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第17章 現代の世界
1.冷戦の解消と国際関係の多極化
ア.米ソ軍縮と緊張緩和の進展
 核兵器廃絶運動 第2次世界大戦後、広島・長崎の惨状が広く知られるようになり、核兵器という大量殺戮兵器の出現を人類絶滅にむかう危機ととらえて、その廃絶を求める声が国際的に起こってきた。国際連合は結成時には核戦争を想定していなかったので、憲章ではふれていないが、1946年1月の国連総会の決議第1号は国連原子力委員会の設置と、核兵器および大量破壊が可能なすべての兵器の廃絶を目指す事を決議した。「ノーモア・ヒロシマ」の声は広がり、1950年には平和擁護世界大会委員会がストックホルム・アピールを発表し、核兵器の廃絶を訴えた。しかし戦後の冷戦体制が進む中で米ソの核兵器開発競争はエスカレートし、1954年のアメリカによるビキニ環礁水爆実験では現地の漁民と日本のマグロ漁船第5福竜丸乗組員が被爆し、久保山愛吉さんが死ぬという犠牲が出た。日本では東京杉並区の主婦らが始めた署名運動が広がり、世界では翌年のラッセル・アインシュタイン宣言が出され大きな反響を呼んだ。1961年には国連総会は核兵器使用禁止宣言を採択した(前年のアフリカの年で独立し、国連に加盟したアフリカ諸国の賛成票がものをいった)。また1962年のキューバ危機は核戦争の勃発を回避せざるを得ないという現実を米ソ首脳ともに感じさせた。そのような中で国連主導で核兵器開発制限が強まることをおそれた米ソは、イギリスをさそい、国連とは別枠で1963年に部分的核実験停止条約を締結した。これによって部分的ではあれ初めて核実験に歯止めがかけられることとなった。米ソ二大国は核抑止論(核戦力の均衡によって核戦争が抑止され平和が維持されるという理屈)により、核独占体制を作ることをねらい、1968年に核拡散防止条約(NPT)を成立させた。米ソ二大国は核独占体制を強めるとともに、ミサイルや中性子爆弾など戦略的な核兵器の開発を競い続けた。一方で60年代にはフランスと中国が核実験に成功、国連安保理五大国が核保有国となった。
1970年代はデタント(緊張緩和)の時代となって核兵器の制限交渉(SALT)、さらに削減交渉(START)が進展した。しかし米ソの力の均衡という冷戦が終結した1990年代以降は、インド、パキスタン、北朝鮮が核保有を宣言、イスラエル、イランなども保有は否定しておらず、核の地域的な使用が現実的になってきている。1996年に国連で制定された包括的核実験禁止条約(CTBT)もアメリカが批准しておらず、完全な核兵器の廃絶には至っていないのが現状である。
<以下、核兵器、核軍縮に関する用語説明は前田哲男編『現代の戦争』2002 岩波小辞典を参照した>
ストックホルム・アピール 1950年3月、平和擁護世界大会委員会(後の世界平和評議会)がストックホルム大会で採択した、核兵器廃絶に向けてのアピール。次のような項目が含まれており、核廃絶運動の最初の具体的提起であった。
・大量殺戮兵器である原子兵器の絶対禁止を要求する。
・原子兵器の禁止を監視する厳重な国際管理の確立を要求する。
・原子爆弾を使用する政府は人類に対する犯罪人として取り扱う。
この呼びかけに世界から4億8200万人の署名が集まった。
 ラッセル・アインシュタイン宣言 1955年4月11日、哲学者ラッセルと物理学者アインシュタインによる戦争絶滅の訴え。アインシュタインは同月18日に死去し、その遺書となった。7月9日、マックス=ボルン、ジュリオ=キュリー、湯川秀樹などノーベル賞受賞者9名も連名で署名し、発表された。前年3月のビキニ水爆実験は、大量破壊兵器の発達が人類という生物の種を絶滅させる危機であるととらえ、しかも核兵器の使用による一瞬間の死は少数であっても、大多数はじりじりと病気と肉体崩壊に苦しみながら絶滅するであろうと警告した。
「・・・われわれの前には、もしそれを選ぶなら、幸福、知識、知恵の不断の進歩がある。争いを忘れることができないという理由で、われわれは死を選ぶのであろうか。われわれは人類として、人類に向かって訴える。あなた方の人間性を心にとどめ、他のことを忘れよ。もしそれができるなら、道は新しい楽園に向かって開けている。もしできないなら、あなた方の前には全面的な死の危険が横たわっている。」<岩波小辞典『現代の戦争』2002 p.305>
 ラッセル バートランド=ラッセル。イギリスの哲学者・数学者。第1次世界大戦から戦争反対を唱え、世界の平和に積極的な発言を始め、特に第2次世界大戦後にアインシュタインと連名で発表した宣言は大きな反響を呼んだ。1970年に98歳で死去するまで、反戦平和の発言を続けた。
b アインシュタイン  → 第17章 4節 21世紀の文化 アインシュタイン
c パグウォッシュ会議 ラッセル・アインシュタイン宣言を具現化するために、1957年7月7日、カナダのノヴァスコシア州パグウォッシュに10ヵ国22人の科学者が集まり、原子力の利用(平和・戦争両目的を含めて)の結果起こる障害の危険、核兵器の管理、科学者の社会的な責任について討議が行われた。日本からは湯川秀樹、朝永振一郎、小川岩雄の三名が参加した。この第1回から現在まで回を重ねている。
d 原水爆禁止運動 1954年の第5福竜丸の被爆事件をきっかけに核実験や核兵器の使用に対する反対運動が起こった。その始まりは東京の杉並や中野の主婦たちが始めた反対署名の運動だった。その運動は、55年8月6日〜8日に広島で第1回の原水爆禁止世界大会の開催となり、翌年は長崎で開催された。その後毎年開催され、世界的な広がりも見せたが、1960年の安保闘争を期に、日本がアメリカの核の傘の下にいるという現実が続く中で、すべての核実験を禁止するのか、中国など社会主義国の核実験はやむを得ないのか、部分的核実験禁止条約を評価するかどうか、などの意見の違いが生じ、社会党系の原水禁と共産党系の原水協に分裂してしまった。現在では政党主導の運動は後退し、市民レベルの平和・反核運動に転化している。
e 大気圏内外水中核実験停止条約(部分的核実験停止条約)=PTBT1963年、アメリカ・イギリス・ソ連の三国によって締結された、部分的核実験禁止条約=PTBT(Partial Test Ban Treaty)。大気圏内外と水中の核実験は禁止されたが、地下実験は容認された。また当初はフランスと中国が参加しなかった。
1954年にアメリカが行った南太平洋のビキニ環礁での水爆実験のため、マーシャル諸島の住民と日本の漁船第5福竜丸が「死の灰」を浴びて犠牲者が出たことは大きな衝撃を世界に与えた。放出された放射能が大気や海中で拡散し、動物の食物連鎖の中で凝縮されて人体と環境に悪影響を及ぼすことが明らかとなった。日本では原水禁運動が始まり、またラッセル・アインシュタイン宣言に代表されるような国際世論も核実験に警鐘を鳴らした。そのような国際世論に押されたのと、1962年のキューバ危機で核戦争の脅威を身をもって感じたアメリカのケネディとソ連のフルシチョフは核実験の制限に合意し、63年8月14日にこの条約をモスクワで調印した。しかし、地下核実験は認められ、核実験そのものは禁止されたのではなかった。また米ソ主導で進められた条約に反発したフランスと中国は参加せず、フランスは1960年から、中国は1964年から大気圏内核実験を70年代まで続けた。1998年には国連総会の場で包括的核実験禁止条約(CTBT)が成立したが、アメリカを始め批准をしていない国が多く、まだ実効的になっていない。 
 核拡散防止(核不拡散)条約=NPT1968年、アメリカ・イギリス・ソ連の三国と56ヵ国が調印した核兵器の拡散を防止するための条約=NPT(Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons)。63年の部分的核実験停止条約に続き、世界的な核廃絶運動に配慮した面もあるが、アメリカ(ジョンソン大統領)とソ連(ブレジネフ書記長)は核大国としての地位を維持しながらバランスをとって危機を回避するという核抑止論に基づき、核兵器の拡散を防止することに乗り出した。両国はイギリスなど各国に働きかけ、68年に条約を成立させ、70年3月に発効した。内容はまず、67年以上に核兵器を使用したアメリカ(45年)と核実験に成功したソ連(49年)・イギリス(52年)・フランス(60年)・中国(64年)の五ヵ国を核保有国と認め、その他の国を非核国として核保有を禁止し、非核国への核兵器の譲渡、技術開発援助も禁止した。また平和利用の原子力が軍事転用されないように、国際原子力機関(IAEA)が監視することが盛り込まれた。
しかしこの条約は、核大国−特にアメリカとソ連(現在のロシア)の核独占を固定化するものであるという批判が強い。フランスと中国はともに当初は条約に加わらず、冷戦が終結した後の1992年に加盟した。またインドは五大国の核独占を批判して条約に反対、1974年に平和利用と称して核実験を行い、さらに1998年に軍事目的の核実験を行い、パキスタンも対抗して同年に核実験を実行した。さらに近年では北朝鮮がNPTを脱退し、2006年10月には核実験を強行した。またイスラエルも加盟せず、核開発を否定していない。なおイランはNPTにとどまり、その枠内で平和利用のための核開発を進めることを主張している。このように、現在、核拡散を巡ってはその国際規定であるNPTに大きな問題があるといえる。
 国際原子力機関=IAEA 1957年、国際連合の機関として設置され、原子力の平和利用と核分裂物質の国際管理を目的としている=IAEA(International Atomic Energy Agency)。1953年の国連におけるアイゼンハウアー大統領の提言によるものであるが、49年にソ連が核実験を成功させ、52年にイギリスも核を保有してアメリカの核独占が崩れたことへの対応であった。原子力の平和利用に関してはチェルノブイリ事故以来その任務は特に重要になっているが、さらに1968年に成立した核拡散防止条約(NPT)において、核の軍事転用を監視する査察機関としての役割が加わり、その存在が注目されている。2005年度のノーベル平和賞は、国際原子力機関とそのエルバラダイ事務局長(エジプト人)に授与された。
 デタント(緊張緩和)の進展 デタントとはフランス語でくつろぎとかゆるみ、の意味。一般に「緊張緩和」の意味で使われる。特に、ドル=ショックとオイル=ショック以降の1970年代のアメリカとソ連の間での核軍縮が進行した時期のことをいう。
緊張緩和の背景:アメリカは60年代のベトナム戦争の失敗以降経済力が低下し、70年代のニクソンフォードカーターの各大統領が対ソ緊張緩和策をとることとなった。またソ連のブレジネフ体制が長期化する中でソ連の経済が停滞、閉塞感が強まり、中ソ対立も重くのしかかっていた。このような米ソの状況が、世界経済の落ち込みとともに、緊張緩和の要因となった。
また1968年のチェコ事件で、東欧社会主義圏に民主化の動きが出てきて、それをソ連が軍事介入して抑えなければならないと言う状況となったこと、翌1989年には中ソ国境紛争珍宝島事件で実際に火がつき、核戦争に発展しかねない危機となったという、共産圏全体の危機が背景にあった。
緊張緩和の始まり:このような東側の状況を、最も近いところで直接接していた西ドイツのブラント首相が1970年に大きく方針を転換して、東ドイツ・ポーランドとの国境を承認して相互にその存在を認め、ソ連も含めて交渉を開始するという東方政策がきっかけとなって、東西冷戦に風穴を開ける、デタント(緊張緩和)が始まった。
緊張緩和の展開:デタントの成果としては、72年の第1次戦略兵器制限交渉(SALT・T)、73年の核戦争防止協定、75年の全欧安全保障協力会議(CSCE)ヘルシンキ宣言などが挙げられる。
新冷戦への後退:しかし、1979年にイラン革命が勃発してアメリカがその対応に失敗、またソ連がアフガニスタンに侵攻するに及んで再び緊張が高まり、アメリカにレーガン政権が登場して再び核軍拡路線に戻ったため、80年代前半は「新冷戦」と言われるようになる。この新冷戦を終わらせ、劇的な緊張緩和の高まりをもたらしたのは、85年のソ連のゴルバチョフ政権の登場であり、1989年の米ソ両首脳によるマルタ会談での冷戦終結宣言に至った。  → アメリカの外交政策
 戦略兵器制限交渉(第1次)=SALT・T


1972年6月5日 モスクワでSALT・Tに調印した、ニクソンとブレジネフ
アメリカとソ連の間で1969年に始まり、72年に合意に達した、戦略兵器の制限に関する交渉。SALT(ソルト)は Strategic Arms Limitation Talks の略。戦略兵器とは敵国の政治中枢を直接攻撃することのできる核弾頭を装備するミサイル。70年代、米ソ冷戦の緊張緩和(デタント)の具体化であった。
戦略兵器は陸上から発射する大陸間弾道ミサイル(ICBM)だけでなく、潜水艦から発射できるミサイル(SLBM)も開発され、米ソそれぞれ相手に先に発射させないためと称して増強に努めた。60年代初めまでにアメリカは3万個以上、ソ連は5000個以上を所有していたという。そのような軍備拡張はそれぞれの経済を大きく圧迫することとなった。
1962年にキューバ危機を回避し、68年に核拡散防止条約を締結して、核の独占をはかった米ソ両国は、69年にヘルシンキで交渉を開始、戦略兵器に関しても同様な両者のバランスをとることで、その独占を維持しようとした。SALT・Tは核廃絶のためではなく、米ソの軍事バランスをとるための交渉であった。
1972年にアメリカのニクソン大統領がモスクワを訪問し、ブレジネフと会談し、SALT・Tに最終的に合意し、署名した。これによって、TはTalks から Treaty にかわった。主な内容はICBM発射基の上限を米1045基、ソ連1618基としたこと、潜水艦の発射基についても上限を設けたことなどである。この条約の有効期限は5年とされ、翌73年から直ちにSALT・Uの交渉が開始された。
 迎撃ミサイル(ABM)制限条約 1972年5月26日に、アメリカのニクソン大統領と、ソ連のブレジネフ書記長の間で締結された、弾道ミサイルの迎撃を目的とするミサイルの開発・配備を制限した条約。50年代に弾道ミサイル(ICBM)が出現すれると、続いて米ソはそれを敵の弾道ミサイルが自国に到達する前に撃ち落とすための迎撃ミサイル(Anti-Ballistic Missaile)の開発を競うようになった。これはの米ソ両国を際限のない軍拡競争に駆り立てることになり、両国の負担が増大した。そこで両国は相互確証破壊(MAD)戦略に基づき、迎撃ミサイルの制限に合意した。これは同年のSALTTの合意と共に、70年代の緊張緩和(デタント)を象徴するものであり、また初めて核兵器に具体的な制限を加える画期となった。
ABM制限条約の失効:2001年12月、アメリカのブッシュ(子)大統領はABM条約からの一方的離脱をロシアに通告し、同条約は失効した。理由はテロリストやならず者国家の脅威からアメリカを守るため、というものである。<岩波小辞典『現代の戦争』2002 p.240>
 核戦争防止協定 1973年6月、ソ連共産党書記長ブレジネフが訪米しニクソン大統領と合意し調印されたもので、米ソ両国は核戦争を防止数度力をすることを約束した。精神的な協定にとどまったが、70年代の緊張緩和(デタント)の現れであった。
 戦略兵器制限交渉(第2次)=SALT・U 1973年に開始されたアメリカとソ連の戦略兵器の制限に関する交渉。緊張緩和(デタント)のをすすめ、79年6月に終了し調印されたが、同年のソ連のアフガニスタン侵攻によって米ソ関係が再び緊張し、実行されなかった。
前年の1972年のSALT・Tの成功を受けて交渉が始まったが、技術的には新型兵器の開発が進んだため、交渉は難航した。79年6月にアメリカのカーター大統領、ソ連のブレジネフ書記長の間で調印され条約となったが、同年にソ連のアフガニスタン侵攻が始まり、米ソ間は急激に冷え込み、議会もSALT・Uの条約批准を否決したため、この交渉は実らなかった。 → 新冷戦
 戦略兵器削減交渉(第1次)=START・T 1982年に始まり、91年に合意に達した、戦略兵器の削減に関するアメリカとソ連の交渉。STARTは Strategic Arms Reduction Talks の略。70年代のSALTは戦略核兵器の上限に制限を設ける交渉であったが、80〜90年代のSTARTは、保有核弾頭と運搬手段を削減することが目標とされた。80年代前半の交渉は「新冷戦」の時期に当たり、アメリカのレーガン政権が戦略防衛構想(SDI)を持ち出し、ソ連はヨーロッパに向けて中距離核戦力(INF)を配備するなど緊張が高まったため交渉は難航した。1985年にソ連にゴルバチョフ政権が生まれ、89年には東欧諸国が一斉に社会主義を放棄するという激変が起き、一挙に交渉がすすみ、91年7月、アメリカのブッシュ(父)とソ連のゴルバチョフによって調印された。これによって戦略核弾頭は6000個に規制され、運搬手段は1600基に削減されることとなった。削減率はアメリカが約27%、ソ連が36%であった。
 戦略防衛構想(SDI) 1983年アメリカのレーガン大統領が打ち出した、アメリカ防衛構想で、戦略ミサイル防衛構想。SDIは Strategic Defense Initiative の略。別名スターウォーズ計画
具体的には、「ソ連のミサイルがアメリカに到達する前にそれを迎撃し、破壊する防衛網を作り、アメリカ人が安心して暮らせるようにする」ということであり、そのため宇宙に防衛網を広げるというものであった。このレーガン構想はソ連を硬化させ1980年代前半の「新冷戦」をもたらした。しかし、その実現には技術的な困難とともに莫大な費用がかかることから計画は進まなかった。そのうち、85年にソ連にゴルバチョフ政権が誕生して冷戦が終結したため、現実性がなくなりアメリカ政府は1993年には正式に放棄した。しかしレーガンを継承したブッシュ(父)政権はソ連とのSTART・Tの調印に踏み切ったが、一方でSDIを継承するBMD(弾道ミサイル防衛=Ballistic Missile Defense)構想を掲げ、より実現性のある核防衛体制作りを開始した。BMDにはNMD(アメリカ本土ミサイル防衛)とTMD(戦域ミサイル防衛)から成っているが、TMDは日本を含むアジア防衛構想であり、北朝鮮からの核攻撃を想定した防衛システムを日本の協力によって進めようというものである。
 中距離核戦力(INF)全廃条約


INF全廃条約に調印するゴルバチョフとレーガン
1987年、アメリカのレーガン大統領とソ連のゴルバチョフ書記長の間で締結された、中距離核戦力(INF)の全廃を約束した条約。中距離核戦力=INF(Intermediate-Range Nuclear Forces とは、戦略核兵器(相手の政治中枢を破壊する目的の核兵器。およそ米ソ国境間の距離5500kmを超えてとばすもの)と戦術核兵器(敵部隊との遭遇戦で使用する核兵器)との中間にある核兵器という意味で、戦域核ともいう。米ソ本国よりもその中間にあるヨーロッパ地域で配備され、70年代末にソ連がトレーラーで移動可能な中距離ミサイルであるSS20を開発したことから現実的な脅威として問題となった。NATO側も中距離核戦力パーシングUの配備を進め、70年代の戦略兵器制限交渉(SALT)、さらに削減交渉(START)の網にかからないところで配備競争が続いた。新冷戦と言われた1980年代を通じて交渉が行われ、難航を重ねたが1987年12月に合意に達し、全廃が約束された。その合意に基づき、1991年までに中距離核戦力は全廃された。ソ連を継承したロシアとアメリカの間で相互査察が10年間にわたって実施され、2001年には完全履行を相互確認して終了した。しかし、ここでの中距離核戦力は陸上のみに限定されたので、空中および海中から発射されるものは含まれていないという抜け道がある。
