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2.冷戦構造と日本・ヨーロッパの復興
ア.朝鮮戦争と冷戦体制の成立
 朝鮮戦争  東西冷戦下、南北に分断されていた朝鮮半島での1950年6月に勃発した戦争。南北いずれが先に仕掛けたが、議論があったが、現在は北朝鮮の金日成が、中国革命に続いて朝鮮半島でも社会主義による統一国家の建設を目指し、武力統一をはかったものと考えられている。北朝鮮軍の侵攻に対して、韓国軍を「国連軍」の軍旗を掲げたアメリカ軍が直接支援し、さらには中華人民共和国から義勇兵が北側に参戦した。1953年に北緯38度線で両軍が対峙したまま休戦協定が成立。現在に至るまで完全な和平には至っておらず、東アジア情勢の最大の不安定要因となっている。
経過:1950年6月25日、金日成の率いる北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)軍が軍事行動を開始し、北緯38度線を越えて韓国に侵攻した。国連の緊急安全保障理事会は即時停戦と北朝鮮の撤退勧告を決議した。アメリカのトルーマン大統領はアメリカ軍を単独で派遣することを決意、日本駐留のアメリカ軍を派遣した。北朝鮮軍は28日、ソウルを占領したが金日成の期待した南朝鮮の人民蜂起は起きなかった。その後も北朝鮮軍の進撃は続き、大田で米軍を破り、半島南端の釜山に迫った。7月7日、国連安保理は国連軍の派遣を決定(ソ連は国連の中国議席を中華人民共和国に与えるべきであることを主張し、英米仏と対立し、安保理をボイコットし欠席していた)、米軍のマッカーサー元帥を統一司令部を成立させた。国連軍とはいえ、その9割はアメリカ軍によって構成されていた。9月15日、マッカーサーは北朝鮮軍の背後を突くべく、仁川上陸作戦を展開し、形勢を逆転させ、ソウルを奪回した。さらにアメリカ軍は38度線を越えて北上したため、10月20日には平壌を陥落させた。それに対して毛沢東の中国共産党政府は北朝鮮支援を決意し、大量の人民義勇軍を送った。中国軍の参戦によってアメリカ軍は後退し、38度線の南に押さえこまれ、ソウルを放棄した。トルーマン大統領は休戦を決意し、原爆の使用を主張するマッカーサー司令官を解任(51年4月)、長い休戦交渉の結果、1953年7月27日、南北朝鮮代表、米中代表などが板門店で休戦協定に調印した。朝鮮戦争の休戦成立には、同年1月のアメリカのアイゼンハウアー大統領就任、3月のソ連のスターリンの死去という米ソの政権交代が大きく作用していた。
朝鮮戦争の戦死者の数ははっきりしないが、ロシア史料では北朝鮮、中国の死傷者は200万〜400万、韓国40万、アメリカ14万といわれる。アメリカの推定では、中国兵90万、北朝鮮兵45万が死傷。約40万の国連軍兵士も死傷。うち3分の1ちかくが韓国兵で、米軍の戦死者は5万4千人であった。ソ連は航空部隊を提供、航空機335機と飛行士120名が失われた。その他、1000万人以上の離散家族を生んだ。<下斗米伸夫『アジア冷戦史』2002 中公新書 p.82、浜林・野口『ドキュメント戦後世界史』p.74>
意義:朝鮮戦争は、第2次大戦後最初の本格的な戦争であり、米ソ冷戦が一時熱い戦争に転化し、第3次大戦の危機であったが、国際世論がイギリスなどを動かし、世界戦争の再発は回避された。しかし、朝鮮は38度線を休戦ラインとする南北分断国家と固定化され、民族統一はさらに困難となり、現在も休戦状態が継続している。韓国と北朝鮮の間は依然として戦争状態であり、休戦しているにすぎない。現在の両国の統一という課題の前提には、朝鮮戦争を正式に終結させることが必要となっている。
核戦争の危機:第2次世界大戦終結の5年目に起こった朝鮮戦争は、「冷戦の中の熱戦」として第3次世界大戦の危機となった。現地司令官のマッカーサーは中国大陸での原爆の使用を計画し、一時は核兵器の使用の危ぶまれたが、49年のソ連の原爆実験、53年の米ソの水爆実験という核兵器の出現はかえって米ソ両国に「核抑止力」が働くこととなって、核戦争は回避された。
朝鮮戦争の影響:戦後の冷戦構造の中で朝鮮戦争は重要な画期となった。以下、その影響をまとめる。
・アメリカ合衆国の転換:それまでのトルーマン=ドクトリン、マーシャル=プランに見られる「封じ込め政策」(非共産圏の経済を援助して共産勢力の膨張を食い止めるという政策)から、1953年のアイゼンハウアー大統領の下でダレス国務長官が打ち出した「まき返し政策」(非共産圏への軍事支援を強化し、共産勢力に反撃する)に転換した。戦争が勃発した1951年をもってマーシャル=プランは終了し、経済援助のかわりに軍事的協力の義務を負わせる相互安全保障法(MSA)に転換する。
・東西対立のアジア・太平洋地域への拡大:アメリカ合衆国は1951年から53年にかけて、日米安保条約、アメリカ=フィリピン相互防衛条約、ANZUS条約、SEATOとMETOなどを次々と成立させ、アジア・太平洋地域でのソ連・中国などの対共産圏軍事包囲網を結成し、軍事的対決姿勢を強めることとなった。日本もその構想に組み込まれることとなった。
・中華人民共和国の台頭:アメリカ軍の全面的な韓国に対する支援にもかかわらず、成立直後の中華人民共和国が支援した北朝鮮が互角以上に戦ったことは世界を驚かし、毛沢東・中国共産党指導部の国内、国外での権威が強まったと言うことができる。毛沢東は1953年から第1次五カ年計画に着手、本格的な社会主義建設段階にはいる。
・アメリカの対日政策の転換:アメリカが冷戦構造の中でソ連・中国との対決姿勢を強めたことの一環として、その対日政策が大きく転換された。戦後の占領政策であった「民主化と軍備廃止」から、日米安保条約のもとで日本を共産圏との戦いの最前線と位置づけ、「共産主義化防止のため再軍備」させる政策に転換、それの方針によって警察予備隊(後の自衛隊)の設置を日本政府に指令した。
・日本経済への影響:アメリカの極東戦略の変更から日本の再軍備が開始されただけでなく、日本は朝鮮戦争を機に、日本国内の基地から戦場に向かうアメリカ軍の軍需物資を提供することによって、大きな利益を得た。これが「朝鮮特需」と言われることであり、これによって日本は戦後の経済復興を成し遂げることとなった。いずれにせよ、朝鮮戦争によって戦後日本は保守化・経済成長へ大きく舵を切ることとなった。
a 1950 第2次世界大戦が終結してから5年後の1950年(1950年)には、アメリカでマッカーシーズム旋風が吹き荒れ、一方ソ連と中国は友好同盟相互援助条約を締結、ヨーロッパではシューマン=プランが発表された。しかし後半は世界の耳目が朝鮮半島での南北の対立に注がれることとなる。
戦後の経済の回復に苦慮しながら、平和国家を建設しようとしていた日本にとって、戦後のあり方を一変させる大きな出来事が起こった。それがこの年6月に勃発した朝鮮戦争であった。アメリカのGHQの指示で日本は再軍備を行うこととなり、翌1951年はソ連、中華人民共和国、インドなどとを除いた、西側諸国との間でサンフランシスコ講和会議を実施され、平和条約締結で独立を回復すると同時に日米安保条約を締結、アメリカの対共産圏(ソ連・中国)防衛構想に組み入れられることとなった。。
b 安全保障理事会  → 第16章 1節 国連 安全保障理事会
 ソ連(朝鮮戦争)1950年、朝鮮戦争勃発当時のソ連は、スターリン独裁体制のまっただ中にあり、前年に出現した共産党政権の中華人民共和国をなんとか守らなければならないと考え、国際連合の安全保障理事会の中国代表権を中華人民共和国に与えるべきであると主張し、中華民国(台湾の国民党政府)を支持するアメリカ・イギリス・フランスと対立、ボイコット戦術をとっていた。6月に朝鮮戦争が勃発すると安保理はソ連を除く4ヵ国で開催され、北朝鮮の行為は侵略であり、ただちに国連軍を編成するという決議が成立してしまった。ソ連はボイコット作戦は不利であると気づき、8月には安保理議長の順番が回ってきたことを口実に安保理に復帰する。それに対してアメリカは、ソ連の拒否権行使を警戒して、11月に国連総会に働きかけ、「平和のための結集」決議を採択させ、安保理が機能しないときには総会が軍事行動を決定することができるようにした。なお、朝鮮戦争ではソ連は安保理の立場上、全面参戦はできず、陸上部隊は派遣せず、少数の航空部隊の派遣、武器提供や物資支援にとどまった。
 「平和のための結集」決議 朝鮮戦争勃発後の1950年11月に国連総会で採択された決議。安全保障理事会が、常任理事国のいずれかの国が拒否権を発動して議決できず、安全保障の任務を果たせなくなった場合、特別臨時総会を開催して、多数決で安保理に代わって軍隊の使用を含む集団的措置をとることができる、とするもの。総会が安保理に代わって安全保障に関する強制行動を決定することができるという画期的な採決であり、総会の権限を大きく強めるものであった。この背景には、1950年6月に朝鮮戦争が勃発したときはソ連が欠席中であったので、他の4国で国連軍派遣を決定することができたが、その不利を悟ったソ連が、8月には安保理に復帰し、その後は拒否権を行使するのではないか、とアメリカが警戒したことが背景にあった。そこでアメリカは国連で多数派工作を行い、「平和のための結集」決議を成立させた。当時の国連(加盟60カ国)では社会主義陣営は圧倒的に少数(東欧6カ国のみ)であったので、拒否権を行使できない総会ではソ連の主張を通すことは不可能であったからであり、この決議はソ連の拒否権を無力化するのがねらいであった。しかし、後にアメリカが軍事行動を起こそうとしたとき、総会の多数決でそれが否定されることとにもなり、アメリカの国連離れをもたらすという逆の結果が出ることになってしまう。<河辺一郎『国連と日本』1994 岩波新書 p.42 などによる>
補足 「平和のための結集」にもとづく緊急特別総会 「「平和のための結集」決議の中で、国連史上でもっとも記憶されてよいのは、平和が脅かされているにもかかわらず、常任理事会の不同意のために安保理が活動できない際に、24時間以内に総会を緊急に招集できるという条項だった。緊急特別総会は、安保理のどの9カ国によっても、また国連加盟国の過半数によっても招集できることになった。この条項は、1956年のスエズ戦争(第2次中東戦争)ならびにハンガリー事件、1958年のレバノン紛争、1960年のコンゴ事件や、たびたびの中東問題、1980年のアフガニスタン、1981年のナミビア問題などに適用された。スエズ危機の際、「平和のための結集」決議が6年前にそれを積極的に推進したイギリスとフランスの両国に対して、逆に適用されることになったのは、歴史のめぐり合わせとはいえ皮肉なことだった。<明石康『国際連合 軌跡と展望』2006 岩波新書 p.122>
 国連軍の出動 1950年の朝鮮戦争に際し、国連が派遣した軍を一般に国連軍と言っているが、それは国連憲章の規定に従ったものではなかった。北朝鮮軍が侵攻を開始したとき、安全保障理事会ソ連が中国代表権をめぐってアメリカと対立し、欠席戦術をとっていた。ソ連欠席のまま(欠席、棄権は拒否権とは認められないので)北朝鮮の攻撃を「平和の破壊」(国連憲章の用語で「侵略」の一歩前)にあたると認定し、韓国に対して必要な支援を提供することを国連加盟国に勧告することが採択された。さらに提供された軍隊はアメリカの統一指揮下に置き、アメリカ軍人を司令官に任命し、国連旗を使用することを認める決議を行った。国連憲章では国連軍は安全保障理事会と兵力を提供する加盟国との間で「特別協定」を結ぶ必要があったが、そのような手続きはとられなかった。このように朝鮮戦争の時の国連軍の出動は、正規のものとはいえないが、アメリカも不十分ではあれ、国連の枠内での軍事行動という原則を守ろうとしていた。<最上敏樹『国連とアメリカ』2005 岩波新書 p.148->
補足 朝鮮戦争での「国連軍」 上記の通り、朝鮮戦争の「国連軍」はソ連欠席中の安保理決議に従い、自発的な参加を呼びかけたものであったので、国連憲章の構想した「国連軍」とはまったく違ったものであったが、それでも第2次大戦後の国際機構が軍事的強制行動に乗り出した最初のもであり、アメリカをはじめ16カ国が地上軍を参加させた。その軍事行動は、アメリカのつくる国連軍統合司令部の司令官(マッカーサー)の指揮下で行われ、国連旗の使用も認めあれることになった。そのため、一般に「国連軍」と言われることとなった。 
a マッカーサー  → 第16章 1節 マッカーサー
b 中国人民義勇軍 1950年10月、中華人民共和国の毛沢東国家主席は人民義勇軍(志願軍)を派遣して朝鮮戦争に参戦した。人民義勇軍とはいえ、じっさいには正規軍であった。参戦理由は、北朝鮮の金日成政権の瓦解を阻止すること、および国連軍が中朝国境の鴨緑江にまで迫り、中国の安全が脅かされたからであった。中国軍はこの戦争を毛沢東の人民戦争戦略・戦術で戦った。国連軍司令官マッカーサーは中国軍を過小評価し、「クリスマスをアメリカ本土で」という楽観的見通しであったが、人海戦術で攻撃する中国軍を支えきれず、51年1月ソウルを奪還された。しかし、中国軍の補給線が延びきったところで反撃に転じ、人海戦術に対して最新兵器を駆使した機動部隊で押し返し、5月には北緯38度線まで押し戻した。中国軍は地下陣地を構築して対抗し、戦線が膠着した。53年7月に停戦が成立、撤兵を開始した。朝鮮戦争に投入された中国軍の総兵力は公表されていないが、約500万と思われる。<平松茂雄『中国人民解放軍』岩波新書 1987 p.72>
Epi. 朝鮮戦争で死んだ毛沢東の長男 「毛沢東の実質的な最初の妻、楊開慧は3人の男の子を産み、1930年、30歳の時に国民党に逮捕されて、処刑された。長男の毛岸英は1950年、29歳の時に朝鮮で戦死している。この人はなかなか出来がよくて毛沢東も将来を期待していた。朝鮮戦争に行かせたのは、修行の意味もあり、主席自らむすこを前線に送ったという格好をつける必要もあったのだろうが(朝鮮に行った中共軍は一応『志願兵』ということになっているから)、戦死したと聞いて、なぜそんな危ない戦場へ出したのかと激怒したということだ。」<高島俊男『中国の大盗賊・完全版』2004 p.290>
c 北緯38度線  → 北緯38度線
d 板門店 朝鮮戦争休戦協定の交渉が行われたところ。パンムンジョム。北緯38度線上にあり、現在も南北朝鮮分断の象徴的な場所となっている。現在も南北朝鮮は「休戦」のままにとどまっており、けして完全に戦争が終わったわけではない。いまだに北緯38度線に沿った休戦ラインをはさんで、韓国軍・アメリカ軍と北朝鮮軍がにらみ合っている。板門店では現在も両者が定期的に交渉する場となっている。
e 休戦協定 1953年7月27日、板門店で調印された朝鮮戦争の休戦協定。南北朝鮮代表、アメリカ・中国代表の4者によって調印された。50年に始まった戦争は4年で休戦ととなったが、国際法上は現在も戦争状態が継続している。
1953年3月ソ連のスターリンが死去し、ソ連指導部はスターリンの葬儀に出席していた周恩来と協議して、休戦の方針を固め休戦協定に調印することとなった。完全な和平に向けての交渉は1954年、ジュネーヴ会議でインドシナ戦争の和平会談と平行して行われたが、北朝鮮が外国軍の撤退を、韓国が戦後処理での国連の関与を求めたため決裂し、解決されずに今日に至っている。<下斗米伸夫『アジア冷戦史』2002 中公新書 p.82>
現在もなお韓国と北朝鮮は休戦中という戦時態勢下にあり、またアメリカ・日本と北朝鮮の間も正式な国交がない状態である。このことが現在の北朝鮮の核開発をめぐる六者協議の背景に横たわっている。
 日本の再軍備 戦後日本は日本国憲法で、平和と民主主義の国家として出発した。しかし、中華人民共和国の成立と朝鮮戦争の勃発は、日本を占領するアメリカの政策を一変させ、従来の平和国家建設から、警察予備隊の設置に始まる再軍備に大きく舵を切り、革新的な労働運動や共産党活動は弾圧されるようになった。またアメリカは日本を反共産主義陣営の一員とするため、ソ連の反対を押し切って早期に独立・主権回復をはかり、51年のサンフランシスコ講和会議開催と平和条約締結となった。同時にアメリカとの軍事同盟である日米安保条約を締結、日本はアジア太平洋地域におけるアメリカの同盟国として組み込まれることとなった。
サンフランシスコ講和会議をめぐり、47年頃から日本の国論は二分された。吉田茂保守党内閣はアメリカの提案に添って、西側陣営のみと講和し、中国・ソ連との交渉はあとまわしにするという、いわゆる片面講和を進め、社会党・共産党などは全面講和を主張した。全面講和論は非武装中立の推進、アメリカ軍事基地化反対と結びついて国民の多くの支持もあったが、1950年6月朝鮮戦争が勃発するとそれらの声は弱まり、51年のサンフランシスコ平和条約によって片面講和が実現し、サンフランシスコ体制とも言われる「逆コース」を歩むこととなった。一方で朝鮮戦争は、戦後の日本経済の復興のうえで大きな契機となった。朝鮮戦争は戦後日本の行方を決した大きなインパクトであったといえる。
a 「まき返し政策」 1953年1月の共和党アイゼンハウアー大統領の就任演説で唱えられたアメリカの外交政策。民主党トルーマン大統領の対共産圏「封じ込め政策」を手ぬるいものとして批判し、より積極的にソ連に対抗して、共産圏諸国の解放をめざすというもの。国務大臣ダレス(John Foster Dulles)が提唱し、その推進役となった。ダレスは「封じ込め政策」は消極的で受けみなやり方であると批判し、共産主義に対してもっと積極的な「巻き返し(ロールバック)」、東欧諸国の解放を目指す世界戦力を立てるべきであるというものであった。これにたいしてソ連側は同年にスターリンが死去し、マレンコフ首相・フルシチョフ共産党書記らの集団指導体制に移行し、平和共存策を打ち出した。アイゼンハウアーはダレスの反対を押し切りってジュネーヴ4国首脳会談に参加するなど、柔軟な対応を見せたので、「まき返し政策」は中途半端なものに終わった。
b 警察予備隊 連合国軍最高司令部(GHQ)のマッカーサーは朝鮮戦争勃発直後の1950年7月8日に吉田茂首相に書簡を送り、7万5千名の警察予備隊をつくるよう指示した。これは日本に駐留していたアメリカ軍を朝鮮に派遣したために生じた国内の治安上の不備を補うものためのものであったが、マッカーサーの指示を受けた吉田首相は、8月10日、国会に諮ることなく政令(このような政令をポツダム政令という)によって警察予備隊を創設した。これは保安隊、そして自衛隊にと発展していくことになる日本の再軍備の第一歩であった。
Epi. 警察? 軍隊? 警察予備隊ははじめその要員は警察官が宛てられた。それは軍人が公職追放の対象になっていたためであった。全国の警察から集められた隊員が米軍キャンプで訓練を受けた。まもなく51年3年、GHQは旧軍の下級将校を追放解除とし幹部として迎えた。そのため、指揮官は旧陸軍士官学校出身者で占められることとなった。吉田首相は「警察予備隊は軍隊ではない」と再軍備を否定したが、「解釈改憲」の始まりだった。もとも吉田茂は戦時中は軍部に抵抗した外務官僚で、軍備強化論者ではなく、軽軍備による経済発展を重視する思想を持っていたと言われている。
c 自衛隊 アメリカ合衆国はGHQによる日本占領政策の基本として日本の軍備廃止をあげ、日本軍は解体させられた。わが国は平和主義を実現させ、戦争とその手段としての軍備を放棄した日本国憲法を制定した。ところが、アジアにおける中華人民共和国の成立と朝鮮戦争の勃発という情勢の変化を受け、アジアの共産化を恐れたアメリカは、日本を再軍備させ、対共産圏包囲網の一員とすることに大きく舵を切った。こうして1950年に警察予備隊が創設された。アメリカはその後、1951年に相互安全保障法(MSA)を制定して、経済援助と軍事同盟強化を一体化する政策に転換し、日本に対しても1954年にMSA協定を締結した。それに基づいて、吉田内閣は同年、それまでの保安庁を改組して防衛庁を設け、その統轄下に陸・海・空の三自衛隊を設置した。
自衛隊の創設までのまとめ
1950年7月 朝鮮戦争の勃発を受けGHQの指令で警察予備隊を創設。隊員7万5千。
1952年8月 警察予備隊を保安隊に改組。保安庁の設置。=日米安保条約の成立に対応し、日米共同防衛の可能な自衛力とするため、海上部門を加える。隊員を11万に増員。
1954年7月 自衛隊創設 防衛二法(防衛庁設置法・自衛隊法)が成立し創設される。航空部門を加え、陸上・海上・航空の三自衛隊体制となる。当初定員約17万。
自衛隊は、朝鮮戦争の休戦(53年)を受けて、明確に「自衛のための軍隊」を創設し冷戦に備えるというものであった。自衛隊の創設に伴い、駐留アメリカ軍に依存する旧安保条約が実態にそぐわなくなり、政府はその改定を図ることとなる。→ 安保条約改定 
自衛隊の現在:現在、自衛隊は隊員約27万人。世界でも有数の「軍隊」となっている。また湾岸戦争に際して1992年から自衛隊の海外派遣が始まり、その専守防衛という原則からの逸脱ではないかと議論が続いている。そのような中で、2007年1月7日に防衛庁は「防衛省」に格上げされたが、その途端に事務次官(防衛官僚トップ)の汚職が発覚したり、イージス艦が漁船と衝突するなどの事件を起こし、その体質が問題となっている。 
