第7章 諸地域世界の交流
1.陸と海のネットワーク
ア.草原の道
a 草原の道ユーラシア大陸の北緯45°〜55°付近に東西に広がる草原(ステップ)地帯である、南ロシアの草原地帯、カザフ草原、アルタイ山脈沿いの地帯、モンゴル高原をつなぐルート。古来、このルートは、東西交流の場となった。スキタイ、匈奴、鮮卑、突厥、ウィグル、モンゴルなどの遊牧国家が興亡し、フン族やモンゴルのヨーロッパ侵入のルートとなった。
b オアシスの道(シルクロード)ユーラシア大陸の北緯30°〜45°に添った、乾燥地帯に点在するオアシス都市を中継する東西貿易のルート。古くから、西方世界では珍しい東方の絹織物(シルク)を始めとする産物がもたらされたので、シルクロードとも言う。この地域には多くの遊牧国家が興亡した。また西方からのアレクサンドロス大王の遠征、東方の漢の武帝時代の張騫の派遣などの後、イラン系ソグド商人の活動が活発となった。次いで6世紀以降はトルコ系民族の活動が活発となり、13世紀にはモンゴル人による大遊牧国家が成立した。
「シルクロード」の名称は、19世紀末のドイツの地理学者リヒトホーフェンが言い出したものである。ただし、実際にシルクロードという道路があるわけではない。またこの陸上ルートが活発であったのは、7〜8世紀までで、ほぼ8〜9世紀以降は、イスラーム商人や中国商人による海の道(海上交通路)が主となっていく。
c 海の道 東西貿易は陸路だけではなく、早くから海上貿易も盛んだった。特に8世紀以降西アジアにイスラーム教が起こると、イスラーム商人(ムスリム商人)の紅海、アラビア海での活発な海上貿易活動が始まる。11世紀以降になると宋や元などの中国の経済力が高まり、中国商人が東南アジアからインド洋に進出し、ムスリム商人と取引をした。また東南アジアからインド、アラビア海沿岸にはいくつかの港市国家が繁栄していた。これらの海洋を利用した船による東西貿易は「海のシルクロード」といわれ、最近は沈没した貿易船の引揚げなども進み、注目されている。
イ.オアシスの道
絹馬貿易けんばぼうえき。農耕民の漢人側が絹・綿・茶など、遊牧民の匈奴側が馬・羊などとをそれぞれ交換する交易のことで、漢代以降中国辺境に市が立てられた。両者を仲介したのが中央アジアで広く活動していたソグド商人であった。
天山北路 
天山南路 
西域南道 
ウ.海の道 
a ギリシア系商人 ギリシア人は、地中海での植民活動以来、海上貿易に従事することが多かった。地中海ではフェニキア人と交易や植民活動で競合し、ペルシア戦争やポエニ戦争の背景でもあった。ローマ帝国が地中海域を支配してからもギリシア人の交易活動は地中海から紅海、アラビア海方面進出し、季節風貿易に従事した。現在でもギリシアは有数の海運国家である。
『エリュトゥラー海案内記』1世紀にエジプトを拠点として活動していたギリシア系商人が、紅海・アラビア海の貿易事情を記録した書物。ローマ帝国とインドの間で行われた季節風貿易の実態がわかる重要史料とされている。「ティナイ」という名で中国が西側史料に初めて現れる。
b ムスリム商人  → 第5章 2節 ムスリム商人 
ペルシア湾ルート 8世紀からムスリム商人によって開かれた東西貿易のルート。アンティオキア−バグダード−バスラの陸上ルートと、ペルシア湾−アラビア海をつなげ、遠くインドの胡椒や綿織物、東南アジアの香料、中国の陶磁器や絹織物がもたらされ、レヴァント貿易(東方貿易)でイタリア商人と交易された。
