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2.ソ連・東欧社会主義圏の解体とアジア圏社会主義国の転換
ア.ペレストロイカとソ連の崩壊
 ソ連社会の停滞 ソ連の冷戦時代、主として1970〜80年代前半のブレジネフ政権時代に見られた社会主義社会の停滞を言う。
ソヴィエト社会主義共和国連邦では、1929年に始まるスターリン体制の中で、第2次世界大戦での勝利、厳しい冷戦に耐えてきたことから、公式に「発達した社会主義」に達しているとされ、その権威は揺るぎなきものとされたが、第2次世界大戦後のソ連では、1953年にスターリンが死去し、1956年にスターリン批判が行われ、その個人崇拝や粛清などの強権的な指導は否定され大きく転換することとなった。しかし、社会主義そのものや、スターリン体制そのものに批判が及ぶことはなく、その後も存続した。フルシチョフの改革は一定の変化をもたらしたが、1964年に失脚し、替わって登場したブレジネフ政権ではスターリン体制的な要素が復活した。そのブレジネフ政権は18年の長期に及び、激動のソ連史の中でも「安定」した時代であったが、その反面、共産党官僚による支配はますます官僚的になり、人事は停滞して「老人支配」と言われるようになった(ブレジネフ政権末期の1981年の政治局員の平均年齢は69歳だった)。そのような中で、革命後に成長した層は活動の場は奪われ、社会主義建設という同志的連帯感や社会への参画意識は次第に薄れていった。当時西側諸国は技術革新時代を迎えていたがソ連の立ち後れが目立ち初め、何よりも経済成長が停滞し、市民生活も閉塞感に覆われるようになった。そのような中で一部の党高級官僚(ノーメンクラツーラという)は別荘を持つなどの経済的に恵まれた地位を縁故的に維持しており、特権階級化した。改革の試みがなかったわけではなく、コスイギンは1966年から一部計画経済の見直しを提唱し利潤導入方式経営といわれる改革に着手したが、保守派の反対で70年代には挫折した。自由を求める声も反体制知識人といわれる少数の人々から起こったが、サハロフ博士や作家のソルジェニーツィンらは監禁されるか国外追放となってしまい、自由な言論は抑え込まれた。外交面でも1968年のチェコ事件を武力で干渉で押さえ込み、社会主義圏にはブレジネフ=ドクトリンを押しつけた。70年代には西側との緊張緩和(デタント)が進んだが、1979年のアフガニスタン侵攻によって新冷戦といわれる対立に戻ってしまった。このようなソ連の停滞、硬直化を揺り動かす動きはむしろ東欧諸国の自由化を求める運動に触発される形で始まった。その最初の動きが1980年に始まるポーランドの民主化であった。ソ連国内でも改革の必要が意識されるようになり、1982年のブレジネフの死去、替わったアンドロポフチェルネンコが相次いで死去し、1985年に54歳というソ連指導者としては異例の若さのゴルバチョフが書記長に選任されて一気に改革が実行されることとなった。
 ブレジネフ   → ブレジネフ
 デタント   → 緊張緩和(デタント)
 反体制知識人  フルシチョフのスターリン批判が始まり、「雪どけ」といわれる一部の言論の自由も認められる中で、知識人の政治的な発言も見られるようになったが、1964年にフルシチョフが失脚しブレジネフ政権になると再び政府を批判したり、社会主義の現実を問題視する言論は厳しく取り締まられることとなった。そのような言論の封殺に抵抗して、なお反体制知識人(異論派ともいう)は危険を冒して発言したり、地下出版(サミズダートという)で政府と体制に対する批判をつづけた。その代表的な人物に、原子物理学者のサハロフ博士、作家のソルジェニーツィンらがいる。70年代のデタント時代には西側の文化も一部解禁されたため、人権問題や環境問題、国際平和に関する発言が出始めたが、一方で体制批判は厳しく取り締まられて国内監禁や国外追放などの弾圧が行われた。また反体制知識人の中には国外に亡命する人々も多くなった。1980年代後半のゴルバチョフ政権のもとでグラスノスチ、ペレストロイカが始まり、自由な反体制発言が可能となり、多くの知識人が名誉を回復した。
 サハロフ  ソ連の原子物理学者で、核兵器の開発に携わり、「ソ連水爆の父」と言われるようになったが、後に反核運動に転じ、ソ連政府の核開発や外交政策を批判し反体制知識人の一人となった。70年代のデタント時代には平和活動を評価され、1975年にノーベル平和賞を受賞した。しかし「新冷戦」に反政府言論に対する取り締まりが強化され、1980年には政府のアフガニスタン侵攻を批判して逮捕され、裁判もなくゴーリキー市(現ニジニ=ノブゴロド市))に国内追放されて自由を奪われ監禁生活を送らざるを得なかった。ペレストロイカが始まって1986年に解放され、人民代議員大会の議員に選出されるとソ連憲法の「共産党の指導的役割」の削除を求めて論陣を張り、ソ連解体前の1989年に急死した。
 ソルジェニーツィン  現代ソ連の作家で、1962年に『イワン・デニーソヴィチの一日』を発表、シベリアの強制収容所(ラーゲリ)の生活を告発し、高い文学性から1970年にノーベル文学賞を受賞した。反体制的な内容であるとされて著作は国内で発表できなくなり、『収容所列島』をパリで発表したため、1974年には市民権を剥奪され、国外追放となった。他に『ガン病棟』どの作品がある。
 アフガニスタン(王政廃止) アフガニスタンは中央アジアの旧ソ連圏諸国の南、イランとパキスタンの北に隣接する内陸国。18世紀にアフガン人最初の国家であるアフガン王国が成立したが、19世紀にロシアとイギリスの勢力争いに巻きこまれ、1879年にイギリスの保護国となった。第1次世界大戦後の1919年にアフガニスタンは独立を回復し、20年代に立憲君主政国家の建設が進んだ。第2次世界大戦前後の国王ザヒル=シャーは、中立外交を進め、冷戦期にも非同盟・中立を掲げ1955年のバンドン会議にも代表を送った。1960年代には憲法を改定して政党結成の自由など、立憲君主政下の一定の近代化を推進した。しかし、隣国パキスタンとは国境問題で対立したため、インド洋方面からの物資の流入が阻まれたこともあって、次第にソ連との関係が強まった。そのような中で1965年、アフガニスタン最初のマルクス=レーニン主義政党である人民民主党が結成され、ソ連の支援を受けて台頭し、軍にも勢力を伸ばした。
1973年と1978年のクーデター:1973年7月、ザヒル=シャー国王が眼の治療のためにイタリアに渡航中、ソ連で訓練を受けた若手将校らがカーブルの宮殿を占拠し、無血クーデターを成功させた。首謀者の前首相ダウドは直ちに王制を廃止して共和制の導入を表明し、自ら大統領に就いた。ダウド政権はソ連の経済援助を受けていたが、次第に独自色を強め親ソ派の軍人や人民民主党を弾圧し、一族登用など独裁色を強めたため、1978年4月、人民民主党と軍部が蜂起してクーデターを決行し、ダウド大統領は殺害され、タラキやカルマル、アミンら人民民主党政権が成立、4月30日に国名をアフガニスタン民主共和国に変更した。<渡辺光一『アフガニスタン』 2003 岩波新書> → アフガニスタンの共産政権
 アフガニスタン侵攻(ソ連)1979年、ソ連のブレジネフ政権が社会主義を掲げる親ソ派政権を支援するためにアフガニスタンにソ連軍を侵攻させたこと。ソ連軍に対しイスラーム原理主義系のゲリラ組織は激しく抵抗、ソ連軍の駐留は10年に及んで泥沼化し、失敗した。ソ連のアフガニスタン侵攻にアメリカなど西側諸国が反発し、70年代の緊張緩和(デタント)が終わって新冷戦といわれる対立に戻った。これを機にソ連の権威が大きく揺らいで、ソ連崩壊の基点となった。 → アフガニスタンの歴史
理由:当時はその理由は明確にはされず、諸説あったが、現在は次の2点とされる。
共産政権の維持。アフガニスタンのアミン軍事政権が独裁化し、ソ連系の共産主義者排除を図ったことへの危機感をもった。ソ連が直接介入に踏み切った口実は、1978年に締結した両国の善隣友好条約であり、またかつてチェコ事件(1968年)に介入したときに打ち出したブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)であった。
イスラーム民族運動の抑圧。同年、隣国イランでイラン革命が勃発、イスラーム民族運動が活発になっており、イスラーム政権が成立すると、他のソ連邦内のイスラーム系諸民族にソ連からの離脱運動が強まる恐れがあった。
影響:アメリカ(カーター大統領)は、ソ連の武力侵攻を批判し、経済制裁を発動するとともにアフガニスタンの反政府勢力に武器を提供した。またアメリカは、西側諸国に対し1980年のモスクワ=オリンピックのボイコットを呼びかけ、などが同調した。第2次戦略兵器制限交渉(SALT・U)は調印されていたが、アメリカ議会が批准を否決し、実施されなかった。次のレーガン政権はソ連を「悪の帝国」と述べて対決路線を復活させ、SDI構想を発表、米ソは「新冷戦」期に入った。
結果:ソ連のアフガニスタン侵攻は、イスラーム勢力の激しい抵抗を受けると共に、国内の経済情勢の悪化も重なり、事態の収拾に失敗、当初の予測を裏切って駐留は10年に及び、ようやくゴルバチョフ政権下の1988年に撤退を決定し、翌年2月までにアフガニスタン撤退を完了した。ソ連のアフガニスタン侵攻とその失敗はソ連の崩壊のきっかけとなったばかりでなく、イスラーム原理主義を精神的支柱にした新しい民族主義が台頭し、9.11につながることとなった。アメリカが援助した武器で武装したイスラーム反ソ勢力が、湾岸戦争後はその武器で反米闘争を展開することになるのはアメリカにとって皮肉な結果であった。このソ連のアフガニスタン侵攻は、1990年代以降の現代史に向けての重要な転換点であった。ソ連軍撤退後のアフガニスタンでは無秩序状態が深刻化して、部族対立が激化、パキスタン、イランなどの介入もあってアフガニスタン内戦に突入した。その中でイスラーム原理主義のターリバーンが急速に台頭し権力を掌握することとなる。
Epi. ブレジネフは知らなかったアフガニスタン侵攻決定 1979年12月のソ連のアフガニスタン侵攻決定は、その後のソ連の運命を決したことだけでなく、イスラム原理主義運動の世界的な活動の基点となった点でも、重大な決定であったが、その時点ではことの重大さは認識されていなかったようだ。ソ連の介入決定は12月12日の政治局会議でなされたが、そのときすでにブレジネフは病気がちでアフガニスタンで何が起きているか知らず、まかせっきりであった。実質は5名で決定された。短期介入を主張したのは、アンドロポフKGB議長であり、軍のウスチノフ、グロムイコ外相が支持し、決定された。しかし短期解決の見込みはもろくも崩れ、以後10年にわたる泥沼の戦いとなり、結局ソ連の命取りとなったのだった。ゴルバチョフはこの時はまだ政治局員ではなかったので決定には関わっていなかった。<下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家』2002 講談社選書メチエ p.199 による>
 アフガニスタン(共産政権)1978年、アフガニスタンでは共産勢力(人民民主党)が軍と結んでダウド大統領を暗殺して政権を奪取し、共産主義政権を樹立し、国号をアフガニスタン民主共和国と変更した。共産政権のもとでの農地改革や女子教育などにイスラーム聖職者などが伝統の破壊であると反発、共産政権も軍と結んだアミンの独裁色が強まってカルマルなどの穏健派との対立が激化し、それに部族対立、世俗化に対するイスラーム原理主義勢力の反発が絡んで、対立関係はより複雑となった。イスラーム勢力は民衆の支持を受けてゲリラ戦を展開した。
1979年、ソ連(ブレジネフ政権)はアフガニスタン侵攻を決定、ソ連軍を派遣してアミン政権を倒し、カルマル政権を樹立するとともに、イスラーム勢力に対する弾圧を強化した。しかしイスラーム勢力はソ連軍によって伝統と自尊心を踏みにじられた感情をもち、ソ連軍との戦いを聖戦(ジハード)と意義付け、ムジャヒッディーン(聖戦戦士)を組織して抵抗した。ソ連軍・政府軍と反政府軍の戦闘によって多数のアフガニスタン人が、パキスタンやイランに難民となったいった。結局9年間の戦闘でソ連軍は反政府イスラーム勢力を押さえることが出来ず、ゴルバチョフ政権のもとで1988年に和平に踏み切り、 アフガニスタン撤退を決定、89年に全軍を撤退させた。
ソ連軍撤退後は民族対立、部族抗争が続き、軍閥が割拠する状況の中から、1996年にイスラーム教原理主義のターリバーンが首都カブールを制圧してターリバーン政権を樹立した。 → アフガニスタン内戦  アメリカのアフガニスタン攻撃  現在のアフガニスタン
b ソ連  → ソヴィエト社会主義共和国連邦  ソ連(第2次世界大戦後)
b ブレジネフ  → ブレジネフ
a モスクワ=オリンピック 1980年のモスクワ=オリンピックは共産圏で初めて開催されるものであったが、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議したアメリカが、ボイコットを呼びかけ、イギリス、フランス、西ドイツ、イタリア、日本などがそれに応じて不参加を表明した。結局、中国も含め60ヵ国が参加しないという、オリンピック史上政治に翻弄された最悪の大会となった。イギリス、フランスは個人資格での参加は認めた。日本選手は柔道の山下泰裕選手など、メダルを断念した。
Epi. 新冷戦下のオリンピック・ボイコット なお、次の1984年のロサンゼルス=オリンピックは、報復のため(名目的には1983年のアメリカ軍のグレナダ侵攻に抗議して)ソ連及び東欧諸国が参加をボイコットした。スポーツが東西対立の道具とされた「新冷戦」時代の愚行であったが、この時スポーツ大国の東ドイツは参加を熱望していたとされ、ソ連と東欧諸国に亀裂が入る一因となったといわれている。またロサンゼルス=オリンピックは「税金を使わない」オリンピックをめざし、スポンサーの広告料収入、TVの放映権で運営された最初のオリンピックだった。オリンピックの商業化と揶揄されたが、その次の88年ソウル大会はソ連として参加した最後の大会となり、92年バルセロナからは冷戦終結を受けてオリンピックの政治利用は影を潜めた。
 新冷戦 1979年のソ連のアフガニスタン侵攻に始まり、1985年のゴルバチョフの登場まで続いた米ソの新たな対立を「新冷戦」という。1970年代の緊張緩和(デタント)は、75年のヘルシンキ宣言を最も大きな成果として生み出したが、SALT・Uは79年にアメリカ議会が批准を否決して消滅した。1980年にはアメリカにタカ派(対ソ強硬派)の共和党レーガン政権が登場したことも両国の関係を悪化させた。レーガンはソ連を「悪の帝国」と非難し1983年には戦略防衛構想(SDI)を提示し、軍拡の姿勢を示した。ソ連はヨーロッパにSS20ミサイルを配備し、アメリカは対抗してパーシングUミサイルを配備、ヨーロッパの核戦争の脅威が高まった。ソ連は82年にブレジネフ体制が終わりを告げ、替わったアンドロポフ、チェルネンコが相次いで死ぬという危機が続き、世界は再び核戦争の危機を迎えた。この新冷戦を終わらせ、冷戦そのものに終止符を打つことになったのが、ソ連に登場したゴルバチョフ政権であった。ゴルバチョフは新思考外交を掲げてアメリカとの大胆な軍縮交渉を提唱し、1987年にレーガンとの間での中距離核戦力(INF)全廃条約として結実し、SS20やパーシングUは廃絶されることとなった。 → アメリカの外交政策
 ゴルバチョフ