 1989 この年は、東西冷戦の終結が宣言され、中ソ対立も終わりを告げ、「冷戦後」という現在の始まりとなった年であった。
第2次大戦後の世界も大きな転換を迎えたこの年の激動は、東ヨーロッパの民主化の動きから始まった。2月のハンガリーでの複数政党制実施に始まり、6月のポーランドの上下院選挙での「連帯」の圧勝と政権掌握が続き、東ドイツ国民のオーストリアやチェコ、ハンガリーへの脱出が始まった。それらの動きは東ドイツ当局を大きく動揺させ、ついに11月9日のベルリンの壁の開放となった。これらの一連の東欧革命といわれる動きを受けて、アメリカ大統領ブッシュ(父)とソ連書記長ゴルバチョフはマルタ会談で東西冷戦の終結を宣言し、この画期的な年をしめくくった。また5月にはゴルバチョフが中国を訪問、ケ小平政権との間で、中ソ対立にも終止符が打たれた。しかし中国民衆の政治的自由を求める大衆運動は、第2次天安門事件で弾圧された。
日本では1989年1月7日、昭和天皇が死去し、平成と年号が変わった。昭和天皇の死去は、第2次世界大戦の時の国家元首・国家指導者が44年目にすべていなくなったことを意味していた。政局ではリクルート疑惑に揺れ、竹下内閣が倒れ、次いで登場した宇野内閣は女性スキャンダルですぐに倒れ、海部内閣がその年のうちに成立するという、政治の混迷期に突入した年でもあった。
 マルタ会談

マルタ会談でのブッシュとゴルバチョフ
1989年12月2、3日、地中海のマルタ島でアメリカのブッシュ(父)大統領とソ連のゴルバチョフ最高会議議長兼党書記長が、第二次大戦後の東西冷戦の終結を宣言すると同時に、米ソ関係が新時代に入ったことを確認した。この会談では、具体的に新しい秩序づくりに主要な柱となる次の点を中心に検討された。
(1)軍備管理・軍縮問題、
(2)東欧問題、
(3)ドイツ再統一問題、
(4)ソ連経済問題、
(5)中東紛争問題。
多くの懸案が残ったものの米ソ首脳が合意し、冷戦の終結を宣言したことは、1945年2月の米・英・ソ首脳によるヤルタ会談によって成立した第2次大戦後の東西冷戦という枠組みのヤルタ体制が終わりを告げたことを意味している。このことは「ヤルタからマルタへ」と表現されている。
このマルタ会談における冷戦終結宣言は、同年に起こったベルリンの壁の崩壊に代表される、東欧社会主義圏における急激な変革、いわゆる東欧革命があった。 
 冷戦終結 1989年、米ソ大国のブッシュとゴルバチョフ両首脳がマルタ会談において「冷戦の終結」を宣言した。戦後の約半世紀を規定した「冷戦」が何故、どのようにして終焉したのか。また冷戦後の世界はどのような世界となったのだろうか。冷戦を終わらせるうえで大きな役割を担ったのはソ連のゴルバチョフであった。彼が54歳という異例の若さでソ連共産党の書記長となり、ペレストロイカとグラスノスチを柱としたソ連社会主義体制の自由化に乗り出したことが最大の変化要因であった。このソ連の変化が東欧諸国の体制変革をもたらし、ベルリンの壁の開放という象徴的な出来事に一気に突きすすんだ。このように変化は東から起こったと言えよう。しかし、現在はゴルバチョフの評価は高いとは言えない。それは彼の始めた改革が、彼の意図を超えてソ連邦の解体そのものにまで突きすすみ、その過程でゴルバチョフはむしろ守旧派に属することとなってしまったからだ。一方の西側世界ではどうか。ゴルバチョフの出現を奇貨として東西融和のテーブルに着くこととなったアメリカのレーガン政権は、それまで強い姿勢を崩さなかった。レーガンの頑迷さは当時は否定的に見られることが多かったが、現在ではそのソ連に屈しないという強硬姿勢が意味を持っていたという積極的な評価が現れている。しかし、冷戦終結をもたらした本質的な要因は、ソ連型社会主義体制が完全に行き詰まってしまったこと、また資本主義社会も冷戦当初から大きく変質し、レーガン政権の新自由主義のような行き詰まりを見せていたことにあるだろう。社会主義対資本主義というイデオロギー対立という図式がとうに終わっていたのである。さて、冷戦後の世界はどうなったのだろうか。歴史家の中には、冷戦時代を米ソ両大国の核抑止力によって平和が保たれた時代と評価する見方(ギャディス『ロング・ピース』)がある。その重しの無くなった冷戦後は、地域紛争、民族紛争、テロが一気に吹き出してきた。冷戦時代よりも困難な時代と言うことが出来るだろう。その中で、アメリカ合衆国が軍事的なプレゼンスでは他を圧倒し、唯一の超大国として世界の平和に責任を持つという理念の下で行動するようになった。湾岸戦争では「正義の戦争」として国連と共に行動したが、9.11同時多発テロ以降のアメリカはその単独行動主義(ユニラテラリズム)が顕著になっている。そして経済のあり方はいわゆるグローバリゼーションの進行によって、その規模の巨大化、空洞化が顕著となり、環境破壊が一段と深刻となった。そして、冷戦終結から20年目にあたる2009年、新たな世界恐慌という危機が生じ、アメリカ自体もいやおうなく転換せざるをえない気配を見せ始めている。 → アメリカの外交政策
 戦略兵器削減条約(第2次)=START・U START・Tに続き、1991年から交渉が始まり、93年1月に合意に達した、アメリカとロシア連邦の戦略兵器の削減に関する交渉。アメリカのブッシュ(父)とロシアのエリツィンの両大統領によって署名され、2003年までに戦略核弾頭を3000〜3500の間に削減することとなった。その後、STARTVを継続することになっていたが、ブッシュ政権が弾道ミサイル防衛(BMD=Ballistic Missile Defense)構想を打ち上げたため、交渉はストップし、進展していない。
 包括的核実験禁止条約=CTBT 1996年9月10日、国連総会で採決された条約国際法。全面的な核実験の禁止を定めているが、アメリカなどが批准していず、発効していない。=CTBT(Comprehensive Nuclear Test Ban Treaty)
第1条で「締約国は・・・自国の管轄又は管理下にあるいかなる場所においても核兵器の実験的爆発又は他の核爆発を禁止し防止することを約束する」とある。1968年の部分的核実験停止条約(PTBT)は地下核実験を禁止していなかったので、70〜80年代には核保有国による地下実験が多数行われた。また70年代の緊張緩和(デタント)の時期に始まる核兵器の制限および削減は進んだが、それは米ソが直接交渉する形で進められ、国際世論とはずれがあった。国連の場では核の独占体制とそれに反発して核が拡散するという矛盾を無くし、核軍縮を有効なものとする方策が探られ始めた。1993年からジュネーヴ軍縮会議(CD)の場で、CTBT締結に向けての交渉が始まったが、平和目的の実験を容認すべきであると主張する中国、安全性の確認のための実験は容認すべきだとするフランス・イギリス、「爆発を伴わない実験」を認めよというアメリカなどの意見が対立し、暗礁に乗り上げた。しかし、包括的な核実験を禁止せよと言う国際世論の高まりは無視することができず、国際司法裁判所も核兵器を国際法、人道法に反すると判断するなどの気運が高まり、1996年9月の国連総会で賛成158、反対3、棄権5で同条約が採決された。
問題点:条約発効の条件である各国の批准のめどが立っていない。インド、パキスタン、イスラエルは署名に応じず、アメリカは条約成立後も「爆発を伴わない実験」(未臨界実験)を続け、ブッシュ政権下の議会が批准を否決した。そのため条約の死文化のおそれが出ている。<岩波小辞典『現代の戦争』2002 岩波書店 p.245>
・ヨーロッパの安定  
 西ドイツの安定  
 ドイツ社会民主党(戦後) ドイツ社会民主党はナチスドイツ時代には非合法とされ、解散させられたが、戦後に復活した。東西ドイツが分断されると、西ドイツではキリスト教民主同盟と対抗しながら現実路線をとり、1959年にはバート=ゴーデスベルク(保養地として有名なところ)での党大会でマルクス主義と絶縁を宣言したゴーデスベルク綱領を定め、階級政党から国民政党への転換を図った。1969年にはブラント党首が自由民主党との連立内閣を組織し政権を担当した。ブラントは東方政策を掲げ、戦後ドイツの外交を転換させ、その後も社会民主党はシュミット、シュレーダーなど有能な政治家を輩出した。東ドイツではドイツ共産党と合同して社会主義統一党となった。現在の統一ドイツでもドイツ社会民主党(略称SPD)はキリスト教民主同盟(CDU)とともに二大政党政治を展開している。 
 ブラント

1970年ポーランドのワルシャワを訪れ、ユダヤ人ゲットー記念碑にぬかずくブラント首相
Willy Brandt 1913-1992
第2次大戦後のドイツ社会民主党(SPD)の政治家で党首。ナチス時代は亡命生活を送った。戦後西ベルリン市長となり、1961年のベルリンの壁の設置などに直面しながら、市民レベルの東ベルリンとの交流を模索した。1969年の総選挙ではキリスト教民主同盟(CDU)は第1党だったが過半数はとれず、第2位の社会民主党と第3位の自由民主党の連立となり、首相にブラント、副首相兼外相に自由民主党のシェールが就任したので、ブラント=シェール内閣ともいう。西ドイツでは戦後で初めて社会民主党の首相となった。首相就任以来、西ベルリン市長時代からの腹心エゴン=バールに立案させ、積極的なソ連=東欧圏との接触を図る東方外交を展開した。それは西ドイツをドイツ唯一の国家であるとして東ドイツを認めないという従来の基本姿勢を変更し、共産党国家が東隣にあるという現実を認め、そこから変革の糸口をつかもうとする「接近による変化」という発想であった。彼は積極的にソ連、ポーランド、東ドイツを訪問し、それぞれと条約を締結、国交正常化を図り、特にポツダム協定以来確定していなかった、ドイツ・ポーランドの国境をオーデル・ナイセ線であることを認め、ドイツに領土拡張の野心がないことを周辺諸国に表明して欧州の安定に寄与した。その点が評価され、71年度のノーベル平和賞を受賞した。ところが74年に秘書の一人にスパイ容疑が持ち上がり、首相を辞任した。
Epi. ブラント首相、ワルシャワ・ゲットーでぬかずく ブラントの東方政策は東側とのビジネスとも揶揄するむきもあったが、そのような雑音を押しのけて、彼の「ドイツの過去の犯罪をはっきり認める」倫理的高潔さは世界に感動を与えた。「特に70年12月ワルシャワを訪問した折り、かつてのユダヤ人ゲットーでの蜂起の記念碑に……花輪を献げたブラントは、雨上がりで濡れているにもかかわらず、コンクリートの地面に突如としてひざまづいて黙祷を献げた。予定外の行動である。かつて自分もその政権のゆえにドイツを追われた人間が、ポーランドで最も残虐をきわめたナチスの行為のゆえに深く頭を垂れた。この態度はなぜ東側と対話をしなければならないかについて、静かだが雄弁な説得力を持っていた。」<三島憲一『戦後ドイツ −その知的歴史−』1991 岩波新書 p.192>
 東方政策(外交) 1960年代後半から70年代初めにかけて、西ドイツのウィリー=ブラントが初めはキージンガー大連立内閣の外相として、69年からは首相として展開した、ソ連=東欧の共産圏と積極的に話し合いを進めた外交政策。それまでの西ドイツの対共産圏外交は、東ドイツを認められない建前から、ほとんど行われていなかったが、ブラントはドイツが分断国家で東の共産国家と隣接しているという現実をまず認めようという現実主義から出発し、「接近による変化」を生み出そうとした。この考えは腹心のエゴン=バールが唱えたもので、また同時に世界的な緊張緩和の流れに添ったものであった。その主な成果として、ソ連=西ドイツ武力不行使条約西ドイツ=ポーランド国交正常化条約東西ドイツ基本条約などがあげられる。当時は直接的に東西ドイツの統一をめざすものではなかったが、ここから約20年という意外な急テンポでドイツ統一が実現することとなった。74年のブラント辞任後は同じ社会民主党のシュミットが東方外交を継承した。1982年からはキリスト教民主同盟のコール内閣に代わったが、コール内閣は基本的には東方外交を継承し、1990年にドイツ統一を実現させる。
 ソ連=西ドイツ条約(武力不行使条約1970年八月にソ連のコスイギン首相、西ドイツブラント首相によって締結された条約。米ソの緊張緩和が進む中で、西ドイツのブラント内閣(社会民主党と自由民主党の連立)は東ドイツを含むソ連、東欧諸国との関係の正常化、いわゆる東方外交を公約にかかげて政権を獲得した。政権発足直後の69年12月予備交渉を開始し、70年1月には腹心のエゴン=バールをモスクワに派遣して交渉を続けた。
1970年8月21日、モスクワで調印された同条約には、相互の武力不行使宣言、欧州諸国の領土保全の尊重とオーデル・ナイセ線と東西ドイツ国境を含むすべての国境の不可侵、領土要求の放棄が盛られていた。
 西ドイツ=ポーランド国交正常化条約 1970年12月7日に締結された西ドイツポーランドとの間の国交を回復させた条約であり、これによってドイツとポーランドの国境問題を解決した条約。西ドイツのブラント首相の東方外交の一環として進めた共産圏との関係を構築することとなった。2月に交渉が始められ、12月7日、ワルシャワでブラント首相とポーランドのチランキエヴィッチ首相の間で調印された。その内容はソ連=西ドイツ条約とほぼ同じだが、第一条でオーデル・ナイセ線を侵すことのできないポーランドの西部国境であるとして明確に規定された。これによってポツダム協定以来もめてきたドイツの東部国境が確定した。
Epi. 1票差で生まれたポーランドとの条約 ブラント首相がポーラントと締結した国交正常化条約の、ドイツ議会における批准は困難を窮めた。オーデル・ナイセ線を国境線として承認することに保守派や右翼の抵抗が強かったからである。連立与党の自由民主党からも反対者が出て、与党は少数派になっていた。反対派はブラント不信任案を提出した。「72年4月28日の討議、投票採決にあたっては、誰もがブラント政権の終末を信じて疑わなかった。野党側が1票多いのである。ところが開票してみると、たった一人、誰だか分からないがCDU(キリスト教民主同盟)側の議員が逆に与党側に投票したために、政権交代は防がれた。多くの大学の学生食堂に「かくも良き日、かくも美しき日」というお祝いの合唱が流れた。戦後の西独の政治史でも最もドラマチックな一日であった。…………もっともこの投票には苦い後日談がある。CDUの議員の一人がSPDが申し出た金銭と交換で不信任案反対の投票をしたらしいことが明らかにされた。権力とは恐ろしいものだ。」<三島憲一『戦後ドイツ』1991 岩波新書 p.194>
 オーデル=ナイセ線  → 第16章 1節 オーデル・ナイセ線
 東西ドイツ基本条約 1972年12月12日に調印された、西ドイツと東ドイツ間の条約。それまで、お互いにドイツ唯一の国家であることを建前とし、相手を認めてこなかった両国が、互いに主権を持つ国家であることを認め合い、関係を正常化しようという条約。ドイツ国家の分断を認めることになるが、西ドイツのブラント首相が、積極的に現実を認めるところから変革を探ろうという精神で実行した東方外交の成果であった。70年3月から両国首脳が初めて直接会談を行い(東西ドイツ首脳会談)交渉を始めたが、交渉は難航し、中断された、1971年5月に東ドイツの社会主義統一党ウルブリヒト第一書記が失脚し、代わってホーネッカー第一書記となり、進展が見られた。1972年6月に交渉は再開され、12月に東ベルリンで調印された。この条約で西ドイツは正式にハルシュタイン・ドクトリン(東ドイツを国家として認めないと声明していた)を放棄し、両ドイツは平等な国家関係に入ることになった。当時はこれが直ちにドイツ統一に向かうとは誰も思わなかったが、結果的にその第1歩となった。
 東西ドイツの国際連合加盟 ブラント西ドイツ首相が推進した東方政策の仕上げとして1972年に東西ドイツ基本条約が締結され、相互承認を行った東西ドイツ両国が、1973年9月、同時に国際連合に加盟した。「一民族二国家」が国際的に認知されたことになる。 
 ヘルシンキ宣言 1975年8月に調印された全欧安全保障協力会議(CSCE)の最終文書。大きく三つの部分 ( バスケット )に分けられている。
第一バスケット 国際関係の行動10原則と信頼醸成措置についての取り決め。
第二バスケット 経済、科学技術、環境の領域ででの協力についての取り決め。
第三バスケット 人間的な緩和措置と情報交換についての取り決め。
ヘルシンキ宣言の意義:なかでも第三バスケットの「人権はもはや国家の内政事項ではない」という規定は、国家を超えた人権の絶対的な重要性が国際法的に認められたことを意味し、またその人間的な緩和措置と情報交換のとり決めは、ソ達・東欧諸国に予想以上のインパクトを与え、東側は武力による人権抑圧が出来なくなり、ソ連・東欧社会主義体制の崩壊に一定の役割を果たし、1989年の東欧革命への原動力ともなった。 
a ブレジネフ  → 第16章 4節 ブレジネフ
b 全欧安全保障協力会議(CSCE) 1975年8月、全ヨーロッパ諸国(アルバニアを除く)とアメリカ・カナダの35ヵ国によってヘルシンキで開催された、ヨーロッパ全域の安全保障についての協力を図る会議。95年から常設の全欧安全保障機構となった。
CSCEは、Conference on Security and Cooperation in Europe の略。1972年の東西ドイツ基本条約で東西ドイツが相互に承認しあったことによって、ヨーロッパで敵対する関係は存在しないことになったため、全欧州の諸国が参加して全体の安全保障についての話し合いが可能になった。こうして東西ヨーロッパ諸国にアメリカとカナダを加えた35ヵ国で2年半にわたった交渉のすえ、1975年7月30日からヘルシンキに参加国首脳が集まり、8月1日に最終文書としてヘルシンキ宣言が調印された。第2回は1990年にパリで開催され、東欧革命、東西ドイツの統一をうけて、ヨーロッパの分断対立の時代の終焉を宣言するパリ憲章を採択した。1995年には常設の機関となり、全欧安全保障協力機構(OSCE)に改称された。 
 全欧安全保障協力機構(OSCE) 全欧安全保障協力会議(CSCE)が、1994年のブダペスト首脳会議でその機能を強化し、改組された。冷戦後のソ連解体やユーゴスラヴィアの解体を受けて、ヨーロッパ全体を包含する安全保障の枠組みとして、現在重要性を増し得ている。2004年現在で55ヵ国が参加している。そのなかにはアゼルバイジャンやウズベキスタンなど、旧ソ連の中央アジアの諸国も含まれている。また、国家統合の途上にあるEUや、軍事機構としてのNATO加盟国もすべてOSCEに含まれている。そのことから、OSCEは「第二の国連」と言われることもある。
 ユーロコミュニズム 西ヨーロッパ各国の共産党のなかに生まれてきた思想で、ソ連型の教条化、官僚制化した共産主義を脱却して、党内民主化を進め、複数政党制と議会制民主主義を認めようとする動き。1973年、イタリア共産党書記長ベルリングェルは「歴史的妥協」と称してカトリック勢力(キリスト教民主党)との提携を打ち出し、さらに1975年にはスペイン共産党書記長カリリョと政策転換で合意し、77年にはフランス共産党もそれに加わった。社会民主主義とは一線を画し、階級政党としての使命を否定はしていないが、暴力革命や一党独裁制の主張はみられなくなった。イタリア共産党は91年に党名を「左翼民主党」に改めた。 
