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5.第二次世界大戦
ア.ナチス=ドイツの侵略と開戦
 ナチス=ドイツ  → ナチス=ドイツ
 オーストリア併合 1938年、ヒトラーはドイツ軍をウィーンに進撃させ、3月13日にオーストリアを併合した。それより前、オーストリアでは保守派の首相シュシュニックが、ムッソリーニのイタリアに近いファシズム体制をめざし、議会制を否定していた。かねてオーストリア併合を唱えていたヒトラーは、シュシュニックに対し、オーストリア・ナチスの人物を内相に任命することを強要、シュシュニックは拒否し、抵抗したが国境線にドイツ軍を集結して威圧したヒトラーによってねじ伏せられ、合邦に同意せざるを得なくなった。
「オーストリア人大衆はむしろヒトラーを歓迎し、4月に行われた国民投票では99.9%が賛成した。ヒトラーは『わが闘争』の冒頭で、ドイツとオーストリアの合邦は自分の使命であると述べている。ヒトラー自身がオーストリアの出身であったからである。」<坂井栄八郎『ドイツ史10講』岩波新書 p.193 など> →オーストリア(戦後)
Epi. ウィーンの2.26事件 1934年7月25日、ウィーンで武装集団が首相官邸を襲撃し首相ドルフュスを射殺するという、クーデタ事件が起こった。襲撃したのは陸軍兵士に変装したナチス武装集団154人、放送局も占拠しナチス政権の樹立を宣言した。ドルフュスはイタリアのムッソリーニに近く、ヒトラーの意のままにならなかったので、ヒトラーがオーストリアのナチス党員を動かしてクーデタを計画したのだった。ところがこの計画はヒトラーの密使が国境の鉄道車中で捕まったため、オーストリア警察が察知していたため直ちに鎮圧されてしまい、代わってシュシュニックが首相となった。一挙に親ドイツ政権を樹立するというヒトラーの計画は失敗したが、ムッソリーニとの関係を結ぶことに成功した後、オーストリアへの圧力を強め、ついに38年の併合に至る。<この事件について、チャーチルの感想がある。『第2次世界大戦』1 河出文庫 p.92>
このオーストリアのクーデタ事件は、1936年に日本で起こった2.26事件によく似ていると思う。武装集団が首相官邸、放送局などを襲撃するという典型的クーデタであり、かつ失敗はするがその後ファシズムの確立の契機となるという経緯も同じである。日本の青年将校たちがオーストリアのナチスを参考にしたのかどうかは判らないが、もしかしたら知っていたのかもしれない。
 サン=ジェルマン条約  → 第15章 2節 サン=ジェルマン条約
b チェコスロヴァキア  → 第15章 2節 チェコスロヴァキア
 ズデーテン地方 現在のチェコの北部、ドイツ・ポーランドとの国境を接する一帯を言う。本来スラブ系のチェック人の居住地域であるが、中世以来ドイツ人の入植が進み、たびたび民族紛争が起こっていた。ドイツにナチス政権が成立するとそれに呼応するズデーテン・ドイツ人党が「民族自決」を口実に、ドイツとの統合を主張するようになった。特に1938年3月のドイツのオーストリア併合以後、その運動が強まり、ヒトラーも併合を主張するようになった。ミュンヘン会議の結果、ヒトラー・ドイツの主張が認められ、ドイツに併合された。ドイツはここを足場に、チェコスロヴァキア解体を一気に推し進める。大戦後はチェコスロヴァキア領に復帰し、多数のドイツ系住民は追放された。
 ミュンヘン会談 ミュンヘン(ミュンヒェン)は南ドイツ・バイエルン州の中心都市。1938年9月、ズデーテン問題の解決のために開かれた国際会議がミュンヘン会議で、イギリス(ネヴィル=チェンバレン)・フランス(ダラディエ)・ドイツ(ヒトラー)・イタリア(ムッソリーニ)の4国代表が集まった。当事者のチェコスロヴァキアの代表は召集されなかった。会議はイギリス首相ネヴィル=チェンバレンの対独宥和政策によって枠が作られ、ヒトラー=ドイツの要求通り、ズデーテン併合を認めた。フランス外相ダラディエもそれに追随した。
a ネヴィル=チェンバレン イギリスの著名な政治家一家の出身。父のジョセフ=チェンバレンは19世紀末の植民地相として帝国主義政策を推進した。兄はロカルノ体制の時の外相オースティン=チェンバレン。ネヴィル=チェンバレンは保守党党首として首相(在任1937〜40年)を務め、ナチス台頭期のイギリスの舵取りを行った。彼はナチス・ドイツの領土的野心と一定程度妥協しながら、その背後のソ連の抑えとするという、宥和政策を採り、1938年9月のミュンヘン会談をとりまとめた。しかし、ヒトラーの野心はその思惑を超えて膨張し、ポーランド進出の姿勢を示すに至ってその政策を改めた。ドイツのポーランド侵攻が始まるとドイツに宣戦布告したが、そのノルウェー侵攻を受けて、40年5月に辞職し、チャーチルに交替した。
b ヒトラー  → ヒトラー 
 ムッソリーニ  → ムッソリーニ
d 宥和政策 ナチス=ドイツの領土拡張要求を、小国の犠牲において認め、それと妥協することによって自国の安全を図るという、イギリスの外交政策。特に1938年のズデーテン併合を認めたミュンヘン会談がその例。1935年に成立したボールドウィン(保守党党首)内閣から、イギリスはヨーロッパにおけるナチス=ドイツの反ヴェルサイユ体制の動きや、アジアにおける日本の中国侵略などに対して、積極的に非難せず、むしろそれを黙認するという姿勢をとった。当時イギリスにとって脅威はソ連と考えられていたので、ドイツや日本はソ連を抑えるためには利用できると判断していた。このような外交政策を宥和政策(Appeasement Policy)というが、それがより鮮明になったのはネヴィル=チェンバレン(保守党)内閣からであった。その宥和政策が典型的に現れたのが、1938年9月のミュンヘン会議であった。ナチス=ドイツのチェコスロヴァキアのズデーテン地方の割譲を認めるというチェンバレンの策にフランスが追従し、チェコスロヴァキアの犠牲においてヨーロッパの平和を実現させた形となった。ヒトラーはズデーテン割譲要求は拒否されると予想してイアので内心驚いたらしいが、ドイツ内ではヒトラーの強気な外交姿勢が功を奏したものとして「ヒトラー神話」が生まれ、彼の人気が一段と高まった。結局、イギリス・フランスの宥和政策はナチス=ドイツを増長させる結果となった。しかし、ズデーテン併合にとどまらず、ポーランドへの領土的野心が露わにされたとき、さすがに放棄されることとなった。
「宥和政策」への反省:イギリスのチャーチルなどがチェンバレンの宥和政策を厳しく非難し、ヒトラーとの対決を主張した。いよいよヒトラーとの戦争が始まると、チェンバレンの宥和政策が結果としてヒトラーを「増長」させ、戦争を防げなかったという「反省」が一般にも言われるようになった。第2次大戦後も、特に西側の指導者には、「宥和政策」の失敗が戦争をもたらしたという強いトラウマが残ったようだ。米ソの戦力が均衡した冷戦自体には両国が直接軍事行動を起こすことはなかったが、たとえば朝鮮戦争では、北朝鮮軍の国境侵犯に対して、アメリカがすぐに動いた理由には、ヒトラーのチェコスロヴァキア分割や日本の満州進出に対して「宥和政策」と採ってすぐに対決しなかったことが、ドイツ・日本の暴走を許してしまったという反省にたっての行動だったと言われている。冷戦時代が終わってさらに「宥和政策」否定の風潮は強まり、アメリカのブッシュ大統領の湾岸戦争はまさにそのような論理によるものであった。「宥和政策」否定はさらに進めば、「自衛のための先制攻撃容認論」となりかねない危険性をはらんでいる。ミュンヘン会議を終えてロンドンに戻ったチェンバレンは、ヨーロッパに平和をもたらしたとして、国民から大歓迎されたのだった。
e ズデーテン併合 1938年、ナチス=ドイツがチェコスロヴァキアズデーテン地方を併合した。ズデーテン地方はチェコの西北部でドイツに接し、ドイツ系住民が多かったが、まず同年4月にドイツ人党が民族自決を掲げて自治権を要求した。すでに4月にオーストリアを併合していたヒトラーは、9月にズデーテン併合をチェコスロヴァキアに対して要求。同時に「これが最後の領土要求である」と演説した。これを受けて開催された、イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの4国首脳会談であるミュンヘン会談では、イギリス・フランスがこのヒトラー演説を真に受けて、宥和政策を採り、その併合を認める決定をした。当事国のチェコスロヴァキアは会議に呼ばれることもなく、自国領土を奪われることとなった。結局ヒトラーの領土的野心は収まらず、翌39年にはチェコを保護領とし、スロヴァキアを保護国として分割し、チェコスロヴァキアは解体された。
 チェコスロヴァキア解体 ヒトラーのナチス・ドイツはミュンヘン会議で締結されたミュンヘン協定により、ズデーテン地方の併合を認められたが、さらにチェコスロヴァキア本土に迫り、1939年3月、その西半分のベーメン(ボヘミア)・メーレン(モラヴィア)を分離して保護領とし、東半分のスロヴァキアに対しては独立を認めたが保護国化した。こうしてチェコスロヴァキアは解体された上で、ドイツの実質支配を受けることとなった。
亡命政府の対ドイツ闘争:1940年、ベネシュを大統領とする亡命政府が結成され、ベネシュは連合国の承認を取り付けた。同時に戦後はソ連との関係が重要になると判断して、1943年12月に訪ソし、ソ連=チェコスロヴァキア友好協力相互援助条約を締結した。占領下のチェコスロヴァキアでも共産党系と亡命政府系が協力して対ドイツ抵抗闘争を戦い、44年8〜10月にはスロヴァキア国民蜂起が起こり、プラハでもゲリラ戦が続いた。 → 第2次世界大戦後のチェコスロヴァキア
 メーメル地方 メーメル地方とは、現在のリトアニアのバルト海に面した地域で、リトアニア唯一の外港であるメーメル(ドイツ語の表記。現在はリトアニア語でクライペダと改称されている)がある。メーメルは1252年にドイツ騎士団が建設した町で、ドイツ人が多い。ドイツ人は16世紀にプロイセンを建国しこの地も領有した。ナポレオン戦争の時にはプロイセン王はメーメルに居住した。第1次世界大戦後、リトアニアが独立(1923年)し、その領土となったが、ドイツ人住民のドイツ復帰要求が強く、ヒトラーはそれを利用して1939年3月、メーメル地方を軍事占領し、併合した。ヒトラーのねらいは、これによってポーランドを挟撃することにあった。第2次世界大戦後、再びリトアニア領となり、現在に至っている。<志摩園子『物語バルト三国の歴史』2004 中公新書p.178,p.255> 
a アルバニア  → 15章 2節 アルバニア(イタリアによる併合)
b ダンツィヒ  → 15章 2節 ダンツィヒ
c ポーランド回廊  → 15章 2節 ポーランド回廊
 独ソ不可侵条約 1939年8月23日、ヒトラーのドイツとスターリンのソ連の間で調印された、互いに攻撃しないことを約束した条約。有効期限は10年とされた。交渉当事者であった両国の外務大臣のなをつけて、別名、モロトフ=リッペントロップ条約ともいう。ドイツはポーランドへの侵攻によって英仏と戦争状態にはいることを前提に、ソ連との戦争は避けねばならず、ソ連は英仏がドイツに対して宥和政策をとっていることに反発し、極東での日本との対立が5月のノモンハン事件で現実となり、兵力を分散しなければならいという事情が、両国を不可侵条約締結に踏み切らせる要因であった。ヒトラーとスターリンが手を結んだことは、世界に大きな衝撃を与えた。ヒトラーは共産主義(ボルシェヴィズム)を国際ユダヤ主義の陰謀と同一視して最も敵対視していたし、ソ連がドイツ共産党を壊滅させたヒトラー・ナチスと提携するとは考えられなかったからである。ヒトラーとスターリンという独裁者間の利害が一時的に一致したことによって独ソ不可侵条約は成立したが、この条約にはポーランドの分割やバルト三国の併合を取り決めた秘密追加議定書(付属文書)、つまり秘密議定書が存在していた。東ヨーロッパをドイツとソ連の勢力圏に分割するという恐るべき内容であった。その結果、直後の9月1日、ヒトラー・ドイツによるポーランド侵攻が実行され、第2次世界大戦が始まった。しかしこの両者の提携は永続することなく、まもなくバルカン方面での利害の対立から崩壊し、1941年6月ヒトラーは独ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連に侵攻、独ソ戦が開始される。
Epi. 「複雑怪奇な欧州情勢」で、日本の平沼内閣が総辞職 この独ソ不可侵条約で最も衝撃を受けたのは日本だった。日本は日独防共協定を結んでドイツと提携し、ソ連とはノモンハンで衝突し交戦中であった。時の平沼騏一郎内閣は、「欧州の天地に複雑怪奇なる新情勢が生じた」という声明を出し、総辞職してしまった。
a スターリン  → 第15章 2節 スターリン
b ヒトラー  → 第15章 4節 ヒトラー
 独ソ不可侵条約秘密議定書 1939年8月23日に締結された、独ソ不可侵条約に付随した、秘密協定。密約をした両国の外相の名から、モロトフ=リッペントロップ秘密協定とも言われる。その内容は、両国でポーランドを分割すること、バルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)およびルーマニア領ベッサラビアはソ連が併合すること、という領土協定であった。ポーランド分割は、ソ連としては、ソ連=ポーランド戦争でポーランドに割譲したウクライナなどのロシア人居住地を奪回するという名分があったが、バルト三国に対しては独立した主権国家に対する領土的野心を満たす意図であった。なによりも、レーニンが「平和に関する布告」で提起した、無併合や秘密外交の否定という原則に、ソ連自らが違反した内容であった。9月にドイツがポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始まると、ソ連はこの秘密協定に基づきポーランドに侵攻、またバルト三国に対して圧力をかけて1940年に併合を実現した。
この秘密協定は、当時は世界では知られていなかったが、戦後のニュルンベルク裁判でその存在が明らかになった。しかし、ソ連政府は戦後も長く密約の存在を否定し続けた。ようやくゴルバチョフ時代になって情報公開(グラスノスチ)が始まり、独ソ不可侵条約締結50周年の1989年8月23日、100万人の「人間の絆」がバルト三国の首都をつなぎ、真相究明を求めた。ソ連も同年末、秘密協定の存在を認め、それはソ連外交の原則に反する違法な協定であり、従ってバルト三国併合は違法であったことを認めた。→ バルト三国の独立
 第二次世界大戦 一般に第二次世界大戦は、1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻に始まり、1945年8月15日の日本の敗北までとされる。この間、ドイツ・イタリア・日本を中心とした枢軸国に対し、イギリス・フランス・中国に加えて途中から参戦したソ連・アメリカを加えた連合国(最終的には52カ国)との2陣営に分かれ、主としてヨーロッパとアジア・太平洋地域で戦闘が行われ、約5000万人の死者を出す未曾有の戦争となった。
あしかけ8年に及ぶ第二次世界大戦は複雑な展開をしたが、およその主な段階は次のようにまとめることができる。
第1期:東ヨーロッパにおける戦争:1939年にドイツのヒトラーは、スターリンのソ連との間で独ソ不可侵条約を締結した上で、ポーランドに侵攻、「電撃戦」を展開した。同時にソ連もポーランド東半分を制圧し、さらにフィンランド・バルト三国などを併合した。これに対し、イギリス・フランスはドイツに宣戦布告したが、すぐに援軍を派遣することなく、西ヨーロッパでは「奇妙な戦争」といわれるにらみ合いが続いた。
第2期:西ヨーロッパでの戦争:1940年4月、ドイツは西部方面でも侵攻を開始、オランダ・ベルギーに侵攻し、6月にパリに到達してフランスを屈服させ、イギリス本土にも激しい空爆を加えた。フランスはヴィシーに親独政権が成立。イギリスではチャーチル首相に代わり、大陸のイギリス軍はダンケルクから撤退したがイギリス本土への激しい空爆(バトルオブブリテン)に耐えてドイツ軍の上陸を許さなかった。この段階でイタリアがドイツ側に参戦した。この間、アジアでは日中戦争が継続。日本軍は重慶の蒋介石政権を屈服させるため、インドシナ半島に進出を開始(仏印進駐)。イギリス、アメリカとの対立が深まる。1940年9月、日独伊三国軍事同盟が結成される。
