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第5章 イスラーム世界の形成と発展
1.イスラーム帝国の成立
ア.イスラーム教の誕生
A アラブ人アラブ人は、本来はアラビア半島を原住地とするセム系民族でアラビア人ともいう。彼らは広大な砂漠地帯で、遊牧生活を送っていたので、ベドゥインとも言われる。いくつかの部族に分かれ、交易と略奪に従事し、それぞれの部族神を礼拝する多神教を信仰していたが、7世紀に厳格な一神教であるイスラーム教を創始したムハンマドによって統一された。イスラーム教の教団国家は当初、アラブ人が主体となっており、非アラブ人のイスラーム教徒は差別される状態だったため、「アラブ帝国」と言われたが、イスラーム教の拡大に伴い、その周辺の諸民族と融合していくと次第にアラブ人と非アラブ人の差はなくなり、アッバース朝の時からは「イスラーム帝国」となった。こうしてアラブ人の概念そのものも拡張されていった。単にイスラーム教の信者と言うときには「ムスリム」を使う。また、中国では唐代以来イスラーム教徒(広い意味のアラブ人)も渡来するようになり、彼らは「大食(タージ)」といわれた。
現在のアラブ人概念の拡大:現在は「アラブ」の意味は拡大され、「アラブ化した民族」の総称となっている。「アラブ化」とは、「アラビア語を話し」、「イスラーム教の信仰と文化を受け入れる」ことである。イスラーム教の聖典である『コーラン』(正確な発音ではクルアーン)はアラビア語で書かれ、それは神の言葉であるから翻訳不可能であり、イスラームを信仰すれば必然的にアラビア語を習得することになるので、イスラーム教の拡大と共にアラビア語が広がっていった。現在ではその「アラビア語を用いる人」をアラブ人といい、西からモロッコ、アルジェリア、リビア、エジプト、サウジアラビア、シリア、ヨルダン、レバノン、イラク、イエメンなどに広がっている。これらの諸国は「アラブ諸国連合」を構成しており、旧オスマン帝国に支配された領域に含まれるている。
中東地域でのアラビア語以外の主な言語:イラン人のペルシア語、トルコ人のトルコ語、クルド人のクルド語があり、彼らはイスラーム教徒であるが、アラブ人とはされない。このうちペルシア語はアラビア文字で表記されるがアラビア語ではない。トルコ語はかつてはアラビア文字で表記されたが、近代のケマル=アタチュルクの改革の時にアルファベットを使用するようになった。なお、アフガニスタンもイスラーム教圏であるが、言語はパシュトゥーン語とダリー語が主に使われ、これらは表記はアラビア文字が使われるがアラビア語ではないので、アラブ人ではない。このようにアラビア文字を使うがアラブ人出はない場合があるので注意を要する。<現代アラブの概念については、池内恵『現代アラブの社会思想』2002 講談社現代新書 p.35 などによる>
アラビア半島中東にある世界最大の半島。北をイラク、シリア、パレスチナに接し、スエズ地峡でアフリカのエジプトに接する。三方を紅海、アラビア海、ペルシア湾にはさまれている。大部分は砂漠(北からネフド砂漠、ダフナ砂漠、フブ=アル=ハーリー砂漠)で、紅海に沿って山地が連なる。比較的降雨に恵まれた山地の続く紅海沿岸(ヒジャース地方という)、乾燥した砂漠地帯である中央地域(ネジュドといわれ、サウジアラビアの首都リアドがある)からなる。
民族と国家:アラビア半島の民族であるアラブ人は、ベドウィンといわれる遊牧民と都市に定住した商人からなる。現在はアラビア半島の80%はサウジアラビア王国に属しており、半島の先端には北のペルシア湾に面してアラブ首長国連邦、カタール、バーレーンが、アラビア海に面してオマーンがあり、南にイエメンがある。いずれも産油国として重要な地域となっている。
アラビア半島でのイスラーム教勃興の背景:アラビア半島の南側、紅海沿岸であるヒジャーズ地方は、古来イエメンなどからインド洋方面を結ぶ紅海沿岸の交易ルートが存在していたが、6世紀頃から、従来の地中海からメソポタミア・シリアを経て中央アジアのシルクロードにつながる交易ルートが、ビザンツ帝国とササン朝ペルシアの抗争のため衰退し、かわってアラビア半島南側のヒジャーズ地方のルートが用いられるようになった。その結果、メッカメディナなどの商業都市が栄え、イスラーム教が勃興する背景となった。
ベドゥインアラビア砂漠の遊牧民アラブ人で、遊牧生活を送っている人々をいう。ベドゥインとは砂漠を意味するアラビア語のバドゥbadwがなまったもので、砂漠の民という意味。砂漠での過酷なベドゥインの生活の中から、ムハンマドが現れ、イスラーム教を創始した。
砂漠の民ベドウィン アラビア半島の砂漠は、年間降水量わずか100ミリ、夏は日中の温度が摂氏50度にもなるという過酷な環境である。そのような中でらくだや山羊、羊を飼育する遊牧生活を送り、点在するオアシスではナツメヤシや小麦を栽培し定住する人々もいた。ベドウィンは定住民とは違い、砂漠の中で交易に従事していた。彼らは独立心にとみ、自由を好み、定住民を軽蔑していた。その生活は豊かではなかったので、時として定住民や他部族を襲い、略奪を行った。しかし、人を殺せば報復を受けるという厳しい掟があったので、むやみに人を殺すことはなかった。同族の成年男子は他から加えられた危害に対しては報復する義務を負い、その勇気を持つことが徳とされた。また過酷な風土の中で暮らすベドウィンは、客人や弱者を保護することも義務とされ、たとえ敵であっても三日間はそれを拒んではならないとされていた。<この項 中村廣治郎『イスラム教入門』岩波新書> 
a ササン朝ペルシア → 第1章 1節 古代オリエント世界 ササン朝ペルシア
b ビザンツ帝国 → 第6章 2節 ビザンツ帝国
c メッカアラビア半島の西部、紅海沿岸のヒジャーズ地方の中心都市として商業で繁栄した都市。古来、アラビア半島南端のイエメン地方で栄えていたサバー王国やヒムヤル王国と、半島北部につながるシリアや地中海沿岸とを結ぶ交易路の中継地としてにぎわっていた。特に、6世紀のササン朝ペルシアビザンツ帝国の抗争によって絹の道および紅海ルートが衰退すると、アラビア半島西部ルートがそれに代わって東西交易の動脈となり、メッカはその中継都市として重要さを増した、と言われている。
また、メッカには部族神を祭るカーバ神殿があり、アラブ人の民族宗教の聖地でもあった。このカーバ神殿の管理権を持ち、手広く商業に従事して繁栄していたのがクライシュ族であり、その一族からムハンマドが出現した。ムハンマドはメッカでその教えを始めるが、はじめは保守的な大商人層に迫害され、いったんメディナに逃れ、630年メッカを武力で奪回し、カーバ神殿の偶像を破壊した。こうしてメッカはイスラームの宗教的中心地となり、さらにムハンマドから正統カリフ時代には政治的中心地でもあった。政治の中心はウマイヤ朝ではダマスクス、アッバース朝ではバグダードに移るが、メッカの聖地としての重要性は変わっておらず、現代においてもメッカはメディナ、イェルサレムと並んで、三大聖地の一つとして多数の信者の巡礼を集めている。
 ジャーヒリーヤアラビアのムハンマドによるイスラームの教えが成立した以前をいう。「無明(むみょう)」または「無道」とも訳される。このイスラーム以前の砂漠の遊牧民ベドウィン(アラブ人)は、部族的社会の中で、祖先崇拝や偶像崇拝を行い、また迷信を信じ、現世の栄華を求め、略奪や抗争をこととしていた。このような神を恐れず、真理に無知であった人々に対する警告者として登場したのがムハンマドであった。
Epi. 名著『マホメット』 井筒俊彦氏の『マホメット』は1947年に発表され、短編ながらムハンマド(マホメット)とイスラームについて日本人に正確な知識を提供したとされる名著である。現在は講談社学術文庫に収められているので簡単に読むことができる。なお井筒氏は慶応大学教授で国際的なイスラーム学者として知られた人。同書ではジャーヒリーヤは「無道」時代とし、イスラーム以前のアラビアの詩人たちの歌を発掘して、ベドウィンの騎士道が「享楽と苦渋」の時代に行き詰まっていったところに神による裁きと愛を説くマホメットが登場したと説いている。
B ムハンマド イスラーム教では、ムハンマドが登場する以前の時代を、ジャーヒリーヤの時代という。ジャーヒリーヤとは、無知とか無明という意味で、人々は真理を悟らず、それぞれの部族の神々を崇拝して互いに争い、混乱の時代であったととらえている。そのようなときにムハンマドが現れ、神の啓示を伝え、人々を偶像崇拝と闘争の闇から救ったのだというのがイスラームの考え方である。
さてムハンマドは、メッカクライシュ族の一氏族である大商人のハーシム家に生まれ、早くに両親に死別して、叔父のアブー=ターリブに養育される。40歳ごろの610年、ヒラー山で瞑想にふけっていたところ、天使ガブリエルが現れ、神の言葉を伝えられ、神の使いとなってその宣教にあたることを決意し、イスラーム教を創始した。彼は自らを最後の預言者として、メッカの人々にカーバ神殿の主神アッラーを唯一の神として崇拝し、神の恩寵とそれに対する感謝、喜捨などの善行の義務を説いた。メッカの人々、特に保守的な大商人層は、古来の部族神信仰を否定するムハンマドを迫害し、ハーシム家との商取引をボイコットするなどの報復を行った。622年、やむなくムハンマドとわずか70名の信者がメディナに移住して難を逃れた(これがヒジュラで、イスラーム暦紀元元年となる)。メディナにおいて預言者ムハンマドとその信者の共同体(ウンマ)が形成され、信仰によって結ばれた戦闘力を持つようになり、630年にはメッカを武力で奪回し、カーバ神殿の偶像を破壊して、新たにイスラームの聖地とした。以後、彼の教えは急速にアラブ人に広がり、これによってアラビア半島の統一が成し遂げられた。632年にムハンマドは死去するが、アッラーへの信仰と国家統治の結びついたイスラーム教団はさらに拡大を続けることとなる。なお、ムハンマド(570年頃〜632年)の時代は、西方ではフランスはメロヴィング朝、イギリスは七王国時代、イベリア半島には西ゴート王国などゲルマン諸国の封建社会の形成期にあたっており、ローマ教会はグレゴリウス1世(在位590〜604)が出て教皇の権威が高まりつつあった。また地中海東半分から小アジアにかけてはビザンツ帝国がなお威勢を張っていた。東アジアでは、続いて唐帝国が勃興したころであり、唐の高祖李淵(565〜635)や日本の聖徳太子(574〜622)と同時期の人物である。
Epi. ムハンマドの妻 ムハンマドがまだ商人として活動していた25歳頃、その取引先の一人だった40歳の未亡人ハディージャと結婚した。その後、ムハンマドは生涯で9人の妻を持つが、彼がイスラーム教の始祖となるにはこのハディージャの存在が大きかった。「気の弱い一介の商人マホメットを「預言者マホメット」として、しっかと立たせたものは他ならぬハディージャだったのである。……誰一人として彼を信じる人がまだいないうちに彼女だけは全面的に彼を信じ、彼の最初の信者となった。メッカの商人たちの迫害を受け、絶望と悲惨のどん底に陥ったときも、彼女だけが彼をしっかり支えて離さなかった。ハディージャという妻が傍らにいなかったら、おそらくマホメットは新宗教の始祖にはなれなかったであろう。」<井筒俊彦『マホメット』講談社学術文庫>
クライシュ族メッカの東方で遊牧生活を営んでいたクライシュ族は、5世紀の末頃メッカを征服し、カーバ神殿の守護権を手にした。その後、メッカに定住して商業活動を営むようになり、ウマイヤ家やハーシム家など、有力な12の氏族に別れた。ムハンマドはその中のハーシム家の出身であった。ウマイヤ家は当初はムハンマドと敵対したが、後に信者となり、ムアーウイヤ以後はカリフの地位を継承することとなる。
a マホメット ムハンマドが原音にもっとも近い表記なので、現在はそう書かれることが多かったが、日本では以前からマホメットと言われることが多かった。なお、モハメッドとか、メフメトなどというのも同じことである。
b アッラー アラビア語でアッラーというのは、「アル=イラーフ」の短縮形で、神そのもを意味する。アッラーはもともとメッカの守護神の一つにすぎなかったが、ムハンマド以前からアラブ人の中でもっとも崇拝された神の一つであった。ムハンマドは、このアッラーを、唯一絶対の創造主であり、全知全能の神であるととらえなおした。ユダヤ教で言えばヤハウェ神にあたる。この神は人知を越えた存在であるから、人間の手で描いたり、像にしたりすることは出来ないし、許されないとされた。それが偶像崇拝の否定であり、イスラーム教の重要なポイントとなっている。また、イスラーム教徒の六信の第一にあげられ、その義務である五行の第一の信仰告白は「アッラーのほかに神はなし」で始まる。
 預言者預言者とは神の言葉を預かり、人々に伝える者、の意味で、予言者(未来を予言する)とは違う。ヘブライ人ではヤハウェ神の預言者として、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどが現れた。『コーラン』によると、ムハンマドは、自らをノア、アブラハム、モーゼ、イエスに続く、最後の預言者であると言っている。