d 「朝鮮特需」 朝鮮戦争の勃発によって日本国内の各種企業に対する発注が急増した。この受注によって輸出が伸び、日本経済は戦後の不況から脱することができた。
e サンフランシスコ講和会議 1951年9月4日からアメリカのサンフランシスコ市内オペラハウスで開催された連合国の対日講和会議。日本以外に連合国51ヵ国が参加、日本代表は吉田茂首相。実態は講和問題を話し合う会議ではなく、調印のための儀式に過ぎなかった。まずトルーマン大統領が演説し、「和解」とともにアメリカ国民はパール・ハーバーを記憶していると述べ、両国の友好には努力が必要と強調した。ソ連代表のグロムイコは中国(北京)代表の参加問題を取り上げ、ポーランドとチェコスロヴァキアが同調したが、議長(アメリカの国務長官アチソン)は議題と関係がないと却下した。グロムイコはさらに満州・中国全土・台湾に北京政府の主権、樺太・千島に対するソ連の主権をそれぞれ認めること、小笠原・琉球は日本の主権が及ぶべき範囲であること、日本にはいかなる国の軍事基地も置かないこと、そのかわり日本に自衛に必要な軍備として地上軍15万、海軍2.5万程度の軍隊を提案した。会議は8日に終わり、ただちにサンフランシスコ平和条約に各国が署名したが、ソ連・チェコスロヴァキア・ポーランド三国は署名しなかった。また中国には大陸の中華人民共和国と台湾の中華民国が並立していたが、アメリカは後者、イギリスとソ連は前者を承認しており、代表権で紛争の原因となるのを恐れたアメリカが双方を招聘しなかったので条約に加わっていない。インド・ビルマは中国代表権問題などに対する不満から会議に参加しなかった。<正村公宏『戦後史』上 1990 ちくま文庫 p.429>
f サンフランシスコ平和条約 1951年9月8日、サンフランシスコ講和会議の結果として締結された条約で、日本が48ヵ国が署名して日本の主権の回復が認められた。48ヵ国は日本が直接交戦しなくとも、中南米諸国などドイツに宣戦布告したため自動的に日本と交戦国となっていた国々が多い。交戦国であった中国(中華民国・中華人民共和国)とソ連、およびインド・ビルマが加わっていないので、片面講和と言われた。発効は52年4月28日。以下主な内容。
戦争状態の終結、日本の主権の回復、日本は個別的および集団的自衛権をもち集団的安全保障条約に参加できること。
領土の規定:日本は朝鮮の独立を承認、台湾・澎湖諸島、南樺太・千島列島を放棄する。琉球諸島と小笠原諸島はアメリカの統治下に置かれた。
賠償:外国為替上の負担を日本にかけない、とされ事実上無賠償となった。
意義:日本が主権を回復するとともに冷戦の中で西側陣営に組み込まれるサンフランシスコ体制が成立した。中国、ソ連との国交回復はなされず、北方領土問題を含めてこれ以後の大きな問題となった。また同時に締結された日米安保条約によってアメリカとの同盟関係、米軍の駐留が恒常化された。
問題点:サンフランシスコ講和会議会議、およびサンフランシスコ平和条約条約の問題点は次の通りである。
1.日本の最初の交戦国である中国が、中華民国・中華人民共和国のいずれの代表も会議に招聘されず日中間の講和は後回しとなった。(アメリカは中華民国=台湾のみを代表と認めたが、ソ連とイギリスは中華人民共和国を承認していたので、どちらを招聘するかで意見が対立し、トルーマンは結局そのいずれをも招聘しなかった。)
2.ソ連は、会議には参加したが、条約には中国代表が参加していないこと、日本独立後もアメリカ軍が駐留することに反対して署名しなかった。そのため、日ソ国交回復もできなかった。
3.インド・ビルマという、いずれも日本と交戦したアジアの諸国が、中国の不参加を理由に会議に参加せず、条約にも署名しなかった。
中国・インド・ビルマ・ソ連などとの国交回復:サンフランシスコ平和条約条約に加わらなかった諸国との国交回復(平和条約締結)は次のように行われた。中華民国(台湾)=国民党政権とは1952年4月、日華平和条約を、インドとの間では1952年6月、日印平和条約を、ビルマとの間では54年11月、日本ビルマ平和条約をそれぞれ締結し、いずれも賠償請求権は放棄された。中華人民共和国=中国共産党政権とは依然として国交を持たなかったが、70年代に入り政府が方針を転換、1972年に日中国交を回復し、日華平和条約は破棄された。なお、1978年には日中平和友好条約が締結された。ソ連との間は、1956年に日ソ共同宣言が出されて国交を回復したが、平和条約は締結されていない。なお、大韓民国とは1965年、日韓基本条約を締結し国交関係を樹立したが、日本は韓国を「朝鮮半島における唯一の合法的な政府」と認定し、北朝鮮を無視する姿勢をとっているため、北朝鮮とは国交関係は成立していない(つまりこの部分では戦争は終わっていない)。
g 朝鮮  → 日本の朝鮮半島植民地支配 
h 台湾  → 日本の台湾植民地支配  戦後の台湾
i 南樺太 樺太(ロシア名サハリン島)は江戸時代に日本の間宮林蔵が探検し、島であることを発見した経緯がある。1855年の日露和親条約では「日露雑居の地」とされて国境は確定せず、1875年の樺太・千島交換条約でロシア領となった。1905年、日露戦争の結果、ポーツマス条約で北緯50度以南の南樺太を日本が獲得した。第2次世界大戦での日本の敗北に伴い、1951年にサンフランシスコ平和条約によって日本は南樺太を放棄した。サンフランシスコ平和条約にはソ連は加わっていなかったが、実質的にソ連が現在も占有している。
j 千島 千島はクリル列島ともいう。日本は1875年の樺太・千島交換条約で、樺太全島と交換に千島列島を獲得した。第2次世界大戦後の1951年、日本はサンフランシスコ平和条約で千島を放棄した。ソ連はこの条約に加わっていないので、千島をソ連に返還するとは明記されていないが、現在はその実質支配が続いている。また、日本の解釈は、択捉島・国後島・歯舞諸島・色丹島は千島列島には含まれず、1855年の日露和親条約で日本領と認められていると主張している。 → 北方領土問題
k 日米安全保障条約 サンフランシスコ平和条約と同じ1951年9月8日に締結された日本とアメリカの軍事条約。平和条約調印式の終了後、サンフランシスコ市内のアメリカ第6軍司令部で日本の吉田茂首相とアメリカ国務長官アチソンらが署名した。52年4月28日発効。
内容
・武装解除されている日本は自衛権を行使できないので、暫定措置として、日本側が米軍の駐留を希望し、アメリカは「配備する権利を受諾する」。
・日本国に駐留するアメリカ軍の任務の第一は内乱や騒じょうの鎮圧にある。
・日本は自国の防衛にために漸増的に自らの責任を負う。
意義:アメリカ軍が日本に駐留する(占領軍から駐留軍へ)法的根拠となった。これによって日本がアメリカ合衆国の対共産圏防衛構想(対ソ・対中国)の一員として組み込まれることとなった。ただし、日本の防衛に関してはアメリカ軍によって一方的に保護されている面が強く、日本の保守陣営から対等な防衛条約の締結を主張する声が上がり、1960年の改定となる。 → 安保条約の改定
 日華平和条約 1952年4月、日本と中華民国(台湾)政府との間で締結された平和条約。中華人民共和国の成立朝鮮戦争というアジア情勢に対応し、反共同盟の一環として締結されたもの。中華民国(台湾)はサンフランシスコ講和会議に参加できなかったので、サンフランシスコ平和条約とは別に個別に締結された、両国間の戦争状態の終結を宣言し、中華民国は日本に対する請求権を放棄した条約。日本は当時すでに大陸を制圧した中華人民共和国を認めず、台湾政府を中国の正当な政権としてこの条約を締結した。そのため、中華人民共和国との戦争状態は依然として続くこととなり、両国間の正式な国交は回復されず、戦後の大きな外交問題となった。ようやく1970年代にアメリカ合衆国が中華人民共和国との国交正常化交渉に乗りだし、国連議席も1971年に中華人民共和国に替わったため、日本は苦しい立場に追い込まれ、ついに1972年の田中角栄首相の訪中によって日中国交正常化がなされたため日華平和条約は無効となり、今度は日本は台湾を切り捨てることとなった。
 日印平和条約 1952年6月に日本とインドの間で締結された平和条約。インドは、アメリカ合衆国主導のサンフランシスコ講和会議への参加を拒否したので、戦後の平和条約には締結されないでいた。その後、個別の平和条約締結に応じ、この条約で交戦状態の終結、インドの対日賠償権の放棄が宣言され、日本は経済援助を約束した。
 日本ビルマ平和条約 1954年11月に日本とビルマの間で締結された平和条約で、両国間の戦争状態の終結を宣言するとともに、日本は10年間に2億ドルの賠償の支払いと経済援助を約束した。 
 対共産圏包囲網の形成 冷戦はヨーロッパではNATOによる東側「封じ込め」によって均衡を維持し、戦火の発生はなかったが、アジアにおいては民族独立運動と結びついて、パレスチナ戦争、インドシナ戦争、国共内戦、朝鮮戦争が相次いで勃発した。その中から中華人民共和国が生まれ、ベトナムと朝鮮では北部に社会主義政権が勢力を保ち、エジプトでは親ソ連のナセル政権が誕生した。このようなアジアの社会主義化・共産化が「ドミノ倒し」の様に進むことを恐れたアメリカ(共産化とは、アメリカの市場が失われるということなので)は、1951年〜54年にかけてアジア各国と個別または集団的な防衛条約を締結して、対ソ・対中国包囲網を形成していった。また、従来の経済復興支援中心のマーシャル=プランを終了させ、1951年10月には相互安全保障法(MSA)を制定して、被支援国に防衛協力の義務を負わせる支援体制に転換した。
 1951年8月 米比相互防衛条約      9月 ANZUS条約日米安保条約
 1953年10月 米韓相互防衛条約
 1954年9月 SEATOの結成       12月 米華(台)相互防衛条約
 1955年 METO結成
こうしてアジアには、日本−韓国−台湾−フィリピン−タイ−パキスタン−イラン−イラク−トルコという対共産圏包囲網ができあがった。この中でパキスタンが、SEATOとMETO(後のCENTO)双方に加わったことが注目できる。このころパキスタンは東パキスタン(現在のバングラディシュ)を含んでいたので、東南アジア地域に隣接していた。また直前に同じくイギリスから独立していながら、隣国インドとの間で厳しい宗教的対立と国境問題での対立を抱えていたからである。インドは米ソいずれにも加担しない中立政策をとり、中華人民共和国を承認し、この包囲網には反対していた。
 米比相互防衛条約1951年8月、アメリカ合衆国とフィリピンの間で締結された、軍事援助条約。当時は朝鮮戦争の最中で、アメリカは反共軍事同盟の一環としてこの条約を締結し、フィリピンをその中に組み込んだ。1951年の日米安保条約、53年の米韓相互防衛条約、54年の米華相互防衛条約(アメリカと台湾の蒋介石政権間の条約)とともにアジアにおける一連の対共産圏包囲網を構成した。
 相互安全保障法(MSA)1951年10月、アメリカ合衆国(トルーマン大統領)で制定された法律。冷戦下の東西対立が1959年の中華人民共和国の成立でアジアに波及し、翌50年に朝鮮戦争として火を噴いた。冷戦の世界的な展開に応じ、アメリカ合衆国のトルーマン政権は「封じ込め政策」の強化、拡大に乗りだし、米比相互防衛条約、日米安保条約、ANZUS条約を次々と成立させ、対共産圏包囲網を構築した。また国内では、10月に相互安全保障法(Mutual Security Act 略称MSA)を制定、援助の代わりに被援助国に防衛義務を負わせることとした。これによって、従来の経済復興を主眼としたマーシャル=プランは終了し、経済援助と軍事援助を一体とした新たな対外援助原則に転換した。なお、アメリカの対外援助は60年代からは資本提供の形態が主となり、また非軍事的内容に変化していく。
日本とのMSA協定:アメリカは日本との間では、相互安全保障法に基づき、経済援助を受け入れる代わりに防衛力を増強することを求め、1954年3月に日米相互防衛援助協定(MSA協定)を締結した。このMSA協定に基づき、同年7月、防衛庁を設け、その統轄下に陸・海・空の三自衛隊を設置した。
a 太平洋安全保障条約(ANZUS) ANZUS(アンザス)条約は1951年9月に調印された軍事条約で、正式名称は「オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ合衆国間の安全保障条約」という。三つの締約国の頭文字をとって、通称のANZUSが定着した。交渉は、51年2月に真夏のキャンベラで行われ、オーストラリア側の代表はパーシー・スペンダー外相、アメリカ側はダレス国務省顧問であった。朝鮮戦争によって冷戦がアジア・太平洋地域まで拡大したため、アメリカ合衆国が主導して形成された対共産圏包囲網の一環であった。 
b 東南アジア条約機構(SEATO) 1954年9月8日、アメリカ・イギリス・フランス・オーストラリア・ニュージーランド・タイ・フィリピン・パキスタンの8ヵ国が結成した対共産圏包囲網の一環。同8ヵ国が調印したマニラ条約によって成立した。翌55年2月19日までに全加盟国の条約批准が完了、正式に発足する。加盟国は、条約地域内での武力侵略を自国の平和と安全への脅威と認め、共同の危険に対処するための行動をとることになった。ジュネーブ協定で軍事同盟への参加を禁じられた南ベトナム・カンボジア・ラオスも、一方的にマニラ条約の適用範囲に含められた。中国、ソ連や北ベトナムは協定違反だと非難したが、アメリカはどこ吹く風だった。アメリカは共産中国封じ込めと南ベトナム防衛に不可欠な後背地である東南アジアを守るため、集団防衛体制の構築と地域統合の推進の手段を講じた。東南アジア条約機構(SEATO)は反共軍事同盟であると同時に地域の政治・経済・軍事統合の触媒となるはずであった。しかしSEATOは無力な存在のまま1977年には消滅し、対照的に1967年に形成された東南アジア諸国連合(ASEAN)は、いまや10ヵ国体制を実現している。<松岡完『ベトナム戦争』中公新書 p.201> 
c バグダード(中東)条約機構(METO) 1955年、トルコ・イラク王国・イギリス・パキスタン・イランの5ヵ国が結成した対共産圏包囲網の一環となる集団防衛機構で、本部をイラクのバグダードに置いた。アメリカ合衆国はオブザーバー参加であったが、実態はアメリカが指導する対ソ軍事同盟でNATOSEATOと連携している。特に中東におけるエジプト革命でナセル大統領など親ソ政権が台頭したことを恐れ、社会主義化を防止する狙いだった。アメリカは経済援助をちらつかせながらアラブ諸国の加盟を働きかけたが、アラブ連合に加盟する諸国は対イスラエルで結束していたのでイラク以外は加盟し成った。そのイラクで1958年にイラク革命が起こり、親英政権ハーシム家のファイサル2世が殺されイラク共和国が成立すると、翌年脱退した。そのため本部はトルコのアンカラに移り、名称も中央条約機構(CENTO)に変更した。1979年にトルコ、イランが脱退して消滅した。
d 中央条約機構(CENTO)1959年より、バグダード条約機構(METO)がイラクの脱退により改称したもの。本部はトルコのアンカラに移された。アメリカはオブザーバー参加だが、実質的にはアメリカの指導する反ソ軍事同盟で、NATO、SEATOと連携するもの。1979年にイラン革命が起こり、革命政権は反米に転じたのでCENTOから脱退、またパキスタン、トルコも脱退したので解消した。70年代は米ソ間のデタントが進み、また米中関係改善が進んだこともCENTO解散の背景である。
 冷戦体制の成立 アメリカを中心とした西側諸国の、NATOANZUSSEATOMATOなどの対ソ・対中国包囲網の形成、それに対するソ連を中心とした東側諸国のワルシャワ条約機構(WTO)と中ソ友好同盟相互援助条約などの結束により、世界が資本主義陣営=西側、社会主義陣営=東側の2つの陣営に分かれて対立する構造ができあがった。それぞれの陣営にも、たとえば西側には英仏の対立とアメリカと欧州の違い、東側にはユーゴスラヴィアの除名ややがて明確になる中ソの対立があり、必ずしも一枚岩ではなかった。またそれぞれ国内にも、イデオロギーの対立が持ち込まれ、保守対革新という図式で国内政治が推移した。この二大陣営に対して50年代後半からは、戦後独立を果たしたインドなどの第三勢力が台頭して、戦後国際関係が推移することとなる。このような大枠による「冷戦時代」はおよそ1980年代の終わりまで続き、1989年の東欧革命、90年のドイツ統一、91年のソ連崩壊によって急速に終わりを告げる。
a 北大西洋条約機構(NATO)加盟国 1955年段階の加盟国は、イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ルクセンブルク・デンマーク・ノルウェー・アイスランド・イタリア・ポルトガル・アメリカ合衆国・カナダ(以上が1949年結成時の原加盟国)、ギリシア・トルコ(以上2国は1952年に加盟)・西ドイツ(1955年に加盟)の15ヵ国。なお、フランスは66年に軍事部門から脱退する。 → 第16章 1節 北大西洋条約機構(NATO)  NATOの加盟国(現在までの詳細)
b ワルシャワ条約機構  1955年5月、ワルシャワで締結された東欧8カ国友好相互援助条約に基づいて結成された、ソ連を中心とした東ヨーロッパ共産圏諸国の軍事同盟。通称WTO。西側の北大西洋条約機構(NATO)に対抗し、直接的には同年の西ドイツの再軍備、NATO加盟(パリ協定によって認められた)に反発したソ連が結成した。参加国はソ連、ポーランド、東ドイツ、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアの8カ国。東欧圏に属するユーゴスラヴィアは独自路線を採り、参加しなかった。また68年にはアルバニアが脱退した。
目的:ワルシャワ条約機構は西ドイツ、西欧同盟、NATOを仮想敵として明示していた。前文に、「再軍国化した西ドイツの参加した『西ヨーロッパ連合』の形における新たな軍事的共同戦線の結成、および北大西洋ブロックへの西ドイツの加盟を規定し、その結果、新戦争への危機が高まり、かつ平和愛好国の安全に対する脅威が醸成されたパリ協定の批准によってヨーロッパに生起した情勢を考慮し・・・」とある。NATOに対抗して共産圏諸国が集団的自衛権を行使し、軍事同盟を組織したと言うことになる。
活動:冷戦期間はNATOと厳しく対立してにらみ合う状況を続けた。同時に、東側諸国間での異端分子に対する抑圧にも動き、1968年、チェコ事件に際してはワルシャワ条約機構5ヵ国軍(ソ連・東ドイツ・ポーランド・ハンガリー・ブルガリア)がプラハを制圧し自由化運動を抑圧した。このとき、ルーマニアは派兵せず、アルバニアはソ連を批判してワルシャワ条約機構を脱退した。体制の締め付けを強化する必要に迫られたソ連のブレジネフ書記長は、ブレジネフ=ドクトリンで制限主権論を掲げて一国の利益よりは社会主義国共同の利益が優先され、社会主義国全体の脅威に対しては共同して介入することは正当であると主張した。
解散:1989年の東欧革命による東欧社会主義圏の崩壊に続き、91年にソ連が解体したため存続意義をなくし、1991年に解散した。
a 東欧8カ国友好相互援助条約 1955年5月、ポーランドのワルシャワで締結された、東欧8カ国による軍事同盟条約。8カ国とは、ソ連、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、東ドイツ、ルーマニア、ブルガリア、アルバニア。西側の北大西洋条約機構に対抗して、集団的自衛権を行使する目的で結成された。この条約によって組織された軍事同盟がワルシャワ条約機構(WTO)である。
a ワルシャワ条約機構加盟国 ソ連、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、東ドイツ、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアの8ヵ国。
社会主義圏の中でユーゴスラヴィアが加盟していないことに注意。なお、1968年にはチェコ事件が起き、アルバニアがソ連を非難してワルシャワ条約機構から脱退する。 → ワルシャワ条約機構
 核兵器開発競争 第2次世界大戦中にアメリカはドイツから亡命したユダヤ系物理学者の力を借りてマンハッタン計画を進め、原子爆弾をヒトラードイツに先駆けて成功させた。そして対ドイツ戦では間に合わず、対日戦を終結させるという目的で45年8月、広島・長崎に投下した。しかし、すでにトルーマンの視野にあったのは、ソ連の原子爆弾製造だった。
ポツダム会談でアメリカが新型爆弾実験に成功したことを知ったスターリンは、核開発を急がせ、1949年にソ連の原爆実験を成功させた。ここから米ソを初めとする核所有国の核開発競争が始まり、世界は核戦争の脅威にさらされることとなる。アメリカは1951年から、ネバダ核実験場を設け、集中的な核実験に着手した。また1952年にはイギリスが核実験をアメリカの技術援助のもとで成功させ、第三の核保有国となった。
