用語データベース 16_4 | |
4.米・ソ超大国の動揺と国際経済の危機 | |
ア.米ソ両大国の動揺 | |
A ケネディ大統領 John Fitzgerald Kennedy 1917-1963 | アメリカ合衆国第35代大統領。John Fitzgerald Kennedy 在任1961〜63年。民主党。アイルランド系アメリカ人。1960年の大統領選挙で、「ニューフロンティア」開拓を掲げ共和党ニクソン候補を破って、史上最年少の43歳で当選した。またカトリック教徒としても最初の大統領であった。1961年1月20日の大統領就任演説で「世界の長い歴史において、最大の危機に瀕した自由を守る役割を与えられた世代はわずかしかありませんでした。私はこの責任に尻込みしません。歓迎するものです。」と述べて、冷戦下でソ連に後れをとった宇宙開発などでアメリカの自信の回復に努めることを呼びかけ、「国があなたのために何をすることができるかを問うのではなく、あなたが国のために何をすることができるかを問うのです。」と述べた。 東西対立の冷戦では、61年の東ドイツによるベルリンの壁の設置、62年のキューバ危機の緊張の高まりを受けて、63年の部分的核実験停止条約の成立を実現させた。一方ではベトナム戦争への介入を深め、またアジア・アフリカの紛争解決にあたる対ゲリラ特殊部隊であるグリーンベレーを創設し、発展途上国への平和部隊の派遣も行った。国内では「ニューフロンティア」政策にもとづき貧困、差別の解消、教育問題・都市問題への取り組みを進め、「公民権運動」に取り組んで清新な行動派の大統領のイメージで国民的人気を博した。しかし1963年11月、南部遊説中にダラスで暗殺され、その政策は副大統領から大統領に昇格したジョンソン政権に継承される。 |
a ニューフロンティア政策 | ケネディ大統領が掲げた政策のキャッチフレーズ。平和部隊の創設と「進歩のための同盟」などの開発途上国援助、失業対策と経済の高度成長の実現、老人医療と教育への援助、住宅問題の解決、地域開発などがその内容であった。 |
e キューバ危機 | →第16章 2節 キューバ危機 |
g 公民権運動 | 1863年の奴隷解放宣言、65年の憲法修正13条によってアメリカ合衆国の奴隷制度は廃止されたが、黒人は経済的な自立が困難であったため貧困が続き、黒人に対する差別はなおも続いた。特に南部諸州では黒人差別が強まり、差別的な立法が相次ぎ、黒人は職業や居住、教育などの自由を奪われ、選挙などの権利を事実上剥奪される状態となった。第二次世界大戦では黒人も兵士として動員され、戦後は平等な権利を求める声も強まった。そのような中で1950年代に黒人の間で強まったのが黒人に対して平等な諸権利を与えることを要求する公民権運動であった。 運動の始まり 1950年代からアメリカ南部の黒人の間に自然発生的に人種差別反対の動きが活発になってきた。1953年にはルイジアナ州バトンルージュで、55年にはアラバマ州モントゴメリーでいずれも黒人のバス・ボイコット運動が起こった。白人専用座席に着席した黒人女性が座席移動を拒否して逮捕されたことから、黒人が抗議のためバス乗車を拒否したものである。モントゴメリーのバスボイコットでは弱冠26歳のマーティン=ルーサー=キング牧師が指導者となり、非暴力抵抗運動を展開した。最高裁は56年、バスの人種隔離は違憲であるとの判断を示した。57年にはアーカンソー州リトルロックで黒人生徒の公立高校入学を州知事が拒否して州兵を動員してその登校を阻止するというリトルロック事件が起きた。アイゼンハウアー大統領は連邦軍を動員、連邦軍に守られて黒人生徒が登校するという事態となった。各地で同様な事件が起こり、また白人側のこの運動に対する反発も強まり、リンチ事件が多発した。 運動の高揚 1961年大統領となったケネディは黒人に公民権を認め、差別撤廃に乗り出す方針を示した。1963年8月にはキング牧師らが指導し、全国の黒人、差別に反対する白人も含め、20万人がワシントン大行進を敢行し、政府にその政策の即時実施を迫った。ケネディ大統領暗殺後、その政策を継承したジョンソン大統領によって、1964年7月、公民権法が成立し、一定の前進を見た。 参考 『ミシシッピ・バーニング』:ジーン=ハックマン主演で映画化された『ミシシッピ・バーニング』(監督アラン=パーカー、1988年作品)は、公民権運動の最中の1964年、ミシシッピー州ジュサップをでおきた3人の公民権運動家の失踪事件を捜査する2人のFBI捜査官の姿を通して、アメリカの南部における人種差別問題を描いている。そこには、1960年代の南部でのすさまじい黒人差別の実態、その根の深さが衝撃的に展開されている。監督のアラン=パーカーは、『エビータ』(アルゼンチンの独裁者ペロン夫人を主人公としたマドンナ主演のミュージカル)や『愛と哀しみの旅路』(第2次大戦中の日系人収容所を舞台とした物語)などで知られている。 |
h キング牧師 リンカン記念堂の前で演説するキング牧師 Martin Luther King,Jr. | 黒人運動の指導者で牧師。1955年のアラバマ州モントゴメリーでのバス・ボイコット運動にかかわり、公民権運動の指導者となる。常に非暴力の方法をとり、ボイコット戦術や、シットイン(座り込み)などによる差別への抵抗を指導し、その人格と弁舌で親しまれた。1863年には画期的なワシントン大行進を成功させ、翌年の公民権法成立の成果を上げた。1964年には、ノーベル平和賞を授与された。この頃から深刻となったベトナム戦争にも、反対運動にかかわるようになった。1968年、全国遊説の途中、テネシー州メンフィスで人種主義者の凶弾に倒れた。 →キング牧師暗殺 Epi. 「私には夢がある」 リンカンによる奴隷解放宣言の百周年にあたる1963年8月28日に行われたワシントン大行進で、黒人と白人リベラル20万の群衆を前にリンカン記念堂でキング牧師は後世に残る感動的な演説をした。 「私には夢がある。不正と抑圧の熱い瘴気で蒸れている荒廃したミシシッピ州でさえも、やがて自由と正義のオアシスに変わる日が来る夢が。 私には夢がある。私の四人の小さな子どもたちが、やがて皮膚の色によってではなく、その人格そのものによって評価されるような国に住めるようになる夢が。 私には夢がある。知事がいまは連邦政府の介入を非難し、州権をとなえる言葉を口から吐き続けているアラバマ州で、やがて小さな黒人の少年少女が小さな白人の少年少女と手をとり合い、兄弟姉妹として一緒に歩ける環境に変わる日のくる夢が。」<猿谷要『物語アメリカの歴史』1991 中公新書 p.205> 演説に出てくるアラバマ州はキング牧師が指導したバス・ボイコット運動が始まったモントゴメリーがある州で、ウォーレス州知事は最も強硬な白人優越主義者として知られていた。 |
ワシントン大行進 | 1963年8月、キング牧師の呼びかけで全国から多数の黒人がワシントンに集結し公民権運動のピークとなった運動。この年は、リンカンが奴隷解放宣言を出してからちょうど百年目にあたっていた。当時の運動の有様は次のように説明されている。 「リンカン大統領が奴隷解放宣言を公布してから、ちょうど100年目にあたる、この年の夏−1963年8月28日、首都ワシントンには、おびただしい人の波が、”1963年までに完全解放を!”との標語のもとに、うしおのように押しょせた。大部分は黒人だったが、白人も少なくなかった。老いも若きも、男も女も、職にあるものも失業中のものも、あらゆる階層のあらゆる人びとが、この地にやってきた。林立するプラカードには、黒人たちの切実な願いをこめたいくつもの要求が掲げられていた。”一切の黒人差別を、ただちに廃止せよ!”、”今こそ、自由を!”、”官憲の残虐行為を、即刻やめよ!”、”白人と平等の賃金を、今すぐ!”、”新公民権法の即時無条件成立を!”等々……。どちらを向いても、”今すぐ!”という言葉が、まず目にとまった。集合予定時刻の午前10時までに、ポトマック川畔の緑地帯を目指して続々と集まってきた人びとの群れは、その中心部に聳え立つ高さ555フィートのワシントン記念塔の周辺を埋めつくし、”われら、うち勝たん”、”力強い砦”、”おお、自由を”などの歌声が、あたり一面に高らかにひびきわたった。」<本田創造『アメリカ黒人の歴史』新版 岩波新書 p.207> |
i ケネディ大統領暗殺 | 1963年11月22日、テキサス州ダラスを訪問したケネディ大統領は、自動車パレード中に狙撃され、死亡した。暗殺犯容疑者リー・ハーヴェイ・オズワルドがその日のうちに逮捕されたが、二日後にオズワルド自身が射殺されてしまった。最高裁首席判事ウォーレンを委員長とする調査委員会はオズワルドの単独犯行と結論を出したが、現在も陰謀説も含めさまざまな異論が出されている。陰謀説には、キューバ危機をめぐる反カストロ派、親カストロ派のいずれかの犯行説、人種問題をめぐる右派と左派のいずれかの陰謀説、ベトナム撤退を考えていた大統領を消した軍の犯行説、さらにFBIやCIA、副大統領ジョンソンの陰謀説までさまざまである。ケヴィン=コスナー主演の『JFK』も大胆な陰謀説を題材にしている。ケネディ一族では、弟のロバート(兄の政権で司法長官を務め、公民権法制定に活躍した)が、1968年、大統領選の民主党候補指名獲得運動中に暗殺されている。 Epi. アメリカ大統領の暗殺 ケネディの暗殺は、多くの人にリンカンの暗殺を思い起こさせた。リンカンは1860年に当選し、夫人同伴、衆人環視の劇場で殺され、副大統領A・ジョンソンが後を継いだ。ケネディは1960年に当選、やはり夫人同伴でパレード中に殺され、副大統領L・B・ジョンソンが大統領となった。それだけではない。最後にゼロのつく年に当選した大統領は、在任中に病死するか暗殺されている。さかのぼっていくと1940年当選のF=D=ローズヴェルト、1920年当選のハーディングはともに病死。1900年当選のマッキンリー、1880年当選のガーフィールドは暗殺されている。<猿谷要『物語アメリカの歴史』1991 中公新書 p.216> この奇妙な符合も、1980年当選のレーガンにはあてはまらなかった。2000年に当選したG=W=ブッシュ(子)は現在二期目に入っている。なお、リンカン、ケネディ以外に在職中に暗殺されたのは、1881年のガーフィールドと1901年のマッキンリー。ガーフィールドはスポイルズ=システム(猟官運動)で不満を持った男に執務室で銃撃され、マッキンリーはアナーキストに暗殺された。 Epi. リンカン暗殺とケネディ暗殺の類似点 リンカンとケネディの暗殺には、上記のように、0のつく年に就任したこと、暗殺されたとき夫人同伴だったこと、代わりに昇格した副大統領がジョンソンという苗字だったことなど不思議な附合があるが、それだけではない。リンカンはワシントンのフォード劇場で暗殺されたが、ケネディが暗殺されたときに乗っていた自動車はフォードだった、両方とも金曜日だった、二人ともフランス語を話す24歳の女性と結婚した、さらにリンカンがフォード劇場に行くのを止めようとした側近の名がケネディ、ケネディがダラスに遊説するのを止めようとした側近がリンカンとは、驚きである。<村田晃嗣『アメリカ外交 希望と苦悩』2005 講談社現代新書 p.61> |
