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第9章 近代ヨーロッパの誕生
1.ヨーロッパ世界の拡大
ア.大航海時代
A 大航海時代 15世紀から16世紀にかけて展開され17世紀の中頃まで続く、ヨーロッパ諸国による新航路や新大陸の発見という動きをいう。かつては「地理上の発見」という言い方をされたが、現在はそのようなヨーロッパ側に立った言い方をさけ、「大航海時代」とか、「ヨーロッパ世界の拡大」とった言い方をする。いずれにせよ、ヨーロッパ勢力のアジアやアフリカ、南北アメリカの新大陸への進出が始まったことには違いなく、同時期のルネサンスおよび宗教改革とともに世界史上に大きな転換をもたらし、「近代」への移行を示す出来事であった。特に15世紀末から16世紀にかけて、ポルトガルとスペインの活動は非常に活発であった。この時期に、この両国によって「大航海時代」が開始されたことの背景には、ノート本文にまとめたように、
 1.ヨーロッパにおけるアジアに対する知識の拡大(13世紀のモンゴルの侵入、マルコ=ポーロなどによる)
 2.羅針盤・快速帆船・緯度航法など、遠洋航海術の発達
 3.ヨーロッパでの肉食の普及にともなう香辛料の需要の増大
 4.レコンキスタが進行して、キリスト教布教熱が高まっていたこと
などがその背景と考えられるが、直接的要因としては、この時期に小アジアに興ったイスラーム教国であるオスマン帝国がバルカン半島・東地中海・西アジアに進出し、従来のイタリア商人による東方貿易が行えなくなったことがあげられる。これによってヨーロッパの商人たちは、香辛料などをアジアから輸入するために直接ルートを開拓する必要に迫られたのである。
大航海時代は、まずポルトガルによるインド航路開拓事業から始まり、それに対抗したスペインが、思いがけずアメリカ新大陸を「発見」し、マゼランの世界周航でピークに達した。それ以後は、主としてポルトガルによるインド・東南アジア進出、スペインによるアメリカ新大陸の支配が展開される。この動きはインドなどアジア諸国と、アメリカ新大陸の現地人に大きな変化をもたらしただけでなく、ヨーロッパ本土にも大きな変革が生じた。商業革命価格革命がおこり、西ヨーロッパの商工業の発展と人口増加にともなって東ヨーロッパでは西ヨーロッパ向けの穀物生産に産業が特化して、農奴制が逆に強化されて半辺境化し、また新大陸のインディオに対してはスペインのエンコミエンダ制による強制労働が課せられて辺境化する、という世界的な「分業化」が進むこととなった。このような「近代世界システム」の成立を16世紀の大航海時代に見いだすことができる。大航海時代によってもたらされた「世界の一体化」とは、このような「世界分業システム」の成立と言うことであった。 → 資本主義の発達
a マルコ=ポーロ 『世界の記述』  → 第4章 3節 マルコ=ポーロ 世界の記述
b 遠洋航海術 中世ヨーロッパの地中海や沿岸航路で使用された船は、ガレー船といって、帆は一本マスト、多くの漕ぎ手を必要とする大型船であった。この船は古くから用いられ、ていたが、大型なので風波にもろく、また多くの漕ぎ手の食料・飲料水が必要となるので、遠洋航海には不向きであった。1415年以降、西アフリカ航海に進出したポルトガルは、もっと軽快な小型船を開発した。それはバルシャ船と呼ばれるもので、大型ボートに帆を張った程度の信じられないような小さな船であった。1440年頃、三本のマストに三角帆を張ったカラベラ船があらわれ、遠洋航海の主力となった。これはムスリム商人の用いたダウ船の帆を取り入れた新型船で、ヴァスコ=ダ=ガマの航海もこのカラベラ船で行われた。航海は、アストロラビオという測定器で北極星や太陽の高さを測定して緯度をはかり、羅針盤で方位を定めて進んだ。しかし船の進んだ距離は、綱の先に浮きをつけて海に投げ込み、船の速度をはかって計算したので、誤差が大きかった。<増田義郎『大航海時代』ビジュアル版世界の歴史 講談社1986 などによる>
16世紀の中頃から、スペインではガレオン船という3本〜4本マストの大型帆船が使われるようになり、スペインのマニラとメキシコを結ぶガレオン貿易で活躍した。
c 香辛料  → 第7章 香辛料
d レコンキスタ  → 第6章 3節 西ヨーロッパ世界の変容 イベリア半島のレコンキスタ
e オスマン帝国  → 第8章 3節 オスマン帝国の成立
f イスラーム  
g 香辛料貿易  → 第7章 香辛料
B ポルトガル(大航海時代)ポルトガルは、15世紀の人口は110万と推定されるにすぎない小国であった。そのような小国ポルトガルが、ヨーロッパ諸国の中で最初に海外に進出した(またそれができた)理由を現代の経済史家ウォーラーステインは次のように説明している。
初期のポルトガル人探検・航海者の目的は、海上ルートによる金の探索(北アフリカの中継業者を出し抜いて直接スダンの金を獲得すること)であった。金と並んで香料も目的であったが、長期的な目的となったのは小麦・砂糖・魚肉・木材・衣料などの基礎商品の獲得である。過剰人口のはけ口説や宗教的情熱説は根拠が薄く、一種の「口実」である。ポルトガルが真っ先に対外進出ができた理由は、
(1)大西洋岸にあり、アフリカに隣接しているという地理的条件、
(2)すでに遠距離貿易の経験を持っていたこと、
(3)資本の調達が容易であったこと(ジェノヴァ人がヴェネツィアに対抗するため、ポルトガルに投資しており、リスボンで活躍していた商人の多くはジェノヴァ人であった)、
(4)他国が内乱に明け暮れていたのにポルトガルだけは平和を享受し、企業家が繁栄しうる環境があったこと、
の4点である。「ポルトガルこそは、当時のヨーロッパのなかで、内乱で混乱していないほとんど唯一の国家であった。」<I.ウォーラーステイン、川北稔訳『近代世界システムT』1974 岩波現代選書 p.42〜55より要約>
 → 資本主義的世界経済  近代世界システム  第10章 2節 ポルトガルのアジア進出
a エンリケ 15世紀の前半、ポルトガルの国王ジョアン1世(在位1385〜1433)の皇太子であったが、生涯王位にはつかなかった。もっぱらアフリカ西岸探検事業に熱を上げ、「航海王子」と言われている。彼の派遣した探検隊は、1420年にマディラ、1431年にアゾレス諸島に到達、1434年にはボジャドル岬を迂回し、1445年にはヴェルデ岬に至った。エンリケの艦隊派遣の目的はまだインドへの新航路開発や香料貿易にあったのではなく、アフリカの黄金の獲得、アフリカ西岸に存在すると信じられていたキリスト教君主のプレスター=ジョンを探すことにあったが、その艦隊はアフリカ西岸に関する様々な情報をもたらし、大陸の南端を回ってインドに行くことができるかも知れないという可能性を明らかにし、インド航路の開拓、しいては大航海時代の幕開けとなった。
Epi. 船に乗らなかった「航海皇子」 エンリケは「航海王子」として名高いが、実はほとんど航海らしい航海はしていない。一説には船酔いがひどかったため、と言われている。しかし航海への情熱は強く、イベリア半島の南端サグレシュの城にこもり、航海術や地図の作製などを行わせた。このサグレシュの城は後にイギリスのフランシス=ドレークによって破壊されてしまった。
 セウタ ジブラルタル海峡のアフリカ側にある港町。1415年にポルトガルのエンリケ皇太子がこの地を攻略し、アフリカ西岸探検の拠点とした。その後、1580年にスペイン領となり、現在に至る。
 アゾレス諸島 
 ヴェルデ岬 
C インド航路の開拓 ポルトガルの遠洋航海事業は、15世紀前半のエンリケ航海皇子の頃に始まり、15世紀末のジョアン2世(在位1481〜95年)の時代にバルトロメウ=ディアス喜望峰に到達、インド航路の開拓の可能性が生まれ、次のマヌエル王のとき、1498年にヴァスコ=ダ=ガマカリカットに到達して達成された。以後、ポルトガルは毎年のように艦隊をインドに派遣し香料貿易を独占し、16世紀のリスボンの繁栄がもたらされた。ポルトガルのインド航路開拓にあたっては、アラビア海で活発に交易を行っていたムスリム商人と衝突が避けられなかった。1510年、ポルトガルはディウ沖の海戦でエジプトのマムルーク朝海軍を破り、アラビア海の制海権を獲得した。翌年、インドのゴアを占領、インド交易の拠点とした。ポルトガル本国でインド航路の起点となったのが首都のリスボンであり、16世紀には世界貿易の中心地として栄えた。
a ジョアン2世  → 第3章 3節 ケ.スペインとポルトガル ジョアン2世
b バルトロメウ=ディアス ポルトガルのジョアン2世は、1482年に黄金海岸のエル・ミナに要塞を築き、奴隷貿易を開始、さらにアフリカ西岸への艦隊の派遣を続けた。1485年にはコンゴ、86年にはベニンに到達した航海者から、アフリカ奥地のキリスト教徒の存在(おそらくはアビシニア、つまりエチオピアのキリスト教徒のことであろう)が報告され、プレスター=ジョンを求めるジョアン2世は陸路と海路で探検隊を派遣することとした。その海路による探検に派遣されたのがバルトロメウ=ディアス(バーソロミュー=ディアス)であった。ディアスは1487年8月にリスボンを出航した。途中、嵐にあって13日間流されたディアスは、海岸線が北東に延びている地点に漂着、そこから引き返して1488年1月、アフリカ大陸最南端を発見した。彼はその岬を「嵐の岬」と名付けたが、ジョアン2世は「喜望峰」と命名し直した。
c 喜望峰 1488年、ポルトガルのバルトロメウ=ディアスが発見した、アフリカ大陸南端の岬。現在の南アフリカ共和国ケープタウンから約50kmのところにあるが、最南端ではない。ディアスはこの岬を発見したが、嵐に悩まされていたので、「嵐の岬」と名付けたが、ポルトガルのジョアン2世はここから北東に向かえばインドに到達できると考え、「希望の岬」(Cabo da Boa Esperansca)と改めた。英語名が、Cape of Good Hope 日本では「喜望峰」という。
d ヴァスコ=ダ=ガマ

Vasco da Gama (1469?-1524)
