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2.アメリカ独立革命
ア.北アメリカ植民地
 13植民地の建設 マサチューセッツ、ニューハンプシャー、コネティカット、ロードアイランド、ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルヴェニア、デラウェア、メリーランド、ヴァージニア、ノース=カロライナ、サウス=カロライナ、ジョージア。
最初に建設されたのは、1607年のヴァージニア、最後が1732年のジョージア。当初は国王から特許状を得た会社による植民(会社植民地)が多く、他に領主植民地、自治植民地があったが、次第に王領植民地が増加した。18世紀半ばにはの状況は、次の通り。
(1)王領植民地:ニューハンプシャー、ニューヨーク、ニュージャージー、ヴァージニア、ノース=カロライナ、サウス=カロライナ、ジョージア
(2)領主植民地:ペンシルヴェニア、デラウェア、メリーランド
(3)自治植民地:コネティカット、ロードアイランド、マサチューセッツ
※マサチューセッツは、王領植民地だが、1774年から総督と議員は住民による選挙が認められ、半自治植民地となった。)
いずれにおいても植民地議会を持って一定の自治を認められていたが、その範囲はそれぜぞれの植民地の中に留まり、最終的な権限は総督を通じて本国政府が持っていた。七年戦争(フレンチ=インディアン戦争)が終わった18世紀後半から、本国政府は植民地に対する課税などの重商主義政策を強め、反発した植民地側が独立戦争を起こし、1776年に独立を宣言、この13植民地がそれぞれ独立してアメリカ合衆国を形成する、Original Thirteen States となる。
a ピルグリム・ファーザーズ the Pilgrim Fathers ピルグリムとは、「巡礼」の意味。ピルグリム・ファーザーズは「巡礼始祖」と訳され、1620年に国教会を強制するジェームズ1世の迫害から逃れたピューリタン(清教徒)で、メイフラワー号に乗って北アメリカに渡り、プリマスに上陸した人々を言う。彼らは、イギリス国教会を批判するピューリタンたちであり、アメリカに渡る前には、一時オランダのライデンに移住するなど、信仰の自由を求めて移動したので、「巡礼」と言われた。彼らはヴァージニア植民地の成功の話を聞き、そこをめざして1620年9月、イギリスのプリマス港を出発し、65日間の航海の末、11月11日にヴァージニアのかなり北方のケープ=ゴットに到着、上陸して植民地プリマスを建設した。彼らは新天地に移住するメイフラワー号の船中で、「メイフラワー契約」を締結し、「契約により結合して政治団体をつくり、もってわれらの共同の秩序と安全とを保ち進め」ることを誓約した。
b メイフラワー号 メイフラワー号はわずか180トンの帆船。同乗者は104名。全部がピューリタンだったわけではなく、「聖徒たち」(セインツ)とよばれる男17名、女10名、子供14名、計41名であり、それ以外は「外部の人たち」(ストレンジャーズ)とよばれる男17名、女9名、子供14名、計40名、その他召使いや雇い人たちもいた。その精神的中核となったのはスクルービのコングリゲーションの信仰を守り続けたブルースター、ブラッドフォードらであった。 <大木英夫『ピューリタン』中公新書 P.77,78,88> 
メイフラワー契約 メイフラワー号のピルグリム−ファーザーズ41名は、船中で次のような契約を交わした。アメリカ建国につながる重要な文書である。
『神の名においてアーメン。われらの統治者たる君主、また神意によるグレート・ブリテン、フランスおよびアイルランドの王にして、また信仰の擁護者なるジェームズ陛下の忠誠なる臣民たるわれら下記の者たちは、キリストの信仰の増進のため、およびわが国王と祖国の名誉のため、ヴァージニアの北部地方における最初の植民地を創設せんとして航海を企てたるものなるが、ここに本証書により、厳粛に相互に契約し、神およびわれら相互の前において、契約により結合して政治団体をつくり、もってわれらの共同の秩序と安全とを保ち進め、かつ上掲の目的の遂行のために最も適当なりと認むべきところにより、随時正義公平なる法律命令を発し、かく公職を組織すべく、われらはすべてこれらに対し当然の服従をなすべきことを契約す。』
高木八尺は、「自由自主なる個人が、契約によって、団体を創設するという社会契約の説を、現実に表した顕著な実例」で「また政治上の権力の根拠は個人の同意にありとする思想の発達史上記念すべき一重要事件であった」と評した。<大木英夫『ピューリタン』中公新書 P.90-91> 
プリマス1620年、イギリスのピューリタンたち(ピルグリム=ファーザーズ)がメイフラワー号で大西洋を渡り、上陸したところ。現在はマサチューセッツ州のボストンの南にある小都市。メイフラワー号はケープゴット付近に上陸し、特許を得た会社植民地としてプリマスを建設したが、3ヶ月間に102人中52人が寒さと飢えと病気のために失った。ねばり強く開拓を進め、3年後には共有制を私有制に切り替え、総督ウィリアム=ブラッドフォードを選出し、住民全部が参加するタウン=ミーティングを基礎とする自治体を造った。このタウンの自治は北米全体にひろがった。プリマス植民地は1691年、それより後に建設されたボストンを中心とするマサチューセッツ植民地に吸収される。
王領植民地 イギリス領北米大陸植民地の一形態。総督と議会の議員は国王が直接任命(勅任)する。総督は課税、管理の任免、土地の下付などの権限を持つ。議会は植民地に関する立法権を持つが、総督は拒否権を行使できた。イギリス本国は、このような王領植民地を増やしていったが、植民地側は議会を足場に次第に自治権を拡大していった。
領主植民地 イギリス領北米植民地の一形態で、国王から特許状を与えられた貴族が、植民地を開拓し、入植者には封建的な地代を課し、また現地の総督と議会の議員を任命する。ニューヨーク(ヨーク公が領主)、カロライナ、ジョージアなどは領主植民地として出発したが、18世紀中頃に王領植民とされ、残った領主植民地はペンシルヴェニア、デラウェア、メリーランドのみであった。
自治植民地 イギリス領北米植民地の一形態で、植民地住民が総督と議会の議員の選出に参加できるもの。初期のジェームズタウン、プリマスなどは特許状を得た合資貿易会社が植民地を開発し、会社の社員が住民として総督と議員を選出して政府をつくった「会社植民地」であった。しかし多くは王領植民地に編入され、「自治植民地」として残ったのはコネティカット、ロードアイランドだけであった。(マサチューセッツは、王領植民地だが、1774年から総督と議員は住民による選挙が認められ、半自治植民地となった。)
ジョージア 1732年、ジョージ2世のとき、事業家オグルソープによって領主植民地が建設された。独立前の13植民地の最後であり、最南部に開かれたもので、52年に王領植民地とされた。スペイン領に対する緩衝地帯の意味もあり、本国で負債のため投獄された人々を救済して入植させたという。奴隷制による米と藍の生産が盛んになり、南部の中心勢力となっていく。現在の州都はアトランタ。
ペンシルヴェニア 1681年、イギリス貴族のウィリアム=ペンは、父の負債1万6千ポンドの代償として、国王チャールズ2世から特許状を得、北米大陸に植民地を開いた。これがペンシルヴェニア(ペンの森の意味)で、ペン家を領主とする領主植民地であり、入植者はペン家に地代を支払わなければならなかった。このような封建的な制度の残る植民地であったが、ウィリアム=ペン自身は熱心なクェーカー教徒であって、国家による宗教の強制を嫌い、住民への信仰の自由と経済活動の自由を認め、みずから先頭に立って開拓にあたった。そのため、クェーカー教徒の他に、ドイツやオランダ、スコットランドなどからプロテスタント系の移民が多数、入植した。また、ペンはインディアンに対しても同等の人間として接し、暴力でその土地を奪うことはなかった。彼が建設した州都がフィラデルフィアであり、それは「友愛」と言う意味のギリシア語にちなんでいる。
マサチューセッツ1630年、特許状を得たマサチューセッツ湾植民地会社が入植者を送り、マサチューセッツ湾植民地を建設、1年間に1000人、10年間で2万人が移住した。入植者の多くはピューリタン(プリマスのピューリタンは国教会からの分離を主張する分離派であったが、この地のピューリタンは国教会の内部にとどまって改革をめざしていた)であった。ボストンを中心に漁業と造船が発達し、1691年にはプリマス植民地を併合し、ニューイングランド地方の中心部として発展した。
c 植民地議会 イギリスの北米大陸での13植民地で設けられた議会。本国イギリスの議会制度の伝統を受け継ぎ、植民地の自由人によって代議制の議会が開設された。植民地の統治は総督によって行われ、それを補佐する参議会も国王(または領主)の任命であったが、本国の下院にあたる植民地議会は住民の選挙で選ばれた。その最初は1619年のヴァージニア議会である。多くは本国と同じ制限選挙であったが、この植民地議会がアメリカ独立運動の主な舞台となっていく。
d ヴァージニア議会 ヴァージニア植民地には、1607年に特許状を得たロンドン会社(後のヴァージニア会社)による会社植民地として成立。1名の総督の下に6名からなる参議会が置かれ、彼らは会社が任命した。1619年7月、はじめて議会が開催されることとなり、20名からなる議員が、10の地区から2名ずつ選出された。参議会が本国での上院に相当し、議会が下院の役割を果たした。議会はヴァージニアのみについての法律を制定する権限を持つが、本国の承認が必要であった。このような制限されたものではあったが、植民地の入植者による自治がここから始まることとなり、アメリカ『民主主義』の第一歩とされている。一方、ヴァージニアで最初の黒人奴隷売買が行われたのも同じ年であった。1624年以降は王領植民地となり、総督と参議会議員は国王が任命することとなったが、議会による代議制は存続し、そこで培われた自治の精神はやがてアメリカ独立戦争の中核となっていく。
