用語データベース 10_2 用語データベースだけのウィンドウを開くことができます。 ページ数が多いので印刷には時間がかかります。
2.ヨーロッパ諸国の海外進出
ア.アジア市場の攻防
A ポルトガル (アジア進出)ポルトガルは、1498年のバスコ=ダ=ガマカリカット到達以来、16世紀には次々と船団をインドに派遣しポルトガルのインド進出が始まった。ポルトガル人はカリカットでマラバール産の胡椒とマラッカから運ばれた香料を、インドの土侯たちに火器を代償として渡し、リスボンに持ち帰った。それは、従来のアラビア商人やエジプト商人から買うよりはきわめて安価に大量に得られる取引であった。ポルトガルはその利益を独占しようと、海軍を送りアラビア海を制圧しようとし、またその活動拠点を建設する必要を感じた。その任務のために常駐統括者として総督(インド副王)が1505年におかれた。初代はアルメイダ、そして1509年に着任した第2代がアルブケルケである。その年、アルメイダはディウ沖の海戦でマムルーク朝のエジプト海軍を破り、アラビア海の制海権を獲得、さらに1510年にゴアを強制占領して拠点とた。ついで1510年にはスリランカ(セイロン島)を征服、1511年にいはマラッカ王国を滅ぼし、1515年にはペルシア湾入り口のホルムズ島を占領した(ホルムズ島は1622年、サファヴィー朝のアッバース1世によって奪回される)。1521年には香料諸島としれ知られるモルッカ諸島に到達、やや遅れて西回りでやってきたスペインと激しく争い、1529年のサラゴサ条約でアジアにおける両国の境界線を取り決めた。その勢力は明統治下の中国に及び、1517年には広州で通商を開始、27年には広州に近いマカオに居住権を獲得した。1543年ポルトガルの商船が種子島に漂着してから日本との接触も始まり、1550年には平戸に商館を設置し、九州の諸大名との通商を行った。 → 第9章 1節 大航海時代のポルトガルの進出  
a 香辛料貿易  → 第7章 香辛料
ディウ沖の海戦 1509年のインド西部のディウ島沖でのポルトガルとエジプトのマムルーク朝海軍との海戦。ポルトガル海軍が勝利し、アラビア海の制海権を獲得、インド航路を独占することとなった。ポルトガルはフランシスコ=ダ=アルメイダを初代のインド総督(インド副王)に任命(1505年)し、22隻の船に1万5千の兵を派遣してインド航路の確保を図った。アルメイダはまず、アフリカ東岸のキルワに砦を築き、インドではコチンの砦を補強した。このようなポルトガルの武力侵攻に対し、危機感を持ったのは当時アラビア海の制海権を握っていたエジプトのマムルーク朝のスルタンであった。また、いわゆる東方貿易でマムルーク朝商人からインド産の香辛料を仕入れていたヴェネツィアも、ポルトガルのインド進出を警戒した。そこでヴェネツィアはマムルーク朝に働きかけ、ポルトガルのインド洋侵入を阻止しようとした。マムルーク朝は、インド西部のグジャラート王国、南インドのカリカットの王との連合艦隊を編成した。アラビア海貿易の要衝ディウ島(グジャラート王国の領地)の沖で両軍が衝突、アルメイダは劣勢を挽回して勝利を得た。この結果、ポルトガルはアラビア海の制海権を獲得。またマムルーク朝はまもなく、1517年にオスマン帝国に滅ぼされる。ディウはその後、1535年にポルトガルが占領して砦を築き、ペルシア湾の船舶の航行を監視する、ポルトガルの拠点となった。現在ものその城壁が残っている。<増田義郎『大航海時代』ビジュアル版世界の歴史 講談社1986 などによる>
アルブケルケポルトガルの第2代インド総督(インド副王)。1510年、海軍を派遣してインドのゴアを襲撃し占領、インドにおける最初の植民地を建設した。ゴアを拠点にインド及び東南アジアへの進出を推し進め、1511年にはマラッカ王国からマラッカを奪い拠点を築いた。さらに香料諸島といわれたモルッカ諸島に進出した。
b ゴア 1510年、ポルトガルのインド総督(副王)アルブケルケは、ポルトガル海軍を派遣しインドのゴアを襲撃、激戦の後占領して数日にわたってムスリムを虐殺し、モスクを避難所もろとも焼き払った。その跡地にポルトガル領ゴアを建設、軍事基地・商業港とした。その後、ポルトガルのアジア支配の第一の拠点として繁栄し、「小リスボン」とか、「黄金のゴア」と言われた。ポルトガルのゴア占領後の1526年に北インドでムガル帝国が成立した。1573年には、ゴアのポルトガル総督は、アグラのアクバル帝に使節を派遣している。ゴアは16世紀末に最盛期を迎えたが、その後イギリス、オランダが台頭したため次第に衰え、市街も移転(新ゴア)した。1961年、インド政府はゴアを併合、現在はインドの州となっている。
c 明  → 第8章 1節 の成立
d マカオ  → 第8章 1節 マカオ
e 種子島 1543(天文12)年、ポルトガル船が種子島に漂着し、鉄砲を伝えたとされる。これは日本の『鉄砲記』という史料が伝えることであるが、ポルトガルの宣教師の記録では1542年のことで、中国にむかうジャンク船だったという。この鉄砲は火縄銃といわれるもので、戦国時代の大名にとって新しい武器として有効だったので、ポルトガル商人から輸入しただけでなく、日本でも作られるようになったが、火薬は輸入に依存していた。鉄砲は急速に普及し、織田信長が1575年の長篠の戦いで武田信玄を破ったときに戦術的に利用されたことは有名。
平戸 長崎県の古くからの港で、1550年にポルトガル船が来航し、領主の松浦氏から商館の設置を認められ、交易が始まった。その後いわゆる南蛮貿易の中心地として栄えたが、江戸幕府になって鎖国政策がとられ、外国貿易は長崎一港に限定されたため、貿易港としては衰えた。
B スペイン (アジア進出)スペインはフェルナンドとイザベラの両王の時、1492年にコロンブスに西回りでインドへのルートの開拓に当たらせ、その結果、新大陸を発見するという大きな利益を得た。しかし、本来の目的のインド到達は、1498年のバスコ=ダ=ガマのカリカット到達によってポルトガルに先を越されてしまった。両王は、発見地をなおもインドの一部だと言い張るコロンブスを見限り(1500年、コロンブス逮捕、本国送還)、新たに探検隊を派遣して西回りでアジアに抜けることのできる「海峡」を発見することにつとめた。それは、次のカルロス1世(つまりカール5世)が派遣したマゼラン船団がマゼラン海峡を発見、太平洋を横断して1521年にフィリピンに到達したことによって成功した。しかしめざす香料諸島、モルッカにはすでにポルトガルが東回りで到達しており、両国の抗争が発生した。カール5世は、フランスとヨーロッパの覇権を争っていたのでポルトガルとの対立を長引かせるわけにはいかず、1529年サラゴサ条約を締結してモルッカ諸島の支配権をポルトガルに譲渡し、勢力圏を分割した。その後、スペインはフィリピン支配に専念し、他のアジア地域ではポルトガルに押され、また17世紀になるとオランダ、イギリスに圧されるようになる。アジアにおけるスペイン人は、ザビエルに代表されるイエズス会の宣教師の活動が活発であった。 →第9章 1節 スペイン(16世紀)
Epi. 太平洋を初めて横断した日本人 日本とスペインの関係は、1549年のザビエルが鹿児島に上陸したときに始まる。その後もルイス=フロイスなど多くの宣教師が来日し、天正少年使節のローマ派遣(西廻り)を仲介した。しかし、正式な通商は開かれなかったので、徳川家康は1609年にスペインの前ルソン総督ビベロの乗ったガレオン船が千葉の御宿沖に漂着したのを機に、翌1610年帰国するビベロに京都の商人田中勝助を同行させ、スペイン領メキシコ(ノビスパン)に派遣した。家康のねらいは、貿易の開始と鉱山開発技術の導入にあった。翌年、田中勝助はメキシコ副王の使節を伴って帰国し、太平洋を初めて往復した日本人となったが、幕府は通商を開くことはできなかった。その後、伊達政宗の派遣した支倉常長は1613年、同じく太平洋を渡りメキシコを経由してスペインに行き、さらにローマ教皇に謁見した。しかし通商は開けず、20年に帰国した。江戸幕府はやがてキリスト教禁止に踏み切り、スペイン領のルソン(フィリピン)が宣教師の拠点となっているとして、スペインとの国交を断った(1624年)。
