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4.世界恐慌とファシズム諸国の侵略
ア.世界恐慌とその影響
 世界恐慌 1929年〜1933年に世界で同時に起こった経済不況(恐慌)のこと。発端はアメリカ合衆国のウォール街にあるニューヨーク株式取引所で1929年10月24日(後に「暗黒の木曜日」といわれた)に株式が大暴落したこと。1930年代に入っても景気は回復せず、企業倒産、銀行の閉鎖、経済不況が一挙に深刻になって、1300万人(4人に1人)の失業者がでた。恐慌はおよそ1936年頃まで続いた。またこの恐慌が世界に波及し、ヨーロッパ各国から日本などアジア諸国にも影響を受け、資本主義各国は恐慌からの脱出策を模索する中で対立を深め、第2次世界大戦がもたらされることとなった。
アメリカ発の世界恐慌:アメリカの投資家(株主)たちは、湯水のようにつぎ込んでいた資金を回収できないのではないかと不安になり、株価の値下がり前に売ってしまおうという心理が一斉に働いて、1929年10月24日(木曜日)に、ニューヨークのウォール街にある株式取引所で一斉に株価が暴落した。企業に投資していた銀行に対し、預金者は一斉に預金を引き出しに殺到し、支えきれなくなった銀行が倒産。融資のストップした企業は倒産し、工場は閉鎖され、労働者は解雇されて失業者があふれた。有効需要はますます低下し、さらに不況が続くという悪循環に陥った。当時のアメリカ共和党フーヴァー大統領は不況は周期的なもので、景気はまもなく回復すると考え、また「自由放任主義」、つまり市場原理に任せておけばいいという従来の共和党の基本方針を守ったため対応が遅れることとなった。
アメリカの経済不況の要因と背景:アメリカの恐慌発生の要因と背景としては次のようなことが考えられる。
・1920年代の戦後好況の中で設備投資が過剰になり、「生産過剰」に陥った。
・農産物も過剰生産のために価格の下落(農業不況)し、農家収入が激減、国内の有効需要が低下した。
・各国とも自国産業の保護のため、高関税政策を採ったので、世界市場の拡大も阻止されていた。
・同時にアジアの民族資本の成長、ソ連社会主義圏の成立などで、アメリカの市場が縮小していた。
世界恐慌となった理由:1931年5月、オーストリアの銀行クレディット=アンシュタルトが破産し、恐慌はドイツにも波及し「世界恐慌」となったが、アメリカ発の株式暴落が世界恐慌に拡大した理由は次のようなことが考えられる。第1次世界大戦後、世界最大の債権国となっていたアメリカ合衆国の経済が破綻したことは、必然的に世界経済を破綻させることにつながった。特に、多額の賠償金と負債を抱えていたドイツはアメリカの支援で経済が成り立っていた(ドーズ=プラン)ので、ドイツ経済も破綻、そのドイツから賠償金を取り立てていたイギリス・フランスの経済も破綻した。ドイツでは3人に1人が失業、世界全体の失業者5000万に達するというという状況となった。
世界恐慌に対する当初の対策:アメリカ合衆国は1930年6月、スムート=ホーレー法を成立させ、農産物だけではなく工業製品でも関税引き上げを実施した。各国も自国産業を守るために、保護貿易主義に転換したため、世界的な貿易不振が起き、かえって恐慌を長期化させることとなった。またフーヴァー大統領は1931年にフーヴァー=モラトリアム(支払猶予令)、を発表し、戦債・賠償金支払いを1年停止することにしたが、タイミングが遅すぎて効果はなかった。各国は経済を立て直すため次々と1931年のイギリスの金本位制停止に続いて33年にはアメリカ合衆国も金本位制から離脱に踏み切り、世界金本位制は崩壊した。資本主義列強は通貨ごとのブロック経済政策を採用することとなった。しかし、各国がブロック経済によって保護主義に転じたため、世界全体の自由貿易が衰退して貿易額が減少し、世界全体の不況にさらに加速させることとなった。
世界恐慌の及ばなかったところ:このように、資本主義は市場原理に任せたままだと常にこのような矛盾が起こる。そこで、資本主義経済を否定して国家による計画経済によって恐慌が起きないようにしようというのが社会主義の考えである。事実、世界恐慌が起こった時にすでに社会主義体制をとっていたソヴィエト社会主義共和国連邦はその影響を受けず、五カ年計画を推進した。しかし、同時にスターリン独裁体制が形成され社会主義も根底から変質した。
アメリカのニュー=ディール政策:1933年に登場したアメリカ合衆国のF=ローズヴェルト大統領のニューディール政策は農産物の過剰供給を抑え、工業生産の国家管理を強め、大幅な財政出動で公共事業を興して雇用を創出し、国内購買力の回復を図った。また、そのためには労働者の保護や社会保障の充実などにも取り組み、銀行を厳しく監視するなど資本主義の枠内での大胆な改革を実施した。そのような資本主義の原則を守りながら、自由放任ではなく政府が経済を強力にコントロールする必要があるという考えを理論化したのがイギリスの経済学者ケインズであった。彼は有効需要を増加させることによって過剰生産を解消するなどをめざし国家の財政政策によって公共事業を興して雇用を創出したり、低金利によって貯蓄を消費に回すことによって購買力をつけることなどを唱えた。アメリカは国内資源が豊かだったこともあって、次第に経済危機を克服し、第2次世界大戦を迎えることとなる。
ファシズムの台頭:世界恐慌の影響を最も強く受けたのがドイツであった。また植民地が少なく、国内資源も少ないイタリアも経済が破綻した。アジアでは日本はすでに大陸進出を果たしていたが、国内には地主制度など古い社会構造が残り、農村不況が慢性化し、低い購買力にとどまっていたため、資源と市場を海外に求める経済界と軍の思惑が強まっていた。このような「持たざる国」であるドイツ・イタリア・日本にファシズムが台頭する直接的な契機も世界恐慌にあった。アメリカでF=ローズヴェルトが大統領となった1933年にドイツでヒトラーが政権を握った。
世界大戦後の恐慌対策:第2次世界大戦後も好景気と不景気の波や、幾度かの経済危機はあったが、基本的には「世界恐慌」を避けることができている。それは、戦前の各国バラバラの経済政策が激しい競争を生み出したことを反省し、国際連合のもとで、国際経済体制の安定を図るための国際通貨制度として、ブレトンウッズ体制というIMFの創設や、GATTによる自由貿易の推進などが機能したことによる。その中核となったのがアメリカ経済であり、ドルを基軸とする固定為替相場制のもとで安定した戦後経済の復興が進んだ。また、資本主義諸国でも市場原理だけにまかせず、政府が経済をコントロールする社会主義的な原理を取り入れた混合経済体制をとったことも安定の要因であった。
2008年の新たな経済危機:ところがこのような世界経済体制も1970年代から大きく変化し、アメリカ経済の落ち込み、日本経済の台頭、新興経済地域の台頭、EUなど地域経済統合の進展とならんで、市場経済万能主義(新自由主義経済)の復活といった傾向がでている。特にアメリカ合衆国のブッシュ(子)政権の下で規制緩和政策が推進され、金融工学と称するさまざまな投機マネーによる利益追求が加速してサブプライム問題が起こり、2008年9月には金融大手のリーマンブラザースの破綻をきっかけに、ふたたび世界恐慌の危機に立ち至っている。 
a 1929 現代のアメリカ史家ビーアドは、世界恐慌の発端となったアメリカの恐慌を以下のように描いている。
「1929年の秋、農民は別として国中の人々が「永遠の繁栄という高台」の上に安定していると思われたそのとき、共和党の政策の賜といわれた商工業のにわか景気が、はげしい音をたてて崩壊した。一流会社の主要株が十月二十九日のただ一日で、軒並みに40ポイント近く暴落し、1600万株以上がニュー・ヨーク証券取引所で市場に投げ売りされた。この恐慌にひきつづいて銀行や鉄道会社や個人商社の破産、すでに苦境にあった農民間の苦悩の増加、工場や営業所の閉鎖、芸術家、‥ ‥教師といった全俸給生活者層(ホワイトカラークラス)の就業機会の急速な減退が起こったが、それはニュー・ヨークからカリフォルニアにおよぶものであった。1933年のはじめの数カ月に、1200万の男女が失業したと計算された。‥‥破産と飢餓とが、農村の小作人や刈分小作人の小屋ばかりでなく、また産業労働者や知的職業者層の住む裏町ばかりでなく、大都会の繁華街までおそいかかった。」<ビーアド『新版アメリカ合衆国史 』P.440>
b ウォール街 ニューヨークのマンハッタン地区の最南端の一角で、ニューヨーク証券取引所(株式取引所)があって多くの証券会社や銀行が集まる、世界経済の中心地の一つ。1929年にはこの地から世界恐慌が始まった。
Epi. ウォール街のいわれ ニューヨークははじめ、1652年にオランダ人によって建設されたニューアムステルダムの入植地から始まる。この時オランダ人が、インディアンやイギリス人からこの地を守るために砦を築き、その壁があったところが現在のウォール街である。砦の壁はまもなく取り払われ、1792年にこの地にニューヨーク証券取引所が開設されてから、金融の中心地して続いている。
なお、世界の金融の中心地にはイギリスのロンドンのシティ(旧市街のこと)の一角であるロンバード街(イタリアのロンバルディア出身の商人がいたところから付けられた地名)、東京の兜町などがある。
 暗黒の木曜日 1929年10月24日、ニューヨーク株式取引所で空前の株価大暴落が発生し、「世界恐慌」の始まりとなったのが木曜日であった。いったん小康状態になった株価が、再び大暴落して、通常の恐慌とは異なる「大恐慌」であることがはっきりした10月29日は「悲劇の火曜日」という。 
 失業増大 1929年の世界恐慌から1933年のニューディールまでを三期に分けて、その時期の特徴をまとめると次のようになる。
第1期(1929年10月〜30年9月) 1929年の失業者数は155万(労働人口全体の3.2%)だったのが、30年には434万人(8.7%)に増加。しかしまだ失業の深刻さは認識されず、人びとは「いつ好況に戻るか」を期待した。スムート=ホーレー法の高関税によって国内市場は回復すると期待され、州政府による公共事業やハイウェイ建設も行われた。ニューヨークのエンパイア・ステート・ビル(摩天楼)も30年に建設が始まり、31年に完成した。
第2期(1930年10月〜31年12月) 30年の冬から失業者が一気に増加した。31年には802万人(15.9%)となる。各自治体や都市は自衛的な失業者向けの給食や宿泊施設提供した。また恐慌の影響を受けなかったソ連の計画経済への関心が高まった。31年6月のフーヴァー=モラトリアムはヨーロッパ経済の救済となると期待されたが、現実はドイツの金融恐慌に始まり、イギリスが金本位制を離脱して不安が強まった。
第3期(1932年1月〜33年3月) 失業者は1200万(24%)に達し、このころから失業者のことを恐慌当初のように「仕事のない人」(the idle)ではなく、「失業者」(unemployed)と呼ぶようになった。フーヴァー大統領も失業対策に乗り出したが、仕事の確保は民間企業の責務だと考えられたので本格的にはならず、失業者数は33年に1283万人(24.9%)の最高水準に達した。(ニューディール開始後、1937年までに770万(14.3%)まで回復する。)<秋元英一『世界大恐慌』1999 講談社学術文庫 p.87-91>
Epi. 「フーヴァー村」と失業者の反乱 「すべてを失った人びとが都市の公園や空き地に木切れや段ボールでつくったバラック小屋の集落は「フーヴァー村」、新聞紙は「フーヴァー毛布」、引っぱり出された空っぽのズボンのポケットは「フーヴァーの旗」と呼ばれるようになった。」1932年3月7日にはデトロイトで共産党に先導された3000人がフォード社工場に抗議に詰めかけた。市の警察隊はデモ隊にむかって催涙ガス弾を発射、デモ隊は石や凍土片を投げて抵抗した。警官隊は実弾射撃を加え、デモ隊の4人が殺され、50人が重傷を負うという事件が起こった。1932年7月には、ボーナス要求のためワシントンに集まった退役軍人のキャンプを軍隊を動員して焼き払った(マッカーサー将軍が指揮を執った)。<林敏彦『大恐慌のアメリカ』1988 岩波新書 p.102-106>
 農業不況 第1次世界大戦後の世界的な農産物価格の下落による農村の困窮のこと。特にアメリカ国内の購買力を低下させ、1929年の世界恐慌の背景となった。第1次世界大戦時に食糧需要が高まり、価格も上昇したため、世界的な穀物増産が行われた。小麦はアメリカ合衆国をはじめ、アメリカの資本が投下されてアルゼンチン、カナダ、オーストラリアなどで作付け面積が増加・機械化が進んだため、生産が増大し、戦後もその傾向が続いた。戦後はフランス・ドイツなどヨーロッパ諸国が農産物の自給化にはかって農産物に高関税をかけるようになった。小麦以外の砂糖、綿花、ゴム、コーヒーなども生産量が著しく増え、1924年頃から供給過多による農産物価格の下落が始まった。とりわけ農産物輸出国の国際収支を悪化させることとなった。<秋元英一『世界大恐慌』1999 講談社学術文庫 p.57-59>
アメリカの農民は、大戦中に借金をして耕地を拡大し、機械を購入していたため、農産物価格の影響をもろに受け耕地を手放さなければならない農民も多くなった。農業不況は長期化し、さらに1929年秋は豊作であったため、いわゆる「豊作貧乏」が重なり、農民の購買力が著しく低下し、世界恐慌の一因となった。<林敏彦『大恐慌のアメリカ』1988 岩波新書 p.70-73>
 生産過剰 1920年代のアメリカ合衆国で資本主義の矛盾が強まって起こった経済現象で、1929年に始まる世界恐慌の主要な原因と考えられる。アメリカは第1次世界大戦で高まった需要に対し、設備投資を続けた。自動車、住宅などからラジオ、洗濯機、冷蔵庫といった電機製品、さらに化粧品などの新たな消費財が大量に生産され、セールスマンと大量広告という新たな販売促進法と月賦販売という信用販売が使われるようになったことで大量消費(必要以上に消費する傾向)に拍車がかかった。1920年代後半には早くも商品は飽和状態となり、農業不況も加わって購買力も低下し始めた。しかし、企業は株式ブームという過剰な投機によって支えられ、さらに増産を続けた。このように1920年代のアメリカ経済の繁栄を支えていたのは、信用販売と株式による資金調達という、いずれも需給関係の実態から離れた手法によるものであった。その点では、2007年に始まる現代の恐慌が、金融工学から生まれたサブプライムローンなどの金融商品の破綻から始まったことに共通している。
 過剰な投機 1920年代のアメリカ経済の好況の中で進んだ株式投資ブームの加熱などの状況。1929年、その反動として起こった株価暴落が、世界恐慌の引き金となった。第1次世界大戦後、世界の金はアメリカ合衆国とフランスに流れこんできた。特にアメリカでは流入する金と、イギリス・フランスからの戦債の返済によって潤沢な資金を抱えることとなった。銀行はあまった資金を株式仲買人に貸し付け、仲買人はあらゆる人びとに株を買うことを勧め、株式投資ブームが起こり、1929年春から夏にかけての「大強気」相場がピークに達した。しかし、購買力の低下と過剰生産のギャップも一般人に知られることなく激しくなっていた。投機的な売買でつり上がった株価と、企業の経営実態は、人知れずかけ離れてしまっていた。ようやくそのことに気がつき始めた一部投資家が株の投げ売りを始めていた。株価はやがて「大天井」をうち、1929年10月24日の「暗黒の木曜日」に、一気に猛烈な売りが殺到し、世界恐慌が始まった。
株式ブームの実態 「コロンブスもワシントンもフランクリンもエジソンもみな投機家だった。」ということばで人びとは投機の危険性を忘れ、「誰もが金持ちになるべきだ」という題名の文章でジョン=ラスコブは、人が一ヶ月にほんの15ドルを節約してこれを優良株に投資しすれば、配当金などを別としても、20年後には少なくとも8万ドルの金を手にすることができ、この投資から受ける収入は少なくとも月額四百ドルになる、と説いた。また会社どうしが株を持ち合い、実際の株の価値については誰もわからなくなった。投資信託も急増し(なかには詐欺まがいのものあった)、セールスマンが株を売りまくった。その投資会社の株も高値で売られ、資本の巨大なピラミッドが出来上がった。人びとは仲買人の言うことを信じるほかなかった。「雑貨屋、電車の運転手、配管工、お針子、もぐり酒場の給仕までが相場をやった。反逆しているはずの知識人さえも、市場にいた。」<F.L.アレン/藤久ミネ『オンリー・イエスタディ』1932 ちくま文庫 p.406-415>
 フーヴァー大統領

Harbert C. Hoover (1874-1964)
アメリカ合衆国第31代大統領(在任1929〜1933)。ハーディング、クーリッジと続いた1920年代の共和党大統領二代の商務長官を務め、経済政策の実務にあたった。1928年の大統領選挙で、経済繁栄を続けるなかで共和党の自由放任の原則の維持を掲げ(もっとも最も対立していた論点は禁酒法の継続か廃止かであった。フーヴァーは継続を公約した。)て圧倒的な支持を受けて当選した。1929年の3月に就任し、最初の演説で「永遠の繁栄」を約束した。彼の政策理念は、政府は企業や個人の経済活動に介入してはならないという自由放任主義を堅く守るものであった。そのため1929年10月に世界恐慌が勃発しても、当初、周期的な不況と考え、1年以内の回復を予想し、当面の対策をたてなかった。彼は「好景気はもうそこまで来ている」(Prosperity is just around the corner.)と繰り返し発言した。しかし、恐慌は回復の兆しを見せず、1931年には銀行の倒産が急増し、失業者はさらに増大、また恐慌は世界に波及して何らかの対策を講じる必要が出てきた。しかしその対策は遅きに失し、傷口を拡大したと非難されている。各地に生まれた失業者のバラック小屋の集落は「フーヴァー村」と呼ばれ、恐慌の責任を一手に負うこととなり、1932年の大統領選挙で民主党のフランクリン=ローズヴェルトに敗れて退いた。