a 複数政党制・議会制民主主義  
 南ヨーロッパ諸国の変革  
a 軍事政権  
b 独裁政権  
c ポルトガルの民主化(ポルトガル革命)ポルトガルは1932年にサラザールの独裁政治(全体主義体制)が成立した。第2次世界大戦後もポルトガルは隣国スペインのフランコ体制と同じく、サラザール独裁体制が維持されていた。その間、言論の自由や民主化は押されられ、経済も停滞してヨーロッパでもっとも遅れた国家となっていた。経済的にはアンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウのアフリカ植民地支配に依存し、フランス領やイギリス領のアフリカ諸国の独立にもかかわらずポルトガル領は独立が認められなかった。1961年からポルトガル領でも独立運動が始まると、ポルトガル軍は植民地維持のため厳しい弾圧を行い、闘争は泥沼化し、次第に国内に疲弊感が強まった。1968年にサラザールは病死したが、後継者カエターノの独裁体制が続いた。反体制を唱えるスピノラ将軍ら国軍運動(MAF)が始まり、1974年4月25日、クーデターに成功、ほぼ無血で独裁体制は倒され、新政権は植民地の放棄を表明した。この変革をカーネーション革命という。このポルトガル1974年革命によって42年にわたったサラザール・カエターノ独裁体制は崩壊、また500年にわたった植民地帝国も終わりを告げた。その後国軍左派による軍政が敷かれ、産業国有化や農地改革などの民主化が行われたが経済が悪化したため、76年に民政に移管、総選挙で社会党が第一党となりソアレス内閣が成立し、本格的な民主化を開始した。86年にはスペインとともにヨーロッパ共同体(EC)に加盟した。  → 現代のポルトガル
ポルトガル革命の影響:500年にわたるポルトガル植民地帝国が終わりを告げた。アフリカのポルトガル領植民地であった、アンゴラモザンビークギニアビサウの独立が認められた。東南アジアに残ったポルトガル領の東ティモールも独立を宣言したが、隣接するインドネシアのスハルト政権によって武力併合された。またマカオは、1976年に大幅な自治を認め、1999年に中国へのマカオ返還が実現した。
d サラザール 1932年からポルトガルの首相としてサラザール体制という全体主義体制を作り上げ、第2次世界大戦後もその権力を維持し1968年に引退した。その後もサラザール体制は続いたが、1974年革命によって崩壊し、ポルトガル民主化が始まった。
サラザールは貧農出身で、もとはコインブラ大学の教授で1928年に蔵相として財政改革に当たり、32年に首相となった。33年には憲法を改正して独裁体制を確立した。
その体制はムッソリーニやヒトラーと同じファシズムであったが、第2次世界大戦ではイギリスとの経済的な結びつきが使ったため中立を守った。そのため大戦後もその体制を続けることができた。その支配体制は、地主階級・カトリック教会・軍部を基盤とした国民同盟という一党独裁を通じ、検閲や秘密警察によって反体制運動をおさえるものであった。またアフリカの植民地を唯一の経済基盤としてその支配を継続、植民地独立闘争を厳しく弾圧した。
1968年に引退(死亡は70年)するまでその地位にあった。
 アンゴラ アフリカ西岸の赤道の南に広がっている、1974年にポルトガルから独立した国。16世紀以来ポルトガル人が進出して奴隷貿易を展開した。1885年にベルリン会議の結果、ポルトガル領となった。1951年にはモザンビークなどとともにポルトガルの海外州とされ、ポルトガル本国の貧困層が多数移住し、入植した。50年代から独立運動が始まったがサラザール政権は軍隊を投入して厳しく弾圧した。1961年中心都市ルアンダで暴動が起き、独立運動はネトーの組織したアンゴラ解放人民運動(MPLA)が指導した。アンゴラの解放闘争はベトナム戦争の時期と重なり国際的な支援を受けて展開された。1974年にポルトガル革命が起こって、サラザール体制が倒れると新政権は植民地放棄を声明、翌75年にモザンビークなどとともに独立した。MPLAは社会主義を掲げて国作りをすすめたが、右派は反政府活動を展開してアンゴラ内戦となった。また南アフリカの白人政権はアンゴラに介入、隣接するナミビアから侵攻した。キューバとソ連および東欧社会主義諸国が政府軍を支援、中国は南ア政府と共に反政府軍を支援し、内戦は国際的な問題となった。ようやく1991年に和平成立、94年に南アに黒人のマンデラ政権が誕生したので平和が実現した。
Epi. キューバの黒人兵士、「祖先の地」で戦う アンゴラ内戦では社会主義をめざす政府軍をキューバが支援、右派軍と戦った。キューバ兵の多くは、かつてポルトガルがアンゴラの地からキューバに送り込んだ大量の黒人奴隷の子孫だった。「彼らキューバの兵士たちは「祖先の地」の防衛のために大西洋を渡り、アンゴラの「兄弟姉妹」とともに戦ったのである。」<『新書アフリカ史』1997 講談社現代新書 峯陽一> 
 モザンビーク アフリカ東南部の旧ポルトガル植民地、1975年に独立した。16世紀からポルトガルが進出、アジア交易の中継地として支配し、1885年ベルリン会議で「ポルトガル領東アフリカ」となった。1951年にはポルトガルの海外州となった。アンゴラなどとともにサラザール体制下のポルトガル本国の厳しい植民地支配を受け、独立国が多数誕生したアフリカの年(1960年)でも独立できなかった。1965年からモザンビーク解放戦線(FRELIMO)による独立闘争が始まり、1974年のポルトガル革命によって翌年にアンゴラなどとともに独立が認められた。独立後は、ローデシア・南アフリカの白人政権が介入し、その支援を受けた右派が活動を開始したため困難が続いた。このモザンビーク内戦は部族抗争ではなく白人傭兵による政府転覆活動であり、反政府軍による住民虐殺は10年間で約100万と言われた。内戦のため経済成長は無く、モザンビークは「世界一の貧困国」といわれた。94年、ようやく統一選挙が実施されたが政情不安は続いている。
 ギニアビサウ 西アフリカ海岸のセネガルとギニアの間にある、旧ポルトガル植民地。16世紀以来、ポルトガルの奴隷貿易の拠点の一つとされ、1951年にはその海外州とされた。1956年にカブラルを指導者とする独立運動が始まり、ポルトガル軍と激しい独立闘争を展開した。1973年カブラルは暗殺されたが、1974年にポルトガル革命が勃発し、同年中に独立が承認された。 
 スペインの民主化 スペインでは戦前の1936年のスペイン内戦以来、フランコ独裁政権が続いていた。フランコはファランヘ党を基盤にファシズム体制を敷き、反対派を弾圧した。第2次世界大戦では一時ヒトラーの要請で義勇兵を派遣したが、ドイツの敗北後は路線を転換してローマ教皇やアメリカに接近して戦後も独裁支配を継続した。1953年にはアメリカと相互防衛協定を締結してその支援を受け、国内では大資本を保護して経済を成長させた。しかし、経済成長とともに政治的自由を求める市民層が成長し、次第にフランコ独裁体制を批判するようになった。
フランコ死去と王政復帰1975年にフランコが死去すると、11月に国王ファン=カルロス1世(1931年のスペイン革命で亡命したブルボン朝アルフォンソ13世の孫)が即位して王政を復活させた。ファン=カルロス1世は立憲君主制の下で民主化を認め、スアレス首相の下で改革が進んだ。共産党も合法化され、1977年には41年ぶりに総選挙が実施され、1978年には新憲法が成立した。 → 現代のスペイン
 フランコ → 第15章4節 フランコ
 ギリシアの民主化第2次大戦後のギリシアは、イギリス、ついでアメリカの支援を受けた国王派と、共産党勢力の激しい内戦で荒廃し、1949年内戦が終わって王政のもと立憲政治が行われていたが、政情は不安定であった。北にアルバニア、ユーゴスラヴィア、ブルガリアの共産圏に接しているため、アメリカはNATOの一員としてギリシアにテコ入れし、それを背景に軍の発言権が増し、政党間の争いに飽き足らない民衆の気分を受けて1967年軍事クーデターが起きて軍部が政権を握った。しかし1974年、軍事政権がキプロス島の親ギリシア政権マカリオス大統領を追放しようとしてトルコ軍のキプロス侵攻をもたらして国民の信望を失い、軍事政権は倒れカラマンリス首相の指導で民主化が進められることとなった。1975年には国民投票が行われ、圧倒的多数で王政廃止とされ、共和政となった。<クロッグ『ギリシアの歴史』創土社 参照>
 議会制民主主義  
・アジアの安定
 米中関係改善 「1969年一月に就任したニクソン大統領は、キッシンジャー大統領補佐官とともに、泥沼化したベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を真剣に模索し始めた。同時に強大化するソ連の軍事的プレゼンスを前に、冷戦枠組みの再編成が必要と認識するようになり、中ソの亀裂にその糸口を見るようになった。」水面下の交渉を重ね、1971年に重大な転機を迎えた。4月には名古屋での世界卓球選手権大会終了後、アメリカチームを北京に招待、いわゆるピンポン外交を行った。「7月秘密裏にパキスタン経由で北京入りしたキッシンジャーは周恩来と会談を行い、翌72年の早い時期にニクソン大統領が訪中することで合意した。7月16日この計画が米中の当局から突如として世界に流された。まさに「ニクソン・ショック」と呼ばれるほどの衝撃であった。」それから3ヶ月後には国連で、中華人民共和国を中国代表として国連に迎える「アルバニア案」が賛成多数で通過した。」<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書>
ついで1972年2月、ニクソン大統領の訪中が実現し毛沢東と会談し米中共同宣言を発表した。最終的には1979年に正式な米中国交正常化が行われる。
アメリカと中国の接近の背景:両国には次のような両国の思惑があった。
・アメリカ側=ベトナム戦争の泥沼状態から脱却し、新たなアジア戦略を構築する。
・中国側=中ソ対立が深刻となっており、アメリカと接近してソ連を牽制する。
米中接近の影響:またアメリカと中国の接近は、ベトナム戦争を集結させる前提となったが、アメリカとの厳しい戦いを勝ち抜いたベトナムは、アメリカに接近した中国に不信感を持つようになり、ソ連との協力関係を強める。中国とベトナムの対立は1979年の中越戦争に発展する。 → アメリカの外交政策
a ニクソン=ドクトリン アメリカのニクソン大統領が1969年に就任し表明した外交政策の基本路線。ベトナム戦争の泥沼化と、アメリカ経済の深刻な落ち込みを受けて、従来のような海外、とくにアジアに対するアメリカの過度な軍事介入を抑制する政策に転じることを表明したもの。ニクソン政権の外交政策を担当したキッシンジャーが構想する、中国との関係を改善し、アジアの安定での日本と韓国の役割を重視する多極的な安定構想に基づいていた。このアメリカの外交政策の大きな転換により、米中接近とベトナム和平が動き出し、冷戦下の米ソ二大国の対立構造が崩れることとなった。
 キッシンジャー  → 第16章 4節 キッシンジャー
 国連の中国代表権 1971年10月、国連総会で、アルバニアが提案した中華人民共和国の中国代表権を認め、中華民国政府(台湾=国民政府)を追放する決議が採択された。これによって中華人民共和国は国連の常任理事国として国際社会に登場することとなった。
1949年、中華人民共和国が成立すると国連の代表権が問題となり始めた。安全保障理事会の常任理事国という重要な地位に、わずかに台湾だけを支配するにすぎない中華民国政府がついているという事態になったからである。ソ連は中国代表権をただちに新政権に変更すべきであると安保理で主張、それに対してアメリカは強硬に台湾支持を続けた。ソ連は安保理をボイコットする戦術をとったがその間に朝鮮戦争が勃発した。停戦後もソ連は代表権変更、台湾追放を主張、50年代は中国代表権問題が激しい対立点となった。1956年、平和共存の状況となり、日本その他の諸国が国連に加盟した。加盟問題は安保理の事項であるが、代表権の変更であるので、舞台は総会に移されることとなり、アメリカは日本などと結んで総会で重要議案(議決に3分の2以上が必要)に指定し、台湾追放を阻止しようとした。しかし、1960年代に新たに独立したアフリカ諸国などの加盟により、アメリカ・日本は少数派に転落、カナダなどの諸国の中国承認が続き、ついに1971年の総会で代表権変更、台湾追放が採決された。国連の中でアメリカとそれに同調する日本などのグループが少数派になったという画期的な転換を示していた。しかしアメリカの外交戦略を練っていたキッシンジャーはその状況を予測し、日本には同意を得ずに米中の関係改善をはかり、同年北京を訪問し、さらに翌72年にニクソン大統領は北京を訪問、中国を一つの国家と認めることとなった。 
 台湾(中華民国)  → 中華民国政府(台湾政府) → 現代の台湾
 ニクソンの訪中 ニクソン大統領の下で、キッシンジャー補佐官によって進められた米中関係改善の動きの西夏として、1972年2月、ニクソンはアメリカ大統領として初めて中国を訪問、直ちに毛沢東主席と会談し、次の米中共同宣言(上海コミュニケ)が発表された。
1.体制間の相違を相互に認め、それを超えて「平和共存五原則」に基づき国際問題及び二国間問題を処理する。
2.米中ともアジアに覇権を求めず、覇権主義に反対する。
3.「中国は一つであり、台湾は中国の一部である」との中国の主張を米側が認識したこと。
4.米中の関係正常化はアジアと世界の緊張緩和に貢献する。
覇権主義とはソ連のことをいい、米中とも戦略的にソ連を強く意識したことは言うまでもない。同時に中国が西側諸国との平和共存路線へ転換したことも意味する。約半年後の9月、日本と国交正常化を実現し、10月には西ドイツ、その後ベルギー、オーストリアなどと国交を樹立した。イギリスとオランダはそれまでの代理大使級から大使級の外交関係に昇格した。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書>
ニクソン訪中で相互の存在を承認しあったアメリカと中国は、その後交渉を重ね、1979年にカーター大統領とケ小平のもとで、米中国交正常化を実現させる。 
 日本(70〜80年代) 
 沖縄返還  → 沖縄返還
 日中国交正常化 1972年、田中角栄首相が訪中、毛沢東・周恩来などと会談し、日中国交正常化に合意し、日中共同声明を発表した。日本側は過去の戦争責任を痛感、反省することを表明。日中平和友好条約の締結をめざすこととなった。これによって日本は中華人民共和国を中国唯一の政権と認めたので、台湾とは断交することとなり、日華平和条約(1952年締結)は破棄された。
1949年の中華人民共和国成立後、日本はアメリカに追随してそれを承認せず、台湾の国民政府(中華民国)を中国の正当な政権としていた。1951年のサンフランシスコ講和会議では中華人民共和国・中華民国いずれも招待されなかったため、日中国交回復はなされなかった。1950年代から民間貿易が始まり、1962年には政経分離の原則により日中貿易が進展していた。1971年のキッシンジャー訪中、72年のニクソン訪中は日本の頭越しに行われたので、田中内閣も日中国交回復を急ぐこととなった。日中共同声明では日中間の平和条約締結交渉に着手することとなったが、当時ソ連と鋭く対立していた中国側との「覇権条項」に関する意見の相違から手間取ることとなり、ようやく1978年に日中平和友好条約が締結される。 
 田中角栄 1960年代に池田内閣・佐藤内閣の大蔵大臣として高度経済成長政策を推進した。さらに70年代前半に田中内閣を組織、「列島改造論」を掲げてさらに経済優先の政治を展開した。1972年には訪中して日中共同声明を発表、日中国交正常化を実現した。新潟県の土建業から身を起こした特異なキャラクターから今太閤とか人間ブルトーザーなどといわれて人気があったが自民党長期政権の中でどっぷりと金権体質が染みこんでおり、ジャーナリストの立花隆が雑誌文芸春秋でその金脈問題を追求、74年ついに内閣総辞職に追い込まれた。退任後の76年、アメリカ議会でロッキード社からの賄賂が発覚(ロッキード事件)し裁判で有罪判決を受けた後に死去した。田中内閣はドル=ショックという戦後世界経済の激変の直後に成立し、73年のオイル=ショック(第1次)に直面した。日本経済はそのため異常な物価上昇(狂乱物価)に苦しみ、74年には経済成長がマイナスとなった。
 日中共同声明 1972年9月29日、日本の田中角栄首相が訪中し、周恩来首相との間で調印された、日中国交正常化に関する合意文書。日本は、中華人民共和国政府を中国唯一の合法政権であることを承認し、満州事変以来の両国の不正常な状態な状態の終結と、外交関係の樹立を宣言し、中国側は対日賠償請求権を放棄した。これによって日中戦争から戦後にかけて断絶していた両国の国交が回復された。同時に、日本は台湾(中華民国政府)と断交し、日華平和条約を破棄した。
 日中平和友好条約 日中国交正常化以来、平和条約の交渉が続けられたが、ソ連との関係も重視する日本と、「覇権条項」を加えること(ソ連の覇権主義に反対するという、日米共同声明に盛り込まれた言葉)を主張する中国の間で難航し、ようやく1978年、福田内閣の時に調印にこぎ着けた。
 日米貿易摩擦  
 バブル経済  
イ.先進経済地域の統合化
 先進国首脳会議(サミット) 先進国サミット、または単にサミットとも言う。サミット summit は頂上、頂点、首脳などの意味。1971年のドル=ショックによってブレトン=ウッズ体制が崩れた後、1973年秋のオイル=ショックで世界経済が大きな混乱に陥ったため、従来のアメリカ経済依存体質を捨て、先進国が協力して世界経済の安定と発展を図る必要が出てきた。1973年にフランスのジスカールデスタン大統領が提唱し、第1回の先進国首脳会議(サミット)がフランスのランブイエで開催された。第1回の成功を受けて以後毎年開催されるようになった。第1回の参加国は、フランス、西ドイツ、イギリス、アメリカ、日本の5ヵ国。第2回からイタリアとカナダが参加しG7となり、さらにオブザーバーとしてECが参加した。97年からはロシアが参加しG8となった。当初は経済問題が討議の主内容であったが、現在は安全保障、環境問題など幅広い意見交換の場となっている。
 ドル=ショック  → ドル=ショック
 変動相場制  → 変動相場制
c オイル=ショック  → オイル=ショック
 多国籍企業 世界企業と言われる形態は、20世紀の初頭から石油(シェル)、化学(ユニリーバ)などヨーロッパの中で複数の国家にまたがって設立された企業に該当するが、現在は特に1960年代以降に出現したアメリカに本社を持ち、世界各国に支社、視点を持つ大企業を指すようになっている。具体的な例は、IBMやフォードなどがあげられる。さらに1990年代からは自動車やIT産業を中心に、資源や労働力の確保を外国に求める企業が多くなり、日本から起こった企業も多国籍化している。
多国籍企業はさらに競争を激しく行い、いわゆるグローバリゼーションの弊害が発展途上国の環境破壊という問題を生み出している。
 80年代のヨーロッパ  
a 北アイルランド紛争 1922年にアイルランド自由国がイギリスから独立したとき、プロテスタント(国教徒)の多い北アイルランド(アルスター地方)は、それに加わらず、イギリス(連合王国)に残った。北アイルランドはカトリック教徒が多かったが、スコットランドから大量のプロテスタントが移民してきたため、少数派になってしまい(北アイルランド人口160万のうち、3分の2がプロテスタント、残り3分の1がカトリック)、抑圧されるようになった。
