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第14章 帝国主義とアジアの民族運動
1.帝国主義と列強の展開
ア.帝国主義
 第2次産業革命 第1次産業革命が軽工業である木綿工業を中心とした軽工業から起こったのに対して、第2次産業革命は鉄鋼・機械・造船などの重工業、そして石油資源を利用した化学工業という重化学工業部門での技術革新から始まった。またエネルギー源も第1次産業革命は石炭が登場したが、第2次産業革命では石油と電力が主力となった。これらの重化学工業と石油エネルギーの利用は莫大な資本が必要とし、資本の集中をさらに進め、帝国主義を生み出すこととなった。
a 石油 石油の存在は、紀元前から知られていたが、当初はアスファルトの材料、あるいは医薬品、わずかに灯油として使われているだけであった。1859年、アメリカ合衆国のペンシルヴェニアで油井が開発され、それに目をつけたロックフェラーが大量輸送方式を考案し、1870年にスタンダード石油会社を設立、燃料用石油の量産が始まった。1870年代からはロシアのカスピ海沿岸バクー地方で石油の生産が始まり、フランスのロスチャイルド家がバクーから黒海までの鉄道を敷設してバクーの石油がヨーロッパ市場にもたらされるようになった。アメリカ合衆国ではその後、オクラホマやテキサス、メキシコ湾岸(ガルフ)で油田が発見されていったが、19世紀末にはメキシコインドネシアでも油田開発が進み、そして1900年のイランでのイギリス資本による生産が始まり、アメリカ油田の独占体制は崩れた。 19世紀末には、ドイツ人のディーゼルが石油を燃料とした内燃機関であるディーゼル機関を発明し、さらにダイムラーがガソリンを燃料としたガソリン機関を作成し、機関車や自動車の動力とされるようになった。さらに第1次世界大戦で石油の需要は急速に伸び、とくに1920年代のフォードによる自動車の普及大衆化によってさらに重要性を増す中で、1931年にペルシア湾のバーレーンで、33年にクウェートで、さらに1938年にサウジアラビアで大規模な油田が発見され、中東のペルシア湾岸油田地帯がにわかに世界の産油地帯の中心となった。
第2次世界大戦後の石油問題:第2次世界大戦後の1950年代にはエネルギーの中心が石炭から石油に移行し、第2次エネルギー革命が起こった。この間、世界の原油生産から製油までの石油関連産業は国際石油資本(メジャーズ)に支配される体制ができあがり、1970年代初めまで続いた。一方イランのモサデグ政権による石油国有化政策など産油国側の資源ナショナリズムが強まり、大きな争点となり始めた。1960年には石油輸出国機構(OPEC)が結成され、さらに1973年の第4次中東戦争に際して、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が石油戦略を採用したため石油危機(第1次)となりさらに1979年のイラン革命によるイランの石油国有化による第2次石油危機とと続き、国際石油資本の支配力は急速に衰えた。現在までOPECによる石油価格のコントロールは続いているが、北海油田の発見など非OPEC諸国の産油量も増加し、最近では世界的な規制緩和の結果、投機マネーが石油市場に流れ込んで、原油価格が不安定になっている。また、70年代から石炭・石油という化石燃料に依存した近代産業の発展の結果、大気汚染や地球温暖化などの環境悪化が表面化し、脱化石燃料が叫ばれるようになった。また、石油は有限の資源であり、数十年度には枯渇することが予測されており、代替エネルギーの開発が急がれている。<以上、瀬木耿太郎『石油を支配する者』 岩波新書 1988 などによる>
b 電力 電力はイギリスのファラデーが1831年電磁誘導の現象を発見し、1879年、ドイツのジーメンスが電動モーターを造ったことによって新しい動力源として利用されるようになった。ジーメンスの創業したジーメンス社は電気製品製造会社として成長し、ドイツ最大の独占資本になり、現在も総合電気会社として続いている。
c 重工業部門  
 独占資本の出現  
a 金融資本 金融資本という概念は、1910年、ドイツの社会主義者ヒルファーディングの『金融資本論』で提示された。資本を蓄積した産業資本と、銀行が結びつき、銀行を中核として、重化学工業に必要な巨額の資本を調達するようになる。
イギリス(及びヨーロッパ各国に跨る)のロスチャイルド財閥がその典型的な例である。ロスチャイルド家は、はじめ18世紀にフランクフルトで金融業を営んでいたユダヤ系商人で、ナポレオン戦争の時、反ナポレオン陣営に資金を融通して巨富を得、ウィーン会議後はヨーロッパ各国の公債を引き受けて発行し、鉄道事業にも進出した。さらに一族をヨーロッパ各国の支店に配属し、国際的な金融資本家となった。イギリスのディズレーリがスエズ運河会社の株式を買収するときにその資金を提供したのもロスチャイルド家である。その後、石油産業にも進出、イギリスとの関係を強め、イギリス貴族に列せられた。 
 恐慌 資本主義経済には好景気と不景気の波がある。それはおよそ「好景気→設備投資→需要増加→生産過多→価格下落→
生産抑制→倒産・失業の増加→需要低下→不景気(不況)→需給バランスの回復→価格上昇→設備投資→好景気・・・」
という循環で起こる。この中で倒産・失業が大幅に起こり不況に転換することを「恐慌」という。過剰生産による恐慌は、1825年のイギリスではじめて起こり、それ以後ほぼ10年ごとに起こっている。はじめは資本主義国でそれぞれ個別に起こることが多かったが、世界経済の結びつきが強くなった第1次世界大戦後は、世界同時に起こるようになった。その最大のものが1929年に始まった世界恐慌である。
b 独占資本 資本主義経済では、周期的な好況と不況の波がおこる。不況期には弱小の資本はより大きな資本との競争に敗れ、吸収されていく。その結果、必然的に大資本が形成され、大資本は余剰資本を他業種や植民地に投資し、利潤をあげるようになる。企業は多額の資金を調達するため銀行に依存し、銀行資本が産業資本と結びついて金融資本が形成され、集中と独占が進む。19世紀後半に形成されたそのような大資本を「独占資本」という。独占の形態には、カルテルトラストコンツェルンの段階的な三形態がある。独占資本の形成は、公正な自由競争を阻害し、物価騰貴・雇用の停滞を招くとして、早くから反対運動があった。独占の形成を制限する立法は、アメリカで1890年のシャーマン反トラスト法、1914年のクレイトン反トラスト法が制定されたが、いずれも実行力はなく、独占資本の形成は進行した。特に世界恐慌後は独占資本は国家権力と結びつき、国家独占資本主義を形成する。 
c カルテル カルテルは「企業連合」にあたる。同一業種の企業が、資本的には分離していながら、価格・生産量などを協定して、市場の独占を図る形態。1873年の不況の際に、ドイツの鉄鋼や石炭業でカルテルが出現し、以後不況のたびに増加していった。
d トラスト トラストは「企業合同」にあたる。同一業種の企業が、有力企業によって吸収・合併され、同一の資本のもとで合同する独占資本の形態。その典型的な例は、アメリカのロックフェラー家が創立したスタンダード石油会社によるトラストである。トラストの形成は、自由な競争を阻害する恐れがあるところから、アメリカでは1890年のシャーマン反トラスト法以後、何度か反トラスト法の制定が試みられている。 
e コンツェルン コンツェルンは、異種業種の企業が、同一資本の支配を受ける、独占の進んだ形態。その例は、ドイツのジーメンス社クルップ社、アメリカのロックフェラー財閥、モーガン財閥などである。日本の戦前の三井財閥・三菱財閥などもそれにあたる。日本では第2次世界大戦後、軍国主義を支えたものとして財閥解体が行われ、独占禁止法でその出現は予防されていることになっている。 
 移民(20世紀)19世紀から20世紀前半にかけてヨーロッパからアメリカ大陸への移住者数は、帝国主義時代に世界が一体化したことから急速に進んだ1870年代から第1次世界大戦までの約40年間で、約3000万人(うち2000万人がアメリカ合衆国に、残りはカナダ、アルゼンチン、ブラジル、オセアニアへ)に達し、ピークを迎えた。19世紀の移民にはアイルランドや北欧が多かったが、20世紀にはいると南欧・東欧からの流れに重心が移った。それ以前の西欧・北欧系の移民を「旧移民」というのに対して、この南欧・東欧系移民は「新移民」といわれた。またアフリカからの黒人奴隷の輸入は19世紀半ばにおわり、かわって世界の労働力市場に登場したのがアジア出身、とくに中国とインドからやってきた出稼ぎ・移民労働者であるクーリーであった。クーリーははじめインド人労働者を意味していた(語源はヒンディ語であるらしい)が、やがて中国へ伝えられ、「苦力」の文字を充てられ、インド人や中国人の出稼ぎ・移民労働者一般を言うようになった。<木谷勤『帝国主義と世界の一体化』世界リブレット40> → 1924年 移民法の制定 
 植民地の拡大 帝国主義の時代に、列強による世界の分割が終了し、まさに世界市場として「一体化」した。またこの世界の一体化は、大陸における鉄道網の建設、海上における蒸気船の実用化(1900年頃に、帆船よりも蒸気船の数が上回った)、電信の普及などによって世界を距離的に縮めることとなった。しかし、工業化を達成し、植民地を持つっている8つの国と、植民地化され、モノカルチャー化のもとで貧困にさらされているその他の国々という二極化が深刻になっていく。
その中で、白人の優越と有色人種の劣等を民族の持っている特性と考える人種差別観(ダーウィンの進化論を人間に当てはめて人種の優劣を論じる社会ダーヴィニズムの影響を受けている)が根強くなっていく。 
 1870年代の不況 1873、4年頃からヨーロッパの資本主義は低成長期に入り、「大不況」といわれる長期的不況が続いた。この不況は1890年代の中頃まで続き、この間に資本の淘汰が行われ、独占資本の形成が進み、帝国主義が準備された。
 帝国主義 帝国主義についてはレーニンが1916年に著した『帝国主義論』での定義がある。それによると、
1)生産と資本の集中・集積による独占の形成
2)産業資本と銀行資本の融合による金融資本の成立
3)商品輸出にかわり資本輸出の増大
4)国際カルテルによる世界市場の分割
5)帝国主義列強による植民地分割の完了
の5点の特徴が挙げられている。 
a 国家独占資本主義 帝国主義段階での、国家と独占資本が結びついた資本主義の一形態。第一次世界大戦中にレーニンが用いたマルクス経済学上の用語であるが、特に世界恐慌後のナチズム経済や日本の昭和戦前期の経済があてはり、ニューディールにみられる経済の国家統制もその例である。
b 列強 19世紀末から20世紀にかけて、帝国主義列強として海外領土・植民地の所有していたのは、イギリス・フランス・ドイツ・ロシア・アメリカの5大国と、イタリア・ベルギー・日本の併せて8カ国であった。この列強8カ国は、1876年から1914年までの間に、約2億7000万人の住む2730万平方キロメートルの植民地を新たに手に入れ、それ以前に領有していた分に加え、地球の総面積の半分以上を占め、世界人口のほぼ3分の1が住む土地を植民地として支配することになった。<木谷勤『帝国主義と世界の一体化』世界リブレット40> 
 イギリス  
 フランス  
 ドイツ  
 アメリカ  
 ロシア  
 オーストリア  
 イタリア  
 列強間の帝国主義的対立  
a ドイツ  
b 再配分(再分割)  
c 軍備拡張競争  
d 国家主義  
e 軍事同盟  
 第1次世界大戦  → 第15章 1節 第1次世界大戦
 帝国主義に対する抵抗  
a 自由主義  
b 社会主義運動  
 第2インターナショナル  → 第2インターナショナル
d 民族主義運動 帝国主義の進展するなかでの欧米と日本の急激な工業化は、その対極の周辺地域に対し、単一ないし少数の一次産品の生産に特化(「モノカルチャー化」するという)された農業地域として停滞するという現実をもたらした。先進工業地域による収奪が、低開発地域の貧困を生み出した言える。それを背景として、20世紀のアジア、アフリカ、ラテンアメリカなど各地で帝国主義に対する抵抗として民族主義運動が活発となっていく。 
e 「世紀末文化」  
f 「ベルエポック」 ベルエポックとはフランス語で「すばらしい時代」の意味。特に、ヨーロッパでの19世紀末から20世紀初頭、第1次世界大戦が始まるまでの発達した資本主義のもとで大衆文化が花咲き、反映した時代を、大戦後に「古き良き時代」として懐かしんで言った言葉である。その始期は1870年代の半ばから続いた不況が終わった1890年代の後半からであろう。この間の社会的変化としては、1896年の近代オリンピックの開催(世界的に注目されるようになったのは1912年大会からといわれる)、学校教育の普及、女性の社会的進出、などがあげられる。芸術では、絵画での19世紀末から20世紀初めにかけて、印象派(ルノワール、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌなど)からフォーヴィズム(ブラマンク、マチスなど)とキュビズム(ピカソ、ブラックなど)が登場した時代であった。文学では19世紀の自然主義に代わって、象徴主義といわれるマラルメやメーテルリンク、イエーツ、リルケなどが登場、絵画のモローやクリムト、音楽のドビュッシー(印象派の音楽とも言われる)にも影響を与えた。ウィーンではリヒャルト=シュトラウス、マーラーなどが活躍した。この時代の文化運動として顕著なものがアール=ヌーボー(「新芸術」の意味。1897年のブリュッセル万博で、ベルギーの建築家・工芸家であるヴァン=デ=ヴェルデが提唱した)で、建築のガウディ、工芸のエミール=ガレなどが有名である。<福井憲彦『世紀末とベルエポックの文化』1999 世界史リブレット 山川出版社> 
イ.イギリス
 植民地帝国の維持 20世紀初頭のイギリスの主な植民地は次のようなところであった。
 アジア地域:インド、ビルマ、香港、威海衛、マレー半島、北ボルネオなど
 アフリカ地域:エジプト、スーダン、ローデシア、南アフリカ、ナイジェリアなど、
 中南米地域:ギアナ、ジャマイカ、ホンジュラス、トリニダードトバゴ、フォークランド諸島、南シェトランド諸島など
これに、白人入植者中心の自治領カナダ、オーストラリア、ニュージーランドが加わる。
 自由貿易の展開  