核実験禁止の動き:これら米ソ英三国の核兵器開発競争に対し、戦後ただちに科学者よる核兵器廃絶運動が始まったが、それが世界の幅広い世論となるのは、1954年のアメリカのビキニ環礁での水爆実験で日本人漁民が犠牲となってからであった。50年代後半からは米ソは平和共存路線を模索する一方で力の均衡を図って核開発を続けた。1960年代からは原子爆弾、水素爆弾だけでなく、ミサイルに核弾頭を搭載することが可能となり、1962年のキューバ危機で核戦争勃発一歩前までいったため、米ソ両国はようやく核実験の抑制に踏み切り、1963年に部分的核実験停止条約を成立させた。これによって大気圏内外と水中の実験は禁止されたが、地下核実験はその後も可能であったので、核兵器開発競争は続くこととなった。しかし国民生活を犠牲にした核開発はやがて米ソともに財政負担を増大させ、中国でも大躍進期に核開発を強行したためにかえって大飢饉を誘発することとなり、無制限な核開発は不可能となってきた。1970年代は核兵器削減交渉が進展し、デタント(緊張緩和)の時代となった。この時期までは対立する米ソ二大国と、英仏に中国という安保理クラスの5大国が核を独占する体制をとっていたが、米ソの力の均衡という冷戦が終結した1990年代以降は、インド、パキスタン、イスラエル、イラン、北朝鮮などが堂々と核開発を主張し、核の地域的な使用が現実的になってきている。完全な核兵器の廃絶には至っていないのが現状である。
a ソ連の核実験第2次大戦中、ソ連でも原子爆弾の開発が始まっていた。ソ連はベリヤを長官とする秘密警察のスパイ活動によって米英の核開発の状況を正確に把握していた。1943年、スターリングラードの戦況が好転すると、スターリンは核開発にゴーサインを出し、クルチャトフが責任者となって突貫工事で原爆の製造を急いだ。施設や核物質の採鉱には数十万の囚人が動員されたという。こうして1949年8月、セミパラチンスクで長崎型と同じプルトニウム爆弾の実験に成功した。ソ連の核実験成功を、日本−アラスカ上空をパトロール中の偵察機で知ったアメリカは、予想外に早かったソ連の原爆開発成功に衝撃を受け、トルーマン大統領は直ちに国家安全保障会議(NSC)を開催し対策を検討し、原子爆弾を上回る破壊力を持つ水素爆弾の開発を進める決定をした。<中沢志保『オッペンハイマー』1995 中公新書 p.174> → 核兵器開発競争
なお、1957年にはウラル核爆発事故が起きた。これは核兵器製造基地の原子炉での爆発事故で多数の犠牲を出したが、ソ連当局はその事故を隠し、1970年代に亡命科学者がその事実を告白、ソ連崩壊後のロシア政府がようやくその事実を認めた。
Epi. ソ連核開発のお家の事情 実は1945年の時点でソ連にはほとんどウランは発見されていなかった。46年のクルチャトフのスターリンへの報告書にも、核開発に必要なウランは10分の1しかないと言っている。ソ連のの占領地、ドイツ東部やチェコスロヴァキア、ブルガリアにはウランが産出した。47年にはソ連領内でもウランが発見されるのだが、50年に入ってもソ連の使用するウランの3分の2は東欧産であった。ソ連が、東ドイツなど東欧支配を行ったのはウラン鉱が豊富であったという「軍事経済的要因があった」という見方もある。50年代には北朝鮮からもウランがソ連に運ばれている。<下斗米伸夫『アジア冷戦史』2004 中公新書 p.28-31>
 ネバダ核実験場アメリカ合衆国が、1951年1月、ネバダ州に開設した核実験場。1951年から58年までは地上(大気中)での原爆実験を97回実施した。1963年以降は部分的核実験停止条約が成立したため、地下核実験に切り替えられた。現在では臨界前実験を行っている。別データによると、1951年から1992年にかけて、925回の核実験が行われたという。なお、水爆実験は1954年から南太平洋のビキニ環礁を実験場とした。ネバダ核実験場の周辺は砂漠地帯であるが、その南方にはラス・ヴェガスがある。1970年代から、周辺のユタ州などの周辺地域住民に放射線被害と見られる癌の多発などが問題となっており、訴訟も起こされている。
Epi. 『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』 1954年、ユタ州セント・ジョージ市郊外の砂漠地帯で、ハリウッド映画『征服者』のロケが行われた。主役は西部劇のスター、ジョン・ウェイン。ジンギスカンを描いた大スペクタクル映画で、監督(ディック・パウエル)以下、スタッフ数百人が滞在、近くのインディアン居留地からも多数のエキストラが動員された。ロケは数ヶ月に渡り、砂漠の中で撮影が行われた。その後もウェインは西部劇スターとしてユタやアリゾナのロケに参加した。その10年後、ウェインは激しい咳に苦しむようになり、肺ガンだと診断された。手術でいったんは克服したが、胃に転移し、1979年、大腸癌で死亡した。ところが、『征服者』ロケに参加して、癌で死んだのはジョン・ウェインだけではなかった。相手役のスーザン・ヘイワード、メキシコ人俳優ペドロ・アルメンダリス(癌を苦に自殺)、それに監督以下のスタッフも多くがその後数年の間で癌にかかっている。それだけではなく、セント・ジョージの市民や、インディアン居住地の住民に異常に癌の発症率が高いことがわかってきた。セント・ジョージの街はネバダ核実験場の東方約200kmのところにある。アメリカの原子力当局はこれだけの距離があれば、核実験との因果関係は無く、安全であると言っていたが、次第に住民は疑いを持つようになった・・・・。この事実は、ノンフィクション作家広瀬隆が1982年の『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』で明らかにした。同書に拠れば、驚くべきことにウェイン以外にも、1950年代にこの付近でロケに参加した多くの俳優が、癌で倒れているという。ハリウッドで西部劇が急速に制作されなくなった背景でもあると著者は指摘している。広瀬隆はこの本だけでなく、『東京に原発を!』などの反原発論を展開しており、原子力関係者や科学者の中には声高に反論する人々もいるが、広瀬氏の言っていることはなかなか説得力がある。何年にも渡り大気中で行われた核実験で発生した死の灰が風下のユタ州に降り積もり(風向きがラスヴェガスのある南向きやロサンジェルス方面の西向きの時は実験をしなかった)、そこで暮らしたり滞在した人の体内に取り込まれ、ごく微量であっても濃縮され、やがて癌を発症したのだという。日本列島には現在多数の原発や核廃棄物貯蔵施設があるが、実はネバダ・ユタ・アリゾナ三州の広さと同じぐらいであるという指摘をうけると、特に地震大国日本ではたして原発が安全なのか、考えさせられてしまう。<広瀬隆『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』1982 現在は文春文庫。改訂版もある。>
 イギリスの核実験 
b 水素爆弾 1949年のソ連の原爆実験成功を受けて、アメリカで水素爆弾の開発が始まった。水爆の開発に関しては、原爆の開発を推進したオッペンハイマーを中心とする反対派、あるいは慎重派も多かったが、ソ連と共産主義の脅威に対抗するためという大義名分で、核物理学者のテラーやローレンスなどが推進派となり、1950年1月、トルーマン大統領の声明という形で決定され、莫大な国家予算を計上し、1952年11月に水爆実験に成功した。水素爆弾は原爆が核分裂によるのに対し、核融合を利用するもので原爆の数倍の破壊力を持つ。1954年3月のアメリカによるビキニ環礁の水爆実験では日本の漁船第五福竜丸が被爆し、犠牲者が出ている。
ソ連は53年8月に水素爆弾の実験に成功した。それに携わったのが「水爆の父」といわれたサハロフ(物理学者)であった。サハロフは後に反体制運動で有名になる。
Epi. オッペンハイマー事件 「原爆の父」と言われ、その開発の先頭に立ち、また広島・長崎への使用にも積極的であったとされる「マンハッタン計画」の責任者オッペンハイマーは、水爆の開発では一転して反対を主張した。彼は核開発に反対だったのではないが、ソ連との間で無限の核開発競争が行われていくことを深く懸念し、核開発の国際管理の必要を痛感していたからだった。そのようなオッペンハイマーの姿勢は、当時アメリカで台頭したマッカーシズム(「赤狩り」)の風潮から、ソ連のスパイではないかという疑いをかけられ、1954年にはすべての核開発研究からはずされてしまった。この当時はアメリカでは異常な反共政策がとられていた時期であった。その後、1964年になってオッペンハイマーの名誉は回復され、すぐれた物理学者に与えられるエンリコ=フェルミ賞が授与された。<中沢志保『オッペンハイマー』1995 中公新書 p.174>
c ビキニ環礁 ビキニ環礁とは、太平洋のミクロネシアのマーシャル諸島の一つ。第2次世界大戦後、アメリカの国連信託統治領となった。1946年から、アメリカはこの地を核実験場として使用。1954年からは新たに水爆の実験を始めた。付近の海域に放射性物質(「死の灰」と言われた)をまき散らしたが、同年の日本漁船第五福竜丸の被爆は大きな問題となった。
第五福竜丸事件 1954年3月1日、太平洋で漁業に従事していた日本の漁船第五福竜丸が、アメリカがビキニ環礁で行った水素爆弾実験によって発せられた「死の灰」を浴びた。半月後、焼津港に帰った第五福竜丸の乗組員が身体の異常を訴え、多量の放射能が検出された。乗組員の一人、久保山愛吉さんが9月に死亡した。この事件は世界を驚かし、ロンドンタイムスは「水爆最初の犠牲者、日本人漁民死す」と報じた。アメリカは第五福竜丸をスパイ船の疑いがあると発表しひんしゅくを買う。築地の市場では南太平洋で捕獲されたマグロがまったく売れなくなった。そして世界中からアメリカのトルーマン大統領宛に抗議の署名が届いた。これを期に原水爆禁止運動の声が上がり、翌55年、第1回原水爆禁止世界大会が広島市で開催された。<浜林正夫・野口宏『ドキュメント戦後世界史』p.109>
 ウラル核爆発事故ソ連の核実験、核兵器開発過程で起こった最大の事故。1957年秋、ソ連のウラル地方のチェリャビンスクで、原子炉が爆発し大規模な放射能漏れが発生した。ウラル核惨事と言われているこの事故は、当初、全くの秘密とされ、その規模、原因等は一切明らかにされていなかった。この事故の真相が知られるようになったのは、ソ連から亡命した科学者ジョレス=A=メドベージェフが、イギリスの科学雑誌に論文を発表したからだった。事故後の汚染調査を独自に行った彼は、核兵器製造過程で廃水が地下に漏れ、プルトニウムが地下で濃縮されて何らかの原因で爆発したもの、と原因を推定し、汚染地区の住民は数千人が死亡、また数万人が強制退去させられたことを明らかにした。ソ連当局は必死に否定したが、メドベージェフはその後も著作を発表し、告発を続けた。ようやくゴルバチョフ政権下の1989年、グラスノスチ(情報公開)が実現し、1992年にはロシア政府が住民に対して事故があったを認めた。なお、1960年、アメリカが偵察機U2型機をソ連領に侵入させて探ろうとしたのは、このウラル核爆発事故の情報を得て、その確認のためだったのではないかと推測されている。U2型偵察機はソ連軍によって撃墜され、平和共存がご破算となり、キューバ危機にいたる冷戦が再燃した。<広瀬隆『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』1982 現在は文春文庫。p.137-152 などによる>
d 冷たい戦争(冷戦)  →第16章 1節 冷たい戦争
イ.ソ連の「雪どけ」と平和共存政策
 米ソの接近 米ソ両国はともに戦いドイツ・日本の枢軸側を破り、平和を実現させ、その維持のために国際連合を発足させた。しかし末期から明らかになった米ソ対立は、早くも1947年のアメリカの封じ込め政策の採用から、冷戦といわれる状況となった。48年のベルリン封鎖、49年の東西ドイツの分離独立・中華人民共和国の成立によって緊張は最高潮となり、ついに50年の朝鮮戦争となって火を噴いた。さらに米ソおよびイギリスによる核兵器開発競争は、両陣営の指導者にも核戦争による世界滅亡を予測させることとなった。そのような東西対立に転機をもたらしたのは、53年のスターリンの死であった。ソ連指導部はスターリンの対決一本槍を改める姿勢を示し、アメリカでもアイゼンハウアー政権に変わって話し合いの可能性が出てきた。また54年のアメリカのビキニ環礁での水爆実験で日本人に再び犠牲が出て、世界中に原水爆禁止運動が起こったことも、米ソ両国を接近させる背景となった。こうして54年から米ソ両国は、平和共存を模索するようになり、55年の戦後最初の両首脳の顔合わせとなったジュネーヴ4国首脳会談となった。56年のスターリン批判とハンガリー事件は東側の大きな転機となったが、それを力で抑えきったフルシチョフ・ソ連は、ついで宇宙開発などでアメリカを追い抜き、その自信を背景に59年に初の訪米を果たしてアイゼンハウアーと会談を実現させた。一方、ソ連の大きな方向転換は中国の毛沢東との対立(中ソ対立)を産み出し、社会主義陣営の動揺につながる。米ソ接近は61年のフルシチョフとケネディのウィーン会談まで続くが、そこで決裂し61年のベルリンの壁の構築、62年のキューバ危機が起こり、平和共存の時期は終わる。
a スターリンの死去1953年3月6日朝、スターリンが前夜に脳溢血で死んだことがラジオで発表された。73歳であった。後継の首相にはマレンコフが就任、共産党第一書記にはフルシチョフが選ばれた。スターリン体制の下で実権をふるっていた秘密警察の長官ベリヤは7月に逮捕され、その後処刑された。ベリヤを倒したのはのは共産党を抑えたフルシチョフであった。フルシチョフはやがてマレンコフを失脚させ、ソ連の最高権力を獲得することとなり、1956年にスターリン批判を行って、平和共存路線に転換する。
Epi. 隠されたスターリンの病気 不死身の印象を与えていたスターリンであったが、実は大戦末期の1945年10月、発作を起こして倒れていた。実務はモロトフ外相が預かった。この時の発作はたいしたことはなかったがモロトフが後継者に選ばれるという噂が流れた。かえってスターリンとモロトフの関係が悪化し、モロトフは次第にはずされていく。「45年に倒れたスターリンは、それ以降毎年、夏から平均5ヶ月も休暇をとった。クレムリンで執務するのは夜中の数時間のみ、訪問者に会うこともまれになり、郊外の別荘で取り巻きに囲まれて暮らした。極端な秘密主義がスターリンを取り巻き、最高幹部ですら情報が限られた。他の政治局員との関係は家父長そのものだった。」<下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家』2002 講談社選書メチエ p.138>
 集団指導体制 1953年のスターリンの死後、ソ連はその独裁的な指導体制を改め集団指導体制をとった。首相はマレンコフ、副首相兼内相をベリヤ、フルシチョフは共産党書記、ブルガーニンが国防相、モロトフは外相という布陣となった。しかしその内部はモロトフに代表される結党以来の古い体質を持つスターリン派、フルシチョフのような戦時に台頭した現実路線派などの対立があった。また内相ベリヤは間もなく独裁権力を握ろうとしたとして逮捕され、処刑された。またマレンコフも農業政策の失敗を理由に失脚し、55年にはフルシチョフ・ブルガーニン体制ができあがった。
e アイゼンハウアー  → アイゼンハウアー大統領
 ジュネーヴ会議 1954年4月26日〜7月21日、スイスのジュネーヴで開催された、朝鮮問題・インドシナ問題に関する国際会議。米英仏ソの大国とインドなどアジア諸国の18ヵ国が参加。初めて中華人民共和国が参加した国際会議として重要。朝鮮問題では決裂したが、インドシナ戦争に関しては停戦協定であるジュネーブ協定が成立した。
背景朝鮮戦争は53年に休戦が実現したが、インドシナ戦争は46年以来継続し、アジアでの平和実現の声が強まり、また冷戦の中で核兵器開発競争を続ける米ソ2大国にも、ソ連でスターリンが死去し、アメリカでアイゼンハウアー大統領に代わるという転機を迎えていた。54年1月、米英仏ソの4国外相の間で、ジュネーヴ国際会議開催が合意された。
内容:朝鮮の統一については北朝鮮が外国軍の撤退を、韓国が戦後処理での国連の関与を主張して譲らず決裂した。インドシナ戦争に関しては、会議中の5月にディエンビエンフーが陥落し、フランス(代表マンデス=フランス)が折れて、7月21日休戦協定(ジュネーヴ協定)が成立した。しかしアメリカは協定に署名しなかった。
意義:第2次世界大戦の戦後に開催された大規模な国際会議であり、インドシナ戦争の休戦協定を成立させ、アジアに一応の平和をもたらした。中華人民共和国が初めて国際会議に出席、代表の周恩来はインドのネルーとともに第三世界の代表として重要な役割を果たした。両者は「平和五原則」で一致し、翌年のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)につながることとなる。また第三勢力の台頭に対抗するため、米英仏ソの4大国は同じく翌年、同じジュネーブで戦後初の4ヵ国首脳会談を開催することとなる。
 ジュネーヴ4巨頭会談 1955年7月、スイスのジュネーブで開催された、大戦後最初の米ソ英仏の4ヵ国巨頭会談で、具体的な成果はなかったが冷戦の中での平和共存をさぐる一歩となった。アメリカからアイゼンハウアー大統領とダレス国務長官、ソ連からブルガーニン首相とフルシチョフ共産党第一書記、それにモロトフ外相、イギリスからイーデン首相とマクミラン外相、フランスからはフォール首相とピネー外相が出席した。
欧州最大の懸案であったドイツ問題などで話し合い、ドイツに関しては自由選挙による統一国家の樹立では合意したが、ソ連は東ドイツの国家体制の維持を主張して具体案には至らなかったが、「ジュネーヴ精神」と言われる平和共存路線が理念を共有することが確認されたことは大きな成果であった。しかし、翌1956年、ハンガリー動乱をソ連が軍事介入して鎮圧したことなどから、再び緊張が高まり、米ソは再び核兵器開発を進めることとなった。
 スターリン批判 スターリン体制の否定:1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフは、ソ連共産党第二〇回において、公開の一般演説ではスターリン(53年死去)の名を挙げなかったものの、それまでのソ連共産党の公式見解である戦争不可避論(資本主義陣営との戦争は避けられないとする考え)を批判して、西側との平和共存路線への転換をはかり、また暴力的手段によるのではなく議会制度を通して平和的に社会主義への移行することが可能であることを呼びかけた。これは従来のスターリン体制からの大きな転換を意味していた。ただし、共産党一党支配を否定するものではなかった。
スターリン批判:それ自体が画期的な方向転換であったが、さらに大会最終日の2月24日から25日にかけて開かれた非公開の会議で、再び演壇に上がって『秘密報告』と呼ばれる報告を行い、スターリンを名指しで批判した。この秘密報告は、正式にいうと『ソ連共産党第二〇回大会非公開会議における演説』ということになっており、その表題も『個人崇拝とその諸結果について』というごく穏やかな名前になっている。この非公開の会議には、1355名の決議権をもつ代議員と、81名の審議権だけを持つ代表、計1436名が出席した。内外の記者、外国代表は退席を求められた。代議員もノートをとることを禁じられた。しかし、その内容が海外に漏れ、アメリカなどの新聞が報道し、世界に衝撃を与えた。スターリン批判の内容は以下の点であった。
○スターリンが1934年の第17回党大会以降、自らに対する個人崇拝を「わがまま勝手に」押し進めた。彼はレーニンの「集団指導」を無視し、党大会や中央委員会を開催しなかった。
○社会主義体制達成後も階級闘争は続くという誤った理論から、反対派を「人民の敵」として捕らえ、銃殺するという大量テロル(粛清)を行った。
○その手先となったのはベリヤらであった。その下でテロルを実行した人びとはそれが社会主義圏説に必要だと単純化していた。(取調官ロドスの例)
○スターリンは軍事的天才ではなかった。ドイツとの戦争ではその侵入を予測できず大きな損害をこうむる原因をつくった。地球儀で作戦会議を開く有様だった。また、軍隊の有能な指揮官に対しても粛清をもって当たった。
○民族大虐殺にたいしても責任がある。
○スターリンは国内をほとんどあるくことなく、農村の実情を知らなかった。
○『スターリン小伝』『全ソ共産党小史』などで自画自賛した。
<志水速雄訳『フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」』講談社学術文庫> 
