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3.トルコ世界とイラン世界
ア.ティムール朝の興亡
A ティムール朝 ティムール朝(ティムール帝国ともいう)は、中央アジアのモンゴル系部族出身のティムールが一代で築いた帝国。都はサマルカンド(後にヘラートも都となる)。1370年に西トルキスタンで自立、帝位につくと、西チャガタイ=ハン国、イル=ハン国、キプチャク=ハン国の旧モンゴル帝国のハン国を次々と併合し、中央アジアから西アジアに及ぶ一大帝国を作り上げた。さらに小アジアに勃興したオスマン帝国と争い、1402年のアンカラの戦いではそれを破った。ティムールは、への遠征を企てたが、その途中、1405年に死んだ。ティムールの死後、一時混乱したが、第3代シャー=ルフ(位1409〜47)はヘラートに都を移して混乱を抑え、もっとも安定した時代となった。第4代ウルグ=ベク(位1447〜49)の時代にはトルコ=イスラーム文化が形成され、華やかな宮廷文化が花咲いた。第7代のアブー=サイード(位1451〜69)までは統一を保ったが、その死後は政権がサマルカンドとヘラートに分裂して衰退し、1500年にはサマルカンドが、1507年にはヘラートがそれぞれウズベク族シャイバニに征服されて滅亡した。ティムールの5代の子孫であるバーブルは、シャイバニと争い、サマルカンドの奪取を試みたが失敗し、アフガニスタンのカーブルからインドに入り、ムガル王朝を建設した。従って、モンゴル帝国とティムール帝国・ムガル帝国はモンゴル人チンギス=ハンの後継国家と意識されており、ムガルもモンゴル人の国を意味している。
ティムール帝国の領域 ティムール朝は、ティムール一代で建設された世界帝国であるが、その領域の概要は、直轄領としてのマー=ワラー=アンナフルを中心に、一族が分封されたフェルガナ、アフガニスタン、ホラーサーン、アゼルバイジャン(イラク、イランを含む)の四大直接支配地からなり、その周辺にティムールの宗主権を認める間接支配地域として小アジア、エジプト、シリア、南ロシア、アルメニア、グルジア、シールワーン、北インド、モグーリスタン(旧東チャガタイ=ハン国、天山山脈からタリム盆地)などがあった。
なぜ世界帝国をつくりえたか ティムールが短期間で世界帝国を建設することができた理由としては、次の二点が考えられる。
・騎馬遊牧民の伝統をもつ軍隊組織 トルコ化しイスラーム化したモンゴル人で定住生活に入った人々であったが、なお遊牧民の伝統を失わず、いざ戦争となると家族、家畜ごと移動式テントで遠征軍を組織した。その軍隊は十人隊から一万人隊まで十進法的軍事組織によって編制され、全体は中軍と左右両翼軍を構成するという遊牧民の伝統を継承していたが、ティムールはそれに創意を加えその都度陣形を変化させた。
・騎馬遊牧民の軍事活動を支えるオアシス定住民の経済力を重視し、都市の充実を図ったこと。ティムールの驚異的な成功は、遊牧民の軍事力と、定住民の経済力という、二つの基盤の上に築かれた。ティムールの成功の中に、中央アジアの遊牧文化とオアシス文化の結合を見ることができる。
ティムール朝が分裂した理由 ティムールの一族は、遊牧民の伝統に従い、征服地域を一族の共有財産と考え、一族に分封した。分封された一族はその地で小君主として民衆を支配した。また王朝の君主の継承は、他の遊牧国家と同じく、クリルタイでもっとも有力なものが推挙・承認されるという伝統を継承したので、常に帝国を分裂と抗争の要因となった。「ティムール帝国出現の一つの重要な基盤であった遊牧民の伝統は、同時に帝国を分裂と崩壊へとみちびく両刃の剣でもあった」。<間野英二『中央アジアの歴史』1977 講談社現代新書 p.159-173>
a ティムール

タシケントのティムール広場のティムール像。発掘されたサマルカンドのティムール廟の遺体から顔つきを復元したという。
ティムール朝(1370〜1507年)の創建者。モンゴル系貴族の後裔で、イスラーム教徒でトルコ語を話す。中央アジアのソグディアナを中心に現在のアフガニスタン、イラン、イラクにまたがる大帝国を建設した。
東西に分裂していたチャガタイ=ハン国は統合して一時勢いを盛り返し、中央アジアに進出した。その軍に従軍していたのがモンゴル系の部族出身のティムール(チムール、帖木児とも表記。「鉄人」の意味)であった。ティムールは、チャガタイ=ハン国の内紛に乗じて、1370年に中央アジア(アム川以北の地、マー=ワラー=アンナフル)にティムール朝を建国、自らアミール(イスラーム教の指導者の意味)を称し、イスラーム教スンナ派を奉じた。かつてチンギス=ハンによって破壊されたサマルカンドを復興させ、都とした。現在、ティムールはトルコ系民族の英雄として、特にソ連滅亡後独立したウズベキスタン共和国では国民統合の象徴とされ、タシケント、サマルカンド、生まれ故郷のシャリサーブズに銅像が建てられ、その遺跡が復興されている。
ティムールはどの民族に属するか 「ティムールは、1336年、サマルカンドの南、ケシュ(現在のシャフリサーブス)の近郊に、トルコ化しイスラム化したモンゴル族の一つ、バルラース部の一員として生まれた。彼の五代前の先祖はカラチャル・ノヤンというモンゴル人で、13世紀の初頭にチャガターイ・ハーンとともにモンゴリアから中央アジアに移住し、チャガターイ・ハーンの補佐役として、ハーン家内部の諸問題を取り扱った有力者であった。・・・この一族は、ティムールの曾祖父の時代になると、もはや昔日の有力者としての立場を失ってしまっていたらしい。」<間野英二『中央アジアの歴史』1977 講談社現代新書 p.156>
ティムールは自らはチンギス=ハンと同祖のモンゴル人であると墓石に刻ませているが、「トルコ化したモンゴル人」というのが正しく(彼ら自らはチャガタイ人と称した)、実質的にはトルコ人、名目的にモンゴル人とも言える。彼は文字は書けなかったが、チュルク語(トルコ語系)とタジク語(イラン語系)を自由に話したという。<加藤九祚『中央アジア歴史群像』1995 岩波新書 p.91-102 などによる>
ティムールの権威 ティムールは1370年に、チャガタイ=ハン国のハンの一族の一人フセインの軍を破り、フセインを殺害してマー=ワラー=アンナフル唯一最高の実力者であることをクリルタイで承認された。「ただしティムールは、自らがチンギス=ハン家の出身者ではないことを考え、名目的なハーンの位には、ソユルガトミッシュというチンギス=ハーン家の一王子を擁立し、自らはチンギス=ハーンの血をひく一女性をめとって、ハーン家の女婿(キュレゲン)としての立場に身をおくことで満足した。これは、チンギス=ハーン家の血を重んずる遊牧民たちの支持を得るためにとられた方策である。そしてこの時以降、ティムールは終生ハーンを称さず、常にアミール・ティムール・キュレゲン、・・・とよばれるが、それは”チンギス=ハーン家の女婿、遊牧貴族ティムール”・・・を意味する雅号である。」<間野英二『中央アジアの歴史』1977 講談社現代新書 p.159>
Epi. 足の悪い征服者ティムール ティムールは若いときから乗馬と弓を得意とし、部族の仲間と付近を通るキャラバンを襲っては略奪を繰り返していた。あるとき敵に攻撃を受け乗馬を殺されたとき、右足に傷を受けて足が不自由になった。これ以後人から、ティムールレング(足の不自由なティムール)と呼ばれるようになったという。ヨーロッパ人はこれをなまってタメルランとよんだ。ある人の記録によると、彼は畝がたくて肩幅が広く、大きな頭と濃い眉、長い脚、長い腕を持ち、右脚は不自由だった、という。1941年、ソ連の人類学者ゲラシモフがサマルカンドのグリ・アミール廟のチムールの遺骸を調査したところ、この記録が正しかったことが分かり、その頭蓋骨から外貌の復元が試みられた。<加藤九祚『中央アジア歴史群像』1995 岩波新書 p. 91-92,114>
ティムールの外征 ティムールはチンギス=ハンの子孫と称し、その事業を再現することをかかげ、イラン方面のイル=ハン国をあわせ、さらにロシアに入り旧キプチャク=ハン国(ゾロタヤ=オルダと呼ばれていた)の都サライを略奪して滅ぼした。ティムールは方向を転じて南方に向かい、インドに侵入しトゥグルク朝の都デリーを陥落させ(1398年)、さらにシリアに侵攻してアレッポ、ダマスクスを破壊、次いで小アジアに入ってオスマン帝国バヤジット1世を1402年にアンカラの戦いで破った。
Epi. ティムールの残虐さ 「イスフィザル(今のアフガニスタンの都市)攻略のときには、二〇〇〇人の生きた人間を粘土ブロックとともに積み重ね、イスファハンの反乱のときには七万の頭蓋骨の山を築き、小アジアのシバスの戦いでは四〇〇〇人を生き埋めにした。デリのスルタン・マフムドとの戦闘では、戦いの決定的な局面で捕虜が後方から攻撃するとの噂を信じ、丸腰の捕虜約一〇万人を殺させた・・・・と伝えている。」<加藤九祚『中央アジア歴史群像』1995 岩波新書 p.112>
中国遠征の挫折 ティムールが出現して西アジアの大半を征服したのと同じ頃、東アジアに登場したのが朱元璋であった。ティムールは明が元を滅ぼし、モンゴルを北辺に追いやったことに対し復讐を宣言し、その明で太祖洪武帝が死に、靖難の役の内乱が勃発したことを好機と捕らえ、アンカラの戦いから転じて20万の大軍を東に向け、パミール高原を越えて進軍させた。そのままいけば、モンゴル帝国の再現をめざすティムールと中華帝国の建設をめざす永楽帝という英雄同士の戦いとなるところであったが、ティムールは途中のオトラルで1405年2月18日に病死(異常な寒さをしのぐため酒を飲み過ぎたためといわれる)し、対決は実現しなかった。その墓所は現在のサマルカンドの中心部のグリ=アミール廟として残されている。
都市の建設 「チンギス=ハンは破壊し、ティムールは建設した」と言われるように、ティムールは中央アジアのサマルカンド、シャフリサーブスなどの都市を復興し、征服した各地からさまざまな分野の職人や芸術家、学者を連行し、建設にあたらせた。首都サマルカンドのまわりに、ミスル(カイロ)、ダマスクス、バグダッドなどの名を付けた村を建設し、サマルカンドが世界の中心であることを誇ったという。現在のサマルカンドには、ティムールゆかりの中央寺院(ビビハニム・モスク)、ティムールと孫ウルグベクらの墓であるグルアミール廟の他、シャーヒズィンダ廟群などが残り、シャフリサーブスには巨大な宮殿跡などを見ることができる。  → 世界史の旅 ウズベキスタン・タシケント、サマルカンド、シャフリサーブスのページ参照 
