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3.フランス革命とナポレオン(2)
エ.皇帝ナポレオンの誕生
 総裁政府 執政政府ともいう。1795年憲法によって成立したフランス共和政下の政治体制。1795年10月から1799年11月まで存続した。5人の総裁からなり、その下に元老会、五百人会の二院制議会があった。ジャコバン独裁を終わらせたブルジョワジーが、安定的な支配を維持しようとして作った政体であったが、右からの王党派の反乱、左からのバブーフの陰謀事件などがあって、不安定であり、たびたびクーデタ事件が起こった。次第に軍部の発言権が強まり、その中からナポレオンが台頭した。より強力な政権を望むブルジョアは軍部を背景にしたナポレオンに期待をかけ、1799年11月のブリュメール18日のクーデタでナポレオンが権力を掌握し、総裁政府は消滅する。
a  1795年憲法 共和暦第3年(1795年)8月22日に制定され、9月23日国民投票で批准。権利と義務の宣言を前文とする。男子普通選挙制をやめ、直接税納付者全員が投票権を持つ。選挙は二段階制。議会は二院制で、法案を提案する五百人議会と法案の採否を決める元老議会(議員は40最以上250名)からなる。行政権は5人の総裁からなる総裁政府がもつ。総裁は両議会が選挙し、5年の人気で毎年一人を改選する。総裁は6から8人の大臣を任命する。県の首長は県民の中から選ばれ、総裁政府が任命する。改正は9年に及ぶ長い煩雑な手続きが必要なため、クーデタの危険性があった。フランスで最初に施行された共和政憲法(ジャコバン独裁下の1793年憲法は施行されなかった)であったが4年しか続かなかった。
b バブーフの陰謀事件 バブーフは1795年11月、パンテオン−クラブを組織、共産主義とその基底にある平等を雑誌『護民官』で主張。12月総裁政府はバブーフ逮捕を布告したが、地下に潜行、1796年3月地下で総裁政府の転覆、共産主義体制樹立のための「蜂起委員会」を組織、4月28日(ナポレオンがイタリアで大勝利をしめた頃)「警察隊」の反乱を実行した。逮捕されたのは密告による。バブーフの他、ブオナロッティ、ダルテ、ドルエなど首謀者は、1797年2〜5月の裁判で死刑判決がだされ、5月28日に処刑された。 
 ナポレオン=ボナパルト

Napoleon Bonaparte (1769-1821)
コルシカ島に生まれ(1769年)、フランス革命末期に共和政軍の指揮官として台頭し、ブリュメール18日のクーデターで権力を握り第一統領となり、さらに1804年に皇帝となった(第一帝政)。征服活動をくり返し、フランス帝国のヨーロッパ支配を実現したが、ロシア遠征に失敗し、1814年に退位した。配所のエルバ島を脱出し、パリに帰還し皇帝に復したが、ワーテルローの戦いに敗れて「百日天下」に終わり、セントヘレナ島に流され、1821年に死去した。
ナポレオンの台頭:1769年にコルシカ島の貧乏貴族の家に生まれ、フランス本土で兵学校に入り軍人となる。ジャコバン派を支持したためテルミドールの反動で一時危うかったが、王党派の武装蜂起鎮圧に功を上げて軍司令官に昇進した。1796年からのイタリア遠征でオーストリア軍を連破して名声を高めた。1798年にはイギリスのインド支配を妨害するためエジプト遠征を実行した。そのころ総裁政府は弱体化しており、1799年にナポレオンは政府に無断でパリに帰還し、ブリュメール18日のクーデターで権力を握った。第一統領となったナポレオンは、12月15日「革命暦第8年憲法」を制定して、フランス革命の終結を宣言した。
第一統領統領政府は立法権も握り、フランス革命の成果を固定するための処置を進めた。中央銀行としてのフランス銀行の設立、通貨の発行、教育の統一など経済と社会の安定を図り、1801年にはローマ教皇との和解(コンコルダート)を実現(信教の自由は継承)、外交面では1802年にイギリスとのアミアン和約で当面の講和を実現した。政治の安定を受けて1802年に憲法を改正、終身統領制として自ら就任した。
第一帝政:1804年5月18日、ナポレオンは皇帝に即位してナポレオン1世となり(第一帝政)、国民投票で承認された上で、同年12月2日、パリのノートルダム大聖堂でローマ教皇立ち会いのもとで戴冠式を挙行し、自らの手で戴冠した。同年3月にはナポレオン法典を発布したが、それはナポレオン自身が編纂に参加したもので、法の下の平等、進行や労働の自由、指摘所有権の絶対と契約の自由など、フランス革命の成果を固定させる民法典となった。ナポレオン皇帝の即位を受けてイギリスがアミアン和約を破棄し、1805年に第三次対仏大同盟を結成すると、ナポレオンはイギリス侵攻をめざしたがトラファルガーの海戦で敗れて計画を放棄し、焦点を大陸内に移し、アウステルリッツの三帝会戦ではオーストリア・ロシア連合軍を撃破した。ナポレオンが南西ドイツ諸侯を統合してライン同盟を結成すると、プロイセンが反撃したが、ナポレオンはベルリンを占領し、翌1806年に大陸封鎖令(ベルリン勅令)を出した。さらにロシアに支配されるポーランドに侵攻し、ロシア軍を破り、続けてティルジット条約を結んで講和した。
ナポレオンのヨーロッパ支配:ナポレオン帝国の直接統治はオランダと北西イタリアに及んだ。さらにポーランド(ワルシャワ大公国)ドイツ西部・イタリア・スペインには傀儡政権を置き、プロイセンとオーストリアは同盟国となった。ナポレオンはヨーロッパにフランス革命の理念を拡げたが、実際には一族を各国の支配者に送り込み、専制支配を行った。それに対してヨーロッパ各地で反ナポレオンの民衆蜂起が起こり、フランス軍は弾圧に追われていた。またナポレオン支配下のヨーロッパの諸民族の中に、主権と独立の確立を目ざす運動が激しくなった。1808年11月にはスペインの反乱が起きるとナポレオンは自ら大軍を率いて侵攻したが翌年には撤退をよぎなくされた。1810年には皇妃ジョセフィーヌを離婚し、オーストリア・ハプスブルク家の皇女マリア=ルイザと再婚し、家柄に箔をつけようとした。
ナポレオンの没落:1812年6月、ベルリン勅令に違反してイギリスへの穀物輸出を続けていたロシアを制裁するとして、ロシア遠征を開始し、モスクワに達したが、ロシア軍の後退作戦にはまって失敗に終わり、無惨な敗北となった。ヨーロッパ各国の反ナポレオンの動きが急速に強まり、1813年のライプツィヒの戦いで決戦となった。戦いはナポレオンの敗北となり、オーストリア・プロイセン・ロシア同盟軍がパリ入城し、1814年4月2日、ナポレオンは退位し、エルバ島に流された。ナポレオン戦争の戦後処理のためウィーン会議が始まったが、各国の利害が対立して話が進まない間に、1815年2月にナポレオンはエルバ島を脱出し、3月にパリに帰還した。ウィーン会議の列国はあわてて結束を固め、6月22日にワーテルローの戦いでイギリス軍のウェリントンの指揮する同盟軍に敗れ、「百日天下」に終わった。今度は南大西洋のセントヘレナ島に流され、厳しい監視の下におかれて1821年5月5日に死去した。 