c イスラーム教 イスラーム教は、「神(アッラー)は唯一にして、ムハンマドはその使徒である」ということを信じ、ムハンマドのことば(『コーラン』)を神の言葉と認める宗教である。7世紀の初め、アラビアでイスラーム教が成立し西アジアに急速に広がった。「イスラーム」(またはイスラム)とは、その言葉だけで神への絶対的な帰依、服従を意味するので、「教」をつける必要はないが、一般にその宗教体系を「イスラーム教」と言っている。以前は「イスラム」と表記されたが、最近はなるべく原発音に近い表記にしようというので「イスラーム」とされることが多くなった。別な言い方では、「マホメット教」とか「回教(かいきょう)」、「回回教(フイフイ教)」などとも言われる。回教は中央アジアに住むウィグル民族を中国で「回族」といい、彼らがイスラーム教徒であったので、13世紀の中国でイスラーム教を意味するようになった。 → イスラーム教の特徴
現在のイスラーム教はいくつかの宗派に分かれているが、世界全体で約10億7000万人の信者(ムスリム)がいるとされている。キリスト教徒は18億7000万人、ヒンドゥー教徒が7億5100万人、仏教徒が3億5100万人なので、イスラーム教は第2位の信者数を持っているといえる。その主な分布は、西アジア・中央アジア・アフリカ・東南アジアであるが、最近はその地域から移住した人々が増加したため、ヨーロッパでのイスラーム教徒数が急増している。
Epi. 日本人イスラーム教徒第1号 日本人でイスラーム教徒となる人は少ないが、第1号は1902年の山田寅次郎さんと言われている。1890年にトルコのスルタンであるアブドゥル=ハミト2世が日本に派遣した使節の乗った軍艦が、帰途台風のため南紀沖で沈没し乗員609人中540人の死者を出すという事件があった。山田寅次郎は遭難者や遺族のために義捐金を募り、1892年に単身トルコに赴きそれを献上した。異例の歓迎の中で数年滞在して帰国するが、その後何度か両国を往復し、両国の友好につくした。1902年、スルタン自らの勧めでイスラーム教に入信し、アブドゥル=ハリールというムスリム名を授かったという。<この項、中村廣治郎『イスラム教入門』1998 岩波新書 p.13>
なお、アブドゥル=ハミト2世は、オスマン=トルコ帝国の最後のスルタンで、1909年に退位する。
また、日本人で最初にメッカ巡礼者となったのは陸軍の通訳官だった山岡光太郎で、彼は1909(明治42)年にメッカ巡礼を果たし、その巡礼記『世界の秘境アラビア縦断記』を刊行した。<同上 p.15>
山岡光太郎のメッカ巡礼コースを題材とした問題が2007年のセンターテスト「世界史B」で出題されている。
イスラーム教の特徴イスラーム教の特徴の主なものは次の4点にまとめることができる。
1.厳格な一神教であること。「アッラーの他に神は無し!」。一神教であることはユダヤ教・キリスト教と共通するが、キリスト教(ローマ=カトリック教会)がイエスを神と一体として崇拝するのに対し、イスラームではムハンマドは崇拝の対象ではなく預言者にすぎない。
2.偶像崇拝の否定。アッラーの像やムハンマドの肖像は絶対に作られない。キリスト教その他の異教徒の聖像や神像の崇拝を激しく攻撃する。そのため、イスラーム文化では彫刻や絵画は発達しなかった。
3.宗教と政治の一致政教一致)。 アッラーへの信仰によって結ばれる信者集団がすなわち国家である、とする。宗教的指導者カリフが、同時に政治上の権力者である体制が続く。オスマン帝国ではカリフとは別にスルタンが統治するようになったが、現代ではイスラーム原理主義の復興によりイランなどでは聖職者の政治的発言力が強い。
4.コーランにもとづく信仰(六信)と厳格な生活規範(五行)の遵守義務。社会生活はコーランとハディースに基づくイスラーム法=シャリーアによって営まれる。飲酒の否定や、一夫多妻制の容認など、西洋キリスト教社会とは異質な規範が多く、しばしば文化摩擦となっている。
d 偶像崇拝の否定 偶像は、神仏を人間の手で、石や粘土、金属、木など様々な材料を使って像にしたり、絵に描いたりしたもの。またそれを崇拝することが偶像崇拝。偶像は人間が作ったものにすぎず、神そのものではないから、それを崇拝することは間違えている、として禁止するのがイスラーム教の教えであり、特にそれは厳格に守られた。そのために、イスラーム美術の特徴は、絵画や彫刻が発達せず、アラベスク模様ともっぱらコーランを美しい書体で書き表すことが尊ばれた。13世紀にモンゴル勢力によって西アジアが征服された結果、中国絵画の影響が強まり、イル=ハン国からは細密画(ミニアチュール)が発達し、ティムール帝国、ムガル帝国で独自の発達を遂げたが、ヨーロッパのような写実的な美術はイスラーム世界では生まれなかった。
聖像崇拝問題 キリスト教や仏教も、本来は偶像崇拝を否定していたが、布教の際の利点や、国家宗教としての性格が強くなると、聖像や仏像が作られるようになった。イスラーム教がキリスト教のそのような偶像崇拝を批判したことから、キリスト教世界の東西で起こったのが聖像崇拝問題である。
e 一神教  → 第1章 1節 ユダヤ教 一神教
 政教一致 政治と宗教が一体となっている統治形態を言う。国家の初期段階では、政治と宗教が未分化であったことは、メソポタミアや中国の例を見るまでもなく、また日本の邪馬台国の例などから一般的であったと言える。それらを神権政治という概念に当てはめることもできる。しかし、国家の形態が一定の段階に発達すると、世俗の王権と宗教的権威は分離され、むしろ対立が始まる。ヨーロッパのキリスト教世界においては俗権と政権の対立は叙任権闘争に見られるように一貫して歴史の対立軸として展開した。近代市民社会における政教分離の原則の成立はその帰結であった。ところが7世紀に始まる西アジアのイスラーム世界では、最初から政教一致が基本性格として認められる。このキリスト教世界と際だって異なる理念はしばしばわれわれの理解を超えている。いわゆるイスラム原理主義の台頭は、西欧的な政教分離が無条件に正しいという私たちの思考の前提を揺るがしている。話は飛ぶが、小泉首相の靖国参拝が、現代の日本で受け入れられてしまうというのも、政教分離という近代的思惟が無力になっている現実があるのかも知れない。恐ろしいことではある。
C イスラーム教の成立ムハンマドが啓示を受けてアッラーへの信仰を説き始めたのはキリスト教紀元(西暦)で言えば610年、メディナに移って教団を建設したのが622年、メッカを征服してアラビア半島を統一したのが630年であるが、イスラーム教ではその紀元元年を、西暦622年ヒジュラに置いている。ムハンマドがメッカを制圧してから、急速にその勢力は拡大し、積極的な異教徒との聖戦=ジハードを展開、西アジア全域をその支配下に治めた。イスラームは当初はアラブ人の信仰であったが、その世界宗教としての優れた普遍性と明快さが西アジアの多数の民族、とくにイラン人、トルコ人に広がって、現在に至るまで世界史の大きな軸となっている。
a 622 大商人に迫害されたムハンマドがわずかな信者を率いてメッカを離れ、北方のメディナに移った、いわゆるヒジュラ(聖遷)が行われた年。ここにイスラーム教徒(ムスリム)のウンマが成立したので、イスラーム暦紀元元年とされている。このころの世界を眺めてみると、中国では隋から唐への王朝交替(618年)、ヨーロッパではフランク王国のメロヴィング朝の崩壊(639年)、ビザンツ帝国ではヘラクレイオス朝でテマ制が始まる(622年)などがあった。日本ではこの年、聖徳太子が没している。
イスラーム暦 西暦622年のムハンマドのメッカからメディナへのヒジュラ(聖遷)の年を基点としたイスラーム世界の暦法。ヒジュラ暦ともいい、第2代カリフのウマルの時に決められた。ヒジュラが行われたのは9月20日であったが、この年の巡礼月があけた日(7月16日)をイスラーム暦紀元元年1月1日とした。1日は日没から始まって次の日没まで。太陰暦であるので各月は新月の出る日を第1日とし、30日の月と29日の月を交互に設け、1年は354日となり、太陽暦よりも11日も短い。したがって太陽暦と違って季節と月が一致せず、毎年11日ずつずれることになる。1月から12月にはそれぞれアラビア語の月名が付けられている。現在でもイスラーム世界ではイスラーム暦が用いられており、1年の日数が違うので、西暦とは単純には換算出来ない。また、完全な太陰暦であるので実際の季節とずれてしまうので、実際には太陽暦と併用されることが多い。なお、トルコ共和国ではイスラーム教が優勢だが、ケマル=アタチュルクのトルコ革命のときに、世俗主義政策の一環としてイスラーム暦を廃止して太陽暦(グレゴリウス暦)を採用した。<黒田壽郎編『イスラーム辞典』p.259 などによる> → ジャラーリー暦
出題 東京大学 2007  第3問 問(1) (b)イスラーム教徒独自の暦が、他の暦と併用されることが多かった最大の理由は何か。2行以内で説明しなさい。 解答 ↓ 
b メディナ メッカの北方約350キロにあるオアシス都市。マディーナとも表記する。はじめ、ヤスリブというユダヤ人が住む小さなオアシス農村だった。その地の何人かメッカ巡礼のときにムハンマドの教えに感服し、メッカで迫害されていたムハンマドを迎えて、その教団の最初の根拠地とした。622年のことで、後にこのことをイスラーム教ではヒジュラ(聖遷)といい、イスラーム暦紀元元年とした。その後も正統カリフ時代のイスラームの政治上の要地であり、現在もメッカにつぐ聖地とされている。その中心には、ムハンマドの住居跡に立てられた最初のモスク「預言者のモスク」(現在の建物は1853年に造営されたもの)があり、メッカ巡礼の次に信者が参詣するところとされている。
c ヒジュラ 622年、ムハンマドがメッカのクライシュ族などの大商人から迫害を受け、メディナに移った「聖遷」。イスラーム教の成立の年とされる。ムハンマドはこれを機に、メディナでイスラーム教団(ウンマ)を組織し、アラブ人統一の第一歩となったので、後のアラブの歴史家が、このことを聖遷の意味でヒジュラと名付けた。または聖行ともいう。またこの西暦622年7月16日をイスラーム紀元元年の1月1日として年月日を起算するイスラーム暦(ヒジュラ暦)が第2代カリフのウマルの時に正式に定められた。
d ムスリム イスラーム教徒を意味する。モスリムとも表記。神に身を捧げた者、の意味。具体的には信仰告白などの六信を受け入れ、五行の義務を守ることを誓った人を言う。ムスリムは性別、年齢、人種、財産など一切関係なく、平等であるとされている。
ウンマイスラーム教徒の共同体をウンマという。本来は、広く人間一般を指す言葉であったらしいが、コーランでは預言者ムハンマドを通じて神の啓示を信じた人々の集団を指す。イスラームのウンマは、622年のムハンマドのヒジュラによって成立し、信徒集団であるとともに一つの政治集団を形作り、武装し、勢力を拡大していった。正統カリフ時代、ウマイヤ朝にアラブ人以外にも信仰が広がり、カリフのもとで統合された。
D アラビア半島の統一 622年のヒジュラによって拠点をメディナに移したムハンマドは、信者の獲得に努め、強固な信仰共同体ウンマをつくりあげた。624年、メッカのクライシュ族の隊商がシリアから戻る途中を襲撃し最初の勝利を収めた(バドルの戦い)。メッカ側も何度かメディナを攻撃したが、ムハンマドはメディナの町の周辺に塹壕を掘って抵抗し、その侵攻を食い止めた。メディナのユダヤ教徒がメッカに呼応すると、ムハンマドはユダヤ人を追放し、メディナの支配権を確立した。630年にムハンマドが聖地巡礼と称して1万に達する信者を率いてメッカに向かうと、メッカのクライシュ族は戦意を喪失し、ムハンマドはほとんど無血でメッカに入り、征服した。メディナに戻ったムハンマドはその地をウンマ統治の拠点とした。メッカでのムハンマドの勝利が伝えられるとアラビア半島の遊牧部族も次々と帰順し、メディナに使節を送ってきた。ムハンマドの死後は、その後継者カリフによってウンマの統治が行われ、その間、第2代カリフのウマルまでに、アラビア半島はメディナのカリフの統治下に入った。
a メッカ征服ムハンマドメッカを征服したときのことを井筒俊彦氏の『マホメット』から引用しよう。
「勝利が決定的になったのは西暦630年のこと。この年の1月(イスラーム式に言えばヒジュラ紀元第八年ラマダーン月)、メッカ市民はそれ以上抵抗することの無意義を悟ってついに市門を開いて降伏し、マホメットは堂々と勝者の資格で入城した。八年ぶりで故郷に還った預言者は感慨無量だった。出るときは一瞬先の生命すらわからぬ哀れな脱走者、帰るときは凱旋将軍だ。一休みした後、彼は身を浄め、完全に武装したままアブー・バクルを伴って聖殿カアバに出かけて行く。聖殿に着くと彼は先ず手にした杖で黒石に触れ(この行為には呪術的な意義がある)次いで大声で「アッラー・アクバル」(神は至大なり!)を唱え出す。聖殿を取巻いていた軍隊も一斉にそれに唱和し、囂々と天地もとよもすばかりの大合唱となって響き渡るのだ。次にマホメットは駱駝に跨ってカアバを一巡し(聖域のまわりを巡廻することも呪術的行為)駱駝を下りて聖殿の鍵を要求する。そしてカアバの内外に祀られていた数百の偶像を叩き壊し、特に聖殿正面入口に鎮座する有名なフバル神の像には凄まじい怒りの手を振り上げて粉微塵にしてしまう。