紅海ルート 969年にファーティマ朝が建設したエジプトのカイロが、アッバース朝の衰退によってバグダードに変わってイスラーム世界の政治・文化の中心となると、東西交易もカイロを拠点としたカーリミー商人が活躍するようになった。アイユーブ朝・マムルーク朝で保護されたカーリミー商人の活躍で、東西交易ルートも従来のペルシア湾ルートから紅海ルートに変わった。ダウ船を使ってアラビア海を横断してアデンに運ばれた物資は、そこから紅海に入り、ナイル川に近い地点で陸揚げされ、ナイル川を下ってカイロにもたらされ、アレキサンドリアで地中海交易圏との交易が行われた。
c 中国商人 8世紀以降にムスリム商人のダウ船を使ったアラビア海を中心とした海上貿易が盛んになった。次いで10世紀後半から11世紀に、宋代の中国で造られるようになった「ジャンク」という外洋帆船と、羅針盤を用いる新航海技術が結びついて、広東、福建、浙江などの地方の海岸の商人が、南シナ海に進出を始めた。12世紀になるとマラッカ海峡を越えてインド洋に及ぶ広い「ジャンク交易圏」が形成され、西のアラビア海のダウ船を使うムスリム商人の「ダウ交易圏」と重なるようになり、双方の交易が展開されるようになった。<宮崎正勝『鄭和の南海大遠征』中公新書 1997 p.3〜4 による>
d マラッカ海峡 マレー半島とスマトラ島にはさまれた海峡で、狭く、浅瀬もあって航行に危険が伴うが、インド洋から南シナ海への唯一のルートであるので、古来海上交通の要地であった。海峡に面したマレー半島側の都市がマラッカで、15世紀にイスラーム教のマラッカ王国が成立、ポルトガルの進出まで、この地域の海上貿易を支配した。マラッカはポルトガルの支配後、1641年からはオランダの支配を受けた。次にイギリスが進出し、1819年にはラッフルズが現地のジョホール王に海峡の出入り口にあたるシンガポールに商館を建設することを認めさせ、さらに24年には正式にイギリス領となった。1824年にはイギリス=オランダ協定でマレー半島はイギリス、スマトラはオランダに勢力分割で合意、さらにイギリスは1826年に海峡に面するペナン、マラッカ、シンガポールの三港を海峡植民地とした。マラッカ海峡は、昔から海賊の多いことでも知られ、現在でもときどき海賊が出没する。
文明の十字路 「古代マラヤ人にとって、マラッカ海峡一帯はどのようなものであったか。ここは、東の中国と西のインドをつなぐ重要な交通路だった。しかも有史以来、大陸から太平洋方面へと南下する移住の道でもあった。マラッカ海峡は、大地と海の奇妙な配分が生んだ地球上でも稀にみる東西南北の十字路である。しかしその地元には、残念ながら、大文明は生まれなかった。東か西の文字による他人の記録だけが、マラッカ古代史に手掛かりを与えてくれる。漢字による中国史書、サンスクリット、パーリ語などインド系言語による説話、アラビア文字によるペルシア、アラブ系の史料、そしてヨーロッパ語による記録などである。土地の人間は、その暮らしの古い痕跡をほとんど残さなかった。」<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.26>
マラッカ海峡の人々:「マラッカ海峡が東西南北の十字路であるという性格は、有史以前から今日まで変わっていない。ここに居を定めた住民は、この条件に適応して生きてきた。海洋生産体系から独自の交易社会が生まれ、定着農耕社会との葛藤・包摂が歴史を進めるダイナミズムとなった。交易商人は、古くから外部市場の動向に敏感である。自前の輸出物産をさほど持たないこの地域でも、香料以外に比しナマコやミナンカバウ(スマトラ北西部)のコーヒーのように、新しい商品を開発し、独自に東と西へ売る動きがある。・・・」<同書 p.364>
