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3.宗教改革
ア.宗教改革の始まり
A 贖宥状(免罪符)贖宥状は免罪符とも言う。贖は「あがなう」こと、宥は「ゆるす」ことを意味し、罪の許しをお金であがなう(買う)ということになる。一種の「お札」でそれを買った人は現世の罪が許され、天国に行くことができる、また死んだ人のために買えばその人も救われるとされた。教会は贖宥状を販売して教会の収入にしていた。教会が贖宥状を販売する際は、贖宥状説教師を派遣して、町や村の広場で十字架と教皇旗を掲げ、その功徳を説いて売り歩いた。1517年のドイツにおけるローマ教会の贖宥状発売は、ローマのサン=ピエトロ大聖堂の大改修の費用を得るためという理由であった。サン=ピエトロ聖堂は前教皇ユリウス2世の時に始まり、現教皇レオ10世(メディチ家出身)が進めたもの。ドイツの高利貸し業者フッガー家がかかわっていた。
Epi. 贖宥状発売の「三位一体」 ローマ教皇のドイツでの贖宥状発売を引き受け、実際に説教師を村々に派遣したのはブランデンブルク選帝侯の子のアルブレヒトであった。アルブレヒトは1514年にマインツ大司教に選任されたが、その時ローマ教皇に納めるお金をフッガー家から借金しており、その返済に迫られていた。アルブレヒトは贖宥状の販売を引き受けるたが、その売り上げの半分はローマ教皇のもとに送られ、半分はフッガー家のものとなる約束だったのだ。実際、この時の贖宥状説教師にはぴったりとフッガー家の手代が付き添い、お金を回収していた。つまり、この時の贖宥状の発売は、ローマ教皇レオ10世、マインツ大司教アルブレヒト、フッガー家の三位一体で行われていたという事になる。<会田雄次・中村賢二郎『ルネサンス』世界の歴史12 河出書房新社 p.262-265>
a レオ10世  →第9章 2節 レオ10世
b サン=ピエトロ大聖堂  →第9章 2節 サン=ピエトロ大聖堂
c 「ローマの牝牛」 ドイツでは、神聖ローマ帝国皇帝の支配は実質的ではなく、多くの領邦(ラント)に分裂していた。世俗諸侯の領邦だけではなく、大司教や司教などの聖職者の所領も多く、それらはローマ教会の基盤として存在してた。当時、イギリス、フランスなどでは国家統一を進め、教会の所領に対しても国王は課税権を主張するようになっており、ローマ教皇はかつてのようにたやすく資金を集めることはできなかった。16世紀にルネサンスの中心地がローマに移り、ローマ教皇はその保護者としての出費を必要になってくると、このドイツに目をつけ、教会領への課税を強めるとともに、贖宥状の発売などで農民からのお金を巻き上げようと考えたのであった。そのような状況から、ドイツはローマ教会によって牝牛のように搾り取られる存在となったことから、「ローマの牝牛(雌牛)」といわれた。
B 宗教改革 The Reformation 16世紀の前半、ドイツのルター、スイスのジュネーヴにおけるカルヴァンらの教会改革から始まって、キリスト教世界を新教と旧教に二分することとなり、同時に社会と政治の変動をもたらした大きな改革が宗教改革である。1517年、ドイツのルターがローマ・カトリック教会の贖宥状発行を批判し『九十五ヶ条の論題』を発表したことから始まった。当初はルターの「信仰によってのみ義とされる」(信仰義認説)と、ローマ教会の「信仰と善行によって救済される」という教義上の対立であったが、封建末期の矛盾が強まっていたドイツにおいては農民の反封建闘争と結びつき、ルターを支持する農民が蜂起してドイツ農民戦争が勃発した。また教皇と皇帝の対立、諸侯同志の対立などが複雑に絡み合って、単なる宗教上の問題を超え、宗教戦争を引き起こした。この混乱は1555年のアウクスブルクの和議で新教の信仰が公認されるまで続いた。またスイスのジュネーブでのカルヴァンの活動も大きな衝撃となり、その予定説にたつ思想はフランス、オランダ、イギリスなどの商工業者にひろがり、各地でカトリック教会との対立をもたらした。また、イギリスでは同じく16世紀前半に国王ヘンリー8世の王妃離婚問題から端を発してローマ教会と絶縁して独自のイギリス国教会を樹立するという宗教改革が行われた。カトリック教会側でも新教に対抗して勢力を挽回しようと、対抗宗教改革が始まる。
a ヴィッテンベルク 中部ドイツのザクセン地方北部の小都市。16世紀初めは人口6000ほどであるが、ドイツの有力諸侯の一つであるザクセン選帝侯の居城があり、また1502年に設立されたヴィッテンベルク大学があった。居城は町の西はずれにあり、隣接してヴィッテンベルク城教会があった。この教会の門に、ルターが『九十五ヶ条の論題』を貼り出した。
b ルター 1517年、宗教改革の先頭に立つことになったルターは、当時は全国的には無名な、ヴィッテンベルク大学の神学教授であった。当時34歳。1483年、ザクセン地方の銅鉱山の坑夫の子として生まれたルターは、エルフルト大学で法律を学ぶうちに修道院に入り、1506年に修道士となった。1511年末にはローマに行き、ルネサンス末期の雰囲気に接している。1508年からヴィッテンベルク大学講師となり、1512年に神学教授となった。彼は自己の信仰と、当時の教会のあり方の乖離に悩み、懊悩したが、ある時聖書のロマ書にある「信仰によってのみ人は義とされる」という言葉に感動し、救われたという。そのような中で1517年、ローマ教会が贖宥状の発売をドイツで始めたことに対し、『九十五ヶ条の論題』を発表し、宗教改革の口火を切った。ルターの思惑とは別にその主張は大きな反響を呼び、教会の支配に疑問を持っていた農民や、諸侯に支持が拡がった。無視することができなくなった教会側は、1519年にライプツィヒで公開討論を行い、ルターと教会神学者のエックを対決させた。ルターはそこで自説を展開したが、エックの誘導尋問により、ヨハネス=フスを認める発言をした。フスは異端として処刑されていたので、それによってルターの主張も異端であると断定される危険が出てきた。ルターは1520年に『キリスト者の自由』などの著作を発表し、教会批判を展開した。ローマ教会は教皇の勅書を発し、その主張の撤回を迫ったが、ルターはその勅書をヴィッテンベルクの広場で焼き捨て、学生たちも教会法典やスコラ神学の書物をその火中に投げ込んだ。前年に神聖ローマ帝国皇帝となっていたカール5世は、ヴォルムスに帝国議会を召集、ルターを召喚し、その説の放棄を迫った。ここでもルターは自説を曲げず、教皇と公会議の権威を認めないと公言したため、カール5世は「帝国追放」の刑を宣言した。しかし密かに脱出したルターは、ザクセン選帝侯フリードリヒに保護され、ワルトブルク城にかくまわれた。ルターはそこでラテン語の新約聖書のドイツ語訳を完成した。これによって民衆が聖書を手に、聖書にもとづく信仰が可能となった。
ルターの主張は封建的な支配に苦しんでいた農民にも支持され、はじめルターの影響を受けたトマス=ミュンツァーの指導する農民一揆が1524年にドイツ農民戦争が勃発した。ミュンツァーは農奴制の解放などを掲げ、領主や教会を襲撃したが、ルターはそのような過激な行動には批判的であり、最後にはその指示を撤回し、それとともに一揆は鎮圧された。
Epi. ルターの結婚 ルターは大変禁欲的な人であったが、かねて僧侶も結婚すべきであり、修道院も廃止すべきであると主張していた。修道院は当時、自発的に修道女となろうとして入る女性は少なく、ほとんど、家庭の事情や婚期を逸した貴族の娘などが強制的に送り込まれていた。1523年のある日、ヴィッテンベルクの近くの修道院の修道女たちが抜け出したいとルターに訴えてきた。修道女の脱走を手助けすると罪になるので、ルターは夜中に馬車を用意し、ニシンの空樽にかくまって12名の修道女を脱出させた。ルターは彼女たちを次々と結婚させたが、その中の一人カタリナは早くに母に死に別れ、父が再婚する際に修道院に入れられた女性であった。ただ一人結婚話がまとまらなかったカタリナは、ルター博士なら結婚してもいいというので、ルターは彼女と結婚した。1525年、ルター42歳、カタリナ26歳だった。ルターは彼女に好意を持っていたのではなく、義務感から結婚したのだが、それでも三男三女を設けた。<会田雄次・中村賢二郎『ルネサンス』河出書房新社 p.299-301>