スペイン王が派遣したコロンブスの西回り航路の発見によって、ポルトガルは東回りでアジアに到達することを急がねばならなくなった。両者は1494年のトルデシリャス条約で、アフリカ西岸のヴェルデ岬から370レグア(約2000km)西の子午線(西経46度30分)の西をスペイン、東をポルトガルの権利とすることを協定した上で、準備にかかり、ジョアン2世没後のマヌエル王が、1497年7月、ヴァスコ=ダ=ガマをインドに派遣した。ガマは4隻の船で陸地沿いではなく大西洋をまっすぐ南下して喜望峰を通過、アフリカ東岸を北上してマリンディでイスラーム教徒の水先案内人イブン=マージドを雇った。ヒンドゥー教徒のインド人もやとい、アラビア海の横断に成功、1498年5月20日にインド西岸のマラバール海岸のカリカットに到達した。この第1回航海では十分な交易品を持っていなかったので、カリカットの領主との取引はうまくいかず、得るものは少なかったが、インドへの直接航路が開かれたことは大きな意義があった。1500年にカブラルがカリカットに到着(その途中でブラジルに漂着した)し、カリカットの南のコチンの領主から大量の香辛料を買い取り、1501年にリスボンに持ち帰った。この成功は、一挙に香料貿易の中心地が従来のヴェネツィアからリスボンと、そこから香料が運ばれる北西ヨーロッパのアントワープ(現在のベルギーの港市、ハプスブルク家のカール5世の領地)に移ることとなった。ヴァスコ=ダ=ガマは1502年に第2回のインド航路航海を行い、この時は20隻の船団に兵員を載せ、カリカットに砲撃を加えて上陸し、コーチンに要塞を築いて帰国した。その後1524年にはインド総督としてゴアに派遣されて、その年ゴアで死去した。 → ヴィジャヤナガル
e カリカット  → 第8章 1節 東アジア・東南アジアの動向 明初の政治 鄭和の航海 カリカット
f イブン=マージド ポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマが、アフリカ東岸のマリンディーで雇ったイスラーム教徒の船乗り。ポルトガルが進出する以前のアラビア海ではイスラーム教徒(ムスリム)の商人が盛んに交易活動を行っており、ガマ船団もイブン=マージドの水先案内によって、カリカットに到達することができたのであった。
g リスボン ポルトガルの発音ではリスボア、またはリスボアゥンとも表記する。ポルトガルの首都。テージョ川(タホ川)の河口に位置し、大西洋に面した良港。レコンキスタの進行によって、13世紀中頃から首都となる。16世紀の大航海時代にはインド航路の起点として、アジアからの香辛料が輸入され、一大貿易港として発展した。なお新大陸との貿易で繁栄しリスボンと競合したスペインの貿易港はセビリアである。また、リスボンに集積された香辛料は北西ヨーロッパのアントワープにもたらされ、ヨーロッパ各地に売りさばかれた。このように16世紀の商業革命の時代は繁栄したが、17世紀以降は世界貿易の中心地はオランダのアムステルダムに移り、リスボンは衰退する。1755年には大地震に見舞われ、ほとんどが破壊された。現在みるリスボンの町はその後復興したものである。
イ.アメリカ大陸への到達
A 大西洋の横断  
a スペイン (大航海時代)コロンブスが新大陸(の一部)に達した1492年は、スペインにとって、重要な年であり、あと2つの大きな出来事があった。ひとつは、前年までに最後に残ったイスラム勢力のナスル朝グラナダが陥落し、この年1月に、「カトリック両王」のフェルナンドイサベルが並んでグラナダに入城したことである。これは8世紀以来続いたレコンキスタを終わらせ、イベリア半島をキリスト教の土地に奪い返したこととなる。その流れの中で、同年、両王の名で、ユダヤ人の追放令が出されている。そして1492年は、コロンブスが大西洋横断に成功し、スペインの新大陸進出の始まった年ともなった。貿易港セビリアには新大陸からの銀がもたらされ、スペインは空前の繁栄の時代を迎える。ところが、両王には男子がなく、娘のファナ(精神を病んだので狂女といわれた)の嫁ぎ先、神聖ローマ帝国皇太子フェリペとのあいだに生まれたカルロス(すでにネーデルラントを相続していた)が王位を継承することとなり、1516年、スペイン=ハプスブルク朝が始まった。カルロス1世は1519年対立候補のフランスのフランソワ1世を破って神聖ローマ皇帝に選出されてカール5世となった。マゼランが大航海に出発したのはその年であった。またコルテスによるアステカ帝国の征服、ピサロによるインカ帝国の征服など、コンキスタドレスによるアメリカ大陸の征服活動が展開され、ブラジルを除く新大陸がスペイン領となったのもカルロス1世(カール5世)の時代であった。その領土はスペインとネーデルランドのみならず、ドイツ、南イタリアも領有し、あわせて新大陸やフィリピンなどの海外領土をもち、「太陽の没することのない大帝国」となった。一方、1517年にカール5世治下のドイツでルターの宗教改革が始まったこと、ヨーロッパ東部からはオスマン帝国に脅かされ、1529年にはウィーン包囲という危機があったことなど、カール5世の時代の両面を忘れてはならない。 → スペインのアジア進出スペインの中南米植民地支配
b イサベル  → 第6章 3節 ケ.スペインとポルトガル イサベル女王
c コロンブス イタリアのジェノヴァ生まれの航海者。イタリアではクリストフォロ=コロンボといい、英語でクリストファー=コロンブスと表記する。なお、スペインではクリスバル=コロンと称した。マルコ=ポーロなどの書物からインド、中国、ジパングなどに興味を持ち、トスカネリの世界球体説を知って西回りでアジアに到達することを考えた。はじめ(1483年)、ポルトガルのジョアン2世に提言したが、ポルトガルは東回りに力を注いでいたのでその提案は拒否された。ついでスペインに渡り、1486年にイザベル女王に面会し、自説を訴えた。イザベルはコロンブスの提案に興味を示したが、当時グラナダ攻撃に費用がかかり、財政的に余裕がなかったので取り上げられなかった。そうするうちに1492年、グラナダを陥落させ、レコンキスタを完了させた直後にイザベルはコロンブスと再び会って、一旦は断ったが、翻意して帰る途中のコロンブスを呼び戻し、そのプランを実施することに決めた。4月17日契約成立。
1492年8月3日、3隻の船で出航し、10月12日にサン=サルバドル島に到着した。コロンブスはこの地をインディアス(アジアの東のはずれにある半島状の土地)であると確信し、現地人をインディオと呼んだ。その地の王との面会を求めたが実現できず、付近のキューバ島、エスパニョーラ島(後のハイチ)などを探検、残留の乗組員をおいて帰国した。スペイン王イザベルはコロンブスに新領土の植民を許可したので、翌年9月、1500名の入植者を乗せて再びエスパニョーラ島に向かった。到着してみると、残留部隊の39名は全滅していた。またエスパニョーラ島の奥地まで進んだが、黄金も見つからず、開拓もままならなかったので、コロンブスは96年にいったん帰国した。その後、1502年まで、3回にわたりエスパニョーラ島などに渡り、一時はパナマ地峡にも上陸したが、ついに新大陸であることは気づかなかった。また計画した入植も成功せず、一時は国王の信頼をなくし、獄につながれたこともあった。1506年、持病の痛風が悪化し死去した。
コロンブスの航海 スペイン王の命を受けたコロンブスは、1492年8月3日、ポルトガルのパロス港の近くサルテス川の河口から、三隻の船で出航した。主船はサンタ・マリア号というカラベラ船を大型にしたナオ船という形で100トン以下と推定され、あとの二隻はニーニャ号とピンタ号というカラベラ船(15世紀に生まれた三本マストの帆船)で約60トン程度。困難な航海の末、同年10月12日、未知の島に上陸した。その時、コロンブスに従っていたラス=カサス神父の伝える上陸の様子は次のようであった。
資料:「上陸してみると青々とした樹木が見え、水もふんだんで、いろんな種類の果物が実っていた。提督(コロンブス)は、二人の船長をはじめ、上陸した者達、および船隊の記録官である、ロドリゴ・デ・エスコベート、ならびにロドリゴ・サンチェス・デ・セゴビアを呼んで、彼が、いかにしてこの島をその主君である国王ならびに女王のために、並居る者の面前で占有せんとし、また事実、この地において作成された証書に委細記されてるように、必要な宣言を行ってこれを占有したかを立証し、証言するようにとのべた。
そこへ早速、この島の者達が大勢集まってきた。‥‥彼らは力ずくでよりも、愛情によって解放され、キリスト教徒に帰依する者達だと見て取りましたので、幾人かに、赤いボンネット帽と、首飾りになるガラス玉や、その他たいして値打ちのないものをいくつか与えました。すると彼らは非常に喜び、全くすばらしいほど我々になついてしまったのであります。‥‥彼らは武器を持っていませんし、それがどんな物かも知りません。私が彼らに剣を見せましたところ、刃の方を手に持って、知らないがために手を切ってしまったのであります。鉄器は全然持っておらず、その投げ槍は、鉄の部分がない棒のようなもので、尖きに魚の歯などをつけております、‥‥彼らは利巧なよい使用人になるに違いありません。‥‥私は、彼らは簡単にキリスト教徒になると思います。‥‥私は、神の思し召しにかなうなら、この地を出発するときには、言葉を覚えさせるために、六人の者を陛下の下へ連れていこうと考えております。」<ラス=カサス『コロンブス航海記』林屋永吉訳 岩波文庫 p.36〜38>
d トスカネリ フィレンツェの天文学者で、世界球体説を唱え、1474年に西廻り航路でインドに到達出来ることをコロンブスに説いた。また自ら作製した地図をコロンブスに贈ったという。コロンブスはマルコ=ポーロの『東方見聞録』も読んでおり、インドの一部の黄金郷ジパングに行くことを夢見たのだった。
