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3.モンゴル民族の発展
ア.モンゴルの大帝国
A チンギス=ハン  → チンギス=ハン
モンゴル民族 モンゴル部からモンゴル民族へ 現在ではモンゴル高原(モンゴリア)で遊牧生活を送っていたアルタイ語系の民族をモンゴル民族と称し、日本では蒙古と表記しているが、そのような「モンゴル民族」が成立したのは、13世紀の「モンゴル帝国」成立以降のことである。それ以前は北アジアの草原で活動する遊牧民族の一部族が「モンゴル部」と言われていたに過ぎなかった。同系列の遊牧民としては、古くは3〜5世紀に活動した鮮卑(トルコ系説もあり)や柔然があげられる。唐代に蒙兀(もうこつ)として出てくる。彼らは6〜9世紀には突厥・ウイグルのトルコ系氏族の支配を受けていたが、10世紀には同系列の契丹(遼)が有力となった。12世紀ごろまでは多くの部族にわかれ、ケレイト部やタタール部などが有力であったが、13世紀初めに、その中のモンゴル部という小部族の中から現れたチンギス=ハンがそれらを統合してモンゴル帝国(モンゴル=ウルス)を建国して以来、同系列の遊牧民やどれに同化したトルコ系民族などが「モンゴル民族」と考えられるようになった。
モンゴル帝国のモンゴル民族 チンギス=ハンから孫のフビライ=ハンの時期にかけてモンゴル帝国は急速に領土を拡大し、西アジア・ロシアから中国全体に及ぶ大帝国が形成され、モンゴル民族もその領域に拡大し支配層を形成していった。中国を支配したモンゴルは国号をとしたが、中国文化を取り入れることは少なく、征服王朝として支配した。元ではモンゴル人至上主義がとられ、西域人が色目人としてその次に置かれ、漢民族は漢人・南人に分けられてその下に置かれた。
モンゴル民族の宗教 モンゴル民族は長くシャーマニズムに止まっていたが、宗教には寛大で、時代によって仏教やネストリウス派キリスト教、イスラーム教などの影響を受けた。特に中国を支配した元や、16世紀のモンゴル民族はチベット仏教を保護したことが注目できる。中央アジアのチャガタイ=ハン国、西アジアのイル=ハン国、南ロシアのキプチャク=ハン国ではそれぞれ先住民のトルコ系民族と同化が進み、またイスラーム化した。
元滅亡後のモンゴル民族 1368年、元の滅亡後は明によって圧迫され、その支配領域をモンゴル高原だけに限定された北元となる。モンゴル民族の国家が消滅したわけではないことに注意する。15世紀中頃にはモンゴル民族の一部族であるオイラト部エセン=ハンが有力となり、明を圧迫した。ついで16世紀中頃にはタタール部ダヤン=ハンがモンゴル民族を再び統一し、次のアルタン=ハンはたびたび明の領土を侵し、北虜と恐れられた。
清朝とモンゴル 17世紀には西モンゴルにオイラトのジュンガル部が優勢となり、清の康煕帝の遠征軍と激しく抗争したが、18世紀に乾隆帝の攻勢を受け、1758年に清朝の支配下に入り、藩部の一つとして理藩院の支配を受けた。またジュンガルに圧迫されて東モンゴルに移動したハルハ部は清朝に服属し、外モンゴルから内モンゴルにも広がった。
モンゴルの独立と革命 1911年に辛亥革命で清朝が倒れると、北モンゴル(いわゆる外モンゴル)チベット仏教の活仏を主権者とする国家の独立を宣言した。その後ロシアの影響を受けるようになり、第1次世界大戦後にロシア革命の影響を受けてモンゴル社会主義革命が起こって、1924年に「モンゴル人民共和国」(ロシアに次ぐ史上2番目の社会主義国)が成立した。しかし南モンゴル(内モンゴル)は中国領にとどまった。モンゴル人民共和国は、1992年に社会主義を放棄し、「モンゴル国」と改称した。現在モンゴル人とされるのは、広い意味でモンゴル語を話す人々とされ、モンゴル国、中国の内蒙古自治区、ロシアなどにひろく居住する。モンゴル語はアルタイ語族に属し、日本語との近親性もある。
Epi. モンゴル人力士の活躍 1992年に入幕した旭鷲山(最高位小結。2006年引退)以来、モンゴル人力士が日本の大相撲で活躍するようになり、ついに朝青龍と白鵬が相次いで横綱に昇格するほど、大相撲を通じて日本とモンゴルの関係は深くなった。モンゴルには古来、モンゴル相撲という日本の相撲に似た格闘技があるからであろうか。何よりも、同じアルタイ語系民族であり、おしりの蒙古斑など、日本人との近親性があることが大きいであろう。もはやモンゴル人力士を外人力士と言うのはやめたほうがいいのではないか。なお、その開拓者であった旭鷲山は帰国後の2008年に国会議員に当選している。
モンゴル高原 西はアルタイ山脈から、東は大興安嶺(シンアンリン)山脈にいたる、広大な草原と砂漠の広がる地帯。モンゴリア。この地には古来遊牧民の諸民族が興亡した。その主なものの順を挙げれば、匈奴→鮮卑→柔然→突厥→ウイグル→キルギス→契丹(遼)→モンゴル、となろう。もっともこの地をモンゴル高原と言うようになるのも、チンギス=ハン以来、モンゴル高原を中心としてモンゴル帝国が繁栄してから以降のことである。
モンゴル文字 モンゴル民族は始め文字を持たなかったが、チンギス=ハンがナイマン王を従えたとき、捕虜とした臣下のウイグル人から、ウイグル文字を学び、モンゴル文字を制定した。フビライ=ハンは1269年に公文書用としてチベット系のパスパ文字(パクパ文字)を制定したが、一般には普及しなかった。20世紀に入り、1921年にモンゴル人民共和国が成立(世界で2番目の社会主義国だった)した後、ソ連の影響が強まり1942年にモンゴル文字が廃止され、ロシア語のキリル文字が使われることとなった。しかし、1992年に国号をモンゴル国と改め、モンゴル文字が復活しつつある。モンゴル文字は縦書きが特徴。 
a テムジン チンギス=ハンの幼名。漢字では鉄木真。
b クリルタイ モンゴルの部族長会議で大集会の意味。君主(ハン)の推戴の他、国(ウルス)の重要事項を裁決した。
c ハン ハーン、カン、カーン、カアンまたはハガン、カガンとも表記する。漢字では汗の字をあてる。古くから北方遊牧民社会では、君主を意味する言葉として用いられており、鮮卑に始まり、柔然で「可汗」が使われ、突厥、ウイグルでも継承された。モンゴルでもカン、ハンが使われたがその意味については諸説ある。いずれにせよ、君主(帝国の場合は皇帝)の意味と考えてよい。モンゴル帝国のハンは、前代のハンが次のハンを指名するのではなく、チンギス=ハンの血統を受け継ぐものの中から、一族の有力者の会議であるクリルタイの合議で選出された。その伝統はモンゴル帝国の他のウルスでも継承された。
ハンの表記について 原音のカタカナ表記を正確にするのは難しい。日本のカタカナでは十分に表記しきれない場合がが多い。ことに「ハン」についてはさまざまな表記がされている。モンゴル時代は「カン」に近い発音であったらしく、また唯一人のモンゴル皇帝は「カアン」(カガン、カハンはこの系統)、その他の君主・王侯は「カン」と二段階の識別が厳重だった。したがって一般に「ハーン」に統一するのは歴史事実として誤っている。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 下 あとがき p.249>
d チンギス=ハン チンギス=ハン(幼名テムジン)は1162年、モンゴル部族のボルジギン氏の首長エスガイ(イェスゲイ)を父、ホエルンを母として生まれた。モンゴルの伝承に拠れば、その先祖は「蒼い狼」を父に、「白い牝鹿」を母に生まれたという(『元朝秘史』)。若くして父を失い、母に育てられる。タタール、ケレイトなどのモンゴル系の部族を次々に制圧し、1204年にはナイマン王国を討ってモンゴル高原を統一し、西域のウイグルを服属させた。1206年に全モンゴルの君主として、クリルタイ(大集会)でハンに推戴されチンギス=ハンと呼ばれる。漢字では成吉思汗と書く。元では太祖という称号を贈られる。千戸制という強力な軍事・行政組織を作り上げ、「ヤサ」といわれる法令を制定して広大な国土を支配した。その子と孫の世代までに、モンゴル帝国は東は中国から、西は現在のロシア、イランにいたる大帝国を建設した。
チンギス=ハンの征服活動 
・対金戦争 1211年から東南のへの遠征を開始、1214年にはその都中都(燕京。現在の北京)を占領。燕雲十六州を支配した。金は黄河を越えて南の開封に逃れた(第1次対金戦争)。
・西方遠征 1219〜1225年 チンギス=ハンは西に転じ、トルキスタンに逃れていたナイマン王(西遼の王位を奪っていた)を滅ぼした。西遼に服属していた西ウイグル王国もモンゴル支配下に入り、ウイグル人はモンゴル帝国を支える官僚層となった。さらに西進したチンギス=ハンはマー=ワラー=アンナフルに入ってサマルカンドブハラなどを破壊し、当時中央アジアの強国であったホラズムを征服、イランにも侵攻した。またその部下の一隊はカフカス山脈を越えて南ロシアに侵入した。
・西夏遠征 チンギス=ハンは1227年にモンゴル高原の南に位置する黄河上流オルドス地方の西夏に遠征した。口実は西夏が西征軍への参加を拒んだことにあった。モンゴル軍は大軍で都の興慶を囲んだ。しかし陥落前にチンギス=ハンはさらに南方の六盤山に移り、そこで死んだ(下記参照)。
Epi. チンギス=ハンの死 1226年秋からの西夏への再出兵で、首都寧夏に迫り、平凉付近に本陣を布いた。1227年夏、西夏国王が和を乞うてきたとき、チンギス=ハンは甘粛省六盤山中の清水県で狩猟中に落馬した傷が悪化して、8月18日、 死んだ。その死は秘密にされ、遺命により西夏国王とその一族、および寧夏城の住民はことごとく殺戮された。チンギス=ハンの遺骸は喪を秘してモンゴリアに移されたが、棺を守る兵は途中で遭遇した者を、すべて殺しながら進んだ。その理由は訃報を秘匿するためと、ハンの死後の生活に仕えさせるという迷信があったにちがいない。はじめて喪が公表されたのは遺骸がケルレン河の源に近い本営に到着した後である。遺骸は諸后妃のテントに順次安置され、一族諸將到着を待って、オノン・ケルレン・トラ三河の源ブルハン山中の一峰に埋葬された。林の民ウリャ ンハイ族の千戸がその地の守護を命じられ、外部の者は近づくことを許されなかった。チンギス=ハンとその後継者の墓の所在は今に至るまで、一つも発見されていない。モンゴル人などの北方遊牧民は墓を地下深く匿す習慣を持っていた。<岩村忍『元朝秘史』中公新書 P.187-9>
e モンゴル帝国 モンゴル高原東部の遊牧部族であったモンゴル部にあらわれたチンギス=ハンが、1206年に建設した大帝国。チンギス=ハンの時にモンゴル高原から中国北部、中央アジア、西トルキスタンにおよぶ大帝国を建設した。その形態は、チンギスの一族が支配する遊牧民や都市民、農民を含む国家としてのウルスが複合した、連合体であった。後にはその支配領域を中国全土、西アジア、ロシアにも広げ、さらに周辺諸民族も服属させ、大ハンの元を中心とするハン国(ウルス)に分かれて広大な帝国領を支配した。ハンの位は、チンギス=ハンの血統をひくものの中から、一族の有力者会議であるクリルタイによって選出された。
領土の拡大 第2代のオゴタイ=ハンは中国のを滅ぼし、都をカラコルムに定め、バトゥをヨーロッパ遠征に派遣しロシアの地まで支配を拡大した。第4代のモンケ=ハンの時には、チベット、雲南を制圧、フラグを西アジア遠征に派遣してアッバース朝を滅ぼした。こうしてユーラシア大陸の東西に延びる、世界史上最大の領土を持つモンゴル帝国が成立した。
ウルスの分立 第4代モンケ=ハンの死後はハイドゥの乱が起こり、乱後は宗家フビライ=ハンが統治しモンゴルと中国を領土とする元帝国と、イル=ハン国キプチャク=ハン国チャガタイ=ハン国オゴタイ=ハン国の4ハン国(ウルス)とに分かれることとなった。(現在では、オゴタイ=ハンは実体は無かったとして、3ハン国とする説が有力で、山川出版社の『詳説世界史』も06年度改訂版から、「4ハン国」と「オゴタイ=ハン国」の既述が消滅している)。
元帝国 フビライ=ハンは1264年に大都(現在の北京)を都とし、71年に国号をに改めた。1279年に南宋を滅ぼし中国を統一、朝鮮半島の高麗を属国とし、日本遠征(元寇)など周辺諸国にも遠征軍を派遣した。この間、1266年から続いたハイドゥの乱も1305年に鎮圧され、その後は各ハン国も宗家の元に服属し、「タタールの平和」が実現し、2代目の大ハン成宗の時に元は全盛期となった。しかし、西方のハン国は次第に独自性を強め、イル=ハン国やキプチャク=ハン国はイスラーム化した。
ユーラシアの東西交渉 広大なモンゴル帝国は、首都カラコルムを中心に駅伝制度(站赤、ジャムチ)が整備され、ウイグル人、トルコ人、イスラーム教徒などの商業活動が広く展開された。ヨーロッパは十字軍の展開されていた時代の後半にあたり、ポーランド・ドイツへのモンゴルの侵入は大きな脅威となったが、西アジア方面ではイスラーム勢力と対抗上、モンゴル帝国とも結ぶ動きもあった。そのような中から、13世紀の後半にはローマ教皇インノケンティウス4世によるカルピニ、フランス王ルイ9世によるルブルックらのモンゴルへの使節を派遣となり、またイタリアの商人マルコ=ポーロは元の大都に赴き、フビライ=ハンに仕えるなど、東西交渉が活発になった。
モンゴル帝国の滅亡 14世紀には、元ではハンの地位をめぐる内紛が続いて安定せず、またチベット仏教保護による財政難、交鈔の濫発による経済の混乱などのために社会の不安定が続き、漢民族のモンゴル人支配に対する反発が強まった。1351年に白蓮教徒という民間宗教の団体の反乱から始まった紅巾の乱が拡大し、1368年に南京に明朝が成立すると元は大都を放棄し、元は滅亡した。また、キプチャク=ハン国ではモスクワ大公国が自立し、チャガタイ=ハン国ではティムールが台頭するなど、モンゴル帝国のユーラシア支配は終わりを告げた。しかし、中央アジアのティムール帝国やインドを支配したムガル帝国はいずれもチンギス=ハンの後継者をもって自認し、モンゴル帝国を継承したことを権威の拠り所としている。
f 千戸制 1206年、チンギス=ハンがモンゴル帝国の軍事兼行政組織として編成したもの。それまでの血縁的な部族制を再編成したもので、十戸を10集めて百戸、百戸を10集めて千戸とし、それぞれに十戸長、百戸長、千戸長を置いた。千戸長には有力部族の族長が任命され、それぞれ百戸、十戸から徴兵し、遠征部隊を編成するとともに、平時の行政にもあたらせた。チンギス=ハンは自らも95の千戸を所有し、兄弟や子供たちにもそれぞれ千戸と領地を与えた。
g ウルス チンギス=ハンが建設した国家は、「ウルス」と言われた。モンゴル語で「国家」や「政治集団」を意味し、トルコ語の地域や都市を意味するウルシュからきた言葉と考えられている。モンゴル帝国は当時は「大モンゴル=ウルス」と言われていたが、やがて領土が子や孫に分与されると、それぞれが「ウルス」として分離し、モンゴル帝国はウルスの連合体という形態となった。
チンギス=ハンの国家 チンギス=ハンは、三人の息子、ジョチ・チャガタイ・オゴデイにそれぞれ4つの千戸を分与して王国の西方(アルタイ山脈方面)に配置して諸子ウルスとし、右翼には三人の実弟の系統にそれぞれ1、3、8個の千戸を与えて王国の東方(興安嶺方面)に配置して諸弟ウルスとした。この東西には位置した一族王家の中央に、チンギス自身と末子トゥルイに直属する千戸群が、やはり東西に分属していた。チンギス自身はケシクという近衛軍団をつくり4ヶ所に分置したオルドと呼ばれる天幕群からなる遊牧宮廷を守らせた。つまり、チンギスの新王国は、中央にチンギスとその天幕群(オルド)とそれを守る近衛軍団(ケシク)を置き、左右に直属の千戸群から構成され、その外側に同様な構成をもつ左右三個ずつの一族王族が配置された。これが後のモンゴル=ウルスのすべての原型である。
モンゴルは民族名ではく国名であること チンギス=ハンの国家の名は、「イエケ・モンゴル・ウルス」、つまり「大モンゴル国」である。この新国家に参加したすべての構成員たちは、たとえ出身・言語・容貌が違っても、みな”モンゴル”となった。この時モンゴルとは、まだ民族の名ではなく、あくまで国家の名称に過ぎない。一枚岩の”民族集団”とするのは誤解である。大モンゴル国家は、多種族混合のハイブリット集団であり、いくつかの一族ウルスを抱える多重構造の連合体として出発したのであった。」<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 上 p.42-45>