 インド  
 カナダの自治カナダの自治の開始:イギリス植民地としてのカナダは、南北戦争の時、イギリス議会が北アメリカ法を制定し1867年に「カナダ自治領」となった。これがイギリスの海外領土で初めて認めらた自治領である。カナダはこれによってイギリス帝国の下で自治権を有する一つの連邦国家となり、オタワに連邦首都が置かれた。この時は外交権はまだ付与されず、独立国家とは言えなかったが、自治が認められたこの年7月1日を現在のカナダでは独立記念日「カナダ・デー」としている。1885年 カナダ太平洋鉄道が完成、大西洋岸と太平洋岸が結ばれた。この建設では多くの中国移民が酷使された。
イギリス連邦の成立とカナダ:第一次世界大戦(1914〜1919年)にカナダはイギリス帝国の一員として参戦。それが認められて、戦後の1926年にイギリスはカナダに外交権を付与した。そして、1931年のウェストミンスター憲章でイギリス連邦が成立するとその一員となり、イギリスと対等な主権を持ち、実質的な独立を達成した。第2次世界大戦後の1982年に独自の憲法を制定、イギリス連邦には加わりながら、名実共に独立国家となっている。依然としてイギリス女王を戴く立憲君主国にとどまっているが、女王の代理であるカナダ総督も現在はカナダ人が就任しており、イギリスとの関係は形式的なものにとどまっている。イギリス系住民とフランス系住民、さらに多くの移民が共存する多民族国家としての道を歩んでいる。 → 現代のカナダ
 帝国主義政策への転換  
 ディズレーリ  →第12章 2節 ディズレーリ
 スエズ運河会社の株式買収 スエズ運河は、フランスのレセップスがエジプトのパシャの許可を得て、両国が出資して建造1869年に完成したが、6年後の1875年に財政難に陥ったエジプト政府はその持ち株の売却を図った。知らせを聞いた首相ディズレーリは、フランスに先んじてスエズ運河の株を買収を決断、ロスチャイルド財閥の資金提供を受け、44%の株式を手に入れた。議会の承諾を受けない独断であったが、これによってイギリスのエジプト支配はフランスを押しのけて進むことになる。この出来事は、イギリスがいわゆる帝国主義政策をとった最初ともされている。
Epi. 「陛下、あれはあなたのものです。」 エジプト政府がスエズ運河会社の株を売りに出そうとしているという情報は、ロスチャイルド家の情報網を通じてディズレーリにもたらされた。ディズレーリは、その情報がフランスに知られる前に決断する必要に迫られた。資金提供を「お国のためだ」とロスチャイルドに求めると、ロスチャイルドに「では、あなた側の抵当物件は?」と問われた。交渉に当たったディズレーリの秘書官はそれに対し「イギリス政府であります!」と答えたという。こうしてロスチャイルド家は大英帝国を担保として資金を融資し、イギリスは一夜にしてフランスを押しのけてスエズ運河の筆頭株主となり、それは以後のイギリスの生命線となった。その夜、ディズレーリはヴィクトリア女王に、It is just settled;you have it,Madam. という簡単な報告文を書いた。<牟田口義郎『物語中東の歴史』2001 中公新書 p.280> 
 ロスチャイルド財閥ロスチャイルド(Rothschildの英語読み。フランス語ではロチルド、ドイツ語ではロートシルトと発音。家紋としていた「赤い楯」の意味で、もとは屋号だったものを姓とした。)家は、ユダヤ人の一族で、1760年代にフランクフルトで金融業を営んだ、初代マイヤー=アムシェルに始まり、その五人の子供が18世紀末から19世紀までに、フランクフルト、ウィーン、ロンドン、ナポリ、パリにそれぞれ分かれ、全ヨーロッパに金融ネットワークを張りめぐらせた。その顧客には各国の王室やナポレオンなどの権力者がおり、また株式投資を通じて巨大な富を築いた。ナポレオンが大陸封鎖令を出すと、大陸でコーヒーや砂糖、タバコが品薄になるのを見越して密輸し、莫大な利益を得た。19世紀にはメッテルニヒ、ハプスブルク家に融資する一方、鉄道事業にも進出した。1875年にはイギリスのディズレーリのスエズ運河株買収に資金を提供、その帝国主義政策と結びつき、金融独占資本の典型的な例となった。なおエジプトといえば、ツタンカーメンの墓の発掘に成功したカーナヴォン卿に資金を提供したのもロスチャイルド財閥だった。19世紀末から始まったユダヤ人のパレスチナ帰還を目指す運動であるシオニズムは、ロスチャイルド家の財政的支援のもとで行われた。ちなみにロスチャイルド家は全体で19世紀中に4億ポンド(今の日本円にして2兆2400億円)以上の富を集めたという推計がある。20世紀には石油(ロイヤル=ダッチ=シェル)、ダイヤモンドなどにも進出した。1917年のイギリスのバルフォア宣言はユダヤ人のパレスチナでの国家建設を認めたものであるが、それもイギリス政府がロスチャイルド財閥の支援を取り付けるためであった。第1次世界大戦後は、民族運動や社会主義の台頭によって、国家独占資本主義的な大財閥のあり方は否定され、ロスチャイルド家も苦難の時期を迎えたが、現在は銀行経営やワイン製造などに集中してなおも世界経済に大きな影響力を持っている。<横山三四郎『ロスチャイルド家』1995 講談社現代新書>
Epi. 情報戦を制し、大ばくちに成功したロスチャイルド エルバ島を脱出したナポレオン率いるフランス軍とウェリントン率いるイギリス軍のワーテルローでの決戦で、ウェリントン軍の勝利がはっきりした1815年6月19日の夜遅く、戦場の近くのオステンドからロスチャイルド家の使者が船に飛び乗ってドーバー海峡を越え、翌日未明、出迎えたロンドン支店のネイサン=ロスチャイルドに伝えた。ネイサンはただちにロンドンの金融街シティにある証券取引所に向かった。彼はウェリントン将軍の飛脚がロンドンに到着する前に、大ばくちを打った。イギリス国債を売りに出たのだ。当時はウェリントン軍不利の予想がされていたので、ネイサンが売りに出したのを見て人々はイギリス軍が敗北したと受け止めてパニックに陥り相場は急暴落した。ワーテルローの勝利の報せが届く直前に、ネイサンは二束三文になった国債の買いに転じ、一瞬のうちに巨利を得たのだった。電報も電話もなかった時代、伝書鳩でこの情報を知ったという説もあるが、ロスチャイルド家がドーバー海峡においていた自家用高速船を利用したのが真相らしい。ロスチャイルド家の群を抜いた情報網が、その大ばくちの勝利をもたらしたのだった。<横山三四郎『ロスチャイルド家』1995 講談社現代新書 p.68〜>
 ロシア−トルコ戦争  →第12章 2節 露土戦争
 エジプト  
 ウラービー=パシャの反乱  → 第13章 1節 アラブ民族の目覚め ウラービー=パシャの反乱
 帝国主義政策の展開  
 ジョゼフ=チェンバレン 19世紀末のイギリスの政治家。バーンガムの富裕な製造業者の出身で、バーミンガム市長として名をあげ、中央政界に進出した。はじめ自由党急進派に属したが、アイルランド問題で自由党が分裂した時、自由統一党を組織した。1895〜1902年、ソールズベリ内閣(統一党)の植民相としてケープ植民地のセシル=ローズと結んで、イギリスの帝国主義政策を推進し、南アフリカ戦争を起こした。
二人の息子も政治家として活躍、長男ののオースティン=チェンバレンは後に保守党党首となり、外相としてロカルノ体制の樹立にあたり、1925年のノーベル平和賞を受賞した。次男のネヴィル=チェンバレンも保守党党首、首相としてナチス台頭期の舵取りを行い、宥和政策を採ってナチスの台頭を許し、首相の座をチャーチルに譲った。 
 植民地会議 1887年以来、不定期に開催された、イギリス帝国主義のもとでの植民地維持のための会議。植民地の本国への協力体制を作ることに主眼が置かれた。イギリスの植民地政策は19世紀後半から白人入植者の多い植民地(カナダ、オーストリアなど)には自治を認め、非白人の多い植民地(インドなど)には直接支配を継続するようになり、自治を認めた上でイギリス本国につなぎ止めておく必要から、植民地会議を開催するようになった。1907年にはイギリス帝国会議と改称された。
 オーストラリア連邦 1770年にイギリスのクックがオーストラリア大陸東岸に上陸、その後イギリスは先住民アボリジニーを征服しながら、流刑植民地として支配した。19世紀から羊毛の産地として発展し、また1850年代には金鉱が発見されて、ゴールド=ラッシュが起こった。1901年、イギリス連邦のもとで自治が認められ、ニューサウスウェールズ、タスマニア、西オーストラリア、南オーストラリア、ヴィクトリア、クィーンズランドの6州からなるオーストラリア連邦となった。オーストラリアでは中国人(華僑)などアジア系移民が増加するに伴い、ヨーロッパ人以外の移民を制限する声が強まり、「白濠主義」がとられたが、1970年代からは再びアジア系移民を受け入れるようになり、現在は「多文化主義」を掲げ、民族間の融和をはかっている。また原住民アボリジニーの復権もはかられているが、まだ多くの問題が残っている。
Epi. 「出会いの場所」首都キャンベラの建設 オーストラリア連邦が成立したとき、どこを首都にするかの問題で、シドニー(ニューサウスウェールズ州)とメルボルン(ヴィクトリア州)の二大都市の間で激しい議論となった。10年間も議論をした結果、双方の中間の地に全く新しい首都を建設することで落ち着いた。その地キャンベラは、先住民アボリジニーの言葉で「出会いの場所」という意味であった。都市の設計は広く世界に公募され、シカゴの36歳の建築家のプランが採用されたが、その工事は第1次世界大戦のために延期され、完成したのはようやく1927年であった。<遠藤雅子『オーストラリア物語』平凡社新書 2000 p.132>
 ニュージーランド 1642年、オランダ人タスマンが到達したが、ヨーロッパ人の入植の始まるのは、1769年のイギリスのクックがこの地をイギリス領と宣言してからである。1840年、イギリスは先住民のマオリ人との間でワイタンギ条約を結び、イギリス領に組み入れた。金鉱の発見と羊毛の生産が始まると移民が増加し、イギリス植民地として重要性を増し、1852年には自治を認められた。1893年には世界最初の女性参政権を実現したことでも知られる。1907年、自治領として独立が認められ、31年のウェストミンスター憲章でイギリス連邦に属する独立国となった。
 南アフリカ連邦  → 第14章 2節 世界分割と列強対立 南アフリカ連邦
 セシル=ローズ  → 第14章 2節 世界分割と列強対立 セシル=ローズ
g ファショダ事件  → 第14章 2節 世界分割と列強対立 ファショダ事件
h 南アフリカ戦争(ブーア戦争)  → 第14章 2節 世界分割と列強対立 南アフリカ戦争
 社会主義の活動(イギリス)イギリスの社会主義運動には、三つの系統がある。一つはマルクス主義の影響を受けた社会民主連盟(1881年、民主連盟として結成、1884年に社会民主連盟となる。)であり、それに対して漸進的な改革を主張したのがフェビアン協会(1884年結成)である。また、ケア=ハーディが組織した労働者代表の議会進出を目指す独立労働党(1893年結成)がある。1900年にこの三つの組織が合同して、労働代表委員会を結成した。1906年にここからマルクス主義を主張する旧社会民主連盟の人々が脱退し、残ったメンバーが労働党と名称を変えた。 
a フェビアン協会 1884年、少数のインテリ青年が設立した社会問題研究団体を母胎に、バーナード=ショウらがロンドンで設立。ウェッブ夫妻らが理論的指導者となり、知識人を中心とした社会主義団体に成長した。革命や暴力によってではなく、議会政治をつうじて社会改革を実行し、漸進的な社会主義の実現をめざした。イギリスの植民地拡大など、帝国主義政策に対しては多くは反対しなかった。1900年の労働代表委員会結成に参加し、さらに1906年の労働党に発展する。
Epi. フェビアン協会の名称の由来 フェビアンの名称は、第2回ポエニ戦争の時、カルタゴのハンニバルを持久戦術で苦しめ「待機将軍」と言われた古代ローマの将軍ファビウスの名前に由来する。ファビウスはイタリア本土に侵入したハンニバル軍を消耗させるべく、衝突を避けて持久戦に持ち込んだ。積極的に戦わないファビウスを市民は臆病とみて非難したため元老院は彼を解任し、替わった将軍がハンニバルに戦いを挑んだがカンネーの戦いで敗れてしまい、フェビアンの見通しが正しかったことが判った。このように積極的に打って出るのではなく、ゆっくりと(漸進的に)働きかけて犠牲を避けながら社会の改良を目指す、というウェッブ夫妻の精神を象徴する名称として協会の名称として採用された。 
b バーナード=ショー 19世紀末から20世紀前半に活躍したイギリスの文学者、劇作家、評論家。アイルランドのダブリンに生まれ、創作を通じて社会批評を展開した。1884年にはフェビアン協会に参加した。
c ウェッブ夫妻 イギリスの社会運動家で、1885年のフェビアン協会に参加。夫のシドニーと妻のベアトリスは1892年に結婚、夫妻ともにその理論的指導者となった。彼らは社会主義の立場に立つが、マルクス主義の革命による変革は否定し、言論と議会活動を通じての漸進的な社会主義の実現を目指した。シドニー=ウェッブはその後も労働党の指導者として活動、1918年には新綱領「労働者階級と新社会秩序」を起草し、労働党内閣では商務省や植民相を務めた。 
 独立労働党 イギリスの労働運動は、19世紀後半に労働組合の公認を勝ち取り、大きく発展した。はじめ自由党を支持し、その労働者階級のための立法に期待していたが、ブルジョア政党である自由党には限界があると感じ、労働者階級の政党結成の必要を主張する人々が現れた。炭坑夫であったケア=ハーディは坑夫組合の書記として活躍、1892年の総選挙で当選して議員となり、1893年1月に独立労働党を結成した。ケア=ハーディはわかりやすい言葉で労働者大衆に訴えて支持を広めた。さらに強力な社会主義政党の結成を目指して1900年に結成された労働代表委員会の中心となった。
 労働代表委員会 1900年、独立労働党社会民主連盟フェビアン協会の三つの社会主義団体が、より強力な労働者階級の利益を代表する政党を結成する目的で結成した組織。65の労働組合(組合員約50万人)が加盟、代表には後に労働党内閣の首相となるマクドナルドが就任した。後に社会民主連盟が脱退し、1906年の非マルクス主義の社会主義政党として労働党に発展する。
