用語データベース 16_3 用語データベースだけのウィンドウを開くことができます。 ページ数が多いので印刷には時間がかかります。
3.第三世界の自立と危機
ア.第三世界の連帯
 第三世界 一般に、資本主義先進国を第一世界、社会主義諸国を第二世界としてくくり、そのいずれにも属さない、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ地域の旧植民地から独立した諸国や従属国から自立した諸国をまとめて第三世界、または第三勢力という言い方をした。冷戦時代が進行した五〇年代に生まれた言葉で、フランス人が革命前の第一身分、第二身分、第三身分になぞらえて使ったのが最初と言われている。特に55年のアジア・アフリカ会議に結集した「第三世界」諸国は、反植民地、反侵略戦争を掲げて結束し、東西冷戦構造を揺り動かす積極的な意味合いがあった。冷戦時代が終結した現在は、あまり使用されない言葉である。
 アジア・アフリカ諸国 ヨーロッパの列強およびアメリカ合衆国、あるいはアジアの中でいち早く資本主義化した日本など、帝国主義政策をとった諸国によって植民地、あるいは半植民地として支配されていた諸国。アジア地域はインドに代表されるように第2次世界大戦直後に一斉に独立を達成した。ほとんどのアフリカ諸国は大戦直後から独立運動がはじまり、1960年の「アフリカの年」をピークに独立を遂げた。ラテンアメリカ地域の諸国はほとんどが19世紀の中頃に独立を達成していたが、多くは外国資本と結託した独裁政権の支配に置かれていた。この地域でも50年代末から60年代にかけて民族運動が高揚する。これらの国々は1955年にアジア=アフリカ会議を開催し、「第三世界」といわれる勢力として結集した。インドのネルー、中国の周恩来、エジプトのナセル、インドネシアのスカルノ、アフリカではエンクルマなどがその卓越した指導者として活躍した。
 コロンボ会議 1954年4月にスリランカ(当時はセイロン)の首都コロンボで開催された南アジア地域の5ヵ国首脳会議。非同盟主義を掲げるインドネルー首相がよびかけ、インドネシア、スリランカ、パキスタン、ビルマの計5ヵ国が参加し、当時アメリカが進めていた東南アジアの軍事同盟SEATO結成の動きに反対を表明した。この5ヵ国をコロンボ=グループといい、この5ヵ国がアジア=アフリカ会議を翌年にインドネシアのバンドンで開催することを決めた。 
 周恩来  → 第16章 1節 周恩来
 ネルー
ネルーは戦前からのインド国民会議派指導者。1947年、インド独立にあたり首相となる。1952年の総選挙でインド国民会議派は大勝し、その後インドの一党支配が続いた。ネルーは非同盟主義を掲げ、戦後の世界にも大きな影響を与え、中国の周恩来、インドのナセル、インドネシアのスカルノらとともに第三世界の指導者としても重要であった。1954年には周恩来と「平和五原則」で一致し、55年のバンドン会議(アジア=アフリカ会議)を呼びかけた。さらに1961年にはユーゴスラヴィアのティトーおよびナセルらと第1回非同盟諸国首脳会議(ベオグラード)を開催した。
しかし、インド独立の際、イスラーム教徒が分離して建国されたパキスタンとの関係は、国境問題をめぐって常に危ういものがあった。早くも47年10月、カシミール地方の帰属をめぐって第1次印パ戦争が起こり、パキスタンはアメリカに近づいてSEATOとCENTOに加盟した。中国に対しては帝国主義に対抗する国として友好的で49年末には承認したが、59年から国境紛争が始まり、62年10月には中印国境紛争(中印戦争)が起こった。インド軍は敗北し、ネルーはアメリカに援助を求め、非同盟主義を放棄せざるを得なかった。すでに病を得ていたネルーは失意のうちに64年5月に死去した。1966年からインドの首相となったインディラ=ガンディーはネルーの娘。しかしインディラ=ガンディー首相の時代はインド=パキスタン戦争が続き、国民会議派の支持も低下して、69年には分裂する。
 平和五原則 1954年、チベット問題で協議した中国の周恩来とインドのネルーの間で交わされた、両国関係の5原則。インドでは「パンチャシラ(パンチャが5、シラが原則の意味。インドネシアの建国五原則もパンチャシラという。)」という。具体的には54年4月のインドと中国の中印協定の前文として示された。
「領土保全及び主権の相互不干渉」「相互不侵略」「内政不干渉」「平等互恵」「平和的共存」。周恩来とネルーは、中国・インド両国だけではなく、冷戦下の世界に広く適用されるべき原則とするため、共同声明として発表した。翌1955年にはインドネシアのバンドンで第1回アジア・アフリカ会議が開催され、この五原則をふまえた、「平和十原則」が策定された。
平和五原則は守られたか:1954年に成立した平和五原則は第2次世界大戦後の国際政治のあり方の新しい原則として広く知られ、またその意義は大きいものがある。中国は今でも公式には平和五原則を掲げている。しかしインドと中国の実際の関係はどうなったかというと、早くも1957年ごろからヒマラヤ山中の両国国境をめぐって対立が始まり、1959年にチベットの反乱が勃発してダライ=ラマ14世がインドに亡命したことから対立は決定的となりって、1962年10月に中印国境紛争という戦争状態に入ってしまった。ネルーはこのとき、アメリカの支援を要請したので、非同盟主義の旗印も色あせてしまった。
 「平和五原則」の内容 1.領土主権の尊重、2.不侵略、3.不干渉、4.平等互恵、5.平和共存
 アジア=アフリカ会議(AA会議) 1955年4月、インドネシアのバンドンで開催された、アジア=アフリカ29ヵ国の首脳会議(略称AA会議)。バンドン会議とも言う。議長を務めたインドネシアのスカルノ大統領は、この会議を「世界人口の約半数の13億(当時)を占める有色人種の代表による、世界最初の国際会議」と述べた。第三世界の存在を世界に示した会議であり、4月18日から24日まで開催され、日本もオブザーバーとして参加した。インドのネルー、中国の周恩来、ビルマのウー=ヌー、インドネシアのスカルノなどが中心となって議事を運営し、民族・宗教・社会制度などの相違を超えて、国連憲章の尊重、植民地主義反対、経済建設の推進、生活水準の向上、平和共存の実現などに向かって協力することなどを「平和十原則」にまとめ、共同声明として発表した。この会議の成功は、第三世界の結束を米ソ二大国に示したことであり、米ソ両国はそれに対抗して同年7月にジュネーブ4ヵ国首脳会談を開催し、平和共存でのイニシアチブの維持を図った。
しかし、アジア=アフリカ諸国の結束は現実的には非常に困難であった。インドと中国は国境問題で対立をかかえ、第二回会議は結局開催されなかった。冷戦後には資源ナショナリズムによる対立、宗教対立など深刻な地域紛争が頻発するようになった。
2005年には同じバンドンで、アジア=アフリカ会議50周年の記念式典が開催された。
 1955 この年は、第2次世界大戦が終結して10年、つまり国際連合が誕生して10年目にあたる。事実、6月20日からサンフランシスコのオペラ・ハウスで国際連合創設10周年の記念祝典が加盟60ヵ国の代表が参加して開催された。世界は53年の朝鮮戦争の休戦、54年のインドシナ戦争の停戦でようやく局地的な戦火も止み、冷戦下にはあったが東西の平和共存が可能であるというムードが盛り上がってきた。それを受けてこの年7月には戦後初めて米ソと英仏首脳によるジュネーブ4ヵ国首脳会談が開催され、ドイツ問題などの課題について話し合い、具体的な合意は得られなかったが「ジュネーブ精神」という話し合いの精神が確認された。世界をリードしていた4国首脳に話し合いの気運をもたらしたのは、同年4月に開催されたアジア=アフリカ会議に見られる、いわゆる第三世界の動きであった。アメリカとソ連は世界でのイニシアチブを維持するためにも平和共存路線を模索せざるを得ない情勢となった。
1955年は戦後日本にとっても画期的であり、いわゆる「55年体制」と言われる自由民主党による長期安定政権が始まった年でもある。そして60年の安保改訂を経て、60年代の高度経済成長期へと移行していく。
 バンドン インドネシアのジャワ島にある都市で、1955年4月にアジア=アフリカ会議が開催された。バンドゥンとも表記する。西部ジャワのジャカルタに次ぐ都市で、植民地時代から政治・経済・交通の要地として栄えていた。若き日のスカルノはバンドン工科大学で学んだ。1946年3月、オランダとの戦闘で激しい戦闘があったところで、独立戦争の象徴的な場所であったことが、アジア=アフリカ会議開催の背景となった。
 平和十原則 1955年のアジア・アフリカ会議で共同声明という形で発表された、平和のための原則。54年の周恩来=ネルー合意である平和五原則をもとに、より現実的な課題を入れてまとめられた。10項目は次の通り。
このうち、2.4.7.9は「平和五原則」と同じであるが、五原則にあった「平和共存」の語句は社会主義国・非同盟主義諸国と親西欧諸国の意見の対立から見送られ、1の「国連憲章の尊重」という表現となった。また5.の「自衛権の尊重」は親西欧諸国の主張で採用されたが、6で集団的自衛権には「自制する」という語句が加えられた。
意見の対立を乗り越えて バンドン会議ではネルー、スカルノ、周恩来などが「平和共存」をうたった「平和五原則」の満場一致での確認を望んでいた。しかし、参加国のなかの親西欧諸国(日本も含め)は「平和五原則は共産主義思想の申し子」として反発し、すべての国は個別的・集団的自衛権を有するとして、軍事同盟参加を肯定する立場を取った。それにたいして周恩来は「平和共存」という表現が一致を得にくいなら「国連憲章」の「共に平和に生きる」という表現を使用しようと提案した。ついでナセルが「大国が軍事ブロックを自国の利益のために用いないことを条件にして、集団的自衛権を容認する」という妥協案をだして収拾されることになった。このように「平和十原則」には「平和共存」という言葉そのものは使われておらず、妥協の産物とも言えるが、アジア・アフリカ諸国が体制や立場の違いを超えて、反植民地主義と平和共存のという意志で結集した意義は大きい。<油井大三郎/古田元夫『第2次世界大戦から米ソ対立へ』世界の歴史28 1998 中央公論社 p.266> 
 非同盟諸国首脳会議 第1回は1961年、ユーゴスラヴィアのベオグラードで開催された、非同盟を掲げる諸国の首脳会議。この会議を呼びかけたのはインドのネルー首相、ユーゴスラヴィアのティトー大統領、エジプトのナセル大統領。アメリカとソ連という二大国のいずれとも同盟関係を結ばす、積極的に中立を図ろうとする非同盟主義を進めていた三者が、56年7月、ユーゴスラヴィアのプリオニ島で会談して意見が一致した。当時米ソ両国は平和共存路線が行き詰まり、61年にはアメリカがキューバと断交、8月にはベルリンの壁が構築されるなどの危機を迎えていた。
1961年9月1日から6日まで、ベオグラードで開かれた第1回非同盟諸国首脳会議は25ヵ国の代表が参加した。代表も皇帝や国王から大統領、首脳、外相など多彩であった。会議では、ネルーは「いかに平和を実現するか」を論じ、ガーナのエンクルマは「植民地主義反対、帝国主義反対」を強調し、対立する場面もあったが、最終的には米ソ両国に対し戦争の危機の回避を強く訴える宣言文を決議した。米ソ両国も第三勢力の動きを無視できなくなる。
補足 現在も続く非同盟諸国首脳会議 その後非同盟諸国首脳会議は何度か開催されている。2006年9月15日から2日間、キューバのハバナで第14回が開催され、115ヵ国が参加、国連のアナン事務総長もオブザーバー参加した。会議では病気療養中のキューバのカストロ首相が演説するかどうか注目されていたが、弟のラウル氏が代理で登場した。イランのアフマディネジャド、ベネズエラのチャベスなど反米を鮮明にしている首脳が参加、特にチャベス大統領は「アメリカ帝国主義とは友人になれない。新自由主義は失敗した。」と激しい口調でアメリカを非難した。
 ベオグラード 旧ユーゴスラヴィアの首都。現在はセルビア共和国の首都。1961年、非同盟諸国会議がベオグラードで開催された。
 ティトー  → ユーゴスラヴィアのティトー大統領
 ナセル  → エジプトのナセル大統領
 スカルノ  → インドネシアのスカルノ大統領
 非同盟主義 非同盟(ノンアラインメント nonalignment )主義は、第2次世界大戦後の米ソ両陣営の冷戦に対し、そのいずれの陣営にも加わらず、積極的中立を守り、第三勢力を形作って米ソに圧力をかけ、平和を実現しようという思想、またはそれにもとづく外交戦略。インドのネルー首相が1948年に、インドは東西いずれの軍事ブロックにも加わらないという非同盟政策をはじめて演説した。ネルーは54年に南アジア諸国に呼びかけてコロンボ会議を開催、SEATOの結成の動きに反対し、さらに55年のアジア・アフリカ会議を成功させた。さらに、ユーゴスラヴィアのティトー大統領、エジプトのナセル大統領などによって推進され、1961年には第1回非同盟諸国首脳会議(ベオグラード)を開催した。70年代にはこれらの指導者がいずれも亡くなり、地域的紛争も多発し、非同盟諸国の結束も弱まっているが、現在至るまでアジア・アフリカ・ラテンアメリカ地域の諸国では拠り所となっている。
イ.アフリカ諸国の独立
A エジプト革命  → エジプト革命
 ナセル大統領

Jamal Abd al-Nasir 1918-1970
ナセルは1952年にエジプト革命を実現した後、54年にナギブ大統領を追放して首相、56年に国民投票で国民投票で大統領になり、1970年に急死するまでその地位にあった。ナセルは大統領として1956年にスエズ運河国有化を宣言し、その収入でアスワン=ハイダムの建設を進め、スエズ戦争(第2次中東戦争)で政治的勝利を勝ち取り、運河国有化を実現した。1958年にはシリアと合同してアラブ連合共和国を結成した。1961年にはユーゴスラヴィアのティトー、インドのネルーとともに非同盟諸国首脳会議を呼びかけベオグラードで開催した。
しかし60年代にはいると、シリアのアラブ連合からの離脱、1967年の第3次中東戦争での敗北など、その指導力も低下することとなった。ナセルは、ナセル主義といわれる独自の路線で、1950〜60年代の第三世界のリーダーを務めたが、その柱は次の三点にまとめられる。
ナセル主義の要点
1)積極的中立主義:東西冷戦下において、アメリカ・イギリス・フランスなどの西側資本主義陣営にも、ソ連などの東側共産主義陣営にもくみせず、自主独立の道を歩み、第三世界の諸国と連携をする。 → 非同盟主義
2)汎アラブ民族統合の理想:ヨーロッパ植民地主義はアラブ語民族を人為的に12以上の国に分裂させた。そのために兵力で優勢に立つにもかかわらずイスラエルの建国を許し、石油資源は外国の資本と世襲王政に支配されている。このような分裂状態を終わらせ、アラブ語民族を統一することを理想とした。 → アラブ民族主義
3)社会主義:貴族と大地主に支配され、外国資本と結びついている古い王制国家を打倒し、社会を近代化して人々を富ませるには、国家が基幹産業と公共資本を管理し、富を分配するマルクス的な社会主義経済が有効であると考え、農地改革や銀行の国有化などを行った。<藤村信『中東現代史』1997 岩波新書 p.38> 
b アスワン=ハイダム エジプトのナセル政権のもとで計画されたナイル川の上流でのダム建設。ナセルは、農業近代化と耕地拡大のための灌漑用水確保、また工業化のための電源確保のためにナイル川上流へのダム建設を計画した。1954年に建設が決定され、当初はアメリカも資金を援助する予定であったが、アメリアのイスラエルへの武器援助に対抗してナセルがソ連から武器を輸入するなど、ソ連寄りの姿勢を見せたので、アメリカがダム建設費用の援助を拒否した。ナセルはその建設費用をスエズ運河国有化によって得ようとして、英仏およびイスラエルとのスエズ戦争となった。戦後の58年にソ連が援助を開始、1960年に工事を開始し、70年に完成した。ナイル川中流に出現した人造湖はナセル湖と名付けられた。
Epi. ナイルに沈む歴史 アスワン=ハイダムが完成すると、ダムより上流のエジプト(竣工当時はアラブ連合)からスーダンにかけてのナイル川流域がダムに沈むこととなった。この流域のヌビア人が約10万人が、政府の手で移住させられることとなった。またこの流域は古代ヌビア文化の遺跡が点在しており、その多くが水没することになった。その中の最も重要な遺跡である3300年前のラメセス2世の建造したアブ=シンベル神殿はユネスコの手で解体され、移築されることになった。大神殿は幅約38m、高さ役33mの岩肌に4体のラメセス2世像があり、小神殿は王妃ネフェルタリの像を中心に高さ10mの立像が6体並んでいる。これらの神殿は、合計で1041個の岩塊に解体され、水位の及ばない高さの土地に移築された。工事は1963年から5年間、3600万ドルの費用をかけ、68年9月に完成した。<鈴木八司『ナイルに沈む歴史』1970 岩波新書>
c スエズ運河国有化 スエズ運河は1869年に営業を開始、1875年にイギリスが買収して以来、スエズ運河会社がその利益をイギリスやフランスの株主に分配し、エジプトにはごくわずかな利益しかもたらさなかった。ナセルは、農業近代化のためにアスワン=ハイダムの建設費用をアメリカの援助に求めたが、アメリカがナセルのソ連寄りの姿勢を嫌って援助を断ってきたので、スエズ運河を国有化し、その利益をダム建設に向けることを考えた。1956年7月に発表されたこの声明は世界を驚かせ、とくに英仏は運河会社の経営権をなくすことになるので衝撃を受けた。英仏は逆提案という形で運河の国際管理案を持ち出して時間を稼ぎ、その間軍備を整え、イスラエルをエジプトに侵攻させ、さらに両軍がスエズ地区に出兵してスエズ戦争が勃発した。エジプトは国際世論に支持されて英仏軍を運河地帯から撤退させ、スエズ運河はこの後エジプトが管理することとなった。
 スエズ戦争   = 第2次中東戦争
 第2次中東戦争 1956年10月、エジプトのナセル大統領スエズ運河国有化宣言に衝撃を受けたイギリス・フランス(同時に展開されていたアルジェリア戦争の背後にナセルがいると考えていた)がイスラエルのベングリオン内閣を動かしてエジプトに侵攻させた。ダヤン将軍の率いるイスラエル軍は1週間でシナイ半島を制圧、さらに両軍がスエズ地区に出兵してスエズ戦争が開始された。国際世論は英仏とイスラエルの侵略行為を非難し、エジプトを支持する声が強く、ソ連(当時ハンガリー事件の最中であったが、フルシチョフは平和共存路線を模索していた)も英仏に対してミサイルで報復すると警告、アメリカはアイゼンハウアー大統領が大統領選挙に直面していたため英仏への援軍を派遣せず、英仏とイスラエルは国際的に孤立して撤退を表明した。エジプトは戦争では敗れたが政治的には勝利し、ナセルは「アラブの英雄」として人気が高まった。 → 第3次中東戦争
補足 スエズ戦争と国連 イスラエルの侵攻が開始された翌日の10月30日、アメリカは安保理の緊急会合開催を要請、イスラエルの撤兵を求める決議案を提出した。それに対してイギリスとフランスが拒否権を行使した。アメリカと英仏が対立するという驚くべきことが起こった。そこで翌31日、安保理が拒否権でマヒした場合は議題を総会に移管するという1950年の「平和のための結集」決議を利用し、緊急特別総会を開催することとし、その緊急特別総会でアメリカがただちに停戦・撤兵決議案を提出し、採択させた。この段階ではアメリカは多国間主義による国際紛争の解決という原則を維持していたのである。<最上敏樹『国連とアメリカ』2005 岩波新書 p.150>
 イギリス・フランス・イスラエル 
 アイゼンハウアー=ドクトリン → 第16章2節 アイゼンハウアー=ドクトリン
 アラブ連合共和国 1958年2月、エジプトシリアが合併して成立した国家。ナセルを大統領としてアラブ民族主義を掲げ、反米・親ソ路線をとった。まもなくエジプトの優位にシリア側が反発し、1961年には解消された。
スエズ戦争後、中東地域でイギリスが後退した後にソ連の影響力が強まったことを警戒したアメリカは1957年1月アイゼンハウアー・ドクトリンを発表して中東への武力介入もありえることを宣言した。しかしかえってアラブ民族の統一と連帯を説くアラブ民族主義が燃えあがることとなった。シリアではバース党が台頭し、ソ連に接近、さらにエジプトのナセル大統領を説いて、エジプトとシリアの統合を実現した。このカイロ=ダマスクス枢軸の成立は、アメリカだけでなく、周辺のイラク、ヨルダン、サウジアラビアの三王国にも大きな衝撃を与えた。そのうちイラク王国では同年の7月に王政が倒された(イラク革命)。さらにレバノンでもキリスト教徒とイスラーム教徒の対立が激化し、レバノン暴動が勃発した。
