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2.イスラーム世界の発展
ア.東方イスラーム世界
A トルコ人のイスラーム化  → 第4章 2節 トルコ民族の進出 トルコ系民族
a マムルーク イスラーム社会には多数の家内奴隷や軍事奴隷が存在した。軍事奴隷は戦争の捕虜が充てられ、アラブ人以外の異教徒が多かった。ウマイヤ朝の時代からアフリカ東海岸から売られてきた黒人奴隷も存在したが、アッバース朝時代からは西方のトルコ人やギリシア人、スラブ人、チェルケス人、クルド人などが「白人奴隷兵」とされ、「マムルーク」(所有されるもの、の意味)と言われるようになった。彼らはイスラーム教に改宗してマワーリーになり、解放されることもあった(解放奴隷)。イスラーム帝国では、アラブ人の正規の軍隊のほかに、このようなマムルーク軍団を持っていたが、彼らは戦闘集団として次第に重要な存在となっていった。特に中央アジアから西アジア世界に移住したトルコ人は、騎馬技術に優れ、馬上から自在に弓を射ることができたので、アッバース朝時代の中央アジアの地方政権、サーマーン朝などによってもたらされたマムルークが広くイスラーム世界に輸出され、盛んに用いられるようになった。セルジューク朝、アイユーブ朝ではスルタン権力を支える存在となり、ついに1250年トルコ系マムルーク出身の軍人がアイユーブ朝に代わりエジプト・シリアを支配するマムルーク朝を成立させた。1517年のオスマン帝国によるマムルーク朝の滅亡以後も、エジプトではマムルーク軍団が存続し続けた。1805年にエジプトの実権を握ったムハンマド=アリーは、エジプトの近代化を進める中で、1811年にマムルークの一掃を決意し大弾圧を行い、それによってほぼ消滅した。
b トルコ人奴隷 トルコ人は中央アジアで遊牧生活を送っていた民族であり、中国諸王朝と接触し、突厥(6〜8世紀)、ウイグル(8〜9世紀)などの国家を建設していた。9〜10世紀にはパミール高原の周辺に定住し、その地はトルキスタンと言われるようになった。8世紀の中頃からイスラーム勢力の中央アジアへの進出が始まると、トルコ人はそれとの戦いに敗れて捕虜となり、西アジアに奴隷として連行される者が増えていった。そのようなトルコ人は騎馬技術に優れていたので、アッバース朝時代の中央アジアのイラン人独立政権サーマーン朝が奴隷兵士として軍事力としたのがマムルークである。サーマーン朝はこのマムルークを西アジアのアッバース朝などに売りさばいたので、西アジアでもマムルークがひろがった。このようなドルコ人奴隷は、同じトルコ系民族のたてたセルジューク朝でも軍事力の中心として活躍した。トルコ人マムルークの中にはスルタンの寵愛を受け重要な役職に就いた者もでるようになる。後にはマムルークはトルコ系だけとは限らなくなるが、マムルーク朝のように権力を握るものもいた。
チェルケス人 黒海とカスピ海にはさまれたコーカサス地方(サーカシア)に居住したインド=ヨーロッパ語系の民族。9世紀頃からイスラーム勢力の支配下に入り、トルコ人などとともにイスラーム各王朝の白人奴隷兵(マムルーク)とされた。特にマムルーク朝の後半、14世紀末から16世紀初めにはチェルケス人のマムルークが権力を奪ったので、チェルケス=マムルーク朝という。 
B セルジューク朝 もとはオグズ族といわれるトルコ系民族で、アラル海に注ぐシル川の下流(現在のカザフスタン)にいた。スンナ派イスラームを信奉し、はじめガズナ朝に服していたが、トゥグリル=ベクがニシャープールで自立し、1038年に建国。セルジュークは一族の伝説的な始祖の名前からきた。
中央アジアから西アジアに進出1055年にバグダードを陥落させ、シーア派のブワイフ朝を倒し、アッバース朝カリフからスルタンの称号を受け、スンナ派の支配を回復した。セルジューク朝はトルコ系の遊牧部族が軍事力の中心となっていたが、同時に同じトルコ人をマムルークとしても利用していた。また官僚として登用されたのはイラン人が多く、政治や学問で王朝を支え、いわゆるイラン=イスラーム文化が開花した。
小アジア進出と全盛期:第2代スルタンのアルプ=アルスラーン小アジア(アナトリア)に進出し、1071年、マンジケルトの戦いビザンツ帝国軍を破り、皇帝を捕虜とした。これによって小アジアのトルコ化が進み、ビザンツ帝国にとって大きな脅威となり、ビザンツ皇帝は西欧のキリスト教社会に救援を要請することとなり、またセルジューク朝がイェルサレムを占領したことが、キリスト教徒を刺激して、11世紀末からの十字軍運動が展開されることとなる。11世紀末はマリク=シャーのもとで全盛期となり、名宰相ニザーム=アルムルクのもとでイクター制という軍事・土地制度が整備され、またニザーミーヤ学院の創設など、学問も保護された。
衰退:イランを中心に西アジアを支配したが、12世紀には一族の分裂により、ケルマーン、ルーム=セルジューク(小アジア)、シリア、イラクなど四つの地方政権に分裂し、衰退する。1141年には東方から移動してきたカラ=キタイ(西遼)に敗れている。また13世紀には中央アジア方面からモンゴルの侵入を受け、イル=ハン国が成立するとその支配下に入り消滅する。
Epi. セルジューク朝の都はどこか? 教科書には、セルジューク朝の都はどこか、書かれていない。いろいろな王朝の都がどこだったかは、重要な情報なのに、なぜ記載がないのだろうか。セルジューク朝の場合は、いくつかの地方に分家ができて中心があいまいだったこともあるが、それ以上に重要なのは、君主が移動を続け、ある都市に腰を据えたということがなかったからである。君主はニシャープール、レイ、イスファハーンなどの都市やその郊外に滞在し、そこが中心地となった。ペルシア語では首都を「玉座の足」といっており、それは移動可能なものだった。<『都市の文明イスラーム』新書イスラームの世界史1 講談社現代新書 p.136 清水宏祐>
1055年セルジューク朝トゥグリル=ベクが、バグダードに入城し、アッバース朝カリフからスルタンの称号を受けた。この前年の1054年にはローマ教皇がコンスタンティノープル総主教に破門状を送り、キリスト教世界が東西に分裂している。
Epi. 1054年の超新星の大爆発 トゥグリル=ベクがバグダードに入る前の年、つまり1054年に、年代記によれば、突然空にまばゆい光があらわれ、1ヶ月も続いたという。肉眼でも長さが5メートル、幅が50センチほどにみえたという。この現象は天文学では有名な牡牛座の中のでは恒星が超新星となった大爆発だった。その名残が現在見ることのできるカニ星雲である。これは日本では藤原定家の『明月記』にでてくる。<『都市の文明イスラーム』新書イスラームの世界史1 講談社現代新書 清水宏祐 p.132>
