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2.世界分割と列強対立
ア.アフリカの植民地化
 アフリカ分割 19世紀前半までのポルトガル・イギリス・フランスなどのヨーロッパ勢力のアフリカ進出は、海岸部に交易拠点を設け、内陸の現地首長らと黒人奴隷貿易を行うという形態をとっていたが、19世紀中頃からアフリカ探検が進められ、内陸部の豊富な資源の存在が注目されるとともに、勃興したヨーロッパ資本主義諸国にとっての資源の供給地、同時に市場として、さらに資本を投下する先としての植民地として脚光を浴びるようになり、列強は競ってアフリカの領土化に乗り出した。1870年代のイギリスによるエジプトの支配に始まり、フランス、ポルトガル、ドイツ、イタリアによって帝国主義的分割が進められ、ベルギーのレオポルド2世のコンゴ領有を機に、1884〜85年にドイツのビスマルクが提唱したアフリカ分割に関するベルリン会議が開催され、列強の利害が調整された。1900年頃にはエチオピアリベリアを除いてアフリカ全土が分割されてしまった。以下は列強がそれぞれ領土としたアフリカの地域である。
列強 主    な    植    民    地
イギリス エジプト・スーダン・南アフリカ・トランスヴァール・オレンジ・ローデシア・ケニア・ナイジェリア
フランス アルジェリア・チュニジア・モロッコ・マダガスカル・サハラ(西アフリカ)
ドイツ 東アフリカ(タンガニーカ)・カメルーン・トーゴ・南西アフリカ
ベルギー コンゴ
イタリア トリポリ・キレナイカ・ソマリランド・エリトリア
アフリカ探検 サハラ以南のアフリカには、いくつもの文明が成立していたが、15〜19世紀にイギリスを先頭とするヨーロッパ商人による奴隷貿易によって収奪され、人口が減少した。それが「暗黒大陸」化した背景である。19世紀後半には、ヨーロッパ人による内陸への「探検」が行われ、ヨーロッパ列強による植民地化の脅威にさらされ、1900年頃までに分割が完了する。しかし、内陸の開発は、ツエツエ蠅によって家畜に伝染する眠り病などの風土病もあって、進まなかった。「アフリカ探検」に乗り出した人は無数にあるが、リビングストン以前の主なものには次のような例がある。
マンゴー=パーク:イギリス人。1805年、ニジェール川の奥地を探検し、トンブクトゥに到達。帰路行方不明となった。
リチャード=バートン:イギリス人。1858年、タンガニーカ湖を発見。バートンはアラビア学者でもあり、アラビアン・ナイトの翻訳で有名。
サミュエル=ベーカー:イギリス人。夫人とともにナイル源流の探索に当たった。1865年にアルベルト湖を発見した。
a リビングストン スコットランド生まれのイギリス人宣教師。1849年以来、ベチュアナランドで伝道を開始、1853年から白人未踏の中央アフリカ一帯を探検し、56年までに大西洋岸のルアンダからインド洋岸のモザンビークまでの横断に成功した。その間、ザンベジ川で発見した大瀑布にヴィクトリア瀑布と名付けた。後、1868年から再びアフリカ奥地の探検に向かうが、一時行方不明となり、1871年にスタンリーに救出された。その後も探検を続け、ナイル川の源流を探索したが、73年に現地で死去した。 
b スタンリー イギリス生まれでアメリカの新聞の特派員としてアフリカに派遣され、1871年リビングストンを救出して有名になる。1873年にアフリカに戻り、タンガニーカ湖やヴィクトリア湖周辺を探検、1877年にはヨーロッパ人として初めてコンゴ川の河口まで下ることに成功した。1878〜84年はベルギーのレオポルド2世に派遣されて再びコンゴ地方を探検。王の代理として首長たちと貿易独占条約を締結し、植民地化を進めた。1987〜88年はスーダンを探検した。 
c ベルギー(の植民地支配)19世紀後半のベルギー国王のレオポルド2世は、議会や世論の反対を押し切り、植民地獲得を進め、アフリカ中央部にコンゴ自由国を建設した。それは、形式的にはレオポルド2世を元首とする国家であるが実態は彼の個人領として存在し、現地の黒人に対する過酷な収奪が行われ、国際的な非難が起こった。そこでベルギーは1908年、コンゴを国家管理に移譲させ、ベルギー領コンゴとして植民地管理を行うこととした。そこではコンゴ自由国のような無法な収奪は禁止され、本国の植民地評議会を通じてコントロールされ、また民間資本による銅資源やパーム油の生産が進んで植民地経済は順調に成長した。第2次世界大戦後の民族主義の台頭の中でコンゴにも独立運動が起こると、ベルギーはフランスのアルジェリアにおける武力統治の失敗を見て、武力による抑圧をあきらめ、独立を承認してその後も経済的関係を維持する方針をとり、1960年に独立を認めコンゴ共和国となった。しかし、この「早すぎた独立承認」は、生まれたルムンバを中心とした独立政府は広大なコンゴを統治する能力が十分でなく、直ちに政治的不安定を生み出し、5年にわたるコンゴ動乱を生み出すこととなった。
d レオポルド2世(ベルギー王)19世紀後半のベルギー国王(在位1865〜1909)。ベルギーの植民地支配の拡大に努め、アフリカのコンゴ地方に個人領コンゴ自由国を所有した。彼は隣国オランダがインドネシア経営で大きな成功を収めていることに刺激を受け、同じような植民地の獲得を目指した。1878年アメリカ人スタンリーを派遣してアフリカ中央部の広大なコンゴ地方を探検させ、植民地を獲得した。しかしベルギーの議会と世論はレオポルド王の行動に反対したため、コンゴはレオポルト2世個人の私有地となった。彼は自己の行動が個人的なものととられることを避けるために1983年にコンゴ国際協会を設立してその保護下で開発を進めることとした。1884〜85年のベルリン会議でコンゴの領有を認められた王は、1985年には「コンゴ自由国」として独立国家の形態をとったが、それはレオポルド2世を元首とする私有領の性格が強いものであった。中心地にはレオポルドビル(現在のキンシャサ)と名付け、ゴムと象牙に目をつけて、現地人に過酷な労働と人頭税を賦課して収奪した。その無法な植民地支配は国際的な非難を浴び、1908年にベルギーは正式にコンゴ自由国を併合し、「ベルギー領コンゴ」として管理することとなった。神聖ローマ皇帝ハプスブルク家のレオポルト2世(フランス革命に対してピルニッツ宣言を出した皇帝)と混同しないこと。