b アンカラの戦い ティムールは1400年からオスマン帝国領の小アジア、シリアに侵略の手を伸ばしていた。1402年、小アジアのアンカラ(現在のトルコの首都)の近郊で両軍の決戦が行われ、ティムールとオスマン帝国のスルタン、バヤジット1世が相対した。戦いはティムールの圧勝に終わり、バヤジット1世を捕虜とし多くの街を略奪した。ティムールはバヤジット1世を格子付きのかごに乗せ、多くの捕虜とともにサマルカンドに連行するつもりであったが、これを知ったバヤジット1世は服毒して自殺した。この敗戦の結果、オスマン帝国のコンスタンティノープル占領は半世紀遅れたと言われる。<加藤九祚『中央アジア歴史群像』1995 岩波新書 p.109による>
c 明  →第8章 1節 朱元璋
 シャー=ルフ ティムール朝の第3代君主(在位1409〜47)。ティムールの第4子であったが、ティムール死後の混乱を収束してその安定をもたらした。彼は帝国の都を自らの本拠地ヘラート(現在のアフガニスタン西部)に移し、サマルカンドには息子のウルグ=ベクを太守として統治させた。またイラン、アフガニスタン方面にも息子達を分封し、一族による帝国支配を体制を固めた。その上で対外的には平和外交の路線を打ち出し、父ティムールが遠征を志した明朝との関係も修復し、両国間にしばしば使節の交換が行われた。その40年に近い治世は、ティムール朝を通じて、もっとも安定した時代となり、トルコ=イスラーム文化が開花した。<間野英二『中央アジアの歴史』1977 講談社現代新書 p.170 などによる>
B トルコ=イスラム文化 14世紀末、中央アジアのトルコ人居住地域とイラン高原のイラン人居住地域にまたがるティムール帝国が成立したことによって、イラン=イスラーム文化がトルコ人にも伝えられ、トルコ人を主体とするイスラーム文化が形成された。
トルコ人のイスラーム化による文化の形成は11世紀のカラ=ハン朝に始まるが、それが開花したのがティムール朝であった。その中心と帝国の二つの都、サマルカンドヘラートが繁栄した。これらの都市には、広大なモスク(イスラーム寺院)やマドラサ(学校)が建設され、さらにハーンガーフ(巡礼者のための公共宿泊施設)、ハンマーム(公共浴場)などが建設された。また、宮廷では細密画(ミニアチュール)が描かれ、それとともにアラビア語をさまざまな書体で表現するアラビア書道が発達した。また文学では、すぐれたトルコ語(チャガタイ=トルコ語)の文学作品が生まれた。ティムール朝のトルコ=イスラーム文化の多面性の一つに、ウルグ=ベクがサマルカンドに建設した天文台にみられるような独自の科学の発展もある。
ミニアチュールの発達 もともと偶像崇拝の禁止されているイスラーム世界で、コーランなどの写本を飾る装飾として細密画は生まれた。モンゴル時代のイランのイル=ハン国で中国絵画の影響を受けて始まり、ティムール朝の宮廷で最高の水準に達した。特にティムール朝末期のスルターン=フサインのヘラートの宮廷には、イスラーム世界が生んだ最高の画家と言われるビフザード(1450頃〜1534)をはじめとする多くの画家が活躍した。
チャガタイ=トルコ語文学の発達 中央アジアにおけるトルコ語の形成には、11世紀のカラ=ハン朝のカシュガリーによる『トルコ語辞典』の編纂から始まるが、このティムール朝時代のヘラートで活躍したアリシール=ナヴァーイーが、「チャガタイ=トルコ語」を文章語として完成させ、現在「ウズベク文学の祖」として顕彰されている。またムガル帝国の創始者バーブルの自伝である『バーブル=ナーマ』も、すぐれたトルコ語文学として重要である。<間野英二『中央アジアの歴史』1977 講談社現代新書などによる>
a サマルカンド  →第4章 2節 サマルカンド 
ヘラート 現在のアフガニスタン西端、イランとの国境付近の都市で、かつてホラーサーンと言われた地方の中心地。ティムール朝第3代のシャー=ルフ(在位1409〜47年)のとき、サマルカンドからこの地に都を遷した。サマルカンドには長男のウルグ=ベクを太守として任命して統治させた。このシャー=ルフとそれに次ぐウルグ=ベクの時代は、トルコ=イスラーム文化の全盛期で、その中心都市としてサマルカンドに劣らない文化が繁栄した。現在ヘラートにはシャー=ルフの妃ガウハル=シャードの霊廟が残されている。また15世紀後半にチャガタイ=トルコ語を用いた詩を多く作り、トルコ語を文章語として確立させたアリーシール=ナヴァーイーはヘラートの宮廷で活躍した。 
b ウルグ=ベク

ウルグ=ベクの天文台の復元模型
(タシケントのウズベキスタン歴史博物館にて)
ティムール朝第4代の君主(在位1447〜49年)。ティムールの孫に当たる。父のシャールフはヘラート(現在はアフガニスタン)で帝国を統治し、その子ウルグ=ベクは太守としてサマルカンドを治めた。学問、芸術を奨励したことで知られ、特にサマルカンドに天文台を建設したことは有名。彼の天文台では高度な観測が行われ、みずからも天体観測を行い、それをもとに作られた『キュレゲン天文表』はアラビア語やトルコ語に翻訳され、イスラーム世界に広く用いられた。しかし、ウルグ=ベクの天文学研究やマドラサにおける男女の教育の実施などは、ブハラをはじめとする聖職者層からはイスラームの教えに反するものという反発が強くなった。また、父シャー=ルフの死後は、ヘラートの支配権をめぐって争いが生じ、我が子アブドゥル=リャティフと争って、1449年に暗殺されてしまった。
ウルグ=ベクの天文台 ウルグ=ベクはカジ=デザ=ルーミーという当時最高の天文学者を招き、天文台をつくり、自ら世界的な正確さを誇る天文表を作成した。サマルカンドには、当時の天文台の一部であった巨大な六分儀の跡が残っており、1908年ロシアの考古学者V.ヴャトキンによって発掘された。最近、ウズベキスタンの独立とともに、国民的英雄としてのウルグ=ベク賛美が盛んになり、天文台跡の整備工事が進められている。<加藤九祚『中央アジア歴史群像』1995 岩波新書>
 アリーシール=ナヴァーイーアリシェール=ナワイーとも表記。生没1441〜1501年。15世紀末のティムール朝末期のスルタン=フセインの宰相であり、ヘラートの宮廷で活躍し、特にチャガタイ=トルコ語を文章語として大成した文学者として有名で、多くの詩や散文を残した。叙情詩には生涯の4期に対応する形で『少年期の不思議』、『青年期の珍しさ』、『中年期の驚き』、『老年期の訓戒』があり、叙事詩には『イスカンダルの防壁』などの五部作がある。現在のウズベキスタンでは「ウズベク文学の祖」としてさまざまに顕彰されている。首都タシケントにはナヴァーイー公園があり、その像が建てられているほか、ナヴァーイーの名を付けた通りや劇場がある。<ナヴァーイーについては、加藤九祚『中央アジアの歴史群像』1995 岩波新書 p.153-173 に、「アリシェール=ナワイー」として詳しく紹介されている。>
C ティムール帝国滅亡  ティムール朝はティムールの死後、内紛が続き、弱体化した。第3代のシャー=ルフ、第4代のウルグ=ベクは一時持ち直したが、第7代のアブー=サイード(在位1451〜69)の没後、帝国はサマルカンドヘラートの二つに分裂し、いずれも政治的・軍事的に弱体化した。この間、中央アジアに起こったウズベク人(トルコ系民族、スンナ派イスラーム教徒)のシャイバニー=ハンによって、サマルカンドは1500年に、ヘラートは1507年に滅ぼされてしまった。ティムール没からわずか約100年後のことであった。シャイバニ朝はブハラ、ヒヴァ、コーカンドの三ハン国に分裂してしまい、中央アジアは世界史のなかで停滞することとなるが、その周辺ではティムール帝国が圧力が無くなったことにより、小アジアを中心としたオスマン帝国、イランのサファヴィー朝、インドのムガル帝国の台頭をもたらすこととなった。
a ウズベク人ウズベク人がいつ頃その民族形成をとげたか、必ずしも明らかではないが、キプチャク=ハン国のモンゴル人が遊牧トルコ化したものと考えられており、ウズベクの名は14世紀のキプチャク=ハン国のウズベク=ハンにちなんでいる。15世紀中ごろ、イスラーム教スンナ派を信奉し、ジュチの子孫と称するアブル=ハイル=ハンはウズベク人を率い、現在のカザフスタンの草原地帯から南下してティムール帝国領のシル川沿岸を奪い、大きな勢力となった。ところがその死後、ウズベク人の国は二つに分裂して、ハンに反発した集団は天山山脈西部で分離し、ウズベク・カザク(カザクとは冒険者の意味)と言われるようになった。これが現在のカザフ人の直接の先祖である。これによって一時弱体化したウズベク人の国家は、15世紀の末、アブル=ハイルの孫のシャイバニ(シャイバーニー=ハン)にによって再統一され、ティムール帝国のサマルカンド政権を1500年に、ヘラート政権を1507年に滅ぼして西トルキスタンのマー=ワラー=アンナフルにシャイバニ朝(シャイバーン朝)を建国した。こうしてウズベク人は西トルキスタンに移住して定住するようになり、チャガタイ=トルコ人やイラン系の先住民と同化しながら、現在のウズベク人となっていった。シャイバニ朝は、16世紀後半から都をブハラに遷し、その後ウズベク人の王朝がいくつか交替したがそれらを総称してブハラ=ハン国と称している。その後ロシアおよびソ連時代を経て、1991年に独立しウズベキスタン共和国となった。<間野英二『中央アジアの歴史』1977 講談社現代新書などによる>  → ウズベキスタン共和国の現在のウズベク人の項を参照
b シャイバニ16世紀初め、ウズベク人を率いてティムール朝のサマルカンド政権を1500年に、ヘラート政権を1507年に滅ぼして、西トルキスタンのマー=ワラー=アンナフルにシャイバニ朝(シャイバーン朝)を建国した。生没1451〜1510年。シャイバニー=ハンとも称した。シャイバニは、ティムール朝の一族のフェルガナを拠点としたバーブルと激しく争い、1500年にサマルカンドを攻略した直後にも一度手放し、1501年のサリ・ブルの決戦でバーブルを破り、再入城を果たした。その後もバーブルを追撃し、そのためバーブルは1503年、アフガニスタンに逃れた。しかし、1510年、シャイバニはイランのサファヴィー朝イスマイール1世と戦って敗れ戦死した。その機会にサマルカンドはバーブルに奪還されたが、翌年ウズベク人は反撃し、再びカーブルをアフガニスタンのカーブルに退却させた。 