マラッカ海峡の植民地化:「農民、漁民、商人は、この土地でも、暮らしをよくするためには工夫をこらし、精をこめて働いた。かれらの側に、歴史発展の上で弱点らしきものがあったとすれば、主として地政学的な仕組みのゆえに土地に根づいた大国家を築けなかったことだろう。しかし、十六世紀に渡来した西洋列強は、住民の精励や工夫をも圧倒するほどの力を持っていた。資本と科学技術である。単なる港、商館にすぎなかった植民地が、やがて内部へと伸びていった。資本主義市場に直結した、まったく新しい産業社会が形成されていった。中国貿易に従事するイギリス商館は、同時に、スズ鉱、ゴム園の持主となった。定着農耕と海洋交易という二つの生産体系に、新しい産業形態が、外部の力で無理やりに創出された。プランテーション形式で運営される植民地産業である。植民地主義は、住民からの収奪によって、ますます住民との差を大きくした。富めるものはいよいよ富み、貧しきものはさらに貧しくなった。」<同書 p.364>
現在のマラッカ海峡:「今日、マラッカ海峡は、日本のための資源エネルギー海峡、軍事大国の航路となった。だから米軍が日本自衛隊をも巻きこんで、マラッカ住民に何の断りもなく、海峡を想定した軍事演習を実施し、日米財界人が一体となって、わがもの顔に水爆利用の運河計画をたてたりする。・・・「マラッカ海峡は日本の生命線である」経済同友会の指導者が1969年にこう叫んだのとまったく逆の意味で、私もそう考える。日本がこのまま経済成長路線を進めば、ということは日本人が日々の安楽を求めて仕事に精を出せば、マラッカ海峡の政治経済的は負荷はますます増え、その矛盾はいつか爆発するに違いない。」<同書 p.365>
Epi. マラッカ海峡に替わる水爆による運河計画 ※文中の「水爆利用の運河計画」とは、1973年に明るみに出た、アメリカ・日本・タイなどの政界・財界・官僚によって検討されたマレー半島クラ地峡運河建設計画のこと。当時、タンカーの大型化、便数の増加などに対応するため、日本の財界からマラッカ海峡に替わるインド洋・南シナ海をむすぶルートの開発が急務とされ、その一つとしてマレー半島の最も狭い地峡であるクラ地方に運河を建設する計画が持ち上がった。その工期の短縮には水爆の利用が検討されたのである。その経緯、問題点に対は、鶴見良行の前掲書序章、おおび同『東南アジアを知る』1995 岩波新書 p.54-80 に詳しく述べられている。>
e 港市国家  → 第2章 2節 東南アジアの諸文明 港市国家
f 香辛料 ヨーロッパでは12世紀頃から、牧草の枯れる冬の前に家畜を屠殺して保存し、食料とする肉食が一般化したが、塩漬けにされた肉を食べるには、胡椒などの香辛料でにおいを消さなければならなかったため、その需要が急速にのびた。肉の味付けと保存のために胡椒などの香辛料が必要であった。香辛料には、胡椒(こしょう)・丁字(ちょうじ)・肉桂(にっけい)・ナツメグ(肉ずく)などがある。香料といったり、スパイスともいう。その産地は、胡椒はインドのマラバール海岸(カリカット、コチンなど)、東南アジアのスマトラ島などが有名で、丁字・肉ずくはモルッカ諸島の特産で、香料諸島と言われた。はじめはイスラーム商人(カイロのカーリミー商人など)によってアレクサンドリアなど東地中海にもたらされ、そこでヴェネツィアやジェノヴァの商人に買い取られ(いわゆる東方貿易)、彼らがヨーロッパに運んで、ドイツやフランスの商人がヨーロッパ各地で売りさばいた。現地では安価に手に入る香料が、ヨーロッパにもたらされると、非常な高値となり、その利益がイタリア商人の繁栄をもたらした。しかし、オスマン帝国の東アジアへの進出に伴い東方貿易は衰え、それに代わる交易ルートの開発としてポルトガルによるインド航路の開発が成功すると、ポルトガル商人が直接に香辛料の産地であるインドや東南アジアに出向いて買い取ってきて、大きな利益を得るようになった。次いで17世紀にはオランダ東インド会社が進出、続いて進出してきたイギリス東インド会社を、1623年のアンボイナ事件で排除することに成功して、以後は東南アジアの香料貿易はオランダが独占することとなる。