c 1517年 ルターがヴィッテンベルク教会の門に『九十五ヶ条の論題』を張りだし、宗教改革を開始した年。このころヨーロッパはルネサンスのうねりがまだ強く残っており、また大航海時代の幕がきって落とされた直後であった。政治的にはイタリア支配をめぐって、フランスと神聖ローマ帝国が争うというイタリア戦争が展開中であった。またヨーロッパの東方、バルカン半島と東地中海には、イスラーム教国オスマン帝国の脅威が迫っていた。そのオスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼしたも同じ1517年である。
ルターの宗教改革はヨーロッパの思想全体にも大きな衝撃となったが、同時代のルネサンスの中で、マキャヴェリの『君主論』(1513年執筆)、トマス=モアの『ユートピア』(1516年刊行)がほぼ同時であることに注目しておこう。
なお、中国は明の後半にさしかかり、日本は室町幕府が弱体化し戦国時代に入ってきた時期である。
d 『九十五ヶ条の論題』 1517年、ルターが発表したローマ教会の贖宥状販売などを批判した公開質問状。ドイツ宗教改革の始まりを告げることとなった。
当時、ローマ教皇から贖宥状販売のためにドイツに派遣されたドミニコ修道会の説教師テッツェルは、「お金が箱の中に投げ入れられてチリンと音がするとともに魂が救われる」と説いて、人びとに贖宥状を販売した。そのような露骨な贖宥状の販売に疑問を持ったヴィッテンベルク大学の神学教授ルターが1517年10月31日、ヴィッテンベルク城内の教会の門扉に貼りだしたのが『九十五ヶ条の論題』であった。このような意見の発表は、当時の神学論争ではごく普通のことであった。その日は万霊節の前日にあたり、多くの参詣人が集まっていた。『95カ条の論題』は(当時の教会用語である)ラテン語で書かれていたが、その内容はドイツ語に翻訳されてたちまち全国に広がり、大きな反響を呼び起こし、激動の宗教改革の幕開けとなった。その主張は「人は信仰によってのみ救済される(信仰義認説)」のであり、贖宥状を買うことに拠ってではない、という点にあった。主要な内容は次の通り。
(序言) 真理に対する愛と、これを明らかにしようとする願望とが、つぎに記す論題についてヴィッテンベルクで論争を予定する理由である。その座長は神父なるアウグスティン派隠修士、教養科目と神学の修士にして、なおその正教授たるマルティン=ルターである。ゆえに彼は、自ら出席しえず、口頭をもっては論争しえぬ人びとに対し、欠席しても書面をもって論じられんことを乞う。
(第1条) 我らの主なるイエス=キリストは言う、悔い改めよ、天国は近づいた(マタイ伝4章17節)! 彼は、信者の全生涯が悔い改めであるべきことを望んだのである。・・・・
(第36条) 真に悔い改めているならば、キリスト信者は、完全に罪と罰から救われており、それは贖宥状なしに彼に与えられる。
(第37条) 真のキリスト信者は、生けるにせよ死せるにせよ、キリストと教会とに属する一切の善きことを分け与えられるのであって、神はこれをも贖宥状なしに彼に与えている。・・・・
(第86条) (要約 ローマ教皇は莫大な財産を有している。聖ペテロ教会を建てるのに貧しい信者の金銭を使うよりも、なぜ自身の財産をつかわないのか。)
<『世界の歴史』(旧版)1961 中央公論社 p.362-364>
e 福音信仰 福音とは、聖書に書かれたイエス=キリストの教えのことであり、教会や聖職者の言葉ではなく、福音だけを信仰の拠り所にすることを福音信仰、または福音主義、あるいは聖書主義という。
f 聖書   → 第1章 3節 キリスト教迫害から国教化へ 新約聖書
g 福音主義  → 福音信仰
h 『キリスト者の自由』 ドイツの宗教改革を推進したルターの主要著作。1520年に発表された、『キリスト教界の改善についてドイツ国民のキリスト教貴族に告ぐ』、『教会のバビロン捕囚』と並んで、三大論文とされる。ルターは、この『キリスト者の自由』において、まず、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない」という命題と「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕(しもべ)であって、何人にも従属する」という命題を掲げ、この互いに矛盾する命題をどう理解するかを説いた。
C ヴォルムスの帝国議会 1521年、神聖ローマ帝国皇帝カール5世がヴォルムスに召集した帝国議会。皇帝選挙をフランス王フランソワ1世と争って皇帝となったカールは、ドイツの各領邦、諸侯、高位聖職者の支持を確保する必要があり、当時ドイツ各地で問題となっていたルター派と教会の対立を調停する必要に迫られた。そこで、帝国議会で新たな帝国の枠組みなどについて話し合った後に、ルターを喚問し、その教説の撤回を迫った。ルターは自説をまげず、教皇と公会議の権威を認めないことを明言し最後に「ここにわたしは立つ」と言ったという。カール5世は、ルターを国外追放に決したが、ルターは密かにザクセン選帝侯フリードリヒにかくまわれた。
a カール5世 ハプスブルク家の全盛期、ドイツの宗教改革の時期の神聖ローマ帝国皇帝(在位1519〜56)。同時に、スペイン王(在位1516〜56)を兼ね、カルロス1世とも称す。ハプスブルク家の皇帝として、神聖ローマ帝国に君臨すると同時に、オーストリア、ネーデルラント、スペイン、ナポリ王国などを相続し、またスペイン王としては新大陸に広大な領土を所有した。折からドイツで宗教改革が始まり、1521年のヴォルムス帝国議会を召集しルターの主張の撤回を迫った。また宿敵フランスのフランソワ1世とはイタリア戦争を戦い、東方からのオスマン帝国のスレイマン1世の脅威にもさらされた。イタリア戦争を優位のうちに進め、1527年にはフランスと結んだローマ教皇に圧力を加えるためローマを攻撃(「ローマの劫略」)した。16世紀のヨーロッパ情勢は彼を中心に廻っていたとも言えるキーパースンなので、やや詳しく、彼の足跡を述べてみよう。
※カール5世 関係年表
1500年 父はブルゴーニュ公フェリペ(神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の皇子)、母はスペインの王女ファナ。ガン(現在のオランダのヘント)で生まれ、ブルゴーニュの宮廷で育つ。父からブルゴーニュ公国を継承。ブルゴーニュ公国とは現在のフランスのブルゴーニュ地方と、フランドル地方、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクを含む。
1516年 母方の祖父のフェルディナンド王の死によって、スペイン王を継承(カルロス1世)。ナポリ国王も兼ねる。
(1517年 ルターの宗教改革始まる。)
1519年 父方の祖父のマクシミリアン1世の死によって、ドイツ王となる。神聖ローマ皇帝の地位をフランス王フランソワ1世と争い、フッガー家の支援によって選帝侯を買収、皇帝に選出されるカール5世)。翌年アーヘンで戴冠式を挙げる。
同   年 スペイン王として、マゼランを西回りでアジア到達するルート開拓に派遣。
(1520年 スペイン、カスティリャ地方の反乱起きる。)
1521年 ヴォルムス帝国議会を開催。ルターに主張の撤回を迫る。拒否したルターを国外追放処分とする。
1522年 マゼラン船団の一部、セビリアに帰港。世界一周を達成。
(1524年 ドイツ農民戦争始まる。)
1525年 パヴィアの戦い。フランス王フランソワ1世と戦い捕虜とする。(イタリア戦争の継続)
1526年 オスマン帝国(スレイマン1世)がハンガリーを占領。シュパイエル帝国議会でルター派の信仰を認める。
1527年 フランス王を支持したローマ教皇に圧力を加えるため、皇帝軍をローマに進撃させ破壊。「ローマの劫略
1529年 再びルター派を否定する。ルターは諸侯、抗議文を発する。
同   年 オスマン帝国軍(スレイマン1世)、ウィーン包囲。ハプスブルク家フェルディナント(カールの弟)が防衛。
1534年 オスマン帝国に奪われたチュニス(アフリカ北岸)を奪回するために出兵。2万人の捕虜を解放する。
(1538年 プレヴェザの海戦で、オスマン帝国海軍に敗れる)
1546〜7年 新教諸侯軍と戦い、皇帝軍勝利する(シュマルカルデン戦争)。ドイツ諸侯の反発を受ける。
1555年 アウクスブルクの和議。弟フェルディナンドにまかせる。プロテスタントの信仰を認める。
1556年 退位。ネーデルラント、スペイン(南イタリア含む)を子のフェリペ2世に与え、神聖ローマ帝国は弟フェルディナントに譲る。→ ハプスブルク家の分裂(スペイン系とオーストリア系)
