵攻を撃退して1922年にはローザンヌで新たな講和条約の締結のための会議が開催されることとなった。「この会議の開催通知がメフメト6世にも送られてきたことがトルコ国民を刺激した。連合国はまだスルタンを正式代表と見なし、これと手を組むことによって救国独立戦争の成果を骨抜きにしようとしている! もはやトルコを守るためにはスルタンを打倒するしかない! 国民は初めてスルタン制そのものに対して排撃の声を上げたのである。国民会議は満場一致で帝政廃止を可決したが、メフメト6世が家族とともに英国軍艦でマルタ島へ亡命することを黙認した。」<大島直政『遠くて近い国トルコ』中公新書 1968 p.126-131>
f オスマン帝国滅亡 1922年、トルコ大国民会議において、ムスタファ=ケマルが宣言し、オスマン帝国のスルタン制度は廃止された。最後のスルタン、メフメト6世はマルタに亡命した。これによって1299年にはじまるオスマン帝国は623年で滅亡し、トルコ共和国が成立した。 
g ローザンヌ条約 第1次大戦後、1920年にオスマン帝国(トルコ)のスルタン政府が連合国と結んだセーブル条約に対し、アンカラのケマル=パシャの率いる国民政府が廃棄を宣言。トルコがギリシア=トルコ戦争に勝って改めてスイスのローザンヌで連合国との講和会議が開催され、1923年7月にローザンヌ条約が成立した。ローザンヌ条約ではイズミル(スミルナ)、イスタンブル、東トラキアなどの領土を回復、ボスフォラス=ダーダネルス海峡は国際海峡委員会のもとで各国に開放されたが沿岸部のトルコ主権は承認された。また、陸海軍の軍備制限は撤廃され、スルタン政府がかつて認めた治外法権カピチュレーションも全廃された。さらに、ギリシアとの間には、それぞれの領内の自国民を交換する、住民交換協定が成立し、小アジアのギリシア人はほとんどがギリシア本土に移住した。ただし、トルコ共和国内のクルド人は、セーブル条約では自治が認められていたが、ローザンヌ条約ではその権利について触れられていなかったため、クルド人問題として残り、現在もイラク、アルメニア領内のクルド人も含めて、独立を要求する運動が続いている。
h トルコ共和国 1923年成立、ケマル=パシャを大統領に選出。24年に共和国憲法を制定、主権在民、一院制の議会制度、大統領制などを規定。これによってトルコは近代国家として自立し、世俗主義政策がとられてオスマン帝国時代のイスラーム教による宗教的政治から脱した。しかし政治面では実質的にはケマル=パシャの創設した人民共和党の独裁が続き、安定しなかった。  → 第2次世界大戦とトルコ   現代のトルコ共和国(EU加盟問題)
i トルコ共和国憲法  
j カリフ制廃止 
k 政教分離  
トルコの世俗主義政策 トルコ共和国を建国したムスタファ=ケマル(アタチュルク)の率いる共和人民党は、共和主義・民族主義・人民主義・国有国営主義(エタティズム)・世俗主義・改革主義の「六原則」を綱領に掲げていた。その中でトルコ独自のものが「世俗主義」であり、イスラームの宗教的支配から政治・文化・教育などを解放して西欧化を目指したものであった。トルコを亡国から救ったケマル=パシャの人気は絶大であったが、イスラム信仰を守ろうとする民衆の中にはその点では反発も大きかった。<ホサム『トルコ人』p.39>
トルコ革命で実施された近代化政策は、カリフ制の廃止、トルコ語を国語として制定し、文字はアラビア語を廃止してローマ字をもとに新たに制定(文字革命)、イスラム暦を廃して太陽暦を採用、トルコ帽(フェズ)の廃止、多妾制を禁止し一夫一婦制とする、女性のチャドル(顔を隠すヴェール)を廃止などの婦人解放イスラーム暦を廃して太陽暦を採用するなど多岐にわたる。トルコ革命の政教分離の原則と世俗主義は、その後もトルコ共和国の基本政策として継承されているが、1990年代からトルコでもイスラーム原理主義が台頭し、揺らいできている。 → 現代のトルコ共和国(EU加盟問題)
l 文字改革  
m ローマ字  
n 女性解放  
o アタテュルク 1934年、トルコ議会がケマル=パシャに贈った姓がアタチュルクで、「トルコ人の父」という意味。その死後、アンカラに巨大な廟アニト=カビルが建てられた。
 エジプト  
