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4.現代文明
ア.現代科学と生活・環境の変化
1.20世紀の科学19世紀末にX線、放射能、電子、各種の放射線が相次いで発見され、古典物理学(ニュートン力学)では扱いきれない、ミクロの世界が対象となってきた。その20世紀物理学の基礎は、アインシュタインによる1905年の特殊相対性論、さらに1916年の一般相対性論であり、それによって時間、空間、質量の概念は根底から覆された。1932年には陽電子、中性子が発見され、原子核物理学は急速に深化した。34年にはジョリオ=キューリー夫妻が人工的に放射性物質を作り出すことに成功、フェルミやハーンの研究によってウランの核分裂から莫大なエネルギーが放出されることが発見され、それが原子爆弾の出現につながった。新たな原子力時代の幕開けであるともに、人類は核兵器という自ら作りだした恐怖と戦わなければならなくなった。
ノーベル賞 Epi. 20世紀とともに始まったノーベル賞 第1回ノーベル賞が授与されたのは1901年、20世紀最初の年であった。ノーベルは1896年に死去したが、亡くなる前年パリでノーベル賞創設の遺言状を作成していた。彼はダイナマイトの発明で得られた自分の遺産をもとに基金を作り、その利子を物理学、化学、医学生理学、文学、平和運動の5分野で最も重要な貢献をした人たちに、毎年、賞の形で分配するように書き残した。その中でノーベルは、受賞者は国籍を一切問わないことを明記している。その第1回の受賞が行われたのがノーベル死後5年目の1901年であった。第1回の受賞者は、物理学賞がレントゲン(独)、化学賞がファント・ホフ(オランダ)、医学生理学賞がフォン・ベーリング(独)、文学賞がプリュドム(仏)、平和賞がアンリ=デュナン(スイス)とバシー(仏)であった。日本人の最初の受賞者は、1949年、中間子理論の湯川秀樹であった。<小山慶太『科学史年表』中公新書 などによる>  → The Nobel Prize Internet Archive
a アインシュタイン 20世紀前半に活躍したドイツ生まれの理論物理学者。相対性理論の創始者としてよく知られているが、他にも量子力学、統計力学などでもすぐれた業績を残し、1921年のノーベル物理学賞を受賞、20世紀の最大の科学者の一人とされている。ユダヤ系であったため1933年にドイツにナチス政権が成立するとアメリカに亡命、その後アメリカに帰化した。1939年、ドイツの原子爆弾開発が先行することを危惧し、アメリカ合衆国のF=ローズヴェルト大統領に原子爆弾開発を開始するよう進言し、その結果、マンハッタン計画と言われるアメリカの原爆開発計画が始まった。アメリカの原子爆弾開発をナチスとの対抗、推進する立場となったが、その脅威を最もよく知るアインシュタインは、その使用にあたってはトルーマン大統領に見合わせるように警告したことが知られている。戦後は一貫して核兵器・核戦争の廃絶を訴え、1955年には哲学者のバートランド=ラッセルとともにラッセル=アインシュタイン宣言を発表したがその直後に死去した。この提言がもととなって57年には世界の科学者がパグウォッシュ会議を開催し、世界的な核廃絶運動が盛り上がることとなった。
b 原子爆弾 20世紀に入ってアインシュタインらによって急速に進められた原子物理学は、戦争という時代の要請によって、一気に原子爆弾という悪魔的な大量破壊兵器を人類にもたらしてしまった。原子爆弾の出現は近代科学の行き着いたところとして、科学のあり方、科学者の倫理という大きな問題を突きつけることとなった。原爆の出現に至るステップは複雑であるが、1938年に核分裂が発見されてからわずか7年で実際に使用されてしまったという開発の速さは、科学者の純粋な研究と、国家権力がそれを戦争に利用しようとする思惑との結果であったことは間違いない。アメリカで原爆の開発にあたった学者の多くは、ヨーロッパのファシズムやユダヤ人迫害を避けて亡命した人々であった。ナチスドイツの手で核兵器が実用化される前に成功させなければならないというのが彼らの使命であった。→ マンハッタン計画 → 広島・長崎  → 核兵器開発競争