B ジョンソン大統領 | アメリカ合衆国第36代大統領。民主党。ケネディ大統領暗殺により、63年11月に副大統領から大統領に昇格。ケネディの政策を継承し「偉大な社会」というテーマを掲げて公民権法を成立させ、社会福祉の充実、貧困の克服、教育改革などでも実績を上げ、64年に再選された。外交政策ではベトナム情勢の深刻化に直面して、65年に北爆を開始、本格介入を行い泥沼のベトナム戦争に突入した。国内、国外で激しいベトナム戦争反対の声が起こり、68年の大統領選挙ではベトナム和平を呼びかけながら、涙ながらに再選出馬を断念した。しかし、その社会福祉政策とベトナム戦争への介入は、政府の財政支出を増大させ、アメリカ経済の行き詰まりの原因となった。 |
a 偉大な社会 | ジョンソン大統領(民主党)が掲げた政策。Great Society 1964年の教書で提唱した。「貧困との闘い」を中心課題とし、公民権法案の成立による差別の撤廃、貧困層に対する能力開発と教育改革、経済的麾下の実質的平等化、社会保障制度の拡充などを内容としている。公民権法の成立や教育改革などでは実現をみたが、その他はベトナム戦争の深刻化が進行したため、思うような成果を上げることは出来なかった。 → 社会保障費の増大 |
b 公民権法 | 1964年7月制定された、主として黒人の公民権を幅広く認めた法律(Civil
Right Act)。1950年代から高まったキング牧師らによる公民権運動をうけて、ケネディ大統領によって取り組まれ、その暗殺後、後任のジョンソン大統領の時に成立した。内容は次の通り。 (1)黒人選挙権の保障。選挙の際の「読み書き能力テスト」の禁止など投票権行使における人種差別を排除。(この黒人選挙権の保障は、翌年に制定された1965年投票権法によって強化された。) (2)人種、肌の色、宗教、あるいは出身国を理由に、公共施設及びホテル、レストラン、映画館などの施設で差別もしくは隔離されてはならず、すべての人が財、サーヴィス、設備、特典、利益、便宜を「完全かつ平等」に享受する権利を有すること。 (3)公教育における人種差別を排除するため、合衆国教育局がその実情について調査し、人種共学の実施について専門的援助を行なうこと、また司法長官は適切な救済措置をとること。 (4)広く雇用における人種差別廃止をおし進めるために、平等雇用機会委員会を設置し、また裁判所にたいし適当な「差別是正措置」(アファーマティヴ・アクション Affirmative Action)を講じるよう命じている。 この公民権法の成立は黒人の差別反対闘争は大きな収穫と言えるが、これで問題が解決されたわけではなかった。南部の黒人の差別はいぜんとして根強く、また北部においても特に大都市において貧富の格差が拡大し、現状に不満な黒人の中には、非暴力抵抗をすてて実力で白人に対抗しようと言うブラックパワー運動が1960年代後半から台頭してくる。 |
アファーマティヴ・アクション | 人種・性別などによる差別を積極的に是正する措置のこと(Affirmative Action)。例えば、大学が黒人と女性を優先的に入学させたり、企業が同様に優先的に採用、昇進させることなど。1964年の公民権法の成立によって、連邦政府の援助を受けている機関はこの差別是正措置が義務づけられ、それに違反すると補助金の削減などの罰則が課せられた。最近では白人や男性側から「逆差別」であるという抗議があり、訴訟になっているケースも多く、見直されている。また黒人側からはこの見直しに強い反発も出ている。1996年にはカリフォルニア州の州民投票でアファーマティヴ・アクションを廃止する州法が成立している。 |
d 北ベトナム空爆(北爆) | → 第16章 3節 北ベトナム空爆 |
f ベトナム反戦運動 | ベトナム戦争は長期化、深刻化し、その悲惨な映像がテレビを通じてアメリカの国民に知られるようになると、まず1965年頃から学生の中で「ティーチ・イン」といわれる反戦集会が始まり、67年頃には全国的な広がりを持つようになった。68年1月のテト攻勢で首都サイゴンが攻撃を受けたことで、タカ派の論調も弱まり、世論の大半はアメリカ軍の撤退を主張するようになった。このベトナム反戦運動に立ち上がった学生は、大学の官僚制的な統制とも対立するようになり、同時に大学改革を求める学生運動として高揚していった。64年のカリフォルニア大学バークレー校に始まり、68年にはコロンビア大学やハーヴァード大学でも学生が校舎を占拠するなどの過激な運動が展開された。この学生運動はたちまち全世界に広がり日本でも東大紛争を始め全国の大学に「スチューデント・パワー」の嵐が吹き荒れた。また多くの若者がヒッピーなどの「カウンター・カルチャー」(アメリカの伝統的な中産階級の文化や道徳に反発した文化)に身を置いたのもこの時代であった。 Epi. 反戦活動家クリントン 学生の反戦運動には利己的な動機もあった。学生、教員、妻帯者などの徴兵猶予が廃止され、戦争が自分の身に直接降りかかってきたのである。そのなかで多くのものが徴兵回避の方策を考えた。クリントン前大統領もそうした若者の道をたどっており、彼は大学院在学中に徴兵を免れ、さらに留学中のイギリスで反戦運動を組織している。<有賀夏紀『アメリカの20世紀』下 中公新書 2002 p.84> |
h キング牧師暗殺 | 1868年4月4日、黒人公民権運動の指導者キング牧師がテネシー州メンフィスで、凶弾に倒れた。キング牧師の死の直後、黒人の暴動が全米六〇以上の都市で起こった。その二ヶ月後、民主党の大統領指名に向けてキャンペーン中であったロバート=ケネディ元司法長官(ケネディ大統領の弟)がロサンジェルスで暗殺された。尊敬を集めていた黒人運動家と、リベラル派で反戦と反差別を訴えていたあR=ケネディの相次ぐ遭難は、アメリカ社会の暗部をかいま見せた形となった。 |
ブラックパワー | 公民権法の成立によって、黒人は白人と平等な権利を保障されたが、現実的な差別は解消されなかった。特に1960年代から顕著になってきたのは、北部の大都市で経済的に恵まれない状況に置かれていた黒人の不満であった。1965年のロサンジェルス、67年のデトロイトなど、北部の大都市で次々と黒人暴動が起こった。彼ら黒人は公民権の保障だけでは平等は達成できないと考え、白人の理解によってではなく、黒人自身の力で平等を勝ち取ろうと考え、「ブラックパワー」を唱えるようになった。1966年に結成されたブラック=パンサー党や、イスラム教を奉じて白人への報復を主張するネーション・オブ・イスラムなどがその例である。彼らは路線をめぐって対立し、1965年にはブラックパワーの指導者マルコムXがネーション・オブ・イスラムのメンバーに殺害された。 |
C ニクソン大統領 | アメリカ合衆国第37代大統領。共和党。在任1969〜74年。ニクソンはまず共和党上院議員としてマッカーシズムの時流に乗り、反共の闘士として知られ、アイゼンハウアー大統領の副大統領となった。1959年には副大統領として訪ソし、フルシチョフと台所論争(アメリカの電化された家庭での消費生活を自賛、フルシチョフが反論した)を展開したことは有名。1960年の大統領選挙では民主党のケネディに敗れたが、ジョンソン政権の後を受けた1968年の大統領選挙では民主党ハンフリーを大差で破り当選した。キッシンジャーを外交問題特別補佐官に任命し、1969年7月、外交方針の原則としてニクソン=ドクトリンを発表、海外への過度な軍事介入の抑制に転じ、対共産圏戦略で同盟諸国の肩代わりの強化を要求した。その一方、和平交渉の有利な展開をねらって70年、71年にはベトナムでの主導権を維持するため、カンボジアとラオスに出兵して介入し、インドシナ全域に戦線を拡大させた。ニクソン大統領の下で、キッシンジャー特別補佐官は積極的な外交を展開、1972年は電撃的にニクソン訪中を実現させ国交回復の道筋をつけて世界を驚かせ、さらに1973年にはベトナム(パリ)和平協定を実現させた。しかしベトナム戦争の経済的負担のつけは厳しく、71年8月には金とドルの交換停止というドル防衛策を発表して、ドル=ショック(ニクソン=ショック)と言われた。1974年の次期大統領選挙運動中に、民主党本部に対するニクソン陣営の侵入事件が発覚(ウォーターゲート事件)、大統領本人の関与も明らかになったため、任期途中で辞任した。なお、アメリカの大統領で任期途中に辞任したのはニクソンが初めてであった。 |
ニクソン=ドクトリン | → 第17章 1節 ニクソン=ドクトリン |
c ドル=ショック | → ドル=ショック |
d ニクソン訪中 | ニクソン大統領は、1971年8月、突然中国訪問を発表し、アメリカ内外を驚かせた。その前月、大統領特別補佐官キッシンジャーが密かに中国を訪問、周恩来と会談して、米中国交回復、ニクソンの訪中を打診し、同意を取り付けていたのだった。ニクソンはベトナム戦争終結を模索し、当時はベトナムを支援している中国に接近して和平の道を探ること、また中国と対立しているソ連を牽制することができる、と考えた。また、キッシンジャーの新しい勢力均衡論、つまり米ソの二極対立の時代は終わりソ連・欧州・日本・中国・アメリカの五大勢力が相互に均衡を保つことによって世界の安定を図るという考えを採用したものであった。ニクソンは予定通り、72年2月、訪中を実現し、アメリカ大統領として始めて中国首脳の毛沢東を握手をし、20年間にわたる敵視政策を転換させることを約した。この日本を飛び越した頭越し外交は、日本政府をも驚かせたが、さらにニクソンは3ヶ月後にモスクワを訪れ、第1次戦略兵器制限条約(SALT・T)に調印、華々しい外交成果を誇った。米中の正式な国交正常化は、カーター大統領・ケ小平の間で1979年に実現した。 |
