用語データベース 15_2 | |||
2.ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 | |||
ア.ヴェルサイユ体制とワシントン体制 | |||
A パリ講和会議 | 1919年1月18日から20年の8月10日まで、パリで開催された第1次世界大戦の終結のための国際会議。32ヶ国が参加し、アメリカ(ウィルソン)、イギリス(ロイド=ジョージ)、フランス(クレマンソー)、イタリア(オルランド)、日本(西園寺公望)の5大国が会議の中心となったが、実質的には米英仏三国によって主導された。議長のクレマンソーはドイツに対する報復を優先させる現実路線をとり、ウィルソンは国際協調を進める理想主義をとった。ロイド=ジョージはその両者の中間にあったが、最終的にはフランスに同調した。また敗戦国ドイツと社会主義政権のソヴィエト=ロシアは参加が認められず、ロシア革命に対しては干渉戦争が続けられていた。会議はウィルソンの14ヵ条の原則の柱となる国際協調・民族自決の精神で進められ、国際連盟の設立・東ヨーロッパ諸国の独立という成果を得たが、ヴェルサイユ条約などでドイツなどの敗戦国に対しては過酷な条件を押しつけたことと、アジアの民族運動には冷淡であったことなどが問題点であった。ここで出来上がった戦勝国優先の新たな秩序であるヴェルサイユ体制に対し、ドイツでのナチズムの台頭、朝鮮での三・一運動と中国での五・四運動などの民族運動が激しく展開されることとなる。 | ||
a 1919 | |||
b ウィルソン | →第14章 1節 ウィルソン | ||
c ロイド=ジョージ | →第14章 1節 帝国主義 ロイド=ジョージ | ||
d クレマンソー | フランスの第三共和政時代を代表する政治家で、第一次世界大戦の時期に挙国一致内閣を率い、また戦後のパリ講和会議ではフランスの代表として対ドイツ強硬論で会議をリードした。もともとは急進社会党(社会主義政党ではなく、共和政と私有財産制の擁護を掲げる政党)に属し、その主張は左派に近かった。ブーランジェ事件では共和政の擁護のため先頭に立って軍部の陰謀をあばき、ドレフュス事件では軍部や保守派を向こうに回してドレフュスを弁護し、「虎」とあだ名されて論敵に恐れられていた。しかし一方では普仏戦争でのアルザス・ロレーヌの割譲を忘れないことでは徹底した愛国派でもあった。パリ講和会議では彼はフランスの永遠の安全のためという理念から、ドイツを徹底して抑えることを主張し、国際的な妥協を説くウィルソンを牽制しながら有利に進め、ヴェルサイユ条約で賠償金など大幅な利得をフランスにもたらした。しかしその強硬姿勢は、ドイツに抜きがたい反ヴェルサイユ体制の怨念を植え付けることとなった。 Epi. クレマンソーの警句 ジョルジュ=クレマンソーは、第一次大戦でフランスを勝利に導いた首相だが、40代半ばの頃パリで新聞社の社長をしていた。彼の中学の同級生だったブーランジェ将軍は、若くして陸軍大臣の椅子を射とめ、対ドイツ強硬論者として国民の間に絶大な人気があった。1887年4月20日、国境付近で勤務中の巡査が、ドイツ側に逮捕されるという事件が突発した。絶好の機会到来と、と見てとったブーランジェ将軍は、ただちにドイツ進攻を決意し、軍隊を動員しようとした。将軍と会ったクレマンソーは、開戦を思いとどまるよういさめ、自ら戦争反対の論陣を張るつもりで新聞社へもどってくる。社内では幹部たちが、開戦論と反対論に分かれて激論を戦わせていた。その頭上へクレマンソーは、歴史に残る有名な警句を吐いて、たちまち社論を統一させた。「きみたち、戦争のように大切なことを、軍人に任せておけるかね」<上前淳一郎『読むくすり』1982 文春文庫 p.170> | ||
e ロシア | |||
f 十四ヶ条の原則 | アメリカは1917年4月に第1次世界大戦に参戦し、協商側の一員となった。同年にロシア革命が始まり、11月にはソヴィエト政権が「平和についての布告」を発表し即時講和・秘密外交の廃止を宣言、ドイツと単独講和の交渉はじまるという協商国側にとって不利な展開となったため、アメリカのウィルソン大統領は、1918年1月議会で演説し、次の「14ヵ条の原則」(the Fourteen Points)を発表し、戦争目的の明確化と戦後処理の方向性を示した。ウィルソンは1919年度のノーベル平和賞を受賞している。
→ アメリカの外交政策 | ||
g 秘密外交 | 第1次世界大戦 | ||
h 民族自決 | 民族は自らの運命を自ら決するべきである、とする考え。まず、ロシア革命でのレーニンの「平和についての布告」で主張され、それに対抗する形でウィルソンの十四ヵ条の原則に加えられた。特にウィルソンの述べた民族自決の原則は、日本の植民地支配下にあった中国・朝鮮の民衆に大きな期待を与えたが、パリ講和会議では旧オーストリア領の東ヨーロッパ諸国の独立と、オスマン帝国からの西アジアの民族の自治が一定程度認められたものの、アジアの民族には適用外とされたため、強い不満が残り、1919年の朝鮮の三・一独立運動、中国の五・四運動が起こった。またロシア革命後のソ連でも、民族問題は解決されずに尾を引いていく。 | ||
i 国際平和機構 | アメリカの大統領ウィルソンが、1918年1月の「十四ヵ条の原則」の中で提案した。ヴェルサイユ条約で、国際連盟として実現し、1920年に発足する。しかし、アメリカが当初から参加せず、また国際紛争に対する軍事力による抑止の方策を持たなかったために第2次世界大戦の勃発を回避することが出来ず、1945年6月にはサンフランシスコ会議で新たに国際連合憲章が承認され、10月に発足し現在に至っている。 | ||
B ヴェルサイユ条約 | 1919年6月28日、パリ講和会議の結果、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿鏡の間で調印された、連合国とドイツの間の講和条約。6月28日は、第1次大戦のきっかけとなったサライェヴォ事件の起こった日に合わせたものであり、ヴェルサイユ宮殿鏡の間は、かつて普仏戦争でフランスを破ってドイツ帝国が成立を宣言した場所であった。この事でも判るように、ヴェルサイユ条約の精神は、フランスによるドイツに対する報復という面が強かく現れ、ウィルソンの国際協調の精神は第1編の国際連盟規約に生かされたにとどまった。またレーニンが「平和についての布告」で提唱した無賠償・無併合の理念もまったく無視された。1920年1月10日に発効。これ以降のこの条約に基づくヨーロッパの国際秩序をヴェルサイユ体制というが、敗戦国ドイツに苛酷な負担をしいたこの体制は、1936年にドイツのヒトラー政権がロカルノ条約を破棄してラインラントに進駐することによって崩壊する。 ヴェルサイユ条約の内容 その内容は多岐にわたるがまとめると次のようなことになる。 (1)国際連盟規約。 (2)領土の処分: a.ドイツはすべての海外植民地と権益を放棄する。 b.アルザス・ロレーヌをフランスに返還する。 c.ベルギー、ポーランド(ポーランド回廊)、デンマークにそれぞれ領土を割譲する。 d.ザール地方は国際連盟の管理下におき15年後に住民投票で帰属を決定する。 e.上シュレジェン21年の住民投票によって帰属を決定する。 f.ダンツィヒは自由都市とし国際連盟の管理下におく。 (これによってドイツは国土の7分の1、人口の10分の1を失った。) (3)軍備の制限:徴兵制は廃止され、陸軍は10万、海軍は1万6500の兵員に制限され、航空機・潜水艦の所有は禁止された。また、ラインラントは非武装(ライン川西岸は連合国軍により15年間占領、右岸の50qは非武装)とされた。 (4)戦争責任はドイツにあるとされ、賠償金の支払い義務を課せられる。(1921年に1320億マルクに決定) ヴェルサイユ条約の問題点:ヴェルサイユ条約の調印、批准にあたって、次のような問題があった。 アメリカの批准拒否:アメリカ合衆国は、上院でモンロー主義(孤立主義)によって共和党が国際連盟加盟に反対したため、1920年3月19日に上院で批准が否決された。そのためヴェルサイユ条約とは別にドイツとの間で1921年に講和条約を締結した。 中国の調印拒否:またパリ講和会議に参加した中国は、日本の山東省権益の継承が承認されたことに反対する五・四運動が盛り上がったため、調印を拒否した。本国の北京政府は調印を指令したが、代表としてパリ講和会議に参加していた顧維均が、本国民衆の調印反対の声を聞いて、独自に判断したという。なお、中国は20年6月に国際連盟に加盟した。 日本の「人種平等案」否決:日本はアメリカで高まった移民排斥問題(移民法)をとりあげ、国際連盟規約に「人種平等原則」を入れるよう主張し、賛成も多かったがウィルソンの反対で採択されなかった。 ドイツの拒否反応:5月に条約草案がドイツに示されると、国内に強い拒否反応が現れた。そのためバウアー内閣は総辞職せざるをえなかった。結局、条約を受け入れたが、ドイツでは条約と呼ばず「強制的に書き取らされたもの」という意味のディクタートと呼ばれることとなった。その後もドイツではヴェルサイユ条約に対する怨念が継承され、ナチスの台頭の要因となる。 ※なお、他の敗戦国との4条約を含めてヴェルサイユ条約という場合もある。 | ||
a アルザス・ロレーヌ | 普仏戦争でドイツ領とされたアルザスとロレーヌは、フランスが参戦する際の秘密条約で、フランスに返還されることになっていたので、それが履行されたこととなる。 | ||
ザール地方 | ザール地方は、ロレーヌ地方の東に隣接するドイツ・フランスの国境地帯。ヨーロッパ有数のザール炭田があり、豊かな工業地帯であったため、特に近代以降では独仏間でザール問題という帰属問題が深刻であった。普仏戦争でドイツ領となり、人口の90%はドイツ人であったが、第1次世界大戦後のヴェルサイユ条約では15年間国際連盟の監督下に置かれ、その後人民投票で帰属を決める、とされた。その間のザール炭田の採掘権はフランスに認められた。1935年に住民投票が実施された結果、90%を超える支持でドイツに編入され、ヒトラー=ドイツの最初の領土拡張の成功となった。第2次大戦後の45年にはフランス軍が占領したが、大戦後の1957年に再び住民投票が行われ、ドイツ領に戻り、現在に至っている。1952年にはフランスのシューマン外相が提唱し、ルール地方と共にザール地方の石炭・鉄鋼業をフランス・西ドイツ・ベネルクス三国・イタリアで共同管理するヨーロッパ石炭鉄鋼共同体が発足し、ヨーロッパ統合の第一歩となった。 | ||
b ポーランド回廊 | ヴェルサイユ条約によって、バルト海への出口を与えるためにポーランド領とされた地域。ドイツ本国と、ドイツ領東プロイセンとを分断する形となり、また多数のドイツ人が居住していたので、当初からドイツ側は不満を持った。ナチス・ドイツはこの地を奪回することを強く掲げ、1935年にヒトラーはポーランドに対し、ポーランド回廊への鉄道と道路の建設を認めることを要求、ポーランドが拒否したので、39年にポーランドに侵攻、第2次大戦開戦の契機となった。その結果、ドイツ領に編入されたが、大戦後ポーランド領に戻り、現在に至っている。 | ||
c 軍備の制限 | |||
d ラインラント | ヴェルサイユ条約において、フランスのクレマンソーの強い要求により、ライン川の西岸(左岸)は15年間フランス軍が占領、ライン川の東岸(右岸)の50kmは武装禁止(非武装地帯)とされた。 「非武装地帯」にはドイツはいかなる軍隊もおいてはならず、軍事演習を行うことも許されなかった。さらに1925年にはロカルノ条約が成立し、ドイツ、フランス、ベルギーは互いに国境を侵犯し、または攻撃しないことを約束した。 1936年、ナチス・ドイツのヒトラーは、一方的にヴェルサイユ条約・ロカルノ条約の破棄を通告し、軍隊のラインラント進駐を強行、一挙に緊張が高まることとなる。 | ||
e 賠償金 | → ドイツの賠償問題 | ||
f 集団安全保障の原理 | → 集団安全保障 | ||
D 旧帝国の解体 | 第1次世界大戦は、「ドイツ帝国=ホーエンツォレルン家」、「オーストリア帝国=ハプスブルク家」、「ロシア帝国=ロマノフ家」という絶対主義時代以来の三つの「帝国」と「皇帝」を歴史から退場させることとなった。またヨーロッパとアジアにまたがるオスマン帝国領も分割され、消滅する。そしてこれらの「帝国」が解体された結果、東ヨーロッパとバルカンの諸民族は、19世紀初頭以来の希望であった、民族独立をようやく実現することができた。ポーランドはロシア、オーストリア、ドイツに分割されていた国土を回復し、オーストリア帝国支配下からはハンガリー、チェコスロヴァキア、セルブ=クロアート=スロヴェーンが、革命によって崩壊したロシア帝国領からはエストニア、ラトヴィア、リトアニアのバルト三国が独立した。このように、第1次世界大戦は、中世以来の「帝国」を消滅させ、東ヨーロッパの民族が主権国家を樹立するという大きな変動をもたらした。またオスマン帝国も敗戦国であり、その支配下のバルカンで大きく領土を失い、西アジアへのイギリス・フランスの侵出を許すこととなった。 | ||
a サン−ジェルマン条約 | 1919年9月成立の連合国とオーストリア帝国との講和条約。オーストリア=ハンガリー帝国はハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランド、セルブ=クロアート=スロヴェーン(ユーゴスラヴィア)の独立の承認、トリエステなどをイタリアに割譲(これによって「未回収のイタリア」問題は解消した)した。その他軍隊の制限、賠償金などが規定され、またドイツとの併合は禁止された。これによりオーストリア=ハンガリー帝国は解体された。オーストリア帝国は国土の4分の3を失ってオーストリア共和国となり、基本的にはドイツ人の国家となったが、チェコなどにも多数のドイツ人住民がそのまま残ることとなり、後に問題となる。 | ||
c ヌイイ条約 | 1919年11月締結された連合国とブルガリアの講和条約。ヌイイ(ニュイーイとも)はパリ郊外の締結地。ブルガリアはエーゲ海北岸のトラキアをギリシアに割譲。またセルブ=クロアート=スロヴェーン(後のユーゴスラヴィア)にも領土の一部を割譲、ドブルジャはルーマニアに返還した。他に賠償金も規定。 | ||
d トリアノン条約 | サン=ジェルマン条約でオーストリア=ハンガリー帝国の解体が承認された後、ハンガリーではクン=ベラのハンガリー革命が起こったため、講和条約の調印が遅れた。革命失敗後成立したハンガリー王国が1920年6月、ヴェルサイユのトリアノン宮殿で連合国と講和条約を調印した。オーストリアからの分離独立が改めて認められたが、次のように領土を周辺諸国に割譲した。これによってハンガリーは領土の3分の2を失った。またハンガリー人はそれぞれの国で少数民族とされることとなった。 スロヴァキア → チェコスロヴァキア共和国へ、 クロアチア・スロヴェニア・ボスニア → セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(1929年からユーゴスラヴィアに改称) トランシルヴァニア → ルーマニア王国へ セルブ=クロアート=スロヴェーンとイタリアの双方が領有を主張していたフィウメは両国の協定に委ねられることとなった。 | ||
