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第1章 オリエントと地中海世界
1.古代オリエント世界 
ア.メソポタミアと小アジア 
a オリエント 古代オリエント世界は、西アジアからエジプト東地中海岸を含む範囲をいう。西アジア(中東)のティグリス川・ユーフラテス川流域にメソポタミア文明が、エジプトのナイル川流域にエジプト文明がそれぞれ別個に(エジプト文明はメソポタミア文明の影響を受けながら)発展し、それぞれに国家を形成させ、その中間にある東地中海岸のシリア・パレスチナ地方は両者の中継地として独自の文化を形成する。ついでアッシリア帝国アケメネス朝ペルシア帝国によってこれらの地域が統一される。これらを綜合してオリエント文明ととらえる。オリエント文明はその後、アレクサンドロスの帝国の成立によってギリシア文明と融合して、ヘレニズムを形成することとなる。
b 「日ののぼるところ」 西アジア・エジプト地域は、ローマから見て、東の方、つまり太陽の昇るところにあたっていた。そこからその地方を、太陽の昇る地方の意味のラテン語「オリエンス」から「オリエント」と呼ばれるようになった。
「オリエント」の意味:オリエントとはローマから見て、「太陽の昇るところ」の意味であったが、現在でも英語でOrientとは「東洋」を意味する。「東洋」にたいする「西洋」を意味する英語はOccidentである。ヨーロッパでは広い意味のオリエントに、モロッコからエジプトを経て、インド、中国、日本を含めており、近代以降は「オリエンタリズム」と言われる「東洋趣味」または「東洋学」が存在している。
c 「中東」 かつては「中近東」という地域名がよく見られたが、最近は、西アジア一帯を「中東」ということが多い。この「中東」は、Middle East (Mideast) の訳語で、20世紀になってから、この地域を植民地支配したイギリスで使われたものである。初めは、日本・中国・東南アジアを「遠東」、ビルマ・インド・アフガニスタン・イランを「中東」、オスマン帝国領とアラビア半島を「近東」と区分していたが、第2次世界大戦で、エジプトに置かれたイギリス軍司令部が「中東」総司令部と言われるようになった。現在では一般に、東はアフガニスタン・イラン、西はエジプト・スーダン、北はトルコ、南はアラビア半島諸国に囲まれた範囲を言う。<藤村信『中東現代史』岩波新書 p.2>
d 肥沃な三日月地帯 メソポタミア−シリア−パレスチナを結ぶ三日月形をした地帯は、最も早く農耕文明が成立した地域であった。北部の山岳地帯と、南部の砂漠地帯に挟まれ、オリエント文明の中心となっている。その西側で地中海に面した地方はレヴァント地方と言われ、文明形成後は東西交易(レヴァント貿易=東方貿易)がさかんに行われる地域となる。東側はメソポタミア文明を生み出しこととなる。のこの言葉は、アメリカの東洋学者ブレステッドが使ったもの。気候が温暖で、土壌の養分も多く、野生のムギ類が自生し、山羊などの草食動物が豊富だであり、そのような地域で最初の農耕・牧畜が始まったと考えられている。
g メソポタミア メソポタミアは、「川のあいだの地方」(メソ=間、ポタモス=川)を意味し、地域名としてはティグリス川ユーフラテス川の流域全体を言う。歴史上は、一般にイラクの首都バグダードよりも北部をアッシリア、南部をバビロニアに分けている。バビロニアはさらに北をアッカド、南をシュメールに分ける。特に南部(チグリス・ユーフラテス両河の下流)は肥沃な洪積平野が広がり、メソポタミア文明が形成された。7世紀のイスラーム勢力の勃興以来は、バグダードがアッバース朝の都として建設されてからイスラーム文化の中心となって繁栄したが、13世紀にはモンゴルの侵入を受けるなど多くの苦難もあった。長くオスマン帝国の支配を受けた後、近代ではアラブ系住民の独立運動が起きるが、シリア方面からはフランス、インド・イラン方面からはイギリスが進出し、第1次大戦から第2次大戦後まで委任統治領として分割支配された。現在は大部分がイラク共和国に含まれるが、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、イラク戦争などうち続く戦争によってメソポタミア文明の貴重な遺跡が失われる危機に瀕している。→チグリス・ユーフラテス川
h ティグリス川 ユーフラテス川の北側を流れる大河(チグリス川。現地ではダジュラという)で、アナトリア東部の山岳地帯を源流とし、東南に流れてユーフラテス川とともにメソポタミアの平原部を通り、ユーフラテス川と合流しペルシア湾に注ぐ全長約1900mの大河。古代は海岸線が現在よりも陸側に入り込んでおり、両河は別々にペルシア湾に注いでいた。ティグリス川は上流にはアッシリアの都ニネヴェの遺跡があり、中流はアッバース朝以来の都バグダードの市内を流れている。 → チグリス・ユーフラテス両河
i ユーフラテス川 ティグリス川の南側を流れる大河で、同じくアナトリア東部の山岳地帯を源流として大きく蛇行しながらシリアを経てイラクに入り、メソポタミアの平原部を通ってペルシア湾に注ぐ、全長2800mの西アジア最長の河川。現在では途中でティグリス川と合流するが、古代には河口は別であった。ユーフラテス下流ではメソポタミア最古のシュメール人都市文明が形成された。ギリシア人が「エウフラテス」と呼んだので一般にユーフラテス川というが、現地ではフラート川(アルフラート)といっている。ユーフラテス川は別名「銅の河」という意味のウルドゥ河と言われる。それは都市文明を支えた青銅器の原料の銅がペルシア湾からこの河の水運で運ばれたからである。<小林登志子『シュメル』2006 中公新書 p.6> → チグリス・ユーフラテス両河
A メソポタミア文明 ティグリス川とユーフラテス川の流域のメソポタミアに成立した現在人類最古と考えられている文明。最初の農耕・牧畜が始まり、その中から青銅器を持ち、楔形文字を用い、多神教に基づく神殿を中心とした都市文明が生まれ、六十進法や太陰暦などの文化を持つ文明が形成された。エジプト文明とともに、オリエント文明を構成してる。
農耕牧畜の発生から潅漑農業へ:前7000年紀:(前7000年紀とは前6000年代のこと)の前半(つまり約9000年前〜8500年前)、肥沃な三日月地帯にジャルモ遺跡などに見られる農耕文明が生まれた。
前6000年紀:その中頃さらに両河の下流の沖積平野は定期的な洪水が起こる中で、潅漑農業が始まったと考えられる。それによって大規模な定住が進んで都市が形成されていった。(シュメール以前の人種は不明)
都市文明の形成:前3000年頃:最初に都市国家を形成し、メソポタミア文明を成立させたのはシュメール人(民族系統は不明)で、青銅器や楔形文字、多神教信仰、ギルガメシュ神話などの文化が産みだされた。
メソポタミアの統一:前2300年頃:都市国家を統一し領域国家を形成したのはのセム系のアッカド人であり、ついでアムル人のバビロニア王国がメソポタミア中部のバビロンを都にして成立し、前18世紀ハンムラビ王の時代に最も繁栄した。
民族移動期:前1500年ごろまで:前2000年ごろか始まり、前1500年後まで続いた西アジアの大きな民族移動によってに、インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人や、カッシート、ミタンニなどの侵入を受け、鉄器時代に入る。この動きはオリエントに世界帝国を出現させる前提となった。
オリエントの統一(世界帝国の出現):前7世紀:メソポタミア北部に起こったアッシリアがエジプトを含めオリエントを統一し、西アジア最初の世界帝国となった。これによって、メソポタミア文明とエジプト文明は一体化し、オリエント文明に統合されたと言える。アッシリア帝国はまもなく倒れて4国分立時代となり、メソポタミアには新バビロニアがバビロンを都に有力であった。しかしイランにアケメネス朝が起こると、前6世紀中頃、その勢力が西アジア全体に及びメソポタミアもその支配を受ける。
メソポタミア文明の継承:楔形文字に代表されるメソポタミア文明は、アケメネス朝まで継承されているが、前4世紀になるとギリシア人であるマケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征によってペルシア帝国は滅亡し、メソポタミア文明とエジプト文明をあわせたオリエント文明は、さらにギリシア文明と融合してあらたなヘレニズム文明を形成することとなる。
a 「川のあいだの地方」 「メソポタミア」という地名は、ギリシア語で「川と川の間の地方」の意味で、ティグリス川とユーフラテス川にはさまれた地方の古くからの言い方である。現在は「二つの川」を意味する「アル・ラフダイン」といわれている。なお、ティグリス川とユーフラテス川は現在では下流で一つとなり、シャトル・アラブ川となってペルシア湾に注いでいるが、古代メソポタミア文明の時代には、現在より海岸線は内陸にあり、二つの川は別々に海に注いでいた。なお、メソポタミア地方は、およそ南部のシュメール地方(その北部がアッカド地方)、中部のバビロニア地方、北部のアッシュール地方に分けることができる。
b 楔形文字  → 楔形文字 序章 文明の形成 文字
c 青銅器(西アジア) 金属器の最初である青銅器は、銅鉱石と錫を溶かし鋳造する技術で、紀元前3000年頃、西アジアに生まれた。銅および青銅器の技術は、メソポタミアから小アジア、エーゲ文明をへて前1500年頃には現在のヨーロッパの全域に広がった。なお、原料の錫は、イラン高原が主要な産地であり、それをおさえて西アジア全体の統一に成功したのがアッシリアだったといわれている。
 → 中国の青銅器 
d 都市  
B シユメール人 民族系統は不明だが、メソポタミア地方南部で、都市文明を産みだし。メソポタミア文明の基礎を築いた民族。
紀元前4000紀(前3000年代)の終わり頃、メソポタミア地方南部の平野部で、麦類やナツメヤシの栽培、牛や羊、山羊、豚などの飼育を行い、キシュ、ウル、ウルク、ラガシュなどの最初の都市文明を生み出した。その民族系統は不明で、前4000年紀前半にメソポタミア南部に移動してきたと考えられている。彼らの残した都市遺跡として最大のものがウルクである。ウルクは城壁に囲まれ、公共建築物をもち、約230ヘクタールの居住地をもっていた。ウルクに次いで繁栄したウルの遺跡からは王墓が発見されている。シュメール人は一時メソポタミア中部に起こったアッカド人に制圧された後、ウル第三王朝を復興させたが、前1800年頃にはアムル人のバビロニアに征服された。以後、メソポタミアの主力はアッカド人やアムル人などセム語族系の民族となる。またシュメール人は、楔形文字を生み出し、最古の神話「ギルガメシュ叙事詩」を残しており、最近では多数出土した粘土板でシュメール法典の存在が注目されている。彼らの文化は、メソポタミア文明の最初の段階であるシュメール文化と総称される。
Epi. シュメール人の謎 シュメール人は、彼らの残した都市、楔形文字、青銅器など、その後のメソポタミア、オリエントに大きな影響を残した。しかし後にこの地方で支配的になるセム語とはちがう言語(日本語にちかい膠着語に属する)を用いていた。自らは黒髪人と称していたらしいが、残された遺跡、遺物に描かれたシュメール人は、目が異様に大きく、独特の風貌が見られる。現在はまったく残っていないので、「謎の民族」とされている。その歴史は彼らの残した楔形文字の解読が進んだ結果、明らかになってきた。その王たちの交替は「シュメール王名表」(「シュメール王朝表」ともいう)に記され、その中の王ギルガメシュを主人公とした英雄叙事詩も残されている。
シュメルかシュメールか:最近刊行された『シュメル−人類最古の文明』(小林登志子著、中公新書2005年刊)によると、原音に近い表記は「シュメル」であるが、日本で「シュメール」と表記するようになったのは、第二次世界大戦中に「高天原はバビロニアにあった」とか、天皇のことを「すめらみこと」というが、それは「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行していたので、シュメル学の先達の中原与茂九郎(京大名誉教授)が混同されないように音引きを入れて表記したという。<『シュメル−人類最古の文明』(小林登志子著、中公新書2006年刊)はしがき>
ギルガメッシュ叙事詩 シュメール人が残した英雄叙事詩(神話)。ウルク第1王朝時代の実在の王ギルガメシュを主人公に、シュメール語で書かれたものが、その後のメソポタミア諸民族のことばに翻訳されて残っている。人類最古の物語であり、この中に『旧約聖書』の天地創造ノアの箱船の話の原型が見られる。
Epi. 世界最古の物語ギルガメッシュ 楔形文字の解読は1861年にローリンソンの努力によって可能になっていた。1872年、ジョージ・スミスというアッシリア学者が発表した論文は世界を驚かせた。スミスは、アッシリア帝国の都ニネヴェの図書館跡から見つかった2万数千点の粘土板の中に、洪水の話が出てくるの興味を持って解読を進めたところ、聖書の「ノアの方舟」の話とおなじような物語が含まれていることに気づいた。さらに解読したところ、この物語はギルガメシュという英雄を主人公にした叙事詩の一部であることが判った。それまでヨーロッパの人びとは『聖書』が世界最古の本であると信じていたので、それに先行する物語の原型があったことに驚いたのである。それいらい、ギルガメシュの物語は世界最古の物語とされている。<ジャン・ボッテロ他『メソポタミア文明』知の再発見双書 創元社>
シュメール文化前3000年頃から、メソポタミアで最初の都市文明を築いたのがシュメール人で、その文化がシュメール文化。楔形文字と、青銅器の使用をはじめており、「文明」段階の最古のものとされる。その他の特徴としては、彩文土器、ジッグラトの建設などがあり、ウル、ウルクなどの都市遺跡が発掘されている。また最近では、楔形文字で法律が書かれた多数の粘土板が発見され、それらはシュメール法典として世界最古の法律であり、後のハンムラビ法典のもとになったものとして注目されている。
a 都市国家 文明形成期に出現する最初の国家の一形態で、城壁に囲まれた中心都市が周辺に農地をもち、一個の独立した政治権力を形成している小国家を都市国家という。メソポタミア文明のシュメール人ウルクなどが最も初期的な都市国家である。エジプトではノモスという集落が形成されたが、メソポタミアと異なり典型的な都市国家には至らず、早い時期に古王国に統合された。中国では黄河流域に生まれたも都市国家と考えられ、インダス文明でのモヘンジョ=ダロハラッパーでにも都市文明の形成が見られる。西アジアのアッカド王国・バビロン王朝、中国の王朝、インドのマガダ国などは都市国家を統合した領域国家として形成されたが、なお都市国家の連合政権的な性格が強い。都市国家段階は文明の形成期でもあり、国家の祭祀用として青銅器が発達し、また王権の統治に必要な記録のために文字の使用が始まる。その後各地で国家統合はすすみ、西アジアではアッシリア、中国では秦王朝、インドではマウリヤ朝に至って世界帝国の段階に達する。この段階では鉄器が国家統合に大きな役割をはたし、また貨幣も普及する。西アジア、中国、インドでは都市国家→領域国家→世界帝国というように国家の形態が移行したが、ギリシアでは都市国家(ポリス)が継続して特に発達し、その中で市民によるポリス民主政が発展し、独自の都市文明が繁栄した。ギリシア世界はアレクサンドロスの帝国、ついでローマ帝国という世界帝国に組み込まれるが、ローマは長く都市国家としての伝統を維持した。中世ヨーロッパでは北イタリアやドイツに王権から独立した自治都市が形成され、それらを都市国家ということもあるが、普通は都市共和国(イタリアではコムーネ)と言って古代の都市国家とは区別する。
ウル ユーフラテス下流にある、シュメール人の建設した代表的な都市国家遺跡で、1922〜34年にギリス人のウーリーによって発掘された。遺跡からは神殿とさせる施設(ジッグラト)、多数の楔形文字をしるした文字盤、住居跡などとともに王墓が発見された。研究の結果、前2500年頃のウル第一王朝の王墓であることが判明した。王の遺骨の周りには高価な家具や装身具とともに、多数の殉死者や兵士、牛の遺骨が発掘された。
Epi. ウルの旗章(軍旗) シュメール人の王墓ウルの遺跡からはウルの旗章という当時の戦争の有様を描いた板が見つかった。瀝青の板に貝やラビスラズリ、紅玉髄が象嵌され、戦士が行進し、戦車を引いている図であった。そこに描かれた主メースの戦士は一様に大きな目に高い鼻を持っており、その独特の容貌が印象的である。ウルは旧約聖書に「カルデア人のウル」としてでてくるところで、イスラエル民族の始祖であるアブラハムの故郷であるとされている。<ジャン・ボッテロ他『メソポタミア文明』知の再発見双書 創元社>
ウルク メソポタミア文明を最初に生み出したシュメール人の都市国家。シュメール国家のウルク第1王朝があったとされる。1913年から第1次世界大戦をはさんで、ドイツ人のユリウス・ヨルダンによって発掘された。ユーフラテス河畔にあって繁栄していた都市が、その流れが20kmほどズレてしまったため、廃墟となったらしい。パルティア時代の遺跡の下の地層から、シュメール時代の神殿の跡が見つかった。中でも人びとを驚かせたのが世界最古の文字とされる前3200年頃の楔形文字の原型になった絵文字の文書が数百枚見つかったことだった。<ジャン・ボッテロ他『メソポタミア文明』知の再発見双書 創元社>
世界最古の文字:ウルクから見つかった粘土板は約800枚(断片を含めると約3000枚)、約前3200年頃の世界最古の文書とされており、ウルク古拙文字とも言われる。ウルクの絵文字には約1000の文字が使用されているが完全には解読されていないが、大部分が家畜や穀類、土地などについての会計簿で、完全な表音文字にはなっていないが、中国の甲骨文字に約1800年ほど早い、最古の文字である。最近は<小林登志子『シュメル−人類最古の文明』2005 中公新書 p.38>
ラガシュ シュメール人都市国家遺跡の一つ。1877年、フランス人によって発掘され、シュメール語で書かれた王の碑文や行政経済文書が多数発見され、それまでその存在が疑問視されていたシュメール人の存在が明らかになった。ニンギルス神という都市神をまつる神殿を中心に、複数の地区からなる都市国家であり、前2500年頃に始まる王の系統表が残されている。ラガシュは周辺の都市国家との抗争を繰り返しながら、一旦滅亡し、アッカド王朝の衰退後、一時有力となり、前22世紀頃のクデア王の頃繁栄した。グデア王の石像は多数発見されており、フランス隊によって発掘されたので、ルーブル美術館に所蔵されている。<小林登志子『シュメル−人類最古の文明』2005 中公新書 p.22-25>
b 階級社会 農耕・牧畜という生産経済段階になり、私有財産が発生し、原始共産制社会から階級社会に移行したと大筋では考えることができる。最初の階級社会のあり方は奴隷制社会であるが、古代国家と奴隷のあり方は一律ではなく、それぞれの文明社会の中での違いも認められる。
c 神権政治 最初の国家権力は、支配者の統治権の根拠は、その宗教的、神秘的な権威に依存していた。メソポタミア、エジプト(古王国)中国(殷)、さらに新大陸の古代文明においても認められる。日本の邪馬台国の卑弥呼の統治や、天皇制の起源もそこに求められる。
C アッカド人 前2300年頃、メソポタミア全域を最初に統一した領域国家であるアッカド王朝を生み出したセム系民族。
アッカドはメソポタミア南部の中の北よりの地域名で、現在のイラクの中部に当たる。そのあたりに住みついたセム系民族がアッカド人。彼らは次第に南部のシュメール人と抗争するようになり、前2300年頃、サルゴン1世がメソポタミア南部を支配し、アッカド王朝(前2334〜2154年)を成立させた。サルゴン1世は交易路を抑え、メソポタミア全域におよぶ中央集権的な領土国家の最初の支配者となった。アッカド王朝は11代約180年続いた後に滅亡した。その後、メソポタミアはふたたびシュメール人が独立し、ウルを拠点にウル第三王朝が出現する。アッカド時代の遺品としては、スサで発見された「ナラム=シン王の石碑」(ルーブル博物館蔵)が有名。彼らの使うセム語系のアッカド語がメソポタミアの公用語となり、シュメール語は使われなくなったが、文字は楔形文字を継承した。