e ベルリン会議(アフリカ分割に関する)1884〜85年、ドイツ首相ビルマルクの提唱で開催された、列強14カ国によるアフリカ分割に関する会議。ベルリン=コンゴ会議ともいい、特にベルギー国王レオポルド2世のコンゴ支配を承認するかどうかが主要な案件であった。参加14ヵ国とは、当時アフリカに野心を持っていた、イギリス・ドイツ・オーストリア・ベルギー・デンマーク・スペイン・アメリカ・フランス・イタリア・オランダ・ポルトガル・ロシア・スウェーデン・オスマン帝国。会議は100日間以上にわたって行われ、全7章、38条からなる協定を締結して終了した。
合意された協定の主要部分は、まず「コンゴ盆地条約」といわれる部分で、・コンゴ盆地の自由貿易(第1章)と中立化(第3章) ・コンゴ川の自由航行(第4章)を取り決めた。また奴隷貿易の禁止が宣言(第2章)され、ニジェール川の自由航行に関しても合意(第5章)された。また会議はベルギー国王レオポルド2世が領有を主張したコンゴ盆地について、国王の個人的組織であるコンゴ国際協会が統治権をもつことを承認した。レオポルド2世はそれをコンゴ自由国と称し、国王の私領として統治することとなった。
ベルリン会議で合意された列強によるアフリカ分割の原則:しかし最も重要なことは第6章において、アフリカ植民地化の原則が合意されたことで、それは次のような2点からなる。
 ・占領が認められる条件はヨーロッパ人の活動(通交・交易)を保障できる実効支配が行われていることが必要である。
 ・ある地域を最初に占領した国がその地域の領有権をもつという先占権をもつ。(沿岸部を占領した国が内陸部の併合も認められる)
これは、アフリカ現地の人々の意志は関係なく、ヨーロッパ各国がアフリカの土地と人間を勝手に区画して統治できるという、一方的なものであり、このベルリン会議の結果としてヨーロッパ列強のベルリン分割を加速させることとなった。列強は「早い者勝ち」に競って進出し、現地の黒人部族の首長との間で「保護条約」を締結し実効支配を打ち立てようとした。その後、20世紀中ごろまでアフリカは植民地支配を受け、多くのアフリカ諸国がこの分割にそって独立したため、現在も部族的な対立や国境紛争が絶えない、不安定要素の原因となっている。<小田英郎『アフリカ現代史V』山川世界現代史15 1986 p.50 などによる>
f コンゴ自由国

コンゴ自由国の黒人を苦しめるレオポルド2世(『パンチ』誌)
1885年にベルリン会議の結果として、ベルギーのレオポルド2世個人領として成立した。レオポルド2世は、隣国オランダが、ジャワ島で強制栽培制度を実施し利益を得ていることに刺激を受け、コンゴ自由国を厳しく収奪し、特にゴムと象牙を現地人から取り上げ、自らの富としていった。コンゴ自由国の植民地支配はアフリカで最も残虐を極めたという。国王の死後、1908年にベルギー国家の殖民地「ベルギー領コンゴ」となった。
国王の「個人領の国」とは:わかりにくいが、次のように説明されいる。「コンゴ自由国は奇妙な国家であった。レオポルド2世はベルギーとコンゴ自由国という二つの国家の元首を兼ねることになったが、立憲君主制をとるベルギーとは全く異なり、コンゴ自由国は彼の私有領としての性格をもっていた。彼はコンゴの「所有者」だと宣言し、1890年に公開された遺言状では、コンゴに対する「主権」をベルギーに遺贈すると述べている。王の所有物としての国家とは中世さながらの考え方であるが、コンゴ自由国は、ベルギー政府が何の責任も権限もない形で、1908年まで統治されることとなった。」<『新書アフリカ史』竹内進一執筆分 1997 講談社現代新書 p.334>
Epi. 「地獄の黙示録」のモデル『闇の奥』 「ポーランド生まれのイギリス人作家コンラッドの『闇の奥』は、彼自身が1890年頃のコンゴ自由国を船員として訪問した経験に基づいて書かれている。鬱蒼としたジャングル、「文明」と隔絶したアフリカ人、そして現地に住むヨーロッパ人の傲慢・・・。この作品に流れている暗い狂気は、当時のコンゴ自由国の一側面をよく伝えている。」<同 p.334>
白人にとって「闇の奥」であるザイール川の奥地で展開されいたのは、一握りの白人支配者が、黒人を何日もジャングルを歩かせてゴムと象牙を集め、量が少ないと激しい拷問を加えるという実態だった。この有様はイギリス人のモレルが1906年に『赤いゴム』という本で暴露し、スキャンダルとなった。その世論がベルギー政府を動かし、「コンゴ自由国」の消滅と政府によるベルギー領コンゴの植民地支配に転換させた。なお、コンラッドの『闇の奥』の場所をベトナムのジャングルに変えて、コッポラ監督が映画化したのが『地獄の黙示録』である。
g 実効支配  
h 先占権  
i ベルギー領コンゴ 1908年、ベルギーが国王レオポルド2世の私有財産であったコンゴ自由国を継承し、「ベルギー領コンゴ」となった。ベルギーはレオポルド2世時代のコンゴ自由国の無法な収奪を改め、行政府・民間資本・キリスト教伝道団の「三位一体」と言われる態勢で植民地経営に当たり、本国には植民地評議会を設けて現地をコントロールした。新たに銅資源の開発に乗りだし、ユニオン・ミニエール社がその経営に当たった。農業ではパーム油の生産に力を注いだ。その結果コンゴはアフリカ有数の工業地域となった。また教育はキリスト教伝道団によって行われ、初等教育の普及が進んだ。第2次世界大戦後、1958年に黒人のルムンバがコンゴ民族運動を組織し独立運動を開始、レオポルドビルやスタンレービルなどの中産階層の中に独立の気運が強まった。ベルギーは、武力による弾圧をとらずに独立承認にかたむき、1960年、コンゴ共和国として独立を達成した。しかし、すぐにコンゴ動乱に突入し政情不安が長期化する。1971年にザイール共和国となり、 97年から現在のコンゴ民主共和国と称する。(現在のコンゴ共和国はフランス領コンゴが独立したもの)
 イギリスのアフリカ進出 イギリスがスペイン継承戦争で勝利した結果、1713年のユトレヒト条約で、アフリカからアメリカ新大陸に黒人奴隷を運ぶ奴隷供給契約アシエント)をフランスから獲得した。イギリス商人は主としてアフリカ西海岸で奴隷貿易に従事した。イギリスの奴隷貿易は本国とアフリカ、新大陸を結ぶ三角貿易として18世紀を通して行われ、イギリス産業革命の原資を生み出した。産業革命が進行して資本主義が形成されるた19世紀には、商業圏の拡大をめざしまず、ケープ植民地をオランダから奪取(1814年のウィーン議定書で認められる)、ついでエジプト−トルコ戦争(1833,1839)に介入してエジプトに進出した。19世紀末の帝国主義段階になると、ウラービーの反乱を機にエジプトを保護国化し、さらにスーダンに進出してマフディー教徒の反乱を鎮圧した。イギリスは植民相ジョゼフ=チェンバレンのもとで、エジプトのカイロと南アフリカのケープタウンをむすぶアフリカ縦断鉄道の建設をめざしてアフリカ縦断政策をとり、1898年には横断政策をとるフランスとファショダ事件で衝突した。アフリカ南端のケープ植民地のイギリス人は、北方のブーア人(オランダ系入植者の子孫)を圧迫し、さらにセシル=ローズによる植民地拡大が進み、ベチュアナランド(現ボツワナ)、ローデシア(現ザンビアとジンバブエ)を獲得した。さらに1899年の南ア戦争の結果、ブーア人からトランスヴァール、オレンジ自由国などを獲得して1910年南アフリカ連邦に編入した。その他、イギリスが支配したアフリカ植民地は、西アフリカで黄金海岸(現ガーナ)、ナイジェリアなど、東アフリカで英領ソマリランド、ウガンダ、ケニアなどである。 