g 生糸・絹・絹織物 蚕の繭から採る生糸を原料にした布が絹織物。中国の原産で、西洋では知られていなかったので、大変に珍重された。ヨーロッパで中国を「セレス」ともいうが、それは「絹の土地」という意味であった。中国では伝説では黄帝が養蚕と絹織物の技術を広めたとされ、殷の甲骨文字にも絹の字のもとになった文字が知られており、早くから生産されていたことがうかがえる。漢の時代にはオアシスの道で西アジア、地中海世界まで運ばれたので、そのルートを絹の道(シルクロード)と言うようになった。オアシスの道のみではなく海の道でも陶磁器と並んで重要な商品であった。また銅銭の流通を補う物品貨幣としても用いられ、唐の絹馬貿易では匈奴の馬と交換された。宋代には江南の開発が進むとともに絹織物・生糸の生産も増加し、北方遊牧民との講和の際には銀とともに主要な贈答品となった。中国の農民は蚕の食料のを栽培し、家内労働で生糸を生産していたが、商品作物として桑が栽培され、絹織物が手工業として大規模に生産されるようになったのは明代からで、とくに長江下流の杭州や蘇州がその産地として栄え、おりから始まったヨーロッパとの貿易では生糸が主要な輸出品となった。16世紀後半から19世紀初頭のスペインによる太平洋のガレオン貿易では中国産の絹織物や陶磁器が、メキシコのアカプルコをに運ばれ、そこからヨーロッパにもたらされた。その代価としてメキシコ銀が大量に中国に流入することになった。
日本でも古代に中国から伝えられ、家内工業で生産されていたが、有名な西陣織などの原料の生糸(白糸)は輸入に依存していた。江戸幕府は生糸の輸入を糸割符制度で管理していた。江戸中期から国産生糸の増産が始まり、特に幕末に外国貿易が始まった18世紀後半から、主要な日本の輸出品となった。地中海世界では6世紀に東ローマ帝国のユスティニアヌスが養蚕を奨励したことが知られているが、本格的に広がったのは12世紀にイタリアやフランスのリヨンからである。
h 茶 茶は、中国では早くから、薬用または嗜好品として用いられていた。唐代には陸羽の『茶経』に茶の製法や飲み方が書かれており、一般に普及したことが知られる。宋代にとくに盛んになり、飲茶の流行が宋の陶磁器の生産増加をもたらし、また日本にも留学僧を通じて伝えられた。とくに1191年に臨済宗を伝えた栄西が『喫茶養生記』を書いて茶の効用を説いた。しかし、茶はヨーロッパに知られることはなかったらしく(マルコ=ポーロの東方見聞録にも茶のことは出てこない)、ようやく16世紀に中国を訪れたヨーロッパ商人や宣教師たちが茶の存在を伝えた。マテオ=リッチは、中国と日本との茶の飲み方の違いを報告している。他の宣教師にも日本の「茶の湯」の文化に関心を寄せたものも多かった。茶がヨーロッパで流行するのはまず17世紀前半のオランダが始めで、ついでイギリスでは17世紀後半から大流行した。イギリスでは牛乳に茶を入れ、砂糖を加えて飲むのが流行し、西インド諸島からの砂糖の輸入も急増した。ビールが好まれたドイツと、ワインが一般的であったフランスでは茶は根付かなかった。以後、茶はイギリスの中国貿易での主要な輸入品となっていく。インドの茶は、イギリスが19世紀に移植して、栽培を始めたものである。