 ヤサチンギス=ハンが制定したとされる法令。一般的には1206年にクリルタイでハンの位についたときに、チンギス=ハンが「大ヤサ」を制定し、その後補足されながら、モンゴル帝国の法源とされたと言われている。しかし、「大ヤサ」の原文は残っておらず、チンギス=ハンの時に制定されたことには否定的な見解もある。ただ「ヤサ」の制定は『元朝秘史』や『集史』で取り上げられているが、実際にはチンギスハン以前からのモンゴルの慣習法や、チンギス=ハンの言行、クリルタイでの決定事項の記録などが文字化され、そのもとは「大ヤサ」であったと考えられるようになったものであろう。<D.モーガン『モンゴル帝国の歴史』1986 角川選書 杉山正明・大島淳子訳 p.91-95>
モンゴルには成文法は無く、チンギス=ハンが定めた「ヤサ」(またはヤサクはトルコ語。モンゴル語では「ジャサ」またはジャサク)は口伝で伝習された、おそらく現実には軍律であった。ウイグル人などの「トレ」という慣習法の影響もあったらしい。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 下 p.194>
ナイマン モンゴル高原の西南部をおさえていた遊牧国家。モンゴル部と同系統のナイマン部という部族であったが、トルコ系との混血がすすんでいたらしい。ネストリウス派キリスト教を受け入れていた。1204年、モンゴル高原の東部に興ったモンゴル部のチンギス=ハンの攻撃を受け、その王タヤン=ハンは殺される。こうしてモンゴル高原の東西を抑えたチンギス=ハンがモンゴル帝国の成立となった。タヤン=ハンの子のクチュルクは、中央アジアのトルキスタンに逃れ、1211年カラ=キタイ(西遼)の王位を奪ったが、1218年、チンギス=ハンに派遣されたモンゴル軍に敗れ殺されたため、ナイマン王国は滅亡した。なお、ナイマン王国が滅びた、書記官として仕え王の印章を管理していたウイグル人のタタトンガが捕らえられ、彼からウイグル文字がモンゴルに伝えられ、チンギス=ハン自身もそれを学び、モンゴル文字を制定し、文書の制度を整備して国家らしい体制を整えたという。
g ホラズム 12世紀末に西トルキスタンのアム川下流域に勃興して大国となったが、モンゴルによって滅ぼされたトルコ系のイスラーム教国。ホラズムというのは中央アジアのアラル海にそそぐアム川の下流域地方を示す地名。アラビア語ではフワーリズム(川の向こうの地という意味のマー=アワー=アンナフルともいう)。8世紀以降イスラーム化し、1077年、セルジューク朝のトルコ人マムルーク(トルコ人奴隷)、アヌシュ=テギンがこの地の総督に任命され、ホラズム=シャーを称する。その後セルジューク朝から独立し、ホラズム地方のウルゲンチを本拠に、13世紀に急速に台頭、7代目のアラー=アッディーン=ムハンマド(在位1200〜1220)の時に最盛期となり、1209年にカラ=キタイ(西遼)からサマルカンド、ブハラなどを奪い、さらにゴール朝からアフガニスタンを奪取し、イランにも進出して中央アジアから西アジアに及ぶ強国を建設した。このころは40万の軍勢を動員することの出来、13世紀初頭の東方イスラーム世界の最強国であった。しかし、同じころ東方のモンゴル高原ではモンゴルチンギス=ハンが台頭してきた。チンギス=ハンはホラズムとの交易を開くため隊商を派遣したところ、アラー=アッディーン=ムハンマドがそれを拒否し、隊商を殺害した。それに対する報復として、1219年からチンギス=ハン自らホラズムに大遠征を行い、その攻撃は1225年までの7年間続いた。ホラズムは内部分裂もあって敗れ、マー=アワー=アンナフルを失った。その後、王子ジャラール=ウッディーンが王朝再建を企てチンギス=ハンに抵抗したが、1231年に滅亡した。ホラズム地方は大半がイル=ハン国、北部をチャガタイ=ハン国が支配することとなった。さらにティムール帝国の支配を受けた後、ウズベク人の三ハン国のひとつ、ヒヴァ=ハン国が1512年に成立する。
h 西夏  → 第3章 3節 イ.北方の諸勢力 西夏
B 西方(ヨーロッパ)遠征 1235年、第2代ハンのオゴタイ=ハンは西方への大遠征を決定、バトゥ(チンギス=ハンの長子ジュチの子)を指揮官として遠征軍を派遣した。これはチンギス=ハンが長男ジュチに帝国の西部に隣接する地域の支配権を与えていたが、ジュチが死んだため、その子バトゥの任務とされたものである。
バトゥは西進してまず1236年に現在のカザフスタンの大草原地帯に入り、ヴォルガ川中流のトルコ系のブルガール人の国家を征服し、その周辺の広大な草原で活動していたトルコ系遊牧民であるキプチャク人を従え、彼らを騎馬軍団に組み入れた。これ以後、トルコ系騎馬民族はモンゴル軍の重要な戦力となる。1237〜40年の間にキエフを略奪するなどしてロシア(キエフ公国)を制圧、さらに二隊に分かれ、南に回ったバトゥの本隊はハンガリーに侵攻、1241年ハンガリー王国のベーラ4世の軍を撃破し首都ブダ=ペストを破壊した。北に向かった一隊はポーランドに侵攻し、同じく1241年、シレジアのリーグニッツの近郊のワールシュタットの戦いでポーランドとドイツの連合軍を破った。1242年、モンゴル軍はウィーン近くに迫ったが、急遽撤退した。前年にオゴタイ=ハンが死去したこと、ヨーロッパの森林地帯はモンゴルにとって価値がないと考えられこと、などが理由としてあげられている。
モンゴルの西征の影響 モンゴル軍の侵入はキリスト教世界に大きな脅威となり、ローマ末期のフン人のアッティラ大王の侵入を思い出させた。一方で十字軍時代の終わりあっており、聖地回復が実現できず、イスラーム勢力に押されていたキリスト教世界では、モンゴル軍の到来をプレスター=ジョンの伝説に結びつけて期待する動きもあったが、その期待は裏切られた。ヨーロッパにとってはモンゴルの侵攻は結局、一過性のものに終わったが、モンゴル軍の侵入におびえた当時のヨーロッパは、ローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝(フリードリヒ2世)が激しく対立していた。ポーランドはドイツ人の東方植民が展開されており、統一国家の形成は遅れていた。モンゴルの脅威にさらされたハンガリー王は、教皇に全キリスト教世界からの応援を要請したが、教皇派それに応えられなかった。1242年にその危機が去った後、ローマ教皇(インノケンティウス4世)は使節プラノ=カルピニを派遣した。また、最後の十字軍を派遣したフランス王ルイ9世の時にもルブルックがカラコルムに赴いている。
Epi. モンゴル遠征軍の少年部隊 「モンゴル遠征軍の主力は、少年部隊であった。モンゴル高原を出発する時は、10代の、それも前半の少年であることが多かった。彼らは長い遠征の過程で、さまざまな体験をし、実地の訓練を通して、次第にすぐれた大人の戦士になっていった。モンゴル遠征軍の各部隊の指揮官は、手練れの古強者があてられたが、兵員そのものは年若く敏捷な者たちから成っていたので、軍事行動も迅速であった。素直で、指揮官の言うことをよく聞いた。たいていまだ妻子もいず、身軽な分だけ遠征先にも馴染みやすかった。壮年兵や老年兵よりも、困苦欠乏にもよく耐え、ひたすら戦闘の勝利へ邁進した。こうした少年兵にとって、遠征の出発は人生への旅立ちでもあった。・・・・彼らは遠征先で、そのまま落ち着いてしまうことも、しばしばであった。その場合、今やすっかり大人となったかつての少年兵や、さらにその孫たちも、やはり「モンゴル」であることには変わりがなかった。はるかなるモンゴル本土の高原には、兄弟姉妹、一族親類がいた。帰るべき心のふるさとは、みなモンゴル高原であった。そして、帝国の拡大に伴って諸方に散った「モンゴル」たちを、見えない糸でしっかりと結びつけているものは、高原に変わることなく続いている”モンゴル・ウルス”であった。」<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 p.78-79>
a オゴタイ=ハン チンギス=ハンの第3子。オゴデイとも表記。1229年クリルタイで推されてモンゴル帝国の第2代のハンとなる(廟号は太宗。在位1241年まで)。まず、中国の金を滅ぼし(1234年)、モンゴル高原に新都カラコルムを建設、駅伝制(ジャムチ)の整備、戸口調査などを行い、モンゴル帝国の基礎を築いた。チンギス=ハンに続き、契丹人の耶律楚材を官僚として重用した。1235以降、バトゥを西方に派遣し、ロシアを制圧し、東ヨーロッパに侵入させた。1241年に病死し、第3代ハン位は長子グユクに継承されるが、グユクが急死した後、チンギス=ハンの末子トゥルイの子のモンケが、クーデターによってオゴタイ家とチャガタイ家の勢力を一掃し、第4代ハンとなった。
Epi. チンギス=ハンの子どもたちの内紛 チンギス=ハンには4人の息子がいた。長男ジュチ(ジョチとも表記)は金や西方遠征でも働きは抜群で優秀であったが、実はチンギス=ハンの実子ではない、という噂があり、ハンにはなれないだろうと言われていた。1227年に中央アジア遠征中に死んでいた。次男のチャガタイは気性が激しく、人望がなかった。三男がオゴタイ(オゴデイ)であるが、おとなしく特に取り柄のない人物と思われていた。4男のトゥルイは末っ子で父に最もかわいがられており、また優秀な実力者と思われていた。モンゴルには特に決まった相続法はなく、家督は実力主義、家産は末子が有利という傾向があったので、トゥルイが選出されることが予想されていたが、結果はオゴタイになった。モンゴル帝国の正史ではクリルタイの全会一致といい、トゥルイが継承する予定の家産をオゴタイに譲ったという、「麗しい国譲り」とされているが、実際はチャガタイがトゥルイに即位させないため、オゴタイを推した結果だろうという。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 講談社現代新書 p.27-58 などによる>
b 金 の滅亡女真が中国北部を支配した国家であるに対するモンゴル帝国の攻勢はチンギス=ハンの1211年に始まり、1次と2次にわたる戦争の結果、最終的にはオゴタイ=ハンの派遣したモンゴル軍の攻撃によって、1234年には滅亡する。
第1次対金戦争 モンゴル軍の金への侵攻は、チンギス=ハンの時の1211年に始まる。このときの攻撃で首都の中都(燕京、現在の北京)の北方の守りである居庸関を破られ、以後毎年のようにモンゴル軍の侵攻を受ける。1214年、金は首都を維持できなくなり、南の京(開封)に遷都(貞祐の南遷)しなければならなかった。こうしてモンゴル帝国は現在の北京を中心とする燕雲十六州を支配下に治めた。
第2次対金戦争 チンギス=ハンはその後征服の目標を西のホラズムに向けたので、モンゴルの侵攻は一時収まったが、第2代オゴタイ=ハン(太宗)となって南進を再開した。1230年にモンゴル軍は作戦を開始、黄河を渡り開封に迫った。モンゴル軍と金軍の雌雄を決する戦いは1232年陰暦正月、開封の西南の三峯山の戦いだった。守る金軍は完顔哈達(ワンヤンハダ)率いる15万、それに対して攻めるトゥルイの率いるモンゴル軍は4万、あるいは1万3千であった。
「寡勢のモンゴル軍は、なんと馬を降りた。塹壕を掘って、馬と我が身を隠した。あとがない金軍は、攻めに攻めた。しかし、飢えと寒さで、体力はたちまち尽きた。モンゴル軍は反攻に転じた。・・・金軍主力は全滅した。」金の食糧不足は、「人口圧」によるものだった。モンゴルの侵攻を恐れた華北の農民が開封に押し寄せ、食糧不足から社会不安が生じていたのである。「開封城内では疫病が発生し、90万以上の棺桶が出たと記録されている。木材の乏しい華北では棺桶は高価だったから、実際に死者は、遙かに多いと言われている。」<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 講談社現代新書 p.61>
1232年京(開封)は陥落、金王朝は帰徳さらに蔡州に逃れたが、哀宗は1234年に自決し、金王朝は滅亡した。中国南部を支配していた南宋は、モンゴル軍の南下に呼応して金の領土に侵入したが、モンゴルと南宋の協定は成立せず、金滅亡後は両国が境界線の淮水付近で衝突を繰り返すこととなった。
Epi. 対金戦争の英雄、トゥルイの不可解な死 新帝オゴタイはほとんど実戦することなく、英雄は三峯山の戦いを勝利に導いたトゥルイ(チンギス=ハンの末子)だった。ところがトゥルイは兄オゴタイと一緒に北に帰る途中急死した。「病を得た兄オゴデイの身代わりになると言って、酒杯を飲み干し、意識が混濁してみまかったという。奇妙な美談である。」モンゴルの正史である『集史』はイル=ハン国で作られた。イル=ハン国をつくったフラグはトゥルイの子であったので、『集史』ではオゴタイとトゥルイの間に確執があったとは書きたくなかったのであろう。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 講談社現代新書 p.63>
c カラコルム 1235年、モンゴル帝国の第2代オゴタイ=ハンが建設した都城。カラ・コルムとは「黒い砂礫」の意味。チンギス=ハンのころは定まった都を持たず、天幕で移動していたので、これがモンゴル帝国最初の都である。モンゴル高原の中の地味の豊かな草原地帯につくられた都で、ここを中心に、モンゴル帝国領内に道路網が建設され、街道には駅伝(ジャムチ)が設けられた。カラコルムにはグユク、モンケまでのハンが住み、モンゴル人、中国人、イスラーム教徒の他、ヨーロッパ人も住んでいたという。またヨーロッパのローマ教皇から派遣されたプラノ=カルピニ、フランス王の派遣したルブルックなどや来訪している。フビライ=ハンが大都に遷都してからも存続したが、モンゴル帝国滅亡後は荒廃し、消滅した。1889年以来、遺跡が発掘調査されている。 
耶律楚材やりつそざい。モンゴル帝国チンギス=ハンオゴタイ=ハンに仕えた官僚。契丹人で、はじめに仕えていたが、1214年モンゴルの攻撃で金の中都が陥落した際、チンギス=ハンに召し出され仕えることとなった。チンギス=ハンの西方遠征に同行、その記録『西遊録』を著した。ついでオゴタイ=ハンに仕え、それまで体系的な税制のなかったモンゴル帝国に中国式の税制を導入し、その中国統治に大きな役割を果たした。オゴタイ=ハンの死後は不遇であったらしい。
d バトゥ モンゴル帝国のチンギス=ハンの長子ジュチの子。オゴタイ=ハンのとき、キプチャク平原から、ロシア、東ヨーロッパに至る大遠征を行った。チンギス=ハンは長子ジュチにイルティシュ河畔を本拠としたウルス(国家)を与え、その西北の広大な草原に領土を拡大する予定であったが、途中でジュチが死んだため、そのやり残した事業を子のバトゥがひきつぐこととなった。同じ時期に、オゴタイ=ハンの子のクチュが南宋遠征を行っており、モンゴル帝国は東西で並行して領土拡大の大遠征軍を派遣していた。
バトゥの遠征 1235年に準備を始め、36年に遠征を開始、ウラル山脈を越えて、まずヴォルガ川中流のトルコ系のブルガール人の国家を征服した。その周辺のキプチャク平原で遊牧活動をしていたトルコ系のキプチャク人を吸収し、15万の大軍を編成し、1237年ロシア中心部に侵入、リャザン、モスクワ、ウラジーミルを次々と陥落させ、1240年キエフを征服しキエフ公国を滅ぼした。さらに遠征軍を二隊に分け、バトゥの本隊はハンガリーに侵攻、1241年ハンガリー王国のベーラ4世の軍を撃破し首都ブダ=ペストを破壊した。北に向かった一隊はポーランドに侵攻し、同年、ワールシュタットの戦いでポーランド・ドイツ連合軍を破った。1242年、バトゥ軍はウィーン近くに迫ったが、オゴタイ=ハンの死去の報により、大ハーン選出のクリルタイ出席のため遠征を中止し、東に向かった。しかし、カラコルムには戻らず、ヴォルガ下流のサライをキプチャク=ハン国(ジュチ=ウルス)の都とした。第3代グユク=ハンと対立、その暗殺にかかわったとも言われる。第4代モンケ=ハンの選出には協力した。
e ワールシュタットの戦い ポーランドに侵入したバトゥの率いるモンゴル帝国軍が、1241年にポーランド・ドイツ連合軍と衝突した最大の決戦。ワールシュタットはポーランド西部のリーグニッツ草原にあり、この戦闘はリーグニッツの戦いともいう。双方の軍隊はそれぞれ3万と言われる。モンゴル軍はバトゥの部将バイダルとカダアンが指揮、ポーランド・ドイツ連合軍はシュレージェン(シレジア)公ハインリッヒ(ヘンリック)2世が率いた。モンゴル軍は軽装の騎兵を中心とした集団戦法を取り、重装備の騎士の一騎打ち戦術をとるポーランドとドイツの連合軍を翻弄し、ハインリッヒ2世も戦死して、モンゴル軍の大勝となった。モンゴル軍は討ち取った敵兵の耳を切り取り集めたのが大きな袋9袋になったという。