シャイバニ朝シャイバーン朝とも表記する。16世紀初めの中央アジア(西トルキスタン)でティムール朝を倒したトルコ系民族であるウズベク人の族長シャイバニが起こしたスンナ派イスラーム教の王朝。首都はブハラにおかれた。1500年、シャイバニがサマルカンドに入りティムール朝(サマルカンド政権)を滅ぼして成立した。彼はジュチの子孫と称し、ティムール帝国の領域継承をめざしたが、1510年、イランに起こったサファヴィー朝(シーア派)のイスマーイール1世と戦って戦死した。シャイバニ朝は、ティムールの一族のバーブルがサマルカンドに侵攻したため一時制圧されたが、1512年に復興し、16世紀末アブドゥッラー2世の時、領土を広げた。シャイバニ朝はその後、1599年にジャーン朝に代わった。ジャーン朝とは、ヴォルガ下流のアストラハン朝からの亡命者ジャーンとシャイバニ家の王女との間に生まれた人物を初代としている。ジャーン朝は約200年、ブハラで存続したが、1740年、ウズベクの一部族であるマンギト族出身の武将によって滅ぼされ、以後マンギト朝が1920年まで続く。このシャイバニ、ジャーン、マンギトの三王朝は主としてブハラを首都としたので、一般にブハラ=ハン国と言われるようになる。ブハラ=ハン国からヒヴァ=ハン国が自立し、さらに18世紀にコーカンド=ハン国が分かれ、これらウズベク人の三ハン国が中央アジアに分立することになったが、19世紀後半にはあいついでロシアに征服された。
イ.オスマン帝国の発展
A オスマン帝国の成立 13世紀(十字軍時代の終わりごろ)の小アジアは、セルジューク朝の地方政権ルーム=セルジューク朝が支配していたが、東方からのモンゴルの侵入を受け、1242年その属国となった。ルーム=セルジューク朝の弱体化に伴い、小アジアにはトルコ系のイスラーム戦士の集団であるガーズィーが無数に生まれ、互いに抗争するようになった。またその西のビザンツ領を個々に浸食していった。その中で有力なものがベイ(君侯)を称し、小国家を創った。オスマン帝国の創始者オスマンもそのようなベイの一人だった。1299年、オスマンはガーズィを率いて小国家を独立させた。その後小アジアのビザンツ都市の一つブルサを奪い、ビザンツ帝国の弱体化に乗じて、小アジアに領土を拡大していった。その間、イスラム法学者(ウラマー)を招いて国家の機構を整えていった。
オスマン帝国の周辺 オスマン帝国は1453年、コンスタンティノープルを攻略してビザンツ帝国を滅ぼし、ヨーロッパ世界とアジア世界にまたがるイスラーム国家として強大化した。この時から都はイスタンブルとなる。15世紀後半のオスマン帝国の拡大によって、北イタリア商人が行っていた東方貿易ができなくなり、彼らがムスリム商人を介さず直接アジアとの取引をめざし、インド航路や西廻り航路の開拓を始め、それがヨーロッパ勢力の大航海時代を出現される前提となった。またビザンツ帝国滅亡に伴い、ギリシア人学者の多くはイタリアに亡命し、ルネサンスに刺激を与えた。 
またオスマン帝国が全盛期となった16世紀のスレイマン大帝の時代はヨーロッパでは宗教改革が進展し、同時に主権国家体制の形成が進んでいた時代であった。そしてイランにはサファヴィー朝が成立、南アジア世界ではムガル帝国が登場し、東アジア世界では明の繁栄が続いていた。15世紀末にはじまった大航海時代は、ヨーロッパ勢力のアジア進出がはじまった時期であるが、アジアにおいては、オスマン帝国・サファヴィー朝・ムガル帝国・明帝国(17世紀には清帝国に代わる)という巨大な専制国家が並立して、いまだ西欧世界に対して優位に立っていたと言える。
オスマン帝国 1299年から数えれば600年以上、イスタンブルを都としてからでも約470年存続し、1922年に消滅したイスラーム(スンナ派)国家。最盛期の16世紀には、西アジアから東ヨーロッパ、北アフリカの三大陸に及ぶ広大な国土を支配した。その推移を世紀ごとにまとめると次のようになる。
世紀別にみるオスマン帝国の推移
14世紀:ルーム=セルジューク朝の衰退に乗じ、1299年にオスマン1世が小アジアに建国、オスマン帝国が成立。第2代オルハン=ベイがブルサを首都とし、ガリポリに進出して初めてヨーロッパに領土を得た。 1361年には第3代のムラト1世がバルカン半島に進出、アドリアノープルを攻略、1366年にはそこを新しい都とした。さらに1389年のコソヴォの戦いでバルカン諸国連合軍を破り、その間、異教徒の奴隷軍団を育成、後のイェニチェリ軍団のもとを創った。次いで、 バヤジット1世は1396年、ニコポリスの戦いでヨーロッパのキリスト教連合軍を破り、コンスタンティノープルにせまったが、1402年アンカラの戦いティムールに敗れ、一時後退する。
15世紀: 国力を回復したメフメト2世が1453年、コンスタンティノープルを攻略してビザンツ帝国を滅ぼしイスタンブルを都とした。さらにメフメト2世はバルカン半島のほぼ全域を征服し、カフカス地方や北海北岸にも領土を拡大した。オスマン帝国によって東方キリスト教世界が征服されたことは、西ヨーロッパのキリスト教世界に大きな衝撃と影響を与えた。
16世紀セリム1世は1514年にイランに遠征、、サファヴィー朝軍をチャルディランの戦いで撃破し、領土を東方に拡大した。さらに1517年にはエジプトのマムルーク朝を滅ぼし、メッカ・メディナの管理権を獲得し、全イスラーム世界での主導権を握った。次いでスレイマン1世の時にスルタンの専制支配は全盛期となり、1529年の第1次ウィーン包囲で宗教改革期のヨーロッパにとって大きな脅威となり、1538年のプレヴェザの海戦の勝利で地中海の制海権を得た。しかし、スレイマン大帝の死後は1571年のレパントの海戦の敗戦によって海上の発展は終わった(これでオスマン帝国がすぐに滅亡するのではないことに注意する)。
17世紀:イギリス、フランスの資本主義国の植民地獲得競争が及んでくることによってオスマン帝国の衰退が始まる。1683年の第2次ウィーン包囲の失敗以降、バルカンの領土の縮小が始まり、1699年のカルロヴィッツ条約でオーストリアに対しハンガリーを割譲した。
18世紀:18世紀前半にはチューリップ時代という相対的に安定した時期にはフランス文化の受け入れがはかられた。しかし、隣接するドイツ、オーストリアの進出、ロシアの南下政策などによってクリミア半島を失うなど、オスマン帝国の領土は蚕食されるようになり、さらに支配下のアラブ人の独立運動が始まり、アラビアでのワッハーブ派や、エジプトでのムハンマド=アリーの登場などによってオスマン帝国の混乱が続く。
19世紀:1821年からギリシア独立戦争がおこり、さらに2次にわたるエジプト=トルコ戦争など、ヨーロッパ列国がオスマン帝国領内の民族独立運動に介入して東方問題が展開され、その過程でオスマン帝国の領土はトルコ人の居住地区だけに縮小されていった。そのような危機に面して、オスマン帝国の中ではイェニチェリの全廃タンジマートなどの近代化が模索されはじめた。1853年のクリミア戦争ではフランス・イギリスなどの支援でロシアの南下を食い止め、1876年にはアジア最初の憲法であるミドハト憲法が制定されたが、1877年にロシアが南下を再開して露土戦争が勃発すると、改革は頓挫してスルタン専制政治に復帰した。その戦争の結果、翌年のベルリン条約でルーマニアやセルビアなどのバルカン諸国の独立を認め、オスマン帝国は「瀕死の病人」と見なされるようになった。
20世紀:19世紀後半から続くアブデュル=ハミト2世の専制政治に対して、1908年に青年トルコによる青年トルコ革命が起こって立憲君主政となった。しかし、青年トルコ政権のもとで議会制は形骸化してエンヴェル=パシャらによる軍部独裁政治がしかれ、イタリア=トルコ戦争、2次にわたるバルカン戦争が続き、さらに反ロシアの立場から同盟国側で第1次大戦に参戦して敗北し、セーブル条約オスマン帝国の領土分割が行われ、国土の多くを喪失した。1922年、屈辱的な講和に反対して決起したムスタファ=ケマルの指導するトルコ革命によってスルタン制を廃止し、オスマン帝国は消滅した。新政権は連合国と改めてローザンヌ条約を締結し、領土の一部回復、その他の主権の回復に成功し、1923年に近代トルコ国家であるトルコ共和国が成立した。 → 現在のトルコ共和国
オスマン帝国の特徴
イスラーム教国であること:政治権力者であるオスマン家のスルタンは同時にイスラーム教スンニ派の宗教的指導者でもあり、単に帝国の権力者にとどまらずイスラーム世界の中心にあると意識された。特にオスマン帝国の衰退期にはスルタンはカリフの継承者であるというスルタン=カリフ制が強調された。また帝国の統治下ではイスラーム法(シャリーア)が施行された。しかし、19世紀以降の末期となると、オスマン帝国をイスラーム信仰を核とした宗教国家として存続させるというパンイスラーム主義と、トルコ民族を中心とした世俗的な多民族国家として再生を図るというパンオスマン主義とが国家路線をめぐって対立することとなる。
激しい征服活動イェニチェリ軍団を中核とした強力な軍事力のもと、西側で隣接するキリスト教カトリック世界に対して積極的な征服活動を展開してビザンツ帝国を滅ぼし、東側で隣接するシーア派イスラーム教のサファヴィー朝イランとは激しく抗争した。
多民族国家と「柔らかい専制」:オスマン帝国はトルコ人による征服王朝であり、支配層はトルコ人であったが、その領内にはアラブ人、エジプト人、ギリシア人、スラブ人、ユダヤ人などなど、多数の民族から形成される複合的な多民族国家であった。その広大な領土と多くの民族を統治するため、中央集権的な統治制度を作り上げたが、その支配下の民族に対しては、それぞれの宗教の信仰を認め、イスラーム教以外の宗教であるキリスト教ギリシア正教やユダヤ教、アルメニア教会派など非ムスリムにたいして改宗を強制せず、宗教的集団を基本的な統治の単位としていた。このような、中央集権的な専制国家でありながら、支配下の民族に対して宗教的にも政治的にも一定の自治を認めていたオスマン帝国の特徴は「柔らかい専制」と言われてる。<鈴木董『オスマン帝国 −イスラム世界の柔らかい専制−』1992 講談社現代新書>
補足 オスマン帝国には公用語がなかった 「公用語のない国家があると聞けば、そんなものは、お伽噺の世界にしかあり得ないと誰しもが思うことだろう。しかしそういう国が、少なくとも一つだけは、近代の世界に存在したのである。・・・オスマン・トルコ帝国には、はじめのころ、公用語と呼ぶべきものがまったくなかった。・・・オスマン・トルコ帝国の場合、特定の言語を被支配者に押しつけようという意図が、帝国崩壊にいたるまでついぞなかったのである。」イスラーム教徒にとってはアラブ語が、キリスト教徒はそれぞれギリシア語、アルメニア語、アッシリア語を宗教用語として用いていた。一方、文化教養言語としてはペルシア語が幅をきかせ、商業用語としてはギリシア語を用いるのが普通だった。ずっとあとになってスルタンの宮廷で成立したオスマンル語は、トルコ語を基礎にアラブ語とペルシア語の語彙と文法構造を織り交ぜた混成語であった。公文書はオスマンル語で書かれることになっても、宮廷外で一般民衆に強制されることはなかった。トルコ語は支配民族の言語であったにもかかわらず、「無学文盲の輩」の言葉として蔑まれ、近隣のペルシア語、アラブ語、ギリシア語からおびただしい数の語彙を借用した。帝国末期にギリシア人、ブルガリア人、ルーマニア人、セルビア人、アルバニア人などが次々と民族国家を形成していく過程で、その反動として初めてトルコ人にも民族意識が芽生える。トルコ語が書記言語として成立したのはトルコ共和国が成立した後に、アラブ文字を用いるオスマンル語にかわってラテン文字を採用してトルコ語が真の意味でトルコの公用語となった。<小島剛一『トルコのもう一つの顔』1991 中公新書 p.22-24> 
