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3.アジア諸国の変革と民族運動
ア.中国分割の危機
 日清戦争の敗北 日清戦争の敗北は清朝に大きな衝撃となった。台湾の割譲、2億両の賠償金、朝鮮宗主権の放棄は清朝にとって屈辱であっただけでなく、国家のあり方への反省の機会を与えた。清の敗北の理由は、日本が幕藩体制を克服して近代的な国家体制を整えていたのに対して、清の洋務運動での富国強兵策は中体西用の思想によって技術面だけに留まったので、統一的な国家意思の形成がなされなかった。日本軍と戦った清軍の実態は李鴻章の北洋軍閥にすぎなかった。日清戦争の敗北はそのような問題点を白日の下にさらしたので、下関条約締結反対を主張する洋務派の官僚や知識人、青年の中に近代的な政治体制の確立をめざす運動が始まった。その中心となったのが康有為や梁啓超らであ、彼らの改革への熱心な提言を取り上げたのが光緒帝による戊戌の変法であった。
a シベリア鉄道  → 第14章 1節 帝国主義と列強の展開 シベリア鉄道
b 三国干渉 日清戦争に勝利した日本が、下関条約で中国から遼東半島を獲得したことに対して、ロシア・フランス・ドイツの三国が干渉し、その返還を迫ったこと。清朝政府の李鴻章は日清戦争後、ロシアと結んで日本の進出を抑えようとした。ロシア(ニコライ2世)は、フランスとドイツに働きかけ、日本の遼東半島の領有は極東の平和を妨げるという理由でそれを放棄するよう日本に勧告した。日本は当時の国際的な力関係から、この圧力に抗しきれず、遼東半島を清に還付し、かわりに3千万両を受けることとした。日本国内では「臥薪嘗胆」が叫ばれ、特にロシアに対する反発が強まった。 
c ロシア・フランス・ドイツ ロシアはニコライ2世(在位1894〜1917)、ドイツはヴィルヘルム2世(在位1888〜1918)、フランスは第三共和政下で右派が台頭し、ドレフュス事件が始まることであった。ロシアはシベリア鉄道への投資などでフランスに接近し、1894年露仏同盟を結び、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟に対抗しようとしていた。ドイツは、極東でのイギリスの勢力を牽制するためにはアジアでのロシアの進出をむしろ歓迎し、ロシアがバルカンから後退することを望んだ。またヴィルヘルム2世は日本進出を黄禍として恐れていた。そのような利害関係から、極東での日本の進出を危惧する三国が結束することとなった。イギリスは日本の軍事力の急速な膨張を警戒しながらも、ロシア、ドイツの進出を恐れ、1902年には日英同盟を締結することとなる。 
d 遼東半島   →第13章 3節 遼東半島 
e 東清鉄道 日清戦争後、1894年のニコライ2世の戴冠式に参列するためにロシアに赴いた李鴻章は、ロシアと中露密約を結んだとされる。将来日本が中国・朝鮮への侵略を行うような場合は、中国とロシアは相互に援助すること、その代償として、1896年に中国はロシアに黒竜江・吉林省をとおってウラジヴォストークに連結する東清鉄道の敷設権を与えること、清は旅順・大連を他国に割譲しないことなどを密約した。これはロシアが日本に対して三国干渉をこない、遼東半島が還付されたことへの見返りとされている。東清鉄道はシベリア鉄道チタから分岐し、満州地方の西北の満洲里から東南の綏芬河の間を横断してウラジヴォストークに達する本線と、中間のハルビンから遼東半島の旅順大連を結ぶ支線からなり、本線は1896年、支線は98年にロシアが敷設権を清に認めさせた。 
 中国分割 日清戦争後の日本への賠償金支払いのため、清はイギリスなど列強に対して外債を発行し、借款(外国政府から資金を借りること)を得た。列強は、借款を通じて鉄道敷設権鉱山採掘権を獲得していった。また、列強は中国の国土を清朝政府から租借という形で奪っていった。一定地域を他国に租借しないことを約束させ、自国の勢力範囲とするやり方もあった。これらの方法によって列強は、19世紀末に中国国土を分割し、中国は事実上の半植民地状態に陥った。ほぼ1898年にドイツ、イギリス、ロシア、フランスの4国がそれぞれ租借地を獲得した。日本は、清朝政府に対し、台湾の対岸の福建省を外国に割譲しないことを約束させ、その勢力圏とした。このような列強による中国分割は瓜分と云われた。
a ドイツ 宣教師の殺害を口実に1897年に山東省の膠州湾を占領、1898年に99年間の期限で租借した。そこに青島港を建設し、東洋艦隊を駐留させた。また山東省一帯はドイツの勢力圏となった。 
b 膠州湾  
c ロシア 三国干渉により遼東半島を日本から清朝に返還させることに成功し、さらに1896年、東清鉄道の敷設権を得て、遼東半島に進出。1898年、25年間を期限として、遼東半島南部の旅順(軍港)と大連(商業港)を租借した。旅順には極東艦隊を配置し、アジア進出の拠点としたが、日露戦争に敗れた結果、ポーツマス条約によってその租借権を日本に譲渡した。
d 旅順・大連 遼東半島南部の最先端に位置する港が旅順。その東に位置するのが大連。いずれも渤海湾の入口を制する重要な位置にあり、1878年に清は旅順に北洋艦隊の要塞を設けた。日清戦争の際、日本軍が占領した。下関条約で遼東半島は日本領となったが、三国干渉で清に還付された。その後、満州方面から進出してきたロシアが、1898年に旅順と大連を併せて租借した。ロシアも旅順に要塞を築き、日本との戦いに備え極東艦隊の基地とした。日露戦争では日本軍が旅順を155日間にわたる激戦の末に占領した。その結果、ポーツマス条約によって日本は遼東半島南部(旅順・大連)の租借権をロシアから継承することとなった。日本はこの地を関東州と称し、海軍の基地及び関東軍司令部を置いた。1915年には租借期限を99ヵ年に延長、南満州鉄道とともに日本の大陸侵出の足場とされた。
第2次大戦後の旅順・大連:第2次大戦中のヤルタ会談での合意にもとづいてスターリンはソ連軍を駐留させ、45年8月の中ソ友好同盟(ソ連と中華民国政府の条約)で30年間の自由港となり、ソ連軍が利用を続けていた。その返還は中ソ間の課題となったが、スターリンの死後、フルシチョフ政権下の55年にソ連は撤兵し、中国に返還された。<下斗米伸夫『アジア冷戦史』2004 中公新書 p.98>
Epi. 大連の街 大連の地は19世紀末までは青泥窪という小さな漁村に過ぎなかった。1898年、旅順とともにこの地を租借したロシアはダルニーと名付けて軍港を築き、極東進出の足場にしようとした。1905年に日本が租借権を引き継いだとき、大連と変えられた。第2次大戦後にはソ連軍が駐留し、55年にようやく(というか初めて)中国のものとなった。現在は旅順と合併して、旅大市となっている。このように大連はロシアが建設し、長くロシア人が住んでいたので独特の街作りをしている。戦前の大連で女学校時代をすごしあジャズピアニストの穐吉敏子さんは大連をこんな風に回想している。
「……大連は確かに大都会、それもロシア人が都市設計をしたことが大きな理由だと思うが、ヨーロッパのにおいがプンプンしていた。車輪状というのだそうだが、広場があって、そこから放射状にいくつかの通りが出ており、その通りがまた別の広場にうながっている、という形だった。一番大きいのが大広場で、満鉄ビル、優雅な大和ホテル、銀行などがこの広場を囲んでいた。……」<穐吉敏子『ジャズと生きる』1996 岩波新書 p.14>
e イギリス ドイツの山東省、ロシアの遼東半島への進出に対抗して、1898年、山東半島の威海衛を期限25年で租借し、海軍基地を建設した。そこを拠点にイギリスは揚子江流域を勢力圏とする。 
f 威海衛  
g 九竜半島(新界)九竜半島は香港島の対岸の一部が1860年の北京条約でイギリスに割譲されていたが、1898年にはその大部分と付属する島嶼が99年間の期限で租借された。この地は「新界」と言われ、イギリスの植民地香港を構成する重要な地域となった。租借期限の切れた1997年に、香港島と共に中国に返還された。
h フランス 1895年、他の列強に先だち安南鉄道の雲南延長権、雲南・広東・広西の鉱山採掘権を獲得。1898年には広州湾を占領、1899年に、期限99年で租借した。 
i 広州湾  
j 租借 外国との取り決めによりその土地を借り受けること。租借期間はその地の行政権や軍隊駐留権を租借国が持つ。 
福建  
 アメリカの主張 アメリカは1898年、米西戦争でフィリピンを獲得、そこを足場に中国に進出しようとしたが、すでにヨーロッパの列強によって主要な地域が租借され、イギリス・ロシア・ドイツ・フランス四国の勢力圏が成立していた。国務長官ジョン=ヘイはこの4国による独占を打破して、アメリカの勢力圏を獲得しようとして、門戸開放と機会均等を主張した。 
a ジョン=ヘイ アメリカ合衆国の政治家・外交官。マッキンリー、セオドア=ローズヴェルト両政権の国務長官を務めた。 
b 門戸開放宣言  
c 門戸開放  
d 機会均等  
e 領土保全  
 戊戌の変法 1898年、光緒帝が革新派の康有為らの意見を容れて、日本にならった近代化をめざした改革。戊戌維新(ぼじゅついしん)ともいう。日清戦争の敗北後、イギリス・ドイツ・フランス・ロシアの利権獲得競争にさらされた中国で、日本の明治維新にならった政治の変革が叫ばれるようになった。その指導者は公羊学者の康有為であり、清朝の皇帝のもとで、西洋の立憲君主制を取り入れ、議会を開設して国民の声を聞く政治の近代化を目指した。この運動を変法運動、または変法自強という。戊戌はこの年の干支、変法は「変成法」の略で、成法とは祖宗以来の清朝の政治のあり方を云う。1898年、康有為・梁啓超らは光緒帝に登用され、農工商業の振興、軍事訓練、運輸通信施設の近代化、官庁の整備、科挙制度の改定、西洋式の学校の設置などの変法を実施したが、保守派の西太后等の反発を受けてわずか数ヶ月で失脚し、運動は失敗した。これを百日維新ともいう。光緒帝は幽閉され、康有為と梁啓超は日本に亡命した。戊戌の変法で取り上げられた改革はほとんど陽の目を見なかったが、唯一実現したのが西洋式の大学の創設を目指した京師大学堂である。1898年に創設された京師大学堂は、後に北京大学と改称され、蔡元培学長の下で文学革命、五・四運動の中心となり、中国近代化の最先端の役割を果たしていく。
a 康有為 清末の政治家、学者。日清戦争の敗北に衝撃を受け、政治と社会の革新の必要を光緒帝に建言し、採用されて1898年の戊戌の変法の中心人物となった。しかし西太后ら保守派のクーデター(戊戌の政変)によって失脚、日本に亡命した。孫文らの革命運動に対しては、あくまで清朝を擁護し、立憲君主政の立場を主張して対立した。
康有為は公羊学者として知られ、改革の理念を公羊学においた。清朝の儒学の主流は考証学であったが、清末には些末な形式論に陥り、実用に適さなくなっていた。康有為は、孔子の著作とされる「春秋」の解釈は「公羊伝」によるべきであると主張、「公羊伝」によれば孔子は制度の改革を目指して「春秋」を著したものとなる。この学問を公羊学といい、単なる字句の解釈に止まらず、現実の社会を直視して政治の改革と民衆の経済生活の安定を目指す経世済民の学であった。康有為は、かつての洋務運動が、晴洋の思想と技術を分け、その技術だけを取り入れようとしたことが失敗であったとし、機械文明を取り入れるだけでなく、西洋の立憲政治を取り入れ民衆の権利をみとめることによって、国民の義務も負わせるようにすれば、国は繁栄すると考えた。その手本とされたのが日本の明治維新であった。 
梁啓超  
b 光緒帝 清朝第11代の皇帝(在位1874〜1908年)。父は道光帝の第7子醇親王、母は西太后の妹。即位したときはわずか4歳であったので、西太后が摂政となった。17歳になって親政を行うようになった。日清戦争では主戦派を支持し、開戦に消極的な西太后と対立した。敗戦後、日本の明治維新を手本に近代化路線をとり、康有為、梁啓超等の改革派を登用して1898年4月に戊戌の変法を断行した。しかし、改革を認めない西太后によって、わずか百日後に逮捕され、幽閉されてしまった(戊戌の政変)。その後、紫禁城の一角に幽閉されたまま、1908年に死んだ。なお、清朝末期の光緒新政は、光緒帝幽閉中の光緒年間に行われた、西太后・袁世凱による清朝の上からの改革のこと。
変法自強  
c 戊戌の政変 1898年9月、清朝の光緒帝のもとで戊戌の変法と言われた近代化路線を進めようとした康有為ら革新的官僚が、宮廷の保守派西太后によって弾圧されたクーデター事件。戊戌の変法を推進した光緒帝は保守派の中心人物西太后を頤和園に幽閉しようと計画し、実力者袁世凱に協力を求めたが、袁世凱は逆にクーデター計画を西太后側に密告したため、光緒帝は逮捕されて幽閉されてしまった。また維新派(改革派)官僚も弾圧され、首謀者として譚嗣同は処刑され、康有為・梁啓超は逃亡して日本に亡命した。 
d 西太后  → 第13章 3節 西太后 
イ.日露対立と列強
 義和団事件 1900年に勃発した反キリスト教、排外主義の民衆運動である義和団の蜂起に押されて、清朝政府が8ヵ国連合軍と戦った戦争に発展した(北清事変)。敗れた清朝は列強と北京議定書を締結、中国分割がさらに進んだ。アフリカにおける南ア戦争、ラテンアメリカにおける米西戦争などと共に帝国主義による世界分割の一環。
仇教運動の展開:日清戦争後の康有為等の近代化政策はあくまで体制の上からの改革であり、一般民衆にはほとんど理解されていなかった。民衆はむしろ、帝国主義列強による侵略に対して本能的に反発し、西洋文明を拒否する動きを示した。西洋の医療は幼児の目をくりぬいて薬を作っているとか、鉄道や汽船は怪異なものであり、電信柱があるから雨が降らないのだなどと信じ、またキリスト教徒が祖先の祭をしないことに伝統を壊すものという不快感を持った。そのような反西洋文明、反キリスト教の運動が、1897年、山東省でドイツ人宣教師が殺害される事件となり、それを機にドイツは山東省一帯に進出した。民衆の排外的な感情を煽動したのが、義和団といわれる一種の宗教秘密結社であった。以降は華北一帯に広まり、各地でキリスト教の教会や信者を襲い、暴動を起こすようになった。このような反キリスト教運動を仇教運動ともいう。
義和団事件の勃発:1900年6月、蜂起した義和団は、たちまち北京を占領、日本とドイツの外交官を殺害し、教会を襲撃した。清朝政府で実権をふるっていた西太后は義和団を鎮圧しようとしたが、それが出来ないと見ると方向を転換し、義和団を支持し列国に宣戦布告した。
8ヶ国連合軍の北京出兵:これに対し、イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア・ロシア・日本の8ヶ国連合軍が共同で出兵、天津に上陸して北京に入り義和団を鎮定した。西太后は紫禁城を捨てて脱出、西方の西安に逃れた。8ヶ国の中で最も兵力の大きかったのが日本であり、イギリスは南アフリカ戦争のため、アメリカはフィリピンの独立運動を鎮圧するフィリピン=アメリカ戦争のために兵力を割けなかったからである。