しかし、この国家統合は、シリア側が言い出したものの合併後はエジプトが強まったために、シリア内部に分離派が生まれ、61年に軍部がクーデターを起こして連合共和国の解消を決めたため、あっけなく消滅してしまった。シリアはその後も政情不安が強く、63年にはバース党が再びクーデターで権力を握る。 → シリア 
なおエジプトは、1971年までアラブ連合共和国の国名を続けた。
Epi. 世界を驚かした国家の結婚 1958年2月1日、エジプトのナセル大統領とシリアのクワトリ大統領はカイロで前代未聞の合邦宣言に署名、不意打ちの「結婚発表」は世界を驚かせた。押しかけ花嫁はシリアの方で、ナセルの方は最後の瞬間までためらっていた。シリアはアメリカの脅威に対し、ナセルの権威に保護を求め、その懐にとびこもうとした。この結婚は急進的な共和主義が一組となってアラブ民族統合への第一歩となると考えられ、アラブ世界の民衆から歓呼を持って迎えられたが、同時に西欧とアメリカのアラブ支配、およびそれに依存する王政という古い秩序に対する挑戦であった。しかしこの「国家の結婚」はうまくいかず、わずか3年あまりで破綻してしまう。<藤村信『中東現代史』1997 岩波新書 p.52 など>
 レバノン暴動1858年7月、レバノンで起こった、親米的なマロン派キリスト教政権に対する、イスラーム教徒アラブ人の蜂起。第1次レバノン内戦とも言う。第2次中東戦争後、中東への介入を強めていたアメリカのアイゼンハウアー政権は海兵隊を派遣し鎮定に当たった。
レバノンでキリスト教徒とイスラーム教徒の対立が続いていたが、キリスト教マロン派のシャムゥン大統領は、エジプトとシリアが合体してアラブ連合共和国が成立し、さらにイラク革命が勃発したことなどから、パレスチナ難民を含むイスラーム教のアラブ人が攻勢に出てくることを恐れ、アメリカの経済援助と軍事支援を要請した。かえって大統領に対する反発が強まり、大統領擁護のマロン派とパレスチナ難民を含むアラブ人の対立は暴動となった。おりからのイラク革命の波及を恐れたアメリカは海兵隊を上陸させ、大統領を交代させて事態を収拾した。しかし、国連ではアメリカ軍の軍事介入に批判が強まり、緊急総会で非難決議が可決され、アメリカ軍は10月に撤退した。 → レバノン(現代) レバノン内戦
 アルジェリア戦争1954年から始まったアルジェリアのフランスに対する独立戦争で、62年に独立が達成された。北アフリカのアルジェリアは、1830年以来のフランス領であったが、第2次世界大戦後に独立運動が激化し、1948年にベン=ベラの指導でアルジェリア民族解放戦線(FLN)が結成され、1954年に武装蜂起し、フランス系白人(コロン)とフランス軍を相手に激しい独立戦争を開始した。FLNは激しいテロ活動を展開、フランス人入植者も報復テロを行って闘争は凄惨な様相となった。フランス本国政府は1957年1月空挺部隊を送り込んでアルジェを制圧し、大規模なゲリラ掃討作戦を展開し、運動を抑えつけた。58年11月にはFLNはカイロでアルジェリア臨時政府を樹立した。この間、本国政府はアルジェリアの独立承認に傾いたが、それに不満な軍部と現地フランス人が激しく反発してアルジェリア問題が深刻化し、58年に第四共和政政府が倒れてド=ゴールが復活して首相となり、ついで大統領となった。ド=ゴールは現地軍の反乱を鎮圧して独立承認に転換し、61年にはアルジェリア独立を承認する国民投票が成立した。1962年にフランス政府とアルジェリア臨時政府との和平協定(エヴィアン協定)が成立しアルジェリア戦争が終結した。アルジェリア戦争とその独立は、アフリカ諸国の独立運動を呼び起こし、1960年10月までに15の国の独立を促した。 → アルジェリア問題
Epi. 『アルジェの戦い』 1966年に制作されたイタリア映画「アルジェの戦い」(ジッロ=ポンテコルヴォ監督)は、54年から60年までのアルジェリア戦争を描いて同年のヴェネツィア映画祭の金獅子賞を受賞した。この映画は実際にアルジェリア独立戦争に参加したアルジェリア人が出演し、すさまじいテロやフランス軍の拷問をリアルに再現、観客に衝撃を与えた。監督は解放戦線側だけでなくフランス軍の言い分も平等に取り上げたと説明したが、映画祭に集まったフランス人の記者や関係者は、一方的な反フランス的に描かれているとして一斉に退場したという。すでに40年前の映画だが、今見ても民族独立の願いの切実さと、それを力で抑えつけることのの愚かしさを強く訴えかけるものがある。またテロと報復という現代の中東で起きている事態を予感させる、一見の価値ある映画である。
a 民族解放戦線(FLN) アルジェリアのフランスからの独立を目指す民族運動組織。ベンベラを指導者に1948年に結成された。次第に民族派を広く糾合し、1954年に対フランス独立武装闘争を開始した(アルジェリア戦争)。1962年にフランスのド=ゴール大統領との間でエヴィアン協定が締結され、アルジェリアの独立を勝ち取った。独立後は社会主義体制をとり、一党独裁体制を続けたが次第に党員の特権階級化や腐敗が起こって非難されるようになり、国民の支持を失い、92年以降はイスラーム原理主義を掲げるイスラーム救国戦線との間で内乱状態となった。 →アルジェリア民主人民共和国
b スーダン(独立)
アフリカ諸国最大の面積(約250万平方km、日本の7倍)を有する。人口は約3800万。そのうち40%はアラブ系でイスラーム教徒だが、約30%のアフリカ系(黒人で非イスラームの原始宗教やキリスト教徒が多い)が南部に集中している。首都はハルツーム。エジプトの南部、ナイル川上流に位置し、その東側はエチオピア、西側はチャド。
独立とその後の歴史 スーダンは1899年、マフディー教徒の国家がマフディーの乱としてイギリスに制圧されてからから、形の上ではエジプトとイギリスの共同統治とされたが、事実上はイギリスの植民地支配を受けていた。エジプト革命によって1953年に生まれたエジプト共和国がスーダンの併合を要求すると、イギリスはそれを拒否し、自治権を与えることにした。1955年末、スーダンの議会はイギリスからの独立を決議し、翌1956年1月1日、スーダン共和国は独立した。独立後は政情不安定でクーデターが相次ぎ、1989年からはイスラーム原理主義が台頭し、その支持を受けたバシル軍事政権が成立、それに対して南部の非イスラーム勢力が分離独立を主張し、激しいスーダン内戦となった。1993年、アメリカは、スーダンに対して、テロ支援国家に指定し、警戒を強めた。内戦は国連やアフリカ連合(AU)の働きかけもあって停戦に合意したが、2003年からは西部のダルフール地方で、同じイスラーム教徒でありながら、アラブ人の現政権による非アラブ人への暴力行為などから民族紛争であるダルフール紛争が起こり、大規模な民族浄化と称する残虐行為が問題となっている。2009年には国際刑事裁判所(ICC)がバシル大統領を虐殺など非人道的行為を指揮したとして逮捕命令を出しているが、大統領は従っていない。(2009年6月現在)
c モロッコ(独立)アフリカ大陸の西北に位置し、大西洋・ジブラルタル海峡に面してしかも地下資源の豊富なモロッコは、ヨーロッパ列強の帝国主義にとって格好の領有目標とされた。フランスはドイツとの紛争(モロッコ事件)の後、モロッコを事実上の植民地として支配した。モロッコにはスルタンが存在したが、フランス総督によって統治された。第2次世界大戦後の1953年、民族解放組織「イスティクラル(独立の意味)」の独立運動が活発になると、フランス総督はスルタンをマダガスカルに追放して運動を抑えようとしたがかえって混乱が増し、54年にマンデス=フランス首相が自治を約束、チュニジアと同じように56年に完全独立を承認された。<独立に関しては渡辺啓貴『フランス現代史』1998 中公新書 p.73>
d チュニジア(独立)チュニジアは1881年にフランス軍が上陸、83年からその保護領となった。第2次世界大戦後、指導者ブルンギバ(ブルギバとも表記)に指導された民族解放運動が活発となり、52年に国連に提訴、フランスも激しい弾圧を加え対立が続いた。1954年フランスのマンデス=フランス首相はカルタゴに飛び、軍事・外交を除いた自治権を付与した後に、独立を認める約束をした。国際世論に配慮するとともに隣のアルジェリアへ独立運動が飛び火することを恐れたからであった。その後56年に完全独立を認め、57年7月にはブルンギバが大統領に就任した。<独立に関しては渡辺啓貴『フランス現代史』1998 中公新書 p.73>
e アルジェリア問題  → 第16章 2節 アルジェリア問題
f ド=ゴール  → 第16章 2節 ド=ゴール大統領
g エヴィアン協定 1962年3月、フランス(ド=ゴール政権)とアルジェリア民族解放戦線(FLN)との間で締結されたアルジェリア戦争の和平協定。スイスのジュネーブ郊外のエヴィアンで調印された。58年の現地フランス人と現地軍の反乱を鎮圧したド=ゴール政権は、「フランス人のアルジェリア」から「アルジェリア人のアルジェリア」への転換を図ったが、なおも抵抗勢力は根強く、1960年のアルジェでの現地軍の反乱やド=ゴール暗殺を狙ったテロ事件(小説『ジャッカルの日』で描かれている)が続き、FLNの報復テロも激しかった。しかし61年のフランス国民投票は75%の賛成でアルジェリアの民族自決を承認した。それにもとづいて同年1月からエヴィアンでフランス・FLNの交渉が持たれ、62年3月にエヴィアン協定が成立し、アルジェリア(サハラを含む)の独立、停戦などが決まった。
 アルジェリア民主人民共和国 1962年7月3日、アルジェリア戦争に勝利して独立を達成、9月に制憲議会はアルジェリア民主人民共和国の成立を宣言した。大統領には翌年、民族解放戦線(FLN)の指導者で釈放されたベンベラを選出した。ベンベラは社会主義の建設を掲げ、民族解放戦線の一党制のもとで次第に独裁的に権力を集中した。国民解放軍がその権力を支えていたが、国防相ブーメディエン大佐が65年6月にクーデターを行い、ベンベラ政権を倒した。ベンベラは外交面では非同盟中立主義をかかげ、65年には第2回アジア=アフリカ会議がアルジェで開催される予定であったが、クーデターのため中止となった。
ブーメディエン政権下でも社会主義建設が進められ、農地改革が進められ、撤退したフランス人入植者の残した企業を国有化、さらに石油資源を背景に工業化を進めた。しかし、軍、政治、官僚を抑えるFLN体制が長期化すると、次第に腐敗して次第に国民の支持を失い、1980年代末にはイスラーム救国戦線(FIS)などのイスラーム原理主義運動が台頭し、1991年の選挙ではFISが圧勝した。しかし直後の92年に軍によるクーデタがおき、選挙結果は事実上無効になった。イスラーム原理主義運動は武装テロを繰り返し、治安は極度に悪化し、国家非常事態が宣言された。その後はテロは沈静化したが、非常事態は現在も継続している。
 アフリカの年 1960年、アフリカの17ヵ国が一斉に独立を達成したので、このように言う。この時独立したのはフランス植民地であったところが多く、ド=ゴール大統領がアルジェリアの独立運動に押されて、植民地の独立を認める方針に転換したことが大きい。
a ガーナ(独立)1957年3月6日、イギリス連邦の最初の黒人国家ガーナ共和国として独立し、60年代のアフリカ諸国の独立の先鞭を付けた。初代首相エンクルマは62年から終身大統領。ガーナは植民地時代はゴールドコースト(黄金海岸)と言われ、1874年からイギリスの植民地であった。第2次大戦後の民族自決の流れの中でイギリスは1946年に一定の自治を認めたが、48年にはより完全な独立を求める暴動が起こった。独立運動を指導したエンクルマは非暴力不服従を掲げイギリスと粘り強く交渉し、57年に独立を勝ちとった。ガーナの独立は他のアフリカ植民地に独立の希望を与え、またその手本となった。
古代ガーナ王国とは位置が異なることに注意:なお、古代のガーナ王国は、現在のガーナとは関係が無く、位置もニジェール川の上流域(現在のマリとモーリタニアの国境地帯)にあった。エンクルマが独立を達成したとき、古代ガーナ王国の繁栄にあやかり、新国家にガーナという名を付けたもの。
独立後のガーナ:ガーナは独立を達成したが、植民地時代からのカカオのみに依存するモノカルチャー経済が続いたため、次第に悪化し、マイナス成長が続いた。そのため政情も不安定で、1966年には軍事クーデターが発生し建国の功労者エンクルマが追われ、その後も軍事独裁政権と文民政治がめまぐるしく交替し、不安定な状況が続いている。
b エンクルマ
第2次世界大戦後のアフリカ独立運動を指導した代表的人物。正しくはクワメ=ンクルマと表記。イギリス植民地ゴールドコースト生まれの黒人で、アメリカやイギリスで学びながらパン=アフリカ主義の運動に加わった。帰国後、ゴールドコースト会議人民党(CPP)を結成して独立運動を指導し、イギリスに対して「即時自治」を求め、ストライキやボイコットなどの非暴力不服従運動を展開、逮捕されたが1951年には総選挙を実施させ、自らも獄中から立候補して当選、イギリスとの独立交渉に当たった。1957年、ガーナ共和国として独立を達成し、首相に就任、さらに大統領となった。エンクルマは1958年4月には第1回アフリカ独立諸国会議を開催、解放闘争の支援、国連での共同戦線、非同盟路線などを呼びかけた。さらに同年11月にはアフリカ全域から250名の代表を集めて「全アフリカ人民会議」を主催し、半植民地主義とアフリカの統一を掲げた。1961年にはベオグラードでの第1回非同盟諸国首脳会議に参加し、重要な役割を果たした。エンクルマは1962年には終身大統領となり、1963年にはアフリカ統一機構(OAU)の結成を実現させた。しかし国内政治ではCPPの一党独裁体制をとって社会主義に傾斜し、経済不振のため次第に反発を受けるようになり、1966年には中国訪問中に軍部によるクーデターが起こってその地位を追われ、ギニアに亡命した。
 ギニア 1958年にフランスから独立した西アフリカの黒人共和国。19世紀にモロッコ、サハラから南下したフランス軍が西アフリカ進出を進めたが、世紀末にはサモリ=トゥーレを中心とする激しい反フランス蜂起が起こった。一時は強大な勢力を持ったが、ついに鎮圧され、フランス植民地となった。第2次世界大戦後、次第に独立の気運が強まり、サモリ=トゥーレの孫のセクー=トゥーレを指導者とする独立運動が起こった。1958年、アルジェリア問題を乗り切ったフランスのド=ゴール大統領は、各植民地に対しフランス共同体に残留するかどうかの住民投票を認めた。ギニアでは95%の賛成でフランスからの独立を決定した。1961年、セクー=トゥーレが初代大統領となり、ギニア共和国が発足した。セクー=トゥーレは次第に独裁的となり84年の死去まで大統領を独占した。なお、15世紀以降にポルトガルやイギリスが盛んに黒人奴隷貿易を行ったギニア地方というのは現在のギニアではなく、その西のギニア湾沿岸部をさすので注意する。
 1960 アフリカで17の新しい独立国が生まれたので、アフリカの年といわれる。一方、日本にとっては「60年安保」と言われた、日米安保条約の改訂に対する激しい反対運動が起こった年。安保条約は改訂され、日本は反共陣営の一員としてアメリカと軍事同盟で結びつけられることとなった。その背景には、50年代後半の米ソ平和共存路線が、60年のU2型機事件を機に再び冷えこんだことがあげあれる。同年、韓国では学生を戦闘した民主化運動が盛り上がり、李承晩政権が倒れている。ヨーロッパではド=ゴールのフランスが核実験(独立前のアルジェリア南部のサハラ砂漠で行われた)を行い、イギリスはEECに対抗してEFTAを結成、冷戦構造が分極化し始めた年でもある。
 17ヵ国 1960年に独立を達成したアフリカ諸国は次の通り。セネガル、モーリタニア、マリ、コートジボワール、ブルキナファソ、トーゴ、ベニン、ニジェール、チャド、中央アフリカ、カメルーン、ガボン、コンゴ、マダガスカル(以上旧フランス領)、ナイジェリア、ソマリア(旧イギリス領)、ザイール(旧ベルギー領コンゴ)
なお、マリとセネガルは当初マリ連邦として独立したが、同年中に分離した。
1960年以前に独立していたのは、エチオピア(1936〜42年はイタリアに占領されたがそれ以外は独立国であった)、リベリア(1847年、アメリカから解放奴隷が戻って建国した)、エジプト(1922年、イギリスから独立)、リビア(1951年独立した王国)、スーダン、モロッコ、チュニジア(この3国は1956年独立)、ガーナ(1957年)、ギニア(1958年)
 ポルトガルのアフリカ支配アフリカ大陸進出の口火を切ったのがポルトガル人で、1446年に西アフリカの海上のカボベルデ島に到来し、15世紀末にアンゴラ、さらに東海岸のモザンビークに進出した。当初はアジア貿易の帆船の寄港地としてされるだけであったが、16世紀から始まった奴隷貿易は19世紀半ばまで続いた。大航海時代の先頭を切って繁栄したポルトガルも16世紀からはスペイン、さらにオランダ、イギリスに押されて没落し、19世紀にはヨーロッパでもっとも貧しい国の一つになってしまったが、その植民地経営も効率が悪く、ポルトガルの没落を食い止められなかった。1932年にサラザール独裁政権が成立し、戦後の1968年まで続き、その間本国でも人権抑圧、腐敗が進んだため、その植民地であるアンゴラ、モザンビーク、ギニア・ビサウでも貧困と圧政が続いた。1960年の「アフリカの年」をピークとした戦後のアフリカ諸国の独立の中で、ポルトガル領だけが独立が遅かったのは、本国の独裁体制と遅れた経済体制が植民地の経済を停滞させ、また植民地における人権抑圧が本国でも行われていたからである。1961年から、アンゴラなどで独立運動が始まり、それが本国のサラザール独裁体制を動揺させ、1974年に植民地・本国同時革命が起こって独裁帝政が倒されるとともに、植民地の独立も実現した。 → ポルトガルの民主化
 ベルギー  → 第14章 2節 ベルギーのアフリカ植民地支配
 コンゴ動乱 1960年の独立から始まり、65年まで続いたコンゴの内乱。ベルギー領コンゴは、フランス植民地が次々と独立していくことに刺激されて、独立を求めて暴動を起こすようになった。ベルギー政府は1960年6月30日にコンゴ共和国(後に国名をザイールに変更。現在はコンゴ民主共和国。現在のコンゴ共和国とは違うので注意。)の独立を認め、ルムンバが首相となった。しかしベルギーは独立を認めたものの南部の豊かな鉱山地帯(有数の銅、コバルトの産地)であるカタンガ州を分離独立させて影響力を残そうとして軍隊を派遣、チョンベらを反政府活動に扇動し、内乱を起こさせた。ルムンバは国連軍の派遣を要請したが、国連(ハマーショルド事務総長)はカタンガ州と国際鉱山資本の保護するという態度をとり、9月に国連とアメリカの後押しを受けた郡部のモブツがクーデタを起こしてルムンバを逮捕した。後にルムンバは殺害され、動乱が拡大した。カタンガ州分離派の背景には豊かな資源をねらう国際的鉱山資本の策謀があったという。1965年に軍部のモブツ将軍が大統領となって軍政を敷き、一応動乱は収拾された。モブツは独裁体制を強め、一種の鎖国政策を布いたため経済成長が止まり貧困が続いた。この間、71年にはコンゴ川をザイール川に改めたのにともない、国名をザイール共和国に変更した。しかし、1997年、コンゴ・ザイール解放民主勢力連合が首都キンシャサを制圧、モブツ政権を倒し、国名を再びコンゴに戻した(コンゴ民主共和国)。
Epi. 国連事務総長の遭難 コンゴ動乱に際して国際連合は秩序回復のために治安維持部隊を派遣することになり、1962年、事務総長ハマーショルドが現地に飛んで折衝に当たった。しかしハマーショルドはコンゴで乗り込んだ飛行機が墜落して死亡した。当時は独立を妨害するコンゴ鉱山会社の陰謀説が流れた。ハマーショルドはスウェーデン出身で経済学者であったが国連に入り、事務総長としてスエズ問題の処理にあたり、その公正で誠実な人柄は国際的な信頼を受けていた。しかしカタンガ州分離勢力とも話し合うなどの姿勢は、ルムンバからはアフリカ独立への国連の妨害であると非難された。
 ルムンバ