e 北部 13植民地時代には、およそペンシルヴェニアとヴァージニアの間で北部と南部を分けることができる。北部は更に経済基盤の違いから、ニューイングランド地方と中部大西洋岸とに分けることができる。ニューイングランド地方はマサチューセッツ、ロードアイランド、コネティカット、ニューハンプシャーの4植民地で、穀物・食肉・ラム酒の醸造の他に漁業も盛んになり、人口が増加してボストンを中心に商工業が最も発達した。中部大西洋岸はニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルヴェニア、デラウェアの4植民地で、いわゆる小麦の生産と製粉業が起こり、海岸部では造船が盛んになった。
f 南部 南部植民地に属するのは、ヴァージニア、メリーランド、ノース=カロライナ、サウス=カロライナ、ジョージアの5植民地。ヴァージニア、メリーランドはタバコのプランテーションが発達し、南北カロライナでは林業が盛んになった。さらにジョージアでは18世紀から黒人奴隷を労働力とした綿花の大プランテーションが形成されるようになる。
g 黒人奴隷(アメリカ)1619年8月、オランダの商人によって、20名の黒人奴隷が初めてイギリス植民地ヴァージニアにもたらされ、タバコ・プランテーションの経営者(プランター)に売り渡された。これが、アメリカ大陸にもたらされた黒人奴隷の実質的な最初であった。この年は同じ最初の植民地議会であるヴァージニア議会が開催され、自治が始まった記念すべき年でもあった。また、翌1620年には、メイフラワー号が上陸し、第2の入植地プリマス植民地が形成された年である。以後、イギリスの黒人奴隷貿易によって多数の黒人が西インド諸島、北米大陸に拉致されてきた。
「アメリカ最初の代議制議会の誕生という民主主義的なもののはじまりと、アメリカ最初の黒人奴隷の輸入、すなわち生身の人間を動産とする黒人奴隷制度という非民主主義的なもののはじまりとが、同じ時に、同じ場所で、同じ人間によってなされたことのアメリカ史の皮肉である。それは、たんに皮肉ということ以上に重要な歴史的意味を、その後のこの国の歴史において現実に持つことになるが、この二つの出来事は、偶然とよぶには、あまりにも偶然的でありすぎた感がある。」<本田創造『アメリカ黒人の歴史』岩波新書 1964 p.31 新版1991 p.23>
h プランテーション  
 イギリス殖民地政策の転換 1763年2月のフレンチ−インディアン戦争(ヨーロッパでは七年戦争)の終了後、イギリス本国政府は植民地政策を転換し、それまでの「有効なる怠慢」政策を改めて介入を強化する方針に転じたことによって、北アメリカ植民地は結局独立を選択することになる。そのイギリス政府が最初に行った植民地政策の転換は、西部地域の政策であり、63年の「国王の宣言」でアパラチア以西への植民地人の進出の抑制であった。第二の転換が貿易政策であり、フレンチ−インディアン戦争の戦費負担から財政が厳しくなっていたので、イギリス政府の歳入を確保するために植民地への課税を強くしたことであった。 
a 七年戦争(フレンチ・インディアン戦争) ヨーロッパでは七年戦争(アメリカ大陸ではフレンチ−インディアン戦争
 
 ジョージ3世 イギリスのハノーヴァー朝の国王、在位1760年から1820年。60年にわたる在位はイギリス史上、ヴィクトリア女王の64年に次ぐ第2位。しかし、ジョージ3世は、側近を重用して議会政治に抵抗し、王権の復活を策するなど問題が多かった。特に、1763年の「国王の宣言」にみられるアメリカ殖民地に対する政策では失敗が多く、植民地側の強い反発を受け、ついにアメリカ独立戦争を誘発して、結局その独立を認めることとなった。1776年のジェファソンが起草した「アメリカ独立宣言」には、ことこまかくジョージ3世の悪政を告発している。また、フランス革命に対しては、トーリー党のピットに国政を委ね、ナポレオンとも全面対決の時代となった。ただし、ジョージ3世の時代は一方で産業革命が進行した時代であり、イギリスが「世界の工場」に躍進していく時代でもあった。ジョージ3世は晩年は精神に異常がおこり、廃人同然ですごした。
国王の宣言 1763年、イギリス国王ジョージ3世が「勅令」(ロイヤル・オーダー)として出した植民地政策。東はアレガニー山脈から、西はミシシッピ河まで、南北はフロリダの北から五大湖を含む地方への移住を、当分の間、禁止し、インディアン保留地としてイギリス王の直轄地としたもの。さらに、植民地はそこでとれる原料品を本国に送らなければならず、現地で加工してはならない、また、他国の植民地と交易してはならないという「排他」制度を復活させ、イギリス人入植者は大いに不満だった。
「この勅令は、アメリカ人には、辺境で思うように活動する自由−狩猟をし、インディアンとの貿易を行い、毛皮を集め、また、ぼろいもうけ仕事をさがしたり、あるいは、土地を手にいれるために、勝手にぶらつき歩いたりするという自由が、もはや、なくなることを意味していたのである。」<ビーアド『新版アメリカ合衆国史』P.100>
b 砂糖法(条令) 1764年、イギリスが制定した植民地に対する重商主義的な課税政策の一つ。ラム酒の原料である糖蜜の輸入への課税を行い、密輸入取締を強化した。1733年の糖密条令より1ガロン6ペンスから3ペンスに税率は下げられたが、植民地だけ課税が正当とされ、また税関が拡充され、密輸入を以前よりきびしく取り締まった。その結果、奴隷貿易の見返り輸出品であったラム酒の価格が上昇して、奴隷貿易商・密輸商が打撃を受けたので、植民地側は反対した。
c 印紙法(条令) 1765年にイギリスが制定した、詔書、証券類、酒類販売許可証、パンフレット、新聞、広告、暦、カルタなどに最高10ポンドの印紙をはることを定めた法律。(大学の卒業証書にも2ポンド課税された。)特定の業種・階層の人々だけでなく、あらゆる社会階層に影響を与え、言論・出版の自由を制限する事になるので、反対運動が急速に広がった。2〜3月に本国議会を通過し、10月に実施される事になったが8月に反対一揆が起こり、印紙販売人が襲撃されるなど、13州に広がったため、翌年廃案となった。 
d 「代表なくして課税なし」 No taxation without representation 1765年、印紙法(条令)に反対するヴァージニア植民地議会パトリック=ヘンリが提案し、決議された。植民地人は本国人と同等の権利を有する事、「代表なくして課税なし」はイギリス憲政の本質である事、ヴァージニアに課税する権限を持っているのはヴァージニア議会だけである事、など7項目があった。決議は東部の特権的プランターの反対があったが22対17、20対19(項目ごとに採決)などの小差で可決された。ヘンリは奥地プランターの利害を代表していた。この決議が「革命への信号」となった。<今津晃『アメリカ独立革命』至誠堂 p.42> 
タウンゼント諸法1767年、イギリスの蔵相タウンゼンドが提案した、植民地規制法の総称。
 1.ニューヨーク植民地議会の立法権の停止(制裁条令)
 2.ガラス・鉛・ペンキ・紙・茶の輸入への課税(歳入条令)
 3.本国大蔵省直属の税関局をボストンに設置(密輸取締強化)
これに対し植民地側は、本国製品不輸入協定で対抗した。またドーターズ=オブ=リヴァティーの女性達はアメリカ製品愛用運動に立ち上がった。その結果、タウンゼンド歳入条令は茶税を残して1770年4月に撤廃された。 
 ボストン茶会事件 1773年。イギリスが茶法によって東インド会社に茶の専売権を与えたことに反対するアメリカ植民地の急進派が起こした事件。ボストン港に入港していた同会社の船に侵入したモホーク族に変装した男達が、茶箱342箱(価格1万8千ポンド)を海中に投棄し、夜陰に乗じて逃げた。真犯人は検挙できなかった。
Epi. アメリカ人がコーヒーを飲む理由 ボストンで本国の植民地政策に対する反対の中心になっていたのはサミュエル=アダムス、及びサンズ−オブ−リヴァティーの面々であった。彼らは、茶の不輸入運動を展開、密輸業者も同調した。さらに、ボストンの婦人達は茶を飲まない誓いを立て、かわりにコーヒーを飲むようにした。「アメリカ人は茶条令を機会に、茶碗から、コーヒー茶碗へと転向した」。 <今津晃『アメリカ独立革命』p.115> 
a 茶法(条令) タウンゼンド条令以来、茶輸入に課税されていた植民地側が、対抗上オランダからの茶を密輸入するようになったため、以前から経営難に陥っていた東インド会社は打撃を受けた。その東インド会社を救済するため、政府は会社手持ちの茶を、イギリス仲買人を経ずに植民地に直売し(密輸茶より安い価格で販売できるようにし)、植民地の茶市場の独占を認めた。それが1773年の茶法(条令)である。 植民地側は茶の密輸業者だけでなく、一般貿易商、消費者も、東インド会社による商品市場の独占につながる、として激しい反対運動を展開した。<今津晃『アメリカ独立革命』P.109> 
b 東インド会社  → 第10章 2節 イギリス 東インド会社の隆盛
c ボストン港封鎖 ボストン茶会事件の報復としてイギリスがとった処置。1774年3月、茶会事件の損害1万5千ポンドを弁償するまで、ボストン港を閉鎖するという法案を通過させ、6月1日に実施。ボストン通信委員会のサミュエル=アダムスは5日「厳粛な連盟と規約」を作成、イギリスとの一切の取引の停止とイギリス製品のボイコットを決議。植民地と本国は「経済戦」に突入した。ボストンの経済は破綻状態になったが市の失業対策委員会は公共事業を拡大し対応した。また、他の植民地諸州もマサチューセッツ支援に立ち上がり、大陸連合会議開催の気運が高まった。イギリスは同時に、「強圧的条令」を制定。<今津『アメリカ独立革命』p.118> 
   
イ.独立戦争