北京議定書の調印:北京を占領された清朝は李鴻章が列強と講和交渉に当たり、排外派の大臣を処刑して1901年7月に北京議定書(辛丑和約、または辛丑条約ともいう)を締結した。これによって、北京と天津への外国軍隊の駐留権などを認め、帝国主義列強の中国分割はさらに進んだ。
その後の清朝政府:西太后は西安から戻った後、急速に西洋風の文物を取り入れるようになり、清朝最後の改革といわれる光緒新政を打ち出したが、もはや清朝の権威の衰微を覆い隠すことができず、辛亥革命、そして袁世凱による政権奪取による清朝の滅亡へと一気に進んでいく。 
キリスト教の布教(19世紀中国)  
a 仇教運動 19世紀後半から20世紀初め、中国の民衆の中に起こったこれらの反キリスト教運動を仇教運動という。中国のキリスト教は雍正帝の時に禁止されてから、1858年の天津条約によって公式に再開が認められた。以後、カトリックとプロテスタントの両派とも積極的な布教を展開した。キリスト教は民衆に浸透し、社会に不満を持つ層の支持を受けて太平天国の乱を生み出した。しかし、ヨーロッパ諸国の力を背景にした特権的な存在であり、治外法権によって守られている存在であったので、外国人宣教師および外国人一般に対する反感も強かった。キリスト教の教えが儒教的な秩序を脅かすととらえた地方の郷紳の中には民衆を扇動して教会や宣教師を襲撃する事件(これを教案という)を起こすことが多くなってきた。
b 義和団 義和団は、かつての白蓮教の流れをくみ、義和拳という拳法によって刀や槍にも傷つけられない神力を得ることができると説き、民衆や遊侠の人々に広がった。山東地方で外国人やキリスト教宣教師を襲撃しながら次第に大きな集団となり、ついに1900年には北京に終結し、西太后の清朝政府に対外戦争に踏み切らせた。 
c 「扶清滅洋」 義和団が掲げた旗印の中の言葉。清朝政府を助け、西洋勢力を排除する、という意味。 
d 8ヵ国連合軍 義和団事変の際の日本・ロシア・イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・イタリア・オーストリアの連合軍。連合軍の中で最大の兵力は日本軍で2万2千名。イタリアなどは百名にしかすぎなかった。義和団の反乱が北京の外国公使館を襲撃したことに対し8ヵ国が連合軍を編成して共同で防備した。また清朝の宣戦布告を受け、連合軍を天津に上陸させ、北京に進撃、それを占領し清朝政府と講和条約の北京議定書を締結した。
 北京議定書 辛丑和約、辛丑条約ともいう。1901年、義和団事件(北清事変)の終結に際して北京において清朝政府と11ヶ国(出兵した8ヶ国に、ベルギー・オランダ・スペインが加わる。)との条約。以下のような規定であった。
(1)清は列国に対し4億5千万領の賠償金を支払う。
(2)事変責任者の処罰
(3)各国に対し、北京と天津への軍隊駐留権を認める、など。
なお、賠償金は39年賦、年利4分で支払うことになっていたので、清朝滅亡後は中華民国に継承され、1940年に元利あわせて10億両(約50兆円)の支払いが終わった。
またこの時清朝が認めた外国の軍隊駐留権に基づき、各国は北京・天津に軍隊を駐留させた。各国はその後ほぼ撤退したが、日本だけはその後も邦人保護を名目に支那派遣軍として駐留を続け、遼東半島の関東軍と並んで日本の中国侵略の先兵となった。1937年の盧溝橋事件が起きたときの日本軍とはこの支那駐屯軍である。 
a 外国軍隊の駐在  
b 半植民地化  
 日英同盟  
 日露戦争 ロシアはニコライ2世のもとで深刻化した国内の矛盾を、シベリア鉄道の敷設などのアジア方面への勢力拡大で解消するねらいがあった。ロシアの朝鮮、満州への進出を日本軍は日英同盟の締結によってイギリスの支援を得、ロシアとの全面対決に踏み切った。日本がヨーロッパ諸国と戦った最初の戦争であったが、世論の分裂の無かった日清戦争に対し、日露戦争では、国内にキリスト教の立場からの内村鑑三や、社会主義の立場からの幸徳秋水ら、歌人の与謝野晶子等の戦争反対の声である非戦論も強かった。
1904(明治37)年2月に開戦、ほぼ1年かかってロシア軍の旅順要塞を占領し、05年3月の奉天会戦で大勝し、5月の日本海海戦ではロシアのバルチック艦隊を破った。すでに1月に血の日曜日事件を機に第1次ロシア革命が起こっていたロシアは戦争継続が困難となり、日本もこれ以上の戦線の拡大と戦争の長期化は国力の限界を超えるおそれがあったため、同年9月、アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの仲介で、ポーツマス条約を締結し講和した。日露戦争における日本の勝利は、ヨーロッパ諸国の経済支配を受けていたトルコ、イランなどアジア諸国に影響を与えた。1906年におけるイラン立憲革命、1908年のトルコの青年トルコの運動、また第1次大戦後のムスタファ=ケマルのトルコ革命などである。
a 1904  
b ロシア第一次革命  
c ポーツマス条約 日本海海戦の勝利を機に、日本はアメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトに仲介を要請、1905年8月あめりかのポーツマスで、日本の小村寿太郎(外相)とロシアのウィッテ(前蔵相)とのあいだで講和会議が開かれることとなった。日本は樺太の割譲など多くの要求を突きつけたが、巧みな世論操作と再戦を辞さないヴィッテの巧みな交渉によって、妥協せざるを得なかった。このポーツマス条約には日本の世論も不満が強く、代表団が帰国すると民衆が暴動を起こし、日比谷焼打ち事件が起こった。ウィッテは帰国後、第1次ロシア革命で十月宣言を起草し、初代の首相に就任する。日本がロシアに認めさせた事項は最終的には次の通り。
(1)日本の韓国に対する保護権を認める。
(2)日本に遼東半島南部の租借権を譲渡する。
(3)南満州鉄道とその沿線の利権を認める。
(4)北緯50度以南の樺太(サハリン)を割譲する。
(5)沿海州の漁業権を譲渡する。 
d セオドア=ローズヴェルト  → 第14章 1節 セオドア=ローズヴェルト
e 韓国  → 大韓帝国
f 遼東半島南部 遼東半島の先端部にあたる旅順・大連のある地域。ロシアは1898年にこの地の租借権を清から獲得したが、1905年のポーツマス条約によって、日本に譲渡した。日本はこの地を関東州とし、南満州鉄道沿線とともにその治安維持のために軍隊を配置した。それが関東軍である。
g 南満州鉄道  
h 樺太(サハリン)南部  
 戦後の状況  
a 民族的自覚  
b 日露協約 日露戦争後、アジア方面での南下をあきらめたロシアは、その目標をバルカン方面に集中する。そのため、中国での権益を維持しつつ、日本との衝突をさけることを得策と考え、フランスの斡旋を得て1907年日露協約(第1次)を締結した。その条文では中国の領土保全と機会均等を唱っていたが、秘密条項で中国東北地方(満州)での相互の了解地域外に権益を拡大しないことを約していた。その後、1910年代に何度か改定され、アメリカの満州方面への進出を恐れて両国の関係強化を謀っていく。1917年、ロシア革命の勃発により、消滅する。 
c 英露協商  → 第14章 2節 英露協商
d 日本人移民の排斥運動 義和団事変での出兵を機に、アメリカは中国、特に東北部(満州)への進出を謀るようになった。日露戦争でロシアが後退すると、鉄道敷設権などの獲得を積極的にはじめ、日本との対立が始まった。中国における日米の対立感情が、アメリカ本国での日本人移民の排斥運動につながった。第1次世界大戦後は移民制限の動きがさらに強まり、1924年の「移民法」で日本からの移民は全面的に禁止されることとなる。
ウ.日本の韓国併合
閔妃暗殺事件 日清戦争の結果の下関条約で朝鮮は清からの独立を確定させた。続いてロシアを中心とした三国干渉で日本が遼東半島を清に返還すると、朝鮮の政府内部にロシアと結んで日本の勢力を排除しようとする親露派が形成された。その中心が閔妃(明成皇后)であった。その動きを危ぶむ日本の公使三浦梧楼は、1895年10月、公使館員等を王宮に侵入させ、閔妃らを殺害し、死体を焼き払った(乙未事変ともいう)。国際的な批判を受けた日本は三浦梧楼を召還し、裁判にかけたが、証拠不十分で無罪となった。朝鮮の金弘集内閣は日本の圧力を受け、事件の解明を行わず、民衆の反日感情は強まり、1896年1月、王妃である閔妃の殺害に憤激して「国母復讐」を掲げ、最初の反日武装闘争である義兵闘争が起きる。日本兵を含む政府軍が義兵鎮圧に向かい、首都の防備が手薄になったすきに、親露派はクーデタを起こし、高宗をひそかにロシア公使館に移し、金弘集政権を倒して親露派政権を樹立した(2月)。その後、ロシアはさらに朝鮮への影響力を強めて行く。
a 大韓帝国 朝鮮は1897年に、国号を大韓帝国に変更した。朝鮮は17世紀以来、清の宗主国を認め、事実上の属国となり、清の皇帝から、朝鮮国王に冊封されるという形式をとっていた。1894年、日清戦争に敗れた清朝は下関条約で朝鮮を独立国と認めた。そのため朝鮮の清からの独立を明示する措置をとることとなり、朝鮮国王の称号を、清と同格の「皇帝」に改めることとなった。1897年10月、国号を「大韓帝国」とし、同時に高宗が皇帝として即位した。一般にこれ以後を「韓国」と言う。こうして大韓帝国は世界に独立国であることを宣言したが、その後も外国の干渉は続き、特に日露戦争を機に日本は第2次日韓協約を締結し、その後強引に日韓併合を行い、大韓帝国は消滅する。
 高宗  
 日本の軍事的拡張策  
a 生糸  
b 綿糸  
c 低賃金  
d 国内市場  
e 国外市場  
 日韓協約 日露戦争中の1904年の第1次、戦後の1905年の第2次、1907年の第3次という三次にわたる日本と韓国のとりきめで、日本は韓国支配を強めたもの。特に1905年の第2次日韓協約では韓国の外交権を奪い、統監府が設置されることになり保護国化を実現させた。日本はこの日韓協約をもとに、1910年に韓国併合を行い、完全に領土化した。
第1次日韓協約 日露戦争の最中の1904年8月、日本が大韓帝国(韓国)に認めさせた協約。日本政府が推薦する日本人を財務顧問、外国人を外交顧問として韓国政府が雇用することを認めさせた。以後三次にわたる日韓協約の最初のもの。 
第2次日韓協約 日露戦争の終結後の1905年11月、日本と大韓帝国(韓国)の間で締結された条約で、日本の韓国保護国化が確定した条約。日本は特派大使伊藤博文を派遣し、軍隊も出動して圧力を加え、韓国政府に第2次日韓協約を強要した。これは日韓保護条約または乙巳保護条約とも言われ、日本が韓国の外交権を奪い、日本政府の代表者として統監がその外交を管理することになった。翌年統監府が設けられ、伊藤博文が初代統監となった。韓国政府で条約に賛成した五大臣は「乙巳五賊」と言われ売国奴として厳しい指弾を受けた。また、韓国と北朝鮮は現在でもこの条約は日本の軍事的圧力のもとで押しつけられたもので、正式な条約ではないという立場をとっている。
Epi. 脅迫と威嚇で締結された協約 第2次日韓協約を成立させるにあたり、伊藤博文は特派大使として韓国皇帝高宗に面会した。皇帝は終始外交権の移譲、すなわち国際法上の独立国家の地位を失うことをこばんだ。それに対し伊藤は「もし韓国がこれに応じなければ、いっそう困難な境遇に陥ることを覚悟されたい」と威嚇し、即決を促した。その上で、日本軍が王宮前や目抜き通りで演習と称する示威を行い市民を威圧した。さらに御前会議を開催することを要求、皇帝が病気を理由に欠席すると、閣議というかたちにし、護衛の名目で憲兵に付き添われた伊藤と林権助が出席して同意を迫った。伊藤は五人の閣僚の曖昧な態度を強引に賛成と決めつけ、多数決で採決されたとして外相に署名をさせた。閣僚の一人は涙を流して辞意を表明し退席したが、伊藤は「余り駄々をこねるようだったらやってしまえ」と大きな声で囁いた。宮廷内は日本兵が充満していた。<海野福寿『韓国併合』1995 岩波新書>
第3次日韓協約 1907年、大韓帝国(韓国)政府は「施政改善に関し(日本の)統監の指導を受くること」をされ、法令の制定・重要な行政処分・高等官の任免などは統監の承認または同意が必要とされた。また付属の秘密覚書で韓国軍隊の解散が約束された。第3次協約によって日本の支配はさらに強くなり、政府の次官以下の官吏の44%を日本人が占め、駐留する軍隊・警察官も増強し、1908年には東洋拓殖株式会社(東拓)を設立して拓殖事業の名目で多くの土地を奪っていった。  
 統監府  
 保護国化  
 反日義兵闘争 日本の植民地支配に対して抵抗した軍人・兵士を義兵といい、彼らの闘争は早く、閔氏殺害事件の後の1896年に起こっている。本格化したのは第2次日韓協約(保護条約)が結ばれた1905年以降である。1907年、第3次日韓協約によって軍隊が解散させられると、軍人で反乱軍に加わるものが増え、義兵闘争は1909年にかけて最盛期を迎えた。彼らは日本軍・憲兵・警察と交戦し、役所や鉄道、電信施設などを攻撃した。日本は軍隊を増強すると共に、懐柔策をとり、その年末までにほとんど鎮圧された。 
a ハーグ密使事件 1907年、オランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議に大韓帝国(韓国)皇帝高宗の派遣した密使が参加し、保護条約(第2次日韓協約)の無効を世界に訴えようとしたのがハーグ密使事件。伊藤博文統監はそれを口実に、皇帝高宗を退位させ、皇太子を即位させた。さらに日本は軍隊を増強して圧力をかけ、第3次日韓協約を締結した。  
b 安重根 義兵運動に加わった独立運動家。1909年10月、日本の初代統監伊藤博文を、ハルビン駅頭に於いて射殺し、逮捕された。1910年3月死刑となる。現在韓国では抗日闘争の英雄として評価されている。 
 韓国併合 1909年7月、日本政府は適当な時期に韓国を併合する方針を閣議決定していた。そのような中で10月に初代統監伊藤博文が安重根に射殺されると、親日団体が合併を申し出る「合法声明書」を発表した。韓国併合が朝鮮人側の申し出であるように装ったが、事実は日本はそれ以前に併合を決定していた。