 社会民主連盟 イギリスのマルクス主義運動の組織。1880年代は不況が深刻化を背景に、労働運動と社会主義運動が活発になった。マルクスの「資本論」に傾倒したハインドマンは1884年に「社会民主連盟」を組織し、社会主義の宣伝を始めた。詩人のウィリアム=モリスらも参加したが、ハインドマンは独裁的な傾向が強く、反発が生じてまもなく分裂し、一部は1900年に労働代表委員会の結成に参加した。活動は短期であったが、イギリスの社会主義運動の先駆的役割を果たした。
 労働党 イギリス社会主義運動の団体である独立労働党社会民主連盟フェビアン協会・の三者は、1900年に労働組合を糾合して労働代表委員会を結成した(代表マクドナルド)。これが実質的な労働党の発足である。正式にはこのうち、マルクス主義をとる社会民主連盟が抜けて、残りの労働組合活動家が1906年に労働党と改称し、同年の総選挙で29名の当選者を出した。その主張は労働者の最低生活の保障、基礎産業の国有化などで、手段としての暴力革命を否定、議会を通じての漸進的な社会改良を主張する政党であり、「社会民主主義」と言われる。1918年の第4次選挙法改正などによって次第に党勢を拡大。1918年に「労働と新秩序」を綱領として掲げ、1924年に自由党との連立によるマクドナルド内閣を成立させた。1929年にはマクドナルドは第2次内閣を作ったが、世界恐慌に直面して打開できなかった。第2次大戦ではチャーチルを首相とした戦時内閣に加わり、党首アトリーは副首相として戦争遂行に協力した。ドイツ降伏後に連立を離脱し、1945年7月の総選挙では保守党と争い、重要産業国有化と社会保障制度の充実を掲げ、社会変革を求める民衆の支持を受けて大勝し、初めて単独政権アトリー内閣を成立させた。その後、戦後イギリスでは保守党と並ぶ2大政党として、ほぼ交互に政権を担当している。サッチャー、メージャーと続いた保守党政権に代わり1997年以降はブレアが労働党政権を率いていたが、その政策はかつての労働党とは全く異なり、経済政策ではサッチャー路線を継承しながら社会保障にも気を配るという姿勢をとり、外交ではイラク戦争などでアメリカのブッシュ政権に追随する姿勢が強かった。2007年6月、党首をブラウンに譲った。
 自由党内閣の改革 イギリスでは20世紀に入り、資本主義が高度に発展した反面、社会と政治のあり方での古い体制との矛盾が明らかになってきた。そのような古い体制の改革を主張する自由党が、1906年の総選挙で保守党に大勝し、はじめキャメル=バナマン、ついでアスキスが内閣を組織し、次々と改革法案を成立させた。まず1906年の労働争議法によるストライキ権の保護、労働者賠償法、学童給食法などが成立。1908年以降には養老年金法、住宅及び都市計画法、職業紹介所法などが続いた。最も重要なものが、1911年のアスキス内閣での国民保険法の制定である。また、アイルランド問題も一定の前進を見たが、第1次世界大戦の勃発で頓挫し、かえってアイルランドの反発が強まった。
a アスキス イギリスの自由党に属する政治家で、1908〜1916年の首相を務める。この間、国民保険法議会法の制定、アイルランド問題の解決など、積極的な改革を進めた。1914年に第1次世界大戦が勃発すると対独宣戦布告し、翌年挙国一致の連立内閣を組織したが、戦争指導のあり方で同じ自由党のロイド=ジョージなどと対立し、1916年に辞任した。大戦後、再び自由党党首となったが、その頃から自由党は労働党に押され、衰退した。
b 国民保険法 1911年、アスキス自由党内閣で、ロイド=ジョージ蔵相の提案で成立した。ドイツのビスマルクの社会政策で実施した社会保険制度をもとに、健康保険と失業保険を含む社会保険を実現させた。健康保険の掛け金は、被用者と雇い主および国家が4対3対3で負担し、被用者は病気の際に無料で医療を受けられることとなった。失業保険も同様に三者の拠出でまかなわれ、失業中も一定期間は保険が給付がされることとなった。フェビアン協会など社会主義者は被用者の負担に反対したが、社会保障制度の大きな前進と言える。なおその後イギリスの社会保険制度は見直しが進められ、1946年のアトリー労働党内閣で「国民保険法」は改正され、健康保険・失業保険の他に、出産給付、退職年金、寡婦給付などが定められ、イギリスの社会保障制度が整備されて福祉国家が実現し、いわゆる「ゆりかごから墓場まで」の最低生活の保障が実施される。
c ロイド=ジョージ 20世紀前半のイギリスの代表的政治家の一人で、自由党に属し、第1次世界大戦の途中、連立内閣を組織、戦後のパリ講和会議ではアメリカのウィルソン、フランスのクレマンソーとともに指導的な立場に立った。彼は27歳で下院議員に当選、ジョセフ=チェンバレンの帝国主義政策に反対し、南アフリカ戦争を非難した。1908年、自由党のアスキス内閣が成立すると蔵相に任命され、国民保険法議会法などの制定を推進した。第1次大戦が始まるとアスキス連立内閣の軍需相となり、ついで1916年から22年まで挙国一致連立内閣の首相を務めた。パリ講和会議のイギリス代表として活躍し、対ドイツ強硬論を軸とするヴェルサイユ体制をつくりあげた。しかし大戦後は労働党に押されて自由党は後退し、権勢を失うこととなった。また1922年には懸案のアイルランド問題に一応の決着を付け、アイルランド自由国の自治を認めたが、北アイルランドはイギリス領として残したため、問題はその後も残ることとなった。1945年死去。
d  議会法 1911年、アスキス自由党内閣のもとで成立した、イギリス議会の上院(貴族院)の権限を削減し、下院(庶民院)の優位を確立させた法律。議院法ともいう。以下の二点がポイント。
 1)上院は予算案を否決、または修正することは出来ない。
 2)その他の法令も、下院が3会期引きつづき可決すれば、上院が否決しても法律として成立すること。
これによって、貴族のなかから選出される上院の権限は制限され、下院の優越を実現させた。同時に下院議員の任期を七年から五年に短縮し、さらに下院議員に歳費(400ポンド)を支給することが決議された。これによって議会の近代化が達成されたと言える。議会法成立のきっかけは、アスキス内閣の蔵相ロイド=ジョージが立案した予算案が、ドイツとの建艦競争に必要な財源を高額所得への税率や相続税の増加によって得ようとしたことに対して、貴族階級の拠点である上院が反対したことによる。アスキス内閣は1910年、異例の同一年に2回の総選挙を行っていずれも大勝し、世論の支持を背景にこの「人民予算」を成立させ、さらに一気に上院改革を実現させたのだった。 
 アイルランド問題(20世紀)第1次世界大戦中の独立運動:1801年のイギリスのアイルランド併合以来、19世紀のアイルランド問題は、イギリスにとって「のどに刺さった骨」として未解決のまま推移していた。20世紀に入り、1905年にはアイルランドの独立をめざすシン=フェイン党が結成された。1914年にイギリス議会で成立したアイルランド自治法も、第1次世界大戦の勃発によって実施が延期されることなった。延期に反発したシン=フェイン党は1916年の復活祭の日に武装蜂起(イースター蜂起)し、ダブリンで激しい市街戦となったがイギリス軍によって鎮圧された。次いで1918年のアイルランド総選挙でシン=フェイン党が大勝すると、1919年再び独立を宣言、それを認めないイギリスとのあいだで「英・アイ戦争」となった。アイルランド側はゲリラ戦でイギリスに抵抗、陰惨なゲリラ戦が続き、1921年7月ようやく休戦した。
実質独立と北アイルランドの分離:イギリス(ロイド=ジョージ内閣)は同1921年12月にイギリス=アイルランド条約を締結し、南部26州を自治領(カナダと同じでイギリス連邦に留まる実質的独立)とした。しかしプロテスタントの多い北部アイルランドのアルスター州6州はカトリックによる支配をきらったことと、ベルファーストなどの都市の工業化が進んでいたのでイギリス経済との分離を嫌った資本家層が反対したため、イギリス連合王国に留まることとなった。南部アイルランドのシン=フェイン党は分離独立を認める勢力とあくまで全アイルランドの独立をめざす勢力が対立し、内戦となった。この内戦で、独立運動の指導者のマイケル=コリンズも戦死した。
アイルランド自由国からエールへ:1922年にようやく選挙が行われ、自由国支持派が多数を占めてアイルランド自由国が成立した。全島独立を主張していたデ=ヴァレラはシン=フェイン党から分離してアイルランド共和党を結成、イギリス連邦からの分離を主張して1932年の選挙に勝ち、第2次世界大戦から戦後にかけて同国を指導、1937年には新憲法を制定して国号にゲール語のエールを採用した。
第2次世界大戦後の北アイルランド紛争:第2次世界大戦後の1949年にはイギリス連邦から離脱しアイルランド共和国となった。一方イギリスに留まった北アイルランドでは多数派のプロテスタントと少数派のカトリックが対立、カトリック勢力はアイルランドとの合併をめざし、1969年にアイルランド共和軍(IRA)を結成し、70〜80年代に激しいテロ攻勢を行い今なお北アイルランド紛争は深刻の度合いを深めた。ようやく1989年に労働党のブレア政権が成立して和平の機運が進み、和平が成立したがIRAは武装解除に応じておらず、依然問題はくすぶっている。 
a アイルランド自治法 アイルランド自治法は何度か提案されながら、その都度議会で否決されてきた。グラッドストンの死後、1912年にアスキス自由党内閣が第3回の自治法案を提案、内容はほぼ前回と同じで、再び上院の反対で否決される。アイルランド自治法はようやく1914年に可決されたが、おりから第1次世界大戦が勃発、実施は戦争終結まで延期されることになった。第1次世界大戦中の1916年にシン=フェイン党が自治法の実施延期に反発してイースター蜂起を行い、さらに19〜21年の英・アイ戦争が勃発した。イギリスのロイド=ジョージ内閣が1920年にアイルランド統治法を成立させ、北アイルランド除く26州に自治を認め、21年イギリス=アイルランド条約が締結されてようやく自治が実現することとなった。しかしシン=フェイン党はその受入をめぐって分裂し、内戦に突入、選挙で受け入れ派が多数となってようやく1922年にアイルランド自由国が成立した。しかし、プロテスタントが多く、工業化が進んでいるためにイギリスと一体である法が有利であるとする人々の多い北アイルランドはイギリスとの連合王国に留まった。 
b シン=フェイン党 第1次世界大戦から戦後にかけて、アイルランド独立運動の中心となった民族主義政党。大戦中の1916年にはイースター蜂起を実行し、戦後の18年には独立を宣言。運動の分断を図るイギリスのロイド=ジョージ内閣が北アイルランドを分離して除き、それ以外の自治を認めたため党は分裂し内戦の悲劇となった。
アイルランドの独立を主張する新聞を発行していたグリフィスが、1905年に結成した政党。シン=フェインとは「われわれ自身で」という意味のアイルランド語。シン=フェイン党は、独立の実現のためには武力を行使することも辞さないと言う方針を出した。彼らは第1次世界大戦の最中、1916年にイギリス政府のアイルランド自治法実施延期に反発して、イースター当日、ダブリンで挙兵した。これがイースター蜂起である。蜂起は鎮圧されたが、シン=フェイン党は支持を広げていく。デ=ヴァレラの指導のもと、1918年の総選挙で圧勝し、独立を宣言、それを認めないイギリスとの間で独立戦争(英・アイ戦争)を展開、21年に講和が成立してイギリスは北アイルランド以外をアイルランド自由国として自治を認めた。その受入をめぐってシン=フェインとは分裂し内戦となったが、22年の選挙で受け入れ派が勝利してアイルランド自由国が成立した。しかしデ=ヴァレラは全島独立を主張してアイルランド共和党を結成し、分離ししたためシン=フェイン党は勢力が衰えた。現在は北アイルランド・カトリック勢力のアイルランド共和軍(IRA)の政治部門として存続している。 → アイルランド問題(20世紀)
c イースター蜂起 第1次世界大戦の最中の1916年、アイルランドで起きたイギリスからの分離独立を目ざす武装蜂起。イギリス政府がアイルランド自治法の実施を延期したことに反発した、シン=フェイン党が中心となって蜂起したが、鎮圧された。イギリスが対独戦争にかかわっていた1916年の復活祭=イースター明けの2月24日、シン=フェイン党に率いられたアイルランド人男女約1000名が、ダブリン市内で蜂起し、アイルランド共和国の独立を宣言した。しかし短期間でイギリス軍によって弾圧され、首謀者は処刑された(首謀者の一人デ=ヴァレラは母がアメリカ人でアメリカ国籍も持っていたので処刑を免れた)。そのためかえってイギリスに対する反感は強まった。→ アイルランド問題(20世紀)
ウ.フランス
 帝国主義政策 ナポレオン三世の第2帝政期に進められたインドシナ進出は、第3共和政期の1884年、清仏戦争でベトナムの保護国化を確定させ、1887年にインドシナ連邦を成立させて完了した。フランスのアフリカ進出に関しては次節参照。 
a 第三共和政憲法  →第12章 2節 フランス 第三共和政憲法
b インドシナ  
c アフリカ  →第14章 2節 フランスのアフリカ進出
d 銀行の資本力  
 露仏同盟  →第14章 2節 露仏同盟
 英仏協商  →第14章 2節 英仏協商
 共和政の危機 フランス第三共和政の下で、普仏戦争敗北からの国力の回復、国際社会への復帰を目指し、1880年代までに大資本と結んだ共和派による政治がほぼ確立した。しかし、普仏戦争で失ったアルザス=ロレーヌ地方の奪回など、対独強硬論を唱える右派と軍部の台頭、一方の社会主義や労働運動の進出があり、共和政は左右双方からの攻撃を受けて常に動揺した。また政党政治も未成熟で、小党が乱立して安定せず、議員の汚職事件などの腐敗もあって権威を失い、19世紀末には大きな危機に陥った。そのような中で共和政を否定して軍部独裁政権の樹立をめざすクーデター事件である1889年のブーランジェ事件、パナマ運河会社の再建をめぐる汚職事件である1892年のパナマ事件などが続いた。1894年に始まるドレフュス事件では、軍部と右派の陰謀を国民的な世論で抑え、共和政体を維持することに成功した。