スペインのマドリード西方の修道院に隠棲。1558年に死去。
Epi. カール5世は何国人か? カールはドイツ王・神聖ローマ帝国皇帝を出したハプスブルク家の出身であったが、昔からのハプスブルク家の、全ヨーロッパに張り巡らした婚姻政策が続いたため、純粋なドイツ人とは言えなくなってしまっていた。父(フィリップ)の両親つまり祖父と祖母は、祖父マクシミリアンでドイツ人(その母はポルトガル王女)だが、祖母マリアはブルゴーニュ公国の王女でフランス人。また母のファナ(狂女ファナ)は父フェルディナンド(アラゴン王)、母イザベラ(カスティリャ女王)で両方ともスペイン人。だから3代前にさかのぼればカールにはドイツ人の血は8分の1しか流れていない。しかも生まれたのは父の領地ブルゴーニュ公国のガンで、育ったのもブルゴーニュ(つまりフランス語文化圏)、スペインに始めていったのはスペイン王となった16歳の時だった。その後、ドイツ王・神聖ローマ帝国皇帝となるが、彼はフランスとスペイン語は話せたが、ドイツ語はほとんど話せなかったという。しかし、カール5世ほど全ヨーロッパを駆けめぐった人は珍しい。彼自身の言葉によれば、「私はドイツへ9回、スペインへ6回、イタリアへの7回出陣した。ここ(ブリュッセル)へも10回やってきた。フランスへは和戦含めて4回、イギリスへは2回、そしてアフリカへは2回。全部で40回も旅をしたことになる・・・」という。<加藤雅彦『図説ハプスブルク帝国』2004 河出書房新社 p.21>     
b ザクセン選帝侯フリードリヒ ザクセンは、ドイツ中部、エルベ川の中流域をさす。ザクセンの領主は金印勅書で選帝侯に選ばれ、以後、選帝侯国としてドイツの有力な領邦となる。宗教改革期のザクセン選帝侯フリードリヒ3世は、賢公とも言われる。1502年にはヴィッテンベルク大学を創設、その神学教授ルターが宗教改革を始めるとそれを支持し、保護を加えた。カール5世の皇帝選挙の際も大きな役割を果たし、ヴォルムス帝国議会で国外追放となったルターをかくまい、ワルトブルク城で保護した。その後もルター派諸侯として領内の宗教改革を進めた。
c 聖書のドイツ語訳 ルターがザクセン選帝侯フリードリヒにかくまわれてワルトブルク城にいたときに完成したのが新約聖書のドイツ語訳。ルターはラテン語とギリシア語の原典から、当時のドイツの各地方の方言を取り入れながら翻訳した。この新約聖書は15世紀にグーテンベルクによって改良された活版印刷機によって印刷され、広く普及し、宗教改革の民衆への広がりの一因となった。またこのルター訳の聖書が普及することで、近代ドイツ語の統一がはかられたとも言われている。
騎士戦争 フッテンは、ルターの出現以前から、皇帝直属の騎士であり人文学者であるところから、ローマ教皇に反発する発言をしていた。封建領主階級に属し、固定地代に依存していたので貨幣経済の進展に伴って生活が苦しくなり、反社会的な不満を募らせていた。そこにルターのカトリック教会批判が始まったので、それに同調する形で、教会所領の没収などを主張し、同じく不平貴族であったジッキンゲンと語らって1522年に反乱を起こした。これを騎士戦争という。皇帝軍と聖俗諸侯軍によって鎮圧された。宗教改革の経過の中で勃発したが改革勢力ではなく、没落する騎士階級の最後の蜂起であった。
D ドイツ農民戦争 1524年夏、南ドイツから始まり、ほぼ全ドイツに波及した大農民反乱。トマス=ミュンツァーに指導され、農奴制の廃止、封建地代の軽減、裁判の公正など、「農民の12箇条」をかかげ、領主や教会など封建諸侯と戦った。おりから封建諸侯は、カール5世のフランス王フランソワ1世との戦争でイタリアに出征していたので、農民軍は至る所で勝利したが、翌年諸侯軍がドイツに戻り反撃に転じることによって鎮圧された。諸侯による懲罰は過酷をきわめ、約十万の農民が命を亡くしたという。
a トマス=ミュンツァー トマス=ミュンツァーはドイツの南ザクセンのツヴィッカウの教会説教師であった。ルターの思想に刺激されながら、独自の改革運動を始め、最後の審判と千年王国の到来を説き、教会の腐敗堕落を攻撃した。1524年夏、農民を指導して反乱を起こし、単なる教改革にとどまらない社会変革に立ち上がった。この反乱は全ドイツに広がり、ドイツ農民戦争と言われる。この時点ではルターとは全く袂を分かち、互いに非難しあう関係となった。農民反乱は西南ドイツに始まり、南ドイツ一帯にひろがり中部ドイツにも波及した。
b 農奴制の廃止 (ドイツ農民戦争)トマス=ミュンツァーの指導するドイツ農民戦争の最中、1525年に作成された農民側の綱領である「農民の12ヶ条要求」の中で、農奴制の廃止、封建地代の軽減、裁判の公正などが要求された。12ヶ条の要点は次のようなものである。
(1)未来においてわれわれが力と権威をもち、したがってあらゆる村が牧師を選任し任命しうること、そして牧師が不つごうな行為をしたばあいにはそれを罷免する権利をわれわれが持つべきこと。選ばれた牧師は福音書に教義や命令を付け加えないこと。
(2)教会の十分の一税は、われわれの選んだ牧師の生活費に充て、残りはその地の貧民に与えること。
(3)キリストは自らの血を流して身分の高いもの、低いものの例外なく解放した給うた。われわれが自由であるべきこと、自由であろうと望むことは聖書に合致している。キリスト教徒としてわれわれを農奴の地位から救い出してくれることはとうぜんである。
(4)貧乏人には鹿や野鳥や魚を捕ることが許されないという習慣をなくし、キリスト者として同じ権利を与えること。
(5)森を貴族が占有していることをやめ、村に返還し、村民が管理して必要な薪を得られるようにすること。
(6)日々に増加する過度の賦役にかんして、親切な配慮が払われることを要求する。
(7)領主は農民との協定に照らして正当なものだけを要求し、賦役や貢租を無償で農民から強奪してはならないこと。
(8)不当な地代によってわれわれが零落しないように、領主は適正な人を派遣して(地主の)占有地を点検すること。
(9)新しい法律が絶えず作られわれわれは裁判によらないで裁かれている。旧来の成文法で裁判され、公正な判決であること。
(10)かつて村に属していた牧場や耕地(入会地)を個人が占有しているのを、とりもどせること。
(11)相続税を完全に廃止すること。
(12)以上の箇条が聖書の言葉と一致しないものであれば、その箇条は喜んで撤回する。
<エンゲルス『ドイツ農民戦争』1850 岩波文庫 付録p.205-215>
シュパイエル帝国議会 1526年と1529年の2回、神聖ローマ皇帝カール5世が帝国都市シュパイエルで開催した帝国議会。第1回でルター派の信仰を認め、第2回では逆転して容認を撤回した。
第1回:ドイツで宗教改革の動きが進み、ルター支持の諸侯も増え、また農民戦争(1524〜25)が勃発した頃、皇帝カール5世イタリア戦争でフランス王フランソワ1世と戦い、さらにオスマン帝国のスレイマン1世がバルカン半島からオーストリアに侵入しウィーンに迫るという危機を迎えていた。カールはどうしてもドイツ諸侯の援助を確保しなければならなかったので、1526年にシュパイエルで帝国議会(第1回)を開催し、諸侯が領内で宗教改革を行うことを認めた(つまり、ルター派の信仰を認めた)。その二日後、モハッチの戦いでスレイマン1世のオスマン帝国軍が、ハンガリー王ラヨシュ2世を敗死させた。ラヨシュ2世の妻はカール5世の妹であった。
第2回:イタリア戦争の一時講和に成功したカール5世が、1529年4月にシュパイエル帝国議会(第2回)を召集し、今度は一転してルター派容認を撤回した。これに対して新教側の諸侯・都市は反発して「抗議文」を提出した。この時から新教徒勢力をプロテスタント(抗議する人の意味)と言うようになった。
c 領邦教会制 ドイツの宗教改革で、プロテスタント派の領邦で進められた教会制度で、1555年のアウクスブルクの和議によって確定した。領邦ごとに教会が国家教会として組み込まれたもので、領邦君主がその領内の教会の首長となり監督する体制である。これによって従来のローマ教皇−大司教−司教−司祭というヒエラルヒーによって教会が世俗国家とは別に監督されていた体制は崩れ、教会も国家の監督下に入ったことが重要である。プロテスタント領邦では宗務局という行政機関が教会を管理したが、カトリック領邦でも同様なことが進行しており、君主側は教会監督局をおいて領内の教会を監督するようになった。イギリス、フランスでは統一国家が教会を統制・管理する形態となったが、ドイツでは領邦ごとに異なる教会統制が行われたことになる。