一方日本は8月22日、韓国の李完用首相に「韓国併合に関する条約」に調印させた。日本は、現在の政府に至るまで、この併合を国際法上合法的なものであり、また日本の保護を受けながら安定しない「未熟な」韓国を併合し、その発展をはかろうとした正当なものであるとしている。一個の独立国が自ら申し出た形で併合されたのは、アメリカのハワイ併合と日本の韓国併合の例のみである。また、当時の帝国主義諸国からも日本の韓国併合には異議が出なかった。日本政府は事前にイギリスの持つ韓国での権益は変更しないとしてその諒解を取り付け、ロシアとは日露協商を結んで、朝鮮併合を認めてもらう代わりに、ロシアの満州での権益を尊重すると約束していた。ところが、日本と韓国国内では併合条約公布(8月29日)まで秘密にされ、韓国では報道規制が敷かれ、注意人物数百人の事前検束などが行われた。日本では領土拡張を喜ぶ世論が多く、歴史学者は「日鮮同祖論」などを発表して併合を合理化した。<海野福寿『韓国併合』1995 岩波新書、糟谷憲一『朝鮮の近代』世界史リブレット43 など> 
a 1910韓国併合が行われた1910年は、明治43年、明治も余すところ2年となっていた。この年、日本では大逆事件が起こった。幸徳秋水ら社会主義者が明治天皇暗殺を計画したとして逮捕され、秘密裁判によって死刑となった。これによって日本では自由な言論は封殺され、社会主義運動は冬の時代にはいる。その同じ年に韓国併合が行われ、日本は植民地帝国としての地位を確立した。日本が帝国主義国家として戦争に突入していく、重要な曲がり角になった年と言える。石川啄木は、9月9日の日記に「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」と詠んだ。
韓国併合条約 正しくは「韓国併合に関する条約」。1910年8月29日に公布。その第1条には「韓国皇帝陛下は、韓国全部に関する一切の統治権を完全且つ永久に日本国皇帝陛下に譲渡する」とあり、第2条で「日本国皇帝陛下は、前条に掲げたる譲渡を受諾し、且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す」とされている。つまり、韓国皇帝が日本天皇に譲渡したとして、韓国併合を実現した。このように「任意的併合」の形式をとったのは、すでに保護国である韓国に対し「強制的併合」を行うわけにはいかないという、国際法上の制約によるものであった。また、韓国側は「韓国」の国号と、皇帝に王称を与えることに固執したが、日本政府は前項は認めず、名称を「朝鮮」とし、退位する皇帝純宗には「王殿下」の称号を与えた。<海野福寿『韓国併合』1995 岩波新書>
日本の朝鮮植民地支配 1910年の韓国併合から、1945年の日本降伏まで、朝鮮半島は35年にわたって日本の植民地として支配された。この間、日本は漢城を京城(現在のソウル)と改称して朝鮮総督府を置き、現役の陸軍大将を総督として軍政(武断政治ともいう)を行った。日本は朝鮮半島を、重要な米穀などの食糧資源と労働力の供給地として位置づけて植民地支配を展開した。朝鮮総督府は、土地調査事業と称して土地所有権の確定作業を進め、広大な土地を国有地として没収し、日本人の官僚や企業家に払い下げた。
1919年に、三・一独立運動が起こると、日本は朝鮮総督現役武官制を改め、文官任用に改め文化政治といわれる路線を採ることとしたが、実際には文官が総督になることはなかった。それでも役人には現地の朝鮮人が任用されるなどの転換が図られた。また1930年代には、満州および中国本土への日本軍の侵出拠点としてその統治は強化された。1940年代の戦争の時期になると、日本は朝鮮に対する皇民化政策を推進し、創氏改名や国内の労働力を補うための朝鮮人強制連行や慰安婦の徴発が行われた。1944年からは朝鮮においても徴兵制が施行された。
1945年8月15日、日本が太平洋戦争で敗北し、朝鮮植民地支配も終了した。この日は光復節として祝われたが、日本軍撤退後、ただちに南部にはアメリカ軍が、北部にはソ連軍が進駐したため独立は遅れ、ようやく1948年に南の大韓民国と北の朝鮮民主主義人民共和国という分断国家として独立することとなった。
b 朝鮮総督府 1910年の韓国併合に伴い、従来の韓国統監府を拡充して京城(前の漢城。現在のソウル)に設置した。以後、1945年まで、日本の朝鮮植民地支配の中心機関となる。総督は天皇に直属し、韓国の政治・軍事の全権を握り、陸海軍の大将から任命されることになっていた。初代総督には陸軍大将寺内正毅が任命された(寺内はすでに朝鮮統監として在任しており、また陸軍大臣兼務であった)。朝鮮総督府による統治は、憲兵を主体とした軍人による強圧的な武断政治であったが、1919年に朝鮮民衆が独立を求めて三・一運動を起こすと、総督は文官任用に改められ、「文化政治」と言われるソフトな統治方式に改められた。1940年以降、日本が全面的な戦争状態にはいると朝鮮に対しても「大東亜共栄圏」を支えるため、皇民化政策が強められ、創氏改名、徴兵制の採用などの措置がとられた。
Epi. 朝鮮総督府の解体 朝鮮総督府の建物は朝鮮王朝の王宮である景福宮をを取り壊して、覆い隠すように建造された。第2次大戦後も大韓民国の政府庁舎となり、その後国立中央博物館として利用されていたが、1995年に尖塔部分のみを残して全て解体された。現在は宮殿が復元されている。韓国の国民感情としては、総督府の建物はいかに重厚な文化財だと言っても、忌まわしい植民地時代の象徴であったのである。
武断政治 軍人による統治を意味し、1910年に始まる日本の朝鮮総督府による朝鮮支配がそれにあたる。総督府の長官の朝鮮総督は、天皇に直属し(つまり本国の内閣からは独立して)韓国の政治・軍事すべてを掌握し、陸海軍の大将が任命されることになっていた。その統治は、憲兵隊司令官(明石元三郎)が警務総長を兼務し、普通警察と一体化となって治安維持の他に戸籍事務や農作物の作付強制など民衆の生活をも掌握するもので、いわゆる「武断政治」であった。このような統治方針は、1919年に三・一独立運動が起きて「文化政治」と言われるソフトな統治に改められるまで続いた。
エ.辛亥革命
 光緒新政 義和団事変後の清朝政府が光緒年間の1901年から行った、最後の改革運動。実権を握っていた西太后が行ったもの(光緒帝は幽閉中。「光緒新政」とは光緒帝が行った新政という意味ではなく、光緒年間に行われた改革、と言う意味)であるが、かつて彼女が葬り去った康有為らの戊戌の変法の内容を焼き直したものにすぎなかった。その実務に当たったのは袁世凱などの官人官僚であるが、あくまで清朝の支配を延命させるための改革にとどまった。折から起こった日露戦争では満州で日本とロシアの激しい戦闘が行われたが、清はいずれにも与しなかった。日露戦争の年に清では最後の科挙が行われ、翌年には科挙の廃止を決定した。また日本や欧米に使節団を派遣し、憲法制定の準備を行い、1908年に憲法大綱を発布、9年後に議会を開設することを約束した。また近代をアピールする為もあって、纏足禁止令を出した。しかし、清朝政府は帝国主義列強の外圧と、内部からの孫文らの革命運動に対処できず、1908年光緒帝と西太后が相次いで死去、3歳で即位した宣統帝(溥儀)が最後の皇帝となる。
a 科挙(の廃止)清朝政府が1905年、漢人官僚の袁世凱や張之洞などの意見によって科挙の廃止などを決めた。これによって、587年の隋から始まった王朝が学科試験によって官吏を選考する科挙制度は終わりを告げた。 
b 憲法大綱 清朝の実権を握る西太后は、義和団事変後、政権維持のため、立憲政体を採用することに踏み切り、大日本帝国憲法(1898年制定)を模範として、1908年に憲法大綱を制定し、9年後の国会開設を約束した。しかし、同年の西太后の死去により、国会開設は実現しなかった。 
c 国会開設  
d 新軍  
e 民族資本家  
f 利権回収運動 20世紀はじめ、清朝末期の中国で、帝国主義列強の中国分割によって奪われた鉄道敷設権や鉱山採決権などの利権を中国人の手に回収することをめざした、中国人民族資本家による運動。資金は在外の華僑から支援された。その華僑から始まったアメリカ商品ボイコット運動と平行して起こった中国民族主義(ナショナリズム)運動の高まりを示すものであった。その代表は1904年にアメリカからベルギーへ売られた粤漢線(広州−漢口)の敷設権で、沿線地域のエリートが湖広総督張之洞(漢人官僚)と協力し、1905年に675万ドルで買い戻した。買い戻された敷設権によって民営の鉄道会社が各地で設立された。それに対して清朝政府は、1911年5月に鉄道の国有化政策を打ち出した。その目的は鉄道敷設権を担保とした外国からの借款であり、地方エリートの自治的な動きに対する清朝政府の統制強化であった。さっそく回収されたばかりの粤漢線と川漢線(成都−漢口)がターゲットになる、湖南、広東、湖北などの民族資本家や学生が中心となって国有化反対の運動が起こった。その中で最も激しい暴動が起こり、辛亥革命の発火点となったのが1911年8月の四川暴動であった。
g 華僑(と中国革命)華僑(南洋華僑)の中には満州人の支配を嫌って海外に移住した人々も多かったので、もともと反清感情があり、清朝末期の革命運動は孫文のようにまず華僑の中から起こった。19世紀にアメリカに移住した華僑の多くは苦力といわれる苛酷な労働に従事していたが、その中に成功して冨を蓄えた人びとが、アメリカ社会での人種差別に遭遇して民族意識に目覚め、本国の清朝支配を倒す革命運動を支援するようになった。
華僑によるアメリカ商品ボイコット運動:アメリカ合衆国への中国人の渡航は、18世紀の中国の人口爆発を背景に、北京条約で中国人の海外渡航が合法化されたことを契機として急増した。多くの華僑が太平洋を渡り、おりからのゴールド=ラッシュの金鉱採掘や、大陸横断鉄道の建設工事に従事した。彼らは移民といっても実態は苦力貿易といわれる半ば強制的に送り出され、借りた渡航費を返済するために厳しい労働に従事させられていた。しかし1870年代になると中国人労働者によって仕事を奪われたアイルランド系の下層労働者の中に、中国人移民排斥運動が起き、1882年に中国人移民制限法が成立した。中国人排斥は日露戦争後の日系人排斥と併せて「黄禍論」(黄色人種を警戒する風潮)として強まり、厳しく迫害されるようになった。このような中国人移民の窮状や華僑によって本国に伝えられ、1905年の広東に始まるアメリカ商品ボイコット運動となった。この年は清朝が科挙を廃止した年でもあり、官界への夢をたたれたエリート層もナショナリズムに目覚めていった。アメリカ商品ボイコットそのものは成功しなかったが、華僑と本土の中国人を結びつけるナショナリズムが高揚し、知識人がその先頭に立つという運動の構図が形成されることとなった。<菊地秀明『ラストエンペラーと近代中国』中国の歴史10 講談社 p.125-129>
同時期に起こった、利権回収運動も中国の民族資本の成長と、ナショナリズムの高揚から起こったことであり、その運動の資金も広く各地の華僑が支援することで活発となり、四川暴動を呼び起こして辛亥革命へと展開していく。この中国革命の指導者孫文もハワイに移住した華僑であった。
 孫文 孫文(1866〜1925、孫逸仙、孫中山とも号した)は広東の農民出身の華僑の一家に生まれたクリスチャンであり、14才で兄を頼ってハワイに渡りカレッジに学んだ。アメリカの民主主義社会の空気を体験して19才で広東に戻り、香港で医学を学び、医師を開業したが、個人を救う医師よりも危機の中国を救う国医とるほうが大切だとして、改革運動に加わった。清朝の打倒を目指して1894年、ハワイで興中会を結成、1895年日本との講和に反対して広東で武装蜂起したが失敗し、日本に亡命した。亡命中は横浜に居住し、宮崎滔天の紹介で犬養毅などと知り合った。1905年、東京で中国同盟会を結成、三民主義を理念とする四大綱領を掲げた。1911年辛亥革命(第一革命)が起きると帰国し、翌年正月成立した中華民国臨時大総統に就任したが、まもなくその地位を清朝皇帝を退位させることを条件に、袁世凱に譲り渡した。袁世凱の独裁が強まると、それに反対して第二革命が起こったが、失敗して1913年日本に亡命、東京で中華革命党を結成した。1917年には広東軍政府を樹立し大元帥となって北京の段祺瑞軍閥政府に対抗したが失敗し上海に逃れた。五・四運動後、1919年には中国国民党と改めその総理となり、ロシア革命の影響を受けてソ連に接近し、強まってきた日本の植民地支配に抵抗するため、1924年に中国国民党大会で連ソ容共を掲げて国共合作(第1次)を成立させた。 → 孫文(国共合作期)
a 興中会 孫文が中心となってハワイで1894(前身は92)年に結成した清朝末期の革命をめざす秘密結社(当時中国では会党と言われた)。反満州、中華の快復、共和政の実現を明確に掲げ、広東省出身者と華僑を会員とし、95年香港で拡大改組、同年に広東で最初の武装蜂起を試みた。この蜂起は密告によって失敗、孫文は日本に亡命した。ついで1900年には、義和団事変の混乱に乗じて広東省の恵州で蜂起(恵州義起)したが失敗した。1905年、東京に亡命中の孫文は、黄興、宋教仁らとはかり、中国同盟会を結成した。 
b 中国同盟会 1905年、東京で孫文が中心となって、興中会(広東中心、指導者孫文)・光復会(章炳麟ら浙江省出身者が中心)・華興会(黄興ら湖南出身の在日留学生が結成)などを結集して組織した反清朝を掲げる中国最初の政党。革命同盟会とも呼ばれたが、「革命」という語が人々に恐怖心をあたえることを警戒して、単に中国同盟会と称した。三民主義に基づく四大綱領を掲げ、機関誌『民報』を発行した。1911年、辛亥革命が起こり、孫文が臨時大総統となったが、北京の袁世凱との取引でその地位を譲った。袁世凱大総統のもとで議会開設が予定されたので、袁世凱の独裁に対抗するため、1912年に幅広い国民政党として国民党に改組された。 
光復会 清朝末期の1904年に上海で結成された、清朝の打倒を目指す革命派団体。浙江派ともいわれる浙江省出身者が多く、会長ははじめ蔡元培、1910年から章炳麟が会長となった。章炳麟はインド独立運動の影響を受け、欧米の圧迫に対するアジア民族の抵抗を主張した。女性革命家として有名な秋瑾(しゅうきん。官僚の家に生まれ、富豪の妻となったが離婚し、単身日本に留学、婦人参政権運動に参加し、帰国してから1907年に武装蜂起を計画し、失敗して処刑された。)や、若き日の魯迅も光復会会員であった。
華興会 1904年、長沙で結成された、反清朝の革命を目指す団体。湖南省出身が多く湖南派ともいわれる。中心人物は黄興宋教仁ら。翌05年、哥老会と連携して湖南で武装蜂起した。指導者黄興は、中国の特殊性に基づき、各省ごとの自治を主張した。
c 三民主義 1905年7月、東京で結成された中国同盟会の綱領として孫文が提唱したことで、1911年の辛亥革命以後の中華民国の政治理念となった、「民族の独立(民族主義)・民権の伸張(民権主義)・民生の安定(民生主義)」の三原則。
西洋の民主主義をふまえながら清朝の封建社会と帝国主義列強による半植民地支配を倒し、新しい中国社会の建設を目指した独自のスローガンであった。中国革命の指導理念として重要であり、現在も台湾の中華民国政府の国是となっている。孫文は同時に、「韃虜(清朝)を駆除し中華を快復する(民族主義)、民国を創立する(民権主義)、地権(土地所有権)を平均にする(民生主義)」という四大綱領を綱領として掲げた。また、1924年1月に第1次国共合作が成立した際には、「連ソ・容共・扶助工農」を三民主義に加え、新三民主義と言われた。 