Epi. ノーベル賞受賞式場からアメリカに亡命した科学者 1938年、イタリアのフェルミは、中性子照射によって元素の人工変換に成功したことを評価されノーベル物理学賞を受賞した。ところが授賞式の後、フェルミはイタリアには戻らず、家族とともにストックホルムからアメリカに亡命してしまった。フェルミの妻がユダヤ人でありファシストによる迫害が迫っていたからであった。シカゴ大学に移ったフェルミは1942年には最初の原子炉を組立て、核分裂の制御に成功し、原子爆弾製造を一歩進めたのだった。<小山慶太『科学史年表』中公新書 p.230>
c DNA 20世紀後半の最大の発見とされるのがDNA(デオキシリボ核酸)の発見である。1953年、イギリスのケンブリッジにあるキャヴェンディッシュ研究所で、25歳の青年科学者ワトソンが、先輩のクリックと二人で研究しその二重らせん構造をつきとめたものであった。この発見はX線回折像の写真撮影によって可能となったので、ワトソンとクリックの二人と、その写真撮影に成功したウィルキンスの三人に、1962年のノーベル医学生理学賞が与えられた。
d バイオテクノロジー  
e 抗生物質  
2.科学技術の実用化  
a 航空機  
b ロケット  
c スプートニク1号  
d アポロ11号  
e エレクトロニクス  
f コンピュータ  
 IT革命  
h フォード  
i ナイロン  
j プラスティック  
3.先進工業国での諸問題  
a 産業構造の変化  
b 雇用形態の変化  
c 高齢化社会  
イ.現代文明による危機
1.人口問題 
 少子化  
a 人口爆発  
2. 環境問題 環境問題の発生:18世紀のイギリスの産業革命に始まる科学技術の発展と物資の大量生産によって、エネルギー資源として化石燃料(石炭、石油)・森林資源を大量に消費してきた。そのため、二酸化炭素・窒素酸化物・廃熱・汚水などの大量廃棄が続いた。その結果、地球規模の環境破壊が問題となってきた。特に第2次世界大戦後、戦後の復興が終わり、生活が豊かになり始めた1960年代に問題視されるようになった。そのきっかけが、1962年のレイチェル=カーソン著『沈黙の春』である。
日本の環境問題:日本でも19世紀末の「足尾鉱毒事件」についで、1960年代の水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく、阿賀野川第2水俣病など「公害病」の表面化し、1967年に公害対策基本法が制定され、1993年には環境基本法に改訂された。
環境問題への関心の高まり:1970年代にはいり、国際的な環境問題に対する関心の高まりから、1972年に国連人間環境会議がストックホルムで開催され、114ヵ国が参加し、「かけがえのない地球」をスローガンにした環境問題に対する最初の国際的対策会議となった。この会議について、ワルトハイム国連事務局長は「産業革命以来200年の歴史に修正を加えた」と評価した。会議では、「人間環境宣言」を採択し、さらに国連総会は「国連環境計画」(UNEP)を設立した。しかし、1970年代にはオイルショックに見舞われたため、各国の環境対策は停滞した。
ようやく20年後の1992年にリオデジャネイロで「国連環境開発会議」(地球サミット、172国が参加)が開催され、「持続可能な発展」という理念を取り入れた「リオ宣言」が採択され、さらに「アジェンダ21」(具体的な行動計画)が策定された。
現在の環境問題:21世紀を迎えた現在においては、特に「国境」を超えた次のような地球規模の環境問題が表面化している。
  温暖化オゾン層破壊・海洋汚染・酸性雨・砂漠化・熱帯雨林の減少・野生生物種の絶滅など。 