Patrice Lumumba 1925-61
アフリカの黒人独立運動家で1858年コンゴ民族運動(MNC)を組織、エンクルマのパン=アフリカ運動に共鳴、1959年にはベルギー領スタンレービルで独立闘争を指導、1960年6月にコンゴ共和国の独立を達成し、首相となった。しかし大統領カサブブと対立し、さらにカタンガ州分離派のモブツ将軍らが分離独立を主張しコンゴ動乱となった。ルムンバは国連軍の派遣を要請したが、国連はカタンガ州の鉱山資本と結んでいるモブツ政権を保護、9月に国連とアメリカの後押しによるモブツのクーデターによってルムンバは逮捕され、殺害された。コンゴには国連軍が派遣されていたが、ルムンバ殺害について傍観した。東西冷戦下に親ソ的な姿勢を示したルムンバ政権によって、カタンガ州の鉱山資源が国有化されることをおそれた国際資本とベルギーおよびアメリカがその排除を画策したのである。そして国連がそれに力を貸すこととなった。
Epi. 息子よ未来は美しい−ルムンバの遺書 ルムンバ首相は反政府軍に捕らえられ、ベルギー軍の飛行機でカタンガに送られ、61年1月、チョンベ政権によって裁判なしに虐殺された。獄中でルムンバが妻と子に残した遺書にはこう記されていた。
「あとにのこる息子たちに、もしかしたら二度とあえないかもしれない息子たちに、わたしはいいたい−コンゴの未来は美しい。わたしたちは息子たちに、一人ひとりのコンゴ人に期待するのと同様に、われわれの独立と主権を回復する聖なる課題をはたしてくれることを期待する。・・・・やがてその日がきて、歴史がかならず判定をくだすだろう。しかしそれは、ブリュッセルやパリ、ワシントンあるいは国連でおそわる歴史ではない。これは、植民地主義とその手先かあ解放された国々でおしえられる歴史である。アフリカは、じぶんの独自の歴史をかくだろう。そしてこれは、北アフリカでも南アフリカでも、栄誉と尊厳の歴史となるだろう。・・・」<ルムンバ『息子よ未来は美しい』1961 理論社 p.130>
 アフリカ独立国首脳会議1963年3月、ガーナのエンクルマ大統領の呼びかけで、アフリカのエチオピアの首都アジスアベバで開催された、アフリカ諸国の会議。1960年の「アフリカの年」で独立した17カ国を含め、31カ国が参加し、5月にアフリカ統一機構憲章に調印して終了した。これによってアフリカ統一機構(OAU)が発足し、アフリカの未読率地域の独立支援、旧植民地宗主国の介入や新植民地主義による新たな支配などに反対する体制をつくった。 
 アフリカ統一機構(OAU) Organization of African Unity 1963年5月、エチオピアのアジスアベバで31各国が結集した「アフリカ独立諸国首脳会議」で合意されたアフリカ諸国の連合体。主権の平等、内政不干渉、主権と領土の尊重、紛争の平和的解決、暗殺・破壊活動の非容認、非独立地域の完全解放、非同盟路線の堅持などをうたうOAU憲章を採択した。本部はアジスアベバ。
アフリカ統一機構の基礎は、1958年、ガーナのエンクルマ大統領の呼びかけで、アクラで開催された「アフリカ独立諸国会議」。ガーナ、エジプト、エチオピア、リベリア、リビア、モロッコ、スーダン、チュニジアが参加。エンクルマはそこで「アフリカ合衆国」の結成を呼びかけた。1960年に17国が一斉に独立を達成したが、同時に起こったコンゴ動乱に際し、アフリカ諸国がルムンバ政権支持派と穏健派に分裂し、「アフリカ合衆国」構想は実現できなかった。ついでエチオピアのハイレ=セラシエ1世が両派の妥協を図り、政治的統合は棚上げにして全アフリカの協力機構を結成することにこぎ着けたのがOAUである。
OAUはその後、国境紛争などで調停の役割を果たした面もあるが、コンゴやルアンダなどの内戦には有効な対処をすることができず、問題ともなった。2002年7月にはEUをモデルに、アフリカ連合(AU)に発展的に解消した。
 新植民地主義 第2次世界大戦後に植民地の独立運動が激しくなり、1960年のアフリカの年のアフリカ諸国の独立にみられるように多くの植民地が独立を達成した。そのような情勢に応じて、旧植民地支配国側に起こってきた新しい考え方で、旧植民地に対し、従来の直接的な支配に代わり、政治的には独立を認めながら経済的な支援や軍事同盟などを通じて関係を維持し、実質的な支配を続けようとする思想。その背景には国際的資本(多国籍企業)が、発展途上国の資源を確保し、また市場を拡大する意図があった。1950年〜60年代のアジア・アフリカの民族運動は、このような新植民地主義に対する反対運動として継承された。また、先進工業国と発展途上国間の格差の広がりに伴う問題は、南北問題として広く認識されるようになった。
 アフリカ連合(AU) 2002年7月、それまでのアフリカ統一機構(OAU)が発展的に解消して、アフリカ連合となった。  
 軍事独裁政権 1960年以降、アフリカ諸国は一斉に独立を達成したものの、経済基盤は十分でなく、また植民地所有国が人為的に引いた国境線で独立したため、民族集団が分断されていたり、異なった文化習慣を持つ民族どうしが国家を形成しているなど、国家どうしと、それぞれの内部に対立要因を持っていた。そこに新植民地主義にたつ旧宗主国が介入したり、社会主義路線に対して国際資本が圧力をかけるなど、様々な要因で政治の不安定が続いた。独立を達成するとともにその指導者が独裁的となって軍部および外国資本と結びついたり、また軍部自体がクーデターで権力を握って、強圧的な経済開発を進める(いわゆる開発独裁)国が、1960年代後半から70年代にかけて多数出現した。その例が、社会主義的な政策を推進していたエンクルマ大統領が失脚した1966年のガーナのクーデターであった。1990年代には多党制の文民政治を実現する国も増えているが、ナイジェリアなど軍政が続いているところもある。<参照 宮本正興・松田素二『新書アフリカ史』1997 講談社現代新書 p.478,p.512 などによる>
1.エジプト 1922年〜53年 エジプト王国(ムハンマド=アリー朝) → 1953年から エジプト共和国
1958年からはシリアと合邦して「アラブ連合共和国」となる。1961シリアが離脱した後もアラブ連合共和国の国号を続け、1971年にエジプト共和国に戻る。正式にはエジプト=アラブ共和国。首都カイロ。
2.エチオピア  → エチオピア
3.リベリア   → リベリア共和国
4.南アフリカ連邦   → 南アフリカ連邦  南アフリカ共和国
5.リビア   → リビア
6.チュニジア   → チュニジア
7.モロッコ   → モロッコ
8.スーダン   → スーダン
9.ガーナ   → ガーナ
10.ギニア   → ギニア
11.セネガル  19世紀後半からフランスが進出、1886年にカヨール王国を倒し、フランス領とした。ダカールなどの商業都市が発達し、早くから経済的に自立。都市住民にはフランス市民権も与えられ、穏健な独立運動が展開された。1960年のアフリカの年に他のフランス領とともに独立した。当初は東隣のマリとの連邦国家であったが、同年中に分離した。
12.モーリタニア  西アフリカのサハラ砂漠南端にある内陸国。旧フランス領西アフリカ。現在はイスラーム教を国教とする共和国。
13.マリ  西アフリカの内陸国だが、ニジェール川の流域に当たり生産力が豊かで、古代には9〜12世紀にはガーナ王国、16世紀にはマリ帝国やソンガイ王国があったところで、トンブクツゥは交易都市として繁栄した。19世紀半ばからフランスの支配を受ける。1960年に独立、当初西隣のセネガルとマリ連邦を結成したが、同年中に分離する。独立後は長期間、軍事独裁政権が続いた。
14.ブルキナファソ  19世紀末からフランス保護領となる。1960年、オートヴォルタという国名で独立。1983年に軍事政権が成立し、翌年現在の国名となった。西アフリカの内陸にある。
15.コートジボアール  19世紀末からフランス保護領。象牙海岸(コートジボアール)と言われ、象牙の産出地であった。1946年からウフェ=ボアニーの指導する独立運動が激化し、1960年に独立し共和国となった。西アフリカのギニア湾に面している。
16.トーゴ  西アフリカのギニア湾に面した小国。1884年、ドイツ領トーゴランドとなる。第1次世界大戦でドイツ敗北後、フランスとイギリスで東西に分割される。1960年、そのフランス領が独立してトーゴとなった。 
17.ベナン  ベニンとも表記。西アフリカのギニア湾に面し、15世紀以来、奴隷海岸と言われ、奴隷貿易の中心地であった。19世紀末にフランス領となり、1960年にダホメ共和国として独立し、75年現在の国名となった。
18.ニジェール西アジアの内陸国で大半が砂漠。ニジェール川流域だけが濃厚が可能。19世紀末にフランスが進出、1922年にその植民地となる。1960年に独立。 
19.ナイジェリア 西アフリカのギニア湾に面しニジェール川の河口部にある、アフリカ最大の人口を有する国。19世紀中頃にイギリスが進出し、1900年には現座のナイジェリアの全域を支配した。1960年に独立を達成、4州からなる連邦国家となったが、西部のヨルバ人、東部のイボ人など多数の部族を抱え、部族間抗争が激しい。また北部はイスラーム教徒、南部はキリスト教徒が多く、宗教的な対立もある。1966〜70年は東部のビアフラ州が分離独立を宣言、ビアフラ戦争が起こり、現在も政情は不安定である。同時に原油資源が豊富で産油国としてもアフリカで発言力が強い。 
20.カメルーン  ギニア湾が大きく湾曲する海岸に面している。15世紀末にポルトガル人が入植、1884年にドイツ領となったが、第1次世界大戦でのドイツの敗北により、フランスとイギリスに分割支配される。46年、国際連合の信託統治領となる。1960年に独立。 
21.ガボン  赤道直下、中央アフリカの西岸。旧フランス領赤道アフリカ。1960年、独立。石炭、木材など資源が豊かで、現在もフランスとの経済的結びつきが強い。
22.チャド  アフリカのほぼ中央に位置する。北部はサハラ砂漠に含まれ、南部はステップ地帯。フランスの植民地支配も南部を中心として行われていた。1960年に独立したが、北部と南部の地理的な違いから内戦が絶えず、政情は不安定。
23.中央アフリカ  19世紀末からフランス領。1960年に独立。
24.コンゴ共和国 1960年に独立。首都はブラザビル。旧フランス領赤道アフリカでコンゴ川の西岸から、河口の大西洋岸の一帯をしめる。旧ベルギー領コンゴから独立したコンゴ共和国(現在のコンゴ民主共和国)とは違うので注意する。首都のブラザビルはコンゴ川を挟んで、コンゴ民主共和国の首都キンシャサの対岸にある。1882年、フランス人探検家ド=ブラザがコンゴ川(ザイール川)右岸で現地首長と保護条約を締結、植民地とした。第2次世界大戦中はド=ゴールの自由フランスの拠点の一つとなった。独立後は社会主義政権が長期間続いたが、1991年に民主化された。その後も政情不安定が続いている。
25.コンゴ民主共和国  ベルギー領コンゴで、広大なコンゴ川(ザイール川)流域、コンゴ盆地を含む大国。首都はキンシャサ(旧レオポルドビル)。14〜19世紀にコンゴ王国が繁栄した。まず15世紀からポルトガル人が進出、ついで19世紀後半にベルギーレオポルド2世スタンリーにコンゴ川流域を探検させて、現地の首長と貿易独占条約を締結して植民地化した。レオポルド2世はついでコンゴ国際協会の管理という形とし、1885年のアフリカ分割に関するベルリン会議において領有が認められるとコンゴ自由国とした。その実態はベルギー国王レオポルド2世の私有地であり、そのもとで過酷な現地人への収奪が行われ、国際的な非難が起こり、1908年にはベルギー政府が直轄するベルギー領コンゴとした。1858年からルムンバらに指導された独立運動が始まり、1960年にコンゴ共和国として独立を達成した。しかし、南部カタンガ州の分離運動からコンゴ動乱に突入、5年にわたる内乱が続いた。1965年にモブツがクーデターで実権を握り、アメリカの支援を受けて独裁的な軍事政権を打ち立て、1971年には国名をザイールに変更した。しかし長期政権の中で腐敗が進行し、人権抑圧も続いたため再び内戦となり、1997年にカビラ政権が成立、国号をコンゴ民主共和国とした。さらに東北部ではルワンダやウガンダからの軍事干渉が続き、カビラ大統領は2001年に暗殺され、その子ジョゼフが大統領となるなど、混乱が続いている。
26.マダガスカル  アフリカ大陸の東側、インド洋上にある大きな島。はじめマレー系、インドネシア系の人々が入ってきたが、15世紀以降はイスラーム化し、アラブ系住民が増加した。イスラーム国家が存在していたが、19世紀末までにフランスが侵入して、保護領化した。その後もたびたび反フランス暴動が起こったが、独立は1960年の「アフリカの年」まで待つ必要があった。 
27.ソマリア  アフリカ東岸の、インド洋に突き出たこの一帯を「アフリカの角」という。内陸部は遊牧生活だが、海岸部は紅海とインド洋を結ぶ交易の中継港としていくつかの港が栄えた。かつて中国の鄭和艦隊が寄港したモガディシュも現在のソマリアに属する。南部は1908年にイタリア領のソマリランドとなり、北部はイギリス領ソマリランドとして植民地支配を受けていたが、1960年に北部と南部が別個に独立、後に合邦しソマリア共和国となった。
ウ.ラテンアメリカ諸国とキューバ革命
 アメリカ合衆国のラテン=アメリカ支配(戦後)アメリカ帝国主義とラテンアメリカ アメリカ合衆国は1823年のモンロー宣言以来、南北アメリカ大陸全体に対するヨーロッパ諸国の干渉を排除し、アメリカの勢力圏とする姿勢を持ってきたが、さらに1889年の第1回パン=アメリカ会議、98年の米西戦争を通じてその姿勢は強められた。セオドア=ローズヴェルト大統領のカリブ海政策が有名である。第1次大戦後の1933年以降はF=ローズヴェルト大統領の「善隣外交」が展開された。それは世界恐慌期にアメリカ資本の投下先、原料供給地、市場としてラテン=アメリカ地域を囲い込んでおくというブロック経済政策といえる。それを表明したのが1933年、ウルグアイのモンテヴィデオで開催された第7回パン=アメリカ会議においてであり、その現れが34年のキューバの完全独立承認(プラット条項の廃止)であった。
第2次世界大戦前後のアメリカとラテンアメリカ 第2次世界大戦の前後の時期に、ラテン=アメリカの各国にアメリカと結んだ軍事政権が誕生した。キューバのバティスタ、ニカラグアのソモサなどがそれにあたる。また市民層が成長した地域では民族主義と経済発展を掲げて国民の人気を集め、独裁的な政治を執るポピュリズムと言われる形態が出現した。メキシコのカルデナス政権、ブラジルのヴァルガズ政権、アルゼンチンのペロン政権がそれにあたる。戦後はアメリカは共産主義勢力がラテン=アメリカ地域に浸透することを警戒し、経済協力と集団安全保障体制を強めるとともに反米、反政府運動には軍隊を派遣して鎮圧に当たった。これらの戦後アメリカのパン=アメリカ主義の路線によって、1947年にリオデジャネイロで締結された米州相互防衛条約(リオ協定)が成立、48年には米州機構(OAS)を発足させた。
キューバ革命後のアメリカとラテンアメリカ 1959年のキューバ革命で親米バチスタ政権が倒され、カストロ政権が急速に社会主義に傾くと、アメリカのケネディ政権は大きな危機感を抱いて、キューバ以外の諸国と進歩のための同盟を結成して、キューバ包囲網を強めた。1962年のキューバ危機では米ソの衝突を回避したが、社会主義国キューバはアメリカののど仏に位置して存続し、現在まで対立関係は改善されていない。その後もアメリカはラテンアメリカ地域にたびたび直接的な介入を続けている。1973年のチリのアジェンデ政権を崩壊させた軍部クーデター、1979年のニカラグア革命への介入、1983年のグレナダ侵攻、89年のパナマ侵攻などである。しかし、カーター政権が77年に約束した新パナマ運河条約による運河の返還が1999年に実現し、アメリカによる直接的介入は少なくなっている。しかし、現在ではベネズエラのチャベス大統領に代表される反米政権がアメリカ批判を強めており、予断を許さない。
a リオ協定 1947年にリオデジャネイロ(ブラジル)でアメリカ合衆国とラテン=アメリカ諸国との間で締結された米州相互防衛条約のこと。ソ連の共産勢力が浸透し革命運動が起きることを防止し、侵略に対しては集団的に防衛措置を執ることを約束したもの。同年アメリカの外交方針として示されたトルーマンドクトリンの「封じ込め政策」の一環である。この条約によって結束を強めたラテン=アメリカ諸国は翌48年には米州機構(OAS)を発足させた。1959年にキューバ革命で社会主義政権が成立したキューバは、リオ協定から除名された。
b 米州機構(OAS)
Organization of American States
1848年、南北アメリカ大陸の21カ国によって結成された地域同盟。前年に締結されたリオ協定に基づき、48年コロンビアのボゴタで開催された第9回米州会議で設立が決まった。本部はワシントンにおかれており、現在は参加国35カ国。参加国が侵略に対して共同防衛をはかる組織であるが、アメリカ合衆国がラテン=アメリカ地域に大きな力を発揮する基盤となった。グアテマラ、キューバなどの社会主義政権には除名などで対抗した。冷戦時代には軍事同盟としての側面が強かったが、冷戦後は貧困対策、人権問題などの解決が課題とされている。
 中央情報局(CIA)
Central Intelligence Agency
第2次世界大戦後の1947年に設置されたアメリカ大統領直属の諜報機関。冷戦時代には反アメリカ的な動きをに関する情報を収集し、また秘密工作によってそのような政府を転覆させたり、親米的な勢力を援助するなどの干渉を行った。その代表的な例が、1953年のイランのモサデグ政権に対する破壊工作、54年の南米グアテマラ革命への干渉(革命政府を倒す)、61年のキューバ革命での亡命キューバ人の反革命部隊の上陸への支援(失敗)などがある。冷戦後は国際テロの脅威が高まり、その活動は広範囲に及んでいる。
 反米民族主義運動  
a アルゼンチン  
b ペロン アルゼンチンの軍人出身の独裁政治家。アルゼンチンは戦前、イギリス資本と結んだ農牧畜産品輸出業者と結んだ寡頭政治が行われていたが、軍人の中にナチスドイツ式の国家社会主義に傾倒するものが現れ、1943年にクーデターで軍人政権を樹立した。ペロンも青年将校のひとりで労働問題を担当しながら次第に台頭し、46年に労働者の圧倒的な支持で大統領に当選した。その人気を支えたのが夫人のエヴァ=ペロンだった。ペロン政権はイギリス資本の鉄道の国有化など民族主義的な工場化政策を進め、経済発展に一定の成功を収めた。その政権は軍と労働組合を基盤に国民的な人気で維持される、いわゆるポピュリズムであり、その政治はペロニスモといわれ、熱狂的な支持者はペロニストと言われた。50年代にはいるとその労働者保護政策は財政を圧迫し、経済が悪化したために、55年にクーデターが起こってペロンはウルグアイに亡命した。その後アルゼンチンでは軍政が続いたが、70年代になって再びペロン待望論が高まり、73年に大統領選に出馬し、勝利した。しかし翌年休止したため、夫人のイサベラ(エヴァではなく、ペロンの後妻)が大統領を継承した。
エヴァ=ペロン

Eva Maria Peron (Evita)
アルゼンチンのペロン政権は、典型的なポピュリズムとされている。その人気を支えていたのが、夫人のエヴァであった。エヴァは愛称エビータと呼ばれ、夫を支え、大統領夫人として発言し、また外交使節ともなって活躍した。エビータは貧しい家庭に生まれ、ヴェノスアイレスに出てラジオ局に勤め、あるパーティでペロンと会ってその愛人となり、結婚した。1945年に反ペロンの動きが出ると労働組合の先頭に立って戦った。46年、ペロンが大統領選挙に出馬すると、労働者の味方であると国民に訴え、夫を当選に導いた。上流階級や地主たちからは「成り上がり女」と軽蔑されたが、国民は貧しい家に生まれた女優上がりの大統領夫人を熱狂的に支持した。彼女は国内では孤児院や病院建設のための財団を設立し、また特使としてヨーロッパを歴訪、ローマ教皇とも会見するほどになった。しかし、過労からか病に倒れ、1952年にあっけなく死んでしまった。エヴァの死を悼んで押しかけた群衆によって圧死者が8人もでたほどであったという。アルゼンチン国民にとってエビータはマドンナだった。<中屋健一『ラテン・アメリカ史』1964 中公新書 p.202> 左の図はアルゼンチンの切手になったエヴァ=ペロン。