Mikhail Serggeevich Gorbachev 1931-
ソ連の最終的な指導者。1985年から書記長としてゴルバチョフ政権を成立させ、ペレストロイカを掲げて改革にあたり、89年にマルタ会談で冷戦を終わらせ、91年大統領となったが、91年の保守派クーデターを機に辞任。ソ連は解体されることとなった。
ゴルバチョフはモスクワ大学法学部とスタブローポリ農業大学で学ぶ。66年スタブローポリ市党委員会第一書記をかわきりに、地方党役員をつとめ、78年に農業担当の党中央委員会書記に抜擢され、80年10月の中央委総会で49歳の若さで政治局員に昇格。アンドロポフ・チェルネンコ政権下で“ナンバー2”の書記として活躍した。1985年5月、チェルネンコの急死を受けて書記長に選出されると、党首脳、閣僚、軍首脳などの人事異動を断行、共産党官僚政治の打開に取り組んだ。就任直後の86年にはチェルノブイリ原子力発電所の事故が起こり、グラスノスチ(情報開示)に迫られた。国内の経済ではペレストロイカという改革に力を注ぎ市場経済の導入を図った。外交でも新思考外交を展開し、87年のIMF全廃条約締結、88年の新ベオグラード宣言、89年の中国訪問など積極的な対話を進め、89年12月のブッシュ・アメリカ大統領とのマルタ会談では冷戦の終結を宣言した。さらに懸案のアフガニスタン撤退を決断した。それによって1990年のノーベル平和賞を受賞した。このような大胆な改革を実行したゴルバチョフは「ゴルビー」とわれて人気者になった。特に東欧諸国ではソ連の改革を機にソ連からの自立、民主化が一気にうごき、東欧革命が起こった。しかし、経済面での改革は必ずしも成功といえず、市場経済への移行も十分でなく経済は停滞した。ゴルバチョフは憲法を改正して共産党一党支配を改め大統領制に移行させ、90年3月に人民代表者会議でソ連邦大統領に選出された。このような強権的な改革は、共産党保守派の反発を強めることとなり、またエリツィンなど改革派は改革の不十分を批判するようになった。そのような混乱の中から、1991年8月の保守派クーデターが起き、ゴルバチョフは監禁され、クーデターは失敗したが、同年12月大統領を辞任、彼は最初にして最後のソ連邦大統領となった。
Epi. ゴルバチョフの新しさ ゴルバチョフは1934年3月、ロシア南部、北カフカースの農民の子として生まれた。この地の自立的なカザーク(コサック)農民は農業集団化と飢饉による打撃を受け、抵抗が激しかった地域である。ゴルバチョフの父はコルホーズ議長であったが、一族は32〜33年の飢饉にあい、二人の祖父も抑圧の犠牲になつていた。農村出身でしかも抑圧された地域からでてきた新指導者は、それまでの共産党官僚、軍や治安機関出身者、巨大な官庁利益を背景としたテクノクラートとは異なった背景と経歴を有した。<下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家』講談社選書メチエ 2002>
 ゴルバチョフ政権 1985年に成立し、スターリン体制を継承したブレジネフ政権時代のソ連の停滞を打破するためにペレストロイカと称される改革を行い、市場経済、複数政党制の導入を試み、また新思考外交を掲げて東西冷戦を終結させたが、1991年の保守はクーデターで倒れ、ソ連邦の最後の政権となった。
1985年3月、チェルネンコの死後にソ連共産党書記長となったゴルバチョフは、ブレジネフ時代のソ連の経済と社会の停滞を打破するため、「グラスノスチ(情報公開)」と「ペレストロイカ(改革)」を掲げて社会主義計画経済の一定の修正を図り、市場経済の導入を図った。また政治面では民主化を進め、1989年に複数候補者選挙制を導入し、90年には共産党一党支配を廃止して複数政党制に改めた。外交では「新思考外交」をかかげて制限主権論を放棄し、緊張緩和(デタント)を復活させてアメリカなど西側諸国との対話をはかり、また中国との関係の正常化を実現させた。ソ連におけるゴルバチョフ政権の改革は、東欧諸国の民主化を一挙に進め、1989年のベルリンの壁の開放に象徴される東欧社会主義の崩壊、東欧革命をもたらした。同年末にはアメリカのブッシュ大統領との間のマルタ会談で東西冷戦の終結を宣言した。翌1990年には大統領制に移行させ、自ら就任した。しかし、バルト三国のソ連邦からの分離独立宣言を機に、連邦制の維持をはかる共産党保守派の危機感が強まり、1991年8月に共産党保守派がクーデターを決行、ゴルバチョフの排除とソ連邦の維持を図った。クーデターは失敗し、ゴルバチョフは書記長を辞任してソ連共産党の解散を決めた。12月にロシア、ウクライナ、ベラルーシがソ連邦を解体し独立国家共同体(CIS)を結成することで合意したため、ゴルバチョフはソ連邦大統領を辞任し、ソ連邦は解体し終わりを告げた。  
a グラスノスチ グラスノスチは「情報公開」の意味。ソ連のゴルバチョフ政権ペレストロイカ(改革)の重要な側面として掲げたことばであった。ブレジネフ時代には共産党の統制下にあったマス=メディアに報道の自由を与え、またそれまで機密事項とされていた国家情報も軍事関係を含め公開するという原則。特にテレビが新しいメディアとして登場し、島の公式見解だけでなく、様々な問題について報道するようになり、国民の「知る権利」に答えるようになった。特に1986年のチェルノブイリ原子力発電所の事故では、その情報がゴルバチョフのもとにもすぐには届かず、国民に知らされることもなかったため被害が拡大し、情報公開の必要性が痛感された。また「歴史の見直し」が進められ、スターリンの粛清の犠牲者やブレジネフ時代に反党活動で処刑やシベリア流刑になった人々の記録の掘り起こされ、多くの名誉回復が行われた。
b ペレストロイカ ソ連のゴルバチョフ政権が掲げ、1985年から始まった改革。当初は社会主義経済の停滞を打破するための市場経済導入を柱とした経済改革を意味し、「上からの改革」として始まったが、すぐに複数候補者選挙制などの政治改革にまで広がり、さらに情報公開(グラスノスチ)や歴史の見直しなど全面的なスターリン体制からの転換をめざす「下からの改革」に転換した。
意味:ペレストロイカとは、ロシア語のペレ=「再」の意味の接頭語と、ストロイカ=「建築」を併せたことばで、「立て直す」という意味。英語で言えば、re-structure つまりリストラにあたる。
内容:1985年3月に書記長に就任したゴルバチョフは改革派を登用する人事を進め、86年2月の第27回ソヴィエト大会で、「ペレストロイカ」の課題を提示した。それはソ連の現状を「発達した社会主義」と規定して礼讃し、問題そのものの存在を認めようとしなかったこれまでの公式見解を否定し、停滞と混乱を認め、計画経済を絶対視する硬直した社会主義そのものの見直しも図ろうとするものであった。この段階では市場経済の導入を目指す「上からの」経済改革にとどまっていたが、86年4月に起こったチェルノブイリ原発事故はソ連の政治社会体制の矛盾を一気に明らかにし、また核抑止論に依拠する従来の外交戦略に大きな警鐘となった。特に既得権益に固執する共産党官僚制度の抵抗があったので、ゴルバチョフの改革は政治改革に踏み込まざるを得なくなり、「グラスノスチ」(情報公開)とともに選挙での複数候補者制度の導入が進められた(ソ連では党や国家機構、学術団体のいずれにおいても建前は民主的な選挙で議員や委員を選ぶことになっていたが、実際は事前に調整された単独候補のみが立候補するかたちであり、選挙は儀式化していた。)
進展:このようなペレストロイカの進展に対しては、急進派(例えばモスクワ市書記エリツィンなど)は不十分だと批判し、保守派の党幹部や軍上層部は危機感を抱いて反対した。ゴルバチョフの改革も当初は「上からの改革」という面が強かったが、次第にその意図を越えて非共産党員の市民大衆が支持し、次第に「下からの改革」の様相を呈してきた。1989年3月には初めて複数立候補制によって人民代議員選挙が行われ、5月に第1回人民代議員大会が開催された。ペレストロイカのの政治改革はついに90年には共産党一党支配の否定大統領制の導入まで進み、ゴルバチョフが人民代議員大会で初代ソ連大統領に選出された。
問題点:しかし、肝腎の経済改革は計画経済を完全に廃止するものではなく、市場経済の導入も一部にとどまったため、かえって混乱し、物不足からインフレが進行し、89年頃から物価上昇が市民生活を直撃、ペレストロイカ経済政策の失敗ととらえられるようになり、民衆の不満が強くなった。
影響:ペレストロイカ時代のソ連は、「新思考外交」を掲げてアメリカとの緊張緩和を進め、東欧諸国への統制も放棄し、冷戦対立を解消させた。それは東欧諸国が一気に社会主義を放棄する東欧革命をもたらしたのみならず、バルト三国などソ連邦を構成する諸国、諸民族の分離独立運動も誘発した。こうして連邦制の維持か、各国の分離独立かが大きな焦点となってきた。
結末:このような共産党権力の否定、ソ連邦解体の動きは保守派の危機感を募らせ、1991年8月の保守派クーデターはゴルバチョフを監禁し、共産党の指導性と連邦制の維持を図ったが、エリツィンのロシア共和国政府に指導されたモスクワ市民が立ち上がってクーデターに反対したため、その企てはあっけなく失敗た。こうしてソ連共産党の消滅とソ連邦の解体という誰も予想しなかった急激な変化が生じ、ペレストロイカ時代は終わりを告げた。
c チェリノブイリ原子力発電所 1986年4月26日午前1時23分、当時ソ連(現在のウクライナの首都)のキエフの北方、チェルノブイリ原子力発電所の四号炉炉心が溶融、大量の放射性物質が飛びちり、原発史上初の大放射能汚染事故となった。事故直後は公表されず、翌日スウェーデンで異常な放射能物質が検出され、28日ソ連がはじめて事故を公表した。死者の数は5月の鎮火後には31人と発表されたが、その後も地域住民や作業員の死亡が続き、公表数値は最終的には4万人に達するとされるが、現在にたるまでその実数は不明。死者は約30万人、被害者は数百万人と推定されている。事故後も残った原子炉は稼働していたが、2000年にすべてが停止、チェルノブイリの住民もほとんど移住し、現在はゴーストタウンとなっている。原子炉は現在コンクリートに覆われているが、そのコンクリートの劣化などから新たな被害が心配されている。
事故の報告が硬直したソ連の組織の中でゴルバチョフ大統領の元に届かず、対策も後手に回り国際的な非難が起こった。ゴルバチョフ大統領はこの事態に苛立ち、グラスノスチ(情報開示)を強く指示し、改革の速度を速めざるを得なくなった。またソ連の軍部の中にも核戦争の実態を想起させ、翌年1987年の中距離核戦力(INF)全廃条約締結に向かわせた。
d 大統領制(ソ連)ソ連のゴルバチョフ共産党書記長は内政改革(ペレストロイカ)とともに、外交でも大胆な「新思考外交」を展開して、87年にIFN全廃条約締結に成功して足場を固め、1989年第1回人民代議員大会で最高幹部会議長に選出された。次いで、党と国家の分離に踏み込む憲法改正が課題とされ始めた。この間、ソ連の変革に刺激された東欧諸国が次々と社会主義から離脱、東欧革命が急激に進展した。90年2月の党中央委員会総会ではゴルバチョフは一党制支配の根拠である憲法第6条の放棄を宣言して複数政党制に踏み切り、さらに3月には第3回人民代議員大会は大統領制の導入を決定し、ゴルバチョフを初代大統領に選出した。しかし、国民投票での選出でなかったことは新大統領の権威の低下につながった。91年8月の共産党保守派のクーデター失敗を機に、一挙にソ連邦崩壊に至り、同年12月ゴルバチョフも大統領を辞任して、ソ連大統領制は終わりを告げた。
 市場経済 市場経済と計画経済:市場(しじょう、マーケット)とは売り手と買い手が取引する場。モノの市場(実物市場)とカネの貸し借り(金融市場)がある。前者は価格、後者は金利が需要と供給の関係で変動するが、自由な取引と競争に任せておけば、市場メカニズムが働いて調整されていく、というのが市場経済の考え方である。資本主義はこのような市場原理の中で、企業が自由に利潤の獲得を競争する社会である。
それに対して社会主義では市場経済を否定し計画経済を行ってきた。ソ連はレーニンの新経済政策(NEP)では一時、市場経済の要素を取り入れる試みが行われたが、スターリン体制下では工業化と集団化は達成されとして「発達した社会主義」と定義づけられ、資本主義的な利潤追求や競争は一切認められず、市場というものは存在しないこととなった。資本家と労働者という階級対立は消滅し、「働くもにそれぞれの労働に応じて」富が分配される社会となったと公式見解が出されていた。国の経済は国家計画委員会(ゴスプラン)が単一の経済計画を作成し、司令し、管理点検していた。しかし、現実には計画経済のもとで技術革新は進まず、生産力は停滞、官僚機構だけが肥大化し、ヤミの物資が出回るという実態だった。スターリン批判後、フルシチョフや、コスイギンが一部市場経済の要素を取り入れる、かつての新経済政策(NEP)の復活を試みようとしたが、教条的な官僚層に反対されて失敗していた。
ペレストロイカでの市場経済の一部導入:西側の技術革新に対する遅れ、経済の停滞が明らかとなった1980年代中頃にゴルバチョフ政権のペレストロイカが始まると、まず市場経済の導入を図る改革が始まった。具体的には、国営企業の独立採算制への移行させる国営企業法、私的な商業活動を容認した協同組合法の制定、価格の部分的な自由化などが実施された。しかし、計画経済を放棄したわけではなく、市場経済の要素を一部取り入れるだけにとどまった改革はかえって経済を混乱させ、値上げと物不足でインフレが進行し1991年に危機は深刻となり、民衆の中にゴルバチョフ改革に対する不満が強まってしまった。
資本主義の変化:この時期の西側諸国の資本主義は、そのものがかつての19世紀的な自由放任ではなく、修正資本主義といわれるケインズ学派が提唱したような国家の財政的なコントロールで実質的に管理し、過度な自由競争を規制し、また社会保障によって富の再分配を図って社会主義的な平等社会を実現していくものに変質していたことに注意しなければならない。ところが、むしろ80年代のソ連が市場主義を導入しようとした時期は、レーガンやサッチャーに代表されるような、ケインズ学派的な修正資本主義を否定して徹底した市場原理を優先して減税、民営化、規制緩和、社会保障切り捨て、を図って「小さい政府」を実現し、企業の競争力を最大限引き出して経済を活性化させようとする新自由主義が主流になりつつあった時代であった。
f 「新思考外交」 1985年に成立したゴルバチョフ政権が掲げたソ連の新しい外交理念。従来の米ソ二大国の戦力均衡を前提とした冷戦時代の外交を否定して、大胆に方針を転換させ、一気に東西冷戦を終わらせることとなった。
意味:「新しい思考」とは次のような新しい外交の軸に転換することを意味した。
 ・アメリカなど西側との経済的な相互依存の必要、世界経済の一体性を認識する。
 ・西欧(EC)と日本というアメリカ以外の勢力との関係を重視する。
 ・中国との関係を正常化し、アジア・太平洋地域の一員となる。
 ・NIEsやOPEC諸国などの新興勢力の出現を認識する。
 ・世界共通(グローバル)な経済に対応し、環境問題など共通課題に取り組む外交。
背景:米ソ二極論的世界像が「新冷戦」行き詰まる中、中距離核戦力の開発などの新しい軍備拡張がソ連財政を圧迫し、経済成長を阻害するものと認識されるようになった。83年頃から改革派の国際政治学者や科学者、経済学者などの中からソ連外交を見直し、相互依存的な世界観、グローバルな環境問題などを重視する「新しい思考」が提唱され初め、ゴルバチョフ書記長がそれを採用し、新政権の外交理念とされるに至った。
実施:ソ連が外交政策を転換させたことは、従来の核抑止論にもとづく核開発競争は克服され、新冷戦で冷え込んでいた緊張緩和(デタント)を復活させることとなった。ゴルバチョフ政権のもとで外相はグロムイコ(ミスター・ニェットと言われ、アメリカに対し何でも反対することで有名だった)からシュワルナゼに替わり、86年から具体化された。
成果:ゴルバチョフ政権の新思考外交の具体的な成果は次の諸点が挙げられる。
 ・核軍縮の推進 1987年 アメリカのレーガン大統領との間で中距離核戦力(INF)全廃条約に調印
 ・冷戦の終結 1989年 アメリカのブッシュ(父)大統領とのマルタ会談で冷戦終結宣言
 ・東欧諸国との関係改善 1988年 新ベオグラード宣言を発表 従来のブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)を否定して東欧諸国の自立、民主化を容認。この結果、バルト三国の独立、ベルリンの壁開放が続き東欧革命が実現した。
 ・アフガニスタン撤退 1988年 国連の和平案を受け入れ、撤退を決定。89年、撤退完了。
 ・中ソ関係正常化 1986年7月にはウラジオストックで演説して、アジア太平洋経済協力会議(APEC)への参加と中ソ関係の正常化を呼びかけた。1989年、中国訪問。中ソ対立を終わらせ、関係正常化。
 ・その他 1990年 ヴァチカンを訪問、ローマ教皇と会見。同年、韓国と国交樹立。
<以上、ゴルバチョフ政権については、下斗米伸夫『ゴルバチョフの時代』1988 岩波新書 などを参照>
g INF全廃条約  → 第17章 1節 中距離核戦力(INF)全廃条約
h 新ベオグラード宣言 1988年、ユーゴスラヴィアのベオグラードを訪問したソ連のゴルバチョフが発表した声明。その新思考外交の一環をなすもので、1968年のチェコ事件の際に出されたブレジネフ=ドクトリン制限主権論を否定して、東欧諸国の自立と民主化を指示する内容であった。この声明を受けて、1980年のポーランド民主化運動以降に活発になっていた東欧民主化運動が促進され、翌1989年のハンガリー、ポーランド、東ドイツ、ブルガリア、チェコスロヴァキア、ルーマニアで続いた、東欧革命が始起こった。
i バルト三国の独立バルト三国といわれるエストニアラトヴィアリトアニアは、1917年にロシア帝国が滅亡して独立国となっていたが、第2次世界大戦が始まると1940年にソ連に併合され、一時ドイツに占領された後、44年からソ連邦を構成する共和国として存続していた。その後ロシア人が多数移住し、ロシア語が強制されるなど、民族意識は押さえつけられていたが、ペレストロイカ時代になって急速に独立の気運が起こってきた。そのきっかけとなったのはペレストロイカの中でゴルバチョフがグラスノスチを呼びかけ、「歴史の見直し」が行われた結果、ソ連は公式には認められていなかった独ソ不可侵条約に付属するモロトフ=リッベントロップ秘密協定の存在が問題にされたからであった。この秘密協定によるソ連の併合を違法なものであったとの認識が強まり、1989年8月には条約締結50年目の日に条約締結に対する抗議運動が起こった。その運動の組織として三国に人民戦線(リトアニアではサユーディス)が作られた。12月にはソ連の人民代議員大会はバルト三国の併合は非合法であったと認めたが、ゴルバチョフはあくまで自発的な加盟であったという立場に固執していた。
1990年3月、まずリトアニアが独立を宣言したのに対し、親ソ派がソ連軍の介入を要請、91年1月ヴィリニュスの放送局を占拠した。しかし2月に独立の是非を問う国民投票が行われ、それぞれ70〜90%の賛成があった。1991年8月のソ連の保守派クーデターに呼応した保守派がソ連軍と結び政府機関を占拠するなどして流血の事態となったが、クーデター反対に立ち上がった市民によって退去させられ、バルト三国はそれぞれ正式に独立した。
その後バルト三国では、1994年までに旧ソ連軍(ロシア軍)が撤退、NATO、EUとの加盟交渉が始まり、2004年3月にNATO加盟、5月にEUに加盟した。
Epi. バルトの「人間の絆」 1989年8月23日、独ソ不可侵条約の締結から50年目にあたるこの日、この条約の締結に抗議して、およそ100万から200万の人々が三国の首都タリン、リーガ、ヴィリニュスを「人間の絆」で結んだ。当時の三国の総人口が800万弱であったから、少なくとも共和国民の8人に1人がこれに参加したことになる。いや、ロシア語系の住民を除いて考えると、5〜6人に1人が参加した大規模な民衆の参加であった。この大デモンストレーションは映像や写真を等して世界に流され、世界の目を引くことに成功した。そして12月にソ連人民代議員大会はバルト三国のソ連への「編入」は非合法であったと認定した。<志摩園子『物語バルト三国の歴史』2004 中公新書 p.213>
j マルタ会談  → マルタ会談
k アフガニスタン撤退 1979年のアフガニスタン侵攻以来、長期化した駐留はソ連経済を圧迫し、またイスラーム原理主義ゲリラとの戦闘は犠牲者を増加させていた。ソ連兵の死者1万5000人、負傷4万人以上とされるが正確には不明。ゲリラ側の死者は約60万と推定されている。1985年に登場したゴルバチョフ政権は、新思考外交に転換し、膠着した状況を打開することにつとめ、アフガニスタンの人民民主党カルマル議長を退陣させ、ナジブッラーを新たに政権に据えた。1986年にはゴルバチョフはウラジオストックで演説して、アフガンからの8000名の兵力撤退を表明した。ついで1988年に国連の仲介でジュネーブ和平協定の合意を得て完全撤退を決定し、5月から撤退を開始し、翌89年までに全部隊の撤退を完了させた。ソ連のアフガニスタン侵攻は多くの戦死者を出して完全に失敗、ソ連の権威を動揺させ、1991年のソ連崩壊もたらしたのみならず、イスラーム原理主義運動を台頭させ、1990年代から21世紀初頭の世界史を大きく転換させることとなった。しかし、ソ連軍の撤退は平和をもたらすことはなく、その後政府軍と反政府軍の激しいアフガニスタン内戦に突入することとなり、その中から撚り徹底したイスラーム原理主義勢力であるターリバーン政権が誕生することとなる。 → 現在のアフガニスタン
Epi. アフガニスタンでのソ連軍敗北の一因 「山岳地帯を拠点とするゲリラを掃討すうために、ソ連軍は大量のヘリコプターを送り込み、その数は1000機近くにも達した。しかしこのヘリコプターによる大規模空爆にも弱点があった。標高5000mを超える山々が連なるアフガンでは、主要都市の標高も高く、カーブルでは1800mもある。このため地上からの攻撃を避けるには3000m以上の高度を飛行したいところだったが、空気密度の関係でヘリコプターは低空飛行を余儀なくされた。またアフガンの気候は一年の大半が乾期で、特有の砂嵐がヘリコプターの操縦を難しくしたり、計器類の故障をもたらしたりした。ソ連の最新鋭ヘリコプターを持ち込んでも、アフガンの空を完全に自由にすることはできなかったことになる。その一方で、戦闘の中盤からは、中東諸国や西側諸国からゲリラに対する武器援助が拡大し、射程距離の長い機関砲やミサイルが導入されることになった。なかでもヘリコプターや航空機がエンジンから発する熱を追尾する米国製スティンガー・ミサイルをゲリラが入手したことで、ヘリコプターが相次いで撃墜され始めた。ゲリラに渡ったミサイルは、ソ連軍にとって大きな脅威となり、ソ連軍によるアフガンの空の支配が崩れ始めたのである。」<渡辺光一『アフガニスタン』 2003 岩波新書 p.123-4>
 中ソ関係正常化 1989年5月、ソ連のゴルバチョフ書記長が中国を訪問、ケ小平と会談して、中ソ対立を終わらせ、国交を正常化させた。中ソ関係は、1956年のソ連のスターリン批判以来の中ソ対立が続き、冷え切っていたが、1970年代に入り、東西緊張緩和(デタント)の進行や、中国の文化大革命の終結、ケ小平の改革開放路線の開始、などよって次第に関係改善の環境が整備されてきた。1985年にソ連に登場したゴルバチョフ政権は、「新思考外交」を掲げて中ソ関係改善にも乗り出した。1986年、極東のウラジオストックで演説したゴルバチョフは中国に関係改善を呼びかけ、ケ小平もそれを受け入れる準備があると表明して世界を驚かせた。当時は、カンボジア問題、アフガニスタン問題、国境兵力問題が「三大障害」とされたが、その克服が図られることとなった。1989年5月、ゴルバチョフは訪中し、ケ小平と会談、中ソ関係の正常化を承認した。このゴルバチョフの訪問によって、ソ連の改革にならって民主化を進めることを求めた市民や学生が蜂起し第2次天安門事件が起こっており、ケ小平政権は大きな危機を迎えた。中国当局は強権を発動し民主化を弾圧した。
 ソヴィエト連邦の崩壊 ペレストロイカを進めたソ連のゴルバチョフ政権は、1990年3月に大統領制に移行し、人民代議員大会でゴルバチョフを大統領に選出した。2月にはゴルバチョフは共産党一党支配を改めることを表明し、党と国家の関係は形式的に分離した。続いて問題は連邦制を維持するかどうかにかかってきた。
前年1989年の東欧革命の余波は、ソ連邦を構成する民族に分離独立の刺激を与えたが、まずバルト三国が動き出し、3月にリトアニア、ついでラトヴィア、エストニアが相次いで独立を宣言した。6月には肝腎のロシア連邦ではエリツィンの指導のもとで主権を宣言し緊張が高まった。保守派は共産党の指導とソ連邦の維持を主張し、軍隊とも連携してゴルバチョフ大統領に反対した。
1991年に入り、両派の対立は次第に深刻化し、バルト三国では保守派が独立反対の暴動を起こしたが、ゴルバチョフは適切な対応が出来なかった。4月にはゴルバチョフは日本を訪問したが、懸案の平和条約交渉は進展しなかった。6月にロシア共和国が直接選挙によってエリツィンを大統領に選出、ソ連大統領とロシア大統領の二人が同時に存在し、同じモスクワのクレムリンに同居する事態となった。
そのような中で1991年8月、ソ連共産党の保守派によるクーデターが発生、ゴルバチョフは滞在先のクリミアの別荘に軟禁された。しかしモスクワ市民、メディアは一斉にクーデター反対に立ち上がり、ロシア大統領エリツィンが市民の先頭に立ってクーデター部隊の行動を阻止し、軍の主流もクーデター不支持に転じたため失敗した。ゴルバチョフは解放されたが、共産党の権威は全く落ちていたので、やむなく書記長を辞任し、共産党そのものの解散を勧告し、ソ連共産党は消滅した。ゴルバチョフはソ連邦の維持を図ったが、12月8日にロシア、ウクライナ、ベラルーシのスラブ系三共和国首脳がミンスク郊外に集まってソ連邦を解体し、代わって独立国家共同体(CIS)をつくることで合意した。12月25日、ゴルバチョフ大統領が辞任し、ソ連は終焉した。ソ連邦はCIS加盟国12ヶ国とバルト3国の15ヶ国に分解した。国土と人口の大部分はロシア連邦に属したので、国家としての旧ソ連(国連の代表権など)はロシア連邦が継承した。
Epi. まだ強い「ソ連」への郷愁 『朝日新聞』2006年12月8日夕刊によると、ソ連の解体と独立国家共同体(CIS)の創設を決めてから15年目にあたる8日、当時のエリツィン・ロシア大統領は「ローマやオスマン・トルコなどの帝国と同様、ソ連の崩壊は必然だった」と語り、自らの決定を改めて正当化した。ロシアの民間世論調査機関によるとロシア国民の61%が今もソ連崩壊を「残念」だと見ている。崩壊が「避けられた」と見る国民も59%に上る。その背景には「一部権力者の気まぐれでソ連の国家体制と経済が破壊され、民族紛争など様々な苦難を招いた」という批判があるという。<『朝日新聞』06年12月8日夕刊>
 1991  
a 保守派クーデター 1991年8月、ソ連共産党の保守派がゴルバチョフ大統領を軟禁し、連邦制と共産党指導権の維持を図ったクーデター。モスクワ市民、メディアの反対によって失敗し、ソ連共産党及びソ連邦の解体の直接的な契機となった。
クーデターを起こしたのは副大統領ヤナーエフ、国防相ヤゾフ、首相パブロフ、内相プーゾ、KGB議長クリュチコフなど。実際のシナリオをつくったのはゴルバチョフの古くからの同志ルキヤノフ書記だった。彼らは保守派ないしは中道派に属する党官僚で、ゴルバチョフと改革派が進めるペレストロイカが、最終的に共産党一党独裁を否定し、ソ連邦の解体に進むことに危機感を抱き、ゴルバチョフを排除し、保守派の権力を樹立するところにあった。彼らは8月19日、クリミア半島の保養地で新連邦条約草案を作成していたゴルバチョフを監禁し(最近明らかになったことは監禁ではなく、自分の意志でモスクワに戻らなかったともされている)、健康上の理由で辞任したと発表、ヤナーエフを大統領代行にして権力を掌握したと発表した。しかし、ロシアのエリツィン大統領がモスクワ市民の先頭に立ってクーデター反対に立ち上がり、軍の大勢もエリツィン側についたためクーデターは全く失敗、わずか三日間で鎮定された。このクーデターは失敗したが、ソ連大統領ゴルバチョフ、およびソ連共産党の権威は全く失墜し、同年中に一気にソ連共産党の解散ソ連邦の解体に突き進むこととなった。
b ソ連共産党解散 ソ連共産党は、1991年8月24日、ゴルバチョフ書記長が辞任し、党中央委員会に自主解散を求めた結果として消滅した。1918年にボリシェヴィキ党がロシア共産党と改称してから73年目であった。
ゴルバチョフの推進したペレストロイカは経済改革から始まり、政治改革に及んで必然的に硬直した党官僚制の打破に向かった。最終段階ではレーニン以来の原則であった共産党一党独裁の見直しに及び、憲法で定められた「共産党の指導する国家」という規定もはずされ、複数政党制に移行することとなった。ゴルバチョフは共産党の解散までを予想することはなかったが、共産党保守派がクーデターを起こして失敗するという、「自壊」という形で終わりを告げることとなった。ソ連共産党の財産はエリツィンによってロシア連邦に接収された。
 グルジア
コーカサス山脈の南麓にあり、西を黒海に面している。北はコーカサスを境にロシア連邦、東はアゼルバイジャン、南にアルメニアと接している。この地はペルシア帝国やローマ、ビザンツ帝国の支配を受けたが、11世紀頃には一時グルジア王国として栄えた。その後ふたたびビザンツ領となり、オスマン帝国さらにサファヴィー朝の支配を受ける。ロシア帝国が南下するとその領土となった。ロシア革命が起こり、1918年に独立を宣言したが、赤軍が侵攻して首都トビリシを制圧、ザカフカース=ソヴィエト社会主義共和国の一部とされた。1936年にザカフカースが三共和国に分離され、グルジア共和国としてソヴィエト社会主義共和国連邦を構成することとなった。グルジアはスターリンの出身地であった。
独立後のグルジア:1991年8月、ソ連で保守派クーデターが失敗、ゴルバチョフがソ連共産党解散を宣言したことで、グルジアもたのソ連構成国と同じく独立を宣言した。1993年には独立国家共同体に加盟し、シュワルナゼ(ゴルバチョフ政権でソ連の外務大臣として活躍していた)が大統領(1992〜2003)となった。しかし、経済の悪化が進み、2003年には野党の指導によるデモ隊が議会を占拠し、大統領は辞任、総選挙が行われて国民連合の指導者で親欧米派のサアカシュヴィリが当選するという、「民主化」が行われた。このことを「バラ革命」とも言っている。しかし、国内には民族問題が深刻で、特に西部のアブハジアとコーカサス山脈山中の南オセチアはロシア系住民が多く、グルジアのロシア離れに批判的であるため分離運動が盛んである。 → グルジア問題
 アゼルバイジャン
 