 散乱する偶像どもの破片残骸の只中に立ち、カアバの戸柱に背をもたせかけて、マホメットは参集して来た信徒たちに宣言する。「今や異教徒時代は完全に終わりを告げた」と。「従って、異教徒時代の一切の『血』の負目も貸借関係も、その他諸般の権利義務も今や全く精算されてしまったのである。また同様に、一切の階級的特権も消滅した。地位と血筋を誇ることはもはや何人にも許されない。諸君は全てアダムの後裔として平等であって、もし諸君の中に優劣の差があるとすれば、それは敬神の念の深さにのみ依って決まるのである」と。カアバの鍵を手に握ったままこの言葉を会衆に告げるマホメットの心はどんなに晴れがましく、そしてどんなに得意だったことだろう。それは輝かしい勝利の日であった。」<井筒俊彦『マホメット』1947 講談社学術文庫 p.107>
b 力ーバ神殿アラブ人の各部族はそれぞれ崇拝する神々を持っていたが、その御神体は石とか樹とかであり、各地のそれを納める聖所があった。メッカのカーバ神殿もその一つで、聖なる黒石が四角で囲まれ、その周りに偶像が多数建てられていた。カーバとは立方体の意味。630年にメッカに無血入城したムハンマドはカーバ神殿の周辺の偶像を破壊し、唯一この黒石の塗り込められた壁だけを残し、イスラームの聖所とした。現在は東側の角の壁にはめこまれている。メッカに巡礼するムスリムたちの最終目的地である。なお、現在もメッカとメディナはイスラーム教徒でなければ入れないので、カーバ神殿も実物を見ることはできない。
a 『コーラン』 『コーラン』は、原音に忠実に表記すれば、アル=クルアーンである。アラビア語で書かれたイスラーム教の根本教典で、預言者ムハンマドが語った啓示(神の言葉)を、彼の死後にまとめられたもの。礼拝や様々な集会で節を付けて美しく朗誦されるものである。またコーランは神の言葉そのものであるので、アラビア語からほかの言葉に移すこと(翻訳すること)は出来ない、とされている。今でも世界中のイスラーム教の聖職者はアラビア語のコーランを理解し、朗誦している。コーランが書物としてまとめられたのは、3代カリフのウスマーンのときである。
b 「啓典の民」 コーランによれば、人類はもともと争いのない平和で正しい一つの共同体(ウンマ)であった。ところがやがて対立するようになり相争って多くのウンマに分かれてしまった。そこで神は人々の争いを裁決し、彼らを正しい道に連れ戻すために、それぞれのウンマに使徒(預言者)を使わし、警告を与えた。モーゼが遣わされたのがユダヤ教徒であり、イエスが遣わされたのがキリスト教徒であるから、彼らはそれぞれ神の言葉である「啓典」を示された「啓典の民」であると考えられた。このように、イスラーム教では、ユダヤ教とキリスト教は同じ神から啓典を与えられた仲間であるととらえている。しかし、これらの人々は啓典の民でありながら対立したり、啓典を改ざんしたり、使徒を神格化するという過ちを犯した。そこで神は、「あらゆる人々に対して喜びの音信と警告を与えるために」最後の使徒(預言者)としてムハンマドを遣わした、とする。つまりムハンマドは「最後の預言者」である、という。<この項、中村廣治郎『イスラム教入門』岩波新書 p.43>
 六信 イスラーム教徒(ムスリム)が信仰すべき、アッラー・天使・啓示(コーラン)・預言者・来世・宿命を六信という。アッラーは唯一にして絶対の神。天使とは不可視の存在で神の命令を忠実に実行する。大天使にガブリエルとミカエルがいる。(天使のほかにサタンの存在も信じられている。)啓示とは神の言葉のことで具体的にはコーランを指す。預言者とは神の言葉を預かっている者の意味で、最後の預言者としてのムハンマドをいう(ムハンマドは決して神とはされないことに注意)。来世とは、現実の世界は終わりがあり、天変地異とともに終末となり来世が始まるとされる。そのとき人は墓から暴き出され、神の前で審判を受け、信仰の正しい者は天国に行き、不信仰の者は地獄に堕ちるとされる。これは「最後の審判」と言われる考えで、イランのゾロアスター教の影響と見られる。宿命とは、人間は被造物にすぎず、全能の神の意志によってあらかじめ定められている、という考え。
 五行 イスラーム教徒(ムスリム)の信者としての義務とされる信迎告白・礼拝・断食・喜捨・巡礼。コーランに定められるムスリムが行うべき儀礼的規範が五行である。信仰告白とは、ムスリムとしての最小限度の信条として「アッラーのほかは神はない、ムハンマドはその使徒である」を告白すること。礼拝は、神の唯一性を体で表すことで、定まった動作を通じ、神と向き合うことである。夜明け前、正午少しすぎた頃、午後、日没後、夜の5回行われる。礼拝の行われる場所をモスクと言い金曜日には集団礼拝をする。喜捨は貧しい人や旅人に自分の財を与えることで、どん欲に打ち勝ち身を浄める行為とされる。断食はヒジュラ暦第9月のラマダーン月に、病人、旅人、子供などをのぞき、日の出から日没まで一切の飲食を断ち、禁欲することが義務とされる。断食明けには祭りになる。巡礼は、ヒジュラ暦第12月に行われる、メッカのカーバ神殿へお参りすることで、少なくとも一生に一度は義務とされる。
イ.イスラーム世界の成立
A 正統力リフ時代 イスラーム教徒は、ムハンマドの時代(622〜632年)を預言者の時代、それに続く時代を正統カリフ時代(632〜661年)と呼び、理想的な時代であったとしている。正統カリフ時代は、ムハンマドの後継者であるカリフが正しく選出され、ムハンマドの教えも厳しく守られていた時代であり、また積極的な聖戦(ジハード)が行われて帝国の領土が西アジアに広がった時代である。ムハンマドの跡を継いだ初代カリフのアブー=バクル(ムハンマドの義父)、とその後のウマルウスマーンアリーの4代のカリフが続いた理想の時代とされるが、実際にはアブー=バクルをのぞいていずれも暗殺されている。
正統カリフ時代に聖戦(ジハード)が展開され、633年のシリア進出に始まり、637年のカーディシーヤの戦いでのササン朝ペルシアに対する勝利、641年までのエジプト征服、642年のニハーヴァンドの戦いでの勝利とイランの制圧へと続き、正統カリフ時代に西アジアの主要地域を手中に収める大帝国となった。その領土が急速に広まった理由は、単にイスラーム教徒の宗教的情熱や好戦性にあるのではなく、アラビア半島におけるアラブ人の人口の増加などが背景にあり、ムハンマドの従来の部族的紐帯を否定して、人間の平等を説く教えが積極的に受け入れられたためであったと思われる。アラブ人は聖戦によって征服した地方の拠点に軍営都市(ミスル)を置いて入植し、支配を拡大していった。西アジアの都市でミスルを源流とするものも多い。
a 力リフ ムハンマドの後継者の意味で、本来の音はハリーファ。「神の預言者(ムハンマドのこと)の代理人(または後継者)」、というのが元の意味。イスラーム教徒(ムスリム)の政治的指導者であるとともに、その信仰の維持とイスラーム法の遵守の義務を負っており、政教一致の理念に基づいた地位である。正統カリフ時代の4カリフは、いずれもムハンマドの近親者が信仰心の厚い者として選挙で選ばれたが、ウマイヤ朝以降はムアーウイヤの子孫に世襲されるようになり、宗教的指導者当面は弱まり、人格的の問題のある者がカリフとなり、カリフに対する反乱が起こった。代わったアッバース朝のカリフはムハンマドの近親者であったアッバース家が世襲することになり権威を回復しようとしたが、イラン系の官僚やトルコ系の軍人に実権が移っていき、カリフの地位は次第に形式化した。また、10世紀には北アフリカのファーティマ朝、イベリア半島の後ウマイヤ朝がそれぞれカリフを称し、バグダードのアッバース朝カリフと並んで三カリフ分立時代となった。次いでバクダードのカリフはブワイフ朝の大アミール、セルジューク朝からはスルタンのもとで実権奪われ、名目的な存在として存続した。1258年、モンゴル軍の西アジア遠征が行われ、フラグによってバグダードが破壊され、最後のカリフも殺害されアッバース朝が滅亡したことによって実質的にカリフ制度は崩壊した。その後、1262年にアッバース家のカリフを称する者がマムルーク朝の保護を受けてカイロに復活したがイスラーム神学の定説ではマムルーク朝以降のカリフは認められていない。19世紀以降はオスマン帝国のスルタンはマムルーク朝からカリフ位を継承ししたとしてスルタン=カリフ制を強調し、西アジア世界の支配を維持しようとしたが、次第にアラブ人の自覚が強まり、トルコ人支配に抵抗するようになった。その混乱に乗じてイギリスなどが進出して植民地化が始まり、第1次世界大戦に敗戦国となったことを期にオスマン帝国は崩壊し、1924年にカリフ制度は廃止された。オスマン帝国のカリフ制度の危機は、イスラーム全体の危機と捉えて、カリフの地位を守れと言うヒラーファト運動(ヒラーファトとはカリフの地位という意味)が1919年にインドで始まり、それは反英闘争の性格を持っていたので、ヒンドゥー教徒のガンディーも協力した。しかし、オスマン帝国の崩壊、続くトルコ革命によってカリフ擁護運動も消滅した。
b 聖戦(ジハード) ジハードは、イスラーム教徒を迫害する不信心者(異教徒)との戦いをことで、ムハンマド時代のメッカとの戦いから続いている。特に正統カリフ時代には、シリア・パレスチナのユダヤ教徒やキリスト教徒、ササン朝ペルシアのゾロアスター教徒などとの戦いがあった。異教徒との戦いはムスリムの義務の一つであるが、その戦いで戦死した者は天国に行くことが出来ると信じられていて、最近のアラブ側の自爆テロまでその精神は継承されている。
正統カリフ時代の主な聖戦は次のようなものがある。
 633〜636年 シリア・パレスチナ遠征 635年にダマスクスを征服
 636年 ヤルムークの戦い イスラーム軍、ビザンツ帝国(皇帝ヘラクレイオス)軍を破る。→ビザンツ帝国シリアから撤退。
 637年 カーディシーヤの戦い ササン朝ペルシア軍を破る(将軍サード=ブン=アビー=ワッカース) →イラクに進出
       → 同年中にクテシフォンを制圧
 639〜641年 エジプト征服(将軍アムル=ブン=アルアース) アレクサンドリアを占領
 642年 ニハーヴァントの戦い ササン朝ペルシア軍を破る → 651年 ササン朝ペルシア滅亡
Epi. 「コーランか剣か」の誤解 一般にアラブの遠征軍は、「コーランか剣か」の二者択一をせまり、改宗しなければ皆殺しにする、というようなイメージがつくらている。しかし、アラブの征服には、(1)イスラームに改宗するか、(2)人頭税を支払って従来通りの信仰を保持するか、(3)これらを拒否してあくまで戦うか、の三通りがあったのであり、けっして「コーランか剣か」の二者択一ではなかった。アラブの圧倒的強さを見たキリスト教徒が、「野蛮な宗教」という恐怖心から誤解し、それが明治以降の日本に輸入されたのである。<佐藤次高『イスラーム世界の興隆』世界の歴史8 中央公論社 p.80>
なお、「右手に剣を、左手にコーランを」というようなことも言われたが、これも左手を不浄な手としているイスラームが左手でコーランを掲げることはないので、まったくの誤解である。
ミスル 正統カリフ時代のアラブ人イスラーム教徒が征服地に建設した軍営都市。アラブ人は征服した地域の拠点に宿営地を設け、兵士の家族を移住させて入植し、異教徒の支配にあたるとともに、経済文化の中心地としていった。特に第2代カリフのウマルが建設したイラク南部のバスラ、イラク中部のクーファ、エジプトのフスタートが有名で、ほかにチュニジアのカイラワーンなどが知られており、アラブの都市にはこのミスルに起源を持つものも多い。 
バスラ 現在のイラク南部に、正統カリフ時代のカリフ・ウマルが638年に建設したミスル(軍営都市)の代表的な都市。かつてはペルシア湾が現在より内陸に入り込んでいたので湾に面する港湾都市としても栄え、アッバース朝時代にはムスリム商人のインド洋交易圏に進出する際の拠点の一つとして栄えた。「シンドバットの冒険」の舞台ともなったところで、ダウ船が行き来していた。16世紀にはサファヴィー朝の領土となり、さらにオスマン帝国領となった。16世紀になるとポルトガルがペルシア湾に進出、ついで17世紀にはイギリスが進出して1643年に東インド会社の商館をバスラに設け、西アジア進出の拠点とした。イギリスは1914年に第1次世界大戦が始まるとオスマン帝国と交戦し、この地を占領した。現在ではシャトルアラブ川と運河で結ばれ、石油精製工場も建設されイラクの主要な商業・工業都市となっている。
クーファ 639年に建設された、ミスル(軍営都市)の一つ。イラク中部のバクダードの南方、ユーフラテス川の南岸にあたる。この地は後に第4代カリフのアリーが拠点としたところで、シーア派の拠点であった。現在では荒廃し、遺跡として残っている。 