a フィリピン  →第9章 1節 マゼランのフィリピン到達  →第13章 2節 スペインのフィリピン支配
b マニラ マゼランの到達(1521年)の後、スペインのフィリピン支配は実質的には1565年のレガスピのフィリピン到着に始まる。レガスピは1571年6月24日にルソン島のマニラに市政を敷き、市役所、市議会を設置、市長を任命し、その支配を本格的にした。以後はマニラと太平洋をはさんでメキシコのアカプルコとのあいだの定期航路が開かれ、ガレオン貿易が18世紀末まで継続して繁栄した。中心部はサンチャゴ要塞を中心にしたスペイン人およびメスティーソ(スペイン人と現地人の混血)だけが住み、市外に中国人町や日本人町があった。1611年には東アジア最古の大学、サント=トマス大学が創建された。マニラ経済の実権は次第に生糸を扱う中国人(華僑)と中国系メスティーソの手に握られるようになった。 →マニラ開港
▲c アカプルコ メキシコの太平洋岸の港町。メキシコ=シティの南約300km。スペイン支配時代に太平洋をはさんだフィリピンのマニラからの定期船「マニラ船」が到着する港町として栄えた。現在はリゾート地として知られている。
▲d ガレオン船 ガレオン船は遠洋航海術が発達した大航海時代のスペインで開発され、3または4本マストの大型帆船で、大西洋航海に用いられていた。特にそのうちスペインが1564年頃からアメリカ新大陸のパナマ地峡地域に派遣した護衛艦つきの船団をガレオン船(複数形でガレオネスと呼ばれた)という。このガレオン船で運ばれた新大陸の銀は、スペインのセビリヤかカディスの港に運ばれ、スペインの繁栄をもたらした。しかし16世紀後半から17世紀になると、イギリスの私掠船による襲撃や、スペインから独立戦争を始めたオランダの艦船の襲撃を受け、しばしば被害を受けるようになった。また新大陸の銀の産出量も減り、18世紀初頭のスペイン継承戦争の頃は大西洋ではガレオン船は姿を消した。ガレオン船は、フィリピンとメキシコを結ぶ太平洋航路にも用いられ、ガレオン貿易と言われて19世紀初めまで続いた。
ガレオン貿易 ガレオン船を使う貿易のうち、スペイン領のフィリピン・マニラとメキシコ・アカプルコを結ぶ貿易をガレオン貿易という。1565年のレガスピの太平洋経由のフィリピン到着から、1815年までの250年間、スペインの経済を支えた。マニラを拠点とするスペイン商人は中国の福建からの中国船がもたらす絹織物(”海のシルクロード”であった)や陶磁器をメキシコに運び、帰りにメキシコ銀を大量に持ち帰った。その銀が中国に流入し、明〜清の中国経済の発展と社会変革をもたらした。またフィリピンのマニラには中国商人も居住し、国際的な交易都市として繁栄した。
Epi. フィリピン経済を破壊したガレオン貿易 ガレオン貿易は1年に1往復だけ行われた。アカプルコ行きは北緯42度まで北上して大圏航路をとり、3ヶ月から半年かかる危険な航路だった。帰りは北緯10度あたりを順風を受け2ヶ月程度の安全な航海であった。アカプルコでは積荷の2倍以上の値段で売れたので、濡れ手に粟の大儲けができた。ガレオン船は30隻以上が沈没しているが、その大半は積載過剰が原因だったという。ガレオン貿易に参加出来るのはスペイン人商人かカトリック教会であった。しかし、ガレオン貿易は中国とヨーロッパを結ぶ中継貿易であったため、フィリピン(およびメキシコ)に富をもたらすことはなく、現地の産業育成には結びつかなかった。原住民は貨物の積みおろしに強制労働させられるだけであった。ガレオン貿易がフィリピン経済の自立を阻害したと言える。<鈴木静夫『物語フィリピンの歴史』1997 中公新書 p.36-40>
C オランダ  →第9章 4節 オランダの独立 ネーデルラント連邦共和国
a 東インド会社  →第9章 4節 オランダの独立 東インド会社(オランダ)
b バタヴィア 現在のインドネシアの首都ジャカルタ。ジャワ島の西端にある中心都市で、はじめバンタン王国のジャヤカルタ(略称ジャカルタ)といわれていたが、その地を支配したオランダが1619年にバタヴィアと改名した。オランダのライン川上流地域にかつて住んでいたバタヴィ族の名にちなんだとされている。バタヴィアはその後、オランダ東インド会社の拠点とされ、東インド会社解散後は、オランダ領東インドの行政の中心地となった。1942年、日本軍が侵攻し、オランダが撤退して以来、ジャカルタに戻された。現在のジャカルタはインドネシアの首都で、政治・経済の中心都市として繁栄している。 
c アンボイナ事件 アンボイナとは、アンボンともいい、モルッカ諸島とバンダ諸島の中間にある小さな島。アンボイナ事件は、1623年におこったオランダ東インド会社イギリス東インド会社の衝突事件。結果としてオランダがイギリスの勢力を東南アジアから駆逐するいっかけとなった。また事件には日本人がからんでいたことで注目される。モルッカ諸島は香料(とくに丁子とナツメグ)の唯一の産地としてはじめポルトガルとスペインが争い、ポルトガルが優位に立ってその香料を独占していたが、17世紀にはポルトガル勢力は駆逐され、オランダが有力となったが、イギリスもそこに割りこんできた。アンボイナ島にはオランダが要塞を築き、そのなかに東インド会社の商館を建設していおり、イギリスもその要塞の一部を借りて小商館を設けていた。1623年にオランダ商館は、イギリス商人が日本人傭兵らを利用してオランダ商館を襲撃しているという陰謀事件の容疑で島内のイギリス人、日本人、ポルトガル人を捕らえ、拷問の末に自白させて、20名(イギリス人10人、日本人9人、ポルトガル人1名)を処刑した。イギリス人と日本人の共謀した襲撃計画とは事実ではなかったらしく、オランダがイギリス勢力の排除、モルッカの香料貿易の独占をねらったものと考えられている。オランダのもくろみどおり、イギリスは東南アジアでの香料貿易への進出をあきらめ、その後はインド方面への植民地進出をはかることとなる。またこの事件はイギリス国内の世論を刺激し、後の英蘭戦争の一因ともなった。
d インド経営  
e 台湾  →第8章 1節 オランダの台湾進出
f 日本  
g ケープ植民地 アフリカ大陸最南端の地。はじめポルトガル人が進出したが、まもなく放棄した。1652年に、オランダが東インド会社への補給基地としてケープタウンを建設。オランダ人がその地に入植するようになり、かれらオランダ系白人はボーア人(ブール人)と言われるようになる。1806年、ナポレオン戦争の際に、イギリス軍がこの地を占拠、イギリス領に編入して植民地支配を始める。1814年にウィーン会議の結果のウィーン議定書で正式にイギリス領となり、ボーア人は北方に移住し、トランスヴァール共和国、オレンジ自由国を建設。1910年に南アフリカ連邦が発足し、その一つの州となる。
D イギリス  
a イギリス東インド会社 の隆盛イギリス東インド会社は1600年、エリザベス女王の時に特許状が出されて発足したが、当初は一航海ごとに利益を清算する方式であったので、1602年に始まるオランダ東インド会社よりもその活動では水をあけられていた。1623年のアンボイナ事件でもイギリスは東南アジアから後退せざるを得なかった。イギリス東インド会社が会社として改組されたのは1657年のクロムウェルの時であり、英蘭戦争での勝利もあって、活動もそれ以後に活発になった。また東インド会社の活動がインド中心になるに伴い、その輸入品はまず綿布(木綿、キャラコ。キャラコはカリカットがなまったものと言われている。→キャラコ論争)、ついでに移行した。
東インド会社だけが特権的にインド貿易を独占していることに反発も生じ、1698年にはもう一つの東インド会社が設立されたが、1709年には「合同東インド会社」として合流し、同時に組織の整備が行われた。合同東インド会社の本社はロンドンに置かれ、「インド館」と言われた。株主総会のもとで取締役会が経営方針を立て、専門的な委員会が作られ、事務局がおかれた。またインドのマドラス、ボンベイ、カルカッタなどに管区がおかれ、各地の商館を管区長が掌握した。社員の中には事務員の他に会社軍が組織され、その士官はイギリス人で、現地から兵士を雇っていた。<浅田実『東インド会社』講談社現代新書 など>