西インド諸島 15世紀のヨーロッパでは「インド」(スペイン語でインディアス)という概念は、現在のインドのことではなく、それより東のすべての地域を含んでいた。コロンブスはその広い意味のインドに西回りで到達したと信じ、その地を西インドと名づけた。現在では西インドはコロンブスが到達し、探検した島々を含む、カリブ海に浮かぶ島々の総称となっている。主な島は、西からキューバ島(西インド諸島の中で最大)、ジャマイカ島、イスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ)、プエルトリコ島が並び、その東に小アンティル諸島のマルティニク島やバルバドス島がある。またキューバ島の北には、コロンブスの到達したサン=サルバドル島(現ワトリング島)を含むバハマ諸島がある。
コロンブスの来航以来、この地にはスペイン人が次々と渡来した。彼らは黄金を求めてさらに新大陸に進出、インカやアステカの富を収奪した。西インド諸島は新大陸と本国スペインを結ぶ中継地となり、また黄金を狙う海賊船が横行する地帯となった。17世紀以降はタバコ、砂糖、コーヒーというヨーロッパ向けの商品作物を現地のインディオを使役して生産するプランテーションが成立した。やがてインディオは過酷な労働やヨーロッパから持ち込まれた病気で急減し、かわりにアフリカから運ばれてきた黒人奴隷が労働力とされた。彼らは三角貿易に組み込まれ、19世紀まで収奪されることとなった。入植者である白人と現地生まれの白人(クリオーリョ)、白人とインディオの混血(メスティーソ)、白人と黒人の混血(ムラート)、さらにインディオと黒人という複雑な人種構成を持つ社会を形成する。
Epi. コロンブス、ジパングに到達? コロンブスの航海記を読むと、彼は自分の到達した地がインド(現在のインドではなく、その東に広がる大陸全体で、シナなども含んでいた)の一部であると信じ、さらに探検したクーバ島(キューバ)がマルコ=ポーロの伝えるジパング(つまり日本)であると考えていたことが判る。コロンブスは国王への報告でこう言っている。「それから、私の連れているインディオ達がコルバ(クーバ島のこと)と呼んでいる最も大きな島へ向かおうと思いますが、この島は、彼らの手真似から察するに、チパングに違いないと考えます。彼らの話では、この島には船もあれば、非常に立派な船乗りも大勢居るということであります。・・・勿論、私はさらに進んで大陸へと赴き、キンサイ(マルコ=ポーロの伝える杭州のこと)の都へ行って、両陛下(スペイン王フェルナンドとイザベル)の御親書を大汗王に渡し、その返書を求め、これを持ち帰る決心をかためているのであります。」<ラス=カサス『コロンブス航海記』林屋永吉訳 岩波文庫 p.62>
e サンサルバドル島 コロンブスが1492年に到達した新大陸の近辺に点在する小島。現地ではグァナハニ島と言われていたが、コロンブスは「聖なる救世主」という意味の、サン=サルバドル島と名付けた。現在は、バハマ諸島のワトリング島と言われている。
f インディオ (15世紀以降)南北アメリカ大陸の先住民はユーラシア大陸から移住したホモサピエンスの子孫で、コロンブス到達以後インディオ(インディアン)といわれるようになった。その名称はコロンブスが新大陸をインドの一部だと誤解したことによるが、そのまま定着して現在に至っている。
コロンブスの誤解:中世ヨーロッパで信じられていたプトレマイオスの世界地図では、アジアには現在のインドとは別に、更にその東端に半島状の陸地があるとあるとされ、それもインディアと言われていた。インディアはさらにいくつかの地域からなると考えられ、それらを総称して、インディアスとされていた。コロンブスも1492年に到達した島をインディアスの一部と信じたので、そこに住む人びとをインディオ(スペイン語。インディアンが英語。)と呼んだ。「インディアスの人びと」つまり、アジアの人びと、という意味であったが、その地が新大陸であることが判明しても、スペインはこの呼び名に固執し、その地を「インディアス」、その住民を「インディオ」と呼び続けた。そして、スペイン統治下のインディオは、スペインのコンキスタドレスによってその文明を破壊され、またスペイン人入植者のエンコミエンダ制による強制労働や、後にはアシェンダ制大農園やプランテーションでの過酷な労働によって急速に人口が減少した。 → インディオの人口減少 ラテンアメリカ社会のインディオ
g トウモロコシ  → 第2章 4節 南北アメリカ文明 トウモロコシ
h ジャガイモ  → 第2章 4節 南北アメリカ文明 ジャガイモ
i タバコ  → 第10章 2節 ウ 三角貿易 タバコ
 ポルトガルとスペインの世界分割 ポルトガルが先鞭をつけ、スペインがそれに続いた新航路と新世界の発見に続いて、この二つの絶対王制国家による「世界分割」が行われた。早くもコロンブスのカリブ海域到達の翌年の1493年、スペインの要請によってローマ教皇が裁定し、教皇子午線(教皇境界線)が設定され、その東をポルトガル、西をスペインが領有することが認められた。それに不満なポルトガルは翌年、直接交渉してトルデシリャス条約を結び、境界線を西にずらした。15世紀末、いち早く絶対王政を成立させた二国が、ローマ教皇の権威のもと、世界分割を行ったと言うことになる。さらに両国の世界分割は、アジアにも及び、1529年のサラゴサ条約で日本を東西に分割する線が定められ、これによって地球は両国によって分割されたことになる。それにしても、まだ見つかってもいない陸地を、勝手に分割してしまう、それもローマ教皇の名ないにおいて、というのは現代から見ればずいぶんとひどい話です。もっとも16世紀にはいると宗教改革の嵐が吹き始め、ローマ教皇の権威は無くなり、イギリスとオランダという新教国がトルデシリャス条約やサラゴサ条約に関係なく新大陸とアジアに割り込んでくることになる。
a 教皇子午線 1493年にローマ教皇アレクサンドル6世が出したスペインとポルトガルの海外勢力圏の分割調停。教皇境界線、植民地分界線ともいう。コロンブスが新大陸に到達した直後から、スペインとポルトガルの勢力圏をめぐる紛争が起こるおそれがあった。そこでスペインはローマ教皇アレクサンドル6世に働きかけ、教皇はスペインに有利なように(アレクサンドル6世はスペイン出身の教皇だった)、アゾレス諸島およびヴェルデ岬諸島の西100レグア(1レグアは約5km)の、洋上の南北を走る子午線(経線)を境界にして、西側に属する海域の陸地をスペインに、東側をポルトガルに、それぞれ権利を認めるとした。しかし当時の経度測定技術では、正確な境界線の設定が困難であったことや、アゾレス諸島とカーボ・ヴェルデ諸島とでは、それぞれの西端に経度で6度の差があり、それぞれから西へ測る100レグアは、きわめて不正確であったために、教皇はこの境界を両国の直接交渉に任せた。そのため両国の活発な交渉の末、結局1494年の「トルデシリャス条約」が締結されて、いちおうの決着がついた。<飯塚一郎『大航海時代へのイベリア』中公新書 1981 p.153>
b アレクサンデル6世 ルネサンス期を代表するローマ教皇であり、また最も悪名の高いローマ教皇でもある。在位1492〜1503年。出身はスペインで、本名はロドリゴ=ボルジア。ボルジア家というのは、権謀術数と毒殺などで競争相手を倒して頭角を現した一族。当時は教皇に選出されると、教皇領の統治者としての富をもち、一族を教皇庁の要職につけたり、高位の聖職者に任命したり、はたまたイタリアの各領主と取引をして領主の地位を与えたり、権力を揮うことができた。アレクサンデル6世も息子のチェーザレ=ボルジア(教皇に子供がいるのが不思議だが、しかも愛人の子と言われている)をヴァレンチノワ公に仕立て、娘のルクレツィアはフェラーラ公などに嫁がせ権勢を揮った。彼の教皇としての仕事は、コロンブスの新大陸への到達に始まるスペインとポルトガルの海外領土をめぐる争いを調停して、1493年に教皇子午線を定めたことである。もっともこれは出身地スペインに有利に調停したので、ポルトガルの反発を受け、翌年は両国が直接交渉してトルデシリャス条約の締結となる。アレクサンドル6世による教皇庁の乱脈は、さすがに教会批判を呼び起こし、おりからルネサンスの全盛期であったフィレンツェではサヴォナローラによる急進的な政治と教会の改革が行われたが、アレクサンドル6世はそれを異端であると断じ、処刑した。
Epi. 情婦を教皇庁に住まわせたアレクサンデル6世 「極端な一族登用は珍しい現象ではないが、アレッサンドロ六世は情婦の存在をも公然と示して、法王位に新たな汚辱を加えた。歴代の法王の多くは自分の一族を厚遇し、インノケンチウス八世はさらに息子とたちをも露骨に登用して、世人を驚かせた。だが、アレッサンドロはこれら二つに加えて、自分の情婦をこれ見よがしに誇示したのである。いわば鉄面皮な悪徳の三位一体であった。美女ジュリア・ファルネーゼの存在は、ローマ市民には周知の事柄であった。彼女は法王の娘ルクレツィア・ボルジアとともに、自分の義母アドリアーナ・デ・ミラの監督下に暮らしていた。ゼノ枢機卿が新築のサンタ・マリア宮殿を彼女たちに提供したのであるが、それはヴァチカン宮殿と同様、サン・ピエトロ寺院に通じる私用のドアを持っていた。法王は娘と情婦を訪問するのに、バシリカ大聖堂を通り抜けさえすればよかったのである。」<マリオン・ジョンソン『ボルジア家』中公文庫 p.130>
c トルデシリャス条約 1494年にスペインポルトガルのあいだで締結された、海外領土の分割に関する協定。西経46度30分を境界線とし、そこから東で新たに発見された地はポルトガルに、西の地はスペインに権利が与えられることいなった。条約締結の地のトルデシリャスはスペインのバリャドリード県にある都市。これは、前年に出されたローマ教皇アレクサンドル6世の示した教皇子午線に不満なポルトガルが、スペインとの直接交渉を行い、さらに270レグア西に移動した新たに境界線を設けることをスペインに認めさせたものである。これは結果的に、南アメリカの東側に突出した部分(ブラジル)がポルトガル領に含まれることになった。18世紀になるとブラジル奥地に金やダイヤモンドが発見されたため、ポルトガル人はさかんにトルデシリャス条約の境界線よりも西方に進出し、ブラジルの領土を内陸に拡大した結果、1750年にはこの条約は効力を失った。