a スーダン スーダンとは「黒人たちの国」の意味で、エジプトなど地中海岸を除いた黒人の住むアフリカ全般を示す地名であったが、アフリカ分割後の現在ではイギリスが支配した地域をアングロ=エジプティアン=スーダン(現在のスーダン共和国)、フランスの支配した地域をフランス領スーダン(現在のマリ共和国)というようになった。現在のスーダンは、エジプトの南に位置するナイル川上流地域で、古くはヌビア人のクシュ王国メロエ王国などがあり、14世紀までにはイスラム化した。19世紀にはエジプトが領有したが、1869年以降、イギリスが進出し、マフディーの反乱を制圧した1899年から事実上のイギリス植民地となった。  → スーダンの独立
 ムハンマド=アフマド  
b マフディーの反乱 マフディーとはアラビア語で「導かれた者」、または「救世主」を意味する。1881年、スーダンのムハンマド=アフマドは、自らマフディーを名乗り、イスラーム教徒を結集して反イギリスの闘争に立ち上がった。これをマフディーの反乱ともいい、マフディー教徒は山岳部を拠点に独自のイスラーム国家を建設した。中国で常勝軍を組織して太平天国の乱を鎮圧したゴードンを総督に任命し、攻勢をかけたが、1885年には要地ハルツームの戦闘で戦死した。マフディー教徒はスーダンを占拠してたびたびエジプトにも運動を広げた。またサハラ方面からエチオピアへのアフリカ横断政策をとるフランスがスーダンに進出してきたので、イギリスはスーダン制圧を決意、1896年にキッチナー将軍の指揮で本格的に侵攻し、98年にはファショダ事件でフランスと対立したもの、その勢力を排除し、さらに1899年にマフディー軍を全滅させて鎮圧に成功した。以後スーダンはイギリス植民地として1956年の独立まで支配される。
Epi. キッチナー将軍 マフディー教徒の反乱でのゴードンの戦死はイギリスを驚かせた。後任となったキッチナーは負けるわけにはいかなかった。キッチナー軍は鉄道を敷設しながらスーダンに侵攻し、ファショダ事件でフランスを排除し、マフディー軍との戦いでは徹底的な殲滅戦を展開してそれを制圧した。イギリス軍はこの時世界で初めて機関銃を使用した。キッチナーは続いて南ア戦争でもイギリス軍を勝利に導き、軍人としての名声を高めた。彼が三度目に脚光を浴びたのは第一次世界大戦がはじまったからであった。彼は陸軍大臣として迎えられ、人気のある彼の呼びかけで多くの青年が軍隊に志願した(イギリスは志願兵制)という。しかし、1916年に乗艦が撃沈されて戦死した。キッチナーはイギリス帝国主義を代表する軍人であったといえる。 
c ゴードン  → 第13章 3節 太平天国の乱 ゴードン
d セシル=ローズ イギリス人で南アフリカのケープ植民地首相(在任1890〜96年)となり、本国の植民相ジョゼフ=チェンバレンと並んで、イギリス帝国主義を押し進めた人物。1870年にイギリスから南アフリカに渡り、ダイヤモンドの採掘に成功して巨富を得、さらにトランスヴァールの金鉱を独占した。ケープ植民地は1872年に自治が認められ、ローズは84年に植民地政府の大蔵大臣、90年に首相になった。さらにケープ植民地の北方に遠征軍を送り、イギリス領植民地に編入した。彼が獲得した地は後にローデシアと名付けられた。また、ブール人の国トランスヴァール共和国とオレンジ自由国の併合を策し、1895年に部下を使って侵入を試みたが失敗し、翌年植民地首相の地位を退いた。1895年に本国の植民地相となったジョセフ=チェンバレンはセシル=ローズの植民地拡大策を実現しようとして、トランスヴァール共和国への介入を強め、ついに1899年の南アフリカ戦争の勃発となり、激戦の末、1902年にイギリス直轄植民地とされた。
e ローデシア 19世紀末の帝国主義時代に、イギリスのセシル=ローズが南アフリカに建設した植民地。1889年、ローズは南アフリカ会社を設立、90〜94年に現地民に対する征服を進めた。1894年からローズの経営する「イギリス南アフリカ会社(BSAC)」が統治し、イギリス殖民地に編入されその名を冠してローデシアと命名された。ローデシアはその後もイギリスの植民地として続き、白人支配が強固であったため、1960年のアフリカ独立運動の高揚期にも独立を達成することは出来なかった。その後、1964年にイギリスは北ローデシアをザンビア共和国として独立させたが、南ローデシアの白人少数支配者は、1965年に一方的に南ローデシアを「ローデシア」として独立させた。これは、イギリス本国に反発した植民地白人が出した独立宣言で、1776年のアメリカ独立宣言以来のことだった。独立後のローデシアは少数の白人が大多数の黒人を支配し、南ア連邦と同じアパルトヘイト政策をとり、国際的にも批判を浴び、70年代から黒人の反政府運動が激化し、3万人に上る死者を出した上で自由選挙が実施され、多数を占める黒人の政権が誕生、1980年4月18日に白人名に由来するローデシアという名称を棄て、ジンバブエ共和国に国名を変えた。この国名は、この地に栄えた古代モノモタパ王国の都の名前ジンバブエによるもので、その地には現在も巨大な王宮遺跡が残っている。
f ブール人 ブール人(ボーア人、ブーア人とも表記。オランダ語で「農民」の意味。)は、1652年にインド方面への中継地として建設されたケープ植民地に入植したオランダ人の子孫。1689年にはフランスから200人のユグノーが移住(1685年のナントの勅令の廃止による)し、小麦・ブドウの栽培などを行った。ケープにおいて農業に従事したオランダ人の子孫は、オランダ東インド会社の使用人と区別してブール人と呼んだ。1814年にケープ植民地がイギリス領になると、ブール人は次第に圧迫されて北方に移住し、1855年トランスヴァール共和国、1854年オレンジ自由国を建設した。 
g トランスヴァール共和国  
h オレンジ自由国  
i 1899  
