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3 東アジアの激動
ア.清朝の動揺とヨーロッパの進出
 清朝の動揺 清朝は、17世紀後半から18世紀に至る、康煕帝・雍正帝・乾隆帝の三代が全盛期であった。しかし乾隆帝(在位1735〜1795)の時代の後半から次の嘉慶帝(在位1760〜1820)の時代になると、衰えが表面化し、様々な矛盾が出てきた。1796年には白蓮教徒の乱、1813年には天理教徒の乱と民衆反乱が相次いだ。同時にイギリスをはじめとするヨーロッパ諸国が産業革命を達成すると、鎖国状態の清に対する自由貿易の要求が強まってくる。 
a 白蓮教徒の乱(清)清の嘉慶帝即位の年、1796年に起こった白蓮教徒に指導された農民叛乱。元末の白蓮教徒の乱(紅巾の乱)につづいて起こった。清朝は郷勇の力によって1804年に鎮圧したが衰退の始まりを示す事件となった。
白蓮教は12世紀の南宋に始まる仏教の一派。呪術を取り入れて布教し民衆に広がるが、正統な仏教からは邪宗とされ、社会不安と結びつくのを恐れた権力側からきびしく取り締まられた。元末には、貧民を弥勒菩薩が救済してくれるという弥勒信仰と結びつき、たびたび農民反乱が起きた。元末に白蓮教徒が起こしたのが紅巾の乱で、1351年の韓山童とその子韓林児が指導して反乱を拡大させた。明を建国した朱元璋ははじめ紅巾の乱に参加したが、後に韓林児を殺して反乱を鎮定、権力を握り、その後は白蓮教を弾圧した。清でも秘密結社として活動を続け、嘉慶帝の時、1796〜1804年に広範囲な地域で反乱を起こした。清軍はそれを抑えることが出来ず、地方の有力者が組織した郷勇の力を借りて鎮圧した。十年近くかかった反乱鎮圧は莫大な軍事費を支出し、また正規軍の弱体化し、民兵である郷紳に依存したことがはっきりして、清朝の衰退が明らかになった。
なお、白蓮教徒の反乱鎮定後もその一派である天理教徒は1813年、北京で反乱を起こしている。いずれも鎮圧されたが、清朝の社会不安を示す動きであった。 
b 郷勇  → 郷勇
c 天理教徒の乱 1813年、白蓮教徒の一部が天理教と名を変えて起こした反清朝の蜂起。一部は紫禁城まで侵入したが鎮圧された。
白蓮教徒の乱が鎮圧された後、その信者の一部は逃れて天理教と改称し、なおも団結をつづけた。1813年、指導者の大工李文成と薬局局員の林清は反乱を計画、李文成が山東省で挙兵、林清は紫禁城の宦官の不満分子と連絡し、200名の反乱部隊を城内に侵入させた。反乱部隊は皇帝の居所の養心殿にせまった。嘉慶帝は不在だったが、第二皇子(後の道光帝)が小銃をとって応戦した。内応していた宦官は弾を込めていない小銃を手渡したので、皇子は服のボタンを込めて撃ったという。紫禁城の隆宗門の扁額にはこの時放たれた矢がまだささっているという。乱は鎮圧され、首謀者はとらえられ、参加者はすべて殺されたが、紫禁城に賊が侵入するという前代未聞の出来事は、清朝の衰退を予見させる出来事であった。<寺田隆信『紫禁城秘話』1999 中公新書 p.171-173>
 ロシアの進出  
a キャフタ条約  → 第8章 2節 キャフタ条約
b ラクスマン  → 第10章 2節 ラクスマン
 イギリスの自由貿易要求  
a マカートニー(使節団)1793年、イギリス最初の中国使節として清の乾隆帝に直接面談して、通商条約締結の交渉を行おうとしたが、皇帝への最敬礼である三跪九叩頭の礼をとることを要求。マカートニーはそれを拒絶、謁見は果たしたが、交渉に入れず帰国した。
イギリスの対中国貿易は茶の輸入が増大しつつあったが、さらに産業革命を達成し、中国を大きな市場と考え、毛織物の輸出を進めようとした。しかし清朝政府は伝統的な朝貢貿易の姿勢を変えず、自由な貿易を拒否していた。具体的には1757年に海外貿易を広州一港に限定し、しかも公行によって管理されていた。その他外国商人は広州で冬を過ごしてはいけないとか、公行の家に居住しなければならないなど大幅な規制が加えられていた。
イギリスはこのような朝貢貿易の原則を撤廃し、自由な貿易を保証する条約(あるいは協定)を締結しようと考え、マカートニーを使節として派遣することとなった。ただ直接の貿易交渉では受け入れられないので、乾隆帝の80歳の祝賀を国王ジョージ3世に代わって申し述べることを名目とした(実際には乾隆帝は83歳になっていた)。1793年9月、北京北郊の避暑山荘で乾隆帝への謁見を許された。清朝はあくまで従属国の朝貢使節として扱い、三跪九叩頭(三回跪き、九回頭を下げる)の礼を求めた。イギリス国王の使節で誇り高いイギリス紳士マカートニーとしてはそれを拒否。結局、乾隆帝が度量の広いところを見せて遠来の労を労うという口実に、イギリス流に片膝を就いて親書を奉呈することで決着した。しかし、目的の条約締結については一切交渉できずに終わった。 → アマースト使節団
b 乾隆帝  → 第8章 2節 乾隆帝
c 広州  → 第8章 2節 広州
d アマースト 1816年、マカートニー使節団に次いで清朝に派遣され使節。嘉慶帝への謁見を申し入れたが、三跪九叩頭の礼を拒否したため即日退京させられ、交渉に入れなかった。 
マカートニー使節団から20年以上後で、イギリスはナポレオン戦争に勝利し、海外進出をさらに積極的に展開しようとしていた。また中国との貿易では茶の輸入による一方的な銀の流出が大きな問題となっていた。そこで中国との貿易関係の改善は国家的な命題と考えられ、アマースト使節団の派遣となった。清朝側は乾隆帝にかわり嘉慶帝の時代となってようやく衰えが見られ始めていたが、前回のマカートニーに対する応対を反省して、強い態度で臨み、三跪九叩頭の厳守を謁見の条件とした。そのためアマーストは北京までいったものの交渉に入れず帰国した。
三跪九叩頭 三跪九叩頭とは、一度跪(ひざまず)いて、三回頭をたれるという動作を三回繰り返すことで、清朝の皇帝に対する臣下の例であった。三跪九叩頭を行って皇帝に拝謁することはその臣下を意味しており、例えば、朝鮮が清朝の親征を受けて服従したときは、朝鮮王は清の皇帝に三跪九叩頭を行っている。
c ネイピア 1834年にイギリスが清朝の中国に貿易制限解除を交渉するため派遣した軍人。マカートニーアマーストに続く三人目の使節。東インド会社の対中国貿易の独占を廃止したので、それに応じて中国側の制限も解除することを求め広州で交渉しようとした。しかし清朝は交渉自体を厳しく拒否し、貿易拒否を辞さない態度だったため、失敗に終わった。ネイピア自身はマラリアにかかり、現地で急死した。
 イギリスの三角貿易(19世紀)三角貿易は18世紀の三角貿易は、イギリス(及びフランス)・西アフリカ・カリブ海およびアメリカ大陸の三カ所を結ぶもので、主として奴隷貿易がその中心であったが、19世紀のイギリスの三角貿易は、インドのアヘンと、中国のを結びつけるものであった。イギリス東インド会社がベンガルのアヘンの専売権を得て、それを精製し、ジャーディン・マジソン商会などの貿易商に中国に密輸させた。それで得た銀で茶を買い付け、本国で販売し、本国の工業製品(綿織物)をインドに売りつけた。これによって中国の銀は流出し、イギリスはその銀をアメリカからの綿花輸入の支払いにも使用した。このように、中国市場は茶の輸出とアヘンの輸入によって、資本主義の世界市場に巻き込まれ、18世紀とは逆に銀が流出し、中国経済は大きな打撃を受けることとなった。
a 茶  → 第10章 3節 
b 綿製品  → 第13章 2節 インド、綿布の輸出国から輸入国へ
c 輸入超過 アヘン密輸の急増によって、それまで外国貿易は輸出超過で銀が流入する一方であったのが、1827年を境に逆転して、銀が流出するようになった。その結果、銀が高騰し、経済と財政に大きな影響が出てきた。
d 銀(の流出)明清時代を通じ、朝貢貿易の形式での海外貿易により、中国に多くのが流入した。ヨーロッパ産の銀とならんで15〜16世紀には日本銀も勘合貿易によって大量にもたらされた。続いて16世紀後半からはメキシコ銀がフィリピンなどを通して流入し、広く用いられるようになり、清朝の17世紀末からは海禁が緩和されたこともあってさらに銀の流入が続き、税制も地丁銀制に改められた。しかし、18世紀後半になるとイギリスとの貿易が拡大すると、イギリスは自由貿易の拡大を求めて三角貿易を展開し、インド産のアヘンを盛んに密輸するようになった。そのため、輸入超過に陥り、中国から銀が大量に流出することとなって、清朝の財政を圧迫し、銀の高騰は経済を不安定にした。
「1838年に中国がアヘン輸入の対価として支払った約2000万スペインドルは中国の通貨では1400万から1500万両に当たるが、当時の清朝の一年の歳入が4000万両前後であった。また茶葉の輸出によって得られた銀が約2000万スペインドルであったので、それがすっかり逆流出することになり、茶葉の輸出が減少すれば、銀は一方的に流出することになる。それは清朝財政を圧迫し、増税と物価高が民衆を苦しめることになる。」<陳舜臣『実録アヘン戦争』中公新書p.45-47>
e 三角貿易  → イギリスの三角貿易(19世紀)
f  アヘン イギリスは中国との貿易において、一方的に茶を輸入するのみで、中国に売りつけるものがなく著しい輸入超過であった。産業革命後、綿織物を売り込もうとしたが、中国の綿織物・絹織物に対抗できず、振るわなかった。そこで考えられたのがインド産のアヘンを中国に売り込むことであった。アヘンは罌粟の実からとれる麻薬で、吸飲すると気分が高揚するなどの薬効があったが、習慣化して次第に人体に害を及ぼし廃人としてしまう。中国にもたらされると、貧民層を中心に急速にひろまった。1780年、イギリス東インド会社がベンガルのアヘン専売権を獲得、本格的な中国への輸出に乗り出した。清朝政府はアヘン輸入を禁止したので、密貿易という形で広州に運ばれ、次第に巨大な利益を上げるに至った。19世紀に中国で急速にアヘン密貿易が増大し、中毒者が蔓延、また代価としての銀が流出したため、清朝政府も無視できなくなり、ついに1840年のアヘン戦争勃発となる。なお、当時、東南アジアのイギリス領マラヤやオランダ領東インドのスズ鉱山で働く中国人労働者(苦力)に対して売りつけられ、それぞれ専売制度によって植民地当局の利益となっていた。
g 密貿易  
 アヘン密貿易の増大 アヘンはふつうソフトボール大の球状に固められて、それを40個、133ポンド1/3(百斤)がマンゴ材の箱に詰められて輸入された。品質によって等級があり、ベンガル産が最高級で公班土(コンパンド。コンパンはカンパニー、つまりイギリス東インド会社を意味する。)と言われた。アヘンの輸入量は密輸品であるので正確な統計はないが、1817年(嘉慶22年)3698箱(価格約400万スペインドル)が約20年後の1838年(道光18年)には28307箱(価格1980万スペインドル)になった。インドからのアヘンだけでなく、主にアメリカ商人によってもたらされたトルコ産やイラン産のアヘンを加えれば、1835年にすでに3万箱とも言われている。<陳舜臣『実録アヘン戦争』中公新書p.45-47> 