Epi.  ワールシュタットの戦いの疑問 「世界史上よく知られたこの会戦も、実は本当にあったかどうか、定かではない。同時代文献にはまったく見えず、15世紀の文献で突然に大きく語られるからである。少なくとも、ポーランド諸公も、また当時はせいぜい200から300程度の動員力しかなかったといわれるドイツ騎士団も、この「会戦」を境に、大きくその顔触れが変わるなどということはない。客観情勢は、この「会戦」がたとえあったとしても、ささやかなものであったことを示している。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 講談社現代新書 p.84>
C 南・西アジアの征服 モンゴル帝国は、モンケ=ハンの命令で弟のフラグが、1253年から西アジア遠征を開始した。すでにイラン方面は、チンギス=ハンの遠征によってモンゴルの勢力下に入っており、オゴタイ時代にはイラン総督府が置かれ、ホラーサーンやカスピ海南岸を抑え、アゼルバイジャンからカフカス地方、アナトリアにもモンゴル軍駐屯部隊が活動していた。さらにモンケ=ハンはアフガニスタンからインド方面への進出も構想していたようである。
フラグの遠征の目的 当時、アム川以南の西アジアででモンゴル帝国に服従していなかったのが、北部イランの山岳地帯に拠っていたシーア派イスマイール派の暗殺教団の勢力と、バグダードのスンナ派のアッバース朝残存勢力であった。その先の地中海方面まで進出することを当初から考えていたかどうかはよくわからない。イル=ハン国で書かれたモンゴル帝国の正史『集史』では、フラグはモンケ=ハンからこの地にウルスを建設することを認められていた、と述べている。
フラグの勝利と敗北 まず1256年には北部イランの暗殺教団を制圧、さらに南下してイラクに入り、1258年にバクダードを占領し、アッバース朝を滅ぼした。こうしてイラン高原からメソポタミアを制圧し、敵対する勢力はエジプトのマムルーク朝の勢力の及ぶシリアだけとなった。しかし、1259年にモンケ=ハンが急死したため、フラグはモンゴル帰還をめざして北方に撤退し、シリア計略を部将キトブカにまかせた。キトブカは十字軍とも協力して1260年、ダマスクスを占領、。さらにエジプトのマムルーク朝遠征に向かったが、同年アインジャールートの戦いで、クトゥズとバイバルスの率いるマムルーク朝軍に敗れ後退した。 → イル=ハン国
Epi. モンゴル=十字軍共同作戦 「(フランス王)聖ルイが遠くアジアに謎のキリスト教君主の存在を求めて1253年にカラコルムに派遣したフランシスコ会士ルプルクは無事任務を果たして二年後に帰国したが、その直接の効果ではないにしでも1260年モンゴル=十字軍共同作戦がダマスクス占領の形をとっで実現したことは、ルイ九世の戦略眼を評価する一資料といえよう。モンゴル族の西征に一翼をになったフラグ・ハンは1258年バグダードを陥れて、五○○余年の伝統をもつアッバース朝を滅した後、北シリアに進出してアレッポを占領し、そこで十字軍と初めて接蝕した。1260年3月のダマスクス攻略戦には、フラグの部将で景教徒(ネストリウス派)のキトボガ(キチブハ、キドブカ、キドブハとも)、単性派キリスト教徒のアルメニア王へトウム一世と、アンチオキア侯ボヘモンド五世が同盟して勝利をあげ、宗派こそ違うが三人のキリスト教君主が肩をならべて凱旋したという〔J.R.ストレーヤー〕。このような局地的友好関係がどれほどの必然性をもって継続するか疑問であったが、翌年モンゴル軍は憲宗モンケ・ハンの訃報に接して兵をひいたので、十字軍との交流も杜絶した。」<橋口倫介『十字軍』岩波新書 P.199>
a モンケ=ハン モンゴル帝国第4代ハン。廟号は憲宗(在位1251〜59年)。チンギス=ハンの末子トゥルイの子。オゴタイ=ハンの時、バトゥの西征に加わる。第3代グユク=ハンが死んだとき、バトゥの支持を受けてハンに即位し、オゴタイ=ハンとチャガタイ=ハンの子たちを処刑、追放に処し、権力を握った。弟フビライをチベットから雲南地方、ベトナムに進撃させて南宋の南方を抑え、さらに弟フラグを西アジアに派遣して、イランを制圧させ、バクダードを陥落させた。最後に自ら南宋遠征軍を指揮して南下したが、1259年、四川で病没した。
Epi. モンケ=ハンの人物像 モンケは、即位したとき44歳。「彼は、数カ国語を自在に話し、ユークリッド幾何学をはじめ東西の学術・文化に通じていた。東では父トゥルイの三峯山の決戦にも従軍し、西ではカフカズにも分け入った。識見・能力にあふれ、実力・実績・名望・血筋のどれをとっても文句のないプリンス中のプリンスであった。人類史上でも、彼ほど生まれながらに期待され、帝王となるべく宿命づけられ、しかも現実にユーラシアの東西にまたがる実地体験を踏まえた正真正銘の実力を、個人としても権力者としても、どちらも具えている人物はほとんど見あたらない。・・・・モンケは、無条件に有能であった。むしろ、人の上に立つには、すべてにわたって彼個人が有能すぎることが、彼の悲劇の遠因となった。・・・モンケは、おそるべき専制君主であることを、即位の初めから見せつけた。彼の狙いは、チンギス他界以後のもつれた糸を断ち切り、ゆるみきった帝国の統制を回復することであった。しかし、あまりにも果断、極端すぎた。帝国の不安定要素は、かえって増幅されたまま、強権者モンケのもとで潜在化した。」<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 講談社現代新書 p.98-100>
b 大理国  → 第3章 3節 大理
c フラグ モンゴル帝国のチンギス=ハンの末子トゥルイの子で、モンケ=ハンの弟。フレグとも表記。1253年から、モンケ=ハンの命令で西アジア遠征に出発。1256年に北部イランの山岳地帯に勢力を張っていたシーア派イスマイール派の暗殺教団の本拠を攻略して滅ぼした。ついで南下してメソポタミアに入り、1258年にバクダードを陥落させ、最後のカリフ・ムスタースィムを殺し、アッバース朝を滅ぼした。しかし翌年、モンケ=ハンの死により、西アジアのシリア・エジプト攻略は部下のキトブカに任せ、カラコルム帰還をめざしたが、フビライの即位の知らせを受け、1260年に自らはイランの西方のタブリーズを拠点にイル=ハン国フラグ=ウルス)を建国し、イランの統治にあたることとした。フラグの部下のキトブカはシリア攻略を命じられたが、1260年にマムルーク朝バイバルスとのアインジャールートの戦いで敗れ、シリアからエジプトへの進出はできなかった。フラグはフビライ=ハンを支持したので、フビライと対立していたチャガタイ=ハン国と対立することとなり、さらにイラン北方の肥沃なアゼルバイジャン地方をめぐって同じモンゴル帝国の分国であるキプチャク=ハン国と対立することとなった。1265年、キプチャク=ハン国との戦闘のさなかに急死した。
d バグダード  → 第5章 2節 ア.東方イスラーム世界 アッバース朝の滅亡
D モンゴル帝国の分裂 モンゴル帝国の統治者大ハンの地位は、チンギス=ハンの血を引く一族の優れた者が、クリルタイの全員一致の推戴によって就任することとなっていた。しかしその地位をめぐって、チンギス=ハンの4人の息子(ジュチ、チャガタイ、オゴタイ、トゥルイ)の間でまず争いが起こり、第2代にはオゴタイが選出されたが、その後も内紛が絶えなかった。第3代はオゴタイの子グュクが継いだがすぐに死去(毒殺の疑いもある)、第4代にはトゥルイの子モンケがなった。このとき、オゴタイとチャガタイの一族は中央から排除され、それぞれ独自のハン国を形成した(しかし定着しなかった)。またジュチ(チンギス=ハンの実子ではないといううわさもあった)一族も中央から遠ざけられ、西方にキプチャク=ハン国をつくった。モンケ=ハンの弟フラグは西アジアに遠征、中央で第5代に兄のフビライ=ハンが就任すると、そのままイル=ハン国をつくってとどまった。本家フビライ=ハンは拠点を中国支配に移し、元帝国をつくった。こうしてモンゴル帝国は元とハン国(ウルス)に分かれることとなり、次第に独自性を強め、互いに争うようにもなる。フビライ=ハンに対しては、オゴタイ家のハイドゥのように反発する勢力も多かったが、フビライ=ハンの死後、1300〜05年のハイドゥの乱が鎮圧されてからはモンゴルと中国を支配する本kで大ハンの元と、中央アジアのチャガタイ=ハン国、西アジアのイル=ハン国、カザフ草原からロシアにかけてのキプチャク=ハン国という3ハン国が分立し共存するという秩序が成立し、14世紀前半まではタタールの平和(パクス・モンゴリカ)といわれるユーラシアの安定がもたらされた。
存在の疑わしいハン国 モンゴル帝国を構成するハン国は、従来、オゴタイ=ハン国、チャガタイ=ハン国、キプチャク=ハン国、イル=ハン国を並べて「4ハン国」と言っていたが、最近の研究では、オゴタイ=ハン国はすぐに滅びて実体がなかったとして、加えなくなっている。また、ハン国は固定的なのもではなく、実際のウルスは常に変動した。一貫してウルスとして定着したのは、大元ウルスと西のジュチ=ウルス(キプチャク=ハン国)、フラグ=ウルス(イル=ハン国)だけである。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 下 講談社現代新書 p.67>
a イル=ハン国 モンゴルのフラグ西アジア遠征によってイランを中心とした西アジアに建国した、モンゴル帝国のハン国の一つ。 都はタブリーズ(イラン西部)。なお、イルとは、トルコ語で人間集団もしくは国を意味するのでイル=ハンとは「部衆の王」ないしは「国王」の意味となる。これはこの国の俗称であり、正しくはフラグの建てたウルスなのでフラグ=ウルスという。、
イル=ハン国の成立年 その成立年は、一般に1258年とされるが、それはモンゴル軍がバグダードを占領してアッバース朝を滅ぼした年である。この段階では本国のモンケ=ハンは健在であるのでフラグが独立国を作ることはなかった。そのモンケ=ハンが急死し、1260年にフビライとアルクブケがともにハン位についた知らせを受け、フラグがカラコルム帰還をあきらめて西アジアにウルス(国家)を建設することを決意したことをもって始まりとするのが正しい。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 講談社現代新書 p.184>
イル=ハン国の興亡 フラグの次はその子アバガが第2代ハンとなり、1270年にチャガタイ=ハン国のバラクがホラーサーン地方に振興したのを撃退して、ウルスとしての地位を確固たるものにした。その後、現在のイランを中心に、イラク、シリアを支配し、エジプトを本拠とするマムルーク朝と対立した。また北方のキプチャク=ハン国とはアゼルバイジャンの豊かな平原やコーカサス地方の領有をめぐって対立した。そのような国際情勢のもとで、アルグン=ハンはラッバン=ソウマというネストリウス派キリスト教徒を、ビザンツ帝国、フランス、イギリス、ローマ教皇のもとに派遣している。その後もイル=ハン国のハンはたびたびローマ教皇やフランス王に使節を送っている。
イスラーム化 イル=ハン国はモンゴル人の支配する地域に、主としてイラン人が居住し、イラン人にとっては異民族支配を受けることとなったが、次第にイラン化が進み、第7代のガザン=ハンの時、1295年、イスラーム教(スンナ派)に改宗した。ガザン=ハンはイラン人宰相ラシード=ウッディーンを登用し、イラン化を進め、イラン=イスラーム文化を開花させることとなった。ガザン=ハンが自らのルーツであるモンゴル帝国の成立の歴史と、イル=ハン国を取り囲む世界の歴史を記述させたのが、ラシード=アッディーンが編纂した『集史』である。
イル=ハン国の滅亡 1335年、第9代のアブー=サイードが宮廷内で皇后に殺害されるという事件が起き、フラグの血統が途絶えた。構内の有力集団はそれぞれ継承権を主張して争い、1353年にはトルコ=モンゴル系やイラン系の地方政権が各地に割拠抗争するようになって事実上国家としての統合は失われた。15世紀にはティムール帝国に吸収されるが、イスラーム化したモンゴル人の一部はイラン高原やアフガニスタンの草原地帯で遊牧生活を続け、現在もアフガニスタンではハザラ人と言われ少数派を形成している。
タブリーズイラン西部の要地で、綿花などの豊かな生産力を持つ地域の中心都市。フラグはモンゴルに戻らず、この地を都としてイランを支配し、イル=ハン国を建てた。1501年、サファヴィー朝が成立、最初にタブリーズを首都とした。サファヴィー朝は後に都をイスファハーンに移した。
b キプチャク=ハン国 モンゴル帝国のハン国の一つ。チンギス=ハンの長子ジュチ(ジョチ)に与えられたアルタイ山脈地帯の領土(ジュチ=ウルス)が始まり。ジュチの子のバトゥのロシア・東欧遠征によってキエフ公国を滅ぼした後、南ロシアから中央アジアに及ぶ広大な領土を支配し、1243年ボルガ川下流のサライを都として成立。キプチャクとはモンゴルの侵入以前からカスピ海北岸から南ロシア、カザフスタンの草原地帯で遊牧生活を送っていたトルコ系の民族名で、モンゴル人がそれに同化したために、一般にこの国をキプチャク=ハン国という。金張汗国とも表記。
ジュチ=ウルスの成立 バトゥの率いるモンゴル軍はオゴタイ=ハンの死去の知らせを受け、1242年に東ヨーロッパから引き揚げた。しかしバトゥはモンゴルに戻らず、ヴォルガ川下流の草原地帯に腰を据えて動かなかった。彼は父ジュチから引き継いだジュチ=ウルスをこの地に維持し、発展させる道を選んだ。東側にジュチの長男オルダが納めるオルダ=ウルス、西側の広大なキプチャク草原にバトゥ自身の治めるバトゥ・ウルス、その中間にはジョチのその他の子に与えるという広大なジュチ=ウルスをつくりあげた。ロシアとカフカズの北嶺一帯は属領とした。
キプチャク=ハン国は俗称。ジュチ=ウルスが正しい 「このジュチ=ウルスはモンゴル国家とはいうものの、その実態はトルコ系のキプチャク族が大半を占めていた。ジュチ=ウルスのモンゴル人は言葉も容貌も急速にトルコ化し、さらにバトゥの弟ベルケの時からイスラーム化が始まった。ジュチ=ウルスを「キプチャク=ハン国と俗称するのは、こうした現実を背景としている。しかし、もともと人種・民族をこえた集団こそ「モンゴル」の本質であった。」ジュチ=ウルスの成立によって、肥沃な草原地帯の牧民世界と痩せた森林地帯の零細農民という二つの世界が統合された。「・・・・その多重構造の連合体の頂点にいたのが、ヴォルガ河畔を南北に「オルド」を季節移動させるバトゥ家の当主であった。その巨大な天幕をロシア語で「ゾロタヤ・オルダ」すなわち「黄金のオルド(天幕)」と言った。黄金色に内装されていたからである。英語でゴールデン・ホルド、日本語で「金帳」という。金帳汗国という通称は、これに因む。」<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 講談社現代新書 p.88-89>
キプチャク=ハン国のロシア支配 広大な南ロシアの草原が領土であり、支配者モンゴル人は少数で、多数の住民はロシア人、トルコ系遊牧民のキプチャク人であった。ロシア人はこのモンゴル人による支配を「タタールのくびき」として嘆いた。しかし、その実態は、ノブゴロド公アレクサンドル=ネフスキーがキプチャク=ハン国に臣従して貢納したところから始まり、キプチャク=ハン国は納税のみを義務としてロシア諸侯の自治を認める間接統治であった。徴税も当初はモンゴル人の徴税官が当たったが、次第にモスクワ公国が代行するようになり、モンゴル人への納税負担に反発した農民はモスクワ公国によって弾圧された。
マムルーク朝との同盟 キプチャク=ハン国は、南方のイル=ハン国とは、アゼルバイジャンとコーカサス地方の領有をめぐって対立した。そのため、イル=ハン国と戦争状態の続いていたエジプト・シリアを支配するマムルーク朝とは友好関係を結び、いわば「イスラーム=キプチャク連合」が成立した。背景には、マムルーク朝のマムルークの多くは、ジェノヴァの商人などの手でエジプトに売られてきたキプチャク草原のトルコ人遊牧民が多かったので、親近感があったのである。また、西方のビザンツ帝国(1261年にラテン帝国からコンスタンティノープルを奪還した)ともイル=ハン国との対抗上、友好関係を保った。