e セーヴル条約 | 1920年8月に締結された連合国とオスマン帝国(トルコ)の間の講和条約。ヴェルサイユ条約など一連の第1次世界大戦の講和条約の一つ。オスマン帝国政府は締結に応じたが、領土のほとんどの割譲、主権の侵害など非常に苛酷な内容であったため、反発したトルコ人はムスタファ=ケマルの指導のもと締結を拒否、同時に領内に侵攻してきたギリシア軍を撃退し、改めて1923年にローザンヌ条約を締結してアナトリアの領土回復などに成功した。 締結の経緯 イギリス、フランス、イタリアなど戦勝国はまず1920年、イタリアでサン=レモ会議を開催、戦前の秘密協定に基づき、オスマン帝国領のアラブ地域の分割を協議し、メソポタミア・パレスチナの英仏による委任統治と、ユダヤ人国家建設(バルフォア宣言の確認)で合意した。英仏は別に石油協定を結び、利権を分割した。その上で、パリ郊外のセーヴルで連合国とオスマン帝国の講和会議を開催し、次のような講和内容を押しつけた。 セーヴル条約の内容 次のように、オスマン帝国に対する、事実上の解体、主権の喪失を含む苛酷な内容であった。 ・小アジア(アナトリア)の南部はフランス、中部はイタリア、西部はギリシアに割譲する。トルコ領はイスタンブルとアンカラ周辺のみとする。 ・小アジア東部のアルメニアおよびクルディスタンはそれぞれ独立させる(意図は、ソヴィエト=ロシアに対する防御線とすることにあった)。 ・メソポタミア(イラク、ヨルダン)・パレスティナはイギリスの、シリア・レバノンはフランスの委任統治とする。 ・キプロス島はイギリスに割譲する(イギリスは、エジプト、メソポタミア、パレスティナからインドへのルートの確保を図った。) ・ダーダネルス=ボスフォラス海峡は国際管理とする。 ・治外法権(カピチュレーション以来の権利)はそのままとし、財政はイギリス・フランス・イタリアの監視下に置かれる。 批准拒否とトルコ共和国の成立 トルコにとっては屈辱的な不平等条約であったが、オスマン帝国のスルタン・メフメト6世は、連合国による一身の安全と財産保証を秘密条件として条約に調印してしまった。しかし国民は批准拒否に起ち上がりった。ムスタファ=ケマルの率いる国民軍はこの条約の廃棄を目指して決起し、おりからトルコ領スミルナに侵攻してきたギリシア軍を破り(ギリシア=トルコ戦争)、スルタン政府を倒し「トルコ共和国」を樹立することとなる。その結果この条約は結局破棄されて、代わって1923年ローザンヌ条約が締結され、トルコは領土と主権を回復する。 | ||
f イブン=サウード | → 第15章 3節 イブン=サウード | ||
g 委任統治 | 第1次世界大戦で戦勝国が同盟国から奪った植民地を領土に編入することは、領土拡張競争が大戦の原因であったことへの反省から、あからさまには出来なかった。しかし、その権利を放棄することも国民感情が許さず、戦勝国が国際連盟からその管理を委任された、という形式をとって実質的な支配権を確保した。民族自決を掲げたアメリカ大統領ウィルソンをはばかって、イギリス・フランスが考えた便法と言える。それは国際連盟規約第22条に規定され、旧ドイツ植民地とオスマン帝国領に適用された。委任統治の形式には住民の政治的能力によってクラスがあり、旧トルコ領の西アジアは自治の程度が高く、旧ドイツ領のアフリカ・太平洋地域は低かった。委任統治と言っても事実上の植民地であり、帝国主義国による新たな世界分割の方式にすぎず、これらの地域では「民族自決」の理念は適用されなかった。なお、太平洋地域のドイツ領のマリアナ・パラオ・カロリン・マーシャルの南洋諸島は大戦中に日本が占領し、ヴェルサイユ条約で日本の委任統治とされた。 → オスマン帝国領の分割 | ||
オスマン帝国領の分割 | 第1次世界大戦後の1920年4月、連合国はサン=レモ会議を開催して、対オスマン帝国(トルコ)講和条約について協議し、アラビア半島以外のアラブ人居住地域をオスマン帝国領からはずし、イギリスとフランスの委任統治におくことを決定した。それに基づいて連合国とオスマン帝国の間のセーブル条約が調印され、シリア(レバノン含む)はフランスの、イラク・トランスヨルダン・パレスティナはイギリスの、それぞれ委任統治領とされた。委任統治とは国際連盟から管理を委任されることで、実質的に植民地支配することと変わりはなく、戦前の英仏秘密協定であるサイクス=ピコ協定の線に沿ったイギリス・フランスによるアラブ地域の分割は、アラブ民族の怒りを買った。シリアではハーシム家の三男ファイサルを立て独立を宣言したが、フランスはそれを認めず、イギリスと図って、ファイサルをイラク国王、同じくハーシム家の次男アブドゥラをトランスヨルダン国王として懐柔した。 | ||
C 国際連盟 | League of Nations アメリカ大統領ウィルソンが十四ヵ条の原則で提案、ヴェルサイユ条約の第1編でその規約が規定されて1920年1月10日に成立した。本部はスイスのジュネーヴにおかれ、総会・理事会・事務局と、国際労働機関(ILO)・常設国際司法裁判所の2つの外部機構があった。常任理事国は最初、イギリス・フランス・イタリア・日本の4ヶ国。アメリカ、ドイツ、ソ連が参加していないため、イギリスとフランスがリードすることが多かった。原加盟国は戦勝国を中心に42カ国。加盟国は最盛時に59カ国だった。 国際連盟は世界最初の集団安全保障による平和維持を目的とした国際協力機関として重要な存在であったが、当初より次のような問題点があったため、その機能を十分に発揮することができなかった。1945年6月に国際連合が成立(10月発足)したのに伴い、1946年4月に解散した(国際連盟が国際連合に移行したのではないことに注意する)。 国際連盟の問題点 (1)有力国の不参加。アメリカ合衆国・ロシア(22年よりソ連)・ドイツの不参加。: ・アメリカ合衆国の不参加は、議会が孤立主義(モンロー主義)の原則に立ち、批准を拒否したためであった(アメリカの外交政策)。 ・ドイツは1925年にロカルノ条約に調印し、ライン非武装と相互不可侵を約束したので1926年に加盟が認められた。 ・ソ連は、アメリカ合衆国のフランクリン=ローズヴェルト政権による1933年の承認をうけて、1934年に加盟。 (2)侵略に対する制裁のための軍事力を持たなかったため、紛争の解決が困難であった。 (3)総会は全会一致で決議する原則であったので、迅速かつ有効な決議を行うことが困難だった。(国際連合の総会は多数決採決となった) 国際連盟の働き:設立当初から国際連盟は、集団安全保障の理念に基づき、国境紛争の解決などにあたり、戦後の国際協調の流れの中で役割を果たした。国際連盟が取り組んだ問題には、ダンツィヒ問題・フイウメ問題・イズミル問題などであり、特にフランスなどのルール占領問題は最大の問題であった。それらは主としてヨーロッパの問題であったが、1925年のロカルノ条約の締結によって危機を避け、さらに国際協調の最大の実績としてアメリカ合衆国も加えた1928年の「不戦条約」および「国際紛争平和的処理に関する一般議定書」の採択などの平和政策を推進できたことは成果とすることがことが出来る。 有力諸国の脱退:ドイツはヒトラー政権が成立した後、1933年に軍備制限に反発して脱退した。日本は満州事変を侵略行為であると断定されたことに反発して1933年に脱退した。イタリアは1937年に脱退。ソ連は1939年12月、フィンランドとの戦争を侵略行為とされて除名された。このような有力な各国が脱退したり、除名されたことは、国際連盟の集団安全保障の理念を全面的に否定し、その無力化を招き、第2次世界大戦の勃発を防ぐことができなかった。。 | ||
a ジュネーブ | |||
b ドイツ | |||
c ロシア | |||
d アメリカの不参加 | アメリカ合衆国議会でヴェルサイユ条約批准、つまりアメリカ合衆国の国際連盟加盟に反対の論陣を張ったのは、上院外交委員会の委員長、ヘンリー=ガボット=ロッジであった。ロッジは、アメリカ外交の原則は、モンロー宣言以来の孤立主義であり、合衆国の名誉が侵害されない限り外国の紛争に巻きこまれないことが大事であると主張した。その考えに拠れば、国際連盟加盟は、遠くヨーロッパの紛争に巻きこまれ青年の血を流すこととなるから、合衆国にとって危険なことであるというものであった。それに対してパリから戻ったウィルソン大統領は、世界大戦という悲劇を防止するためには、今やアメリカが国際的に孤立することは許されない、集団的安全保障の枠組みに参加するのは合衆国の責任であり、崇高な義務であると説いた。議会で支持を得られないと知ると、かれは病身を押して全国遊説を行った。しかし、イギリスに対して独立の約束を反故にされたアイルランドや大戦後不利な扱いを受けたイタリアに同情するなどの移民たちの反ヴェルサイユ条約の感情もあり、国民の中にウィルソンを支持する声は起きなかった。また、国際連盟にはイギリス自治国が独立国として参加して1票を持つことに対し、イギリスの発言力が強まることを警戒し、アメリカ合衆国にイギリス連邦加盟国数と同数の議決権を認めることを条件とせよという意見もあった。結局、議会の採決は小差であったがウィルソンの提案は否決された。ウィルソンは病が重篤となったため大統領として実質的な執務が出来なくなり、1920年の大統領選にも出馬できず、新たに国際連盟加盟反対を掲げた共和党のハーディングが当選したため、アメリカ合衆国の国際連盟加盟の道は断たれ、ウィルソンも失意のうちに世を去った。<F.L.アレン『オンリー・イエスタディ』1932 ちくま文庫 p.35-70> → アメリカの外交政策 | ||
e 軍事力 | |||
常任理事国(国際連盟) | 国際連盟の総会に次ぐ機関である理事会にははじめ4国の常任理事国と4国の非常任理事国から構成された。1920年発足時の4常任理事国は、イギリス・フランス・イタリア・日本の4カ国であった。後に加盟したドイツとソ連が常任理事国に加わった。なお、非常任理事国は後に9カ国となった。 日本と国際連盟:日本はパリ講和会議において、ヴェルサイユ条約を認め、国際連盟に加盟する条件として「二十一カ条の要求」以来の山東省権益の継承を条件とした。ウィルソンは日本の主張を認めることは、自ら「十四カ条の原則」の民族自決原則に反し、中国の反対を受けることを判っていたが、日本を国際連盟に加盟させることの方を重視して、その要求をのんだ。こうして日本は国際連盟に加盟し、しかも常任理事国という責任ある立場に立つことになった。「・・・(国際)連盟の理事国となったわが国は、そのことに喜ぶあまり、客船を一隻チャーターしてジュネーヴに大代表団を送りこんだのだった。」<明石康『国際連合 軌跡と展望』2006 岩波新書 p.209>という。 1920年から26年、国際連盟事務局次長を務めたのが、『武士道』で有名な、新渡戸稲造だった。国際連盟は戦前期日本の重要な外交活動の舞台であったが、1931年の満州事変を期に孤立を深め、33年に脱退することとなる。 | ||
国際労働機関(ILO) | → 国際労働機関 | ||
常設国際司法裁判所(PCIJ) | Permanent Court of International Justice 国際連盟の外部機関として1920年に設置された国際裁判所。ハーグに設けられた。国際裁判所には、1899年の第1回ハーグ平和会議で締結された国際紛争平和的処理条約にもとづいて、1901年に常設仲裁裁判所が設けられたが、その機能は十分でなかったので、第1次世界大戦後の国際連盟設立にあたってより実効性のある国際裁判所として常設国際司法裁判所が設けられた。15名の裁判官からなり、国際紛争の解決及び勧告を行うものとされた。判決には拘束力を持つが、紛争解決には十分な活動はできなかった。現在の国際連合のもとにある国際司法裁判所(ICJ)の前身。 | ||
D ヴェルサイユ体制 | 第1次世界大戦後の1919年に成立したヴェルサイユ条約を中心として創り出されたヨーロッパを中心とする資本主義世界の国際秩序。国際連盟の発足、ロカルノ条約・不戦条約、ワシントン・ロンドンの軍縮会議など、「国際協調」が進められたが、帝国主義列強間の世界再分割のもとでの平和維持という矛盾する基本的性格から、ファシズム国家の台頭や世界恐慌という事態を生み出し、1936年のドイツのロカルノ条約破棄によって崩壊した。 ヴェルサイユ体制の基本姿勢 1.イギリス・フランスなどの戦勝国によるドイツなど敗戦国の再起を抑止する体制であること。 特にイギリス・フランスの二国は、戦勝国の立場から敗戦国ドイツに対する過酷な条件を負わせてその再起を抑止すると共に、賠償金を自国の戦後復興に充てること、をめざした。 2.社会主義国ソ連を警戒し、その勢力の拡大を防止する体制であること。 大戦中に成立した社会主義国ソヴィエト連邦に対しては、資本主義陣営として強い警戒心を抱き、反共産主義陣営としての結束をめざす側面があった。 3.世界再分割後の植民地支配の維持と民族運動の抑圧する体制であること。 旧ドイツ殖民地を分割し、さらにオスマン帝国領を委任統治という形で分割したイギリス・フランスが、その再分割を維持することをめざした。そのためには、この再分割に不満なイタリアや日本を抑え込み、殖民地における民族闘争を抑圧する体制として機能することとなった。アジアでは中国の五・四運動は明確なヴェルサイユ体制を拒否する運動であった。 ヴェルサイユ体制の補完:国際連盟は集団安全保障の理念に基づいて、第1次大戦後の平和維持に大きな責任を持ったが、さまざまな制約の下で十分な役割を果たすことが出来なかった。国際連盟に加盟していなかったアメリカ合衆国は、中国大陸・太平洋方面での日本の伸張によって国益が損なわれることを恐れ、国際連盟の舞台とは別にワシントン会議を開催し、ヴェルサイユ体制のアジア・太平洋版であるワシントン体制を構築することを進めた。 ヴェルサイユ体制の崩壊:特にヨーロッパにおいてはドイツ国内に苛酷な条件を押しつけられたことに対する反発が当初から強かった。ドイツのシュトレーゼマンによる国際協調路線が採られている間は一定の安定がもたらされたが、1929年の世界恐慌以降は、急速に協調路線が崩れ、ドイツ国内にナチズムが台頭することとなった。また、及び大戦に乗じて帝国主義的膨張をはたした日本、イタリアのファシズムの台頭もヴェルサイユ体制を不安定なものにした。1933年にドイツで「ヴェルサイユ体制打破」をかかげるヒトラー政権が成立し、1936年ドイツのロカルノ条約破棄(ラインラント進駐)によってヴェルサイユ体制は崩壊する。 | ||
フィンランド | |||
エストニア | → エストニア | ||
ラトヴィア | → ラトヴィア | ||
リトアニア | → リトアニア | ||
ポーランド | → ポーランド | ||
チェコスロヴァキア | → チェコスロヴァキア | ||
ハンガリー | → ハンガリー | ||
ユーゴスラヴィア | → ユーゴスラヴィア | ||
aヴェルサイユ | |||
bローザンヌ | |||
cジュネーヴ | |||
dロカルノ | |||
eヴァイマル | |||
fダンツィヒ | 現在のポーランドのグダンスク(そのドイツ語表記がダンツィヒ)。バルト海に面した商業港で、早くからドイツ人が流入していた。1308年、ドイツ騎士団によって征服され、1361年にはハンザ同盟に加わって繁栄した。1466年、ポーランド領に復したが、国王から広範な自治権を認められた。ポーランド分割でプロイセン領となり、そのままドイツ帝国に継承された。1919年のヴェルサイユ条約では国際連盟管理下の自由都市とされ、外交関係と関税はポーランドが管理することとなったので事実上はポーランド唯一の商業港として繁栄した。1939年3月、ヒトラーのドイツはポーランドに対し、ダンツィヒの割譲を要求し、ポーランドが拒否すると、同年9月にポーランドに武力侵攻し、第2次世界大戦が勃発した。 → ドイツ軍のポーランド侵攻 | ||
gフィウメ | → フィゥメ | ||
hイズミル | → スミルナ(イズミル) | ||
F ワシントン会議 | 大戦後の軍縮問題は、当然国際連盟でもテーマとなったが、アメリカが参加していなかったため成果を上げることが出来ず、もっぱらアメリカを含む大国による国際会議で協議されることとなった。その最初が1921年から22年のワシントン会議であり、アメリカのハーディング大統領が提唱し、イギリス・日本・フランス・イタリアなど9ヶ国が参加し、海軍軍縮と太平洋・中国問題に関して協議された。日本の代表は加藤友三郎・幣原喜重郎ら。 アメリカの関心事は軍縮問題と日本の中国及び太平洋地域への進出を大きな脅威と見ていたので、日本を抑えることであった。ワシントン会議では海軍軍備制限条約・九ヵ国条約・四ヵ国条約の3条約が成立し、アメリカの外交は大きな勝利を収めたと言える。また中国に関しては、別に関税に関する条約(一律従価5%の関税の他、2.5〜5%の付加税を認める)、山東懸案に関する条約(日本は山東における旧ドイツ租借地を中国に還付するなど)が成立した。基本的にはすべてを第1次世界大戦前の状態に戻すことが確認され、日本は膠州湾を中国に返還、シベリアからの撤兵を約束した。この会議で作り出された、東アジア・太平洋地域の国際秩序をワシントン体制という。 → アメリカの外交政策 | ||