d ブラジル ポルトガルは1494年のトルデシリャス条約で西経46度30分の子午線から東側の陸地について、もしそこに陸地があれば、ポルトガル領とするという権利を得ていたが、その時点ではまだブラジルは発見されていなかった。1500年、インドを目指していたポルトガルのカブラルは、大西洋上で東風に煽られ、西に流された結果、偶然ブラジルの地に到達した。カブラルはこの地が大陸の一部であるとは考えなかったが、結局ブラジルがポルトガル領になる根拠となった。なお、ブラジルという地名は、その地に赤色染料の原料となるブレーズ・ウッド(スオウの木、ブラジルボク)が群生していたところから名付けられたという。ポルトガル植民地としてのブラジルの歴史では、16世紀半ばから17世紀半ばにかけてを「砂糖の時代」という。ポルトガルは、ブラジルに黒人奴隷を大量に導入し、砂糖生産の大農園(ブラジルではエンジェーニョと呼ばれた)を経営した。黒人奴隷を労働力として、輸出用の単一の商品作物を生産する奴隷制プランテーションの最初のものである。砂糖はブラジル経済を支えたが、やがてキューバなどカリブ海域にその生産の中心が移り、ブラジルの砂糖生産は衰えた。次の百年間は「金の時代」という。これは1690年代に内陸のミナスジェライスで金鉱脈が発見され、さらにダイヤモンドも産出することが判明して、ブラジル版ゴールド=ラッシュが起こった。これを機に多数のポルトガル人がブラジル奥地の開拓に向かい、トルデシリャス条約の境界を越えてブラジルの領土は拡大することとなり、1750年にはその条約は廃棄された。ブラジル産の金は18世紀の半ばには世界の総生産量の85%を占め、リオデジャネイロは、金の積出港として繁栄した。19世紀には金、ダイヤモンドともに資源が枯渇し急速に産額が減少し、代わって導入されたのがコーヒーであった。19世紀のブラジルは「コーヒーの時代」と言うことができる<国本伊代『概説ラテンアメリカ史』p.19>。 →ブラジルの独立
B 新大陸の発見  
a カボット イタリアのジェノヴァの生まれの航海者。ジョバンニ=カボートとも表記。1497年、イギリス王ヘンリー7世の公認の下、ブリストル港の商人の資金によってアジアへの航路探検に出発し、コロンブスに次いで大西洋を横断、北アメリカ大陸のノヴァ=スコシア(”新スコットランド”の意味)とニューファウンドランド(”新しく派遣された土地”の意味)に到達した。その海域は、タラの好漁場であったので、海岸に漁業基地が作られ、イギリスやスペイン、ポルトガル、フランスの漁民がタラ漁に進出した。しかし、この時代のイギリスは、植民地を恒常的に経営する力はなかったので、植民地建設の事業は起こらなかった。息子のセバスチャンも航海者として知られ、1544年に世界地図を作製し、1551年にはロンドンとロシアを結ぶ北海航路の開拓にあたった。
b カブラル ヴァスコ=ダ=ガマがインド航路を開拓したのを受け、ポルトガルは直ちに武装船団を送り、その独占を図った。その目的のために1500年にインドに派遣されたのがカブラルである。カブラルはガマの航路に沿って南下したが、途中貿易風に流されて西によりすぎ、南アメリカ大陸の現在のブラジルの東端に漂着した。彼はその地が大陸の一部であるとは気づかず、未知の大きな島と考え、「真の十字架の地」と命名しただけでただちに西に向かい、途中も嵐に苦しみながら喜望峰を回ってアラビア海に入り、カリカットに到着、領主から商館の建設を認められた。しかし、現地で部下が殺されたことから、報復と称してカリカットを砲撃、ここにヨーロッパ勢力のアジアに対する武力攻勢が始まったと言える。カブラルはカリカットの南のコチンで大量の香辛料を買い付け、1501年にリスボンに帰着、インド航路が大きな富を生み出すことを実証した。
c  アメリゴ=ヴェスプッチ イタリアのフィレンツェ出身の航海者。1497年、1499年、1501年、1503年の4度、新大陸を探検し、『4回の航海』といいうパンフレットを発表して、彼の地を新大陸であると主張した。1507年にドイツの地理学者ヴァルトゼーミューラーが彼の名を冠して新大陸を「アメリカ大陸」と呼んでから、その名が新大陸名として用いられるようになった。
d アメリカ大陸 1507年、ドイツの地理学者でフランスノストラスブール大学の教授であったマルティン=ヴァルトゼーミュラーは、フランスのサン・ディエでプトレマイオスの『世界誌入門』を刊行、その中でアメリゴ=ヴェスプッチの『4回の航海』のラテン語版とそれによった世界地図を取り入れた。その地図にはじめて、新大陸を書き込み、1497年に最初に新大陸に到達したアメリゴのラテン名アメリカスにちなんで「アメリカ」と命名することを提唱した。スペインは正式には「インディアス大陸」としていたが、このアメリカの方がまたたくまに普及してしまった。<増田義郎『大航海時代』ビジュアル版世界の歴史 講談社 p.68 図版解説 などによる>
Epi. 「アメリカ」の命名の疑惑 新大陸が「アメリカ大陸」と呼ばれるようになったのは上述の通りであるが、アメリゴ=ヴェスプッチの主張は疑問視されている。アメリゴは1497年に新大陸を最初に探検したのは自分だといい、それはコロンブスが大陸そのものに達した第3回の航海の1498年よりも早かったと主張したのだが、どうやらアメリゴが大陸を探検したのは1499年のことであったらしい。従って新大陸への最初の到達者はやはりコロンブスと言うことになる。ヴァルトゼーミュラーも誤りに気づき、1513年に出版した世界地図では、この大陸を「未知の大陸」(テラ・インコグニダ)と表記した。しかし、「アメリカ」という地名は一人歩きし、消えることがなかった。一方コロンブスは、生涯この地を新大陸とは考えなかったので、その名を大陸の名前に残すことはなかった。わずかに南米大陸の一部、コロンビアがその名をとどめているだけである。<21世紀研究会編『地名の世界地図』文春新書 2000年 などによる>
e バルボア ポルトガルが東回りでインドに到達し、香料貿易の独占を図ったのに対し、スペインは西回りでアジアに到達する計画を進めた。フェルナンド王は、新大陸からアジアに抜ける海峡を発見するため、何度か探検隊を派遣した。メキシコ湾と南米大陸北岸の探検が続けられたが海峡は見つからなかった。1513年、探検隊に参加していた一人のバルボアは、現地の人から、「南の海」のかなたに黄金の国がある、という話を聞いて、パナマ地峡を横断し、初めてその先に大洋があるのを目撃した。これがヨーロッパ人が太平洋を見た最初であったが、太平洋に抜ける海峡は発見できなかった。バルボアは後に反逆の疑いをかけられ処刑された。なおその後1519年に太平洋側にパナマ市が建設される。パナマはスペインの南米大陸進出の拠点とされたが、1671年にイギリスの海賊ヘンリー=モーガンによって破壊される(古パナマ)。現在のパナマは後に建設されたもの。1914年にパナマ運河が開通した。運河の太平洋側には、「バルボア」という町がある。
Epi. 猟犬に金を与えた反逆者バルボア バルボアは太平洋の発見者として名高いが、人物としては評判が悪い。ステファン=ツヴァイク(20世紀前半に活躍した伝記作家)によれば、「英雄であり、盗賊であり、冒険家であり、反逆者であるヌニェス・デ・バルボア」ということになる。その著『歴史の決定的瞬間』の一節「不滅のなかへの逃走−太平洋の発見」によると、バルボアは一攫千金を夢見てエスパニョーラ島に渡ったが、そこで借財を作り(新大陸に渡った多くのスペイン人がそうだったが)、「箱に隠れて」船に紛れ込んで大陸に渡り、ダリエンというところで現地の役人を追い出して実権を握った人物である。バルボアたちが黄金を奪い合うのを見た現地の酋長が、そんなものは山を越えたところにある海の南の方の国では食器に使っている、という話を聞いて、探索に出かけ、新しい海を発見した。そこでも現地人を虐殺し、金や真珠を手にしたが、その獲物を部下に山分けにするとき、現地人をかみ殺した手柄があったというので猟犬にも金を与えたという。スペイン本国から派遣された総督ペドラリアスは、バルボアを反逆罪で処刑してしまった。<ツヴァイク『歴史の決定的瞬間』1943 みすず書房 による>
C 世界周航  
a マゼラン(マガリャンイス) ポルトガル人であるが、スペインカルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝カール5世)の命によって、1519年西回りでアジアに到達するルートの開拓に向かい、途中彼自身はフィリピンで命を落としたが、その船団が1522年にスペインに帰り、人類で最初に世界周航に成功した。マガリャンイス(またはマガリャンエス、マガリャエンシュ)はポルトガルの発音。英語でマゼラン(またはマジェラン)。
マゼラン(フェルナオ=ディ=マガリャンイス)の前半生は謎が多いが、ポルトガル人ではじめアルブケルケの部下としてマラッカ攻撃に加わったり、香料の宝庫であるモルッカ諸島についての情報を持っていたらしい。しかし何らかの理由でポルトガルから離れ、スペインのカルロス1世に西回りでのモルッカ諸島へのルート開拓を提案し、認められて契約した。1519年8月に5隻237人でセビリアを出航、南米大陸の海岸沿いに南下した。1520年冬には3か月の越冬を余儀なくされ、10月に大陸とフェゴ島のあいだの狭い海峡にさしかかった。その間、船団の1隻は難破し、1隻は脱走してスペインに戻ってしまった。ようやく海峡(これがマゼラン海峡といわれる)を通過し、初めて大洋に乗り出し、それを太平洋と名付けた。一路西に向かい、途中グアム島をへて、1521年3月に太平洋の西端に位置する島々に到達した。その地は後に皇太子フェリペにちなんで、フィリピンと名づけられた。マゼランはセブ島で、対岸のマクタン島の首長ラプラプとの争いに巻き込まれ、殺された。残った3隻はモルッカ諸島に向かい、21年11月に到着した。しかし、モルッカ諸島の一角にはすでにポルトガル船が到達していた。この間、船団はついにビクトリア号1隻になってしまったが、セバスティアン=デル=カーノの指揮で、インド洋を通過、喜望峰をまわって1522年9月8日、セビリアに入港した。乗組員は18人に減っていた。
