用語データベース 06_2 | |
2 東ヨーロッパ世界の成立 | |
ア.ビザンツ帝国の繁栄と衰亡 | |
A ビザンツ帝国 | ビザンツ(またはビザンティオン)帝国は、ローマ帝国を継承し、コンスタンティノープルを都としてギリシアを中心とした東地中海から東ヨーロッパ、小アジアを支配した国。その始まりは、330年のコンスタンティノープルの建設、395年のローマ帝国の東西分裂による、東ローマ帝国の分離、さらに西ローマ帝国が滅亡して、東ローマが唯一の「ローマ帝国」となった476年などに求めることが出来、定説はない。また「ビザンツ」とは、コンスタンティノープルがかつてギリシア人の植民市ビザンティオンにたてられたことに由来するが、その呼び方は後世の人々が使ったもので、この国人々はあくまで「ローマ帝国」であり、自分達も「ローマ人」と呼んでいた。6世紀のユスティニアヌス帝の時代には一時「ローマ帝国」の版図を復活し、ローマ法大全などローマ文明の完成期を出現させた。しかし、ビザンツ帝国は、ギリシアの地を基盤としていたので、ギリシア文化の伝統を受け継いでいたので次第にギリシア化し、国教としてローマから継承したキリスト教も、ローマ教会と違った独自の発展をとげ、ギリシア正教といわれるようになり、7世紀以降は「ローマ帝国」の伝統とは違った「ビザンツ帝国」としての性格を強くし、「軍管区制(テマ制)」などの独自の国家体制を作り上げていく。また、首都コンスタンティノープルは、帝国の都として東西交易の中心となって貨幣経済が栄えた。 領土的には6世紀のユスティニアヌス帝の時に一時西地中海を征服し、ローマ帝国のほぼ全版図を回復したが、その時が最大で、その後、西方はゲルマン(ランゴバルド王国)、ノルマン、東方はササン朝ペルシア、北方はスラブ人にそれぞれ領土を奪われ、7世紀以降は西アジアのアラブ人のイスラーム勢力の登場によって、西方を脅かされ、シリアとエジプトを奪われることとなる。 7世紀以降は皇帝の世襲が一般化し、またクーデタによる皇帝位の廃位などがたびたび起こり、王朝が交替した。 ヘラクレイオス朝(610〜711)→マケドニア朝(867〜1056)→コムネノス朝(1081〜1185)→アンゲロス朝(1185〜1204)→ラテン帝国の支配(1204〜1261)→パライオロゴス朝(1261〜1453) この間は、「中世ローマ帝国」とも言われる。ヘラクレイオス朝・マケドニア朝時代は独自の国家体制をとって繁栄したが、コムネノス朝からは衰退期に入るがなも400年の命脈を保ち、1453年オスマン帝国によって滅ぼされるまで存続する。 → ビザンツ帝国の衰退 Epi. ビザンツ皇帝の命 ビザンツ帝国史上90人の皇帝のうち、実に30人近くが毒殺、刺殺、斬首によって命を落とている。 |
a 貨幣経済 | ローマ帝国以来のソリドゥス金貨の発行はビザンツ帝国でも続けられ、この時代にはノミスマといわれるようになった。歴代皇帝はノミスマの金含有量を落とさなかったため信用が続き、首都コンスタンティノープルは経済の中心として繁栄した。 |
ノミスマ | ビザンツ帝国で発行されていた金貨のこと。ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝が発行したソリドゥス金貨を継承したもので、ビザンツ帝国でもその純度を落とさなかったので、長くコンスタンティノープルの貨幣経済の基軸通貨として重要であった。なお、帝国内のシリアやエジプトの地ではディナリウスといわれるようになり、それは7世紀に登場してシリアとエジプトを奪ったイスラーム帝国のディーナール金貨に継承された。ビザンツ帝国のノミスマは、1071年のマンジケルトの戦いでセルジューク朝に敗れてから財政難のために純度が落ち始め、貨幣経済の中心はヨーロッパに移っていく。 → 中世ヨーロッパの貨幣経済 |
b コンスタンティノープル | → 第1章 3節 ローマ帝国 コンスタンティヌス帝 コンスタンティノープルの建設 |
c ビザンティウム | → 第1章 3節 ローマ帝国 コンスタンティヌス帝 ビザンティウム |
d 皇帝教皇主義 | ビザンツ帝国では、皇帝はキリストの代理者として国を治め、その絶対的権威は国政のみならず、ギリシア正教のコンスタンティノープル総主教の任免権以下の聖職にまで及ぶとされていた。ローマ教会では、聖職者の任免権(叙任権)をめぐって、皇帝と教皇が対立するようになるが、ビザンツ帝国とギリシア正教の間にはそのような対立はなかった。 |
e ギリシア正教会 | 本来、コンスタンティノープル教会はキリスト教の五本山の一つにすぎなかったが、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のもとで独自の発展をとげ、8世紀以降、聖像崇拝問題でローマ教会と対立し、その後、教会の首座をめぐっても争い、1054年にローマ教会と互いに破門しあって教会は東西に分離した。コンスタンティノープル総主教は、ビザンツ皇帝の保護のもと、自らの教えを正しいキリスト教であると唱えて「正教」(オルソドクス)と称した。特に東ヨーロッパ世界のスラブ人に布教が進み、その教会は「ギリシア正教」(Greek
Orthdox)といわれ、東ヨーロッパ世界に根付くことになる。五本山のうち、アンティオキア・アレキサンドリア・イェルサレムの東方の3教会がいずれもイスラームの手におちると、コンスタンティノープル教会は東方での唯一のキリスト教の中心として重きをなすこととなった。1453年、コンスタンティノープルが陥落し、コンスタンティノープル教会もイスラームの手におちるが、オスマン帝国はミッレト制など寛大な宗教政策をとったので総主教座は残された。ビザンツ帝国にかわりギリシア正教の保護者となったのはロシアであった。ロシアはウラディミル1世のとき、990年にギリシア正教を国教とし、キエフさらにモスクワに府主教座を設けていたが、1472年、イヴァン3世はビザンツ皇帝を継承し、その保護者とった。さらに1589年、ギリシア正教会の総主教座をコンスタンティノープルからモスクワに移した。 なお、キリスト教世界はローマ=カトリックとギリシア正教に二分されたわけだが、教義の上でそれほどの差があるわけではなく、いずれも三位一体説の上に立っている。意見の対立では、聖像崇拝問題が有名だが、それもギリシア正教は後に、「イコン崇拝」の承認に戻るので、結果的には同じ状況である。 Epi. ギリシア正教徒カトリックの違い ギリシア正教の聖職者は、黒い帽子に、黒いマントをまとい、必ず髭をたくわえている。なかには髪を長く伸ばし後ろでまとめめているのもいる。これは聖職者が必ず守らなければならない教会規定であり、守るべき伝統とされている。また、ギリシア正教と、ローマ=カトリックのちがいに、十字の切り方がある。カトリックでは、親指を折って、ひたい、胸とおろし、次に左肩にもってくるが、ギリシア正教では親指、人差し指、中指を合わせ、後の二本を折り、合わせた三本指で、ひたい、胸とおろして、右肩、左肩と描く。右を先にもってくるのは、キリストが昇天した後、神の右手に坐した、されるところから、重視するのである。<以上の項、高橋保行『ギリシア正教』講談社学術文庫 による。> |
B ユスティニアヌス帝 | 6世紀に、かつてのローマ帝国の領土を回復した、東ローマ皇帝。在位527〜565年の約40年。その間、領土拡張に努め、534年にヴァンダル王国、555年に東ゴート王国を滅ぼし、さらに西ゴート王国を攻撃してイベリア半島南部を占領、地中海域の全域に対する支配を回復した。イタリアにはラヴェンナに総督府を置いて支配した。東方ではササン朝ペルシアのホスロー1世と戦い、領土は拡張できなかったがその侵入をくい止めた。また、国内産業の保護に努め、東方からの知識である養蚕を奨励した。帝国の支配機構を整備するため法典の編纂を命じ、『ローマ法大全』を完成させた。そして、東ローマ帝国の繁栄を象徴する、ハギア=ソフィア聖堂をコンスタンティノープルに建造した。彼は専制君主としてキリスト教を統治の理念としたため、教会の教義論争を自ら裁断し、異端(エジプトのコプト教会派やシリアの単性論者など)を厳しく取り締まり、領内のユダヤ教とユダヤ人の権利を制限して迫害を加えた。またアテネでプラトン以来900年以上続いていたアカデメイアを閉鎖した。 ユスティニアヌスの時にかつてのローマ帝国が再現されたため、「大帝」と称賛されるが、彼の死後は、財政の逼迫もあって、獲得した領土は次々と失うこととなり、再びギリシア・小アジア・バルカン半島を中心とした「ビザンツ帝国」となっていく。 Epi. ユスティニアヌス大帝の皇后テオドラ 皇后テオドラは動物の調教師の娘で、ダンサーだったこともある女性であったが、大帝に劣らぬ政治家でもあった。大帝のローマ領奪回のための戦費をまかなうため、国民に重税を課したが、532年、増税に反撥したコンスタンティノープル市民が反乱を起こし競馬場に立てこもった。彼らは「ニカ(勝利せよ!)」と叫んで暴動を起こしたのでこの反乱を「ニカの乱」という。反乱でハギア=ソフィア聖堂も焼け落ち、絶望したユスティニアヌス帝は逃亡しようとしたが、そのとき皇后テオドラは「逃亡するよりも帝衣のまま死んだ方がましです!」と帝を励まし、勇気を取り戻した帝は反乱を鎮圧できたという。皇后テオドラの肖像はラヴェンナのサン=ヴィターレ聖堂に大帝とともに描かれている。 |