a コルシカ島  
b イタリア 遠征
1796年4月、ナポレオン(わずか26歳)の率いるフランス軍実数約2万5千がアルプスを越えて、オーストリア・サルデーニャ連合軍7万と対峙した。12日、サヴォイアの近郊モンテノッテでオーストリア軍を破ると、28日サルデーニャ王が休戦申し入れ、サヴォイアとニースをフランスに割譲、300万リラの戦争賠償金を払い、ピエモンテ(北イタリア)へのフランス軍の通過を認めるなどの条件を飲んだ。5月にはミラノに入城し、さらにロンバルジアを押さえ、さらにヴェネト地方に進出し、オーストリア軍からボローニャなどの都市を解放した。
ナポレオンは平定した北イタリアにシスパダーネとチザルピーネという二つの共和国をつくり、1797年10月にカンポ=フェルミオの和約を結んで戦闘を終えた。この和約でヴェネツィアはオーストリアに割譲されることとなり、その自治共和国としての歴史を終えた。翌11月にはナポレオンはイタリアを去ったが、この短い遠征はイタリアに大きな影響を与え、各地に君主政に代わる共和政の樹立と、統一国家の形成を求める声が強まり、イタリア統一運動(いわゆるリソルジメント)の第一歩となった。また、これ以後のヨーロッパに嵐のごとく吹き荒れるナポレオン戦争の幕開けであった。
資料 スタンダールが描くナポレオンのイタリア遠征 スタンダールの代表作の一つ『パルムの僧院』(1830年作)の冒頭で、ナポレオン軍のミラノ入城について、次のように述べている。
「1796年5月15日、ボナパルト将軍は、ロティ橋を渡ってカエサルとアレクサンドロスがいくたの世紀を経て一人の後継者をえたことを世界に知らしめたばかりの、あの若々しい軍隊をひきいてミラノに入った。イタリアが数ヶ月にわたって見てきた勇気と天才の奇蹟は眠っていた民衆の目を覚ました。・・・・(その日)、全国民はいままで自分たちが尊重していたあらゆることは、じつにばからしく、ときにはいとわしいことだと知った。オーストリアの最後の連隊が撤退すると同時に旧思想はまったく没落し、命を敢然と投げ出すことが流行しだした。数世紀間を味もそっけもない気持で過ごした後、幸福になるためには祖国を現実的な熱情をもって愛し、英雄的な行為を求めなければならないことを人々はさとった。カルロス5世とフェリペ2世の猜疑心の強い専制政治によっていままで深い闇におしこまれていたのだ。その像をひっくりかえした。と、人々はたちまちかがやかしい光につつまれた感じだった。」<生島遼一訳『パルムの僧院』 スタンダール全集(人文書院刊) p.7>
 カンポ=フェルミオの和約 1797年10月、ナポレオンがイタリア遠征でオーストリア軍を破った後に、フランスとオーストリアの間で結ばれた和約。フランスはオーストリア領のネーデルラントとイオニア諸島を獲得。またヴェネツィアはオーストリア領とすることが決められ、ヴェネツィア共和国としての歴史に終止符を打った。また、オーストリアが敗北してこの和約の締結となったため、第1回対仏大同盟(1793年〜)が瓦解することとなった。
c ナポレオン戦争 1796年から1815年までの、ナポレオンによって起こされた一連の戦争。当初は外国のフランス革命に対する干渉からの防衛戦争であったが、ナポレオンが権力を獲得(1899年)してからは「革命の理念の拡大」を大義とするが一方的な侵略戦争となった。ナポレオン自身は、後にセントヘレナで「私は64もの戦いをたたかった」と言っており、その生涯は戦争に明け暮れ、また戦争の勝利によってフランス国民の絶大な支持を得ることとなった。高校での学習に出てくるナポレオン戦争の主要なものは次の通り。
革命防衛の戦争イタリア遠征(第1次、1796〜97 オーストリアに勝利)、エジプト遠征(1798〜99 オスマン帝国軍には勝利するが、アブキール湾の戦いではネルソンの率いるイギリス海軍に敗れる)
ヨーロッパ征服の戦争:イタリア遠征(第2次、1800 再びオーストリア軍と戦い、マレンゴの戦いで勝利)、トラファルガー海戦(1805 イギリス征服をもくろむも、ネルソンの率いるイギリス海軍に敗れる)、アウステルリッツの三帝会戦(1805 オーストリア・ロシア連合軍と戦い勝利)、イエナの戦い(1806年 プロイセン軍と戦い勝利しベルリンを占領、さらにポーランドに侵攻)、ポルトガル征服(1807 ジュノー将軍を派遣)、スペイン征服(イベリア半島戦争、1808 スペインの反乱鎮圧のため自ら侵攻、ナポレオン軍苦戦)、
ナポレオン帝国の防衛戦争ロシア遠征(1812 モスクワに入城するも冬将軍に敗れ、撤退)、ライプツィヒの戦い(諸国民戦争、1813 ヨーロッパ諸国連合軍に敗れ、連合軍パリ入城)、ワーテルローの戦い(1815 ナポレオン再起をかけるもウェリントンの指揮するイギリス軍などに敗れる)
ナポレオン戦争の意義:約20年にわたり、全ヨーロッパを巻きこんだナポレオン戦争は、多大な犠牲を払った「近代への移行」であったといえる。フランス軍は革命中に始まる徴兵制によって編制された国民軍であり、彼らは自由と権利のために戦うとともにナショナリズムにも燃えていた。そのような戦闘意欲に燃えるフランス軍を迎え撃つヨーロッパ各国は従来の封建的な傭兵部隊の時代は過ぎ去ったことを痛感させられ、各国とも国民軍の創設に向かった。その戦闘形態も従来の銃剣による歩兵の密集戦術と騎兵の機動的な展開に加えて、砲兵部隊による先制的な攻撃が重要になってきた。ナポレオン軍の強さは、ナポレオンの天才的な指揮官としての能力だけではなく、このような国民軍の戦闘意欲の高さと、機動性が圧倒的に高かったこと、補給網など戦闘の組織化が進んでいたことなどが挙げられる。しかしナポレオン軍の力も、まずスペインにおけるゲリラ戦において、ついでロシア遠征における消耗戦においては力を発揮できず、敗北の連鎖の泥沼にはまっていく。
英仏の第2次百年戦争:イギリスとの戦争状態は、17世紀末に始まる英仏植民地戦争(ウィリアム王戦争、アン女王戦争、ジョージ王戦争、フレンチ=インディアン戦争)とアメリカ独立戦争の際の英仏対立、そしてこのナポレオン戦争まで百年以上続いたので、第2次英仏百年戦争ともいう。イギリスはこの間、植民地戦争でフランスを圧倒し、アメリカの独立では痛手を被ったが、ナポレオン戦争では海軍力で勝利を占め、ウィーン会議でのウィーン議定書ではケープ植民地やスリランカなどの海外領土を獲得するという成果を得、産業革命の進行と相俟って、19世紀後半の大英帝国の繁栄を実現させることになる。
