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2.清代の中国と隣接諸地域
ア.清朝の統治
 清後金から清へ:1616年、太祖ヌルハチが女真を統一し、国号を「後金」と称した。1636年に太宗ホンタイジのとき国号を中国風に改め「清」とした。1644年、明が李自成の乱で滅亡すると、明の遺臣である呉三桂などと結んで、山海関を越えて中国本土に入り、乱を鎮圧。同年に第3代順治帝北京に入り、北京を都として中国を支配することとなった。
清朝の全盛期:清の北京入城後も明の残存勢力が抵抗を続けたが、第4代の康煕帝が1681年までに三藩の乱を鎮定、さらに台湾を征服して中国全土を統一した。その後、18世紀の雍正帝乾隆帝時代という長い繁栄の時代を築いた。この間、その領土を中国史上最大とし、直轄地はシベリア南部や台湾におよび、モンゴル・青海・チベット・新疆地方は藩部として間接統治した。また朝鮮やベトナムには宗主権を及ぼし、周辺諸国からは朝貢貿易を行った。イギリスなど外国との貿易も始まったが当初は茶の輸出で栄え、一方的な輸出超過であったため大量の銀が流入して、税制も地丁銀制となった。18世紀の権力の安定と経済の発展により人口も1億数千万から3千万に増加した。
清朝の衰退:しかし、18世紀末には貧富の差の拡大などから農民の不満が強まり、白蓮教徒の乱などの農民反乱が起こり矛盾が強まってきた。さらに、産業革命後のイギリスなど自由貿易の要求が強まり、アヘンの密貿易が行われて社会不安が広がると共に、銀が流出し清朝の財政が困窮、そこから1840年のアヘン戦争でイギリスと戦ったが敗れ、香港割譲不平等条約の締結など、半植民地化が始まった。清朝の支配と外国勢力の進出に反発した民衆が太平天国の乱を起こすが、清朝は外国軍隊も動員してそれを鎮圧、一方イギリス・フランスはアロー戦争をしかけて露骨に侵略を強め、北方からはロシアの勢力も南下し、清朝でも同治中興といわれる上からの近代化を試み、一応の安定を取り戻した。しかし1870年代にはいち早く近代化をとげた日本も中国の領土を脅かすようになった。
清朝の滅亡:1894年の日清戦争での敗北を機に帝国主義列強の中国進出が激しくなって、中国分割が進んだ。漢人官僚による戊戌の変法という改革も内部対立から失敗した。1900年の民衆蜂起である義和団事件が鎮圧され、帝国主義列強の侵略がさらに激しくなる中で清朝政府の最後の改革である光緒新政も不徹底に終わり、政権はますます弱体化するが、国内では民族資本が少しずつ成長し、また華僑の中から清朝打倒・民族独立の運動が生まれてきた。その核となったのが孫文であり、その革命運動が高揚して、ついに1911年に辛亥革命が起こり、翌1912年中華民国が成立、最後の皇帝宣統帝が退位して清朝は終わる。
征服王朝としての特徴:清は東北地方の女真が建国し、中国の大多数の漢民族を支配したが、直接清朝を倒したのではなく、その逆賊であった李自成の乱を平定して中国の支配者となったことを自らの正当性の根拠とした。そのため明朝の制度や統治機構は基本的に残し、科挙制度も継続した。ただ軍事体制には女真独自の八旗制をとった。また各官庁の役人は満漢同数とし、宮廷の正式文書も満州文字と漢字の両方を用いた。しかし、辮髪の強制や文字の獄などムチの政策も用いた。清は完全に漢文化に同化したわけではないので征服王朝ということが出来る。清朝の中国支配は1644年から1911年まで267年続いたので、征服王朝として最も長く続いた王朝(最後の王朝となったが)であった。
 → 清の文化
A 清の統一 太祖ヌルハチが金を建国(1616年)、太宗ホンタイジは国号を清に変え(1636年)たが、まだいわゆる満州の地とモンゴルの一部を支配するだけで、明の支配する中国本土には攻撃の手をゆるめなかったが山海関を超えることはできなかった。1644年、明に李自成の乱が起こり、明の崇禎帝が死んで滅びると、山海関を守っていた明の部将呉三桂は清に降伏し、その先兵となって北京の李自成政権を倒すために清軍を山海関内に引き入れた。当時清は第3代順治帝(世祖)で、幼少であったので叔父のドルゴンが摂政となり、実権を握っていた。ドルゴンは呉三桂などの漢人を登用して明の残存勢力を討ち、中国の統一支配を進める一方、明の機構をそのまま継承して漢民族との融和を図った。ドルゴンが死んで親政を始めた順治帝も同様な姿勢をとった。1661年第4代皇帝となった康煕帝は、三藩の乱で呉三桂らの漢人武将の勢力を抑え、清の全国的な統一支配を達成し、続く雍正帝・乾隆帝の三代の清の全盛期となる。 → 清の全盛期 → 清の衰退
a 呉三桂 はじめ明の部将として山海関の守りについていたが、明が李自成の乱で滅亡すると、自ら清軍にくだり、清軍の先導として北京に入り、李自成を追放して清の全国制覇に大きな役割を果たした。その功績により、雲南地方の統治権を認められ、藩王となったが、清の康煕帝は藩王の勢力を除いて中央集権化を図り、呉三桂にも圧迫を加えた。呉三桂は他の藩王とも連携して1673年に三藩の乱を起こし、清に対抗、1678年帝位についたが半年ほどで病死した。その残党は清軍に降り、三藩の乱は平定された。
順治帝 の太宗ホンタイジの第9子。1643年わずか5歳で第3代皇帝(世祖、在位1643〜1661年)となり、叔父のドルゴンが外征の、父の従兄ギルガランが内政の、それぞれ補佐をすることとなった。ドルゴンが明との決戦に出発しようとしたとき、明の李自成の反乱が北京を占領、明は滅亡し、山海関を守っていた明の部将呉三桂は清に降ったので、ドルゴンは呉三桂を先兵として明を攻撃させ、李自成を追い出した後、順治帝をかついで北京に無血入城した。ドルゴンは皇父摂政王と呼ばれ、清朝の実権を握った。ドルゴンは漢人を登用し、呉三桂などの漢人将軍を派遣して各地の明の残党の掃討にあたらせ、また地方の統治を任せた(漢人を以て漢人を制する策)。順治帝が15歳になったとき、ドルゴンが死んで親政が行われ、ドルゴン一派は追放された。
b 北京  →第8章 1節 イ.明初の政治 北京
c 藩王 清が中国全土を支配する際、それに協力して各地の支配権を求められた漢人の武将をいう。代表的な藩王が雲南の呉三桂(平西王)、広東の尚可喜(しょうかき、平南王)、福建の耿継茂(こうけいも、靖南王)の三つの勢力で、これを三藩という。1673年、清の康煕帝三藩の乱が起こると、これらの藩王の勢力を制圧して清の中央集権体制を確立した。 
B 康煕帝(聖祖) 朝第4代の皇帝。父の世祖を継ぎ、8歳で即位し、61年間統治した(1661〜1722年)。中国の皇帝でも最も長い統治期間であり、屈指の名君とされ、「大帝」とも称された。
中国の統一:康煕帝の内政で最大の問題は藩王の存在であった。特に有力な三藩を平定する決意をし準備にはいると、雲南の呉三桂は気配を感じ、他の二藩と語らって反清の軍を起こし、三藩の乱(1673〜1681年)となった。8年に及ぶ内戦で乱を鎮圧した康煕帝は、中国全土の統一的支配を確立した。並行して鄭氏一族が支配して独立していた台湾を制圧(1683年)、清に編入した。ついで、モンゴルのジュンガル部を制圧、チベットのダライ=ラマ政権も屈服させ、領土を拡大した。
ロシアとの国境策定:このころからロシアのシベリア進出が活発になり、黒竜江を越えて満州に侵攻してきたので、康煕帝は大軍を派遣、アルバシンに城塞を築き、ロシアと3年にわたって戦った後、1689年にネルチンスク条約を締結、ロシアとの国境を確定し、相互の通商を取り決めた。
内政:国内政治では黄河の治水にも努め、三藩の乱鎮定後、自ら6度中国南部を視察して工事を督励した。宮廷の出費を抑え減税を実現し、社会の安定と産業の発展を図った。台湾の鄭氏、三藩の乱を平定した後、海禁を解除して海外との貿易を奨励し、中国には大量の銀貨が流入することとなり、経済の発展に伴って銀が通貨として流通した。1711年には即位50年を記念して盛世滋生人丁制をしき、丁銀の廃止に踏み切り、地丁銀制への移行を図った。その結果、18世紀の中国は、人口が急増することとなった。
学問保護と典礼問題: 若いときから学問に精励し、明代の陽明学の空疎な主観論をとらず、朱子学の理想とする聖王政治の実現を目指し、四書五経や資治通鑑を精読し『康煕字典』などの編纂を行った。また西洋の学問にも興味を持ち、フェルビーストブーヴェから新知識を吸収した。しかし「典礼問題」がおこると、イエズス会以外の宣教師の入国は禁止した。
清朝の全盛期:このように、内外の政治に大きな成果を上げ、康煕帝以後、三代にわたる清王朝の全盛期をもたらした。この時代は、ヨーロッパではフランスのルイ14世(在位1643〜1715年)、ロシアのピョートル大帝(在位1682〜1725年)の時代、インドではムガル帝国のアウラングゼーブ帝(在位1658〜1707年)、日本では元禄時代にあたる。
a 台湾(鄭氏台湾)台湾には1624年、オランダがゼーランディア城を築いて根拠地としていたが、1661年明の遺臣鄭成功が清の降服勧告を拒絶して台湾を攻略した。それ以後鄭成功の反清運動の拠点となった。鄭成功の死後は子の鄭経が三藩の乱に呼応して中国本土に進出した。三藩の乱が鎮定されたので台湾に戻った後に死んだ。その後鄭氏一族に内紛が生じ、それを機に康煕帝は台湾に遠征軍を送り1683年、鄭氏一族を降服させ、台湾を直接統治することとなった。台湾が中国の領土となったのはこれが最初である。
b 鄭成功 鄭成功の父は、鄭芝竜という福建出身の海賊集団の首領で東シナ海から南シナ海一帯にかけて活動していた。明は台湾へのオランダの進出に対抗するため、鄭芝竜を官につけ、台湾に進出させた。明が滅亡すると明の王室の一部は鄭芝竜を頼り、明の復興を策した。1646年、鄭芝竜は清と交渉しようとして北京に赴いたが軟禁されてしまった。残されたその子鄭成功は華南の厦門を拠点に反清復明運動を激しく展開し始めた。1659年には南京を奪還しようとしたが失敗した。清は1661年、華南の福建・広東などの沿岸に海禁政策遷界令=沿岸地方の住民を内地に強制移住させ、鄭氏一族との交易をできなくしようとしたもの)を出し、鄭成功を屈服させようとした。鄭成功は同年、2万5千の兵を率いて台湾のオランダ勢力を攻撃、翌年それを追放した。オランダの台湾支配は終わり、鄭氏による台湾支配が始まる。しかし1662年鄭成功は39歳で病死(清の康煕帝が即位した年である)し、そのあとは子の鄭経が厦門から移って意志を継いだ。その後、三藩の乱に呼応した鄭経は中国本土に出撃するが、乱は鎮圧され、台湾に戻りって死に、内紛が生じたため鄭氏の台湾支配は弱体化し、1683年康煕帝によって征服され、清の領土となる。<戴國W『台湾−人間・歴史・心性−』1988 岩波新書>