Epi. マゼランの黒幕フッガー家 マゼランはポルトガル人であるが、その航海は純然たるスペインの事業であることに注意する必要がある。ときのスペイン王カルロス1世は、神聖ローマ帝国皇帝に選出されたばかりであったが、その際、選帝侯を買収する資金をドイツのフッガー家などの大財閥に依存したことは有名な事実である。カルロス1世はポルトガルに対抗して西回りでアジアに到達しようとしてマゼランと契約し、必要な経費の4分の3を提供したが、の費用1万ドゥカードもフッガー家から借金したものであった。フッガー家がマゼランの航海に出資したのは次のような事情があった。ポルトガルのインド航路開拓によって経済の中心地がリスボンに移ったので、フッガー家はリスボンに進出を図ったが、そこではジェノヴァやフィレンツェの商人に利権を抑えられていたため、やむなくスペインと結ぼうとしたのである。フッガー家の代理人のクリストバル=デ=アロは、スペイン宮廷で新世界開拓の責任者であったロドリゲス=デ=フォンセカに取り入り、彼と相談してマゼランを採用することを決めた。このように、マゼランの航海には、フッガー家の利害が深く関わっていた。
b スペイン  → スペインのアジア進出
c マゼラン海峡 南米大陸の最南端、フェゴ島と大陸の間にある狭い水路。新大陸の向こう側の海に抜けることのできる海峡を探していたマゼランは1520年にこの水路を発見、1ヶ月をかけて通過し、太平洋に出ることに成功した。マゼランは南の陸地はまだ続いていると考え、この海峡が太平洋に出る唯一のルートだ意味を過大に評価していたが、それから58年後の1578年にイギリス人のドレークが南米大陸最南端のホーン岬と南極大陸から突き出た南極半島の間の海峡(ドレーク海峡)を発見した。ホーン岬をまわるコースは、現在でも海上の難所となっている。
Epi. マゼランの「みやげ」 マゼランたちが到達したとき、南米大陸最南端の地は無人地帯ではなく、いくつかのインディオ部族が狩猟や漁労の定住生活を送っていた。マゼラン一行は現在のブラジルからパラグアイ、アルゼンチンと続く海岸を大陸の西への出口をさがして南下していったが、1520年の冬の3ヶ月間、現在のアルゼンチンのサンフリアンで越冬した。この地にはチュニク人という身長が高く、足の大きな人たちが住んでいた。この地をパタゴニアというのは「大きな足の人」を意味するパタゴンからきている。マゼランはチュニク人の男二人を欺して捕虜にし、スペイン皇帝への「みやげ」に連れて帰ろうとした。しかし、二人とも長い航海の末、壊血病で死んでしまった。またマゼラン海峡の大陸の反対側にフエゴ島がある。夜の航行中、乗組員が島の住民の燃やすく「おびただしい烽火」を見たところから、火を意味するフエゴと名付けられた。その住民はセルクナム人といい、狩猟などをしながら暮らしていた人々だった。これらの人々は、後に入植してきたスペイン人によって追い立てられ、殺されるか、病気になるが、アルコール中毒になるかして死んでしまい、現在では純粋な現地の人は絶滅してしまった。<本多勝一『マゼランが来た』1989 朝日新聞社刊 p.33-162>
d 太平洋 マゼラン海峡を抜けたマゼランは、未知の大洋に初めて乗り出した。グアム島に到着するまで約4ヶ月の苦しい航海であったが、その間、嵐には一度もあわなかった。そこでマゼランはこの海を、ラテン語で Mare Pacificum (「平穏な海」の意味)と名付けた。ここから英語で Pacific Ocean と言われるようになり、それを日本語訳したのが「太平洋」である。なお、大西洋は Atrantic Ocean という。
e フィリピン(16世紀)7100あまりの島々からなる南シナ海と太平洋にはさまれた国。1521年、スペインの派遣したマゼラン船団がその一つ現在のスルアン島に到達した。マゼランはセブ島に至り、その日が聖ロザリオの日だったので、「聖ロザリオ諸島」と名付けた。彼はセブ島の首長に貢納とキリスト教への改宗を強制することに成功したが、服従を拒否した対岸のマクタン島の首長ラプラプを討とうとして、かえって殺されてしまった。当時のこれらの島々には首長の率いる多くの部族が分かれており、南部のミンダナオ島などにはイスラーム教が伝えられていた。後に1543年、この地に来たスペイン人が時の皇太子(カルロス1世の子、後のフェリペ2世)の名にちなみ、フィリピンと名付けた。その後、1565年にメキシコから太平洋を渡ってきたスペイン人のレガスピはセブ島に上陸し、東洋最初のスペイン人の町を築き、セブ島首長と条約を締結して正式にスペイン領とした。その同僚のウルダネーダは大圏航路をとってメキシコの太平洋岸のアカプルコの港に帰り、初めて大西洋の往復に成功した。こうして太平洋を往復するメキシコ←→フィリピンの航路が開拓され、レガスピは1571年6月にルソン島にマニラ市を建設、以後はマニラ←→アカプルコ間の定期航路が開かれた。この航路には大型のガレオン船が使われ、ガレオン貿易とも言われ、18世紀末まで継続して繁栄した。 → スペインのフィリピン支配
 ラプラプ フィリピンの一首長で、1521年、マゼランの率いるスペイン兵との戦いに勝ち、マゼランを殺した。現在でもフィリピンでは国民的英雄として名高い。フィリピンのセブ島に現れたマゼランは、大砲を撃ち放ちて威嚇した後に上陸し、首長フマボンに対し食糧の貢納とキリスト教への改宗などを要求した。恐れたフマボンは食糧を供給し、一族をあげて約500人がキリスト教の洗礼を受けた。さらに周辺の首長に対してセプ島首長への服従を迫った。ところがセブ島の対岸の小島マクタン島の首長ラプラプはその要求をはねのけ、「予が服従するのはわが同胞だけだ!」と言い放った。マゼランはマクタン島を砲撃したがラプラプは弾の届かないところに島民を避難させていた。島に近づいたが珊瑚礁のため海岸に近づけず、冷静さを失ったかマゼランはわずか49名の兵士を率いて海に飛び込み上陸した。待ちかまえたラプラプは周辺からの応援も得て約1500人で襲いかかった。マゼランは毒矢に右足を射られて歩けなくなったところを、ラプラプの振り下ろした杵の一撃で殺された。英雄ラプラプの像は現在、マクタン島の浜辺に建てられている。また合戦の様子は、現在でも毎年同じ4月27日のマクタン島の祭りで再現されているという。<本多勝一『マゼランが来た』1989 朝日新聞社刊 p.14-31>
f サラゴサ条約 1529年にスペイン(カルロス1世)とポルトガルの間で締結された、アジアにおける両国の勢力範囲の協定。この条約で、スペインはモルッカ諸島の権益を放棄し、ポルトガルに譲渡した。スペインはマゼランを西回りでマラッカ海峡に向かわせ、その船団はマゼラン死後、1521年にマラッカ諸島に到達し、その一つティドール島に51名のスペイン人を残してスペインに帰った。ポルトガルは、すでに1514年にこの島に到達し、同じ21年にはテルナテ島に要塞を築くことを認められていたので、トルデシリャス条約に基づきモルッカ諸島の占有権を主張し、スペインのカルロス1世にモルッカ諸島から手を引くよう要求した。スペインは、対抗上、後続船団を西回りでモルッカに向かわせたが、問題が生じた。それはアフリカやインドに基地を持たないスペインは、西回りでモルッカに到達した場合、そこから引き返し太平洋を東に向けて進まなければならなかったが、東風の貿易風にさからって進むことは困難で、何度も失敗した。そこでカルロス1世は、採算の合わないモルッカ諸島進出をあきらめ、スペイン議会(コルテス)の反対を押し切り、ポルトガルと取引し、35万ドゥカーデと引き替えにその権利を譲渡し、両国の勢力分割線を同諸島の東297.5レグアの子午線と定めた。それがサラゴサ条約であり、これによってスペインのアジア支配はフィリピンに専念することとなる。そのスペインが太平洋の東への横断ルートを発見し、メキシコ←→フィリピン間の往来(いわゆるガレオン貿易)を可能にするのは1560年代である。
g モルッカ諸島 モルッカ諸島(現在はマルク諸島という)は、インドネシアのスラウェシ島とニューギニア島にはさまれた赤道直下の海域に点在する。香料の中でも丁香(丁子、クローブのこと)と肉ずく(ナツメグのこと)の原産地でここでしかとれない、貴重な香料であったので香料諸島と言われ、ポルトガルとスペインはいずれもこの地の香料の独占を図った。まずポルトガルが1511年にマラッカに進出して拠点を作り、モルッカ諸島を目指した。ポルトガル船は南のアンボイナ島に到着した後、その一部が漂流してモルッカ諸島の一部テルテナに漂着し、その地の首長から来航を認められ、1514年から商船を派遣し始めた。また1521年にはその島に要塞を気づくことを認められた。一方スペインは、西回りでモルッカ諸島に到達することを目指し、1519年にマゼランを派遣、その船団の一部がようやく1521年にモルッカ諸島の一つティドール島に到達した。しかし、スペインから西回りでモルッカに至るには大西洋と太平洋という二つの大洋を横断する必要があり、また帰路は東風の貿易風に遮られて進めず、結局モルッカ諸島を放棄、1529年のサラゴサ条約でポルトガルに譲渡した。この諸島へは17世紀にはオランダとイギリスも進出、1623年のアンボイナ事件以後は、オランダの覇権が確立する。
E スペインによる新大陸征服  
a 征服者(コンキスタドール)  
b コルテス スペイン人のコンキスタドール(征服者)の一人で、アステカ王国(現在のメキシコ)を征服した人物。1519年、兵500、馬16匹、銃約50丁、砲14門を率いてメキシコに上陸、さらに北のアステカ王国に迫った。当時アステカ王国は王モクテスマが治めていたが、王はコルテスに対し、金銀の細工品や砂金を土産に持たせ、退去を要請した。しかし、コルテスは、アステカに対立していた諸部族を味方につけ都テノチティトランを攻撃した。王モクテスマは呪術によってスペイン軍の進撃を阻止しようとしたがうまくいかず、コルテスは都に入り、王を監禁した。アステカ人が蜂起したため、コルテスはいったん都から逃れたが、1520年、再び450人のスペイン兵と、1万の反アステカ勢力とによって首都を包囲、焦土と化して戦闘は終結した。コルテスは破壊した都テノチティトランの廃墟の上に、新しいスペイン人の都市メキシコを建て、旧アステカ王国領土は、「新スペイン(ヌエバ・イスパニア)」としてスペイン王の領土となった。