c エジプト 遠征 1798年春、ナポレオンはタレーランの示唆に従ってエジプト遠征を総裁政府に提唱した。これは「インドへの道」を断ち切り、イギリス経済に打撃を加え、フランスがアンティーユ諸島で失いつつある植民地の替わりを獲得しようとしたものである。トゥーロンからブリュエ提督指揮の艦隊で出発。目的地がエジプトだと知るものはほとんど無く、ネルソン艦隊も東地中海にあったので、出帆を阻止できなかった。 6月10日 マルタ島に上陸、マルタ騎士団団長ホンペッシュは降伏。フランス共和国に島を30万フランの年金と引換に譲渡。ナポレオンは人権宣言の原則を実施するため、そしてイスラム諸国の受けを良くするため、マグレブ地方の2000人の奴隷を解放した。7月1日 アレクサンドリアに上陸して占領し、オスマン帝国の太守の支配下にあるマムルークを主体とした軍を破り(ピラミッドの戦い)、カイロに入城した。しかしアブキール湾でネルソンの率いるイギリス海軍によって壊滅的打撃を受けたため、ナポレオンはしばらくエジプトに釘付けになった。この間、総裁政府は動揺が続き、さらに1798年末までにイギリス・ロシア・オーストリア・オスマン帝国などの第2次対仏大同盟が結成される情勢となった。1799年3月にはシリアに進出してオスマン帝国軍と戦ったが、強い抵抗を受けてカイロに戻る。ナポレオン軍がエジプトに足止めされている間、北イタリアではフランス軍が敗れ、危機的な状況となったためナポレオンは密かにエジプトを脱出してパリに戻り、ブリュメール18日のクーデタで政権を握る。エジプトに残されたフランス軍は、1801年9月アレクサンドリアでイギリスに降伏した。
エジプトの変化:ナポレオンが遠征した時期のエジプト(アラブ人)は、トルコ人のイスラーム国家であるオスマン帝国の支配下にあり、エジプト太守(パシャ)がその統治していたが、実権は前代から続くマムルークが知事(ベイ)として分立し、まとまりがなかった。そのような状態でナポレオンの侵入を受けてたことによって、エジプトとしての民族意識が芽生え、ムハンマド=アリによるオスマン帝国からの独立運動が始まる。 → アラブの覚醒
ロゼッタストーンの発見:ナポレオンはエジプト遠征の際、多くの学者を伴っていた。そして一兵士によってアレクサンドリア近郊の砂漠の中からロゼッタストーンの発見という副産物を生んだ(ロゼッタは現地ではラーシード)。ロゼッタストーンは現地のフランス軍がイギリス軍に降伏したため、イギリス軍の手に渡り、現在は大英博物館に保管されている。
Epi. エジプト4000年の歴史・・・ ナポレオンがエジプト遠征でのピラミッドの戦いの際に、「兵士諸君、このピラミッドの上から、4000年の歴史が君たちを見下ろしている」と呼びかけたというのも有名。
アブキール湾の戦い1798年8月、エジプト遠征中のナポレオン率いるフランス艦隊が、ナイル河口のアブキール湾内に停泊中、ネルソン提督の率いるイギリス海軍が急襲しほとんど全滅させた戦い。ネルソン提督の名声を一段と高めた。この敗戦のためナポレオンはエジプトに釘付けとなり、翌年ようやく脱出できた。しかしその後も地中海の制海権はイギリスに握られ、海上ではトラファルガー海戦で再び敗れることとなる。
d 第2回対仏大同盟 第1回対仏大同盟に続く、二回目の対フランス包囲網を形成するための軍事同盟。1799年から1802年のアミアンの和約が成立まで。
結成ナポレオンのエジプト遠征に対してイギリスが硬化し、オーストリアなどに同盟を提唱。1799年3月12日、フランスがオーストリアに宣戦布告。
同盟国:オーストリア・イギリス・ロシア・オスマン帝国・ナポリ王国など。なおこの時、プロイセンはフランス大使シェイエスの働きで中立をとった。イギリス外務大臣グレンヴィル卿が中心にルイ18世の復活を中心とする対フランス政策が練られる。
主な戦闘:ナポレオンの第2次イタリア遠征、1800年のマレンゴの戦いでナポレオン軍が大勝。
解消:フランスはオーストリアとは1801年2月に休戦し、リュネヴィル条約でライン左岸を確保。イギリス国内にも講和派が台頭し、対仏強硬派のピットが辞任したため、1802年のアミアンの和約が成立し、第2回対仏大同盟は解消した。
e ブリュメール18日のクーデタ 1799年、ナポレオンが決行した総裁政府を打倒したクーデター(政変)。ナポレオンは統領政府の第一統領となり、独裁権力樹立の第一歩となり、同時にこれによってフランス革命は終わったとされる。ブリュメールとは革命暦の霧月のことで、ブリュメール18日は現行暦では11月9日に当たる。先月にエジプトから帰ったナポレオンは、総裁の一人シェイエス、警察大臣フーシェとクーデタを計画、元老議会でアナーキストの蜂起計画をでっち上げて防衛のために両院をサンクルーに移す事を提案、認めさせる。10日、軍隊の駐屯するサンクルーのオランジェリで五百人議会開催、議長はナポレオンの弟リュシアン。「独裁者を倒せ!」という議員の怒号に対し、兵士を議場に動員、議会を解散させ、臨時の三人の統領政府を樹立(ナポレオン、シェイエス、ロジェ=デュコ)、憲法改正の審議入りを宣言した。こうして、民衆の圧力に依って体制が替わるという「革命」は終わり、軍事クーデタで政体が変更される事となった。
 統領政府 1799年のブリュメール18日のクーデタによって成立した政体。正式には12月24日に布告された共和暦8年の憲法によって定められた。執政政府 Consulat とも訳される。三人の統領を置く。任期は第一・第二統領は10年、第三統領は5年。第一統領となったナポレオンは行政権を持ち宣戦講和権、陸海軍統帥権を持つ。第二・第三統領は諮問機関に近い。統領はまた法律と予算の発議権を持つ。立法機関は元老院・立法院・参議院・護民院の4つに分割された。選挙は普通選挙の形式を残したが、間接的なものであった。人民投票をへなければならないという規定であったてそれ以前の12月24日実施された。人民投票の結果は賛成300万、反対1500。ナポレオンの軍事独裁の第1歩となった。<井上幸治『ナポレオン』 岩波新書 p.69>
a ヨーロッパ各地に革命の理念を”輸出”  
b コンコルダート 宗教和約、宗教協約ともいい、カトリック教会(その頂点としてのローマ教皇)と世俗の政治権力の間で結ばれる協定のこと。叙任権闘争におけるヴォルムスの協約もその例である。特に、フランス革命後、対立したフランス政府とローマ教会の関係を修復させた、1801年のナポレオンとローマ教皇ピウス7世のコンコルダートが有名。