a ヴァンダル王国の滅亡 | ヴァンダル王国は、かつてのカルタゴの地に建設されたゲルマン国家。5世紀のガイセリック王の時、一時強大となり、ローマを占領したこともあった。しかし6世紀には次第に衰退に向かい、533年東ローマ帝国のユスティニアヌス帝は、ベリサリウス将軍に1万6千の軍勢をつけて攻撃、534年それを滅ぼした。 |
b 東ゴート王国 の滅亡 | 東ゴート王国は、ゲルマン諸国の一つ、イタリアほぼ全域を支配していた。5〜6世紀初めのテオドリック大王の時が最盛期。ヴァンダル王国を征服した東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスは自信を深め、535年同じくベリサリウス将軍を派遣。東ローマ軍はシチリア、ナポリ、ローマを占領したが、執拗な抵抗に遭い、ようやく555年に征服した。この「ゴート戦争」はイタリアに壊滅的な被害をもたらした。土地は荒廃し、飢饉が広がり、さらに568年に始まるランゴバルト人の侵入によって東ローマ帝国支配は後退し、イタリア半島の政治的統一は崩れ、ローマ帝国の行政組織も解体された。 |
c ササン朝ペルシア | → 第1章 1節 パルティアとササン朝ペルシア |
d 「ローマ法大全」 | 自らも法律を学んだ東ローマ皇帝ユスティニアヌス帝は、即位半年後に新法典編纂のため一〇人委員会を設置した。委員長は法学者トリボニアヌス。まず、歴代皇帝の法令をまためて『勅令集』を534年に完成。さらに過去の重要な法学者の法解釈・学説を整理し『学説彙纂』を、同時に皇帝の定めた教科書として『法学提要』を、編纂。最後にユスティニアヌス自身が出した法令が彼の死後『新勅令集』としてまとめられた。前3書はラテン語、最後の1書はギリシア語で書かれた写本が残されており、ローマ法は、その後も重要な基準として重きをなす。 |
e ハギア=ソフィア聖堂 | 一般に、聖ソフィア聖堂という。532年のニカの乱で焼け落ちたが、ユスティニアヌス帝はわずか39日後に復旧に着手。神の栄光と己の栄華を永久に伝えるため、もとの教会よりはるかに壮大な規模とした。5年半の歳月をかけて537年12月に完成した時、ユスティニアヌスは「我にかかる事業をなさせ給うた神に栄光あれ。ソロモンよ、我は汝に勝てり!」と叫んだ。<井上浩一『ビザンツとスラブ』世界の歴史11> ソロモンとは旧約聖書に出てくる壮大な神殿を築いたイスラエル王国の王。 建物はビザンツ様式の典型である巨大な円蓋(直径33m、高さ55m)を中央にもち、それを沢山のアーチと柱で支える。沢山の窓から内部に光が射し、宗教的な効果を高めた。この聖堂は、ビザンツ帝国滅亡に際し、オスマン帝国のメフメト2世は、コンスタンティノープルをオスマン帝国の首都イスタンブルとして改造した際、この聖堂もイスラームのモスクに転用されアヤ=ソフィア=モスクと言われるようになった。その4隅に立つ塔(ミナレット)は、ことの時あたらに設けられたミナレットである。現在は、モスクの形態のまま、博物館として内部が公開されている。 |
f 養蚕技術 | |
C 領土の縮小 | |
a ランゴバルド王国 | 751年、ビザンツ帝国のイタリア支配の拠点であり、総督府を置いていたラヴェンナがランゴバルド王国によって征服された。ビザンツ皇帝コンスタンティノス5世はラヴェンナ奪回をあきらめ、ギリシア系住民の多い南端を除いてイタリア半島を放棄した。ビザンツ帝国はイタリア半島を放棄した後、バルカン半島のスラブ人への攻勢に転じていく。 |
b フランク王国 | → 第6章 1節 ゲルマン民族の諸国 フランク王国 |
c イスラーム勢力 (とビザンツ帝国) | 610年にアラブ人のムハンマドがイスラーム教を創始、その宗教と政治・軍事が一体となったイスラーム勢力(アラブ帝国、サラセンなどともいう)は、急速に勢力を拡大、642年にはササン朝ペルシアを軍を破り、さらにビザンツ領に侵入して、シリア・エジプトを征服した。674〜678年にはイスラーム海軍がコンスタンティノープルを包囲し、陥落寸前までいったが、ビザンツは秘密兵器「ギリシアの火」を繰り出して撃退した。さらに717〜718年にもコンスタンティノープルを包囲したが、皇帝レオン3世が指揮するビザンツ軍が防衛に成功した。この時期はイスラームの正統カリフ時代からウマイヤ朝の時期にあたるが、750年にアッバース朝に替わりイスラーム世界の中心が東方のバグダードに移されると、ビザンツもその脅威を直接受けることは少なくなる。イスラーム勢力のビザンツ領侵入は次に11世紀のセルジューク朝の時に激しくなり、1071年のマンジケルトの戦いで敗れて小アジアを奪われ、十字軍の救援要請につながる。十字軍時代の混乱の後、小アジアのオスマン帝国が、14世紀後半からバルカン半島のビザンツ領に侵入、次々と領土を奪われ、ついに1453年にコンスタンティノープルが陥落してビザンツ帝国は滅亡する。 Epi. ギリシアの火 7世紀後半にシリア出身のカリニコスという人が発明したが、ビザンツ帝国の秘密兵器とされたため、その製法はよくわからない。生石灰・松脂・精製油・硫黄などを混合させた液体に火をつけて筒から発射し、敵艦を焼き払うというもの。これ以後も長くビザンツは対イスラーム戦でこの兵器を使い、「ギリシアの火」と恐れられた。<井上浩一『ビザンツとスラブ』世界の歴史11> |
d ブルガール人 | →ウ ブルガール人・ブルガリア王国 |
▲ヘラクレイオス1世 | ビザンツ皇帝(在位610〜641)。東方のササン朝ペルシアと戦い、628年にはその首都クテシフォンに迫ってササン朝を降服させ、シリア・エジプトなどを奪回した。これ以後をヘラクレイオス朝(610〜711)といい、ビザンツ帝国は一時、勢力を回復したが、7世紀以降の北方からのスラブ人の侵入、ササン朝を滅ぼしたイスラーム勢力の進出などによって圧迫されていく。この辺境での領土防衛の必要から、ヘラクレイオス1世の時に、軍管区制(テマ制)がとられた、とされているが、実際の軍管区制の完成するのは9世紀であるらしい。 |
e 軍管区制(テマ制) | →イ 軍管区制(テマ制) |
D 聖像崇拝論争 | ビザンツ帝国の管轄するコンスタンティノープル総主教以下の東方教会の聖職者の中で始まった神学論争。本来キリスト教では、その母体となったユダヤ教の十戒の第2項が「汝は自分のために刻んだ像を造ってはならない」とあるように、偶像崇拝は厳しく禁止されていた。しかし、キリスト教が4世紀にローマ帝国に公認され、広く布教されていく中で、伝道の方便として、イエスやマリアの像が使われるようになった。ところが7世紀に東方教会に境を接する西アジアにイスラーム教が起こると、イスラーム教では徹底した偶像崇拝の否定が行われ、彼らはキリスト教での偶像崇拝を厳しく批判し始めた。その影響を受けて、ビザンツ帝国領のシリアやエジプトの聖職者の中にも聖像を偶像として、その崇拝を否定する考えが起こり、それを認める聖職者との間に論争となった。それを裁定したビザンツ皇帝レオン3世は、726年、聖像禁止令を出し、聖像の製造禁止と破壊を命じた。それは、イスラーム側からの批判を封じるとともに、反対する教会・修道院領を没収する狙いもあったとされる。 しかしこの聖像崇拝論争は、東方教会内の論争にとどまらず、東方教会と西方教会の対立に発展した。西方教会(ローマ=カトリック教会)の教皇グレゴリウス2世は、ゲルマン民族への布教を積極的に進めていたので、その際の聖像の使用は不可欠として、レオン3世の聖像禁止令に反撥した。これを機に東西教会は対立することになり、ローマ教会はフランク王国を保護者として独自の道を歩みこととなり、両教会は1054年に最終的に分離する。 なお、聖像そのもは、ビザンツ帝国のもとで787年にも禁止令が出されているが、843年には「イコン」の使用が認められ、事実上復活する。 |