 アルメニア
アルメニア共和国はカフカス地方、コーカサス山脈の南の小国で、面積は日本の約13分の1、人口は約300万。首都はエレバン。アルメニア語はインド=ヨーロッパ語系で、宗教はキリスト教の東方教会系のアルメニア教会。
アルメニア人は、周辺のトルコやアゼルバイジャンのイスラーム教スンナ派、イランのイスラーム教シーア派の中にあって独自の言語と宗教を持っているため、長い民族的な対立が続いてきた。特に、第1次世界大戦の時期のオスマン帝国によるアルメニア人虐殺事件は、まだ真相が明らかにされておらず、深刻な爪痕を残している(アルメニア問題)。また、現代のアルメニア共和国も隣接するアゼルバイジャンとの間で、ナゴルノ=カラバフ帰属問題という領土・民族問題を抱えている。  
d 独立国家共同体(CIS) 1991年8月のソ連共産党保守派のクーデターが失敗した後、同年12月8日、ベラルーシのミンスク郊外のベロベージの森でロシアのエリツィン大統領が中心になってロシア、ウクライナ、ベラルーシのスラブ系の三共和国首脳が会談し、ソ連邦の解体と、独立国家共同体の結成を宣言した。さらに12月21日、アルマ=アタ宣言に署名して、ロシア、ウクライナ、ベラルーシと中央アジア5ヵ国、ザカフカース(南コーカサス)諸国、モルドヴァの11ヶ国(グルジアが93年に加盟し12ヶ国)が参加して正式の発足した。バルト三国を除く旧ソ連邦構成国がすべて加盟する新たな国家連合体となった。CISは Commonwealth of Independent States の略。ソ連とは異なり、各国の独自性の強い、ゆるやかな連合体として作られ、現状ではあまり機能していない。
ソ連解体後の核の問題:ソ連邦解体に際し、もっとも懸念されたのが国境問題と核問題であった。ベロベージ会議はちょうどクロアチア独立を巡ってユーゴ内戦が激化しており、旧ソ連も同様な内戦に陥る危険もあった。特にロシアに次ぐ大国であるウクライナは完全独立と国境変更に反対(クリミア半島はフルシチョフ時代にウクライナ共和国に編入されていたのでそれに固執した)、また核兵器にも保有権を主張した。ベロベージ会議ではそれらの点は決着がつかず棚上げされ、ソ連解体と独立国家共同体設置の合意にとどまった。核の分散を警戒したアメリカが各国に積極的に働きかけ、12月のアルマ=アタ宣言では旧ソ連の核兵器はすべてロシアが継承することで合意した。替わりにロシアは領土問題で譲歩し、ウクライナのクリミア半島領有を認めた。
その後の独立国家共同体:CIS各国はモルドヴァ(現モルドバ)、グルジア、アゼルバイジャン、タジキスタンなどで民族紛争を抱えており、ロシア連邦でもチェチェン紛争が深刻化している。ウクライナでは親ロシア的、強権的な大統領に対し、2005年に大統領選挙の不正が明るみに出て民主化が進められている(オレンジ革命)。
 ロシア連邦

スラブ系国家はロシアに倣ってこのような三色旗が多い。
白は高貴、神、ベラルーシ(白ロシア)を、青は栄誉、皇帝、ウクライナ(小ロシア)を、赤は勇気、人民、ロシア(大ロシア)を表すとされる。
1991年12月、ソ連邦の解体に伴い、従来のロシア共和国からロシア連邦に改称し、旧ソ連の国家資産、軍隊、国際的な地位(国連の安全保障理事会常任理事国)を継承した。初代大統領はエリツィン。国旗は旧ロシア帝国時代の白、青、赤の三色旗を復活させた。 → ロシア国家
同じロシア語を用い、ロシア国家の起源の地であるキエフを含むウクライナの分離はロシアにとって大きな痛手であり、国内反対派も多かったが、旧ソ連の国連安保理の地位と核兵器はロシアが継承することで、その分離を承認した。
ロシア連邦はエリツィン大統領の下で、ソ連時代の社会主義体制は全く放棄し、資本主義経済と議会制民主主義国家として新たに出発したが、その急速な資本主義化は様々な矛盾を内包し、必ずしも順調に進んでいるとは言えず、特に新興企業の急激な成長の反面、インフレと社会保障などの切り捨てによって格差の拡大が進み、ソ連や共産党政治の復活を望む声も出ている。 外交では1993年1月アメリカのブッシュ(父)大統領との間でSTART・Uに調印した。
1993年にはエリツィン改革に反対派が最高会議ビルに立てこもるという事件が起き、エリツィンは武力を行使して反対派を排除した。同年12月の議会選挙では旧共産党勢力も台頭、政権運営は困難となった。また最大の問題は、ロシア連邦を構成する多数の共和国に連邦からの分離を求める民族運動が起こっていることで、エリツィン政権は強圧的な態度でそれらを抑圧している。特に1994年から激化したチェチェン紛争は独立派と半独立派の内戦が続き、独立派のテロをロシア軍が報復するという泥沼化の様相を呈している。
エリツィンは1996年に、決選投票でようやく処理して大統領に再任されたが、それは民営化などの急速な資本主義かで台頭した富裕層や金融エリートと言われる人々の運動が有効だったと言われている。エリツィンは建康不安から1999年に引退、2000年3月から現在のプーチンが登場したが、エリツィン路線の継承を鮮明にしている。
e エリツィン

Boris Nikolaevich El'tsin
1931-2007
初代のロシア連邦大統領(在任1991〜1999)。ソ連時代からの共産党員であったが1961年の入党で、スターリン時代を知らない世代に属していた。アンドロポフ期に頭角を現し、ゴルバチョフ政権のペレストロイカ期にはモスクワ市第一書記となって改革派の最も急進的であり、87年には改革が緩慢すぎるとゴルバチョフを批判して解任された。ペレストロイカが進展し、連邦を構成する共和国の分離が問題となってり、保守派が巻き返しを図ると、90年6月にソ連共産党を離党し、翌91年6月、ロシア共和国の直接選挙でその大統領に選出された。こうしてソ連邦大統領ゴルバチョフと張り合う形となった。1991年8月、共産党保守派のクーデターが起きるとモスクワ市民の先頭に立ってそれを押さえて失敗に終わらせ、それを機にゴルバチョフに迫ってソ連共産党を解党させ、さらに12月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの三国で独立国家共同体(CIS)を創設、ソ連を解体させた。
ロシア共和国はロシア連邦と改称し、エリツィンは初代大統領として資本主義化を強行した。エリツィン政権は副首相にガイダルなど若手改革派を登用して、国家万能の社会主義から一転してあらゆる規制を排除した自由主義モデルを採用、1992年1月から価格自由化という「ショック療法」に踏み切った。同時に金融財政改革をすすめ、国営産業の民営化が急速に実施された。その結果、92年だけで2600%というインフレが進行し、国民生活を圧迫した。また民営化は旧党官僚が甘い汁を吸う面もあって、エリツィン改革に対する反発も強まった。
エリツィン大統領は、1993年には最高会議ビルに立てこもる保守派勢力を武力を行使して排除するなどの強硬手段を執り、さらに1994年にはチェチェン紛争がおこり、それを武力弾圧したエリツィン政権には国際的批判も強まった。1996年の大統領選挙では第1回投票ではエリツィンは過半数がとれず、ようやく決選投票で54%で再任された。エリツィン選挙を支えたのは、民営化によって生まれた富裕層、特に金融エリートと言われる銀行家たちであったと言われている。その後もエリツィンの強引な手法は独裁的と批判を浴びることもあり、民族紛争などの火種も絶えず、国内外の不満や反対が続いたが、エリツィンは首相や政府幹部を交代させるなどの巧みな方法で乗り切った。たびたび建康不安に陥り、1999年末に引退しプーチンを後継者として指名、2000年3月にプーチン大統領が誕生した。
f ソ連邦の解体 ソ連ゴルバチョフ政権ペレストロイカの中で、連邦制の維持が問題となってきた。まず1989年にバルト三国がソ連からの離反の動きを強くした。翌90年にはロシア共和国がエリツィンを大統領に選出して主権宣言を行い、連邦制は危機に陥った。ゴルバチョフは何とか連邦制を維持しようとして妥協を図り、各共和国の自主性を強めながらソ連邦は継続するという「新連邦条約」を構想し、91年3月に連邦維持について国民投票(バルト三国などは拒否)にかけたところ、76%の賛成を得た。ゴルバチョフは連邦制維持に自信を持ち、新連邦条約草案の作成に入った。
しかしこの新連邦条約は同年8月、保守派のクーデターの失敗を受けてゴルバチョフ政権が倒れたために実現しなかった。形勢は全く逆転し、共和国独立の動きが加速、12月8日にミンスクで開かれたロシア、ウクライナ、ベラルーシのスラブ系三ヵ国首脳(ロシアのエリツィンが主導)が、1922年のソヴィエト連邦条約の無効を宣言し、独立国家共同体(CIS)を創設することを決定した。他の共和国も次々とCISに加盟し、ソ連邦維持は困難となり、12月25日夜、ゴルバチョフはソ連大統領の職務停止を宣言し、ソ連邦は69年の歴史に終わりを告げた。
g サンクト=ペテルブルク 1991年9月6日、ロシア共和国の最高会議幹部会はレニングラード市の名称をロシア革命前のサンクト=ペテルブルグに変更することを決定した。6月に行われたロシア大統領選挙に併せて改名の賛否を市民に問い、半分以上の賛成を得ていた。元々は、同市を創設した皇帝の名を冠し、「ピョートル大帝の都市」をドイツ語風にあらわしてペテルブルクとし、それに「聖」をかぶせた名称で、19世紀前半から1914年まで使われた。この後、ロシア語風にペテログラードと改められ、革命後の1924年にレーニンの名を冠してレニングラードとなった。ソ連では旧来の地名をロシア革命の功労者やソ連の政治家、芸術家の業績を讃えてその名を付けることがよくあったが、ソ連崩壊に伴ってそれらの都市名は一斉に旧名に戻された。レニングラード以外に次のような例がある。スヴェルドロフスク(1918年憲法制定会議で活躍したスヴェルドローフを記念)→エカテリンブルク(エカチェリーナ女王の名による)、ゴーリキー(『母』などで知られるソ連の作家)→ニジノノヴゴロドなど。なお、スターリングラードはスターリン批判が行われた後の1661年にヴォルゴグラードに改められている。
h プーチン 現代ロシアの政治家で、2000年3月よりロシア連邦大統領。KGB(国家保安委員会。ソ連時代からの諜報機関。)の出身。エリツィンが健康上の理由で辞任して大統領代行となり、その後大統領選挙で国民の信任を得て就任。再選され二期大統領をつとめた。この間、湾岸戦争、9.11後の対テロ政策などではアメリカと共同歩調を取っているが、チェチェン紛争など民族紛争では強硬姿勢をつづけた。
イ.東欧社会主義圏の解体
 ポーランド(1980年代の変動)ポーランドでは1956年の反ソ暴動を機に、ゴムウカ政権が成立した。当初はソ連と一線を画した改革路線が期待されたが、次第に権威主義的な抑圧体制に転化し、経済の停滞も深刻になってきた。
1970年 政府の物価値上げ政策に抗議した民衆のデモが北部のグダニスク造船所で起こり、全国に波及。数都市で暴動に発展したため、政府は軍隊を出動して鎮圧する一方で、責任をとってゴムウカ統一労働者党第一書記が退陣した。後任にはギエレクが就任した。ギエレク政権は民衆との対話を約束、賃金、年金の引き上げ、土地売買の自由などの経済改革に着したが、1973年の石油ショックの影響を受けて経済運営に失敗、巨額の財政赤字を累積させた。
1976年 ギエレク政権は、党の指導性を強化した憲法改正を強硬、また大幅な物価値上げ(肉類69%、バター50%、砂糖100%など)を打ち出した。再び労働者、市民のデモが広がり、暴徒化。学生、知識人の憲法改正反対運動も激化し、政府の不当逮捕に対する抗議運動がヨーロッパ各地に広がる。
1980年 7月、政府は食肉などの値上げを発表。8月、グダニスクのレーニン造船所の労働者がストライキに突入。労働者の代表ワレサが政府との交渉を要求、8月31日政労合意協定(グダニスク協定)が成立。独立自主管理労組(統一労働者党の統制を受けない労働組合の意味)の結成と、スト権、経済政策への発言権などを認める。また、賃上げ、週休二日制などの労働者の権利向上、検閲の見直し、宗教団体のマスメディア利用の承認と言った自由化が約束された。10月、全国の独立自主管理労組が結集して「連帯」(ソリダルノスチ)を結成、ワレサが尭に就任した。政府側はこの大幅譲歩の責任をとって、ギエレクが辞任、カニアが第一書記となった。
1981年 このようなポーランドの自由化の動きを警戒したソ連の圧力が強まる。ポーランドでは体制強化のため、ヤルゼルスキ国防省が首相を兼任、連帯の運動を抑圧する。抵抗する連帯側にも強硬派が台頭、対立が激化。ついに12月、ヤルゼルスキ首相は戒厳令を敷き、連帯の活動家を逮捕、弾圧に踏み切った。ヤルゼルスキは「救国軍事評議会議長」として権力を集中させる一方、一定の経済自由化を推進し、複数政党による選挙なども認めるなど「上からの民主化」をはかり、ワレサも釈放して懐柔に務めた。
1983年 6月、ポーランド出身のローマ法王ヨハネ=パウロ2世が、里帰り、各地で熱狂的な歓迎を受ける。ポーランド民衆には熱心なカトリックが多く、ローマ=カトリック教会の影響力が大きいのが特徴。ヨハネ=パウロ2世はヤルゼルスキと会談して、その結果、戒厳令は解除、救国軍事評議会も解散された。
 → 1989年のポーランド民主化  ポーランドの歴史と現在
a ワレサ

  Walesa 1943-
ポーランドの労働運動「連帯」の指導者。1980年のストライキを指導し東欧民主化の端緒を開く。1990年には大統領に選出された。正確な表記はヴァウェンサ(ワウェンサとも)。ワレサは自らも「本を読んだことがない」という学歴のない電気工であった。グダニスク造船所で働きながら、頭角を現し、1980年のストライキを指導し、「連帯」を組織して政府と渡り合った。ポーランドの民主化の端緒となり、さらに東欧全体の民主化の先駆的な働きをした。1981年、ヤルゼルスキ政権による戒厳令によって弾圧されたが、1989年の民主化運動の高まりの中で、「連帯」運動の象徴的人物として復活する。6月に行われた東欧圏初の自由選挙の結果「連帯」が政党としても第1党となり、統一労働者党を含む連立内閣が成立した。連帯系の知識人であるマゾビエツキが首相になると、ワレサは権力欲を露わにするようになり、1990年末の大統領選挙に立候補し、決選投票の結果、マゾビエツキらを破って大統領となった。ワレサ大統領は社会主義内での経済改革と自由化、民主化を推進したが、1995年の大統領選挙で敗れ、政界を引退した。1995年、ノーベル平和賞を受賞している。
Epi. 『鉄の男』ワレサ ワレサは「連帯」運動の創設者としてあまりにも有名で、たたき上げの労働者から大統領にまでなったポーランド版豊臣秀吉と言ったところだ。その類い希な強靱な肉体と行動力は『鉄の男』と言われた。それは同じ頃イギリスに登場したサッチャー首相が『鉄の女』と対をなしていた。ワレサはまた他のポーランド人一般と同じく、敬虔なカトリック教徒で、信仰の象徴「黒のマドンナ」のバッジをいつも胸につけていた。東欧民主化の先鞭をつけ、結果として東西冷戦を終わらせることとなったという大きな功績を評価されて1995年にはノーベル平和賞を受賞した。しかし、ワレサについては、発言がころころ変わる定見のない人物とか、権力欲だけの男だとか、非難も多い。現代のポーランドでの人気はだいぶ落ちてしまっているようだ。
b 「連帯」 正確には、ポーランド自主管理労組「連帯」。ポーランド語で略称ソリダルノスチ。1980年、ポーランドの統一労働者党政権(共産党)の行った物価値上げに反対した労働者が結成した。自主管理とは、党の管理、支配を受けないという意味であり、社会主義国の労働組合として初めて党から独立した労働運動が始まったことを意味する。その指導者ワレサが、初代議長となった。「連帯」の組織は全ポーランドに広がり、政府も無視することができなくなり、初めて「政労合意」が結ばれ、政府による連帯の承認とともに賃上げや州5日性などの改善を勝ち取った。しかし、連帯の影響力がこれ以上強まることを恐れた政府(ヤルゼルスキ政権)は、翌81年に戒厳令を出して連帯弾圧に乗り出し、ワレサなどの指導者も逮捕され、「連帯」も非合法とされた。そのためその後しばらくは運動は停滞するが、1988年に社会主義政府の経済政策が行き詰まり、またまた食肉をはじめとする物価値上げが行われると、連帯の組織も復活して再び民衆運動を指導、翌1989年2月には政府との円卓会議で複数政党制による不自由選挙の実施などを勝ち取り、一連の東欧革命の先駆的な成果を上げた。同年中には自由選挙が実施され、政党としての「連帯」が第一党となった。このころから「連帯」内に過激な改革路線をめざす労働者グループと、着実な実績をめざす知識人グループの対立が始まった。前者の代表がワレサであり、公社の代表が首相を務めたマゾビエツキであった。両者の対立はり、翌年の大統領選挙では両者が争うこととなり、ワレサが大統領に当選した。しかし対立はその後も続き、「連帯」自体が分裂を重ねることとなり、次第に勢力を失った言った。現在のカチンスキ大統領は旧連帯の活動家だった。
 ヤルゼルスキ