a ワフド党 エジプト(ムハンマド=アリー朝)には第1次世界大戦の終結とともに、イギリスに対し保護国の解消、完全独立を求める民族主義運動が活発になった。サード=ザグルールを指導者とした民族運動は”代表”(ワフドとは「代表」の意味)を選んで、パリ講和会議に代表団を送った。イギリスは1922年、防衛権を保持した上で名目的な独立を認め、エジプト王国が成立した。1924年にワフド党が内閣を組織し、1936年にはエジプト=イギリス同盟条約を締結して、イギリスのスエズ運河地帯駐留権などを認めた上で実質的な独立を獲得した。しかし、この譲歩に対して不満な民族主義運動がさらに強まった。第2次世界大戦後の1948年のパレスチナ戦争(第1次中東戦争)の敗北後に王政とワフド党政権に対する反対運動が強まり、1952年にエジプト革命が起こり、ワフド党は後退した。
b エジプト王国  → 第13章 1節 ムハンマド=アリー朝(エジプト王国)
c スエズ運河地帯駐留権  
d ムスリム同胞団  
e エジプト=イギリス同盟条約 1936年、イギリスが、スエズ運河地帯駐留権を残すことを条件にエジプトの主権を認めた条約。エジプトはイギリスの保護国から1922年に独立したが、イギリスは軍事権を保持しスーダンの統治権も留保していたので、エジプトの独立は形式的なものであった。そのような中で、ワフド党内閣は1936年にエジプト=イギリス同盟条約を締結し、スエズ運河地帯駐兵権を残すことを条件に、実質的な独立を獲得した。この同盟を根拠にイギリスは第2次世界大戦中を通じてエジプトに軍隊を駐留させ、中東方面での軍事拠点とした。しかし、エジプト国内ではワフド党内閣の譲歩に対する不満が強まり、大戦後の民族運動が活発にったため、1951年にエジプト側からこの条約は破棄された。
 アフガニスタン(独立回復)アフガニスタンは1826年からアフガン王国のムハンマドザーイー朝(バーラクザーイー朝。1826〜1973)のもとで、ロシアと勢力圏を争ったイギリスが2度にわたるアフガン戦争の結果、1880年にアフガニスタンを保護国化した。第1次世界大戦が起こると、イギリスが大戦とインドの独立運動で苦境に立っていることに乗じて、1918年にアフガン軍がインドに侵攻しイギリス軍と1ヶ月にわたる戦闘を行い(第3次アフガン戦争)、1919年にラワルピンディー条約を締結し、イギリスがアフガニスタンの外交権回復を認めて独立を回復した。しかし、アフガン側が主張した国境線をインダス川までとする要求は容れられなかった。こうしてアフガニスタンは広くイスラーム圏の民族的自立を達成した最初の国となったが、その内部は多民族国家であり、さらに部族対立もあり、王政ではあるが国王は有力な首長の一人に過ぎない状況が続いた。 →アフガニスタン(ソ連の侵攻) アフガニスタン(現代)   
 第3次アフガン戦争 第1次(1838〜42)、第2次(1878〜80)のアフガン戦争でイギリスの保護国とされたアフガン王国が、1919年にイギリス軍と戦い、独立を承認させた戦争。アフガン王国はイギリスが第1次世界大戦で疲弊し、インドの独立運動で苦況にあることに乗じて、インドに侵攻し、1ヶ月にわたる戦闘の結果、講和を成立させた。1919年8月にアフガニスタンの外交権回復をイギリスが認め、アフガニスタンが独立国であることが国際的にも認められた。しかし、アフガン王国の悲願であったインド領内のパシュトゥーン人居住地域(インダス川西岸)の領有は認められず、第2次世界大戦後はパキスタンとの間で対立が起きる。イギリスが戦闘では敗北したわけではないのにアフガンニスタンの独立を認めたのは、当時インド国内の独立運動が激化しており、財政的にも苦しくなっていたので、インド植民地の維持を優先させる必要があったからである。