a 聖像禁止令 | → 6章 1節 聖像 聖像禁止令 レオン3世 |
b 聖像画(イコン) | ギリシア正教では聖画像を「イコン」という。イコンとはギリシア語で「イメージ」の意味。イエス、マリア、聖人の画像を崇拝すること通して信仰を深める、重要なものとされた。(印刷術が普及するまでは、聖書の教えは、イコンを媒介として伝えられていた。)726年の聖像禁止令の後、多くが破壊されたが、特にスラブ人の中にはイコンの復活を求める要求が強く、843年に禁止令は解除され、その後ビザンツ世界=ギリシア正教では「イコン」の制作が復活、信徒の様々な場面で現在も使われている。また「イコン」はビザンツ文化を代表する美術としても重要である。 |
▲E マケドニア朝の繁栄 | ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の王朝(867〜1056)。マケドニア朝初代のバシレイオス1世は、マケドニア地方の貧しい農民の出身であったが、コンスタンティノープルに出てきて有力者の従者となり、さらに皇帝ミハイル3世の従者団に加わって頭角を現し、ミハエルの対抗馬の暗殺を実行して信任を得、その養子となった。ついにはミハエル3世を暗殺し、867年皇帝となり、マケドニア朝を創始した。 マケドニア朝では皇帝専制政治がしかれたが、軍管区制のもと地方勢力も自立し、政治的混乱が続いた。北方のブルガリア王国との戦争を積極的に進め、バシレイオス2世のときにそれを滅ぼしている。 |
a 屯田兵制 | → イ.ビザンツの社会と文化 屯田兵制 |
b ブルガリア王国の併合 | 1014年、ビザンツ帝国マケドニア朝バシレイオス2世は、ブルガリア遠征を実行、ブルガリア軍を破り1万5千を捕虜とした。さらに1018年にはブルガリア王国を併合した。 Epi. 「ブルガリア人殺し」 1014年の遠征の時、バシレイオス2世は1万5千のブルガリア兵捕虜を100人ずつのグループに分け、各グループのうち99人の両目をくりぬき、残りの一人だけは片目を残して道案内役をさせてブルガリア王のもとへ送り返した。ぞろぞろやってくる盲人の列を見て王は驚きのあまり倒れ、2日後に死んでしまったという。これでバシレイオスには「ブルガリア人殺し」という渾名がつけられたという。<井上浩一『スラブとロシア』世界の歴史11 p.119> |
F ビザンツ帝国の衰退 | 7世紀以降、西アジアに勃興したアラブ人のイスラーム勢力がビザンツ帝国領にも侵攻、11世紀にはセルジューク=トルコとのマンジケルトの戦いで敗れて、トルコ人の小アジア移住が始まり、13世紀には第4回十字軍がコンスタンティノープルを襲撃、ラテン帝国を建てたためビザンツ帝国は領土を失い、いったん回復したものの、14世紀中頃からはオスマン帝国がバルカン半島や地中海に進出し、ビザンツ帝国の領土は縮小の一途をたどった。しかし、ローマ帝国の後継者であることと、ギリシア正教の保護者であることは、なおこの世界での権威を持ち続け、1453年、オスマン帝国軍によってコンスタンティノープルが陥落し、滅ぼされるまで、千年以上の命脈を保つ。 → ビザンツ帝国の滅亡 |
a セルジューク朝 | → 第5章 2節 セルジューク朝 |
b マンジケルトの戦い | 1071年、セルジューク朝がビザンツ帝国軍を破った戦い。マラーズギルトの戦いとも言う。1055年にバグダードに入ったセルジューク朝は、さらに西へと勢力を広げ、第2代スルタンのアルプ=アルスラーンは、ビザンツ領の小アジア(アナトリア)に侵入した。1071年、ビザンツ帝国ロマノス4世は大軍を率いて出兵したが、マンジケルト(マラーズギルド)の戦いでマムルーク兵を主力とするセルジューク軍に惨敗し、皇帝は捕虜となって奴隷の印の耳輪を付けられてスルタンの前に連れて行かれたという。これによって小アジアのトルコ化が始まり、トルコ人の地方政権ルーム=セルジューク朝に支配され、さらにビザンツ領は浸食されてゆき、ビザンツ帝国のローマ教会への十字軍派遣要請の要因となる。なお、同じ1071年、ビザンツ帝国領の南イタリアでは最後の拠点バーリをノルマン人に奪われており、ビザンツ帝国は東西で領土を縮小させることになった。 |
c プロノイア制 | → イ.ビザンツの社会と文化 プロノイア制 |
d 第4回十字軍 | → 6章 3節 第4回十字軍 |
e コンスタンティノープル | → 1章 3節 ローマ帝国 コンスタンティヌス帝 コンスタンティノープルの建設 |
f ラテン帝国 | 1204年4月、コンスタンティノープルを占領した第四回十字軍が建設した国。十字軍はフランドル伯ボードワンを皇帝としてラテン帝国としただけでなく、イタリアのモントフェラート伯はテサロニケ王国、フランス貴族ヴィラルドゥアンのアカイア侯国など、ラテン系の国家を周辺に作った。ボードワンはビザンツ帝国に代わる大帝国をもくろんだが、1205年4月、アドリアノープルの戦いでブルガリア軍と戦い、行方不明となり、コンスタンティノープル周辺を支配するのみとなった。なお、ビザンツ帝国の遺臣は、その周辺に亡命政権を建て、コンスタンティノープル奪回をねらった。その中では小アジア西部のニケーア帝国、東北部のトレビゾンド、西ギリシアのエピロスなどがあった。 ラテン帝国は約半世紀間、コンスタンティノープルを支配し、ギリシア正教を否定してローマ教会の信仰を強要しようとした。1261年、ニケーア帝国のミハエル8世によって倒され、ビザンツ帝国が復活し、以後パライオロゴス朝として存続する。 |
g オスマン帝国 | 13世紀末に小アジアの西アナトリアに起こったイスラーム教国。小アジアのルーム=セルジューク朝滅亡に乗じて力を伸ばし、1362年にはビザンツからバルカン半島のアドリアノープル(ローマ時代のハドリアノポリス)を奪って都とする。1396年、ニコポリスの戦いではハンガリー王を中心とする西欧連合軍を破り、キリスト教世界の新たな脅威となる。1402年アンカラの戦いで東方のティムールに敗れ一時衰えるが、国力を復興させ、メフメト2世の1453年、コンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼす。以後、地中海から西アジアに及ぶ大イスラーム勢力として近代まで続く。 →第8章 3節 オスマン帝国の成立 オスマン帝国 |
h コンスタンティノープル陥落 | → オスマン帝国軍のコンスタンティノープル包囲作戦 1453年5月29日、コンスタンティノープルはオスマン帝国軍の猛攻の前に陥落し、ビザンツ帝国は滅亡した。最後の皇帝コンスタンティノス11世(パライオロゴズ朝)の頃、ビザンツ帝国の領土は首都の周辺のわずかな土地と、小アジアなどのわずかな飛び地しか残されていなかった。ビザンツ皇帝はオスマン帝国の襲来を予期し、東西教会合同を条件にローマ教皇に援軍を要請したが、コンスタンティノープルの市民はむしろそれを期待しなった。23歳の青年スルタン・メフメト2世は10万の兵でコンスタンティノープルを包囲し、西側には精鋭のイエニチェリ軍団を配備した。ビザンツ側は2ヶ月にわたって防衛したが、オスマン海軍は艦隊を陸揚げして封鎖されていた金角湾に移動させ、一気に制圧に乗りだした。皇帝は最後を悟り、演説をした後押し寄せてくるトルコ兵の中に姿を消した。もっとも激しい戦闘の行われた聖ロマノス門は大砲(トプ)が今もそなえられ、大砲門(トプカプ)と言われている。<井上浩一『ビザンツとアラブ』世界の歴史11> Epi. 最後の皇帝コンスタンティノス・パライオロゴス この名は、夏目漱石の『吾輩は猫である』に出てくる。探してみよう。 |