フスタート エジプトを征服したイスラーム帝国が642年にナイル下流の右岸に建設したミスル(軍営都市)。ウマイヤ朝、アッバース朝時代を通じ、エジプトにおけるイスラームの拠点として、政治・軍事・経済の中心地であった。10世紀の中頃、西のチュニジアからファーティマ朝が進出してエジプトを制圧、フスタートの北に新都カイロを建設した。それ以来、カイロはイスラーム世界の中心都市として成長して行き、代わってフスタートは衰え、古カイロともいわれるが現在は遺跡が残るのみである。
アブー=バクル ムハンマドの友人で古い同志。クライシュ族の出身。またムハンマドの妻の一人アーイシャの父。632年、ムハンマドが死んだ日に信者の集会で初代のカリフに選ばれた(在位632〜634)。すでに60歳を超えていたが、離反したアラビアの部族を討ち、統一を維持し、さらにイラク、シリアに聖戦(ジハード)の軍隊を派遣し、肥沃な土地を獲得した。
ウマル 第2代カリフ(在位634〜644)。クライシュ族の出身で、はじめメッカでムハンマドを厳しく迫害したが、後に改悛してムスリムとなり、イスラーム国家の建設に尽くしたので、「イスラームのパウロ」といわれる。娘はムハンマドの妻の一人となる。ウマルの時代は聖戦が展開され、イスラーム勢力がシリア全土からエジプトに及び、さらに642年にニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアに勝利して、イラン高原に進出した。また広大な征服地を統治するため、徴税官を派遣し、アラブ戦士にはその税収入から一定の俸給(アター)を支払うこととし、またその業務のためにメディナに官庁(ディーワーン)を置いた。さらにイスラーム暦を定められたのもウマルの時である。
Epi. 「スンナ派の名前、殺害の的となる」 ウマル(一般にはオマルと表記することが多い)は、アラブではありふれた名前であるが、2003年のイラク戦争勃発後、イラクではこの名前を改名する人が続出しているという。それは、スンナ派とシーア派の宗教対立が続くイラクで、シーア派民兵が「オマル(ウマル)」という名の人を次々と殺害するという事態が起こったためだ。シーア派は「抑圧者」としての第2代カリフのオマルと同名のものを殺害し、宗教的憎悪をかき立てている。スンナ派はイスラーム世界全体では多数派であるがイラクでは少数派であり、サダム=フセイン時代には権力を握っていたが、現在は形勢が逆転した。「スンナ派とシーア派の対立はイスラーム草創期の歴史までが憎悪をかりたてる手段に用いられ、抜き差しならない状況に陥っている。」<2006年4月14日 朝日新聞>
カーディシーヤの戦い 正統カリフ時代のイスラームがササン朝ペルシアと戦った最初の勝利。637年夏、第2代カリフのウマルが率いるアラブ軍はカーディシーヤの戦いでササン朝ペルシア軍に大勝、ついで642年のニハーヴァンドの戦いでも勝利し、651年のササン朝滅亡に導いた。
Epi. アラブの最初の勝利 カーディシーヤは現在のイラクにある。アラブの最初の勝利の地として、イラクの独裁者サダム=フセイン大統領はそこに記念館を建設し、湾岸戦争時にはバグダードの新聞に「サッダームにカーディシーヤの勝利を」という論調があらわれ、フセインにはカーディシーヤというニックネームがつけられたという。<牟田口義郎『物語中東の歴史』中公新書>
c ニハーヴァンドの戦い 642年に、イスラーム勢力の第2代カリフ、ウマルがササン朝ペルシアを破った戦い。ニハーヴァンド(ネハーヴァンドとも表記)は西部イランのザクロス山中の地。637年のカーディシーヤの戦いの余勢を駆ってササン朝ペルシアの首都クテシフォンを攻略したウマルは、さらに642年にこの地でササン朝に大勝した。敗れたササン朝ペルシアのヤズダギルト3世は651年に従者に殺害され、ササン朝は滅亡した。以後、イランは急速にイスラーム化し、イスラーム勢力はさらに中央アジアに進出していくこととなる。
642年 イスラーム勢力(第3代カリフ・ウマル)が、ササン朝ペルシアを破った歴史的戦いであるニハーヴァンドの戦いのあった年(年代には異説がある)。この勝利とによってイスラーム国家は、西アジア全域とエジプトを支配する大帝国となった。その後も小アジア、北アフリカではビザンツ帝国との抗争が続いた。なおこのころ、ヨーロッパではフランク王国の分裂が始まり、中国では唐が興隆、玄奘のインドへの大旅行が行われていた。日本では645年に大化の改新が起こる。 
d ササン朝ペルシア  → 第1章 1節 古代オリエント世界 ササン朝ペルシア
e ビザンツ帝国  → 第6章 2節 ビザンツ帝国
エジプト(イスラーム化) ビザンツ帝国領であったエジプトに、イスラーム勢力が侵入したのは639年、第2代カリフのウマルの時から始まる。将軍アムルの率いるアラブ軍がエジプトに侵攻、641年にアレクサンドリアのビザンツ軍を降伏させた。アラブ軍は、ナイル河畔に新たにエジプト統治のための軍営都市フスタートを建設した。後のファーティマ朝が969年にこの地の北方に新首都カイロを建設したのでフスタートは古カイロとも言われる。アレクサンドリアはその後、イスラーム海軍の基地として、その地中海進出の拠点となる。そしてエジプトはその後長くイスラーム世界の一つの中心地として現在まで続く。
イスラーム勢力が支配を及ぼした頃、エジプトにはコプト教会というキリスト教の一派(ローマ教会からは異端とされていた)が多かったが、彼らは啓典の民として信仰を認められ、代わりにジズヤとハラージュを負担した。後に十字軍時代にイスラームとキリスト教の対立が激しくなる中で、コプト教会も弾圧され、現在ではその信者は全エジプトの10%程度といわれている。
なおイスラーム化したエジプトは、その後、ファーティマ朝アイユーブ朝マムルーク朝とイスラーム王朝が交替し(各王朝はエジプトだけでなくシリア方面も支配した)、マムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国が近代まで支配し、19世紀初めのアラブ覚醒運動のなかで、独立運動が興り、ムハンマド=アリー朝が成立、第2次大戦後のエジプト革命まで続く。
ウスマーン 第3代カリフ(在位644〜656)。クライシュ族の中の有力氏族ウマイヤ家の出身であったが、早くにムハンマドに従い、改宗した。ウスマーンはムハンマドの教えとして伝えられたことがらを整理、統一する必要を感じ、『コーラン』としてまとめる編纂事業を行った。現在見るコーランはこのとき原型が作られた。征服活動が一段落したこの時代は、前代のウマルの時に戦利品の分配方式から俸給(アター制)に切り換えられたことや、ウスマーンがウマイヤ家の出身者を優遇したことなどから不満がおこり、戦士の反乱軍が首都メディナでカリフ・ウスマーンを殺害するという事件が起き、イスラーム国家は最初の試練を迎えた。
f アリー 正統カリフ時代第4代のカリフ(在位656〜661年)。ムハンマドと同じくメッカのハーシム家の出で、ムハンマドの娘ファーティマの夫となった。大変勇敢な指導者として「アッラーの獅子(アサドッラーク)」と言われた。イラクのクーファを拠点に活動し、656年カリフ・ウスマーンが暗殺された後、ムハンマドに最も近い人物と言うことでカリフに選出された。しかし、彼がカリフとなった頃は、イスラーム教団の主導権を巡る争いも激しくなっていた。ウスマーンもメッカの大商人ウマイヤ家(もともとムハンマドには敵対していた一族)出身で、そのため反対派の戦士に暗殺された。ウマイヤ家の統領であるシリア総督ムアーウィヤはアリーがその背後にあるとみなして対立し、660年ダマスクスでカリフを称して離反した。両者の争いは決着がつかず、アリーはムハンマドの提案を入れて戦闘を中止した。それに反発した過激派(ハワーリジュ派)の刺客が両者を暗殺する計画をたて、661年、アリーの方の暗殺に成功した。ただ一人カリフとして残ったダマスクスのムアーウィヤがイスラーム世界の統治者となったが、それを認めずにアリーの子孫のみをイスラームの指導者(イマーム)であるとするシーア派が出現することとなる。
ハワーリジュ派 イラクのクーファを拠点としたムハンマドの娘婿アリーと、ウマイヤ家のシリア総督でダマスクスを拠点とするムアーウィヤが657年にユーフラテス上流のスィッフィーンで戦ったとき、アリーは戦いを有利に進めながら、コーランに裁定を委ねようと言うムアーウィヤ側の提案を呑み、戦闘を中止した。この時、あくまでムアーウィヤとの戦いを主張してアリーの陣営を離脱した戦士が、「離脱者たち(ハワーリジュ)」と呼ばれた。彼らはアリーの妥協的な態度を非難し、その支配に服さなくなったのでアリーは討伐をしょうとしたが、661年逆にこの派の刺客によってクーファにおいて暗殺されてしまった。ハワーリジュ派はその後も厳しく弾圧を受けほとんど消滅した。
B ウマイヤ朝 正統カリフ時代に続く、661年から750年までのイスラーム帝国の世襲カリフ王朝。初代はムアーウイヤ。以後ウマイヤ家が代々のカリフを世襲した。都はダマスクス。正統カリフ時代に続いてイスラーム帝国の版図が拡大し、西はイベリア半島、東はインダス川流域を征服して大帝国となった。イスラームのヨーロッパ侵入は、ビザンツ帝国やフランク王国、ローマ教皇などのキリスト教世界を圧迫し、大きな脅威となった。ウマイヤ朝の出現によって、イスラーム帝国は最大の領土を持つこととなったが、同時にカリフの地位を巡って、ウマイヤ家のカリフを認めるスンナ派と、第4代カリフの子孫のみをカリフと見なすシーア派の対立が始まり、教団としては分裂の時代となる。また、ウマイヤ朝の時代には貨幣経済が発展し、アター制も始まって国家機構が整備されたが、その支配下には、アラブ人のみならず、多くの異民族、異教徒を含むこととなり、アラブ人とそれ以外のイスラーム教徒(イラン人、トルコ人など)との関係が問題となり始める時期でもあった。そのような中でウマイヤ朝では征服活動の先兵となったアラブ人戦士が貴族として支配階級を構成した(アラブ至上主義)。また、アラビア語を公用語として定められ、ウマイヤ朝時代を「アラブ帝国」という場合もある。8世紀から非アラブのマワーリー(イスラーム教徒)やシーア派の反発が強まり、それらを背景に台頭したアッバース家によって、750年に滅ぼされ、アッバース朝が成立した。 
661年イスラーム国家の第4代カリフ、アリーが暗殺され、ダマスクスでカリフを自称していたウマイヤ家のムアーウィヤが正式にカリフと認められ、ウマイヤ朝を始めた年。
a ムアーウィヤ メッカの大商人ウマイヤ家の統領で、シリア総督としてダマスクスを治めていた。同じウマイヤ家出身の第3代カリフ・ウスマーンを支持していたが、656年に彼が暗殺されるとハーシム家の第4代カリフにアリーが就任した。ウスマーンの暗殺の背後にアリーがいると疑ったムアーウィヤはアリーと訣別して、660年にダマスクスでカリフを自称し、両者の対立は厳しくなった。アリーが過激派のハワーリジュ派の刺客によって暗殺されると、ムアーウィヤは唯一のカリフとして、イスラーム教団を支配することとなった。それ以後、カリフの地位は、ウマイヤ家によって世襲されたので、それをウマイヤ朝という。
b ダマスクス 前10世紀頃、アラム人の建てた都市に始まる。7世紀の初めにアラブ人の勢力が及び、ササン朝ペルシア滅亡後は、ウマイヤ家のムアーウイアがシリア総督としてダマスクスに入り、統治していた。660年、ムアーウイアがウマイヤ朝を創始すると、その首都となって繁栄した。ダマスクスにはローマ時代からの遺跡が多いが、中心にあるのは、ウマイヤ朝のカリフが建設した、ウマイヤ=モスク。高さ20m、東西157m、南北100mの巨大なモスクである。現在見ることができるモスクは11世紀にセルジューク朝が建造され、火災にあった後に20世紀に再建されたもの。近代ではオスマン帝国の支配が続き、第1次世界大戦中の1918年にメッカの太守ハーシム家のフセインがイギリスの支援でダマスクスに入り、ヒジャーズ王国の建国を宣言した。しかし、戦後はフランスの委任統治領シリアとなり、フセインの子のファイサルはシリア王国の独立を宣言したがフランスに排除された。現在は1943年に独立したシリアの首都であり、西アジアの政治、文化の中心地の一つである。
アブド=アルマリク ウマイヤ朝の第5代カリフ(在位685〜705)。20年間の治世で「諸王の王」と称され、ウマイヤ朝の全盛期をもたらした。まず、メッカでカリフを僭称していたイブン=アッズバイル(初代カリフのアブー=バクルの娘の子)を討伐してアラブ=イスラーム帝国の統一を回復し、さらに武将ハッジャージュをイラク総督としてクーファに派遣し、シーア派を徹底的に弾圧した。
帝国の統一策 アブド=アルマリクはアラブ=イスラーム帝国の統一を回復し、「イスラームの平和」(パックス=イスラミカ)を実現し、以下のような統一事業を実行した。
