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第8章 アジア諸地域の繁栄
1.東アジア・東南アジア世界の動向
ア.14世紀の東アジア
A 紅巾の乱 1351年、元の支配のもとで起こった白蓮教徒を中心とした農民反乱。「白蓮教徒の乱」ともいう。直接的な原因は、元朝政府が黄河で大氾濫が起こったため農民に無償で修復を命じたことに反発した河南省などの農民が、白蓮教のリーダー韓山童を押し立てて反乱を起こしたもの。反乱軍は紅色の頭巾をつけて目印にしたので「紅巾の賊」といわれた。(五行説では火徳にあたる宋朝を復興させることを掲げたので紅色の頭巾をつけたという。)韓山童はまもなく捕らえられ殺されたが、その子韓林児が引き継ぎ、反乱はかえって全国に拡がった。紅巾軍のなかから頭角を現した朱元璋が、地主層の求めにより、白蓮教徒への攻撃に転じ、1366年までに反乱を鎮定し、自ら皇帝となって「明王朝」を開いた。
a 白蓮教徒(元)白蓮教は仏教の一派で、起源は東晋の僧慧遠が402年に廬山の東林寺で門弟たちと結成した白蓮社にさかのぼる。南宋の頃から有力な宗教結社となり元のモンゴル人支配への不満のなかでさらに大きな勢力となった。その後、たびたび弾圧を受けながらも、中華民国時代の近年まで続いた。本来、念仏を唱えて阿弥陀仏の浄土へ往生を願うのがその信仰であったが、やがて弥勒信仰を加え、唐代にはイランから伝わったマニ教(イランで起こり、中国に伝わり摩尼教、または明教と言われた)と混合して、世界は明と暗の二宗(根源)あって、明は善、暗は悪であり、弥勒仏が下生(現世に現れること)して明王が支配するようになれば明宗が暗宗にうち勝って極楽浄土が出現すると説くようになった。このような現世否定、来世願望の考え方は、現状に不満な民衆を引きつけ、大きな勢力となったので、南宋も元も危険な邪宗として取り締まった。しかし、元朝の末期にはその勢力は黄河と淮河の流域を中心に、各地に拡大し、紅巾の乱に発展した。 → 清朝の白蓮教徒の乱
弥勒仏 仏陀の入滅(死去)後の46億年年をへて、その教えが滅尽するときに、この世に現れて仏陀の教えを再興し、衆生(大衆)を済度(救済)するのが弥勒仏であるという信仰が、中国の民衆のなかにあった。このような一種の救世主待望は、現世に不満を持つ民衆の心をつかみ、しばしば農民反乱と結びついて大きな勢力となった。
b 朱元璋

朱元璋の肖像(右Epi.参照)
朱元璋は、貧農から身を起こし、の初代皇帝となった人物。1368年に明を建国し、洪武帝となった。中国の歴史上、農民から皇帝になったのは漢の劉邦(高祖)と朱元璋の二人である。朱元璋は1328年安徽省の貧しい農家の6人兄弟の末っ子として生まれた。17歳の時、飢饉で両親と長兄を亡くし、兄弟も離ればなれになった。彼は食うために出家して寺に入ったが、寺も食料が乏しく、乞食僧となって放浪しなければならなかった。24歳の時、紅巾の乱が起こると、郭士興という首領の一人が率いる反乱軍に加わった。ただし、彼自身が白蓮教徒であったかどうかはわからない。その中で頭角を現し、独立した部隊を率いて、1356年に長江下流の旧都建康を占領、応天府と改称した(後の南京)。64年には呉王を称して紅巾軍と袂を分かち、地主や知識人階級と結んで農民反乱の鎮圧側にまわり、白蓮教の指導者韓林児をだまし、長江に沈めて殺害した。1367年、元を討つための北伐を開始、1368年に南京で即位、国号を明とし、洪武帝(太祖)となった。朱元璋と同じ時期に西アジアの大半を征服したのがティムールである。 → 太祖洪武帝
Epi. 皇帝の過去、二つの肖像 権力を握った朱元璋、つまり洪武帝は、自分がかつて乞食僧であった過去をなんとかして抹殺しようとした。僧侶を思わせる文字、「光」や「禿」を特に嫌い、それら文字を使うことを禁止した。うっかりそれらの字を使ってしまうと厳罰が与えられた(文字の獄)。また朱元璋の肖像には、「厳粛で端正な顔立ちで、いかにも儒教の理想とする帝王らしい威徳をそなえたもの」と「満面あばたで馬のようにあごが発達し、見るから醜悪な人相をしている。」実像は後者に近く、前者は皇帝の権威を飾るために描かれたものあろう。<貝塚茂樹『中国の歴史』下 岩波新書、高島俊男『中国の大盗賊』講談社現代新書など>
B 明 元末の紅巾の乱の混乱の中から台頭した朱元璋が1368年に南京(金陵)で即位(太祖洪武帝)して建国した、漢民族の王朝。征服王朝である元のモンゴル色を一掃し、漢民族による中国大陸の統一支配を回復した。また、江南に起こった勢力が中国を統一し、江南に統一中国の都がおかれたのも初めてである。1368年8月に明軍は元の大都を攻略し、元の勢力をモンゴル高原に後退させ(北元として残る)、さらに四川地方、雲南地方にも遠征軍を送り、中国本土すべてを服属させ、漢・唐を上回る広大な領土を獲得した。その統治は17世紀前半に及んだが、16世紀からは北虜南倭、宦官と官僚の抗争、日本の豊臣秀吉の侵略などによって国力が衰退した。
14世紀後半洪武帝は、農村の回復に努め、賦役黄冊魚鱗図冊による徴税システムと里甲制を作り上げ、農民支配を基本とした皇帝独裁体制を確立した。
15世紀前半靖難の役をへて権力を握った永楽帝の時、明の国力は全盛期を迎えた。永楽帝は中華帝国の建設を進め、鄭和をインド洋方面派遣したのはじめ、北方のモンゴル勢力、南方のベトナムに対して武力侵攻を行い、明中心の朝貢世界を出現させた。
15世紀後半:しかし、1449年には土木の変(正統帝がモンゴル軍に敗れ捕虜となる)、その前年にはケ茂七の乱(租税負担の軽減を要求する農民反乱)が起き、明の衰退が始まる。
16世紀前半北虜南倭に悩まされながら、宮廷では宦官政治が横行し、停滞した。社会内部では抗租運動が激しくなった。
16世紀後半:嘉靖帝の1500年にはアルタンに北京を包囲され、1557年にはポルトガルのマカオ居住を認めるなど外圧が始まった。万暦帝の始めに張居正の改革が行われたがその後は宦官と東林派の党争が激しくなり、16世紀の末の日本の豊臣秀吉の朝鮮侵略を受けて出兵して国力が衰えた。
17世紀前半:東北に女真族のが建国されると次第に圧迫され、李自成の乱が起こり1644年、崩壊する。
a 南京 長江(揚子江)の河口近く、江蘇省の平野部の中心に位置する重要な都市。中国史上、何度か都とされ、その名も変わった。戦国時代の楚国に金陵邑に始まるとされ、金陵は今でも南京の古名および雅名とされている。三国時代の呉が都として建業といわれ、南北朝時代には東晋が都として建康と改名され、宋→斉→梁→陳の南朝の都となり、六朝文化が栄えた。隋は陳を滅ぼすと建康の都城を破壊、地名も江寧と改めた。唐以降は都ではなくなり、隣の揚州(江都)に繁栄を奪われたが、五代十国でこの地を都とする王朝(呉、南唐)が現れ、宋から元にかけても金陵府・江寧府・建康府と改称されたが、江南地方の中心として繁栄をとりもどした。元末の紅巾の乱のさなか、朱元璋は1356年にこの地を拠点として自立、応天府と名付けた。1368年に即位してを建国、この地に大都城を築いて京師と称し都とした。1421年に永楽帝北京に遷都してからはその副都となり、それ以降はこの地は南京と言われるようになる。1853年から12年間は太平天国の都とされ、天京と言われた。辛亥革命が起きると1912年、南京に中華民国臨時政府が樹立され、1927年のからは正式な中華民国の首都となった。以上、金陵→建業→建康→江寧→南京という地名の変化に注意しておこう。なお、朱元璋が築いた明の都城は現在は荒廃し、見ることはできない。
b 太祖洪武帝 1368年に南京で即位した朱元璋は、国号を、年号を洪武とした。これ以後、年号がそのまま皇帝名となる一世一元の制がとられることとなる。廟号は太祖。在位1368年〜98年。洪武帝は、モンゴルの支配と元末の農民反乱で荒廃した農村の回復に努め、賦役黄冊魚鱗図冊による徴税システムとそれを支える農村行政システムとして里甲制を作り上げ、農民支配を基礎として1380年には中書省を廃止し、六部を皇帝直属として強力な皇帝独裁体制をつくりあげた。洪武帝のうちたてた皇帝独裁のもとでの中央集権体制という政治体制は、明と次の清におよぶ約600年に及ぶ中国の支配体制として存続する。また対外政策では、海禁政策を採って貿易は朝貢貿易のみを認め、中華帝国の再現を図った。 → 洪武帝の統治
Epi. 洪武帝の専制政治 貧農から身を起こし、皇帝に上りつめた洪武帝は、権力の一切を皇帝に集中させる専制政治を作り上げた。その過程で、建国の功臣でもいささかでも疑わしいところのあるものを次々に粛清した。1380年の「胡惟庸の獄」(朱元璋時代の第一の腹心の部下であった胡惟庸という人物を権力を簒奪しようとしたとして捕らえた)では1万5千人が、さらに1390年にはその陰謀が再燃したとして1万5千人が捕らえられ、処刑された。専制政治を追求した洪武帝は、中書省を廃止、六部を直接統括し、行政文書はすべて自分で決済したという。一説に拠れば、一日平均632件の案件を皇帝として裁決したという。皇帝に権力が集中すればするほど、官僚よりも皇帝の身の回りに仕える宦官の地位が高まることとなる。
c 洪武  
d 一世一元の制 年号(元号)は、漢の武帝の即位した紀元前141年の建元元年に始まる。それ以後、各王朝の皇帝は、祥瑞(めでたいしるし)や天災を機会に年号を代えてきた(改元)。改元は皇帝の権限であった。を建国した朱元璋は、洪武という年号を立て、皇帝一代一元として絶対に改元をしてはならないと定めた。皇帝は死後、廟号として太祖といわれるとともに、元号によって洪武帝と呼ぶ習慣ができた。これ以来明、清の皇帝はいずれも一世一元の制を守っていく。日本でも明治になって一世一元とされた。一世一元制はまさに皇帝の絶対権力の成立とともに始まったもので、中国の長い歴史の中で見れば、そう古いことではないわけである。中国では清の滅亡とともに年号そのものがなくなったが、日本では1979年制定の年号法により、年号は政令で定め、天皇の代替わりの時のみ改元するという一世一元の制を維持することとした。
北元 1368年、大都を放棄し、ついで上都も明軍に追われた元の順帝(トゴン=テムル)は、モンゴル高原に退いた。その後、モンゴル人勢力は「北元」を称し、カラコルムを都に三代約20年存続する。しかし、1388年、洪武帝の明軍の討伐を受けて滅亡した。しかし、モンゴル高原にはその後もモンゴル民族の遊牧社会は継続した。この間はモンゴル高原東部にはチンギス=ハン一族のモンゴル(明や清は「韃靼」と漢字表記した、いわゆるタタール部)、西部にモンゴル民族の一部族であるオイラト部(漢字では「瓦刺)の二つの勢力が抗争し、時として南下して長城を越え、明との攻防を展開する。モンゴル民族は1634年に清に服属する。1368年の元の滅亡から、1634年までを「北元時代」ととらえる見方もある。<宮脇淳子『最後の遊牧帝国』講談社選書メチエ 1996>
江南 中国を大きく区分したとき、その南半分、長江流域を江南という。「江」は長江を意味する。早くから稲作農業が発達しており、最近では三星堆の長江文明の存在が注目されている。戦国時代には七雄の一つ楚が有力となり、秦の末期に劉邦と天下を争った項羽も楚の人。三国時代には孫権が呉を建国した。このころから建業を中心に生産力が高まった。この地方の開発が特に進んだのは匈奴に洛陽を追われた晋がこの地に逃れ、建康(建業を改めた)を都に東晋を建ててからである。これ以後、南朝の時代にかけて多数の漢民族が移住し、江南の開発が進んだ。唐代には安史の乱の混乱も江南には及ばず、安全を求めて漢人の移住が続き、人口が増加した。宋から南宋にかけては長江下流の蘇湖(江浙)地方で米の二期作などが始まり、さらに生産力が上がって中国を支える穀倉地帯となった。この地を支配した元は、隋代に建設された大運河をさらに改修して、豊かな産物を北方に運んだ。元に対する反抗もこの地に広がり、元を倒したこの地方出身の朱元璋が建てた明王朝は、江南を根拠に中国を統一した最初(にして最後の)王朝となった。建康を改めた南京は、江南での最初の統一王朝の都となったが、永楽帝は北方経営を重視し、北京に遷都した。その後も江南地方は中国経済を支えてきたが、清朝末期の19世紀には太平天国が南京を首都に独立を宣言した。また辛亥革命ではしばしば革命運動の中心地となり、北京政府を脅かす存在であった。
C 東アジアの情勢  
a 南北朝の内乱(日本)1336年、足利尊氏は建武の新政に反旗を翻し、後醍醐天皇とは別に天皇を立てた。ここから室町幕府が擁立した北朝と、吉野を拠点とした南朝の二つの皇統が対立することとなり、守護やその下の在地勢力である国人たちも南北いずれかに荷担したため、日本は分裂し内乱となった。57年間の内乱をへて、1392年に足利義満の将軍権力の確立によって南北朝は合一し、内乱は収束した。日本で南北朝が合一し、室町幕府の統一政権が成立した1392年に、李成桂の朝鮮王朝(李朝)が成立している。
b 倭寇(前期倭寇)倭寇は13〜16世紀に東アジアの朝鮮、中国の海岸で活動した海賊で、主として九州沿岸の日本人によるものであった。彼らは沿岸部の米や財貨、人間などを略奪し、朝鮮の高麗、中国の明朝はいずれもその取り締まりに手を焼き、明の太祖は海禁政策をとった。倭寇は海賊行為とともに、明の海禁政策の中で貿易の利益をあげようという、中国商人と日本商人の私貿易、密貿易の側面もあった。倭寇の活動は、おおよそ13〜14世紀の前期倭寇と、15世紀の勘合貿易期で衰え、16世紀の後期倭寇の出現とにわけて考える必要がある。まず前期倭寇は日本の南北朝時代の混乱期に出現したもので、壱岐・対馬・松浦地方の三島の土豪や商人、漁民に高麗の海賊が加わって武装し、主として高麗の沿岸を荒らし回った。そのため高麗の衰退を早めることとなった。1392年、南北朝の統一が成り、また高麗に李成桂による朝鮮王朝が成立したこと、さらに1404年に室町幕府の将軍足利義満による勘合貿易が開始されたので前期倭寇の活動は収まった。 → 後期倭寇
※倭寇は何人か 中国では海岸部を荒らした海賊を倭人の賊と捉えて「倭寇」と言われていたが、倭寇は何人であるか、という問は意味がない。現在と同じ意味で日本人とか中国人、朝鮮人という区別は当時はなかったからである。より正確には、西日本を中心とした海域を根拠にして、東アジアの海域で活動した海賊および私貿易集団ということができる。
c 李成桂 高麗の武将であったが和冦撃退に実績を上げて台頭し、1392年に高麗に代わって朝鮮王朝を建国し、その初代国王(太祖)となった人物。
高麗は元に服属していたので、元が明に滅ぼされそうになると、高麗内部でも親元派と親明派の対立が生じた。また海岸部は倭寇の侵略を受け、高麗政府にはそれを鎮圧する力がなく、人民の中に不満が高まっていた。李成桂は有力な武将であり倭寇の侵入を撃退したことで人望を集め、1388年年にクーデターを起こして権力を握り、ただちに土地改革に取り組み、高麗の貴族の私有地を没収、権力を集中した上で、1392年王位につき(太祖)、都を漢城(漢陽)に定め、国号を朝鮮とした。
Epi. 李成桂の「威化島の回軍」 1388年、高麗の政権を握っていた親元派は、倭寇の鎮圧で人望のあった李成桂に命じて国境の明の拠点を攻撃させることとした。李成桂は反対したが、やむなく出征した。鴨緑江までくると夏の増水期のため濁流が渦巻いていた。ようやく中州の威化島(ウィファド)まで渡ったが、次々と兵士が流されていくのを見て、全軍に撤退命令を出し、急遽都(開京)にもどり、親元派政権を武力で倒し新しい王を立てた。これが李成桂の「威化島の回軍」である。<岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー p.124〜129>
朝鮮 (王朝)1392年に李成桂によって始められた王朝。高麗に代わり、その後日本に併合される1910年まで存続した(1897年、国号を大韓帝国に変える)。都は漢城
15〜16世紀の朝鮮:成立時から明を宗主国とする姿勢をとった。15世紀には世宗のもとで安定し、文化が開花し、訓民正音が作られた。また明から儒教を受容し、朱子学を基本として家族制度などの体制を維持しようとした。世襲官僚である両班が支配階級を形成した。15世紀には日本とも積極的に日朝貿易を展開したが、16世紀には再び倭寇の動きが活発となり、16世紀末には日本の豊臣秀吉の侵略壬辰・丁酉の倭乱)をうけ、李舜臣らの活躍で豊臣軍を撃退したが、国土は荒廃した。