e キッシンジャー | 1960年代後半〜70年代前半のアメリカのニクソン政権・フォード政権で外交手腕を発揮した人物。ドイツにユダヤ系として生まれ、ナチスドイツ政権成立によって1938年、15歳でアメリカに亡命した。ハーバードに学び、戦後はアメリカ兵としてドイツに駐留した。復員後、政治学者となり、冷戦期の外交問題で鋭い分析を行って注目された。ジョンソン政権で国務省顧問となり、ニクソン政権では国家安全保障担当大統領補佐官となった。ベトナム戦争では積極的な侵攻策を立案するとともに、ひそかに終結の方向を探った。世界を驚かせたのは、1972年のニクソンの訪中と訪ソを演出したことで、その神出鬼没の活躍は「忍者外交」と言われた。1973年には米中和解などの功績によってノーベル平和賞を受賞した。73年から77年はフォード大統領のもとで国務長官を務める。フォード政権ではデタントを推進する一方、73年の第4次中東戦争以後の中東情勢に対しても、頻繁に中東諸国を訪問してアラブ・イスラエル間の調停にあたり、「シャトル外交」と言われたが、基本的なイスラエル支持(キッシンジャー自身がユダヤ系であった)、ソ連の影響力の排除というアメリカの中東政策の枠組みから抜け出すことは出来なかった。また、アラブ諸国を牽制するためにイランと接近し、パフレヴィー王政との関係を強めたことは、79年にイラン革命を誘発する原因をつくった。ラテンアメリカでは73年のチリ軍部クーデターでピノチェトにるアジェンデ政権の転覆を支援した。国務長官退任後も影響力を保っており、2007年には核廃絶の訴えの呼びかけ人となるなど、活躍している。 ニクソン=キッシンジャー外交 キッシンジャーの外交理論は、もはや米ソの二極対立の時代は終わりソ連・欧州・日本・中国・アメリカの五大勢力が相互に均衡を保つことによって世界の安定を図る必要があるという、新しい勢力均衡論であった。これは従来の孤立主義か一国主義いずれかに傾きがちであったアメリカ外交の基本姿勢をあらため、ベトナム戦争後の70年代のデタント外交、多極外交にみられる現実主義とも言える新たな展開をもたらした。その思想的背景には、キッシンジャーがハーバードでウィーン体制時代のメッテルニヒ外交を研究していたことがあると言われている。しかし、その現実主義がデタントというソ連との妥協に走ったという批判が、若手から出てくるようになり、カーター時代の79年のソ連のアフガニスタン侵攻を機にそのような新保守主義(ネオコン)が台頭、レーガン政権下ではラムズフェルドやウォルフォヴィッツなどによってキッシンジャー路線は否定されることとなる。 → アメリカの外交政策 |
f べトナム(パリ)和平協定 | → 第16章 3節 ベトナム(パリ)和平協定 |
g ウォーターゲート事件 | ニクソン大統領が再選された1972年11月の5ヶ月前6月17日、ワシントンのウォータゲート・ビルの民主党本部に5人の男が侵入し、逮捕された。彼らは共和党に雇われ、盗聴器を仕掛けていたことがわかり、74年までにニクソンの補佐官など24名が起訴された。彼らの証言で大統領ニクソンが隠蔽工作を行っていたことが判明し、特別検察官がホワイトハウスに盗聴テープの提出を命じた。テープの内容が明らかになるとニクソンがFBIに捜査の中止を命令するなどの関与がはきりし、議会による大統領弾劾裁判によって罷免されることが必至となった。苦悶したニクソンは74年8月8日、国務長官キッシンジャーに辞任届を提出した。任期途中で辞任した大統領はニクソンが最初であった。 Epi. アメリカ大統領の弾劾裁判 アメリカ合衆国の大統領制度では、大統領は国民から直接選ばれ、任期中はよほどのことがないかぎりその地位から追われることはない。議院内閣制をとるイギリスや日本の首相と違う点である。ところがウォーターゲート事件は現職大統領の犯罪という事件に発展し、大統領制度そのものが問われることとなった。現職大統領を辞めさせる方法は、合衆国憲法では大統領弾劾裁判しかなかった。憲法では下院の過半数で弾劾裁判を決定し、上院の3分の2の議決で有罪とされ、罷免される。ウォータゲート事件ではニクソンが弾劾裁判前に辞任したが、過去には2回例がある。1回目は南北戦争後のアンドリュー=ジョンソンで、彼は上院で弾劾裁判にかけられ有罪判決に必要な3分の2に1票欠いたため罷免を免れた。2回目が秘書との不倫が明るみに出たクリントンであるが、1999年1月の下院の弾劾裁判で無罪となり放免された。<有賀夏紀『アメリカの20世紀』下 2002 中公新書 p.119,190> |
h フォード大統領 | アメリカ合衆国第38代大統領(在職1974〜1977)。共和党下院議員で院内総務を務めていたとき、ニクソン政権のアグニュー副大統領が汚職事件で辞任し、副大統領に任命された。さらにニクソンがウォーターゲート事件で辞任に追い込まれた後、大統領に昇格した。1976年に再任を目指して立候補したが、民主党カーターに敗れた。結局、フォードは国民から選ばれなかった唯一の大統領となった。 フォード大統領の仕事は、ベトナム戦争の収拾と、ウォーターゲート事件による混乱から威信を復活させることにあったが、就任1ヶ月後にニクソンに恩赦を与え、国民の不信を買った。外交問題ではキッシンジャーを国務長官に留任させ、ソ連とのデタント(緊張緩和)を推進し、中東問題でも積極的にうごいた。また1975年の全欧安全保障協力会議(CSCE)では最終文書としてヘルシンキ宣言の成立に中心的役割を果たした。また1976年には毛沢東の死去により米中関係改善が進んだ。外交では一定の成果を得たが、もう一つの課題であった不況克服は、OPECの原油価格引き上げもあって失敗し、鉄工業・自動車工業などが停滞、日本との貿易摩擦も深刻となった。1976年の大統領選挙では民主党のカーターに敗れた。 |
i カーター大統領 | アメリカ合衆国第39代大統領(在職1977〜1981)。民主党。南部のアーカンソー州知事。南部出身のリベラル派として黒人と労働者層の支持で共和党のフォードを破り当選した。中央では無名だったので、立候補したときは Jimmy, Who? と言われた。内政課題のインフレでは減税策を採ったためかえって増進させ、減税率を引き下げたため、国民の信頼を失った。また直面する石油ショックに対しては、エネルギー政策の全面的見直しを提唱、アラブ原油依存体質の転換を図った。その特質は「カーター外交」といわれる外交政策に現れている。まず人権擁護を柱にすえ「人権外交」を掲げた。また1977年の新パナマ運河条約の締結、1978年のエジプト=イスラエルの和平交渉の仲介(キャンプデーヴィッド合意)、1979年の米中国交正常化、ソ連とのSALTU合意などを実現させた。しかしソ連との関係は同年のソ連軍のアフガニスタン侵攻によって崩れ、カーター政権はモスクワオリンピック参加を拒否して対抗し、SALTU合意は破棄された。また同年、イラン革命が勃発、アメリカ大使館人質事件が発生してその解決に失敗し、80年の大統領選挙で共和党のレーガンに敗れ退陣した。 |
j 人権外交 | カーター大統領(1977年就任)が提唱したアメリカ外交の基本姿勢。かつてのウィルソン大統領がアメリカの民主主義の理念を広めることを提唱した「宣教師外交」を再現したと言える。両者とも熱心なキリスト教徒(プロテスタント)であった。具体的にはソ連の反体制派弾圧や南アフリカ共和国のアパルトヘイトを厳しく非難し、アルゼンチン、ウルグアイ、エチオピアなど人権抑圧のある国家には経済的軍事的援助を停止した。 人権外交の理念はその後のアメリカ大統領にも継承されており、特に冷戦終結後は「共産主義との対決」という大義名分が消滅したため、それにかわる他国への介入のアメリカの「言い分」となっている。中国に対する人権抑圧非難は中国の反発を受け、米中関係を一時悪化させた。また中東アラブ諸国やラテン=アメリカ諸国への介入の名分も「人権擁護」であった。それに対してアジアやラテン=アメリカ地域では歴史的価値観の違いを無視した押しつけ介入として反発している。 → アメリカの外交政策 Epi. カーター人権外交の限界 1977年12月、カーター大統領はイランを訪れた際に、イランこそが中東における「安定した島」であると述べ、国王パフレヴィー2世を讃えた。この発言は、人権外交を掲げたカーターが、同盟国における人権抑圧に対しては、いかに無関心であったかを明らかにしていた。この訪問から数ヶ月後、国王に夜人権抑圧に対するイラン国民の不満が爆発し、イラン革命が勃発する。パフレヴィー2世は末期癌を患っており、カーターは彼をニューヨークの病院に入院させることを許可した。その10日ほど後にテヘランで国王の送還を要求したイラン人がアメリカ大使館人質事件が起き、結局カーターはその処置を誤って人気が急落することとなる。<西崎文子『アメリカ外交とは何か −歴史のなかの自画像』2004 岩波新書 p.185-186> |
k 新パナマ運河条約 | 1977年、カーター大統領の時、アメリカとパナマの間で1999年末までにパナマ運河を返還することを約束した条約。アメリカはパナマ運河管理権の返還するかわりに、戦時下の運河地域の中立とアメリカ船の航行権の保証を得た。カーターはラテン=アメリカ地域との関係改善を期待したが、アメリカ国内では保守派が反対し、上院では3分の2をわずか1票上回り承認された。 |
イ.「プラハの春」の抑圧と社会主義の停滞 | |
A フルシチョフ解任 | 1964年10月12日、フルシチョフの不在中に開催されたソ連共産党拡大幹部会は、フルシチョフ第一書記兼首相を解任する決議を行った。翌日軍用機でモスクワに呼び出されたフルシチョフは、幹部会で退陣を迫られ、スースロフが代表して彼の経済政策と外交政策の失敗を列挙し、さらに恣意的で独裁的なやり方を批判した。フルシチョフはやむなく辞職願に署名し、次の第一書記にはブレジネフ、首相にはコスイギンが就任した。 フルシチョフ解任の理由は、農業政策において生産第一主義をとり、土地や気候や伝統的農法を無視した結果、63年に大凶作となったこと、外交政策ではケネディ大統領の脅しに屈しキューバ危機でミサイル基地を撤去したこと(保守派、軍部はソ連の権威を失墜させたととらえた)、政治手法として第22回大会で党員の反対を押し切って任期制を導入したことなどが挙げられる。<外川継男『ロシアとソ連邦』講談社学術文庫 p.378> |
a コスイギン | 1964年のフルシチョフ解任後に、代わって首相となり、共産党第一書記のブレジネフとコンビを組んで、1980年までソ連の指導部を構成した。共産党の経済官僚としての経験が長く、主として内政で東西冷戦期のソ連をリードした。1965年には経済の改革に乗りだし、生産性と利潤を重視し、今までの中央集権的、官僚的な経済政策を改め、市場メカニズムの導入を図った。これは利潤導入方式経営といわれ、ソ連経済を西側資本主義経済に対応させる試みであったが、1970年代に保守的な党内勢力の反対によって途中で挫折した。この改革はペレストロイカの先駆として見直されるようになった。その経済改革は実現せずに終わったが、コスイギンはなお地位にとどまり、ブレジネフ政権を支え、1980年に死去。 |
