用語データベース 15_1 用語データベースだけのウィンドウを開くことができます。 ページ数が多いので印刷には時間がかかります。
第15章 二つの世界大戦
1.第一次世界大戦とロシア革命
ア.第一次世界大戦の勃発
 サライェヴォ事件 1914年6月28日、オーストリア帝国の皇位継承者フランツ=フェルディナント大公とその妻ソフィーはボスニアの首都サライェヴォで軍隊の閲兵を行うこととなり、オープンカーに並んで会堂に到着した。大公は妻のもてなしがないがしろであることに腹を立て、すぐ町から出ていこうと決心したが、運転手が向きを変えるのを間違い、車を止めてバックした。その時、ガブリロ=プリンチプ(セルビア人)は、自分の前で自動車が止まったのに驚いた。彼は自動車の踏板にのり、一発で大公を殺し、二発目で前方座席の護衛を狙ったが、それて大公夫人に命中した。夫人もほとんど即死であった。プリンチプ(20歳)は、セルビアがハプスブルク家に隷属させられている(1878年以来オーストリア=ハンガリー帝国に統治され、1908年併合された。)ことに憤慨して、仲間の6人の高校生と大公を撃とうと決心し、秘密結社(「統一か死か」通称黒手組。首領のアピスは大公を殺すよりセルビア政府を困らせること考えていた。)から粗末な武器を受け取っていた。彼の仲間が行進中の大公を狙撃しようとしたがいずれも失敗し、偶然彼の前で車が止まり、彼が実行者となった。<A.J.P.テイラー『第一次世界大戦』1963 新評論 P.11-14>
a 1914年6月28日 ボスニアの首都サライェヴォで、オーストリア皇位継承者夫妻が暗殺されたサライエヴォ事件が起こり、第一次世界大戦の発端となった日。
Epi. 悲劇の結婚記念日 皇位継承者フランツ=フェルディナントと妻ソフィーがサライェヴォで殺されたこの日は、二人の結婚記念日でもあった。1900年のこの日、フランツ=フェルディナント大公は、伯爵令嬢ソフィー=コテックと結婚したが、「それは、沈みがちな、悲しい婚礼であった」。大公はハプスブルク家の後継者であり、やがてオーストリア皇帝・ハンガリー王となるべき人であったが、ソフィーは平凡な伯爵令嬢にすぎず、ハプスブルク家の婚姻としては許されないものであった(ハプスブルク家はそれまで外国の王女クラスを皇后として迎えるという婚姻政策でヨーロッパ随一の勢力にのし上がってきたのだった)。そのため、ソフィーは宮廷の公式行事には出席できなかった。しかし、大公は妻を深く愛していた。彼が妻を公式行事に同道できるのは、陸軍元帥として軍隊の観閲をするときだけだった。ボスニアでの閲兵式に妻を同行し、オープンカーに乗せたのは、ソフィーに皇位継承者夫人としての栄耀を楽しんでもらう唯一の機会だった。そして、その日が結婚記念日であった。「大公は、愛すればこそ死に赴いたのである。」<A.J.P.テイラー『第一次世界大戦』1963 新評論 P.11-12 などを参照>
なお、6月28日は、旧暦では6月15日にあたるが、その日は1389年のコソヴォの戦いがあった日でもあり、セルビア人には聖ヴィトウスの祭日で「何かが起こる日」であると信じられていた。<千田善『ユーゴ紛争』講談社現代新書 1993 p.174>
b ボスニア ボスニアはバルカン半島の北西部、現在はヘルツェゴヴィナとともに一個の共和国となっているが、1878年にベルリン条約でボスニア=ヘルツェゴヴィナとしてオーストリア帝国の統治権が認められ、さらに1908年に併合された。住民はセルビア人が多く、宗教的にはギリシア正教だが、それ以外にクロアチア人、ムスリム人(イスラーム教徒)も存在する。首都はサライェヴォ。1914年にセルビア人青年がオーストリア皇位継承者夫妻を銃撃するというサライェヴォ事件が起こり、第1次世界大戦の端緒となった。第1次大戦でオーストリア帝国が解体した後には、1918年にセルブ=クロアート=スロヴェーン王国(29年よりユーゴスラヴィア王国)に加わった。第2次大戦後は、ユーゴスラヴィア共和国の一部となったが、1992年には分離独立運動を展開、激しいユーゴスラヴィア内戦の末、分離した。
c オーストリア(第1次大戦)世界史上、オーストリア帝国と現在のオーストリア共和国はまったく領土の広さが違うので注意を要する。第1次世界大戦の時期には正式には「オーストリア=ハンガリー帝国」、いわゆる「ハプスブルク帝国」のこと。これは1867年のアウスグライヒの結果として成立したもので、領土的にはヨーロッパの中部からバルカン半島まで、現在の北イタリア、スロベニア、クロアチア、ハンガリーチェコ、スロヴァキアに及ぶ広大な領土を有していたが、その域内に多数の民族を含む多民族国家であって、その運営には困難があった。にもかかわらず19世紀末からオスマン帝国の弱体化に乗じて汎ゲルマン主義を唱えて勢力を南下させ、汎スラブ主義を唱えるロシアと対立しバルカン問題を深刻化させた。1908年にはボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合したが、この地域にはセルビア人が多数居住していたので、セルビアの反発が強くなった。1914年6月、セルビア人青年によって皇位継承者フランツ=フェルディナント夫妻が殺されるサライェヴォ事件が起きると、7月28日、セルビアに宣戦布告し、同盟関係にあるドイツも同調、イギリス・フランス・ロシアの三国協商を相手とする第1次世界大戦に突入した。しかしドイツの敗北に伴ってオーストリアも敗れ、1919年9月のサン=ジェルマン条約でドイツとの合併は禁止され、帝国領であったハンガリー、チェコスロヴァキア、セルブ=クロアート=スロヴェーンが分離独立、チロルとトリエステはイタリアへの返還を認め、オーストリア=ハンガリー帝国は解体し、ハプスブルク家の皇帝カールはスイスにも亡命しハプスブルク帝国も終わりを告げた。同年10月、憲法制定議会は「オーストリア共和国」とすることを決定した。 → ドイツのオーストリア併合  第2次世界大戦後のオーストリア
フランツ=フェルディナント一般にオーストリア帝国の皇太子とされるが、厳密には皇位(または帝位)継承者。また、オーストリアは正式にはオーストリア=ハンガリー帝国で、皇帝の家系をとってハプスブルク帝国とも言う。当時の皇帝フランツ=ヨーゼフ1世は皇太子アドルフがいたが、自殺してしてしまったため、甥であったフェルディナントが皇位継承者となっていた。1914年6月、ボスニアの首都サライェヴォでサライェヴォ事件に遭遇、妃のソフィーとともに狙撃されて死んだ。時は51歳であった。
d セルビア(第一次大戦)セルビア人は、バルカン半島に広く居住する南スラブ系の民族で、バルカン半島西部に14世紀前半にはセルビア王国が全盛期を迎えていた(中世セルビア王国)。その後、オスマン帝国の支配が長く続き、1860年にようやくセルビア公国として自治を認められ、1878年ベルリン条約で独立が認められ82年にセルビア王国となったが、オーストリアが1908年に併合したボスニア=ヘルツェゴビナなどにも多数のセルビア人が住んでいた。彼らは、バルカンのスラブ人の統一国家を作ることを主張し、大セルビア主義を掲げ、オーストリアのパン=ゲルマン主義、さらにブルガリアの大ブルガリア主義と対立するようになる。オーストリアのバルカン進出に対して反発したセルビア人青年が起こしたサライエヴォ事件に対し、オーストリアは背後にセルビア王国の指示があるとして宣戦布告し、セルビア王国は隣国のモンテネグロ王国とともにイギリス、フランス、ロシア三国協商が支援を受けて、第一次世界大戦に拡大する。バルカン諸国ではブルガリアがドイツ、オーストリアの同盟側につき、さらにトルコも同盟側となり、バルカン半島は激しい戦闘となった。その結果セルビア王国を含む協商側の勝利となり、オーストリア=ハンガリー帝国は解体され、セルビア王国はモンテネグロとともに南スラブ系諸国を併合し、ユーゴスラヴィア王国(当初はスラヴ=クロアート=スロヴェーン王国という国号だった)を建国する。 
 ドイツの参戦オーストリアの要請を受けたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、8月1日ロシアに対し、2日後にフランスに宣戦布告した。かつてドイツの参謀総長が立案していたシュリーフェン計画を実行し、まず西部戦線での突破をねらいベルギー通過をはかったが拒否されたため侵攻した。
 ロシアの参戦オーストリアがセルビアに宣戦布告すると、ロシアはオーストリアによってボスフォラス=ダーダネルス海峡が抑えられることを恐れ、ただちに動員令を出した。実際にはドイツ、オーストリアとの全面戦に必要な鉄道輸送網が建設されておらず開戦に無理があり、動員令は恫喝にすぎなかったが、ロシアに対し動員を解除を要求したドイツは、それが入れられないことを口実に8月1日に宣戦布告した。8月17日、ロシア軍が東プロイセンに侵入、東部戦線での戦闘が始まったが、9月のタンネンベルクの戦いでロシア軍は早くも大敗、皇帝政府の威信は失墜した。そして戦争の長期化に伴い、国内に反戦機運が持ち上がり、一挙にロシア革命の勃発にいたる。
 フランス  
 ベルギー  
 イギリス 第1次世界大戦勃発時の首相はアスキス。イギリス史上最初の自由党単独内閣であった。アスキス内閣は当初、大陸の戦争には加わらないつもりであったが、ドイツがベルギーに侵攻するに及んで、参戦止むなしに傾いた。参戦を最初から主張したのは海軍大臣のチャーチルだった。しかし、彼が主導したガリポリ上陸作戦が失敗し、戦争が長期化するに従い、保守党からの批判が強くなり、チャーチルは辞任、16年12月自由党の反アスキス派のロイド=ジョージが保守党・労働党との挙国一致内閣を組織することとなった。
 第一次世界大戦 1914年7月28日から1918年11月11日の4年3ヶ月続いた、人類最初の世界戦争。戦闘はほとんどヨーロッパのドイツの東西で東部戦線、西部戦線で展開されたが、他にトルコの周辺の西アジア、ドイツ勢力圏の及んだアフリカ、中国でも衝突があった。
交戦国:帝国主義をとる列強が同盟国側と連合国側の二陣営に分かれて戦った。同盟国側はドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコ(オスマン帝国)、ブルガリアなど。連合国(協商国とも言う)はフランス、イギリス、ロシアの三国協商を軸に、セルビア、モンテネグロ、ルーマニア、ギリシアのバルカン諸国、三国同盟を離脱したイタリア、アジアでは日本、中国など32カ国。アメリカは当初中立を表明したが、1917年4月に連合国側に参戦した。
原因:根本的な要因としては、列強の領土・植民地・勢力圏をめぐっての対立から起こった帝国主義戦争である。列強は19世紀末から各地で衝突を繰り返していたが、主としてバルカンにおけるオーストリアとセルビアの対立に、それぞれ背後についているドイツとロシアが応援する形となり、またアフリカや西アジアにおいて世界政策を展開したドイツの進出に対してイギリス・フランスが協調して防衛をはかったことなどから二大陣営が形成されることとなった。さらにヨーロッパの帝国主義列強がアジア・アフリカに殖民地を所有していたことから、殖民地における情勢が複雑に関係した。ドイツ側についたオスマン帝国に対して領内のアラブ人勢力をイギリスが支援して西アジアにも戦争は拡大し、東アジアでは日英同盟を口実とした日本が中国や太平洋のドイツ権益を攻撃した。こうしてこの戦争は人類最初の「世界戦争」となった。
犠牲者:戦死者802万人、負傷者2122万人、民間人死者664万人とされている。<『20世紀の戦争』朝日ソノラマ p.46>
 連合国(第1次世界大戦)第1次世界大戦で戦った二陣営の一つ、イギリス・フランス・ロシアの三国協商を核とした諸国を連合国という。そこで協商国といわれることもある。英語では Allied Powers または Allied Nations と表記した。大戦開戦時はイギリス・フランス・ロシアにセルビア・モンテネグロ・日本などが加わり、次いでルーマニア、アメリカ(1917年)、中国などが連合国側に参戦、最終的には27カ国となった。連合国と戦ったドイツ・オーストリア・トルコなどは同盟国という。 → 第2次世界大戦での連合国 
 三国協商  → 第14章 2節 世界分割と列強対立 三国協商
 イギリス・フランス・ロシア  
 モンテネグロ セルビアと同じ南スラブ系のモンテネグロは、オスマン帝国の宗主権の下で自治を認められる公国であったが、1878年のベルリン条約でモンテネグロ王国として独立が認められた。バルカン問題が深刻化する中で、オーストリアの侵出に対抗してセルビアなどとともにロシアとの関係を強め、バルカン同盟に加盟し、第1次バルカン戦争ではオスマン帝国と戦い、第2次バルカン戦争ではブルガリアと戦った。第一次世界大戦でも協商側で参戦し、戦後はセルビアとともに南スラブ人の統合国家ユーゴスラヴィア王国を構成した。 → モンテネグロの独立
Epi. モンテネグロ、日本と交戦中? モンテネグロ王国は1904年当時、ロシアと軍事同盟を結んでいたので、日露戦争が勃発すると、条約に従って日本に宣戦を布告した。戦後、日本はロシアと講和条約を結んだが、モンテネグロとは結ばなかった(ポーツマス会談にはモンテネグロは参加しなかった)ので、「交戦中」の状態が続いている。モンテネグロ人は日本人を見ると冗談交じりに「敵国の日本人だ」などといったりするという。ただし日本は大戦後、モンテネグロの後継国家であるユーゴスラヴィアを承認した際に、国際法上は交戦状態は解消されたとしている。<千田善『ユーゴ紛争』1993 講談社現代新書 p.158> 
2006年6月に成立したモンテネグロ共和国も日本は直ちに承認している。
 イタリア  
 日本の参戦第1次世界大戦が起きると、日本はこの機会をドイツ権益を奪う好機ととらえ、日英同盟を理由に参戦しようとした。イギリスもはじめは日本にドイツ艦隊への攻撃を要請したが、日本の中国および太平洋への進出は、アメリカの反発を買うこととなり、アメリカを味方にしておきたいイギリスは、日本への要請を取り消した。しかし日本はドイツに対して宣戦布告し、9月2日に山東半島に上陸、11月7日にドイツの租借地膠州湾の入り口にある青島要塞を陥落させた。さらに日本軍はドイツ領太平洋諸島のマーシャル、マリアナ、パラオ、カロリン諸島も占領した。 → 第15章 3節アジア・アフリカの民族主義 日本の動きと民族運動 第1次世界大戦への参戦