Epi. 第3次アフガン戦争の真相 「第1次世界大戦が終了した翌年の1919年、・・・・民族主義者の国王(アマヌッラー)は就任まもない同年5月、インドを支配するイギリス軍に攻撃をしかけた。彼はこの戦いをイギリスに対する「ジハード」つまり「聖戦」であると称し、その目的はアフガン−インドの国境線デュランド=ラインの設定によって失われたパシュトゥーン人の土地を取り返すことにあると宣言した。そして当時のイギリス軍(その大部分はインド人の傭兵であった)は、世界大戦やインド国内の反乱勢力の鎮圧作戦などで疲れきっているとみなし、戦闘での勝算は十分あると考えたのであった。・・・・だが国王の情報収集には限界があった。そのころのイギリス軍には、軍事用に開発された複葉機がすでに配備されており、アフガンの上空に轟音を立てて飛行する物体から放たれた攻撃に、驚天動地の状態となり、通常の交戦には至らなかった。こうして三度目の戦争はわずか二ヶ月足らずのうちに終了した。双方は現在のパキスタンの首都イスラマバードに隣接する古都ラワルピンディーで条約を交わした。・・・(イギリス政府は)アフガン政府への補助金を打ち切ることを決め、インドへの対応に集中することになった。結果としてアフガンは、国境線をデュランド=ラインに最終決定する提案を呑まざるを得なかったが、独立を勝ち取ったのである。」<渡辺光一『アフガニスタン』 2003 岩波新書 p.72-74> 
 イラン(第1次大戦)18世紀末からイランを支配したトルコ系のカージャール朝はロシアとイギリスの帝国主義諸国の侵略を受け、1907年に両国は英露協商で勢力圏を分割した。1908年にイラン南部のフーゼスタン州で最初の油田が発見され、翌年にはイギリス系のアングロ=イラニアン石油会社が設立され、その利権を所有した。1913年、イギリス海軍が艦船の燃料を石炭から石油に変えたため、イギリスはイランへの支配を強めた。第1次大戦が始まるとオスマン帝国軍が侵入、ドイツ軍も諜報活動を展開し、イギリスも中立地帯に出兵した。これらの情勢にカージャール朝政府は対応出来ず、無政府状態が続く中、1921年にレザー=ハーンがクーデターを起こして実権を握り、25年には自らシャー(国王)を称し、パフレヴィー朝を創始した。これはイギリスの意向があったといわれる。<宮田律『物語イランの歴史』2002 中公新書> → 1935年にイランに改称
a レザー=ハーン 1921年、コサック旅団長であったレザー=ハーンがテヘランで決起し、クーデタに成功、カージャール朝の国軍最高司令官となって実権を握った。各地の遊牧部族の反乱を鎮圧して無政府状態を終わらせ、1925年には最後の国王アフマド=シャーを退位させて自らレザー=シャーとして皇帝となりパフレヴィー朝を起こした。独裁的な権力のもとで、イギリス・ロシアの影響力を弱めながら、宗教色を排除して世俗化、近代化を進めた。イランの独立を回復した偉人として評価される面と、独裁者として恐れられる面の両面があった。イギリスの石油利権に対しては1933年に新たな協定を結び、1バレルあたり4シリングのイラン政府の取り分を固定する60年の契約を結んだ。一方、イギリス・ソ連に対抗して思想的にドイツのナチズムに接近したため、1941年イギリスとソ連がドイツ人駆逐を名目に軍を進駐させ、レザー=シャーは廃位に追い込まれ、子のパフレヴィー2世に譲位した。た。
b パフレヴィー朝 1925年、レザー=ハーンが開いたイランの王朝(パフラヴィー、パーレビなどとも表記)。パフレヴィー朝は立憲君主制であるが、議会はすべて国王派が占め、レザー=シャーが軍隊を掌握する軍国主義体制がとられた。またイスラーム聖職者の影響力を排除して政治、文化の世俗化を進め、男女同権を提唱して女性の社会活動を推奨した。パフレヴィー朝はイスラーム以前のイラン固有文化の復興に力を入れ、1935年に国号も「イラン」に改称した。これはゾロアスター教の聖典アヴェスターからのとったことばであった。1941年、ドイツに接近したレザー=シャーはイギリス、ソ連の圧力で退位させられ、子のパフレヴィー2世に替わった。第2次大戦でのイランはイギリスとソ連の軍事支配を受けたが、戦後も石油資源のイギリス支配が続き、1951年にはモサデグ首相による石油国有化政策が潰され、独裁体制を強めたパフレヴィー2世は1961年、積極的な西欧化を進める「白色革命」を断行した。このいわゆる開発独裁は国民の支持を失い、1979年のイラン革命で崩壊する。
c イラン 1935年、ペルシアから「イラン」に改称。
 アラビア半島  → アラビア半島
a イギリス  
 ロレンス  第1次大戦中にアラブ民族国家の独立運動を支援し”アラビアのロレンス”といわれたイギリス人。