c アステカ王国の滅亡  →第2章 4節 南北アメリカ文明 アステカ文明
d ピサロ スペイン人のピサロは、パナマ地峡を発見したバルボアの副官だった人物で、バルボアに続き、南の海(太平洋)の彼方にある黄金帝国を探すために、パナマから南アメリカ大陸探検に乗り出した。何度か失敗した後、1532年に現在のエクアドルに上陸、そこから南下してペルーのインカ帝国領内に入った。インカ帝国は高度な国家機構を持ち、道路網も整備されていたので、ピサロの率いるスペイン軍も進撃しやすかった。スペイン軍はカハマルカでインカ王アタワルパの陣に対面し、従軍司祭がアタワルパにキリストの教えを受け入れるかと問い、聖書を手渡した。インカ王がそれを投げ出すと、この「冒涜」を口実に、火砲と騎兵で武装されたスペイン兵の攻撃が開始され、わずか3分ほどで2000人以上が殺され、王も捕らえられ、後に処刑された。これでインカ帝国は滅亡した。その年、1533年にはピサロは首都クスコに無抵抗で入り、それとは別に海岸部に新都リマを建設した。クスコは後にインカ帝国の傀儡皇帝であったマンコ=インカが反乱を起こした際、破壊された。
Epi. 過去を語りたがらぬ男、ピサロ フランシスコ=ピサロは大発見時代の征服者(コンキスタドーレス)の人間像の典型といえる。その素性はよくわかっていないが、1471年前後にスペインのエストレマドゥラで生まれ、父は歩兵大佐であったが母は街の売笑婦であったと伝えられている。彼は読み書きを習ったことが無く、豚飼いが本職であった。コロンブスによる「発見」以来、一旗組(アベンツレーロス)が続々と新大陸にわたったが、ピサロもその一人となった。パナマで太平洋の発見者バルボアの部下となったが、バルボアが1515年に逮捕された時に総督と知り合う機会を得て、バルボア死後は総督の軍事遠征に加わり、頭角を現した。1524年から太平洋岸を南下してペルー上陸を企て、何度かの失敗の後、「黄金郷」インカ帝国の存在を確信し、いったんスペインに戻って国王カルロス1世(ハプスブルク家のカール5世)に面談してその可能性を説き、1529年に(征服前の)ペルー総督に任命され、国家事業としてのインカ帝国征服の指揮権を得た。こうしてピサロは征服者として大成功を収め、新たな首都リマを建設した。1536〜37年には傀儡皇帝であったマンコ=インカの反乱を鎮圧したが、かつての仲間であったアルマグロと対立して内戦となり、彼を殺害した。ところが1541年、リマの私宅にいたピサロはアルマグロの息子に暗殺されてしまった。<泉靖一『インカ帝国』1659 岩波新書 p.231-258>
e インカ帝国の滅亡 南米大陸のアンデス文明の中でひときわ繁栄していたインカ帝国は、1833年、征服者ピサロに率いられたスペイン軍によって征服され、滅亡した。
ピサロ、インカ皇帝を捕虜とする:ピサロがペルー総督の肩書きで遠征軍を率いて太平洋岸に上陸した1832年には、インカ帝国では激しい皇位継承の内戦に勝ったアタウワルパが即位した直後であった。完全武装したスペイン軍の上陸に対し、アタウワルパは当然警戒したが、神託を占ったところ、しばらく静観して監視を続けよという答えだったので、迎え撃つことをしなかった。ピサロは、歩兵110名、騎兵76名、火縄銃13丁などで武装し、1532年11月15日、アタウワルパの大本営のおかれたカハマルカに入った。アタウワルパは金色の玉座に腰を下ろし、400人の高官を従えてピサロの使節を迎えた。使節はキリスト教の布教のための平和使節であると称した。皇帝は自分に対して服従しない部族の征服に協力してくれまいか、と問うと使節は「お安いご用です」とこたえ、翌日、返礼のためにピサロと面会することとした。翌日ピサロはカハマルカの広場でアタウワルパを迎えると、家の中に請じ入れ、ドミニコ会修道士が皇帝がキリスト教に改宗することを求めて聖書を差し出した。アタウワルパは怒って拒否し、聖書の一部を破り捨てた。その瞬間、広場の周囲に隠れていたスペイン兵が一斉に射撃を開始し、広場で待機していた武器を持たないインディオを次々と射殺、広場は一瞬のうちに殺戮の場と化した。室内のアタウワルパと高官も抵抗したが、ピサロは彼の頭髪をつかんで引き倒し、捕虜にしてしまった。
インカ皇帝の処刑:幽閉されたアタウワルパは、ピサロに部屋一杯の金銀を与えるから釈放してほしいと申し出、ピサロは承諾したように見せかける。皇帝の命令で全国から金銀細工が次々と運ばれてくると、スペイン人はかたはしから融かして金銀の延べ棒にしてしまった。しかしピサロは、インディオに反乱の動きがあったので、早く処刑してしまおうと決意した。かつて本国でもう一人の征服者コルテスと会ったとき、アステカ帝国征服の経験から、インディオは王が殺されたらたちまち抵抗できなくなるから、まず皇帝を殺すことだと助言されていたからであった。そこで、アタウワルパを形ばかりの裁判にかけ、皇位の簒奪、公金の浪費、偶像崇拝、近親婚(妹を皇后にしていた)、姦淫(一夫多妻)などの罪名で火あぶりの刑にすると判決した。初めは抗議したアタウワルパだったが、スペイン人が許さないと知ると、修道士の改宗したら火あぶりではなく絞首刑にするという勧めに従って、死の直前に改宗し、フランシスという洗礼名が与えられ1533年8月29日、処刑された。インディオは火あぶりにされた者の魂は神のもとに行くことも、この夜に戻ることもできないと信じられていたのだった。<以上、泉靖一『インカ帝国』1659 岩波新書 p.247-258>
その後のインカ帝国:1533年11月15日、クスコに入城したピサロは、インディオの反抗を抑えるため、前々皇帝の息子をマンコ=インカと名付けて傀儡皇帝とした。その上でクスコの神殿や宮殿を破壊し、金銀は徹底的に略奪した。スペイン本国政府はピサロの独走を恐れ、正規軍を派遣してきたのでピサロはそれと妥協し、新たに首都を海岸地方のリマに建設してそこに移った。クスコの傀儡皇帝マンコ=インカは1534年のある夜、脱走して山岳地帯に逃れ、ビルカバンバを拠点にして、先祖のミイラをクスコからこの地の神殿に移してインカ皇帝を名乗り続けた。これを「ネオ=インカ国家」という場合もある。マンコ=インカのもとにインディオの反撃が始まり、18万のインディオが1536年にインカの反乱を起こした。反乱は鎮圧され、マンコ=インカもやがて死んだがその子ティトゥ=クシ=ユパンギが皇帝位を継承した。しかし勢力は次第に弱まり、ユパンギは1568年にキリスト教に改宗、その弟トゥパク=アマルが皇帝となったが、1572年スペイン軍にとらえられて処刑され、インカの皇統は完全に途絶えた。。<ティトゥ=クシ=ユパンギ口述・染田秀藤訳『インカの反乱』 1987 岩波文庫>
最後の皇帝「トゥパク=アマル」の名:トゥパク=アマルの名は、インディオのスペインに対する抵抗の象徴的な名前となり、1780年にはその2世を名乗る人物が反乱を起こし、トゥパク=アマルの反乱といわれている。また現代のペルーで1996年に日本大使館占拠事件を起こしたことで知られる反政府組織もトゥパク=アマル革命運動を名乗った。
f 火砲と騎兵 1532年、スペインの征服者(コンキスタドーレス)ピサロの遠征軍に遭遇したインカ帝国の役人が、クスコの皇帝に報告した以下のことばに、初めてヨーロッパ人を見た彼らの驚きがよく現れている。
インカの人々が見たスペイン兵:「主君。間違いなく、彼らはビラコチャであります。と申しますのも、彼らは風に乗ってやって来たと告げておりますし、また、たいそう立派なひげをたくわえ、肌は白く、銀の食器で食事をしているからでございます。さらにそのうえ、彼らは銀の足をした、とてつもなく大きな羊の背に乗り、まるで天上に轟くようなイリャパを発するからでもあります。主君には、そのように振舞う人たちがビラコチャかどうか、容易におわかりいただけるでありましょう。さらに、私どもは、彼らが白い布きれを手にして独り言をつぶやいたり、誰ひとり何も言っていないのに、ただ目の前にあるその布きれを見ただけで、私どもの仲間の名前をいくつか、間違わずに呼んでいる光景を目の当たりにしたのであります。・・・・」<ティトゥ=クシ=ユパンギ述/染田秀藤訳『インカの反乱』 1987 岩波文庫 p.29-30>
ビラコチャとは、創造神という意味で太陽も含めてあらゆる神の上位にいると考えられていた神。「銀の足をした大きな羊」とは、蹄鉄を装着した馬のこと。「天上に響くようなイリャパ」とは雷のことで、つまり火砲(火縄銃)を指している。そして「白い布を見て名前を呼ぶ」とは、スペイン人が紙の上の文字を読み上げたことで、紙や文字を知らないインディオには不思議な光景と写ったのだった。
インカの反乱 実質的なインカ帝国の滅亡(1533年)以後もその残存勢力がインディオを率いて、ペルー総督ピサロなどスペインの征服者に対する抵抗が続いた。その最大のものが1536〜37年に、皇帝マンコ=インカがくわだてた反乱で、マンコ=インカの反乱ともいう。マンコ=インカは1533年に皇帝アタウワルパが殺害されてからピサロによって擁立された傀儡皇帝であったが、翌年クスコを脱出し、アンデス山中のビルカバンバを拠点に勢力を保持していた。しばしばピサロなどスペイン人と交渉し、和平を実現しようとしたが、スペイン人側は際限なく金銀や女性の提供を要求したので決裂し、ついに反乱を決意し、1536年にクスコを包囲した。しかしスペイン軍の火砲、騎兵によって敗れ、翌年までに反乱は鎮圧された。しかしその後も、マンコ=インカの子のティトゥ=クシ=ユパンギが皇帝位を継承して抵抗を続け、その死後の1572年に最後の皇帝トゥパク=アマルが捕らえられて処刑され、インカの反乱は完全に終焉した。1570年2月、ティトゥ=クシ=ユパンギはスペイン国王フェリペ2世に対し、ピサロによって征服されてからのペルーの惨状を告発し、自らキリスト教に改宗するなどの妥協を行ってインカ帝国の存続を訴えた。その時の彼の口述書がスペインに残されており、日本語訳を読むことができる(『インカの反乱』岩波文庫)。そこにはスペイン人をビラコチャ(神)だと思って信頼して受け入れたにもかかわらず、ことごとく裏切られて金銀を奪われ、国土まで奪われた皇帝の悲哀が物語られている。ただし、背景にはインカ帝国の帝位をめぐる同族の争いがあり、スペイン人と結んで優位に立とうとした面もあって、 細部には自分の弁護に有利なように事実を違えて述べたところもあるようだ。<ティトゥ=クシ=ユパンギ述/染田秀藤訳『インカの反乱』 1987 岩波文庫 およびその解説による>