a ハーディング | アメリカ合衆国第29代大統領。共和党。在職1921〜23年。第1次世界大戦後の1920年の大統領選挙で、「アメリカがいま必要としているのは英雄的行為ではなく療養である。特効薬ではなくて常態である。革命ではなく復興である。」という、いわゆる”常態への復帰”をかかげ、ウィルソンの後継の民主党候補コックスを大差で破り当選した。20年代のアメリカ経済繁栄期、3代続く共和党大統領の最初となった。外交面では1921年、ワシントン会議を提唱し、主催したことで、国際協調外交に功績があったとされるが、内政では見るべきものは無く、23年に任期途中で急死した。その死後、私生活でのスキャンダル、取り巻き連中の不正事件が発覚し、人気を落とした。 Epi. ハーディングの変死とスキャンダル:ハーディング大統領は、アラスカ訪問からの帰途、列車中で倒れ1923年8月2日にサンフランシスコで死んだ。食中毒で倒れ、死因は脳卒中と発表された。現職の大統領の急死に国民は驚き、国中が深い悲しみに沈んだ。しかし、その後、大統領周辺から贈収賄や女性問題などのスキャンダルが暴露されると、その死因にも疑いの目が向けられることとなった。大統領は毒を飲んで自殺したのだという噂や、夫人に毒殺されたのだという説まで出た。噂によると夫人は大統領に私生児があることを知って嫉妬に駆られ、また取り巻きのギャングとの不正事件が遅からず暴露されることを恐れ、「死だけが彼を汚名から救うことが出来る」と考えたのだという。<F.L.アレン/藤久ミネ訳『オンリー・イエスタディ』1932 ちくま文庫 p.183-185> | ||
b 海軍軍備制限条約 | 1922年2月、ワシントン会議の結果成立した条約。「ワシントン海軍軍縮条約」ともいう。日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリアの5ヶ国が調印。主力艦建造を10年間停止、保有比率を英米各5、日本3、仏伊各1.67と定めた。日本はこの条約によって、1907年から進めていた「八・八艦隊」(戦艦・巡洋艦を各8隻を中心とした艦隊編制)計画を断念した。 1930年のロンドン海軍軍縮会議でさらに補助艦の保有比率を米英日それぞれ10:10:7とし、主力艦建造停止の1936年までの延長が決められたが、日本国内で軍を中心に反対運動がおこり、統帥権干犯問題に発展し、ついに単独で破棄し、1935年に離脱することとなる。 | ||
c 九カ国条約 | 1922年2月、ワシントン会議によって成立した中国に関する条約。中国の主権尊重・領土保全と、門戸開放・機会均等を確認し、日本の二十一ヵ条の要求で得た山東省の旧ドイツ権益の返還などを決めた。 9カ国とは日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・ベルギー・オランダ・ポルトガル・中国。実質的なねらいは、大戦中に「二十一ヵ条の要求」を中国に認めさせ、ドイツとロシアの後退に乗じて大陸進出を積極化させた日本の動きを、アメリカとイギリスが抑えようとしたもの。日本は国際協調の世論に押され、二十一ヵ条要求で獲得した山東省の旧ドイツ権益(膠州湾)の返還を認め、アメリカの外交上の勝利と言われた。またアメリカとの間で交わされていた石井・ランシング協定も破棄されることとなった。なお、日本と中国の間には山東省権益の返還については「山東懸案に関する条約」が締結された。 | ||
d 中国 | |||
f 四カ国条約 | 1922年2月、ワシントン会議によって成立した、太平洋の島嶼に関する条約。日本・イギリス・アメリカ・フランスの4国が調印。太平洋上の諸領地に関しては現状維持とし、紛争があった場合は共同会議で調整するなどを規定し、第4条で日英同盟の終了を宣言した。アメリカの主導によって、日本の太平洋方面への進出を抑えることをねらったものであった。 | ||
g 太平洋地域 | |||
e 日英同盟 | |||
f ワシントン体制 | ワシントン会議によってつくられた、第1次世界大戦後1921〜1936年頃までの東アジア・太平洋地域の国際秩序。ドイツ脱落後、日本の進出をアメリカ・イギリスが抑える構図となっている。ヨーロッパの「ロカルノ体制」と並んで、ヴェルサイユ体制を支えるものであったといえる。日本は1920年代は世界的な国際協調に歩調を合わせていたが、昭和恐慌頃からの軍部・右翼の台頭によって、次第にワシントン体制打破を国家方針とするようになる。 | ||
イ.国際協調と軍縮の進展 | |||
A ヴェルサイユ体制のもとでの国際紛争 | |||
a ギリシア(第1次大戦後) | ギリシア王国にはトルコ領内のギリシア人居住地を統合しようという大ギリシア主義の考えがあり、クレタ島などで激しいギリシアとの統合を求める暴動が起こっていた。第1次と第2次のバルカン戦争で領土を広げ、さらに第1次世界大戦では協商側に味方して戦ったので、その見返りとして、敗戦国トルコから領土を割譲することをヴェルサイユ会議で主張した。それが認められなかったので、ギリシアは1919年5月、小アジアのスミルナ(イズミル)に侵攻、ギリシア=トルコ戦争を起こした。ギリシア軍はアンカラ近くまで進撃したが、1920年のセーブル条約で5年間のスミルナ管理権を得て将来の併合を可能にした。しかし、トルコにムスタファ=ケマルのトルコ国民東軍に敗れ、これさらに1922年に戦意に勝るケマル軍によってスミルナを奪回され、敗北に終わった。翌23年にはローザンヌ条約で小アジアを完全に失い、トルコとの間に住民交換を行った。この混乱の中で23年に王政から共和制に移行し、ヴェニゼロスの指導のもとトルコとの和解も図られた。しかし経済の不振が続き(19世紀末から多くのギリシア人がアメリカ大陸に移民となって移住した)政党政治への不満からファシズムが台頭、1935年には王政が復活、36年にメタクサス将軍による軍事独裁政権が生まれ、第2次世界大戦の時期にはいる。 → 第2次大戦後のギリシア | ||
b スミルナ(イズミル)侵攻 | スミルナ(スミュルナとも)は小アジア(アナトリア)西岸、重要な商業港。古代にはギリシア世界のイオニア地方(イオニアの反乱がおこったところ)にあたり、ローマ時代まで栄えた。オスマン帝国に支配されてからもその商業都市として繁栄したが、住民の多くはギリシア系であった。第1次世界大戦が終わると、1919年5月、ギリシア軍が侵攻し、併合を企てたが、ムスタファ=ケマルを中心としたトルコ軍が反撃し、1922年には奪回、ギリシア軍は撃退された(ギリシア=トルコ戦争)。このとき、ギリシア人住民約3万が殺され、古代以来の歴史的文化財も灰燼に帰した。トルコは、23年のローザンヌ条約で、小アジアの大陸部の領有が認められ、スミルナはトルコ名でイズミルと言われることになった。現在のイズミルには古代ギリシアのアゴラの遺跡が残っているが、それらはローマ時代に再建されたものである。アゴラ周辺以外の遺跡は、ギリシア=トルコ戦争の際、敗北したギリシア軍が焦土作戦を展開して町を破壊したため残っていない。 | ||
c ローザンヌ条約 | →第15章 3節 ローザンヌ条約 | ||
d イタリア | |||
e フィウメ | フイウメというのは、現在のクロアチアのリエカというアドリア海に面する港町。従来スラブ系住民の住む町であったが、19世紀ごろからイタリア人の移住が多くなり、イタリアにその併合を求める声が強くなり、第1次世界大戦中末期の1919年9月、イタリア人の作家ダヌンツィオが義勇兵を率いて占領するという事件が起こった。国際連盟でもイタリアの侵略行為が問題にされたが、1920年のラパロ条約で自由市にされ、24年にはイタリアはユーゴスラヴィアと直接交渉して併合した。第2次世界大戦後はユーゴスラヴィアに返還され、ユーゴ内戦後は、クロアチアの領有下にある。 | ||
f ポーランド | → ポーランド | ||
h ルール占領 | 1923年1月、フランス(ポアンカレ内閣)は、ドイツの賠償金支払いの不履行(賠償問題)に対し、ベルギーとともに軍隊をルール地方に進駐させた。ドイツの労働者は生産を停止するなどの消極的抵抗を行い、ドイツ政府も生産を停止した労働者を支援して賃金が支払った。そのため、ドイツでは生産力が急激に低下してインフレーションと財政難が進行し、大きな困難に陥った。ドイツ国内でも報復を主張するヒトラーがミュンヘン一揆を起こして政府打倒をはかり失敗するなどの不穏な動きが出てきた。そこでシュトレーゼマン外相が「履行政策」という協調姿勢をとり問題の解決を模索、1924年ドーズ案が成立して賠償金支払方法が決まったので、フランスも撤退した。大戦後のいわゆるドイツ賠償金問題の対立の中で起こったことであったが、ドイツ国民のフランスに対する憎しみを強める結果となった。 | ||
ルール地方 | ルール地方はドイツ西北部のライン河畔にあり、ヨーロッパ最大の大炭鉱であるルール炭田を中心とした工業地帯。中心都市はデュッセルドルフ、エッセンなど。第1次世界大戦後の1923年に、ヴェルサイユ条約でドイツの義務とされた賠償金の支払いが滞ったことを理由に、フランスとベルギー両国の軍隊がルールを占領し取り立てを強行しようとした。ドイツの労働者のゼネストなどの抵抗に遭い、国際的にも批判されて、両国は1925年に撤退した。第2次世界大戦後の1952年には、フランスのシューマン外相がこのルール地方とザール地方の石炭と鉄鋼業の共同管理を提唱、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足し、ヨーロッパ統合の第一歩となった。 | ||
i フランス | |||
j ベルギー | |||
B 国際協調外交 | |||
a ロカルノ条約 | 1925年10月16日、スイスのロカルノで調印された、イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ベルギー・ポーランド・チェコの7ヶ国による地域的集団安全保障条約。ヴェルサイユ条約におけるラインラント非武装の規定を強化するために締結された。イギリスのオースティン=チェンバレン(ジョセフの長子。ネヴィルの異母兄)、フランスのブリアン、ドイツのシュトレーゼマンの各外相による国際協調路線の成果であり、1925年から1929年までの「相対的安定期」を現出した。A.チェンバレンは1925年度、ブリアンとシュトレーゼマンは1926年度のノーベル平和賞の受賞者となった。 ロカルノ条約の内容:正式には同年12月1日ロンドンで調印された、次の条約より成る。 (1)ドイツ−フランス国境、ドイツ−ベルギー国境の現状維持と不可侵を、フランス・ドイツ・ベルギーが認め、イギリス・イタリアがそれを保障したラインラント条約。 (2)ドイツが、フランス・ベルギー・チェコ・ポーランドの4ヶ国とそれぞれ結んだ仲裁裁判条約。 (3)フランスが、チェコ・ポーランドとそれぞれ結んだ相互援助条約。 ロカルノ体制:なお、ロカルノ条約はドイツの国際連盟加盟を発効の条件にしていたので、1926年にドイツの国際連盟加盟が実現する。ロカルノ条約によって成立した西ヨーロッパの集団安全保障による国際的安定をロカルノ体制とも言うが、それは1936年、ヒトラーのナチス・ドイツ軍のラインラント進駐に及んで崩壊した。 | ||
b ドイツの国際連盟加盟 | |||
c ジュネーヴ軍縮会議 | |||
d 不戦条約 | 1928年8月、フランスの外相ブリアンがアメリカに対し戦争放棄を目的とした仏米協定締結を提案、それを受けたアメリカ国務大臣ケロッグが、多角的な国際条約にする必要があると各国に働きかけ、ドイツ、日本も含む15ヶ国が参加してパリで調印し成立した。後に63ヶ国が参加し全世界的な国際条約となった。パリ不戦条約、ブリアン=ケロッグ協定ともいう。 → アメリカの外交政策 意義:特に国際連盟には不参加だったアメリカとソ連も参加したので、平和維持に大きな期待が寄せられた。その内容は3ヵ条からなり、「国際紛争解決のため、および国策遂行の手段としての戦争を放棄すること」を誓った。これは、第1次世界大戦までの近代主権国家が、「戦争に訴えるのは国家の自由である」という立場をとっていたのに対し、第1次世界大戦の悲惨な体験を経て、世界が戦争そのもを否定して「戦争の違法化」を合意した点できわめて重要であり、国際連盟規約の精神を具体化するものであった。第2次世界大戦の勃発を防ぐことはできなかったが、大戦中に連合国で結成された国際連合憲章の前文の「共同の利益の場合を除く外は武力を用いない」という文言や、第2条第4項で「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を・・・慎まなければならない」と言う規定につながった。 問題点:しかし、アメリカは条約締結に当たり、この条約は「いかなる点においても自衛権の制限もしくは毀損を意味してはいない。この権利は、各主権国家に固有のものであり、あらゆる条約に事実上含まれている。」と表明し、自衛のための戦争は可能であるという道を残した。また不戦条約には「侵略」をどこが認定するのか規定が無く、「違反に対する制裁」についても触れられていなかったため、理念的規範にすぎないと考えられ、結局、第2次世界大戦の勃発を防げなかった。 不戦条約と日本:日本は条約第1条に「人民の名において」とあることを「国体に反する」として保守派の枢密院が反対したので、田中義一内閣はこの一句は日本には適用されないと言う留保条件を付けて、翌年ようやく批准した。しかし、この条約に拘束され、中国侵略を自衛のための行動であるとして、「満州事変」や「日華事変」というように戦争行為を「事変」と強弁せざるを得なかった。 戦後、日本国憲法を制定するに当たって、第9条で「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」として生かされた。 資料:パリ不戦条約
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e ブリアン | 1920年代の国際協調外交を主導したフランスの外相。はじめはフランス社会党に属したが、1906年に脱退し社会主義から離れた。しかし外交面では大戦後の国際協調路線の推進者として活躍。フランスの首相を11回、外相を10回務めた。ワシントン会議、ロカルノ条約の締結などで活躍し、1926年度のノーベル平和賞をシュトレーゼマンとともに受賞した。また1928年にはアメリカのケロッグ国務長官とともに不戦条約を提案し成立させるなどのなどの成果を上げた。1929年には、ヨーロッパ統合を構想し、国際連盟に「ヨーロッパ連合」を提唱したが、同年の世界恐慌の発生で失敗に終わった。シュトレーゼマン、ケロッグと並ぶ、戦間期の国際協調を実現した人物。 | ||
f ケロッグ | アメリカ合衆国のクーリッジ大統領(共和党)のもとで国務長官を務める。フランス外相ブリアンの提唱を受けて、1928年に不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)を締結し、国際協調外交を推進した。その功績で1929年にノーベル平和賞を受賞した。 | ||