a 地球温暖化 現在の重要な環境問題の一つ。18世紀中頃から先進諸国の人間が化石燃料(石炭・石油)を燃焼させ続けているため、大気中の二酸化炭素の量が増加し、その結果地球の平均気温は上昇し、最近の100年間で約0.6度上昇した。この気温の上昇は、氷河期・間氷期などの自然環境の変化ではなく、人間の経済活動が原因であった。温暖化が進むと、海水面の上昇(インド洋のモルディブなど水没の危険がある)、森林の減少、異常気象、生態系の破壊など、計り知れない環境の変化が起こると考えられている。 そこで、1992年のリオデジャネイロで開催された国連環境開発会議では、温暖化防止のための「アジェンダ21」が作成され、「気候変動枠組条約」が締結された。ただし、地球温暖化の防止に関する意見には、南北問題からくる立場、主張のちがいがある。
・EU諸国など:温室効果ガスの排出を厳しう制限、さらに削減目標を高くし、環境問題解決をはかるべきであると主張。
・アメリカ、日本など:削減が産業発展を阻害する恐れがあるから目標を現実的なものに抑え、開発途上国も義務化すべきであると主張。
・中国、インドなど:先進国が高い削減目標を設定すべきであり、工業化の途上にある国は削減目標の設定をすべきではないと主張。
これらの立場の違いを克服して、先進国と途上国の妥協がはかられたのが、1997年の京都議定書であった。 
b 砂漠化 現在、世界で年間約600万haの砂漠化が進行していおり、干ばつや食糧不足が深刻になっている。最も深刻な北アフリカのサヘル砂漠(アフリカのサハラ砂漠の南につながる地域)では、1970年、80年の干ばつによる餓死者が約100万人に上っている。中国では北京近郊にまで砂漠化進むんでおり、黄砂の増加は日本にも飛来して被害を出している。
・原因: 焼畑による耕地拡大、放牧地の拡大、家畜の増大による牧草地の砂漠化、森林伐採による保水力の低下が考えられる。
・対策:緑化事業などを国際的な事業として続けることが必要。1994年には、砂漠化対処条約が採択(パリ)されている。しかし、砂漠化は途上国の人口急増、貧困と結びついており解決は多面的な課題があり、難しい。  
c オゾン層破壊 オゾン層は、成層圏で地球を包み、紫外線を吸収する働きがある。オゾン層が破壊されると、紫外線の増加により、皮膚ガン・白内障や植物の生育障害が発生する。実際、南極上空のオゾンホールの発生によってオーストラリアなどで被害が出ている。
・原因:冷蔵庫・クーラーなどの冷媒、半導体の洗浄剤、スプレーの噴射剤などに使用されているフロンガスがオゾン層を破壊する。
・対策:1985年のウィーン条約、1987年のモントリオール議定書によって、1995年までに特定フロンの使用禁止、2000年までに全廃された。しかし、代替フロンが使われており、それは温室効果ガスの成因ともなるので、さらに規制が必要となっている。先進国では2020年、途上国では2040年に全廃される予定になっている。  
d スリーマイル島  
e チェルノブイリ  → 第17章 2節 チェルノブイリ原子力発電所
f アジェンダ21計画 1992年、ブラジルのリオデジャネイロで開催された、「国連環境開発会議」(地球サミット、172国が参加)では、「持続可能な発展」という理念を取り入れた「リオ宣言」が採択され、さらに「アジェンダ21」(具体的な行動計画)が策定された。それにもとづいて、「大気中の温室効果ガスの濃度を安定化させること」を目的として、「気候変動枠組条約」が締結され、締約国会議(COP Conference of the Parties)の定期的な開催が決まった。
g 京都議定書 1997年、京都で開催された第3回締約国会議(COP3、1992年の国連環境開発会議で締結された気候変動枠組条約にもとづいて開催される会議。160ヵ国とNGOなどが参加。)で成立した、地球温暖化防止のための国際的合意文書。地球温暖化の原因である温室効果ガスの具体的な削減目標を国別に定めたところに意義がある。 
国別削減目標は、日本は6% 、アメリカは7%、EUは8%、先進国全体で5.2%削減。(1990年に対して。2008年〜2012年の間に削減を実施することとされた。)開発途上国(中国、インドを含む)は削減の義務はないとされた。                