フーヴァー政権の恐慌対策:1930年にはスムート=ホーレー法を制定して農産物・工業製品に幅広く高関税をかけ、国内産業を保護しようとした。しかし、かえって諸外国も対抗して高関税策を採ったため、世界貿易は減少し、恐慌をさらに深刻なものにしてしまった。さらに、翌1931年にはフーヴァー・モラトリアムとしてドイツの賠償金と戦債の1年間の支払い猶予を打ち出したが、すでにドイツなどヨーロッパ経済は壊滅的だけ期を受けていて、遅すぎたため効果がなかった。
フーヴァー大統領の評価:フーヴァー大統領の大恐慌対策について、歴史学者ビーアドは次のように評価している。「始めは、いつもの経済恐慌ぐらいのものだろうと考え、大統領は「われわれは前世紀に十五回にも及ぶ大きな不況を切り抜けた。‥‥その不況を切り抜けるごとに‥‥前にもました繁栄の時期をむかえた。今度もそうなるだろう」と言った。しかし、何ヵ月も、何年も続くに及んで、商工会議所、アメリカ労働総同盟、など諸団体は総合的な不況対策を政府に要求した。今まで恐慌に対して歴代の大統領は、私企業に介入する権限は憲法上もっていないと信じるがごとく、対策を講じてこなかったが、フーヴァー大統領はただちに、労働と資本とを再び活動せしめる大規模な公共事業計画の施行法をつくるよう議会に要請し、また復興金融公社と私有住宅金融公社の設立を実現させた。ひとびとが彼に非難をあびせたのは、彼が何もしなかったからではなく、やり方が全国的破局という重大さに相応した規模で正しい対策を十分やらなかったことに対してであった。」<ビーアド『新版アメリカ合衆国史 』 P.440-1>
Epi. 人道主義者フーヴァー:フーヴァーはアイオワ州の小さな開拓村の、一家5人が2部屋で暮らす貧しい農民の子に生まれ、8歳までに両親に死別した。同じクエーカー教徒の友人の推薦ででスタンフォード大学で学び、鉱山技師を志し、世界中の鉱山をまわって修行した(義和団事変の時は中国にいた)。やがてロンドンの鉱山会社の重役となり、大きな富を築いて独立した。40歳でロンドンにいた時、第1次世界大戦が勃発、フーヴァーは私財をなげうって北フランスやベルギーに取り残されたアメリカ人の救出にあたった。アメリカが参戦を決めるとウィルソン大統領の下で食糧問題の指揮を執るようワシントンに呼ばれた。戦後はパリ講和会議の連合国首脳の要請で、ヨーロッパの戦争罹災者の食糧供給の仕事に乗りだし、彼は「偉大な人道主義者」として知られるようになり、彼のもとには感謝をこめた100万人もの子どもの署名yが図面が送られた。またウィルソンの指示でポーランドにも飛び、ロシアの作家ゴーリキーの要請を受けて革命後のロシアにも援助を差し向けた。<林敏彦『大恐慌のアメリカ』1988 岩波新書 p.59-67>
 スムート=ホーレー法 1930年6月、世界恐慌下のアメリカ合衆国でフーヴァー大統領によって制定された、高関税政策立法。国内産業を保護して高賃金を維持することによって恐慌の克服をめざしたものであったが、対抗上、各国も一斉に高関税に転じることになって、世界恐慌をさらに拡大するという逆効果に終わった。
フーヴァー大統領は大戦後まもなくから明らかになっていた農産物の下落を止めるため、外国からの農作物輸入を制限する高関税政策を検討していた。1929年に世界恐慌が始まると、議会内にも保護主義が台頭し、上院のスムート議員と下院のホーリー議員が連名で農産物のみ成らず工業製品にも高関税を課す法案を提出した。その法案が議会を通過するとただちに大統領は署名した。このような保護貿易主義は世界経済全体から見ればマイナスであり、恐慌対策としては逆効果であると主張する1000名以上の経済学者が大統領に署名しないよう警告したが、フーヴァーはそれを無視して署名し、1960年6月に同法は成立した。これによって3300品目のうち890品目の関税が引き上げられ、アメリカの輸入関税は平均33%から40%となった。オランダ、ベルギー、フランス、スペインおよびイギリスは直ちに報復的関税措置を発表した。結果としてアメリカへの輸出の門戸を閉ざされたヨーロッパ経済の危機が醸成され、ドイツの銀行制度の崩壊となった。一面で31年春にはアメリカの生産と雇用は工場の兆しを見せたので、フーヴァーは保護主義が正しかったと主張し、アメリカを恐慌に陥れたのは軍事支出を増大させて財政均衡を失ったヨーロッパ各国の政策が原因であると後に述べている。1932年の大統領選挙ではフランクリン=ローズヴェルトはフーヴァーの高関税政策を厳しく批判し、選挙戦で勝利することとなった。<林敏彦『大恐慌のアメリカ』1988 岩波新書 p.89-91>
F=ローズヴェルト政権での経済ナショナリズムの修正:次期大統領F=ローズヴェルトのもとでニューディール政策が始まると、国務長官となったコーデル=ハルの努力により、1934年6月に互恵通商協定法が成立して、経済ナショナリズムを修正し、多角的、互恵的な貿易関係を復活させた。1936年にはイギリス・フランスとの三国通貨協定、38年に米英通商協定を制定し、続いて39ヵ国との協定を締結した。1939年にはその流れで中立法を制定し、イギリスに対する財政的・軍事的支援を決めた。共和党はこの時点でも高関税政策を標榜したため、輸出不振に悩む産業界の支持を失い、ローズヴェルトの再選を許すこととなった。<秋元英一『世界大恐慌』1999 講談社学術文庫 p.229-230>
 フーヴァー・モラトリアム 1931年、アメリカ合衆国のフーヴァー大統領(共和党)が、世界恐慌のさなか、恐慌対策として打ち出した経済政策。モラトリアムとは支払い猶予、義務免除の意味で、第1次世界大戦で発生した、賠償金や戦争債権の支払い義務を1年間延期するというもの。直接的にはドイツの対イギリス・フランスに対する賠償金支払い、アメリカに対する負債の支払いを猶予するというもので、世界恐慌が波及したドイツ経済を賠償問題を緩和することで救済し、恐慌の世界拡大を阻止しようとしたもの。しかし実施時期が遅すぎ、すでに恐慌は世界に波及してしまっていたので、効果はなかった。
 ジュネーブ軍縮会議  
 ファシズム  → ファシズム
イ.ニューディールとブロック経済
 ニューディール政策 1933年およびその後に採用された、フランクリン=ローズヴェルト大統領による世界恐慌からの脱却をめざす経済政策を総称してニューディール政策という。New Deal とは、「新規まき直し」の意味で、救済(Relief)、回復(Recovery)、改革(Reform)の3Rを政策の理念として、アメリカ合衆国の経済を再建し、ドイツ・日本などのファシズム国家の台頭という危機への対応や社会主義国ソ連との関係の修復などの外交課題にあたろうとするものであった。1939年の第2次世界大戦勃発後は、戦時体制へと転換していく。ニュー=ディール政策は多岐にわたるが、関連する国内主要法令は次の6項目に要約される。
1.銀行および通貨の統制:閉鎖された銀行の再開と通貨の管理。すべての銀行はきびしく連邦政府の監督を受け、健全な再建ができるところには貸し付けが行われ、救済不能な銀行は整理された(グラス=スティーガル法)。また、金本位制は停止され、金銀貨や硬貨は回収され政府に委託。合衆国政府当局の発行し管理する紙幣に切り替え、従来の紙幣と金銀貨を交換する権利は廃止された。これで巨額の金銀をもつ銀行が持っていた合衆国の通貨発行への支配力はなくなった。
2.財政救済策:財政難にとなった財産所有者および法人に対する連邦政府の貸付け。
3.農民の救済:小麦、とうもろこし、綿花、食肉などの膨大な余剰を従来のように外国に売りさばくと言うのではなく、また国内市場の拡大をはかるのではなく、生産を削減し、それによって生じた減収は補助金で償う、という農業調整法(AAA)の制定。個人の自由な経営に任され、国家はそれを統制してはいけないという従来の慣例を打破し、政府が農民の生産をコントロールしようとしたことが画期的である。
4.私企業の規制と奨励:膨大な在庫と失業者に苦しむ産業界に対し、全国産業復興法(NIRA)を制定。建設活動に活気を与え労働者に購買力をつくりだす目的で、テネシー河開発公社(TVA)など公共土木事業に対して数十億ドルの支出を認め、また就業と生産と国内販路を増加促進するため商工企業を組織化し、需要に対する供給の調整、価格の協定を認めた。一方で、株式市場における投機の行き過ぎや大会社への融資の行き過ぎを抑える目的から証券取引委員会を設置した。
5.労働者の保護:全国産業復興法は雇主と被雇用者の団体協約権を規定したが1935年最高裁が同法の大部分を憲法違反と宣告、そこで議会は全国労働関係法=ワグナー法を可決し、団体協約の尊重を規定、その施行のために全国労働関係委員会が設立された。
6.社会保障の充実:要扶養や失業や貧困や老齢という特定国民層への社会保障を充実させようとして、数十億ドルの予算を立て、就業促進対策本部の設立し、1935年には社会保障法を制定した。<ビーアド『新版アメリカ合衆国史 』 P.444-447 などによる>
※ニューディール政策の経済学上の理論的裏付けとなったとされるのがイギリスの経済学者ケインズの理論であった。しかし、1933年段階ではF=ローズヴェルトは直接ケインズと話し合っているわけではなく、またケインズが主著であり、ケインズ理論を体系的に述べた『雇用・利子および貨幣の一般的理論』を発表したのは1936年である。
a 1933 1933年(昭和8年)は、世界が再度の大戦に向かう転機となった年であった。まず、1月にドイツでヒトラー内閣が成立。翌月に国会炎上事件を起こし、共産党などを非合法化しナチス独裁体制を固めた。同じ2月、日本軍は熱河省侵攻を開始、満州国の拡大を図り、国際連盟が満州国を不承認、日本軍の撤退を決議すると、日本は脱退した。10月にはドイツも同じく国際連盟を脱退した。このようなファシズムの攻勢に対し、アメリカでは3月にF=ローズヴェルト大統領のニューディール政策が開始された。世界恐慌という危機に対し、戦争と侵略によって切り抜けようとするドイツ・日本のファシズム勢力と、資本主義の修正と国内市場の開拓を進めるアメリカという全く違う方向が取られたわけである。 
 フランクリン=ローズヴェルト

Franklin Delano Roosevelt
1882-1945
アメリカ合衆国第32代大統領(民主党)。在任1933〜1945年。フランクリン=D=ローズヴェルトは、1882年ニューヨークの生まれ、元大統領セオドア=ローズヴェルト(共和党)は遠い従兄にあたる。若いころからセオドアを目標として政治家を志し、ハーヴァード大学とコロンビア大学で法律を学び、第1次世界大戦ではウィルソン大統領の下で海軍次官補を務めた。1921年頃小児麻痺にかかって両足の自由を失い、松葉杖の生活になったが、政界に復帰し、28年からニューヨーク州知事に選出された。1932年、世界恐慌の最中の1932年の大統領選挙に民主党から立候補し、「ニューディール」(新規まき直し)を掲げて大量得票し、共和党のフーヴァーを破って大統領となった。選挙中は「ニューディール」の具体的中身はまだ無かったが、当選後に政治や経済の専門家をブレーンとして採用して、総合的な恐慌対策を策定し、1933年3月に就任以後、矢継ぎ早に政策を実施に移していった。まず、折からの金融不安を「バンク・ホリデー」と称して銀行を4日間閉鎖し、その間に緊急銀行救済法を成立させて国民にラジオを通して預金を呼びかけ、金融の信頼回復に努めた。そして、12月には約14年続いた禁酒法を廃止し、国民に新しい時代に入ったことを印象づけた。また彼は、当時マスコミとして広く普及していたラジオを活用し、たびたび「炉辺談話」として国民に直接話しかけて政策の理解を求めた、国民の強い支持を受けることとなった。
ニューディール政策: 1333年に始まるニューディール政策の主要な内容は、農業調整法(AAA)・全国産業復興法(NIRA)・テネシー川流域開発公社(TVA)・ワグナー法社会保障法金本位制停止など、多岐にわたるが、そのねらいは、従来の自由放任主義の原則を改め、政府の積極的な経済介入によって、公共事業などを行って雇用を創設し、労働者保護や社会保障の充実によって弱者を救済して全体的な国内の購買力を回復(内需回復)して、恐慌を克服しようとするものであった。
外交政策:1833年、市場の拡大と日本・ドイツへの牽制の意味から、ソビエト連邦を承認した。ヨーロッパにおけるドイツ、イタリアのファシズムの台頭には、1935年に議会が制定した中立法の規定に従って中立を守り、直接参戦は孤立主義の伝統をふまえ慎重に回避した。ヒトラーがポーランドに侵攻して第2次世界大戦が勃発してからは中立法を改正してイギリスへの武器輸出を開始し、以後は参戦の機会を待った。またそれまでのアメリカのカリブ海外交の強圧的態度を改め、善隣外交を展開、キューバのプラット条項の廃止などを実現した。また、1934年には議会でフィリピン独立法が成立し、10年後のフィリピンの独立を認めた。
第2次世界大戦への対応:次第にイギリス・フランス支持を明確にし、1940年、異例の3選を果たし(アメリカ大統領ではF=ローズヴェルトのみ)、1941年1月の就任演説で、「言論および表現の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由」を守るのがファシズムとの戦いであるという有名な「四つの自由」演説を行った。3月には武器貸与法を制定して事実上の参戦を果たした。またチャーチルとの大西洋会談を行って早くも戦後における国際平和を維持できる機構の創設で一致し、その構想から国際連合が生まれることとなった。最終的には12月、日本軍の真珠湾奇襲を受けて第2次世界大戦に参戦することとなった。孤立主義を放棄したアメリカは、大戦を通じて積極的に連合国側のリーダーシップをとるようになり、英ソ首脳とのカイロ会談テヘラン会談ヤルタ会談などを進める。戦争が継続する中、ついに4選を果たしたが、まもなく1945年4月、大統領在任中に病死し、副大統領であったトルーマンが後継者となった。   → アメリカの外交政策
Epi. ファーストレディ、F=ローズヴェルト夫人 フランクリン=デラノ=ローズヴェルト(FDRと言う)は、小児マヒのため車椅子の生活で大統領の激務に耐えていた。異例の4選を果たしたことから判るように、ワシントン、リンカンと並んでベストスリーに入る人気のある大統領であった。国民に親しまれたのは、その政策もさることながら、「炉辺談話」と称してよくラジオを利用して国民に語りかけたことが一因であり、マスコミを利用した政治家の第一号ということができる。また夫人エレノアも、行動的で知的、進歩的な発言で人気があった。太平洋戦争のさなかの43年、太平洋戦争の最前線で日本軍が撤退したばかりのガダルカナル島を慰問し、兵士から「エレノアがいるぞ!」と大歓迎されたという。<猿谷要『物語アメリカの歴史』1991 中公新書 p.158->
 資本主義経済の修正  → ケインズ
 農業調整法(AAA) F=ローズヴェルト大統領のニューディール政策の一つ。Agricultural Adjustment Act 1933年5月制定。恐慌以前からの農作物の過剰生産、価格低下による農民の困窮を救済するため、連邦政府が農民の生産削減に補助金を支払い、農産物価格を大戦前に戻すことを保証したもの。実際に農産物価格は上がりはじめ、3年以内に農業総収入は50%増加した。大規模農家は救済されたが、反面小作農には恩恵がなく、作付け面積が減らされたため路頭に迷う小作農も出た。
Epi. ソヴィエトよりボリシェヴィキ的 AAAでは連邦政府(農務長官)に強大な権限を与え、「ソヴィエトに存在するいかなる法律や規則よりもボリシェヴィキ的だ」という反対も強かった。・・・・供給削減のためには、連邦政府の指導の下に過激な政策が断交された。1933年6月、農業調整局(AAA)は収穫直前の綿花の4分の1をすき倒すキャンペーンに出た。その夏農民は、1000万エーカーの綿花をすき倒して補助金を手に入れた。落ちこぼれた綿を拾って布団をつくれば法律に違反すると告げられた老黒人農夫は、「おめいさんがた、白人の旦那アちィと狂ってんじゃねェですかい」とつぶやいた。<林敏彦『大恐慌のアメリカ』1988 岩波新書 p.132-133>
Epi. かわいそうな子豚 豚肉価格維持のためのキャンペーンはさらに凄惨を極めた。政府は1933〜34年の豚肉生産を16%減らすことを目標に、子豚と妊娠中の雌豚を市場価格より高く買い入れることにした。ただちに「かわいそうな子豚」が何百万頭も屠殺され、柵の隙間から逃げ出してキーキー泣き叫ぶ子豚とそれを追い回す人間とは「悪夢」の状況を呈した。豚肉加工業者は、伝統的方法に代えて効率のよい大量電気屠殺法を考え出した。・・・」<同 p.133>
 全国産業復興法(NIRA) National Industrial Recovery Act 1933年、F=ローズヴェルトのニューディールの柱として制定された産業振興および、労働者保護立法。価格と賃金の下降を止めることによって産業を復興させることを意図し、各産業ごとの企業団体に協定(公正行為コード)を結ばせて価格と賃金の安定を図った。企業を指導する機関として全国復興局(NRA)を設立し最低賃金や労働時間(週40時間)を定めた。また、雇用を創出するため公共事業局(PWA)を設立し、道路、学校、病院などの公共事業を活発に行った。さらにNIRA第7条で労働者の権利を保護し、労働組合結成および団体交渉の権利を認めた。しかし、この大転換に対しては自由主義の原則に反するという批判が強く、1935年に最高裁判所の違憲判決によって全国復興局(NRA)が廃止されたため、恐慌対策としては成果を上げることなく終わった。