g ロンドン会議 | 1930年1月〜4月、ワシントン海軍軍備制限条約の更新と、補助艦の制限問題について開催された会議。1927年にジュネーブで同様の会議を開催したが英米の意見が対立し、失敗していたので、改めて話し合うこととなった。イギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアの5ヶ国が参加したが、仏伊は途中で脱落し、英米日三国で協定が成立した。協定では主力艦建造停止を5年間(1936年まで)延長し、補助艦については英米10に対して日本は約7(6.97)とするなどの新たな比率を定めた。当時すでに前年に世界恐慌が始まり、三国とも軍事費削減が迫られていたので話し合いがまとまったのであるが、イギリスと日本では対アメリカの比率で不満が大きかった。特に日本では浜口雄幸首相と若槻礼次郎外相の「軟弱外交」に軍部・右翼からの非難が強く、いわゆる統帥権干犯問題(政府が軍備について外国と協定を結ぶことは天皇の統帥権−軍事統制権−を犯すものであるという主張)が起こり、調印を強行した浜口首相が右翼によって狙撃される事件が起きた。日本は1935年に同条約を離脱、36年12月にはワシントン・ロンドン両条約とも満期となり、軍縮時代は終わりを告げる。 | ||
ウ.西欧諸国の停滞 | |||
A 選挙法改正 | → 選挙法の改正(イギリス) | ||
a ロイド=ジョージ挙国一致 | 1918年、第1次世界大戦中に成立した、自由党のロイド=ジョージを首相とし、保守党・労働党も参加した挙国一致内閣。1922年まで、世界大戦の遂行と戦後処理にあたり、また諸改革を遂行した。主な政策は、第4回選挙法改正(初の女性参政権の承認)、アイルランド自由国の承認など。 | ||
b 第4回選挙法改正 | 1918年、ロイド=ジョージ内閣(保守党・自由党・労働党の連立内閣)のとき、国民代表法が成立し、男性は21歳以上のものすべてに、女性は30歳以上に選挙権が認められた。男性については財産や地位にかかわりなく、すべてに選挙権が認められたので普通選挙の実現といえる。しかし女性の選挙権年齢は男性と平等ではなかった。これよって、労働者の参政権が実現したため、労働党の進出はめざましくなり、1924年には労働党首マクドナルドが自由党との連立で労働党政権を成立させ、さらに次第に自由党に代わって二大政党の一翼を担うこととなる。 | ||
c 女性参政権 | 婦人参政権運動は、18世紀からフランスで始まり、19世紀には労働運動・社会主義運動と結びついて運動が本格化した。世界で最初に婦人参政権を認めたのは、1893年のニュージーランドであった。ついでオーストラリア(1902年)、フィンランド(1906年)、ロシア(1917年)、カナダ・ドイツ(1918年)などと続く。イギリスで30歳以上の婦人に参政権が認められたのは第4回改正の1918年であり、男性と同じ21歳以上となったのが第5回改正の1928年で、けして早くなかった。アメリカは、12の州が1914年までに婦人参政権を認め、アメリカ全体では1920年に実現した。日本ではいわゆる「大正デモクラシー」の時期の1925年に、25歳以上の男性に選挙権が与えられる「普通選挙法」が成立したが、婦人参政権は第2次大戦後の1945年、日本国憲法によってであった。 → 男子普通選挙 | ||
d 第5回選挙法改正 | 1928年、ボールドウィン保守党内閣のもとで、21歳以上のすべての女性にも選挙権が認められ、イギリスで完全な男女平等の普通選挙制度となった。 | ||
B 労働党政権の成立 | イギリス労働党は1918年の第4次選挙法改正などによって党勢を拡大、第1次世界大戦では党首マクドナルドは戦争反対を貫き党首を辞任したが、一部はロイド=ジョージ挙国一致内閣に参加した。その後、その社会民主主義と言われる政策が、労働者大衆の支持を受け、1923年の総選挙で第2党となり、翌24年に自由党との連立でマクドナルド(第1次)内閣を成立させた。この内閣は自由党との協調が続かず、短命に終わったが、イギリスという帝国主義の先端を行く国家において、労働者の権利の擁護と生活の向上を目指す政権が誕生したことの意義は大きい。労働党はその後、1929年の第2次マクドナルド内閣(挙国一致内閣)を実現させるが、世界恐慌対策に失敗し、マクドナルドも労働党を離れる。第2次大戦末期の1945年7月には、初の労働党単独内閣であるアトリー内閣を成立させる。 | ||
a マクドナルド | 前年の総選挙では保守党に次いで第2党であった労働党は、1924年1月、第3党の自由党の支持を得て、党首マクドナルドが内閣を組織した。これがイギリス最初の労働党内閣の成立である。失業者の救済などの政策、ソ連の承認などを行ったが、社会主義への接近を恐れた自由党が反対に廻ったため、10月の総選挙で敗れ、短命に終わった。マクドナルド労働党内閣は1929年再び成立するが世界恐慌対策に失敗して辞任、その後マクドナルドは労働党を離れ、1930年代に連立内閣を組閣する。 | ||
C アイルランド問題 | →第12章2節 アイルランド問題(19世紀)、第14章1節 アイルランド問題(20世紀) 17章3節 北アイルランド問題 | ||
a アイルランド自由国 | 1922年、アイルランドはイギリス(ロイド=ジョージ内閣)によって自治が認められてイギリス連邦を構成する自治国となった。しかし、プロテスタントの多い北アイルランド(アルスター地方)は、アイルランド自由国に加わらず、イギリスに残った。21年にイギリスから提示されたこの分離自治をめぐってシン=フェイン党は分裂、あくまでアイルランド全島の独立を目指すグループと北アイルランドを分離することを認めるグループで内戦となったが、結局後者が勝利して、北アイルランド6州を除く26州がアイルランド自由国となり、イギリス連邦の一員となった。敗れた完全独立派はデ=ヴァレラがアイルランド共和党を結成、しだいに党勢を強めシン=フェイン党にかわって1937年には選挙で勝利、憲法を制定(38年発効)して国号をエールにとした。 →アイルランド共和国 | ||
北アイルランド(アルスター) | アイルランド島の北部6州をアルスター地方という。中心都市はベルファースト。アイルランドがクロムウェルによって征服されていたい、イギリス(イングランド)からプロテスタントの入植者が増え、北アイルランドはカトリック教徒は少数派となり、差別されるようになった。アイルランドの独立を求める運動でもカトリックの多い中南部と対立し、1922年にアイルランド自由国の自治が認められたときに、それとは分離してイギリスとの連合王国に留まった。その後も少数派のカトリック系住民は、イギリスからの独立、アイルランド共和国との統合を求め、地域紛争が続いている。→北アイルランド問題 | ||
デ=ヴァレラ | アイルランドの独立運動家、政治家。はじめシン=フェイン党に加わり1916年のイースター蜂起を指導し逮捕されたが、母がアメリカ人で彼自身もアメリカ国籍を持つ二重国籍者であったため処刑を免れた。その後、1918年の選挙でシン=フェイン党を勝利に導き、自治を認めないイギリスに対するゲリラ戦を指導した(1921年夏までの英・イ戦争)。妥協の産物としてイギリスは北アイルランドを除くアイルランド自由国の自治を認め、その受入をめぐってシン=フェイン党は内部分裂し、内戦となった。デ=ヴァレラは全アイルランドの独立を主張してシン=フェイン党から分離し、アイルランド共和党(フィアナ・フォイル)を結成、自由国政府には加わらなかった。その後イギリスとの対決姿勢を強めて支持をひろげ、1937年には選挙で勝利して首相となり、以後戦後の48年まで16年間首相を務める。まず新憲法を制定して国号をエール(アイルランドの固有の言語であるゲール語でアイルランドのことを意味する)とした。第2次世界大戦ではチャーチルやF=ローズヴェルトの働きかけにもかかわらず中立を守り(スペインのフランコ政権と同様に)独自の道を歩んだ(アイルランド国民の中には義勇兵として連合国軍に加わるものも多数いた)。またデ=ヴァレラは国際連盟の議長として小国の理念を国際社会で主張するなど、国際社会でも独自の活躍をした。しかし48年、長期政権が国民の支持を失い、選挙で敗れ首相を交替した。1959〜73年は大統領を務めた。 → アイルランド問題(20世紀) | ||
b イギリス帝国会議 | イギリスが自治領およびインドなどの植民地支配を維持するために開催したもの。単に「帝国会議」Imperial Conference ともいう。その前身は1887年の植民地会議であり、1907年に帝国会議と改称、1926年にはイギリス連邦の結成が協議され、31年のウェストミンスター憲章でイギリス連邦が成立した。1937年を最後として帝国会議は開催されなくなり、1944年からはイギリス連邦首脳会議が開かれるようになった。 | ||
c ウェストミンスター憲章 | 1931年に成立した、イギリス自治領とイギリス本国の関係を規定し、イギリス連邦の成立させた憲章。ここでいうイギリス自治領とは、カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ連邦・アイルランド自由国・ニューファンドランド(1713年からイギリス領。カナダとは別個な自治領植民地で、1949年にカナダ連邦に加入)の6ヵ国をいう。これらの自治領は、イギリス連邦内において平等な地位にあり、それぞれ議会を持ち、自主的な外交権が認められたが、国王に対する共通の忠誠によって結合している、と規定された。 | ||
d イギリス連邦 | イギリス本国と自治領、植民地を結ぶ緩やかな連合体。かつてのイギリス帝国のような、本国が植民地を支配するのではなく、植民地の自治を認め、対等な関係としつつ、イギリス国王に対する共通の忠誠心によって結ばれている連合体を作り上げようとしたもの。1926年の帝国会議で提起され、31年のウェストミンスター憲章で成立した。はじめ自治を認められていたのはイギリス系の入植者が建国したカナダ、オーストラリアなど6ヵ国であり、インドなど植民地はそのままであった。イギリス連邦は世界恐慌後のイギリスにとって、ブロック経済政策をとる基盤となり、1932年のオタワ連邦会議ではイギリス連邦加盟国による特恵貿易体制が作られ、ポンド経済圏(スターリング=ブロック)が成立した。 第2次大戦後に植民地が相次いで独立し、イギリス連邦(British Commonwealth of Nations )の名称から British が除かれ、単にコモンウェルスとのみ呼ばれるようになった。大戦後もイギリス連邦はイギリスとの経済的結びつきが強く、それがイギリスのEEC不加盟の理由となっていたが、次第にEECとの経済格差が開いた。次第に経済的結束も弱まり、73年にはイギリス本国がECに加盟したため、イギリス連邦の経済的意味はなくなった。それでも現在は54ヵ国が加盟している。アイルランド共和国は1949年に離脱。 | ||
e エール | アイルランド自由国は1937年に独立国家であることを宣言し、新憲法を制定、国号をエールとした。エール Eire はエーレとも表記し、ゲール語(アイルランドの固有の言語)でアイルランドのことを意味する。従って国名を改めたわけではなく、憲法でも英語表記ではアイルランドとするとされている。さらに第2次大戦後に1949年イギリス連邦を脱退したときに、正式に国号をアイルランド共和国としたが、エール(エーレ)も併用されている。 | ||
A 対独強硬政策 | |||
a ポアンカレ右派内閣 | ポワンカレは、クレマンソーと並ぶ第1次世界大戦中と戦後のフランスの政治家。保守派の中心人物として対独強硬論を主張した。1913〜20、大統領。その前後に首相となっている。1923〜25年のルール出兵がその対独強硬論の典型。 | ||
b ルール占領 | → ルール占領 | ||
B 国際協調路線への転換 | |||
a 左派連合政権 | |||
b ブリアン | → ブリアン | ||
A ドイツ革命の失敗 | |||
a スパルタクス団 | ドイツ社会民主党は第1次世界大戦が始まると、階級闘争よりも祖国防衛を優先して、戦争遂行に賛成した。そのため国家の枠を超えた労働者の解放を目指すとしていた第2インターナショナルは崩壊した。それにたいして社会民主党内の左派のローザ=ルクセンブルク、カール=リープクネヒトらは戦争協力を拒否し、1916年1月スパルタクス団を結成した。この名称は古代ローマの奴隷反乱の指導者スパルタクスに由来する。翌1917年には独立社会民主党という別個の党に参加し、1918年のドイツ革命の中心となった。その主張は労兵評議会(レーテ)に権力を集中させることであり、国民議会開催に反対したが、社会民主党のエーベルトらは国民議会開催を進めた。同年12月、ドイツ共産党と改称し、翌1919年1月にベルリンで蜂起し失敗、ローザ=ルクセンブルク、カール=リープクネヒトは殺害され、革命を達成することは出来なかった。 | ||
b ドイツ共産党 | 1918年12月、スパルタクス団が改称した。1919年1月の蜂起に失敗したが、その後も社会民主党政権に対する批判勢力として存続し、インフレなどで苦しむ労働者層の支持を受け党勢を拡大する。20年代にはコミンテルンに加盟し、ドイツ革命をめざし、過激な活動を展開し、その進出を恐れた資本家側は、共産党勢力を抑える勢力としてナチスに期待するようになる。1933年に権力を握ったヒトラー・ナチスにより、国会議事堂放火事件の犯人とされて非合法化された。ヒトラー政権の下では地下に潜り、党指導部はソ連に亡命した。戦後、ドイツに戻った共産党指導部はソ連の軍事力を背景に、社会民主党との合同を強行し、社会主義統一党となり、ドイツ分裂後は東ドイツの体制政党として社会主義建設を進めた。 | ||
c ローザ=ルクセンブルク | ローザ=ルクセンブルクはポーランド生まれのドイツ人の女性で社会主義者。ドイツとポーランドで社会主義を指導。マルクス主義の正統的な階級闘争理論を軸として、国家支配の死滅をめざす論陣をはり、民族独立派には批判的であった。社会民主党の左派の闘士として活動し、党の戦争協力を批判してスパルタクス団を結成。1919年1月、ドイツでのプロレタリア革命を目指しベルリンで蜂起したが、社会民主党政府の派遣した軍隊に捕らえられ殺害された。 | ||
d リープクネヒト | カール=リープクネヒトも社会民主党左派の理論家であったが、ローザ=ルクセンブルクと同じく戦争に反対してスパルタクス団の結成に加わり、1919年1月の蜂起の際に同じく政府軍によって殺害された。 | ||
e 社会民主党 | → ドイツ社会民主党 | ||
B ヴァイマル憲法 | 1919年に制定された第1次世界大戦後のドイツ共和国(ヴァイマル共和国)の憲法。当時世界でもっとも民主主義的な憲法であった。 制定:1919年、スパルタクス団の蜂起の直後の選挙によって成立した国民議会は2月6日にヴァイマルで開催された。社会民主党は単独で過半数が取れず、中央党・民主党など中道政党と連立政府を作った。臨時大統領には社会民主党のエーベルトを選出、7月31日に新憲法が制定され、いわゆるヴァイマル共和国が成立した。 内容:重要なポイントは次のような規定である。当時においてはもっとも民主的な内容であったが、左右両派からはそれぞれ不満が大きかった。
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b ヴァイマル憲法の主権在民規定 | ヴァイマル憲法の国民主権、議会に関する規定には次のような条項があった。選挙の比例代表制はより民意を反映させる民主的な制度と考えられたが、かえって小党分立状態による政党政治の混乱を生みだし、ナチスの台頭を許したと考えられている。
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b ヴァイマル憲法の大統領制 | ヴァイマル憲法での大統領は国民が直線背挙で選び、任期は7年とされていたが、次のような条項があり、後にヒンデンブルク大統領大統領はこの緊急命令権を乱発した。また1933年に首相に任命されたヒトラーもこの大統領緊急命令権と議会解散権を利用して独裁体制を握ることになった。