d 民族の独立 孫文の三民主義の柱の一つ。孫文は民族主義について、1912年1月の中華民国臨時大総統就任宣言に於いて、「漢・満・蒙・回・蔵の諸民族をあわせて一人にする。これを民族の統一とする。」とのべ、「五族共和」の理念を明らかにした。彼の民族主義は、従来の中華帝国の版図内の民族を「中華民族」として融合させるところにあった。 
e 民権の伸張 孫文の掲げた三民主義の柱の一つ。民権主義は、個人の基本的人権よりも、国家を創り上げる国民の権利としての民権ととらえられる。「中国人はどうして一握りの散砂(砂のようにバラバラになっている状態)になってしまったのか。各人に自由が多すぎるからである。中国人には自由が多すぎるから革命が必要なのだ」と述べ、「(自由は)もはや個人のうえに使ってはならない。国家のうえに使うべきものである。個人が自由すぎるのはいけないが、国家は完全な自由をえなくてはならない」としている。 
f 民生の安定 三民主義の柱の一つである民生主義は、「地権の平等」という、土地所有での貧富の差の是正という、「私」を否定して「公」を強調する、民権主義と同じ、中国の古代以来の思想に根ざすものであった。<古田元夫『アジアのナショナリズム』世界史リブレット42> 
g 四大綱領 1905年、中国同盟会の結成の際、孫文が三民主義と共に掲げた綱領。「駆除韃虜・恢復中華・創立民国・平均地権」の四項目を言う。駆除韃虜とは、清朝政府を打倒することを意味し、恢復中華とともに民族主義の具体化であり、創立民国は民権主義、平均地権は民生主義の具体化である。 
 辛亥革命 1911年、辛亥の年に武昌蜂起に始まった反清朝の暴動が全国に広がり、翌12年1月、孫文が臨時大総統に就任し中華民国が成立した。この中国最初の(またアジア最初の)共和政国家の出現を辛亥革命という。清朝政府はなおも北京に命脈を保っていたが、2月に内閣総理大臣袁世凱によって宣統帝が退位させられ、清王朝は12代297年で滅んだ。ここまでを第一革命(狭い意味の辛亥革命)ともいう。この革命は清朝の滅亡のみならず、秦の始皇帝から2000年以上続いた中国の皇帝専制政治が終わりを告げるという大変革であった。また1840年のアヘン戦争以来、資本主義列強の侵略を受け半植民地状態に落ち込んでいた中国の、真の独立を目指す戦いでもあった。しかし革命政府は独自で中国全土を統治し、共和制を実現する力に欠け、実権は北京の袁世凱に握られていく。袁世凱の独裁政権に対する革命派の戦いは1913年の第二革命、1915年の第三革命がいずれも失敗し、その後の中国は軍閥が割拠する混乱期が続く。
辛亥革命は長期的に見れば、「中国革命」の始まりと見ることができる。辛亥革命で成立した「中華民国」は真に近代的な国民国家となることができず、軍閥の抗争、帝国主義列強の支配、封建社会の残存などの克服がなおも課題として残った。第1次世界大戦後の中国ナショナリズムの高揚をうけて孫文は中国国民党を結成、さらに新たに登場した中国共産党との間で大胆な国共合作を成立させた1924年からは「国民革命」と言われるようになる。
a 四国借款団 清朝政府は財政難の解決のため、鉄道を国有化し、それを担保に外国から借款(借り入れ)を得ることを図った。1910年、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスの4ヵ国の銀行による四国借款団が結成され、11年にまず幣制改革のための借款が成立、同年に湖広鉄道借款も成立した。しかし外国資本による支配に反発する中国の民族資本家の反対運動が起こり、辛亥革命の勃発となったため、借款は実施されなかった。
b 鉄道国有化政策 1911年、清朝政府はイギリス・フランス・ドイツ・アメリカの四国から一千万ポンド、日本から一千万ポンドの外債を借り入れて、全国の鉄道をすべて国有化しようという鉄道国有令を制定した。当時各地で勃興した民間の新興資産階級は、鉄道その他の外国利権を回収し、国権を恢復する運動を起こしていた。そのような民族資本家と清朝打倒をめざす革命勢力が結びついて、各地で鉄道国有令に反対する動きが出てきた。そのうち最大のものが四川で起こった暴動である。 
c 四川暴動 1911年、清朝政府の出した鉄道国有令に反対して四川で起こった暴動。8月に成都でストライキが起こり、政府は軍隊を派遣して鎮圧しようとしたが、かえって暴動は全国に広まり、革命の情勢が生まれた。
中でも激しい反対運動が起こったのが四川で、11年6月の川漢鉄道会社の株主総会が「鉄道を守れ」をスローガンに 
d 1911 辛亥革命の起こった1911年は、帝国主義と民族運動の矛盾が進行した年であった。アフリカではドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が再びモロッコに軍艦を派遣(第2次モロッコ事件)、イタリアはトリポリ・キレナイカの領有を狙って出兵し、イタリア=トルコ戦争が起こった。民族運動も進展し、インドネシアでのサレカット=イスラームが成立、メキシコでのサパタのメキシコ革命、インドではガンディーらの運動によってベンガル分割令が撤回された。イランではロシアの圧力で国民議会が解散させられた。なお、辛亥革命の直接の影響として、12月にモンゴルが独立宣言を出した。1911年は日本では明治44年にあたり、その前年に韓国併合を行っている。
e 武昌蜂起 1911年10月10日夜に起こった革命派軍隊の反清朝の武装蜂起。ここから辛亥革命が始まり、翌年2月の清朝滅亡に至った。四川暴動を鎮圧するために、政府は武漢駐屯軍に出動命令を出したが、武漢軍の中核をなす新軍には革命支持派が多く、ついに10月10日に新軍が反旗を翻し、武昌を占領、指揮官黎元洪が満州人国家に代わる漢人国家として中華民国の成立を布告した(正式には中華民国軍政府湖北都督府)。この報せは直ちに全国にもたらされ、各地で革命派が蜂起、翌月までに13の省が相次いで清朝からの独立を宣言した。独立した各省は武昌政府を中央政府として認めた。この10月10日は双十節として中華民国の誕生の日として今でも祝われている。なお、中華民国の正式な発足は、翌1912年正月元旦の孫文の臨時大総統就任からで、1912年は年号「中華民国元年」とされた。 
f 第一革命 1911年に始まる辛亥革命において、10月の武昌蜂起から、12年正月に孫文を臨時大総統とする中華民国(南京政府)が成立し、清朝政府を倒した袁世凱が孫文に代わって臨時大総統に就任するまでを第一革命という。
武昌蜂起に驚いた北京の清朝政府は、軍隊を派遣したが撃退され、漢口・漢陽・武昌の武漢三鎮は革命軍が実権を握った。その知らせが広まると、各地の軍隊は武漢に同調し、清朝への服従を拒否した。北京政府は皇帝宣統帝はまだ5歳で統治能力はなく、北洋軍閥を率いる袁世凱が時局を収拾することとなり、内閣総理大臣に任命した。袁世凱は配下の新軍を武漢三鎮に派遣し形勢を逆転させたが、一転して革命軍と和議を結び、自ら孫文の南京政府との交渉に乗り出した。その結果、袁世凱は宣統帝を退位させ、清朝が滅亡した。袁世凱は北京で中華民国臨時大総統となった。
g 中華民国 1912年正月元旦、孫文が臨時大総統に就任し、中華民国が成立。首都は南京。共和政国家は中国最初であり、アジアでももちろん最初であった。年号は「中華民国元年」と改められた。
「中華民国」を代表する政府は以後、日中戦争の終結までいくつも存在し、複雑な経過をたどる。およそまとめると次のようになる。
1.北京軍閥政権期:1912〜28年。袁世凱の北洋軍閥を継承した有力軍閥が抗争し、中華民国大総統はめまぐるしく交替、各地にも軍閥が自立し、また孫文らは広東軍政府をつくって抵抗し、中国は分裂状態であった。この間、第一次世界大戦が勃発。日本の対華二十一ヵ条要求に対し、軍閥政府は適切に対処できず、五・四運動などの民族運動が活発となった。孫文は中国国民党を結成、1924年には第一次国共合作が成立させ、広州に「国民政府」を成立させ、北京の軍閥政権との対立を明確にした。孫文を継承した国民党蒋介石は26年から「北伐」を開始、途中共産党を排除したが、28年に北京を占領、軍閥政権を倒し、中国を統一した。この間、国民政府は「広州政府」から「武漢政府」へと移ったが、国共合作が破綻した後は蒋介石の「南京政府」が主導権を握った。
2.国共内戦期(大戦前):1928〜1936年。南京国民政府は蒋介石独裁の性格が強かったため、しばらく反蒋介石勢力との間で内戦が続いた。また国共合作崩壊後は共産党は独自の根拠地造りに進み、対立軸は国民党と共産党の対立へと移っていった。共産党は瑞金に独自のソビエト政権を樹立したが、国民党の圧力を受け、延安に大西遷(長征)をおこなった。その間、日本の満州侵略が始まり、東北地方に「満州国」を成立させたが、蒋介石政府は「安内攘外」策をとり共産党討伐を優先させた。その間に日本は中国本土への侵攻を開始する勢いを見せ、危機感を持った東北軍の張学良が蒋介石を監禁して内戦停止を迫り(1936年西安事件)、蒋介石もそれを受け入れた。
3.日中戦争期(第2次国共合作期):1937〜45年。37年、日中戦争が勃発、日本軍は直ちに「中華民国」の首都、南京を陥落させた。しかし国民政府は、武漢、ついで重慶と移動し、日本軍の追撃から防衛した。日本は1940年、汪兆銘を担いで南京に「国民政府」を樹立させ、「重慶政府」と対抗させた。「重慶政府」はアメリカ・イギリスの支援を受けて抵抗を続け、国共合作のもと一応は蒋介石の統率下に入った共産党軍(八路軍など)も激しく日本軍に抵抗しながら拠点を拡大していった。こうして国民党・共産党は対立要素を含みながら抗日民族統一戦線を維持して日中戦争に勝利した。
4.国共内戦期(大戦後):1945〜49年。蒋介石の国民政府は「中華民国」を代表する政府として、大戦中から国際的に認知され、国際連合の創設にも加わった。国内ではいったん、共産党も含む「政治協商会議」が開催され、憲法の制定、民主的な議会の創設が目指されたが、結局内戦に突入した。共産党が解放区で土地改革などを実施しながら国民の支持を伸ばしたのに対して、「中華民国」国民政府は政府内部の腐敗などが進行し、また軍事的な敗北も重ねて、1949年12月に台湾に撤退した。大陸では1949年10月、共産党による中華人民共和国が樹立された。
5.台湾統治期:1950〜現在。台湾に移った蒋介石国民党政権の「中華民国」は国際連合の議席も継承した。国民党政府は本土出身者によって固められ、台湾人との対立の問題もあったが、東西冷戦のなか、アメリカの援助を受け、蒋介石政権が存続した。しかし、1971年にはアメリカが中華人民共和国を承認、「二つの中国」を認めないという立場に変わったため、台湾の「中華民国」は国連の議席を失い、諸外国との外交関係も絶たれた。蒋介石は1975年に死去、78年に息子の蒋経国が総統となり、国民党以外の政党を認めるなど改革を進めた。1988年には初めて台湾出身者である李登輝政権が成立、大胆な民主化を進めたが、中華人民共和国との対立は深まった。  
h 孫文(臨時大総統)辛亥革命の勃発の知らせをロンドンで聞いた孫文は、1911年末に帰国し、翌12年正月、臨時大総統に就任した。しかしまだ北京には清朝政府が存在し、その実権を握る袁世凱は革命軍を攻撃しながら、孫文の南京政府と交渉を行っていた。孫文は、袁世凱との交渉によって、清朝を廃し、共和政を維持するという条件で、大総統の地位を袁世凱に譲った。袁世凱は1912年2月に清朝の宣統帝を退位させ、3月に臨時大総統になった。
孫文の革命論:孫文の三民主義は中国革命の指針としてその後も標榜されていくが、孫文自身は、中郷で直ちに西洋風の民主主義的な議会政治が可能であるとは考えていなかった。その革命論は、「三序」と言われる段階論であり、憲法に基づく民選政府と民選議会を有する民主体制は、君主制度が廃絶されるとすぐに実現されるのではなく、第一の段階として「軍法の治」、第二の段階として「約法の治」という二つの段階を経て「憲法の治」へ至ると考えた。「軍法の治」とは革命直後の革命党を中心とした軍事独裁体制であり、旧体制の打破と民主化の環境整備の段階とされる。「約法の治」の約法とは臨時的憲法の意味で、地方自治などの部分的な民主化の実現させ、中国国民が民主政治の訓練を受けて成長・自覚をとげた暁に、国民選挙で正式の憲法を制定し、「憲法の治」を実現させるという段階的革命論であった。その根底には、中国人はまだ十分に自覚していないという愚民観があった。その点は宋教仁ら、一挙に選挙による民主政治を実現すべきであると考えた若い革命派とは違っていた。<横山宏章『中華民国』1997 中公新書 p.9> 
共和政国家  
i 北洋軍  
j 袁世凱 李鴻章の跡を継ぐ有力な漢人官僚で、淮軍の指揮を摂った。日清戦争後は洋式軍隊である新建陸軍(略して新軍)の育成にあたり、戊戌の変法では康有為等を裏切りって山東巡撫北の地位につき、義和団事変では清朝政府の要請にも拘わらず外国軍との戦闘に加わらず、事変後直隷総督・北洋大臣となる。日露戦争後は西太后の意を受けて光緒新政を取り仕切り、科挙の廃止などを断行した。辛亥革命が起きると、総理大臣として革命政府の孫文と取引し1912年、清朝の宣統帝を退位させ臨時大総統となる。彼の率いる新軍は北洋軍閥といい、事実上私兵としてその独裁を支えた。第二革命を弾圧して1913年からは正式大総統として独裁権力を握る。1914年第1次世界大戦が勃発すると日本の中国進出が激しくなり、翌年日本の対華二十一ヶ条の要求を受諾して、激しい非難を受ける。1915年に帝政宣言を発したが、第三革命が起こってそれをあきらめ、1916年に死亡した。 
k 宣統帝溥儀 宣統帝は清朝最後の皇帝(在位1908〜1912)。姓は愛新覚羅(あいしんかくら。満州語ではアイシンギョロ)、名は溥儀(ふぎ)。
清朝の実権を握った袁世凱は、武力によって幼帝の宣統帝を脅し、宣統帝は皇室の優遇、満州人などの漢人との平等な待遇などを条件にして2月12日、退位した。これによって清朝277年で滅亡した。溥儀は後に日本軍の傀儡政権として満州国皇帝に復帰する。数奇な運命にもて遊ばれた、ラストエンペラーであった。 
 袁世凱の独裁 孫文袁世凱の野心に警戒し、袁世凱を北洋軍閥と切り離すため南京に呼んだが、袁世凱は北京から動かず、実質的な首都としてしまった。その後、臨時約法の制定、国民党の弾圧など独裁的となり、1913年には正式な大総統に就任した。それに反発して第二革命が起こったが、それを武力で抑え、独裁権力を強めた。 
a 臨時約法 1912年、中華民国臨時大総統の袁世凱が制定した、憲法制定までの暫定基本法。臨時大総統の権限を制約するため立法部の権限を強くしていたが、実効力は無かった。 