a 中国貿易独占権 東インド会社は、19世紀にはいると自由貿易主義の台頭により、次第に貿易独占権を失っていく。すでに1813年に東インド会社のインド貿易独占権の廃止が議会で決まり、1833年にはインド領土をイギリス国王に委譲し、商業活動全般を停止した。翌1834年、中国での貿易独占権も廃止された。東インド会社の中国貿易独占権が廃止された結果、イギリスの貿易商と産業資本家は、中国に対する自由貿易の要求をさらに強め、ネイピアを三人目の使節として派遣したが交渉を拒否させた。イギリスは中国との一方的な入超状態を解消するため、インド産のアヘンを中国に密輸入して利益を上げようという三角貿易を盛んにさせることとなる。東インド会社は、1857年にインド大反乱が勃発するとその責任をとらされる形で、1858年に解散させられる。
b  → 銀の流出
c 林則徐 清朝の官吏で、地方官を歴任していた。詩人でもあり、宣南詩社というグループの一員であった。1837年には湖広総督に抜擢された。1830年代からアヘンの害の拡大と銀の流出が大きな問題となった時、アヘン厳禁論を道光帝に進言し、信任を受け、1838年、欽差大臣(特別な使命を持って皇帝から任命された大臣)としてアヘン密貿易を根絶するため広州に派遣された。翌年、林則徐はイギリス商人からアヘンを没収し、2万箱を虎門海岸で破棄した。イギリスは強く抗議し、1840年遠征軍を派遣して海上から威圧した。驚いた清朝政府は林則徐を罷免したが、イギリスは攻撃を止めなかった。
d 広州  → 第8章 2節 広州 
dイギリス(19世紀前半)  → 第12章 1節 イギリス(パックスブリタニカの時代)
e 自由貿易 中国の伝統的思想である中華思想により、貿易は対等なものではなく、あくまで夷狄(外国人)が皇帝に対して朝貢してくるものに対し、皇帝が憐憫を以てそれを受けるという前提であった。イギリスは産業革命を経て資本主義経済が形成すると、自由貿易を求める声が強くなり、中国に対してもその海禁政策を放棄して、対等な通商条約を締結し、イギリス商人の中国における自由な商業活動を実現させることを要求するようになった。 
 アヘン戦争 欽差大臣として1839年広東に赴任した林則徐は、吸飲者・販売者への死刑の執行を宣言し、イギリス商人に対し期限付きでアヘンの引き渡しを要求。履行されないので貿易停止、商館閉鎖の強硬手段に出て屈服させ、アヘン2万箱を押収し、焼却した。同じ時、イギリス人水兵による中国人殴殺事件が起こり、林則徐は犯人引き渡しを要求したが、イギリスが応じず、再び強硬手段に出た。イギリス(パーマーストン内閣)は、焼却されたアヘンの賠償を要求、それが入れられぬとして両者は1840年11月3日、戦端を開くこととなった。イギリスはインド総督に命じて海軍を派遣、中国海岸を北上し、厦門、寧波を封鎖、南京に至る勢いを示した。これに驚いた清朝政府は強攻策を放棄し、林則徐を罷免、広東で交渉に当たることとなった。交渉が決裂すると、広東を砲撃のうえに上陸して占領、また再び艦隊を北上させ、42年には上海、鎮江を占領し、南京に迫った。その結果、清朝政府は屈服して南京条約の締結となった。アヘン戦争は、イギリスの中国侵略とそれに続くアジア植民地支配の大きな契機となる。またそれに抵抗した中国民衆の運動も、太平天国の乱、アロー戦争、インド大反乱(シパーヒーの乱)が起こり、イギリスのアジア支配の経過に大きな影響を与えた。
アヘン戦争での清朝の敗北は、鎖国中の江戸幕府も知るところとなり、高島秋帆の西洋流砲術を採用し、江川太郎左衛門にそれを学ばせるなど軍備強化を図っている。また林則徐の友人の魏源の著作『海国図志』(林則徐の西洋研究を継承し、欧米を含む世界の地理、歴史、現状など、中国で最初の本格的な世界地誌)がいち早く輸入され広く読まれている。 
a 1840  
b 平英団 アヘン戦争中に広州で起こった民衆の反英抵抗組織。1841年広東陥落後、イギリス兵の暴行掠奪に憤激した広州近郊の民衆が郷紳に指導されて平英団を組織、広東城外の三元里でイギリス軍を包囲攻撃したが、広州知府の命令で解散させられた。 
イ.不平等条約の締結
 不平等条約の締結 アヘン戦争の結果、中国清朝が、イギリスを始め、アメリカ、フランスなどと結んだ、南京条約および追加条約以降の一連の条約は、いずれも中国側に不利なものであった。その内容は、
(1)外国の領事裁判権(治外法権)を認めていること。
(2)関税自主権が無かったこと。
(3)片務的な最恵国待遇を認めていること。
の三点に要約される。なお、幕末の日本が締結した日米修好通商条約など一連の条約、明治日本が隣国朝鮮に押しつけた日朝修好条規(江華条約)も同じような不平等条約であった。不平等条約を締結していることは、国家としての自立が完全ではないところから、半植民地状態にあるということができ、条約改正は日本などの近代国家の自立に不可欠な課題となった。
条約改正の時期:中国においては、関税自主権の回復は国民革命後、蒋介石の北伐が終了して国民政府の中国といういつが成ってからの1930年、治外法権の撤廃は第2次世界大戦中の1943年であった。なお、日本の条約改正は、治外法権の撤廃が日清戦争の直前の1894年、関税自主権の回復が日露戦争後の1911年であった。
a 南京条約 アヘン戦争の結果、1842年、イギリスと清の間で締結された条約。南京の長江上に碇泊していたイギリス軍艦コーンウォリス号上でイギリス全権ポテンジャーと清国全権の間で締結された。13条からなるが主要な内容は次の6項目。
1)両国は平和親好を維持し、互いに生命財産の保護を受ける。
2)中国はアヘンの賠償金600万ドル、戦費1200万ドル、中国商人の負債300万ドル、合計2100万ドルをイギリスに支払う。
3)広州、福州、厦門、寧波、上海の5港を開港し、イギリス人家族の居住を許し、イギリスの領事の任命を認める。
4)香港島を永久にイギリスに割譲する。
5)公行を廃止し、どの商人とも欲する貿易が出来る。(海禁政策が終わり、自由貿易となる)
6)従来中国が勝手に定めていた関税は一定(従価5分)とする。(関税自主権の放棄
翌43年に批准され、それにもとづいて6月に五港通商章程、10月に虎門寨追加条約が締結された。
南京条約の意義:領土割譲と自由貿易を認めた本条約と、追加条約である五港通商章程・虎門寨追加条約とあわせて治外法権を認めたこと、関税自主権を喪失したこと、片務的な最恵国待遇を認めたことの三点で不平等条約であり、中国の半植民地化の第一歩となった。イギリスは香港島を領土とし、要求であった自由貿易を実現し、アヘン貿易も事実上公認させた。また、海禁政策が廃棄されたことにより、中国人の海外移住も基本的には自由となり、中国人の海外移住、つまり華僑の増加をもたらすこととなった。
b 香港島の割譲 1842年南京条約で香港島がイギリスに割譲されイギリスの直轄植民地となる。1860年の北京条約では対岸の九竜半島の一部がイギリスに割譲された。イギリス占領直後から都市建設が始まり、アヘン貿易と中継貿易の基地として繁栄。帝国主義段階にいたり、中国分割が進む中で、1898年英領以外の九竜半島(新界)とその周辺の島嶼をイギリスが99年間租借することとなり、さらに発展し新界が形成された。第2次大戦中は一時日本が占領。戦後、中華人民共和国が成立してその政権が安定し、東西対立の冷却化の中でイギリスと中国間の交渉が行われ、1984年に、九竜半島租借期限の切れる1997年に全面返還することを約する香港返還協定が成立。予定通り、1997年に中国に香港返還が実現した。返還後50年間は資本主義体制を維持し、中国の社会主義と併存させる一国家二体制がとられている。 
c 上海 1842年、南京条約によって開港された上海は、長江河口に近い一小都市で、上海県城があったところ。イギリスはその年のうちに上陸し上海県を占領した。1845年に上海土地章程が締結され、城内に隣接する周囲6キロほどの土地が、治外法権の認められる「租界」とされ、イギリス人が居住するようになった。1950年に太平天国の乱が勃発し、太平天国軍の南京進出に呼応して、1853年に上海でも小刀会という秘密結社が蜂起し、上海県を占領した。イギリス領事のオールコックは租界に外国人からなる自治政府を設け、行政機関として参事会を設け、関税を徴収し自治を行った。1860年には李自成の率いる太平天国軍が江南地方に進出すると、その地の有力者はみな上海租界に逃げ込み、上海ではイギリス軍人ゴードンらが常勝軍を組織し、租界を拠点として太平天国軍と戦った。太平天国の乱の後、上海の重要性は増し、中国最大の貿易港として発展、また辛亥革命の際には革命派の拠点の一つとなり、後には中国共産党も上海のフランス租界で開催されるなど、歴史の震源地の一つとなっていく。1925年には上海の在華紡工場でのストライキに端を発した大規模な反帝国主義運動である五・三○事件の舞台となり、27年には蒋介石による共産党弾圧事件である上海クーデターも起こった。また、満州事変の翌年の1932年1月には、日本軍が上海に戦火を拡大させ、上海事変が起こっている。
Epi. 高杉晋作の見た上海租界 太平天国軍が迫り、騒然としていた1962年の上海を目の当たりにしたのが、幕末の長州藩士で、後に誰よりも早く倒幕の兵を挙げた高杉晋作であった。高杉は幕府が貿易の実情の調査のために上海に派遣した千歳丸に長州藩から選ばれて(というより、危険人物だったので江戸から遠ざけられてというのがあたっているようだが)乗り組んでいた。薩摩藩の五代才助(後の友厚)も水夫として乗り組んでいた。高杉は上海に1862(文久2)年5月から約2ヶ月滞在し、鎖国中の日本人としては最も早く、太平天国の乱の最中の上海を見、租界のイギリス人やアメリカ人と接触した。その日記『遊清日録』の5月21日には次のような感想が記されている。
「この日は一日中、上海という都会のことを考えてみた。ここでは、シナ人はほとんど外国人の使用人になってしまっている。イギリス人やフランス人が歩いてゆくと、シナ人はみなこそこそと道をよけてゆくのだ。ここは主権はシナにあるというものの、まったく、イギリス、フランスの植民地にすぎないではないか。・・・・しかし、ひるがえってわが国のことを考えてみる。わが国でも、十分に注意しておかないと、やがてこのような運命が見舞われないとは誰が断言できようか。」<奈良本辰也『高杉晋作』1965 中公新書 p.111の現代語訳による>
d 公行の廃止 広州において、外国商人(夷商)と取引が出来たのは、大蔵省に相当する「戸部」の免許を受けた特許商人である「行商」だけであった。この行商が組織する一種のギルドが「公行」(コホン)であり、およそ十人のメンバーからなっていた。南京条約によって公行の貿易管理は廃止された。 
e 賠償金  