スターリン色の排除:1961年にフルシチョフは第22回党大会で再度スターリン批判を行った。この時は報告も新聞に報道された。この時、スターリンの遺体は赤の広場から撤去され、スターリングラードはヴォルゴグラードと改名された。各地のスターリン像も撤去された。スターリンによって粛清された人たちの名誉回復が行われ、その数は五〜六百万に及んだ。<外川継男『ロシアとソ連邦』1991 講談社学術文庫 p.376>
スターリン批判の影響:ソ連のスターリン批判は、社会主義陣営に大きな波紋を及ぼした。
東欧社会主義圏での自由化暴動 まず東ヨーロッパの社会主義国では従来のスターリン体制に対する反発がこれを機に爆発し、ポーランドとハンガリーで反ソ暴動が起こった。しかし、ソ連はポーランドではゴムウカ政権に一定の自治を認めたがワルシャワ条約機構からの離脱や自由化を認めず、ハンガリーでは暴動をソ連軍を派遣して鎮圧し、ナジ政権を排除し親ソ政権を樹立した。その他の東欧諸国でもスターリン派は排除されたが、自由化やソ連圏からの離脱は実現しなかった。
中ソ対立 中国共産党では毛沢東を中心に、スターリン批判に反発した。特にフルシチョフが打ち出した戦争不可避論の否定や平和的手段による社会主義の実現といった思想は、マルクス主義の原則に反するものとして激しく非難した。こうしてソ連・中国関係は悪化し、中ソ論争から国境紛争にまで発展した。また、スターリン独裁政治の否定という面では中国共産党内にも劉少奇・ケ小平ら党官僚の中に同調する部分が現れ、毛沢東との対立の遠因となった。
a 1956年 1956年は戦後世界史の中で一つの転機となる年となった。53年のスターリン死去以来、ソ連に「雪どけ」と言われる変化が始まり、56年2月にフルシチョフによるスターリン批判に至った。それは冷戦の枠の中で米ソの平和共存を実現させたが、同時に東欧に自由化を求める動きを触発した。そしてソ連がポーランドハンガリーの自由化を弾圧し、ポーランド、続いてハンガリー反ソ暴動となったことは、東西緊張を再び重苦しいものにした。冷戦と並ぶ戦後のもう一つの動きである第三世界の自立の動きはエジプト革命となって爆発したが、そのエジプトのナセル大統領が56年にスエズ運河の国有化を宣言したことからスエズ戦争(第2次中東戦争)が勃発した。ここでは植民地支配を維持しようとするイギリス・フランスを米ソが非難し、単純な東西対立という図式が崩れた。このような冷戦構造を揺り動かすような出来事が起きたこの年は1956年の危機とも言われる。
日本にとって1956(昭和31)年は、戦後10年が経過し、朝鮮特需によって経済を復興させ、経済白書が「もはや戦後ではない」と表明(7月)した年である。東西冷戦の緩和は日本外交にも影響し、10月には日ソ共同声明が出され、12月に懸案の国際連合加盟を果たした。政治情勢は前年の55年に成立した自由民主党と社会党という保革二党の対立を軸としながら自民党長期政権が続くという55年体制が始まった。
b ソ連共産党第20回大会 1956年2月に開催され、フルシチョフ指導部によるスターリン批判が行われた重要な大会。フルシチョフ第一書記はまず公開の大会で一般演説を行い、
・資本主義陣営との戦争はどうしても避けられないものであるという不可避論は誤っていること。
・資本主義体制と社会主義体制をとる国とが平和共存することは可能であること。
・暴力革命だけではなく、議会政治を通した平和な手段による革命も可能になっていること。
の三点をあげた。これは従来のソ連スターリン主義を否定する大きな方針転換を意味していた。続いて非公開会議(秘密会議)を開いて、スターリンによる粛清の実態を始めて明らかにして、その非人道的な独裁政治を非難した。一般にこの部分がスターリン批判演説といわれる。 
c フルシチョフ

Nikita Sergeevich Khrushchov 1894-1971
スターリン死後にソ連を指導した共産党の政治家。スターリン晩年の取り巻きの一人であったが、1953年から共産党第一書記として集団指導体制に加わり、党を抑えた党人派。1956年のソ連共産党第20回大会で、平和共存への転換を表明、スターリン批判を行った。それを機に起こったハンガリー事件などの東欧の反ソ運動に対してはソ連軍を派遣して抑えつけた。57年にはモロトフやマレンコフを排除し、さらに人工衛星スプートニクの打ち上げに成功するなどを背景に力をつけ、58年にはブルガーニン首相を解任して自ら兼任した。ソ連内部の対米強硬派を抑え、アメリカとの平和共存路線を模索し、59年にはソ連首相として始めて渡米し、アイゼンハウアーと会談した。しかし平和共存は長続きせず、1961年のベルリン危機(壁の構築)、1962年のキューバ危機などが起こって、再びアメリカとの対決姿勢にもどった。
スターリン批判を機にフルシチョフのもとで非スターリン化が進み、ソ連国内の「雪どけ」と東欧に自由化を求める運動が起こったが、国内の自由化に対しては行き過ぎを厳しく対処し、ポーランドハンガリーの反ソ暴動は力ずくで抑えつけた。一方でフルシチョフを批判してソ連と袂を分かつ形となった毛沢東の中国との論争「中ソ論争」を展開し、中ソ対立を招いた。
フルシチョフは地方の労働者出身で、長く農民運動に携わり、1930年代にはモスクワ市長として経験を積んだ、現場の政治家であり、その親しみやすい風貌からも民衆に人気があった。その手法は振幅が大きく、時に独断的でその外交は「瀬戸際外交」とも言われて不安定なものであったが、
・スターリン的な秘密主義、独裁政治、粛清などの手段を止めさせたこと。
・スターリンの世界戦争不可避論に変わって平和共存路線に展開させたこと。
・農業面などの生産性を高め、経済成長を実現させたこと。
などは評価されている。しかし、キューバ危機での弱腰が非難が起こり、1963に反対派によって一方的に解任され、その後は年金生活を送って71年に死去した。 → フルシチョフ解任
d スターリン  → スターリン  スターリン体制
e 平和共存 1953年のソ連のスターリンの死に始まり、1956年にフルシチョフによって打ち出された、冷戦の中でソ連とアメリカの共存を図る外交政策。1960年代初頭のキューバ危機の頃まで続いた。
背景:1947年頃から明確になった東西冷戦は、東西ドイツの分断でヨーロッパにおいては膠着状態となった。49年に中華人民共和国が成立したことから一気に冷戦構造はアジアにもおよび、50年には朝鮮戦争として火を噴いた。このような冷戦の深刻化は、アメリカの世界戦略を「逆コース」に向かわせ、日本の再軍備がなされた。この間ソ連はスターリン独裁体制が続いていたが、53年にスターリンの死を迎え、外交政策の転換が図られた。アメリカでもアイアイゼンハウアーへの大統領の交代があった。ほぼ大戦後10年をすぎて核戦争の危機が迫ったことに対する国際世論の不安が、米ソ両国への圧力となったことも背景となり、平和共存ムードが高まった。→ 平和共存路線    → アメリカの外交政策
f コミンフォルム解散 コミンフォルム(共産党情報局)は1947年にソ連共産党が東ヨーロッパ諸国の共産党を統制するために設けたもので、48年にユーゴスラヴィアが除名されたが、冷戦中はスターリン体制の重要な機関となっていた。しかし、53年にスターリンが死去し、56年にスターリン批判が行われた後、解散された。 
g 「雪どけ」 1953年のスターリンの死去、さらに1956年のフルシチョフによるスターリン批判によって起こったソ連の共産党一党独裁のもとでの言論抑圧が一時的に弱まったことをいう。また1955年のジュネーヴでの初のヵ国巨頭会談の開催などに見られる、東西冷戦が緩和され平和共存が図られるようになった。
この言葉は1954年に作家エレンブルグが発表した小説『雪どけ』による。検閲制度は残ったが、表現の自由はかなりの程度認められ、ロシアの作家はほぼ30年ぶりに自分の書きたいものが書けるようになったと言える。
1962年にはソルジェニーツィン『イワン=デニーソヴィッチの一日』が発表され、シベリアの政治犯の強制収容所の実態が初めて取り上げられ、大きな反響を呼んだ。しかしその反動は同年末と翌63年3月にすぐ現れ、フルシチョフは行き過ぎた自由を戒める警告を発し、ブルジョワ的影響の危険性を指摘して社会主義リアリズムを強調した。「雪どけ」は長く続かなかったが、ソ連の反体制知識人はそれ以後地下出版や海外出版の形で自分の思うところを発表するようになった。<外川継男『ロシアとソ連』講談社学術文庫>
 東欧諸国の自由化運動 1956年のソ連のスターリン批判は、それまでスターリン体制を押しつけられ、それぞれの文化的伝統との摩擦に苦しんでいた東欧社会主義圏諸国に大きな動揺をもたらした。特にポーランドハンガリーはスターリン主義が強力に押しつけられていただけに、スターリン批判をきっかけに爆発的な反ソ暴動が起きた。これ以後の1989年の東欧革命にいたるまで、先行的変化が常にこの二国に始まるのは偶然ではない。この両国の反ソ暴動はしかし、異なった結末を迎えた。<木戸蓊『激動の東欧史』1990 中央新書 などによる> 
a ポーランド反ソ暴動 ソ連のスターリン批判、コミンフォルム解散を受け、1956年ポーランドのポズナニの民衆暴動から始まった反ソ暴動。同年のハンガリー動乱とともに東欧社会主義圏を動揺させたがソ連軍の圧力により鎮圧された。第2次世界大戦後のポーランドでは統一労働者党がソ連の後押しで権力を握り、戦前からの共産主義指導者ゴムウカを民族派として逮捕し、一党独裁体制を固めた。そのもとで集団化と重工業化を進められたが、同時にソ連共産党の独裁的な権力を握ったスターリン体制が押しつけられることとなった。1953年にスターリンが死去、さらに1956年にソ連共産党でスターリン批判が行われ、その個人崇拝や粛清という政治手段、人権抑圧が非難された。ポーランドでもスターリン主義者のビエルト大統領が死去した。このような情勢の中で、6月に西部のポズナニで暴動が起こった。政府と党は労働者の経営参加などの妥協策を示して収束を図ったが、この暴動を反ソ活動、外国の挑発と見たソ連当局は厳しい弾圧を指示し、ポーランド政府と対立した。ソ連はフルシチョフ以下要人がワルシャワ入りし、さらにソ連軍を国境地帯に移動させて圧力をかけたが、ポーランド側はソ連とねばり強く交渉し、また労働者、知識人が政府支持を表明して支援、ついに第一書記にゴムウカの復帰を認めさせた。ゴムウカは10月に「社会主義の道」と題して演説し、スターリン主義と他国への従属に訣別したが、ワルシャワ条約機構からの脱退は否定し、ソ連との距離を保ちながら民族主義的な社会主義路線をとることとなる。
その後のポーランド:国民の大きな支持を受けたがゴムウカであったが、次第にその姿勢は保守的となり、1968年のチェコ事件ではポーランド軍をチェコに派遣し、その自由かを抑圧する側に回った。また経済の停滞も目立ち始め、1970年の政府の物価引き上げを気にして大規模なストライキが起き、ゴムウカ退陣要求が強まり、ギエレクが第一書記となった。しかし、体制的な抑圧は続き、1980年の自主管理労組「連帯」の結成と、民主化闘争が始まり、1989年の東欧革命の時に民主化を達成する。
b ポズナニ ポーランド西部の工業都市。ポズナンとも表記する。1956年6月28日、機関車や鉄道車輌を製作する工場の労働者が待遇改善を要求してデモを行ったところ、市民も加わり、放送局、裁判所、警察署などを襲撃する暴動となり、ポーランド反ソ暴動の契機となった。
c ゴムウカ ポーランド統一労働者党(共産党)指導者で書記長。ドイツ侵攻後ソ連に亡命し、ソ連による解放とともに帰国し、1945年から戦後のポーランド再建にあたった。しかし1948年にはスターリン主義の押しつけが強まってゴムウカは民族主義者として書記長を解任され逮捕され、1956年スターリン批判がはじまって後に釈放される。同年、ポズナニ暴動から始まったポーランド反ソ暴動が展開される中、党の改革派から推されて第一書記に復帰し、スターリン派を排除して改革を実行した。10月には国民の前で「社会主義の道」という演説を行い、社会主義には多様な道があることを示した。ゴムウカはポーランドの独自内政を確保したが、ワルシャワ条約機構からの脱退はしなかった。この点が、ハンガリーのナジ=イムレが処刑されたのに対し、生存できた理由であった。ゴムウカは復活したが、その後は次第に保守的な姿勢をとるようになり、1968年のチェコ事件では自由化路線の否定にまわり、ワルシャワ条約機構軍の派遣を主張した。1970年にグダニスクで物価騰貴に反発した民衆が蜂起すると厳しく弾圧した。しかし硬直した権威主義的な指導が批判され、同年ゴムウカは解任された。
d ハンガリー反ソ暴動ソ連のスターリン批判、コミンフォルム解散を受け、1956年10月にハンガリーで起こった反ソ暴動。ポーランド反ソ暴動とともに東欧社会主義圏を揺るがせたが、ソ連軍の軍事介入で鎮圧された。ハンガリー事件ハンガリー動乱とも言われる。6月に始まったポーランド反ソ暴動での改革と10月の政権交代の成功を見た首都ブダペストの学生・労働者・市民が大規模なデモを起こし、政府はソ連軍に出動を要請したが、暴動は地方に広がり、労働者はゼネストに入った。スターリン主義者の首相が退任し、新たに首相に就任したナジ=イムレは複数政党制の導入などの改革を図り、ワルシャワ条約機構からの脱退とハンガリーの中立を表明した。ハンガリー動乱を「反革命」と断定したソ連(フルシチョフ、ブルガーニン首脳部)は、軍事介入に踏み切り、2000台の戦車でブタペストを制圧するとともにナジを解任しスターリン派のカーダールを据えた。ナジ=イムレはソ連に連行され処刑された。カーダールは改革派を大量処分し、ハンガリー反ソ暴動は終結した。この動乱で数千人が死に、20万人が亡命した。ソ連はハンガリーのワルシャワ条約機構脱退と中立を許せば、ポーランドなど他の東欧諸国に飛び火し、東欧支配が崩れることを恐れたのである。ハンガリー反ソ暴動(およびポーランド反ソ暴動)に対するソ連軍介入は、スターリン死後に始まった「平和共存」に暗雲を投げかけ、米ソ関係は緊張し、それぞれ主導権を狙って核兵器開発競争に再開することとなる。
その後のハンガリー1960〜80年代のハンガリーはカーダールの長期政権が続くが、その間一定の経済改革が進み、民主化の基盤が作られた。1989年、東欧革命の先陣を切ったハンガリーではハンガリー反ソ暴動は再評価され、「国民革命」と言われるようになった。
e ナジ=イムレ1956年のハンガリー反ソ暴動を指導した改革派の政治家で、ソ連によって処刑された。(ナジが姓でイムレが名。ハンガリー人の人名表記は日本人と同じで姓−名の順である。)
第1次世界大戦の時期からの労働者党(共産党)党員で、大戦中はソ連に亡命、戦後帰国してハンガリーの共産化の中心となった。1953年に首相となったが、党内のスターリン主義者と対立、55年に解任された。1956年にポーランド反ソ暴動の影響を受けてハンガリー反ソ暴動が勃発すると、国民の支持を受けて首相に復帰し、複数政党制の導入などの改革を図り、ワルシャワ条約機構からの脱退とハンガリーの中立を表明した。ソ連の軍事介入して暴動を鎮圧し、改革撤回を迫り、拒否したナジは再び解任された。ナジはユーゴスラヴィアに亡命を図ったが、ソ連軍にとらえられ、その後処刑されたと発表になった。1989年、東欧革命の先陣を切ったハンガリーで、ナジ=イムレの名誉回復がなされ、改めて埋葬された。
ナジ=イムレの復権:1989年、民主化が進むハンガリーで、大々的な歴史の見直しが行われた。その最大の焦点は1956年のハンガリー反ソ暴動とそのときの指導者ナジ=イムレの評価だった。新政権は暴動を「大衆蜂起」と規定し、ナジ=イムレの有罪を取り消して、外部の干渉を排除し反革命のために戦ったと再評価、再埋葬を行うと決定した。ブダペストの無縁墓地に埋葬されていた遺体は発掘され、6月16日、市の中央の英雄広場で政府首脳、10万人の市民が集まる中、再埋葬式が行われた。<三浦元博、山崎博康『東欧革命』1992 岩波新書 p.63-65>
 平和共存路線 平和共存とは、冷戦下において米ソが対立はするが互いに存在を認めて共存しようという外交の基本政策のこと。ソ連が1953年のスターリン死後に次第にこの姿勢に転換しフルシチョフが主導し展開させた。    → アメリカの外交政策
ソ連外交の転換 平和共存の前提として周辺諸国との関係の修復と強化に乗り出した。
・1954年 フルシチョフ、中国訪問。経済援助を約束し旅順・大連返還を決める。
・1954年 日本(鳩山内閣)と国交回復交渉開始。 →56年 日ソ国交回復。
・1955年 フルシチョフ、ユーゴスラヴィア訪問。国交を正常化。
・1955年 ソ連、西ドイツを承認し、国交を樹立。
・1955年 オーストリア国家条約に調印。主権回復、永世中立を承認。
平和共存路線の主な動き
・1955年にワルシャワ条約機構が成立したのは、西ドイツのNATO加盟と再軍備に対応したもので、米ソがドイツの東西分断という現状を認めたことを意味した。同年7月のジュネーヴ四ヵ国首脳会談は具体的な成果はなかったが、「ジュネーヴ精神」という平和共存の理念を明らかにした。
・1956年にはフルシチョフが第20回共産党大会で従来の戦争不可避論やアメリカ敵視政策を改め、平和共存を明確に打ち出し、同時にスターリン批判を行った。しかし、同年に起こったポーランドとハンガリーの動乱をソ連が軍事制圧したことから再び危機は高まり、平和共存に陰りが見えた。また、同年のスエズ戦争ではフルシチョフはイギリス・フランスに対しミサイル発射を含めて対抗しようとした。(1956年の危機)
・1958年 フルシチョフ・ソ連は、アメリカとの軍事バランスで優位に立とうとして核開発を強め、人工衛星・ICBMの開発などを進めた。
・1959年に始めてフルシチョフが渡米し、アイゼンハウアー大統領とキャンプデーヴィッドでの会談に応じた。
・1960年には第2回4ヵ国首脳会談がU2機事件で中止された。
・1961年のウィーンでのケネディ大統領との会談はドイツ問題で決裂、ベルリンの壁が建設された。
・1962年にはキューバ危機が起こって平和共存路線は終わりを告げ、米ソ間は平和ではあるが冷たいという「冷たい平和」の状況となる。反面、米ソ両国は核戦争の恐怖にさらされ、核軍縮を真剣に考えなければならない「緊張緩和(デタント)」を模索することとなる。
a 人工衛星(スプートニク)1957年10月、フルシチョフ政権下のソ連が世界最初の人工衛星(大気圏外を航行する飛行物体)スプートニク号の打ち上げに成功。後れをとったアメリカは威信を傷つけられ、スプートニク・ショックと言われる衝撃を受けた。アメリカは翌58年、人工衛星(エクスプローラー)の打ち上げに成功、宇宙開発競争が始まった。アイゼンハウアー大統領は宇宙開発競争が軍産複合体をさらに増大させることを懸念し、58年に宇宙開発を軍事と切り離して行うため航空宇宙局(NASA)を設立した。彼はアメリカの威信は宇宙開発で勝ち得るものではないとし、月面到着にも関心を示さなかったが、1960年の大統領選挙では民主党のケネディがミサイル開発でソ連に後れをとったのは共和党アイゼンハウアー政権の失政だとして攻撃して当選した。ケネディ大統領はソ連との競争に負けることは許されないとして、宇宙開発に力を入れた。
Epi. 宇宙に初めて行った動物 「1957年10月4日のソ連の人工衛星スプートニクTの打ち上げ成功は、二重の意味で西側諸国にショックを与えた。ひとつはソ連の科学技術の実力を過小評価していたというショック、もうひとつは、ソ連の科学技術に負けたという事実そのものによるショックである。96分12秒で地球を一周する83.6キログラムの人工衛星スプートニクTには「ピーッ」という音を発信できる二つのラジオが備えつけられており、この発信音がワシントンDCでもっとも大きく受信できるようになっていた。そしてこの「スプートニク・ショック」も醒めやらぬ一ヶ月後、ソ連は今度はライカ犬を乗せた508キログラムのスプートニクUの打ち上げを実現する。もっともライカを生還させる技術が未開発であったため、ライカは宇宙で死ぬことになるが、動物が「打ち上げ」のショックに耐えうること、そして無重力状態でも生きられることを証明した実績は大きかった。<猪木武徳『冷戦と経済繁栄』1999 中央公論社 世界の歴史29 p.24>
 大陸間弾道ミサイル(ICBM) 核弾頭を装備し、ロケット推進により数千キロにわたる長距離を飛行させ、レーダー装置によって敵の中枢を攻撃する戦略兵器。Inter-continental Ballistic Missile 1957年8月にソ連が実験に成功、アメリカに大きな衝撃を与えた。アメリカでも開発を急ぎ、核戦争の脅威が強まった。広島・長崎への原爆投下は、爆撃機に爆弾を搭載して目的地の上空で爆発させるというものであったが、ICBMは直接敵の中枢を標的にすることができるので、その戦略的意義は格段に強くなった。このような兵器を戦略兵器(Strategic Arms)という。米ソ両国はその開発競争に追い込まれたが、その際限ない競争は緊張を高めるだけでなく、両国の経済負担を重くし、しかも現実に使用した場合にお互いに破滅してしまうという認識が強まり、戦略兵器削減交渉(SALTTとU)の動きがでてくる。一方で、ヨーロッパなど東西が直接対峙する地域ではICBMよりも飛行距離が短く、また固定型ではなく移動型(トラックなど)の発射装置をもつ中距離核戦力(INF)が開発されるようになった。