b 国民党 1912年8月、中国同盟会など4つの政治結社が合流した政党。袁世凱の独裁に対抗し、選挙で議会の多数を占めることを目指す公開政党として組織された。孫文が理事長に選出されたが、実権は議会制民主主義の実現を目指していた宋教仁らがにぎっていた。孫文は、中国では議会制民主主義は困難と考え、有能な人物(つまり孫文自身)による専制による革命を主張していたので、宋教仁に対しては批判的であった。1913年に選挙が実施されると、国民党は大勝したが、危機感を持った袁世凱は宋教仁を上海で暗殺(13年3月20日)、国民党も抵抗できず解散した。孫文は、1914年に残存勢力を集めて中華革命党を東京で結成、再び秘密結社方式に戻った。その後、1919年の中国国民党に改組され、公開政党に戻る。<横山宏章『中華民国』中公新書 1997 p.32〜36> 
宋教仁  
c 第二革命 1913年、袁世凱は宋教仁を殺害し、国民党を弾圧した。この袁世凱の弾圧に対し、南京の黄興や江西の李烈均ら国民党系の革命勢力が挙兵したのが第二革命。しかし革命側は装備などで劣り、蜂起は二ヶ月で鎮圧され失敗。1913年10月、袁世凱は議会によって選出され、正式な大総統となる。 
大総統  
d 中華革命党 1914年7月、孫文が前年に解散した国民党の勢力を再結集し、東京で結成。議会制に備えて結成された国民党が袁世凱の弾圧で解散に追い込まれたため、孫文は再び秘密結社的な革命集団が必要と考えた。党員には孫文個人への忠誠を尽くすことも求められた。このような孫文の絶対化に対してはかつての同志からの批判も強く、黄興や李烈金鈞らは袂を分かち、参加しなかった。そのため党勢はのびなかった。1919年の五・四運動後に、大衆的政党として中国国民党に改組される。 
e 第三革命 第一次世界大戦が勃発すると、英・独・仏・露などヨーロッパ勢力がアジアから後退、その隙に日本が中国進出を企てた。大隈内閣は1915年、袁世凱政府に対し、二十一ヵ条の要求を突きつけてきた。袁世凱はそれに対して反日感情をあおるとともに、自ら皇帝になることを策謀し、1915年末国会に皇帝推薦を決議させ、翌年1月に即位式を行うと宣言した。しかし、国内で第三革命といわれる反対運動が激化し、日本・英・露三国も帝政復帰に反対したため、翌年それを取り消し、まもなく失意のうちに急死した。 
 軍閥政権 1916年の袁世凱の死から、1828年の蒋介石の北伐完了まで、北京には次々の軍閥を背後に持つ政権が交代した。これらの政権を軍閥政権という。主な軍閥として、安徽派の段祺瑞(だんきずい)、直隷派の馮国璋(ふうこくしょう)・曹(こん)(そうこん)・呉佩孚(ごはいふ)、奉天派の張作霖らが争った。派の名前は軍閥指導者の出身地による。
厳密な意味で軍閥を袁世凱の北洋軍閥の流れをくむものであるとすれば、安徽派と直隷派はまさにそれにあたるが、奉天派は、北洋軍閥とは直接関係が無く、馬賊などの勢力を糾合した張作霖が独自に形成したものである。
軍閥抗争の背後には、中国の政治勢力を利用して影響力を強めようとする、帝国主義諸国があったことを忘れてはならない。特に安徽派の段祺瑞を強力にバックアップしたのが日本であり、直隷派を応援したのがイギリス・アメリカであった。このように北京の軍閥政権は外国勢力と結んで抗争し合い、辛亥革命によって成立した中華民国の統一と安定を著しく阻害していた。広州で樹立された国民政府は、1925年、中国の真の独立と統一のために軍閥打倒をめざして北伐を開始することになる。
a 軍閥 軍閥の定義は、横山宏章氏によれば、
(1)歴史的には、清末に組織された北洋軍閥の流れをくむ近代的軍事集団
(2)経済的には、地主階級と深い関係をもつ封建的性格が濃厚
(3)国際的には、帝国主義との結びつきと援助で勢力を確保
(4)国内的には、中央政府の支配力が弱く、軍費も自己調達の独立性が強い
(5)意識的には、国家防衛意識が弱く、個人的領袖に忠義を尽くす私的軍事集団
とまとめられている。このような軍閥の割拠が、中国の統一を阻害し、外国の侵略を招いた。<横山宏章『中華民国』中公新書 1997 p.64> → 軍閥政権の交替
b 安徽派 北洋軍閥で袁世凱の後継者の一人となった段祺瑞(安徽省の出身)を統領とした軍閥。1916年の袁世凱の死後、段祺瑞は国務総理となり、軍閥を背景に大総統の黎元洪をおさえ、実権を握った。段祺瑞に対し、1917年、日本の寺内正毅内閣は全面的な支援を行い(仲介した人物の名を取って西原借款という)、それによって軍備を増強した段祺瑞は武力統一を図り、第一次世界大戦に参戦した。反発した直隷派がイギリス・アメリカの支援を受けて北京を攻撃、また奉天派も同調したため、1920年に安徽派段祺瑞政権は倒れた(安直戦争)。段祺瑞の没落後、日本の資金はほとんど回収できずに焦げ付いてしまった。
c 直隷派 北洋軍閥の袁世凱死後の主導権を、段祺瑞の安徽派と争った軍閥。直隷派の直隷とは、首都北京を含む現在の河北省のこと。馮国璋ら直隷省出身者が軍閥を形成し、安徽派と抗争した。はじめ安徽派に抑えられていたが、1919年に馮国璋が死んで首領となった曹が、イギリス・アメリカの支援と、奉天派の協力によって翌1920年、安徽派を破り北京の実権を握った(安直戦争)。しかしほどなく奉天派と対立、1922年にはそれを破り(第一次奉直戦争)、翌年大規模な国会議員の買収を行って大総統に就任した。しかし実権はその部下の呉佩孚に移った。1924年、奉天派の張作霖が再び北京を目指して第2次奉直戦争が起こると、直隷派の将軍の一人馮玉祥が裏切り、その手で曹は捕らえられ、直隷派政権は崩壊した。
d 奉天派 中華民国建国期に大きな存在となった軍閥の一つで、東三省を基盤とした張作霖が頭目であった。安徽派・直隷派などが北洋軍閥の流れをくむのに対して、奉天派は馬賊から頭角を現した張作霖が一代で築いた私兵集団をもとにしている。北京から離れた東北地方にあったが、しばしば関内に侵攻し、安徽派・直隷派を脅かし、キャスティングボードを握っていた。はじめ直隷派と結んで安徽派段祺瑞政権を北京から追い(安直戦争)、ついで直隷派と戦い(第1次奉直戦争)、いったん敗れたが、1824年には再び北京を目指して直隷派を破り(第2次奉直戦争)、張作霖が華北を抑えることになった。しかし、ほどなく南京国民政府の蒋介石の北伐が始まり、1928年に北京を放棄した。張作霖の後継者張学良は国民政府に帰順し、その軍も国民政府軍に組み込まれて東北軍となり、軍閥は消滅した。
 広東軍政府 1917年〜24年、広東省の広州で、孫文が北京の軍閥政権に対抗するために組織した軍事政権。北京の軍閥安徽派の段祺瑞政権が、日本の支援を受けて全国統一に乗り出す形成となったことに危機感を持った孫文は、1917年7月に上海から広東に移り、臨時約法を守るための政府を広州に樹立、大元帥となった。これを広東軍政府(第1次)という。雲南の唐継尭、広西の陸栄廷などの軍事力を頼り、段祺瑞軍と「護法戦争」を戦ったが敗れた。その後も、1921年の第2次、1923年の第3次と再建されたが、いずれも孫文と広東の軍閥勢力の間の内紛で、安定しなかった。そのような状況を克服しようとした孫文は、1924年にコミンテルンの要請を受けて共産党との合作に踏み切る。翌年の孫文死後、ようやく最初の国民政府が広州に組織される。
 モンゴルの独立 → モンゴル(清朝以降)  モンゴル人民共和国   モンゴル国
a 内モンゴル うちもんごる。モンゴル高原の中心部を外モンゴルというのに対し、その南に広がる草原地帯で、中国と境界を接する地域を内モンゴルという。モンゴル人が遊牧生活を送る地域であるが、漢民族の居住も多く、漢文化の影響も強い。外モンゴルと同じく、清ではその藩部として支配を受けたが、辛亥革命後の1915年に外モンゴルは自治が認められたが、内モンゴルは中華民国に編入された(キャフタ協定)。満州に進出した日本では内蒙古と呼んで、その勢力圏としようと軍事侵攻を行った。第2次世界大戦後に成立した中華人民共和国のもとでは民族自治区の一つ、内モンゴル自治区として省と同等の行政区とされ、自治が認められている。
 モンゴル人民革命党  
b モンゴル革命  
c チョイバルサン  
d モンゴル人民共和国 1924年に成立した、ソ連に次いで二番目の社会主義国。現在は社会主義を放棄し、国名もモンゴル国となっている。モンゴルは中国とソ連の二大国にはさまれているので、その社会主義政権の成立した事情は複雑であるが、次のように要約されている。モンゴル人が長く遊牧生活を営んでいたモンゴル高原は清朝によって征服され、藩部に編入されて支配を受けた。1911年、辛亥革命が起きるとモンゴルでも独立運動が始まり、1915年には外モンゴル(高原の北部)は中国の宗主権のもとで自治が認められた(高原の南部の内モンゴルは中国領に編入された)。1917年ロシア革命が起こると社会主義の影響が強まったが、中国政府は社会主義の進出を恐れ、モンゴルの自治を撤回した。その後ロシア革命に敗れた白軍が侵入し、モンゴルを支配したが、1921年にスヘバートルチョイバルサンらが結成したモンゴル人民党(後にモンゴル人民革命党と改称)はソビエト赤軍の支援を受けて、外モンゴル人民臨時政府を樹立した(モンゴル革命)。この政府はモンゴル人の象徴であった活仏を元首としていたが、1924年に活仏が死去したため、モンゴル人民共和国として社会主義国家となった。これは1922年のソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)に次ぐ世界で二番目の社会主義国家の成立であった。この時、首都を従来のクーロン(庫倫)からウランバートル(「赤い英雄の都」の意味)に改称した。
その後もソ連との関係が強く、モンゴル人民革命党はコミンテルンの支部として活動した。1938年から第2次世界大戦後の52年までは人民義勇軍の将軍チョイバルサンが独裁的な権威を持った。 → モンゴル国
 チベット  
 ダライ=ラマ13世  
オ.インドでの民族運動の形成
 イギリスの植民地支配 イギリスはインドを植民地支配する上で、鉄道の建設など基盤の整備とともに、警察制度の整備と英語教育に力を入れた。特に教育は1835年より英語で行うこととし、官庁の文書もそれまでのペルシア語と各地方語の使用を停止し、すべて英語で作成することを命じた。役人になるためには英語が使えなければならないので、英語は急速に普及した。それまでインドには統一言語の発達が遅れていたことも、英語の普及の理由であった。またインド社会に残る、嬰児殺し、幼児婚、寡婦の殉死(サティ)などを禁止する立法措置をとった。これらはキリスト教の布教と結びついていたが、必ずしもインド民衆には受け入れられなかった。またイギリスはインド統治にあたって、ヒンドゥーとイスラームの対立(コミュナリズム)を利用した。
19世紀末の帝国主義段階に入り、イギリスの植民地支配はさらに強化され、アフガニスタン、ビルマへの支配の拡大とともに、鉄道建設などを進め、綿花などの産品を独占して利益を上げ、それに反発するインド民衆を弾圧するための差別法を次々と制定した。そのような中で、反英闘争が組織化され、1883年に全インド国民協議会が発足すると、イギリスはそれに対抗して対英協調組織として1885年にはインド国民会議を開催した。20世紀に入り、ベンガル分割令に対する反対運動から、国民議会派はイギリスの思惑を超えて反英闘争の中心組織に転化し、四大綱領をその闘争の理念として掲げるに至る。イギリスはイスラーム教徒の組織化を支援するなど、宗教的対立を利用して独立運動を抑えようとする。第1次世界大戦が始まるとイギリスは戦後の独立を約束して戦争協力を取り付け、多数のインド兵がヨーロッパ戦線に送られたが、戦後その約束は守られず、ガンディーらを中心とした独立運動が本格化することとなる。 → 反英闘争の激化
a 鉄道の建設 インド大反乱の前の1853年、アジア最初の鉄道が、ボンベイとその近郊を結んで敷設された。それ以後イギリスは、インド内陸の穀物、アヘン、綿花などを積出港まで運ぶための鉄道建設を積極的に進めた。19世紀末までに2万4800マイルに及んだ。鉄道の急速な伸びは、燃料の石炭を必要としたので、炭坑の開発も進み、重工業発達の基盤となった。鉄道建設はイギリス資本によって進められたものであり、その植民地支配の動脈となった。
b 綿花(インド)インドでは農家の家内工業としての綿織物の原料として綿花が栽培され、インド産綿布は18世紀前半まではイギリスに輸出されていた。ところがイギリス産業革命の結果、イギリスは綿織物輸入国から輸出国に転換し、逆にイギリス製綿布がインドに大量に入ってくることいなった。そのためインドの家内工業としての綿織物業は衰退し、農民は綿花栽培に特化していった。とくに1861年、アメリカ南北戦争による世界的綿花不足によってインドの綿花生産は異常に増大し、1863年にはアヘンを抜いてインドの最大の輸出品となった。
c ラーム=モーハン=ローイ インドの後進性を批判し、社会と文化の改革を説いたインド独立運動の先駆者。「近代インドの父」と言われている。ベンガルのザミンダールの家に生まれ、インド古来のヴェーダーンタ哲学を学び、イスラーム教、キリスト教の教理も研究し、ヒンドゥー教の改革を唱えた。偶像崇拝やサティ(寡婦殉死)のような習俗の廃止を主張した。1830年にイギリスに渡り、議会でインドの現状について発言し、独立を訴えたが、33年にイギリスのブリストルで客死した。
Epi. 義姉のサティに直面したモーハン=ローイ サティ(寡婦の殉死)によって夫婦は天界に生まれかわり、夫の祖先の罪が消滅すると信じられていたため、いやがる寡婦を親族がよってたかって説得したり、麻薬を飲ませ、むりやり火中に追いやることが行われていた。このサティの蛮習の廃止に立ち上がったモーハン=ローイも、青年時代に兄の死後サティを志願した義姉を説得したが聞き入れられなかったという苦い経験をした。義姉は自らサティを望んだけれど、いざ火に触れたとき身をわななかせ逃れようとした。しかし親族や僧侶が竹の棒を持って無理やり彼女を火中に追いやり焼き殺してしまった。その間中、彼女の叫喚をかき消すために、太鼓やシンバルが打ち鳴らされた・・・。モーハン=ローイはこの悪習の根絶を誓い、20年にわたる請願運動によって、1829年にベンガル総督にサティ禁止令を出させることに成功した。しかし、近年までごく稀にだが、サティが行われていたという。<森本達雄『ヒンドゥー教』2003 中公新書 p.196-199>
サティ サティは寡婦殉死などと訳されるが本来は「貞節な妻」を意味した。ヒンドゥー社会に見られる風習で、夫が死んだとき、妻はそれに従って死ぬことが美徳とされ、人々に送られて生きたまま焼かれるという。この一種の殉死の習慣は、古くからあり、14世紀のイスラーム教徒のイブン=バットゥータの『三大陸周遊記』にも出てくる。南インドのヴィジャヤナガル王国では国王が死ぬと4〜500人の後宮の女性が王の死体とともに荼毘に付されたという。ムガル帝国のアクバル帝は、たびたびサティ禁止令を出しているが、根絶出来なかった。夫に従って身を焼き滅ぼすのが美徳と考えられたのであり、1829年にイギリスも禁止令を出しているが、すぐにはなくならなかったという。