 同盟国 第1次世界大戦で軍事同盟を結んで陣営を構成した、ドイツ・オーストリア・トルコ(オスマン帝国)・ブルガリアの4カ国を同盟国 The Leagues という。その中核となったのがドイツ・オーストリア・イタリアで結成されていた三国同盟であったが、この三国のうちイタリアは1915年にロンドン秘密条約を結んで三国協商側についた。同盟国と戦った陣営を連合国(または協商国)という。 
 三国同盟  → 第12章 2節 ヨーロッパの再編 三国同盟の締結
 ドイツ・オーストリア  
 オスマン帝国(の参戦)オスマン帝国(トルコ)は1908年の青年トルコ革命で立憲君主政を復活させ、青年トルコ政権による革新政治が展開され、近代化のために西欧諸国から外人顧問を招聘した。軍事面ではドイツ軍人のザンデルス将軍を顧問とした。第1次バルカン戦争、第2次バルカン戦争でこのザンデルスの指導を受けた青年トルコの急進派エンヴェル=パシャが活躍し、両者の結びつきは強くなった。政府内には親フランス勢力もあったが、エンヴェル=パシャがドイツとの同盟を推進、秘密条約でドイツ=トルコ同盟条約を成立させた。
オスマン帝国の参戦理由 参戦を主導したのは青年トルコ政権の陸軍大臣エンヴェル=パシャであった。彼は、最大の敵国ロシア帝国を解体してオスマン帝国の自然国境を回復するとして参戦を正当化した。その意図の中にはロシアの支配を受けている中央アジアのトルコ系民族を解放し、サマルカンドを都としたトルコ人の帝国を樹立するという汎トルコ主義があった。しかも、彼が巧妙であったのは汎トルコ主義を突出させることなく汎イスラーム主義に結びつけ、大戦にあたってジハードを宣言し、ロシア領内だけではなくアフガニスタンやインドなどのイスラーム教徒には反英闘争を呼びかけた。<山内昌之『納得しなかった男』1999 岩波書店 p.43〜43>
世界大戦とオスマン帝国 第1次世界大戦が勃発するとオスマン帝国は1914年10月に参戦し、ドイツ軍艦をダーダネスル=ボスフォラス海峡を通過させ、黒海のロシア基地を攻撃した。イギリスはオスマン帝国とドイツが結ぶと、ドイツの中東進出が容易になのでオスマン帝国の参戦を恐れ、15年4月海峡地帯のガリポリに出兵したが、ドイツ軍とトルコ軍の同盟軍によって上陸を阻止された(トルコ側でこの勝利を指揮したのがムスタファ=ケマルであった)。
大戦中の民族問題 エンヴェル=パシャのかかげた汎トルコ主義と汎イスラーム主義は矛盾せざるを得なかった。汎トルコ主義の立場からはオスマン帝国領内のアラブ人、ギリシア人、アルメニア人、ユダヤ教徒などの自治独立の要求を抑えなければならなくなる。事実、大戦中にはオスマン軍によってアルメニア人に対する大量虐殺、ギリシア人に対する弾圧が行われた。またイギリスはオスマン帝国の背後を攪乱するためにこの民族対立を利用しようとして、アラビアの反オスマン帝国勢力であるハーシム家のフセインと結び(フセイン=マクマホン宣言)、その反乱を支援した(この時アラブ軍を指導したのが「アラビアのロレンス」)。
大戦の結果とオスマン帝国の滅亡 オスマン帝国はガリポリの勝利以外は各地で敗北を重ね、1918年10月、スルタンのメフメト6世は連合軍に降伏、連合国との間でセーブル条約を締結しその領土の大半を失うこととなった。エンヴェル=パシャら、青年トルコの指導者は国外に逃亡した。20年には連合国はオスマン帝国領西アジア諸地域の分割を行った。一方、1919年にはイギリスの支援を受けたギリシアがイズミル地方に侵攻してギリシア=トルコ戦争が勃発した。ここで救国の英雄としてムスタファ=ケマルが登場し、アンカラに大国民会議を招集し、トルコ国民軍を組織してギリシア軍との戦いを逆転させて勝利に導き、国民会議は満場一致で帝政廃止を可決、メフメト6世はイギリス軍艦でマルタ島に亡命し、オスマン帝国は滅亡した。1923年7月、ローザンヌ条約が締結され、アナトリアの領土と独立を回復し、トルコ共和国が成立する。第1次世界大戦への参戦はオスマン帝国の消滅を決定づけたと言える。  → トルコ革命
 ブルガリア(第1次世界大戦への参戦)1908年にオスマン帝国からブルガリア王国は独立を達成して王国となったが、第2次バルカン戦争に敗れてセルビア、ルーマニア、ギリシア、トルコに領土を奪われた。特にセルビアとの対立感情が強くなり、反対にオーストリア=ハンガリー帝国と提携を強めた。そのため、第1次世界大戦が勃発すると、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国の陣営に加わることとなった。しかし、同盟側の一員として敗れたため、ブルガリアは連合国との間でヌイイ条約を締結し、領土をさらに減少させることとなる。  → ブルガリア(大戦間)
m 日英同盟  → 第14章 2節 世界分割と列強対立 日英同盟
n 南洋諸島  
o 青島  
p 第2インターナショナル  
q 挙国一致体制  
r ロイド=ジョージ  → ロイド=ジョージ
s クレマンソー  → クレマンソー
 大戦の長期化  
a シュリーフェン計画 ドイツの参謀総長シュリーフェンが、1905年に建てた、ドイツの戦略。この計画にもとづいてドイツは第一次世界大戦に参戦した。ドイツにとってロシアとフランスという東西の教国と戦う不利な戦争と考えられたが、その勝算について、シュリーフェンは次のような方策によって可能であると結論づけた。それによると、
1)東部戦線はロシアの動員、輸送能力は低いと判断し、10個師団の少数兵力で、当面押さえておく。
2)他の全軍を西部戦線のフランスに向けて投入する。
3)西部戦線を二手に分け、主力(59個師団)をベルギーから侵入させて大きく迂回し、パリの西側にでる。他の9師団がフランス軍と正面からあたり、挟撃する。
3)約6週間でフランスを制圧し、その後に主力をロシアに向ける。
という壮大なものであった。しかし、大戦勃発時の司令官モルトケは、この計画を変更し、西部戦線の主力を削減して正面軍に加えた。バランスをよくすることはできたが、パリの西側にでるという戦略上の最大のポイントに、最大の兵力を賭けることができなくなり、シュリーフェン計画は計画倒れに終わった。また東部戦線でのロシア軍の進撃も予想以上に早く、誤算があった。結果として、ドイツは敗北した。
c マルヌの戦い 1914年9月の第1次世界大戦での最初の大会戦。ドイツ軍はシュリーフェン計画に基づき、大軍をベルギーから侵入させ、パリの西方に向かわせたが、指揮官は途中で方向を転じパリの東側に向かった。移動中のドイツ軍をイギリスの偵察飛行機が発見、フランス軍が急襲し、好機を作った(このときパリのタクシー600台が兵員輸送に活躍した→Epi.)。パリ東方のマルヌ川付近での会戦は、ドイツ軍のモルトケが安全を期して戦線を後退させたので、ドイツ軍の進撃が止まった。こうして当初の6週間でパリを陥落させるというドイツの戦略がくずれ、長期戦の態勢となった。
Epi. 「マルヌのタクシー」 9月5日、フランスの第六軍(総司令官ジョッフル)はマルヌでドイツ軍を迎え撃った。だが、フランス軍は手薄であり、この戦線に新鋭部隊を投入することがどうしても必要になった。「そのころ、パリの街を走るタクシーはルノー製のものがほとんどだったが、フランス軍はそれらを大急ぎでかき集め、前線への兵員輸送に当たらせた。その数は600台と伝えられる。その作戦はみごとに成功し、マルヌ会戦はフランスの勝利に終わり、ドイツ軍は退却をよぎなくさせられ、以後は塹壕戦/陣地戦の膠着状態に入り、これがドイツ敗北の遠因となった。パリ陥落の危機は救われた。そいてルノー製のそれらの車は、後々までも、”マルヌのタクシー”として歴史に名を留めている。現在もその一台は、パリのルノー博物館に誇らしげに展示されている。なおこれらのタクシーは、使用のたびごとに通常の料金を払ってもらった。”タクシーに乗って”戦場に、そしてあるいは死へとおもむいたことになるが、そこにはどこか二〇世紀ならではのブラック・ユーモアが見え隠れしている。」<折口透『自動車の世紀』岩波新書 1997 p.94>
d 西部戦線 第1次世界大戦において、ドイツはシュリーフェン計画で、背後のロシアの戦争態勢が出来上がる前に、ベルギーを通過して一気にフランスを叩こうとしていた。ベルギーは永世中立を表明していたがドイツは8月2日にその領土の通過を要求、拒否されると4日に侵入を開始、フランスを目指した。中立国ベルギーが侵犯されたことを理由にイギリスは参戦した。ドイツ軍はベルギー領内を破竹の勢いで突破、ついにフランス国内に侵入したが、9月5日マルヌの戦いジョッフル将軍麾下のフランス軍の抵抗に遭い、ドイツ軍の進撃は止まった。ドイツの司令官モルトケは、ロシア戦線へ兵力をさくため、戦線を後退させたのである。こうしてドイツの短期決戦策は失敗し、独仏国境線にそって西部戦線が形成され、両軍とも塹壕を掘って対峙する長期戦に突入した。 
e タンネンベルクの戦い 第1次世界大戦の東部戦線で、1914年8月、ドイツ領東プロイセンに進撃したロシア軍が、ドイツ軍に敗れた戦闘。ロシア軍は当初、ドイツの予想を上回る速さで進撃してきたが、次第に補給と通信の不備が露呈してきて、進撃が停滞した。ドイツの戦線立て直しに派遣された新司令官ヒンデンブルク大将とルーデンドルフ参謀長は、ロシア軍の無線を傍受してその進路を知り、列車で大軍を移動させて、タンネンベルクのロシア軍を急襲して勝利を収めた。このときの戦闘で25万人のロシア兵のうち、12万5千が戦死か捕虜になり、ドイツ側の損害は1万にすぎなかった。タンネンベルクでのロシア軍の敗北は、皇帝政府の威信を著しく落とし、ロシア革命の勃発の警鐘となった。
Epi. ドイツ軍の復讐の地、タンネンベルク 第1次世界大戦でドイツがロシアに大勝したタンネンベルクは現在のポーランド、ワルシャワの北方約150kmほどのにあり、グルンヴァルトという。この地は1410年、ドイツ騎士団がリトアニア=ポーランド王国軍と戦い、撃破されたところであった。ドイツ騎士団が大敗を喫したこの闘いは、ドイツ人にとって屈辱的なものであり、グルンヴァルトはその後20世紀にいたるまでポーランドとの対決と復讐を象徴する地となった。<志摩園子『物語バルト三国の歴史』2004 中公新書 p.61>
f 東部戦線 第1次世界大戦が始まり、1914年8月17日、ロシア軍が東プロイセンに侵入、タンネンベルクの戦いでドイツ軍に大敗した。ロシアはこの敗北で国内の反戦気運が高まり、革命につながる。ドイツ軍も西部戦線での激戦の継続のため、東部戦線に戦力を向けることが出来ず、その後は膠着する。バルカン半島でもオーストリアとセルビアの戦闘が続いたが、オーストリアは多民族国家の弱点を露わにして、敗北することが多かった。また東部戦線には入らないが、トルコ領でもガリポリの戦いがあり、中東でもドイツ・トルコ軍とイギリス軍が闘った。中東でのトルコとイギリスの戦争の際、アラブ部族のトルコに対する反乱を支援して活躍したのが「アラビアのロレンス」として知られるローレンス大佐であった。 
ガリポリの戦い第1次世界大戦でオスマン帝国(トルコ)が1914年10月に参戦したため、ドイツ海軍にダーダネルス=ボスフォラス海峡を抑えられることは、ロシアにとっても危機であり、イギリスにとってもスエズ運河の防衛にも大きな障害となるので、海軍大臣ウィンストン=チャーチルの主張によって、ダーダネルス海峡の入り口にあたるトルコのガリポリ要塞を総攻撃することとなった。1915年4月25日、英仏両軍にオーストラリア・ニュージーランド連合軍(ANZAC)が加わって攻撃したが、トルコ軍は34歳の守備隊長ムスタファ=ケマルに指揮されてそれを撃退した。ケマルの名声は戦後高まって後にトルコ共和国の初代大統領となり、チャーチルは一時閣外に去る。なお、オーストラリアでは、4月25日をアンザック・デーとして戦死者を追悼する日としている。(A=Australia NZ=New Zealand A=Army C=corps)
 アルメニア問題  アルメニア   現在のアルメニア
g ヴェルダン要塞 第1次世界大戦で1916年2月〜6月、フランス軍のヴェルダン要塞に向けて、ドイツ軍が総攻撃を行った。莫大な量の砲弾が使用され、フランスは31万5千、ドイツ軍は28万1千の死傷者を出した。フランス軍は死守し、司令官ペタンの名声が上がった。 
h ソンムの戦い第1次世界大戦で1916年6月〜11月、北フランスのソンムでドイツ軍に対する連合軍の総攻撃が展開された。イギリス軍のヘイグ将軍は、まだ実験段階だった戦車をはじめて実戦に投入した。戦闘は全くの消耗戦となり、イギリス軍に42万、フランス軍に20万、ロシア軍に45万の犠牲者を出し、勝敗無く終わった。「理想主義はソンムで滅んだ。熱狂した志願兵たちは、もう熱狂しなくなった。かれらは、戦友への誠実さ以外は、大義名分とか指導者とか、あらゆるものへの信頼を失った。戦争は目的をもつことを止めた。戦争はただそれだけのために、いわば根気くらべとして続いた。」<A.J.P.テイラー『第一次世界大戦』P.145-148> 
i ユトランド沖の戦い  
i 航空機 飛行機はアメリカのライト兄弟が複葉グライダーを1902年に試作し、1903年にそれにエンジンとプロペラを備え付けて飛行に成功した。軍用機は第1次世界大戦ではそれぞれの空軍が百数十機しか保有していなかったが、戦争中には3万機まで増大する。また戦闘機だけでなく、攻撃機、爆撃機、偵察機といった機種が生まれた。さらに飛行船が登場し、偵察・爆撃に使用された。特にドイツ海軍のツェッペリン号はロンドンの夜間爆撃を行い恐れられた。
その他、第1次世界大戦で出現した新兵器には、潜水艦がある。また火砲も急速に発達し、射程が100qを越す長距離砲も出現した。<この項、『20世紀の戦争』朝日ソノラマ1995年などによる。>
j  毒ガス 第1次世界大戦の際、ベルギーの西端にあたるイープルでの、ドイツ軍と連合軍の1914年10月〜11月の第1次、1915年4月〜5月の第2次、1917年秋の第3次の3次にわたるイープルの戦いが行われた。その第2次の戦闘でドイツ軍は始めて毒ガスを使用した。