 鄭芝竜  
 国姓爺 こくせんや。鄭成功のこと。鄭成功は、明の帝室の一人を奉じて明朝復興をめざして清と戦い、明の皇帝の姓「朱」を賜ったので、「国姓爺」と呼ばれた。爺は「旦那」といったような意味。鄭成功は母が平戸の日本人で、日本でもよく知られており、元禄時代の浄瑠璃作者近松門左衛門が彼を主人公として『国性爺合戦』を書いた(日本では国性爺と書くのが一般的)。
Epi. 日本でも人気の高い国姓爺、鄭成功 鄭成功は日本では国性爺(こくせんや)として知られていた。近松門左衛門が1715年に大坂竹本座で上演した浄瑠璃『国性爺合戦』の主人公である。平戸の和藤内(実は鄭成功)が日本に逃れてきた明の皇女を助けて大陸に渡り、明の遺臣呉三桂と協力して韃靼兵(清軍)と戦い、明室再興の宿願を達成し、その功績によって国性爺といわれる、という話。この話は大半が創作だが、主人公の鄭成功は父が鄭芝竜、母が日本人で平戸の出身の田川氏、彼自身も子供の頃は平戸で過ごした人だったので近松の作品は大当たりした。また鄭成功も何度か江戸幕府に応援を要請しており、明と清の争いは日本でも関心が持たれていた国際的な出来事だった。鄭成功が父を殺され、清に復讐し、明を復興させようとする話は、江戸初期の日本でも英雄視されていた。
 遷界令清が当初採った海禁のために定めた法令。清の順治帝の時、1661年に台湾の鄭成功一族の反乱を抑えるため、東南沿岸部5省の住民を30里内に移住させ、同時に海上での貿易を禁止した。強制移住と貿易禁止で鄭成功一族の経済活動に打撃を与えることがねらいであったが、清朝側も損害が大きかった。康煕帝の1683年に鄭氏一族の反乱が鎮定されたので、海禁政策も解除された。
c 三藩の乱 清の建国を助け、各地に独立政権となって藩王と称された漢人武将で、雲南の呉三桂(平西王)、広東の尚可喜(平南王)、福建の耿継茂(靖南王)の三つの勢力を三藩という。1673年、清の康煕帝(19歳であった)は、この三藩の勢力を抑え、清朝の全国支配を完全なものにしようとして、それぞれ工作を行い、以後約9年にわたる戦闘を展開した。一時は台湾の鄭氏の勢力も三藩の中心勢力の呉三桂に味方し、江南は呉三桂が抑えたが、清軍が次第に優勢となり、1681年三藩を平定した。これによって清の全国統一が成り、その支配は全盛期を迎える。
C 清朝の全盛期 三藩の乱を平定(1681年)し、漢人武将の藩王勢力を抑え、清の統一を達成した康煕帝から、雍正帝、乾隆帝と続いた、17世紀末から18世紀の約120年間が、清朝の全盛期であった。この間、の動きをまとめると
 ・中国王朝としての最大領土の獲得:モンゴル高原、東トルキスタン(新疆)、チベット、台湾の獲得
 ・地丁銀制度による税制の簡素化
 ・内閣大学士に代わる軍機処の設置
 ・清に有利なロシアとの国境協定:ネルチンスク条約、キャフタ条約
 ・文化事業の積極的な展開と、反面の文字の獄
 ・キリスト教宣教師の活躍と、反面の典礼問題
が重要なものである。この時期は、ヨーロッパ世界は市民革命・産業革命が展開され、資本主義の形成に向けて大きく変動した。アジアでは、清帝国と同じように、オスマン帝国、ムガール帝国という専制国家が繁栄していた。そして、次の19世紀には資本主義諸国のアジアへの進出が本格化し、アジアの専制国家は次々と植民化または半植民化されて解体に向かう。
a 雍正帝 清朝第5代皇帝(在位1722〜35年)。統治期間はわずか13年、康煕帝(61年)と乾隆帝(60年)にはさまれて目立たないが、厳格な政治で清朝の体制の維持を図り、清朝の全盛期の皇帝の一人である。内政では康煕帝に始まる地丁銀制を全国に広め、また奴隷身分をなくして課税対象とした。また雲南の苗族(ミャオ族)など辺境の少数民族の同化策(「改土帰流」)をすすめ、北京語を公用語として全国に広めるなど、中央集権化をはかった。一方で清朝の支配を批判する言説には厳しく弾圧し、文字の獄が展開された。皇帝の政治を補助する諮問機関として軍機処をおいたのも雍正帝の時である。外交ではロシアとの間で、ロシア・モンゴル間の国境を定めるキャフタ条約を締結した。また典礼問題から始まったキリスト教布教に関する問題は、1723年キリスト教布教を禁止することで決着をつけた。
Epi. 雍正帝から始まった太子密建の法 中国の統治者としてはすべて順調であった康煕帝であったが、後継者については死ぬまで苦悩していた。男子35名をもうけ、第2子を皇太子としていたが、非行が多く、二度も廃さなければならなかった。皇太子を指名しないまま臨終を迎えた康煕帝は、側近の臣下の手をとり、その手のひらに四と書いた。それは第四子を皇太子とすることであろうとされ、それで皇帝となったのが雍正帝であった。実は十四と書いてあったのを、侍臣が指を曲げて隠したとか、なめて消してしまったとかの噂も流れ、雍正帝の陰謀説も流れた。雍正帝は弟で有力なものを捕らえ、アキナ(犬)とかサスヘ(豚)と改名して幽閉し冷酷に排除した。雍正帝は宮廷の廷臣が皇太子に誰がなるかで暗闘することを防ぐため、皇太子をおかず、後継者の名は錦の箱に入れて宮殿(乾清宮)の正面の額の裏におき、皇帝の死後に開くという「太子密建の法」をとった。これによって清朝では後継者をめぐる宮廷内の争いが起きず(同時代のインドのムガル帝国などに比べ)安定したと評価されている。<宮崎市定『雍正帝』中公文庫 、増井経夫『大清帝国』講談社学術文庫 p.111>
b 乾隆帝 清朝第6代の皇帝(在位1735〜1795年)、康煕帝雍正帝に続く清の全盛期となった。その統治は60年に及び、祖父の康煕帝の61年以上になってはいけないということから95年に退位し、さらに4年間上皇として政治にあたった。
領土の拡大:この乾隆帝の時代、18世紀の中頃、清はその領土を最も広げ、世界最大にして最強と思われる国家となった。乾隆帝自身が数度にわたって辺境に遠征を行い、モンゴルのジュンガル部、中央アジアの東トルキスタンのウイグル人居住区(乾隆帝の時領有して、「新疆」とした)、四川南部の苗族の平定、ビルマへの遠征などを展開した。この結果、満州人・漢人・モンゴル人(蒙)・ウイグル人(回)・チベット人(蔵)という、多民族国家としての現在の中国の「五族協和」という体制ができあがった。
内政:内政でも康煕帝の『古今図書集成』や『康煕字典』にならって、それを上回る修書事業を行い、『四庫全書』の編纂を行い、中国文明の集大成を図ったが、同時に異民族支配である清に対する批判は許さず、前代に続けて「文字の獄」の弾圧が行われた。
海禁策:乾隆帝は中華思想に基づく朝貢貿易の立場を強め、1757年に海禁に転じ、外国貿易は広州一港での公行による貿易に限定した。18世紀後半に産業革命を進行させていたイギリスが、中国市場開拓に乗りだし、1793年にマカートニー使節団を派遣、制限貿易の撤廃を要求してきた。乾隆帝は要求を拒否したが、このような外圧は19世紀にはより強くなり、資本主義世界史上に組み込まれていく。
Epi. 乾隆帝の「十全の武功」 清の乾隆帝の時、領土は史上空前の規模となり、帝自ら「十全の武功」と自賛している。彼の言う「十全の武功」とは、(1)1754年のジュンガル部出征、(2)58年のジュンガル部への再征、(3)59年のウイグル族征服、(4)49年の苗族制圧、(5)76年の苗族への再征、(6)69年のビルマ遠征、(7)88年の台湾の反乱の鎮定、(8)89年のベトナムの服属、(9)90年のネパールの征討、(10)92年のネパールへの再征、の10回の軍事行動を言う。ところがこの10回とも乾隆帝は一度も出陣していない。自ら軍隊を率いて出征した康煕帝とはだいぶちがっていた。またこのうち実質的な勝利といえるのは(1)(2)(3)つまり後年の新疆省設置(1884年)につながる戦役くらいで、その他は人命と莫大な戦費を費やしながら勝利とは言えない、実質を伴わないものだった。それでも現在の中国が領土権を主張する範囲は全てこの時の大清帝国の領土に入っている。<寺田隆信『紫禁城秘話』1999 中公新書 p.128-132>
c 紫禁城 明王朝の永楽帝が1421年に建設した北京の皇城で、次の清王朝最後の宣統帝までの24代の皇帝が約500年にわって居城としたところ。紫は天帝にあたる星座を紫微垣(しびえん)を意味し、天帝の命を受けて世界秩序の維持に責任を持つ皇帝の住居である禁城をあわせたもの。現在は故宮博物館として公開されている。
北京は全体が東西2500m、南北3000mの区画を占める皇城であり、その南の出入り口が天安門である。この皇城のなかに、さらに東西760m、南北1000mの周りの堀をめぐらした区画が皇帝の居住する紫禁城である。まさに皇帝の絶対権のシンボルとしての威容を誇っている。建造は永楽帝が1407年に開始し、1420年に完成、翌年正月に遷都の儀式が行われた。ところがわずか100日後に落雷によって大部分を焼失し、1441年に再建された。その後も何度か、火災に見舞われ、現存する建物はほとんど明代の乾隆帝ごろまでに建設されたもの。木材の不足する華北なので、中国南部から運んだ巨木を用い、黄瑠璃瓦で屋根を葺き、白色にはえる三層基壇の大理石の上に極彩色の宮殿を今も見ることができる。<詳しくは、寺田隆信『紫禁城秘話』1999 中公新書 を参照>
d 満・漢同数 満漢併用制ともいう。清朝は征服王朝として漢民族を支配したが、その際、前代の明の制度をほぼ継承した。皇帝を補佐する行政最高機関も内閣大学士がそのまま継続、その下に、旧来の六部がおかれた。しかし、その役人には満州人と漢人が同数ずつ任命されることを原則とした。 