17〜18世紀の朝鮮:ついで満州に清朝がおこると太宗ホンタイジの時に侵攻を重ね、朝鮮は1637年に服属し、宗主国として従属することとなった。毎年、清朝に朝貢のための使節として燕行使を派遣した。しかし、朝鮮の両班層は非漢民族王朝である清に対しては政治的・外交的には従ったが、文化面では明の正統的な文化を継承しているという自負を持っており、小中華思想ともいうべき意識を持ち続けていた。一方、日本との間では、朝鮮通信使をほぼ将軍の代替わりごとに派遣し、鎖国時代の日本に文化的な刺激を与えた。
朝鮮の動揺:19世紀にヨーロッパ列強の圧力が強まると、その小中華思想によって鎖国政策をとり、排外活動を行った。しかし、いち早く明治維新を成し遂げ、近代国家の体裁をとった隣国の日本が朝鮮に対して圧力をかけ、江華島事件を機に日朝修好条規が強要されて開国した。その後、日本にならった改革をめざす独立党と清と結んだ事大党(閔氏)の対立が深刻となり、壬午軍乱・甲申政変などお混乱を経て、1894年に東学党の乱(甲午農民戦争)を機に日清戦争となった。その結果、下関条約で中国は朝鮮の独立を認め宗主国との立場から退いた。その後はロシアの進出が強まり、日本は親露に転じた閔妃を暗殺して朝鮮植民地化の方針を強めた。1897年、朝鮮は国号を大韓帝国に改めて独立国であることを示したが、日本は日露戦争の過程で3次にわたる日韓協約をへてそれを保護国化し、ついに1910年の日本の韓国併合によって独立を失い、日本の植民地となった。
漢城 朝鮮王朝の都(正式には1393年から)。李成桂は、風水説にのっとってこの地を都に選んだという。都としては漢城府というが、一般には漢陽と言われることが多かった。その後も朝鮮の都として発展、現在のソウルに至っている。なお、ソウルに「京城」の字をあててはいけない。京城とは1910年に日本が朝鮮を植民地にしたときに漢城を改めたもので、植民地時代の地名であるからである。
d 李朝 1392年に成立した朝鮮王朝は、李成桂が建国し、李氏が王位を継承した王朝なので李朝ともいう。日本では李氏朝鮮という言い方をするが、韓国ではそのような言い方はされず、現在は日本でも李氏朝鮮と言う用語は使用しない。李成桂の立てた国の名称は、「朝鮮」そのもの(または朝鮮王朝)であり、この国号はこの王朝でしか使われていないから、わざわざ「李氏」をつける必要はない。古代の朝鮮を区別して言う場合には、古代の朝鮮を「古朝鮮」という。
科田法 14世紀の末に高麗を倒して朝鮮王朝を開いた李成桂が定めた土地制度。前代の高麗では、田柴科(でんさいか)制度という土地制度があり、官僚に対し、官職に応じて田地と柴地(燃料の柴を採取する土地)を、農民付きで与えるものであった。次第にこの田柴科は私有地化し、両班の勢力基盤となっていた。高麗の保守的な親元派を倒して権力を握った李成桂は、ただちに全国の土地調査に乗りだし、今までの貴族や地方豪族の持っていた私有地を没収して国家の土地とし、科田法を定めて改めて新たな官吏に等級に応じて土地を配分した。高麗以来の旧貴族は没落し、朝鮮王朝を支える新興官僚層が両班を形成することになった。
イ.明初の政治
A 洪武帝の統治 の初代皇帝、太祖洪武帝皇帝独裁(専制政治)体制をつくりあげるため、中書省を廃止六部を直接統括することとした。皇帝に権力が集中すればするほど、官僚よりも皇帝の身の回りに仕える宦官の地位が高まることとなった。また洪武帝は、モンゴル色を一掃し、漢民族社会の農業生産を掌握するため、里甲制という行政組織、賦役黄冊魚鱗図冊による租税徴収体制を作り上げ、明律明令の制定、六諭の頒布などで体制の維持をはかった。皇帝の絶対的な権威のもとで農業社会を治めていくという、中華帝国の再建を目指し、宋・元の貿易推進策をやめて海禁政策を採り、諸外国には朝貢貿易のみを認めた。明の洪武帝のつくりあげた皇帝独裁体制のもとでの中央集権体制は、次の清朝に受け継がれ、辛亥革命で清が倒れるまで続くこととなる。
a 中書省を廃止 の太祖洪武帝は即位当時、同郷の出身で建国に功績のあった胡惟庸を中書省の長官(丞相、宰相とも言う)に任じた。胡惟庸は丞相になると権力を揮い、政務に専横な振る舞いが目立つようになった。1380年、太祖は、胡惟庸がモンゴルの残党や日本と連絡を取り、明王朝を転覆させる陰謀をたくらんでいるとして捕らえ、その一味として1万5千人を捕らえ処刑した。皇帝の権力を脅かす存在となったからであろう。この「胡惟庸の獄」を契機に太祖は中書省とその長官である丞相を廃止し、六部を皇帝直属とし、皇帝独裁体制を作り上げた。中書省は隋唐の律令制以来の三省の一つとして、皇帝の詔書の起草にあたる最重要官庁あった。元朝の中書省は最高行政機関とされ、六部も中書省の管轄下に入り、その実質的長官である左右丞相が宰相の役割を果たしていた。なお、太祖は宰相廃止後の皇帝輔弼の役として殿閣大学士を置いたがその地位は低く、後に永楽帝の時に内閣大学士に統合される。
b 六部を皇帝に直属 の太祖洪武帝が、1380年の「胡惟庸の獄」を機に、中書省の廃止とともに行った皇帝独裁体制樹立のための処置。六部は隋唐の律令制で定められて以来、中国各王朝の行政機関と尚書省の下にあった吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部の6役所で、それぞれ長官が監督していた。元朝から六部は中書省の管轄下に入っていた。 
六部 (明)六部は隋唐の律令制では尚書省に所属し、元代から中書省に属した行政機関の総称であったが、洪武帝の時に、皇帝直属となった。吏部(文官の任免担当)・戸部(戸口調査、租税担当)・礼部(宮中の典儀、科挙、外務担当)・兵部(武官の任免担当)・刑部(司法担当)・工部(林野の管理、建設担当)の六部門。なお、明の永楽帝からは六部とは別に内閣大学士が設けられ、実権はそれに移行する。
布政使 の皇帝に直属して地方行政を担当する布政使司の長官。その役所は正式には承宣布政使司といい、地方行政区画である各省におかれた。1376年中書省の地方出先機関であった行中書省が廃止されたのにともなって設けられた。地方三司の一つ。
五軍都督府 の皇帝に直属し、その独裁政治を支える中央の軍事機関。前・中・後・左・右の5軍からなり、それぞれに都督がおかれた。ただし武官の任免などの軍政は六部の一つの兵部が管轄した。地方の軍事機関としては都指揮使がおかれた。
都指揮使 明の皇帝に直属する地方の軍事機関。中央の五軍都督府に属し、地方の衛所を管轄した。地方三司の一つ。
都察院 の皇帝に直属する監察機関で、六部の官吏の勤務状態を監察した。中央では監察都御史、地方には監察御史がおかれた。中期以後は、総督や巡撫などの監察官が加えられた。
按察使 唐代以来の地方行政の監察官。では布政使、都指揮使とならんで地方三司のひとつとして重要だった。清にも継承された。
c 里甲制 洪武帝は、モンゴル人の支配と、元末の農民反乱によって荒廃した農村を立て直し、国家の基盤として賦役をしっかりと徴収できる体制を作るため、1381年に里甲制を全国に施行した。これは地域的に隣接した一一〇戸を一里とし、富裕なもの一〇戸を里長戸、残りの百戸を甲首戸として、全体を一〇甲に分け、各甲に甲首、各里に里長をおき、毎年順番で一甲一里を管理させる(一〇年サイクルの輪番となる)制度。里甲制に編入された農民は、地主・自作農であり、租税納入義務を負う農民であった。その他の小作農や土地をもたないものは、畸零戸として里に付属させられた。里長、甲首は「賦役黄冊」を作成し、賦役徴収・治安維持などの末端組織となった。また里には、長老格の人物を里老人とし、里のもめごとの裁定などの裁判の任務を与えた。
民戸 明代の農民、商人、手工業者らで里甲制に組み込まれ、賦役黄冊(戸籍および租税台帳)に記載された戸。戸籍制度上で「民戸」、「軍戸」(軍籍に編入され、衛所に所属する戸)や「匠戸」(中央の工部に管轄された手工業者の戸)などに区別することは元代から始まり、明が継承した。
d 里長戸 明の里甲制において、一一〇戸からなる一里の中で、特に富裕な一〇戸を里長戸とした。里長戸は一年交替(つまり一〇年周期)で里長として里の統括に当たり、賦役黄冊を作成し、賦役徴収などの事務にあたり、治安維持などの責任者となった。
e 甲首戸 里甲制において、一一〇戸から成る一里の中で、富裕な一〇戸の里長戸を除いた一〇〇戸を甲首戸という。甲首戸は一〇戸づつ甲を形成し、甲ごとに一年交替(つまり一〇年周期)で、徭役を負担した。
里老人 里甲制での里(一一〇戸の民戸からなる)の人望のある長老格の人物が選ばれ、里の紛争調停や六諭を読み上げて民衆の教化にあたった役職。
f 賦役黄冊 の太祖洪武帝は1381年、モンゴルの支配と元末の農民反乱で荒廃した農村を復興させ、租税基盤を確立しようとし、全国に及ぶ戸籍台帳兼租税台帳として、全国一斉に賦役黄冊を作成させた。表紙が黄色だったので、賦役黄冊と言われた。ねらいは、流民(戸籍をもたない人びと)を戸籍に登録し、租税を負担させることであった。「賦役黄冊」作成の任務を負担し、賦役徴収の末端を担う組織が「里甲制」である。なお、賦とは田賦のことで農作物現物納を意味し、役は徭役のことで労働負担を意味する。明代の農民はこの田賦と徭役を負担していた。
g 魚鱗図冊 で、土地の所有者を明らかにするために作られた土地台帳が魚鱗図冊である。土地区画があたかも魚の鱗のように描かれていたので、魚鱗図冊と言われた。作成のねらいは、富農が税を逃れるため、土地を他人名義にしているのを防ぐことにあった。
h 科挙制 (明)科挙は現代に一時停止されたが、元末の1315年に再開された。そのときには、南宋の朱子が大成した宋学(朱子学)の知識がおもに問われるようになり、四書の理解と暗記が必須となった。明代で継承された科挙でも朱子学が基準とされ、永楽帝はそのために、四書大全と五経大全を編纂させた。
科挙(高級官僚試験)の最も重要な進士試験を最高成績で合格したものは翰林院の学士となり、皇帝の顧問として詔勅の起草などにあたる、もっとも名誉ある官職であった。翰林院学士は最も名誉ある役職とされた。唐・宋では主席合格者だけが選ばれたが、明の太祖洪武帝は二位、三位の者も翰林院に入れて充実させ、さらにその中から内閣大学士を選出した。
 郷試 
 会試 
 殿試(明) 
i 明律 大明律ともいわれる明の刑法。1367年の第1回以来、3回の改変が行われ、1397年に完成した。律は唐の律令制度と同じく、刑法を意味し、唐律などを参考にして定められた。洪武帝は明律の中で、良民を略奪して奴婢にすることを十悪罪の一つとして、厳禁した。また、皇族・貴族を除いた一般人は、奴婢を所有し使役することを禁止した。モンゴルの支配で奴隷身分にされていた農民を解放し、自由に農業生産を行わせ、租税基盤を増加させるためであった。
明律は次の清朝にも継承され、さらに李朝の朝鮮、黎朝のベトナム、日本の江戸幕府の法律にも影響を与えた。
j 明令 大明令ともいう明の令。1368年、洪武帝即位とともに公布された。吏・戸・礼・兵・刑・工の六令からなる、明代の基本的な行政法典。 
k 『六諭』 里甲制のもとで、労働に励み、租税を負担して国家財政の基盤となる存在と位置づけられた農民に対し、洪武帝が示した六つの訓戒。朱子学の説く、「父母に孝順であれ」「長上を尊敬せよ」「郷里に和睦せよ」「子孫を教訓せよ」「おのおのの生業に安んぜよ」「非違をなすことなかれ」の六つからなる。要するに儒教の家族倫理を簡潔に要約したものである。里老人を通して里の人々に教えられた。
Epi. 日本に伝えられた六諭 洪武帝の六諭は、農民の教化に大きな力となり、中国の農村に浸透した。さらに次の清朝でも受け継がれ、『六諭衍義』が作られた。それが琉球を通じて日本にも伝えられ、江戸幕府の八代将軍徳川吉宗は、荻生徂徠に命じてそれを刊行させ、さらに室鳩巣が和解をつけて『六諭衍義大意』を出版して全国的に普及させた。
l 衛所制 洪武帝の時に始まる兵農一致の軍事制度。民戸とは別に軍戸(軍籍に編入された戸)を設定して、中央の兵部の管轄下におき、軍戸から一人兵士を出し、112二人で百戸所、10百戸所で千戸所、5千戸所(つまり5600人)で1衛とした。衛所を管轄する地方の軍事機関が都指揮使であり、中央では五軍都督府が管轄した。
軍戸 元、明、清の戸籍制度上の呼称で、軍籍にある戸を言う。戸ごとに兵士一人を出す軍役を負担し、衛所制の兵力となった。。軍戸は世襲とされ、民戸と同じく科挙の受験資格もあり、明代ではその地位は高かったが、次第に軍役負担が重くなって忌避するものが多くなった。
m 海禁政策 (明)明の洪武帝は、外国貿易によって沿岸地方の都市が発展し、皇帝の統制に服さなくなることを恐れ、倭寇を防止することを口実に、1371年に「海禁令」を出し、海外との交易、大船の建造などを禁止した。外国は夷狄であり、中国皇帝の徳を慕って朝貢してくるもののみを受け入れるという、漢や唐の冊封体制を復活させようとしたものであった。この明の海禁政策によって、宋・元時代のジャンク船の活躍した海外貿易は明になると急激に衰退した。しかし、福建省や広東省の海岸の人びとは海上交易の抛棄は死活問題であったので、密貿易というかたちで貿易は続けられ、またその地の中国人の多くが東南アジアに移住し、いわゆる華僑の始まりとなっていった。一方で洪武帝は、朝貢貿易については認め、勘合貿易という形で周辺諸国との交易は認めていた。永楽帝の時代になると、朝貢貿易の積極的な拡大が図られ、鄭和の南海派遣が行われ、インド洋方面に派遣することまで行われたが、それもあくまで朝貢国の拡大をめざしたもので、自由な商人の活動が行われたわけではなく、永楽帝の死後は再び海禁政策が強化されることとなる。 → 海禁(清)
n 朝貢貿易(明〜清)朝貢とは、有力な国の皇帝に対し、その周辺の弱小国が臣従の礼をとり、貢ぎ物を献上する見返りとして、国王としての地位を認めてもらうこと。古代のアジアにおいては、中国の漢が周辺諸国から朝貢を受け、冊封体制をつくりあげた。また唐も東アジア諸国と日本の遣唐使の如く、朝貢関係を結んだ。中国を中心とした朝貢関係は、「中華」(世界の中心で栄えている国の意味)たる中国王朝が、周辺の「蛮夷」に対して恩恵を施す、という理念によって成り立っている国家間の関係であるとともに、貿易の一形態でもあり、朝貢品と下賜品の交換という経済行為でもあった。北方民族の征服王朝である遼、金、元が出現すると朝貢貿易は衰えたが、明の成立によって再び東アジアの朝貢貿易は活発に展開されることとなった。
明の朝貢貿易:明の洪武帝は周辺諸国に勘合符を与え、それを所持する船のみに交易を認める勘合貿易を始めた。永楽帝の時には、明に朝貢する国は三十余国に及んだといい、朝貢貿易の全盛期となった。日本の室町幕府との間の日明貿易も1404年に始まり、それによって倭寇(前期倭寇)の活動は抑えられた。
清の朝貢貿易:次の清朝も対外貿易の原則は朝貢貿易であった。清朝になると、周辺のアジア諸国だけでなく、ヨーロッパ諸国との関係が始まったが、その中でロシアとは例外的に1689年のネルチンスク条約で対等な貿易を認めたが、海港での貿易に対しては1757年に乾隆帝の時に朝貢貿易が強化されて海禁政策がとられ、貿易港は広州一つに限定された。産業革命の後のイギリスの自由貿易の要求に対しては、1793年のマカートニー使節団を初めとする交渉を朝貢貿易の原則から拒否することとなる。 → 古代の朝貢
勘合符明の洪武帝に始まる勘合貿易で用いられた一種の交易許可証。勘合符とは割符ともいい、明朝が発行した一通を折半して、片方を相手国に交付、割符を所持して来港した船を明側の割符と照合して取引を成立させた。日本との勘合貿易は永楽帝の1404年、室町幕府の将軍足利義満のとの間で始まった。 → 日明貿易
勘合貿易明の行った朝貢貿易の一形態。洪武帝の時に始まり、朝貢国に対し勘合符(割符ともいう)を発行し、それを所持した船とのみ交易を認めるもの。
洪武通宝 は紙幣として宝鈔を発行するとともに、銅銭として洪武通宝を鋳造した。紙幣と銅銭がともに流通したが、特に銅銭は日本との貿易の決済として使われ、次の永楽通宝とともに大量に日本にもたらされ、洪武銭、永楽銭として室町時代の日本で広く流通した。
B 靖難の役 靖難の変、ともいう。1399年から1402年のの二代皇帝建文帝とその叔父燕王朱棣(しゅてい)の争い。燕王は太祖洪武帝の第4子で、武勇に優れていたので、対モンゴルの要衝である北平(現在の北京)に封じられていた。洪武帝は長男の朱標を皇太子としていたが、その皇太子が先に死んでしまい、その子を皇太孫とした。1398年に洪武帝が死去し、皇太孫が即位し、建文帝となった。建文帝は皇帝権力の強化を図り、有力者の領地の削減を打ち出したのに対し、北平の燕王が反発し、皇帝位継承を主張して挙兵した。燕王が挙兵の理由として、建文帝の周辺の奸臣を除くことを意味する「君側の悪(=難)を清(=靖)めよ」ということを掲げたので、「靖難の変」、または靖難の役(役は戦争の意味)ともいう。要するに叔父と甥の戦いであるが、まる4年間を要する内戦となり、1402年に南京城が陥落し、建文帝が敗れて自殺、燕王の勝利で終わった。燕王は同年即位して成祖永楽帝となった。