f 五港通商章程 1843年、イギリスと清朝で締結した、南京条約の追加条約で、清朝はイギリスの領事裁判権を求め、不平等条約の一部となる。また関税率を5%という低い水準で固定とし、中国の関税自主権を奪った。
g 虎門塞追加条約 1843年、南京条約の追加条約として、広州の近くの虎門寨で締結された。清はイギリスに片務的な最恵国待遇を認めた。他に開港上における土地租借の規定が含まれる不平等条約であった。この外国による土地租借が後に「租界」と言われるようになる。 
h 領事裁判権(治外法権) 領事裁判権とは、外国人が犯罪おこした場合、犯罪者の属する国の法律で裁かれることで、治外法権ともいい、それを認めることは国家主権が侵されることを意味する。 
i 協定関税(関税自主権の喪失) 輸入品に課税する関税は本来、その国が自主的に決定するものであるが、清朝は関税協定権をイギリス以下の列強に認め、自主権を失った。それは貿易の主導権を外国に奪われることを意味し、中国の経済上の自立にとって大きな障害となった。 
j 最恵国待遇 最恵国待遇とは、条約締結国の一方が第三国に別の特権を認めた場合、自動的に相手国に同様な特権を認めること。南京条約の追加条約である虎門寨追加条約では、清がイギリスに対して一方的に認めるものだったので、片務的とされる。
k 不平等条約  → 不平等条約の締結
l 望厦条約 1844年の清朝とアメリカの修好通商条約。南京条約とほぼ同じ内容。望厦はマカオ郊外の地名。アヘン戦争に敗れた清に対して便乗的にアメリカが認めさせた。
m 黄埔条約 1844年、清朝とフランスの間で締結された修好通商条約。南京条約、望厦条約とほぼ同内容。黄埔は広州の近くの地名。アヘン戦争に敗れた清に対してフランスが便乗して認めさせたもの。
n 租界 租界とは、中国の開港場において、外国が行政・警察権を行使する地域のこと。本来は単なる土地貸与に過ぎなかったが、列強は領事裁判権を得て、その土地を事実上支配した。1845年の上海のイギリス租界に始まり、19世紀末に列強が清朝から天津、漢口、広州などに多くの租界地を獲得していく。上海の租界はイギリスに続き、フランスは1849年にイギリス租界と旧上海城内にはさまれた地域を租借、アメリカも1853年に虹口地区を租借した。1863年にはイギリスとアメリカの租界は、「共同租界」となった。19世紀末に確定した上海租界の面積は、共同租界が約22.60平方キロ、フランス租界が約10.22平方キロ、合計すると、東京の杉並区(33.5平方キロ)より少し狭い地域というということなる。租界は上海以外にも設けられ、第二次世界大戦まで存続した。<丸山昇『上海物語』1989 集英社刊 後に講談社学芸文庫 p.24 など>
Epi. 「中国人と犬、入るべからず」 上海の租界では外国人は競馬などを楽しみながら優雅な生活を送っていたが、その裏には中国人に対する露骨な差別があった。黄埔江沿いのパブリック・ガーデン(黄浦公園)を初めとする公園が、「中国人と犬、入るべからず」という看板を掲げていたのは、あまりにも有名である。黄浦公園は1868年に完成し、工部局の設けた管理委員会によって管理されたが、開園第一日から入口に警官を立てて、中国人の入園を拒んだ。これに対する抗議の記録は、1881年から始まっている。工部局は中国人に開放した場合、「流行病に伝染する危険がある」として抗議を拒否し続けた。85年、管理委員会は、公園の入口に「中国人と犬、入るべからず」という項目を書いた看板をたてた。悪名高いこの看板がはすされたのは、1925年の五・三○事件、27年の国民革命と、反帝国主義・民族主義の波が高まったのちの1928年7月1日であった。<丸山昇『上海物語』1989 集英社刊 後に講談社学芸文庫 p.42>  
 アロー戦争 第2次アヘン戦争とも言う、1856年から60年のイギリス・フランスによる中国に対する侵略戦争。
アヘン戦争での南京条約によって獲得した権益に飽き足らないイギリスは、さらに開港場の拡大、北京への領事の常駐などを実現する機会を探っていた。太平天国の乱が起こり、清朝政府が対応に苦慮していることを好機と見たイギリス(パーマーストン内閣)は1856年、広州でのアロー号事件を口実に、再び清との戦争に踏み切り、同年に起こったフランス人宣教師殺害事件を口実として清への侵出を狙っていたナポレオン三世のフランスと共同で出兵した。これをアロー戦争、または第2次アヘン戦争という。1858年、広州を占領し、両軍は北上して天津に迫った。清朝政府はそれに屈し、天津条約を締結(イギリス・フランス、および仲介役となったロシア、アメリカの4ヶ国との個別の条約)したが、その批准書交換のため上陸したイギリスに対して発砲事件が起こったため再度武力衝突となり、1860年英仏両軍が北京まで侵入し(このとき円明園が焼失した)、清朝政府を再び屈服させて、北京条約を締結した。アロー戦争で清朝政府を屈服させた英仏とそれに便乗したロシアは中国への領土的野心をさらに露骨にしていく。それまで太平天国と清朝の戦争に中立の態度だった列強は、アロー戦争で清朝を屈服させた1860年を境に、清朝政府を支援して、太平天国攻撃に協力していく。 
a アロー号事件 1856年、船籍はイギリスだが実態は中国人の所有する海賊船であるアロー号を、中国の官憲が広州港で臨検し中国人船員を逮捕した。それに対してイギリス領事パークスは国旗が侮辱されたとして清朝政府に抗議し、それを口実に清に戦争をしかけた。 
b フランス人宣教師殺害事件  
c 天津条約 1858年6月、アロー戦争で追いつめられた清朝政府が、イギリス・フランス・ロシア・アメリカの4カ国と結んだ条約。南京条約に始まる中国の不平等条約が、拡大強化された内容であった。
1)外国公使の北京駐在を認める。
2)キリスト教の布教を認める。
3)外国人の中国内地での旅行の自由を認める。
4)開港場の増加(牛荘、登州、淡水、台南、潮州、瓊州の6港と鎮江、漢口、九江、南京の4市)させる。
5)賠償金支払い(イギリスに400万、フランスに200万、合計600万両)。
この条約は1年以内に北京で正式な批准書を交換することが規定されていた。批准に消極的な清に圧力をかけるため、イギリス艦隊は天津の外港である大沽で示威行動を行った。反発した清側が発砲した。英仏は報復と称して60年に北京を攻撃し、さらに有利な北京条約を締結することに成功する。
d 円明園の焼失 円明園は北京の北西にある名園で、康煕帝の時、宣教師カスティリオーネ(郎世寧)の設計による西洋風の建物と庭園が作られ、フランスのヴェルサイユ宮殿に比べられるバロック式庭園を持っていた。1860年、アロー戦争でイギリス・フランス両軍が北京を占領した際、跡形もなく焼き払われた。両軍兵士は略奪の痕跡を消すために火をつけたという。またこの時、もう一つの離宮であった頤和園も焼かれ、咸豊帝と西太后は北京を逃れ、熱河に避難した。 
円明園は長い間廃墟として放置されててきたが、最近は観光地として整備されている。
e 北京条約(清−英仏)1860年、天津条約の批准書交換のため北京に向かった英仏の使節が、大沽砲台から砲撃されたので、英仏連合軍が北京に侵入し清朝政府に圧力をかけた。その際、英仏軍は北京郊外の円明園を焼いた。清朝皇帝の咸豊帝は熱河に逃亡。残った清朝政府との間で天津条約は批准され、新たに北京条約が締結された。内容は天津条約に変更を加えさらに英仏に有利にしたものであった。その主な内容は次の通り。
1)賠償金を800万両とする。
2)イギリスに九竜半島南部を割譲する。
3)天津条約で開港場とされたところに加えて天津を開港場とする。
ここで割譲された九竜半島南部は、南京条約で割譲された香港とともにイギリス領香港の一部となった。この北京条約は、南京条約が中国の半植民地化の第1弾、天津条約が第2弾であるとすれば、第3弾にあたり、さらに権益を拡大することとなった。なお、アメリカとロシアも同様の条約を締結したが、特にロシアとの北京条約では、ロシアに沿海州を割譲した。 
f 北京  
g 天津  
h キリスト教  
i 九竜半島 九竜半島は香港島の対岸の大陸からのびている半島。香港島に近い半島の南部が北京条約でイギリスに割譲された。さらに1898年に九竜半島北部(新界と言われる)が99年間の租借地とされ、イギリスはそれらをあわせて香港として植民地支配を行った。 
 ロシアの進出 ロシアはシベリアを東進、17世紀中ごろピョートル大帝の時、黒竜江(アムール川)を下って沿岸に城塞を築いた。その頃、康煕帝のもとで全盛期を迎えていた清王朝は、ロシアの南下に反撃し、1689年両国はネルチンスク条約を締結した。清がヨーロッパの諸国と結んだ最初の条約である。この条約で清は外興安嶺までの黒竜江左岸を確保した。ついで雍正帝の時、1727年のキャフタ条約で、中央アジア方面のロシアと清の国境を確定した。
a ムラヴィヨフ 1847年、ニコライ1世の時に設けられた東シベリア総督の初代総督。アヘン戦争、太平天国の乱、アロー戦争という清王朝の衰退に乗じて、黒竜江左岸を武力占領、愛琿条約北京条約の締結で活躍し、ロシアの東方領土の拡大に努めた。
黒竜江(アムール川)  
b アイグン(愛琿)条約 1858年、ロシアと清の間で締結された国境協定。清はロシアの黒竜江(アムール川)左岸の領有を認め、沿海州(ウスリー川以東)は両国の共同管理とした。アロー戦争で窮地に立つ清が屈辱的な内容を呑まざるを得なかった。清は後のこの条約を否認したが、1860年の北京条約で内容を確認することとなる。 
沿海州 ウスリー川(アムール川の支流で北流する)の東側の日本海沿岸一帯を言う。愛琿条約ではロシアと清の両国の共同管理とされた。アロー戦争後の1960年、清とロシア間の北京条約で、ロシア領とされた。ロシアは沿海州を獲得し、その南端の朝鮮との接点近くにウラジヴォストークを建設、念願の不凍港を獲得し、日本海から東アジア進出の足場とした。ロシアではプリモルスキー地方という。
Epi. 『デルスウ・ウザーラ』 黒沢明の映画で有名になった『デルスウ・ウザーラ』は、1906年にこの地を探険したロシア人のアルセーエフが、現地のゴリド人の案内役デルスウ・ウザーラを主人公として描いた沿海州の森林を舞台とした探険談である。<『デルスウ・ウザーラ』東洋文庫> 
c 北京条約(清−露)1860年、アロー戦争の終結に伴い、清朝が講和条約として英仏と北京条約を締結したが、それを仲介したロシアがその報酬として清とのあいだに結んだ条約も北京条約という。ロシアは清に対し、黒竜江左岸の領有の確認と、沿海州の領有を認めさせた。このときの国境線が、現在のロシア中国の東部国境線となっている。またロシアは獲得した沿海州の海岸部に新たにウラジヴォストーク港を建設、不凍港を獲得し、日本海に進出することとなった。この条約で中ロの東部国境はアムール川とウスリー川を国境とすることとなったが、河川内の中州はほとんどロシアが占有しそれをソ連が継承したため、1960〜70年代の中国とソ連の中ソ国境紛争が起きることとなる。