第3期:独ソ戦と太平洋戦争の開始:1941年4月、ヒトラーは方向を転じて、バルカンに侵攻、さらに6月に独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻(バルバロッサ作戦)、独ソ戦が始まる。一方のアジアでは、日本は41年4月に日ソ中立条約を締結した上で、12月に真珠湾を奇襲して太平洋戦争が始まり、同時にアメリカも参戦して、連合国陣営と枢軸国陣営の大戦という世界大戦に拡大した。日本軍は東南アジアに急速に勢力を拡大、フィリピン、マレー半島、ビルマ、インドネシアに侵攻。
第4期:連合国軍の反撃開始:1942年6月、太平洋ではミッドウェー海戦でアメリカ海軍が勝利、日本海軍、制海権を失う。ヨーロッパでは連合軍によるドイツ空爆始まり、11月には連合軍がアフリカに上陸。ドイツ軍は1943年2月、レニングラードの包囲線に失敗したことを期に後退を始め、連合国側の態勢が整うに伴って不利な戦いを強いられることとなった。同年7月には連合軍シチリア島上陸、イタリアが降伏。9月連合軍イタリア半島上陸、ドイツ軍との激戦続く。43年末、カイロ会談、テヘラン会談など連合国側の戦後対策始まる。
第5期:連合国の勝利:1944年6月に連合国軍がノルマンディーに上陸、ドイツ軍は次第に追いつめられる。太平洋戦争では同年7月、サイパンなどが陥落。アメリカ軍による日本本土爆撃本格化。44年8月、パリ解放。1945年2月、連合国軍首脳ヤルタ会談。戦後処理で合意。4月にはベルリンが包囲され、月末にヒトラー自殺し、5月にドイツ降伏。7月、ポツダム会談、日本に無条件降伏勧告。8月、原爆投下、ソ連対日戦参戦、8月15日日本降伏。 
a 1939年9月1日 ドイツ軍がポーランドへの侵入を開始し、第二次世界大戦が勃発した日。昭和14年。 
b ドイツのポーランド侵攻 1939年9月1日、ポーランドのダンツィヒ(グダンスク)を親善訪問中のドイツ巡洋艦シュレスヴィヒ・ホルスタイン号が、突如ポーランド守備隊に対して砲撃を開始した。ナチス・ドイツは開戦の理由としてポーランド国内でドイツ系住民が虐待されていることをあげ、その保護を掲げたが、虐待の事実はなかった。ヒトラーの大義名分は、ヴェルサイユ条約で失ったドイツ領を回復することであり、それによって東方への「生活圏」を拡大する意図から始まめた戦争であった。ヒトラーは、8月に独ソ不可侵条約を締結してソ連と手を結んだ上で、ポーランド侵攻を実行し、これによって第2次世界大戦が始まった。ドイツは3日にはイギリスとフランスに宣戦布告し、両国も対ドイツの宣戦布告を発した。しかしイギリス・フランスはポーランドに援軍を送ることはせず、見守るだけだった。ドイツも当面はポーランド侵攻に集中し、対仏国境の西部戦線では「奇妙な戦争」と言われるにらみ合いが続いた。9月10日、ドイツ軍はポーランド主力を破り、わずか1ヶ月でポーランド占領に成功した。
c ソ連(と第二次世界大戦)第二次世界大戦開始前の時期のソ連は、スターリン独裁体制のまっただ中にあった。資本主義世界の世界恐慌の影響を受けず、第1次五カ年計画(1928〜32年)に引き続き、第2次五カ年計画(1933〜37年)を推進し、1936年にはスターリン憲法を制定し共産党一党支配を確立させた。またこの間、1933年にはアメリカがソ連を承認、1934年には国際連盟に加盟して国際社会に参加することとなった。
人民戦線戦術への転換:ナチス=ドイツ、イタリアのファシスト政権、日本の軍国主義の中国侵略など、ファシズムの動きが強くなると、ソ連は1935年のコミンテルン第7回大会で、反ファシズム人民戦線路線に方向転換し、人民戦線の支援に乗り出した。フランスとの間では1935年5月に仏ソ相互援助条約締結すると、反発したドイツはロカルノ条約を破棄した。1936年5月スペイン内戦が起こると、ファシズムとフランコ軍と戦うスペイン人民戦線の共産党に対し、積極的な軍事支援を行った。またアジアにおいては日中戦争を続ける重慶の中国国民政府(蒋介石政権)と1937年に中ソ不可侵条約を締結し武器などの支援を行った。
宥和政策への不信:しかし、一方で1935年の英独海軍協定締結や、1938年のミュンヘン会談でのミュンヘン協定などのイギリスの宥和政策にはスターリンは大きな不信を感じ、ドイツと手を結ぶ独ソ不可侵条約を締結して世界を驚かせた。その秘密議定書で、スターリンはヒトラーと取引し、ポーランドの分割、バルト三国の併合などを承認させた。
第二次世界大戦の開戦:アジアでは日本軍とソ満国境でにらみ合い、1939年5月にはノモンハン事件で衝突し、日本の関東軍に大きな打撃を与えたが、ヨーロッパ側での危機が強まりまもなく停戦した。1939年9月、ナチスドイツがポーランドに侵攻すると秘密議定書に基づき、ソ連軍もポーランドに進撃、たちまち東半分を占領し、さらに11月にはフィンランドに侵攻した。国際連盟はこの行為を侵略と断定し、ソ連は除名された。40年にはバルト三国を併合し、その領土的野心をあからさまにした。ソ連の侵攻した地域は第1次世界大戦前のロシア領である西ウクライナやベラルーシなどにあたり、ソ連側の言い分ではブレスト=リトフスク条約でドイツに割譲した土地を奪い返したというものであった。しかし、この時、ソ連軍が抵抗するポーランド将兵を多数虐殺したというカチンの森事件が戦後明らかとなりスターリン体制下のソ連の責任が問われている。
独ソ戦の開始:このようにドイツとの秘密協定によって東ヨーロッパで領土を拡大したソ連であったが、ドイツとの提携が続くとは考えられなかった。ドイツが東ヨーロッパに「生存圏」を拡大しようとするのはヒトラーの従来の主張であったからである。西部で戦線が膠着したドイツ軍が、1941年4月に方向を転じてユーゴスラヴィア・ギリシアに侵攻したことに対しソ連は対独戦を決意させ、同月日ソ中立条約を締結して兵力をヨーロッパ側に集中させた。1941年6月、ドイツは独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連に宣戦し独ソ戦が開始された。
連合国の形成と大祖国戦争:ソ連は1941年7月に英ソ軍事同盟を成立させ、イギリス・フランスとの連携に踏み切り、1941年8月にF=ローズヴェルトとチャーチルの大西洋憲章が発表されるとそれを支持し、連合国を構成することとなった。そのため、ソ連は1943年にコミンテルンを解散させ、英仏への協力姿勢を明らかにした。独ソ戦は、ソ連側では「大祖国戦争」と言われており、膨大な人的犠牲を生んだ戦争であった。一時はモスクワまで危機にさらされたが、1942年8月から43年2月にかけてのスターリングラードの戦いでドイツ軍の進撃を食い止め、その後は反撃に転じた。1943年12月のテヘラン会談ではスターリンは初めてF=ローズヴェルトチャーチルとの連合国首脳会談に臨み、ヨーロッパの西部で第2戦線を形成することを強く要求し、みかえりとして対日参戦も協議した。しかしポーランド問題では思惑が英ソで対立し、その後も課題として残った。
対日戦の開始と大戦の終結:1944年には米英主体の連合軍がノルマンディに上陸、ついで1945年2月のヤルタ会談ではドイツの戦後処理と国際連合の設立で合意し、ソ連は対日戦への参加を約束した。このころから米ソ両国は大戦後の国際政治での主導権を巡って激しく牽制しあうようになった。アメリカは戦後のソ連に対する軍事力の優位を確保しようとして原子爆弾の開発を急ぎ、8月に日本で使用した。またソ連も戦後の国際政治で発言権を確保するために、8月8日に日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦を布告し、ソ満国境、樺太千島などで一斉に日本軍と交戦、ポツダム宣言にも加わって千島列島の占有を確保した。
大戦後のソ連:ソ連は第二次世界大戦で最大の犠牲者を出し、またその犠牲を背景として戦後世界に大きな発言権を確保、国際連合の安全保障理事会の常任理事国となった。戦後もスターリン体制を維持し、ドイツとの戦争で獲得した東ヨーロッパでの主導権を発揮し、次々と共産党政権を支援して樹立させ、西側の経済復興に対抗してコミンテルンを結成するなど、東西冷戦に突入していく。ヨーロッパにおいてはドイツ問題が最も尖鋭な東西対立の場面となった。
d ソ連のポーランド侵攻 ソ連軍は1939年9月17日、ポーランドとの国境を越え、侵入を開始した。これは独ソ不可侵条約秘密協定に基づいた行動であり、ドイツの承認を得ていた。ソ連はポーランド出兵の理由を、ポーランドに支配されている西ウクライナとベラルーシ(白ロシア)のロシア人住民を解放するためであると説明した。ソ連軍のポーランド侵攻において、1940年3〜4月頃、ソ連軍によるポーランド将兵対する大量虐殺事件(カチンの森事件)が起きたことが戦後になって明るみに出た。戦後のポーランドは社会主義政権が成立し、ソ連圏の一員となるが、常にソ連との関係がギクシャクするのはこのような背景がある。
アメリカ合衆国(と第2次世界大戦)アメリカ合衆国は、第2次世界大戦の勃発時には参戦しなかった。1935年に制定された中立法があり、交戦国への武器輸出もせず、大陸および極東の情勢を見守る姿勢をとった。それでも次第に戦時態勢の必要にせまられ、フランクリン=ローズヴェルト大統領のもとで、1940年10月、アメリカ合衆国の歴史上初めて徴兵制が制定された
1940年11月にF=ローズヴェルト大統領は三選を果たし、1941年3月には武器貸与法を成立させて、事実上第2次世界大戦に参戦することになった。アメリカを直接的な世界大戦に引きずり込んだのが、その年12月の日本の真珠湾攻撃であった。その直後にドイツもアメリカに宣戦布告し、ヨーロッパとアジアの戦争が結びつくこととなり、戦火は太平洋にも広がった。 → アメリカの参戦
e 中立法  → 第15章 4節 中立法
 奇妙な戦争 1939年9月1日のドイツ軍のポーランド進撃に対し、イギリス・フランスは軍隊の派遣などの支援を行わず静観した。これはチェンバレン内閣が依然として宥和政策に固執しており、ドイツの真意を見誤っていたためである。またヒトラーも、ポーランド作戦の勝利によって英仏を講和に引きずり込もうと考えていた。そのため、ドイツと英仏連合軍は宣戦布告を交わしているにもかかわらず、1940年5月まで半年以上にわたり、交戦がなかった。また、イタリアも漁夫の利を占めようという態度で参戦していなかった。海上では互いの封鎖作戦を阻止すべく海戦が行われていたが、この陸上での戦闘のない戦争、にらみ合い状況はフランスでは「奇妙な戦争」、イギリスでは「いかさま戦争」と言われている。また、チャーチルは、自伝<『第2次世界大戦』1 p.273〜>の中でチェンバレンの言ったという「たそがれ戦争」をその章名につけている。1940年5月にチェンバレンにかわって内閣を組織したチャーチルは、宥和政策をきっぱりと捨てたが、ヨーロッパの英軍はすでに追いつめられており、やむなくダンケルクでの撤退作戦を実行せざるを得なかった。  
イ.ヨーロッパの戦争
 東ヨーロッパ戦線 9月1日のドイツのポーランド進撃に次いで、17日、ソ連軍が東部からポーランドに侵攻した。27日は首都ワルシャワは陥落、ドイツとソ連はポーランドを東西に分割して統治することとなった。
a ポーランド分割(20世紀)1939年9月1日、電撃戦によってポーランドに侵入したドイツ軍は、わずか三週間でポーランド軍を壊滅させ、10月5日に降服し、首都ワルシャワを含むその西半分はドイツの占領下に入った。一方、独ソ不可侵条約秘密協定でポーランド分割を密約していたソ連(スターリン政権)は、9月17日にポーランド侵攻を開始、約10日間でその東半分を制圧し、さらに西ウクライナ、白ロシアを占領した。こうしてポーランドは、18世紀終わりのプロイセン、オーストリア、ロシアによるポーランド分割以来、再び東西の強国によって分割支配されることとなった。これを「第4次ポーランド分割」と呼ぶこともある。ポーランドのシコルスキ大将はロンドンに脱出し、亡命政府を設けた。
b ソ連=フィンランド戦争 1939年11月30日、ソ連軍がフィンランドに侵入。「冬戦争」と言われる。国際連盟は12月10日、ソ連除名を決議。フィンランドでは果敢な抵抗が続くが、翌年3月までに制圧された。
第2次世界大戦が勃発すると、ソ連はヒトラーとの密約に基づき東ポーランドに侵攻、さらにフィンランドに対し、領土の割譲を要求してきた。フィンランド政府が拒否すると、不可侵条約を破棄し、1939年11月30日、侵攻を開始し、ソ連=フィンランド戦争が開始された。フィンランド軍はマンネルヘイム将軍のもと、凄絶な戦闘を続けてソ連軍を阻止、またイギリス・フランスのソ連批判も強まり、国際連盟もソ連を除名する措置をとったので、1940年3月、平和条約が締結され講和した。しかしフィンランドはヴィープリ県やカレリア地方などを割譲、また2万5千人の戦死者を出した。
独ソ戦開始と共に再開された継続戦争:しかし、依然としてソ連の圧力を受けていたフィンランドは、ドイツへの協力に傾き、1941年6月、独ソ戦が開始されると同時にソ連との戦争再開に踏み切った。結果的にこれはフィンランドが枢軸国側につくこととなり、連合国側から敵視されることになる。カレリア戦線ではソ連軍が大規模な砲撃と爆撃機による大攻勢を展開、フィンランド軍は何とか踏みとどまったが、44年9月、ドイツ側から離脱することを条件に和平が成立し、ふたたび領土の割譲と賠償金をソ連に対して認めた。この「継続戦争」では6万5千の戦死者を出した。 → 現代のフィンランド
c バルト三国(ソ連の併合)エストニア、ラトヴィア、リトアニアは18世紀以来ロシア領となっていたが、ロシア革命に際して1918〜20年にかけてバルト三国としてそれぞれ独立した。ところがドイツのポーランド侵攻によって第2次世界大戦が始まると、ソ連は1940年6月、バルト三国に侵攻し、占領を完了、8月3日に併合した。ソ連のバルト三国併合は、1939年8月に成立した、ドイツのヒトラーとソ連のスターリンの間の独ソ不可侵条約に付帯する秘密協定に基づくものであった。バルト三国にはそれぞれ共産党が作られ、ソ連邦を構成する共和国として、ソ連政府の直接的な支配を受けることになった。
1941年6月、ドイツ軍は独ソ不可侵条約を破ってソ連領に一斉に侵攻、バルト三国もドイツ軍に占領され、44年まで続いた後、ソ連軍に再占領された。ソ連の占領に対する抵抗もあったが、ソ連政府は47年〜52年に農村集団化を強行、多数のロシア人を移住させ、ロシア化をはかった。このような中で戦後のソ連では「民族問題は終結した」と公式見解では述べていたが、バルト三国のそれぞれの民族意識は継承され、1980年代末のペレストロイカ期に一気に爆発することとなる。 → バルト三国の独立
Epi. 日本版シンドラーのリスト 1940年、リトアニアのカウナスにあった日本領事館にナチスドイツの迫害を逃れてポーランドからやってきたユダヤ人がビザの申請に多数おしかけた。当時リトアニアはソ連に併合されたため各国の領事館は閉鎖されていたが、日本領事館だけは日ソ中立条約があったため国際法上日本領とされ業務をつづけていたからであった。領事代理の杉原千畝(ちうね)は本国に指令を仰いだが、ドイツとの友好を建前に外務省はビザの発給を拒否するよう訓令してきた。しかし杉原はこのままではユダヤ人はポーランドに戻り迫害されることが判っていたので、独断で日本通過のビザを発給し、国外に出ることを認めた。杉原と妻はソ連政府から退去を命じられるまで、約6000枚のビザを発効し続け、ユダヤ人を救ったという。杉原は戦後、外務省に戻ったが罷免された。後にイスラエルはユダヤ人難民に対する人道的なビザ発給を独断で行った杉原を「諸国民の中の正義の人」として表彰した。