 フルシチョフ渡米 1959年9月、ソ連首相兼第一書記として当時権力の絶頂にあったフルシチョフは、ニーナ夫人を伴い、ソ連首脳として初めて訪米した。その平和共存路線に沿って国際連合総会で演説し全面完全軍縮を提案した。アメリカのアイゼンハウアー大統領はワシントン郊外のキャンプデーヴィッドにフルシチョフを招き、米ソ首脳の会談が行われた。
 キャンプ=デーヴィッド 1959年9月に行われた、アメリカ大統領アイゼンハウアーとソ連首相フルシチョフの会談。キャンプ=デーヴィッドは、ワシントン郊外にある大統領専用の別荘。冷戦下の平和共存路線を模索する米ソの思惑が一致して開催された。フルシチョフは57年の人工衛星スプートニクの成功に自信を深め、59年には権力の絶頂にあった。両者は国際紛争の平和的解決では合意し、アイゼンハウアーの訪ソが約束された。これによって冷戦の緩和が進むかと思われたが、翌60年5月にU2型機事件が起きて再び緊張状態に戻った。
 U2型機事件 1960年5月、ソ連上空を飛行したアメリカのU2型偵察機が、ソ連のウラル上空で撃墜された事件。ソ連のフルシチョフ首相はアメリカのスパイ行為であると激しく非難し、前年の自身のアメリカ訪問の返礼としてのアイゼンハウアーのソ連招待をキャンセル、予定されていたパリでの巨頭会談も中止された。この事件を機に、米ソの平和共存は暗礁に乗り上げ、1960年代は再び緊張が高まった。その現れが東側によるベルリンの壁の構築であり、キューバ危機であった。1960年代は直接的な戦火は発生しなかったが、米ソ間には「冷たい平和」といわれる対立状態が続いた。なお、アメリカがソ連のウラル上空を偵察飛行した理由として、ウラル核爆発事故があったのではないかと言われている。
Epi. フルシチョフの国連演説 靴で演壇を叩く U2撃墜事件の後、「1960年9月にフルシチョフは国連で演説し、靴を脱いで演壇を叩いた。この行動は粗野だとひんしゅくをかったが、フルシチョフは帝政ロシア時代のデュマの議員がしばしば同様な行動をとったことを思い出してのことだったという。おそらくは内外に向けて、フルシチョフが農民の出であることを含めて、ロシアを代表する人物であることを誇示したかったのであろう。」<『冷戦と経済発展』1999 中央公論新社 世界の歴史29 p.102>
 東西ドイツの対立 1949年、西のドイツ連邦共和国と、東のドイツ民主共和国が樹立され、ドイツは分裂国家となった。特にベルリンは西側陣営、東側陣営という東西対立の最前線にあり、ベルリン問題は東西対立の最も危険な部分であった。ドイツ統一を願うドイツ人の希望にもかかわらず、東西の分離は次第に固定化される。西ドイツは資本主義体制のもとで奇跡と言われた経済復興を遂げ、東ドイツでは集団農場の建設など社会主義建設を進めた。1950年代後半には平和共存路線がとられたが、同時に東西ドイツの経済成長の格差がはっきりとしてきて、東ドイツから西ドイツに脱出する人が増え、それを阻止しようとした東ドイツ当局によって1961年にはいわゆるベルリンの壁も設置され、西の資本主義と東の社会主義というイデオロギー対立を最も尖鋭に象徴する場所となってしまった。しかし、1970年代にはいると西ドイツのブラント首相の大胆な方向転換である東方政策が始まり、まず相互に現状を認め合おうという動きが出てきて、72年には東西ドイツ基本条約が成立、翌年には東西同時に国連に加入し、統一の模索が始まった。当初は簡単には統一は実現されまいと考えられていたが、80年代の東ドイツの経済破綻が想像以上に早く進み、またソ連でゴルバチョフが登場して体制が変化したことを背景に、89年夏から大規模な東ドイツの国民の西ドイツへの移住が始まり、東ドイツ当局もそれを抑えることができずに一挙に統一の動きが加速し1989年にはベルリンの壁の開放が実現、そこから一挙に1990年10月3日のドイツ統一が実現した。つまり、ドイツは1945年から1990年までの45年、国家分裂の時代を経験したこととなる。 
a 東ドイツ  → 第16章 1節 ドイツ民主共和国
 ベルリン問題 第2次世界大戦後の冷戦期において、東西両陣営が最も直接的に向かい合っていた東西ベルリンにおける一連の問題。「ベルリン危機」とも言われ、次の2回の深刻な危機があった。
第1回 1948〜49年 西ベルリンの米英仏占領地域での通貨改革の実施に反発したソ連のスターリンが、西ベルリンへの交通路のすべてを封鎖した、ベルリン封鎖。これは冷戦期の最初の緊張をもたらしたが、アメリカは大空輸作戦を展開して西ベルリン市民を援助、スターリンも決定的な対立を避けたため、開戦は回避された。
第2回 1958〜62年 1950年代になって次第に西側と東側の経済成長の格差がはっきりすると共に、東ドイツの民衆が、よりよい生活と自由を求めて、当時は通行自由だった西ベルリンを経由して西ドイツに脱出するようになった。これは東ドイツ当局にとって労働力の流出とともに技術者の流出が大きな痛手となり、対抗措置をとらざるを得なくなった。ソ連はアメリカに圧力をかけるために、1958年に西ベルリンに駐留するアメリカ・イギリス・フランスの軍隊を撤退させることを要求した。アメリカなど西側はこれを拒否、深刻な対立が再び表面化した。一方で平和共存の動きも始まっており、1961年、ウィーンでアメリカの新大統領ケネディとソ連のフルシチョフが会談したが、物別れに終わり、同年8月東ドイツ当局は西ベルリンへの交通路を再び遮断して、ベルリンの壁を建設した。こうしてベルリンの壁は東西冷戦を象徴する構築物として、1989年の崩壊まで存続する。
 ベルリンの壁 1961年8月、市民の西ベルリンへの脱出を防止するため、東ドイツ政府が東西ベルリンの周囲に築いた防壁。東西冷戦の中で米ソの平和共存に脅威となった。
東西ドイツの分離以来、戦後の冷戦の中で最も厳しい対立点であり、東西ドイツの対立はさらに深刻になっていた。平和共存路線をとるソ連とアメリカが、1961年6月、ベルリン問題に関してウィーンでケネディ大統領フルシチョフが会談し、ドイツ問題に関する協議を行ったが、決裂した。会談の決裂は核戦争に対する世界の危機をもたらすとともに、統一を望む東ドイツ市民に失望と不安が広がり、西ベルリンに脱出する人が激増しはじめた。8月、東ドイツ当局は東ベルリン市民の出国を禁止し、境界線に鉄条網とバリケードを築いた。14日正午には象徴的なブランデンブルク門が閉鎖された。これ以後、東ドイツ脱出の企ては、命がけの行為となる。8月24日、ベルリンの壁で初の犠牲者が出た。それ以後、1989年に壁が撤去されるまでに約200人が脱出を試みて東ドイツ警察に射殺された。このベルリン危機は翌年のキューバ危機とともに平和共存路線にとっての大きな脅威となった。 →ベルリンの壁の開放 
 キューバ危機 1962年に起こった、キューバへのソ連のミサイル配備を機に起こった危機。前年のベルリン危機(壁の建設)と並んで、冷戦の中での米ソの平和共存が崩れる危機となったが、米ソが自制し危機は回避された。
背景キューバではカストロ政権による社会主義革命が進行したことに対し、アメリカのアイゼンハウアー大統領は革命政権転覆を謀り、亡命キューバ人のキューバ侵攻を支援していた。次のケネディ大統領もそれを承認し、1961年4月に実行されたが失敗した。ソ連のフルシチョフは第三世界への支援と核戦力の強化によって対米優位を得ようとしてキューバに核ミサイルを配備した。
経緯:1962年10月、アメリカ軍空軍はキューバ上空から、建設中のソ連ミサイル基地を発見。ケネディ大統領は22日夜、キューバ海上封鎖することを宣言。ソ連が海上封鎖を突破しようとすれば米ソ間の核戦争となるの危機が迫った。ソ連のフルシチョフ首相は、アメリカがキューバに侵攻しないことと引き替えにミサイル基地を撤去するとの提案をケネディに伝え、27日合意が成立して危機は回避された。
影響:キューバ危機の反省から、米ソ首脳は緊張緩和(デタント)を模索することなり、直通通信協定が結ばれ、両首脳はホットラインで直接対話できるようにした。ケネディ大統領も63年6月の演説で「戦争のための武器によるパックス=アメリカーナを世界に押しつけることはしない」と表明した。
Epi. 1961年10月27日、核戦争の危機 アメリカのキューバ海上封鎖が発動され、ケネディ大統領は空軍に核兵器搭載を命じた。ソ連は潜水艦に護衛された艦船を封鎖ラインに接近させ、危機は頂点に達した。ケネディもフルシチョフも、誤った判断が間違いなく核戦争を勃発させることになると認識した。10月26日、フルシチョフは、アメリカがキューバに侵攻しないと約束するならミサイルを引き上げると伝えた。27日午前にホワイトハウスの国家安全保障会議が開かれた。回想によると国務長官マクナマラは、この日が生涯最後の日になると覚悟したという。またフルシチョフも妻にただちにモスクワから脱出するよう電話したという。正午にはU2機がキューバ上空で撃墜されるというニュースが入り、軍部はキューバ報復を主張した。しかし午後4時、ケネディは報復攻撃を行わないことと、フルシチョフの提案を受け入れることに決した。裏面では弟の司法長官ロバートと駐米大使ドブルイニンのパイプで調整が行われていた。午後8時頃、ケネディの解答がフルシチョフに伝達され、翌日9時にソ連がキューバからミサイルを撤去するとラジオ発表を行い、危機は回避された。<『冷戦と経済発展』1999 中央公論新社 世界の歴史29 p.116>
参考 キューバ危機のアメリカ側の記録としては国防長官だったマクナマラの回顧録と、ケネディ大統領の実弟で司法長官のロバート=ケネディが残した『13日間 キューバ危機回顧録』<中公文庫版>がある。またケビン=コスナー主演、ロジャー=ドナルドソン監督の『13ディズ』はその忠実な映画化。いささか結果論という面はあるが、危機回避に成功したホワイトハウス内の状況をよく描いている。  
a カストロ  → 第16章 3節  カストロ
b 社会主義化  → 第16章 3節 キューバの社会主義宣言
c 1962 アメリカはケネディ大統領就任2年目、ソ連はフルシチョフ体制が全盛期にあった。50年代の後半に平和共存路線がとられ、米ソの雪解けが進んだが、1960年のU2型機事件、翌年のベルリンの壁の建設などによって再び米ソ両国は厳しい対立ムードに戻っていたが、この1962年10月のキューバ危機はまさに冷戦への逆戻りを象徴する出来事となった。米ソとも水爆やミサイルを開発し、核戦争の危機が一気に高まり、世界中が固唾をのんで見守る中、危機が回避された。一方アジアでは、同月には中国とインドの国境紛争がついに武力衝突となり、インドが大敗した。日本は1960年の安保闘争が革新側の敗北に終わり、時代は高度経済成長に向かおうとしていた昭和37年にあたる。
d フルシチョフ  → フルシチョフ
e ケネディ  → 第16章 4節 ケネディ大統領
f キューバ海上封鎖 1962年10月14日、アメリカ軍がキューバ上空から撮影した写真で、ソ連によるミサイル基地が建設進行中であることが判明した。これは核兵器によるアメリカ本土攻撃を可能にすることであるので、ケネディ大統領は22日夜、テレビ演説を行い、攻撃的兵器が運び込まれるのを防ぐため、キューバ周囲を海と空から海上封鎖することを宣言した。ソ連はすでに機材と武器を積んだ艦船をキューバに向かわせていたので、アメリカの海上封鎖を突破しようとすれば米ソ間の直接衝突となり、核戦争の危機が迫った。 → キューバ危機
Epi. 「他国の靴を履く」 キューバ危機に際して、ケネディ大統領の下にホワイトハウス内に国家安全保障会議(エックス・コム)が組織された。メンバーはラスク国務長官、マクナマラ国防長官、マッコーンCIA長官、ジロン財務長官、統合参謀本部議長テーラー大将、ロバート=ケネディ司法長官(大統領の実弟)にバンディやソレンセンといった大統領顧問たちであった。これがいわば冷戦期最大の危機に直面した危機管理メンバーである。会議は軍を中心としたキューバ空爆論(核兵器の使用も辞さないという強硬論もあった)と海上封鎖論(マクナマラ、ロバート=ケネディ)が激しく対立した。その間の緊迫した状況はロバート=ケネディの遺書となった回顧録に述べられている。最終的には海上封鎖論が優位となり、ケネディ大統領の決断もそうなった。この平和的な危機回避に成功したロバート=ケネディは同書の終章でこういっている。
「キューバ危機の究極的な教訓は、われわれ自身が他国の靴を履いてみる、つまり相手国の立場になってみることの重要さである。危機の期間中、ケネディ大統領は、自分のやっている行動の中で、なによりもまず、こういう行動をとったらフルシチョフあるいはソ連に、どんな影響を与えるかをはかり知ろうと、より多くの時間を費やした。彼の慎重熟慮を導いたものは、フルシチョフを侮辱したり、ソ連に恥をかかせたりしないという努力であった。それは、彼らに付託されているソ連の安全保障とか国益のゆえに、対米対応策をエスカレートしなければならないと思いこませないようにすることだった。」<ロバート=ケネディ『13日間 キューバ危機回顧録』中公文庫版 2001 p.107>
g ホットライン(直通回線) キューバ危機が回避された後の1963年6月、ケネディ大統領は「平和の戦略」と題した演説を行い、全面核戦争になれば、最大の被害を被るのは米ソ両国民であるとの認識を示し、イデオロギーが異なっても、両国の共存は可能であると訴えた。この演説をソ連のフルシチョフも歓迎し、6月20日に両国首脳の間に「ホットライン」と呼ばれる直接の通話回線が設置された。次いで8月5日には米英ソ三国間で部分核停条約の調印が行われ、核戦争の脅威は当面回避されることとなった。
ウ.アメリカの繁栄
 トルーマン大統領  → 第15章 5節 トルーマン
a 封じ込め政策  → 第16章 1節 封じ込め政策
a フェアディール アメリカのトルーマン大統領が掲げた国内政治の標語。1948年の大統領選挙でトルーマンはF=ローズヴェルトのニューディール政策の継承を掲げて当選し、翌49年1月の年頭教書で「すべての個人は政府からフェアディール(公正な扱い)を期待する権利がある」と述べた。フェアディールとして掲げられたのは国民健康保険制度・社会保障制度などを含む福祉国家の拡大をめざすものであった。しかし、議会ではニューディールに批判的であった共和党の力も強く、冷戦が進行する中で、社会主義型の福祉国家像よりも、「民主主義の下で自由な経済発展を遂げるアメリカ」を擁護する世論も強まり、またトルーマン政権自身も外交に重点が置かれるようになり、フェアディール政策としてはほとんど実施されなかった。
b タフト・ハートレー法 1947年に、共和党が多数を占める議会で成立した、労働運動を制限する法律。ニューディール政策の一環として1935年に制定され、労働者に大きな保護を与えていたワグナー法を改定して、クローズド・ショップ(労働組合員だけを雇用すること)の禁止、ストライキやユニオン・ショップ(従業員に組合加入を義務づけること)の制限などを設けたもの。第2次世界大戦後のアメリカの保守化を代表する動きであった。  → 労働組合
c マッカーシズム 1950年代初め、朝鮮戦争の時期のアメリカで、共和党上院議員マッカーシーを中心とて行われた、反共産主義にもとづく政治活動、およびそれによって多数の政治家、役人、学者、言論人、芸術家、映画人などが親共産主義者として告発された動きのことを言う。政府内部ではニューディール時代からの民主党系の自由主義的な国務省のスタッフがその対象とされ、さらに学者が言論人にその告発が及んだ。マッカーシーの執拗な共産主義者の摘発は、「赤狩り」と言われ、追及の手はマーシャル前国務長官にまでおよび、「マッカーシー旋風」が吹き荒れて国民の不安を駆り立てた。しかし、朝鮮戦争が終わり共産主義への脅威が後退するにつれて、マッカーシーの強引なやり方は反発を受けるようになり、54年にマッカーシーが解任され、ようやく沈静化した。
Epi. Good Night and Good Luck マッカーシズムの追及はマスコミにもおよび、反政府的な言動や、共産党に同調するような発言をした放送人も次々と会社を辞めさせられていった。そのような状況を言論の自由の危機であると感じた一人が、BBC放送の人気ニュースキャスター、エド=マローだった。彼はプロデューサーのフレッド=フレンドリーらのスタッフと組んでマッカーシー上院議員の調査法や追及の誤りと矛盾を番組で取り上げる。さまざまな圧力が彼らに加えられ、マッカーシー自身も反論する。このマスコミの言論の自由の危機と闘った一人の男を取り上げた映画が、2005年製作、ジョージ=クルーニーが監督主演した『Good Night and Good Luck』、この言葉はエド=マローが番組の最後にいつも言っていたことば。映画は当時のニュースフィルムを多用して、緊迫したドラマとなっている。バックに流れるダイアン=リーブスのジャズも50年代の雰囲気を盛り上げる、いい映画です。白黒93分。
d マッカーシー 冷戦さなかの1950年代はじめのアメリカで、マッカーシズムといわれる共産党活動あるいはその同調者を追及する運動を展開した政治家。G.R.McCarthy ウィスコンシン州選出の上院議員で、冷戦下のアメリカでの共産主義思想の浸透を恐れ、その摘発と称して政府活動特別調査委員会を組織し、つぎつぎと告発を行った。しかし、その強硬な手段は次第に不信感を増殖させ、54年にその告発の根拠は無かったとして調査委員会委員長の地位を解任され、数年後にアル中で死亡した。
e 赤狩り マッカーシズムの嵐が吹きまくった1950年代はじめよりも前、大戦直後の冷戦の進行の中で、マスコミなどでも共産主義の脅威が宣伝され、いわゆる「赤狩り」が始まっていた。その結果、1945年には10万人近くの党員がいたアメリカ共産党は、10年間に4分の1の数に落ち込んだ。その活動の中心となったのは下院に設けられた非米活動委員会(HUAC)であった。これは1938年に設置され、共産主義やファシズムのアメリカ浸透を調査するものであったが、46年から共和党保守派の主導下に置かれ、民主党が共産主義を許容しているという攻撃が始まった。特にハリウッドの映画産業の中にソ連のプロパガンダが入り込んでいる、という告発が行われた。民主党のトルーマン政権も自己の疑惑を払うため積極的に共産主義の弾圧に動き、連邦公務員に「忠誠」審査を強行し、212人を解雇、2000人以上の辞職者を出した。FBIも共産主義の摘発に動き、50年に共産党員のローゼンバーグ夫妻をソ連のスパイとして告発し、真相究明されないまま夫妻は翌年死刑となった。この風潮の中で出てきたのがマッカーシーによる国務省内部の共産主義者を告発すると言う動きだった。<有賀夏紀『アメリカの20世紀』下 中公新書 2002 p.19>
 アイゼンハウアー大統領 アメリカ合衆国第34代大統領(在任1953〜61年)。共和党。第2次大戦で北アフリカ作戦、ノルマンディー上陸作戦などを指揮して名声を高める。その愛嬌のある風貌からアイクという愛称で呼ばれて国民的英雄となる。第2次世界大戦後はコロンビア大学総長を務めた後、トルーマン大統領から欧州連合軍最高司令官に任命され、発足したNATO軍の組織化と米軍の欧州配備を実現した。1952年の大統領選挙には、共和党から担がれ、F=ローズヴェルト、トルーマンと続いた民主党政権に対し、反共・保守主義を掲げて当選した。
外政:その就任演説で、共産圏に対する「まき返し政策」を提唱(ダレス国務長官の提案)した。現実の外交政策では1953年に朝鮮戦争の休戦に踏み切り、その介入失敗に懲りて、アジアの民族紛争には不介入政策を採ったが、インドシナ戦争(第1次)の終結を目指すジュネーブ会議開催には同意したが、ジュネーブ協定には加わらず、フランス敗退後に東南アジアでの共産化を防止するとしてベトナム介入を開始した。また西アジア地域では、1956年のスエズ戦争(第2次中東戦争)に際してはイギリス・フランスの武力行使に反対したものの、戦後エジプトのナセル政権の親ソ路線が強まると、57年1月にはアイゼンハウアー=ドクトリンを発表して中東地域に軍事介入することを宣言し、58年にはレバノン暴動に際してアメリカ軍を派遣した。一方で、ソ連のフルシチョフの平和共存策にも積極的に対応し、55年のジュネーブ4巨頭会談、59年のフルシチョフ訪米を実現させた。
内政:大資本擁護の穏健な保守政策をかかげ、経済の発展を優先させ、アメリカは「黄金時代」と言われる50年代の繁栄を迎えた。この間、軍事産業は軍拡とともに成長し、57年のスプートニクショックを受けて国内に宇宙開発競争が始まってさらに軍産複合体が巨大化した。アイゼンハウアーは、将来それが国民生活を圧迫することを憂い、1961年1月の離任演説では軍産複合体を批判する演説を行った。 
a まき返し政策 → まき返し政策