イスラーム化と衰亡 14世紀前半のウズベク=ハンの時に全盛期となるとともに公式にイスラーム化し、都をボルガ上流の新サライに移した。しかし、1359年にバトゥの血統が途絶え、14世紀後半にティムール帝国の進出に対しトクタミシュが抵抗したが、その後国家的統合は失われ、15世紀にはヴォルガ流域にカザン=ハン国アストラハン=ハン国、黒海北岸にクリム=ハン国、西シベリアにシビル=ハン国などの小ハン国が分立した。これらの諸国は君主にはモンゴル系を戴いていたが、実質的にはタタール人などトルコ系民族であり、その他のウズベク人カザフ人も自立した。ロシアは1237年以来、キプチャク=ハン国の支配を受けていたが、1480年にモスクワ大公国イヴァン3世が独立を達成し、いわゆる「タタールのくびき」を終わらせた。
サライ1241年のワールシュタットの勝利の翌年、オゴタイ=ハンの死去により反転したバトゥは、モンゴル高原に戻らず、南ロシアのヴォルガ川下流のサライを新たな都としてキプチャク=ハン国(ジュチ=ウルス)を建国した。ただし、サライは一定の都城ではなく、その実態は移動式の天幕(オルダ)で、季節ごとに一定範囲を移動した。天幕は豪華で、内装が金であったのでキプチャク=ハン国のことを漢文では金帳汗国、ロシア語では「ゾロタヤ=オルダ(金のテント)と称した。その後、バトゥの弟のベルケ=ハンの時に、ヴォルガ上流の新サライに移ったので、それ以前を旧サライともいう。しかし「実はバトゥのサライとベルケのサライは同じ場所で、新サライは(ウズベク=ハンの時)1330年まで建設されなかったようである。新サライの遺跡の発掘は、そこが城壁のない広大なメトロポリスであったことを明らかにした。14世紀末のティムールによる略奪ののち見捨てられた遺跡には、かずかずの繁栄の証拠が埋もれていたのである。」<D.ゴードン『モンゴル帝国の歴史』1986 角川選書 杉山正明・大島淳子訳 p.151>
c チャガタイ=ハン国 モンゴル帝国のハン国の一つ。チンギス=ハンの次子チャガタイがホラズム王国制圧で功績を挙げイリ川流域アルマリクを中心とした中央アジア(西トルキスタン)に領地を与えられたのに始まる。チャガタイ=ウルスともいう。第4代ハンのモンケ=ハンの時、その即位に反対したことから一族の多くは処刑されて、勢力は弱まり、チャガタイ家もその後分裂し、ウルスとしての統一性は無くなる。フビライ=ハンの時、傍系のバラクが一時勢いを盛り返したが、1270年にイル=ハン国のホラーサーン地方を奪おうとして敗れ、その後オゴタイ家出身のハイドゥによって暗殺され、本拠の中央アジアのマー=ワラー=アンナフルはハイドゥによって支配されることとなった。ハイドゥの乱の終結後、1306年にチャガタイ家のドゥアが大都の大ハン(成宗)から単独政権と認められ、これをチャガタイ=ハン国(チャガタイ=ウルス)の成立とする見解もある。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』下 講談社現代新書 p.169>
チャガタイ=ハン国の分裂 14世紀半ばにイスラーム化するとともに東には天山方面、西にはマー=ワラー=アンナフルに独自政権が成立し、東西に分裂した。1346〜63年にはトゥグルク=テムルによって一時的に統合されたが、その死後再び分裂する。西チャガタイはには、モンゴル系のバルラス部からティムールが台頭する。東チャガタイはモグーリスタン王国(モンゴルの地を意味するペルシア語)といわれるようになり、しかし15世紀以降はカザフ人やウズベク人が台頭して衰退した。 
アルマリク中央アジアのチャガタイ=ハン国の都であったが、現在は衰亡した。現在の中国の新疆ウイグル自治区内にあった。
d オゴタイ=ハン国 第2代のハン、オゴタイ=ハンの所領だった中央アジアに存在したとされていたが、最近の研究ではオゴタイの子で第3代ハンのグュクが死んだ後に権力を握った第4代ハンのモンケ=ハンによってオゴタイ家の勢力は一掃されたので、オゴタイ=ハン国も存在しなかったとされている。 → モンゴル帝国
「(モンケ=ハンは)帝位に即くと、反対派を根こそぎ粛清した。オゴデイ、チャガタイ両家のうち、自分の即位に反対し、クリルタイに「不参」したうえ、即位の祝宴を急襲しようとしたと言われる面々は、処刑ないし流罪とした。そのうえ両ウルスについては所領を細分し、特にパミール以西については盟友バトゥと共同統治する形をとった。有力将官だけでも77名という大量粛清は、かつてない凄まじさであった。・・・オゴデイ一門は、甘粛を中心とする東方のコデン・ウルスとエミル−コボクを中心とする西方のその他の諸子領とに、はっきりと分裂した。史上、「オゴデイ・ウルス」もしくは通称「オゴタイ=ハン国」などと言うべき実態は、この後は存在しない。」<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 講談社現代新書 p.99-100>
教科書からオゴタイ=ハン国消える:山川出版社『詳説世界史』06年度改訂版からこの説を取り入れ、モンゴル帝国の系図から「オゴタイ=ハン国」は削除され、「4ハン国」という用語も使わなくなっている。ただし、他の教科書では依然としてオゴタイ=ハン国を加え4ハン国としているものが多い。
エミールエミルとも表記。オゴタイ=ハン国の都であったところで、ハイドゥの乱の拠点となった。現在、中国の新疆ウイグル自治区内にあった。
e フビライ チンギス=ハンの子トゥルイの第2子。クビライとも表記する。漢字では忽必烈。兄モンケ=ハンのもとで、チベットや雲南(大理)に遠征、南宋の背後を抑えて、南宋征服に備えていたが、1260年にモンケ=ハンの急死を知り、独自にクリルタイを強行し、第5代ハンに即位した。それを認めず、同じく第5代ハンを名乗った末弟のアリクブケをカラコルムから追い出し、1264年に権力を握った。 1267年都を大都(現在の北京)に遷した。さらに1271年には国号を中国風にに改め、本格的な中国支配を意図した。初代元皇帝としては廟号を世祖という。モンゴルの中国支配を完成させた皇帝として重要で、それ以後、1294年までフビライ=ハンの統治が行われる。
アリクブケとの抗争 1260年、モンケ=ハンが死ぬと、その子どもたちは20代でハンとしては早すぎたので、モンケの兄弟たちから選ばれることとなった。有力な候補のフラグは遠くイランにいたので間に合わず、フビライは南宋遠征中であったが中国北部の開平府に急きょ戻り、独自にクリルタイを召集し、第5代ハンに選出された。それに対しカラコルムにいた末弟のアリクブケも、クリルタイで第5代ハンに推挙された。ここに同時に二人のハンが存在する分裂状態となった。両者の間に、フビライは中国本土への進出を主張し、アリクブケはカラコルムにとどまり従来通りの遊牧帝国としてのモンゴル帝国の維持を主張した、という対立であったという説もあるが、疑わしい。またアリクブカは『集史』などでは双方とも第5代ハンと認められているので、この内戦を「アリクブケの反乱」というのは誤っている。西アジアを転戦中のフラグはエジプト攻撃を取りやめてモンゴルに戻ろうとしたが、途中のタブリーズで留まり、西アジアに「ウルス」(モンゴル国家)を建設することに踏み切った。北方のジュチ=ウルス(キプチャク=ハン国)のベルケ(バトゥの弟)が南下し、アゼルバイジャンなどを奪おうとしていることに備えたのである。両者はカラコルムをめぐって4年にわたって激しく戦い、1264年にアリクブケは投降してフビライ政権が成立した。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 講談社現代新書 p.140-164>
漢人部隊の編制 またフビライは南宋との戦闘で中国本土を転戦するうちに、モンゴル人の本隊と並んで、漢人・契丹(キタン)人・女真などから成る漢人部隊を編制し、また宋王朝の後退によって各地に自立した漢人軍閥を味方に組み入れていった。1262年には山東地方の軍閥が反乱を起こしたが、同じ漢人大軍閥の史天沢(してんたく)などを抱き込み、鎮圧した。史天沢はフビライに従った漢人軍閥の代表的人物で、モンゴル語にも堪能で元の中国支配に大きな力となった。<同書 上 p.145、下 p.71-72、p.77>
 アリクブケアリク=ブケ、アリクブカとも表記する。チンギス=ハンの孫の世代。トゥルイの第4子で、モンケ、フビライ、フラグの末弟。1260年、兄のモンケ=ハンが南宋遠征中に急死したとき、兄弟中で唯一カラコルムに残っていたので、急きょクリルタイを開催し、第5代ハンに推挙された。しかし、それより前に南宋遠征中のフビライも開平府でクリルタイを開いて第5代ハン即位を宣言していたので、兄弟間の争いとなった。両者は激しく争ったが、チャガタイ家などがフビライ側に付き、また有力者フラグも西アジア遠征中で、しかもキプチャク=ハン国との対立を控えていたので動けず、実力に勝るフビライ軍によってカラコルムを奪われ、1264年に投降した。『元史』や『集史』などのモンゴル正史では正式なハンとして認められている。
f ハイドゥの乱 1300〜1305年、元の大ハンに対して中央アジアを拠点とする一族のハイドゥが起こした反乱。ユーラシアにおけるモンゴル勢力を二分する大きな内乱となったが、元が勝利してその支配を安定させた。ハイドゥは第2代ハンのオゴタイ=ハンの孫。カイドゥ、あるいはハイズとも表記。第4代モンケ=ハン以来、オゴタイ家は不遇だったので、不満を強くし、1269年頃からはフビライ=ハンに反旗を翻し、1280年頃には中央アジアのマー=ワラー=アンナフルに独立政権をつくった。1294年フビライ=ハンの死去後、1300年から翌年にかけて、大軍を率いモンゴル高原に侵攻し、元の第6代ハンのテムル(成宗)と戦ったがたが敗れてまもなく死去した。これがハイドゥの乱で、1305年にハイドゥの子のチャパルとドワが元に降伏して終結した。中央アジアはチャガタイ家の支配が復活してチャガタイ=ハン国として安定し、西のキプチャク=ハン国とイル=ハン国とならび、モンゴル高原と中国本土を支配する元帝国を宗主国とした「タタールの平和」が実現した。 
イ.元の東アジア支配
A フビライの統治 フビライはモンケ=ハンの弟としてチベット、雲南地方の大理遠征に従事し、モンケ=ハンの死後、1260年にモンゴル帝国の第5代のハンとなった。在位1260〜1294年(元の皇帝としては1271から)。権力掌握まではフビライの項を参照。
元の建国 フビライは1260年、中国北部の開平府でクリルタイを開催してハンに即位し、年号を中国風に中統元年とした。ハンを称した弟アリクブケの勢力を倒した1264年に、従来の首都カラコルムを放棄し、自らの本拠地である開平府を「上都」と改め、かつての金の都であった「中都」(現在の北京)として、ともに首都とした。また年号を至元元年に改めた。1267年に首都を大都(現在の北京)に遷し、モンゴル高原と中国北部にまたがる領域を支配した。71年に国号をに改め、中国的な官制を採用し、79年に南宋を滅ぼし、全中国を統一支配するに至った。フビライ=ハンは国政の中心機関として中書省を設け、軍政を統括する枢密院、監察の最高機関である御史台の三機関を皇帝に直属させた。また地方行政区画としては州県制を用いた。また即位とともに、統一紙幣として交鈔を発行し、経済の発展をはかった。
フビライの外征と交易圏の拡大 フビライ=ハンの課題はモンゴル高原の反乱(ハイドゥの乱)の鎮圧と、南宋の征服であった。まず、1267年から南宋の征服に乗り出し、1276年に臨安を占領、事実上南宋を滅ぼした。さらに安南、チャンパ、ビルマなど南方に方面に進出して多くを服属させ、朝鮮の高麗も属国とした。しかし、日本遠征(元寇)には失敗した。 さらにフビライ=ハンは東南アジア方面に遠征軍を派遣したが、その艦隊派遣は交易圏の拡大をめざす側面が強く、南シナ海から東南アジア、さらに南アジア(インド洋)を結ぶ海上ルートがモンゴル帝国によって結びつけられることとなり、海上貿易を活発化させるとともに、イスラーム教の東南アジアへの伝播などの影響をもたらした。
フビライ時代の国際性 その宮廷には、財務長官にアラブ人のアフマドがあり、マルコ=ポーロも登用され、国際色の豊かなものであった。またチベットからパスパを招き、チベット仏教を保護するとともに公用文字としてパスパ文字をつくらせた。これ以後元はチベット仏教寺院造営に多大の費用を出費することとなる。
フビライ=ハンの晩年の危機 1287年、中国東北部を領地としていたモンゴルのチンギス=ハン一族の後裔ナヤンなど、東方三王家がフビライに対し反乱を起こした。中央アジアのオゴタイ家のハイドゥも同調する動きを示した。そのときすでに73歳になっていたフビライは、子どもたちにも先立たれており最大の危機であった。しかし彼は果敢に行動した。自ら戦象に乗って反乱軍を急襲し、あっという間に降伏させた。このとき活躍したフビライの親衛隊は、中央アジアからやってきたトルコ系のキプチャク人などの隷民戦士、つまりマムルークであった。「東へ来たマムルーク」と言えるかもしれない。反乱軍の残党は朝鮮半島に逃れたが、間もなく元と高麗の共同作戦で壊滅させられた。こうして最大の危機を乗り切ったフビライは1294年、80歳で長逝した。当時としては異例の長命だった。廟号は中国風の世祖とされた。第6代大ハンには孫のテムル(成宗)が上都でのクリルタイで選出された。
a 大都 の都で現在の北京にあたる。1267年フビライ=ハンは復都の一つであった冬の首都中都の東北に、それを上回る都城を建設し、大都大興府と称した。中都はかつて燕京と言われ、戦国時代からの要地であり、金の都ともなったところであるが、フビライの建設した新都はしの一部は重なっているが中心は北東に移っており、まったく新しい都と言っていい。大都の城郭は当時、「周囲六十里十一門」といわれたが、実測では約28.6kmであったという。その南部中央に宮城がつくられ、市街は南北の街路で区画され、一区画は坊と言われた。1266年に大都建設を宣言し、翌67年には遷都したが、完成したのは1293年で、フビライはその翌年に死去する。
大都の特徴 周礼に見られる古代中国の理想の中華式帝都として建設された。その設計は儒仏道の三教に通じた漢人があたった。壮大な帝都であったが、実はハンたちはほとんど大都の城内には入らず、郊外の野営地に壮大な天幕の宮殿ですごすのを好んだ。大都は「住む」ための都ではなく、統治に必要な人と物を収めておく「器」であった。最大の都市機能は、大都が内陸にありながら、なんど巨大な都市内港をもっていたことである。しかもその港は、通恵河を通じて通州に至り、そこから白河によって海港の直沽(現在の天津)で外洋に通じていた。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 下 p.30-34>
国際都市としての大都 大都には多くの仏教寺院、チベット仏教の寺院、道教の道観、キリスト教の教会、イスラーム教のモスクが立ち並んでいた。現在も元時代の建物も見られる。また大都には、世界各地から使節や商人がやってきて、国際都市として繁栄した。ヨーロッパからやってきたマルコ=ポーロの『東方見聞録』では、大都はカン=バリク(ハンの都の意味)と言われて紹介されている。またモンテ=コルヴィノ、イスラーム教徒でモロッコ人のイヴン=バトゥータなどが西方から訪問している。ある。 → 北京
上都モンゴル帝国のフビライが1260年に第5代ハンに即位した時の拠点は現在の内モンゴルのドロン=ノールにあった開平府であった。カラコルムには弟のアリクブケが同じく第5代ハンとして即位した。1264年にアリクブケを倒して統一指導者となったフビライ=ハンは、1264年に正式にカラコルムから遷都し、開平府を上都とし、金の都であった中都(かての燕京、現在の北京に当たる)とともに首都とした。つまり、二つの都を置く両京制としたのであり、夏期は上都、冬期はは中都で執務した。両京制は中国史ではめずらしくなく、唐の長安と洛陽、明の北京と南京などがあげられる。モンゴル帝国の場合は、遊牧地域を抑える上都と、農耕地域を抑える中都という意味があった。この体制は1267年に中都を改めて大都が建設されてからも続いた。元の滅亡の時、破壊された。
b 元 モンゴル帝国の第5代のフビライ=ハンが1271年にこの国号を始めた、モンゴル高原と中国本土を中心とした国家。モンゴル人は大元ウルスと称した。その皇帝はモンゴル帝国の宗家の大ハンの位を兼ねた。1279年に南宋の残存勢力を一掃してからは、中国全土を統一支配し、元による漢民族支配はそれから約90年間続いた。漢民族から見れば異民族であるモンゴル人が、漢民族固有の統治形式を採用して中国を支配する、という「征服王朝」であった。大都(現在の北京)を都として中国本土と、モンゴル高原、西域、満州を含み、周辺のチベット、朝鮮、安南などを属国として支配した。  → 元の遠征軍派遣