g インディオの減少 スペイン統治下のインディオは、スペインのコンキスタドレスによってその文明を破壊され、またスペイン人入植者のエンコミエンダ制による強制労働や、後にはアシエンダ制大農園やプランテーションでの過酷な労働によって急速に人口が減少した。またヨーロッパからもたらされた天然痘やインフルエンザなどの病原菌もインディオの減少の一因となった。彼概説書によれば、カリブ海域ではコロンブスの到来の頃に約300万人いたインディオは、その後の約30年で10万人までに減ったと推定される。アステカ王国のメキシコでは約2500万人だったのが、征服から100年後の1625年頃にはわずか100万に激減、インカ帝国の地域は約1200万人が約半世紀間に5分の1まで減少した。<国本伊代『概説ラテンアメリカ史』2001 新評論 p.33>
スペイン人によるインディオに対するすさまじい酷使と虐待は、スペイン人のラス=カサス神父の著作『インディアスの破壊についての簡潔な報告』<同書は染田秀麻呂訳の岩波文庫>で読むことができる。
h ラス=カサス ラス=カサスはスペインのドミニコ派宣教師で、アメリカ新大陸でのスペイン人によるインディオに対する不当な扱いを告発し、エンコミエンダ制の廃止をスペイン王カルロス1世に訴えた人物で「インディオたちの保護者」と言われる。彼の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』は、当時のインディオの状況を知る上で大切な史料となっている。これは1542年に、ラス=カサスがカルロス1世の面前で開かれた審議会で発表した意見を記したものである。カルロス1世はこの意見に動かされ、エンコミエンダ制の見直し約束したが、その廃止に反対する勢力も強く、撤廃はできなかった。
ラス=カサスは若い頃、自身でも1502年のスペイン人オバンドのエスパニョーラ島遠征に参加し、植民に従事し、現地の状況をつぶさに見ていた。1507年からは聖職に入り、同島やキューバ島、メキシコなどで布教につとめながら、インディオの保護にあたった。また、彼はインディアスの歴史をまとめる際に、コロンブスの航海日誌を利用し、その抄録を残した。コロンブスの航海日誌の原物は紛失したので、彼の残した『コロンブス航海誌』はコロンブスの航海の重要な資料となっている。
植民地 
エンコミエンダ制 → エンコミエンダ制
黒人奴隷(16〜17世紀)16世紀の初め、西インド諸島、中南米のスペイン人入植地による農園や鉱山の経営で、インディオが酷使されたために人口が減少し、その労働力不足を補うために、アフリカの黒人を奴隷として使役した。1501年の宣教師ラス=カサスの提言に始まる、とされる。その後、黒人奴隷貿易はスペインの主要な品目となり、大々的に展開され、多数のアフリカ人が奴隷として新大陸に連行されていった。奴隷貿易はスペインの特許事業であり、1517年にカルロス1世が、年間4000の黒人奴隷を供給する特権(それをアシエントという)をフランドル人に与え、さらにその特権はジェノヴァ商人に売り渡された。ついでアシエントは1640年までポルトガルの手にあり、その後オランダの手に渡り、1701年にはフランスの手に移りったが、最終的にはスペイン継承戦争後の1713年のユトレヒト条約でイギリスに移った。 → 黒人奴隷(18〜19世紀)
アシエントスペイン国王が、アフリカの黒人を黒人奴隷としてアメリカ大陸のスペイン領に送ることを認めた「奴隷供給契約」。最初は、1517年に、カルロス1世が、フランドル人に与え、その後ジェノヴァ商人がその権利を買い取った。それによると、年間4000人の黒人をアメリカ大陸に送ることができた。さらにスペイン王室は1595年には新大陸の自国領への奴隷貿易にかんし、従来の許可制に代わって独占的請負制を導入した。このアシエントと呼ばれるスペイン領への奴隷供給契約は、1640年までポルトガルの手にあり、その後オランダの手に渡り、さらに1701年にはフランスの手に移った。スペイン継承戦争後、1713年のユトレヒト条約で、フランスからイギリスにアシエントの権利を譲渡された。これによってイギリスは奴隷貿易に乗り出し大きな利益をあげた。次第にスペイン領植民地への奴隷供給よりは、イギリスの北アメリカの自国領土への供給が重要さを増していった。
アシエンダ制 → 第10章 2節 アシエンダ制
プランテーション → 第10章 2節 プランテーション
ウ.商業革命と価格革命
a 世界の一体化  
1 商業革命 16世紀の大航海時代に、ポルトガルによるインド航路の開発にともなう直接的な香辛料貿易、スペインによるアメリカ新大陸の征服にともなう銀の大量流入などによってヨーロッパにおこった貿易・商業のありかたの大きな変化を商業革命という。その要点は、
 1.商業圏の世界的規模で拡大し、アジア・新大陸におよんだこと。
 2.世界経済の中心地域が、従来の地中海周辺から、大西洋沿岸に移ったこと。
 3.従来の高利貸し的な金融業者が没落し、都市での金融システムが形成されたこと。
 4.銀の大量流通によって物価が上昇し、地代に依存する領主階級の没落を決定的にしたこと(価格革命)。
とまとめることができる。
具体的には、北イタリアのヴェネツィアなどの商業都市国家の繁栄は終わり、内陸の南ドイツやシャンパーニュ大市などの地位も低下し、かわってヨーロッパ経済の新たな中心地として登場してリスボンアントワープが進出した。また中世以来のフッガー家やメディチ家など旧来型の金融財閥は没落(または変質)した。このような変化は政治的には、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国の支配のもとで展開されたが、この段階では経済の発展に対して国家機構が十分に対応することができず、17世紀にはいるとポルトガル・スペインが没落し、かわって主権国家としての体制をつくりあげたオランダとイギリスが台頭し、世界経済の中心もアムステルダムとロンドンに移り、リスボン、アントワープは衰退する。
a 地中海  →第1章 2節 地中海 
b 大西洋岸  
アントワープ アンヴェール、アンヴェルス、またはアントウェルペンともいう。現在はベルギーに属する。フランドル地方の北端にあたる商業都市の一つとしてハンザ同盟に加盟していた。15世紀からはブルゴーニュ公の領地となり、1506年には相続によってハプスブルク家のカール(後のカール5世)の領地となった。またフランドル地方の毛織物業の積出港として、また原料の羊毛をイギリスから輸入する港として栄えた。16世紀にはイギリスからの毛織物製品の輸入が急増し、さらに16世紀はじめから展開された大航海時代には、リスボン経由のアジアの香辛料や、新大陸からの銀などがこの地に集積されるようになり、いわゆる商業革命によって、リスボンとともに最大の貿易港として繁栄することとなった。
しかし、オランダ独立戦争に際し、1576年にスペイン軍によって略奪されて衰え、さらに1585年には破壊され、プロテスタントの商人はアムステルダムに逃れた。そのため、アントワープは衰退し、世界経済の中心地はアムステルダムに移った。
c 資本主義的世界経済 15世紀後半から16世紀にかけて成立した「資本主義的世界経済」とはどのような概念か、それを提唱しているウォーラーステインの説明を見てみよう。ウォーラーステインに拠れば、1150年頃から1300年頃にかけてのヨーロッパでは封建的な生産関係の枠内でではあったが、地理的にも、商業面でも、人口の点でも発展が認められた。1300年頃から1450年頃にかけては、地理的にも商業的にも、人口の点でも、逆に収縮の方向に向かった。この収縮は、政治面でも戦争と農民叛乱という「危機」を生んだ。この「封建制の危機」は、長期趨勢の変化(1000年にわたる封建的生産様式のもとで経済的余剰の収奪が続いた結果、生産性が低下したこと)と短期の循環性危機(景気循環の一局面)と気候の悪化(による生産性の低下と疫病の蔓延)の「複合体」である。この複合体の強力な圧力のもと、深刻な社会変化が起こり、ヨーロッパで経済的余剰の新たな収奪形態として生み出されたのが資本主義的「世界経済」である。それは、「貢納」(古代の世界帝国の場合はこの形態をとった)や「封建地代」(ヨーロッパの中世に見られた)の形態をとる直接的収奪ではなく、はじめは農業の、ついで工業の高い生産性を前提としたもっと効率のよい余剰収奪形態である。それはまた、世界市場のメカニズムに依存してはいるものの、国家機構という「人工的」(つまり非市場的な)手段を援用するものである。このような資本主義的「世界経済」の確立にとって、決定的な意味を持つ条件が三つあった。すなわち、当該世界の地理的規模の拡大と「世界経済」が生み出す多様な生産物、「世界経済」を構成する各地域に適した多様な労働管理の方法の開発、さらに(来るべき資本主義的「世界経済」の中核国家となるはずの)比較的強力な国家機構の創出、がそれである。(それを最初に実現したのがポルトガルであった。)<I.ウォーラーステイン、川北稔訳『近代世界システムT』1974 岩波現代選書 p.40〜42より要約> → 近代世界システム  資本主義経済の成立  資本主義社会
2 価格革命 スペインが新大陸を征服し、ポトシ銀山などを支配することによって、16世紀の中ごろから、大量のがスペインを経由してヨーロッパにもたらされた。その結果、物価が急上昇し、およそ2〜3倍に高騰した。このように急速に価格が上昇した(いわゆるインフレーション)ため、地代収入に依存している領主階級の没落を決定的にし、封建社会の崩壊を早めた。特に西ヨーロッパでの穀物が不足し価格が上昇したことはドイツ東部やポーランドやハンガリーなど東ヨーロッパの穀物需要を増大させ、領主による再版農奴制を成立させる背景ともなった。ただし、現在では16世紀の物価上昇の原因は、銀の流入ではなく、急激な人口増加にあったと考えられている。