 アメリカ独立戦争アメリカ独立戦争は、1775年4月のボストン郊外のレキシントンでの植民地軍とイギリス本国軍の衝突に始まり、1783年9月のパリ条約で終結するまでの約8年間の戦争。植民地側は大陸会議を指導機関とし、ワシントンを司令官にすえて戦い、劣悪な装備と兵力の不足から苦戦したが、77年のサラトガの戦いから形勢を逆転させ、81年のヨークタウンの戦いで勝利を決定的にした。独立軍には、フランスのラ=ファイエットやポーランド人のコシューシコなどのヨーロッパからの義勇兵も加わり、またフランスがアメリカ側に参戦し、ロシアを中心とした武装中立同盟が成立するなど、国際的にも有利に展開して、勝利を得ることができた。開戦の翌年の1776年には、アメリカ独立宣言が出され、独立の正当性を明らかにし、世界で最初の民主共和政国家を設立した。 → アメリカ独立革命
a 大陸会議 1774年9月に開催されたアメリカ植民地代表者の会議。Continental Congress イギリスの「強圧的諸条令」に対してアメリカ植民地の12の代表(13植民地の中のジョージアをのぞく)がフィラデルフィアに集まって開催され、その後、独立革命の最高の連絡会議となったもの。3分の1は愛国派(パトリオット)、3分の1は国王派(ロイヤリスト)、残りが中間派という。「宣言と決議」で植民地に対するイギリスの議会の立法権の全面的否定と、イギリスとの不輸入、不輸出、不消費を守るための「大陸通商断絶同盟」結成を宣言した。参加者の中にはヴァージニアのジョージ=ワシントンパトリック=ヘンリ、マサチュセッツのサミュエル=アダムス、ジョン=アダムスなどがいた。1775年の第2回大陸会議でアメリカ独立軍を創設してワシントンを総司令官に任命し、独立戦争に突入、翌年に「独立宣言」を採択した。それ以後、アメリカの最高機関であり実質的な中央政府の役割を担う。1781年にアメリカ連合規約が成立してからは、「連合会議」と呼ぶ。
強圧的諸条令 1974年5月 「耐えがたき条令」 Coercive Acts とも言う。ボストン茶会事件にたいする報復として定められた諸条令。
1.マサチューセッツ統治条令:参議会議院を勅任とし、町会は総督の許可無く開催できない。(王政支配を強化し、タウン−ミー ティングの実権を奪おうとしたもの。)
2.裁判条令:総督は裁判を本国で行う事が出来る。
3.軍隊宿営条令:軍政を布くための施設の徴用を可能にする。
5.ケベック条令:ミシシッピまでの地域をインディアン保留地とし、自由な開拓を認めず、その地域でのカトリック信仰を許可。<今津『アメリカ独立革命』p.121>
パトリック=ヘンリ アメリカ独立戦争の指導者の一人で、急進的な愛国派。1765年、ヴァージニア議会で「代表なくして課税なし」を提案し、アメリカ独立運動の先頭に立った。また、1775年3月には、武装蜂起を呼びかけた「自由か死か」演説を行った。以下はその演説の一部。
『みなさん、事態を酌量してみても無駄です。みなさんは平和、平和と叫ぶかもしれません。しかし平和はけっしてありません。戦争はもう実際にはじまっています。北方から吹きまくるきたるべき強風は、いまやわたくしたちの身に高鳴る武器のひびきをもたらすでありましょう。わたしたちの同胞はすでに戦場にあります。‥‥ みなさんは何をしたいと思っておられるのでしょうか。鉄鎖と奴隷化の代価であがなわれるほど、生命は高価であり平和は甘美なものでしょうか。全能の神よ、‥‥わたくしに自由を与えてください。そうでなければわたくしに死を与えて下さい。』<今津晃『アメリカ独立革命』p.133>
レキシントンの戦い 1775年4月、アメリカ独立戦争の最初の戦闘。ボストン近郊のコンコードに貯蔵されていた植民地側の軍需物資を押収に向かった英国軍と、その知らせを受けてかけつけた植民地側民兵が途中のレキシントンで衝突した。最初の一発をどちらが発砲したかは、互いに相手方だったと主張し、いまだに不明である。ゲージ将軍率いる英国軍兵士数名が死亡。その後、英国軍はコンコードでの押収には成功したが、帰路再び植民地側の待ち伏せに会い、244名が死傷した。植民地民兵をミニットマンといい、その活躍の最初だった。
第2回大陸会議 1775年5月10日、フィラデルフィアで開催された第2回大陸会議で、13植民地の代表は、「武力抵抗の理由と必要の宣言」を採択、アメリカ連合軍を創設し、ワシントンを総司令官に任命した。さらに、ワシントン軍はボストンに向かい、ヨーロッパ諸国と外交関係を結ぶために外交使節の派遣と戦争遂行に必要な紙幣の発行を決めた。7月、フランクリン(ペンシルヴァニア代表)が「連合の規約と永久の連合」案を作成した。次いで1776年に、独立宣言を採択した。当初は中央政府は無かったので、大陸会議が中央政府の役割を担った。
b ワシントン アメリカ独立戦争の指導者で、アメリカ合衆国初代大統領。George Washington (1732〜99) ヴァージニアの大農園主。先祖はピューリタン革命で追放された国教会聖職者。アメリカ移住後4代目にあたる。始め測量技師となり、後軍人として七年戦争で功をたてる。58年よりヴァージニア代議会議員。オハイオ川流域の開拓と投資を企てるがインディアン(ショーニー族)の抵抗とイギリスのケベック条令で不可能となり、反英闘争に参加する事となる。1775年、独立軍総司令官、87年憲法制定会議議長。89年初代アメリカ合衆国大統領となる。大統領としてはフェデラリストと反フェデラリストの均衡をはかりつつ、国内秩序回復に務め、96年、大統領の三期連続を自ら不適当として引退した。引退にあたって、アメリカ合衆国の外交政策の基本としてヨーロッパ諸国の争いに巻き込まれないようにするため、中立策を説き、孤立主義の源流となった。
愛国派アメリカ独立戦争で、独立を支持した人々で、パトリオット Patriots という。イギリスの植民地支配、その重商主義政策に反発した、北部の商工業者、中部の独立自営農民、南部の大農園主(プランター)などからなる。宗教的には国教会に批判的であった宗派が多い。1774年に開催された大陸会議では約3分の1をしめたにすぎないが、次第に独立の気運が高まるとその運動の中心となった。
国王派イギリスの植民地支配に利害が一致し、アメリカ植民地の独立に反対した植民地人。当時のイギリス国王ジョージ3世に忠誠を誓う。ロイヤリスト Loyalists 。大商人や大地主など、国教会支持者が多かった。
トマス=ペイン ペイン(1737-1809)Paine は、イギリス東部の零細農民の子。税関吏となるが俸給の低さ、腐敗選挙区などで、国王への反発心をつちかい、74年にアメリカに渡った。1776年、『コモン=センス』を発表し、アメリカ独立戦争の正当性を主張した。
c 『コモン−センス』 1776年1月、トマス=ペインが発行した小冊子。ワシントン指揮のアメリカ軍がボストンを包囲している時期に刊行さえたこの書は、10万以上の部数に達し、「アメリカの独立」という戦いの目的を明らかにし、植民地人の戦意を鼓舞した。ペインは、アメリカがイギリスのジョージ3世の臣民であろうとする限り、自由は勝ち取れない、専制者ジョージ3世の奴隷となるか、独立するか、いずれかしかなく、独立によってのみ自由になれるのは「常識」Common Sense である、と主張した。<今津『アメリカ独立革命』p.158>
d 1776年7月4日 第2回大陸会議(フィラデルフィア)で、アメリカ独立宣言が正式採択された日で、現在のアメリカの独立記念日とされている。
Epi. 7月4日という日付 2007年センターテストの問題文にこのような文があったので引用する。
「アメリカ合衆国の建国は、様々な神話に彩られている。例えばジョージ=ワシントンの依頼で、ベッツィ=ロスという女性がアメリカ合衆国の国旗である星条旗を作ったという話は、独立から百年近くたって語られ始め、やがて広く信じられるようになった伝説とされる。また今日、国立公文書館に収められている独立宣言書も、独立記念日となった7月4日に作られてはおらず、翌月に入ってから文書への署名がなされた。しかし独立宣言50周年の7月4日に元大統領のアダムズとジェファソンがともに死去し、この日付はさらなる神聖さを獲得したのである。モンロー大統領も後に、独立宣言55周年の7月4日死去している。」
e フィラデルフィア フィラデルフィアは、ペンシルヴァニア州の中心都市。1682年に、ウィリアム=ペンが、クウェーカー教徒をひきいて入植地を開き、その中心地を彼らが理想とした「友愛」を意味するギリシア語からフィラデルフィアと命名した。phil は「愛」を、adelphi は「兄弟」を意味するギリシア語。1774年、大陸会議がこの地で開催され、独立戦争の中心地となった。1787年には憲法制定会議が開催された。1790年から新首都ワシントン特別区に移転するまでの10年間の首都であった。
「連邦中最大の都市フィラデルフィアは、王領植民地ではなかったので君主制の伝統は弱く、ニューヨークのような「共和主義者の貴族社会」の勢力は強くなかった。宗教的にも反国教会派の拠点で、科学的研究と合理主義との中心地となっていた。ベンジャミン・フランクリンが発起した「アメリカ哲学教会」が市民を活気づけていた。」<ビーアド『新編アメリカ合衆国史』p.150>
 アメリカ独立宣言 『独立宣言』はトマス=ジェファソンが起草し、ベンジャミン=フランクリン、ジョン=アダムスが修正した。アメリカ独立革命の基本文書として最も重要なものである。 → 独立宣言の内容
1776年7月2日の第2回大陸会議総会で13植民地の全会一致で決議。(議員個人の中には反対もいた。)7月4日に再確認(正式に採択)、8日にフィラデルフィア市民に正式発表、翌日ニューヨークのワシントン軍の前で朗読された。内容は、それまでのイギリスの圧政、悪政を告発し、平等、自由、幸福の追求などの基本的人権と圧政に対する革命権を認め、高らかに宣言したもので、アメリカ内部の王党派や、独立に反対する保守派に対して独立戦争の正当性を訴え、結束を強める目的を持っていた。アメリカ独立宣言に盛り込まれた抵抗権・革命権の思想は、17世紀後半のイギリスの思想家ロックにさかのぼる。