トマス=E=ローレンスはオックスフォード大学卒の歴史学者であったが、中東への知識を買われてイギリス軍情報将校となり、エジプトのイギリス軍総司令部勤務となった。フセイン=マクマホン協定が成立し、1916年、アラビアのヒジャーズ地方(紅海沿岸)でトルコに対する反乱が起きると調査のために現地に派遣を命じられ、反乱軍の指導者メッカ総督ハーシム家のフセインの息子ファイサルと友好関係を結び、そのゲリラ部隊の顧問としてトルコとの戦いを指導した。彼らは鉄道爆破などでトルコ軍を攪乱し、アカバを陥落させ、1918年9月にはダマスクスに入城した。しかしイギリスはアラブと手を結ぶ一方、バルフォア宣言でユダヤ人への支援を約束するなど二重外交を行っていた。ロレンスは、大戦後のパリ講和会議にアラブ代表となったファイサルの通訳兼顧問として参加したが、結局この地域はイギリスとフランスの委任統治とされて彼のこの地域のアラブの独立という願いは達成できなかった。また、彼が支援したフセインもやがてアラビア半島中央部のネジド地方から台頭したサウード家のイブン=サウードとの戦いに敗れ、アラビア半島はサウジアラビア王国が統一することとなる。彼の著作『知恵の七柱』や『砂漠の反乱』は記録文学の傑作とされており、また彼を主人公としたイギリス映画『アラビアのロレンス』(デヴィッド・リーン監督)もよく知られている。
 イブン=サウード

  サウジアラビア初代国王
 イブン=サウド(1880-1953)
本名はアブドゥルアジズ(アブド=アル=アジズとも表記)。アラビアのネジド(アラビア半島中央部)地方のリヤドの豪族サウード家の当主。サウード家はイスラームの改革派ワッハーヴ派の有力な支持者であった。第2次ワッハーブ王国が内紛のために滅亡してリヤドを追われ、父とともにクウェートで亡命生活を送る。1902年、わずか20そこそこのイブン=サウードはわずか5〜6人の手勢でリヤドに奇襲をかけて奪還に成功した。その後も敵対するラシード家との抗争が続き、分裂状態が続いた。1913年にイブン=サウードは半島東部のアル=ハサ地方のオスマン帝国と結んでいる勢力を奇襲して制圧した。その戦いの中でイブン=サウードは、ワッハーブ派の信仰によって部族を超えて結束したイフワーン軍団(イフワーンとは同胞の意味)という強力な軍隊を組織し、強力な軍事力を持つようになった。一方、西部アラビアでは第1次大戦中にトルコの支配に対してヒジャーズ(紅海沿岸地方)のハーシム家のフセインが独立運動(「砂漠の反乱」)を起こし(それを支援したのがイギリスのロレンスだった)、1918年にヒジャーズ王国として独立宣言をした。これに対してリヤドを中心としたイブン=サウードが対立、大戦が終わった後の1918〜20年にたびたび対戦した。1924年にフセインがカリフを称すると宣言したことに対してアラブ各地で反発が生じ、その期にイブン=サウードはヒジャーズ王国攻撃を決意、メッカはイフワーン軍団への恐怖心からほとんど戦わず開城してフセインは退去し、港町ジェッダは約1年の放線の結果投降した。イブン=サウードはヒジャーズ平定に成功し、1924年にヒジャーズ=ネジド王国を樹立した。イエメンを除くアラビア半島をサウード家が支配することとなり、こうした事実をイギリスも認めざるを得ず、イブン=サウードはその支持も受けて、1932年にはサウジアラビア王国として初代の国王となった。
イブン=サウードの政治:1932年から1953年の彼の統治期は、第2次世界大戦と戦後の冷戦の開始時期に当たり、非常な困難があったが、アラブ世界のリーダーの一人として強力な指導力を発揮した。彼の権力は国王としての世俗的な政治権力と、宗教指導者であり、イスラーム法の施行者でもあるという宗教権力の二面があった。また、ベドウィン(遊牧民)の部族対立を調停しながら国王への忠誠を維持させることに心血を注いだ。その面では「父権的政治」でもあり、それを支えたのは莫大な石油収入に依存した。石油収入を含むすべての国家財政は国王の個人的財布に収められたが、入ると同時にそれはたちまちばらまかれた。イブン=サウードには「1000と100万の区別もつかなかった」、といわれる。<小山茂樹『サウジアラビア』1994 中公新書 p.82>