価格革命の真相 ポトシ銀山が産出する銀は、フェリペ2世時代のスペインの国力の象徴となったばかりか、ヨーロッパの経済をも左右した。16世紀から17世紀半ばの160年間で、ヨーロッパの銀の保有量の三倍には匹敵する銀が、アメリカからスペインのせビーリャ港に運ばれたと推定されている。アメリカの経済学者E.J.ハミルトンは、1929年にアメリカからもたらされた大量の銀が西ヨーロッパの価格を、16世紀の100年間でほぼ5倍にするという影響を与えたことを立証し、そのテーゼは「価格革命」 Price revolution として有名になった。16世紀のヨーロッパが極端なインフレの時代であったことは疑いないが、その原因をアメリカから流入した銀にあったというハミルトンのテーゼは、今日では支持されていない。仮に対象をスペインに限定しても、流入した銀の量とスペイン国内の物価指数の相関関係が見られないからである。イングランドでも物価が5倍になっているが、これはヘンリ8世が王室財政を救済するために貨幣悪鋳政策を採ったためである。アメリカ銀の流入が犯人でないとすれば、16世紀の長期的なインフレの真犯人は何なのか。近年の人口史の研究によれば、16世紀のヨーロッパは急激な人口増加の時代であり、ロシアを除くヨーロッパでほぼ2倍の8500万になったと推定されている。増加する人口に、食糧供給が追いつかない。労働力が過剰になったから、賃金は物価に比べて半分程度しか上昇しなかった。長期的なインフレの原因は、ヨーロッパの生産力を上回る過剰人口にあったらしい。それでは、スペインの銀はどこに消えたのか。スペイン宮廷の奢侈のため浪費されたというのは誤解であって、実はスペインが抱えていた戦争のための戦費として使われたのだった。オランダおよびイギリスとの戦争に加え、地中海でのオスマン帝国との戦争での出費がスペイン財政の最大のものであり、カルロス1世およびフェリペ2世は税収と、アメリカからの銀でまかなっていたのだが、それでも不足してヨーロッパの銀行家から多額の借金を抱えていた。そのため、たびたび破産宣言して、借金の支払いを停止しなければならなかった。<大久保桂子『世界の歴史』17 1997 中央公論社 158-170>
a ポトシ銀山 1545年に発見された南アメリカ大陸、スペイン植民地のペルー副王領の銀山。現在はボリビアに属する。スペインは、入植者のエンコミエンダ制によるインディオの強制労働で経営し、採掘した銀を本国に送った。こうしてもたらされた銀はヨーロッパの価格革命をもたらしたと言われる。また、16世紀後半以来、中国貿易でも使われ、大量のスペイン銀として流入し、明での銀の流通をもたらした。17世紀末にはメキシコ銀にとってかわられた。
b 銀(西洋)金と並んで古くから貴金属として尊重され、貨幣の原料とされてきた。最も古い銀貨はリディアの銀貨とされ、その影響を受けたギリシアでも銀貨が鋳造された。中世ヨーロッパでは南ドイツのアウクスブルクが銀の産地として知られ、その銀山を所有したフッガー家が巨大な富を築いた。しかし大航海時代に入り、スペインが新大陸のポトシ銀山などを開発、次いでメキシコ銀が大量にヨーロッパにもたらされ、価格革命がもたらされた。メキシコ銀は太平洋貿易を通じてスペイン商人によってスペイン銀貨として中国にももたらされたが、商業の発展にともなう銀貨の流通増のため、スペイン銀貨では不足し、石見銀山を産地とする日本銀も中国に輸出され重要な役割を果たした。 → 中国(明)の銀
c メキシコ銀  → メキシコ銀
封建領主(貴族)の没落  
3 ヨーロッパ東西での分業体制  → 近代世界システム 参照
a 西ヨーロッパ地域  
b 東ヨーロッパ地域  
c 農場領主制(グーツヘルシャフト) プロイセン王国に支配されたエルベ川以東の地(オストエルベ)では、貴族たちが封建領主として依然として大農園を所有し、農民を農奴として用いて経営していた。それらを農場領主制(グーツヘルシャフト)といい、一般に東ヨーロッパの後進性を示す土地制度と言われる。そこでの農民は自立が認められず、重い経済外的な負担も負って領主に従属していた。西ヨーロッパでは荘園や農奴制が崩壊した15世紀以降も存続し、16世紀には大航海時代が到来して西ヨーロッパの経済が発展し、人口が増加すると、東ヨーロッパのグーツヘルシャフトではかえって輸出用、商品作物としての穀物需要が増大したため、領主による農奴支配が強化された。そのような強化された農奴制を再版農奴制という。この大農場経営を基盤とした貴族がユンカーである。この体制は、19世紀まで続いたが、ナポレオン戦争の敗北後、ドイツの後進性の一因と考えられるようになり、シュタイン−ハルデンベルクの改革によって廃棄される。
d 農奴  
e 再版農奴制 エルベ川以東の東ヨーロッパでは、封建的な領主層が残り、彼らによる農場領主制(グーツヘルシャフト)が維持されていたが、16世紀に西ヨーロッパが世界経済の中核部分として発展し、人口が急増すると、穀物需要が増大したため、農奴に対する支配を強化して増産に努めた。そのような西ヨーロッパ向けの商品作物としての穀物の生産に特化したグーツヘルシャフトにおいて強化された農奴制を再版農奴制という。ウォーラーステインの「近代世界システム」論では、「世界経済」の「辺境」における労働管理の形態とされる。
4 近代世界システム 「近代世界システム」とは1970年代にアメリカの社会学者・経済史家ウォーラーステインが『近代世界システム−農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立−』などで展開した概念で、近代以降の世界史に新たな展望を与えた論説となったものである。要点は、16世紀の主権国家形成期の世界において、先進的な中核地域(イギリス・オランダ・北フランス)と東ヨーロッパ・新大陸の辺境、その中間的な半辺境(イタリア・スペイン・南フランスの地中海地域)からなる「ヨーロッパ世界経済システム」が形成されたというもの。
ウォーラーステインの近代世界システム論:要約
「近代世界システムの二大構成要素・・・・すなわち、一方では世界的な規模での分業体制を基礎として、「世界経済」が成立した。この「世界経済」を構成する各地域−それぞれ、中核、半辺境、辺境とよぶ−はそれぞれに固有の経済的役割をもち、それぞれに異なった階級構造を発展させた。その結果、それぞれの地域には独自の労働管理の方式が成立した。これに対して政治は、基本的には国家の枠組のなかで動いていたが、各国が「世界経済」のなかで担う役割が違っていたから、国家の構造にも差が生じた。なかでも、中核地域の国家は中央集権化がもっとも進行したのである。」<上掲書Tp.231>ということであろう。ここでいう中核とは「つまりキリスト教徒支配下の地中海域を含む西ヨーロッパ」であり、人口密度が高く、農業は集約的で、自営農民(ヨーマンなど)が自立しており、都市が発達し、工業が生まれ、商人が経済的にも政治的にも大勢力となった。そこでの労働管理方式は自由な契約労働が行われた。辺境とは「東ヨーロッパとスペイン領新世界」であり、そこでの労働管理の方式は「奴隷と換金作物栽培のための強制労働」が用いられた。東ヨーロッパにおける再版農奴制と、スペイン領新世界におけるエンコミエンダ制である。半辺境とは「もとは中核に位置していたのに、いまでは辺境的な構造を持つようになった地域」でまさに両者の中間形態にあたる分益小作制が労働管理の方式としてとられた。それが南フランス、イタリアであり、またスペイン・ポルトガルもそれにあたる。このような「近代世界システム」が形成されたのが16世紀であったという。<同上 p.124〜166>
なお16世紀段階ではインドのムガル帝国、中国の明は、この世界システムにまだ組み込まれていない。
b エンコミエンダ制 16世紀スペインのアメリカ新大陸(およびフィリピン)でとられた植民地経営の形態。スペインはコンキスタドレスやアメリカ新大陸に入植した植民者に対し、インディオに対するキリスト教の教化と保護を条件に、その統治を委任した(エンコメンダール)。委任された入植者は、ヨーロッパから持ち込んだ小麦や、アジア原産のサトウキビなどの農作物を栽培する農園や、銀山などの鉱山を開発し、インディオを労働力として使役することが認められた。その労働は実質的な無給の強制労働に均しかった。このような制度は1503年に国王によって承認されてから新大陸でひろがり、1540年代にポトシ銀山が開発されると、その経営はこのエンコミエンダ制によって行われた。インディオに対する過酷な使役は、その人口を激減させ、ラス=カサスなどドミニコ派の宣教師の反対などもあって次第に問題となってきた。スペイン王室は、このような植民者に委任する方式を改め、直接経営に切り替えようとしたが、入植者の反発もあって成功しなかった。しかし、人口減少が進み、銀山の採掘量も減ってきた17世紀にはエンコミエンダ制は衰え、代わって入植者が大土地所有制のもとで農園を形成する形態(アシエンダ制)がひろがっていった。ウォーラーステインの「近代世界システム」論では、「世界経済」の「辺境」にける労働管理の形態とされる。
c 分益小作制 16世紀のヨーロッパの中核地域である西ヨーロッパと、辺境である東ヨーロッパの中間的存在として半辺境ととらえらえる、南フランスなど地中海岸ででみられた労働管理の方式で、地主が小作農から、生産利益の50%を収奪する体制を言う。小作人は高利貸的な地主のもとで常に負債を負い、半農奴的な存在であった。ウォーラーステインの「近代世界システム」論では、「世界経済」の「半辺境」における労働管理の形態とされる。(なお、分益小作人という用語は、19世紀後半のアメリカで黒人奴隷解放後に現れたシェアクロッパー Share-cropper の訳語としても使われる。)