a トマス=ジェファソン アメリカ独立期の指導者の一人で、ヴァージニアのプランター経営主であった。弁護士から議員となり、1775年に大陸会議に参加し、雄弁と名文で知られるようになり、独立宣言の起草委員に選ばれ、その作成にあたった。当時33歳、2週間で草案を仕上げ、他の起草委員のフランクリンとアダムズが目を通し、大陸会議で修正された後、成立した。その後ヴァージニアに戻ったジェファソンは、ヴァージニア議会で活動し、信仰の自由などを実現するなどの改革を行い、1779年にはヴァージニア知事となり、独立戦争を戦った。この間の体験をもとに、『ヴァージニア覚え書』を1785年に発表している。1783年から再びヴァージニア州代表として中央政界で活動するようになり、共和政の確立に尽力し、また西方への植民計画を立案した。また翌年からはフランクリンに次いで駐フランス大使となってパリに滞在した。1789年ワシントンが初代大統領になると、請われて初代の国務長官となり、政府の中枢に入ったが、財務長官ハミルトンやアダムスらの連邦政府の権限強大を主張するフェデラリストに対し、連邦政府の権限強化には反対してアンチ=フェデラリストと言われるようになり、さらに1791年にリパブリカン党という政党を結成した。両派は新国家アメリカがいかにあるべきか、論争を展開した。第2代大統領にフェデラリストのアダムズが当選すると、当時の規則で反対党のジェファソンが副大統領となった。そして1800年の選挙では、激しい選挙戦となり、ジェファソンが当選し、第3代の大統領(1801〜09年)となった。ジェファソンは奴隷解放を主張しており、独立宣言にもその一文を原案に入れていたが、削除された。独立後も彼は奴隷問題に発言を続けたが、19世紀にはいると南部の綿花生産での奴隷制がさらに拡大され、矛盾を深めていた。彼は独立宣言からちょうど50年後の1826年7月4日、83歳で死去した。<以上、ロデリック=ナッシュ『人物アメリカ史』上 トマス=ジェファソンの項を参照> → ジェファソン大統領
b ロック  → 第10章 3節 ロック
c アメリカ独立宣言の内容  構成アメリカ独立宣言は大きく三つの部分から成っており、最初の部分ではロックなどの社会契約説を論拠にして独立の正当性を主張し、中間ではイギリス国王(ジョージ3世)の殖民地に対する悪政を列挙して批判し、最後の部分でイギリス国王への忠誠の拒絶と独立を宣言している。
要点平等、自由、幸福の追求などの基本的人権と圧政に対する革命権を認めたこと。また、アメリカ独立に至ったイギリスの圧政について告発している。
「ジェファソンが組み立てた「アメリカ革命」の理論は次の三つの特色があった。
1.万人は平等につくられ、また、生命、自由および幸福追求を含む不可譲の権利を、創造主から与えられている。
2.これらの権利を保全するためにこそ政府が設立されるのであり、政府の正当なる権力は統治される者の同意にその根拠を有する。
3.どんな形の政府にせよ、いやしくも政府がこの目的を破壊するようになれば、かくのごとき政府を変え、またはそれを廃止して、人民の安全と幸福とをもっともよく実現すると思われる原理に基礎を置く‥‥新政府を樹立することは、人民の権利である。」<ビーアド『新編アメリカ合衆国史』P.114>
資料独立宣言抜粋
「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれていること信ずる。また、これらの権利を確保するために人類のあいだに政府が組織されたこと、そしてその正当な権力は被治者の同意に由来するものであることを信ずる。そしていかなる政治の形体といえども、もしこれらの目的を毀損するものとなった場合には、人民はそれを改廃し、それらの安全と幸福とをもたらすべしとみとめられる主義を基礎とし、また権限の機構をもつ、新たな政府を組織する権利を有することを信ずる。・・・中略・・・連続せる暴虐と纂奪の事実が明らかに一貫した目的のもとに、人民を絶対的暴政(デスポティズム)のもとに圧倒せんとする企図を表示するにいたるとき、そのような政府を廃棄し、自らの将来の保安のために、新たなる保障の組織を創設することは、かれらの権利であり、また義務である。−これら植民地の隠忍した苦難は、まったくそういう場合であり、今やかれらをして、余儀なく、従前の政治形体を変改せしめる必要は、そこから生ずる。イギリスの現国王の歴史は、これら諸邦の上に、絶対の暴君制を樹立することを直接の目的としてくり返して行われた、悪行と纂奪との歴史である。」
アメリカ連合規約Articles of Confederation アメリカ最初の憲法で、1781年に施行されてから、1788年のアメリカ合衆国憲法発効によって失効するまで8年間はアメリカ最高の法規であった。大陸会議において1777年に制定され、諸州の承認を得た後、1781年に施行された。第1条に「本連合をアメリカ合衆国と称する」と規定された。しかし、重要な決定については全州一致で決定とされていたため、迅速な問題解決ができず、また中央政府である連合会議(大陸会議)は課税権や徴税権を持たず弱体であったため、より強力な中央政府の創設を主張する声が強くなっていく。連合規約のもとにあった8年間を「危機の時代」と言う。
d 「アメリカ合衆国」 アメリカ独立戦争の過程で、1776年の独立宣言によって成立した国家。United States of America 北アメリカ大陸東岸のイギリス領13植民地が独立し、13の共和国(州)の国家連合として発足し、翌77年に制定したアメリカ連合規約(施行は1781年)で「アメリカ合衆国」を国号とした。1789年にアメリカ合衆国憲法の成立によって一つの政府(連邦政府)のもとに連邦国家となった。なお日本では明治以来「合衆国」という文字を当てているが、意味からすれば「合州国」と言うべきであろう。州は漸次増加し、19世紀半ばまでに太平洋岸に達し、現在はハワイ、アラスカを含め、50州となっている。1789年の連邦政府発足時の最初の首都はニューヨークに置かれ、1790年からはフィラデルフィアに移り、新首都の建設が決まり、1800年にワシントン特別区が完成して首都は移転した。
 →アメリカ独立革命 アメリカの外交政策
星条旗Epi. 星条旗の誕生 6月14日は現在、Flag Day とされ、アメリカ市民は国旗を掲げて祝う。(しかし国の祭日ではない。)この星条旗は、フィラデルフィアの旗職人、ベッツィ(エリザベス)・ロスが考案し、ワシントンの推薦で、大陸会議が1777年6月14日に採用した。<五十嵐武士『世界の歴史』21(中公)p.123> この星条旗 the Stars and Stripes は言うまでもなく、13の★と、original satates を示す13条の青白の横線とで構成され、★は順次加盟州が加わるごとに増えていった。
出題 2007年 センターテスト本試験 22問 アメリカ合衆国として独立した13州に含まれないのは次のどれか。
 1.マサチューセッツ  2.ニューヨーク  3.ヴァージニア  4.フロリダ
・解答 
e フランス参戦 1778年2月、アメリカ独立戦争においてフランス(ルイ16世)は、サラトガの戦いでアメリカ軍が勝利し、戦局がアメリカに有利なのを見て、最初にアメリカを承認して同盟を結び、イギリスに宣戦した。アメリカ大陸に於ける植民地回復の好機と考えたからであった。当初、駐仏アメリカ大使フランクリンの働きかけにもかかわらず、フランスはなかなか動かなかったが、1777年10月のサラトガの戦いで形勢が逆転し、アメリカ軍が優勢になったのを見きわめての参戦であった。フランスの財務総監ネッケルは増税によらず、借入を行い、大変な人気を得た。なお、1779年にはスペインが、1780年にはオランダが同じくアメリカ側に参戦した。
サラトガの戦い1777年10月、アメリカ独立戦争の形勢を逆転させた、アメリカ軍の勝利した戦い。ワシントン指揮の独立軍は敗北を続けていたが、ニューヨーク北方のサラトガでは、司令官ホレイショ・ゲイツ将軍の率いるアメリカ軍が、南下中のイギリスのバーゴイン将軍指揮下のイギリス軍を破った。このサラトガの戦いはアメリカ独立戦争の一つの転機となった。それは、アメリカ軍がその訓練や給与は貧弱であっても、イギリス正規軍に十分対抗し得ることを立証し、またフランクリンの働きかけにもかかわらず躊躇していたフランスの参戦(1778年2月)を実現させた。
f フランクリン  → 第10章 3節 ア.科学革命と近代的世界観 フランクリン
g ラ=ファイエット  → 第11章 3節 フランス革命 ラ=ファイエット
h コシューシコ  → 第10章 1節 キ.ポーランド分割 コシューシコ
i 武装中立同盟 1780年、アメリカ独立戦争に際して、イギリスが対アメリカ海上封鎖をしたことに対し、アメリカを支援する目的で結成された同盟。ロシアのエカチェリーナ2世が提唱し、スウェーデン、デンマーク、プロイセン、ポルトガルが参加した。
j ヨークタウンの戦い アメリカ独立戦争の中で、1781年10月、ヴァージニアのヨークタウンでイギリス軍がアメリカ・フランス連合軍に敗れた戦い。海上をフランス海軍に封鎖されたことも敗北の一因。イギリス海軍は大西洋の制海権を握っていたが、アメリカ海軍のジョン=ポール=ジョーンズがフランスのブレストを基地に、僅かな艦隊を率い、イギリス本国の海岸を襲撃していたため、その警戒と、ジブラルタルを狙うスペイン艦隊に対して艦船をさかなければならなかったためである。ワシントンの指揮する英仏同盟軍の陸上からの砲撃と、海上からのフランス軍の砲撃を受けて、イギリス軍のコーンウォリス卿は10月19日白旗をかかげて降伏した。その後、英仏海軍の海上戦は82年から西インドに移り、4月のセインツの海戦ではロドニー提督がド=グラス提督を捕虜にしている。