Epi. ガンディーの幼児婚 なお、インド社会には非人道的な風習として幼児殺害や幼児婚があった。これらは親の経済状態から子供が犠牲になることで、封建時代の日本にも見られたことである。ガンディーの自叙伝を読むと、ガンディーも13歳で結婚させられたということである。<ガンジー『ガンジー自伝』1921 中公文庫 セ.35〜>
 反英闘争の組織化 19世紀末、イギリスは帝国主義的なインド統治を進める上でいくつかの差別的な法律を制定した。1878年の「土着語出版法」(インド人の出版、言論の弾圧で「箝口令」と言われた。)、「武器取締法」(インド人の武器所持を禁じる)などである。また1883年には司法上の差別をなくしインド人判事がイギリス人を裁けるようにした法案が、イギリス人団体の反対で廃案になった。これらは、イギリス植民地当局のインド人に対する差別の表れであるとして、激しい反対の声が起こり、1883年バネルジーらが指導する全インド国民協議会が結成された。これが言論による反英闘争の最初の組織となった。 
 全インド国民協議会 1883年、司法上の人種差別をなくす法案が廃案になったことに憤激したインド植民地で組織された、最初の民族主義的な反英組織。指導したのはバネルジーで、その後もインド独立運動の重要な指導者のひとり。イギリスはこのような動きを牽制し、取り込むために、対英協調的なインド社会の上層部の名士を召集して、1885年にインド国民会議を開催した。バネルジーもそれに参加し、国民会議派を形成し、反英闘争の組織に転化させる。
a インド国民会議 1885年、第1回大会をボンベイで開催しされた会議で、はじめはイギリスがインドの名士を集め、インド総督の諮問に答えて意見を述べさせ、植民地統治に対する不満のはけ口とするつもりであったが、そこに結集した人々は国民会議派と言われてインドの自治獲得を目指す、最有力の政党となった。 
b ヒンドゥー教徒 ヒンドゥー教はインド古来の宗教であったので、インド人の多数がヒンドゥー教徒であった。13世紀以来、イスラーム教の征服者によって支配され、ムガル帝国でも被支配者の立場であった。しかし、アクバル帝の宥和政策もあって、日常的には共存出来ていた。しかしイギリスの植民地支配が進む中で、多数派のヒンドゥー教徒は植民地政庁の下僚になったり、比較的社会的な上層を形成し、少数派で貧困状態の続くイスラーム教徒の対立が生じた。イギリス当局も分割統治策をとり、ヒンドゥーを優遇した。ヒンドゥー教徒の中にも、ヒンドゥー教の浄化を図るヒンドゥーイズムが生まれ、イスラームとの対立が深刻となっていった。独立運動の過程でインド国民会議はヒンドゥー教徒が主体となった。熱心なヒンドゥー教徒であったガンディーは、イスラーム教徒との協力を説き、またヒンドゥー教の中にあるカーストの対立、不可触賎民への差別と戦った。しかし、1947年の独立にあたっては、ヒンドゥー教徒はインドとして独立し、イスラーム教徒はパキスタンとして分離独立した。 → ヒンドゥー・イスラームの対立
c 国民会議派 1885年、ボンベイでバネルジーらが中心となって第1回大会を開いたインド国民会議に始まり、一貫してインドの独立運動を指導した政党。はじめはイギリスの統治に協力的で穏健であったが、1905年から反英的になり、ティラクら急進派が台頭し、スワラージ(自治の意味)を掲げるようになり、第1次世界大戦頃からガンディーの指導のもと、サティヤーグラハ(非暴力・不服従運動)が唱えられ、非暴力主義による反英、独立運動の中心勢力となる。その大半はヒンドゥー教徒であり、1947年にインドの独立後は与党として保守化していく。 
イスラーム教徒(インド)インドの民族運動が盛んになるにつれて、インド人のアイデンティティとしてヒンドゥー教信仰を復興させようとする動き(ヒンドゥーイズム)が強まった。それにたいしてイスラム教徒(ムスリム)は、全インドでは少数派であり、インド大反乱(シパーヒーの乱)以来、イギリスはムスリムを警戒していたので、官吏や軍人になる道を閉ざされ、差別される存在であった。イスラム教徒の中には、19世紀末にアフマド=ハーンに率いられたアリーガル運動(アリーガル大学を中心としたイスラム文化復興をめざす運動)が起こり、1906年全インドムスリム連盟が結成され、ヒンドゥー教徒を中心とした国民会議派とは別な勢力となっていく。イギリスはこの両派の対立を利用して、「分割統治」という植民地支配の原則を貫徹しようとした。1947年にはヒンドゥー教徒とは分離し、パキスタンとして独立した。 → ヒンドゥー・イスラームの対立 
 反英闘争の激化  
a カーゾン 1899〜1904年と1904年末〜1905年末までの2度、インド総督となったイギリス人。帝国主義の開幕の時期に当たり、彼はインドを基地にして中東と中国におけるロシア帝国の南下政策を防ぐための広域防衛体制を整えるのが任務であった。そのためインド統治の効率化を図る必要に迫られ、ベンガル分割令を制定したが、それはインド人の反発を呼び覚まし、民族独立運動に火をつけることとなった。
b ベンガル分割令 1905年、インド総督カーゾンはベンガル州を東西に分け、東=東ベンガルとアッサム地方、西=ベンガル本州とビハール・オリッサ地方、に分割する法令を施行した。これによってイスラーム教徒の多数を占める東とヒンドゥー教徒が多い西とを分離させ、反英闘争を分裂させることを狙った。これに対し、インドではティラクら国民会議派がカルカッタで大会を開き、四大綱領を掲げて大々的な反対運動を起こした。イギリスは、ティラクを逮捕するなど弾圧を加えたが、バルカン情勢の悪化など、世界大戦の危機が迫ったのでインド側の要求を入れ、1911年12月に撤回した。 
c カルカッタ大会四綱領 1906年、国民会議派がカルカッタで開催した大会で採択した、インド独立運動の四大綱領。英貨排斥はイギリス商品(主として綿布)を購買しないこと、そのかわりスワデーシは国産品を買うようにしようということ。実際、イギリス商品を扱う店先で青年、学生がピケを張り外国商品を焼き捨てた。スワラージのスワは「自己」、ラージは「統制」を意味し、「自治」の獲得を求めたもの。民族教育は、イギリスの教育制度の押し付けはインド人の精神の奴隷化を意味するとし、「民族的統御の下、民族的方針に従い、国の利益に即した」教育を求めたもの。 
d ティラク インドの国民会議派に属する独立運動家。パールらとともに急進派で、1905年のベンガル分割令反対闘争を指導して、国民会議派を穏健な民族運動から急進的な独立運動に転換させた。スワラージ(自治獲得)を大衆運動の目標に設定し、イギリスに対する民族解放の戦いを続けた。 
e 英貨排斥 ボイコットとも言う。1906年、カルカッタで開かれたインド国民会議はの大会で、イギリス政府がベンガル分割法を制定したことに反発して、外国製品、特にイギリス製の綿布を買うのをやめることが呼びかけられた。同時に植民地政府への非協力をも行われた。代わりい国産品を愛用しようと言うのが、スワデーシ
f スワデーシ 国産品を愛用しようと言うこと。インド国民会議派が、イギリスがベンガル分割法を制定したことに反発して、1906年にカルカッタで開催された大会で定めた四大綱領の一つ。英貨排斥(ボイコット)とともにインド全土に広まり、イギリスの工業製品に対する打撃となった。
g スワラージ スワは「自己」、ラジは「統制」を意味するので、スワラージで「自治」を意味する。1906年のインド国民会議派のカルカッタ大会で、イギリスのベンガル分割法制定に抗議して掲げられた四大綱領の一つ。しかし、自治の中身については、イギリス統治の下での自治を当面目標とする穏健派と、完全な自治=独立を目指す過激派が対立した。
h 民族教育 1906年のインド国民会議派のカルカッタ大会で掲げられた四大綱領の一つで、インドでの英語教育を否定して、インド固有の言語と文化、宗教にもとづいた教育をもとめたもの。ここで言う宗教とはヒンドゥー教を意味したので、イスラーム教徒は国民会議派の運動とは別個な組織を結成することとなる。
i 全インド=ムスリム連盟 1906年イギリスのインド総督ミントーが、イスラム教徒(ムスリム)に働きかけて結成させた政治団体。ヒンドゥー教徒の国民会議派とは対決し、イギリス統治に対しては協力する姿勢を明確にした。またイギリスもヒンドゥー勢力を牽制するためにムスリム連盟を支援した。ジンナーなどの指導者は、次第に国民会議派との対立を深め、分離独立を主張するようになった。 
カ.東南アジアの民族運動
 インドネシアの民族運動インドネシアは17世紀以来のオランダ領東インドとしてその植民地支配が続いていたが、特に19世紀には強制栽培制度のもとで農民に対する過酷な収奪が続いていた。それに対して20世紀にはいるとマレー人の中に民族の独立と統一を求める声が強まってきた。先駆者的な人物としてはカルティニや「サミンの民」があるが、組織的な運動の最初は、1908年に始まるブディ=ウトモと言われる文化運動団体である。これはジャワ島の知識人の運動にとどまったが、次いで1911年にジャワ島の反華僑で結束した商人らが中心となって組織されたイスラーム同盟(サレカット=イスラーム)は、より大衆的な組織であり、オランダに対して自治を要求する政治団体として活動した。
1920年代から、独立の主体としての民族名をインドネシア人と自覚するようになり、多くの民族主義運動が組織され、「多様のなかの統一」(ビネカ=トゥンガル=イカ)が共通のスローガンとして用いられるようになった。その運動の中心となったのは、インドネシア共産党であったが、20年代半ばの武装蜂起に失敗した後、インドネシア国民党という民族政党が独立を掲げた運動の中心勢力となり、1945年のインドネシア共和国の独立を迎える。
多様のなかの統一:インドネシアの民族運動の多様性とは、
 ・島々に分かれた種族の相違  ・水田農耕、焼畑農耕、海洋交易という生産様式の相違  ・イスラームに対する態度の相違  ・社会主義を主とする近代的イデオロギーに対する態度の相違  ・オランダに対する協調路線と対決路線の相違
などがあり、その相違の中に王族、原住民官僚(プリヤイ)層、富農、中農、貧農、手工業者などの階層分化が貫かれていた。インドネシアの民族運動はこれらの多様性を克服しながら、現在もその途上にあるといえる。<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.300>
 カルティニ インドネシアの民族運動、女性解放運動の先駆者として現在も崇敬されている女性。ジュパラの進歩的貴族の家に生まれ、ヨーロッパ人の学校でオランダ語を学ぶ。社会生活の変革の必要を自覚し、1902年にジャワの娘を対象にした私塾を開き、女性の経済的自立を進めるべく職業教育を構想したが、産褥熱のため25歳で死去した。彼女のオランダ人の友人にあてた手紙が出版されて広く知られるようになり、その収益でカルティニ基金が設けられ、各地にカルティニ女学校が開設された。1964年には「国家独立英雄」に列せられ、誕生日の4月21日は「カルティニの日」として祝賀行事が催されている。<『インドネシアの事典』同朋舎 p.119> 
 サミンの民 19世紀末から20世紀初め、ジャワ島の農民に広がった宗教的な民族運動。サミンとはその教祖で、その教えを信奉する人々を「サミンの民」といった。その教えは「神はわが内にあり」と説いて自給自足の農民社会を建設し、植民地官僚の権威を認めず、納税を拒否した。運動は非暴力的なものであったが当局は共産主義との近親性を怪しんで指導者を逮捕流刑とした。現在も運動は消滅せず、ジャワの山村には外部との接触を避ける「サミンの民」がいるという。<『インドネシアの事典』同朋舎 p.188>
a オランダ  ←第13章 2節 オランダのインドネシア支配
ブディ=ウトモ 1908年、インドネシアの民族主義運動で、最初に組織された団体。ブディ=ウトモとはジャワ語で「最高の徳」を意味している。運動の中心となったのは医学校の学生たちで、ジャワ島の原住民官僚層の子弟だった。彼らはジョクジャカルタで創立大会を開き、原住民社会の調和ある発展をめざし、教育と産業の振興を訴えた。しかし、植民地政府とは協調する姿勢をとったので、イスラーム同盟のような独立を主唱する勢力やインドネシア共産党などの社会改革を主張する運動が台頭するとそれらに反対して保守化し、またジャワ族中心色が強かったため他の種族の反感を買い、次第に勢力を無くした。それでも先駆的な民族運動としての意義は大きいとされ、その結成の日である5月20日は、現在でも「民族覚醒の日」として祝日になっている。 
b サレカット=イスラーム(イスラーム同盟) サレカット=イスラーム Sarekat Islam で「イスラーム同盟」の意味。1911年、インドネシアの民族主義運動の中で組織された大衆的な団体。当初は中部ジャワのロウケツ染め業者が華人商人の進出に刺激されて組織した相互扶助団体で、組織名は商人層に熱心なイスラーム教徒が多かったことによる。1914年には会員37万に達し、ジャワ島以外にも運動が広がった。当初は自治の要求にとどまっていたが、第1次世界大戦後の食糧不足から農民の要求も強くなったことを背景に、社会主義の影響も受けて独立を主張する政党となって、1918〜20年頃のインドネシア独立運動の中心となった。しかし同時にオランダ植民地政庁による弾圧も強まり、1920年代にイスラーム近代主義の性格が強まり、インドネシア共産党とも対立するようになって勢力が弱まった。
 フィリピン革命1896年、フィリピンの独立と社会改革を求める革命運動。スペインからの独立戦争として始まり、いったん鎮圧されたが、米西戦争に乗じて共和国独立を宣言、その後アメリカが独立を認めなかったのでフィリピン=アメリカ戦争を戦った結果、1902年に敗れてアメリカの統治を受けることとなった。