サルゴン1世メソポタミアのセム系アッカド王朝の王。正しくはシャルキン王という(サルゴンは『旧約聖書』に出てくるヘブライ語にもとづく英語表記。シャル=キンは「真の王」を意味する)。紀元前2300年頃、メソポタミア南部のシュメール人の都市国家を制圧して、はじめて統一国家を築き、「シュメールおよびアッカドの王」となり、その碑文には「上の海(地中海)から下の海(ペルシア湾)まで」(「四海の王」と言われる場合もある)を支配したとある。彼はメソポタミアに初めて領域的支配を打ちたて「戦争王(戦いの王)」とも言われた。周辺世界との交易を積極的に行ったらしく、サルゴン王時代の楔形文字の押された粘土板文書には、インダス文明を示すと思われる「メルッハ」や、オマーン、バーレーンとも交易を行っていたことが記されている。なお、後のアッシリア帝国にも前8世紀にサルゴンを名のる王が出現する(サルゴン2世が有名)。
a セム系(語族) 言語学的に一つのまとまりをもつ語族の一つで「セム語族」をいう。西アジアではじめ遊牧生活を営んでいたが、次第に農耕定住生活に移り、紀元前3000年紀にメソポタミアに侵入した。紀元前2300年頃にメソポタミアを支配したアッカド人をはじめ、バビロニア王国を作ったアムル人など東セム語族がまず登場しメソポタミア文明を発展させた。次いで前1200年頃にシリア・パレスチナにアラム人フェニキア人ヘブライ人(いわゆるセム系3民族の活動)など北西セム語族が活動した。その後に登場するアフリカのエチオピア人、イスラームによって大帝国を作るアラブ人などは南西セム語族とされる。このように、セム語族は、オリエント世界の中心的な役割を果たした人々であった。
b 領域国家 都市国家のつぎに現れる国家段階で、一定の広さをもつ領域にいくつかの都市と複数の民族をを含む国家。つぎにさらに広大な地域を支配し、領内に多くの民族や文明を支配する国家が世界帝国である。領域国家は西アジアではアッカド王国、エジプトでは古王国にあたる。 
ウル第三王朝シュメール人ウルを中心に独立を回復し、メソポタミアを支配した王朝(前2112〜2004年)。ウルに都をおいた三番目の王朝という意味でウル第三王朝と言う。アッカド王朝の衰退に乗じウルのシュメール人軍事司令官ウル=ナンムが建国。約100年しか存続しなかったが、その間、最初の法典の整備が行われた(「ウル=ナンム法典」ともいう)。また法に基づく行政や裁判が行われていたらしく、膨大な行政、財政、租税、裁判記録などを記した粘土板が出土している。このようなウル第3王朝には「最初の官僚制国家」という位置づけがされている。ウル第三王朝は5代約100年続いた後、前2004年頃、東方(イラン方面)から侵入したエラム人によって滅ぼされた。<『世界の歴史』1 中央公論社 前川和也 1998 p.190>
シュメール法典前22世紀末〜前21世紀にメソポタミアを支配したシュメール人のウル第3王朝ウル=ナンム王の時、最初の法典の整備が行われた。これをウル=ナンム法典とも言う(このことについては異説もある)。シュメール人の手による法典整備は、その後、イシン王朝(ウル西北のイシンを中心としたシュメール人の王朝)のリピト・イシュタル法典(前20世紀)があり、バビロニア王国ハンムラビ法典に先行する世界最古の法典編纂である。ハンムラビ法典はこれらのシュメール法典を集大成したものである。法典の整備ということが、領域国家の出現と結びついていることに留意しておこう。 
D アムル人 セム系遊牧民でアモリ人ともいう。前2000年紀前半のメソポタミアに、シリア砂漠から侵入し、イシン、バビロン、ラルサなどの都市を形成し、シュメール人のウル第三王朝にかわって次第に有力となり、紀元前1900年頃、バビロンを都にバビロン第1王朝を築いてメソポタミアを支配した。その全盛期の王がハンムラビ王
a セム系  → セム系
b バビロン第1王朝(古バビロニア王国) セム系遊牧民アムル人が紀元前1900年頃バビロンを都に建設し、メソポタミア文明を発展させ、前18世紀のハンムラビ王の時に全盛期となった王朝。バビロニアはメソポタミア中部地域をさす。王朝名としては、後の新バビロニアと区別して「古バビロニア王国」ともいう。
アムル人はシュメール人(ウル第3王朝)を征服したが、楔形文字などその文化を取り入れ、メソポタミア文明の最盛期を生み出した。その全盛期の王がハンムラビ王。バビロン第1王朝はハンムラビ王の死後急速に衰え、カッシートなどに圧迫され、最終的にはヒッタイトによって前1595年に滅ぼされた。ここまでを「古バビロニア時代」ともいい、メソポタミア地域だけの時代が終わり、オリエントの統一という世界国家の段階にはいる。 
バビロン 古代オリエントのメソポタミア地方の南部、バビロニア地方の中心地で、最も繁栄した都市の一つ。ユーフラテス川中流、バグダードの南方にあった。もともと「神の門」を意味するマルドゥク神の神殿があった宗教都市であったが、アムル人のバビロン第1王朝(古バビロニア)の都となってから繁栄した。『旧約聖書』に出てくるバベルの塔はバビロンのジッグラトのことだと言われている。その後、ヒッタイト、カッシートなどの支配を受ける。アッシリア帝国では都ニネヴェに劣らない都市として栄えた。前625年、新バビロニア(カルデア)が成立すると再び都となった。そのネブカドネザル王はバビロンに大きな王宮や「空中庭園」を建設したという。またそのころ、ヘブライ人(ユダヤ人)が、この地に連行された「バビロンの捕囚」も重要。新バビロニアの後、ペルシア帝国の支配を受けていたが、前331年、アレクサンドロス大王が東方遠征の途上に入城した。大王はその後ペルシア帝国を滅ぼし、中央アジア、インドまで進出した後、この地に戻り、前323年にバビロンで死去した。その後は次第に衰退し、街は砂漠に埋もれてしまった。1899年、ドイツ隊による発掘が行われ、遺跡として脚光を浴びることとなった。
Epi. フセインによるバビロンの復元 現代イラクの独裁者サダム=フセインは自らをネブカドネザル王になぞらえ、1978年に国家的事業として新バビロニア時代のバビロンの復元事業を行った。有名なイシュタル門など、バビロンの栄華が現在復元されている。サダム=フセインは2003年にアメリカ軍によって捕らえられ、失脚したが、イラク情勢が混迷するなか、バビロンの遺跡がどうなったか、心配なところである。
c ハンムラビ王 アムル人が築いたバビロン第1王朝の第6代の王。在位紀元前1792〜1750年頃。北方のアッシュールやマリなどの王国を征服して、メソポタミアの統一を再建した。官僚と軍隊を整備し、駅伝制や灌漑用水路の建設を行い、交易・商業を保護し、バビロン第1王朝の全盛期をもたらした。この王の時に制定されたハンムラビ法典はシュメール法典を継承した法律として有名。 
d ハンムラビ法典 ハンムラビ王は王国内の諸民族を統一的に支配するために、法典の整備に務め、全282条からなるハンムラビ法典を制定した。「目には目を、歯には歯を」という復讐法の原理のほか、平民と奴隷の厳しい身分の区別の既定などが見られる。また、犯罪が故意に行われたか、過失によるのかによって量刑に差が設けられていた。なお、この法典は、楔形文字によって碑文として残されており、その原文が1901年にイランのペルシア帝国時代の古都スサで発見されている。ハンムラビ法典はシュメール法典を受け継ぎ、集大成したもとの考えられている。かつては世界最古の法典とされたが、現在はシュメール法典がそれにあたるとされている。
e 「目には目を、歯には歯を」 ハンムラビ法典の中の有名な1章で、おそらく遊牧民社会の伝統に拠ってものであろう。この言葉は後の『旧約聖書』にも記されている。
f 復讐法  
E 民族移動 (紀元前2000年紀) 紀元前2000年ごろから前1500年頃間までのインド=ヨーロッパ語族の南下を中心とした大規模な民族の移動をいう。それまでセム系民族の農耕社会であった西アジアに大きな変化をもたらした。小アジアに移住し、メソポタミアに勢力を広げたヒッタイト人がその代表的な民族で、ミタンニやカッシート(カッシートについては非インド=ヨーロッパ語族との説もある)がそれに続いた。エーゲ文明の地域に南下してそれを征服したギリシア人や、前1500年頃にパンジャーブに侵攻してインダス文明を征服したアーリヤ人、イラン高原に入ったイラン人などがこの民族移動の一連の動きと関連があると考えられている。これらの民族移動は、それぞれの地域に鉄器文化を伝え、鉄器時代をもたらしたという共通項もある。同じような民族移動は、その後、紀元後の4〜5世紀の中央アジアの遊牧民の移動(その例が魏晋南北朝の変動をもたらした五胡の動きやフン族の移動)、続いて起こったゲルマン民族の大移動など世界史上の東西に多く見られるが、民族移動の要因としては、気象の変化・食糧事情の変化・なんらかの社会的変化が考えられる。
インド=ヨーロッパ語族現在のヨーロッパで広く分布しているゲルマン語(英語やドイツ語など)、ロマンス語(ラテン語、フランス語、イタリア語、スペイン語など)、スラブ語(ロシア語など)、ギリシア語などと、インドのサンスクリット語、ヒンディー語、イランのペルシア語などは、起源が同じであり、インド=ヨーロッパ語族と言われている。インド=ヨーロッパ語族が世界でもっとも広範に分布している。
世界史上、インド=ヨーロッパ語族が登場するのは、紀元前2000年から前1500年頃であり、遊牧生活をしていた彼らが一斉に移動を展開し、西アジアや東地中海、インドなどに入って新しい文明をもたらしたときである。その代表的な例が小アジアに建国したヒッタイトと、エーゲ海域に南下したギリシア人、インドに侵入したアーリヤ人である。ついでペルシア帝国を建設したイラン人、地中海世界を支配したローマ帝国のラテン人、アルプス以北でケルト人、4世紀に大移動を展開したゲルマン人やスラブ人などが登場する。かれらの源郷については不明な点も多いが、南ロシアの草原地帯(ステップ)説が有力である。
彼らの登場によって、先行する青銅器時代・都市国家時代を終わらせ、前1500年頃までに鉄器時代・統一国家時代をもたらしたと言うことが出来る。
Epi. インド=ヨーロッパ語族の発見 遠く離れたヨーロッパとインドの言語が同一の系統に属する言語であるという発見は、18世紀の末のイギリスのインド学者W.ジョーンズの提唱による。彼は非常に語学力に恵まれた人で、インドで学んだその地の古代語であるサンスクリット語と、ギリシア語・ラテン語との構造上の類似に着目し、さらにそれらがヨーロッパの諸言語にも認められることから、これらの言語はみな一つの源から分かれ出たものに違いないと考えた。これがきっかけとなって比較言語学が盛んになり、今日の言語学が勃興した。その後、語彙の比較や言語構造の分析が進み、その起源の地の探求が続いているが、スカンディナヴィア説、南ロシア説、カスピ海沿岸説などさまざまな説が出されている。<風間喜代三『印欧語の故郷を探る』岩波新書 1993 絶版>
a  ヒッタイト 小アジア(アナトリア=現在のトルコ)におこり、前1650〜1200年頃、西アジアを支配した、インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人の国。ハッティともいう。突然西アジアに侵入し、バビロンを占領、バビロン第1王朝を滅ぼした。西アジアに最初に鉄器をもたらした民族とされる。20世紀の初頭、トルコのボガズキョイ(ボアズキョイとも表記)で発掘された遺跡から、ヒッタイト王国の歴史を物語る楔形文字の粘土板が多数発見され、この地がヒッタイトの都ハットゥシャシュであったことが判明した。前13世紀にはシリアに進出したエジプト新王国と争い、前1286年頃にはラメセス2世とシリアのカデシュの戦いで対決した後、講和条約を締結した(最初の国家間の講和条約と言われる)。しかし、前1200年頃、「海の民」の侵入を受けて滅亡したと思われるが、その事情はわからない点が多い。
Epi. ヒッタイト王国の発見 ヒッタイトという民族は、旧約聖書にヘテ人として現れるが、いったいどのあたりにいた、どのような民族で、その国はどんな国だったのか、全く忘れ去られていた。19世紀にエジプトのテル=エル=アマルナから発見された粘土板文書(アマルナ文書)の中にハッティ国とエジプト新王国の間に交わされた書簡が見つかり、おぼろげながらその存在が浮かび上がった。そして1905年から翌年にかけて、ドイツのヴィンクラーという学者がトルコの首都アンカラの東のボガズキョイ村の遺跡で多数の粘土板を発見した。その中の一枚にアッカド語で書かれた粘土板を読み始めた彼は、一瞬、我を忘れた。粘土板文書はエジプト新王国のラメセス2世からヒッタイト王のハットゥシリ3世にあてた書簡で、カデシュの戦いの後に両国で交わされた平和条約に関するものだった。ヴィンクラーはその条約文が、エジプトのカルナック神殿の壁面に刻まれているものとほぼ同一であることを発見したのである。こうしてこの遺跡がヒッタイトの都、ハットゥシャシュであることがわかった。<大村幸弘『鉄を生み出した帝国』1981 NHKブックス p.3-5>
 小アジア(アナトリア)世界史上、小アジアはアナトリアとも言われ、北を黒海、西をエーゲ海、南を地中海にはさまれ、東にアルメニア、メソポタミア、シリア地方につながる地域を指し、ほぼ現在のトルコ共和国のアジア側の半島部にあたる。「アジア」とは本来、ローマ時代に現在の小アジア(アナトリア)西部の属州の名前であったが、次第にヨーロッパに対して東方世界全体を意味するようになった。そのため本来のアジアを「小アジア」と言って区別するようになった。
ギリシア・ローマから見て、広くオリエント世界に属し、メソポタミア文明とエーゲ文明の橋渡しをする位置にある。この地域で最初に注目すべき動きがインドヨーロッパ語族のヒッタイトで、彼らは前1650年頃からこの地に鉄器を使う新しい文化を形成し、オリエント世界に進出した。彼らが海の民の侵攻を受けて衰退した後、リディア王国(都はサルデス、最古の貨幣を鋳造したことで知られる国)の支配を受け、ついでアケメネス朝ペルシア帝国が東方からこの地を支配した。西側のエーゲ海岸にはギリシア人が進出して植民を建設し始め、イオニア地方のミレトスは商業が発達し、科学や哲学的な思考が始まった地としても知られる。またミレトスの南のハルカリナッソスにもカリア王国が成立、歴史家のヘロドトスの出身地として知られる。イオニア地方をめぐってペルシア帝国とギリシアのポリス連合軍の間で起こったのがペルシア戦争。ペルシア帝国がアレクサンドロスによって滅ぼされた後は、ディアドコイの一人、セレウコスがシリアと併せて支配し、セレウコス朝シリアとなったが、前3世紀には西端にペルガモンが独立し、ヘレニズム文化が繁栄した。小アジアには他にポントス(ローマに対する王のミトリダテスの反乱で知られる)、カッパドキアなどヘレニズム諸国が分立したが、前2世紀までにローマに服属し、小アジアもローマの属州となり、ローマは東方のパルティアと争った。この間にパレスチナで起こったキリスト教が小アジアのユダヤ人に広がり、最初のキリスト教世界を形成した。ローマ帝国の分裂後は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配を受け、ギリシア化が進んだ。ビザンツ帝国は東方のササン朝と激しく争った。 → 小アジアのトルコ化
b 鉄器 製鉄技術がどこで始まったか不明であるが、遺跡の上では前3000年紀前半に西アジアに存在していたことがわかっている。文献上確認される最古の鉄器使用民族は小アジア(アナトリア)のヒッタイトである。前1400年頃、メソポタミアにひろがり、さらにカフカスを経て北方の遊牧民スキタイに伝わり、彼らの手でユーラシア大陸の東西に鉄器文化が広がったものと思われる。→ 金属器 → 中国の鉄製農具
ボアズキョイ ボガズキョイとも表記される。現在のトルコの首都アンカラの東約200kmにある遺跡。アナトリアに繁栄したヒッタイト王国の都ハットゥシャシュ(ハットゥシャとも表記)の跡と思われる城壁、城門、王宮、神殿などの遺構がある。また多数の楔形文字、象形文字を記した粘土板も発見され、ヒッタイト王国の歴史が明らかになってきた。
c カッシート ヒッタイトの東の小アジアから北部メソポタミアに出現し、前16世紀にメソポタミア南部にバビロンを征服したのでバビロン第3王朝ともいう。インド=ヨーロッパ語族に属するといわれているが正確には不明。36代約350年間続き、前12世紀に東部のイラン高原に起こったエラム人によって滅ぼされた。
この間、オリエントは小アジアのヒッタイト、メソポタミア南部のカッシート、メソポタミア北部のアッシリア、北部山岳地帯のミタンニ、そしてエジプト新王国という国々がたがいに争う長い分裂期であった。
d ミタンニ 前16世紀からメソポタミアの北方の山岳地帯を支配した、インド=ヨーロッパ語族の民族。その国を構成していた多くは、フルリ人といわれているが、その民族系統は不明。前15世紀にはシリア・イラク地方に進出してきたエジプト新王国と対立。また、小アジアのヒッタイトとも抗争した。前14世紀にはヒッタイトに敗れて衰退する。メソポタミア北部のアッシリア人をはじめは服属させていたが、そのアッシリア人がヒッタイト人から鉄器を学び、次第に有力となる中でミタンニは前13世紀ごろ滅亡した。 
フルリ人メソポタミア北方の山岳地帯にいた民族であるが、その系統は不明。ミタンニ王国の国民は多くがフルリ人であったらしい。詳しいことはわかっていない。
エラム人イラン高原の南西部、後のアケメネス朝の都スサを中心とした一帯で起こった民族であるが、その系統は不明。前2004年頃にはメソポタミア南部に侵入し、ウル第三王朝を滅ぼし、その後バビロン第1王朝と抗争、前12世紀にメソポタミア中央部に入り、カッシート王国(バビロン第3王朝)を滅ぼした。エラム人によって、バビロンを都としたハンムラビ王の遺品が、イラン高原のスサにもたらされたらしく、ハンムラビ法典がバビロンの遺跡ではなく、ペルシアのスサで発見されたのはそのような事情があると考えられている。
チョガ=ザンピルのジッグラト:前13世紀ごろのエラムの王が建設したとされるのが現在のイランの南西部のチョガ・ザンヒルのジッグラトで、1935年に油田探索の調査飛行中に土で出来た不思議な塔が発見され、調査の結果ジッグラトであることが判明して復元され、現在は世界遺産に登録されている。一辺105mで四隅が東西南北を指し、五層でからなる高さ約28mの最大のジッグラト。ジッグラトはメソポタミア起源でイランのものではないが、ウル第三王朝を滅ぼしたエラムが継承したものと考えられる。そして約600年後の前640年にアッシリア帝国のアッシュール=バニパル王によって破壊された。<小林登志子『シュメル−人類最古の文明』2005 中公新書 p.270-271>
イラン高原西アジアの現在のイラン共和国一帯に広がる高原。おおよそ、西はアルメニア、北はカスピ海とカラクーム砂漠、南はチグリス川とペルシア湾、東はバルチスタン山地などで囲まれた地域。東西に山脈が連なり、中央部には広大な砂漠(カヴィール砂漠、ルート砂漠)が広がり、牧畜が主で農耕には適さないが、東西貿易路が通っているために古来交易がさかんであった。イラン高原と言っても広大で、いくつかの地域に分けられる。主な地方は、東部のメディア(中心都市ハマダーン)、カスピ海南岸のパルティア、ペルシア湾岸のペルシア(ペルシス)がある。
前12世紀にイラン高原南部のメソポタミアに隣接する地域でエラム人が現れ、メソポタミアに侵攻してカッシート王国を滅ぼした(エラム人はイラン系民族ではないとされている)。その後、メディア地方にメディア王国が起こり、継いでペルシア地方に起こったアケメネス朝はイラン高原の都ペルセポリスを中心に西アジア全域を支配した。これらイラン系の民族も様々で、遊牧生活や農耕生活を送りながら商業活動に長けており、たびたびメソポタミアや中央アジアに進出した。