Epi. 靖難の役の番外編、ティムールと永楽帝の直接対決実現せず 明が靖難の役で内乱状態になったことは、周辺諸国にも影響を与え、北方のモンゴルが再び優勢となった。また、遠く西アジア一帯を征服しティムール帝国を立てたティムールは、明がモンゴルを討ったことに対し、復讐の機会をねらっていたが、靖難の変が起こったことを知り、明を叩く好機ととらえ、1404年、急遽20万の大軍を率いて明遠征に出発したが、途中オトラルで急死し、ティムールと永楽帝という両雄直接対決は実現しなかった。
a 建文帝 の洪武帝の孫で、その死後、わずか16歳で皇帝となった。建文帝は、方孝儒などの名臣に助けられて、皇帝権力の強化に努め、各地に土地を封じられて力を持っていた叔父の諸王の領土を削減しようとした。それに強く反発した叔父の一人、燕王が反乱を起こしたのが1399年からの靖難の役。建文帝は敗れ、1402年に南京城で自殺した。位を簒奪した永楽帝は、建文帝を正統の皇帝として認めず、歴史から抹殺した。その年号の建文が復活するのは約200年後の1595年(万暦23年)であった。
c 永楽帝(成祖) の全盛期をもたらした第三代皇帝(在位1402〜1424年)。廟号は成祖。都を北京に移し、モンゴルやベトナムに遠征して領土を広げ、大帝国を作り上げた。さらに鄭和を南海に派遣し、朝貢貿易圏を拡大した。また『永楽大典』、『四書大全』など大編纂事業を行った。
彼は太祖洪武帝の4男で、燕王として対モンゴルの前線である北京の守備にあたっていた。そこでモンゴル軍との戦いに活躍し、軍事的才能を発揮した。洪武帝は自分の子供たちの中でこの燕王が最もすぐれていることを判っていたが、長幼の序から長男を皇太子としていた。ところが皇太子が早く死んでしまい、やむなく皇太子の子(後の建文帝)を皇太孫とした。1398年、皇帝の継嗣問題が起こることを恐れながら洪武帝は死去し、16歳の建文帝が即位した。はたせるかな燕王は自ら皇帝となる機会をうかがい、北京で実力を蓄え、不穏な空気がひろがった。建文帝とその官僚たちは、そのような燕王の存在を恐れ、その領地の削減を図ろうとした。燕王はその期を逃さず挙兵し、靖難の役で建文帝と南京の宮廷を倒してついに皇帝となった。 → 永楽帝の統治
永楽帝は生涯で5回にわたり北方遠征を行い、その第5回目の北方遠征の帰途、1424年に内モンゴルの幕営で65再の生涯を閉じた。永楽帝は北京の北西郊外に葬られ、その地は代々の明の皇帝の陵墓(明の十三陵)とされる。
C 永楽帝の統治 永楽帝(成祖)は、靖難の役で権力を握って1402年に皇帝となると、父の洪武帝の皇帝専制政治をさらに推し進め、皇帝の政治を補佐するものとして初めて内閣大学士をおいた。しかし、実際の政治は宦官に任せることが多く、明の宦官政治の始まりとなった。最も特徴的なことは積極的な外交政策であった。東アジアに中華帝国の覇権を確立することを目指した永楽帝は、5度にわたるモンゴルへの親征のみにとどまらず、遼東(後の満州、女真族の居住地)に宦官イシハを派遣し、黒竜江を下ってその河口に達してヌルカン都司を設置させ、チベット、西域にも宦官を派遣して統治にあたった。またベトナム(安南)にも出兵し、直轄領とした。1421年に北方統治を重視し、都を南京から北京に移した。また太祖洪武帝の統治に続き、自国民の海外渡航は禁止(海禁政策)しながら、外国からの朝貢は積極的に受け入れる朝貢貿易を行い、東アジアに明を中心とした朝貢世界を出現させた。日本との間では室町幕府との間に1404年から勘合貿易の形で日明貿易を開始した。永楽帝の外交政策の頂点にある鄭和の南海派遣は、このような明の国威発揚と朝貢貿易の拡大を目指すものであった。皇帝の絶対的な権威を明らかにするものとして、遷都した北京に巨大な皇城である紫禁城を建設した。
15世紀初頭の世界:15世紀初頭の永楽帝の作り上げた専制国家体制は、明から清に受け継がれ、16〜19世紀のアジアを規定するすることとなる。ヨーロッパ勢力がアジアに及んできたのはまさに、永楽帝が専制国家体制を作り上げた約1世紀後であった。
ティムールと永楽帝:同じころ、西アジアでは西トルキスタンに起こったティムールがイラン、小アジアなどに勢力を伸ばし、1402年(永楽帝即位と同年)にアンカラの戦いでオスマン帝国軍を破り、モンゴル帝国の権威を継承しながらイスラーム世界の統一をめざした。ティムールはモンゴル人の元を北方に追いやった明で、靖難の役が起こったことを知り、その混乱に乗じて永楽帝を討ち、報復をとげるべく遠征に出発したが、途中オトラルで病死し(1405年)、永楽帝との対決は実現しなかった。
a 北京 (明)永楽帝は1421年に南京から遷都してこの地を都とした。永楽帝はかつて燕王として北京(当時は北平)にいたので、大都以来の国際都市としての北京に愛着を持っていたらしい。靖難の役で建文帝を倒して権力を握り、南京城を焼き討ちした永楽帝は1403年に北京の北平府という名を順天府に改め、明の第二の国都とした。建文帝の帝位を奪った永楽帝に対し、南京にはそれを正統と認めない空気が強かったこともあったので、永楽帝は北京を帝都とすることを決断、1406年に北京で宮殿改修工事に着手した。1409年からはモンゴルの動きも活発になったためもあって、永楽帝は北京に滞在し始めた。翌年からのモンゴル親征は北京を拠点に行われた。また北京につながる大運河の浚渫を行い利用可能にした。こうして条件を整え、1415年正式に北京の新都造成を始め、元の大都を上回る都城の建設を目指した。1420年に都城が完成して翌1421年正月に遷都が実行された。以後、北京は明・清両王朝の首都、さらに現在の中華人民共和国の首都として繁栄する。永楽帝の造営した宮城は紫禁城と言われ、現在は故宮博物館となっている。また北京の北西40kmには明の皇帝の代々の陵墓「明の十三陵」がある。
Epi. センター試験で出題ミス 1992年度のセンター試験本試験の第2問で、「永楽帝が1402年に遷都を行い・・・」という本文に関しての設問が出された。1402年は永楽帝の即位の年で、遷都は1421年とされているので、これは誤った設問であった。実施後に入試センターは受験者全員を正解とすると発表した。なぜこのような間違いが起こったかというと、ほとんどの教科書が、「・・・南京を占領して帝位を奪ったのは永楽帝(位1402〜1424)である(靖難の変1399〜1402)。帝は北京に都を移し、・・・」(当時の『山川詳説世界史』)と説明しており、即位と共に北京に遷都したように受け取れる書き方だったからである。実際の北京遷都はかなり時間を要していたのは上記解説の通りである。現在の教科書も「・・・南京を占領して帝位についた(永楽帝 位1402〜1424)。彼は首都を北京に移して・・・」(現行『山川詳説世界史』p.167)となっているだけななので注意が必要である。
b 内閣大学士 永楽帝が1402年に紫禁城内の文淵閣に開設した皇帝の秘書・顧問役を内閣と称した。そのメンバーが内閣大学士といわれ、翰林院(唐代から続く、皇帝の詔勅を起草する役所)から才能のあるものが選ばれた。また太祖(洪武帝)が宰相(中書省の長官)を廃止した際にもうけられた皇帝の補佐役である殿閣大学士も、この内閣大学士に統合された。内閣大学士はじめはまだその官位が低く、皇帝の決済に使われる言葉を準備するだけの任務しかなかった。しかしその役職が次第に重きをなすようになり、第五代宣宗(在位1425〜35)のころは実質的なかつての宰相と同じ重要な役職となり、とくに次の英宗が九歳で即位したため、内閣大学士が実質的に政治をとり仕切る状態となった。内閣大学士には定員はなく、複数おかれ、その主席が「首輔」と言われてその権限は絶大なものになった。内閣大学士になるには、翰林院の官職を得なければならず、翰林院は科挙の進士試験の主席合格者でなければ入れなかったので、科挙の競争が再び激しくなった。次の清朝も始めは内閣大学士を置き、内閣が皇帝政治の補佐を行っていたが、雍正帝の時から新たに軍機処がもうけられ、軍事・政治の中枢を兼ねるようになる。
c 永楽大典 明の永楽帝が編纂させた百科事典。百科事典としては中国最大と言われ、全部で2万2877巻1万1095冊からなるが散逸して一部が残っているだけである。3年をかけて1408年に完成した。
四書大全明の永楽帝が、科挙の試験の基準として編纂させた四書の注釈書。1415年に刊行された。明代の科挙では朱子学がその基本とされたので、出題も朱子が定めた四書が重視されることになった。
五経大全明の永楽帝が、科挙の試験の基準として、四書大全とともに編纂を命じた、五経の注釈書。
永楽通宝 永楽帝は1411年に、洪武通宝に続く銅銭として永楽通宝を鋳造した。紙幣(宝鈔)とともに流通したが、特に洪武通宝とともに室町時代の日本の遣明船によって大量に日本にもたらされた。また私貿易でも決済に使われ、日本に渡った。日本の中世では貨幣は鋳造されなかったので、永楽銭が基本通貨として流通した。
モンゴル親征 (永楽帝)モンゴル人は元滅亡後、モンゴル高原に後退し、北元を作ったが、それも明の洪武帝によって1388年に滅亡した。その後、モンゴル人の中で東部のタタール部と西北部のオイラト部の二部族が有力となった。明で靖難の役が起きて混乱したすきにタタール部が次第に力をつけてきて明の領土を脅かすようになった。永楽帝が派遣した部隊がタタール軍に敗れて全滅する事件が起こったため、永楽帝は親政を決意、1410年にモンゴル高原に向けて親征(皇帝自らが軍を率いて出征)しタタールを討った。この後、タタール、オイラト両部が交互に反旗を翻したのに対し、永楽帝は前後5回にわたって親征を繰り返した。永楽帝の親征はモンゴルを奥地に後退させたが、決定的な打撃を与えることはできず、1424年第5回遠征の帰途、内モンゴルの楡木川で永楽帝が病没し終了する。
ベトナム遠征 (永楽帝)永楽帝は1406年、ベトナム(大越国)の陳朝で紛争が起こり胡朝が成立(1400年)したのに乗じて、陳朝を救援することを口実に大軍を送り、翌1407年に胡朝を滅ぼしてベトナムを征服した。明はベトナムに交趾布政司をおいて直轄領に編入した。かつてモンゴル軍の侵攻を三度にわたって撃退したベトナムの抵抗は厳しく、明の統治は容易ではなかった。1418年には黎利(レ=ロイ)を指導者とする反明闘争が始まり、明軍は敗れて黎利が黎朝の大越国を回復する。大越国は独立後は明に朝貢関係を保ち、その文化の受容に努めた。
d 鄭和
→鄭は正しくは であるが、通常では表示できないので、同字として扱われている鄭の字を使用する。
正しいテイ→拡大
鄭和はもとは雲南出身で馬和を名乗るイスラーム教徒であった。明が雲南を征服したとき捕虜となって、宦官にされたらしい。詳しい経緯は判っていない。後に永楽帝に仕え、靖難の変で功績を挙げ、信任されるようになり、鄭の姓を与えられた。永楽帝は宦官を明の統治の域外に派遣して朝貢を促し、中華帝国を再現しようととしたが、その一環として鄭和を南海に派遣した。鄭和は大艦隊を編成して東南アジアからインド洋、アラビア海に大航海を行い、明の国威発揚と、朝貢貿易の拡大に努めた。
Epi. アフリカからキリンがやってくる 鄭和の第4回南海遠征の時、鄭和の本隊はカリカットからホルムズに向かったが、分遣隊をモルジブ島を経由してアラビア海を横断させ、アフリカ島海岸に向かわせた。この分遣隊はモガディシュ、ブラワ、マリンディなどの港を歴訪した。これらの港には象牙や金を求めてムスリム商人も居住し、アラビア語と地元のバントゥー語が混じり合ってスワリ語が話されていた。マリンディの商人は鄭和艦隊について中国へ使節を派遣することにし、おみやげとして生きたキリンを連れて行った。はじめてキリンを見た中国人と永楽帝は大いに驚いたという。なお、キリンとは首の長い草食動物を意味するソマリ語であったが、中国では昔から祥瑞を告げるめでたい動物として架空の動物とされた麒麟と音が同じだったので、その字があてられることになった。第5回航海以降もホルムズからライオンとヒョウ、アラブ馬、モガディシュからシマウマ、ブラワからはラクダとダチョウなどの珍獣が中国にもたらされたという。<宮崎正勝『鄭和の南海大遠征』中公新書 p.129,135>
明の十三陵 明の成祖永楽帝以来の皇帝の陵墓は、北京北西約40kmの天寿山のふもとに造営された。その地には成祖の「長陵」以下、明末の毅宗に至る13の皇帝の陵墓があり、「明の十三陵」と言われている(第7代景泰帝のみは北京西郊の金山に葬られた)。永楽帝は1424年だが、すでに1409年に墓域を決め、造営に着手している。陵区の入り口には石碑があり、さらに1k進むと大紅門(ここにも中に巨大な石碑がある)を抜けると、両側に石獣、石人が並ぶ神道が延々と続くその先に、成祖の長陵以下に分かれてる参道になっているが、現在一般観光客が見学できるのは万暦帝の定陵のみ。発掘調査が終了しているのが定陵だけだからと言う。定陵はついては万暦帝の項を参照。
e 鄭和の南海遠征 「鄭和の南海遠征」は永楽帝の命令によっておこなわれた大遠征で、鄭和を指揮官として実施された。1405年の第1回から1430年の第7回(このときは宣徳帝)におよび、各航海とも2万数千人の乗組員をもつ大艦隊であり、その訪問地は、インドのカリカット、イランのホルムズ、アラビア半島のアデン、メッカ、東アフリカのモガディシュマリンディなどに及んでいる。鄭和が第1回航海でインドのカリカットに到達したのは、ポルトガルのバスコ=ダ=ガマ船団が到達した1498年より90年以上前のことであった。またバスコ=ダ=ガマの艦隊はわずか3隻、乗組員60名であったこととくらべても鄭和の航海がいかに大規模でかがわかる。この大航海を可能にしたのは、宋・元時代の中国商人のジャンク船による外洋進出で培われた造船技術と羅針盤、天体観測などの航海術であり、ムスリム商人とのネットワークであった。しかし、鄭和の南海遠征は民間の自由な貿易の拡大をねらったものではなく、そのねらいはあくまで明の国威発揚と、朝貢貿易の拡大にあった。鄭和の艦隊には多くの兵士が同乗しており、場合によっては現地勢力と交戦することもあった。永楽帝の晩年には、大きな財政負担を伴う大艦隊の派遣に反対する意見も強くなり、永楽帝死後の第7回を最後に艦隊派遣は終わり、明は再び対外消極策、海禁政策の強化へと転じ、また1449年の土木の変でモンゴルに敗れたのを期に万里の長城を修築し国土防衛の態勢にはいる。鄭和の大航海の記録は、反宦官派で海外進出に批判的であった官僚によって焼き捨てられ、その詳しい内容は判らなくなってしまった。
f カリカット インド西海岸マラバール地方、アラビア海に面した古くからの港市。中国では古里と表記。アラビア海をダウ船で往来するムスリム商人の重要な寄港地で、やや南のコチンとともに香辛料の積出港であり、ホルムズ、アデン、イエメン、東アフリカの諸港と結び、さらにモルジブ諸島、セイロン島からベンガル湾をへて東南アジア、さらに中国にむかう海上交通の要衝であった。14世紀にはイブン=バットゥータが訪れたことが『三大陸周遊記』にも出てくる。1406年に中国明王朝の鄭和がこの地に到達、永楽帝の詔勅と銀印をカリカットの王に与え、以後第3回までの航海はいずれもカリカットを目的地としたものであった。しかし、永楽帝の次の時代には明は積極的な海外進出策を放棄したので、中国商人の渡来は途絶えた。カリカットはムスリム交易圏の中心地となったが、そこに1498年、ポルトガルヴァスコ=ダ=ガマ船団が到来した。その後のポルトガルのインド進出は香料貿易の独占をねらい、後続のオランダ、イギリスと争う。やがてイギリスのインド支配が確立すると、カリカットも1792年にイギリス領となった。なお、インド原産の綿花を原料とする綿織物の一種をヨーロッパでキャラコ(キャリコ)というのは、「カリカット製の布」の意味であった。
g ホルムズ ホルムズはペルシア湾の入り口に位置する要衝で、ムスリム商人のアラビア海への進出の拠点となった。またそこから上陸して陸路シリア、イラン方面に至ることができ、馬をインド方面に輸出していた。明の鄭和は1412年の第4回航海からこのホルムズを目的地としており、永楽帝の勅書をホルムズ王に手渡している。1515年にはポルトガルのインド総督アルブケルケがホルムズ海峡のホルムズ島に上陸占領したが、1622年にイランのサファヴィー朝アッバース1世によって駆逐された。