全国産業復興法のねらい:技術進歩によって巨大化した企業が、過当競争を続けた結果、リスクが高まり大量失業につながった。今や公共の利益を擁護するためには、企業の競争を制限し、連邦政府との協力関係の下に秩序だった生産を行うことが問題の根本的解決のために必要である。という考えに基づいて制定されたNIRAの目的は、産業ごとの企業を組織し、連邦政府と共同で生産と価格を調整し、労働条件を守らせて労働者を保護することによって、安定的な完全雇用を実現し、国内購買力を回復することであった。これは、従来の自由競争と独占の禁止という自由主義的資本主義の原則(共和党政権かで推し進められてきた)を放棄し、政府が協力に経済に介入し、不況カルテルを認めて、有効需要と完全雇用をめざすという修正資本主義に大転換するものであった。
最高裁判所による違憲判決:全国産業復興法(NIRA)に対しては、独占を助長するものと批判が当初から強かった。また産業団体の中核となるような企業はこれを支持したが、中小企業には反対の声が強かった。1935年5月、最高裁判所は、全国復興局(NRA)の公正行為コード設定と遵守への連邦制の関わりを、大統領(行政府)による議会の立法権への侵害であるとして憲法違反と断じ、その無効を宣言、そのためNRAは廃止された。しかし、F=ローズヴェルト大統領は、NIRAの中から、最低賃金、最高労働時間、団体交渉、若年労働の禁止に関する項目を残すことにし、全国労働関係法(通称ワグナー法)を提案し、制定させた。<林敏彦『大恐慌のアメリカ』1988 岩波新書 p.134-137 、秋元英一『世界大恐慌』1999 講談社学術文庫 p.199-209などによる>
 テネシー川流域開発公社(TVA) Tennessee Valley Authority F=ローズヴェルトのニューディールの重要な施策の一つとして、1933年5月に議会で承認された。政府が成立した公社によって、テネシー川流域のダム建設、治水事業、植林、など総合的開発を行い、地域産業を興こし、雇用を増大させることを意図した。TVAによって20のダムが造られ、電力供給は安定し、流域の農業生産性は向上し、成功を収めた。
テネシー川流域は、テネシー、アラバマ、ジョージア、ミシシッピ、ノース・カロライナ、ケンタッキー、ヴァージニアの諸州にまたがり、全長1000km。公社は3名から成る理事会が運営、ローズヴェルトは理事長に55歳の洪水制御の専門技師A=モーガンを、残る二人はテネシー大学学長で農業科学者のH=モーガン、法律家の弱冠34歳D=リリエンソールを任命した。三人の理事は意見の違いもあり、困難を極めたが、それでも発電、森林の再生、土壌回復、農業の改善、学校の建設、レクリエーションなど広範な事業を展開した。高さ140mのフォンタナ・ダムをはじめとする40基の発電ダムと10基の非発電ダムは現在も稼働している。<林敏彦『大恐慌のアメリカ』1988 岩波新書 p.147-150>
 グラス=スティーガル法(銀行法)ニューディール政策の一つとして定められた、銀行規制を強化する立法。世界恐慌の発生と共に金融界に対する厳しい規制を要求する声が強まり、すでにフーヴァー政権の下で上院に査問委員会が設けられていた(委員長の名前からペコーラ委員会という)。委員会では金融界の帝王といわれた二代目モルガンをはじめ大立て者が召喚され、「まるで馬泥棒か何かを攻撃するように」詰問が行われ、彼らが所得税を払っていなかったことなどが暴露された。その審議の中から銀行や証券会社などの金融界への厳しい規制の必要が認識され、一連の金融規制関連法が成立した。グラス=スティーガル法(銀行法)はその一つで1933年6月に上院を全会一致で通過しF=ローズヴェルト大統領が署名し成立した。その内容は、・証券と銀行の分離、・連邦準備制度の強化、・預金者保護のための連邦預金保険公社(FDIC)の設立、要求払い預金への利子の禁止などである。証券と銀行の分離は、商業銀行から投機的精神を撲滅して企業の安定経営を図るものであった。預金者保護には自主独立の精神に反するという反対論もあったが、その後も銀行閉鎖を少なくする効果を生んだ。連邦準備制度の強化は、従来の連邦準備委員会から決定権を連邦準備制度理事会(FRB)に移し、すべての銀行を連邦準備制度に加盟させた。
グラス=スティーガル法の意義:銀行法や証券法などの金融関連法はたびたび改定され、ニューディールの中でもマイナーな立法と見られがちであるが、「歴史上初めてウォール街を規制し、銀行制度を中央銀行による政策コントロールを確立し、預金者保護を制度的に保障した金融制度の改革は、その後レーガン時代に至るまでのアメリカの金融制度の基礎を固め、他のいかなるニューディール立法よりも成功したものとなった。」<林敏彦『大恐慌のアメリカ』1988 岩波新書 p.137-139>
グラス=スティーガル法の廃止:1980年代のレーガン政権(共和党)下で規制緩和、自由競争の復活という経済路線が強まり、証券と銀行の分離を原則とする1933年銀行法(グラス=スティーガル法)の見直しが始まった。1990年代のIT好況に転じたアメリカ経済を背景に、1999年11月、共和党が多数をしめる上・下院はグラス・スティーガル法を廃止し、銀行・証券・保険を兼営する総合金融サービスを自由化する法律(グラム・リーチ・ブライリー法)を可決、クリントン大統領(民主党)が署名して成立した。このように新自由主義に基づいて金融をも自由競争にさらすことになったアメリカ経済はその後、金融工学というコンピュータ依存の金融商品が暴走し、サブプライムローンなどの問題を引き起こすこととなった。 
 金本位制停止(アメリカ) 1933年3月、就任まもないアメリカ合衆国のF=ローズヴェルト大統領が、銀行倒産などの金融不安解消のために打ち出した。ドルと金の交換を停止して、アメリカのドルの流出を防止しようとしたもの。これによってアメリカ合衆国は連邦準備制度による管理通貨制度を採ることとなり、世界的にも金本位制は崩壊することとなった。
要因としての金融危機:1929年に株式が大暴落したが、同時に銀行の倒産が起こったわけではなく、約1年後の30年から次第に増え始め、33年にはピークに達して爆発的に増加した。恐慌の長期化し、さらに31年にイギリスが金本位制を離脱し、ポンドを切り下げたため、アメリカの金が流出することとなったことが要因としてあげられる。金融不安から預金者が一斉に預金引き出し(取り付け)に動き、銀行破産が急増した。
F=ローズヴェルトの金融不安解消:就任直後の3月9日(木曜)に緊急銀行法を特別議会にかけて成立させ、銀行休業日を無期限延長して取り付け騒ぎを抑えた。さらに10日(金曜)には緊縮財政法を通し、大統領・議員・政府職員などの給与の15%削減、軍人恩給の削減などを打ち出した。そして日曜日にはラジオの「炉辺談話」で銀行の営業再開を約束、国民に預金を訴えた。月曜には安心した国民が現金を預金につめかけ、「資本主義は8日で救われた」と言われた。<林敏彦『大恐慌のアメリカ』1988 岩波新書 p.125-128>
金本位制の停止とドル切下げ:3月の銀行休日宣言の際に金銀貨・地金の輸出を先ず禁止し、4月5日には金貨等の退蔵が禁止され、4月19日に禁輸出禁止令によってドルと金の兌換が最終的に禁止された。ドルは他のすべての通貨とフロート(浮動、連動して発行される)ようになり、ドル切下げはこの時点ではじまったといえる。ドルが下落したことによってアメリカの輸出品、例えば綿花などの輸出が勢いを盛り返した。
管理通貨制度への移行:1934年1月、金準備法が制定され、これによって連邦準備銀行から財務相に金貨と金地金がすべて引き渡され、財務相が唯一の合法的な金保有者となった。F=ローズヴェルトはドルの金価格を約40%切り下げて、当時の実勢に近い金1オンス=35ドルに固定し、管理通貨制度への移行を完了した。ドル切下げと金本位制離脱=管理通貨制の採用によって、国内物価引き上げを優先して(国際的な為替安定を犠牲にして)国民的要求に応えたと言うことが出来る。<秋元英一『世界大恐慌』1999 講談社学術文庫 p.182-183>
 金本位制 金本位制の意味:金は輝きがあり、腐食しにくく、転生が大きく(薄くのばすことが出来る)、分割することもできるところから、何とでも交換可能であったため鋳貨として使われてきた。この金貨をもろもろの商品の価値を表現するのための基準として使うことを金本位制という。金本位制の下で発行される紙幣は、一般に各国の中央銀行(発券銀行、日本では日本銀行)が発行する銀行券であり、中央銀行が保有する金貨や金塊と引き替えに発行される兌換紙幣(金と交換できるという意味)である。紙幣が信用される根拠は、本来金本位制の兌換制度にあった。従って、金本位制度の下では各国の紙幣量は金の保有量に制約される。
金本位制の自動調節作用:金本位制では輸出入の差額は金で払われ、調節される。ということは貿易が赤字になると金が国外に出て行き、国内通貨量は減少し、国内の所得は減り物価は下がることになる。すると輸入は減り、輸出が増えて貿易赤字は解消にむかう。金本位制にはこのようなメカニズムがあり、それを金本位制の自動調節作用という。
金本位制の成立:金本位制は1816年にイギリスに始まり、1844年にイングランド銀行が金と交換可能なポンドを兌換紙幣(金1オンス=3ポンド17シリング10ペンスを平価とした)として発行し、19世紀末にロンドンを中心とした国際金本位制として確立した。
第1次世界大戦と金本位制:金本位制は1914年の第1次世界大戦で一時停止されたが、1925年にイギリスをはじめ各国が金本位制に復していた。金本位制によって各国の通貨は金との等価関係にあることとなり、相互に交換が自由に行われることが保障されていた。しかし、この時イギリスは国家的威信にこだわり、旧平価で金本位制に復したため、貿易収支が悪化し、資金がアメリカに移動し、アメリカの金融緩和と相俟ってアメリカの株式市場が暴走する遠因となった。日本も1930年に金解禁に踏み切った(金本位制となること)が、やはり旧平価での解禁であったため、金の流出がおきて失敗した。
金本位制度と世界恐慌:しかし、第1次世界大戦後はドイツの賠償金負担、イギリス・フランス・イタリアなどの対米戦債の支払いという、生産性の成長を阻害する要素が存在するなかで、アメリカ合衆国経済への一極集中が行き過ぎ、にもかかわらず旧来のイギリスを中心とした金本位制のシステムが温存され、アメリカ合衆国も世界経済全体に責任を持つという意識がなく、またアメリカ合衆国はヨーロッパ諸国に比べて中央銀行の設置が遅く、ようやく1913年に連邦準備制度が成立したため中央銀行の役割を担う連邦準備制度理事会が金融機関に対し十分な統制力を持っていなかったため、恐慌を拡大させてしまった。アメリカ合衆国は実質的な世界経済のリーダーに立たされていながら、国際連盟への加盟を拒否し、リーダーとしての責任を果たさなかった。1933年6月のロンドン世界経済金融会議では、金本位制離脱国と金ブロック−フランス、イタリアが対立し、アメリカのF=ローズヴェルトは国内経済復興のニュー=ディール政策を優先して、調停役を放棄したため、会議は決裂し第2次大戦中のブレトン=ウッズ会議まで全体協議の場がもてなくなった。
各国の金本位制の崩壊:世界恐慌の深刻化の中で世界的な金融不安が広がり、1931年から33年の間に次々と金本位制から離脱する。まずドイツの銀行破綻を受けて31年9月にマクドナルド挙国一致内閣のイギリスが金本位制停止に踏み切り、イギリスとの関係の深いポルトガルや北欧諸国がそれにならった。同年12月、日本の犬養毅内閣が禁輸出再禁止を決定。さらに1933年3月、F=ローズヴェルト大統領のアメリカ合衆国も金本位制から離脱し、ここに世界の金本位制は崩壊した。一方、フランス・オランダ・ベルギーは金本位制を維持し、金ブロックという一種のブロック経済圏を形成する。
管理通貨制度:金本位制に代わる通貨制度は、中央銀行の管理の下で、紙幣が発行される、管理通貨制度に移行することとなった。管理通貨制度では紙幣は不換紙幣(金に代えることが出来ない)として発行される。紙幣の発行量は金の保有量によるのではなく、中央銀行の持つ資産を根拠として発行される。
戦争への道、平価切り下げ競争:世界通貨制度としての金本位制が崩壊した後は、資源に恵まれたアメリカ合衆国はニュー=ディール政策によって国内購買力を回復させることに成功していくが、イギリス・フランスはブロック経済圏を形成して保護主義をとるようになり、また日本を含む各国は平価の切り下げ(自国通貨の価値を下げる)を行うことで、輸出を多くし、国内産業を守ることを競うようになった。それはさらに国内の労働者への低賃金という形でしわ寄せを強めることとなり、世界全体の購買力を低減させ、また資源や安い労働力を求めて領土・勢力圏の拡大をはかる戦争への道を開くこととなった。ナチスドイツの「生存圏の拡大」、日本軍国主義の「満州国」などがそれにあたる。
第2次世界大戦後の国際通貨制度:第2次世界大戦後は連合国を主体に世界経済の国際協調体制であるブレトンウッズ体制をつくり、アメリカ合衆国のドルを唯一の基準通貨とし、平価切り下げ競争が起きないように固定為替制度をとることとなった。また国際収支の悪貨によって1国の経済が破綻すると、世界経済全体に影響を及ぼしたことを反省して、国際通貨基金と世界銀行を設立した。
<金本位制については、岸本重陳『経済のしくみ100話』岩波ジュニア新書 p.150-153、金本位制と世界恐慌については、林敏彦『大恐慌のアメリカ』岩波新書 などを参照>
 ワグナー法 正式には全国労働関係法(1935年制定)。ワグナー法は通称。F=ローズヴェルトのニューディールの一環として制定された労働立法で、労働者の団結権・団体交渉権を明確に認めた。労働組合の権利を保護し、公正な雇用を実現しようとする規定は1933年のNIRA(全国産業復興法)で始まったが、NIRAが1935年に最高裁で憲法違反の判断が出されたため、それにかわって制定された。産業界は猛烈な反対運動を展開したが、議会における民主党の多数とAFLなど労働界の支持で成立した。
ワグナー法の内容とねらい労働者の団結権・団体交渉権・ストライキ権を保障し、具体的方式として組合の代表権に多数決原理を採用し、労働者の権利を国家的に保障する機関として「全国労働関係委員会」(NLRB)に広範な権限を付与した。また、雇用者の「不当労働行為」(組合に対する干渉、抑圧、強制、援助、妨害、雇用条件による差別、組合活動を理由とした解雇、団体交渉の拒否)を禁止した。ワグナー法のねらいは、経済的には労働者に購買力を付与して国民所得の賃金部分を増大させ、所得再分配を実現しようと意図した。<秋元英一『世界大恐慌』1999 講談社学術文庫 p.209-210>
労働組合運動の活発化:1933年の全国産業復興法(NIRA)、それに代わる35年のワグナー法の制定によって、アメリカ合衆国の労働運動は法的保護のもと未曾有の組織化が進んだ。同時に、組合運動をめぐって旧来のアメリカ労働総同盟(AFL)が分裂し、産業別組合会議(CIO)が生まれるという変化をもたらした。労働組合は資本主義社会の中で経営者に対する「拮抗力」をもつに至り、1938年には公正労働基準法が改めて制定されて、最低賃金(全業種で8年後に40セント)、労働時間(3年後に週40時間)が統一された。
ワグナー法の修正:第2次大戦後、冷戦下でアメリカ社会に社会主義や労働運動に対する警戒が強まる中で、1947年に共和党が多数を占める議会でタフト=ハートレー法が成立し、ワグナー法の「労働者寄り」の内容はいくつかの点で修正され、その理念は後退することとなった。
 産業別労働者組織委員会(CIO)1935年11月に、アメリカ労働総同盟(AFL)のなかの産業別組織を主張する少数派がAFL内に設けた委員会。従来のアメリカの労働運動を推進してきたアメリカ労働総同盟(AFL)は、熟練工からなる職能別組合であったが、20世紀に入り、アメリカの産業のなかで非熟練の労働者が多数を占めるようになってきた。非熟練労働者は、1935年にニュー=ディール政策の一環としてワグナー法が制定されて労働組合運動に対する法的保護が実現したことを機に、AFL内部に産業別労働者組織委員会(CIO)を設けた。しかし、AFLは熟練工の職能別組合という性格を改めず、女性や黒人を排除し続けたので、AFLと袂を分かち、1938年に産業別組合会議(CIO)を結成した。指導者は鉱夫労働組合のジョン=ルイス。1836年の大統領選挙ではF=ローズヴェルトの2選を強く支持しそれを実現させた。<秋元英一『世界大恐慌』1999 講談社学術文庫 p.211-213>
 産業別組合会議(CIO)Congress of Industrial Organization アメリカ労働総同盟(AFL)内の産業別労働者組織委員会が分離・独立し1938年に結成されたアメリカの労働組合の組織(略称はともにCIO)。非熟練の女性や黒人などの以前からの熟練工中心の職能別組合からのけ者にされていた産業労働者と会社事務員を組織化するのに成功した。委員長は同じくジョン=ルイス。1937年までに組合員158万人まで増加した。一方のアメリカ労働総同盟(AFL)も巻き返しを図り、労働運動はこの二つの全国組織の下で1941年には800万人を越える組織をもつにいたり、1955年に合同した。