多数派のプロテスタント側は、カトリックの多いアイルランドと合併されると少数派に転化してしまうので合併に反対し、イギリスとの連合の維持を主張しているのでユニオニストともいう。少数派のカトリック側は、イギリスからの分離とアイルランドへの合併を主張しているのでナショナリストと言われている。
1960年代末から両派の対立が深刻になってきて、1969年にカトリック系住民の「アイルランド共和国軍(IRA)」が武装闘争を展開し始めた。彼らの主張は武力による北アイルランドのアイルランド共和国への併合であり、イギリスの直接統治に対しては徹底した抵抗を行うとし、70〜80年代に激しいテロ活動を展開した。この時期には、イギリスのEC加盟など、ヨーロッパ統合が進展しているが、北アイルランドの運動は、統合に反対する分離独立運動の一つと見ることもできる。戦闘の長期化に和平の動きが出始め、1998年4月に北アイルランド和平合意が成立したが、IRAの武装解除をめぐって暗礁に乗り上げている。2003年にIRAは武装解除を宣言したが、北アイルランドの自治はまだ実現していない。 → アイルランド問題(20世紀)
 アイルランド共和国軍(IRA) 北アイルランドのカトリック勢力であるシン=フェイン党の武装組織として1919年に作られた。分裂を繰り返しながら次第に過激化し、1969年頃からの北アイルランド紛争ではプロテスタント側と激しい戦闘を展開し、テロを繰り返した。1998年に和平が成立したが、なおも武装解除に応じず、問題の解決に至らないでいる。 
b サッチャー

Margaret Hilda Thatcher 1925-
1979〜90年、つまり80年代にイギリス首相を務めた女性の保守党政治家。イギリス史上初の女性保守党首相で、首相。戦後の労働党政権の下で採られた産業国有化社会保障制度を柱とした福祉国家政策によって財政難が続き、1960〜70年代のイギリスが「イギリス病」に陥ったとして、その解消のため公共事業の削減と民営化を進め「小さい政府」を実現することを主張して79年の総選挙に勝ち首相となった。彼女は、ケインズ的な公共投資によって雇用を創出し財政出動によるコントロールを重視する経済政策を社会主義計画経済であり、社会保障や福祉政策の拡充による「大きな政府」が経済の発展を阻害すると考え、できるだけ財政出費を抑え、資本主義本来の市場原理で自由競争を保障する必要があるという「新自由主義」(新古典派、または経済政策は財政によるより通貨の供給を通じて行うべきであるというマネタリズムの考え)の経済政策を採った。
まず、1970年代に国有化された四部門(鉄道、炭坑、発送電、鉄鋼)と電信電話、社会保険、医療、さらに教育の大部分と住宅の相当部分民営化(privatize)した。彼女は「ビクトリア時代に帰れ」というスローガンを掲げ、大英帝国の栄光の復活を訴え、ヨーロッパ統合には批判的であった。80年のモスクワ・オリンピックでは前年のソ連のアフガニスタン侵攻に抗議してボイコットを呼びかけ、82年のアルゼンチンとのフォークランド戦争では自国の利益を守り、大衆的な人気を回復した。
このような「小さな政府」や「民営化」などをキーワードとした政策は「サッチャリズム」と言われ、それ以後の各国の保守政党の模範とされ、アメリカのレーガン大統領、日本の中曽根内閣などがそれを継承した。また21世初頭の日本で郵政民営化を進めた小泉内閣もその系譜上にある。<サッチャーについては、森嶋通夫『サッチャー時代のイギリス』1988 岩波新書などを参照>
Epi. 「鉄の女」のもう一つのニックネーム サッチャーを「男勝り」と言う表現はジェンダー差別であり許されない。「鉄の女」というのは広く流布した彼女のニックネームだった。なお彼女にはもう一つニックネームがあって、それは「ティナ」(Tina)。これは、彼女が議会答弁で、いつも、There Is No Alternative.(選択の余地はない)と答えたからだそうだ。
 新自由主義 現代の経済学の一学派、ミルトン=フリードマンらに代表されるシカゴ学派が提唱している経済思想。戦前から60年代まで主流だったケインズ派の経済理論は、社会の有効需要を増大させるための完全雇用を目指し、公共事業など財政支出を増大させ、また社会福祉政策を通じて富の再分配をはかり社会の公正を図るものであった。そのために、主要産業の国有化や規制の強化によって企業の自由な競争を制限した。このケインズ学派の経済理論は、19世紀的なアダム=スミス以来の自由放任主義の資本主義が世界恐慌をもたらし、帝国主義戦争に至ったのに対して、有効な反対理論となり、F=ローズヴェルトのニューディールや戦後のケネディ政権、社会保障を充実させた戦後イギリスのアトリー労働党政権の政策の理論的裏付けとなった。ところが第2次世界大戦後、イギリス経済は停滞して「英国病」と言われるようになり、アメリカ経済もまたスタグフレーション(インフレと不景気が同時に起こること)に見舞われ、転換を迫られるようになった。そのようなときに登場したシカゴ学派の経済理論は、ケインズ理論による財政政策を「大きな政府」として批判し、国営企業の民営化、公共事業の縮小、規制緩和などによってより自由な経済活動を活発にさせ、景気の変動には財政出動ではなく、通貨供給量(マネーサプライ)を通じてコントロールすることを主張した。このような経済理論をマネタリストまたは、新自由主義と言われる。または政治的には社会主義に対する反発を強めた主張と結びつくので、新保守主義(ネオコン)とも言われることもある。代表的な経済学者にはフリードマン(76年ノーベル経済学賞。2006年11月16日、94歳で死去した)やハイエクがあげられる。
この理論は、1973年にチリで社会主義政権を倒したピノチェト政権によってシカゴ学派の若い学者たち(シカゴ・ボーイズ)が招かれて経済再建に成功したことから注目され、80年代のイギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権、日本の中曽根内閣などの経済政策に大きな影響を与え、いずれも「小さな政府」を掲げて公営企業の分割民営化、規制緩和などが行われた。
新自由主義の経済理論は、社会主義経済が破綻したとされる現代において自由な競争を最大限認める市場万能主義に関心が高まったのであろう。最近の日本の小泉内閣の郵政改革などもその線上にあり、「民間でできることは民間で」や「小さな政府」という議論は呪文のように繰り返されている。しかしその市場万能主義は、「勝ち組と負け組」の格差を拡大し、規制緩和は何でもありの利益追求肯定はライブドア事件を生み出した。また依然として談合のような政治と金のスキャンダルが跡を絶たない。新自由主義経済論とグローバリゼーションが現代の病根であるのかもしれない。
 フォークランド戦争 1982年4月に起こったフォークランド諸島をめぐるイギリスとアルゼンチンの軍事衝突。アルゼンチン軍の上陸に対し、サッチャー首相が陸海軍を派遣して奪回、イギリス領を確保した。
フォークランド諸島は大西洋の南部、アルゼンチンの沖合にある人口2000程度の島で、1833年以来イギリスが占領し、支配していた。かねて領有権を主張していたアルゼンチンが突如軍を上陸させた。同諸島は現在のイギリスにとって特に必要なものではなかく、アメリカなどの平和的解決の斡旋申し出などもあったが、サッチャー首相は、「侵略者が得をすることはあってはならない」として譲歩を拒み、軍隊を派遣してアルゼンチン軍を撃退し、勝利した。この戦争は、当時、福祉予算切り捨てなどで人気が落ちていたサッチャー内閣にとって、人気回復の好機となり、その勝利によってイギリスの栄光の復活を掲げる同政権の支持率が急上昇した。 
 ブレア 1980年代のサッチャーと、90年代前半のメージャーと続いたイギリス保守党政権は、いわゆるサッチャリズムにより民営化と福祉削減という「小さな政府」化を徹底した推し進めた。その結果、経済の活性化という効果をもたらし、「イギリス病」の克服には成功したが、一方で貧富の格差の拡大、若年層の失業の増加、犯罪の増加など社会の荒廃という弊害をもたらした。そのような中で1997年5月総選挙が行われ、保守党の長期政権に飽きていた国民は政権交替を期待したため、労働党が圧勝し、党首ブレアが内閣を組織することとなった。ブレアはそのとき43歳、イギリス史上もっとも若い首相となった。労働党が1979年から18年間、政権を失ったのは、「大きな政府」型の伝統的な福祉国家路線にたいする国民の支持がなくなったからであった。ブレアは労働党史上初めて、福祉国家のモデルチェンジを図り、政府支出によって経済を刺激し、これによって完全雇用を達成するというケインズ主義的な経済政策を否定した。しかし、「大きな政府」か「小さな政府」かという二分法を乗り越え、機会の平等を実質的に確保するところに政府の新たな役割を見出した。そのビジョンは「社会的包摂」(social inclusion)と呼ばれた。労働党の経済政策は「完全雇用」(full employment)ではなく、「十分な雇用可能性」(full employability)を目指すものに代わったとも言える。
ブレア労働政権は、北アイルランド紛争の解決、スコットランドとウェールズの自治実現などの内政での成功を収めた。外交ではサッチャーの対米中心、対欧州での孤立主義を改めて、ヨーロッパ統合には積極的に関与するようになったが、通貨統合への参加はいまだ実現させていない。しかし、アメリカのブッシュ政権のイラク戦争では、イラクの大量破壊兵器の存在を最初から問題にし、アメリカと共に武力行使を乗りだし、国民的な支持を失いかけている。<山口二郎『ブレア時代のイギリス』2005.11 岩波新書>
 コール 現代ドイツのキリスト教民主同盟に属する政治家で、1982年から首相を務め、東西ドイツの統一を実現し、1990年に統一ドイツの首相ともなった。98年までの長期政権を維持し、その間ヨーロッパ統合に積極的な指導性を発揮した。その立場は新保守主義であり、60年代末〜70年代のブラント〜シュミットと続いた社会民主党の経済政策を否定し、新自由主義的な小さな政府論を掲げて支持を受けた。ドイツ統一問題ではブラントの東方政策の精神を受け継ぎ、強大な統一ドイツの出現に警戒感を抱くドイツフランスやロシアなど周辺諸国に対し、積極的な欧州統合に加わることで理解を得て実現させた。しかし、統一後は遅れて貧しい東ドイツを西ドイツ経済が吸収することとなり、かえって格差を拡大させたとも言われている。そのためか98年の選挙では社会民主党のシュレーダーに敗れ、退任した。首相退任後、在任中のヤミ献金疑惑が持ち上がり人気を落とした。
 ヴァイツゼッカー

1985年5月8日、ドイツ連邦議会で演説するヴァイツゼッカー大統領
統一ドイツの前後にわたり、ドイツ連邦共和国の大統領(在任1984〜94)をつとめたキリスト教民主同盟の政治家。プロテスタント信仰を基礎とした穏健な保守主義者であった。
1985年5月8日、ドイツ敗戦40周年演説「荒野の40年」の一節に、
過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。・・・」とのべたことが大きな反響を呼んだ。ヴァイツゼッカーはヒトラーによるユダヤ人虐殺などをドイツ自らの過去として直視し、その事実からドイツの真の反省を表明した。そして、演説の最後には、
「ヒトラーはいつも、偏見と憎悪ををかきたてることに腐心しておりました。若い人たちにお願いしたい。他の人々に対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。・・・」と述べている。<永井清彦編訳『ヴァイツゼッカー演説集』1995 岩波書店 p.10,27>
 ベルリンの壁開放  → 第17章 2節 ベルリンの壁開放
 東西ドイツの統一  → 第17章 2節 ドイツの統一
 シュレーダー 現代ドイツの社会民主党の政治家。1997年の総選挙でコールのキリスト教民主同盟に勝ち、社会民主党と緑の党からなる連立政権をつくった。ブラント/シュミット政権以来の社会民主党を主体とする政権の復活だった。シュレーダーはコール時代の急激な東ドイツ社会の吸収から起こった格差の拡大、失業、社会保障の減少、などのひずみをただすべく、税制改革、年金改革などの社会改革に当たった。また、原子力発電所の全敗など思い切った環境、エネルギー政策を打ち出した。しかし2期目は失業率上昇、景気低迷などから支持率が下がり、総選挙を1年前倒しで実施したが、キリスト教民主同盟(保守派)のメルケル女史に僅差で敗れる。  → 現代のドイツ 
 ミッテラン 1981年から1995年までフランス第五共和政の大統領を務めた、社会党党首。戦争中は対独レジスタンスに加わり、戦後は中道左派に属する若手政治家として台頭、第四共和政では何度か閣僚を経験した。この間、一貫して反ド=ゴールの立場をとり、1965年、69年、74年の大統領選挙に出馬したが、いずれも落選した。この間、1971年には再建された社会党の書記長に選ばれ、革新勢力の連携に力を入れた。ポスト・ド=ゴールのポンピドゥーはド=ゴール主義を継承し、ジスカールデスタンは反ド=ゴールを唱えたものの経済が低迷し、国民が変化を求めるようになったことと、それまで共産党がソ連寄りの姿勢を改め、社会民主主義陣営とも協調するようになったことを受けて1981年の大統領選挙で当選を果たした。1948年に社会党・共産党・MRPによる三党内閣(ド=ゴール臨時政府)が解体して以来、23年ぶりの革新政権の成立となった。
ミッテラン社会党政権は、インフレと失業者の増大という経済危機に対し、ケインズ的な経済政策、つまり「大きな政府」を掲げ、公共投資の増加、国有化の推進による雇用の拡大、最低賃金の引き上げや社会保障の拡充による購買力の向上をめざした。当時主流であったイギリスのサッチャーやアメリカのレーガンのとった「小さな政府」とは対照的な政治を行っていた。また地方分権や教育改革にも取り組んだが、景気の回復には結びつかず、一九八六年総選挙では社会党は敗北した。やむなくミッテランは首相に保守派のシラクを指名し、大統領が左派、首相が右派という、保革共存(コアビタシオン)という状態になった。その後は外交は大統領、内政は首相という棲み分けを行い、ミッテランは大統領に留まった。保革共存はミッテランの二期目でも首相バランデュールとの組み合わせで行われている。ミッテラン政権はその後も極右勢力の台頭(ルペンの率いる国民戦線FN)や移民問題などで揺れたが、ミッテラン個人的人気で乗り切ってきた。外交面ではソ連との友好を図るとともに、アメリカのNATO戦略も容認する現実的な動きをし、またヨーロッパ統合でもイニシアチブをとり続けた。ミッテラン政権は二期14年に及んだが1995年の大統領選挙では保守派のシラクが当選し、終わりを告げた。翌年1月、前立腺ガンで死去した。
 シラク フランスの第五共和政での大統領。在任1995〜2007年。シラクは官僚出身で、ド=ゴールに近い心情を持つ保守派。ポンピドゥー大統領に見出され、ジスカールデスタン大統領下では首相を務めた。祖ゴール派の政治組織である共和国防衛連合(UDR)党首となり、76年には共和国連合(RPR)を創設した。77年からパリ市長、86年にはミッテランの下で首相となったが、ミッテランと対立して辞任。1995年に大統領選挙に出馬し、国民のミッテラン離れの流れの中で当選を果たした。さらに2002年に再任され、国民議会選挙で同大統領を支持する保守中道連合も安定多数を占めて、安定した政権運営を可能にしたが、2005年5月、国民投票でEU憲法条約の批准が否定され、外交政策は大きくつまづき、さらに同年秋には高い失業率と経済格差等を背景として大都市の郊外で若者による騒擾事件が連続して発生し、一挙に不安定化した。2007年5月の大統領選挙で後継に指定したサルコジが辛勝した。シラクは訪日の際には大相撲を見物するなどの日本通として知られている。
 コアビタシオン 現代フランスのミッテランシラク大統領のもとで出現した保革共存の政治体制のこと。大統領と首相が、保守と革新の違った基盤を持って共存する現象であり、1986年に社会党のミッテラン大統領の下で保守派のシラクが首相となった例が最初で、逆に1997年には保守派の大統領シラクの下で社会党のジョスパンが首相となった。これは国民の直接選挙で選出された大統領が首相の任命権を持つが、議会は首相の不信決議が出来るために議会選挙で多数を占めた党派から首相を指名せざるを得ないという、フランス第五共和政憲法の規定によるものである。第五共和政憲法は大統領制と議院内閣制の両面の要素を取り入れている。大統領と首相が左右異なった勢力によって占められることは政治の不安定につながりかねないが、フランスでは「大統領は国家の最高責任者であると同時に火急の際の仲介者として捉えられ、大統領は軍事・外交を、首相は内政を主に担当する」(政治学者デュヴァルジェの定義)という「原則」が自然に生まれ、運用された。<渡辺啓貴『フランス現代史』1998 中公新書 p.230>
 エスニック=グループ 
 分離独立運動ある国家内の少数民族が、民族の言語や文化、宗教の独自性を掲げて、多数派が握る国家から分離独立を求める運動。多民族からなる国家で、少数派の民族が多数派の民族に対して被差別意識を持ち、反発してきた長い経緯があるが、19世紀の国民国家の形成の時代には表面化することは少なかった。20世紀前半までは、主として先進国の植民地となった地域の民族の独立運動が主であったが、1960年代から西ヨーロッパ国内の少数民族による分離独立運動が起こってきた。一方でヨーロッパ統合が進む中、分離独立運動が盛んになったことは興味深いことである。また90年代以降は、旧ユーゴや旧ソ連の民族独立運動が次々と起こり、激しい民族対立、紛争となって現在も続いている。
60年代から90年代までの西ヨーロッパ各国の主な分離独立運動には、
 イギリスの北アイルランド(イギリスからの分離とアイルランドへの併合を要求)、スコットランド、ウェールズ、
 フランスのブルターニュ地方、コルシカ島、スペインのカタルーニャ地方、バスク地方、
などがある。またカナダのニューファンドランドやケベック独立運動も活発であった。
ベルギーにおける言語戦争も、一種の分離独立運動と言うことができる。
90年代の東ヨーロッパ、ロシア圏の分離独立運動には、旧ユーゴスラヴィアを解体させたクロアチア、スロヴェニア、マケドニア人の運動があり、ロシア国内の自治共和国の分離独立運動であるチェチェン紛争などがある。
 スコットランド 
 ウェールズ 
 ブルターニュ 
 コルシカ 
 カタルーニャ スペイン
 バスク → バスク問題
 言語戦争現在のベルギーの抱える内部対立。北部のフラマン語(オランダ語系)地域と、南部のワロン語(フランス語系)地域の対立。1993年には2言語地域の連邦制に移行したが、現在も分離を主張する勢力も強い。 
・欧州統合の進展
 拡大EC 1973年、イギリス・アイルランド・デンマークがヨーロッパ共同体(EC)に加盟し9ヵ国体制となったこと。特にイギリスの参加は、ECC時代からの懸案であり、西ヨーロッパ主要国がそろうこととなった。それまでイギリスの加盟に反対していたフランスのド=ゴール69年に退陣していたことと、1973年にオイル=ショック(第1次)が起こり、ヨーロッパ経済の統合の必要性がさらに高まったことが要因である。
1981年にはギリシア、86年にスペイン、ポルトガルが加盟し、12ヵ国体制となった。これは1974年からこの三国がいずれも軍事独裁政権が倒れ、民主化が進んだ結果である。