ビザンツ帝国の滅亡 | 1453年、オスマン帝国のメフメト2世によってコンスタンティノープルは陥落し、千年以上続いたビザンツ帝国が滅亡した。西ヨーロッパのキリスト教世界にも、大きな衝撃であり、古代ローマ以来の伝統、キリスト教会の絶対性が否定されたものと受け止められた。しかし、現実的な面では、ビザンツ帝国の滅亡は、ヨーロッパ世界に二つの大きな影響を及ぼした。一つは、オスマン帝国が東地中海とバルカン半島、西アジアに及ぶ大帝国を完成させたことによって、ヨーロッパのアジアへの交易ルートが断たれたことである。ヨーロッパ商人の目は必然的に地中海から大西洋に移り、新航路の開発に向かわざるを得なくなった。もう一つは、ビザンツ帝国が滅亡したことによって、コンスタンティノープルの多くのギリシア人の学者や芸術家が、イタリアのフィレンツェなどに亡命し、ギリシア・ローマの古典文化の神髄を伝えたことである。すでに始まっていたルネサンスにとって、これは大きな刺激となった。このように、経済と文化の両面で、ビザンツ帝国の滅亡はヨーロッパに大きな影響を及ぼした。そしてこの年、1453年は、英仏百年戦争が終結した年でもある。これを機にこの両国は封建社会から脱し、主権国家に脱皮し、以後の世界史を先導する形になっていく。一方、オスマン帝国は専制国家としてますます巨大化していくが、やがて英仏の植民地獲得競争の餌食になっていく。この年は、時代の大きな変わり目であったことが判る。 |
イ.ビザンツ帝国の社会と文化 | |
a 軍管区制(テマ制) | ビザンツ帝国中期(7〜11世紀)の軍事的な地方制度。テマ、またはセマ制度ともいう。帝国の各地においた軍隊の指揮官に、その地方の軍事権と当時に行政、司法の権限も与えその地方を掌握する方式。軍隊の兵士には農地が与えられ、平時には農耕に従事し、租税を負担するとともに、戦時には装備を自弁して戦闘に参加した(屯田兵制)。10世紀に軍管区制が完成し、ビザンツ帝国は中央集権的な国家体制を維持できた。しかし、11世紀になると軍管区制は崩れ、貴族による大土地所有が広がり、プロノイア制に切り替えられていく。もう少し詳しくみると次のようにまとめることが出来る。 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)もユスティニアヌステイの時代までは、地方は属州に分けられ、総督が行政権をもって統治していた。しかし6世紀に始まるバルカン方面でのスラブ人の侵入、7世紀に始まる西方からのアラブ人の侵入という波が押し寄せるうち、属州制度は姿を消し、ビザンツ帝国独自の制度である軍管区制(テマ制)に移行していった。その始まりははっきりした年代不明であるが、ヘラクレイオス朝でアラブ人の侵入を受けた際、それまでの西アジアに展開していた軍団を小アジアに引き揚げ、管区を決めて防衛体制を敷いたところからはじまると考えられている。8世紀までは、テマの軍事権と行政権を併せ持つ長官のもと、中央政府の統制の及ばない半独立政権のような様相を呈し、たびたび反乱を起こす。しかし、9世紀後半からは、大きなテマの分割や、中央軍の創設などによってテマの反乱は抑えられるようになるり、10世紀に、テマは単なる地方行政区画として中央集権体制に復帰する。<井上浩一『ビザンツとアラブ』世界の歴史11 中央公論社 p.57などによる> |
b 屯田兵制 | ビザンツ帝国の軍管区制(テマ制)のもとで、農民に土地を与える代わりに兵役の義務を負わせたこと。これによってビザンツ帝国は兵力を確保し、農民は土地を獲得して自由農民となり、ビザンツ帝国を支える存在となった。 |
c プロノイア制 | ビザンツ帝国の土地制度で、プロニャともいう。10世紀に軍管区制が完成したが、11世紀にはいると屯田兵の没落、貴族の大土地所有が広がるようになり、ビザンツ帝国の軍事力と徴税力が低下してきた。そのような中でセルジューク=トルコの侵攻に悩んだビザンツ帝国では、ビザンツ皇帝が功績のあった貴族に対し、軍事奉仕とひきかえに、恩恵として一定の土地の管理・監督(プロノイアの意味)を任せ、徴税権を与える制度であるプロノイア制に切り替え、皇帝の軍事力を強めようとした。西欧の封建制度と違い、本来世襲されない(譲渡も相続も出来ない)ものであったが、11世紀末から13世紀のニケーア帝国の時期に発展して、世襲化されるようになり、封建的な土地所有関係となる。 |
a 古代ギリシア文化とギリシア正教を融合させた文化 | |
b ギリシア語 | |
c ギリシア正教 | → ア ギリシア正教 |
d ビザンツ様式 | 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のもとで展開された、建築や美術上の一つの様式。ギリシア・ローマの古典文化を継承し、東方の要素も取り入れて形成された。ビザンツ様式の建築の特徴は、ドーム(大円蓋)を中央にもち、周辺に小ドームを配置する形態でコンスタンティノープルのハギア=ソフィア聖堂がその代表例。また壁面には、モザイク絵画・フレスコ画が描かれる。 絵画ではモザイク絵画・フレスコ画の他に、ギリシア正教の聖具として使われたイコンも美術的価値が高い。 |
e モザイク壁画 | 色大理石などを細かく各状にし、ガラス片や貝殻片を加え、壁面のセメントに埋め込みながら装飾としていく。東方起源の技術でキリスト教徒ともにローマに広がり、教会堂の壁面の絵画に利用され、ビザンツ時代に発展した。現在も多数残されているが、代表的なものは、イタリア・ラヴェンナのサン=ヴィターレ聖堂のモザイク画であろう。 |
f ハギア=ソフィア聖堂 | → ア ハギア=ソフィア聖堂 |
g サン=ヴィターレ聖堂 | 6世紀に建造された、イタリアのラヴェンナにあるビザンツ時代の代表的建築。その内部には、ユスティニアヌス大帝と皇帝テオドラを中心とした人物群を描いたモザイク画が描かれており、ビザンツ美術のもっとも重要な作品となっている。 |
ウ.スラブ人と周辺諸民族の自立 | |
a スラブ民族 | スラブ民族は、現在東ヨーロッパに広く分布しているスラブ語系の言語を話す人々。スラブ語はインド=ヨーロッパ語族の一つである。原住地はよく判らないが、カルパチア山脈の北のヴィスワ川からドニェプル川にかけての一帯で、狩猟・農耕生活を行っていたらしいが、4世紀からのゲルマン民族の大移動に続いて、6世紀以降にバルカン半島やロシアの草原に広がり、東ローマ帝国を脅かす存在となった。7世紀にはブルガリア人(本来はトルコ系で非スラブ人だがスラブ人に同化した)のブルガリア王国やチェック人のモラヴィア王国などが人がビザンツ領内に国家を形成し、9世紀にはロシア草原に最初のロシア人(ノルマン系の征服者がスラブ系民族に同化した)国家ノヴゴロド王国が出現した。10世紀にはポーランド人が建国、東ヨーロッパの強国となっていく。ビザンツ領内に建国したスラブ系諸民族は、ビザンツと構想しながらその影響を強く受け、ギリシア正教会を受け入れていく。ロシアもギリシア正教を受容し、ビザンツ滅亡後はその保護者となる。ビザンツの影響の薄かった地域のスラブ民族はフランク王国を通じてローマ=カトリック教会を受容したが、東ヨーロッパはギリシア正教とローマ=カトリック教会が布教を競う場となった。 Epi. Slavesの意味 スラブ人は英語で Slavs という。また奴隷を意味する英語は Slaves である。これは955年にドイツのオットー大帝がマジャール人を討った時、その地にいたスラブ人を捕らえ、多数が奴隷として売られてから、ヨーロッパでは「スラブ」が「奴隷」と同じ意味に使われるようになったからだ、という。<泉井久之助『ヨーロッパの言語』岩波新書 p.120> |
b 東スラブ人 | ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ(白ロシア)人。 |
c 南スラブ人 | セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人・マケドニア人・モンテネグロ人・ブルガリア人(本来はトルコ系だが南スラブ人に同化)。このうち、ブルガリア人以外の南スラブ人は近代にユーゴスラヴィア(「南スラブ人の国」の意味)を産み出したが、現在は分裂して個別の国家を作っている。 |
d 西スラブ人 | ポーランド人・チェック(チェコ)人・スロヴァキア人・ソルブ人(ドイツ東部の少数民族)・カシューブ人(ポーランドのグダンスク西方に住む少数民族)。 |
A ノヴゴロド国 | → 6章 1節 ノヴゴロド国 |
a ノルマン人 | → 6章 1節 ルーシ |