Epi. 19人の妻、58人の子がいたイブン=サウード イブン=サウードは身長1m88センチ、強く突き出た鼻、厚い唇、太い眉毛と濃い顎髭。すべてのスケールが常人をひときわ抜き出ていた。サウジアラビア国王として統一をすすめるため、有力部族と婚姻関係を結んだ。その結果、彼は生涯(1953年没)に19人の妻を持ち、そこから36人の王子を含む58人の子供が生まれたという。現在サウジアラビアはこの初代国王から第3世代、第4世代に入りつつあるが、王家の直系王子はすでに400人を数え、傍系も含めればその数は1万人に達する。このため、王族手当の支給額が膨大になるため、たびたび王族(ロイヤルファミリー)の定義を見直してきた。それでも現在は7000人が王族とされているという。<小山茂樹『サウジアラビア』1994 中公新書 p.211>
 ヒジャーズ=ネジド王国第1次世界大戦後の1924年、アラビア半島の統一をめぐる戦闘の結果、半島中央部のネジドを拠点とするサウード家のイブン=サウードが、メッカを中心として半島西部のハーシム家のフセインを元首とするヒジャーズ王国を破って併合し、建国した。1932年にサウジアラビア王国と改称する。なお、ヒジャーズはへジャズ、ネジドはナジュドなどとも表記する。 
 サウジアラビア王国



緑はイスラームで聖なる色とされる。描かれている文字はアラビア語のスルシー体という書体で、「アッラーの他に神はなし、ムハンマドはアッラーの使徒なり」という意味。
アラビア半島の80%を占める、日本の5倍以上の面積を持つ国。しかしその国土の90%は砂漠である。人口は1600万をこえるとされるが、砂漠の遊牧民を正確に数値化することは難しく、正確なところはわからないらしい。民族はアラビア人で、アラビア語を公用語とする。
サウジアラビアとは、「サウード家のアラビア」という意味で、半島中央部ネジド地方出身のサウード家を国王とする王制国家。 首都はリヤドメッカ。国王はリヤドにおり、行政上の官庁の所在地・宗教上の都はメッカである。国教はイスラーム教ワッハーブ派(イラン人やトルコ人に広まったスーフィズムを否定し、イスラーム教の純粋な原理を守ることを主張する)。現在も祭政一致の原則にたち、サウード家の王権は絶大であり、議会は存在するが立法権はなく、国王の諮問機関にすぎない。社会的には現在も部族の首長たちが今でも大きな力を持っている。
前史 ワッハーブ王国:現在のサウジアラビア王国となったのは1932年であるが、サウード家の支配する国家の前身であるワッハーヴ王国(第1次・第2次)があった。これをあわせて第1次サウード王国ともいい、現在の国家を第2次サウード王国ということもある。サウード家は北部アラビアの有力なアネイザ部族の一支族で18世紀はじめにダルイーヤを拠点に首長国をつくった。その首長ムハンマド=イブン=サウードが、アブド=アル=ワッハーブがはじめたイスラーム改革派のワッハーブ派を信仰して両者が結びつき、1744年ごろ、ワッハーヴ王国を成立させた。これは、オスマン帝国の命を受けたエジプト総督ムハンマド=アリーによって、1818年にいったん滅ぼされた。その後、1823年にリヤドを都に第2次ワッハーブ王国が再建されたが、内紛などから1889年に倒れ、サウード家はクウェートに亡命した。
サウジアラビア王国の建国:サウード家のアブドゥルアジズイブン=サウード)は、1902年にリヤドを奇襲して奪回し、勢力を拡大した。第1次世界大戦によってオスマン帝国が崩壊したのを受け、アラビア半島の統一に乗りだし、半島西部でイギリスの支援を受けていたハーシム家のフセインのヒジャーズ王国を1925年までに滅ぼしてアラビア半島をほぼ統一した。1832年にサウジアラビア王国の樹立を宣言した。