ダイナミックなイラン高原の歴史:西アジア全域を支配したアケメネス朝ペルシアの繁栄、そしてゾロアスター教に代表される文化を生み出したことなど独自の歴史を形成してきたが、イラン高原は歴史上、アレクサンドロス大王による征服と、イスラーム教アラブ人の征服、さらにモンゴルの征服という三度の大きな外来勢力の支配を受け、それらの文化の影響を受けている。そのダイナミックな歴史がまた独自のイラン文化を生み出してきた。
歴史上に見られるイラン高原で興亡した国家は多数あるが、当面知っておくべきものは次の通り。
○古代イラン諸王朝:エラム → メディア → アケメネス朝 → アレクサンドロス帝国 → セレウコス朝 → パルティア → ササン朝 
○イスラーム化以後:イスラーム帝国 → アッバース朝 → ブワイフ朝 → セルジューク朝 → イル=ハン国 → ティムール帝国 → サファヴィー朝 → カージャール朝 → パフレヴィー朝 → イラン=イスラーム共和国(現在)
★メソポタミアの文化の特徴 
a 多神教 (メソポタミア) メソポタミア文明のシュメール人と、アムル人やアッシリア人などセム系民族はそれぞれ、自然神崇拝、あるいは祖先崇拝から始まったと思われる多神教信仰を持っていた。シュメール人ははじめ、天空神アン(アヌ)、大気(風)の神エンリル、地の神を意味し知恵を司るエンキ(エア)など7神を持っていたが、灌漑農耕が広がった頃からイシュタル神という豊饒と戦争を司る地母神(女神)が神々の中心となった(ギリシアのアフロディテ、ローマのヴィーナスにつながる神である)。また都市ごとに守護神を持っていた。ついでアムル人の建てたバビロンの守護神であったマルドゥク神をが、バビロン第一王朝の成立とともにメソポタミアの最高神とされるようになった。 → 一神教
多神教から一神教へ:エジプトでは太陽神ラー(アメン=ラー)を中心とする多神教であった。多神教が支配的であったオリエント世界に一神教を初めてもたらしたのは、ヘブライ人のヤハウェ神信仰であった。またエジプトでも新王国のアメンホテプ4世アトン神という唯一神への信仰を国民に強制したが、それは一神教革命としての宗教改革(アマルナ革命)とされている。エジプトでは一神教は定着せず、それ以前のアメン=ラー神を中心とする多神教に戻ったが、モーゼに率いられたヘブライ人がエジプトから脱出したという伝承の背景に、一神教が認められなかったことがのではないかという見解もある。また一神教は前15世紀ごろのオリエント世界の統一の動きという政治的な流れの中で、アルファベットという表音文字の普及とともに民族を越えた普遍的な世界観を生み出していくこととなったと考えられる。<本村凌二『多神教と一神教−古代地中海世界の宗教ドラマ−』2005 岩波新書>
マルドゥク神 メソポタミアが統一されたバビロン第一王朝の時代に、バビロンの都市神として多くの神々の中の最高神としてあがめられた神。
マルドゥク神はシュメール起源の天の神々の主アヌ(アン)と天地の主エンリル神と知恵の神エンキ(エア)の三神が、エンキの長子のマルドゥクに「神々の主権と地上の支配権」を授与したという物語ができあがり、前2000年紀後半、ハンムラビ王によって最盛期をむかえる古バビロニア(バビロン第一王朝)の時代には、首都バビロンの都市神マルドゥクがメソポタミアの最高神として祭られるようになった。神々の地位の変動には都市の興亡が繁栄している。<本村凌二『多神教と一神教−古代地中海世界の宗教ドラマ−』2005 岩波新書 p.42-43>
ジッグラト シュメール人時代からメソポタミアで建設された七層の塔の神殿。「聖塔」という。メソポタミアのウルのジグラットが有名で、他に20ヵ所ほどが知られているが、破壊されたものも多い。メソポタミアの都市の守護神をまつるものであったともわれるが、天の神に近づくための階段とも考えられ、『旧約聖書』に現れる「バベルの塔」はこのジッグラトの事であろうと言われている。メソポタミアは沖積平野であるため石材はなく、泥を固めた日干し煉瓦を積み上げ、アスファルトを接着剤としていた。
Epi. バベルの塔 『旧約聖書』の創世記第11章第7〜9節のバベルの塔の話は次のようなものである。人間が天まで届く塔を建て始めたことに立腹した神は、人々の言葉が一つであるからこのようなことを始めたと考え、「直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」と彼らをそこから全地に散らされたので、彼らは建設を止めた。主が言葉を混乱(バラル)させたので、この町をバベルと言われるようになった、という。バベルはバビロンのことであろうと言われている。
b 楔形文字 メソポタミア文明の最初の担い手であったシュメール人が、紀元前3100年頃、粘土板にくさび形の文字をきざみはじめた。それが具体的な文字の最古のものと思われる。シュメール人のウルク遺跡からは、多数の楔形文字のもととなった絵文字をきざんだ粘土板が見つかっており、それらはほとんどは、奴隷や家畜、物品の数をかぞえ、穀物の量をはかり、土地面積を計算するという、行政・経済上の記録として用いられたという。<『世界の歴史』1 「都市と帝国」前川和也 p.155〜156 中央公論社による> → 文字
楔形文字はシュメール語を書くための表語文字であったが、次第に表音文字として使われるようになり、文字数を少なくしたために、他民族に借用され、西アジアで広く用いられるようになり、アケメネス朝ペルシアまで、公用文字として使用された。
その解読は、ペルシアのペルセポリスの遺跡から出土した碑文を研究したドイツ人のグローテフェントが着手し、19世紀なかごろ(1847年)にイギリスのローリンソンがベヒストゥーン碑文の解読に成功して可能となった。
Epi. 学校の起源−「粘土板の家」 メソポタミア文明、シュメール人のウル第三王朝のシュルギ王は自らを讃える讃歌を残しているが、その一節に「少年のころから、私は学校に属し、シュメル語とアッカド語の粘土板で書記術を学んだ」と書いている。行政官、軍人は文字を読み書きできることが仕事とされ、王にとっても必須能力とされていた。学校はシュメール語でエドゥブバ「粘土板の家」と呼ばれ、書記つまり役人養成を目的としていた。古バビロニア王国では王宮から粘土製の長い椅子を並べた部屋が発見され、学校と考えられている。シュメール人の王名表や神名表なども教科書として使われたのであろう。学校を題材にした文学作品の残っており、学生の一日を伝える『学校時代』では、弁当を持って学校に行きった生徒のこんな話が載っている。
「・・・ぼくは(校舎に)入って座り、そしてぼくの先生はぼくの粘土板を読みました。先生は『間違っている』といいました。そして先生はぼくを鞭でたたきました。・・・ぼくの先生は『君の文字は下手だ』といいました。そして先生はぼくを鞭でたたきました。」誤字をしかられた生徒は父に先生を招いてもてなしてほしいと頼む。父は先生を招いてなつめやし酒を飲ませ、食事を出し、衣服などを贈ったところ、先生は手のひらを返したように生徒をほめた・・・という。<小林登志子『シュメル−人類最古の文明』2005 中公新書 p.204-210>
 占星術 古来人間は何らかの方法で未来を予知しようとしてきた。そこからさまざまな「占い」が起こってきたが、最も精密な装いをもっていたのが占星術で、科学的な天文学や暦法を生み出したことでも重要であり、単なる「迷信」とは言い切れない深さと広がりをもっている。占星術の基本は、古代人が宇宙を仰ぎ見て、その広大さと不可知な世界に畏敬の念を抱き、天空で太陽や月、星の動きに神秘的な力を認め、それによって現世のあらゆることが動かされていると信じたところになる。そこから、星の運行や天体現象から国家や社会、個人の運命を予知しようとしたのが占星術である。占星術は特に、メソポタミア文明のバビロニアなどで発達し、暦法としての太陰暦を生み出しただけでなく、天文学・数学・地理学などをも生み出し、ギリシアやローマにも伝えられた。中世ヨーロッパでもキリスト教世界でも、時に反教会的な悪魔の所行と見られながら、占星術師が天体観測を続けたことが、ルネサンスにつながっていく側面もあった。また、中国でも高度な占星術が発達し、春秋戦国時代には陰陽道や五行説を発展させ、道教などの民間信仰にもつながっていき、朱子学の宇宙観などにつながっていく。占星術は、現代の日本であふれかえっている12星座占いや、中国占星術などとはまったく違い、真剣な、当時における「最先端科学」として人々の心を捉えていた。
c 六十進法 メソポタミアに始まる六十進法は、もとは円周の分割から用いられるようになった。
d 太陰暦 太陰暦は、月の満ち欠けを基準にする暦法。人類が最も早く用いた暦法であると考えられ、占星術が行われていた古代メソポタミア文明や中国文明で生まれ、現在ではイスラーム暦に見ることができる。季節が一巡する周期、つまり太陽の公転周期は月の公転周期は約365日であったが、この数字は古代人が日常使用する数字としては大きすぎたので、古代人は月の満ち欠けの周期(中国では新月を朔、満月を望としてその周期を朔望月という)を1月とし、その12回の周期を1年とした。これが太陰暦であり、1ヶ月は約29.53日であるので、1年は345日となる。しかし、これでは季節の変化とずれが生じるので、メソポタミアや中国では345日と365日の11日の差を閏月を設けることで、実際の季節の変化にあわせる太陰太陽暦が用いられるようになった。一般に太陰暦といっているのは、実際にはこの太陰太陽暦である。太陰太陽暦に対して、太陽暦はエジプトで始まり、ローマのユリウス暦を経てグレゴリウス暦がつくられ、現在広く使用されるようになった。日本でも1872年(明治5年)に太陽暦に切り替えられた。なお、完全な太陰暦はイスラーム暦(ヒジュラ暦)であり、これは現在でもイスラーム世界で使われている。
出題 東京大学 2007  第2問 問(1)(a)古代メソポタミアと古代エジプトにおける暦とその発達の背景について、3行(90字)以内で説明しなさい。 解答(例) ↓ 
 1週7日制 「なぜ一週間は七日なのか?
 古代ギリシアには週はなかったらしい。ローマ人は八日を一週間として生活していた。農民は畑で七日間働き、八日目には町へ出かける・・・それが市の日(ヌンディナエ)である。これは仕事を休むお祭りの日で、学校も休みになり、公の告示がなされ、友人とのつきあいを楽しむ機会だった。ローマ人がいつ、どんな理由から八日を単位にしたのか、またその後一週間を七日に変えたのはなぜかは明らかではない。七という数字は、世界中のほぼいたるところで特別に扱われている。日本には七福神があるし、ローマは七つの丘の上に築かれた。古代人は世界の七不思議を数えあげたし、中世のキリスト教徒は七つの大罪を戒めた。ローマ人が週を八日から七日に変えたのは、何らかの公的な措置によるわけではなさそうである。紀元前三世紀初頭には、ローマ人は一週間を七日として生活していた。何らかの新しい考え方が広まり、人々の気持ちをとらえたにちがいない。その一つは安息日という考えである。これはユダヤ人を通じてローマにもちこまれたらしい。「安息日をおぼえてこれをきよくすべし」と十戒の第四条に述べられている。(旧約聖書、出エジプト記)・・・・週ごとに、神の被造物は天地創造を模倣したのである。ユダヤ人たちは週を、自分たちが奴隷の身分から解放されたことの記念ともしていた。 (旧約聖書・申命記)・・・ユダヤ人が安息日を守るとき、彼らはすべてがくりかえされるという世界の本質を劇的にあらわしていた。そこには、あまり神の言葉とはかかわりのない他の力も働いていた。たとえば、心身を一新したいという人間の欲求である。七日目を休息の日−まさに安息日を意味する−とする考え方は、ユダヤ人のバビロン捕囚(前597)の時代からつづいていたのだと思われる。バビロニアではある特定の日−一月のうち、七日、十四日、十九日、二十一日、二十八日−を祝い、この日には王もいくつかの特別な活動が禁じられていた。」<ダニエル・ブアスティン『どうして一週間は七日なのか』大発見1 1988 集英社文庫 p.40>
 太陰太陽暦 月の満ち欠け(朔望月)によって日数を算える暦法が太陰暦であり、季節循環を1年(太陽年)とするのが太陽暦であるが、太陰暦による日数の数え方を太陽年の1年にあわせた暦法が太陰太陽暦である。太陽太陰暦ともいい、太陰暦の1年と太陽暦の1年の差を、閏年・閏月を入れることで解消するものであった。古代オリエントや中国で用いられていたのは実際にはこの太陰太陽暦である。このいわゆる太陰暦は中国で長く用いられ、漢王朝以来、各王朝は権力の証として暦を編制した。元ではイスラーム暦の暦法が伝えられて、郭守敬が授時暦を作成、それは明代に一部修正されて大統暦としてなった。明末に宣教師のアダム=シャールとともに徐光啓が西洋暦法を学んで『崇禎暦書』を表し、それに基づいた改訂が清の時憲暦である。日本も中国の暦法を準用していたが、江戸時代に渋川春海が授時暦をも都にした貞享暦を作成して、それが採用されたのが日本独自の暦の始まりであった。1972年(明治5年)に西洋で用いられていた太陽暦(グレゴリウス暦)に切り替えた。以後、太陰太陽暦による暦法は「旧暦」と言われるようになったが、伝統的行事は旧暦の日付で行われることも多い。
補足 太陰暦では、朔望月の長さの平均は29.53日であるので、29日の一月(これを小の月という)と30日の一月(これを大の月という)の六回を交互におくと354日となる。これだと太陽年(季節周期)約365日と1年で11日のズレが生じる。そこで太陰太陽暦では、ほぼ3年に一度、閏月を入れる(その年は13ヶ月となる)ことでズレを解消する。閏月を入れる年を閏年というが、春秋時代の中国で、19太陽年がほとんど235朔望月に等しいことがわかり、19年間に7回閏月を入れる閏年をおくようになった。この「十九年七閏の法」はアテネの学者メトンが前五世紀に発見したメトン法に当たるものである。<広瀬秀雄『暦』日本史小百科 1978 近藤出版社 p.12 /同『年・月・日の天文学』1973 中央公論社・自然選書 などによる> 
イ.エジプトの統一国家 
エジプト アフリカ大陸の北西部、スエズ地峡をはさんでユーラシア大陸と接している。また地中海、紅海に面し、ナイル川の恵みによってエジプト文明が成立した。「エジプトはナイルのたまもの」というヘロドトスの言葉は有名で、灌漑農業が発達し、現在に至るまで地中海世界の中で貴重な小麦などの穀物の産地である。この地に農耕文明を生み出したのはハム語族であり、それが古代エジプト人にあたる。しかし7世紀にイスラーム化してからはアラブ人が主体となっている。
古代のエジプト:前3000年ごろに生まれたエジプト王国は、古王国(大ピラミッドが造られた時代)・中王国新王国(メソポタミアにも進出した)に分けられる約30の王朝が前332年まで続いた。その間、ヒクソスやアッシリア、ペルシアの異民族支配を受けた。アレクサンドロス大王プトレマイオス朝(いずれもギリシア系国家)の支配の後、前1世紀末にローマ帝国の属州となり、東西分裂後は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に支配される。エジプトは、地中海世界で数少ない小麦などの穀物の産地として重要であった。アレクサンドリアが東地中海の経済の中心となり、ヘレニズム文化の中心地でもあった。
イスラーム後のエジプト:7世紀に正統カリフ時代のイスラーム帝国に支配され、その西方進出の拠点となる。ウマリヤ朝が衰退して9世紀にトゥールーン朝が自立した後、西方のチュニジアに起こったファーティマ朝に征服され、969年に首都カイロが建設された。その後、エジプトにはアイユーブ朝(12世紀、十字軍と戦う)、マムルーク朝(13世紀)とイスラーム教国が栄え、1517年にはオスマン帝国に併合される。
近代エジプト;オスマン帝国の衰退に伴うアラブの民族的覚醒が強まる中、1789年のナポレオンの遠征の刺激もあって独立運動がおこり、1805年にムハンマド=アリー朝エジプト王国が事実上の独立を達成する。ヨーロッパ列強の関心が強まり、1869年にはスエズ運河が建設されるが、エジプト王国は財政難に陥り、76年からは英仏に国に管理されることとなり、次第にイギリスの力が強まって1881年のウラービーの反乱が鎮圧されてからは事実上のイギリス領となる。第1次世界大戦後の民族主義の高揚により、1922年にエジプト王国も独立を回復したが、第2次世界大戦後は社会主義の影響も受けたアラブ民族主義運動が高まり、1952年ナセルら青年将校によるエジプト革命が起こってエジプト共和国となった。ナセルの指導のもと、エジプトはアラブ世界の中心として中東戦争の主役となってきたが、1978年のサダト大統領の和平路線への転換以来、アラブ世界では一時孤立した。  → エジプト・アラブ共和国
エジプト文明 ナイル川の定期的氾濫によって肥沃な土地という恵みを受けて形成された文明。ハム系のエジプト人が、メソポタミア文明の影響をうけて前8000年頃から潅漑農業による農耕文明に入り、ノモスという小国家の分立を経て前3000年頃、エジプト古王国という統一国家を成立させた。統一国家の形成はメソポタミア文明よりも早い時期であった。古王国の時代に青銅器の使用、文字(ヒエログリフ)、ピラミッドなどの特徴のあるエジプト文明が繁栄した。エジプト王国はその後、中王国、新王国と推移し、前332年までに31の王朝が興亡した。ここまでがエジプト古代文明と言うことができる。この間、一時的にヒクソス、アッシリア、ペルシアなどの異民族の支配を受けたが、エジプト文明は維持された。その後、前4世紀のアレクサンドロス大王の支配、プトレマイオス朝のギリシア系権力が成立したが、この王朝の王はファラオを名乗り、エジプト文明の要素を吸収して、いわゆるヘレニズム文明を形成した。しかし、プトレマイオス朝が前1世紀末にローマに滅ぼされ、エジプト文明は終わりを告げた。その後、7世紀以降はイスラーム化する。
a ハム系(語族) 古代エジプト人はハム語族とされる。紀元前8000年頃からナイル川流域でメソポタミアの影響受けて農耕生活に入り、古代文明を形成した。メソポタミアと違い、都市文明は発達しなかったが、外敵の侵入が少ない環境の中で、メソポタミアより早く、統一国家を形成した。
b  ナイルのたまもの 古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの『歴史』に見える言葉。ナイル川は、上流のエチオピア高原の雨期である8月〜9月に流れ込んだ雨水を集め、9月中旬から10月上旬にかけて中流から下流が増水し、自然堤防を超え、両岸にあふれ出し、1ヶ月間とどまり、その後ふたたび渇水期に入る。この洪水により、カリウム、リン、有機質に富んだ肥沃な土壌が毎年供給されることになる。エジプトはほとんど降雨がないが、このナイルの洪水によって農作物(主として麦類)を育てることができた。
A ノモス エジプトに成立した村落をノモスと言い、統一王朝が出現してからは「州」の意味となる。上エジプトに22、下エジプトに20、合計42のノモスに分かれていた。
a 下エジプト メンフィスから北のナイル川下流の大三角州地帯を言う。ピラミッドが集中する古代エジプト文明の中心地で、現在のカイロなど、現代でもエジプトの中心。(ただし、カイロはずっと後の973年、ファーティマ朝の都として建設された都市。)
b 上エジプト メンフィスから南のナイル川上流。両岸に広大な砂漠が広がる。流域沿いに都テーベや、ルクソール神殿があり、上流の峡谷地帯のアスワンには現在巨大なダムが建設されている。
c ファラオ エジプト王国の王をファラオという。「太陽神ラーの代理者」という意味で、神権政治を行い、古王国ではピラミッドを造営し、また中王国、新王国でも絶大な権力を振るった。 