Epi. マドンナの『エビータ』 このエビータを見事に演じたのが現代のスター、マドンナだ。『エビータ』は1976年にアンドリュー=ロイド=ウェーバーが発表したミュージカルで、96年にマドンナ主演で映画化された。マドンナの熱演、音楽もさることながら、1950年代のアルゼンチンの社会と政治情勢が無理なく再現されており、ぜひ一見の映画です。サウンドトラックはCD化されています。 
c グアテマラ
1950年、アルベンスに指導された左派政権は、1952年には農地改革を実施、1953年この国最大の地主であるアメリカの独占企業ユナイテッド=フルーツ社の所有地を没収した。アメリカが硬化し破壊工作を展開。当時の国務長官ダレスはその社の重役だった。54年にアメリカのCIA(中央情報局)の支援を受けた反革命クーデターが起こり、政権を奪った。1950〜54年の左派政権による反米的諸政策がグアテマラ革命と言われている。
 ボリビア ボリビアでは1952年に民族主義的革命運動党(MNR)が鉱山労働者などに支持され、クーデターで政権を獲得、民族主義的な革新政治が始まった。パス=エステンセロらを指導者とするボリビア革命は、男女普通選挙権の実施や、大土地所有制度を改める農地改革法を制定、錫財閥の解体などを進めた。アメリカはボリビア革命の場合はそれを容認し、むしろ経済援助を重ね、南米大陸の中央に位置するボリビアの安定を図った。
 キューバ キューバは米西戦争の結果、1902年にキューバ共和国として独立したが、砂糖のモノカルチャーに依存し、1930年代の世界恐慌で大打撃を受けた。1933年に民族主義を掲げてたグラウ政権がプラット条項を含む憲法を破棄すると、アメリカは圧力をかけ、軍部のバティスタを動かして親米政権を樹立させた。善隣外交を掲げるフランクリン=ローズヴェルトは翌34年にプラット条項の破棄を承認する条約を締結し、バティスタ政権を守った。バティスタ政権はその後独裁化し、戦後まで続いたが、1959年にカストロの率いる革命軍によって倒された。カストロに指導されたキューバ革命は、ラテンアメリカ最初の社会主義国家を出現させることとなり、アメリカにとってそののどにナイフを突きつけられたような恐怖感を抱かせた。アメリカのケネディ政権は革命転覆をねらったが失敗し、さらにソ連のミサイルがキューバに配備されたことを知り、海上封鎖を実行してソ連にその撤去を迫った。それがキューバ危機である。この危機は一応回避されたが、その後もアメリカによる経済封鎖は続き、キューバの砂糖の対米輸出が止まったため、その経済は大きな打撃を受けたが、カストロの強力な指導力のもとに現在まで社会主義体制を維持している。
a バティスタ 20世紀前半のキューバの独裁政治家。軍人の出身で、1933年に反乱を起こし、マチャド政権を倒してグラウ政権の樹立に功績をたてた。グラウ政権が反米姿勢をとるとアメリカの援助を受けたバティスタが政権を奪取した。アメリカはバティスタ政権を維持するため、プラット条項の撤廃を認めた。バティスタはアメリカの支援によって国家警察隊を掌握、1940〜44年の間大統領を務め、1952年にはクーデターで独裁的な権力を握った。翌年、カストロらの反バティスタの運動が始まると厳しく弾圧したが、次第に農民の支持を失い、59年のキューバ革命によって政権を明け渡した。
b カストロ
キューバの革命運動家で、1959年にバティスタ独裁政権を倒し、キューバ革命を成功させ、アメリカののどもとで社会主義国家の建設を開始した。1962年にはソ連のミサイル基地建設を機にキューバ危機が起こった。その後もラテン=アメリカ地域の革命運動に影響を及ぼし続け、1976年以降は国家評議会議長(国家元首)となり、現在までその地位にある。
フィデル=カストロは1926年生まれ、ハバナ大学法学部で学び弁護士となる。1953年7月26日、弟のラウルらとカーニバルの人混みに紛れてモンカダ兵舎を襲撃、バティスタ政権に対する蜂起の狼煙を上げた。この蜂起は失敗しカストロらは捕らえられたが、この日は以後の革命の出発点とされ、以後の運動のは「7月26日運動」といわる。カストロは恩赦でメキシコに渡り、そこでゲバラと知り合う。1956年11月25日、82人の同士とグランマ号でキューバに上陸、仲間が12名に減るほど政府軍との戦闘で敗れ、以後はシエラ=マエストラ山中でゲリラ戦を続けた。ゲリラ戦を挑みながら農民の中に支持を広げ、ついに59年に首都ハバナを占領、バティスタ政権を倒し権力を奪取した。
1959年の政権奪取以来、キューバ革命の指導者として活躍し、1962年にはキューバを巡ってアメリカとソ連が核戦争一歩前までくるというキューバ危機が起こった。その後も、カストロヒゲといわれるヒゲと戦闘服で世界の注目をあび、現在に至るまで社会主義指導者として活動を続けているが近年は健康状態が危ぶまれており、最近も階段を踏み外したり、入院したりという状態である。2006年9月にはハバナで非同盟諸国首脳会議が開催され、病院からメッセージを送っている。
Epi. 国連の演説最長記録 「(1960年9月の国連総会)それはたしかにこれまでで最も記憶に残る総会での風景だった。戦闘服に身を固めたキューバ人が、フルシチョフの長い演説の中で彼らの革命に言及がある度に取り乱したように騒々しく歓声を上げた。ソ連の指導者自身も景気付けに大声を張り上げてマクミラン(イギリス首相)の演説を黙らせようとしたが、それに失敗すると片方の靴を脱ぎ、ドンドンと机を叩いて泰然としたイギリスの首相を妨害しようとしたのである。・・・そしてカストロ本人も演壇に立つと忘れがたい印象を残すことになった。「できるだけ短く終わらせるつもりだ」と聴衆に保証した後、彼はアメリカ帝国主義の罪悪に関して4時間半にもわたり長口舌をふるったのである。これは国連での最長記録である。・・・」<ジョン=L=ギャディス『歴史としての冷戦』 2004 赤木完爾/斉藤祐介訳 慶応義塾大学出版会 p.297>
c ゲバラ

Ernest Che Guevara
1928-67


ポスターやTシャツの図柄にされたゲバラの肖像
カストロとともに1959年のキューバ革命を成功させ、その後アフリカや南米でゲリラ活動を指導した革命運動家。
エルネスト=チェ=ゲバラは1928年、アイルランド系の父とスペイン系の母をもち、アルゼンチンのロサリオ市に生まれ、ブエノスアイレスで医大を卒業。少年時代から喘息に悩んでいたので「アレルギー性疾患について」という論文で博士号をとった。医学生時代の1951年から友人とオートバイで中南米を放浪、ペルーのマチュピチュでインディオの文化を知るとともにその悲惨な生活に衝撃を受けた。医大卒業後、当時のペロン政権の軍医強制徴兵を嫌ってアルゼンチンを飛び出し、亡命者としてボリビアの革命集団と交わる。革命政権がクーデターで倒されると54年にはグアテマラで革命に加わるが、アメリカ軍の介入で革命は失敗し、ゲバラはメキシコに逃れる。そこで医者として仕事をしながらマルクス主義を学んだ。メキシコシティでキューバから亡命していたカストロと知り合い、そのキューバ解放の理念に同調して、軍医としてキューバ解放の戦いに参加することとなった。キューバ革命では革命政府中枢に入り、国立銀行総裁としてアメリカの砂糖輸入割当廃止などの難局にあたり、ついで工業相ととしてキューバの工業化を図ろうとした。また革命政権のナンバーツーとして世界各国を訪問、経済支援を要請した。政府中枢に入っても彼は粗末なアパートに住み、射撃訓練を続け、外国訪問もベレー帽にヒゲに戦闘服というスタイルを通した。59年には来日、池田通産相と会談し、広島を訪ねている。64年には国連総会で大国批判の演説を行い、第三世界の社会主義化の先頭に立った。しかしゲバラの工業化路線に対し、ソ連はキューバを砂糖生産優先を押しつけたため、それを受け入れたカストロとの間に次第に意見の齟齬がみられるようになり、工業化も失敗した。またキューバ危機でアメリカの脅しに屈し、キューバ政府に相談もなくミサイルを撤去したソ連に対して不信感を持つようになった。65年4月、カストロに訣別の手紙を残して突然姿を消したゲバラは「ゲリラ戦争による世界革命」を夢見てアフリカに渡り、アルジェリア戦争後のFLNのベン・ベラと会談、コンゴ動乱に加わりルムンバ死後の政府軍を指導した。しかし冷戦下の複雑なコンゴ動乱の政治対立にいやけがさしたのか、キューバに戻った。カストロは1966年にソ連批判に転じてゲバラとの関係も修復し、南米の革命根拠地作りのため、ゲバラをボリビアに派遣した。当時ボリビアはバリエントス軍事政権がアメリカのCIAの支援の下で錫鉱山などを支配していた。ボリビアに潜行したゲバラはゲリラ部隊を組織し、反政府活動を展開し、ボリビアのベトナム化をめざした。しかし約11ヶ月の戦闘の後、政府軍によって捕らえられ、銃殺された。ゲバラのボリビアでのゲリラ戦は彼がつけていた日記が密かにキューバにもたらされ、『ゲバラ日記』として公刊された。彼は民族や国家を超えて世界革命を追い求めた革命家だった。なお彼は自らをチェと名乗ったが、それはアルゼンチンで人に話しかけるときの「ねえ」という意味で、彼が議論のときいつも使っていたのでキューバで付けられたあだ名だった。<ゲバラ『ゲバラ日記』1969 角川文庫版 訳者高橋正の「ゲバラ小伝」による>
 キューバ革命  1959年にキューバで起こった、カストロなどによるバティスタ独裁政権の打倒と、その後の社会主義革命を言う。ラテンアメリカで最初に成功した社会主義革命であり、アメリカに大きな脅威を与えた。
独裁政権の打倒:バティスタ政権独裁政権に対する反乱は1953年のカストロの指導した「7月26日運動」に始まった。カストロは数人の同志とともに東部のモンカダ兵営を襲撃したが、最初の蜂起は失敗、メキシコに逃れ、その地で革命を目ざす組織をつくり、1956年キューバに上陸、同志のゲバラとともに苦しいゲリラ戦を展開した後、農民の支持を受けて首都ハバナを占拠し、1959年1月1日、バティスタ政権を倒した。
社会主義革命:カストロは民族主義的な社会改革を目指し、まず農地改革法を制定、小作人の解放をはかった。多くのサトウキビ農園はアメリカ人地主のものだったので、アメリカは激しく反発、キューバ産の砂糖の輸入を制限するなど対抗策をとった。キューバはソ連に接近し、60年2月に貿易援助協定を締結、社会主義路線への転換を明らかにし、アメリカ企業を接収して国有化を断行、61年に1月には両国は外交関係を断絶した。
キューバ危機:アメリカのケネディ大統領はラテン=アメリカ諸国に「進歩のための同盟」結成を働きかけを行ってキューバ孤立化を図り、さらに同年4月に亡命キューバ人による反革命軍のキューバ侵攻を支援したが、失敗した。1962年ソ連がキューバにミサイル基地を建設したことを知ったアメリカはキューバを海上封鎖し、10月の「キューバ危機」となった。これは米ソによる第三次世界大戦の危機であったが、妥協が成立、ソ連はミサイルを撤去した。こうして社会主義キューバは存続することができたが、アメリカによる経済封鎖は継続されている。
キューバの社会改革:カストロの指導するキューバ共産党の一党独裁の下で、当初はソ連の支援と影響を強く受けながら進められた。まずアメリカ人地主・資本家を追放してその農園、工場などの資産を国有化し、教育・医療などの無料化などの社会保障、道路・住宅・水道・電気などの建設、生活物資の配給制などが実施された。しかし、ソ連の援助と砂糖のソ連東欧圏への輸出に依存したため、経済は向上せず国民生活の困窮は続き、反革命の動きも現れたが、カストロはそれらを国外追放にするなど革命路線を維持した。また60年代はいると中ソ論争のあおりを食らって社会主義陣営が分裂、カストロもソ連一辺倒から次第に離れて、第三世界との連携を重視するようになり、またラテン=アメリカ諸国やアフリカの革命運動、民族運動への支援を強めた(ボリビアでのゲバラの活動もその一環)。 
 社会主義宣言 1961年5月、キューバのカストロ首相が発表した、キューバ革命の指針を社会主義建設におくことを宣言したもの。同年4月にはアメリカのCIAに支援された亡命キューバ人がキューバに上陸し、革命政府の転覆を謀ったが失敗し、キューバはソ連との結びつきを強くすることとなった。
 進歩のための同盟 アメリカのケネディ大統領が1961年に、キューバ革命に危機感を持ち、米州機構(OAS)加盟国に対する開発援助と民主化の推進を提案したもの。総額200億ドルの資金を投入し、2.5%以上の経済成長を達成して、中南米諸国の経済を安定させ、社会主義化を防止することをめざしたが、民主勢力への支援に反対する加盟国内の勢力の反対も強く、実効性はなかった。
 キューバ危機  → キューバ危機
エ.動揺する中国
 「大躍進」運動 1958年5月、毛沢東の指導する中国共産党が打ち出した「社会主義建設の総路線」のことで、第2次五ヶ年計画にあたる。それはソ連型の社会主義建設ではなく、中国独自の方法として工業では西洋技術と「土法」(伝統技術)を併用することと、農業では集団化を進めた人民公社を建設することを掲げた。工業では鉄鋼業生産が特徴的であったが、品質は軽視され、もっぱら増産のみが強調された。
 → 「大躍進」運動の失敗
a 毛沢東(文革期)

Mao Zedong 1893-1976
紅衛兵の制服を着用している
1949年に中華人民共和国を建国し、国家主席となった毛沢東は、東西冷戦のなかで朝鮮戦争を戦て大きな犠牲を払いながら権力の維持に成功し、社会主義国家建設に意欲を強めた。1953年からの第1次五ヵ年計画をほぼ成功させ、続いて1958年から「大躍進」運動を提唱し、第2次五ヶ年計画に入った。しかし、おりからのスターリン批判を機に始まったソ連の「雪どけ」路線を、資本主義の道を歩みアメリカに屈服するものと反発し、中ソ対立が始まったため、第1次五ヵ年計画と違ってソ連の技術援助が得られず、技術革新を伴わない重工業化は失敗に終わった。同時に展開された農村の「人民公社」建設は、農民の生産意欲を著しく奪い、おりからの天候不順もあって大飢饉に見舞われ、餓死者数千万人という大被害を出して失敗した。この「大躍進」運動の失敗により毛沢東は1859年に国家主席を辞任、劉少奇にその地位を譲り、自らは党主席として権力の維持を図ったが、党内に劉少奇・ケ小平らの実務派が台頭、荒廃した農村と工業を復興させるための改革が始まった。国際的にも国内的にも孤立感を深めた毛沢東は、権力の回復をねらい、1966年から、社会主義イデオロギーの危機を訴える文化運動としてプロレタリア文化大革命を指令、林彪が抑える軍の支持を受け、夫人江青など四人組といわれるグループを動かして、大キャンペーンを展開、劉少奇・ケ小平ら党内の改良派を資本主義に走り、実権を奪おうとしている分子(走資派・実権派)として批判、失脚させた。文化大革命は1977年まで続き、莫大な犠牲者と生産の停滞を招いた。毛沢東は1976年9月に死去、後継の国家主席にはその指名によって華国鋒が就任したが、文化大革命の継続か、方針転換かをめぐる激しい争いが起き、次いで復活したケ小平の影響力が強まって中国は改革開放路線をとることとなり、1982年には中国政府は正式に文化大革命の誤りを認め、失権した人々の名誉を回復した。毛沢東については「功績が第一、誤りが第二」とされ、依然として建国の最大の功労者としての名誉は失っていない。
 ←毛沢東(建国前)毛沢東(建国後) →毛沢東の死去 
a 第2次5ヶ年計画(中国)1958年から62年にかけての中華人民共和国の社会主義建設の第二段階。第1次五ヵ年計画を継承して工業化と農村の集団化を進めたが、特に「大躍進」運動と呼ばれ、工業化では中国独自の方法による鉄鋼などの生産の増強、農村の集団化では人民公社化が特徴としてあげられる。その背景には、中ソ対立の開始に伴うソ連技術者の引揚げにより、重工業化を自力で進めなければならないことがあった。そのため質の悪い鉄鋼が大量に生産され、かえって工業生産力を阻害してしまった。また人民公社化は完全な集団化による社会主義社会の実現を目指したものであったが、その急速な集団化は農民生活を破壊し、生産意欲をそぐこととなり、あわせて未曾有の自然災害に見舞われたため、この時期の生産力は激減し、大飢饉が発生し、人口の減少がもたらされた。その責任をとって毛沢東は国家主席を辞任したが、反動として資本主義が復活することをおそれて文化大革命を起こすこととなる。
b 人民公社 1958年の中国「大躍進」運動の中で推進された、農業の集団化。「公社」とは「コミューン」の訳語。第1次五ヵ年計画での農業集団化で始まった合作社を発展させたもの。「人民公社とは、一郷一社の規模を基本とし、従来の権力機構(郷人民政府、郷人民代表大会)と合作社を一体化し(政社合一)、その中では農業・工業・商業・文化・教育・軍事を互いに結びつけ、集団生産・集団生活を主とした自力更生・自給自足の地域空間を目指したもので、中国における共産主義の基層単位と見なされた。人民公社化は、58年8月末には全農家の30.4%が参加し、12月末には99.1%、計2万6578社に達している。」
人民公社の問題:「急速な人民公社化は、多くの場合物質的、制度的条件が整わないままで実施したため、看板だけが人民公社で、実際には従来の合作社のままといったものが多かった。さらに人民公社は「一平二調」つなわち「働いても働かなくとも同じ」といった悪平等主義と、上からの命令・調達主義による農民の生産意欲の大幅低下といった現象が広がった。その上、「自由に食べられる」人民食堂など「共産風」による食料や資材の大浪費を招いた。」文化大革命の時期から人民公社の行き詰まりが進み、文革後のケ小平路線のもとで1982年に人民公社は解体されることになる。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書>
 大躍進の失敗1959年から61年にかけて、中国全土は異常な食糧難に陥り、その死者数は1600万から2700万であろうという。これは、「まだ生産力の基盤が弱い中国の現実の諸条件を無視した大躍進の諸政策、とくに重工業優先政策と、農村における「共産風」や、幹部の押しつけへの抵抗として生じた農民の生産意欲の減退という人災を基本として、これに59年から61年までつづいた自然災害(華北の旱害と華中・華南の水害)、ならびにソ連の援助打ち切りが重なって生じたものである。」<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』1986 岩波新書> 
 自然災害 
 人口減少 
 廬山会議1959年に開かれた中国共産党中央政治局拡大会議のこと。廬山とは江西省北部の地名。この会議で毛沢東の指導した「大躍進」運動について検討し、国防部長の彭徳懐は毛沢東の政策の誤りを指摘、経済の実情を無視した政治優先の手法を批判した。それに対して毛沢東は、彭徳懐の考えを「右翼日和見主義」として反論し、毛沢東をおそれる他の参加者も同調したため、彭徳懐は国防部長の地位を解任された。これを機に、毛沢東批判を許さず、資本主義の復活につながりそうな意見を持つ党官僚に対する激しい攻撃が始まり、1966年頃から毛沢東はその運動を「プロレタリア文化大革命」と称するようになる。 
c 劉少奇 1898年、周恩来と同年の生まれで共産党創設期からの指導者の一人。ソ連留学から帰り、労働運動に加わり、五・三○事件などを指導した。遵義会議で毛沢東を支持してから、その有力な同志として活躍、「毛沢東思想」を提唱した。中華人民共和国の建国時には国歌副主席のポストについた。その後1956年9月中共第8回全国大会で、政治報告を行い、毛沢東の後継者と目され共産党ナンバー2の地位についた。大躍進の失敗の後、59年に毛沢東に代わって国家主席に就任し、62年から経済の再建にとりくみ、ケ小平とともに毛沢東路線の修正を図った。1966年、毛沢東は失地回復をねらい、劉少奇・ケ小平らの追い落としにかかる。同年8月「プロレタリア文化大革命の決定」が採択され、劉少奇は党内序列を2位から8位に格下げされ、さらに10月にはケ小平とともに「自己批判書」の提出を余儀なくされ、事実上の軟禁状態となった。こうして劉少奇は実権派、送資派の中心人物とされ、厳しい批判の矢面に立たされることとなった。67年4月1日には『人民日報』は劉少奇を「党内最大の実権派、中国のフルシチョフ」とレッテル貼りをし、9月には北京の要人居住区から追放され、家族とも引き離され、10月には「帝国主義の手先、現代修正主義、国民党反動派の手先」として党からの「永久除名」が決定された(ケ小平は除名ではなく、留党監察とされた)。その後も紅衛兵らによる壮絶な個人攻撃が続き、劉少奇は肉体的にも衰弱し、1969年10月に死去した。