a イギリス(EC加盟)イギリスEEC結成に加盟せず、1960年にはそれに対抗してEFTAを結成するなど、独自路線を歩んだ。しかし、EFTAは工業力でEECに対抗できず、イギリスは輸入超過に悩み、経済不振に陥った。そこでマクミラン内閣(保守党)は方針を転換して1963年にEEC加盟を申請したが、フランスのド=ゴールはイギリスの背後にあるアメリカ経済の影響力が強まることなどからそれに反対し、イギリス加盟は失敗した。次いで第1次ウィルソン内閣(労働党)は1967年にポンドを切り下げて貿易収支の改善を図ったがなお事態は改善されなかった。1971年のドル=ショックでアメリカ経済の後退がはっきりしたこと、さらに1973年にオイル=ショックが起こり欧州経済統合の拡大に迫られたことなどから、同年、ようやくイギリスのヒース内閣(保守党)の時、ヨーロッパ共同体(EC)加盟が実現した。1975年に第2次ウィルソン内閣(労働党)はEC残留かどうかを国民投票に問い、残留が承認された。その後のサッチャー政権(保守党)はEC統合の強化には消極的で、通貨統合には反対し、イギリスは統一通貨ユーロを導入していない。
b 欧州通貨制度(EMS) 1978年、ヨーロッパ共同体(EC)の欧州理事会において、西ドイツのシュミット首相が提唱し、79年に発足した、EC加盟国の通貨統合を目指す協定。EMS(European Monetary System)。イギリスは通貨統合に反対して署名しなかったので、8ヵ国で発足した。為替相場の変動幅設定、長期的な安定成長と完全雇用を目指す協力、域内の生活水準の向上、格差の縮小などをかかげた。この制度では新しい通貨単位としてエキュ(ECU)が作られたが為替調整が複雑であったため不評で、流通しなかった。
 欧州議会 1979年に始まる、現在のヨーロッパ連合(EU)の主要機関。各国の人口を基本に、加盟25ヵ国で直接選挙された732人(06年現在)が議員を務める。本会議場はフランスのストラスブール、委員会審議はブリュッセルで行われている。議会は欧州委員会と理事会が定めた予算案を修正、拒否する権限と欧州委員長の人事を承認したり総辞職させたりすることができる。欧州議会には国を超えた横断的な政治会派として、欧州人民党(キリスト教民主勢力)、欧州社会党(社会民主党系)、欧州自由民主党(リベラル派)、緑の党(環境に取り組む)などがある。<脇阪紀行『大欧州の時代』2006 岩波新書 p.33->
 単一欧州議定書 1985年のヨーロッパ共同体(EC)首脳会議で合意し、86年に調印、87年に発効した、ヨーロッパ統合を推進するための協定。1992年までに、EC域内の市場統合を実現すること、EC閣僚理事会の議決方式を全会一致方式から単純多数決とすることなどを決定した。なお、単一議定書というのは、従来別個に存在していたヨーロッパ経済共同体(EEC)・ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)・ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)の三共同体の条約を一本化し、新たな条約としたことをいう。
c 市場統合 ヨーロッパ共同体(EC)は、1985年に単一欧州議定書を調印し、1992年までに生きないの市場統合を図ることとなった。
 パリ憲章 1990年11月、東西ドイツの統一を受けて、パリで開催された第2回全欧安全保障協力会議(CSCE)首脳会議において調印されたもので、ヨーロッパの分断の終焉を宣言した。このパリ憲章に基づいて締結されたのが通常兵器削減条約(欧州通常戦力条約=CFE条約)である。アメリカなどNATO加盟16ヵ国とワルシャワ条約機構加盟14ヵ国の双方が通常戦力(戦車、戦闘機、攻撃用ヘリなど核兵器以外の戦力の意味)の削減で一致したもので、第2次大戦後最初のヨーロッパでの軍縮条約である。ワルシャワ条約機構解散(91年)後も旧加盟国が継承し、92年に発効した。CFE=Conventional Armed Force
 シェンゲン協定 1985年、ルクセンブルクのシェンゲン村で結ばれた協定で、当初はヨーロッパ共同体(EC)内の商品の移動の自由がはかられ、1990年の第2次シェンゲン協定で移民政策・移民規制について取り決め、95年に発行した。93年のマーストリヒト条約発効以降は、ヨーロッパ連合(EU)参加国でこの協定に調印した国の国民は国境でのパスポートや身分証の提示なしで自由に国境を通過しうることが定められた。97年のアムステルダム条約ではシェンゲン協定も同条約内に組み込まれた。
 ヨーロッパ連合(EU)

      EU旗
1993年、マーストリヒト条約が発効してヨーロッパ共同体(EC)がヨーロッパ連合(EU)に転換した。ヨーロッパの経済統合が大きく前進し、将来の政治的統合を目指して各国の主権を移譲した地域的国際機関が成立した。欧州議会、理事会、委員会など主要機関はベルギーのブリュッセルに置かれている。その前提は、東西ドイツの統一(1990年)に象徴されるヨーロッパの政治的、イデオロギー的分断の消滅であった。1995年にはフィンランド、スウェーデン、オーストリアが加盟し15ヵ国体制となった。さらに2002年には統一通貨ユーロの一般での流通も始まり、2004年にはEUの東方拡大が実現、旧東欧圏の諸国が加盟し、25ヵ国体制となった。
EUの機構:・欧州理事会は各国首脳で構成する首脳会議を最高議決機関とし、その議事は半年ごとに交替で持ち回りとなっている議長国首脳がつとめる。その下に通商、農業、環境など政策分野ごとの閣僚理事会、加盟国大使がつくる常駐代表委員会がある。欧州理事会事務局長は共通外交安保政策を担当するEUの顔となる。
欧州委員会はEUの内閣に当たるもので専従のスタッフ(EU職員)をもち、閣僚理事会に提案権を持つ。欧州委員長が委員会を統括する。
欧州議会は閣僚理事会と欧州委員会に対して協議決定する権限を持ち、議員は直接選挙で先取される。各政党ごとの比例代表制で当選が決まる。
・その他 フランクフルトにある欧州中央銀行(ECB)、ルクセンブルクにある欧州司法裁判所、欧州環境庁、欧州人種偏見・外国人排斥監視センター、ネットワークと情報安全庁などがある。
Epi. 世界最大の通訳・翻訳者集団 EUの欧州委員会には、正規雇用の通訳500人のほか、フリーランスの通訳約2700人と契約している(05年現在)。1日平均で約50の会合をこなすために、約700人の通訳が働いているという。翻訳担当も重要な政策文書を20の公用語に訳すために約2000人が働いている。EU諸機関全体では通訳は950人、翻訳者は3000人に達する、国連を上回る「世界最大の通訳・翻訳者集団」である。それはEUの掲げる各国言語の尊重主義のためだ。人口わずか50万のマルタ語もEUでは公用語と扱われている。共通語としての英語の影響力はEUにも及んでいるが、英語圏の国だけが有利になることのないよう、首脳会議の発言や記者会見は必ず自国語を使うという。<脇阪紀行『大欧州の時代』2006 岩波新書 p.17-20>
a マーストリヒト条約 1992年にオランダのマーストリヒトでヨーロッパ共同体(EC)加盟国によって採択されて成立し、1993年11月に発効した条約。「ヨーロッパ連合条約」とも言う。ECを発展的に解消してより統合を強化したヨーロッパ連合(EU)を設立し、共通の外交・安全保障政策を持ち、単一通貨を導入して市場統合を図り、各国の権限の一部をEUに移譲してヨーロッパ議会の権限を強化するなどが定められた。当初93年1月に発効を予定していたが、デンマークの国民投票で批准が否定されたため延期され、ようやく1993年11月に発効した。
b 1993  
b ユーロ 1992年のマーストリヒト条約(93年発効)で通貨統合が定められて生まれた新通貨のEUROのこと。1999年1月から単一通貨ユーロがまず金融市場や銀行間取引に利用され、2002年1月日常生活の通貨としてしようが開始された。これによってドルと対抗し、円を上回る巨大な通貨圏が成立した。
7種類の紙幣と8種類の貨幣が、共通のデザインで発行され、旧通貨は各国中央銀行の手によって回収され、粉砕器にかけられ処分された。
当初ユーロ使用を開始したのは、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、オーストリア、アイルランドなど12ヵ国。イギリス、スウェーデン、デンマークの三国は使用していない。
2004年にEUに加盟した中東欧10ヵ国も段階的にユーロ圏に加わることが予定されているが、ユーロを導入する場合には財政や物価が安定していることが条件となっている。
イギリス・スウェーデン・デンマークの不参加理由:イギリスは伝統的な自国通貨(ポンド)に執着しユーロを使用していない。またスウェーデンデンマークではユーロ導入を問う国民投票で否決された。この三国は、中東欧圏の「貧しい」諸国が加わることになればユーロは不安定になり、自国の高度な社会福祉制度の水準が低下することを警戒している。
 EUの東方拡大 2004年5月、ヨーロッパ連合(EU)に次の10ヵ国が加盟し、25ヵ国体制となった。チェコスロヴァキアポーランドハンガリースロベニアエストニアラトヴィアリトアニアマルタキプロス
2007年1月1日 ブルガリアルーマニアが加盟 加盟国27カ国となる。
意義:マルタ・キプロスをのぞく、かつて東欧社会主義圏であった8ヵ国のEU加盟(2004年)は、 「鉄のカーテン」によって分断されていたヨーロッパが一つとなり、東西冷戦は完全に過去のこととなったという意義がある。また経済協力圏の拡大のみ成らず、安全保障面でもNATOと並んでEUの役割が大きくなっており、加盟国の増加はその面からは歓迎できる。
今後の拡大予定:加盟候補国となっているのがクロアチアとマケドニア。その他の旧ユーゴ諸国も加盟を準備している。トルコ共和国は加盟を申請中だが、EU内部でも反対が多く実現のめどはついていない。
加盟理由:これらの諸国は、社会主義体制を捨て市場経済を導入したものの単独では経済の発展は困難であるため、10年来、ヨーロッパ統合に参加することを熱望していた。加盟することによって、社会資本整備に対する援助、雇用の増大、農業補助金の支給などが得られ、また将来的に強いユーロ通貨圏に入るというメリットがある。
問題:これら中東欧圏諸国の加盟、さらに今後予定されている加盟国の増加は、現加盟国の中のフランス・ドイツ・オランダなどに、先進国側の負担増を懸念して警戒または反対する意見も強い。より大きな経済圏の出現はアメリカ、ロシア、日本などとの競争の激化を予想される。また旧ロシアのウクライナなどの加盟要求にはロシアは強く反対している。
 EU憲法 2004年10月、ローマで「欧州憲法制定条約」が加盟国25ヵ国首脳によって調印された。加盟各国が条約に署名するという形態をとる「ヨーロッパ連合(EU)の憲法」なので「EU憲法」または「欧州憲法」と言われる。加盟各国の批准によって施行される予定であるが、2005年にはオランダ、フランスが国民投票で批准を拒否するなど、実現には至っていない。
EU憲法の内容:前文と本文全448条から成り、総則、基本権憲章、政策と機能、一般・最終規定の4部で構成され、さらに付属議定書と付属宣言が付属する。
○原則 EUとは、共通の未来を築く市民と国家によって形成される。国家は権能の一部を移譲させる。国のアイデンティティ、言語や文化の多様性を尊重する。加盟国の市民は同時にEUの市民である。キーワードは「多様性の中の統一」。
○機構 大統領・外相・欧州委員長を置く。大統領はEUを代表し首脳会議の議長を務める。任期2年半で最高5年まで、各国首脳の互選で選出する。外相は外相理事会を主催し、欧州委員会副委員長を兼ねる。EUの外交安保、防衛政策などを主導する。欧州委員長は首脳らの推薦をもとにEU議会で選挙する。
○その他の特徴 ・EUで提案された法律案に各国議会は賛否の意見を述べることができる。
・首脳会議などでは全会一致ではなく、加盟国の55%以上が賛成し、賛成国の人口がEU人口の65%以上となった場合に可決とする。(特定多数決制)
・人間の尊厳や自由・平等の価値、民主主義と法の支配の原則、死刑廃止などをうたった基本権憲章に法的実効性を持たせる。<脇阪紀行『大欧州の時代』2006 岩波新書 p.138->
1. ドイツ連邦共和国

ドイツ国旗の三色は1813年にナポレオン軍と戦ったプロイセン兵の黒いマント、赤い肩章、金ボタンに由来し、後にドイツ統一運動で学生組織がシンボルカラーにした。
面積 35.7万平方km  人口 8200万 首都ベルリン(人口約330万) 国旗は、黒・赤・金の三色旗
連立政権が多いドイツ:1990年に東西ドイツの統合が実現してから17年が過ぎ、統合に伴う混乱もほぼ克服され安定してきたといえる。統合時のコール政権以後の政権はいずれも連立政権である。
コール(CDU)政権=CDU/CSUとFDPの連立 1982〜98年 ドイツ統一を成し遂げたが、その後の経済不振から、失業率が増大、旧東ドイツとの格差が広がり、移民問題などからネオナチなどが台頭して社会不安が広がる。
シュレーダー(SPD)政権=SPDと緑の党の連立 98〜2005年 社会民主主義の理念に沿った税制改革、年金改革、連邦軍改革、脱原子力政策等などを推進。しかし2期目は失業率上昇、景気低迷などから支持率が下がり、総選挙を1年前倒しで実施した結果、僅差で敗れる。
メルケル(CDU)政権=CDU/CSUとSPDの大連立(二つの大政党が連立していること) 2005年9月の連邦議会選挙で僅差の勝利。CDU/CSUとSPDの大連立内閣が成立した。なお、メルケルはドイツ史上初の女性首相。
※ドイツの政党とその略称:キリスト教民主同盟(CDU)/キリスト教社会同盟(CSU)、社会民主党(SPD)、自由民主党(FDP)、緑の党。旧東独共産党を継承したPDS などがある。
現在のドイツ:外交では「欧州統合(EU)と大西洋パートナーシップ(アメリカ・NATOとの関係)」の両立のほか、隣接するポーランドとも慎重な協力関係を保つことなどが課題とされている。またメルケル首相は前環境相として実績があり、地球温暖化問題などでのリーダーシップが期待されている。内政では景気の浮揚とともに労働市場改革、年金、医療、財政などの社会改革や少子化対策などをどうバランスをとるか、注目される。
2. フランス共和国 

フランスの三色旗。三色そろって、自由・平等・博愛を意味するとされる。フランス革命の中で1794年に制定された。
面積 54.7万平方km  人口 6200万 首都パリ 第2次世界大戦後のフランス
現在のフランス:1995年から2期12年を務めたシラクに代わり、2007年にサルコジ大統領が就任した。サルコジはシラクの後継者として指名され、議会多数派の保守中道連合の支持を受けているが、2007年大統領選挙では社会党の女性候補との間で決選投票でようやく選出されるという辛勝であった。2005年秋の学生と外国人労働者の騒擾事件を厳しく弾圧したときの内務大臣で暴動を起こした若者を「社会のクズ」と呼んで非難されたが、かえってその強硬路線がフランスの栄光を望む保守層の人気を集めた。しかしサルコジ自身はハンガリー系の移民の子で、少年時代に両親が離婚、中学生の時は留年を経験するという屈辱からはい上がり、弁護士資格を取って政治家になった苦労人である。
現在のフランスでは、2005年5月の国民投票で批准できなかったEU憲法条約の再批准問題とともに、依然として高い失業率と経済格差が続いており、増え続ける移民問題もかかえている。サルコジ大統領は従来のフランスのアメリカとは一線を画していた外交路線を親米路線に転換する傾向があり、また内政ではフランス伝統の平等主義をすて、新自由主義的な競争原理、市場原理の導入を強めることを主張している。2009年3月にはドゴール大統領の時の脱退以来、43年ぶりにNATO軍事部門への完全復帰を表明した。
フランスの地域語の復活:かつてフランスは地域語が堂々と使われる多言語国家であったが、フランス革命で革命理念をフランス語で広めるため、1794年には「地域語・方言の抹殺」を目標に、フランス語言語教育が行われた。公立学校でフランス語教育が義務化され、19世紀末に初等教育が無償化され急速に普及し、学校で地域語を話すとお仕置きされるていた。第2次世界大戦の51年に政策の転換が図られ、地域語を学校で教えられるようになり、81年のミッテラン政権でその流れが進めれた。保守派の抵抗もあって92年の憲法改正では「共和国の言語はフランス語である」と明記された。しかしヨーロッパ統合のなかで、ヨーロッパの多言語主義がとられるようになって、フランスでも地域語の復権がはかられ、2008年7月の憲法改正で地域語は「フランスの遺産」と明記されることとなった。代表的な地域語にはアルザス語、オクシタン語(南部地域)、ブルトン語(ブルターニュ)、コルシカ語、バスク語などがある。<朝日新聞 2008年12月26日記事> 
3. オランダ  
4. ベルギー王国
現在のベルギー 国土は約3万平方キロで、人口は約1000万人。政体は立憲君主国の連邦制。宗教はカトリックが多い。言語はオランダ語・フランス語およびドイツ語の多言語主義を採っている。
ベルギーの略史(領有関係の変遷):ベルギーという地名はローマの属州ベルギカによるが、国名となるのは1830年の独立以降のことである。この地はネーデルラントの南部であり、フランドル(オランダ語ではフランデレン、英語ではフランダース)地方と言われフランドル伯の所領となっていた。中世以来、毛織物業が発展しガン(ヘント)ブリュージュ(ブルッヘ)が中心都市として栄えていた。14〜15世紀にはイギリスが領有を主張して百年戦争が起こった。また新航路の発見によって起こった商業革命で経済の中心が大西洋岸に移った結果、アントウェルペン(アントワープ)が国際的な商業港として重要になってきた。しかし、15世紀にはハプスブルク家(オーストリアと分離後はスペイン=ハプスブルク家)が支配することとなり、ネーデルラント北部がユトレヒト同盟を結成して独立運動を開始し、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)として独立を達成したが、ネーデルラントの南半分であるこの地はスペイン領として残った。この南ネーデルラントが現在のベルギーの母体となる。その後、スペイン継承戦争後の1714年ラシュタット条約(フランスと神聖ローマ帝国の講和条約)でこの地はオーストリア=ハプスブルク家の領地とされた。フランス革命後のナポレオンはベルギーを領有したが、その没落後の1815年のウィーン議定書ではオランダに併合されて、オランダ連合王国に組み込まれた。しかし、スペイン支配時代以来カトリックの勢力が強いことなど、新教国オランダとは一体化が難しく、まもなく独立運動が盛んになった。
ベルギーの独立から現代まで:1830年にフランスの七月革命の影響を受けて運動が盛り上がり、オランダからの独立を達成し、1839年にオランダが独立を承認して永世中立国となった。独立とともにイギリスに続いて産業革命を達成し、西欧の先進的な工業国となった。同時に国内市場の小さいベルギーは海外進出を図り、アフリカの植民地としてレオポルド2世コンゴを領有し、苛酷な植民地支配を展開した。コンゴは戦後の1960年に独立するが、ベルギーはその地の銅資源などの確保を狙って介入し、コンゴ動乱が起きる。ベルギーは第1次と第2次の世界大戦ではともにドイツに占領され、1944年にドイツ占領から解放された。第2次大戦後にはベネルクス三国の一つとしてECSCに加盟し、首都ブリュッセルは欧州統合の中心地となり、1993年発足のヨーロッパ連合(EU)の行政機構である欧州委員会が置かれている。それはこの地がヨーロッパのさまざまな国家に領有されてきたという歴史的な位置にあることに意味がある。またNATO本部も1933年にパリからブリュッセルに移され、現在に至っている。