j 南アフリカ戦争 19世紀末に起こった戦争で、帝国主義戦争の最初の典型的な例である。南アフリカにオランダ系のブール人が建設したトランスヴァール共和国で金鉱が発見されると、イギリスはその支配をもくろみ、1899年、戦争に入った。トランスヴァール共和国は同じブール人の国であるオレンジ自由国と同盟して抵抗した。イギリスは本国から大軍を導入したが、ブール人の両国も激しく戦い、戦闘は長期化した。ようやく1902年5月、イギリスは両国を併合し、植民地にすることに成功した。 
k 南アフリカ連邦 南アフリカ戦争(ブール戦争 1899〜1902年)の結果イギリス領となり、1910年にイギリス連邦の中の自治領として独立した。イギリス植民地であったケープ植民地とナタールと、北部のブール人(オランダ系移民の子孫の白人)のオレンジ自由国やトランスヴァール共和国を併合してできた。第2次世界大戦後の1961年にイギリス連邦から離脱して南アフリカ共和国となる。94年にはイギリス連邦に復帰。この間、激しい黒人隔離政策(アパルトヘイト)を実施し、国際的な避難を浴び、1991年にようやくアパルトヘイトを放棄、94年には全人種参加の選挙を実施し、黒人のマンデラが大統領となった。首都はプレトリア。→ 
l アフリカ縦断政策  
m 3C政策 南アフリカのケープタウン、エジプトのカイロ、インドのカルカッタをむすぶ三角形地帯をおさえるというイギリスの帝国主義政策。ケープタウンとカイロを結ぶアフリカ縦断政策はフランスのアフリカ横断政策と対立し、カイロとカルカッタを結ぶ「エンパイア・ルート」はロシアの南下政策、ドイツの3B政策と衝突した。 
 フランスの進出 フランスは、1830年にアルジェリア出兵をしたが、七月革命後も撤兵せず、ルイ=フィリップの七月王政、第2共和政、ナポレオン三世の第2帝政の各時期に継承され、第3共和政の時期には、アルジェリアへの入植者(コロン)も増大、さらにエジプトへの介入、アルジェリア出兵チュニジアを巡りイタリアと対立するなど、北アフリカへの進出を活発にしていく。さらに19世紀末にはアフリカ分割に積極的に加わり、サハラ砂漠を南下し、西アフリカから東海岸にいたるアフリカ横断政策を掲げてスーダンに進出を図り、1898年には縦断政策をとるイギリスとファショダ事件で衝突した。またモロッコを狙うドイツのヴィルヘルム2世のドイツとも対立する。フランスは他に、ソマリランドの分割に加わり、マダガスカルの占領を継続した。 
a アルジェリア  → 第12章 1節 アルジェリア出兵 → 第16章 2節 アルジェリア問題
b チュニジア チュニジアはアフリカ北岸、マグリブ地方の中央部に位置する。中心都市はチュニスで、その近郊には古代カルタゴの遺跡がある。かつてフェニキア人の建てたカルタゴ帝国として栄えた。イスラーム化してからは、ファーティマ朝の起こったところととして重用。オスマン帝国に服属し、イスラーム勢力がしばしば地中海からヨーロッパ沿岸に侵出する際の拠点となった。近代に入りフランスとイタリアの侵出を受けることとなり、まずフランスはアルジェリア出兵後、1842年に直轄地としたので、その維持には隣接するチュニジアの領有が必要と考えるようになった。普仏戦争でフランスが敗れるとイタリアがチュニジアに進出したのでフランスは危機感を強め、1878年のベルリン会議では各国に働きかけてチュニジアにおけるフランスの権利を認めさせ、1881年、軍隊を派遣してチュニスを占領した。それに反発したイタリアは、ドイツ・オーストリア=ハンガリーに近づき、1882年三国同盟を結成する。 → チュニジア独立
c サハラ砂漠 アフリカの大西洋岸から紅海沿岸までひろがる世界最大の砂漠地帯。フランスはアルジェリア占領以来、サハラに南下し、19世紀末までに広大な勢力圏を獲得した。現在は、モーリタニア、マリ、ニジェール、チャド、スーダンなどが独立している。 
d アフリカ横断政策 フランスはサハラを南下し、西アフリカから東に向かい、一方で東北アフリカのジブチを拠点としてエチオピアからスーダンに進出、東西からスーダンでの勢力の連結を目指した。スーダンでアフリカ縦断政策を進めるイギリスと衝突し、ファショダ事件が起きた。 
e ファショダ事件 アフリカ縦断政策をとるイギリスと、横断政策をとるフランスが、1898年にスーダンで起こした衝突事件。帝国主義をとる国家同士の衝突の最初のものとされる。イギリスはエジプトのカイロからケープ植民地のケープタウンを結ぶ鉄道の建設を目指し、ナイル川上流のスーダンに進出、マフディー教徒の抵抗に手をやいたが、キッチナー将軍が98年に首都ハルツームを占領した。一方フランスはサハラからアフリカと右岸のジブチをめざしして東進、マルシャン大佐の率いる部隊がコンゴ川流域からスーダンに入り、ファショダにフランス国旗を掲げた。イギリスの首相兼外相ソールズベリは直ちにキッチナー将軍を派遣、ファショダのフランス軍を包囲し、撤退か戦争かを迫った。フランスは当時ドレフュス事件で国内の統一が取れていない状況でもあったため、抗戦をあきらめ、ファショダをイギリス軍に明け渡した。この事件を最後に英仏は対立を終わらせ、協調が成立する。 
f モロッコ モロッコはアフリカ北西部に位置し、マグリブ地方の西端にあたり、長くイスラーム文明が栄え、ムラービト朝、ムワッヒド朝などが栄えた。また地中海の入り口にあたるジブラルタル海峡に面しているので戦略的に重要であり、近代になるとヨーロッパ各国が侵出を狙っていた。スペイン側のジブラルタルはすでに1713年のユトレヒト条約でイギリスが領有していた。ついで1859年にスペインが出兵し、海峡に面したセウタを占領した。フランスはアルジェリアの西に接するモロッコへの進出を図り、1904年の英仏協商でイギリスからその支配権を承認された。一方、新たな植民地帝国の獲得を目指したドイツのヴィルヘルム2世もモロッコへの進出を図り、フランスと第1次モロッコ事件第2次モロッコ事件で対立した。結局はドイツの意図は失敗し、モロッコは事実上のフランス植民地とされる。モロッコ独立は第2次世界大戦後の1956年である。
g 英仏協商  → 英仏協商
h モロッコ保護国化  