Epi. 紅茶と緑茶 日本のお茶は緑茶で、ヨーロッパのお茶は紅茶である。この両者は別な作物なのではなく、同じ植物の茶の葉をもとにしており、製法が違うだけで、発酵させないのが緑茶、発酵させるのが紅茶、発酵を途中で止めたものがウーロン茶、である。中国の緑茶を長い航海をかけてイギリスにはくぶ間に自然に発酵して紅茶ができた、という説があるが、それは俗説で、中国ですでに紅茶の製法は行われていた。日本では緑茶が、イギリスでは紅茶がが好まれ、一方では一般的な飲み方の他に、「茶の湯」という独自の文化を生み出し、イギリスでは紅茶に砂糖とミルクを入れて飲むことが一般的となった。<角山栄『茶の世界史』1980 中公新書 には緑茶文化と紅茶文化の興味深い対比が論じられている。>
i 陶磁器 素焼きの土器が発達して、釉薬(うわぐすり)を使って表面の光沢が出せるようになったのが陶磁器。陶器は素地に釉薬をかけて焼くもので、磁器は素地をさらに高熱で焼き、釉薬もガラス化させ、純白透明性のある表面をもつもの。唐では唐三彩という陶器が作られていたが、実用品ではなく主として副葬品として用いられていた。宋代になって白磁青磁など磁器の技術も進み、江西省の景徳鎮を中心に陶磁器の生産(窯業)が盛んになって宋磁と言われる中国の陶磁器の全盛期となった。その背景にはの流行があり、飲茶の風習の成立によって日常的な茶碗の需要が高まった。茶を飲むのに適した食器として磁器が作られるようになったのである。宋の磁器をさらに改良したのが高麗青磁である。明代の景徳鎮では藍色の上絵を施した染付、赤・緑など多彩な釉薬を用いた赤絵が発達した。陶磁器は宋・元・明・清を通して中国の重要な輸出品とされ、遠く西アジア、ヨーロッパにも運ばれた。西欧で陶磁器のことをチャイナ(china)というのはそのためである。16世紀後半から19世紀初頭のスペインによる太平洋のガレオン貿易では中国産の絹織物や陶磁器が、メキシコのアカプルコをに運ばれ、そこからヨーロッパにもたらされた。その代価としてメキシコ銀が大量に中国に流入することになった。 → 陶磁の道
2.海の道の発展
ア.東アジアの海洋世界
A ムスリム商人の活動  → 第5章 2節 ムスリム商人 
B 中国商人の活動  → 中国商人
a ジャンク船 現在でも中国の沿岸でよく見られる三本マストで角形の帆が特徴の木造船。中国商人はこのジャンク船で、羅針盤を使い、遠くインド洋まで航海に出た。大きさは約300トン、乗組員5〜600という大型から、約120トン、乗組員2〜300の中型とがあった。
「ジャンクは竜骨をもつ構造船で船材として利用されたのは松・杉などであり、二重、三重に側板が打ち付けられて堅牢に造られ、桐油・石灰によりその隙間をふさいで水漏れを防いだ。船倉部分は、しっかりした隔壁によって一〇余に区分され、仮に一つの船倉に浸水したとしても船が沈没しないような工夫がなされていた。この隔壁は、同時に周りの船板を支える役割も果たした。・・・」<宮崎正勝『鄭和の南海大遠征』中公新書 1997 p.4〜5>
Epi. 引き上げられた元の沈没船 1976年から84年にかけて、韓国南西部の木浦沖で引き上げられた、14世紀の元時代の「新安船」は、全長34メートル、約200トン級の三本マストの遠洋航海用帆船であった。積荷には2万点をこえる青磁、白磁などの陶磁器や、28トンにもなる800万点といわれる銅銭や紫檀の木材などであった。<松浦章『中国の海商と海賊』世界史リブレット 山川出版社 2003>