カチンの森事件 第2次世界大戦開始と同時に始まったソ連軍のポーランド侵攻に際し、1940年3月〜4月にソ連内務人民委員部(KGBの前身)が、ポーランド将兵数千を虐殺、カチンの森に埋めたとされる事件。43年4月13日ドイツのベルリン放送が、約3000の遺体を発見、ソ連(ボリシェビキ)の犯行と発表、ソ連は直ちに反論、ナチスが自らの犯行をかくし、反ソ宣伝に利用したと主張した。亡命ポーランド政府の調査依頼にはソ連は応えず、うやむやにされ、戦後親ソ的政府のもとでタブーとされた。ようやく1987年、ゴルバチョフ政権のもとで真相究明が始まり、90年4月ソ連が自国の犯行を認め、ポーランド政府に対し、謝罪した。<渡辺克義『カチンの森とワルシャワ蜂起』シリーズ東欧現代史1 岩波書店>
 西部戦線 ドイツ軍は1940年4月にデンマークノルウェーに侵攻、さらに5月10日にオランダとベルギーに侵攻し、両国を降服させた。イギリス・フランスの連合軍は後退し、5月から6月にかけて、ドーヴァー海峡に面したダンケルクからからくも撤退した。6月5日にはついにフランスに向けて進撃を開始した。兵力的にはフランスがまさり、ドイツ国境に「マジノ線」という防衛ラインを敷いていたが、ドイツ軍はそれを迂回してベルギーを通過したため、フランス軍は側面を破られ壊滅的な打撃を受けた。6月10日にはイタリアが英仏に対して宣戦布告し、南仏に侵入を開始した。早くも6月14日にはドイツ軍がパリを占領、ついに6月22日に独仏休戦協定を締結しフランスは敗北した。以後5年間、フランスは北部をドイツ軍に占領され、ヴィシーに移った政府がドイツ軍と講和交渉を行い、抵抗を主張するド=ゴールはロンドンに亡命し、レジスタンス運動を支援することとなった。8月からドイツ軍はイギリスへの空爆を強化し、上陸作戦の実施を探ったが、9月15日にイギリス空軍の反撃を受けて上陸作戦を延期した。大西洋の海上では、ドイツ海軍は装備においてイギリスより数段劣勢だったので、多数の潜水艦(Uボート)を建造して対抗し、イギリスの輸送船団に大きな損害を与えた。
a デンマーク占領 「1940年4月9日、午前4時、ドイツ軍が国境を越えてデンマークに侵攻した。外務大臣はドイツ公使に叩き起こされて最後通牒を突きつけられた。内容は英国からの攻撃を阻止するためにドイツ軍がデンマークを保護するので、無益な抵抗は中止せよ、というものだった。首都の上空ではドイツ空軍の爆撃機の編隊が旋回していて、大量のビラが散布されていた。早起きの首都の市民たちはなにななんだかわからなかった。」<武田龍夫『物語北欧の歴史』1993 中公新書 p.198>
デンマークは1939年にドイツと10年間の不可侵条約を結んでいたが、ドイツは一方的に破棄し、無抵抗な小国を制圧、午前6時に国王は降伏を決定した。デンマーク国民はドイツの武力の前に為す術がなかったが、直ちに地下のレジスタンスグループ(古代のデンマーク王の名からゴルムと名付けられた)が抵抗運動を開始した。43年8月からはドイツの軍政下に入り、デンマークは完全占領体制に入ったが、抵抗は続き44年6月には首都コペンハーゲンで大規模なゼネストが行われた。5月4日にドイツ軍降伏、6日に連合軍がコペンハーゲンに入り、歓喜に包まれた。
 → 現代のデンマーク
b ノルウェー占領 「1940年4月9日、ノルウェーは突如としてナチス・ドイツ軍の奇襲攻撃を受けた。ナルビク、トロニエム・・・その他の主要都市、港湾、空港はあいついでドイツ軍の手に落ち、首都オスロの市中ではノルウェー・ナチス党員たちが「ノルウェー今や新時代に入る!」と告げるビラをばら撒いていた。」ドイツ公使が外務省に告げた通告では、「イギリス・フランスからのノルウェーの防衛のため、ドイツが介入した。無用な抵抗は直ちに停止すること。」とあった。国王、閣僚たちは急ぎオスロを離れ、北方130キロのハマルに向かった。ハメルでの緊急会議で挙国連立内閣を組織、抵抗を呼びかけたが、すでにドイツ軍は大勢を制していた。イギリス軍がトロニエム北方に上陸、ノルウェー軍を支援したが、63日間の戦闘の後、撤退した。国王、閣僚はロンドンに亡命、ノルウェー・ナチス党のクィスリングがヒトラーに協力、ドイツ占領下の行政を担当することになった。しかし、ノルウェー軍の主力はイギリスやカナダで訓練を受け、その後もレジスタンスを続けた。リューカンのドイツ軍重水製造施設の破壊は、ドイツの原爆開発計画を遅らせ、連合軍の勝利に大きく貢献した。そして1945年5月、ドイツ軍が降伏、歓呼の中で国王も帰国し、ナチス協力者クィスリングは銃殺された。<武田龍夫『物語北欧の歴史』1993 中公新書 p.190-194> →現代のノルウェー
c オランダ侵攻  
d ベルギー侵攻  
 ダンケルク ドーヴァー海峡に面したベルギーの港。第2次世界大戦でドイツ軍の戦車部隊の急進撃に押された英仏連合軍が、この地からイギリス本土に撤退した。撤退作戦は5月31日と6月1日をピークに敢行され、せまり来るドイツ戦車部隊に怯えながら、連合軍兵士約33万8千が脱出に成功した。イギリス軍は多くの武器を失ったが、本土防衛の戦力を温存することができた。
Epi. ダンケルクの謎 チャーチルはこの作戦を正しかったと自賛し、その成功を空軍の支援のたまものと賞讃している。しかしダンケルクに英仏軍を追いつめていながら、ヒトラーは戦車部隊の追撃にストップをかけた。このとき、一気に攻撃を続け、英仏軍を殲滅していれば、ドイツ軍のイギリス侵攻も可能であったと思われるが、ヒトラーがあえて追撃の手をゆるめた理由については、フランスが敗れたのちに、イギリスとの和平の見込みをよくしておくためではないかとか、今後の戦闘における戦車部隊の温存を図ったのではないか、などと言われている。しかし、ドイツ軍指揮官の間では、大きな機会を逃がしたという点で見方が一致している。<チャーチル『第2次世界大戦』2 河出文庫 p.57〜59>
e パリ占領  
 フランスの敗北 1940年5月10日のドイツ軍のオランダ侵入という「青天のへきれき」から、わずか1ヶ月後の6月14日に首都パリが陥落した。このフランスの予想外の敗北について、当時燃料担当の将校として従軍していた歴史家マルク=ブロックは、後の抵抗運動の間に著した『奇妙な敗北』と言う書物でこう結論している。「最後まで今度の戦争は老人と、さかさまに理解した歴史の誤謬に首をつっこんだ石頭の優等生の戦争だった。世界は新たなものを愛する人々のものだ。わが司令部はこの新なものに遭遇すると、それに備えることができず、敗戦のうき目にあう以外の途はなかった。ちょうど脂肪ぶとりで鈍重になったボクサーが、思わざる初撃をくらって狼狽するように、司令部は敗戦を受けた。」<井上幸治訳 下掲書 p.156>
Epi. マルク=ブロックの『奇妙な敗北』 フランス軍の敗北は、具体的に言うと、ドイツ軍の機動戦車部隊の急襲と急降下爆撃機による空爆に対して、フランス軍は第1次大戦と同じ塹壕戦による防衛という古い戦術しかとらなかったところに原因がある。またマルク=ブロックは、司令官の無能や、参謀と部隊指揮官の対立(軍隊官僚制の欠陥)、部隊間の情報連絡の不備(ドイツ軍はオートバイを活用したが、フランス軍にはなかった)、装備の不備、動員の混乱、イギリス軍への不信などを告発している。なお、マルク=ブロックはパリ大学教授として、『フランス農村史の基本性格』や『封建社会』などの著作を持つ有名な中世史家であった。陸軍大尉として従軍し、フランス敗北後、50歳を過ぎていたが対独レジスタンス運動に加わった。そして1944年6月、ドイツのゲシュタポに逮捕され、殺害された。マルク=ブロックはユダヤ人であったが、フランスの愛国者としてナチズムに抵抗し、「フランス万歳」を叫んで銃殺されたという。<マルク=ブロック『奇妙な敗北』1970 東大出版会UP選書> 
f イタリア参戦 1940年6月10日、イタリアはイギリス・フランスに宣戦布告した。
g ペタン ペタンはフランスの軍人で政治家。第1次世界大戦でヴェルダンの要塞を守り抜き、フランスの英雄となる。戦後は参謀総長、陸軍総司令官を歴任し元帥となる。第2次世界大戦が勃発すると、ヒトラー・ドイツの破竹の進撃の前に早くも休戦を主張した。フランス降伏後は、ヴィシー政府の元首(40年7月〜44年)としてドイツに協力する体制を作った。大戦後、反逆罪に問われ、死刑判決を受けた後に終身刑に減刑され、獄死した。
 英仏の抵抗  
a ヴィシー政府 1940年ドイツに降伏したフランスの、中部フランスの町ヴィシーに成立した政府。ペタン元帥を国家元首とし、第三共和政の体制を破棄して、国家元首に立法、行政、司法にわたる統治権を集中させるというファショ体制を敷いた。しかし、当時フランスの国土の5分の3はドイツに占領され、海外領土は自由フランス政府が抑えていたので、その支配範囲には限られていた。しかもレジスタンス運動の抵抗を受けていた。1944年、連合軍がノルマンディに上陸し、ドイツ軍が撤退するとヴィシー政府は解体した。
b ド=ゴール 現代フランスを代表する政治家(1890〜1970)。軍人として第1次大戦に従軍し、ペタン参謀長の幕僚として活躍した。第2次大戦でレイノー内閣の陸軍次官。ドイツ軍の侵攻に対しフランス軍は敗北を続けたがド=ゴールは抗戦を主張、フランス降伏後、ロンドンで亡命政権の自由フランス政府を樹立し、1940年6月18日にイギリスBBC放送を通じ、対独レジスタンスを呼びかけた。祖国解放の英雄となったド=ゴールは、戦後発足した臨時政府の首相となった。しかし、憲法制定で共産党・社会党主導の議会と意見が対立して辞任した。第四共和制の下では在野で活動したが、右派の支持で58年6月、首相に復帰、10月国民投票で第五共和政を樹立する。 → 戦後のド=ゴール ドゴール大統領
c 自由フランス政府  
d レジスタンス  
e チャーチル


Winston S. Curchill
(1874-1965)
ウィンストン=チャーチル、第1次大戦中から第2次世界大戦、戦後の冷戦時代にかけてのもっとも著名なイギリスの政治家の一人。先祖は名誉革命時代に活躍した貴族のマールバラ。彼自身もハロー校から陸軍士官学校のエリートコースを歩む。インドや南アフリカで軍人生活を送り、1900年に保守党から下院議員となる。次第に自由貿易主義をとるようになり自由党に転じる。商務大臣、内相をつとめた後、海軍大臣となり第1次世界大戦を迎える。ガリポリ上陸作戦を進めたがケマル=パシャの率いるトルコ軍に敗れ、責任をとり辞職。17年にロイド=ジョージ(自由党)の連立内閣に迎えられ、軍需相、陸相などをつとめる。ロシア革命が起こると共産主義に反対して保守党に転じ、蔵相となる。辞任後はチェンバレンの宥和政策を批判してナチスの脅威を説いた。第2次世界大戦が勃発して危機が高まる中、1940年5月10日に首相となり、挙国連立の戦時内閣(第1次)を組織した。ちょうどその日にドイツ軍のオランダ侵攻が開始され、以後、45年まで戦争指導に当たる。イギリス国民を鼓舞してナチス=ドイツによる本土爆撃に耐え、41年のアメリカ大統領F=ローズヴェルトとの大西洋会談を始め、連合国側の指導者として戦後世界の枠組みの中心的役割を果たした。45年には選挙に敗れ労働党アトリーに首相の座を譲るが、51年に再び選挙で勝利して第2次内閣を組織、55年まで冷戦下でのイギリス復興の舵取りを行う。ソ連との対決姿勢は強く、46年の「鉄のカーテン」の演説は有名。文筆家としても優れており、特に『第2次世界大戦回顧録』はよく読まれ、53年にはノーベル文学賞を受賞している。1965年死去。
 ロンドン空襲  
北アフリカ戦線 1940年6月に参戦したイタリアのねらいは地中海の支配と北アフリカの制覇であった。イタリア軍は北アフリカ上陸後、エジプトをめざしたが、イギリス軍の反撃を受けて失敗を重ねたので、ドイツは1941年3月ロンメル元帥指揮のアフリカ軍団を派遣した。ロンメル軍団はイギリス軍を圧倒し、エジプトまで迫った。しかし、アメリカからの大量の武器支援を受けたイギリス軍が、1942年10月23日のエル=アラメインの戦闘でドイツ軍を破り、戦局を転換させた。11月にはアルジェリアとモロッコにアメリカ軍が上陸し、補給に苦しむイタリア・ドイツ連合軍を追いつめ、43年5月にイタリア・ドイツ連合軍が降服して北アフリカ戦線での戦闘は終わった。
Epi. 「砂漠の狐」ロンメル元帥 この戦線でドイツ軍の指揮を執ったロンメルは「砂漠の狐」の異名をとり、イギリス軍に恐れられた。ドイツに戻ったロンメルは、連合軍のノルマンディー上陸作戦大戦を迎え撃つ司令官に任命され、激しい抵抗でアメリカ軍に大きな損害を与えた。彼は大戦末期にヒトラー暗殺計画に連座したとして自殺に追い込まれた。
F=ローズヴェルト大統領の三選 40年11月、フランクリン=ローズヴェルトはアメリカ史上初めて、大統領として三選される(民主党)。なお彼は44年には4選を果たしたが、その任期中の45年4月に死去し、副大統領トルーマンが昇格する。現在はアメリカ大統領の三選は憲法で禁止されている。
「憲法は大統領の三選を禁じてはいなかったが、初代大統領の例にならって、あえて三選に挑む例はなかった。‥‥ギャラップ世論調査では、ローズヴェルトが三選に立候補したら彼に投票するかという問に、イエスが47%、ノーが53%だった。‥‥しかしともかく彼は40年11月にアメリカ史上初の三選を果して、41年1月(従来当選から就任までの期間が長すぎたので、彼は第1期就任中に大統領就任式を現在のように1月20日に改めた)に三度目の就任式に臨み、有名が「四つの自由」演説を行った。言論および表現の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由など、ファシズムから守らなければならない四つの自由をあげて、民主主義国家としての道義的な戦争目的を明らかにしたのだ。」<猿谷要『物語アメリカ史』中公新書 p.166-7>
g 武器貸与法 1941年3月、イギリスのチャーチル首相の要請を受けたフランクリン=ローズヴェルト大統領の下でアメリカ議会で制定された、第2次世界大戦時の連合国への軍事援助を定めたもの。イギリスだけでなく、ソ連や中国へも武器貸与を可能にし、アメリカは事実上これによって第2次世界大戦に参戦したと言える。アメリカ議会は孤立主義と国益優先の立場から1935年に「中立法」を制定させ、交戦中の国への武器輸出を禁止していたが、39年にローズヴェルト大統領の要請で現金取引、自国船輸送を条件に緩和し、さらにこの武器貸与法で中立法は廃棄され、アメリカは孤立主義を転換させることとなった。これによって45年までに全体で約500億ドルの供与が行われた。戦後の1945年に、米英金融協定が成立し、アメリカは武器貸与法によってイギリスに供与した約200億ドルの返済を免除した。これは、第1次世界大戦後の賠償問題が、次の第2次大戦をもたらしたことを強く意識していたからであった。   → アメリカの外交政策
D ドイツのバルカン侵出 ルーマニア、ブルガリアを枢軸側に付かせることに成功したドイツは、1941年4月ユーゴスラヴィアに侵攻し、たちまち制圧した。さらに同月、イタリアの要請を受けてギリシアに侵攻し、ギリシア軍と5万のイギリスの援軍と衝突した。ドイツは空爆も含めて猛攻、ギリシア軍は降伏し、イギリス軍はクレタ島に撤退した。ドイツ軍はさらにクレタ島を空爆、イギリス軍はアレキサンドリアに引き揚げた。こうしてドイツはバルカン半島全域と、アドリア海、イオニア海を手中に収めた。ドイツのバルカン半島侵出は、イタリアのアルバニア侵攻とともに、スラブ系民族諸国を征服するものであったので、ソ連は反感を募らせる。このドイツ軍のバルカン侵攻を警戒したソ連は、同月、日ソ中立条約を締結し、東方での兵力を削減して西方に向ける備えをした。ついで、1941年6月のドイツの独ソ不可侵条約の破棄、独ソ戦の開始という、世界大戦の第二段階にはいる。