 ドイツの進出 国家統一の遅れたドイツは、植民地獲得競争でも遅れ、1880年代に、ビルマルクがベルリン会議で列強のアフリカ分割を調停しながらアフリカへの進出を始めた。1883年中部アフリカ西岸のアングラ・ペチュナを占領し、次いでトーゴランドカメルーンに進出した。また、1886年イギリス・フランスとともにザンジバルなど東アフリカ分割に参加し、ドイツ領東アフリカ(現タンザニア)の広大な領土を得た。またベルリン会議では南西アフリカを植民地として獲得した。このようにビスマルクはイギリス・フランスとの協調的な駆け引きでの領土獲得を進めたが、1890年、彼を辞職させた後のヴィルヘルム2世は、イギリス・フランスとの武力衝突を辞さない強硬路線で植民地分割に乗り出した。彼はイギリスに対抗して3B政策を掲げるとともに、アフリカ方面では1905年に自らモロッコのタンジールに上陸(第1次モロッコ事件)したり、1911年にはアガディールに軍艦を派遣(第2次モロッコ事件)したりしてモロッコ事件を引き起こし、第1次世界大戦に突入していく。なお、ドイツの植民地支配に対してもアフリカ原住民の抵抗の例として、1905〜07年にかけて、東アフリカ植民地で起きたマジマジ反乱がある。
第1次世界大戦で敗北した結果、ドイツの海外領土はすべて放棄することとなり、アフリカ植民地は次のように他の列強の手に移ることとなった。
 トーゴランド・カメルーンはイギリスとフランスで分割。東アフリカ(現在のタンザニア)はイギリスとベルギーで分割。南西アフリカ(現在のナミビア)は南アフリカ連邦の委任統治領とされた。 
a カメルーン  
b 東アフリカ  
c ヴィルヘルム2世  → 14章 1節 ヴィルヘルム2世
d 第1次モロッコ事件 英仏協商によってドイツ抜きでモロッコに関してイギリスとフランスの協定が成立(1904年)したことに対し、強い不満を持ったドイツのヴィルヘルム2世は、1905年自ら艦隊を率いてモロッコに向かい、タンジールに上陸、モロッコの独立とスルタンの保護を宣言した。これを第1次モロッコ事件(タンジール事件)という。その結果、1906年アルヘシラス会議が開催されたがドイツは孤立し、イギリスと結んだフランスが優位に立ち、モロッコ財政へのフランスの管理権などが認められた。 
e タンジール ジブラルタルとジブラルタル海峡をはさんで対峙するアフリカ側のモロッコの重要都市。8世紀初め以降、モロッコにイスラーム勢力が及び、その地のベルベル人もイスラーム化した。タンジェとも言われたタンジールは、711年のイスラーム軍のイベリア半島進出の拠点となった。1304年にはイスラームの大旅行家イブン=バットゥータがタンジールで生まれている。近代以降はヨーロッパ列強の抗争の地となり、1905年、アフリカ進出を目指すドイツ帝国のウィルヘルム2世が軍艦を率いてタンジールに上陸し、フランスとの間で緊張が高まった第1次モロッコ事件(タンジール事件)が起こった。 
f アルヘシラス会議  
 マジマジ反乱 1905〜07年、ドイツ領東アフリカ(現在のタンザニア)で起こった、反ドイツの黒人反乱。マジマジとは霊水のことで、反乱を呼びかけた霊媒師がその水を飲めば弾に当たっても死なないと反乱を呼びかけたことによる。
1886年に東アフリカを植民地として獲得したドイツは、綿花の強制栽培と年28日間の綿花畑での強制労働を導入した。それに反発して1905年7月にタンザニア南部で大がかりな大衆反乱が起きた。「マトゥンビ人の霊媒師キンジキティレは人々にドイツ人に対する反乱を呼びかけた。彼は「死んだ祖先が蘇って味方をしてくれる。この薬用の水(マジ)を飲めば銃弾にあたっても死ぬことはない」と告げた。反乱は同年8月、キンジキティレが絞首刑となってからも続き、タンガニーカの三分の一を覆った。しかし横の連絡を欠き、ドイツ軍の近代兵器の前に敗れ去っていった。」反乱が鎮圧されたとき、アフリカ人は10万〜25万という膨大な数の犠牲者を出した。これに対する白人の犠牲者はわずか5人であった。なお同じような霊媒師による呼びかけという形をとった反植民地闘争としては、1896年〜1903年に南ローデシア(現在のジンバブエ)でのチムレンガの反乱がある。ここでは約8000人のアフリカ人が犠牲となった。<『新書アフリカ史』講談社現代新書 p.404,406>
g 第2次モロッコ事件 アルヘシラス会議でモロッコでの優位を獲得したフランスは、モロッコのスルタン政府の内乱に介入して1907年にはカサブランカを占領したり、着々と支配を固めた。ドイツのヴィルヘルム2世は勢力回復を狙って1911年、軍艦をモロッコのアガディールに派遣してフランスを牽制し、再び戦争の危機となった。これを第2次モロッコ事件、またはアガディール事件という。同年末に独仏の妥協が成立し、フランスのモロッコへの干渉権を認める代わりにドイツはフランスからコンゴの一部を獲得した。しかしモロッコに関してはフランスの覇権が確立したとなり、翌1912年にはその保護国となる。この時、イタリアもトリポリ・キレナイカに侵攻し、イタリア=トルコ戦争を行っている。いずれもヨーロッパ列強の帝国主義的侵略であった。 
h アガディール  
 イタリアの進出 イタリアはシチリア島の対岸のチュニジアをフランスに奪われたことに危機感を抱き、1882年、ドイツ・オーストリアとの間に三国同盟を締結した。次いでチュニジアの東の当時オスマン領であったトリポリキレナイカに進出。1911年にトルコに宣戦布告してトリポリを占領した(イタリア=トルコ戦争)。翌12年講和し、イタリアはその2州を獲得した。1923年のローザンヌ条約でトルコはイタリアのトリポリ、キレナイカ領有を承認、イタリアは2州を古代ローマの地名であるリビアと改めた。またイタリアはアフリカ東北部のエリトリアに進出し、英仏とともにソマリランドの分割に参加した。さらにエリトリアからエチオピアに進出を図ったが、フランスに支援されたエチオピア軍とアドワの戦いで敗れ、一旦後退する。 
a ソマリランド  
b エリトリア  
c エチオピア(現代)エチオピアは10世紀頃から封建的な小国家に分裂状態にあったが、1889年に有力な地方政権の一つであったメネリクがイタリアの助力で統一に成功した。しかし帝国主義列強の侵略を受け、北側の海岸部のエリトリアにはイタリアが進出し、東側のソマリランドはイギリス・イタリア・フランスによって分割されていた。イタリア・フランスはさらにその内陸部であるエチオピア進出を図り対立した。1896年、エチオピアに侵入したイタリア軍をアドワの戦いで破り独立を守った(フランスの軍事支援を受けた)。エチオピア帝国は、1923年には国際連盟に加盟。しかし、ムッソリーニのイタリアは再びエチオピアに侵攻してエチオピア戦争を起こし、1936〜42年の間はイタリアに占領された。第2次世界大戦後はハイレ=セラシエ1世が近代化政策をとる。1962年、北東部のエリトリアの併合を強行、エリトリアでは分離独立運動が起きる。1974年には社会主義政権が成立して帝政が崩壊し、軍政が敷かれた。その後も政情不安と、東側のソマリアとの領土紛争などが続いている。首都アジスアベバ。