d ウラジヴォストーク ロシアが1860年の北京条約で沿海州を獲得したことにより、日本海方面に進出する不凍港の建設が可能になり、1871年、軍港としてウラジヴォストーク港を開港した。ウラジヴォストークとはロシア語で”東方を征服せよ”の意味であり、文字通りこれによってロシアの東方進出が可能になった。また1891年〜1905年にかけて建設されたシベリア鉄道の終点。ソ連時代には軍港として外国船の入港はできなかったが、1992年に開放された。 
 不凍港 冬期になっても海面が氷結せずに、利用できる港のこと。ロシアは18世紀にシベリア東岸に進出したが、日本海に面した沿海州は清の領土であったため、その他の港はいずれも冬期は使用できず、日本海から太平洋方面に進出するためには沿海州を領有して不凍港を獲得することが必要であった。それを実現させたのが、1871年のウラジヴォストーク開港であった。
 イリ事件 1871年、ロシアが清朝領のイリに出兵、占領した事件。イリ(伊犂)は現在の中国領新疆ウイグル自治区伊寧市。この地のイスラーム教徒が反乱を起こすと、ロシアが介入し出兵、事実上の占領下に置いた。ロシアは中央アジアの南方から勢力を伸ばしてきたイギリスがコーカンド=ハン国のヤクブ=ベク将軍と結んで新疆方面に侵出することに対抗しようとしていた。清朝はロシアに抗議し撤退を要求したがロシアは動かなかったため、1875年から左宗棠が指揮して作戦を展開し78年までに清領を回復した。両国は国境策定交渉に入ったが、清朝での批准に手間取り、ようやく1881年にイリ条約が成立、イリ地方は清朝領として確定した。この事件は、1870〜80年代の清領の辺境における列強の侵出の一つである。他に雲南地方にはビルマ方面からイギリスが迫り、清朝が宗主権を持っていたベトナムにはフランスが、朝鮮には日本がそれぞれ迫っていた。 
f イリ条約 ロシアと清の国境紛争であるイリ事件(1871年)を決着させた両国の条約。1881年にペテルブルクで調印されたのでペテルブルク条約とも言う。ロシアのイリ地方占拠を清朝は左宗棠の働きで1875年から77年にかけて排除したが、1879年ロシアとのイリ返還を交渉した清朝の全権大使満州貴族嵩厚保がいったん領土を大幅に譲歩した条約を締結したが、激怒した光緒帝が批准を拒み、改めて曽紀沢(曽国藩の子)が交渉に当たり、ようやく1881年にイリ条約を成立させイリ地方は清に返還された。しかし清朝もロシアに多額の賠償金を支払い、新疆全土をロシアに開放することを認めた。<菊地秀明『ラストエンペラーと近代中国』中国の歴史10 2005 講談社 p.74> 
 ロシアの南下政策(中央アジア)ロシアはすでに19世紀なかばまでにカザフスタンのステップ地帯と、カフカス地方を征服し、南下の姿勢を強めていた。ロシアの南下政策の主眼は当初、バルカン半島から黒海方面におかれていたが、クリミア戦争(1853〜56年)に敗れたため、眼を中央アジアのトルキスタン地方のの三ハン国に目を向けるようになった。アレクサンドル2世のもとで始まったロシアの資本主義の形成にとって、ロシアに隣接する市場としても、豊かな資源と人口を持つ地域としてもこの地方は魅力があった。また、アメリカ南北戦争(1861〜5年)のために原料の綿花の輸入が止まったため、トルキスタンの綿花はロシア木綿工業にとって不可欠なものとなった。さらにイギリスのアフガニスタン方面への進出に対抗する意味もあった。1881年に最後に残ったトルクメン人がロシア軍に敗れ、以後中央アジアはロシアおよびソ連の支配下に置かれ、1991年まで110年間におよぶこととなる。 → 中央アジア5ヵ国
ロシアの中央アジア征服 1864年、ロシア軍はコーカンド=ハン国を攻撃、翌年タシケントを占領、1867年(明治維新の前年)にタシケントにトルキスタン総督府を置いた。さらに、ブハラ=ハン国ヒヴァ=ハン国にも侵攻して、この両国を保護国とした。一方でロシアは再びバルカン方面で南下政策を展開し、露土戦争(1877〜78年)を戦って勝利を占めた。次いで1881年に遊牧民トルクメンの果敢な抵抗をギョクテペで粉砕し、ロシア領トルキスタンを完成させた。これによってアフガニスタンとイランはイギリスとロシアという二大勢力の緩衝地帯となった。<小松久男『内陸アジア』地域からの世界史6 1992 p.180-182> 
a ウズベク人  → 第8章 3節 ウズベク人
b ブハラ=ハン国1500年、西トルキスタンに成立したウズベク人の国、シャイバニ朝が起源。16世紀中頃以降、ブハラを都とするようになり、1599年にジャーン朝に代わった。ジャーン朝とは、ヴォルガ下流のアストラハン朝からの亡命者ジャーンとシャイバニ家の王女との間に生まれた人物を初代としている。ジャーン朝は約200年、ブハラで存続したが、1740年、ウズベクの一部族であるマンギト族出身の武将によって滅ぼされ、以後マンギト朝が1920年まで続く。このシャイバニ、ジャーン、マンギトの三王朝は主としてブハラを首都としたので、一般にブハラ=ハン国と言われるようになる。その後、アム川下流のホラズム地方のヒヴァ=ハン国、シル川上流のフェルガナ地方のコーカンド=ハン国と中央アジアの覇権をめぐって激しく覇権を争った。なお、ブハラ=ハン国の最後の王朝マンギト朝の君主はハンに代えてアミールの称号を使用したので、ブハラ=アミール国とも言う。
ロシアの保護国化 19世紀後半、ロシアの南下政策による侵略が激しくなり、コーカンド=ハン国が征服された後、1866年5月にはブハラ=ハン国軍がロシア軍に敗れ、68年にはサマルカンドが陥落、講和条約を締結し、サマルカンド地方はロシアに割譲し、多額の賠償金を支払い、奴隷制度の廃止に同意させられた。これは事実上の保護国化であった。ロシアがブハラとヒヴァを直接統治ではなく保護国としたのは、イギリスを刺激することを避けたことと、宗教都市ブハラの占領はムスリムの犯行を引き起こす恐れがあったためである。<小松久男『革命の中央アジア』1996 東大出版会 p.36>
ブハラ革命 1920年9月2日、革命勢力が赤軍の支援を受けてブハラを制圧し、最後のアミール(君主)は東部の山岳地帯に退き、ブハラ=ハン国は滅亡した。10月8日、全ブハラ人民代表クリルタイは「ブハラ人民ソヴィエト共和国」の成立を宣言。このブハラ共和国にはジャディードが政権に参加したが、ロシアの赤軍の後押しを受けたため民衆の支持を受けられず、おまけにフェルガナ地方で激しくなっていたバスマチ運動という民族主義勢力と対立することとなり、苦難に直面した。1924年、ロシア共産党は中央アジアの「民族的境界画定」を決定、民族別の5共和国に編制し、ソ連邦に加盟させると言うものであった。ブハラ共和国はウズベク共和国に加わることとなった。
c ヒヴァ=ハン国 アム川下流のホラズム地方に、シャイバニの一族イルバルスが1512年にシャイバニ朝から独立してヒヴァ=ハン国を建てた。彼の一族は1804年に同じウズベク人のコウングラト部出身の武将に支配権を奪われるが、この王朝も含めて、1920年の滅亡までをヒヴァ=ハン国という。同じウズベク人のブハラ=ハン国やコーカンド=ハン国(18世紀に成立)と西トルキスタンでりょうどをめぐって激しく争ったが、国内政治はハン一族の封建的な体制が続き、奴隷制の残存など、停滞した。
ロシアの保護国化 ロシアの南下政策によるヒヴァ=ハン国攻撃は、1869年、カスピ海東岸へのロシア軍の上陸から始まった。ロシア軍は砂漠に進軍を遮られ停滞したが、1873年トルキスタン総督カウフマンが直接指揮して三方からヒヴァをめざした。戦意を無くしたヒヴァ=ハン国のムハンマド=ラヒム2世は降伏し、8月12日平和条約を締結、事実上の保護国となり、220万リーブルの賠償金が課せられることとなった。<加藤九祚『中央アジア歴史群像』1995 岩波新書 p.197-199>
世界遺産 博物館都市ヒヴァ ヒヴァはアム川下流の交通の要地として栄え、北のキジルクム砂漠と南のカラクーム砂漠を渡ってきた隊商たちの中継地でもあった。また古代のホラズム王国以来の繁栄の歴史もあり、独自の文化を有している。現在ではウズベキスタン共和国に属しているが、首都タシケントからは1000kmほど離れており、その様子も違いが大きい。市街の中心には、イチャンカラと言う城壁で囲まれた旧ヒヴァ=ハン国の君主(アミール)の都城が残されており、「博物館都市」と言われるように、ハンのハーレムや未完成だが美しいカルタ=ミナレット、モスクやメドレセが残されているが、なによりも中世以来の生活が現在も続けられているところが興味深い。  → 世界史の旅 ウズベキスタン・ヒヴァを参照
d コーカンド=ハン国 18世紀の初頭、シャイバニ朝の支配下にあったフェルガナ地方のコーカンド(ホーカンドともいう。現地では現在はコカンと発音している)を中心に、ウズベク人のミン氏族出身のシャー=ルフがコーカンド=ハン国を建設し、1876年まで存続した。この結果、18世紀の西トルキスタンにはブハラ=ハン国)・ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国の三ハン国が存在し、領地をめぐって激しく争い、さらに北方からはカザフ人、キルギス、オイラートなどが、南方からはイラン人の侵出を受けて不安定な情勢が続いた。
ロシアへの併合 クリミア戦争に敗北したロシアの南下政策は、眼を中央アジアに転じ、トルキスタン征服に乗り出し、1864年にコーカンド=ハン国に対する攻撃を開始し、その結果、コーカンド=ハン国は1867年についに滅亡し、肥沃なフェルガナ盆地はロシアの領有に帰した。同年、ロシアはタシケントに総督府を置いて植民地支配を開始した。 
 ジャディード 「ロシアに支配された中央アジアでは、ムスリム住民のなかでイスタンブルに留学した知識人による、教育改革を中心とする運動が展開された。新しい方式の学校の開設から、新聞・雑誌などを利用した政治運動(ジャディード運動)にまでおよんだ。ロシア当局やイスラーム保守派の妨害を受けたが、ムスリムに大きな影響を与えた。」<教科書でジャディードを取り上げている『東京書籍世界史B』 2007 p.308より>