a ユーゴスラヴィア(第2次大戦)1941年4月、ナチス・ドイツがユーゴスラヴィア王国に侵攻すると、王国政府は降伏し、国王は亡命した。ユーゴを占領したドイツは民族分断を図り、「クロアチア独立国」を建国、ボスニア・ヘルツェゴヴィナも含めて支配させた。クロアチア独立国ではファシストのウスタシャが傀儡政権をつくり、ナチスに倣ってユダヤ人やジプシー、さらにセルビア人に対する排除政策がとられた。それに対抗してセルビア人は民族主義組織チュトニクを組織し、クロアチア人を攻撃した。<柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波新書、『バルカンの民族主義』1996 世界史リブレット 山川出版など>
ユーゴスラヴィアでナチスおよびファシストと戦う主力となったのはティトーの率いる共産党が組織したパルチザン部隊が組織され、抵抗が開始された。その勢力は15万に達し、43年夏には国土の約半分を解放区にすることができた。11月には共産党書記長ティトーを議長とする臨時政府として国民解放全国委員会を組織した。45年3月には亡命していた王国政府との連合政権が成立し、ティトーが首相となった。王国政府への支持はほとんど無く、11月の総選挙ではティトーの率いる「人民戦線」が大勝した。<木戸蓊『激動の東欧史』中公新書 p.22> → 戦後のユーゴスラヴィア
b パルチザン パルチザン Partisan とは正規の軍隊ではない武装勢力で、外国勢力の侵略に対する抵抗する戦いをいう。ナポレオン軍の侵入に対するスペイン民衆の抵抗がそのような形態の戦いの始まりとされ、スペイン語のゲリラが一般化した。20世紀の侵略戦争の時代になると各地でパルチザン闘争が起こった。ロシア革命に対する日本などのシベリア出兵に対するロシアのパルチザン、第2次大戦でのナチスドイツの侵攻に抵抗したユーゴスラヴィアのティトーの指導したパルチザンなどが有名。中国では日本軍に抵抗したパルチザンを遊撃隊と呼んだ。
c 日ソ中立条約  → 日ソ中立条約
ウ.独ソ戦と太平洋戦争
 独ソ戦の開始 1941年6月22日未明、ドイツ軍は突如大兵力をソ連領に侵攻させた。これは独ソ不可侵条約に違反する行為であり、ヒトラーがどのような戦略的意図から行ったことかわからないことが多い。西部戦線でイギリスと激しく戦闘しているにもかかわらず、その一方でソ連と事を構えることは不利であると考えられるが、そのような常識的な戦況判断を越えたヒトラーの信念であったらしい。もともとヒトラーは共産主義とは相容れない思想を持ち、またロシア人を劣等民族として軽蔑していた。さらに東欧とバルカンをドイツ人の楽園とする構想を持っていたヒトラーにとって、ソ連軍のバルカン進出は許されないことであった。いずれにせよこの決断は、第2次世界大戦の行方を決する方向転換であった。以後約4年間、ドイツとソ連は熾烈な戦闘を展開する。この半年後、日本は、同じく現在から見れば物量的に勝ち目のない戦いであったと思われる対米戦争(太平洋戦争)にふみきり、アメリカの参戦をもたらした。この二つの動きが、第2次世界大戦を文字通り「世界大戦」に転化させることとなった。
「バルバロッサ」と呼ばれたドイツのソ連侵攻作戦は、おそらく覚悟はしていたであろうが警戒はしていなかったスターリンのソ連軍を蹴散らして進撃し、ミンスク、スモレンスク、キエフなどでソ連軍に大損害を与えながら、レニングラード、モスクワ、スターリングラードの目的地に迫った。しかし、レニングラードでは900日に及ぶドイツ軍の包囲が続いたが、ついに開城することはなかった。モスクワへの41年12月に到達したが、戦線は延びきり、兵力不足からドイツ軍はモスクワ入城ができなかった。そして42年11月からのスターリングラードの攻防戦でのソ連軍の反攻が転機となり、ドイツ軍の後退が始まる。
Epi. チャーチルのスターリンへの警告 チャーチルの自伝によれば、ドイツのソ連侵攻の動きを察知したイギリス首相チャーチルは、スターリンに警告したという。しかしスターリンは耳をかさなかったため、奇襲を受けて緒戦の大敗を招いた。このことは後のフルシチョフの「スターリン批判」でもその材料の一つに加えられている。<『フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」』講談社学術文庫>
a 独ソ不可侵条約  → 独ソ不可侵条約
b 英ソ軍事同盟 1941年7月12日にイギリスとソ連の間で締結された軍事同盟。6月22日にドイツがソ連を攻撃したことを受け、両国にとって共通の敵となったために相互援助と単独講和禁止を約束した共同共同協定として締結した。アメリカはまだ参戦していないので、英ソ二国間の同盟となった。
さらにレニングラードとモスクワで激しい独ソ戦が展開され、ソ連も英米の支援が不可欠となったため、1942年5月26日、内容を強化して英ソ同盟条約を締結し、軍事援助を明記し、さらに戦後の協力と相互援助まで取り決めた。
b 大西洋憲章 1941年8月、大西洋上で行われた、アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルトとイギリス首相チャーチルの会談で合意された、世界大戦後の国際協調のあり方についての宣言。日本の大戦への参戦(41年12月の真珠湾攻撃)よりも以前に行われていることに注意。
Uボートによる攻撃の恐れから、極秘のうちに計画され、8月9日からカナダのニューファウンドランド、プラセンシア湾上で、イギリスの最新鋭戦艦プリンス=オブ=ウェールズ、アメリカの巡洋艦オーガスタを両者が相互に訪問し、会談を重ねた。その結果合意に達したものが「大西洋憲章」である。憲章は8ヶ条からなる。
資料 大西洋憲章(前文略)
(1)両国は、領土的たるとその他たるとを問わず、いかなる拡大も求めない。
(2)両国は、関係する人民の自由に表明された願望に合致しない、いかなる領土の変更も欲しない。
(3)両国は、すべての人民が、彼らがそのもとで生活する政体を選択する権利を尊重する。両国は、主権および自治を強奪された者にそれらが回復されることを希望する。
(4)両国は、現存する義務に対して正当な尊重を払いつつ、あらゆる国家が、大国小国を問わず、また勝者敗者にかかわらず、経済的繁栄に必要とされる世界の通商および原料の均等な開放を享受すべく努力する。
(5)両国は、労働条件の改善、経済的進歩および社会保障をすべての者に確保するために、経済分野におけるすべての国家間の完全な協力を実現することを希望する。
(6)ナチスの独裁体制の最終的崩壊後、両国は、すべての国民が、彼ら自身の国境内で安全に居住することを可能とし、すべての国のすべての人が恐怖と欠乏から解放されて、その生命を全うすることを保障するような平和が確立されることを希望する。
(7)このような平和は、すべての人が、妨害を受けることなく、公海・外洋を航行することを可能とするものでものでなければならない。
(8)両国は、世界のすべての国民が、現実的および精神的なるいずれの理由からも、武力行使の放棄に到達しなければならないと信じる。陸・海・空の軍備が自国の国境外に侵略の脅威を与え、もしくは与えそうな国々によって行使される限り、いかなる将来の平和も維持され得ないのであるから、一層広範かつ恒久的な全般的安全保障システムが確立されるまで、こうした国々の武装解除は不可欠であると信じる。両国は、同様に、平和を愛好する国民のために、軍備の圧倒的負担を軽減するすべての実行可能な措置をを支援し、かつ促進させるであろう。
<『世界史史料』歴史学研究会編 10 p.352>
要点をまとめると、(1)(2)は領土の不拡大・不変更、(3)は民族自決、(4)は自由な貿易、(5)国際的な経済協力、(6)は平和の確立、(7)は公海の自由、(8)は武力行使の放棄と安全保障システム確立とそれが実現するまでの侵略的な国(ドイツ)の武装解除、および軍備軽減、となるだろう。
ここでは国際平和機関の設立には具体的に言及されていないが、戦争目的を平和の確立(第4項)にあるとして、戦後における平和の維持、安全保障、経済の安定などで各国が協力することを呼びかけた。
全般的な意味で、「戦後の国際協調の基本構想」を示した、いえる。
ソ連はただちに大西洋憲章の支持を表明、この枠組みに基づき、42年1月には連合国共同宣言が作成された。これらの構想が「国際連合」が形成の第一歩となった。<大西洋憲章の成立過程については、ウィンストン=チャーチル『第2次世界大戦』3 河出文庫 p.33 などを参照> → アメリカの外交政策
c コミンテルン解散1935年の第七回大会以来、コミンテルンの大会は開催されることはなかった。「1943年6月9日、コミンテルンの解散が執行委員会幹部会の名で発表された。スターリンはその直前、解散の理由を、コミンテルンがモスクワの手先であるという誤解を捨てさせ、統一戦線をおしすすめ、共通の敵ヒットラーにたいする攻撃を容易にすることにあるとロイター記者にのべているが、事実は、戦争によってコミンテルンと弱体化した各国支部の連繋がうしなわれ、もはやコミンテルン自身の存在理由が全く失われてしまったことにあった。」<菊地昌典『歴史としてのスターリン時代』p.273>
 戦争の長期化  
a ユダヤ人の大量殺害「すでに開始されていたユダヤ人の絶滅作業を全ヨーロッパ規模で組織化、行政化するための会議は、1941年12月9日に開催される予定であったが、おそらくその前日に日本が真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争に突入、ヒトラーも11日に対米宣戦を布告せざるをなったために延期され、翌年1月20日にベルリンのヴァンゼーで開催された。ナチ保安部長官ハイドリッヒが各省庁の代表者を召集し、演説した。其の議事録によると、ハイドリッヒは、ヒトラーの指示、認可によって強制輸送を西から東に始めたことを明言し、そのヨーロッパ・ユダヤ人の《最終解決》の対象は1千万人のユダヤ教徒ユダヤ人のみであり、ニュールンベルク法によりユダヤ人と規定される者は含まれないと述べている。東方に送られたユダヤ人は男女別に労働可能な者は道路工事などで使役し、そこで生き残った者は生存能力が高いので、それに対応する処置がとられること、ヨーロッパ各地からのユダヤ人の輸送には外務省が保安部とともに組織化にあたること、ユダヤ人混血者が強制輸送を免れるためには、不妊手術が義務づけられること、などが述べられた。会議参加者のアイヒマンの証言によれば、この会議で殺害の方法として毒ガス、チクロンBが使用されることとなった。」<大澤武男『ヒトラーとユダヤ人』講談社現代新書 P.205-514>
ホロコースト ナチス・ドイツによるユダヤ人大量殺戮をホロコーストという。この言葉は、もとはユダヤ教神殿に捧げられる羊などの供物のことで、1978年にアメリカで放映されたナチスのユダヤ人迫害を描いたTVドラマの題名とされて広まった。ヒトラー・ナチスのユダヤ人政策は、1935年のニュルンベルク法制定から本格化し、はじめは公民権剥奪、国外追放という手段がとられたが、大戦開戦後はドイツの占領地域のユダヤ人に適用され、一時はヨーロッパのユダヤ人のマダガスカルへの強制移住が計画された。そして42年の1月にヴァンゼーで開催されたナチス首脳会議において、「最終的解決」がはかられることとなり、強制収容所でのガス室などによる大量殺戮が決定された。戦争が終わるまでに、ゲットーや各地の強制収容所で餓死、射殺、ガス殺その他の手段で殺されたユダヤ人の数は、560万から590万に上る。ユダヤ人以外にも、ドイツ人も含む精神障害者7万人の安楽死や、ロマ(ジプシー)約50万人が殺されている。<坂井栄八郎『ドイツ史10講』2003年 p.201 など>
b アウシュヴィッツ ユダヤ人の絶滅を目的とする強制収容所で、1941年10月8日に設立された。10月半ばから、組織的なユダヤ人の強制輸送が西から東方へ向けて開始され、11月からその作業が開始されている。<大澤武男『ヒトラーとユダヤ人』講談社現代新書P.198,200> 
c 強制収容所  → 第5章 4節 強制収容所 
c レジスタンス  
d パルチザン  → パルチザン
エ.アジア、太平洋の戦争
 日本のインドシナ進駐 1940年6月、フランスがドイツに降伏すると、日本は中国戦線を早期に解決する好機と捕らえ、第2次近衛内閣がフランス領インドシナに進出して、蒋介石政権への支援ルートを遮断することをめざした。蒋介石政権は重慶に立てこもり、アメリカ・イギリスはそれに対する援助物資をベトナムのハイフォンに陸揚げして、雲南を経由して重慶に運んでいた(援蒋ルート)。日本はフランスのヴィシー政府に迫り、援蒋ルートの遮断を認めさせ、さらに9月インドシナ派遣軍を北部ベトナムに進駐させた。これに対してアメリカ、イギリス、オランダおよび国民党重慶政府は態度を硬化させ、対抗上日本はさらに41年7月、南部インドシナに派遣、ベトナム・カンボジア・ラオス全域に展開した。フランスの植民地支配に反発していたベトナムでは、一部宗教団体などに日本軍に協力する動きはあったが、フランスに代わる新たな軍事支配者としての日本に対する抵抗運動として、1941年5月、ホー=チ=ミンらの指導するベトナム独立同盟(ベトミン)が結成された。
a 仏領インドシナ北部 日本軍が1940年9月23日にベトナムのハノイに進駐。北部仏印進駐という。日本はかねてフランスにベトナムから重慶の中国国民党蒋介石軍への物資援助、いわゆる援蒋ルートの遮断を要求していたが、その年6月にフランスがドイツに降伏したことをうけ、直接武力行使に踏み切った。これはアメリカ、イギリスを硬化させ、緊迫をもたらした。ついで41年7月、日本軍は南部仏印進駐を行い、太平洋戦争突入に向かっていく。
b 日独伊三国同盟 1940年9月27日、ベルリンで調印された。36年に締結された、日独防共協定(翌年イタリアが参加し日独伊防共協定)での枢軸国三国の軍事的結束を、第2次世界大戦の勃発に対応してさらに強くしたいというドイツの要求と、中国進出後に深まったアメリカとの対立に備えたい日本の思惑が一致し、それにイタリアを加えて締結した軍事同盟。日本側は第2次近衛内閣の外相松岡洋右が推進役であった。内容は、
(1)ヨーロッパにおける独伊と、大東亜における日本の、それぞれの新秩序建設においての指導的地位を相互に認め、尊重しあうこと、
(2)そのための三国の相互協力と、いずれか一国が現在交戦中でない他国(アメリカを指す)に攻撃されたときは、三国はあらゆる政治的・経済的・軍事的方法により、互いに援助すること、
(3)前記の条項は三国それぞれとソ連との間の状態には影響を及ぼさないこと、
(4)有効期間は10年とすること、など。
c 日ソ中立条約 1941年4月14日、モスクワで調印された日本とソ連の条約で、相互に領土の保全および不侵略を約束し、締約国の一方が第三国から攻撃された場合は他方は中立を維持することを約したもの。有効期限は5年とされ、満期の1年前に締約国の一方から破棄の通告がなければ、さらに5年間、自動的に延長されることとなっていた。アメリカとの対決が不可避であると考えた第2次近衛内閣の外相松岡洋右は、北方の安全を確保した上で、南進作を採る必要があると判断し、まず日独伊三国同盟にソ連を引き込むことを策したが、バルカン半島進出を狙っていたドイツの反対で実現できなかった。松岡は直接モスクワに飛び、書記長スターリン、外相モロトフと交渉、スターリンは北樺太など領土上の利害が対立するので日本との提携をはじめは渋ったが、ドイツのバルカン侵出の動きを警戒し、それを牽制する意味からも日本との提携に踏み切った。 → ソ連の対日参戦
Epi. スターリン「これで日本も南進できる」 モロトフ外相との交渉で樺太問題で暗礁に乗り上げ、松岡洋右は帰国を決意した。その夜、スターリンから急な連絡があり翌日の会談となったところ、スターリンは領土問題を棚上げにして妥結を急いだ。調印式後の宴会でもスターリンは上機嫌で、松岡の乗る列車の発車時間を遅らせ、さらに駅頭に送りに来て抱擁し、「これで日本も南進できる」と述べた話は、あまりにも有名である。<林茂『太平洋戦争』中央公論社版日本の歴史25 1967>