経過:19世紀後半、スペインからの独立運動が活発となる中で、最初の運動の組織者ホセ=リサールがあらわれた。彼はすでに1892年に逮捕されていたが、同士のアンドレアス=ボニファシオが革命組織「カティプーナン(人民の子らの最も尊敬すべき至高の協会)」を組織、1896年8月に決起した。これがフィリピン革命の始まりであるが、銃と山刀(ボロ)で武装しただけの革命軍は、内部の連絡ミスもあって、スペイン軍に押され後退した。ホセ=リサールも12月30日に銃殺された。カティプーナンは革命政府をつくり、アギナルドを臨時大統領としたが、彼は穏健路線をとり、対立するボニファシオらを処刑するという内部分裂が生じた。アギナルドはその後、山中でのゲリラ戦を続ける一方、スペイン総督と取引し、97年降服して香港に向かった。1898年、米西戦争が勃発するとアギナルドは戦争後の独立の約束を得てアメリカに協力、フィリピン軍を率いてスペイン軍と戦った。同年6月12日、アギナルドはフィリピン共和国の独立を宣言、マロロスで議会を開催し初代大統領に就任した(第1次フィリピン共和国=マロロス共和国)。しかし、8月の米西戦争後のパリ講和会議でフィリピンは2000万ドルでアメリカに売り渡されることとなると、アメリカはフィリピンの独立を認めず軍政下に置いた。1899年2月にはフィリピン=アメリカ戦争に突入、フィリピン革命軍はアーサー=マッカーサー将軍(ダグラスの父)らの指揮する米軍に敗北し、革命は抑えつけられた。
a フィリピン独立運動 フィリピン独立運動は19世紀のスペイン植民地支配からの独立運動と、20世紀前半のアメリカ軍政からの独立運動の二段階があるが、一般に前者を指す。それは、ホセ=リサールの運動→1896年のフィリピン革命→アギナルドの指導と敗北→1898年の米西戦争→アメリカの支援で独立宣言、フィリピン共和国の成立→フィリピン=アメリカ戦争→フィリピンの敗北、独立運動の挫折、という経過をたどった。
スペインからの独立運動:16世紀以来、スペインの植民地支配が続く中で、1840年代からようやく民族意識、ナショナリズムが芽生え始めた。それは主に本国スペインに留学したインテリのフィリピン人の中に生まれてきた。その一人がホセ=リサールであり、彼はフィリピン独立の父として、現在も国民的な敬愛を受けている。ホセ=リサールは1880年代から独立を主張する文筆活動に入り、1892年にまず穏健な社会改革を目ざすフィリピン民族同盟を組織し、幅広い平和的な社会運動を指導しようとした。しかしスペインの総督はリサールを危険人物としてただちに逮捕追放した。その同志であったボニファシオはより戦闘的な「カティプーナン」を組織、1896年に武装闘争を開始した。それがフィリピン革命の始まりである。それに対してスペインは激しい弾圧を加え、ホセ=リサールを逮捕殺害した。しかしカティプーナンも和平派と武力闘争派が内部分裂して弱体化し、指導者アギナルドも亡命して失敗に終わった。
米西戦争からフィリピン=アメリカ戦争へ:1898年、キューバ問題から米西戦争(アメリカ=スペイン戦争)が起きると、フィリピンではアメリカが独立運動を支援、アギナルドは帰国して革命軍を指導し、スペインと戦い、同年フィリピン共和国の独立を宣言、初代大統領となった。しかしアメリカはスペインに勝利してフィリピン領有権を獲得すると、独立を否定、そのため1899年からフィリピン=アメリカ戦争となった。その結果、アギナルドは捕らえられ、独立運動は敗北、フィリピンはアメリカの統治下にはいる。 → アメリカ統治下のフィリピン
b ホセ=リサール ホセ=リサールは5代目世代の華僑系メスティーソ(混血)、ドミニコ修道会所有の農園の小作農であったが、教育の機会に恵まれマニラのサント・トマス大学で医学を学び、21歳でスペインに留学した。マドリッドで同じく留学中のフィリピン人と会い、フィリピン人はスペイン人に劣るのではなく、足りないのはただ教育の機会だけだと考えるようになり、同胞を啓蒙して、スペインの従属すから解放することに使命を見出した。1887年に『ノリ・メ・タンヘレ(私にさわるな)』、91年に『エル・フィリプステリスモ』を出版し、激しくスペインの支配を告発した。92年、マニラに戻り、社会改革を目ざすフィリピン民族同盟(リガ)を結成したが、ただちに総督によって逮捕されミンダナオ島に追放された。96年、かねて志願していたキューバへの軍医としての派遣を許可され、ミンダナオ島を離れたが、おりから8月、ボニファシオら「カティプーナン」が蜂起しフィリピン革命が始まると、リサールもその指導者のひとりとして再び逮捕され、簡単な裁判にかけられた。リサールはこの蜂起には直接かかわってはいなかったが、有罪とされ、12月30日に銃殺刑となった。この日は現在、国民的英雄リサールの命日としてフィリピンの祭日となっている。
 フィリピン民族同盟 1892年、ホセ=リサールがマニラで結成した、スペイン植民地としてのフィリピンの社会改革を目ざす組織。「ラ=リガ=フィリピナ」(フィリピン同盟)が正式名称で、「リガ」が略称。フィリピン民族同盟は秘密結社であり、その目的は、
(1)フィリピン諸島をまとまりがあり、活力に満ちた均質的な社会とする。
(2)あらゆる欠乏や窮乏に対する相互援助。
(3)すべての暴力および不正に対する防衛。
(4)教育、農業、商業の振興。
(5)改革の研究と実践。
など、平和的であり、直接、独立や武力蜂起を呼びかけたものではなく、独自のフィリピン社会の建設という「穏やかな変革」をめざした組織であった。しかしこの同盟が作られた7月3日の直後、スペイン人の総督はホセ=リサールを逮捕し、ミンダナオに追放した。<鈴木静夫『物語フィリピン史』1997 中公新書 p.100>
 カティプーナン フィリピンの独立をめざす秘密結社で、1896年に武装蜂起し、フィリピン革命をめざしたが、スペイン軍の厳しい弾圧を内部分裂から戦いに敗れた。結成の中心人物のアンドレス=ボニファシオは、熱烈なホセ=リサールの信奉者で、そのフィリピン民族同盟に加わっていたが、ホセ=リサールが逮捕された1892年7月にカティプーナンを組織した。これは正式には「人民の子らの最も尊敬すべき至高の協会」の意味で、フィリピン民族同盟と異なり、明確な独立闘争を掲げ、フリーメーソンに倣った血盟による入会儀式などをもっていた。96年3月、青年エミリオ=アギナルドが参加した。1896年にフィリピンからの独立を掲げて武装蜂起し、フィリピン革命を起こした。しかしスペイン軍の攻勢を受けて苦戦、さらに武力闘争を掲げるボニファシオと、穏健派のアギナルドが対立して内部抗争が始まり、アギナルドがボニファシオを殺害して指導権を得た。スペインの攻勢が強まるとアギナルドはスペインと取引して亡命、カティプーナンの蜂起は失敗した。「リサールが指摘したように、カティプーナンの蜂起は準備不足のまま行われ、圧政者を一挙に壊滅させる国民的盛り上がりに欠けていた。」しかし、「レガスピのセブ島上陸から331年という気の遠くなるようなスペイン支配の経験を経て勃発したところに、時期的な妥当性も民族的正統性もあった。」<鈴木静夫『物語フィリピン史』1997 中公新書 p.102-115>
c アギナルド フィリピン独立運動の指導者のひとりで、1898年のフィリピン共和国初代大統領。マニラ郊外カビテの町長であったが、ホセ=リサールの「フィリピン民族同盟」に加わり、1896年には「カティプーナン」のメンバーとしてフィリピン革命の蜂起に加わった。カティプーナンの組織者ボニファシオと対立し、それを反革命として処刑し、革命派のリーダーとなる。山中でゲリラ戦を指導するかたわら、スペイン総督と取引して香港に逃れる。
1898年米西戦争が勃発すると、アメリカ軍に協力してスペイン軍攻撃に加わり、同年6月独立を宣言して、大統領に就任した(この共和国を、第1次フィリピン共和国、またはマロロス共和国という)。米西戦争の結果、フィリピンはアメリカが領有することとなり、フィリピンの独立を認めなかったので、アギナルドは今度はアメリカからの独立戦争を戦うこととなり、翌年2月からフィリピン=アメリカ戦争となった。しかし、1901年逮捕されて、独立運動は挫折し、フィリピンはアメリカの統治を受けることとなった。ホセ=リサールと並ぶフィリピン独立運動の指導者であるが、スペインやアメリカとの戦いの中で現実的な取引も行い、相反する評価がなされている。
d 米西戦争  → 第14章 1節 米西戦争
 フィリピン共和国 フィリピン革命の中で、米西戦争中の1898年6月12日、アギナルドによって独立が宣言された最初のフィリピンの独立した共和国(第1次フィリピン共和国)。アギナルドを大統領として発足、マニラがアメリカ軍によってスペインから奪還されたが、アメリカ軍が占領をつづけているため、フィリピン共和国はマロロスに移し、第1回の議会を開催した。そこでこの国家をマロロス共和国ともいう。しかし、アメリカが承認しなかったため、フィリピン=アメリカ戦争に突入し、1902年に敗北したため約4年間の短命に終わった。
e フィリピン=アメリカ戦争 米西戦争の結果、フィリピンの植民地支配をスペインから継承したアメリカに対し、独立を宣言したフィリピンとの、1899〜1902年の戦争。フィリピンは敗れ、アメリカ植民地支配が確定した。
米西戦争で勝利した後、パリ講和会議でアメリカはフィリピンを2000万ドルで買い取って領有し、軍政下に置いた。アメリカに協力してスペインと戦ったアギナルドの指揮するフィリピン共和国の革命軍は、反乱軍とされ、アメリカ軍と交戦すこととなり、1899年2月、フィリピン=アメリカ戦争(単にフィリピン戦争とも言う)が始まった。フィリピン軍はゲリラ戦で抵抗したが、1901年、アギナルドがルソン島北部で捕虜となり、1902年に敗北した。フィリピンの独立は認められず、これ以後アメリカの統治が続き、1942年の日本軍の軍政を経て、1946年に独立を達成する。 → フィリピン(アメリカの統治)
意義アメリカ帝国主義のアジア侵出の一環として起こった戦争であり、列強による中国分割、イギリスの南アフリカ戦争、さらにまもなく起こる日露戦争などと共に、帝国主義戦争の一つである。(同時に展開された義和団事件ではアメリカは出兵したが、フィリピンに兵力を割いていたので、多くは派兵できなかった。)またこの戦争は、アメリカが関わった最初のアジア人との戦争であり、後の太平洋戦争、ベトナム戦争につながっていく。
 ベトナム(独立運動) 
 ベトナム  ベトナムの独立  ベトナム社会主義共和国  現在のベトナム
a フランス  
b ファン=ボイ=チャウ  
c ドンズー(東遊)運動  
d ベトナム光復会  
キ.西アジアの民族運動と立憲運動
 パン=イスラーム主義 ヨーロッパのキリスト教諸国であるイギリスを先頭として、西アジアのイスラーム圏を植民地支配する動きが強まった18世紀後半、イスラーム教徒を団結させることによってヨーロッパ勢力に抵抗し、植民地化の危機から脱却することを目指した運動。18世紀初めからオスマン帝国領内でのアラブ民族の民族的覚醒がはじまり、アラブ民族主義運動がおこっていたが、後半になって帝国主義諸国の侵略行為が強まるのを受けて、次第にそれに対する抵抗運動へと転化した。最初の積極的な提唱者はイラン人のアフガーニーで、その思想の影響を受けてエジプトのウラービー運動、イランのタバコ=ボイコット運動などが起こった。また弟子のムハンマド=アブドゥフは、初期のイスラーム教に戻ることで分裂したイスラーム世界の再統合を図るという宗教理念を展開した。パン=イスラーム主義はオスマン帝国ではスルタン権力の再構築に利用されて形骸化するが、エジプトやサウジアラビア、イラン、アフガニスタンなどでは、現代のアラブ原理主義運動に影響を及ぼしていく。
オスマン帝国によるパン=イスラーム主義の利用 この運動は、西欧帝国主義列強の植民地支配に対する民族主義的な抵抗の理念として大きな力と役割を持つこととなった。20世紀初頭のオスマン帝国のスルタンアブデュル=ハミト2世もパン=イスラーム主義を掲げて帝国内の多民族の結束を図ったが、それは本質的なものではなく、専制政治の維持のためにパン=イスラーム主義を利用したものであった。そのため、1908年に青年トルコ革命がおこると、オスマン帝国では革命が掲げるパン=オスマン主義、さらにパン=トルコ主義によってパン=イスラーム主義は保守的な主張として批判され、事実上、復古主義に形骸化し、民族独立運動から離れてていく。
a アフガーニー 19世紀の後半、イスラーム世界を統合してイスラーム教徒が団結し、イギリスなど西欧列強に対抗しようと言う、パン=イスラーム主義を唱え、また中東各地で反植民地闘争を展開した、宗教家かつ革命家。正式にはサイイド=ジャマール=アッディーン=アル=アフガーニー。イラン人として生まれ、シーア派であったが、アフガーニー(アフガン人の意味)を名乗ったのは、スンナ派であるアフガン生まれであるとすることによって、シーア派とスンナ派の対立を超えて、イスラーム世界を統合するためであったと思われる。彼はイラン、アフガニスタン、インド、トルコ(オスマン帝国)、エジプトというイスラーム圏を渡り歩き、またその足跡はロシア、フランス、イギリスにも及ぶ。イランではバーブ教徒の反乱を体験し、エジプトではウラービー運動に影響を与え、またイランのタバコ=ボイコット運動を指導した。イランを追われてトルコのイスタンブルに移り、その地から弟子に指示して、カージャール朝の王を暗殺させるなど、テロの手段もとった。アフガーニーの思想は弟子のムハンマド=アブドゥフに引き継がれ、現在のアラブ民族主義の一つの潮流となっている。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』世界の歴史20 中央公論社 1996 p.242-547>
 ムハンマド=アブドゥフパン=イスラーム主義を唱えたアフガーニーの弟子のエジプト人。生没1849〜1905年。アブドゥフとは「神の奴隷」の意味。ナイル・デルタ地方に生まれカイロのアズハル学院に学んでウラマーとなる。エジプトを訪れたアフガーニーに深く私淑し、その影響下で英仏のエジプトからの排除とエジプト王国の専制政治打倒をめざすエジプト民族運動に加わり、ウラービー革命に積極的に関わる。そのため国外追放となり、亡命先のパリで1884年にアフガーニーと協力して『固い絆』を刊行した。恩赦によって1889年にエジプトに帰国したが、その後は政治活動を離れ、理性と啓示の調和、ヨーロッパ文明の積極邸要素の吸収、合理主義の立場による伝統の革新など「非西洋的な近代化」に取り組み、20世紀のイスラーム改革主義に大きな影響を与えた。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』世界の歴史20 中央公論社 1996 p.247-249>
 オスマン帝国(青年トルコ政権)オスマン帝国の最末期、1908年の青年トルコ革命から第1次世界大戦敗北の1918年に至る10年間、スルタン権力は形骸化し、「青年トルコ」による軍事独裁的な政治が行われた。19世紀のオスマン帝国の混乱は、露土戦争後のアブデュル=ハミト2世の専制政治の再現をもたらし、そのもとでオスマン帝国はしばらく停滞したが、20世紀に日露戦争の影響もあって、西欧列強の強圧とそれに屈しているスルタン政治に対する反発が強まり、青年トルコによる革新運動が始まり、1908年には青年トルコ革命によって立憲政治が実現した。