ベルギーの言語戦争:ベルギーが抱える最大の問題は、多言語国家であることである。フラマン語(オランダ語系)地域とワロン語(フランス語系)地域の言語戦争が起こり、対立を抱えている。ブリュッセルはフラマン語地域にあるが、住民はワロン語が多かったため、最も熾烈な言語戦争の舞台となった。1993年は「オランダ語共同体」「フランス語共同体」「ドイツ語共同体」の三言語共同体と、「フランドル地域」「ブリュッセル首都地域」「ワロン地域」の三地域から成る連邦制を採用したが、現在でも分離を主張する勢力が活動している。 
5. ルクセンブルク  
6. イタリア  戦後のイタリア
7. イギリス
 戦後のイギリス   EC加盟
 サッチャー首相
8. アイルランド  戦後のアイルランド
9. デンマーク王国
デンマークはノルウェー、スウェーデンらと並ぶ北欧諸国の一つ、ドイツと陸続きのユトランド半島とその東側の諸島からなる。グリーンランドもその国土の一部であるが、現在は自治政府が統治している。これらはかつてノルマン人(ヴァイキング)の活動の拠点となっていた地域。首都はコペンハーゲン。面積は日本の九州とほぼ同じ(グリーンランドを除く)、人口は約500万。宗教は他の北欧諸国と同じくプロテスタントのルター派を国教とする。
略史:15世紀にはデンマークは、カルマル同盟の盟主であり、北欧で最大の勢力を持つ大国であったが、16世紀にはスウェーデンが分離し、17世紀の三十年戦争頃から衰退し始めた。1864年のデンマーク戦争で、ユトランド半島南部のシュレスヴィヒとホルシュタインを失い、その後のデンマークは「外で失ったところを内で取り戻そう」というかけ声の下、国内の未開拓地の開拓運動を開始し、それに成功した。独自の酪農を主体とした農業を柱とした小国として独自の存在感のある小国として存続している。 → 19世紀のデンマーク
デンマークを代表する人物としては、19世紀の童話作家アンデルセンが有名。また実存哲学の『死に至る病』などを著したゼーレン=キェルケゴール、英語学のイエスペルセンなどがいる。
戦中と戦後のデンマーク:1940年4月にドイツ軍の侵攻を受け、以後45年5月4日までその占領下にあり、市民は激しいレジスタンスを展開した。大戦後、シュレスヴィヒ地方でデンマークへの併合を望む声が起こり、連合国もそれを支持したが、デンマーク政府は国境の変更を辞退し、小国主義の原則を守った。冷戦が深刻化するとNATOにはノルウェーと共に加盟し、西側寄りの姿勢を明確にした。デンマークのNATO加盟によりバルト海の出入り口がふさがれる形となるソ連は激しくデンマークを非難したが、デンマークは「大国ソ連と同様に、小国デンマークも安全保障上の権利を有する」と回答し、譲らなかった。にわかに戦略的価値を増したデンマーク領グリーンランドは1951年にアメリカとの防衛協定により、米軍管理にゆだねられることとなった。しかし、デンマークは本土内にはアメリカ軍基地を置くことを認めず平時の核兵器の持ち込みも認めない姿勢を守った。1973年にはイギリス・アイルランド共にECに加盟(拡大EC)、経済構造も工業化を進めている。しかし、EU共通通貨のユーロの使用については2000年の国民投票で否決された。
Epi. 国旗の由来:1219年「デンマーク王ワルデマール3世が、バルト海に進出し、エストニアに遠征した。このとき、敗戦寸前に陥ったデンマーク軍は、突然白十字を有する血の色の旗が天から降ってくるのを見た。これを神のお告げと信じたデンマーク軍は奮起して最後の反撃を行い勝利を得た。赤字に白十字の旗はこれよりデンマーク国旗となった(ダーネブローという)。<武田龍夫『物語北欧の史』1993 中公新書 p.18>
10. スペイン王国
イベリア半島の多くを占める国。面積は日本の約1.3倍で、人口は約4500万。首都はマドリッド。現在は立憲君主政で、国民の大半はカトリック。憲法上は信仰の自由は保障されている。
関連事項 西ゴート王国  イスラーム教化  後ウマイヤ朝   レコンキスタ  イスパニア王国  大航海時代  スペイン帝国の繁栄  イエズス会  ナポレオンの支配  スペイン内戦  フランコ体制など
現代のスペイン:1975年にスペインの民主化を達成。スペイン=ブルボン家のファン=カルロス1世が即位してスペイン王国となったが、政体は立憲君主政である。1982年の総選挙では社会労働党が勝利して、43年ぶりとなる社会主義政権であるゴンザレス内閣が成立した。民主化の定着と、国内政治の安定を実現させた上で、1985年にはNATOに加盟、1986年にはポルトガルとともにヨーロッパ共同体(EC)に加盟した。2004年にはサパテロの率いる社会労働党(PSOE)による左派政権が成立した。国内にはバスク地方の独立運動があり、しばらくテロ活動もやんでいたが、2007年「バスク祖国と自由(ETA)」がふたたび過激な活動を宣言し、緊張が高まっている。またカタルーニャ地方にも分離運動がある。
11. ポルトガル共和国
イベリア半島に南西部に位置する。面積は日本の4分の1、人口は約1000万。首都はリスボン。宗教はカトリックが大多数を占めている。世界史上は、15世紀のエンリケ航海王子以来の大航海時代の繁栄、日本への鉄砲伝来、アフリカでの植民地支配が重要事項。
現在のポルトガル:1974年のポルトガル民主化(ポルトガル革命)で40年以上に渡った独裁政治を倒し、国内政治の民主化を実現すると共に、アフリカの植民地の独立を次々と認め、植民地大国としての地位も放棄した。国際政治では結成当初からNATONATOの一員として組み込まれており(大西洋上のアゾレス諸島を領有していたことの戦略的意味が大きい)、1986年にはスペインと共にヨーロッパ共同体(EC)に加盟し、ユーロも導入している。
12. ギリシア共和国
南を東地中海、西をアドリア海、東をエーゲ海に面し、バルカン半島の南端に位置する。国土は日本の約3分の1で、人口は約1000万。首都はアテネ。宗教はギリシア正教が大半。言語は現代ギリシア語(古代のギリシア語とは異なる)。 → 古代のギリシア  ギリシア王国  第1次大戦後のギリシア  第2次大戦後のギリシア
現代のギリシア:1975年に軍政を倒してギリシアの民主化を達成、国民投票で王政から共和政に移行した。その後、カラマンリスは大統領(80〜85年、90〜95年)となり、社会主義政党パソックを率いるパパンドレウ首相のもとで、政治の安定、経済の発展が実現し、1981年にはECに加盟し、2004年にはアテネでオリンピック開催を実現させた。外交では、トルコとの関係は、共産圏と対峙している間は良好であったが、1980年代末、東欧社会主義圏崩壊さらにソ連崩壊の後は、領土問題が再燃し、キプロス問題、エーゲ海領海問題などで緊張したものとなっている。また、ユーゴスラヴィアの解体に伴うマケドニアの独立に対しては、マケドニアの国名を称することにギリシアは強く反発している。
13. オーストリア共和国
オーストリアは第一次世界大戦敗北によるハプスブルク帝国崩壊、1918年のサン=ジェルマン条約によってオーストリア共和国となったが、第2次世界大戦前の1938年にナチスドイツに併合された。戦後のオーストリアは、ドイツと同じく、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国の分割線領を受け、1955年にオーストリア国家条約で独立を回復、同時に永世中立国となることを宣言した。同時に国際連合に参加した。また1995年にはEUに加盟した。
極右政党の台頭:現在のオーストリアはかつてのオーストリア帝国のような大国意識は無いが、それでも戦後かなりたった1990年代に右派の国家主義者が台頭し、オーストリアの栄光と「中欧」での覇権の回復を主張するような政治家が人気を集めてきたことが注意される。その背景には、ユーゴスラヴィアの解体などバルカン情勢が悪化して、多数の不法移民が入り込みんで治安が悪化したこと、また低賃金労働者の流入によって職を失った若年層の不満がある。そのような中で、移民受け入れ反対を主張したハイダー党首の率いる自由党が1999年の選挙で躍進し、自由党は連立政権入りを果たした。ハイダーはヒトラー礼賛(ヒトラーはオーストリア出身)を公言するような人物だったので、他のEU諸国が反発し、政治的交渉を凍結する処置に出る騒ぎとなった。その後、自由党は内部分裂したので一時の勢力が無くなり、現在は社民党と国民党の連立内閣となっている。
14. スウェーデン王国
スウェーデンはスカンジナヴィア半島東側に広がる北欧諸国の一つ。立憲君主国でプロテスタント(ルター派)を国教とする。首都はストックホルム。面積は日本の約1.2倍だが、人口は約900万。産業は鉄鉱石、木材などの資源の輸出が中心だったが、最近は自動車や通信機器などの工業生産が多くなっている。。
スウェーデンの歩み(19世紀まで)ヴァイキングとして知られたノルマン人がキリスト教を受け入れて10世紀頃までにスウェーデン国家を建設。14世紀にはカルマル同盟に属し、デンマーク・ノルウェーと同君連合となり、事実上デンマークの支配を受ける。16世紀にバーサ朝が成立して独立、プロテスタント国となり、フィンランドを領有する。17世紀に国王グスタフ=アドルフが出て強国となり、三十年戦争に介入してウェストファリア条約でバルト海全域の支配する大国の地位を得る。しかし、18世紀には東方に成長したロシアと北方戦争を戦い敗れて領土を失う。19世紀のスウェーデンは、ナポレオン戦争の時期にロシアと戦ってフィンランドを失う。ナポレオンの部将であったベルナデット将軍を国王後継者として迎えるも、ナポレオン戦争後はイギリス、プロイセン、ロシアなどのヨーロッパの列強に対して中立政策を採るようになる。
20世紀のスウェーデン:第1次世界大戦でも中立を守り、戦後のナチスドイツの台頭に対しては積極的な軍備増強による防衛にあたった。1940年には厳正な武装中立を声明、大戦中はドイツ、イギリス双方から協力要請の圧力がかかったが、中立政策を維持した。第2次世界大戦後も基本的に中立政策を維持し、NATOにも加盟していない。国連事務総長でコンゴ動乱で遭難したハマーショルドはスウェーデンの人。戦前から戦後に架けて内閣は社会民主主義を掲げる社民党がほぼ一貫して担当し、高度な社会福祉国家を維持している。70〜80年代のパルメ首相は安全保障、核兵器廃絶などの国連活動でも大きな役割を果たし(パルメ委員会)たが、86年2月に暗殺された。EUには加盟、しかしユーロは導入せず:1995年にはEUに加盟した。しかし、EU共通通貨のユーロについては2003年の国民投票で国民投票で使用を否決し、現在も独自の通貨クローナを使用している。
文化:鉄鉱石と森林という豊かな資源を背景に工業が早くから進み、文化的なレベルも高い。文学では19世紀にストリンドベルイ(『令嬢ジュリー』など)、ラーゲルレーフ(『ニルスの冒険』など)がいる。科学ではアルフレッド=ノーベル(1833〜96)が有名。ダイナマイトなど多数の特許で富を築き、1896年にノーベル賞を創設した。
Epi. スウェーデンの国旗 グスタフ=バーサの指導で独立したスウェーデンは、バルト海の支配権をめぐってデンマークとその後も争った(1563〜70年、北欧七年戦争)。バーサの次のエリク王の時、バーサの築いた艦隊を強化し、フィンランド系のクラウス・ホルン提督の指揮で、バルト海でデンマーク海軍を破った。そのとき掲げられた艦隊旗はスウェーデン国旗とされた。水色は湖とバルト海、十字はキリスト教国の意味、黄色は太陽である。北欧の太陽は日本と違い弱々しい。子どもたちは太陽を黄色に描くのである。<武田龍夫『物語北欧の歴史』1993 中公新書 p.37> 
15. フィンランド共和国
フィンランド北欧諸国の一つ。もとはフィン人の国。面積は日本よりやや少なく、人口は約500万。首都はヘルシンキ。国土は3分の1が北極圏に属し、「森と湖の国」として知られる。国語はフィンランド語、宗教はプロテスタントのルター派が国教。一部にスウェーデン語を話す人々やギリシア正教系のフィンランド正教の信者もいる。
歴史:長くスウェーデンの支配が続き、ナポレオン戦争の時にロシア領となった。その後、ロシア革命が起こり、ロシア帝国が滅亡したのを機に1917年にフィンランドは独立を達成し、共和国として独自の歩みを始めた。しかし、ロシア帝国以来のロシア国家の圧力は続き、ソ連は第2次大戦勃発と共にポーランドに侵攻し、ついでソ連=フィンランド戦争が開始された。フィンランドは粘り強く抵抗したが、40年に講和し、領土を割譲した。その後もソ連の圧力が続いたため、フィンランドはドイツに近づき、41年6月に独ソ戦が始まると対ソ戦に踏み切り、「継続戦争」となった。そのため、フィンランドは枢軸側に加わった形となり、第2次世界大戦の敗戦国とされることとなった。
フィンランドの文化:19世紀前半、フィンランドの民族意識が高まる中で、レーンロートという医師がカレリア地方の口承詩歌を採集し、『カレワラ』として出版した。カレワラはカンテーレという弦楽器を弾きながら歌うもので、民族的な英雄物語であった。長いロシアとの戦いの中で歌い継がれ、ソ連=フィンランド戦争のときも戦場で兵士が口ずさんでいたという。また20世紀初頭のシベリウスが作曲した愛国的交響詩『フィンランディア』は、ロシア当局によって演奏禁止とされた。<武田龍夫『物語北欧の歴史』1993 中公新書 p.156,162>
戦後のフィンランド:第2次世界大戦の敗戦後、フィンランドは連合国軍管理委員会(実体はソ連軍)の監視と干渉のもと、1947年にパリ講和条約を締結した。またマーシャル=プランの受け入れも認められなかったにもかかわらず、過酷な賠償を独力で完済し、ソ連とは友好協力相互援助条約を結びながら、パーシキビとケッコネンの二代の大統領の下で積極的中立外交を開始し、1955年には国際連合に加盟した。国内では左右両派の対立が続き、冷戦の中で常に微妙な立場にあったが、積極的中立外交は一定の成果を見せ、1975年の全欧安全保障会議(CSCE)はヘルシンキで開催され、ヘルシンキ宣言が出されるなどの成果を見た。1995年にはEUに加盟、さらに共通通貨も導入した。 
16. チェコ  → 第17章 2節 チェコ
17. ポーランド共和国
ポーランドは、北をバルト海に面し、西はドイツ、東はロシアに接する、東ヨーロッパの大国。面積は日本の約5分の4。人口は約3800万。国土の大部分は平原で、ポーランドという国名も、平原という意味のポーレに由来するという。
宗教と文化ポーランド人は西スラブ系で、ロシア人などと同系統であるが、人口のほとんどがカトリック教徒で、その点で文化的には西側に近いといえ、ギリシア正教の多いロシアと異なっている点である。東欧の中で高い文化的水準を持っており、古くはコペルニクス、近代では音楽のショパン、パデレフスキ、文学でのシェンキェヴィッチ(『クォヴァディス』など)、科学者のキューリー夫人などが出ている。
ポーランドの歴史
・ピアスト朝ポーランド人は、10世紀に西はオーデル(ポーランド語でオドラ)川と東はヴィスワ川の間の平原にポーランド王国(ピアスト朝)を建設し、カトリックを受容したスラブ系国家という独自の道を歩み始める。11世紀以降、神聖ローマ帝国から政治的・宗教的に独立した地位を確保するが、一方ドイツ人の領内への東方植民も多くなった。1241年にはモンゴルのバトゥの軍が来襲、ワールシュタットの戦いで大敗したが、14世紀にカジミエシュ3世(大王)のころ、全盛期となった。
・ヤゲウォ朝:1386年にはピアスト朝の王位継承者の断絶とともに、北方のリトアニアと連合王国を形成する。それはドイツ騎士団の東方進出が両国に共通の脅威だったからである。このリトアニア=ポーランド王国は、14〜16世紀に東ヨーロッパの強国としてヤゲウォ朝のもとで繁栄する。1410年にはドイツ騎士団を破り、東欧での大国となった。両国は1569年のルブリン合同で正式に合体する。
・選挙王制の時代:ヤゲウォ朝が断絶すると1572年から選挙王制がしかれるが、保守的な貴族層(シュラフタという)が争い、弱体化が始まった。1611年には首都はクラクフからワルシャワに移され、以後はワルシャワが首都として現代までつつく。1648年にはウクライナのカザークの反乱やバルト海の北からスェーデンが侵入(これを「大洪水」といった)によってポーランドの国力は衰え、1660年にはそれまで宗主権を持っていたプロイセン公国の独立を認めた。ついで、1701年の北方戦争を機にロシアとスウェーデンの侵入を受けるようになり、ポーランドの弱体化はさらに進む。
・ポーランド分割:さらにプロイセン、オーストリアなどの周辺の強国の干渉を招くようになり、18世紀末までの三回にわたるポーランド分割によって、1795年にポーランドは地図上からいったん消滅する。
・ナポレオンによる支配:ナポレオンは1807年にティルジット条約をプロイセン、ロシアと締結して、旧ポーランド王国の範囲をワルシャワ大公国とし、ザクセン王が大公位を兼ねることとした。ナポレオンの対ロシア作戦のためにおかれたもので、ポーランド人の国家ではなかった。ナポレオン没落後の1814年、ウィーン会議で消滅した。
・ロシアによる支配:1815年、ウィーン議定書により、ワルシャワ大公国のほとんど全域はポーランド立憲王国として国家を形成することとなったが、これはロシア皇帝が国王を兼ねるものであり、ポーランド人の国民国家ではなかった。実質的なロシアの属国であり、次第にロシア化も強制されるようになり、反発したポーランド人による独立運動も起こる。1863年の一月蜂起は最も激しいものであったが、いずれも鎮圧され、このロシアによる支配は第1次世界大戦の終わる1918年まで、約1世紀間続く。
・ポーランドの独立:第1次世界大戦後の1918年、ようやくポーランド共和国として独立を達成したが、ソ連との戦争が展開される中で、1926年からピウスツキによる独裁政治が始まった。ポーランドはソ連との戦争を有利に戦い、領土を拡大し、現在のウクライナ、ベラルーシ一帯まで拡大した。
・第2次世界大戦:1939年9月、ナチスドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始まると、独ソ不可侵条約の秘密条項に基づいてソ連もポーランドに侵攻、ポーランドは東西から占領され、再びポーランド分割という国家消滅の悲劇となった(ソ連は戦前のピウスツキ時代のポーランドによって奪われた地域を奪回したという正当化をしている)。この間、ソ連軍によるポーランド将兵の虐殺したカチンの森事件が起こった。独ソ戦が始まるとドイツ軍はポーランド全土を占領、軍政が敷かれ、各地でドイツに対する抵抗運動が展開され、ロンドンにはポーランドの亡命政府ができた。戦況が逆転してドイツが後退すると、ソ連軍とソ連によって組織されたポーランド軍が解放の戦いを展開、解放地域のルブリンに委員会(ルブリン政府)を設けてた。しかしワルシャワの解放をめぐっては亡命政府とルブリン政府の主導権をめぐっての対立があり、ワルシャワ蜂起が失敗するという悲劇が起こった。このような情勢を背景に、連合国首脳間のテヘラン会談やヤルタ会談ではチャーチルとスターリンの間で戦後のポーランドに対する主導権をめぐって激しい対立が生じた。それがポーランド問題である。