d 仏領インドシナ南部 1941年7月、日本軍第25軍はフランス領インドシナ南部に進駐、ベトナム南部・カンボジア・ラオス全域に展開した。南部仏印進駐という。前年9月のフランス領インドシナ北部北部仏印進駐で、援pルートの遮断をしたが、それに対してアメリカ、イギリスなどが反発を強め、さらに援pルートをビルマから雲南に入るルートに変更した。日本軍はそれに対抗して、フランスのヴィシー政府に強要して「インドシナ共同防衛」を名目とする軍隊派遣を認めさせた。このような日本の南進策はつぎにマレー半島、シンガポール(以上イギリス領)、インドネシア(オランダ領)を脅威にさらすことになるので、イギリス、オランダが強く反発、いわゆるABCDラインが結成される。
e ABCDライン 東南アジアに進出した日本に対して形成された、アメリカ合衆国(America のA)、イギリス(Britain のB)、中国(China のC)、オランダ(Dutch のD)による日本包囲網のこと。特にアメリカ合衆国は、日本の大陸進出による中国での利権の侵害を恐れ、1939年7月に日米通商航海条約の破棄を通告、40年1月に失効したため、日米間の貿易はストップした。日本では南進論が強まり、40年9月の北部仏印進駐に続き、41年7月にフランス領インドシナ南部に進駐した。それに対して同年8月1日、アメリカ合衆国は日本に対する石油輸出の全面禁止を通告した。この7月以降に日本でこの言葉が使われるようになり、日本軍はABCDライン打破を叫んだ。インドシナはフランス領であったが、当時フランスはドイツに占領されてしまったため日本の敵とはされず、マレー半島、ビルマを植民地支配するイギリス、インドネシアを領有しているオランダが日本が排除すべき敵であるとされた。実際にこの4国の対日包囲網が存在したわけではない。
 太平洋戦争  
a 1941年12月8日 日本軍がハワイの真珠湾のアメリカ軍基地、シンガポールなどのイギリス軍基地を奇襲攻撃し、太平洋戦争が勃発した日。これによってアメリカ合衆国も第2次世界大戦に参戦、ドイツとも宣戦布告して本格的な世界戦争となった。なお、日本時間では12月8日であるが、アメリカのハワイ時間では12月7日にあたっている。アメリカ合衆国が「パールハーバーを忘れるな!」といっている日付は12月7日である。 
b 真珠湾  
c 対米宣戦  
 アメリカ合衆国の参戦 アメリカ合衆国は、1939年9月の第二次世界大戦勃発時には、戦争に参加しなかった。 第1次世界大戦でヨーロッパ列強の対立に巻き込まれてしまったという反省の感情が国内に強く、伝統的な孤立主義の外交政策を採らせることとなって1935年に中立法が制定されていたからである。しかし、ファシズム国家の台頭はアメリカが掲げる民主主義や人権といった理念の世界的な危機である考えられるようになり、その台頭をもたらした宥和政策は誤りであったという風潮が強くなった。特にアジア・太平洋における日本の勢力伸長は、アメリカの国益を大きく損なうと考えられるようになった。1940年11月にF=ローズヴェルト大統領は三選を果たすと、従来の孤立主義を大きく転換して1941年3月には武器貸与法を成立させてイギリスへの武器輸出を可能とし、また同年8月の大西洋憲章でイギリスとともにファシズム国家との戦争目的を明らかにし、戦後世界の国際協調を提起し、事実上の参戦状態であったが、全面的に参戦するにはさらに口実が必要であった。同年12月8日の日本軍の真珠湾攻撃はF=ローズヴェルトに格好の口実を与えたこととなった。後に、彼は日本の攻撃を事前に察知していたが、その事実を公表せず、奇襲攻撃という形にして「真珠湾を忘れるな!」というスローガンのもと、国民の戦意を高揚しようとしたのではないか、と疑われているがその確証はない。事実は日本大使館での最後通牒電文の翻訳に手間取ったことなごから、通告が遅れたらしい。 → アメリカの外交政策
Epi. 真珠湾奇襲の知らせに、「感謝し満足して」熟睡したチャーチル 日本軍が真珠湾を奇襲したという報告を受けたチャーチルは、「これで勝てた!」と感じたという。つまりアメリカが正式に参戦することになり、フランスが占領されているいま、イギリスにとって、唯一の絶大な同盟国が加わることになったからだ(チャーチルはソ連は最初から信用していない)。彼はその日、「感激と興奮とに満たされ、満足して私は床につき、救われた気持で感謝しながら眠りについた」という。<チャーチル『第二次世界大戦回顧録』3 p.56 河出文庫>
しかし、41年の独ソ戦開始とアメリカ参戦は、チャーチルの思惑を越えて、戦後世界史を規定する重要な変化をもたらした。つまり、ヨーロッパではドイツ軍と全面的に戦い、莫大な犠牲を払いながら勝利に導いたのがソ連軍であり、太平洋では日本と戦い勝利に導いたのはほとんどアメリカ軍の力であった。こうしてソ連とアメリカという二大軍事大国が戦後世界に大きな発言力を持つこととなり、イギリスは主役の座を失うことになった。
d マレー占領  
e 香港攻略  
f フィリピン侵攻 真珠湾攻撃の10時間後の1941年12月8日午後1時半、日本軍の爆撃機がルソン島中部のクラークとイバの米軍基地を爆撃、フィリピン侵攻が開始された。この爆撃でB17など米軍爆撃機をほぼ全壊させ、アメリカはフィリピンの制空権を無くした。日本陸軍は、12月22日にリンガエン湾などから上陸、翌年正月2日にマニラに入った。日本軍はバタアン半島とマニラ湾入り口のコレヒドール島に立てこもった米軍とフィリピン軍を攻撃して降服させた。この時生じた多数の捕虜を、日本軍は炎天下、60kmにわたって移動させ多数の犠牲者を出した。この「バターン死の行進」は戦後、日本軍の捕虜虐待事件として、本間雅晴司令官、山下奉文参謀長などが東京裁判で有罪となった。米軍のマッカーサー将軍は、I shall return. の言葉を残してオーストラリアに、フィリピン独立準備政府のケソン大統領はアメリカにそれぞれ脱出した。日本軍はフィリピンに軍政を敷き、43年にラウレルを大統領とする共和制政府を樹立させ、大東亜共栄圏の一部とした。一方日本軍に対する抗日武装勢力はフィリピン共産党の組織した抗日人民軍(フクバラハップ、略称フク団)を中心とした抗日ゲリラ戦を展開した。
g シンガポール占領 1942年2月15日、日本軍はシンガポールを占領。
 シンガポール シンガポール独立
日本軍のシンガポール軍政:日本軍は蒋介石政権=国民政府とつながる存在として華人たちを警戒の目でみており、「華僑に対しては、蒋介石政権より離反し、わが政策に協力同調せしむものとす」(実施要領)としていた。シンガポール攻防戦で、華人の義勇軍がもっとも勇敢に戦ったことは著名であり、日本軍のシンガポール入城後の華人虐殺事件はそれが遠因であったといわれる。協力の証として求めたのは資金供出であり、シンガポールを中心とするマラヤの華人に対して、5000万ドルの日本軍への寄付が強要された。華人たちは土地を売り、借金をして集めたが2800万史家集まらず、不足額は横浜正金銀行から華僑協会に貸し付け、その結果、5000万ドルの小切手が山下奉文軍司令官に「奉呈」された。<小林英夫『日本軍政下のアジア』1993 岩波新書 p.126>
 華僑虐殺事件 華僑が人口の多数を占めるシンガポールでは、抗日意識が強く、中国への献金ばかりでなく、日本軍の後方攪乱などを行った。日本軍はシンガポール占領後、「抗日」華僑7万余を検挙し、数千あるいは数万といわれる多数を処刑した。その処刑の仕方も残虐な手段がとられた。おびただしい多数の人々について短時間に正確な有罪の認定のできたはずがなく、報復的な大量虐殺という非難は免れない。<家永三郎『太平洋戦争』1986 岩波書店 p.214> 
h ジャワ・スマトラ侵攻 日本軍のオランダ領東インド攻略作戦は、1942年1月のタラカン島とスラウェシ島への上陸作戦から始まり、2月にはスマトラのパレンバンに落下傘部隊を降下させ、占領した。次いで3月にジャワ島の三カ所に上陸、5日に首都バタヴィア(現ジャカルタ)を占領、9日にオランダ軍が全面降伏した。
日本軍部は、スマトラ島マレー半島部のマレー人の種族的一体性を重視していた。そのため、軍政上は、スマトラはジャワから分断され、マレー半島と一体のもとして扱われた。これは、シュリーヴィジャヤマラッカ王国の伝統が、侵略者の都合で復活されたかりそめの栄光である。この政策は、占領後期には放棄され、戦後は、オランダが島々に、イギリスが半島に復帰するため、二つの植民地は別々の途を歩むことになる。<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.309>
i インドネシア占領 1942年3月から1945年8月まで、インドネシアに対する日本軍による軍政が行われた。日本は太平洋戦争の大義名分であるアジアの解放を実現し「大東亜共栄圏」を建設することにあったが、あわせて石油などの軍需物資を確保するためにインドネシアに進出した。インドネシアにもスカルノなどの民族主義運動は独立のために日本軍に協力する姿勢を示した。日本軍は祖国防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど軍事組織や隣組制度などを導入して統治に当たったが、軍政後半になると人的資源を「ロームシャ(労務者)」として動員し、軍事作戦に振り向けた。このような日本郡制に対し、いくつかの反日抵抗運動が起こっている。防衛義勇軍の反乱、米の供出を拒んだ農民の反乱、西カリマンタンの土侯らによるポンティアナック事件(軍事裁判で2130人が処刑されている)などである。<『インドネシアの事典』同朋舎 p.312,360> → インドネシア独立
Epi. 今も残るロームシャの悪夢 日本軍政下でインドネシア民衆の義務となったのが戦争遂行に徴用した「労務者」である。「各州は常に500人以上の労務動員が可能な態勢を整えていなければならなかった。この政策で駆りだされたジャワ人は20万とも30万ともいわれ、しかもその90%は帰還できなかったという。その多くがニューギニア方面の苦戦に投入され、放置されたのである。今日でも、ロームシャは、ケンペイとともに、インドネシア人の悪夢となっている。1973年にジャワで『ロームシャ』という映画が製作され、ごく一部で公開されたが、不思議なことにすぐ消えてしまった。日本商社が買い占めたのだというのが現地の噂である。」<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.315>
j ビルマ占領  
 大東亜共栄圏 1940年7月に成立した第2次近衛文麿内閣は、「基本国策要項」を決定、その中で「八紘一宇」を目標とする「肇国の大精神」にもとづき、「日満支(日本、満州国、中国)の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序」を建設することを掲げた。「大東亜の新秩序」とは、1938年の第1次近衛内閣が掲げた「東亜新秩序」を拡大し、東アジアに東南アジアを含めた地域で、日本の覇権の確立を目指したものであった。その「大東亜の新秩序」と同じ意味で「大東亜共栄圏」というキャッチフレーズを使ったのは松岡洋右外務大臣であった。その後この「大東亜共栄圏」は日本の戦争目的を表す言葉として多用されるようになり、日本軍の南方進出、さらに米英との対決から1941年12月8日の太平洋戦争への突入へと日本を導いていった。そして大東亜共栄圏に含まれる地域では、白人支配を排除する名目で、「皇民化政策」という日本人化の強制が行われた。<小林英夫『日本のアジア侵略』世界史リブレット p.53,73 山川出版社>
a 皇民化政策 1938年の「東亜新秩序」声明、1940年の大東亜共栄圏の構想のもとで、朝鮮、台湾などの旧来からの植民地と、太平洋戦争の進行によって日本領とされた東南アジアの諸地域で進められた日本による支配の強化策。民族歌、民族旗は禁止され、日本語教育がほどこされ、神社参拝や天皇崇拝が強要された。マレーシアやインドネシアなどイスラーム圏では宮城遙拝はメッカを礼拝するイスラーム教徒には特に受け入れがたいものであった。朝鮮や台湾では創氏改名が行われた。日本植民地支配下の台湾での皇民化政策について、次のような報告がある。
「武官総督制の復活にともない、本格的な皇民化運動が推進される。1937年4月1日から、台湾人の母語使用が制限され、新聞の漢文調も廃止された。乱暴にも、民衆の娯楽である伝統的演劇・音楽・武術なども上演と学習が禁止された。さらに台湾人の魂の領域にまで警察権力が踏み込み、伝統的宗教行事ならびに祭祀に対して制限と禁止を加えた。代わって日本語の強制使用、天照大神の奉祀と日本式姓名への改正運動(1940年2月11日)が、終戦直前まで強行された。そのいずれも、本格的侵略戦争に対応するために台湾人を日本の皇民に改造しようとした傲慢にして身勝手な営みにほかならなかった。」<戴國W『台湾』岩波新書p.80>
 創氏改名 日本に併合されていた朝鮮で1940年から強行された皇民化政策の一つ。朝鮮に固有な男系の血統による「姓」を日本式の家の呼称である「氏」に変えることで「家制度」を確立し、これにともなって法律上の「本名」は朝鮮式の「姓」から日本式の「氏」に改められた。<小林英夫『日本のアジア侵略』世界史リブレット p.72 山川出版社> → 台湾の創氏改名については李登輝の項を参照
 朝鮮人の強制連行 1939年〜45年までの間に、朝鮮から日本本土に強制徴用された労働者は推定72万に達している。また中国からも約4万人が主として華北から日本本土に移送された。「募集」や「官斡旋」で連れてこられたことになっているが、その実態は拉致と同じだったケースが多い。彼らは炭坑、鉱山、土木工事などで従事させられ、労働条件は劣悪であった。脱走や暴動も起こったが、失敗すれば見せしめのリンチを受けた。こうして朝鮮人6万余人、中国人7千人が死亡したと言われる。<小林英夫『日本のアジア侵略』世界史リブレット p.71 山川出版社>
 徴兵制(日本植民地での)日本植民地支配下の朝鮮では、日中戦争が進行中の1938年から志願兵制が導入され、1944年からは徴兵制が実施された。台湾においては1942年に陸軍が、43年には海軍が特別志願制を実施し、台湾が戦場となる可能性が強まった45年初頭以降は、徴兵制が実施された。徴兵制で動員された朝鮮人は21万人、台湾人は3万5千人に達した。<小林英夫『日本のアジア侵略』世界史リブレット p.73 山川出版社>
 従軍慰安婦  
 軍政 日本は太平洋戦争で占領した東南アジア諸地域に軍政を敷いた。占領軍が行政区画を設定して、それぞれ軍の参謀長が軍政監を兼任した。戦争の後半になると日本は「大東亜共栄圏」諸国に対して、日本占領後の独立を認め、1943年8月にはビルマ、10月にはフィリピンの独立を認めた。インドネシアに対しては独立を認めない方針であったが、戦況が悪化する中、民心をつないでおくため、44年9月に独立を認め、日本の指導のもとで独立計画が作成された。
 タイ(と第2次世界大戦)第2次世界大戦の時期のタイは立憲革命後のピブン政権下にあり、当初は日本軍と協力する姿勢を示した。1940年、ドイツ軍のパリ占領に乗じてタイ軍はカンボジアに侵攻、フランス軍と交戦し、日本の仲裁で領土回復に成功した。
日本軍が南部仏印に進駐し、連合国側はABCDラインの強化を打ち出すと、ピブンは中立を声明、世界に「平和を訴える」放送を行い、バンコクを無防備都市とすると宣言した。日本軍の侵攻を防ぐねらいであった。
ところが、1941年12月8日、日本軍はタイ南部のチュンポンなどに上陸、現地の軍と警察が交戦した。このとき、少年義勇兵が動員された。ピブンは直ちに停戦を命じ、軍政を行わずタイの独立と主権を尊重する替わりに日本軍の通過を認めた。続いて「日本・タイ同盟条約」を締結し同盟国となった。
1942年1月にはイギリス軍がバンコクを空爆、日本はビルマ侵攻を本格化させ、ピブン政権も英米に宣戦布告し、タイは枢軸側で参戦する形となった。ピブン政権は満州国承認、汪精衛政権承認など日本よりの姿勢を強め、1943年7月には日本の東条首相とのバンコク会談で、日本のビルマ侵攻に協力するかわりに、ビルマの一部とマレー半島の一部をタイ領に編入するという共同声明を発表した。ただ、同年11月の東京で開催された大東亜会議にはピブン自身は出席せず、代理を参加させた。一方、海外のタイ人の中に反日組織として「自由タイ」が結成された。