使用されたのは塩素ガスで、4月22日一日で連合軍側に5000人の死者が出た。イギリスの助かった兵士の中にいた化学者はすぐに塩素ガスであることに気づき、ただちに本国に報告、塩素を中和するハイポ(次亜塩素酸)をしみこませた綿で防毒マスクを作り、戦線に配布した。その結果、西部戦線ではそれ以上毒ガスの被害は広がらず、東部戦線で使用されるようになる。その後毒ガスはイペリットやホスゲンなど毒性の強いものが作られ、フランス軍も使用し、両方の陣営で100万の兵士が犠牲になったといわれる。
Epi. ドイツの毒ガス開発者の妻、自殺する なおドイツでは毒ガスの開発にあたった化学者フリッツ=バーバーに対し、その妻クララがそれを止めるよう懇願したが受け入れられず、自殺した。<『原子爆弾の誕生』ローズ p.148による>
k 戦車 第1次世界大戦に際し、イギリスで考案され、「陸上軍艦」と云われた。初期の戦車は故障も多かったが、1916年のソンムの戦いで最初に使われ、次第に大量に使用されるようになって恐るべき威力を発揮するようになった。ドイツではA7V、フランスでは小型のルノーFTなどが作られた。
Epi. チャーチルが発明した戦車 「戦車」を考案したのはイギリスで、時の海軍大臣だったチャーチルだという。チャーチルの伝記の一節から引用しよう。「チャーチルは海相として本土の防空に責任を負わされており、そのためダンケルクに飛行基地を設けてツェッペリン飛行船を迎撃しようとした。飛行場を陸で守るためには、ロールス・ロイスに装甲板をかぶせた装甲自動車を発明した。ドイツ軍が道路に壕を掘ってこの新兵器の運動を妨害しようとすると、その壕を乗り越えられるような無限軌道車−海軍の工廠で研究されたから、「水槽(タンク)」という暗号名で呼ばれた−の開発に着手した。こうして海相が空の戦いのために発明した陸の戦車は、やがて陸上の停滞を破るための決定的な兵器となるであろう。」<河合秀和『チャーチル』中公新書 1979>
l 潜水艦 潜水艦は自動車と同じく1885年に発明された。発明者はスウェーデン人のノルデンフェルトとされている。初期の潜水艦の動力は蒸気エンジンで、水上での行動にはかなり制約を受けていたが、動力源にディーゼル・エンジンが使われるようになると、それは燃料効率が高いので、機動力・行動半径は飛躍的に向上し、第1次世界大戦で実戦に利用された。特にドイツは無制限潜水艦作戦を展開し、イギリスに大きな打撃を与えた。
Epi. ディーゼルの悲劇 ディーゼル・エンジンを発明したのはドイツ人のルドルフ=ディーゼルである。ディーゼルは職人の息子として生まれ、少年時代を貧困のうちに暮らし、ミュンヘン工科大学を大学始まって以来の成績で卒業した。学生時代から内燃機関の研究に取り組んだ彼は、25歳の時、高価なガソリンの代わりに安価な軽油や重油を燃料とするエンジンを発明し、98年に世界初のディーゼル・エンジンを完成させて特許を取った。ディーゼルは自分の発明が世界の人々の利益になるよう、適正な特許料を払えば誰でも新技術を利用できるようにした。またイギリスにも自分の会社を設立した。1900年代からイギリスとの間で激しい建艦競争を行っていたドイツ海軍は、潜水艦の実用化を急ぎ、燃料効率の良いディーゼル・エンジンを搭載することを考え、ディーゼルに対して戦争のために役立つ彼の特許すべてを国家に提供するよう要請した。しかしディーゼルはその要請を拒否した。1913年の秋、イギリス海軍がディーゼルに新型エンジンについて話を聞きたいと申し入れると、ディーゼルは同意してロンドンに向かった。ところが9月29日夜、アントワープ港の船中からディーゼルは忽然と姿を消し、2週間後にオランダのトロール船にその遺体がひっかかった。後頭部に鈍器で殴られた傷跡があり、明らかに他殺であったが、二人の同行者は罪に問われることはなかった。状況からはディーゼルの”利敵行為”をドイツ秘密警察が阻止するため、同行の二人に殺害させたものであろう。<折口透『自動車の世紀』岩波新書 1997 p.82-88> 
 アメリカの参戦 アメリカ合衆国のウィルソン大統領第1次世界大戦の勃発に対し、当初はヨーロッパ諸国間の争いに介入しないというモンロー教書以来の孤立主義の伝統を守ることを公約としていたので、厳正な中立を表明した。アメリカにはドイツやイタリアからの移民も多かったので、参戦によって国論が分裂することを恐れたという現実的な理由もある。一方でウィルソンは、イギリス・ドイツ双方に特使を派遣して和平策を模索するなど、国際協調に乗り出す姿勢も示していた。しかし次第にドイツの好戦的な姿勢に対する国内の非難が強まり、特に1915年5月のルシタニア号事件でドイツに対する敵愾心が強まった。ドイツがいったんは手控えていた無制限潜水艦作戦を再開したことを受け、ウィルソンは議会に対してドイツとの戦いを「平和と民主主義、人間の権利を守る戦い」と意義付けて参戦を提案し、議会は1917年4月6日にドイツに宣戦布告した(アメリカでは宣戦布告を決議するのは議会の権限である)。こうしてアメリカは第1次世界大戦に参戦し、伝統的外交姿勢である孤立主義(モンロー主義)を転換した。直接的にはドイツの無制限潜水艦作戦に対する反発が要因であったが、背景にはイギリス・フランスへのアメリカの工業製品の輸出がストップすることへの恐れと、もし両国がが敗北すればアメリカは莫大な資金援助を回復できなくなることを恐れたものと考えられる。アメリカ合衆国はヨーロッパ大陸へは200万の兵力を派遣したが、実際の戦闘に参加したのは、ようやく1918年5月のことであった。そしてその年11月11日には大戦は終結したので、アメリカ合衆国は被害は最小限に留まることとなった。 → アメリカの外交政策 
a モンロー主義  → 第12章 3節 モンロー主義
 ルシタニア号事件 ルシタニア号はイギリスの豪華客船。第一次世界大戦のさなか、無制限潜水艦作戦を展開するドイツの潜水艦Uボートによって、1915年5月7日にアイルランド沖で無警告で撃沈され、1198人が犠牲となった。その中に128名のアメリカ人がふくまれていたので、当時まだ参戦していなかったアメリカ国内で、世論が開戦に傾ききっかけとなった。そのような状況の中でウィルソン大統領はドイツに対して強硬な抗議を行ったが、国務大臣ブライアンはドイツとの戦争はアメリカにとって不利益であると主張して辞任し、後任にランシングが就任した。結局、アメリカは1917年4月に参戦を宣言することとなった。
b 無制限潜水艦作戦 第一次世界大戦のさなか、1915年2月のイギリス海軍による海上封鎖に対抗し、ドイツ海軍は潜水艦Uボート)による無制限潜水艦攻撃を宣言した。5月にはアイルランド南岸でイギリスの豪華客船ルシタニア号がUボートに撃沈され、アメリカ人の乗客に犠牲が出たことから、アメリカ国内の反ドイツ感情が強まった。ドイツはアメリカの参戦を恐れて、いったん無制限攻撃を停止したが、戦局の手詰まりを打開し、イギリスへの食糧補給を絶つため、1917年2月からそれを再開した。それを受けて1917年4月6日、アメリカが参戦しドイツに宣戦を布告した。また、イギリスは、首相ロイド=ジョージが、護送船団方式(商船に船団を組ませ、駆逐艦などで護衛する)を採用して対抗した。 
イ.戦時外交と総力戦
 秘密外交(秘密条約)の展開  
a ロンドン秘密条約 1915年4月に締結された、イタリアとイギリス・フランス・ロシアとの秘密条約。第1次世界大戦で、イタリアが協商側に参戦することを約束する代わりに、ダルマチアなどの領土獲得を認められた。これによってイタリアは三国同盟の一員でありながら協商側(連合国)につくこととなった。 
b イタリア  
c 「未回収のイタリア」  
d イギリスの秘密外交  
e オスマン帝国領  
f アラブ人  
g ユダヤ人  
h サイクス=ピコ協定 第1次世界大戦中にイギリス・フランス・ロシアの三国で結ばれたオスマン帝国(トルコ)領の分割をとりきめた密約。1916年5月16日、イギリス・フランス・ロシアの三国首脳は
秘かにペテログラードに集まり、大戦後のオスマン帝国のアラブ人地域について、
 イギリスはイラク(バグダードを含む)とシリア南部(ハイファとアッカの二港)、
 フランスはシリア北部とキリキア(小アジア東南部)、
 ロシアはカフカースに接する小アジア東部
を分割して領有し、パレスチナ(イェルサレム周辺地域)は国際管理地域とするという秘密協定を作成した。サイクスはイギリスの、ピコはフランスの代表。翌年、ロシアで革命が起こり脱落したので、英仏両代表の協定とされた。
この協定は、前年のイギリスがアラブ人に独立を認めたフセイン=マクマホン協定、さらに翌年発表したユダヤ人にパレスチナでの国家建設を認めたバルフォア宣言とも矛盾し、イギリスの「三枚舌外交」と言われるもので、現在も続くパレスチナ問題の原因となっているものである。
ロシア革命後のソヴィエト政府は秘密条約を世界に暴露し、すべて破棄したので、この協定は実現には至らなかった。しかし大戦後の1920年、旧オスマン帝国をイギリスとフランスが分割して委任統治することとなる。 
i フセイン=マクマホン協定 第一次世界大戦中の1915年、イギリスがアラブ民族に対し、将来の独立を約した文書。かねてオスマン帝国(トルコ)からの独立を実現しようとしていたアラブ人は、イギリスに協力し、対トルコの反乱を起こす代わりに戦後の独立を承認してもらうため、イギリスと結んだ。フセインはアラブ民族運動の指導者で、預言者ムハンマドの血統を継ぐハーシム家の首長、聖地メッカの総督(太守)。マクマホンはエジプトおよびスーダンのイギリス高等弁務官。この両者の間に秘密協定として結ばれた。この協定にもとづいて、1916年にフセインはいわゆる「アラブの反乱」を開始し、ヒジャーズ王国の設立を宣言、1918年にフセインの子ファイサルがダマスクスを占領し、独立を達成した。このアラブの反乱を指導したイギリス人が「アラビアのロレンス」として有名なトーマス=E=ロレンスであった。しかしその1916年、イギリスは一方でフランスとのサイクス=ピコ協定でアラブ地域の英仏での分割を密約しており、翌年には一方のユダヤ人にも国家建設を認めるバルフォア宣言を出しており、矛盾する約束を同時にしていたことになる。第1次世界大戦後、シリアを委任統治することになったフランスはファイサルを追い出したので、イギリスは自己の委任統治領であったイラクの実質的支配権をファイサルに与え、弟のアブドゥラにはトランス=ヨルダンの支配権を与えた。イギリスがつじつまを合わせたわけである。
フセイン フセイン(フサインとも表記)は、預言者ムハンマドの曾祖父ハーシムの血統を引く、アラブ世界で最も崇敬を受けるハーシム家の当主で、聖地メッカ及びメディナを管理する権限を持ち、シェリフ=フセインと言われた(シェリフとは預言者ムハンマドの直系子孫の称号)。オスマン帝国から総督(アミール。太守、知事とも訳す。)に任じられていた。第1次世界大戦でオスマン帝国(及びその背後のドイツ)と戦っていたイギリスはこのフセインに反乱を持ちかけ、オスマン帝国の後方を攪乱することを考えた。イギリスの高等弁務官マクマホンはフセインに働きかけ、1915年にフセイン=マクマホン協定を締結して大戦後のアラブの独立を約束し、その反乱を支援することを約束した。こうしてフセインは、イギリスの支援によって「大アラブ王国」の建設を夢見て、1916年「アラブの反乱」を起こし、1918年にはダマスクスを陥落させヒジャーズ王国の樹立を宣言した。このアラブの反乱を指導したのがイギリス人「アラビアのロレンス」ことトマス=E=ロレンスであった。しかし、大戦後イギリスは約束を破り、サイクス=ピコ協定に基づいて中東をフランスと分割して委任統治として支配した。フセインのヒジャーズ王国も、アラビア半島のリヤドを本拠としたサウード家のアブドゥルアジーズ(イブン=サウード)によってメッカ・メディナを追われ、ヒジャーズ王国は1924年に滅び、フセインはキプロスに亡命した。
Epi. イギリスに踊らされたアラブ人同士の争い イギリスの対アラブ政策には二つのルートがあった。エジプトを拠点とするイギリス陸軍省の軍人はハーシム家のフセインと結び、一方、インド政庁を拠点としてイラク方面からアラブ進出をねらうイギリス軍の一派はサウード家を支援した。ハーシム家とサウード家という同じアラブ人同士だが、両方ともイギリス人に踊らされ、結局サウード家の勝利に帰したこととなる。大戦後、アラビアはサウード家のものとなったが、イギリスはフセイン=マクマホン宣言の約束を守るため、フセインの4人のこともたち、アリ、アブドゥラ、ファイサル、ザイドを優遇し、次男アブドゥラにはトランスヨルダンの国王、ファイサルはイラクの国王と地位を与えた。 →第15章 3節 西アジアのアラブ諸国の独立 ハーシム家
ヒジャーズ王国

 ヒジャーズ王国のアラブ統一旗
1918年から1924年までダマスクスを首都として存在したアラブの統一国家。イスラーム世界の聖地であるメッカの太守(総督)フセインが、1816年にイギリスの支援のもと、オスマン帝国に対する反乱を起こし、アラビア半島のヒジャーズ地方(紅海沿岸、メッカやメディナを含む)を中心に、パレスチナ・シリアを含む地域を支配し、1918年に大アラブ国家として建国した。都はダマスクスに置かれた。しかし大戦後は、イギリスとフランスはパレスチナ・シリアを分割して委任統治とし、アラブの統一はならなかった。また、ヒジャーズ地方も1924年に半島中央部ネジド地方のリヤドから起こったサウード家のイブン=サウードによって併合され、ヒジャーズ王国は滅亡した。