E 宗教戦争 宗教改革で生み出されたプロテスタント(新教)とカトリック(旧教)の対立が激化し、16世紀中頃から17世紀前半の約1世紀間、ヨーロッパで吹き荒れた戦争。まずドイツにおける、シュマルカルデン戦争(1546〜47)に始まり、フランスのユグノー戦争(1562〜98)などの同一民族が争う内戦が起こった。さらにオランダ独立戦争(1568〜1609)は旧教国スペインから新教徒の国オランダが独立を求めて戦ったもので宗教戦争の要素が強い。そしてドイツの三十年戦争(1618〜1648)は、ドイツの新旧両派の領邦の争いに、ヨーロッパの新旧両派の国家が介入した、国際的な宗教戦争であった。三十年戦争の後は、宗教的な寛容が進み、宗教的対立より、政治的・経済的利害の対立から戦争になる時代に移行する。
a イタリア戦争  →第9章 4節 イタリア戦争
b ウィーン包囲  →第8章 3節 オスマン帝国 ウィーン包囲
c プロテスタント 1529年、3年前の26年に次いで第2回シュパイエル帝国議会が開催されると、カトリック派の諸侯が巻き返しを図り、カール5世もイタリア戦争の戦況好転し、講和が成立したので、前回の決定を取り消し、ヴォルムス帝国議会の決議を復活させた。つまりルター派の信仰を再び禁止したのである。それに対して、5人のルター派諸侯と、14の帝国都市が、「抗議文」を提出した。ここからルター支持の新教徒のことを「プロテスタント(抗議する人びとの意味)」と言われるようになった。この段階では彼らは少数派であった。
d シュマルカルデン同盟 プロテスタントの7諸侯と、11都市が同盟したもの。1530年に結成。1545年、カトリック側がトリエント公会議を開催し、結束を強めると、翌年カトリック諸侯連合軍と戦端を開いた。それがシュマルカルデン戦争である。 
e シュマルカルデン戦争 1546〜47年、プロテスタント諸侯のシュマルカルデン同盟と、カール5世の率いるカトリック諸侯連合軍が戦った宗教戦争。前年のトリエント公会議の開催で、カトリック側の結束が強まりったことを受けて開戦したが、同盟側が内部分裂もあって敗北した。このとき神聖ローマ帝国皇帝カール5世は、スペイン王でもあったのでスペイン軍を導入した。戦後、皇帝とスペインのドイツ支配が強まることを恐れたドイツ諸侯は、カール5世に反旗を翻し、1552年には両者で戦端が開かれ、カール5世は破れてイタリアに敗走する。その後、カール5世は無力感に襲われ、一切を弟のフェルディナンド(オーストリア王)に委ね、修道院にはいってしまう。
F アウクスブルクの和議 カール5世に代わり、神聖ローマ帝国の実質的支配を任された弟フェルディナンドは、1555年、南ドイツ、アウクスブルクに帝国議会を召集し、宗教対立を収束させるため、「領主の宗教、その地に行われる」ことを原則にした「アウクスブルクの和議」を成立させ、プロテスタントの存在を正式に認めた。これによって、ルター派を選ぶか、カトリックに留まるかの選択は諸侯と各都市の当局(市参事会)に委ねられ、住民ただその決定にしたがうのみとされ、一領邦一宗派の原則となった。したがってプロテスタントが認められたと言っても、宗教の自由が実現したのではなかった。またこの場合のプロテスタントとは、ルター派のことをいい、カルヴァン派はまだ想定されていなかった。
a 1555年  
b 領主の宗教がその地に行われる 1555年のアウクスブルクの和議でうちだされた原則。ルター派を選ぶか、カトリックに留まるかの選択は諸侯と各都市の当局(市参事会)に委ねられ、住民はただその決定にしたがうのみとされ、一領邦一宗派の原則となった。なお領主の選択に従えないものは他の領邦に移住することはできた。
イ.カルヴァンと宗教改革の広がり
A ツヴィングリ ツヴィングリはスイスチューリヒの郊外で、ルターの翌年(1484)に生まれた。ウィーンやバーゼルの大学で学び、エラスムスの影響を受け、合理的な精神を培った。チューリヒに司祭として赴任したが、ルターの宗教改革が起きると共鳴して、1519年頃から福音主義に基づき、ローマ教会を厳しく批判し始めた。彼はルターよりも徹底して聖像や聖画、修道院制度やミサなどの儀式を批判し、その廃止を主張した。1523年チューリヒの市参事会で彼の主張が認められ、改革が始まった。1529年にはルターと会談し、共同した改革を目指したが、ミサのパンと葡萄酒の解釈で対立し、不調に終わった。スイス諸州はツヴィングリ派とカトリック派に分かれて内戦となり、1531年カッペルの戦いでツヴィングリが戦死し、スイスの宗教改革はいったん頓挫する。ツヴィングリ派の急進派で、幼児洗礼を認めない一派は再洗礼派として分派を作ることとなる。
a チューリヒ スイスのチューリヒ湖に面した、スイス最大の都市。ローマ時代に起源があるが、13世紀から自治都市として栄えていた。宗教改革時代に宗教改革家ツヴィングリが市政を掌握した。
B カルヴァン カルヴァンは北フランスのピカルディの生まれ、パリ大学で学んだ。神学を修め、次ぎにオルレアン大学に行き法律を学んだ。そこでエラスムスに傾倒し、人文学者となった。1530年代のフランスにはルター派の著作とその思想がもたらされ、カルヴァンもその影響を受けた。パリで新教徒迫害が強まり、カルヴァンもスイスのバーゼルに逃れて、1536年『キリスト教綱要』を著し発表した。それによって新教派の論客として注目されるようになり、同年からジュネーヴでファレルとともに改革を実行し始める。はじめは反対派が多く、一時追放されたりしたが、1541年から14年にわたり市政の実権を握り、いわゆる神権政治という厳格な教会改革と政治改革を実行した。彼は反対派を捕らえて火刑にするなど厳しい宗教統制を行った。1559年には「ジュネーヴ学院」を設立し、改革理念を学んだ青年を育て、布教者としてフランスに派遣し、カルヴァン派の拡大に努めた。1564年没。カルヴァンの唱えた予定説は、カルヴァン派の拡大とともに西ヨーロッパの商工業者に広がり、資本主義社会の形成の背景となったと言われている。 → マックス=ウェーバー  『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
Epi. 独裁者カルヴァン カルヴァンは、エラスムスなどユマニスムの影響を受けて、はじめは反対派に対しても寛容な姿勢であったが、1541年にジュネーヴで権力を握り、厳格な神権政治を実行していくうちに、次第に非寛容の姿勢が強くなった。カトリック教会を厳しく弾劾しただけではなく、たとえばミシェル=セルヴェという神学者が、三位一体説を批判する説を発表すると、異端説であるとして弾圧してセルヴェを宗教裁判にかけ、処刑してしまった。また人文学者に対しても神を冒涜する言説については激しい非難を加え、ラブレーの著作なども禁書にした。それだけではなくカルヴァンは市民生活にも厳しい規律を求め、違反者を次々と捕らえて裁判にかけ、恐怖政治として恐れられた。カルヴァンによって犯罪として告発された事件には次のような事例があった。・放浪者に占いをしてもらった事件 ・ダンスをした事件 ・25歳の男と結婚しようとした70歳の女性の事件 ・ローマ教皇を立派な人だと言った事件 ・礼拝中に騒いだ事件 ・説教中に笑った事件 ・カルヴァンを風刺した歌を歌った事件など。<渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』 岩波文庫 p.270>
a ジュネーヴ スイスの南西部の都市。1536年にカルヴァンがやってきて、1541年から市政を掌握し、厳格な神権政治が行われ、カルヴァン派の中心都市となった。ジュネーヴは、「プロテスタントのローマ」とも言われている。
b 『キリスト教綱要』 1536年にカルヴァンがスイスのバーゼルで公刊し、福音主義に基づくキリスト教改革の理念を示した主著。
c 神権政治 (ジュネーヴ)カルヴァンはまず、「教会規則」を制定し、長老会を発足させ、た。長老会は当初12名の長老(一般信徒代表)と5名の牧師から構成され、カトリック教会に代わって市民の宗教生活を監視・統制した。ジュネーヴの市当局を握っていた有力市民(リベルタン)とカルヴァンはしばしば対立したが、次第に長老会の権威を高め、1560年代には反対派の動きを抑えて厳格な宗教理念に基づいた政治を展開した。カトリック派だけでなく、カルヴァンに批判的なプロテスタント派も厳しく弾圧された。