元の統治機構 その統治機構は、中央の中書省・枢密院・御史台、地方機関としての州県制など漢民族の機構を採用したが、実際の支配はモンゴル人を最上位に、次いで色目人、その下に漢人(金の遺民)、最下部に南人(南宋の遺民)を置くというモンゴル人至上主義がとられた。
財政と税制 中央政府の財源は、従来の中国王朝のような農民からの租税ではなく、塩の専売制と商取引に課税される商税であった。塩は「塩引(えんいん)」という引換券が発売され、それが政府の収入となった。商税は、ユーラシア大交易圏のの成立のなかで自由経済が掲げられ、フビライ=ハンの時にそれまで都市・港湾・関門を通るごとに徴集されていた通過税を撤廃し、商品は最終売却地で一回だけ商税を払う、いわば消費税(税率は3.3%)となった。こうして取引が増大し、銀だけでは不足した(16世紀の銀の大量流入の前であった)ため紙幣(交鈔)が発行された。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 下 p.191-194>
元の地方行政 元は華北の金を滅ぼした後、戸口調査を行った上で、モンゴル王族や諸将に所領を分配、さらに元に降った漢人武装勢力と併存させた。1262年、フビライは華北の漢人軍閥の反乱を鎮定した後、路・府・州・県の4レベルの行政区画を整備し、各レベルにダルガチを置いて監視する中央集権体制をつくりあげた。
元時代の中国社会と文化 その社会は、駅伝制(ジャムチ)や大運河の整備などで交通網が発達し、前代の南宋の商工業を継承して経済が盛んであり、紙幣として交鈔が流通した。農村では郷村のなかに漢人の大土地所有者が成長してきた。文化面ではモンゴル文化の独自性は薄れ、宮廷ではチベット仏教が保護され、公文書にはパスパ文字が使われた。科挙が中断されたため儒教や漢文学は衰えたが、民衆には元曲や通俗的な文学が流行した。この時代の文化の大きな特徴は、モンゴル帝国の成立という政治的統一を受けて盛んになった東西交流の結果、キリスト教やイスラームの文化が流入したことである。  → 元代の文化
元の興亡 元帝国の皇帝=大ハン位は必ずしも安定ではなく、ハイドゥの乱後も継承をめぐって内紛が続いた。1305年に乱は平定され、フビライ=ハン(世祖)と次の大ハンの成宗の時がもっとも安定した。また宮廷では次第に貴族層が形成され、その奢侈な生活は財政の困難を招き、そのための重税は次第に漢民族のモンゴル人支配に対する反発を強め、社会不安が強まるなか白蓮教徒などの新興宗教教団が生まれ、紅巾の乱として社会不安が爆発して1368年に滅亡、モンゴル人は中国本土を放棄してモンゴル高原に引き上げ、北元をつくることとなる。 → 元の滅亡
c 南宋 の滅亡アリクブケとの抗争と華北漢人軍閥の反乱というモンゴル帝国の内紛を収めたフビライ=ハンは、1267年から大規模な南宋征服に着手した。フビライ=ハンは南宋を最も困難な敵と考えていたので、攻略に当たっては従来のモンゴル騎兵中心の戦術ではなく、騎兵は少数に留め、漢人の歩兵部隊を動員して主力とした。それは「蒙古・漢軍」と言われた。また、必要な財源をムスリム系やネストリウス派信者の経済官僚に捻出させた。また、戦術としては長期戦を覚悟して、漢水(長江支流)の襄陽攻撃に見られるように、周囲に環城という土塁を築いて包囲して食糧の尽きるのを待ち、耐えきれずに守備側が出撃してくると火砲や火器で応戦した。一方でフビライ=ハンは金との戦争の中から海軍の必要性を認識し、1万5千隻、7万人の水軍を組織した。6年に及ぶ包囲戦で襄陽を陥落させ、その後は元軍は陸上と長江の水上を東進し、流域の都市が次々と開城、1276年に南宋の都臨安府臨安は無抵抗で降伏し、恭宗は降伏し南宋は滅亡した。南宋の滅亡を1279年とするのは、生き残った残党が広州湾内の崖山で全滅した年であり、実質的には臨安開城で南宋は滅んでいる。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 下 p.88-102>
Epi. 西から来た新兵器と呂文煥の降伏 フビライは南宋攻撃で新兵器を導入した。それは、イル=ハン国で改良・開発された巨大投石機で、ペルシア語で「マンジャニーク」、漢語では「回回砲」とおばれた。フラグの子のアバガからフビライに、イラン人技師とともに何台も贈られてきた。1273年の漢水作戦で初めて使用。カタパルトからは発射された巨弾は川を越えて700〜800m飛び、城楼や兵舎を撃破し、襄陽の守備兵と市民をなぎ倒した。襄陽の守将呂文煥は全軍・全市民の助命を条件についに開城した。元軍は約束どおり、誰一人殺さず、おまけに呂以下にフビライ直属の親衛軍の役割を与えた。感激した呂は、文官官僚が威張り、腐敗している南宋を見限り、フビライの臣下となることを誓い、その後の南宋攻撃に大いに活躍したという。同じように、元軍に進んで降伏する南宋の将兵が多かったという。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 下 p.92-98>
 大元ウルスフビライは1271年(至元8年)、新しい国号を「大元」と名づけた。正式には「大元イエケ・モンゴル・ウルス」=大元大モンゴル国、略して大元ウルスという。高校教科書等では一般に、「」とのみ表記する。元という文字は、易経の「大いなるかな、乾元」から採ったという。乾元とは天、もしくは宇宙を意味し、トルコ・モンゴル族で言えば、彼らがすべての源として共通に崇める「テングリ」にあたり、「大元」すなわち「大いなるみなもと」とはテングリの尊称となり、フビライは自らの新国家を「大いなるテングリの国」と命名した。(唐の太宗も突厥を服属させたとき天可汗=テングリカガンの称号を贈られた。)
また、フビライはすでに1260年に、モンゴルとして初めての年号を定め、「中統」と言い、アリクブケとの「帝位継承戦争」に勝った1264年には「至元」に改元したさらに1267年には新首都「大都」の建設に着手、これで国号・年号・都をもつ世界国家となった。
元の大統合のプラン モンゴル帝国が中国する=大元ウルスはどのようなプランで行われたのであろうか。それは「軍事と通商がタイアップした国家」であり、次の3つの要素が組み合わされていた。
(1)モンゴル支配の根源である「草原の軍事力」。モンゴル騎馬軍団を中心としてさまざまな人種から成る軍事のシステム化。
(2)国家行政機構と財政基盤の確立。そのために中国の伝統と富と生産力(中華の経済力)を手に入れること。
(3)ユーラシア全土にわたる物流システム。大カアンの権力のもとで、イラン系ムスリム商人の経済力を取り込む。
加えて、もう一点、注意しておきたいことがある。それはクビライ政権が「海上への視野」をもっていたらしいことである。クビライの「陸の帝国」は、「海の帝国」としての側面も兼ね備え、「陸と海の巨大帝国」をつくりあげた。陸と海の起点として新たに建設されたのが大都である。大都は運河で外洋と結ばれていた。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 下 p.19-22,39-43>
d 高麗(モンゴルの支配)高麗に対してモンゴル帝国は、1231年から1254年まで、6回にわたり遠征軍を送って征服しようとした。高麗では武人の崔氏政権が都を開城から江華島に移し抵抗を続けた。しかし、高麗で崔氏政権が倒れ、和平派が台頭、1260年ハン位についたフビライ=ハンも武力での制圧策を捨て、高麗国王として封じた。高麗は独立の体面は維持したがその属国となり、毎年の朝貢を続けることとなった。元の日本遠征(元寇)には、その遠征軍の兵員を出したため、大きな負担となった。また、講和に反対した軍事勢力が1270〜73年に珍島や済州島で抵抗を続けた三別抄の乱が起こった。また、元の支配下の高麗において、高麗版大蔵経の刊行や、金属活字の発明、高麗青磁の発達などの文化の成長があったことが注目できる。
Epi. 骸骨、野を覆う モンゴルの高麗遠征は熾烈を極めた。特に1254年の第6回の遠征では、「蒙古兵に虜えられし男女無慮二〇万六千八百余人、殺戮されし者は計えるにたうべからず。経る所の州郡みな灰燼となる。」また、「兵荒以来、骸骨野をおおう」(『高麗史』)といわれた。なお、このとき高麗の朝廷が江華島に逃れ、モンゴルの攻撃に耐えたことは、江華島が朝鮮にとって大切な場所であることが判る。 → 1875年 江華島事件
三別抄の乱 さんべつしょうのらん。1270〜73年、モンゴル支配下の高麗における、軍事勢力と民衆による、反モンゴルの抵抗運動。別抄とは特別部隊という意味で、高麗の崔氏政権が警護のために組織した左右の二別抄と、モンゴル軍の捕虜となりながら脱出してきたものを集めて編成した神義軍をあわせて三別抄とよんだ。三別抄は高麗の武臣政権の軍事力の核となるもので、モンゴルとの戦いでも前衛として戦った。1270年、高麗王朝がモンゴルとの講和に踏み切ると、それに不満な三別抄は、南方海上の珍島に拠って城を築き、民衆の支持も受けて抵抗を続けた。モンゴルは高麗政府軍と連合して1年にわたる猛攻により、珍島を陥落させたが、三別抄の残党はなおも南の済州島に移ってさらに抵抗した。三別抄は日本にも救援を要請したが、鎌倉幕府は事情を理解できず、協力することはなかった。ようやく鎮圧されたのは1273年、つまり元の最初の日本侵攻(元寇)の前年であった。<岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー p.106>
高麗版大蔵経 こうらいはんだいぞうきょう。朝鮮の高麗時代を代表する文化遺産。モンゴルの第3次侵略がはじまった翌年、高麗政府は仏力による加護を得ようとして、大蔵経の彫造に着手、16年かかって高宗38年(1251)に完成した。戦乱の中で莫大な財力・労力を傾注したのは、支配者層にとって救国の事業と考えられたからである。高麗時代は仏教は国教であり、国家鎮護の法として国王・文武百官以下広く民間に信仰されていた。この経版は、その後長く大切に保存され、いまも南朝鮮の海印寺に残っている世界的仏教資料である。日本の室町・戦国の大名・豪族も朝鮮に使者を送りなんどもこの版木ですった大蔵経をもとめた。それが現在各地に残っている。<旗田巍『元寇』中公新書 P.33-34による> → 漢訳『大蔵経』
金属活字 13世紀の朝鮮半島の高麗時代に発明された。高麗では仏教の保護政策の一環として大蔵経の刊行が行われ、印刷術が発達した。はじめは木製活字が使われたが、耐久性に限界があり、彫るのも大変な労力が必要であった。それらを解決するものとして金属活字が発明された。朝鮮王朝で銅活字が作られるようになった。13世紀の元の支配下の高麗で発達した。
「金属活字のつくりかたは、まず木枠をつくり、その中に鋳造用の砂をかため、これに木の活字をおしつけて鋳型をつくる。そこにとかした金属をそそぎ、かたまったのをひきだして形をととのえた。このような金属活字の製造は、少なくとも13世紀もは始まったようで、ヨーロッパの金属活字発明より200年も先立つものであった。金属活字の発明は、中国、日本など周辺諸国にも大きな影響を与えた。日本は室町時代、朝鮮に使いを送るたび、大蔵経や書物をねだっていたが、16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮侵略のとき、多くの活字と本、それに印刷の技術者を略奪してつれ帰っている。悲しいことだが、それによりはじめて、日本でも多くの本を印刷することができるようになったのである。」<岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー p.116>
高麗青磁 こうらいせいじ。高麗の代表的な工芸品である青磁は11世紀頃に宋の青磁の影響で製造が始まり、13世紀の元の支配下の高麗で発達した。青磁の青は朝鮮の空の青さを写したものだとも言われ、その独特な美しさは他に例を見ない。それは高麗の陶工が、原料の土、うわぐすり、焼き方を工夫して生み出したものである。前期のものは模様がほとんど無いが、後期になると象嵌で風物を描いたものが主流になる。<岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー p.112>
B 遠征軍の派遣 (元)元朝フビライ=ハンは、南宋を征服して中国を統一する前後に、周辺諸地域に次々と遠征軍を送った。東方では、すでに朝鮮を服属させており、二度にわたって日本遠征=元寇(文永・弘安の役)をおこなった。南方に対しては、ベトナム遠征で安南(大越国の陳朝)、チャンパー(占城)を攻撃、ビルマ(パガン朝)、ジャワ島にも遠征軍を送った。これらの遠征は必ずしも成功したわけではなく、日本遠征、ベトナム遠征とジャワ島遠征の場合はいずれも失敗している。日本遠征では台風で、東南アジア遠征では風土病で大きな犠牲を出している。しかし、アジア各地に大きな影響を及ぼしたことは確かである。日本は元寇を撃退することはできたが、鎌倉幕府はそれを機に弱体化に向かい、南北朝の戦乱期に入り、倭寇の活動が始まる。東南アジアでは、ベトナム人、タイ人、ビルマ人などの民族的自覚が始まり、ベトナムの字喃や、タイ文字などの文字が生まれ、タイのスコータイ朝・ジャワ島のマジャパヒト朝などの新しい勢力が登場することとなる。また、元の海上進出によって、ユーラシア世界の海域が一つに結ばれ、交易圏が拡大したという下のような指摘もある。このような東南アジア海域と南アジア海域を結ぶ海上交通の活発化によって、イスラーム教が東南アジア地域に及んできたことも見逃すことはできない。
交易圏拡大をめざした東南アジア進出 1287年、フビライ=ハンは対外政策を経済・通商を基軸とした平和友好路線に転換し、スリランカを初めとする南海諸国の24ヵ国に使節団を送り入貢を促した。1292年のジャワ島遠征もこのような通商活動をめざしたもので、1万5千のも乗員を乗せた大元ウルス艦隊は南シナ海とジャワ海に現れた史上最大の艦隊であった。しかしジャワ島との交渉は陸戦部隊が不用意に内戦に介入したため「失敗」した。しかし、モンゴル艦隊の派遣によって、南シナ海−ジャワ海−インド洋を結ぶ海上ルートが生まれ、大元ウルスとイル=ハン国(フラグ=ウルス)は海上ルートでも結ばれた。マルコ=ポーロの帰国はこの海上ルートを利用した。こうして、13世紀のユーラシア世界は、東は日本列島から西はブリテン島まで広く連鎖の輪によって初めてつながれたことになる。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 下 p.140-143>
a 元の日本遠征(元寇) フビライ=ハンによる、1274年の第1次と、元が南宋を滅ぼして中国を統一した後の1281年の第2次にわたる日本遠征であるがいずれも失敗した。日本では「蒙古襲来」または、第1回が「文永の役」、第2回が「弘安の役」とも言われる。当時の日本は鎌倉幕府の北条氏による執権政治の時代で、北条時宗らの御家人が戦って元軍を撃退したが、その多大な負担は幕府衰亡の一員となった。元にとっては領土の拡大と同時に、東南アジア諸地域への進出と同じく海上交易圏の拡大を意図したもので、再々征も立案されたが、フビライ政権に対する内乱であるハイドゥの乱などが起こり、実現しなかった。
第1回遠征 フビライ=ハンは高麗との関係を安定させた後、1266年から日本に対してたびたび国書を送り修好を求めた。当時南宋を征討するためには高麗・日本とは友好関係にあることを要したためと思われる。しかし、日本の鎌倉幕府は元の文書を非礼であるとしてその要求を無視。フビライは武力による日本遠征に踏み切る。1274(文永11)年10月、モンゴル・高麗・漢人の混成2万6千の兵員を900艘の軍船に分乗させ、対馬・壱岐を侵し、博多湾に上陸したが、御家人などお武士の抵抗があり、戦闘一日で撤退し、第1回の遠征は失敗した。これは小手調べ的なものであった。
第2回遠征 その後改めて元は使節を派遣したが鎌倉幕府執権の北条時宗はそれを斬り、1281(弘安4)年の第2回遠征となった。このときはすでに南宋は滅亡していたので、高麗からの東路軍4万の他に、明州から10万の江南軍が派遣された。6月上旬、東路軍が博多湾に上陸、日本側は石塁を築いて防戦し、小舟で反撃に出た。約1ヶ月戦闘が続いたが、暴風雨によって元軍が大被害を受け、撤退した。元軍10万、高麗軍7千が戦史または溺死し、捕虜2〜3万も処刑されたという。。