a ブーランジェ事件 1889年、第三共和政に対する軍部・右派からのクーデター未遂事件。陸軍大臣だったブーランジェ将軍は、1887年に当時ドイツ領だったロレーヌ地方でフランス人が国境侵犯の疑いでドイツ側に拉致された事件(シェネブレ事件)が起きると、外交交渉による解決をはかる首相・外務省に対して、即時軍事行動による報復を唱え、閣内不一致で罷免された。一斉に将軍支持の世論が高まり、日頃対独復讐を唱え、軍備拡張を主張している王党派(ブルボン王朝の復活を主張)やナポレオン派(ナポレオンのような強力な国家指導者の出現を求める一派)などが愛国者同盟を結成し、共和政府打倒に動き出した。また急進的な労働組合主義、アナーキスト(ブランキの系統)らは議会政治を否定する立場から共和政を倒し軍事独裁政権の樹立を支持した。当時は共和政政府の混乱や腐敗もあって、大衆はブーランジェ将軍を救国の英雄と期待していたので、同年に行われた選挙で多くのブーランジェ派(ブーランジェスト)が当選し、街頭では共和政府打倒、独裁政権樹立を叫ぶ群衆のデモが盛んに行われた。1889年にはクーデタの決行寸前まで行ったが、政府はコンスタン内相がブーランジェ将軍を国家転覆の陰謀の容疑で告発することで対抗し、ブーランジェは突然ベルギーに亡命したため、運動は急速に衰退した。
Epi. 愛人に殉じたブーランジェ将軍 将軍にはマルグリット=ドゥ=ボムマン夫人という愛人がいた。将軍は陸軍大臣を罷免された後、クレルモン=フェランの地方司令官に左遷されたが、謹慎中であるにもかかわらず司令部近くの「マロニエの家」という旅館で、夫人と逢い引きを重ねていた。将軍には妻がいたが、離婚協議中であり、夫人にももちろん夫がいたが、二人は深く愛し合っていた。将軍が亡命先のブリュッセル、ロンドン、ジャージー島にも密かに夫人はついて行った。その間、夫人は肋膜炎で病に伏す。将軍は政治的な野心と夫人への愛情の板挟みで悩んだが、ついに愛を選び、夫人の死のあとを追い、1891年9月30日彼女の墓の前で拳銃自殺した。将軍のスキャンダルによって、ブーランジェ派の反共和政の運動は急速にしぼんでしまった。<大佛次郎『ブゥランジェ将軍の悲劇』1935 現在は大佛次郎ノンフィクション全集8(朝日新聞社)に収録>
※大佛次郎の警鐘 大佛次郎は昭和5年の『ドレフュス事件』に続いて、小説であるが史実に忠実に、将軍のクーデター事件をとりあげ、『ブゥランジェ将軍の悲劇』として雑誌『改造』に発表した。それは昭和10年、日本でもまさに議会政治が危機に瀕し、軍部が台頭するという時期であった。そして翌年には二・二六事件が勃発する。大佛次郎はフランスという舞台を借りて、軍部独裁への警鐘を鳴らしたのだった。それはまた議会政治の危機、軍国主義的な風潮の復活という現在においても、十分な警鐘となっている。ブーランジェ将軍が独裁者になりきれずに自滅したので、フランス共和政の危機は救われたが、普仏戦争の敗北という中でフランス国粋主義に火がついたことは事実だ。フランスではいわばボヤのうちに消し止められたわけだがが、第1次世界大戦にヒトラーが現れたようなことがフランスで起こらなかったという保障はない。 
パナマ事件 1892〜93年、第三共和政のフランスで起きた、パナマ運河会社をめぐる汚職事件。スエズ運河で成功を収めたレセップスは、パナマ運河会社を設立して1880年に開鑿に着手したが、設計のミスや地形、熱帯雨林の気象に阻害されて工事が進まず、資金不足に陥った。会社は88年に富くじ付き社債の発行を政府に申請し、議会の採決を受けて募集に入ったが、結局買い手は集まらず、資金募集に失敗、破産が宣告されてしまった。そのため以前の出資者に大きな損害が生じ、会社は苦境に立つこととなった。1892年、運河会社から国会議員(その中にはクレマンソーも含まれていた)の多数に賄賂が送られていたことが暴露され、検察が疑獄事件として捜査に乗り出し、国会でも大問題となった。フランス政界を揺るがすスキャンダルになり、ブーランジェ将軍事件後も続いていた共和政反対の右派を勢いづかせることとなり、第三共和政の腐敗に対する国民の批判が高まった。会社と政治家の間を取り持った人物が不審死を遂げるなど、真相は結局明らかにならず、裁判の結果は政治家はほとんど無罪となり、贈賄側のレセップス親子は有罪となった。<文学作品であるが、大佛次郎『パナマ事件』に、レセップスのスエズ運河とパナマ運河建設、さらにパナマ事件の詳しく経過が描かれている。1959発表。現在は朝日新聞社刊の大佛次郎ノンフィクション全集9>
Epi. パナマ運河事件の教訓 パナマ事件は19世紀末のフランスで起こった贈収賄事件であるが、生まれて間もない議会政治にとって、大きな危機であった。それだけではなく、現代日本でも後を絶たない、疑獄事件と政治不信という連鎖を考える上で、まだまだ教訓となる事件である。またスエズ運河会社はいわば「国策会社」であり、政治家が介在する「公共事業」がいかに不正の温床になったか、という歴史の教訓でもある。以下、大佛次郎がこの事件を通じて現代の我々に語りかけている言葉を聞いてみよう。
「パナマは単純なスキャンダルではない。共和制の基礎に動揺を与えた性質のものだった。数度の革命を重ねたフランスの共和政体が、まだ未熟で、弱体であったことは、まぎらしようもない。普通選挙制は、野心家の前に極めて短い出世の道を開いた。折角の人民主権が政界をレヴェルの低い野心家の闘技場とした。それと知らなかった世間は、ドライエの暴露を聴いて、ただ驚いたのである。百五十人の議員に、三百万フランの金が撒かれた。政策がそれで決定される。一つの法案、一つの国会演説、一つの投票に金が支払われているのだろうか? ・・・数ヶ月間、新聞は政治家の破廉恥な行為の摘発で、熱狂的に競争を続けた。大衆は暴露記事が大好きである。平素立派だと思われていた政界の名士や先生方が、庶民の自分たち以下の下賎なものに見えて来る痛快さがある。・・・パナマ事件は権威に対する尊敬を人心から失わせた。・・・」このような不信感は、個々の政治家にたいしてに止まらず、制度自身に向けられていく。「(議会)制度が人間を腐敗させたのです。」「議会政治そのものが処刑に値する。」といった論調が生まれてきた。<大佛次郎『パナマ事件』1959 大佛次郎ノンフィクション全集9 朝日新聞社刊 p.347>
b ドレフュス事件

1895年1月5日 軍刀をへし折られるドレフュス(左側に立つ人物))
1894年、第三共和政のフランスで、ユダヤ系のドレフュス大尉がドイツのスパイの嫌疑をかけられ、本人は無罪を訴えたが、軍法会議で有罪となり、無期流刑となった。この裁判をめぐってフランスは国論が二分され、判決にユダヤ人に対する差別があるとして再審を求める共和派と、判決を支持する軍部・教会などの王党派が激しく議論を戦わした。中でも作家エミール=ゾラが1898年に『余は弾劾す』を発表してドレフュスを弁護した。ようやく1899年に再審となったが、再び有罪を宣告され、大統領特赦で出獄した。結局、1906年、ドレフュスは無罪となった。19世紀末のフランスにおいても、反ユダヤ主義が根強く存在することを示した事件でもあった。 
ドレフュス事件の意義 ドレフュス事件は、フランスの第3共和政の共和政治を脅かす事件であった。当時フランスは、1889年のブーランジェ事件、1892年のパナマ事件などが続き、共和政治に対する不信が強まり、一方で普仏戦争の敗北でドイツに奪われたアルザス・ロレーヌの奪回を叫ぶ国家主義の声も強まっていた。そのような中で軍部によって無実のユダヤ系軍人がドイツのスパイであるとして、正義と自由、平等が踏みにじられたのがドレフュス事件であった。10年以上の年月を要したがドレフュスの無罪は確定し、フランスの共和政は守られることとなった。
ユダヤ人問題とドレフュス事件の影響 根強いカトリック教国であるフランスでは、ユダヤ人はキリストを裏切ったユダの子孫という単純な憎悪があった。他のヨーロッパ諸国と同じく、中世から近代に至るまで、ユダヤ人に対する差別意識である反ユダヤ主義が続いていた。フランス革命よって、自由・平等・博愛の理念からユダヤ人の人権も認められ、差別は否定されたが、民衆の中の差別感は残っていた。普仏戦争後、ユダヤ人でフランスに移り住む人々も増え、第3共和政のもとでの産業発展には彼らの勤勉で高い能力が大きな力になっていた。特にユダヤ系の金融資本や産業資本が利益を蓄え、彼らは共和政を支持する勢力でもあった。しかし都市の下層民や農民はそのようなユダヤ人の成功に反発する心理も強くなっていた。ドレフュスを有罪に追い込んだのは軍の上層部だけでなく、民衆の反ユダヤ感情がそのエネルギーであった。このようなフランスのみならずヨーロッパ全域での反ユダヤ感情の強さを、ドレフュス事件で身を以て感じたのがハンガリー出身でジャーナリストとして当時パリに滞在していたユダヤ人、ヘルツルであった。かれはこの事件でショックを受け、ユダヤ人の安住の地をヨーロッパ以外に見いだそうという考えを抱くようになり、その行き先としてユダヤ人の故郷であるシオンの地、パレスチナをめざすシオニズム運動を開始する。
事件の経緯 1894年夏、フランス参謀本部の諜報部がドイツ大使館に送り込んでいたスパイが盗み出したメモの中に、フランス陸軍の誰かが書いたと思われる機密情報があった。驚いた参謀本部は直ちにその犯人捜しに乗りだしたところ、参謀本部付きの砲兵大尉アルフレッド=ドレフュスが浮かんだ。疑われた理由は彼がアルザス生まれのユダヤ系であったことだった。参謀たちのユダヤ人に対する軽蔑がその判断を濁らせた。ひそかにドレフュス大尉の筆跡を取り寄せてメモと比較したところ参謀たちは一致していると断定した。10月13日ドレフュス大尉は参謀本部に出頭したところを反逆罪で逮捕された。大尉は強く否定したが、事件をスクープした反ユダヤ系の新聞が「ユダヤ人の売国奴、逮捕される!」と報道した。12月の裁判で有罪が確定し、ドレフュスの軍籍は剥奪されることとなり、翌95年年1月5日、練兵場で徽章ははぎ取られ、軍刀はへし折られた。見守る群衆はドレフュスに「ユダヤ人!売国奴!殺せ独探!」と罵声を浴びせた。ドレフュスは終身刑として南アメリカのフランス領ギアナ沖合にある「悪魔島」に送られた。これで一件落着と思われたが、新たに参謀本部情報部長となったピカール中佐は別なルートからエステラージーという少佐がドイツ大使館の諜報員と連絡を取っていることを嗅ぎ出した。ピカールは密かに再調査を進め、その筆跡を入手して以前の鑑定人に見せたところ、メモと同一だと答えた。ドレフュスの無実を確信したピカールはその結果を上層部にあげたが、陸軍大臣以下の軍首脳は軍事裁判の権威を守るためとしてそれを抑えつけてしまった。一方、ドレフュスの妻のリュシーと弟はドレフュスの無罪を信じて奔走し、弁護士や政治家に訴えた。新聞の中でも「オーロール」が取り上げた。ピカール中佐は良心がいたたまれず、真相をドレフュスの弁護士に明かす。驚いた弁護士が再審を請求し、エステラージーも尋問されることとなったが、すでに国外に逃亡していた。こうして裁判は一般の関心をひくこととなり、新聞が両派の主張を載せ世論が二分されることとなった。共和主義と自由主義として知られるクレマンソーが主催する「オーロール」紙が、1898年1月13日に作家エミール=ゾラの署名でフォール大統領宛の公開書簡の形で「余は弾劾す(J'accuse!)」と題する記事を掲載した。それはドレフュスの無罪を主張し、陸軍当局が証拠をでっち上げたこと、上層部がそれを謀議したこと、軍事裁判も真犯人を秘匿したことなどを激しく告発したものであった。右派や反ユダヤ系新聞は激しく反論し、ゾラは軍に対する誹謗中傷の罪で告発されてしまった。その裁判はドレフュスの無罪を明らかにする機会でもあったが、結果は反ドレフュスの世論が根強く、かえってゾラは有罪とされてしまった。ゾラは言論活動ができなくなることを避けて、ロンドンに亡命した。こうしてドレフュス事件は再び葬られた。しかしその後、ドレフュス有罪の証拠をねつ造した疑いのある軍人が自殺するなどの疑惑が浮上し、再審の声が強まり、唯一の証拠である密書の筆跡鑑定が再度行われた結果、ドレフュスではなくエステラージーのものであることが明らかになった。1899年6月5日、ドレフュスは5年にわたる悪魔島の禁固を解かれ、再審のためにフランスに戻った。8月にレンヌで軍法会議の再審が開始され、やつれたドレフュスが出廷した。しかし、軍は94年の参謀本部の責任者メルシエ将軍が出廷し、上層部の謀議を否定した。その判決の日、ドレフュスの弁護士ラボリが暴漢に銃撃され大けがするという事件も起きる。結局、再審の判決も2対5で有罪となり、情状酌量で禁固10年という判決であった。ドレフュスは再び絶望の淵に沈み、収監された。しかし、政府内の共和派はドレフュス救済に動き、再審請求を取り下げること(つまり有罪を認めること)を条件に、大統領特赦が出されることになった。9月19日、ドレフュスは特赦によって出獄した。彼はなおも自分が潔白であることを訴えると声明したが、世間はもはやドレフュス個人への関心は薄れ、「国家における軍部の地位の問題と書き替えられ、政教分離の問題となって、近代の政治の重要な宿題となった。問題がここまで広がってくるとドレフュスの名は、海にそそいでから川が見えなくなるように、人の注意から消えたのである。」ようやく1906年になって無罪であったことの判決が出され、軍籍に戻り、少佐に昇進したうえで、09年6月に引退した。第1次世界大戦が起きると砲兵中佐としてヴェルダン戦に参加したという。<以上、大佛次郎『ドレフュス事件』1930 現在は大佛次郎ノンフィクション全集7に収録(朝日新聞社刊)による。>
c ゾラ エミール=ゾラは、19世紀のフランス自然主義文学を代表する作家。『居酒屋』『ナナ』などの作品で、社会の現状をみつめた。1898年にドレフュス事件でドレフュスを弁護する『余は弾劾する』という文を新聞「オーロール」に発表し、軍部侮辱の罪で裁判にかけられ、有罪判決を受ける。執行される前に、友人らの説得で言論活動を続けるためにロンドンに亡命した。 
d 『余は弾劾す』 フランスでドレフュス事件に際し、1898年1月13日に、エミール=ゾラが新聞「オーロール」紙上に発表した、ドレフュスを弁護し、軍法会議の不正を糾弾し、軍部・右翼の反ユダヤ主義を告発した文章。『余は弾劾す!』(J'accuse!)と題した文章は、オーロール誌の主筆、クレマンソーが掲載を決定し、ときの大統領フォールに宛てた手紙という形態をとり、細部にわたって軍部を告発している。大きな反響を呼んだが、軍部および右派の反発を受け、ゾラは軍部を侮辱したかどで告発され有罪とされた。<その全文は、大佛次郎『ドレフュス事件』1930 現在は大佛次郎ノンフィクション全集7に収録(朝日新聞社刊)に収録されている。p.69-87>
e クレマンソー  → 第15章 2節 クレマンソー