ナポレオンのコンコルダート:1801年7月15日、執政官ナポレオンと、ローマ教皇ピオ7世の間で締結された修好条約。これによってフランス革命以来断絶していたカトリック教会とフランスとの関係が修復された。フランスはカトリックを国民の大多数の宗教として認め、カトリック側は司教の任命権をフランスの主権者の手に与えることを認めた。以後、カトリック教会はフランス社会での大きな影響力を回復し、ナポレオン没落後の復古王政でも王権を支える勢力となる。しかし、カトリック内部にもイエズス会とジャンセニズム(17世紀オランダのヤンセンがはじめ、フランスに広がった、教皇の権威よりも神の恩寵を重視する信仰)や、ガリカニスム(ローマ教皇庁からフランスの教会の独立を主張する勢力)などの対立もあり、18世紀後半には政治や教育への宗教の介入を否定する動きが強まり、1905年の政教分離法でコンコルダートは破棄されることになる。
c アミアンの和約 1802年に締結されたナポレオンのフランスとイギリスの間の講和条約。フランスは1799年にナポレオンがエジプト遠征を実行し、イギリスおよびオーストリアとの戦闘を再開させていた。1801年2月にオーストリアと休戦し、ライン左岸の確保(リュネヴィル条約)に成功、その後の大陸政策をロシアとの提携を基軸にしようとしたが、3月にロシアのパーヴェル1世が暗殺されたため、イギリスとの講和をはからなければならなくなった。またイギリスではピットに替わったアッディントン内閣が、王党派援助が効果がないこと、ナポレオンとの敵対のためヨーロッパ市場からしめだされていること、国内の労働運動が激化していることなどから、フランスとの講和を決意、1802年3月アミアンの和約となった。イギリスはオランダ領セイロン、スペイン領トリニダードを保留し、フランスのイタリア、ライン左岸、ベルギーの領有を認めた。また、アミアンの和約の成立によって、第2回対仏大同盟も解消された。
d ハイチ  
d フランス革命の成果の定着をはかる  
e フランス銀行 1800年2月13日、第一統領ナポレオンの支持のもと、ペレゴーらパリの大銀行家が総裁政府時代の振替銀行を拡大・改組して設立。当初は銀行券発行、手形割引、預金を業務とする私立銀行であったが、03年4月14日法によってパリに於ける発券独占権を与えられ、中央銀行となる。ボナパルト一家やシェイエスが大口投資家となった。
f 公教育制度  
g 民法典(ナポレオン法典) 第一統領のもとに四名の起草委員会を設け、ナポレオンも参加して審議。彼はユスチニアヌス法典を貧乏小尉のころ読破し、その章句を引用して委員を驚かした。1800年8月から審議、1803年から1章ずづ議決し、1804年3月に36章の公布が終了。 所有権を中心とする封建的秩序に対するブルジョアジーの勝利を確定させる。土地の質権、抵当権を承認、均等分割相続を規定。家族を尊重、家長の位置を高める。その他、法の前の平等、国家の世俗性、信仰の自由、労働の自由など、革命の遺産を固定。 この理念はナポレオンの征服戦争と共に、ヨーロッパに拡大される。初め「民法典」、後1852年に「ナポレオン法典」となる。<井上幸治『ナポレオン』 岩波新書 P.96>
 第一帝政 フランスの1804年5月から1814年4月までの、ナポレオン1世による皇帝支配の時期。ナポレオンの百日天下(1815年3月〜6月)も入るが、実質的には1914年4月で終わり、ルイ18世のブルボン朝が復活して「復古王政」の時期となる。 
a  ナポレオン1世
1804年、ナポレオンが皇帝となってからの称号。
ナポレオン1世の戴冠式:「革命暦12年フロレアル28日の元老院令」で決議。共和国政府は世襲皇帝ナポレオン・ボナパルトにゆだねられた。国民投票は形式に過ぎなかった。12月2日、ノートル−ダム寺院で戴冠式が行われた。シャルルマーニュはローマに行って儀式を行ったが、ナポレオンは教皇ピオ7世をパリに招いた。しかも教皇の手で加冠されることになっていたのに、その瞬間彼は帝冠を取り上げ、自分で頭上にのせた。さらにひざまずくジョセフィーヌに冠をおいた。教皇は不興げな表現で見ている。」<井上幸治『ナポレオン』 岩波新書 P.108> 
図解:ナポレオンの戴冠式 1804年12月2日のナポレオンの戴冠式を描いたダヴィドの作品。これはダヴィドの代表作としてよく知られているもので、中央にナポレオンがジョゼフィーヌに皇后の冠を授けようとしている。すでにナポレオンは帝冠を戴いているが、それも自ら頭に載せた。本来ローマ教皇から授けられるべき帝冠を自ら戴いたことはローマ教皇にとって屈辱であった。右手に座っているのが教皇ピオ7世。ダヴィドはフランス革命期に活躍した画家で、ロベスピエールに心酔していたためにテルミドールのクーデターでは捕らえられ入獄した。ナポレオンが台頭するとその専属画家に採用されさまざまな記録的な絵画を残した。
Epi. ベートーベン、第三交響曲の献辞を破棄 ナポレオンの1歳年下で、同世代の作曲家ベートーベンは、ナポレオンを革命の理念である自由と平等を実現する英雄であると考え、賛美する第三交響曲の作曲を進めていた。しかし、ウィーンでナポレオンの皇帝即位の方に接し、ナポレオンへの献辞を記した最初のページを破り捨てた。完成した交響曲はその力強い曲調から、人々から『エロイカ(英雄)』と呼ばれるようになった。
オ.ナポレオンの大陸支配
 ナポレオンの大陸支配  
a ピット  → ピット 
b 第3回対仏大同盟 1805年に結成された、対フランスの包囲網を形成する軍事同盟。第1回(1793〜97)、第2回(1799〜1802)に続く第3回。
結成:ナポレオンが皇帝に就任(1804年)し、ヨーロッパ大陸支配を明確にしたことに対して、イギリスの首相ピットが結成を呼びかけた。
同盟国:イギリス・オーストリア・ロシア・スウェーデン。第2回と同じく、プロイセンは加盟せず、中立を守った。
主な戦闘:1805年10月のトラファルガーの海戦(イギリス海軍がフランス・スペイン連合海軍を破る)、同年12月のアウステルリッツの三帝会戦(ナポレオンのフランス軍が、オーストリアとロシアの連合軍に大勝)。
解消:アウステルリッツの戦いの講和条約であるプレスブルク条約が成立し解消された(プレスブルクは現在のブラティスラヴァ)。 