  Jaruzelski 1923-
ポーランドの軍人で政治家。1980年の「連帯」によるストライキでギエレクが退陣した後、ポーランド統一労働者党宰一書記として迎えられ、反体制運動抑圧の指揮を執った。1981年12月、は戒厳令を発して、「連帯」を非合法化し、ワレサなどの活動家を逮捕、事態を沈静化させた。以後は「救国軍事評議会議長」として実権を握り、ソ連とは一線を画して改革派にも歩み寄り、国内で影響力のあるカトリック勢力とも協力体制をとりながら一定の経済改革を進めた。1988年に再び物価値上げ問題から労働者のストが続発すると、労働者・知識人との対話に応じ、翌1989年には「経済と政治の複数化」を承認、また円卓会議で「連帯」の再合法化を承認、6月の複数政党による自由選挙の実施などの改革を矢継ぎ早に実施し、ポーランド民主化に大きな役割を果たした。9月には「連帯」との妥協が成立して大統領に就任した。しかし翌90年、「連帯」が分裂し、12月「連帯」急進派のワレサが大統領選で当選すると協力を否定して大統領を辞任した。
Epi. 黒眼鏡に秘められたヤルゼルスキの過去 ヤルゼルスキという人は、「鉄の男」といわれ人気があったワレサに比べて、非道な抑圧者というイメージが強い。その印象は彼のいつも黒眼鏡の写真からも感じられる。しかし実はヤルゼルスキは文学と歴史の教養のある、人格の優れた人物(つまりワレサとはだいぶ違うという)評価が高い。またポーランドの愛国者としての姿勢は一貫している。ヤルゼルスキは家系をたどれば15世紀中葉のポーランド貴族シュラフタの出身であった。祖父のウォイチェフはポーランド分割後の1863年、反ロシアの一月蜂起に参加してシベリア流刑になっており、父のウワジスワウは独立回復後のポーランドに攻め込んだロシアのボリシェヴィキ政権の軍隊との戦闘に加わった。1923年生まれのヤルゼルスキは、33年、ワルシャワのカトリック系学校で祖国愛を養い、文学と歴史の素養を身につけたが、39年に始まるドイツ軍のポーランド侵攻で一家は戦火を逃れリトアニアに逃れる。しかしリトアニアはソ連に併合され、一家離散する。ソ連内務人民委員部に捕らえられたヤルゼルスキは、家畜用車両に押し込まれ、シベリア送りになる。そこで過酷な森林伐採の労働にかり出され、強烈な雪の照り返しとビタミン不足から目を傷めた。彼が黒眼鏡を手放せなくなったのはこのためである。やがてソ連が組織したポーランド軍に加わり、ワルシャワを解放し祖国に戻った。このように、ヤルゼルスキには帝政ロシア以来の反ロシア感情が根強かった。しかし、現実政治家としてのヤルゼルスキは、1981年の戒厳令は、ソ連軍の介入を避けるぎりぎりの選択だったと言っている。そして、民主化達成前の87年、訪ソし、ゴルバチョフとの間で交渉し、それまでソ連がかたくなに否定していた「カチンの森」事件への関与を正式に認めさせ「イデオロギー協力宣言」を調印した。そして民主化達成後に訪ソしたヤルゼルスキに対し、ゴルバチョフは正式に謝罪し、一応の決着をつけ、ヤルゼルスキは引退した。<三浦元博/山崎博康『東欧革命』1992 岩波新書 p.109-130>
 ベルリンの壁の開放 1989年11月9日、東ドイツ政府が東ドイツ国民の西ドイツへの出国の自由を認めたこと。それを受けて多くの市民が東西ドイツ分断の象徴であったベルリンの壁にハンマーを振るい、壁は崩壊した。この年に起こった東欧革命の一つであり、この動きを受けて12月に米ソ首脳はマルタ会談で冷戦の終結を宣言した。
1989年夏、東ドイツ市民が東ドイツ国境を越えて、周辺諸国のオーストリア・ハンガリー・チェコなどに大量に逃亡し始めた。たとえば、プラハにある西ドイツ大使館に逃げ込んだ人は6000人、また同年9月に開放されたハンガリーがオーストリアの国境を開放したため、ハンガリー・オーストリアを経由して西ドイツへ逃げた人の数は数千人にのぼった。時を同じくして、ライプチヒなどの大都市で大規模デモが発生した。「われわれが国民だ!」、つまり国の政策を決めるのはわれわれだ、という叫びがスローガンとなった。
11月4・5両日には、東ベルリンで東ドイツ史上最大のデモが発生。89年11月6日、ライプチヒで行われた月曜デモにはほぼ50万人が参加した。この大衆行動に押されて東ドイツ当局は混乱し、ホネカー第一書記は辞任した。代わった指導部(クレンツ書記長)が旅行の自由に関する新しい規定を発表したため、1989年11月9日、ベルリンの国境付近に膨大な数の人が殺到。ついに、壁が開放された。このような大量の東からの流入は、西ドイツの経済にとって大きな負担となった。東西ドイツの当局がそれぞれに統一を真剣に考えなければならない状況を民衆の動きが作り出したといえる。 
a ホネカー 一般にはホーネッカーと表記する。東ドイツ(ドイツ民主共和国)社会主義統一党(他国の共産党にあたる)の第一書記(1971〜89)。1989年に東ドイツ国民の多数が西側に移住する事態となり、改革が要求されたが社会主義体制の維持を図り10月17日に解任される。 
b 「ベルリンの壁」  → ベルリンの壁
 ドイツ統一 1990年8月、東ドイツ人民議会は長時間にわたる議論のすえ、東西ドイツ基本法二三条にもとづき、10月3日をもって連邦共和国に参加することを決議した。交渉の結果、全文四五カ条よりなる統一条約が8月31日に調印された。条約は統一の法的な枠組みを決めたもので、ドイツの首都はベルリンであるとしながら、将来の政府所在地はその後の決定にゆだねている。また、妊娠中絶の規制など、東西双方で合意がえられなかった問題も残された。
1990年10月3日、統一条約が発効した。
「午前零時、ベルリンの国会議事堂まえは、この日を祝うために集まってきた人たちでごった返していた。分裂国家が生まれてから41年、統一がこのような形で実現しようとは誰が想像できただろうか。議事堂に集まった政治家も、前の広場で花火を打ち上げ、シャンパンのグラスをあげる市民も、多くの人々が涙をうかぺていた。コール首相は世界の国々へメッセージを送り、将来ドイツの土地から平和のみが生まれることを誓った。」
かつての東ドイツは再びメクレンブルク=フォアポンメルン、ブランデンブルク、ザクセン=アンハルト、ザクセン、チューリンゲンの五州に編成し直され、新しい連邦共和国の一部となった。<マーザー『現代ドイツ史入門』1995 講談社現代新書 p.193> 
a 1990  
b ドイツ連邦共和国  → 現在のドイツ
 東欧社会主義圏の消滅 冷戦期の東欧の反ソ暴動:ソ連を盟主とする社会主義圏に組み込まれた東欧諸国では、自由化または民主化を求めてソ連に抵抗する動きが何度も見られた。戦後の東欧諸国の民衆が起こした反ソ運動の重要なものには次のものがある。
・1953年 東ベルリンの市民暴動
・1956年 ポーランド反ソ暴動(ポズナニ事件)・ハンガリー反ソ暴動(ハンガリー事件)
・1968年 チェコスロヴァキアの「プラハの春」(チェコ事件)
・1980年 ポーランドの連帯の運動
これらはいずれもソ連及びワルシャワ条約機構の枠の中で押さえつけられてきた。しかし、1985年に始まったソ連自身の変革(ペレストロイカ)は、東欧諸国に波及し、またたくまに全東欧に広がり、1989年の東欧革命を実現させた。その大波ははね返って今度は本家のソ連をもひっくりかえすことになった。
a 東欧革命 1989年に、東ヨーロッパ社会主義圏の諸国で一斉に起こった、社会主義体制から市場経済の導入、複数政党制による議会制度の導入などの民主化を実現させた変革を東欧革命という。その前提は、前年の1988年にソ連のゴルバチョフ政権新ベオグラード宣言ブレジネフ=ドクトリン制限主権論)の否定を声明、東欧各国がそれまでソ連圏の一員という枠内で進めていた改革を一挙に各国独自に展開することが可能になったことにある。
1989年東欧革命の1年:この1年間に東欧で起こったのは次のような事である。
・1月 ハンガリーで複数政党制が認められる。
・3月 ソ連、初の複数候補者制による連邦人民代議員の選挙。
・4月 ポーランド、円卓会議で「連帯」合法化。
・8月 バルト三国の「人間の絆」
・9月 ポーランドに「連帯」のマゾビエツキ政権成立。ハンガリー・オーストリア国境開放される。
・10月 東ドイツ、ホネカー書記長解任
・11月9日 ベルリンの壁開放
・11月10日 ブルガリアで政権交代 ジフコフ政権倒れる
・11月17日 チェコスロヴァキアのプラハで連日のデモ 24日 ヤケシュ書記が辞任
・12月3日 米ソ首脳、マルタ会談で冷戦終結を宣言
・12月 ルーマニアのデモが激化 25日 チャウシェスク大統領夫妻処刑される
・12月29日 チェコスロヴァキアでハヴェル大統領選出
この1989年の東欧革命を受け、翌年にかけて東欧諸国はいずれも社会主義を放棄、また東ドイツは消滅してドイツは統一された。この際、ルーマニアで政府軍と民衆の銃撃戦とチャウシェスク大統領の処刑という事態はあったが、その他の国々ではほとんど流血の事態はなく、平和的な手段で体制移行が行われたことも特筆すべき事である。またこの東欧革命は、こんどは社会主義体制の本家であるソ連の崩壊を1991年にももたらすこととなった。 
b ハンガリー(1989年の変革)ハンガリー反ソ暴動以来、60〜80年代のハンガリーで長期政権を維持していたカーダールは健康上の理由から1988年にようやく辞任した。公認の書記長にはグロースが就任、同時にカーダールのもとで市場経済導入を試行錯誤していたニエルシュ、政治改革に熱心なポジュガイ、ハーバード留学経験のある若い経済学者ネーメトなど改革派が政治局入り、首相はネーメトが務めることになった。グロースは古いタイプの党官僚であったが、三人の改革派に取り込まれ、1989年1月から大胆な民主化に向けての改革が行われた。これは一連の東欧革命の先頭を切るものであり、また「一発の銃声も聞かれず、一滴の血も流されず」平和な手段で実現された。
ナジ=イムレらの復権:改革は1956年のハンガリー反ソ暴動の再評価というまず歴史の見直しから始まり、ポジュガイらの主張によりそれは暴動ではなく、「大衆蜂起」でありソ連の圧力に対する自立と民主主義を求める革命運動であったとされ、反逆者として処刑されたナジ=イムレを革命の指導者として復権を認め、国家英雄として再埋葬が行われた。
ハンガリー改革の内容:1989年1月、まず政党活動の自由を認める結社法と集会の自由を認める集会法が国会で成立し、社会主義国では初めて、一党独裁制が否定されて、政党活動の自由が保障された。さらに憲法から「党の指導性」は削除され、「法治国家」の理念のもと、大統領・議会・行政府の独立した権限を保障することが決定された。さらに10月には社会主義労働者党はスターリン主義に起源を持つ政党であったと自己批判して、党名を社会党に変更した。さらにハンガリー動乱で大衆デモが発生した10月23日を国家の記念日とし、その日、国会前のコシュート広場で数万の市民が集まり、新国家ハンガリー共和国(ハンガリー語ではマジャール共和国)の設立がスールシュ臨時国家元首によって宣言された。
ハンガリー・オーストリア国境の開放:1989年の東欧革命の号砲となったのは、5月に始まったハンガリーによる、オーストリア国境の開放だった。これはハンガリー首相のネーメトが密かにオーストリア側と交渉を進めた結果であった。「5月2日、両国国境350kmに沿って1960年代に張り巡らされた鉄条網と警報装置を年末までに撤去すべく、・・・国境警備隊による解体作業が始まった。東独=チェコスロヴァキア=ハンガリーの西部国境に沿って東西欧州を分け隔ててきた"鉄のカーテン"に初めて風穴があいたのである。」
これを知った東独国民はハンガリーを経由して西ドイツに亡命しようと多数が押し寄せ、夏までに20万人規模となった。首相ネーメトは密かに西ドイツのコール首相を訪ね、難民の受け入れの了解を取り、9月10日正式に東独難民のオーストリアへの出国を認めた。その日東ドイツでは反体制グループ「新フォーラム」が結成され、意志決定能力を欠いた東独のホネカー政権に対する反政府運動を開始、それがベルリンの壁の崩壊と、東独消滅の引き金となった。このハンガリーの積極的な国境開放は、ハンガリーが西側諸国に入ることを強くアピールするためのものであった。<三浦元博/山崎博康『東欧革命』1992 岩波書店 p.77-83>
c チェコスロヴァキアの民主化(ビロード革命)1989年、チェコスロバキアにおいて「市民フォーラム」などの市民運動によって共産党政権が倒され、民主化が実現した変革をビロード革命ともいう。
1970〜80年代のチェコスロヴァキア:1968年の「プラハの春」がソ連軍などによって弾圧された「チェコ事件」以来、共産党フサーク第一書記の下で「正常化」といわれる社会主義経済、一党独裁体制を続けていた。フサーク第一書記は、1975年、老齢のスボボダ大統領の辞任に伴い、大統領も兼ねて国家元首の地位に就いた。しかしこの間、60年代にみられた官僚主義の体制の中での経済停滞と、言論抑圧の中での、国民の無気力、無関心が蔓延するようになった。1977年にはハヴェルらの知識人が「憲章77」を発表したが、直ちに弾圧され、民主化は進まなかった。「憲章77」はその後も人権擁護団体として反政府活動を続けたが秘密警察による監視などが張り巡らされ、市民生活の自由は奪われていた。フサークは1987年にヤケシュと交代するまで書記長を務め、大統領には89年まで留まった。
1989年のビロード革命:ところが1985年から始まった社会主義の本家であるソ連におけるゴルバチョフ共産党書記長によるグラスノスチはチェコスロヴァキアの民衆にも勇気を与えた。1989年1月、「憲章77」は68年のソ連の軍事介入の時に抗議して焼身自殺した大学生の追悼集会を開催したところ、当局は警察で弾圧し、主催者のハヴェルらを逮捕し、2月には煽動罪で実刑判決を下した。それに対する抗議行動が盛り上がる中、約20年ぶりで沈黙を破ったドプチェクが、共産党政権に対し、「プラハの春」の見直しを要求、またワルシャワ条約機構加盟国に「制限主権論(ブレジネフ=ドクトリン)の見直しを求める書簡を送った。21年前と違い、この年にはポーランドでは連帯が政権をとり、ハンガリーでも改革が始まっており、チェコスロヴァキア共産党政権は孤立していた。10月29日には約1万による集会がプラハで開かれ、人々は改革に動こうとしない共産党ヤケシュ政権打倒を叫んだ。11月に入り、ベルリンの壁の解放の報がとどくと市民・学生の活動は活発となり、11月19日に「憲章77」のハヴェルらが中心となり「市民フォーラム」を結成、政府に対して共産党指導部の辞任、全政治犯の釈放などを要求した。連日30万規模のデモがプラハやブラチスラヴァで繰り広げられ、ついに24日ヤケシュ書記長以下共産党幹部が辞任、12月にはフサークが大統領を辞任し、代わってドプチェクが連邦議会議長、ハヴェルが大統領に選ばれた。こうして大衆行動によって流血の惨事を回避しながら共産党政権の打倒と民主化を実現したチェコスロバキアの変革は「ビロード革命」とも言われている。 → チェコスロヴァキアの連邦解消
 ハヴェル 劇作家と出発し、1989年のチェコスロヴァキア民主化運動の中心となり、共産党政権に代わって大統領となり改革を指導した。しかし1993年、チェコとスロヴァキアの分離に反対し、大統領を辞任した。
ハヴェルは劇作家として知られる文化人であったが、1968年の「プラハの春」を支持して以来、たびたびの弾圧にくじけずに民主化運動を続けていた。1977年には「憲章77」を発表し、世界に広くチェコスロヴァキア共産党政権のもとでの人権抑圧を訴えた。1985年のゴルバチョフの登場から活発となった東欧諸国の民主化運動の中で、ハヴェルは再び立ち上がり、1989年1月に反政府集会を組織、煽動罪で逮捕されて有罪となった。これがチェコスロヴァキアの民主化を実現させたビロード革命のきっかけとなり、10〜11月にかけて急激な民衆運動が盛り上がりを見せ、共産党政権の交代まで実現させた。釈放されたハベルは「民主フォーラム」を組織し、12月の大統領選挙で圧倒的な支持で大統領に選出された。民主化後は民族主義、反共産主義が強まるなかで、ハヴェルは共産党の排除と過度な民族主義に反対し、チェコとスロヴァキアの連邦制を維持しようとしたが、1993年議会は両国の分離を議決したので、大統領を辞任した。分離後のチェコの大統領を1993年から2003年まで務める。 
 チェコスロヴァキアの連邦解消 チェコスロヴァキア共和国(第一共和制)は第1次世界大戦後、1918年に、チェック人の多いボヘミア・モラビア地方(あわせてチェコ地方)と、スロヴァキア人が多いスロヴァキア地方を合わせて成立した新しい国家だった。両者は西スラブ人に属するという共通性があり、言語的にも同一であったので、マサリクらによる独立運動は当初から単一国家の建設を目標に展開され、それが実現した。しかし、チェコはかつてオーストリアの、スロヴァキアはハンガリーの領土であったということと、チェコは平野に恵まれて生産力が高く、プラハを中心として工業は早くから発達していたが、スロヴァキアは山地が多く農業地域であるという違いがあった。第2次世界大戦前にはミュンヘン協定でチェコスロヴァキアは解体され、チェコはナチスドイツに併合され、チェコスロバキアは独立は維持したが保護国とされた。第2次大戦後に成立した単一国家チェコスロヴァキア社会主義共和国では、党組織や国家の各機関でのチェコ側の優位が続いていた。1968年の「プラハの春」の改革ではスロヴァキア出身のドプチェクはチェコとスロヴァキアの対等な連邦化を掲げたが、チェコ事件でソ連の軍事介入を受け実現しなかった。その後1989年にチェコスロヴァキアの民主化が一気に達成された(ビロード革命)後、共産党支配を排除した反動で、チェコ人とスロヴァキア人の民族主義が台頭、急速に連邦解消、分離が叫ばれるようになり、ハヴェル大統領など穏健な連邦維持派は少数となり、1993年に議会はチェコとスロヴァキアへの分離を議決し、分離が決定した。→ チェコ  スロヴァキア
Epi. ハイフン論争。チェコスロヴァキアか、チェコ=スロヴァキアか。 1989年に民主化を達成、1990年に新憲法を制定するに当たり、議会で国名論争が起こった。国名から社会主義を消すことでは合意したが、チェコ出身議員は「チェコスロヴァキア連邦共和国」にこだわり、スロヴァキア出身議員は「チェコ=スロヴァキア連邦共和国」とすることにこだわった。スロヴァキアの独自性を強く意識したのだった。双方とも譲らず、国名さえ決まらないという異常事態となったためハヴェル大統領が仲介し、いずれをも公式名称とすることで妥協が成立し、異例の二重表記国家が生まれた。それでもスロバキア側の不満はくすぶり続け、4月には「チェコおよびスロバキア連邦共和国」の統一表記とすることで一応決着したが、分離の流れを止めることはできず、1993年についに国家分離となった。<三浦元博/山崎博康『東欧革命』1992 岩波新書 p.202>
d ブルガリア共和国
ブルガリアはバルカン半島の東側、黒海に面し、ドナウ川の南岸に位置する。面積約11万平方km(日本の約3分の1)人口は771万。そのうちわけはブルガリア人(約80%)、トルコ系(9.7%)、ロマ(3.4%)となる。言語はブルガリア語で、ブルガリア人は、トルコ系と思われるブルガール人と南スラブ人が同化して構成したものと思われる。宗教はビザンツ帝国の影響を受け、東方教会の一派のブルガリア正教会が多数である。イスラーム教徒のトルコ人との民族対立もかつて問題となった。首都はソフィア。なお、名産はブルガリア・ヨーグルト。大関琴欧州はブルガリア出身。
ブルガリアの歴史第1次ブルガリア王国(681〜1018) → ビザンツ帝国の支配 → 第2次ブルガリア王国(1185〜1396) → オスマン帝国の支配 → ブルガリア自治公国(1878〜1908) → ブルガリア王国(1908〜1944) → 第1次世界大戦への参戦 → 戦間期のブルガリア → 第2次大戦後のブルガリア → 社会主義ブルガリア(1944〜1989) → ブルガリア共和国
社会主義ブルガリア:1947年、ディミトロフ首相の下で、スターリン憲法をモデルにした憲法が制定され、正式に人民共和国となった。しかし翌48年には早くもユーゴスラヴィアのコミンテルン除名問題が起こり、社会主義陣営の内部対立も明らかとなった。ブルガリアはソ連に忠実な工業化、集団化を進め、49年のディミトロフの死後、54年にジフコフが共産党書記長となり、その後35年にわたる長期政権となる。ジフコフはフルシチョフにも忠実であったが、さらにチェコ事件でもワルシャワ条約機構軍に加わり出兵している。またルーマニアの影響を受けて民族主義的な締め付けを加え、国内のトルコ人にブルガリア風の改名を強制したためトルコ人が13万もトルコに亡命した。しかし1980年代にはいると他の社会主義国と同じように経済の停滞が目立ち始め、民衆生活の困窮という経済危機に直面した。
ブルガリア1989年:1989年、東欧革命の中で、ベルリンの壁が崩壊した直後、ゴルバチョフと連携したムラデノフ外相がジフコフを辞任に追い込み、一種のクーデターが成功した。90年6月には初めての自由選挙が実施され、社会党(旧共産党)が第一党となったが、その後の選挙では民主派と旧共産党が交互に政権を担当しながら、市場経済化を図っている。2004年にはNATOに加盟、また2007年1月にはルーマニアとともに念願のEUに加盟を実現した。
 ジフコフブルガリア共産党の指導者。1954年から35年間にわたる長期政権の後、1989年の東欧革命の中で民主化が一気に進み退陣。ジフコフは対独パルチザン闘争以来の党員で、一貫して指導部を務めた。51年に政治局員、54年に第一書記として第一線に立つ。その後、スターリン批判に際してはフルシチョフらのソ連指導部に同調、非スターリン化を進めた。1964年のフルシチョフ解任で危機を迎えたが、権力維持に成功、68年のチェコ事件でもソ連とともに軍隊を送った。1971年には国家評議会議長(国家元首)を兼ね、党と国家を支配する絶対的な権力を獲得した。この間、ブルガリアの工業化を進めたが、一方ではトルコ系住民に対するブルガリア風の姓名への改称を強制するなどの人権抑圧が西側からも非難された。1989年、一気に民主化が進み11月に書記長、国家評議会議長の辞任に追い込まれ、党から除名された。さらに1990年からは在任中の国家財産横領の罪で有罪となった。
e ルーマニア共和国

ルーマニアは東ヨーロッパ、バルカン半島の西部、北にウクライナ、西にハンガリーとセルビア、南にドナウ川をはさんでブルガリア、東にモルドバおよび黒海に面している。東ヨーロッパの大国。面積は約24万平方kmで日本の本州とほぼ同じ。民族の大半はルーマニア人。西北部のトランシルヴァニア地方にはハンガリー人がいる。言語のルーマニア語はインド=ヨーロッパ語のラテン語系。首都はブカレスト。
ルーマニアの歴史:古代にはローマの属州ダキアがおかれた(ルーマニアもローマ人の国の意味)。中世には13世紀のモンゴルの支配の後、14世紀にはワラキア公国モルダヴィア公国という二つの公国を創った。いずれも14世紀末にはオスマン帝国の支配を受けるようになった。ロシアの支援で次第に独立の動きを強め、1866年には統一国家名としてルーマニアを掲げ、露土戦争後の1878年に独立が認められルーマニア王国となった。第1次世界大戦のルーマニアは戦勝国となったため、領土と人口が一挙に倍増(西北部のトランシルヴァニアをハンガリーから獲得)し、東欧の大国となった。しかし国内の工業化、近代化は遅れ、王政も安定せず、第2次世界大戦のルーマニアは、1941年には軍事独裁政権が登場、ドイツ側で参戦した。末期にソ連軍が侵攻してドイツ軍から解放され、その結果、王政は廃止されて47年にルーマニア人民共和国となった。戦後はソ連の衛星国として東欧社会主義圏を形成、コメコンワルシャワ条約機構の構成国となり、スターリン体制を受け入れて工業化を進めたが、1956年のスターリン批判を機に独自路線に転換、ゲオルギウ=デジ政権は西側とも接近し、コメコンの経済統制に反対するようになった。1965年にデジ政権を継承したチャウシェスクは、民族主義を掲げて一方、デジの独自外交をさらに拡大しながら独裁権力を握った。
ルーマニア革命:チャウシェスクの個人崇拝の強制、同族支配(ネポティズム)などの独裁制の弊害が明らかになり、経済の停滞とともに独裁体制に対する反感が強まった。東欧革命の嵐が吹き荒れた1989年12月、ティミショアラで起こった民衆暴動をきっかけに1965年から23年に及ぶチャウシェスク政権は崩壊、イリエスクを中心に組織され、複数政党制・自由選挙・経済改革などのルーマニア革命を推進した。
現在のルーマニア:チャウシェスク政権が倒された後、1990年1月には共産党の活動が禁止されたが、「救国戦線」のイリエスク政権に対し、旧共産党員が残っているなど、民主化が不徹底であると主張する学生たちが座り込みなどで抗議した。イリエスクは炭鉱労働者を動員して学生を排除し、運動を押さえた。このようにルーマニアの改革は不徹底な面が指摘されている。1992年は初の大統領選挙が行われてイリエスクが当選。その後中道左派を標榜し、中道右派と交互に政権を担当した。2004年にはNATOに加盟、また2007年1月にはEUに加盟して、西ヨーロッパよりの姿勢が明確となった。
f チャウシェスク政権崩壊1989年12月、その年の一連の東欧革命の最後にルーマニアチャウシェスク独裁政権が倒された。きっかけは12月16日、北部のティミショアラで、反政府活動家のハンガリー系牧師に対する警察の強制連行を阻止するために教会に集まった市民に対し、チャウシェスク政権は武力弾圧を命じたことだった。大統領は非常事態宣言を出し鎮定をはかったが、ティミショアラの市民集会は数万の規模にふくれあがった。チャウシェスクは21日、対抗するためにブカレストで大統領支持の官製集会を開いた。大統領が演説を始めると、支持派であるはずの群衆の中から「チャウシェスク打倒!」「ティミショアラ!」の歓声が上がり、爆竹が鳴らされた。茫然自失する大統領の脇に控えた夫人エレナは「何か言いなさい、何か約束するのです」と夫を叱咤する。大統領やようやく児童手当の増額などでまかせの発表をしたが、怒声でかき消されてしまう。その夜、大統領官邸に民衆が押し寄せると、戒厳令を発布し、軍に発砲を命じたが軍は命令を拒否。逆に装甲車を連ねて民衆とともに官邸に迫ってきた。群衆が部屋になだれ込むとほぼ同時に、大統領夫妻は屋上からヘリコプターで脱出。しかし、車に乗り換えようとヘリコプターを着地させたところで夫妻は逮捕された。新政権が逮捕状を出したのである。その日12月25日、ある兵舎内でわずか45分間の軍事裁判にかけられた後、銃殺刑を即時執行された。そのときの法廷ビデオが後に西側に流出した。チャウシェスク夫妻は「この裁判は認めない」と抵抗しているが、裁判長が大統領夫妻の贅沢な日常の一方、多数の民衆が苦しい生活を強いられたと罪状をあげ、弁護人も「有罪を認めます」と発言、夫妻は裁判そのものを否定している様子が記録されている。<三浦元博、山崎博康『東欧革命』1992 岩波新書 p.209-217>
 ポーランド民主化社会主義体制が続いたポーランドにおいて、1989年1月から始まった民主化はこの年の東欧革命の先駆となる形で始まった。隣接する東ドイツに大きな影響を与え、またソ連自体の変革をもたらすこととなる。
1981年以来、ヤルゼルスキ政権は一定の経済改革を上から推し進め、「連帯」の民主化運動は押さえつけてきた。1988年2月には消費者物価平均36%のアップと、賃金一律引揚げをセットで行おうとしたが、4月以降各地の労働者がストに突入した。ヤルゼルスキはポーランド統一労働者党(共産党)の保守派を抑えて改革路線をとることに動き、「連帯」との円卓会議を約束した。
1989年の民主化:1989年1月に、ヤルゼルスキ政権は「政治的複数主義」と「労働組合の複数主義」を認め、自主管理労組「連帯」を再合法化した。再合法化とは、「連帯」は1980年に結成されたが、81年のヤルゼルスキ政権の戒厳令施行によって弾圧され、事実上非公認とされ、活動家は地下に潜っていたからである。2月から開催された円卓会議の合意に基づき、6月4日、複数政党制による自由選挙が実施された。これは東欧社会主義圏では最初のことであり、東欧革命の民主化の中でも特筆されることである。選挙結果は政党としての「連帯」が圧勝したが、しばらく政権をめぐる駆け引きが続いた後、改革を主導した統一労働者党のヤルゼルスキが大統領となり、9月には首相を連帯に属するカトリック系知識人マゾビエツキが務めるという連立政権が成立した。12月30日には憲法から、「党の指導性」条項を削除し、国名をポーランド人民共和国からポーランド共和国に変更、国旗も戦前のものに戻した。
1990年、連帯の分裂とワレサの大統領就任:ヤルゼルスキ大統領、マゾビエツキ首相という連立政権の成立によって出番を奪われた形となった「連帯」創設期の指導者ワレサは次第に政権の意欲を持つようになった。その背景には「連帯」内のワレサに近い労働者グループと、マゾビエツキに近い知識人グループの対立があった。連帯は二派に分裂して、1990年11月の大統領選挙はワレサ、マゾビエツキがともに立候補、外に第三の候補もあって票が分散していずれも過半数をとれず、決選投票でワレサはようやく大統領に選出された。 → 現在のポーランド
i ユーゴスラヴィアの解体 第2次世界大戦後に成立した社会主義国であるユーゴスラヴィア連邦は、旧ユーゴスラヴィア王国を継承する多民族国家であり、6つの共和国から成り立っていた。独立と統一の指導者であったティトー大統領はソ連との対立も辞さない強烈な指導力を発揮し、その存命中は統一は維持されていたが、1980年のその死によってタガがはずれたように分裂への道を歩むことになった。
j ティトー  
k クロアチア  
l スロヴェニア  
m マケドニア