b マドラス インドの東海岸のベンガル湾に面した港町。現在の地名はチェンナイ。かつてはマドラスで通用したが、現在のインドではこのイギリス植民地時代のイギリス風の地名は廃棄されている。1639年、イギリスが要塞を築き、フランスの拠点ポンディシェリーと対抗した。このコロマンデル地方はその後英仏の抗争の場となり、18世紀のカーナティック戦争を通じてイギリスの覇権が確立し、マドラスは西海岸のボンベイ(現ムンバイ)、ベンガル地方のカルカッタ(現コルカタ)とともにイギリスのインド支配の三拠点の一つとなる。
c ボンベイ インドの西海岸の北部にある都市で、現在はムンバイという。これも現代のインドで植民地時代のボンベイという地名を廃棄して、本来の地名に戻したもの。はじめポルトガルが進出、1661年にポルトガル王女がチャールズ2世に嫁いだときの持参金の一部としてイギリスに譲渡し、1687年からは東インド会社の管区の中心都市となった。19世紀にはイギリスのインド植民地支配の中心となる。
d カルカッタ ガンジス川下流のベンガル地方の中心都市。現在は、本来の地名であるコルカタと言われている。1690年にイギリスの商館が置かれてからインド貿易、その植民地支配の中心地の一つとして重要であった。商工業、機械工業、金融業も起こり、特にベンガル地方のジュート生産の集積地として繁栄したが、20世紀の初め、政治の中心はデリーに移り、さらにインド独立に際して後背地がパキスタン(東パキスタン。現在のバンクラデシュ)として分離したため、次第に衰退した。 
e 英蘭戦争  →10章 1節 英蘭戦争 
E フランス  
a 東インド会社 (フランス) → 第10章 1節 重商主義と啓蒙専制主義 東インド会社(フランス)
b コルベール  →10章 1節 重商主義と啓蒙専制主義 コルベール
c ポンディシェリ インドのベンガル湾に面した都市。ボンベイ(現在のムンバイ)の南約160kmにあり、1673年以来フランスのインド進出の拠点となった。ボンベイのイギリス東インドの商館と対抗する位置にあった。その後も長くフランス領であったが、1954年にインドに返還された。
d シャンデルナゴル インドのベンガル地方のフランス領であったところ。現在はチョンドンノゴルという。フランスは1673年に、ポンディシェリとともに東インド会社の拠点としてインド進出を図った。カルカッタの北にあり、イギリスと対抗する拠点となった。1954年にインドに返還された。
e デュプレクス 1741年からフランス東インド会社のポンディシェリ知事。イギリスの勢力と争い、常にフランスの優位を勝ち取ったが、本国政府との関係が悪化し、最終的にはその地位を解任された。第1次カーナティック戦争ではマドラスを陥れ、インドの現地勢力と結んでイギリスを圧倒、さらに第2次カーナティック戦争でも優位に進めたが、本国政府の抑制がきかなくなったと見た東インド会社本社によって解任された。
F 英仏の植民地争奪 17世紀に主権国家を形成させたイギリスとフランスは、イギリスは立憲王政、フランスは絶対王政の違いはあったが、いずれも重商主義経済政策をとって植民地獲得に乗り出した。17世紀中頃から両国の東インド会社は直接的に抗争が始まり、18世紀になるとアメリカ新大陸とインドにおいてたびたび戦闘を展開、さらにそれはヨーロッパでのスペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争などの戦争と連動していた。インドにおいては、ムガル帝国の分裂と弱体化にともない地方政権の対立抗争に巻きこまれながら、1744年からのカーナティック戦争、1757年のプラッシーの戦いなどが戦われた。インドでの戦闘は最終的にはイギリスが勝利を占め、新大陸でもアン女王戦争、ジョージ王戦争、フレンチ=インディアン戦争の結果、やはりイギリスの優位のうちに終わった。イギリスはフランスとの植民地抗争にうち勝ち、海外に広大な植民地を形成し、大英帝国の繁栄をもたらし、18世紀60年代の産業革命を実現させた。しかし、アメリカ植民地に対する収奪の強化は、植民地人の反発を招き、1775年に独立戦争が起こった。フランスは、アメリカ独立戦争が始まると、当初は情勢を見ていたが、アメリカ有利と判断した1778年に参戦し、海上でイギリスと戦い、戦後は西インド諸島トバゴ・セネガルを獲得した。しかし、長期にわたる英仏の抗争は、宮廷財政を困窮させ、それを機に貴族に課税をしようとしたブルボン王朝ルイ16世の統治に対して、貴族のみならず中産階級、農民が立ち上がってフランス革命の勃発となる。 → 第2次英仏百年戦争
a 第2次英仏百年戦争 17世紀末から19世紀はじめのナポレオン時代にかけての、イギリスとフランスの抗争。ヨーロッパでの対立のみならず、アメリカ大陸、インドなどでの植民地抗争が原因であった。この間のヨーロッパと植民地での両国の戦争を列挙すると次のようになる。
ヨーロッパ 植民地
アウクスブルク同盟戦争(1688〜97) 北米:ウィリアム王戦争(1689〜97年)
スペイン継承戦争(1701〜13) 北米:アン女王戦争(1702〜13)
オーストリア継承戦争(1740〜48) 北米:ジェンキンズの耳戦争(1739〜44)
北米:ジョージ王戦争(1744〜48)
インド:第1次カーナティック戦争(1744〜48)
七年戦争(1756〜63) 北米:フレンチ=インディアン戦争(1755〜63)
インド:プラッシーの戦い(1757)
    第3次カーナティック戦争(1758〜61年)
アメリカ独立戦争(1778〜83) アメリカ独立戦争(1775〜83)
フランス革命にたいするイギリスの干渉(1793〜1802)
ナポレオン戦争(1803〜15)/アメリカ・イギリス戦争(1812〜14)
 
カーナティック戦争 18世紀中頃のインドにおけるイギリスとフランスの抗争。第1次が1744〜48年、第2次が50〜54年、第3次が58〜61年。カーナティックとは地名で、南インドの東海岸一帯を言う。その地方は、イギリスがマドラス、フランスがポンディシェリをそれぞれ拠点としてインド進出を展開していたが、イギリスにはクライヴ、フランスにはデュプレクスに率いられた英仏両軍が、現地勢力とそれぞれ結んで対立した。またヨーロッパでは同時にオーストリア継承戦争七年戦争が展開され、そこでも英仏は対立していた。
第1次と第2次ではフランスのデュプレクスの働きでフランスが有利に戦いを進めたが、デュプレクスが本国に召還された後の、第3次でイギリスが勝利を占め、フランスのインドにおける勢力は大きく後退することとなった。
b 七年戦争  →第10章 第1節 七年戦争
c プラッシーの戦い 1757年、インドのベンガル地方で起こった、クライヴ指揮のイギリス東インド会社軍ベンガル太守軍との戦争。イギリスは、ベンガル太守軍を破り、インド植民地化の第一歩を踏み出した。プラッシーはベンガル地方のカルカッタの北方にある村(現地ではポラシという)。ベンガル太守はムガル帝国から独立した地方政権で、当時シラージュッダウラが太守であったが、彼はイギリスのベンガルでの勢力拡大を食い止めようと、カルカッタを攻略した。マドラスにあったクライヴは急遽カルカッタ回復に向かい、カルカッタから太守を追いだし、さらに近郊のプラッシーで太守軍5万を破り、太守を捕らえて殺害、新太守にミール=ジャファールを据えた。なおこの時の戦争で、東インド会社のクライヴは、初めて2000人のインド人兵士を傭兵として雇った。彼らはシパーヒーと言われ、会社の軍事力を支えることとなる。このプラッシーの戦いからちょうど100年後の1857年にはこのシパーヒーがイギリスのインド支配に抵抗して反乱を起こし(インド大反乱)、インド独立闘争の第一歩が始まる。
イギリスとフランスは、インドにおけるプラッシーの戦いと同じ時期に、アメリカ大陸でのフレンチ=インディアン戦争、ヨーロッパ本土での七年戦争でも戦っており、いわば「英仏の世界戦争」の一環だった。