d 予定説 カルヴァンの思想は、より徹底した聖書中心主義であり、神は絶対的な権威をもち、人間の原罪はキリストの福音によってのみ救われるというものであった。その神による救済は「予(あらかじ)め定められている」であり、それを定めるのは絶対の権限を持つ神だけである、したがって「人間はすべて平等に創られてはいない。永遠の生命にあずかるもの、永遠の劫罰に喘ぐのも、すべて前もって定められている」とした。そのような人間がどのようにして神への絶対的服従を示すことができるかというと、現世の天職を与えられたものとして務めることでしかできない、と説いた。西ヨーロッパの商工業者(中産階級)に支持されていった。 → 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
e 商工業者(中産市民) カルヴァン派の信仰は、西ヨーロッパの商工業者(中産市民)に広がっていったが、彼らにカルヴァン派の信仰が受け入れられていった理由について、ドイツの社会学者マックス=ウェーバー 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1920)は、カルヴァン派の禁欲的な職業観である予定説が、勤勉な努力によって利潤を追求するという彼らの精神と合したものと分析し、カルヴァン派が西ヨーロッパの資本主義の精神を生み出した背景であったと捉えた。
f 長老主義 長老主義、長老制度とは、もともとイスラエル時代の部族長を意味する長老が、教会の指導、管理・運営を行うことをいう。長老は信者の中から人物と経験で優れた者が選ばれた。カルヴァンは教会組織の上では、カトリック教会の教皇を頂点とした聖職者制度と、ルター派の司教制度を共に認めず、教会員の中から信仰のあつい人物を長老に選んで、牧師を補佐させる長老主義を採用した。そこでプロテスタントの中のカルヴァン派の教会では長老主義がとられ、教会の国家権力からの独立が図られた。 → プレスビテリアン
C プロテスタンティズムの成立  
a カルヴァン派 カルヴァンの教説を信じるカルヴァン派は、スイスからフランス、ネーデルラント、イギリス(イングランドとスコットランド)に広がり、さらにアメリカ大陸にひろがった。カルヴァン派が西ヨーロッパの経済先進地域にひろがったことは注目される。そしてイギリスのピューリタン革命、オランダの独立戦争を担っていったのは、カルヴァン派の人びとであった。カルヴァン派は地域によって呼び方が異なり、フランスではユグノー、オランダではゴイセン、スコットランドではプレスビテリアン、イングランドではピューリタンと言われた。
b ユグノー フランスにおけるカルヴァン派の新教徒をユグノーという。その語源は諸説あって一致しないが、ジュネーヴはフライブルク、ベルヌと共に、改革主義を採用することで同盟を結んでいたので、同盟 eidgenossen (アイドゲノッセン)という言葉から、ユグノーという言葉が出来たという説もある。また幽霊を意味する「ユゴン」からでたとも言う。次第にカトリック派との対立を深め、フランスではユグノー戦争(1562〜98年)が起こる。その結果、1598年にナントの勅令が出されて信仰が認められたが、1685年にルイ14世によってナントの勅令は廃止され、多くのユグノーは国外に移住し、フランスでは新教徒は急激に減少し、カトリック国となる。
b ゴイセン オランダ(ネーデルラント)におけるカルヴァン派の新教徒のこと。ゴイセン(Geusen)とは「乞食」の意味で、スペインの宗教政策を批判した下級貴族が結成した「乞食党」に由来する。
Epi. 乞食党と海乞食 1566年、フェリペ2世の宗教迫害に抗議した下級貴族約400人が、ブリュッセルの宮廷の執政マルガリータに請願書を提出したとき、側近のベルレーモンが彼女を安心させるため「乞食にすぎません」といったことから、誓願した下級貴族は自ら「乞食党」と名のった。その後、宗教の自由を求めるカルヴァン派の運動が強まると、彼らは乞食を意味するゴイセンと呼ばれるようになった。カルヴァン派の貴族で亡命して軍事活動を始めた連中のことを「海乞食」(Zeegeusen)といい、彼らがオランダ独立戦争の主力となっていく。
c プレスビテリアン スコットランドにおけるカルヴァン派の新教徒の一派。プレスビテリアン(Presbyterian)とは長老のことなので、長老派ともいう。彼らは教会において司教制度(国教会では主教制度)を認めず、一般信者のなかから経験の深い指導者を選んで長老とし、教会を運営すべきであるという長老主義(長老制度)を主張した。スコットランドに特に多かった。イギリスのピューリタン革命が起きると、教会の長老制度と立憲王政を支持した穏健派が議会派の中の長老派と言われた。彼らはクロムウェルらの独立派と対立して一時議会から追放されるが、王政復古期から多数派を形成し、名誉革命の中心勢力となる。
d ピューリタン イギリス(イングランド)において、エリザベス1世の時に確立したイギリス国教会のあり方に批判的な、カルヴァンの教えに忠実であった人びとをいう。彼らは国教会の中のカトリック的な残存物(例えば聖職者に白い聖職服を着せることなど)を一掃し、純粋化する(purification)ことを要求したので、ピューリタン Puritan 、清教徒という。彼らには二派あって、一つは国教会がイギリス国王を首長とすることは認め、主教制に代わり長老制度をとるべきであると主張する長老派(Presbyterian)と、国教会の内部からの改革を断念し、分離独立し、会衆の集まりにすぎず、平等である教会員同士が協力することを主張した独立派(Independency)とがあった。ピューリタンはいずれの会派も、ジェントリ(新興地主層)、毛織物工業経営者、中小商人、ヨーマン(自営農民)などの中産階級に多かった。一部のピューリタンは信仰の自由を求め、1620年にピルグリム=ファーザーズとしてアメリカ新大陸にわたった。また、本国のピューリタンは、17世紀にピューリタン革命を起こす主力となっていく。 → イギリスの宗教各派
ピューリタン文学:イギリスの17世紀後半、ピューリタン革命の時期に盛んになった、ピューリタン信仰を詠いあげた文学作品で、代表的なものにミルトンの『失楽園』(1667)やバンヤンの『天路歴程』(1678)がある。これらの作品は高い精神性と同時に、平易な文章で表され、近代イギリス文学のなかに重要な位置を占めている。
e ルター派 ドイツの宗教改革の提唱者ルターの信仰を指示するキリスト教プロテスタントの一派。ルター派が広まったのは、ドイツとデンマーク、スウェーデン、ノルウェーなどの北欧諸国であった。カルヴァン派に比べ、ルター派の広がりが狭く、しかもキリスト教圏の後進地域に限られていたことにはいろいろな理由が考えられる。ルターの思想はカルヴァンと比べれば徹底を欠く(例えば武力抵抗について、ルターは否定したが、カルヴァンは忍耐と抗議の末であれば国民の中の指導層にかぎり政府への抵抗権を認めたなど)こと、ルター派の教会は領邦教会制で政治権力の統制を受け入れたが、カルヴァン派の教会は長老制度をとり、自立していたこと、などが考えられる。
f 万人祭司主義 キリスト教の信仰者はひとしく神の前で祭司である、というルターに始まる考え。聖職者(祭司)と一般信者を厳しく区別するカトリック教会の考え方とまったく対立する思想であり、ルター派、カルヴァン派などのプロテスタントに共通するものである。
ウ.イギリス国教会の成立
A イギリスの宗教改革イギリス(イングランド)の宗教改革は、テューダー王朝1534年ヘンリー8世王妃離婚問題から始まるという特異な形態をとった。信仰の内容での革新運動は伴わず、ローマ教皇とその勢力下にある教会および修道院との政治的対立という形で進んだ。メアリ1世の時にはカトリックに復帰するなどの混乱をへて、1559年エリザベス1世の諸改革によってイギリス国教会制度が確立した。
宗教改革の先駆:イギリスの宗教改革の先駆者としては14世紀に最初の聖書の英語訳を行い、ローマ教会を批判しコンスタンツ公会議で異端と断定されたウィクリフがいるが、運動としては連続性はない。