・ポーランド人民共和国の成立戦後のポーランドは1845年に挙国一致内閣が成立したが、共産党(後に統一労働者党と改称)と非共産党勢力の抗争は、ソ連の支援を受けた共産党が権力を握ることとなりソ連圏の東側陣営の一員として社会主義体制をとり、ポーランド人民共和国となる。その領土問題は戦後の東西対立の一つの焦点となったが、西側のドイツとの国境は当面、オーデル=ナイセ線とされ、ダンツィヒ周辺の旧ドイツ領飛び地も含めてポーランド領とされた。東側のベラルーシやウクライナの一部はソ連に返還した。その結果、ポーランド領は戦前に比べて全体が大きく西に移動する形となった。
・社会主義政権下のポーランド:1956年のスターリン批判に伴って民衆が反ソ暴動を起こし、一時追放されていた民族派の共産党員ゴムウカが再任されて第一書記となり、事態を沈静化するとともに社会主義体制の強化を行った。しかし経済停滞が目立ち始め、1970年に物価値上げに反発した労働者のストが起きるとゴムウカは解任され、ギエレク政権に代わった。ギエレクの下で経済改革(市場経済の導入)などの試みが行われたが民主化を伴わない経済改革は失敗し、民主化を求める反政府運動も始まった。1980年に食肉などの値上げに反対する労働者の運動から、ワレサが指導する自主管理労組「連帯」が生まれると、翌年ヤルゼルスキ政権は戒厳令を布告して民主化運動を弾圧した。その後、1980年代のポーランドでは社会主義体制の動揺が続いた。
・ポーランド共和国:1989年、ポーランドの民主化は、一連の東欧革命の先駆的役割を果たした。ヤルゼルスキ政権は「連帯」との交渉を行い、複数政党制などを認め、6月には東欧で最初の複数政党制による自由選挙が行われ、9月にはこれまた東欧最初の非共産党による「連帯」系のマゾビエツキ内閣が成立、12月には国名から「人民」をはずしてポーランド共和国に変更した。90年にはワレサが大統領に選出された。
・現代のポーランド:1990年、「連帯」議長のワレサが大統領となった。ワレサは1980年以来の民主化の象徴的人物で人気が高かったが、次第にその権力を露骨に求める姿勢が非難されるようになり、1995年の大統領選挙では旧共産党系の候補者に敗れた。その後、ポーランドでは民主改革派と旧共産党系とが交互に選挙で勝って政権を担当しているが、2005年12月にレフ=カチンスキ(旧連合活動家)が大統領に当選、さらにヤロスラフ=カチンスキという双子の弟を首相に任命した。双子で大統領と首相を兼ねるのはいかがなものか、という不安が西側諸国であがった。
18. スロヴァキア  → 第17章 2節 スロヴァキア
19. ハンガリー共和国
ハンガリー(Hungary は英語表記。ハンガリー語ではマジャルオルサーグ、マジャール共和国という)は東ヨーロッパの中央部にあり、中欧諸国の一つともされる。おおよそ北はスロヴァキア、南はクロアチア・セルビア、西はオーストリア、東はルーマニアに囲まれた内陸国。面積は約9.3万平方kmで日本の約4分の1。人口は約1万人。首都はブダペストで、ドナウ川の挟んだブダ地区とペスト地区からなる。
ハンガリー人はアジア系のマジャール人の子孫とされているが、現在のハンガリー人は多くの民族の混合の結果形成された。なお、名前の名乗り方は日本人と同じく、姓を先にし名を後にする特徴がある。宗教的には半数以上がカトリックだが、2割ほどのプロテスタントも存在する。
ハンガリーの歴史
ハンガリー王国:紀元前1世紀ごろからローマ領となり、属州パンノニアと言われる。4世紀の民族大移動の時期に当方からフン族が侵入し、ローマ人を駆逐し帝国を作ったがまもなく滅びた。その後、9世紀末に同じくアジア系のマジャール人が移住し、1000年にハンガリー王国をパンノニアに建国したとされている。1241年にはモンゴルの侵入を受ける。
オスマン帝国との抗争と敗北:1396年には国王ジギスムントの組織した十字軍がニコポリスの戦いでオスマン帝国軍に敗れた。1458年には国民的英雄マーチャーシュ1世が出て、領土を拡張し、文芸も保護して王国の全盛期をもたらした。しかし、周辺との抗争で国力は衰え、1526年、モハーチの戦いオスマン帝国に敗れてその支配を受けることとなった。
オーストリア帝国の支配:1699年のカルロヴィッツ条約でハプスブルク家のオーストリア帝国に編入される。19世紀になってハンガリー民族の自覚が高まり、ハプスブルク家支配からの独立を要求するようになったため、1867年のアウスグライヒでハンガリーの独立は認められたが、オーストリア皇帝をいただく二重帝国であるオーストリア=ハンガリー帝国となった。
第1次大戦後のハンガリー:第1次世界大戦にドイツ帝国とともに戦って敗れ、1918年帝国は解体され、ハンガリー王国もトリアノン条約で領土の3分の2を失った。戦後すぐ、クン=ベラに指導された共産主義をめざすハンガリー革命が起こったが、軍を掌握したホルティによって鎮圧され、その後はホルティが摂政として独裁的な政治を行い、ナチス=ドイツが台頭すると枢軸側として第2次世界大戦に参戦し、再び敗戦国となった。
共産政権下のハンガリー戦後のハンガリーは1946年に共和国、49年に人民共和国となり、社会主義政策を推進、ソ連との連携を強め、コメコン、ワルシャワ条約機構の構成国となった。1956年、ソ連でスターリン批判が始まると、ソ連からの離脱を求める民衆が蜂起し、10月にハンガリー動乱となったが、ソ連軍の介入により鎮定され、指導者ナジ=イムレも処刑された。その後も社会主義体制が続き、60〜80年代のハンガリーではカーダール政権のもとで一定の経済自由化も図られたがいたが、
ハンガリーの民主化:1989年2月に複数政党制の承認、「党の指導性」の規定の削除など、大胆なハンガリー民主化に踏み切り、一連の東欧革命の先頭に立った。同年10月23日(ハンガリー動乱で大衆デモが行われた記念日)に社会主義体制を放棄しハンガリー共和国の発足が宣言された。翌90年4月、40年振りに行われた自由な国会議員選挙の結果、民主フォーラムを中心とする非共産党政権が発足し、議会制民主主義国家への転換は平和裏に行われた。その後、社会党(旧社会主義労働者党)が選挙で復活するなどの動きはあるが、市場経済への移行は順調に進み、1999年にはNATOに加盟、2004年にはEUにも加盟した。 
20. スロヴェニア  
21. エストニア  → エストニア 
22. ラトヴィア  → ラトヴィア  
23. リトアニア  → リトアニア  
24. マルタ  → 第1章 第2節 マルタ島
25. キプロス キプロス島は小アジアの南に位置する東地中海最大の島で交通世の要衝として重要であった。神話ではヴィーナスの生地とされており、また古来、良質の銅が産出したことで知られる。銅を意味する英語 copper の語源は、キプロス Cyprus であるという。
キプロス島の歴史(独立まで)地中海世界の中で重要な位置を占めていたので、さまざまな勢力が交替した。前15世紀前半にはエジプト新王国のトトメス3世の支配下にあったが、ミケーネ時代ギリシア人が植民活動を行って移住し、ギリシア文化圏となった。その後、フェニキア人との交易、アッシリアついでアケメネス朝ペルシアの支配をうけた。ヘレニズム時代にはプトレマイオス朝エジプトの支配下にあり、その滅亡後はローマ帝国領となった。その後、ビザンツ帝国の支配が続いたが、7世紀以降はイスラーム教の勢力が及んできて抗争がつづき、十字軍時代にはテンプル騎士団の基地となった。15世紀以降はジェノヴァとヴェネツィアの商人が進出、東方貿易の拠点とされた。1571年にオスマン帝国によって征服されてイスラーム化したが、ギリシア系住民はそのまま存続し、ギリシアへの帰属を求めるエノシス運動というギリシア人の運動が起こった。露土戦争後の1878年のベルリン条約イギリスが管理権を得た。イギリスは中東支配の基地としてキプロスを位置づけていたのである。第1次大戦が起こり、オスマン帝国が同盟側につくと、戦後イギリスはキプロスを併合を強行し、1923年に直轄植民地とした。
戦後のキプロス紛争:第2次大戦後、キプロスのギリシア系住民(80%を占める)がギリシア正教のマカリオス大司教らの指導でギリシアへの統合を主張し、イギリスと対立、1955年には暴動が起こった。イギリスはキプロスのギリシア統合は認めず、独立を認める代わりに軍事基地2カ所を確保し、1960年にキプロス共和国として独立した。キプロスには約20%のトルコ系住民が存在し、ギリシア系住民との間で64年、67年に武力衝突が発生した(キプロス紛争)。さらに1974年、ギリシアの軍事政権がキプロスに介入したことに反発したトルコが出兵し、北キプロスを占領した。トルコの占領は続き、83年には一方的に「北キプロス・トルコ共和国」独立を宣言した。こうしてキプロスは南北で分断されたが北キプロスを承認したのはトルコのみに留まっている。国連の仲介で両者の話し合いが断続的に行われているが、2004年5月のEU加盟は「キプロス共和国」のみの加盟となった。
 トルコ共和国
小アジアとバルカンの一部を領有する現在のトルコ共和国は、面積日本の約2倍、人口は約7000万。首都はアンカラ。人種はトルコ人主体、宗教はスンナ派イスラーム教だが、南西部のクルド人など異民族も多数抱えている。
トルコ共和国は1923年のトルコ革命による建国以来、ケマル=アタチュルクの指導する、政教分離の原則に基づく世俗主義を掲げ、様々な西欧化を図ってきた。しかし、国民の大半をしめるイスラーム教徒の中には西欧化に反発する意識も強く残っていた。
第2次世界大戦では連合国に加わり戦勝国となった。戦後は西側陣営の一員として1952年にはギリシアと共に北大西洋条約機構(NATO)、1955年にはバグダード(中東)条約機構(59年からは中央条約機構に改組され、本部はトルコの首都アンカラ)に加盟した。 → 第2次世界大戦とトルコ
世俗主義の危機:1960年の軍部によるクーデターの混乱を乗り越え民主政治を復活させ、自由主義の拡大によって経済が成長したが、反面貧富の差が拡大し、70年代から次第に反西欧、反世俗化とイスラームへの復帰を掲げる政治勢力が台頭してきた。1999年には欧州連合(EU)加盟候補者となり、西欧化が加速されるかに見えたが、2002年の総選挙でイスラーム系の公正発展党(AKP)が35%を獲得し初のイスラーム系単独政権が発足した。この政権はイラク戦にも派兵せずアラブ寄りの姿勢を示したためEU側にはトルコ共和国の加盟に反対する声も起こってきた。ヨーロッパではイスラーム教に対する拒否反応も強く、トルコ共和国のEU加盟はなおも難航が予想される。トルコの世俗主義の動揺はヨーロッパの不安定要素になりうることとして注目されている。また国内にはクルド人の独立運動を抱えている。
Epi. スカーフ着用問題で裁判官銃撃される 2006年5月17日、アンカラの最高裁判所にあたる国家評議会の建物内で、短銃が乱射され、判事が一人が死亡、5人が負傷するという事件が起こった。犯人は29歳の現役弁護士だった。今年2月、幼稚園の女性教諭が通勤途中にスカーフを頭にかぶっていたことを理由に昇進を拒否されたことで裁判となり、この裁判で女性に不利な判決を出した判事が射殺されたのだ。女性がスカーフで顔を隠すのはイスラームの教えであり、トルコ共和国では政教分離と世俗主義の国是により、教育現場や公共の場では禁止されている。憲法上の規定があるわけではないが、長年の司法判断で定着させてきたものだ。しかしイスラームへの復帰を主張する勢力はスカーフ問題を世俗主義反対の象徴として取り上げるようになった。この事件ではマスコミの反応はスカーフ着用を社会に強要しようというイスラーム原理主義の犯行として非難しているが、親イスラーム的な政府はむしろアルコール禁止などのイスラーム的政策を打ち出そうとしれいる。トルコ共和国の脱イスラームと政教分離、世俗主義の原則は建国80年以上を経て大きな曲がり角に来ている。<2006年8月19日 朝日新聞記事より>
 スイス連邦

アルプス山中にある小国で面積は九州よりやや大きい程度。人口は約750万。人口はベルン。国民は言語圏に別れておりその割合は、ドイツ語(63.7%)、フランス語(19.2%)、イタリア語(7.6%)、レート・ロマンシュ語(0.6%)、その他(8.9%)<外務省ホームページより>。憲法ではそのいずれもが国語であると規定され、公用語はドイツ語・フランス語・イタリア語が指定されている。また憲法では26の州(カントンという)から構成される連邦共和制をとり、元首は連邦大統領であるが、憲法上の国名は中世以来の「スイス盟約者団」を名乗っている。各州はそれぞれ憲法を持つなど自治意識が強い。またスイスは直接民主政が発達しており、イニシアティブ(国民提案制度)とレファレンダム(国民投票制度)が連邦レベルでも採用されている。外交では永世中立国であることを国際的に承認されている。国際連合にも長い間加盟していなかったが、最近(2002年)にようやく加盟した。EU加盟については2001年の国民投票で早期交渉開始が否決された。
 → スイスの成立と独立  ウィーン議定書とスイス 
 ノルウェー王国
スカンジナヴィア半島西側のフィヨルドの発達した海岸沿いに南北に長い国土を持つ、ノルマン人の国。北欧諸国の一つ。国土は日本とほぼ同じ面積で人口は約460万。首都はオスロ。現在は立憲君主国だが、北欧三国と同じように高い教育水準と福祉制度を持つ国家。プロテスタントのルター派が国教。
ノルウェーは古代には独立したノルマン人の王国であったが、14世紀から20世紀初頭まで、はじめはデンマーク、1814年からはスウェーデンとの同君同盟とされ、実質的な支配を受け続けていた。 → ノルウェー王国
ノルウェーの独立:19世紀には、ヨーロッパ各地の民族主義、自由主義、さらに社会主義の運動がノルウェーにも波及し、次第に独立の気運が強まり、1905年に自治議会は独立を宣言、国民投票で圧倒的多数の賛成を得た。スウェーデンもこの独立を阻止することができずに容認した。ノルウェーは同年内に再度国民投票を行い、王政か共和政かを国民に問うたところ、王政支持が上回ったため、デンマークの王家から王子を迎えて国王とし、ノルウェー王国が発足することとなった。
ノルウェーの文化:19〜20世紀、ノルウェーのナショナリズムが高揚する中で、文化面で注目すべき人々が現れた。まず近代演劇に衝撃を与えた『人形の家』などの作品のイプセン、画家では表現主義で世界を驚かせたムンク、音楽では『ペールギュント』の作曲家グリーグ、医学ではハンセン(ハンセン病の病原菌を発見した)、探検家ではナンセン(グリーンランドの探検)とアムンゼン(南極探検)、ヘイエルダール(コンチキ号で海洋探検)などがいる。
20世紀のノルウェー:第1次世界大戦では他の北欧諸国と共に中立を守った。内政では社会民主主義政党の労働党がたびたび政権を担当し、福祉国家としての基礎を早くも戦争前に建設した。1940年4月にはドイツ軍の侵攻を受け、第2次世界大戦中はドイツ軍の占領下に置かれ、激しいレジスタンスが行われた。第2次世界大戦後は、東西冷戦の渦中でノルウェーは厳しい立場に置かれた。それはスカンジナビア半島北部で直接ソ連と国境を接し、ソ連の北方艦隊の基地であるムルマンスクを監視し、また北極海のスピールバール諸島が対ソ連の重要な戦略的位置にあったためである。戦後のノルウェーには米ソ両陣営から強力な働きかけがあったが、結局ノルウェーはマーシャルプランを受け入れ、ついで1949年4月に北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。ソ連は激しくノルウェーを非難、その後領海をめぐってたびあび紛争が起こった。
NATOには加盟だが、EUには未加盟:このように軍事的にはNATOの一員となったノルウェーであるが、ヨーロッパの経済統合には一線を画している。1960年のEFTAには加盟したが、1972年のEC加盟の是非を問う国民投票では51%が反対で否決された。背景には1970年代に開発が進んだ北海油田があり、独自のエネルギー資源に支えられて高い経済成長を維持していたことがあげられる。80年代から経済は後退期に入ったが、1994年のヨーロッパ連合(EU)加盟の国民投票でも加盟は否決された。ユーロの使用に対しても否定的で伝統的な通貨クローネに固執している。
 アイスランド共和国
アイスランドは北大西洋の北極圏のすぐ南に位置する島国。北欧諸国に属している。大きさは北海道ぐらい。人口は約31万人。首都はレイキャヴィック。宗教はプロテスタントのルター派。言語はアイスランド語。
アイスランドの独立:アイスランドは13世紀からノルウェー、14世紀末からデンマークの統治を受けているが、ヴァイキングの活動していた10世頃から「アルシング(アルシンギ)」という一種の議会で衆議するという伝統をもっていた。19世紀には次第に民族意識が高まり、1874年にしばらく中断していたアルシングを再開し、デンマークと財政に関する協議権を獲得し、さらに1918年にデンマークと同君連合(デンマークの国王を戴く独立国)となった。第2次世界大戦では1940年6月にデンマークがナチス・ドイツに占領されるると、イギリス軍が先手を打ってアイスランドに上陸、41年にはアメリカ軍が進駐した。本土と分離されたことで完全独立の機会が生まれ、1944年6年に国民投票を実施、圧倒的多数で独立を決め、共和国として独立宣言をした。デンマークはこれを黙認した。
戦後のアイスランド:その戦略的位置(北極海をはさんでソ連と対峙している)から、アメリカはアイスランドを重視、ソ連も接近を働きかけたが、1949年に議会はNATO加盟を決定した。その後アメリカ軍基地が設置され、雇用などでアイスランド経済にとって大きな恩恵とされた。その後もNATOの一員として継続しているが、イギリスとの対立などがありEUには加盟していない。NATO加盟、EU未加盟という姿勢はノルウェーと同じである。
タラ戦争:アイスランドは漁業が唯一の産業であるため、近海漁場を保護するため、漁業水域を1958年には12海里にすることを宣言、さらに75年には200海里に拡大した。これに対してイギリスはスコットランドの漁民の漁業権を守るため圧力をかけてきた。アイスランドは国防軍はなかったが、警備艇がイギリス漁船の網を切ったりする体当たり攻撃を敢行、NATO脱退をほのめかしながらアメリカの仲介を引き出し、ついにイギリス漁船を閉め出すことに成功した。
経済破綻とEU加盟問題 アイスランドはシェンゲン協定(パスポート無しでの国境通過などの人的協力)には加盟し、ヨーロッパ諸国とは司法・内政分野における協力等を通じて協調ているが、ヨーロッパ連合(EU)には加盟していない。それはタラ戦争に見られるように、イギリスなどとの漁場の共用をさまれることをさけ、漁業水域を守れと言う漁業関係者の要求によるものである。ところが2008年後半の世界金融危機に直面してにわかにEU加盟、ユーロ導入の世論が強まり、EU非加盟を掲げていた政権が総辞職した。こうしてアイスランドはEU加盟問題で国論が割れる状態となっている。
・アメリカ経済の回復
 レーガン アメリカ合衆国第40代大統領。在任1981〜89。共和党。1980年の大統領選挙で民主党カーターの再選を阻止して当選した。「強いアメリカ」の再現を掲げ、ソ連との軍事的対決に備えて「戦略防衛構想」(SDI)を打ち上げ、軍事費増大は「小さい政府」による福祉支出削減などによって生み出すという政権構想であった。その政策は、外交・イデオロギー面では、70年代の緊張緩和の反動として台頭してきた新保守主義(ネオ=コンサバティヴ、略してネオコンという)と、経済政策では新自由主義(ケインズ的な「大きな政府」を批判して、徹底して市場原理に依拠し、通貨供給で景気をコントロールしようという経済思想)をバックボーンとしていた(ブッシュ父子に継承されている)。