c トラファルガーの海戦 「1805年10月21日、スペインのカディス港の南、トラファルガー岬沖で、ヴィルヌーヴ指揮のフランス・スペイン連合艦隊は(トゥーロンからドーヴァーに向かう途中)、ネルソン指揮のイギリス艦隊に捕捉され、カディス港に追い込まれた。地中海に逃れようとしたとき、ネルソンとコリンウッドの艦隊が現れ、再びカディスに逃避しようとしたが間に合わず、砲火を交え、33隻のうち3分の1の艦と水兵約六千九百を失った。イギリス側はネルソンが戦死したが一隻の損失もなく圧勝した。この戦いによって、ブーローニュにイギリス上陸部隊15万を終結させていたが作戦を放棄しなければならなくなった。 」<井上幸治『ナポレオン』岩波新書 P.117>
d ネルソン提督  
e アウステルリッツ三帝会戦 1805年、ナポレオンのフランス軍が、オーストリアとロシアの連合軍を破った戦い。フランス皇帝ナポレオン1世・オーストリア(神聖ローマ皇帝)フランツ2世・ロシア皇帝アレクサンドル1世の三人の皇帝が会した戦争だったので三帝会戦という。ナポレオンの勝利に終わり、フランスはヨーロッパ内陸に大きな支配権を獲得した。
1805年10月のトラファルガー海戦ではフランス海軍はネルソンの率いるイギリス海軍に大敗し、イギリス侵攻の実現は遠のいたが、陸上の戦闘でのフランス軍の強さは依然として絶大なものがあった。この同年12月2日のアウステルリッツの三帝会戦は、ナポレオンの数ある勝利の内でも最も重要で、華々しいものであり、その大陸支配を決定づける勝利であった。なお、アウステルリッツは現在のチェコの東部、ブルノの近郊。12月23日にプレスブルク(現在のスロヴェニアの首都ブラチスラバ)で講和条約が締結されオーストリアはイタリアの権益を放棄し、第3回対仏大同盟は1年持たず解消した。
Epi. 近代的大会戦の最初 「1805年10月20日、ウルムの戦いでオーストリア軍を破ったナポレオンは、11月13日、ウィーン入城を果たす。オーストリアのフランツ2世(神聖ローマ帝国皇帝)はオルミュッツでロシア皇帝アレクサンデル1世・クトゥゾフ将軍と合流。ナポレオンがウィーンの北のブリュンに進出するとアレクサンデルはナポレオンとウィーンの連絡を断とうと、アウステルリッツに司令部を移動、大会戦となった。露軍は7万2千、墺軍は1万4千、仏軍は7万。午後2時、フランス軍は敵の中央突破に成功。露・墺軍の死傷者2万6千、仏軍9千で終了。近代的大会戦の最初。」<井上幸治『ナポレオン』岩波新書 P.119 、 『戦争と平和』第1部第3編(岩波文庫1−P.470〜563)にも詳しい> 
f ライン同盟 1806年7月、ナポレオンを盟主として、ドイツの南西部の16諸邦が結成した同盟。ライン連邦とも言う。この諸邦が神聖ローな帝国を離脱したため、神聖ローマ皇帝フランツ2世は帝位を退き、名実ともに神聖ローマ帝国は消滅した。
1806年7月12日、最初のライン同盟参加国はバイエルン、ヴュルテンベルク、レーゲンスブルク、バーデンなど16ヵ国。1807年のティルジット条約成立後、中部・北部の諸邦も加盟した。ライン同盟はナポレオンが、プロイセンとオーストリアを牽制するために結成を促したもので、実質はその傀儡政権にすぎず、国家主権は認められたが、戦時にはナポレオンに対し兵力6万3千を出すこととなっており、ナポレオンのロシア遠征にも出兵した。しかし、そのロシア遠征に失敗してナポレオンが急速に力を失った1813年にライン同盟も消滅した。
g 神聖ローマ帝国の消滅 1806年、ナポレオンによってライン同盟(ライン連邦)が結成され、ドイツ南西部の16の諸邦が神聖ローマ帝国を離脱したことを受けて、ウィーンにいるハプスブルク家のフランツ2世が皇帝を退位し、神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。オットー大帝の即位(962年)から数えれば、844年目にあたっていた。神聖ローマ帝国はすでに1648年のウェストファリア条約(「神聖ローマ帝国の死亡診断書」といわれた)によって実質的な国家機能を失い、プロイセンやオーストリアの二大国をはじめ、バイエルン、ハノーヴァーなどの領邦(ラント)が分立していたが、名目的な皇帝の地位はなおもハプスブルク家が継承し、この時期まで続いていた。なおフランツ2世はオーストリア皇帝としては続いており、宰相メッテルニヒに補佐され、オーストリア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、北イタリアなど広大な領土を維持している。 
h イエナの戦い  
 大陸封鎖令 1806年11月21日、ナポレオン1世ベルリンベルリンで制定し、各国に強制した勅令(皇帝の命令)。ベルリン勅令ともいう。前文でイギリスの国際法無視などを非難、本文11条でイギリスの経済封鎖を宣言。占領地域にあるすべてのイギリス人は戦争捕虜とし、かれらの倉庫、商品を没収する。イギリス本国・植民地から来るあらゆる船は、寄港させない。もし寄港するならば船体と積み荷を没収する。と言うものであるが、次のような矛盾がある。
 1.フランス産業が大陸市場を独占することとなり、従属国を搾取することとなった。
 2.貿易商人と産業資本家の利害が対立することとなった。
 3.農業国であるロシア・ポーランド・プロイセンなどが穀物をイギリスに輸出し工業製品を輸入するという構図があった。<井上幸治『ナポレオン』 岩波新書 P.134>
ロシアは、フランスとの間でティルジット条約を締結し、大陸封鎖令を遵守することを約束するが、実際にはイギリスへの穀物輸出を続けていた。イギリスからの工業製品が入らなくなると困るからである。ナポレオンはそのようなロシアの違約を非難して、制裁のため1812年にロシア遠征軍を起こすが失敗し、没落の第一歩となる。結局、ナポレオンはイギリスに対する経済制裁という無理な手段をとったため、ロシアの離反を招き、大陸支配に失敗したと言える。 
a ベルリン  → ベルリン
b イギリス  
c 産業革命  
 大陸支配の完成  
a ティルジット条約 ナポレオン1世のフランスが、1807年7月7日に対ロシア、9日対プロイセンとの間で締結した条約で、ナポレオンの大陸支配を完成させた。このようやくでロシア、プロイセンはワルシャワ大公国を承認し、ロシアはダンチッヒを自由市とすることを認めた。また、ロシアはナポレオンの兄ジョゼフのナポリ王、弟ルイのオランダ王、ジェロームのヴェストファーレン王を承認し、大陸封鎖令に従うことを約束した。プロイセンは賠償金を支払い、エルベ以西を失い、軍事的占領状態におかれることとなった。
ウェストファリア王国  
b ワルシャワ大公国 18世紀末のオーストリア、ロシア、プロイセンの三国によるポーランド分割の結果、ポーランドは国家としては消滅してしまった。1806年、イエナの戦いでプロイセン軍を破ったナポレオンは、プロイセン領の旧ポーランドにワルシャワ大公国を建設、翌1807年にティルジット条約と結び、プロイセンに承認させた。ワルシャワ大公の地位はザクセン公が兼ねた。このワルシャワ大公国は、ナポレオン没落後のウィーン議定書において消滅し、その大部分はポーランド立憲王国となって実質的にロシアの支配を受け、一部はプロイセン領となった。 