・どのようにして全世界的な削減目標を実現するか、その具体的方法は「京都メカニズム」といわれ、次の方法が取り入れられた。 
 1.排出量取引:先進国が割り当てられた排出量の一部を取引できる仕組み。
 2.共同実施:先進国同士が共同で削減プロジェクトを実施した場合、そこで得られた削減量を参加国で分け合う仕組み。
 3.クリーン開発メカニズム:先進国が途上国の削減プロジェクトを資金援助し得られた削減量を自国の削減量にカウントできる仕組み。
京都議定書の後の推移:2001年、アメリカ合衆国(ブッシュ大統領)が京都議定書離脱を表明した。離脱した理由は、温室効果ガスの削減はアメリカ経済の成長を阻害すること、途上国の削減目標が決められておらず、不公平であること、などであった。他にオーストラリアも離脱し、その実効性に大きな不安が生じたが、2005年、ロシアが批准し発効要件である批准国55ヵ国に達したので、京都議定書は発効した。2008年〜2012年が具体的実行期間とされているが、目標達成は早くも困難となっており、「ポスト京都」の動きが始まっている。 
a グローバリゼーション  → グローバル化と新たな<帝国>の形成については、「世界帝国」の項を参照。
ウ.現代文明
1.現代の思想19世紀までの思想が追求してきたテーマは、キリスト教思想の「神」、西欧哲学の「観念」、マルクス主義の「国家」、近代経済学の「資本と労働」、自然科学での「ニュートン力学」などであった。しかし、これらの人間の思想が生み出したものは、20世紀の二度にわたる世界大戦の悲惨な歴史であった。そのような危機の時代となった20世紀の思想は、それまで人々の視点が及ばなかった次のような新たなテーマを見出した。それは、実存主義哲学の「個人、主体」、精神分析学が見出した「無意識」であり、構造主義の見出した「未開」などであった。また、アジア・アフリカ・ラテン=アメリカにおける民族主義の勃興は、西欧思想にもインパクトを与えた。これらの新しい知見は、豊かな文化を生み出したが、一方でさらに混沌の度合いを増しているとも言える。この20世紀もわり、21世紀に突入した現代は、大量消費と過剰な情報の氾濫、グローバル化の中での「個人」の喪失、資本主義と社会主義という対立軸の崩壊に伴う政治的混乱、さらに民族的・宗教的不協和音が響き合う困難な時代となっている。
a 実存哲学 第1次世界大戦後から、第2次世界大戦後に至る、20世紀の主として前半の危機の時代に出現した思想。人間としての自己の存在を世界観の中心に置く思想は、19世紀までの硬直した観念論哲学と、ナチズム、ボリシェヴィズなどの権力志向むき出しの政治思想に対する根元的な批判を含んでおり、不安な個人の心を捉えて広がった。その源流は、キルケゴールにあるとされるが、ドイツのカール=ヤスパース、ハイデッガー、フランスのマルセル、サルトル、カミュ、など多彩である。
b サルトル フランスの哲学者、作家、批評家。2005年は、サルトル生誕100年にあたる。その哲学の主著は『存在と無』、『弁証法的理性批判』などで、ヘーゲルの弁証法、フッサールの現象学を批判的に継承して、物的存在を即自、意識の存在を対自と把握し、存在を他人との関係における対他存在という観点を与えた。その思想は実存主義の代表的な理論とされ、「存在は本質に先立つ」という有名な句に要約される。さらにその思想を進めて、自己は自由な主体として一切に責任を負い、自己の客体性を引き受けなければならないという「アンガージュマン」(社会への主体的な参加)という主張となる。サルトルは哲学者であると同時に、戦前のレジスタンス運動への参加、戦後のマルクス主義への接近と原水爆禁止運動への積極的な発言など、行動する思想家であった。また文学では『嘔吐』、評論では『自由への道』など、一時夫婦であったシモーヌ=ド=ボーヴォワール(『第二の性』などで有名)とともに、第2次世界大戦後の実存主義流行の中心人物となり、日本でも人気がたかった。