a トゥグリル=ベク セルジューク=朝の初代スルタン。在位1038〜63年。ベク(またはベイ)というのは、集団の長や支配者を意味するトルコ語で、トゥグリル=ベクは「鷹の君主」の意味となる。中央アジアのニシャプールから、1055年にバグダードに入城し、ブワイフ朝を倒した。ブワイフ朝と同様、みずからはイスラーム法の執行権を握り、アッバース朝カリフの宗教的権威はそのままにして象徴としての地位を与えた。また、ブワイフ朝のイクター制を引き継ぎ、その征服地で旧支配者層にイクターを授与した。
b バグダード  → 第5章 1節 バグダード
c スルタン セルジューク朝のトゥグリル=ベクに始まるイスラーム世界の君主の称号。正統カリフ時代からのカリフが宗教上・政治上の権威を併せ持っていたが、アッバース朝時代からは次第にその権威が衰え、ブワイフ朝では大アミールが政治の実権を任され、カリフはその保護を受ける名目的、象徴的なものにすぎなくなっていた。セルジューク朝でも「カリフからイスラーム法の執行権を与えられた者」としてスルタンが世俗の権力を持つ指導者となり、カリフは宗教的権威のみを保持する存在となった。その後、スンナ派諸王朝ではスルタンの称号が一般化し、オスマン帝国では、スルタンがカリフの地位を兼ねる「スルタン=カリフ制」が行われるようになるとされている。なお、アッバース朝滅亡後は、カリフはカイロに亡命し、マムルーク朝の保護を受けていた。インドでも1206〜1526年、デリー=スルタン朝の各王朝の王はスルタンを称した。1922年のオスマン帝国の滅亡によってスルタン制度は廃止される。(以後、アラブ人でスルタンを称する者も出現する。)
マリク=シャー セルジューク朝の第3代スルタン。第2代はマンジケルトの戦いでビザンツ帝国軍を破ったアルプ=アルスラーン。このマリク=シャー(在位1073〜92)の11世紀の後半が、セルジューク朝の全盛期であり、名宰相ニザーム=アルムルクを採用して、イクター制の整備などに努め、国力を充実させた。
d マドラサ  → 第5章 4節 マドラサ
e ニザーム=アルムルク 11世紀後半、セルジューク朝のアルプ=アルスラーンとマリク=シャーという2代のスルタンに仕えたイラン人の宰相(ワジール)。ニザーム=アルムルクとは「国家の秩序」の意味の称号。ペルシア語を用いて『政治の書』(または『統治の書』)を著し、君主の統治理念を具体的に説き明かした。イクター制では、その所有者の権利と義務を定め、2〜3年でイクターを変更し、必要があれば中央から調査官を派遣する、とした。またスンナ派イスラーム教を復興させようとしてニザーミーヤ学院を創設して学問を奨励した。しかしマリク=シャーとの関係が悪化し、スルタンの後継問題から1092年に暗殺された。暗殺犯は、セルジューク朝の弾圧を受けていたシーア派系イスマイール派の最も過激な集団であった暗殺教団であった。この後はセルジューク朝は次第に衰退していった。 
f ニザーミーヤ学院 セルジューク朝のイラン人宰相ニザーム=アルムルクがバクダードなどの都市に建設したイスラーム神学研究のためのマドラサ。9〜11世紀のイスラーム世界ではシーア派の勢力が強大となっていた。バグダードを占領したブワイフ朝、エジプトのカイロを支配したファーティマ朝はシーア派であった(ただし前者は穏健派の12イマーム派、後者は過激派のイスマーイール派であったので対立していた)。ブワイフ朝に代わってバグダードに入ったセルジューク朝は、イスラーム世界の安定のため、シーア派を押さえ、スンナ派を復興させる必要に迫られた。そこで宰相ニザーム=アルムルクは、スンナ派のウラマーを育成するため、バクダード、ニシャプール、イスファハーンなどの都市にニザーミーヤ学院を建設、これらの学院(マドラサ)でスンナ派神学を教えさせた。バグダードのニザーミーヤ学院はイスラーム世界の学問の中心となり、12世紀の最盛期には数千名の学生がいたという。<佐藤次高『マムルーク』東大出版会 p.90>
C イスラーム世界の拡大  
a マンジケルトの戦い  → 第6章 2節 ビザンツ帝国 マンジケルトの戦い
b 十字軍運動  → 第6章 3節 十字軍運動
ルーム=セルジューク朝セルジューク朝は、一族の分裂により、ケルマーン、ルーム、シリア、イラクなど四つの地方政権に分裂した。そのうち、小アジア(アナトリア)に分立したのがルーム=セルジューク朝。ルームとは小アジア(アナトリア)地方のこと。1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ軍を破って小アジアに入ったセルジューク朝のスルタン、スライマーンが、1077年にニケーアを都にして成立させた。この結果、小アジアのイスラーム化が進んだ。また十字軍を迎え撃ったのもルーム=セルジューク朝で、第1回十字軍にニケーアを占領されたので都をコンヤに遷した。13世紀には最盛期を迎えたが、1243年モンゴルの侵入を受け衰退し、その属国となった。
c カラ=ハン朝 中央アジアに起こった最初のトルコ系イスラーム王朝(840〜1212年)。その成立には不明なところが多いが、もともとアルタイ山脈の南西にいて突厥に服属していたトルコ系のカルルク人が、ウイグルとともに突厥を滅ぼし、9世紀にキルギスに追われたウイグルが東トルキスタンに入るとそれに押される形で、西トルキスタンに入ったのが始まりと考えられている。840年、このカルルク人の部族連合が、カラ=ハン朝を成立させ、10世紀中ごろにイスラーム教を受容(伝承によると955年に死んだサトゥクで、ボグラ=ハーンと称した人物が最初という)、999年にはサーマーン朝を滅ぼし東西トルキスタンにまたがる国家となった。しかし部族連合国家であったため統一は弱かったらしい。都は天山山脈中のベラサグン(現在のキルギスに遺跡がある)であるが、フェルガナ地方のウズケント、東トルキスタンのカシュガルも根拠地とした。 11世紀以降、東西に分裂し、ガズナ朝、次いでセルジューク朝に押されて衰退、12世紀中頃、モンゴル高原東部から金に圧迫されて移動してきた西遼(カラ=キタイ)に併合された。
カラ=ハン朝の歴史的意義 第一は999年に西トルキスタンに侵攻してサーマーン朝(イラン系)を滅ぼし、西トルキスタンのトルコ化を促進したこと。ここから中央アジアのトルコ化が始まり、中央アジアのパミール高原の東西の地域をトルキスタン(トルコ人の土地)と言うようになった。第二はカラ=ハン朝のトルコ人が西隣のサーマーン朝の影響を受けてイスラーム教を受容したこと。ここからトルコ人のイスラーム化が始まる。カシュガルやサマルカンドがその領内の都市として栄えた。