d クライヴ イギリス東ンド会社の書記から身をお起こし、会社軍の司令官となった。1757年、プラッシーの戦いでフランスの支援を受けたベンガル太守軍を破り、フランスの進出を抑え、イギリスのインド支配の基礎を築いた。1765年にはベンガル知事となり、ムガル皇帝から東インド会社にベンガル、ビハール、オリッサの地域の徴税権(ディワーニー)を与えることを認めさせた。東インド会社は単なる貿易会社ではなく、インドを直接支配する植民地支配機関へと変質する。
Epi. クライヴの権謀術数と悲劇的な死 ロバート=クライヴは18歳で東インド会社に雇われた事務官であった。しかし、1751年、カーナティック戦争でイギリス軍が不利な情勢になったとき、志願して500の兵を率いる少尉に任官し、めざましい戦果を挙げた。そしてプラッシーの戦いでは巧みな戦術と権謀術数でベンガル太守軍を破り、一躍英雄となった。この戦争ではクライヴは太守軍の軍司令官ミール=ジャーファルを買収し、戦闘で主力部隊が動かないという約束を取り付けていた。それを知らぬ太守は命令を出しても動かない我が軍に絶望し、逃亡したが途中クライヴ軍に捕らえられて処刑された。クライヴは新しい太守に買収したミール=ジャーファルを就任させ、イギリスの傀儡にすることに成功した。クライヴは本国に帰ると英雄として迎えられ、男爵となった。ついでベンガル総督に任命され莫大な資財を蓄えることができた。1767年、病気のため職を辞してイギリスに帰ったが、帰国後はインドでの強引な振る舞いと巨額の資財を蓄えたことに非難がわき起こり、議会に喚問されることとなった。その結果無罪にはなったが財産は没収され、1774年、クライヴは世間の冷たい目と病苦のために、ナイフで自らの喉を切って生を断った。<河出書房新社版『世界の歴史』19 近藤治執筆分などによる>
e デュプレクス  → デュプレクス
f フレンチ=インディアン戦争  → フレンチ=インディアン戦争
    
イ.アメリカにおける植民地争奪
A スペイン (の中南米植民地)コロンブス以来、スペインとポルトガルとの世界分割で、ブラジルを除く南北アメリカ大陸の大半を獲得したスペインは、1521年にはアステカ王国を滅ぼし、直接統治を開始した。以後約300年にわたる中南米(ラテンアメリカ)のスペイン植民地時代は、16世紀を「征服の時代」、17世紀を「停滞の時代」、18世紀を「ブルボン時代」または「反乱の時代」にわけることができる<国本伊代『概説ラテンアメリカ史』p.19>。16〜17世紀のスペイン植民地支配は、征服者(コンキスタドーレス)によってインディオの文明は破壊され、苛酷な植民地経営をカトリックの布教と結びつけて展開され、急激なインディオ人口の減少をもたらした。スペインは当初はエンコミエンダ制による経営を行ったが、インディオの人口が減少するとアシエンダ制という大土地所有制をとり、また金銀などの資源を独占した。
スペインは「インディアス」と呼んだ新大陸植民地をヌエバ=エスパーニャ(ほぼ北米)とペルーの副王(スペイン国王の代理)に分けて支配し、重要地点にアウディエンシアという司法・行政機関を置いた。また植民地統治の上で、カトリック教会とその教区司祭が重要な役割を果たした。植民地社会には、入植者である白人には本国生まれのスペイン人と、現地生まれのスペイン人(クリオーリョ)の違いがあり、現地のインディオは次第にその人格は認められ身分上は自由人扱いであったが、現実には経済的に貧しく、また白人とインディオの混血であるメスティーソが実質的にその上に存在した。また奴隷として連れてこられた黒人も多く、また白人と黒人の混血であるムラートも増えてきた。ラテンアメリカはこの複雑な人種的身分制社会として続くが、権力を握っている本国人に対するクリオーリョの不満や、身分差別に苦しむメスティーソ、インディオ、黒人らの中から独立運動の主体が育っていく。 → ラテンアメリカの独立
a ブラジル  → 第9章 1節 ブラジル
b 黒人奴隷  → 第9章 1節 黒人奴隷
c 金銀を独占  
d アシエンダ制 17世紀以降のラテンアメリカ(中米と南米)のスペイン植民地において、スペイン人大土地所有者が、現地人を債務奴隷として経営する大農園のこと。その地主であり経営者である白人入植者は現地のインディオの債務者を債務奴隷として家父長的に支配しながら経営した。16世紀に行われていたエンコミエンダ制はスペイン王室の政策として、キリスト教布教と引き替えに入植者にインディオに対する強制労働を認めたものであったが、人口減少という結果をもたらしたので次第に衰え、17世紀には大土地所有者の私的な大土地所有であるアシェンダ制が成立した。とくに、スペイン領メキシコで典型的に見られた。アシエンダ制は鉱山や都市の人口の食糧を供給する目的で作られ、現地の食料用穀物の生産を行っていたので、輸出用の単一の商品作物を生産する大農園であるプランテーションとは異なっている。(広い意味ではプランテーションの一つの形態ととらえることもできる。)なお、穀物の他に、竜舌蘭の根から採るメキシコ独特の酒テキーラもアシエンダ制の農園で生産されていた。
アシエントなどとの違いに注意:なお、アシエンダ(hacienda)はスペイン語で本来は「財産」の意味。黒人奴隷貿易の特許権を意味するアシエント(asiento)とはまったく別なことなので注意すること。似た言葉に最近よく使われるアジェンダ(agenda)があるが、これは「会議の議題」という意味。なおアジェンデ(Allende)は戦後のチリで社会主義政権を樹立した政治家の名前。似た言葉が4つあるので注意しよう。
B オランダ  
a 西インド会社  →第9章4節 西インド会社
b ニューアムステルダム  
c ニューヨーク  →第10章 1節 ニューヨーク
C フランス  
カルティエ フランスのフランソワ1世の命により、1534年から3度にわたり、現在のカナダの北西部セントローレンス川流域を探検した。フランソワ1世はスペイン・ハプスブルク家のカルロス1世と対抗するため、アメリカ大陸の北部に植民地を獲得することと、アジアへの通路を探索することをブルターニュ生まれの船乗りジャック=カルティエに託した。彼はアジアへの通路を発見することはできなかったが、広大なセントローレンス川流域に足を踏み入れ、フランス領カナダ(ヌーヴェル=フランス)獲得の始まりとなった。
Epi. カナダの地名 カルティエは初めて大きな入り江に入った日が「聖ローランの日」だったので、その入り江にセントローレンス川という名前をつけた。さらにセントローレンス川をさかのぼり、川の隘路にさしかかったため上陸し、近くの村を訪ねた。そこはイロクォイ族インディアンの集落だった。カルティエはインディアンたちが「カナッタ」と言っているのを聞いて、この地の地名だと思い、それが現在のカナダの地名となった。しかし、「カナッタ」とは、インディアンの言葉で「集落」という意味だったらしい。また上陸地点は後にケベックといわれるようになるが、それもインディアンのことばで「川の隘路」の意味だという。さらに上流で、川を逆登れなくなったカルティエはうらめしげに西の山を見上げて、その山を「王の山(モン=ロアール)」と名付けた。この名からこの地をモントリオールといようになった。<ケアレス『カナダの歴史』1977 山川出版社 p.36-37、細川道久『カナダの歴史がわかる25話』2007 p.94>
a カナダ 北アメリカ大陸のアメリカ合衆国の北側から北極圏にいたる大国。フランス、イギリスが植民地化に進出して抗争した後、イギリス領となる。1867年に自治領となり、その後もイギリス連邦の一員にとどまりながら、第2次世界大戦後に実質的な独立を確立した。
カナダ史のまとめ(自治の開始前まで)
1.先住民の時代:4万年前の氷河期に、ベーリング海峡が地続きであったので、モンゴロイドがシベリアから北米大陸に移動し、現在のインディアンやイヌイットなどの先住民となる。彼らは氷原や森林での狩猟生活を営み多くの部族に分かれて生活していた。
2.ヴァイキングの渡来:西暦1000年頃、北ヨーロッパのヴァイキングと言われる漁業民がアイスランドを経由してニューファンドランド島に到達したが、彼らの居住地は永続しなかった。 → ヴァイキングの北アメリカへの入植