ウ.明朝の朝貢世界
1.琉球王国  → 第7章 2節 ア.東アジアの海洋世界 琉球王国
a 中山王(尚巴志) 琉球には14世紀ぐらいから、北山・中山・南山という三つの王国が生まれたが、1429年中山王(ちゅうざんおう)の尚巴志(しょうはし)が統一、首里を都として統治した。
2.マラッカ  → 第5章 3節 マラッカ王国
3.朝鮮  → 朝鮮
a 世宗 朝鮮王朝(李朝)第4代の国王(在位1418〜1450)。朝鮮王朝第一の名君と言われる。土地制度の改革、農業技術の向上に努め、儒教を保護し、また学問を奨励した。その最も有名な事績が訓民正音の制定である。
b 銅活字  → 第4章 3節  イ 元の東アジア支配 高麗 金属活字の発明
c 訓民正音(ハングル) 15世紀の朝鮮王朝(李朝)で作られた、朝鮮独自の文字。世宗の命令で研究が始まり、1446年に公布された。母音11字、子音17字のあわせて28字(現在は24字)を組み合わせてあらわされる表音文字。世宗は訓民正音の普及をはかったが、官僚層を占める両班は伝統的な漢字を正字とし、訓民正音は主に民間の女子が使用されたので、民間の文字という意味で「諺文(オンモン)」と言われた。ようやく1894年の改革で公用文として用いられることとなり「国文」と呼ばれた。一般にハングルといわれるようになったのは日本統治下で「大」を意味するハンと「文字」を意味するクルを組み合わせたものである。
Epi. ハングルの誕生 朝鮮王朝第4代世宗は、即位すると全国から優秀な学者を集め集賢殿という役所を作り、新技術の開発にあたらせた。金属活字の改良もここで行われ、多数の実用書、儒学関係の書物が作られた。しかし、いずれも漢字で印刷されたもので、庶民には読めないものであったので、世宗は集賢殿の学者に命じ、庶民の読める文字を作ることを命じた。朝鮮ではまだ独自の文字がなく、すべて漢字、漢文で書かれ、出版されていたので、両班階級のものしかそれを読めなかった。学者たちは漢字の他、西夏文字、契丹文字、女真文字、さらに日本の仮名などあらゆる文字を研究し(世宗自らも加わったという)、ついに朝鮮独自の文字ハングルを完成させた。ハンとは偉大、グルとは文字を意味する。1446年、世宗はこの文字に訓民正音(民を導く正しい言葉)と名を付けて公布した。これに対し、両班階級は冷淡で、漢字でものを書くのをやめず、ハングルを諺文(オンモン、卑俗な文字)といって使おうとしなかった。ハングルを使ったのは日本の仮名の普及と同じく、女性たちからであった。朝鮮でこの文字が定着し、ハングルと言われるようになるのは、19世紀に朝鮮の独立を守る運動と結びついてからであった。<岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー p.124〜129>
4.日本(室町幕府) 
a 足利義満 室町幕府の第3代将軍(在職1368〜94年)。山名氏や大内氏など有力守護大名を抑え、将軍権力を確立、1392年には南北朝の合一に成功した。この年は李成桂朝鮮を統一した年でもある。足利義満は、京都に壮麗な「花の御所」を造営し、太政大臣ともなって権勢を揮った。外交政策では1401年に明に国書を送り倭寇禁圧を約束して通商を求め、1403年には「日本国王臣源道義」と名乗って永楽帝から朝貢という形式の勘合貿易を認められ、翌年から日明貿易が開始される。1408年に亡くなる。
Epi. スリリングな日明交渉 明は建国(1368年)と同時に周辺諸国への朝貢を促したが、日本は南北朝の動乱の時期に当たっていたため混乱しており、一時は太宰府を支配していた南朝の懐良親王を正式な国王と認め、室町幕府を認めていなかった。ようやく南北朝統一の1401年に足利義満の「日本准三后道義」の表文を携えて派遣された使節が、「日本国王源道義」に宛てた建文帝の詔書と大統暦を携えた明使を伴って翌年に帰国した。北山第に明使を迎えた義満は自ら拝跪して詔書を受けたという。ところが明使の滞在中に明で靖難の役が起こり、永楽帝即位の情報が伝えられ、義満は「日本国王臣源表す」に始まる表文を永楽帝に宛てて送った。即位まもない永楽帝はこれを喜び、「日本国王源道義」に宛てた詔書に併せて、「日本国王之印」と刻んだ金印と通交に必要な勘合を与えた。こうして室町幕府の将軍が「日本国王」として明の朝貢国に組み込まれることとなった。<新田一郎『太平記の時代』講談社版日本の歴史11 2001 p.300-301>
b 日明貿易 明の永楽帝の時の1404年に始まる、日本と明の正式な貿易で、勘合貿易の形態で行われた。室町幕府の足利義満が、永楽帝に朝貢する形式で行われた朝貢貿易である。
日明間の正式な貿易が始まったことによって、前期倭寇の活動は収まった。日明間の勘合貿易は、4代将軍足利義持が朝貢形式を嫌って一時中断されたがまもなく再開され、1547年まで百数十年の間に18回、延べ五〇隻が派遣された。始めは幕府直営船が派遣されたが、次第に大寺院や大名に勘合符が交付されるようになり、幕府の弱体化に伴い、貿易の実権は堺商人と結んだ細川氏、博多商人と結んだ大内氏という有力守護大名の手に移っていった。1523年、寧波(明州)で両者が衝突して(寧波の乱)一時貿易が中断したが、その後は大内氏が貿易を独占する。明の海禁政策の強化もあって勘合貿易が衰退すると、後期倭寇の活動が始まる。
勘合貿易での貿易品:日本の輸出品は、銅、硫黄、金、刀剣、漆器、蒔絵などであり、日本が輸入したものは銅銭、生糸、綿糸、織物、陶磁器、書籍(仏教経典)、香料などであった。銅銭は洪武通宝、永楽通宝などで、貨幣が鋳造されなかった日本で広く流通した。
日朝貿易 李成桂は朝鮮建国に伴い、倭寇禁圧を日本に要求、当時南北朝を合一(朝鮮王朝の成立と同じ1392年)させ、統一権力を握った室町幕府の足利義満もそれに応えたので、倭寇(前期倭寇)の活動は急速にやんだ。こうして14世紀末から約1世紀間、日朝貿易が展開された。日本側では対馬の宗氏が幕府に代わってその統制にあたった。朝鮮には日本の使節を接待するためと貿易のために倭館が三浦(さんぽ=富山浦・乃而浦・塩浦)におかれた。この間、1419年には応永の外寇(朝鮮側が倭寇の再発を恐れて対馬に来襲)で一時中断したが、15世紀の間続くこととなる。16世紀にはいると朝鮮王朝の貿易統制が強まり、それに反発した三浦(さんぽ)に居留していた日本人が反乱を起こすという三浦の乱が起こり、日朝貿易は衰え、後期倭寇が活発となる。
日朝貿易の貿易品:日本からの輸出品は、銅、硫黄などと、琉球王国から得た南海の産物である胡椒、薬種、蘇木(赤色染料をとる蘇芳(すおう)の木、香木など。輸入品は綿布、木綿、朝鮮人参、経典(印刷された大蔵経)などが主であった。日本に木綿が伝わったのもこのころ朝鮮を通じてであった。
5.ベトナム  → 大越国
胡朝 1400年から1407年までの短期間、ベトナムに成立した王朝。胡はホー。14世紀に陳朝が衰退する中で、皇后の一族の黎季(レ=クィ=リ)(リ→拡大)が国王を殺害し、1400年に胡季(ホー=クィ=リ)と改めて王位に就き、国号も大虞(ダイグゥ)として胡(ホー)朝を成立させた。胡朝は陳朝末期の官僚の腐敗を正すため、首都をタンロンからタインホアに移し、科挙を実施し、中央と地方の官制を改め、監督官制を敷くなどの改革を行った。そして陳朝の時に定められたチュノムの使用を奨励し、体制の回復をめざし、南部ベトナムのチャンパーに出兵した。1406年、陳朝の回復を口実に明の永楽帝がベトナムに出兵すると、胡朝も激しく抵抗したが、翌年敗れて滅亡した。陳朝が一時復活するが、1428年に黎利(レ=ロイ)が決起して明の支配をはね返し黎朝を建てる。
a 黎朝 ベトナム大越国の王朝。後黎朝ともいう。15〜18世紀まで。ベトナム(大越国)では陳朝がモンゴル軍の遠征を三度にわたって撃退し、独立を維持していたが、1388年、宰相が国王を殺害し、実権を握り、胡朝が成立した。胡朝は南部の占城(チャンパー)に進出する勢いを示したので、明の永楽帝はベトナム遠征軍を派遣、1406年80万の大軍が侵攻して、翌年ベトナムを明の直轄領とした。それに対して1418年に黎利(レ=ロイ)が挙兵して独立を回復し、1428年に黎朝を建てた。独立後も明に対しては朝貢を続け、その文化を取り入れた。16世紀以降、次第に衰退し、部将の鄭氏と阮氏が台頭、それぞれ北部と南部を支配した。1773年には西山党の乱が起こり、黎朝は1789年に滅亡する。
6.モンゴル人  → 第4章 3節 モンゴル民族
a 韃靼(タタール) 明によって中国本土を追われたモンゴル人であったが、モンゴル高原ではその後も遊牧生活を継続し、東部のモンゴル(いわゆる韃靼=タタール)と西部のモンゴル人の一部族であるオイラトが有力であった。そのうち東部のモンゴルには、15世紀の後半にダヤン=ハンが現れてモンゴル全体を再統一し、次いで16世紀中頃にはその孫のアルタン=ハンが長城を越えて明を侵犯し、明から北慮と恐れられた。 → タタール人(ロシア)
Epi. 「タタールとオイラトの抗争」は誤り 韃靼というのは、明側の史料で使われたもの。本来は唐末から北方民族全体を意味した「タタル」を音訳し、韃靼の漢字を当てたのであり、元を滅ぼした明が、その遺民をモンゴル(蒙古)の後継と認めないことを示すために使った。なお、「タタール」ということばは、ロシア語で遊牧民を意味し、ジュチ及びバトゥのキプチャク=ハン国のモンゴル人を指す(「タタールのくびき」)。従ってタタルとタタールは意味が違うのだが、混用されている。いずれにせよ、モンゴル高原で遊牧生活を送る人々は自らをタタールと呼んだことはなく、常にモンゴル人と自称していた。従って「タタールとオイラトの抗争」という言い方は正しくない。<宮脇淳子『最後の遊牧帝国』講談社選書メチエ 1996 p.98> 
b 瓦刺(オイラト) モンゴル民族の中の有力部族で、チンギス=ハン一族と婚姻関係を持ち、モンゴル帝国解体後もモンゴル高原西部を中心に活動していた。明では「瓦刺」(”わら”と読む)という漢字が当てられた。オイラートと表記されることがあるが、それは誤り。15世紀に強大化し、一時その族長エセンが全モンゴルを統一し、エセン=ハンを称した。エセンは、明に侵攻し、1449年には土木堡で明の皇帝正統帝(英宗)を捕虜としている(土木の変)。その後、モンゴル高原東部のモンゴル人、いわゆる韃靼(タタール)のダヤン、ついでアルタンに討たれ、衰える。17世紀に再び中央アジアに勢いを盛り返し、ジュンガルとして知られるが、1757年、清に討たれ滅亡した。<宮脇淳子『最後の遊牧帝国』講談社選書メチエ 1995>
c エセン=ハン エセンは、モンゴル系オイラト部の部長(族長)。15世紀にモンゴル全体の実権を握り、モンゴル高原とシベリア南部を支配した。たびたび中国領内に侵攻し、明を脅かしたが、中でも1449年には土木の変で大勝利を収め、明の正統帝を捕らえた。さらに正統帝を明の皇帝に復位させようとして北京を包囲したが、新帝を建てた明側が応じなかったので、正統帝を送還し、モンゴルに戻った。その後、モンゴルのハン位の争いに介入し、北元以来のモンゴル皇族を殺害して1453年に自らハンとなった。しかし翌年、部下の大臣が反乱を起こし、逃げる途中に殺され、オイラト帝国はたちまち瓦解した。
d 土木の変 1449年、モンゴルのオイラト部の部長エセン=ハンは、明との通交を求めたが容れられなかったことを不満として、明領に侵攻を開始した。明の実権を握っていた宦官の王振が正統帝(英宗)に勧めて五〇万の大軍を率いて親征させたが、土木堡(どぼくほ)でエセンの指揮するモンゴル騎兵の奇襲を受け、全滅、正統帝は捕虜となった。宦官が絡んだこの不名誉な敗北は、明の衰退の第一歩となった。この前年には江南地方の小作農の反乱であるケ茂七の乱が起こっている。
Epi. 土木の変のその後 皇帝がモンゴルの捕虜となった知らせを聞いた北京の宮廷では、早くも南方への遷都説を唱えるもの現れるなど、浮き足だったが、軍人の于謙(うけん)は首都の死守を決意、英宗の弟景宗を立て、北京城を固めた。一挙に北京をつぶそうと大軍を率いて来たエセンは北京を包囲したが、容易に陥落させられなかった。エセンは捕虜の英宗を利用し、明の宮廷を乗っ取ろうとしたのだったが、新帝が即位したとあっては英宗は使い途がなくなったので、翌年北京に帰し、軍を引き上げた。こうして英宗は元皇帝として北京に戻ってきたが、現皇帝恵宗との間で気まずいこととなった。于謙は景宗をもり立ててよく戦後の経営にあたっていたが、それをねたむ宦官グループは、1457年景帝が病に倒れると、クーデタを起こして于謙を捕らえ、英宗を再び皇帝につけてしまった。英宗は于謙を死刑にし、崔氏は辺地に流され、財産は没収された。再び皇帝となった英宗であったが、復位後は政治に関与することなく、実権は宦官に移り、官僚は皇帝の前で「万歳」など数語を唱えて退出するだけが仕事となってしまった。<愛宕松男・寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談社学術文庫 p.339-341>
正統帝明の第6代皇帝(在位1435〜1449年)。後に復位し第8代天順帝となる(在位1457〜1464年)。最初の在任中は、農民(小作農)の反乱であるケ茂七の乱が起こり、宦官勢力も強まる中、土木の変でモンゴルに敗れてエセンの捕虜となった。その後復位したが、やはり宦官勢力が実権を握り、明朝の衰退が明らかとなってきた。
e 万里の長城(の修築) 土木の変でモンゴルに敗北した明は、北辺の守りを固める必要が出てきた。1474年、憲宗の時に始まり、約100年かけて修築が行われた。西の端の寧夏から東の端の山海関までの長城が建設され、その内側に、九辺鎮がおかれ、北からの侵攻にそなえることとなった。現在見ることのできる万里の長城とは、秦の始皇帝の万里の長城ではなく、このとき修築されたものである。長城の修築は、明がかつての永楽帝時代のような外部に積極的に進出していく姿勢を放棄し、長城内を固める基本方針に転換したことを示している。
「最も北京に近い直隷北辺の長城は、薊遼総督譚綸によって修築された。実際そのことに当たったものは、名将威継光である。彼は東は山海関から、西は灰嶺に至る一千二百余里の間の塞垣(長城)を修理し、特に城壁を夾む敵台を築いて、守備の拠点とした。台は高さ五丈、その中は三層になって、百人の兵士を収容するに足り、武器糧食等を尽く備えた。その数殆ど三千、隆慶五年(1571年)に至って完成した。ここに至って、長城は旧時の面目を一新して、堅牢且雄壮なものとなった。現在八達嶺付近にえんえんとして山嶺渓谷を走っている長城は、即ち当年の建造に係るものであって、威継光の名を永く伝えるものである。」<植村清二『万里の長城』 1944 中公文庫 p.184>
エ.朝貢体制の動揺
a 大航海時代  → 第9章 1節 大航海時代
1.ポルトガルの侵入  → 第10章 2節 ポルトガルのアジア進出
a アチェ王国  → 第7章 東西世界を結ぶムスリム商人 アチェ王国
b マタラム王国  → 第5章 3節 東南アジアのイスラーム化 マタラム王国
バンテン王国 バンタム王国とも言う。ジャワ島の西端にある港市バンテンを中心に栄えた港市国家。1526年頃からオランダに服属する1813年まで、胡椒などの香辛料貿易で繁栄した。ジャワ島東部のマタラム王国とともにイスラーム教を奉じていた。
2.インドシナ半島  → 第2章 2節 東南アジア 大陸部(半島部)
シャム 現在のタイ国は、古くはシャム国と言うのが通称であった。11世紀頃から石碑の碑文に現れ、漢文史料では暹の字をあて、14世紀頃から現れる。アユタヤ朝もシャムという国名でヨーロッパ人にも知られていた。18世紀以降のラタナコーシン朝もシャムを国号としていたので、外交上の条約での国名も、Siam と記されていた。それがタイ国になったのは比較的新しく、立憲革命(1932年)後の1939年、時のピブン首相の時であった。 → 第15章3節 タイ 