Epi. エチオピアの英雄「裸足のアベベ」 エチオピアというと、日本人にはいまだに「裸足のアベベ」こと、アベベ=ビキラを思い出す人が多いに違いない。アベベはローマ・オリンピックと東京・オリンピックのマラソンで二連覇したマラソンランナー。何といっても印象深いのはローマで、無名だったアベベが、裸足で走り優勝したときだった。世界中の人が驚いたが、特にエチオピアでは一躍国民の英雄になった。それは、かつてエチオピアに攻め込み、一時支配したイタリアの首都ローマで、エチオピア人が優勝したからであった。世界のマスコミはそんなことより、裸足だったことや高地人が優勝したことを騒ぎ立てた。裸足で走ったのは偶然靴が壊れ、新しいものを買うヒマがなかったかららしい。早速世界の運動靴メーカーがシューズの提供を申し出たそうだ。マラソンで高地トレーニングが取り入れられることになったきっかけもアベベの優勝だった。アベベは東京でも優勝して二連覇、他に誰もオリンピック二連覇はしていないし、オリンピック記録も破られていない。アベベはハイレ=セラシエ皇帝の親衛隊の兵士だったが、まもなく祖国エチオピアは内戦状態になり、彼は不遇のうち73年に41歳の若さで亡くなった。その翌年には皇帝もその位を追われることとなった。
d アドワの戦い エチオピアのメネリク政権はイタリアとのウッチャリ条約(1889年)で武器供与を承ける代償としてその保護権を認めたが、次いでフランスの接近をうけ、1893年イタリアとの条約を廃棄した。メネリクの違約に報復し、一挙にエチオピア制圧を狙ったイタリアは1896年3月、大軍を以てエリトリアから侵入したが、北エチオピアのアドワで、メネリクのエチオピア軍に敗れ、6000名以上の死傷者を出した。エチオピア軍は大量のフランス軍からの武器の支援を受けていた。 
e イタリア=トルコ戦争(トリポリ戦争)1911〜12年に起こった、ヨーロッパ列強によるオスマン帝国領への侵略戦争の一つ(伊土戦争、トリポリ戦争、リビア戦争とも言う)。オスマン帝国領の北アフリカ、トリポリおよびキレナイカの割譲を求めるイタリアは、当時青年トルコ革命後で混乱していたオスマン帝国に対して11年9月に宣戦布告し、トリポリを占領した。同年に第2次モロッコ事件が起こっており、ドイツとフランスが対立しているスキを狙ったものであった。オスマン帝国は抵抗したが、翌12年バルカン半島でもバルカン同盟諸国との戦争(第1次バルカン戦争)が始まり、劣勢に立たされることとなったため、やむなく停戦に応じ、オスマン帝国はイタリアに対してトリポリとキレナイカの割譲を認めた。イタリアはこの地を古代ローマ時代のリビアに改称し、植民地とした。
f リビア 地中海に面した北アフリカの国で、西部はトリポリ、東部はキレナイカという。古代ではトリポリはカルタゴの勢力圏に入り、キレナイカ(キレネ)はギリシア人の植民市として建設された。ローマ帝国時代にはその属州となる。7世紀にアラブ人に征服されてイスラーム化し、16世紀からオスマン帝国の支配を受けトリポリ・キレナイカと言われるようになる。帝国主義時代になって対岸のイタリアが進出を図り、1911〜12年のイタリア=トルコ戦争によってイタリアの植民地となる。1923年、イタリアはその地を古代ローマ時代の地名であるリビアに改称した。イタリアの植民地支配下で、イスラームのスーフィズムの一派サヌーシー教団による抵抗が展開された。第2次世界大戦では、イギリス・フランス軍が侵攻、イタリア・ドイツ軍との戦場となった。戦後は英仏が統治したが、1951年に独立してサヌーシー教団の指導者を国王とするリビア連合王国となった。1969年、エジプト革命のナセルの影響を受けた青年将校らのクーデターが発生、王政が倒され共和政となった。その指導者がカダフィ大佐で、以後彼の「大衆による直接民主主義」を掲げ独自の国家体制がしかて、その独裁的な支配体制が続いている。
g エチオピア帝国 エチオピアはメネリク2世のもとで近代化政策がとられ、1896年フランスの軍事援助でイタリアをアドワの戦いで破る(第1次エチオピア戦争)。これによって独立を承認されエチオピア帝国となった。その後はフランス・イタリア・イギリス三国が鉄道敷設権の分割協定を結ぶに止まり、エチオピアの独立は維持された。しかしイタリアのムッソリーニは1935〜36年エチオピアに軍事進出(第2次エチオピア戦争)を強行し、第2次世界大戦の一因となった。 → エチオピア戦争
h リベリア共和国 アメリカ合衆国での奴隷解放宣言以来、奴隷身分から解放された黒人が、アフリカ植民協会を設立、1821にアフリカに戻った黒人が開拓を進め、1847年に独立した。国名はLibertyから、首都のモンロビアは移住開始時のアメリカ大統領モンローの名前に由来する。現在は解放奴隷の子孫はおよそ8%で、他はアフリカ生まれの黒人。1989年以来、内乱が続いており、深刻な経済不振に陥っている。 
イ.太平洋諸地域の分割
 オーストラリア  →第12章 4節 オーストラリア  第14章 1節 オーストラリア連邦
a アボリジニー オーストラリアの先住民をアボリジニーというが、 aborigine とは英語で「原住民」を意味する普通名詞であり、人種名ではない。一般的にオーストラリアの先住民意味する言葉として用いられれ、歴史的には侮蔑的なニュアンスを伴う呼称であったが、現在ではそうした意味合いは薄れ、彼ら自身も自らをそう呼んでいる。
アボリジニーは5万年前頃、東南アジアからカヌーなどで渡来し、土器を造らず、農耕や牧畜をはじまることなく、ごく最近まで独自の狩猟文化をつづけていた。ブーメランや投槍器など独特の狩猟道具を発達させ、多数の岩絵を残している。多くの部族に分かれ言葉も250ぐらいに分かれていた。18世紀のイギリス人の入植時には大陸のすべてに広がっていたが、次第にヨーロッパからの渡来人によってその生活を圧迫され、人口も激減、現在では内陸の一部に追いやられている。<海部陽介『人類のたどってきた道』2005 NHKブックス p.190-216>
またオーストラリア政府はアボリジニーの同化政策を進め、白人との混血も進んだ。現在ではアボリジニーの人権を認めさせる運動も活発となり、1999年、オーストラリア政府は、独立以来のアボリジニー政策の誤りを認め、謝罪した。 
b 流刑地植民地 イギリスは1717年以来、アメリカを流刑地としていたが、アメリカが独立した後の流刑植民地として当初は南アフリカを選んだ。しかし南アフリカは移送された囚人の多くが病死するなど適応が困難であったので、オーストラリアが新たな流刑植民地とされた。こうして1787年5月13日、ポーツマス港から初代ニューサウスウェールズ総督フィリップら250名と、囚人750人が初めてオーストラリア大陸に送られた。イギリスはその後1823年、「流刑植民地」という呼称をやめ、ニューサウスウェールズに一定の自治を認めたが、流刑は1840年まで続いた。<遠藤雅子『オーストラリア物語』平凡社新書 2000>