b ブレジネフ Leonid Il'ich Brezhnev 1906-0982 | ブレジネフは1964年10月から1982年11月まで18年におよび党第一書記(66年から書記長と改称)としてソ連の政権を担当した。これはスターリンに次いで長い政権であった。フルシチョフに見いだされてカザフ共和国第一書記に抜擢され、共産党官僚として地歩を固めたが、1964年にそのフルシチョフを追い落としてフルシチョフ解任後に党第一書記に就任した。1966年からは書記長となった。 内政:コスイギン首相に担当させ、主として党務と外交にあたり、前任のフルシチョフの誤りを避けて改革には慎重であり、この政権の期間は停滞の時代であったとされている。彼が権力の座にあった18年間は、共産党官僚(いわゆるノーメンクラツーラ)が特権的な権力を行使し、内政は経済の停滞から活力を失っていった。 外政:基本的には冷戦のなかでの緊張緩和(デタント)を推進し、欧州の安定とアメリカとの核軍縮を前進させたが、スターリン批判以来強まってきた東欧社会主義諸国の分離や自由化運動を厳しく押さえつける介入を行った。その背景には中ソ対立があり、中国の攻勢から東欧やその他の社会主義圏に対するソ連の統制力を守る必要があったことがあげられる。緊張緩和(デタント)の推進としては、1966年に全欧州の安全保障会議の開催を提唱し、75年の全欧安全保障協力会議(CSCE)の開催とヘルシンキ宣言に結実した。さらに69〜72年には第1次戦略兵器制限交渉(SALT・T)を行い、73年には訪米してニクソン大統領との間で核戦争防止協定を締結した。その一方、社会主義陣営に対する締め付けは厳しく行い、1968年にはチェコ事件でチェコスロヴァキアの改革に介入し抑圧した。ブレジネフ・ドクトリンで制限主権論を掲げて介入を正当化した。翌69年には中ソ国境紛争がついに火を噴き珍宝島事件となった。さらに79年にアフガニスタンに侵攻して国際批判を浴び、80年代の新冷戦という東西緊張の要因を作った。70年代後半は元帥や国防会議議長をへて77年に最高会議幹部会議長という国家元首の地位につき個人崇拝が行われるようになったが、その硬直した権力が結局、ソ連邦の崩壊を招くことになったと言える。 → ソ連社会の停滞 |
ノーメンクラツーラ | |
B 東欧の動き | |
a アルバニア(4) | アルバニアは1947年の人民共和国建設以来、ホッジャの指導により、スターリン体制に追随する姿勢を続けていたが、1956年、ソ連でスターリン批判が行われると、ソ連との対決姿勢に転じ、58年以降は中国の毛沢東に接近、強力な中国=アルバニア同盟を形成した。60年以降、中ソ論争が始まると中国はユーゴスラヴィアを「修正主義」と批判、ソ連はアルバニアを「教条主義」と非難して譲らず、1961年にはソ連はアルバニアへの援助を打ち切り、技術者を引き上げ、11月には国交を断絶した。アルバニアは1962年からコメコンを脱退、さらに1968年にはソ連およびワルシャワ条約機構軍のチェコ介入(チェコ事件)を批判して、ワルシャワ条約機構(WTO)を脱退した。 |
b ホッジャ | 戦後アルバニアの指導者(1944〜1985)で、ソ連と対立し親中国路線をとり、毛沢東死後は中国とも対立して、鎖国政策をとったことで知られる。ホジャまたはホージャとも表記。名はエンヴェル。綴りは Enver Hoxha アルバニア共産党を創設、第2次世界大戦ではパルチザンを指導してイタリアついでドイツと戦い、解放を勝ち取る。1944年、臨時政府の首班となり、戦後のアルバニア社会主義を指導。1954年からアルバニア勤労者統一党第一書記。 ホッジャは当初、ユーゴスラヴィア共産党の援助で解放戦争を戦ったので、ティトーのユーゴスラヴィアとは友好関係にあったが、1948年のユーゴスラヴィアのコミンフォルム除名以後は袂を分かち、ソ連寄りの姿勢に転じ、国内のティトー派を粛清した。しかし、1956年にスターリン批判が始まるとホッジャはスターリン崇拝の立場を維持することを表明して、親中国路線をとることに転じた。毛沢東の文化大革命に対しても理解を示し、アルバニアでも共産主義の純粋化や宗教根絶の運動を起こした。しかし、毛沢東の死後、中国のケ小平が改革開放路線をとるとそれを批判して中国とも対立するに至った。この間、西側陣営とはほとんど交渉しない鎖国政策をとり続け、経済の停滞を招いた。1985年、76歳で死去するまで最高指導者として君臨した。 |
d ルーマニア人民共和国 | 1947年12月30日、ルーマニア王国に代わって成立した社会主義国。ルーマニア共産党はコミンフォルムに加盟し、ソ連の衛星圏として東欧社会主義圏を構成することとなった。1948年、共産党は社会民主党左派を吸収して労働者党となる。1949年には他の東欧諸国とともにコメコン(経済相互援助会議)を結成。スターリン体制への傾斜を強め、1951年からはソ連にならった五カ年計画を実施し、工業化を進めた。この間労働者党内部の激しい権力闘争が展開され、次第にゲオルギウ=デジの主導権が強まった。1956年のソ連のスターリン批判後、デジ政権は独自の工業化路線をとるようになり、ソ連のフルシチョフ政権のコメコンによる経済統制に反発、60年から独自の工業化政策を打ち出した。その背景にはルーマニアの豊富な石油資源を積極的に生かしていこうというものであった。1965年にデジが死去し、チャウシェスクが後継者となり、独自路線と多面外交を継承した。一方で同年、党名を共産党にもどし、国名はルーマニア社会主義共和国に改めてその独裁的権力を強めた。チャウシェスクはソ連よりの外交を改めて自主外交を展開、特に1967年に西ドイツと国交を樹立して世界を驚かせ、68年のチェコ事件に際してはソ連の要請を拒否して軍を派遣しなかった。その後チャウシェスク独裁体制は次第に強化され、74年の大統領就任ごろから個人崇拝の強要がなされ、国民の自由が抑圧されるようになり、1989年に東欧革命の嵐が起きるとルーマニアでも民衆暴動となり、チャウシェスクは捕らえられて形式的な裁判だけで処刑されるという劇的な終末を迎えた。<木戸蓊『激動の東欧史』1994 中公新書 などによる> → 現在のルーマニア |
デジ | ゲオルギウ=デジはルーマニア共産党指導者で、1960年代にルーマニアの自主路線の基礎を築いたことが重要である。デジという名は彼が1934年に投獄されたときの刑務所のある町の名から取った筆名。1945年から書記長。スターリン体制のもと、ティトー一派と目された指導部が次々と粛清された後、権力を獲得し、1952年には首相兼任となった。1956年のソ連のスターリン批判の後、ルーマニアにも反体制運動が起こったが、デジ政権は妥協とともに弾圧も強め、危機を乗り切った。1960年から国内の石油資源を背景とした積極的な工業化計画を打ち出したが、一方ソ連のフルシチョフはヨーロッパ経済共同体(EEC)に刺激されて、それに対抗するためコメコン(経済相互援助会議)を超国家的な機構とし、加盟国間に分業体制を敷くことを構想して、ルーマニアは農業生産主体の経済を強制しようとしたため、デジは強く反発し、独自の工業化路線を堅持した。一方、アメリカやフランスにも経済使節を派遣し、交流を求めた。このようなデジの、コメコン・ワルシャワ条約機構にとどまりながら、アメリカ・フランスなどとの経済協力を進め、中ソ論争では中立の立場を維持する独自の外交は「三台のピアノを同時に弾く」といわれた。デジは1965年に死去し、その権力はチャウシェスクに継承された。<木戸蓊『激動の東欧史』1994 中公新書 などによる> |
e チャウシェスク | 社会主義時代のルーマニアの独裁的指導者。民族主義を鼓吹して支持を集め、独自の工業化を推進してソ連とも一線を画す自主外交を展開した、独裁色が強くなり、1989年の東欧革命で処刑された。1918年、貧農の家に生まれ、マルクス主義を学び、共産党に加盟し、デジに見いだされ、1965年にその死去に伴い、45歳でルーマニア労働者党第一書記となり権力を継承した。彼はデジの経済独自路線、民族主義路線を継承しながら、巧みに民主化を抑え、「チャウシェスク・マシーン」といわれる一派を組織して独裁的な権力を強め、同年党名を共産党に戻すとともに書記長に就任し、党と国家機構を一体化させ(これを「織り合わせ」といった)、自ら国家元首を兼ねることとした。彼は、国内のハンガリー系住民などに対する迫害を強めるなどの方法で個人崇拝を巧妙に作り上げ、1974年には大統領となり、独裁権力を握った。その個人崇拝は、「チャウシェスク賛歌」を青少年に歌わせるまでになり、次第に反発が強まった。また、妻や子どもを政府の要職につけるなどの弊害も現れ、ついに1989年12月、民衆蜂起によってチャウシェスク独裁政権は崩壊する。<木戸蓊『激動の東欧史』1994 中公新書> チャウシェスクの自主外交:ルーマニアの独裁権力を握ったチャウシェスクは、民族主義路線を強め、独自外交路線を鮮明にした。1967年には東ドイツの反対を押し切り西ドイツと国交を樹立、68年のソ連軍のチェコスロヴァキア介入(チェコ事件)にたいしても批判し、軍隊を派遣しなかった。また同年8月にはニクソン・アメリカ合衆国大統領をルーマニアに招待し、ソ連を牽制した。1971年にはチャウシェスクは中国を訪問して大歓迎を受けたが、そのときニクソン訪中の工作をしたとも言われている。 |
f ハンガリー | 1956年のスターリン批判を機に起こったハンガリー反ソ暴動が、ソ連軍の直接介入によって抑えられ、その後はカーダールによる社会主義体制維持の政権が続いた。しかし1963年頃から改革派よりの姿勢を強め、1968年には130人の専門家(経済学者)を組織して「新経済メカニズム」を発足させ、経済運営を計画経済よりも経済パラメーター(指標)にゆだねる「市場社会主義」の実験(ユーゴスラヴィアではすでに始まっていた)に着手した。このように東欧諸国の中で1960年代に明らかになった経済停滞(低成長)からの脱却を目指す改革をはじめたのがティトーのユーゴスラヴィアとカーダールのハンガリーであった。カーダールは1968年のチェコ事件でもチェコのドプチェクと会談して事態の解決を模索し、最後までソ連軍の軍事介入には批判的だった。カーダール政権の経済改革は政治の民主化に影響を与え、1970年には複数候補者を認める選挙法が改正された(これは後のソ連のゴルバチョフに先行する改革だった)。しかし、1973年の石油ショックによって経済改革にストップがかかり、またソ連のブレジネフ政権はハンガリーの改革に対する警戒を強めたため順調には進まなかった。この間、ポーランドやルーマニアは過度な工業化を進めようとして混乱を大きくしたが、ハンガリーではニエルシュなどの改革派が慎重な姿勢をとり、それが1989年の穏健な形でのハンガリーの民主化実現の要因となったと思われる。<木戸蓊『激動の東欧史』1990 中公新書 などによる> |