巡撫 じゅんぶ。明代に始まる地方官で、はじめは巡行して撫民(民を鎮まらせる)する役割であったが、清代には常駐の地方長官として行政、軍事を管轄することとなった。総督と違い、1省に1巡撫がおかれた。巡撫と総督は、皇帝に直接報告書を提出することができ、特に雍正帝時代は皇帝の全国統治の重要な機関となった。
総督 そうとく。明と清の地方官。初めは臨時に中央から派遣されて軍隊を統率するものであったが、次第に常設となり、清代には地方長官として民政、軍政を統括する重要な役職となった。その管轄は1省から数省におよび、巡撫よりも上位におかれた。総督と巡撫は「督撫」といわれ、特に清朝では皇帝に直結する地方官として重きをなした。 
e 緑営 清朝が八旗の他に新たに編成した、漢人を主体にした軍隊。清が中国本土を制圧してから、旧明の軍人を主体に京師に約1万、各省に全体で60万が編成された。軍隊ではあるが、平時には治安維持にあたった。三藩の乱では活躍したが、その後次第に泰平になれ、弱体化した。
f 八旗  → 第8章 1節 カ.東アジアの情勢  八旗
g 軍機処 雍正帝の時、ジュンガル部の平定のためにおいた臨時の大本営としてもうけたのが軍機処の始まり。本来は軍務機関であったが、明以来の内閣大学士に代わり、皇帝の諮問機関として国政および軍政の最高機関となっていく。軍機処を構成する複数の軍機大臣がおかれた。1911年の清の滅亡まで続いた。
雍正帝の時に軍機処がおかれた事情は、宮崎市定『雍正帝』にわかりやすい説明がある。清でははじめ明代以来の内閣制度がとられたが、清朝の朝廷では満州語が用いられており、中国各省から送られてくる漢文の報告書は満州文に翻訳しなければならず、時間がかかり事務が渋滞したり機密が漏れたりすることがあった。雍正帝が設けた軍機処は大臣の下に満州人と漢人の書記官をおき、漢文の報告書は漢人事務官が処理し、満州文の報告書は満州人事務官が処理することて迅速化を図った。それがうまくいったので、初めは軍事だけを取り扱う機関であったものが、国内政治をも処理する中枢機関になった。<宮崎市定『雍正帝』初版1950 中公文庫 p.170>
h 『康煕字典』 清の康煕帝の時に編纂された字書。1710に編纂が始まり、1716年に完成した。全42巻、収録文字数約4万9千字、最も完全な漢字字書とされている。字ごとに古体、重文、別体、俗書、偽字をあげ、音韻と字義を明らかにしている。
i 『古今図書集成』 清朝で編纂された類書(百科事典)。中国最大の百科事典と云われる。ここんとしょしゅうせい。清の康煕帝の命により編纂が始まり、雍正帝の時1725年に完成した。古来の典籍の記事を、暦象・方輿・明倫・博物・理学・経済の6ジャンルに分類し32典6109部に細分した。
j 『四庫全書』 清朝の乾隆帝の命令で編纂された叢書。乾隆帝は全国の書物を提出させ、甲乙丙丁の四部門に分け(甲部は経書、乙部は史書、丙部は諸子、丁部は文集)て筆写し、10年の歳月を費やして完成させた。全部で3458種、79224巻を36382冊の豪華な本に装丁し、あわせて七部つくらせ、四部を首都北京に置き、3部は揚州、鎮江、杭州に置いて学者の閲覧を許した。なお、この書物の政府による調査には、反満州人、反清朝の書物を探し出す目的もあったとされている。
k 文字の獄 清の康煕帝、雍正帝や乾隆帝の時にとられた、反清朝、反満州人の内容の図書を取り締まったこと。たとえば、雍正帝の時、内閣学士の査嗣庭が科挙の試験で出題した「維民所止」(これ民のおるところ)という4字が、維は雍の、止は正の首をはねたものだとして投獄し、獄中で病死するとその死体をさらし、その子を死刑にしたという。明の洪武帝が、「光」や「禿」の字のある書物を取り締まったのも「文字の獄」という。
禁書  
l 辮髪令 清は漢民族に対して、満州人の風俗である辮髪を強要した。辮髪(弁髪)は男子が頭髪を剃り、後頭部だけを長く伸ばして編み、背後に長く垂らす髪型。清は占領地で降伏した漢民族に、服従の保証としてこの髪型にすることを強要していたが、1645年、南京を制圧して中国本土をほぼ統一するとただちに辮髪令(弁髪令、薙髪令=ちはつれい)を定め全国にその徹底を命じた。「頭を留める者は髪を留めず、髪を留める者は頭を留めず」と書かれた制札をかかげ、僧侶と道士(道教の出家者)を除き、10日以内に弁髪にせよ、という厳しいものであった。漢人は各地で反発したが、抵抗するものは殺され、やがて弁髪はごく自然な中国の風俗として定着し、中国人と言えば弁髪というイメージが定着した。清末に滅満興漢を掲げて立ち上がった太平天国の人びとは弁髪を拒否して髪を伸ばしたので清朝政府から「長髪賊」といわれた。
イ.清朝支配の拡大
A 康煕帝  → 康煕帝
a ピョートル大帝  → 第10章 1節 ロシア ピョートル1世
b ネルチンスク条約 17世紀後半、ロシアのピョートル1世(大帝)は、シベリアへの進出を積極的に進め、ロシアの探検家や商人が満州地方の北辺に出没し始め、黒竜江(アムール川)流域で毛皮や金を奪う動きを示した。三藩の乱で北方の防備が手薄になっていたが、乱を平定した康煕帝は北方に目を向け、1685年軍隊を送ってロシアが建設していたアルバシンの城塞を攻撃、その進出を抑えようとした。3年間の戦闘を経て、康煕帝はピョートル大帝に親書を送り国境協定を提案した。両国の代表は1689年、ネルチンスクで会談し、ネルチンスク条約として調印した。なおこの交渉で通訳に当たったのは清朝側のイエズス会宣教師であった。康煕帝は西洋人宣教師を使い、中国最初の外国との条約を締結したのだった。
ネルチンスク条約の内容
(1)両国国境を外興安嶺(スタノヴォイ山脈)とアルグン川(黒竜江上流)を結ぶ線とする。
(2)ロシア側はアルバジン城を放棄し、ネルチンスクにおいて通商貿易を行う。
ネルチンスク条約の意義
(1)これは、中国が外国と対等に結んだ最初の近代的条約として重要である。
(2)また現在のロシアと中国の国境から見れば、大幅にロシア側に食い込んでおり中国にとって有利な条約であった。
(3)清が外国との対等な貿易を認めたのは、朝貢貿易の原則の中の例外である。
その後のロシアとの国境交渉:1727年のキャフタ条約で中央アジア方面モンゴルの国境を確定。19世紀にはいるとロシアの圧力が強まり、1858年の愛琿条約、1860年の北京条約で清はネルチンスク条約の協定を大幅に後退させることとなる。1881年のイリ条約ではねばり強い交渉でイリ地方を確保した。 → 中ソ国境紛争
c ジュンガル ジュンガル部は17世紀に有力になったモンゴルの部族。族長ガルダンはチベットのダライ=ラマと結び、内モンゴルのハルハ地方に進出した。康煕帝は内モンゴルに2度出兵してガルダンを攻め、ガルダンを自殺させた。ジュンガル部はなおもチベットに入り、抵抗を続けたので、康煕帝は皇子をチベットに派遣しジュンガルの勢力を排除し、チベットを支配下においた。ジュンガルはその後もタリム盆地を拠点に清朝への抵抗を続けたが、雍正帝に続いて、乾隆帝時代にも激しい清側の攻勢を受け、1758年に滅亡する。その支配領域は清朝の藩部の一つ、新疆となる。
B 雍正帝  → 雍正帝
a キャフタ条約 外モンゴルを征服した清と、南下したロシアが中央シベリア方面で直接接触することとなり、その地域での両者の国境協定が必要となったので、1727年、清の雍正帝がロシアとキャフタ条約を締結した。ネルチンスク条約に次ぐ、中国とロシアの国境協定。
C 乾隆帝  → 乾隆帝
a 新疆 清の乾隆帝の時、清に征服されたジュンガル部の居住域。中国西部のタクラマカン砂漠を含む広大な地域。疆は「領域」の意味で、清にとって新たな領土を意味する。清はこの地を藩部の一つとして理藩院が統括した。19世紀以降もたびたび反乱が続いたが清の軍に抑えられてきた。中華人民共和国成立後の1955年に新疆ウイグル自治区となり、3分の2の人口を占めるウイグル人(イスラーム教徒)の自治が行われている。中心都市はウルムチ。
東北地方 清王朝発祥の地で、満州人の出身であるので満州と言われるようになる。清は中国本土に17の省をおいたほか、この地に奉天省、吉林省、黒竜江省の3省をおいた。これを東三省という。現在の中国では東北地方と言われている。
a 藩部 清朝は、中国本土と満州以外の地の、モンゴル青海チベット新疆(ウイグル)を藩部とし、理藩院をもうけて統治した。清朝は藩部の統治にあたっては、現地の伝統的文化の維持、現地首長を通じた政治などの懐柔策を採った。
清朝の藩部支配の特徴:「清朝は「因其教不改其俗」(伝統の継承を認め、慣習を変えない)という原則の下で、意図的に現地民族社会の文化伝統を維持させた。そして、現地民族集団の有力者を用いた間接統治の方法を導入し、伝統的社会と政治構造を維持させた。清朝皇族とモンゴル王公との政略結婚が制度化され、モンゴル地域における部族首領を行政の首長とする「ジャサク制」、チベットにおけるダライ=ラマを首領とする「政教一致」、ウイグル族の居住地域における地元の有力者を行政の首長とする「ベク制」などはそれであった。」<王柯『多民族国家 中国』岩波新書 2005 p.35-36>
b モンゴル (清代以降)清は太宗ホンタイジ以来、モンゴル方面の攻略を進め、1634年に内モンゴルを征服、1691年までに外モンゴルまで勢力を伸ばした。乾隆帝の時、1757年に全モンゴルは清朝に征服され、その藩部の一つとなった。清朝はモンゴル王侯を通して政治・経済・文化の中国化を進め、またモンゴル人を八旗に組み込んで軍事力とした。1911年、辛亥革命が起こるとモンゴル人の独立運動も起こり、外モンゴルではモンゴル人民革命党(共産党)が結成され、1921年のモンゴル革命で活仏を元首とする臨時政府を樹立した。その後、活仏の死去に伴い、1924年に世界で2番目の社会主義国であるモンゴル人民共和国が出現した。  → モンゴル国(現在)
c 青海 チベット高原の北東部に当たり、モンゴル人の支配下にあったが、康煕帝・雍正帝の時に清に服属し、藩部の一つとなった。現在は中華人民共和国の青海(チンハイ)省。 
d チベット  → 第3章 2節 チベット
f 理藩院 清朝が征服地であるモンゴル、青海、チベット、新疆(ウイグル)の4藩部を統治するために設けた役所。1638年に始まり、一時礼部の下部組織となったがまもなく独立し、以後一貫して藩部の統治機関として続いた。理藩院は中央政府の中で吏・戸・礼・兵・刑・工の六部と同列に列せられ、その長官(尚書・侍郎)は満州族のみが任命された。