a アユタヤ朝 タイ(当時はシャム)のアユタヤ朝は、タイ人チャオプラヤ川下流のアユタヤを中心に1351年に建国された。その後、米・獣皮・象牙・綿花・香辛料などの輸出を盛んに行い、チャオプラヤ川に面した港からバンコク湾にでて南シナ海からベンガル湾を通じてインドと、さらに中国とも交易を行ったので港市国家と言うことができる。また他の東南アジア諸国と同じく、上座部仏教を保護し、都のアユタヤをはじめ各地に仏教寺院が建設された。その勢力は1432年に東のカンボジア(アンコール朝)を壊滅させ、1438年には北方のスコータイ朝を併合して強大となった。16世紀からはポルトガルとの交易が始まった。1569年には西のビルマに起こったトゥングー朝に侵攻され、15年間その支配を受けたが、16世紀末には独立を回復し、逆にビルマに侵攻した。このころアユタヤは国際商業の中心地として栄え、日本町も建設された。17世紀中頃まで、オランダ、フランスも加えてさかんに貿易が行われ、1680年代には親フランス政策をとりルイ14世の宮廷に使節を派遣している。たが、18世紀にはいると外国勢力の伸張に危機感を持った王が鎖国政策をとった。ビルマにコンバウン朝が起こると再び侵攻を受け、1767年、アユタヤは破壊され、アユタヤ朝は滅亡した。アユタヤは400年にわたり、都として繁栄し、仏教文化が花咲いたが、このときのビルマの侵攻によって徹底的に破壊されてしまった。
 出題 →04年センター本試験 06年千葉大
日本町 16世紀から17世紀初め、東南アジア各地には多数の日本人が商業活動に従事していた。タイのアユタヤ朝の都アユタヤには1500人以上の日本人が住んでいて日本町が栄えていた。彼らは朱印船貿易に従事しながら海外に出て行った人々であり、アユタヤの他にフィリピンのマニラ、カンボジア、コーチシナ(南部ベトナム)などに日本町を作り、活動していた。1639年徳川幕府が鎖国令を出したために、これらの日本人は帰国できなくなり、また貿易も行われなくなったので、衰退した。
Epi. アユタヤの日本人、山田長政 アユタヤの日本人で有名な人が山田長政である。長政はアユタヤ朝のソンタム王に仕え、その信任を受けて最高の官まで上った。王が死ぬと王位継承の争いに巻き込まれ、彼を恐れた次の王によってリゴール(マレー半島)の太守に任命されて遠ざけられ、最後は毒を盛られて死んだ(1630年)。
b トゥングー朝 パガン朝滅亡後のビルマは、トゥングーを中心としたビルマ人の勢力と、イラワディ川下流下ビルマのペグー(パゴー)のモン人の勢力、さらにシャン人の勢力の三つに分裂し、抗争していた。そのうちトゥングーのタビンシュエティー王は1531年にトゥングー朝を創建し、ビルマ統一に乗り出した。1538年にはペグーを陥れ、1544年には上ビルマも平定してパガンで即位した。トゥングー朝はタイやラオスに進出、ビルマ領を最大に広げた。しかし、国内のモン人とビルマ人の対立はその後も続き、17世紀には衰退した。
ラオ人 国家としてはラオスの主要民族を形成している人々で、人種的にはシナ=チベット語族に属するタイ語族に含まれ、タイ人と同じ系統である。現在もラオスの主要国民であり、タイの東北地方に多数居住している。
ランサン王国 メコン川中流域の盆地地帯に居住した、タイ人の一派であるラオス人(ラオ人)のファーグム王が、1353年にルアンプラバンに建国した王国。ランサン Lan San とは、「百万頭の象」の意味で、アンコール朝から上座部仏教を取り入れ、有名なパドーンの金泥塗りの石仏を造り国家鎮護の仏像とした。以後、近隣のタイ系国家と結びながら、大越の侵攻を食い止め、また明に朝貢した。1563年には南下してビエンチャンに遷都したが、1574年にはビルマの侵攻を受け、しばらくその支配を受けた。その後独立を回復したが、18世紀には3つに分裂し、タイに侵攻されて衰退した。1827年にはタイ軍によって国王アヌ王が処刑され、ビエンチャンも破壊された。
ランナー王国  13〜18世紀、タイ北部からビルマ、ラオスにかけての一帯に存在したタイ人の国家。中心はチェンマイ。ランナー Lan Na というのはタイ語で「百万の田」の意味という。南のアユタヤ朝との交易で栄えていたが、16世紀半ばにビルマのコンバウン朝の支配を受ける。18世紀に復興したが、次第に南部のシャムのラタナコーシン朝が有力となって、ランナー国はそれへの朝貢国になり、次第に衰えて吸収された。最近、チェンマイを中心に『チェンマイ年代記』などの資料の解読が進み、その存在が明らかになっている。 → タイの王朝交替
3.北虜南倭 明の統治の後半、16世紀に明にとって大きな脅威となった外部勢力の侵入をあわせて北虜南倭という。北慮とは、タタール部やオイラト部のモンゴルの侵攻、特にタタール部のアルタンに率いられたモンゴル軍がたびたび北辺を侵したことである。南倭とは、後期倭寇の動きが中国海岸部をしばしば侵したことを言う。この両面からの外患は、明にとって頭の痛いことであり、その犠牲も大きく、対策には莫大な費用がかかり、財政を圧迫した。ひいては明の衰退の原因となっていった。
ダヤン=ハン 15世紀末から16世紀にかけて、明代にモンゴルの勢いを復興させた中興の祖といわれる人物。モンゴル人タタール部に属し、オイラト部エセンの死後のモンゴルの分裂を統合し、フビライ=ハンの血筋を継承したとして1487年にハンとなった。モンゴル系遊牧部族と婚姻関係を結び、部族連合からなるモンゴル遊牧国家を再建、6つの万人隊(トゥメン=万戸)をつくり、3トゥメンずつを左右に分け、「左翼」をゴビ砂漠東北方面に、「右翼」を南西に配置した。そのうち左翼の3トゥメンはハンに直属し、チャハル、ハルハ、ウリヤンハンという。右翼の3トゥメンは副王が指揮し、オルドス、トメト、ヨンシエブといった。ダヤン=ハンは1524年に死ぬが、その後は左翼、右翼のトゥメンは対立抗争を繰り返していく。
ダヤン=ハンは称号 モンゴルでは「大元」を「ダイオン」と発音していたが、明代にはなまって「ダヤン」と発音されるようになった。明代モンゴル中興の祖といわれるダヤン=カアン(ハン)は実は個人名ではなく、「大元カアン」という称号に基づくものであった。彼らも自分たちの国は「大元ウルス」だと思っていたのである。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』下 1996 講談社現代新書 p.42>
a アルタン=ハン 16世紀、しばしば明を脅かしたモンゴルの王。生没1543〜83年。特にモンゴルにチベット仏教を導入したことは重要。モンゴル高原には15世紀の後半、ダヤンが現れ、モンゴル民族をほぼ統一し、再び明の領土を脅かし始めた。ダヤンの孫で、「右翼」のトメト部を率いていたのがアルタンで、1520年代から侵攻を開始し、特に1542年には山西に侵攻、1ヶ月にわたり略奪にあけくれ、20余万人を殺したという。また1550年には北京城を数日にわたって包囲した。このモンゴルの脅威は、明にとって深刻で、「北慮南倭」の北慮とはこのアルタンの侵攻を意味した。次いでアルタンは西に転じ、オイラト部を討ち、チベット・青海を服属させた。チベット・青海はチベット仏教が盛んで、1578年、チベット仏教の黄帽派の指導者、ソナム=ギャムツォはモンゴリアに赴いてアルタン=ハンを改宗させた。アルタン=ハンはフビライの、ソナム=ギャムツォはパスパの生まれ変わりだという言われるようになり、モンゴルでのチベット仏教信仰が復活した。アルタン=ハンは彼にダライ=ラマの称号を与えた。チベット仏教のダライ=ラマ制度はここから始まる。チベット仏教に帰依してから、戦争での殺生をやめることを決意し、中国への侵攻を停止て和議を成立させ、大同その他に馬市を設けて中国との交易の場とした。モンゴル側からは金・銀・馬・牛・羊など、中国側から絹布・米・麦・鉄鍋などを交易し、この馬市はその後も長く漢民族とモンゴル人の交易の場となった。
b 倭寇(後期倭寇) 15世紀はじめの日明勘合貿易の成立で倭寇は一時収まったが、15世紀後半にあると再び活発になってきた。この15世紀後半から16世紀に変えての倭寇を後期倭寇と言っている。1523年、寧波での細川氏と大内氏の衝突事件(寧波の乱)以後に衰え、明も海禁政策を強めたので、日本の貿易商は沿岸で略奪に走り、さらに倭寇の活動が活発になった。後期倭寇の特徴は、日本人だけではなく、福建や広東の沿岸の中国人が多く含まれていたことで、かれらも当時展開されていた国際商業のうねりの中で、明の海禁策に反発し、海外での活動を模索する面があった。明朝政府は、倭寇の取り締まりに全力をあげ、1556年から翌年にかけて王直という倭寇の首魁を捕らえてようやく鎮圧することができた。この倭寇の脅威が「北虜南倭」の「南倭」といわれることである。1567年には明朝政府は海禁策をやめ、貿易再開と中国人の海外渡航を認めたので、倭寇は姿を消した。また日本でも織豊政権による統一が成り、豊臣秀吉、徳川家康による朱印船貿易に移行していく。 → 前期倭寇
c 日本銀 日本は中世以来銀の産出国であった。特に石見銀山(島根県)は有名。15世紀頃から中国に輸出されるようになり、中国の銀産出量の減少にともなってその輸出量は増加した。特に16世紀には朝鮮から灰吹き法という製錬技術が伝えられ産出も増大した。しかし16世紀後半になると、スペイン・ポルトガルから中国にもたらされた新大陸産の銀におされ、次第に衰退した。石見銀山は豊臣秀吉、徳川家康によって直轄銀山として採掘されていたが、江戸時代にはいると鉱脈が絶え、現在は廃鉱になっている。2007年、石見銀山は世界遺産に登録された。 
d スペイン銀貨 スペインは、1545年からの南米ペルーのポトシ銀山、17世紀末以降はメキシコ産の銀(メキシコ銀)を独占し、ヨーロッパとともに中国にも交易の対価として持ち込んだ。新大陸の銀山ではアマルガム法による大量の精錬が可能になり、16世紀後半には中国では日本銀を圧倒するようになった。
e 銀 (中国)明の通貨政策は宋を継承し、初めは銅銭を鋳造していた。洪武帝の洪武通宝をはじめ、歴代皇帝は年号入りの銅銭を鋳造し、そのうち洪武通宝は日本にも多数輸入され、広く流通した。しかし、16世紀になるとポルトガル商人、スペイン商人が来航し、ヨーロッパとの交易が始まり、中国産の茶や生糸、陶磁器がさかんに輸出されるようになるとその対価として大量の銀が中国にもたらされることとなった。日本からもたらされた日本銀は丁銀といわれた。スペインからもたらされる銀はアメリカ新大陸のポトシ銀山やメキシコ産のメキシコ銀を鋳造したものでスペイン銀貨と言われた。明は銀貨は発行せず、馬蹄銀と云う形で秤量貨幣として流通させた。銀の流通は次第に銅銭を上回り、明清時代を通して中国の基本通貨となった。 → (西洋)
馬蹄銀ばていぎん。中国の明・清時代、銀が基本通貨として流通したが、それは銀貨としては鋳造されず、銀塊として流通した。その重さの単位が両であり、その都度重量を量って流通させる通貨を秤量貨幣という。通常は馬蹄銀という馬の蹄の形をした重さ約50両の銀の塊が高額取引に使われた。
オ.明後期の社会と文化
a 長江下流域 長江(その下流を揚子江とも言う)の下流にひろがるデルタ地帯一帯の江蘇省と浙江省にまたがる地域をあわせて江浙という。または江蘇省の中心都市蘇州、浙江省の中心都市湖州の一字ずつをとって蘇湖ともいう。江南地方の中でも南京、上海、杭州など大都市も集中し、古来中国で最も生産力が高い地方とされた。特に宋代には開発が進み、生産力が上がって「江浙(蘇湖)熟すれば天下足る」と言われた。ところが明代の15、6世紀頃からこの地方は綿織物・絹織物の生産が増え、農民も現金収入の道である綿花や桑の栽培に転じたため、穀物生産は減少した。その結果、明代には穀物生産の中心地は長江中流の湖広地方に移り、「湖広熟すれば天下足る」と言われるようになる。
b 綿花(と綿織物)インド原産の綿花が中国に伝えられたのは宋代末期の12世紀であったが、元代を通じて栽培が広がり、明代になると政府の勧奨もあってほぼ中国全土に普及し、綿布はそれまでの麻布にかわって大衆的日常衣料となった。15,6世紀になると綿布は全国的な市場を形成するようになり、特に江南の長江下流(江浙地方)の蘇州、松江府の綿業が発達し、原料の綿花は華北から大運河を使って運ばれるようになった。この地の綿業の発達は華北からの綿花だけでは不足し、周辺の農家が米作りをやめて綿花栽培に転業したため、この地域の米作量は下落して食料輸入地帯となり、穀物生産の中心は長江中流(湖広地方)に移ることとなる。
c 桑(と絹織物)生糸の原料である繭(まゆ)をとるための蚕の餌となる植物。養蚕農家ははじめ自己の桑畑から桑の葉を得ていたが、生産が増えるに従い、桑の葉を蚕の卵のついた種紙(蚕卵紙)とともに商人から買い入れるようになった。生糸を織ってつくる絹織物は綿織物に比べて高価であり、輸出用の商品作物であった。特に長江下流の太湖周辺の生糸は湖糸と呼ばれて日本やヨーロッパに輸出された。
d 湖広 湖広熟すれば天下足る」とは、長江中流の湖広地方が実れば、中国全土の食料が足りる」という意味で、明時代の湖広地方の農業生産力が高かったことを示すことばである。湖広とは、湖北省と湖南省にまたがる両湖平野のこと。湖北省の中心都市が武漢、湖南省の中心都市は長沙。15,6世紀から、長江下流(蘇湖(江浙)地方)で綿織物・絹織物の生産が増えてたために綿花や桑の栽培中心に移行して穀物生産が減少したため、にかわって湖広地方が穀物生産の中心地となった。
e 江浙  → 第3章 3節 宋代の社会 蘇湖(江浙) 
f 佃戸制  → 第3章 3節 宋代の社会 佃戸制
g 景徳鎮 中国江西省にある陶磁器の産地。北宋時代の1004年に始まる景徳鎮は、元代を通じても発展した。宋元では白磁・青磁が主であったが、しだいに技法も発達し、明代には染付赤絵が流行した。明と清では官営の御器廠(官窯)として保護された。またヨーロッパにも中国産の陶磁器はもたらされ、王宮の貴族社会で特に珍重されたほか、世界各地に輸出された。 → 陶磁の道
染付 中国の陶磁器の一種。白磁に下絵を藍色(濃い青色)で描き、透明の釉薬をかけて焼き上げたもの。日本で染付と云うが中国では青花という。宋末から元代にかけてはじまり、明代に染料としてコバルト顔料(イスラーム世界から輸入された)が使われるようになった。景徳鎮の染付が特に有名。
赤絵 中国の陶磁器の一種。白磁に下絵を赤、緑、黄、青、黒の釉薬で模様を描いたもの。中国では五彩という。宋代に始まるが、明代の景徳鎮で発達した。万暦帝時代の「万暦赤絵」が特に有名。赤絵は日本にも伝えられ、桃山時代以降、有田(佐賀県)や九谷(石川県)などでも盛んに作られ、ヨーロッパにも輸出され、ヨーロッパの陶芸に大きな影響を与えた。 
h 生糸(明代)絹・絹織物とその原料である生糸は、古くから中国の特産品で、シルクロードを通じて西洋にももたらされていた。はじめは農民が自分で着るために生産されていたものが輸出にもあてられていたの過ぎなかったが、明代の15〜16世紀になると江南地方の農村では、農民たちが売る目的で生糸や絹織物を作るようになった。特に長江河口のデルタ地帯の太湖周辺の生糸は「湖糸」といわれる良質なものだったので、ヨーロッパや日本に大量に輸出され、大量の銀が流入した。農民が生糸を生産するには、蚕卵紙(カイコの蛾が卵を産み付ける紙、種紙)を購入し、餌のを栽培したり買わなければならなかった。そのため、資金を糸商から借りなければならず、生糸の買い取り価格も糸商によって決められていたので、農民はそのような商人からも搾取されることとなった。
i 陶磁器  → 第7章 1節 陶磁器
a 山西商人 農村における商品作物の栽培、手工業とともに都市における商業、流通が活発になるにつれて、商人の活動が活発になった。かれらは出身地域ごとにグループを作り、営業権などの特権を政府から認められ、主要な都市にそれぞれ会館・公所をおいて全国的なネットワークを作り上げた。そのような代表的な商人集団に、山西商人と徽州(新安)商人があった。
山西地方は華北の黄河中流域で、鉄の産地として太原を中心に豊かな商人が早くから出現していた。また北方民族の侵入を受けることも多かったが反面、交易も行われた。五代十国ごろから、山西商人は鉄や毛皮を扱う事から始まり、米・塩・絹・綿などの仲買で富を築き、さらに金融業に進出した。宋代を経て明清時代には朝廷の資金を扱って政商として力をつけ、特に銀の流通が広まると銀行業務を行うようになり、華北一帯の商工業を山西商人が支配し、南方の徽州商人と対立した。
b 徽州(新安)商人 長江下流の右岸、安徽省の徽州は、商工業都市(古来筆と墨の生産で有名)として栄えた。古名を新安ともいったので、この地出身の商人を新安商人とも言う。その中心は江浙地方の塩をあつかう塩商人として始まり、海外との貿易にも従事し富を蓄え金融業に進出し、江南では山西商人より優位だった。清代には塩業は次第に衰え、紹興、寧波、上海などが有力となるにつれて徽州商人の活動も衰えた。