カーダール | ハンガリーの社会主義労働者党(共産党)指導者。ハンガリー反ソ暴動ではソ連に協力して暴動鎮圧に当たったが、その後1960〜80年代のハンガリーで長期政権を維持し、1960年代からは経済改革路線をとるようになり、民主化の前提を作った。 カダルとも表記。第2次世界大戦中のドイツに対する抵抗運動に加わり、戦後の1948年に内相となるが、スターリン体制が席捲する中で1951年には「ティトー主義者」と批判されて逮捕され、終身刑の判決を受ける。スターリン死後の54年に復権し、56年のイムレ=ナジ政権には当初協力したが、ハンガリー反ソ暴動が始まると国外に出て、反ナジの立場をとり、ソ連の後援を受けて社会主義労働者党を新たに組織し、権力を握った。当初は暴動参加者に対する激しい弾圧を行い、親ソ路線を明確にしていたが、次第に中道路線をとるようになり、1960年代からは経済改革に着手、市場経済導入をはかった。1988年に引退し、その翌年に民主化が実現した。 カーダールの転身:カーダールはワルシャワ条約機構残留など当初は親ソ路線をとっていたが、次第に国内改革に目を向けるようになり、「敵でないものはすべて味方である」という相対的に寛大な政策を採用、改革派の経済学者などを登用して市場経済導入も含めた社会改革の検討に入った。その姿勢は国民の支持を受けて、カーダールは1988年の引退まで権力の座を維持し、1989年の民主化への転換を準備したといえる。その点ではポーランドのゴムウカが反スターリン政策を掲げて当初は圧倒的な国民の支持を受けながら、次第に硬直化して国内の改革派を抑圧し、国民の批判を受けるにようになったのと対照的である。<木戸蓊『激動の東欧史』1990 中公新書 p.68> |
C チェコ事件 | 1968年、社会主義体制の中での自由化・民主化を目指したチェコスロヴァキア政府の改革を、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構5カ国軍が軍事介入して抑圧した事件。社会主義経済の停滞と共産党一党独裁のもとでの官僚的支配が続く東欧圏を大きく揺るがす動きであったが、ソ連のブレジネフ政権は制限主権論を掲げて統制を強めた。 ドプチェクの改革「プラハの春」:チェコスロヴァキア社会主義共和国では、ノヴォトニー共産党第一書記による政権のもとで、経済の停滞と言論の抑圧などに対する不満が強まっていた。1968年に民主化運動が盛り上がり、ノヴォトニーは辞任、後任にドプチェクが就任した。ドプチェク第一書記は、路線の転換と民主主義改革を宣言、一気に「プラハの春」と言われた改革を実行した。3月にはノヴォトニーは大統領も辞任、代わって第2次世界大戦の国民的英雄スボボダが選出された。ドプチェクの改革は社会主義を否定するものではなく、「人間の顔をした社会主義」という言葉で示されるように、国民の政治参加の自由、言論や表現の自由などを目指すものであった。 ソ連軍などの介入:この動きに対してソ連(ブレジネフ政権)は社会主義体制否定につながると警戒し、介入を決意、1968年8月20日にソ連軍を主体とするワルシャワ条約機構5カ国軍の15万が一斉に国境を越えて侵攻、首都プラハの中枢部を占拠してドプチェク第一書記、チェルニーク首相ら改革派を逮捕、ウクライナのKGB(国家保安委員会)監獄に連行した。これがチェコ事件と言われるもので、全土で抗議の市民集会が開かれ、またソ連の実力行使は世界的な批判を浴びた。スボボダ大統領は執拗にドプチェクらの釈放を要求、ソ連は釈放は認めたが、ソ連軍などの撤退は拒否した。 社会主義圏の反応の違い:このとき、チェコに軍隊を派遣したワルシャワ条約機構加盟国は、ソ連(ブレジネフ政権)・東ドイツ(ウルブリヒト)、ポーランド(ゴムウカ)、ハンガリー(カーダール)、ブルガリア(ジフコフ)の5カ国。()内の人物がそれぞれ長期政権を維持していた。チェコ侵攻の強硬派はソ連のブレジネフと東独のウルブリヒト、ポーランドのゴムウカであった。ハンガリーのカーダールはドプチェクとも会談して事態打開に努めたが実を結ばなかった。ワルシャワ条約機構加盟国で軍隊を送らなかったのは、ルーマニアのチャウシェスク政権。ルーマニアは「自由で独立した社会主義兄弟国家の国家主権に対する明白な侵害」という非難声明を出した。また東欧社会主義圏であるが、同調しなかったユーゴスラヴィア(ティトー政権)は「深い憤慨と抗議」を表明し、アルバニア(ホッジャ政権)は「ソ連修正主義の野蛮な侵略に対して、チェコスロヴァキア修正主義裏切り者集団は最も恥ずべき形で降伏した」と論評、中国(毛沢東)の『人民日報』も「ソ連修正主義裏切り者集団と東欧諸国の裏切り者集団との深刻な矛盾」の現れととらえ、「ソ連は社会帝国主義に墜落」したと非難した。 「正常化」政権への後退:復帰したドプチェクはソ連とも妥協し検閲の復活などを認めた。なおも不満な市民と学生は、翌69年も断続的にデモやストを行ったので、ソ連はさらに圧力を加え、4月にドプチェクを解任、代わってフサークが第一書記に就任、その後は改革派は排除されフサークによる「正常化」と称する改革否定の後戻りがなされた。 チェコ事件の影響:1968年のチェコ事件は、東欧社会主義圏が一体ではないことを明確にし、またソ連の軍事介入が現実のものとなったことは西側諸国と中国に複雑な影響を与えた。それは大きくみれば冷戦を現実のものとして受け入れ、東西がどのように折り合いとつけていくことができるかを探る動きとなり、冷戦構造を揺るがす事となった。まず現れたのは、1970年からの西ドイツのブラント政権が東方政策を打ち出し、ソ連・ポーランドとの国境を承認し、直接交渉を開始するという事から始まり、いわゆる緊張緩和(デタント)へと動き出すこととなった。中国(毛沢東)では文化大革命が始まっていたが、ソ連のブレジネフの制限主権論が中国にまで及ぼされることを警戒して軍事強化に乗り出し、その中ソの緊張から翌1969年の珍宝島事件の衝突となる。 |
a チェコスロヴァキア社会主義共和国 | 戦後のチェコスロヴァキア共和国が1948年の共産党によるクーデター(二月事件)によって倒れた後に成立した人民民主主義を掲げた国家。その共産党政権は、1953年にノヴォトニーが共産党第一書記となり、さらに57年に大統領に就任した。1960年代に入り、社会主義経済の停滞が目立ち始め、硬直化したノヴォトニー政権への不満が強まっていった。ノヴォトニー政権は文学者などによる民主化運動を厳しく弾圧したため辞任要求の声が強まり、1968年春にを辞任、後任のドプチェク共産党第一書記が路線の転換と民主主義改革を宣言、一気に「プラハの春」と言われた改革が始まった。ドプチェクの改革は「人間の顔をした社会主義」、つまり国民の政治参加の自由、言論や表現の自由などを目指す当然のものであったが、ソ連(ブレジネフ政権)は社会主義体制否定につながると警戒し、1968年8月20日に軍事介入に踏み切り、ドプチェク第一書記らを逮捕した(チェコ事件)。翌年4月にドプチェクを解任、代わってフサークが第一書記に就任、その後は改革派は排除され「正常化」と称する改革否定の後戻りがなされた。 1969年に改革派を一掃して成立したフサーク「正常化」政権のもとで、1970年代には反政府的な言動には徹底した取り締まりが行われ、市民は沈黙を余儀なくされたが、チェコスロヴァキアも参加した1975年の全欧安全保障協力会議(CSCE)でヘルシンキ宣言が決議され、人権問題が取り上げられたことから、ヨーロッパ各国のチェコスロヴァキアの人権抑圧にたいする批判が強まった。1977年には劇作家のハヴェルらが中心となった知識人たちによる「憲章77」が発表され、言論や集会の自由、法の前での平等などを強く世界に訴えた。政府はそれに署名した人々を次々と逮捕、運動は押さえつけられたが、政府の人権抑圧に対する民衆の不満はふくれていった。 1987年、フサークは建康を理由にヤケシュが書記長となり、ソ連のゴルバチョフ改革に倣った経済改革が行われたが不徹底なものであり、人権問題では前進がなかった。チェコ事件で抑圧された民主化と自由化への願望が次に一気に吹き出したのが、一連の東欧革命の年である1989年の10月だった。 → チェコスロヴァキアの民主化 |
1968 | |
b 民主化運動(チェコスロヴァキア) | 1960年代に入り、東欧社会主義圏の社会主義経済の停滞が目立ち始め、チェコスロヴァキア社会主義共和国においても硬直化したノヴォトニー政権への不満が強まっていった。1967年6月には作家同盟大会でミラン=クンデラ(『冗談』などの作品で知られる作家)が、「かつてのナチスの支配と同じように、スターリン主義は文化の発展を遮り、チェコスロヴァキアを文化的な僻地に追いやっている」と激しく批判した。それに対してノヴォトニー政権は作家同盟機関誌の編集委員会の解散、それを情報局の直轄に移した。しかし作家たちは機関誌への執筆を拒否、市民の間にも不買運動が起こり、また学生も政権の言論介入や経済政策を批判しデモを始めた。ノヴォトニー政権にたいする辞任要求は共産党内部を動かし、翌1968年に第一書記はドプチェクに交代、そのもとで積極的な民主化の推進である「プラハの春」が実現した。文化人の民主化運動はドプチェクの改革を支持し、「二千語宣言」を発表した。しかし、ソ連を中心とした東欧社会主義国5カ国軍による軍事介入によってドプチェク政権は倒され(チェコ事件)、その後は共産党のフサーク第一書記による「正常化」と称する古い硬直した社会主義体制への復帰がなされ、70〜80年代は再び重苦しい言論抑制が続くこととなった。ようやく1977年、劇作家ハヴェルらを中心に、再び民主化と自由化を求める声が強まり、「憲章77」が発表されるたが、当局による言論取り締まりは続き、西欧諸国でもチェコスロヴァキアの人権抑圧が批判されるようになった。この長い民主化運動が前史となり、ようやく1989年の官僚主義的社会主義体制が崩壊し、チェコスロヴァキアの民主化が達成されることとなる。 |