あるジャディードの肖像 ヴォルガ中流のカザンを中心とするトルコ系イスラーム教徒タタール人は、商人として中央アジアのブハラにやってきたが、同時に多くの青年がイスラーム神学を学びに来ていた。しかし19世紀の後半のブハラのイスラーム神学は形式的なものに堕落しており、ロシアの保護のもとで蒙昧なアミール(君主)による圧政が行われており、改革の機運が高まりつつあった。そのようなタタール人のガスプリンスキーがまず教育の改革をめざして開始したのが「新方式学校」で、トルコ系ムスリムの共通語としてトルコ語を取り入れ、従来のようなイスラーム教育だけでなく数学、理科、歴史、地理など教えようという教育近代化の試みだった。この「新方式」(ウスリ・ジャディード)を支持する人々はジャディード(改革派)と呼ばれるようになり、新方式学校をシャリーアからの逸脱として認めない保守派のウラマーと対立するようになった。またロシア当局は、ジャディードの運動を「汎ムスリム主義」または「汎トルコ主義」の現れとして危険視し、厳しく弾圧した。しかし1905年の日露戦争、1908年の青年トルコ革命などの影響でブハラを中心としたジャディードの運動は盛んとなり、多くの若者がイスタンブルに留学して新知識をもたらすようになり、1910年頃には「青年ブハラ人」が組織された。彼らは1917年のロシア革命以後、トルキスタンの民族独立運動を展開していくが、十月革命で成立したロシアのボリシェヴィキ政権のめざす社会主義国家建設には相容れられなくなり、反革命として弾圧されることになる。ジャディードの一人で、トルコ語による詩作や演劇などの文学作品を通じて民族の自立を進め、ブハラ革命でも大きな役割を担ったフィトラトは、スターリン体制が強まるなか、1937年7月に「反革命的な民族主義者」として逮捕され、他のジャディードとともに翌38年10月4日、銃殺された。その名誉が回復されたのはスターリン批判の行われた1956年であった。<小松久男『革命の中央アジア あるジャジードの肖像』1996 東大出版会 ジャディードの一人、フィトラトを取り上げて、ジャディード運動の詳細を論じている。>
ウ.国内動乱と近代化の始動
 拝上帝会 1844年までに、広西省桂平県を中心に、洪秀全と楊秀清らが広めたキリスト教計の宗教結社。拝上帝会とも単に上帝会とも表記される。当初はキリスト教の理念を残していたが、その勢力が強まる共に土俗的、呪術的なものに変質し、神懸かりになった幹部がエホバを上帝、キリストを天兄、洪秀全を天弟であるというお告げを下し、信者を広めた。入会者は平等で男は皆が兄弟、女は姉妹と称した。キリスト教の十戒にならって十ヵ条の戒律を設け、邪宗信仰・殺人・傷害・アヘン吸飲・賭博などを堅く禁止した。中国南部で勢力を増し、1850年秋に金田村で蜂起を初め、翌1851年に「太平天国」を樹立した。 
 反清復明  
 会党  
 天地会  
 哥老会  
c 洪秀全 「太平天国の乱」の指導者。広東省花県の客家出身。生い立ちははっきりしないが、たびたび科挙の試験に失敗し、病弱でもあったらしい。病臥中に得た天啓が、キリスト教宣教師から借りた書物の内容と一致したことから信仰に入った。自らエホバの子で、キリストの弟であると称して、上帝会を組織した。その人間の平等を説くわかりやすい説教は農民や貧民層に受け入れられ、広西省に広がった。1850年秋、大飢饉が起きると広西省桂平県金田村で蜂起を初め、翌1851年に「太平天国」と号し国家を樹立、1953年には南京を占領して「天京」とし、中国華南一帯を支配した。最後は太平天国に内紛が起こり、洪秀全自身も宮殿で80人の女性に囲まれて生活するなど民心から離れ、64年南京が陥落すると、毒を仰いで自殺した。 
d キリスト教信仰  
e 客家 中国の広東省などで、土着の人から、外来の客人として区別されている人々を客家(はっか)という。華北を遊牧民に征服された北宋の頃、漢民族が南に移住し、その子孫と言われている。その言葉は古い中国語の発音を残しておr、独特の集団住居に住み、団結心が強く、また行動力にも富み、台湾や南洋地方に移住する人々も多かった。一方で土着の南方人と抗争を起こすことが多く、反骨心も豊かだった。太平天国を起こした洪秀全もそのような客家の一人であった。その他、孫文や現代中国の最高実力者、ケ小平も客家の出身だと言われる。 
 太平天国の乱 1851年から1864年にわたる中国の大農民反乱。アヘン戦争後の清朝社会の矛盾が深まる中、キリスト教信仰をもとにした拝上帝会を組織した洪秀全が、広西省の金田村を拠点に蜂起し、1851年に「太平天国」の国号で独立国家を樹立した。「太平天国」は、「滅満興漢」を掲げ、反清朝の民族主義、「天朝田畝制度」などで平等社会の実現などをめざし、満州族の支配、外国貿易の開始による物価騰貴などに苦しむ農民・貧民の心を捉え、大勢力に成長。1853年には南京を占領して天京と改称し首都とした。太平天国軍はさらに北上し、浙江省、江蘇省を占領、一部は貴州、四川まで侵入した。しかし、都を天京に定めてから太平天国内部で内紛が生じ、東王を名乗る楊秀清と洪秀全が対立するようになる。清朝正規軍(八旗緑営)には太平軍を鎮圧する力が無く、曽国藩湘勇という義勇軍を組織し、専ら太平軍との戦闘に当たった。太平天国に対し諸外国ははじめ好意的であり、使節を派遣することもあり、中立を保った。しかし、1856年におこしたアロー戦争で、1860年に清朝政府を屈服させたイギリス・フランスを中心とする列強は、清朝を利用して中国での利権拡大を目指し、民族主義的な太平天国を危険視し、その弾圧に協力するようになる。アメリカ人のウォードやイギリス人ゴードンの指導した常勝軍と、左宗棠の湘軍(湘勇)や李鴻章の淮軍(淮勇)(ともに曽国藩の部下)という郷勇の軍事力が共同して太平天国軍を攻撃、1864年、天京が陥落し、洪秀全も自殺して、太平天国の乱は鎮圧された。太平天国の乱は長期にわたっただけでなく、中国の南半分を勢力下に納め、また捻軍ミャオ族の反乱のように同調した反乱が起こり、地域的に広範囲に及んだこともかつてないことであった。反乱内部には未熟な部分があり、結局は鎮圧されたが、清朝の専制政治と封建社会が植民地化の危機にさらされているとき、それに変わるものを求める民衆のエネルギーが爆発したことは確かであり、現代中国では革命的な民族独立運動の第一歩として高く評価されている。
a 1851 この年5月、洪秀全は金田村で「天王」に即位し、「太平天国」を国号とする独立国家を宣言した。9月には同志の楊秀清を「東王」、蕭朝貴を「西王」、馮雲山を「南王」、韋昌輝を「北王」、石達開を「翼王」に任命して態勢を整えた。洪秀全が金田村で蜂起したのは1850年秋であるが、「太平天国の乱」はこの1851年からとされる。約10年前の1840年にアヘン戦争が起こり、中国はまさに激動の10世紀後半に入っていくこととなった。時に清朝は道光帝の時代、またこの年、ロンドンではビクトリア女王のもとで第1回万国博覧会が開催され、イギリスの覇権を誇っていた。日本は嘉永4年、ペリー来航の2年前であった。太平天国は64年まで続くが、この間、清は第2次アヘン戦争とも言われるアロー戦争をイギリス、フランスと戦っている。
b 金田村 広西省桂平県の一小村で「きんでんそん」と読む。洪秀全らの拝上帝会が拠点とし、1850年秋から蜂起を繰り返し、1951年に「太平天国の乱」が始まったところ。  
c 天京 1853年、南京を制圧した「太平天国」が、この地を天京(てんけい)と改称して、首都とした。1864年の太平天国の乱が鎮圧されるまでその首都であった。 
d 滅満興漢 「太平天国」が掲げたスローガンで、満州人の清朝政権を滅ぼし、漢民族の国家を復興させようという意味。
e 辮髪 清朝は満州族の習俗である辮髪を漢民族にも強制したが、太平天国では、辮髪を嫌って髪を伸ばした。そこで太平天国を長髪族とも言う。 
f 長髪族 辮髪を拒否し、髪を剃らずに伸ばした漢人を長髪族といい、太平天国の反乱を起こした人々をさした。 
g 天朝田畝制度 1853年、太平天国軍が南京を占領した後に制定した、土地と社会に関する制度。古代の周時代の井田制や唐の均田制を理想とし、土地均分による平等社会の実現を目指した。「田あればともに耕し、銭あればともに用い、どこもかしこも均等でないところはなく、誰一人として飢寒に苦しむことのないようにする」ことを目指した。すべての田を上々から下々に至る9等級に分かち、男女の別なく年齢に応じた広さの田を耕作し、土地の私有は認めない。25戸を一集団として国庫と礼拝堂をおき、一家に必要なものを除いて生産物は国庫に納め、飢饉にそなえたり、身よりのないものや身体の不自由なものに与える。実際どこまで行われたか不明の点も多いが、太平天国の革命的性格を表している。 
h アヘン吸飲  
i 纒足 纏足は中国の女性に見られた風習で、三、四歳の時に足を緊縛して成長を止めてしまうということ。足指を曲げて足裏に縛り付けたままにする。いつ頃から始まったかわからないところもあるが、ほぼ五代末から北宋の時代に、宮廷の後宮で始まったらしい。明の時代には広く流行し、清の支配者となった満州族には纏足の習慣がなかったので、たびたび禁止令がでているが、一向に少なくならず、二〇世紀はじめまで続いた。清では庶民の間でも纏足は女性がよい結婚ができる条件と考えられ、女の子が生まれると親がすすんで纏足にした。纏足をした女性のなよなよとした有様が、女性の美しさの一つとされたようだ。洪秀全の起こした太平天国では、客家にその習慣がなかったこと、キリスト教の理念もあったからか、纏足を禁止した(といっても太平天国では男女は別な集団生活を送ったというし、平等観よりも女性を兵士や労働力として期待したためというのが本当らしい)。また清の西太后は戊戌政変後のいわゆる光緒新政でも纏足禁止令を出し、近代化をアピールしている。中華民国では女性の纏足からの解放が近代化のしるしとして強く叫ばれるようになり、ようやく一九三〇年代になってほとんど見られなくなった。<岡本隆三『纏足物語』1986 東方書店 東方選書> 
j 捻軍 ねんぐん。清末の中国で、太平天国に呼応した農民の反乱。捻匪(ねんぴ)ともいう。捻とは、隊を組むことの意味(油紙を捻(よ)って燃やし、神を迎える風習が農民にあったとの説明もある)で、もとは華北一帯で博打や強盗を事とする遊侠集団であった。アヘン戦争後の社会不安と不況が続く中で、農民も加わるようになり、次第に反清朝の意識を強くし、1853年に太平天国が長江流域に及ぶとそれに呼応して長髪にし、清朝打倒を掲げて軍事行動を起こすに至った。1864年に太平天国が滅亡してからも抵抗を続け、長槍で武装した騎馬部隊による遊撃戦を展開したが、火砲を有する李鴻章淮軍に押されて66年に東西に分裂し、68年に東捻が壊滅、さらに西捻は山西から山東に転戦したが鎮圧された。蜂起から鎮圧まで、16年の長期にわたった農民反乱であった。
k イスラーム教徒  
l ミャオ族 ミャオ族(苗族)は現在も中国南西部の貴州ややベトナム北部、ラオス、タイの山岳地帯などに居住する中国の少数民族(現在は約894万人)の一つ。明や清はミャオ族に対する同化策をとったが、それを「改土帰流」という。それは現地の有力者(土司という)に政治を任せ自治を認めることを改め、中央から官吏を派遣(これを流官という)して王朝の直接支配に切り替える、ということである。清朝はこの政策を雍正帝の1726年から開始したが、ミャオ族(特にその中の湖広、広西、貴州に分布する黒苗と言われる人々)が激しく抵抗したので、清朝は村落を焼き払ったり、漢人を入植させて苗族との対立をあおったりしながら制圧し、重税をかけた。