Epi. 「ネックレス事件」で糾弾された劉少奇夫人 文化大革命で「走資派」とされた人に対する紅衛兵らの糾弾は、大きな三角帽子をかぶせ、腰をかがめて頭を下げ、両腕を後ろに伸ばす、「ジェット式縛り上げ」の姿勢をとらせ、長時間にわたって自己批判を迫るものであった。国家主席である劉少奇に対しても容赦ない糾弾が行われ、70歳近い老人であったが激しい暴力が加えられた。また夫人の王光美も紅衛兵によってピンポン球で造ったネックレスを首からかけさせられ、つるし上げを受けた。それは、かつて彼女が国家主席夫人としてビルマに行ったときネックレスをして宴会に出席したことを、毛沢東夫人の江青が嫉妬してそれを批判し、彼女は資本主義者だと言うことになり批判を受けたのだった。<厳家祺ら『文化大革命十年史(上)』1996 岩波書店>
d チベットの反乱 中華人民共和国のもとで自治が認められていたチベットで、1959年3月、ダライ=ラマ14世を擁した反乱が起こり、駐屯する中国人民解放軍を攻撃した。反乱の中心は社会主義化の進行を恐れたチベットの支配層で、伝統的宗教指導者ダライ=ラマを担ぎ出したもの。中国軍は反撃し、ダライ=ラマはインドに亡命してチベット独立を宣言、それを支援するインド軍が中国国境に進出して、1959年8月には中印国境紛争に飛び火した。中国軍は1962年3月までにチベットの反乱を鎮定し、ダライ=ラマは戻ることができず、現在も亡命を続けている。チベットでは1965年に正式に自治区が発足したが、現在も中国からの離脱を求める動きがくすぶっている。
e ダライ=ラマ14世 チベット仏教の最高指導者。ダライ=ラマは宗教指導者であると共に祭政一致であるため政治権力も併せ持つ。1939年、4歳の時、先代ダライ=ラマが死去し、その化身として第14代を継いだ。ラサでダライ=ラマとして教育されて成人し、50年から親政をおこなったが、成立した中華人民共和国は清朝時代に次いでチベット領有を表明して東チベットを占領した。51年にダライ=ラマは中国への併合を承認する協定に調印しチベットは中国領となった。しかし反発したチベット人は59年、中国軍と衝突し「チベットの反乱」が始まった。ダライ=ラマは周囲の勧めでインドに亡命、翌60年にインドのダラムサラにチベット亡命政権を樹立した。それ以後、ダライ=ラマはチベットの独立を国際社会に訴えながら、なおも宗教指導者としてもチベット人の崇拝を受けている。1989年にはノーベル平和賞を受賞したが、チベットへの帰還のめどは立っておらず、現在も亡命の身である。
f 中印国境紛争 1962年10月に起こった中国軍とインド軍の国境での衝突。中印戦争ともいう。中国とインドは1954年に周恩来ネルーの間で「平和五原則」による友好関係を成立させ、ネルーの提唱する非同盟主義の核となっていたが、1957年ごろからヒマラヤ山中の両国国境をめぐって対立が始まった。1959年にチベットの反乱が起こり、ダライ=ラマ14世がインドに亡命したことから対立は決定的となり、62年10月に戦争状態に入った。
「厳寒のヒマラヤで夏服で戦ったインド軍が壊滅的な敗北を被り国中がパニックに陥った。ネルーはケネディに支援を要請し、ケネディはネルーの体面を保ちながら支援に踏み切った。十一月下旬中国は一方的に休戦を宣言し、兵を引き揚げた。この戦争は米印関係を好転させたが、ネルーの非同盟主義が破綻したことを明らかにした。中印戦争でソ連は中立を保ち、それ以上に非同盟主義で連帯する国家でインドを支援した国はほとんどなく、その政策を常に批判していたアメリカから支援を受けざるを得なかったのである。この対米傾斜はアメリカの同盟国パキスタンを中国に接近させた。このときすでに病気であったネルーは、64年5月死亡した。」<猪木武徳/高橋進『世界の歴史29 冷戦と経済繁栄』p.138>
 中ソ対立 1950年代の理論対立に始まり、1960年代に公然としたソ連と中国の社会主義革命路線を巡る対立。両国の対立にとどまらず、社会主義陣営が二分される対立となった。1980年代にはソ連のペレストロイカ、中国の改革開放路線への転換によって対立は沈静化し、1989年のゴルバチョフ訪中によって終わった。
中ソ対立の経緯:同じ社会主義(マルクス=レーニン主義)を掲げて共産国家建設を目指していたソ連と中国は中ソ友好同盟相互援助条約(1950年締結、1979年消滅)で結ばれた同盟国であったが、1950年代後半から革命観の違い、戦略論の違い、国際政治上の意見の対立などが目立ち始めた。きっかけは1956年のソ連のスターリン批判であり、平和共存路線をとるようになったことであった。中国共産党の毛沢東はスターリン路線の継承する立場からフルシチョフらソ連共産党の転身を修正主義であるとし、また平和共存路線は帝国主義への屈服であるとして受け入れないと姿勢をとった。はじめは理論的な面での論争が主であったが、1958年の中国軍の金門・馬祖島砲撃事件や59年のチベット反乱中印国境紛争など緊張が高まる中、1960年代からは公然とした非難を互いにぶつけあう対立となった。ソ連は59年、核兵器開発への協力を中止、さらに60年には中ソ技術協定を破棄し技術者の引揚げを通告、対立は決定的となった。毛沢東は独自の社会主義建設を目指して大躍進運動を展開するとともに、自前の核兵器開発を始め、64年に原爆実験を成功させた。同年のフルシチョフ失脚後も対立は続き、65年ごろから本格化した文化大革命でも毛沢東はソ連を修正主義として激しく非難した。68年にはチェコ事件でソ連のブレジネフ政権がワルシャワ条約機構軍による武力介入したことにも毛沢東は大きな危機感を抱き、ソ連との武力衝突にも備えたという。69年にはウスリー江の珍宝島事件などの中ソ国境紛争に発展した。ベトナム戦争でも中ソは共同歩調をとることが無く、アメリカの武力行使を可能にしたという側面がある。毛沢東はソ連を最重要の敵と位置づけるまで対立をエスカレートさせたが、各国の共産党はアルバニアをのぞいておおむねソ連共産党を支持した。しかし文化大革命の国内闘争が激しくなり、ソ連の社会主義も硬直した指導部の下で経済の停滞を招き、70年代には米中が接近するという状況となった。76年には毛沢東が死去し、中国は復活したケ小平の指導で改革開放路線がとられ、80年代は対立も沈静化が始まった。そしてソ連で85年にゴルバチョフのペレストロイカが始まることによって両国関係は急速に改善が進み、1989年5月、ゴルバチョフが訪中し、30年ぶりに中ソは国交を正常化させた。ちょうどそのとき、北京は第2次天安門事件の騒乱の最中であった。
中ソの対立点:ソ連共産党と中国共産党の対立点の整理の一例。(主としてフルシチョフ対毛沢東の時代の主な論点を整理したもの)<毛里和子『中国とソ連』1989 岩波新書 p.75>
・核時代の戦争と平和の問題……
 ソ連:核戦争は世界を破滅させる。大国間の軍縮や平和闘争で戦争を避けることができる。
 中国:歴史を決めるのは兵器ではなく人民である。戦争を防ぐのは人民の反帝国闘争である。
・世界の矛盾とはないか……
 ソ連:二つの陣営の対立が主な矛盾である。
 中国:帝国主義と民族主義が主要矛盾であり他に体制間、階級闘争、、帝国主義相互間という4つの矛盾がある。
・平和共存について……
 ソ連:現代は体制間には平和共存・平和的競争か、破滅的戦争か、二つに一つだ。
 中国:体制間の平和共存は認めるが、それを抑圧国と被抑圧国や階級関係におしひろげてはならない。
・革命の平和的移行について……
 ソ連:平和共存のもとで、社会主義へ平和的に移る可能性は強い。
 中国:革命の移行はその国の国情によって違う。平和移行を戦略原則にすべきでない。
・社会主義社会の階級闘争について
 ソ連:59年に社会主義が最終的に勝利し「全人民の国家」になった。階級闘争などあり得ない。
 中国:共産主義にいたる全期間において階級および階級闘争は存在する。ソ連指導部はブルジョアジーの代表である。
※ソ連が崩壊し、中国も改革開放路線に転じた現在に至っては、この対立は一体何だったのか、何を生み出したのか、どう総括されるべきなのか、疑問が多い。
a 毛沢東  → 毛沢東(文革期) 
 フルシチョフ  → フルシチョフ
 中ソ技術協定を破棄 中ソ対立の中で、ソ連が中国に派遣していた核開発を初めとする科学技術者を引き上げる措置を執ったこと。ソ連と中国は、1957年10月に「国防新技術についての協定」を締結した。これは秘密協定であったので、現在も正確な内容はわからないが、ソ連が中国に原爆のサンプルと製造技術を提供すると約束したようである。しかし、59年になってソ連は協定の破棄を通告した。ソ連の説明は、当時ジュネーブで核実験停止条約の協議が進んでおり、ソ連が中国の核開発を支援していることを西側に知られるとこまる」という理由であった。フルシチョフは59年、アメリカ訪問につづいて北京を訪ね、毛沢東と会談、意見を調整しようとしたが失敗した。この後、ソ連首脳の訪中は30年以上途絶えることとなる。さらにソ連は1960年6月、中国で仕事をしていた1390人の技術者を引き上げ、技術提供も停止すると通告した。これによって中ソ同盟は1960年を持って事実上崩壊し、中国は独自で核開発を初め、64年に代書の核実験を成功させることとなる。<毛里和子『中国とソ連』1989 岩波新書 p.55-64>
 「自力更生」  
 アルバニア  → アルバニア
 原爆実験(中国)中ソ対立のきっかけのひとつは核技術の提供問題があった。早くも1954年のフルシチョフの訪中の時、毛沢東はフルシチョフに対し非公式に核爆弾と潜水艦技術の提供を求めた。しかしフルシチョフはアメリカの西ドイツへの核の提供に口実を与えるとして断った。それでも50年代後半にはソ連は中国に対し、平和目的の核技術と技術者の提供を大規模に行った。毛沢東は「大躍進」での自前の重工業化の中で核技術の開発をあげ、無理な核開発を強行した。1958年、台湾海峡の金門・馬祖事件でアメリカ・台湾との関係が悪化すると毛沢東は原爆の使用をソ連に打診したが、ソ連は平和共存路線をとりそれを拒否した。そのような中で1960に中国は核兵器の独自開発を決定し、以後莫大な人員を動員して、予定の8年ではなく、わずか5年後の64年10月16日、核実験に成功した。ちなみにこの日、ソ連ではフルシチョフが解任され、毛沢東は核実験成功はその祝砲だと喜んだ。
Epi. 毛沢東の核戦争観 「核戦争についても毛沢東は独自の認識を持っていた。ソ連側史料にでは、1957年11月、地球人口27億人の半分が滅び、帝国主義が一掃されたとき、社会主義だけが生き残る、と毛沢東はモスクワで発言し、平和共存論に立つソ連指導部との隔絶を示した。」<下斗米伸夫『アジア冷戦史』2004 中公新書 p.110>
 中ソ国境紛争 ソ連と中国の国境は全長7400kmに及ぶ、世界で最も長い国境である。この国境はロシアと清朝の間で結ばれた、1689年のネルチンスク条約と1727年のキャフタ条約で始まり、19世紀後半の1858年の愛琿条約、1860年の北京条約、さらに1881年のイリ条約などの国境条約と20世紀初めの協定にもとづいて形成されたが、中国側は「ロシアが武力で押しつけた不平等条約」とみなしていた。また黒竜江やウスリー川など河川国境では中州の島々の多くがソ連側に占有されていた。1960年代に中ソ対立の深刻化する中で国境での緊張も高まり、ブレジネフ政権に交代したソ連との間で、1969年3月のウスリー川の珍宝島(ダマンスキー島)事件、中央アジアの新疆地区などで武力衝突が起こった。当時中国は原爆実験に成功(64年)していたことから双方の核兵器の使用も危惧された。
中ソ国境問題の解決:毛沢東の死去、文化大革命の終了、ゴルバチョフ政権の登場など情勢が変化する中で解決の方策が練られ、1989年にソ連のゴルバチョフが訪中して中ソ対立が解消され、国境交渉も始まった。ネルチンスク条約締結の1689年から300年目にあたっていた。両国の国境交渉は1991年東部国境協定が成立、さらにソ連崩壊という劇的な変化の後、曲折を経ながら進展し、2001年には善隣友好条約が成立した。細部の調停が行われた結果、2004年10月、北京を訪問したプーチン大統領と胡錦涛主席が会談、「国境問題は最終的完全に解決した」と宣言し世界を驚かせた。<岩下明裕『北方領土問題』2005 中公新書 p.51,107,111>
珍宝島事件 1969年3、中ソ国境のウスリー川(黒竜江の支流)の珍宝島(ダマンスキー島)で両国が軍事衝突した中ソ国境紛争の中の一事件。珍宝島(ロシア側ではダマンスキー島)はウスリー川の中州を形成する島(面積はわずか0.74平方キロ)。国際法の一般原則では、河川国境は主要航路の中央線とすることになっており、それによれば珍宝島は中国側に入っていたが、事実上ソ連に占有されていた。1960年代後半、中ソ対立が激しくなる中で、たびたび衝突が起こっていたが、文化大革命でソ連を修正主義として批判するようになった中国で、ますます反ソ感情が強まり、1969年大規模な衝突に発展した。3月2日、中国側の待ち伏せ攻撃によりソ連の国境警備隊32名が戦死、25日にはソ連側が反撃して中国側に68名、ソ連側に58名の戦死者が出た(数字は異説もある)。その後もにらみ合いが続き、さらにアムール川(黒竜江)流域や新疆地方でも衝突が起こった。9月、ホー=チ=ミン・ベトナム大統領の葬儀の帰り、北京空港で急遽コスイギンと周恩来の話し合いが行われ、当面の危機を回避した。<岩下明裕『北方領土問題』2005 中公新書 p.39-44>
 プロレタリア文化大革命 文化大革命とは何か、という問に明確に答えるのは困難であるが、一つのまとめとしてここでは次の説明を引用しておく。
「プロレタリア文化大革命(文革)とは、広義には1965ないしは66年から76年の毛沢東の死に至る時期に見られた毛の理念の追求、ライバルとの権力抗争といった政治闘争に加えて、それらの影響を強く受けながら、大嵐のごとき暴力、破壊、混乱が全社会を震撼させ、従来の国歌や社会が機能麻痺を起こし、多くの人々に政治的、経済的、心理的苦痛と犠牲を強いた悲劇的な現象の総体を称する。文革の犠牲者は、正確にはわからないが死者一〇〇〇万人、被害者一億人、経済的損失は約五〇〇〇億元とも言われるほどであった。狭義には、66年から69年の中共第九回全国大会までの中央から末端に至る、「紅衛兵」、労働者、農民らをまきこんだ激しい政治闘争を指す。」<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 p.60> 
a 毛沢東  → 毛沢東(文革期)
b 1966 昭和41年。ベトナム戦争が本格化し、中国では文化大革命が始まった。横浜に山手学院中学校が開設された。 
c 劉少奇  → 劉少奇 
d ケ小平(文革期まで)

Deng Xiaoping 1904-1997
ケ小平は、現代の中国で最も重要な存在となった政治家の一人といえる。1904年に四川省に生まれ、洪秀全や孫文と同じく、客家の出身といわれている。1920年、16歳でフランス「勤工倹学」(働きながら学ぶこと)に参加し、パリなどで苦学しながら共産党に入党した。同じころ勤工倹学でフランスに渡り共産党の活動を始めた先輩が周恩来であった。1926年にはモスクワを経由し、27年に中国に戻ると、国民党による激しい弾圧が始まっており、広西地方でゲリラ戦を指導することとなった。長征中の35年、遵義会議では毛沢東を支持、それ以後共産党の中枢として、抗日戦争、国共内戦を戦い、特に八路軍の副指揮官としての活躍は広く知られた。49年の中華人民共和国建国後は国務院副総理や党の総書記を務め、党の実務面で毛沢東を支えた。しかし1958年からの「大躍進」運動の総括をめぐって対立が始まり、文化大革命期には劉少奇と共に資本主義への道を歩む走資派、実権派として激しく批判され、文革期を通じ2度の失脚と復活を繰り返すこととなる。(長征期に親ソ派から、毛沢東に近いと言うことで主流派をはずされたことも加えれば、生涯に三度失脚した。)
・最初の失脚 文革初期の1966年末、毛沢東により、劉少奇と共に走資派・実権派として役職を解任される。失脚中はトラクター工場で働いたという。林彪事件後の中国経済立て直しを目指した周恩来の努力で、73年3月に復活。
・二度目の失脚 文革末期の1976年、後ろ盾の周恩来が死去し、第1次天安門事件が起こると、毛沢東および四人組によってその責任をとらされる形で失脚。毛の死後、代わった華国鋒に長文の手紙を書き、77年7月に復活した。以後、華国鋒を追い落とし、文化大革命後の混乱を乗り、1980年代から90年代にかけてのケ小平時代を出現させた。 → ケ小平の復権 ケ小平時代
Epi. 小さな巨人、ケ小平 山椒は小粒でもピリリと辛いというが、ケ小平は身長150cmでも毛沢東から一目置かれていた。毛はケ小平を評して「綿中に針を蔵す」、つまりあたりや柔らかいがシンには鋭いものをもっているといっている。また1957年にケ小平らを率いてソ連に行き、フルシチョフにあったとき、ケ小平を「あのチビを甘く見てはいけませんぞ。彼は蒋介石の精鋭百万をやっつけたのです」と紹介したという。<矢吹晋『ケ小平』1993 講談社現代新書 p.8>
Epi. ケ小平の「白猫黒猫論」 ケ小平はいろいろおもしろい発言を残している。その中で最も有名なのが「白猫黒猫論」だろう。1962年7月7日、共産主義青年団の若者に対して語った言葉の中に、「白い猫であれ、黒い猫であれ、ネズミを捕ればよい猫だ」という四川地方のことわざを引いて(実際には白猫ではなく黄猫だそうだが)、蒋介石軍を破ったときの経験から、物事にとらわれてはいけない、状況次第で現実に対応し、結果がよければよい、と説いたとされている。毛沢東的な階級闘争のイデオロギーにとらわれるなというケ小平の現実主義を言っているとして当時から人々に受け止められたが、ケ小平は盛んにその発言を打ち消したという。<矢吹晋『ケ小平』1993 講談社現代新書 p.71>
 実権派・走資派 
 紅衛兵 中国のプロレタリア文化大革命の時、毛沢東を熱烈に支持し、「造反有理」を掲げた少年・少女たちの運動体。1966〜68年ごろが高揚期で、「紅衛兵」の腕章をして全国で激しい破壊活動(武闘)を展開、党幹部や芸術家など従来の権威に対して「自己批判」を強要し、多くの人が犠牲となった。『毛沢東語録』を手に手に北京に集まった紅衛兵に対し、毛沢東もその運動を認め利用しようとした。しかし、次第に統制がとれなくなり、内部対立も起こって運動は沈静化し、彼らは「上山下郷」運動(山岳地帯や農村の民衆の中に入る)に転じていった。
紅衛兵の始まり:1966年5月25日、北京大学で「中央文革小組」の支持を受けた講師・聶元梓ら七人が陸平学長ら指導部を激しく批判する大字報(壁新聞)を貼りだした。5月29日、清華大学付属中学(日本の高校に相当)の約四〇人の学生によって紅衛兵と呼ばれる組織が誕生した。6月一日、毛は聶元梓らの大字報を「20世紀60年代における中国のパリ・コミューンの宣言書である。その意義はパリ・コミューンを凌いでいる」と称え、ラディカルな学生の動きを積極的に支持した。以後急速にさまざまな紅衛兵の組織が作られていった。
Epi. 円明園で誕生した紅衛兵 初めて「紅衛兵」を名乗ったのは、清華大学付属中学の生徒の張承志だった。彼の回想『紅衛兵の時代』によると、彼らは学校の隣の円明園の廃墟に集まり紅衛兵を発足させたという。その一文。
「当時は円明園の廃墟が私たち造反派学生のたまり場になっていた。ここは第二次アヘン戦争の時、英仏侵略軍に焼き払われて(円明園の焼失)からこの当時に至るまで一面の廃墟で、ところどころ水田が点在していた。学校と円明園は一本の通りで隔てられていただけで、付属中の生徒たちは朝早く円明園に行って本を読み、夕方にはここを散歩するのを好んでいた。(1966年)五月下旬、円明園は私たちの秘密の活動の隠れた基地となり、いつもこの廃墟で情勢を検討し、対策を講じた。私たちの心は、革命者が非合法活動に従事するさいの高揚した感情と、闘争や犠牲へのあこがれに満たされた。・・・」<張承志『紅衛兵の時代』1992 岩波新書 p.46>
