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第13章 アジア諸地域の動揺
1.オスマン帝国支配の動揺とアラブのめざめ
ア.オスマン帝国支配の動揺
 ヨーロッパ勢力の侵出  16世紀は、ヨーロッパの東に隣接する地域に、オスマン帝国が勢力を伸ばした時代であった。その最盛期であるスレイマン1世の時代にあたり、1526年のモハーチの戦いでのハンガリー征服、1529年の第1次ウィーン包囲、1538年のプレヴェザの海戦でのスペイン・ヴェネツィア連合軍に対する勝利で、ヨーロッパキリスト教世界に大きな脅威となった。このオスマン帝国のバルカンと東地中海制圧よって東方貿易(レヴァント貿易)を圧迫された北イタリアの商人は、ポルトガル・スペインの王室と結んで、直接アジアと取引をするためインド航路や西廻り航路の開拓に乗り出し、それがヨーロッパ勢力のオスマン帝国領土への侵出を促すこととなった。インド洋方面には16世紀のポルトガルに始まり、17世紀にはイギリスが侵出した。またバルカン半島では1683年の第2次ウィーン包囲失敗以後、オーストリアに圧され、1699年カルロヴィッツ条約でハンガリーなどを放棄、さらに18世紀になるとロシアの南下政策が激しくなり、オスマン帝国領は次第に縮小していくこととなった。またオスマン帝国支配下のギリシア人、スラブ人などの独立運動やアラブ人の自立を求める運動がヨーロッパ諸国の利害と結びつき、オスマン帝国を衰退させる要因となった。 → オスマン帝国の衰退
a ポルトガル  → 第10章 2節 ポルトガルのアジア進出
b イギリス  
c アッバース1世  → 第8章 3節 イラン サファヴィー朝 アッバース1世
 バルカンの領土縮小  オスマン帝国は1453年、ビザンツ帝国を滅ぼし、さらにスレイマン1世の時代にはバルカン半島全域を支配した。現在のハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラヴィア、セルビア、アルバニア、ギリシアなどはすべてオスマン帝国領となり、その地のカトリック教徒、ギリシア正教徒はイスラームの支配を受けることになった。その一部はイスラム化し、現在に至る複雑な民族的、宗教的対立の背景となっている。しかし、オスマン帝国のバルカン支配は17世紀には大きく揺らいできた。その転換点が1683年第2次ウィーン包囲の失敗と、1699年カルロヴィッツ条約である。
a 第2次ウィーン包囲 1683年にオスマン帝国が、神聖ローマ帝国ハプスブルク家の都ウィーンを攻撃した戦争。オスマン帝国は、16世紀後半から17世紀にかけて、スルタン権力が動揺し宦官、後宮の女性などが政治に介入し混乱が続き、実権は大宰相に握られていた。大宰相の地位に就いたカラ=ムスタファは、功名心からハプスブルク領への進出をもくろみ、15万の大軍でウィーンを包囲した。ウィーンは陥落目前までになったが、ポーランド王ソビエスキーが来援し、オスマン軍は敗走した。この敗北の責任をとらされ、カラ=ムスタファは処刑された。その後もオスマン軍はハプスブルク軍に敗北を重ね、1699年のカルロヴィッツ条約でようやく和平したが、これによってハンガリーの大半を失い、ヨーロッパ領土縮小が始まったオスマン帝国の衰退が進んだ。 ← 第1次ウィーン包囲
b カルロヴィッツ条約 1699年、オスマン帝国オーストリア・ポーランド・ヴェネツィアと結んだ条約。カルロヴィッツはハンガリーのドナウ川河畔の地。1683年、第2次ウィーン包囲の失敗後も、オスマン帝国はオーストリアとの戦争を継続したが、自軍内に反乱が起きて敗北。このカルロヴィッツ条約でハンガリー・トランシルヴァニア・スロヴェニア・クロアチアをオーストリア(ハプスブルク家)に割譲した。オスマン帝国が、最初に領土を放棄した条約で、その衰退の始まりを示している。またこれによって中欧・東欧におけるハプスブルク家オーストリアの覇権が確立し、その繁栄が始まる。
c ハンガリー  →第6章 2節 ハンガリー王国
d オーストリア  →第9章 4節 オーストリア
 ロシアの侵出   →第10章 1節 ロシアのオスマン帝国侵犯、 第12章 5節 ロシアの南下政策
a アゾフ海 ロシアのドン川河口にひろがり、黒海につながる湾状の海。黒海沿岸はオスマン帝国の支配下に組み込まれ、河口の港アゾフにはオスマン帝国の砦が建設されていた。1696年、ロシアのピョートル大帝が占領、以後数年にわたるロシアとオスマン帝国の攻防の結果、1739年にロシア領であることが認められた。ロシアの黒海方面への侵出、いわゆる南下政策の第一歩であった。
チューリップ時代 オスマン帝国は1711年にはピョートル大帝のロシア軍をプルートの戦いで破り、その侵攻を一時食い止めた。結局アゾフ海の支配権は失ったが、18世紀前半のアフメト3世(在位1703〜30年)時代は比較的安定した時代を迎えた。この時期はフランスとの提携が進んだため、宮廷にはフランス文化の影響を受けた華美な文化(例えばフランス風の音楽や社交ダンスが好まれ、コーヒーや酒がふるまわれるサロンが開かれたなど)が開花した。その時代をチューリップ時代といっている。しかしオスマン帝国内の社会の矛盾は進行し、国力の衰退を回復することはできず、18世紀後半には再びロシア(エカチェリーナ2世)の侵攻を受け、クリミア半島を失うことになり、一方支配下のアラブ民族の独立運動が活発となる。ただし、「急速に衰退した」とは言えず、オスマン帝国はなおも19世紀を通じて存続し、消滅するのは1922年。 → オスマン帝国の混乱
Epi. 「トルコの帽子」という意味のチューリップ 「チューリップはもともとトルコの宮廷の庭園で大事に育てられていた花で、これをあるオランダ人の商人がその美しさに感嘆してスルタンから下賜され本国へ持ち帰ったのが最初であり、その花がトルコのターバンに似ているところから「チュルクリップ(トルコの帽子)」と呼ばれるようになったことに由来しているという。」大島直政『遠くて近い国トルコ』 1968 中公新書 p.120>
b キュチュク=カイナルジャ条約 1774年、ブルガリアのキュチュク=カイナルジャでロシアとオスマン帝国(トルコ)間に締結された条約。ロシアがボスフォラス=ダーダネルス海峡の商船の航行権などを獲得し、南下政策を展開する前提となった条約。ロシアは1696年のピョートル大帝のアゾフ海侵出以来、黒海方面への侵出を進めていたが、エカチェリーナ2世は1768年にオスマン帝国に戦争を仕掛け(広義のロシア=トルコ戦争)、戦いを有利に進めて1774年この条約で終結させた。この条約ではロシアの両海峡航行権だけではなく、ロシア皇帝にオスマン帝国内のギリシア正教徒への保護権を認め、オスマン帝国はクリミア半島のクリム=ハン国に対する保護権を失った。これらは後のクリミア戦争でのロシアのオスマン帝国への介入の口実となり、いわゆる東方問題の始まりを意味していた。 → ウンキャル=スケレッシ条約
c クリミア半島  → 第10章 1章 クリミア半島
d 民族主義  → 帝国主義時代の民族主義運動
 アジア諸地域の動揺 オスマン帝国は領土縮小、ムガル帝国は滅亡、清朝は半植民地状態に陥る。 
イ.アラブ民族のめざめ
 ワッハーブ派  18世紀半ば、アラビアのイブン=アブドゥル=ワッハーブ(1792年没)が起こした、イスラームの宗教改革運動。彼は、ヒジャーズ(アラビア)、イラク、シリアなどを旅行した後、当時のイスラーム教徒が、預言者ムハンマドの示した『コーラン』とムハンマドの言行(スンナ)の教えにいちじるしく逸脱している、と考え、それを粛正し、厳格な原始イスラームを復活しようとした。彼は、中央アラビアの小部族の首長だったムハンマド=イブン=サウードという同志をみいだし、かれを養子とした。これは宗教と剣の結合の歴史的な再現であり、その結果、中部および東部アラビア全体へ、その信仰とサウード家の権威が急速に拡大した。彼らはその反対派からワッハーブ派と呼ばれた。<ヒッティ『アラブの歴史』下 講談社学術文庫 p.755>
ワッハーブ派のイスラーム純化運動は東南アジアにも広がり、1821〜37年にはスマトラ島で彼らの反オランダ闘争であるパドリ戦争が起こっている。
Epi. ワッハーブ派、ムハンマドの墓を破壊 ワッハーブの始祖の本名はムハンマド=イブン=アブド=アル=ワッハーブ。彼の協力者となったのがムハンマド=イブン=サウード。この「二人のムハンマド」が結成したのがワッハーブ派。彼らの考えは教祖ムハンマドの教え戻り、忠実にそれを実行すること。彼らから見れば、古めかしいスーフィズムの聖者崇拝や、単なる木や石を霊廟だとしてあがめる偶像崇拝は許されないことであった。ワッハーブ派は1805年、メディナにあった教祖ムハンマドの墓廟さえも破壊した。たとえ預言者の墓であっても、墓を崇拝するのは許されない厳格な宗教純化の表れである。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』1996 中央公論社 世界の歴史20>