第2回遠征軍の江南軍の実態 10万といわれる「江南軍」、つまり元に降った漢人の兵士は、「厳密な意味では、彼らは兵士ではなかった。どう調べても、彼らがしかるべき武装をしていたとは思えない。これらの人々は、募集に応じた士卒たちであった。もと南宋の政府軍だった人々から、希望を募ったのである。従来、まま誤解されるような、強制徴発ではなかった。しかも、おそらく彼らは「精兵」ではなかった。・・・・彼らが携帯したのは、どうやら武器ではなく、農器具であったらしい。つまり、10万の大部分は、入植のための「移民」に近かった。慶元を出発した大艦隊は、事実上、「移民船団」であったといえるかもしれない。」主に「移民」たちが乗り組んだ中小艦船と旧来の艦船は平戸沖などに待機しするうち、嵐で覆没してしまった。「海外移民」は一面において「海外棄民」であった。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 下 p.129-135>
Epi. 神風は吹いたか 元寇(蒙古襲来)は二度とも大暴風雨によって元軍が被害受けたのが、その撤退の理由とされ、当時は朝廷以下の神仏への祈祷が効果があったと喧伝され、後には「神国日本」を護る「神風」であると認識されるようになった。しかし、第1回の文永の役で暴風雨があったことは根拠がうすい。昭和33年、気象学者の荒川秀俊氏は旧暦の10月20日は新暦では11月26日にあたり、台風シーズンは去った後であるし、当時の文書でも暴風雨の記録はないとして通説を否定した。暴風雨があったというのは十kはなれた京都の公家の伝聞などで記されているに過ぎない。第2回の弘安の役の時に暴風雨があったのは閏7月1日、新暦で8月23日のことで、これは資料的にも確かである。どうやら「二度とも神風が吹いた」というのは誤っている。元寇の敗退は、やはり元軍と高麗軍の対立など攻撃側の問題であったとすべきである。<網野善彦『蒙古襲来』上 1974 小学館ライブラリー p.207,272>
Epi. 元、日本遠征中止。歓声雷のごとし。 1283年、フビライは日本再々遠征を計画したが、江南の民衆が激しい反発をうけ、その鎮圧に手間取り、並行していたベトナム遠征に力点を遷すようになった。フビライはなおも日本遠征をあきらめなかったが中国民衆の反発も根強く、また一方でのベトナム遠征も抵抗を受けていた。そのような中、礼部尚書劉宣は、日本への出兵を再考すべきであるとの意見を世祖に提出した。
「‥‥況んや日本は海洋万里、疆土闊遠、二国(占城と交趾、いずれもベトナムのこと)比すべきに非ず。今次の出師、衆を動かし険をふみ、たとえ風にあわずして彼の岸に到るとも、倭国は地広く徒衆猥多たり。彼の兵四集して我が師無援、万一不利なれば、救兵を発せんとするも、それ能く飛渡せんや、‥‥いわんや日本は海隅に僻在し、中国と相へだつこと万里なるおや」(『元史』)と説いたのである。世祖もこれには反対できず、1286年の正月、「日本は未だかつて相犯さず。いま交趾は辺を犯す。宜しく日本をおきて交趾を事とすべし。」として日本遠征を中止した。この知らせが伝わると中国の民衆はよろこんだ。「連年日本の役、百姓は秋戚し、官府は擾攘す。今春停罷す。江浙の軍民、歓声雷の如し。」(同上)と伝えられる。<旗田巍『元寇』中公新書 P.161-162>
b 元のベトナム遠征 モンゴル帝国は前後3度にわたりベトナムに遠征した。特にフビライ=ハンの時は日本遠征からベトナム遠征に主力を切り替え、大規模な遠征を2回強行したが、いずれも北ベトナムの大越国、陳朝によって撃退され、失敗した。
第1回 1257年 モンケ=ハンは南宋を背後から攻撃するためにフビライを雲南に派遣した。その作戦の一部としてモンゴル軍が雲南からベトナム北部に侵入した。モンゴル軍はハノイを占領したが、翌年撤退した。
フビライは即位するとベトナムに使者を送り、陳朝の王を安南国王に封じ、ダルガチ(達魯花赤)を置いて行政を監督する体制をとった。1279年、南宋を滅ぼすと、南海諸国との通商に乗り出し、泉州などに市舶司を置き、また使節をチャンパー(占城)、ジャワ、スマトラ、インドに派遣し入貢を促した。81年、元はチャンパに行省をおいて南方諸国を統括しようとしたが、チャンパ王がそれを拒否したため、討伐軍を派遣し国都ヴィジャヤを攻めたが苦戦に陥った。
第2回 1284年 元はチャンパを討つために陳朝にも出兵を要求したが、陳朝はそれを拒否した。同年、チャンパ遠征軍は暴風に遭い大損害を被った。フビライは陸路チャンパを攻撃するため、陳朝に出兵、ハノイを占領した。元の将軍烏馬児(ウマル)はベトナム軍捕虜を大量に殺害したが、将軍陳国峻に率いられたベトナム軍の抵抗でうけ、撤退した。
第3回 1287年 フビライは前回の失敗に烈火のごとく怒り、日本遠征の計画を中止して、大軍を派遣して陸上海上からベトナムの陳朝を攻撃した。ハノイは陥落し陳王仁宗は逃亡したが、ベトナム軍は元の糧食輸送船を狙ってその輸送路を断ったため、元軍は持ちこたえることができず翌年、撤退した。フビライはベトナム征服をあきらめず、1292年にジャワに遠征軍を送った後、翌年ベトナム再征を計画したが、94年に没したため実施されなかった。<以上、松本高広『ベトナム民族小史』岩波新書 p.68-71>
Epi. バクダン川の奇計 「1288年3月、元軍のウマル将軍率いる船団はバクダン江を下る。迎え撃つのはチャン・クォック・トアン(陳国峻)の軍だった。チャン・クォック・トアンはバクダン江での戦闘準備を整えたのち全軍に向かって訴えた。「もし敵を全滅させなければ、ふたたびこの化江(ホアジァン)に帰らないことを誓おう」(化江ほ太平江の支流、タイビン<太平>とハイズオン<海陽>両省の境を流れる重要な川で、ふたたび首都にほもどらないという意味)。・・・4月3日、元軍の艦船が進撃してきたが、満潮を見計らってヴェトナムの小艦艇軍が元軍に挑んだ。元軍の艦船が出てくるの待ってヴエトナム艦艇はさっと逃げ出し、元軍に追跡させるかたちをとった。すると潮が引きはじめ、元の艦船は杭にさえぎられて動けなくなった。そこへチャン軍が突っ込んできた。これに勇気を得たヴエトナム兵は決死の覚悟で敵に向かった。両岸で待ち伏せていたチャン軍も加わり奮戦の末、ついに元軍を破った。艦船100隻を沈め、400隻を捕獲、元軍兵士多数が水死し、ウマル将軍と大勢の将軍、士官たちが捕虜となった。」<小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史』中公新書 p.87>
c パガン朝  → 第2章 2節 東南アジア世界の形成 パガン朝
ペグー朝 ビルマ(現ミャンマー)のイラワディ川下流域にモン人がつくった国家(1287年〜1539年)。モン人はビルマ人のパガン朝に支配されていたが、パガン朝がの攻撃で滅亡し、ビルマがいくつかの政権に分立した際、その一つとして自立した。都のペグー(現在のパゴー)は下ビルマの要地で貿易港としても栄え、ポルトガル人も来航した。1531年にビルマ人のトゥングー朝にペグーを占領され、まもなく滅亡。
タイ人 タイ語族はシナ=チベット語族に属する。タイ語を話す人々という広い意味でのタイ人(シャム人)は、現在のタイ国民であるほか、東南アジア各地域に広がっているが、もともとは中国の南西部にいたらしい。11〜12世紀に南下を開始し、さらに13世紀にはモンゴル帝国に圧迫され、インドシナ半島に入り、チャオプラヤ川流域の平野部に移住してきた。そこにはすでにモン人のドゥヴァーラヴァティ王国があったが、この国は東から力を伸ばしてきたクメール人のカンボジアに圧迫され衰えていた。タイ人もはじめはクメール人に支配されていたが、13世紀中にはいくつかの王国をつくり、その中の一つチャオプラヤ川上流のスコータイ朝が最も有力となった。スコータイ朝は15世紀にチャオプラヤ川下流におこた同じタイ人のアユタヤ朝に併合された。アユタヤ朝は1767年にビルマから侵攻したアラウンパヤー朝の軍隊に滅ぼされ、アユタヤも破壊された。その後1782年にタイ人の国家ラタナコーシン朝(チャクリ朝)が成立し、この王朝が現時まで続いている。タイ人はタイ全域のほか、現在のラオス、やカンボジア、ミャンマー北部、中国南西部にも存在している。
d スコータイ朝 13世紀後半〜15世紀に、現在のタイに興隆した王国。もともとタイ人(シャム人ともいう)は、中国の四川地方や雲南地方に住んでいたが、モンゴルの南下に圧されて、13世紀にインドシナ半島に移住し、先住民と同化しながら定住したとされる。はじめカンボジア(真臘)のアンコール朝に従属していたが、1257年ごろにスコータイを都としてスコータイ朝を起こした。第3代のラーマカムヘーン王の1283年に、カンボジアの文字をもとに独自のタイ文字をつくった。また上座部仏教が保護され、スコータイをはじめ各地に仏教遺跡が多い。1350年に南のアユタヤにアユタヤ朝が起こると次第に衰退し、15世紀には地方政権として存続するだけとなった。 
ラーマカムへーン王 タイのスコータイ朝第3代目の王(ラームカムヘンとも表記)。在位1279年頃〜1299年。王は支配領域をカンボジアやビルマ、マレー半島にまでのばし、全盛期をもたらした。また、1283年にタイ文字(シャム文字)を考案させ、自らの業績を碑文として残している。その碑文にはこの王の善政が述べられている。また上座部仏教を国家の理念として保護した。 
タイ文字
1283年にタイのスコータイ朝の第3代国王ラーマカムヘーン王のとき、クメール文字の草書体から作ったタイ人の文字。シャム文字とも言う。1292年につくられたラーマカムヘーン王の碑文に最古のタイ文字が用いられている。左はその例(サワッディー、あいさつのことば)<文字例は『図説・アジア文字入門』河出書房新書 p.36>
シンガサリ朝 ジャワ島の王国で、1222年にクディリ朝を倒して建国。シンゴサリとも表記。ジャワ島東部のシンガサリを中心に、ヒンドゥー文化を発展させ、その勢力をシュリーヴィジャヤ王国のパレンバンまでのばし、それを圧迫した。クルタナガラ王の時、元朝のフビライ=ハンの使節が1289年に来航して、服属を要求してきたが、王はその使者を捕らえ、追放してしまった。1292年にフビライは遠征軍をジャワに派遣したが、そのときはすでにシンガサリ朝はクディリ朝の遺子の反乱によって国王が殺されるという混乱の中にあった。クルタナガラ王の女婿ヴィジャヤはマジャパヒト村に逃れ、王位の回復のために元軍の支持を受けることに成功し、マジャパヒト王国を開いた。<ハリソン『東南アジア史』みすず書房 p.51 などによる>
e マジャパヒト王国 ジャワ島に起こった王朝。ジャワ島にはシンガサリ朝があり、1292年元のフビライ=ハンの侵入を受けることとなったが、反乱が起こり国王クルタナガラ王が殺された。その女婿のヴィジャヤは同じくジャワ島東部のマジャパヒト村(苦い果実という意味)に逃れ、王位を回復するため来寇した元軍の協力を取り付けるのに成功し、反乱軍を鎮定した。こうしてマジャパヒト王国が成立し、王は巧みに元軍を帰国させて独立を守った。その後も元および明には朝貢を続けながら、存続した。マジャパヒト王国はヒンドゥー教国であったが16世紀にイスラーム教を奉じるマタラム王国が同じジャワ島の西部に成立すると次第に劣勢となり、滅ぼされる。シンガサリとマジャパヒトは同一の王統の国なので、シンガサリ=マジャパヒト王国と表記することもある。
『真臘風土記』
→ 臘の拡大
しんろうふどき。1296年〜97年、元がアンコール朝のカンボジア(中国名真臘)に派遣した使節に同行した周達観が記録した書物。13世紀末のカンボジアの状況を伝える貴重な資料である。アンコール朝は当時、ジャヤヴァルマン7世の全盛期(12〜13世紀)が終わり、西側のスコータイ朝、東側のチャンパーに押され、衰退しつつあったが、それでもアンコール=トムを中心として「富貴真臘」と言われるような繁栄がなおも続いていたことが記されている。
C 元の全盛期  
a モンゴル人至上主義 征服王朝であるでは「百官の長はモンゴル人をもって任用する」という原則があった。モンゴル人以外は、色目人・漢人・南人に分けられたが、役人など支配層となったのはモンゴル人であり、モンゴル人で不足する場合は色目人があてられることになっていた。華中から華北の、かつて金の支配する地域の住民の漢民族や女真族などは漢人といわれ、華南のもとの宋の領域の漢民族などは南人と言われた。漢人・南人は高級官僚になることはなく、支配される側として租税を負担した。このような体制をモンゴル人至上主義、あるいはモンゴル人第一主義という。
b 色目人 しきもくじん。元朝のもとでの西方の出身者を言う。色目とは「種類」の意味(眼が青いという意味ではないので注意)、多くの種族を含む。ウイグル、ナイマン、タングート、チベットなど西域諸地域の人々に加え、アラブ人、イラン人、インド人、ユダヤ人、ロシア人、トルコ人も含む。マルコ=ポーロなどのヨーロッパ人も「フランキ」といわれて色目人として優遇された。色目人は元朝ではモンゴル人に次ぐ地位に置かれ、高級官僚やハンの側近に登用されることも多く、支配者階級を構成した。
c 漢人 一般的にはいわゆる漢民族を示す言葉であるが、モンゴル人が中国を支配した征服王朝である元王朝では、モンゴル人、色目人、漢人、南人の民族が身分的に区別された際の「漢人」は、かつての金の領域にいた人々で、淮河以北の漢民族、契丹族、女真族、高麗人、渤海人などを意味した。漢民族だけではないことに注意すること。元朝のもとで役人に登用されることもあったが、その数は少なく、多くは生産者層として税を負担した。モンゴル人至上主義の下で、色目人が優遇されていたのに比べて、漢人は南人と共に抑圧されていた。
d 南人 元代で、南宋滅亡に元に編入された人々で、南宋の遺民の漢民族をさす。最も最後に元に服属したため、元では最下層に位置づけられ、上級の役人になることはできず、主として税を負担する被支配者の立場に置かれた。 
中書省(元)中書省は、門下省・尚書省とともに隋唐の律令制以来の三省の一つとして、皇帝の詔書の起草にあたる最重要官庁あった。元朝では門下省と尚書省は常置されず、中書省が最高行政機関とされ、六部も中書省の管轄下に入り、その実質的長官である左右丞相が宰相の役割を果たしていた。また、地方の行政・軍事・財政を司る機関として行中書省が直属したが、後に中書省から分離した。なお、次の明になると、中書省も廃止される。 
行中書省(行省)こうちゅうしょしょう。中国の元朝において、はじめ中書省に直属して地方の行政・軍事・財政を管轄したが、元が南宋を併合してからは、中書省から分離して、皇帝(大ハン)に直属して地方行政に当たる機関として全土に設けられることとなった。略して行省ともいう。はじめは嶺北、遼陽、甘粛、陝西、四川、河南、江西、湖広、江浙、雲南の10地方に設けられた。なお、明代以降に地方行政区画を「省」というようになるのは、「行省」から来ている。
e 科挙の中止 (元)モンゴル人至上主義がとられた元は、当初は科挙を行なかったため、1276年の南宋の滅亡とともに中国の長い伝統であった科挙はいったん中断されることとなった。科挙が行われなくなったため、宋以来の士大夫(地主層出身で知識人として官僚となった人々)は没落した。また漢以来の官学であった儒学を説く儒者の地位が下落し、九儒十丐(きゅうじゅじっかい)と言われるようになった。
なお元は仁宗のとき、1313年に初めて科挙を実施、その後も何回かは実施されたが、合格者(進士)となるものはごく少数であった。完全な科挙の復活は次の明代を待たなければならない。
九儒十丐 きゅうじゅじっかい。科挙が中止された元代で、儒者の地位が低くなったことを示す言葉。儒は儒者のこと、丐(かい)は乞食のことで、儒者は下から二番目の低いランクであるという意味。なお、十段階のランクとは「官−吏−僧−道−医−工−匠−娼−儒−丐」というものであるが、官(上級職)と吏(一般官吏)は科挙が再開されてもモンゴル人や色目人が多かった。僧侶と道士の地位が比較的高いことも注目される。
ダルガチ モンゴル帝国、および元が、征服地と支配地においた官職。達魯花赤と表記する。モンゴル帝国ではチンギス=ハンの時から、征服地の行政一般を監督する官職としておかれていた。元では主要な都市や、高麗、安南などの征服地にダルガチを配置し、戸口調査、徴税業務、駅伝業務などの占領行政を行わせた。ダルガチとして派遣されるのは、モンゴル人か色目人に限られていた。
D 交通・貿易の発達 モンゴル帝国のもとではユーラシア大陸の東西を統一権力のもとで治安が安定し、また駅伝制(ジャムチ)や大運河などの交通網が発達したため東西交易が陸路、海路ともに活発になり、経済が発展して紙幣として交鈔も用いられた。東西貿易では色目人と言われた西域出身の人々が活躍し、広州・泉州や広州にはムスリム商人が来航して東南アジアやインド洋方面との南海貿易を活発に行っていた。フビライ=ハンの積極的な遠征も、このような商業圏の拡大を求めたという面もある。また元朝の国内の農村では、宋代以来の郷村のなかの漢人の大土地所有者が成長しており、経済活動を支えていた。 