Epi. アラブの統一旗 1916年、オスマン帝国からの独立とアラブの統一を掲げて挙兵したフセインの軍は、アラブ統一旗として黒・白・緑・赤の4色からなる旗を掲げ、ヒジャーズ王国成立後はその国旗とした。この旗はヒジャーズ王国崩壊後も、アラブの統一というアラブ民族主義者の掲げる運動の象徴となり、その後独立を達成したアラブ諸国の国旗のモチーフとなった。現在のシリア、イラク、クウェート、ヨルダン、エジプト、イエメン、スーダン、アラブ首長国連邦、パレスチナ暫定自治機構などはいずれもこの国旗をもとにしている。また1947年に登場したバース党も、この旗をアラブの解法と統一のシンボルとして掲げた。それぞれの色の意味するところは国によって異なるが、白と黒はムハンマドが用いた二つの旗――白はクライシュ族のターバンの色で神を象徴し、黒は聖戦で戦死した戦士への哀悼を意味した。またウマイヤ朝は白旗を掲げ、アッバース朝は黒旗を掲げた――、緑は4代目カリフのアリーが用いたという緑の外套が始まりで、生命や大地を意味し、赤はメッカの世襲首長でムハンマドの曾祖父から出たハーシム家の色で、後にはオスマン帝国の王朝色となった聖戦の象徴だという。<辻原康夫『図説 国旗の世界史』 2003 河出書房新社 p.40>
 ロレンス  → 第15章3節 アラビアのロレンス
j バルフォア宣言 第1次世界大戦末期の1917年、イギリスが大戦後にパレスチナユダヤ人の国家を建設することを認めた宣言。ロイド=ジョージ内閣の外相バルフォアからロンドンのウォルター=ロスチャイルド(シオニズム運動の代表)への書簡として出され、ロスチャイルドが公開した。「イギリスは、パレスチナにおけるユダヤ人の民族ホーム A National Home の樹立に賛同して、目的の達成のために最善の努力を払う」という文面であった。それには「パレスチナに現存する非ユダヤ人社会の市民的及び宗教的諸権利」を害することのないこと、という条件が付けられていた。この宣言は、ユダヤ国家の建設を求めるシオニズムに「いい顔」をすることによって、パレスチナでの対トルコ戦を有利に進めることと、ヨーロッパにおけるユダヤ系大資本の代表であるロスチャイルド家の支援を取り付けることを狙っていた。一方でイギリスは秘密協定であるフセイン=マクマホン協定ではアラブ人の独立を認め、サイクス=ピコ協定で戦後のフランスとの分割支配を密約していたので、それらと矛盾することとなり、大戦後のパレスチナ問題の原因を作ったといえる。 → パレスチナ(委任統治)
k インド自治の約束  
 総力戦体制  
a 帝国主義戦争  
b 軍需工業  
c 食料配給制  
d 言論統制  
 大戦の終結  
a ロシア革命  → ロシア革命 
b オーストリア=ハンガリー帝国  
c キール軍港の水兵反乱  
d ドイツ革命 第一次世界大戦の末期の1918年10月、キール軍港の水兵が無謀な出撃命令を拒否して暴動を起こし、労働者と連帯して労兵評議会(レーテ)を結成すると、その動きは全ドイツに広がり、ベルリンでは11月9日にそれまで戦争に協力してきたドイツ社会民主党も反皇帝勢力に廻り、やむなくヴィルヘルム2世は退位した。同日、社会民主党のエーベルトを首相とする政府が成立し、「ドイツ共和国」が成立した。こうして第1次世界大戦はドイツが敗北して終わり、ドイツ第二帝国は崩壊した。社会民主党に対して、急進派のスパルタクス団はロシアのソヴィエトに当たるレーテを権力の中枢につけようとしたが、多数を占めた社会民主党はそれを拒否し、選挙による国民議会の開催を進めた。政府と社会主義勢力の激しい対立は1919年1月、プロレタリア革命を目指したスパルタクス団(ロシア共産党)の蜂起が社会民主党政府によって武力弾圧をうけ敗北することで終わりを告げ、以後は2月にヴァイマルで国民議会が開催され、ヴァイマル憲法のもとでの議会制民主主義をとる国家となる。 
e ドイツ共和国 1918年10月9日に成立。翌日、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命。11日に大戦終結。その後、左派の社会主義勢力の蜂起を弾圧し、1919年2月、社会民主党のエーベルトを大統領とするヴァイマル(ワイマール)共和国となる。 
f 1918  第一次世界大戦の終結の年。1918年11月11日、フランスのフォッシュ将軍とドイツ代表エルツベルガーの間で、コンピエーニュの森の中の鉄道客車で午前5時に停戦協定が締結され、午前11時に戦闘が終わった。<A.J.P.テイラー『第一次世界大戦』P.268-272>
この11月11日は、アメリカ・カナダでは「復員軍人の日」(Veterans Day)として祭日となっている。4年以上にわたる世界戦争(戦場は主にヨーロッパであったが)が終わりを告げ平和のもどった日である。また、第1次世界大戦の結果、ロシアのロマノフ王朝、ドイツのホーエンツォレルン王朝、オーストリアのハプルブルク王朝という中世以来の専制君主の支配が終わったことも、世界史的に忘れられないことであり、これ以後は資本主義社会と新たに出現した社会主義勢力の対立、第三の勢力ともいえるファシズムの出現、という基本軸で20世紀が推移していく。その転換となったのが1918年である。 
g 休戦協定  
ウ.大戦の結果
 旧帝国の消滅 第一次世界大戦の結果として、ドイツ帝国(ホーエンツォレルン家)、オーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク家)、ロシア帝国(ロマノフ家)という中世以来の専制君主制国家が崩壊した。
 イギリスの没落 第一次世界大戦の結果、イギリスは戦勝国ではあったが、戦争のために疲弊し、また植民地でも反英独立運動が活発になって、19世紀までの「大英帝国」の繁栄は見られなくなった。 
 社会主義国の出現 世界最初の社会主義国家としてロシア(ソヴィエト=ロシア。ソ連の成立は1922年)が出現。一方で資本主義を繁栄させたアメリカを中心とした陣営は、「自由主義」を掲げて、社会主義勢力の拡大や革命の伝染を警戒するようになった。
 アメリカの繁栄 途中から第一次世界大戦に参加したアメリカ合衆国は、戦後に債務国から債権国に転換し、世界の強国にのし上がった。戦後の1920年代は「永遠の繁栄」と言われる最盛期を迎える。
 東欧諸国の独立 東ヨーロッパの大国に従属していた諸民族が、アメリカ大統領ウィルソンの「民族自決」の理念に沿って、戦後に独立を達成した。ハンガリーとチェコスロヴァキアはオーストリアから分離独立した。またオーストリア領であったボスニア・ヘルツェゴビナはセルビア・モンテネグロと共に新たにユーゴスラビアを建国した。またポーランド、バルト三国(エストニア・ラトヴィア・リトアニア)、フィンランドがロシア帝国からの独立が認められた。 
c 民族主義運動の激化  
エ.ロシア革命
 大戦の長期化  
 ニコライ2世 ロマノフ朝ロシアの最後の皇帝。皇太子時代の1891(明治24)年、来日し、滋賀県大津で暴漢に襲われた(大津事件)ことがある。1894年に皇帝となってからは、ツァーリズムの強化と特にアジアへの進出をすすめ、1895年の三国干渉、1896年の東清鉄道敷設権の獲得、98年の旅順・大連の租借などを行った。また露仏同盟を強化してフランス資本の援助によるシベリア開発を進めた。しかし1904〜5年の日露戦争の敗北で第1次ロシア革命が起こり、議会の開設などを約束したが、ほどなく反動化した。日露戦争後は再びバルカン方面への進出をはかるようになり、オーストリアと対立し、第1次世界大戦の原因のひとつを作った。大戦が始まると8月のタンネンベルクの戦いで大敗したのを機に、ドイツ・オーストリア軍の侵攻を許し東部の広大な国土を占領された。このような危機にもかかわらず、ニコライ2世は宗教家ラスプーチンを重用し、政治は混乱した。この危機に国内の矛盾を一気に噴出し、1917年三月革命が勃発、3月15日に退位した。その後、反動勢力に利用されることを恐れた革命政府に捕らえられ、シベリアのエカチェリンベルク付近で殺害された。後になってそのとき処刑された娘のアナスタシアの生存説が流されるなど、今でも処刑については謎が多い。
Epi. ニコライ2世と「ホディンカの惨劇」 1896年5月18日、モスクワのホディンカ原で、ニコライ2世の即位の式典が開催された。皇帝が贈り物のお菓子を群衆に配布しようとしたところ、集まっていた群衆が殺到し、将棋倒しになって1389名の死者が出るという惨事となった。ロシアではその後、大惨事のことを「ホディンカ」というようになったという。その後、この原は軍の飛行場となったが、1935年にはソ連の旅客機が空中衝突して48人が死ぬという事故が起こった。02年には飛行場の一部が高層住宅に転用されたが、その工事ではモスクワ市長の汚職事件が起こっている。今度、飛行場は廃止され、商業施設に転用されることになったが、また何か「ホディンカ」が起きるのではないかと、モスクワでは心配されているという。<朝日新聞 2006年5月18日の記事による> 
 ラスプーチン 農民出身の宗教家で、ニコライ2世の皇后アレクサンドラと血友病の皇太子の治療を通じて宮廷に入り込み、皇后の信頼を得(愛人とも言われる)、皇帝も彼を重用するようになった。ロマノフ朝のツァーリを影で操る彼は”怪僧”と言われ、大臣の人事にも口出しして宮廷に大きな影響力を持った。しかし戦局の不利、国内の経済の悪化など危機が深刻となると一部の貴族はその排除を狙うようになり、1916年12月16日に暗殺された。
 ロシア革命 「ロシア革命」とは、第一次世界大戦中の1917年に勃発した、帝政ロシアのロマノフ朝から、臨時政府の時期を経て、ボリシェヴィキによる社会主義政権の成立に至った一連の革命を言う。その前段階として、1905年の日露戦争のさなかに起こった第1次ロシア革命(単に第一革命ともいう)がおこり、動揺したロマノフ朝の専制政治(ツァーリズム)は懸命に革命勢力を弾圧していたが、第一次世界大戦の長期化はロシア社会の矛盾をさらに先鋭化させ、1917年3月(ロシア暦2月)のペテルブルクでの民衆暴動が自然発生的に起こり、そこからロシア革命が急展開することとなった。まず、三月革命(ロシア暦では二月革命)でロマノフ朝の専制君主制が倒されてブルジョア主導の臨時政府が成立、共和政が成立した。一方では革命派は労働者と兵士のソヴィエトを組織し、ロシアは二重権力の状況となった。レーニンに指導されたボリシェヴィキは一挙に社会主義権力の実現に向かい、同年の十一月革命(同じく十月革命)で臨時政府を倒し、ソヴィエトがすべての権力を掌握し、世界最初の労働者階級が権力を握る社会主義政権が誕生した。狭い意味ではこの十一月革命をロシア革命という場合もある。
権力を握ったレーニン指導部は議会政治を否定してボリシェヴィキ独裁体制を作り上げ、まず直面する課題である世界大戦でのドイツとの講和をはかり、また国内の封建的な社会関係の一掃に乗り出した。それに対して反革命勢力と資本主義(帝国主義)国のイギリス、フランス、アメリカ、日本などの干渉が攻勢を強めたため、「戦時共産主義」の体制を強め、農民生活を犠牲にしながら革命政権の維持を図った。この一連の反革命戦争、干渉戦争に勝利した後に新経済政策(ネップ)で経済体制を立て直し、ラパロ条約で国際的な認知を受けた後、1922年12月にソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立した。1917年の十一月革命によって成立した新しい国家は、1922年の「ソヴィエト連邦」の成立までは一般に「ソヴィエト=ロシア」という。
ロシア革命のもたらしたもの このように、わずか一年の間に、封建社会の上に成り立っていた帝政を打倒し、一挙に社会主義権力の樹立にまで突き進んだのがロシア革命であったが、マルクス主義では資本主義社会の矛盾が必然的に社会主義を導くと考えられていたので、遅れたロシア社会が資本主義社会の成熟を待たずに社会主義化することに対し、当初から疑問視する考えもあった。そのような公式的な理解を超えて革命が進展したのであり、なによりも平和と農民の解放が実現したことは成果であったが、その反面議会政治や市民的自由はブルジョア的な無用物として排除され、社会主義国家官僚制の上に一党独裁が強化されるという1925年以降のスターリン独裁体制を生み出していくこととなる。
1991年、ソ連邦が解体し、ロシアは社会主義を放棄することとなったが、改めてロシア革命が目指したものは何だったのか、そこから生まれた「ソ連」がなぜ解体したのか、考えておく必要があろう。 
 三月革命 第一次世界大戦に参戦したロシアは、ドイツ・オーストリア軍に押され、国土の多くを占領された。また戦争は国内の食糧・燃料の不足、物価騰貴をもたらし、国民の生活を急激に悪化させた。特に人口の多い首都ペテログラードではその矛盾が深刻で、1916年頃から盛んにストライキが起こっていた。ついに1917年3月8日(ロシア暦で2月23日)国際婦人デーにあたり、女子労働者の「パンよこせ」デモを皮切りに、全市がゼネスト状態に入った。民衆は「戦争反対」「専制政府打倒」という政治的スローガンを掲げて立ち上がり、軍隊がそれに呼応してペトログラードの労働者と兵士のソヴィエトが結成さた。民衆の蜂起は全国に波及し、皇帝ニコライ2世は3月15日に退位し、ロマノフ朝の帝政は終わりを告げた。一方、国会では臨時政府が構成され、議会制によるブルジョア政権が成立した。これが三月革命(ロシア暦で二月革命)であるが、一方で労働者政権であるソヴィエトが存在するので、十一月革命までは臨時政府とソヴィエトとの二重権力の状態となる。 
b 1917 
 ペトログラード 1703年、ロシアのピョートル大帝が建設した首都のペテルブルク(正式にはサンクト=ペテルスブルク)を、第1次世界大戦の勃発したときに、ドイツ風の「ブルク」を「グラード」に改めた。ロシア革命が成功した後、1924年にレニングラードと改められ、さらに現在はペテルブルクに戻っている。 
 ソヴィエト  
 臨時政府  
 二重権力 ドゥーマ(国会)で選任された臨時政府の中心は大土地所有者や大工業主、それまで野党議員であった自由主義者などであった。首相兼内務大臣はカデット(立憲民主党)のリヴォーフ公爵、外務大臣が同じくカデットのミリュコーフであり、司法大臣として入閣したエスエルのケレンスキーのみが比較的労働者大衆に近い存在であった。臨時政府は議会制を基礎としたブルジョア共和政を目指したので、イギリス・フランスとの協力を失うことを恐れ、戦争を継続する道を選んだ。