統一貨幣の発行 広大な領土で流通する統一貨幣の鋳造に乗りだし、コーランの文句を表に刻み、裏には自らの名前を刻んだディーナール金貨ディルハム銀貨を発行した。これはイスラーム圏の貨幣経済発展の重要な要因となり、次のアッバース朝にも継承されることとなった。
アラビア語の公用語化 ウマイヤ朝はダマスクスに中央官庁を置いて広大な領土の統治にあたったが、そこで行政用語をアラビア語に統一が必要となった。695年にアラビア語を公用語として一本化することを決め、イランのペルシア語、シリアのギリシア語、エジプトのコプト語などを順次アラビア語に転換をはかった。
マワーリーへの課税問題 アラブ=イスラーム帝国では異教徒には地租(ハラージュ)人頭税(ジズヤ)が課せられていたので、征服地の異教徒は土地を捨てて都市に流れこみ、イスラームに改宗した。そのような改宗者をマワーリーという。その増加は地租収入の減少になるので、ウマイヤ朝政府は彼らを帰農させ、改宗しても地租を払うこととした。これに対してマワーリーの不満が強くなったので、次のカリフのウマル2世は改革に乗り出すが、解決に至らず、アッバース朝の改革を待つこととなる。
領土の拡大 アブド=アルマリクのカリフの時代、ウマイヤ朝の領土は、東西に急激に拡張された。まず704年、イラク総督ハッジャージュはクタイバ=ブン=ムスリムを司令官として東方に派遣、アラブ軍ははじめてアム川を渡ってソグディアナに侵入し、ブハラ、サマルカンドを征服し、さらにフェルガナ地方にも軍を進めた。この豊かなオアシス地帯を、アラブ人はマー=ワラー=アンナフル(川の向こうの土地)と呼んだ。これによってイラン系やトルコ系の民族の活動している中央アジア(トルキスタン)のイスラーム化が始まる。この同時期に西方のアフリカ北岸でも西進し、ビザンツ勢力を北アフリカから駆逐して、チュニジアのカイラワーン(現在のチュニス)を拠点にベルベル人征服に乗り出した。
イェルサレムに「岩のドーム」建設 687〜692年にかけて、イェルサレムの神殿の丘に「岩のドーム」(クッバド=アルサフラ)を建造した。アブド=アルマリクは岩のドームを建設して、カリフの神聖な権威を示そうととした。<以上、佐藤次高『世界の歴史8・イスラーム世界の興隆』1997 中央公論社  p.103〜117 などによる>
 アラビア語の公用語化ウマイヤ朝は首都ダマスクスを中心にアラブ世界とその周囲を支配し、次第に政治形態を整備していった。征服地を支配する上で、はじめは各地の固有の言語を認めていたが、租税の徴収や行政を円滑に行うため、言語を統一する必要が強まった。「諸王の王」といわれたカリフのアブド=アルマリクは、695年にアラビア語を公用語として定めた。
イラク地方ではペルシア語が使われていたが、697年からアラビア語に変更された。イラン人の官僚はペルシア語でないと計算ができないといって抵抗したが、強制されたという。さらに700年にはシリアではギリシア語から、705年にはエジプトでコプト語から、イランでは742年にペルシア語から、それぞれ行政用語がペルシア語に変更された。ウマイヤ朝でのアラビア語公用語化によって、アラブ至上主義の傾向が強まった。<佐藤次高『世界の歴史8・イスラーム世界の興隆』1997 中央公論社 p.109 などによる>
マー=ワラー=アンナフル アラビア語で「川の向こうの土地」を意味する。マーワラーン=ナフル、とも表記する。アム川(アムダリア川)以北の、中央アジアの西トルキスタン、現在ではほぼウズベキスタンの国土にあたる。アム川はギリシア・ローマ人にも知られた大河で、オクサス川と言われたので、その向こう側という意味でトランス=オクサニアと言われていた。このあたりは砂漠の中にオアシスが点々とし、イラン系のソグド人ブハラサマルカンドを中心に、シルクロードの交易路を舞台とした商業活動を行っていた、ソグディアナの地である。アラビアの砂漠から来てこの地を征服したアラブ人が、豊かなオアシス地帯を見て、あこがれをこめて「川の向こうの土地」と呼んだ。8世紀の初め、ウマイヤ朝のカリフ、アブド=アルマリクの時、イスラーム軍が、アム川を超えて中央アジアに侵出し、この豊かな地を手に入れた。アッバース朝では中央アジアの覇権をめぐって、この地の北東に位置するタラス河畔の戦いで唐軍を破り、中央アジアのイスラーム化を進めた。並行してイスラーム化したトルコ系民族の移住定住によって、いわゆる中央アジアのトルコ化が進む。この地はその後、イラン系のサーマーン朝、トルコ系のカラ=ハン朝セルジューク朝ホラズム朝が興亡した後、1220年にチンギス=ハンの率いるモンゴル軍に征服され、サマルカンドなどの都市が破壊された。中央アジア一帯はマー=ワラー=アンナフルを中心にモンゴル帝国の一部のチャガタイ=ハン国(ウルス)とされたが、モンゴル諸勢力の抗争が続き、一時は元に反旗を翻したハイドゥの乱の拠点となった。乱終結後チャガタイ家の当主が復活し、チャガタイ=ハン国が再びこの地を支配することになったが、14世紀には東西に分裂して衰退した。衰退後、1370年に西チャガタイ=ハン国の臣下であったティムールが登場して、この地にティムール帝国を建設したことによって、この地は復興し、都サマルカンドは中央アジアの交易の中心地として繁栄を取り戻した。ティムール帝国後はウズベク人のシャイバニ朝が成立したが、16世紀には大航海時代となって中央アジアの内陸交易路が衰えたため、ブハラ=ハン国などのウズベク系三国の支配の下で停滞し、18世紀以降はロシアの進出を受け、その支配は実質的にソ連時代まで継承される。ソ連の崩壊によって、1991年に中央アジア5ヵ国として独立を回復した。
チュニス 現在のチュニジアの首都。アフリカ北岸のマグリブ地方、地中海南岸のほぼ中央に位置して、古来交通の要衝であった。この近くにはフェニキア人のカルタゴが建設され、その滅亡後はローマの属州アフリカの中心地となった。一時ゲルマン人のヴァンダル王国が成立、その後東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配に復した。その後はベルベル人の地域となっていたが、677年にウマイヤ朝のイスラーム帝国が、軍営都市(ミスルカイラワーンをこの地に建設し、8世紀初めまでにビザンツ帝国を駆逐し、さらにベルベル人地域への侵出の基地となった。以後、北アフリカのアラブ化が進み、現在のチュニジアはアラブ諸国の一つとなっている。10世紀の初め、この地にシーア派のイスマーイル派が自立し、ファーティマ朝を作った。ファーティマ朝は969年にエジプトにカイロを建設し、本拠地を移した。14世紀に活躍したイスラーム教徒の歴史家イブン=ハルドゥーンはチュニスの生まれである。エジプトを都としたマムルーク朝がオスマン帝国に滅ぼされてからは、その支配が続いた。1881年、フランス軍が上陸、間もなくフランスの保護領となり、イタリアとの対立の要因となった。第2次世界大戦中はドイツが占領、1943年からの連合軍との北アフリカ戦線の激戦地となった。1956年、フランスから独立したチュニジアの首都となる。
Epi. 多民族、多文化のチュニス 現在のチュニスを訪ねると、その多民族、多文化の混在した独特の歴史遺産を見ることが出来る。カルタゴの古跡からほんの15キロのチュニスの旧市街にはチュニジア独立の英雄、ブルギバ初代大統領の名前をとった通りがあり、その一角にはイブン=ハルドゥーンの銅像が建っている。チュニジアの誇りだ。周囲はほぼ4キロの城壁に囲まれ、市内にはイブン=ハルドゥーン時代のモスクが残っている。スーク(市場)には狭い街路に無数の店が建ち並ぶ。旧市街には、キリスト教徒の一角がある。それは中世以来取引が続いたヨーロッパ商人の街だ。南よりの一帯のアンダルス地区はレコンキスタを避けてイベリア半島から逃れてきた人々が居着いたところだ。北側にはユダヤ人居住区があり、ユダヤ人は都市機能の重要な部分を担っていた。さらにトルコ人地区もある。16世紀のオスマン帝国の征服以来、軍隊と共にやってきた官吏たちが定住したところだ。このようにチュニスにはマグレブのベルベル人を基層として、ヨーロッパ人、アラブ人、アンダルス人、ユダヤ人、トルコ人などの文化が重奏しており、まさに「地中海史」そのもの言うことができる。<樺山紘一『地中海』2006 岩波新書 p.40-43>
タンジール  → 第14章 2節 タンジール
c イベリア半島 (の征服)711年、ウマイヤ朝のイスラーム帝国がイベリア半島に進出、713年に西ゴート王国を滅ぼし、イスラーム勢力がヨーロッパの一部に及んだ。ウマイヤ朝は東西で領土を拡大したが、そのうち西方では将軍ムーサーが指揮し、北アフリカのビザンツ帝国勢力を駆逐して、677年にチュニジアの軍営都市カイラワーンを建設、さらに西進を続けた。北アフリカの西部、マグリブ地方のベルベル人はキリスト教徒が多かったが、急速にイスラームに順応し、モロッコまでイスラーム化した。711年、ベルベル人のイスラーム教徒で将軍となったターリクは、ジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に進出し、西ゴート王国のロデリック王の軍をリオ=バルバーテの戦いで破り、都トレドを占領した。アラブ軍の本隊を率いるムーサーも続いてイベリア半島に入り、セビリャとサラゴサを占領した。713年、西ゴート王国は滅亡し、イベリア半島の大半はウマイヤ朝の支配を受けることとなり、アンダルス(ヴァンダル人の国を意味するアラビア語。現在のアンダルシアの起源)と呼ばれるようになった。なお、同じ711年にウマイヤ朝のムスリム軍は東方ではインドに侵入し、翌年インダス川流域を征服している。
 →第6章1節 イスラームの侵入、 第6章3節 イベリア半島
d フランク王国  →第6章1節 西ヨーロッパ世界の成立 フランク王国の成立 イスラームの侵入
e トゥール・ポワチエ間の戦い  →第6章 1節 西ヨーロッパ世界の成立 トゥール・ポワチエ間の戦い 
アラブ帝国 イスラーム帝国は広義には、622年のムハンマドのヒジュラから始まり、正統カリフ時代とウマイヤ朝時代に急激に領土を拡張した。しかしそこまではあくまでアラブ人主体の国家であったので、「アラブ帝国」と言う場合もある。ウマイヤ朝時代には、本来異教徒からのみ徴収する人頭税(ジズヤ)地租(ハラージュ)を非アラブ人のイスラーム改宗者(マワーリー)からも徴収することになったので、同じムスリムでのアラブ人と非アラブ人の間に税負担などで大きな差が生じ、次第に非アラブ人の不満がたかまった。その不満を背景にウマイヤ朝を倒して権力を握ったアッバース朝では、アラブ人と非アラブ人は同じイスラーム教徒(ムスリム)であれば平等であるという本来の理念に戻り、「イスラーム帝国」としての実態をもつようになった。 
f 地租(ハラージュ) イスラームでの地租をハラージュという。イスラーム政権が砂漠地帯からメソポタミアの農耕地帯に広がる過程で、土地所有者に税を負担させて国家財政を補うようになった。生産物か家畜の一部で納められ、国庫の大きな割合を占めていた。はじめはイスラームに改宗しない非アラブ人(ズインミーと言われた。ユダヤ教徒・キリスト教徒などの「啓典の民」。)に対し、人頭税(ジズヤ)とともに課せられていたが、ウマイヤ朝のもとで、改宗した非アラブ人(新改宗者、マワーリーと言われた。)にも課せられるようになった。アラブ人はジズヤもハラージュも納める必要はなかった。このようなアラブ人イスラーム教徒と非アラブ人イスラーム教徒の差別に対する不満が強くなったので、ウマイヤ朝の末期にはアラブ人にも課せられるようになり、次のアッバース朝もそれを継承し、アラブ人イスラーム教徒からも征服地に土地を持つ場合はハラージュを納めさせることし、その平等化を図った。
g 人頭税(ジズヤ) イスラーム法で定められた人頭税で、原則は金納で国庫に納められた。イスラーム帝国に征服された地域の非アラブ人(厳密にはその中の「啓典の民」)は、イスラーム教に改宗することを強制されず、信仰と生命・財産を保護された。そのような改宗しない非アラブ人、ズインミーは、そのかわりジズヤという人頭税(婦人、子供、老人などをのぞいた人間に課せられる)を納めるなければならなかった。また土地所有者は地租(ハラージュ)を納めなければならなかった。イスラームに回収すれば人頭税は課せられないことになっていたが、ウマイヤ朝では非アラブ人でイスラーム教に改宗した人々(新改宗者、マワーリー)にも、ジズヤが課せられることになった。そのためアラブ人と非アラブ人の差別に対して不満が強くなり、その終わり頃にはマワーリーのジズヤは免除されることとなった。アッバース朝でもズインミーにはジスヤとハラージュが課せられ、マワーリーはジズヤは免除されハラージュのみが課せられることとなり、イスラーム教徒のアラブ人と非アラブ人の平等化が図られた。