マケドニア(FYROM)の国旗(右のEpi.を参照)
現在のマケドニアは、南スラブ系のマケドニア人が多数を占める国家であり、古代のアレクサンドロス大王のマケドニアとは地理的には重なるが、民族的には関係ない。1991年、旧ユーゴスラヴィアから分離独立する際、マケドニアを国号としたが、南に接するギリシアはそれに反発し、両国の関係が悪化した。93年、マケドニア側が譲歩して「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国(Former Yugoslav Republic Of Macedonia)」の暫定名称を用いることでギリシャの譲歩を引き出し、国際的な承認を得るとともに国連加盟を果たした。
Epi. 国旗でもめたマケドニア問題 ギリシアはマケドニアが独立したとき、その国名とともに国旗にもクレームをつけた。マケドニアが国旗にしようとしたのは、古代マケドニア王朝(ビザンツ帝国)の「ヴェルギナの星」(太陽の周りに16本の放射線状の光を配する)であったが、それに対してギリシアは古代マケドニアはギリシアの歴史に属するもので、ヴェルギナもギリシアの地名であり、「歴史の略奪」だと抗議した。その背景はギリシア北部にはまだ多数のマケドニア人がおり、マケドニアの領土要求がギリシアに及ぶことを恐れたからであった。結局、マケドニア政府は国旗は左のようなストライプが8本のものに変更した。<柴宜弘『図説バルカンの歴史』2006 河出書房新社p.163>
民族紛争と国連、NATOの介入:新たな問題として国内のアルバニア人の民族対立問題がある。マケドニアには約23%のアルバニア系住民が住んでいるが、隣接するアルバニアとコソヴォ地方から職を求めて多数のアルバニア人が入り込んでいる。ボスニア内戦が波及することをおそれた国連は92年3月、紛争防止を目的とした初めての国連保護軍(UNPROFOR)を展開、マケドニア政府も和解に応じ、民族共存のモデルケースとなると期待された。ボスニア内戦終了後も国連予防展開軍(UNPREDEP)と改称されて存続したが、マケドニアが台湾を承認したことに反発した中国が安保理で拒否権を行使し、延長は中止された。2001年3月、マケドニア政府は北部のアルバニア人武装勢力の掃討作戦を展開したが、EUの強い圧力でアルバニア人の権利拡大を承認し、ようやく合意文書が締結され、8月からNATO軍が展開して武器回収に当たり、平穏を取り戻した。
アレクサンダー大王を巻き込むギリシアとの対立 マケドニアの国名をめぐるギリシアとの対立は依然として継続している。マケドニアは主要幹線道路や首都スコピエの国際空港の名称に「アレクサンダー大王」の名を冠しており、それに対してギリシア側は挑発行為であると非難し、名前そのものが文化遺産だと主張している。また、マケドニアのNATOとEUへの加盟についてもギリシアは強く反発しており、マケドニアはそれを不当として国際司法裁判所に提訴した。ギリシアは北部のマケドニア地方へのマケドニア側の領土要求を警戒している。両国間の対立は不買運動にまでエスカレートしており、新たなバルカン問題として憂慮されている。<毎日新聞 09年2月10日 朝刊>
n ボスニア・ヘルツェゴヴィナ ボスニア内戦
 → ボスニア=ヘルツェゴヴィナ オーストリアによる併合 第1次世界大戦のボスニア
o セルビア=モンテネグロ  
 セルビア セルビア共和国は、ユーゴスラヴィア連邦を構成する一つの共和国であったが、セルビア人は全ユーゴの中で最も多く、主導的立場にあった。しかしその領内には、アルバニア人が多数を占めるコソヴォ自治州と、ハンガリー人が多数を占めるヴォイヴォディナ自治州が含まれていた。
 セルビア人  近代セルビア王国 セルビア(20世紀)
 モンテネグロ独立

  Montenegro 国旗
2006年6月、国家連合を形成していたセルビア=モンテネグロから、モンテネグロが分離独立し、これによってユーゴスラヴィアは完全に解体した。南スラブ人のモンテネグロは1878年にオスマン帝国からセルビアとともに独立を承認されモンテネグロ王国となった。第1次世界大戦後、南スラブ人を統合した国家、セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(後のユーゴスラヴィア王国)に加わり、第2次大戦後もユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の一員として存続していた。1991年に始まるユーゴスラヴィア解体の中でセルビアに同調し、連邦を維持し、いわゆる「新ユーゴ」を形成した。しかし、国内にアルバニア人も多く、1999年のセルビアのコソヴォ内戦ではセルヴィアを非難し、アルバニア人難民を受け入れた。そのころからセルビアとの分離を求める声が強くなり、EUの仲介により、2003年には対等な2国の国家連合という形で「セルビア=モンテネグロ」となった。その時、3年後の国民投票が約束されており、2006年5月に国民投票が実施された。EUは分離独立とEU加盟の条件として、50%以上の投票率と55%以上の賛成という条件を付けたが、投票率86.5%、賛成55.5%で条件をクリアし、6月3日に独立を宣言、セルビアも承認し、EUおよび国際連合にも加盟した。これによってユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国を構成していた共和国はすべて単独の主権国家となり、ユーゴスラヴィア連邦は消滅した。 
 コソヴォ共和国
2008年2月17日、セルビア共和国からの分離独立を宣言した共和国。セルビア共和国内の自治州であったコソヴォはアルバニア系住民のイスラーム教徒が多く、1980年代のユーゴスラヴィア連邦内の民族分離運動が激しくなる中で、分離独立の動きが始まり、1990年代末に激化してNATO軍がセルビアを空爆するなどコソヴォ紛争が拡大し、さらに国連による調停が進められたが不調に終わり、コソヴォ側が一方的に独立を宣言した。そのため、ロシアやセルビアなどスラブ系諸国は反発し、まだ承認にいたっておらず、安保理でロシアの賛成が得られないため、国際連盟にも未加盟である。
面積は約1万平方キロメートル、人口は約200万。首都はプリシュティナ。民族、言語はアルバニア人でアルバニア語。宗教はイスラーム教。少数のセルビア系住民はセルビア語を話し、セルビア正教を信仰している。政治形態は一院制の共和政。1999年以来のNATO主体のコソボ国際安全保障部隊(KFOR、約1万6千名)が現在も駐留を続けている。 
p ユーゴスラヴィア内戦  
q ボスニア内戦  
 民族浄化  
q アルバニア(5)

双頭の鷲は、15世紀にオスマン帝国軍を破ったスカンデルベクの出たカストリオティ家の家紋による。
バルカン半島の西側にあり、かつてはオスマン帝国の支配を受けていたので、イスラーム教徒が多い(約70%がムスリム。20%がカトリック、10%がギリシア正教)。面積は約3万平方km(四国の1.5倍)、人口は310万人。
1991年までは独自の鎖国政策をとる社会主義国であったため経済が停滞し、「ヨーロッパで最も貧しい国」と言われている。またアルバニア人は現在セルビアに属しているコソヴォ自治州の多数派住民であり、またマケドニアにも多く、ヨーロッパの東南部情勢の不安材料の一つとなっている。
東欧革命とアルバニア:アルバニアでは戦後40年にわたるホッジャを最高指導者とする社会主義体制のもとで、独自路線といいながら実質的な鎖国体制が続いていた。この間、経済は停滞し、国民生活は悲惨な状況になっていた。ホッジャは1985年に死去し、その後はアリアが継承したが、1989年に東欧革命が起こり社会主義体制が相次いで動揺、その影響はアルバニアにも及んだ。1990年、アリア政権は経済の自由化と宗教の自由の回復、海外旅行の制限撤廃、つづいて労働党(共産党)による一党独裁の終結、複数政党制・自由選挙の導入など一連の自由化が図られた。1991年初めての自由選挙が行われたが、労働党が第一党となり、アリアは大統領に選出され国名をアルバニア共和国に改めた。
アルバニアの難民、イタリアに押し寄せる:しかし厳しい経済状況は変わらず、各地で食料の略奪騒ぎが起こった。仕事と食料を求めてアドリア海の対岸のイタリアに移住しようとする人々が港に詰めかけ、鈴なりの人を乗せた船がイタリアの港に入港しても入国を認められず難民化して世界中を驚かせた。翌92年の選挙では労働党は社会党と名を変えたが大敗し、民主党の医師ベリシャが大統領に選出され、初めて非共産系の政権が生まれ、ようやく本格的な民主化と経済建設が始まった。しかし、1997年1月、「ネズミ講」の被害が全国に及んだことが発覚し大問題となり、政府がネズミ講の活動を野放しにしていたためだとされ、野党の支援する反政府デモが一気に盛り上がって各地で治安当局と武装市民の間の武力衝突に拡大、約1,500名の市民が犠牲となる騒動が発生した。総選挙の結果、社会党(旧労働党)が勝ち、ベリシャ大統領は辞任した。現状は一進一退を続けているが、「ヨーロッパで最も貧しい国」からの脱却を目指し、EU加盟を目標に経済建設に向かっている。
■アルバニア関連ページ ・アルバニアの独立 ・イタリアの侵略 ・第2次世界大戦 ・ソ連批判 
r コメコン解散 コメコン(COMECON)、経済相互援助会議は、1949年に設立され、アメリカのマーシャル=プランに対抗して、東欧社会主義諸国の経済協力を進めるとともに、結束を強める、言い換えれば縛りを強くするための機構であった。1960年代からソ連を中心とした分業体制がとられ、工業国と農業国に区分された。ルーマニアは農業国に組み込まれたことに反発して独自の工業化を進め、足並みがそろわなくなった。また70年代から80年代には、東欧諸国との経済格差、技術格差が大きくなり、社会主義計画経済が行き詰まっていくにともない、コメコンも次第に機能しなくなり、ソ連解体の直後の1991年9月に解体された。 
s ワルシャワ条約機構解散 1989年、12月4日、モスクワで開催したワルシャワ条約機構首脳会議は、1968年の「プラハの春」に際して軍事介入をしたことを(軍を出さなかったルーマニアをのぞき)、誤りであったことを自己批判した。ワルシャワ条約機構首脳が一堂に会した会議はこれが最後となった。1991年、ソ連の解体を受け、正式に解散した。
a エストニア 1917年、ロシア革命でロシア帝国が滅亡した際に独立したバルト三国のひとつ。三国の中でもっとも北に位置する。民族的にはエストニア人はウラル語族のフィン・ウゴル語に属し、フィンランド語に近いエストニア語が公用語である。首都のタリンはバルト海に面した港で、ハンザ同盟都市として栄え、対岸のフィンランドとの関係が深い。エストニア人はスウェーデンやロシアの支配下にあり、民族意識を持つようになったのは19世紀末から20世紀初めであり、1917年の独立が国家を形成の最初であった。
第2次世界大戦が始まるとドイツとの間で独ソ不可侵条約に密約に基づき、1940年にソ連に併合され、ソ連邦を構成する社会主義共和国となった。1989年に東欧民主化が進み、ソ連でもゴルバチョフのペレストロイカの改革が進む中で、バルト三国の独立の動きが活発となった。1991年8月、ソ連で保守派クーデターが起こると、ソ連軍当局はエストニアの首都タリン港を封鎖、テレビ塔を占拠した。エストニア最高議会は議会をバリケードで囲んで防衛し深夜独立を宣言した。クーデターに失敗したソ連保守派はタリンから撤退、独立が確定した。2004年3月にNATO加盟、5月にEUに加盟し経済建設を進めている。
b ラトヴィア バルト三国の中で北のエストニア、南のリトアニアに挟まれた中間に位置する。ラトヴィア人はリトアニア語と同じくインド=ヨーロッパ語族のバルト語族に属する。首都リガ(リーガとも表記)はダウガヴァ川をさかのぼった13キロの地点に、リューベックからキリスト教の布教に派遣されたドイツ人司教が1201年に建設を開始したという。それ以後バルト沿岸にはドイツ騎士団が進出、植民活動を小なった。近代にはいるとロシアの支配下に入ったが、次第にラトヴィア人としての民族的自覚を高め、1917年のロシア革命に際して独立を達成した。しかし、エストニア、ラトヴィアなどとともに1940年にソ連に併合され、ソ連邦の一共和国となった。1989年の東欧民主化の動きの中でソ連からの分離独立を求める声が強まり、バルト三国の独立の一環として1991年8月に独立を達成した。2004年3月にNATO加盟、5月にEUに加盟した。 
c リトアニア リトアニアはエストニア、ラトヴィアとともにバルト三国と言われる。首都はヴィリニュス。リトアニア人はラトヴィア人と同じくインド=ヨーロッパ語族のバルト語族に属する。三国の中でもっとも南に位置するが、他の二国とは異なり、早くから国家形成を遂げており、特に中世においては東ヨーロッパの強国の一つリトアニア大公国であった時代があった。1386年、リトアニア大公ヤギェヴォはキリスト教の洗礼を受け、ポーランド王国との連合王国リトアニア=ポーランド王国を形成し、プロイセンやロシアと覇を競う大国となった。しかし、18世紀には周辺の大国に押され、ポーランド分割によって国家が消滅し、ロシア帝国の支配が続いた。1917年のロシア革命でロシア帝国が倒れた際、独立を回復したが、国土は大幅に縮小された。
1940年にソ連に併合され、バルト三国の独立 
2004年3月にNATO加盟、5月にEUに加盟した。
Epi. 日本のシンドラー、杉原千畝 リトアニアの首都ヴィリニュスは東ヨーロッパで最もユダヤ人の多い町として知られていた。すでに14世紀からユダヤ人の手工業者や商人を受け入れており、さらに1569年のポーランドとの連合以来急増し、1573年には最初のシナゴーグが建設され、ユダヤ人は人口の3分の1をしめた。ところが第2次世界大戦はその状況を一変させた。ナチス・ドイツ軍占領下のユダヤ人への迫害は、大きな都市でひどく、ヴィリニュスでも多くのユダヤ人がゲットーへ収容された。難を逃れようとしたユダヤ人はソ連やアメリカへの亡命を求めたが、敵国とされたためいずれも大使館は閉鎖されていた。唯一ドイツと外交関係のあった日本を経由してアメリカに亡命しようとした。こうして多数のユダヤ人がカウナスにあった日本領事館にビザ発行を求めて詰めかけた。日本領事杉原千畝は本国外務省は認めなかったが、独断で彼らに日本通過ビザを発行した。こうして多くのユダヤ人の命が救われ、杉原は戦後、イスラエル政府などから表彰され、「日本のシンドラー」として知られるようになった。
d ベラルーシ 旧ソ連邦を構成したベラルーシは、現在ではロシアと同じ東スラブ系の民族からなる。公用語はベラルーシ語であるが、ロシア語に近、ロシア語も準公用語とされている。1991年、ソ連解体に伴い独立国家となったが、1994年の大統領選挙で当選した親露・保守派のルカシェンコ大統領は、その後憲法改正に成功して任期を延長、2006年に三選を果たし、長期政権を維持している。その結果、ロシアとの関係が強化され、1999年には両国で「連合国家創設条約」を締結した。連合化は具体的に進んでいないが、アメリカや他のヨーロッパ諸国はルカチェンコ大統領の独裁的な手法を批判し、ロシアとの提携を警戒している。
e ウクライナ

青空と小麦畑を表すという現在のウクライナの国旗
旧ソ連邦のウクライナ共和国。1991年、ソ連解体に伴い独立国家となる。面積は60万3,700平方kmに及び、日本の約1.6倍、ヨーロッパではロシアに次いで広い。首都はキエフ。1986年に、大事故を起こしたチェルノブイリ原子力発電所はウクライナにあった。
1989年の東欧革命以来、ソ連邦の動揺が続く中、1990年7月16日にウクライナが共和国主権宣言を行った。1991年8月24日独立宣言、国名を「ウクライナ」と変更し、さらに12月1日に独立に関する国民投票の結果、投票参加者の90%以上の圧倒的多数の支持で独立を達成した。ウクライナは穀倉地帯であり、工業力も高く、何よりも旧ソ連の核装備したミサイル基地が置かれていた。ウクライナはロシアに核兵器を委譲する代わりに、クリミア半島の領有を認めさせたという。ウクライナは黒海に面し、EUに隣接しているのでロシアにとって非常に重要な地位を占めるので、ロシアはウクライナとの関係を重視してこ入れを続けた。2004年の大統領選挙ではロシアの推す与党候補による大規模な不正選挙が行われたことに抗議行動が起こり、選挙をやり直した結果、親EU路線をとるユーシェンコが当選するという、「オレンジ革命」といわれる異変が起こった。
 オレンジ革命 2004年のウクライナの大統領選挙での民主化実現を言う。この年の大統領選挙では、東部を基盤にした親ロシア派の与党ヤヌコーヴィチと、西部を基盤としてEUとの接近をはかることを掲げた野党ユーシェンコの選挙戦となった。開票の結果、ヤヌコーヴィチが勝利したが、野党は大規模な選挙違反があったとして選挙のやり直しを訴え、大規模なデモや集会を繰り返した。ヤヌコーヴィチとロシアは反発したが、結局抗議航行道に押され再選挙が行われた結果、ユーシェンコが勝ち、大統領に就任した。このとき野党側はシンボルカラーのオレンジ色のマフラーを首に巻いて気勢を上げ、その様子はTVを通じて世界中に知られ、「オレンジ革命」と言われた。 
f モルドバ モルドヴァとも表記。旧ソ連邦を構成していた国。プルート川をはさみ西をルーマニアと、ほぼドネストル川流域をはさんで東をウクライナに接している。文化的にはルーマニアの影響が強く、モルドバ語もルーマニアごと同じ。
かつてこの一帯は、ベッサラビアと言われ、オスマン帝国、ロシア帝国などの争奪の対象となった。14世紀後半からはモルドヴァ公(現在のルーマニア)が支配したが、15世紀からはオスマン帝国(トルコ)の宗主権の下におかれる。1812年、ロシアがトルコから奪う。クリミア戦争後、1856年のパリ条約では南部がモルドヴァに割譲されたが、露土戦争後の1878年、ベルリン条約で再びロシア領となった。ロシア革命が起こり、ロシア帝国が倒れると、1918年にルーマニアが占領し、併合を宣言。ロシア革命政府はそれを認めず、対立が続く。1920年のパリ条約でルーマニアの領有が国際的に承認される。第2次世界大戦中の1940年、ソ連は独ソ不可侵条約の秘密協定に基づき、ベッサラビアを占領して、モルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国を創設した。1947年、連合国とルーマニアの協定で、ソ連帰属が承認される。その後ソ連邦の一員として存続したが、1989年、ソ連からの分離運動が活発となり、1991年国名を「モルドバ共和国」に変更し、12月に独立国家共同体(CIS)に加盟した。1994年には新憲法が制定され、民主化、市場経済導入が進んだが、2001年には共産党が議会で多数を占め、大統領も出した。
沿ドニエストル問題:しかし、トニエトストル東岸一帯にはロシアからの移住者が多く、かれらはロシアとの分離を認めず、1991年には武力衝突に発展した。現在も事実上「沿ドニエストル共和国」が統治しており、中央政府の支配は及ばす、OSCE(全欧安全保障協力機構)が調停に当たっているが、対立は続いている。
g チェコ

  Czech Republic
1993年までチェコスロヴァキア社会主義共和国を構成していたが、スロヴァキアと分離独立した。面積約7万8千平方km(日本の約5分の1)。人口約1千万。首都はプラハ。チェック人の多い、ボヘミア・モラヴィア地方がチェコと言われる。9世紀には大モラヴィア王国、10世紀にはベーメン(ボヘミア)王国が成立。1620年にオーストリアのハプスブルク帝国の支配下にはいる。1918年、スロヴァキアとともにチェコスロヴァキア共和国として独立(第一共和国)。ナチスドイツが台頭して、ミュンヘン協定でドイツに併合された。
第2次世界大戦後、社会主義体制下におかれたが、1989年に民主化を達成。その直後からチェック人とスロヴァキア人の間で民族主義的な主張が強まった。チェコ側はスロヴァキアの工業原料を確保したい思惑から、分離に反対する意見が強かったが、スロヴァキアの分離要求が強く、1993年に分離が決定した。民主化運動の指導者ハヴェルが1993〜2003年の大統領を務めた。1999年にはNATOに加盟、2004年にはEUに加盟した。
 → チェコスロヴァキア共和国(第一共和国) チェコスロヴァキア共和国 チェコ事件 チェコスロヴァキアの民主化 チェコスロヴァキアの連邦解消
h スロヴァキア