ヘンリ8世の改革:1517年、ドイツにおいてルター宗教改革をはじめてその思想はイギリスにももたらされたが、ヘンリ8世はルターの教説を認めず、それを弾圧したのでローマ教会から「信仰の擁護者」の称号を与えられたほどであった。そのヘンリ8世は王妃離婚問題でローマ教皇と対立することとなり、その機会に絶対王政の強化をめざして、教会を国王に服従させようとしたのだった。1534年の首長法(国王至上法)で国王を教会の唯一の最高指導者と認めさせ、さらに修道院を解散してその財産を没収した。これによってイギリス国教会が成立したが、この段階では教義・儀式ではローマカトリックと大差はなかった。
エドワード6世の改革とメアリ1世の反動:ヘンリ8世の子のエドワード6世の時、プロテスタントの教義を取り入れた「一般祈祷書」と信仰箇条が制定されたが、つづいて王位を継承したメアリ1世は、夫がスペイン王フェリペ2世であったこともあってカトリック信者であり、カトリックに復することを強行した。
エリザベス1世の改革:ヘンリ8世以来、チューダー朝のもとで宗教政策は混乱、動揺した。エリザベス1世は宗教統制を確立することによって絶対王政の安定を図る必要に迫られ、メアリ1世のカトリック政策を一掃して国教会の立場に立つことを明らかにし、即位翌年の1559年に、首長法を再度制定し、また統一法を定めて礼拝方式を定め、カトリック勢力を弾圧した。さらに1563年には信仰箇条を確定して国教会による宗教統制を徹底した。これによってイギリスの宗教改革は完成したと言うことが出来る。カトリックとの訣別は1588年にスペインの無敵艦隊を破ったことによって決定的となった。
イギリス国教会の特質:エリザベス1世の時期に確立したイギリス国教会は特異な性格を持っていると言える。その教義は、人が信仰によってのみ義とされることを説き、聖書を信仰の唯一の根拠とし、予定説を認めるなどカルヴァン派に近いものがあるが、しかし儀式面では白い聖職者の制服着用や、聖餐の際の跪拝(ひざまずく)などカトリック教会の要素を残し、教会制度ではイギリス国王が教会の最高の統治者となり、その下に大主教・主教・副主教・司祭長・司祭という主教制度を採っており、この面ではカトリックおよびルター派と近かった。
その後のイギリスの宗教対立:しかしイギリスではその後も宗教的な対立がつづく。カトリック勢力も根強く、プロテスタント(新教)も国教会(アングリカン=チャーチ)と非国教会(カルヴァン派=ピューリタンなど)とに分かれ、それが政治的な対立となって17世紀のイギリス革命に突入していく。 → イギリスの宗教各派
a ヘンリ8世

ヘンリ8世 1544年の銅版画
『世界の歴史』中央公論社旧版 p.490
イギリスの絶対主義時代、テューダー王朝の第2代の国王(在位1491〜1547年)として絶対王政を確立するとともに、ローマ教皇と離婚問題から対立してイギリス宗教改革を断行した。
絶対王政の強化 父のヘンリ7世の政策を継承し、イギリスの王権の強化に努め、絶対王政の基礎を築いた。当時激烈をきわめていた、イタリア戦争でのフランス王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世の争いでは、双方から同盟を要請されたが、ネーデルラントを抑えているスペインと結ぶのを得策と考え、カールを支援した。
「信仰の擁護者」から教皇批判者への転換 ヘンリ8世は、本来はカトリック教会と協調しており、1517年にルター『95カ条の論題』を発表するとそれに反論する論文を自ら公表した。このように彼は宗教改革には反対していたので、1521年にはローマ教皇レオ10世から「信仰の擁護者」の称号を受けている。ところが、王妃キャザリンの離婚問題から端を発してローマ教皇と対立し、1534年に首長法(国王至上法)を議会で制定させ、ローマ教皇にかわってイギリス国王を教会の首長とする宗教改革を断行、イギリス国教会を創始した。次いで修道院を解散させその土地を新興市民に売り渡し、国民の支持を受けた。しかし、国王の離婚を非難したトマス=モアを処刑するなど、反対派を厳しく弾圧した。 → イギリスの宗教改革
Epi. ヘンリ8世の6人の王妃 ヘンリ8世は生涯で6人の王妃を迎えた。いずれも男子の後継者を得たいがためであった。それまでイギリスには女王はいなかったからである。1509年、兄アーサーの寡婦であったキャサリン(スペイン王女)と結婚し、6人の子どもをもうけたが、そのうち5人までが死産か流産、あるいは早世し、残ったのは女の子メアリ(後のメアリ1世)だけだった。離婚を決意したヘンリ8世はローマ教皇と対立しながらもキャサリンを離別し、宮廷の侍女アン=ブーリンと結婚した。しかし彼女との間にも女子エリザベス(後のエリザベス1世)だけであった。しかもアン=ブーリンは、エリザベスを生んだ年に姦通罪で処刑(斬首)されてしまった。次ぎに同じく宮廷の女性だったジェーン=シーモアと結婚し、ようやく男子エドワード(後のエドワード6世)をもうけた。だがジェーンは出産時に死んでしまった。その次の王妃として迎えられたのはドイツ貴族の娘アンであったが、彼女は英語が話せなかったのでまもなく離婚させられ、次のキャサリン=ハワードも姦通罪で処刑(斬首)された。ヘンリ8世よりも長生きしたのは、最後の王妃キャサリン=パーだけであった。<『世界の歴史』旧版 中央公論社 p.488-489 /『イギリス王室物語』小林章夫 講談社現代新書 p.37- などによる>
b 離婚問題 (ヘンリ8世)ヘンリ8世は兄嫁のキャサリンを皇后としていた。兄嫁と結婚することはカトリックでは許されないことであったが、キャサリンはスペイン王家の出身でフェルナンドとイサベルの間の娘であり、当時二流国であったイギリスはスペインとの関係を維持する必要があったため、ローマ教皇ユリウス2世から特別の許可を受けて認めてもらったのであった。ところがキャサリンの子供は女子一人(後のメアリ女王)を除いていずれも早世し、王位継承の問題が出てきた。ちょうどその時、ヘンリー8世は宮廷に仕える女性のアン=ブーリンと恋に落ち、キャサリンを離別してアンを皇后に迎えようとした。おりからスペインとの関係も、スペイン王カルロス1世(キャサリンの甥)が神聖ローマ皇帝カール5世となり、ヨーロッパで最大の勢力をもつにいたり、イギリスはフランスと同盟してそれに対抗する道を選んだので、スペインとの関係も悪化していた。キャサリンとの離婚問題はカトリックの教義に反することと、1527年のカール5世の「ローマ劫略」以来、ローマ教皇はカール5世の圧力下におかれていたので、認められることなく紛糾が続いた。1530年代に入りヘンリ8世は次々とローマ教会からの独立をはかる施策を議会で承認され、33年には正式にアン=ブーリンと結婚した。翌年には首長法(国王至上法)を制定、国王をイギリスの教会の唯一最高の首長とする国教会制度をつくり、ローマ教会と絶縁してイギリス宗教改革を実行した。このヘンリ8世の王妃離婚を、カトリックの教義の立場と、法遵守の立場から批判し、あくまで抵抗したのが大法官トマス=モアであった。ヘンリ8世はトマス=モアを反逆罪にあたるとして、1535年処刑した。
c 首長法 国王至上法ともいう。Act of Supremacy 1534年、イギリスのヘンリ8世が議会に提出して承認された。イギリスの教会は、国王を唯一最高の首長とすることを規定。これによってイギリスのキリスト教教会は、ローマ教会から分離独立することとなった。この法律は、教皇至上権を否定し、教会の人事、教会領の掌握などを国王が管理統制するという、統一国家形成には欠くことのできない改革であった。メアリ1世の時にはカトリック反動が起こり教皇至上権を認めたが、1559年にはエリザベス女王が首長法を再度制定し、イギリス国教会が完成される。
d イギリス国教会 1530年代から70年代にかけて、テューダー王朝ヘンリ8世エドワード6世エリザベス1世によって進められたイギリス宗教改革によって成立した、ローマ教会から分離独立したイギリス独自の教会制度。アングリカン・チャーチ Anglican Church と言われる。首長法、一般祈祷書、統一法、信仰箇条などの規定からまとめると、次のような特徴がある。
 ○イギリス国王が教会の首長となること。(国王が教会の最高統治者となる。)
 ○主教制度による教会組織。(国王−大主教−主教−副主教−司祭長−司祭)
 ○教義はカルヴァン主義に近い。(信仰義認説、聖書主義、予定説など)
 ○儀式はカトリックのものを残す。(聖職服の着用、聖餐式の時の跪拝など)