3.ヨーロッパ人の「カナダ」発見:1497年、イギリス(ヘンリー7世)の派遣したイタリア人のカボットがアジアに到達する西北航路を発見を目ざしたが、その途中に現在のノヴァ=スコシア、ニューファンドランドに到達し、ヨーロッパ人として最初に北米大陸に上陸した。この海域は豊かなタラ漁場だったので、イギリスやスペイン、ポルトガル、フランスなどの漁師が殺到するようになった。しかしこの段階ではイギリスはこの地に植民地を領有しようとはしなかった。
4.フランスの進出:1534年、フランスのフランソワ1世ジャック=カルティエを北米に派遣、セントローレンス川流域を探検させた。カルティエはこの地をカナダと名付け、フランスは1534年にはこの地をフランス領とすると宣言し、1603年アンリ4世の時に植民地を成立させた。ついで1608年、フランス人サミュエル=ド=シャンプランがセントローレンス川中流域に永続的なケベックを創設、ヌーヴェル=フランスとして植民地経営を開始した。さらに、ルイ13世の宰相リシュリューは1627年、ヌーベル=フランス会社を設立し、植民地経営を会社に委ねた。フランスの植民目的はインディアンとの毛皮交易(ビーバーの毛皮が、ヨーロッパで帽子の材料とされて需要が高まっていた)を行った。フランスはさらに1642年にはモントリオールにも拠点を設ける。ルイ14世のもとでコルベールはヌーベル=フランス会社を廃止、植民地を王領(直轄領)とした。フランスは五大湖地方からミシシッピ川流域に南下して植民地を拡大、1682年にルイジアナとして領有した。
一方、 イギリスではハドソンが17世紀の初め、アジアへの通路(北西航路)を探索させたが、失敗した。その後、ハドソン湾地方が豊かな毛皮産地であることに注目し、ハドソン湾会社を設立して、インディアンとの毛皮貿易を開始し、カナダ西部の内陸地方にも進出し、次第にフランスとの競争が激しくなった。
5.フランスとイギリスの抗争:18世紀のイギリスとフランスの植民地抗争は北米大陸でも激しくなり、スペイン継承戦争(北米ではアン女王戦争)後の1713年のユトレヒト条約ではニューファウンドランドとハドソン湾をイギリスに割譲し、七年戦争(1756〜63年)と並行してフレンチ=インディアン戦争が起きた。この戦争はイギリスが優位に戦い、イギリス軍がフランスの拠点ケベックを占領、1763年のパリ条約でフランスはカナダの大部分をを放棄することとなった。これによってイギリス領カナダ植民地が成立することとなった。
6.イギリス領カナダ植民地:イギリス植民地議会は1774年ケベック法を制定し、ケベックのフランス系住民(約65000人)に対し、そのカトリック信仰、フランス語の使用、フランス民法の適用を認めた。翌1775年にアメリカ独立戦争が勃発すると、独立に反対したロイヤリスト(王党派)がイギリス領カナダに大量に移住してきた。アメリカ合衆国の独立勢力はカナダも加わることを働きかけたが、実現せず、カナダはイギリス植民地として残ることとなった。この間、1793年には、マッケンジーがロッキー山脈を越えて大陸横断に成功し、植民地は太平洋岸にひろがった。 → カナダの自治  → 現代のカナダ
シャンプラン  
b ケベック カナダのケベック州の州都。このセントローレンス川流域は、フランス人のシャンプランが探検し、フランス植民地ケベックとして1603年(ブルボン朝初代アンリ4世の時)に成立した。ヨーロッパの七年戦争(1756〜63年)に連動して英仏の植民地抗争であるフレンチ=インディアン戦争(1755〜63年)が起こると1759年にイギリス軍がケベックを占領、1763年のパリ条約でカナダ全体がイギリス領となり、ケベックもその一部となった。1867年のカナダ連邦が成立してケベック州となったが、フランス系カナダ人が現在でも多数を占め、フランス語圏となっており、カナダからのケベック分離独立運動が続いている。
c ルイジアナ 1682年、フランス人の探検家、ラ=サールがミシシッピ川流域を探検。この地をルイジアナと名付け、時のルイ14世に献上した。現在のアメリカ合衆国のルイジアナ州の範囲よりも広いミシシッピ流域全体をさす地名であった。フランスはこの地の経営を維持ずることができず、1763年に七年戦争の結果のパリ条約で、ミシシッピ川以西とニューオリンズをスペインに、以東をイギリスに譲渡した。ミシシッピ以東はアメリカ独立の結果、1783年のパリ条約でアメリカに編入された。フランスのナポレオンは、ミシシッピ以西を取り戻したが、結局財政難から1803年にアメリカに売り渡した。こうしてルイジアナはアメリカ領となったが、その後も南部には独特なフランス系文化が残存している。 → アメリカのルイジアナ購入
D イギリス   
a ヴァージニア  →第9章 4節 ヴァージニア植民地 
b ピューリタン  →第9章 3節 宗教改革 ピューリタン
c ニューイングランド ニューイングランド地方とは、現在ではアメリカ北東部の諸州、マサチューセッツ、コネチカット、ロードアイランド、ニューハンプシャー、メーン、バーモントの6州を指す。アメリカ大陸で最も古くイギリスからの入植が進み、商工業が発達した地域である。はじめは、プリマス、ボストンなどの入植地(コロニー)に、ピューリタン系の人々が入植し、次第にクェーカー教徒やカトリック教徒なども増え始め、コロニー同士は必ずしも協調的ではなかったが、それぞれ自治の仕組みを整え、タウン制度を生み出した。特にニューイングランド地方は、ボストンに代表されるように、学術研究の中心としての伝統を形成させた。
d 13の植民地  → 第11章 2節 アメリカ独立革命 13植民地
e インディアン 異種の文明である白人を受け入れたインディアンは、多くは友好的で、白人を交易の相手と考えた。しかし、イギリス入植者の数が急増し、土地や資源が次々と奪われていく中で、次第に激しく抵抗するようになった。白人の入植地を襲撃し、その報復として白人によるインディアンの虐殺が繰り返され、インディアンは次第に西に追いやられていくこととなった。
Epi. ポカホンタスの物語 イギリス人の最初の入植地ヴァージニアのジェームズタウンの地は、インディアンのポーハタン族の支配する地域であった。105人の最初の入植者は次第に食料に困るようになり、インディアンの部落を荒らし、食料を奪ったので、ポーハタン族との関係は悪化した。入植者の指導者の一人ジョン=スミスもインディアンと戦い、捕らえられ殺されそうになったところを、酋長の娘ポカホンタスの助命で助けられた。現在でもジェームズタウンの町には恩人ポカホンタスの銅像が建っている。ポカホンタスはその後、白人青年ジョン=ロフルと結婚した。ロフルはポカホンタスに助けられ、ジェームズタウンで初めてタバコの栽培と乾燥に成功する。レベッカというクリスチャンネームを授けられたポカホンタスは、1616年に夫とともにロンドンに赴き、大歓迎を受けた。しかし不幸にも天然痘のためイギリスで死んだ。<中屋健一編『世界の歴史』11新大陸と太平洋 中央公論社 1961 p.7>
 ハドソン 16世紀末〜17世紀初めのイギリス人で、北アメリカ大陸のハドソン川、ハドソン海峡、ハドソン湾にその名を残す探検家。イギリスのカナダ経営に大きな役割を果たしたが、北回りで太平洋に出るルートを探検中に遭難した。
「イギリスは十七世紀まで、毛皮にもまして北極海経由で中国へ到達するルート、いわゆる”北西航路(ノースウェスト・パシジ)”の発見にこだわり続けた。その発見に生涯をかけた一人が、ヘンリー・ハドソンである。彼の名前は、むしろニューヨークとのつながりで有名かもしれない。オランダ東インド会社に雇われてアメリカ東海岸を探検した彼は、1609年にマンハッタン島に流れこむ川をさかのぼり、それがハドソン川と名づけられた。26年にオランダが、マンハッタン島を24ドル分の装身具で先住民から”購入”してニューアムステルダムを開く、これがニューヨークの前身となった・・・・。ハドソン川の流域も最初は重要な毛皮産地だったが、ハドソン自身の目的は、毛皮より北西航路の発見にあった。1610年に彼は英国王ジェイムズ1世の援助で、50トンの帆船ディスカヴァリー号を指揮して北西航路をめざしすが、これが悲劇の幕開けだった。ヌーヴェル・フランスよりはるか北に針路をとった彼は、後に彼の名がつけらるるハドソン海峡を抜ける。北米大陸を北からスプーンでえぐり取ったようなハドソン湾に達した一行は、これで大陸の北端をまわりきったと信じ、あとは南下して太平洋に達するだけだと歓喜した。だが海峡から1000キロ南下したハドソン湾南端のジェイムズ湾で、彼らは完全な袋小路にぶつかる。すでに九月に入って冬将軍が近づいており、年内の帰国は、もはや不可能だった。一行はやむなくジェイムズ湾の越冬に入る。想像を絶する寒さのなかで、全員が壊血病による関節痛、内出血、歯の脱落に苦しんだ。・・・ついに越冬にいらだって、一日でも早く帰国したがっていた乗組員は6月17日に反乱を起こし、ハドソンと彼の幼い息子・・・合計九人を救命ボートに移して置き去りにしてしまう。・・・本国にたどり着いた反乱者は、殺人罪で起訴されたが、証拠不十分で釈放された。偉大な探検家を飲み込んだハドソン湾はその後、半世紀の間忘れ去られてしまう。」<木村和男『カヌーとビーヴァーの帝国 カナダの毛皮交易』 2002 山川出版社 p.37-40>