f 反ユダヤ主義 1870年代〜80年代に生まれた、ユダヤ人に対する排斥論。アンチセミティズムともいう。ヨーロッパのキリスト教社会では、ユダヤ教の信仰を守るユダヤ人に対する迫害が常に発生した。特に中世後期、ローマ教会の権威が動揺すると、教会による異教徒に対する迫害は強くなり、ユダヤ人への憎悪感が生まれた。この宗教的反ユダヤ感情は、次第に人種的な差別感にも転じ、黒死病(ペスト)の流行をユダヤ人の陰謀とするなど、社会の敵役とされるケースが多くなった。フランス革命後はユダヤ人にも市民権が認めれるようになったが、ユダヤ人が経済的に成功すると、それに対する反発が貧困層から強くなり、差別意識はさらに強くなった。19世紀の初頭にはナショナリズムの勃興とともに、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアでそれぞれ国内の異民族としてユダヤ人を排斥する論調が強まった。フランスで1894年に起こったドレフュス事件も軍部・右翼による反ユダヤ主義が背後に存在した。ロシアでは、アレクサンドル2世の暗殺(1881年)をユダヤ人の犯行ときめつけ、1万5千人のユダヤ人が殺された。それ以後、ポグロムという組織的なユダヤ人迫害が、20世紀の初めまで続いた。さらに作曲家ワグナーは論文と音楽を通してアーリア人の優越を主張し、ユダヤ人を攻撃した。このような流れのなかで出現したのがナチスのユダヤ人迫害と絶滅計画の実行(ホロコースト)であった。 → シオニズム
 ヘルツル ヘルツル(1860〜1904)はハンガリーのブダペスト生まれのユダヤ人で、1891年にウィーンの新聞の特派員となり、ドレフュス事件に遭遇する。彼はユダヤ人はヨーロッパ社会に同化できると考えていたが、パリで見たのは「ユダヤ人を殺せ!」と叫ぶフランス人の姿であった。反ユダヤ主義の根強さにショックを受けたヘルツルは、ユダヤ人問題の解決には自らの国を建設するしかない、と考えるようになった。1896年には『ユダヤ国家』という小冊子を書きユダヤ人国家建設の道筋を示したが、ここで示された、ユダヤ人の手によるユダヤ人の国家建設、という主張をシオニズムといい、ヘルツルはその指導者となった。1897年スイスのバーゼルで初のシオニスト会議を開催、ヘルツルを議長とする世界シオニスト機構が生まれた。ヘルツルはオスマン帝国のスルタンに直接働きかけるなど活動を続けたが、過労から肺炎を起こし44歳で死去。彼の狙いはすぐには実現しなかったけれども究極的にはイスラエル国家の建設に通じることとなった。現在もイスラエルでは「建国の父」と仰がれ、イェルサレムを見下ろすヘルツル山と呼ばれる小高い丘に眠っている。<上田和夫『ユダヤ人』1986 講談社現代新書 p.180-182>
 シオニズム  →第15章 3節 シオニズム
 社会主義政党の結成  
a サンディカリズム 労働組合主義」の意味。労働組合を基盤とする労働者の直接行動(ゼネストなど)によって資本主義体制を倒し、議会制に依存しないで、生産消費組合を結合させた社会の建設を理想とした。19世紀末のフランスに起こり、イタリア・スペイン・アメリカの労働運動に影響を与えた。議会政治を否定する考えはアナーキズムと結びついて、アナルコ=サンディカリズムとなった。第一次大戦後はスペインを除いて衰退した。 
 労働組合  
c フランス社会党 1905年に結成された第2インターナショナルに参加するマルクス主義政党。正式名は「労働者インターナショナル=フランス支部」(SFIO)で、統一社会党とも言われる。クレマンソー急進社会党(急進共和派ともいわれ、社会主義政党ではなく、共和政治と私有財産制度を守り、反教会、反共産主義を掲げる中道右派の政党)と違ってマルクス主義とそれに近い党派を統一して結成された。サンディカリスムの勢力は参加しなかった。結成の中心人物ジャン=ジョレスは、第1次大戦前の国際危機に際しては反戦運動を展開したが、1914年に右翼に暗殺された。大戦後の1920年、左派が離脱してフランス共産党を結成、社会党は反共勢力となった。ナチズムの膨張に対しては、共産党と共に反ファシズム人民戦線を結成し党首ブルムが内閣を組織した。しかし第2次大戦でドイツ軍に占領され、ペタン政権が成立するとそれへの専権付与を承認した。戦後は共産党、MRP(人民共和派)とともにド=ゴールの臨時政府(三党政府)に加わったが、第四共和政の共産党とド=ゴール派の対立の中で次第に党勢を失った。1960年代も低迷を続けたが、1971年にミッテランが書記長となって党を再建(新生社会党)し、党勢回復に努め、共産党などの革新勢力の連携に成功した。ド=ゴール後のフランス政治の停滞が続く中で、1975年の大統領選挙でミッテラン政権を誕生させた。 
 ジャン=ジョレス フランスの社会主義者。ドレフュス事件ではドレフュスを擁護する側で活躍した。『ユマニテ』紙を創刊するなど言論界で活動した後、1905年のフランス社会党(統一社会党)結成の中心人物として動いた。ジョレスの社会主義は暴力革命の否定など、穏健で理想主義的なものであったので、社会党内のマルクス主義派とは対立した。また戦争には一貫して反対であったが、そのために第1次世界大戦直前の1914年、狂信的な国粋主義者によって暗殺されてしまった。その後社会党も戦争支持に転換、さらに大戦後の1920年にはマルクス主義派が脱退してフランス共産党を結成することとなる。
d 政教分離法 フランスでは、フランス革命で国家としてカトリック教会から分離したが、ナポレオンは1801年にローマ教皇ピウス7世との間で宗教和約(コンコルダート)を結び、フランスはカトリックに戻った。しかし、19世紀を通してブルジョア共和派や社会主義者による国家の宗教からの中立を求める声が強くなり、1905年の政教分離法でコンコルダートは破棄され、信教の自由の保障、公共団体による宗教予算の廃止、教会財産の信徒への無償譲渡などが定められた。
Epi. フランスでもめた私学補助金 フランスでは1905年の政教分離法で信仰の自由が保障される一方、教会は国家の特別な保護を受けないことが定められた。第二次世界大戦後の第四共和政の下で、人民共和派(キリスト教系保守中道政党)主体の政府(プレヴァン内閣)が、すべての小学校の児童に一人あたり年間3000フラン(旧フラン)を支給するという法案を提出した。社会党は公立小学校以外の私立小学校(多くはキリスト教系)への補助は政教分離法に違反するとして反対した。議会はこの法案をめぐって対立し、最終的には成立したが、内閣は倒れることとなった。<渡辺啓貴『フランス現代史』1998 中公新書 p.53>
エ.ドイツ
 ヴィルヘルム2世 ドイツ帝国ホーエンツォレルン家第3代の皇帝。ヴィルヘルム1世の孫で母はイギリスのヴィクトリア女王の娘。1888年、29歳で即位。ビスマルクを辞任させ、1890年親政を開始。また、外交政策ではビスマルクのフランスを孤立させるための親英・親露路線を改め、海軍の大拡張を行ってイギリスと対抗し(建艦競争)、ロシアとは独露再保障条約を更新せず、バルカン方面への進出(パン=ゲルマン主義)を行って対立した。フランスとはモロッコへの進出をもくろみ2度に渡るモロッコ事件タンジール事件アガディール事件)を引き起こした。その世界政策は「新航路」といわれ、さらに3B政策をかかげて近東への勢力拡大を図った。このようなヴィルヘルム2世の帝国主義政策は、イギリス・フランス・ロシアとの対立を深め、第1次世界大戦を引き起こす原因を作った。第1次大戦で敗北し、ドイツ革命が起こって退位し、オランダに亡命した。
Epi. デーリー・テレグラフ事件 1908年10月28日付のロンドンの新聞デーリー・テレグラフにヴィルヘルム2世の会見記が掲載された。皇帝はこの会見記で、ブール戦争の時、露仏両国から干渉しようと持ちかけられたが断ったとか、同じくブール戦争の時、私が作戦計画をイギリスに教えたのだとか、ドイツが行っている艦隊建設は日本を仮想敵国としたものだとか発言し、それらがことごとく記事になった。皇帝は建艦競争で気まずくなったイギリスとの関係を修復するつもりだったらしいが、これらの発言はドイツ国内でも国外でもひんしゅくを買い、皇帝は当時の宰相ビューローに対して、憲法を尊重して発言を慎む旨を誓約させられた。 
a ビスマルク  →第12章 2節 ビスマルク
 独露再保障条約  →第12章 2節 ビスマルク外交 独露再保障条約
 社会主義者鎮圧法  →第12章 2節 社会主義者鎮圧法
d ビスマルク辞任 皇帝として親政を敷こうとしたヴィルヘルム2世にとって宰相ビスマルクは煙たい存在となった。まず、労働者保護の社会政策を打ち出し、社会主義者鎮圧法の改正を進めようとしたビスマルクと対立、1890年の選挙でビスマルクの与党保守党が敗れるとビスマルクは辞表を提出、皇帝はそれを受理した。これによって1862年以来30年近く続いたビスマルク時代は終わった。 
e 世界政策 世界政策は世界分割を策する帝国主義諸国の政策を指す普通名詞だが、特にドイツのヴィルヘルム2世が展開したイギリス、フランスに抗して帝国主義的進出を図ろうという第1次世界大戦前のドイツの政策を言うことが多い。ヴィルヘルム2世自身が1896年の演説で、「ドイツ帝国は世界帝国となった」と演説したことに由来する。第2次世界大戦後のアメリカも、世界政策を展開している。 → ドイツの世界政策
f 海軍の大拡張 ドイツ帝国はヴィルヘルム2世の世界政策のもとで、イギリスに対抗できる海軍力の建設を進めた。1898年の第1次と、1901年の第2次の建艦法で、艦隊建造予算は単年度ではなく数年にわたる予算として決定し、議会の抵抗を抑えた。このドイツの海軍拡張は当然イギリスを刺激し、両国による激しい建艦競争が展開された。
a イギリス  
ドイツの国家主義 19世紀以来、国民国家形成が遅れたドイツでは「遅れてきた国民」として立場を脱するため、知識人の中に、イギリス・フランスの文明を「堕落した文明」としてとらえ、その物質主義に対する精神主義、合理主義に対してロマン主義を掲げる風潮が強くなったきた。普仏戦争の勝利に自信を持ったドイツでは、ビスマルク時代に軍国主義の国家体制を創り上げ、そのうえにヴィルヘルム2世が親政をとることとなった。イギリス人チェンバレンの著作の影響を受けたヴィルヘルム2世はアーリア人(またはチュートン=ゲルマン人)の優秀性を信じ、ユダヤ人・黒人を劣等民族と見なし、またアジアで台頭した日本に対しても警戒し、アジア人の脅威を「黄禍」ととらえていた。国内では台頭してきた労働運動、社会主義運動に対する資本家層の不安が強まった。そのような中で20世紀にはいると、ドイツのナショナリズムが異常に高まる背景となった。 
 ジーメンス社  電力 コンツェルン クルップ社
 社会主義運動の活発化(ドイツ)  
a ラサール  → ラサール
b ベーベル  → ベーベル 
c ドイツ社会民主党 1890年、社会主義者鎮圧法が撤廃された年に、ドイツ社会主義労働者党は合法化され、「ドイツ社会民主党」と改称して急速に党勢を増し、その年の総選挙では142万票を獲得、35議席を得た。1891年にはエルフルト綱領を採択して、マルクス主義を党の基本的理念として掲げた。1912年には425万票を獲得、議席110でドイツの第一党となった。しかし、「革命か改良か」をめぐって内部対立が激しくなり、右派のベルンシュタインは暴力革命を否定して社会改良を主張し、中間派のベーベルカウツキーは社会革命とともに社会改良の必要も認めた。最左派のローザ=ルクセンブルク(ポーランド生まれの女性革命家)は一貫した階級闘争と革命路線を主張した。ベルンシュタイン等の主張は「修正主義」と言われたが、次第に党内の主力を占めるようになっていく。国際的には1889年に設立された第2インターナショナルの中心としなったが、第1次世界大戦を阻止することはできなかった。1912年からは第一党となり、1913年以降はエーベルトの指導のもと、第一次世界大戦が起こると祖国防衛の立場から戦争に協力した。大戦末期の1916年には左派(急進派)のスパルタクス団(後のドイツ共産党)が分離、1917年には反戦派が分裂して独立社会民主党を結成した。1918年にスパルタクス団がドイツ革命を起こすと、社会民主党は旧軍部と結んで弾圧する側に廻った。大戦後の1919年にヴァイマル共和国が成立するとその政権を支え、エーベルトは大統領となった。またシュトレーゼマン(人民党)の平和外交を支持した。しかしナチスが台頭すると次第に押されて無力となり、1933年には解散させられた。 → 戦後のドイツ社会民主党
d 第2インターナショナル 1889年、ヨーロッパ・アメリカの19カ国の労働者代表によって結成された。その中心はドイツ社会民主党であり、アナーキズム勢力は排除された。おりからの帝国主義段階の資本主義陣営に対抗し、革命の実現を目指したが、国家間の対立に巻き込まれ、第1次大戦で各国の社会主義政党が自国の戦争を肯定するようになって1914年、崩壊した。 → コミンテルン(第3インターナショナル)
e ベルンシュタイン 1872年、社会民主労働者党に加わる。ロンドンに亡命中、エンゲルスと親交を結ぶ一方、フェビアン協会の影響を受け、議会政治による社会主義の漸進的な実現を目指すようになった。1896年から「修正主義」の理論を展開するようになり、社会民主党の右派を形成する。第1次大戦中は、戦争を支持した党主流に反対して独立社会民主党に加わる。戦後に社会民主党に復帰して1932年、ナチス台頭直後に死去。 
f 修正主義 1890年代に顕著になった、ドイツ社会民主党内における、階級闘争による社会革命路線に対して、議会政治を通して漸進的な社会改良をはかる思想潮流をさす。その代表的な論者がベルンシュタイン。以後、マルクス主義主流派からは、「修正主義」は「反革命」路線として否定的に見られていく。 
オ.ロシア
 ロシア資本主義の形成  
a 農奴解放  → 第12章 12節 農奴解放令
b フランス  
c シベリア鉄道 フランス資本の導入により、1891年から工事が開始され、1905年に完成した。極東のウラジヴォストークまで鉄道でつながれ、帝政ロシアのアジア進出に利用された。シベリア鉄道の建設は日本及びアメリカを刺激することとなり、特に日本はロシアの勢力が朝鮮半島に及ぶことを恐れ、シベリア鉄道による兵員輸送が可能になる以前にロシアのアジア進出を阻止する目的で日露戦争に突入した。なお、1891年のシベリア鉄道起工式はウラジヴォストークで挙行されたが、その式典に参加する途中、日本に立ち寄った皇太子ニコライ(後のニコライ2世)は、大津事件(日本人巡査に斬りつけられた事件)に遭遇した。1896年には、シベリア鉄道のチタから中国領内を通り、ウラジヴォストークを結ぶ東清鉄道の敷設権がロシアに認められた。 