a 小アジアのトルコ化小アジア(アナトリア)は現在のトルコ共和国であるが、トルコ人はこの地に最初からいた民族ではないことに十分注意する必要がある。アナトリアはかつてヒッタイト王国、リディア王国が存在し、ペルシア帝国、アレクサンドロス帝国、セレウコス朝、ローマ帝国の支配を受け、4世紀以降は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の領土として続いていた。この間、ヘレニズム期からローマ時代まではほぼギリシア文化・ローマ文化が支配的であり、ギリシア人の他、ユダヤ人も多く、キリスト教が最初に広まったのもこの地域であった。
この地にトルコ人が侵入してきたのは、中央アジアから起こって西アジアに侵入したセルジューク朝の2代目スルタンのアルプ=アルスランが、1071年マンジケルトの戦い(マラズギルトの戦い)でビザンツ帝国軍を破ってからである。以後、アナトリアにはトルコ人が大規模に流入し、セルジューク朝の地方政権ルーム=セルジューク朝の支配が続く。1242年のモンゴルの侵入を経てイル=ハン国に服属するが、13世紀後半からはベイという君侯に率いられた小国家が分立するようになる。そのようなベイの一つがオスマン=ベイであった。
その後、小アジアはオスマン帝国の本拠として、20世紀まで続く。第1次世界大戦後、1922年オスマン帝国は消滅し、翌年トルコ共和国として近代化を目指す改革をケマル=アタチュルクの指導の下で進め、政教分離の原則を掲げている。小アジアはヨーロッパとアジアの接点に位置し、現在トルコのEU加盟と、それに反発するイスラーム原理主義の台頭という火種を抱えている。また東臨のアルメニアとの対立、クルド人の独立運動、西臨のギリシアとの領土紛争(キプロス紛争)も小アジア情勢の周辺に存在している。
オスマン1世(ベイ)オスマン帝国の初代君主であるが、ほとんど伝承によって知られるのみで正確なことは判らないが、イスラーム教スンナ派を信奉するトルコ人戦士集団(ガーディー)を率いてルーム=セルジューク朝の衰退による群雄割拠の中で台頭し、1266年に父の族長エルトゥルルの死によって族長となった。彼は自分の名を部族名とし、他のトルコ系部族と連合しながら周辺のキリスト教国を征服し、1299年にアナトリア西部のイェニシェヒールを陥落させて、小アジア西部の小君侯国として独立した。オスマン=ベイのベイとは君侯の称号であり君侯国も意味する。後にオスマン帝国に発展してからその始祖としてオスマン1世と言われるようになった。彼は、ビザンツ帝国領のブルサ攻撃にとりかかり、勝利したが入城直前に病没した。
第2代 オルハン=ベイ 息子のオルハン=ベイがブルサに入って新首都と定め、それまでの遊牧部族の部隊を正規軍団に編制し、初めてオスマン国家としての貨幣を発行するなど、国家形態を整えた。オルハン=ベイは征服活動を再開し、キリスト教の聖地ニケーアを攻略し、コンスタンティノープルと指呼の間に軍を進め、ビザンツ帝国と和平を結び皇女テオドラを妃に迎えた。しかし、数年後にダーダネルス海峡を超え、ガリポリを手中に収めて初めてヨーロッパに領土を獲得した。
b バルカン半島(オスマン帝国の進出)バルカン半島オスマン帝国の侵入した14世紀中頃は、トルコ語ではルーメリ(ルーム=ローマのイル=地方)といわれたが、スラブ系のセルビア人やクロアチア人、スラブ化したブルガリア人などが流入、割拠してビザンツ帝国領はかなり縮小していた。オスマン帝国のムラト1世は、バルカン半島に侵入して、1361年にアドリアノープルを都としてエディルネと改称した。ムラト1世は征服したバルカン半島のキリスト教徒の少年を強制的に徴兵してイェニチェリ(新軍団)を編制した。1389年のコソヴォの戦いでは、セルビアはハンガリーなどとともに戦ったが敗北した。14世紀末までにはブルガリアがオスマン領となった。さらにバヤジット1世は1396年にニコポリスの戦いでハンガリー王などを破り、キリスト教世界に大きな脅威を与えたが、小アジアでのティムールとのアンカラの戦いで敗れたため、オスマン帝国のバルカン進出は一時収まった。しかし15世紀中ごろに再開され、1453年にメフメト2世はビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを包囲した。ついにコンスタンティノープルを陥落させてビザンツ帝国は滅亡し、以後、セルビア、ボスニア、ギリシア、アルバニアを征服、ルーマニアを属国にし、バルカン半島を完全に支配することとなった。オスマン帝国はバルカン地域を支配する際、騎士(シパーヒー)にティマール(知行地からの徴税権)を与えて支配させ、ギリシア正教会などのミッレト(宗教共同体)の自治を認めた。さらに16世紀のスレイマン1世の時代にはオスマン帝国のバルカン支配は拡大され、1526年、モハーチの戦いでハンガリー軍を破り、神聖ローマ帝国皇帝のカール5世と抗争を展開した。1529年、スレイマン1世はハプスブルク朝の都ウィーンを包囲し、おりから宗教改革の時代で混乱していたヨーロッパキリスト教世界に大きな脅威となった。しかしそのころを頂点としてバルカンのオスマン領は次第に後退する。1571年のレパントの海戦の敗北以来、バルカン半島でのハプスブルク家神聖ローマ帝国との戦線は膠着した。1683年には第2次ウィーン包囲が強行したが失敗し、この間国力をつけたオーストリア帝国との間で、1699年のカルロヴィッツ条約を締結してハンガリーを放棄した。一方、ロシアもクリミア半島から黒海方面に進出し、ボスフォラス海峡、ダーダネルス海峡通過権を得ようと介入を強めた。ナポレオン戦争によって民族意識が一斉に高まった19世紀にはいると、民族運動が高揚してギリシアの独立運動を機に、それに介入するヨーロッパ列強の対立からいわゆる東方問題が起こってくる。特に南下政策を強めたロシアに後押しされたスラブ系民族は、1830年にセルビアが自治権を獲得し、1877年露土戦争によって独立が認められる。1908年、オスマン帝国で青年トルコ革命が起こって混乱すると、オーストリアはボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合し、ブルガリアは独立を宣言した。こうして、オスマン領はオーストリアのパン=ゲルマン主義とロシアのパン=スラブ主義による争奪戦によって浸食され、両陣営の対立によってバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と言われるようになる。このバルカン問題第1次バルカン戦争として火を噴き、オスマン帝国はバルカン同盟諸国に敗れて、1913年のロンドン条約でイスタンブル付近を除くバルカン半島の領土を失った。
以上のような13世紀から20世紀初頭似たるオスマン帝国のバルカン半島支配により、現在でもバルカン諸国内にはイスラーム教徒が存在し、ブルガリア、ギリシアなどにトルコ系住民も残っていて、複雑な宗教的・民族的対立の背景となっている。しかし、オスマン帝国のバルカン半島支配は、例えばキリスト教やユダヤ教の信仰をミッレトとして認めたように強圧的ではなかった。
ムラト1世オスマン帝国第3代の君主で1359年に即位。まずビザンツ帝国第二の都市であったアドリアノープルを攻略してエディルネと改称し、新たな首都とした。その後、バルカン半島への進出を進め、ヨーロッパ諸国に初めてオスマン帝国に深刻な脅威を与えることとなった。ビザンツ帝国皇帝はギリシア人、セルビア人、ブルガリア人などを動員し、ローマ教皇の援助も受けてムラト1世のオスマン軍を迎え撃ったが、ソフィアの付近でオスマン軍の機動力の前に敗れ、ブルガリア王は降伏してオスマン領となり、アルバニアも宗主権を認めさせられた。ムラト1世は、それまでの封建貴族を主体とする軍団とは別に、皇帝直属のイェニチェリを創設した。これは「新軍団」の意味で、征服したバルカン半島各地のキリスト教徒の少年を強制的に徴集し特別に訓練しながらイスラーム教の改宗させ、皇帝直属の軍団に編制したもので、これ以降のオスマン帝国の主要な軍事力となって恐れられただけでなく、内政でも大きな勢力となっていく。ムラト1世は、オスマン帝国で初めて「スルタン」の称号を用いた。これはイスラーム教の最高指導者であるカリフ(教主)によって政治権力を委任されたものの意味で、実質的な王位の称号である。
Epi. 英雄か卑怯者か ムラト1世はさらに1389年に、コソヴォの戦いでセルビアを中心としたキリスト教軍と決戦をおこなって圧倒的な勝利を得た。しかしその直後、降服してきたセルビア人貴族のコビロウィチとの謁見の際、隠し持った短刀で心臓を刺され落命した。今日でもコビロウィチはセルビア人によって「民族の英雄」と尊敬されているそうだが、トルコ人は「だまし討ちした卑怯者」という。<大島直政『遠くて近い国トルコ』1968 中公新書 p.108> 
c アドリアノープル 1361年、バルカン半島に侵攻したオスマン帝国のムラト1世が新しい都としたところ。ギリシア名でアドリアノープル(ローマの五賢帝の一人ハドリアヌスの建設した都市)であったが、オスマン帝国の都となってからはエディルネと改称された。1453年に都がイスタンブルに移るまでの都で、それ以後もオスマン帝国第2の都市として栄えた。現在もトルコのヨーロッパ領土として残っている。
コソヴォの戦い → 第6章 2節 コソヴォの戦い
B バヤジット1世 バヤジット(またはバヤズィット)1世はオスマン帝国の第4代君主(在位1386〜1403年)。父のムラト1世がコソヴォの戦いの際にセルビア貴族に暗殺された後、その後継者となった。またイェニチェリ軍団を編成し、常備軍を整備し強力な君主権を創りだした。彼は「電光」とあだ名されるほど迅速に行動する軍事の天才で、1396年、バルカン半島のニコポリスの戦いでハンガリー王を中心としたヨーロッパのキリスト教国連合軍(十字軍)を破った。オスマン帝国の伝承では、この勝利によって、バグダードのアッバース朝カリフから、スルタンの称号を受けたという。その後、バヤジット1世はビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを数回にわたり包囲し、ビザンツ皇帝は1400年、救援を要請に西欧に赴かなければならなかった。ところがその時、中央アジアから進出し西アジアを征服したティムールが小アジアに侵攻、1402年にバヤジットはアンカラの戦いでティムールを迎え撃った。イェニチェリ歩兵部隊が、ティムール騎兵の奇襲を受けて敗北し、バヤジット1世も捕虜となり、その後オスマン帝国は内部対立もあって一時衰えた。