 白濠主義 オーストラリアにおける、中国人などのアジア系移民を排斥、制限し、白人主体のオーストラリアを建設しようとする政策。白豪主義とも表記。1880年代に始まり、1979年まで続いた。1851年2月、オーストラリアのニュー・サウスウェールズ州のバサーストで、ついで8月にはヴィクトリア州バララットでも金鉱が発見され、ゴールド=ラッシュが始まった。シドニーやメルボルンからだけではなく、世界中から一攫千金を求める人々が殺到した。その中で金鉱の労働力として急増したのが中国系移民、いわゆる華僑であった。増加する中国系移民によって仕事を奪われた白人が暴動を起こすなど、反中国人感情が強まり、1880年代にはオーストラリアの自治要求と結びついた中国人排斥運動が強まった。1901年、自治が認められてオーストラリア連邦が成立したがその議会が最初に制定したのが「移民制限法」だった。この白濠主義の対象は次第にアジア系移民全体にひろげられたため、第2次大戦後は国際的な非難を受けるようになり、1973年に移民制限法を撤廃して積極的な受け入れ方針に転じた。
Epi. 白濠主義の巧妙な移民制限 「移民制限法」には「好ましからざる移民は認めない」とあるだけで、具体的にアジア系移民の入国を拒否するとは書いていなかったが、巧妙に移民を制限出来るようになっていた。それは入国を希望する外国人に「ヨーロッパ語の50語の書き取り」という「言語テスト」に合格することを義務づけたことである。ヨーロッパからの移民は簡単に入国できたが、アジアからの移民はほとんどが合格出来なかったわけである。<遠藤雅子『オーストラリア物語』平凡社新書 2000 p.130>
 ニュージーランド  →1節 ニュージーランド
a マオリ人 マオリの人々はポリネシア系でニュージーランドの北島と南島に英国人が入植する1000年も前から住みついていたといわれている。全人口330万人中、マオリは12%の40万人を占める(1986年の国勢調査)。イギリスは1840年、ワイタンギ条約によってニュージーランドに対するイギリスの主権を認め英植民地とする一方、土地などに対するマオリの権利を保障した。しかし、その後、土地戦争が起こり入植者によって土地が取り上げられる例などが相次いだ。現在もマオリ人によるワイタンギ条約の遵守を要求する運動が続いている。 
 フィリピン  → 第14章 1節 フィリピン(19世紀〜) 
a 米西戦争  → 第14章 1節 米西戦争
 ハワイ(王国)ハワイ先住民は、1795年から1810年までに初代カメハメハ王がハワイ諸島を統一して「ハワイ王国」を建設した。ハワイ王国は立憲君主政をとり、諸外国とも外交関係を持つ独立国家であった。その後、1875年頃から砂糖業が盛んになると白人入植者が増加し、彼らはアメリカへの併合を主張するようになった。1893年にはアメリカ軍艦の示威を背景にクーデターを起こして王朝を倒し、リリウオカラニ女王(アロハオエを作曲したことで知られる)を宮殿に幽閉して退位させた。時のアメリカ大統領の民主党クリーブランドは併合を認めなかったが、次の大統領マッキンリーは帝国主義政策を進め、米西戦争に際して1898年に併合を実現した。 → ハワイ併合 
 ハワイ王国  
 リリウオカラニ  
 太平洋諸島の分割  
 太平洋諸島  → 第12章 4節 太平洋探険
 イギリス  
 ニューギニア ニューギニア(インドネシアではイリアンという)はオーストラリア大陸の北に横たわる巨大な島。16世紀にやってきたスペイン人の探検隊が地元の人々を西アフリカのギニアの人々と同じだとみなして、ニューギニアと呼ぶようになった。しかし現地人はアボリジニーと同じ、東南アジアから移動してきたホモ=サピエンスである(9000年前頃まではオーストラリア大陸と地続きでサフルランドを形成していた)。
16世紀にポルトガル人(1526年、メネゼス)、スペイン人、17世紀にオランダ人、18世紀にイギリス人が進出した。1884〜85年に西半分をオランダ、東半分は北をドイツ、南をイギリスに三分割された。イギリス領(パプア)は1906年にオーストラリア連邦の準州となった。西部はインドネシア独立に伴って併合され、東部はオーストラリア領を経て1975年に独立し、パプアニューギニアとなった。 
b フランス  
c ドイツ  
ウ.ラテンアメリカ諸国の従属と抵抗
 独立後の政情不安  
a 貧富の差  
 ボリバル  → 第12章 1節 シモン=ボリバル
 アメリカのカリブ海政策 アメリカ合衆国がカリブ海を支配し、自己の内海化をめざす政策。南北戦争後、1867年にフランスがメキシコに進出したのに対抗してそれを排除したのに始まり、1880年代にパン=アメリカ主義を掲げてその動きを強め、1898年にはキューバ独立に介入して米西戦争を起こす。その後、セオドア=ローズヴェルト大統領のカリブ海政策は「棍棒外交」といわれ、「アメリカの裏庭」としての位置づけを強めた。その象徴が1904〜14年に建設されたパナマ運河であった。その後のアメリカの対ラテン=アメリカ政策はタフト大統領の「ドル外交」(資本の投下を中心とした支配強化)、ウィルソン大統領の「宣教師外交」(民主主義の理念を広めるという使命感をもつ)と続き、1933年以降はフランクリン=ローズヴェルト大統領の「善隣外交」が展開された。→ アメリカ合衆国のラテン=アメリカ支配
 パン=アメリカ会議 1889〜90年、アメリカ合衆国のワシントンで開催され、南北アメリカ大陸の18カ国の代表が集まり、通商協定・仲裁裁判などで協定を結んだ。以後、数年おきに開催。その理念となったのは、アメリカ合衆国の指導のもとに、南北アメリカ諸国が政治的・経済的に緊密な関係を結ぼうというパン=アメリカ主義(汎アメリカ主義)である。パン=アメリカ主義はすでに早く、シモン=ボリバルが提唱し、1826年にラテンアメリカ諸国によるパナマ会議が開催されたが、そのときには実現にいたらず、80年代以降はアメリカ合衆国の指導的立場が明確となるなかで、実現した。  → アメリカ合衆国のラテン=アメリカ支配
 キューバ独立運動  
 ホセ=マルティ  