b ロシア国家 | ロシアはノルマン系のルーシが東スラブ人に同化しながら建設した国家。ルーシから「ロシア」の名称が生まれたという。ロシアというと、現在の「大国ロシア」をイメージするが、862年のリューリクから始まるリューリク朝のノヴゴロド国時代もキエフ公国時代も一地方政権に過ぎず、ロシアが大国となるのはロマノフ朝時代、18世紀のピョートル大帝の時からである。また長い間モンゴルのキプチャク=ハン国の支配を受け(1240年から1480年までの「タタールのくびき」)ており、独立を回復してからも、ポーランドやリトアニアなどの西側からの圧迫を受けていた。15世紀にモスクワ大公国のイヴァン3世がロシアの統一を達成し、ロシア国家の基礎を築いた。その後、17世紀にロマノフ朝が成立、18世紀にピョートル1世、エカチェリーナ2世の時代に絶対王政国家として繁栄した。この間、上からの近代化を進めるとともにバルト海方面、バルカン半島および黒海沿岸、中央アジア、シベリアから極東方面への領土拡張に努めた。特にバルカン半島への進出をめぐってはクリミア戦争で西欧諸国と戦って敗れ、社会の後進性が意識されるようになった。1877年の露土戦争ではトルコに勝ったもののドイツの介入によって南下政策は頓挫した。1904年極東方面では満州進出を目指したが日露戦争に敗れ、同時に社会不安が強まり、第1次ロシア革命が起こった。第1次世界大戦では同盟国の一員としてドイツ・オーストリアと戦ったが、その間にロシア革命が勃発してロマノフ朝は滅亡し、ソヴィエト政権が樹立された。1922年にはロシア・ベラルーシ・ウクライナ・ザカフカースの4国からなるソヴィエト社会主義共和国連邦を形成、ロシア共和国としてその中心的な国家となった。1929年の世界恐慌に巻き込まれることなく社会主義経済体制を建設したが、その間スターリン独裁体制が強まった。第2次世界大戦は多大な犠牲を払ったが米英とも協力してドイツ・日本との戦いに勝利し、世界の大国としての地位を築いた。戦後の冷戦時代はアメリカと対峙する軍事大国となり、核兵器開発や宇宙開発を競ったが、1956年のスターリン批判を機に社会主義国中国との中ソ対立が始まり、官僚的な共産党独裁体制のもと経済停滞が深刻となった。長い停滞の時期を経て登場したゴルバチョフは、ペレストロイカといわれた改革を進め、東欧社会主義圏の変動を呼び起こし、1989年には冷戦の終結をアメリカ大統領ブッシュとともに宣言するに至った。しかし保守勢力のクーデター失敗を機に一挙に共産党政権が倒れ、1991年にソ連邦の崩壊に突き進んだ。ソ連解体によってロシア連邦は単独国家となり、社会主義を放棄し、資本主義国家に転換を図り、現在に至っている。 |
B キエフ公国 | → 6章 1節 キエフ公国 |
a ウラディミル1世 | キエフ公国のウラディミル1世は、ビザンツ皇帝(マケドニア朝)バシレイオス2世から、ブルガリア王国攻撃の支援を条件に、皇帝の妹アンナを妃とすることとなった。ビザンツ皇帝と親戚関係となったウラディミル1世は、989年にギリシア正教会に改宗し、990年にはギリシア正教を国教とした。 Epi. ウラディミル1世の改宗 ロシアの年代記によると、ビザンツ皇帝の妹との結婚が決まると、ウラディミル1世は人が変わったように、まず、5人の妻と800人の妾と縁を切り、洗礼を受けた後には、新妻へのプレゼントとしてダニェプロ川でロシア国民に洗礼を受けさせたという。<高橋保行『ギリシア正教』講談社学術文庫 p.126> |
b ギリシア正教 | → ギリシア正教会 |
C 「タタールのくびき」 | モンゴル帝国のバトゥの西方遠征によって、1240年にキエフ公国が滅ぼされてから、1480年に独立を回復するまでの約240年続いた、ロシアがモンゴル人の支配を受けていた時代のこと。「くびき(軛)」とは牛や馬を御する時にその首に付ける道具。つまりロシアがモンゴルに押さえつけられていた時代、という意味となる。1480年、モスクワ大公国のイヴァン3世がキプチャク=ハン国軍を撃退して、タタールのくびきは終わりを告げる。 タタールの意味 しかし、タタールという言葉には注意を要する。「タタールという言葉には、いつもある独特な響きがつきまとう。13世紀のヨーロッパ人たちの祖先は、”地獄から来れる者ども”(エクス・タルタロ)というラテン語を思わせる「タルタル」をモンゴル人を指す語として用いた。一説には、タルタルがモンゴルの一部族だった韃靼(タタール)の音とよく似ていたからだという。」注意しなければならないのは、現在ヴォルガ川中流で生活するタタール人ではないことである。現在のタタール人はヴォルガ中流域の先住民であるフィンランド人やハンガリー人の祖先たちと、後から移動してきたトルコ系民族(ブルガール人)の混血から生まれた民族で、イスラーム教化し、13世紀にモンゴルのキプチャク=ハン国に服属したが文化的にはモンゴル人を圧倒し、モンゴル人を同化させた。その後、征服者モンゴルを意味するタタールを民族名を自称するようになった。<山内昌之『ラディカル・ヒストリー』1991 中公新書 p.48 などによる> モンゴル人の支配 西方遠征から引き揚げる途中のバトゥは、1242年にヴォルガ川の下流サライを首都として国家を建設した。これがキプチャク=ハン国で、ロシア各地の諸侯はサライのハンに臣従する形となった。ハンはロシア諸侯に対し、間接統治にあたり、行政は諸侯に任せられ、ただ諸種の税を納めなければならなかった。またギリシア正教の信仰を否定されることもなかった。このようにキプチャク=ハン国によるロシア支配はゆるやかなものであったが、ロシア国家の独立は認められなかったので、ロシア人は「タタールのくびき」といって嘆いたわけである。 「タタールのくびき」の実態 ロシア史では、モンゴル人に支配された時代を「タタールのくびき」といい、ロシア史においては、野蛮なモンゴルの圧政の下に高いキリスト教信仰を持つロシア民族が苦しんでいた時代、ととらえられ、またその後のロシアの後進性であるツァーリズムの専制君主政や封建的な社会のしくみをモンゴル支配時代の影響とする見方が根強い。しかし、そのような見方は事実からは離れている。まずロシアを支配したキプチャク=ハン国は純粋なモンゴル人の国家ではなく、モンゴル人とトルコ系民族が融合した、モンゴル=トルコ人とも言われる人々であり、文化的にはイスラーム化したトルコ文化であった。キプチャク=ハン国が衰退して、モスクワ公国が自立してからも、同じ時期のキプチャク=ハン国の後身であるカザン=ハン国やクリムハン国の方が高い文化水準にあった。文化的に高いロシアが野蛮なモンゴルに支配された、というのは誤りである。また、キプチャク=ハン国のロシア諸侯に対する支配も間接統治に止まり、ギリシア正教の信仰も租税を負担する限り、認められていたので、「圧政」の下に苦しんでいた、というのも実態ではない。<山内昌之『ラディカル・ヒストリー』1991 中公新書 p.36-50 などによる> |
a バトゥ | → 第4章 3節 モンゴルの大帝国 バトゥ |
b キプチャク=ハン国 | → 第4章 3節 キプチャク=ハン国 |
アレクサンドル=ネフスキー | モンゴルのバトゥの遠征軍がまだロシアから立ち去っていない1240年、ノブゴロド公アレクサンドルは、ネヴァ河畔でスウェーデン軍に打ち勝った。そのため、「ネヴァの」という意味の「ネフスキー」と呼ばれるようになった。このアレクサンドル=ネフスキーは、1242年にはドイツ騎士団を有名な氷上の戦いで撃退した。この時期はモンゴル軍のバトゥがが「ロシア・東欧」を荒らし回っていたはずの時期である。アレクサンドル=ネフスキーの存在と活動は、モンゴルの侵入によってロシアが壊滅したわけではないことを示している。むしろ、「タタールのくびき」はアレクサンドル=ネフスキーから始まった。彼は、新たなロシアの権力者となるため、モンゴル人のキプチャク=ハン国に進んで臣従し、自分の兄弟も含め、反モンゴル活動を弾圧した。1252年にはモンゴルの力で、東方正教会、いわゆるロシア正教の主教座のあるウラディミール大公となる。大公位は、ロシア諸公国の指導者を意味した。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 講談社現代新書 p.83> Epi. 救国の英雄アレクサンドル=ネフスキー アレクサンドル=ネフスキーはロシア民族を救った救国の英雄とされている。しかしそれは、モンゴル軍からロシアを救ったのではなく、スウェーデンとドイツとの戦いで勝ったからである。ナチスドイツとの戦争が迫ると、スターリンは民族意識を高揚させるため、アレクサンドル=ネフスキーを古代の英雄アレクサンドロス大王にも匹敵するような人物として映画を作らせた。 |