a 駅伝制(ジャムチ)





左は、タシケントのウズベキスタン歴史博物館にあった、モンゴル帝国の牌符(payza)
オゴタイ=ハンが1229年に制度化したモンゴル帝国(および元)の交通通信網。モンゴル語でジャムチ(漢字で站赤と書く)というのは、ジャムが「道」や「駅」を意味し、チは接尾語で「人」の意味なので、ジャムチとは「駅に携わる人」の意味であるが、一般に駅伝制と訳されている。站赤の站(たん)は駅と同じ意味で、主要道路に10里ごとにおかれる宿駅のこと。宿駅には100戸の站戸(たんこ)が属し、人馬を提供した。駅伝を利用するのは公用の旅行者は、通行手形として牌符を携行した。駅伝制はモンゴル以前にも中国で発達しており、またオリエントのペルシア帝国などの世界帝国にも見られたシステムであった。 このジャムチは、20世紀にシベリア鉄道が開通するまで、ユーラシアでの最速の情報伝達システムであったとされている。
資料 マルコ=ポーロの伝える駅伝制 元代の駅伝制を見聞したマルコ=ポーロは次のように伝えている。
「国内諸地方に通じる主要道路上には、25〜30マイルごとに宿駅が布置されており、各宿駅に三百〜四百頭のウマが準備されて使臣の自由な使用を待っているし、宿泊設備にしても上記のような館があって、豪奢な宿泊ができるのである。しかもかかる施設は、カーンの政令が行われているすべての王国を通じて整備されているのである。・・・・以上のような制度によって、カーンの使臣たちは行く所いずくにおいても宿舎がありウマが用意されていて、日々の旅行に不便がない。この事実こそは全く、古来のいかなる帝王・いかなる人物によってもなしえられなかった壮大さ偉大さを如実に示す最も輝かしい証拠である。考えてもご覧なさい。使臣の用に供するだけでも二十万頭の馬匹がこれら宿駅に飼養されており、その上になお一万以上の館が上記のように豪奢な設備を整えて設けられているのですぞ。全く驚嘆に値する事柄であって、その富厚さはとても筆舌では尽くしえないところである。」<マルコ=ポーロ『東方見聞録』1 愛宕松男訳 東洋文庫 p.253>
 牌符
(上図参照)
はいふ。モンゴル帝国の交通網である駅伝制(ジャムチ)で使用された通行証。牌子ともいう。 「パイザという権威のある板状のものが、専用の公許であり、中国語ではパイツ、モンゴル語ではゲレゲといった。パイザは木製、銀製、あるいは金製で、それを所持する旅行者の身分や重要度によって、頭部にトラやハヤブサの飾りがある場合もあった。文字は漢字の場合とウイグル文字が使われている場合があった。<D.ゴードン『モンゴル帝国の歴史』1986 角川選書 p.101>
b ムスリム商人  → 第5章 2節 ムスリム商人
蒲寿庚 ほじゅこう。唐代以降、宋・元代にも多くのアラビア人商人(イスラーム教徒で商人であるのでムスリム商人という)多数、中国で活動していた。中国では彼らは大食(タージー)と言われた。著名な人に蒲寿庚(ほじゅこう)がいる。彼は南宋の末期に泉州で活躍したアラビア人(またはイラン人とも言う)商人で、海運業に従事していた。提挙市舶という役職について泉州の貿易を牛耳っていたが、元軍が南下してくるとそれに協力し、元の福建・広東地方制圧に活躍、元代の南海貿易でも大きな利益を上げた。蒲寿庚以外にもアラビア系ムスリム商人の活動は首都大都の他、杭州、泉州、杭州などの港市で活発であった。またアフマッドというアラビア人は元の財務長官になっている。
c 杭州  → 第3章 3節 南宋 臨安(杭州)
d 泉州 中国の福建省東南部にある海港都市。唐代から繁栄が始まり、宋、元の時代にムスリム商人が来港して活動していた。宋(北宋)では市舶司が置かれ、南宋では広州に代わって貿易の中心地となった。南宋の末に元に寝返って功績を挙げた蒲寿庚は泉州で活動していたアラブ系の商人として有名である。13世紀にはマルコ=ポーロ、14世紀にはモロッコのイヴン=バトゥータが来訪したことでも知られ、ヨーロッパではザイトゥーンといわれた。泉州はその後衰退し、現在では貿易港としての機能は失っている。
Epi. イヴン=バットゥータの見た泉州 イヴン=バットゥータはモロッコ生まれの大旅行家。1345年に泉州に上陸し、そこから大都を訪問している。その時の彼の見た泉州について、その旅行記『三大陸周遊記』は次のように記している。
「まず上陸したのはザイトゥーン(刺桐城、すなわち泉州)であった。・・・壮麗な町で、カムハー(錦紗)や、緞子を産するが、これらは町の名をとってザイトゥーニヤと呼ばれ、杭州やハンバリク(大都)製のものより優秀である。ザイトゥーンの港は世界でももっとも大きなものの一つ、いな、世界最大のものであろう。わたくしは約百隻の大型ジャンクを見た。小さなのに至っては数えきれるのもではなかった。大きな湾が海から陸地に入り、大河と合している。この町では、他のシナの町々と同じく、どの市民も庭や畑を持ち、その真中に家を建てていること、わが故郷のシジルマーサの町と同じで、このためにシナの都市は広々としている。イスラム教徒は離れた別の町に住んでいる。・・・これらの商人は、異教徒たちの国に住んでいるので、ムスリムがくると大喜びをし「イスラムの国から来たのだ」と口々にいって、自分の財産の一部を喜捨してくれる。・・・」<イヴン=ハルドゥーン『三大陸周遊記』前島信次訳 角川文庫 p.288>
e 広州  → 第3 2節 唐代の制度と文化 広州 
f 大運河 (元)金と南宋の対立のために中国全土の経済圏は分断されていたが、元朝の成立によって再び統合されることとなった。そこで再び脚光を浴びたのが大運河であった。隋の大運河は、長安・洛陽に向けて、江南と華北地方を横Y字型で結ぶものであったので、元は都大都と江南地方を直接結ぶ、南北縦断する運河の建設を新たに開始した。1276〜1292年の間にそれを完成させ、現在見るような大運河となった。授時暦で有名な郭守敬も水利技術者として大都と通州を結ぶ通恵河の設計・建設に携わった。(一方で元は南方の物資を海上輸送で華北に運んだ。それは、冬季になると大都付近の運河が凍結して使えなくなってしまうからであった。)
通恵河 つうけいが。代に首都大都から通州まで開設された大運河の一部。1291年、フビライ=ハンの命令で、郭守敬授時暦の制定でも知られる漢人の技術者)が設計し、翌年着工、1293年に完成した。郭守敬は、大都の北方の昌平県白浮泉の水源から水路を甕山泊に導き、そこから城内の積水潭に引き込み、東に向かってから南に折れ、南の水門から旧運河に合流するようにした。旧運河にも14の水門を設けるなど、厳密な測量と工事で運河を完成させた。約2万人を動員し、約91kmの大工事であった。この運河の完成によって、これまで通州で荷揚げされていた穀物輸送等の船舶は、大都まで直通できるようになり、大都の積水潭は船で水面が覆われるほど盛況が出現した。なお、甕山泊とは、現在の頤和園の昆明湖の前身である。<陳高華『元の大都 マルコ・ポーロ時代の北京』1984 中公新書 p.64-65>
E 経済の発展 モンゴル帝国の文明は、キタイ帝国(遼)以来の遊牧型の政治と定住型の経済の結合システムであったが、モンゴルの大征服の結果として、ユーラシア大陸の隅々まで治安と交通の便がよくなり、同じ文明のシステムが広く普及して、遠近の諸地域を結ぶ経済活動がこれまでになく活発になった。金領の華北ですでに成立していた信用取引の原理と資本主義経済の萌芽も、この情勢に乗ってモンゴル世界全体に広がり、その外側に隣接する西ヨーロッパにも強い影響を与えることになった。地中海世界では、モンゴル帝国の出現と同時の13世紀に、黒海と東地中海の貿易権を握っていたヴェネツィアに、ヨーロッパで最初の銀行が成立している。」<岡田英弘『世界史の誕生』1992 ちくま文庫版 p.241> 
a 交鈔

元の交鈔
これは至元24年(1287年)に発行された2貫の新札の銅版拓本。縦28.3cmの大きさだった。真ん中の文に「偽造者は死刑に処す」とある。
中国の紙幣は北宋の交子に始まり、南宋で会子が発行され、で交鈔と言われるようになって発展したが、モンゴル帝国は金を滅ぼした後の1236年より、交鈔の発行を始めた。金の領土を引き継いだがその領内には銅山がなかったため、銅銭の原料に不足したため、と言われている。金も銅銭が不足していたので、交鈔を発行し、貨幣の代わりとしていたが、次第に濫発傾向となり、経済を混乱させていたので、耶律楚材の建言もあり、交鈔発行額を制限した。フビライ=ハンは1260年に即位すると「中統鈔」(中統は元の最初の年号)という交鈔を統一紙幣紙幣として発行し、すべての取引、役人への俸給なども交鈔で行うこととした。朝の交鈔は遠隔地取引など、経済の発展に対応し、広く流通したので、銅銭の発行を止め、交鈔のみの流通を図った。しかし宮廷の奢侈生活による出費も増大し、次第に交鈔が濫発されて価値が下落し、民衆生活を苦しめるようになって、元朝の滅亡を早めた。
世界最初の不換紙幣の発行 「世界最初の紙幣を発行したのもモンゴル人であった。元朝のフビライ=ハーンは、盛んになった遠距離貿易の決済の便宜のために、1275年、世界最初の不換紙幣を発行した。これが元朝の唯一の法定通貨で、紙幣の他には金貨も銀貨も銅貨もなかった。このモンゴル紙幣の信用は高く、流通は順調、価値は安定して、インフレーションの程度も大したことはなかった。もっとも1351年の紅巾の乱が起こってからは、爆発的な悪性インフレーションとなり、紙幣の信用は失墜した。元朝から中国を奪った明朝は、元朝に倣って不換紙幣を発行したが、中国人の明朝の信用はモンゴル人の元朝に遠く及ばず、その紙幣はまったく流通せず、中国の経済は沈滞した。明朝の中国の経済が好況を呈するのは、16世紀の半ばにスペイン人が太平洋航路でフィリピンに到着して、メキシコ産の銀が大量に中国に流れこみ、銀地金が決済に使われるようになってからのことである。」<岡田英弘『世界史の誕生』1992 ちくま文庫版 p.241>
Epi. マルコ=ポーロを驚かせた交鈔の発行 当時ヨーロッパには紙幣はなかったから、元で紙幣が使われていることはマルコ=ポーロを驚かせた。『東方見聞録』にも、元の紙幣の発行の様子が記録されている。それによると桑(正しくはコウゾ)の樹皮を煮詰めて紙をつくり、それを小さく裁断して紙面に金額を印刷し、ハンの朱印を捺す。「こうやってこの紙幣ができあがると、カーンは一切の支払いをこれで済ませ、治下の全領域・全王国にこれを通行せしめる。流通を肯んじなければ死刑になるので、だれ一人としてこれが授受を拒む者はいない。実際のところ、どの地方でもどんな人でも、いやしくもカーンの臣民たる者ならだれでも、快くこの紙幣での支払いを受け取る。というのも、彼らはどこへ行こうとこの紙幣で万事の支払いができる。・・・」<マルコ=ポーロ『東方見聞録』1 愛宕松男訳 平凡社東洋文庫 p.244〜>
b 大土地所有  
F 元代の文化 現代の文化の特徴は次のような点にまとめられる。
(1)庶民文化の発展 宋時代に芽生えた庶民文化は、元曲の流行や文人画の普及などにみられるように元代で大いに発展した。特に都の大都の都市文化は東西交流の影響も受けて華やかだった。
(2)チベット仏教の保護 元朝は宗教に対しては寛容で、朝廷ではチベット仏教が信仰され、多くの造寺が行われたが、中国固有の道教では全真教が発展し、仏教も認められていた。またゾロアスター教や景教も元代には復興した。
(3)東西交流の進展 ローマ教皇の使節や、ベネチアの商人マルコポーロの来朝、さらにイスラーム教徒の商人やイブン=バットゥータの来朝など、モンゴル帝国のユーラシア支配のもとで東西交流が活発だった。
a 元曲 元の文化の中では、宋の儒学(朱子学)のような、漢文化の発展はなかった。しかし、元曲の流行のような、新しい民衆文化が芽生えたのがこの時代である。中国文学史上の代表的な動きとして、漢代の文章(漢文学)、唐の詩(漢詩)と並んで、元の元曲が挙げられている。元曲とは、歌舞・音曲・演技が一体となった舞台芸術である雑劇(戯曲)の台本のこと。元の時代に一般大衆の中から始まり、元を代表する唯一の文芸となった。特に大都で盛んになったものを北曲、江南で盛んになったものを南曲という。その後さらに明、清時代に発展していく。作者と作品としては関漢卿の『救風塵』、馬致遠の『漢宮秋』、王実甫の『西廂記』、白仁甫の『梧桐雨』、高明の『琵琶記』などが知られている。現代の中国では清の北京に始まるとされる京劇が盛んであるが、元曲も京劇に影響を与えている。
『西廂記』 せいしょうき。元代の戯曲である元曲の代表的作品。王実甫の作。張君瑞と崔鶯鶯の男女二人を主人公とした恋愛物語で、心理描写に富み、また元代の社会を知る史料となっている。
『琵琶記』 びわき。元末の長編戯曲である元曲の作品。高明(則誠)の作。伝奇的な南曲(江南で盛んになった元曲)の代表的な作品。後漢の豪族生活を舞台にし、元代の地主(士大夫)階級を批判的に描いている。
元末四大家 元末に文人画の画家として活躍した、黄公望、王蒙、倪さん(げいさん)、呉鎮の四人。モンゴル支配下の元の江南地方の漢民族である南人は、科挙の受験資格が無く、上級官僚への道が閉ざされていたので、南人の知識人層は絵画の分野で才能を伸ばした。文人画は宋代に起こり、この元末四大家の時期に、山水画の画風を確立し、次の明代に南宗画(南画)と言われるようになる。
趙孟ふちょうもうふ。または趙子昂(ちょうすごう)と称す。元の文人。書と絵画に優れ、南宋の院体画に対して文人画を復興させ、元末四大家への橋渡しをした。また書では王羲之以来の貴族的な正統を継承した。なお、姓からわかるように彼は宋の皇帝一族に属していたが、異民族の元朝に仕え、高官になったので、無節操と非難されている。 
ウ.モンゴル時代のユーラシア
A 東西交流の活発化 13〜14世紀、ユーラシア大陸にモンゴル帝国が成立した時代は、地中海世界では十字軍運動の展開の後半期と、その後のイタリア商人を中心とした商業の復興の時代であり、またインド洋ではムスリム商人による海上貿易が展開されていた。モンゴル帝国の成立とそれによってもたらされた「タタールの平和」は、そのような広範囲な世界商業圏の成立を背景にあり得たと言える。そのような時期に、東西の人的、物的な交流、言い換えれば文化的、経済的な交流が活発となった。その代表的な人物の動きとしてあげられるのが、ヨーロッパからアジアにやってきたプラノ=カルピニルブルックモンテ=コルヴィノらのキリスト教関係者、そしてマルコ=ポーロらの商人、逆にアジアからヨーロッパに赴いたラッバン=ソウマ、イスラーム教徒として三大陸を旅行したイヴン=バトゥータらをあげることができる。なお、西欧キリスト教世界には、東方世界にキリスト教の王が存在するというプレスター=ジョンの伝説があり、十字軍時代にイスラーム勢力の背後のキリスト教勢力と提携するかの制を探るという動きもあった。
プレスター=ジョンの伝説中世ヨーロッパの12世紀、十字軍が展開された時代には、遠く離れた東方の世界に、キリスト教徒が住んでいて、その指導者のプレスター=ジョンが、十字軍を助けてイェルサレムをイスラーム教徒から奪回するためにやってくる、という伝説が広く信じられていた。13世紀に突然、東方から姿を現したモンゴルの西方遠征の騎馬部隊を、プレスター=ジョンの軍隊ではないか、と期待したが、彼らはキリスト教徒ではなく、ヨーロッパの町を破壊し、人々を殺戮して帰っていった。ヨーロッパ人はモンゴル人を「タルタル人(ギリシア語の地獄を意味するTartarusからきたという)」と呼ぶようになった。モンゴルの征服者がプレスター=ジョンではないことは明らかになったが、その後もローマ教皇インノケンティウス4世やフランス王ルイ9世は元の皇帝との提携を模索して使者を派遣した。また、後の大航海時代の初期のポルトガルのエンリケ皇太子がアフリカ西岸探検を始めたのも、プレスター=ジョンの存在を探る目的もあったという。