 改土帰流 明清時代、特に秦の雍正帝の時に進められた少数民族政策。主に南西部の少数民族ミャオ族に対して行われたもので、従来の現地少数民族の有力者である土司を廃止(改土)して、中央から役人(地方官を転任するので「流官」という)を派遣して直接統治する(帰流)こと。中国の中央政府による、少数民族に対する同化政策であったが、ミャオ族などは激しく抵抗し、反乱が相次いだ。
土司制度と改土帰流:「元代から清朝初期にかけて、朝廷は南西部において「土司制度」を実施した。それは、政令の受け入れ・朝貢・納税を前提に、原住民を種族と部族の単位に分別し、その酋長に官職(土司・土官)と現地の慣習法にしたがって地域を統治する権力および世襲権を与え、王朝が間接統治するという統治システムである。改土帰流とは土司制度を廃止し、中央政府直轄の州県制に転換させ、科挙に合格して選抜された「流官」を派遣して直接統治するなど一連の制度転換であった。雍正期において、特に1726年から1731年までの間、反乱する土司、法を犯した土司、後継者が欠如する土司、後継をめぐって争う土司、土地返上を申し立てる土司は、次から次に廃止された。乾隆期に、貴州省の「改土帰流」が達成されてから、漢人による移民を通じて「化苗為漢」(ミャオ族を漢族に変えること)ということも計画され、ミャオ族に対して漢族の姓を強要し、漢人戸籍として登録させた。」<王柯『多民族国家 中国』岩波新書 2005 p.31>
a チベット仏教  → 第3章 2節 チベット仏教
A ツォンカパの改革 15世紀初めのチベット仏教の改革者。それまでのチベット仏教が仏教以前のチベットの土俗的宗教であるボン教の要素が強く、呪術的な現世利益を求めるものであったのに対し、戒律を厳しくし仏教本来の倫理性を強めようとした。その教派は黄帽派(またはゲルクパ派)と云われ、チベット仏教の主流となる。黄帽派は戒律が厳しく、妻帯できないため、教主(ラマ)の後継者は仏教の輪廻転生の教えに基づき、教主の死んだ時刻に産まれた男子から選ぶ、「転生ラマ」の制度がとられた。ところがツォンカパの死後、その教えは二系統に分かれ、主流はダライ=ラマが、傍系がパンチェン=ラマが継承することとなった。
a 黄帽派 チベット仏教の改革派であるツォンカパの教えを守る一派は、戒律を守っていることを示す黄色い帽子をかぶっていたので黄帽派と云われた。これに対して従来のチベット仏教を紅帽派、ボン教の呪術を続けているのを黒帽派といった。 
B アルタン (の支配) → 第8章 1節 エ.朝貢体制の動揺 アルタン
a ダライ=ラマ ダライ=ラマとはチベット仏教の最高の指導者で、ダライはモンゴル語で「広大な海」、ラマは「師」を意味する。1578年、モンゴルのアルタンが黄帽派の高僧ソナム=ギャムツォを青海地方に招いて奉じたのが最初で、チベット仏教の最高権威者である活仏(化身僧ともいう)をダライ=ラマといい、代々転生されると信じられている。現在もダライ=ラマは14代まで続いており、その影響力はチベット、モンゴル、満州地方に及んでいる。
Epi. 現在のダライ=ラマ14世 1939年に13世の転生者(活仏、化身僧)として選ばれたが、中国のチベット支配に反発、1959年インドに亡命した。現在もチベット仏教の布教と、チベット難民の救済を世界に訴える活動をしている。1989年のノーベル平和賞を受賞した。
b 活仏 チベット仏教(黄帽派)の最高指導者ダライ=ラマの地位は、転生ラマ(活仏、化身僧)によって継承される。チベット仏教の高僧は妻帯が禁止されているので、ダライ=ラマが生前に預言した方角でその死後1年間に生まれた幼児を転生者として選んだ。現在の第14世まで、そのような方法で継承されている。 
C 清朝の支配(チベット) 
a ラサ  
b ポタラ宮殿 チベットの首都ラサにある、チベット仏教の教主ダライ=ラマの居城。ポタラとは、観世音菩薩の浄土を意味する普陀洛山のこと。この地はもとは吐蕃を建国したソンツェン=ガンポの居城だったところと言う。
ウ.清朝と東アジア
東アジアの外交関係宗主国と藩属国の関係=事大:中国を中心とした東アジアの外交関係は、漢文の公文書の交換によって成り立っている。この東アジア世界の外交関係の基本用語は、「事大」と「交隣」である。事大とは、朝鮮国王と明国、清国の皇帝の関係のように、藩属国から宗主国である中国への朝貢貿易の形で行われるもので、この場合、中国皇帝は朝鮮国王よりも上位にある。称号で言うならば、皇帝は「陛下」を使用できるが、国王であれば「殿下」としなければならない。日本の場合、足利義満は、「日本国王」と称して永楽帝から金印も付与され、朝貢貿易の形で日明貿易を開始したが、その子の義持は朝貢の形式を嫌い一時中断する。その後貿易は再開されるが宗主国と従属国という関係には成らなかった。
日本と朝鮮の関係=交隣:「交隣」とは対等の国家間で行われるもので、日本と朝鮮の関係はこれにあたる。足利政権は日本国王として朝鮮王と「交隣」の交際を続けた。文禄・慶長の役の後、江戸幕府は朝鮮との国交を回復したが、将軍の称号をどのようにするかで問題が生じた。朝鮮は、中国皇帝の冊封をうけているのでその支配者は「国王」であるが、中国に朝貢を行わない日本は必ずしも国王を称する必要はない。しかも形式上の主権者、天皇と実質上の支配者、将軍との関係というややこしい問題が生じる。将軍は国書においてどの称号を使うかで一定せず、はじめは「日本国源某」としたが、朝鮮側が問題視すると窓口になった対馬藩で独断で王の字を入れ「日本国王」としてしまうなどの混乱があった。その後は「日本大君」と称したが、新井白石の時に室町幕府と同じく「日本国王」に戻された。将軍吉宗の時に再び大君に改められ、以後「大君」は対外的な将軍の称号となった。<上垣外憲一『雨森芳州−元禄享保の知識人』1989 中公新書 p.117-120>
宗主国 宗主国とは、他の国に対して強い支配権を持つ国のことで、朝鮮やベトナムに対する清朝のように、その国の王位を承認し、朝貢を受け、内政についても発言権を持っている国を言う。また、ヨーロッパの列強が、植民地を独立させた後も、特別な結びつきを維持し、政治的・経済的な支配権を行使している場合も宗主国という。その支配を受ける国が属国である。東アジアの外交関係では、宗主国と従属国(藩属国ともいう)は上下の関係である「事大」といわれ、属国間の対等な関係は「交隣」と言われた。
属国 (清)東アジアの外交関係では、清朝の周辺にあって独立はしているが、清に服属している国を藩属国(一般には属国)という。服属とは属国となることで、それを従えた国を宗主国という。属国の王は清朝に毎年朝貢し、その地の支配権を認めてもらう必要があり、そのような形で行われる貿易を朝貢貿易という。清は太宗ホンタイジの時、たびたび朝鮮(李朝)を攻撃し、1637年に服属させた。なお、ベトナムは阮朝の統一後、1804年に清を宗主国とする越南国となった。ビルマ(現ミャンマー)・タイなどの東南アジア諸国も清朝に朝貢したが、実質的な支配は及ばなかった。なお、モンゴル、青海、新疆、チベットは藩部として間接統治をうけ、台湾は清の直轄領となった。日本(江戸幕府)は中国商人の長崎入港は認めたが、外交関係は持たなかった。朝鮮と日本の関係は基本的には対等な関係「交隣」であるとされた。
a 朝鮮 →第8章 1節 14世紀の東アジア 朝鮮  
b 両班 やんばん、と読む。高麗時代に役人の文官を文班(ムンバン)、武官を武班(ムバン)と呼び、その両者をあわせ、官職に就いている人を両班といった。朝鮮王朝では官職に就くと土地が与えられ、それが世襲されるようになって、両班は世襲的な貴族階級となっていった。このような朝鮮における政治上、同時に経済的にも支配者階級であり、文化面でも知識人となったのが両班である。官僚の登用は高麗以来、中国の科挙を取り入れていたが、科挙に合格するものは両班出身者が多く、また科挙に合格できなくとも、彼らは地主として地方で支配的地位を維持できた。両班はそれぞれ家を大事にして血統を誇り、血縁的な団結を強く守っていた。反面競争心が強く、常に派閥を作って党争と言われる争いを続けた。
補足 朝鮮王朝の身分制度 朝鮮王朝時代は身分制社会であり、両班が支配者階級に位置し、その下に、中人(都市に住み医師、法律、貿易など実務的な職種を世襲する階級)があり、その下の農工商の平民は「常民(サンミン)」と言われた。その大部分は農民で自営農民と両班の土地の小作農とがあった。また最下層に公奴婢と私奴婢の賎民がいて、私奴婢は売買された。また朝鮮王朝は儒学を国の教えとし、高麗時代に勢力を持ちすぎた仏教は排除されたので、僧侶は賎民身分であるとされた。<この項、岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー>
c 儒教  → 儒教
党争 朝鮮の両班は、科挙によって特別の地位を得るので、儒学に精通し、その理念を絶対的なものとして信奉した。儒学の教えでは父、祖父、曾祖父、高祖父の4代の先祖を祀り、一族は常に団結していなければならなかった。一族の血縁関係を記した「族譜」は名門の証として尊重された。自ずと他の一族との競争心が芽生え、両班は派閥をつくって互いに争うのが常であった。特に朝鮮王朝の中期には、中央の高級官僚である勲旧(フング)派と、地方両班から官僚になった新興勢力の士林(サリム)派の対立が激しくなった。士林派が権力を握ると、こんどはその士林派が分裂して争った。争うと言っても武力でではなく、儒学の教義や礼儀のあり方をめぐっての「理論闘争」であった。しかし敗れれば処刑されたり追放されたりするので、争いは深刻で血なまぐさいものであった。このような両班間の対立抗争を党争(タンジェン)という。<岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー p.133〜>