k 連合会議 従来の大陸会議を、1781年のアメリカ連合規約の施行以降、連合会議(Congress of the United States)と呼ぶ。1789年の連邦政府成立まで、アメリカ合衆国の中央政府であった。
「独立が宣言された後、大陸会議は直ちに中央政府の実験を開始した。ペンシルヴェニアのジョン=ディキンソンは、州にわずかな権力しか与えない強力な中央政府制度を提案した。だが、彼の同僚の中には、そのような制度は彼らがようやく打倒した専制政治に似すぎていると考える者もあった。対抗案として彼らが提案した「連合規約」 Articles of Confederation では、中央政府の権力をことさらに弱めてしまった。連合規約の下では、中央政府は裁判所も、行政上の指導権も、交易や通商を取り締まる権限も、州に請求する以外に独立した歳入源も与えられていなかった。さらに大部分の重要な問題については、連合に参加する、すべての州の同意が必要とされた。この背骨を抜かれた中央政府案は1777年11月に諸州に提示され、ようやく全州の承認が得られた1781年3月1日、施行される運びとなった。」<R・ナッシュ『人物アメリカ史』上 トマス・ジェファソン p.127-8>
 パリ条約 1783年9月に成立した、アメリカ独立戦争でのイギリスとアメリカの講和条約。
 1.アメリカ合衆国の独立の承認とカナダ等を除く領土の確認
 2.イギリスはミシシッピ川以東のルイジアナをアメリカに割譲
 3.アメリカのニューファウンドランド周辺の漁業権、ミシシッピ川の航行権の承認
※イギリスとフランス・スペイン間はパリ条約と同じ日に、ヴェルサイユ平和条約として締結された。
 1.西インド諸島トバゴ・セネガルをフランスに割譲
 2.フロリダ・ミノルカ島をスペインに割譲
これらの条約によって、イギリスの重商主義的な「第一帝国」は終わりを告げた。
a ルイジアナ  → 第10章 2節 ルイジアナ
   
ウ.合衆国憲法の制定
 合衆国憲法の制定 アメリカ独立革命において、アメリカ合衆国憲法が制定されるまでのアメリカは、次のような状況であった。
アメリカ連合規約と合衆国の連合会議(Congress of the United States)のもとで、各邦議会はそれぞれの自由を主張し、貨幣・紙幣を発行し、他邦からの輸入品に勝手に税を課したりした。連合会議は法律を制定してもそれを執行する執行機関と紛争を解決する司法機関を持たなかった。また連合会議の代議員は人民の直接選挙ではなく、各邦の議会で選出される代表で構成され、票決権は各邦一票であった。こうして連合規約の改正問題がアメリカ国民にとって緊急の問題となってきて激しい論議が持ち上がった。1786年、ヴァジニアのある集団の邦議会への勧告によって、租税と貿易についての全体的協議会がアナポリスで開催されることになった。わずか5邦の代表しか集まらなかったが、ニューヨークのアレクザンダー=ハミルトンの提案で連合規約の改正(より強固な連邦的結合を実現させる憲法制定)のためフィラデルフィアに協議会を開催することが決議されて閉会した。<ビーアド『新版アメリカ合衆国史』p.130-133>  → 憲法制定会議
a 憲法制定会議1787年に開催され、アメリカ合衆国憲法を制定した会議。 → 合衆国憲法の制定
アレクザンダー=ハミルトンは連邦規約の修正を提案するため、協議会を召集することを連合会議に提案。それに基づき、フィラデルフィアに新しい協議会が開かれ、合衆国のため一層強力な政府を作る仕事に着手した。この憲法制定会議 Constitutional Convention は55名の委員からなり、ジョージ=ワシントンベンジャミン=フランクリン、アレクサンダー=ハミルトン、ジェームズ=マディソン、などを含んでいた。概して憲法制定会議は保守的な団体であった。当時フランス駐在公使であったジェファスン、独立宣言の先頭の署名者ジョン=ハンコック、革命の先駆者パトリック=ヘンリらは参加していなかった。会議は1787年5月から9月17日まで続き、長い論争で有名となった。「憲法」は討論の妥協の産物にすぎないという見解が歴史家の習慣になっているが、それは事実からかけはなれている。『厳密に言えば、この会議では相違や妥協よりも意見の一致した場合の方が数も多く、またそのことが国民にとって重要でもあったのだ。』<ビーアド『新編アメリカ合衆国史』p.134>
b 連邦派(フェデラリスト)  連邦派、フェデラリスト Federalists とは、アメリカ独立革命以来、アメリカ合衆国の有力な党派で、連邦政府の権限を強いものにして、統一をはかることを主張した。1787年から始まった憲法制定会議において、ハミルトンらが中心となってアメリカ合衆国憲法草案の作成を進め、連邦政府の強大化に反対する反連邦派(アンチ=フェデラリスト)のジェファソンらと対立した。
「憲法の草案が発表されると、嵐のごとき論議が起こった。一方ではこれは中央集権の専制政治を打ち立て、各邦を単なる地方にし、大統領はジョージ3世より悪い君主となるであろうと攻撃し、一方、自由の味方は「権利の章典」がない、と批判した。これらの攻撃に対し、憲法草案を弁護した、アレクザンダー=ハミルトン、ジョン=ジェイ、ジェイムズ=マディスンらは87年10月から88年5月の間に、85の論文を書き、ニューヨークの新聞に発表し、それは他邦の新聞にも転載され、88年春には『フェデラリスト』The_Federalistという2巻として刊行された。これはアメリカ憲法についての最も深刻該博な大著であり、また政治学に関する古来まれな一大傑作であると今日なお一般に認められている。」<ビーアド『新版アメリカ合衆国史』p.143>
連邦派の主張とその支持基盤:ハミルトンなど連邦派(フェデラリスト)の主張は、強力な政府に指導される統一的な国家の形成をめざすものであり、その財政基盤としての商工業の発達を促そうというものであったので、商工業者の支持が強かった。またイギリスとも独立後はむしろ友好的な外交をめざした。
連邦派のその後:連邦派はその後、アメリカ合衆国憲法の制定に成功し、強力な連邦政府を樹立し主張を実現させた。またワシントン大統領(大統領自身は連邦派ではなかった)のもとで、ハミルトンが財務長官となり、国立銀行の設置などの政策を進めたが、ジェファソンら反連邦派との対立は激しくなった。第2代大統領は連邦派のジョン=アダムスが当選したが、1800年の選挙では敗れ、ジェファソン大統領となり、ハミルトン自身も決闘で倒れ、急速に勢力を無くして消滅した。
c 反連邦派(アンチ=フェデラリスト)  反連邦派、アンチ=フェデラリスト Anti-Federalists とは、アメリカ独立後の国家のありかたについて、各州(states)の独立を維持し、連邦政府の権限はできるだけ小さくすべきであると主張した人々。1787年からの憲法制定会議おいても、ハミルトンなどの連邦派(フェデラリスト)と対立し、憲法草案に反対した。独立自営農民に支持者が多く、その中心人物はジェファソンなどであった。
連邦派のその後盤:憲法制定会議では「大いなる妥協」によって両派は歩み寄り、憲法の制定をみたが、その後も反連邦派は連邦政府の権限の強化に反対し、初代ワシントン大統領政権の財務長官ハミルトンの国立銀行設置案に対しても強く反発し、それを機にジェファソンらはリパブリカン党を結成する。1800年の選挙ではジェファソンが第3代大統領に当選して、連邦派に代わって政権を担当することとなる。 
d アメリカ合衆国憲法 Constitution of the United States 1787年に憲法制定会議(フィラデルフィア)で採択され、1788年に9州以上の批准によって発効したアメリカ合衆国の憲法。前文と7条からなるものであった。その後、200年間に26条の修正条文が付加された。世界最初の共和政原理に基づいた近代的憲法として重要である。  → 合衆国憲法の制定
その内容の要点は、
(1)人民主権の規定(前文)
(2)連邦主義 州には大幅な自治を認めながら、強力な連邦政府を設置し、国防、外交を掌握することを認めた。
(3)三権分立 ・国民が選出する大統領が行政権を持つ。
         ・合衆国全体に拘束力のある立法権を持つ連邦議会(連邦派が主張した課税権も認められた)の設置。
         ・司法権は最高裁判所が持つ。
であろう。なお、この段階では基本的人権に関する規定が無く、連邦政府の権利乱用による国民の権利侵害の恐れがある、という批判があり、1791年には「権利章典」といわれる修正第1条から第10条が追加された。
資料アメリカ合衆国憲法前文  
「われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の静穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫の上に自由の祝福のつづくことを確保する目的をもって、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する。」
権利章典(アメリカ) 1787年のアメリカ合衆国憲法には、基本的人権については具体的規定がなかったため、1791年に「権利章典」が憲法修正第1条から10条として加えられた。これによって連邦政府の権力の乱用を抑制することができた。権利章典の制定には、ジェームズ=マディソン(後に第4代大統領)が尽力したので、マディソンは「憲法の父」、「権利章典の父」と言われている。また、1789年にフランス革命が勃発し、8月にフランス人権宣言が出されたことが直接的な誘因であった。
e 三権分立 国家の最高権力を、一人に集中させず、立法権・司法権・行政権の三権に分け、それぞれを別個の機関にゆだねて互いに監視、牽制しあう政治システム。一般に立法権は議会(国会)、司法権は裁判所、行政権は政府に付与される。このような形態はまずイギリス革命の中で絶対王政の王権制限として始まり、フランスのモンテスキューが『法の精神』(1748)で体系化された。アメリカ合衆国憲法はそれを国家の主要形態として採用した最初のものである。