カラ=ハン朝でのトルコ語文学の創始 カラ=ハン朝のカシュガルの宮廷人でトルコ人のユースフは11世紀中ごろ、君主の行動の規範を説いた『クタドゥグ・ビリク』と言う書をトルコ語で書いて君主に献呈した。これはトルコ語で書かれた世界最世の文学書とされている。またカシュガルに生まれたカシュガリーは、1077年に最初のトルコ語辞典である『トルコ語辞典』を完成した。これらは、後のティムール朝時代に開花するトルコ=イスラーム文化の先駆であり、トルコ人の文化面での発展を示している。
d ガズナ朝 962年、アフガニスタンのガズナに起こったトルコ系のイスラーム王朝でイラン東部からアフガニスタン、インドの一部まで支配した。もとはサーマーン朝に仕えるトルコ人奴隷兵士(マムルーク)出身の親衛隊長であったアルプテギンは、ガズナに独立政権を樹立した。その奴隷であったセブクテギンはアルプテギンの死後、おされてガズナ朝の君主となり、北方のカラ=ハン朝と争い、さらに東方の肥沃なインドのパンジャブ地方に進出した。これがイスラーム勢力のインド進出の最初であった。次のマフムード(在位998〜1030年)の時が全盛期で、アフガニスタン、イランとインドの北西部を支配し、さらにインド内部に前後17回も出兵し、ラージプート諸侯と戦った。その後、西方のセルジューク朝に圧迫されるようになり、1163年にインドに起こったゴール朝によって滅ぼされた。
文化:ガズナ朝のマフムードは文化を奨励し、『シャーナーメ』(王書)を書いた詩人フィルドゥシーを保護し、イラン文化の発展に寄与した。
アルプテギン 962年、ガズナ朝を創始した人物。サーマーン朝(イラン系)に仕えたトルコ系マムルーク(奴隷兵士)であったが親衛隊長にまで昇進して、ホラーサーン総督となり、さらにガズナ(現在はアフガニスタン)に入って独立した。
D モンゴルの侵入  
1258年 モンゴル軍がバグダードを占領し、アッバース朝が滅亡した年。
a フラグ  → 第4章 3節 ア.モンゴル帝国 フラグの遠征
b アッバース朝の滅亡モンゴル帝国はモンケ=ハンの時、フラグに率いさせて、西方への遠征軍を派遣した。フラグのモンゴル軍が1258年にバクダードを占領し、アッバース朝のカリフを始め、10万人(一説によると80万人)が殺害された。アッバース家のカリフ、ムスターシムもモンゴル軍の手にかかり殺害された。これによって750年に始まるアッバース朝は名実ともに約500年で滅亡した。なお、難を逃れたカリフの一族の一人がカイロに逃れ、マムルーク朝の保護を受けることとなる。カリフはカイロのアッバース朝傀儡政権の下で継続するが、スンナ派世界の指導的権威を失い、実質的にカリフ制度は終わりを告げた。後にオスマン帝国において、スルタン=カリフ制として復活するが、それは名目的なものであった。
カリフ制度断絶の意味 モンゴルのフラグによってムハンマドの代理者としてのカリフが殺害されたことはイスラーム世界にどのような影響を与えたであろうか。モンゴル軍はバグダードに入る前にイスマイール派の暗殺教団を滅ぼしているが、暗殺教団はスンナ派はもちろん他のシーア派からも恐れられていたので、その滅亡は歓迎されることであった。またバグダードのカリフ家もかつてのような宗教的権威は無くなっており、スンニ派の神学者もカリフ家を擁護しなかった。カリフが殺されても誰もが嘆き悲しんだわけでもなかった。またカイロのアッバース朝傀儡政権のカリフを認めたのは、マムルーク朝と、同じマムルーク系のインドのデリー=スルタン朝だけであった。こうしてスンニ派社会は「全体として、驚くべきことにカリフ無しで充分うまくやっていけることをさとり、はるか後世のオスマン朝スルタンたちがそれに加えてカリフの様式をとるまでは、そうした状態が続いた。」<D.ゴードン『モンゴル帝国の歴史』1986 杉山正明・大島淳子訳 p.164>
Epi. バクダードの陥落とカリフの最後 フラグの率いるモンゴルの西アジア遠征軍は、イランのエルブルズ山脈地方でイスマーイール派の掃討に丸3年をかけた後、1257年、バグダードの総攻撃に移った。40日間の攻防の後、守備隊は最後の一兵まで殺された。バグダードの街には火が放たれ、猛火は二十日間にわたって炎上し、「アラブの一史家によれば、二〇〇万人の市民のうち、一六〇万人が殺され、ティグリス川は流血のため数キロメートルも赤く染まったほどであった。」カリフのムスターシムは投降したが、フラグは聖なる血統を引く人物を斬罪に処するのを避け、「皮の袋に封じ込まれ、バクダードの大通りを疾駆する馬に引かれて、袋の中で息絶えた。」<牟田口義郎『物語中東の歴史』中公新書>
「一般にもっとも信じられているのは、カリフはカーペットに巻かれ、足蹴にされ踏みにじられて殺されたという説である。このような殺し方は、モンゴルのやり方にかなっている。モンゴルは、王族や高貴な血筋のものを処刑し、そのものに名誉ある死を賜ろうとすると、流血をみずにすむほうほうをとった。」<D.ゴードン『モンゴル帝国の歴史』1986 杉山正明・大島淳子訳 p.164>
c イル=ハン国  →第4章 3節 モンゴル民族の発展 イル=ハン国
d ガザン=ハン イル=ハン国の第7代ハン(在位1295〜1304年)。フラグの曾孫でモンゴル人であるが、イル=ハン国の領土の大部分の住民であるイラン人との融和を図り、1295年即位と同時にイスラーム教(シーア派)に改宗した。このとき、モンゴル人にムスリムとしてターバンの着用を命じた。この年、元朝では世祖フビライが死に、ガザン=ハンは、元朝の宗主権を否定して、完全に分離した。ガザン=ハンのイスラーム改宗宣言に伴い、それまでモンゴル帝国の宗教寛容策によって布教が許されていたキリスト教や仏教、ラマ教、ユダヤ教などはいずれも禁止された。またガザン=ハンはイラン人のラシード=アッディーンを宰相として登用し、国内のイスラーム化を図った。また、人頭税・家畜税というモンゴル式税制をやめ、地租(ハラージュ)を中心としたイスラーム式税制に改め、イクター制も導入した。
ラシード=アッディーン ラシード=ウッディーンとも表記する。イル=ハン国ガザン=ハンに仕えた、イラン人宰相(ヴァズィール)。またその侍医でもあった。西部イランのハマダーン出身のイラン人であるが、実はユダヤ人であったとも言われている。ガザン=ハンのイスラーム化政策を補佐して、推し進めた。また歴史家としても著名で、その『集史』はペルシア語で書かれたモンゴル帝国の歴史に関する第1級の史料となっている。
 『集史』 イル=ハン国ガザン=ハンが、宰相のラシード=アッディーンに編纂させた、モンゴル帝国の歴史書。ガザン=ハンの次のオルジェイトゥの時、1310〜11年に完成した。ペルシア語で書かれているが、モンゴル人の歴史を中心に世界の諸民族の歴史も集めたものであるので『集史』といわれる。モンゴル帝国の正史として第一級の史料であるとともに、モンゴル語、トルコ語、中国語の資料、伝承も採り入れて14世紀までを叙述した、最初の「世界史」でもある。また、イル=ハン国時代のイラン=イスラーム文明の遺産としても貴重である。