この間、日本はビルマ侵攻の準備を進め、泰緬鉄道建設を開始、東南アジア諸地域から集めた捕虜を使役し、多数の犠牲者を出した。タイ国会ではピブンの親日政策を批判するプリーディなどが自由タイと連携し、43年夏から抗日運動を開始、インドのイギリス軍や重慶の国民政府と連絡を取り始めた。44年7月にはピブンの首都移転案が国会で否決され、ピブンは辞任した。プリーディらは武装蜂起を計画したが、それを実行する前の45年8月15日、日本軍が降伏した。イギリスはタイを敗戦国として扱おうとしたが、アメリカはフランスと同様に扱い、タイの宣戦布告を不問とし、その戦争責任は問われないことになった。しかし、ピブンら対日協力者は戦犯として拘束された。<『タイの事典』p.197 市川健次郎>
Epi. タイの『少年義勇兵』 第2次世界大戦中、タイ軍と日本軍が交戦した頃はあまり知られていない。しかし、1945年12月8日、日本軍は中立を宣言していたタイに突如上陸した。ビルマへの侵攻に備えた軍事行動であった。このとき、上陸地点のチュンポンで日本軍と対戦したタイ軍の中に、少年義勇兵がいた。彼らは急きょ集められた14歳から17歳の少年たちであった。この事実を掘り起こして映画にしたのが、2000年にユッタナー=ムクダーサニット監督の『少年義勇兵』。戦争に直面した少年たちをみずみずしく描いた佳作である。チュンポンで暮らしていた日本人も重要な役割で描かれている。戦闘場面に出てくる日本兵は服装など実際とは違うようだが、アジアの人々にとって日本軍の侵攻がどのように思われていたのかを考えさせる作品である。現在、DVDで販売されている。
 泰緬鉄道 第2次世界大戦中に、日本軍がビルマ・インド侵攻作戦のために建設した、タイとビルマを結ぶ鉄道。泰はタイ、緬はビルマをあらわす。1942年6月から工事開始、43年10月に約415kmが開通した。この工事では日本軍が約1万2千、連合国軍捕虜が約6万5千、東南アジア日本軍占領地域からの徴用(実質的な連行)による労務者はマレー方面から8万、インドネシア方面から4万5千、ビルマ方面から18万、タイから数万、合計40万を超すと推定される。ジャングルの中の工事は難航を極め、捕虜の1万5千、労務者の半数が未帰還という大惨事となった。現在はタイ国鉄がその3分の1の路線で1日3往復の運行をしているという。
Epi. 『戦場にかける橋』 1954年にイギリスのデビット=リーンが監督、ウィリアム=ホールデン、アレック=ギネス、ジャック=ホーキンス、早川雪州らが出演した映画『戦場にかける橋』は、1943年のビルマでの日本軍がイギリス軍捕虜を泰緬鉄道建設に動員したことを描いている。捕虜となったイギリス軍将官(アレック=ギネス)は捕虜を鉄道建設の労務に動員することを国際法違反であると抗議するが、日本軍捕虜収容所長(早川雪州)はそれを無視して工事を急ぐ。所長の武士道精神に対抗してイギリス将兵の力を示すために、イギリス兵は結束して鉄道建設にあたり、完成にこぎ着ける。しかし捕虜収容所を脱走したアメリカ兵(ウィリアム=ホールデン)が密かにその橋を爆破しようと近づいてくる。このクワイ川という小さな河に架けられた、日本とイギリスの奇妙な合作による橋は、完成式典の日に・・・・・。戦争の愚かしさを示すラストシーンが悲しい。アカデミー賞作品賞、主演賞、監督賞をとり、主題歌クワイ川マーチも広く知られることとなった映画である。
 抗日武装闘争 日本の植民地支配に対する武装闘争で、主なものは次のようなものがある。
中国:国共合作によって、中国共産党の紅軍が蒋介石の統一指揮下に入り、華北で日本軍と戦った八路軍、さらに長江下流域で活動した中国共産党指導下の新四軍
朝鮮:朝鮮共産党の金日成が指導した朝鮮人民革命軍。
ベトナム:ベトナム共産党(ホー=チ=ミン)が中心となって結成された民族統一戦線であるベトナム独立同盟(ベトミン)。
フィリピン:ルソン島を中心に活動した抗日ゲリラ「フクバラハップ(フク団)」。戦後は米軍と戦った。
ビルマ:民族統一戦線として1944年反ファシスト人民自由連盟を結成し、抗日闘争を開始、戦後は反英闘争を展開し、独立後は政権を掌握した。
 日華基本条約 1940年、日本政府と中国の汪兆銘政府(南京政府)の間で締結された条約。日本は汪兆銘政権を中国の正統政権として承認することによって日中戦争の打開を図った。内容は両国の反共共同防衛をうたい、日本軍の華北・新疆・モンゴルへの駐兵権、日本による治安維持、日本船舶の航行権、資源開発での権利など広範な特権を認められた。また付属議定書などで日本人軍事顧問、技術顧問などの採用も定められており、汪兆銘政権が日本の傀儡政権であることが明確に示されている。1943年1月には南京政府はイギリス・アメリカに宣戦布告、10月にはこの条約も日華同盟条約と改められた。 
 日華新協定 日本政府は、1942年12月21日の御前会議で「大東亜戦争」完遂のため対支処理方針を決定、南京の国民政府(汪兆銘政府)の政治力を強化するとともに、重慶政府に対する和平工作は一切行わないとした。それをうけて南京政府は1943年1月9日、イギリスとアメリカに宣戦を布告、戦争完遂についての日華共同宣言が発せられた。同じ日、租界還付および治外法権撤廃に関する日華新協定が調印された。同年10月には先の日華基本条約を破棄して同盟条約を締結した。これらの措置により、形式的には、南京の国民政府は日本と対等の地位を得ることとなった。<中村隆英『昭和史T』1993 東洋経済 p.315>
 不平等条約撤廃(中国) 不平等条約の改正問題は、中国国民政府が北伐を終了させて中国統一を達成したことをうけて、1930年には関税自主権の回復が実現していた。 残る治外法権の撤廃についても交渉が始まったが、満州事変、日中戦争の勃発のため、中断された。租界の返還についても交渉が行われ、武漢政府は漢口の租界を実力で解放するなど行動に出たためイギリスは反発して上海租界の返還は遅れた。第2次世界大戦が始まると欧米列強は中国の協力を得るため、蒋介石政権に対し1943年1月に共同租界の返還、治外法権の撤廃などを認めた。一方日本は太平洋戦争の勃発に伴い、欧米の租界を占領し、同年10月、それを傀儡政権汪兆銘政権へ返還、また治外法権も返還した。<横山宏章『中華民国』中公新書1997 p.157-161> 
 北ベトナムでの大量餓死 日本軍が進駐した北部仏印(ベトナム北部)では、日本が米作地帯をジュート畑に転換したことと、日本軍がラオスへ備蓄米を輸送したため、すさまじい食糧不足となり、44年末から45年にかけて200万人近くが餓死したと言われている。<家永三郎『太平洋戦争』1986 岩波書店 p.221>
 戦局の転換  
a ミッドウェー海戦  
b 大東亜会議 1943年11月、東京で開催され、日本(東条英機)、中華民国(南京国民政府=代表汪兆銘)、タイ(ピブン首相は欠席、代理が出席)、満州国、フィリピン(ラウレル大統領)、ビルマ(バーモウ首相)の6ヵ国が参加した。インドはオブザーバーとして自由インド仮政府の代表(チャンドラ=ボース)が参加した。11月6日には「大東亜共同宣言」を発表、大東亜の解放と共存共栄、独立親和、互恵による経済発展、人種差別撤廃などをうたった。連合軍側は11月27日、アメリカ・イギリス・中国の三国首脳名でカイロ宣言を発し、日本の植民地解放を掲げた。
オ.ファシズム国家の敗北
 世界大戦の拡大  
a 枢軸国 第2次世界大戦でのドイツ・イタリア・日本の三国同盟を中心とした諸国を枢軸国 Axis powers といい、連合国と戦った。枢軸とは、車の軸のことで、中心にある力という意味。1936年10月に成立したナチスドイツとファシズムイタリアの協力関係を、ムッソリーニが「ベルリン=ローマ枢軸」と呼んだところから、そこから発展したファシズム国家の協力体制を枢軸国というようになった。同年、日本とドイツは日独防共協定を締結、翌37年にはイタリアが加わり三国防共協定が成立し、三国枢軸体制ができあがった。第2次世界大戦開始後の1940年、三国は事協力体制を強化するために三国軍事同盟を結成した。これによって枢軸国対連合国という二陣営の対立が決定的となった。
Epi. 蘇った?枢軸 アメリカ合衆国のG.W.ブッシュ大統領は、2002年1月の一般教書演説で、イラク・イラン・北朝鮮の三国を「悪の枢軸」と呼んで非難した。「枢軸」という古めかしい言葉が使われたことで世界は凍りついた。彼はこの三国は自由と民主主義の敵であり、かつてのドイツ・イタリア・日本のファシズム三国枢軸と同じであるという認識を示したのであった。それに対してイラク・イラン・北朝鮮の指導者はブッシュこそが悪魔だ、独裁者だと応酬し、世界の不安を増幅している。もっともキューバのカストロは、キューバとベネズエラ、ボリビア(いずれも反米政権)を「善の枢軸」と呼んだという。<スラヴォイ=ジジェク『人権と国家』2006 集英社文庫 p.31>
 ドイツ 
 イタリア 
 日本(と第2次世界大戦)1939年8月の独ソ不可侵条約の締結に対し、日本の平沼騏一郎内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」という声明を出して対処しきれず総辞職した。次に阿倍信行内閣にかわったところで9月1日のドイツのポーランド侵攻が始まり、第2次世界大戦が勃発した。阿倍内閣は日中戦争に全力であたるとしてヨーロッパの戦争には不介入を宣言した。次の米内光政内閣も親英米であったので参戦しなかった。しかし、次の近衛文麿第2次内閣(1940年7月〜)は「大東亜共栄圏」の建設を掲げ、そのもとで外務大臣松岡洋右がドイツ・イタリアと日独伊三国軍事同盟を締結して枢軸国との連携を推進し、一方でソ連とも日ソ中立条約を締結した上で南進の勢いを強くし、米英との対決姿勢を強めた。国内的には大政翼賛会を組織して全体主義体制を作り上げた。近衛第3次内閣のもとで駐米大使野村吉三郎とアメリカ国務長官ハルの間で日米交渉が続けられたが、日本の満州撤退を要求するアメリカに対して日本は同意せず、決裂した。次の東条英機内閣の時、1941年12月に日本軍が真珠湾奇襲を実行、ついに太平洋戦争に突入、アメリカ・イギリスと全面的な戦争に突入した。
b 連合国(第2次世界大戦)第2次世界大戦の時の「連合国」United Nations は、ドイツ・イタリア・日本などファシズム国家を枢軸国と言ったのに対して、アメリカ合衆国・イギリス・フランス・ソ連・中国などの反ファシズムで連帯した諸国を言う。1939年に大戦が始まった時点ではアメリカは参戦しておらず、またソ連もドイツと不可侵条約を結んでいたので、連合国として共同歩調はとられていなかったが、1941年6月に独ソ戦開始が開始され、8月F=ローズヴェルトチャーチルが首脳会談を行って大西洋憲章を発表しファシズムとの戦争という戦争目的を明らかにし、提携が強まった。同年12月の日本の真珠湾攻撃を受けてアメリカが参戦して太平洋戦争が勃発、という展開の結果、連合国が形成された。連合国は1942年1月1日、ワシントンにおいて、アメリカ合衆国・イギリス・ソ連・中国の4ヵ国を発議国とし、世界26ヵ国が集まって戦争目的をファシズム枢軸国の打倒とすることで一致し、連合国共同宣言を発表した。この「連合国」の参加国が51カ国に拡大して組織された機関が「国際連合」The United Nations である。 → 第1次世界大戦の「連合国」
 イギリス第2次世界大戦期のイギリス: 
 フランス 
 アメリカ合衆国 → アメリカ合衆国(第2次世界大戦) 
 中国 
 ソ連 
 連合国の総反撃  
ドイツ本土空爆 1942年春から、イギリス・アメリカの空軍によるドイツ本土空爆が本格化した。イギリス南東部の基地から飛び立った4基のエンジンを持ち、4〜5トンの爆弾を抱え、2500kmの距離を飛ぶ爆撃機が、戦闘機の護衛を受けて、連日連夜ドイツ本土の都市、工業地帯を空爆した。アメリカ軍が昼間、イギリス軍が夜間役割を分担し、時には一回の出撃で3000トン以上の爆弾が投下された。ドイツ軍はジェット機やロケット弾で対抗しようとしたが次第に物量でおされ、抵抗力を失った。イギリス・アメリカは航空機を失ってもカナダとアメリカ本土の工場でつぎつぎと製造することができたが、ドイツは国内の工場がすべて空爆され、生産が不可能であった。<『20世紀の戦争』朝日ソノラマ p.59>
 → ドレスデン爆撃
c 北アフリカ上陸  
マンハッタン計画 1938年にドイツのオットー=ハーンとフリッツ=シュトラースマンが核分裂を発見、それを兵器に利用すれば、莫大な破壊力を持つ原子爆弾を製造することができることが判った。1939年10月11日、高名な物理学者であったアインシュタインF=ローズヴェルト大統領に手紙を送り、原子爆弾の開発を急ぐよう進言した。アメリカ合衆国首脳は彼らの情報から、ドイツで原子爆弾が製造される危険性を感じ、その開発を急ぐこととなった。1939年に本格的な検討に入り、1942年6月、F=ローズヴェルト大統領は原爆製造を決定し、陸軍直轄のマンハッタン地区で開発されることとなった。そこでこの計画はマンハッタン計画と言われることとなった。開発はオッペンハイマーらの手によって進められ、ヨーロッパから亡命してきたフェルミ(ユダヤ系イタリア人)、ボーア(デンマーク人)、シラード(ハンガリー人)などの物理学者も協力した。45年7月に完成し、ニューメキシコ州ロスアラモスの砂漠で実験に成功、トルーマン大統領わずか3週間後に広島・長崎に投下することを決定した。 → 原子爆弾
Epi. 原爆投下に反対した科学者−『シラードの証言』 1939年8月、F=ローズヴェルト大統領に、原爆の開発を急ぐべきだと忠告した亡命科学者はハンガリー生まれのユダヤ人レオ=シラードという科学者だった。無名だった彼は自己の考えを大統領に知ってもらうため、著名な科学者であった同じユダヤ系のアインシュタインに頼んで、アインシュタインからの書簡という形で訴えたのだった。しかしシラードは、原爆の開発が進むうちに、そのすさまじい破壊力を戦争に使うことに疑問を持つようになり、45年5月にはドイツが降伏したため、原爆を対日戦に使用する必要はなくなったと考え、再びアインシュタインの紹介状を得て、トルーマン大統領(F=ローズヴェルト大統領は4月に死去)に直訴し、原爆投下に反対した。シラードが原爆投下に反対した理由は、それがソ連との核兵器開発競争の引き金となり、将来のアメリカの安全にとっても必ずしも益にならないと考えたからであり、核開発を個別の国で行われることの危険性を指摘し、国際管理の必要性を強調したのだった。しかし核開発のマンハッタン計画を推進していたオッペンハイマーらの多くの科学者は、原爆の投下が戦争を終わらせ平和を実現し、多くのアメリカの兵士の命を助けることになるという大統領と軍隊の決定を受け入れた。<レオ・シラード『シラードの証言』1982 みすず書房> 
a スターリングラードの戦い スターリングラードは時の独裁者の名前を冠した都市で、現在はボルゴグラードと改められている。ロシア南部のドン川とヴォルガ川が最も接近する地点にある工業都市。戦車、火砲などの大型武器の生産拠点であった。1942年8月末、ドイツ軍はスターリングラードを完全に包囲、たびたび市内への突入を試み凄惨な市街戦となったが、市民の抵抗で占領できなかった。11月、ドイツ軍(及び枢軸側のルーマニア軍)の外側にソ連軍が現れ、ドイツ軍を逆に包囲した。ドイツの現地指揮官は脱出をはかったが、ヒトラーは「撤退不可、現地を死守せよ」と命令、雪の中ドイツ軍は孤立することとなった。翌43年年1月、食料と弾薬が底をつき、ドイツ軍は降伏。30万のドイツ兵は、20万が死傷し、10万が捕虜となった。ソ連の収容所に連行されたドイツ兵捕虜は15年間抑留され、祖国に帰ったのはわずか6000名と言われている。このドイツの敗北は、第2次世界大戦の帰趨を決することとなり、以後ドイツ軍は後退を開始することとなる。43年7月、モスクワの南方のクルスクで、ドイツ軍は最新鋭の戦車を投入して大機甲部隊をソ連軍に向かわせ、起死回生をはかったが、地雷や対戦車砲によって阻まれ、失敗した。このクルスク戦車戦は史上最大の陸上の戦闘といわれる。<『20世紀の戦争』朝日ソノラマ など>