太平天国の乱とミャオ族:1855年、張秀眉に率いられた苗族は、太平天国に呼応して反乱を起こし、奪われた土地の奪回などを求めた。このミャオ族の反乱は太平天国の乱平定後も続いたが、張秀眉がとらえられ、また清朝の分断策もあって、1872年までに鎮圧された。この戦いでおよそ100万の苗族が殺され、生き残ったのは数万人に過ぎなかったという。<川本芳昭『中国史の中の諸民族』2004 山川出版社世界史リブレット61 p.72-74 などによる>
 太平天国の滅亡  
a 郷勇 清朝は満州を支配していた時代以来の八旗と緑営中国を征服してから漢人を組織した緑営という正規の軍事組織があったが、19世紀には形骸化し、実力を無くしていた。農村には有力者(郷紳)が組織する団練という自営組織があったが、地方の官吏や有力者はそれらをもとにして義勇兵を募集するようになり、それを郷勇という。清末の白蓮教徒の乱や太平天国の乱の鎮圧に正規軍に代わり活躍するようになる。最も活躍したのが曽国藩の組織した湘勇(湘軍)であった。また李鴻章が湘勇をまねて組織した淮勇(淮軍)も次第に有力となりった。これらは近代的な装備を持つが、本質的には有力漢人官僚の私兵として、地縁的・血縁的な結びつきが強かった。日清戦争では清朝軍の中心として戦ったが日本軍に敗れ、ついで義和団事件でほぼ壊滅、清朝の軍事力は袁世凱が組織した新軍に移る。
b 曽国藩 清朝末期を代表する漢人官僚。政治家であり軍人。太平天国の乱が起こると、郷里の湖南省湘郷で農民を募って団練(一種の私兵集団)とし、さらに同郷の読書人(地方官吏層)を幹部として軍隊(このような軍隊を郷勇という)を組織した。それが湘軍(湘勇)である。曽国藩の湘軍は太平天国の乱の鎮圧に活躍し、曽国藩はその功績で侯爵となり、直隷総督に任じられた。直隷とは北京に直接に隷属する省、の意味で現在の河北省から内モンゴルの一部。総督とは「政務・軍務を統括する地方官」のこと。その後、西太后のもとで漢人官僚の中心として洋務運動を推進した。彼は自己の私兵集団を「軍閥」として育成することにつとめ、近代化というのももっぱら軍閥の武器などの装備に関することが主であった。そのような軍閥を背景に、満州人政権である清朝のもとで漢人官僚が発言権を持つという政治のあり方は、彼の後に、李鴻章、袁世凱と受け継がれていく。 
 湘軍  
c 李鴻章 曽国藩の部下として頭角を現し、太平天国の乱では、郷勇の淮軍(淮軍)を組織し、その鎮圧に活躍した。洋務運動では漢人官僚として、清朝政府の改革にあたる。特に1965年から67年にかけて、軍事工場を中心とした四大工場など洋式工場の建設や炭坑、鉄道などの育成にあたった。また、1874年に日本が台湾出兵を行うと、日本に対処するため海軍建設を急務であると主張し、1884年に北洋海軍・福建海軍・南洋海軍の三艦隊を整備した。そのうちの北洋海軍は次第に李鴻章の私兵化し、清末にはその勢力は北洋軍閥といわれるようになる。しかし70年代から80年代にかけて清朝に対する周辺からの圧力が強まり、イリ事件(1871年)、イギリスのビルマ戦争によるビルマ併合(1886年)に伴う雲南侵出、ベトナムへのフランスの侵出に伴う清仏戦争(1884年)が続き、清朝の宗主権は次第に失われていった。そして朝鮮をめぐっての日清戦争(1894年)で敗北し、李鴻章は清朝の全権大使として伊藤博文と交渉し下関条約の締結に当たった。日清戦争後はロシアと結んで日本と対抗しようとし、三国干渉で遼東半島が還付されると見返りとしてロシアに東清鉄道の権利を与えた。また晩年には義和団事変後の8ヵ国連合軍との講和交渉も担当した。この間、1868年から1901年の死去まで内閣大学士を務め、清朝末期の政治と外交を一手に抑えてその存亡を担ったと言える。 
 淮軍 わいぐん。淮勇ともいう、清朝末期の郷勇の一つ。1862年、太平天国の乱鎮圧のために、漢人官僚の李鴻章が、郷里の淮南地方で、曾国藩の湘勇(湘軍)に倣って編成した。上海に進出しようとした太平天国軍を破り、さらに捻軍を討伐し、続いての陝西のイスラーム教徒の乱の平定にも当たった。李鴻章が直隷総督となったため、ともに首都北京に入り、清朝最有力の軍事勢力となった。近代的な装備を持つが、李鴻章の私兵集団という性格が強く、近代的な意味の国民軍ではなかった。日清戦争ではたやすく日本軍に敗れ、ほぼ崩壊した。李鴻章の部下であった袁世凱は、軍隊の近代化に乗りだし、新建陸軍(新軍)を組織することになる。
d ウォード  
e ゴードン 太平天国の乱の鎮定とアフリカのマフディー教徒の反乱で活躍したイギリスの軍人。クリミア戦争に従軍後、中国に派遣されアロー戦争に従軍。1960年李鴻章に要請されてアメリカ人ウォードが創設した外人傭兵部隊常勝軍の指揮官となった。ゴードン指揮の常勝軍は清朝軍を助けて太平天国軍と戦い、その鎮圧に成功した。名声を上げたゴードンは帰国後、スーダンの知事、さらにエジプト総督に任命された。一旦辞職していたが、1984年にマフディー教徒の反乱が起きると将軍としてその鎮定にあたることとなり、エジプト軍の救出に向かったがハルツゥームの戦いでマフディー軍との300日にわたる籠城戦の結果、敗死した。 
f 常勝軍 太平天国の乱の時、外国人の指導のもとで組織された義勇兵で、太平天国軍との戦闘で活躍した。1860年のアメリカ人ウォードが組織し部隊に始まり、彼の戦病死後はイギリス人ゴードンがその指導を継続した。清朝政府は、常勝軍に依存することが大きく、また郷勇の力で太平天国軍をようやく鎮圧した。なおゴードンはクリミア戦争、アロー戦争にも従軍。後にアフリカに渡りスーダンでマフディー教徒の乱の鎮圧にあたり1885年に戦死する。 
g 漢人官僚 太平天国の乱後に清朝政府で用いられるようになった、漢人の官僚で、曽国藩を代表として、その部下の左宗棠、李鴻章などがその中心となった。清朝最末期に台頭した袁世凱は、李鴻章の部下であった漢人官僚。 
 同治の中興 同治帝の即位から退位までの1861〜74年までの時期を言う。アロー戦争の敗北後、太平天国や捻軍の反乱が鎮定されたあとの比較的安定が続いた時期で、この間、同治帝の母親である西太后が実権を握り、漢人官僚による洋務運動が展開され、近代化策がとられた。一定の国力の回復は見られたが、皇帝(実権は西太后)の専制政治、宮廷の奢侈、軍閥の形成などが続き、本質的な近代化には至らなかった。 
同治帝  
a 総理各国事務衙門  
b 曽国藩  → 曽国藩
c 李鴻章  → 李鴻章
d 左宗棠 清朝に仕えた漢人官僚で、曽国藩の創設した湘軍に加わり、太平天国の乱の鎮定に活躍。その功績で(びん)浙総督となった。洋務運動での洋務派の一人として、四大工場の一つである福州船政局(造船所)を建設した。1866年より、陝甘総督となり、ウイグル人イスラーム教徒が1871年に反乱を起こし、ロシアが介入して侵入しイリ事件(1871年)が起きるとその平定にあたり、1876年までに新疆を平定して領土を回復した。
e 洋務派  
f 洋務運動 アロー戦争(第2次アヘン戦争)に敗北した1860年から、日清戦争に敗北する1894年までの34年間にわたって行われた、清朝の近代化を進めた運動。アロー戦争の敗北は西洋の機械文明の優越を実感した清朝の咸豊帝・西太后など上層部の中に、列強の侵略と国内の農民反乱を防ぐには、西洋にならった産業の育成や、軍制の改革が必要であると考える漢人官僚が多くなった。漢人官僚の中心は、太平天国鎮圧の主力となった、曽国藩とその部下であった左宗棠李鴻章などであった。彼らは上海など各地に四大工場などの近代的な造船や武器の製造工場を設立したり、陸海軍学校、外国語学習のための学校などを建設した。その理念は、中国の伝統的な文化や制度を本体とし、西洋の機械文明の技術だけを取り入れようという「中体西用」であったので、根本的な改革には至らず、政権を維持するためだけのうわべの改革に終わった。その時期はちょうど日本の明治維新の時期と同じであり、近代化運動として両者が対比される。日本は統一国家の形成に成功したが、清では有力漢人官僚の私的な勢力である軍閥の形成が進み、結局崩壊した。軍閥は中華民国成立後も独立政権として各地に残存し、近代中国の統一国家の形成を阻害した。
 四大工場(洋務運動) 李鴻章(安徽省出身、淮軍を組織)による上海の江南製造局(銃砲・弾薬と汽船製造)と南京の金陵機器局(大砲と火薬)、左宗棠(湘軍出身)による福州船政局(造船所)、崇厚(満州貴族)による天津機器局(火薬と砲弾)の四つが洋務運動での四大工場とされる。四大工場あわせて2千から7千の労働者が賃金で雇われていたが機械と技師は外国に依存した。これらは機械制生産であるが、商品の生産ではないので資本主義企業とは言えない。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』1986 岩波新書 p.34> 
g 中体西用 清朝末期の改革運動である洋務運動の理念。「中学を体となし、西学を用と為す」の略で、中学とは中国の伝統思想のこと、西学とは西用の学問で、それはあくまで技術(用)としてのみ受け入れる、という精神をいっている。つまり洋務運動は中国の社会や政治の近代化を進めるのではなく、あくまで清朝の支配体制にとって有用な技術の習得に努めよう、ということであった。事実、ここで学ばれたのは四大工場など西洋式の軍事工場の建設や西洋式軍隊の育成という、結局は軍閥の成長に結びつくことだけに留まった。中国の伝統思想を批判し、克服しようという運動は、20世紀に入り、辛亥革命後の文学革命によってである。 
h 西太后 清朝の咸豊帝の妃で、その死後、わが子同治帝と甥の光緒帝の二代にわたり皇太后として実権を振るった女性。その支配は1861年から亡くなる1908年までの約50年におよび、清朝末期の宮廷、紫禁城の主として隠然たる権勢を誇った。まず咸豊帝没後にわが子同治帝が皇帝となることによってその「垂簾聴政」(幼少の皇帝に代わり御簾の裏で政治を執る)を行い、はじめは曽国藩李鴻章ら漢人官僚による洋務運動を支持し、同治の中興といわれる安定期をもたらした。同治帝が17歳になり親政を開始した1873年にはいったん垂簾聴政を終えたが、翌年急死したため、4歳の甥の光緒帝を立て、再び垂簾聴政を開始した。次第に権力を独占するようになったが、この間イリ事件など「辺境の危機」が続き、1884年にはベトナムの宗主権をめぐって清仏戦争が起こり、その後は洋務派も退けた。1889年光緒帝が親政を開始し、西太后は離宮の頤和園に引退したが、光緒帝が次第に改革を進めようと「帝派」を形成すると、「后派」といわれる勢力を率いて皇帝を牽制するようになり、日清戦争には開戦に反対した。日清戦争の敗北後、日本に続きロシア、フランス、ドイツ、イギリスによる中国分割が進む中で、康有為・梁啓超ら革新派の若手官僚が光緒帝のもとに結集し1898年に戊戌の変法(百日維新)を断行すると、西太后は宮中保守派を動員してクーデターを行って光緒帝を幽閉、改革派を弾圧した(戊戌の政変)。その後の10年は独裁的な権力を握ったが、1900年の義和団事件でははじめ排外主義の義和団を支持して諸外国に宣戦布告したが、8ヵ国連合軍に北京を攻撃されると、宮廷ごと西安に逃れた。講和成立後北京に戻った西太后は一転して西洋文明の導入に努め、立憲制度の導入による清朝の延命を策した(1901年からの光緒新政)。彼女自らも西洋趣味を楽しんだが、宮廷の奢侈をよそに清朝の衰退は急速に進み、日露戦争で清朝の故郷が戦場となるのにまかせる他はなかった。西太后は、1908年幽閉していた光緒帝の死の翌日、息を引き取った。