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b ヴァイマル憲法の社会権 | ヴァイマル憲法は世界で最初に本格的な社会権の保障を明記した。次の条文が関連項目である。
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c ヴァイマル共和国 | 1919年7月のヴァイマル憲法制定から、1933年のヒットラー政権の成立までのドイツ共和国を特にヴァイマル共和国という。ワイマール共和国とも表記。ヴァイマル憲法の下で国民の直接選挙で選ばれる大統領制、議会制が実現し政権は社会民主党が担当した。社会民主党はドイツ第二帝国が崩壊した後、社会主義革命を目指したスパルタクス団の蜂起を抑え穏健な社会改良政策を進めた。しかし、ヴェルサイユ体制での賠償金など過酷な負担を強いられ、激しいインフレで経済は疲弊し、左からは労働者の不満を吸収した共産党の進出と、右からは反ヴェルサイユ体制を唱える国家主義運動であるナチズムが台頭し、政治・社会の動揺が続いた。一面では実現された平和の中で、人々はヴァイマル文化と言われる生き生きとした文化を生み出した時代でもある。 | ||
d エーベルト | ドイツ社会民主党の指導者。党の右派に属し第一次世界大戦には戦争遂行に協力。1918年、ドイツの敗北と同時に革命が起きて皇帝が退位すると政権の中枢に立ち、1919年1月に左派のスパルタクス団の蜂起を鎮圧した後、臨時大統領となり、ついでヴァイマル憲法のもとでの初代大統領に選ばれ、1925年まで在任。 | ||
e ヒットラー | ヒトラーはオーストリア生まれでウィーンで貧しい青年時代を過ごし、第1次世界大戦に従軍して負傷し、戦後はミュンヘンで生活していた。1919年小さな右翼政党だったドイツ労働者党(1920年に国家社会主義ドイツ労働者党に改称)に加わり、反ユダヤ主義を鼓吹して知られるようになり党首となる。1923年11月、フランスのルール占領によるドイツ経済の混乱に乗じて軍事政権を樹立しようとして将軍ルーデンドルフを担ぎ出し、ミュンヘン一揆といわれるクーデタを起こしたが、失敗し投獄される。獄中で『わが闘争』を著し、出獄後は巧みな弁舌と宣伝で現状に不満な大衆の任期を獲得して議会に進出する戦術をとるようになる。 | ||
C シュトレーゼマン内閣 | |||
b インフレーション | ドイツでは大戦当初からインフレーションがはじまっていたが、1923年のフランス・ベルギー軍のルール占領を機に一挙に進行した。マルクの価値は戦中に比べ1兆分の1に下落し、労働者、さらには中間層にも大きな打撃を与えた。彼らはインフレの原因を押しつけられた賠償になるとして、ヴェルサイユ体制に対する反発を強めた。このインフレはシュトレーゼマン内閣のレンテンマルク発行によって解消される。 | ||
c シュトレーゼマン | ビスマルクを支持したブルジョア政党国民自由党出身の政治家。1918年自らドイツ国家人民党に改組し、ヴァイマル共和国で1923年連立内閣を組織した。インフレーションの進行をレンテンマルクの発行によって乗り切ったが、ミュンヘン一揆が起きたため首相を辞任、以後は外相として協調路線をとった。賠償問題では「履行政策」を表明してドーズ案を受諾し、ロカルノ条約の締結などを進め、アルザス=ロレーヌを永久に放棄することを声明した。1926年度のノーベル平和賞をフランスのブリアンとともに受賞している。 | ||
d レンテンマルク | 1923年11月、ドイツの急激なインフレーションを解消するためにシュトレーゼマン内閣の通貨統制委員シャハトの発案で発行された新通貨。金準備は充分でなかったので土地を担保とした不換紙幣としてレンテン銀行から発行し、従来の1兆マルクを1レンテンマルクと引き換えた。これによって1年でインフレを解消することが出来た。1924年からは金準備に基づくライヒスマルクに切り替えられた。(1レンテンマルクは1ライヒスマルクで交換。) | ||
E シュトレーゼマン外交 | |||
b ロカルノ条約 | → イ.国際協調と軍縮の進展 ロカルノ条約 | ||
c ヒンデンブルク | 1925年、エーベルト大統領が盲腸炎で死んだため、ヴァイマル共和国の大統領選挙が行われ、元将軍のヒンデンブルクが当選した。彼は第1次大戦のタンネンベルクでロシア軍を破った英雄であり、右翼から支持されていた。また軍部に強い影響力を持ち、ドイツの敗戦についても「背後からの一刺し」で敗れたにすぎないと言うのが持論であった。「背後からの一刺し」とは、ドイツ軍はまだ健在でり、敵軍の国内侵入を許してもいなかったのに敗北したのは、ドイツ国内の社会主義者や共産主義者が革命騒ぎを起こしたためである、という見方であり、従って戦争責任をドイツが認め、莫大な賠償金を背負わされたヴェルサイユ条約は間違っているというい信念となる。このような人物が大統領に当選したことによってドイツのファシズムへの傾斜は準備されたことになる。 → ヴァイマル憲法の大統領制 | ||
d 国際連盟 | → 国際連盟 | ||
D 賠償問題 | ヴェルサイユ条約によって定められたドイツの賠償金(1921年に金額は1320億金マルクとされる)は敗戦国ドイツにとって現実的に支払いできない重さであった。1923年1月にはフランスは賠償の不履行を理由にルール占領を強行、ドイツ側は憤激したが、不服従で抵抗するしかなかった。工業地帯であるルール地方をフランスに押さえれたためドイツの生産力は激減し、急激な品不足、つまりインフレーションが進行した。そのような中でミュンヘン一揆のような右派のクーデタ計画があり、社会不安は深くなった。シュトレーゼマン内閣はレンテンマルクを発行してインフレーションを脱却する一方、賠償金の履行を約束し、アメリカの援助を求めた。アメリカもドイツがイギリス・フランスに賠償金を支払えなくなると、イギリス・フランスに対するアメリカの債権も放棄しなければならなくなる恐れがあったので、ドイツを救済する必要に迫られた。1924年のドーズ案、続いて出された1929年のヤング案によって賠償金の減額や支払期限の軽減がはかられた。しかし、ドイツ賠償金問題はアメリカ資本が世界経済を支配する構造を作り上げてしまい、1929年アメリカに大恐慌がおきると、それがたちまちヨーロッパに広がり世界恐慌となる素地を作ってしまった。フーヴァー大統領はフーヴァー=モラトリアムを発表して賠償金の1年間支払い停止としたが、解決にならず、1932年ローザンヌ会議で賠償金は最終的に30億金マルクまで減額されたが、翌年成立したナチス・ヒトラー政権は賠償金支払いそのもを拒否し、ついに決定的な対立の段階にはいる。 | ||
a ドーズ案 | ドイツの賠償問題は、フランスのルール占領をもたらし、大戦後の平和にとって不安定材料として懸念が深まっていた。連合国側は1921年以来、ロンドン会議で協議を重ねていたが、1924年8月にアメリカの財政家ドーズを委員長とする専門家委員会の提案を受け、新たな賠償方式を決定した。その「ドーズ案」は、標準の年支払金額を25億金マルクとし、むこう4年間はその金額を減額すること、支払いはドイツ通貨でおこない、外貨の調達は連合国側の委員会が行うことなどとなっていた。ドーズ案は9月に実施され、その結果フランス軍のルール撤退が実現された。また賠償金支払いの見通しが一応ついたので、ドイツ経済も復興するきっかけとなった。ドーズは1925年度のノーベル平和賞を受賞した。しかし、賠償金総額は定められず、ドイツは外債によって資金を得ようとして主としてアメリカ資本に依存することとなったのでさらに債務が累積していくという矛盾が生じ、1929年にはヤング案が作成されることとなる。 | ||
b ヤング案 | ドーズ案によってドイツ経済は復興したが、なおも賠償金支払いはアメリカからの外債に依存していた。この問題を解消するため、国際連合は1929年にアメリカの財政家ヤングを委員長とする委員会を設け、同年ヤング案をとりまとめた。ヤング案では賠償金を削減して358億金マルクとし、返済期間を緩和して59年間とした。しかし、ヤング案成立直後に世界恐慌が発生し、ドイツもすぐに巻き込まれ、ヤング案でも返済不可能に陥った。また国内ではナチスと共産党が台頭し、社会不安が表面化したため、1931年アメリカ大統領フーヴァーはモラトリアムを宣言、さらに32年にはローザンヌ会議を開催して賠償金の大幅削減をすることになる。 | ||
c 民間資本 | |||
d 戦時債権 | |||
e 賠償金 | |||
f ローザンヌ会議 | |||
d ヴェルサイユ体制 | |||
エ.東欧・バルカン諸国の動揺とイタリアのファシズム | |||
1 ポーランド(1次大戦後) | 1918年11月11日にポーランドは独立を回復し、1919年サン=ジェルマン条約で承認された。ロシア、オーストリアに支配されていた国土を回復し、またドイツからはポーランド回廊を得た。独裁的な権力を得た国家主席ピウスツキは、さらに18世紀末のポーランド分割以前の領土の回復をめざして、1920年革命後で混乱しているロシア領に侵攻し、ソヴィエト=ポーランド戦争を起こした。ソヴィエト軍の反撃は一時ワルシャワまで迫ったが、フランスの援助で撃退して独立を維持。1921年のリガ条約で、ベラルーシとウクライナを獲得した。ピウスツキはいったん辞任するが1926年クーデタで権力を握り、以後1935年まで独裁者として君臨する。 → ドイツ軍のポーランド侵攻 ソ連の侵攻 ポーランド分割 戦後のポーランド | ||
a ピウスツキ | ポーランドの独立運動の指導者として活動し、第1次世界大戦後に独裁的権力を獲得した政治家。ユーゼフ=ピウスツキはロシアからの独立をめざしてツァーリ暗殺計画にかかわり、1887年から5年間のシベリア流刑を経験、1892年にはポーランド社会党に加わった。しかし社会主義の実現のために独立を目指すのではなく、独立を達成するために社会主義を利用し、労働者階級を味方にしよう、という考えであった。第1次世界大戦が勃発すると、ドイツ・オーストリアに協力して軍団を組織し、ロシアと戦ったが、ドイツがロシアを勝ってもポーランドの独立を意図していないことが判ると反ドイツに転じ、逮捕されてしまった。ロシア・ドイツの双方と戦う姿勢をみせたピウスツキは救国の英雄と目されるようになり、ロシア革命・ドイツの敗北という第1次世界大戦後の混乱の経て1918年11月にポーランドが独立したとき、国家主席兼総司令官に就任した。彼は18世紀末のポーランド分割以前のポーランドの領土の復活を目指し、ソヴィエトロシアとの戦争に踏み切り(ソヴィエト=ポーランド戦争)、それを勝利に導いたことによってさらに人気を獲得して独裁的な権力を獲得した。1923年、議会に権力を移譲して引退したが、議会が小党派が乱立して機能しない状況を見て、1926年クーデターによって再び権力を握り、国民投票で大統領となって以後、1935年の死去まで独裁権をふるった。 その独裁政治は同時期のムッソリーニ、ヒトラーに似ているが、議会制を完全に否定したわけではなく、また民族主義的な理念を押し出してもいないので、ファシズムとは区別されている。その体制はサナツィア体制といわれるが、サナツィアとは「浄化」という意味で、広範な国民的支持を背景にした権威主義体制という(同じような国家としてはホルティのハンガリー王国がある)。 Epi. 日本にやってきたピウスツキ ポーランドの独裁者ピウスツキは若いとき、日本に来たことがある。それは1904年、日露戦争の時だった。彼の来日目的はロシアに対する独立運動を有利にするためであり、彼自身つぎのように言っている。「わたしは、もし日本が武器と弾薬についての技術的援助を我々に与えてくれれば、そのときには情報活動の組織化に同意してもよいと即座に決心した。なぜなら、ロシアが行う戦争という大事件が、同国に何らの痕跡も残さないはずはないし、(外国)勢力の援助があれば、ポーランドの運命をかなり改善できるような状況が生じてくるだろうと予想したからである」。なおこのとき、ピウスツキに反対する親ロシア派の政治家も日本に来て運動している。日露戦争がヨーロッパ情勢とも密接に関係していた事例である。<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』1980 三省堂選書 p.121> | ||
2 ハンガリー(第一次大戦後) | オーストリア=ハンガリー帝国でのハンガリーは実質的にはオーストリア・ハプスブルク家の支配を受けていた。第一次大戦でオーストリアが敗北すると、1918年10月にハンガリー共和国として分離独立。翌1919年3月クン=ベラがロシアにならってソヴィエト政権の樹立を試みハンガリー革命を起こしハンガリー評議会共和国を樹立したが、国民的な支持が無く、フランスの支援を受けたルーマニア軍の干渉や反革命軍の蜂起によって同年8月に崩壊し、権力は反革命の国民軍司令官ホルティが掌握し、ハンガリー王国となる。同年9月サン=ジェルマン条約でオーストリアからの独立が承認され、1920年6月トリアノン条約でハンガリー王国として主権を回復するとともに周辺諸国に領土の3分の2を割譲した。ハンガリー王国は立憲君主国であるが「国王なき王国」となり、国王をおかないままホルティが摂政として実権を握りる。ホルティのハンガリー王国は1930年代、ドイツにナチスが台頭すると、領土回復の好機ととらえてドイツに近づき、枢軸国の一員となり、第2次世界大戦に参戦した。1944年に連合国と単独講和を探ったが失敗し、敗戦を迎える。 → 戦後のハンガリー Epi. 「国王なき王国」 ハンガリーは1918年10月から19年8月まで、わずか10ヶ月強の間に、オーストリア=ハンガリー帝国→ハンガリー共和国→ハンガリー評議会共和国(革命政権)→ハンガリー王国と4つの国家体制を経験したわけだ。ところが最後のハンガリー王国は、王国とは言いながら国王がいなかった。これは国内に、ハプスブルク家の国王カール4世(スイスに亡命中)を復活させようという動きと、それに反発してマジャール人の国王を立てようという動きが対立していたからだ。カール4世は復活を狙って運動していたが、ホルティはそれに反対で、結局カール4世の王位継承権を剥奪したが、マジャール人の王も適当なものが見つからず、結局ホルティが摂政のまま国家元首を務めるという異例の形になってしまった。 | ||
a ハンガリー革命 | 第1次世界大戦のオーストリア=ハンガリー帝国の敗北で、ハンガリーは分離独立、1918年にブルジョア政権であるハンガリー共和国が成立していたが、情勢は混乱していた。そのような中でクン=ベラらが中心となってハンガリー共産党を結成した。1919年、共和国政府のカーロイが協商国の圧力を受けて退陣、政権をクン=ベラの共産党に委ねた。クン=ベラはハンガリー評議会共和国を誕生させ、ロシア革命に倣った農地改革、企業の国有化に着手、反対した地主などとらえ処刑した。この混乱に乗じてフランスに支援されたルーマニア軍が首都ブダペストに侵攻、また南部には反革命を標榜するホルティ将軍を司令官とする国民軍が組織された。ホルティの率いる国民軍がブダペストに入り権力を奪取、クン=ベラの共産党政権は同年8月に倒れ、共産主義政権は133日で崩壊、ハンガリー革命は失敗に終わった。 | ||
クン=ベラ | 1919年のハンガリー革命を指導した共産主義者。ユダヤ系のハンガリー人(ハンガリーでは姓を先に言う。クンが姓、ベラが名)で、第1次世界大戦中にロシア軍に捕虜になり、二月革命で釈放され、ボリシェヴィズムに賛同し、大戦後にオーストリア=ハンガリー帝国が解体されて混乱しているハンガリーに戻り、ハンガリー共産党を結成した。1919年、退陣した政府に代わり政権を掌握して、社会主義革命を断行した。しかし8月、ホルティに指揮された反革命軍に首都ブダペストを選挙され、クン=ベラも捕らえられて革命は失敗に終わった。クン=ベラはロシアに亡命し、コミンテルンで活動した後、30年代の粛清の嵐の中で処刑された。 | ||