a ニコポリスの戦い オスマン帝国の急激なバルカン侵攻に対し、ヨーロッパ各国のキリスト教君主は、ハンガリー王ジギスムントのもと王侯や貴族、騎士が集まって、久しぶりに十字軍を編成した。1396年、ジギスムント王の指揮する十字軍は、オスマン帝国領内に侵攻、ドナウ川に近いニコポリス(トルコ名ニイボル)に進撃した。迎え撃つのはオスマン帝国第4代君主のバヤジット1世。中心に歩兵のイェニチェリと奴隷出身者を含む騎兵部隊を従えていた。十字軍側はまずフランスの騎士が突撃し、我先に一騎打ちを仕掛けたが、オスマン軍は一糸乱れず集団戦法を展開し、それを壊滅させた。ジギスムントは辛くも逃れたが、多くのキリスト教軍の騎士が戦死したり捕虜となったりで、十字軍は完敗した。十字軍といってもハンガリー王ジギスムントやフランスの騎士はカトリックであり、地元のバルカン勢はギリシア正教徒であったため、感情的な対立があった。オスマン帝国軍は機動力のある集団戦法とともに火器の使用もあわあせて優位にたち、およそ三時間の戦闘で勝敗が決した。
b アンカラの戦い  → ア.ティムール朝 アンカラの戦い
C メフメト2世 オスマン帝国のスルタン(在位1451〜1481)で、コンスタンチノープルを征服してビザンツ帝国を滅ぼし、領土をバルカン半島、黒海北岸などに広げて「征服王(ファティーフ)」と言われた。
アンカラの戦いの敗北で領土を失ったオスマン帝国であったが、メフメト1世、ムラト2世の2代で国力を回復、第7代スルタンとしてメフメト2世が即位した(これ以前にも何度か即位している)。1453年コンスタンティノープルを包囲攻撃し、攻略に成功、ビザンツ帝国を滅亡させた。メフメト2世はコンスタンティノープルをイスタンブルと改称してオスマン帝国の首都として造り替え、宮殿としてトプカプ宮殿を造営した。更にバルカン内部に進撃したメフメト2世は、ハンガリーへの侵攻はならなかったが、1459年にはセルビア、63年にはボスニア、60年までにはギリシア全土が、78年までにはアルバニアがオスマン領となり、62年にはルーマニアも属国となった。こうしてバルカン半島のほぼ全土がオスマン帝国の領土に編入された。一方メフメト2世は、アナトリア東部の諸勢力も平定して西アジアも抑え、さらに黒海北岸に出兵してロシア草原の東西交易ルートを抑え、クリム=ハン国を服属させて黒海を「オスマンの海」に組み込むことに成功した。このように、15世紀後半のメフメト2世のオスマン帝国は、文字通り「帝国」として東西世界にまたがる広大な地域を支配する専制国家となった。メフメト2世はイタリア遠征も予定し、1480年には先遣隊を南イタリアに上陸させたが、翌年、彼自身が遠征に出発したが病没し、取りやめとなった。ルネサンスのまさに全盛期となろうとする時代であった。
Epi. オスマン帝国皇帝 兄弟殺しの法令 メフメト2世は、父のムラト2世がイスラーム神秘主義に凝っていたため、退位をくりかえし、その都度息子のメフメト2世を即位させた(1444年と、1445年)。1451年ムラト2世が死んでメフメト2世が即位したが、彼にしては3回目の即位だった。その間、スルタンに代わって宰相が実権を握り、スルタンの地位も危うくなっていた。3度目の即位を果たしたメフメト2世は、弟のアフメトを処刑し、皇位争いの芽を摘み、宰相ハリル=パシャの反対を押し切ってコンスタンティノープル攻撃に踏み切ってそれに成功し、スルタン権力を揺るぎないものにした。オスマン帝国の歴史家は、メフメト2世の時に、皇帝が決まると、その兄弟は殺されるというオスマン帝国の法ができたとしている。メフメト2世が「世界の秩序が乱れるより、殺人のほうが望ましい」というイスラーム法学者の意見を得て、兄弟殺しの法令を定めたと言う。しかし、皇帝の兄弟を殺すことはバヤジット1世の時にも見られ、オスマン皇帝の専制化がすすむ中で、皇位争いを防ぐために成立した慣行だった。<鈴木董『オスマン帝国 −イスラム世界の柔らかい専制−』1992 講談社現代新書 p.60>
1453年 → 百年戦争の終結した1453年 
a コンスタンティノープル (包囲作戦)1453年4月、オスマン帝国メフメト2世は、正規軍8万、不正規軍2万〜4万、あわせて10〜12万の軍勢でコンスタンティノープルを包囲した。そのうちイェニチェリ軍団が1万〜1万2千、主力をなすのはティマールという知行地を与えられた騎兵軍であった。迎え撃つビザンツ帝国は、このころ国土のほとんどを失い、都には約7千の軍隊しか残っていなかったと思われる。しかしコンスタンティノープルは東側は海に突き出た犀の角のような地形をしており、西側の陸地に通じる面には三重の城壁が造られ攻撃は困難が予想された。メフメト2世とオスマン軍の主力は西側の大城壁前に陣取り、大砲を備え付け、砲撃を開始した。海上ではオスマン海軍は非力であったが、艦隊の一部をコンスタンティノープルの北東の対岸に陸揚げして封鎖されていた金角湾に入れ、海上から砲撃した。ビザンツ側はヨーロッパ諸国の援軍を期待したが、援軍到着前の5月28日、コンスタンティノープルは陥落した。 → コンスタンティノープルの陥落
Epi. ウルバンの巨砲 メフメト2世はコンスタンティノープル攻撃のために巨砲を建造するこにした。そのため、ハンガリー人の技術者ウルバンを巨額の報酬で迎え、エディルネで製造にあたらせた。「この巨砲は、砲身の長さが約8.2m、厚さが約25.4cm、砲口の口径が約67.2cmもあったという。この巨砲のためには、黒海方面から取り寄せた石で巨丸を造った。この巨丸は約550キログラムから600キログラムもあったという。・・・」この巨砲をコンスタンティノープルまで運ぶのには、30の車をつなぎ合わせ、60頭の牛に引かせ、ひっくり返らないよう左右に各200名が支えた。コンスタンティノープル包囲戦ではこのウルバンの巨砲が大活躍した。この巨砲が据えられた聖ロマノス門は、現在ではトルコ語で「トプカプ(大砲の門)」と呼ばれている(「トプカプ宮殿」とは別)。<鈴木董『オスマン帝国 −イスラム世界の柔らかい専制−』1992 講談社現代新書 p.63,68>
b ビザンツ帝国 滅亡  → 第6章 2節 ビザンツ帝国の滅亡
c イスタンブル オスマン帝国コンスタンティノープルを攻略し、都をエディルネからここに移した。一般にこのとき、イスタンブルと改称したとされるが、正式な記録はなく、はっきりしない。また、陥落以前からイスタンブルと呼ばれていたし、陥落後もオスマン帝国の公式文書にもコンスタンティニエの名で出てくるという。イスタンブルとはギリシア語で「町へ」と言う意味の「イス・ティン・ポリン」に由来するという節もある。いずれにせよ、メフメト2世は征服直後からこの町をムスリムの町に帰る作業に取りかかった。聖ソフィア聖堂(ハギア=ソフィア聖堂)もこのときモスクに造り替えられアヤ=ソフィア=モスクと言われるようになり、キリスト教の聖像は取り除かれ、メッカに向かって礼拝するため、メッカの方向を示すミフラーブ(アーチ型の壁龕)がつくられ、礼拝への誘いを肉声で呼びかけるための尖塔(ミナレット)が周りに4本建てられた。また市街もモスクを中心に区画整理がされ、水道を整備し、イスラーム学校(マドラサ)、病院、貧者への給食施設などの公共施設が造られた。市民は各地でバザールを開催した。さらにメフメト2世は、スルタンの宮殿を新たに建造した。宮殿は新旧二つ造られ、その新宮殿が有名なトプカプ宮殿(大砲を備えた門があったのでトプカプ宮殿という)である。イスタンブルでは、キリスト教徒はモスクの近くに住むことはできなかったが、その他ではムスリムと混在し、ユダヤ教徒も多かった。イスタンブルは宗教の共存が許された都市であった。<鈴木董『オスマン帝国 −イスラム世界の柔らかい専制−』1992 講談社現代新書 p.74>
トプカプ宮殿オスマン帝国のスルタン・メフメト2世がコンスタンティノープルを征服し、イスタンブルと改称して帝国の都としたときに建造した宮殿。はじめ宮殿はグランド=バザールの西側に建設されたが、市場に近すぎたため、次いで新たな宮殿がイスタンブル市街の東端のマルマラ海に突き出た小高い丘に、1465〜78年にかけて建設された。旧宮殿の場所は現在イスタンブル大学となっている。新宮殿には大砲を備えた「大砲の門(トプカプ)」という門があったので、トプカプ宮殿(サライ)と言われるようになった。トプとは「大砲」、カプとは「門」のことである。英語表記ではトプカピともいう。宮殿は外廷、内廷、ハーレムの三つからなり、スルタンの居所であると同時に国政の場として、1853年まで使用された。
Epi. 「世界の富を集めたトプカプ」 ジュールス=ダッシン監督の映画「トプカピ」は、芸術家気取りの泥棒たちがトプカピ宮殿の宝物部屋にある大エメラルドをはめこんだ短剣を盗み出す話だったが、トプカプ宮殿は「世界の富を集めた」と言われて有名である。現在は博物館として公開されていて、その宝物を見ることができる。スルタンたちの宝石をちりばめた玉座や、王子の金のゆりかごなどがすごいが、目を引くのは膨大な東洋の陶磁器である。これは中国や日本から「陶磁の道」を経てイスタンブルに運ばれたものである。<三上次男『陶磁の道』岩波新書 1969 p.80〜、大島直政『遠くて近い国トルコ』中公新書 1968 p.64〜など>
D セリム1世 オスマン帝国第9代スルタン(在位1512〜1520年)。「冷酷者」といわれる。イランを統一したシーア派のサファヴィー朝の勢力がアナトリアに及んできて脅威となると、領内のシーア派に対する大弾圧を行い、さらに自ら大軍を率いて東征し、1514年タブリーズ西北のチャルディランの戦いでサファヴィー朝のシャー=イスマーイルを破り、その勢力をイラン高原に押し戻した。ついでシリアとエジプトを領有し、アッバース朝カリフの後継者を擁して聖地メッカとメディナの管理権を持っていたマムルーク朝との対決姿勢を強め、1516年に遠征軍を起こし、マルジュ=ダービクの戦いで、鉄砲・大砲を有効に使い、従来型の騎兵戦術をとるマムルーク軍を破って、ダマスクスに入った。さらに同年エジプトに入り、カイロ東北方のリダニヤの戦いで勝利し、カイロに突入、1517年にマムルーク朝を滅ぼした。この勝利によってオスマン帝国は、シリア・エジプトの交易ルートを抑え、東西交易のすべてのルートを抑えることとなった。なお、マムルーク朝滅亡の時、カイロに滞在したセリム1世のもとに、ヒジャーズの実力者シャリーフ家から聖地メッカメディナの町の鍵が届けられ、セリム1世はこの二聖地の守護者となった。またこの時、マムルーク朝に亡命していたアッバース朝のカリフからその地位を奪い、オスマン帝国のスルタンがカリフの地位を兼ねることになったのが、スルタン=カリフ制の根拠とされている。