a イブン=アブドゥル=ワッハーブ 18世紀半ばのイスラーム復興主義にもとづく改革運動であるワッハーブ派の運動の指導者。正式な表記はムハンマド=イブン=アブド=アル=ワッハーブ。アラビアの中央リヤドの北方のカーディ(イスラーム法の司法官)の家に生まれ、幼い頃からイスラームの文献を読み、アラビア各地を旅して見聞を広めた。その結果、彼はイスラーム教が8世紀以来に加えられた雑多な付加物によって堕落しており、ムハンマド以前のジャーヒリーヤ(無明)時代の古い習慣が残存していると感じ、それらを徹底して取り除く改革運動を始めた。イスラームの信仰を本来の厳格なものに戻そうとする彼の運動には反対者も多く、彼は同郷の豪族サウード家ムハンマド=イブン=サウードの保護を受けた(1744年頃)。ムハンマド=イブン=サウードがワッハーブの娘と結婚して両家は結びつき、ワッハーブの教えに従い、ムハンマドの初期イスラームに回帰するための戦いを「聖戦」として実行し、オスマン帝国から独立してワッハーブ王国(第1次サウード王国)を樹立した。
Epi. 二人のムハンマド 「こうして1744年とも、1745年ともいわれるが、両者の歴史的同盟は成立した。ワッハーブ派がサウード家を中央アラビアの世俗的主権の支配者として認めるとともに、サウード家もワッハーブの思想を受け入れ、初期イスラームの純粋性の回復を実現するために戦う(ジハード)ことを誓ったのである。その象徴的な出来事は、ムハンマド=イブン=サウードがムハンマド=イブン=ワッハーブの娘を娶ったことである。これは、その後のたびかさなる両家の交婚の最初となった。・・・・サウード家とワッハーブ家の同盟は、こののちアラビア半島に重大な意味をもたらすことになる。なぜなら、サウード家に従わないものは、ワッハーブから背教者、異教徒と見なされ、ジハードの対象とされたからである。宗教のため戦う戦士をムジャヒードといい、そのための戦死者は殉教者(ジャヒード)と呼ばれ、神から多大の祝福を受ける。ワッハーブの戦士は勇猛果敢に戦い、恐れられた。」<小山茂樹『サウジアラビア』1994 中公新書 p.37>
b サウード家 アラビアの東部(アル=ハサ地方)の中心リヤドの北15kmほどにあるダルイーヤの豪族。18世紀中頃、その首長ムハンマド=イブン=サウードが、イスラームの改革運動を始めたイブン=アブドゥル=ワッハーブを保護し、ワッハーブ派の信仰を掲げてアラブ諸部族を統合し、ワッハーブ王国(第1次サウード王国)を建国した。ワッハーブ王国は19世紀に入り、エジプトのムハンマド=アリーに攻撃されて敗れ、サウード家もアラビアを追われクウェートに逃れる。その後アラビアにはイギリスと結んだハーシム家のフセインが台頭し、ヒジャーズ王国を建国するが、リヤドに戻ったサウード家のアブドゥルアジズ(イブン=サウード)が再びワッハーブ派の信仰を掲げて対抗し、1925年までにアラビアの覇権を確立。1932年にサウジアラビア王国を樹立した。サウード家は現在もサウジアラビアの王位を世襲している。
c ワッハーブ王国 第1次ワッハーブ王国:(1744年ごろ〜1818年) イスラーム教の改革運動であるワッハーヴ派が豪族サウード家と結んでオスマン帝国に反旗をひるがえしアラビアに建国した。1803年にはメッカ、翌年にはメディナを占領し、聖者崇拝の対象であった墓を破壊し、偶像崇拝的なものを一掃した。さらに翌年、シリアとイラクに進出。メッカ、メディナを占領したワッハーブ派は巡礼者にその信仰を強要したので、脅威を感じたオスマン帝国マフムト2世は、エジプト総督ムハンマド=アリーに出陣を要請、エジプト軍が1813年にはメッカを奪回し、さらにアラビア半島中央部まで侵入し、サウード家の拠点ダルイーヤを攻撃し、1818年に陥落させた。ワッハーブ王国の樹立は、アラブ人の民族的自覚のはじまりであり、またそれがエジプトのムハンマド=アリーによって鎮定されたことは、オスマン帝国の無力をさらけだすこととなった。
第2次ワッハーブ王国:(1823年〜1889年) 第1次ワッハーブ王国の滅亡後、半島中央部はサウード家の残存勢力と、それから分かれたラシード家が激しく争った。1823年にサウード家はリヤドを都としてワッハーブ王国を再興した。しかし、サウード家に内紛が生じ、その間にオスマン帝国に支援されたラシード家が1889年にリヤドを攻略しワッハーブ王国はふたたび消滅した。これらを第1次サウード王国ともいいう。
サウード王国の再建:リヤドを追われたサウード家はアラビア半島東部で逃亡生活を送った後、クウェートに保護されることとなった。 その後、1902年にイギリスの支援を受けたイブン=サウードがサウード家の支配をアラビア中央のリヤドに再建した。これを第2次サウード王国ともいう。一方、イギリスは第1次世界大戦が始まり、トルコと開戦すると、リヤドのサウード家を支援するとともに、メッカの太守ハーシム家のフセインをも支援して、オスマン帝国の弱体化を図った。第1次世界大戦後にイブン=サウードは、ハーシム家のフセインをメッカから追いだしてヒジャーズ王国を滅ぼして皿ビア半島の統一を達成し、1932年にサウジアラビア王国として正式に独立し現在にいたっている。 
 リヤド サウジあら美半島のほぼ中央に位置する、現在のサウジアラビア王国の首都。この地が首都となったのは、第2次ワッハーブ王国の1923年から。ワッハーブ王国を建国したサウード家ははじめ、リヤドの北15kmほどにあるダルイーヤを拠点としており、第1次ワッハーブ王国は1744年頃、ダルイーヤに建国された。ダルイーヤは1818年、エジプト軍に攻撃されて破壊された。ついでサウード家が再起し、1823年にリヤドに入り、第2次ワッハーブ王国を建国、その後のサウジアラビア王国でも首都とされ、現在に至っている。
イスラーム改革運動 イラン人やトルコ人に広がった、神秘主義(スーフィズム)と聖者崇拝を、イスラーム教の堕落と見なし、ムハンマド時代の本来のイスラーム教に戻ることを主張した運動。18世紀のオスマン帝国の動揺と、西欧諸国の西アジア進出という危機の中で、アラブ人の中に起こった運動であり、その最初のものがワッハーブ派の運動であった。その後、さまざまな分派を生み出しながら、現在のイスラーム世界においても継承され、いわゆるイスラーム原理主義にもつながっている。
 アラブ文化復興運動   
a アラブ民族主義運動 アラブ民族主義の発生:18世紀から19世紀にかけて、オスマン帝国の支配下にあったアラブ諸民族−アラビア語を使用するイスラーム教徒−の中に、トルコ系のオスマン帝国からの自立を求める運動が起こってきた。それはイスラーム教の改革運動と結びついて活発となり、特にアラビア半島でのワッハーブ派の動き、エジプトでのムハンマド=アリーの台頭と、その後のウラービー運動などに顕著に見ることができる。またそれらを尖鋭にした、アラブ民族統一運動を提唱したのがアフガーニーであった(アフガーニーはイラン人であったが)。アフガーニーは19世紀後半にパン=イスラーム主義を提唱し、イギリスなどの西欧諸国の帝国主義侵略に対抗するためにイスラーム教徒の団結を呼びかけ、現代のイスラーム原理主義にも大きな影響を及ぼすこととなる。
第1次世界大戦とアラブ民族主義:メッカのハーシム家のフサインもアラブ民族主義を掲げてオスマン帝国支配地の西アジアの解放をめざしイギリスの後援で戦った。しかし、アラビア半島ではワッハーブ派と結びついていたサウド家が再び台頭し、サウジアラビア王国を建国、ハーシム家はイラク、ヨルダンなどに王国を与えられた。こうして第1次世界大戦後にアラブ民族の独立は達成されたが、エジプトのムハンマド=アリー朝、サウジアラビアのサウド家、イラク・ヨルダンのハーシム家という王国が分立することとなった。これらの王国は、今度はユダヤ人のパレスティナ移住という新たな脅威からアラブの地を守るという課題が生まれた。
第2次世界大戦後のアラブ民族主義:戦後、アラブの各王国はアラブ連盟をつくり、ユダヤ人国家の建設を阻止しようとしたが、パレスチナ戦争で敗れ、イスラエルの建国を許してしまい、アラブ人のパレスチナ難民を抱えることとなった。王政という古い統治形態、王家同士の対立がアラブ民族主義の結束を弱めた要素となっていた。1950年代以降のアラブ民族主義はまったく様相を変えて、イギリスなどの植民地支配に対する民衆の革命的エネルギーと結びつき、1952年のナセルなどに率いられたエジプト革命としてまず爆発した。それ以後はナセルがアラブ民族主義(アラブ=ナショナリズム)の英雄として、反米・反イスラエル闘争という面が強くなる。ナセルの指導するアラブ民族主義は、58年のシリアとの合邦「アラブ連合共和国」の成立でピークを迎えるが、61年のその解体とともに運動は地域的闘争に分解していく。
アラブ民族主義の分裂:1979年のエジプト=イスラエル平和条約によるエジプト(サダト大統領)のアラブ戦線からの離脱はアラブ民族主義を崩壊させた。同年のイラン革命以後は、アラブ民族主義に変わって、イスラーム原理主義が台頭し、アラブ各国がそれぞれに過激な運動体を抱えこみ翻弄されているという状況である。また湾岸戦争、イラク戦争はアラブ諸国を分裂させ、いまや産油国としての共通利害のみになってしまった。