青年トルコ革命:1908年エンヴェル=パシャらの蜂起によって青年トルコ革命が始まり、立憲政治に復し、翌年にはアブデュル=ハミト2世は退位(スルタン制は継続しているのでオスマン帝国は維持されている)した。エンヴェルら青年トルコ政権は、トルコ人やアラブ人、ブルガリア人、ギリシア人、ユダヤ人などオスマン帝国内の民族が違いを乗り越えて国民として団結するという汎オスマン主義を掲げた。しかしこの混乱に乗じて、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州を併合し、オスマン帝国内の自治領とされていたブルガリアも独立を宣言した。このような列強の侵略が激しくなると、青年トルコ政権は議会の実権を奪って実質的には軍事独裁政権となり、またバルカン半島でのセルビア人やアルメニア人、ギリシア人の民族主義運動も厳しく弾圧した。
帝国主義列強の侵略:この間、帝国主義列強による侵略が激しくなり、1911年には地中海に面した北アフリカのオスマン領トリポリ・キレナイカに進出したイタリアとイタリア=トルコ戦争が始まった。ついで1912年にはブルガリア、セルビア、ギリシアのバルカン同盟がオスマン帝国に侵攻し第1次バルカン戦争が始まった。オスマン帝国はやむなく、イタリアにトリポリ・キレナイカを割譲し、バルカン同盟との戦いに集中したが、やはり敗れ、バルカンの領の大半を失った。
第1次世界大戦:1914年にクーデターで権力を独占した「青年トルコ」のエンヴィル=パシャは、ドイツとの提携を強め、第1次世界大戦ではドイツ側に参戦した。第1次世界大戦では、ガリポリの戦いでイギリス軍の侵攻を食い止めるなど、善戦したが、結局は敗北し、連合国との間に領土分割その他屈辱的なセーブル条約を結ぶことになった。それに対して、国民的な抵抗運動が起こり、ムスタファ=ケマルは1920年トルコ国民党を率いてアンカラに新政権を樹立、ギリシアとの講和後、1922年スルタン制を廃止し、ここにオスマン帝国は滅亡した。
b 青年トルコタンジマートで西洋思想に触れたオスマン帝国のエリート層が、スルタンのアブデュル=ハミト2世の専制政治を打倒し、立憲政治を復活させることをめざす運動を起こした。「青年トルコ」(または「青年トルコ人」)は一つの政党ではなく、1889年に「統一と進歩委員会」を中心としたさまざまな反体制運動をさしている。彼らは国内とパリなどの海外拠点で活動していたが、日露戦争での日本の勝利やイラン立憲革命に刺激され、1908年に陸軍軍人(大佐)のエンヴェル=パシャが中心となって蜂起に踏み切った。この青年トルコ革命で立憲政治を復活させて政権を握ったが、エンヴェルなどの汎オスマン主義をとなえる急進派と汎イスラーム主義にとどまろうとする保守派との対立から内部分裂し、政権は安定しなかった。
秘密結社「青年トルコ」 「青年トルコ党」という一個の団体が存在したわけではない。1889年に帝国軍医学校の学生4人がつくった秘密結社が、青年トルコ党の原基であることはまちがいない。たしかに「統一と進歩」「統一進歩委員会」「統一進歩団」などの訳語で知られるこの組織は、立憲制の復活をめざしており、パリの亡命者が出した雑誌の名前をとって、西欧では青年トルコ党の俗称で呼ばれることが多かった。しかし、アブデュルハミト二世の専制を倒そうとする運動はほかにいくつもあり、これら複雑な離合集散をくり返した運動や結社も、青年トルコ党として一括されることもある。いってみれば、青年トルコ党とは反体制運動の総称だと理解してもよい。」<山内昌之『近代イスラームの挑戦』世界の歴史20 中央公論社 1996 p.406>
b 統一と進歩委員会オスマン帝国内の近代化運動である青年トルコの運動のなかで中心となった、立憲政治を実現させることをめざした軍人による秘密結社。「統一と進歩」「統一進歩団」などとも言われる。はじめはイタリアのカルボナリなどの影響を受けた秘密結社として、1889年に帝国軍医学校の生徒4名によって結成されたが、アブデュル=ハミト2世の諜報機関(ハフィエ)によって早々に首謀者が逮捕されてしまった。続いてサロニカで軍人たちの秘密結社として「自由」が組織され、まもなく「統一進歩団」の名を継承した。
「新しい統一進歩団には、二つの大きな特徴がある。その一つは徹底した秘密性であり、他の一つは現役軍人に大きく根を張ったことだった。」彼らは自分以外に4人のメンバーしか認識できないという徹底した秘密結社として活動していたが、日露戦争や第一次ロシア革命、さらにイラン立憲革命の影響で、1908年7月に蜂起した。最初の指導者はニヤーズィ=ベイであったが、続いてエンヴェル=ベイ大佐(後にパシャの称号を与えられる)が起って、マナストゥルの兵営から出てマケドニア山中に拠った決死の部隊に参加して憲法の復活を認めさせた。その一年後には反革命が起こると、彼は再び首都に兵力を進駐させてアブデュル=ハミト2世を退位させた。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』世界の歴史20 中央公論社 1996  p.407-410> 
c 青年トルコ革命 1908年、オスマン帝国の「青年トルコ」が青年将校のエンヴェル=パシャらとともに起こした革命運動。オスマン帝国が弱体化し、バルカン半島や西アジアで領土を次々と失って「瀕死の病人」といわれるようになると、そのような帝国の衰退をとどめるためにそれまでの硬直した古いスルタン政治の打破をはかる運動が、青年将校の中にあらわれた。その青年トルコが1908年にサロニカで挙兵し、ミドハト憲法を復活させて第2次立憲政治を実現させ、翌年にはスルタンアブデュル=ハミト2世を退位させて革命を成功させた。以後、オスマン帝国は「青年トルコ」政権による立憲体制がとられることになるが、スルタンは実権を失ったものの依然として存続し、政権は安定せず、革命の混乱に乗じて周辺のオーストリア、ブルガリア、ロシアなどが領土的野心を露わにし、さらにイタリアがオスマン帝国領の北アフリカに進出するなど、帝国主義の荒波にさらされることとなる。
日露戦争の影響 オスマン帝国では1889(明治22)年に日本を親善訪問した軍艦エルトゥールル号が和歌山沖で座礁したのを串本の人たちが救援したことから、親日的であった。そして1905年、日露戦争でロシアが敗北した知らせは人々を感激させ、当時のトルコ人で子どもにトーゴー、ノギなどの名前をつける人が多かったという。特に仇敵ロシア軍が新興国日本に敗れたことはオスマン帝国の軍人に大きな刺激を与え、日本にならって古い体制を打破して立憲国家を建設することをめざす青年トルコ革命を誘発した。
青年トルコ革命の影響:この混乱に乗じて、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州を併合し、オスマン帝国内の自治領とされていたブルガリア王国も独立を宣言した。またクレタ島ではギリシアへの統合を求める暴動が起こった。
青年トルコ革命後のオスマン帝国:「青年トルコ」が政権を握り、改革を進めるが、エンヴェル=パシャなどの汎オスマン主義路線とアブデュル=ハミト2世の汎イスラーム主義路線の対立から次第に弱体化する。一方で帝国主義列強による侵略が強まり、1911年にはイタリア=トルコ戦争に敗れて北アフリカを失い、また1912年の第1次バルカン戦争でもイスタンブルを除くバルカン半島とクレタ島を放棄した。この間、青年トルコはクーデタによって権力を握り、1914年にタラート(内務大臣)、エンヴェル(陸軍大臣)、ジェマル(海軍大臣)の三人が入閣して軍部独裁的な政権となり、議会制民主主義は形骸化した。
第1次世界大戦と青年トルコ政権 さらにロシアとの対立関係にあることから青年トルコ政府はドイツ、オーストリアとの提携を強め、第1次世界大戦では同盟国側で参戦して敗戦国となった。セーブル条約で壊滅的な領土割譲を余儀なくされたところから青年トルコ政権の中枢部は国外に逃亡し、代わって頭角を現した第1次大戦中の我利ポリの戦いの英雄ケマル=パシャが蜂起してトルコ革命を断行し、1922年にオスマン帝国が滅亡することとなる。
エンヴェル=パシャ オスマン帝国の軍人で、1908年の青年トルコ革命の中心人物。1914年には青年トルコ政権を樹立し、第1次世界大戦ではオスマン帝国をドイツ側に参戦させた。敗戦後はケマル=パシャと対立して国外に逃れ、最後はパン=トルコ主義を掲げて中央アジアに入り、ソビエト政権に対する抵抗を続けていたバスマチ運動に投じ、1921年に戦死した。
『納得しなかった男』 1881年生まれであるが誕生地や父母についてはさまざまな説があり定かでない。高い身分ではなかったらしいが、陸軍士官学校に進み、次席で卒業、統一進歩団(いわゆる青年トルコ)に加わり、1908年、サロニカ(現ギリシアの都市)で挙兵し、青年トルコ革命の指導者の一人として頭角を現してアブデュル=ハミト2世に憲法と議会の復活を認めさせた。一方でエンヴェルはスルタンの一族の女性ナジェを妻とし、社会的な地位も得た。エンヴェルら青年トルコはドイツにならった軍国化を進めようと、彼自身もベルリンに駐在武官として赴任した。スルタンのアブデュル=ハミト2世パン=イスラーム主義をとって専制色を再び強めると、1909年、エンヴェルはトルコに戻り、スルタンを退位させ、「専制政治は今日で終わった」という有名な演説を行った。エンヴェルはトルコ人、アラブ人、ブルガリア人、アルバニア人、ギリシア人、アルメニア人などの民族と宗教の違いを乗り越えてオスマン帝国のもとに統一するパン=オスマン主義を掲げた。そのころ、「瀕死の病人」オスマン帝国に対する列強の侵略が激しくなり、1911年、イタリアがトリポリ・キレナイカ(リビア)に侵攻すると自ら現地に赴きイタリアと戦った(イタリア=トルコ戦争)。さらに翌年にはバルカン同盟の侵攻(第1次バルカン戦争)をイスタンブル直前でくいとめ、13年の第2次バルカン戦争ではブルガリアと戦って勝利を収め、名声を高めた。14年に成立した青年トルコ政権では陸軍大臣を務め、ドイツとの接近を図り、第1次世界大戦が勃発すると反ロシアの立場からドイツ側に参戦した。その間、彼の汎オスマン主義は次第に維持できなくなり、大戦中には敵国ロシアへの協力を理由としたアルメニア人大量殺害に責任を持つことになった。敗戦後青年トルコ政権指導部とともに国外に脱出、エンヴェル自身は初めはソヴィエト政権と結びイギリスの勢力の排除を狙い、モスクワを経由して、バクーなどでイスラーム民族運動に近づいたが、次第にパン=トルコ主義を掲げるようになり、ソヴィエト政権とも対立するようになった。さらに中央アジアに行き、ブハラを拠点にトルコ系民族運動を進めようとしたがうまくいかず、その頃ロシア革命に対するトルコ系民族の反革命運動として激しくなっていたバスマチ運動に加わり、東ブハラ(現在のタジキスタン)に入ったが、ソヴィエト軍との戦闘の中で1921年に戦死した。<山内昌之『納得しなかった男 エンヴェル=パシャ  中東から中央アジアへ』 1999 p.21〜>
パン=トルコ主義 汎トルコ主義トゥラニズムともいう。オスマン帝国のトルコ人を中心に、カフカスや中央アジアなどロシア領内にまたがるトルコ系民族(トルコ系の言語を有する民族)の民族国家を作ろうという民族運動。トゥラニズムというのは、中央アジアにあったというトルコ人の伝説的な起源の土地トゥーランによる。20世紀のオスマン帝国で青年トルコの指導者として知られるエンヴェル=パシャは、スルタンのアブデュル=ハミト2世の掲げるパン=イスラーム主義(本質的なものではなく、スルタンの権力を飾るために用いられたに過ぎなかったが)に対して、オスマン国家を近代国家に脱皮させるための理念として、パン=オスマン主義を主張した。それは、トルコ人だけではなくギリシア人、ブルガリア人、アラブ人、アルメニア人、ユダヤ人などの多民族国家としてのオスマン国家を新たに統合させる意図であったが、かえってトルコ人以外の民族の反発を受けた。そのためエンヴェル=パシャは一方でオスマン国家の枠を超えたトルコ系民族の統一をめざすようになった。それは特にロシア領内の民族問題に介入することになるので、敵国ロシアに対する攻勢となることを意味していた。エンヴェル=パシャは第1次世界大戦でオスマン帝国が敗れた後、中央アジアに入り、パン=トルコ主義運動を実際に展開し、トルコ人国家の建設をめざして反ソヴィエト反乱を起こしていたバスマチ運動に加わったが、その地で戦死し、パン=トルコ運動も実質的に終わりをつけた。しかし、その後も理念としては運動は継承されており、トルコ系民族の概念をユーラシアに分布する中央アジア起源のアジア系民族=マジャール人、フィン人、モンゴル人、さらにツングース系の朝鮮人や日本人にも拡大して、その統一を主張するものとして継続している。 
 イラン  → 第13章 1節 カージャール朝
b タバコ=ボイコット運動 1891年、カージャール朝のイランで起こった民衆の反植民地運動。イランは19世紀以降、北方からのロシア、インド方面からのイギリスの侵出にさらされていたが、トルコ系征服王朝であるカージャール朝は外債に依存して民衆生活を抑圧する政策を続けていた。1890年、カージャール朝のナーセロッディーン=シャーは、イギリス人投機家タルボットに期限50年のイランのタバコに関するすべての権利を与えた。その独占供与の見返りで純益の4分の1をシャーが受け取ることになっていた。このことがイスタンブルで発効されていたペルシア語新聞で暴露され、イラン国内に激しい反対運動が起こった。当時イスタンブルにいたアフガーニーが指導し、国内のシーア派聖職者(ウラマー)、タバコ商人が先頭に立ち、タバコをボイコットする運動に発展した。イスラーム教徒のイラン人は酒を飲むことはできなかったが、タバコは許されていたので、大衆の最も好む嗜好品として普及していたので、カージャール朝に大きな打撃を与えることになっので、シャーは違約金を払ってイギリスへの利権供与を取り消した。
c 立憲革命(イラン) 1906年にイランで起こった憲法の制定と議会開設を求めた民衆蜂起。カージャール朝はその要求に応じて議会の開設を認め、同年12月にイラン憲法が成立した。その直接の契機となったのは、1904〜5年の日露戦争での日本の勝利と、1905年に勃発したロシア革命(第1次)だった。戦争と革命によってロシアからの砂糖などの物資が止まり、民衆生活を圧迫、聖職者を先頭に政府批判を始め、日露戦争における日本の勝利は、立憲主義をとる国の、専制主義の国に対する勝利として捉えられ、各地に憲法の制定、議会の開設を要求する声が強まった。運動の高揚に押されたカージャール朝のシャーは保守派の大臣を罷免、議会を開設し、イラン憲法を制定した。この憲法はベルギー憲法をモデルにしたもので、次のパフレヴィー朝でも機能し、1979年にイラン革命が起きるまで存続した。一方イギリスとロシアは1907年英露協商を結び、イラン北部をロシア、東南部をイギリスの勢力圏とし、中間を中立地帯とすることで合意するという、帝国主義的分割協定を行っていた。