 アイゼンハウアー=ドクトリン1957年1月5日、アメリカのアイゼンハウアー大統領が発表した中東に関する新たな外交方針。中東諸国への経済的、軍事的援助の供与と、国際共産主義による武力侵略に対する米軍を出動させることが議会で承認された。
前年のスエズ戦争(第2次中東戦争)でエジプトが事実上の勝利を占め、イギリスの力が完全に排除された後、「真空状態」となった中東地域に、ソ連の共産主義勢力が影響力を強めていることを警戒したアメリカのダレス国務長官がアイゼンハウアーを動かして議会に諮り、議会も承認したもの。
やはり前年のソ連のスターリン批判から、アメリカとソ連の平和共存路線が始まっていたが、アメリカはダレス国務長官主導で基本的には冷戦は続きソ連のアジアやアフリカへの進出が続くと見ていた。アイゼンハウアー=ドクトリンに基づき、翌58年にはレバノン暴動に際し米軍を派遣したが、かえって反米感情を強くし、アラブ民族主義の勢いはますます強まる結果となった。
50年代アメリカの繁栄1950年代のアメリカの繁栄を象徴するものが、「テレビ、プレスリー、マクドナルド」である。テレビは本格的な商業放送が戦後まもなく始まり、またたく間に普及し、57年には各家庭に1台の割合でテレビを所有するようになった。テレビではフットボール、野球、バスケットボールなどが中継され、プロ・スポーツは巨大な産業となった。また「パパは何でも知っている」「ビーバーちゃん」「アイ・ラブ・ルーシー」など中産階級や移民家族を描いたホームドラマが盛んに放映された。50年代には世界中の若者を熱中させたエルビス=プレスリーが登場した。プレスリーは黒人のリズム・アンド・ブルースと南部の白人のカントリー音楽を融合させ、ロックンロールという新しいスタイルを作りだし、ベビーブーマーに圧倒的に支持された。マクドナルドのチェーン店第1号が登場したのも1954年、カリフォルニアだった。翌年にはロサンジェルス郊外にディズニーランドが開業している。消費の際に支払いを容易にするクレディットカードも50年に作られ、その後急速に普及した。このように現代の世界を席巻したアメリカ文化は1950年代に出そろったと言える。<有賀夏紀『アメリカの20世紀』下 中公新書 2002 p.38>
 軍産複合体第2次世界大戦後、冷戦が深刻になる中、アメリカの核兵器開発が進んだが、同時に戦後アメリカ経済の繁栄と結びついていた。軍需産業と軍部の結合はアメリカ経済を拡大させたものの、経済の軍事依存を高めることになった。アイゼンハウアー大統領は強大な軍隊と巨大な軍需産業の結合という新しい事態を憂慮して、1961年1月退任の際の告別演説で、「軍産複合体が……不当な影響力を獲得しないように身を守らなければならない」「この結合の力がわれわれの自由あるいは民主主義のプロセスを危険にさらすことを、決して許してはならない」と訴えた。
アイゼンハウアーは1957年のソ連のスプートニク打ち上げが成功し、アメリカ国内で宇宙開発を急ぐことが叫ばれたときも、宇宙開発競争が軍産複合体をさらに増大させることを懸念し、58年に航空宇宙局(NASA)を軍部と切り離して設立していた。
「このアイゼンハウアーの警告はむしろ予告となった。以後アメリカの国防予算は拡大し続け、軍産複合体は大きな財源を手にして、政治・外交・経済政策に決定的な影響力を及ぼすことになる。アイゼンハウアーの予告どおり、アメリカ国民の自由と民主主義を脅かす力となっていったのである。」<有賀夏紀『アメリカの20世紀』下 2002 中公新書p.29-30>
エ.西ヨーロッパの経済復興と統合の進展
 マーシャル=プラン  → 第16章 1節 マーシャル=プラン
 西ヨーロッパの経済復興 → 西ヨーロッパ経済復興計画
 ヨーロッパ統合第1次大戦後の統合運動:ヨーロッパ統合の源流は、第1次世界大戦後に遡ることが出来る。1922年にオーストリアの外交官であったクーデンホーフ=カレルギーは『パン=ヨーロッパ』を著し、大戦後に明らかになったアメリカ合衆国の優位と、ソ連というあたらしい勢力に飲み込まれないためには、ヨーロッパ諸国は統合されヨーロッパ合衆国になる必要がある、と説いた。またフランスの外相ブリアンはその思想に共鳴し、ヨーロッパ統一案を国際連盟の総会に諮った(1929年)。ブリアン案は、国際連盟の地域的連合として「ヨーロッパ会議」を設け、紛争の調停、集団安全保障を実現すること、ヨーロッパ全域の関税障壁を廃止して共同市場化することなど、微温的なものであったがヨーロッパ各国の同意をいられなかった。ドイツは参加の条件としてヴェルサイユ条約による差別撤廃を要求し、イタリアは植民地の共同管理も持ち出した。またイギリスもイギリス連邦の特恵関税と両立しないことを理由に反対した。結局、1959年に世界恐慌が勃発し、イギリス・フランスはブロック経済の形成に進み、ドイツ・イタリアは枢軸国家を形成し、ヨーロッパ統合案は霧散した。
第2次世界大戦後:徹底的な打撃を受けたヨーロッパの経済をアメリカの資金で復興させる必要と、東ヨーロッパ諸国がソ連の衛星国化されるという事態の中から、必然的に出たきた。まず、前イギリス首相チャーチルは46年9月、チューリッヒ大学で講演し、ヨーロッパ連合の呼びかけを行った。そのような気運の中でチェコスロヴァキア・クーデターで共産党政権成立を機に、48年3月ブリュッセル条約が成立して、イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ルクセンブルクの5ヵ国が西欧連合を結成した。冷戦が本格化すると、アメリカの関与が強まり、マーシャル=プランの受け入れ機構としてOEECが、軍事機構としてのNATOが結成されたが、これらはアメリカ主導のものであったので、ヨーロッパの自主的な統合の気運が次に現れてくる。その最初が1950年にフランスのシューマンによって提唱されたヨーロッパ石炭鉄鋼共同体であった。
 ECSC  → ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体
a ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)European Coal and Steel Community 1952年に発足した、フランス・西ドイツ・イタリア・ベネルクス3国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)の6ヵ国による、石炭・鉄鋼の生産を共同管理する機関。1950年に発表されたフランス外相シューマンの提唱したシューマン=プランに同意した6ヵ国が、1951年4月に条約を締結し、52年にこの機関が発足した。理事長にはジャン=モネが就任した。目的は、フランス国境に近い西ドイツのルール=ザール地方の石炭・鉄鉱石などの資源と工業施設を、隣接する諸国で管理運営することで独仏間の軍事的な対立を回避し、独自の経済基盤を確保してアメリカへの依存体質からの脱却を図ることなどであった。イギリスはルール=ザール地方の資源が一元管理されることは自国の産業政策で不利になることから結成に反対した。しかしECSCは成功を収め、後のEC、さらに現在のEUに発展するヨーロッパ統合の第一歩となった。 
b シューマン フランスの外相(1948〜52)で、1950年にシューマン=プランと言われる「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体」(ECSC)構想を提唱し、ヨーロッパ統合に道筋を付けた人物。彼は戦後にドイツからフランスに返還されたロレーヌ地方出身のドイツ系のフランス人で、ロベール=シューマンという。ドイツの音楽家ロベルト=シューマンと同名。外相の地位を退いてからもヨーロッパ統合に意欲を燃やし、1958年からヨーロッパ議員総会の議長を務めた。現在、ブリュッセルのEU理事会や欧州委員会前の地下鉄の駅名は彼を記念してシューマン駅と名付けられている。また、シューマンがシューマンプランを提唱した1950年5月9日だったので、現在5月9日はEU加盟国では「ヨーロッパの日」として祝われている。
c シューマン=プラン 1950年、フランスの外相シューマンが発表した、フランス・西ドイツなどで石炭・鉄鋼を共同管理する提案。西ドイツが受け入れ、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体が設立された。
フランス側としては、ドイツとの経済紛争の火種となるルール=ザールの炭田地帯を国際管理下におくことが目的であった。フランスは西ドイツに対する潜在的な恐怖心を持っていたが、軍事力の基盤となる石炭と鉄鋼を共同でコントロールすることによって西ドイツの行動(再軍備)を拘束する方針に傾いた。また西ドイツのアデナウアーは対フランス和解によって再軍備が可能になると考えた。発表の翌月、朝鮮戦争が勃発、東側の軍事侵攻を現実のもとして警戒することに迫られたフランス・西ドイツは提携を急ぐこととなった。またフランスと西ドイツが原料供給で統合することは、イギリスにとって脅威となるので、イギリスはこの構想には反対した。
 EEC  → ヨーロッパ経済共同体
a ローマ条約 1957年、フランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)の6カ国がローマで調印したヨーロッパ経済共同体(EEC)条約とヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)条約をあわせてローマ条約という。後のヨーロッパ共同体(EC)の役割を規定する基本条約。ECの憲法とも呼ばれる。
1952年に成立したヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)と、戦後すぐに生まれたベネルクス3国関税同盟の経験を経た6ヵ国が、共同市場の創設と原子力開発の共同管理をめざすことが1955年のメッシナでの外相会議によって合意され、57年3月25日にローマで調印されたもの。
b ヨーロッパ経済共同体(EEC)European Economic Community 1957年のローマ条約によって成立し、58年1月1日に発足。フランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス3国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)の6ヵ国による、経済的な国境を取り払って共同市場を形成した。共同市場計画の大筋は、
・域内関税を漸進的に引き下げ、12〜15年で全廃すること。同時に輸入数量制限も撤廃する。
・域外からの輸入には共通関税を設定する。
・域内の労働力や資本の移動を自由にする。
・域内の低開発地域の開発と企業の近代化を推進し、分業の利益を上げるための共同出資銀行を設ける。
・アフリカにおける加盟国諸国の属領を共同体に編入し、開発のための基金を設ける。
このEECに対し、イギリスは不参加を表明、60年にはその他の7ヵ国を組織してヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)を結成、ここにヨーロッパには2つの経済領域が成立し、競合することとなったが、より強度な共同体を結成し、経済発展が進んだEECの優位が次第に明らかになり、63年以降イギリスも加盟を申請するようになったが、フランスの反対があって、60年代には実現しなかった。 → EC
c ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM) European Atomic Energy Community (ユーラトム)1957年のローマ条約で成立し、58年に発足した、フランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス3国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)の6ヵ国による、原子力の共同開発と管理をめざす組織。米ソ二大国に対して、一国では困難な原子力の開発を、共同で行おうとするもので、情報交換、共同研究、共同企業への投資による原子力利用の平和推進を定めた。
d イギリス  → イギリスのEEC不参加
 EC  → ヨーロッパ共同体
a ヨーロッパ共同体(EC)European Communities 1967年、従来のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)、ヨーロッパ経済共同体(EEC)、ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)の三者が統合して結成された。結成当初はフランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス3国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)の6ヵ国が参加。70年代はアメリカ経済に対抗してヨーロッパ経済の協力機構として次第に重要性を増した。1973年にはそれまで加盟を拒否されていたイギリスの加盟を認め、アイルランド・デンマークも加盟して拡大ECとなり、80年代にはギリシア、ポルトガル、スペインが加盟して12ヵ国体制となった。加盟国を増やすとともに統合を経済面から政治面、安全保障面での意義も深まり、1993年にマーストリヒト条約により現在のヨーロッパ連合(EU)に発展的に解消した。  
 三極構造 1960年代までのアメリカ経済が世界経済を支えていた時代が終わり、1970年代からは、世界経済がアメリカと西ヨーロッパと日本の三つの極を持つようになった。
しかし1980年代後半から90年代前半には、アジア地域の韓国・台湾・香港・シンガポールのNIES諸国の台頭がめざましく、また現在では中国の経済成長が著しくなっており、単純な三極構造とはいえなくなった。また三極の中のヨーロッパは2004年に東方拡大を実現し、最大の経済圏となった。日本は86年〜91年のバブル経済の後、長期不況が続いている。
・三極の比較 EU 人口 4億5700万人 GDP 10兆2890億ユーロ
       日本 人口 1億2700万人 GDP  3兆7580億
       米国 人口 2億9100万人 GDP  9兆4330億
(欧州委員会統計局2004年の数値)<脇阪紀行『大欧州の時代』2006 岩波新書 p.46>
オ.西ヨーロッパ諸国と日本の動向 (50〜60年代)
 フランス  → 第16章 1節 フランス(戦後)
a アルジェリア問題フランスの植民地化:アルジェリアは北アフリカの地中海に面してフランスの対岸、マグリブ地方にあり、東にチュニジア、西にモロッコがある。民族的にはアラブ人が主体で、土着のベルベル人と同化している。7世紀以来、イスラーム教が浸透し、16世紀にはオスマン帝国を宗主国とするイスラム政権があった。1830年、ブルボン復古王朝のシャルル10世がアルジェリア出兵を行い、アブド=アルカーディルらの抵抗を抑えて植民地化した。その後、フランス植民地としてフランス人の入植が続いた。
独立運動:第2次世界大戦後、民族独立運動が起こり、ベン=ベラを指導者として1948年民族解放戦線(FLN)が結成され、1954年に武装蜂起し、アルジェリア戦争が始まった。当時のアルジェリアは、アラブ系約900万をフランス人入植者の子孫(コロンという)の約100万が支配しており、彼らは特権的な地位を確保するため「フランス人のアルジェリア」と唱えて、アラブ人の独立運動を厳しく弾圧し、双方のテロが繰り返された。1956年にはフランス政府はエジプトのナセルがアルジェリア独立を支援しているとして、スエズ戦争でイギリスに同調して出兵したが失敗し、国際的な非難を受けた。
フランス人入植者の反乱:政府がアルジェリア問題に苦慮して次第に独立承認に傾くと、現地のフランス人入植者(コロンという)は本国政府の弱腰を非難し、またそのころインドシナ戦争に敗北しアルジェリアでの名誉の回復を策していた軍部と結んで独立を妨害した。1958年5月には現地フランス軍が反乱を起こし、国内の軍部にも同調する動きがあって、フランスは内乱の危機に陥った(5月13日の危機)。この現地反乱軍をコントロールできなくなったフランスの第四共和政政府が倒れ、右翼からは植民地維持を図るであろうと期待され、国民大衆からは国家の危機を救うであろうと期待された大戦の英雄ド=ゴールが復活した。
ド=ゴールのアルジェリア政策:しかしド=ゴールは大統領に当選し強力な権限を与えられると一転して態度を変え、「アルジェリア人のアルジェリア」を実現させる方向をとった。ド=ゴールは現地軍の反乱を抑え、1960年にはアルジェリアの独立の可否を国民投票にかけ、賛成多数の支持を受けて解放戦線(FLN)との交渉を開始し、62年7月エヴィアン協定を締結、独立戦争の和平を実現させた。協定に基づいてアルジェリアで住民投票が行われ、独立賛成が圧勝して、同年アルジェリア民主人民共和国が成立した。
b ド=ゴール(戦後)第2次世界大戦中のド=ゴールは亡命政府の自由フランスを率いドイツへの抵抗を指導した。戦後のド=ゴール臨時政府首相となったが、共産党・社会党と対立し辞任した。1958年5月、アルジェリアのフランス系入植者(コロン)と現地軍が、本国政府に反旗を翻してアルジェ政庁を占領し、ド=ゴールを首班とする政府の樹立を要求するという事件が起こった。第四共和政の下で対立を繰り返していた諸政党は対応するすべが無く、ド=ゴールの登場を要請、それを受けて6月1日ド=ゴールは首相に就任、挙国一致内閣を組織し、アルジェの反乱軍には統治権を認めて事態を収拾した。9月、ド=ゴールの起草した第五共和政憲法が国民投票で80%の支持を得て成立、同年の総選挙でもド=ゴール派の新共和国連合が第一党となり、大統領選挙でも圧勝したド=ゴールは第五共和政初代大統領となった。ド=ゴール大統領は、まずアルジェリア問題の解決にあたり、軍部保守派、現地軍の反対を抑えて、1962年3月、アルジェリアの独立を承認した。旧フランス植民地帝国はこれで解体したが、ド=ゴールは失われた大国フランスの威信の回復を目指して「フランスの栄光」を掲げ、1960年には核実験を強行、62年10月には大統領を国民が直接選出する憲法改正を国民投票にかけて成立させ、65年には大統領に再選された。国内に確固とした基盤を築くと、強大な大統領権限を行使し、ド=ゴール外交といわれる独自の外交路線を展開した。このようなド=ゴールの政治は、ド=ゴール主義(ゴーリズム)と言われ、当初は国民的な支持を受けていたが、権力が長期化する中で、経済成長は続いたが格差の拡大や若者の疎外感が深まり、1968年5月のいわゆる「五月危機」という学生、労働者の反体制運動が激化ししてその権威が揺らぎ、69年に大統領が提案した地方行政と上院改革の国民投票が否決されて辞任した。 → ド=ゴール辞任
c 第五共和政憲法 1958年10月に公布されたフランスの現行憲法。大統領の権限が著しく強化されたのが特徴。議会は二院制であるが権限が制限された。大統領は両院議員、県会議員、市町村会議院による間接選挙(62年からは国民による直接選挙に改正される)で選ばれ、任期7年、自由に首相を任命し、議会解散権を行使することができた。内閣は単に大統領の施策を執行する機関にすぎなくなった。この憲法に基づいた第五共和政が現在まで続いている。
第五共和政のフランス大統領:第五共和政での大統領権限は次のように強大である。
・制度上、国民も議会も大統領を解任することは出来ない。
・首相任免権(議会の承認の必要が無い)を持つ。
・法律案を国会の審議にかけず、直接国民投票にかける権限を持つ。
・総選挙から1年後であれば、理由を示すことなく、国民議会を解散させることが出来る。
・緊急措置発動権を持つ。共和国の制度、国家の独立などの危機に対し、大統領が判断し、立法権、執行権を大統領に集中させ、憲法規定を一時停止することができる。
第五共和政の議会と内閣:国民議会はまったく無力というわけではなく、内閣に対しては政府不信任決議を出すことが出来る。この点がフランスは完全な大統領制(アメリカのような)ではなく、議院内閣制の性格も持つ、準大統領制とも言われる。そのため、大統領と首相が左右異なる陣営に属して共存するというコアビタシオンという政治現象が起きる。
なお、国民議会選挙は一人一区の小選挙区であるが、単記二回投票制であり、第一回投票で有権者の12.5%以上の得票をしたものだけが第二回投票で立候補でき、第二回投票の第一位が当選となる。第一回投票と第二回投票の間に各政党間の票の調整が行われ、フランスの選挙に特有な「立候補とりやめ(デジストマン)」が重要な鍵を握る。<渡辺啓貴『フランス現代史』1998 中公新書 p.102>