c 会館・公所 16世紀ごろから山西商人徽州商人などの同郷の商人が北京・南京・開封・蘇州などの大都市に作った施設で、いわば出張所としての機能を果たし、また同郷人の宿泊、集会に利用されたのが、会館や公所と言われた。会館と公所の違いは建物の規模で、やや小さいのが公所といわれた。広東人は公司と呼んだ。同業団体も会館・公所を設け、相互扶助と経済的結束を強めていった。ヨーロッパ中世におけるギルドと同じような働きをしたと見ることもできる。<増井経夫『大清帝国』講談社学術文庫 p.315〜 および 斯波義信『華僑』岩波新書 p.67>
a 両税法  → 第3章 2節 エ.唐の動揺 両税法
b 一条鞭法 明の賦役のうち、土地税である田賦は、8世紀以来の両税法によって、夏税と秋税に分かれ、米麦や生糸などの現物で納める規定であったが、の流通が広まるに従い、15世紀前半から、銀納が始まってきた。明では田賦の他に、徭役(義務労働)が課せられており、官庁で必要な労役を提供させられ、こちらの方が負担は重かった。徭役は各戸の丁数(成年男子の数)や財産によって3〜9等の等級に分け、上等戸には重い役、下等戸には軽い役が割り振られることになっていたが、こちらも銀で代納することが始まっていた。いずれにせよ、この税制では、税額は一定せず、戸の等級の分け方も不明確で、不正が横行しやすく、確固たる税収入を得るためには何らかの改革が必要となってきた。また、賦役黄冊や魚鱗図冊と言った当初の明の税制のための台帳も、農村の中の貧富の差が拡大し、里甲制が崩れて来たため、作成されなくなっていた。そこで新しい税制として登場したのが一条鞭法である。
一条鞭法は16世紀の中頃から徐々に始まり、1580年代の万暦帝の頃に全国に普及した、明の新しい税制である。複雑な内容をもっているが、まとめると「あらゆる賦税と徭役を一本化し、徴収を簡素化し、銀納にしたこと」と言える。これによって両税法は行われなくなり、戸の等級で労役を割り当てることもなくなった。この税法を運用するためには、課税対象である人口と土地の面積を掌握する必要があり、そのために張居正の改革の時に全国的土地丈量が行われたのであった。
一条鞭法は、銀の流通の浸透、大土地所有の進行、商品作物の発展に伴う地主と佃戸(小作農)の関係の変化、などに対応した税制改革で、唐の両税法の施行と並ぶ中国税制の大改革とされている。なお、このとき賦税(土地税)と徭役(人頭税)の区別がなくなったわけではなく、いずれも銀納となったのであり、次の清の18世紀の新税制である地丁銀制度によって、徭役(丁銀)が土地税(地銀)に組み込まれて消滅し、近代的な税制へと移行する。一条鞭法は地丁銀制度の先駆的な形態であった。
a 郷紳 明、新時代に農村における地主で豊かな財力を持ち、地域での名望家として力を持っていた人を言う。多くは科挙の合格者として官途につき、故郷に隠棲した人であり、知識人としても活動した。明から清にかけて、地方の社会の支配階層となり、また小作農からの小作料で生活していたので、しばしば抗租運動の襲撃の対象となった。宋代の士大夫に相当する。イギリスのジェントリーにも郷紳の訳語をあてるが、たしかににかよった存在である。
b 抗租運動 明から清にかけて、農村の佃戸(小作農)が地主に対して小作料(佃租)の軽減などを求めて立ち上がり、しばしば官憲と衝突した。その運動を抗租運動(または単に抗租)といわれ、15世紀中頃のケ茂七の乱に始まり、16世紀を通じ、17世紀の明末清初まで、次第に大規模で組織的になっていった。特に明末の江南地方では、農村に貨幣経済が浸透し、商品作物の栽培が増加、小作料も銀納されるようになると、地主は不在地主化して都市に住み高利貸し・商人と結んで小作農に対する収奪が厳しくなったので、抗租運動も激しくなった。抗租運動は多くは政府の軍隊によって押さえつけられたが、奴隷身分の解放闘争である「奴変」、都市下層民の反権力闘争である「民変」と並んで、民衆の成長をしめす動きであった。
c ケ茂七の乱 1448年(土木の変の前年)、福建省で起こった農民闘争。農村の小作人たちが地主に対して小作料の減免を求めて立ち上がったもので指導者がケ茂七という農民であった。当時、福建の農村では、地主は多く都市に住んで不在地主となっており、佃戸(小作農)は5〜6割の重い小作料を地主の倉庫に運んで行かなければならなかった。ケ茂七が挙兵すると、銀山の工夫や流民も加わり、数十万の大反乱に膨れあがった。地主は自衛組織をつくり、北京の政府も軍隊を派遣して鎮圧にあたり49年、ケ茂七が戦死して乱は収束した。明末清初に激しくなる抗租運動の先駆的なものであった。
奴変 明末清初の江南地方を中心に展開された、家内奴隷の解放を求める闘争で、小作農の抗租とあわせて、「抗租奴変」と言われた。
民変 明末清初の、特に16世紀90年代から17世紀の30年代に起こった、都市の下層市民による、反税・反権力闘争。全国的な流通経済の発展によって全国にひろがり、北京、広州、蘇州などの大都市から景徳鎮などの中小都市でも起こった。商工業の発展に目をつけた明朝政府が、都市民に対して商税を増徴しようとたことに対して起こされたもの。
Epi. 蘇州での民変・織傭の変 1601年に起こった蘇州の民変の場合は次のような経緯をとった。蘇州は絹織物を中心とした当代一の商工業都市として繁栄していたが、そこに赴任した徴税使は、城門に税関を設け、通行する商人から商税の取り立てを開始、さらに織機にも課税しようとした。それに反発した商人はストライキ(罷市)を始め、職工(機織り職人)は暴動を起こした。徴税使は逃げだし、官憲が暴動の首謀者を捕らえようとしたところ、葛成という職工が名乗り出て、罰としての鞭打ちの刑を受け、暴動は収束、商税は廃止されて目的を達することができた。これを織傭の変という。<愛宕松男・寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談社学術文庫 p.457-460>
d 南洋華僑  → 第8章 2節 清代の社会経済と文化 南洋華僑
明の文化 明の文化のポイントとされるのは次のような点である。
(1)陽明学の成立 明は皇帝専制政治を支える理念として朱子学を採用したが、そのため朱子学は著しく体制化、形式化した。それを批判して実際活動を重視した知行合一を説いたのが王陽明の陽明学であった。
(2)郷紳による文化 長江中流域の稲作農業の発展などの生産力の向上と貨幣経済の進展を背景にして生まれた郷紳といわれる富裕階級は、教養として書画を好み、彼らによって宋の文人画の系統を引く南画が隆盛した。
(3)庶民文化の発展 特に文学では口語体の小説が流行し、元代に続いて庶民文化が栄えた。元代に生まれた『三国志演義』などの四大奇書が出版され、広く親しまれたのが明の時代であった。
(4)実学の勃興と西洋科学技術の伝来 生産力の向上を背景に、実用的な科学技術に対する関心が高まり、キリスト教宣教師によって伝えられた西洋の科学技術が影響を与え、多くの技術書が生まれた。
補足:明代はヨーロッパではルネサンス、宗教改革、大航海時代にあたっており、それ以前の中国文明の優位は崩れ、西欧文明が著しく進展した時代である。明は永楽帝時代の15世紀初めに鄭和の派遣など世界に開かれていたが、その後急速に鎖国体制をとったため西欧の動きと隔絶されてしまった。再び西欧との接触が始まるのは、16世紀末のマテオ=リッチに始まるイエズス会宣教師の布教活動によってであった。彼らによって様々な西洋科学技術が伝えられることになる。羅針盤や火薬はかつて宋時代に中国で生まれた技術が西欧に伝えられて進化したものであり、それらがここで逆輸入されたと言うことができる。 
a 董其昌 明末の文人画の大家。1555-1636 進士に合格し官僚となり画をよくして代表的な文人となる。彼は宋の米・などの画法を学び、唐代からの文人画の流れを継承してその系譜を南宗画(なんしゅうが)とし、それに対して職業画家の系譜である院体画を北宗画(ほくしゅうが)と名付けた。その上で両者の優劣を論じ、南宗画を優れたものとして中国絵画の主流においた(尚南貶北)。これによって中国絵画においては文人画→南宗画が主流であるとされるようになった。
南宗画(南画) なんしゅうが。中国絵画の中で、文人画の系譜をひく流派を明末の董其昌が名付けた。文人画は官僚であり知識人である文人が余技として描いたもので、それに対して宮廷の画院の職業的な画工によって描かれたものを北宗画と名付け、董其昌は南宗画が優れていることを主張した。董其昌が南宗画・北宗画と名付けたのは、禅宗の分派から借用したものらしい。南宗禅は頓悟といって一ぺんに悟りを開くことを目指し、北宗禅は漸悟といって段々に修行を積んで悟りに達することをよしとした。この禅宗の悟道にいたる型の違いが、文人画家と職業画家との作画態度や修行の相違に通じるところがあると考えたわけである。<松原三郎編『改訂東洋美術全史』東京美術 p.304>
南宗画の画家は明初の沈周、文徴明など江蘇省呉県(現在の蘇州市)出身者が多かったので呉派という。この南宗画と北宗画の違いは、文人による余技として絵画と職業的画家による専門的な絵画という違いであり、画風や技法の違いではない。題材はいずれも山水や花鳥風月を描いており共通している。それでも南宗画には哲学的な深みのある作風が見られ、水墨画の技法は禅宗の僧侶にも好まれた。
なお、文人画の系譜にある主な(教科書に出てくる)画家を整理すると次のようになる。
 唐の王維 → 宋の蘇軾・米ふつ・牧谿 → 元の趙孟ふ・元末四大家 → 明の董其昌
北宗画(北画) ほくしゅうが。中国絵画の中で、宮廷の画院の職業的画家の画風を継承したものを、明末の文人画家董其昌が北宗画として区別した。宋代には文人画に対して院体画(院画)と言われた系譜を継承している。院体画は元では画院が閉鎖されたための吐露得たが、明代に復興し、仇英などの画家が現れた。なお、北宗画を浙派ともいうが、それは明代北宗画の中心人物の一人の戴進が浙江省杭州出身で、この派に浙江人が多かったからである。
中国絵画の中で、代表的な宮廷画家、つまり北宗画の系譜にあるものは次のような画家である。
 唐の呉道玄・李思訓 → 宋の徽宗(皇帝なので画家とは言えないが)・南宋の馬遠 → 明の仇英など 
小説 「小説」というのは中国の文学のジャンルの一つで、唐代に始まる文語でかかれた「短編の話」であり、主に伝奇的(不思議な話)内容であった。これにたいして宋の時代から口語で書かれた小説が生まれ、英雄豪傑の話が取り上げられて庶民に喜ばれるようになった。「小説」が著しく発展したのが明の時代であり、その代表作がまず『水滸伝』であり、『三国志演義』であった。明から清にかけて『西遊記』と『紅楼夢』ができて四大奇書と言われる長編口語小説が生まれた。いずれも面白さを第一とした通俗的な内容であるが、広く中国の民衆に受け入れられた。このように中国の小説は西欧的、近代的な文学としての小説とは意味が異なる。
b『三国志演義』  → 三国志
c 『水滸伝』  
d 『西遊記』  
e 『金瓶梅』  
『牡丹亭還魂記』  
a 陽明学 16世紀初め、明の王陽明が始めた学派。当時官学とされていた宋学(朱子学)では「格物致知」=ものに格(いた)ることによって知を完成する、つまり自己の心によってではなく、自己の外にある事物それ自体を探求することによって真理を得られるという考え(「性即理」)であったが、王陽明は「聖人の道はわが心のうちに完全にそなわっている。理を(外部の)事物に求めていたきたのは間違っている」と考え、「心即理」と説いた。彼の考えでは学問の目的は、「致良知」=各人に生まれながらにそなわっている心(良知)を実現することにあるという。良知とは、知(認識)と行(実戦)を統一したものでなければならず(「知行合一」)、それは人にそなわった直感的道徳力である、と説く。このように陽明学は朱子学を否定するものであり、そのあまりに主観主義的な思想は体制批判につながるおそれがであったのであまり普及せず、明末に李贄(李卓吾)がいる程度であり、次の清代には、客観的な実証を重んじる考証学が隆盛する。日本には大きな影響を与え、江戸時代の中江藤樹、熊沢蕃山などが現れた。江戸幕府もその普及を恐れ、1790年には「寛政異学の禁」によって弾圧した。事実、幕府への批判を強めて1837年に挙兵した大塩平八郎も陽明学を学んだ人であった。
b 王陽明(王守仁) 王陽明は明代の学者、思想家で儒学の中の陽明学を提唱した人物。陽明は号であり、本名は守仁。浙江省の出身で父も科挙に合格した知識人。はじめ明の官学であった朱子学を学び、28歳で進士に合格、官界に入ったが宦官と対立して貴州の龍場という辺境の地の駅長に左遷された。そこで生活しながら思索し、1508年、朱子学の考えを批判する新しい儒学思想として陽明学を生み出した。その後官界に復帰し、武人としても各地の農民反乱や地方豪族の反乱の鎮圧に活躍、兵部尚書(陸軍大臣)を務めた。この経歴からもわかるように、王陽明は単なる思索の人ではなく行動の人であった。その主著は『伝習録』。彼の思想では「心即理」や「知行合一」がキーワードである。
Epi. 王陽明の少年時代 少年時代の王陽明はすこぶる勉強ぎらいで、塾をエスケープしては士大夫の子弟にあるまじき戦争ごっこに精を出していたという。また、13歳の時に生母に死別し、継母からいじめられると、街でふくろうを一匹買ってきて継母の蒲団の中に入れておき、おどろいた継母が占い師に占ってもらうと子供をいじめた罰だというので、継母はいじめを止めたという。もちろん、占い師は陽明が買収していたのだ。他の儒学者には考えられないような逸話である。このようなエピソードが伝えられているところに彼が当時いかに破格な人物と受け取られていたかがわかる。<島田虔次『朱子学と陽明学』岩波新書1967 p.122>
心即理 宋学(朱子学)では、心を性(仁、義、礼、知、信の五常をもつ人間の本性)と情(感情、欲望)とにわけ、性がすなわち理(宇宙の根本)であると考え「性即理」とし、それにそった生き方によって聖人となることを目指したのであるが、王陽明はそのような考えをあまりに主知主義、観念的であると批判し、人間の心は性と理が渾然一体となった物であり、その心こそが宇宙の真理と一体であると主張した。この考えは、かつて朱子と同時代の南宋の陸九淵が説いたことと同じであるが、王陽明は独自の思索を通じてこの考えに到達したという。
c 知行合一 性即理の思想を批判した王陽明は、朱子学の中心的な方法論である格物致知に対しても、全く違った理解を示した。王陽明によれば、『大学』の言う「格物」の格は「至る」と読むのではなく、「正す」と読むべきであり、「物」とは事にととまらず「意のあるところ」である。「致知」の知は外縁的な知識を増やすことではなく、「良知」のことである、と解釈した。つまり「格物致知」を「心の不正をただし、良知を実現すること」ということになる。このように考えれば、知(学ぶこと)は行うこととは別のことではなく、全く一体のことでなければならないと主張した。これが「知行合一」の考えである。さらに「良知」の理解は、「万物一体にして生々やむべからざるもの」という宇宙の根源への探求に向かうことであった。
d 李贄(李卓吾) りし。または李卓吾とい。16世紀後半、明の嘉慶帝・万暦帝の頃の儒教思想家で、王陽明の陽明学の系譜に属する。福建省の泉州出身で、イスラーム教徒の夏珪に生まれたという。科挙の第一段階の郷試に合格し挙人となったが、第二段階の受験を放棄して、下級官吏となった。54歳で辞職して自由な思索に入り、「童心」を理想として権威にしがみつく学者を痛切に批判、周囲と妥協することのない過激な議論は次第に危険視され、1602年に逮捕され、獄中で自殺した。その男女平等の論など、時代に先んじた思想は、近代中国で高く評価されるようになった。
a キリスト教宣教師 1517年、ポルトガルの商船が渡来し、ヨーロッパ人との交渉が始まり、1557年マカオに居住地を設け国際貿易が始まった。まさにこの時期は、ヨーロッパで宗教改革が始まった時期に当たり、カトリック勢力は対抗宗教改革の組織としてイエズス会を結成、新教側に先立って積極的な海外布教に乗り出していた。ポルトガルやスペインの東洋進出は「胡椒と霊魂」といわれ、商業的な利益を上げることと、カトリックの布教とが不可分に結びついていた。まず、イエズス会のフランシスコ=ザビエルが1549年に日本に渡航し、52年には中国布教を目指してマカオに向かうが、広東の上川島で病死した。彼に続いて16世紀後半から続々と宣教師が渡来するが、最も知られているのはマテオ=リッチである。以後、アダム=シャールなどが続くが、おりから明末清初の混乱期にあたり、宣教師の伝えた大砲などが新たな武器として使用された。続く清朝でもキリスト教宣教師の渡来は続くが、その多くはイエズス会員であった。イエズス会の中国布教は一時2〜3万の信者を得ることとなったが、清の康煕帝の時に典礼問題が起こり、以後は禁教の方向に向かっていく。