それにたいして、ソヴィエトは、労働者・兵士の代表から組織され、即時平和と生活苦の解消をまず目指そうとした。ただし、この段階ではソヴィエトの中はボリシェヴィキだけではなく、メンシェヴィキやエスエル左派などの勢力を含んでいた。ボリシェヴィキの指導者たち、レーニンは亡命中、カーメネフやスターリンはシベリア流刑地にあった。 
g 三月革命の意義  帝政から共和制に移行したが、ブルジョワ権力と労働者農民の権力が並立した。
 四月テーゼ 4月に亡命先のスイスから封印列車でペテログラードに帰ったレーニンは、すぐに「四月テーゼ」として知られる「現下の革命におけるプロレタリアートの任務」とう論文を発表し、ボリシェヴィキ派の運動方針を示した。それは帝国主義打倒・社会主義社会の建設を目指し、当面の課題としては臨時政府との対決即時停戦の実現、ソヴィエトへの権力集中をはかることである、とした。これはレーニンが個人名で発表したものであったが、次第にボリシェヴィキの支持を受け、ロシア革命でのレーニンの指導性がこれによって確立したといえる。
Epi. 封印列車 三月革命が勃発した時、レーニンは亡命地のスイスのチューリヒにいた。革命勃発の知らせを受け、ただちにロシアにもどることとしたが、大戦中でありロシア人がドイツ国内を通行することはできない。そこで極秘裏にドイツ当局と交渉し、一切ドイツ人と接触しない”封印列車”でドイツ領内を通行する条件で認めさせた。ドイツとしても、ロシアの革命が進み、戦争から離脱すれば西部戦線に全力を傾けることが出来るので、レーニンの通過を認めたものと思われる。レーニンは四月、キール港から海路ペトログラードにもどって四月テーゼを発表、ボリシェヴィキ派の指導者となるが、臨時政府はレーニンは敵国ドイツの協力でロシアにもどったのであり、ドイツのスパイの疑いがあると宣伝し、七月にはレーニンはフィンランドに逃れることとなる。 
 封印列車  
a レーニン  → 第14章 1節 帝国主義 レーニン
 すべての権力をソヴィエトへ  
 ケレンスキー 1881〜1970。1917年7月にロシアの臨時政府首相となった政治家。もとは弁護士で、1912年以来国会議員を務め、1917年の三月革命では社会革命党(エス=エル)右派を率い、ペトログラード労働夫・兵士ソヴィエト議長となる。次いで臨時政府に加わり法相となり、7月に首相となる。労働運動を抑え、ボリシェヴィキを弾圧した。十一月革命でボリシェヴィキが蜂起するとペトログラードの冬宮を脱出、革命政府に対する反乱を組織しようとしたが失敗し、アメリカに亡命。 
 十一月革命 1917年七月にケレンスキーが臨時政府の首相となり、ドイツにたいする攻勢を強め、国内の労働者のストライキを厳しく弾圧した。七月にはレーニンをドイツのスパイとして告発、あせったボリシェヴィキがクーデタを起こすと反撃して弾圧、レーニンはフィンランドに逃れた(七月事件)。しかし、ドイツに対する軍事攻勢は失敗し、九月になると臨時政府の総司令官コルニーロフ将軍が戦争の継続を主張して反乱を起こし、革命は危機に陥った。レーニンは密かにペトログラードにもどり、ボリシェヴィキ組織を再建、ジノヴィエフ、カーメネフ、トロツキーなどが幹部となって革命防衛に努め、コルニーロフの反乱を撃破した。国民一般も戦争を継続しようとするケレンスキー内閣に対する不満が強まり、ボリシェヴィキ支持が増大した。そのような状況を見たレーニンは武装蜂起を決意、トロツキーを議長とする軍事革命委員会を組織した。11月6日(ロシア暦10月24日)、臨時政府がボリシェヴィキ派の新聞発行を禁止すると蜂起が始まり、ボリシェヴィキ軍は臨時政府の拠点ペトログラードの冬宮を襲撃、ケレンスキーは女装して逃走し、臨時政府は瓦解した。翌7日、全ロシア=ソヴィエト会議が開催され、8日には平和と土地に関する布告を発表し、レーニンを議長とする人民委員会議(内閣にあたる)を選び新政府が発足した。このブルジョア共和政体制から、ソヴィエト政権への移行が十一月革命(ロシア暦では十月革命)であり、世界最初の社会主義革命であった。 
a ボリシェヴィキ武装蜂起  
b レーニン   → 第14章 1節 帝国主義 レーニン
c トロツキー

  Trotskii 1879-1940
1879〜1940。ウクライナのユダヤ系農民の子として生まれる。1896年から労働運動に拘わり、シベリア流刑となる。脱走してペテルスブルクにもどり、ロシア社会民主労働党に加わり、最初はメンシェヴィキを支持した。1905年第1次ロシア革命後、ペテルブルク・ソヴィエト議長となった。その後ロンドン、スイスなどに亡命。1917年、第2次ロシア革命が起こるとロシアの戻り、レーニンのボリシェヴィキに加わり軍事革命委員として十一月革命の先頭に立った。その後、外務人民委員としてドイツとの停戦交渉に当たりブレスト=リトフスク条約の締結にあたったが、ドイツ側の要求を拒否して交渉をうち切った(その後、レーニンの判断で同条約は締結される)。また反革命勢力と外国の干渉から革命を防衛するため、赤軍を創設した。次第にレーニンの後継者の一人と見なされるようになったが、スターリンとの対立が強まり、レーニンの死後の1924年にスターリン派によって役職を解任され、29年には国外追放となった。トロツキーの主張は、世界革命(永久革命)論として知られ、世界同時革命を主張してスターリンの一国社会主義革命論と対立したのである。1940年、亡命先のメキシコで、スターリンのはなった刺客により暗殺された。『ロシア革命史』『わが生涯』など著作多数。 
d 全ロシア・ソヴィエト会議 ペトログラードの冬宮でまだ臨時政府が抵抗していた時期の1917年11月7日に開催された。ボリシェヴィキが多数を占めていたが、まだ独裁的な権力を持っていたわけではなく、この段階では全ロシア・ソヴィエト会議に、メンシェヴィキ・エスエル左派が参加していた。ボリシェヴィキの指導権を確立しようとするトロツキーらと、あらゆる社会主義政党の結集をはかろうとするメンシェヴィキのマルトフ等がここでも対立した。トロツキーはマルトフ等を「歴史のくずかごに消えろ」と恫喝したという。翌11月8日、レーニンの起草による「平和についての布告」と「土地についての布告」をほぼ満場一致で採択した。
Epi. 『世界を揺るがした十日間』が伝えるレーニン 以下はロシア十一月革命を世界に報道したアメリカのジャーナリスト、ジョン=リードが伝える、「平和についての布告」を提案するレーニン。
「雷のような歓呼の波が、幹部委員団の入場を告げたのは、きっかり八時四十分であった。レーニン −偉大なレーニン− が幹部委員の中にいた。大きな頭を肩の上にのせ、禿頭肥満、背の低いずんぐりとした姿。小さな眼、獅子鼻、大きな口、重い顎。今はきれいにそっているが、過去においてもまた将来においても有名な、例のひげがすでに生えはじめている。見すぼらしい服、長すぎるズボン。愚民(モッブ)の偶像となるためには非印象的たが、おそらく指導者としては史上まれなほど敬愛されている、不可思議な民衆指導者 −もっぱら知識のカのみによる指導者。色彩に乏しく、ユーモアがなく、非妥協的で孤立し、絵画的特異性をもたない− しかし、深刻な思想を単純な言葉で説明する力、具体的な状勢を分析する能力、をそなえている。そして機敏さ、最大の知的大胆さを兼ね具えている。……
 ……いまやレーニンが立って、演壇のテーブルの端をつかみ、数分間鳴りやまないごうごうたる大喝采に一見茫然として、またたく小さな眼で群衆を見わたしつつ、待っていた。喝采がやむと、かれはかんたんにいった、「われわれはいまや、社会主義的秩序の建設にとりかかるであろう!」ふたたび例の圧倒的な喧噪。
 「第一になすべきことは、平和実現のための実際的手段を採用することである。……われわれは、無併合、無賠償、人民の自決権、というソヴェートの条件にもとづいて、全交戦国の人民に平和を提唱するであろう。同時にまた、われわれの約束にしたがって、秘密条約を公表し破棄するであろう。……戦争と平和の問題は、きわめて明白なので、私は前置きなしに『全交戦諸国の人民への声明書』の文案を朗読してもよいだろうと思う。……」<ジョン・リード『世界をゆるがした十日間』上 岩波文庫 p.184>
e 人民委員会議  
 「平和についての布告」 1917年11月8日、レーニンが提案し、全ロシア=ソヴィエト会議で承認された布告。第一次世界大戦の交戦国に対し、「労働者・兵士・農民の代表者のソヴェートに基礎をおくところの、労働者農民の政府ほ、全交戦諸国の人民とその政府にむかって、公正で民主的な平和のための交渉を、即時開始することな提言する」とし、「無賠償(敗戦国から賠償金を取らない)、無併合(敗戦国の領土・国民の併合をしない)による即時平和」を実現するための交渉をただちに開始することを呼びかけた。あわせて民族自決の原則と、従来のあらゆる秘密条約を廃棄し、秘密外交を否定することを声明した。これはドイツとの戦争を継続している協商国およびアメリカに大きな衝撃を与え、アメリカ大統領ウィルソンはこれに対抗して翌年1月「十四ヵ条の原則」を発表した。 
 無賠償・無併合・民族自決  
 「土地についての布告」 1917年11月8日、レーニンが「平和についての布告」と同時に提案し、全ロシア=ソヴィエト会議で承認された布告。まず「あらゆる地主的土地私有ほ無賠償で即時廃止される。」とし、それらの土地と家畜類、建物とともに、憲法制定会議が開かれるまで郷区土地委員会と農民代表郡ソヴエートの管理に委ねられる、とされた。これによって農民の自立をもたらし、都市労働者主体で始まった革命への農民の支持を得ることを目指した。 
 憲法制定議会 十一月革命の前から約束されていた憲法制定会議選挙は、二〇歳以上の男女が有権者で、投票率は50%弱、その結果は(全国七九選挙区のうち結果のわかる六五選挙区についてみると)エスエル39.6%、ボリシェヴィキ24.0%、カデット4.7%、メンシェヴィキ2.6%、左翼エスエル0.8%、少数民族の政党その他28.3%である。人民委員会議の権力を握るボリシェヴィキであったが、国民的支持はエスエルの方に傾いた。ボリシェヴィキの基盤は兵士・都市労働者であったのに対し、エスエルは土地の平等な分配を主張し伝統的に農民の支持を広く受けていたので全国的な選挙ではこのような結果になったものと思われる。
 十一月革命の意義   
 フィンランド独立フィンランドは1804年にロシアが事実上占領、ロシア領となった。その間、ロシアは自治を認める一方、たびたび強圧的な統治を行い、フィンランドの民族意識も次第に高まっていた。フィンランドが独立を達成したのは、1917年ロシア革命が勃発したときで、自治議会が独立宣言を行うと、ソヴィエト=ロシアのレーニンらボリシェヴィキ政権は直ちに承認した。しかしフィンランド国内では独立派とロシア革命に倣った社会主義革命を目ざす革命派が対立し、白衛軍と赤衛軍と称して内戦が開始された。白衛軍はドイツとスウェーデンが支援、赤衛軍はソヴィエト=ロシア軍が支援して激しい内戦が続き、1920年6月にようやく停戦した。その間、1919年7月、フィンランド議会は新憲法を制定、共和国として発足した。第1次世界大戦後もソ連の脅威が続いたが、1932年にはソ連との不可侵条約が締結された。 → ソ連=フィンランド戦争  現代のフィンランド共和国
l バルト三国独立北からエストニア、ラトヴィア、リトアニアと並ぶバルト海に面した三国をバルト三国という。中世にはドイツ騎士団以来、ドイツ人の進出が続き、ハンザ同盟都市も築かれ、北方やロシアの物資の集積地として栄えた。そのため北のスウェーデン、南西のポーランド、東のロシアなどの強国が進出するようになり、18世紀からはロシアの支配を受けるようになった。その間、ロシア文化が強制され、ロシア化が進んだが、1918年にロシア革命が勃発し、革命政権が民族自決権を保証したこともあって、急速に独立の気運が高まった。1918年中にリトアニアとラトヴィアが独立、20年にはエストニアが独立した。 → ソ連のバルト三国併合  → バルト三国の独立(現代)
m ポーランド独立ウィーン体制下のポーランド独立運動から19世紀後半の1863年のポーランド反乱へと続いていたが、依然としてポーランドは、大半をロシアに支配され、残った地もドイツとオーストリアに分割されていた。第1次世界大戦が勃発しするとピウスツキらは軍団を組織してドイツ・オーストリアと結んでロシアと戦った。しかしドイツ・オーストリアはロシアにかわってポーランドを支配すると、その独立を認めず、形だけの政府を認めるに留まった。ピウスツキは反ドイツ姿勢に転じたため、投獄されてしまった。ところが1917年11月のロシア十一月革命で成立したソヴィエト政権は、ただちに「ロシアにおける諸民族の権利の宣言」を公布し、各民族の自決権を認めた。続いて翌年8月には三国によるポーランド分割条約の破棄を声明した。一方、アメリカのウィルソン大統領もこれに対抗して、十四ヶ条宣言のなかで、「海への自由な出口を持つポーランドの独立」を認めた。ドイツの敗色が濃厚になるとドイツ寄りの政府に対してストライキなどの抗議が相次いだ。分割国家の状況が長かったため、統一政権の樹立は困難であったが、ドイツが敗北して解放されたピウスツキがポーランドに戻ると政府は彼に全権を移譲した。こうして1918年11月11日、ピウスツキを国家主席としする共和政国家として独立を回復した(第二共和制)。 →ソヴィエト=ポーランド戦争ポーランド(第一次世界大戦後) 
オ.ソヴィエト政権と戦時共産主義
 ドイツとの単独講和  