c 精神分析学 19世紀末にフロイトが提唱した、精神医学の治療法の一つであったが、20世紀に入って人間観の根源に迫る思想として深化され、広く流布することとなった。現在の心理学の基礎も多くがフロイトの精神分析学を継承している。フロイトの精神分析学が見出したものは、それまで自覚的に語られていた自己(エゴ)の内部に、無意識の自我が存在し、それが精神の根幹となる部分であり、抑圧されて無意識化されているものがある、しかもそれは性衝動に由来するものであるという理論であった。
d フロイト フロイトは1856年、貧しいユダヤ人の羊毛商人の子として生まれて医師となり、神経症の治療に取り組み、19世紀の終わりごろ独自の精神分析療法を確立した。彼が「精神分析」という術語を初めて使ったのは1896年といわれている。さらに1900年に『夢判断』、1917年に『精神分析入門』を発表、その精神分析学は精神医学のみならず20世紀の思想に大きな衝撃を与えた。彼は夢や様々な神経症の分析と治療を通じ、人間の精神の中の「無意識」の存在を明らかにし、またその根元的なものはリビドー(性衝動)であると考えた。彼の分析は文化や社会のあり方にも及びんだ。彼がユダヤ人であったこと、タブーであった性を正面から取り上げたことから迫害を受け、生涯は不遇だった。彼の精神分析の影響を受けた人々は多かったが、その一人ユングは途中からフロイトとは考えを異にし、個人的無意識のさらに深層に集合的(人類的)無意識が存在することを主張した。
e マックス=ウェーバー ヴェーバーとも表記。Max Weber(1864-1920) ドイツの社会学者で、政治学・経済学・歴史学など社会科学全般にわたる業績を残している。もっとも知られている主著は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1920)であろう。この書は、西欧資本主義の成立・発展をプロテスタンティズム(その中の特にカルヴィニズム)との関連を明らかにしたもので、大きな議論と影響を与えた。また、官僚制の分析的研究や、「カリスマ」的な支配権力の概念の提唱などでも知られる。その学問の特色は、科学的な認識において実践的な価値判断を排除し、理念型的な概念を組み立てるというものであろう。当時のドイツで有力であったマルクス主義とは一線を画し、ナショナリスト・自由主義者として行動したが、ドイツ帝国には批判的であった。他に、『職業としての学問』『職業としての政治』『経済と社会』や一連の宗教社会学など多数の著作がある。
e 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 1920年に発表されたマックス=ウェーバーの主著。西ヨーロッパにおいて勃興した資本主義経済は、いかなる内的、心理的な機動力を持っていたのか。「資本主義の精神」は、禁欲的プロテスタンティズム、その中のカルヴァンの思想の中核である予定説との歴史的関係を社会学的に追究した。この研究は、一連の「儒教と道教」「ヒンズー教と仏教」「古代ユダヤ教」などの宗教社会学の一部を為すものであった。なお、ここで問題とされる「資本主義」とは「近代資本主義」特に西ヨーロッパとアメリカの資本主義のことであり、「資本主義の精神」とは「倫理的な色彩をもつ生活の原則」<岩波文庫版p.45>を意味している。以下、岩波文庫版の大塚久雄訳および解説による。
問題の設定:ウェーバーが問題にしたのは、近代資本主義は「利潤追求」の営みであるが、それが生まれたキリスト教ヨーロッパは、むしろ利潤追求が否定されていた。中世カトリック教会では暴利の取り締まりとか利子禁止などの商業上の倫理的規制を設けており、さらに宗教改革後のイギリスやオランダ、フランス、アメリカなどの禁欲的プロテスタンティズムでは商人の暴利は最大の悪事であるととされ、厳しく取り締まられていた。なぜこのようなところで近代資本主義が生まれたのだろうか。ヨーロッパでは営利以外のなにものか、とりわけ営利を敵視するピューリタニズムの経済倫理(世俗的禁欲)が、逆に歴史上、近代の資本主義というまったく新しい社会事象を生み出されるさいに、なにか大きな貢献をしているのではないか、と言うのが問題設定である。<岩波文庫版 大塚久雄解説による>