c ドプチェク Alexander Dubcek(1921〜1992) 『戦車と自由』チェコスロヴァキア事件資料集T(みすず書房)より | チェコスロヴァキア共産党の指導者。1968年に第1書記となり、「プラハの春」と言われる民主化を実現したが、同年8月ソ連軍などの介入を受けた「チェコ事件」で辞任、改革は抑圧された。1989年に東欧革命が起こる中で復帰した。 ドプチェク(ドゥプチェクが原音に近いが日本ではドプチェクが一般化している)は、スロヴァキアの貧しい家具職人の子として生まれ、家族とともにソ連にわたり集団農場で暮らす。1938年に帰国し、労働者となって共産党に加わり、1944年のスロヴァキアの対独民衆蜂起に加わる。戦後はスロヴァキア地区の共産党幹部として活躍、1960年代からチェコスロヴァキア共産党中央の幹部となった。1968年、ノヴォトニーに代わって第一書記に就任、「人間の顔をした社会主義」と言われる大胆な民主化政策を打ち出し「プラハの春」を指導したが、8月にソ連軍を中心としたワルシャワ条約機構5カ国軍の介入を受け、ソ連に連行される(チェコ事件)。大統領スボボダとも協力して、ソ連軍とねばり強く交渉し、プラハに復帰し、ソ連軍の撤退を認めさせたが、現実的な妥協もはかり、検閲制度の復活など民主化を後退させた。翌69年、民衆の民主化を求める運動がなお続いたことからソ連が硬化し、ついにドプチェクは退陣、ソ連の意のままに動くフサークに交代した。 Epi. 降格、復帰、事故死。数奇なその後のドプチェク 「チェコ事件」で辞任させられたドプチェクは、その地位を降格され、トルコ駐在大使を最後に公職を失い、ブラチスラヴァの営林署に勤務(一説には一時は公園の監視人となったという)。その後、1989年の東欧革命の中で、チェコスロヴァキア民主化運動が起きると、「プラハの春」の再現を求める民衆の期待を受けて再登場、同年12月、共産党政権が倒れると連邦議会の議長に就任した。しかし、民主化達成後のチェコスロヴァキアでは、ドプチェクら旧共産党員の排除を要求する右派の勢力が台頭、同時にチェコとスロヴァキアの分離運動も起こり、1992年9月1日スロヴァキア議会は連邦から脱退することを決定した。奇しくも同じ日、ドプチェクは交通事故で瀕死の重傷を負い、11月7日プラハの病院で死去した。チェコスロバキア共和国の消滅とともに死去したこととなる。 |
d 人間の顔をした社会主義 | 1968年、チェコスロヴァキアで「プラハの春」を指導した共産党第一書記ドプチェクが掲げた路線。同年4月の「チェコスロヴァキア共産党行動要領」で「社会主義へのチェコスロヴァキアの道」と題され、新しい国家目標として掲げたもの。 共産党行動要領の内容:まず現状を「中央集権的、指令的、行政的な方法が・・・次第に官僚主義的体系に転化し・・・セクト主義、人民の民主的な権利と自由の抑圧、法律の侵犯、専横と権力乱用の徴候が共和国の内部に現われ、人民の創意を損い、さらに・・・多くの市民をひどく、しかも不当に苦しめるにいたのである。」として、「これらの欠陥はなによりもまず古い指令管理制度の維持およびその不断のくり返しによって、直接引き起こされた。すなわち経済手段、需要と供給の形態、市場的結合が中央からの指令と取り替えられた。社会主義的企業は拡大しなかった。経済生活においては人民の自主性、勤勉、専門技術、創意は評価されず、その反対に卑屈、服従、さらには上司へのおべっかさえもが賞揚された。」と述べている。そのようなゆがみをただし、「社会主義的民主主義」の実現を掲げ、党員の団結と信頼回復を呼びかけた後に、具体的方針を提示した。その中の主な項目は次のようなものである。 ○権利なければ責任なし:「党機関が国家機関、経済管理機関、社会団体にとって代わったり、あるいはこれらを入れ替えたりするようなことは完全にやめなければならない。」「社会主義社会の権力はただ一つの党、あるいは党の連合によって独占されてはならない。」(つまり、党と国家の分離、一党独裁の否定を明言している) ・集会および結社の自由の保障、・事前検閲の排除、・言論の自由の保障、・移転と外国旅行の自由が認められる。また過去に不当に迫害された人々の復権をはかること。 ○チェコ人とスロヴァキア人の平等:二つの民族の平等な合体として出発したチェコスロヴァキア共和国であるが、現実には(工業力の豊かな)チェコの優位が強かった。また「多数決の原則」に従えば、スロヴァキアの要求は実現できない事が多かった。それを改め、両民族は対等な連合関係とするため、スロヴァキア民族評議会を立法機関とし、その閣僚会議をを独自の執行機関とするなどの改訂を加える。またハンガリー人、ポーランド人、ウクライナ人、ドイツ人など少数民族の地位と権利を保障する。 ○議会制民主主義と政党政治の復活:被選出機関の権力は選挙人の意志から生じる。近い将来、現実的、調和的な選挙制度を作り上げ、チェコスロヴァキア社会主義共和国の国家権力の最高機関として国民議会の地位を現実のものとする。チェコスロヴァキアの政党は国民戦線に加盟するものでなければならない。国民戦線の政治的権利を否定することは1945年の悲劇的体験によって禁止されている。しかし国民戦線が新しい課題を遂行できるようにそのあり方は根本的に再検討されなければならない。 ○権力の分割と監視−専断を防ぐ保証:職業的公務員に必要な保護を与えるとともに、必要に応じて替えることができるような関係と規則を考える必要がある。また国家機構全般にわたって、一つの部門、一つの機関、一人の個人に過度に権力が集中しないようにする必要がある。 ○経済の民主化:社会主義は企業なしにはやっていけない。経済民主化のプログラムには特に、企業や企業集団の自主性とそれらの国家機関からの相対的な独自性、消費者が自分の消費や生活様式を決定する権利、労働活動を自由に選ぶ権利、・・などが含まれている。(明確には述べられていないが、国家管理下の計画経済の廃棄と、市場経済の導入が想定されている。) ・国際分業に効率的に参加する。コメコンとの経済協力は維持するが、その他の世界市場にも積極的な開放をはかる。 ・従来の工業偏重ではなく、農業、消費財工業、商業、サービス部門、住宅建設など、生活水準の向上を課題とする。 ・スロヴァキアの資源の合理的な利用で共和国の発展を図る。 ○科学、教育および文化の発展(略) ○チェコスロヴァキアの国際的地位と外交政策(略)<日本語原文は『戦車と自由T』1968 みすす書房 p.189-242> これらは、社会主義を否定するものではなく、それによって民主主義をめざすものであり、行動綱領の言葉では「社会主義的民主主義」であり、現在では「人間の顔をした社会主義」と言われることが多い。行動要領では「社会主義は単に労働人民を搾取的な階級関係の支配から解放したにとどまらず、どのようなブルジョア民主主義が与えるよりも人間らしい充実した生活を送れる可能性をふやさなければならない」と言っている。 背景:当時東欧社会主義圏では、スターリン批判(1956年)から始まった内政での民主化と、外政での平和共存といった「雪解け」と言われた路線が、1964年からのソ連のブレジネフ政権のもとで後退していた。背景には中ソ対立やルーマニア・アルバニアなどの離反など、社会主義陣営内部の対立の激化があった。社会主義国は共産党一党独裁体制に対する政治的不満と、経済の停滞による西欧諸国との格差、権力者党官僚と一般市民の生活感情のズレなどが深刻となっており、チェコスロヴァキアでも1960年代に経済成長の低下が表面化していた。 |
e 「プラハの春」 | チェコスロヴァキアでは1948年の2月事件で共産党政権が成立して以来、スターリン批判の受容が遅れて党改革が行われず、1960年代からは経済面での停滞から成長の低下が問題となってきた。特に文学者が知識人、学生の中から民主化と自由化を望む声が強まり、民主化運動による政府批判が高まった。1968年春、チェコスロヴァキア共産党は第一書記にドプチェクを選任、改革派を登用して民主化に乗り出した。まず3月には検閲制度を廃止して言論の自由を保障し、ついで4月には新しい共産党行動綱領を決定して「人間の顔をした社会主義」を目指すことが打ち出された。これを受けてチェコスロヴァキア内の議論はまさに百花斉放を様相を呈し、新たな政党の結成の動き現れ、首都プラハの町にはミニスカートなどの西欧風の諸文化が大量に開花した。また6月には70人あまりの知識人が署名して「二千語宣言」が発表され、ドプチェク路線を強く支持し、旧来の体制に戻ることに強い反対が表明された。これら1968年春の一連の自由化の爆発を「プラハの春」と言っている。 しかし、夏になると8月20日にソ連をはじめとするワルシャワ条約機構軍が侵攻し、市民の抗議の嵐の中をプラハの中心部を制圧、ドプチェクらを連行するというチェコ事件によってこの春は踏みにじられてしまった。 |
i ブレジネフ=ドクトリン(制限主権論) | 1968年9月28日、ソ連のブレジネフ書記長が、チェコ事件に際して発表した、社会主義国家間の関係を規定する文書。「社会主義諸国は、社会主義共同体としての利益を、各国個別の国家的利益に優先しなければならない。社会主義共同体全体の利益が脅威にさらされた場合は、共同して介入して全体利益を守ることが社会主義国の義務である。」というもの。一国の主権が制限されてもやむを得ない、という議論なので、「制限主権論」とも言われている。 ソ連を中心としたワルシャワ条約機構5カ国軍は、同年8月20日に、チェコスロヴァキアの「プラハの春」といわれた民主化運動に介入して、それを押しつぶした。ブレジネフ=ドクトリンはその正当性を後ずけするのものでり、その後も社会主義陣営に対する有形無形の圧力として機能した。1979年のソ連軍のアフガニスタン侵攻もこの原則に則ったものとされた。ブレジネフ=ドクトリンに対して、東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアは同調したが、同じ東欧でもユーゴスラヴィア、アルバニアは反対し、ルーマニアは否定的であった。また中国はソ連の社会帝国主義の現れとして激しく反発、翌69年には中ソ国境紛争は珍宝島事件で衝突するまでになった。 ブレジネフ=ドクトリンの放棄:このブレジネフ=ドクトリンは、スターリン批判後にゆるんだ東欧諸国のタガを締め付けるものであったが、60〜70年代の西側の経済発展(特に西ドイツと日本)に比べて東欧社会主義の経済停滞が明らかになるにつれて、ソ連自身が改革の必要を感じるようになり、ブレジネフ死後の混乱を経て、1985年にゴルバチョフが登場、ペレストロイカとともに推進された新思考外交のなかで、新ベオグラード宣言が出され、制限主権論は放棄され、それが1989年の東欧諸国が一挙にソ連離れして、東欧革命の嵐を呼び起こし、さらに1991年のソ連自体の崩壊につながっていく。 |