a ブレスト=リトフスク講和条約 1918年3月3日、第一次世界大戦中に成立した、ドイツなどとソヴィエト=ロシアとの間の単独講和条約。ロシア側が大幅な領土的譲歩をして単独(他の協商国にはからず)で講和し、戦闘を終結した。条約締結地のブレスト・リトフスクは現在のベラルーシのポーランド国境の都市名。大戦の長期化に苦しむドイツと、革命政権を樹立したソヴィエト=ロシアは停戦交渉に入り1917年11月にバルト海から黒海にいたる線で停戦協定が成立。翌月、ブレスト=リトフスクで、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・ブルガリア・トルコの同盟側四国代表と、ロシアとの講和条約交渉が始まった。ロシア代表ははじめヨッフェ、後にトロツキーが務めた。ドイツ側は引き延ばしをはかり、交渉は難航、またソヴィエト側でもドイツとの戦争を革命戦争としてとらえ、戦争を継続してドイツ国内の革命を支援すべきであるという主張が台頭し、トロツキーは交渉打ち切りを主張してレーニンと対立、代表を解任された。1918年2月、ドイツ軍のロシア攻撃が再開されると、レーニンはただちに講和条約締結を決断し、ようやく3月3日にブレスト=リトフスク条約の調印を行った。この条約によって、ロシアはポーランド・リトアニア・エストニアなどの主権を放棄し、フィンランドから撤退し、ウクライナの独立を認め、ザカフカースの一部をトルコに譲った。この結果ロシアは、人口の約三分の一、最大の穀倉地帯、石炭・鉄・石油などの近代的工業中心地などを失うことになった。また戦争継続を主張する左翼エスエルは政権を離れ、農民パルチザン闘争を主張するようになり、ボリシェヴィキ内部にもブハーリンなどの反主流派を生み出すことになった。この条約は第1次大戦が終結しドイツが敗北するに伴い、廃棄された。
 ボリシェヴィキ一党支配 ボリシェヴィキが多数を占めることが出来なかった憲法制定会議が開催されると、レーニンはそれに対しソヴィエト政権の危機ととらえ、会議休憩中に全ロシア=ソヴィエト大会の名で議場を封鎖、解散させた。レーニンは、ソヴィエトをブルジョア民主主義の議会制度より高度な政治形態であると考えていたが、ここで憲法制定議会が解散させられてボリシェヴィキ一党独裁政権が成立し、これ以後、ソ連解体までロシアでは選挙と議会制度は封印されることとなる。ただし、この段階ですぐにボリシェヴィキ一党独裁が成立したのではなく、政権にはエスエル左派(左翼エスエル)が参加していた。これらの党派が政権から完全に排除されるのは1921年の新経済政策(NEP)期からである。
b 社会主義政権  
c 共産党(ソ連)ブレスト=リトフスク条約調印直後の1918年3月6日、レーニンの指導するボリシェヴィキは、反主流派のブハーリンらを除外し、党名をロシア社会民主労働党から「ロシア共産党」に変更し、正式な一個の政党となった。また3月12日には首都をペテルスブルクからモスクワに移し、ソヴィエト政権の基盤を固めた。1922年にソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立してからはソ連共産党と称した。レーニンが共産党一党独裁体制を作り上げてから、ソ連国家においては「共産党の指導性」は絶対であり、「党の指導する国家」または「党の所有する国家」とされる。国家機関だけではなく、あらゆる部門において指導的役割を認められていた。党権力はレーニンの死後、激しい党内抗争の結果スターリンが継承し、そのころから「民主集中制」という意味づけで独裁的な権力が生まれた。スターリンの個人崇拝は1956年のフルシチョフによるスターリン批判はあったが、「スターリン体制」といわれる教条的、官僚的な党運営はその後のブレジネフ時代にソ連の政治、社会、外交を停滞させることとなり、1985年からのゴルバチョフ政権の改革(ペレストロイカ)が行われた。ペレストロイカは当初のもくろみを大きく逸脱して、1991年のソ連共産党の解散ソ連邦の崩壊という終局を迎えることとなる。 → 共産党
d モスクワ ロマノフ朝の首都は、ピョートル大帝の1712年にペテルブルクに遷ったため、モスクワはギリシア正教の中心という宗教都市としての地位は維持したが、政治的には後退した。それでもなおロシアの中心に位置する重要な都市だったので、1812年にはナポレオン軍のロシア遠征によって一時占領された。ロシア革命の舞台はペテルブルクであったが、1918年3月、革命政府はモスクワに移り、モスクワはロシアの首都に復帰した。直前に「ロシア共産党」と解消したボリシェヴィキ主流派のレーニン、トロツキーなどの権力強化の一環であり、移転反対の動きもあったが強行された。以後、モスクワにはコミンテルン本部がおかれ、ソ連成立後も首都として続く。1945年にはドイツ軍が迫ったが、防衛に成功した。1980年には西側諸国のボイコットのまま、モスクワ・オリンピックが開催された。1991年8月には保守派クーデタが起こって失敗に終わり、それを機に一挙にソビエト連邦が解体し、モスクワはロシア共和国及びロシア連邦の首都となった。 → モスクワ(中世)
e 無償で没収し国有地 1917年11月の「土地についての布告」で地主の土地は没収され、農民に分配された。農民への土地の均等な配分は、エスエル(社会革命党)が早くから主張していたもので、その要求を容れたものであった。続いて「土地基本法大綱」、「土地社会化基本法」が成立して、自分の労働によって土地を耕作するものには均等に分配され、農民は平準化することとなった。「戦時共産主義」はそのような農民に対して革命政権から穀物の強制提供を求めたものであった。 
f 工業の国営化 大工業の国営化は1918年6月の全般的国有化によって実施され、国家管理に移されたが、さらに20年11月には小工場まで国有化された。原材料・燃料および製品の管理は中央集権化され、国民経済会議の部局に掌握された。 
 反革命政権と干渉戦争 反革命政権:サマーラやオムスクにボリシェヴィキ・ソヴィエト政権に対する独自の政府が作られた。それは旧軍人たちを主体とした帝政派、社会主義経済に反対するリベラル派、革命路線の違いから排除されたエスエル、テロを政治手段として採用する左翼エスエルやアナーキストなど、種種雑多な勢力の寄せ集めであったため、連携を欠いていたが、革命政府を包囲するようになり、また外国の干渉軍ともあいまって、大きな脅威となった。これら反革命軍は、白軍と言われ、革命政府はトロツキーが中心となって赤軍を編成し、反革命軍・干渉軍との戦いにあたった。おもな反革命政権に次のようなものがある。
コルチャーク政権:コルチャークはバルト海と黒海艦隊を指揮した帝政ロシア海軍の司令官。十一月革命後はイギリスの支援でシベリアのオムスクに反革命政権をつくった。コルチャーク軍はシベリアの日本軍と共同し、パルチザン掃討をはかったが、農民の支持が無く、1919年11月にオムスクを撤退、コルチャークは赤軍の捕虜となり、イルクーツクで銃殺された。
デニーキン政権:デニーキンは帝政ロシアの軍人。コルニーロフの反乱に加わって逮捕される。十一月革命後、反革命軍を組織、イギリスの支援を得てカフカスから南ロシアに入り、ウクライナを支配した。1919年7月にはモスクワに進撃し革命軍と対決したが、背後を農民反乱軍であるマフノ軍に突かれて敗退し、1920年パリに亡命した。白軍の指揮はウランゲリ将軍が跡を継いで、クリミア半島を拠点に抵抗したが、赤軍とマフノ軍の共同攻勢によって敗北し、反革命勢力は消滅した。なお、マフノ軍はウクライナの農民反乱を組織したものであったが、ウランゲリ軍壊滅後、革命政府から「ソヴィエト共和国と革命の敵」として討伐される。 
a 対ソ干渉戦争 干渉戦争:ロシア革命の成功は、帝国主義諸国に大きな衝撃を与えた。ロシアの戦争からの脱落を恐れ、資本主義体制を防衛する必要があると考えたイギリス・フランス・アメリカ・日本はロシア革命への干渉の口実を探していた。そこで出てきたのがシベリアのチェコ・スロバキア兵を救出するという口実であった。
シベリアのチェコ・スロバキア兵の反乱:第1次世界大戦でオーストリア軍に動員されたチェコ人およびスロバキア人の兵士でロシアの捕虜となっていたものに、ロシア在住のチェコ・スロバキア人が兵士として加わり、約4万人の軍団を形成していた。彼らは優秀な装備をもち訓練程度も高い兵力であった。ソヴィエト政権がドイツと講和すると、彼らの中に西部戦線でのドイツとの戦闘を臨む声がおきた。ソヴィエト政権は彼らを極東から船でヨーロッパに送ることとしたが、彼らが極東を目指し移動するうち、ロシアは我々をオーストリアに引き渡すつもりだ、として1918年5月25日、反乱を起こした。 
b シベリア出兵 シベリアのチェコ・スロバキア兵救出を口実にした、イギリス・フランス・アメリカ・日本など帝国主義諸国によるロシア革命への干渉戦争。1918年7月にはイギリス・フランス両軍がムルマンスクに上陸、8月にアメリカ、日本もシベリア出兵を宣言した。アメリカは7000人の兵力であったが、日本は10月末までに7万5000の兵力(協定上は1万2千に限定されていた)をシベリアおよび満州北部に進出させた。シベリア各地で反革命軍を支援したが、いずれも赤軍に敗北し、1920年にイギリス・フランス・アメリカは撤退した。日本だけはそのまま居座り1922年(北樺太には25年まで)に撤退した。
c チェカ 1917年12月、ソヴィエト政権を反革命から守るために設置された「反革命・サボタージュおよび投機取り締まり全ロシア非常委員会」の略称。議長はジェルジンスキー。とくにドイツとの戦争継続を掲げてボリシェヴィキと離反た左翼エスエルがテロ戦術を採り、1918年8月レーニン自身がそのテロリストに狙撃されて重傷を負う事件が起きると、チェカによる報復が行われ、512人の反革命派が捕らえられ射殺された。戦時共産主義下のチェカは、1922年に設けられた秘密警察であるGPU(ゲーペーウー)(正式には国家政治保安部)に引き継がれる。
d 赤軍 1918年1月、革命防衛の部隊として志願制で発足した。6月には一定年齢の勤労者の徴募が行われ、7月10日には18歳〜40歳の全勤労者に兵役の義務が課せられることとなった。革命軍事会議の議長であるトロツキーは、旧軍人の中からも積極的に幹部を登用、近代的な装備をほどこし、強力な軍隊に育てた。赤軍は反革命軍(白軍)との内戦、干渉軍との戦争、そして左翼エスエルとの抗争で大きな力を発揮した。赤衛軍とも言われる。
e トロツキー  → トロツキー
 戦時共産主義 激しい反革命軍・干渉軍との戦争に勝ち抜くために、1918年から21年にかけてレーニンの指導のもと、ソヴィエト政権がとった経済政策を「戦時共産主義」という。「すべてを戦線へ」をめざし、まず農民に穀物の余剰生産分を強制的に供出させる「穀物独裁」が実施され市民の食糧は配給制となった。さらに工場国有化の方針が大工場から小工場にまで拡大さた。その結果、貨幣は必要ないものとされ、労働者の報酬は現物となり、私企業は一切禁止された。これはレーニンによって共産主義への必然的な飛躍と位置づけられたが、現実には農民、労働者の労働意欲をいちじるしく後退させ、生産の停滞を招いた。
a 農民から穀物を徴発 1918年、春から初夏にかけて深刻な食糧危機に襲われたソヴィエト政権は、富裕になった農民が余剰穀物をかくしているとして、余剰穀物供出義務を定め、食糧人民委員に非常大権を与えるという「穀物独裁」令を5月13日に制定した。これを実施するために、武装した労働者の食糧徴発隊が農村に送り込まれた。この政策に対して、エスエル左派は、「勤労農民とプロレタリアートが相互にけしかけられる危険がある」と批判を加え、強く反対し、農村でも激烈な反対闘争がおこつた。18年末までに農村には72000人の労働者が入ったが、その一割は農民に殺されたという。<岩間徹『新版ロシア史』山川出版社による>
c 生産の低下  
 コミンテルンの設置 共産主義インターナショナル(Communist International)の略。第3インターナショナルともいう。帝国主義と闘う国際的な共産主義運動を志向したレーニンによって提案され、1919年3月に結成された。30ヶ国52名の代表が参加したがそのほとんどはロシアに亡命していた各国の革命家で、実際に外国からモスクワに到着したのは5人であった。ドイツのローザ=ルクセンブルクらスパルタクス団はこの時点では無理であるという意見を伝えてきたが、ロシア革命の成功に自信を持つレーニン、ジノーヴィエフ、トロツキーらはロシア共産党主導でヨーロッパ各国の共産主義を指導し、革命を輸出できると考えていた。しかし、ドイツ革命に失敗し、ヨーロッパでの革命運動が行き詰まると、植民地の被抑圧民族の解放を方針として掲げ中国革命に対する支援を強め、1921年中国共産党の結成を援助し、さらに国民党の孫文に働きかけて国共合作(第1次)を実現させた。以後、幾度か方針の転換があるが、ファシズムの台頭に対しては1934年から人民戦線戦術を採るようになり、1935年のコミンテルン第7回大会ではブルジョア階級との対決を棚上げして、広く民主勢力を結集してファシズムと戦うという「反ファッショ統一戦線(人民戦線)」路線が採択され、フランス、スペイン、中国でそれを具体化させる。しかし第2次世界大戦の勃発を抑えることは出来ず、スターリンがヒトラーと独ソ不可侵条約を締結したため、機能が崩壊し、第2次世界大戦中の1943年、独ソ戦が始まると、ソ連は西側と協力する見返りにコミンテルンは解散することとした。 
a モスクワ  
b 第3インターナショナル(コミンテルン)Epi. ラジオで参加を呼びかけたコミンテルン 「1919年1月24日、全ヨーロッパは、モスクワからのラジオ放送によって、近くモスクワのクレムリン宮殿で、共産党インターナショナルの第一回大会が開かれることを知った。しかし、この新国際組織が、なんの目的で、いま作られなければならないのかは判らなかった。この放送は、世界三八ヵ国の革命党にあてての招請状の代りをするものであった。大戦の混乱は、ラジオ放送を通じてのメッセージによってしか、革命党への呼びかけをできなくしていたのである。この放送のおこなわれた三日後には、第二インターナショナル系のベルン会議が開かれることが前から決定していたから、コミンテルンが、このベルン会議に対抗して、急遽新組織を樹立しようとしていることは明白であった。しかし、この異例ともいうべきラジオ放送による大会招請状は、ヨーロッパの社会主義政党から、ほとんどなんの反応もえられなかった。大会は、はじめ2月15日に予定されていたが、各国政府のパスポート発行拒否、逮捕、そして第二インターナショナル系の積極的な妨害にあってやっと3月2日に開会された。大会参加者は三〇ヵ国、三五組織、五二名であった。」<菊地昌典『歴史としてのスターリン時代』1966 盛田書店>
c ハンガリー革命  →第15章2節 ハンガリー革命
d 中国  →第15章3節 中国共産党の結成 ソ連(の中国革命指導) 第1次国共合作  