燕行使 朝鮮は、清のホンタイジの侵攻を受けて1637年に清を宗主国とする属国の立場となった。そのため、毎年朝貢のための使節を送ることとなったが、1644年に清が北京に入ってからは、その使節を燕行使といった。「燕」は北京の古名である燕京からきたもの。燕行使は1894年の日清戦争まで続いた。清朝から朝鮮に派遣される使節は勅使といった。使節の派遣に伴って貿易が行われるだけでなく、文化の受容、世界情報を得る機会ともなっていた。
小中華思想 朝鮮の儒者が、朝鮮を中国の正統な儒教の伝統を継承する国と考え、清朝や周辺国、西洋を夷狄とする思想。朝鮮王朝(李朝)は、明との文化的な関係が深く、ともに儒教思想(特に朱子学)を根幹とする社会をつくってきたが、1637年に女真の清の侵攻を受けてそれに服属し、1644年には明が滅亡して清が中国全土を支配することとなった。こうして朝鮮は清を宗主国とする立場となったが、儒者はあくまで清朝は女真という夷狄が建てた王朝であると考え、「大中華」であった明が滅亡した後は、朝鮮のみが儒教の伝統を継承する「小中華」であると考えるようになった。政治的・外交的には清に屈服したが、文化的にはより高度な伝統を維持しているという自負であった。その考えでは、清は夷狄であり、日本は倭夷、西洋は洋夷であるとされ、19世紀の朝鮮で力を付ける鎖国思想、事大主義へと結びついた。日本などにならって朝鮮の近代化を図ろうとした独立党に対して、保守派を形成した事大党の思想的な根拠となる。
琉球 → 琉球王国 
a 島津氏  
両属体制  
首里城  
日本 (江戸時代) 
a 江戸幕府  
b 朝鮮通信使 徳川家康は関ヶ原の戦い(1600年)に勝つとすぐ、対馬の宗氏を介して朝鮮との国交回復を図った。朝鮮王朝は国交回復の条件として、二度と朝鮮を侵さないこと、侵略の時王陵をあばいた犯人を引き渡すことなどを要求した。家康はその要求を入れ、1607年に朝鮮は「通信使」を派遣することを約束し、以後江戸末期の1811年まで12回派遣されることとなる。通信使は正使、副使の他、儒学者、医師、画家などを含み総勢500人を超えることもあった。朝鮮通信使が江戸に向かう間、各地で日本の文人、学者たちとの交歓が見られた。一方、日本からの使節は漢城まで行くことが許されず、釜山の倭館で応接を受けた。日本に対する不信が完全にはぬぐい去られていなかったのである。<岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー p.164〜>
Epi. 元禄享保の国際人 朝鮮通信使との交渉:鎖国時代の日本で、朝鮮通信使は貴重な外国情報を入手する機会でもあり、外国文化に接する機会でもあった。通信使の一行の中には儒学者や医者、画家が必ず加えられ、途中の宿で日本人の学者、医者、画家との交流が行われた。中には朝鮮語に巧みな日本人学者もいた。その中で最もよく知られたのが雨森芳州である。彼は元禄から享保の頃、対馬藩に仕えた儒者で、江戸や長崎で中国語を学び、さらに釜山の倭館で朝鮮語を学んだ。当時はまだ公用の文字とされていなかったハングルも学んでいる。雨森芳州は木下順庵門下で、新井白石とは同門であったが、白石の朝鮮通信使への厳しい態度や将軍の称号問題での高圧的な態度に反対し、朝鮮使節との対等な交渉を主張した。時には朝鮮使節と激しくやり合ったが、それも高い朝鮮語の能力によって可能だったし、学者としての見識や詩文では朝鮮の学者から称賛されている。鎖国時代の日本でも外国語をマスターし、堂々と渡り合った「外交官」が存在したのだ。<上垣外憲一『雨森芳州−元禄享保の国際人』1989 中公新書>
エ.清朝と東南アジア
a ベトナム  → 大越国
西山党の乱 ベトナム(大越国)の黎朝は16世紀になると急速に衰え、一時部将の莫(マック)氏に権力を奪われた(1527年)。その後は、形の上では黎朝が復活したが、実権は北部の鄭(チン)氏と南部の阮(グエン)氏に移り、両者は200年にわたる抗争を展開(ベトナム中世の南北戦争)し、混乱と腐敗が続いた。1771年、中部ベトナムの西山(タイソン)郡に住む阮文岳、阮文恵、阮文侶の三兄弟(南部の阮氏とは関係ない)は周辺の農民を率いて反乱を起こし、1773年にはクィニヨンを占拠した。次第に勢力を強めた反乱軍は、1778年に長男が王を称し中部ベトナムに西山朝を起こした。これが西山党の乱であり、「タイソンの蜂起」とも言われる。かつては阮氏三兄弟は賊軍とされていたが、最近のベトナムでは救国の英雄として評価されている。西山党はその後、南部の阮氏政権、北部の鄭氏政権を倒してベトナムを統一した。<『物語ヴェトナムの歴史』小倉貞男 中公新書などによる>
西山朝 西山党三兄弟がベトナムに建てた王朝。西山党の乱を起こした三兄弟の長男阮文岳は1778年に王を称して西山朝を建て、1787年には「中央皇帝」と称してクィニヨンを都とし、阮文恵がフエを拠点に「北平王」となり、阮文侶がジャディンで「南平王」となった。西山朝はシャム(タイ)軍の支援を受けた南部の阮氏政権をメコン川の戦い(1785年)で破り、さらに北部の鄭氏政権も倒し、1789年にはわずかに残っていた黎朝の系統を復活させさせる口実で介入してきた清軍を阮文恵がハノイ近郊で破り、ベトナムを統一するとともに独立を守った。しかし、西山朝は三兄弟が対立するようになり、内紛が生じ、南部阮氏政権の生き残りの阮福映がフランスの援助で立ち、1802年に滅ぼされた。
Epi. ベトナムのナポレオン グェン=ヴァン=フェ 逆賊から英雄に 西山党三兄弟は次の阮朝の時代には逆賊とされていたが、現在のベトナムでは分裂と腐敗を終わらせ、統一を実現した兄弟として再評価されている。特に末弟、阮文恵(グェン=ヴァン=フェ)はベトナム史上もっとも偉大な将軍とされ、「声は割れ鐘のように大きく、眼は雷光のごとく鋭く、鋭い感覚と知能をもち戦略にすぐれ、軍律はきびしく、常に第一線に立って戦い、全軍の兵士たちは感激した」という。また、ベトナムのナポレオンと言われ、中国の侵略を撃退した武将としてだけでなく、学者を登用して学校を建て、チェノムを公文書に採用して文化の向上に努めた。また税制を改正し土地の開墾を進めるなど民生の安定をはかり、1792年に急死して光中帝の諡を贈られた。<『物語ヴェトナムの歴史』小倉貞男 中公新書、『ベトナム民族小史』松本信広 岩波新書>
b 阮福暎 阮福映とも表記する。ベトナム語の表記はグェン=フック=アイン。ベトナムの阮朝の創始者で嘉隆帝(ジャロン)の称号がある。彼は西山党の乱で滅ぼされた南部ベトナムの阮氏政権(広南国)一族の生き残りで、乱を逃れてタイに逃亡し、ラーマ1世やフランス人宣教師ピニョーの支援を受けてベトナムに戻り、1802年に西山朝を滅ぼして阮朝を創始した。1804年、越南国王として清朝から認められ、はじめてベトナム全土を統一支配した。 
阮朝 1802年成立のベトナムの最後の王朝。グェン朝。阮福暎がタイとフランスの支援で西山朝を倒し、現在のベトナム全土を初めて統一して建国した。国号は1804年から越南国(ベトナムの漢字表記)。都は中部ベトナムのフエ。清朝を宗主国としてその制度を取り入れ、科挙などを整備し中央集権化を進めた。19世紀中頃からフランスの進出が始まり、1884年の清仏戦争の結果その保護国となる。1940年から日本軍が進駐、ベトナム独立運動が始まり、1945年ベトナム民主共和国が成立し、阮朝はバオ=ダイを最後の皇帝として消滅した。
ピニョー フランス人の宣教師で東南アジアで布教に当たっていた。アドランの司教。本名はピニョー=ド=ベェーヌ。西山党に追われて苦境に立っていた阮福暎に請われてフランスに戻りルイ16世に支援を要請した。フランスの支援は得られなかったが、彼自身が義勇軍を組織し阮福暎を助けた。1799年の阮福暎が西山党の拠点クィニヨンを攻撃する際も同行し、暑さと疲労で死亡した(58歳で)。
Epi. ベトナムとフランス革命 西山党の反乱から阮朝が成立したベトナム史の大きな転換期はフランス革命と同時期であったが、また直接関連があった。阮福暎を助けようとしたピニョーは、1787年に阮福暎の4歳の息子カンを伴ってパリに行き、ルイ16世に謁見して支援を訴えた。エキゾチックな服装の幼い王子を伴った宣教師の活動は宮廷で評判となり、ベルサイユでフランス・ベトナム攻守同盟条約が締結され、軍隊の派遣が約束された。その見返りは、フランスにダナン港とプロコンドル島を割譲することであった。ところがインドのポンディシェリのフランス総督が軍事支援に反対し(ピニョーが帰途立ち寄ったとき、総督の愛妾を避難したのが原因といわれる)その約束は履行されなかった。やむなくピニョーは自力で義勇兵を組織して1789年にベトナムに戻った。その年、フランス革命が勃発し、国としての支援はついに実現しなかったが、ピニョーの提供した最新鋭武器を使った阮福暎が勝利をものにすることができた。<『ベトナム民族小史』松本信広 岩波新書 p.124、『ヴェトナム史』アンドレ・マソン 文庫クセジュ p.56>
越南国  
a ミャンマー (ビルマ)10世紀初め、ビルマ人が北方から南下、ピュー族やモン人を追い、統一国家パガンを建国した。小乗仏教を信仰する仏教国であった。13世紀、元に攻略されてパガンは滅亡、シャン人、ビルマ人、モン人らの勢力が分立した。1752年コンバウン朝(アラウンパヤー朝)が統一し、清朝の侵入を撃退、一時繁栄した。19世紀に3次にわたるビルマ戦争に敗北し、その支配下に組み込まれる。 → ビルマ(軍事政権) 
アラウンパヤー  
b コンバウン朝 ビルマはトゥングー朝が滅亡してからもビルマ人とモン人の対立が続き混乱していた。パガン朝、トゥングー朝に続きビルマを三度目に統一したのは、上ビルマ(イラワディ川上流)の首長アラウンパヤーであった。彼は周辺の村を統合して、1752年にコンバウン朝を創建、57年にモン人の拠るペグー(パゴー)を陥れ、統一に成功した。この間、聖地ダゴンを占拠した際、これをヤンゴン(ラングーン)と改称した。それは「戦争の終わり」を意味していた。しかしコンバウン朝は東のタイに侵攻し、1767年にアユタヤを焼き討ちし破壊しアユタヤ朝を滅ぼした。第6代のボードーパヤー王はさらに近隣への拡張を試み、ビルマ領を最大にした。19世紀にはインドへの侵攻を開始し、イギリスとのビルマ戦争が始まり、1852年には下ビルマをイギリスに割譲し、植民地化が始まった。 