B 古王国 紀元前3000年頃、メネス王が上下エジプトを統一し、最初の統一国家を作ったとされる。メネス王は伝説上の王だが、実在の王ナルメルに対比されている。その後、エジプトには、紀元前332年にアレクサンドロス大王に征服されるまで31の王朝が交替したとされる。その中の第3王朝から第6王朝までの紀元前2650年ごろから約500年間を古王国時代という。古王国では、ファラオによる神権政治が行われ、盛んにピラミッドが建造された。まだ鉄器は知られず、青銅器文明の段階であった。都は下エジプトのメンフィス
メンフィス ナイル川下流の三角州の起点近く、現在のカイロの南に位置する。エジプト古王国の都で、メネス王がエジプトを統一したときに築いたという。第3王朝から宮廷が置かれ、この地のナイル川の対岸のギザにピラミッドが造られた。中王国、新王国では都は上エジプトのテーベに移される。新王国ではツタンカーメン王の時、一時メンフィスに宮廷が置かれる。 
a 神権政治  → 神権政治
クフ王 エジプト古王国の第4王朝のファラオ(王)。およぞ紀元前27世紀ごろ、最大のピラミッドを造営したことで知られる。このクフ王を含む、カフラー王、メンカウラー王のピラミッド群は、カイロのナイル川の対岸のギザにある。
b ピラミッド エジプトでは統一王朝の登場の頃からマスタバという台状の墳墓が現れ、古王国時代の第3王朝で階段状のピラミッドが現れる。ついで屈折ピラミッドを経て、第4王朝で正方形の底面と二等辺三角形の側面で構成されるピラミッドが造られる。最大のものはギザにあるクフ王のもので底辺の一辺が230メートル、高さが147メートルである。
Epi. ピラミッドは墓ではない? ピラミッドは古王国時代以降は造られなくなり、後に一般に王の墓であったと信じられるようになるが、実際には何のために造られたかは謎が多い。ピラミッド内からミイラが発見されたことはなく、実際に墳墓とされたとは言い切れない。単なる墳墓ではなく、周辺に墳墓や神殿をもつ、埋葬都市(ネクロポリス)の一部であった、とも考えられている。また、ピラミッドはヘロドトス以来、奴隷にたいする強制的な労働によって造られらと言われてきたが、最近ではエジプトでの奴隷の存在を否定し、ピラミッドは農閑期の農民を動員し、農民も神としてファラオを崇拝する上でその造営に参加したと解釈されている。<以上 吉村作治『ピラミッドの謎』1979 p.29,38 講談社現代新書>
ギザ  
C 中王国 地方豪族の自立などで古王国が衰退した後、前2040年頃上エジプトのテーベを中心としたメンチュヘテプ王がふたたびエジプトを統一した。これが中王国で、第11、12王朝にあたり、約250年ほど続く。中王国は、ヒクソスの侵入を受けて混乱し、衰退する。
テーベ エジプト中王国新王国時代の都で、ナイル川中流(上エジプト)に位置する。テーベの守護神アメン神が祭られ、周辺にはカルナック神殿、ルクソール神殿などが作られた。またテーベにはアメン神を祭る神官が大きな勢力を持っていた。近くにファラオたちの墳墓である「王家の谷」もある。アメンホテップ4世(イクナトン)の時、一時都はアマルナ、さらにメンフィスに移された。その後のラメセス2世時代にテーベでカルナック神殿などの大造営が行われた。
a ヒクソス 前18世紀中頃にエジプトに侵入し、前17世紀中頃から約1世紀間、エジプトを支配した異民族王朝。前2000年紀の前半にヒッタイトやミタンニなどのインド=ヨーロッパ語族の民族移動が西アジアに及んだ頃、それに押される形でアジア系の民族がエジプトに侵入してきたのがヒクソスと思われる。彼らは武力に優れ、エジプトに騎馬と戦車を持ち込んで、一時的に支配したが、その実態は判らないことが多い。ヒクソスとは古代エジプト語で異国の支配者を意味する「ヘカウ・カスウト」からきたとされる。中王国時代に傭兵としてシリアからつれてこられた人々であった可能性もある。彼らはエジプト中王国を征服して、初めはデルタ地方を支配し、さらに第15、16王朝をたてた。前16世紀の中頃、エジプト人はヒクソスを倒してエジプト新王国を立て、エジプト人の王朝を回復した。
D 新王国 前1570年頃、ヒクソスに対抗してエジプト人の統一国家を再建したのがテーベのセケネンラー2世で、第17王朝から20王朝までの約500年間を新王国という。エジプトが最も栄えた時代で、ツタンカーメン王、ハトシェプスト女王、ラメセス2世など有名な王が多い。新王国は領土拡張に務め、第18王朝第3代のトトメス1世は、シリア・パレスチナに出兵し、ミタンニと戦い、その地を占領し、さらにトトメス3世はメソポタミアにも進出し領土を最大に広げた。 新王国時代の歴代の王の墳墓として築かれたのが「王家の谷」である。アメンホテプ4世の時代の「アマルナ革命」で一時混乱したが、次いで第19王朝のラメセス2世(ラメセス大王)は西アジアに進出し、ヒッタイトの戦い(前1286年、カデシュの戦い)、領土を確保した。この時代には、今に残るカルナック神殿、ルクソール神殿、アブシンベル神殿など巨大な神殿が建造された。
トトメス3世 エジプト新王国第18王朝の王(在位前1490〜36年)。即位したときは幼少であったので、先代の正妃であったハトシェプストが共治王として実権を握った。前1486年頃から単独で政権をとると、北方の脅威となっていたミタンニ王国に対し遠征を開始した。治世42年間に17回のアジア遠征を行ったがその記録はカルナック神殿の壁面に刻まれている。トトメス3世は軍をユーフラテス川まで進め、カッシート(バビロンを支配していた)、ミタンニ、アッシリア、ヒッタイトなどのアジアの諸王朝にエジプトの地位を承認させた。アジアを制圧したトトメス3世は、次いでナイル川上流のクシュを従え、エジプト史上最大の版図を獲得した。しかし国王の権力が強くなるに従い、それを支えていたテーベのアメン神(アメン=ラー)の神官との対立が始まり、前14世紀のアメンホテプ4世のアマルナ革命の混乱期を迎える。
a アメンホテプ4世 エジプト新王国第18王朝の王(在位1364〜47年ころ)。エジプト新王国が強大となり、西アジアをも支配するようになると、王権のあり方も変化してきた。新王国は、はじめテーベの守護神アメン(アモン)神と太陽神ラーが合体し、アメン=ラー信仰を中心とする多神教が行われていたが、第18王朝のアメンホテプ(アメンヘテプとも表記。「アメン神は満足し給う」の意味)4世は自らの神格化と一神教への移行をはかり、アメン=ラー信仰を否定して、唯一の絶対神としてアトン(アテン)神信仰を国民に強要した。自らも王名をイクナートンと改名し、都をテル=エル=アマルナ(「アケト・アテン」と命名された)に移した。アトン信仰は自然神でありながら、愛によって人々を救済するという、普遍的な宗教であり、エジプトと西アジアという異なる民族と文明を内包する地域を支配する専制君主に適した新しい宗教として創り出された。イクナートンはその信仰に基づき、独自の美術表現を推奨し、それはアマルナ美術と言われた。この一連の宗教改革は「アマルナ革命」と言われる。しかし、伝統的なテーベを拠点とするアメン神をまつる神官団や官僚たちの反発を受け、次の王ツタンカーメン王の時には都はメンフィスに移され、「アマルナ革命」は否定された。第19王朝のラメセス1世はアメンホテプ4世を「異端の王」として断罪し、アマルナを徹底的に破壊し、その王名も抹殺した。
イクナートンエジプト新王国のアメンホテプ4世は、前14世紀の中頃、エジプトの伝統的な多神教であるアメン=ラーへの信仰を改め、唯一絶対の神としてアトン神を崇拝した。自らも王名をイクナートン(アケナテン、とも表記)と改名したが、それは「アトン神にとって有用な者」の意味であった。これは西アジアにおける最初の一神教として注目されるが、この一種の宗教改革に対して、保守勢力であるテーベのアメン神殿の神官が反対し、改革は失敗した。
テル=エル=アマルナ エジプト新王国のアメンホテプ4世が、テーベのアメン神神官の勢力を排除するために築いた都。テーベとメンフィスのほぼ中間のナイル川東岸にある。アケト・アテンというのが正式の名称。王一代であったが斬新なアマルナ美術が栄えた。後にアメンホテプ4世(イクナートン)の改革が否定されると、王宮は破壊され、現在は遺跡が残るのみとなっている。
b アマルナ革命 紀元前14世紀のエジプト新王国でアメンホテプ4世(イクナートン)によって実施された、一種の宗教改革、およびそれに伴う新しい美術(アマルナ美術)の出現をアマルナ革命という。アマルナとは、彼が新都としたテル=エル=アマルナによる。 アメンホテプ4世は、従来のアメン神を中心とした多神教に依拠して大きな勢力をっていたテーベの神官たちを抑え、国王としての統一的支配を実現しようと考え、アメン神に替わる唯一神で普遍的な愛の神であるアトン神(アテン神)を創出し、その信仰を国民に強制した。自らイクナートンと改名し、都もテーベからテル=エル=アマルナに移した。これは、部族的な多神教信仰を否定して、統一国家にふさわしい唯一神信仰を国王が主宰するというもので、宗教改革であると共に政治的、社会的な改革であった。しかしこの改革は、テーベの神官など、いわば抵抗勢力の反発を受け、王の死後は改革路線は維持されず、新王ツタンカーメン王は即位するとアメン=ラー信仰を復活させ、都もテーベに戻した。現在は、アメンホテプ4世時代の改革は、「アマルナ美術」と言われる新しい表現のあふれる遺品から読み取ることが出来るのみである。
b アマルナ美術 紀元前14世紀のアメンホテプ4世(イクナートン)によるアトン神への一神教信仰の創出というアマルナ革命という一種の宗教改革にともなって生まれた、個性的な美術作品群を言う。王妃ネフェルティティの像、息子ツタンカーメン王の王墓から発見された黄金のマスクなどがその代表作。
ラメセス2世 エジプト新王国の第19王朝の王(在位1290〜24年ごろ)。トトメス3世と並ぶエジプト史上の英主の一人とされ、レメセス大王とも言われる。治世の前半は、ヒッタイトに奪われたシリアの回復のための戦争、後半は王権を飾る巨大な神殿の建造にあけくれた。ヒッタイトとの抗争では前1286年頃、2万の軍を率いてシリアに進出、カデシュの戦いでヒッタイト王ムワタリと対決、一時は危機に瀕したが、超人的な活躍で態勢を立て直し、勢力圏を確保した。また和平成ってからは巨大な建造物の造築に務め、有名なカルナック神殿、ルクソール神殿を完成させ、さらにアブシンンベル神殿アスワン=ハイダムの建造によって水没することとなったため、UNESCOの協力によって崖の上に移築された)を建設した。
カデシュの戦い 前1286年頃、シリアのエジプト領をめぐり、エジプト新王国ラメセス2世と、ヒッタイト王ムワタリとの戦争。カデシュは現在のシリアの地名。一時ヒッタイト軍が優勢であったが、ラメセス2世の勇戦によってエジプト軍が態勢を取り戻し、勝敗決せず終わった。エジプトはシリアの領土を確保することができた。その後、前1269年頃には、エジプトとヒッタイト両国の間で、平和同盟条約が締結された。この条約は現在知られている世界で最初の国際条約といわれている。 出題 2005明大政経
Epi. 世界最初の平和条約 カデシュの戦いの後、前1269年頃にエジプトのラメセス2世がヒッタイトと結んだ条約は、世界で最初の平和同盟条約と言われている。条約の内容は、領土不可侵(互いに領土を侵害しないこと)、相互軍事援助(いずれかが第3国から攻撃や内乱の場合、要請があれば援軍を派遣すること。当時共通の脅威として「海の民」が出現していた)、政治的亡命者の引き渡しと免責(亡命者は送還するが帰国後は処罰しない)の三点であった。この同盟文は、カデシュの戦いのラメセス2世の武勲とともにカルナック神殿やラメセス2世の葬祭殿(ラメセウム)に刻まれている。<『世界の歴史』1人類の起源と古代オリエント 1998 中央公論社 p.508> またヒッタイト王国側では、ボガズキョイから発見された粘土板にも同じ内容の条約文が半券された。
カルナック神殿エジプト新王国時代の代表的な遺跡。ナイル川中流(上エジプト)のテーベに造営された大神殿で、ラメセス2世が造営したテーベの守護神アメン神を祭った大列柱殿(百柱神殿)をはじめ、ハトシェプスト女王の大オベリスク(高さ30mの石柱)、トトメス3世の葬祭殿などの建造物群がある。  出題 2005明大政経
エジプト末期王朝 第20王朝の前12世紀、ラメセス3世のころまではエジプト新王国は繁栄が続いたが、そのころから北方海上からの「海の民」の侵入が激しくなり、内紛もあって衰え始めた。その後も、約500年も継続するが、その間メソポタミアには強力な統一国家アッシリアが成長し、前663年にはアッシリア軍がエジプトに侵入し征服された。アッシリア滅亡後は独立を回復する(4国分立時代)が、これ以降は末期王朝といわれ、衰退が進んだ。この間の第24、26王朝では都はナイル・デルタのサイスに置かれた。イラン人のアケメネス朝ペルシアが台頭すると、前525年にそのカンビュセス2世によって征服された。ペルシア帝国支配時代には何度か独立を回復し、エジプトの王朝は第31王朝まで続いたが、前332年、マケドニアのアレクサンドロス大王によって征服されて、ついにエジプト王朝は終わりを告げた。ヘレニズム時代にはプトレマイオス朝エジプトとなるが、これはギリシア系の支配者の国であった。プトレマイオス朝最後の女王クレオパトラが倒され、エジプトはローマの属州となる。
★エジプト文明の特徴 
a 太陽神ラー 古代エジプトの多神教信仰の中心にあった最高神。その代理者がファラオとされた。
アメン神(アモン神)アメン(Amen)はエジプト語。ギリシア語でアモン(Ammon)とも表記する。エジプト中王国以来栄えていたナイル川中流の都市テーベの守護神としてあがめられていた神。新王国時代には太陽神ラーと一体化して、アメン=ラー信仰(アメン=ラー)が起こり、テーベのカルナック神殿を建設し、多数の神官が組織されて、神官の勢力は王朝の政治を左右するほどであった。アメン神の信仰は基本的には多神教で、マモン神のほかに、いろいろな神が存在した。新王国のアメンホテプ4世は、アマルナ革命で一神教信仰であるアトン神信仰を創出して、テーベの神官勢力を抑えることを目指したが、定着せず、アメン神信仰は維持された。
アトン神(アテン神) アテン神とも表記する。エジプト新王国のアメンホテプ4世が、それまでの多神教であるアメン神信仰をすて、唯一神であり、万物の創造主であるとしてアトン神を創出し、その信仰を国民に強要した。アメンホテプ4世は、自ら名前をイクナートンと改名し、アメン神を祭るテーベの神殿を破壊し、その神官の職を廃止、アマルナに遷都するなど、いわゆるアマルナ革命を断行した。職をなくした神官はイクナートンの改革に反対し、その死後ファラオとなったツタンカーメン王のときには再びアメン信仰に戻ることとなる。
b オシリス神 古代エジプトで、死後の世界を支配する神とされたのがオシリス神とされている。なお、オシリス神の妻がイシス神でその間に生まれたのがホルス神。イシスはオシリスが冥界の神となってしまったので、その代わりにホルスを現世のエジプトの王にしようとし、太陽神ラーをだまして絶対権力を我が子に授けさせたという。
Epi. バラバラ殺「神」事件とミイラの始まり オシリス神が冥界の神となるまでには次のよう物語がある。オシリス神はもともと穀物を育てる豊饒の神で絶大な人気があったが、これを妬んだ弟神セトに謀られて殺害され、遺体はエジプト全土にバラバラに投げ捨てられた。妻でもある妹神イシスはくまなく探し、身体のひとつひとつを見つけ出して拾い集め、遺体をつなぎ合わせて命を吹き込み復活させた。しかし復活したのはこの世ではなくあの世(来世)であった。ミイラを包帯でぐるぐる巻きにするのはこの神話に由来するという。<本村凌二『多神教と一神教−古代地中海世界の宗教ドラマ−』2005 岩波新書 p.54>
c ミイラ エジプトの歴史家ヘロドトスの伝えるところに拠れば、曲がった刃物を鼻から入れて脳を掻き出し、それから内臓を抜いて洗浄し、50日間ソーダ漬けにし、その後に20日間乾燥させ、防腐剤を塗り、包帯を巻いて造ったという。すべて終わった70日目に葬儀が行われた。これが最上級のミイラの作り方で、他に中級と下級の三種類の作り方があった。
Epi. ヘロドトスの伝える最上級のミイラ製造法 「先ず曲った刃物を用いて鼻孔から脳髄を摘出するのであるが、摘出には刃物を用いるだけでなく薬品も注入する。それから鋭利なエチオピア石で脇腹に添って切開して、臓腑を全部とり出し、つづいてすりつぶした純粋な没薬と肉桂および乳香以外の香料を腹腔に詰め、縫い合わす。そうしてからこれを天然のソーダに漬けて七十日間置くのである。・・・七十日が過ぎると、遺体を洗い、上質の麻布を裁って作った繃帯で全身をまき、その上からエジプト人が普通膠の代用にしているゴムを塗りつける、それから近親の者がミイラを受け取り、人型の木箱を造ってミイラをそれに収め、箱を封じてから葬室内の壁側に真直ぐに立てて安置するのである。」なお、中級は、杉から採った油を遺体の腹一杯に満たし、臓器を取り出さず、ソーダに70日間漬ける。そうすると臓器は杉油に溶解し体外に排出する。後は骨と皮だけが残るので職人はそのまま遺体を引き渡す。最も安価な方法は、下剤を用いて腸内を洗滌した上で七十日間ソーダ漬けにし、それから引き渡す。<ヘロドトス『歴史』巻一 86-88節 松平千秋訳 岩波文庫(上) p.212 岩波文庫>
d 「死者の書」 死者が死後の世界に行く時に持っていく、生前の行状などを書いたもの。死者は遺体をミイラにし、冥界で復活するための手続きに必要な呪文集である「死者の書」を持って棺に入った。初めは棺(コフィン)に書かれたので、コフィン・テキストといわれるが、前2000年紀半ばごろからパピルスの巻物に書かれてミイラとともに棺に納められるようになった。内容は呪文であるが、「死者の裁判」に備えて故人の生前の弁明が記されているので、現存する「死者の書」を解読することによってエジプト社会の実態が明らかになってきた。
ツタンカーメン王エジプト新王国第18王朝のファラオ。アメンホテプ4世(イクナートン)の次ぎに、わずか9歳で即位し18歳で死ぬ。「王家の谷」から1922年に発見されたその王墓からは多数の黄金の副葬品が発見されたことで有名。
ツタンカーメンはアメンホテプ4世の娘の夫であるが、4世自身の庶子であるらしい。即位したときは、ツタンカートン(「アトン神の生きた似姿」の意味)を名乗り、義父のアトン神信仰を受け継いでいたが、即位するとまもなく、摂政のアイや将軍ホルエムハブなど側近の意向によってか、名前をツタンカーメン(正しくはトゥトアンクアメン、「アメン神の生きた似姿」の意味)に変え、都をメンフィスに移し、アメン神信仰を復活させ、テーベのアメン神神殿の神官たちも復職させた。
Epi. 世界を驚かせたツタンカーメン王の王墓の発見 1922年11月、テーベの近くの「王家の谷」といわれるエジプト新王国のファラオたちの王墓が集中している一角で、全く未知の王墓が発見された。それは王墓の中でも小規模なものであったので、盗掘を免れていた唯一の王墓であった。出土したミイラの名札からそれがツタンカーメン王のものであることがわかった。その墓室からはほとんど埋葬時そのままの王のミイラ、それを覆う黄金のマスク、王の玉座、さまざまな装飾品、武器などが見つかり、世紀の大発見と言われた。発掘に成功したのは、ハワード=カーターというイギリス人であった。彼はカーナヴォン卿というスポンサーの出資によって16年前からエジプトで発掘に従事していたのだった。ところで、エジプトには、ファラオの墓を暴いた者は呪われるという言い伝えがあった。このツタンカーメン王の発掘でもスポンサーのカーナヴォン卿が翌年4月に急死したほか、関係者が数年の間に相次いで死んだので「ファラオの呪い」ではないか、と話題になった。カーター自身は1939年に病死した。<P.ファンデルベルク『ツタンカーメン』−考古学史上最大の発掘ドキュメント− 坂本明美訳 アリアドネ企画 1978>