f 連邦議会 アメリカ合衆国憲法の議会に関する規定<第1条(連邦議会とその権限)>
第1節 この憲法によって与えられる一切の立法権は、合衆国連邦議会(Congress of the United States)に属し、連邦議会は上院(元老院 Senate)および下院(代議院 House of Representatives)で構成される。
第2節(下院の諸規定)
 @選挙=各州人民が2年ごとに選出。選挙資格は各州の下院に准ず。
 A被選挙資格=年齢25歳以上、7年以上アメリカ市民であること。
 B議員数=各州の人口に比例。各州の人口とは、自由人の総数(年期服役者含む、納税の義務のないインディアンを除く)と黒人奴隷の5分の3を加えたもの。人口の算定は10年に1度の国勢調査による。
 D議長(Speaker)=議員より選挙。
第3節(上院の諸規定)
 @選挙=各州から2名ずつ選出。州議会が選出。任期は6年。
 A改選=議員は2年ごとに3分の1ずつ改選。
 B被選挙権=満30歳以上、9年以上アメリカ市民であること。
 C議長(President)=副大統領がなる。  
g 大統領 President アメリカ合衆国の元首であり、行政府の長でもある。また軍の最高司令官であり外交の責任者でもある。アメリカ合衆国憲法では厳格な三権分立が定められているが、大統領は、議会に対しては拒否権を持ち、最高裁判所の裁判を任命するなど、強力な権限を持つ。その任期は1期が4年で現在は2期までとされている。大統領は裁判所の違憲審査、議会による弾劾裁判などによってその権力をチェックされる規定もあるが、議院内閣制での行政権に比べ、強力な権限を持つと言える。その大統領が執務するのがワシントンの通称ホワイトハウス(1800年から)。2009年1月就任したオバマ大統領は第44代となる。
大統領の任期:再任については規定はなかったが、初代のワシントンが2期まで終わり、3期は不適当であるとして自ら大統領選に出馬しなかったことから、2期までと言う伝統ができた。その後、グラントとセオドア=ローズベルトが3選を試みたがいずれも実現しなかった。フランクリン=ローズベルトだけが第2次世界大戦という特殊事情と言うことで4選までいったが、1951年に憲法修正22条で明確に3選は禁止された。
大統領の選出:4年ごとの閏年に行われ、11月の一般投票による選挙人選挙と12月の選挙人による選挙が行われる。このように間接的な選挙法だが、州ごとに一般投票で多数を獲得した政党がその州の全選挙人を獲得するユニットルール・システムの慣行があり、実質的には一般投票による直接選挙と言うことができる。なお、第3代のジェファソンまでは投票の過半数を得た中の最多票獲得者が大統領、次点が副大統領とされたため、正副大統領が違った政党に属してしまうことがあったので、1804年の憲法修正12条で選挙人は投票時に大統領と副大統領を指定して投票することとなった。なお大統領が任期途中で死亡あるいは退任した場合には副大統領が昇格して残りの任期を努める。
大統領の拒否権:アメリカの大統領は国民から直接選ばれるので、イギリスや日本の議院内閣制での首相(議会から選出され、議会に責任を持つ)とは違い、議会の多数派と異なる「ねじれ」が生じ、議会と対立することことがよくある。その場合、大統領には議会通過法令に対する拒否権が認められている。大統領は法案への署名を拒否し、発議した議会に差し戻すことができる。議会はは3分の2以上で再議決することが出来るが、その可能性は少ないので、大統領拒否権は大きな権限となっている。
大統領弾劾裁判:大統領の犯罪行為に対しては、下院が過半数で弾劾裁判を発議し、上院において弾劾裁判が行われ、3分の2以上の議決で有罪とされれば、罷免される。 → ウォーターゲート事件
h 最高裁判所 アメリカ合衆国憲法では、アメリカ合衆国の最高裁判所は6名の裁判官で構成される(その後増加し、現在は9名)。最高裁判所裁判官は大統領が指名し上院が承認して就任する終身官であり、憲法の判断権を行使する重要な存在である。
i 連邦主義 アメリカ合衆国憲法に定められた、アメリカ合衆国の州の権限についての規定<第1章第10節(州の権限の制限)>
@各州は条約・同盟の締結、貨幣の鋳造、貴族の称号の授与などはできない。
A各州は独自に輸出入に課税できない。
B各州は平時において軍備を保ち、侵略された場合以外に戦争行為をすることはできない。 
j 人民主権 アメリカ合衆国憲法の前文に「われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し」とあるように、アメリカ合衆国の国家原理の一つ。アメリカ独立宣言の精神を引継ぎ、アメリカ合衆国がヨーロッパの君主国とはまったく異なる国家であることを規定した。
 大統領制の発足  
a ワシントン(大統領就任)1789年4月30日、アメリカ合衆国の新政府最初の首府ニューヨークで、初代大統領ワシントンが就任した。次はワシントン大統領の就任演説の一節。
『自由な政治がすぐれていることは、その一切の属性がその市民からの敬愛と世界の尊敬とを集めうるという事実によって、証明されるべきである‥‥自由の聖火が護持されるかどうか、また共和主義政治の運命がどうなるかは、アメリカ人の手にゆだねられたこの実験に、深刻に、決定的に、かかっていると考えてもおそらくさしつかえないであろう。』
(以下ビーアドの評言)「初代の大統領は、軍事的な英雄ー革命軍の総司令官であった。しかし、かれは、シーザーや、ナポレオンになって頭上に王冠をいただこうとするような人物ではなかった。かれはすでに、君主または武断的独裁者を立てようとする陰謀に加わることについては、その暗示に対してさえ激怒して、拒絶していた。‥‥君主政治の伝統をもった残存者が、どんなに根強いものであったとしても、ジョージ・ワシントンはその伝統を回復することを望まなかったし、また、気質としても、それにむく人ではなかった。‥‥大統領の職務につくためにニューヨークに出立するに先立ち、かれはヘンリー・ノックス大将に「自分の感じは、刑場に送られる罪人の気持ちに似ていないでもない。」と書き送った。」<ビーアド『新編アメリカ合衆国史』P.145-147>
Epi. 閣僚の半数が30歳代だったアメリカ最初の政府 初代大統領ワシントンは57歳。副大統領にはマサチュセッツのジョン・アダムス。国務長官にジェファソン、陸軍長官にノックス(39歳)、財務長官にハミルトン(32歳)、郵政長官にサムエル・オズグッド、司法長官にランドルフ(36歳)と、閣僚の半数近くが三十代だった。連邦最高裁判所の首席判事にはジェイが任命された。行政省庁の官僚機構は、本省が最大の財務省でも39人の本省職員と1000人前後の徴税人と税関職員、陸軍省も5人の職員と約3000人の軍隊、国務省に至っては4人の職員と一人の通訳がいるにすぎなかった。‥‥1801年の時点でも130人にとどまっていた。連邦政府が中央政府としてきわめて規模の小さい「アメリカ型国家」であったことが明らかであろう。<五十嵐武士『世界の歴史』21(中央公論社)p.162>
b アメリカ合衆国の外交政策 近代世界最初の民主主義国家であったアメリカ合衆国は、建国当時のワシントン、ジェファソン以来、孤立主義といわれ、君主国家とは一線を画して、ヨーロッパ諸国の戦争に対しては中立策をとっていた。それは1823年のモンロー教書によって明確にされたのでモンロー主義とも言われ、以後のアメリカ合衆国の外交姿勢の基本となった。19世紀末にはアメリカは世界の大国となると、ヨーロッパへの不介入という孤立主義を維持しながら、ラテンアメリカさらに太平洋方面に進出し、1898年の米西戦争でフィリピンなどを殖民地として所有する帝国主義国家となった(アメリカの帝国主義)。孤立主義を守ることを公約し、ヨーロッパ列強の対立から中立を守っていたウィルソン大統領であったが、ドイツの侵略的な軍事行動がつよまると、途中から民主主義の擁護の立場から第1次世界大戦に参戦し、孤立主義を転換させて国際協調を提唱して戦後国際社会のリーダーをめざした。しかし、議会の反対で国際連盟に加盟できず、戦後は孤立主義に戻ってしまった。戦間期には孤立主義の時期であったが、世界の最強国という立場となったアメリカのはドイツ賠償問題の解決、不戦条約、海軍軍縮などでは国際協調の重要な役割を担うこととなった。しかし孤立主義の基本姿勢は世界恐慌後に始まった30年代のファシズムの台頭などのヨーロッパが強まるとかえって強化され、1935年に中立法を制定した。こうして第2次世界大戦の勃発に対しても当初は参戦しなかったが、ファシズムの脅威が強まる中、F=ローズヴェルト大統領はイギリス・ソ連との連合国結成に動き、日本の真珠湾攻撃を受けて第2次大戦への参戦、再び世界戦争に直面して孤立主義を放棄した。以後、アメリカ合衆国は現在まで孤立主義をとることはなくなっており、逆にファシズムや共産化の脅威から世界を守り、「自由主義・民主主義」といったアメリカの理念を世界に拡大していくという、ウィルソン的な理念型の外交姿勢が目立つようになる。大戦後はアメリカは国際連合を中心とした国際協調の中で重要な役割を果たすこととなったが、社会主義国ソ連の東欧での進出を受けて関係が悪化して東西冷戦期となると、資本主義陣営の盟主として、厳しくソ連陣営と対立し朝鮮戦争・ベトナム戦争などに積極的に関わった。しかし、1970年代には冷戦の枠組みが変化し、アメリカもドル危機にみまわれ反戦運動が激化し、中国との国交回復など大きな転換を余儀なくされ、資本主義陣営でもアメリカの一極支配は終わり、西欧と日本との三極構造に転換した。東欧革命から冷戦終結に進み、ソ連の崩壊した1990年代以降は、各地で民族紛争、宗教対立が吹き出すこととなった。国際連合とアメリカの関係はからずしも良好ではなくなり、アメリカの中に国連の枠組みの中で行動するより、単独で軍事行動を展開する傾向が強くなり、孤立主義に代わる、単独行動主義(ユニラテラリズム)の台頭として懸念されている。以上、アメリカ合衆国の外交政策の推移の素描であるが、各時期を補足すると次のようになろう。