a サファヴィー朝  → サファヴィー朝
b マムルーク朝   → 第5章 2節 マムルーク朝
c スルタン   → 第5章 2節 スルタン
d スンナ派イスラーム教   → 第5章 1節 スンナ派
 スルタン=カリフ制   → スルタン=カリフ制
E スレイマン1世 オスマン帝国の全盛期のスルタン(在位1520〜1566年)。在位中、東西に勢力を広め、大帝国を建設した。まず1521年、ベオグラードを攻略しハンガリー進出の足場を築いた。ついで、東地中海で海賊活動を行い、地中海のムスリム商人の活動の障害となっていた聖ヨハネ騎士団の根拠地ロードス島を攻撃、1523年に制圧した。聖ヨハネ騎士団は島を立ち去り新たにマルタ島を基地としてオスマン帝国に抵抗を続ける。またエジプトの反乱にも手を焼いたが、それを鎮圧、オスマン帝国の重要な穀倉として支配した。1526年、モハーチの戦いでハンガリー軍を破り、神聖ローマ帝国皇帝のハプスブルク軍と攻防を繰り返す。時の皇帝はカール5世で、スレイマンの即位の前年に皇帝となっていた。1529年、スレイマン1世の率いる12万の大軍がハプスブルク朝の都ウィーンを包囲した。冬の訪れによって包囲を解いたが、このオスマン帝国のウィーン包囲は、おりから宗教改革の時代で混乱していたヨーロッパキリスト教世界に大きな脅威となった。東に転じて1534〜35年にはバグダッドに遠征、イラク、アゼルバイジャンからサファヴィー朝の勢力を駆逐し、1538年には艦隊をインド洋に派遣、ポルトガルのインド貿易に対抗してイエメンを支配した。同年、地中海ではプレヴェザの海戦でハプスブルク海軍に勝ち、地中海を「スレイマンの海」と化した。この間、ヨーロッパでハプスブルク家と対立していたブルボン朝のフランスとは手を結び、フランソワ1世にカピチュレーションを認めた。スレイマン1世は国内政治では「立法者」と言われ、オスマン帝国の統一的支配機構の整備に務めた。ティマール(知行)制のもとになる検地が行われた。またオスマン帝国の始めから続いた貨幣の鋳造を続け、租税制度を整備して、州制度を拡大、スルタン専制政治を完成させた。
モハーチの戦い モハーチは現ハンガリー南部、ドナウ川中流の右岸。モハッチ、モハーチュとも表記する。1526年、オスマン帝国スレイマン1世はバルカン半島からハンガリーに進撃し、神聖ローマ帝国とボヘミア・ハンガリー王国の連合軍とモハーチで対戦した。ボヘミア・ハンガリー王のラヨシュ2世はこの戦いで戦死し、その両国の王位はラヨシュ2世の妻マリアの兄であるハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝カール5世のものとなった。しかし、ハンガリーの大部分はこれ以来オスマン帝国の支配を受けることとなり、この後約160年続く。またオスマン帝国軍がハンガリーに侵入し、さらにウィーンに迫ったことは、カール5世にとって大きな脅威となり、折からドイツで始まっていた宗教改革で、ルター派に妥協する必要にせまられ、同年のシュパイエル帝国議会ではその信仰を認めた。(1529年に撤回する。)
a 神聖ローマ帝国  → 第6章 1節 神聖ローマ帝国 
1529この年の9月27日から10月14日まで、スレイマン1世率いるオスマン帝国軍が、ウィーンを包囲した(第1次ウィーン包囲)。このころ、ヨーロッパでは宗教改革の真っ最中で、旧教勢力と新教勢力の対立が深刻であり、また神聖ローマ帝国カール5世とフランス王フランソワ1世はイタリア戦争で激しく戦っていた。この年4月には第2回のシュパイエル帝国議会が開催され、カール5世はルター派の信仰容認を取り消したため、新教徒側が抗議文を提出し、プロテスタントといわれるようになった。 
b ウィーン包囲 (第1次)オスマン帝国スレイマン1世モハーチの戦いでハンガリーを制圧したが、神聖ローマ帝国カール5世がボヘミア・ハンガリーの王位を継承したことに対して圧力を加えるため、オーストリアのハプスブルク家の拠点ウィーンを攻撃した。このウィーン包囲(第1次)は1529年9月に始まった。オスマン軍はイェニチェリ軍団と常備騎兵軍団、砲兵などからなる約12万の兵力を擁した。ウィーン防衛はカール5世の弟フェルディナンドが、5万数千軍で固めていた。オスマン軍は頼みの大砲が輸送困難で到着せず、さらに補給も困難になり、冬が近づいてきたのでスレイマン1世は10月14日に撤退を決断した。ウィーン攻略はならなかったが、ハプスブルク家の都が異教徒に包囲されたことは、コンスタンティノープル陥落と同じ衝撃をヨーロッパのキリスト教徒に与えた。 → 第2次ウィーン包囲
c プレヴェザの海戦 1538年、スレイマン1世の時、オスマン帝国の海軍が、スペイン(カルロス1世=神聖ローマ帝国カール5世)・ローマ教皇・ヴェネツィア共和国の連合海軍を破り、地中海の制海権を獲得した海戦。
16世紀には地中海の制海権は、ヴェネツィア共和国が後退し、オスマン帝国とスペインのハプスブルク家の抗争という様相となっていた。1538年、スレイマン1世のオスマン海軍はアドリア海から西地中海の海域で神聖ローマ皇帝カール5世とローマ教皇(パウルス3世)、ヴェネツィアのキリスト教国の連合艦隊に攻撃を仕掛け、ギリシア東岸のプレヴェザ沖で大勝した。これによって制海権を西地中海にも拡大(クレタ島、マルタ島、キプロス島は除く)、この結果地中海は「スレイマンの海」と化した。 → レパントの海戦
Epi. 海賊バルバロス プレヴェザの海戦で、オスマン海軍を指揮して勝利に導いたのは、海賊として恐れられていたバルバロスであった。本名をフズールというこの男はエーゲ海のレスボス島の出身で海賊となり、チュニジア、アルジェリアを拠点に西地中海を荒らし回り、バルバロス=ハイレッティンとして西欧人から恐れられていた。バルバロスとは、バルバロッサに同じく赤ひげのことである。彼が1533年、艦隊を率いてイスタンブルに現れ、帰順を申し出た。スレイマンは謁見して帰順を認め、彼をオスマン海軍の最高司令官に任命し、パシャの称号を与えた。これによってオスマン海軍は急速に強大となったという。
d カピチュレーション オスマン帝国のスレイマン1世が、当初フランスに対して認めた通商特権のこと。キャピチュレーションとも表記する。フランスのフランソワ1世は、ヨーロッパでの覇権を神聖ローマ帝国のカール5世と争い、1525年のパヴィアの戦いでは手痛い敗北を喫していた。そこでフランソワ1世は、オスマン帝国と手を結ぶことし、スレイマン1世もカール5世の背後のフランソワ1世と結ぶことを有利と考え、1536年、両者の連携が成立し、フランスはオスマン帝国に協力する見返りとして、オスマン帝国内の諸都市(エジプトを含む)での通商上の特権(カピチュレーション)を認められた。これは19世紀のヨーロッパ列強がアジア諸港に強要した不平等条約とは違い、あくまでオスマン帝国側の伝統的な「非イスラム教徒保護」の恩恵として認めたものであるが、18世紀以降になると列強の経済的進出の口実として利用されるようになる。なお、1569年にはフランスとの間に在留商人の特権(治外法権、領事裁判権、租税免除、財産・住居・通行の自由など)を認める条約を締結し、1580年イギリス、1612年オランダとも同様の条約を結んだ。
後にオスマン帝国の足かせとなったカピチュレーションが、正式に廃棄されるのは、第1次世界大戦後、ムスタファ=ケマルのトルコ革命でオスマン帝国が滅亡し、新たなトルコ共和国が1923年に英仏、ギリシアなどと締結したローザンヌ条約によってである。
e 居住と通商の自由  → カピチュレーション
スレイマン=モスク オスマン帝国全盛期のスルタン、スレイマン1世が、著名な建築家ミマーリ=シナンに建築させたモスクで、1550年に建造を開始し、1557年に完成。シナンは、ハギア=ソフィア聖堂をモデルとして、さらにドームと半ドームを組み合わせた幾何学的な造形を作りだし、それ以後のイスラーム世界のモスク建築の手本とされた。モスクには学校、施療院、貧困者のための福祉施設、浴場、商店などが付属し、一大複合建築となっている。モスクの本体は、奥行き57.5m、幅が58.5mのほぼ正方形の上に、それぞれ向かい合って立ち上げられた一対の半ドームと一つのアーチ型の壁体によって、四方から直径27.5mのドーム天上を支えている。ドームを支える構造は聖ソフィア大聖堂とまったく同じである。
イスタンブルのモスク 現在、イスタンブルには、ハギア=ソフィア聖堂(現在はアヤ=ソフィア=モスクというが、博物館となっている)とスレイマン=モスク(トルコ語ではスエイマニエ=モスク)という二大モスクの他、スルタン=アフメト=モスク(通称はブルー=モスク)、バヤジット=モスクなど各スルタンが建設した大モスクから小さなモスクまで多数が建築されている。これらはいずれも礼拝所であるモスクを中心に、学校(マドラサ)や救貧所を併設する総合施設(トルコ語でジャミイ)であった。このうち、ハギア=ソフィア聖堂とブルー=モスクは並んで建っていて、いずれも大きなドームとミナレット(尖塔)からなっており、一見するとよく似ている。しかし、前者は6世紀、後者は17世紀の建築で1000年以上離れている。見分け方は、ハギア=ソフィア聖堂は赤茶けた壁色でミナレットが4本、ブルー=モスクは白い壁色でミナレットが6本、ということである。 
ミマーリ=シナン ミマール=シナンとも表記。オスマン帝国の全盛期、スレイマン1世の時代に活躍した宮廷の主任建築官で、帝のもとでスレイマン=モスクなど多数のモスク建設を手がけた。
Epi. 百歳まで生きて81のモスクを手がけた建築家 「シナンの出自はギリシア系キリスト教徒であったといわれている。1494年から99年頃の間に、小アジアのカイセリの近くで生まれたらしい。当時のトルコでは、ギリシア系住民の子弟から特にすぐれた人材を登用し、イスラム教に改宗させて徴用する制度があった。その中核が、イェニチェリと呼ばれる、スルタン直属のエリート軍団であった。シナンはそのイェニチェリの中で、技術将校として才能を発揮し、スレイマン1世に認められ、宮廷の主任建築官にまでなった。百歳という長い寿命のなかで、81の大規模なモスク、50の小規模なモスク、55の学校、19の墳墓、32の宮殿、22の公衆浴場などを建てたといわれている。首都におけるシナンの代表作といえるモスクが、シュレイマニエ・ジャミイ(一般にスレイマン=モスク)である。1550年に着工、1557年に完成した。<浅野和生『イスタンブールの大聖堂』2003 中公新書 p.198>