 林彪 抗日戦争期の八路軍の指揮官として活躍し、建国後は人民解放軍を背景に共産党の中枢に参画した軍人。(朝鮮戦争には仮病で従軍を免れ、多くの優秀な軍人が戦死した後に林彪が軍の実権を握ったとも言われている。)特に1959年、共産党幹部の「廬山会議」で大躍進運動を批判した彭徳懐国防相が毛沢東によって解任され、その後任の国防相となってから、毛の忠実な追従者となり、「毛語録」を兵士に配ってその宣伝に努めた。また毛の周辺の江青など四人組と結んで、文化大革命推進の中心となった。1969年4月、13年ぶりで開催された中共第9回全国大会は「文化大革命の勝利の大会」と位置づけられ、文革の節目となった。大会に出席した代表のほとんどは、毛沢東、林彪、江青らの指名による者であった。また軍人の台頭が目立った。そしてこの大会で、林彪は「党規約」の中に「毛沢東同志のもっとも親密な戦友であり、後継者」と明記された。しかし、わずか2年余り後の71年9月に、毛沢東暗殺クーデターを企てて失敗し、厳しく対立していたソ連へ空軍機で妻子とともに亡命を試み、モンゴル上空で墜落死した(九・一三事件)。この林彪事件の経緯が正式に発表されたのはさらに二年後の73年八月で、多くの謎に包まれている。
 江青 江青は1930年代には藍蘋(ランピン)という芸名の上海の映画スターであった。革命運動に関わり、1937年秋に延安に行って毛沢東と結婚し、江青と名を変えた。その間の経歴はあまり知られていないが、相当スキャンダラスだったらしく、文化大革命中にその素性を知っている映画人が多数迫害され、口を封じられたという。毛沢東夫人という立場を利用して、急速に政治に介入し、林彪や毛沢東の取り巻きであった四人組の他の仲間と権力の奪取を図り、ついには女帝とまで言われるようになった。しかし、毛沢東が死去した1976年以降は、急速にその権威を落とし、10月に華国鋒政権によって四人組は逮捕された。1980年9月から「林彪・江青反革命集団」裁判が行われ、江青は死刑(執行2年延期)、政治権利終身剥奪の判決を受けた。その裁判中も江青は、大声でわめきちらし、自分の無罪を主張した。後に無期に減刑されたが、91年に自殺した。
 四人組 中国の文化大革命期に、運動を推進した江青(毛沢東夫人)、張春橋、姚文元、王洪文の四人。彼らは1965年に呉ヨの史劇『海瑞免官』を、廬山会議で毛沢東を批判した彭徳懐を擁護するものだとキャンペーンを初め、それが文化大革命の発端となった。1966年、劉少奇・ケ小平らの実務派の台頭を資本主義への転化につながり自己の権力を脅かすものと警戒した毛沢東がプロレタリア文化大革命を開始すると、軍を握り毛沢東の後釜をねらう林彪と効力して、大々的な走資派批判を展開した。紅衛兵を扇動して実権派のつるし上げ、各地の文化財の破壊などを行わせた。1971年に林彪が失脚すると、「四人組」は権力を独占するようになり「批林批孔」運動と称して、その矛先は周恩来などの幹部に及んだ。そのころから毛沢東も次第に四人組を警戒するようにない、ケ小平を復活させるなどのバランスをとった。また党内にも文化大革命の行き過ぎを警戒する穏健派も台頭、1976年に周恩来が死去すると、北京で四人組反対の暴動である第1次天安門事件が起こった。その後葉剣英など長老の推す華国鋒が四人組との抗争に勝って権力を握り、同年9月の毛沢東死去の後、10月に逮捕された。1980年からの裁判の結果、江青と張春橋は死刑判決、姚文元は懲役二十年、王洪文は無期懲役の判決を受けた。 →江青ら四人組逮捕
 1976 昭和51年。1月8日に周恩来が死去。4月に第1次天安門事件が起こった。次いで7月6日には朱徳が死去。さらに9月9日毛沢東が死去し、10月には4人組が逮捕された。文化大革命の実質的な終わりと共に、革命第1世代の大物が次々と死去して、中華人民共和国は大きな転換期を迎えた。華国鋒政権が生まれたが、実権は次第にケ小平に移り、大胆な近代化路線である「改革開放」の時代に突入していく。アメリカはベトナム戦争(1975年に終結)後の経済再建と国際政治でのイニシアチブを模索し、ソ連はブレジネフ時代の永い低迷から抜け出せないでいた。前年には第1回サミットが開催され、国際政治は米ソ二大国の冷戦構造が大きく転換しようとしていた。日本ではロッキード事件が発覚、田中角栄前首相が逮捕されるという衝撃が走った。
オ.ベトナム戦争とインドシナ半島
 南北ベトナムの対立 ベトナムでは、1954年のジュネーブ休戦協定で北緯17度線を停戦ラインとしてインドシナ戦争が停戦となった。これによって北ベトナムはホー=チ=ミンらベトナム独立同盟の指導するベトナム民主共和国が、南ベトナムには翌年からアメリカが支援するゴ=ディン=ディエムベトナム共和国が存在し、厳しく対立することとなった。アメリカは、北のベトナム民主共和国による統一を、東南アジアの共産主義化につながると恐れ、56年7月までに予定された統一選挙を認めなかった。一方、1960年12月に南ベトナム民族解放戦線が「抗米救国」のための統一戦線として結成され、さらに正規軍の南ベトナム人民革命軍を組織した。北ベトナム(ベトナム民主共和国)は全面的に解放戦線を支援、この南北ベトナムの対立は、ドミノ理論に立つアメリカがインドシナの共産化阻止のために北ベトナム空爆に踏み切りベトナム戦争に途中に、1965年からは全面的な戦争となり、以後1975年の北ベトナム軍とそれに支援された解放勢力によるサイゴン陥落まで戦闘が続いた。
 ドミノ理論 「ドミノ倒し」のように連鎖反応がおこること。1954年4月、アメリカのアイゼンハウアー大統領が、インドシナ(ベトナムなど)が共産化すれば、「ドミノ倒しのように東南アジア全体に連動するであろう」と述べたことによる。すでにヨーロッパでの東西冷戦は東西ドイツの分断という形になって深刻化していたが、アジアにおいても中華人民共和国の成立、朝鮮戦争の勃発は共産勢力の膨張ととらえられたアメリカは、フランス撤退後のインドシナに介入してその共産化を阻止することに踏み切った。この「ドミノ理論」は共産主義の脅威に対してアメリカが介入してそれを阻止する際の口実とされ、アメリカはベトナム戦争に突入していく。
a ゴ=ディン=ディエム 南北ベトナムの対立からベトナム戦争に発展した時期のベトナム共和国(南ベトナム)大統領。1955年、アメリカの支援を受けてバオダイ帝を追放し、ベトナム共和国を樹立して大統領となった。ジュネーブ協定の取り決めである南北統一選挙を拒否し、反対派を厳しく弾圧した。南ベトナム政府はゴ大統領の一族登用など腐敗がひどく、国民の支持がなく、また彼はカトリック信者だったので、仏教徒を弾圧し、仏教徒の焼身自殺などの抗議があいついで、安定しなかった。1963年に軍部クーデタが起き、アメリカも見放したため、殺害された。ケネディ大統領暗殺の3週間前であった。
Epi. ひんしゅくを買った夫人の「人間バーベキュー」発言 ゴ=ディン=ディエム政権の下での反対派に対する弾圧はすさまじいものがあり、「60年までに80万人が投獄され、拷問を受けたといわれる。逮捕されたもののうち9万人が殺され、19万人が身体障害者になったという」<小倉貞男『ドキュメント・ヴェトナム戦争』岩波書店 1991>
ベトナムは民衆の8〜9割が仏教徒であるが、カトリックであったゴ大統領は、共産主義者と同じように仏教徒も反政府運動のバックにあると考え、仏教を弾圧した。1963年には7人の僧侶がそれに抗議して焼身自殺に訴えた。それを見たゴ大統領夫人のゴ=ディン=ニューは「バーベキュー」と罵り、今度同じことが起きればガソリンとマッチを喜んで進呈しようと述べて内外の世論を逆なでした。<松岡完『ベトナム戦争』中公新書 2001>
b 南べトナム解放民族戦線 1960年12月20日、カンボジア国境沿いのタイニン省のある村で結成された、反米、反ゴ=ディン=ディエム政権を掲げた民族統一戦線で、党員以外にも労働組合、農民同盟、青年同盟、学生などが組織された。議長はグェン=フー=ト。組織としてはベトナム労働党南部中央局の指導を受ける、幅広い統一戦線であった。1年間に組織を拡大させ、以後、ベトナム戦争での抗米救国の中心としてゲリラ戦を展開し、アメリカ側から「ベトコン」(ベトナム人の共産主義者)と言われて恐れられた。
c トンキン湾事件 1964年8月5日、ジョンソン大統領は、ベトナムのトンキン湾を巡視中の駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇の攻撃を受け、直ちに反撃のため北ベトナムを爆撃した、と発表した。これを受けてジョンソン大統領は議会に対し「アメリカ軍に対する攻撃を退け、さらなる侵略を防ぐために必要なあらゆる手段をとる」権限を大統領に与えるという決議を要請した。その結果、下院は410対0,上院は88対2という圧倒的多数の支持で「トンキン湾決議」が採択された。こうしてアメリカは事実上の北ベトナムとの宣戦布告をしたこととなる。ところが、4年後、ジョンソンと対立して辞任した国務大臣マクナマラは、このトンキン湾事件がでっち上げ出ることを告白した。当時北ベトナムは魚雷艇を装備していなかったし、大統領が議会に提出した決議文の原案は5日よりも前に作成されたものであったことが明らかになった。1970年、このトンキン湾決議は取り消された。
 ベトナム戦争 ベトナムが南北に分断された後、南ベトナムを支援して介入したアメリカに対する北ベトナム及び南ベトナム解放戦線の戦い。1964年から1975年まで、戦後世界の最も激しい戦闘が展開され、最終的にはアメリカが敗北、北ベトナムによって統一され、76年にベトナム社会主義共和国が成立した。
★ベトナム戦争とは 統一の主導権をめぐって南北ベトナムの勢力が対立する中でインドシナの共産化を恐れたアメリカが介入し南を支援したのに対し、北ベトナム軍と南ベトナム解放勢力が協力し、アメリカ軍・南ベトナム政府軍と戦った戦争。途中からは隣国のカンボジアとラオスに拡大し、第1次インドシナ戦争(1946〜54年)に続く、第2次インドシナ戦争と言われる場合もある。
★ベトナム戦争の開始と終結 ベトナム戦争は「宣戦布告なき戦争」であったので、いつはじまったかについては諸説ある。一般には1964年8月のトンキン湾事件か、65年2月の北爆の開始からとされることが多い。終わったのは、アメリカが敗北して撤退したのが73年1月、サイゴンが陥落してベトナム統一ができたのが75年4月、のいずれかをとる。したがってアメリカが本格的に関わっていた時期だけでも8年以上となる。(これはアメリカが関わった戦争でもっとも長期にわたるものである)
★ベトナム戦争の前史 第1次インドシナ戦争の結果、1954年のジュネーブ休戦協定が成立した後、フランスに代わってアメリカのアイゼンハウアー大統領がアジアの共産化阻止の世界戦略をかかげ、55年にはSEATO結成を結成して介入を強め、南のベトナム共和国に親米政権(ゴ=ディン=ディエム政権)を樹立した。それに対してホー=チ=ミンの指導する北ベトナムは1959年に南ベトナムの武力解放の方針を決定、1960年12、南ベトナム解放民族戦線を結成した。1961年1月に就任したケネディ大統領が、積極的な軍事支援を開始、62年2月にサイゴンに軍事援助司令部を設置した。1963年、南のゴ政権がクーデターで倒れ、政情不安続く。同年、ケネディを継いだジョンソン大統領は北ベトナム直接攻撃に踏み切る方策を探る。
★ベトナム戦争の開始 1964年8月、ジョンソン大統領は「トンキン湾事件」を口実に北ベトナムを爆撃、さらに1965年2月から恒常的な「北爆」開始、地上軍20万人の軍も投入された。1965年の北爆開始が一般的にベトナム戦争の開始とされている。派遣兵力は69年6月には54万人に膨れあがり、掃討作戦が展開された。しかし解放軍のゲリラ戦術に悩まされ、68年1月の解放勢力側のテト(旧正月)攻勢から形勢は逆転した。68年5月からパリ和平会談が始まった。このころ、アメリカ国内や世界各地でのベトナム反戦運動が盛り上がり、1969年にはソンミ村虐殺事件(68年3月、ベトコン掃討作戦中のアメリカ軍がソンミ村で女性や子どもを含む約500人を殺害した事件)が明るみに出て、戦争の正当性に対する疑問がアメリカ内外で起こってきた。
★ベトナム戦争の拡大 1969年に就任したアメリカのニクソン大統領は反戦運動の高まりの中でベトナムからの撤兵を決定したが、1970年以降は一転してカンボジア、ラオスに戦線を拡大した。70年にホー=チ=ミン・ルートの遮断と称してアメリカはカンボジアに侵攻し、さらに71年にはラオス愛国戦線攻勢の勢力拡大を阻止するためアメリカはラオスに空爆を加えた。こうして戦火はカンボジア・ラオスを含むインドシナ半島全域に拡大し、「第2次インドシナ戦争」の様相を呈した。このアメリカの戦争拡大は内外の反発を受けたが、ベトナム側もそれを支援するソ連と中国の関係が悪化(中ソ対立)し、複雑な国際関係の中で交渉は進捗しなかった。また戦争の長期化はアメリカ財政を圧迫し、ドル危機の一因ともなったため、1771年にニクソン大統領は金とドルの兌換を停止に踏み切った。このドルショックは戦後の西側世界のアメリカ一極時代を終わらせることとなった。
★ベトナム戦争の終結 そんな中、1972年2月、ベトナム戦争の収束の機会をねらっていたニクソン大統領が中国を訪問、続いてソ連も訪問して大国間の話し合いが続いた。しかしこの間もニクソンは和平交渉を有利に進めようと北爆を以前に増して激しく行った。パリ和平会議の舞台裏ではアメリカのキッシンジャーとベトナムのレ=ドク=トによる秘密交渉が行われ、ようやく1973年1月、ベトナム和平協定が成立して、アメリカ地上戦闘部隊の撤兵が開始された。しかし、南ベトナムではサイゴン政権と解放戦線の戦闘は継続され、1975年4月、ホー・チ・ミン作戦によって首都サイゴンが陥落して南ベトナム政府は崩壊し、ようやくベトナム戦争は終結、ベトナムの独立と南北統一が実現した。
★ベトナム戦争のその後 ベトナム戦争は第2次大戦後のもっとも規模の大きい、またアメリカ合衆国にとって、歴史上はじめての敗北であっただけでなく、アメリカ資本主義の繁栄に影がさしはじめ、国内の反戦運動の高揚、外交上の孤立などは、大きな打撃となった戦争であった。また国内ではベトナム帰還兵の社会復帰の困難さが深刻で、「ベトナム症候群」などといわれた。
東南アジアでの民族運動の高まりに伴う対立は、中国とソ連の対立を背景にして複雑化し、カンボジアでは親中国派のポルポト政権が成立して親ソ派のベトナムと対立し、1977年にベトナムとカンボジアの国境紛争が発生して第3次インドシナ戦争が勃発した。1979年1月にはベトナム軍がカンボジアを制圧、それに対して2月に中国軍がベトナムに侵攻(中越戦争)した。その後もカンボジア内戦が続いたが、ソ連にゴルバチョフ政権が成立して路線転換した影響で、1986年にベトナムは改革路線(ドイ=モイ)に転換、中ソ関係の改善が進み、1991年のカンボジア和平協定成立によって内戦は終結した。1995年にベトナムはASEANに加盟、また同年ベトナムとアメリカの国交が回復し、ベトナム戦争は過去の出来事となった。2006年にはAPEC(アジア太平洋経済協力会議)がハノイで開催され、ブッシュ大統領や安倍首相も参加した。隔世の感がある。
 1965 昭和40年。2月、アメリカによるベトナム北爆が開始され、ベトナム戦争が本格化した。アジアは他でも激動が起こり、9月に第2次インド=パキスタン戦争が勃発、インドネシアでは九・三〇事件が起こってスカルノからスハルトへの政権交代が始まった。60年代後半から70年代にベトナム戦争を背景として他のアジア諸国では開発独裁の時代が始まったと言える。インドネシアのスハルト、フィリピンのマルコス、韓国の朴正煕がその典型である。日本はこの年、その朴正煕の韓国と日韓基本条約を締結した。(この前年が東京オリンピック。)
 北べトナム空爆(北爆) ベトナム戦争における、アメリカによる、北ベトナムへの空軍による爆撃を言う。1964年のトンキン湾での米軍艦艇への魚雷攻撃に対する報復という口実でジョンソン大統領が最初の北爆を行った。翌65年3月からは「ローリング・サンダー」作戦という徹底した爆撃を開始し、ベトナム戦争が本格化した。それ以後68年まで行われた空爆により、アメリカは約223万トンの爆弾を投下したが、また1000機以上の航空機を失った。ベトナムがあの人的被害は約5万人と推定されている。<『20世紀の戦争』朝日ソノラマ p.268> 
 枯葉剤  
 べトナム反戦運動  → 第16章 4節 ベトナム反戦運動
 北爆停止  
 パリ和平会談 1867年5月から、パリで始まったベトナム戦争の和平会議。3月のジョンソン大統領の北爆停止声明を受けて開始された。現地では戦争は続けられていたが、週1回の割合で会談が続けられた。1969年1月からは北ベトナム、アメリカに加え、解放戦線、南ベトナム代表も参加する拡大会議となった。この間、1968年の解放戦線によるテト攻勢が行われ、米軍は次第に押されていった。それに比例して国内のベトナム戦争反対運動が激しくなったが和平交渉は進展しなかった。
h ニクソン  → 第16章 4節 ニクソン大統領
 アメリカのカンボジア侵攻 1970年3月、カンボジアで国王シハヌークが外遊中親米派のロン=ノル将軍がクーデターを決行、シハヌークを国家元首の地位から解任した。アメリカのニクソン大統領はロン=ノル政権を支援し、カンボジアを経由する北ベトナムからのベトコン支援ルートであるホー=チ=ミン・ルートを遮断するというねらいから、アメリカ軍をカンボジアに侵攻した。これによってベトナム戦争はベトナム以外のインドシナ半島に拡大されることとなった。ニクソン大統領は前年就任するとともにベトナムからの段階的撤退を打ち出していたが、それと矛盾する戦線拡大を行ったのは、当時へ移行して行われていたベトナム和平交渉(パリ和平会談)で優位に立とうという意図があったものと思われる。→ カンボジア内戦
 アメリカのラオス侵攻 1971年2月、アメリカのニクソン大統領は、ベトナムに隣接するラオスに対し空爆を行った。これはラオスで北ベトナムと友好関係にある左派のパテト=ラオ(ラオス愛国戦線)が次第に優勢になってきたことに対して、アメリカ軍がベトナム戦争の有利な終結をねらったものであったが、70年のカンボジア侵攻に続き、ラオスを空爆したことで、ベトナム戦争の戦線はインドシナ全域に及び、第2次インドシナ戦争といわれる状況になってきた。アメリカ軍の激しい空爆にもかかわらず、パテト=ラオ軍は次第にラオス全域を制圧、アメリカの軍事介入は失敗して75年には完全勝利し、ラオス人民民主共和国を樹立する。
 第2次インドシナ戦争 一般にインドシナ戦争は1946年〜54年のベトナム民主共和国とフランスの戦争を言うが、これを第1次インドシナ戦争と言い、ベトナム戦争(特に1970年にカンボジア、71年にラオスに戦火が拡大してから1975年サイゴン陥落まで)を第2次インドシナ戦争という場合もある。なお、1977年からのベトナムとカンボジアの対立と、79年から91年までのカンボジア内戦を第3次インドシナ戦争と言う場合もある。いずれにせよ、インドシナ半島は、第2次大戦後から20世紀の後半の約半世紀にわたる戦火の連続であった。
 和平協定の成立  
a べトナム(パリ)和平協定 1973年1月27日に、パリ和平会談の結果成立した、ベトナム戦争の和平協定。ベトナム民主共和国(北ベトナム)、南ベトナム共和臨時革命政府(解放戦線)、アメリカ合衆国、ベトナム共和国(南ベトナム)の4者によって調印され、ベトナム戦争の停戦、アメリカ軍の撤退、南ベトナムの政治的対立の解決、捕虜の相互解放などで合意を見た。しかし、南ベトナムの政治的対立の解決は図られず、その後も解放戦線と南ベトナム軍の戦闘は75年まで続いた。
b べトナム撤退 ベトナム和平協定の成立に伴い、アメリカ軍の軍事活動は停止され、1973年3月、ニクソン大統領の最終判断で、南ベトナム駐留のアメリカ軍が撤退した。なお、その後もベトナム政府軍と南ベトナム解放民族戦線(および北ベトナム軍)との戦争とは継続され、1975年に終結する。
「一九七三年三月二十九日、南ヴェトナム駐留の米軍が撤退を完了した。一九五〇年八月二十日、フランスがヴェトミンの掃討に手を焼いていたころ、米国がサイゴンに軍事援助顧問団を送り、南ヴェトナム政府軍の養成にあたってから二十二年余りの歳月がたっていた。ニクソンの「名誉ある撤退」は実現した。しかし、米国人にとっては、肉体的にも、精神的にも、非常に深い傷を負った介入の歴史だった。大きな犠牲をはらってまで、なんのために、なぜ、ヴェトナムに介入したのか。ヴェトナムでは、何も解決していなかった。」<小倉貞男『ドキュメント・ヴェトナム戦争』岩波書店 1991> 