伝説の背景 アジアにキリスト教徒が存在するというのは、おそらくかつて異端として追いやられたネストリウス派のことであり、その点では正しいが、プレスター=ジョンの存在は伝説である。このような伝説が生まれる背景として、12世紀のカラ=キタイ(西遼)の存在が考えられる。中国北部を支配していた契丹(キタイ=遼)が1125年に金に滅ぼされたとき、その王族の一部が西に走り、1133年に中央アジアにカラ=キタイ(西遼)を建国した。カラ=キタイとは「黒いキタイ」の意味で、英語ではBblack Cathay といい、ここからヨーロッパの言語に中国を意味するキャセイという言葉が生まれた。カラ=キタイが治めた中央アジア(東西トルキスタン)には、イスラーム教徒の他に、ネストリウス派のキリスト教徒(イラン系が多かった)やゾロアスター教徒、仏教徒などが混在していた。1142年にカラ=キタイはイラン高原のセルジューク朝スルタンのサンジャルとの間で、サマルカンド郊外のカトワーン草原で戦い、勝利を収めた。このセルジューク朝の敗北が伝説として西方に伝えられたのではないか、と考えられている。<D.モーガン『モンゴル帝国の歴史』1986 角川選書 p.31>
a タタールの平和 モンゴル帝国がユーラシア内陸の大半を支配(中国本土の元を本家として、中央アジアのチャガタイ=ハン国、ロシアのキプチャク=ハン国、イランのイル=ハン国が同じモンゴル系の国家としてそれに従属する体制をとった)が確立し、特に1305年にハイドゥの乱が鎮定されて元の支配が安定したことによってもたらされた平和こことを言う。ローマ帝国による地中海世界での「パックス=ロマーナ」(ローマの平和)になぞらえて、PAX TATARIKA という。タタールというのは、もとはモンゴル系の遊牧部族であるタタル人(中国名で韃靼)を指していたが、13世紀にロシア・東ヨーロッパに侵攻したモンゴル軍(タタル人を含むモンゴル人やトルコ人などを含んでいた)をヨーロッパ側でタタールと言うようになった。この「タタールの平和」の実現によって、ユーラシア内陸の東西交流の活発化がもたらされ、ルネサンスや大航海時代、ひいては宗教改革につながっていく。 → タタールのくびき
インノケンティウス4世 13世紀の教皇権最盛期のローマ教皇の一人。在位1243年〜54年。ローマ皇帝フリードリヒ2世(シュタウフェン朝の皇帝でシチリアのパレルモを拠点にイタリア統一を進めようとしていた)と激しく対立し、1245年のリヨン公会議でフリードリヒ2世を破門し、皇帝廃位を決定した。そのため、イタリアはロンバルディア都市同盟など教皇を支持する教皇派(ゲルフ)と、皇帝による統一を支持する皇帝派(ギベリン)が激しく争うこととなった。結局、フリードリヒ2世の死後、南イタリアのシュタウフェン朝勢力はフランスのアンジュー家によって追い出され、教皇派の力は南イタリアに及ぶようになる。また当時、モンゴル軍の東ヨーロッパ侵入がキリスト教世界を恐怖に陥れ、1241年のワールシュタットの戦いでポーランドなどのキリスト教軍が敗れたことを受けて、就任の年にフランチェスコ会修道士プラノ=カルピニをモンゴルに派遣することにした。カルピニはカラコルムでモンゴル帝国のグユク=ハンに面会し、教皇あて返書を携え帰国した。
Epi.  インノケンティウス4世の野望 「インノケンティウス4世は、大望を抱いていた。教会内部では、改革を推進した。外部世界に対しては、中東方面のネストリウス派をはじめとする諸分派やロシア方面の正教会をも取り込んで、キリスト教会の大統一をめざした。・・・対モンゴル政策には、そうした広い意味での「東方政策」と、それによる教皇権力の一層の拡大の思惑が秘められていたのである。・・・インノケンティウス4世は、中世西欧の十字軍時代の終幕を飾る巨人であった。」<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 講談社現代新書 p.114>
b  プラノ=カルピニ イタリア人のフランチェスコ会修道士で、プラノ=カルピニのジョバンニという。モンゴル軍が東方に去った1年後の1243年、ローマ教皇に選出されたインノケンティウス4世は、モンゴル帝国についての情報を得るため、使節を派遣することを決定し、プラノ=カルピニを派遣した。プラノ=カルピニは1246年にカラコルムにたどり着き、おりから挙行された第3代ハンのグユク=ハンの即位式に列席し、グユク=ハンの教皇への返書をたずさえて帰国した。それには「おおいなる教皇たる汝、もし汝が汝の言葉を守るならば、すべての諸王とともに汝みずから来たりて朕に臣従を誓うべし・・・・神の力によりて、日の昇るところより、日の没するところまで、すべての土地を神は朕に授けられたり」というものであった。彼の残した報告書は、貴重な報告書としてヨーロッパの人々に広く知られた。<D.モーガン『モンゴル帝国の歴史』1986 角川選書 p.199 及び同氏『大モンゴル2』「ヨーロッパに対するモンゴルの衝撃」 NHK 角川書店>
c ルブルック 1253〜55年、モンゴルに赴いたフランシスコ会修道士(ルブルクのギヨーム)。フランス王のルイ9世はイスラーム勢力に向けて十字軍を派遣するにあたり、その背後のモンゴル帝国との提携を図ろうとした。ルイ9世はモンゴル皇帝がキリスト教に改宗したという情報をもとに、1249年ロンジュモーのアンドルーという宣教師を派遣した。しかし、アンドルーが到着した時はちょうどグュク=ハンが死去して後継争いの最中で、接見した摂政の皇后オグル=ガイミッシュは貢物を持ってこなければ懲罰するという態度であった。そのルイ9世はその報告を聴き、自分自身の1251年の十字軍に失敗してカイロで捕虜となってしまうなど、失意のうちにあったので、モンゴル遣使はあきらめていた。修道士ルブルックの申し出は自発的なものであって、ルイ9世が派遣したものではなかった。
ルブルックは正式な使節の地位を認められず、一介の伝道者としての旅であったので、プラノ=カルピニに比べて困難な旅であった。彼はカラコルムにいたって第4代のモンケ=ハンに面会した。帰国後、ルブルックも詳細な報告書をルイ9世に提出したが、プラノ=カルピニの報告書と違って情報は豊富であり、正確だった。その旅行記によれば、ルブルックはモンケ=ハンの前で、ネストリウス派キリスト教の教士と宗教論議をしたという。しかし、一私人の記録とされたためか、ほとんど世に知られることはなかった。<D.モーガン『モンゴル帝国の歴史』1986 角川選書 p.202 及び同氏『大モンゴル2』「ヨーロッパに対するモンゴルの衝撃」 NHK 角川書店>
d マルコ=ポーロ イタリアのヴェネティア生まれの商人。1271年、17歳の時、父や叔父と一緒に東方への旅に出発し、陸路をとり、トルキスタン、西域を通って、1275年に元の都大都に至った。元の世祖フビライ=ハンに厚遇され、政務に参加した。1292年にイル=ハン国に嫁ぐ王女を送って泉州を出航、海路マラッカ海峡を通って使命を果たした後、1295年にヴェネティアに帰った。マルコ=ポーロはヴェネティアに帰国後、貿易に従事していたが、ジェノヴァとの戦争が起こり、その時捕虜となって捕らえられ、獄中でその見聞をルスティケロという人物に話をした。ルスティケロが記述したのが『東方見聞録』である。
Epi. マルコ=ポーロは本当に中国へ行ったのか マルコ=ポーロは元の都の大都に赴き、フビライに用いられて様々なことを見聞し、その見聞録が『東方見聞録』であり、日本の含むアジアの詳細な情報が初めてヨーロッパに伝えられたもの、と一般には信じられている。しかし、『東方見聞録』はマルコ=ポーロが筆記したものではなく、しかも版を重ねるにつれマルコ=ポーロ以外の伝聞が加えられていった疑いがある。また、現在では学者の一部には、中国側(元)の史料にマルコ=ポーロのことが一切出てこないこと、17年も中国にいたはずなのに、当時の中国の普通の習慣、たとえば「茶」のことや、「纏足」のことなど、また「万里の長城」などにもふれられていないといったことを理由に、マルコ=ポーロがはたして本当に中国まで行ったのか、と言う疑問を呈している。たしかにいくつかの疑問点はあるが、『東方見聞録』が13世紀の中国を中心とするアジアの状況を伝える貴重な資料であることは間違いはない。<フランシス=ウッド 粟野真紀子訳『マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか?』1995 草思社>
e 『世界の記述』(『東方見聞録』) マルコ=ポーロが1271年から1295年にいたる25年間の東方への大旅行を記録した書物。帰国後ジェノヴァの獄中で口述筆記され、その死後発表された。その詳細な記録は、ヨーロッパに初めて中国とその周辺の諸国、知らせることとなった。特に日本の存在は、ジパングという名で初めてヨーロッパに伝えられた。
ラッバン=ソウマ ラッバン=サウマーとも表記する。1287年、イル=ハン国のアルグンがヨーロッパに派遣したネストリウス派キリスト教徒。イル=ハン国は、イスラームのマムルーク朝と対立していたので、キリスト教国と提携することを策し、使節をヨーロッパ各国に派遣することとなった。使節となったラッバン=ソウマは元の大都生まれのウイグル人で、ネストリウス派のキリスト教徒であった。イェルサレム巡礼に向かう途中、イル=ハン国のハンの使節となってヨーロッパに向かうこととなり、コンスタンティノープル、ナポリ、ローマ、ジェノヴァ、ガスコーニュ、パリを訪れ、詳細な記録を残した。彼が会見したのは、ビザンツ皇帝、フランス王フィリップ4世、イギリス王エドワード1世、ローマ教皇ニコラウス4世などであった。両者の同盟はならなかったが、13世紀の東西の関係が想像以上に密であったことをうかがわせることである。1294年に大都に至ったモンテ=コルヴィノはこのラッバン=ソウマの派遣が契機となったという。
f モンテ=コルヴィノ 南イタリアのモンテ=コルヴィノ出身のジョバンニというフランシスコ会修道士。東方伝道を志しイル=ハン国に入り、1289年、ラッバン=ソウマを伴ってローマ教皇ニコラウス4世に面会、教皇からモンゴル皇帝への手紙を託されて東方に向かい、イランのホルムズから海路インドに渡り、さらに1294年、元の大都に到達した。以後、キリスト教の布教につとめ、大都の総大司教に任命された。これは、中国における、キリスト教化トリックの最初の本格的な布教の始まりであったが、中国人の信者は増えなかった。モンテ=コルヴィノもその地で亡くなり、元朝も倒れると、しばらくキリスト教布教は行われなくなり、次は16世紀のイエズス会のアジア布教を待たなければならない。
B 東西文化の交流  
a 郭守敬 元のフビライ=ハンに仕えた科学者。大都に通じる運河通恵河を開通させる業績を上げ、さらに天文暦法で知られる。彼は「簡儀」「仰儀」「高表」などの天体観測機を発明し(その実物は残念ながら残っていない)、太陽の角度を正確に計測して夏至・冬至の時期を計算し、1年の正確な日数を割り出し、それをもとに1280年に「授時暦」という新しい暦法を作った。さらに「七宝燈漏」という大型の機械時計を考案した。<陳高華『元の大都−マルコ=ポーロ時代の北京』佐竹靖彦訳 中公新書 p.174>
b 授時暦 元の郭守敬イスラーム暦に刺激されて、1280年に作った暦法。中国では殷周時代以来、各王朝が制定する太陰暦(実際には太陰太陽暦)で1年を365.25日とするされていたが、授時暦では1年は365.2425日で、地球の公転周期との差はわずかに26秒であった。その正確さはこの約300年後の1582年、ローマ=カトリック教会でグレゴリウス13世の時に考案され、現在通用しているグレゴリウス暦(ヨーロッパでそれまで用いられていたユリウス暦に変わり制定された暦法)に等しいという正確なものであった。授時暦は高麗に伝えられ、高麗の暦法にも影響を与えた。さらに日本にも影響を与え、江戸時代の渋川春海が1685年に作った「貞享暦」も授時暦に基づいている。
その後の中国の暦法 中国では、次の明朝が授時暦を一部修正して、1368年に大統暦を採用した。中国における西洋暦法の受容は、明末の1629年のアダム=シャールと徐光啓による『崇禎暦書』の作成からであり、清朝がそれを1645年に適用して時憲暦とした。グレゴリウス暦(太陽暦)に切り替わるのは、辛亥革命の翌年、中華民国第1年の1912年からである(日本の太陽暦切り替えは1873年)。
出題 東京大学 2007  第2問 問(3) 中国では古くから、天体観測に基づく暦が作られていたが、支配者の権威を示したり、日食など天文事象の予告の正確さを期するため、暦法が改変されていった。元〜清の中国における暦法の変遷について、4行(120字)以内で説明しなさい。 解答(例) ↓ 
ミニアチュール(細密画) イスラーム圏で見られる書物の挿絵などに用いられた細密で装飾的な絵画。イスラーム教では偶像崇拝が厳しく禁止されていたので、写実的な絵画や彫刻は発達せず、アラビア文字の書体や挿絵としての細密画(ミニアチュール)が発達した。ミニアチュールは9世紀ごろのアッバース朝の宮廷に始まり、イランを中心に作られていたが、13世紀にイランを征服してイル=ハン国を建てたモンゴル人が、中国絵画の技法をイスラーム世界に伝え、独自の発展をするに至った。その後、ミニアチュールは、ティムール朝ではトルコ=イスラーム文化として開花し、全盛期を迎え、さらにムガル朝ではインド的な題材も取り入れてインド=イスラーム文化として発展し、宮廷でのムガル絵画に影響を与えた。
c  パスパ文字 元朝の宮廷で用いられた文字。パスパはチベット仏教のサキャ派第5代座主で、漢字では八思巴と書き、パクパとも表記。フビライ=ハンに仕えその国師となって影響を与えた。フビライ=ハンはパスパに命じて、元朝内の様々な言語を表記するための文字を作成させた。それがパスパ文字で、チベット文字をもとに41のもとになる文字を定めたもの。パスパ文字は民衆には普及せず、宮廷の公用文書に使われ、元の滅亡後は、チベット仏教の印章などに使われて残った。
パスパ 13世紀のチベット仏教指導者。パクパとも表記する。チベット仏教の呪術的な要素を排除してその純化に努めてサキャ派を起こし、その教主としてチベットで仏教理念に基づく政治を行った。ついで元のフビライに招かれて中国に赴き、モンゴル人にチベット仏教を広めた。さらにフビライの命によりチベット文字をもとに元朝で使用される文字を作った。それをパスパ文字という。
エ.モンゴル帝国の解体
A モンゴル帝国の解体  
a ティムール  →第8章 3節 ティムール帝国
b モスクワ大公国  →第6章 2節 モスクワ大公国
B 元の滅亡 ではフビライ=ハンの死去(1294年)以後、その孫の6代成宗(テムル)が13年統治した後急死し、子がなかったのでまた帝位継承で問題が起き、7代には甥のカイシャン(武宗)が即位、それも数年で死去したため兄弟の8代アユルバルワダ(仁宗)が継承、次は子のシディバラ(英宗)となった。これらの皇帝位の継承をめぐって皇太后などの介入がしばしば事態を複雑にし、争いが絶えなかった。最後の皇帝順帝が即位するまでの40年間に9人の皇帝が交替し、激しい権力闘争は政治不安を増していった。特に仁宗・英宗の時代(1311〜23年)は官僚が台頭し、科挙の一時的復活など、中国風の統治が強まる一方、チベット仏教が過剰に保護された。宮廷の奢侈生活のために交鈔が濫発され、インフレ(物価上昇)が続いて、民衆生活は苦しくなっていた。
そのような社会不安の強まる中、1351年に白蓮教徒という宗教秘密結社が蜂起し、それが紅巾の乱という全国的な反乱につながった。紅巾の乱の中から生まれた朱元璋の勢力は、紅巾の乱を鎮定した後、1368年南京で明を建国し、同年、大軍によって大都を攻撃、元の皇帝順帝(トゴンテムール)は大都を放棄し北上したが上都(夏の都)も陥落し、元は滅亡した。モンゴル討伐の明軍はさらに山西、陝西方面からもモンゴル軍を一掃し、1370年に南京に凱旋した。モンゴル高原に引き下がったモンゴル人は「北元」を称して存続し、明にとってあなどりがたい存在として存続する。
a チベット仏教  → 第3章 2節 チベット仏教 
b 交鈔 (の濫発)は、南宋を制圧(1276年)すると、宋の発行していた紙幣(会子)を交鈔(中統鈔)に交換させ、宋銭の流通を禁止し政府に回収した。南宋の領土が編入されると、その経済力を継承するための、交鈔の増発が行われた。その後、急速に紙幣の濫発が進んだので、その価値は下落し、経済が混乱したので、1287年には新紙幣の至元鈔を発行し、価格の安定を図った。しかし、その後も濫発傾向は治まらず、14世紀にはその価値は約3分の1に下落した。<この項、愛宕松男・寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談社学術文庫版 p.179〜182>
c 紅巾の乱  → 第8章 1節 14世紀の東アジア 紅巾の乱
d 明  → 第8章 1節 14世紀の東アジア 明朝の成立