孤立主義の源泉:初代大統領ワシントンは離任に際しての告別演説で「世界のいずれの国家とも永久的同盟を結ばずにいくことこそ、われわれの真の国策である」と述べている。これはアメリカ外交における孤立主義の源泉とされているが、正確に言えば非同盟主義である。近代世界最初の共和制国家として独立したアメリカ合衆国が、新興の弱小国として「旧世界」ヨーロッパ君主国の権謀術数に巻き込まれないようにする叡知であり、外交よりも内政を重視する姿勢であった。この姿勢は1800年に大統領となったジェファソンによって外交路線として定着した。彼は国内発展に先進して1803年にルイジアナをフランスから購入し、国土を独立時から一挙に倍となり、アメリカの大国化の基礎が出来上がった。
モンロー教書:ヨーロッパでナポレオン戦争が勃発するとアメリカ合衆国は既定路線どおり、中立策を採った。しかしイギリスの通商妨害によって中立が侵犯されたとして、1812年に米英戦争に踏み切った。この戦争ではアメリカは英領カナダに侵攻するなど膨張的であったが、かえって首都をイギリス軍に占領されるなど苦戦し、南部でジャクソン将軍が一矢を報いただけで痛み分けで終了した。ウィーン体制下のヨーロッパでロシアを中心とした君主国による神聖同盟が結成され、さらにメッテルニヒがラテンアメリカの独立運動に干渉してくると、1823年モンロー大統領はモンロー教書を発表してヨーロッパへの不介入を宣言した。これは孤立主義の路線を継承した面もあるが、さらに一歩進めて西半球からヨーロッパ諸国の勢力を排除し、合衆国の覇権を確立するねらいが付け加えられたものであった。モンロー主義は対ヨーロッパでは孤立主義であるが南北アメリカ大陸に対しては覇権主義的な二面性を持っていた。19世紀の前半はジャクソン大統領の時代に西部開拓が進むとともに、ジャクソン=デモクラシーといわれるアメリカの民主主義が定着ししていった。
アメリカの帝国主義南北戦争を経て、アメリカ合衆国においてはじめてナショナリズムが形成された。そして1890年代にフロンティアが消滅、さらに1894年にはアメリカの工業力がイギリスを抜いて世界一となると、孤立主義外交路線は変質し、ラテンアメリカ・太平洋方面への膨張的な動きが強まった。このアメリカの帝国主義が明確に現れたのが1898年の米西戦争であった。その勝利によってキューバの保護国化、フィリピンの植民地化をはかり、かつて殖民地であったアメリカが殖民地をもつ国となり、大国となった(もっともまだ国民的なレベルでは大国意識は成立していない)。翌99年には、列強の中国分割に後れをとっていたため、国務長官ヘイの名で、中国の門戸開放宣言を発した。アメリカのカリブ海政策は、さらにT=ローズヴェルト大統領のもとで積極化された。彼は中米地域に対して棍棒外交といわれる強圧的な進出を図り、キューバを保護国化し、パナマを領有するなどラテンアメリカ地域を「わが庭」とする姿勢をとった。またアジア進出を意図して日露戦争の仲裁を行った。次の民主党ウィルソン大統領はラテンアメリカに対しては民主主義を育成するという姿勢に転じ、メキシコ革命に介入したが、その宣教師外交といわれるアメリカの理念を他国に押しつける外交は失敗した。これは、後のアメリカのベトナム戦争の失敗や、現在のイラク問題の混迷などの先例として見ることが出来る。
第1次大戦のアメリカ外交第1次世界大戦が勃発するとウィルソン大統領は当初、中立を守ったが、英仏に対する経済支援を強めていった。英仏が敗北すれば債権の回収が困難になることを恐れ、また直接的にはドイツ軍の無制限潜水艦攻撃を受けたことに反発して大戦末期の1917年4月に第1次世界大戦に参戦した。これは孤立主義を放棄したことを意味している。また同年、ロシア革命で社会主義政権が登場しレーニンが「平和に関する布告」で無賠償・無併合・民族自決による即時講和や秘密外交の禁止を提唱したことに対する対抗もあって、ウィルソンは戦後国際社会の主導権を握るため、18年に14カ条の原則を提示し秘密条約の禁止、民族自決とともに国際連盟の設立など、従来のヨーロッパ列強間の勢力均衡論による平和の維持に代わり、集団的安全保障による平和維持の理念を提唱した。また講和会議では敗戦国に対する賠償金請求や領土併合を極力抑えようとしたが、その意図は実現せず、英仏の主張するドイツに対する苛酷な戦後処理が行われることとなった。国際連盟の設立はヴェルサイユ条約に盛り込まれたが、アメリカ議会はその批准を拒み、結局アメリカは国際連盟に加盟せず、ヴェルサイユ体制に対しては孤立主義の原則に戻ったといえる。
戦間期のアメリカ外交:二つの大戦の間、アメリカ外交政策は国際協調主義と孤立主義のせめぎあいという状況が続いた。議会の保守勢力(共和党)の中には孤立主義が根強く、国際連盟には加盟しなかったが、第1次大戦を機に債権国に転じたアメリカは1920年代に共和党政権の下で「永遠の繁栄」といわれる経済繁栄を謳歌することとなり、ドーズ案によるドイツ賠償問題の解決や不戦条約の締結、ワシントン会議を主催して海軍軍縮や中国・太平洋方面での調停など、国際協調にも役割を果たすこととなった。この時期のアメリカ社会の中の国内政治優先の傾向は、1924年に制定された移民法で、移民を厳しく制限したことなどに現れている。しかし、1929年にアメリカ経済の破綻から世界恐慌が起こると、国際協調はもろくも破綻し、ファシズム国家の軍事的膨張が明確な脅威となってきた。1933年から民主党F=ローズヴェルト大統領はニューディール政策による経済立て直しに着手し、外交面ではラテンアメリカ地域に対しては善隣外交に転換し、ソ連を承認するなど協調的な姿勢も示したが、英仏と独伊の対立、その背後にあるソ連の脅威など緊迫するヨーロッパ情勢に対しては1935年に中立法を制定して孤立主義の原則に立ち返った。
第2次大戦とアメリカ外交 孤立主義の放棄:1939年、第2次世界大戦が勃発してもアメリカは参戦しなかったが、次第にファシズムの脅威が明らかになり、またアジア・太平洋方面では日本の進出がアメリカの利権を脅かすようになってくると、国内でも参戦の声も強まった。F=ローズヴェルトは1941年3月、武器貸与法を制定してイギリス支援に踏み切り、さらに独ソ戦の開始を受けて8月にチャーチル英首相との間で大西洋憲章を発表し、ファシズムに対する自由と民主主義の戦いという戦争目的を明らかにし、さらに戦後の国際平和維持機構の設立などで合意した上で参戦の機会を待ち、同年12月の日本軍の真珠湾攻撃を受けて第2次大戦への参戦に踏み切った。こうしてアメリカは孤立主義を放棄し、国際協調主義に転換した。またスターリン体制下のソ連とも体制の違いを超えて対ファシズム戦争という目的で一致し、大戦中からたびたび首脳会談を重ねて国際連合の設立など基本的な戦後国際社会の枠組みで合意した。ヨーロッパ戦線、太平洋戦線で多大な兵力を投入して戦争を勝利に導いたが、戦後国際社会の主導権をめぐる米ソの対立は大戦中から始まっており、トルーマン大統領はアメリカが広島・長崎で人類最初の原子爆弾の使用に踏み切った背景でもあった。
冷戦前期(50〜60年代)のアメリカ外交:戦後においても国際連合の中心となり、またブレトンウッズ体制で国際経済の復興をを支える役割を担うなど、国際協調主義の立場に立った。二つの世界大戦という大きな犠牲を払って到達した、集団安全保障という理念を現実のものとしたといえる。しかし、社会主義陣営ソ連との対立はまもなく表面化し、戦後は東西冷戦構造の中で、アメリカは自由主義・民主主義陣営の盟主をもって任じ、トルーマン=ドクトリンによって東側を封じ込め、マーシャル=プランで西欧諸国の経済支援を行った。また北大西洋条約機構(NATO)を初めとする軍事同盟関係の網の目を広げ、集団安全保障の理念は現実から離れることとなった。こうしてソ連との激しい核開発競争が始まり、朝鮮戦争での国連軍としての出兵などが行われた。50年代後半にはソ連のスターリン批判を契機として一時、平和共存が模索されたが、ケネディ大統領の時のキューバ危機で崩れ、アメリカはアジアの共産化の防止という意図からベトナムへの介入を強めてベトナム戦争に突入した。しかしその長期化は財政難とともに激しい反戦運動の広がりをもたらし、アメリカ合衆国の一体感を損なうこととなり、1971年にはニクソン大統領はドル危機の解消のためドル=ショックといわれる処置をとらざるを得なくなった。これは戦後の資本主義陣営の中のアメリカ一極体制が崩れたことを意味しており、統合を進めた西ヨーロッパ諸国、戦後復興を遂げた日本との三極構造に転換することとなった。戦後のもう一つの大きな変化であるアジア・アフリカ・中東などでの民族独立の進展が、新しい国際情勢をもたらした側面もある。
冷戦後期(70〜80年代)のアメリカ外交:共和党ニクソン大統領のキッシンジャー外交であアメリカ外交は大きく転換する。それは従来の理念的な孤立主義外交や国際協調外交といった枠組みではなく、国際社会の勢力関係の中で現実的な国益を探ろうという現実主義外交であり、ベトナム戦争の有利な終結をめざして中国と関係改善に踏み切るという大胆な転換を行った。またキッシンジャー外交はデタント(緊張緩和)を進展させ、核軍縮を現実的にした。さらに第4次中東戦争の影響で起こった1973年のオイル=ショックによって、アメリカを先頭とした戦後資本主義経済の成長を終わらせ、低成長時代に入るという大きな変化が起こった。75年からは国際社会の調整はサミットの場に移り、アメリカもその一員に過ぎない存在となった。70年代末の民主党カーター政権は人権外交を掲げ、協調的な外交を展開したが、イラン革命に直面し、その処置を誤った。一方の東側のソ連社会主義もこの間、行き詰まりが深刻になっていた。硬直したブレジネフ体制の下で79年にアフガニスタン侵攻が強行され、再び米ソ関係は新冷戦という対立に戻った。アメリカは共和党レーガン大統領が強硬な核強化路線をとり、ラテンアメリカなどにも干渉を強めたが、その財政状況は悪化が続いた。このように米ソ両陣営で体制矛盾が強まる中、1985年のソ連のゴルバチョフ政権の登場以降、急速に社会主義陣営の自己解体が進み、89年には東西冷戦の象徴であったベルリンの壁が開放され、一気にブッシュ=ゴルバチョフのマルタ会談での冷戦終結宣言となり、その勢いはさらに91年のソ連崩壊に行き着くこととなった。