 社会保障法ニューディール政策の後半、1935年に制定されたアメリカ合衆国が福祉政策に転換を図った立法。失業保険・退職金制度・年金制度などを整備した。ニュー=ディール政策開始に伴い、物価は上昇したが賃金の上昇を上回っていたため、失業者・高齢者・障害者など社会的弱者の生活困窮は続いていた。民間から社会保障制度の充実を要求する運動が強まり、民衆運動の圧力を受ける形で社会保障法の制定が実現した。老齢年金は連邦の一般財源からの支出ではなく、企業と労働者が負担した。老齢者・障害者・児童らに対する扶助、また失業保険は州の制度を連邦が補助するもので、すべての州で給付が始まったのは39年からであった。また全国一律の健康保険を制度化することは出来なかった。アメリカ医師会と保険業界の反対が強いためであった。この欠陥はアメリカの社会保障制度の欠陥として現在も続いている。<秋元英一『世界大恐慌』1999 講談社学術文庫 p.225-227>
 ケインズ

John Maynard Keynes 1883-1946
20世紀前半に活躍したイギリスの経済学者で、修正資本主義の理論を提示して、アメリカのニューディール政策や戦後のイギリス労働党の経済政策に大きな影響を与えた。
ケインズはケンブリッジで経済学を学び、若い頃はロンドンの芸術科集団ブルームズベリー・グループ(小説家のヴァージニア=ウルフ、評論家のリットン=ストレイチーら、当時としては反権威主義的な思想の人々の集まり)に加わっていた。ケンブリッジの経済学の教師から大蔵省の役人となり、第1次世界大戦後のパリ講和会議のイギリス代表湾に加わった。1919年に『平和の経済的帰結』を発表してヴェルサイユ条約がドイツに対して過度な賠償を求めたことが後の戦争につながることを警告し注目を集めた。1929年の世界恐慌後は資本主義は危機を迎えたが、ケインズは社会主義を否定して、資本主義に修正を加えることによって危機を克服することを説き、36年に『雇用・利子および貨幣の一般的理論』を発表した。そこでは完全雇用を生み出す有効需要の開発を、国家が公共事業を興すことによって生み出すことを提唱し、おりからアメリカのF=ローズヴェルト政権が展開していたニューディール政策に理論的意義付けを与えた。ケインズの、財政政策(税による景気の調整)、金融政策などの国家による市場の統制によって経済恐慌を回避することが可能であると考える「修正資本主義」は大きな影響を与え、社会主義に対抗する思想としてアメリカ・イギリスの経済政策の基本とされた。ケインズは第2次世界大戦後のブレトン=ウッズ会議でも主導的な役割を果たした。
ケインズの経済理論に対しては、当時すでにハイエクに代表される反論があった。ハイエクはケインズ経済政策は市場の自由な競争を束縛することになるとして批判し、自由主義の立場を貫こうとした。また現代のフリードマンらのシカゴ学派に代表される新自由主義の経済理論は、ケインズ主義が「大きな政府」を産みだし、税負担や規制強化が自由な企業の競争を損ねているとして、国営企業の民営化、規制緩和、減税、社会福祉支出削減などの、いわゆる「小さな政府」論を展開し、チリのピノチェト政権、イギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権、日本の中曽根政権、小泉政権などに大きな影響を与え、「ケインズ経済学は古い」とされるに至ったが、現在はその新自由主義の行き過ぎも批判の対象とされている。
 ソ連の承認(アメリカ)アメリカ合衆国のソヴィエト連邦(1922年成立)承認は、イギリス・フランス(1924年)、日本(1925年)などより遅れ、F=ローズヴェルト大統領の時の1933年になされた。それまでアメリカ合衆国政府は反共産主義の立場から、ソ連の承認を拒んできたが、F=ローズヴェルトは世界恐慌が深刻になる中で、ソ連と国交を開いてその市場を開拓することをねらった。また、ヨーロッパにおけるドイツとアジアにおける日本というファシズムの台頭を警戒し、ソ連と国交を結ぶことでその二国を牽制する意図もあった。ソ連側もドイツ・日本との対決に備えてアメリカ合衆国との提携を望み、翌1934年には国際連合に加盟した。   → アメリカの外交政策
 善隣外交 F=ローズヴェルト大統領のラテン=アメリカ地域との外交政策 Good Neighbor Policy のこと。それまでの力による高圧的なカリブ海政策を改め、友好的な政策に転じたこと。ラテン=アメリカの民族主義運動が社会主義と結びついて反米的になることをおそれるとともに、世界恐慌に対応してアメリカの経済圏であるこの地域に対するアメリカの指導権を維持するのがねらい。1934年にはキューバに対してプラット条項を撤廃してその完全独立を認め、ハイチからは海兵隊を撤兵させた。この友好政策が功を奏し、第2次世界大戦時には、ラテン=アメリカ諸国のほとんどが連合国側で参戦した。また大戦後はアメリカはさらにこの地域への支配権を強めることとなった。 → アメリカのカリブ海政策(戦後)    → アメリカの外交政策
 プラット条項  → 第14章 2節 キューバの独立 プラット条項
 中立法 1935年、フランクリン=ローズヴェルト大統領の時、アメリカ議会で成立した法律で、合衆国はすべての交戦国への武器輸出と、船舶による武器輸送を禁止したもの。議会内の共和党などの孤立主義が根強く、ヨーロッパでのナチスドイツと英仏の戦争に巻き込まれることを恐れる意見が強かったため成立した。しかし、1939年9月、ドイツ軍がポーランド侵攻を開始し第2次世界大戦が始まり、アジアでも日本が南進の動きを強めてくると、イギリスの要請もあってアメリカ議会は11月に中立法を改正し、現金取引と自国船による輸送を条件に、交戦国への武器輸出禁止を撤廃した。これによって中立法は事実上廃棄され、イギリスに対する武器輸出が行われた。ローズヴェルトは三選を果たした後の41年3月、武器貸与法を制定し、連合国に武器を貸与することとなる。  → アメリカの外交政策
 イギリスの恐慌対策  
a マクドナルド  
 失業保険の削減  
 マクドナルド挙国一致内閣  
 金本位制の停止(イギリス) マクドナルド挙国一致内閣は、1931年9月21日、金本位制を停止した。世界恐慌が波及して、ドイツからの賠償金がストップし、債務が急増、国際収支が悪化したことによる。このようなイギリスの金融不安が強まると、イギリスの通貨であるポンドが売られ、その価値が急落した。ポンドが売られると言うことはイギリスの金が流出すると言うことなので、ついに金本位制を停止し管理通貨制度に切り替えた。イギリスと経済的関係の強い諸国でも金本位制は維持できなくなり、ポルトガル・デンマーク・スウェーデンなどが相次いで金本位制の停止(または金輸出禁止)に踏み切った。さらに1933年3月、F=ローズヴェルト大統領もアメリカ合衆国も金本位制から離脱し、ここに世界の金本位制は崩壊し、管理通貨制度に移行することとなった。
 オタワ連邦会議  
 スターリング=ブロック  (スターリングとはイギリスの法定貨幣のこと。ポンドはシリング、ペンスと共にその単位。)→ ブロック経済政策
 フランスの恐慌対策  
a フラン通貨圏  
 人民戦線  
 仏ソ相互援助条約 1935年5月、フランスとソ連との間で締結された条約。これはこの年3月にドイツが再軍備を宣言し、徴兵制を復活させたことに脅威を感じた両国が接近し、成立させたもの。ただし、国際連盟規約とロカルノ条約の条文と矛盾することを避けるため、軍事同盟ではなく、相互援助条約という形となった。フランスは形勢を見ながらだったので、批准は遅れ、翌年2月に批准発効した。このフランスとソ連の接近に反発したヒトラーのドイツは、両国のロカルノ条約違反と非難し、36年3月、ドイツはロカルノ条約破棄を宣言した。
 人民戦線内閣  
 ブルム レオン=ブルム、戦前のフランスの政治家。はじめ文学者として出発、ジョレスと知り合ってフランス社会党に入党、反ファシズム運動で活躍し、1936年に人民戦線内閣の首相に就任した。労働立法を進めるなど、革新政策をとったが、不況の進行に対する有効な経済政策を打ち出すことができず、翌年辞職した。第2次世界大戦が始まると、ヴィシー政権に逮捕され、ドイツに抑留され、アメリカ軍に救出された。戦後も1947年に暫定内閣の首相を務めた。
 ブロック経済 1929年の世界恐慌に見舞われた帝国主義各国は連鎖的な輸出不振に陥った。各国はまず各国通貨の平価を切り下げ(平価とは各国の貨幣の価値基準のことで、通常は1単位の金含有量で表される)を行って輸出を増やそうとした。この平価切り下げ競争によって為替相場は激動して、貿易はかえってますます減少した。その中で、特に「持てる国」と言われる国内資源や植民地を有している諸国は、それぞれ経済圏(ブロック)を作って生き残ろうとした。そのような経済体制が「ブロック経済」であり、主要国の決済通貨を軸としてグループを作り、グループ内の関税を軽減して域内通商を確保し、域外からの輸入には高関税をかけて自国産業を保護するという保護貿易政策をとった。
ブロック経済の例
スターリング=ブロック(ポンド=ブロックともいう) イギリスは1931年、大英帝国から英連邦という名称に切り替えて、旧植民地グループを再編し、ポンドを基軸とするスターリング圏を作った。
・ドル=ブロック アメリカ合衆国を中心とした南北アメリカ大陸を一つのドル経済圏として形成した。
・金ブロック フランスを中心とした、金による支払い(金本位制)を通じて結束した西ヨーロッパ諸国グループ。
「持たざる国」のブロック経済
これらの「持てる国」に対抗する、「持たざる国」と自己を規定したドイツ、イタリア、日本は「自給自足圏」を確保するために軍事的侵略の道を選んだ。ドイツは排外主義をかかげるナチスが権力を掌握すると、東ヨーロッパから中近東への進出をめざした。イタリアはファイスト政権の下で、北アフリカからバルカン半島さらに中近東への野心を持った。日本は「大東亜共栄圏」を構想したが、それはアジア市場に「円ブロック」を築くねらいであった。
ブロック経済の影響
1929年〜1933年の世界恐慌期に、資本主義主要国がブロック経済政策を採ったため、世界貿易はこの4年間に7割が減少、その結果、欧米と日本で数千万人の失業者が出た。そのような社会不安を背景に、イギリス・フランス・アメリカの「持てる国」グループと、ドイツ・イタリア・日本の「持たざる国」の勢力圏をめぐる対立が深刻化し、ソ連社会主義政権に対しては双方とも警戒心強めながら接近を模索するという複雑な外交関係の進展を経て、最終的に連合国と枢軸国と二分されて第2次世界大戦に突入した。従って、帝国主義諸国がブロック経済政策を採ったことが世界大戦をもたらした直接的要因と言うことができる。
第2次世界大戦後のブロック経済の否定
このように帝国主義諸国が経済ブロックを作って抗争したことが第2次世界大戦をもたらしたことを反省し、戦後国際社会の原則として排他的経済ブロックの形成および保護主義政策を防止し、自由貿易を推進する必要があるという認識が生まれ、1947年に「貿易と関税に関する一般協定(GATT)」が制定(48年発足)され、貿易の自由化、関税の軽減に関する多角交渉をが行われることになった。(この体制は1971年のアメリカのドルショックなどを機に転換するし、またGATTは1995年に世界貿易機関(WTO)に改組、強化された。
ウ.満州事変・日中戦争と中国の抵抗
 日本経済の行き詰まり  
 大戦景気  
 戦後不況  
 金融恐慌  
 世界恐慌  
 満州事変 1931年9月、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道が爆破されたことを機に勃発した日本の関東軍と中国国民軍の衝突事件。関東軍の攻撃に対し中国国民党の東北軍(張学良指揮)はほとんど抵抗せず、関東軍は一気に満州全域を占領し、翌年には満州国を建設することとなった。日本は柳条湖事件を中国軍の仕業として、自衛のために出兵したものであり、また満州国の建国は満州人の自主的な独立国家の建設であると主張したが、国際連盟はリットン調査団を現地に派遣した結果、関東軍の謀略の可能性を指摘し、満州国を不承認、日本軍の撤退を1933年の総会で可決した。そのため、日本は国際連盟を脱退、孤立を深めていう。また同年、日本軍は中国本土で上海事変を起こし、戦火を拡大して中国に圧力を加え、1933年に塘沽停戦協定を締結して中国政府に事実上、満州国を承認させた。この1931年の満州事件以後日本と中国の宣戦布告無き戦争状態に入り、1937年には盧溝橋事件から全面的な日中戦争に突入、1941年には太平洋戦争に戦線が拡大、1945年の日本の敗北までの15年間にわたり戦争が続いた。満州事変からのこれらの戦争を総称して十五年戦争という。
a 1931  
 関東軍  → 第15章 3節 関東軍
 柳条湖 中国の東北地方の中心都市奉天(現在の瀋陽)の北にある地。南満州鉄道が通っており、この地で1931年9月18日の柳条湖事件が起こり満州事変に拡大した。この地は張作霖爆殺事件のあった地点から6キロしか離れていない。
 南満州鉄道  → 第14章 3節 南満州鉄道 
 十五年戦争  
 上海事変 満州事変に次いで日本軍が戦火を中国本土に拡大させ、1932年1月に起こした戦闘行為(1937年の盧溝橋事件後に起こった第2次上海事件と区別してこちらを第1次上海事件という)。
1932年1月18日、上海の共同租界で日本人の僧侶が中国人に襲撃されて死亡する事件がおったことを機に、日本海軍陸戦隊が出動し、中国軍と衝突した。中国側では「一・二八事変」と呼んでいる。中国軍は頑強に抵抗、日本軍は陸軍部隊を増強し、三月に中国軍を上海から撤退させ、5月5日に停戦協定(淞滬停戦条約)を成立させた。この戦闘で上海市街は大きな被害を受けた。
この事変は、戦後になって、上海駐在日本公使館付き武官であった田中隆吉少佐が、関東軍参謀板垣征四郎大佐の依頼で、中国人を買収して襲撃させたものだったことが判明した。満州事変の勃発で満州に集中している列国の関心をそらすのがねらいであった。この戦闘で、爆弾を抱いて敵陣に突入した日本兵が「爆弾三勇士」として国民的な英雄とされ、歌や映画も作られ、軍国主義化が一気に加速した。この事変直後の4月29日、上海の虹口公園で行われた天長節(天皇誕生日)の祝賀会で、朝鮮独立運動家の金九(大韓民国臨時政府のメンバー)による爆弾テロが起こされ、日本軍の上海派遣軍司令官白川義則大将が死亡、重光葵(終戦時の外務大臣)が重傷を負う事件が起こった。 
 満州国  
 溥儀  → 第14章 3節 宣統帝溥儀
 五・一五事件  
 塘沽停戦協定 1933年5月31日に締結された、満州事変後の日中間の停戦協定。塘沽(タンクーまたは、とうこ)は中国の天津近郊の地名。満州事変後、日本は満州国を成立させ、さらに隣接する熱河省を「満州国の予定領域」と称して、1933年1月から3月にかけて「熱河作戦」を展開、山海関を占領し、さらに長城を越えて中国本土に迫った。中国政府は日本軍の北京侵攻を恐れ、北京の故宮の重要文化財を南京に移送を始めた。蒋介石は、対共産党作戦(囲剿作戦)を優先していたが、この事態に熱河失陥の責を負わせて張学良を軍政部長から辞職させ、ひとまず日本軍の進撃を食い止めるため、停戦に踏み切った。この協定で、日本軍は長城戦まで退くと同時に、中国軍も撤退させ、非武装地帯を設定することとなった。それは、事実上、日本の東北三省と熱河省の占領を黙認し、満州国の存在を認め、さらに河北省19県の統治権を喪失することを意味していた。日本軍は一連の軍事行動をこの協定でいったん停止する。 
 国際連盟脱退  
a リットン調査団  
b 海軍軍備制限条約  → 第15章 2節 ワシントン海軍軍備制限条約
華北分離工作 1935年ごろに行われた日本軍(支那駐屯軍)主導による、中国の河北省など華北一帯の分離独立をめざす政治的な工作。32年に満州国が成立したが、反日運動が強まり、労働力不足などによる満州国経済の不振もあって、特に現地軍はさらに権益を拡大することを策した。河北省の中国軍の撤退を要求を飲ませ、傀儡政権である冀東防共自治政府を樹立させた。「防共」は共産党の新党を防止する意味で、日本軍が進出する口実とされた。これにたいして北京の学生が抗議に立ち上がり、十二・九学生運動が起こった。1937年の盧溝橋事件に始まる日本軍の本格的中国侵略の前触れであった。
 冀東防共自治政府 1935年11月、日本軍が中国の河北省東部に設けた傀儡政権。冀東の冀は河北省の別称。日本は満州国を成立させた後、1933年5月塘沽停戦協定で満州国に隣接した地域を非武装地帯として勢力下に置いたが、中国政府から分離し直接支配下に置くことを工作した。それは支那駐屯軍(義和団事件の時の北京議定書で北京・天津員に駐留が認められた日本軍)によって進められ華北分離工作といわれた。(一方、関東軍は長城以北の内蒙古に第二の満州国の建設を進めていたが、こちらは内蒙工作という。)1935年、支那駐屯軍司令官梅津美治郎は国民党政府の華北軍事責任者何応欽に対して河北省での中国軍の撤退などを要求した。蒋介石は駐日大使を通じ直ちに日本の広田弘毅外相に抗議したが、広田外相は「これは塘沽停戦協定に関わる軍事事項であり、政府は関与しない」という態度で取り合わなかった。(一国の外交方針も外務省ではなく現地の軍部が立ててしまうという、軍国主義外交の典型である。)6月「梅津・何応欽協定」で中国側は要求を飲んだことになっているが、中国側は正式文書はないととしている。また同月、河北省の北の内蒙古チャハル省でも同様の「土肥原・秦徳純協定」が成立した。これらによって華北の中国軍を排除した日本軍は、1935年11月、塘沽停戦協定の非武装地帯に、殷汝耕(日本留学経験のある政治家)を代表として、冀東防共自治政府を樹立させた。22県人口約600万の「自治政府」であったが、実態は日本軍の傀儡政権であった。後に「冀東自治政府」と改称し、日本軍はさらに河北全域を分離させる工作を進めた。これに対して国民政府は有効な抵抗ができず、独自に「冀察政務委員会」(宋哲元委員長)に華北自治にあたらせることにした。これに対して同年12月9日、北京の学生を中心とした抗議運動(十二・九学生運動)が起こった。