初めての「世界史」編纂の事情 チンギス=ハンによる建国からすでに90年が経過し、広大な世界帝国を形成したモンゴル人であったが、とくにフラグの大遠征によってイランの地にやってきて定着したイル=ハン国の支配者は、自分たちの歴史や、東方の元との関係などについてわからなくなり始めていた。そこでガザン=ハンは、モンゴル帝国の歴史を明らかにしてその自覚を高め、同時にフラグの子孫としての自己の支配の正当性を明らかにしようと考え、ラシード=アッディーンに歴史の編纂を命じるとともに、自らも口述させた。ラシードも宰相としての仕事の傍ら、手抜きをせず、「夜明けとともに筆を執り、時には移動の際の馬の背でも構想を練る」などの努力をしたという。ところが1304年、ガザン=ハンは激務の果て、34歳の若さで他界、弟のオルジェイトゥが即位した。ラシードはそれまで編纂したものを『ガザンの幸いなる歴史』として献上した。その頃、中央アジアではハイドゥの乱が鎮静化し、モンゴル世界は安定期を迎えた。そこでオルジェイトゥは改めてラシード=アッディーンに、今度はモンゴル人以外のユダヤ人、ペルシア人、ホラズム、イスラーム諸王朝、トルコ人、中国人、さらにインド、フランクなどの歴史を編纂することを命じた。こうして、モンゴルを中心とする世界を前提とし、周辺世界を含めた「世界の歴史」を、史上初めて体系化する試みがなされた。こうしてイスラーム暦710年(西暦1310〜11年)、オルジェイトゥに捧げられた歴史書は、「諸史を集めたもの」の意味で『ジャーミー・アッタヴァーリーフ』すなわち『集史』と名づけられた。現在、その写本はイスタンブルのトプカプ宮殿博物館の一角の図書館に所蔵されている。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 1996 講談社現代新書 p.8-15>
e イラン=イスラーム文化 イスラーム文化の中で11〜14世紀に栄えた、トルコ系セルジューク朝やモンゴル系のイル=ハン国のもとでの、イラン人が知識人として重用されたために成立した、イラン文化とイスラーム文化の融合した文化。(「イランのイスラーム文化」の意味ではなく、「イラン人によって支えられたイスラーム文化」の意味なので注意すること。)
イラン人はイスラーム以前からペルシア帝国以来の高いイランの文化伝統を持ち、ササン朝ペルシアまではゾロアスター教などを信仰していたが、7世紀からイスラーム化が始まり、特に9〜10世紀の中央アジア最初のイラン人イスラーム国家であるサーマーン朝のもとで、ブハラを中心にイスラームの学問を発達させ、イラン=イスラーム文化を創出した。11世紀からのトルコ人のセルジューク朝、13〜14世紀のモンゴル人のイル=ハン国の支配下にあった時代に、イラン=イスラーム文化は爛熟期を迎え、多くの学者や芸術家が生まれた。これらの王朝では公用語はアラビア語であったが、ペルシア語が文学、哲学、イスラーム神学などの学術用語として用いられ、イラン人が学問、科学、芸術の担い手となった。セルジューク朝のニザーム=アルムルクオマル=ハイヤーム、イル=ハン国のラシード=アッディーンなどのがその代表的人物である。イラン=イスラーム文化は、14世紀末に起こったティムール帝国のもとで中央アジアのトルコ人に伝えられ、トルコ=イスラーム文化につながっていく。
イ.バグダードからカイロへ
A アイユーブ朝 1169年にカイロに成立し、1171年にファーティマ朝にかわってエジプトを支配したイスラーム国家。ファーティマ朝はトルコ系奴隷兵のマムルークの勢力と黒人奴隷兵の対立が起こり、さらに十字軍の侵入を受け、カイロのカリフの権威は衰退していた。それに介入したシリアのザンギー朝のヌール=アッディーンは、三度にわたって部将アイユーブ家のサラーフ=アッディーンを派遣、マムルークを主力とするサラーフ=アッディーン軍が1169年カイロに入り、アイユーブ朝を建てた。ファーティマ朝は1171年に滅亡。アイユーブ朝はシーア派のファーティマ朝に代わり、エジプトにスンナ派の支配を回復した。その支配地はエジプトとシリアに及び、十字軍の侵入に対抗、1187年にはヒッティーンの戦いでキリスト教軍を破りイェルサレムを奪回、さらに第3回十字軍を撃退した。しかし、サラーフ=アッディーンの死後は領土は分割されて衰えた。1250年には第6回十字軍を破り、フランスのルイ9世を捕虜にしたが、その戦闘の中心となったマムルーク軍がクーデターを起こし、アイユーブ朝は滅亡し、エジプト・シリアの支配権はマムルーク朝に交替する。
a サラディン(サラーフ=アッディーン) シリアのクルド人部将アイユーブ家の出身で、イスラム神学を修め、17歳でダマスクスのザンギー朝につかえた。揺るぎない信仰に基づき、聖戦を遂行し、エジプトの内紛に介入して、1169年エジプトにアイユーブ朝を建てた。さらに、1171年にファーティマ朝の最後のカリフが病死するとバグダッドのカリフの承認のもと、政権を握った。またダマスクスのヌール=アッディーンが死ぬと1174年にはシリアも併合した。こうしてカイロとダマスクスを抑え、エジプトからシリアに及ぶイスラーム世界はサラーフ=アッディーンを最高指導者として仰ぐこととなった。1187年にはイェルサレムのキリスト教軍をヒッティーンの戦いで破って、その地を奪回し、さらに聖地回復をめざして来襲した第3回十字軍を迎え撃って撃退、その勇名をとどろかせた。ヨーロッパには「サラディン」と伝えられたが、それはサラーフ=アッディーンがなまったものである。
Epi. クルド人の英雄 クルド人は現在もイラン、イラク、トルコの三国の国境の山岳地帯であるクルディスタンに居住する。彼らの居住地域はこの三国の利害が対立しているため、20世紀の現在も彼らは独立運動を続けているが実現していない。近年もイラクのサダム=フセイン政権のもとで、クルド人に対する人権抑圧があった。このクルド人の英雄が、シリアからエジプトを征服し、十字軍と戦ったサラーフ=アッディーン(サラディン)であり、現在も彼らの崇拝を受けている。→クルド人問題
世界遺産 サラディンの城 1188年、サラーフ=アッディーンが十字軍から奪い、その後拠点とした城が、シリアの港ラタキアから20kmほと入った内陸に残されており、2006年に世界遺産に登録された。カラット=サラーフ=アッディーンという。始まりはフェニキア時代に作られた城塞らしいが、ビザンツ時代に修築され、十字軍が拠点としていた。高い城壁と深い溝、跳ね橋など、ビザンツ時代・十字軍時代・イスラーム時代にそれぞれ修築された部分が残されており、サラーフ=アッディーンの活躍がしのばれる。