「天職」と「世俗内禁欲」:ベンジャミン=フランクリンを例にとり、「正当な利潤を》Beruf《「天職」として組織的かつ合理的に追求するという心情」が、もっとも適合的な形態として現われ、また逆にこの心情が資本主義的企業のもっとも適合的な精神的推進力となった」<岩波文庫版p.72>と説明している。この「天職」(岩波文庫の旧版、梶山訳では「職業」とされていた)Beruf とは、ルターが使った言葉で、「神の召命と世俗の職業」という二つの意味がこめられおり、われわれの世俗の職業そのものが神からの召命(Calling)だという考えを示している<大塚解説 p.397>。
カルヴィニズム:「さて、16、17世紀に資本主義の発達がもっとも高度だった文明諸国、すなわちオランダ、イギリス、フランスで大規模な政治的・文化的な闘争の争点となっていた、したがってわれわれが最初に立ち向かわなければならない信仰は、カルヴィニズムだ。当時この信仰のもっとも特徴的な教義とされ、また一般に、今日でもそう考えられているのが「恩恵による選び」の教説(予定説)である。」<岩波文庫版p.144>
ピューリタニズムの宗教意識は、カトリック信徒がとらわれていた救いの手段としての「呪術」を排除した。カトリック信徒は「悔い改めと懺悔によって司祭に助けを求め、彼から贖罪と恩恵の希望と赦免の確信を与えらる」ことによって内面的な緊張からまぬがれることができたが、「カルヴィニズムの神がその信徒に与えたのものは、個々の善き業ではなくて、組織にまで高められた行為主義だった。」<岩波文庫版p.196>
キリスト教的禁欲は、非行動的な禁欲ではなく、エネルギーのすべてを目標達成のために注ぎ込む行動的禁欲であり、カトリックの修道院内での「祈り働け」の生活に見られるが、そのような「世俗外的禁欲」を「世俗内的禁欲」に転換させたのがルターの「天職」の思想であった<大塚解説 p.401>。さらにカルヴィニズム(特にイギリスのピューリタニズム)では、「神のためにあなたがたが労働し、富裕になることはよいことなのだ」(バクスターの言葉)とされ、怠惰は罪悪であり、隣人愛に反することとされるようになった。<岩波文庫版p.310-311>
現代資本主義にたいする批判的予言:ウェーバーの議論は西ヨーロッパとアメリカで発展した近代資本主義の精神的な支柱が、カルヴィニズムの天職と世俗内禁欲(今与えられている職業に誠実に努めること)にあったと理解できる。その論証は、カトリック、ルター派、カルヴァン派さらにそこから派生したメソジストやクェーカー教徒などの教説に及んでおり、細部は難解な部分が多い。しかし、巻末の次の部分は、アメリカ発の新自由主義的資本主義の暴走という現在(2008年)の資本主義の混迷を予言しているようで興味深い。
「営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格をおびることさえ稀ではない。将来この鉄の檻の中に住むものは誰なのか、そして、その巨大な発展が終わるとき、まったく新しい預言者たちが現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起きるのか、それとも、そのどちらでもなくて、一種の異様な尊大さで粉飾された機械的化石と化することになるのか、まだ誰にもわからない。それはそれとして、こうした文化発展の最後に現れる「末人たち」にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、とうぬぼれるだろう」と。」<大塚久雄訳 岩波文庫版p.366>
f プラグマティズム  
g レーニン  → レーニン
h 毛沢東  → 毛沢東
i 近代経済学  
j ケインズ  → ケインズ
k シュペングラー  
a 構造主義  