D モスクワ大公国 | 1283年、アレクサンドル=ネフスキーの子ダニールがモスクワ公となってモスクワを本拠に領土を拡大させ、キプチャク=ハン国に対しては臣従の姿勢をしめしてその徴税を請け負い、国力を充実させた。14世紀前半のイヴァン1世の時から、モスクワ大公国と言われるようになった。1380年モスクワ公ドミトリーはドン川のクリコヴォの戦いでキプチャク=ハン軍と戦って勝ち、独立の道を歩み始めた。その後、ロシアのいくつかの公国を併合し、イヴァン3世の時にはノヴゴロドなどを併合してロシアの統一に成功した。1480年、キプチャク=ハン国の軍を退却させて「タタールのくびき」からロシアを解放した。次の16世紀のイヴァン4世(雷帝)の時に全盛期となるが、その死後は封建諸侯との対立から内紛が始まり衰えた。 |
a イヴァン3世 | 1462年、モスクワ大公国の大公。分裂していたロシアを統一し、「タタールのくびき」を終わらせてロシアを独立させ、ロシアをヨーロッパ東方の強国に育てた。1471年にはノヴゴロドを併合して統一を完成させた。1453年ビザンツ帝国が滅亡すると、イヴァン3世は、1472年、ビザンチン最後の皇帝の姪ソフィア(ゾエ)を妃にし、ロシアは、事実上ビザンチン帝国の後継者となり、帝国の双頭の鷲の紋章を受け継いで「ローマ帝国の皇帝」を継承することとなった。イヴァン3世は自らツァーリを名乗る。1480年、モスクワ公国を討つために大軍を北上させたキプチャク=ハン国のアフメト=ハンは、ウグラ川で対峙したモスクワ公国のイヴァン3世軍の偉容を見て、戦わずして引き揚げ、ここに「タタールのくびき」は終わった。 |
b ツァーリ | ロシア皇帝の公式名称。モスクワ大国の15世紀後半のイヴァン3世の時から使用され、次の16世紀のイヴァン4世が初めて全ロシアの支配者の意味でツァーリといわれた。ローマ帝国のカエサルに由来し、→チェーザリ→ツァーリとロシア語に転化した。なおドイツ語では「カイザー」という。ツァーリはロシア皇帝の称号としてその後も使用され、特に、18世紀のピョートル大帝以降の皇帝による専制支配体制をツァーリズムという。 |
モスクワ(中世) | モスクワは13世紀末まではロシアの辺境の町に過ぎなかったが、1283年、アレクサンドル=ネフスキーの子ダニールがモスクワ公となってここを本拠に領土を拡大させ、モスクワ大公国の都となってから発展した。モスクワ発展の背景は、この地がオカ川、ヴォルガ川、ドニエプル川などの大河川に近い交通の要衝であり、キプチャク=ハン国の都サライから離れていてその干渉を受けにくかったことにあると考えられる。また14世紀にはロシア教会の主教座がキエフからモスクワに移され、モスクワが経済・文化の中心となっていった。1472年にモスクワ大公イヴァン3世がビザンツ帝国最後の皇帝の姪と結婚したことで、ローマ帝国を継承したことになり、モスクワはコンスタンチノーブルに次ぐ「第三のローマ」ということになった。さらに1589年、ギリシア正教会の総主教座をコンスタンティノープルからモスクワに移し、モスクワは政治・宗教の両面でロシアの中心都市となった。ロマノフ朝でも首都とされたが、ピョートル大帝の時の1712年に新都ペテルブルクが建設されたため首都でなくなり、ロシア革命の時、1918年にモスクワが首都に復帰する。 → 現代のモスクワ |
c イヴァン4世 | → 第9章 4節 イヴァン4世 |
A セルビア人 | セルビア人は、スラブ民族の中の南スラブ人の一派。7世紀初めにバルカンに入り、その西部に定住。東側のブルガリア王国、南のビザンツ帝国に圧迫され、一時ブルガリアに併合される。その間、ギリシア正教会とローマ=カトリックの両方の布教が行われたが、13世紀にはギリシア正教の方が有力となった。そのころステファン=ドゥシャン王(在位1331〜55年)が現れ、領土を南方に拡大、一時はコンスタンティノープル攻略を計画(実現は出来ず)、セルビア王国の最盛期となった。彼の死後は王国は分裂して、衰退し、1389年コソヴォの戦いでオスマン帝国軍に敗れ、その後はオスマン帝国の支配を受けることになり住民の一部にもイスラーム化が進む。→ 近代セルビア王国 セルビア(20世紀) |
a バルカン半島 | バルカン半島はヨーロッパの東、東をアドリア海・イオニア海、西を黒海、南を地中海・エーゲ海に囲まれた広範な地域を指す。一般にルーマニア・ブルガリア・旧ユーゴスラヴィア・アルバニア・ギリシア・トルコのヨーロッパ部分からなる。(ドナウ川中流のオーストリア・ハンガリー・チェコ・スロヴァキアはバルカンには入らず、中欧とかドナウ諸国と呼ぶ。)バルカン半島は古代においてはローマ帝国の支配を受け、その属州とであったが、東西分裂後は大部分は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に属し、ビザンツ文化圏を構成する。宗教的なビザンツ教会=ギリシア正教会が浸透するが、中欧に接する地域にはローマ教会の影響も及んでいる。7世紀頃からスラブ人のなかの南スラブ人の南下が始まり、ビザンツ帝国との関係が強まり、セルビア王国などが生まれる。またブルガリア人やルーマニア人も独自の権力を生み出していく。 オスマン帝国の支配 しかしの性格を一変させたのは13世紀のモンゴルの侵入に続いて、14世紀に始まる小アジアからのオスマン帝国の進出と、イスラーム教の浸透であった。その結果、バルカン半島は、多くの民族が共存するとともにキリスト教文化・イスラーム文化が混在しする、きわめて複雑な歴史的環境を持つ地域となった。 → バルカン半島へのオスマン帝国の進出 バルカン問題の展開 また18世紀以降はオスマン帝国の衰退に伴い、隣接するオーストリアのパン=ゲルマン主義、ロシアのパン=スラブ主義がバルカン半島で衝突して東方問題を引き起こし、ついでバルカン半島の国々も互いに領土をめぐって争うというバルカン問題に展開し、「ヨーロッパの火薬庫」といわれ、ついに第1次世界大戦に及んでいく。第2次世界大戦後においては東西冷戦の最前線としての緊張が続き、冷戦構造終了後は民主化の動きとともに堰を切ったように民族対立が表面化し、ユーゴスラヴィア内戦からその解体へと、再び世界の不安定要素の一つとして新たなバルカン問題が発生している。 |
b ギリシア正教 | → ギリシア正教会 |
コソヴォの戦い | 13世紀末に小アジア西部に成立したイスラーム教国オスマン帝国はビザンツ帝国の弱体化に乗じて積極的にバルカン半島への進出を始め、ムラト1世は1361年にはアドリアノープルを占領した。さらにスラブ系諸国の対立で分裂している情勢を見たムラト1世はバルカン内部に侵入した。迎え撃つセルビア、ボスニアなどの諸国は、ハンガリーも加えて連合軍を結成、1389年にコソヴォの平原でオスマン軍と対決した。乱戦の中でセルビア貴族の一人がムラト1世を殺害したが、戦闘はイエニチェリを中核としたオスマン軍の大勝に終わり、スラブ諸国の抵抗は排除され、オスマン帝国の支配を受けることとなった。コソヴォ(またはコソボ)は現在のユーゴスラヴィア、コソヴォ(コソボ)自治州。現時もキリスト教徒とイスラム教徒の対立する紛争地である。 → コソヴォ問題 Epi. セルビア人にとってのコソヴォの屈辱 600年以上前のコソヴォの戦いでの敗北は、セルビア人にとって民衆が文字を知らないなかでも「グスラ」という弦楽器に合わせて語り継がれ、歌い継がれてきた。それはちょうど琵琶法師が伝える平家物語のようなものだ。コソヴォの戦いがあった6月15日(新暦では28日)は4世紀に殉教した聖ヴィトウスの祭日でもあり、セルビア人がかつての民族の栄光が失われたことを嘆き、外敵に抵抗して民族統合を願う特別な日となった。そして1914年6月28日にはサライェヴォ事件が起こった。コソヴォの戦いでキリスト教連合軍を指揮したセルビア公ラザールの娘婿ミロシュ=オビリッチは、投降して靴に口づけすると見せかけ、隠していた短剣でスルタン・ムラト1世を刺殺した。しかしオスマン軍はムラト1世を引き継いだ息子バヤジットが総攻撃を開始し、ラザールは捕らえられてムラト1世の遺骸のそばで首をはねられた。ラザールの遺骸は、現在ベオグラードのサボールナ教会に首のないまま安置されている。<千田善『ユーゴ紛争』講談社現代新書 1993 p.174> |