 三国干渉  → 第14章 3節 三国干渉
 革命運動の始まり 1870年代のインテリゲンツィアによる「ナロードニキ」運動から始まる。しかし、農奴解放令以降、保守化した農民はただちに革命運動に向かうことはなく、革命運動家は次第に絶望し、ニヒリズム(虚無主義)やテロリズムに走る。1881年には、皇帝アレクサンドル2世が「人民の意志」グループの女性革命家ベロフスカヤらに暗殺される事件が起き、革命運動は厳しく弾圧される。ナロードニキであったプレハーノフは1883年にマルクス主義をロシアに導入、1898年、レーニン等とロシア社会民主労働党を結成し、社会主義革命をめざした。 
a ロシア社会民主労働党 1898年、ミンスクで結成されたロシア最初のマルクス主義政党。しかしプレハーノフ、レーニンも亡命中であり、この組織も結成と同時に非合法とされ、メンバーの殆どが逮捕された。1903年、ロンドンで第2回党大会を開催したが、そこでボリシェヴィキメンシェヴィキの二派に分裂した。 
b ボリシェヴィキ 1903年、ロンドンで開かれたロシア社会民主労働党の第2回大会で、革命路線をめぐって党が二派に分裂した。その指導者レーニンは、ロシアの革命の推進は西欧的な大衆政党ではなく、少数の革命家の集団である党が、農民・労働者の前衛として活動すべきであると主張した。またロシア革命は民主主義の実現に止まらず、社会主義実現に向かうべきである(二段階連続革命)と考えた。党綱領の採択ではマルトフ派に敗れたが、党の人事面では多数を占めたので、多数派の意味でボリシェヴィキと言われる。 
c レーニン

  Lenin 1870-1924
1870〜1924。レーニンは筆名。本名はウラジミール・ウリヤーノフ。兄の影響で早くから社会主義運動に入った。ペテルブルクでマルクス主義グループに加わり、ナロードニキや合法的社会主義を批判して独自の革命理論を作っていった。1895年、ペテルブルクで労働者階級解放闘争同盟を組織、一時捕らえられてシベリアに流刑となり、現地で女性革命家クルプスカヤと結婚。1900年に亡命。1902年には『何をなすべきか?』を著し、少数の職業的革命家からなる中央集権的な革命政党が労働者を指導すべきであると主張した。1903年のロシア社会民主労働党第2回大会に参加し、その主張を展開しボリシェヴィキを指導した。第1次ロシア革命では当面のブルジョア民主主義革命の達成を目指した。第1次世界大戦が起こると、帝国主義戦争に反対し、第2インターナショナルと対立した。1916年には『帝国主義論』を著し、資本主義社会の矛盾点を明らかにした。1917年、ロシア第2革命が起こると亡命先のスイスから”封印列車”でロシアに戻り、「四月テーゼ」を発表し、ソヴィエト政権の権力奪取を目指した。ケレンスキーの臨時政府の弾圧を受け、フィンランドに逃れたが、まもなくペテルスブルクに戻り十一月革命を指導した。革命後は人民委員会議長(首相)として世界最初の社会主義国家建設にあたった。1924年のレーニンの死後、その後継をめぐってトロツキースターリンの間の激しい闘争が始まる。 
d メンシェヴィキ ロシア社会民主労働党内のマルトフプレハーノフ等に代表される穏健な革命派で、党は大衆の参加するものであり、ブルジョア階級とも妥協しながらまず民主主義革命をめざすべきであると主張した。人事面で少数派であったのでメンシェヴィキと言われるが、党内での勢力では多数を占めた。 
マルトフ 1873〜1923。1895年、レーニンらと労働者階級解放闘争同盟を組織。ストライキの指導に当たり捕らえられてシベリア流刑となる。脱走した後亡命し、ロシア社会民主労働党の機関誌「イスクラ」の編集にあたる。1903年の同党第2回大会でレーニンらボリシェヴィキと対立、プレハーノフらとメンシェヴィキの指導者となった。第1次大戦中は祖国防衛派と言われたが、やがて反戦運動を組織し、二月革命後にロシアにもどり革命に参加した。十一月革命後のボリシェヴィキ政権には距離を置き1921年にドイツに亡命した。 
e プレハーノフ 1856〜1918。1870年代、ナロードニキとして活動したが、スイスに亡命中にマルクス主義に転じ、1883年、亡命先のジュネーヴでロシアにおける最初のマルクス主義組織である労働解放団を、ヴェラ=ザスーリッチらと結成した。ロシアにおけるマルクス主義の父、と言われる。ロシア社会民主労働党に参加し、レーニンらと機関誌「イスクラ」の発行にあたる。1903年の同党第2回大会では、レーニンのボリシェヴィキと対立、マルトフ等とともにメンシェヴィキと云われた。第1次世界大戦が起こるとドイツとの戦争を肯定し、祖国防衛派と云われた。十一月革命後はボリシェヴィキ政権を批判し、翌年死去。著作に『歴史における個人の役割』などがある。 
f 社会革命党 ロシア語の頭文字をとってエス=エルと略称される。ナロードニキの流れをくみ革命運動家が1901年に結成した。土地私有制の廃止、均分制の実施などを掲げ、主として小農民の支持を受けた。戦術としてはテロリズムによる専制政府の打倒をめざす直接行動を重視した。同じ革命政党であるが、路線の違いから、ボリシェヴィキとも鋭く対立した。指導者の一人がサヴィンコフ(『蒼白き馬』の作者ロープシン)で、1904年には内相プレーヴェを暗殺した。 
g 立憲民主党 通称カデット。1905年にブルジョア階級の自由主義者が結成した政党で、立憲君主政の実現を目指す。ミリュコーフらが中心。第1次ロシア革命で成立した国会では第1党となり、第2次革命の二月革命で成立した臨時政府の中心となった。カデット政府は帝国主義戦争の継続を主張し、ますます保守的となったため、十月革命が勃発して倒された。
 第1次ロシア革命 1905年、日露戦争の最中、ペテルスブルクの王宮に食糧を求めて押し掛けた群集に軍隊が発砲したことから起こった「血の日曜日」事件をきっかけに起こった革命。専制政治・重税・生活苦・戦争に苦しんでいた民衆が自然発生的に蜂起し、全国に労働者と農民と兵士によるソヴィエトが結成された。政府は日本との戦争を終わらせ、十月宣言を出して国会の開設を約束するなど一定の妥協をしたが、資本家の政府支援が進み、多数の農民も無関心で、革命勢力は後退した。 
a 日露戦争  → 第14章 3節 日露戦争
b 血の日曜日事件 1905年1月22日、帝政ロシアのペテルブルクで民衆が食糧の支給を要求して王宮に請願デモを実施した。民衆を指導したのは、神父で労働運動に携わっていたガポンであった。王宮の守備隊は、デモ隊に発砲し、多数が死傷した。この事件でロシアの民衆が各地で蜂起し、第1次ロシア革命が始まった。なおガポンは一旦亡命し、1906年ロシアに戻ったところを革命派に捕らえられ殺害された。1905年6月、黒海艦隊所属の戦艦ポチョムキンの水兵が反乱を起こし、革命の広がりを見せ、政府は兵士の離脱を恐れて、日露戦争の継続を断念した。 
c ニコライ2世  → 第15章 1節 エ.ロシア革命 ニコライ2世
d 戦艦ポチョムキンの反乱 1905年、「血の日曜日」で民衆を弾圧し、日露戦争を継続するツァーリ政府に対する不満は兵士の間にも広まった。5月には日本海海戦でバルチック艦隊が全滅し、大きなショックとなった。そのような中で6月、ロシア海軍の黒海艦隊の戦艦ポチョムキンの乗組員がオデッサ港で反乱を起こし艦を乗っ取るという事件が起こった。1週間の「解放」の後、ルーマニアの港に入って武装解除された。反乱は自然発生的で社会主義者は加わっていなかったが、政府は国会の開設、戦争の終結に追い込まれていった。
この事件を題材にしたエイゼンシュテインの映画『戦艦ポチョムキン』(1928)はモンタージュ手法を駆使した映画史上の傑作といわれている。
e ソヴィエト ロシア語で「会議」(または評議会)の意味。1905年のロシアダイ第1次革命で、各工場の労働者が代表を選挙してソヴィエトを結成した。後、第2次革命においてソヴィエトが労働者・兵士の革命組織として位置づけられ、新たな権力を構築する。 
f 十月宣言 十月詔書とも言う。1905年、第1次ロシア革命でゼネストが広がり、動揺したツァーリのニコライ2世が公布した宣言。初代首相となるヴィッテが起草した。人格の不可侵、思想・言論・集会・結社の自由を認め、国会(ドゥーマ)を開設し国民の選挙を認める、という内容で、立憲君主政を実現させた。
g 国会(ドゥーマ) 1905年10月、ニコライ2世は、十月宣言を発し、国会の開設と憲法の制定を約束した。同時に革命運動の取締に乗り出し、第1次革命は急速に沈静化した。このとき開設されたのが国会に当たるドゥーマである。1906年第1回のドゥーマが開催されたが、議員に選出されたのは資本家(ブルジョアジー)と貴族・地主などの保守派のみであった。ニコライ2世は十月宣言を起草したウィッテを最初の首相に任命した。 
h ヴィッテ 帝政末期の代表的政治家。はじめ鉄道経営者として成功し、政界に転じた。1892年に蔵相として産業育成のための通貨改革、外国資本の導入などをはかり、特にシベリア鉄道の建設を推進した。日露戦争後の1905年、ポーツマス講和会議に代表として出席し、巧みな外交政策で日本代表小村寿太郎と渡り合い、ポーツマス条約で講和を実現した。同年10月、ニコライ2世が出した十月宣言を起草し、国会の開設に伴って成立した内閣の初代首相に任命された。しかし宮廷の保守勢力と対立し、翌年には辞任した。
 ストルイピンの改革 1906年より、ロシアの首相となったのがストルイピン。大地主の出身で、革命の影響を極力薄める政策をとった。まず、ロシア農村の伝統的社会組織であるミール(共同体)を解体し、土地を分与して、自作農を創り出そすことによって農民層への革命の拡大を防ごうとした。このストルイピンの改革は自作農をある程度は生み出したものの、一方でミール共同体から離脱した多くの農民は貧窮化し、農民の階層分化が進み、ロシア第二革命の原因となる。ストルイピンは1911年キエフの劇場で暗殺された。 
a ミールの解体ストルイピンはロシアの農民が都市の労働者と連帯して革命に走ることを恐れた。そこで農民の基盤であるミール(農村共同体)を解体して、自作農を創設しようとした。ミールから分離して土地の私有を認められて自作農となったものもいたが、多くは富農に雇われる農村労働者化するか、都市に流出していった。
b バルカンへの南下政策  
カ.アメリカ
 アメリカ帝国主義 アメリカ合衆国は南北戦争の危機を北軍の勝利で終わらせて、国家の統一を維持、というより初めて一つの国家としてのナショナリズムを獲得し、強力な連邦政府のもとで北部を中心とした工業国家建設を進め、1894年には、その工業生産がイギリスを抜いて世界一となった。この間、資本主義は第2次産業革命を迎えて重工業化が進み、特に石油、鉄鋼、自動車などの工業で巨大な資本を必要とするようになり、独占資本の形成が進んだ。その中で、ロックフェラーカーネギーモルガンなど、一代で財を築く大財閥が出現し、これらの巨大資本の政治への圧力も強まった。議会の中には独占の進行は資本主義本来の自由競争を阻害するので、独占を抑制する律法の動きとしてシャーマン反トラスト法などの制定もあったが、概して無力であった。一方で1890年代にはフロンティアも消滅し、アメリカは海外にその領土を拡げることとなった。マッキンリー大統領の時の米西戦争は、アメリカの帝国主義戦争の最初のものであり、それによってアメリカはプエルトリコ・フィリピン・グアムを領有し、キューバを保護下におき、また同じ時期にハワイを併合した。フィリピンを領有したことによってアジア市場への進出をねらってのことであり、おりから東アジアで台頭した日本、およびアジアへの進出をめざすロシアとの競合がはじまり、中国市場での出遅れを解消すべく、国務長官ジョン=ヘイの名で門戸開放等を要求することとなった。こうして19世紀末に帝国主義段階となったアメリカは、20世紀にはいると孤立主義の外交原則を維持しながら、第1次世界大戦を機に債権国に転じて世界経済の富を独占するという立場になり、ドーズ案によるドイツ賠償問題の解決や不戦条約の締結など、20年代の国際協調の時期にはその指導的役割を果たした。永遠の繁栄といわれる大量生産・大量消費の経済社会を出現させたが、過度な投資や農作物の生産過剰などから、1929年に一挙に株が暴落、アメリカ経済の破綻が世界恐慌をもたらすこととなった。この資本主義経済の破綻は、英仏のブロック経済体制、独伊日などのファシズム国家の登場をもたらし新たな世界分割戦争を引き起こした。アメリカはニューディール政策で、豊かな国内資源を背景にした国内購買力の増強に努め、この危機を乗り切ろうとした。ここでとられた経済政策は、資本主義に一定の修正と制限をかけるもので、経済学者ケインズによって理論化され、第2次世界大戦においても、民主党政権で継承された。こうして古典的な帝国主義という側面は薄れ、戦後の冷たい戦争といわれた時期には社会主義のソ連圏に対する自由世界を守るという理念が前面に出され、アメリカは西側自由世界のリーダーとして軍事面、経済面での役割を担っていく。第2次世界大戦で唯一の核兵器使用国となったアメリカは、戦後も核兵器による優位を維持しようとし、ソ連とのきわどい核兵器開発競争を行い、国内では反共産主義の気運が強まり、マッカーシズムの嵐が吹きまくった。1950年代のアメリカ経済の繁栄は他の資本主義国を圧倒していたが、ベトナム戦争を機に70年代にはアメリカはドル危機に陥り、ドルショックといわれる転換を経て世界は変動為替制に移行し、さらにオイルショックに見舞われて、アメリカ一極支配は経済統合を進めた西欧と経済復興を遂げた日本との三極構造に変化していった。そして1989年にソ連が崩壊し、冷戦が終結すると、民族対立や宗教的対立など地域紛争が多発するようになり、そのような中でアメリカが唯一の軍事大国として単独行動をする場合も増え、19世紀末の帝国主義とは違った意味で、現在のアメリカ合衆国の「帝国」としての存在が指摘されている。 → アメリカの外交政策
a ロックフェラー アメリカ合衆国を代表する経済で成功した一族で、アメリカの帝国主義を推進した大財閥。アメリカのロックフェラー家の創始者ジョン=ロックフェラー(1837〜1937)はクリーブランドの貧しい家庭に生まれ、努力して1863年に石油精製事業に進出、1870年にスタンダード石油会社を起こし、競争相手を次々と買収してトラストを形成して巨富を築き、「石油王」といわれた。さらにニュージャージー=スタンダード石油会社に改組し、度重なる反トラスト法(シャーマン反トラスト法など)にもかかわらず、石油業を支配した。引退後はロックフェラー財団を設立し、文化事業などに飢饉を提供している。