補足カウミーヤとワタニーヤ アラブ民族の統一と連帯という理念はアラビア語でカウミーヤという。しかし一方でアラブ世界には、祖国愛(郷土愛)を意味するワタニーヤという言葉がある。アラブ世界の情勢は、このカウミーヤとワタニーヤが対立する概念として常に議論されている。混迷の原因は、現在の中東の諸「国家」と言われるものが、カウミーヤともワタニーヤとも無縁な、人為的(イギリス・フランスの都合)作業で線引きされたものであるということである。イラクのようにスンナ派とシーア派の地域をくっつけてしまったり、クルド人のように国家が与えられず、居住区が数カ国に分けられてい待った。またレバノンのような多民族、多宗教国家もある。ワタニーヤを抹殺するようなカウミーヤの運動は成功してこなかったし、ワタニーヤを他に押しつける動きも失敗している。中東全体でワタニーヤを共存させ包摂しながら、カウミーヤをも実現するということができれば、問題は解決するであろうが。<参考 山内昌之『民族と国家』−イスラム史の視覚から− 1993 岩波新書 など>
 ムハンマド=アリーの改革  19世紀初頭、エジプト総督となったムハンマド=アリーは、宗主国オスマン帝国からの完全な独立をめざし、イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国に対抗出来るだけの国力をつけるための富国強兵策を進めた。全国の土地調査を実施し、政府が直接に徴税する体制をつくり、また西欧の技術を導入した近代的工場の建設を進めた。とくに紡績、織機、兵器生産などに力を入れた。しかし、農民に対する徴税やエジプト=トルコ戦争などでの兵役負担は次第にその不満を増大させ、ムハンマド=アリー朝は次第に外国資本に依存する面が強くなった。
a ナポレオン  →第11章 3節 ナポレオンのエジプト遠征 
b ムハンマド=アリー オスマン帝国のエジプト総督。トルコ語表記ではメフメト=アリ。1805年、エジプト総督となり、エジプト=トルコ戦争で1841年その地位の世襲化が国際的に認められ、エジプトの「ムハンマド=アリー朝」(1805〜1952年)の始祖となる。
生まれはエジプトではなく、マケドニアといわれる。1799年、ナポレオン軍のエジプト侵入の時、オスマン帝国の将校としてそれと戦い、頭角を現す。フランス軍撤退後の混乱を収束して、1805年カイロ市民からパシャの称号を贈られ、翌年にはオスマン帝国のスルタン・セリム3世からエジプト総督の地位を認められ、半独立の状態となる。1807年にはイギリスの侵入を退け(ロゼッタの戦い)、エジプト内部では1811年に旧来のマムルーク勢力を一掃してエジプトを統一、またエジプトの南のスーダンに進出した。内政では、租税制度、軍事制度、農業、貿易などで近代化政策を推し進め、富国強兵策をとった。1818年にはアラビア半島に進出、ワッハーブ王国を滅ぼした。1825年ギリシア独立戦争が起こるとトルコを助けて出兵、クレタ島・キプロス島を得た。次いでオスマン帝国からの独立を図り、1831年以降、2度にわたるエジプト=トルコ戦争を行った。まずシリアの領有権を主張して、オスマン帝国に対し反乱を起こした(第1次エジプト=トルコ戦争)。ロシアがエジプトを支援て彼は領土を拡張した上で、イギリスの干渉もあって和解した。1839年、トルコがシリアに進出すると再び戦い(第2回エジプト=トルコ戦争)、それを破ったが、イギリス・ロシアなどの干渉を受け、1840年のロンドン会議で彼はエジプトとスーダンの総督の地位の世襲権を認められたに止まった。
c ムハンマド=アリー朝(エジプト王国)1805年に成立した、エジプトのムハンマド=アリーにはじまる王朝。形式的にはオスマン帝国の宗主権のもとで、総督(パシャ)が実質的にエジプト王として支配した。ムハンマド=アリーは1811年にマムルークなど旧勢力を一掃して事実上の独立を勝ち取り、エジプトの近代化を進め、2度にわたるエジプト=トルコ戦争でエジプトとスーダンの総督の地位を確保した。1869年にはスエズ運河を開通させた。
イギリスの保護国化:エジプト王国は1875年、スエズ運河を経営難からイギリスに売却、以後イギリスの介入が強まり、1881年のオラービーの反乱以後は、イギリスの保護国となった。1904年には英仏協商が締結され、フランスはイギリスがエジプトを勢力圏とすることを認めた。
エジプト王国の自立:第1次世界大戦後の1922年にイギリスの保護国から脱し、正式に「エジプト王国」となり、1924年にはワフド党政権が成立した。1936年のエジプト=イギリス同盟条約でイギリスはエジプトの完全な主権を認めたが、イギリス軍は運河地帯とスーダンへの駐屯を続けた。第2次世界大戦末期の1945年には他のアラブ諸国と共にアラブ諸国連盟を結成し、パレスチナへのユダヤ国家建設を阻止しようとし、1947年にパレスチナ戦争(第1次中東戦争)を戦ったが敗北した。1952年、ナギブとナセルによるエジプト革命が勃発、国王ファルークは追放されてムハンマド=アリー朝は終わり、1953年エジプト共和国となった。
d エジプト総督(パシャ) パシャとはオスマン帝国で、高級軍人や大臣などの高官に与えられる尊称であった。1805年、エジプトの実権を握ったムハンマド=アリーはカイロの市民によってパシャの称号を授けられ、翌年オスマン帝国のスルタン、セリム3世がそれをみとめ、彼をエジプト州の総督(ヴァーリー)に任命した。その結果、尊称であったパシャはエジプト総督という官位を意味するようになった。1840年にムハンマド=アリーはエジプト総督の世襲権を認められた。オスマン帝国ではその後、青年トルコ革命の指導者エンヴェル=パシャ、第1次世界大戦後のムスターファ=ケマルもパシャの尊称が贈られるが、オスマン帝国滅亡後のトルコでは廃止された。
e マムルーク(の消滅)オスマン帝国は1517年マムルーク朝を滅ぼしてエジプトを征服したが、マムルーク出身のアミールを総督に任命し間接的な支配を行っていた。またマムルーク軍人にもオスマン帝国の代理人として徴税権が与えられていた。1805年にエジプト総督となったムハンマド=アリーは、富国強兵策を実施してエジプトを近代化するためには、旧勢力のマムルークを一掃することが必要と考え、1811年3月、式典を装っておよそ470名のマムルークとその従者をカイロの城塞に招き、アルバニア軍団を用いて彼らを一挙に殺害した。その後も残ったマムルークを追求する一方、エジプト農民とスーダン遠征によって獲得した黒人奴隷兵とからなる新軍(ニザーム・ジャディード)を編成した。これによって9世紀以降、イスラームの国家と社会で多彩な活動を繰り広げてきたマムルークは長い歴史を閉じることとなった。<佐藤次高『マムルーク』1991 東大出版会>
f エジプトの近代化  → ムハンマド=アリーの改革
g ワッハーブ王国  → ワッハーブ王国
 エジプト=トルコ戦争   →第12章 2節 ア.東方問題とクリミア戦争 エジプト=トルコ戦争
a ムハンマド=アリー  → ムハンマド=アリー
b ウンキャル=スケレッシ条約 1833年、オスマン帝国(マフムト2世)とロシア(ニコライ1世)が締結した条約。(ウンキャル=スケレッシとはイスタンブル対岸の地。フンキャル・イスケレスィとも表記。)第1次エジプト=トルコ戦争に敗れたオスマン帝国のマフムト2世は、エジプトのムハンマド=アリーを抑えるためにはロシアの支援が必要であると考え、ニコライ1世の要求に応えてロシアに有利な条件でこの条約を締結した。秘密条項でロシア軍艦のダーダネルス=ボスフォラス海峡の通行権と、他国の軍艦の通行禁止が認められ、見返りとしてロシアはオスマン帝国への援助を約束した。オスマン帝国はロシアおよび英仏の支援によりエジプトを破ったが、1840年のロンドン会議でこの条約は破棄された。
c ロンドン会議 1840年、第2次エジプト=トルコ戦争(エジプト事件)の講和会議。イギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアの4ヵ国の協定が成立(ロンドン4ヵ国条約)、ムハンマド=アリーのエジプト・スーダンの総督の世襲権を認めらた。さらに1841年、5国海峡協定が結ばれ、ウンキャル=スケレッシ条約は破棄、ダーダネルス=ボスフォラス海峡は封鎖された。
d ロンドン4国条約 1840年、第2次エジプト=トルコ戦争(エジプト事件)の収束のために開催されたロンドン会議で成立した、イギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアの4ヵ国の協定。オスマン帝国スルタン権力の保護をうたい、付属議定書でムハンマド=アリーに対してはエジプトとスーダンの世襲支配権を認めた。協定を主導したイギリスは、フランス主導のエジプト=オスマン帝国の直接講和を嫌い、フランスを排除し、エジプト(モハメッド=アリ朝)の強大化(そのシリア支配はイギリスのインド統治の障害になると考えられた)を防ぎ、オスマン帝国の現状維持を狙ったのであり、その利害が他の三国と一致した。七月王政下のフランス(ティエール内閣)は、アルジェリア支配の安定のためにはエジプトの協力が必要と考え、ムハンマド=アリーへの支援を続けていたので孤立した。