B クロアティア人 | 南スラブ人の一派。7世紀ごろ、パンノニアとダルマチア地方に定住。アヴァール人の侵入を受けたが、フランク王国のカール大帝のアヴァール討伐に協力。その後、フランクの支配を受け、ローマ=カトリックを受容する(一部、ギリシア正教のスラブ語典礼も残る)。その後、パンノニア地方ではハンガリーと争い、ダルマチア地方ではビザンツ、ヴェネツィアと争う。1102年、ハンガリー王国の支配を受け入れ、同君連合の形態となる。 |
スロヴェニア人 | 南スラブ人の一派。最も北西よりに定住したので、ゲルマン諸国(フランク王国→東フランク→ドイツ)の影響と支配を受け、宗教もローマ=カトリックを受容した。1282年にはハプスブルク家の勢力が及び、近代までオーストリア帝国の一部を構成する。このようにスロヴェニア人は独自の国家を形成したことはなく、その民族意識が高まるのは現代のことである。 |
a ローマ=カトリック | |
b オスマン帝国 | → 第8章 3節 オスマン帝国 |
C ポーランド人 | ポーランド人は西スラブ人に属する。少なくとも9世紀までにポラニェ族を中心にポーランド国家を建設。ポラニェは、平原を意味するポーレから来た。ポーランド(英語表現。ポーランド語ではポールスカ)もポーレに由来する。10世紀に西はオーデル(ポーランド語でオドラ)川と東はヴィスワ川の間の平原にポーランド王国を建設し、カトリックを受容したスラブ系国家という独自の道を歩み始める。 ポーランド王国:10世紀頃成立したポーランド最初の王朝は、その先祖の名前からピアスト朝(ピャスト朝とも)と言われている。オーデル川中、上流のシュレージェン地方もこのころポーランド領となった。11世紀以降、神聖ローマ帝国から政治的・宗教的に独立した地位を確保するが、一方ドイツ人の領内への東方植民も多くなった。1241年にはモンゴルのバトゥの軍とドイツ=ポーランド連合軍が戦って敗れたワールシュタットの戦いは、現在のポーランドのリーグニッツににあたる。ポーランドはモンゴル軍に敗れ、恐慌に陥ったが、モンゴルのバトゥ軍は間もなく東方に引き揚げた。14世紀にカジミエシュ3世(大王)の時、ベーメン王国とドイツ騎士団の干渉をはねのけて、国力を充実させ、1364年首都クラクフに大学を創設(コペルニクスもここで学んだ)した。このころが最盛期であったが、1386年には王位継承者の断絶ともに、北方のリトアニアと連合王国リトアニア=ポーランド王国を形成する。それはドイツ騎士団の東方進出が両国に共通の脅威だったからである。 → ポーランドの歴史と現在 |
a ローマ=カトリックとポーランド | ポーランドのローマ=カトリック受容は、966年の初代国王ミエシュコ1世に始まる。このころドイツ王オットー1世は、ポーランドのキリスト教化を口実に支配を及ぼそうとしたので、ミエシュコ1世は先手を打ってキリスト教徒のボヘミア王の娘を妻に迎えて洗礼を受け、さらに991年ごろポーランドをローマ教皇庁に寄進した。これ以後、ポーランドとローマ教会は深い結びつきを持つようになる。16世紀の宗教改革ではルター派とカルヴァン派の影響も及んだが、17世紀には反宗教改革が優勢となった。ポーランドのカトリック信仰は、西のプロイセン(ドイツ人)のプロテスタント、東のロシアのギリシア正教という二つの勢力の間にあって、いずれにも与しない民族としてのアイデンティティでもあるようだ。ポーランドのカトリック教会はナチスの支配と戦後の社会主義体制下においても自由を求める民衆の側に立っていた。1978年にローマ法王となったヨハネ=パウロ2世はポーランド出身でクラクフ大司教だった人。彼が法王となったことはポーランド人に大きな勇気を与えた。また、第2次世界大戦後のポーランド人民共和国時代、1980年代のポーランドでに社会主義体制が動揺して「連帯」による民主化の動きが強まり、国論が分裂したときも、カトリック教会が国家統合に大きな力を発揮することになる。 |
b 東方植民 | →6章 3節 ドイツ人の東方植民 |
c リトアニア | リトアニアはスラブ系ではなく、インド=ヨーロッパ語族バルト系に属する民族。バルト海に注ぐネマン川の中流を拠点とし、13世紀から東方、南方に進出し、14世紀には首都ヴィルニュスを建設、周辺諸国と婚姻政策を進めていった。長くキリスト教の受容を拒んでいたが、1386年、リトアニア大公ヤギェヴォが洗礼を受け、ポーランド王国との連合王国を形成し、キリスト教(ローマ教会)を受容した。
→ リトアニア=ポーランド王国 → 現在のリトアニア |
d ドイツ騎士団 | → 6章 2節 十字軍運動 ドイツ騎士団 |
e リトアニア=ポーランド王国 | 1386年、リトアニア大公ヤゲウォ(ヤギェヴォ)とポーランドの王女ヤドヴィーガが結婚、両者が同時に国王に選出され、リトアニア=ポーランド王国(ヤゲウォ朝)が成立した。その前提として、リトアニア大公は(それまでヨーロッパで唯一キリスト教化していなかった国であるが)洗礼を受け、キリスト教(ローマ教会)を受容した。これは、当時ドイツ騎士団の東方植民が両国の領土を侵食していたので、共同して対抗するためであった。ヤゲウォ朝はリトアニアとポーランドの地、さらに現在のベラルーシ(白ロシア)、ウクライナを含む黒海沿岸に及ぶ大帝国を支配、西方のハプスブルク家に対抗する存在となった。1410年にはリトアニア=ポーランド軍がタンネンベルクの戦い(グルンヴァルドの戦い)で、ドイツ騎士団軍を破る勝利をあげている。(この中世後期の最大の戦闘での勝利は、ポーランドにとって20世紀の反ドイツ抵抗運動のシンボルとなった。) |
f ヤゲウォ(ヤゲロー)朝 | ヤゲヴォ、またはヤギェヴォ、ヤゲローとも書く。1386年以来の、リトアニア=ポーランド王国の王朝。都はクラクフ。ポーランドは近代にロシア・プロイセン・オーストリアに分割されて国家を消滅させてしまう(ポーランド分割)ので、強国という印象はないが、世界史上は、このヤゲヴォ朝時代は、東ヨーロッパ最強の国家として繁栄していた。1572年に滅亡し、ポーランドは選挙王制がしかれることとなる。 |
D チェック人 | 西スラブ人に属し、現在のチェコ(ボヘミア地方・モラヴィアア地方)を構成する主要民族。東隣のスロヴァキア人と初めは未分化で、6世紀に現在のチェコとスロヴァキアの地に移住してきた。アヴァール人の支配を受けた後、フランク王国の勢力下に入ったが、7世紀に、「大モラヴィア王国」というスラブ人最初の国家を建設した。モラヴィア王国は906年、マジャール人の侵入によって滅亡した。その後、マジャール人(ハンガリー王国)の支配に入った人々はスロヴァキア人となり、東フランク(ついで神聖ローマ帝国)の支配下に入った人々がチェック人と言われるようになる。チェック人は神聖ローマ帝国のもとで、ベーメン(ボヘミア)王国を形成していく。 → チェコスロヴァキア(第一共和国) チェコスロヴァキアの連邦解消 チェコ スロヴァキア |
a ローマ=カトリック | |
b ベーメン(ボヘミア)王国 | チェック人はプラハを中心に「ベーメン」(ボヘミアのドイツ語読み)国家を形成し、神聖ローマ帝国のもとで、1085年には「ボヘミア王」の称号を認められた。神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)、フリードリヒ2世に従った。その間、ボヘミアにはドイツ人の東方植民を受け入れる。1347年、ベーメン王カレルは、ローマ教皇に押されて神聖ローマ皇帝に選出され、カール4世となった。彼は歴代の皇帝と違ってイタリア政策に没頭することなく、本国のベーメンと、ドイツの統治にあたった。ドイツ皇帝としては1356年に発した「金印勅書」を制定し、は神聖ローマ帝国の大空位時代を終わらせた。それによってベーメン王も七選帝侯の一人となったので、その地位は飛躍的に高まった。15世紀にはヨハネス=フスによる宗教改革の嵐がベーメンで勃発した。1415年フスが異端として処刑されると、農民の反乱が全土で起こった(フス戦争)。16世紀ドイツに宗教改革が起こると、ベーメンは新教徒が増え、17世紀に新たにベーメン王となったハプスブルク家のフェルディナント2世がカトリックを強制したことに反発して1618年、ベーメンの反乱が起こり、三十年戦争の発火点となった。 |