e 神聖文字(ヒエログリフ) 古代エジプトの絵文字の一つで、神聖な碑文に用いられたので、神聖文字、または聖刻文字と言われる。それを簡略化したのが神官文字(ヒエラティック)、その筆記体が民用文字(デモティック。民衆文字ともいう。)である。ナポレオンのエジプト遠征の際に発見されたロゼッタ=ストーンに掘られたヒエログリフをフランス人シャンポリオンが解読(1822)した。→文字
 神官文字(ヒエラティック)  
f 民用文字(デモティック) 神聖文字の筆記体に当たる。パピルスに筆記されて記録された。
g パピルス ナイル川河畔に自生する植物で、エジプト人はその茎から取れる繊維から紙を造った。英語の Paper は、ギリシア語の PAPYRUS が語源である。 → 製紙法 
 測地術  
h 幾何学  
i 太陽暦 メソポタミア文明や中国では太陰暦(厳密には太陰太陽暦)が行われていたのに対して、エジプト文明では太陽暦が行われていた。
ナイル川の定期的な氾濫を利用して灌漑農業を営むようになったエジプト人は、365日で1年がめぐることを知るようになり、太陽の運行をもとにした太陽暦に、紀元前5000年頃に移行したという。初めは1月は30日で年12ヶ月、5日の祝日を入れて365日とする民衆暦が工夫された。後に4年に1度の閏年をいれることによってより正確に季節変化に合うようになった。季節の変化と一致しない太陰暦に対して、農作物の栽培に適合しているために次第に広く使われるようになり、カエサルがこれをローマに導入してユリウス暦とし、地中海世界・ヨーロッパで広く行われるようになった。それでも実際の太陽の運行とはわずかなズレがあって、それが次第に大きくなり、復活祭の日付が季節とずれてきてしまったために、1582年にローマ教皇グレゴリウス13世が定めたグレゴリウス暦でほぼ現在の太陽暦ができあがった。現在は世界共通の暦日としては太陽暦が使われているが、イスラーム世界では祭礼や生活習慣では依然として太陰暦であるイスラーム暦が用いられている。
補足 「ナイル河デルタの古代エジプトでは、ナイルの定期的氾濫が関心事であった。そのため、ナイルの氾濫の周期をたしかめるとか、またはそれを予知する方法が熱望された。そして、天上第一の明星のシリウスが日の出と同時に東の地平線から上がって来るのが見えると、ナイルの氾濫が始まることを知った。このシリウスのいわゆる「ヘリアカル・ライジング」の観測は、国家的儀式としてとりおこなわれたようであるが、当日曇天であっても予報にさしつかえないように、その周期はよく定められ、365.25日とされた。・・・・紀元前46年に、シーザーはエジプトの一年の長さ365.25日をローマに輸入し、これにもとづくユリウス暦によって、それまでおこなわれていたローマ暦を改革し、全面的な太陽暦を施行した。平年は365日で、4年ごとに1日の閏日を置くものである。・・・」<吉野秀雄『年・月・日の天文学』1973 中央公論社・自然選書 p.146>
★エジプト象形文字の解読 
a  シャンポリオン フランス人。11歳でエジプトの古代文字に興味を持ち、グルノーブルで研究を始める。ナポレオン派であったのでその没落後は苦労が続き、小学校校長をしながらエジプト文字の研究をつづけた。1822年までにロゼッタ=ストーンの三種類の文字の検討から、クレオパトラなどの固有名詞を読みとり、エジプト神聖文字(ヒエログラフ)の解読に成功した。
b ロゼッタ=ストーン 1799年、ナポレオン率いるフランスのエジプト遠征軍の参謀のブーシャールが、アレクサンドリア近郊のラーシードという町で兵士に堡塁の造築作業をさせていたとき、兵士たちが大きな黒い玄武岩に古い絵文字がきざまれているのを発見した。ラーシードの町をヨーロッパ人はロゼッタとよんでいたので、この石はロゼッタストーンと言われるようになった。はじめカイロのエジプト研究所−ナポレオンの遠征を期に設立された研究所−に入れられたが、1801年9月アレクサンドリアでフランス軍がイギリスに降伏したため、フランスが獲得したほかの古代エジプトの文化財ごとイギリスに引き渡され、ロンドンに送られ、現在では大英博物館の収蔵品となっている。ロゼッタ=ストーンの文字の刻印された面は三段に分かれ、上段に神聖文字、中段に民用文字、下段にギリシア文字が記されていた。<『古代文字の解読』 1964 高津春繁・関根正雄 p.38 岩波書店>
ウ.地中海東岸の諸民族 
a シリア シリアは東地中海岸の北部から内陸のユーフラテス川流域いたる地域。本来は現在のシリア・レバノン・ヨルダン・パレスティナを包括する地域をシリアといっていた(「大シリア」とも言う)のであり、現在のシリアは、第1次世界大戦後にオスマン帝国領をイギリス・フランスが分割して委任統治領としたときに線引きされて縮小されたもの。いわゆる「肥沃な三日月地帯」の一角を占め、生産力が豊かで、セム系民族のアラム人ダマスクスを中心に商業活動に従事していた。アッシリアやペルシア帝国に支配された後、前333年にアレクサンドロス大王に征服され、その死後はヘレニズム三国の一つセレウコス朝の支配を受け、64年からローマ帝国に服属し、その東西分裂後は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配を受け、エジプトと並んでその重要な穀倉地帯となった。この間、ネストリウス派と単性派のキリスト教がこの地域に広がった。7世紀にアラビア半島に興ったイスラーム教が進出し、ビザンツ帝国を後退させて、シリア総督としてウマイヤ家が統治、661年にはダマスクスを都としてウマイヤ朝が成立した。その後イスラームの各王朝が興亡し、十字軍の侵入があった後、オスマン帝国の支配を受けるに至る。 →第1次大戦後のシリア
b パレスチナ パレスチナはシリアの南に当たり、東地中海海岸一帯を指す。その中心地イェルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教という三大宗教の聖地である。パレスチナは旧約聖書で「乳と蜜の流れる国」とされる豊かな地で、古くはカナーンといわれ、カナーン人が交易に従事していた。この地は長い間ヒッタイトとエジプト新王国の間の抗争の地となったが、紀元前12世紀頃に東地中海に海の民が進出し、ヒッタイトが滅び、エジプト新王国が後退したことによって情勢は一変し、海の民の一派であるペリシテ人がこの地に鉄器を伝え、活動するようになった。ペリシテ人の名からパレスチナという地名が起こった。やがてセム語系のヘブライ人(後にユダヤ人と言われるようになる)がその地に移住し、紀元前1000年頃、ヘブライ王国を建設、ダヴィデ王の時代に周囲を平定し、都イェルサレムを建設した。次のソロモン王の時に大いに繁栄したが、その死後ヘブライ王国は南北に分裂して衰え、北のイスラエル王国は前722年にアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国は前587年に新バビロニアによって滅ぼされた。ついでペルシア帝国、アレクサンドロスの帝国の支配と大国による支配が続き、ヘレニズム時代はエジプトのプトレマイオス朝、シリアのセレウコス朝の支配を受けた。紀元前2世紀〜前1世紀中頃まではユダヤ人のマカベア朝が成立し、ローマの属国となった。そのヘロデ王が死ぬとローマの属州となり、そのころイエスが誕生した(ローマ時代のパレスチナ)。ユダヤ人のローマに対する抵抗も弾圧されて、ユダヤ人もローマ領に離散(ディアスポラ)し、この地は長くローマ帝国及び東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に属することとなる。7世紀にイスラーム勢力が勃興、パレスチナにはアラブ人が居住するようになり、オスマン帝国成立後はその領土となった。近代に入り、オスマン帝国領へのイギリス、フランス、ドイツ、ロシアなど列強の進出が強まり、さらにユダヤ人のなかにシオニズムが勃興、この地で複雑な民族抗争が発生した。第1次世界大戦中にイギリスはバルフォア宣言を発してユダヤ人の国家建設を約束し、戦後の1922年からイギリスのイスラエル委任統治が始まった。第2次世界大戦後、この地にユダヤ人の国家イスラエルが建設され、居住していたアラブ人(パレスチナ人)との民族対立、宗教対立が激化し、4度にわたるパレスチナ戦争が展開され、現在も深刻なパレスチナ問題として継続している。
A カナーン人 東地中海岸地方は、古くはカナーンといわれ、そこで活動していた人々もカナーン人と言われた。カナーン人が居住していたことから、現在のパレスチナをカナーンの地ともいう。またカナーン人ははじめて表音文字をつくり、それがフェニキア人に伝えられ、さらにギリシア・アルファベットとなった。
a 表音文字 東地中海岸のカナーン人は、西アジアの楔形文字と異なる、独自の表音文字の使用を始めた。それがフェニキア人に伝えられ、アルファベットがつくられる。
b 海の民 紀元前1200年頃、東地中海上で活動した集団であるが、その系統や実体は不明。さまざまな名称をもつ民族からなる集団であったようで、原住地は小アジア西海岸とエーゲ海諸島という説が強い。飢饉が原因で豊かな土地をめざして移住を企てたものであるらしい。彼らはシリア、パレスチナに上陸してヒッタイトと争い、そのためヒッタイトは滅亡したらしく、さらにエジプト(新王国)に侵入した。海の民の活動によってヒッタイトとエジプトというオリエントの二大勢力の動揺は、次の前12世紀のオリエント世界全体の動乱の始まりを示すものであった。また最近では、ギリシアのミケーネ文明が急速に衰退し、暗黒時代という混乱期となったのも海の民の侵攻が原因とされている。
d ペリシテ人 前12世紀頃、エーゲ海方面から地中海東海岸に進出した「海の民」の一派と考えられている。ペリシテ人が定着した地方という意味で、カナーンの地をパレスチナと言うようになった。彼らは鉄器を使用して一時強大となったが、前11世紀にはセム語系のヘブライ人の建国したヘブライ王国ダヴィデ王に征服された。旧約聖書のサムエル記には、ダヴィデがペリシテ人の巨人ゴリアテを投げ石で倒した物語がある。
設問 05年東京大学 
鉄製武器を最初に使用したことで知られるヒッタイトの滅亡は、製鉄技術が各地に広まる契機となった。ヒッタイトを滅ぼした「海の民」の一派で、製鉄技術をパレスチナに伝えた民族の名称(a)と、この民族を打ち破って、この地を中心に王国を発展させた人物の名(b)を記しなさい。
 → 解答  (a)   (b) 
B アラム人 フェニキア人、ヘブライ人と並ぶ、セム系の民族で、前1200年頃から西アジアの現在のシリアのあたりに定住し、内陸部の陸上交易に活躍した。彼らの造りだしたアラム文字は、ユーラシア大陸の内部まで交易活動とともに伝えられ、広がっていく。後にイスラーム帝国のウマイヤ朝の都となるダマスクスはアラム人が建設した都市とされる。
a ダマスクス シリアの中心都市。前10世紀、アラム人の国の都として建設され、その後も西アジア交易の中心地として栄える。前732年にはアッシリアに征服される。その後、ペルシア帝国、アレクサンドロス帝国、セレウコス朝、ローマの支配を受け、635年イスラームのウマイヤ朝の都となる。 → ウマイヤ朝の都ダマスクス  シリア
b アラム文字 前1200年頃から、西アジアの内陸貿易に活躍したアラム人が考案した文字で、22の子音からなるアルファベットである。それまでの西アジアの楔形文字に代わって前1000年紀後半に西アジア全域に広がり、後のヘブライ文字とアラビア文字の原型となり、さらにヘレニズム時代には東方に広がり、突厥文字ソグド文字ウィグル文字モンゴル文字満州文字などにつながっていく。
C フェニキア人 フェニキア人はセム語系民族であるが、単一の民族と言うより、東地中海岸の現在のレバノンのあたりを拠点に地中海方面に海上貿易に従事していた集団であった。古くは前15世紀頃に栄えたウガリット王国もフェニキア人と関係があったらしいが、この国は前12世紀に「海の民」の攻撃によって滅びた。かわってそのころ、南のシドンティルスやベリュトス(現在のベイルート)などに都市を築き、地中海の貿易活動に進出するようになった。彼らの輸出品は特産であるレバノン杉といわれる杉材で、中東では森林が少なかったため、エジプトなどでも貴重な建築材としてフェニキア人の主要な交易品となった。レバノン杉は現在のレバノン国旗の図柄に描かれている。
植民都市の建設:さらに地中海各地に植民都市を建設していった。ティルスを母市として北アフリカの現在のチュニジアに建設されたのがカルタゴ(前814年に建設したと伝えられる)である。他に、イベリア半島のカディス、バルセロナなどもフェニキア人が築いたとされている。
表音文字の考案:彼らは活発な交易活動に便利なように、カナーン人から学んだ表音文字を発展させ、後のアルファベットのもとになる線状文字を作り出した。フェニキア人の作った表音文字は、それまでの楔形文字の字数が多数であったのに対し、わずか30文字で意味を表すことができるものだった。しかし子音を表すだけであったので、後にギリシア人が母音を加えて現在のようなアルファベットになった。
フェニキア人の興亡:フェニキア人はアケメネス朝ペルシアの時代にはその保護を受けて地中海貿易で活躍したが、ギリシア人やローマが地中海貿易に進出してくるとの商業支配をめぐって抗争することになる。ペルシア戦争も、ギリシア人とフェニキア人の対立という一面がある。フェニキア人の国カルタゴは、前480年のサラミスの海戦と同じ年にシチリア島のギリシア人と戦い敗れている(ヒメラの戦い)。その後は西地中海のみがその勢力範囲となったが、前3世紀になるとローマと抗争することとなる。それがポエニ戦争(前264〜前146年)であった。その戦いに敗れ、フェニキア人の国家は消滅する。
ウガリット ウガリトとも表記する。フェニキア人が前15世紀に築いたという都市国家。現在のシリア海岸のラッ・シャムラで、1929年にフランスの発掘隊によって発見された遺跡で、多数の楔形文字の文字版が出土して人々を驚かした。特にその楔形文字の中にメソポタミアのそれと違って、種類が30種類しかない表音文字であることが判り、フェニキア人のアルファベットの原型と考えられている。ウガリットは北方のヒッタイトと、南方のエジプトという強国の間にあって、交易の中継地として繁栄したらしいが、前1200年ごろ、「海の民」の侵攻を受けて滅んだ。フェニキア人はその後、南に移り、シドンやティルスを建設する。
a シドン 東地中海海岸にあってティルスと並びフェニキア人の海上貿易の拠点として栄えた。現在のレバノンのサイダーという町。アッシリアや新バビロニアに征服され、後には十字軍とイスラーム軍の争奪の的となった。
b ティルス テュロスとも表記。現在のレバノンの地中海岸に近い島に栄えた都市で、フェニキア人が建設し、地中海進出の拠点であった。ティルスのフェニキア人がアフリカ北岸に建設した植民都市がカルタゴである。一時アッシリアに征服されたが、その後復興し地中海貿易で繁栄した。前332年にはエジプトに向かうマケドニアのアレクサンドロス大王に攻撃され、7ヶ月にわたって抵抗したことは有名。ヘレニズム時代のセレウコス朝シリアとローマ帝国時代にも貿易港として栄えた。636年にイスラーム勢力のアラブ人に破壊されて、繁栄が終わった。現在は遺跡として残るのみである。
b 地中海貿易  → 第1章 2節 地中海貿易
c カルタゴ  → 第1章3節 ローマの地中海征服とその影響 ポエニ戦争のカルタゴの項参照
 ガデス(カディス) 前7〜6世紀、フェニキア人の都市ティルスが、イベリア半島に最初に建設した植民市、「ガディル」が発展した港市。ローマ時代にはガデスと言われ、現在はカディス。
 バルセロナ カルタゴのフェニキア人がイベリア半島に進出して建設した都市、バルキノから発展した。バルキノは、この植民市を建設したカルタゴの将軍ミハルカル=バルカに由来する。バルセロナはその後もスペイン東部のカタルニア(カタルーニヤ)地方の中心都市として発展、たびたびフランスの支配を受けながら、東地中海の海上貿易で繁栄した。 
d 線状文字  
e アルファベット  → アルファベット
D ヘブライ人 旧約聖書には、ヘブライ人の系統が詳しく述べられている。それによれば、セムの子エベルの子孫のアブラハムがヘブライ人の祖先とされる。その伝承によればメソポタミアのウルからカナーン(パレスチナ)のヘブロンに移住し、さらにエジプトに渡り、モーゼに率いられた「出エジプト」後にカナーンに定住したという。彼らは自らはイスラエル人と呼び、また他からはユダヤ人と言われるようになった。その最大の特徴は、唯一絶対の神ヤハウェを信奉する一神教であるユダヤ教を持っていたことである。一神教の出現は、それまでの西アジアに見ることのできない新しい動きであり、またそこから後にキリスト教が生まれてくることからも重要な意味を持っている。ヘブライ人は自らはイスラエル人と称し、後のバビロン捕囚後はユダヤ人といわれるようになる。 
a ユダヤ教 ユダヤ民族の持つ民族宗教。ユダヤ人(ヘブライ人、イスラエル人ともいう)は唯一絶対の神ヤハウェのみを信じ、他のいかなる神も存在を認めない一神教を作り上げた。彼らはヤハウェから選ばれた民であり(選民思想)、神から与えられた律法を厳格に守ることによって救済される考える。旧約聖書に物語られている「出エジプト」や「バビロン捕囚」などの民族的苦難から、救世主(メシア)の出現を信じるようになり、イェルサレムの神殿に奉仕する祭司たちによる教団が形成された。紀元前1世紀、ローマに征服された頃になるとユダヤ教の変質が見られるようになり、保守派と改革派の対立が始まる。その中から出現したのがはじめは「ユダヤ教イエス派」としてのイエスの教えであり、それはやがてユダヤ教から決別して世界宗教であるキリスト教に成長していく。ユダヤ教はその後、パレスチナの地を離散したユダヤ人とともに、ローマ帝国領内に広がるが、あくまで民族宗教としての儀礼を捨てなかったので、キリスト教が公認され国教化されると、異教として排除されていくこととなる。
b イスラエル人 ヘブライ人は自らをイスラエル人と呼んだ。
c ユダヤ人 他民族からはヘブライ人といわれ、自らはイスラエル人と呼び、バビロン捕囚後にはユダヤ人と言われるようになる。人種的にはセム系氏族だが、周辺民族との混血の結果、独自の形質をもつようになった。「出エジプト」の後、前12世紀ごろからカナーンの地(パレスチナ)に定住し、前11世紀ごろには都をイェルサレムとするヘブライ王国を建国し、一時隆盛を誇った。しかし王国はやがて分裂、さらに「バビロン捕囚」などの民族的苦難を経験し、その間に独自の一神教であるユダヤ教を民族宗教として成立させた。ペルシア帝国の成立によってユダヤ人は解放され、パレスチナに戻ったが、その後はアレクサンドロスの帝国、ついでセレウコス朝の支配を受けた。前166年にはハスモン家のユダス=マカバイオス(マカベウス)が指導してセレウコス朝に対する反乱を起こし、政治的・宗教的自由を獲得した(マカベア戦争)。前37年にはヘロデがローマの宗主権のもと王位についてイェルサレム神殿を再建した。その死後、ローマの直接支配を受けるようになり(ローマ時代のパレスチナ)、その時期にイエスが出現してユダヤ教の革新を唱え、その教えはやがてキリスト教に発展した。紀元6年からユダヤはローマの属州となり、その後2度にわたるユダヤ戦争でローマに抵抗を試みたがいずれも弾圧されて、祖国を亡くし、離散(ディアスポラ)した。ユダヤ教徒はイスラーム世界では啓典の民とされていたので、迫害を受けることはなかったが、中世ヨーロッパのキリスト教世界では異教徒として激しいユダヤ人の迫害が行われた。そのような中で金融業で成功したロスチャイルド家や芸術(メンデルスゾーンなど)、科学(アインシュタインなど)、思想(マルクスなど)の面で活躍するユダヤ人も多かった。19世紀のロシアではツァーリズムとギリシア正教の側からの激しい迫害(ポグロム)が行われ、またフランスでもドレフュス事件にみられるような反ユダヤ主義が起こっていた。このような中で19世紀末にヘルツルなどが、明確な形でユダヤ人の国家建設をめざすシオニズム運動を始めた。第1次世界大戦ではイギリスがユダヤ国家の建設を認めた(バルフォア宣言)ため、パレスチナの地への帰還運動が始まったが、それはイギリスの西アジアへの勢力拡大と結びつき、現地のアラブ人との深刻な民族対立を生み出すこととなった。そしてナチス・ドイツによる組織的なユダヤ人排斥では約600万人のユダヤ人が強制収容所に送られ、大量虐殺された(ホロコースト)。そのため大戦後は急速にユダヤ国家建設への同情が集まり、国際連合のパレスチナ分割決議をうけて、1948年にイスラエルを建国した。反発したアラブ側との間で直ちにパレスチナ戦争(第1次中東戦争)が勃発、その結果多数のパレスチナ難民が発生し、深刻なパレスチナ問題を生み出した。その後イスラエルはアメリカ・イギリスの支援のもと、強力な軍事国家化をはかり、アラブ側との戦闘で領土を広げ、入植地を広げていく。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念でとらえるのは困難で、現実には「ユダヤ教を信仰する人々」と捉えるのが正しい、とされている。ヒトラーの「ユダヤ人=劣等民族」観はまったく作り上げられたものにすぎず、人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。<広河隆一『パレスチナ(新版)』第3章1 p.198-218 など>