e 5国海峡協定 ロンドン会議を受けて、1841年に成立した、ダーダネルス=ボスヴォラス海峡の航行に関する国際協定。イギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアのロンドン4国条約調印国にフランスが加わった5国間で協定が成立した。内容は、ロシアが1833年にオスマン帝国と締結したウンキャル=スケレッシ条約を破棄し、各国軍艦の両海峡の航行を禁止としたもの。ヨーロッパ各国の利害対立という東方問題での妥協を図ったもの。この海峡封鎖の原則は、クリミア戦争後のパリ条約、露土戦争後のベルリン会議でも確認され、1920年まで続く。
レセップス  → 第12章 2節 レセップス
f スエズ運河(の掘削) エジプトのムハンマド=アリー朝のサイード副王(事実上のエジプト王)は、フランスのレセップススエズ運河建設の許可を与えたが、それはスエズ運河会社に土地のすべてを事実上無償で与え、しかも領土的主権も認めたものであった。さらに建設にあたっては、エジプト農民を無償の強制労働つまり賦役に動員することにも同意していた。1856年から63年にかけて、いつも2万5千人から4万人が動員され、その間に2万人の死者が出た。これはエジプト農民の間にますます外国人への嫌悪をつのらせた。その労働は、運河の底の砂を水につかりながら運び上げるというもので、廃止されたはずの鞭も使われていた。サイードの次の副王イスマーイールはイギリスの主張を入れて、一部の運河地域をエジプトに返還させ、賦役も廃止したが、その際8400フランの違約金をレセップスに支払わなければならなかった。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』1996 中央公論社 世界の歴史20 p.181 p.192>
 ウラービーの反乱 ウラービー(アラービー、オラービーとも表記する)は本名アーメッド=ウラービー。エジプトの農民の子として生まれ軍人となり、「ワターニューン」(愛国者たちの意味)という秘密結社を組織する。ムハンマド=アリー朝を支え陸軍大臣にまで昇り、パシャの称号を認められ、ウラービー=パシャと言われた。19世紀中頃のエジプトがイギリスとフランスの経済的支配を受けて、政治干渉も受けていることに強く反発、1881年、クーデターをおこしてエジプト王を退位させ実権を握り改革を進めようとした。しかしイギリスは直ちにアレクサンドリアを砲撃、陸上からも攻撃して革命を抑えつけた。ウラービー=パシャは捕らえられ、セイロンに流された。以後、エジプトはオスマン帝国の宗主権のもと、事実上はイギリスの支配に入り、第1次世界大戦が勃発するとその保護国となる。この反乱後も、エジプトの反英民族運動であるウラービー運動が続いていく。
a 反植民地闘争  
b イギリスの保護国  
c ウラービー運動 1881年のウラービー=パシャの革命がイギリスに抑えつけられ、エジプトは経済的のも軍事的にもイギリスの支配下におかれた。またエジプト社会ではトルコ人やアルバニア人が高い地位を占めていた。ウラービー=パシャの反乱以来、ウラービー=パシャの「エジプト人のためのエジプト」というスローガンをかかげたエジプトの反英民族闘争であるウラービー運動が起こった。これには、アフガーニーパン=イスラーム主義の思想も影響している。 
ウ.オスマン帝国の改革
 オスマン帝国の混乱  オスマン帝国は、16世紀の最盛期が終わり、17世紀末に衰退がはっきりとしてきたが、同時にそれはヨーロッパ勢力の侵出が始まった時代であり、まずロシアの南下政策によってバルカン半島、黒海方面が脅かされ始めた。18世紀前半には一時チューリップ時代という安定した時代が見られたが、後半から再びロシアの南下が活発となってクリミア半島を失った。このころから領内のギリシア人、スラブ人の独立運動や、アラブ人が民族的自覚を強め、アラビア半島ではワッハーブ王国の自立、エジプトではハンマド=アリーの台頭などが始まった。19世紀のいわゆる東方問題は、これらの民族運動にロシア、イギリス、フランス、オーストリア、ドイツなどが介入し、互いに抗争したことを言う。オスマン帝国の内部は、古いイエニチェリの勢力が残存し、またアーヤーンと言われる地方の有力者が徴税請負権をもって富を蓄積し、分権化が進み、改革の必要が認識されるようになった。18世紀末から19世紀に、セリム3世が改革に着手、ついでマフムト2世によるイエニチェリの全廃エジプト=トルコ戦争後のタンジマートを経て、クリミア戦争後のミドハト憲法の制定など近代化が試みられたが、1877年の露土戦争後はアブデュル=ハミト2世による専制政治が復活、「瀕死の病人」と言われるようになった。そのような危機の脱却を図ったのが20世紀の始めに起こった青年トルコ革命であった。 → トルコ(青年トルコ政権)
アーヤーン オスマン帝国の領土であったシリアの平原部のダマスクス、アレッポ、ベイルートなどの大都市に現れた地方名望家(地域の有力者)をいう。彼らは19世紀には都市の後背地である農村を支配し、徴税請負権を持ち、都市の行政的・商業的機能を担うようになった。彼らの台頭で地方分権体制はさらに強められオスマン帝国の混乱がひろがったが、彼らの支配権はタンジマートによる地方行政制度の再編成によって動揺し、伝統的名望家は中央権力と結びついた新たな名望家に取って代わられていった。<鈴木董『新書イスラームの世界史3 イスラーム復興はなるか』1993 講談社現代新書 p.92,94>
a セリム3世 オスマン帝国の近代化に乗り出したスルタン(在位1789〜1807)。ロシアとの戦争(広い意味でのロシア=トルコ戦争)の敗北を受けて、1793年、はじめて西洋式の軍隊「ニザーム=ジェディット」(新しい制度の意味)を創設した。また92年、はじめてヨーロッパ各国に常設の大使館を開設した。
しかし、セリム3世の時代は外交面で多難であった。1798年にナポレオンのエジプト出兵にともなう混乱からエジプトでムハンマド=アリーが台頭、セリム3世もやむなく彼をエジプト総督に任命した。アラビア半島ではイスラーム原理主義運動であるワッハーブ派がメッカを占領(1803年、07年)した。バルカン半島ではロシアの進出が続き、セルビア人の独立運動も激しくなった。このような情勢で、守旧勢力であるイエニチェリや聖職者(ウラマー)はセリム3世の改革に反発を強め、セリム3世に迫って新式軍を廃止させ、1807年には廃位させることに成功した。退位したセリム3世はさらに革新派と保守派の争いによって幽閉中に殺害された。
Epi. もう一つの1789年 「フランス革命の勃発した翌日の1789年7月15日、当時のイスラーム世界の中心都市イスタンブルでは、オスマン帝国の第28代君主となるセリム3世の即位を祝し、フランス大使をはじめ西欧各国大使のオスマン帝国政府への表敬訪問がおこなわれていた。セリム3世は、かつて西欧キリスト教世界を圧倒したイスラーム世界が、新しい力をもって急速に台頭した近代西欧の圧迫下におちいったことを正面から認めた。彼は、近代西欧モデルの体系的受容による「西欧化」改革を大々的に着手した、イスラーム世界で最初の支配者であったのである。・・・その意味で、フランス革命の年でもある1789年は、イスラーム世界においては、体系的な「西洋化」による「近代化」の試みの始点として、重要な意味を持つのである。」<鈴木董『新書イスラームの世界史3 イスラーム復興はなるか』1993 講談社現代新書 p.20-21>
ニザーム=ジェディット 1793年、オスマン帝国のスルタン、セリム3世が「西洋化」改革の一環として採用した西洋式軍隊。このことばは本来は「新秩序」を意味していたが、新軍隊の名称として定着し、セリム3世の砲兵工廠の改革、陸軍工兵学校の開設、海軍改革など一連の試みの理念を象徴する言葉となった。改革の要員としてフランスを中心とする西欧各国から軍人や技術者をまねいた。しかし、イエニチェリなどの旧軍隊の反発が強く、1807年にセリム3世は退位させられ、ニザーム=ジェディットも解散させられた。その後、マフムト2世によるイエニチェリの全廃の後に再建された。
 → 出題  2007年 早稲田大学(教育) セリム3世が創設した西洋式の新軍隊は次のどれか。
 a.イエニチェリ  b.イクター  c.シパーヒー  d.ニザーム=ジェディット  e.ミッレト
b マフムト2世 1807年、保守派とイエニチェリ勢力のクーデターによってセリム3世が廃位されたのに次いで即位したオスマン帝国スルタン(在位1808〜1839)。オスマン帝国は、ギリシア独立戦争、バルカンのセルビア人の反乱、エジプトのムハンマド=アリーの台頭など、危機が続き、マフムト2世はいったん挫折した近代化の再試行を決意、1826年に抵抗するイエニチェリの全廃に成功、軍政改革を断行した。新式軍(ニザーム=ジェディット)は西洋式の装備を持ち、新設の陸軍大臣に統括されることになった。しかし一方でアラビアで起こったワッハーブ王国に手を焼き、ようやく1813年エジプト総督ムハンマド=アリーによってそれを鎮定、さらに1827年にはナヴァリノの海戦で英・仏・露の連合艦隊に敗れてギリシアの独立を認めることとなった。その後、ムハンマド=アリーの挑戦を受け、第1次エジプト=トルコ戦争を戦い、次いで第2次の戦いを起こした直後の1839年に死去。