b 陶磁の道 エジプトのカイロの南の郊外にあるイスラーム都市遺跡であるフスタート遺跡から、莫大な領の中国製陶磁器の破片が発掘された。この陶片は7〜8世紀から、16〜7世紀にわたる、唐、宋、元、明、清などの中国の各時代にわたる、竜泉窯の青磁や、景徳鎮の青磁、白磁である。エジプトだけではなく、アフリカ東岸のモガディシオやキルワ、ペルシア湾のバーレーンやホルムズ島、パキスタンのバンボール、南インドやスリランカ、インドネシア、フィリピンなどから中国陶器が出土している。これらは8〜9世紀にシルクロードに代わって活発になった、東西を結ぶ海上交通によってもたらされたものであった。またオスマン帝国の都イスタンブルにあるトプカプ宮殿には、膨大な東洋の陶磁器が収蔵されている。「陶磁の道」を提唱した三上次男氏は「中世の東西世界に渡された一本の太い陶磁のきずな。それは同時に東西文化を交流させるかけ橋でもあったが、この海の道をわたくしはしばらく「陶磁の道」と呼ぼうと思う」と述べている。<三上次男『陶磁の道』1969 岩波新書 p.230>
C 明代の東アジア  
a 鄭和の航海  → 第8章 1節 イ 明初の政治 鄭和の南海遠征
b 琉球王国 琉球(現在の沖縄)は14世紀ごろから北山、中山、南山に分かれていたが、1459年に中山王尚巴志が統一し、琉球王国となった。15〜16世紀に那覇を中心に盛んに貿易活動を展開し、日本−朝鮮−中国−東南アジア諸地域を結びつける貿易ネットワークの中心に位置し、各地の産物を交易する中継貿易を行っていた。琉球商人の活動は南はジャワ島やスマトラ島アチェ王国、マレー半島のマラッカに及び、ポルトガル人とも接触した。特に中国の陶器をはこぶ商人が多かったという。「海のシルクロード」の東の終端で琉球商人が活躍していたことは興味深い。1609年には薩摩の島津氏に軍事征服され、島津氏に服属する。<高良倉吉『琉球王国』岩波新書1993 による>
c 倭寇  → 第8章 1節 倭寇(前期倭寇) 倭寇(後期倭寇)
朱印船貿易  →第8章  1節 東アジア・東南アジアの動向 朱印船貿易
D ポルトガル・オランダの進出  
イ.東西世界を結ぶムスリム商人
c アチェ王国 アチェは、アチンとも表記。15世紀終わりごろスマトラ島の北西部に独立したイスラーム国家を作る。このアチェ王国は、スマトラ島の胡椒を一手に抑え、イギリス、オランダとの交易で利益を上げ、16世紀には強大な勢力となり、スマトラ南西部やマレー半島にも進出し、マラッカ王国と対立した。17世紀後半からオランダ東インド会社はアチェ王国の制圧に乗り出し、1873〜1904年のアチェ戦争の結果、オランダ領に編入された。現在はインドネシア領であるが、1950年代から独立運動を展開している。2004年12月のインド洋津波で大きな被害を受けた。
 → 第17章 4節 アチェ紛争
f ダウ船 紅海、アラビア海、インド洋で活躍したムスリム商人(アラビア商人)が使っていた大型の木造帆船。大きな三角帆が特徴。
Epi. 逆風で進む三角帆をそなえたダウ船 「ムスリム商人が航海に利用したダウ船は、船板に板をあけてヤシの繊維からなる紐で縫い合わせ繋いだものを木釘で船体に打ちつけ、水が漏れないように瀝青や鯨油を塗った縫合船で、逆風でも先に進むことのできる三角帆を備えていた。彼らは、季節風や星に関する豊富な知識を生かし、アフリカ東岸、紅海、ペルシア湾、インド、東南アジア、中国沿岸を結ぶネットワークを確固なものに変えた。ムスリム商船の目的港となった広州(カンフー)には、ムスリム商人など外国商人が居住する居留地(蕃坊)やモスクが作られた。・・・ムスリム商人が交易に用いた最大のダウ船は300トン程度で、積載可能な積み荷の量は180トン程度に及んだとされる。つまり、一隻のダウ船は、600頭のラクダが荷物を運んで砂漠を旅するのに匹敵する商品を輸送できたのである。」<宮崎正勝『鄭和の南海大遠征』中公新書 1997 p.2〜3>
アデン  
スーラト  
クーロン  
ウ.地中海世界の交流
a イタリア商人  
c アラビア語  
d ラテン語  
a 楼蘭  
b スウェン=ヘディン