a タイ (1)タイの王朝の変遷:現在のタイ国の地域、チャオプラヤ川に最初に現れた国家は、モン人ドゥヴァーラヴァティ王国であった(タイ人の国家ではないので、通常はタイの王朝には加えない)。すでに上座部仏教を取り入れたこの国はチャオプラヤ川上流に栄えていたが、東のクメール人の侵攻を受けて衰えた。
  • スコータイ朝タイ人は中国南部の雲南地方から南下し、13世紀にスコータイ朝をチャオプラヤ川上流のスコータイを中心に建国した。
  • アユタヤ朝:14世紀には中流のアユタヤを中心にアユタヤ朝が出現し、スコータイ朝を併せ、ビルマやカンボジアとも争い、領土を広げた。このころのタイ人の国家はシャムといった。アユタヤ王朝はチャオプラヤ川から海上に出て、交易でも栄えた港市国家であった。17世紀には日本人の活動も及んできて、日本町が作られ、山田長政などが活躍した。1767年ビルマのコンバウン朝の侵入によってアユタヤが破壊され、アユタヤ朝は滅亡した。
  • 北部王朝:なお、13、14世紀頃には、チャオプラヤ支流のビン川流域でビルマに近いチェンマイにはランナー王国(「百万の田」の意味)、ラオスには同じタイ系のラオ人のランサン王国(「百万頭の象」の意味)があった。
  • ラタナコーシン朝:1782年、チャクリラーマ1世としてラタナコーシン朝(チャクリ朝、バンコク朝とも言う)を建国し、都バンコクを中心としてやはり交易と農業で栄え、北部のランナー王国や南部マレー半島のイスラーム勢力を次第に統合して、その領土は現在のタイの倍ほどの広さとなり、現在のラオスやカンボジア、マレーシアにも及んでいた。ラタナコーシン朝は現在も続いており、1932年の立憲革命からは立憲君主政の政体をとっている。国号は1939年にタイに変更した。 → タイ(2)近代のタイ
 タークシン タイのトンブリー朝の王。トンブリーはチャオプラヤ川下流の現在のバンコクの西岸。中国人(潮州華僑)とタイ人人女性の間に生まれ、アユタヤ朝の大臣の養子となり、トンブリーを治めていた。1767年、ビルマのコンバウン朝の軍隊によってアユタヤが破壊されたとき、その救援に向かったが敗れ、トンブリーに砦を築いてその年の内に反撃し、ビルマ軍を撃退してトンブリー朝を建てた。周辺の勢力を併合してかつてのアユタヤ朝の領域を回復したが、次第に誇大妄想的になり、自分に跪くことを拒否した僧侶をむち打ちにするなど機構が目立つようになりった。そこで将軍のチャクリがタークシン王を捕らえ、1782年4月6日、ベルベットの袋に入れ、白檀の棒で首を折るという王侯のみが受ける処刑を行った。こうしてトンブリー朝はタークシン一代で終わったが、タークシンは救国の英雄としてバンコクのトンブリー側に銅像が建てられている。<『タイの事典』同朋舎 p.199>
b チャクリ (ラーマ1世)1782年、タイのラタナコーシン朝(チャクリ朝、バンコク朝ともいう)の初代の王。ラーマ1世。
トンブリー朝の将軍であったが、奇行のあったタークシン王を捕らえて処刑し、自ら新王朝をチャオプラヤ川対岸のバンコクを都にして創設し、ラーマ1世となった。この王朝はチャクリ朝、またはラタナコーシン朝、バンコク朝とも言われる。現在のタイ王室の初代にあたる。
c ラタナコーシン朝 タイ(シャム)の現在の王朝。1782年、チャクリ(ラーマ1世)がバンコクを都に開いた王朝で、チャクリ朝またはバンコク朝ともいい、現在まで続いている。14世紀から1767年まで続いたタイ人のアユタヤ朝を再興し、チャオプラヤ川流域のタイ全土を支配した。当初は征服した周辺の農村共同体の首長たちから朝貢を受けるだけで、明確な領土国家ではなかったが、19世紀にイギリス・フランスなどの侵出にさらされながら、次第に国家形態を整備していった。
1855年、ラーマ4世の時、イギリスとの通商条約(ボーリング条約)を締結し、不平等条約のもとで欧米との自由貿易に門戸を開くこととなった。ラーマ4世は外国人顧問を多数受け入れ、産業の近代化を図った。次のラーマ5世(チュラロンコン大王)は、積極的な近代化政策をとり、同時にイギリスとフランスの両勢力をうまくバランスをとりながら交渉し、東南アジアで唯一、植民地化を免れた。ラーマ5世は偉大な国王として現在でも崇敬されている。しかし外国との往来が増え、多くの留学生がヨーロッパに行くようになると、絶対王政的な体制に対して不満を持ち、近代的な立憲君主制にすべきであるという運動が起こり、留学帰りの軍人ピブンらによって1932年にタイ立憲革命が起こされ、ラーマ7世もそれを受け入れタイは近代国家に脱却をはかった。1939年には国号がシャムからタイに変えられた。ピブンの指導のもとで大戦前後に西欧的議会制民主主義の導入が図られたが、1957年にクーデターによって実権を握ったサリット将軍は「開発」を掲げると共に、「タイ式民主主義」と称して国王の権威を絶対のものとし、政党政治を不安定で共産主義の浸透をもたらすものとして否定して政党政治と議会政治を否定した。その後、タイではクーデターが相次いでいるが、そのつど、現在のプーミポン国王(ラーマ9世)が国王の権威で収拾するという、世界的に珍しい立憲王政の形態が続いている。
バンコク タイのラタナコーシン朝の都として建設(1782年)され、現在もタイ国の首都として栄えている、東南アジア有数の大都市。チャオプラヤ川下流に位置し、河口から30キロのところにある。正式名はクルンテープ・マハーナコーン。中心部に王宮と行政官庁が集中している。建設以来、運河が重要な交通手段として発達したが、1960年代の「開発の時代」からは高速道路網が作られ、市域も拡大し、現在は5000万を超える大都市となっていて、交通渋滞が名物になっている。
Epi. バンコクの意味 この地は都となる前は首都アユタヤに上る船をチェックする要塞のあったところ。バンは水路、コークはオリーブの木の一種の名だった。ラーマ1世がこの地を都としたとき、「クルンテープ・マハーナコーン・ボーウォーン・ラタナコーシン・マヒンタアーユタヤー・マハーディロクポップ・・・下略」という長い頌詞を奉った。それは「インドラ神の造り給うた崇高なる宝玉の(奉られている)神の都、大いなる都・・・」という意味で、その冒頭の「クルンテープ・マハーナコーン」(神の都・大いなる都)が正式な都の名とされた。現在でも行政上の都市名はこうであるが、人々は昔からの「バンコク」をそのまま使っている。また頌詞のなかの「ラタナコーシン」は「インドラ神の宝玉」という意味で、王は神の化身であるというバラモン教・ヒンドゥー教の「神王」思想の影響を受けている。<『タイの事典』同朋舎 p.199>
オ.清代の社会経済と文化
a 海禁 (清)明朝では主として倭寇対策として海禁政策がとられていたが、清朝ではまず、台湾の鄭成功を抑えるために遷界令(1661年、住民を海岸部から内陸に移住させた)が定められ、厳しい海禁策をとった。鄭氏が降伏し、三藩の乱も鎮定されて清朝の中国統一が完成した後、1684年に遷界令は解除され、海禁はゆるめられた。その結果、海上貿易は盛んになったが、これは中国の王朝の中華思想による朝貢貿易の原則で行われた。中国からは生糸・陶磁器・茶などが輸出され、ヨーロッパ商人から銀がさらに流入するようになった。そのため中国の経済は発展し、中国の人口の増加(18世紀の100年間に1億数千万から約3億に増えた)をもたらしたが、特に土地の不足した福建・広東の人びとが、南洋華僑といわれ、盛んに海外に渡航するようになった。
乾隆帝の海禁策乾隆帝時代になると朝貢貿易の立場を強め、さらに利益の独占をはかって、1757年に貿易港(海関)を広州一港に限定し、貿易は公行という特許商人だけに認められ、自由な貿易や海外渡航は禁止され実質的な鎖国体制に入った。しかし、人びとは海禁を犯して海外に進出していった。また、18世紀後半になるとイギリスなどは制限貿易に代わる自由貿易の拡充を求めて、盛んに使節を派遣するようになった。1792年にはマカートニー使節が派遣されたが、乾隆帝はそれを拒否した。
清朝の海禁策の終わり:1840年のアヘン戦争で清朝に勝利したイギリスは、42年の南京条約によって香港の割譲と共に、公行を廃止させ、ここに清朝の海禁(鎖国政策)は終わりを告げた。
海関 海外との貿易の関税を徴収する税関のこと。中国では、唐に始まる市舶司があったが、清朝では康煕帝の時、遷界令廃止により海禁が解除された翌年の1685年に、海外との朝貢貿易の受け容れ港として広州、?州、寧波、上海の4ヶ所に海関を初めておいた。乾隆帝は再び海禁に戻り、1757年には、このうち海関は広州1ヶ所とされて公行による貿易独占となり、自由な貿易や海外移住は禁止された。アヘン戦争後の南京条約で公行は廃止され、海禁政策は終わった。しかし、その後の貿易管理は、不平等条約の下でイギリスなど外国人に握られる体制となり、関税自主権を失うこととなった。さらに太平天国の乱の混乱の中から、1858年に上海にイギリス人総税務司がおかれて貿易事務が管理されることとなった(洋関という)。外国人による海関管理は中華人民共和国の成立まで続くこととなる。
 メキシコ銀  → 第8章 1節 スペイン銀貨  第13章2節 メキシコ銀
 南洋華僑 華僑とは海外に移住した中国人のこと。華僑の歴史は古く、中国が東アジア世界の中心となった唐代にさかのぼり、現在まで続いている(ただし華僑という言葉が生まれたのは19世紀末である)。中国人の海外移住の波は、中国人商人の海外発展が進み東南アジア各地への居留地の建設が行われた12〜16世紀(南宋・元・明)と、資本主義時代に入りアメリカ大陸やオーストラリアの開拓が進んだ19世紀から20世紀にかけての時期の二回がある。
「南洋」の意味:中国の東海岸は、上海から遼東半島に至る「北洋」と、上海から海南島に至る「南洋」とに分けられるが、海上貿易が活発であったのは「南洋」に属する福建省と広東省の沿岸であり、華僑の多くもこの地域の人々なので、南洋華僑という。福建や広東は土地が不足していたために、海外に移住するものが多かった。