 ポルトガル征服 ポルトガルは、スペインによる併合の後、1640年に「再独立」したが、その後はイギリスへの経済的従属が強くなっていた。ナポレオンは大陸封鎖令の翌年の1807年7月、イギリスと結んでいたポルトガルに対して、そのすべての港をイギリスに使用させないよう要求した。ポルトガルがそれを拒否すると、11月にジュノー将軍の率いるフランス軍が侵攻し、リスボンを占領した。その寸前に、ポルトガル女王マリア1世と王族と貴族、高級役人とその家族ら、1万5千人ほどがイギリス海軍の保護のもとに植民地ブラジルに避難した。その結果、ポルトガルは1808年から14年間はブラジルのリオ=デ=ジャネイロが首都となった。本国ではイギリス軍に支援されたポルトガル軍がフランス軍に抵抗を続け、次第に国民国家形成への動きが強まった。ナポレオンが倒れた後の1821年にジョアン6世はリスボンに帰り、ポルトガル王国をイベリアに戻した。これを機にブラジルは独立することとなったため、大西洋をまたいだポルトガル王国は消滅し、その海外領土はアフリカのアンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウとインドのゴア、中国のマカオなどのみとなった。
c スペイン征服 ナポレオンはトラファルガー海戦でイギリスに敗れると、イギリスに荷担したポルトガルを、スペインと分割することにし、スペインに認めさせた。1807年、ナポレオン軍がポルトガル侵略を開始すると、ポルトガル王室はイギリス海軍の助けを得てブラジルに脱出した。スペインでもナポレオン軍を迎えて宮廷が分裂し、1808年3月に宮廷革命を進める一派がカルロス4世を幽閉した。ナポレオンはスペイン宮廷の内紛に乗じて、実兄のジョセフ=ナポレオンをスペイン国王に据えてしまった。スペインでは直ちに抵抗運動が始まり、スペインの反乱が展開された。1812年にはカディスで国民議会が開催され、憲法を定めて君主制を否定し共和政として独立することをめざした。しかし1814年にイギリスの支援を受けたスペイン王室がナポレオン軍を撤退させ、フェルナンド7世が復帰すると、カディス憲法を廃棄し、絶対王政を復活させた。この本国の混乱から、中南米のスペイン植民地が次々と独立運動を開始することとなった。
d ハプスブルク家  
 民族意識の発芽  
a スペインの反乱  
b ゴヤ Francisco de Goya 1746〜1828 スペインの画家。ロココ美術の末期にあたり、繊細な自然の光を多用した明暗に富む作風をもつ。1789年にスペインのカルロス4世の宮廷画家となり国王一家の肖像画を描いた。その生涯も明暗二つの部分に分けられ、前半生の明るい行動的な放蕩者が、後半生では陰鬱で残酷なまでの人生の観察者に変貌している。それは中年になってからのアルバ公夫人との恋だけではなく、若い頃の放蕩の報いか、40代半ばに聴力を失ったことによる。それまで外面に向けられていたゴヤの眼が、人間の心の内に向けられるようになった。傑作と言われる二点の『マハ』、『気まぐれ(カプリチョス)』、ナポレオン軍の残虐行為を描いた『1808年5月3日』や、版画集『戦争の惨禍』などはいずれも後半生のものである。
Epi.  『裸体のマハ』と『着衣のマハ』 ゴヤの最も有名なこの二作は、現在はマドリードのプラド美術館にある、この二作は同じ女性モデルが横になったいるがひとつが裸体でひとつが着衣である。これはゴヤの愛人であったアルバ公夫人をモデルにしていると言われてきた。愛人の裸の姿を描いているとき、二人の間を疑うアルバ公が不意にアトリエに訪れたときのために、着衣の作品も用意していたというのである。ただしこれは伝説にすぎず、マハはスペイン語で「伊達女」というほどの意味でアルバ公夫人とは関係がない。この作品は1800年頃の作と考えられるが、そのころはアルバ公はすでに死去している。しかしゴヤとアルバ公夫人が深い仲であったことは確かで、別なアルバ公夫人の肖像画の指輪には「ゴヤただひとり」と書き込まれている。また『裸体のマハ』は、スペインで初めて、神話ではない本当の人間の女性の裸体を描いた絵画であった。<高階秀爾『名画を見る眼』岩波新書 p.123-133>
a 『1808年5月3日』
 
c プロイセン改革1807年から20年代初頭までの、プロイセン王国における国制の近代化を目指す改革。シュタインとハルデンベルクによって指導され、農奴解放などの近代化政策と、教育改革・軍政改革などの「上からの改革」が進められ、プロイセンの一定の近代化を実現したが、ウィーン体制下の保守勢力の抵抗もあって不十分な面も残った。
背景:ナポレオンとの戦争に敗れて締結したティルジット条約はプロイセン王国にとって「ティルジットの屈辱」と言われ、敗戦の原因として国内の封建的な体制を改め、フランスに倣った国民国家をドイツに実現することが急務とされた。
改革の内容:あいついで首相を務めたシュタイン(在任1807〜08年)とハルデンベルク(在任1810年〜22年)によって、農民解放令による身分制改革、内閣制の確立などの行政機構改革、都市自治の拡充などの地方行政改革、営業の自由・国内関税の廃止・税制見直しなどの経済性改革などが進められた。並行して、シャインホルストとグナイゼナウによる傭兵制から国民皆兵制への軍政改革、フンボルトによる教育改革などの一連の改革が推進された。
成果と限界:これらの改革によって、プロイセンは近代的な国民国家としての枠組みと資本主義経済成立の前提としての自由経済体制が、一応できあがり、19世紀後半のドイツ統一への準備ができたということができる。しかしこの改革は、「はじめにナポレオンありき」と言われたとおり、外的要因によって「上からの改革」として打ち出されたものであった。その結果、貴族・ユンカー階級は解体されず、身分制社会の枠組みは温存され、議会制度も憲法も生み出されなかった。
「ドイツ国民」の創出:「シュタイン・ハルデンベルク改革」を中心とした一連の「プロイセン改革」は、ドイツの統一を実現するまでにはいたらなかったが、ドイツの国民意識を喚起することとなった。この改革のさなかにベルリンで行われた哲学者フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』という連続講演は、ドイツ人の愛国心を呼び起こし、統一への道筋をつけることとなった。