ヒッティーンの戦い 1187年、イスラーム教側のサラーフ=アッディーン(サラディン)に率いられたアイユーブ朝軍がキリスト教徒の十字軍を破り、イェルサレムを奪還した戦い。ハッティンの戦いとも言う。
1174年までにカイロとダマスクスを握ったアイユーブ朝のサラーフ=アッディーンは、エルサレムのキリスト教十字軍の占領地を挟撃する態勢をとり、1187年の「7月2日、エルサレムを目指し出動した。エルサレム側は「無能な」ギー王を主将にテンプル・聖ヨハネ両騎士団などが主力であった。4日夜明けとともに両軍は丘陵頂上の「ハッティン」の角とよばれる岡の突起部の東の斜面で遭遇し、イスラム側が草原にはなった野火の煙と炎にまかれ、アッコン司教が奉持した「真の十字架」が奪われるに及んで勝敗は決した。」こうして、「聖地キリスト教徒軍はふたたびイスラム教徒軍に大敗を喫し、両者の立場を決定的に転換した。このいわばシリアの関ヶ原の戦いがハッティンの戦いであり、そのイスラム側の大将がかのアッティラとならび西ヨーロッパ人に恐怖と憎悪の念を植え付けた不世出の英雄サラディンであった。」<橋口倫介『十字軍』岩波新書 P.148-152> 
b 第3回十字軍  → 第6章 3節 十字軍運動 第3回十字軍
B マムルーク朝 13世紀後半から16世紀初め、カイロを都としてエジプト、シリアを支配したイスラーム政権。1250年〜1517年。マムルークとはイスラーム世界ではトルコ系奴隷兵のことで、アイユーブ朝でもその軍事力となっていたが、1250年にクーデターによってマムルーク出身者が権力を握ったのでマムルーク朝という。なお、マムルーク朝の前期では政権を握ったマムルークは、彼らの兵舎がナイルの中州にあり、当時ナイルはバフリー(海)と言われたので「バフリー=マムルーク朝」と称した。1382年からの後期マムルーク朝になると北カフカスのチェルケス人マムルークが主力となるので「チェルケス=マムルーク朝」とも言われる。なお、マムルーク朝は1262年から、アッバース家のカリフと称する者を保護し、マムルーク朝の支配者はカリフからスルタンの地位を与えられた形をとることとなって、イスラーム世界の最高権威を獲得したがイスラーム教スンナ派の正統神学ではこのカリフは認められていない。しかし、聖地メッカとメディナも支配したマムルーク朝は、オスマン朝に滅ぼされる1517年まで、イスラーム世界の最大勢力として続いた
モンゴル軍、十字軍を撃退:マムルーク朝の第5代スルタン、バイバルス(在位1260〜1277)は十字軍の侵入と戦って撃退し、またモンゴルのフラグが1258年にバグダードを占領しアッバース朝を倒して建国したイル=ハン国が、さらにエジプトへの侵入を企てると、1260年のアインジャールートの戦いで撃退した。1291年には、十字軍の建てたイェルサレム王国の最後の拠点アッコン(アッカ)を攻略し、キリスト教勢力を西アジアから一掃した。
首都カイロの繁栄:マムルーク朝のもとで首都カイロは国際的な商業都市として繁栄し、その商人はカーリミー商人と言われてアラビア海方面で活躍した。また農業生産力も向上し、小麦・大麦などの主産物に加えて、サトウキビの栽培とそれを原料とした砂糖の生産が増え、主要な輸出品となった。その後も東西交易のルートを抑え、16世紀初頭までインド洋交易圏でのダウ船による海上貿易を支配した。
衰退:15世紀になると小アジアに起こったオスマン帝国の圧迫を受けるようになった。さらにポルトガルのインド航路開拓以来、西欧勢力のインド洋進出が始まり、1509年、ディウ沖の海戦でポルトガル海軍に敗れてアラビア海の制海権を亡くした。1517年にオスマン帝国に倒され滅亡し、マムルーク朝が持っていたカリフの権威はオスマン帝国のスルタンが継承したとされることとなる。
Epi. 女性スルタンの登場 アイユーブ朝のマムルーク軍は1250年、第6回十字軍をエジプトのマンスーラで撃退した後、アイユーブ朝カリフが死んだので、その妻ジャジャル=アッドゥッルをカリフに立てて実権を握った。このイスラーム史上最初の女性スルタンとなったシャジャル=アッドゥッル(「真珠の樹」という意味の美しい女性であったという)は、彼女自身ももとアッバース朝のカリフに仕える女奴隷であった。女性スルタンに対しては反発が大きかったので、シャジャルはマムルーク出身の総司令官アイバクと再婚し、アイバクにスルタンの位を譲り渡した。シャジャルがスルタンとしてエジプトに君臨したのはわずか80日間だけであった。<この項、佐藤次高『マムルーク』東大出版会 p.106 による>
a バイバルス 南ロシアの草原の遊牧民クマン族の人であったが、モンゴルの侵入の混乱で奴隷として売られ、アイユーブ朝のスルタン・サーリフに買われてそのマムルーク(バフリー=マムルーク)となった。マムルーク部隊の中で頭角を現してスルタンの親衛隊隊長となり、マンスーラで第6回十字軍のルイ9世を捕虜にする功績を挙げ、その直後にクーデタを起こしてアイユーブ朝カリフを殺害、その妻のシャジャルを立てて実権を握った。1260年、スルタンとなる。そのころシリアを征服したモンゴル軍がエジプトに迫って来たが、バイバルスはバフリー=マムルーク軍を率いてパレスティナのアインジャールートの戦いでモンゴル軍を迎え撃ち、それを撃退した。翌年スルタンとなったバイバルスは、62年もとのアッバース朝のカリフをカイロに迎え、カリフの保護者としてのマムルーク朝スルタンの正当化をはかった。<牟田口義郎『物語中東の歴史』中公新書>
Epi. 計略でヨハネ騎士団の城を攻略する 1271年3月、バイバルスはシリアのトリポリの近くに設けられた十字軍、ヨハネ騎士団が立てこもるクラック=デ=シュヴァリエ城を攻撃した。以下はその時の話。
「3月3日、城の弱点だった南面の丘の外堡を奪うと、そこを足場に投石機を組み立て、その威力で外丸の壁に突破口をつくるや、攻め手は城内になだれ込む。一五日には本丸への進路を守る塔を奪い、三〇日にほ工兵隊が本丸口の塔を破り、本隊は階段を駈け上がって中庭を占領する。バイバルスほそこに投石機の設置を命じた。奮戦のかいなく多数の同志を失った守備隊は「展望台」の南の端、三個の丸い巨塔から成る「天守閣」にこもって最後の抵抗を試みる。寄せ手ほ攻めあぐむばかりだった。このようなとき、トリポリ伯から「これ以上の抵抗をやめ、降伏せょ」との密書が届いたので、城主は命令に従う。バイバルスはクラクの勇士たちを覚大に扱い、四月八日、彼らがトリポリに落ちて行く道を開いた。最後の一兵を見送ったバイバルスは、してやったり、と思ったことだろう。命がけの使者も密書も、実は彼が仕組んだペテンだった。イスラームにおいてはペテンは美徳、だまされた方が悪いのである。こうして、当時のヨーロッパ人にたたえられた”キリスト教徒の領土の鍵”は失われた。」<牟田口義郎『物語中東の歴史』中公新書 p.233>