b ホルティ | もとオーストリア=ハンガリー帝国の最後の海軍提督。マジャール人。1919年、ハンガリー革命に対し、反革命の国民軍を組織、8月に共産主義政権を打倒した。1920年ハンガリー王国国民議会により摂政に任命される。同年6月トリアノン条約に調印してハンガリーの主権を回復するとともに、革命派を徹底して弾圧。一方、ハプスブルク家(カール4世)の復位に反対し、ホルティは国王不在(「国王のいない王国」)の摂政として国家元首となった。ホルティは独裁的な権力を握ったが、共産党は活動は禁止されたがその他の政党は活動が認められ、議会政治が維持されており、言論の自由も一応守られていたので全体主義(ファシズム)国家とは言えず、ポーランドのピウスツキと同じく権威主義体制とされる。ホルティはナチスドイツの思想に共鳴したわけではないが、第2次世界大戦ではドイツに接近し枢軸国となった。大戦末期の44年に連合国との単独講和を図ったが失敗し、権力を奪われ、戦後はポルトガルに亡命した。 | ||
3 ユーゴスラヴィア王国 | 第一次世界大戦後の1918年に成立した国。当初は「セルブ=クロアート=スロヴェーン王国」と称し、1929年から「南スラブ」を意味するユーゴスラヴィア王国となった。南スラブ人を中心にした多民族国家であるとともに、北は旧ハプスブルク帝国領、南部は旧オスマン帝国領であったという歴史的環境の違いから、宗教・言語・文字も複雑に耕作する「モザイク国家」であった。この「第一のユーゴ」といわれるユーゴスラヴィア王国は1941年にドイツ軍など枢軸側に占領されて消滅し、第二次世界大戦後の1945年にティトーの指導する共産党勢力によって社会主義にもとづく連邦国家として「第二のユーゴ」であるユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国が建設された。しかし民族対立が強まり、91年から連邦が解体し始め、現在は存在していない。 南スラブ人国家の成立:1878年ベルリン条約でオスマン帝国(トルコ)からの独立が認められたセルビア、モンテネグロに、1908年以来オーストリア帝国領となっていたボスニア・ヘルツェゴヴィナとクロアチア、スロヴェニアが加わり、第一次世界大戦後の1918年のサン=ジェルマン条約で「セルブ=クロアート=スロヴェーン王国」として独立。1929年に「ユーゴスラヴィア王国」(南スラブ人の国、という意味)となる。 地域対立のはじまり:第一次世界大戦後の「民族自決」の大きな潮流から生まれた国家だったが、「南スラブ人」を一個の「民族」ととらえるのには無理があった。特に北部のスロヴェニア、クロアチアと南部のセルビア、モンテネグロ、マケドニアは、前者が工業地域で比較的豊かであるのに対して後者は農村地域で貧しく、また前者は旧派プルブルク帝国領で西欧に近く、宗教はカトリックで文字はラテン文字を使用するのに対し、後者は旧オスマン帝国領でギリシア正教が有力な中にイスラーム教が混在し、文字もキリル文字が一般的であるという違いがあった。 ユーゴスラヴィア王国:国王となった旧セルビア王国のアレクサンダルは国家統合を強めるため、1929年に国号をユーゴスラヴィア王国と改めたが、クロアチアでは南部主導の統合には反発し、緩やかな連邦制を主張した。1930年代にはクロアチア地域でクロアチア人国家の独立を叫ぶファシスト集団であるウスタシャが生まれ、セルビア人を殺害したりし始め、セルビア人側はチュトニクという自衛組織をつくり衝突が繰り返された。34年10月にはパリ訪問中の国王がウスタシャによって暗殺されてしまった。このような不安定な民族対立はナチスドイツがつけいるスキをつくることとなり、第二次世界大戦でのユーゴスラヴィア王国はドイツ・イタリアの侵攻を受けて、国王が亡命して王国は滅び、枢軸国に占領された。→ 第2次世界大戦後のユーゴスラヴィア <柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波新書 などを参照> | ||
a セルブ=クロアート=スロヴェーン王国 | 第一次世界大戦後、1918年12月に、「セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人の王国」としてオーストリアから独立を宣言。第一次世界大戦後の連合国とオーストリアの講和条約である1919年のサン=ジェルマン条約で独立を認められ、さらに1920年の連合国とハンガリー王国の講和条約であるトリアノン条約で、クロアチア・スロヴェニア・ボスニアの領有を認められた。第一次世界大戦でオーストリア(ハプスブルク)帝国が解体したのを受け、すでに独立していた(1878年のベルリン条約で)セルビア王国、モンテネグロ王国に加えて、旧帝国内のスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナなど南スラブ系民族の居住地域が入り、セルビア王国の摂政アレクサンダル公を国王として成立した。こうして南スラブ人の統合を実現したので、1929年に「南スラブ人の国」を意味する「ユーゴスラヴィア王国」に改称された。 | ||
4 チェコスロヴァキア共和国(独立) | チェコ(ボヘミア)とスロヴァキアは長くハプスブルク家領としてオーストリア=ハンガリー帝国に支配されていた。プラハ大学の哲学教授であったマサリクはチェク人の独立を求めて活動しており、第1次世界大戦中はパリに亡命しチェコ国民会議を組織していた。1918年オーストリアが敗北すると、ウィルソンの民族自決の原則に従って連合国によってチェコスロヴァキア共和国政府と認められた。1919年のサン=ジェルマン条約でその独立が国際的に承認されたこの共和国を「第一共和国」ともいう。1920年に新憲法を制定、初代大統領にマサリクを選出した。このとき、チェク人とスロヴァキア人が合同して新国家を作ったが、政治や経済の面では先進地域であるチェコが主導権を握っていた。スロヴァキアは農業地域であったので従属的な地位に甘んじなければならなかった。人種的には同じスラブ系でほとんど違いのない両者であるが、次第に対抗意識を持つようになり、ヒトラーがその対立を利用して介入してくることになる。マサリクは1935年に引退し、盟友のベネシュが大統領となった。1838年にオーストリアを併合したヒトラーのナチス・ドイツは、同年チェコの一地方であるズデーテン地方にドイツ系住民が多数を占めることを理由に、その地方の割譲をチェコ政府に迫った。この問題でミュンヘン会議が開催されることとなったが、チェコ政府のベネシュは参加が認められなかった。チェコ政府は英仏がドイツの要求を拒否することに期待をつないだが、宥和政策を採るイギリスのネヴィル=チェンバレン首相はドイツの要求をのみ、ズデーテン割譲を認めてしまい、チェコスロヴァキア解体の第一歩がはじまることとなった。 → 第2次世界戦後のチェコスロヴァキア チェコ事件 1989年のチェコスロバキア | ||
a マサリク | チェコ人の哲学教授で、チェコスロヴァキア共和国の初代大統領(1920〜35年)。オーストリア=ハンガリー帝国からの独立運動を早くから指導し、イギリス・アメリカで民族独立を訴え、第1次世界戦後に実現させ、初代大統領となったので、チェコスロヴァキア建国の父と言われている。マサリクの次はベネシュが継承した。 | ||
b ルーマニア(第一次大戦後) | ルーマニア王国は第2次バルカン戦争でセルビア・ギリシア側についてブルガリアと戦い、南ドブルジャを獲得した。第1次世界大戦では当初中立を表明したが、両陣営から戦後の領土拡張をえさに盛んに勧誘を受け、結局は1916年8月に協商側に参戦した。ドイツ、オーストリア=ハンガリーとブルガリア、トルコ軍に南北を挟まれ苦戦が続き、さらにロシア革命によってロシアが戦線を離脱したため、いったん講和に応じざるを得なかった。18年秋に戦況が逆転したため再び協商側に参戦、戦後の講和会議には戦勝国として参加できた。その結果、ルーマニアはハンガリー王国からトランシルヴァニアを獲得(トリアノン条約)し、ロシアからはベッサラビア(現在のモルドバ)などに領土を拡大し、面積では13万7千平方kmから29万4千平方km、人口では763万から1550万人へと一挙に倍増し、「大ルーマニア王国」を実現させた。 → 第2次世界大戦でのルーマニア | ||
c ブルガリア(第一次大戦後) | ブルガリア王国は、バルカン半島における第2次バルカン戦争の結果、セルビア・ギリシアなどとの対立から、オーストリア=ハンガリー帝国との提携を強め、第1次世界大戦への参戦し、同盟国側として戦ったが敗れてヌイイ条約で領土を縮小させた。1919年の総選挙で農民同盟が第1党となり、その指導者スタンボリースキが首相となったが、23年に反対派のクーデターによって暗殺されてしまった。その後も政情不安が続き、1935年からはボリス3世国王による独裁政治が始まる。そのもとで、非合法とされていたブルガリア共産党が、コミンテルン書記長のディミトロフの指導で「人民戦線」の結成を目指した。 第2次世界大戦が勃発すると、ボリス3世は当初は中立をかかげた、1941年に三国同盟に加入し、ドイツ軍を国内に導入、ドイツに協力して2万人のユダヤ人の追放を約束した。それに対して労働者党(共産党が38年に改称)を中心とするパルチザン闘争が行われ、対独協力を妨害した。ボリス3世は43年8月、ヒトラーを訪問した帰りに急死し6歳のシメオンが国王となった。44年9月5日、ソ連はブルガリアに宣戦布告、8日に領内に進撃した。翌9日、首都ソフィアでパルチザンと祖国戦線が権力を掌握した。 → ブルガリア(戦後) | ||
イタリア(第一次大戦後) | |||
A ファシスト党 | |||
a ムッソリーニ | イタリアのファシズム指導者。1919年にファシスト党を組織してその党首となり、1922年には黒シャツに身を包んだファシスト党員を指揮してローマ進軍を強行、権力を奪取し、ファシスト大評議会を作って最も早くファシズム政権を樹立した。その後フィウメ併合やアルバニア保護国化などを実現して勢力を拡大した。1929年にはローマ教皇とラテラン条約を締結してヴァチカン市国を承認し、ローマ=カトリック教会との関係を修復した。1929年の世界恐慌によってイタリア経済も大きな打撃を受け、ムッソリーニはエチオピア侵攻を実行して国民の目をそらそうとし、またドイツのヒトラー・ナチスとも提携するようになった。両者は1935年にベルリン=ローマ枢軸を結成、37年には日独防共協定に参加した。ドイツがポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始まると、初めは中立の立場をとっていたが、ドイツの優勢が明らかになった40年6月に参戦した。 | ||
b イタリア社会党 | |||
c 北イタリアのストライキ | |||
d 全体主義 | |||
B ローマ進軍 | |||
a ファシズム政権 | |||
b ファシズム大評議会 | |||
c 一党独裁体制 | |||
d フィウメ | → フィウメ | ||
e アルバニア(2) | アルバニアはイタリアの南端とオトラント海峡をはさんで位置するバルカン半島南西部の国。1912年の第1次バルカン戦争後に独立し王政となったが、第2次世界大戦の勃発で周辺諸国が勢力を伸ばし、無政府状態に陥った。1916年末にはオーストリア=ハンガリー帝国軍、イタリア軍、フランス軍に占領された。大戦後のパリ講和会議に代表を送り、国家再建を訴えたが、列強の思惑が対立して認められず、妥協の結果、19年12月にイタリアの委任統治領となった。それに対してアルバニア民衆が反発、20年3月に憲法制定と臨時政府を首都ティラナに樹立することを決定。イタリアもアルバニアの強い抵抗によってそれを認めて全面撤退し、12月にアルバニアは国際連盟加盟を認められ、領土保全も認められた。1922年、軍司令官アフメド=ゾグーが首相兼内相となり、権力を掌握。そのころ、フランスがユーゴスラヴィアに経済進出するのをみたイタリアはアルバニアへの経済援助を強める。ゾグーは国内の反対派を押さえて独裁政治をしき、28年には王政に移行させ、ゾグー1世となった。そのころから共産主義者による反ゾグー運動も活発になる。翌年の世界恐慌の影響で経済危機に陥ったアルバニアはイタリアのムッソリーニ政権からの財政援助に依存した。ドイツのチェコスロヴァキア占領を受けて、1939年4月、ムッソリーニも念願のアルバニア占領を実行した。これを機にドイツ・イタリア両国は提携を深め、同年5月、ドイツ=イタリア軍事同盟を締結した。国王ゾグーは国外に亡命し、イタリアのアルバニア占領は43年にドイツ軍にかわるまで続く。 → 第2次大戦後のアルバニア | ||
f ラテラン条約(ラテラノ条約) | 1929年、ローマ教皇(ピウス11世)とイタリア政府(ムッソリーニ政権)の間で締結された条約で、ローマ教皇を元首とするヴァチカン市国の成立とイタリアがカトリックを唯一の宗教とすることで合意し、1870年以来の両者の対立(ローマ問題)を解決した。なお、1984年に改正され、カトリックを唯一の宗教とする点は解消された。なお、ラテラン協定とも言う。ラテラン(ラテラノ)とはヴァチカン宮殿(教皇庁)の一つの部屋のこと。 「1870年ローマがイタリア軍に占領されて、法王はバチカンにたてこもってしまってから、いわゆるローマ問題は未解決のままおかれたが、1929年2月11日法王庁とイタリア政府との間で締結されたラテラノ条約によって、このローマ問題もやっと解決を見た。この条約は、バチカン市国の創立、およびコンコルダート(政教条約、学校・青少年運動・結婚などの政治と宗教とのいわゆる政教混合問題についての協定)という方法によって長年にわたるローマ問題(「神をイタリアに、イタリアを神に」というのが目標語)を解決し、法王庁の主権確保という目的を達成したものである。‥‥ラテラノ条約締結後「バチカン市国基本法」が公布され、その第1条において、「バチカン市国の主権者たる法王は、立法司法行政の全権を有す」と宣しているが、これは従来の事実に法的形式を与えたまでであって、‥‥ラテラノ条約は、いままで外からの圧力で十分な発揮を妨げられていた法王主権を、正常に発揮できるようにしたところに意義があったわけである。」<小林珍雄『法王庁』岩波新書 p.26-28> | ||
g ヴァチカン市国 ヴァチカン市国の国旗 | ヴァティカン、バチカンとも表記。1929年のローマ教皇庁とイタリア政府(ムッソリーニ政権)との間で締結されたラテラン条約によって成立した国家。ローマ市内のヴァチカンの丘にあるサン=ピエトロ大聖堂を中心とした一画で、面積0.44平方キロメートル、人口802人(2007年)の世界最小の国家。元首はローマ教皇(2005年4月24日即位の第265代法王ベネディクトゥス16世)。 ヴァチカン市国は国際連合には加盟していないが、カトリック全体の統治機構である教皇庁が、教皇聖座(Holy See)としてオブザーバー参加している。カトリック信者は全世界で10億を超えており、その代表としてのローマ教皇の国際政治での発言も大きな影響力をもっている。 Epi. ヴァチカンの衛兵 ヴァチカン市国には軍隊はないが、中世以来、ローマ教皇を守る衛兵がいる。彼らはスイス人が傭兵として雇われた中世以来の伝統を継承し、現在でもスイス人が衛兵を務めている。またヴァチカンのスイス人衛兵の征服は、ミケランジェロがデザインしたカラフルなものである。 | ||