b レヴィ=ストロース フランスの文化人類学者。始め大学で哲学と法学を学び、リセ(日本の高校にあたる)の哲学教師となる。アグレガシオン(教授資格試験)の前の教育実習では、哲学者のメルロ=ポンティやボーヴォワールと一緒だった。1935年、ブラジルのサンパウロ大学の社会学講師に赴任、パンタナール地方の現地種族ボロロ族などの調査を行ううちに、民族学、文化人類学に転じた。以後、ブラジル奥地のフィールドワークを通じて、多様な文化のあり方に着目し、1955年『悲しき熱帯』を発表した。以後、『構造人類学』、『親族の基本構造』、『野生の思考』などを発表、いわゆる構造人類学の旗手となった。レヴィ=ストロースの分析は親族構造、言語学、神話など多岐にわたるが、その理論は「構造主義」の先駆とされ、戦後の新たな思想潮流を造りだした。レヴィ=ストロースが見出したものは、西洋近代文明に対して、いわゆる「未開」社会にも豊かな社会機構や精神世界が存在し、それらは人間社会の「構造」としてとらえることが出来る、ということであった。この考えは、サルトルの実存主義を、西洋近代の枠の中で個別の自己に埋没した思想であると批判し、サルトルと激しい論争を展開した。「構造主義」は、哲学のフーコー、マルクス主義のアルチュセール、文学のロラン=バルト、精神分析学のラカンなど、1960年代から広い分野に影響を与え、現代思想の大きな潮流となった。なお1980年代から構造主義に対する批判がデリダやガタリといった人々によって始められ、「ポスト構造主義」、「ポストモダン」、「脱構築」などといわれる状況となっている。<レヴィ=ストロースについての簡単な解説は橋爪大三郎『はじめての構造主義』講談社現代新書、小田亮『レヴィ=ストロース入門』ちくま新書 などがある。『悲しき熱帯』(川田順造訳)中央公論社刊は、ブラジルの現地民の社会や、インドのカースト制などの分析が展開され、スリリングでおもしろい。>
c フランクフルト学派  
d フェミニズム運動 
e 新自由主義 → 第17章 1節 新自由主義
2.現代の文化  
a ヨーロッパ市民文化への批判  
b アメリカの大衆消費社会  
c マスコミュニケーションの発達  1920年にアメリカでラジオ放送が始まる。
d インターネット  
 カウンター・カルチャー 1960年代の後半、アメリカの若者の間で、ベトナム戦争に対する批判、拒否運動が広がった。このベトナム反戦運動は、アメリカ中流社会の既成の文化に対する反発に結びつき、ロックやフォークなどの新しい音楽、ドラッグなどを肯定する文学、『アメリカン・ニュー・シネマ』といわれた「イージーライダー」や「真夜中のカウボーイ」などの映画、絵画や写真などあらゆる文化に及んだ。およそ長髪に奇抜な服装というヒッピーと言われた若者がその担い手だった。カウンター・カルチャーは、豊かな生活と安定というアメリカ中流社会の価値観を物質主義と批判し、そこから離脱して、精神的な自由と満足を得ようとしたものであり、インド仏教や日本の禅などにあこがれる傾向があった。
カウンター・カルチャーのムーブメントのピークは1969年に8月に行われたウッドストックのロックコンサートに30万のヒッピーが集まったときであろう。
ところが1990年代にはこのような価値観の破壊に対する反動として、アメリカの保守化が明らかになってきた。人工中絶や同性愛を否定し、進化論も否定して聖書教育を公教育でも実施せよと主張する右派の台頭が、ブッシュ大統領などの共和党政権を出現させたと言われている。
エ.20世紀の主な芸術
1.文学  
a ロマン=ロラン  
b アンドレ=ジッド  
c プルースト  
d カミユ  
e アンドレ=マルロー 第2次世界大戦前後を代表するフランスの作家。代表作は、『征服者』、『王道』、『希望』、『人間の条件』など。若い頃は東洋美術に興味を持ち、カンボジアに渡ってアンコール=トム遺跡のひとつパンテアイ=スレイ寺院の女神像を盗掘し、持ち帰ろうとして捕らえられ、有罪(執行猶予)となったことがある。その顛末を自ら『王道』に描いている。1933年に『人間の条件』でゴンクール賞を受賞し作家として自立。ファシズムが台頭すると行動を起こし、1936年のスペイン戦争では国際義勇軍飛行集団指揮官として参加した。その後もド=ゴールのもとでレジスタンス活動を行い、戦後のド=ゴール第五共和政内閣では文化大臣となった。1976年に死去。