世界遺産  クラック=デ=シュヴァリエ城 このとき破壊をまぬがれたこの城は現在もほぼそのまま残っていて2006年に世界遺産に登録された。正門の上部には、バイバルスの業績をたたえるアラビア文字の大きな碑銘が残っているという。この築城法は十字軍によってヨーロッパにも伝えられ、中世西洋の城塞建築にも大きな影響を与え、また「アラビアのロレンス」として有名なイギリスのロレンスは、中東の城郭の研究でも知られているが、彼も世界で最も素晴らしい城だと言っている。
アインジャールートの戦い 1260年、パレスチナのアインジャールートであったモンゴル軍とエジプトのマムルーク軍の決戦。モンゴル軍はダマスクスを本拠に、将軍キトブカの率いる3〜6万の兵力、エジプト軍は12万の大軍が激突した。マムルーク軍を率いたバイバルスは軍を二分し、正面から当たった軍は敗走したがもう一つの軍で追想するモンゴル軍の背後に回り、モンゴル軍を包囲して勝利した。<牟田口義郎『物語中東の歴史』中公新書>
 サトウキビ 砂糖の原料となるイネ科の作物で、原産地は東南アジア考えられている。インドに伝えられて前500年ごろからサトウキビを煮詰めて糖蜜を採るようになり、農作物として栽培されるようになった。現在も主として熱帯から亜熱帯地域で広く栽培されているが、世界史で最初に登場するのはイスラーム世界のサトウキビ栽培と砂糖の生産である。
エジプトのサトウキビ栽培:特にエジプトでは8世紀頃からサトウキビ栽培が始まり、12世紀以降はアイユーブ朝マムルーク朝の政治的な安定のもとで商品作物として栽培が普及し、砂糖はカーリミー商人の手によって重要な輸出品となった。サトウキビはキプロス島・クレタ島・シチリア島・イベリア半島でも栽培されるようになった。
新大陸でのサトウキビ栽培:サトウキビ栽培と製糖法は十字軍を通じてヨーロッパにもたらされたが、気候的に栽培が困難であったので、大航海時代になるとヨーロッパ人によって新大陸にもたらされるようになった。コロンブスが第2回の航海で西インド諸島に最初にサトウキビの苗木を持ち込んだという。16世紀以降はスペイン人によるメキシコのエンコミエンダ制農園や、ポルトガル人によるブラジルでの奴隷労働を使ったプランテーション栽培が行われた。その後、イギリスやフランスも西インド諸島などでサトウキビ栽培を始めた。増産された砂糖は三角貿易でヨーロッパに運ばれ、コーヒーや紅茶の爆発的に流行をもたらした。現在ではキューバが最大のサトウキビ栽培国である。キューバ革命を指導したカストロは1962年に社会主義宣言を行い、アメリカ資本によって経営されていたサトウキビ農園を接収した。それに対してアメリカはキューバ産砂糖の輸入制限を行い対立は深刻となって、キューバ危機が勃発した。アメリカのキューバ産砂糖の輸入制限は現在も続いている。
アジアでのサトウキビ栽培:なお、アジアではジャワ島など東南アジアのオランダ領東インドでの強制栽培制度によって栽培され、オランダの富の源泉となった。中国を経て14世紀に琉球(沖縄)に伝えられ、1610年には奄美大島に伝来し、日本では甘蔗=カンシャといわれて栽培が始まる。江戸の庶民が砂糖を味わえるようになったのはようやく江戸中期、18世紀のことである。
サトウキビとテンサイ:砂糖の原料となるサトウキビは、亜熱帯でしか生育しないので、その地域に植民地を持たないプロイセンでは、サトウキビ以外の原料から砂糖を作る研究を進め、1799年に家畜の餌として用いられていたビート(砂糖大根、甜菜)から砂糖を製造する方法を開発した。それが19世紀にはヨーロッパ諸国に広がった。現在はサトウキビによる砂糖(甘蔗糖)はキューバなどで生産され、ビートによる砂糖(甜菜糖)は大陸諸国で生産され、生産量は拮抗している。<以上、川北稔『砂糖の世界史』1996 岩波ジュニア新書などによる>
b カーリミー商人 11〜13世紀にエジプトのカイロを拠点に、紅海からインド洋にかけての貿易を行っていたイスラーム教徒の商人。アッバース朝が衰退し、エジプトにファーティマ朝・アイユーブ朝・マムルーク朝が勃興するに伴い、政治・商業・文化の中心地は、バグダードからカイロに移った。ムスリム商人の交易ルートもペルシア湾からティグリス川を利用してバクダードを経由するペルシア湾ルートから、インド洋からアラビア半島南端のアデンを経由して紅海を通り、さらにナイル川を利用してカイロに出、アレクサンドリアを経由して地中海ルートに出る紅海ルートが重要になった。特にアイユーブ朝マムルーク朝の保護を受けて、このルートで活躍したムスリム商人をカーリミー商人という。カーリミーの語源は不明であるが、最近では貿易品の琥珀(カーリム)に由来すると言う説が有力である。彼らは一種の商人組合を結成し、ダウ船を所有し、都市に商館を置いて東西貿易に活躍した。東方から香辛料・絹織物・陶磁器などをもたらし、エジプトの砂糖・小麦・亜麻織物などと交換した。彼らのもたらす香辛料はヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサなどのイタリア商人に東方貿易(レヴァント貿易)で売り渡され、莫大な利益を生み出した。<この項、佐藤次高『マムルーク』1991 東大出版会 p.117 による>
c カイロ  →第5章 1節 ファーティマ朝 カイロ
d アズハル学院 エジプトのファーティマ朝時代にカイロに建設されたマドラサ(学院)。まず970年にモスクが建てられ、2年後の972年に付属のマドラサが設置された。イスラーム神学・法学の研究のために建てられたもので、イスラーム圏各地から学生が集まり、出身地別に宿坊をもうけ、質素な生活をしながら研究を続けたという。ファーティマ朝時代はシーア派の教理の研究が行われたが、エジプトではシーア派は定着せず、マムルーク朝以降はアズハル学院はスンナ派神学の正統性を明らかにすることに重点が置かれた。現在は、「アズハル最高評議会」「イスラーム研究アカデミー」「アズハル大学」など5機関から構成され、最高評議会議長がアズハル大導師といわれてエジプト内の6000以上の宗教機関を監督している。1961年のエジプト革命以後はエジプト政府の管轄下におかれ、大導師は大統領から任命される。また教授、学生の中にはイスラーム原理主義の団体が組織されている。<藤原和彦『イスラーム過激原理主義』中公新書 2001 p.152>
Epi. 世界最古の大学 アズハル学院(大学)は、起源がファーティマ朝時代の972年にさかのぼるので、イタリアのボローニャ大学(1119年創建)よりも古く、「世界最古の大学」と言うことが出来る。そしてアズハル学院は現在も続いており、カイロのアズハル大学は現在でもイスラーム法学の最高の権威のある大学とされている。
ウ.西方イスラーム世界の変容