制限主権論 | → ブレジネフ=ドクトリン |
D 自由化運動の拡大 | |
c 「憲章77」 | 1977年、チェコスロヴァキアの知識人が発表した、言論の自由、信教の自由、集会・結社の自由、法のまでの平等と言った基本的人権が著しく損なわれていることを詳細に明らかにしたもの。この憲章は世界に広く報道され、関心と同情が起こったが、共産党政権はその要求に応えず、運動は抑えられたが、その後も「憲章77」は反体制組織として継承された。 同年1月1日に発表された「憲章77」は、元カレル大学哲学教授パトチカ、劇作家ハヴェル、元外相ハーイェクの三名が呼びかけ242名が署名したの。その多くは1968年の「プラハの春」の支持者だった。作成の動機は、1975年のヘルシンキで開催された全欧安全保障協力会議(CSCE)が人権等に関する最終文書を採択、その履行状況を確かめるための再検討会議が、1977年6月からベオグラードで開かれる予定になっていたので、そこでチェコスロヴァキアの現状をアピールするためであった。署名者にはチャスラフスカ(東京オリンピックの女子体操優勝)やザトペック(人間機関車と言われた戦前からのマラソン選手で国民的英雄)などの著名人も含まれていた。国内では発表と同時に文書は押収され、所持者は身柄を拘束されたので国民はほとんど読むことができず、西側の新聞で報道されて知られることになった。政府は直ちに反「憲章77」のキャンペーンを開始し、拘留されたパノチカは心臓病が悪化して死去し、多くも厳しい取り締まりを受けて運動は抑えられた。しかし、フランス、イタリアなどの西側諸国の共産党だけでなく、アルバニアをのぞく東側諸国の反体制派にも大きな反響を呼び起こした。ハヴェルらは弾圧に屈せず、知識人の反体制組織として「憲章77」を継続させ、活動を続け、1989年のビロード革命と言われたチェコスロヴァキアの民主化を実現した。 Epi. 音楽と宗教を解放した「憲章77」 「憲章77」の運動そのものは、警察力によって封じ込められたが、社会の中のエネルギーを二つの分野で解放した。音楽と宗教である。ジャズ、フォーク、ロックなどの音楽は社会的閉塞感のなかで、爆発的な人気が高まっていたが、当局はそこに危険な破壊的エネルギーを嗅ぎとり、人気バンドのコンサートを禁止した。公認の音楽家協会の一部門であった「ジャズ部会」も演奏が禁止されたが、活動を続けたため86年にバンドリーダーのカレル=スルプ以下が有罪となった。これらの動きは民衆の反発を強めるだけだった。宗教面でも牧師たちの中に「憲章77」に共鳴して、人権運動に加わるものが現れ「地下教会」で伝道が続いた。<木戸蓊『激動の東欧史』1990 中公新書 p.186> |
d アメリカの動揺 | ベトナム戦争の敗北 |
e ソ連の停滞 | 経済・社会の停滞と東欧諸国の離反 |
ウ.国際経済体制と戦後政治のゆき詰まり | |
A ドル=ショック | 1971年8月、アメリカ大統領ニクソンの発表した、ドルの金との交換停止によって、ドルの価値が急落し、ドルを基軸とする国際通貨制度(ブレトン=ウッズ体制)が崩壊したこと。この結果ドル切下げが行われた。ドル危機ともいう。 ドル危機:第2次世界大戦後の世界経済は、1944年のブレトン=ウッズ協定によって、各国の為替レートを固定し、ドルと金の交換をアメリカ政府が保証することによってドルを基軸通貨とすることによって安定し、成長を続けてきた。ところがその中核を担っていたアメリカ経済は、冷戦による軍事費の増大、とりわけベトナム戦争の戦費が大きな負担となり、さらに戦争から立ち直った西ヨーロッパ諸国と、高度経済成長を続ける日本に追い上げられ、1960年代にはその優位は失われてしまった。いまやアメリカが金に裏打ちされたドルによって世界経済を支えることは不可能になった。 ニクソンのドル防衛策:1971年8月、ニクソン大統領はドルと金の交換(兌換という)を停止するドル防衛策を発表、あわせてアメリカ産業を守るため、10%の輸入課徴金を課することを表明した。これはアメリカが自国経済の立て直しのために、ブレトン=ウッズ体制のルールを自ら放棄したものであった。 ドルの切り下げ:先進諸国は同年12月、ワシントンのスミソニアン博物館で蔵相会議を開き、ドル切下げを決定、1ドル=360円から308円とされた(ドルから見れば切下げ、円から見れば切上げ)。このスミソニアン協定は固定相場制を維持することをねらったが、世界に出回っていたドルの価値が保証されなくなったため、73年までに先進諸国は相次いで変動相場制に移行し、ドルはさらに下落した。 ドル=ショックの影響:ドル=ショックは続くオイル=ショック(石油危機。第1次が1973年、第2次が1979年)とあわせて、戦後世界経済に大きな衝撃を与え、ドルを基軸とした国際通貨制度であるブレトンウッズ体制を崩壊させ、アメリカの威信の低下をもたらすとともに、西ヨーロッパ統合を促進させ、技術革新や省エネで危機を克服した日本経済が台頭し、資本主義世界での三極化などをもたらした。また資本主義経済では従来と違った不況とインフレが同時に進むスタグフレーションという現象が続くこととなった。 → アメリカの外交政策 |
a ベトナム戦争の戦費支出 | 1965年から始まったベトナム戦争で、アメリカ軍は北ベトナムに対する北爆と共に、最終的には50万名を上回る陸上部隊を投入し、その軍事支出は膨大なものとなった。ジョンソン政権は当初掲げた「偉大な社会」建設のための社会保障支出を削減して、軍事費の捻出をはかったが、アメリカ経済の破綻をもたらすこととなった。次のニクソン大統領は69年にはニクソン=ドクトリンを発表してベトナム対策への同盟諸国による肩代わりとアメリカ軍の段階的撤退を表明したが、70年には北爆を再開、戦火をカンボジア、ラオスに拡大した。その穴埋めのように、1971年8月にドルの金の交換停止などを柱とするドル防衛策を発表せざるを得なくなった。 |
b 社会政策費の増大 | アメリカ1965年ごろから始まったインフレ(つまりドルの価値の低下)の原因の一つとしてあげられるのが、ジョンソン大統領のかかげた「偉大な社会」を実現するための福祉プログラムであった。このプログラムは、1950年代のアメリカ経済の発展の中で取り残された社会福祉や医療、公共サービス、貧困問題などの解決を目ざすものであった。「偉大な社会」プログラムの中でもっとも予算を必要としたのは、高齢者医療保障と貧困者への公的医療保障の二つの政策であり、「この高齢者医療保障と医療扶助の二つのプログラムが医療サービスへの需要を拡大し、政府支出のなかに占める割合と総額を大幅に上昇させた。ジョンソン大統領の在任5年間をみても、医療支出は41億ドルから139億ドルへと急上昇する。」またジョンソン大統領は「貧困との闘い」を掲げ、失業救済、若者の就業援助政策として「経済機会法」を制定し、貧困撲滅運動を進めた。このジョンソンの「偉大な社会」プランは、ローズヴェルトのニューディール、トルーマンのフェアディール、ケネディのニュー・フロンティアという民主党の政策を継承したものであり、また当時影響力を持っていた経済学者ガルブレイスの『豊かな社会』(1958年刊)などであり、また1962年に発表されたレイチェル=カーソンの『沈黙の春』が成長や発展の影にある問題を指摘し大きな反響を呼んだことなどがあげられる。<猪木武徳『冷戦と経済繁栄』世界の歴史29 中央公論新社 1999 p.259〜> |
c 日本・西ヨーロッパの躍進 | 第2次世界大戦後、アメリカによる経済援助によって復興を遂げた日本および西ヨーロッパの諸国であったが、1950年の朝鮮戦争を期に急成長した日本と、奇跡の経済発展と言われた西ドイツに代表される西ヨーロッパ経済の繁栄が次第にアメリカを脅かすようになった。顕著に表れたのは貿易面で、1971年にはアメリカはこれらのの地域の製品輸入が増大したため、100年ぶりに貿易収支が赤字に転落し、ニクソン大統領を初めとするアメリカ政界や経済界は大きなショックを受け、ドル危機に追いやることとなった。 |
d 財政赤字 | アメリカ財政悪化の要因:ドル危機の要因はさまざまものが複合しているが主要なものは次のようなことである。 1.冷戦下でアメリカが西側諸国への経済援助を続けたこと。 2.60年代からのベトナム戦争の出費が増大したこと。 3.社会政策費の増大が財政を圧迫したこと。 また、大資本が国内よりも高い利潤を求めて海外に投資するようになり、税収が減少したことも考えられる。 |
e 貿易収支赤字 | 第2次世界大戦後、50年代までは世界経済の中で「アメリカ一人勝ち」という状況であったが、60年代に入り、西ヨーロッパ諸国、日本の経済復興が進み、アメリカ製品の輸出は頭打ちとなって、逆にそれらの国々からの輸入が増加してきたため、貿易収支が赤字に転落した。1971年にアメリカの貿易収支が赤字に転じたのは、南北戦争を克服して工業化に成功して黒字に転じてから100年ぶりであった。 |
f ニクソン大統領 | → ニクソン大統領 |
g ドルの金兌換停止 | 1971年、アメリカのニクソン大統領が打ち出した、ドルと金の交換(兌換)を停止したこと。従来のブレトン=ウッズ体制では、ドルは世界の基準通貨として金と兌換できることになっていたが、1960年代にアメリカ経済が不振となるに従ってドルの実質的な価値が下落し、各国が競ってドルを金に兌換したためにアメリカの金保有高が急減し、ドル危機が進行したための「ドル防衛」策であった。これはドルの流出を防ぐためであったが、具体的にはアメリカが輸入を制限することを意味しているから、対米輸出に依存する各国にとっては大きな衝撃であり、この措置はドル=ショックと言わた。 ニクソンのドルショックによって世界の経済は混乱したため、同年12月に先進国蔵相会議はスミソニアン協定によって、固定相場制を維持することを確認しながら、ドルと各国通貨の為替比率において、ドルを切り下げる措置を行った。これはドル切下げによってアメリカの輸出を増やしアメリカ経済を安定させることを目ざしたものであったが、当時の実勢に追いつけず、間もなく1973年には変動相場制に移行せざるを得なくなる。 |
h 10%の輸入課徴金 | 1971年のニクソン大統領のドルと金の交換停止と同時に打ち出されたドル防衛策の一環。アメリカのすべての輸入品に10%の課徴金を課すことによって、アメリカの輸入超過を抑え、ドルの流出を防止しようとしたもの。アメリカが輸入課徴金をもうけ、保護主義に転換したことは、第2次世界大戦後に、戦前のブロック経済体制を反省して自由貿易の原則を確立するために設けられた「関税と貿易に冠する一般協定(GATT)」の精神にアメリカが自ら反することをしたことを意味しており、これ以後アメリカは保護貿易主義的な姿勢を強めることとなり、日米貿易摩擦の背景となっていく。 |