最近のサウジアラビア王国:1938年の油田の発見以来、採掘権はアメリカの国際石油資本に支配されててきたが、現在では広大な油田を国営として豊かな経済力を持つ。1960年の石油輸出国機構(OPEC)の創設はサウジアラビアが中心とり、その後もアラブ石油輸出国機構を創設した。ファイサル国王(在位1964〜75)の時期にはナセルに代わってアラブ世界の盟主としての役割も担い、基本姿勢では反共産主義・親アメリカ路線であったが、イスラエルの存在には強く反発し、第4次中東戦争の際の親イスラエル国家への石油輸出禁止戦略を先導した。また、国内では教育や文化の近代化を進めたが、議会政治への転換などは図られておらず、依然として国王の絶対権力のもとにおかれている。しかし、最近は経済、国防などの面では実務的な官僚(テクノクラート)が動かしている。 最近の湾岸戦争、イラク戦争では一貫してアメリカに協力し、その基地を提供したことから、イスラーム原理主義のビンラーディンらテロリストも出現し、民主化の実現が要請されている。<小山茂樹『サウジアラビア −岐路に立つイスラームの盟主』1994 中公新書 などを参照>
 西アジアのアラブ諸国独立 第1次世界大戦後のオスマン帝国領の分割によってアラブ系民族居住地域は1920年からイギリスとフランスによる委任統治とされた。アラブ系民族の独立を求める声も強くなり、委任統治の形態のもとでイギリス・フランスは次第にアラブ国家の独立を認めるが、それによって西アジアに生まれた国家の境界線の設定は両国による「勝手な線引き」(帝国主義的分割)であったため、現在に至るまで紛争の原因となっている。また、イギリスの都合でハーシム家の王子たちをあてがって国王としたのだった。アラブ人の中にはスンナ派とシーア派があり、またこの地域は少数だがキリスト教徒もおり、またパレスチナにはユダヤ人がシオニズムによって移住し始めていた。またメソポタミアからトルコ、イランにかけてクルド人が居住していた。イギリス・フランスによる新たな国家の線引きはこれらの宗教や民族の分布とはお構いなしに行われ、一つの国に民族や宗教の対立が持ち込まれた。またクルド人には独立を認められず、その居住地域はトルコ・シリア・イラクに分割された。これらのイギリス・フランスの身勝手が現在ますます深刻になっているパレスチナ問題、イラク問題、クルド人問題など、中東問題と総称される問題の原因となっているのである。
 ハーシム家 アラビアのヒジャーズ(メッカやメディナを含む地方)で遊牧活動をしていたベドウィンの中のクライシュ族の有力な12家の一つの豪族で、ムハンマドの出身一族とされる名門。系図ではムハンマドの曾祖父ハーシムから出ているという。ヒジャーズではムハンマドの血統を継ぐ一族として尊崇されていたが、オスマン帝国の長い支配下にあった。そのオスマン帝国が衰退してきた中で、「アラブの反乱」を起こして独立をめざしたのがフセイン(フサイン)である。オスマン帝国の後方攪乱を策すイギリスの後押しで1918年にはダマスクスを征服し、ヒジャーズ王国を建国した。しかしイギリスは一方でパレスチナのユダヤ人、西アジアの分割をもくろむフランスとも取引し、フセインのハーシム家と同じアラビアのリヤドを本拠とするサウード家との戦いが始まると彼を見限った。敗れたフセインはキプロスに亡命し、ヒジャーズ王国は1925年に滅亡した。しかし、イギリスはフセイン=マクマホン協定の借りがあったので、フランスと分割したアラブの地をさらに分割しフセインの子供たちに与えた。それがファイサルのイラク王国とアブドゥラのトランス=ヨルダン王国であった。しかしこのうち、イラクのハーシム家は1958年のイラク革命で殺害されて滅び、現在残るのはヨルダン王国の王家である。
a イラク王国 古代メソポタミア文明の栄えた地域であり首都バグダード。第1次世界大戦後の1920年、セーブル条約でイギリスの委任統治領となったが、その境界線は英仏が策定したものにすぎなかった。早くもアラブ民族による反英闘争が大規模に起こった。そこでイギリスは、1921年にハーシム家フセインの子ファイサル(フランスによってシリアを追われた)を国王として、委任統治の下にイラク王国の名目的独立を認めた。委任統治期間が終了し正式に独立が認められたのは1932年であった。イギリスの後押しによるハーシム家の王政は第2次大戦まで続いたが、エジプト革命以後、ナセル主義の影響が及び、1958年にバグダードでイラク革命が起こり、国王ファイサル2世などは処刑されて王政が倒されて共和国となった。 → イラク共和国