冷戦終結後のアメリカ外交:冷戦構造解体後の1990年代以降の国際社会では、湾岸戦争に見られるような地域紛争、さらに民族紛争・宗教対立が激化し、国際連合のPKO活動が行われるようになった。イラクのフセインによるクェート侵攻に対しては共和党ブッシュ(父)政権は国連の多国籍軍の主力となって湾岸戦争を遂行した。その後、民主党クリントン政権のもとで経済復興をはかり安定を取り戻し、アメリカが唯一の軍事大国として存在感を増すこととなり、「パックス・アメリカーナ」という言葉さえ生まれた。しかし、かえって中東でのアラブ人の中に湾岸戦争以来のアメリカの行動に対する反発が強くなり、21世紀に入って9.11の同時多発テロという事態となった。テロを国家に対する宣戦布告と見た共和党ブッシュ(子)政権は、アフガニスタンへの報復的な攻撃を行い、さらにタリバンの背後にあるイラク・フセイン政権の大量破壊兵器所有を疑い、国連決議のないままイラク戦争に踏み切るなど、テロとの戦いという名目でのアメリカの軍事的な単独行動主義(ユニラテラリズム)が顕著になってきた。しかしこのような強硬路線にもかかわらず、アフガニスタンとイラクの情勢は好転せず長期化の様相を見せ、またアメリカ経済の破綻もあって2008年の大統領選挙は共和党のオバマが勝利し、アメリカ合衆国の外交も協調路線、平和路線に転換しようとしている。
参考 アメリカ外交の4潮流 アメリカの外交は必ずしも孤立主義が不動の原則なのではなく、いくつかの路線、理念が複雑にからまりながら、国際情勢と国内情勢の変化に伴って変転している。アメリカの外交政策に、(1)ハミルトン型、(2)ジェファーソン型、(3)ウィルソン型、(4)ジャクソン型、の4つの潮流があることをウォルター・ミード『神の特別なお慈悲』2001をもとに、村田晃嗣『アメリカ外交 希望と苦悩』2005 講談社現代新書 p.35-41で論じられている。それによると、各潮流は次のようにまとめることが出来るという。
 (1)ハミルトン型(ハミルトニアン) ・海洋国家をめざす。対外関与に積極的。国内の限界に楽観的。
 (2)ジェファーソン型(ジェファーソニアン) ・大陸国家をめざす。選択的な対外関与。国力の限界に自覚的。
 (3)ウィルソン型(ウィルソニアン) ・普遍的な理念を外交目標として追求。
 (4)ジャクソン型(ジャクソニアン) ・国権の発動や国威の高揚を重視。軍事力に傾斜。 
c ハミルトン アレキサンダー=ハミルトンはアメリカ独立戦争ではワシントンの副官として活躍。独立宣言の後、13の共和国の緩やかな連合でいくか、統一的な憲法の下で強固な連邦政府を樹立するかで、ジェファソンらと意見が対立したが、ハミルトンは憲法の制定と連邦政府の樹立を主張し、憲法制定会議の開催を提案した。1787年に開催された憲法制定会議では、連邦主義(フェデラリスト)の中心人物として活躍、憲法制定に大きな役割を果たした。さらに新政府が発足すると初代大統領ワシントンのもとで財務長官を務め、連邦政府の財源の確保のために税制を整備するなど、終始連邦政府の強化に努めた。ハミルトンは国家財政基盤を確立するため国立銀行設置を提案、1791年、それを機に反対派のジェファソンらはリパブリカン党を結成する。それに対してハミルトンらはフェデラリスト党と言われるようになり、次第に政党の性格を持つようになる。
Epi. 決闘で殺されたハミルトン 1804年7月11日、ハドソン川の堤防上でアメリカの政治家同士の二人がピストルによる決闘を行った。その一人がフェデラリストの大物ハミルトン、一人はリパブリカンからフェデラリストに転身して大統領になろうという野心をもったバー。ハミルトンがフェデラリストの集会で、バーを好ましからざる人物として非難したことに対し、バーが決闘を申し込んだのだった。二人の決闘は立会人の見守る中で行われ、まずハミルトンが一発、しかし彼はわざと的をはずした。続いて放たれたバーの銃弾はハミルトンに命中し、翌日死んだ。世論は激しくバーを非難し、彼はワシントンから姿を消した。(その後ミシシッピに現れ、独立国を造る陰謀をたくらみ、捕らえられて裁判にかけられたが無罪になった。)
d ジェファソン  → トマス=ジェファソン
e ワシントン特別区 アメリカ合衆国最初の首都はニューヨークに置かれたが、1790年に議会はフィラデルフィアを10年間首都とする事、その後、ポトマク河畔に永久的首都を建設する事を決議した。フランス人技師でアメリカ独立戦争に参加したランファン大佐が都市計画を立て、キャピトル(国会議事堂)はソーントン、大統領官邸はホーバンがそれぞれ設計した。ジョージア式と植民地様式に、ギリシア・ローマの共和政時代の様式を加味した建設である。1800年、第2代大統領ジョン=アダムスのときに完成し、初代大統領ワシントンの名を冠し、ワシントンと命名された。ワシントンDCのDCは、Didtrict of Columbia の略で、「コロンビア区」の意味。この地が州には属さない、アメリカ合衆国議会直属の特別区であることを示す。
Epi. 首都ワシントンの設計に加わった黒人技師 ワシントンは新しい首都の境界を定めて街路の設計をする委員の一人に、自由黒人のベンジャミン・バネカーを選んだ。彼は当時数学者としても、天文学者としても知られていて1791年に国務長官ジェファソンの推薦でワシントンから重要な仕事を任された。バネカーはフランス人技師ランファン少佐や友人のエリコットとともに首都ワシントンD.C建設という重大な仕事をなしとげたのだ。<猿谷要『物語アメリカ史』中公新書 p.69-70 1999.11.24記>
a アメリカ独立革命 市民革命としてのアメリカの独立:アメリカの独立戦争(1775年〜83年)は、アメリカ植民地が独立をめざしてイギリス軍と戦った戦争であり、フランスの参戦など、国際的な戦争であった。しかしその意義は、アメリカ合衆国として独立し、王政と貴族制、身分制を否定してブルジョアジー(市民階級)が権力を握った近代世界最初の共和政国家をつくりあげたことにあり、その意味で市民革命(ブルジョア革命)そのものであった。そこで単に独立戦争に止まらず、アメリカ独立革命(または単にアメリカ革命)と言われる。とくに1776年の「独立宣言」は、平等・自由などの基本的人権、国民主権、人民の革命権などを打ち出しており市民革命としてのアメリカ革命の理念を端的に現している。革命によって成立したアメリカ合衆国は、従来のヨーロッパ諸国と決定的に異なり、初めから国王や貴族階級の存在しない、平等な市民が主権を持つ国家として始まった。
アメリカの独立とヨーロッパ:またアメリカ独立革命の成功は、大西洋をはさんでフランス革命を引き起こすこととなり、この二つを一連の「市民革命」ととらえることが出来る。(「大西洋革命」と言われることもあり、また同時期に展開されたイギリスの産業革命と並べて「二重革命」という概念でとらえることもある。アメリカの独立はヨーロッパに大きな影響を与えたが、独立直後のアメリカは、大西洋をはさんでヨーロッパから遠く離れているという地勢的な条件もあって、ナポレオン戦争に対しては中立の態度をとった。その過程でイギリスと再び対立が生じ、第2次独立戦争とも言われる米英戦争(1812〜14)となった。これは独立したての合衆国にとっては危機であったが、勝利とは言えないが敗北をまぬがれて独立を維持し、経済的自立に向かうこととなった。またヨーロッパでウィーン体制が成立して君主国が復活すると、1823年にはモンロー教書を発してそれらとは一線を画し、孤立主義をその外交政策の基本に据えるとともに、西半球への覇権をめざす路線をあきらかにした。
独立革命後の問題:アメリカ合衆国は1787年に採択された合衆国憲法によって人民主権と三権分立のもとで、13の States =国家で構成される「連邦主義」の国家として出発したが、連邦政府と州の権限をめぐる連邦派(フェデラリスト)反連邦派(アンチフェデラリスト)の対立はその後も継続した。また国民の主体はイギリス系(WASP)であったが、次第にヨーロッパの他国からの移民が増加し、次いでアジアやラテンアメリカからなども多数の移民を受け入れる多民族国家であった。そして内部には黒人奴隷制とインディアン問題など、『民主主義』国家としての深刻な問題点も継続する。さらに19世紀前半までに領土を拡大し、西漸運動が進んだ一方、北部工業地帯と南部奴隷制農場の経済的対立は次第に深刻となった。
南北戦争の意義:このような多面性をもった新しい国家を、国民国家として一体化させナショナリズムを成立させたのが、1861年の南北戦争であった。この戦争によって、アメリカ合衆国が真の市民社会を基盤とする近代的国家として独立と統一を実現したといえる。その意味で南北戦争はアメリカ史のなかで、Civil War と言われてており、市民革命としてのアメリカ独立革命はここまで含まれるとも言える。南北戦争が北軍の勝利で終わったことは、新生アメリカ合衆国が奴隷制を克服した民主主義国家として、連邦主義・保護主義(ある意味ではヨーロッパ諸国からの自立を強める路線である「孤立主義」と一致する)を基本とし、工業化・産業化をめざす国家方針が明確になったことを意味し、その路線に沿ったアメリカ資本主義は、19世紀末にイギリスを抜いて世界一の生産力を誇る大国となり、帝国主義段階へと移っていく。 → アメリカの外交政策  アメリカ帝国主義
d 大西洋革命