華僑の増加:清朝でははじめ海禁(海外渡航禁止)とされていたが、三藩の乱の鎮圧、鄭氏台湾の降伏など、清朝の支配が安定したことによって海禁が解除されると、福建や広東の南洋華僑と言われる人びとがまず東南アジアで活動するようになった。さらに18世紀に地丁銀制施行などによって中国の人口の急増が始まると、福建や広東は耕地が少ないために人口を維持できなくなり、1830年代以降、生活の場を求めて従来のインドネシア、マレーシア、タイ、フィリピンなどの東南アジアだけでなく、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどにその移住地域が広がり、資本主義勃興期の労働力となった。
華僑増加の背景:1833年にイギリスが奴隷制度廃止を決定して殖民地の黒人奴隷労働を禁止したことがあげられ、イギリス領の海峡植民地であるマレー半島の錫鉱山やゴム園、カリブ海域のサトウキビ・プランテーション(砂糖農園)などで中国人が労働力とされた。一方、清朝でもアヘン戦争に敗れ、1842年の南京条約によって海禁が最終的に終わり、海外移住が自由になったことから、華僑の急増がもたらされることとなった。
アメリカ大陸の華僑:アメリカ合衆国で19世紀中ごろにゴールド=ラッシュが始まると鉱山採掘に使役され、さらに大陸横断鉄道の建設が始まると、その頃アメリカ合衆国では黒人奴隷制度が廃止されたため、それに代わる労働力として多数の中国人が太平洋を渡った。カナダでも太平洋横断鉄道の建設に多くの華僑が使役された。アメリカやカナダの開拓にあたって中国人は苦力(クーリー)といわれる安価な出稼ぎ労働力として使役された。20世紀に入り地球的規模での移民の動きの一環として華僑も増加した。
現在の華僑:華僑は全世界にわたってひろく存在し、各地で経済的、文化的、そして政治的にも重要な存在となっている。現在の全世界の華僑の実勢はおよそ2500万人、その分布は東南アジアに約2100万人、アメリカに約100万人、カナダに約45万人、南米に約30万人、ヨーロッパに約40万人、オーストラリアに約30万人と言われる。各地の華僑は、中国の出身地(福建や広東など)ごとにグループごとの居住地で協力しながら独自の社会を建設し、時として現地人と激しい競合を演じながら、その勤勉さによって成功を遂げる人も多く、その地の経済に大きな影響力を持つようになった。現在はシンガポール、マレーシアでは華僑の存在が特に重要になっている。また移住して数世代を経た華僑(特に華裔とも言われる)は、各地で経済的に重要な存在となっていった。<斯波義信『華僑』岩波新書 1995 などによる>
 → 華僑と中国革命
 広州 (清)広州(広東)は唐代から華南の最大の港市として繁栄していた。広州には早くから行といわれる商人の同業組合が作られ、広州の七十二行と言われていた。明代の16世紀以来、ヨーロッパ人の渡来が始まり、まずポルトガル人が広州の南のマカオに居住して、広州での交易にあたるようになり、外国貿易で繁栄した。
乾隆帝以降の貿易独占政策清朝は、乾隆帝時代の1757年以来、外国貿易を広州一港に限定したので唯一の貿易港として重要度は増した。日本の長崎と違い、どの国の商船とも交易が行われ、広州城の西約200mの一帯を外国人居住地として「夷館」と称していた。清代の康煕帝ごろになると、広州(外国商人は広東と呼んだ)の中で特に特許を得た有力な貿易商人十三人(家)が「広州十三行」と言われるようになった。そのような特許商人を公行(コホン)という。公行以外の商人の取引や、広州以外での貿易は認められず、自由貿易は否定されて貿易も制限されるという鎖国体制であった。
イギリスの自由貿易要求:広州の公行貿易という制限貿易に飽き足らないイギリスなどの外国商人は、中国との貿易の拡大を要求、1793年のマカートニー使節団を初めとして何度か交渉を試みたが、清朝は朝貢貿易の姿勢を変えず失敗した。イギリスはついに1840年にアヘン戦争という強硬手段に訴えた。その結果、南京条約が締結され、広州の近くの香港が割譲され、上海などが開港され、外国貿易の自由化が始まると、由一の貿易港としての広州の地位はなくなり、衰退する。
 公行 清代に唯一の貿易港なった広州(広東)で、特許を得て貿易にあたった商人を公行(こうこう)という。イギリスの東ンド会社は、これを、Co hong と呼んだが、Co はCooperation の Co で、hong は hong-merchant すなわち行商のことをさす、と言われる。十三行も通称として使われた。公行の代表的な家としては、潘氏や伍氏がある。彼らはいずれも巨万の富を築き、商業資本家となった。<増井経夫『大清帝国』講談社学術文庫 p.170>
公行貿易の廃止:公行は貿易の利益を清朝が特権商人を通じて独占しようとする体制であったので、外国商人はイギリスの東インド会社を筆頭に、公行貿易ではなく、公行以外の商人と自由に取引ができるような自由貿易を望むようになった。これが清朝とイギリスの主要な交渉内容となり、イギリスからのマカートニー使節団の派遣となる。その交渉は失敗に終わり、以後イギリスは武力によって清朝に要求をのませることに転じ、1840年のアヘン戦争の勃発となり、1842年の南京条約公行の廃止を承認させ、目的を達成した。
 盛世滋生人丁 1711年、康煕帝の即位50年を記念して、前年の壮丁男子の人口(2462万)を定数とし、それ以後の増加人丁は丁銀(人頭税)を課税しないという盛世慈生人丁とし、1715年以降実施した。これによって丁銀は地銀に組み込まれて納税することが、次の雍正帝時代に全中国に広まった。これを地丁銀制という。
Epi. 康煕帝の「盛世滋生の人丁」による人口急増 永楽帝がこれ1711年の丁数をもって人頭税の定額とし、以後、以下に人口が増加しても、それには一切課税しないという「盛世滋生の人丁」を定めると、現金なもので、この年の2460万という丁数は、60年後には2億500万、100年後には3億を超えるといった具合に、登録人口は急増した。自然増加もあろうが、課税対象でなくなったため、隠す必要がなくなったからでもある。ちなみに、18世紀、ヨーロッパ最大のフランスですら、人口は2300万にすぎなかった。<寺田隆信『物語中国史』 1997 中公新書 p.261> 
e 地丁銀制 清代の康煕帝のときから行われるようになった税制で、丁税(丁銀=人頭税)を地税(地銀=土地税)に繰り込んで納入すること。明代の一条鞭法で課税は地銀(土地税)と丁銀(人頭税)の二本立てでいずれも銀納と言う形態となり、清代もそれを継承したが、産業の発展とともに人口(丁数)は増加したため、人頭税課税が煩雑となり困難になってきていた。そこで1711年、前年の壮丁男子の人口を定数とし、それ以後の増加人丁は丁銀(人頭税)を課税しないという盛世慈世人丁とした。それが広東省で実施された1715年から、丁銀は地銀に組み込まれて納税することとなり、それを地丁銀制という。この制度は、次の雍正帝時代に全中国に広まり、乾隆帝時代までに全国に広がった。盛世滋生人丁と地丁銀によって人頭税が廃止された結果、中国では急激に人口が増大する。
地丁銀制の意義:明の一条鞭法で現物農と労役(徭役)が無くなって銀納に一本化されたのに続き、地丁銀制では従来の人頭税を無くして地税に一本化したことが重要であり、中国の税制上の画期的な変革となった。
f 一条鞭法  → 第8章 1節 明後期の社会と文化 一条鞭法
g 丁税  
h 工場制手工業 
商品作物 
清の文化清朝の文化の要点は次のようなことが考えられる。
1.清朝による思想統制 征服王朝である清朝の支配のもと思想統制(文字の獄や禁書)が行われたが、制度や官僚は満州人と漢人が併用(満・漢同数)され、次第に漢文化が優位となっていった。
2.考証学の成立 儒学では明末清初に朱子学・陽明学の観念論に代わり実証研究を旨とする考証学が成立。清末には社会改革を目指す公羊学派が起こる。
3.庶民文化の発展 紫禁城を中心とした宮廷文化が栄える一方で、明代に続き庶民文化の発展が続き、白話小説が盛行。『紅楼夢』などの傑作が生まれ、京劇が流行、現在の中国文化の基礎ができた。
4.キリスト教の後退 キリスト教は典礼問題を機に衰え、宣教師は技術面だけの顧問となる。その後キリスト教布教は自由貿易要求とともにイギリスなど西欧諸国による圧力として加えられてくる。 
a 考証学 儒学思想の中で、明代に生まれ流行したのが陽明学であったが、それに対し、清代では考証学が流行した。一般に、清王朝が異民族支配である清朝の政治を批判することを厳しく取り締まったので、清代の儒学者は政治批判となるような議論を避け、もっぱら古典の字句の解釈、つまり考証のみにならざるを得なかったと言われる。その考証も一字一句をゆるがせにせず、古典を徹底的に理解しようと言うするどい学問となった。代表的な学者に顧炎武黄宗羲がいる。彼らの思想は、厳格な考証によって、儒学を経世実用(世の中のために役に立つこと)の学に高めることであった。
b 顧炎武 こえんぶ。王朝が明から清に代わったとき、明の遺民として清朝に仕えることをよしとしない学者が多かった。その代表的な学者に、三大師といわれた黄宗羲、顧炎武、王夫之がいる。顧炎武は明朝の役人の家に生まれ、清朝に代わると、母とともに明朝復興運動に加わったが失敗し、母は食を断って死に、顧炎武は諸国を放浪することとなった。やがて陝西省に住み、近隣の青年に学問を説いた。清朝の要請にも応えず清朝に使えることはなかった。彼の学問は古典の解釈を、厳密に行い、証拠のないものは取り上げず、実証できることを真実として明らかにしていく、考証学の基本を創った。主著は『日知録』。
黄宗羲 こうそうぎ。明末に官吏となったが、宦官政治を批判して辞任、故郷の浙江省で学問の研究団体をつくった。明が倒れ、清代になると明朝回復運動に加わったが失敗し、著述に専念するようになった。康煕帝はその名声を聞き、史官(前代の明の歴史を編纂する役人)として登用しようとしたが、黄宗羲はそれに応えず、明の遺臣の立場を貫いた。その学問は考証学の始まりの一人とされるが、その著の『明夷待訪録』では、清朝の専制政治を批判し、君主政の否定、共和政の主張にも結びつく進歩的な内容であった。そこから彼を「中国のルソー」と評価する人もいる。
c 銭大マ せんたいきん。16世紀後半の清朝の乾隆帝時代の儒学者で考証学の大家。特に実証的な歴史研究を進めた。