★ユダヤ教の形成過程 
A パレスチナ  → パレスチナ
a ヤハウェ 一神教のユダヤ教が信じる神。ヤーヴェ、ヤハベ、エホバなどとも表記。もとはユダヤの一部族神であったが、ユダヤ教が成立して、民族的な唯一神となった。なお、キリスト教の神も同じくヤハウェであり、またイスラーム教の唯一神アッラーも本来は同じ神を意味していた。
B 出エジブト 旧約聖書に物語られている、モーゼに率いられたヘブライ人がエジプト(新王国)から脱出して、カナーンの地に移るまでの物語。途中、エジプト兵に追われたモーゼが神に祈り、紅海がまっぷたつに割れて逃れることができた話や、シナイ山でのモーゼに十戒が授けられるところなどが劇的に物語られている。前13世紀のことで、エジプトでは新王国のラメセス2世の頃とされる。
a モーゼ 伝説上のヘブライ人の民族指導者で、「出エジプト」を指導し、シナイ山で神ヤハウェから十戒を授けられたとされている。
b 「十戒」 ヘブライ人を率いて「出エジプト」の途上にあったモーゼが、シナイ半島のシナイ山で、ヤハウェ神から授けられた戒律。旧約聖書の『出エジプト記』第20章にある。「十戒」(Ten Commandments)は以下の10ヶ条からなる。
「1.汝は私の他に、何者をも神としてはならない。2.汝は自分のために刻んだ像を造ってはならない。3.汝は、汝の神・主の御名をみだりに唱えてはならない。4.安息日を覚えて、これを聖とせよ。……5.汝の父母を敬え。6.汝殺すなかれ。7.姦淫をしてはならない。8.汝盗むなかれ。9.隣人について偽証してはならない。10.汝の隣人の家をむさぼってはならない。 」
この第1条に一神教の原理、第2条に偶像崇拝の禁止、というユダヤ教の特徴が現れている。
C へブライ王国 紀元前1000年頃、ヘブライ人がパレスチナの地に建国。自らはイスラエル王国と呼んだ。初代の王はサウル、2代がダヴィデ。3代目のソロモン王の時が最盛期で、都イェルサレムにはヤハウェ神殿が建設され、「ソロモンの栄華」と言われる全盛期がもたらされた。かれの死後前922年には南北に分裂し、北にイスラエル王国、南にユダ王国が分立した。
a イェルサレム パレスチナの中心にある都市(エルサレムとも表記)で、前997年頃ヘブライ(イスラエル)王国ダヴィデ王によって都として建設された。次のソロモン王の時、ヤハウェ神殿が建てられ、ユダヤ教の聖地として栄えた。ヘブライ王国分裂後はユダ王国の都となり、アッシリアのセンナケリブ王の攻撃を受けたが陥落しなかった。しかし、後に新バビロニアのネブカドネザル王に破壊された。その時、ユダヤ人がバビロン捕囚の苦難を受け、後にペルシア帝国によって解放された。ヘレニズム時代にはセレウコス朝の支配を受けたが前166からのマカベア戦争で自治を認められた。前63年にローマの支配下に入り、2度にわたってローマからの独立戦争であるユダヤ戦争を戦ったが、66年ローマ軍によってイェルサレムのヤハウェ神殿を焼かれた。4世紀のコンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認してイェルサレムに教会を建ててからは、キリスト教の聖地とされ、五本山の一つとなる。637年以降はイスラームの支配を受け、イスラームでも教祖ムハンマドの昇天した地としてメッカ、メディナに次ぐ第三の聖地とされ、重視されている。はじめはヨーロッパのキリスト教徒も巡礼としてやって来ていたが、セルジューク=トルコの進出によってキリスト教徒の巡礼が阻害されるようになり、十字軍運動が開始される。それ以降、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教のそれぞれの聖地として、三つの勢力が角逐する場所となっている。現在、イェルサレムの旧市街は、ユダヤ人地区・キリスト教徒地区・イスラーム教徒地区の三つの他にアルメニア人地区と「神殿の丘」地区の5地区に分けられている。キリスト教徒地区にはキリストが十字架にかけられて処刑されたゴルゴタの丘に聖墳墓教会が建てられている。「神殿の丘」はかつてヘブライ王国時代のヤハウェ神殿があったところで、それが破壊された跡に建てられた「岩のドーム」はムハンマドの昇天したところと言い伝えられている。ヤハウェ神殿跡の西側にあたり、ユダヤ人地区に面している壁が有名な「嘆きの壁」で、ユダヤ教徒の聖地とされている。
Epi. 「嘆きの壁」 イェルサレムの「嘆きの壁」の前では今でも四六時中、ユダヤ教徒の男女が大勢群がって、泣きながら大きな声で祈りを捧げている。この「嘆きの壁」は高さ18m、幅27m。ヘブライ王国の第二ヤハウェ神殿の跡である。第二神殿は、紀元70年に終わったユダヤ戦争で、ローマ軍に焼かれて崩壊した。ここからユダヤ人の離散(ディアスポラ)が始まったのだ。132年にはハル=コフバ(星の子)に率いられたユダヤ人がハドリアヌス帝のローマ帝国に反撃を試みたが、8万人が殺されて反乱は鎮圧され、それ以後ユダヤ人はイェルサレムに立ち入ることはできなくなった。1967年6月、第3次中東戦争で、それまでヨルダンが管理していたこの地区がユダヤ人に解放され、ユダヤ教の聖地としてこの壁に祈りを捧げることができるようになった。<上田和夫『ユダヤ人』1986 講談社現代新書>
b タヴィデ王 ヘブライ(イスラエル)王国第2代の王。前1000年頃即位し、前961年頃没。その子ソロモンとともに王国の全盛期をもたらした。前997年ごろ都のイェルサレムを建設した。ダヴィデは理想的な国王として旧約聖書に描かれている。
Epi. ダヴィデとゴリアテ 旧約聖書のサムエル記にダヴィデの物語が詳しく述べられている。ダヴィデはベツレヘムのエッサイの子で、羊飼いをしていた。預言者サムエルはダヴィデを将来、王となる者と見抜いて油を注いだ。その頃、イスラエル(ヘブライ)王国のサウル王はペリシテ人との戦いの最中であったが、ペリシテ人のゴリアテという2mを越える大男に手を焼いていた。ゴリアテはイスラエル兵に一騎打ちを呼びかけるが皆怖じ気ついて進もうとしない。そのとき、ダヴィデが一人進み出て鎧を脱ぎ捨て、裸になって河原から石を5つ拾い、羊飼いの投石袋に入れてゴリアテにむかっていった。ダヴィデの投じた石はゴリアテの額に食い込み、一撃で倒し、その首を切り落とした。それを見たペリシテ軍は総崩れとなった。こうしてダヴィデはサウル王に見いだされるが、やがて王位を狙う者と疑われ、ペリシテ人に亡命、やがてサウル王が戦死し、ダヴィデは第2代の王となるがその後も波瀾万丈の物語となる。最後は信仰深い王として生涯を終える。なお、有名なミケランジェロの彫刻『ダヴィデ像』は手にした投石袋を肩にかけ、いましもゴリアテをにらみつけた一瞬をとらえている。
c ソロモン王 ヘブライ(イスラエル)王国第3代の王、ダヴィデ王の子。周辺諸国との交易で巨富を築き、「ソロモンの栄華」と言われた。イェルサレムにヤハウェ神殿を建設。しかし、壮麗な宮殿の建設などの背景に民衆への重税があったので、反発を受け、その死後は王国は南北に分裂してしまった。 
D イスラエル王国 ソロモン王の死後、ヘブライ王国が二つに分裂したうちの、北がイスラエル王国。南がユダ王国。イスラエル王国は前722年、アッシリアサルゴン2世によって滅ぼされた。 
ユダ王国 ヘブライ王国が二つに分裂したうちの南にわかれたのがユダ王国。イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされたが、ユダ王国は都イェルサレムをアッシリア軍に包囲されたが、よく耐えて独立を維持した。しかし前587年、新バビロニアのネブカドネザル王によって滅ぼされた。その時多数のヘブライ人がバビロンに連行されたのが有名な「バビロン捕囚」であり、ユダヤ人の民族的な苦難の始まりとされる。
a 預言者 ヘブライ王国が強大になるなかで、次第にユダヤ教の教えである「神との契約」は形式的なものとなり、支配層は周辺の強国と対抗するために政略結婚などを重ねて次第に異教化してきた。そのような現状に警鐘を鳴らし、本来のユダヤ教の信仰、神との契約を守ることを思いこさせることを民衆に呼びかけたのが預言者−神の言葉を預かっているもの−であった。旧約聖書に現れるサムエル、エレミアなどが有名。
E バビロン捕囚 紀元前587年、ユダ王国の首都イェルサレム新バビロニア王国ネブカドネザル王によって征服され、住民のヘブライ人は、囚われの身となってバビロンに連行された。国を失い、捕囚の身となったヘブライ人(ユダヤ人)の中に、民族的な苦難から逃れることを願い、罪を悔い改め、メシア(救世主)の出現を待ち望むという、ユダヤ教の体系が出来上がった。なお、バビロン捕囚は、アケメネス朝ペルシア帝国キュロス2世がバビロンを攻略して新バビロニアを滅ぼした時、解放され、その統治下で信仰の自由は認められるが、つぎのローマ時代も含め、ついにユダヤ人としての民族国家を再建することはできなかった。ユダヤ人の国家再建の願いは、第2次世界大戦後のイスラエルの建国まで実現しない。
a  新バビロニア  → 新バビロニア
F ユダヤ教の成立  
★ユダヤ教の特徴 
a 一神教 宗教を神観念のあり方から分類すると、一神教と多神教に分かれる。一神教は、唯一絶対の神の存在しか認めないもので、ユダヤ教キリスト教イスラーム教などのセム語族系の民族にみられる宗教である。多神教は複数、また多数の神々を崇拝するもので、原始的な部族神や氏神の信仰のほか、ギリシア・ローマの神話、ヒンドゥー教、仏教、道教などがそれにあたる。日本の神道も多神教である。一神教的な世界観と、多神教的な世界観はそれぞれことなった国家観と結びつき、それが歴史の特質の背景となると言う見方もある。<参照 本村凌二『多神教と一神教−古代地中海世界の宗教ドラマ−』2005 岩波新書>
b 選民思想  
c メシア思想  
d 律法主義  
e イエス 第1章 第3節 ローマ世界 カ.キリスト教の成立 イエスの出現
f 旧約聖書 旧約聖書は現在はキリスト教の正典とされるが、本来はユダヤ教においても正典である。キリスト教が成立し、イエスの教えをまとめた独自の経典を持つに至ったとき、それを新約聖書(New Testament)とし、キリスト教の母体となったユダヤ教の正典を旧約聖書 (Old Testament)として区別するようになった。Testament とは「遺言」、または神との「契約」の意味で、キリスト教では旧約聖書はイスラエル民族の始祖、アブラハムを通じて、またモーゼを通じてシナイ山上で啓示された神意であり、新約聖書はイエス=キリストを通じて全人類との間でかわされた契約である、とされる。
旧約聖書は現在は39巻から成るが、本来のヘブライ語原典では、「律法」の5巻(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)、「預言者の書」(ヨシュア記など)、「諸書」(詩編、箴言、ヨブ記など)24巻から成っていた。その後、70ADにユダヤ教の中心だったエルサレムの神殿がローマによって破壊されてユダヤ人が各地に離散する中で、現在のような形の正典として信仰の拠り所となったと思われる。そのころにはユダヤ人はギリシア語(の口語のコイネー)を使うようになっていたので、旧約聖書もギリシア語に翻訳され(72人の長老によって翻訳されたので「七十人訳聖書」という)、後にローマでキリスト教が公認されてからの414年に、ラテン語に翻訳された。中世ヨーロッパではラテン語の旧約聖書がカトリック教会で用いられた。
g 新約聖書 第1章 第3節 ローマ世界 キ.迫害から国教化へ 新約聖書
セム系3民族の活動  セム系三民族とは、アラム人、フェニキア人、ヘブライ人を指す。アラム人は内陸部での交易、フェニキア人は地中海の海上交易に従事し、広範囲な商業活動を展開した。またヘブライ人は一神教信仰である民族宗教、ユダヤ教を持っていた。これは、従来の潅漑農業社会で、閉鎖的な部族神を信仰していた都市国家段階の要素をオリエントに、全く新しい要素となるものであった。彼らの活動が、次のアッシリア帝国、さらにペルシア帝国という「世界帝国」の出現を準備したと考えられる。(事実、ペルシア帝国はフェニキア人の商業活動を保護したし、新バビロニアの捕囚となっていたヘブライ人を解放し、ユダヤ教信仰を認めた。)商業活動と普遍的な一神教世界観は、統一国家に守られる必要があったし、またそれを支える側面もあった。
エ.古代オリエントの統一(1) 
A アッシリア メソポタミア北部に起こり、前9世紀に鉄製の戦車と騎兵を使って有力となり、分裂時代を終わらせ前7世紀にエジプトを征服してオリエントを最初に統一、世界帝国としてのアッシリア帝国を作った民族。
アッシリアは現在のイラク北部、ティグリス川とシリア砂漠に挟まれ、小アジアとメソポタミア南部、イラン高原方面とを結ぶ交通の要地を言う。アッシリア人は前3000年紀の末にアッシリア(アッシュール)地方に都市国家を作り、イラン高原の錫(青銅器の原料)の交易を独占して中継貿易で栄えた(この時期を古アッシリアとも言う)。前15世紀ごろミタンニに服属したが、前12世紀頃に滅亡したヒッタイトから鉄器製造技術を受け継ぎ、また鉄鉱石の産地アルメニアを抑えたため次第に有力となった。オリエントの分裂時代に国家を存続させ、前9世紀には鉄製の戦車と騎兵隊を採用して、次第に強大となった。前8世紀の終わりごろ、サルゴン2世、次いでセンナケリブ王のもとでシリア、フェニキア、バビロンをつぎつぎと併合し、イスラエル王国を滅ぼした。さらに前663年、エジプトに侵入してそれを征服した。このアッシリアが、メソポタミアからエジプトにかけてのオリエント世界を最初に統一的に支配した「帝国」となった。首都のニネヴェをはじめ、ニップール、コルサバード、アッシュールなど多くの遺跡が発掘され、楔形文字の解読による「アッシリア学」がイギリス、フランスで盛んである。
a 鉄製の戦車と騎兵 アッシリアの戦車ははじめ馬二頭にかせる二人乗りの二輪車であった。後に三頭びき三人乗りに改造され、さらに機動力と戦闘力を増し、オリエントの統一に大きな力となった。車輪の出現も紀元前3000年頃のメソポタミアが最初である。馬に車輪を引かせるのはおそらく中央アジアに始まり、西アジアにもたらしたのは前1700年頃のヒクソスだと思われる。
Epi. 戦車の発明 「前15世紀から14世紀にかけて、オリエントのどこかで、戦車の設計に注目すべき変化が生じた。それはそれまで車台の中心にあった車軸が、車台の後縁に移されたことで、それによって御者はバランスをとり約なり、馬の気管も締め付けずにすむようになった。このオリエントの戦車は、ミケーネ文明を経てギリシア・ローマに伝えられた。」また、騎兵隊の誕生も、アッシリア王アッシュール=ナシル=バル二世(在位前884〜859)の時代だったと言われる。<平田寛『失われた動力文化』1976 p.92  p.95 岩波新書 による。>
サルゴン2世 前8世紀末、北メソポタミアのアッシリア王。前722年、イスラエル王国を滅ぼしてシリア・パレスティナを平定、さらにバビロニア、アルメニア(小アジア東部)など、西アジア一帯を征服し、アッシリア帝国の基礎を作った。都ドウル=シャルキン(サルゴン城の意味、現在のコルサバード)の遺跡は、19世紀中頃、フランス人によって発掘された。
B アッシリア帝国 北メソポタミアに起こったアッシリアが、前8世紀末のサルゴン2世の頃有力となり、メソポタミア全域を支配、さらに前7世紀中ごろアッシュール=バニパル王がエジプトを含む全オリエントを征服して前7世紀前半に最初の世界帝国となった。最盛期の都はニネヴェ。しかしその支配は、軍事力による過酷なものであったためか、被支配者の諸民族が反発し、それを抑えるため軍事力に力を注いだ結果、次第に国力を消耗し、前612年、新バビロニア(カルデア)メディアの連合軍によって首都ニネヴェを占領されて滅亡した。 
a  アッシュール=バニパル王 アッシリア帝国の全盛期の王。広大なオリエント世界を統一的に支配するために、各地の情報を首都ニネヴェに収集した。その楔形文字の文書群が19世紀に発見され、「ニネヴェの王立図書館」と言われている。その文書の研究から古代メソポタミアの文明の内容が明かとなったので、その研究を「アッシリア学」という。ニネヴェの粘土板にはアッシュール=バニパル王の自叙伝も残されており、大英博物館で見ることが出来る。
Epi. 王のライオン狩り アッシュールバニパル王はライオン狩りのレリーフで有名であるが、ということはこの時代は西アジアでもライオンが生息していたということである。しかし、シュメールの時代からライオン狩りは行われていたようで、アッシリア時代にはすでに頭数が少なくなり、アッシュールバニパル王の頃は王の狩猟のためにライオンが飼育されていたという。また王のライオン狩りもスポーツではなく、王が執行する宗教儀式であり、殺されたライオンは祭壇でまつられていた。<『世界の歴史』1 「大帝国の滅亡」渡辺和子 p.363 中央公論社による>
ニネヴェ 現在のイラク北部、ティグリス川の上流域にあったアッシリア帝国の都。前612年にアッシリア帝国が滅亡してから廃墟となり、長い間その位置は判らなかったが、1849年フランスの外交官ボッタが発掘に成功し、大量に出土した楔形文字から、帝国最後の王センナケリブ王の王宮であったことがわかった。遺跡からはアッシュール=バニパル王の建設したという王立図書館のあとと言われるところも見つかった。
ニネヴェ王立図書館アッシリア帝国のアッシュール=バニパル王が、首都ニネヴェに建設した、世界最古の図書館。メソポタミアとエジプトを統合し、広く西アジアを支配したアッシリアは、帝国内の産業や経済を掌握するために、王立図書館と言っているが、図書館というより情報センターと言うことであろう。もちろんそれらの情報は、粘土板に楔形文字で書かれているものであった。
Epi. ニネヴェの図書館 1894年に発掘さしたニネヴェのアッシュール=バニパル王の図書館跡といわれる遺跡からは、2万5千枚(あるいは4万枚とも言う)の粘土板が見つかった。それらはすぐに大英博物館に送られ、アッシュール学の学者たちによって解読作業が行われた。そこから「アッシリア学」といわれる分野が発展している。
b 世界帝国 多数の民族と異なる文明を包括的、統一的に支配する大国を「世界帝国」という。世界史上は、オリエント世界を統一したアッシリア帝国に始まり、ペルシア帝国、アレクサンドロス帝国、ローマ帝国、中国の秦・漢帝国、唐帝国、モンゴルから起こったモンゴル帝国などがそれにあたる。