 1975 昭和50年。4月にサイゴンが陥落しベトナム戦争が終結した。ところが隣国カンボジアではポル=ポト政権が成立、今度はカンボジア内戦が泥沼化する。中国では文化大革命が継続されていたが、71年の国連復帰、72年のキッシンジャー訪中以来、収束の方向に向かっている。11月には第1回先進国首脳会議(サミット)が開催され、西側諸国のアメリカ単独指導という状況は終わりを告げた。ソ連はブレジネフ体制の硬直化が続いている。なおこの年、スペインのフランコと中華民国の蒋介石という、東西の特異な独裁的指導者が相次いで死去している。(ポルトガルでは前年に民主化が行われている。)
 サイゴン陥落 1975年3月、解放戦線側は一斉に南ベトナム政府軍基地に攻勢を仕掛けた。すでにアメリカのフォード大統領はベトナムに再介入せず、と声明を出していた。旧王都のフエ、中部の都市ダナンを制圧し、最後に4月26日、首都サイゴンへの攻勢である「ホー=チ=ミン作戦」を展開した。アメリカ大使館は、大使以下が海兵隊のヘリコプターで脱出した。4月30日、戦闘は終わり、南ベトナム政府は崩壊、ベトナムが統一され、平和が実現した。1945年のインドシナ戦争から数えれば30年にわたる戦争がこうして終わった。
 べトナム社会主義共和国(1)現在のベトナムを統治する国家。ベトナム戦争が終結し、南北ベトナムの統一を受けて1976年に発足した。翌77年に国際連合に加盟した。隣国カンボジアに成立した親中国のポル=ポト政権との国境紛争が始まったが、背景にはソ連との関係が強まる一方で、中国との関係が悪化したことがあった。1978年末から大規模なカンボジア侵攻を開始、プノンペンを制圧してポル=ポト政権を追放し、ヘン=サムリン政権を樹立した。また中国がカンボジアを支援したことから、1979年から中越戦争が起こった。80年代は緊張した軍事情勢が続き、そのため経済状況が悪化し、86年からは方針転換してドイ=モイ(刷新)とう経済の開放路線をとるようになり、89年にはプノンペンからも撤退した。 → ベトナム(2)
 カンボジア内戦1970年から1991まで22年にわたって続いた、カンボジアの内戦。
ロン=ノル政権:1970年、ベトナム戦争が激化する中、反米姿勢をとるカンボジア王国シハヌーク政権に対し、右派のロン=ノル将軍がクーデターを敢行、シハヌークは滞在中の中国に亡命し、親米のロン=ノル政権が登場した。同年、アメリカはカンボジアに侵攻し北ベトナムからの支援ルート遮断をめざした。こうしてベトナム戦争はカンボジアに(ついでラオスにも)拡大、またカンボジアはアメリカと結んだロン=ノル政府軍、シハヌークの旧政府軍、ポル=ポトらの左派が指導する赤色クメール(クメール・ルージュ)の三つどもえの内戦状態に突入した。
シハヌーク政権の復活:1973年春から、解放勢力(シハヌーク派と赤色クメール)の攻勢が強まり、首都プノンペンに迫った。ロン=ノル政権は南ベトナム政府軍とアメリカ軍に支えられようよく維持できていたが、アメリカではニクソンがウォーターゲート事件で辞任し、代わったフォード大統領の議会への軍事援助の提案は拒否され、75年4月、プノンペンは解放されてロン=ノルはインドネシアに亡命した。代わってシハヌークが国家元首に復帰し民主カンプチア(カンボジアと同義)となる。赤色クメールのポル=ポトもここではシハヌークを支持した。
ポル=ポト政権:1976年、選挙で進出した共産主義勢力ポル=ポト派が次第に台頭して政権をにぎり、シハヌークは辞任、ポル=ポト政権は中国の支援を受け権力を握った。その政策は、農業主体の極端な共同社会を建設し、通貨を廃止するなどの極端な原始共産制の実現を強行しようとするもので、反対派に対する弾圧など強圧的支配をとり続け、多数の犠牲者が出た。ポル=ポト政権によって殺害されたのは主として都市出身の知識人であったが、1975年から78年までの間の犠牲者は約170万と言われている。また、親中国政策をとるポル=ポト政権に対し、ベトナム戦争後、中国と対立するようになったベトナムは警戒心を勤め、1977年末には国境で紛争が起こるようになった。
ベトナム軍の侵攻:前年末にカンボジアに侵攻したベトナム軍は1979年1月に首都プノンペンを占領し、ポル=ポト派を排除して親ベトナム政権ヘン=サムリン政権を樹立し、国号はカンボジア人民共和国となった。しかしこの政権はベトナムの全面的な支援を受けていたため、国際的に承認されず、カンボジアではヘン=サムリン政権、シハヌーク支持派、ポル=ポト派などの入り乱れた内戦が続いた。
内戦の終結:1991年、パリでカンボジア和平協定が成立、22年ぶりで内戦は終結した。翌92年より国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)が活動(この時始めて日本の自衛隊がPKO=平和維持活動の一環として海外に派遣された)し、93年にその監視の元で選挙が実施され、安定を回復した。93年に9月に憲法を改正し、立憲君主制に復帰、カンボジア王国となり、シハヌークが国王となった。現在はポル=ポト派時代の大量虐殺事件の責任を追及することが課題となっている。→カンボジア王国(現代)
a シハヌーク  → 第16章 1節 シハヌーク
 ロン=ノル  
 赤色クメール クメール=ルージュと言われるグループで、もとはカンボジア共産党員でフランスに留学した、ポル=ポト、イエン=サリ、キュー=サンファンなどの過激な武力闘争を主張する人々を、シハヌークが「赤いクメール人」と呼んだ蔑称であった。彼らはシハヌークをいただくカンプチア民族統一戦線を結成したが、次第に民族主義的な性格を強め、1970年に成立した親米右派のロン=ノル政権に対して激しく抵抗し、1975年4月に首都プノンペンを掌握してロン=ノル政権を倒した。さらに翌年にはシハヌークを監禁して権力を握り、ポル=ポト政権を建てた。
 ポル=ポト政権 1976年から1979年までカンボジアを支配した、ポル=ポトを指導者とする急進的な共産主義政権。
ポル=ポトを指導者とするカンボジアの急進的な民族主義グループであるクメール=ルージュ(赤色クメール)は、シハヌーク派と協力して、1975年4月に親米右派のロン=ノル政権を追いだし、カンボジアの実権を握り、国号を「民主カンプチア」とした。国家元首としてはシハヌークをいただいていたが、翌年には実権を奪い、軟禁状態において、ポル=ポトの独裁権力のもと、急進的な共産社会化が強行された。その政策は、農業主体の極端な共同社会を建設し、通貨を廃止するなどの極端な原始共産制の実現を強行しようとするもので、反対派に対する弾圧など強圧的支配をとり続け、多数の犠牲者が出た。ポル=ポト政権は親中国の立場だったため、ソ連と近いベトナムとは関係が悪化し、国境紛争に発展、1978年末にベトナム軍がカンボジア侵攻、79年初頭に首都プノンペンを制圧してポル=ポト政権を倒した。 → カンボジア内戦
ポル=ポト政権の人権抑圧と大虐殺:ロン=ノル政権やシハヌーク派の官僚、知識人に留まらず、プノンペンなどの都市住民の多数が強制収容所に送られ、抵抗するものは殺害された。ポル=ポト時代の3年9ヶ月で100万〜170万という犠牲者が出たと言われる。このことは当時は外部に報道されること無く、世界に知られることはなかったが、ベトナム軍が侵攻し79年にポル=ポト政権が崩壊してから、その実態が知られるようになった。映画『キリングフィールド』はその状況を伝える作品である。カンボジア内戦が終結して、現在の政府のもとで特別法廷が開かれ、ポル=ポト派の大量虐殺の犯罪が裁かれようとしているが、ポル=ポトはすでに病死し、どこまで真実が明らかにされるか、困難が予想されている。 
 民主カンプチア  
 ラオス(内戦)ベトナム戦争が拡大する中で、ベトナムの西に隣接するラオスでも左派のラオス愛国戦線(パテト=ラオ)の勢力が強まり、それに対して1971年2月、アメリカ軍がラオスに侵攻し、同時に空爆を行った。しかし愛国戦線を沈黙させることができず、かえって優勢となり1973年9月、ラオス政府とラオス愛国戦線の間で、臨時民族連合政府樹立の合意が成立、平和議定書が締結された。愛国戦線の部隊が首都ビエンチャンに1963年以来10年ぶりに入り、74年4月5日にはラオス民族連合政府が成立して内戦が終わった。1976年にラオス人民民主共和国となった。人口も少なく、資源にも恵まれない内陸国であるため、経済的には困難が続いているが、ベトナム、カンボジア、タイという隣接諸国と巧みな外交を用いながら独自の路線をとっている。
e パテト=ラオ(ラオス愛国戦線)  
 ラオス人民民主共和国
1975年に成立したラオスの国家。ラオスはフランスの植民地から、1957年にラオス王国として独立した後、1962年から王政派とパテト=ラオ(ラオス愛国戦線)らの激しい内戦が続き、米ソの介入もあって長期化していた、ベトナム戦争の終結に伴い、75年に社会主義勢力が政権を奪取して、王政を廃止し、ラオス人民民主共和国を樹立した。ラオス人民革命党はベトナムとの関係が強く、その協力の下で社会主義政策を進めたが、ベトナムと同じく経済が行き詰まり、現在は市場経済の導入などの改革路線に転換している。1997年にはASEANに加盟した。政治では現在もラオス人民革命党の一党支配が続いている。
民族的にはラオ人が主体だが、49に及ぶる少数民族からなる多民族国家である。首都はビエンチャン。
オ.アジアの開発独裁
a 開発独裁 1950〜70年代のアジアなど開発途上国で見られる独裁形態の一つで、貧困から脱するには工業化が必要であるという世論を背景に工業化を政策の最優先課題に掲げ、それに反対する勢力を抑圧する政治のあり方を言う。端的に言えば、「(国内の)分離独立運動をおさえて工業化を進めるために、開発独裁というシステムが出てくる。開発独裁というのは、工業化の開発を進めていくためには独裁が必要なんだという形で独裁が進むことをいう。」<鶴見良行『東南アジアを知る』1995 岩波新書 p.49>
開発独裁の典型例:韓国の李承晩政権および朴正煕政権、フィリピンのマルコス政権、インドネシアのスハルト政権、イランのパフレヴィー政権などがその典型例とされる。またタイのサリット政権とその後の軍事政権も一種の開発独裁である。これらはいずれも開発による国民生活の向上を掲げて人気を博し、民衆的な支持で独裁権力を振るうことができたが、その開発優先政策は一部の企業家や親族企業、あるいは外国資本と癒着する例が多く、大部分の国民には利益は還元されず、かえって生活環境の悪化などの問題をもたらした。また、これらの開発独裁政権は、イデオロギーとして反共産主義を掲げ、親米政策(具体的にはベトナム戦争でのアメリカ支援)をとった。1980年代に飛躍的な経済成長を遂げたNIEs諸国のなかにも開発独裁の形態をとったところが多かった。
開発独裁の消滅:1970年代以降は、各国でこのような独裁的な開発優先政策に対する批判が強まり、また開発の進行によって生まれてきた中産階級も独裁政権の意図に反して次第に民主的な政治を求めるようになり、1990年代までにいずれも崩壊し、現在は姿を消している。ただ、現在の中国の政治の民主化を抜きにした開放経済政策を一種の開発独裁と見ることもできる。
 大韓民国  
a 李承晩  → 李承晩 
 四月革命(韓国) 四・一九学生革命ともいう。1960年4月、大韓民国の李承晩大統領の不正選挙に対する抗議行動を行った学生に呼応して、市民・労働者が蜂起して、ついに李承晩を辞任に追い込んだ民主化運動。大韓民国初代大統領李承晩は、朝鮮戦争休戦後、反共姿勢と共に独裁色を強め、民主化を要求する野党指導者を逮捕したり、言論抑圧をくりかえしていた。この年の副大統領選挙でも不正選挙が行われたことに学生が反発、4月19日にはソウルの高麗大学学生を始めとする学生が2万人でデモを行い、それに呼応して全国の群衆約10万人がデモを行った。李承晩大統領はついに辞任し、婦人と共にアメリカに亡命した。議会は内閣責任制の新憲法を可決し、第二共和政が成立し、野党指導者であった張勉が首相となり、民主化が開始された。北朝鮮の金日成もそれに対応して、8月に南北連邦制による統一案を提示し、国民にも民族統一の声が強まったが、翌61年の朴正煕による軍事クーデターによって民主化および南北統一の動きは抑えられ、韓国はふたたび反共独裁政権の支配下に置かれることとなった。
Epi. 高校生が口火を切った四月学生革命 1960年の四月革命の口火を切ったのは、2月の大邱での高校生たちのデモだった。日本と同じく六・三・三制の教育が始まった韓国では儒教の伝統もあって急速に教育熱が高まり、高校生の数も45年には19校7819人だったのが60年には640校27万3千人に増えていた。高校生といっても戦乱を含む混乱期で20歳を過ぎた成人も少なからず含まれていた。李承晩政権は副大統領選挙の遊説開始日が日曜であったにもかかわらず高校を登校日とした。選挙演説に高校生が参加できないようにしたのだ。高校生は学園の政治的利用に怒って街頭デモに及んだのだった。この大邱の高校生デモが全国に波及、4月18日から19日にかけての全国での大学生、民衆のデモに拡大した。警察の弾圧は激しく、使者は全国で186名となり「血の火曜日」と言われた。また韓国の四月学生革命は、日本の安保条約改定反対闘争にも大きな刺激を与え、大学生・高校生が街頭デモに多数参加した。<文京洙『韓国現代史』2005 岩波新書 p.93-99> 
 朴正煕 韓国の軍人で「1961年5月16日軍事革命」の軍部クーデターで軍事政権を樹立、1963年から大統領となり、軍をバックとした独裁政治を行った。反共姿勢を強め、憲法を改正して責任内閣制を改めて大統領独裁体制の第三共和政をしいた。朴正煕政権はアメリカのベトナム戦争に全面的に協力し、1965年には日韓基本条約を締結して反共陣営としての日本との提携を強めた。一方、極秘裏に北朝鮮の金日成と交渉し、1972年に南北共同宣言を発表したが、統一交渉は進展しなかった。同72年には新憲法(維新憲法)を制定、大統領緊急措置令で強大な大統領権限を手中にして「維新体制」といわれる独裁体制をかためた。国内の反対派に対しては「中央情報部」による諜報活動を行い、73年には野党指導者の金大中を東京で拉致(金大中事件)したり、さまざまな非人道的な取り締まりを行った。この間、産業の育成、工業化を推進し、「漢江の奇跡」と言われる経済成長を実現したが、その手法は「開発独裁」といわれるもので政権と関係の深い特定の財閥が急成長した。1979年、朴正煕大統領は部下の中央情報局員に夫人と共に殺害され、唐突にその独裁政治は終わった。
Epi. 日本軍人だった朴正煕 朴正煕は1917年、慶尚北道の両班の家系だが没落して貧農となった家に生まれ、日本名を名乗って満州軍学校と陸軍士官学校で学び、関東軍の陸軍中尉として軍務についた。その中で、日本の青年将校の「昭和維新」の思想に心酔したと言われる。満州国崩壊後、韓国陸軍の士官学校に二期生で入学、三番の成績で卒業した。曲折はあったが軍の若手将校との知り合い、後のクーデターのメンバーとした。朴正煕の経歴に危険を感じたアメリカは当初は軍事クーデターを承認しなかったが、日本の池田首相は日韓国交回復には朴正煕の満州国人脈を使えると考え、アメリカに働きかけ、アメリカも朴政権承認に踏み切ったという。<文京洙『韓国現代史』2005 岩波新書 p.102-103> 
 軍部クーデター(韓国) 「五・一六軍事革命」とも言われる、1961年5月16日に朴正煕を中心とした韓国軍部によるクーデターによって、張勉内閣が倒されたこと。これによって前年の李承晩独裁政治を倒した四・一九学生革命によって成立した第二共和制は一年あまりで崩壊し、朴正煕軍事政権が成立する。朴正煕は反共親米路線を鮮明にすると同時に、経済発展を掲げ、1963年には民政に移行して大統領に就任する。 
 日韓基本条約  → 日韓基本条約
 金大中事件 1973年8月8日、東京都内のホテルに滞在していた金大中が白昼、何者かに拉致され、5日後にソウルの自宅付近で解放された事件。金大中は朴正煕大統領の独裁政治に反対し、71年大統領選挙に立候補して惜敗、民主化運動の理解を得るため来日していた。犯行現場から韓国大使館中央情報部員の指紋が見つかり、当初から韓国政府の関与が疑われ、日本でも韓国政府による主権侵害に対する非難が強まった。しかし韓国政府は一貫して関与を否定、日本政府も真相究明をそれ以上求めず、捜査は棚上げとなった。その後、盧武鉉政権は朴正煕軍事政権下での民主化運動弾圧事件の再調査を指示、2006年7月に調査結果を発表、その結果事件は当時の韓国情報機関の中央情報部(KCIA)部長が直接指示した国家的犯罪であったことを明らかにした。ただ、朴正煕大統領自身の指示があったかどうかについては「否定する根拠はない」とするにとどまった。
 インドネシア共和国(2)インドネシア共和国では、1959年からスカルノ大統領が「指導される民主主義」という理念を掲げ、政党政治と議会制を実質的に否定する独裁体制を敷いた。それを支えたナサコム体制のなかで共産党勢力が台頭すると、軍部・大資本・アメリカなどの危機感が強まり、ついに1965年の九・三〇事件を期にスカルノ権威は失墜し、軍を背景としたスハルト将軍が1968年に第2代大統領に就任、インドネシア共和国は大きく方向を転換した。スハルト政権下で、それまでの「多様性のなかの統一」というインドネシア建国の理念は、より国家統合を強めた「建国五原則」(パンチャシラ)が強調されるようになった。
スハルト体制の内政:スハルトは「新秩序」と「開発」を掲げ、共産党勢力を非合法として一掃し、政権を支える政治基盤として官僚などを動員した翼賛政党ゴルカル(「職能グループ」の意味)を組織した。国内の反政府運動や分離運動を抑えるためには、強力な指導のもとに経済開発を進め、豊かな社会を実現することで不満を解消することが有効であるという考えから、開発優先の政策がとられ、その資本として積極的にアメリカや日本など外国資本が導入された。この開発独裁と言われる強権的な政治のもとで、反対派の言論は封じられた。この開発政策は表面的には成果を上げ、インドネシアの生産力は急速に向上した。特に1973年の石油ショックではアラブ諸国の石油に替わりインドネシアの石油輸出が急増し、大きな利益を得て、スハルトの開発独裁は強化された。しかし急速な工業化、開発は農村社会を破壊し、貧富の差を拡大させ、また大統領周辺に利権が収集したために腐敗が進行し、民主的な権利を奪われた民衆の中に次第に不満が鬱積していった。
スハルト体制の外交:スカルノの第三世界・共産圏よりの外交姿勢から一転し、親米路線に転換した。まず1967年にベトナム戦争の深刻化に対応して東南アジア諸国連合の結成に動き、ベトナムの共産化阻止のためのにアメリカへの軍事協力を強めた。また、スカルノがマレーシア連邦を否認したのに対し、それを承認し、国際連合に復帰した。反面、中華人民共和国とは国交を断絶した(スハルト失脚後の1990年に国交回復)。1975年にはポルトガルの政変に乗じて独立宣言をした東ティモールを武力併合した。 → インドネシア(3)現代
a スカルノ  → 第15章3節 スカルノ(1)  第16章1節 スカルノ(2) 
b ナサコム(NASAKOM) 1960年代、インドネシアのスカルノ大統領が独裁体制を強めた時期に掲げたスローガン。NASAKOMとは、インドネシア語の民族=ナショナリズム(Nasionalisme)、宗教(Agama)、共産主義=コミュニズム(Komunisme)の頭文字をくっつけた造語。民族主義・イスラーム教・共産主義を融合させた、インドネシア独自の国家建設の理念としてスカルノによって打ち出されたものであったが、現実的には、50年代のインドネシア共和国で議会政治が始まったものの様々な政党が乱立し、大統領の政治基盤も不安定であったため、民族主義政党としてインドネシア国民党、宗教政党としてナフダトゥル=ウラマ党(イスラーム政党)、インドネシア共産党のみが存在を許され、大統領を支えるという体制であった。この体制のもとで1960年からは国会議員選挙は行われず任命制となり、民主政治は形骸化した。ナサコム体制のもとで共産党が与党として台頭すると、軍部や大資本、アメリカが危機感を抱き、1965年の九・三〇事件を期に、スカルノ体制は崩壊し、スハルト政権が出現する。 