b 『本草綱目』 ほんぞうこうもく。1578年刊。明代の薬物を分類集成した薬学百科全書で、李時珍の著。 
李時珍 明代の本草学者で『本草綱目』の著者。本草学とは薬となる植物についての学問の意味であるが、ひろく動物や鉱物も含めて薬学一般を意味するようになった。李時珍は中国古来の薬草、薬物についての資料を集め、自説を加えて1578年に『本草綱目』を刊行した。近年中国では漢方医学に対する再評価が高まり、李時珍も偉人として取り上げられ記念切手も発行されている。 
c 『農政全書』 1639年刊。明末の徐光啓が編纂した農業技術書。中国古来の農業技術を12部門に分類して著述し、キリスト教宣教師を通じて知られたヨーロッパの農業技術についても述べられている。 
d 『天工開物』 1637年刊。明末の宋応星の著作で、多くの図版を含む産業技術の解説書。 
宋応星 明末の人で『天工開物』の著者。 
『崇禎暦書』 明末の崇禎帝の時、徐光啓が、アダム=シャールから西洋暦法を学び、刊行した暦書。西洋暦法の採用は、清になってから、アダム=シャールが集成した時憲暦として、1645年に実施された。 
a フランシスコ=ザビエル  → 第9章 3節 対抗宗教改革 フランシスコ=ザビエル
b マテオ=リッチ
 利瑪竇→竇の拡大
イタリア人のイエズス会宣教師。中国名利瑪竇(りまとう)。1582年にマカオに上陸し、広州で布教に従事した。かれは数学・天文学・地理学の知識や世界地図や地球儀、渾天儀などの機器を中国にもたらした。1601年には北京に赴き、神宗万暦帝に拝謁を許され、ヨーロッパの情勢などの下問に答え、時計を献上したという。リッチは神宗の信任を得て北京に天主堂を建設することを認められ、数年の間で約200人の信者を得た。リッチはキリスト教の紹介書『天主実義』を翻訳、また明朝の政治家で学者である徐光啓と協力してエウクレイデス(ユークリッド)幾何学の紹介書『幾何原本』、世界地図の『坤輿万国全図』などを中国語で著した。実用的な科学技術を中国に伝えたことが重要である。1610年に亡くなり、神宗はリッチを北京城内に葬る事を認め、その墓地が北京で死亡した宣教師の墓地となる。
c 徐光啓 16世紀末〜17世紀、明末の学者で政治家。科挙に合格後、内閣大学士まで昇進した。イエズス会宣教師マテオ=リッチから西洋の科学を学び、マテオ=リッチと共同でエウクレイデス(ユークリッド)の『幾何原本』を翻訳した。また、同じく宣教師アダム=シャールから西洋暦法を学んで『崇禎暦書』を著し、さらに古来の農法を集大成して『農政全書』などを編纂した。彼はカトリックに改宗した最初の中国高官であり、洗礼を受けてパウロといった。彼の子孫が故郷に天主堂を建て、これが江南のイエズス会の本拠となった。上海旧市内の光啓南路は彼にちなむ地名で、そこに残る九間楼は彼が晩年に住んだところである。
d 『坤輿万国全図』 明末の1602年に北京で刊行された、イタリア人のキリスト教宣教師マテオ=リッチが作成した世界地図。中国最初の本格的な世界地図であり、永楽帝時代以来、世界への知識が途絶えていた中国人に大きな刺激となった。また日本にももたらされ、日本人の世界認識にも大きな影響を与えた。 
『幾何原本』 エウクレイデス(ユークリッド)の『幾何学』を、マテオ=リッチ徐光啓の協力により、その前半部を漢訳したもの。西洋の数学の本格的な紹介の最初となった。1607年に刊行。この書はヘレニズム時代にギリシアやオリエントの幾何学を集大成したエウクレイデスがギリシア語で書いたものだが、後にバグダードの知恵の館でギリシア語からアラビア語に翻訳され、さらに13世紀にスペインのトレドの翻訳学校でアラビア語からラテン語に翻訳され、ヨーロッパに知られ、幾何学の教科書とされていた。一冊の書物がギリシア文化、イスラーム文化、ラテン文化、中国文化を経て東西に知られたのであり、文化の交流を考える上で興味ぶかい。
カ.東アジアの状況
A 日本の統一  
a ポルトガル人 (日本渡来) 
b 鉄砲伝来  火砲(鉄砲)
キリスト教の伝来 (日本)イエズス会フランシスコ=ザビエルは、インドのゴアから中国布教に赴く途中、フィリピンで日本人アンジローに会い、1549年まず鹿児島に上陸、領主島津貴久に謁見して、日本に初めてキリスト教を伝えた。以後、平戸、山口を経て京都に至り、将軍への謁見を願ったが、当時室町幕府の将軍足利義輝が細川氏の家臣三好長慶によって京都を追われていたため果たすことができず、山口に戻った。そこで大内義隆の保護を受ける。また府内(大分)では大友宗麟に謁見、日本でのキリスト教布教の基礎を築き、51年豊後からインドに向かう。その後、イエズス会の宣教師が相次いで来日、九州を中心にキリスト教(ローマ・カトリック教会)の信者を増やし、キリシタンと言われるようになった。また領主(大名)にも信仰に入るものもあった。そのような大名をキリシタン大名という。宣教師を通じてポルトガルとの交易を有利に行い、鉄砲などを得ることがキリシタン大名のねらいでもあった。大友氏、松浦氏、有馬氏、大村氏などがその例である。
Epi. 日本人最初のキリスト教徒 ザビエルがマニラで日本布教を決意したのは、一人の日本人に会い、その話から布教の希望を抱いた事による。この日本人はアンジロー(またはヤジロー)といい、鹿児島の出身だが殺人を犯し、国外に逃亡、東南アジアを転々とし、マニラでザビエルにあったらしい。アンジローはザビエルから洗礼を受けて、日本人最初のキリスト教徒となり、ザビエルに伴って1549年、鹿児島に戻った。その後、日本で伝道にあたっがが、その後の消息は不明である。
c 南蛮貿易 1543年のポルトガル船の種子島漂着以来、ポルトガル商船は日本の有益な交易相手国と考えるようになった。マカオを拠点としたポルトガル商人は、中国から生糸などを積み込み、日本に運び、日本の銀と交換する貿易を始めた。日本ではポルトガル人を南蛮人と呼んだので、この貿易を南蛮貿易という。九州の諸大名も鉄砲・火薬などを手に入れるために領内の港に南蛮船の来航を認めた。島津氏の鹿児島港、松浦氏の平戸、大村市の横瀬、大友氏の府内(大分)などが来航地であったが1571年以降は長崎が主要な南蛮船の来航地となっていく。
織田信長  
豊臣秀吉  
天正少年使節 1549年のフランシスコ=ザビエルの来日以来、イエズス会によるキリスト教の日本布教はおおよそ順調に進み、九州では大友氏、有馬氏、大村氏などキリシタン大名も現れた。イエズス会の日本布教の責任者であったヴァリニャーノは、イエズス会の日本布教を有利に進めるため、キリシタン大名に働きかけ、ローマ教皇に使節を送ることを実現させた。選ばれた少年使節、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの4人はヴァリニャーノに付き添われ、1582年2月に長崎を出航、マカオ・マラッカ・ゴア(ヴァリニャーノはゴアで下船)を経て、喜望峰を回り、84年8月ポルトガルのリスボンに到着した。この天正少年使節はスペインの国王フェリペ2世、イタリアのトスカナ公国(フィレンツェ)のフランチェスコ1世に謁見、歓迎を受け、85年3月ローマ教皇グレゴリオ13世に謁見した。帰りも苦難に満ちた航海の末、1590年、長崎に帰着した。しかしこの間日本は豊臣秀吉が政権を握り、1587年にバテレン追放令を出してキリスト教弾圧に転じていた。4人の少年使節も秀吉に謁見したが、その後は過酷な運命にほんろうされた。伊東マンショは宣教師となって活動したが、千々石ミゲルは棄教、原マルチノはマカオに追放され、中浦ジュリアンは殉教した。<松田毅一『天正少年使節』講談社学術文庫 1977>
B 豊臣秀吉の朝鮮侵略 16世紀末、二度にわたった日本の豊臣秀吉が行った朝鮮への出兵で、日本では文禄・弘安の役、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と言われている。無謀な侵略戦争であったが、これを機に日本では豊臣政権の衰退、中国では明の衰退が進むという東アジアの変動がもたらされた。1585年に関白となった豊臣秀吉は、戦国時代の争乱を抑え、1590年までに九州、関東、東北を平定し、統一政権を樹立した。その間、検地と刀狩りを実施し、封建支配体制を作り上げた。その秀吉が1590年代に展開した朝鮮への出兵の目的は、新たな恩賞を得る途が閉ざされていた武士の不満の解消、明中心の東アジア国際秩序に対する挑戦、何よりも自らの権勢欲を満足させることにあったと思われる。1592〜96年の文禄の役(朝鮮側は「壬辰の倭乱」と呼んだ)は15万の大軍で行われ、加藤清正、小西行長らの指揮で一時は平壌まで進んだが、朝鮮の義兵の抵抗、明の李如松の援軍によって苦戦し、戦線が膠着した。その間海上では朝鮮の李舜臣が活躍して制海権を握り、豊臣軍は補給に苦慮し、明と講和して撤退した。1596年、明の使節が秀吉を折衝したが、秀吉は明の降伏と皇帝の娘の天皇に嫁すこと、朝鮮の南半分を割譲することなどをもとめたので決裂し、翌1597〜98年にかけて、慶長の役を起こした。こちらは朝鮮では丁酉の倭乱と言われる。明が14万の援軍を送り、朝鮮民衆の抵抗も激しかったので豊臣軍は苦戦に陥り、秀吉の死によってようやく兵を退くこととなった。豊臣軍は引き上げるに際して5〜6万の朝鮮人を捕虜として連行したが、その中には優れた陶工や活版工が含まれ、日本の文化の発展に寄与することとなった。朝鮮陶工が始めたものとしては有田焼、唐津焼、薩摩焼が有名。
a 壬辰・丁酉倭乱 日本の豊臣秀吉の朝鮮侵略を、朝鮮側ではこのように言う。なお、明(万暦帝)では秀吉を「平秀吉」とよび、最近ではこの戦争を「抗倭援朝戦争」と呼んでいる。壬辰、丁酉はいずれも干支で、それぞれ1592年と1597年をさしている。「壬辰の倭乱」(1592〜96年)で日本軍の侵攻を受けた朝鮮は当時、両班が東人と西人に分かれて党争を繰り返しており、一致して抵抗できなかった。日本軍は各地で破壊と略奪をしながらたちまち首都漢城を陥れた。その間、慶州の仏国寺(新羅時代の仏教寺院)や芬皇寺などが焼かれた。両班は抵抗できなかったが、民衆は各地で激しく抵抗した。また李舜臣の率いる朝鮮海軍が活躍し、日本軍の補給路が断たれ、次第に戦線は膠着した。明が援軍を派遣したが、碧蹄館の戦いで日本軍に敗れ、両軍は講和することとなった。
日本と明の和議が敗れ、秀吉は再征を命じ、「丁酉の倭乱」(1597〜98年)となるが、このときの戦場は朝鮮の南部に限られ、朝鮮と明軍の組織的な抵抗があったので日本軍は苦戦、加藤清正は尉山で籠城しなければならなかった。秀吉軍の中から「沙也加」(雑賀衆のことか?)という武士が手兵三千をつれて降伏し、朝鮮側について戦ったこともあった(現在、その子孫が韓国に実在しているという)。秀吉が死んで日本軍は撤退し、戦争は終わったが、朝鮮の人口は減り、国土は荒廃し、文化財は焼かれ、大きな被害を受けた。
b 李舜臣 豊臣秀吉の朝鮮侵略を迎え撃った、朝鮮の海軍の将軍。壬辰の倭乱で、亀甲船という半潜水艦を考案し、日本軍の海軍を襲撃し、大きな成果を出した。一時ねたまれて無実の罪を着せられ失脚したが、丁酉の倭乱が起こると再び海軍を指揮して活躍、1598年11月、戦死した。李舜臣は現在も朝鮮の救国の英雄として、尊敬されている。
亀甲船 朝鮮水軍の武将、李舜臣が考案したという戦闘用の船で、壬辰・丁酉の倭乱(日本の豊臣秀吉の侵略)の時に豊臣の水軍を大いに悩ましたという。
Epi. 李舜臣の亀甲船 亀甲船というのは、木造船の上に鉄板(または堅い板)で覆い、敵が乗り込めないようにし、船の左右にたくさんの櫂をつけて速力を早めて敵に近寄り、無数の銃眼から鉄砲や矢を射るようにしたもの。舳先には口を開けた竜頭をすえ、上からも法家を浴びせられるようにした。15世紀の初めごろから、倭寇と戦うために考案されたらしく、李舜臣が改良して実戦に使えるようにした。李舜臣はこの亀甲船と、潮の流れをうまく利用して日本海軍をほんろうしたという。<岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー p.154> 
C 朱印船貿易 豊臣秀吉が朱印船貿易を開始したが、徳川家康がさらに積極的に海外貿易を推進し、朱印船貿易を展開した。貿易の利益を幕府が確保するために、海外渡航船には許可制とし、朱印状を発行し、そのような朱印状を持つ貿易船を御朱印船と言った。島津氏や細川氏などの西国の有力大名や、京都・大坂・堺・長崎の豪商が朱印状を受けて東南アジア各地に貿易船を派遣した。銀・銅・漆器などを輸出し、生糸・絹織物・鹿皮・蘇木・砂糖などを輸入した。鎖国政策がとられる直前の1635年まで、日本の御朱印船は台湾、フィリピン、ベトナム、カンボジア、タイなどとの交易を行っていた。東南アジア各地に渡航した日本人は、日本町を作り、拠点とした。カンボジアのアンコール=ワットにはこのころに訪れた日本人の落書が残っている。 
a 徳川家康  
b 日本町 朱印船貿易で渡航した日本人は東南アジア各地に日本町を作った。タイのアユタヤ、フィリピンのマニラ、ベトナムのツーラン、フェフォ、カンボジアのプノンペン、ピニャルー、ビルマのアラカンなどが主な日本町として知られている。この時代にカンボジアのアンコール=ワットを訪ねた日本人もいたことが、彼らの残した落書きで知ることができる。日本町で活躍した日本人としてはアユタヤの日本町の長となった山田長政が有名。
c マカオ 中国の広東省の都市。珠江の河口にあり、香港の対岸にあたる。マカオとはポルトガル人がつけた地名で、中国では澳門(アオメン)という。ヨーロッパ勢力の最初にポルトガル人が1517年にマカオに漂着した。明朝は1557年、マカオでのポルトガルの通商定住許可を認めた。ポルトガルが明朝の倭寇討伐に協力した見返りとされている。その後もインドのゴア、マレー半島のマラッカとともにポルトガルのアジア貿易の拠点として繁栄した。またイエズス会のアジア布教の拠点ともなった。長く租借地(ポルトガル人が地代を払う)として続いたが、1887年に割譲されポルトガル領となった。イギリスが香港を中国に返還した1999年、マカオも中国に返還された。
日本とも関係が深く、マカオのポルトガル商人はマカオと長崎との間の生糸と銀の交易を独占して(南蛮貿易)、利益を上げていた。日本に向かう宣教師もマカオ経由で長崎に向かった。日本の天正少年使節(1582出発、1590年帰国)も行きと帰りにマカオに滞在している。
d 台湾 台湾は古来、中国本土とは別個な文化圏にあった。中国の史料にも様々な名前で出てきて、一定しない。宋・元時代には、東アジアの海上貿易の中心地ち現在の沖縄が大琉球つまり琉球王国といわれ、台湾を小琉球と言われていたらしい。明代には15世紀後半から16世紀にかけて倭寇が活躍し、その活動に加わった華南沿岸の漢人が台湾に移住することが多くなった。
17世紀になるとポルトガルのマカオ進出に刺激されたオランダ、スペインが台湾に進出を試みた。まずオランダが1602年以来、マカオや澎湖島を武力攻撃したが、明とポルトガルの連合軍によって上陸を阻止させ、やむをえず矛先を台湾に向けた。明も台湾は化外の地であったので、黙認し、オランダは1624年、台湾南部にゼーランディア城を建設した。一方、フィリピンを植民地化したスペインは、オランダの台湾進出を恐れ、台湾北部に進出し砦を築いた。また東シナ海一帯の海賊集団であった鄭芝竜も台湾に進出した。やがて台湾ではオランダの勢力が優勢となり、その東インド会社による植民地経営が1661年まで行われた。→台湾(鄭氏台湾
D 鎖国政策  
a キリスト教禁止令  
b ポルトガル  
c オランダ  
d 長崎出島  
A 明の衰退  
a 張居正 神宗万暦帝の最初の十年(1572年から1582年)、政務を担当した内閣大学士。万暦帝は十歳で即位したので、張居正が実権を揮い、諸改革にあたった。当時の明は、北虜南倭に対する莫大な軍事費の出費で財政が困窮していたので、張居正はまず行政改革を実行して役人の数を減らし、また土地調査(検地)を実施して課税対象の土地を増やし、新しい税制である一条鞭法を普及させた。張居正の財政再建計画は成功し、明の国庫は安定した。