Epi. ロックフェラーの手法 「ロックフェラーの経営の基本戦略は、初めから経営規模の拡大に焦点を当てていた。ロックフェラーは、有能な競争相手を次々に口説き落として、パートナーに加えていった。ロックフェラーとそのグループは、1870年にはクリーブランドで、資本金100万ドルの会社、スタンダード石油(オハイオ)を設立する。」石油は急激な増産のために、はやくも70年代初めに価格が暴落する。不況は生き残りの競争を激化させた。「スタンダード石油は、最大の荷主である立場を徹底的に利用して、たがいに激しい競争をしていた鉄道会社から、いろいろなとくべつの優遇措置を獲得した。自社の貨物について、運賃割引やリベートを受け取ったはもちろんのこと、その上に、前代未聞とも思われる「ドローバック」を鉄道会社からまき上げた。「ドローバック」とは、スタンダード石油の競争相手の製油所が自社の貨物に対して払った運賃の一部である。そんなこと信じられない、と思う読者も多いだろう。しかし、それは歴史的事実である。当時は”弱肉強食の時代”だったのだ。この時期の、スタンダード石油のこのようなやり方は、後年スタンダードの独占体制が完成した後、暴露され、きたないやり方として非難され、スタンダード石油のみならず、ロックフェラー個人のイメージに大きな汚点をもたらした。・・・」<瀬木耿太郎『石油を支配する者』 岩波新書 1988 p.13-15> 
b カーネギー アメリカのカーネギー家の創始者アンドリュー=カーネギー(1835〜1919)はスコットランド移民として労働者から身を起こし、製鉄業界でベッセマー法を導入して成功しカーネギー鉄鋼会社を創設した。1901年にはそれをモーガン財閥が経営するUSスチールに売却して引退。その後はカーネギーホールを建設するなど文化・慈善事業に携わった。 
c モーガン 同じくアメリカのモーガン財閥を創始したジョン=モーガン(1837〜1913)は、1871年モーガン商会を設立し、父祖の資産を運用して鉄道・鉄鋼(USスチール)・海運・金融などへの融資をつうじてアメリカの産業界を支配した。19世紀末のクリーヴランドなどの民主党政権を支えるなど、政界にも隠然とした影響力を持った。 
d シャーマン反トラスト法 1890年に制定されたアメリカ合衆国最初の反トラスト法ロックフェラーなど、独占企業の台頭に対し、それが公正な競争を脅かし、価格の高騰をもたらす恐れがあり、国民生活全般の利益を守る立場から独占の形成を制限しようとしたもの。第1条では共謀を禁止し、第2条で独占および独占の企図を禁止している。また同法の施行のために、司法省反トラスト局が設置された。20世紀に入りセオドア=ローズヴェルト大統領のもとで独占禁止の柱として同法が運用され、1911年にはロックフェラーのスタンダード石油は同法違反の判決によって33の会社に分割された。しかし独占企業側は新たに持株会社方式による独占を図るようになったので、ウィルソン大統領の下で1914年クレイトン反トラスト法が制定さた。 → 反トラスト法
 フロンティアの消滅  → 第12章3節  フロンティアの消滅
 マッキンリー大統領 アメリカ合衆国第25代大統領(在職1897〜1901)。共和党。金本位制、保護関税政策をとり、東部を中心とした大資本家の支持を受け、ハワイ併合フィリピン併合米西戦争門戸開放の主張など、帝国主義政策を遂行した。1901年、再選直後にアナーキストによって暗殺された。 → アメリカ帝国主義
Epi. マッキンリー大統領の暗殺 マッキンリー大統領を暗殺したレオン=ショルゴッシュは、ユダヤ系ポーランド移民の子で、21歳の時、アメリカの政府は間違っていると考えるようになりアナーキストのグループに入った。1900年、アメリカ人の労働者でアナーキストのブレッシがイタリア国王ウンベルト1世を暗殺した新聞記事を読んで興奮した。1901年9月6日、マッキンリー大統領はバッファローで開かれたパン・アメリカン博覧会の会場で、大統領と握手するために列を作っていた人々に混じったショルゴッシュに撃たれた。ショルゴッシュは手に持ったハンカチの下に拳銃を隠し、大統領の胸と腹部を撃った。その場で捕らえられ、大統領は8日後に息を引き取った。ショルゴッシュは裁判を認めず、弁護士も頼まず、法廷で発言を拒否し、死刑が宣告された。10月29日、電気椅子で刑が執行され、さらに棺の中に硫酸を注いで死体をとかした。<コリン・ウィルソン『殺人百科』1961 弥生書房刊> 
a ハワイ併合1778年、イギリスのジェームス=クックが発見。1810年、ハワイ原住民のカメハメハ王の時、ハワイ・マウイ・オアフなどの島々を統一した。19世紀中頃からアメリカの進出が顕著になり、1893年に白人入植者はクーデターでハワイ王国を倒して共和国とし、1898年にはアメリカ合衆国のマッキンリー大統領は合併条約を成立させた。1900年にアメリカの準州となり、第2次大戦後の1959年、アメリカ第50番目の州に昇格した。 →第2節 ハワイ 
「ハワイは長い間、ヨーロッパ列強と日本が狙っていた。アメリカ人宣教師は19世紀初頭、すでに渡来し、アメリカ人は砂糖利権の開発に参加していた。19世紀の終わり、アメリカ人は土着の支配者の政治に不満を持つようになり、93年彼らはリリウオカラーニ女王に対し反乱をおこし、彼女に退位をせまり、共和政をうちたてた。かれらはハリスン大統領の時、アメリカとの併合を交渉し始めた。しかし民主党クリーブランド大統領は帝国主義的併合をきらい、その計画を阻止した。97年6月共和党マッキンレー大統領はアメリカ人の支配下にあるハワイ政府と二度目の併合条約を結び、その批准を待つうち、スペインとの戦争が始まった。併合推進者たちはその計画が挫折するのを恐れ、条約という形ではなく両院における合同決議という形で98年7月7日可決させ、それを待って8月12日ハワイは正式に併合された。その後1900年に准州として政府形態を与えられる。」<ビーアド 『アメリカ合衆国史』P.341>
b 米西戦争 1898年、キューバ島をめぐって起こったアメリカ合衆国とスペインの戦争。アメリカ合衆国の帝国主義の典型的な政策と言える。キューバはコロンブス以来、スペイン領として続いていたが、1868年に独立運動が起こった。この独立運動は鎮圧されたが、90年代にホセ=マルティを指導者とした独立運動が再び活発となり、1895年7月に共和国として独立を宣言した。しかしスペインの弾圧はなおも続いていたが、アメリカ国内ではキューバの砂糖資源に投資していたので、それを失うことを恐れて介入の世論が高まり、1898年にハバナ港でアメリカの軍艦メイン号が爆沈して多数のアメリカ兵が犠牲となったメイン号事件(アメリカの謀略という説もある)が起きると、マッキンリー大統領がスペインに宣戦した。ラテンアメリカ・フィリッピンでスペイン軍と戦闘の結果、4ヶ月でアメリカの勝利となった。同年末に講和が成立し、パリ条約でキューバの独立は承認され、アメリカはフィリピン・プエルトリコ・グァムを領有した。これはアメリカが行った帝国主義戦争であり、これによって海外に殖民地をもつ国家として一躍世界の強国となった。またフィリピンを足場に、中国への進出をはかることとなる。 → アメリカの外交政策
アメリカの「すばらしい小さな戦争」 「開戦から数日後、米西戦争最大の事件が、カリブ海ではなく、アジアを舞台にして起こった。ジョージ・デューイ総司令官の率いる米国アジア艦隊が、香港からマニラ湾に向かい、一夜のうちにスペイン艦隊を打ち破ったのである。アメリカ側の死者は1名であった。このニュースを、多くのアメリカ人は、驚きをもって受け止めることになる。彼らにとって、キューバをめぐる戦争が、なぜ遠く離れたフィリピンを舞台として戦われるのかまったくの謎だったのである。しかし、この戦略は、マッキンレー政権の下で、時間をかけて練り上げられていたものであった。・・・・何とかして東アジアにアメリカの足場を築きたいという考えた(海軍次官セオドア=ローズヴェルトらを中枢とする共和党の)マッキンレー政権にとって、スペインとの戦争は、フィリピンからスペインを駆逐し、アジア市場への拠点を築くまたとない機会だったのである。「素晴らしい小さい戦争」と呼ばれた米西戦争は、わずか三ヶ月で終了した。アメリカ側の死者は5000人余り、その大多数は熱帯病の犠牲者であった。義勇兵を率いて戦闘に参加したセオドア=ローズヴェルトのように、この戦争をアメリカの「男らしさ」を証明する絶好の機会として捉えた人も少なくなかった。また、戦争の果実も申し分なかった。1898年の暮れに締結されたパリ講和条約で、アメリカはスペインにキューバの独立を認めさせ、フィリピン、グアム、プエルトリコを獲得する。戦争中に併合が決議されたハワイを太平洋の十字路として、カリフォルニアからマニラを結ぶ「太平洋の架け橋」が誕生することになった。」<西崎文子『アメリカ外交とは何か −歴史のなかの自画像』2004 岩波新書 p.60>
スペインの「98年世代」 米西戦争に敗れたスペインでは、かつてのスペイン帝国の栄華が無残に否定されたことに大きな衝撃をうけた知識人の中に自己改革運動が起こった。彼らは「98年世代」と言われ、復古王制下のスペインの没落を自覚し、精神的な再生をめざした。哲学者で文学者であったウナムーノなどに代表される彼らの出現は、後のスペイン文学などに大きな影響を与えたが、その運動は精神的、文学的なものに留まり、スペイン社会の改革には結びつかず、1905年頃から衰退した。
 パリ条約 1898年、米西戦争(アメリカ=スペイン戦争)の講和条約としてパリで締結された条約。アメリカの一方的な勝利をうけて、スペインはアメリカに対し、キューバの独立、プエルトリコグアムの割譲、フィリピンの2000万ドルでの譲渡を認めた。これはアメリカ合衆国とスペインの間で締結されたものであり、キューバ・プエルトリコ・グアム・フィリピンの人々は関与することなく、その帰属が決定するという、まさに帝国主義列強による領土分割であった。キューバはその後、事実上のアメリカ合衆国の保護国となる。フィリピンでは、スペインからの独立をアメリカの支援で実現するという希望を打ち砕かれた形となり、翌1899年から激しいフィリピン=アメリカ戦争となり、結局フィリピン独立は踏みにじられてアメリカの殖民地とされることとなる。
 プエルトリコ  
 フィリピン(19世紀末〜)フィリピンは、16世紀以来、スペインの植民地支配を受けていたが、その間民族的抵抗運動が継続していた。19世紀末の1896年には、フィリピン革命といわれる独立を求める民衆蜂起が起こった。それによってスペイン勢力が後退すると、替わってアメリカがフィリピンに介入し、再植民地化を図った。1898年の米西戦争の勝利を機にアメリカは同年スペインとパリ条約を結んでフィリピンを2000万ドルで譲り受けた。フィリピン民衆はスペインに続いて新たにアメリカに対しても独立運動を開始することとなり、翌1899年にはアギナルドを大統領として独立宣言、それを認めないアメリカとの間でフィリピン=アメリカ戦争となった。しかし1902年にアメリカの軍事力の前に屈服し、その植民地となった。 → フィリピン(アメリカ統治下) → 現代のフィリピン
 グァム 太平洋のマリアナ諸島の中心となる島。世界周航中のマゼラン船団が、1521年に来航した。1565年にはレガスピ艦隊が来航して、スペイン領であることを宣言した。1668年から本格的なスペインの植民地経営が始まり、宣教師による強制的なカトリックへの改宗が進められた。島の伝統的な習慣を無視した布教は島民の反発を受け、1670年から95年にかけて「スペイン=チャモロ戦争」という反乱が起き、スペインはそれを武力で弾圧した。がbらっbがマリアナ諸島におよび、そのためチャモロ人の人口は4万人から5千人に激減した。<本多勝一『マゼランが来た』1989 朝日新聞社 p.180>。その後、スペイン支配が続き、1898年の米西戦争の結果、パリ条約によってアメリカ合衆国領となる。太平洋戦争中は日本が占領し、激戦地となった。現在もサイパン島とともにアメリカ領で、海軍基地が置かれており、またリゾート地として観光客を集めている。
Epi. グァム島の日本兵 1972年、グァム島のジャングルで、一人の日本兵が発見された。戦後の27年間、日本の敗戦を知らず隠れてていた横井庄一一等兵だった。この突然の帰還は戦争を忘れかけていた日本人を驚かした。横井一等兵が隠れていた穴は現在も保存されているという。
e ジョン=ヘイ マッキンリー、セオドア=ローズヴェルトの2代の大統領の国務大臣を務めた。1899年と1900年の二度にわたり、中国に対する門戸開放を提唱した。またパナマ運河建設を推進する上での外交交渉を行った。
f 門戸開放 アメリカは1860年代の南北戦争のため、中国大陸への進出が遅れた。1898年、イギリス・フランス・ドイツ・ロシア・日本が相次いで中国に租借地を設け、中国分割が進むと、1899年、アメリカは国務長官ジョン=ヘイが声明を発表し、清国において通商権・関税・鉄道料金・入港税などを平等とし、各国に同等に開放されるべきであると主張した。これを門戸開放政策 Open Door Policy という。さらに翌年、ヘイは清国の領土保全を主張した。門戸開放政策は以後アメリカの対外政策の原則となり、ロシア・日本の中国大陸への進出に対してもこの原則を掲げて反対した。 → アメリカの外交政策
 セオドア=ローズヴェルト大統領 アメリカ合衆国第26代大統領(「ルーズベルト」とも表記)。マッキンリー大統領の副大統領から大統領に昇格し、20世紀初頭のアメリカ帝国主義政策を推進した大統領である。地方議員やニューヨーク市公安委員長などを務めていたが中央政界では無名であったローズヴェルトが脚光を浴びるようになったのは、1897年にマッキンリー大統領の下で海軍次官に抜擢されてからであった。彼は共和党に属し、熱心に海外膨張主義を主張し、特にカリブ海への勢力拡大、中国市場に参画するためにハワイおよびフィリピンの領有を画策していた。彼の進めた膨張政策は1898年の米西戦争を実現させたが、彼はその際には義勇兵を率いてキューバに侵攻し、名声を高めた。ついで1900年、共和党マッキンリー大統領の副大統領となり、大統領の暗殺によって昇格した(在任1901〜09)。大統領としては、まず内政ではトラストや資本集中と金権政治家を攻撃し、富の公平な分配を主張して、反トラスト法の運用、労働者保護政策など革新主義(進歩主義)をとった。外政では力を背景とした実力外交を展開、カリブ海への進出(棍棒政策)、パナマ運河建設権の獲得など帝国主義政策をとった。また日露戦争モロッコ事件では調停役をつとめ、1906年のノーベル平和賞を受賞した。09年にタフト大統領に代わったが、12年の大統領選挙に革新党(進歩党とも訳す)を結成して臨み、民主党のウィルソンに敗れ再任はならなかった。