Epi. 満州国・冀東防共自治政府とアヘン政策 中国の東三省、熱河省一帯にはアヘンの吸飲とその栽培が行われていた。満州国はアヘンに対して厳禁ではなく漸次減少させていくという漸禁政策をとり、事実上吸飲を認め、さらにその生産販売を専売制として国家収入にあてようとした。日本軍が熱河省や内蒙古に支配権を拡大し、冀東防共自治政府を樹立したのもその地域がアヘンの生産地域であり、大きな利益を得られるからであった。この地のアヘンを精製して造ったヘロインなどの麻薬は天津や上海などで広く販売され、犠牲を多く出した。日本支配地におけるこのようなアヘン政策は、大戦後の東京裁判でも国家犯罪の一つとして裁かれることとなる。<江口圭一『日中アヘン戦争』1988 岩波新書 p.44-57>
 十二・九学生運動 日本軍の華北分離工作に対し、国民政府が抵抗しないことに対し、国民の中に反日および反国民政府感情がさらに高まり、1935年12月9日、北京で大規模なデモが行われ、国民党に対し共産党との内戦を止めて一致して抗日にあたれという声が強くなった。これを十二・九学生運動という。このとき歌われた「義勇軍行進曲」が現在の中国国歌とされている。
Epi. 中国国歌、義勇軍行進曲が生まれる。 十二・九学生運動の時、学生たちが声をそろえて歌った歌があった。「起て!奴隷となることを望まぬ人々よ。われらの血潮をもって新たな長城を築こう・・・」。この曲の題名は「義勇軍行進曲」といい、ほかならぬ現在の中華人民共和国国歌である。作曲者は聶耳(ニエアル)といい、少数民族の母親をもつ昆明出身の若者だった。映画音楽をつくりながら共産党に入党、35年に『風雲児女』の主題歌としてこの歌を作った。映画は大ヒットが彼はその完成を見る前に国民政府の特務機関に追われて日本に亡命し、7月に藤沢の鵠沼海岸で遊泳中に事故死した。24歳だった。現在、鵠沼海岸には彼を記念した碑が造られている。<菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』2005 中国の歴史10 講談社 p.332> 
 二・二六事件  
 日独防共協定  
・抗日民族戦線の成立と日中戦争
 国共内戦(大戦前)第1次国共合作が決裂した1927年から、第2次国共合作が成立した1937年までの中国国民党(蒋介石の指導)と中国共産党(主として毛沢東の指導)の内戦。蒋介石は北伐を完成させ、1930年末に国民政府の中で独裁権力をうちたてた。そのころ共産党は、毛沢東の井崗山根拠地などを拠点に各地で武装蜂起を続け、同年7月には湖南省に「長沙ソヴィエト」を樹立したが、日本やアメリカの援助をうけた国民党軍に壊滅させられた。このような共産党の台頭を恐れた蒋介石は、続いて30年12月から、囲剿戦(いそうせん)といわれる共産党勢力への全面的な攻勢を開始した。囲剿戦は、第1次が1930年12月〜31年1月、第2次が31年3〜5月、第3次が31年7〜9月の三次にわたって展開された。毛沢東はそれに対して「深く的を誘い込む」戦術で応戦、劣勢をはね返した。国民党政府軍と共産党軍の激しい内戦が続くなか、1931年9月に満州事変が起こり、関東軍が満州で軍事行動を開始、日本の侵略が始まるが、蒋介石は「まず国内の敵を一掃して、のちに外国の侵略を防ぐ」(「安内攘外」)と称し、共産党との内戦を優先して抗日戦を回避する戦略をとった。国民の反日感情は強まり、また日本に抵抗しない国民政府への不満も強まった。一方共産党は1931年に江西省瑞金で中華ソヴィエト共和国の設立を宣言し独立した権力を樹立した。上海停戦協定が成立した後、32年6月から国民党の第四次囲剿戦が始まり、江西省一帯の共産党根拠地の幾つかが陥落し、コミンテルンの指示による紅軍の都市攻撃も失敗した。33年、日本軍の熱河侵攻によりいったん中止された囲剿戦は、塘沽停戦協定成立後、54年10月、第五次が敢行され(このとき、蒋介石はアメリカから資金の援助を受け、またドイツのゼークト将軍を軍事顧問とした)、共産党は圧倒的多数の国民党軍に押され、34年にその地を放棄し、長征を行った後、翌年10月に延安に入った。国民党と共産党が一致して抗日戦にあたるべきであるとの声が強まる中、1936年、東北軍の張学良は、西安で蒋介石を監禁、内戦の停止を迫り、蒋介石もそれに応じるという西安事件で抗日民族統一戦線への素地ができ、1937年日中戦争が始まると国民党政府は共産党政権との間で抗日のための国共合作(第2次)に踏切り、以後内部に対立を含みながらも日本軍の侵略と共に戦った。
a 蒋介石  → 第15章 3節 蒋介石
b 長征 紅軍(中国共産党軍)が1934年10月に江西省瑞金を出発してから約1年間をかけて、翌35年10月に陝西省の呉起鎮(間もなく延安に移る)に到着するまでの行軍を長征、または大西遷という。「二万5千里の長征」といわれ現在でも中国共産党の偉大な歴史の一つとして語り継がれている。
この間、国民党軍の攻撃を受けながら大河や雪山を越え、紅軍は初めの8万6千の兵力が、最後にはわずかに8千に減少するという、苦難の行軍であった。この長征の途中、1935年1月に、遵義会議が開催され、それまでのコミンテルン指導体制に代わって、毛沢東の指導権が確立した。
 遵義会議 1935年1月15日から、長征途中の中国共産党首脳部による会議で、それまでのコミンテルン指導路線が否定され、毛沢東の指導権が確立した。
国民党との内戦でその圧力を受け、中華ソヴィエト共和国の首都瑞金を放棄し、長征に移らなければならなかった中国共産党が、長征の途中の貴州省遵義において、路線決定のための重大会議を開催した。路線は、コミンテルンから派遣されていたリトロフらの指示に忠実な秦邦憲(ソ連留学組)ら都市に対する全面攻撃を主張していた主流派と、中国独自の革命路線をかかげ農村に根拠地を造って都市を包囲する戦術を主張していた毛沢東らがするどく対立していた。毛沢東は主流派を「極左冒険主義」として批判、それまで主流派であった周恩来が自己批判して誤りを認め、会議の大勢は毛沢東支持にまわり、結局秦邦憲は指導部からはずされ、毛沢東が軍事担当の政治局常任委員に復活した。これによって毛沢東が共産党の主導権を握り、毛沢東路線が採用されることになった。中国共産党でコミンテルンの支持を得ずに指導権を握ったのは毛沢東が初めてであった。コミンテルンは共産党内で王明などソ連帰国組を通じてなお影響力を持ち、1943年にコミンテルンが解散するまで対立が続く。
 毛沢東  → 第15章 3節 毛沢東
 延安 中国の陝西省北部の都市。西安の北方約250キロの地点にあり、万里の長城の南に位置する、周辺は砂漠で自然の要塞となっていた。長征を終えた中国共産党が1937年から47年まで、この地を本拠として、国民党軍、日本軍と戦った。現在では中国共産党の「聖地」の一つとなっている。
Epi. 『中国の赤い星』 中国共産党の革命根拠地に入り、最初に毛沢東にインタビューしたアメリカ人ジャーナリストがエドガー=スノウであった。彼の著書『中国の赤い星』には、延安(及びその前に拠点としていた保安)での、毛沢東を初め、周恩来、彭徳懐、朱徳、林彪などの若い共産党指導者たちの群像が生き生きと報告されている。スノウの見た毛沢東の第一印象は「かれはやせたリンカーンのような人物で、中国人の平均身長より高く、やや猫背で頭には濃い黒い髪の毛が非常に長くのび、大きなするどい眼を持ち、鼻は鼻梁が高く、頬骨が突き出ていた。私の一瞬の印章では、非常に機敏な知的な顔という感じだった・・・。次に私がかれを見たときは、毛は帽子をかぶらずに、夕闇せまる街路を二人の若い農民と話しながら、熱心に身ぶりをまじえて歩いていた。かれは南京政府がかれの首に二十五万元を懸けているにもかかわらず、落ちついて他の歩行者と歩いていた。・・・」<エドガー=スノウ『新版中国の赤い星』1964 筑摩書房 p.58>
 通貨統一 1935年に中華民国政府の蒋介石が行った通貨改革。幣制改革ともいう。中華民国経済の、帝国主義列強への従属と、財閥による独占を強める結果となった。
中国の通貨は清代以来、銀を基本として各地の様々な銀行が紙幣を発行していたが、統一がとれておらず不安定であった。国民政府蒋介石は北伐完成によって国内統一を達成すると、懸案であった通貨制度の統一と近代化に踏み切った。1935年11月、幣制緊急令を制定し、銀の流通を禁止して国がすべて買い上げ、管理通貨制度を採用、政府系4銀行の発行する銀行券のみを法定通貨(法幣)とした。法幣はポンドにリンク(1元=1シリング2ペンス半)させた。銀は法幣の安定資金としてアメリカに売り渡された。この幣制改革で国民政府による経済支配が確立したが、実は政府系銀行は蒋介石の一族(浙江財閥の四大家族の一つ)に握られており、蒋介石の権力を一段と強めるとともに帝国主義列強に対する従属を明らかにする結果となった。 
 民族統一戦線の形成(中国)中国における民族統一戦線は、日本の満州への侵出という帝国主義侵略を受けて高まったが、蒋介石の国民党は共産党との内戦を優先して(安内攘外)、実現できないでいた。1935年、共産党は八・一宣言を発表して国民党に対し、統一した抗日を呼びかけ、翌年の西安事件が起きるに及んでようやく蒋介石がそれに応じ、日中戦争が始まった1937年に第2次国共合作として成立した。民族統一戦線(人民戦線)は、1935年にコミンテルン第7回大会で、それまでの共産党を唯一の解放勢力としてブルジョア権力と戦うという基本路線を、ファシズムの台頭と戦うためには幅広くブルジョア民主主義勢力とも共闘する必要があるという方針転換を決めたことによって採用さるようになたものであり、ヨーロッパにおいてもナチスの台頭に抵抗するフランス、スペインなどで現れた。
a 八・一宣言 1935年7月、コミンテルンは第7回大会を開催して、従来の方針を大きく変更し、「反ファシズム統一戦線」を提唱した。中国については8月1日付けで「一切の救国、救民の組織が連合して、統一国防政策を樹立しよう」という宣言が、モスクワにいた中国共産党の王明によって発せられた。当時、長征の途上にあった国内の中国共産党は毛沢東が主導権を握っていたが、毛沢東も抗日民族統一戦線の結成に同調し、ついで36年の西安事件で張学良の呼びかけに応じて蒋介石との国共合作の交渉に入った。このような抗日戦線結成の機が熟しているところに、1937年盧溝橋事件が起き、日本軍の中国本土侵攻が始まった。
b 抗日民族統一戦線 中国における抗日民族統一戦線は、1935年、中国共産党が国民党に呼びかけ、36年の西安事件を経て、37年の第2次国共合作の成立として実現した。
 西安事件 1936年12月、東北軍の張学良が、国民党の蒋介石を西安で監禁し、国共内戦の停止を迫り、それに同意させたクーデター。抗日民族統一戦線を結成する端緒となり、1937年の日中戦争会誌と共に第2次国共合作が成立する。
西安(シーアン)は陝西省の中心都市。かつての長安であり、市内と郊外には漢代や唐代の遺跡が多い。東北軍を率いる張学良は、拠点の満州を日本軍に奪われ、国民党と共に戦う決意で易幟を行ったが、蒋介石が共産党との内戦を優先させて日本軍との戦いを極力避けていることに不満を持っていた。1936年、延安の紅軍(共産党軍)と対峙する西安の国民党軍を督励に来た蒋介石を、十七路軍の楊虎城とともに内戦停止を訴えたが容れられず、12月12日、兵を動かして蒋介石を監禁し、内戦を停止すること、南京政府を改組し諸党派共同しての救国にあたること、政治犯の釈放、民衆愛国運動の解禁など8項目を要求した。蒋介石は当初拒絶したが、張学良の要請で西安に来た共産党の周恩来(黄埔軍官学校で蒋介石の部下だった)らが説得、蒋介石夫人の宋美齢も上海から飛行機で駆けつけて夫を説得し、8項目に合意し釈放された。張学良は「兵諌」(兵を勝手に動かし、上官に諌言したこと)の責任を負って軍法会議にかけられることを望み、蒋介石に同行し、以後国民党の監視下に置かれる。この張学良が身を挺して蒋介石に内戦停止を迫ったことが、中国を統一した抗日に向かわせることとなり、勝利に導くことになる大きな転換点であった。
Epi. 西安事件をスクープした日本人記者 「蒋介石、監禁される!」というショッキングな西安事件を世界で最初に報道したのは日本の共同通信の記者として上海にいた松本重治だった。松本はテニス仲間の中国人から西安事件の一報を知り、東京本社に打電した。中国政府は外電を禁止したが、共同通信は非合法の無線を持っていた。松本のスクープは東京から全世界に発信された。そのため、西安事件は日本の陰謀ではないか、とも疑われたという。共同通信は直後に別な記者が「蒋介石殺害される」という誤報も配信してしまった。<松本重治『上海時代』下 1975 中公新書 p.16>
 張学良  → 第15章 3節 張学良
e 蒋介石  → 第15章 3節 蒋介石
 周恩来  → 第16章 1節 周恩来
 日中戦争 1937年7月7日の盧溝橋事件に始まり、1945年8月15日、日本の敗北によって終わった日本と中国の戦争。日本では宣戦布告をしなかったので、支那事変(当初は北支事変)と命名され(一般には日華事変とも言われた)、1941年12月からは「大東亜戦争」に組み入れられた。中国では中日戦争、抗日戦争という。
日本はそれより先、1931年9月の満州事変で中国への侵略を開始しており、事実上の戦争は始まっていた。ただ、満州事変及び満州国建国に対して、当時中国は蒋介石政権と軍閥の抗争が続き、共産党勢力との内戦も深刻であったため、日本に対する抗戦らしい抗戦は出来ず、また1933年に塘沽停戦協定を締結現地での停戦が成立しているので、一般にはの段階は日中戦争に入れない。日本は日中戦争突入と共に、国家総動員法(38年)など国民生活を犠牲にした戦時体制がとられることとなる。
戦争の開始:満州事変と満州国建国後も関東軍による内蒙古工作、支那駐屯軍による華北分離工作という中国内部への日本軍の侵略が続き、その動きはついに1937年7月の盧溝橋事件を機に全面的な日中戦争突入した。満州事変での経験から、日本軍は中国側の抵抗を過小に評価し、分裂状態にある中国に一気に軍事的圧力をかけることによって、降伏させられると考えていた。日本軍は、蒋介石政府は腐敗して国民から離反しているから弱体であろうし、共産党勢力も農民一揆程度の力量しかないと判断していた。陸軍大臣杉山大将は天皇に対し、戦争は短期間で終わると報告したが、実際には戦争は長期化し、日本敗戦の45年までつづくこととなる。
中国の対応:前年の1936年12月には西安事件で国民党と共産党の提携の端緒が生まれ、日中戦争勃発を受けて1937年9月に第2次国共合作が成立した。国民党軍、共産党軍は内戦を停止して抗日統一戦線を結成し、一致して日本軍の沈約に抵抗することとなった。
戦争の経過:日本軍は1937年11月の上海占領に続き、国民政府の首都南京の攻略に着手、12月に占領した。その際、大量の捕虜、民間人を虐殺する南京虐殺事件を起こした。翌1938年1月、近衛内閣は「国民政府を相手にせず」と声明。同年10月には長江中流の武漢三鎮を攻略した。蒋介石の国民政府は長江上流の重慶に退き、ビルマ方面などから米英などの支援(援蒋ルート)を受け、共産党は八路軍など各地でゲリラ戦をつづけて抵抗した。日本軍は援蒋ルートの遮断を狙ってさらに南下し、香港など主要都市を占領したが、広大な大陸で点と線の支配にとどまり、戦争は泥沼化した。1939年にはモンゴル草原で関東軍はソ連軍と衝突(ノモンハン事件)して敗れ、北進をあきらめ、南進策をとって中国戦線の打開をはかることとなった。1940年の北部仏印進駐、ついで41年の南部仏印進駐は一気に米英との対立を深め、41年12月の太平洋戦争開戦となる。こうして日中戦争は太平洋方面に拡大されると共に、アメリカを戦争に巻き込み、文字通り世界戦争に転換することとなった。
 1937 昭和12年。日本では前年に二・二六事件が起き、軍国主義体制が一段と強まっていた。7月の盧溝橋事件から、日中戦争に突入し、12月には南京虐殺事件が起こった。11月には日独伊防共協定が成立している。
 盧溝橋事件 1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で起こった日本軍と中国軍の衝突し日中戦争の始まりとなった事件。日本軍への発砲をきっかけに交戦状態となったが、誰が発砲したかについては現在も定説はない。日本政府(近衛文麿内閣)および軍中枢は自衛権の発動を口実に陸海軍を増派、事実上の戦争となったが、宣戦布告は行わず、当初は北支事変と称し、戦闘が上海に拡大した後の9月に支那事変と命名した。なおこの時の日本軍とは、支那駐屯軍といい、北清事変後の1901年に締結された北京議定書で清が外国軍の北京などへの駐屯を認めたときに設置された軍隊。その後列強はほとんど撤兵したが、日本はこの時の駐屯権を邦人保護を理由に継続して北京及び天津などに支那駐屯軍を置き、演習などをつづけていた。
盧溝橋について盧溝橋は北京(当時は北平といった)西南部郊外の永定河に架かる橋で、代の1189年に完成し、元代にマルコ=ポーロがこの橋を渡ったことが『東方見聞録』にも現れる名所である。盧溝橋と蘆溝橋が長い間混用されてきたが、1981年に中国政府が橋のたもとに立つ清の乾隆帝直筆の「盧溝暁月」碑を尊重して、盧溝橋に統一することを決定した。<秦郁彦『盧溝橋事件の研究』1996 東京大学出版会 p.112>