e ソヴィエト−ポーランド戦争 1920年4月からのソヴィエト=ロシアとポーランド間に起こった国境をめぐる戦争。ピウスツキ指揮のポーランド軍が勝利し、ロシアはポーランドから撤退、21年リガ条約で国境を確定した。ポーランドのロシア領は、ブレスト=リトフスク条約でドイツに譲られることとなったが、ドイツは敗北し、帝国も解体したため、同条約は破棄され、1918年11月、ポーランドの独立が認められた。しかし、ポーランドとロシア(ソヴィエト)の国境策定が問題となった。ポーランドの実権を握ったピウスツキは、18世紀の三国による分割以前の大ポーランドの復活を要求し、西ウクライナや白ロシアの領有を主張した。ロシア側はそれを認めず、イギリスは外相カーゾンの策定した国境線(カーゾン線)で調停しようとしたが不調に終わった。フランスはソヴィエト政権の拡張をおそれ、ポーランドに軍事顧問団を派遣した。1920年4月、ポーランドはソヴィエト・ロシア攻撃に踏み切り、ウクライナに侵攻しキエフを占領、それに対しロシア側は、トハチェフスキーとトロツキー指揮の赤軍が反撃、ワルシャワを目指し進撃した。ソヴィエト=ロシアはポーランドの社会主義勢力の蜂起を期待しロシアにつぐ革命の実現を目指したが、8月、ワルシャワ近郊のヴィスワ川の戦闘でピウスツキ指揮のポーランド軍に大敗、ポーランドから撤退した。1921年3月、両国間にリガ条約が成立、ポーランドはロシアから西ウクライナと白ロシアの一部を獲得した。ポーランドでは救国の英雄としてピウスツキが軍事権力を樹立、独裁者となっていく。
Epi. ヴィスワの奇跡 ワルシャワを前にした決戦は、8月12日、開始された。「ヴイスワの奇跡」が起ったのは16日であった。この日、赤軍第三騎兵団は、スターリンの勧告に従い、ルヴフ方面へと移動を始めた。この機をピウスツキは見逃さなかった。彼は自ら先頭に立って、ヴィエプシュ川沿いの比較的脆弱な赤軍支隊を一蹴したあと、一気に赤軍本隊を背後から包囲する作戦を展開した。赤軍は撤退し、ポーランド軍は再びブグ川を越えた。赤軍は5万人もが捕虜となり、わずか数日間で400キロにわたって敗走するという大敗北を喫した。<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』1980 三省堂選書/アンリ=ボグダン『東欧の歴史』1993>
f クロンシュタット反乱共産党の独裁による「戦時共産主義」の行き過ぎは、国民の不満を強めていた。1921年3月、かつて革命の原動力の一つとなったクロンシュタット軍港の水兵(水兵のほとんどは農民から徴兵されていた)が暴動を起こし、選挙や言論・出版の自由を要求した。これにたいして共産党政権はこの暴動をエスエルやアナーキストが煽動した反革命運動であるとしてトロツキーを派遣して弾圧した。レーニンは民主化を求める運動を弾圧する一方、これを機に戦時共産主義の方向を改め、新経済政策(NEP)を摂るようになる。
カ.ネップとソ連の成立
 新経済政策(NEP) ソヴィエト=ロシアからソ連に移行する時期の1921年に、それまでの戦時共産主義に代わってレーニンの指導で採用された、部分的に市場経済を容認した経済政策。1928年まで継続されたが、29年からのスターリンのもとでは否定され、ソ連は社会主義経済建設に向かう。
戦時共産主義の穀物徴発は、農民の反発を買い、各地で農民反乱が起こり(多くはエスエルの指導を受けた)、また1921年3月にはクロンシュタットの反乱が起こった。レーニンはそれらの動きを赤軍によって弾圧する一方、1921年3月第10回党大会で、穀物徴発制を廃止して現物税(食糧税)制に切り替えることを提案し、承認された。その背景には、1914年から7年にわたる戦争と内戦のため、工業生産は戦前の13%に落ち込み、穀物生産は革命前の7400万トンから3000万トンに激減し、経済が破滅状態にあったことがあげられる。
レーニンの新経済政策(NEP)では、農民は現物税(22年からは一律10%)を支払った残りの穀物を自由市場で販売することが認められ、小企業の私的営業の自由が与えられて労働者の雇用、商取引が認められた。この部分的に市場経済を容認したことによって生まれた小資本家はネップマンと言われた。これらの改革によって、一定の制限はあったとはいえ、ロシア経済は息を吹き返し、財政も安定してきた。
新経済政策が決定される一方、この時期から共産党以外の党派の排除も進んだ。すでに立憲民主党(カデット)は1917年に非合法とされ、エスエル左派エスエル主流派メンシェヴィキも1922年からは存在が許されなくなる。また共産党内部にはレーニンが1922年に動脈硬化症で倒れてから、ジノヴィエフ、カーメネフ、スターリンらが主導権を握り、反対派に対する弾圧が厳しくなる。レーニン死後の権力闘争に勝ち抜いたスターリンは、NEPを否定して、計画経済と農村集団化による社会主義社会建設に向かい、市場経済は認められなくなる。ソ連史におけるネップ期(1921〜28年)は、スターリン体制が否定された1980年代後半のゴルバチョフ政権のペレストロイカ期に、スターリン型の命令的な計画経済が成立する前の社会主義の多様な形態の可能性を追求した時期として再評価された。
a 余剰生産物の自由販売  
b 私的営業  
 ソヴィエト社会主義共和国連邦 一連の反革命戦争、干渉戦争に勝利し、新経済政策で経済体制を立て直し、ラパロ条約で国際的な認知を受けた後、1922年12月30日、ロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国(18年1月成立)に、ウクライナ・ベロルシア・ザカフカースの三つのソヴェト社会主義共和国が加わって、「ソヴィエト社会主義共和国連邦」を成立させた。ロシア語の略称がSSSR,英語の略称がUSSR、日本では「ソ連」と言われるようになる。後に加盟国が増え、共和国が15、自治共和国が20,自治区が8,民族区が10で構成されるようになる。首都はモスクワ。人口の54.6%はロシア人であるが、その他80以上の民族からなる多民族国家であった。最高国家機関はソ連邦最高ソヴィエト。国家と社会の中枢はロシア共産党の一党独裁のもとにおかれた。 → ソヴィエト社会主義憲法 
ソ連邦を構成した15共和国:ソ連邦を構成していた15カ国(ロシアは連邦共和国、他は共和国)。
○スラブ系など:ロシアウクライナベロルシア(現ベラルーシ)モルダヴィア(現モルドバ)
○旧ザカフカース(カフカース山脈南部):グルジア・アゼルバイジャン・アルメニア
中央アジアカザフ・トルクメン・ウズベク・キルギス・タジク
○バルト三国:エストニアラトヴィアリトアニア
ソ連の歴史の時期区分:ソ連の歴史はおよそ次のように段階づけることが出来る。(1922年までは「ソヴィエト=ロシア」、それ以後は「ソヴィエト連邦」)
1.戦時共産主義の時期(1918〜21年) …… 反革命と干渉戦争との戦いに勝利した時期
2.ネップ(新経済政策)の時期(1921〜28年) …… ソ連経済の発展期として高く評価される時期
3.スターリン時代(1929〜53年) …… 集団化と工業化および「官僚主義的行政的管理」の時期
4.非スターリン化の時期(1953〜1964年) …… フルシチョフ指導下の雪解けと平和共存の時期
5.ブレジネフの停滞の時期(1964〜1982年) …… 官僚主義の弊害が社会の停滞を招いた時期
6.ゴルバチョフ政権(1985〜1991年) …… 党および国家の改革に失敗、最終的にソ連邦が解体
詳細はそれぞれの時期の記事を参照してください。 → ソ連邦の解体
a ロシア(ソ連邦)ソ連邦を構成し、その中心となった共和国。正式には、ロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国(略称がロシア共和国)。1922年に、ベラルーシ、ウクライナ、ザカフカースとの4国でソヴィエト社会主義共和国連邦を構成した。ロシア共和国は、ソ連の全面積の4分の3、全人口の半分、資源の8割方を占める最大のソ連邦構成共和国であった。首都のモスクワ、大都市レニングラード(現サンクトペテルブルク)を含む、旧ロシア帝国以来のスラブ人を主体とした国家。ただし、共和国内の北カフカス地方や中央アジア、シベリアには、多くの自治国と自治区を含んでいた。
ソ連邦末期の1990年には、ソ連共産党のゴルバチョフと対立したエリツィンが人民代議員議長となり、ソ連邦解体の動因となった。 →ロシア国家 →現在のロシア連邦
b ウクライナ(ソ連邦)ウクライナはロシア平原の南、ドニェプル川流域から黒海の北岸、クリミア半島を含む広大で豊かな穀倉地帯である。中心はかつてキエフ公国の都だったキエフ。9世紀にキエフ公国を形成、13世紀初めにモンゴル人の侵入を受ける。このころ、東スラブ人がロシア人(大ロシア人)、ウクライナ人(小ロシア人)、ベラルーシ人(白ロシア人)に分化したとされている。14世紀にはウクライナの大部分は北方のリトアニア大公国、一部はポーランドの支配をうけ、1569年、両国が合併しリトアニア=ポーランド王国となるとその国領土となった。17世紀以降はロシア帝国の圧力が強まり、18世紀後半にはその一部に編入された。
ソ連の一員としてのウクライナ 1917年、ロシア革命でロシア帝国が滅亡したため、独立を宣言。しかし同時にソヴィエト政府も誕生して内戦に突入し、ロシアのボリシェヴィキ政権は赤軍を派遣してキエフを占領。それに対してウクライナ政府はドイツ軍の援助を得て赤軍を撃退した。しかし、1918年にドイツ軍は撤退、ウクライナはソヴィエト軍、マフノらに率いられた農民軍、民族派のデレクトーリア軍、デニキンの白軍などが入り乱れて戦った。1919年春までに赤軍の勝利が確定して、ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国が設立され、22年12月にロシア、ベラルーシ、ザカフカースとともにソヴィエト社会主義共和国連邦を形成した。1991年、ソ連邦の解体に伴い、ウクライナ共和国として独立、独立国家共同体(CIS)に加盟した。 → 現在のウクライナ
c ベラルーシ ベロルシア、白ロシア(英語名White Russia)ともいう。ロシアの西隣にあり、東にポーランド、北にラトヴィアとリトアニア、南にウクライナと接する。首都はミンスク。ベラルーシ人は民族的にはロシア人やウクライナ人と同じく東スラブ人。13世紀からは北方のリトアニア大公国の領土となり、1569年からリトアニア=ポーランド連合王国に属す。ポーランド分割の結果、ロシア領に編入された。その後はロシア帝国の影響下にあり、1919年1月、ロシア革命の影響でベラルーシ社会主義共和国が成立、1922年末のソヴィエト社会主義共和国連邦形成に加わった。1991年、ソ連邦の解体に伴い、ベラルーシ共和国として独立、独立国家共同体(CIS)に加盟した。 → 現在のベラルーシ
d ザカフカース ザカフカースとは、「カフカースの向こう側」という意味で、カフカース山脈の南側一帯を指す。グルジアアゼルバイジャンアルメニアなどの地方があり、トルコの支配を受けていた。その中のグルジアはスターリンの出身地で早くからソヴィエトが結成され、1918年にアルメニア、アゼルバイジャンとともにザカフカース連邦共和国の独立を宣言した。しかし、イギリスやトルコの干渉によってすぐに三つの共和国に分裂してしまった。1920年からロシアの赤軍が入ってきてソヴィエト政権を樹立、1922年12月に三国はザカフカース社会主義連邦ソヴィエト共和国となり、12月30日にソヴィエト社会主義共和国連邦の最初の構成国の一つとなった。このザカフカースは、1936年にもとの三国に分けられ、グルジア・アゼルバイジャン・アルメニアの各共和国がソ連邦の一部を構成することとなって消滅した。
ザカフカースの民族問題:この地域はこのようにソ連を構成することとなったが、複雑な民族問題を抱えていた。たとえば、アゼルバイジャン共和国(イスラーム教徒が多い)内のナゴルノ=カラバフ自治州(キリスト教徒のアルメニア人が多い)がアルメニアへの帰属を希望したが、スターリンの介入によってその希望を認められず、ソ連末期の1988年に暴動が起こる。またグルジア共和国内には、ロシアへの帰属を要求するアブハジア自治共和国や南オセチアがあり、その分離運動は現在も続いており、2008年8月にはロシア軍がグルジアに侵攻する事態となっている。
e ソ連 1922年に成立したソヴィエト社会主義共和国連邦の日本での略称。ソ連邦ともいう。英語表記では、Union of Soviet-Socialistic Repubics で、その略称はU.S.S.R.という。
f ソヴィエト社会主義憲法 正確にはソヴィエト社会主義共和国連邦憲法。1924年に成立し公布されたソ連憲法で、ソ連を資本主義から社会主義への過渡期と規定している。ソヴィエト社会主義共和国連邦の成立を宣言した1922年12月の全連邦ソヴィエト大会で、新憲法の草案が承認されたが、民族問題で意見の違いが出て批准が遅れ、スターリンがまとめた最終案をようやく1924年1月に批准し公布した。1918年のロシア共和国憲法をもとにして制定された。主な内容は、
・1918年憲法と同じく、階級対立が継続しているので搾取者階級にはいかなる権力も与えないとされ、旧貴族、地主、旧官僚、聖職者などの選挙権を剥奪された。
・構成国の分離の自由(民族自決権)を保障している。(それが実行されることはなかった。)
・国家の最高機関は全連邦ソヴィエト大会であり、大会の閉会中は中央執行委員会が代行する。
この憲法は、第1次五カ年計画実施後にスターリン体制ができあがった後に制定された1936年のスターリン憲法まで続いた。 
 全ロシア・ムスリム大会 ロシアの三月革命を受けて、1917年5月にモスクワで開催された、ロシア内のイスラーム系諸民族の全体会議。