Epi. 西太后の実像 西太后は中国の映画『西太后』1985 などによって、競争相手の后の手足を切断して「生きダルマ」にした、などの残忍な女性というイメージが強いが、この話はフィクションである。それに近いこととしては、義和団事変で北京を脱出するとき、云うことを聞かなかった光緒帝の妃の一人珍妃を宦官に命じて井戸に放り込んだ、ということがある。相当気性は激しかったようだ。珍妃を井戸に投げ込んだ話や、食事のたびに百種以上の料理を出させ、毎回宦官の一人をささいなことでむち打ちの刑にし、その悲鳴を聞きながら食べていた、などという話が『最後の宦官小徳張』<張仲忱、朝日選書 1991>に見えている。西太后の実像に迫り、その統治に現代中国の原点を見いだしているのが最近の『西太后』<加藤徹、中公新書 2005>である。
エ.明治維新
 開国  
a ペリー  
b 日米和親条約  
c 日露和親条約 1855年2月(和暦では安政元年=1854年の12月にあたる)、日本とロシアの間で結ばれた条約(日露通好条約、または締結地から下田条約ともいう)。日米和親条約に準じ下田・箱館・長崎を開港し、両国国境を択捉島とウルップ島の間と定め、樺太については国境を定めず雑居地とすることとなった。日露間の最初の国境協定として重要で、現在もその解釈をめぐって両国の対立がある。通商に関する規定は追加条約として、1858年の日露修好通商条約を締結した。
条約締結に至る経緯:1852年、ニコライ1世はアメリカがペリー艦隊を日本に派遣するとの情報に接し、かねて日本沿海への進出を図っていたので、ただちにプチャーチン提督を派遣することとした。ロシアとしてはラクスマン(1792年)、レザノフ(1804年)に続く三度目の派遣である。プチャーチンは52年10月イギリス・ポーツマスを出航、喜望峰回りで53年8月、長崎に到着した。ペリーの浦賀到着に遅れること約1ヶ月であった。54年1月から長崎で交渉が始まったが、おりからクリミア戦争に突入し、ロシアは英仏と敵対関係となったため危険となり、いったん長崎を退去した。しかし同年3月に日米和親条約が成立したことをプチャーチンは再び幕府に迫り、12月から下田で幕府の川路聖謨とプチャーチンの間で交渉が行われ、55年2月(旧暦54年12月)調印した。なおこの交渉中に下田で地震と津波があり、ロシア船ディアナ号が破損、日本側が協力して戸田港で日本最初の西洋汽船「戸田号」を建造し、プチャーチンらはそれで帰国した。
Epi. 日露北方領土問題の争点 日本はこの条約を根拠に、択促・国後・歯舞・色丹の4島は千島列島に入らず日本領であると主張し、ロシア側はこの4島は千島列島に属するから日本がサンフランシスコ平和条約で放棄したものであると主張している。日露和親条約についてのロシア側の言い分は、これはクリミア戦争中の緊迫した中で締結を急ぐためプチャーチンが独自に判断したものであり、無効であるというものだ。ところがソ連が崩壊した後、情報公開が進んだ結果、最近ニコライ1世がプチャーチンに対し4島を日本領と認めてよいという訓令を出していたことが明らかになった。ソ連の学者にもそれを認める意見が強くなっているが、条文での千島列島の範囲をめぐっては異論も出されており、決着を見ていない。次の千島・樺太交換条約も含めて、現在も日露間の大きな問題となっている。<木村汎『日露国境交渉史』1993 中公新書 p.46-61> → 北方領土問題
d 日米修好通商条約  
e 不平等条約  
f 討幕運動  
 明治維新  
a 大政奉還  
b 藩閥  
 対外政策の展開  
a 台湾出兵  
b 江華島事件  → 江華島事件
c 樺太・千島交換条約 1875年に締結された、日本(明治政府代表榎本武揚)とロシアの領土協定で、ロシアが樺太全島、日本が千島列島すべてを領有することを定めたもの。樺太及び千島に住んでいる両国人は国籍を維持したまま残留することが認められ、その場合は営業、所有の権利、信教の自由が保障された。ロシアのサンクト=ペテルブルクで締結されたので、サンクト=ペテルブルク条約ともいう。樺太は1855年の日露和親条約で日露双方の雑居地とされたが、その後も紛争が絶えず、幕府にとっても頭痛の種となっていた。明治新政府はその問題を引き継ぎ、交渉を開始、初めは副島種臣があたったが、征韓論で敗れて下野してからは北海道開拓使次官黒田清隆がリードした。黒田は明治新政府の基盤が脆弱であるのでロシアとの紛争を避け、北海道の開拓に全力を挙げるべきであると主張し、樺太の放棄をロシアに提案し、千島を得ることで合意が成立した。<木村汎『日露国境交渉史』1993 中公新書 などによる>
d 琉球  
 憲法の制定  
a 自由民権運動  
b 大日本帝国憲法  
オ.東アジア国際秩序の再編
 東アジアでの清朝の後退  
a 総理各国事務衙門  
b 琉球領有  
c 清仏戦争  →第13章 2節 清仏戦争
 朝鮮の動揺 19世紀の朝鮮王朝(李朝)では王の外戚が政権を独占して政治は停滞し、財政難は慢性化していた。政府は重税策をとり、農民の抵抗が強まってきた。また朝鮮王朝もその小中華思想によって鎖国政策を採っていたが、1830年代から欧米列強が開国を求めて来航するようになり、特に1842年に南京条約で清が開国すると、列強の開国要求が強まった。内政での農民反乱、外政での列強の開国要求にさらされたが、政権内部では党派の抗争が激しく、動揺が深まっていく。 
a 洪景来の乱 1811〜12年に平安道(朝鮮北部)で起きた洪景来の乱は、朝鮮王朝の外戚金祖淳の専権の除去をかかげた地方官吏等が、租税軽減を求める農民を動員して起こした反乱である。反乱軍は政府軍に進路を阻まれ定州城に籠城し、4ヶ月の激戦の末に敗北・鎮圧された。 
 朝鮮の開国 朝鮮王朝は1637年以来清朝より朝鮮国王として封ぜられ、清を宗主国として臣下の例をとっていた。日本(江戸幕府)とは1607年に国交を回復し、湘軍の代替わりごとに朝鮮通信使を江戸に送ることを続けていた。(幕府の使節が都の漢城にはいることは許さなかった。)それも1811年以後は両国の財政難から行われなくなっていた。その他の国に対しては小中華思想の影響もあって鎖国政策をとっていた。1830年代から強まった欧米列強の開国要求に対しては、朝鮮王朝は清朝を宗主国としているので独自には交渉できないとして拒絶し、大院君政権は攘夷活動を行った。その後、明治維新を達成した日本が、強く開国を迫るようになり、1875年の江華島事件を口実に、翌76年に日朝修好条規が締結され、開国することとなり、釜山など三港が開港されることとなった。
a 大院君 朝鮮王朝国王の高宗の父として大院君の称号を授けられ、1863年から実権を握り、外戚政権を抑え、両班(文武官僚の地位を世襲した門閥貴族)の勢力を抑えるなど改革を行った。また強まる列強の開国要求に対しては、武力によってその要求を拒絶し、1866年のアメリカ船シャーマン号事件、同年のフランス人神父の処刑などの強硬な攘夷策を採った。しかし、1873年王妃閔氏一派のクーデタによって失脚した。その後、1882年の兵士の反乱である壬午軍乱では反乱軍に担ぎ出されたが、清軍によって拘束され3年間抑留された。日清戦争後、一時日本と結んで政権に復帰したが短期政権に終わった。 
b 江華島事件 明治維新後、日本政府は朝鮮王朝に開国を求めたが、朝鮮王朝政権は拒否していた。1875年、日本は軍艦雲揚号を江華島に近づけて威嚇。朝鮮王朝側が砲撃すると応戦して江華島の砲台を占領した。さらに砲撃の責任を問うことを口実に通商条約の締結を迫った。その結果、翌年に日朝修好条規が締結され、朝鮮は開国することとなる。 
c 日朝修好条規 江華島事件の結果、1876年に日本の圧力のもとで締結された明治政府と、朝鮮王朝閔氏政権との間の通商条約。江華条約ともいう。日朝修好条規に基づき、同年中に付則や貿易規則が調印されたがそれらを含めて朝鮮はこの不平等条約の下で開国することとなった。朝鮮側が認めたことは次のようなものである。
1)外交使節の首都派遣。
2)釜山ほか二港の開港と自由貿易。
3)開港場における居留地の設定。
4)領事による居留民の管理。
5)開港場における領事裁判権。
6)朝鮮沿海の測量・海図作成の権利。
7)開港場から四キロ以内への内地旅行、通商権。
8)開港場における日本通貨の使用。
9)朝鮮からの米国輸出の自由。
10)輸出入税の免除(無関税)。 
d 不平等条約  → 不平等条約の締結
 朝鮮の内部抗争 閔氏政権は、日朝修好条規締結後、使節を日本に派遣し日本と世界の事情を調査すると、次第に日本・イギリスなどと協力し、北方のロシアを警戒する方針に変更した。この開化政策を進めたのは比較的若い両班出身の官僚たち、金玉均・朴泳孝などであり、日本にならった近代化路線をとろうとした。この開化派は、朝鮮の近代国家としての独立を目指したので独立党とも言われる。
一方、開国や外国文化の受容に反対した保守派は、門閥貴族層を中心に、清を宗主国とする結びつきを継続しようとした。彼らは、開化派の若手から、古い伝統(朝鮮王朝の「小中華思想」)に固執する人々というので事大党と言われた。 
独立党 外圧に悩む朝鮮王朝で、国内改革を行い、独立を維持しようとした青年政治家、官僚のグループで、開化派ともいう。彼らは一足先に開国し、文明開化を掲げていた日本を模範として改革を進めようとして、清朝と結んでいる閔妃一派などの保守派の事大党と対立した。中心人物は、金玉均・朴泳孝など。1884年にはクーデター(甲申政変)を敢行したが、清朝と結んだ保守派によって反撃され、失敗した。日清戦争では日本に支援されて政権を握ったが、ロシアに支援された事大党に押され、次第にした。
a 金玉均 朝鮮王朝の開化派政治家として活躍、独立党を指導した。1881年、82年に日本を訪問、日本にならって改革を進めることを決意した。1884年、クーデタを決行(甲申政変)し日本と結んで開化派政権を樹立したが清の干渉で失敗。日本に亡命した。1894年、上海で刺客に暗殺された。 
事大党 朝鮮王朝の末期に、開化派の独立党が、清朝と結ぶ保守派の閔妃一派などを形式にとらわれる事大主義者であると批判して名付けられた。このような名称の政党が存在したのでないが、独立党に対抗する勢力として存在を強め、甲申政変を失敗に終わらせ、日清戦争後はロシアと結んで政権を維持した。その思想的な背景には、朝鮮は明の儒教伝統の正統な継承者であり、周辺諸国を夷狄と考えて、対等な交渉はあり得ないする「小中華思想」であった。