c イエニチェリ(の全廃)イエニチェリはオスマン帝国の常備歩兵軍団であり、かつてはスルタンの強力な親衛隊としてヨーロッパの恐怖の的であった。しかし17世紀以降は軍紀が乱れ、無頼集団と化し、しばしば暴動を起こし、新たに西洋式軍隊(ニザーム=ジェディット)創設などの近代化政策を進めたセリム3世を1807年には廃位するなど、近代化の障害となっていた。次のスルタンのマフムト2世は1826年5月、イエニチェリの全廃、新式軍の再編成を命じ、反発したイエニチェリを鎮圧した。これによってイエニチェリ軍団は消滅した。
Epi. 大鍋をひっくりかえしたイエニチェリ マフムト2世の解散命令に抵抗したイエニチェリは、スープ用の大鍋をひっくりかえして、それを兵営に並べた。この仕草はイエニチェリが不平不満を公然と表す際の慣行である。俸給の支払いに対して満足したときは大鍋のスープを飲みピラフを賞味するが、不満なときはこのスープを飲むことを拒否し、もっと不平不満がつのると「飲めるものか」と大鍋をひっくり返すこと行われていた。トルコ語では「大鍋をひっくりかえす」といえば、反乱を起こすことを意味した。しかしこのときはマフムト2世は断固としてイエニチェリ全廃を決意し、重砲を用意し、ムハンマド伝来とされる聖なる軍旗を掲げて威圧し、半時間ほどで反乱を鎮圧、イエニチェリはあえなく最後を迎えた。<山内昌之『イスラームと国際政治』−歴史から読む− 1998 岩波新書 p.194>
トルコ=イギリス通商条約 1838年、オスマン帝国とイギリスと間で締結された通商条約。イギリスはパーマーストン外相主導のもとで、産業革命後の工業製品の市場をアジアに拡大する方針を具体化した。パーマーストンはエジプトとトルコの対立では、イギリスの市場たるべきオスマン帝国の保全にとって、ムハンマド=アリー朝エジプトの強大化を危険視した。そのためエジプトにとって打撃となるトルコ=イギリス通商条約の締結を進めた。これはオスマン帝国全土でのイギリス人の通商貿易権、領事裁判権を認め、輸出入税は一律賦課としてオスマン帝国の関税自主権を否定した片務的な不平等条約であり、しかもエジプトも国際法上はオスマン帝国の一州にすぎなかったのでこの規制を受け、小麦などの輸出品は政府の専売品であったので、それへの課税は大きな痛手となった。トルコ=イギリス通商条約は、日米修好通商条約など以後に続くアジア諸国に対する不平等条約の先駆であり、巧妙なエジプト排斥のための条約であった。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』1991 中央公論社世界の歴史20 p.66 p.144>
 タンジマート(恩恵革命)  オスマン帝国の皇帝アブデュル=メジト1世の時代に、1839年のギュルハネ勅令に始まる改革のこと。正確にはタンジマート=イ=ハイリエ(恩恵的な改革。タンジマートが再編成のことで改革を意味する)という。実際に推進した政治家は宰相ムスタファ=レシト=パシャ。内容はヨーロッパを手本とした、近代的な中央集権国家の建設を目指すもので、法律の整備、教育省の設置、銀行設立、官営工場の設置などを行った。1853年のクリミア戦争がおきて、イギリス・フランスへの依存が強まると、1856年に「改革勅令」を出して非イスラーム教徒の政治的諸権利の尊重を唱い、西欧諸国への接近を示した。
タンジマートは結局、西欧の模倣に終わり、また近代化に必要な財源は民衆の税負担に依存し、一部のヨーロッパ系企業だけが利益を得て、民族資本が育たず、結局外債に依存する度合いが強まり、国民的支持を受けることが出来なかった。民衆の不満はイスラーム神秘主義教団などに吸い取られていった。それでもオスマン帝国そのものはヨーロッパ列強の対立の中で第1次世界大戦後の1922年まで生き延びることとなる。 
a アブデュル=メジト1世 オスマン帝国スルタン(在位1839〜61)。エジプト=トルコ戦争を経過した1839年、宰相ムスタファ=レシト=パシャの助力で、ギュルハネ勅令を発し、タンジマートを実施、西欧化を進め、上からの改革を行った。ロシアの南下政策に対してはイギリス、フランスなどの支援でクリミア戦争を戦い、1856年に「改革勅令」を出して非イスラーム教徒の政治的諸権利の尊重を唱い、西欧諸国への接近を示し、戦後のパリ条約では領土の保全に成功した。
b 西欧化 19世紀前半のオスマン帝国の近代化政策であるタンジマートでとられた政策。近代ヨーロッパを手本とした、中央集権国家の建設を目指し、法律の整備、教育省の設置、銀行設立など「上からの改革」のこと。19世紀のアジアにおける西欧化として、オスマン帝国のタンジマートに始まり、清の洋務運動、タイのチャクリ運動、日本の明治維新など一連の動きが見られる。
c 「ギュルハネ勅令」 1839年11月3日、オスマン帝国のスルタンが出した勅令。ギュルハネとは、イスタンブルのトプカプ宮殿にある「薔薇宮」のことで、この日スルタンのアブデュル=ハミト1世が臨席し、宰相ムスタファ=レシト=パシャが、各国の大使公使、文武の高官、イスラーム教聖職者(ウラマー)、キリスト教聖職者、各界の代表などの多数を前にして、勅令を読み上げた。その内容は、イスラーム教徒、非イスラーム教徒を問わず、個人は法の前で平等であり、その生命、名誉、財産は保障されること、裁判の公開と刑事犯の人道的な扱い、徴税請負制度の廃止、徴兵と兵役義務の整備などであった。これが出されたのは第2次エジプト=トルコ戦争の開始直後、前スルタンのマフムト2世が急死し、その意図を受け、キリスト教諸国に介入の口実を与えないために出された。このギュルハネ勅令の発布から、タンジマートというオスマン=トルコの近代化改革運動が始まる。
d クリミア戦争  → 第12章 2節 クリミア戦争
 ミドハト憲法の制定  1876年、オスマン帝国のアブデュル=ハミト2世の時、宰相ミドハト=パシャが起草した、近代的な憲法。この憲法はアジアで最初の憲法であり、オスマン帝国はこれによって西欧的な立憲君主国となった。しかしスルタンの権限として「国益に反する人物を国外追放にできる」という規定があり、アブデュル=ハミト2世は翌年露土戦争が始まるとこの規定を利用してミドハトを国外追放としてしまった。この憲法に基づいて帝国議会は2回開催されたが、露土戦争の敗北によるスルタン批判の強まりを恐れたアブデュル=ハミト2世は、議会を解散、憲法も停止して反対派を追放し、専制政治に戻ってしまった。 
a ミドハト オスマン帝国のタンジマートを推進した開明派の政治家。ミドハト=パシャという。ブルガリア生まれで30歳半ばになってフランス語を習得して留学の機会を得、1860年代にバルカン地方やバグダードの地方政治で功績をあげた。1872年に大宰相に任命されたがスルタンに警戒され、わずか3ヶ月で辞任。1876年にアブデュル=ハミト2世のもとで再び大宰相に迎えられ、立憲制の即時導入を進め、その年12月23日に憲法(いわゆるミドハト憲法)を発布した。しかし翌年、露土戦争が始まると、専制政治の復活をめざしたスルタン、アブデュル=ハミト2世は「国益を害する人物をスルタンは国外追放にできる権利を持つ」という憲法の規定を使ってミドハトを追放してしまった。こうして有為な人物を失ったオスマン帝国は、スルタン専制国家に戻り青年トルコ党の革命という迷走を経て崩壊する。ミドハト=パシャは流刑地のメッカ近郊で殺された。
b アジア最初の憲法 1876年(明治9年)に制定されたオスマン帝国の憲法(いわゆるミドハト憲法)がアジア最初。次いで大日本帝国憲法が制定されたのが1889年(明治22年)。イランは1906年の立憲革命でイラン憲法を制定。中国は1912年の臨時約法が最初。
 露土戦争   → 第12章 2節 露土戦争 
a アブデュル=ハミト2世 オスマン帝国のスルタン(在位1876〜1909)。アブデュルハミト2世とも表記。国内の立憲運動に押され、1876年、宰相ミドハト=パシャに憲法(ミドハト憲法)を起草させ制定したが、ロシアの南下が強まり露土戦争が起こると、憲法を停止、専制体制を復活させる。アブデュル=ハミト2世は、列強が帝国内のトルコ人以外のイスラーム教徒(アラブやエジプトなど)を支援して介入してくることを警戒し、オスマン帝国のスルタンの元でのイスラーム教徒の団結を図るため、パン=イスラーム主義を主張した。しかしその間、ルーマニア、セルビア、ブルガリアは独立を表明し、キプロスもイギリスの保護下に入ってしまった。その立憲政治を否定した反動的な専制政治に対する反発が次第に強くなり、1908年に青年トルコ革命が起こり退位させられる。
Epi. 「血まみれのスルタン」 アブデュル=ハミト2世は「瀕死の病人」オスマン帝国の実質的な最後のスルタン。その専制政治は大変厳しく、反対派の立憲主義者を弾圧するために全国にスパイを放ち、電信網を張りめぐらしたという。とくにアルメニア人に対するはげしい迫害から「血まみれのスルタン」とか、「地獄落ちのアブデュル」などと言われた。しかし彼が作り上げた電信網が青年トルコ革命やケマルの独立運動でも役だったというのは皮肉である。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』1991 中央公論社世界の歴史20 p.213 などによる>