E ブルガール人 | ブルガール人は、黒海北岸にいたトルコ系民族がドナウ川を渡り、現在のブルガリアの地に進出、先住の南スラブ人と同化しながら国家を形成した。 トルコ系民族としてのブルガール人:トルコ民族はアルタイ山脈付近で遊牧生活を送っていたが、6世紀の突厥がユーラシア東西に及ぶ大帝国を建設した頃から西方にも進出し、7世紀には黒海北岸アゾフ海周辺にも遊牧国家を作った。彼らブルガール人は、ブルガロイとか、オノグル・ブルガールとも言われる。7世紀にクプラトという英雄のもとで統一され、しばしばビザンツ帝国領を侵犯し、ビザンツ側は非文明の夷狄として恐れた。カスピ海北岸のハザールの攻撃を受けて圧迫され民族移動を開始し、ドナウ川を越えて679年にブルガリア王国を建てた。このトルコ系民族が南スラブ人と同化して、現在のブルガリアとなる。つまりブルガリア人はトルコ系をもとにして、南スラブ人と同化して現在に至っている。またヴォルガ川中流に移動したブルガール人は東スラブ人と同化しながら、キプチャク=ハン国の支配下に入り、次第に自立してカザン=ハン国などを樹立し、その子孫が現在のタタール人やバシキール人となった。<坂本勉『トルコ民族の世界史』慶応義塾大学出版会 p.29-31> ブルガリア王国:ブルガール人と南スラブ人が同化して成立したブルガリア王国は、8世紀にはビザンツ帝国と戦うまでに強大になった (第1次ブルガリア王国)。その過程でブルガリア王国はスラブ人の国家となったといえる。この第1次ブルガリア王国は11世紀初めにビザンツ帝国に併合されて滅亡。続いてビザンツ帝国の衰退に乗じて12世紀の終わりに第2次ブルガリア王国を立てるが、13世紀にはモンゴルの侵入を受け、次いで14世紀末からはオスマン帝国の支配を受けることになる。 |
a 第1次ブルガリア王国 | 681年から1018年までを第1次ブルガリア王国という。ブルガリア王国はブルガール人が、ドナウ川南岸のバルカン半島東部をビザンツから奪い、681年に建国した。ギリシア正教会を受容(864年、ボリス1世の時)し、ビザンツ帝国の領土をさらに脅かしながら、10世紀初めのシメオン王の時に全盛期となった。しかし、内紛で衰退するうちに、ビザンツ帝国マケドニア朝のバシレイオス2世が攻勢に転換、1014年には「ブルガリア人殺し」といわれる大虐殺を行って伴って征服し、1018年にはブルガリア王国を併合した。 → 第2次ブルガリア王国 現代のブルガリア |
b ギリシア正教 | |
c キリル文字 | キリル文字は、9世紀にスラブ人のへのギリシア正教会の布教に活躍したギリシア人宣教師キュリロスが考案した文字。キュリロスは兄のメトディオスとともに文字をもたないスラブ人への布教を進めるため、ギリシア文字をもとにしてスラブ語をあらわす文字を考案した。これをキリル文字といい、現在のロシア語にも使われている文字の原型となった。(最近の研究ではキュリロスの作ったのはグラゴル文字といい、キリル文字はそれを改良したもとされている。) |
d 第2次ブルガリア王国 | 1185年から1396年を第2次ブルガリア王国という。ビザンツ帝国の衰えに乗じてブルガリア王国が復興した。この第2次ブルガリア王国は、1205年4月、アドリアノープルの戦いでラテン帝国を破り、バルカン半島で最強となった。しかし、1237年からバトゥの率いるモンゴル帝国のロシア侵攻が始まり、ブルガリア王国もモンゴル軍に蹂躙され、キプチャク=ハン国に貢納を強制され、次第に衰える。1393年、オスマン帝国に敗れ、滅亡する。都はタルノヴォ。 → ブルガリア(ブルガリア自治公国) 現代のブルガリア |
F マジャール人 | → 6章 1節 マジャール人 |
a オットー1世 | → 6章 1節 オットー大帝 |
b ハンガリー王国 | ウラル語族に属する遊牧民マジャール人が10世紀に西ヨーロッパに侵入し、955年ドイツ王オットー1世に敗れてから、パンノニア平原(現在のハンガリー)に退きいて定住し、1000年にイシュトヴァン1世がハンガリー王国を建設した。王はローマ=カトリック教会に改宗し、次第に東欧の大国となった。 モンゴルの侵入 13世紀にロシア、ブルガリアと同じく、バトゥの率いるモンゴル軍の侵入を受けた。当時、ハンガリー王国軍はヨーロッパで最強といわれていたが、1241年4月、ムヒの戦いで惨敗し、さらに首都ブダペストが破壊された。国王ベーラ4世は、ローマ教皇グレゴリウス9世に援軍を要請したが、当時イタリアで神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と激しく争っていたので、支援を断った。バトゥの軍は41年冬はハンガリーの平原で越冬したが、翌年引き揚げたため、ハンガリーは占領されずに済んだ。ベーラ4世はモンゴル再来襲に備えて防備を固め、「ハンガリーの第二の建国者」と言われている。 全盛期とオスマン帝国の侵入 1396年にはハンガリー王ジギスムントの組織した十字軍がニコポリスの戦いでオスマン帝国軍に敗れた。その後、1458年には国民的英雄マーチャーシュ1世が出て、領土を拡張するとともに、文芸を保護し、ハンガリー王国の全盛期をもたらした。しかし、周辺との抗争で国力は衰え、1526年、モハーチの戦いでオスマン帝国に敗れ、その領土のほとんどを奪われた。オスマン帝国は二度(1529、1683)にわたってウィーンを包囲したが攻略できず、それ以上領土を拡大することはできなかった。 オーストリア領となる 17世紀末にはオーストリア、ポーランド、ヴェネティア連合軍と戦って敗れ、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーはオーストリア・ハプスブルク家の領土とされた。その後ハンガリーはオーストリア帝国に組み込まれ、その支配を受けることとなった。 ハンガリーの民族運動 19世紀前半のウィーン体制の時代にナショナリズムの運動が強まると、ハンガリー人(マジャール人)の独立をめざす運動も始まり、それは1848年のコシュートに指導された独立運動として爆発したが、この時はオーストリア軍によって鎮圧された。1867年の普墺戦争でオーストリアが敗れた後に、形式的に独立したがハプスブルク家の国王を戴くオーストリア=ハンガリー帝国という形だったので、その後も完全な独立を求める運動が続く。 → アウスグライヒ 第一次大戦後のハンガリー 第二次大戦後のハンガリー → 現代のハンガリー共和国 Epi. マジャールとハンガリー ハンガリー(Hungary)というのは実は英語名であり、彼らは自分たちを「マジャール人」と言っている。また国名は正確にはマジャールオルザーク(Magyarorszag、ハンガリー語でマジャール人の国の意味)という。なぜヨーロッパの他民族が彼らをハンガリーと呼ぶようになったのか、についてはいくつか説がある。一つは、ヨーロッパの人たちが、5世紀にこの地方に侵入したフン族と、9世紀に侵入してきたマジャール人を混同し、フン族の Hun に、人を意味する gari がついてハンガリーというようになった、と言う説である。現在ではもう一つの説である、この民族が故郷のウラル山脈を出て、9世紀にこの地に移動してきたとき、トルコ系のオヌグール(Onugur)人と密接な関係になったので、他の民族からはオヌグールが変化してハンガリーと言われるようになった、というのが有力な説となっている。<『世界地名ルーツ辞典』牧英夫編 創拓社 p.127> |
c ローマ=カトリック | |
d ルーマニア人 | ルーマニアの起源は諸説あるが、一般にはローマ帝国時代の属州ダキア(トラヤヌス帝の時にローマの属州となった)以来のローマ人が、スラブ人と同化して形成されたといわれる。ルーマニアの名も、ロマニアつまり「ローマ人の国」から来ている。言語もラテン系である。9世紀頃から地方権力を建てるようになり、13世紀のモンゴルの支配を受けた後、14世紀にはワラキア公国とモルダヴィア公国という二つの公国を創った。いずれも14世紀末にはオスマン帝国の進出を受け、15世紀にはそのメフメト2世の支配を受けることとなる。 → ルーマニア王国 現代のルーマニア共和国 Epi. 吸血鬼ドラキュラの故郷 ワラキア公国のヴラド串刺公(在位1448…1476)は、オスマン軍の侵入と戦った英雄であったが、捕虜や裏切り者の貴族を串刺しの刑にするなど、残虐な面があった。彼をモデルに、19世紀にアイルランドの作家ブラム=ストーカーがバルカン半島に残る吸血鬼伝説と結びつけて「吸血鬼ドラキュラ」を創作した。 |