Epi. 名宰相、死して罪人となる 張居正は名宰相として惜しまれながら世を去った(1582年)。するとそれまでなりをひそめていた保守派・反対派はいっせいに攻撃し始めた。その攻撃材料とされたのは、以前張居正の父が死んだとき、かれが喪に服さず、内閣大学士の職にとどまり北京を離れなかったことと、神宗の結婚式の時、彼は服喪の身でありながら喪服を脱ぎ、礼服を着用したことという問題であった。当時中国では父母の死にさいしては官職を辞して郷里に帰り、服喪すべきであり、それをしないのは最大の不幸であると考えられていたので、張居正の実務優先の態度は保守派の非難の的になったのだった。神宗はこの動きに圧されて、張居正の官位を剥奪、家産を没収、家族を辺境に流す処置を執った。名宰相とされた張居正も死後このようにして罪人とされてしまったのだった。<愛宕松男・寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談社学術文庫 p.385〜388>
b 万暦帝 明の第14代皇帝(在位1572〜1620年)。諡号が万暦帝で廟号が神宗。10歳で皇帝となり、始めの十年は名宰相張居正の改革によって財政再建に成功し、国庫は潤うことになったが、その死後は再び放漫な宮廷財政に逆戻りし、たちまち国庫は底をついてしまった。また、宦官の政治への介入が激しくなり官僚の反宦官派である東林派との激しい党争が始まった。また万暦帝の治世は、周辺の諸民族の反乱、朝鮮半島への日本の豊臣秀吉の侵略に対する出兵など対外的な問題に加え、国内では抗租奴変民変などの社会問題が表面化し内外の困難が生じ、明の衰退がはっきりとしてくる時期であった。またこの時期、ヨーロッパ人の渡来も多くなり、イタリア人マテオ=リッチが北京で布教にあたったのも万暦帝の時代であった。その陵墓は明の十三陵の一つ「定陵」で現在公開されている。
Epi. 神宗万暦帝の定陵 明の国運が急速に傾きつつあった1620年7月、神宗は58歳で病没した。遺体は、生前に6年の歳月と800万両の大金を投じて造営された陵墓「定陵」に葬られた。「定陵」のある北京北方の40キロの天寿山のふもとには成祖の長陵を初めとする、いわゆる「明の十三陵」が存在する。1956年から中華人民共和国政府の手によって「定陵」の発掘が行われ、地下20m、前・中・後の三室、全長88m、高さ7mに及ぶ地下宮殿が現れ、多数の豪華な副葬品がみつかった。現在は人民を収奪した専制君主の贅沢のあかしとして、公開されている。
c 東林派 明の万暦帝の治世の後半、17世紀にはいると、宮廷の中で宦官の力が大きくなったことに対し、官僚の中に反宦官派が形成された。この反宦官派の中心人物の顧憲成は、故郷の江蘇省無錫で東林書院を再興し、朱子学を講じながら政治批判を展開し、多くの同調者を集めた。そのため、反宦官派のことを東林派(または東林党)という。宦官による政治腐敗を朱子学の立場から非難する顧憲成らの発言は知識人にとどまらず、一般民衆の支持も受け、東林派の勢力は次第に強まった。それに対して非東林派、つまり宦官派は皇帝の支持を頼みとして権力の維持を図り、熹宗の代となった1620〜27年には魏忠賢が東林派を弾圧することに成功し、専横を極めた。その間、東林派は投獄されるものも多く、東林書院も破壊された。崇禎帝の即位とともに魏忠賢ら反東林派が失脚すると東林派が復活、それ以後も明の滅亡まで、両派の抗争は続く。宦官と官僚の対立と言えば、後漢末の党錮の禁も重要。
顧憲成 明末の政治家で、反宦官派である東林派(党)の指導者。江蘇省無錫の出身で官界に入ったが、皇太子冊立問題で神宗(万暦帝)の怒りを買い、官を辞して故郷に帰り、1604年に東林書院を再興し、同志の趙南星、鄒元標らを招いて自説を講義するとともに、「講学」と称する討論会を開き、政治批判を展開した。顧憲成は朱子学の立場から、学問は自己の興味の対象のとどまるべきではなく、政治批判の方法であるべきであると説き、政治への宦官の関与を徹底的に批判した。彼の名声は天下にとどろき、多くの学者、官僚、知識人の共感をえて、東林派の勢いが強くなったが、一方で現実との妥協を図り宦官を容認するグループは反東林派を形成し、両派の政争は激しくなった。
東林書院 明の末期、顧憲成が江蘇省無錫で運営した学塾で、反宦官派の官僚である東林派(党)の拠点となったところ。はじめは宋代に朱子学者揚時が開いたものであり、1604年に顧憲成が再開した。朱子学の理念から宦官による政治を批判し、1620年代から激しくなった東林派と反東林派(宦官派)の抗争の中で、1625年に反東林派の魏忠賢によって閉鎖され、破壊された。 
d 宦官(明)明の太祖洪武帝は、皇帝による専制政治の体制を強め、すべて親政によって事を処し、官僚の力を抑えことに成功した反面、皇帝の身辺の世話をする宦官の役割が増大した。それでも太祖の頃は宦官の政治関与はきびしく戒められていたので、大きな問題にはならなかった。続く永楽帝の時から宦官の進出はめざましく、鄭和に代表されるように、外交や軍事面でも宦官が活躍した。永楽帝は秘密警察などにも宦官を重用し、その後の明の宮廷では宦官が集団的な勢力を形成し、政治にも関与して官僚勢力と対立するようになり、明の政治の混乱の一因となる。明代には内閣で起案された文書で皇帝が決済しなければならない文書はすべて司礼監という宦官の機関で処理されることになったため、内閣よりも宦官の司礼監の方が力を持つようになった。宦官の政治への介入を批判する官僚グループは東林派を形成し、万暦帝の17世紀になると東林派と非東林派の党争が激しくなる。次の清朝においても宦官は存続したが、明朝の失敗を反省し、その数を減らし、政治への介入をさせなかった。
Epi. 宦官魏忠賢の「九千歳」 明末の17世紀には、宦官の台頭を非難する官僚のグループ東林派(党)が形成され、宦官派=非東林派との争いは頂点に達した。この時期の宦官の中心人物は魏忠賢で、1620年代に政権を握り、秘密警察(東廠)を動かして東林派を弾圧し、東林書院を破壊した。彼に取り入って栄達を図ろうとするものが多く、宦官魏忠賢は専横を極め、彼を神と祭る生祠を全国に建てさせたり、北京の街を通り時は民衆に土下座させ、皇帝のために「万歳」というところか千歳を引いて「九千歳」と叫ぶことを強要したという。1227年、後ろ盾だった熹宗が死に、毅宗崇禎帝(明の最後の皇帝)が即位すると、新帝は魏忠賢の専横に反感を持っていたので、彼を弾劾する声が強まり、魏忠賢も逃れられないと知って首をくくって死んだ。毅宗はその死体をはりつけにし、天下に罪を明らかにして民衆の怒りを収めなければならなかった。<愛宕松男・寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談社学術文庫 p.453〜456>
B 女真女真は、ツングース系民族で、12世紀には中国の東北方面で優勢となり、を建国し、中国の北半分を支配、南宋と対立した。1234年、モンゴルに敗れてから東北方面に後退し、元の支配を受け、さらに明に服属していた。明は駐屯軍を置き、女真を建州女真、海西女真、野人女真の三部に分けて統治した。その中の建州女真が次第に勢力を強め、明から分離する動きを示し始めた。その族長アイシンギョロ・ヌルハチは、次々と周辺の女真族を制圧して統一に成功、1616年、ハン位につき国号を後金とした。
a 満州 清朝成立後の女真を満州人という。清朝が成立した後、女真に代わって使われるようになった。女真の間で信仰されていた文殊(モンジュ)菩薩にもとづき、自らの民族名を満洲(マンジュ)と言うようになった。中国ではかつての金以来、女真は侵略者と見られていたので、中国支配を進める上で彼らは自ら民族名を変え、満洲人と自称するようになった。したがって満洲(現在は省略形の満州をつかう)は、地名ではなく、民族名であったが、後に彼らの拠点とした中国東北部さす地名として「満州」が使われるようになった。後にこの地を侵略した日本も傀儡政権「満州国」を建てた。現在の中国では満州という地名としても使用されず、「東北地方」と言われている。 
b ヌルハチ 後金(後の清)の建国者で太祖(在位1616〜1626年)。女真の中の建州女真、アイシンギョロ(漢字で表記すると愛新覚羅)氏に生まれた。明の万暦帝のとき、父と祖父が明軍に殺され、25歳の時、1583年に兵を挙げる。海西女真など、他の女真の諸部族を次々と制圧して、1613年までにほぼ敵対勢力を討ち、女真族を統一した。1616年、ヌルハチは国号を後金、年号を天命と定め帝位につき、明に対抗する姿勢を示した。1618年、ヌルハチは「七大恨」という6箇条を掲げて明に宣戦布告、明の大軍をサルフ山の戦いで破り、遼東平野に進出、遼陽、ついで瀋陽(奉天)を都とした(盛京と命名)。明との戦争を展開する中で、八旗の軍制、満州文字を創り、独立王朝としての体裁を整えた。1626年、モンゴル方面に進出したが、キリスト教宣教師から火砲を取り入れた明軍によって進撃を阻止され、ヌルハチも病死した。後金はに清と改称するので、ヌルハチは清の太祖とされる。
c アイシン(金) ヌルハチは、女真族のアイシンギョロ氏を称したが、アイシンとは彼らの言葉で「金」の意味、ギョロは氏族名につける接尾語である。ヌルハチは1616年にハンとなり、「後金」(女真語でアイシン=グルム)を建国した。かつての女真の国家、を再興したものという意味である。
d 八旗 後金を建国した満州人のヌルハチが創設した軍制。彼らが狩猟の時に用いていた陣立てをもとに編成したという。壮丁(成年男子)300をもって1ニルとし、一部を兵として他を農耕に従事させ、5ニルを1ジャラン、5ジャランを1グサ(つまり1グサは7500の壮丁からなる)とする。この1グサが「旗」であり、最初は黄色・白色・紅色・藍色の4色の旗が創られ、後金の成立までに4旗(先の4色に縁取りをした)増えて8旗となったので八旗という。満州人はすべて八旗に編成されたので、軍事制度ちすてヌルハチの軍事力を構成した(八旗すべてでは何名の壮丁となるか、計算してみよう)とともに、後金さらに清王朝の行政組織ともなった。後に満州八旗のみならず、蒙古八旗漢人八旗も創られた。清の軍隊としては、中国本土を制圧した後、漢人の軍人を編成した緑営も創られ、併せて「八旗緑営」と称する。
e 満州文字 女真族は金の時代に女真文字という漢字をもとにした文字をもっていたが、ヌルハチの頃は使われなくなり、文字を使用するときは彼らの言葉をモンゴル語に翻訳してモンゴル文字で書くようになっていた。ヌルハチの権力機構が拡大すると文書の量も増え、その不便を解消する必要が出てきたので、モンゴル文字をもとに満州文字を作った。ヌルハチ自身が考案したとも伝えられる。
C 清の建国 ヌルハチ(太祖)が建国した満州人の後金は、第2代のホンタイジ(太宗)の時の1636年に国号を清と改めた。しかしそのこきはまだ中国本土に支配は及んでおらず、山海関より東北の、いわゆる満州地方とモンゴルの一部を支配するだけであった。後に明で李自成の乱が起こり自壊すると、李自成の乱を鎮める名目で漢人部将呉三桂に率いられた清軍が中国本土に侵攻、1644年順治帝が北京に入って、中国全土を支配する「清王朝」となった。 → 清の統一 
a 太宗ホンタイジ 後金のヌルハチの第8子で、第2代ハンとなる(ハンとしてはスレ=ハンという。在位1626〜1643年)。1636年後金を改めて国号を清とし、清の太宗とされる(廟号)。ホンタイジは、明と直接対決する前に、モンゴルと朝鮮を制圧しようとし、まず1632年にモンゴルのチャハル部を討ち、ついで1626年と1636年の2度、大軍を朝鮮におくって属国とした。その間、ホンタイジは中国風の官制を導入し、漢人も登用して清王朝の整備に努め、その基礎を創った。国力の充実を背景に明への圧力を強めたので、明側は山海関での防衛に努めなければならなかった。
Epi. ホンタイジ、「紅衣大将軍」で明軍を破る 満州軍の侵攻に悩まされた明は、マテオ=リッチからヨーロッパの大砲の作り方を学び、勢力を挽回しようとした。アダム=シャールに命じて大砲を鋳造させ、その操作法を教練させ、実戦に持ち出した。この「神の福音を説く宣教師の作った大砲」は大いに威力を発揮し、ヌルハチの満州軍を破った。ヌルハチは砲弾の破片による傷がもとで死んだと言われる。この大砲が満州側にわたったときの喜びはたいへんおおきなもので、太宗ホンタイジは大砲に「紅衣大将軍」という最高の官職を与えたという。そして今度は逆に明軍が砲撃される番となり、明帝国の滅亡は早められた。<愛宕松男・寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談社学術文庫 p.403〜404>
チャハル部チャハルは15世紀末にモンゴル民族を再統一したダヤン=ハンが設けた右翼の3万人隊の一つ。アルタン=ハンに押されて大興安嶺の東に移り、後に現在の内蒙古に戻った。1632年に満州のホンタイジによって征服され、服属することとなった。1914年からはチャハル特別区、28年チャハル省となり、現在は内蒙古自治区に属する。
山海関明代に、万里の長城の最東端に設けられた関で、山に拠り海に面するところであることから山海関と名付けられた。この関は北京を守る重要な拠点とされ、東北方面の女真の勢力である後金(清)の侵攻から中国本土を守る前線となり、武将呉三桂などが守備についていた。清代になると、この地より東のいわゆる満州地方が、「関東」と言われるようになり、奉天省・吉林省・黒竜江省の三省がおかれ、東三省とも言われる。後に遼東半島に進出した日本軍が、その権益を守る派遣部隊を「関東軍」と称したのはそのためである。
D 明の滅亡 16世紀末から17世紀初めの万暦帝時代は、表面は明の繁栄は続いていたが、内には東林派と非東林派の党争、抗租運動などが起こり、外に日本の豊臣秀吉の朝鮮侵略があって動揺は隠せなくなってきた。17世紀にはいると東北方面の女真族がにわかに勢力を増し、1616年にはヌルハチが統一、後金を建国して明を脅かし、さらに1636年、国号を清と改めた。明は山海関の守りを固めて防戦し、宣教師から学んだ大砲の利用などもあって防戦していたが、その戦費調達のための増税は農民を苦しめ、1627年の大飢饉をきっかけに各地で反乱が勃発した。その中の最大の勢力が李自成の反乱であり、李自成は1644年首都の北京を包囲、明朝の最後の皇帝崇禎帝(毅宗)は自殺して滅亡した。明朝成立以来、277年目のことであった。
Epi. 明朝最後の皇帝毅宗の自殺 1644年、李自成軍に北京をかこまれた毅宗の最後。「最後の時をむかえた毅宗は、皇子を城外へ退去させたのち、皇后と別れの杯をくみかわした。皇后はほどなくみずから首をくくって世を去り、毅宗は十五歳になったばかりの皇女をよんで、自分の手で彼女を斬った。「そちはなんの因果で皇帝の家などに生まれたのであるか」これが最愛の娘に刃を向けたさいの毅宗の言葉であったと伝えられる。十九日未明、毅宗は、みずから非常鐘をうちならして召集をかけたが、かけつけるもはひとりもいなかった。やむなく、毅宗は紫禁城の北、景山に登り、寿皇亭で縊死して果てた。帝に従ったものは太監の王承恩ただひとりだけであった。」<愛宕松男・寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談社学術文庫 p.479>
a 李自成の乱 明末の農民反乱軍の指導者。1631年反乱軍に加わり、各地を転戦。1644年には西安に入り、国号を大順として王を称した。さらに北京に進軍すると、明は清に対する防衛のため軍隊を山海関に置いていたために守りきることができず、最後の皇帝毅宗崇禎帝は自殺、滅亡した。しかし李自成の軍は統制がとれず、各地の地主層も離反したため政権を維持できなかった。山海関を守っていた明の部将呉三桂は明に降り、その先導となって北京の李自成軍を攻撃、李自成は陝西の地に逃れ乱は終結した。この反乱によって明は滅亡し、清の中国支配のきっかけとなった。
Epi. リストラされて反乱軍に加わった李自成 李自成はかなり裕福な里長戸に生まれたが、逃亡した里内の農民の賦役を連帯責任で負担させられて没落し、やむなく駅率となった。ところが財政整理(リストラ)によって駅伝が廃止されて失業し、ついで軍隊に入って謀反に加わり、反乱軍の首謀者となった。1640年頃には「身分のいかんにかかわらず、土地を均しく分配し、三年間の税を免除する」「商取引は公正にする」などを掲げて農民や商人の支持を得て大勢力となり、ついに王を称し、1644年には北京には行って明を滅ぼした。このままいけば明の建国者朱元璋と同じく農民から皇帝となるかと思われたが、人心をつかむことができず、清という新興勢力を後ろ盾にした明の遺臣呉三桂の軍によってわずか40日で北京を追われ、自殺して果てた。<愛宕松男・寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談社学術文庫 p.475>