経済政策:具体的経済政策としては「サプライサイド」(供給側)経済を唱え、減税による景気浮揚をはかった。支出の削減では社会福祉関係の予算を大幅に削減した。減税は企業や富裕層には有利であり、社会福祉予算削減は低所得者層に犠牲を強いることとなった。このようなレーガンの経済政策は「レーガノミックス」と言われた。しかし国防費は削減されず、財政赤字は解消されなかった。また、輸出も伸びず、85年には1914年から続いた債権国の地位から債務国に転落し、貿易収支も赤字に転じ、財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」に悩むこととなり、先進5ヵ国によるプラザ合意によってドル安に是正されて救済された。内政面では右よりの政策が目立ち、男女平等や人工中絶には反対の姿勢を見せ、最高裁判事には保守派を任命した。
レーガンの外交:外交政策ではソ連を「悪の帝国」とよびSDIを推進し「新冷戦」をもたらしたが、85年にソ連にゴルバチョフが出現し、ペレストロイカが始まると姿勢を変えて対話路線に転換し、87年には中距離核戦力(INF)全廃条約に調印した。しかし、第三世界での反米運動には介入の姿勢を強め、83年のグレナダ侵攻、ニカラグァの親米勢力(コントラ)への支援を続けた。その過程でイランに秘密に武器を売却し、それで得た資金をコントラに横流ししたのではないか、という「イラン・コントラ事件」が起こり、大統領の関与も疑われたが、その証拠は出なかった。 → アメリカの外交政策
Epi. もっとも話題の多い大統領 映画俳優からカリフォルニア州知事となり、大統領となったときはすでに69歳、ケネディが生きていてもそれより年長で、アメリカ史上最高齢の大統領であった。しかし老人らしからぬ手慣れたパフォーマンスは人気を呼んだ。日本の中曽根首相とは政治信条に近いものがあったらしく、「ロンとヤス」と呼び合う仲だったという。また退任後、アルツハイマー症にかかったことを明らかにしたことでも話題となった。2004年6月、93歳で死去、大統領経験者としては最高齢であった。
a 双子の赤字 1980年代、レーガン大統領の時代のアメリカで、軍事費の増大のための財政赤字と、日本などの経済力が高まり、アメリカの輸出が不振となったための貿易赤字という、両面の赤字が同時に進行したことを言う。そのため、アメリカは1985年度には世界最大の債務国に転落した。
 日米貿易摩擦  → 日米貿易摩擦
 プラザ合意 1985年、ニューヨークのプラザホテルでの先進5ヵ国(アメリカ・フランス・イギリス・西ドイツ・日本)の蔵相・中央銀行総裁会議において、レーガン政権下のアメリカ経済の苦境を救済するため、ドル高を是正することに合意したこと。この合意に基づき、各国金融当局は協調介入に乗りだした結果、1ドル=240円台であったものが、1ドル=200円に一気にドル安・円高状況となり、アメリカの輸出の増大をもたらした。
この合意は、ドル高が続いてアメリカ経済が悪化することは世界経済全体に悪影響を及ぼすという大国間の利害の一致から、ドル相場を協力して下げ、アメリカ製品の輸出を増やしてその経済を救ってやろうと言うことであった。こうして「ドル安」時代が始まり、同時にプラザ合意は、主要国が政策協調を行い、各国が為替相場に介入して調整するという経済調整の始まりとなった。
 G.H.W.ブッシュ(父) アメリカ合衆国第41代大統領。在任1989〜93。共和党。レーガンの副大統領から88年の大統領選に出馬して当選。レーガン政権の施策を継承しながら財政赤字解消に努めたが失敗した。議会では民主党が多数を占め、ブッシュ政権の内政は見るべきものはなかった。外交面では、1989年の東欧革命、90年の東西ドイツの統一、91年のソ連の解体という激動の時期に当たり、1989年にはゴルバチョフとの間でマルタ会談を行い、冷戦の終結を戦した。
冷戦の終結によって共産主義陣営との戦争の危機は去ったが、ブッシュのアメリカは新たな戦いを開始した。それは「民主主義」とアメリカの安全を脅かす、独裁者との戦いであった。1989年末にはパナマのノリエガ将軍を麻薬取引などの不正を行っているとして軍隊を派遣して逮捕した。1990年8月には隣国クェートに侵攻したイラクの独裁者フセイン大統領に対して国連に働きかけて軍事制裁を加えるという湾岸戦争を起こした。湾岸戦争は国民の支持を受けたが、経済の悪化が続き、92年大統領選挙では民主党のクリントンに敗れた。第43代大統領G.W.ブッシュは長男。  → アメリカの外交政策
 湾岸戦争  → 第17章 3節 湾岸戦争
 北米自由貿易協定(NAFTA) アメリカ合衆国・カナダ・メキシコの三国が、関税障壁を廃止して自由貿易圏を形成する協定。NAFTA(North American Free Trade Ageement)。1992年に調印されたが、アメリカ国内ではメキシコの安価な労働力の流入をおそれた労働組合が反対したが、クリントンは共和党の支持を受けて議会の承認を得て1994年に発効した。
 クリントン アメリカ合衆国第42代大統領。在任1993〜2001。民主党。戦後生まれでベビーブーム世代の最初の大統領。学生時代はベトナム反戦運動にも関わった。カーター以来の民主党大統領であるが、80年代に低迷した民主党は、従来のリベラル色、労働組合色を薄め、新保守主義に傾斜し、経済政策も「大きな政府」から市場経済重視の「小さな政府」論に転換していた。クリントンはそのようなニュー民主党のホープだった。32歳の最年少でアーカンソー州の知事に当選、南部の保守層にも支持を広げ、黒人層や共和党政権からの転換を望む国民の期待を担って92年に大統領に当選した。しかし94年の中間選挙は上下院とも共和党が制したため、その政策はより中道色を強めた。経済面ではIT(情報技術)産業の発展に支えられて好景気に恵まれ税収が増え、また支出を押さえたため1998年に29年ぶりに財政黒字に転換した。夫人のヒラリー=クリントンは2008年の民主党大統領候補に名乗りを上げたがオバマに敗れ、2009年発足のオバマ政権で国務長官に就任した。
クリントンの外交:外交面ではオスロ合意をもとにイスラエルのラビン首相とパレスチナ解放戦線のアラファト議長の和平を、アメリカが「お墨付き」を与えるという形でパレスチナ暫定自治協定を1993年に実現させた。しかし、95年にラビン首相が暗殺され、パレスチナ和平は遠のいてしまった。95年7月には懸案であったベトナムとの国交回復に踏み切り、戦闘終了20年目にしてベトナム戦争の完全な終結をもたらした。
東ヨーロッパではユーゴスラヴィアの解体後、民族間の対立が激化していた。クリントンは旧ユーゴのボスニア紛争でも介入し、95年末に和平協定を成立させた。99年のコソヴォ紛争ではNATO軍とともに人道的介入と称してセルビアへの空爆に踏み切った。アフリカでは東アフリカのソマリアで91年から続いていた内戦が深刻化し、ここでも人道的支援と称して米軍を派遣したが18人の海兵隊員が殺害されて世論が後退し、94年春までに撤退させた。この失敗のため、ルワンダでの大量虐殺に対しては介入を躊躇し、被害を拡大させてしまった。また北朝鮮の核開発疑惑が浮上し、IAEAの査察を拒否、93年にはNPTから脱退した。クリントン政権は経済制裁を発動、両国関係は緊張したが、特使としてカーター前大統領を派遣し、金日成との交渉が成立して、北朝鮮にエネルギーの提供の代償として核開発を凍結させた。しかし北朝鮮の核開発疑惑はその後も続いている。  → アメリカの外交政策
Epi. 大統領の不倫騒動 クリントン大統領のアーカンソー州知事時代の不正疑惑の捜査過程でとんでもない副産物が出てきた。女性インターン(見習いに)と大統領のホワイトハウスでの性的行為が発覚したのだ。1998年1月、クリントンはテレビで全国民に否定したが、独立検察官の詳細なレポートが出され、認めざるを得なくなった。その年の末、下院は大統領弾劾裁判を決め、翌年1月上院で弾劾裁判が行われた。焦点は、クリントンの行為を大統領として認められないとするか、大統領の職務を遂行する能力とは関係がないとみるかであったが、裁判は大統領の無罪を判決した。夫人のヒラリーが、夫の愚行にめげずに、保守派の陰謀であるという訴えたのが功を奏したのだ。<有賀夏紀『アメリカの20世紀』下 2002 中公新書 p.190-193>
a GATT  → 第16章 1節 関税と貿易に関する一般協定 
b 世界貿易機関(WTO) 1995年1月発足の貿易に関する国際機関。WTO=World Trade Organizationそれまでの関税と貿易に関する一般協定(GATT)にかわり、恒常的な機関として設置され、世界の貿易の円滑な運営と発展が図られることとなった。本部はジュネーヴ。GATTとは、・モノだけでなくサービス・知的財産なども対象とする、農業の自由化促進、環境や労働問題も扱う、などの違いがある。また「協定」から「機関」になったことによって貿易紛争に対する裁定を強制することができるようになった。
WTOの設立は、80年代以降のアメリカのレーガン、ブッシュ、クリントン政権に共通する、自由貿易の拡大という世界戦略に基づいていた。しかし、「自由貿易の拡大」の内実は巨大な多国籍企業の利益追求なのであり、そのようなグローバル化グローバリゼーション)によって途上国での無制限な開発がすすみ、環境破壊につながるのではないか、という大きな懸念が持ち上がった。1999年、シアトルで開催されたWTO閣僚会議は、韓環境保護団体のメンバーが押しかけ、実力で阻止された。WTOの推進や、地球温暖化防止のための講と議定書の批准拒否などのアメリカのグローバル化戦略には警戒の声が強まっている。2001年12月には江沢民政権下で中国が加盟し、13億人の市場が自由化されることとなり、世界経済は大きな転換を迎えた。なお、現在WTOに加盟していない大国はロシアのみとなっている。
c 財政黒字  
 G.W.ブッシュ(子) アメリカ合衆国第43代大統領。共和党。G.H.W.ブッシュの長男。2000年の大統領選挙では民主党のゴア候補と歴史的な接戦を演じ最高裁の判決で大統領となった。冷戦後にアメリカ合衆国が「唯一の超大国」となったことを背景に、ブッシュ政権では新保守主義が台頭した。そのため多数派である小国主導の国際連合に反発して国際協調路線が後退し、「単独行動主義(一国主義とも言う)=ユニラテラリズム」をとるようになった。就任後まもない2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易ビルやワシントンの国防省(ペンタゴン)に対する同時多発テロが発生、テロとの戦いを全面に掲げ、同年10月にアフガニスタンに侵攻し、タリバン政権を崩壊させた。2002年1月の一般教書演説で、イラク・イラン・北朝鮮を「悪の枢軸」国家と非難し、さらに同年9月20日には「アメリカ合衆国の国家安全保障戦略」(一般にブッシュ=ドクトリンといわれる)を発表し、テロリストとの戦いでは「先制的攻撃」が許容されるという、いわゆる先制攻撃論を明確にした。その上で、イラクが大量殺人兵器を開発しているとして、2003年3月にイラク侵攻を開始(一般にこの戦争をイラク戦争という)、フセイン政権を倒した。イラクには新政府が樹立されたが、宗派(スンナ派とシーア派)対立、民族対立(クルド人問題)、イスラーム過激派によるテロが相次ぎ、解決のめどが立たず、2006年10月の中間選挙では大統領のイラク政策に批判的な民主党が上院下院ともに制し、以後大統領人気が急降下した。2008年にはサブプライム問題から急激な金融危機が発生し、同年11月の大統領選挙では共和党の後継者マケインが、民主党のオバマ候補に敗れ8年間の共和党政権は終わりを告げた。    → アメリカの外交政策
Epi. アメリカ大統領選出のトリック アメリカ大統領は一般投票で州ごとに複数の選挙人が選挙され、選挙人の投票で過半数を得た者が選ばれる。選挙人は「総取り方式」で勝った方が全選挙人を獲得する。そのため、一般投票の総計で多くても、選挙人による選挙で選ばれないことがあり得る。2000年選挙はゴア候補が一般投票では50万票多かったが、選挙人選挙では敗れた。このようなケースは過去に三回あったが、今回はフロリダ州の一般投票が僅差であり、ゴアは一部地域で票集計で誤りがあったとして再集計を要求した。州最高裁は再集計を決定したが、連邦最高裁(共和党寄りの右派が判事だった)が再集計は違憲の判決を行い、ブッシュの勝利が確定した。この1ヶ月にわたる騒動は世界中が注目し、「ブッシュは法律上正当な大統領ではない」などの声も残った。
Epi. 最後のイラク訪問、別れに靴 ブッシュ大統領は退任間近な2008年12月14日、イラクを予告なしに訪問。年末で国連安保理決議による駐留期限が切れるので、新年1月からのアメリカ軍のイラク駐留に関する協定をマリキ首相と署名した。署名後の記者会見の席上、イラク人記者が立ち上がり、アラビア語で「別れのキスだ。犬め!」、「夫を失った女性、親を失った子どもたちからの贈り物だ」などと叫びながら左右の靴を一つずつブッシュ大統領に投げつけた。とっさに身をかがめてよけた大統領は「靴のサイズは10だった」と冗談を言って余裕を見せた。<朝日新聞 2008年12月15日記事> この記者は拘束されたが、アラブ各地からは英雄視され、エジプトの富豪は娘の婿にしたいと申し出たという。
 ユニラテラリズム unilateralism 単独行動主義、または一国行動主義ともいう。この反対概念は、多国間主義=マルチラテラリズム。
1990年代の冷戦後に、「唯一の超大国」の立場に立つこととなったアメリカ合衆国が、国際的な問題について、多国間の協調よりも一国だけで行動をとる傾向が強まったことを言う。
アメリカ合衆国は第2次世界大戦後、国際連合の設立をリードし、IMFやその他の国際的機関の中心的存在であり、また冷戦下ではソ連圏に対抗する上では西側陣営との協調は不可欠であるという考えから、その外交原則は伝統的な孤立主義モンロー主義を捨てて、多国間主義をとっていた。しかし、1960年の「アフリカの年」を境にして、国際連合に多数の小国が加盟すると、その際行為し決定機関である総会は一項一票であるので、アジアやアフリカの小国が多数派となり、アメリカ合衆国の意向はそのまま反映されないこととなった。そのような国連のあり方に対し、次第にアメリカ合衆国はいらだちを感じ始め、ILOユネスコからの脱退となって現れた。そのような国際連合批判は次第に国際連合無視へとエスカレートしてゆき、特に2001年からの共和党ブッシュ(子)政権はテロとの戦いから自国を防衛するには国際連合に諮らずに単独ででも先制攻撃を加える必要があるというブッシュ=ドクトリンを明らかにして、ユニラテラリズムを鮮明にしていった。例えば包括的核実験禁止条約(CTBT)の批准を拒否したこと、旧ソ連との間で締結した迎撃ミサイル制限条約(AMD)からの一方的離脱などの安全保障に関することだけではなく、国際刑事裁判所(ICC)設立に反対、京都議定書からの離脱など人権、環境問題にも及んでいる。 → アメリカの外交政策
a 9.11同時多発テロ  → 第17章 3節 9.11 同時多発テロ
 ブッシュ=ドクトリン アメリカ合衆国のブッシュ(子)大統領が、2002年9月20日に発表した「アメリカ合衆国の国家安全保障戦略」で集大成した、一連の外交方針。その骨子は、テロとの戦争においては自衛のために先制攻撃をすることは正当である、という考え方である。またそれは、国際連合の集団安全保障の原則によって安全を守るのではなく、単独又は集団自衛権の行使であるとされる。2001年9月11日に、同時多発テロが発生、ニューヨークやワシントンという中枢を攻撃されたアメリカ合衆国は激しい衝撃を受け、ただちにテロとの戦いを正義の戦いと位置づけ、アフガニスタンのタリバーン政権がテロ集団をかくまっているとして攻撃に踏み切った。また2002年1月の一般教書では、イラク・イラン・北朝鮮を大量破壊兵器を開発しテロを支援している「悪の枢軸」であると非難した。その線上で明確にされたのがブッシュ=ドクトリンである。またその理念の背景には、アメリカ合衆国の単独行動主義=ユニラテラリズムの傾向があった。アメリカ合衆国本土に対する攻撃という脅威に対して、先制攻撃を加えるべきであるという考えは、9・11よりも以前に、いわゆる新保守主義者、(ネオコン)といわれたブッシュ(父)政権の一部政府高官(チェイニー国防長官やウォルフォヴィッツ国防次官などが提唱していたが、表面化していなかった。9・11後ににわかに表面に出てきて、ブッシュ(子)政権によってアメリカ合衆国の防衛戦略に据えられることになった。
集団安全保障と相互確証破壊の否定:これによって冷戦時代の核戦略の原則であった相互確証破壊(MAD=ケネディの時に作られた、敵(ソ連)の核ミサエル攻撃に対しては先制攻撃は相互に破滅にいたる危険性があるから行わず、敵の第一撃に耐えた後の第二撃で反撃する、という戦略。これが核抑止力となっていた)は破棄されることとなった。また、第2次世界大戦後の国際連合を中心とした集団安全保障の理念とはまったく相容れないものである。この先制攻撃論にもとづいて、ブッシュ政権は2003年3月のイラク攻撃に踏み切り、イラク戦争に突入することとなる。
先制攻撃論の問題:過去の戦争のほとんどは、「自衛のため」に「先制攻撃」を正当化してきた。それが報復を産み、悲惨な戦争の連鎖を起こしてきたこと、また二度にわたる世界戦争を経験した人類が、戦争を抑止する知恵として編み出した国際連合を中心とした集団安全保障という原則を、そのリーダーであったアメリカ合衆国自身がないがしろにすることの内容に願う。また、核兵器の拡散が危ぶまれている現在、先制攻撃論は大変危険な考えであると言わなければならない。
b イラク戦争  → 第17章 3節 イラク戦争
 元の切り上げ → 第17章 2節 
 サブプライム問題サブプライムとはアメリカ合衆国における低所得者向け住宅ローンのこと。アメリカ合衆国では1990年代の経済好況を受けて住宅建築ブームが起こった。新築住宅が売れ残らないように、銀行は低所得者(通常は借り入れできないような返済能力のない人)にもローンを組まようとして、低金利で貸し出した。しかしこのローンは一定期間がすぎると利率が上がるしくみになっている。利率が上がっても、地価や住宅価格も上がるから資産価値が上がるので大丈夫、とされていた。また、銀行はこの債権を証券として他の金融機関に売り出し、その際リスクを分散するために債権を分割し、いろいろな債権を組み合わせて投資家に販売した。2007年頃から、利率がアップする時期にったが、同時に住宅供給も過剰となり、地価と不動産価格が下落してしまい、当初のもくろみ通りの返済ができず、多くの借り手が返済できず家を手放さざるを得なくなった。これらの不良債権は、証券として世界中の証券会社を通じて投資家に売られていたため、金融不安を引き起こすことになった。2007年夏にこの問題が深刻になり、それに加えて原油高が市場を圧迫し、アメリカ経済を危機に陥れた。2008年9月にはついに証券大手のリーマンブラザーズが倒産し世界を驚かせた。ブッシュ政権は公的資金を投入することを打ち出したが、9月30日議会はそれに反対し、救済策が否決されたため、世界的な株の下落が起こっている。一部には世界恐慌に匹敵する経済不況の到来を予測するむきもあり、予断を許さない状況になっている。