iファシズム | ファシズムとは、20世紀前半の帝国主義時代に現れた国家体制の一類型で、独裁権力のもとで議会制民主主義が否定され、強力な軍事警察力によって国民の権利や自由が抑圧される国家体制を言う。全体主義ともいう。 ファシズムはイタリアのムッソリーニが1919年に結成したファシスト党がその最初であり、他に典型例としてはドイツのナチ党=国家(国民)社会主義労働者党、スペインのフランコ政権を支えたファランヘ党などがある。また一個の政党ではなく、軍部が権力を握り、政党を大政翼賛会として傘下に置いた日本型ファシズム(天皇制)国家もある。ファシズム国家のもとではナショナリズムが強調され、国家元首への敬礼や国旗や国歌への拝礼が強要され、国家利益が優先されて国民の人権や自由は奪われる。政治は議会や政党は否定されるか、あっても一党独裁のもとで形骸化して民主主義は行われなくなる。 ファシズムの語源:ムッソリーニの創設したファシスト党に始まるが、その言葉は古代ローマのファッショに由来する。ファッショは執政官(コンスル)の権威を示す一種の指揮棒のようなもので、小枝(棒)を束ねたもの。権力の象徴とされ、人民を「束ねる」意味があるところから、全体主義を意味する言葉として蘇った。そこから、ファシスト(全体主義者、国家主義者)、ファシズム(その主張)という用語が派生した。 ファシズム台頭の背景:第一次世界大戦後もさらに激しくなった列強の帝国主義の利害対立の中で、ドイツやイタリア、日本のような後発的ないわゆる「持たざる国」の中で、イギリス・フランス・アメリカという「持てる国」に対する世界再分割の要求の中で、軍事力による生存圏の拡張を図ろうとする風潮が生まれた。それを国内的に支持したのは、特に世界恐慌による経済不況に苦しめられた中間層の多数派であった。ファシズムは彼らの不満を背景に、旧来の伝統的権力を否定し、国民主体の社会にするという一種の革命幻想を振りまき、中間層を取り込んだ。また、国民を国家と一体化するために、ことさらに民族主義(ナショナリズム)を鼓吹し、民族的な優位を強調して、反面他民族や異民族に対して激しい敵意を隠さず、排除した。各国とも、資本家(財閥)や軍、教会などの保守勢力は当初はこのようなファシズムを危険視して警戒したが、次第に共産主義革命を抑える力として利用と姿勢を変え、容認し、提携するようになった。それがファシズムが権力を握った理由である。 | ||
オ.ソ連の社会主義建設 | |||
A スターリン政権 | スターリンは1922年にソ連共産党書記長となったが、まだ権力を握ったとは言えず、1924年のレーニンの死後、世界同時革命を主張するトロツキーに対して一国社会主義を掲げて路線を巡って争い、トロツキーを失脚させ、26〜27年には再度トロツキーやジノヴィエフらの反対運動を押さえて29年にはトロツキーを国外追放した。28〜29年には結党以来の理論家の一人であったブハーリンが農業政策を重視し、緩慢な工業化を主張してスターリンを批判したが、スターリンによって失脚させれた。1928年からは急速な工業化と集団化を柱とした第1次五カ年計画を立案してその指導に当たり、その実行過程で1929年には独裁的な権力を確立した。このスターリンによる社会主義化は「上からの革命」と言われ、強権的に実行された。その後、スターリン政権は30年代を通じて敵対者を粛清という名で抹殺し、独裁権力を手中に収め、個人崇拝が行われるに至る。 → スターリン体制 | ||
a レーニンの死 | レーニンは1924年、脳梗塞で死去したが、共産党の主導権をめぐって、スターリンとトロツキーの対立が激しくなった。そのいずれが「革命の父」レーニンの意志を継承するにふさわしいか、という争いであったが、レーニン自身がその二人をどう見ていたか、遺書に明確に示されていた。遺書は公開されず、結局スターリンが権力闘争に勝利し、その後のスターリン体制のもとでもレーニンの遺書は秘密にされ、1956年のフルシチョフによるスターリン批判の後にようやく公開された。その一部には次のようなことが書かれていた。 レーニンの遺書:「わたしは、この観点から見た安定性の問題で基本的なのは、スターリンやトロツキーのような中央委員であると考えている。彼らの相互関係が、わたしの考えでは、分裂の危険の大部分をつくりだしている。この分裂は避けることのできるものであるだろうし、それを避けるには、わたしの意見では、中央委員の人数を五〇人あるいは一〇〇人にまでふやすことが、とくに役だつにちがいない。 同志スターリンは、党書記長となったのち無限の権力を自分の手に集中したが、わたしには、彼がつねに十分慎重にこの権力を行使できるかどうかについては、確信がない。他方、同志トロツキーは、交通人民委員部の問題をめぐつての彼の中央委員会にたいする闘争がすでに証明したように、卓越した才能という点でぬきんでているだけではない。個人としては、彼はおそらく現在の中央委員会のなかでもっとも有能な人物であるが、しかしまた、あまりに自分を過信し、物事の純粋に行政的な側面に過度に熱中しやすい。 現在の中央委員会のこの二人の卓越した指導者のこのような二つの資質は、ふとしたことで分裂をもたらすことになりかねない。そして、もしわが党がそれを妨げる措置をとらないならば、分裂が不意におとずれることになるかもしれない。……」 また別な箇所では「スターリンはあまりにも粗暴である。そして、この欠点は、われわれ共産主義者の仲間うちや、交際のなかでは、十分がまんできるものではあるが、書記長の職務にあってはがまんできないものになる。だから、スターリンをこの地位から更迭し、ただ一つの長所によってほかのあらゆる点で同志スターリンとは異なるべつの人物、すなわち、もっと辛抱強く、もっと誠実で、もっとていねいで、同志にたいしもっと親切で、彼ほど気まぐれでない、等々の人物をこの地位に任命する方法を熟考することを、わたしは同志諸君に提案するのである。」と述べている。<松田道雄編『ドキュメント現代史1 ロシア革命』平凡社> | ||
b スターリン Stalin 1879-1953 | 1879〜1953。スターリンは筆名で本名はシュガシビリ。カフカス地方のグルジア生まれ。社会主義運動に参加し1902年以降、流刑・脱獄を繰り返す。1912年からボリシェヴィキに加わり、機関誌プラウダの編集に当たる。革命後は民族人民委員となり、さらに1922年にロシア共産党書記長となる。1924年レーニンの死後、共産党の主導権をめぐってトロツキーと対立、一国社会主義論を党の公式見解にすることに成功してトロツキーを排除、さらにジノヴィエフ、ブハーリンなど有力な党員を退けて1929年に党権力を握り、スターリン政権をつくった。1929年(資本主義圏では世界恐慌が始まった年)から第1次五カ年計画、第2次五カ年計画を推進して、工業化と農業の集団化を実現させ、その成功を背景に強力なスターリン体制と言われる独裁的な権力を振るうようになり、1930年代半ばから個人崇拝がはじまり、反対派に対する激しい粛清が展開され、1936年のスターリン憲法の制定で独裁体制を完成させた。その権威はコミンテルンを通じて各国の共産党にも及び、大きな影響があった。ドイツ、イタリアにファシズムが台頭すると、1935年にはコミンテルン第7回大会で方針を「反ファシズム統一戦線」路線に変更し、イギリス・フランスとも接近したが、イギリスの対ナチス宥和政策に反発し、1939年独ソ不可侵条約を結び世界を驚かせた。第2次世界大戦が始まり、41年ドイツの一方的な破棄によって独ソ戦争に突入、アメリカ・イギリスとともにファシズムと戦い、大戦の終結と戦後世界の動きに大きな影響を与えた。戦後もスターリン独裁政治を継続、他の社会主義種国への介入を強めながら西側陣営との厳しい対決の時代を迎える中、1953年に死去した。その死後の1956年、ソ連共産党第20回大会で、フルシチョフ第一書記によって「スターリン批判」が行われる。 | ||
c 一国社会主義論 | スターリンの一国社会主義論とは、彼自身の説明に拠れば次のような意味である。1924年4月の『レーニン主義の基礎について』初版では、 「これまでは、一国における革命の勝利は不可能だとみなされ、ブルジョアジーに対して勝利するためには、すべての先進国、あるいはすくなくとも大多数の先進国のプロレタリアがいっしょに立ちあがることが必要だと考えられていた。現在では、この見地はもはや実際とは合致しなくなっている。現在では、このような勝利が可能であるということから出発しなければならない。なぜなら、帝国主義の情勢のもとでの各資本主義国家の発展の不均等で飛躍的な性質、不可避的な戦争にみちびく帝国主義内部の破局的な矛盾の発展、世界のすべての国における革命運動の成長 これはみな、個々の国におけるプロレタリアートの勝利が、可能であるばかりでなく、必然的でもあるという結果をもたらすからである。ロシア革命の歴史は、それを直接証明している。」としている。「一国でも革命は可能である」というこの部分に続いて、「しかし社会主義建設は一国では不可能」と述べていたが、10月に出された再版では、 「一国内でブルジョアジーの権力を打倒し、プロレタリアートの権力を樹立することは、まだ、社会主義の完全な勝利を保証することを意味しない。自分の権力をかため、農民を指導することによって、勝利した国のプロレタリアートは、社会主義社会の建設を完成することができるし、また完成しなければならない。」と述べ、一国でも革命のみならず、社会主義社会建設も可能である、と訂正された。<菊池昌典『歴史としてのスターリン時代』 による> | ||
d トロツキー | → 第15章 一節 トロツキー | ||
e 世界革命(永久革命)論 | マルクス主義の考え方では当初、社会主義革命は資本主義が高度に発展する中でそれ自身の中に矛盾が生じ、自覚したプロレタリアが革命を起こして順次社会主義社会を建設していくと言うものであったが、ロシアという十分に資本主義が生育していない「後進的」な地域で革命が成功したことを受けて、ロシアのような後進地域での社会主義は維持できないから、他の「先進的」諸国も含む「世界革命」を同時に展開し、世界全体が社会主義化するまで「永久革命」を継続すべきである、という考え方が生まれた。それをもっとも先鋭な形で主張したのはトロツキーであったが、レーニンも当初はそれに同調しており、「コミンテルン」運動もその理念に基づいていた。この考えでは、スターリンの一国社会主義論とは相容れないものであったが、レーニン死後、権力闘争でトロツキーが敗れ、スターリン独裁体制が出来上がると、ソ連共産党および各国の共産党の主流的な勢力からはこの「永久革命論」(または「世界革命論」)は極左的な空論として否定され、それを主張する人々はトロツキストとして排除されることとなった。 | ||
B 第1次5ヶ年計画 | 1928年から1932年の間、ソ連のスターリンの指導で実施された、急激な重工業かと農村集団化を柱とした、社会主義国家建設計画。スターリンは一国社会主義論を掲げて敵対する勢力を排除し、それまでの新経済政策(NEP)を否定し、社会主義経済建設をめざして立案した。産業の基本部門である鉄鉱・機械・石炭などの重工業の建設と、生産向上のための農業の集団化の推進が柱であった。計画目標は、全工業生産高の250%増、重工業は330%増、そして農業生産は150%増、農地の20%の集団化、という途方もないものであった。工業建設、農業集団化は猛烈なスピードで進み、1932年までにソ連を先進資本主義諸国と並ぶ工業国に仕上げ、集団化による農業生産を安定させた。当時アメリカ・イギリスなど資本主義国は、世界恐慌のただ中にあったが、社会主義経済体制をとったソ連はそれに巻き込まれることがなかった。その成功を足場にスターリンは独裁的な権力を獲得した。 しかし、農業集団化は富農(クラークという)の土地没収にとどまらず、小農経営も制限されたため多くの農民が反対したが強権的に進められ、反対する農村は村ごと移住させられるような状況であった。そのため生産力は減退し、多くの餓死者が出るというのが実態であったが、ソ連の官制の歴史では「五カ年計画の偉大な成功」によってソ連は「発達した社会主義」の段階に達したという評価が行われた。 なお、5ヵ年計画はその後も継続され、ソ連では第6次まで実施された後、61年からは7年計画に改められ、ソ連崩壊まで続いた。中国でもソ連の5ヵ年計画にならって、1953年から57年の第1次から2006年の第11次まで続いている。 ソ連の第2次五カ年計画 中国の第1次五カ年計画 | ||
a 重工業化 | |||
b 集団化と機械化 | |||
c コルホーズ | コルホーズ(集団農場)……農民が生産手段をプールし収穫を分配する協同組合組織。三種がある。 ・コンムーナ(コミューン)……一切の道具および家畜は成員の共有。共同家屋に住む。 ・トズ……農民は小さな土地・家畜・道具を所有して共同作業を営む一種の生産協同組合。 ・アルテリ……コンムーナとトズの中間。農民は自分の家畜と小さな菜園を所有する。菜園でとれた作物は自家用にしあるいは市場へ売る。 コルホーズの最も一般的形態はアルテリで、1933年までに全集団農場の96%がアルテリであった。アルテリは国家に従属している。国家の出先機関のMTC(機械・トラクター・ステーション)が個々の農家ではなく、アルテリと契約し、農業機械を提供する。収穫はまず国家に引き渡し、次にMTCに支払い、最後に残ったものを個々の世帯が分配した。 | ||
d ソフォーズ | ソフホーズ(国営農場)……ソヴィエト政府の完全な財産。土地と生産用具は国営で、農民は雇用労働者として給与を支給される。 | ||
カ.アメリカ合衆国の繁栄 | |||
A 大戦後のアメリカ | → 第15章1節 アメリカの繁栄 | ||
a 債務国 | アメリカは第1次世界大戦に際してイギリス・フランスに武器・弾薬を供給して巨富を得、戦後の復興に当たっても巨額の支援をこない、債権国となった。また、ドイツの賠償金支払いも1924年のドーズ案以後はアメリカが資金を提供することとなり、アメリカ経済が世界を支配する構図が出来上がった。 | ||
b 債権国 | 1914年から1985年まで、アメリカ合衆国は債権国(債権=外国への貸し金が債務=外国からの借金を上回ること)であった。19世紀末の1894年にイギリスを抜いて、世界第一位の工業生産国となったアメリカ合衆国は、第1次世界大戦では当初、中立政策を維持したが、実際にはイギリス・フランス・ロシアの三国協商側と深い貿易関係にあり、1900年〜13年の間に国際貿易総額は倍増した。特に、輸出の大半はイギリスに対してであった。またイギリス・フランスに対する債権が増加し、1914年ですでに債権が債務を上回り、債権国となった。債権国アメリカは第1次、第2次世界大戦を通じて維持され、特に戦後はアメリカ経済が世界経済を支える状態となった。しかし、60年代のベトナム戦争や社会保障費の増大などによる財政難から、急速に財政が悪化し、レーガン大統領の1985年にアメリカは債務国に転落することとなる。 | ||
B 1920年代の繁栄 | 「1920年代、アメリカの国民総生産は年5%以上成長し続け、インフレはほとんど無く、ひとりあたりの所得は30%以上増えた。こうした経済の拡大をもたらしたのは、科学技術と産業が有機的に結合し、これを政府が支持する「現代アメリカ」のシステムであった。」<有賀夏紀『アメリカの20世紀』上 2002 中公新書> | ||
a 女性参政権 | 婦人参政権獲得運動の全国組織が結成され、1869年には初めて婦人参政権を与えるよう憲法を改正する提案がなされた。婦人達はまもなく首府だけに座していては勝利は得られないと気づき、エリザベス・キャディ・スタントンなどの指導者は各州で婦人参政権を獲得しようという困難な道を選んだ。しかし、帝国主義熱がたかまり、遠方の属領の「われらの褐色の兄弟たち」に自由の恵みを与えようとする興奮がみなぎっていた時期には、その運動は進展しなかった。しかし、その好戦的な爆発が魅力を失ってくると、婦人参政運動は急速に成功を納め、1910年ワシントン、11年カリフォルニア、12年オレゴン、カンザス、アリゾナ‥‥とひろがった。男女平等の選挙権が認められた諸州でアリス・ポールとルーシー・バーンズの指導する運動は憲法修正に賛成する候補者を選び、共和党が賛成し、断固反対してきたウィルソン大統領も18年議会に憲法改正を発議し、19年可決、20年に発効した。<ビーアド『新編アメリカ合衆国史』P.378-380> | ||