イギリス国教会制度は、エリザベス1世の統一法制定で一応完成したが、イギリスでは絶対王政が強化される中、国教会による宗教統制が強まり、カトリック信者とプロテスタント(カルヴァン派が多く、ピューリタンと言われた)は厳しく弾圧された。カトリックはイングランド北部からスコットランドに勢力を残しており、ピューリタンは都市部の中産階級に多かったが弾圧されてアメリカ新大陸に移住するものも多かった。 → イギリスの宗教各派
e 修道院の解散イギリスの宗教改革の一環として、ヘンリ8世は国内の修道院を解散させ、その土地を没収して王の所有とし、貴族やジェントルマン、商人らに払い下げた。ローマ教会と結ぶ勢力である修道院を廃止してその力をそぐと同時に、国王の財政を強化することを狙った措置であったが、結果的に土地の払い下げを受けた貴族やジェントルマン、商人などの新興勢力の台頭の一因となった。
王妃離婚問題からローマ教皇と対立したヘンリ8世は、1534年に首長法(国王至上法)を議会に制定させ、次に修道院の解散に乗り出した。まず修道院の堕落を攻撃して1536年に小規模な修道院の廃止を決め、さらに反発を抑え込んで、大規模な修道院にも圧力を加え、1539年に大修道院解散法を議会で通過させて合法化した。修道院の土地は王領として没収されたが、順次、新たに創設された貴族やジェントルマン、商人に対する贈与、下賜、貸与、売却という形で払い下げられていった。
f エドワード6世 イギリス・テューダー王朝ヘンリ8世と、3番目の妻ジェーン=シーモアとの間の男子。父の死去によって9歳で国王となり、16歳で病死する(在位1547〜53年)。わずかな期間の国王であったが、新教派の貴族が摂政となり、プロテスタント化政策を進めた。この間、イギリス議会では「一般祈祷書」が制定され、イギリス国教会の信仰基準が定められた。
g 一般祈祷書 エドワード6世のとき、1549年に制定された、イギリス国教会の礼拝式の様式を定めたもので英語で書かれた。ここで化体説(教会のミサによって聖餐のパンと葡萄酒がキリストの血と肉に化すという説)は否認され、聖餐を単なる象徴とした。議会は同年、礼拝統一法を定め、一般祈祷書の使用を命じた。1552年に改定し、別に1553年には信仰基準を定めた「42箇条」(信仰箇条)も制定され、信仰によってのみ義とされると説き、洗礼と聖餐を除いて聖典礼を廃し、化体説を否認し、イギリスは新教国として確定した。
これら一連のエドワード6世の時に始まるプロテスタント化政策は、後のエリザベス1世のときに確立する主教制などカトリック的な要素を残してはいるが、僧侶の結婚の承認、ミサの廃止、二種の聖餐の実施、化体説の否定などルター派とカルヴァン派の要素も取り入れられていた。
h メアリ1世 エドワード6世の次のテューダー王朝の女王。エドワードがわずか16歳で死去したとき、ヘンリ8世の遺言で国王となった(在位1553〜58年)。イギリス史上最初の女王である。彼女は母がスペインの王女キャサリンであり、熱心なカトリックの信者であったため、エドワード6世の治世には厳しい迫害を受けていた。はからずも女王となったメアリはカトリック復帰策を打ち出した。ヘンリ8世、エドワード6世のもとで修道院財産の分与を受けた富裕な市民は、その返還を求められるのではないかと恐怖した。さらに38歳のメアリはスペインとの関係を回復するため、27歳のスペインの皇太子フェリペ(後のフェリペ2世)と結婚(1554年)し、一方でローマ教皇との関係も修復しようとした。メアリのカトリック復帰策によって、プロテスタント化を進めた僧侶300人が焚刑にされるなど、国民は彼女を「血のメアリ」と呼んで憎悪した。1557年には、フェリペ2世の要請でフランスと戦い、翌年百年戦争以来フランス内に残っていたイギリス領のカレーを失った。1558年メアリは病死し、カトリック反動は終わった。
B エリザベス1世

  Elizabeth T(1533-1603)
メアリ1世の次ぎに王位についたテューダー王朝の女王(在位1558〜1603年)で、父はヘンリ8世、母はアン=ブーリン。アン=ブーリンは彼女を生んだ後、姦通罪で処刑されていた。しかしメアリ1世の親スペイン政策に不満を強めていたイギリス国民の心をつかみ、宗教問題の解決を進め、国民的な統合を再現して、テューダー朝絶対王政を確立した。彼女は生涯結婚することなく、「わたしはイギリスと結婚した」と自ら言っているように政治に一生を捧げたところから「処女王」といわれて人気が高く、後の人びとから、イギリスの繁栄した時代ととらえられた。彼女は結婚しなかったので王位継承者はスコットランドの王家スチュワート家から迎えることとなり、チューダー朝は終わりを告げた。
イギリス宗教改革の完成:1558年に即位すると、先代のメアリ1世のカトリック政策を改め、イギリス国教会による宗教統制を復活させる決意を固めた。翌1559年には、首長法(国王至上法)を再度制定して、女王は「世俗上の事項と同じように、一切の宗教上・教会上の事項においてもイギリス王国の唯一最高の統治者である」と定め、同年の統一法イギリス国教会でプロテスタント方式での礼拝・祈祷(エドワード6世の時定められた一般祈祷書)を確定した。これはイギリス宗教改革の完成を意味するものとして重要である。また、1563年には、教義の上での新たな信仰箇条を定めて、カルヴァン派の教義を取り入れたが、一方で教会組織ではカトリックの司教制度に近い主教制を採用し、監督・統制にあたらせた。
社会政策:また、この時代はシェークスピアに代表されるイギリス=ルネサンスが開会した時代であった。しかし、その社会は中世から近代への移行という、地殻変動が静かに進んだ時代と言うこともできる。社会的には毛織物産業の発展を背景に、第1次エンクロージャーが進行し、労働者階級の形成が始まり、同時に貧富の差の拡大が表面化したため、救貧法を制定した。
重商主義政策:外交政策では、幸運に恵まれた感もあるが、1588年のスペインの無敵艦隊を破って海洋帝国としての第一歩を歩み出し、またアメリカ大陸への進出、東インド会社の設立など積極的な発展策をとり、ローリーを用いて新大陸への進出を図った。ローリー入植は失敗したが、後にヴァージニア植民地が北米大陸最初のイギリス殖民地として成立することとなる。また前代のヘンリ8世の時の悪貨の濫発で混乱した経済に対し、グレシャムの建言によって悪貨の回収と新通貨の流通に努めた。 →イギリスの絶対主義 
a  統一法 イギリス宗教改革の中で、最終的には1559年、エリザベス1世によって確定された、イギリス国教会の礼拝・祈祷の統一基準を定めた法律。Act of Uniformity 礼拝統一法ともいう。
イギリス宗教改革はヘンリ8世以来進められ、1549年、エドワード6世の時に礼拝・祈祷についての統一基準が作られたが、メアリ1世の時にカトリック復活策で廃止されるなど混乱がつづいていた。1558年に即位したエリザベス1世は、絶対王政を強化するためにも宗教統制の確立をはからなければならなくなり、翌1559年に首長法(国王至上法)を再度制定し、さらに同年に統一法を制定して、聖職者が祈祷や聖礼典を執行する際はエドワード6世の1552年改定の一般祈祷書を用いるべきことを定めた。これによってイギリス宗教改革は完了し、イギリス国教会の体制ができあがった。
信仰箇条 1563年、エリザベス1世の時、イギリス国教会の聖職者会議を召集し、エドワード6世の時(1553)に定められた「42ヶ条」の信仰基準を39ヶ条に改め、1571年に議会で承認されて成立した。信仰義認説、聖書主義、予定説などをカルヴァン主義に近い教義を改めて定めた。
主教制エリザベス1世のとき定められた、イギリス国教会の教会制度。監督制ともいう。国王を首長(教会の最高の統治者)とし、その下にカンタベリーとヨークの二つの大主教をおき、その下にいくつかの主教(監督)をおいて、階層的に教会を監督・統制する。カトリックの司教制度に近いものであり、ルター派でも同様な教会組織が採用されていたが、カルヴァン派系のピューリタンはこの制度に強く反発した。