d 第五共和政 1958年、アルジェリア現地軍の蜂起によってド=ゴールが登場し、そのもとで同年10月に第五共和政憲法が制定されて成立したフランスの政体。現在まで続いている。ド=ゴールはアルジェリア問題を解決し、冷戦時代に「フランスの栄光」を再現する独自のド=ゴール外交を展開した。しかしその独裁的な政治に対する反発から1968年に「五月危機」が起こり、翌年ド=ゴールは辞任した。その後フランスの大統領は、ド=ゴールの政策を継承したポンピドゥー、74年からの反ド=ゴール派のジスカールデスタンのリベラルな協調路線を経て、1981年に社会党のミッテランが23年ぶりに政権を奪取し、不況対策に実績を上げ、2期(フランス大統領の任期は7年)務めた。その後、1995年に保守派のシラクに替わった。シラク大統領は2期続き、2007年5月にサルコジが就任した。第五共和政は大統領権限が強大であることが特徴だが、議会を基盤とする首相を違った党派から選ばなければならない場合もでている。 → コアビタシオン
ド=ゴール外交 フランスのド=ゴール大統領の外交政策は、「フランスの栄光」を掲げて、核武装を達成し、独自外交を展開することであった。その基本は次のような諸点である。
1.西ドイツとの関係改善:西ドイツ=フランス友好条約締結など、従来のドイツ敵視を終わらせた。
2.NATO軍事機構脱退:アメリカ主導に反発。同等の権利を主張し脱退。
3.ヨーロッパ統合:積極的に推進したが、原則はあくまで主権国家のままでの対等な統合であり、強力な超国家的機関の設置に対しては反対した。
4.イギリスのEEC加盟反対:イギリスはアメリカの「トロイの木馬」と評し、アメリカのヨーロッパへの発言力強化につながるとして反対した。
5.独自外交:アメリカのベトナム政策を批判し、中華人民共和国を承認した。 
核実験(フランス) 1960年2月、フランスのド=ゴール大統領がサハラ砂漠で核実験を行い、フランスは第四番目の核保有国となった。フランスの核開発は第四共和政末期に決定されていたが、ド=ゴールは政権に就くとともにそのための予算を拡大し実験を促進した。ド=ゴールのねらいは核を背景として米英ソに対抗する独自外交を展開することにあった。1963年にはド=ゴールは米英ソ三国で締結された部分的核実験停止条約(PTBT)への参加を拒否した。
中華人民共和国承認(フランス) フランス大統領ド=ゴールは1964年1月、中華人民共和国を承認した。これはベトナム戦争に踏み切ったアメリカ(ジョンソン大統領)を牽制する意味があった。アメリカはフランスの動きを反米的行為として非難し、米仏関係は悪化した。ド=ゴールの姿勢は、アメリカおよびソ連の双方と距離を置いて、国際政治の中でフランスの立場を強めるところに目的があった。同じ頃、中ソ対立が深刻となっており、同じ64年に中華人民共和国は核実験を成功させている。
NATO脱退(フランス) フランスは北大西洋条約機構(NATO)結成(1948年)時の加盟国で本部もパリに置かれていたが、1958年大統領に就任したド=ゴールは、米英の核独占を批判し、フランスの核開発を進めた。米英がそれに対して批判的であり、NATOの運営がアメリカ主導であることに反発したド=ゴールは59年地中海艦隊の撤収に始まり、次第にNATOと一線を画するようになった。ついにド=ゴールは1966年5月、NATOのフランス軍すべてを撤退させ、フランス領土内のNATO基地すべてを解体した。ただし、NATOの理事会、政治委員会、経済委員会、防空警戒管制システムなどには残った。ド=ゴールの意図は、NATOを政治同盟として位置づけ、共同行動については主体的に判断するという自主外交の姿勢を示すところにあった。<渡辺啓貴『フランス現代史』1998 中公新書 p.123>
ド=ゴールはフランスのNATO脱退に踏み切ったが、北大西洋条約からは離脱しなかった。つまり「政治的には同盟、軍事的には独立」という姿勢をとった、ということができる。
フランスのNATO軍事機構への復帰 2009年3月、サルコジ大統領は、フランスを43年ぶりにNATO軍事機構に完全復帰させることを決定した。この決定にNATO各国は歓迎の意志を表明しているが、フランス国内では外交の独自性が失われるのではないか、という反対論がなお根強い。サルコジ大統領はフランスの発言権の強化を狙っているが、ド=ゴール以来のアメリカに従属することになるという懸念を持ち続けている人も多いからだ。事前の世論調査では賛成58%で反対38%を上回っており、現実にはボスニア、コソボ、アフガニスタンではフランス軍はNATOの軍事行動に参加しており、実態は余り変化はないと見られている。
f 「五月危機」 「五月革命」とも言われる、1968年の5月にフランスの大学生が政府の教育政策に不満を爆発させて暴動を起こしたのをきっかけに起こったド=ゴール体制に対する、広範な労働者・市民の反対運動。ドゴール政権は実力で運動を抑えたが、国民的支持を無くし、翌年のドゴール大統領辞任につながり、ド=ゴール時代を終わらせる画期となった。またこの年は世界的に学生運動が盛り上がり、第2次世界大戦後の経済発展至上主義の社会が大きな曲がり角に入ってきたことを思わせる動きであった。
「五月危機」の背景:ド=ゴール時代(1858年〜1969年)は、フランスにとっての高度経済成長の時期でもあった。アルジェリア戦争は財政難を招いたが、フランの大幅な切り下げと新フラン通貨発行によって経済危機を乗り切り、歳出の削減・賃金の抑圧を図るとともに生産性を高める方策がとられ、62年頃は財政赤字を脱却し貿易も黒字に転じた。このような経済の安定成長を背景に「フランスの栄光」を掲げたド=ゴール政権は国民の支持を集め、65年には再選を果たした。しかし経済の発展は次第に社会に格差を生み出し、また経済優先の風潮が青年層の閉塞感を強めていった。60年代後半に経済が退潮期を迎えると80歳近いド=ゴールの政治が硬直したものと映るようになった。そのような現状への不満を爆発させたのが学生運動であった。ベビーブーム期の大学生が進学したが、急造の大学施設は貧弱で、また超エリート校と一般の大学の格差も依然として大きく、学生の多くは社会への反発を強めていた。
「五月危機」の経過:1968年3月、パリ郊外に63年に新設されたパリ大学ナンテール校で「新左翼」の学生による占拠事件が発生。5月大学当局が学校を閉鎖したことに抗議する学生たちがパリ市内の学生街カルチエ=ラタンに結集し、警官隊と衝突した。カルチエ=ラタンにはバリケードが築かれ「解放区」が出現、政府は共和国保安隊を出動させて鎮圧にあたった。多くのけが人が出る中、5月13日には労働者・市民が学生を支援するデモを行い、混迷は5月末まで続いた。ド=ゴールははじめ、「子供の遊びさ」と楽観し、暴動の最中も外国訪問を繰り返すなどひんしゅくを買い、ようやく5月30日に国民議会を解散して総選挙を行うことを宣言し、事態の収拾にあたった。政府も労組に対して賃上げを約束するなどして運動を懐柔し、6月には平静を取り戻した。6月に行われた総選挙は暴動への反動からド=ゴール派が圧勝し、危機は去った。<渡辺啓貴『フランス現代史』1998 中公新書 p.152-160 などによる>
g ド=ゴール辞任 1968年の「五月危機」を乗り切ったド=ゴール大統領は、国民に信任を問う意味で、地方制度の改革と上院改革を内容とする憲法改正を提案し、国民投票にかけることとした。危機にあっては強い指導者ド=ゴールを支持した国民であったが、政治の新しい展開には80歳近い老人に見切りを付けていた。1969年4月に実施された国民投票はド=ゴール提案は反対52%で否決された。国民投票で信任を問うというド=ゴール政治の敗北であり、「英雄の時代」は終わったと言える。ド=ゴールは直ちに辞任を表明し、辞職後18ヶ月経たない70年11月に死去した。次期大統領選挙は69年6月に行われたが、左派陣営は分裂していたため、ド=ゴール派のポンピドゥーが当選、ド=ゴール政治を継承することとなった。
 西ドイツ  → 第16章 1節 ドイツ連邦共和国
 西ドイツ=フランス友好条約(独仏友好条約)1963年1月に西ドイツとフランスの間で締結された条約。パリの大統領官邸エリゼ宮で締結されたのでエリゼ条約とも言う。西ドイツのアデナウアー首相は再軍備、NATO加盟を推進し東ドイツおよびソ連との対決姿勢を続けていたが、アメリカに登場したケネディ政権がソ連との対話路線をとろうとしたことに不信を持っていた。一方フランス第5共和制のド=ゴール大統領は米ソ二大勢力のいずれにも与せず、フランスの大国化を図っていた。そのような両者の志向が一致し、西独とフランスは急接近し、63年の友好条約が成立した。この条約によって独仏は主要閣僚間の定期協議など提携を深めることとり、国境を接して長い対立関係にあった両国が初めて手を取り、交流の足場ができたことは有意義であった。
a アデナウアー  → 16章 1節 アデナウアー 
b キージンガー内閣西ドイツで50年代の東との対決路線をとってきたキリスト教民主同盟(CDU)のアデナウアーは、1963年の独仏友好条約を花道に引退、続けて同党のエアハルトが政権を継承したが、ベルリンの壁後の東ドイツとの対話を求める世論を無視し、また経済の停滞を招いたため退陣し、1966年の総選挙の結果、過半数を占める政党が無かったため、キリスト教民主同盟とそれまで野党だった社会民主党が初めて連立を組み、CDU党首のキージンガーを首班とする内閣が成立した。SPD党首ブラントは外務大臣となった。これを大連立内閣という。こうしてオール与党体制のもとで経済の復調が図られたが、1967年から68年にかけて変革を求める学生運動や労働運動が激しく起こった。特に大連立内閣が打ちだした非常事態法(国防軍を治安出動させる法案)に対する反対運動が議会外反対派(議会内で反対党が存在しなくなったためこのように言われた)として反政府活動を展開した。これは68年5月のパリの五月危機にも刺激された世界的な学生運動の一つであった。ついにキージンガーは辞任し、1969年には社会民主党のグラント内閣に席を譲った。
Epi. 西ドイツの学生反乱 1967〜68年の西ドイツ全土に学生反乱の嵐が吹きまくった。リーダー格はドイツ社会主義学生同盟(SDS)で、もとは社会民主党系であったが、同党が59年にマルクス主義を放棄したゴーデスベルク綱領を掲げたことを機に、その支配下から脱していた。1967年6月、イランのパーレビ国王が西ベルリンを訪問、学生はアメリカ帝国主義と結ぶ専制君主を許さないとして反対運動を展開した。学生の一人が警察に射殺されたことからストライキや授業妨害が全国に広がった。学生の運動は世界的なベトナム戦争反対運動やフランスの五月革命に連帯してエスカレートし、大学改革を叫んで街頭でバリケードを築いた。その運動は従来の権威を否定し、ピルの解禁など生活意識の変革も要求するものであった。リーダーの一人ドゥチュケは子供を肩車に乗せてデモの先頭に立った。しかし、69年になると世論は次第に学生に批判的となり、全体的な運動は停滞し、一部の学生は過激なテロに走るようになった。<三島憲一『戦後ドイツ −その知的歴史−』 1991 岩波新書>
 社会民主党  → 14章 1節 ドイツ社会民主党
c ブラント  → 17章 1節 ブラント
 イギリス(50〜70年代)第2次世界大戦末期のイギリスでは、1945年の総選挙でチャーチルの率いる保守党が敗れ、アトリーの労働党政権が成立した。40年代後半のイギリスのアトリー労働党内閣は、経済政策では社会福祉の充実、公共投資による完全雇用をめざすといったケインズ主義的政策と同時に重要産業国有化などの社会主義的な改革を進めた。外交面ではインド独立の承認、パレスチナ委任統治の放棄など植民地主義を大きく転換させる一方、NATO創設など東西冷戦のなかの西側陣営を構成した。1951年に保守党が選挙で返り咲き、チャーチル第2次内閣が成立、それ以後の1950年代のイギリスは保守党の長期政権が続いた。50年代の保守党政権は、経済政策は労働党政権から継承し、いわゆる「大きな政府」の路線をつづけた。外交面では冷戦の深刻化とともにイギリス連邦維持のために軍事費支出が増大し、対外債務がふくらんだ。またこの時期にヨーロッパで強まったヨーロッパ統合の動きに対しては、イギリス連邦との経済的結びつきとアメリカとの提携を重視して批判的であり、ECSCおよびECCには不参加であった。
50〜60年代初頭のイギリス保守党内閣:チャーチル第2次(1951〜55)→イーデン(55〜57)→マクミラン(57〜63)→ヒューム(63〜64)
・労働党内閣の福祉政策、国有化政策などは基本的に継続した。
・ケインズ主義的財政・金融の運営で戦後経済の復興をほぼ達成した。反面、対外債務が増大し、ポンド危機が60年代に起こることになる。
・海外植民地に対してはイギリス連邦の強化を図り、帝国再編をもくろんだ。
・その反面として、ヨーロッパ統合の動きに対しては反対し、1960年には対抗してヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)を発足させた。
・この間の最大の失敗は、1956年のスエズ戦争で、フランス・イスラエルと結んでエジプトと戦って敗れ、イギリスの権威を失墜したことであった。
60年代後半〜70年代:労働党と保守党が交互に組閣。ウィルソン第1次(労 64-70)→ヒース(保 70-74)→ウィルソン第2次(労 74-76)→キャラハン(保 79-79)
・この間、イギリス経済の停滞が続き、67年にウィルソン内閣がポンド切り下げに踏み切る。
・いわゆるイギリス病の進行。
・71年ドルショック、73年のオイルショックの影響を受け、EC加盟に踏み切る。(拡大EC
・1970年代、北アイルランド問題が深刻化。
→ 1980年代 サッチャー時代のイギリス
 EEC不参加 ヨーロッパ共同市場の形成は、1952年のECSC、58年のEECとフランスおよび西ドイツの主導で進んでいた。この段階ではイギリスは、イギリス連邦(旧イギリス植民地だった諸国で構成)との経済的結びつきとアメリカ合衆国との提携を重視し、ヨーロッパの統合には反対の立場をとっていた。そして1960年にはEECに対抗して、ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)を結成した。しかし、経済成長はEECの方が早く、イギリスは次第に貿易で不利な立場に立たされるようになった。そこで1963年、マクミラン保守党内閣は方針を転換してEEC加盟を申請したが、将来の統一通貨には反対の姿勢を崩さず、またEEC側でもフランスのド=ゴール大統領がイギリスをアメリカに追随する「トロイの木馬」だとして非難して、一貫してその加盟に反対したため、加盟は実現しなかった。1967年の労働党ウィルソン内閣も参加申請を行ったが、同じくフランスの反対にあって実現できなかった。イギリスの加盟が実現するのは、ド=ゴールの死(1970年)の後であった。1973年、オイルショックによって西側諸国の資本主義経済が大きな打撃を受けたことを機に、アイルランド・デンマークとともに加盟が認められ、「拡大EC」となった。 
 ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA) European Free Trade Association EFTA(エフタ)。1959年に条約が成立し60年に発足した、イギリスEECに対抗して結成したヨーロッパの経済協力機構。イギリス、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、スイス、オーストリア、ポルトガルの7ヵ国で結成した。域内の関税を毎年20%ずつ引き下げて5年間で全廃することを予定した。域外輸入品に対する共通関税は設けなかった。これによって西ヨーロッパにEECとEFTAの二つの経済協力機構が競合することとなったが、次第にEECの優位が明らかになり、EFTAの意義は薄れ、91年にEC市場をEFTA諸国に拡大することでECと合意し、ヨーロッパ経済領域(EEA European Economic Area)協定が成立した。1993年のEU発足でその実質的意味は無くなった。
 労働党  → 第14章 1節 イギリス労働党  
 ウィルソン 戦後のイギリスの労働党の政治家。1964〜70年の第1次と、74〜76年の第2次の2度、イギリス首相となった。50年代から60年代初め、保守党の長期政権のもとでスエズ戦争の敗北やEEC参加を拒否されるなど、イギリスの権威の失墜が続き、1964年の総選挙で48歳の党首ウィルソンの率いる労働党がアトリー内閣以来13年ぶりに政権に復帰した。経済政策では1967年にポンド切り下げに踏み切り、輸出を増やし国際収支の改善を図った。同年、EECへの参加申請をしたが失敗した。外交面ではスエズ運河以東からの撤兵を実現した。しかし、北アイルランド暴動が激化し、解決できなかった。
 スエズ以東からの撤退イギリスはスエズ戦争(第2次中東戦争)での敗北以降も、アジア地域に軍隊を駐留させていた。労働党ウィルソン内閣は1968年に、アデンからの即時撤退と71年までにマレーシアシンガポールから撤兵することを表明した。これが「スエズ運河以東からの撤兵」の意味である。経済停滞に悩むイギリスにとって軍隊の海外駐在は大きな負担となっていたのでそれをなくすことが目的であった。かつてアジアを支配したイギリス帝国の残滓はこれで完全になくなったといえる。同時にアフリカ植民地の独立もすべて認めたが、南ローデシアでは黒人抑圧を続ける白人政権の一方的独立に対しては認めず、交渉は難航した。
 イギリス病 「イギリス病」とは、1960〜70年代に経済成長が長期的な停滞したことを言う。かつて産業革命を最初に達成し、世界の工場といわれて繁栄したイギリスは、1960年代から長期停滞に入り、1970年までにフランス、西ドイツ、日本に抜かれ、70年代も停滞が続いた。世界の戦後経済の好況期であったこの時期に、イギリスがなぜこのような経済停滞に落ち込んだか、つまり病気の原因は何であったかについては、イギリスの固定的な階級社会や教育の保守性、施設の老朽化などに求められているが、1980年代に首相となったサッチャーは、その原因を戦後の労働党に始まり、保守党も継承したケインズ的な完全雇用をめざす「大きな政府」政策による社会福祉などによる出費の増大に求め、「小さい政府」をめざすとして歳出削減や福祉切り捨てなどの政策をとり、新自由主義に転換した。
Epi. イギリス病の原因 イギリス病の原因については、イギリス社会の保守性や固定的な階級制度、労働組合の頻繁なストライキによる生産性の低下、教育の遅れなどが指摘されていたが、ロンドン大学の経済学教授を務めた森嶋通夫は、イギリス社会を観察し、一般に言われているような階級社会や差別的な教育にあるというのは誤解であるとして、その原因を労働党・保守党の二大政党が交替することによって経済の基本政策が定まらないことに求めている。<森嶋通夫『イギリスと日本』1977、同『続イギリスと日本』1978 いずれも岩波新書>
 ポンド切り下げ 1967年11月中旬、イギリスのウィルソン労働党内閣はポンド切り下げに踏み切った。具体的には対ドル14.3%切り下げた。
1964年に成立したウィルソン内閣は、8億ポンドにのぼる巨額の対外債務を抱え、ポンド防衛に迫られていた。50年代の保守党政権のイギリス連邦の維持・強化という帝国再編戦略が、高い軍事費とポンド維持を必要とされ、それがイギリスの経済成長の桎梏となっていた。輸入制限策や増税、金利引き上げなどデフレ政策で乗り切ろうとしたが、労働者の不満がつのりストライキが続発、ポンド不信は加速した。IMFからの借款を受けたがそれでも国際収支は改善されず、失業の増大が続いた。そのため、最後の手段としてウィルソン内閣はポンド切り下げに踏み切って、輸出振興、国際収支の改善を図った。一方でストライキの規制を強めたが労働組合の激しい抵抗で実現できなかった。ポンド切り下げによって経済は持ち直したが、70年の総選挙では国民は労働党政権より保守党政権を選択した。<『冷戦と経済繁栄』1999 中央公論新社 世界の歴史29 p.75-78>
Epi. ビートルズ、女王から勲章をもらう 1965年、イギリスのウラ寂れたリヴァプール出身の若者4人組ビートルズが、エリザベス女王からMBE勲章を受けた。なぜロックグループが勲章をもらったか。実はイギリスの1960年代は終戦直後の福祉国家を依然としてかかげ、財政支出がふくらみ、また輸出がふるわず、ポンドの流出に悩んでいた。60年代の世界経済の繁栄の中で一人蚊帳の外だった。そんな時代に現れたビートルズは、音楽で世界中の若者の心をつかみ、同時に財布もつかんだ。彼らのレコードや映画、海外でのコンサートは大成功、イギリスの貴重な外貨獲得に役だったのである。その功績での受賞だった。なおビートルズの初来日は翌年1966年=昭和41年、日本は高度経済成長の時代を迎えていた。