C イスラーム教の分裂 正統カリフ時代以来、イスラームは教義やカリフの地位を巡っていくつかの分派に分かれていった。分派が分かれていった本体は、スンナ派といわれ、多数派を形成している。現在まで続く分派としては、第4代カリフのアリーの子孫のみを正当なカリフと信じるシーア派(少数派)があり、さらにシーア派から別れた12イマーム派、イスマーイール派などがあり、またアリーを支持しながらそれを見限り、暗殺したハワーリジュ派などがある。以下の項は<中村廣治郎『イスラム教入門』岩波新書など>による。
a スンナ派 スンナ(またはスンニー)とは、コーランに次ぐ権威のある、ムハンマドが示した規範であり、代々伝承されてきた慣行をも意味する。スンナ派(スンニー派)は、正式には「スンナと共同体の民」と言われ、ムスリム共同体が受け入れてきたスンナ(慣行)に従う人々を意味する。だからスンナ派は分派ではなく、イスラーム教そのものと言ってもよく、前に説明した六信と五行など、イスラーム教の内容として説明したのは実はスンナ派でのことである。つまり、スンナ派は信者のほぼ9割を占める多数派であり、政治体制と結びついた体制派でもある。従って、共同体の統一と一体性を重視し、分裂を避ける傾向にある。それに対して少数派のシーア派は常に反体制的な傾向があった。
b 多数派  
c シーア派 シーア派はスンナ派が多数派であるのに対して少数派であり、ムハンマドの女婿であった第4第アリーとその子孫だけをムハンマドの後継者、ウンマ(信者の共同体)の指導者(イマーム)として認め、忠誠を誓う人々のことである。シーアという語も「アリーの党(shi'at)を意味している。彼らは、カリフの地位を簒奪したムアーウイヤ以降のウマイヤ朝カリフを認めず、それと戦ったが、680年のカルバラーの戦い(現在のイラク南部)で敗れた。しかし、アリーの子孫のどの家系をイマームとするかによって、さらに分裂し、十二イマーム派(穏健派。単にイマーム派ともいう。現在イランに多い。)とイスマーイール派(インド、イランなどに残る少数派で過激派。エジプトにファーティマ朝を建てた。)などが形成された。シーア派(その分派としてのイマーム派)の主張は、教義や儀礼についてはスンナ派とほとんど相違はなく、最も異なるのは、「イマーム」という考えで、神と人を結びつける指導者がイマームであり、それはムハンマドが指名した後継者である(と彼らが信じる)アリーとその子孫のみがなれると考え、人間が選ぶカリフに従うのではなくイマームに従うべきであるという主張である。また彼らは、人間の行いは神の正義に反して自由意志で行われることがあるから、神の正義に基づいて体制が誤ったときはそれを批判することが出来ると考え、反体制的であるが、スンニ派は予定説にたってすべてを神の行いと理解して体制を批判することもない、という違いがある。
現代のシーア派 現在のシーア派はイスラーム世界全体では少数派(全イスラーム教徒の約10%)で、イランやイラク南部に多い。特にイランのシーア派は、16世紀のサファヴィー朝がシーア派の十二イマーム派を国教としてから現在まで続いている。19世紀のイランでは一時トルコ系のカージャール朝に支配されたが、反発するイラン人のシーア派からバーブ教という新宗教がおこり、バーブ教徒の反乱となったが異端として弾圧された。第一次世界大戦前後にはロシアとイギリスの侵略を受けてカージャール朝が衰退した後、1921年にクーデターでイランの実権を握ったパフレヴィー朝はシーア派国家を再興したが、第二次世界大戦後の白色革命という近代化路線をとってアメリカに接近したため、イラン民衆の反発を受けて、1979年、ホメイニ師に指導されたイラン革命によって倒され、現在のシーア派の最大の国家イラン=イスラーム共和国が成立した。一方、イラクにはスンナ派とシーア派が併存していたが、スンナ派のフセイン政権の下ではシーア派が弾圧され、それが一因となってイラン=イラク戦争となった。湾岸戦争後もシーア派は弾圧され続けたが、イラク戦争でフセイン政権が崩壊した現在では、イラク新政権に参加しているが、依然としてスンナ派との宗教的対立は続いている。
イマーム イスラーム教で信者の共同体(ウンマ)の「指導者」を意味するアラビア語。スンナ派ではカリフおよびすぐれたウラマーをイマームと称しているが、シーア派では特別な意味となり、第4代カリフ・アリーの子孫のみを「最高指導者」の意味でイマームと称する。シーア派ではイスラーム教の奥義はムハンマドの血縁であったアリーの子孫にのみ伝承されていると考え、そのイマームに忠誠を誓うことが信仰の重要な要素となっている。特に、十二イマーム派は、初代イマームのアリーから数えて十二代目の行方不明になったイマームは「神隠れ(ガイバ)」の状態にあり、やがて再臨すると主張し、シーア派の主流となっている。
カルバラーの戦い 4代目カリフのアリーを初代イマームとして信奉しするシーア派は、アリーの死後、その子ハッサンを2代目イマーム、ハッサンの弟のフサインを3代目のイマームとして擁し、ウマイヤ家と戦った。フサインは680年、カルバラーの戦いで戦死し、シーア派の殉教者となり、その命日は今でもシーア派の重要な追悼日とされ、またイラク南部にあるカルバラーはシーア派の聖地とされている。
Epi. シーア派の奇祭、アーシュラー 3代目イマームのフサインが、カルバラーの戦いで戦死した命日であるイスラーム暦の1月10日は、シーア派の信徒にとっては特別な日であり、いまでもアーシュラーという追悼祭が行われる。その日はフサインの殉教を悼む劇が上演され、信徒は涙を流し、さらに町に繰り出してフサインの痛みを体験するために自らの身に鎖を打ち付けて血を流しながら練り歩く。これはスンナ派にはない、シーア派独特の行事である。
d 少数派  
e マワーリー イスラーム帝国に組み込まれた非アラブ人で、イスラーム教に改宗した人々(新改宗者)をいう。ウマイヤ朝においては同じイスラーム教徒でありながら、人頭税(ジズヤ)地租(ハラージュ)などの税を負担しなければならず、負担が大きかった。彼らは、ウマイヤ朝の支配に対立したシーア派と結びついて、反体制運動を起こすようになり、ウマイヤ朝に代わるアッバース朝の出現をもたらした。アッバース朝の税制の変更で、マワーリーはジズヤを免除されてハラージュのみを納めるようになり、アラブ人もハラージュは同じように義務となったので、イスラーム教徒であればアラブ人と非アラブ人の違いはなくなった。なお、非アラブ人でイスラーム教に改宗しなかったユダヤ教徒、キリスト教徒らはズィンミー(ジンミー)と言われた。
ズィンミー(ジンミー) イスラームの征服を受けても、改宗しなかった人々の中で、「啓典の民」(ユダヤ教徒、キリスト教徒。後にゾロアスター教徒なども加えられた。)は、ズィンミーといわれ、信仰の自由と生命財産は守ることができたが、ジズヤとハラージュの納税の義務は負わなければならなかった。ズィンミーとは、ズィンマ(保護)を与えられた人々、の意味。
f アッバース家 ムハンマドと同じハーシム家の一族がアッバース家。ムハンマドの叔父のアル=アッバースの子孫たち。ウマイヤ家に対する反発が強くなると、ムハンマドの血統につながる家系としてアッバース家が台頭した。アッバース家はイラクのクーファ(かつての第4代カリフ・アリーの本拠)を中心に、ホラーサーン地方のイラン人ムスリムや、シーア派を運動に取り込み、反ウマイヤ朝の運動を開始し、アブー=アルアッバースが750年にクーデターを起こしてウマイヤ朝を倒し、アッバース朝を創始した。
ホラーサーン イランの東北部からアフガニスタン、トルクメニスタンにかけての一帯をいう。遊牧系のイラン人が活動しており、かつてパルティアがこの地から起こり、ササン朝ペルシアもこの地を支配した。この地のイラン人は652年にアラブ人の征服を受け、イスラーム化しマワーリーとなったが、税制その他で不平等な扱いであったので、次第に不満を強め、アッバース朝の反ウマイヤ朝革命に協力する。アッバース朝成立後もこの地はイスラーム世界の重要な動きの発動地となり、821年のターヒル朝、873年のサッファール朝、900年のサーマーン朝、994年のガズナ朝、1040年のセルジューク朝、1181年のホラズム朝と、次々とイスラーム政権が興亡した。1221年にチンギス=ハンの遠征を受け、モンゴル帝国のイル=ハン国の支配を受ける。1381年にはティムール帝国が成立、その第3代シャー=ルフのときこの地方のヘラートが都とされ、15世紀のトルコ=イスラーム文化の中心地の一つとなった。その滅亡後はウズベク族の支配が及んだ。近代ではアフガニスタンとロシアの侵攻を受けた。
ウ.イスラーム帝国
A アッバース朝 イスラーム帝国のウマイヤ朝時代に続く時代。750年から1258年までの長期にわたり、イスラーム世界を統治するカリフとして世襲が続いた。都は第2代マンスールから現イラクのバグダードウマイヤ朝のアラブ至上主義が、アラブ人以外のイスラーム教徒の反発を強め、また彼らの中に反体制派のシーア派が生まれ、不満が高まったことを背景にしてアッバース家のクーデターが行われ、成立した王朝。この変革をアッバース朝革命ということもある。アラブ人だけに依存しない、官僚制度や法律を整備し、また税制を改革してアラブと非アラブの平等化を図り、多民族共同体国家としてのイスラーム帝国の維持に努めた。そのもとでイラン人など非アラブ人の官僚が進出し、「アラブ帝国」ではない、真の「イスラーム帝国」の段階に入った、とされる。中央アジアでは唐帝国と接することとなり、751年にはタラス河畔の戦いでその軍隊を破った。756年にイベリア半島に後ウマイヤ朝が分立して、領土は縮小した。8世紀後半から9世紀にかけて、アッバース朝のカリフは「ムハンマドの後継者」よりも「神の代理人」と考えられるようになり、ハールーン=アッラシードのころ全盛期を迎えたが、9世紀以降は次第に地方の政権が分離し、イスラーム帝国の分裂の時代に入る。各地にカリフを称する地方政権が生まれ、バグダードも946年にはブワイフ朝政権(932〜1062年)によって支配され、カリフは名目的な存在となる。1055年にはセルジューク族がバグダードに入城してカリフは救出されるが、実権を回復することはなかった。最終的には1258年、モンゴルの侵入によって滅亡する。また、アッバース朝は、建国に際してはシーア派の支援を受けたが、権力を握るとスンナ派の立場に立って、シーア派を厳しく弾圧した。
750年イスラーム世界のウマイヤ朝に代わり、アッバース朝が成立した年。翌751年にはタラス河畔の戦いが起こり、フランク王国ではカロリング朝が成立。
アブー=アルアッバース アッバース朝を創始したカリフ(在位750〜754年)。アッバース家はムハンマドの叔父のアッバースの子孫で、イラクのクーファを拠点に、シーア派のアラブ人や、非アラブ人に支持を広げ、さらにイランのホラーサーン地方出身の部隊を戦力として反ウマイヤ朝運動を続けていた。749年、当主アブー=アルアッバースはカリフを称してムハンマド伝来の黒旗を掲げた。ウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーンはアッバース軍討伐の軍を起こしたが、ティグリス川の支流ザーブ川の戦いで敗れ、750年エジプトまで逃れたところで殺され、滅亡した。こうして唯一のカリフとなったアブー=アルアッバースは、「サッファーフ(血を注ぐ者、殺戮者の意味)」と呼ばれるようになった。権力を握るとアブー=アルアッバースはシーア派弾圧に乗り出し、カリフの権威を高めることに努力した。また成立直後の751年、中央アジアのタラス河畔で唐軍と戦って勝利した。
a マンスール アッバース朝第2代のカリフ(在位754〜775年)。弟のアブー=アルアッバースについでカリフとなった。ウマイヤ朝の残党やシーア派の一派を鎮定して、アッバース朝イスラーム帝国の実質的な支配体制をつくりあげた。イスラーム世界の統治拠点として、762年から766年にかけて新しい都バグダードを建設した。
b バグダード アッバース朝第2代カリフのマンスールが建設した都。「平安の都」(マディーナ=アッサーム)と名付けられ、それ以後、アラブ=イスラーム文明の中心地として栄えた。その中心部は、円形の城壁に囲まれ、緑色のドームを持つ宮殿が建てられていた。バグダードは8世紀から9世紀にかけてハールーン=アッラシードのころ最も繁栄し、人口200万を数えたという。1258年のモンゴルのフラグ軍による破壊を受けたが、その後、チムール帝国、オスマン=トルコ帝国の支配を受け、繁栄を続けた。近代にはドイツ、フランスなどの帝国主義の抗争の場となり、第1次大戦後の1921年、イラク王国の首都となった。現在はイラク共和国の首都であるが、湾岸戦争、イラク戦争の戦場となり、文化財の散逸が危ぶまれている。