Epi. トルコ海軍の日本訪問 1889(明治22)〜90(明治23)年にかけて、オスマン帝国のスルタン、アブデュル=ハミト2世の派遣したトルコ海軍の帆船エルトゥールル号が日本を訪問した。アジアのイスラーム教国を歴訪し、日本には条約の締結を目的として寄港した。ところが帰国途中、和歌山県串本沖で座礁し沈没してしまった。その時日本人漁民が救助にあたり、乗員650人中、69人を救助し、その後生存者はトルコに送り届けられた。現在も串本町にはエルトゥールル号の慰霊碑があり日本とトルコの友好のしるしとなっている。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』1991 中央公論社世界の歴史20 p.240>
出題 東京大学 2003年 (交通手段の発達に関連して)「1883年10月4日にパリを始発駅として運行を開始したオリエント急行は、ヨーロッパ最初の国際列車であり、近代のツーリズムの幕開けを告げた。他方で、終着駅のある国にとっては、その開通はきびしい外圧に苦しむ旧体制が採用した欧化政策の一環であった。オリエント急行の運行開始時のこの国の元首の名と、終着駅のある都市の名を記せ。
  解答 →  
b ベルリン条約  → 第12章 2節 ベルリン条約
c “瀕死の病人” 19世紀前半のエジプト=トルコ戦争以来、オスマン帝国はタンジマートという上からの改革を進めてきたが、スルタンを頂点とした政治や官僚制の腐敗(官職の売買や同族登用=ネポティズム)がはびこり、国力は次第に衰退し、「瀕死の病人」(またはヨーロッパの病人)と言われるようになった。
エ.イラン・アフガニスタンの動向
 イラン(18世紀以降)18世紀のイランの混乱:イランでは、イラン系サファヴィー朝が倒れた後、複雑な経過をたどり、トルコ系王朝のカージャール朝が成立することとなる。この間、複雑な政権交替があった。18世紀の混乱からサファヴィー朝までの経緯は次のようにまとめられる。<宮田律『物語イランの歴史』 中公新書 2002 などによる>
アフガン人のイラン支配(1722〜29)サファヴィー朝はアッバース大帝没後、シャーは政治を顧みずハーレムにこもり、アル中になる者のあらわれ、宦官が実権を握るようになった。まず、サファヴィー朝のシーア派信仰強制に反発したアフガニスタンのアフガン人ギルザイ族がカンダハールを占領。またヘラートでは同じアフガン人のアブダリ族が反乱を起こした。サファヴィー朝には反乱を鎮圧する力が無く、ギルザイ族のマフムードはアブダリ族の反乱を鎮圧した後、1722年に首都イスファハーンを包囲し、6ヶ月の攻撃の後に占領し約8万人を殺害した。マフムードはイラン王を称してスンナ派政権を樹立した。スンナ派の抑圧を避けるために、シーア派聖職者はオスマン帝国領のナジャフやカルバラー(現在のイラクにシーア派いるのはこのためである)に移った。アフガン人のインド支配は全土には及ばず、サファヴィー朝の後継者タフマースプ2世を擁して抵抗を続けた。1726年、オスマン帝国が介入してイランに侵入し、同じスンナ派であることからアフガン人との間で和議を結びイランを分割支配することとなった。
サファヴィー朝の再興(1729〜36):そのころタスマースプ2世はトルコ系のカージャール族の支援を受けていた。その中の一部族の中のナーディル=ハーン=アフシャールが1729年にイスファハーンに進軍してアフガン勢力を追い出しタスマースプ2世を即位させ、サファヴィー朝を再興させた。しかし実権はアフガン人を撃退し、アゼルバイジャンなどでオスマン帝国軍を破ったナーディルが握った。
アフシャール朝(1736〜96)とザンド朝(1750〜94): ナーディルは1736年にサファヴィー朝のシャーを退位させ、ナーディル=シャーを名乗ってアフシャール朝を開いた。アフシャール朝の治世では戦乱で国土が荒廃し、農民にも重税が課せられたので反発を受け、1747年にナーディルも殺害され戦乱の時代となる。南部の都市シーラーズではキャリーム=ハーン=ザンドが支配権を握ぎり、ナーディルの死後の戦乱を1750年に平定した。モンゴルやトルコ民増の支配を受けて700年ぶりにイラン人が建てた王朝であった。
カージャール朝(1779〜1925)の成立:トルコ系カージャール族の族長アーガー=ムハンマドは1779年にカージャール朝を創始。イスファハーンを攻略し、1786年にテヘランを首都とした。カージャール朝の時代にはロシア、イギリスなど西欧諸国の侵出が始まり、1828年のトルコマンチャーイ条約でロシアに不平等条約を強制された。1848年にはイスラーム教の分派バーブ教徒の反乱、19世紀末にタバコ=ボイコット運動などの民族運動を経て、1905年の立憲革命で立憲国家となった。1907年の英露協商は、ロシアが北部に、イギリスが東南部に利権を認めたものであった。
パフレヴィー朝(1925年〜73年):20世紀初め、油田の採掘が始まると、イギリスはイラン支配を強め、その意を受けたレザー=ハーンがクーデターを行って、1925年にパフレヴィー朝が成立した。1935年にはイランが正式な国号となった。パフレヴィー朝では皇帝(シャー)独裁政治のもとで世俗化、近代化が進められれる一方、国際石油資本による石油資源の支配が財政を圧迫、1950年代にモサデグが主導する石油国有化運動が起こった。これはイギリスの圧力で抑えられたが、民衆の不満は強まり、シーア派聖職者のホメイニに指導されたイラン革命が1979年に勃発、パフレヴィー朝は倒れ、イラン=イスラーム共和国となった。ホメイニによるイスラーム信仰にもとづく厳しい統制は西欧諸国大きな衝撃を与えた。革命直後からイラン=イラク戦争が始まり国力を消耗、現在はハタミ大統領による解放政策がつられつつあるが、核開発などアメリカから危険な国家として名指しされている。
 アフシャール朝  1736年に成立した、イランのトルコ系王朝。1747年に以降は衰退し、1796年に滅亡。サファヴィー朝を滅ぼしたアフガン人の支配も長続きせず、サファヴィー朝の生き残りを奉じたトルコ系カージャール族のナーディル=ハーン=アフシャールがイスファハーンを奪回した。ナーディルはサファヴィー朝を復興させたが実権を握り、さらに1736年シャーとなってアフシャール朝を開いた。ナーディルはアフガニスタンを制圧し、さらにインドのムガル帝国に侵入し、デリーで大略奪を行った。しかしアフシャール朝の治世では戦乱で国土が荒廃し、農民にも重税が課せられたので反発を受け、1747年にナーディルも殺害され戦乱の時代となる。南部の都市シーラーズではキャリーム=ハーン=ザンドが支配権を握ぎり、ナーディルの死後の戦乱を1750年に平定しザンド朝を建てた。その人質だったトルコ系カージャール族のアーガー=ムハンマドが、キャリーム=ハーンの死後、脱走して自立し、カージャール朝を創始した。 1796年にイランを統一してカージャール朝が成立した。
a カージャール朝1779年にイランで創始され、1796年にアフシャール朝に代わってイランを支配したトルコ系遊牧民=トルクメンのカージャール族アーガー=ムハンマドが建国した。都はテヘラン。創始者アーガー=ムハンマドはアフシャール朝の人質としなっていたが、キャリーム=ハーンの死後、脱走して自立し、イラン北部の部族リーダーの支持を受け、イランの軍事統一に乗りだした。シーラーズのザンド朝宮廷もケルマーンに逃亡したが、その地もアーガー=ムハンマドに征服され、その地の男子2万人とともに目を潰されたという。アーガー=ムハンマドは1795年にアゼルバイジャン、アルメニア、グルジアに侵攻、1796年にテヘランで即位し「王の中の王(シャーハンシャー)」を名乗り、カージャール朝を正式に成立させた。
カージャール朝は1925年まで存続するが、トルコ系の王が支配する抑圧的な国家であった。王政は当時強まってきたイギリス、ロシアなどの帝国主義勢力に利権を与え、領土の割譲などで譲歩しつつ、民衆に対しては重税を課した。18世紀末からのロシアよる侵略は、カフカス地方侵略に始まり、イランは1813年のゴレスターン条約と、28年のトルコマンチャーイ条約でカフカス地方の大部分をロシアに割譲した。アフガニスタン、インドでの権益を守ろうとするイギリスもイランに進出し、ロシアに対抗した。イラン人民衆の中ではサファヴィー朝以来のシーア派聖職者の社会的権威は依然として強かったので、王政と聖職者は次第に対立するようになった。1848年〜50年にはシーア派の分派のバーブ教徒の反乱が起こったが、残虐な弾圧で鎮圧された。イランはカージャール朝のもとで列強の反植民地状態におかれる。帝国主義と結ぶカージャール朝への不満は、19世紀末にタバコ=ボイコット運動となって爆発した。さらに日露戦争でロシアが敗れたことを受けて1905年から立憲革命が起こり、議会の開設と憲法の制定が行われた。1907年の英露協商は、ロシアとイギリスによるイラン分割の協定であり、北部のロシア、東南部のイギリスの利権を相互に認めるものであった。そのころイランで油田の採掘が始まると、イギリスはイラン支配を強めようとして、その意を受けたレザー=ハーンがクーデターを行ってカージャール朝を倒し、1925年にパフレヴィー朝が成立した。
b ロシアの南下   → 第12章 5節 ロシアの南下政策