a 再洗礼派 スイスの宗教改革者ツヴィングリは、徹底した聖書主義を貫き、聖書に根拠のない儀式の廃止を進めた。その中の幼児洗礼(生まれたばかりの赤ちゃんに洗礼を施すことで、中世のカトリック教会では一般的に行われていた)についても疑問を持ったが、キリスト教社会の印として認めていた。しかし、ツヴィングリ派の急進派は、幼児洗礼も聖書に根拠がないとして否定し、本当に入信したときに洗礼を受けるべきだと主張するようになる。1525年、彼らはツヴィングリ派から分離して再洗礼を実施したので、再洗礼派と言われるようになった。再洗礼派は農民戦争の時期にスイスからドイツ、ネーデルラントに急速に広まり、ミュンツァー派とも手を結んだ。その多くは下層市民や農民であったので、カトリック側も、プロテスタント側もこの再洗礼派を過激な集団とみて弾圧した。1534年には北部ドイツのミュンスターで市政を掌握し、「新しきイェルサレム」と称して、贅沢品や余剰の富を供出させ、市民は必要に応じて物資を受け取り、貨幣を廃止するという一種の共産主義社会を出現させた。しかし周辺の領邦と諸侯の攻撃を受け、1年後に崩壊、あくまで信仰を守ろうという再洗礼派はドイツを逃れ、アメリカやカナダに逃れることとなった。
b アーミッシュ  
エ.対抗宗教改革(反宗教改革)
A 対抗宗教改革 ルターカルヴァンなどのプロテスタント派の運動が強大となったことに危機感を持ったローマ教会側が、プロテスタントを弾圧するだけでなく、カトリックの教皇庁や教会のあり方を改める運動を起こした。そのカトリック改革を「対抗宗教改革」または「反宗教改革」という。かつては「反動宗教改革」という言い方があったが、現在は用いられない。教皇パウルス3世(在位1534〜49)は、改革派を枢機卿に任命、まず教会の腐敗の原因として、聖職売買の禁止を勧告した。王妃との離婚を強行したイギリスのヘンリ8世を破門にした。さらに1542年にはローマに宗教裁判所を設置して異端の取り締まりを行い、さらに1559年には『禁書目録』を定め、思想統制を強めた。異端を取り締まり、カトリックの改革を進めるためには、改めてカトリックの正統となる教義の確認をする必要が生じ、そのために1545年からトリエント公会議が始まった。1563年まで断続的に開催され、あらためてルターなどの考えを否定し、さまざまな教会の悪弊を廃止することを決定した。また対抗宗教改革の先頭に立って活動したのがイエズス会である。16世紀後半には、「改革教皇」と呼ばれる3人の教皇があらわれる。
改革教皇ピウス5世(1566〜72)はドミニコ会出身で典礼の改革に努め、1570年にはローマ教会から分離したイギリスのエリザベス1世を破門した。翌71年にはスペインとヴェネツィアを仲介し、トルコ艦隊をレパントの海戦で破った。グレゴリウス13世(1572〜85)はそれまでのユリウス暦と実際の暦日のズレを修正した「グレゴリウス暦」を制定した(1582年)。サンバルテルミーの虐殺事件の報せを聞き、祝賀行列を行わせたとも言われる。シクストゥス5世(1585〜90)はローマ教皇庁の再編に乗り出し枢機卿の数を70に固定し、教皇の権力を各聖省に振り分けた。<「改革教皇」については『ローマ教皇』創元社・知の再発見双書 p.82>
a トリエント公会議 トリエントは南チロル(現在のオーストリア)の都市(トレントとも表記)。教皇パウルス3世が1545年に召集した宗教会議で、カトリック教会側がプロテスタントに対抗して始めた「対抗宗教改革」の一環として、1559年まで断続的に開催された。カトリックの教義の統一と教会の改革について話し合いが行われ、最も重要な信仰義任説については、信仰は「救いの始まりであり、それなくしては神を称えることも不可能な義認の根源」とされたが、人間の自由意志、善行、秘跡も救いの実現には大きくかかわるものとされた。また教皇の至上権を確認し、カトリック教会の権威を復活させることを目指した。
b 宗教裁判所  → 第6章 3節 教皇権の衰退 異端審問
B イエズス会 ローマ教皇への絶対服従、神と教皇の戦士として伝道に努めることを使命として、1534年にイグナティウス=ロヨラ(スペイン人)らによって結成された修道会。「イエズス会」というのは「イエス=キリストの伴侶」という意味で、「ジェズイット教団」ともいう。日本では「耶蘇会」と言われる。1540年に教皇パウルス3世から認可を受け、対抗宗教改革の先頭に立って、活動を開始した。まずドイツ国内のプロテスタント地域でのカトリックの復興が進められ、ついでアメリカ新大陸、アジアなどの新天地での積極的なカトリックの布教活動を行った。その一環として、フランシスコ=ザビエルは日本伝道を行った。はじめて中国伝道を行ったマテオ=リッチなどもイエズス会員であった。18世紀の中頃まで積極的な海外布教を展開したが、その間、他の修道会との対立(中国における典礼問題など)、絶対主義諸国の国家政策との対立などから問題が生じ、1773年には教皇クレメンス14世によって解散させられた。その後、1814年に再興され、歴代教皇の保護のもと、組織を拡大し、最大の修道会となった。イエズス会の中心思想はロヨラの提唱する『霊操』(宗教的真理に達するための瞑想)にもとずく会則のもと、徹底した教皇への服従と、軍隊的な規律であったと言われる。また布教にあたっては、子供の教育や女性を通じて自然に信仰心を育てるという手段を重視し、各地に学校を設立した。
Epi. カトリックの「新撰組」 「ロヨラは、あくまで旧教会内の粛正と旧教会の権威の宣揚とを目的とし、新教に対抗するための旧教会の有力な《新撰組》の発案者ないし頭目として登場し、厳格な組織を持つイエズス会を組織するのに成功した。しかし、イエズス会の組織活動は、現世的な権力を掌握することに熱を見せすぎ巧妙でありすぎるという非難を受けかねなかった。フランス語辞書でイエズス会 Jesuite という語を引くと《偽善者・猫かぶり》という意味も出てくる。つまり、イエズス会士が「本心を隠蔽すること」を堅く守ることから生まれた悪口のようである。」<渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』 岩波文庫 p.287-288>
a イグナティウス=ロヨラ スペインのバスク地方の名門貴族に生まれ、26歳までは騎士として世俗の気ままな生活を送っていた。1521年、フランスとの戦いで足を負傷し、治療の間に聖人伝を読んで宗教心に目覚めたという。その後イェルサレム巡礼を通じて聖霊の感化を受け、パリ大学神学部で1528年から8年間学ぶ中でフランシスコ=ザビエルなど6人の同志を得て、1534年モンマルトルの聖堂でローマ教皇への献身と伝道に徹することを誓った。彼らは再度イェルサレムの伝道に向かったがトルコ帝国の地中海進出(1538年プレヴェザの海戦に至る)のためにはたせず、ローマに赴いて活動し、1540年、教皇パウルス3世から修道会としての承認をうけ、イエズス会を設立、ロヨラがその総長となった。
b フランシスコ=ザビエル スペインのバスク地方ナヴァラの貴族出身。パリ大学で学んでいたとき、同じスペイン出身のイグナティウス=ロヨラらとともに、宗教改革の嵐の中で揺らいでいたローマ教皇の権威を守り、そのためには教会の腐敗堕落を改める必要があると考え、同志となった。1540年にイエズス会として教皇の認可を受けた。ザビエルはローマ教皇パウルス3世の命を受け、アジアにおける教皇代理の肩書きでインドに赴きゴアを拠点に布教にあたった。さらに中国布教が可能であることを知り、マカオに渡ろうとして、途中マラッカで日本人アンジローに会い日本伝道を志し、1549年まず鹿児島に上陸、日本に初めてキリスト教を伝えた。日本でのキリスト教布教の基礎を築き、51年豊後から中国伝道に向かったが、途中、広東の上川島で没した(1552年)。
Epi. 日本人最初のヨーロッパ留学生 日本人で最初にヨーロッパに行った人物は、天正少年使節が最初ではない。それは、洗礼名「ベルナルド」という青年で、フランシスコ=ザビエルから鹿児島で洗礼を受けた人物であるが、貧しい下級武士と言うだけで、名前や出身地ははわかっていない。ザビエルの信任を得たベルナルドは1551年にヨーロッパに向けて出発した。ゴアのイエズス会の学院で学んだ後、リスボンに上陸、コインブラの修道院に入った。ザビエルの盟友、ロヨラに招かれてローマに行き、教皇パオロ4世に謁見した。しかし肝臓病を病み、1557年に病没した。その足跡はほとんどわからず、墓地も見つかっていない。<泉秀樹「日本人最初のヨーロッパ留学生−ベルナルドの足跡−」私学共済広報誌『レター』vol.17 2001.1>
c ジェスイット教団 イエズス会の別表記。
d  宗教戦争  → 宗教戦争
e 「魔女狩り」  → 第6章 3節 教皇権の衰退 魔女裁判