「帝国」は、英語の Empire の訳語で、ローマの皇帝(Imperator インペラトル)の統治する領域(Imperium)に由来する。「帝国」は中世ヨーロッパの神聖ローマ帝国や近世のドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国あるいはハプスブルク帝国などにも用いられ、また近代での大英帝国や現代での「帝国主義」時代の大日本帝国など、用例が多いが、世界史上の「世界帝国」は、古代の奴隷制社会を基盤とした専制君主の支配する、広範囲な異民族を統一的に支配する国家を限定的に使用する。 
参考 新しい「帝国」の概念 1980年代までの「帝国」概念では、アメリカ合衆国は現代的な意味で「帝国」であったし、またソ連も社会主義という形態をとった「帝国」であった。ところが、アメリカ合衆国の相対的な力の低下、ソ連の解体などの大きな変動を経て、1990年代から21世紀にかけて、新たな「帝国」概念が現れてきた。それは2000年に発表されたアントニオ=ネグリとマイケル=ハートの共著『帝国』(Empire)による提起であり、次のように説明されている。
「この数十年のあいだに、殖民地体制が打倒され、資本主義的な世界市場に対するソヴィエト連邦の障壁がついに崩壊を迎えたすぐのちに、私たちが目の当たりにしてきたのは、経済的・文化的な交換の、抗しがたく不可逆的なグローバル化の動きだった。市場と生産回路のグローバル化に伴い、グローバルな秩序、支配の新たな論理と構造、ひと言で言えば新たな主権の形態が出現しているのだ。<帝国>とは、これらグローバルな交換を有効に調整する政治的主体のことであり、この世界を統治している主権的権力のことである。」<同著『帝国』 以文社刊 p3.>
ネグリとハートに拠れば、この「帝国」は、近代の国民国家の主権とシステム、領域が無意味になったことを意味しており、<帝国>概念は基本的に境界を欠くものであり、<帝国>の支配はあらゆる社会生活の深部にまでその力を行き渡らせながら、社会秩序の全域に作用を及ぼすし、人間的自然(人間本性)を直接的に支配することをも求める、とされている。そのような<帝国>に対する抵抗の主体として、ネグリとハートは、「マルチチュード」という概念も提起している。「マルチチュード」とは、民衆や労働者という概念ではなく、彼らの説明では「生政治的な自己組織化のことにほかならない」<p.509>という。よくわからないが、ルネサンスの人文主義者が用いた esse-nosse-posse (在る−知る−力をもつ)のposse だ、とも言っている<p.505>。この新たな「帝国」概念や「マルチチュード」概念は、グローバル化した現代を乗り越えるキーワードとして最近注目されている。(マルチチュードに関しては、両者による『マルチチュード <帝国>時代の戦争と民主主義』上下 NHKブックス 参照)
C 4国分立時代 前612年のアッシリア帝国の滅亡後に、ふたたび西アジアは4つの王国が分立した。メソポタミアには新バビロニア(カルデア)、イラン地方にはメディア、小アジアにはリディア、それにエジプト王国が復活、この4王国が抗争し、メディアから起こったアケメネス朝ペルシアがオリエント世界を前525年に再統一するまでを4王国分立時代という。
a 新バビロニア王国(カルデア) セム系遊牧民カルディア人が前625年に建国。メディアと連合してアッシリアを滅ぼす。バビロンを都にしたので、新バビロニア王国と言われ、またカルディア王国とも言われる。アッシリア滅亡後の4王国の中では最も栄え、前6世紀前半にはネブカドネザル王の時期に、ユダ王国を滅ぼし、ユダヤ人をバビロンに連行した(バビロン捕囚)。バビロンには、壮麗なイシュタル門(現在は当初の半分の大きさで復元されている、青い釉薬で飾られた門)を建造し、マルドゥク神殿やジッグラトを建設した。またバビロンには「空中庭園」があったという。この新バビロニアは、イランから起こったアケメネス朝ペルシアによって前538年に滅ぼされる。 
ネブカドネザル王 新バビロニア王国第2代の王。ネブカドネザル2世とも言われる。在位前604〜562年。西方のパレスチナのヘブライ人(ユダヤ人)のユダ王国を滅ぼし、多数のユダヤ人を首都バビロンに連行した。これが「バビロン捕囚」である。
Epi. 現代のネブカドネザル王 現代イラクの大統領サダム=フセインは、湾岸戦争時に自らを「現代のネブカドネザル王である」と言ったという。ユダヤ人の国、現代のイスラエルを敵視したアラブの独裁者らしい言い方である。なお、1842年に発表されたイタリアの作曲家ヴェルディの『ナブッコ』はネブカドネザル(そのイタリア語読みがナブッコ)によるバビロン捕囚を題材としている。
b メディア王国 インド=ヨーロッパ語族のメディア人が前8世紀末にイラン高原の北部、カスピ海沿岸のメディア地方に建国。都はエクバタナ(現在のハマダーン)。イラン高原ペルセス地方のペルシア人を支配下に入れる。さらに前612年、新バビロニア(カルデア人)と協力してニネヴェを陥れ、アッシリア帝国を滅ぼした。「4国分立時代」の一角を占め、イラン高原を中心に西はアルメニア、東はペルシア、さらに中央アジア方面まで支配した。メディア支配下のペルシア人が自立してアケメネス朝ペルシアのが成立、そのキュロス王によって前550年に滅ぼされた。
エクバタナ メディア王国の都。現在のハマダーンの古名。メディア王国のディオケス王が築いた城郭をもとに、イランからイラクへの交通路の拠点として栄えた。アレクサンドロス大王もここを占領。1037年、イスラームの偉大な医学者イブン=シーナがこの地でなくなり、いまでもその墓塔が町の中央に建っているという。
Epi. ヘロドトスの伝えるエクバタナ 「ディオケスはこうして主権を掌握すると、メディア人に否やをいわせず単一の町を造らせ、それからは他の部落のことは二の次にして、専らこの町のことに専念するようにさせた。メディア人は彼のこの要求も容れたので、ディオケスは壮大強固な城郭を築いたが、これが今日アグバタナ(エクバタナ)の名で呼ばれる城で、同心円を描いて城壁が幾重にも重なり合っている。・・・環状の城壁は全部で七重になっており、・・・第一の城壁の輪の胸壁は白、第二は黒、第三は深紅色、第四は紺青、第五は橙赤色、・・・そして最後の二つの城壁は、その胸壁に一方は銀、他方は金を板をかぶせてある。」<ヘロドトス『歴史』巻一 98節 松平千秋訳 岩波文庫(上) p.82>
c リディア王国 前7世紀〜前546年、小アジア(現在のトルコ)西部にあったインド=ヨーロッパ語族系統の王国。リュディアとも表記。都はサルデス。前612年にアッシリア帝国滅亡した後の4国分立時代の一つで、商工業が発達し、前7世紀に世界で最初の金属貨幣を鋳造したことで知られる。リディア王国はイオニア地方にも隣接し、ギリシア文化にも大きな影響を及ぼした。しかし、東方のイラン高原に起こったペルシアに次第に圧迫され、前546年にペルシアのキュロス2世によって滅ぼされた。
Epi. 最後のリディア王クロイソスの名言 「平和より戦争をえらぶほど無分別な人間がどこにいるだろうか。平和の時には子が父の葬いをする。しかし戦いとなれば、父が子を葬らねばならない。・・・」このことばは、ヘロドトスの『歴史』に見える、リディアのクロイソス王の言葉である。リディアはアケメネス朝ペルシアのキュロス2世に攻撃され、その王クロイソスは首都サルデスで捕らえられ、火あぶりにされることになった。燃えさかる薪の上でクロイソスがアポロンの神に祈ると、突如雲があつまって大雨になり、火が消えてしまった。キュロス王はクロイソスが神に愛された立派な人間だと知り、彼を薪の上からおろし、「わしの友とならず敵となったのはだれのしわざか」と訊ねた。それに対する答えの一節が先ほどの言葉であった。その言葉を聞くとキュロス王はクロイソスを傍らに座らせ丁重にもてなし、その後もご意見番として重んじた。<ヘロドトス『歴史』巻一 87節 松平千秋訳 岩波文庫(上) p.72 >
サルデス リディア王国の首都。サルディスとも表記する、小アジア西部の現在のトルコの都市。リディア王国はこの地で世界最初の貨幣を鋳造した。リディアがアケメネス朝ペルシアに滅ぼされてからは、ペルシアの小アジア支配の拠点となる。ダレイオス1世が設けた「王の道」は行政の中心地のスサから西に向かい、このサルデスを終点としている。
金属貨幣 金属の地金を一定の重量で整形して、特定の図柄を刻印して通貨とした、いわゆる「コイン」を世界で最初に造ったのは小アジア(現トルコ)のリディア王国であった。リディア王ギュゲスは、前670年に純度・重さを一定にした金73%、銀27%の合金「エレクトラム」でコインを造り、ライオンの頭部を刻印した。当時のリディアではこうした天然の合金が豊富に採掘されていた。この最初のコインは現在で言えば勲章のようなものと推測されている。その後、前550年にリディア王クロイソスにより約8.4グラムの「金貨」が造られた。その製法は間もなくギリシア、さらにはローマ帝国に伝播した。<宮崎正勝『モノの世界史』2002 原書房 p.66> → 貨幣(ギリシア)  Wikipedia 画像
d アケメネス朝ペルシア帝国 イラン人はイラン高原で遊牧生活をしていたインド=ヨーロッパ語族。はじめメディア王国の支配を受けていたがアケメネス家のキュロス2世のとき自立し、前550年にメディアを滅ぼし、ついでリディア、新バビロニア(カルデア)をつぎつぎと征服、つぎのカンビュセス2世の時、前525年エジプトを征服し、アッシリア以来のオリエント全域の統一的支配に成功した。キュロス2世からペルシア戦争までのアケメネス朝については、ヘロドトスの『歴史』にくわしく物語られている。 → アケメネス朝
オ.古代オリエントの統一(2) 
A アケメネス朝 アケメネスを始祖とするイラン人ペルシアに建国した。前550年、キュロス2世がメディアを滅ぼして独立した。その後急速に勢力を伸ばし、イラン高原から小アジア、インダス川流域にいたる帝国を建設した。前538年には新バビロニアを滅ぼし、つぎのカンビュセス2世の時前525年にはエジプトを征服した。ダレイオス1世は大王と言われ、全オリエントを支配する大帝国であった。前500年、支配下にあったイオニア地方の反乱を機に、前5世紀の前半に4回にわたるギリシア遠征を行い、アテネを中心とするポリス連合軍と戦う(ペルシア戦争)が、失敗する。その後もギリシアへの干渉を続けたが、前334年に始まるマケドニアのアレクサンドロス大王の遠征を受け、前330年滅亡した。
広大な領土に多様な民族と文化を内包する「世界帝国」の典型。官僚制度や交通網を発達させ、中央集権的な専制国家であった。楔形文字を使用するなど、オリエント文明を継承するとともに、新たなイラン文明を作り上げ、次のパルティア・ササン朝に継承される。ゾロアスター教を国教としたが、他の宗教には寛容であった。
 ペルシア ペルシアというのは、アケメネス朝の創始者アケメネスの出身地ペースル地方(またはペルシスともいう。現在のイランのペルシア湾に面したファールス地方)のこと。アッシリアの後、メディアの支配を受け、前6世紀中ごろにこの地のアケメネスが自立し、後にオリエント全域を支配するペルシア帝国を建設した。ペルシア人は人種としてはイラン人ともいい、インド=ヨーロッパ語族に属する。中東に位置し、現在ではイスラーム圏であるが、アラビア語ではないことに注意を要する。イランと言う名称は、ゾロアスター教の聖典である「アヴェスター」から引用したもので、正式な国号としては1935年、パフレヴィー朝が「イラン」と宣言してからのものである。それまではペルシアと呼ばれていたが、現在では便宜上、イスラーム化以降をイランとする使い方が多い。 →イラン人(イスラーム化)
a インド=ヨーロッバ語族  → インド=ヨーロッパ語族
b キュロス2世 前559年、アケメネス朝ペルシアを建国した王。エジプトを除くオリエントを統一し、キュロス大王ともいわれる。ペルシア人はメディアに支配されていたが、前550年を滅ぼし、イラン高原を統一した。さらに短期間に小アジアに進出し、リディアも前546年に滅ぼした。さらに前538年バビロンに入り、新バビロニアを滅ぼした。この時、「バビロンの捕囚」で捕らえられていたユダヤ人を解放し、旧約聖書にはキュロス大王は「解放者」として讃えられている。キュロス2世の時、ペルシアはエジプトを除くオリエント世界を支配する大帝国となった。
Epi. マキアヴェリが評価するキュロス王 キュロス王(2世)について、16世紀イタリアのマキアヴェッリは有名な『君主論』の中で、モーゼやロムルス(ローマの建国者)と並べ、「幸運とは無関係に、自分自身の力量によって君主になった人間」として、君主の一つのタイプとして論じている。「彼らの行動や生涯を調べてみると、いずれも運命から授かったものは、ただチャンスのほか何ひとつなかったことに気づく。しかもチャンスといっても、彼らにある材料を提供しただけであって、これを思いどおりの形態にりっぱに生かしたのは彼ら自身であった。・・・(キュロス王の場合は)ペルシア人がメディア王の統治に不満を持ったこと、メディア人がうちつづく泰平で軟弱になり、女々しくなっていることが必要だった。」<マキアヴェッリ『君主論』池田廉訳 中公クラシックス p.42>
Epi. キュロス王のドラマ ヘロドトスによればキュロスが王位を継承するには次のようなドラマがあった。キュロスはアケメネス家のカンビュセスの娘マンダネが、メディア王アステュアゲスに嫁いで生まれた子であった。不思議な夢を見た父のメディア王は夢占いでこの子が将来父の王位を奪うことになると信じ、家臣に命じて生まれたばかりのこの子を殺すことを命じた。この家臣は赤子を殺すに忍びず、ある羊飼い夫婦が死産した子を身代わりにし、赤子を羊飼い預ける。羊飼いに育てられた少年キュロスは、廻りの子どもたちと遊んでも皆から王様役に推されて、それを立派にやり通し、命令に背いた子どもを罰するなどの素質を示す。罰せられた子の親がキュロスを訴えたので、メディア王と対面することとなった。話してみて王は殺したと思っていた我が子であることに気づく。王は命令を守らなかった家臣に罰としてこんどはその家臣の子を殺し、キュロスは遊びで王位に就いたので夢のお告げは実現したと安心し、ペルシアに返すことにした。キュロスが成長すると、メディア王に子を殺された家臣がキュロスをそそのかし、メディア王に復讐することをすすめると、キュロスはメディアに支配されていることに不満を持っているペルシア人に呼びかけ、メディア王に戦いを挑み、それを倒してペルシアの覇権の第一歩としたのだった。<ヘロドトス『歴史』巻一 岩波文庫(上) p.86-104>
カンビュセス2世アケメネス朝ペルシア帝国の第2代の王。キュロス2世の子。前525年にエジプトに遠征し、征服する。これによってペルシア帝国はメソポタミアとエジプトという、オリエント全土を統一的に支配することとなった。しかしカンビュセス2世は残虐な行為が多く、マゴスという占い師たちが王に取り入って政治が乱れ、最後は王自身も狂死した。王には子供がなく、血縁の一人ダレイオスが臣下に支持されてマゴスの勢力を排除して第三代の王位についた。この経緯はヘロドトスの『歴史』に詳しく物語られている。
B ダレイオス1世 アケメネス朝ペルシア帝国の全盛期の王。在位522〜486。ダレイオス大王、ダリウス大王ともいう。大王は法による支配を目指し、国内を20の州に分けて中央からサトラップを派遣し、道路(王の道)や港湾を建設、さらにダリークという貨幣を鋳造し、度量衡を統一しペルシア帝国の繁栄の基礎を築いた。帝国の領土を、中央アジア・インド方面に広げ、さらに西進して小アジアを超え、ギリシア北方のマケドニアに進出した。さらにギリシア本土の征服をめざしたが、ギリシア側の抵抗にあって失敗する。(ペルシア戦争)イランのベヒストゥーンからはかれの業績を記念した碑文が発見され、その楔形文字がローリンソンによって解読され、その事跡も明らかになっている。
a ペルセポリス アケメネス朝ペルシア帝国の都。ダレイオス1世以来、3代にわたって造営が続けられたという。壮大な石造宮殿群をもち、アケメネス朝の繁栄を示している。この都は、前330年、ペルシア帝国に侵入したアレクサンドロス大王によって焼き討ちされ、廃墟となった。ペルセポリスという呼び方は「ペルシア人の要塞」の意味であり、ギリシア人がつけた名称で、ペルシア語では「タフテ・ジャムシード(ジャムシード王の玉座)」という。現在のシーラースの北の砂漠の中に遺跡がある。パフレヴィー朝時代の1971年にイラン建国2500年祭がこの地で催されたことからわかるようにイラン人にとって特別な意味のある遺跡である。
b スサ スーサとも表記。イラン西南部にある遺跡。アケメネス朝ペルシア帝国のクセルクセス王はここに王宮を建設したが、それ以前からここにはイラン文化の中心地であったらしく、1897年以来のフランスによる発掘で、彩文土器、楔形文字の粘土板などが出土されている。ペルシア帝国ではペルセポリスとスサがいずれも首都とされるが、ペルセポリスは王の居住する王都、スサは諸官庁の所在地としての実際の行政の中心地、ということであったらしい。また小アジアのサルデスに至る「王の道」の基点でもあった。
c サトラップ アケメネス朝ペルシア帝国の最盛期のダレイオス1世(ダリウス大王)は、国内を20の州(サトラッピ)に分け、それぞれの州に地方長官であるサトラップをおいた。またサトラップの勤務状況を監視するために、中央から「王の目・王の耳」といわれる監督官を派遣した。
ダレイオスの置いた20のサトラップ(ヘロドトスの『歴史』ではサトラペイア、行政区または徴税区といわれる)は、民族別に設けられ、それぞれ納税額が定められた。例えば、第1区はイオニア人などの地域で銀4百タラント、第2区はリディア人などの地域で5百タラント、・・・エジプトは第6区で7百タラントだった。バビロンなどの第9区からは銀一千タラントと500人の去勢された男児を納めるというのもあった。なお第20区はインドで、砂金360タラントという。ペルシア帝国では納められた金銀を溶解して土製の甕に流し込み、甕一杯になると甕を壊して金銀の固まりにし、貨幣が入用になると必要な量だけ鋳造した。なお、ペルシア本国(ペルシス)は課税されず、またアラビア人など周辺民族で献上品だけを納めるものもあった。<ヘロドトス『歴史』巻三 89−96節 岩波文庫(上) p.345-349>
d 「王の目」「王の耳」 アケメネス朝ペルシア帝国のダレイオス1世が、地方官であるサトラップ(州知事)の勤務状況を把握するために派遣した監督官を「王の目」といい、その補佐官を「王の耳」と称した。
e フェニキア人  → フェニキア人
f 「王の道」 ペルシア帝国全盛期の王、ダレイオス1世が建設した、スサから小アジアのサルデスに至る、およそ2400kmの幹線道路。20〜30kmごとに、111の宿駅が設けられ、馬や食料が備えられていた。宿ごとに待機した郵便夫が書状をリレー方式で中継し、スサからサルデスまで6日〜8日で伝えた(普通人は3ヶ月かかった)、同時代のギリシア人が「鶴よりも早く走る」と驚いたという。<宮田律『物語イランの歴史』中公新書 2002 p.43> → 駅伝制
Epi. ヘロドトスの伝える「王の道」 「街道いたるところに、王室公認の宿場と大層立派な宿泊所があり、街道の通じている全距離にわたって、人家があり安全でもある。リュディアかとプリュギアの区間は、九十四半パラサンゲスの距離であるが、この間に宿場が二十ある。・・・・ハリュス河をわたるとカッパドキアに入るが、ここを進んでキリキア国境に至までの距離は、百四パラサンゲス宿場は二十八を数える。・・・・以上、宿場の総数は百十一、つまりサルディスからスサの都に上っていく間に、これだけの数の宿泊所があったわけである。」<ヘロドトス『歴史』巻五 52節 松平千秋訳 岩波文庫(中) p.148-149>