c イラン人 (イスラーム化)イランは古代以来、ペルシアと言われ、インド=ヨーロッパ語族に属するイラン人が独自のイラン文化を形成していた。651年にササン朝ペルシアが滅亡し、イランはイスラーム帝国の支配を受けることとなった。イラン人はゾロアスター教徒が多かったが、彼らも「啓典の民」として扱われるようになった。イスラームの教えは階級や貧富の差を超えて「平等」と「統一」を説いたので、ササン朝の専制支配と階級支配のもとにあった多くのイラン人は、イスラームに改宗していった。ウマイヤ朝時代にペルシア語にアラビア語の要素が入るようになり、文字もアラビア文字が使われるようになった。750年のアッバース朝の成立にはホラーサーン地方のイラン人が大きな役割を果たし、大臣や官僚としてその政治を支える者も多かった。9世紀、アッバース朝が衰退すると、イラン人やトルコ人でアミールに任命されたものが地方王朝を樹立するようになり、イランではまず東部にターヒル朝、次いでサッファール朝が生まれ、中央アジアではサーマーン朝が登場、特にサーマーン朝(9〜10世紀)はイランも併合して最初の実質的な独立王朝となった。11世紀のトルコ系のセルジューク朝のもとでもイラン文化は継承され、またニザーム=アルムルクのように宰相として活躍するイラン人もいた。13世紀後半からはモンゴル人の支配するイル=ハン国のもとで、イラン=イスラーム文化を発展させた。イル=ハン国滅亡後、イランはモンゴル−トルコ系のティムール朝の支配を受けるが、1501年に成立したイラン人のサファヴィー朝は、シーア派(十二イマーム派)を国教として、大きく転換する。その後はイランにはシーア派が定着し、イスラーム世界でも独自のシーア派国家となっていく。 → イラン(18世紀以降) 
 アッバース朝の税制 シーア派や非アラブ人の反ウマイヤ運動に乗じて権力を奪取したアッバース朝は、イスラーム教徒(ムスリム)の平等化をはかった。その一環としての税制の変更は、一般に、「非アラブの改宗者(マワーリー)のジズヤを免除し、アラブ人(征服地で土地を持つ場合)にもハラージュを課すこととした」とされている。なお、イスラームに改宗しない非アラブ人(ズインミー)は、そのままハラージュとジズヤを納めることを条件に他の宗教の信仰を認められた(原則として「啓典の民」のみ)。このアッバース朝革命における税制の変化を、単純化すると次のような表にまとめることができる。表の○は課税されること、×は課税されないことをしめす。このようにまとめると、アッバース朝において(実際にはウマイヤ朝の末期にすでに一部実施されていたようだが)、イスラーム教徒としてのアラブと非アラブの平等化が図られたことが理解できよう。
 
ウマイヤ朝末期まで アッバース朝から
税    制 ハラージュ  ジズヤ  ハラージュ  ジズヤ 
ア  ラ  ブ  人 × × ×
非アラブ人 マワーリー ×
ズィンミー
f イスラーム法 イスラームの法は、コーランに書かれていることを基本として、学者たちが作り上げていったもので、信仰や儀礼のあり方から、家族や取引の決まりなどの日常生活にかかわる規範となっている。イスラーム世界ではコーランとムハンマドの言行録であるハディースとあわせた規範がイスラーム法として、「シャリーア」と言われている。現在のイスラーム諸国では、近代的な法律が制定されているが、実社会では依然としてシャリーアのきまりは道徳的規範として生きている。その内容はイスラーム世界独自のものが多く、例えば、結婚は、男性は妻を4人まで持つことが許されること、飲酒は禁止されていることなどがコーランにも記されている。
g イスラーム帝国 イスラーム国家は正統カリフ時代とウマイヤ朝時代まではあくまで征服者であるアラブ人主体の国家であったので、別に「アラブ帝国」と言う場合もある。このアッバース朝から、アラブ人以外のイラン人やトルコ人などの西アジアの広範な民族が、イスラーム教の信仰によって結びついて平等な構成員となり、税制などでもその平等化がはかられたので、厳密な意味で「イスラーム帝国」といえるようになった。なお、イスラーム帝国という言い方のほかに、古くは日本では「サラセン帝国」とも言われていたが、これには野蛮な国という蔑視が入っているので、現在では使用されない。
エ.イスラーム帝国の分裂
A 後ウマイヤ朝 こうウマイヤちょう、と読む。756年〜1031年まで、イベリア半島を支配したイスラーム王朝。シリアを本拠としたウマイヤ朝がアッバース朝に滅ぼされたとき、ウマイヤ家の一人が遠くイベリア半島に逃れ、独立した。それがアブド=アッラフマーン1世で、コルドバを都として独自の文化を生み出した。10世紀のアブド=アッラフマーン3世の時に全盛期となり、カリフの称号を名乗りようになり、西カリフ帝国とも言われるようになる。首都コルドバは西方イスラーム文化の中心として、ヨーロッパからの留学生も集まり、文化都市として繁栄した。
a イベリア半島  →第6章 3節  レコンキスタ イベリア半島 
b コルドバ イベリア半島(スペイン)のアンダルシア地方の都市。756年から、後ウマイヤ朝の首都。10世紀に最盛期となり、イスラーム文化の西方の拠点となった。ヨーロッパの諸国からも留学生が集まってきていたという。レコンキスタが進むなかで、1236年、カスティリャ王国に併合された。
Epi. コルドバの繁栄−共存が発展を産んだ 10世紀の後ウマイヤ朝の都コルドバは、世界でも有数の大都会であった。史料によれば、モスクの数1600、高官や貴族の邸宅6万300、庶民の家21万3077、店舗8万455を数え、人口は50万を下らないと推計されている。コルドバは洗練された文化の都でもあった。クリスタル・ガラスの製造は9世紀後半コルドバで発明され、金・銀の細工師の技術はビザンツ帝国のそれと競うほどであった。バグダードからやって来たジルヤーブは、コルドバの宮廷で召し抱えられ、ウード(琵琶の一種)の演奏や歌手として名声を博した。彼はまた、バグダードの多くの優雅な文化をコルドバの市民に伝えた。・・・各地からユダヤ教徒がイスラームのスペインに移住してきた。首都コルドバはムスリムだけでなく、多数のキリスト教徒とユダヤ教徒が住み、商業や文化活動に参加していた。<『都市の文明イスラーム』新書イスラームの世界史1 講談社現代新書 私市正年 p.200>
B アッバース朝の全盛期  
a ハールーン=アッラシード イスラーム帝国アッバース朝の第5代カリフ。在位786〜809年。アッバース朝の全盛期のカリフとして有名。若い頃782年にビザンツ帝国の都コンスタンティノープル遠征で功績をたて、父のカリフからアル=ラッシード(正道を踏む者)の名をもらった。カリフとなった時代はヨーロッパではフランク王国のカール大帝と同時期であり、フランク側の記録では贈り物の交換をしている。フランクとアッバース朝は、ビザンツ帝国と後ウマイヤ朝という共通の敵を持っていたので、友好関係を持ったのであろう。ただし、両者の力関係は、圧倒的にアッバース朝ハルーン=アッラシードが上である。彼はまた文芸や芸術を好み、多くの芸術家を保護し、バグダードの繁栄をもたらした。<ヒッティ『アラブの歴史』(上)講談社学術文庫p.571>
Epi. 『千夜一夜物語』の時代 ハルーン=アッラシードは、有名な『千夜一夜物語』にも登場する。またその中でも有名な船乗りシンドバッドの物語の主人公はバクダードの商人であった。シンドバッドのようなアラビア商人たちが活躍していたのが、この時代のアッバース朝の都バクダードであった。またカリフの宮廷は、世界中の富が集まり、豪華な装飾を施した宮廷での生活が行われていた。
C イスラーム帝国の分裂 イスラーム世界はウマイヤ朝からアッバース朝初期まではカリフのもとで一つのイスラーム共同体を形成していたが、9世紀に入ると広大なイスラーム世界の中にアラブ人以外の民族の台頭し、バグダードのアッバース朝カリフの権威は次第に名目的なものとなっていった。まずササン朝以来の文化的な伝統を有するイラン人(ペルシア人)が有力となり、続いて軍事面ですぐれた力を持っていたトルコ人が台頭した。地方の総督として統治にあたっていたアミールが次第に独立し、地方王朝を樹立するようになった。そのような地方政権には、イランのターヒル朝(821〜873年)、サッファール朝(867〜903年)、エジプト・シリアでのトゥールーン朝(868〜905年)、中央アジアでのサーマーン朝(875〜999年)がある。さらに10〜11世紀のイスラーム世界は大変動の時代を迎え、イベリア半島の後ウマイヤ朝、エジプトのファーティマ朝がカリフを称して三カリフ時代に入り、バグダードにもブワイフ朝の軍事政権が成立する。また中央アジアではトルコ人の自立によりカラ=ハン朝、ガズナ朝、セルジューク朝が成立する。このような政治的分裂のみならず、ファーティマ朝のシーア派の台頭と、イスラーム神秘主義の隆盛という、イスラーム教の大きな変質も並行して展開された。
a アミール 本来はアラビア語で軍隊の指揮官を意味する。イスラーム帝国の征服地の統治にあたり、地方の行政・財政をも司り、「総督」の権限を持っていたが、次第に独立した権限を持つ地方政権となった。アッバース朝では、イラン人やトルコ人でアミールに任命されるものも出てきて、その中の有力なものは地方王朝を樹立した。9世紀にイランに起こったターヒル朝サッファール朝がそれである。946年、バグダードに入ったブワイフ朝ではアッバース朝のカリフから大アミールの称号が与えられた。次のセルジューク朝ではアミールは軍事指揮官を意味するようになるが、広く有力者の子弟なども含まれるようになる。1370年、中央アジアの覇権を握ったティムールは、自らの地位をアミールと称した。現在でもウズベキスタンではアミール=ティムールと言われている。
現代のアミール:アミールはその後、首長を意味するようになる。現代のアラブ首長国連邦の「首長国」は emirates の訳であるが、それは首長 emir の治める国の連合の意味で、emir はアミールの英語表記である。他にも、中東諸国のクウェート、カタールなどの元首も emir と称しており、それは「国王」ではなく、本来「総督」を意味するアミールである。バーレーンもはじめ首長国であったが、2002年に王政に変更しバーレーン王国となった。サウジアラビアは1932年の建国時から王国を称している。
ターヒル朝 アッバース朝の成立に協力してイラン東北部のホラーサーン地方の総督(アミール)に任命されたイラン系のマワーリーの子孫であったターヒルが、821年にニシャープールを中心に作った地方政権。まだカリフへの貢納は続けており、完全な独立王朝ではなかった。まもなく873年に同じイラン系のサッファール朝に滅ぼされた。
サッファール朝 アッバース朝治下の現在のイランとアフガニスタン国境近くのスィースターンを本拠にして、867年にアミールのヤークーブが独立を宣言したイラン系のイスラーム独立王朝。873年にはホラーサーンのターヒル朝を滅ぼした。903年に同じイラン系のサーマーン朝に服属し、1003年にガズナ朝によって制圧された。サッファール家はその後もスィースターン地域の名家としてセルジューク朝、イル=ハン国時代も存続した。
Epi. ヤクザあがりの支配者 9世紀のイスラーム世界の都市では、アイヤールと呼ばれる任侠集団(ヤクザ)が存在した。サッファール朝の創始者ヤークーブもその一人で、もとは銅細工師でアイヤールに投じて強盗団の頭目となり、配下の騎兵を得てアミールまで出世してスィースターンの支配者になったという。アラビア語で銅細工師のことをサッファールというのが王朝名の由来である。サッファール家はその後もサーマーン朝やガズナ朝の軍隊と戦い続け、15世紀まで存続したのには、民衆の支持があったためであろう。<『都市の文明イスラーム』新書イスラームの世界史1 講談社現代新書 清水宏祐 p.105> 
b トゥールーン朝 アッバース朝カリフに仕えるトルコ人奴隷であったトゥールーンの子、アフマド=ビン=トゥールーンが、エジプト総督の代理として実権を握り北アフリカに独立政権を樹立、エジプトとシリアを支配した。868〜905年。しかし短命に終わり、再びアッバース朝に吸収された。
c サーマーン朝 9〜10世紀に中央アジアのマー=ワラー=アンナフル(イスラーム以前のソグディアナ)地方を支配したイラン人系のイスラーム政権。中央アジアにおける最初のイスラーム政権であった。8世紀後半にアム川の南のバルフ地方にいたイラン系地主(ディフカーン)のひとりサーマーン=フダーがアラブ人からイスラーム教を受容し、その一族は代々、アッバース朝カリフから重用され、9世紀初めに西トルキスタンの支配権を認められて、875年にアッバース朝を宗主国として事実上の独立国家となってブハラを都に建国した。サーマーン朝は現在のウスベキスタン、トルクメニスタンを支配し、9世紀末にはイラン東部のサッファール朝(イラン人の建国したイスラーム王朝)を倒して勢力をイラン高原に及ぼした。中央アジアからトルコ人奴隷をマムルークとして購入し、イスラーム世界に輸出することで収入源にしていた。またサーマーン朝は古来のイラン文化とイスラーム文化を融合させイラン=イスラーム文化を創出したことが重要で、首都ブハラで従来のソグド文字などに代わり、アラブ文字を用いた新しいペルシア語が発達し、詩人のルダキーやハディースの編纂で知られるブハーリーが活躍した。イスラーム文化を代表するイブン=シーナーは、サーマーン朝時代のブハラで生まれたイラン人である。首都ブハラはイスラーム神学や法学の中心地として栄えていく。またサマルカンド、メルヴが商業都市として繁栄した。10世紀中頃から衰え、999年に東方から移動してきたトルコ系カラ=ハン朝によって滅ぼされた。