  Slovak Republic
1993年までチェコスロヴァキア社会主義共和国を構成していたが、その年に分離独立した。面積約5万平方km。人口は約500万。首都はブラチスラヴァ。スロヴァキア人はチェック人と同じ西スラブ系の民族で、本来同一であったが、10世紀頃からマジャール人(ハンガリー)の支配を受けた地域の人々を、スロヴァキア人として区別するようになった。その後、長くハンガリーの支配を受け、第1次大戦後に初めて主権国家を建設するときにチェック人と合同してチェコスロヴァキア共和国(第一共和国)を建国した。ミュンヘン協定でチェコスロヴァキアが解体され、形式的にはスロヴァキアとして独立したが、時事上ドイツの保護国であった。第2次世界大戦後のチェコスロヴァキア社会主義共和国で再びチェコとの単一国家を形成することとなった。しかし、スロヴァキアは山地が多く、平野が少ないことから農業生産は多くはなく、工業化も遅れたため人口もチェック人の半分ぐらいだったことから、チェコの優位が続いた。1968年のプラハの春ではスロヴァキア出身のドプチェクが進めた改革の中で、チェコとの対等な連邦制が打ち出されたが、チェコ事件でソ連軍などの軍事介入によってつぶされた。1989年のチェコスロヴァキアの民主化が実現すると、スロヴァキア側の民族意識が強まり、分離独立を要求する声が高まった結果、1993年にチェコスロヴァキアの連邦解消が決定した。スロヴァキアはその後、2004年にはNATOに加盟EUに加盟を実現した。 →   チェコ
 NATOの変質 NATO(北大西洋条約機構)は第二次世界大戦後、冷戦期の1948年に創設され、その目的は時期とともに変化しながら、柱は共産圏に対する防衛を目的とする軍事同盟であった。従って冷戦の終了とともに東側のワルシャワ条約機構と同じく消滅してしかるべきであったが、前者が解散されたのに対して、NATOは存続を続け、さらに加盟国を増大させている。その反面、アメリカ軍の占める割合は減少し、米軍主体の核で重装備した軍事同盟という性格は薄らいでいる。その変質をまとめると次のようになる。
冷戦終結後のNATO:1990年にNATO加盟諸国は「ロンドン宣言」を発表し、ワルシャワ条約機構を敵視することを放棄すると宣言、目的を一変させた。結成当時のNATOの目的は大きく変化したので、現在のものを「ニューNATO]という。東欧民主化によって成立した東欧諸国、ソ連解体に伴って成立したバルト三国などが相次いでNATO加盟を申請するようになると、ロシアはNATOが新たにロシアを敵視するのではないかと反発したが、97年にNATO諸国首脳がロシアのエリツィン大統領との間で「ロシアを敵視しない」という「基本文書」に署名、その結果東欧諸国のNATO加盟が実現した。 → NATOの東方拡大
現在のNATO:「北大西洋」地域の安全保障にとどまらず、国連とOSCE(全欧安全保障協力機構)のもとで、民族紛争や人権抑圧、テロに対して、平和維持に必要な軍事行動を行うこととなった。その最初の行動が1999年のコソヴォ紛争でのNATO空軍のセルビア軍に対する空爆であり、現在展開しているのがアフガニスタンへの治安出動である。 
 NATOの東方拡大 NATO(北大西洋条約機構)加盟国は、アメリカ、イギリス、フランスなど原加盟国12ヵ国から始まり、1952年にギリシア・トルコ、1955年に西ドイツ、1985年にスペインが加盟して16ヵ国体制となった。冷戦の終了、さらに1991年のワルシャワ条約機構解散、ソ連の解体によってNATOの性格は一変し、より広域の安全保障をになう軍事機構となりった。東欧革命後の東ヨーロッパ諸国と、旧ソ連を構成していた国々、さらにユーゴスラヴィア解体に伴ってできた国々は、NATOによる安全保障の傘の中に入ることを望むようになった。旧盟主であったロシアは当初NATOの拡大に不快感を表し、難航したが、1999年のポーランド、チェコ、ハンガリーの旧ワルシャワ条約機構加盟国の加盟から始まり、NATOの東方拡大がつづくこととなった。その後、2004年にルーマニア、ブルガリア、スロヴァキア、スロヴェニア、エストニア、ラトヴィア、リトアニアを加えて26ヵ国となっている。
ウ.アジア・アフリカ社会主義国の変動
1.中国  
 文化大革命の行き詰まり  
a 林彪事件文化大革命期に林彪は軍を抑え、毛沢東に次ぐ権威を獲得し、ナンバー2になった。林彪は盛んに毛沢東を「天才」とおだて、初めは信頼を得ていたが、次第に廻りに腹心の軍人で固め、妻の葉群も暗躍して勢力を強めてくると、毛沢東も林彪を警戒するようになった。毛沢東は林彪が「国家主席」ポストを狙っているものと捉え、あえてそのポストの廃止を提案した。危機を感じた林彪・葉群らは密かに毛沢東暗殺のクーデター計画を進め、1971年9月、上海訪問中の毛沢東の列車を爆破しようとしたが失敗した。クーデターに失敗した林彪らは13日、専用機トライデント256号機で北京空港を飛び立ち、ソ連に向かったと思われるが、途中モンゴルの草原で墜落、死亡した。周恩来からのこの知らせを聞いた毛沢東は、「雨は降るもの、娘は嫁に行くもの。好きにさせるがいい!」とだけ言ったという。<厳家其ら『文化大革命十年史』1990 中 p.257>
c ケ小平  → 第16章 3節 ケ小平 
d 批林批孔  
 天安門事件(第1次) 周恩来追悼のデモを機に、1976年4月に起こった北京の反「四人組」の民衆蜂起。
1975年からのケ小平による「全面整頓」と言われる経済再建政策によって、文革によって停滞した経済の回復が見られたが、76年に周恩来の死去とともにケ小平が失脚し、そのリーダーシップに期待していた庶民は不安を募らせ、3月下旬に南京で「周総理擁護、張春橋打倒!」というスローガンが貼り出され不満が表出した。やがて4月4日の清明節に最高潮に達し、天安門広場の人民英雄記念塔の前に30万とも50万ともいわれる民衆が集まり、献花をし、詩を朗読するなどして周恩来を偲びつつ、次第に四人組批判の声が強まった。事態を重視した中共中央はこの動きを「ケ小平が準備した反革命事件である」と断定し、4日夜から5日にかけて1万の民兵と3000の武装警察を動員して民衆の抗議行動を封じ込めた。それは建国以来初めての、政治に対する民衆の自発的で大規模な「異議申し立て」行為であった。4月7日、中央政治局会議は毛沢東の提案で、華国鋒の党第一副主席兼国務院総理の就任、ケ小平の全職務の解任を決定した。当時「反革命」とされたこの事件は華国鋒体制下の78年11月、「四人組」に対する「民衆の革命的行動」と逆転評価された。1989年の第2次天安門事件と区別する意味で、「第1次天安門事件」、別称「四・五運動」と呼ばれいる。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書> 
a 周恩来(の死去)四人組」は、周恩来・ケ小平の経済建設路線を文化大革命路線の否定となることを恐れ、周・ケをブルジョア階級に妥協し、資本主義を復活させるものとの批判を強めた。73年の「批林批孔」運動は、「四つの近代化」政策が資本主義の復活につながる危険な動きであり、ブルジョワ階級への全面的な政治闘争を優先すべきだと主張し、林彪と孔子批判に名を借りた周恩来・ケ小平批判であった。75年に毛沢東は水滸伝の宋江を「投降した修正主義」と論評し、それを受けた四人組は「『水滸伝』批判」のキャンペーンを行い、宋江=文革を否定する投降派=ケ小平という図式で暗に批判した。また四人組グループの毛の甥、毛遠新が名指しでケ小平を批判した。これらの動きに同調した毛沢東は、ケ小平はずしを決断、76年1月8日、「不倒翁」と呼ばれ民衆から親しまれてきた周恩来が死去し、15日その追悼大会が開かれ、そこで弔辞を述べたケ小平はその直後に権力の座から引きずり降ろされ、再び人々の前から姿を消した。周恩来・ケ小平の路線を支持する北京の民衆は、その後四人組への反発を強め、4月に天安門で大規模な周恩来追悼集会を開いたところ、四人組政府は弾圧を強行、第1次天安門事件が発生した。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などよる> 
 文化大革命の終了 1977年8月、中共第11回全国大会において、華国鋒は「プロレタリア独裁下の継続革命は偉大な思想」と毛沢東路線を讃えると同時に、革命と建設の新たな段階に入ったとして「第一次文化大革命が勝利の内に終結した」と宣言し、「四つの現代化建設」(近代化とも言う)を掲げた。この年から始まった名誉回復は、三年間で290万に達した。57年の反右派闘争以来右派分子とされていた人々55万人に対しても、名誉回復がなされた。また78年10月以降、北京その他の大都市で、天安門事件の名誉回復、民主化の要求、中には毛沢東体制の批判の壁新聞が貼り出された。北京西単の交差点にある掲示板は「民主の壁」と言われ、またこの年を「北京の春」と言われた。この間、77年に復権したケ小平の指導力が強まり、改革開放路線が定着し、1980年には華国鋒も失脚した。同年、劉早期は名誉を回復し、それと並行して「林彪・四人組裁判」が実施され、江青・張春橋・陳伯達らに死刑や懲役の判決が下された。これらは「文革否定」の決定的な動きであった。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによる>
a 毛沢東(の死去)1976年1月の周恩来に続き、7月6日に人民解放軍の創設者朱徳が死去、7月28日に唐山地震(死者24万)が起こり、9月9日午前零時、毛沢東が82歳で生涯を閉じた。その日の午後3時、全国、全世界に伝えられた。毛の死後、激しい権力闘争が展開され、結局四人組は10月6日に逮捕され、文革穏健派の華国鋒が党主席・党中央軍事委員会主席に就任した。
 ←毛沢東(建国前)毛沢東(建国後)毛沢東(文革期)
★文化大革命と毛沢東の評価:1981年6月、中国共産党は、「建国以来の暦して問題に関する決議」を審議・採択した。その要点は文革と毛沢東の評価であった。文革は「毛主席が呼びかけ指導したもので、………党と国家と各民族人民に多大な災難をもたらした内乱である。………事実にもとづけば完全な誤りで、如何なる意味においても革命とか社会進歩ではなかった」と厳しく結論づけている。また毛沢東評価では「文革で重大な誤りを犯した」、しかし「彼の一生を見れば功績が第一で、誤りが第二である」と位置づけられた。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによる>  
b 華国鋒 1976年、周恩来の死去を受けて総理代行に就任。彼は副総理兼公安部長であったが当時の党内序列は13位で中央の活動歴も少なく、意外な人事と受け止められた。総理代行に就任した華国鋒は、ケ小平の経済政策を修正主義、走資派としてそれへの批判を強めることを表明し、四人組寄りの姿勢を明確にした。しかし9月に毛沢東が死去すると、四人組の政権奪取を警戒して江青らを逮捕、みずから党・行政・軍の三権を独占した。彼の権力の根拠は、毛沢東が生前、「あなたがやれば私は安心だ」と「遺言」だけであった。従って毛沢東の忠実な実践者でなければならず、@毛主席の行った決定を全て変えてはいけない。A毛主席の指示は全て従う、という「二つのすべて」と呼ばれる方針を提起した。このように華国鋒は「文革」の継承を強調しなければならなかったが、他方長期にわたる経済の停滞、疲弊は深刻化しており、経済再建にも取り組まなければならず、「文革路線の継承と「四つの現代化」建設の提唱を同時に掲げるディレンマに陥ることとなる。次第に経済政策に軸足を移し、ついに77年にはケ小平の復権と四人組の追放を決定、文化大革命の終了を宣言するに至った。その後、急速にケ小平の影響力が増し、華国鋒は1980年8月、性急な経済政策の失敗と中越戦争の「失政」などが問題にされ、国務院総理を解任された。代わって趙紫陽がこのポストに就いた。翌81年、華国鋒は文革、毛主席との関係から批判され、正式に党主席、党中央軍事委員会主席の座から降ろされ、党主席には胡耀邦が、軍事委員会主席にケ小平自らが就任した。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによる> 
c 江青ら四人組逮捕1976年9月9日の毛沢東の死は中央における権力闘争を一段と激しいものにした。「四人組」は江青の党主席ポスト獲得を図り、それを阻止しようとする反四人組連合=華国鋒ら文革穏健派、李先念ら周恩来系の中間派官僚、王震ら復活幹部グループ、葉剣英ら軍長老グループ、が形成された。反四人組連合は10月6日、先手を打って王洪文、張春橋、江青、毛遠新らを逮捕、翌7日、中共中央は華国鋒の党主席・党中央軍事委員会主席の就任決定を発表した。1980年には「林彪・四人組裁判」が実施され、江青・張春橋・陳伯達らに死刑や懲役の判決が下された。 
 ケ小平の復権 華国鋒体制のもと、ケ小平の復活への待望論が高まった。ケ小平は二度、華国鋒に書簡を送り、華国鋒を指導者として絶賛し、自己の誤りを反省していることを伝えた。1977年7月、中共第10期三中全回は、「四人組」の党からの永久追放とともにケ小平の全職務の回復を決定した。これによってケ小平は中央政治局常務委員、党副主席、国務院副総理、中央軍事委員会副主席兼総参謀長に復帰し、華国鋒、葉剣英に次ぐナンバー3の地位を確保した。
1978年12月、「歴史的な転換」とも言われる中共第11期中央委員会第3回総会(三中全会)で華国鋒に代わって実質的に会議をリードしたケ小平は、「党と国家の重点工作を近代化建設に移行する」と宣言し、建国以来毛沢東およびその路線によって揺れ動かされた中国は、新たなケ小平時代へと一歩を進めることになった。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書>
 改革開放  
 「四つの現代化」 周恩来、華国鋒、ケ小平らによって提示された、中国経済の建設目標。農業・工業・国防・科学技術の4部門での近代化(さらに現代化)をはかること。「四つの近代化」ともいう。「四つの近代化」は初めは周恩来が1964年に提起していたが、大躍進・文化大革命の嵐の前に吹き飛ばされた形で消滅した。林彪事件で毛沢東の権威が揺らいだ後、周恩来は、林彪・四人組グループによって破壊された経済、文化、教育、科学技術の立て直しを呼びかけ、日本、西ドイツなどの西側諸国との関係正常化により、近代化建設を図り、1973年にケ小平を復活させ、1975年1月に全人代を開催、「政府報告」を行って、その中で「今世紀内に農業、工業、国防、科学技術の全面的な近代化を実現し、わが国の国民経済を世界の前列に立たせる」とのいわゆる「四つの近代化」の提唱を行った。「文化大革命」の継続を主張する江青など四人組は、この近代化路線を資本主義への転換として激しく抵抗したが、翌76年周恩来・毛沢東が相次いで死去し、その後継者となった華国鋒も77年に「四つの近代化(現代化)」を掲げた。1978年実権を握ったケ小平がさらにこの路線を定着させ、1980年代以降の中国経済の繁栄を出現させた。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによる> 
 国防・工業・農業・科学技術  
 米中国交正常化 1972年2月のアメリカ大統領ニクソンの電撃的な中国訪問から始まった米中国交回復の動きが始まり、その時の米中共同声明で事実上の相互承認が行われたが、正式な国交正常化はは、ケ小平指導部の下で1979年に実現した。
 台湾  
 経済特区  
 中越戦争 1979年に起こった、中国とベトナムの戦争。中国は文化大革命後の華国鋒政権の下、経済建設計画が進められていたが依然として毛沢東思想の影響が強く、ソ連との対決姿勢も維持するなかで行き詰まっていた。ベトナム戦争以後、親ソ政策に踏み込んだベトナムと関係を悪化させ、79年2月、一気にベトナム国境を越境して侵攻し、中越戦争が勃発した。中国にはベトナムに長期間軍隊を駐留させる余裕はなく、間もなく撤退した。国民生活に多大な負担を強いることとなり、最高政策決定者として華国鋒に対する批判が強まり、ケ小平への政権移譲が行われることとなった。 
g 中ソ友好同盟相互援助条約失効  
 ケ小平政権 文化大革命中に失脚したケ小平は1977年に復活を遂げ、1981年には華国鋒を追い落として実権を握り、「人民公社の解体」「社会主義市場経済の導入」という思い切った積極的な改革開放路線に中国の舵を切った。ケ小平政権下で、「中国独自の社会主義の建設」という理念のもと、1980年代以降の中国経済の驚異的な成長を実現させた。それを支えた実務官僚が、党務の胡耀邦、政務の趙紫陽であった。
ケ小平路線の確立1982年9月、中共第12回全国大会で、胡耀邦が「政治報告」を行い、今世紀末までに80年の工農業生産総額の4倍増の実現・・・などの目標を掲げた。指導体制としては革命イメージを払拭し、集団指導体制を確立する意味から党主席制を廃止、総書記制を導入し胡耀邦が総書記に就いた。ケ小平自ら最高ポストに就くことを避けたが「最高実力者」であることは誰の目にも明らかで、総書記胡耀邦と国務院総理趙紫陽を左右に従えた「ケ胡趙トロイカ体制」が成立した。同大会では、外交のウエートも近代建設のために、次第に「世界平和擁護」「平和的国際環境の建設」に移り、「自主独立路線」とともに「平和共存五原則」が強調された。また、台湾問題では従来の「武力解放」政策から、「平和的統一」政策への転換が図られ、香港も含め「一国二制度」による「祖国の統一」が力説された。
四つの基本原則の堅持:ケ小平の台頭は、経済の近代化にとどまらず、「政治の近代化」=民主化、に進むのではないか、という期待を人々に抱かせた。しかし、ケ小平は「四つの現代化」実現のためには、「四つの基本原則」を堅持しなければならないと力説した。それは、
 1.社会主義の道
 2.プロレタリア独裁(後に人民民主主義独裁と表現)
 3.共産党の指導
 4.マルクス・レーニン主義、毛沢東思想
の四つである。共産党一党支配に対する批判は許さないことを柱とする「四つの基本原則」によって、民主化運動家の魏京生を逮捕するなどきびしい姿勢を貫いた。以後、文学・思想界でも保守派の「ブルジョア自由化反対」と改革派の主張の対立が続く。
民主化運動の弾圧:中国共産党内にも「ブルジョア自由化反対」を唱え、改革開放路線を危険視する李鵬などの保守派の勢力も強く、ケ小平は胡耀邦、趙紫陽などの改革派とのバランスを巧みにとりながら、政局の安定に努めたが、ついに子飼いの胡耀邦を改革路線の行き過ぎという理由で解任し、1989年に胡耀邦が死んで学生・市民の追悼集会が反政府暴動に発展することを恐れて一挙に弾圧する第2次天安門事件が起こった。学生・市民に同調した総書記趙紫陽も解任し、その強圧的な人権抑圧姿勢は、世界的な批判を受けることとなった。
ケ小平路線の継承:この事件で中国の開放路線は一時停滞したが、ケ小平は後継者として実務派の江沢民を指名し、さらに改革開放路線を推し進め、イギリスと交渉して「一国二制度」による香港返還を約束させ、1990年代から現在に至る驚異的な経済成長をもたらした。ケ小平は経済改革の実行者という面と保守的な人権抑圧の権力者という面を併せ持つ指導者であった。1997年に死去したが、江沢民・胡錦涛・温家宝というその後継者たちは、ケ小平の二面性をそのまま継承している。
<矢吹晋『ケ小平』1993 講談社現代新書、天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによるまとめ> 
 胡耀邦  
 趙紫陽  
a 人民公社の解体 中国の社会主義集団農場として1958年以来存続した人民公社は、ケ小平政権の経済近代化政策の推進により、1982年に解体された。集団農業の転換は、密かに進んでいた。75年以来四川省の党第一書記趙紫陽は、経営管理の下放(権限譲渡)、家庭副業の奨励などによって77年に大豊作を勝ち取り、78年には自留地を大幅に拡大し、生産管理の作業組請負制(包産到組)を導入、従来の人民公社の共同経営・共同労働方式を緩める政策を採った。これは後に「四川の経験」と言われるようになる。安徽省では党第一書記万里のもとで農家生産請負制が広まり、黒字に転化させた。80年にはケ小平が「農家生産請負制」を明確に支持する態度を示し、一気に全国に広がった。そして82年11月末から12月にかけて第5期全人代第5回大会で新憲法が年末に討議・採択され、そこにおいて正式に「人民公社の解体」が決定された。人民公社の解体、郷人民代表大会・郷人民政府の樹立と農家生産請負制の普及は急ピッチで進み、84年末にその移行は完了した。請負制の広がりとともに、農民は生産意欲を大いに高め、84年には史上初めて食糧生産が4億トンを突破するなど飛躍的な増産を勝ち取った。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによる>
b 社会主義市場経済(中国の経済発展)中国では文化大革命後に本格的な経済近代化政策が始まり、1978年には中国共産党が対外貿易拡大、外資利用、先進技術・管理経験の吸収、合弁の推進、そして対外開放の特殊・活性化戦略として輸出のための特別区の設置方針を採用、80年5月から、深(シンセン)・珠海・汕頭(スワトウ)・厦門(アモイ)の四つの地区が経済特区(特区)として開放された。特区では外資と外国技術に依拠し、合弁企業もしくは外国単独企業が生産の中心となり、これらを誘致するために、インフラの整備、税制面の優遇措置などの法的整備が求められた。ケ小平政権は対外開放政策を「豊かになれる条件を持った地域、人々から進んで豊かになろう」という「先富論」を方針として、格差を是認した。
1984年には特区に続いて大連、秦皇島、天津、上海、福州、広州、湛江、北海など14の沿海都市を対外経済開放都市に認定し優遇措置を与えた。同年10月、中国共産党は「経済体制改革に関する決定」を採択し、指令統制経済から商品経済(後に「市場経済」と表現されるようになる)への移行の必要性が強調された。従来、「計画経済を主とし、市場調節を補とする」のが社会主義経済の常識であったが、ここでは「市場調節を主とする」ほどに商品経済の重要性が強調されるようになった。企業には自主権が与えられ、経営の主体である工場長に大幅な経営権を付与する(工場長責任制)が採られた。1987年の中国共産党第13回全国大会は、趙紫陽の「政治報告」で、「社会主義初級段階論」を提起し中国の現状を社会主義社会ではあるが経済が立ち遅れ、農業が主で自給自足経済が大きな比重を占め、貧困と停滞が続いており、そこからの脱皮を図ることを最優先課題となっている段階と規定した。その脱皮のために近代的工業の発達、商品経済への移行が図られ、従来資本主義的と見なされていた不動産の売買、私営企業や株式制度の導入などの正当性をもつこととなった。さらに趙紫陽は、従来の経済特区、対外開放都市という開放拠点を増やすやり方から、沿海地区全体を西側的な国際経済システムに組み込み、厳しい国際競争の中で発展を図ろうとした。88年春は海南島を省に格上げし、全体を経済特区に指定した。
1989年の第2次天安門事件で引き締めが強化され、開放政策は一時進度が鈍ったが、1990年代に入り、江沢民政権の下で再び積極的な「社会主義市場経済」建設が推進され、2000年代には世界経済でも大きな力を持つに至っている。現在の中国は、社会主義は標榜しているものの、「限りなく資本主義に近い」状態にあり、またその人的資源から世界経済の中心になる勢いを示しており、2001年にはに世界貿易機関(WTO)に加盟した。さらにアメリカとの貿易関係でも出超に転じ、ドルとのバランスが崩れたところから、2005年には中国の通貨の元を切り上げるに至っている。
 天安門事件(第2次) 1989年5月にケ小平政権下の中国政府による政治活動、人権、言論弾圧に対する抗議として始まった北京の民衆による民主化運動。中国政府は戒厳令を敷いて市民を弾圧、国際的な批判を受けた。
背景と経緯:同年4月、リベラルな指導者として人気の高かった胡耀邦前総書記が死去すると北京の学生・知識人たちは追悼集会を催したが、「独裁主義、封建主義打倒」「憲法の基本的人権擁護」などを叫ぶ民主化一般の運動へと拡大していった。ケ小平は学生運動を「党の指導と社会主義を根本から否定することである」と決めつけたが、学生はこの当局の決定に反発、また趙紫陽は「学生運動は動乱ではなく、愛国的な民主運動である」と発言し、党内の対立(ケ小平ら長老派、李鵬ら保守派と、趙紫陽ら改革派)が表面化した。五月上旬から中旬にかけて、運動は拡大し天安門広場で百万人といわれる大集会が開かれ、北京の交通や日常生活は麻痺した。(ちょうどこのとき、ソ連のゴルバチョフが訪中していた)。5月18日、趙紫陽は天安門に自ら赴き、学生たちと面会し「来るのが遅かった」という言葉を残して、以後公の場から姿を消した。
戒厳令:5月20日、建国史上初めて首都北京に戒厳令が施行された。これに対して学生・市民らは当局の軍事行動を阻止すべく市内に入る各要所にバリケードを築き、さらに人民解放軍への直接説得活動を続けるなどして根強い抵抗を示した。戒厳令施行から約二週間、当局は鎮圧行動に出ることができず、両者は対峙状況を続けた。学生・市民を支持する声は海外にも広がったが、ケ小平は一切の妥協を拒否した。6月3日未明ついに戒厳令部隊が出動して抵抗する学生・市民に発砲、その死者は4日までに一説では2000名前後、その後の当局の発表でさえ、軍側も合わせて死者319名、負傷者9000名に達した。活動家の多くが捕らえられ、あるいは国外に逃亡した。一般の人々は口をふさいでしまい、再び重苦しい中で日々を送ることを余儀なくされた。
影響と意義:この事件は「六・四事件」ともいわれ、おりからのゴルバチョフ訪中にあわせて北京に来ていた外国報道機関によって世界中のテレビに民衆弾圧の映像が流され、「民主主義への挑戦」「人権弾圧」と受け止めたアメリカなど西側諸国は、中国に対する「経済制裁」を課すことを決め、日本も同調して第三次対中円借款供与を中断した。中国はこれを内政干渉と反発、「中国の改革開放路線は不変である」と力説した。おりからの東欧革命の進行、11月の「ベルリンの壁」の崩壊も中国への国際圧力を強めることとなった。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによるまとめ> 
 1989  
 江沢民 江沢民(こうたくみん)はケ小平の後継者となった現代中国の政治家。40年代半ば上海交通大学を卒業し、50年代半ばにモスクワの自動車工場に留学し、帰国後一貫して技術者としての道を歩んできた。改革開放期に85年に上海市長に、間もなく同市党書記に就任し、1989年第2次天安門事件後に党総書記に選出された。経済の改革開放を推進しながら、政治安定のため毅然として民主化を鎮圧できる人物として期待されたと言える。江沢民は、91年4月「中国のもっとも重要なことは経済を活性化し、総合国力を向上させることである。経済力がなければ国際的には地位を保てない」と力説し、再び経済開放路線を宣言した。92年の共産党第14回全国大会ではポストケ小平体制で「社会主義市場経済」の積極的な導入が謳われ、指導体制としては江沢民総書記を核心とする、「第三世代指導集団」の形成が目指され、胡錦涛ら若手が抜擢された。経済部門では93から94年のバブル経済を中央マクロコントロールを強めて辣腕ぶりを発揮した副首相の朱鎔基の評価が急速に強まった。97年には香港返還が実現し、さらに2001年には中国のWTO加盟を実現させた。2003年に朱鎔基とともに退陣し、胡錦涛にバトンタッチしたが、江沢民は依然として強い影響力を持っているという。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによるまとめ> 
a 香港返還 1997年2月にケ小平が死去、7月には香港返還が実現した。アヘン戦争後、1842年の南京条約香港島が割譲され、さらに1860年の北京条約で隣接する九竜半島の一部が英国に奪われ、1898年に「新界」と言われる九竜半島の大部分が99年間租借されることとなった。この租借期限の切れる1997年に香港全域の主権を返還するという協定が1984年の中英共同声明によって成立した。その後香港基本法の制定、英国総督に代わる特別行政区長官・董建華の選出、臨時立法議会の組織化などによって返還の準備が進められた。その過程で香港の民主化をめぐり、中国当局とパッテン総督、香港住民との間で深刻な対立が起こったが、予定通り1997年に江沢民政権もとで、香港島割譲以来150数年ぶりに中国に返還された。現在香港では、一国二制度のもと、主権は中国、経済は従来通りの資本主義経済が繁栄している。
b 一国二制度   
c マカオ返還  
d 中国のWTO加盟 ケ小平の推進する改革開放路線に沿って中国は急激に市場経済導入をはかった。1990年代の江沢民政権のもとで加速し、90年には上海に証券取引所を設けて株式会社方式を導入した。消費者物価指数は94年までに2ケタ増のインフレを記録、94年には二重相場制から「管理された変動相場制」へ移行し、人民元を大幅切り下げた。97年に香港返還が実現し、同年にはタイ・バーツの急落を機にアジア通貨危機が始まり、いわゆるNIEs諸国経済が後退、替わって中国経済が安価な労働力と資源を背景に急速に工業力を付けて輸出を伸ばした。2000年には米国の対中貿易赤字が対日赤字を上回った。このような工業化を遂げ世界の経済大国になった中国に対し、アメリカなどが世界貿易機関(WTO)加盟を要求、2001年12月に実現した。こうして13億人の巨大市場である中国貿易が自由化され、04年に中国は日本を抜いて世界3位の貿易大国となった。対米貿易黒字は増大の一途をたどったため、05年7月、中国は通貨の元(人民元)を切り上げて調整を図った。G7諸国は中国に完全な為替制度への移行を要請しているがそれはまだ実現していない。
e 胡錦涛  
f 元(の切り上げ)2005年7月、中国当局は元の切り上げを発表。アメリカの要請により、対米貿易黒字の解消を図ったもので、中国経済の発展を示している。元は中国の通貨で正式には「人民元」。外国通貨との為替制度は、1994年に「管理された変動相場制」となったが、97年からは1ドル=8・277元の事実上は固定相場制で運用されてきた。中国経済は改革開放政策によって急成長し、2001年にはWTOに加盟して市場を自由化、安価な労働力と資源をもとに工業力を発展させ、アメリカや日本に対して輸出を増大させた。特に米中貿易ではこのところアメリカの貿易赤字が続き、アメリカは中国に対し、元の切り上げを要求するようになった。その圧力を受けて、2005年7月、中国当局は元切上げに踏み切り、1ドル=8・11元とし、同時に複数通貨との連動制を採ることを発表した。切り上げ幅が小幅の2%にとどまったこと、完全な変動相場制に移行したことでないことなど、アメリカ側の要求はさらに強まることが予想されるが、元切り上げは中国経済の力が世界経済の中で無視できなくなったことを示し、かつて日本経済が急成長して1971年のドルショックでドル切下げ、円切上げが行われたことを彷彿とさせる。世界経済は「ドル・円・ユーロ・元」の4極構造に近づきつつある、と言われている。
2.アジア・アフリカ諸国  
 モンゴル国
 