c カフカス地方 コーカサス地方ともいう。黒海とカスピ海に挟まれ、東西に延びるカフカス山脈沿いの山岳地帯(最高峰は5642mのエルブルース山)。山脈の南側にはグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンの三国がある。北側はロシア連邦に属するが、チェチェン人などの激しい独立運動が起こっている(チェチェン紛争)。この地は18世紀までイランの領地であったが、南下政策をとるロシアの圧力が強まり、1826年に敗れたカージャール朝のイランが28年のトルコマンチャーイ条約でカフカス地方の一部アルメニアのロシアへの割譲を認めた。北カフカスではチェチェン人の抵抗が続いたが、1816〜61年にわたるカフカス戦争でロシア軍に平定された。20世紀に入り、東端のバクー(アゼルバイジャン)で油田が発見され、ソ連にとっても経済的にも重要さを増していた(スターリンはグルジアの出身)が、ソ連解体後に南カフカスの三国は独立した。
d トルコマンチャーイ条約  1828年、ロシアとカージャール朝イラン両国で締結した条約で、不平等条約。南下政策の一環としてイラン進出をもくろむロシアが1813年、カージャール朝からカフカス地方を奪う。その奪回を目指すカージャール朝が1826年にロシアと戦ったが敗れ、28年両国はトルコマンチャーイ条約を結んだ。イランはアルメニア地方のエレバンなど大部分を失い、イラン在住のロシア人についての民事、刑事一切の裁判権をロシアに任せ治外法権を認めるという不平等条約であった。イランは同様の不平等条約を他の諸国に対しても認めることになる。 
 アルメニア 黒海とカスピ海にはさまれた南カフカス地方のほぼ中央にある。チグリス川、ユーフラテス川の源流となる山岳地帯で最高峰はアララト山(標高5205m)。黒海、カスピ海、地中海に近く、交易がさかんで、またオリエント文明とギリシア文明の接点でもあった。アルメニア人はかつてこの地方に広く分布し、ヘレニズム期には黒海からカスピ海にまたがる大国家を形成していた。しかし、周辺の大国の干渉も続き、古代においてはアケメネス朝ペルシアのアルメニア州であった。ヘレニズム諸国の一つのアルメニア王国の繁栄の後、パルティアの支配を受け、3〜7世紀にはササン朝とローマ帝国がこの地の支配権を巡って激しく争った。7世紀、アラブの征服を受けてイスラーム化し、トルコ人、イラン人など周辺諸民族の支配を受け、トルコ人やクルド人のイスラーム地方政権が興亡する。オスマン帝国、サファヴィー朝もこの地を巡って争った後、カージャール朝イランの領土となった。その後、カフカス北側からのロシア勢力の南下が著しくなり、1828年のトルコマンチャーイ条約によって大部分をロシアに割譲された。トルコ内も多数のアルメニア人が残ったが、彼らはキリスト教徒であったため、迫害され、オスマン帝国末期の1915年にはアルメニア人虐殺事件が起きた。ロシア領となった地域は後にソ連邦の一つアルメニア共和国となり、ソ連崩壊後の現在は独立の共和国となっている。首都はエレバン。
e バーブ教徒の反乱  1848年にイランで起こったバーブ教徒による反体制運動に対する弾圧。バーブ教徒はイランでサイイド=アリー=ムハンマドが1844年に始めたシーア派イスラムの分派。彼は自らを救世主(マフディーという)であり、また神と人々を仲介するバーブ(門の意味)であると称し、男女平等、階級差別の廃止、貧富の差の解消などを説き、民衆の支持を受けた。1848年から52年にかけて、イランのカージャール朝はバーブ教徒を危険な反体制集団として弾圧、サイイド=アリー=ムハンマドを捕らえ処刑し、信徒も約4万人が虐殺された。こうしてバーブ教徒は弾圧されたが、その思想はその後も分裂しながらも民衆の中に残っていく。その一つ、弟子のバハーオッラーが始めた穏健なバハーイー教は、現在も世界中に広がっている。 → 1848年
 マフディー   バーブ教徒の反乱  マフディーの反乱
f サイイド=アリ=ムハンマド イラン南部のシーラーズで生まれ、商人として活動していたが、商売を放棄してシーア派の聖地のカルバラー(現イラク)に赴き、十二イマーム派を発展させた思想に触れる。イランに戻った1844年、突如として「神の呼びかけ」を聞いたとして「イマームへの知恵の門(バーブ)が開かれた」と説教を始め、バーブ教を創始した。やがて彼は自らが「神隠れしたイマーム」そのものであり、救世主(マフディー)であると主張するようになった。シーア派の正統派では、イマームは「神隠れ」していると考えているので、このバーブ教徒の思想は認められず、危険なものと捉えられた。そのため1844年にカージャール朝政府に捕らえられ、50年に銃殺された。これがバーブ教徒の反乱とされるものである。
 アフガニスタン  アフガニスタン(アフガン人の国、の意味)は、パキスタン・イランおよびトルクメニスタンなどの中央アジア諸国に囲まれた内陸国で海に面していない。北東部のパミール高原から伸びるヒンドゥークシュ山脈沿いに広がる山岳部と、南西部に広がる砂漠からなる。西はイラン、北はロシア(その勢力圏にある中央アジア諸民族)、東と南はインド(現在はパキスタン)に接し、東西の交通路として栄え、またパキスタンとの境にあるカイバル峠はアレクサンドロスの東方遠征以来、幾多の東西遠征軍の要衝であった。現在のアフガニタンとパキスタン国境はイスラーム原理主義のゲリラ勢力が潜伏する地域としてアメリカなどから問題視されている。
周辺の諸王朝の興亡:ヘレニズム時代にはバクトリアが成立、紀元後のクシャーナ朝ではガンダーラ美術が開花し、バーミヤンには仏教文化が栄えた。ササン朝ペルシアの支配を受けた後、イスラーム化し、10世紀にはトルコ系イスラーム政権のガズナ朝が成立し、遊牧民のアフガン人もイスラーム化(スンナ派)した。12世紀末にはガズナ朝に代わったゴール朝もインドに侵入した。その後アフガニスタンは、イル=ハン国、ティムール帝国の支配を受け、16世紀以降はイランのサファヴィー朝(シーア派)とインドのムガル帝国(スンナ派)の抗争の場となった。18世紀にはいるとアフガニスタンを支配した周辺勢力が衰退し、アフガン人の自立の動きが出てきた。
アフガン人の国家建設:1722年にはアフガン人のスンナ派勢力はシーア派への転向を要求したことに反発して、イスファハーンに侵攻して破壊した。そのためサファヴィー朝は急速に衰え、1736年に滅亡する。サファヴィー朝に代わったアフシャール朝の混乱に乗じて、アフガン人の部族勢力がイランに侵入した。1747年、アフガン人(パシュトゥーン人)の最初の独立王国であるドゥッラーニー朝アフガン王国が成立した。しかしアフガン王国は内紛が続き、1826年にはムハンマドザーイー朝(バーラクザーイー朝とも言う。1826〜1973)に代わった。
イギリスの保護国化と独立:19世紀にはロシアとイギリスがアフガニスタンに勢力圏をのばし、グレート=ゲームといわれる抗争の場となった。結局2度にわたるアフガン戦争の結果、1879年にイギリスの保護国となった。1907年には英露協商が成立し、ロシアはアフガニスタンをイギリスの勢力圏と認めた。第1次世界大戦後の第3次アフガン戦争をイギリスと戦い、1919年にアフガニスタンの独立を回復した。
ソ連の侵攻とアフガン内戦:第2次世界大戦後の1973年、アフガニスタンは王政が廃止されて共和制となり、さらにソ連の影響が強まって1978年にはアフガニスタンに共産主義政権が成立し、アフガニスタン民主共和国となったが、共産政権内部の対立のため安定せず、ソ連が共産主義体制維持を図ってアフガニスタンに侵攻した。ソ連軍の侵攻に対して民族派のゲリラ、イスラーム原理主義勢力などが国際的な支援を受けて激しく抵抗、1989年までに撤退させた。しかしその後もアフガニスタン内戦と言われる部族対立が続き、パキスタンなどの近隣諸国の介入もあってイスラーム原理主義勢力のターリバーンが台頭し、政権を樹立した。9.11同時多発テロが起きると、アメリカ合衆国のブッシュ政権は、その犯人としてアルカイーダの首謀者ヴィン=ラディンがタリバーン政権に保護されているとしてアフガニスタンに侵攻した。タリバーン政権は排除され、現在はカルザイ大統領の下で新憲法も制定され、復興が進みつつあるがなお予断を許さない状況が続いている。 → 現在のアフガニスタン
Epi. 「文明の十字路」か、「戦乱の十字路」か アフガニスタンは峻厳な山岳地帯と苛酷な砂漠地帯が広がり、産業には恵まれていないが、シルクロードとインド方面とを結ぶルートにあったので、昔から「文明の十字路」と言われ、ヘレニズム文明や仏教、ゾロアスター教、イスラーム教などの文明が交錯する豊かな文化遺産に恵まれた地域であった。しかし、同時にこの地はさまざまな勢力が争う「戦乱の十字路」でもあった。特に近代後はイギリスとロシアの抗争とアフガン戦争、現代のソ連軍のアフガニスタン侵攻とその後の内戦、タリバーン政権の成立とアメリカ軍の侵攻が続いた。9.11同時多発テロ以降は世界の激震地となっている。<渡辺光一『アフガニスタン−戦乱の現代史』岩波新書 2003>