 支那事変 1937年7月の盧溝橋事件から始まった日本軍と中国軍の衝突。7月段階では衝突は北京付近のみだったので、北支事変と言われたが、8月に上海でも武力衝突が起きると、支那事変(支那とはチャイナの日本語表記。戦前の日本では中国を一般に支那といった。現在は使用しない)と正式に命名された。一般では日華事変とも言われた。「事変」は、国際法上の正式な「戦争」ではないという意味を込めているが、事実上の日中戦争の開始であった。なお、正式に日本が中国に宣戦布告するのは太平洋戦争に転換してからである。(日本政府は「大東亜戦争」と命名した。)
なぜ「事変」とされたか:盧溝橋事件から始まる日中の衝突は事実上の戦争であったが、日本は宣戦布告をせず、国際法上の戦争ではなく、自衛のためやむなく行った局地的軍事行動であるという意味で「支那事変」と称した。通常の戦争の開始を示す最後通牒や宣戦布告は行われていない。なぜ、「宣戦布告無き戦争」となったか、政府・軍の意図を総合すると次のような理由が考えられる。
不戦条約(1928年)に違反することで国際的に非難されることをさけるため(日本も調印していた)。
・アメリカの中立法(1935年制定)は、交戦中の国は武器を輸出しないことを定めていたので、正式な交戦中となるとアメリカから武器輸入が出来なくなること。(まだアメリカとは武器だけでなく大きな貿易相手国だった)
また、当時の広田弘毅外相は、日本の軍事行動の目的は、「反日的な蒋介石政権、軍閥勢力を排除することであり、支那民族を敵として戦うことではない」と言う意味の声明を出した。しかし事実上の全面戦争として展開されていく。<北博昭『日中開戦』1994 中公新書>
 第二次国共合作 1937年7月に勃発した日中戦争において、中国側の国民党と共産党が日本帝国主義に対する抵抗(抗日)で一致した戦いを組んだこと。両者は第一次国共合作が崩壊して以来、対立を深めていたが、1936年の西安事件を機に蒋介石が共産党との内戦停止に同意し、それ以前にコミンテルンの方針により1935年に民族統一戦線の結成を呼びかける八・一宣言を出していた共産党との間で協議が続けられ1937年7月の盧溝橋事件の勃発によって全面戦争状態となり、第二次国共合作が成立した。
9月22日に出された国共合作宣言は、まず共産党が発表し、翌日に蒋介石が談話を公表する形で行われた。共産党は声明で、「現在の大目標」として、(1)中華民族の独立・自由・解放、(2)民権政治の実現、(3)中国国民の幸福・愉快の生活の実現」を掲げた上で、そのため(1)三民主義の徹底的実現、(2)国民政府の打倒と土地没収政策の取り消し、(3)ソビエト政権の取り消し、(4)紅軍の国民革命軍への改編という4項目の即時実行を宣言した。これを受けて蒋介石は「この宣言は民族意識が一切を超える」ことを示すものとして評価し、「三民主義を奉じて救国に努力する者」に対して過去を問わない、と表明して第2次国共合作が成立した。<野村浩一『蒋介石と毛沢東』岩波書店 現代アジアの肖像2 p.269>
 八路軍・新四軍 1937年の第二次国共合作によって、中国共産党軍である紅軍の約3万は、国民党の国民革命軍に組み込まれることとなった(8月22日)。これが正式名称「国民革命軍第八路軍(後に第十八集団軍)」、通称を八路軍といい、以後抗日戦の主力を担っていく。総指揮は紅軍以来の朱徳があたった。また10月には、ゲリラ戦を展開していた紅軍約1万が新四軍として国民革命軍に改編された。日中戦争が展開されるなか、八路軍・新四軍は華中・華南で解放区を建設し、民衆をゲリラ戦に組織、日本軍にとって強敵となった。日本軍に頑強に抵抗する八路軍・新四軍は民衆の支持を受け、40年頃には、八路軍40万、新四軍10万の兵力に増強された。これらの共産党勢力が拡大すると、蒋介石・国民党は警戒心を強め、41年1月には国民革命軍が新四軍を攻撃し、壊滅させるという事実上の内戦(皖南事変)が起こった。しかし、共産党は国民党の挑発に乗らず国共合作は維持され、むしろ抗日戦の主役として主導権を握っていく。八路軍は、日中戦争の後の国共内戦が始まると、「人民解放軍」と改称する。
 南京虐殺事件 日中戦争の中で1937年12月、国民政府首都の南京総攻撃の際に、日本軍によって組織的に展開された、捕虜や非戦闘員に対する殺害、さらに略奪、強姦などの不法行為が行われたこと。国内では明らかにされなかったが、当初から国際的には大きな批判を受け、戦後の東京裁判などで軍指導者が処刑された。
国民政府の首都南京を攻略することによって、戦争を終わらせることができると考えた軍部は、上海戦で消耗し、十分な補給体制のないまま、一気に南京攻略に突入した。上海派遣軍と第一〇軍からなる中支那方面軍に編制された総勢20万の日本軍が、上海から南京に向かって攻撃を開始、南京に至る過程でも日本軍の暴行略奪は激しく、12月6日からは南京の城壁に直接攻撃を開始。翌7日には蒋介石夫妻はアメリカ人パイロットの操縦する飛行機で南京を脱出、その他の南京政府の要人、ドイツ人軍事顧問団(当時ヒトラーは国民政府軍に武器と軍事技術援助を与えていた)もひそかに脱出し、南京防衛にあたったのは唐生智司令官の下でかき集められた補充兵や新兵だった。国民政府と蒋介石はすでに11月20日に重慶遷都を決定していた。12月10日から12日にかけて激しい攻防戦が展開された。東京で早くも11日は「南京陥落」が伝えられ大々的な祝賀パレードなどが行われたが、実はそれは誤報で、まだ戦闘はつづいていた。12日夜は最も激しい戦闘が繰り広げられ、海軍機も空爆を行った。その際、誤ってアメリカ軍艦パネー号を撃沈するという事件も起こった(後にアメリカ軍に陳謝、賠償し決着した)。南京防衛軍は撤退を命じたがその指揮命令も混乱し、多数の兵士が武器を捨てて市民と共に逃げまどう状況となり、13日早朝ついに陥落した。その後は敗残兵掃討が行われ、一般市民も多数犠牲となった。敗残兵が市民に紛れ込んで、いわゆる「便衣隊」となっていることを恐れた日本軍はちょっとでも怪しいそぶりであれば捕らえて殺害した。12月17日松井司令官以下幕僚の入城式が挙行されたが、日本軍の略奪、強姦などの暴行は翌年1月までつづいた。
南京虐殺事件と東京裁判:日本の国民は中国の首都が陥落したので戦争も終わるだろうと喜びに包まれた。当初、「南京を一撃すれば中国は降伏する」という「一撃論」で南京攻略を行ったが、中国政府は武漢に退き、なおも抵抗を続けたので、日本軍の見通しは完全にはずれてしまった。また残虐行為の現実は国内に知らされることはなかったが、翌38年1月になると、南京での日本軍の蛮行は、「南京アトロシティー(虐殺)」として世界各地で報道され、国際的な批判が巻き起こった。戦後の東京裁判のA級裁判で松井石根元大将が南京虐殺事件の責任者として死刑とされ、また現地の南京で開かれたBC級戦争犯罪裁判では第6師団長谷寿夫元中将と、「捕虜三百人切り」などを行った軍人三名が有罪となって処刑された。
虐殺の犠牲者数:戦時における虐殺は無抵抗の捕虜や非戦闘員を殺害することで、国際法上許されない行為である。東京裁判では約20万以上の虐殺が認定され、中国では30万から40万という数字が挙げられている。このような「大虐殺」の数字には根拠がないとして否定する論者もいるが、日本側の研究でも30万に近いと想定するのが正しいようである。なおこの事件を「南京事件」という場合もあるが、一般に南京事件は別の事件(1927年)を指すので注意すること。<藤原彰『南京大虐殺』1986 岩波ブックレット、笠原十九司『南京事件』1997 岩波新書などによる>
 重慶 重慶は中国の長江上流、四川省の最大の都市。1938年11月から日中戦争の最後まで国民政府(蒋介石政権)の首都とされ、抗日戦争の拠点となった。国民政府は武漢を戦時首都としていたが、1938年10月に武漢が陥落したので、重慶に移転した。以後、蒋介石は重慶を拠点に援蒋ルートによるアメリカ・イギリスの援助を受けて抗日戦を継続した。日本軍は数度にわたって激しい重慶爆撃を行ったが、陸上部隊で攻撃することはできなかった。
国民政府の首都重慶移転:日本軍の南京総攻撃を前にした1938年11月20日、国民政府の蒋介石主席は首都の重慶遷都を宣布した。上海戦で約25万の兵力を失い、南京で徹底抗戦は不可能と判断したためであった。しかし孫文の墳墓(中山陵)があり中華民国の首都である南京を無抵抗で南京をあけ渡すことは、国民に重大な影響を及ぼし、自らの権威の失墜にもつながると考えた蒋介石は、首都を移転した上で日本軍に抵抗することをきめ、唐生智を防衛司令官に任命した。南京で抵抗することによって世界の関心を集め有利な講和条件を引き出そうとしたという。<笠原十九司『南京事件』1997 岩波新書 p.109>
 世界戦争への転換  
ノモンハン事件 1939年5月、満州国と外モンゴルで起きた国境紛争で、日本軍とソ連軍が直接対決した衝突事件。日本軍(関東軍)はノモンハン地区の国境線の明確化を主張して軍事行動を開始、モンゴルを支援するソ連軍が迎え撃った。広大な草原での機甲部隊同士の対戦となったが、装備に遅れていた関東軍が大敗し、9月に休戦協定を締結した。ここまで日本はソ連を仮想敵国として対ソ開戦論(北進論)を選択の一つとしていたが、同年8月に独ソ不可侵条約が締結されたこともあって、それは消滅した。また陸軍はこの敗戦を教訓として、装備の機械化を進めた。ノモンハン停戦協定成立直前の9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始まった。
 日米通商航海条約の破棄 1939年7月、アメリカ合衆国が日本に対して通告した。1931年の満州事変以来、日本の中国進出が進み、1937年の日中戦争がはじまるとさらにその支配圏は、満州のみならず中国本土に拡大された。日本は軍事的必要を理由に第三国の貿易・旅行の自由を制限し、華北・華中でも独占的な経済支配を行った。これに対してアメリカは、日本が中国におけるアメリカの通商権益を妨げているとして、日本に対して日米通商航海条約の破棄を通告した。条約破棄は規定により6ヶ月後の1940年に発効し、日米間の貿易関係が途絶えた。その結果、多くの戦略物資をアメリカに依存していた日本は、資源を東南アジアに求めるという南進論が強まり、日本は太平洋戦争へと突入することとなった。 → ABCDライン
日米通商航海条約:1894年(明治27年)に日本政府とアメリカ合衆国の間で締結された通商に関する条約。江戸幕府が締結した、1858年の日米修好通商条約は領事裁判権と関税自主権の二点で不平等なものであったため、明治政府は条約改正に努力し、ようやくこの日米通商航海条約で領事裁判権の撤廃に成功した(実施は99年)。なお、残る関税自主権の回復は、1911年の日米通商航海条約の改定によって達成された。上述のように、日中戦争後に日米間の対立が深刻となり、1939年7月、アメリカ合衆国がその廃棄を通告し、1940年に失効した。太平洋戦闘中は日米関係は途絶えたが、1952年対日平和条約発効に伴い、1953年4月に新条約が締結された。
 東亜新秩序 1938年11月3日、日本の近衛内閣が出した声明で、中国国民政府内の親日派(反蒋介石派)との提携を進めるため、この年1月に出した「国民政府を相手とせず」という声明(第一次声明)を撤回したもの。同年12月、重慶を脱出した国民党の汪兆銘が、ハノイに到着すると、近衛内閣は「善隣友好、共同防共、経済提携」を謳った第三次声明を発表し、それを受けて翌40年3月30日、汪兆銘を首班とする南京国民政府が成立した。 
 中ソ不可侵条約 1937年8月、中国国民政府の蒋介石と、ソ連のスターリンの間で締結された軍事同盟。日本に対する共同防衛にあたることを約し、互いの第三国との軍事同盟を禁じた。この条約に基づいて、ソ連は1938年11月に重慶に移った国民政府に対し武器の援助を続けた。当時のソ連共産党は、中国共産党に対しコミンテルンを通じて指導する立場にあったが、スターリンは中国共産党単独では日本と戦いないと判断、国民党との民族統一戦線維持にこだわっていた。また満州の日本軍の北進の可能性も大きかった(1939年5月にはノモンハン事件が起こった)ので、それを抑える存在として中国国民党軍に期待していた。一方、スターリンは1938年に独ソ不可侵条約を締結したものの、第2次世界大戦が始まり、1941年4月ごろからドイツ軍のバルカン侵出が強まって独ソ戦を覚悟すると、南進に転換した日本と利害が一致し、日ソ中立条約を締結する。ただしソ連は中国国民党政府と不可侵条約を結んでいたので、日本とは中立を宣言するに留まった。なお、スターリンの国民党政府に期待するという対中国戦略は以後も基本的に変わらず、1945年8月14日には国民党政府との間で中ソ友好同盟条約を締結する。スターリンは中国共産党が国共内戦で勝利するとはまったく考えていなかった。 
 汪兆銘 1940年3月、親日政権の南京国民政府首班となった中国の政治家。汪精衛ともいう。
南京陥落後も頑強な抵抗をうけ、重慶に移った国民政府に手を焼いた日本は、国民政府内の反蒋介石派に対する工作を行い、その分裂をはかった。上海で密かに進められた工作により、国民政府内のナンバー2(党副総裁)の汪兆銘(汪精衛)を38年12月に重慶から脱出させ、ハノイで日本軍との和平を表明させた。日本政府は汪兆銘を南京に迎え、40年3月、親日政権として南京国民政府を樹立させた。しかし南京国民政府に対する中国民衆の支持は全くなく、戦争終結には役立たなかった。
汪兆銘(号を精衛という)は古くからの国民党員で、孫文の後継者と目されており、その国共合作の精神を継承して国民党左派を形成し、蒋介石の上海クーデターに反対、武漢政府で共産党と協力態勢を継続したが、その維持に失敗、以後は国民革命軍をバックにした蒋介石に主導権を握られていた。日本軍の工作を受けて傀儡政権の首班となったが、1944年、日本で病死した。
 援蒋ルート 1938年10月、武漢三鎮が日本軍の手に落ち、蒋介石の国民政府は長江上流の重慶に退いた。重慶に対して日本軍は激しい空爆を加えたが、11月から重慶の国民政府に対するアメリカ・イギリスなどの支援が強化され、その抵抗はつづいた。この蒋介石政府支援のルートを当時日本では、援蒋ルートと言った。ルートは、アメリカ・イギリス・グランスによる仏印ルート(ハノイ・ルート)とビルマ雲南ルート(ビルマ・ルート)、さらにソ連による共産ルート(赤色ルート)の3ルートがあった。日本軍は日中戦争が膠着する中、これらの援蒋ルートの遮断を大きな課題として掲げ、ノモンハン事件(39年5月)の敗北で北進を断念した後は、フランス領インドシナやビルマ方面への進出を図るようになる。40年に入りフランスがドイツに降伏したのを受け、9月に北部仏印進駐を実行、アメリカ・イギリスとの対立を深刻とさせることとなる。
 重慶爆撃 日本軍は国民政府の蒋介石が移った重慶に対し、1938年末からたびたび戦略的な爆撃を行った。その中で、特に激しい空爆が行われたのが、1941年5月から8月にかけて(つまり太平洋戦争の開始前に)行われた一〇一号作戦であった。爆撃目標は「戦略施設」に限られ、第三国施設などは除外されていたが、重慶は霧が深く、大体の見当で投弾され、実際は無差別爆撃となった。8月19日の爆撃には完成したばかりの零式艦上戦闘機(いわゆるゼロ戦)が初めて護衛についた。この爆撃によって多数の重慶市民が殺害され、蒋介石の住居もねらい撃ちしたが、難を逃れた。<『図説日中戦争』森山康平著、河出書房新社p.145>
日本軍による重慶爆撃では犠牲者は1万名を超えた(中国側資料)。この爆撃は、ドイツ軍のゲルニカ爆撃(37年4月)とともに敵の抗戦意欲の低減をねらい、軍事目標だけでなく市街地も無差別に爆撃するという戦略爆撃の始まりを示すものであった。日本軍の錦州爆撃、漢口爆撃、ドイツ軍のロンドン爆撃、アメリカ軍(連合軍)のドレスデン爆撃東京大空襲と日本の都市に対する空襲、そして広島・長崎への原爆投下が戦略爆撃であった。
Epi. 重慶爆撃の記憶 2004年7月に開催されたサッカーのアジアカップ国際試合の重慶会場で、日本チームに対して中国人観客から激しいブーイングがあり、勝って引き揚げる日本チームのバスが襲撃されるという事件が起こった。日本人がほとんど忘れていた(あるいは知らなかった)日本軍の重慶爆撃にたいする中国人の感情がなおも厳しいことに気付かされることとなった。日本のマスコミは中国政府が重慶を反日教育の拠点にしているためであると非難する論調が多かったが、まず事実を直視することが大切であろう。
エ.ナチス=ドイツの成立とヴェルサイユ体制の破壊
 ナチスの形成  
 国民(国家)社会主義ドイツ労働者党 ヒトラーを指導者とした極右政党。もとは第一次世界大戦後に生まれた多数の少数政党の一つ、ドイツ労働者党と称していたが、1920年に国家(国民)社会主義ドイツ労働者党(ドイツ語で、Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei )。略してナチ党といい、その党員をナチス( Nazis )と称するのが一般的であるが、政党名の略装としてナチスということもある。また、その思想・行動様式をナチズムという。 
 ナチ党  
 ナチス  
 ナチズム  
 ヒトラー ドイツのナチ党指導者として1920年代に登場し、ヴェルサイユ体制の打破、ユダヤ人の絶滅、共産主義の排除などを主張して世界恐慌後の不況に苦しむドイツ国民の中間層の心を捉え、1932年の総選挙ではナチ党を第一党に押し上げた。1933年に首相に任命されると国会放火事件をでっちあげてドイツ共産党を非合法化し、全権委任法で独裁体制を確立させた。1934年には総統となってヴァイマル共和国は崩壊し、ドイツ第三帝国の独裁者となった。国内には巧妙な大衆宣伝で人心を捉える一方、親衛隊・ゲシュタポなどを通じた軍事警察機構を強化し、言論・政治活動の自由を奪い、ファシズム体制を作り上げた。