 ジャマイカ ジャマイカはキューバの南のカリブ海に浮かぶ島。1655年、クロムウェルの時イギリスに征服され、以後1958年までその殖民地とされ、特に砂糖は西インド最大の産地となり、アフリカとの三角貿易で運ばれた黒人奴隷を使役が砂糖プランテーションの労働力とされた。ジャマイカの砂糖と黒人奴隷貿易はイギリスに大きな冨をもたらした。フランス革命中にハイチで黒人反乱が起きると、ジャマイカでも黒人暴動が起き、白人支配者の苛酷な弾圧が行われた。アメリカ南北戦争の時にも1865年に西インド全域で黒人の武装蜂起が起こったが、本国の派遣した軍隊によって鎮圧された。イギリスは1953年にようやく自治を認め、1958年には他の西インドのイギリス自治領とともに「西インド連邦」を結成して独立したが、諸島・諸地域間の歩調が合わずに62年に解散し、同年8月、ジャマイカとトリニダート・トバゴが分離独立した。<『世界各国史』1965年版 p.598>
クロムウェルのジャマイカ征服:コロンブスのカリブ海探検によって知られるようになり、スペイン人が入植し、砂糖などの栽培を始めていた。イギリスでピューリタン革命が起こり、クロムウェルが政権を取ると、彼は有名な「西方計画」を立案した。これは「エスパニャ(スペイン)王の、精神、政治両面にわたる、悲惨な束縛と拘束」からインディオの住民を解放し、「真の宗教(プロテスタンティズム)をひろめること」を宣言するものであると同時に、西インド全域にイギリスの利益を拡げる動機があった。計画に従い、ウィリアム=ペンらに率いられた艦隊がまずエスパニョラ島(現在のハイチとドミニカ)占領をめざしたが、疫病と大雨のために失敗し、目標をジャマイカに変更、1655年5月に占領した。現地人の抵抗は5年ほど続いたが、結局イギリス領となった。<増田義郎『略奪の海カリブ』1986 岩波新書 p.113-114>
ジャマイカの海賊:イギリス領ジャマイカの港ポート=ロイヤルは、スペインの艦隊や商船から、バッカニーアと言われて恐れれられた海賊の基地となった。最も有名なヘンリー=モーガンはキューバやパナマのスペイン領の都市を襲撃し、莫大な財宝を得ていた。彼は本国のチャールズ2世などに賄賂を送り、ナイトの位とジャマイカの裁判所判事の地位を得た。さらに1674年にはジャマイカ副総督に任命され、表向きは海賊取り締まりを強化すべきだと唱えていたが、裏ではひそかに私掠免許状を海賊に発行し、戦利品の10%を得ていた。このことが表面化して、モーガンは1683年に公職追放処分を受けた。<武光誠『世界史に消えた海賊』 2004 青春出版社 p.94>
E アメリカ大陸での英仏の対立  
a スペイン継承戦争  →第10章 1節 スペイン継承戦争
b アン女王戦争  →第10章 1節 アン女王戦争
d オーストリア継承戦争  →第10章 1節 オーストリア継承戦争
ジェンキンズの耳戦争1739〜42年に起こった北米植民地におけるイギリスとスペインの戦争。イギリスとスペインの対立は、1740年に始まるオーストリア継承戦争に引き継がれた。「ジェンキンズの耳」とは、イギリスの貿易船の船長ジェンキンズが、西インド諸島のスペイン領で、スペイン官憲によって不当に勾留され、耳を切られたとして、その実物の耳を示してイギリス下院に訴えたことをいう。時のウォルポール首相は議会に押されてスペインに宣戦布告した。背景には、ユトレヒト条約アシエント(奴隷供給契約)と毎年1隻の商船をスペイン領アメリカに派遣する権利を認められたイギリスが、それに乗じてスペイン領西インド諸島などで盛んに密貿易を行ったことにある。イギリスは、キューバを攻撃したが占領に失敗した。またチェロキー族やクリーク族などのインディアンを味方に引き入れ、ジョージアとフロリダを舞台にスペインと戦ったが、決定的勝利には至らなかった。
Epi. ジェンキンズの耳 「1738年3月17日、イギリス議会下院に、ロバート・ジェンキンスという名の船長が出頭し、ブランデー漬けにしたじぶんの片耳を議員たちに示して、これはキューバ沖で、エスパニャの沿岸警備船につかまったとき切りおとされたものだ、と説明して、エスパニャ人の残虐を訴えた。‥‥しかしジェンキンズが片耳を切られたのは、七年もむかしの1731年のはなしであった。彼はそのことをひとことも言わなかった。議員たちは激昂し、「アメリカ水域のいかなる地方にでも船を進めるのは、イギリス臣民の疑うべからざる権利である」という決議を通した。これが国民の喝采を博し、翌年ウォルポールは意に反して、エスパニャとの交戦を決意した。これがいわゆる”ジェンキンズの耳戦争”である。」<増田義郎『略奪の海カリブ』p.183-184>
e ジョージ王戦争 1744〜48年まで、オーストリア継承戦争の最中に、アメリカ大陸で起こったイギリスとフランスの戦争。ジョージ王とはイギリス・ハノーヴァー朝第2代のジョージ2世。イギリス首相はウォルポール。フランスはルイ15世の時代。カナダのアカディア谷、ニューイングランド境界、オハイオ河流域などが争点となり、45年からのフイスブルグの戦いなどでインディアンなども加わり、戦闘が続く。勝敗がつかず、引き分けで終わり、1748年、アーヘンの和約で互いに占領地を交換した。
g 七年戦争  →第10章 1節 七年戦争
h フレンチ=インディアン戦争 ヨーロッパでの七年戦争(1756〜)とほぼ同じ時期の、1754〜63年まで、アメリカ大陸でのイギリスとフランスの戦争。「フランスおよびインディアンとの戦争」ともいう。フランス軍が、インディアン諸部族と結んで、イギリス植民地軍を攻撃したので、イギリス側でこのように呼ばれる。始め、仏軍がオハイオ河に進出し優勢であったが、英軍が本国の大ピットの指示で植民地戦争に力を入れるようになって形勢が逆転する。イギリス軍は1759年にケベック、60年にモントリオールを占領。1763年、パリ条約が締結され、フランスは北米植民地のほとんどを失い、インドでも後退を決定的にし、イギリスの植民地大国としての地位が確定した。 
j ユトレヒト条約  →第10章 1節 ユトレヒト条約
ジブラルタル イベリア半島最南端の岬をジブラルタルといい、アフリカ大陸との間の地中海の東端の海峡がジブラルタル海峡。ジブラルタルは現在はイギリス領。対岸はアフリカのモロッコで、セウタ(現スペイン領)とタンジール(モロッコ領)がある。
古代〜中世:この地は地中海の出入り口を扼し、ギリシア人には「ヘラクレスの柱」として知られていた。最初に進出した東方の民族はフェニキア人で、ここから大西洋に抜け、ブリテン島の錫やアフリカ西岸の金などを得ていた。ついでカルタゴが進出しその勢力圏に入った。カルタゴはさらに大西洋側にも乗り出している。ローマ時代にも西端の要衝となった。ローマ衰退後、ゲルマン民族の一つのヴァンダル族がこの海峡を越えてアフリカに入り、旧カルタゴの地に王国を築いた。その後もヨーロッパとアフリカの間に横たわるこの海峡はしばしば大きな歴史の舞台に登場する。711年にイスラームのウマイヤ朝軍がこの海峡を越えてイベリア半島に侵入し、この地は1462年までイスラーム諸王朝の支配を受けることとなる。その後レコンキスタを完了したスペイン領となる。ポルトガルは1415年、ジョアン1世の皇太子エンリケが対岸のセウタを占領、新航路開拓に乗り出す。1580年にはセウタはスペイン領となった。