Epi. 「チャーチルの作品」イラクの誤算 イラクを現在のような線引きで成立させ、そこに「ハーシム家解決案」としファイサルを国王に据える、という案を作ったのは、時のイギリス植民池相チャーチルだった。チャーチルに知恵を付けたのは「アラビアのロレンス」のロレンス大佐だった。つまりイラクは「チャーチルの作品」だが、「彼はキルクークとモースルという離れた位置になる二つの大油田を結びつけ、さらにはクルド人、スンナ派ムスリム、そしてシーア派ムスリムという違った三つの個別の集団を一緒にするという狂気の沙汰」におよび、現在にまで禍根を残した。<臼杵陽『中東和平への道』1999 世界史リブレット52 山川出版社 p.23>
b ヨルダン王国 ヨルダンは現在ではイスラエルとヨルダン川をはさみその東側に位置する地域。中心都市はアンマン。本来の地理的概念ではなく、第1次世界大戦後のイギリスの委任統治領のイラク・パレスチナに含まれていた。「パレスチナ」がヨルダン川の東西に及ぶ範囲を意味していた。1921年、ハーシム家フセインの子でイラクのファイサルの兄アブドゥラ(正確にはアブド=アッラーフ=ブン=フセイン)がヨルダン川東岸のアンマンに進軍すると、イギリスは彼を首長(アミール)として事実上の支配権を認め、23年にはイギリス委任統治下のトランス=ヨルダン首長国となった。これによってパレスチナはヨルダン川西岸のみを指すこととなった。1928年にはアブドゥラを国王としてトランス=ヨルダン王国となり、第2次世界大戦後の1946年完全な独立を認められ王国となる。正式にはヨルダン=ハーシム王国(またはヨルダン=ハシミテ王国)といい、現在では唯一のハーシム家の王位が続く君主国である。 → ヨルダン内戦  ヨルダン王国(中東問題)
c レバノン 地中海東岸に面し、気候の温暖な、生産力の豊かな土地で、かつてはシリアの一部をなしていた。中心はベイルート。古代にはフェニキア人がシドンやティルスなどの都市を造り、地中海の海上貿易に活躍し、そのころから杉は「レバノン杉」といわれて名産だった。その後、アッシリア、新バビロニア、ペルシア帝国、アレクサンドロスの帝国、セレウコス朝の支配の後ローマ領となる。ビザンツ帝国が衰えてイスラーム化してからは住民の多くはアラブ系となったが、古来キリスト教徒(ビザンツ教会に服さず、ローマ教皇を支持する一派のマロン派)も多い。またアラブ系も、スンニ派、シーア派、ドゥルーズ派などに別れ、宗教的なモザイク地域となっている。第1次世界大戦後、オスマン帝国の支配から解放されたが、セーブル条約でフランスの委任統治領のシリアの一部とされた。後の1941年にフランスはキリスト教徒を保護する名目でシリアから分離させ、1943年に独立した。独立に際して有力宗派間で国民協約を締結、大統領はキリスト教マロン派から、首相はイスラーム教スンニ派から、国会議長はイスラーム教シーア派からだすことなどでバランスをとることが決められた。  → レバノン暴動  レバノン(現代) レバノン内戦  レバノン侵攻
Epi. 「生きた宗教博物館」 レバノンは古くから「レバノン杉」で有名なところで美しい自然に恵まれた土地。同時に「オリエント地域のあらゆる民族と宗教と民俗をおさめた美しい博物館」と表現さえれている。あまたあるレバノンの宗教のうち、有力なのがキリスト教マロン派で、アラブ人ながらキリスト教に入り、5世紀頃東ローマ教会から分離してヴァチカンのローマ教皇に従うようになった宗派である。このマロン派はキリスト教系であることから早くからヨーロッパ諸国と結び、社会的な上層部に多い。それに対抗するのがイスラーム教シーア派の分派で、異端中の異端と言われるドゥルーズ派で、輪廻転生を信じている。1943年の独立に際しては、マロン派、スンナ派、ドゥルーズ派などで主要ポストは分配する形で妥協が成立した。そこにパレスチナ人が割り込んできたために対立はいっそう複雑、深刻になった。1975年にはパレスチナ人の乗ったバスをキリスト教徒民兵が襲撃して虐殺するという事件が起き、内乱が始まった。<藤村信『中東現代史』岩波新書 1997 p.123>