 革新主義(進歩主義) 19世紀末から顕著になった一つの政治潮流。19世紀的な自由放任主義から脱却して、政府の権限を高め、帝国主義段階に入った資本主義社会を国家が強く統制する考えと言える。大資本や保守的な農場主ではなく、都市の中産階級に支持された。その政策は、トラストの規制などの独占の抑制、労働者の保護、上院の直接選挙(上院議院はそれまで州議会で選出することになっていたが、1913年からは憲法修正17条で、国民が直接選出できるようになった)、税制・関税の改革など多岐にわたり、禁酒法の制定なども含まれていた。特にセオドア=ローズヴェルト大統領の唱えた「公正な政策」(スクエアーディール)は、革新主義の例である。 
 反トラスト法 19世紀後半の独占資本の急激な形成に対し、その弊害を防止し、公正な自由競争の維持をめざし、1890年にシャーマン反トラスト法が制定された。シャーマン反トラスト法は、各州間および外国との取引を独占または制限するいっさいの企業の結合や共謀を違反とし、制裁を規定した。セオドア=ローズヴェルト大統領は議会の要請を受けて独占制限を強め、最高裁判所で4年以上にわたる裁判の結果、1911年にはシャーマン反トラスト法を適用してロックフェラーのスタンダード石油の独占を有罪として33社に分割する命令が出された。、
しかし、独占企業側は持株方式などを編み出したため、1914年、ウィルソン大統領の時、クレイトン反トラスト法で内容を強化し、持株会社・重役兼任などを禁止した。結局、反トラスト法の実効性は薄く、独占の形成はその後も続いた。 
c「棍棒外交」 セオドア=ローズヴェルト大統領の外交政策をいう。『大きな棍棒を携え、穏やかに話す(speak softly and carry a big stick)』という彼の言葉からでた。アメリカの帝国主義であるカリブ海政策をもっともよく表す言葉である。ローズヴェルトはモンロー主義を拡大解釈(「ローズヴェルトの系論」という)し、カリブ海域の「慢性的な不正と無能」に対してはアメリカが武力干渉することを正当であると表明し、海上兵力を背景に、ラテン=アメリカ地域でのアメリカの権益を確保し、ヨーロッパ諸国の干渉を排除する外交政策を「棍棒外交」という。その典型的な例は1903年、パナマ運河地帯に介入し、コロンビアからパナマ共和国を独立させ、パナマ地峡の永久租借権を獲得しパナマ運河建設を開始したことがあげられる。 → アメリカの外交政策
d カリブ海政策 アメリカ合衆国がカリブ海を支配し、自己の内海化をめざす政策。南北戦争後、1867年にフランスがメキシコに進出したのに対抗してそれを排除したのに始まり、80年代にパン=アメリカ主義を掲げてその動きを強め、パン=アメリカン会議を開催してその主導権を得て、1898年にはキューバ独立に介入して米西戦争を起こした。20世紀に入り、セオドア=ローズヴェルト大統領の外交政策として明確になり、キューバへのプラット条項の強制、パナマ運河の建設(1904〜14年)と運河地帯の領有などが行われた。
ローズヴェルト=コロラリー 1903年、アメリカはパナマ運河地帯の領有権を獲得し、軍事的にも経済的にも巨大な利益をラテンアメリカ地域に期待した。そのためにはこの地域の安全を確保する必要があった。1904年12月、セオドア=ローズヴェルト大統領は年次教書で
「・・・合衆国が望んでいるのは、近隣諸国が安定し秩序を保ち繁栄することである。・・・しかし、社会秩序が全般的に弛緩し、そのため犯罪や無力状態が慢性的に発生する場合には・・・・西半球では、モンロー主義を堅持する合衆国が・・・国際警察力の行使を強いられることになろう。」
と述べた。モンロー教書を敷衍する形で出されたこの声明は「ローズヴェルト=コロラリー(系)」と呼ばれ、20世紀のアメリカの西半球政策の基底をなすことになる。<西崎文子『アメリカ外交とは何か −歴史のなかの自画像』2004 岩波新書 p.72-74>
アメリカのカリブ海政策の推移 このような力を背景としたセオドア=ローズヴェルト大統領のカリブ海政策は、「棍棒外交」と言われるが、次の第27代大統領タフト(在任1909〜1913)の外交政策は、海外投資の拡大によって政治的な影響をおよぼそうとしたので、ドル外交と(資本の投下を中心とした支配強化)言われ、次のウィルソン大統領宣教師外交(民主主義の理念を広めるという使命感をもつ)と言われる。これらのラテン=アメリカ地域へのアメリカの干渉政策は、1933年のF=ローズヴェルト大統領善隣外交への転換まで続く。  → アメリカの外交政策  → 戦後のアメリカのラテンアメリカ支配
 ウィルソン大統領

Woodrow Wilson 1856-1924
(The PRESIDENTS of the U.S.A.)
アメリカ合衆国第28代大統領(在職1913〜1921)。ウッドロー=ウィルソン。プリンストン大学総長から政界に転身、ニュージャージー州知事を務める。「新しい自由(New Freedom)」を掲げて民主党から1912年の大統領選挙に出馬し、セオドア=ローズヴェルト(革新党)を破って当選した。
内政では革新主義を継承、巨大化する資本に対する制約を加え、民主主義の維持・発展を図ることを「新しい自由」として掲げた。また外交ではまずラテン=アメリカ地域に対しては宣教師外交といわれる民主主義を根づかせるためという理由の干渉を行った。特に当時進行していた、メキシコ革命に介入し、独裁者の軍人ウェルタの排除を図ったが、かえって反発を受け成果はなかった。ついで第1次世界大戦とロシア革命の勃発という大きな転換に対応することとなり、対ヨーロッパ諸国との外政では従来の孤立主義を継承しながら協調外交にも転換せざるを得なくなった。第1次世界大戦が始まると、当初は中立を宣言し交戦国間の調停を模索したが、1917年にドイツの無制限潜水艦作戦が始まったのを機に、協商側に参戦した。ロシア革命が勃発しレーニンが「平和に関する布告」を発表して無賠償・無併合・民族自決の原則による即時講和を提唱すると、それに対抗して、1918年「14ヶ条の原則」を発表して、大戦終結の指導権を握った。大戦後のパリ講和会議に参加して会議をリードし、敗戦国への苛酷な制裁に強く反対したが、イギリスのロイド=ジョージ、フランスのクレマンソーらに押されてヴェルサイユ条約ではドイツなど敗戦国に対する厳しい条件が付されることとなった。またウィルソンが提唱した国際連盟の創設はヴェルサイユ条約には盛り込まれて実現することとなったが、アメリカ議会では上院の共和党が孤立主義の原則の保持を主張し、否決されたためアメリカは参加できなかった。こうしてアメリカ合衆国が国際協調のリーダーとなるというウィルソンの構想は否定されたこととなり、彼は失意の内に体調を崩し、大統領の後半はほとんど執務が出来ない状態となり、1921年に退陣し1924年に死去した。
 ”新しい自由” ウィルソン大統領が1913年の大統領選挙に際して政策として掲げたこと。「新自由主義」ともいう。大企業の横暴を批判し、自由競争と経済的機会均等などを唱えた。大統領就任後、実際の政策としては、関税引き下げ、鉄道労働者の8時間労働、独占監視のための連邦通商委員会の設置、反トラスト法の強化(クレイトン反トラスト法の制定)、上院議員の直接選挙、禁酒法などの革新政治を行った。 
b 反トラスト法  → 反トラスト法
c ドル外交 第27代タフト大統領(在任1909〜1913、共和党)の外交政策。「弾丸に代えてドルで」という、経済力によってラテン=アメリカ地域を支配し、東アジアに門戸開放を図ろうとしたもの。中国では四国借款団への加入、湖広鉄道借款への参加を実現させ、さらに満州への進出を図ったが、日本とロシアの反対で挫折した。ラテン=アメリカ地域では、1911年にニカラグアを金融保護国とした。
d 宣教師外交 第28代ウィルソン大統領の対ラテン=アメリカ地域の外交政策。民主主義を至上の価値と考えるウィルソンは、かつてスペインの宣教師たちがキリスト教を伝道する際に、時には武力を用いることも辞さなかったのと同じように、武力を行使してでもラテン=アメリカ地域に民主主義を教え込もうとした。例えばメキシコ革命に介入して、独裁者ウェルタ政権の不承認と遠征隊の派遣によるベラクルスの占領などである。この政策はラテン=アメリカ地域の住民に反米感情だけをもたらし、失敗に終わった。 → アメリカの外交政策
ウィルソンのメキシコ介入失敗:「ウィルソンのメキシコ政策からは、今日まで続くアメリカ外交の行動パターンを窺い知ることが出来よう。ウィルソンの介入は、隣国の人々が自分たちの希望するするような政府を選び、自由に生きることが出来るようにしたいという願望に基づくものであった。そして抑圧者ウェルタを排除し、公正な選挙を経て選ばれた指導者が現れれば、その理想はおのずと実現するはずであった。なぜなら、人々は、適切な指導と教育がありさえすれば、すべて民主主義と自由を選ぶはずであるからである。これは、まさに20世紀アメリカ外交の基軸に据えられた考え方であった。また、ウィルソンにとっての不本意な結末も、以後、アメリカがくり返す失敗を予見させたと言える。他国の政府を自分のイメージに沿って造り変えようとする試みは、20世紀を通じて、ラテンアメリカやアジアを中心にさまざまな地域で推められた。しかし、その多くは失敗に終わっている。その原因の一つは、ナショナリズムの壁を指摘できよう。民主化を目標に掲げて強行されるアメリカの介入は、受容する側の国にとっては自分たちの主権と自律性を脅かす侵略行為でしかなかった。ウィルソン大統領に対するメキシコの抵抗は、そういったナショナリズムの典型的な例であった。」<西崎文子『アメリカ外交とは何か −歴史の中の自画像』2004 岩波新書 p.82-83>
※いわば、アメリカの「おせっかい外交」と言うことか。戦後のカーター大統領の「人権外交」とその失敗などもこの例にはいるだろう。また、現在も続いているアフガニスタンやイラクの問題もアメリカの「おせっかい」といえる。ただ、アメリカの「おせっかい」を受け入れて成功した例がある。それが敗戦によってアメリカの占領を受け入れ、民主化を実現させた日本と言えるのではないだろうか。アメリカのイラク統治にも日本統治の成功に学ぶといった話を聞くことがあるが、状況の違いを無視してイスラーム社会に西欧民主主義を押しつけるところに無理があるのではないだろうか。(2009.5.16記)
e パナマ運河 大西洋と太平洋を結ぶ、パナマ地峡に設けられた運河。1880年、レセップスらによって着工されたが、技術的に難航して会社が倒産して中断された。その再開をめぐって、フランス国内で92年にはパナマ事件という汚職事件が起き、フランスによる運河建設は失敗した。1903年、アメリカ合衆国のセオドア=ローズヴェルト大統領がコロンビアに介入してパナマ共和国を独立させて建設権を獲得し、1904年に工事に着工し、14年に完成、使用を開始した。
レセップスの失敗 世界の船舶が帆船から蒸気船への移行が進んだ1870年代、スエズ運河がようやく黒字に転換し、運河の有効性が高まったのを受けて、大西洋と太平洋を結ぶ運河の建設計画がもちあがった。1876年、国際地理学会はレセップスを委員長とする両洋間運河開鑿委員会を設置し、78年にコロンビア政府より開鑿権を得た。79年、レセップスを代表とするパナマ運河会社が設立され、80年に工事が開始された。レセップスは、スエズと同じ水平式で可能と考えたが、両洋の水位の違いが大きく、途中から閘門式に切り替えた。閘門の工事技術者としてエッフェル塔を成功させたエッフェルが招聘された。しかし熱帯雨林が工事の進捗を阻害したこともあって工事費が当初予想をはるかに上回ることとなった。レセップスはフランス国内で富くじを発行して資金を得ようとしたが売れ行きが悪く、結局資金繰りに失敗することとなり、ついに89年にはスエズ運河会社が破産し、工事は中断されることとなった。翌年、フランスで運河会社の富くじ発行にからむ贈収賄事件が明るみに出、いわゆるフランス政界を揺るがしたパナマ事件となり、レセップス親子が有罪となってフランスによるパナマ運河建設は完全に挫折した。<文学作品であるが、大佛次郎『パナマ事件』に、レセップスのスエズ運河とパナマ運河建設、さらにパナマ事件の詳しく経過が描かれている。1959発表。現在は朝日新聞社刊の大佛次郎ノンフィクション全集9>
アメリカによるパナマ運河の開設 アメリカは1898年の米西戦争のとき、大西洋側にいた軍艦をフィリピン攻撃のため太平洋側に開港させようとして南米大陸を廻り、90日間かかってしまったことを機に、運河建設の気運が高まった。アメリカは当初、ニカラグァで新規に開鑿することを計画したが、1902年にニカラグァで火山噴火が相次いだことから計画を変更し、放置されていたパナマ運河の工事を再開すること都市、1904年に2億フランでフランスからその権利を買い取った。この間、アメリカはカリブ海域へのいわゆる棍棒外交を展開し、パナマ地域のコロンビアからの独立運動を軍事支援して、1903年にパナマ共和国を独立させ、パナマ運河条約を強制してその所有権を獲得した。こうして10年間の工事を経て、1914年にパナマ運河は完成した。これによってニューヨーク=サンフランシスコ間を1万5000キロ縮めて、アメリカ産業にとって重要性が強まっていた。
アメリカによるパナマ支配と運河の返還 その間、アメリカは軍隊を駐屯させ、パナマを事実上支配したが、パナマ側の返還要求が強まり、1977年、カーター大統領のとき、アメリカ合衆国とパナマの新パナマ条約(パナマ運河返還条約)が成立、1999年の返還を約束した。しかし、その後アメリカのブッシュ大統領(父)は、軍事政権ノリエガ将軍が反米政権であるとしてパナマに侵攻しその排除を図り、パナマ運河支配を守ろうとしたが、国際世論に押され、1999年には約束どおりパナマ運河はパナマ共和国に返還された。