d 公羊学 くようがく。特に清末に盛んになた儒学派の一つ。孔子が魯国の歴史を編纂したという『春秋』は簡単な編年体で周王たちの事績を述べているので、その文面から孔子の言外の主張を読み取ろう解釈(「伝」は解釈の意味)がいくつも現れた。その中の重要な解釈が、公羊伝、穀梁伝、左氏伝の三つであった。そのうち春秋公羊伝が最もよく孔子の真意を伝えているとして、漢代の董仲舒以来重んじられ、そのながれを公羊学という。春秋左氏伝は、具体的な歴史事実を多く含むので、後漢以来研究が盛んになった。清末になって社会の混乱、外圧の強化という緊迫してくると、それまでの考証学が本来の経世実用の精神から離れてしまっているという批判が起こった。そのような主張をした若い知識人が魏源や康有為であった。特に康有為は、日清戦争の敗北という緊張の危機に当たって、孔子の学説は社会改革のためになされたと解釈する公羊学の立場で、積極的な政治改革(その立場は清朝体制を維持し、立憲君主政とすることであったが)をすすめようとして、戊戌の変法を行った。
経世実用  
e 『紅楼夢』 清の代表的長編小説で曹雪芹の作。曹雪芹(そうせつきん)は南京の名家に生まれたが、没落して北京で不遇のうちに死んだ人物。『紅楼夢』は自伝的な小説で、後半は曹雪芹の死後、別人によって遺稿をまとめられた。乾隆帝の頃の社会を舞台に、世情や人情を口語で細やかに描き、広く読まれた作品である。
f 『儒林外史』 清の代表的長編小説の一つ。呉敬梓の作。呉敬梓(ごけいし)は名門に生まれたが、任侠のため家を失い、科挙を受けることができず貧困のまま終わった。明代を舞台にしているが、同時代の科挙制度の批判と官僚の腐敗堕落を鋭く諷刺する内容になっている。 
g 『聊斎志異』 りょうさいしい。清の小説で、『紅楼夢』や『儒林外史』の長編とは違い、短編集。作者は蒲松齢(ほしょうれい)で、彼も科挙に落第を続け、そのかたわら世間の奇談や怪談を集めて書きつづったもの。生前は認められず、死後に刊行されたが、その不思議な説話の世界が次第に人気を博し、庶民に広く読まれるようになった。また日本にも伝えられ、江戸時代の落語などにも影響を与えたという。 
『長生殿伝奇』 
『桃花扇伝奇』 
京劇現在の中国を代表する古典劇で、世界的に知られている歌舞演劇。18世紀の終わり頃、北京で盛んになったもので、元にさかのぼる元曲の伝統の上に、安徽省などから伝えられた二黄という節を付けて歌う芝居が融合してできたという。日本の歌舞伎に似た隈取りをした役者が歌いながら踊り、演じるもので、大衆的な人気が高く、名優もたくさん出た。
A 清代の宣教師の活動 清朝は明朝に続き、当初はキリスト教宣教師の活動を認めたため、17世紀の北京の紫禁城にも多数の宣教師が活動していた。活躍した代表的な宣教師は、明末からのアダム=シャール(利瑪竇)、康煕帝時代のフェルビースト(南懐仁)、ブーヴェ(白進)、雍正帝・乾隆帝時代のカスティリオーネ(郎世寧)らであり、彼らはローマのコレジオ=ロマーノで最新の学問や技術を身につけ、布教の情熱に基づいて渡来してきた。彼らは皇帝に使え、天文台で天体観測を行い、正確な暦を作ることに従事した。また、康煕帝自身も紫禁城内に南書房を設け、ラテン語や数学を学んだ。また中国最初の実測図である『皇輿全覧図』を宣教師に命じて作成させた。また宣教師はネルチンスク条約の交渉で通訳を務めるなど、皇帝政治に仕え重要な役割を果たしていた。彼らはイエズス会に属する宣教師で、カトリックの中心がフランスに移ったことを繁栄しイ14世によって派遣されたブーヴェなどフランス人が多くなっていた。これにたいして反イエズス会の会派(ドミニコ派やフランチェスコ派)がイエズス会の隆盛に反発し典礼問題が起き、康煕帝はイエズス会以外の宣教師の活動を停止したため、ポルトガル人宣教師はマカオに退去した。次の雍正帝はキリスト教の伝道禁止の措置に踏み切り、1723年に禁教令を出した。それは政府に仕える宣教師の北京残留と天主堂の所有は認めるが民間の宣教師の全ては退去が命じられた。これによって事実上の布教はできなくなり、ヨーロッパからの学問の流入も止まることとなった。次の乾隆帝はカスティリオーネらの誓願を受け、布教禁止の対象から漢人をはずしたが、キリスト教の全面的布教自体は認められず、宣教師は皇帝仕えて宮廷の装飾画などを描くことなどのみが仕事となった。1773年にはイエズス会そのものが活動を停止したため、中国におけるキリスト教布教の長い伝統は一旦中断されることとなる。 
a アダム=シャール ドイツ出身のイエズス会宣教師。明末の1622年に中国に渡り、布教を始める。中国名湯若望。明の崇禎帝に仕え、徐光啓と協力して暦法を改正(『崇禎暦書』)し、また大砲の鋳造にあたった。アダム=シャールの製造した大砲は、それまでのポルトガル人やフランス人が伝えた仏朗機(フランキ)砲に対し紅夷砲(ドイツ人やオランダ人は紅夷といわれていた)といわれ、弾道に基づく照準法も伝授したので性能がよく、清軍の侵攻に悩む明にとって大切な武器となった。明が滅ぶと清に仕え、天文台の長官となり、時憲暦という暦をつくった。
b フェルビースト ベルギー出身のイエズス会宣教師。1659年に中国に渡った。中国名南懐仁。康煕帝が三藩の乱に際し、フェルビーストに大砲の鋳造を命じ、これが功を奏して乱を鎮定することができたので、康煕帝はキリスト教に寛容になったという。またフェルビーストは暦の制定で天文学の知識を発揮し、1669年正月元日に起こった日食の時刻を正しく計算して康煕帝の信頼を獲得し、アダム=シャールのあとを受けて天文台長官となった。
c ブーヴェ フランスのルイ14世が中国に派遣したイエズス会修道士。中国名白進康煕帝に仕え、幾何学を講じた。同じフランス出身のイエズス会士レジスとともに、中国最初の実測地図『皇輿全覧図』を1718年に完成させた。その著『康煕帝伝』はヨーロッパに康煕帝時代の清の繁栄を伝えた。
『皇輿全覧図』 康煕帝の命により、イエズス会宣教師のブーヴェとレジス(フランス人、中国名雷孝思)が作成した、中国最初の中国全土の実測図。清の版図やその隣接地域を含む多くの部分図を作製し、それらを一幅の地図にまとめて1718年に献上し、康煕帝によって『皇輿全覧図』と名付けられた。雍正帝や乾隆帝の時代には、これを基礎とする地図が作製された。実測図であること、世界全図ではなく中国とその周辺が描かれていることに注意する。原図は見ることが出来ないが、ヨーロッパに送られ地名を欧文に書き換えたものが多数残っている。
出題→2003年センターテスト 
d カスティリオーネ 雍正帝、乾隆帝の宮廷で活躍したイタリア人でイエズス会宣教師。中国名は郎世寧。キリスト教の布教は禁止さえたので、画家および建築で活躍し、その華麗な西洋画で皇帝の重用された。とくに、1706年、後の雍正帝の離宮として西洋風の庭園を持つ円明園を設計したことで知られる。
e 円明園 1706年、康煕帝の時、雍親王(後の雍正帝)の離宮として建設された建造物で、イタリア人宣教師カスティリオーネ(郎世寧)が設計した。円明園は乾隆帝時代に増築され、中国最初の噴水を持つ西洋のバロック式庭園として貴重であったが、1860年のアロー戦争の時、北京を攻撃したイギリス・フランス軍により略奪、放火され、破壊された。 → 円明園の焼失
B 典礼問題 17〜8世紀の中国の清で、キリスト教(ローマ・カトリック教会)の布教にあたったイエズス会の宣教師は、その布教を進めるうえで、中国の習慣や習俗をある程度認め、信徒に対しても孔子の礼拝や祖先の祭祀(つまり典礼)を行っていてもよい、としていた。その方法が功を奏し、イエズス会は中国における伝道を一手に独占していたが、後から中国布教を目指したフランチェスコ会、ドミニコ会などの修道会は、イエズス会のそのような布教方法は神を冒涜することで間違っているとローマ教皇に訴えた。この問題が「典礼問題」であり、教皇庁内でも論争となり、1704年、ローマ教皇クレメンス11世はイエズス会の布教方法を否定するという結論を出した。これに対し清の康煕帝は典礼を認めるイエズス会でなければ中国での布教を認めない、として典礼を拒否する宣教師の入国を禁止した。次いで雍正帝はキリスト教の全面的な禁止に至る(1724年)。
a イエズス会  → 第9章 3節 対抗宗教改革 イエズス会
b 康煕帝  → 康煕帝
C キリスト教布教禁止 1723年、清の雍正帝はキリスト教に対しそれまでの容認策を改め、布教禁止の措置に踏み切った。先代の康煕帝は積極的に宣教師を登用し、自らもヨーロッパの学問を学び、彼らの布教活動も容認、北京城内にも天主堂(教会)を建設することを認めていた。しかし次の雍正帝は宣教師の活動に疑惑を感じ、即位と同時に禁教に転換し、民間での布教を禁止した。ただし、政府に仕えている宣教師の北京残留と天主堂の所有は許した。残りの宣教師はすべて国外か澳門(マカオ)に退去させられた。これによって実質的な布教禁止となり、ヨーロッパからの学問の流入は中断されることとなった。
a 雍正帝  → 雍正帝
b 乾隆帝  → 乾隆帝
c 広州  → 第3章 2節 広州
d シノワズリ 17世紀の明朝末期から清朝にかけての時期、中国ではキリスト教の布教が認められ、中国に渡ったカトリック・イエズス会の宣教師の活動が展開された。1723年に布教が禁止されたために新たな宣教師の渡来は停止させられたため、ヨーロッパの学問が中国に定着することはなかった。逆に中国の文化が宣教師の活動を通じて、ヨーロッパに知られることとなり、18世紀にはフランスを中心として中国に対する関心が高まった。孔子などの古来の中国思想など質の高い文化伝統は、ちょうど盛んになった啓蒙思想を刺激することとなり、ヴォルテールやモンテスキューは中国の皇帝専制政治を一定の評価を与えながら批判的に紹介している。さらに宣教師を通じて知るのではなく、直接中国文化を学ぼうとするシノワズリ(シナ趣味、あるいはシナ学)が起こってきた。その他、特に景徳鎮の陶磁器などのように、それまでのヨーロッパにない美術作品が珍重され、絶対王制下の専制君主の富と力を示す奢侈品としてもてはやされた。特にルイ14世の中国陶磁器愛好は有名で、ヴェルサイユ宮殿を飾っている。