a アフガン王国 アフガニスタン王国とも言う。1747年にアフガニスタン一帯を支配していたイランのアフシャール朝のナーディルが死んだのを機に、アフガン人(パシュトゥーン人)はカンダハール近くで部族集会を開き、アフマド=シャー=ドゥッラーニーを王に選び独立を達成、ドゥッラーニー朝(〜1818,1839〜42)が成立した。都ははじめカンダハール、後にカーブルに遷される。19世紀以来、ロシアの南下政策による侵出が顕著となり、インド支配への脅威と感じたイギリスはそれに対抗すべく、介入を強めた。アフガン王国はイギリス、ロシアの介入と、内紛のため安定せず、19世紀にはムハンマドザーイー朝(バーラクザーイー朝とも言う。1826〜1973)に代わった。イギリスによるアフガニスタン侵略に対して、1838〜42年の第1回アフガン戦争ではイギリス軍を破って撤退させたが、1878年からの第2回アフガン戦争によって、1879年にイギリスのアフガニスタン保護国化が行われた。第1次世界大戦後のイギリスのアジアにおける後退を受けて、アフガン王国は独立の機会と捉え、1918年にインドに侵攻し、イギリスとの間で1919年にラワルピンディー条約を締結してアフガニスタンの独立を回復した。国王アマヌッラー=ハーンはその後ソ連に接近し、その援助で急速な近代化を進めたが、部族勢力の反発を受け、内乱が発生、1929年にはナーディル=シャーが内乱を鎮圧した。第2次世界大戦では中立を守ったが、ソ連の影響を受けた共産勢力が台頭し、1973年にクーデターによって王政は廃止された。 → アフガニスタン(王制廃止)
 ドゥッラーニー朝 1747年、イランに支配されていたアフガニスタンでアフガン人が初めて自立して建設したアフガン王国の最初の王朝。イランのアフシャール朝のナーディル=シャーが暗殺されたことに乗じて勢力を伸ばしたアフガン人(の中の最有力パシュトゥーン人)は伝統的な部族集会(ロヤ・ジルガ)で、パシュトゥーン人の一部族アブダリ族の族長を指導者と選んだ。そのアフマド=シャーはカンダハールを都として、パシュトゥーン語で「真珠の時代」という意味のドゥッラーニー朝と名乗った。アフマド=シャーは積極的な征服活動に乗りだし、1761年にはインドに侵入し、パーニーパットでマラーター軍を破っている。アフガニスタン最大の領土は、北はアム・ダリア流域、南はカラチ(インド洋に面するパキスタンの都市)、東はカシミール地方からデリー近郊、西はイランの中央部マシュハドなどに及んでいた。次のティムール=シャーは都をカーブルに移し、ペシャワール(現在はパキスタン)を冬の都とした。18世紀末になるとドゥッラーニー朝は内紛から衰退が始まり、1826年にはバーラクザーイー家のドートス=ムハンマドが王権を握り、ムハンマドザーイー朝(バーラクザーイー朝とも言う)に交替した。<渡辺光一『アフガニスタン−戦乱の現代史』岩波新書 2003> 
b ロシア(イラン、アフガニスタンへの進出)1826年、ロシアはイラン(当時は正式にはまだペルシア)との戦争を開始し、カージャール朝軍を破って28年には不平等条約トルコマンチャーイ条約を押しつけた。それによってイランは古都タブリーズとともにコーカサス地方をロシアに割譲した。さらに同年、ロシアはオスマン帝国との戦端を開いた。このようなロシアの中央アジアから西アジアにかけての南下政策はイギリスのインド支配を脅かすものとして、イギリスは強く警戒するようになった。
1837年、ロシアはイランのカージャール朝に命じてアフガニスタン西部の古都ヘラートへの侵攻を行わせると、イギリスはアフガニスタンへの積極介入に転換し、アフガニスタンを「緩衝国家」とすることを策することとなった。その結果、イギリスは2次にわたるアフガン戦争でアフガニスタンを保護国化した。<渡辺光一『アフガニスタン−戦乱の現代史』岩波新書 2003>
 アフガン戦争  イギリスがロシアの南下を警戒し、自国のインド権益を防衛する目的で、アフガニスタンを侵略し、アフガン王国がそれに抵抗して起きた3次にわたる戦争。第2次の結果、1879年にイギリスの保護国となり、1919年の第3次で独立を回復する。
第1次(1838〜42年) ロシアの進出を警戒したイギリス(1837年からヴィクトリア時代)がアフガニスタンを侵略し、カーブルを占拠するが、反英闘争が起こりイギリス軍は撤退した戦争。1837年にイランのカージャール朝軍がロシアの支援を受けてアフガニスタン西部を侵略したことに危機感を持ったイギリスが、1838年にインド総督府軍を送り、カーブルにはいる。これによってイランにアフガニスタンの独立を認めさせた。しかしイギリス兵のアフガン女性への暴行などが続き、1841年、激しい反英活動が起こり、イギリス軍が撤退。その途中でインド兵、一般人を含むイギリス軍が、アフガン軍の追撃により全滅するという敗北を喫した。42年にはイギリス軍が捕虜奪還のため再出兵し、カーブルを破壊した。
その後、ロシアは1853年のクリミア戦争に敗北し、イギリスは1857年のインド大反乱などインドでの民族抵抗に手こずっため、一時的に両国ともアフガニスタンに余力を割くことができなかった。イギリス国内ではアフガニスタンへの積極策と消極策が対立していたが、1874年に保守党のディズレーリ内閣が成立し、積極外交が採られることとなった。一方ロシアも再び南下政策を強め、中央アジアのブハラ、ヒヴァ、コーカンド三国に勢力を伸ばし、さらに1877年からオスマン帝国との露土戦争を開始した。
第2次(1878〜80年) イギリスがアフガニスタンを保護国化した戦争。1878年にはロシアがアフガン王国に対し軍事同盟の締結を要求したことに対し、イギリスはカーブルへの外交使節の常駐を要求した。アフガン王国がそれを拒否したことを口実に、イギリス軍は再びインドから軍を進め、アフガニスタンに侵攻。1879年、アフガン王国は外交権をイギリスに渡し保護国となって屈服した。しかし、アフガン兵の反乱部隊によりイギリス使節団が殺される事態となり、イギリスはただちに報復のため軍隊を増派した。ところが1880年7月のマイワンドの戦いではアフガン軍に敗れる(19世紀中のイギリス軍の唯一の敗北)結果となった。本国ではグラッドストーン自由党内閣に代わって撤退を命令、イギリスは再び不名誉な敗北となった。
その後、イギリスはアフガニスタンの直接統治を諦め、ロシア、イランとの国境交渉を進める。1904年の日露戦争でロシアが日本に敗れたことを機に、ロシアとイギリスの協議が進み、1907年に英露協商が成立してロシアはアフガニスタンをイギリスの勢力圏と認め、さらに第1次世界大戦中に濾紙か革命が勃発してロシア帝国が崩壊したため、アフガニスタンをめぐるイギリスとロシアの対立は終わる。 → 第3次アフガン戦争 <渡辺光一『アフガニスタン−戦乱の現代史』岩波新書 2003 などによる>
a インドの権益  
b アフガニスタン保護国化 1879年、アフガニスタンのアフガン王国がイギリスとの第2次アフガン戦争の結果、イギリスに外交権を奪われ、その保護国となった。第2次アフガン戦争ではアフガン側の激しい抵抗を受け、イギリス軍は事実上の敗北を喫していたが、外交交渉面では、イギリスは「アフガニスタンの内政には一切干渉しないが、アフガニスタンはイギリス以外のいかなる国とも政治的な関係を結ばない」との約束を取り付け、事実上の保護国化に成功した。また、戦後にイギリスよりの国王(アブドゥル=ラーマン=カーン)を擁立することには成功した。20世紀に入り、アフガニスタンでは官僚制度の導入、産業の育成、教育の普及などの近代化政策が進められ、その間、民族的自覚も強まっていった。第1次世界大戦後の1919年、アマヌッラー国王が第3次アフガン戦争を起こしてイギリスと戦って、独立回復を承認させた。
補足 アフガニスタンとインドの国境線(デュランド=ライン)の画定 1893年、アフガン王国のアブドゥル=ラーマン国王とインド帝国外相デュランドとの間で、懸案であったアフガニスタンとインドの国境線協定が締結された。アフガン側はアフガン人の最大部族であるパシュトゥーン人の居住地域であるペシャワール付近を含むインダス川を国境とすることを主張していた。それに対してイギリスは植民地インドを防衛する観点と、農作物や綿花を産出する肥沃なパンジャブ平野を確保するという二つの理由から、スレイマン山脈の稜線を国境線とすることを提示し、それを認めさせた。その見返りとしてアフガン国王への補助金を年間120万ルピーから180万ルピーに引き上げることなどの補償を確約した。
「しかし、この国境線の画定はスレイマン山脈の東西にわたって広がるパシュトゥーン人の諸部族を人為的に分断するもので、民族の歴史と分布をまったく無視するものであった。また内陸国アフガニスタンが、現在のパキスタン西部を自国領とすることによって海に面した国家になる、という長年の夢を永遠に断つこととなった。」国王はこの国境線はあくまで暫定的なものと解釈していたが、その後改定されることはなかった。デュランド=ラインはベンガル分割令のいわば西部版だったが、インドでは激しい抵抗運動が起こったのに対し、アフガンではそうした民族意識はまだ台頭していなかった。ところが、現代にいたって、大きな問題を引き起こすこととなった。ターリバーン政権の誕生や国際テロ組織のアフガニスタンへの流入はこの国境線とその周辺に存在するパシュトゥーン人の「トライバル・エリア」(部族の支配による自治区)が深く関わっている。 <渡辺光一『アフガニスタン−戦乱の現代史』岩波新書 2003 p.69-71> 
c ロシアとイギリスによる分割支配体制