「分解したロシア帝国に住むムスリム諸民族・エスニック集団から、300人のウラマーを筆頭に各種団体の代表900人が大会に参加した。そこにはボリシェヴィキを除いて、カデットよりも右よりの保守派から社会主義者にいたるあらゆる政治的潮流が含まれていた。・・・ムスリム大会はアッラーへの祈りを捧げた後に、ペトログラード労兵代表ソヴェトのメンバーでもあったロシア・ムスリム臨時中央ビューロー議長ツァリコフの開会演説で幕を開けた。ツァリコフは・・・「無併合・無賠償」による講和とヨーロッパ、アジア、アフリカ諸民族の自決権を説いた。」<山内昌之『スルタンガリエフの夢』1986 岩波現代文庫で再刊 2008 p.135 以下、その要約>
大会での決議内容 全ロシア・ムスリム大会ではカザンの女性代表が提出した、男女の政治的権利の平等、複婚制・花嫁買取り金の廃止、未成年女子の結婚などの禁止を内容とする、女性の権利向上と男女平等をめざす提案が、一部のウラマーの反対を押し切って採択された。その他、8時間労働制、私的土地所有の禁止などの社会改革、民族語による初等教育(ジャディードの主張に沿ったもの)などが採択された。最も議論が発熱したのは、ムスリム諸民族の自治とロシア国家との関係をめぐってであった。タタール人は中央集権国家としてのロシア国家の内部において、各民族は居住地域の枠にとらわれず文化的民族自決の原則にたつことを主張し「統一主義」と言われた。それに対して(タタール人のヘゲモニーに反発する)アゼリー人(バクー地方)やウズベク人は、使用言語が同じ民族集団が居住する地域を単位として領土的自治を行い、地方分権的な連邦国家を構成すべきであるという「連邦主義」を主張した。激しい議論の末の採決は、446票対271票で、「連邦主義」が議決された。
 バスマチ運動 ロシア革命で成立したボリシェヴィキのソヴィエト政権に反発して、旧ロシア領であった中央アジアの、ほぼ西トルキスタンにあたる地域のムスリム(イスラーム教徒)たちが起こした反乱。オスマン帝国の青年トルコ革命の指導者エンヴェル=パシャパン=トルコ主義をかかげて第1次世界大戦後この地に移り、運動に参加した。ソヴィエト政権は中央から赤軍を派遣し、反乱の鎮定にあたった。1924年頃まではほぼ鎮定され、中央アジアには5つのソヴィエト社会主義共和国が成立した。旧ブハラ=ハン国のアミールなど旧支配層と結びついた反革命運動と見られていたが、最近ではトルキスタンの民族独立運動としての再評価が進んでいる。実態は、匪賊(あるいは山賊)ともいわれる非定住民集団であったため、組織的な抵抗に限界があった。
バスマチの意味 「バスマチとは、襲撃者や急襲者を意味するテュルク系の言葉である。帝政ロシアの行政官たちは、ロシア軍の前哨を襲撃した政治色の多彩なムスリムの匪賊集団をバスマチと呼んだものだが、革命後にソビエト政権に反攻したムスリムの抵抗もバスマチ運動と名付けられた。かれらは、ブハラや東ブハラ(タジキスタン)やフェルガナを根拠地に活動していた。当人たちは、しばしば「コルバシュ」(隊長)とか、「イギット」(若者・勇者)とか、「ムジャーヒド」(戦士)と称したものである。異教徒との戦いにおいて死ねば「シャヒード」(殉教者)となったのである。」<山内昌之『納得しなかった男 エンヴェル=パシャ 中東から中央アジアへ』1999 岩波書店 p.418>
ムスリムの反ソヴィエト運動の要因 「バスマチの誕生は、生まれたばかりのトルキスタン自治政府(コーカンド自治体)が1918年2月に現地のソヴィエト系赤衛隊とアルメニア人武装組織の攻撃で壊滅した悲劇に触発された点が大きい。タシケントのソヴィエト政権は、十月革命後に現れたムスリム住民の自治政府を「ブルジョワ民族主義の反革命」と考えていた。・・・ソビエトとムスリムとの対立は、優勢なヨーロッパ人の暴力的勝利で終わりを告げた。ソビエトにとり不手際だったのは、戦闘後におこなわれたアルメニア人部隊の略奪や破壊行為によって、多数のムスリムが虐殺されたことだろう。・・・この惨事は、結果として、アルメニア人はもとよりソビエト体制に対するトルコ=ムスリム住民の反感をつのらせ、フェルガナ一帯にムスリム・パルチザンの武装抵抗運動を広げる大きな要因となった。これがバスマチの濫觴にほかならない。<同 p.421>
※アルメニア人がソビエト政権とともにトルコ=ムスリム住民の虐殺に加わった背景には、1915年のオスマン帝国軍によるアルメニア人の虐殺(それに責任があるのがエンヴェル=パシャであった)に対する報復という事情がある。
 スルタンガリエフ ヴォルガ川中流域でかつてカザン=ハン国というイスラーム国家を作っていたタタール人(ヴォルガ=タタール)はイヴァン4世に征服されて以来、ロシア領となっていた。ロシア革命が起きるとタタール人とその南側の同じくトルコ系民族バシキール人にも革命運動が広がり、ロシア人の貴族や反革命軍と戦い、ソヴィエト権力を樹立した。ヴォルガ=タタール人であったスルタンガリエフはボリシェヴィキに協力し、ロシア共産党に加わって反革命と戦い、タタール自治共和国の樹立に大きな役割を果たしたが、次第に党中央のスターリンと意見が対立するようになった。彼は西洋で生まれたマルクス主義を普遍的な価値としてそのままイスラーム圏に当てはめることを批判し、プロレタリアが十分育っていない中央アジアのイスラーム圏では、むしろそれまで植民地としてロシア人に抑圧されていたトルコ系民族の民族独立の実現が優先されるべきである、そしてイスラームの教えは平等な社会実現に有効であると考えた。その思想はスターリンによってブルジョワ的、民族主義的偏向であるとして粛清され、1923年に逮捕、40年に処刑された。彼の思想はソ連時代には顧みられることはなかったが、東西冷戦が終結しソ連が崩壊した現在、イスラーム圏の民族運動に影響を与えていることが注目されている。<山内昌之『スルタンガリエフの夢』1986 岩波現代文庫で再刊 2008 による> 
 カザフ カザフ人は広大なキプチャク草原地帯(ステップ)で遊牧生活を送っていたトルコ系(チュルク)の民族。トルコ語系のカザフ語を話す。13世紀のモンゴルの進出以来、モンゴル帝国の支配を受けるようになり、同化していった。このモンゴル人を支配者とした国家はキプチャク=ハン国と言われるようになった。イスラーム教のスンナ派を受け入れているが、伝統的な民俗信仰の要素も強い。ウズベク人とも関係が深いがいつ分離したかはよくわからない。キプチャク=ハン国衰退後は、いくつかの部族に分かれて遊牧生活を続け、大中小の3つのオルダ(部族連合体)を造った。バルハシ湖東岸のイリ河流域が大オルダ、キプチャク草原の大部分が中オルダ、ヴォルガ河畔までを小オルダという。ロシアは18世紀からカザフの三オルダのハーンたちと外交関係を結び、19世紀になるとハーン権力の弱体化に乗じてロシア統治に踏み切り、ステップ総督を置いてロシア人、コサックの入植を進め、カザフ人の土地を奪っていった。
カザフ人の起源 カザフ人の起源は必ずしも明らかではないが、15世紀中ごろ、中央アジアでティムール帝国が衰退した時期に、代わって登場した新たなトルコ系民族、ウズベク、カザフ、キルギスなどの一つであり、次のように説明されている。キプチャク=ハン国のモンゴル人が次第に遊牧トルコ化し、イスラーム教スンナ派を信奉するウズベク人と言われて現在のカザフスタンの草原地帯にいたが、アブル=ハイル=ハンの死後、二つに分裂して、ハンに反発した集団は天山山脈西部で分離し、ウズベク・カザク(カザクとは冒険者の意味)と言われるようになった。これが現在のカザフ人の直接の先祖である。このカザフ人集団は、16世紀の初頭のカースィム=ハーンの時代には30万とも100万とも言われる多数の遊牧民を支配下に置く強力な遊牧国家に成長し、バルハシ湖周辺周辺に勢力を伸ばした。<間野英二『中央アジアの歴史』1977 講談社現代新書 p.187>
カザフ・ソヴィエト社会主義共和国 ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)を構成した社会主義国の一つ。人種はトルコ系のカザフ人。ロシア革命の内戦の中でカザフ人にもソヴィエト政権によって1920年に自治共和国が成立した(この時はロシア側の誤解でキルギスと言われていた)。1924年のソ連中央政府の決定によって中央アジアは5つの国家に分離され、カザフ自治共和国の領土も修正された。1936年に(自治国から昇格して)カザフ=ソヴィエト社会主義共和国となり、ソ連邦を構成する1国となった。ソ連時代には、カザフの草原地帯のセミパラチンスクが核実験場とされ、周辺の農村や遊牧民に被爆被害が出た。1991年には分離独立してカザフスタン共和国となり、中央アジア5共和国の一つとなっている。 
 ウズベク=ソヴィエト社会主義共和国 ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)を構成した社会主義国の一つ。旧ロシアが支配していたトルキスタンの、トルコ系ウズベク人の居住地とされることろに線引きされて成立した。かつてのブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国を含み、首都はタシケント。ソ連統治のもとでは、綿花の生産に特化された農業地帯とされていた。ソ連邦の崩壊に伴って1991年に分離独立し、ウズベキスタン共和国となった。現在では、中央アジア5共和国の中で最も人口も多く、その中心的な存在となっている。
 タシケント ウズベキスタン共和国の首都。タシュケントとも表記する。人口は200万を超え、ソ連時代にはウズベク=ソヴィエト社会主義共和国の首都として、モスクワ、レニングラード(現サンクトペテルブルク)に次ぐ、第三の大都市と言われた。現在も市内には地下鉄が走り、大きなビルが建ち並んでおり、空港はロシアと東アジアを結ぶ中継地なっている。
タシケントの歴史 もともと東西交易のシルクロード上のオアシス都市として繁栄し「チャチ」と呼ばれていたが、中国資料には「石国」として出てくる。ティムール帝国では都はサマルカンドに置かれていた。1809年からはフェルガナ地方に興ったコーカンド=ハン国に属していた。劇的な変化を遂げたのはロシアの中央アジアへの侵出が強まった19世紀後半で、1867年にロシアのトルキスタン総督府が置かれ、ロシア人、ロシア企業の進出もあいつぎ現在のタシケント市となった。ソ連邦が消滅し、ウズベキスタン共和国として独立した現在も、ロシア系住民が多く、市街地の西側の旧市街は入り組んだ無数の小路が網の目のようになっているムスリム都市、東側のロシア人居住区は整然とした街路と建物がつくられ、ロシア正教教会などソ連時代の風情が色濃く残っている。新市街の中心にはかつてレーニン像が建っていたところに現在では巨大なティムール像が建っており、時代の変化を感じさせる。また旧市街の中心には広大なバザール(市場)があり、ありとあらゆる商品が活発に取引されている。
Epi. タシケントの日本人墓地 市内のムスリム墓地の一角に、日本人の墓がある。これは、第2次世界大戦中にシベリアで捕虜となった日本兵捕虜がタシケントの収容所に送られ、そこで亡くなった人の墓であり、79名が葬られている。現在は美しく整備され、墓碑も建っている。ウズベキスタンの他の都市にも同様の日本人墓地があるという。2006年、ウズベキスタンを訪問した小泉首相もこの墓所をお参りした。タシケントの町の中心部にあるナヴォイ・オペラ劇場は、日本人捕虜が動員されて建造され、その技術で大地震でも倒れなかったとして称讃されているという。  → 世界史の旅 参照
g ラパロ条約 1922年に締結された、ドイツ共和国とソヴィエト=ロシアの条約。この条約は革命後のソヴィエト政権を外国が承認した最初の条約である。4月、ジェノヴァで開催された大戦後のヨーロッパ経済の復興についての国際会議に招待された「敗戦国」ドイツと「社会主義国」ソヴィエト=ロシアが、ジェノヴァ近郊のラパロで締結した。内容は賠償の相互放棄、ドイツの債権放棄、外交関係の回復、最恵国待遇の適用、経済関係の促進を約束などである。これによってソヴィエト=ロシアははじめて対外的に認知され、同年12月にソヴィエト社会主義共和国連邦となる。しかし、ドイツ以外のソ連承認は遅れ、最後のアメリカは1933年の承認となった。
ソ連の承認 世界最初の社会主義国であるソ連を最初に承認したのは、1922年のドイツとのラパロ条約であった。他の資本主義諸国は、ソヴィエト政権を認めようとしなかったが、国際協調の動きが盛んになった1924年のイギリス・フランス以降、列国による承認が続いた。アメリカ合衆国のソ連承認は最も遅く、1933年であった。ソ連はこのように30年代にようやく国際的に認知され、1934年に国際連盟に加盟する。
ドイツ以外のソ連承認のそれぞれの意図:イギリス・フランスはコミンテルンを通して革命を輸出するものとしてソ連(1922年12月から)を警戒した。実際、1923年のフランスのルール占領ではソ連はドイツ労働者を支援して反仏蜂起を支援した。しかし同時にコミンテルンはロシア方式の革命をイギリス・フランスで実現することは可能性が薄いと見て、それぞれの国内の社会主義勢力との「統一戦線」の形成を目指すようになった。その影響のもとで、イギリスでの労働党政府(マクドナルド内閣)、フランスの左翼連合政府が成立した1924年、両国はソ連を承認する。シベリア出兵を最後まで継続した日本も、1922年に撤兵(南樺太を除く)し、隣接する海洋資源の分配や、相互の経済交流の促進をねらって、1925年に日ソ基本条約を締結しソ連を承認した。アメリカはずっと遅れてフランクリン=ローズヴェルト大統領のニューディール政策の時期に、恐慌下のアメリカ産業の市場拡大の一環として1933年にソ連を承認した。 
日ソ基本条約 1925年1月、北京において調印された、日本とソ連の国交を樹立させた条約。日本はソヴィエト連邦を正式に承認し、ソ連は旧ロシア帝国が日本と締結したポーツマス条約の法的な効力を承認した。日本は当初、革命政権を認めず、1918年8月に日本もシベリア出兵を行い、干渉してきたが、1922年にようやく撤退した。当時、日本は深刻な戦後不況下にあり、1923年には関東大震災に見舞われることとなった。さらにアメリカ合衆国が日本の中国進出を警戒し、日本人移民の制限などの動きをしめしていたため、ソ連との関係を樹立し経済関係を結ぶことに方向を転じ、日ソ基本条約の締結となった。加藤高明内閣の時、普通選挙法と治安維持法が成立した年と同年である。