i ドル危機 | 第2次世界大戦後の1950年代は、ヨーロッパ各国や日本は輸入超過が続き、ドル不足に苦しんでいたが、60年代に経済の復興を遂げると逆に輸出を増やしてゆき、各国ともドル不足を解消、むしろドル過剰の状況となった。そのため各国はドルをアメリカの金と交換(兌換)したため、アメリカの金保有高は急速に減少した。そのため金価格は高騰、つまりドルの価値は下落した。これがドル危機と言われるものである。 → ドル=ショック |
スミソニアン協定 | 1971年12月、先進主要国が、ドルと各国通貨の為替相場で、ドルを切り下げながら公定相場制を維持することを申し合わせたこと。1971年8月のアメリカのニクソン大統領の金・ドル交換停止発表(ドル=ショック)を受けて、同年12月先進国10ヵ国の蔵相会議がワシントンのスミソニアン博物館で開催された。ドル危機に対応し、金1オンス=38ドルの水準で多角的通貨調整を行い、固定相場制の維持を図った。日本円は1ドル=360円から308円に切り上げられ、他の西ヨーロッパ主要通貨も切り上げられた。この合意をスミソニアン協定といい、金ドル本位制の下での固定相場制というブレトン=ウッズ体制を守ろうとしたものであったが、維持することができず73年までに変動相場制に移行した。 |
j ブレトン=ウッズ国際経済体制 | → 第16章1節 ブレトン=ウッズ体制 |
k 三極構造 | 第2次世界大戦後の世界経済はアメリカの「一人勝ち」という状況であり、またブレトン=ウッズ体制のもとでのIMF体制やGATT体制のなかでアメリカ経済が世界経済を支えていた。ところが1960年代に、アメリカ経済の繁栄は終わりを告げ、戦後の戦災から復興した西ヨーロッパと日本が台頭してきて、およそアメリカ・西ヨーロッパ(主としてドイツ)・日本の三者が世界経済を支えることとなったこと。 |
l 変動相場制 | 第2次世界大戦後の世界の為替相場は、1944年のブレトン=ウッズ協定によってドルを基軸通貨とする固定相場制となった。1960年代を通じてアメリカ経済がベトナム戦争の戦費の増大などのために落ち込み、またにヨーロッパ諸国と日本経済が躍進したためアメリカの国際収支が赤字に転落した。そのため、ブレトン=ウッズ体制の維持が困難となり、1971年ニクソン大統領はドルと金の交換を停止した。同年12月のスミソニアン協定でドルの切り下げ幅が決定し、1ドル=308円に円は切り上げられた。しかしその後もドルに対する信頼は低下し、1973年には変動相場制に移行した。日本経済は70年代を通して石油ショックを克服して成長し、またアメリカや西欧に比べて低賃金によって支えられていたために「やすくて良い品」を生産することに成功、輸出をさらに増大させたため、変動相場制の下で円高は続き、1988年には1ドル=120円台となった。 |
B 第1次石油危機(オイル=ショック) | 石油ショック、石油危機ともいう。1973年秋、第4次中東戦争の勃発に伴うアラブ産油国(OAPEC)の石油戦略により、石油価格が高騰し、世界経済に大きな衝撃を与えたこと。 オイル=ショックは安価なアラブ原油に依存していた西側先進工業国の燃料不足、原料不足をもたらし、生産が低下して急激な物価上昇をもたらした。また中東の石油にエネルギー源を依存する日本経済にも大きな打撃となり、高度経済成長を終わらせ、低成長期にはいることとなった。日本経済は一時、石油関連商品の値上げが続き、消費者がスーパーに押しかけてトイレットペーパーを買いだめするなどの大騒ぎとなったが、その後、ガソリンスタンドの日曜営業の停止やテレビの深夜放送の停止などのエネルギー消費抑制と技術革新に務め、危機を乗り切った。 オイルショックの影響 それまで安価な中東の原油に依存していたアメリカ合衆国を初めとする先進工業国諸国は大きな打撃を受けた。また1971年のドルショックによって、アメリカ合衆国の経済力を背景としたブレトン=ウッズ体制が維持できなくなっていたこともあり、アメリカ合衆国の国際秩序は大きく転換することとなった。それは、1973年のイギリスなどのヨーロッパ共同体に参加して「拡大EC」となったこと、さらに1975年に第1回の先進国首脳会議(サミット)が開催されたことにあらわれている。 → アメリカの外交政策 |
a 第4次中東戦争 | → 第17章3節 第4次中東戦争 |
b アラブ石油輸出国機構(OAPEC) | Organaization of Arab Petroleum Exporting Countries 1968年1月に結成された、アラブ諸国の石油政策の協力をはかる機構で略称がOAPEC(オアペック)。当初はサウジアラビア、クウェート、リビアの三国だけであったが、1970年にアブダビ、カタール、バーレーン、ドバイ、アルジェリアが加盟、72年にはイラク、シリア、エジプトが加盟し、ほぼアラブ諸国を網羅した。アブダビとドバイはアラブ首長国連邦として合併したため、現在加盟国は10カ国。本部はクウェート。1973年10月の第4次中東戦争に際して、エジプトとシリアを支援、イスラエルを支持する欧米諸国・日本に対して原油輸出停止などの対抗策をとり、第1次石油危機(オイル=ショック)をもたらした。 現在(2008年)のOPAEC加盟国:サウジアラビア、クウェート、リビア、アラブ首長国連邦、バーレーン、カタール、アルジェリア、イラク、シリア、エジプトの10ヵ国。 |
c 原油輸出停止 | 石油禁輸とも言う。第4次中東戦争のさなかの1973年10月17日、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)によって、アメリカ合衆国を中心とする親イスラエル諸国(非アラブ友好国)に対する石油戦略として打ち出された。OAPECの中心であったサウジアラビアは11月までに32%、クウェートは同じく36%を減産した。それは西側諸国全体の原油生産量の約10%にあたっていた。この原油輸出停止に続いてOPECによって打ち出された原油価格引き上げが一方的に宣言され、アメリカ、ヨーロッパ、特に日本など、安価な中東原油に依存していた先進工業諸国は大きな経済的打撃を受け、石油危機(第1次)と言われた。この石油禁輸は、1974年春には完全に撤廃され、石油供給に関する危機も急速に薄らいだ。<瀬木耿太郎『石油を支配する者』1988 岩波新書 などによる> |
d 石油輸出国機構(OPEC) | Organization of Petroleum Exporting Countries 1960年9月、バグダードで結成された、イラク、イラン、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラ(中米の産油国)の産油5ヵ国による原油価格に関する国際カルテル組織で略称がOPEC(オペック)。同年、国際石油資本であるいわゆるメジャーズが原油の公示価格を一方的に引き下げたことに反発した産油国は、サウジアラビアのタリキ石油資源局長を中心に結束し、産油国の利益を守るために結成された。イランとベネズエラは非アラブ諸国である。後にカタール・インドネシア・リビア・アラブ首長国連邦・アルジェリア・ナイジェリアが加盟して11ヵ国となる。本部はウィーンにある。1968年にはこの中から、アラブ諸国のみでアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が結成された。1973年の第4次中東戦争の際には、OAPECの原油輸出禁止措置に続いて、原油価格の大幅引き上げを決定し、欧米・日本の第1次石油危機(オイル=ショック)をもたらした。 現在(2008年)の加盟国:イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラ、カタール、インドネシア、リビア、アラブ首長国連邦、アルジェリア、ナイジェリア、アンゴラ、エクアドルの13ヵ国。 ※OPECに加盟していない産油国:ロシア、ノルウェー、メキシコ、カザフスタン、カナダ、オマーン、イエメン、マレーシア、スーダン、ガボン、ブルネイ、エジプト、イギリス、インド、アメリカなど(アメリカとインドは産油国であるが、原油を輸入している)。 |
e 原油価格 | 「1973年12月22日、石油輸出国機構(OPEC)は、翌年1月からの原油の公示価格を130%引き上げ、バレルあたり11ドル65セントとすることを決めた。この決定をするに当たり、メジャーズ(国際石油資本)にには何の相談もなかった。そしてこれ以降、メジャーズは、石油価格について二度と相談されることはなかった。セブン・シスターズの時代は、かくて石油の禁輸というさなか、あっけなく終わってしまったのである。」 「一度上がった価格は、二度と下がらなかった。OPECにメジャーズに対する優位は、もはや決定的になっていた。今やセブン・シスターズに代わって、OPECが原油価格の管理者となった。・・・自由主義経済の基盤を支えてきた石油資源が、あっという間に、OPECに支配されるようになったのである。」<瀬木耿太郎『石油を支配する者』1988 岩波新書 p.112> |
C 景気の後退 | |
a スタグフレーション | 景気停滞(不況)とインフレが同時に進行する経済現象。不況下の物価高。景気停滞(stagnation)とインフレ(inflation)をつなげた造語。資本主義経済では従来、景気停滞(不況)の時には、インフレ(物価上昇=通貨膨張)ではなく、デフレ(物価下落=通貨縮小)が起こっていたが、1970年代の石油ショック以後の世界同時不況のもとで、物価も下落せず、ゆるやかなインフレが同時に進行するようになった。石油ショックで生産が減少して不況となっても、石油価格の大幅上昇のため石油関連商品の価格も上昇したためと考えられているが、同時に各国政府が不況下でも雇用を維持するために管理価格を設けるようになったことなども背景にある。いずれにせよ、「景気が後退して失業が増え、同時に物価も上がる」というスタグフレーションは「資本主義の新しい病気」と言われている。 |
b 日本(経済の回復) | 日本は1950年の朝鮮特需で経済復興の足がかりを付け、1960年から高度経済成長政策をとるようになり、1968年にはGNP(国民総生産)がアメリカに次いで第2位となった。73年に石油ショックのため戦後初めてマイナス成長となったが、その後は技術革新などによって克服し、1980年には自動車生産台数世界一となった。 |
c 経済統合(西欧) | |