f  レパントの海戦  → 第9章 4節 レパントの海戦
b スルタン=カリフ制 オスマン帝国の政治上の権力者スルタンが、イスラーム教の宗教上の最高指導者カリフの地位を兼ねる制度のこと。オスマン帝国では1517年にスルタンのセリム1世がエジプトのマムルーク朝を滅ぼした際、アッバース朝の滅亡の後、カイロに亡命したカリフ一族の一人の子孫が持っていたカリフ継承権を奪ったとされている。19世紀から20世紀のオスマン帝国末期に、青年トルコ革命や第1次世界大戦でのオスマン帝国の敗北によってスルタンの権威が亡くなると、スルタン=カリフ制は意味を持つようになり、イスラーム世界、とくにインドのイスラーム教徒の中からオスマン帝国のカリフを擁護すべきであるというヒラーファット運動がおこった。これはインドの反英闘争と結びついて活発となった。しかし、トルコ革命を指導したムスタファ=ケマルは、1922年にスルタンを廃止してオスマン帝国を終わらせ、ついで1924年にはカリフ制度も廃止してトルコの世俗化を実現した。
補足 スルタン=カリフ制:オスマン帝国のスルタンはマムルーク朝の庇護を受けていたアッバース朝のカリフから、カリフの地位も受け継いだ(禅譲された)と説明されている。しかし、16世紀のオスマン帝国の史料にはカリフ位を継承したことの言及はない。それが言われるのは18世紀のことである。そこでスルタン=カリフ制は伝説であり、18世紀にオスマン帝国がロシアによってクリミアを奪われた頃、ムスリムの中心にオスマン帝国が存在することを訴えるために強調されるようになったことであるとの見解もある。<鈴木董『オスマン帝国 −イスラム世界の柔らかい専制−』1992 講談社現代新書 p.138>
c イスラーム法(シャリーア)   第5章 1節 イスラーム法
カーヌーン   
d ミッレト オスマン帝国での宗教制度で、メフメト2世の時に始まるという。メフメト2世はイスタンブル再建にあたって、ムスリム以外の異教徒を、三つの宗教共同体(ミッレト、またはミレット)に組織した。3つとは、ギリシア正教徒、アルメニア教会派、ユダヤ教徒でありすべての非ムスリムはこのいずれかに属し、各ミッレトはその長を任命し、ミッレトごとに貢納の義務をもつかわりに、彼らの固有の信仰と法と習慣を認められ、自治を行った。オスマン帝国での寛容な宗教政策であり、イスラーム世界のズィンミー(納税することによって自分たちの信仰を認められた被保護民)が生かされている。
Epi. ミッレト制という用語は西欧人が用いた ミッレト制はメフメト2世の時に始まるとされてきたが、不思議なことに同時代の史料には全く現れてこない。元来ミッレト(またはミレット)とはアラビア語で「宗教」を意味する「ミッラ」を語源としており、現在のようなミッレト制という使い方はされなかった。どうやら近代に入って西欧人がオスマン帝国でのムスリムと非ムスリムの共存するシステムを解りやすく説明するために用いたため、広く流布するようになったらしい。<鈴木董『オスマン帝国 −イスラム世界の柔らかい専制−』1992 講談社現代新書 p.86>
シパーヒー  スィパーヒーとも表記する。オスマン帝国において、スルタンからティマールという知行地(封土)を与えられ、戦時に従軍するトルコ人戦士(騎士)。シパーヒーは騎士として武装し、知行高に応じた数の従士を率いて戦場に赴き、武勲をあげればより広い知行地を与えられる。知行地からの租税徴収権を持つ。すべてのシパーヒーがスルタンに直属し、ヨーロッパの封建制の様なシパーヒー間の主従関係はなかった。またシパーヒーは都市に住み、知行地の農村では自治が認められていた。シパーヒーはオスマン帝国のバルカン征服過程で広がったが、バルカンの村々では自治が行われ、非ムスリムのギリシア正教徒、アルメニア教会派やユダヤ教徒の信仰と文化も守られていた。16世紀に征服が一段落し、戦術も騎兵中心から火砲中心に移行することによって次第に力を失い、かわって農村には租税徴収を代行する現地の有力者(アーヤーンという)が成長し、また軍事力もイェニチェリが常備軍として重要になっていく。なお、シパーヒーはペルシア語で兵士を意味し、19世紀のインドで東インド会社に雇われたインド人兵士を指す言葉としても用いられる(日本ではセポイとも表記した)。 →インドのシパーヒー
e ティマール オスマン帝国のトルコ系騎士に与えられた知行地をティマールという。ティマールは所有権ではなく、徴税権をその内容としている。ティマールを受ける騎士をシパーヒーという。ティマール制は、ビザンツのプロノイア制、イスラーム世界のイクター制と同じく、軍事奉仕への代償として徴税権を与えるものであるが、特徴はすべてスルタンと騎士の直接的な一対一の関係であり、封建的な主従関係ではないことである。シパーヒーつまりティマールを与えられた騎士は、戦争の際は県または州単位で指揮官の下に組織される。ティマール制は騎士を維持する制度であったので、戦争が火砲中心になった17世紀以降は形骸化していく。<林佳世子『オスマン帝国の時代』世界史リブレット19 山川出版社 p.36>
f イェニチェリ オスマン帝国の最も有名な常備軍である親衛隊。イェニチェリとは「新しい兵士」の意味。14世紀後半のムラト1世にさかのぼり、鉄砲を持つ歩兵の精鋭部隊で、そろいの軍服を着ている。イェニチェリ兵になる人材は、三年から数年に一度不定期に実施されるデウシルメとよばれる強制徴用で供給された。特徴は主にバルカン半島の、トルコ人以外のキリスト教徒の子弟から徴用されたことである。彼らはスルタンの奴隷(カプクル)とされ、スルタンから俸給が支給され、少数精鋭であったのでエリート意識が強く、スルタンの戦争では常に中心となって戦った。なお、奴隷が構成する軍隊はイェニチェリ軍団だけではなく、騎馬隊や砲兵隊もあった。特に16世紀後半から、ティマール制によるトルコ系騎士(シパーヒー)の没落に代わり、イェニチェリ軍団などの奴隷部隊による常備軍がオスマン帝国軍の中核となっていった。<林佳世子『オスマン帝国の時代』世界史リブレット19 山川出版社 p.40> → セリム3世の改革、ニザーム=ジェディット  イェニチェリの廃止
デウシルメデウシルメとは、オスマン帝国の常備軍制度であるイェニチェリで、主にバルカン半島のキリスト教徒の少年を強制的に兵士として徴用すること。デウシルメはトルコ語で「集めること」を意味し、オスマン帝国に特異な常備軍兵士の補充方法であった。他のイスラーム諸王朝でのマムルークは奴隷として購入しなければならないので費用がかかるが、デウシルメ制は強制徴用なので費用がかからない利点があった。徴用されるのはキリスト教徒の子弟で、一人っ子を除く8歳から20歳ぐらいの健康な少年が選ばれ、護送されて中央に送られてイスラーム教に改宗させられ、訓練を受ける。その中で容姿のすぐれた少年はスルタンの宮廷にカプクル(宮廷奴隷)として仕え、中には宰相に出世するものもあった。またイェニチェリとして歩兵部隊の兵士となった。後にはイェニチェリ自身が世襲化され、デウシルメも形骸化したがオスマン帝国独特の制度として知られている。<鈴木董『オスマン帝国 −イスラム世界の柔らかい専制−』 1992 講談社現代新書 p.215〜>
オスマン帝国の衰退  オスマン帝国では、スレイマン1世の時代が終わった16世紀末から17世紀になると、スルタンは次第に政治の実権から離れ、宮廷出身の軍人が、大宰相(ヴェズィラーザム、スルタンの絶対的代理人とされた)として政治の実権を握るようになった。1622年、スルタンのオスマン2世はイェニチェリ軍団の改革をはかり、逆に反乱が起きて暗殺されてしまった。またスルタンの後宮(ハーレム)が政治に絡むなど、混迷が続く。対外的にも1571年のレパントの海戦の敗北以来、めだった勝利はなく、領土はなお広大であったが、西方のバルカン半島でのハプスブルク家神聖ローマ帝国と東方のサファヴィー朝との戦線は膠着し、その軍備の維持のための財政も年々苦しくなっていった。1683年には大宰相のキョプリュリュ家の主導で、第2次ウィーン包囲が行われたが、オスマン帝国側の敗北に終わり、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーを放棄したことは、オスマン帝国の後退を象徴する出来事となった。 → オスマン帝国の混乱
ヴェズィラーザム  サドラザムともいう。オスマン帝国の皇帝(スルタン)の、絶対的代理人として政治・外交・軍事などの全権を持つ「大宰相」のこと。スレイマン大帝以後、凡庸なスルタンが続いたオスマン帝国の衰退した時期に、実質的に動かしたのはヴェズィラーザムであった。著名なものとしては代々のヴェズィラーザムを出した、キュプリュリュ家がある。17世紀以降は、ヴェズィラーザムが政治を執る官邸(バーブ・アーリー)が実質的なオスマン帝国の政府の機能を持った。
ウ.サファヴィー朝
A サファヴィー朝 15世紀のイランでは、ティムール朝の衰退によって混乱が続いていたが、その末になって神秘主義教団のサファヴィー教団が台頭、その長のイスマーイールは、1501年にアゼルバイジャンを制圧し、トルコ系遊牧民の騎兵部隊(キジルバジ)を戦力として、その後10年間に全イランをほぼ統一、シャー(国王)としてイスマーイール1世を称し、サヴァヴィー朝を建国した。都はタブリーズとした。そしてシーア派(の中の十二イマーム派)をイランで初めて国教とし、サファヴィー朝のシャーは、「神隠れイマームの代理」として統治するものとされた。シーア派のサファヴィー朝の成立は、西隣のオスマン帝国、東北のシャイバニ朝というスンナ派国家の脅威となった。オスマン帝国のセリム1世は、大軍を率いてイランに遠征、1514年、タブリーズの西北のチャルディランの戦いで両軍が激突、サファヴィー軍も健闘したが、鉄砲で武装したイェニチェリ軍団によって敗れた。サファヴィー朝はその後もオスマン帝国との抗争を続け、一時タブリーズを占領されるなどしたが、16世紀末に現れたアッバース1世の時に国力を回復させ、最盛期を迎えた。アッバース1世は新都イスファハーンを造成し、貿易を奨励し、絹織物、ペルシア絨毯の輸出などで栄えた。その後、宮廷の宦官や後宮の政治介入があって次第に衰退し、1722年にアフガン人(スンナ派)の侵攻を受けて壊滅した。サファヴィー朝はその後、トルコ系軍人ナーディルによって擁立されて再興されたが、結局1736年にナーディルがアフシャール朝を建国したため完全に滅亡する。
サファヴィー朝は当初はトルコ系遊牧民の軍事力に依存する国家であったが、オスマン帝国との抗争を通じて次第に十二イマーム派というシーア派信仰によってイラン人として結束する意識が定着し、後のイラン国家の形成に重要な意味を持っていた。 → アフシャール朝 カージャール朝