世界遺産 イスマイール=サマーニー廟 ブハラには現在、サーマーン朝時代の遺跡として、イスマイール=サマーニー廟がある。これは907年に亡くなったサーマーン朝の君主イスマイール=サマーニーが、父や子孫のために造った廟で、中央アジアでもっとも古いイスラーム建築として重要である。9m四方の四角の建物の上にドームが乗っているおり、日干し煉瓦だけで美しくくみ上げられおり、ソグド人の文化の伝統も見られる。この廟はモンゴル人による破壊をまぬがれたが、長く砂に埋もれ、1925年に発掘された。 → 世界史の旅、ウズベキスタン・ブハラのページを参照
マムルークの始まり 「サーマーン朝勃興の原因は、王朝のイラン人君主達が草原の遊牧トルコ人を奴隷として購入し、これに系統的な教育を施して、君主に忠実無比で、しかも武力に優れたトルコ人奴隷マムルークの集団をつくりあげ、彼らを君主権を擁護する強力な軍団に組織化することに成功した点にある。つまり、文化・経済の面で先進的であった中央アジアの定住民がオアシス都市を根拠に形成したこの王朝は、その内部に、草原の遊牧民の卓越した軍事力を、マムルーク軍団という形で巧みに取り入れることによって、強力な国家へと成長することが出来たのである。そこには明らかに、中央アジアの定住民と遊牧民が、それぞれの長所を利用しあい、新しいエネルギーを生み出した見事な姿を認めることができる。しかも彼らは、自らつくりあげたこの新しい軍事システムを、一種の国家的事業として、西アジアの社会へ輸出した。その結果、アッバース朝のカリフをはじめ、西アジアの権力者達はこのシステムを急速に採用し、システムの要となる中央アジアのトルコ人奴隷の獲得に努めたのである。」<間野英二『地域からの世界史8 内陸アジア』1992 朝日新聞社 p.67-68>
ブハラ中央アジアの西トルキスタン(ソグディアナ地方、現在のウズベキスタン)にある歴史的都市。ボハラ、ブハーラーとも表記。はじめはソグド人の商業都市として栄え、8世紀からイスラーム勢力が伸張してきて、9世紀の末にはイラン系サーマーン朝の都となった。以後、イラン=イスラーム文化の中心地の一つとなり、イブン=シーナーもこの地で学んだ。1220年にチンギス=ハンに征服され、市街は破壊されたが、ティムールによって再興された。ティムール朝が分裂し、ウズベク人がかわって進出し、1500年にシャイバニ朝が成立した。シャイバニ朝以後、ブハラは再び都とされ、その後のウズベク人の諸王朝であるジャーン朝(1599〜1753)・マンギト朝(1753〜1920)の三王朝を総称してブハラ=ハン国という。ブハラ=ハン国は1868年、南下したロシアによって保護国とされたが、ブハラはロシア統治下でのトルコ民族主義運動であるジャディードの中心地ともなった。ロシア革命後の1920年に、いわゆるブハラ革命でブハラ=ハン国は滅亡し、1924年にウズベク社会主義共和国としてソ連の一部となった。ソ連邦崩壊後の1991年からはウズベキスタン共和国に属しているが、住民にイラン系のタジク人が多いことから、東隣のタジキスタンはその併合を求めている。
イスラーム文明の中心地 古都ブハラはザラフシャン川下流の豊かな耕地に恵まれ、東北のサマルカンドからフェルガナ方面、東南のメルヴからイラン方面、西北のヒヴァからホラズム方面、西南のテルメズからアフガニスタン方面などを結ぶ交通の要衝であった。8世紀の初めクタイバ=ブン=ムスリムの指揮するアラブ軍がイラン系ソグド人の住むこの都市を征服して以来、中央アジアのイスラーム文明の中心として「ブハーラーイ・シャリーフ」(聖なるブハラ)と呼んだ。ブハラのマドラサ(メドレセ)にはイスラームの学問を修めようと多くの人が集まり、ウラマーの講義を聴き、神学・法学・哲学・医学・歴史学などの諸学問を研究した。ブハラ出身の学者として最も高名なのはアル=ブハーリー(810〜870)、イブン=シーナー(980?〜1037)である。ブハラはまた、イスラーム全域に広がった神秘主義教団ナクシュバンディー教団の創始者バハー=ウッディーン=ナクシュバンド(1317〜89)の墓廟があるところから多くの巡礼者を集めている。
世界遺産 ブハラのイスラーム建築群 先ず注目されるのが、中央アジア最古のイスラーム建築とされるイスマイル・サマーニー廟である。サーマーン朝の君主の墓廟で日干し煉瓦を積み上げただけであるが、精密な装飾を施している。中心部には多くのウラマーを輩出したミリ=アラブ=メドレセと巨大なカラーン=モスクとミナレット、ティムール朝時代のウルグベク=メドレセなど、多くのモスクとメドレセが建ち並んでいる。カラーン=ミナレットは、その前で帽子を落としたチンギス=ハンが、自分が頭を下げたミナレットなので破壊せずに残したという。町の西側にはブハラ=ハン国の王の居城だったアルク城の城壁と内部がそのまま残されており、ハンの豪勢な暮らしを忍ぶことが出来る。また市街地にはタキという十字路をドームで覆ったバザールが現在も何カ所か残っていて、名産の絨緞やハサミ、ミニアチュールなどの工芸品を売っている。 → 世界史の旅  ウズベキスタン・ブハラ
ザンジュの乱 869〜883年、14年も続いたアッバース朝に対する黒人奴隷の反乱。ザンジュとはアフリカのナイル上流地域、タンザニア、モザンビークなどからイスラーム圏に連れてこられた黒人奴隷のこと。彼らはモンバサやザンジバルなどから奴隷商人の手によってイスラーム圏に売られ、現在のイラク南部バスラ地域の農園で農業奴隷として働かされていた。アッバース朝の衰退に乗じ、多の下層民ともに869年に反乱を起こした。反乱軍は878年には「ザンジュ王国」を建設、独立政権となったが、883年にアッバース朝軍によって滅ぼされた。
D ファーティマ朝 の成立はじめ、北アフリカ・マグリブ地方のチュニジアに起こったイスラーム王朝で、シーア派の分派であるイスマイール派を信奉した。909年、初代ウバイドゥッラー(アブドッラー)は、ムハンマドの娘ファーティマとその夫アリーの子孫と称し、チュニジアで挙兵して北アフリカを支配し、910年にチュニジアでカリフを自称し、スンナ派のアッバース朝と対立した。969年、エジプトを征服し、カイロを建設し、973年に都とした。さらにアラビア半島ヒジャーズ地方にも進出し、西の後ウマイヤ朝、東のアッバース朝とともに3カリフ時代を形成した。11世紀にはシリアに進出し、十字軍と戦うこととなる。1171年、シリアに起こったサラーフ=アッディーンのアイユーブ朝に滅ぼされた。
a イスマイール派 イスラーム教シーア派の分派である十二イマーム派から、さらに分離して形成された分派。十二イマーム派の6代目イマーム・ジャーフル=サーディクの後継者をめぐる争いから分裂し、その長子イスマイールの子孫をイマームとして信奉する一派が生まれた。それがイスマイール派で、彼らはシーア派の中でも最も過激な一派として知られる。特に政治行動では反体制的な活動を行うことで知られ、各地に独立政権を作った。10世紀に北アフリカのチュニジアに起こってエジプトを支配したファーティマ朝もこのイスマイール派が建国したものである。イスマーイール派からさらに分派したのが、ドゥルーズ派や、暗殺教団として有名なニザール派である。
暗殺教団 イスラーム教少数派のシーア派の分派であるイスマイール派の中の最も過激な一派。ファーティマ朝でさらにイスマイール派の分派が続き、10世紀末にはドゥルーズ派、11世紀にはニザール派が分離する。ニザール派(ニザリ派、またはアサシン派ともいう)は、イラン人でカイロに行ってイスマイール派の教学を学んだハサン=サッバーフを指導者とし、イランのエルブルズ山脈山中のアラムート(鷲の巣の意味)などの要塞を拠点に、狂信的な教団をつくった。イランを支配していたスンナ派のセルジューク朝がこの派を厳しく弾圧したため、激しく抵抗した。1092年には、セルジューク朝の宰相ニザーム=アルムルクを暗殺したことで知られる。
彼らは敵対する宗派に対しては暗殺という手段をとることも辞さなかったので恐れられて暗殺教団といわれるようになり、十字軍もその襲撃の対象となったのでその存在はヨーロッパに知られた。13世紀にはイランの山岳地帯に一つの王国をつくるほどになっていたが、1256年にモンゴルのフラグの軍隊の総攻撃を受け、拠点アラムートが陥落して制圧された。その後も少数ながら生き残り、19世紀にはパキスタンを拠点に活動、ついでインド西部に移り、アガ=カーンを指導者とした教団を存続させている。
Epi. 英語のassassination(暗殺)の語源となった、アサシン派 ニザール派(ニザリ派)は、彼らが秘密の城塞で、ハシーシュ(大麻)を使って若者を暗殺者に仕立て上げていたことから、アサシン派とも言われ、彼らが暗殺教団としてヨーロッパに知られるようになって、アサシンから暗殺を意味するアサシネーションという言葉が生まれた、という。<岩村忍『暗殺者教国−イスラム異端派の歴史』ちくま学芸文庫 など>
b カイロ アル=カーヒラが本来の呼び名で、「勝利者」の意味。7世紀にアラブ人がエジプトを征服したときは軍営都市(ミスル)としてフスタートを建設した。969年、ファーティマ朝第4代カリフのムイッズがその北東に隣接するところに新都アル=カーヒラを建設した。これが現在のカイロの元となった。972年にはアラブ最古の学院であるアズハル学院がカイロに建設された。後、アイユーブ朝サラーフ=アッディーンのもとで繁栄した。ついでマムルーク朝のスルタンが拠点とし、カイロを拠点としたカーリミー商人が11〜13世紀にかけて紅海からインド洋にかけて活躍した。オスマン帝国時代にはエジプト藩王が置かれた。18世紀末、ナポレオンのエジプト遠征を契機に、アラブ覚醒運動が起きると、エジプト総督となったムハンマド=アリーが独立運動を起こし、1805年に実質的に独立した。カイロは現在でもエジプトの首都、イスラーム圏の大都市として重要であり、さまざまな世界史の舞台となっていく。1943年の11月には、連合国軍が日本の無条件降伏にむけての合意作りをしたカイロ会談が開かれた。 
E 3カリフ時代 イスラーム世界にバグダードのアッバース朝(750〜1258年)、コルドバの後ウマイヤ朝(756〜1031年)、カイロのファーティマ朝(909〜1171年)という3人のカリフが同時に存在した時代。およそ10〜12世紀のイスラーム世界の分裂期を言う。
アブド=アッラフマーン3世 イベリア半島の後ウマイヤ朝で、929年にカリフを最初に称した。これはエジプトのファーティマ朝に対抗するためであった。アブド=アッラフマーン3世の時代は、後ウマイヤ朝の全盛期で、北方のキリスト教国であるレオン王国、カスティリャ王国に貢納の義務を課し、またバグダードのアッバース朝とは盛んな交流があった。また首都コルドバも人口が50万を超え、繁栄していた。
a バグダード  → バグダード
b コルドバ  → コルドバ
c カイロ  → カイロ
G ブワイフ朝 946年、アッバース朝カリフから実権を奪いバクダードを支配したイラン系軍事政権。ブワイ朝、ブーヤ朝とも表記する。イラン系でシーア派の中の十二イマーム派を信奉する、カスピ海南岸のダイラム地方出身の軍人ブワイフ家の兄弟がイランに樹立した軍事政権。946年、アッバース朝の弱体化に乗じて南下し、バグダードに入城し、カリフから大アミールの称号を受け、実質的な権力を握った。アッバース朝のスンナ派カリフが、シーア派の大アミールにイスラーム法の執行権をゆだねる代わりにその保護を受けるという見返りを受けたわけである。ブワイフ朝ではマムルーク軍人などに土地を分与するイクター制が始まった。その後約1世紀間、ブワイフ朝は西アジアを支配したが、内紛のため衰え、1055年、セルジューク朝に滅ぼされる。
Epi. イスラーム世界の天皇と将軍 アッバース朝のカリフとブワイフ朝の大アミールの関係は、日本の中世の天皇と将軍の関係に似ている。カリフは宗教的な権威を持つが実権は全くなく、大アミールによってその地位は左右される。しかしブワイフ朝はカリフを廃位することはなく、名目的にはアミールはカリフに任命される建前をとっていた。カリフの実権が全くなくなってしまい、何人かのカリフは玉座から引きずり降ろされ、両の目をつぶされている。カリフの資格として「聴覚、視覚などの五官が正常であること」という項目があるためだった。退位させられたカリフはその後乞食にまで落ちぶれ、物乞いをしてまわったという。<『都市の文明イスラーム』新書イスラームの世界史1 講談社現代新書 清水宏祐 p.115>
946年ブワイフ朝がバグダードに入城し、軍事政権を樹立した年。
a バグダード  → バグダード 
大アミール 946年、バグダードに入ったブワイフ朝が、アッバース朝のカリフから与えられた称号でアミール=アル=ウマラーという。大アミール、大将軍などと訳す。カリフは宗教的権威を持つのみとなり、大アミールが政治、軍事の実権を握った。