d シュタイン 「帝国騎士」といわれる神聖ローマ帝国皇帝直属の貴族に生まれ、プロイセン国王に招へいされ、1806年に首相となり、「プロイセン改革」(シュタイン・ハルデンベルク改革)を主導した。就任直後に「十月勅令」を発布して農民解放を行い、領主(土地貴族)と農民の人格的隷属関係を廃止した。さらに翌年、「都市条例」を制定して市会議員の公選制などを認め、中央行政では大臣の合議制による閣議を再考決定機関とした。シュタインの改革に並行して、シャルンホルスト・グナイゼナウ・クラウゼヴィッツら革新派軍人による軍政改革も行われ、またベルリン大学でフィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」の連続講演も行われた。
Epi. シュタインの解任とその後 こうして改革機運がもちあがったが、国王周辺の貴族保守派はシュタインを「不正官僚」と非難し、シュタインは反ナポレオンの挙兵を計画しているという密告がナポレオンにもたらされたため、ナポレオンの怒りを買い、1808年国王によって解任されてしまった。シュタインはオーストリアに亡命後、ロシア皇帝アレクサンドル1世に招かれてロシアに赴き、その信任を得て対仏作戦の助言者となった。改革派の軍人クラウゼヴィッツもロシアに亡命し、有名な『戦争論』を書いた。1812年、ナポレオンがロシアに遠征したとき、シュタインはフランス遠征軍に駆り出されたドイツ人部隊に檄文を送り、「征服者のためにロシア国境までかりだされたドイツ人諸君、隷属の旗を捨てよ! 祖国、自由、国民的名誉の旗のもとに集まれ!」と呼びかけた。この呼びかけに応じて投降した兵士を加えてロシア=ドイツ軍団が結成され、ナポレオン軍と戦った。ナポレオン撤退後、シュタインはプロイセン国王にすすめてロシアとの同盟条約を成立させ、ナポレオンからの解放を成就させた。しかし、ウィーン会議ではドイツの統一と自由は認められず、シュタインのナショナリズムは実現しなかった。政治に幻滅したシュタインは引退して、ドイツ史研究を志し、史料の集成に努力し、『ドイツ史資料』総数200巻を編纂した。<『世界の歴史』10 中央公論社旧版 p.435-438>
e ハルデンベルク プロイセンの政治家で、シュタイン辞任後に1810年から首相となり、プロイセン改革を継承した。彼はハノーヴァーの名門貴族の出身であったが、フランス革命の開明的な部分を評価し、プロイセンの近代化を推進した。特に、営業の自由・国内関税の撤廃など経済の自由化に成功した。しかしその改革はあくまで「上からの改革」であり、土地改革・経済改革も結果的にユンカー階級の経営を拡大することとなった。 
f 農民解放 1806年からのプロイセン改革の中心的施策で「十月勅令」ともいう。首相シュタインが着手し、その追放後はハルデンベルク首相が政策を継承した。プロイセンで伝統的に続いていた領主(グーツヘル)による農民に対する人格的束縛(農民は移動や土地の売買の自由が無く、自分の息子を三年間領主の奉仕させる義務があった、など)を廃止しし、農民を農奴的な束縛から解放して、職業選択・移住・結婚・土地取引などの自由を与えるものであった。農民の領主に対する地代は、保有地の三分の一ないし二分の一を領主に返還することによって解消し、残余地の所有者となれるとした。領主の農民保護義務も廃止されたが、領主裁判権と警察権は実質的に保持したので、その地位を維持することとなった。その結果、この改革によって自由な土地所有者となれたのは上層部の農民にとどまり、かえって領主は没落した農民の土地を併合して大農場経営や工業経営に乗りだし、ユンカーとして経済力を強めることとなった。 
g フィヒテ  
 ロシア遠征の失敗  
a ロシア遠征 1812年5月、ナポレオン1世が40万の軍を率いて行った大遠征。「モスクワ遠征」ともいう。ロシアのアレクサンドル1世が、ナポレオンの出したベルリン勅令に反して、イギリスに対する穀物輸出を続けていることに対する制裁が口実であった。ナポレオン軍は9月にモスクワに入城したが、ロシア軍のクトゥゾフ将軍は退却戦術をとってモスクワに火をつけ、ナポレオン軍の糧道を断った。そのためナポレオン軍は退却することとなり、ロシアの「冬将軍」と言われる厳しい冬の寒気に悩まされ大きな犠牲を出し、遠征は失敗に終わった。
「1810年12月、ロシアのアレクサンドル1世は関税改革を行い、フランス商品の輸入に重税をかけた。対ロシア戦争は避けられない情勢となったが、フランス国内では経済危機で失業者の増加、不作のため食糧高騰、財政悪化などのためすぐに遠征軍を派遣できず、ようやく12年になって、2月プロイセンとの、3月オーストリアとの同盟を成立させ、5月9日、ナポレオンはサン−クルー宮殿を出発。フランス兵30万、ドイツ兵18万、ポーランド兵9万など混成部隊であった。9月上旬、クトゥーゾフのロシア軍とボロディノで会戦、ロシア軍は半数を失って後退、9月16日ナポレオン軍がモスクワに入城。」<井上幸治『ナポレオン』岩波新書 P.169>
b モスクワ入城 トルストイの『戦争と平和』に描かれたナポレオンのモスクワ入城の情景は次のようなものである。
「9月2日、モスクワではフランス軍をくい止めて戦うことは出来ないと判断したクツゥーゾフは、軍のリャザンへの撤退を命じる。翌日フランス軍がモスクワにはいる。先遣隊は無人のモスクワに驚愕、ロシア人貴族との交渉に意気込んでいるナポレオンを「滑稽な(リディキュール)な状態においてしまうことを重臣連中は恐れる。結局モスクワが空であることを知ったナポレオンは「モスクワが空だ。実にありうべからざる出来事だ。」とひとりごちる。(P.504-513)モスクワ総督ラストプチンがモスクワ放棄直前に行ったヴェレシチャーギン(ナポレオン賛美のビラを撒いた)処刑したことが述べられている。(P.539-542)モスクワ炎上はどちらの手によるものではないこと。」<以上トルストイ『戦争と平和』第三部第三編 岩波文庫V P.553-554>
c 『戦争と平和』   
d 第4回対仏大同盟 ナポレオンのロシア遠征失敗の後、1813年にフランスを包囲するために結成された軍事同盟。対仏大同盟としては一般に第4回とされるが、厳密には第1回(1793〜97)、第2回(1799〜1802)、第3回(1805)に次いで、1806年の神聖ローマ帝国解体に対応して、イギリス・ロシア・プロイセンで結成されたものを第4回(1806年〜イエナの戦いの後の1807年、ティルジット条約で解消)、スペインの反乱を機に、1809年にイギリス・オーストリア間で結成されたものを第5回(ワグラムの戦いの後のシェーンブルンの和約で解消)とする場合もあり、その場合はこの1813年の同盟は第6回となる。なお、1815年にエルバ島を脱出したナポレオンがパリに帰還すると、それに対抗するために対仏大同盟が再建され、それを第7回と数えることもある。ワーテルローの戦いでナポレオンが敗北したため、対仏大同盟は終結する。