近代〜現代:スペイン継承戦争の際にはイギリス軍が上陸占領し、1713年の講和条約ユトレヒト条約でイギリスに割譲された。それ以来現在に至るまで、ジブラルタルはイギリス領土として続いており、英語とポンドが使われ、二階建てバスが行き来している。当然スペイン政府は再三にわたって返還を要求しているが、イギリスは海軍基地を手放すことができず、返還は認められていない。対岸では1905年、ジブラルタル海峡のモロッコ側の港タンジールにフランスが進出したのに対して、ドイツ帝国のヴィルヘルム2世が自らタンジールに上陸して対抗するというタンジール事件(第1次モロッコ事件)が起こっている。
Epi. ジブラルタルの語源 ジブラルタルという地名は、711年にイスラームのウマイヤ朝軍がイベリア半島に侵入したとき、アラブの遠征部隊指揮官ターリク・ブン・ジヤードに由来し、「ターリクの山」を意味する Jabal al-Tariq (ジャバル−アル−ターリク)が語源で、スペイン語に転訛したものとされる。<フィリップ・コンラ『レコンキスタの歴史』文庫クセジュ による>
k パリ条約 1763年締結の七年戦争の時の植民地戦争であったフレンチ=インディアン戦争の講和条約。イギリス、フランス、スペインの三国間で締結された。
(1)イギリスはフランスからカナダとミシシッピ以東のルイジアナを獲得。
(2)イギリスはスペインからフロリダを獲得。
(3)スペインはフランスからミシシッピ以西のルイジアナを獲得。
(4)インドでは、フランスはシャンデルナゴール・ポンディシェリ以外の全ての地域でイギリスの優越権を認めるフ。
結果的にイギリスのアメリカ大陸とインドにおける優位が確定し、フランスの植民地戦争での後退が決定的となった。
l プラッシーの戦い  → プラッシーの戦い
m カナダ  → カナダ
n ルイジアナ  → ルイジアナ
o アメリカ独立革命  
p フランス革命  
   
ウ.三角貿易
a 黒人奴隷貿易 奴隷貿易は、古代ローマ世界やイスラーム世界にもみられるが、最も大規模に展開されたのは16〜19世紀のアフリカ大陸の黒人をアメリカ大陸に売るという、ヨーロッパ諸国の奴隷商人によって行われた黒人奴隷貿易である。17世紀までの黒人奴隷はスペインの特許事業(アシエント)として行われていたが、18世紀以降はイギリスやフランスによる三角貿易の一部をなすようになった。特にイギリスはスペイン継承戦争の勝利により、1713年のユトレヒト条約で、アシエント(スペイン領への黒人奴隷供給契約)を獲得し、新大陸への黒人奴隷貿易を独占した。奴隷とされた黒人は、主にアフリカ西岸のギニア地方からかり出され、いわゆる中間航路でアメリカ大陸や西インド諸島に輸出された。19世紀になると、その非人道性が問題にされるようになり、イギリスでは1833年、フランスでは1848年、アメリカでは1863年に奴隷労働が禁止される。 →黒人奴隷(三角貿易) イギリスの黒人奴隷貿易
b 西インド諸島  
c インディオ  → 第9章 1節 インディオ  インディの人口減少
d アフリカ黒人  
e ギニア地方 ここでギニア地方というのは、現在のギニアやギニア=ビサウではなく、リベリアから西のアフリカ西岸で大きく湾曲しているギニア湾沿岸地方、その南端はほぼ赤道付近までをいう。このあたりの古い地図を見ると、象牙海岸とか、黄金海岸という地名に並んで奴隷海岸というのがある。それぞれ積み出された商品から名づけられたものでありる。15世紀からポルトガル人が奴隷貿易を行ってきたのがこの地方であった。
f プランテーション プランテーションとは、一般に、熱帯・亜熱帯地域の植民地で、白人の入植者が、現地人または黒人奴隷を労働力として、砂糖・タバコ・茶・コーヒー・ゴムなどの単一の商品作物を栽培する大農園、とされる。世界史上では、16世紀のポルトガルによるブラジルの砂糖プランテーションに始まるとされる。しだいに中南米諸地域での、タバコ、コーヒーなどの生産を行う、オランダ、フランス、イギリスなどの植民地でも用いられるようになった。また、インドとセイロンでは茶の、東南アジアではゴムのプランテーションが造られた。特に北アメリカの南部における綿花プランテーションは、アメリカの独立を支える産業となる。しかし、この奴隷制プランテーションでは、黒人奴隷を使役するため、人道的な問題が生じるようになり、自由主義、人権思想の発展とともに衰退し、プランテーションも奴隷労働力ではなく、現地人を安価な労賃で雇って労働力とする方式に変化していく。現在では外国資本が、低開発地域で現地の労働力を使って資本主義的経営を行う大農園をプランテーションと言っている。 
g 三角貿易 (大西洋)17〜18世紀に展開された、イギリスによる、本国とアメリカ大陸(ジャマイカ島など西インド諸島含む)、アフリカ大陸を三角形に結ぶ、大西洋上の貿易。イギリスは自国製品の武器や雑貨をアフリカには運び、アフリカから黒人奴隷をアメリカ植民地に送り、アメリカ植民地・西インド諸島から、砂糖タバココーヒーと言った産物を本国に運び、さらにヨーロッパ各国に供給して大きな利益を上げていた。リヴァプールはそのような奴隷貿易船の拠点として繁栄した。18世紀後半のイギリスの産業革命期になると、イギリスのリヴァプールやブリストルなどの奴隷貿易で栄えた港の荒廃地に木綿工業が発達した。また、イギリス領北アメリカのニューイングランドも独自の三角貿易を展開した。その場合は、ラム酒が主要な商品であった。ラム酒がアフリカ西海岸で黒人奴隷と換えられ、黒人奴隷が中間航路で西インド諸島に運ばれ、そこでラム酒の原料の糖蜜に姿を変え、ニューイングランドに運ばれるというものであった。
なお、19世紀のイギリスは、本国とインド、中国を結ぶ三角貿易も展開する。
h 砂糖 砂糖は現在の私たちにとっては、欠くことのできない、またありふれた甘味料となっているが、それがヨーロッパで普及したのは16世紀以降のことである。砂糖が普及する前の甘味料としては蜂蜜などが用いられているにすぎなかった。砂糖はサトウキビ(甘蔗)という植物が原料で、原産地はかつてはインドとされていたが、現在ではインドネシアのどこかと考えられている。サトウキビの栽培と製糖の技術は、まずイスラーム世界で始まり、11〜13世紀にはエジプト産の砂糖がカイロのカーリミー商人の手によって輸出され、「砂糖はコーランとともに」西方に伝わった。英語の砂糖 sugar はアラビア語の砂糖を意味する sukkar 、砂糖菓子の candy はアラビア語の粗糖を意味する qand が語源であるという。砂糖は十字軍運動を通じてヨーロッパに知られるようになったが、初めは貴重な薬品として用いられていた。大航海時代になってコロンブスは第2回の航海で西インド諸島にサトウキビの苗木を持ち込み、後にスペイン人によるサトウキビの栽培が開始された。ポルトガルは1500年にブラジルを獲得すると、奴隷労働を使ったサトウキビの栽培に乗り出し、砂糖プランテーションが作った。これが大成功となり、以後世界の砂糖貿易はポルトガルが主導権を握った。その後、イギリスのバルバドス島やジャマイカ島、フランスのマルチニク島など西インド諸島でも砂糖の栽培に力を入れるようになり、これらの砂糖プランテーションではアフリカからの黒人奴隷が労働力として広く用いられるようになった。こうして、砂糖はヨーロッパ・アフリカとを結ぶ、三角貿易の主要な商品(staple)となった。砂糖の消費が爆発的に増加したのは、17世紀のイギリスで、コーヒーハウスが流行し、始めコーヒー、ついでに砂糖を入れて飲む習慣が始まったことによる。18世紀のイギリスでは、アジア産の茶に西インド産の砂糖を入れ、アジア産の陶器に入れて飲むという、まさに「世界商品」を消費する国となった。同時に「砂糖のあるところに奴隷あり」と言われるように、黒人奴隷によるプランテーションで生産されていたのである。19世紀の中頃はスペイン植民地のキューバが最大の産地となった。<以上、川北稔『砂糖の世界史』1996 岩波ジュニア新書などによる>