b 閔妃 朝鮮国王高宗の妃。びんひ、またはミンピとよみ、諡号を明成皇后という。1873年、その出身氏族である門閥貴族の閔氏一族が、大院君を排除して実権を握った。はじめ強硬な鎖国政策を継続したが、日本の開国要求に屈し、日朝修好条規を締結して開国してからは、政権内に開化派が台頭した。それに対して閔妃一派は清と結ぶ保守派として事大党と言われるようになった。1882年の壬午軍乱(壬午事変)では一時政権を奪われたが、清に後援されて復活。事後は清の宗主国としての支配が強まった。1884年の甲申政変(甲申事変)では急進開化派のクーデタによって再び政権を追われ、この時も清の支援で政権に復帰した。日清戦争で清が敗北すると、ロシアと結んで日本の支配を排除しようとした。その動きを危ぶむ日本の公使三浦梧楼によって、1895年10月、暗殺された(閔妃暗殺事件)。 
c 壬午軍乱 閔氏政権は開化政策を進めることによって財政出費がかさみ、兵士への俸給が滞った。それに反発した兵士が、閔氏政権とそれに協力する日本への反発を強め、1882年に反乱を起こした。反乱軍は閔氏の有力者を殺害、日本公使館を襲撃し日本人軍事教官を殺害、閔妃は王宮を脱出したが、閔氏政権は倒れ、大院君政権が復活した。反乱が起こると日本と清はただちに出兵した。清はいち早く反乱軍を鎮圧するとともに大院君を捕らえ中国に連行した。こうして優位に立った清の後援で閔氏政権が復活した。日本とは乱後、済物浦条約を締結し、賠償金の支払い、公使館護衛のための日本軍駐留などを認めた。 
d 甲申政変 1884年に朝鮮の独立党によって起こされたクーデター。壬午軍乱以後、清は六〇〇〇名の軍隊を朝鮮に駐屯させ、その軍事力を背景に、閔氏政権に対し宗主権強化策を進めた。それに反発して、開化派の中の急進派である金玉均・朴泳孝は、日本公使竹添進一郎と結んでクーデタを計画、清が清仏戦争にかかわっている間をねらい、1884年12月、日本軍を動かして王宮を占領、高宗を擁立して閔氏一派の要人を殺害して実権を握った。しかし閔氏を支援する清軍が直ちに反撃、袁世凱の率いる部隊がクーデタ部隊を攻撃し、日本軍は撤退したため、開化派政権は三日で崩壊した。金玉均・朴泳孝等は日本に亡命した。翌年、日清両国は天津条約を締結、朝鮮出兵の際の相互事前通告などを取り決めた。 
e 天津条約(日清間)甲申政変後、日本の伊藤博文と清の李鴻章は中国の天津で会談し、翌年の1885年に天津条約を締結した。
・朝鮮からの両軍の撤退すること。
・双方とも朝鮮に軍事教官を派遣しないこと。
・将来、朝鮮に出兵する場合は、お互いに事前通告を行うこと。
天津条約によって日清両国間の衝突は回避されたが、9年後に甲午農民反乱が勃発すると、朝鮮政府が清軍に出兵を要請、日本もこの条約に基づいて出兵し、ついに日清戦争となった。
 日清戦争 朝鮮の支配をめぐって起こった日本と清の戦争。1894〜95年。甲申政変以来、朝鮮での主導権を清に握られた日本は、勢力回復の機会を探っていた。1894年2月、東学の農民反乱(甲午農民戦争)が起こると、朝鮮王朝政府は独力で鎮圧することが出来ず、清(代表として朝鮮にいたのは袁世凱)に出兵を要請。日本も天津条約にもとづいて出兵した。日本は清に先んじて王宮を占領、朝鮮王朝政府に清朝を宗主国とすることを破棄させ、清国軍隊の撤退を日本に一任させた。8月1日、日本は清に宣戦布告、9月の平壌の戦い、黄海海戦でいずれも清軍を破り、さらに陸軍は鴨緑江をわたり遼東半島に侵入、海軍も威海衛を占領して清の北洋艦隊を壊滅させた。一方で、の指導する東学を激戦の末、鎮圧した。戦況不利と見た清国は講和を認め、1895年下関で、講和会議が開かれ、下関条約が成立して終結した。近代日本にとっては、アジアの強国として台頭する第一歩となり、清はベトナムをめぐる清仏戦争(1884〜86年)での敗北とともに、大国としての威信を無くし、列強の侵略をさらに激しく受けることとなり、朝鮮にとっては日本の植民地化への危機がさらに強まった。 
a 甲午農民戦争 1894年2月、全羅道で郡役人の不正に反対し、東学の地方幹部であったが指導する反乱が起こった。農民軍は一万名以上に増え、反乱は農民戦争へと発展した。反乱は反日反閔氏政権の様相を強め、全州府を占領した。閔氏政権は清に出兵を要求、清が出兵すると日本は天津条約に基づき出兵、朝鮮支配をめぐって両国は日清戦争となる。反乱軍は日本の出兵に反対して戦ったが、30〜40万の犠牲を出して敗退し、鎮圧された。日本ではこの反乱を「東学党の乱」ともいうが、単なる農民反乱の域を超え、農民が主体となって侵略軍である日本軍と戦ったものなので甲午農民戦争と言われるようになった。
東学党の乱  → 甲午農民戦争
b  ホウ→拡大 ぜんほうじゅん。1894年に勃発した甲午農民戦争の農民指導者。東学の地方幹部であった全準は、全羅道古阜郡の役人の不正に対する農民の抗議活動を指導した。この動きは農民の大反乱に発展した。全準の指揮する農民軍が全羅道を制圧したのを脅威と感じた朝鮮政府は清軍に出兵を要請したが、日本も直ちに出兵するにおよび、日清両国の戦争に転化した。外国軍の進行を見た全準は政府との講和に踏み切っていたが、9月に再び蜂起し東学軍は公州で日本軍と激しく戦ったが、捕らえられ処刑された。
Epi. 緑豆将軍 全準は没落した両班で、父も役人の不正に抗議して打ち殺されていた。権力に対する憎しみを深くきざみながら、30代は村の知識人として子供たちに文字を教えて暮らしながら東学説くようになた。彼の住む全羅道古阜郡で役人の不正から農民の暴動が起きると、無口だが豪胆な全準は指導者の一人となった。清と日本が介入してきたのを見て、彼は政府に不法な税の取り立てを止めることなどを約束させ、いったん講和した。しかし、日清戦争が日本の一方的な勝利で進み、日本の朝鮮支配の恐れが出てくると、再び立ち上がり、日本軍に激しく抵抗した。追いつめられた全準を朝鮮政府は捕らえ、日本公使館に引き渡した。日本軍は全準の影響力を恐れ、協力を求めたが、彼はそれを拒否し、処刑されたという。背の低かった全準は「緑豆将軍」の名で親しまれ、朝鮮の童謡に今でも歌い継がれている。<岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー p.211〜216>
c 東学 1860年に、両班出身で没落した崔済愚が創始した宗教。儒教・仏教・道教を融合させ、西学(天主教=カトリック教)に対抗する意味で東学と名付けられた。東学の教徒となって真心込めて呪文を唱え、霊符をを飲めば、天と人間が一体となり、現世において神仙となることができると説いた。大院君政権は思想統制を強め、東学を弾圧、1863年崔済愚を逮捕し、死刑とした。1880年代には、外国貿易による物価高などもあって排外思想が強まる中で、東学も再び活発となり、第二代教主の崔時亨のもとで組織化が進み、「斥倭洋」をかかげ、激しく日本と西洋諸国の排斥を求めるようになった。1894年、日清戦争の導火線となった農民反乱を起こす。 
d 崔済愚 さいせいぐ(チェジェウ)。19世紀末に朝鮮で「東学」という宗教を起こした。没落した両班であった崔済愚は、西欧諸国の朝鮮侵略の現実に直面して危機を感じ、西欧に対抗するためにはその宗教であるキリスト教(西学)に対して、東学、つまり東洋の教理を強めることを唱えた。東学が目指すのは人と天を一体化させ、地上に天国を実現するというものであり、呪文を唱えるなどわかりやすい教義であったので、民衆に急速に広がった。朝鮮王朝政府は東学の広がりを危険な思想と考え、1863年に教祖崔済愚を捕らえて翌年処刑した。二代目教祖崔時亨は、崔済愚は無実であるとしてさらに活動を広め、秘密組織を作っていった。その一人全準が1894年に農民に蜂起を呼びかけ、甲午農民戦争が勃発した。
e 1894〜95  
f 下関条約 1895年、下関で日本全権伊藤博文と清国全権李鴻章の間で締結された、日清戦争の講和条約。
1)朝鮮の独立の承認。
2)清は遼東半島台湾、澎湖諸島を割譲する。
3)2億両(テール)の賠償金の支払い。
4)長沙、重慶、蘇州、杭州の開市。
※遼東半島は後の三国干渉によって、清に還付される。 
g 李鴻章  → 李鴻章
h 伊藤博文  
朝鮮の独立 朝鮮王朝は独立した王国であったが、1637年に服属して以来、清朝を宗主国としてその宗主権を認め、その影響下にあった。日清戦争後の下関条約において、清は朝鮮が独立国であることを認め、宗主権を放棄した。これによって朝鮮は完全な独立国家となったが、今度はロシアと日本の介入が強まり、その対立は日露戦争に発展する。戦中および戦後の三次にわたる日韓協約によって日本の保護国とされ、1910年の韓国併合条約で日本に併合さられることとなる。 
i 遼東半島 中国の東北地方から渤海につきでた大きな半島で、その先端に旅順・大連という重要な貿易港・軍港を持ち、東北地方の内陸部とつながる重要な地域。東北地方を南西に向けて流れる遼河の東にあたる。戦国時代から漢民族が進出し、漢から三国時代には公孫氏が勢力を持っていた。一時、朝鮮から高句麗が進出したが、それを滅ぼした唐は遼州をおいて直接支配した。その後は渤海、遼、金、元と漢民族の支配が遠のいた。1894年、日清戦争に勝った日本は、下関条約で清朝に遼東半島の割譲を認めさせたが、三国干渉によって返還した。その後はロシアの進出が強まり、1898年には旅順・大連を租借した。日本とロシアの抗争の地となり、1904年の日露戦争では旅順は最大の激戦地であった。勝利した日本はポーツマス条約で遼東半島の租借権を引き継ぎ、関東州として支配した。
j 台湾 下関条約で日本に割譲さた1895年から、日本が第2次世界大戦で敗れた1945までの50年間、日本の植民地支配を受けることとなる。三国干渉によって遼東半島は清に返還されたが、台湾は日本に割譲されることとなり、それに反対した台湾の人々は95年5月、台湾民主国の設立を宣言し、広東から劉永福(太平天国に参加し、後にヴェトナムに移り黒旗軍を組織し、フランスに抵抗した軍人)を招いて日本への抵抗を呼びかけた。日本は軍隊を派遣して抵抗を排除し、台湾総督府(軍人が総督となる軍政が敷かれた)を於いて植民地支配を開始するがその後も山岳民族などの反日活動が続く。1902年頃までに日本軍の苛酷な軍政によって抵抗運動は抑えつけられ、それ以後は台湾銀行などを通じての日本の帝国主義により植民地収奪が続いた。1930年10月には現地の山岳民による日本人官憲の圧政に対する反発から、日本人が襲撃される暴動(霧社事件)が起こっている。また太平洋戦争が始まると、日本による皇民化政策が強められ、多くの台湾人が日本軍に動員された。 → 戦後の台湾
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