結成と同盟国:1813年、ナポレオンがロシア遠征に失敗したのを機に、イギリス・オーストリア・プロイセンなど、デンマークを除くヨーロッパ諸国が加盟。フランスのヨーロッパ大陸支配を覆すための戦争に起ち上がった。
主な戦闘と解散:1813年3月に各地で解放戦争を開始、10月のライプチヒの戦い(諸国民戦争)でナポレオン軍を破り、連合軍がパリ入城。1814年4月、ナポレオンは退位して大同盟が成功し、解散。その後、ナポレオンのパリ帰還を受けて再開されたものを対仏大同盟という場合もある。
 解放戦争の展開  
a ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)  
b エルバ島 地中海のイタリア半島西岸近くにある小島で、1814年に退位したナポレオンが移住した。ナポレオンは翌年2月、島からでてパリに帰還する。
「(1814年)4月4日エルバ島の所有を認めらて退位の調印。エルバ島はコルシカ島の東50キロ、面積は220キロ平方、三つの小さな村落があり、ポルト−フェラヨが港のある中心地。ナポレオンはこの島で主権を握り、道路を造ったり、鉱山を探したり、狩をしたり単調な生活を送った。 1815年2月26日、ナポレオンは千名足らずの兵をつれてポルト−フェラヨを出発、3月1日にカンヌとアンティブ両市のあるサン−ジョアン湾に上陸した。」<井上幸治『ナポレオン』 岩波新書 P.189>  
c ルイ18世 フランス革命で処刑されたルイ16世の弟でプロヴァンス伯といった。ルイ16世が逃亡に失敗した後、パリを逃れて各地で亡命生活を送る。ドイツのコブレンツなどの亡命貴族(エミグレ)を反革命に組織しフランス復帰を策した。ドイツのウェストファリア地方の小都市ハムに移った後、1793年1月、ルイ16世が処刑されたことで、パリに幽閉されているその王子をルイ17世とし、自らは摂政を称した。その後、フランス帰還を狙ってイタリアに赴き、ヴェローナに拠点を構え、ルイ17世の死去に伴いルイ18世を名乗った。しかしナポレオンのイタリア遠征によってヴェローナを退出し、その後1798年からロシア(エカチェリーナ2世が96年に死去し、パーヴェル1世に代わる)の保護を受けたが、フランスでナポレオンが台頭し、ロシアもティルジット条約を締結したため、ロシアを退出し、その後はポーランドやイギリスを転々とする亡命生活を送った。1814年にナポレオンが没落し、ようやくフランスに帰還し、正式にルイ18世として即位し王政復古を実現させたときはすでに60歳になっていた。翌年、ナポレオンがエルバ島から帰還すると、ベルギーに逃れ、再び亡命生活となったが、百日天下に終わったため、まもなくパリに戻った。
ルイ18世の復古王政は、1814年に王が定めた憲章(シャルト)に基づき、所有権の不可侵や法の下での平等や出版の自由などは認められ、世襲議員による貴族院と制限選挙制による下院からなる二院制議会が設けられ、立憲君主政の形態をとっていた。しかし、王の周囲で復活した貴族たちは、「国王よりも王党派的」な「ウルトラ」とわれる保守派が大勢を占め、さまざまな形で共和派や旧ナポレオン派に対する粛清が行われた。1824年にルイ18世が死ぬとその弟のアルトワ伯が即位しシャルル10世となると、より積極的な絶対王政の復活が進められる。
d ウィーン会議  → ウィーン会議
e ワーテルローの戦い エルバ島を脱出してパリに帰還したナポレオンが、再起を期して1815年6月、イギリス・プロイセンなどの連合軍と戦った戦争。ワーテルローは現在のベルギーのブリュッセル郊外の村。イギリス軍を率いたのがウェリントン将軍。
「ウェリントン率いるイギリス軍は高地に陣を張り、正確な射撃で抵抗した。ナポレオンにとって不幸なのは、早朝の雨は平原をどろ道として、砲車の運動をさまたげた事である。ナポレオンは援軍を待ったが、その前にプロイセン軍のブリュヒャーの前衛ビューローがフランス軍の側面をとらえ、圧力を加えられ、最後に近衛騎兵に強襲をかけさせたが失敗、パニックが広がって総崩れになった。」 <井上幸治『ナポレオン』 岩波新書 P.193-4>
Epi. ユーゴーのみたナポレオンの敗因 ヴィクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』第2部コゼットの第1編に「ワーテルロー」に、詳しい戦闘の経過・状況・論評がある。早朝からの雨で、砲兵が活動できず、プロイセン軍ブリューヘルの援軍を間に合わせてしまった、という見方はユーゴーもしている。ナポレオン軍の胸甲騎兵が突撃して大活躍するが、現地の状況を案内した農民ラコストの虚言によって、オーアンの凹路を見誤り、多数がそこに落ち込んでしまい、敗戦の一因となった。一方のブリューヘルは牧者の少年の適切な教示で迅速に戦場に到達できた。そこにナポレオンが敗れるべき運命をユーゴーは見いだしている。<ユーゴー『レ・ミゼラブル』第2部 岩波文庫>
なお、文学作品で描かれたワーテルローの戦いには、スタンダール『パルムの僧院』の冒頭の部分がある。こちらは、若いひとりの兵士から見た戦場の情況(したたかに戦場で商売をしている従軍酒保の女など・・・)が描かれている。<『スタンダール全集2 パルムの僧院』生島遼一訳>
ウェリントン  
f セント・ヘレナ島 ワーテルローの戦いに敗れたナポレオンが流された、南半球の大西洋にある孤島。ナポレオンは1814年年からこの島で幽閉され、1821年5月5日に死去した。
「(1814年))7月3日、パリ開城。ナポレオンはアメリカに亡命するつもりであったが、ロシュフォール港で英艦ベレロフォンに身を投じたが、イギリスの指令はセント−ヘレナ島への流刑という事で軍艦ノーザンバーランドにうつされ、2カ月の航海の後、セント−ヘレナ島についた。同行者はベルトラン元帥夫妻、モントロン将軍夫妻、グールゴー将軍、ラス=カーズ父子、の他、医師と使用人。島の東岸のロングウッドで5年間すごす。監視役はセント−ヘレナ総督ハドソン=ロー。ラス=カーズの『セント・ヘレナの回想』(1822)がある。1821年5月5日、ガンのため死去。」<井上幸治『ナポレオン』岩波新書 P.195>  
g ナポレオンの百日天下 エルバ島を脱出し、パリに帰還したナポレオンが帝政を復活させた1815年3月から、ワーテルローの戦いで敗れて再び退位する6月までのほぼ100日間をいう。百日天下に終わったナポレオンはセントヘレナ島に流される。