b ガダルカナル撤退 1942年8月、ガダルカナル島にアメリカ軍が上陸作戦を敢行、それに抵抗した日本軍守備隊との間で激しい戦闘が展開され、1943年2月に日本軍が敗北し、撤退した。ガダルカナル島はニューギニアの西方の小島で、太平洋での日本軍の最大に膨張した戦線上にあった。この戦いからアメリカ軍の反撃が開始され、太平洋上の島々を伝いながら北上していくこととなった。ガダルカナル戦は、日本守備隊に対する十分な武器・食料の補給が行われず、多くの将兵が悲惨な餓死を遂げたため、餓島といわれた。
 イタリアの無条件降伏 イタリアはギリシア、北アフリカ、地中海でイギリスに敗れ、ドイツ軍の支援でようやく戦線を維持していたにすぎなかったので、1943年早くも休戦を意図し始めた。7月9日の連合軍のシチリア上陸を受けると、25日に軍の一部が国王の了解を得てクーデターを決行し、ムッソリーニは失脚、監禁された。代わって成立したバドリオ内閣は9月8日に連合軍との休戦(降伏)を発表し、ドイツに宣戦布告した。ヒトラーは直ちにドイツ軍を派遣、イタリア軍を武装解除してローマを占領した。国王と政府はローマを脱出、イタリア軍は崩壊して、民衆がパルチザン闘争でドイツに抵抗するレジスタン運動が始まった。10月1日にナポリに侵攻した連合軍(アメリカ軍)はドイツ軍の抵抗にあって苦戦、イタリア戦線は膠着した。特に44年2月のモンテカシーノ(中世のモンテカシーノ修道院の所在地)の激戦は勝敗がつかなかった。1944年6月、連合軍がようやくローマを解放、パルチザン勢力はバドリオ内閣に代わる連立内閣を樹立した。ムッソリーニはドイツ軍によって救出され、北イタリアに親ドイツ政権をつくり、ファシズムを維持しようとしたが、次第にパルチザンに追いつめられ、1945年4月には逮捕され、処刑された。
a シチリア島上陸  シチリア島
b ムッソリーニ失脚1943年7月、イタリアのファシズム大評議会で不信任が決議されたため、ムッソリーニはやむなく辞職した。ムッソリーニはその後逮捕され、グラン・サッソという山中に監禁されたが、ドイツ軍に救出され、連合軍への抵抗を掲げて北イタリア社会共和国という傀儡政権を樹立した。しかしもはや国民の支持は全くなく、1945年4月にはパルチザンに捕らえられて夫人共々銃殺され、死後にミラノのガソリンスタンドに遺体が逆さ吊りにされた。
c バドリオ内閣   
d イタリア共和国  → 第16章 1節 戦後のイタリア
 連合国の戦後対策 連合国が大戦中に行った、大戦の指導と戦後処理についての話し合い(首脳会談)は、重要な、大西洋会談・カイロ会談・テヘラン会談・ヤルタ会談・ポツダム会談を含め、次のものがある(開催順)。
○1.大西洋上会談 41年8月 チャーチル・F=ローズヴェルト 大西洋憲章の発表
 2.アルカディア会談(ワシントン) 41年12月 チャーチル・F=ローズヴェルト 太平洋戦争勃発への対応と対ドイツ作戦、合同参謀本部の設置、連合国共同宣言など
 3.ロンドン会談 42年7月 北アフリカ作戦
 4.モスクワ会談 42年8月 チャーチル・スターリン 第2戦線問題
○5.カサブランカ会談 43年1月 チャーチル・F=ローズヴェルト シチリア上陸作戦の検討、無条件降伏の原則の表明
 6.トライデント会談(ワシントン) 43年5月 チャーチル・F=ローズヴェルト フランス上陸作戦の日程決定
 7.ケベック会談 43年8月 フランス上陸作戦の確認
 8.モスクワ会談 43年10月 アメリカ、イギリス、ソ連三国の外相会談 国際連合設立のモスクワ宣言発表
○9.カイロ会談 43年11月23日〜27日 F=ローズヴェルト・チャーチル・蒋介石 対日戦争の戦後処理方針
○10.テヘラン会談 43年11月28日〜12月1日 F=ローズヴェルト・チャーチル・スターリン(最初の三首脳会談) 第2戦線問題とポーランド問題。ソ連日本参戦問題。
○11.ブレトン=ウッズ会議 44年7月1日 連合国の経済担当者 戦後の国際経済体制を協議
○12.ダンバートン=オークス会議 44年8月〜10月 連合国の法律専門家 国際連合規約の草案を検討
 13.モスクワ会談 44年10月 チャーチル・スターリン 英ソによるバルカン・ギリシアの勢力分割(パーセンテージ協定)
○14.ヤルタ会談 45年2月 F=ローズヴェルト・チャーチル・スターリン 国際連合の設立、対独戦後処理、ポーランド問題。秘密協定としてソ連の日本参戦決定。ソ連の千島占領。
○15.サンフランシスコ会議 45年4月〜6月 連合国50ヵ国 国際連合憲章の採択
○16.ポツダム会談 45年7月〜8月 トルーマン・チャーチル(途中からアトリー)・スターリン 日本への無条件降服勧告であるポツダム宣言と、対ドイツ戦後処置に関するポツダム協定が成立。
重要会談のポイント 連合国首脳による戦後処理のための会談は、実際には上記のようにたくさんあるが、重要なものは○印をつけたものであり、それらは出席した首脳、宣言・協定の内容をきちんと覚えておくこと。また、関連する外相会議や連合国全体会議も抑えておく必要がある。重要会談の順番を覚えるおまじないは、「大西洋上で傘借りて、豚がやる散歩」。
 F=ローズヴェルト  → 第15章 4節 フランクリン=ローズヴェルト
 チャーチル  → チャーチル
 アルカディア会談 1941年12月22日〜42年1月14日、太平洋戦争勃発、アメリカの第2次大戦参戦を受けて、チャーチルが渡米、F=ローズヴェルト大統領との大西洋会談に次ぐ二度目の会談を行った。チャーチル渡米を極秘にしたので、会談名を暗号にした。英米連合軍の合同参謀本部を設置し、その主作戦をヨーロッパとすることを決定。また「連合国共同宣言」を作成することが提案された。
 連合国共同宣言 日米開戦直後の1942年1月1日、ワシントンにおいて、アメリカ合衆国・イギリス・ソ連・中国の4ヵ国を発議国とし、世界26ヵ国が発した共同宣言。草案は、F=ローズヴェルト(米)、チャーチル(英)、リトヴィノフ(ソ連)、宋子文(中国)が起草した。26ヵ国とは、
 アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中国、オーストラリア、ベルギー、カナダ、コスタ・リカ、キューバ、チェコスロヴァキア、ドミンゴ共和国、エル・サルバドル、ギリシア、ガテマラ、ハイチ、ホンデユラス、インド、ルクセンブルグ、オランダ、ニュージーランド、ニカラグア、ノルウェー、パナマ、ポーランド、南アフリカ、ユーゴスラヴィア
これらの国々が「連合国」を構成し、「枢軸国」である日本、ドイツ、イタリア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、フィンランド、タイの陣営との二つに分かれた世界大戦となった。この「連合国(United Nations)」は1945年6月成立の「国際連合」に継承される。
 カサブランカ会談 1943年1月14日〜26日、モロッコのカサブランカで開催された、イギリス首相チャーチルとアメリカ大統領F=ローズヴェルトの会談。北アフリカ戦線での連合軍の勝利が確定的となり、次の作戦目標をどこにするか決定することが目的であった。協議の結果、シチリア島への上陸作戦を行うことで一致した。この会談には、北アフリカでドイツと戦ったフランス軍のジロー将軍と、ロンドン亡命政府のド=ゴールも招かれ、両者の協調がはかられた。
Epi. L=ローズヴェルトのフライング発言「無条件降伏!」 カサブランカ会談で、枢軸国に対して「無条件降伏」を求めることが決定された、とされている。またその言葉がドイツや日本の死にものぐるいの抵抗を呼び起こし戦争を長びかせたとも批判された。ところが、このことばは予定された共同コミュニケには無く、会談後の記者会見でのローズヴェルトがいきなり発言し、チャーチルがとっさに口裏をあわせたものであった。以下、チャーチルの回顧談による。
「一月二十四日の記者会見で、大統領がわれわれが敵全体に対して”無条件降伏”を強いるだろうというのを聞いて、私はいささか驚いた。・・・またコミュニケが作成されたときの三軍参謀首脳の会議に全部出席していたイズメー将軍も驚いた。大統領の後を受けた演説で、もちろん私は大統領を支持し彼が述べたことに同意した。このような場合とこのようなときにおいて、われわれの間に少しでも相違があったり、あるいは少しでも省略することでもあれば、それはわれわれの戦争努力に害を、あるいは危険をさえもたらすことになったろう。・・・」
なぜローズヴェルトの口からこの言葉が飛び出しかというと、原注によれば、このときフランスのジローとド=ゴールの対立を南北戦争のグラントとリーの間を取り持つのと同じぐらい困難だと考えていた彼が、グラントが Old Unconditional Surender と言われていたことを思い浮かべ、それを口に出してしまったらしい。<チャーチル『第二次世界大戦回顧録』3p.296 佐藤亮一訳 河出文庫> 
 カイロ会談 第2次世界大戦の最中、1943年11月23日〜27日、エジプトのカイロで開催された会談。アメリカ大統領F=ローズヴェルト、イギリス首相チャーチル、中国主席蒋介石が参加。会談の議題が対日戦争であったので、日本と中立条約を締結していたソ連は参加しなかった。米英中の三国は、日本との戦争への対応について話し合い、チャーチルはインド・ビルマ方面の重視を主張したが、ローズヴェルトが蒋介石援助を優先することを譲らなかった。日本の無条件降伏後の扱いについては、中国大陸での領土の返還、朝鮮の独立などで合意に達し、12月1日、カイロ宣言として発表された。終了後直ちに場所をテヘランに移し、蒋介石は抜けてスターリンが加わり、主としてヨーロッパ戦線における第2戦線問題とポーランド問題を話し合うため、テヘラン会談を続けた。
f 蒋介石  → 蒋介石
g カイロ宣言 1943年12月1日、カイロ会談の合意事項として発表された、アメリカ大統領F=ローズヴェルト、イギリス首相チャーチル、中国主席蒋介石が署名した、無条件降伏後の日本に対する処理方針についての宣言。
1)日本は満州、台湾、澎湖島を中国に返還すること。
2)日本は1914年以来獲得した全ての太平洋上の島嶼を手放すこと。
3)朝鮮は、適当な時期に独立すべきであること。
などが述べられており、後のポツダム宣言のもとになった。
h テヘラン会談 第2次大戦の最中、カイロ会談に続いて、43年11月28日〜12月1日にイランの首都テヘランで開催された。アメリカ大統領F=ローズヴェルト、イギリス首相チャーチル、ソ連首相スターリンの三首脳による最初の会談。三国の大戦遂行の決意、イランの独立と領土保全などどともに、いわゆる第2戦線問題ポーランド問題が討議された。第2戦線問題とは、ドイツとの長引く戦闘で疲弊していたソ連のスターリンが、西側の北フランス戦線で連合国側に反攻を実施することを要請したのに対し、チャーチルは北フランス上陸はすぐには無理であると消極的でるとして反対し、かわってバルカン方面で反撃に出ることを主張した。ソ連のバルカン方面への進出を警戒したからである。しかし、ローズヴェルトはソ連を対日戦に引き込みたかったのでスターリンの要請に理解を示し、1944年5月に北フランスでの上陸作戦を実施することを約束した。それにたいしてスターリンは、ドイツ降伏後の対日参戦をローズヴェルトに約束した。
ポーランド問題ではチャーチルは積極的な打開を図ったが、ポーランド亡命政府の反対を受けて問題を持ち越した。また国際的平和機関の樹立については、10月のモスクワ宣言を受け、ローズヴェルトが米英ソ中の4大国による紛争解決のための強制機関をつくるという「四人の警察官」構想が提案し了承された。
 スターリン  → 第15章 2節 スターリン
 ポーランド問題 第2次大戦末期に起こった、大戦後のポーランド国境をどこに置くかをめぐる、主としてイギリス(チャーチル)とソ連(スターリン)の対立。第2戦線問題と共に連合国内部の深刻な対立案件として話し合いが続けられた。1943年テヘラン会談では、チャーチルはソ連赤軍によってポーランドが解放されると、東欧全体へのソ連の影響力が増すことをおそれ、その前にポーランド国境を確定することが有利と考え、西側をオーデル=ナイセ線、東側をカーゾン線(ヴェルサイユ条約でのポーランド・ロシアの国境線)で妥協しようとした。しかしロンドンのポーランド亡命政府(ミコワイチク首相)は国境をさらに東寄りにすることを譲らず、問題を持ち越した。
 カチンの森事件  ワルシャワ蜂起  ヤルタ会談 → ポーランド(戦後)
 ワルシャワ蜂起 1944年8月1日から始まったドイツ支配下のポーランドの首都ワルシャワにおけるポーランド国内軍と市民による反ドイツの蜂起。63日にわたる戦闘の末、10月2日にドイツ軍によって鎮圧され、兵士1万8千と市民約15万が死んだ。当時ソ連軍がワルシャワに迫っていたが、結局ソ連軍はワルシャワ蜂起を見殺しにしたと言われる。当時ソ連軍は東からドイツ軍を追撃し、ワルシャワに迫っていたが、ロンドンのポーランド亡命政府はソ連軍によってワルシャワが解放されると戦後の指導権をソ連に握られると考え、国内軍に指示して蜂起を早めたのだった。またソ連はカチンの森事件でポーランド亡命政府と対立しており、進撃のスピードを緩め、蜂起軍を救援しなかった。もともと無理な蜂起でっったこととソ連軍の支援がなかったため、蜂起は63日で鎮圧され、ポーランド兵1万8千、市民15万が死んだ。国内軍は再び地下に潜り、ロンドンの亡命政府の立場は弱まった。
Epi. ワルシャワ蜂起の悲劇 「八月一日、蜂起。決起兵士三万数千人のうち、十分な武装のできた者は一割ほどだった。それでも八月四日までに国内軍は市の大半を解放した。だがそのとたんにソ連の放送は調子を変えた。ロンドン陣営に対する非難を再開する一方で、八月一日から一三日間、ワルシャワ蜂起について一切言及しなかった。他方、第一白ロシア軍団の破竹の進撃も、急に停止した。英米両国は大規模な空輸作戦の遂行のためソ連空軍基地の使用を申請したが、認められなかった。・・・一〇月二日、ワルシャワは六三日間にわたる闘争ののち降伏した。蜂起軍兵士一万八〇〇〇人の他に、ともに戦った約一五万人の市民が死んだ。ポーランド人の多くは今でも彼らを「最良の息子たち」と呼び、いとおしんでいる。ヒトラーは、ワルシャワの完全な破壊を命令した。建築物の約八割が爆破され、ワルシャワは文字どおり瓦礫の山と化した。」<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』三省堂選書 1980 p.198>
 パーセンテージ協定 1944年10月、チャーチルとスターリンによって締結された、イギリスとソ連のバルカン半島における勢力分割協定。東欧およびバルカンでのドイツ軍の敗北に伴い、ソ連がこの地域で勢力を強めることを恐れたイギリス首相チャーチルは、1944年モスクワでスターリンと会談、まず戦後のバルカンとギリシアにおけるイギリスとソ連による分割を、次のようなパーセンテージを提示して提案した。
ルーマニア:ソ連が90%、イギリスが10%、ギリシア:イギリスが90%、ソ連が10%、ユーゴスラヴィアとハンガリーは英ソそれぞれ50%ずつ、ブルガリアはソ連が75%、その他の国が25%。この協定はパーセンテージ協定(百分率協定)といわれ、アメリカを除いてバルカンの分割を策する英ソ両国の思惑が一致して成立した。相変わらず、当事者には知らされずに、大国間でことが決せられた。
Epi. 「パーセンテージ協定」でのチャーチルとスターリンの応酬 チャーチルは自著『第二次世界大戦』で正直にこのときのいきさつを書いている。チャーチルは発言がロシア語に訳され、スターリンがそれを聞いている間に、上記のパーセンテージをメモにして彼の前へ押しやった。「彼は青鉛筆を取り出して大きな印をつけ、われわれの方へ紙を戻した。これを紙に書くほどの時間もかからずに、すべてが決まったのである。・・・この後、長い沈黙が続いた。鉛筆で書かれた紙片は机の中央に置かれたままだった。ついに私が口を開いた。”何百万の人々の運命に関する問題を、こんな無造作なやり方で処理してしまったようにみえると、かなり冷笑的に思われはしないだろうか? この紙は焼いてしまいましょう”、”いや、取っておきなさい”とスターリンが言った。」<チャーチル『第二次世界大戦』4 p.294 佐藤亮一訳 河出文庫>