 駅伝制 駅伝制は古代中国やオリエント、モンゴル帝国で発達した交通システム。中国の駅伝の駅は馬、伝は車を乗り継ぐ場所の意味で、戦国時代に始まり、秦・漢帝国で発達し、隋・唐時代にも盛んに用いられた。中国を征服し、ユーラシアに広大な支配権を確立したモンゴル帝国(元)では、ジャムチ(站赤)と言われる駅伝制が発達した。古代日本にも導入されており、律令制では官道の30里(約16km)ごとに駅家(うまや)を設けて、人馬を常備し、官人は駅鈴を所持していればそれを利用できた。これは江戸幕府の宿駅制度となって復活する。近代には行って鉄道の普及によって駅伝制度は消滅したが、陸上競技の名称としていまや世界的に通用することばとなっている。古代オリエントではペルシア帝国のダレイオス1世が設けた駅伝制が有名。「王の道」を初めとする主要道路には、1日行程ごとに駅が置かれ、広大な国土の統治に利用されていた。ローマ帝国は駅伝制はなかったが領内に「すべての道はローマに通ず」と言われるほどの道路網を構築した。 
C ペルシア戦争 → ペルシア戦争
クセルクセス王  
★ペルシアの文化 
1. 楔形文字  → 楔形文字
a ローリンソン 楔形文字の解説に成功したイギリス軍人。1835年から2年間にわたって、イギリスのイラン(カージャール朝)に対する軍事使節団(当時イギリスはロシアの南下政策を警戒してイランに圧力をかけていた)ローリンソンは、ベヒストゥーン碑文の楔形文字を書き写し、そこで採集した文字を研究して、1847年にその成果を発表した。それは、ドイツ人のグローテフェントの解読を一歩進め、文字の解読のみならず、文法の解明まで成功した。その成果は1961〜64年の「西アジア楔形文書集成」で集大成した。
Epi. ローリンソンとベヒストゥーン碑文 イランのザクロス山脈中のベヒストゥーンの絶壁に、巨大なレリーフ像と多くの楔形文字が彫られていることは早くから知られていた。その解読に挑戦したのが、イギリスの青年士官ヘンリー=クレスウィック=ローリンソンであった。彼は1835年から2年間、けわしい絶壁に何度もよじ登り、そこにほられた文字を書き写した。さらに研究を続け、1847年に解読に成功した。その結果、この巨大なレリーフと碑文は、ペルシア帝国のダレイオス1世の戦勝を記念するものであることが判明した。<『メソポタミア文明』知の再発見叢書 創元社>
ベヒストゥーン碑文 1847年、イギリスのローリンソンが解読した、楔形文字の彫られた碑文。解読された楔形文字は、ダレイオス1世(大王)の事績を記念したものであることが判明し、古代オリエントの歴史研究に大きな寄与となった。
2. ソロアスター教 前7世紀ごろ、イラン高原に起こった宗教。ゾロアスター(ツァラトゥストラともいう)がはじめたもので、それまでのペルシア人のさまざまな宗教を統合し、世界を善悪二神の対立するものととらえた。善神アフラ=マズダ(アフラは神、マズダは知恵の意味もある)は光明の神でもあり、信者はその象徴の火を崇拝する。悪神アーリマンは破壊と暗黒の神である。アケメネス朝ペルシアでこの宗教が行われ、さらに3世紀以降のササン朝ペルシアでは国教とされた。ササン朝時代にはゾロアスター教の教典である「アヴェスター」が完成してる。またゾロアスター教は中央アジアを経て3〜4世紀の南北朝時代に中国に伝えられ、唐では(または拝火教)といわれ、長安などでイラン系の商人たちに信仰されていた。7世紀以降、イスラームが急激に浸透してくると、イラン人もイスラーム化し、ゾロアスター教はイランからほとんど消えてしまい、現在はイランの一部と中央アジアやインドに残っているのみである。しかし、最後の審判などの教義は、ユダヤ教を経てキリスト教にも影響を与えている。
ゾロアスター イランの宗教であるゾロアスター教を創始した人物。実在の人だが、その時代ははっきりせず、前7世紀から前6世紀ごろとされているが、前1200年ごろから前1000年ごろという説もある。イラン人はインドに入ったアーリヤ人と同じくインド=ヨーロッパ語族に属していた。アーリヤ人と同じく自然崇拝の多神教で、部族ごとのさまざまな神々を崇拝する密議や呪術が行われていた。しかし前2000年から1500年ごろにかけて鉄器と騎馬術が急速に普及し、旧来の部族的な秩序が崩れ統一の動きが出てきた。ゾロアスターはそのような混迷の中で、人間の正しい生き方をもとめ、従来の宗教を堕落した形だけの祭祀に過ぎないとして批判し、唯一の真理であり光明である創造神アフラ=マズダに従って正義と秩序を実現し、それに敵対する闇と悪の霊力を持つアーリマンと戦うことを説いた。
アフラ=マズダ  
アーリマン  
最後の審判 キリスト教の終末観。世界はやがて終末を迎え、そのときに人々はイエス=キリストを通じて審判されると信じられている。イエス=キリストはこの最後の審判で、すべての人の罪を許し、人類を救済して永遠の生命を実現するとされている。ミケランジェロがシスティナ礼拝堂の天井画として描いた「最後の審判」はこの信仰をモチーフとしている。
このように「最後の審判」はキリスト教固有の終末観と考えられがちであるが、実は古代イランのゾロアスター教の教義のなかに、善神アフラ=マズダと悪神アーリマンの最後の戦闘が行われ、そこで最後の審判が下されるという形で現れており、それがユダヤ教のなかに取り入れられ、キリスト教にひきつがえたものという。
a 拝火教  → 第3章 2節 イ.唐代の制度と文化 
b ミトラ教 もとはアーリア人の太陽神(光明神)であるミトラ神をまつる密儀宗教であり、西アジアではイラン高原でゾロアスター教が成立する前からイラン人に信仰されており、ペルシア帝国の時代に小アジアにまで広がっていた。前1世紀にローマのポンペイウスが小アジアを征服しことを機にローマに伝えられたという。共和政ローマから帝政ローマ時代の価値の混乱した時代、キリスト教は下層民の宗教にとどまっていた時代に、ローマの国家神として祭られたこともある。密議の内容は、牡牛を屠り、その脂肪と髄から作られた飲料を飲むと不死となるという類のもので、ローマ帝国でキリスト教が公認される前の3世紀には、ミトラ教(ミトラス教)はローマの神々と融合し、帝国各地に多くの神殿が造られた。しかし、女性の入信を認めないなど、普遍的な信仰となる条件が無く、キリスト教の台頭とともに衰えた。ただし、その儀式などはキリスト教にも影響を与えておいる。<本村凌二『多神教と一神教−古代地中海世界の宗教ドラマ−』2005 岩波新書 p.151,193>
Epi. クリスマスはもとはミトラ教の祭りの日だった キリスト教ではイエスの誕生日を12月25日とし降誕節(クリスマス)を祝っている(その前日の24日夜がイブ=前夜祭)。ところがローマ時代のアンティオキアなどではクリスマスは1月6日が降誕祭とされていた。12月25日はもとは東方のミトラ教の祝日であった。この日は冬至にあたり太陽が成長を開始する日とみられ太陽神ミトラの誕生の日とされていたのだ。この太陽神ミトラ信仰がローマに入り、帝国の守護神とされ、ローマで盛んに祝われるようになった。やがてミトラ教に代わり、キリスト教が公認されると、教会はこの日をイエスの誕生日として祝うことによってキリスト教の勝利を表明した。この日付には敗れたミトラ教が生き残っていたのである。<高橋秀『ギリシア・ローマの盛衰』1993 講談社学芸文庫 p.343>
カナート 前700年頃に始まる、イランの砂漠での灌漑施設で、山岳部の降水によってたまった地下水を、長い地下水路を掘って離れた砂漠を灌漑する方法。アケメネス朝の国家的な事業として、地方総督などによって建設が進められたものであると考えられている。カナートの方式は広く中東に広がり、エジプトや北アフリカにも見られる。また中央アジアのウイグル人地区のトルファンで見られる「カリーズ」もイランから伝わったものと考えられる。紀元後6世紀のササン朝のホスロー1世時代にもカナートが拡張された。<宮田律『物語イランの歴史』中公新書 2002 p.44>
カ.パルティアとササン朝 
A ヘレニズム諸国  → 1章 2節 ヘレニズム三国
a セレウコス朝  → 1章 2節 ヘレニズム セレウコス朝シリア
b バクトリア 前255年頃から前139年まで、現在のアフガニスタンの地域にあったギリシア人の国でヘレニズム諸国の一つ。前4世紀後半に東方遠征でアム川(現在のアムダリア川)流域を征服したアレクサンドロス大王がこの地に入植させたギリシア人の子孫が、前3世紀の中頃に中央アジアに建設した。大王の死後、セレウコス朝シリアの領土となったが、前255年ごろギリシア人総督に率いられて独立した。都はバクトラ。前2世紀にはメナンドロス王のもと最盛期となり、マウリヤ朝の衰退に乗じてインドの西北まで侵入した。これによって、ヘレニズム文化がインドに及び、ガンダーラ美術が生まれることとなる。その後、前139年にスキタイ系遊牧民トハラ(大夏)によって滅ぼされた。次いでイラン系の大月氏が匈奴に追われて東方から入り、この地を支配した。続いて大月氏の一族から有力となったクシャーナ族がこの地から北インドにかけてクシャーナ朝を建国した。
B パルティア 前3世紀の中頃から226年までのイランの国家。アルサケス朝とも言う。バクトリア王国に追われた中央アジアのイラン系遊牧民が、イラン東北部ホラーサーン地方に移り、前248年、族長アルサケスのもとで建国した。都ははじめヘカトンピュロス(イラン北部)。前2世紀にはミトラダテス1世の時に強大となり、シリア・イラク方面に進出、さらに前1世紀中頃のオロデス2世は、チグリス川に面したクテシフォンに遷都し、メソポタミアからシリアにその勢力を伸ばし、たびたびローマ軍と戦った。オロデス2世は前53年、カエサルのライバルの一人であったクラッススの軍を破り戦死させた。しかし紀元後2世紀にはローマ皇帝トラヤヌスの軍隊に都クテシフォンを占領されている。その後、226年に農耕を主としたイラン人のササン朝ペルシアによって滅ぼされる。パルティアは中央アジアを経由して中央とも接触があったらしく、中国の史料(『史記』)で「安息」という名で出てくる。この名はアルサケスの音がなまったものといわれている。  → パルティアの文化
アルサケス イランのパルティア王国の建国者。それまでセレウコス朝シリアの支配下にあったイラン高原のパルティア地方で、イラン系の遊牧民を率いて自立し、前248年頃にパルティアを建国した。アルサケスとは、「英雄」を意味し、アルシャクとも表記する。このパルティア王国をアルサケス朝ということもある。
a 遊牧イラン人  
ヘカトンピュロス パルティアの最初の都。イラン北部の、カスピ海に近いところに建設された。パルティアは後に、シリア・イラク方面に進出し、都をチグリス川に面したクテシフォンに遷す。
クテシフォン チグリス川左岸の都市で、はじめパルティアのミトラダテス1世の時、対ローマの前線基地として建設され、前1世紀の中頃オロデス2世の時首都となった。次のササン朝ペルシアも首都とし、550年ホスロー1世は大宮殿を建設した。ササン朝ペルシアの都として繁栄したが、7世紀にイスラーム勢力によって破壊され、現在は遺跡として残るのみである。
b 東西貿易路  → 第1章 3節 ローマ帝国 東西貿易
c ローマ  → 第1章 3節 ローマ帝国 季節風貿易
d 「安息国」 司馬遷の『史記』大宛伝に「安息」という国が見えている。これが前3世紀末にイラン高原に成立したパルティアのことであると考えられている。パルティアは建国者のアルサケスの名からアルサケス朝ともいい、アルサケスの音の漢語訳が「安息」であろう。後漢時代には、班超の部下の甘英が安息国をへて条支(シリアか)で、「大海」に至ったという。この大海が地中海と考えられている。
C ササン朝ペルシア 226年、パルティアに替わりイランを支配して建国。イラン独自の文化を発展させ、西方のローマ帝国(ビザンツ帝国)と抗争した後、651年にイスラーム帝国によって滅ぼされた。パルティアが遊牧イラン人主体であったのに対し、ササン朝は農耕を主体としたイラン人が建国した。初代はアルデシール1世であるが、ササン(サーサーン)というのは、アルデシールの祖父の名に由来する。都はパルティアと同じクテシフォン。3世紀の第2代シャープール1世の時強大となり、ローマ帝国と戦って、皇帝ヴァレリアヌスを捕虜としている。また東方ではインドのクシャーナ朝を圧迫した。その後も、東ローマ帝国ビザンツ帝国)との間で、東西の交易路の支配をめぐって争いを続け、6世紀初めには中央アジアに起こったエフタルの侵入を受けたが、東方の突厥と結んでそれを滅ぼし、ホスロー1世の時に全盛期を迎えた。しかし7世紀にイスラーム(正統カリフ時代)の進出を受け、642年ニハーヴァントの戦いで敗れ、651年に滅亡した。ササン朝ペルシアはゾロアスター教を国教としたことが特徴。また、ササン朝ではマニ教が興ったが、こちらは厳しく弾圧された。その社会は農業を基本とした厳格な階級社会であり、その上にササン朝の専制君主制が成り立っていた。 → ササン朝の文化
a 農耕イラン人  
アルデシール1世 イランのササン朝ペルシア、初代の国王。アルダシール1世とも表記。224年にパルティアの軍を破り、226年にその都クテシフォンを征服して、イラン高原から西アジアにかけての一帯の支配権を獲得した。アケメネス朝ペルシア国王の後継者を自称し、アケメネス朝の再興を掲げ、ゾロアスター教を国教とした。なお、ササン朝というのは、彼の祖父の名から来ている。
b ゾロアスター教  → ゾロアスター教
D シャープール1世 3世紀のササン朝ペルシア第2代の王(在位241〜272)。ササン朝の領土をイラン高原から東西に拡大、東はインドのクシャーナ朝、西はローマ帝国と戦った。260年にはアルメニアに進出し、ローマ帝国の軍をエデッサの戦いで破り、皇帝ヴァレリアヌスを捕虜としている。
エデッサの戦い  
a ローマ帝国  → 第1章 3節 ローマ帝国 ササン朝ペルシアとの抗争
E ホスロー1世 6世紀、ササン朝ペルシア全盛期の王(在位531〜579)。都クテシフォンに大王宮を営んだ。中央アジアから侵入してきたエフタル突厥と結んで滅ぼし、西方では東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝と戦い、532年に和議を成立させた。カナートによる灌漑工事を行い、国土を整備して農業生産を高め、学問を奨励した。529年、ビザンツ帝国のユスティニアヌス大帝がキリスト教の立場から異教徒を取り締まり、アテネのアカデメイアを閉鎖したため、多数のギリシア人の哲学者や医学者がササン朝に逃れ、ホスロー1世の保護を受けた。ゾロアスター教の保護にも熱心であったがキリスト教、マニ教は厳しく弾圧した。
エフタル 4世紀の後半頃、ヒンドゥークシュ山脈の北麓に起こった遊牧民族で人種的にはイラン系らしいが、王族はトルコ系とも言われる。次第に勢力を伸ばして5〜6世紀に、トルキスタンから西北インド(パンジャーブ地方)にかけての一帯に進出、中央アジアとインドを結ぶ交易路を支配して、中国とも交易を行った。北インドではグプタ朝を圧迫し、仏教を迫害した。6世紀の中頃、中央アジアで勢力を伸ばしてきた東方の突厥と、西方のササン朝ペルシアホスロー1世とによって挟撃され、滅亡した(563〜567年頃)。
a ビザンツ帝国  → 第6章 2節 ビザンツ帝国
F アラブ人の侵入  → 第5章 1節 アラブ人の成長
a イスラーム勢力  → 第5章 1節 イスラーム帝国の成立 正統カリフ時代
キ.イラン文明の特徴 
A パルティアの文化 古代イランのパルティアの文化は、はじめヘレニズムの影響が大きかったが、次第にイラン人独自の文化を発展させ、ゾロアスター教を保護するなどアケメネス朝以来のイランの伝統文化を復興させた。また西方のローマ、東方の漢、という二大文明圏の中間に位置し、東西交流が盛んであったので、中国の史料(『史記』)で「安息」という名で出てくる。この名はアルサケスの音がなまったものといわれている。イラン文明は、パルティアに次いでササン朝に継承されるが、ササン朝の文化はよりイラン文明の独自性を強めていく。
a ヘレニズム  → ヘレニズム
b イランの伝統文化 イランはアレクサンドロスに征服され、ギリシア文化と融合したヘレニズム文化を形成したが、イラン人の国家が復興したパルティアで、紀元後1世紀ごろからゾロアスター教などを中心としたイラン固有の文化が復興し、さらに3世紀からのササン朝ペルシアの時期にイラン文化を開花させた。イランはその後、イスラーム教を受容し、モンゴルの支配を受けるなど、変転するが、異文化を吸収しながら一貫してイランの伝統文化を保持し、またインドや中国など周辺諸文化に影響を与えている。
B ササン朝 の文化 ササン朝ペルシアの文化は、メソポタミア文化、ヘレニズム文化を吸収したパルティアの文化を継承し、古代西アジア文化を集約した文化として、次のイスラーム文化や周辺のヨーロッパ、中国にも大きな影響を与えた。イラン人の宗教であるゾロアスター教の経典アヴェスターが編纂されたのもササン朝時代であった。ササン朝はイスラームによって征服され、イラン人の多くはイスラームに改宗するが、その文化遺産は現在まで継承されている。また、651年に滅亡後、多くのイラン人が唐の都に長安に移住したとされ、唐の文化の国際性をたかめたといわれる。ササン朝様式の工芸品−絹織物、ガラス器、水差し、絨毯−や、特徴的な幾何学模様は日本にも伝来した。法隆寺の獅子狩文錦、正倉院の漆胡瓶・白瑠璃椀などがそれである。
a ゾロアスター教  → ゾロアスター教
アヴェスター ゾロアスター教の聖典。アラブ征服以前のイラン人の生活を知る上で貴重な文献となっている。イランという名称もアヴェスターを引用したもので、1935年にパフレヴィー朝が国号として採用したものである。 
b 拝火教(教)  → 第3章 2節 イ.唐代の制度と文化 
c マニ教 3世紀頃、ササン朝ペルシアの時代にバビロニア生まれの教祖マニ(またはマーニー)が、ゾロアスター教をもとに、キリスト教や仏教の要素も取り入れて折衷した新宗教。マニはシャープール1世には保護されたが、次のバフラーム1世によって処刑された。その後はササン朝はゾロアスター教を国教としたので、マニ教を厳しく弾圧された。ゾロアスター教はイラン人の民族宗教であったが、マニ教はキリスト教や仏教の要素も取り入れた世界宗教的な教義を持っていたので、イラン人以外にも広がり、特に中央アジアのソグド人によって広く東西に伝えられ、西では西ローマ時代のカルタゴの教父アウグスティヌスも一時その信者となったことは有名。また東ではウイグル人がマニ教を保護し、さらに唐の時代の中国に伝えられ、「摩尼教」と言われた。また、中世のキリスト教にも影響を与え、カタリ派などの異端も生み出した。マニ教と同じく、ゾロアスター教から分かれた新興宗教に5〜6世紀のマズダク教がある。
マズダク教 Epi. 史上最初の共産主義者? 5世紀末のササン朝ペルシアで、マニ教の影響を受けて起こった宗教にマズダク教というのがある。ゾロアスター教の司祭であったマズダクが説いたもので、非暴力、菜食主義、さらに私有財産の廃止、富の分配など、社会の改革を訴え、農民に貴族への反抗を呼びかけたので、最初の共産主義者ともいわれている。マズダク教が広がるにつれて租税の徴収が滞るなどの混乱が生じたので、厳しく弾圧されたが、イスラーム時代にも生き残っていく。<宮田律『物語イランの歴史』中公新書 2002 p.54>
d ネストリウス派キリスト教  →第1章 3節 ローマ世界 迫害から国教化へ ネストリウス派 
e 景教  →第3章 2節 景教
C イラン文化の伝播 ササン朝の文化で繁栄したイラン文化は、東西交易路を経由して、ユーラシアの各地に伝播した。特にイラン起源のゾロアスター教とマニ教は、遠くローマ帝国や中国にも伝えられ、各地の宗教にも影響を与えた。また、イラン文化の特徴である高度な美術・工芸の作品及び技法もイスラーム世界だけではなく、地中海世界や東アジアにも伝えられた。日本の7〜8世紀の飛鳥・天平の文化にも影響を見ることが出来る。
a イスラーム文化  →第5章 2節 イラン=イスラーム文化
b 法隆寺  
獅子狩文錦  
c 正倉院  
漆胡瓶  
白瑠璃碗