 ベトナム社会主義共和国(2)
ベトナムを統治する国家。第2次世界大戦、ホー=チ=ミンの指導のもと、インドシナ戦争を勝ち抜き、ベトナム民主共和国として独立したが、次いでアメリカ合衆国が南にベトナム共和国を作って共産化の防止と称して介入し、1965年頃からベトナム戦争に突入した。10年にわたる物量、装備に勝るアメリカ軍との死闘を、ベトコンなどのゲリラ戦で戦い抜き、ついにアメリカ軍を撤退させ、南北ベトナムの統一を実現させて1976年にベトナム社会主義共和国が発足した。
面積は約32万平方km。人口は約8千万。首都はハノイ。民族はベトナム人(キン人、越人とも言う)が約80%で、多数の少数民族を含む。社会主義国だが伝統的に仏教徒が多く、長いフランス植民地時代からのカトリックも南部を中心に多い。
ベトナム戦争後のベトナム:親ソ連路線をとってカンボジアに侵攻し、1979年の中国との中越戦争がおきるなど、戦時態勢が続き、国民生活を圧迫した。また南北統一後、全土の社会主義化を進めようとしたが、生産は停滞し、経済成長が止まり、政策の転換を余儀なくされた。1986年からは市場経済の導入に踏み切り、ドイ=モイ(刷新)という路線に転換を図っている。1995年にはASEANに加盟、同年アメリカとも国交を正常化させ、経済は回復に向かっている。
a ベトナム軍のカンボジア侵攻  
b 中越戦争  → 中越戦争
c ドイ=モイ(刷新) 現代のベトナムで1986年から採用された改革路線のこと。トイ=モイとはベトナム語で「刷新」の意味で、ベトナム社会主義共和国政府が掲げた社会主義一党独裁の下での市場経済導入を中心とした経済再建政策のこと。
ベトナム戦争後、親ソ連路線をとってカンボジアに侵攻し、中国との中越戦争がおきるなど、戦時態勢が続き、国民生活を圧迫した。また南北統一後、全土の社会主義化を進めようとしたが、生産は停滞し、経済成長が止まり、政策の転換を余儀なくされた。親ソ・社会主義強化路線をとっていたレ=ズアン党書記長が1986年に死去すると、同年12月の党大会で新党書記長グエン=バン=リンは「ドイ=モイ路線」を宣言し、食糧の増産・消費物資の生産拡大・輸出商品の拡大の三目標を掲げ、社会主義の枠内での市場経済の導入などの経済改革を打ち出した。ドイ=モイは経済分野にとどまらず、硬直化した官僚組織、教条主義の克服などが課題であった。背景にはソ連にゴルバチョフ政権が登場し、ペレストロイカが進行し、中ソ関係も改善されたことがある。
 アメリカ・ベトナム国交回復  1995年7月11日、アメリカ大統領クリントンベトナムとの国交回復を発表した。1925年にベトナム戦争の戦闘が終わってからちょうど20年目であった。アメリカとベトナムの国交回復交渉は、ベトナム・ラオス・カンボジアで2200人を超すアメリカ兵が行方不明となったままだったので難航していたが、90年代になって、ベトナムへの進出を願う産業界の圧力を受けたアメリカ政府と、開放路線に転じてドイ=モイを進め、アメリカ企業の誘致を望むベトナム政府の利害が一致し、急速に進んだ。ベトナム政府は行方不明のアメリカ兵の捜索にも協力すると表明した。
Epi. マクナマラ元国防長官の「衝撃の告白」 1995年7月のベトナムとの国交回復の数ヶ月前、アメリカに衝撃が走った。マクナマラ元国防長官が『回顧録』の中で、ベトナム戦争が間違った戦争だったと述べたのである。ケネディ大統領の時、フォード社社長だったマクナマラは国防長官に就任し、その後一貫してベトナム戦争の指揮に当たり、ベトナム戦争は「マクナマラの戦争」とまで言われていた。辞任後は世界銀行総裁に就任したが、ベトナム戦争には沈黙を守っていた。その彼が20年間の沈黙を破って、戦争は間違いだったというのだから、反響は大きかった。その中で彼は、65年前後の早い段階で、勝利の見込みが薄いことに気づいていたと述べた。そして20年間沈黙を守ったのは、ジョンソン大統領に対する責任ゆえでだったと語った。しかし、彼が辞任してから5年間も戦争は続き、多くの兵士やベトナム人が死んだのだ。マクナマラの言いたかったことは、ベトナム戦争は目的においては正しかったが、とられた手段が間違っていたということであろうが、このような反省はベトナム戦争後のアメリカ軍が、陸上部隊を増員してゲリラ戦に巻き込まれることを避け、大規模な空爆で一点集中攻撃を行い、敵に恐怖感を与えるという戦術をとるようになったことに現れている。しかしあるベトナム人はマクナマラ回顧録を評して、ベトナム人の苦悩についてまったく触れていないと言っているとおり、やりきれなさの残る「回顧」であった。<西崎文子『アメリカ外交とは何か −歴史のなかの自画像』2004 岩波新書 p.176-178 などによる> 
 カンボジア王国(現代)

中央に描かれているのはカンボジアの象徴であるアンコール=ワットである。
カンボジア内戦(1970年〜)の後の1993年に復活した、現在のカンボジアの国号。1991年のパリ和平協定により、国連の平和維持活動(PKO)として国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)がカンボジアの復興にあたり、1993年暫定統治機構管理下での総選挙が行われ、ポル=ポト派はボイコットしたが、5月に暫定政府が成立、9月に新憲法が制定されて立憲君主国としてカンボジア王国が復活した。国王にはシハヌークが復位した。選挙の結果、ラナリット第一首相(フンシンペック党)とフン=セン第二首相(人民党:旧プノンペン政権)の2人による連立政権が成立した。1997年には両派による内戦が起こったが、フン=センが権力を獲得した。1999年にはASEAN加盟、さらに2004年にはWTOに加盟して、東南アジアの一角を占めている。なお2004年にはシアヌーク国王が引退し、シハモニ国王が即位。
 → カンボジアの歴史については、クメール人カンボジアフランス保護領化カンボジア独立などを参照。
Epi. カンボジアとカンプチア、そしてクメール 日本では「カンボジア」と言われているが、現地の人は自らの国を「カンプチア」と呼ぶ。「カンプー」という神様の「チア」=子孫と言うほどの意味だそうである。この地を植民地にしたフランス人が「カンボージュ」と発音し、英語で「カンボジア」となった。従ってカンボジアもカンプチアも同じである。クメールは国名というよりベトナム人の中の多数民族のクメール民族からきている。なお、内戦期から現在まで正式国号も何度も変わっているが、次のように整理できる。
 シハヌーク時代(1953〜70)=カンボジア王国 → ロン=ノル時代(1970〜75)=クメール共和国 → ポル=ポト時代(1975〜79)=民主カンプチア →  ヘン=サムリン時代(1979=カンプチア人民共和国 → 1989年からカンボジア国 → 93年からカンボジア王国 <熊岡路矢『カンボジア最前線』1993 岩波新書 p.44 などによる> 
a ポル=ポト政権  → 第16章 3節 ポル=ポト政権
c ヘン=サムリン  
e カンボジア内戦 → カンボジア内戦
f カンボジア難民  
g カンボジア和平協定  
h カンボジア暫定統治機構(UNTAC) 1991年10月、パリで調印されたカンボジア内戦の和平協定によって設立された国際連合の機関。通称がUNTAC(アンタック)。カンボジア人による暫定政府成立までの間、国連による平和維持活動(PKO)としてカンボジアの統治にあたった。機構は軍事・行政・文民警察などの部門から成り、内戦で混乱したカンボジアの安定を実現する働きを担った。日本も自衛隊や文民警察を派遣したが、犠牲者が出ている。1993年、暫定統治機構の管理下での総選挙が実施され、5月に暫定政府が成立したので権限を移譲し、9月にカンボジア王国が成立した。
i PKO活動  
j シハヌーク  → 第16章 1節 シハヌーク
 エチオピア  
a ハイレ=セラシェ  
b エチオピア革命  
E 北朝鮮 → 朝鮮民主主義人民共和国
 主体(チュチェ)思想 朝鮮民主主義人民共和国の指導者金日成が定式化した、朝鮮労働党の独自の指導理念。朝鮮労働党はソ連共産党の指導で結党され、当初はスターリンの影響下にあったが、1953年にスターリンが死去、56年にソ連でスターリン批判が始まると、スターリン思想を継承しながら独自の社会主義理論を造る必要が生じた。1955年の演説で金日成が始めて主体思想に触れたとされているが、実際に形成されるのは60年代であり、1970年の労働党大会でその確立が宣言された。
「思想における主体、政治における自立、経済における自立、防衛における自衛」という4つの基本をもち、北朝鮮が国家としてソ連や中国からも独立していることをアピール巣ものであった。現在の金正日体制ではさらに先鋭化して、「先軍政治」(軍事をすべてに優先させる政治)に変質し、国際世論に背を向けた核開発などに走っている。
a 南北朝鮮の国連加盟  
b 金日成  → 16章 1節 金日成
c 金正日  
d 金大中  → 17章 3節 金大中
平壌宣言 2002年9月17日、日本の小泉純一郎首相と北朝鮮金正日主席の間で取り決められた。前文:両首脳は、日朝間の不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、実りある政治、経済、文化的関係を樹立することが、双方の基本利益に合致するとともに、地域の平和と安定に大きく寄与するものとなるとの共通の認識を確認した。 (以下主要な項目)
1.国交正常化を早期に実現させるため日朝国交正常化交渉を再開すること。
2.日本は、過去の植民地支配による「多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明」。
 ・国交正常化の後、経済協力の具体的な規模と内容を誠実に協議することとした。
 ・1945年8月15日以前に生じた事由に基づく請求権を相互に放棄する。
 ・在日朝鮮人の地位に関する問題などを、国交正常化交渉において誠実に協議する。
3.双方は、国際法を遵守し、互いの安全を脅かす行動をとらないことを確認した。また、日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題については、朝鮮民主主義人民共和国側は、日朝が不正常な関係にある中で生じたこのような遺憾な問題が今後再び生じることがないよう適切な措置をとることを確認した。
4・北東アジア地域の平和と安定を維持、強化するため、互いに協力していくこと。
 ・核問題及びミサイル問題を含む安全保障上の諸問題に関し、関係諸国間の対話を促進し、問題解決を図ることの必要性を確認した。
説明:3の懸案問題とは「日本人拉致問題」のこと。3および4の条文から、北朝鮮のいわゆるテポドン、ノドンなどのミサイル発射実験が平壌宣言違反であるとされる。
e 核拡散防止条約  → 核拡散防止条約(NPT) 
f 六者協議  
 北朝鮮の核実験  
 チベット問題 チベットは、1750年に清の藩部となってから中国の支配を受けたが、清朝の崩壊を受けて1913年には事実上の独立を果たした。しかし中国で中華人民共和国が成立すると、1951年に中国政府軍が進駐し、中国支配が復活した。現在はチベット人は中国を構成する多民族の一つとされ、西蔵自治区で自治が認められている。チベット人は自治区以外の青海省、四川省、甘粛省、雲南省などにも広く分布している。
チベットの独立運動 1959年3月10日、中国からの完全な自治を求めるチベットの反乱が起き、宗教指導者ダライ=ラマ14世はインドに亡命し、亡命政府を樹立した。1965年に中国はチベットを自治区として認めたが、その後も独立を求める運動が続た。中国は改革開放路線に転換してからチベットでも経済自由化などを進めたが、かえって中国人の経済的進出が活発となり、現地のチベット人の不満が高まった。1989年にはラサで暴動が起こり、戒厳令が出された。その時自治区の党書記であったのは胡錦涛であった。2008年には北京オリンピックを控え、世界の注目が中国に集まったが、その中で3月に再びチベットで大きな暴動が起こり、チベット仏教の僧侶がその先頭に立った。彼らは、オリンピックの聖火リレーを妨害するなどの手段で世界にチベットの独立を訴えた。この間、亡命先のダライ=ラマ14世は、たびたび中国を非難し、自分たちの要求は独立ではなく自治の拡充であると主張した。現地の反中国国暴動は治安当局によって鎮圧されたが、国際世論はチベットに同情的で、問題は続いている。
 新疆ウイグル自治区  
G 中央アジア5ヵ国 中央アジアは現在のウズベキスタンカザフスタンキルギスタジキスタントルクメニスタンの5ヵ国をいう。内陸アジア(モンゴル高原やチベット高原を含めた地域)の西部と言うことも出来る。広くは「西トルキスタン」(厳密にはカザフスタンはトルキスタンには入らない)にあたる。パミール高原で東トルキスタン(中国領新疆)と区画され、西はカスピ海、北はロシア、南はイラン、アフガニスタン、インドと接する。西流してアラル海に注ぐシル川アム川の中流域に広がるオアシス都市を中心に、その周辺の遊牧世界を形成している。以下、中央アジアの略史をまとめると次のようになる。
トルコ化以前の中央アジア 前6世紀にはアケメネス朝ペルシア帝国の勢力が及び、イラン人の文化圏に入った。前3世にアレクサンドロス大王の遠征がこの地に及び、ヘレニズム文化圏に入り、セレウコス朝の統治が続く。その衰退に伴い、中央アジア南部からアフガニスタンにかけてギリシア系のバクトリアが台頭した。アム川南岸にはイラン高原から起こったパルティアが進出したが、前160年頃には匈奴に追われて東方から大月氏が移動してきてアム川流域に入った。シル川上流のフェルガナ地方には大宛があった。次いで大月氏から自立したイラン系のクシャーナ朝が中央アジアから北インドにかけて支配し、この時期には仏教がこの地に入った。226年、イラン高原でパルティアに代わって登場したササン朝ペルシアはクシャーナ朝を征服して中央アジアを支配し、この地に起こったゾロアスター教を国教とした。
トルコ系民族の進出 5世紀中ごろには遊牧民のエフタル(イラン系かトルコ系か不明)が進出しアム川を超えてイラン東部とインド北西部に進出した。しかしエフタルはササン朝ペルシアと東方のモンゴル高原南部から移動してきたトルコ系民族突厥に挟撃されて滅亡し、モンゴル高原から中央アジアに及ぶ遊牧帝国である突厥帝国が成立し、中央アジアへのトルコ系民族の西方移動も始まった。しかし突厥は東西に分裂し、中央アジアは西突厥が治めることとなったが、7世紀中ごろまでに唐帝国に制圧された。この頃からイラン系のソグド人ソグディアナサマルカンドを中心に唐の保護を受けて東西貿易に活動した。このころ、中央アジアはシルクロード交易の中継地として大いに栄えた。突厥に代わって同じくトルコ系のウイグル人がモンゴルからパミール高原の東西に入って定住するようになり、中央アジアのトルコ化が進んで、この地はトルキスタンと言われるようになった。中央アジアはほぼ西トルキスタンにあたる。
中央アジアのイスラーム化 7世紀にササン朝を滅ぼしたイスラーム教勢力(正統カリフ時代)の勢力は、ウマイヤ朝のもとでソグディアナに進出、が及んできて、751年のタラス河畔の戦いを機にイスラーム化が進む(アッバース朝時代)。イスラーム帝国ではアム川以北の地は、マー=ワラー=アンナフル(川の向うの地)と言われた。9〜10世紀に中央アジアの最初のイスラーム国家サーマーン朝(イラン系)が成立し、トルコ系民族のイスラーム化が進むと、彼らはマムルークとしてイスラーム教国の軍事力を構成するようになる。その中から台頭し、中央アジア最初のトルコ系イスラーム教国となったのはカラ=ハン朝である。サーマーン朝からカラ=ハン朝の時代はブハラ生まれのイブン=シーナーに代表されるように、イラン=イスラーム文化がこの地で栄えた。またイスラーム教の浸透にはイスラーム神秘主義が大きな力となった。11世紀にはシル川下流にセルジューク族が台頭、彼らは南下してイラン高原、西アジアに侵出し、その後のアム川下流域にはヒヴァを中心にホラズム王国が繁栄した。
モンゴルの征服とティムール帝国 13世紀にはチンギス=ハンが遠征してモンゴル人に征服され、モンゴル=ウルスの一つチャガタイ=ハン国の支配を受けたが、14世紀末にその衰退に乗じてトルコ=モンゴル系のティムールが現れ、サマルカンドを都に中央アジアからイラン高原、西アジア、南ロシアに及ぶティムール朝(帝国)を樹立した。ティムール帝国のもとで都サマルカンドを中心に、トルコ語文学、ミニアチュール、天文学などトルコ=イスラーム文化が開花した。16世紀はじめにティムール帝国が滅亡すると、中央アジアにカザーフキルギスウズベク、新ウイグルなどの新たなトルコ系ー民族社会が形成された。ティムール帝国を滅ぼした同じトルコ系のウズベク人は、シャイバニー朝を建てるが、まもなく、ブハラ=ハン国ヒヴァ=ハン国コーカンド=ハン国のウズベク系三国に分かれた。 → トルコ系民族の諸国家
15世紀以降の交易路の衰退? 中央アジアはソグド人の活動など、東西交易路が栄えていたが、15世紀末に大航海時代が始まり、世界貿易の主要ルートが海上交通に移行したため、「シルクロード」を通じての国際貿易は衰退したとされている。しかし最近の研究では、15〜18世紀にもロシアやイランとの交易は活発に行われ、中央アジアの綿花や毛皮は重要な輸出品とされていたことが明らかにされている。16世紀中葉のブハラは織物など東方の産物をもとめるロシア商人の姿が見られ、この新たな国際貿易路は、カスピ海北岸のアストラハンを中継地として発展した。<『地域からの世界史6 内陸アジア』1992 朝日新聞社 p.116-118>
ロシアの侵出とその支配 1552年、イヴァン4世カザン=ハン国(ヴォルガ中流の旧キプチャク=ハン国の後継国家の一つ)征服以来、)ロシア帝国の中央アジア方面への侵出が始まり、ロシア人は次々と入植を進め、19世紀までにはロシアはカザフスタンとカフカスを支配下に置き、さらにクリミア戦争の敗北後、中央アジア方面での南下政策を強め、ロシア軍は1864年にコーカンド=ハン国を攻撃し、タシケントを占領、そのためコーカンド=ハン国は滅亡した。次いでロシアはブハラ=ハン国とヒヴァ=ハン国を保護国とし、中央アジアはロシア帝国の統治下に入った。1867年にはタシケントにトルキスタン総督府を置いて植民地支配を開始した。ロシアの中央アジア侵出は1881年のトルクメン人制圧によって完了するが、それは中央アジアにおける騎馬遊牧民の国家が消滅したことを意味しており、またアフガニスタン方面でのイギリスとの緊張(グレートゲーム)を高めることになる。
トルコ系民族の民族的自覚 19世紀末にはトルコ系民族の中に民族的自覚が強まり、特に教育の改革をめざすジャディード(改革派の意味)の運動が起こった。この運動はロシア当局とムスリムの保守的なウラマー達によって抑えつけられたが、この地域の最初のナショナリズムの高揚として注目される。その一人、フィトラトらは「チャガタイ談話会」を組織し中央アジアの共通語としてのトルコ語の確立を図る運動を行った。<小松久男『革命の中央アジア あるジャディードの肖像』1996 東大出版会>
ロシア革命と中央アジア 1917年、ロシアで二月革命が起きロシア帝国が倒れると、5月に中央アジアとカフカスのイスラーム教徒はモスクワで全ロシア・ムスリム大会を開催し、民族ごとの自治共和国を設立することを決議した。十月革命でレーニンらボリシェヴィキ政権が権力を握ると、中央アジアでのソヴィエトの組織化が進んだ。11月にはムスリム民族運動の勢力がコーカンドにトルキスタン自治政府を樹立したが、ロシア人を主体としたソヴィエト政権はそれを認めず、両者の内戦となり、翌年2月には自治政府は崩壊した。こうして社会主義建設をめざすソヴィエトと民族独立をめざすムスリム勢力は厳しく対立するようになった。1918年4月にはロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国に加盟するトルキスタン自治共和国が成立したが、コーカンドでは自治共和国が倒されたことに反発してソヴィエト政権に対する反乱が起こった。ソヴィエト側はその反乱をバスマチ運動と呼んだが、反乱はトルキスタン全域に及び、長期化し1924年まで続いた。
民族的境界画定とソ連邦への加盟 1924年、ロシア共産党は中央の決定として中央アジアを「民族的境界画定」によって分割することを決定し、ウズベク・タジク・キルギス・トルクメン・カザフの5つの社会主義共和国に分け、各国はソヴィエト社会主義共和国連邦に加盟することとなった。この「民族別国家」は、レーニンやスターリンが、トルコ系民族の統一国家を作って自立しようという現地の動き(パン=トルコ主義)を封じるためのものであって、民族分布の実態と異なっていたので現地では反発が強かった。しかし反対したスルタンガリエフ(タタール人)やフィトラト(ジャディードの指導者)らは民族主義的偏向が顕著であるとしてソ連中央から批判され、捕らえられてしまった(その後処刑)。その後、ソ連邦の一部となった中央アジアには、ソフォーズとコルホーズが導入され、綿花などの主要産品をロシアに提供し、工業製品は自給できずにロシアから買うという従属的経済体制に組み込まれ、発展は阻害された。第2次世界大戦ではスターリン体制に抵抗して民族運動を行ったチェチェンや朝鮮人などの流刑地としされた。戦後は、社会主義体制のもとで生産増強が図られ、灌漑による砂漠の緑化、地下資源の採掘などが積極的に進められ、人口は急増したが、一方でアム川・シル川の水量が激減し、アラル海が干あがるなどの問題や、カザフの草原の中のセミパラチンスクでのソ連の核実験による環境汚染などが深刻化した。
ソ連からの分離独立 1985年のソ連のペレストロイカの開始は中央アジアでも社会主義体制の見直し、民族文化の再認識が自覚的に始められ、東ヨーロッパ諸国が一斉にの社会主義からの離脱に踏み切った東欧革命の影響を受け、1990年には中央アジア諸国も一斉に共和国主権宣言を行い、社会主義とソ連邦からの離脱を宣言、1991年のソ連邦の崩壊によって正式に5つの共和国となった。形式的には独立国家共同体(CIS)に加わったが、現在は中央アジア5ヵ国としての共同歩調を強めている。しかし、タジキスタンの内戦や隣接するアフガニスタンやパキスタンとの関係にも不安定な要素を残している。なお、2001年には、ロシア・中国の両大国に、中央アジアの4ヵ国(キルギス、カザフスタン、タジキスタン、ウズベキスタン)が加盟した上海協力機構(SCO)が発足している。資源開発などの経済協力とともに国際テロへの対応などで共同歩調をとろうというものであるが、最近はインドも加盟を希望するなど、あらたな地域経済協力、集団安全保障機構として注目されている。
 ウズベキスタン共和国