 ヤルタ会談 1945年2月4日〜11日に開催された、第2次世界大戦の戦後処理に関して開催された連合国首脳会談。ヤルタはロシアのクリミア半島にある保養地として有名なところ。参加者はイギリス首相チャーチル、アメリカ大統領F=ローズベルト、ソ連首相スターリン。三国による戦後処理についての協議が行われ、国際連合の設立、ドイツの戦後処理などを決定したが、ポーランド・バルカン半島の処置をめぐってはイギリスとソ連の意見が対立した。2月、ヤルタ協定を発表して終了。F=ローズヴェルトは会談中から病気であり、帰国後の4月に死亡した。このヤルタ会談によって、第2次世界大戦後の世界政治のあり方=国際連合の設置と米ソ二大陣営の対立という、ヤルタ体制ともいわれる戦後体制を作り上げた。ここから始まる米ソを軸とした東西冷戦構造は、1989年のアメリカのブッシュ大統領(父)とソ連のゴルバチョフのマルタ会談まで継続することとなる。
 ヤルタ協定 1945年2月発表の、ヤルタ会談で成立した協定。主な決定事項は次の通り。
(1)国際連合の設立:45年4月25日にサンフランシスコで連合国の国際会議を開催し憲章を決めること、安全保障理事会で大国の拒否権を認めること。
(2)ドイツの戦後処理問題:ドイツの無条件降伏の確認、その戦後処理では米・英・ソ・仏の4ヶ国で分割管理すること、2年以内にその戦力排除と賠償取立てを決定すること、戦争責任者を処罰すること。
(3)東欧諸国問題:ポーランドの臨時政府を民主的基盤のうえに改造し、すみややかに自由選挙を行うこと、ドイツから解放された諸国に主権と自治を回復させ、民主的な政府を樹立させること。
(4)ソ連の対日参戦問題:ソ連はドイツの降伏後3ヶ月以内に対日戦に参戦すること、その条件は南樺太及び千島列島のソ連帰属、旅順租借権のソ連による回復、大連に関するソ連の優越的地位、南満州および東支鉄道経営へのソ連の参加権、外蒙の現状維持など。
この協定によって、米ソ2大国による世界支配という大戦後の「ヤルタ体制」が形成されたという大きな意義をもつ。なお、第4項は、秘密条項であった。
 ヤルタ体制 1945年2月の連合国首脳会談であるヤルタ会談で合意されたヤルタ協定によってつくりだされた、国際連合の枠の中での、アメリカ合衆国とソ連という二大国の力の均衡という、第2次世界大戦後の「冷戦」時代の国際秩序を、ヤルタ体制という。ナポレオン戦争後のウィーン体制、第1次世界大戦後のベルサイユ体制に倣ったものである。このヤルタ体制は、大きく変動しながら、枠組みそのものは1989年の米ソ首脳のマルタ会談による「冷戦終結宣言」まで続き、「ヤルタからマルタへ」と言われた。
 サンフランシスコ会議  → 第16章 1節 サンフランシスコ会議
 国際連合憲章  → 第16章 1節 国際連合憲章
 ドイツの降伏  
a ノルマンディー上陸作戦 1944年6月5日、連合軍のアメリカ、カナダ、イギリス軍は、フランスのノルマンディー海岸に大規模な上陸作戦を敢行した。その兵力は1日だけでも約10万人、それを5000隻の艦艇と、1万2000機の航空機が支援した。これは「オーバーロード(大君主)作戦」と呼ばれ、アメリカのアイゼンハウアー元帥が指揮を執り、1週間で50万の兵員を上陸させた。ドイツ軍はロンメル元帥が指揮し、30万の兵力と1000台の戦車で迎え撃ったが、艦砲射撃と空爆によって有効な反撃ができず、連合軍の上陸を許した。ドイツ軍はやむなく撤退したが、的に損害を与えながらの撤退戦術で、アメリカ軍に大きな損害を与え、アメリカ軍の当初半年でドイツは降伏すると予測していたが、実際には1年かかることとなった。
1944年12月、ドイツ軍は、西部戦線のアルデンヌに残存戦力を結集し、最後に作戦を敢行、一気に挽回して補給の要地であるベルギーのアントワープまで押し戻そうという「バルジ作戦」(バルジとは「突出」の意味)を敢行したが、10:1の空軍力の差で進撃は食い止められ、45年1月に両軍約50万の死者を出し、西部戦線最後の会戦は終わった。<『20世紀の戦争』朝日ソノラマ p.61>
 ド=ゴール  → ド=ゴール
 ドレスデン空襲 1945年2月13〜14日のアメリカ・イギリス両空軍のドレスデン空襲では、絨毯爆撃で都市部は完全に破壊され、6万人の犠牲者が出た。アメリカ軍・イギリス軍によるドイツ本土空爆の中の最大のもので、ドレスデンは「ドイツのヒロシマ」と言われている。 
 ヒトラー自殺  
h ベルリン陥落  
 日本の無条件降伏  
a サイパン 1944年6月、アメリカ軍が上陸、日本軍との激しい戦闘となり、7月7日に守備隊は玉砕した。その際、サイパン在住で戦闘に巻きこまれた多くの民間の日本人が、島の北端の崖から身を投げて自殺するという痛ましい最期を遂げた。サイパン島を占領したアメリカ軍は、ここを拠点として日本本土への空爆を開始することとなる。日本ではサイパン島の陥落は国防上重大な敗北と捉えられたので、東条英機首相兼陸相が責任をとって辞任、小磯国昭陸軍大将が内閣を継承した。 
b レイテ  
c フィリピン  
d 沖縄 1945年3月26日、アメリカ軍が沖縄島に上陸、6月23日まで戦闘が続いた結果、守備隊約10万が玉砕。また一般の民間人も約10万人の犠牲を出した。アメリカ軍の捕虜となることを恐れた民間人は、女子学徒隊のひめゆり部隊のように集団自決する人びとが相次いだ。また各地で軍の強制によって民間人が集団自決に追いやられる悲劇が生じた。日本国内で唯一、アメリカ軍との地上戦となった沖縄は、広島・長崎を初めとする本土空襲と共に日本の敗戦に至る大きな犠牲となった。そして、戦後はアメリカ軍の占領がそのまま続き、日本の独立回復後も施政権はアメリカが継続して持っており、ようやく1972年に施政権が返還されたが、アメリカ軍基地の多くはそのまま存続している。
 東京大空襲 1945年5月10日未明、マリアナ諸島の基地から飛び立ったアメリカ空軍のB29爆撃機344機の大編隊が東京を空襲。都心から東側にかけて、焼夷弾による絨毯爆撃が行われた。わずか数時間の間に、死者10万人以上、罹災者100万人という大きな被害を与えた。この東京大空襲を皮切りに、アメリカ空軍による日本の主要都市への爆撃は、川崎・横浜・名古屋・大阪・尼崎・神戸(京都は除外された)の7都市に対して行われ、さらに地方都市に拡大された。これらの都市空襲は、軍事施設ではない一般の居住区に対する無差別爆撃によって戦意の喪失をねらった戦略爆撃(広島・長崎への原爆投下もその延長上にあった)であり、人道的に許されない国際法違反であった。日本軍による錦州爆撃(31年10月)、重慶爆撃(38年〜41年)、ドイツ軍によるゲルニカ爆撃(37年4月)、アメリカ軍によるドレスデン爆撃(45年2月)などが都市に対する無差別爆撃として実行された。
Epi. 日本政府から叙勲された東京大空襲の司令官 アメリカ空軍の東京大空襲で無差別爆撃を命じた指揮官はカーティス=ルメイ将軍であったが、かれは戦後も昇進し空軍の最高司令官になる。後に、日本政府から勲章を授与されている。その理由は、日本の航空自衛隊創設に大きな功績があったからだという。
 ポツダム会談 1945年7月17日〜8月2日、ベルリン近郊のポツダム(プロイセンのフリードリヒ大王の造営した離宮であるサンスーシ宮殿の所在地として有名)で開催された、アメリカのトルーマン大統領(ロースヴェルトは4月に病死))・イギリスのチャーチル(期間中にイギリスの選挙で保守党が敗れたため首相を辞任、代わって労働党党首アトリーが首相となり、途中から参加した)・ソ連のスターリン書記長の三者による、ドイツの戦後処理、日本についての無条件降伏勧告と戦後処理方針が話し合われた。この会談の会期中の7月26日に、日本に対する無条件降伏の勧告であるポツダム宣言が出された。ポツダム宣言にはソ連は日本に宣戦していなかったので参加せず、中国の蒋介石の同意を得て加えた。最終的に米英ソ三国首脳は8月2日にポツダム協定を発表し、対ドイツ処置について一応の合意を見たが、国境問題など大きな問題の解決を先延ばしにし、ドイツ分断という禍根を残すこととなった。 → ドイツの分断
Epi. 「赤ん坊は申し分なく生まれました」 1945年7月17日、ポツダム会談に臨んでいたアメリカのトルーマンとイギリスのチャーチル(まだ首相を交替していなかった)の下に、メモが届けられた。それには "Babies satificatority born" と書かれていた。それはアメリカが原子爆弾の実験に成功したという意味であった。チャーチルとトルーマンはこれでソ連の力を借りなくとも日本を降伏させることが出来ると確信したが、偉大な同盟者スターリンにも実験成功を伝えなければならないと判断した。7月24日の会談の後の雑談で、トルーマンはスターリンに「新型爆弾」が完成したと伝えた。スターリンは特に驚いた様子もなく陽気な態度を変えず何も質問しなかったという。<チャーチル『第二次世界大戦』4 河出文庫 p.431-440>
 トルーマン アメリカ合衆国第33代大統領(民主党)。フランクリン=ローズヴェルト大統領の副大統領であったが、ローズヴェルト死去によって1945年4月、大統領に昇格した。ポツダム会談に臨んで対日政策を連合国と協議、日本に無条件降伏を勧告する。そして広島・長崎への原爆投下を決定、戦争終結を実現すると共に、戦後のソ連=共産圏との厳しい対立を現出させた。1947年のトルーマン=ドクトリンで共産圏に対する「封じ込め政策」を進め、1950年朝鮮戦争が勃発すると、かつてナチスのズデーテン進駐を傍観し大戦に発展してしまったことを反省するという理由で、即座に米軍の派遣を決定した。しかし、現地のマッカーサー司令部が原爆使用、中国本土爆撃を主張すると、イギリスなどの反対もあってマッカーサーを解任、53年の講和を実現させた。国内政策では、F=ローズヴェルトのニューディール政策を継承し、「フェアディール」(公正な扱い)を掲げ、再選されて53年まで務めたが、議会は共和党が多数を占め、保守化傾向が強く、見るべき成果を上げることはできなかった。朝鮮戦争で東西対立が深まる中、国内ではマッカーシズムによる「赤狩り」(共産主義者摘発)が行われ、多数の犠牲を出した。
 アトリー  → 第16章 1節 アトリー
 ポツダム宣言 1945年7月26日に発表の、ポツダム会談で合意した、アメリカ合衆国、イギリスの2カ国首脳に、中国の蒋介石が同意して、三国首脳名で日本に対する無条件降伏を勧告した宣言。ソ連はポツダム会談には参加していたが、この時点では日ソ中立条約が有効で、日本と交戦状態にはなく、署名はしなかった。ソ連は参戦後の8月8日に同宣言の署名国となった。
1)日本国民を欺瞞し、世界征服の挙に出させた権力及び勢力の永久除去。
2)平和・安全・正義の新秩序ができ、戦争遂行能力の破砕が確認されるまで、連合軍が占領する。
3)日本の主権は、本州・北海道・九州・四国と連合国の指定する小島に局限される。
4)日本軍隊の完全な武装解除。
5)戦争犯罪人の処罰と民主主義的傾向の復活強化の障害の除去。
6)日本経済と産業の維持の保証、再軍備産業の禁止。
次ぎに、これらの目的が達成され、責任ある政府が樹立された時点で占領軍は撤退すると述べ、「我らは日本国政府がただちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、・・・右以外の日本国の選択は迅速かつ完全なる破壊あるのみ」と迫った。
 広島・長崎 1945年8月6日に広島に投下され、死傷約20万人、ついで9日に長崎に投下され、死傷者8万人。人類史上最悪の一瞬であった。アメリカは原子爆弾の開発を「マンハッタン計画」と称して1945年7月に完成させ、3週間もたたないうちに投下した。原爆の開発を急いだのは、ドイツ側にも原子爆弾開発の情報があったからであり、またその使用を急いだのは、戦後のソ連と駆け引きを有利に進めるためであったというのが真相であるようだ。アメリカは公式には原爆の使用は日本を降伏させ、これ以上戦争の犠牲を増やさないようにするためにやむを得なかった、という見解を現在もとり続けており、謝罪はない。
 原子爆弾  → 第17章 4節 原子爆弾
 ソ連の対日参戦 1945年8月8日、ソ連は対日宣戦布告を行い、翌9日、一斉に150万の軍が国境を越えて満州に進撃した。これはアメリカ・イギリスの要請を受けて合意したヤルタ協定に基づいての行動であった。日ソ間には日ソ中立条約(不可侵条約)があったが、4ヶ月前の4月5日に、ソ連側から条約期限延長拒否の通告があったものの、破棄通告は1年前とされていたので日本にとっては不意打ちを受けたこととなった。関東軍はほとんど抵抗できず、10万人の死傷者、20万が捕虜となり、シベリアに抑留された。同じく、千島列島にもソ連軍は侵攻し、15日以降も戦闘行為を継続し、日本固有の領土であった歯舞・色丹・国後・択促の4島を占領した。9月3日までに満州・樺太・千島列島・北方4島全域を制圧した。
→ 北方領土問題
 中ソ友好同盟条約 1945年8月14日(日本の敗戦の前日)にソ連のスターリンと中国の国民政府(重慶)蒋介石の間で締結された条約。連合国と協力して日本と戦うこと、日本の侵略戦争に対して相互に援助すること、などどともに、中国の東三省(満州)
の領有とソ連の大連・旅順と長春鉄道に対する権益の継承を確認し、モンゴルの独立と国境線の画定を交換公文で承認した。
この条約の締結にはソ連と重慶政府の対立回避を願うアメリカの調停があった。またソ連はこの段階ではまだ中国共産党が中国の勝者となるとは考えておらず、重慶政府と交渉相手と考えていた。<『世界史史料』10 歴史学研究会編 2006 岩波書店 p.407-408>
この4年後の1949年に中華人民共和国が成立。さらに翌1950年2月、ソ連と中華人民共和国の間に、ほぼ同内容の中ソ友好同盟相互援助条約が成立し、中ソ友好同盟条約は廃棄された。なお、大連・旅順、長春鉄道の権益などは後にソ連が放棄を表明する。
 ポツダム宣言受諾 日本政府はポツダム宣言を受諾は御前会議(昭和天皇の前での会議)において激論の末、8月10日午前2時半に、「国体護持」を条件に受諾を決定した。「国体護持」とは天皇制維持ののことで、このまま戦争を続ければソ連参戦により共産主義の影響が及んで天皇制が崩壊することを時の為政者は最も恐れた。またアメリカ国内の一部に、天皇制擁護の声(知日派の国務次官グルーは日本に終戦を受け入れさせるには天皇制存続を認め、戦後の再建にもその方がアメリカにとって有利であるとトルーマン大統領に具申していた)があることも情報として得ていた。東郷茂徳外相らは「国体護持」のみを条件としてポツダム宣言受諾を主張したが、阿南惟幾陸軍大臣らは自発的な武装解除、連合軍の本土進駐の回避、戦犯の自主的処罰の3条件を加えることを主張し、無条件降伏に反対した。鈴木貫太郎首相は最後に昭和天皇の判断、いわゆる「聖断」を求め、天皇は外相案を支持して、受諾が決定した。陸軍の一部には戦争継続を主張してクーデタ決行の準備が進み、緊迫する中、再度御前会議が開かれ、14日正午前に天皇の敗戦受諾の決断をふたたび仰いで最終的に決定した。敗戦の詔勅は天皇自ら録音し、翌日放送されることになったが、陸軍の一部将校がそれを阻止しようと放送局を襲うなど混乱した。クーデタは阿南陸相の自決などで失敗し、予定どうり15日いわゆる玉音放送(天皇の肉声が放送されたこと)が行われ、戦争は終わった。
オ.大戦の結果
a 第二次世界大戦の原因  ドイツ・イタリア・日本のファシズム国家が起こした侵略戦争が拡大 
 世界戦争  
c 第二次世界大戦の結果  連合国側の完全な勝利。ファシズム国家の敗北
d 米ソ両国の役割の強化  
e 中国、アジア諸民族の自立  
 核兵器の登場  
 国際連合の発足  → 第16章 1節 戦後構想の形成