f ヘルマン=ヘッセ  
g トーマス=マン  
h ブレヒト  
i ジョイス  
j バーナード=ショー  
k ヘミングウェー  
l スタインベック  
m ゴーリキー 
n ソルジェニーツィン  → 第17章 2節 ソルジェニーツィン
o カフカ  
p タゴール  
q 魯迅  → 第15章 3節 魯迅
2.美術  
a 表現主義  
b フォーヴィズム(野獣派)  
c キュービズム(立体派)  
d ピカソ  
e 超現実主義  
3.音楽  
a ドビュッシー  
b ラベル  
c R=シュトラウス  
d ガーシュイン  
e ストラヴィンスキー  
f ショスタコーヴィッチ  
g ジャズ  
h ロック  
i エルビス=プレスリー  
j ビートルズ  → リヴァプール
4. 映画 映画の歴史は19世紀の末、アメリカのエディソンの「動く写真」を「のぞき絵」で見る「キネトスコープ」(1895年)と、フランスのリュミエル兄弟の「動く写真」を映写機を通してスクリーンに映す「シネマトグラフ」の発明という二つの源流がある。はじめは「岸にうちよせる波」や「工場から出てくる労働者」というような実写がほとんどで、もちろん無声で白黒だった。しかし無声であったことが演劇などと違い、かえって言葉の壁を越えて世界市場に広がる要因だった。初めはカフェなどの余興で上映されていたが、1908年にパリで専門の上映館が造られ、配給会社による制作と興業が企業化され、大衆の娯楽として急激に普及した。一方で映画を芸術として創造しようとする作家や、俳優を使って大規模な作品を造るようになった。第1次世界大戦は映画製作の中心をヨーロッパからアメリカに移した。アメリカではハリウッドがその中心地となった。1929年、アメリカのワーナーがトーキーを実用化した。トーキーは映画をさらに大衆化し、また制作会社を大企業にする必要があり、さらに国際的な言語の英語で造られるアメリカ、イギリス映画が隆盛することとなり、ヨーロッパ大陸諸国の映画、たとえばスウェーデン映画などは衰退した。1935年頃から色彩映画が登場、ますます制作に大資本を要するようになった。第2次大戦の前には、ナチスドイツ、イタリアのファシズム、ソ連などが国策としてプロパガンダ映画を多数作った。戦後の60年代までは映画の全盛期であったが、テレビやヴィデオの出現によって映画館は激減し、映画製作本数も減少したが、現在はSFXなどの技術を取り入れた映画の転換期に入っている。<飯島正『世界の映画』1951 などによる>
a エジソン  
b リュミエール兄弟  
a ハリウッド 1913年以来、アメリカにおける映画製作の本拠地となった。東部では映画を製作するときに特許権がうるさく、自由に制作出来なかったので、独立プロダクションの連中が、うるさい法律を逃れようとして、西部のロサンジェルス郊外に移ってきたと言われている。
b チャーリー=チャップリン 無声映画期から、戦後まで最も広く知られた喜劇映画作家、俳優。イギリス出身だが、1913年にアメリカに渡り、ハリウッドで喜劇俳優となった。無声映画時代にさまざまなドタバタ喜劇をつくり、映画の可能性を一気に広げた。その視点は次第に社会と政治をするどく風刺する作風となり、21年『キッド』、25年『黄金狂時代』、31年『街の灯』、36年『モダンタイムス』などで名声を高めた。特に40年『独裁者』ではヒトラーを風刺した。戦後も47年『殺人狂時代』、52年『ライムライト』、57年『ニューヨークの王様』、などの傑作を発表したが、ハリウッドの赤狩りマッカーシズムを嫌ってアメリカを離れ、晩年はスイスで過ごした。
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