日本の経済成長 戦後改革での経済民主化:日中戦争・太平洋戦争と続いた15年戦争は、日本経済に大きな打撃を与えた。しかし、同時に戦後の改革の中の、財閥解体農地改革は、日本経済の民主化に大きな前進となった。日本経済を支配していた財閥は解体され、あらたに独占禁止法が制定されて自由で公正な競争の原則が定められた。また、農地改革によって長く日本の農村を支配していた地主・小作人関係が無くなり、自作農が創設されて、食料生産の増加とそれに伴う国内購買力の増大がもたらされた。また、労働三法(労働組合法、労働関係調整法、労働基準法)が制定されて労働者の権利が保障されたたことも、経済発展の基盤である労働者の生活向上をもたらした。
GHQと政府の経済復興政策:敗戦後の日本の経済は労働力の不足、原料不足のため生産が伸びず、激しいインフレに見舞われて混乱が続いていた。政府は金融緊急措置令を出して新円に切り替えてインフレ抑制に努め、経済安定本部を設けて経済政策の調整に当たった。また、傾斜生産方式を採用して、石炭・鉄鋼の重点的な復興をはかった。また、GHQは1948年に経済安定九原則で予算の均衡・徴税の強化・賃金の安定などを課題として示し、その実施のためにドッジ=ラインという均衡予算案の作成が行われ、またシャウプ勧告によって所得税中心の税制に転換させた。また、アメリカは日本経済の復興の資金として、ガリオア(占領地域救済資金)・エロア(占領地域経済復興援助資金)の貸し付けを行った。日本経済の成長に不可欠な貿易は、1949年にブレトン=ウッズ体制に基づき、1ドル=360円の固定為替相場が定められ、これは戦前の水準(1ドル=約1円)から大幅に円安であったので、日本製品の輸出に大きく役立ち、繊維製品を中心に輸出産業の復興が始まった。1952年に日本はIMF(国際通貨基金)に加盟し、国際経済に復帰した。
朝鮮戦争による特需:全般的には苦しい状態が続いていた戦後日本の経済を劇的に発展させる契機となったのが、1950年に始まった朝鮮戦争であった。日本の基地から朝鮮の戦場に向かうアメリカ軍の軍需物資の受注は「朝鮮特需」と言われ、これによって輸出も伸びて経済復興の端緒となった。戦後日本経済が復興し、1960年代までは安定した発展を遂げることができた理由、大前提として日本が戦前のような軍事国家ではなくなり、平和憲法の下で戦争にお金をかけなくとも良かった、ということがあることを忘れてはならない。 → 1960年代の高度経済成長
a 日本国憲法  → 第16章 1節 日本国憲法
b 朝鮮特需  → 特需
c 55年体制 1955年に吉田茂らの自由党と、鳩山一郎らの日本民主党が合同して自由民主党が成立、一方では分裂していた左右両派の社会党もこの年、統一された。これ以後の戦後日本の政治体制を55年体制というが、この間、自由民主党が長期政権を維持、社会党は常に野党にとどまった。ちょうど冷戦下の米ソ対立に対応し、自由民主党が親米、社会党は親ソ、第三世界寄りという図式であった。社会党は政権を取ることはできなかったが、自民党も国会の3分の2以上を占めることはできず、念願である憲法改正を日程にあげることはできなかった。自民党の長期政権はその金権体質を強めてゆき、ロッキード事件、リクルート事件など汚職事件が相次いで発覚し、自民党の低迷が始まった。1993年に新党さきがけや新生党が分裂、同年7党の連立で細川護煕(日本新党)内閣が成立して、55年以来の自民党長期政権が終わりを告げた。また翌年は小選挙区比例代表制を柱とした選挙制度の改革が成立して、新たな二大政党制が模索されている。
55年体制の自民党長期政権
 鳩山一郎(1954〜56)−石橋湛山(56〜57)−岸信介(57〜60)−池田勇人(60〜64)−佐藤栄作(64〜72)−田中角栄(72〜74)−三木武夫(74〜76)−福田赳夫(76〜78)−大平正芳(78〜80)−鈴木善幸(80〜82)−中曽根康弘(82〜87)−竹下登(87〜89)−宇野宗佑(89)−海部俊樹(89〜91)−宮沢喜一(91〜93)
d 日ソ共同宣言 1956年10月、モスクワで調印された日本とソ連の戦争終結・国交回復の宣言。日本側代表は鳩山一郎・河野一郎ら、ソ連側はブルガーニン首相・フルシチョフ第一書記が署名した。双方が戦争終結を確認し、国交関係を樹立することをうたったが、平和条約には至らなかった。それは択促・国後・歯舞・色丹の北方領土問題が解決されず残ったからであり、「平和条約締結に関する交渉を継続する」という表現に留まった。しかしソ連は、この宣言の第9条で、平和条約締結後に歯舞・色丹については日本側に「引き渡す」ことを約束している。
朝鮮戦争の勃発を受けて、急遽進展した日本と連合国との講和会議の結果、1951年のサンフランシスコ平和条約が締結されたが、ソ連は同条約に参加せず、日本とは法的には戦争状態が継続する状態であった。日本では1955年に保守合同して成立した自由民主党の鳩山一郎内閣が従来の吉田茂自由党内閣の親米一本槍外交に代わって日ソ国交回復を掲げ、ソ連では1956年2月にフルシチョフによるスターリン批判が行われて平和共存路線に転換が図られる日ソ交渉が行われることとなった。また、日ソ間の戦争状態が終結したことは、それまでソ連の拒否権行使で実現してこなかった懸案の日本の国際連合加盟を実現させることとなった。しかし北方4島をめぐる領土問題では交渉が難航し、国交回復はできたが領土問題については棚上げで終わったため、現在に至る課題を残したと言える。
北方領土問題 国後、択促、歯舞、色丹の4島は、現在ロシアの占領状態が続いている。日本は固有の領土と主張しているが、ほとんど交渉は進展していない。この4島に関わる日本とロシア(ソ連)の関係は継ぎのような経緯をとっている。
・1855年 日露和親条約 ウルップ島以北をロシア領、択捉島以南を日本領と定める。
・1875年 樺太・千島交換条約 樺太全島をロシア領、ウルップ以北全島を日本領と定める。
・1895年 日露通商航海条約 日露和親条約失効。
・1905年 ポーツマス条約 樺太の北緯50度以南を日本領とする。
・1925年 日本がソ連を承認 ポーツマス条約は有効であることに同意した。
・1941年 日ソ中立条約 相互の領土保全と不可侵を尊重。
・1945年2月 米英ソ首脳によるヤルタ協定 ソ連は対日参戦の条件に千島諸島の引き渡しを入れ、米英が同意。
・1945年4月5日 ソ連、日ソ中立条約破棄を通告。
.1945年8月9日 ソ連、対日参戦。9月はじめまでに国後・択促・歯舞・色丹4島を占領。 → 46年2月 ソ連領に編入。
・1951年 サンフランシスコ平和条約 日本は千島諸島・南樺太を放棄。ただし、ソ連はこの条約に加わっていない。日本は千島諸島に国後以南の4島は含まれないと解釈。
・1956年 日ソ共同宣言 日ソ国交回復し、ソ連は平和条約締結後に、歯舞・色丹の「引き渡し」に合意。
・1960年 日米安保条約改定に際しての日ソ交渉で、ソ連(フルシチョフ首相)は歯舞・色丹返還の条件として日本領土からの全外国軍隊の撤退を加える。日本は改めて国後・択促を含む4島の一括変換を主張し決裂。ソ連は「領土問題は存在しない」ことを公式見解とする。
・1973年 日ソ共同声明(田中−ブレジネフ会談) 未解決の問題を解決して平和条約を締結することが善隣友好関係の確立に寄与すると述べる。
・1991年4月 日ソ共同声明(海部−ゴルバチョフ会談) 北方4島に関して双方の立場を考慮しつつ、平和条約交渉を加速させることの重要性を確認。
・1991年12月 日本、ロシア連邦共和国を、ソ連を継承する国家として承認。
<木村汎『日露国境交渉史』1993 中公新書 p.220〜の資料などより作成>
e 日本の国連加盟 1956(昭和31)年12月18日、日本は国際連合の80カ国めの加盟国となった。国際連合憲章にはいわゆる敵国条項(大戦中に連合国と敵対していた国)の規定は残っていたが、加盟条件である「平和愛好国」であることが認められた。1933年の国際連盟脱退から、23年目に国際社会に復帰したことになる。
日本の国連加盟の経緯:日本の国連加盟は冷戦のただ中にあって、簡単ではなかった。以下、その経緯をまとめると次のようになる。1951年 サンフランシスコ平和条約の前文で「日本国としては、国際連合への加盟を申請し且つあらゆる場合に国際連合憲章の原則を遵守」すると宣言し、「連合国は、前項に掲げた日本国の意志を歓迎する」としていた。この条約は翌52年4月に発効、国会はこれを受けてただちに国連加盟申請を承認し、日本政府は6月16日付で申請を行った。安全保障理事会で9月に審議が行われたが、ソ連の拒否権によって否決された。その背景には、49年に成立した中華人民共和国の加盟問題(米英および中華民国が反対していた)、50年に勃発した朝鮮戦争があった。またサンフランシスコ平和条約はソ連などを含まない、片面講和であったことも理由であった。
その後、中華人民共和国加盟問題は国連での東西の最も激しい対立点となり、米ソとも自陣営に有利な国の加盟を進めようとして互いに拒否権を発動しあう状況となり、51年から54年の間は新規加盟を果たす国はなかった。
1953年のスターリン死去、朝鮮休戦協定成立、54年のインドシナ戦争休戦、55年の戦後初めての米ソ首脳会談であるジュネーブ会談などの緊張緩和を受けて、55年16カ国の一括加入が承認されたが日本は含まれなかった。
日本はアジア諸国の賛同を得るため、55年の第1回アジア=アフリカ会議(バンドン会議)に政府代表高碕達之助を参加させ(この会議が日本が戦後初めて参加した国際会議となった)AAグループの一員という姿勢を示すと共に、56年10月、鳩山一郎首相が訪ソして「日ソ共同宣言」を発表して日ソ間の戦争状態を終わらせることによって56年12月の国連加盟が実現されることとなった。
国連加盟のと日本国憲法第9条:日本が国際連合に加盟する際、避けられない問題があった。国際連合憲章は加盟国に対し集団安全保障の立場から軍隊を提供する義務を求めているのではないか、とすれば、日本国憲法第9条が戦争放棄、武力放棄を掲げていることと矛盾するのではないか、という点であった。そこで日本政府は加盟に当たっての申請書に「日本のディスポーザルにある一切の手段を持って(by all means at its disposal)、その義務を履行する」と記載し、憲法第9条を直接引用することなく、軍事的協力の義務は(実質的に)留保することを明確にした。<佐々木芳隆『海を渡る自衛隊』1992 岩波新書 p.41、189>
この加盟時の留保は、1990年代に、日本の国際平和貢献で自衛隊を派遣すべきであるという大合唱によって忘れられている、ということができる。
国際連合と日本:1956年の国連加盟後、自民党政権が続いた日本では、「自由主義世界の一員であること」「アジアの一員であること」「国連中心主義」が外交姿勢の柱として常に掲げられることとなるが、1960年の安保条約改訂を境に、日米軍事同盟路線が強まり、反面、アジアの一員としての外交は弱まった。また80年代以降にアメリカ合衆国が国連離れを鮮明にしていくと、日本のそれに追随し、国連総会での否決率はアメリカと常に歩調を合わせる形となっている。一方、安全保障理事会の非常任理事国(任期2年)選挙には積極的に立候補し、何度も当選(低得票率での当選が多い。また落選したこともある。さらに途上国への援助と非常任理事国選挙を取引しているなどの批判もある)している。さらに、最近は国連改革の一環と称して常任理事国入りを提案しているが、国連での支持を受けることに失敗している。安全保障問題でのアメリカへの追随姿勢や核廃絶問題、民族問題、人権問題などでの否定的な態度(死刑廃止条約では日本とアメリカだけが反対したなど)が日本への支持が拡大しない背景と考えられる。<河辺一郎『国連と日本』1994 岩波新書 などによる>
f 日米安保条約改定 1960年に激しい反対運動を抑え込んだ自民党岸内閣とアメリカのアイゼンハウアー大統領によって締結され、日米軍事同盟が強化された新安保条約。
1951年に締結された日米安保条約(旧安保)は、日本の自衛隊発足前のもので、アメリカ軍による保護協定的な性格が強かったが、55年に保守合同で成立した自民党は自主憲法制定、共産圏に対する防衛力強化を掲げて、安保条約の改定をめざした。57年には岸・アイゼンハウアー間で改定の方向で一致、作業に入り、前条約の改定期を迎えた60年に改定された。70年に再改定され、現在、安保条約といえば現行のこの条約をいう。
新安保条約の内容:以下に主な内容を挙げる(数字は条)。
2・両国の経済的協力を促進する。 
3・武力攻撃に抵抗する能力を維持、発展させる。 
5・日本国の領域でいずれかが攻撃された場合に共同防衛する。 
6・極東における国際の平和および安全に寄与するためにアメリカ軍による施設・区域(基地)の使用が許される(その実施にあたっては事前協議を行うことが別に定められる)。
10・10年後に締約国の通告があれば1年後に終了する。
日米地位協定:日米安保条約の第6条にもとづくアメリカ軍(在日米軍)への基地提供および使用に関する細則を定めたもの。現在の沖縄普天間基地など具体的にはこの協定で運用されている。
この安全保障条約改定に対し、激しい反対運動(安保闘争)が起こる。
 安保闘争 日米安保条約の改定に対し、国内では社会党・共産党および労働組合、学生、市民の中から対米従属の軍事同盟反対、基地強化反対の声が上がった。日本が核戦争に加担し、再び戦争の道に進むことに対する強い危機からの反対運動であり、戦後の民衆運動が最高潮に達した。それに対して自民党政府はソ連・中国の脅威から日本を防衛するためのアメリカの核の傘の中にいることが現実的であるとして反対運動を抑えつけた。平和共存路線に行き詰まっていたアメリカのアイゼンハウアーも中国共産党の脅威などからアジアを防衛するためには日本を反共陣営の中に留め、軍事基地はどうしても手放せないという戦略から日本政府を後押しした。
1960年5月〜6月、日米安保条約改定の批准に対する社会党・共産党の反対を岸信介自民党内閣は強行採決した。反対運動は議会外でも盛り上がり、激しいデモが繰り返され、全学連の女子学生が死亡、多数の負傷者がでた。その後条約は自然成立したが、反対運動によってアイゼンハウアーの訪日は取り止めとなり、岸内閣は条約成立を待って辞任した。この60年安保闘争を機に、日本は日米軍事同盟の枠の中で高度経済成長路線に転換していくこととなる。
g 高度経済成長 戦後日本の経済は戦争による労働力・生産力に対する大打撃と、激しいインフレによって大きく落ち込んだが、1945年〜50年の経済の民主化と産業復興政策、GHQによる資金援助、固定為替制度による貿易の復興などで基盤を整え、1950年の朝鮮戦争による朝鮮特需で完全復興の端緒をつかんだ。その後、50年代の国民の努力によって、また外国と比べて安価であった労働力に支えられ、日本経済は急速な成長を遂げた。ついで1960年代からいわゆる高度経済成長期には入ることとなる。
1960年、安保闘争で岸内閣が倒れた後に登場した池田勇人内閣は、「所得倍増」をスローガンに高度経済成長政策を提唱した。その後、1960年代は年率約10%の成長が続き、日本は屈指の経済大国となった。この成長は64年開業の東海道新幹線に代表される技術革新に支えられていたが、アメリカがベトナム戦争期にあたり、日本の輸出が増大したことが大きな要因であった。日本の経済成長がアメリカ経済の相対的低下をもたらし、1971年のドル=ショックの一つの要因となった。
一方、高度経済成長は急激な工業化によって、農業人口の低下と食糧問題、過疎の問題、そして公害問題をもたらし、戦後日本社会を大きく変貌させることとなった。
h 東京オリンピック 1964年10月に開催された第18回オリンピック。日本では1940年に東京でオリンピックが開催されることになっていたが、第2次世界大戦の勃発で中止されていたので、これがアジア最初の開催となった。オリンピックの開催に会わせて東海道新幹線が営業を開始し、高度経済成長の象徴となった。 
i 日韓基本条約 1965年6月、佐藤栄作内閣が韓国の朴正煕大統領との間で締結した条約。両国の外交関係の樹立、過去の韓国併合条約などの失効などを約し、日本は韓国を「朝鮮半島唯一の政権」であると認めた。日本はまた無償3億ドル、有償2億ドルの経済援助を行うことを約束し、それを以て賠償問題は終わったとの立場をとっている。
日韓の国交回復交渉は1951年の吉田内閣と李承晩政権との交渉から始まったが、朝鮮戦争、李承晩ライン(韓国側が設定した漁業禁止海域)問題などがあって交渉は難航した。アメリカの強い要望があり両国は65年に妥協し、条約締結となったが、朝鮮半島分断を固定する内容には日韓双方の国内に大きな反対運動があった。韓国の朴政権は日韓基本条約締結により日本からの経済援助を獲得、開発独裁を進める要因となった。また同年の漁業協定で李承晩ラインは撤廃されたが、領土問題の細部の調整がされなかったため、竹島問題で禍根を残すこととなった。一方で、この条約で日本政府は韓国を「朝鮮半島で唯一の合法的な政府」と認めたので、北朝鮮を無視することとなり、北朝鮮との国交は未だに正常化されていない。
j 公害問題 高度経済成長が続く中、1960年代から70年代にかけて、工業生産と消費に伴う生命と健康への被害、環境破壊が明らかになってきた。これらは「公害」と言われるようになり、水俣病・イタイイタイ病・新潟水俣病・四日市ぜんそくの四大公害訴訟が起こされた。1967年には公害対策基本法が制定され、大気汚染・水質汚染などの公害の概念が規定され、本格的な対策が始まった。70年には環境庁が設置され、93年には公害対策基本法は環境基本法に継承された。
k 沖縄返還 沖縄は戦後アメリカの施政権下におかれ、1952年からはアメリカ民政府の下で琉球政府が発足したが、その主席は民政府による任命制であった。また住民の土地が収用されて多数のアメリカ軍基地が置かれていた。1960年代から活発な祖国復帰運動が始まり、1967年に佐藤内閣とジョンソン大統領の間で3年以内に返還することが約束された。69年には佐藤=ニクソン会談の結果、日米共同声明が発表され、安保条約の堅持、「核抜き・本土なみ」の返還が合意された。これらに基づき1971年に沖縄返還協定が調印され、72年5月に返還が実現した。しかし、施政権は返還されたものの、米軍基地はそのまま残され、「核抜き」についても大きな疑惑が存在したため、大きな反対運動が起こった。
a 学生運動 1968年から数年間、世界中で学生運動が燃えあがった。
フランスの「五月革命」といわれ、ド=ゴール退陣の引き金となった五月危機に始まり、西ドイツでもキージンガー大連立内閣に反対する運動が、社会民主党ブラント政権を出現させた。日本でも東大を始め、日大闘争などほぼ全国の大学に広がった。アメリカでもカリフォルニア大学バークレー校の反乱に始まり、ベトナム反戦運動・公民権運動と結びながら、拡大した。同時に中国では文化大革命が進行し、紅衛兵が「造反有理」(権威否定には理由がある、の意味)を掲げて暴走していた。
これらは「怒れる若者たち」の「異議申し立て」が自然発生的に起こったものであり、既成の左翼運動とも異なっており、むしろそれを否定したので「新左翼」運動とも言われた。
そのような中で若者文化にも大きな変化が生じ、ビートルズやローリングストーンズの音楽が流行し、ジョーン=バエズやピーター、ポール&マリーなどの反戦歌が歌われた。1968年のウッドストックのロックコンサートはその最大のイベントだった。若者にはヒッピーと言われる自由なライフスタイルを実践するものが急増した。
しかし、運動がエスカレートすると世論は次第に安定を望むようになって学生運動は社会から浮き上がり、その一部は過激なテロに走ることとなった。ドイツのバーダー=マインホフ・ブループ、日本の赤軍派などがその例で、ハイジャックやアラブ解放との合流に向かうこととなった。
Epi. アドルノと学生運動 ドイツの学生運動の共感を得ていたのは、ナチスを産み出したドイツの社会と思想に深刻な自己批判を続けていたアドルノやホルクハイマー、マルクーゼ、ハーバーマスなどの社会学者の集団フランクフルト学派だった。アドルノはナチスを産み出したパーソナリティーを権威主義的と名付け、近代的知性がナチズムを生み出したと考え、ハイデガー批判を展開していた。彼の「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮である」ということばは当時よく知られていた。しかし、学生たちの暴力の中に権威主義的な臭いをかいで次第に批判的になった。学生たちは、反体制を説きながら自らは行動しないアドルノらに苛立ち、アドルノ授業を妨害するようになった。あるときは女子学生が上半身裸になって挑発し、とまどうアドルノをあざけるというシーンもあった。アドルノは教壇をさり、間もなく69年8月に急死した。彼は『啓蒙の弁証法』の中で、近代の啓蒙による人間の解放がかえって人間の野蛮化をもたらした、と述べていただけに、この女子学生の野蛮な行為に大きなショックを受けたのに違いない。<三島憲一『戦後ドイツ −その知的歴史−』1991 岩波新書>
アドルノはユダヤ人で、音楽批評家としても知られていた。彼の『ミニマモラリア』は現代社会や文化に対する厳しい分析の書でもある。
b ベトナム戦争  → 第16章 3節 ベトナム戦争