ヒトラーの外交:ドイツ人の「生存圏」の拡大を公然と掲げ、ヴェルサイユ体制に対する挑戦を開始、1933年には国際連盟を脱退した。さらに徴兵制を復活させて再軍備を行い、1936年にはロカルノ条約を無視してラインラントに進駐した。同じくファシズム体制をとるイタリア・日本との間で三国防共協定を結んで枢軸国を形成した。1938年にはオーストリアを併合し、さらにズデーテン併合を要求、イギリス・フランスは宥和政策を採ってこのドイツの膨張を容認したため、一挙にチェコスロヴァキアを解体させた。
第2次世界大戦:ヒトラーのドイツは1939年にスターリンのソ連との間で独ソ不可侵条約を締結した上で、ポーランドに侵攻、ついに第二次世界大戦を開始した。1940年から西部方面でも侵攻を開始、フランスをたちまちのうちに屈服させ、イギリス本土にも激しい空爆を加えたが、チャーチル首相に代わったイギリスが空爆にたえてドイツ軍の上陸を許さず、戦闘は停滞した。この間、ドイツ国内及びドイツ占領地域ではアウシュヴィッツ収容所での大量殺害などのようなユダヤ人に対する絶滅作戦を推進させた。1941年、ヒトラーは方向を転じて、バルカンに侵攻、さらに6月に独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻、独ソ戦を開始したが、1943年2月、レニングラードの包囲戦に敗北したことを機に後退を始め、連合国側の態勢が整うに伴って不利な戦いを強いられることとなった。早くも43年7月にはイタリアが降伏し、44年6月に連合国軍がノルマンディーに上陸、ドイツ軍は次第に追いつめられて、45年4月にはベルリンが包囲された。そのような中で、ヒトラーは4月30日、ベルリンの地下壕で自殺した。
ヒトラーの青年期〜『わが闘争』執筆まで:アドルフ=ヒトラーは1889年、オーストリアに生まれた。父は役人であったが、アドルフは私生児だった。その青年期は挫折の連続で、ウィーンの実業学校は中途でやめ、美術学校の入試に失敗、ついで1913年にドイツのミュンヘンに移住し、第一次世界大戦が起きるとバイエルン陸軍に入隊、4年間前線で戦い鉄十字章を授与された。毒ガス傷病兵として後方の野戦病院で終戦を迎えたのが30歳の時だった。1919年の秋、小さな極右の政党に参加し、まもなくその指導的役割を演じることになった。そこで彼はドイツの敗戦と共産主義革命の失敗という混乱の中で、反共産主義とドイツ国家の再建という確固たる使命感を得たようだ。共産党の指導者の多くがユダヤ人であったところからヒトラーはユダヤ人に対する伝統的な反感を巧みに煽る戦術をとった。1920年にこの小さな政党は国家社会主義ドイツ労働者党と改称し、ヒトラーが党首となった。1923年11月、インフレの進行とフランス軍などのルール占領で動揺したヴァイマル共和国の打倒を図り、ミュンヘンで暴動を起こしたが失敗し、ヒトラーは投獄された。その間獄中で既述したのが、『わが闘争』であった。
 ミュンヘン一揆  
 『我が闘争』 Epi. 『わが闘争』全新婚家庭に贈呈 ナチスは1936年以来、結婚式の際、すべての新婚夫婦に役場から『わが闘争』を贈ることにした。さらに全部で一〇〇〇万部近く売れたがほとんどが読まれなかった。敗戦と共に占領軍は『わが闘争』を初めとするナチス関係の書物の提出を命じたが、あつまったのはごくわずかに過ぎなかった。多くのドイツ人は、戦線が近づいてくると取り締まりを恐れて『わが闘争』を燃やすか、埋めてしまった。連合軍の将兵がたまに残っているこの本を見つけると、土産として取り上げていった。<マーザー『現代ドイツ史入門』1995 講談社現代新書 p.58>
 世界恐慌  → 世界恐慌
 ドイツ共産党  → 第15章 2節 ドイツ共産党
 ユダヤ人排斥 ヒトラーはウィーンで青年時代を送ったが、ウィーンには反ユダヤ主義の風潮が強く、彼もその影響を受けた。ヒトラーはゲルマン民族などのアーリア人種は、人類の中で最も優れた人種であり、それに反してユダヤ人は最も劣る人種であると主張した。そのようなユダヤ人にアーリア人種の純血が汚されることを恐れる、という宣伝を積極的に進めた。このようなヒトラーの人種論が何ら科学的な根拠はなく、またユダヤ人は人種ではなく民族的概念(ユダヤ教を信仰するという文化的共通性を持った人間集団)であることを見誤った主張であった。しかし、ユダヤ資本の支配に反発する民衆の心理を巧みに捉え、ナチス台頭の要因となった。ヒトラーは政権を握るとユダヤ人排斥を具体的に進め、1935年にニュルンベルク法を制定してその公民権を奪い、公然とユダヤ人迫害を開始、41年以降は占領地のユダヤ人を強制収容所に収容して大量殺戮をするというホロコーストを展開した。
 ヴェルサイユ条約  → 第15章 2節 ヴェルサイユ条約
 ヴァイマル体制  
 大衆宣伝  
 中間層 中間層とは、資本主義社会においては経済的優位にある資本家・経営者などの上層と、経済的に従属する労働者・被雇用者に対して、そのいずれにも属しない自営業者や商店主、技術者、比較的豊かなホワイトカラー、官吏たちなど豊かではないが一定の私有財産を有する中産階級とも言える。ドイツにおいては、財閥・軍部・高級官僚が特に権力階級を構成していた。中間層は財閥など上層階層におる権力独占に対しては不満を持つと同時に、労働者層が共産党に導かれて共産革命を起こすのではないか、という不安を抱いていた。ヒトラーのナチズムは、従来の保守的な資本家や官僚の権力独占を否定すると同時に、大衆のエネルギーによってヴェルサイユ体制という屈辱を晴らすことを主張し、一方では共産主義革命にも反対する姿勢を示したので、中間層の多くが期待を寄せることになり、1932年の総選挙でナチ党に圧倒的な支持を与え、その結果、第一党となることとなった。
 ナチス政権の成立  
a 1932年総選挙  
 ヒンデンブルク  
 ヒトラー内閣  
 国会議事堂放火事件 1933年、ヒトラー内閣が国会議事堂の放火炎上をドイツ共産党の犯行と断定し、同党を解散させた事件。ナチスの政権確立の陰謀事件と考えられており、これによってヒトラーは独裁的な権力を獲得した。
国会議員選挙(3月5日が投票日)の最中の2月27日夜、ベルリンのドイツ帝国議事堂が炎上した。ヒトラー内閣はこれを共産党の一斉蜂起の合図であるとみなし、その徹底的な弾圧を命じ、翌日「民族と国家を保護するための緊急令」を公布してワイマール憲法で定められた基本的人権を停止した。放火犯人としてブルガリア共産党のディミトロフ(戦後のブルガリア首相)などが逮捕されたが、10月の裁判ではディミトロフは無罪となり、元オランダ共産党ファン=デア=ルッベの単独犯行と断定された。以後共産党は解散させられ地下活動に入らざるを得なくなった。
 全権委任法(授権法) 1933年3月24日に成立した「全権委任法」は、正式には「民族および帝国の困難を除去するための法律」といい、「帝国暫定憲法」とも呼ばれている。この法律は、内閣に対し無制限の立法権を賦与し、さらに大統領の諸権限は縮少さるぺきてないと規定した。議会の立法権は、完全に、廃止されたわけてはないとはいえ、事実上、有名無実なものとなり、その結果、それは、例外的な事情においてのみ、したがって装飾的な目的のためにのみ、用いられるようになった。
「全権委任法は、自由主義的な立憲主義の諸原理からの、また国家の立法権を制限する規範や慣習の体系がらの、最も激しい背離を代表していた。‥‥その法律は、441対94の賛成投票によって成立したこと、したがって、必要得票数、すなわち出席議員の五分の二以上の票(ワイマール憲法第七六条)を獲得したことは、事実てある。だが、議会テロは、脅迫的ふんいきの中て開かれたのである。81名の共産党代議士と多数の社会民主党の代議士は、すでに正当な理由もなく、逮捕されていたのて、出席していなかった(出席していた社会民主党代議士は、この法案に反対投票した。)もしも、中央党が屈服せず、この法案に支持を与えていなかったら、テロ支配の手綱は、おそらく、解かれていたにちがいない。」<ノイマン『ビヒモス』P.50-51 みすず書房>
 一党独裁  
 ドイツ社会民主党  → 第14章 1節 ドイツ社会民主党
 ナチ党の独裁体制  
 総統 1934年8月、アドルフ=ヒトラーが就任したドイツ帝国最高の地位で、大統領権限と首相権限を併せた強大な権力を持つ。ドイツ語でヒューラー(またはフューラー)。もともとは1921年7月、ナチ党の党第一委員長となったヒトラーの党内における指導力が高まったころ、党内の「指導者」の意味でヒトラーをヒューラーと呼ぶようになった。1933年に首相に任命されて国家権力を握った後、1934年8月2日にヒンデンブルク大統領が死去してからは、ヒトラーは大統領を兼ねて総統兼宰相と称したが、やがて総統(ヒューラー)とだけ呼ばれるようになった。<村瀬興雄『アドルフ・ヒトラー』1977 中公新書 p.208,258>
 ナチス=ドイツ ヒトラーが首相に就任した1933年、または総統に就任した1934年8月から、1945年5月のヒトラーの自殺まで約10年間の、ナチ党がドイツ支配した時代をナチス=ドイツという。
1920年代に始まったナチ党の台頭は、1933年にその党首ヒトラーが首相となり、さらにヒトラーが総統という大統領と首相を一体化した強力な地位について独裁権力を握ぎるまでに至った。これによってヴァイマル共和国は崩壊し、第三帝国と称する全体主義化がはかられることとなった。国内ではナショナリズムを鼓吹してユダヤ人排斥をはかる一方、アウトバーンの建設など独占資本の利益に添った経済政策を推し進め、反対勢力を親衛隊(SS)やゲシュタポの軍事警察機構で暴力的に抑えつける体制を作り上げた。またヴェルサイユ体制やロカルノ体制を無視してドイツ勢力圏の膨張をはかり、1933年に国際連盟を脱退して、ザール併合、再軍備、徴兵制復活、ラインラント進駐を立て続けに強行し、ヨーロッパの安定を脅かした。さらに同じくファシズム体制をとるイタリア・日本と接近、1935年のベルリン=ローマ枢軸でのイタリア・ムッソリーニとの提携に続き36年には日独伊防共協定を締結し、枢軸国の陣営を形成した。1838年にはヒトラーはオーストリア併合を実行、さらにチェコスロヴァキアのズデーテン地方の割譲を要求すると、ミュンヘン会談でイギリス・フランスは宥和政策をとってそれを容認した。このような英仏の動きに不信感をもったスターリンとの間に独ソ不可侵条約を締結した上で、1939年9月、ヒトラーはポーランドに侵攻、ついに第2次世界大戦が開始された。その後、1945年4月まで、全ヨーロッパを戦争に巻きこみ、焦土と化すとともに、ドイツ国内や占領地ではアウシュヴィッツなどに強制収容所を設け、ユダヤ人に対する非人道的な絶滅措置をとり、戦後に大きな衝撃を与えた。しかし、反ファシズムで結束したアメリカ合衆国とソ連の双方に自由と民主主義のために戦うという大義を与えることとなり、ナチス=ドイツは孤立し、敗北した。戦後のドイツは、東西に分断されたが、西ドイツでは資本主義体制、東ドイツでは社会主義体制下に入ったが、いずれも徹底した非ナチ化がはかられた。
 ドイツ第三帝国  1933年にヒトラー内閣が成立し、さらに1934年にヒトラーが総統に就任して成立したナチス=ドイツは、自らドイツ第三帝国と称した。これは、ドイツの歴史上、神聖ローマ帝国(962年〜1806年)・ドイツ帝国(1871年〜1918年)に次ぐ、第三の帝国であるという意味であったが、第2次世界大戦での敗北、ヒトラーの自殺によって、わずか約10年後の1945年5月に消滅した。 
 ゲーリング  
 ゲッベルス  
 ヘス  
 突撃隊(SA)  
レーム  
レーム事件  
 親衛隊(SS)  
ヒムラー  
f 秘密警察(ゲシュタポ)  
ヒトラー=ユーゲント ナチスの青少年組織として始まり、1936年には法律により14〜18歳の男子の加入が義務化され国家機関となった。集団訓練を通じてナチ思想の教育を受け、戦争末期には戦場にもかり出された。略称はHJ(ハーヨット)。女子はこれとは別に14〜17歳が「ドイツ女子青年団」が組織された。ドイツ敗戦後、ポツダム協定によって禁止された。自らの意志で参加したのでなくとも、その団員だった過去を持つ人々は現在もナチス協力者として厳しく糾弾されることがある。<平井正『ヒトラー・ユーゲント 青年運動から戦闘組織へ』2001>
Epi. 映画『スウィング・キッズ』 制服に身を包んだヒトラー=ユーゲント(HJ)の少年たちがユダヤ人を追いかけ回していたころ、そのような画一的な価値観の押しつけに反発した若者たちがいた。彼らはHJに入ることを拒否し、わざと長髪やおしゃれをし、ベニー=グッドマンらのスウィング・ジャズに夢中になった。1935年に始まるスウィング・ジャズの流行はドイツにも及んだが、ナチスは劣悪人種である黒人の音楽であるときめつけ、ベニー=グッドマンらもユダヤ人であったので、その音楽はドイツ精神に有害であるとして取り締まりの対象となった。若者はそれに反発し、夜な夜なクラブに集まってスウィングにあわせて踊り狂っていた。彼らは自分たちをスウィング=ユーゲントと称したが、ヒトラー=ユーゲントのメンバーからは激しくなじられたり、暴力を受けたりした。ナチス支配下のハンブルクでの若者たちを描いた映画が『スウィング・キッズ』(1993年アメリカ映画)である。スウィングを楽しんでいた若者グループが次第に追いつめられていくさまが描かれていて、ナチス時代のドイツの少年たちに同情を禁じ得ない。是非一見してほしい映画である。なお、ナチスが音楽をどのように統制し、利用しようとしたかについては、明石政紀『第三帝国と音楽』1995 水声社 がある。
g ユダヤ人(ナチスによる迫害)ドイツ民族の優越を説くヒトラー・ナチスの思想は、「民族共同体」から夾雑物としてユダヤ人の排除を推し進めた。1935年の国会で成立したニュルンベルク法によって公民権を奪い、ドイツ人との婚姻(さらに性交そのものをも)禁止し、「ドイツ人の血」を守ろうとした。このような立法措置の一方、38年11月の「水晶の夜」を頂点とする迫害が続いた。このような迫害によって多くのユダヤ人が亡命を余儀なくされ、約50万人いたドイツのユダヤ人のうち、第2次世界大戦勃発前に36万が亡命している。<坂井栄一郎『ドイツ史10講』岩波新書p.188> → 第15章 5節 ユダヤ人の大量殺害
ニュルンベルク法1935年9月、ナチス支配下のドイツで制定された、二つのユダヤ人差別法。一つは「ドイツ公民法(国籍法)」で、「ドイツ国公民とはドイツ人、またはその行動によってドイツ民族と帝国に忠実に尽す意志と能力を持つことを示した人種上同し血統に属するもの」とされたため、非ドイツ人の公民権は奪われた。もう一つの法律は、「ドイツ人の血の純潔を維持する」ために発布されたので、ユダヤ人(一人でもユダヤ人の祖父母を持つ者をも合めて)と、ドイツ人との結婚を禁止した。同法に違反する結婚は、結婚によらない性関係と同じく、重労働によって罰せられた。ユダヤ人は公旗を掲げたり、あるいは彼らの団体旗を見せたりすることはいかなる場合ても認められなかくなり、公共的な場所(庭園・劇場・プールなど)への出入りを禁止され、それまで公職に就くことが許されていたユダヤ系旧軍人も追放となった。<ノイマン『ビヒモス』P.103、ダヴィド『ヒトラーとナチズム』P.129-130などから要約> 
 ロマ  
i アインシュタイン  → 第17章 4節 現代文明 アインシュタイン
j トーマス=マン  
 ニュルンベルク法  
「水晶の夜」 1938年11月に起こった、ユダヤ人青年によるパリのドイツ大使館員銃撃を口実に、ナチ党の指令で全国の都市のユダヤ人居住区(ゲットー)が襲撃されたユダヤ人迫害事件。襲撃されたユダヤ人商店のガラスが散乱した様子から「水晶の夜」と言われた。
「1938年11月7日、ポーランド系ユダヤ人の17歳の若者H・グリュンシュパンは、両親がナチスによりドイツからポーランドへ強制輸送で追放されたことを知って、パリでドイツ大使館付書記官E.V.ラートを狙撃し、重傷を負わせた。ヒトラーは11月8日のミュンヘン一揆記念日のためにミュンヘンに来ていた。9日にはゲッベルスもミュンヘンに駆けつけた。9日夜会食中のヒトラー等の席にラートの死が伝えられた。ゲッベルスは当時チェコの女優リダ・バーロヴァとのスキャンダルでヒトラーの顰蹙をかっていたので、彼の機嫌を取り戻すよいチャンスと考え、ヒトラーと二人だけで討ちあわせをし、ただちにユダヤ人に対する報復行為開始を指示した。その結果、11月9日夜から11日にかけ、全国で大迫害が起こり、7500に及ぶユダヤ人住居、商店、デパートなどが破壊掠奪され、数百におよぶシナゴーグ(会堂)が破壊放火され、また数百近いユダヤ人が殺され、有産者を中心とする3万人近くが逮捕され、強制収容所へ送られたのである。ラートの出身地フランクフルトでは特にひどく、市内の5つのシナゴーグはすべて焼き払われた。」<大澤武男『ヒトラーとユダヤ人』 講談社現代新書 P.158-162>
 強制収容所 1942年1月、ナチス・ドイツはユダヤ人排除の「最終解決」をはかり、ゲシュタポ(秘密警察)の手によってその絶滅作戦を開始した。それによれば、ユダヤ人で労働に従事出来ない者は即座に殺害し、労働に耐えうる者は強制労働をさせることであった。そのために、アウシュヴィッツ、ベルゲン・ベルゼン、トレブリンカ、マイダネク、ダッハウ、ブーヘンヴェルトなどに強制収容所を建設、ガス室などの大量殺害を行う施設を造った。第2次世界大戦中にナチスによって殺害されたユダヤ人の数は、一説に600万といわれ、最低400万は下らないと思われる。<上田和夫『ユダヤ人』 講談社現代新書>