d シリア もともと「シリア」は地中海東岸の広い地域を示し、現在のシリア・レバノン・ヨルダン・パレスチナ(以上を大シリアとも言う)を含んでいた。第1次大戦でこの地域をオスマン帝国(トルコ)からうばったイギリス・フランスは、戦前のサイクス=ピコ協定の線に沿って分割し、シリア(レバノンを含む)はフランスの、ヨルダンとパレスチナはイギリスの委任統治領とした。英仏の一方的な分割に対する怒りからアラブ人の独立運動が起こり、大戦中のフセイン=マクマホン宣言の履行を求めるハーシム家ファイサルフセインの子)を国王としてシリア王国の独立を宣言したが、フランスはそれを認めず、ファイサルは追い出された(後にイギリスが保護してイラクの国王となる)。その後、1941年にシリアからキリスト教の一派マロン派の多いレバノンを分離させた。第2次大戦後の1946年にシリア共和国として正式に独立が認められた。パレスチナは、一部をシオニズムに与えてユダヤ人国家イスラエル(1948年)とされることとなった。 → 大戦後のシリア
 パレスチナ(委任統治)パレスチナは地中海岸とヨルダン川にはさまれた地帯。ユダヤ人のディアスポラ(離散)の後、パレスチナはアラブ系住民が居住する地域となり、オスマン帝国の支配を受けていた。19世紀末にシオニズムが始まり、ユダヤ人の移住(帰還)運動が展開された。第1次世界大戦中、イギリスはバルフォア宣言でユダヤ人に対する大戦後のパレスチナにおける「ホームランド」の建設を約束したが、それは必ずしも国家を意味するものではなく、また移住に際してはパレスチナ人(アラブ居住者)の権利を侵害しないことという条件が付けられていた。大戦後の1922年にイギリスのパレスチナ委任統治が始まると、約束どおりユダヤ人の多数(主としてロシアとポーランドから)移住し、キブツという集団農場を建設し、ハガナという軍事組織を持ってパレスチナ人とトラブルが多発するようになった。その頃中東で油田が発見され、イギリスはアラブ人を懐柔するため、ユダヤ人の移住を制限し、パレスチナ人国家の建設を容認する提案をした(1937年のピール委員会分割案、39年のマクドナルド白書)が、ユダヤ人、パレスチナ人双方に拒絶され、その双方からのイギリス統治への反発からしばしば暴動が起こった。第2次大戦後、ヨーロッパにおけるナチス=ドイツのホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)が明らかにされると、ユダヤ人への同情が集まり、イギリスはアトリー内閣が委任統治期間終了に伴い撤兵し、アメリカの主導により、国際連合でパレスチナ分割案が成立、イスラエルが建国されることになるが、アラブ諸国とのパレスチナ戦争が起こり、その結果多数のパレスチナ難民が発生し、現在に続くパレスチナ問題となっている。
a フセイン=マクマホン協定  → 第15章 1節 フセイン=マクマホン協定
b バルフォア宣言  → 第15章 1節 バルフォア宣言
c シオニズム 19世紀末にヨーロッパのユダヤ人の中に高まってきたユダヤ人国家建設運動。シオンはパレスチナの古名であり、ユダヤ人の故郷とされている。ロシアにおける1881年以来のユダヤ人迫害(ポグロム)と、特にフランスのドレフュス事件が契機となった。これらの反ユダヤ主義の流行に対し、ユダヤ人の中に、彼らに故郷に帰り祖国を再建しようという思想が起こってきた。ハンガリー生まれのユダヤ人ヘルツルは、ジャーナリストとしてパリに滞在中、ドレフュス事件に遭遇、フランス人が「ユダヤ人を殺せ」と怒号するのをみてショックを受け、ユダヤ人の国家建設の必要を痛感した。彼らは1897年スイスのバーゼルで第1回のシオニスト大会を開催、一つの政治勢力となった。ロスチャイルド家はシオニズムを財政的に援助した(パリ家のエドモン)。またパレスチナの地は当時オスマン帝国の領土となっていたので、第1次世界大戦ではトルコを敵としたイギリスがシオニストを応援し、バルフォア宣言はユダヤ人に戦後の国家建設を約束した結果、多くのユダヤ人がヨーロッパからパレスチナの地に向かった。第2次大戦後、イギリス・アメリカの支援を受けて1948年にイスラエル共和国が成立し、シオニズムは目的を達したが、そこに居住していたアラブ民族との間に激しい対立を巻き起こし、深刻なパレスチナ問題として現在も続いている。
キ.アフリカの民族主義
 アフリカ民族会議  
a 人種差別撤廃  
 パン=アフリカ会議  
a パン=アフリカニズム