b 共和党(1920年代) | 1920年代の繁栄の時代は、次の共和党の大統領が3代続いた。 ハーディング:在任1921〜23 ワシントン会議を提唱して協調外交では功績を挙げたが、内政では汚職が多発したり、自身の女性スキャンダルもあって低迷した。任期途中に死去し、副大統領のクーリッジが昇格した。 クーリッジ:在職1923〜29 無口で愛想が悪く「何もしない大統領」と言われたが、未曾有の経済の繁栄はその自由放任主義がちょうどよかった。外交面では国務大臣ケロッグが活躍して、1928年に不戦条約を成立させた。 フーヴァー:在任1929〜33 商務長官として企業や高額所得者への税制優遇など企業よりの政策を推進し、1929年「永遠の繁栄」を謳歌するアメリカの大統領として当選したが、直後に大恐慌が始まる。それにたいしては彼は政府は経済になるべく介入しない方がいいという信念から、対策を立てなかった。 | ||
c ハーディング | → ハーディング | ||
d クーリッジ | カルヴィン=クーリッジ Calvin Coolidge は、アメリカ合衆国第30代大統領で共和党。1923年、ハーディング大統領の急死によって副大統領から昇格し、翌24年に大統領選挙で当選し、1929年まで務める。彼の時代はアメリカ合衆国経済の好況が続いた1920年代の繁栄の頂点であった。クーリッジは、「アメリカ人の本業(ビジネス)はビジネスである」と宣言し、さらに「この国はビジネスの国であり、・・・ビジネスのための政府を求めている」として、連邦政府はビジネスのじゃまをしないこと、みずからその規模を縮小すること、公共支出を緊縮して民間企業を圧迫しないことにと務めた。(まさに「民間で出来ることは民間に」と言って郵政民営化、規制緩和をすすめた日本の某内閣と同じことを言っている。)したがってその政策は、減税(しかも企業や高額所得者に対する所得税の減税)を進めることを主眼とし、それ以外は「何もしない大統領」と言われた。たしかにそれは20年代のアメリカの自由放任による経済の活況をもたらしたが、そのひずみが世界恐慌をもたらす原因となった。 → フーヴァー大統領 Epi. ”だんまりのカル”:「彼は、毎日昼食前に居眠りをし、食後には少しうとうととした後、夕食前には数分横になり、夕食後盛装のまま座っていることはわずかで、さっさとベットにひきあげた。・・・家庭では冗談と悪ふざけの好きだったクーリッジは、大統領としては沈黙という護身術を身につけていた。人の話を聞いてもただ黙っていれば、この世で起きる面倒なことの五分の四は解決されると彼は信じていた。人々の好んだジョークは、ある女性がクーリッジに二語以上しゃべらせてみせるという賭をしたというのを聞いたとき、クーリッジが「あんたの、負け」と言ったというものだった。人々はこの大統領を”だんまりのカル”とあだ名した。」<林敏彦『大恐慌のアメリカ』1988 岩波新書 p.40-41> | ||
e フーヴァー | → フーヴァー | ||
f ”永遠の繁栄” | 1929年春、大統領に就任したフーヴァーは「永遠の繁栄」を国民に約束したが、その年の秋には世界恐慌に見舞われることとなる。 | ||
g 大量生産、大量消費 | アメリカ合衆国の1920年代の経済成長の中で、大量生産・大量消費が行われ、アメリカ人は物質的な豊かさを経験した。それを牽引したのが自動車産業であり、フォード社のT型モデルがベルトコンベアシステムで大量生産され、価格の低下によって一般大衆が購入できるようになった。同時に関連した石油産業が急速に成長し、道路建設やタイヤ産業も興った。また月賦販売が一般化して、セールスマンが花形職業として脚光を浴び、宣伝業も一大市場となった。 | ||
h フォード | ヘンリー・フォード(1863〜1947)はミシガンの農民出身で出稼ぎに出て、1896年にガソリン−エンジンで走る自動車の試作に成功、1903年にフォード自動車会社を設立。フレデリック=テイラーが理論づけたベルトコンベアによる流れ作業によって生産性を向上させる「テイラー・システム」を他に先駆けて導入し、1920年代に自動車の大量生産に成功した。そのフォードTモデルは1925年には285ドルまで価格を下げることが出来、平均年収1200ドルの労働者や、2000ドルのホワイトカラーが買える値段となった。彼はまた購買力を高めるためには労働者の賃金を上げる必要があると考え、賃金を世界最高水準に引き上げた。この自動車産業の成功は1920年代のアメリカ経済に大きな刺激となり、関連する道路の建設、鉄鋼・ガラス・ゴム・石油などの製造業、さらにガソリンスタンド・モーテル・レストランなどのサービス産業を呼び起こし、郊外への住宅の拡大をもたらした。<有賀夏紀『アメリカの20世紀』上 中公新書などによる> | ||
i 大衆文化 | 映画は1913年からハリウッドで制作されるようになり、20年代にはルドルフ=ヴァレンチノやチャーリー=チャップリンが人気を博した。蓄音機とレコードは1917年から大衆化し一般家庭に普及した。1920年にラジオ放送が始まり、映画・レコード・ラジオという新しいメディアが20年代に急速に普及した。音楽ではニューオリンズにはじまった黒人音楽ジャズが、シカゴ・カンサスシティ・ニューヨークなどで都会的に洗練され、ルイ・アームストロングやデューク・エリントンなどのスターが出現し、白人の作曲家ジョージ=ガーシュインは1924年にジャズを取り入れた「ラプソディ・イン・ブルー」を作曲した。 自動車・電話・洗濯機・掃除機・ミシンなどが中流以上の家庭で一般化し、「大量消費社会」が出現し、広告業が新たな業種として成立した。 このような1920年代は、「狂乱の20年代」「ジャズ・エイジ」「ローリング・トゥエンティー」などと言われた。その間の出来事をひろってみると……<常盤新平『アメリカン・ジャズ・エイジ』より>。 1927年5月 リンドバークが単身飛行機で大西洋横断に成功。”翼よあれがパリの灯だ” 〃 6月 サッコ・ヴァンゼッティ事件 イタリア移民のアナキストの二人が強盗殺人犯として死刑となる。移民への偏見と問題になる。 〃 9月 ボクシング・ヘビー級タイトルマッチ、タニー対デンプシー。タニーが逆転ノックアウト勝利。ラジオで中継され、10人が心臓麻痺で死ぬ。 〃 10月 ニューヨーク・ヤンキースのベーブ=ルースが60本のホームラン。ヤンキース勝率7割で優勝。 1929年2月 シカゴで聖バレンタインデーの虐殺。カポネの手下が警官に扮装し、対抗する一味7名をマシンガンで殺害する。 | ||
j ラジオ | アメリカ合衆国で、1920年のピッツバークでラジオ局の放送が開始され、20年代に新しい情報・娯楽器具として急速に普及した。 「最初のラジオ局は、イースト・ピッツバークに1920年11月2日(この日付はいずれ子どもたちが学校で習わねばならなくなるだろう)、ハーディングとコックスの大統領選挙の開票速報を伝えるために開局した。ウェスティウングハウス電機会社が経営するKDKA局がこれである。しかし、このコミュニケーションと大衆娯楽の新革命は、しばらくのあいだは、ゆっくりとしか進行しなかった。聴取者はほとんどいなかった。アマチュア無線家は彼らの重要な仕事(無線交信)の邪魔になるという理由で、ウェスティングハウス局の音楽放送 −ほとんどはレコード音楽− に反対を唱えた。そこでレコードのかわりに本もののオーケストラを使ってみると、演奏は部屋の反響によって音響効果がめちゃくちゃになった。オーケストラを戸外 −屋上にテントを張ったなかで演奏させたところ、今度はテントが吹き飛んだ。そこで、次にはテントを広い部屋のなかに張ってみた。後にどこのスタジオでも当たり前になったが、壁に布を垂らすことで音を適当に吸収させることが発見されたのは、ようやくこの時である。・・・・・・1921年から22年にかけての冬− 人びとはラジオについて一挙に覚醒した。人びとはもう無線電話ではなくて、ラジオについて語り合っていた。当時、サンフランシスコのある新聞は、数百万の人びとが何気なくやっているこの新発見についてこう書いた。”毎晩、どこでも、ラジオの音楽放送が聞こえるようになった。一時間もあれば子どもでさえも据え付けられる受信セットで、誰でもが家庭で音楽を楽しむことができる”。2月にはハーディング大統領も書斎に受信機を取り付けさせた。・・・・」<F.L.アレン/藤久ミネ訳『オンリー・イエスタディ』1932 ちくま文庫 p.111-113> | ||
k WASP | WASP(ワスプ)とは、White, Angro-Saxon, Protestant の略称で、白人でアングロ=サクソン系でプロテスタント信者であること。アメリカ合衆国建国の主体となったイギリスからやってきた人びとの子孫であり、中・上層階級を形成している人びとを言う。イギリス系および北欧系はWASPとしてアメリカ社会で多数を占めていたが、南北戦争後は南部のアフリカ系アメリカ人も次第に増加し、さらに20世紀初頭からは、非WASP、つまりイタリアや東欧からの移民が増加した。これらの新移民はカトリックであることから異なった文化を持ち、独自の社会を形作っていった。第1次世界大戦を境として、次第にWASPと非WASPの間の対立が表面化し、1924年の移民法制定へとなっていく。 | ||
l 禁酒法 | 1920年代にアメリカ合衆国で制定された、酒類の製造販売を禁止、規制する法律。第1次世界大戦後の未曾有の20年代の経済繁栄の中で高まったアメリカの精神主義の高まりを示すものいえる。アメリカにおける禁酒運動(temperance movement)は20世紀に急速に活発になった。背景には当時増え続けた移民によって大陸から日常的に飲酒する下層民が増えたことに対してアメリカのキリスト教道徳を守ろうという保守派の動き、第1次世界大戦への参戦を機に物資節約・生産性向上の声が強くなったことなどがあげられる。1915年頃から州法で禁酒を規定するところが増え、1917年12月禁酒をうたった憲法修正が成立、1919年1月に禁酒法(Prohibition
Law)が確定公布された。しかし、飲酒を完全に撲滅することは難しく、秘密の酒場が繁昌し、密造酒が高額で売買された。そこに目を付けたギャング−その首領がシカゴのアル=カポネ−が大儲けすることとなった。禁酒法は1920年代を通じて施行されたが、反禁酒法の議論も根強く、ようやくフランクリン=ローズヴェルト大統領就任直後の1933年12月に廃止される。 なぜ禁酒法が成立したか:以下はF.L.アレンのすぐれた1920年代論である『オンリー・イエスタディ』からの引用である。 「どうしてこんなことになってしまったのか?このようにきわめて重大な法令を、なぜこのように圧倒的に、まるできまぐれのように受け容れたのだろうか。・・・・合衆国の大戦参加は、禁酒指導者に大きなチャンスを与えることになった。完全禁酒プログラムには反対していたはずの人びとの注意は戦争に奪われ、国家存亡の危機に際しては、アルコールの将来などは些細なことだと考えられた。また戦争は、連邦政府に新たに広汎を権力を与える思いきった法律制定に、国民を馴らしてしまった。食糧の節約が必要となり、穀物節約の手段として、政府は愛国主義者たちに禁酒を奨励することになった。政府は、世論をすべてドイツ反対に変えた。 − しかも、大きなビール醸造業者や蒸溜酒製造業者の多くはドイツ系であった。憲法修正第十八条はその自然な表現だが、戦争はまたスパルタ式理想主義のムードをもたらした。すべてのものが能率と生産と健康のために犠牲にされた。しらふの兵士が良い兵士であり、しらふの工員が生産能率の良い工員であるならば、禁酒論議は、さしあたり反駁の余地のないものだった。一方、アメリカ国民はユートピア的な理想を抱いていた。もしこの戦争がすべての戦争を終わらせるものであり、勝利が新たな輝かしい世界秩序をもたらすことを可能にすると考えるならば、アメリカが、この効果的な禁酒を無限に続ける時代に入っていくことを想像するのは、いかにも容易であった。そして結局、戦争は国民を、即座に結果があらわれないと苛立つように変えてしまった。一九一七年と一八年には、やる価値のあるものは何でも、官僚式手続きや反論や快不快や便不便を無視して、即刻やる価値がある、ということになってしまった。こうした諸勢力の結合は、抵抗し得ないものだった。国民は熱病にかかったように、息せききって、禁酒のユートピアへの近道を選んだ。」<F.L.アレン/藤久ミネ訳『オンリー・イエスタディ』1932 ちくま文庫 p.328-330> Epi. アル・カポネと聖ヴァレンタインの虐殺:1920年、シカゴの顔役ジョニー・トリオは闇酒の販売が大した金になることに気づいた。販売権を独占するために突撃隊の副官をさがした。目を付けたのがニューヨークの悪名高いファイヴ・ポインツ地区のギャングでナポリ生まれの23歳の暴れん坊、アルフォンス・カポネだった。カポネは3年で700人の子分を持つほどに力を付け、親分のトリオは影が薄くなってしまった。カポネはシカゴの市長や警察を抱き込み、賭場と闇酒場を支配した。その有力な競争相手の一人が昼は花屋、夜はギャングの二役を演じていたディオン・オバニオンであった。カポネの一味はギャング兼花屋のこの男にその店先で6発の弾丸を撃ち込んだ。その残党がカポネの本拠を襲撃、彼は危うく難を逃れた。1929年の聖ヴァレンタイン・ディ2月14日、オバニオン一家の残党が略奪した密造酒の引き渡しにとある倉庫で待っていると、そこにキャデラックで乗り付けた3人の警官が、オバニオン1家の7人を壁に並ばせた。続いて降りてきた平服の2人がサブマシンガンを乱射して7人を射殺、5人は平然と車で逃走した。32歳のカポネはこうしてシカゴに君臨し、酒の密売、賭博、恐喝その他の違法な利益をあげた。<F.L.アレン/藤久ミネ訳『オンリー・イエスタディ』1932 ちくま文庫 p.343-356> | ||
m サッコ=ヴァンゼッティ事件 | 1920年4月15日、ボストンの南方のサウス・ブレイントリーで強盗殺人事件がおこり、その容疑者として製靴工場の職人ニコラ=サッコと魚の行商人バルトロメオ=ヴァンゼッティが逮捕された。マサチューセッツ州裁判所判事ウェブスター=セイヤーは、二人が恐るべき「赤」、しかも法秩序の破壊を主張するアナーキストであるから、それだけで罰せられるに値する、という予断で裁判を進行させ、有罪を判決。1927年までに救済運動も展開されたが、州知事が裁判に誤りがなかった事を声明、処刑が行われた。現在の調査では、サッコは有罪、ヴァンゼッティは無罪というのが有力である。 <常盤新平『アメリカン・ジャズ・エイジ』p.214-240> 参考 映画『死刑台のメロディー』 1970年製作のイタリア映画。監督・脚本はジュリアーノ=モンタルド。主演はジャン・マリア・ボロンテ(ヴァンゼッティ)とリカルド・クッチョーラ(サッコ)。サッコ=ヴァンゼッティ事件を発端から処刑まで、正確に検証して映画化した。1920年代のアメリカ、狂乱の経済繁栄の裏で、無残にも誤審によって処刑されていくイタリア系移民。その非常な裁判と、20年代のアメリカの真実が描かれている映画である。 | ||
o 移民法 | 第1次世界大戦後、アメリカでは国際連盟への不参加に見られるような孤立主義が復活し、外国の影響からアメリカを守るという排外感情が強まった。それは移民制限という政策となって現れた。19世紀末に増えた南欧東欧出身のいわゆる「新移民」は、アングロ・サクソン系を主流とするアメリカ人から嫌われる傾向にあり、特に彼らが排除されることになった。1924年に制定された移民法(Immigration Laws)は、1890年の国勢調査における出身国別人口の2%の移民を許可するとなっていたが、南欧東欧からの移民が少なかった時代を基準とすることによって、実質的にそれら「新移民」を排除し、アングロ・サクソン系ないし西欧北欧出身者を多数とする人口構成を守ろうとしたものであった。同法では帰化不能の国民として日本からの移民は完全に禁止された。この移民法によってアメリカへの外国からの移住者は激減した。この移民割当法が廃止されるのは1965年のことである。<有賀夏紀『アメリカの20世紀』上 中公新書などによる> → 19世紀の移民 20世紀の移民 | ||