青は空と水、白は平和、緑は自然を表す。三日月はイスラーム教国のシンボル。12の☆は十二宮を表す。1991年制定。
1991年、ソ連邦解体に伴い、ウズベキスタン共和国として独立。中央アジア5ヵ国の中で最も人口が多い。人口は約2700万、面積は約44万7400平方キロ(日本の約1.2倍)。首都はタシケント。人種はウズベク人が80%、他にロシア人、タジク人(イラン系)、カザフ人など。言語はトルコ語系のウズベク語を公用語としているが、タシケント・サマルカンドなどではイラン系のタジク語も多い。また長いロシア・ソ連時代の歴史的背景から、現在もロシア語が通用する。都市の看板などはウズベク語(ラテン文字表記)とロシア語(ロシア文字表記)が併用されている。宗教はイスラーム教スンニ派。都市にはモスクが多く、サマルカンド、ブハラなどには聖者の遺跡、マドラサなどが多数見られる。しかし、イスラーム信仰は厳格ではなく、一般市民は西欧と同じ生活を送っている。これもロシア・ソ連時代の宗教排斥の影響が続いているためであろう。独立を達成してからは歴史的伝統としてのイスラーム文化の見直しや、国民統合の象徴としてティムールを建国の英雄として顕彰することが目立っている。
国土 国土は東西に広がっており、東のパミール高原を源流として北にシル川、南にアム川の日本の大河が西流し、アラル海に注いでいる。中心はタシケント−サマルカンド−ブハラを結ぶ線で、都市周辺には豊かな小麦、綿花、ぶどうなどの畑がひろがり、郊外には広大な草原が広がり牧畜が行われている(現在では遊牧は行われていない)。東にカザフスタンとキルギス、タジキスタンに囲まれた形でフェルガナ地方(古代の大宛、旧コーカンド=ハン国)があり、西にはキジルクム砂漠で隔てられてウルゲンチとヒヴァを中心とした旧ホラズム王国、旧ヒヴァ=ハン国がある。アム川下流とアラル海南岸はカラカルパクスタン自治共和国となっている。
現代のウズベク人とは 現代のウズベキスタン共和国を構成する「ウズベク人」という概念は比較的新しいもので、1924年の民族的境界画定の時の区分では、1.時に他からサルトなどと呼ばれた、部族的伝統を持たないトルコ系の定住民(自称ではチャガタイ)、2.古来のトルコ系諸部族及びモンゴル侵攻期にトルキスタンに入ったトルコ−モンゴル系諸部族の末裔で定住民と交わらず半遊牧的な部族生活を保持していた集団、3.15世紀末にキプチャク(カザフ)草原からトルキスタンへ移動、定着したウズベク諸部族の末裔、の三種からなる多種多様な方言を話す人々であった。<小松久男『革命の中央アジア』1996 東大出版会 p.246>
ウズベキスタンの歴史 ウズベキスタンの歴史は、前近代はイスラーム以前とイスラーム後に分け、さらに後者をモンゴルの侵入の前後に分け、近現代はロシア殖民地時代と、ソ連邦時代、現代の3時期、計6時期に分けることが出来る。
イスラーム以前のウズベキスタン 現在の中央アジア5ヵ国は、前近代ではほぼ西トルキスタンにあたるので、ウズベキスタン単一の歴史は成立しない。民族的にも文明期に最初に活動したのはペルシア帝国以来のイラン系民族であった。また、アレクサンドロス大王の遠征によりギリシア人の植民やヘレニズム文化の影響がおよんだ。特にサマルカンドを中心としたイラン系のソグド人はシルクロードの東西貿易で活躍、アム川とシル川にはさまれた豊かなオアシス地帯はソグディアナと言われた。その都が現在のサマルカンドである。前2世紀から後3世紀頃の大月氏、クシャーナ朝もイラン系民族であった。5世紀になると遊牧民エフタル、それを滅ぼした突厥、その次のウイグルと、遊牧帝国がこの地のオアシス都市で興亡する時代が続く。
イスラーム後のウズベキスタン 8世紀にイスラーム勢力がアム川を超えてソグディアナに侵攻し、イスラーム化が始まる。872年には中央アジア最初のイスラーム教国、イラン系のサーマーン朝ブハラを都に成立。ブハラはその後、ハディースの編纂者ブハーリーなどを輩出し、スンナ派イスラーム神学の中心地となる。有名なイブン=シーナーもブハラの生まれである。その後、トルコ系カラ=ハン朝、契丹人のカラ=キタイ(西遼)が成立。11世紀西方のイリ川下流域にセルジューク族が興り、彼らはイラン高原から西アジアに進出。その後、ホラズム王国がアム川下流に興る。
モンゴル侵入後のウズベキスタン 1220年に中央アジアに侵攻したモンゴルのチンギス=ハンによってサマルカンドは破壊され、ホラズム王国も滅ぼされ、それ以後モンゴル人の支配が続くが、文化的には依然としてイラン人が支えていた。チャガタイ=ハン国のもとで次第にトルコ人の文化が形成され、次のティムール帝国のもとでトルコ=イスラーム文化が開花し、復興したサマルカンドがその中心地となる。ティムール帝国の分裂、衰退後、北西部から移動したウズベク人がシャイバニ朝を成立させるが、間もなくブハラ=ハン国ヒヴァ=ハン国(ホラズム地方)、コーカンド=ハン国(フェルガナ地方)の三国に分裂。
ロシア植民地時代 19世紀後半にロシアが進出してきて、コーカンド=ハン国は滅亡し、1867年にはタシケントにトルキスタン総督府が置かれその殖民地となった。ブハラ=ハン国とヒヴァ=ハン国は保護国となった。この間、ロシア人の移住があいつぎ、ロシア化が進むが、それに反発したトルコ民族としての自覚も強まり、19世紀末にはジャディードという改革運動も始まる。
ロシア革命とウズベキスタン 1917年ロシア革命が起こると、民族独立を求める運動と、社会主義国家建設をめざす勢力とが対立するようになり民族主義と社会主義という困難な問題に直面する。ソ連のレーニンやスターリンは民族の自治を認めながらあくまで社会主義という普遍的な価値を優先したため、民族派は次第に排除されることになる。その対立はフェルガナ地方や東ブハラ(現タジキスタン)から始まった反ソ武装闘争であるバスマチ運動となって激化し、内乱状態となった。1924年、バスマチ運動を鎮圧したロシア共産党は、中央アジアの民族的境界画定を行い、5共和国に分けることにし、従来のブハラに加え、サマルカンドとタシケントを加え、旧ハン国のコーカンド(フェルガナ)とヒヴァ(ホラズム)を加え、ウズベク=ソヴィエト社会主義共和国とした。社会主義体制のもとで、イスラーム法に代わるソヴィエト法の適用、アラビア文字に代わるロシア文字(キリル文字)の使用、女性の解放などが行われたが、伝統的な民族文化を除去することは出来なかった。経済的にはソ連邦の計画経済に組み込まれ、自給自足は否定されて綿花単作農業を押しつけられ、綿花や地下資源などの原料をロシアに提供し、工業生産はロシアに依存するということになった。
現代 社会主義からの離脱、独立 ペレストロイカはウズベキスタンなど5ヵ国にも影響を与え、ソヴィエト体制の見直しが始まり、1991年のソ連邦崩壊によって社会主義から離脱し、ウズベキスタン共和国として独立した。社会主義共和国末期の1990年に大統領に当選したカリモフが初代大統領となり、その後、憲法改正や国民投票などの手段で任期を延長し、2009年現在、長期政権を維持している。経済的にはアメリカ、日本との関係を強め、イスラーム過激派の活動を認めず、アメリカのアフガニスタン派兵に協力するなどで国内は安定しているが、その独裁に近い政治に対しては人権抑圧の批判も起きている。
参考 ウズベキスタンの世界遺産 サマルカンドブハラヒヴァ、シャフリサーブス、ボイスンの5ヶ所が世界遺産とされている。
 カザフスタン共和国
カザフスタンはカスピ海北岸から中央アジアにおよぶ広大な草原地帯(ステップ地帯)である。カザフスタン共和国はトルコ系のカザフ人を中心とした国家で、中央アジア5ヵ国に加えられているが、他の4国(ウズベキスタン、タジキスタン、キルギスタン、トルクメニスタン)とは異なり地理的、歴史的にはトルキスタンには属さず、隣接するロシアとの関係が最も強い。面積は日本の7倍、人口は約1500万、国土のほぼ全体がステップ(草原)で、首都は1997年から新都アスタナが建設されている。トルコ系カザフ人が50%以上であるが、ロシア人も多い。
カザフ国家の歴史 カザフは、かつてのキプチャク=ハン国でトルコ系民族による遊牧生活が行われていた地域。キプチャク=ハン国衰退後はトルコ系遊牧民のカザフ族の部族社会が続いていたが、18世紀中ごろまでにロシアの勢力がおよび、東に隣接する清朝の侵入も受ける。19世紀中ごろまでにロシア領とされ、ロシアかが進んだ。
ソ連時代と独立 ロシア革命後の1920年にキルギス(当時、ロシアでは誤って現在のカザフをキルギスと呼んでいた)自治共和国となるが、1924年に南のトルキスタンの一部を加えてカザフ自治共和国となり、1936年にソ連邦を構成するカザフ・ソヴィエト社会主義共和国となった。首都は29年からアルマアタとされた。ロシア帝国時代からロシア人の移住が続き、ソ連邦内ではウクライナに次ぐ広大な土地を有し、集団農場による穀物増産が推進された。1991年のソ連邦解体によってカザフスタン共和国として独立したが、ソ連邦内の共和国大統領であった共産党第一書記ナザルバエフが初代大統領となり、その後も再選を続け、独裁的な権力を維持している。
 キルギス共和国
キルギスはクルグスとも表記する。中央アジア5ヵ国の一つで北にカザフスタン、西にウズベキスタン、南にタジクスタンに接し、東はテンシャン山脈を境に中華人民共和国の新疆ウイグル自治区に面している。首都はビシュケク。人口は約500万、面積は日本の約半分。人種はキルギス人が約65%だが、ウズベク人、ロシア人も多く、公用語は現在もロシア語である。
近代以前の略史 キルギス人がこの地に定住するようになったのは16世紀からであるが、それ以前からこの地はシルクロードの中間点であり、交通の要衝であったことから、いくつかの民族と国家の興亡があった。西に隣接するフェルガナ地方は中国で大宛として知られ、張騫が汗血馬の存在を漢の武帝に伝えたことはよく知られている。唐の玄奘はインドに向かう途中、現在のイシ・ククル湖に近い砕葉城に滞在したことが『大唐西域記』に記されている。また唐軍とイスラーム軍が751年に激突したタラス河畔の戦いのタラス川はこの国の北西を流れている。10世紀にはトルコ系のカラ=ハン朝の都ベラサグンがこの地に置かれた。12世紀には東方から契丹の一族耶律大石が移動してきてカラ=キタイ(西遼)を建国した(都は同じくベラサグン)。13世紀以降はチンギス=ハンがこの地を征服し、モンゴル人の支配が続くが、チャガタイ=ハン国領となった後、ティムール帝国の一部となった。ティムール帝国が衰退し、ウズベク人のシャイバニ朝が成立、16世紀にもともとシベリアにいたキルギス人が移動してきて定住し、部族社会が続いた。ウズベク人のコーカンド=ハン国の支配を受けた後、1876年にロシア領となる。
ソ連時代と独立 ロシア革命後に、1918年からトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国に編入され、1924年にロシア連邦内のカラ=キルギス自治州となり、26年にキルギス=ソヴィエト社会主義共和国に昇格、36年に連邦の一員となった。1990年、共和国主権宣言を行い、ソ連邦解体を受けて91年にキルギス共和国となり、独立国家共同体に加盟した。5ヵ国の中で最も早く1998年にWTOに加盟したが、急激に国際競争に巻き込まれたために国内経済は混乱した。独立以来のアカーエフ大統領の長期政権が続いたが、2005年の不正事件で辞任した。
 タジキスタン共和国
中央アジア5ヵ国(トルキスタン諸国)の一つで、タジク人の国家。現在はトルキスタンの一部とされるが、他のトルキスタン諸国と異なり、タジク人はトルコ系ではなく、イラン系の民族であり、自らはソグド人の後裔と言っている。言語もペルシア語系のタジク語を使用する。現在でもウズベキスタンのブハラやサマルカンドの住民の多くはタジク人であり、民衆レベルではウズベク語もタジク語も併用されている。人口は約680万、首都はドゥシャンベ。宗教はイスラーム教スンニ派。国土の東半分はパミール高原の山岳地帯にあたる。ウズベク人の3ハン国時代には、現在の国土の北半分はコーカンド=ハン国、南半分はブハラ=ハン国に支配されていた。そのため、「東ブハラ」とも言われることがある。
タジク人の民族的自覚 古来、トルキスタンでは先住民のイラン系民族と、9世紀頃から定着したトルコ系のウズベク人などが混在し、同じイスラーム教徒ということで対立感情もなかった。ロシアの支配を受けた後、ロシア革命が起きるとトルキスタンの独立を求める運動が強まったが、それがソヴィエト政権によって抑えられると、「東ブハラ」を拠点にムスリム住民の中に反ソ武装闘争であるバスマチ運動が起こった。赤軍によって反乱が鎮圧された後、1924年にソ連の「民族的境界画定」によって中央アジア5ヵ国が設立され、この地域はタジク人の居住区とされてタジク=ソヴィエト社会主義共和国となった。この境界区分は無理があったため、ウズベキスタン・タジキスタン・キルギスタンの国境は現在のように非常に入り組んだ形になってしまった。1927年にはタジク系住民の多いフジャンド地方はウズベキスタンからタジキスタンに帰属が偏向されている。そしてタジキスタンでは現在もウズベキスタンなどの「汎トルコ主義」に対する警戒心が強い。また、タジキスタンには、タジク人の多いブハラを「未回収のタジキスタン」としてウズベキスタンからの回収を要求する動きも根強い。<小松久男『革命の中央アジア』1996 東大出版会 p.269 などによる>
独立と内戦、日本人の犠牲 1991年、ソ連邦の解体に伴い、タジキスタン共和国として独立したが、その直後の1992年、旧共産党勢力とイスラーム勢力との対立が内戦に発展、97年に和平が成立するまでに6万人が犠牲となった。94年には国連タジキスタン監視団(UNMOT)も派遣された。98年7月には日本の外務省から派遣された秋野豊政務官が反政府軍の手によって殺害されるという事件が起こっている。 
 トルクメニスタン共和国
中央アジア5ヵ国の一つで、その最南部、イランとアフガニスタンに国境を接する。国土の大半はカラクーム砂漠。北はアム川でウズベキスタンとの境となっている。人口は500万、面積は日本の1.3倍。首都はアシガバッド(アシュハバード)、言語はトルコ語系のトルクメン語で宗教はイスラーム教スンニ派。
近代以前のトルクメン人 もともとイスラーム世界では10世紀頃からトルコ系をトゥルクマーンと総称していたが、11世紀頃から特にその中のオグズといわれる部族から、セルジューク人やオスマン人、アゼルバイジャン人が分かれて活動するようになり、トルクメン人もその一部かとも思われるがよく分かっていない。14〜15世紀には黒羊朝(カラ=コユンル朝)がティムール朝やオスマン朝に服属せず、イラン西部に自立したが、1469年に東部アナトリアの白羊朝(アク=コユンル朝)に滅ぼされた。白羊朝は1508年にサファヴィー朝に滅ぼされた。現在のカスピ海東部からイランのホラーサーン地方で半遊牧生活を行っている人々がトゥルクマーンを継承してトルクメン人と言われている。
トルクメン人の奴隷貿易 トルクメン人が歴史上有名なのは、その奴隷貿易のためである。彼らは他民族、あるいは非イスラーム教徒を拉致してきて奴隷として売りさばくと言うことをしていた。その略奪行為はアラマンと言われ、悪事ではなく偉業であるとされた。奴隷とされたのは同じイスラーム教徒でもシーア派であるイラン人、それとカスピ海を渡った先にいたキリスト教徒のロシア人であった。これらの青い眼の奴隷たちは、ブハラヒヴァに運ばれ、その奴隷市場で売られていった。ヒヴァには奴隷市であったところが残されている。次に述べるロシアの中央アジア征服は、この奴隷貿易を廃絶することを大義名分として行われたことであり、ブハラとヒヴァの奴隷市場が封鎖されたことは、ロシア帝国による中央アジア植民地化の数少ない功績だったといえるだろう。<山内昌之『ラディカル・ヒストリー』1991 中公新書 p.159>
ロシアによる征服 ロシアによる中央アジア征服の最後が、トルクメン人であった。ロシア軍は1877年、トルクメニスタンのアシュハバード一帯のオアシス、アハル地方への侵攻を開始、それに対してトルクメン人のテケ部族が抵抗し、進軍を妨害した。おりからロシアはオスマン帝国との露土戦争を展開しており、イギリスはロシアのトルクメン進出に警告を発した。そのためロシア軍はいったん後退し、1879年春、改めて総攻撃を行った。しかし、8月28日のゲオク・テペの戦いで補給路を断たれ、テケ部族の勇敢な抵抗にあって撃退されてしまった。ロシア側は鉄道を建設して補給路を確保し、大砲など火器を増強してようやく1881年1月、ゲオク・テペ要塞が陥落、アシュハバードに入城した。この1881年のギョクテベの激戦でロシア軍に敗れ、ロシアに併合された。
「ロシア軍のゲオク・テペ(ギョクテペとも表記)の攻略をもって帝政ロシアによる中央アジアの軍事的征服は基本的に終わった。そしれそれ以後、1991年に独立するまで、ソ連邦の時代を含め約110年間にわたるロシアの支配が続いたのである。」<加藤九祚『中央アジア歴史群像』1995 岩波新書 p.200-205>
ソ連時代と独立 1924年、トルクメン=ソヴィエト社会主義共和国が成立し、ソ連邦の一つの構成国となった。1991年のソ連邦の解体に伴い独立。初代大統領ニャゾクは終身大統領となったが、2006年に死去。なお、95年には国連総会で永世中立国として認められれている。