綿花 (と綿織物)綿花は綿織物の原料。綿花を栽培し綿織物をつくる技術はインダス文明がその起源であり、長くインドの特産品であった。インド産綿布は16世紀以来ヨーロッパに輸出され、その積み出し港の地名であるカリカットからキャラコ(キャリコ)といわれるようになった。17世紀には綿布はイギリス東インド会社の主要な輸入品となり、イギリスでの需要がたかまったので、イギリスは逆に綿織物生産に乗り出すようになり、それがイギリス産業革命の原動力となった。イギリスの綿工業が成立すると原料の綿花を逆にインドから輸入するようになり、さらに西インド諸島やアメリカ大陸で綿花を栽培するようになった。イギリスの綿織物生産が爆発的に増加するなかで、18世紀末にアメリカのホイットニーが綿操り機を発明すると、アメリカ南部の綿花プランテーションでの黒人奴隷による綿花の生産が増大し、三角貿易の一角を占めてイギリスへの輸出品となった。インドにおいては家内工業での綿織物は急速に衰退し、農民は綿花栽培に特化していく。イギリスの植民地支配をうけるなかでインドの綿花生産は、19世紀の南北戦争の時期にアメリカ産綿花が原産となったため、生産を増やし、本国の産業を支えることとなった。
 → 中国の綿花・綿織物
タバコ タバコ(煙草)は、アメリカ新世界のインディオによって栽培され、用いられていた。その起源は、マヤ族が宗教的儀礼に用いたものであったらしい。それがヨーロッパに知られたのは、コロンブスの西インド諸島到達によってであった(彼らが喫煙の習慣をヨーロッパに持ち帰ったわけではない)。やがて西インド諸島を制圧したスペイン人が喫煙の習慣を「タバコ」 tabaco というスペイン語とともに、ヨーロッパにもたらした(16世紀前半のこと)。さらにポルトガル人によって日本などのアジアにも伝えられることになる。タバコとはもとは現地人が用いる喫煙具のことだったらしい。また、最初にヨーロッパに喫煙の習慣を持ち込んだのは、イギリスのエリザベス女王時代のウォルター=ローリーであったとされている(これは単なる伝説にすぎないという説もある)。次ぎに1612年に、ヴァージニア植民地のジェームズタウンで、ジョン=ロルフが煙草の栽培とその葉の乾燥に成功、早くも1619年には黒人が奴隷としてヴァージニアに「輸入」され、黒人奴隷を労働力としたタバコ・プランテーションが形成され、イギリス本国への重要な輸出品となった。<この項、宇賀田為吉『タバコの歴史』岩波新書 などによる>
Epi. ニコチンの語源 ニコチンは、フランス語でタバコのこと(nicotiane)であるが、これは16世紀の中頃、ポルトガル駐在のフランス大使であったジャン=ニコが、タバコをリスボンから本国のフランソワ2世に献上したことで、タバコがフランスで知られるようになったことから、その通称がニコチンと言われるようになったという。フランソワ2世の母で、フランスの実権を握っていたカトリーヌ=ド=メディシスが、ニコから送られたタバコを頭痛薬として使用した(嗅ぎタバコ)ことから、フランスの宮廷でタバコが流行するようになった。<宇賀田為吉『タバコの歴史』岩波新書 1973 p.51>
コーヒー コーヒーの木は年間を通して霜の恐れのない温暖な気候と、年間1200ミリの降雨量を必要とするので、ヨーロッパ大陸では栽培できない。亜熱帯の適当な高度の一帯が「コーヒーベルト」地帯といわれ、主に北半球の温帯に集中する先進国の需要をまかなっている。コーヒーの原産地はエチオピアであり、16世紀にはイエメンで栽培されるようになり、イスラーム教のスーフィズム(神秘主義)の信者が眠気を払い祈りに専念するために用い始めた。1536年、イエメンがオスマン帝国領となってから、イスラーム世界に広がり、イスタンブールで「コーヒーの家」が多数作られた。紅海の入り口に近いアラビア半島のモカが最初に盛んになった積出港である。初めはレヴァント商人の東方貿易で、ついで17世紀からはオランダやイギリスの東インド会社によってヨーロッパにもたらされ、広く飲まれるようになった。イギリスではピューリタン革命から王政復古期に、ロンドンなどで「コーヒーハウス」が出現し、市民の情報交換の場となった。オランダ東インド会社はセイロン島、ジャワ島にコーヒーを移植し、1712年以降ヨーロッパに輸入するようになった。ジャワ・コーヒーはモカ・コーヒーよりもコストダウンに成功、ヨーロッパのコーヒー需要の中心となる。ついでフランスはハイチやマルティニック島、イギリスはジャマイカ島など、西インド諸島でコーヒー・プランテーションを作り、三角貿易でもたらされる重要な商品となった。またドイツは東アフリカ植民地のキリマンジャロ山麓などでコーヒー生産にあたった。ブラジルがコーヒーの産地として進出するのは19世紀からで、次第に他を圧倒するようになり、世界最大の産地となった。<臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』1992 中公新書 などによる>
i 黒人奴隷(18〜19世紀)アフリカ大陸から「拉致」された黒人の数は「あまりにも膨大」であるが、エドワード・ダンバーの1861年の推定によれば、16世紀には88万7500人、17世紀には275万人、18世紀には700万人、19世紀には325万人、総計1400万近くもおよぶ。しかも、中間航路で死亡した黒人も入れれば、7000万人と推計される。(近年の統計学的研究ではかなり少なく見積もられ、16〜19世紀までの総計で952万4600人という数字があり、かなりの開きが出ている。)<本田創造『アフリカ黒人の歴史』新版 岩波新書 1991 p.28> → 黒人奴隷(16〜17世紀)
イギリスで奴隷貿易が禁止されるのは1807年、奴隷制度が廃止されるのは1833年である。またアメリカ南部の綿花プランテーションでの黒人奴隷制度は、アメリカ独立後その是非をめぐって勃発した南北戦争を経て、1863年に奴隷解放宣言が出されて、65年に憲法修正第13条で奴隷制度そのものは廃止される。しかし、アメリカにおける黒人の貧困と差別の問題はその後も長く続いている。 → イギリスの黒人奴隷貿易
中間航路 三角貿易のルートの、黒人奴隷をアフリカからアメリカ大陸にはこぶ大西洋航路のことを中間航路(ミドル・パッセージ)という。これは黒人奴隷にとって「生き地獄」に均しい悲惨な状況であった。胸や腕に所有者の焼き印が押され、船倉に鎖でつながれて詰め込まれ、夜でも昼でも身動きすらできなかった。劣悪な状況の中で多数の黒人が命を落とし、死ぬと海中に捨てられていった。
j 武器・雑貨   
k イギリスの黒人奴隷貿易北アメリカのイギリス植民地に最初につれてこられた黒人奴隷は、1619年、ヴァージニアのジェームズタウンにオランダ船で「輸入」され、売買された20人が最初であった。イギリス植民地でははじめは白人の年期奉公人(ロンドンの貧民などが強制的に連行されることもあった)を労働力としていたが、プランター(大農園経営者)はそれよりも一生涯使役できる黒人奴隷の方が採算が合うと考えたからであった。また、イギリス領のジャマイカ島などの西インド諸島でも砂糖などのプランテーションで黒人奴隷が使役された。イギリスは1672年に奴隷貿易独占会社である王立アフリカ会社を設立し、フランスとの抗争で北米大陸の植民地を拡大しながら、1713年のユトレヒト条約で、アシエント(スペイン領への黒人奴隷供給契約)を獲得し、新大陸の黒人奴隷貿易を独占した。黒人奴隷はタバコ、藍、米のプランテーションで使役されていた、特に18世紀からは南部に綿花プランテーションが発達し、そこでは欠くことのできない労働力となり、18世紀に黒人奴隷貿易は最盛期を迎えた。イギリスは奴隷貿易を含む三角貿易の利益を蓄積して産業革命を達成した。また19世紀初めまで、イギリスの綿工業は奴隷貿易と結びついて発展した。リヴァプールは綿布の輸出と共に奴隷貿易の中心として繁栄した。イギリスで奴隷貿易が禁止されるのは、1807年、奴隷制度が廃止されるのは1833年である。またアメリカ南部の綿花プランテーションでの黒人奴隷制度は、アメリカ独立後その是非をめぐって勃発した南北戦争を経て、1865年に廃止される。 → 黒人奴隷(アメリカ)  イギリスのアフリカ進出
l 産業革命  → 第11章 1節 産業革命 イギリスの産業革命
m 労働力の損失