A ベルベル人 ベルベル人は、ヨーロッパではムーア人(またはモーロ人)と言われた。エジプトより東の北アフリカのマグリブ地方の住民。純粋な黒人ではなく、ハム系民族であり、ネグロイドや西アジアのセム系民族と混血を重ねて形成された民族。7世紀以来、イスラーム教が浸透し、ウマイヤ朝の支配を受けた後、ムラービト朝ムワッヒド朝などのイスラーム王朝が交替する。イスラーム教が続くいた結果、現在はベルベル人としての独自性はなく、ほとんどアラブ化している。
B ムラービト朝 北アフリカのモロッコで遊牧生活をくるベルベル人たちの中で、ムハンマドの教えを厳格に守ることを主張する人々が現れた。彼らをアル・ムラビトゥーン(信仰の主唱者の意味)といい、彼らは1056年にマラケシュを都にして新しい王朝を建設した。それがムラービト朝(アルモラヴィド)である。それより前にこの勢力は西アフリカのガーナ王国を滅ぼした。イベリア半島ではレコンキスタが進み、1031年に後ウマイヤ朝が滅亡、トレドがキリスト教徒に奪われるという情勢となったため、アンダルスのイスラーム教徒の要請があり、ムラービト朝軍が北上して進出、1086年にキリスト教国のレオン軍を破り、イベリア半島の南半分(アンダルス)を支配することとなった。マグリブとアンダルスを統一支配したムラービト朝は、東方でセルジューク朝の活動期と同じ時期で、東西でキリスト教世界が脅かされたこととなり、十字軍運動とレコンキスタの活発化の背景となった。1146年、ムワッヒド朝と戦い敗れ、翌年滅亡。
a マグリブ エジプトよりも東の北アフリカ地中海岸の一帯を言う。マグリブとは、アラビア語で「日の没する地」、つまり西方の意味。そこに住む人々はベルベル人で、7世紀以降イスラーム化した。現在のモロッコアルジェリアチュニジアの3国にあたる。なお、マグリブが西方を意味したのに対し、東方、つまりアラビア半島、シリア(現在のシリアより広い概念でパレスチナなども含む)、イラクなどイスラームの中心地域をアラブ人はマシュリクと呼んでいた。
イベリア半島には後ウマイヤ朝が756年から11世紀中頃まで存続したが、マグリブ地方ではバグダードのアッバース朝の支配から独立した地方政権が早くから成立した。ハワーリジュ派のルスタム朝(アルジェリア、777〜909)、シーア派のイドリース朝(モロッコのフェス、789〜926)、アッバース朝の宗主権を認めたアグラブ朝(カイラワーン、800〜909)などである。これらのマグリブ諸王朝は、10世紀の初め、チュニジアに興ったファーティマ朝によって滅ぼされたが、ファーティマ朝がエジプトに移ってからは、1056年にモロッコに興ったムラービト朝に統一されるまで、ベルベル人のイスラーム王朝がいくつか分立した。ムラービト朝はイベリア半島(アンダルス)にも進出、1146年にムワッヒド朝に交替した。13世紀にムワッヒド朝が滅亡してからは再びイスラーム王朝の分立に戻った。
b マラケシュ マグリブのモロッコ地方にある、イスラーム王朝ムラービト朝の都。1070年頃建設された。続くムワッヒド朝でも都となり、サハラの南北を結ぶ交易路の中心地として栄えた。
C ムワッヒド朝 1130年、北アフリカ、モロッコのベルベル人の建てたイスラーム王朝。首都はマラケシュ。ムラービト朝が遊牧ベルベル人であったのに対し、こちらは定着民であった。指導者イブン=トゥーマルトはコルドバ、メッカ、バグダード、カイロなどを歴訪してなどで学び、神の唯一性(タウヒード)を強調する教団を組織、タウヒードを信じる人々という意味でムワッヒドゥーンと言われた。彼の後継者アブド=アルムーミンが建国した国がムワッヒド朝である。1146年、マラケシュを征服してムラービト朝軍を破り、さらにイベリア半島に進出し、アンダルス地方を支配した。セビリアはアンダルス地方の中心として栄えた。哲学者イブン=ルシュド(アヴェロエス)はムワッヒド朝に仕えていた。12世紀以降はキリスト教徒のレコンキスタ(国土回復運動)によって次第に押され、セビリアを奪われて1269年、滅亡。ムワッヒド朝が衰退した後の西方イスラーム世界は、アンダルスのナスル朝(1230〜1492)、チュニスのハフス朝(1228〜1574年)、トレムセンにザイヤーン朝(1236〜1550年)、フェスにマリーン朝(1248〜1468年)が分立した。ナスル朝はレコンキスタによって滅亡し、他の多くはオスマン帝国の支配下に入っていく。
a  国土回復運動  → 第6章 3節 レコンキスタ
D ナスル朝 後ウマイヤ朝が衰退したイベリア半島では、いくつもの小国が分立したが、その中の一つがナスル朝で1230年頃成立した。まもなくグラナダに遷都しアンダルス(イベリア半島のイスラーム教徒の地域)を統一した。北方のキリスト教国カスティリヤ王国と南のマグリブのマリーン朝(都フェズ)とにはさまれ、巧みな外交によって独立を維持し、都グラナダにアルハンブラ宮殿を造営し、西方イスラーム文化を開花させた。次第にキリスト教勢力のレコンキスタが強まり、1492年にカスティリャとアラゴンのカトリック両王によって滅ぼされ、イベリア半島最後のイスラーム王朝となった。 → レコンキスタ
a グラナダ イベリア半島南部のアンダルシア地方の中心都市。イスラーム王朝のナスル朝の都として、13〜15世紀に繁栄した。ナスル朝の王宮であったアルハンブラ宮殿はスペインに残るイスラーム文化の遺産として有名である。1492年、スペインのカスティリヤ王イサベルとアラゴン王フェルナンドのカトリック両王はここに総攻撃を仕掛け、陥落させた。それがレコンキスタの完了となった。
b アルハンブラ宮殿 スペインのグラナダに残る、イスラーム王朝ナスル朝の王宮であった建造物。13世紀に建造された、代表的な西方イスラーム文化の遺産である。アルハンブラとはアラビア語のアル・ハムラーから転訛した言葉で、「赤い城」を意味する。緑の丘の上に立つ赤砂岩と赤煉瓦で築かれた建物が美しく映えている。アルハンブラ宮殿は単なる宮殿ではなく、東西720m、南北220mの区域に宮殿、君臣や官僚の住居、モスクや店舗、マドラサ、公共浴場などが含まれており、いくつもの泉を配した中庭が作られている。建物の壁や天井は美しアラベスク模様のタイルでかざられている。<深見奈緒子『世界のイスラーム建築』講談社現代新書 2005>
Epi. 『アルハンブラ物語』と『アルハンブラの思い出』 アルハンブラを有名にしたのは、文学での『アルハンブラ物語』と音楽での『アルハンブラの思い出』であろう。『物語』は1832年に発表されたワシントン=アーヴィングの作品。アーヴィングはパリ講和条約でアメリカの独立が認められた1783年に生まれ、それを記念してワシントンと名づけられ、6歳の時には本物のワシントン大統領から頭を撫でてもらったという、独立期のアメリカの作家。『スケッチブック』などの作品で知られるが、『アルハンブラ物語』も日本でも人気が高い。アルハンブラを旅行するという形式で、宮殿にまつわるナスル朝の最後のスルタンなどのエピソードをつづったもの。また『思い出』はスペインの作曲家タレルガが作曲したギター組曲でこれまたその哀切なメロディーが日本人には人気が高い。