l 四カ年計画  
m アウトバーン  
 ヴェルサイユ体制の破壊  
a 国際連盟  
b ザール地方  
c 徴兵制復活(ドイツ)1935年3月16日、ドイツは徴兵制の復活を宣言した。これはヴェルサイユ条約に対する根本的挑戦であった。同時にそれまでのライヒスヴェヤー(国防軍)の名は、ヴェヤーマハト(防衛軍)の名に変えられ、陸軍は総統ヒトラーの指揮下に従属するものとされた。すべての軍人は憲法に対してではなく、アドルフ・ヒトラーに対して宣誓し、陸軍省は直接総統の命令に従属するものとされた。また部隊の重装備化が図られ、装甲機械化師団(パンツァーといわれる)の三個師団が出現した。ついで10月15日には、またもヴェルサイユ条約を無視して、陸軍大学が再開された。11月7日、1914年生まれの第一期が徴集され、59万6千人の若人が軍人として訓練されることになった。このようにしてドイツの軍隊は、少なくとも紙の上では一挙に、70万の精鋭に増強された。 
d 再軍備の宣言   
 ストレーザ戦線 1935年4月、先月のドイツの再軍備宣言に脅威を感じた、イギリスのマクドナルド、フランスのラヴァル、イタリアのムッソリーニの三首脳がイタリアのストレーザで会談し、ドイツのヴェルサイユ条約侵犯に抗議し、オーストリアの独立を支持する声明を発表した。ストレーザは北イタリアの保養地。ここで成立したイギリス・フランス・イタリアの対独提携は、ストレーザ戦線と言われ、ドイツの侵出に対する有効な力になるかと思われたが、ムッソリーニのイタリアは、エチオピア侵出を狙っており、英仏はそれについては黙認した。また同年6月にはイギリスが単独でドイツと英独海軍協定を締結し、足並みが乱れ、結局は同年10月、イタリアがエチオピア侵出を開始したのを機にドイツに接近して、ストレーザ戦線は1年も持たず解体した。 
e 英独海軍協定 1935年6月、イギリス(ボールドウィン内閣)とナチス・ドイツの海軍協定。ドイツはイギリスの35%までの軍艦を保有できること、潜水艦(Uボート)はイギリスの60%まで建造できることが認められた(商船攻撃には使用しないことを保障した上で)。これはヴェルサイユ条約の規定を破ることであり、イギリスの対独宥和政策の第一歩といわている。イギリスは海軍主導でこの協定の締結を進め、ナチス・ドイツの事実上の軍備拡張に歯止めをかけることができると判断して、フランスとも協議せずに調印した。しかしヒトラーは逆にこの協定によって戦艦、潜水艦の建造が認められたとして、その建造を急速に進めた上で、1939年4月に一方的に破棄した。
Epi. 英独海軍協定に対するチャーチルの批判 当時、保守党の一議員として対独宥和政策を批判していたチャーチルは、次のように述べている。
「凡そ軍人が政治に口出しすることは常に危険なことである。・・・しばらく前から、イギリスとドイツの両海軍省のあいだに、両国海軍の比率に関する交渉が行われていたのである。ヴェルサイユ条約によって、ドイツは六千トンを越えない軽巡洋艦六隻と、一万トンの戦闘艦六隻以上を建造することを許されていなかった。最近イギリス海軍省が発見したところによると、ドイツが最近建造中の二隻のポケット戦艦――シャルンホルスト号とグナイゼナウ号は、条約によって認められたよりも、はるかに大型であり、しかも全く異った型のものであった。...この周到な計画の下に、少なくとも二年前(一九三三年)に着手された、厚かましい詐欺的な平和条約の侵犯に直面して、イギリス海軍省は現実の上に立って、英独海軍協定を結ぶ必要があると考えた。イギリス政府はこれを同盟国のフランスにも相談せず、国際連盟にも通告せずに実行した。イギリス自身が連盟に提訴し、ヒトラーが平和条約(ヴェルサイユ条約)の陸軍条項を侵犯したのに対して抗議するために、連盟加盟国の支持を求めつつあったちょうどそのときに、イギリスは同じ条約の海軍条項を放棄するための、ひそかな協定を進めていたのである。」<チャーチル『第2次世界大戦1』p.119 河出文庫>
 仏ソ相互援助条約  → 仏ソ相互援助条約
 ラインラント進駐  
ベルリン・オリンピック  
オ.ソ連の五カ年計画とスターリン体制
 スターリン体制 ソ連の歴史で新経済政策(NEP)の時期の次に位置し、1929年スターリンの権力確立から、第2次世界大戦をはさんで、1953年のその死去までの24年にわたり独裁が行われた。
戦前のスターリン体制スターリンは、1929年にスターリン政権を樹立し、同年からの第1次五カ年計画、つづく第2次五カ年計画の10年間を通して、社会主義国家の建設を目指して工業化と農業集団化を推し進めた。この間、特に1930年代は政治的な対立者や、独裁体制に批判的な人々を厳しく処罰し、粛清が行われ、スターリンに対する個人崇拝が強まった。1936年制定のスターリン憲法では、ソ連の社会主義の建設は完了したと認定され、「党の支配する国家」が完成し、党の指導者スターリン支配が揺るがないものとなった。この間、資本主義世界では世界恐慌が起き、ドイツ・イタリア・日本などのファシズム国家が台頭、一方の先進的な帝国主義諸国はブロック経済を形成したイギリス・フランスと、ニューディール政策で国内市場の再建に向かいつつあったアメリカが提携してファシズムと対決する情勢となったが、帝国主義諸国はスターリンのソ連を敵視していたので、ナチス・ドイツに対して宥和政策を採ることとなり、スターリンは英米に不信感を強めて1939年に独ソ不可侵条約を締結した。
第2次世界大戦中のスターリン体制:1939年、大戦が始まるとスターリンはドイツとの密約に基づき、ポーランドに侵攻し、その東半分を獲得した。さらにソ連−フィンランド戦争を起こし(そのため国際連盟から除名される)、バルト三国を併合するという領土拡張を行った。しかし、勢力拡大を東方に転じたヒトラーが41年、突如不可侵条約を破っソ連に侵攻、両国は全面的な独ソ戦が開始された。ドイツを共通の的とすることとなったスターリンと英米首脳とは43年のカイロ会談以後、戦争の遂行と戦後世界のあり方について、会談を重ねる。スターリンは英米に対し第2戦線(連合国がドイツの西側で攻勢をかけること)を要求し、英米はスターリンに対日参戦を要求した。また戦後構想では国際連合の設立に同意し、三者の合意によって戦後の枠組みができあがった。この間、ソ連はスターリングラードの戦いなどでの激戦でドイツの攻勢を凌ぎ、形勢を逆転させて東ヨーロッパ諸国を次々と解放し、勢力を扶植していった。
戦後のスターリン体制:1945年5月、ヒトラー・ドイツが降伏し第2次世界大戦が終結すると、特にドイツ問題で米英とソ連の利害の対立が表面化し、一挙に資本主義陣営と社会主義陣営の東西対立という冷戦時代に突入した。スターリンはその後も強大な独裁権力を握って米英との対決姿勢をつづけ、また東欧諸国や国共内戦を展開していた中国共産党を支援した。しかしスターリン独裁体制は次第に硬直化し、ユーゴスラヴィアの離反などを招き、国内の自由化を求める声も強くなってきた。1973年にスターリンが死去、ソ連はブルガーニンなどの集団指導体制を採った後、1956年にフルシチョフがスターリン批判を行い、名実共にスターリン時代が終わった。→大戦後のソ連
a 個人崇拝  
b 粛清 後にスターリン批判として明らかにされた1856年2月のフルシチョフの演説では次のように述べられている。
「確認されたことは、第一七回党大会で選ばれた党中央委員会の委員と候補一三九名のうち九八名、すなわち70%が(ほとんどが1937年から1938年にかけて)逮捕され、銃殺されたということであります[場内、憤激の叫び]。……
 このような運命をこうむったのは中央委員会のメンバーばかりではありません。第17回党大会の代議員も同じ運命に出会ったのであります。決議権あるいは審議権を持っていた千九百五十六人の代議員のうち千百八人、すなわち明らかに過半数の人が反革命の罪で告発され、逮捕されたのであります。われわれが今見たように、このような事実そのものが、第十七回党大会の参加者多数に浴びせられた反革命の告発がいかに馬鹿げていて、野蛮で、常識に反するものであるかを物語っているのであります[場内、憤激の叫び声]。
 われわれは、第十七回党大会が「勝利者の大会」として歴史に名を留めているということを思い出さないわけにはいきません。大会代議員はわが社会主義国家建設の積極的な参加者でありました。……このような人々が、ジノーヴィエフ派、トロツキスト、右翼偏向主義者(ブハーリン派)が一掃された時期に、また社会主義体制の偉大な完成ののちに、「裏切者」として社会主義の敵の陣営に加わったなどと言うことが、一体どうして信じられましょうか。
 これはすべて、スターリンによる権力濫用の結果であって、スターリンが党幹部に対して大量テロルを行使しはじめたということなのです。
 活動家に対する大量弾圧が、第十七回党大会後にますます大規模になりはじめた原因はどこにあるのでしょうか。これはその時期、スターリンが自分を党と人民の上に置き、中央委員会と党のことを考慮しなくなったためであります。……」
<『フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」』講談社学術文庫 p.45>
c 第2次五カ年計画 第1次五カ年計画(1928〜1932年)に次ぐ、1933年から1937年にわたる、ソ連の共産主義社会建設の第二段階。第1次が急速な工業化と集団化を目指したため、餓死者を出すなどの問題があったことをふまえて、消費財生産などの軽工業部門の育成を目ざして始まったが、資本主義世界でのドイツなどのファシズム国家の出現などの新たな緊迫した情勢が生じたため、結局軍事物資中心の重工業生産重視に転換した。この間、スターリン憲法を制定して、スターリン指導のもとでの一党独裁体制を確立させ、1939年から第2次世界大戦に突入することとなる。 
d スターリン憲法 1936年、スターリン独裁のもとで制定されたソ連の憲法。第1次五カ年計画(1928〜32年)が終わり、ソ連の社会主義建設が完了したと規定し、スターリン体制を確立させた。1924年公布のソヴィエト社会主義憲法に代わるものとして、1936年11月、スターリンが第8回全連邦ソヴィエト大会に提案して承認された。内容のポイントは次のような点である。
ソ連を社会主義建設が完了した社会と定義。ここで社会主義とは「各人よりはその能力に応じて、各人にはその能力に応じて」成り立っている社会を言う。(「各人にはその必要に応じて」配分される共産主義社会とは区別され、それはまだ実現していないとされる。)
階級対立は消滅したが、階級そのものはは消滅したのではない。労働者と農民の友好的階級と、勤労インテリゲンツィアが存在し、平等な諸権利、市民権を持つ。(搾取者は存在しなくなったとされたので、1918年憲法での資本家・地主・生殖などの選挙権剥奪規定は無くなった。)
・国家は社会主義ものとでは弱まる存在だが、周囲を資本主義国に囲まれている現状では強化される。
国家権力の最高機関は最高会議(ソヴィエト)である。これは「連邦会議」と「民族会議」の二院制より成り、普通・平等・秘密・直接の選挙で選ばれる。
・最高会議は「最高会議幹部会」(内閣に相当する。その議長が首相に相当する。)を選挙する。また、人民委員会議(戦後、閣僚会議に改称)を任命し、最高裁判所を選挙し、検事総長を任命する。
・勤労者代表ソヴィエト、国営企業、コルホーズなど各級の国家機関に関する規定。
・ソ連邦を構成する共和国(当時11)は分離権を持つ。各民族は平等であり、自治が認められる。
・国民は労働、休息、教育、社会保障などの権利を持つ。信仰、言論、出版、集会、デモなどの自由を持つ。しかしこれらの自由は「社会主義体制を強化するため」にのみ与えられる
共産党は「あらゆる組織の指導的核」であるとされる。
e 共産党の一党支配 1936年制定のソ連憲法、いわゆるスターリン憲法では、共産党は「あらゆる組織の指導的核」であると規定されいる。またスターリンは憲法草案を提案した第8回ソヴィエト大会で、「共産党の指導的地位は不変であり、ソ連邦には共産党一党のみが存在いうる」と演説している。
ソ連社会主義体制のもとでは階級対立は消滅したが、プロレタリア階級はまだ消滅していず、プロレタリア独裁は継続されると考えられており、プロレタリア独裁は共産党の一党独裁と同義であるとされた。そこで、共産党以外の政党の存在は認められなくなる。ソ連という国家では共産党がすべてを指導されたので、「党に指導される国家」言い換えれば、「党が所有した国家」とか「党に支配される国家」と言われる。従って国家の最高機関である議会や、行政機関である内閣も、共産党の下に置かれることとなるので、国家元首や首相よりも、党主席や党書記長の方が強い権力を有することとなる。ソ連の場合は共産党の最高権力はスターリン以来、慣例として書記長(書記局の長、一時期は第一書記と言われた)が持っている。
ソ連以外の社会主義国でも、共産党(名称は様々で、労働者党などと言う場合も多い)の一党独裁体制がとられていたが、1989年の東欧革命、91年のソ連崩壊で東欧諸国では現在では多党制が採られている。中国は建前は複数政党も認めているが、現実は依然として共産党一党支配が続いている。
 国際社会への参加  
a アメリカのソ連承認 → ソ連の承認(アメリカ)
b 国際連盟(ソ連) 
c コミンテルン第7回大会 1935年7月から8月にかけて、モスクワで開催された、コミンテルン(世界共産党、第3インターナショナル)大会。ドイツにおけるナチスなどのファシズム(全体主義)の台頭に対し、共産党が単独で対決するのではなく、社会党や社会民主党、自由主義者、知識人、宗教家などあらゆる勢力と協力する、反ファシズム人民統一戦線を結成すべきであるという方針を打ち出した。このような戦術を人民戦線ともいう。これは従来の社会民主主義やブルジョア自由主義を的と捉える共産党の戦術を大きく転換するものであった。この方針にもとづいて、フランスやスペインに人民戦線が結成され、人民戦線内閣が誕生した。中国共産党はこの路線に基づき、八・一宣言を出し、抗日民族統一戦線統一戦線の結成を国民党などに呼びかけ、37年の第2次国共合作を導き出した。
d 反ファシズム人民戦線 1935年のコミンテルン第7回大会での方針転換を受けて結成された統一戦線。フランスにおける1935年の人民戦線内閣(首相は社会党のレオン=ブルム)、36年のスペインの人民戦線内閣(首相アサーニャ)などがある。また1937年の中国における第2次国共合作による抗日民族統一戦線もその形態である。
 仏ソ相互援助条約  → 仏ソ相互援助条約
カ.ファシズム諸国の攻勢と枢軸の形成
 恐慌の影響  
a ムッソリーニ  → 第15章 2節 ムッソリーニ
 エチオピア  
 ベルリン=ローマ枢軸  
 スペイン革命  
 人民戦線派  
 フランコ スペインの軍人で、1937年のスペイン人民戦線内閣を打倒して独裁権力を握り、第2次世界大戦後も独裁体制を維持し、47年から終身統領、1975年11月に死去した。まず陸軍参謀長だった1936年、人民戦線内閣の成立に対して非常事態宣言を要求したが、入れられずにモロッコに左遷され、ベルベル人部隊を組織して反乱を起こし、英領ジブラルタルからスペインに侵攻、スペイン内戦となった。ヒトラーのドイツとムッソリーニのイタリアの軍事支援を受けて人民政府軍と戦い、1937年10月に国民政府樹立を宣言し、ついに39年3月に人民政府を打倒し権力を掌握した。以後ファシズム体制をつくりあげたが、第2次世界大戦では中立を維持し、戦後も独裁体制を継続した。1947年には終身統領の地位につき、いわゆるフランコ体制といわれる独裁を続け、民主主義を否定、国民の自由な言論を抑圧し続けた。1975年のフランコの死はスペイン民主化の契機となり、スペインは王政復活という形でフランコ時代に終わりを告げた。
 スペイン内戦  
a 1936  
b 人民政府軍  
c フランコ軍  
d ソ連  
e 英・仏  
f 不干渉政策  
g ドイツ・イタリア  
h 国際義勇軍  
i ヘミングウェー  
j ジョージ=オーウェル  
k アンドレ=マルロー  → 第17章 4節 アンドレ=マルロー
l 「ゲルニカ」 ゲルニカはスペインのバスク地方、ビルバオの東、約20キロにあるビスカイヤ州の古都。1937年4月26日、ドイツ空軍の爆撃を受けた。爆撃はドイツ空軍「コンドル軍団」にイタリア軍機が加わり実行された。攻撃機にはゲーリングが意図した新鋭機のハインケル爆撃機、メッサーシュミット護衛戦闘機が実験的に投入された。この爆撃で市街地の25%が破壊され、70%が炎上した。死者の数はヒュー=トマスによれば200以上。爆撃の意図は、北上するバスクの政府軍の退路を断つこととされたが、道路や橋は残され、市街が爆撃された。<荒井信一『ゲルニカ物語』岩波新書 P.60、78-97>
※ピカソの「ゲルニカ」 4月26日のゲルニカ爆撃を29日にロンドンのタイムス特派員スティヤ記者の記事がフランス共産党機関誌ユマニテに掲載されることによって知ったピカソは5月1日からモチーフのスケッチに入り、6月4日頃完成させた。7月12日、パリ博覧会スペイン館が開館し、その正面に展示され、多くの人の目に触れた。 ピカソはこれをスペイン共和国政府に寄贈、その後、各地で展示された後、39年5月アメリカのニューヨーク近代美術館に移り、ピカソ自身の意志で、スペインに共和制が戻るまでスペインには帰らない、とされた。フランコの死後、民主化したスペイン政府がアメリカと交渉、81年10月マドリードのプラド美術館に入った。<荒井 同上>
 三国枢軸の結成  
a 日独防共協定  
b 三国防共協定  
c イタリア  
 日本・ドイツ・イタリア