b 九・三〇事件 1965年9月30日にインドネシア共和国で起こったクーデター事件とそれに伴う政変。結果的にスハルト将軍に率いられた陸軍右派が台頭し、インドネシア共産党は排除され、スカルノ大統領の権威が失墜した。
事件の経緯:9月30日から10月1日にかけて大統領親衛隊長ウントゥン大佐(共産党系と言われる)が決起し、反スカルノ大統領派の陸軍中枢である国防相や参謀長を襲撃し、6将軍を殺害した。トンウォン大佐らは陸軍中枢がアメリカのCIAに指導されスカルノ大統領を倒そうとしているので先手を打ったという名目を掲げていた。しかし、10月1日夕刻までに、陸軍戦略予備軍司令官スハルト少将麾下の部隊によって決起部隊は鎮圧あされた。
事件の真相:この事件は当時のスカルノ大統領・共産党・陸軍という三つどもえの対立から起こったものであるが、現在に至るまでその真相は明らかにされておらず、いくつかの解釈がおこなわれいるだけである。主な解釈には、
・スカルノ大統領のナサコム体制のなかで共産党が台頭していることに危機感を持った軍部が挑発した。
・スカルノ大統領の建康不安があり、焦った共産党が対立する陸軍の中枢を一気につぶそうとした。
・陸軍中枢のスカルノ排除計画は本当であり、大統領派が大統領と共和国を守るため決起したが失敗した。
・陸軍内の右派スハルト少将が、陸軍中枢の除去を目ざした行動で、右派の独裁政権を樹立するために仕組まれた。
スハルト政権の成立:左派の決起を鎮圧した右派のスハルトは急速に陸軍内を掌握し、スカルノ大統領に迫って1966年3月1日に「秩序回復のための一切の権限」を与えられ、翌日直ちにインドネシア共産党を非合法化した。共産党の指導者アイディットは捕らえられて処刑、そのほか、30万から50万と言われる党員及びシンパが殺害されたという。スハルトは翌年に大統領代行となり、さらに1968年に第2代大統領に選出され、スカルノは完全に失脚した。
事件の結果と影響
・独立後のインドネシアのスカルノ体制からスハルト体制への転換をもたらす大きな事件となった。
・インドネシアのナサコム体制は崩壊し、共産党は非合法とされ壊滅、軍を背景とした独裁政治が出現した。
・独立実現と社会改革を進めた45年世代にかわり、経済の発展と社会の安定を優先する66年世代が台頭した。
Epi. 現在も続く政治犯差別 事件から40年以上が経過するが、インドネシアでは今でも共産党は非合法とされている。また共産党関係者として逮捕され、刑務所に10年以上収容された人たちも、その権利は奪われ、公職に就けない他、経済的にも苦しんでいる。インドネシアの反共意識は根強く、世論調査でも未だに72%の国民が元政治犯の政府の要職につくことに反対している。最近ようやく事件の真相と権利回復を求める声が起こり、05年2月には国家人権委員会が権利回復と補償を勧告した。しかし、7月には中学・高校向け歴史教科書が九・三〇事件について「共産党が首謀した」という記述を削除したところ、政治家らの反発をうけ、直前に使用中止となった。<朝日新聞 2005年12月21日の記事による>
c スハルト インドネシアの第2代大統領(1968〜1998)。30年にわたり大統領にとどまり、一貫して「開発」を掲げて独裁政治を展開した、典型的な開発独裁の一例。ジャワの中農の家に生まれ軍人となり、独立戦争に参加し功績を挙げる。独立後も昇進を重ね軍を掌握する。1965年に起こった軍内左派の反乱を鎮圧する第一線にたち、さらに共産党勢力を一掃する九・三〇事件のクーデターを鎮圧して権力を掌握、翌66年にスカルノ大統領より秩序回復のための一切の権限を与えられ(「3月11日命令書」スプル=スマルという)、共産党を非合法化し、実質的な権力を獲得した。翌67年には大統領代行、ついで68年には最終的にスカルノを追い落として第2代大統領となった。
スハルト大統領は「新秩序」と「開発の時代」を掲げ、外国資本の積極的な導入による石油資源の開発をはじめとする開発優先の政策を展開し、強大な陸軍の指示を背景に独裁体制を築いた。またスハルトは、スカルノの反マレーシア政策を改め、1967年に東南アジア諸国連合(ASEAN)結成に動き、反共主義を掲げてベトナムでの共産党勢力の南下を阻止するアメリカの国際戦略を支援した。1975年には東ティモールを武力併合した。
この間、インドネシア経済は急速に発展したが、その反面、貧富の差は拡大し、人権は抑圧され、政治・社会の矛盾が深化した。形式的には憲法に基づく大統領選挙で選出されていたが、軍隊や官僚、外国企業と結びついた政治腐敗が次第に明らかになり、特にスハルト夫人とその一族による不正が問題となった。1997年にタイで始まったアジア通貨危機がインドネシアに波及すると国民の中に民主化運動が起こり、1998年5月に退陣に追い込まれた。
 建国五原則(パンチャシラ) インドネシア共和国の国是とされる五原則。パンチャは5、シラは「徳」をあらわすサンスクリット語である(ネルーと周恩来が掲げた平和五原則もパンチャシラという)。1945年8月17日のインドネシア共和国独立の時に制定した憲法の前文に次のような文面と順序で規定されている。
1.唯一神への信仰  2.公平で文化的な人道主義  3.インドネシアの統一  4.協議と代議制において英知によって導かれる民主主義  5.インドネシア全人民に対する社会正義 
パンチャシラは一貫してインドネシアの建国理念として重視されてきたが、特にスハルト政権になってから、パンチャシラ精神として学校教育などを通じて徹底がはかられている。その中で重視されているのが第1項の「唯一神への信仰」であり、インドネシアが敬虔な宗教国家であることが強調されている。インドネシアで最も多い宗教はイスラーム教だが、イスラーム教を国教としているわけではなく、キリスト教のカトリックとプロテスタント、ヒンドゥー教、仏教は容認されている。ただし、この5つの宗教のみであり、それ以外の土俗的な信仰は宗教と認められていない。国民はこの5つの宗教のいずれかに分類、登録されており、国民の祝日にもキリスト教や仏教の祭日も含まれている。この項が強調されるのは、共産主義思想はインドネシアのパンチャシラ精神に合わないという点であり、インドネシア共産党の非合法化の理由とされている。 → インドネシア(3)現代
 フィリピン フィリピンの開発独裁フィリピンでは第2次世界大戦後、1961年から65年までのマカパガル大統領は経済自由化政策をとり、アメリカ資本の導入が始まった。その結果、民族系資本は打撃を受け、インフレが進行した。次いで大統領となったマルコスは、1965年に就任し、69年に再選を果たし、さらに大統領の三選を禁止していた憲法を戒厳令の下で改定して、74年に新憲法の下で大統領三選を果たし、長期的な独裁政権をつづけた。マルコス政権は典型的な開発独裁政策を展開し、外国資本の導入による工業化政策を推進した。その具体的な施策として実施したのが保税加工区(後に輸出加工区と改称)の設置で、原料輸入・製品輸出を非課税にすることで外資導入をうながすものであった。マルコスが開発優先で国民の支持を得ようとした背景には、国内の貧困と共に、共産党系の新人民軍による反政府活動、ミンダナオ島のイスラーム教徒であるモロ民族解放戦線による分離独立運動などから国民の目をそらす必要があったことが考えられる。しかしマルコス政権は長期化する中で次第に腐敗と強健八期ぶりが目立つようになり、1983年の警察によるマルコスの政敵ベニグノ=アキノ暗殺事件を機に批判が吹き出し、1986年の大統領選挙でのアキノ女史当選、続いて起こったピープルパワー革命で一挙に崩壊する。
フィリピンのバナナと多国籍企業:「今日、バナナを食べているのは日本の私たちであり、これを作っているのはフィリピン人労働者だ。だが、バナナ農園を支配する四社のうち、三社は米国資本である。これらは、バナナ植付け面積のほぼ八割を支配している。米国農業産業の比重はかくも大きい。日本の私たちは、フィリピン人の労働の成果を食べている。だが、この交換関係で最大の恩恵を受けているのは、実は、米国企業の株主たちなのである。」<鶴見良行『バナナと日本人』1982 岩波新書 p.25>
このようなフィリピン(特にミンダナオ島)のバナナはアメリカの多国籍企業がフィリピン政府から土地を租借するなどして開発し、1960年代から日本市場向けに急増した。日本市場では現在、台湾産などを圧倒している。多国籍企業は契約農家に融資し、技術指導などを通じて利益を吸い上げ、契約農家は現地労働者を低賃金・長時間労働で日雇いしている。その契約農家は北部から政府の後おしで移住してきたクリスチャン・フィリピーノであり、日雇いの労働者となっているのが現地のイスラーム教徒である。これがミンダナオの宗教的対立の背景になっている。このような「外からもちこまれた経済」によって、ミンダナオの自給自足的な経済が破壊され、多くの現地の人々が貧困と対立に巻き込まれた様子を、戦前の日本人によるフィリピン経営からの歴史も含めて分析したのが、鶴見良行の『バナナと日本人』である。<鶴見良行『バナナと日本人』1982 岩波新書 p.167-175>
a マルコス  → 第17章 3節 マルコス
 新人民軍 フィリピン独立後、アメリカ軍によって弾圧された共産党が1969年に再建され、その軍事組織として組織されたのが新人民軍(NPA)。その前身は、第2次大戦中に抗日運動を展開、戦後もアメリカ軍と戦ったフクバラハップ(フク団)である。ただし、戦前のフィリピン共産党がソ連の影響力が強かったのに対し、戦後の共産党および新人民軍は中国共産党および毛沢東の影響が強い。新人民軍はマルコス独裁政権との対決色を強め、1970年代に反政府活動を展開した。1986年にアキノ政権が成立してからも掃討作戦がつづけられて弱体化し、ラモス大統領は共産党の公認など、穏健派の抱き込みをはかって一時和平が成立したが、現在は取り消され、反政府活動を継続している。
 モロ民族解放戦線 フィリピンのミンダナオ島スルー諸島で、1972年から76年まで、フィリピンからの分離独立を主張して政府軍と戦ったイスラーム教徒(モロ)の軍事組織。略称はMNLF。
「モロ」は、もともとスペイン人がイスラーム教徒に対して用いた呼称であり、スペイン統治時代にはスペイン入植者に対するイスラーム教徒の抵抗が続いており、それをモロ戦争とも言われている。今日では、フィリピンのイスラーム教徒の総称として使われている。<鶴見良行『東南アジアを知る』1985 岩波新書 p.49 解説などによる> 
フィリピンでは1960年代にマルコス独裁政府の開発政策の一環として、北部(ルソン島)の住民を南部のミンダナオに移住させて土地開発にあたらせる政策がとられた。ところがこの北部から流入した人々はキリスト教徒(クリスチャン=フィリピーノ)であったため、ミンダナオ島などで多数を占めるイスラーム教徒との間に宗教対立が生じ、それに政治的・経済的利害がからんで殺傷事件が起きるようになった。またベトナム反戦運動などの影響でフィリピン全土で民主化を求める運動が強まってきたが、マルコス政権は、1972年から戒厳令を布いて独裁権力を強化し、民主化を抑圧した。1972年末、ミンダナオとスルーの分離独立を主張してモロ民族解放戦線(MNLF)が結成され、ただちに政府軍との内戦が始まり、ミンダナオのコタバトやスルー諸島のモロでは数千人規模の犠牲者が出てMFLPが制圧した。MNLFを結成した指導者はスルー諸島(ミンダナオの西隣にある諸島でやはりムスリムが多い)出身でフィリピン大学で学んだミスアリたちだった。彼らはアラブ諸国に支援を要請、リビアに飛んでカダフィ大佐からの武器援助を得た。戦闘は長期化したが、マルコスはリビアに仲介を要請、1976年にトリポリ協定で一時的な休戦協定が成立した。その後、マルコス政権の崩壊などで戦闘は下火となったが、キリスト教徒とイスラーム教徒の対立の問題は、最終的な解決には至っていない。<鶴見良行『マングローブの沼地で』1984 朝日新聞社 p.179-187>
 タイ(4)戦後のタイ:タイは太平洋戦争では、ピブン政権が日本と同盟関係を結び、英米に宣戦布告をした国であった(タイと第2次世界大戦)が、そのときのピブン政権に対して反日路線を主張したグループ(自由タイ)がアメリカに協力したことから、枢軸国としての責任をとらされることなく、アメリカの支援で経済復興を進めた。対日協力者として捉えられていたピブンは、1948年に政権に復帰し、親米反共路線をとり、1954年9月には東南アジア条約機構(SEATO)に加わり、東南アジア共産化の脅威と戦うアメリカのパートナーとなった。ただし、かつて立憲革命を指導したピブンは、国内政治では西欧型の議会制政党政治を定着させようとし、政党活動を自由にした。経済政策でも民間企業の保護を主眼とした。しかし、ピブン自身の金銭選挙に対する非難が強まり、1957年にサリット将軍を中心としたクーデターが起こり、ピブン政権は倒れた。
1959年に政権の座に着いたサリットは、国王を「父」、国民を「子」と位置づける「タイ式民主主義」を掲げて政党政治の混乱と共産勢力の台頭を抑え、一方で外国資本を積極的に導入して「開発」(タイ語でパッタナー)を推進し、開発独裁を展開した。サリットは63年12月に病気で死去したが、その後に現れた政権はいずれも軍を背景として議会政治を抑え、開発を進めるという開発独裁の形態をとっている。また、たびたびクーデターが起こっており、そのたびに国王が調整するという、独自の立憲君主政が機能し、現在に至っている。
タイのクーデター:タイではクーデターは珍しい現象ではない。戦後に限っても成功したクーデターは9回、噂や計画は毎年あり「クーデターは年中行事の一つ」とさえ言われている。クーデターが繰り返されるのは「タイ政治の悪循環」のためである。「クーデターを実施した軍は、憲法・国家・政党をまず否定し、権力を掌握するが、政治状況あ平常に復帰すると暫定議会を設置し、新しい憲法の準備にかかる。・・・新しい恒久憲法が公布されると、それにもとづいて総選挙を実施し、議会の復活と政党の政治参加を認める(「手続き民主主義」の容認)。しかし、議会政治を足かせと感じるや、軍は「共産主義の脅威」や「政党政治の腐敗」を理由に、再びクーデターをだんこうする。」この悪循環の中で、クーデターであれ新憲法の制定であれ、国王の承認が不可欠であることと、政治的指導者には社会的公正(タイのことばで「タム」(仏法のダルマに当たる)の実現が要請されるというのが「タイ式民主主義」の特徴である。タイの国民統合や政治をみていく上で決定的に大事なのは国王・宗教・民族の三つを原則とする国是(タイの横三色の国旗の紺は国王、白は宗教、赤は国民を象徴している)である。<末廣昭『タイ 開発と民主主義』1993 岩波新書 p.11-12,p.28> → その後のタイ軍事クーデター
 サリット タイの軍人で政治家。1957年、軍を背景にクーデターを決行し、ピブン政権を倒し、1959年から1963年まで首相として軍事政権を維持した。その政治は、国王への忠誠を絶対的な価値とし、議会政治や政党政治を腐敗の温床であり、共産勢力の侵出をもたらすものとして否定し、積極的な「開発」によって経済発展を実現するというもので開発独裁の一形態と言える。外交政策ではおりから強まっていたベトナムでの共産主義勢力の増大を抑えるためのアメリカ(ケネディ政権)との連携強化であった。彼は病気のため63年に死去したが、タイの開発独裁は次のタノム=プラパート政権に継承された。またその後にタイ軍事クーデターによって成立する政権の原型となった。
 東南アジア諸国連合(ASEAN) Association of South-East Asian Nations 1967年にタイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポールの5ヵ国によって結成された地域協力機構。当初はベトナム戦争の深刻化の中で、親米反共を掲げ開発独裁体制をとるインドネシアのスハルトやフィリピンのマルコスなどが主導し、共産主義の東南アジアへの浸透を警戒した軍事同盟という性格が強かった。
ASEANの変質:しかしベトナム戦争が終結した70年代後半からは、次第に経済協力の性格が強くなっていった。域内の経済成長がめざましく、1984年には産油国ブルネイが加盟、大きな経済勢力となった。その後、95年にはベトナム社会主義共和国が加盟したが、これは結成当時北ベトナムの社会主義勢力が東南アジアに拡大することを阻止するために結成されたSAEANが決定的に変質したことを意味していた。それはベトナムが社会主義政党の一党独裁を維持しながら市場経済を導入するドイモイ政策に転換したためであった。さらに1997年にラオスミャンマー、1999年にカンボジアが加盟し、ついに東南アジア10ヵ国が全て加盟する地域連合となった。現在はこの地域の経済力の飛躍的な発展を背景に、世界の中で有力な地域連合となっており、さらに中国、韓国、日本との関係が重要になっている。 → 第17章 3節 ASEANの拡大
 イラン  
a パフレヴィー2世 パフレヴィー朝イランの第2代皇帝(シャー)。幼少時はスイスなどで教育を受けた。1941年、父のレザー=シャーに代わり即位。戦後もイギリス、ソ連の圧力の中で立憲君主政が機能し、政治を内閣に任せていたが、石油国有化政策を強行したモサデグ政権を1953年にアメリカのCIAなどと協力してクーデターで倒して独裁的な権力を握る。1961年には極端な西欧化政策をとり、いわゆる開発独裁の形態をとって国民生活を犠牲にした「白色革命」を強行。長期にわたって秘密警察(SAVAK)を用いて反体制派を徹底的に弾圧し、言論・出版の自由をはくだつした。このようにその政治はイラン国民の民族的・宗教的感情を無視したため、次第に国民の反発が強まり、1979年にイラン革命が起こり、国外に亡命した。末期癌を病んでいたのでアメリカは彼をニューヨークの病院に入院させたが、イラン国民は反発し、テヘランのアメリカ大使館人質事件が起こった。1980年、エジプトで死去。
b 「白色革命」 1961年から始まる、イラン(パフレヴィー朝)のパフレヴィー2世による強制的な西欧化政策国際石油資本による石油資源の支配、社会改革の遅れなどからイランの経済的困難は強まり、また専制政治のもとで腐敗が進行する中、アメリカの要請もあり国内改革を迫られたパフレヴィー2世は、土地改革(農耕地の分配、森林国有化)、婦人参政権、労働者への利益分配、国有工場払下げなどの6項目からなる「白色革命」プログラムを国民投票にかけ、63年に90%の賛成(政府の不正介入による)で実行に移した。一方議会は停止され、皇帝の独裁的な権限はさらに強化された。この強制的な改革に反対する学生運動やシーア派聖職者の運動が起こり、各地で民衆の蜂起があったが厳しく弾圧され、その指導者ホメイニは逮捕され国外追放となった。
c 国際石油資本 世界の石油資源の開発、採掘、精製、販売などを一手に握る欧米先進国の国際的な大資本で、メジャーズとか、セブン・シスターズ(七人の魔女、の意味)と言われる、エクソン、モービル、テキサコ、ガルフ、ソーカル(スタンダードオイル=オヴ=カリフォルニア)、ブリティッシュ=ペトロリアム、ロイヤル=ダッチ=シェルの7大資本のこと。
世界の石油資源は、戦前にはアメリカのスタンダード石油ニュージャージー(後のエクソン)、イギリス・オランダ系のロイヤル=ダッチ=シェル、イギリス系のアングロ=ペルシアン(後のアングル=イラニアン→現在のブリティシュ=ペトロリアム)のビッグ=スリーが支配していた。第2次世界大戦後にスタンダード系のモービル、ソーカル、独立系のテキサス、ガルフが台頭し、7社体制ができあがっていた。これらは1970年代まで世界の石油資源を独占していたが、1951年のイランのモサデグ政権による石油国有化政策に始まる中東の産油国の反発が強まり、1960年の石油輸出国機構(OPEC)の結成、1973年のアラブ石油輸出国機構(OAPEC)の石油戦略による第1次石油危機(オイルショック)、1979年のイラン革命の際の第2次石油危機などを通じて原油価格決定権を産油国側に奪われ、かつてのような支配力は失っている。7大資本も現在はエクソン=モービル、シェブロン=テキサコ、ロイヤル=ダッチ=シェル、ブリティッシュ=ペトロリアム=アモコの4社に再編成されている。<瀬木耿太郎『石油を支配する者』 岩波新書 1988 による>