エ.イスラームの国家と経済
a 貨幣経済 (イスラーム)アラブによる西アジアの統一後、しばらくはイラン、イラクなど東部地域ではササン朝ペルシアのディルハム銀貨が使用され、エジプトやシリアではビザンツ帝国のディーナール金貨が使われていた。しかし「イスラームの平和(パックス=イスラミカ)」が実現し、東西地域の商品流通が活発になると、統一的な通貨が必要となった。695年ウマイヤ朝アブド=アルマリクはダマスクスでアラブ式貨幣としてディーナール金貨ディルハム銀貨を新たに鋳造し、それを全国で流通さえることを決定し金・銀の二本位制とした。金貨と銀貨のそれぞれには、表にコーランの文句(「言え、彼はアッラーフ、唯一なるお方である」)が刻まれ、裏にカリフの名が刻まれた。ウマイヤ朝によるアラブ貨幣の発行によって経済は一段と発展し、官僚や軍隊への俸給(アター)の支払いも現金で行われた。8〜9世紀にこのような貨幣経済が成立していたことは、中国とヨーロッパに比較してもかなり早い時期であり、イスラーム文明の特徴と言える。<佐藤次高『イスラーム世界の興隆』世界の歴史8 中央公論社 1997 p.107〜などによる>
ディーナール金貨 イスラーム世界に流通しその貨幣経済を支えた金貨。ディーナールはエジプトやシリアで流通していたビザンツ帝国の金貨名(ディナリウス)を継承した。695年、ウマイヤ朝のカリフ、アブド=アルマリクは、初のイスラーム式金貨として、ダマスクスで鋳造し、全国に流通させることとした。ディーナール金貨には表にコーランの文句を刻み、裏にカリフ自らの名を刻んだ。同様の形式でディルハム銀貨も鋳造された。ディーナール金貨は次のアッバース朝でもイスラーム世界共通貨幣として流通した。<佐藤次高『イスラーム世界の興隆』世界の歴史8 中央公論社 1997 p.107〜などによる>
ディルハム銀貨 イスラーム世界に流通しその貨幣経済を支えた銀貨。銀貨はディルハム(ギリシア・ローマではドラクマと言われた)というでササン朝ペルシア以来、イラン・イラクで流通していたが、ウマイヤ朝のカリフ、アブド=アルマリクがディーナール金貨とともにダマスクスで鋳造した。イラク総督ハッジャージュ=ビン=ユスフがそれにならい、同じ形式の貨幣を鋳造した。ディルハム銀貨は次のアッバース朝でもイスラーム世界共通貨幣として流通した。<佐藤次高『イスラーム世界の興隆』世界の歴史8 中央公論社 1997 p.107〜などによる> 
アター イスラーム教国のウマイヤ朝、アッバース朝で行われた、軍人に現金で支給された俸給のこと。軍人登録台帳に登録されたアラブ人の戦士に支給され、アラブ人の特権の一つだったので、次第に非アラブ人のイスラーム教徒兵士の不満のもととなった。この軍人登録台帳を意味するディーワーンが、俸給支給業務を行う役所をさす言葉となり、後には役所一般を指すようになる。このような制度が行われていたことは、イスラーム帝国において貨幣経済が発達していたことを示している。
b マムルーク  → マムルーク
a イクター制 946年、バクダードに入城したブワイフ朝の大アミール、ムイッズ=アッダラウは、配下のマムルークなどの軍人に対する俸給の支払いに苦慮し、俸給(アター)に代わり土地を分け与えることにした。そのような分与地をイクターといい、その地の村落の農民が耕作する土地の収益の三分の一が与えられることとなった。このイクター制によって、軍人が直接農村を支配するようになり、次のセルジューク朝に継承された。セルジューク朝では、名宰相ニザーム=アルムルクが、従来の「軍事イクター」に加え、「行政イクター」といい地方の有力アミールに領域内の財政権を与え、その配下の軍人にイクターを支給できるようにした。イクター制はアイユーブ朝のエジプト、イル=ハン国のガザン=ハンの時のイランでも行われた。<佐藤次高『マムルーク』1991 東大出版会 などによる>
b ブワイフ朝  → ブワイフ朝
c セルジューク朝  → セルジューク朝
a ムスリム商人 ムスリム商人=イスラーム商人(アラビア商人)は、7世紀からウマイヤ朝のアラブ=イスラーム帝国の拡大と貨幣経済の発展を背景として、活動の範囲を広げていった。陸路では中央アジアやアフリカ内陸にも進出しただけでなく、特に海上貿易でアラビア海に進出し、インド、さらにはその先の東南アジアや中国との交易を行ったことが重要である。ムスリム商人の仲介するルートは、8世紀中頃のアッバース朝の成立によりアレクサンドリアダマスクスバグダードを経由し、バスラからペルシア湾を通ってアラビア海に出るペルシア湾ルートが成立したが、10世紀にカイロが建設され、政治・経済の中心が移動すると、カイロから紅海(当時は現在のアラビア海を含む名称であった)を経由してアラビア海に抜ける紅海ルートが盛んになった。この時期のムスリム商人を特にカーリミー商人と称し、彼らの活動はアフリカ東海岸に進出、さらにアラビア、ペルシア湾、インドを結ぶインド洋交易圏で交易活動に従事していた。彼らムスリム商人の帆船をダウ船という。13世紀以降にはムスリム商人は東南アジアに進出し、その地域のイスラーム化が進んだ。中国では唐以来、宋、元の時代を通じて、広州泉州などの港に多数のムスリム商人が活動し、大食(タージー)といわれた。元では色目人に加えられて、政府の高官になったものもいたことが知られている。ムスリム商人の活動は、ヨーロッパ人が進出する以前から、中国の文明と接触し、双方の交流を深めていたのである。ムスリム商人によってもたらされた胡椒や香料などのアジアの品々は地中海東岸でヴェネツィアなどのイタリア人商人の東方貿易(レヴァント貿易)でヨーロッパにもたらされた。
アジア貿易でのムスリム商人の後退:オスマン帝国が1453年にビザンツ帝国を滅ぼし、東地中海全域の海上交易圏を握ったことは、ヨーロッパ諸国にとって大きな転機をもたらした。イタリア商人は東方貿易から閉め出されたため、西回りでアジアに直接到達して香辛料貿易を行おうとしてポルトガルやスペイン王室を動かし、その保護のもとで大航海時代が始まった。1498年のバスコ=ダ=ガマのインド航路開拓はムスリム人水先案内人イブン=マージドの協力で達成できたものだったが、その後ポルトガルは国家的な事業としてインド・東南アジアの商圏拡大に乗りだし、ムスリム商人と激しく競合するようになった。1509年ディウ沖の海戦でムスリム商人を保護していたマムルーク朝エジプト海軍がポルトガル海軍に敗れたことを転機に、インド洋海上支配権はポルトガルに移り、ムスリム商人の活動全盛期は終わりを告げる。
b 奴隷  
香料