a 神秘主義教団 イランの神秘主義教団(スーフィー教団)から起こったサファヴィー勢力は、もとは14世紀前半にカスピ海西南岸のアゼルバイジャン地方のアルデビールで、シャイフ=サフィー=アッディーンが始めた教団で、その名にちなんでサファヴィーという。はじめはスンナ派であったが、この地域はシーア派が多かったので次第にシーア派の神秘主義教団となり、政治集団化していった。民族的にはクルド系であったようだが、アゼルバイジャンはトルコ系住民が多くサファヴィー勢力もトルコ化し、キジルバジという騎馬部隊を組織し軍事力を高めた。1501年、そのサファヴィー教団の長イスマーイールがサファヴィー朝を建国した。
b イスマーイール1世 イラン西部のアゼルバイジャン地方に起こったシーア派の神秘主義教団サファヴィー教団の長となり、トルコ系遊牧民を軍事力に組織(キジルバジ)して有力となっった。1501年、イラン人の国家であるサファヴィー朝を興し、イラン人の王を意味するシャーの地位についてた。ティムール朝の衰退に乗じ、そのイランを中心とした西アジアの版図を引き継いだ。彼はシーア派の一派の十二イマーム派を国教として同派の聖職者(ウラマー)をイスラーム各地から招き、「神隠れイマームの代理」としての宗教的権威をつくりあげた。また西トルキスタンのスンナ派国家シャイバニ朝(ウズベク人が建国)と争ってシャイバニを戦死させ、やはりスンナ派の西隣のオスマン帝国とも争い、キジルバジの軍事力を用いて領土を拡大したが、1514年のチャルディランの戦いではセリム1世に敗れ、西アジア全土の支配はならなかった。
c シャー ササン朝以来、イランで使われた、王を意味するペルシア語。サファヴィー朝の王は代々シャーを付けた名前で呼ぶ。カージャール朝パフレヴィー朝でも国王はシャーを称し、パフレヴィー朝では「皇帝」とも訳す。現在のイランは1979年のイラン革命によってイラン=イスラーム共和国となったのでシャーは存在しない。
キジルバジ イランのサファヴィー朝の軍事力となった、トルコ系遊牧民からなる騎兵集団のこと。キジルバジ(またはキジルバジュと表記)とは、「赤い頭」を意味し、サファヴィー教団の信者がかぶっていた帽子に由来し、そこから転じて特に信者となったトルコ系遊牧民を指す言葉となった。彼らは独特のシーア派の教義(キジルバジ的シーア主義)を持ち、教団の長をイマームの再来(救世主)と信じて忠誠を誓い、スンナ派と激しく戦うことを使命と考えていた。初期のサファヴィー朝のイスマーイール1世はこのキジルバジを軍事力として利用して領土を拡張したので、周辺のスンナ派のオスマン帝国、アフガニスタンのシャイバニー朝にとっては大きな脅威となった。サファヴィー朝の支配が安定してくると、キジルバジは特権的な保守勢力となったため、アッバース1世はその抑圧に努めた。
Epi. 狂信的なキジルバジ的シーア主義 サファヴィー教団を信仰するトルコ系遊牧民であるキジルバジは独特なシーア派的思想を持っていた。その特徴は、(1)12人のイマームを崇拝し、救世主の到来を信じている。そしてサファヴィー教団の教主こそが救世主であると信じ、それに従って勇敢に戦い、戦死することは殉教となる。(2)スンナ派を異常に憎む。スンナ派指導者の墓や遺体を暴き冒涜を加えることこともあった。(3)呪術的な儀式をもつ。生きたままの人間を食べること、戦いで打ち破った的の首領の髑髏で勝利の酒を飲むことなどが行われたという。これらのうち、(3)は明らかにイスラーム教に反することで、匈奴以来の遊牧民の原始的な伝統であろう。<『パクス・イスラミカの世紀』新書イスラームの世界史2 講談社現代新書 1993 p.74 羽田正執筆分>
d タブリーズ  → 第4章 3節 イル=ハン国 タブリーズ
チャルディランの戦い 1514年、アナトリア高原東部のチャルディランの野で、セリム1世のオスマン帝国軍と、イスマーイール1世のサファヴィー朝軍が激突した戦い。結果的にはオスマン軍のイェニチェリ軍団が鉄砲などの新しい武器を利用し、サファヴィー朝のキジルバジ(トルコ系遊牧民からなる騎兵部隊)の突撃を食い止め、オスマン軍の勝利となった。小アジアまで遠征してきたサファヴィー軍の将軍は兵力も少数であるので、オスマン軍の布陣が終わる前の奇襲を提案したが、イスマーイール1世は「王と王の戦い」でメンツを重んじ、奇襲を避け敵の布陣を待って攻撃するという正攻法をとったため、火器の威力の前に勝機を逸したと言われる。この戦いでサファヴィー朝の西進はくい止められ、鉄砲という新しい武器の前でキジルバジというトルコ系騎兵に依存する軍事力の限界が示された。その後もシリア、イラクをめぐってオスマン帝国とサファヴィー朝は攻防を繰り返すこととなる。<『パクス・イスラミカの世紀』新書イスラームの世界史2 講談社現代新書 1993 p.80 羽田正執筆分>
e 十二イマーム派 イスラーム教シーア派のなかの主流派の位置を占め、イランのサファヴィー朝で国教とされて以来、イランで盛んである。十二イマーム派の考えは、四代目カリフのアリーとその子孫がイスラーム共同体の指導者(イマーム)であるべきだと考え、その初代イマームのアリーから数えて十二代目の、行方不明になったイマームは「神隠れ(ガイバ)」の状態にあり、信徒の苦難の時代に正義と平和を平等に基づく統治を確立するために「救世主」として現れる(再臨=ルジューウ)、というものである。<宮田律『物語イランの歴史』中公新書 2002 p.74> → イラン革命
B アッバース1世(大帝) イランのサファヴィー朝全盛期のシャー(王)。在位1588〜1629年。オスマン帝国に対抗するため、特権階級化したトルコ系騎兵集団のキジルバジを抑え、イラン人その他を新たな軍隊に組織するなど軍備を整え、1597年に新都イスファハーンを建設し、「王の広場」や「王のモスク」(イマームのモスク)などの大規模な建築事業を行った。また、貿易を奨励して「イスファハーンは世界の半分」と言われる繁栄を実現した。16世紀の初めから西アジアにもヨーロッパ勢力の進出が始まり、インド方面からポルトガルがホルムズ島に進出していたが、アッバース1世はイギリス東インド会社の協力を得て、1622年にホルムズ島のポルトガル勢力を駆逐した。
b ホルムズ島  → 第8章 1節 ホルムズ島
c イスファハーン エスファハーンとも表記する。イランのサファヴィー朝全盛期のシャー(王)、アッバース1世が建設した新しい都。タブリーズから1597年に遷都した。「王の広場」を中心に、「王のモスク」、バザール、宮殿、神学校が建設され、貿易が奨励されたので世界の商品が集まり、「世界の半分」と称される繁栄を謳歌した。とくに「王のモスク」は青色のタイルで装飾された美しいドームをもち、イラン建築の粋といわれる。なお、1979年のイラン革命で「王」はいなくなったので、現在は正式にはそれぞれ「イマームの広場」「イマームのモスク」と改称された。イスファハーンは1722年にアフガニスタンから侵攻したアフガン人のギルザイ族によって攻撃され、破壊された。→ アフシャール朝
Epi. イスファハーンの大虐殺 1722年、アフガン人の侵攻によるサファヴィー朝の滅亡の際は、6ヶ月間包囲され、人々は犬、猫、ネズミ、死人の肉などを食べ、およそ8万人が殺されたという。<宮田律『物語イランの歴史』1997 中公新書 p.95>
d 世界の半分 イランのサファヴィー朝の都(1597年〜1722年)として繁栄したイスファハーンは、アッバース1世のもとで繁栄し、そのバザール(市場)には世界中から商品が集まったので、「世界の半分」と言われた。イスファハーンには隊商の宿キャラバンサライがあり、交易の中心であった。現在その跡はホテルになっており、その中庭はキャラバンサライだった頃と同じように使われている。イスファハーンは、イランの伝統工芸であるペルシア絨毯の産地としても知られる。絨毯や刺繍、金属細工、彩画陶器(クバチ焼)などの工芸品が、ペルシア湾のバンダル・アッバース港からヨーロッパに多数輸出された。<宮田律『物語イランの歴史』中公新書 2002 p.82〜91>
イマームの広場  本来は「王の広場(メイダーネ=シャー)」と言われた。イランのサファヴィー朝全盛期のアッバース1世が1597年に造営した新都イスファハーンの中心部にある広場で、縦約500m、横約160m。その南に「王のモスク(現在はイマームのモスクという)」がり、周囲には宮殿や神学校、バザールなどが建造された。現在はその大部分が池になっており、夏には噴水が周囲に涼感を与えている。サファヴィー朝時代にはここで王(シャー)の外国使節への謁見や観兵、さらには処刑や大道芸が行われ、レスリングや古式体操の競技場場にもされていた。1979年のイラン革命でサファヴィー朝の王政が倒されてからは名称が「イマームの広場」と改称された。<宮田律『物語イランの歴史』中公新書 2002 p.82〜83>
イマームのモスク  本来は「王のモスク」と言われたが、1979年のイラン革命で王政が倒され、王(シャー)がいなくなってからは「イマームのモスク」が正式名称になった。イマームとはイスラーム教の指導者のこと。もとはサファヴィー朝全盛期の王アッバース1世イスファハーンの中心部の王の広場に面し、1590年から1616年の間に建設した。透き通るようなファイアンス焼(スズ釉陶器)の青のタイルで装飾されている。イスラーム世界で最も美しいモスクの一つとされている。
Epi. 「王のモスク」にこだわる市民 イスファハーンの「王の広場」「王のモスク」は、イラン人に特別な民族的誇りを与えるのかもしれない。イラン革命後、「王(シャー)」という言葉が使えなくなり、それぞれ「イマームの広場」「イマームのモスク」という名称に変えられた。1980年代の終わりにイランを訪問した人の話では、イラン市民はあまりに宗教色の強いイラン革命への疑問と、過去へのノスタルジーからか、「王の広場」という言い方を辞めなかったという。<宮田律『物語イランの歴史』中公新書 2002 p.83〜84>
ペルシア絨毯  イランを代表する工芸品。ペルシアはイランの古い言い方。ペルシア絨毯はもとは遊牧民の生活用品で、古くから作られていたが、特にサファヴィー朝時代にタブリーズやイスファハーンで発達した。図柄は動物や狩猟、花柄など多彩だが、イラン=イスラーム文化の細密画(ミニアチュール)の影響受けている。サファヴィー朝のアッバース1世は、外国の元首などへのプレゼントとして豪華な絨毯を与え、それ以降イランの重要な輸出品となった。1979年のイラン革命ではイラン文化をキリスト教世界に流出させないということで一時輸出も途絶えたが、現在は復活している。<宮田律『物語イランの歴史』中公新書 2002 p.90〜91>