 メイン号事件 1898年2月、キューバのハバナ沖に停泊していたアメリカの軍艦メイン号が爆沈し、250名の乗組員が死亡し、米西戦争の発端となった事件。爆沈の原因は明らかではないが、アメリカ国内の世論はスペインの謀略であるという見方が強くなった。背景には当時普及し始めた新聞が、読者を獲得するためにセンセーショナルな報道合戦を行ったことがあった。これを機に「メイン号を忘れるな、スペインをやっつけろ!」という大合唱がおこり、一部の膨張主義者にとって好都合となり、マッキンリー大統領も開戦を決意し、4月に議会が宣戦を布告し、米西戦争が始まった。 
 キューバ(独立)カリブ海最大の島キューバはプエルトリコとともにたスペイン植民として残されていたが、1860年代から激しい独立運動を展開していた。キューバはハイチに変わってサトウキビの栽培と砂糖の産地として重要となり、スペイン人入植者(クリオーリョ)による大規模な砂糖プランテーションが経営され、労働力として黒人奴隷が多数輸入されていた。19世紀半ばにはキューバの砂糖は世界の生産量の4分の1をしめるまでになっていた。砂糖プランテーション経営者のクリオーリョたちは本国スペインからの独立をめざし、1868年に武装蜂起したが奴隷制の継続か廃止かをめぐって経営者間の意見が分かれ、運動は崩壊した。ついで、1895年、キューバ独立の父と言われるホセ=マルティの指導する独立運動が起こった。その最中の1898年4月にハバナ港でアメリカ軍艦メイン号が爆破されるというメイン号事件が起き、それをきっかけに米西戦争が起こった。アメリカ軍は4ヶ月でスペイン軍を駆逐し、講和条約であるパリ条約によりによってスペインはキューバの独立を認めた。しかしアメリカはキューバを文明化するという口実で1899年から軍事占領し、衛生・教育・交通などの整備を行って資本投資の基盤を造り、経済的な関係を強めた。この間キューバ憲法にプラット条項を付加した上で、事実上アメリカの保護国として1902年5月に独立した。 →独立後のキューバ  キューバ革命  キューバ危機
 プラット条項 1902年に制定されたキューバ憲法に加えられた、アメリカのキューバへの干渉権、海軍基地の設置、キューバの他国との条約や借款の制限などを認めた事項のこと。これによってキューバは事実上アメリカの保護国となり、その状態は1934年まで続いた。
米西戦争後のパリ条約によって独立が認められたキューバであったが、事実上アメリカの保護国としての独立であることをメキシコに認めさせた条項をプラット条項(またはプラット修正)という。キューバにおけるアメリカ権益を、キューバ国内の反米運動や、ヨーロッパからの干渉から守るために編み出された工夫である。はじめ1901年のアメリカ陸軍予算案に加えられた「プラット修正」として定められたもので、当時の国務長官ルートと上院議員プラットによって構想され、キューバが自らの独立を危うくしたり、領土を割譲するような条約をアメリカ以外の外国と締結することを禁じ、さらにキューバ政府が国民の財産や生命を守れない場合はアメリカがない政官称する権利を保持し、キューバに石炭補給地と海軍基地を建設する権利も認める、というものであった。つまり、「キューバの独立を守るために、アメリカが内政に干渉する権利を認めさせる」という本質的に矛盾した内容であった。1902年、アメリカ合衆国のセオドア=ローズヴェルト政権はこのプラット条項(プラット修正)をキューバに圧力をかけてその新憲法に書き入れさせ、さらに1903年にキューバとの条約として再確認され、キューバは自らの憲法でアメリカの内政干渉を認めるという、事実上の保護国となった。その後、キューバの激しい反対が続き、アメリカはフランクリン=ローズヴェルト大統領の「善隣外交」政策の一環として、1934年にこの条項を撤廃した。 →独立後のキューバ  バティスタ
 グアンタナモ 1903年以来現在まで続いている、キューバ国内にあるアメリカ軍の基地。1898年の米西戦争で、アメリカ軍はキューバの東部、カリブ海に面したグアンタナモ湾に上陸占領し、戦後の1903年にはキューバ政府からその地を永久租借として借り受け、軍事基地とした。それがグアンタナモ基地である。その後もアメリカのキューバ保護国化に伴い、アメリカはたびたびこの基地からキューバ国内に出兵した。1959年、キューバ革命の成功によって成立したカストロ政権はアメリカに対しグアンタナモの返還を要求したがアメリカはそれに応じず、現在に至るまで「キューバ国内にあるアメリカ軍基地」という状態が継続している。キューバ危機の時は基地のアメリカ人家族はいったんアメリカに避難した。その後アメリカは毎年租借料(約4000ドル)を支払おうとしているが、カストロ政権はそれを受け取っていない。また、キューバから基地内に亡命するものを防ぐため、周辺に地雷を設置している。 → 現代のキューバ
グアンタナモ基地捕虜虐待事件 ブッシュ政権のもとで、アメリカ軍はアフガニスタン侵攻やイラク戦争で捕虜としたアラブ人やアフガン人の捕虜をグアンタナモ基地内の捕虜収容所に隔離している。アメリカ国内の捕虜収容所でなく、ここが選ばれたのは、ここがキューバにあり、アメリカの法律が及ばないため、捕虜に対する拷問などの人権問題を追及されないという利点と、周りをキューバ側の地雷で取り囲まれていて脱出が困難ということがあるといわれている。ところがこの基地内で捕虜に対する不当な差別(コーランを侮辱するなど)や、苛酷な拷問が行われていることが判明し、世界の人権団体やアメリカ国内からも非難の声が起こった。2009年就任したオバマ大統領はグアンタナモの捕虜収容所を閉鎖することを方針としている。 
d パナマ  パナマ運河
e 棍棒外交  → 第14章 1節 棍棒外交
f ドル外交  → 第14章 1節 ドル外交
 メキシコ革命 メキシコでは、ナポレオン三世のメキシコ出兵によって成立したマクシミリアンの帝政が倒され、1867年再び共和政となり、ベニト=ファレスが大統領となった。その後、1876年に保守派のクーデタが起こり、ディアスが大統領となり独裁政治が始まった。ディアスの独裁政治に対し、自由主義者のマデロなどが革命運動を起こし、1911年メキシコ革命を成功させ、ディアスを追放した。1913年、再び右派のクーデタが起こりマデロが追放されたが、最終的にブルジョア派が権力を握り1917年に憲法が制定され、民主主義体制を実現させた。この間、アメリカ合衆国のウィルソン大統領は、いわゆる宣教師外交という立場から盛んにメキシコ革命に介入し、マデロを倒した軍人ウェルタを独裁体制であるとして排除を図り、また農民運動のパンチョ=ヴィラを支援した。ウェルタは間もなく追放されたが、それに圧力を加えるためにアメリカが海兵隊を上陸させたヴェラクルス事件などで民衆の反米感情が逆に強まった。このメキシコ革命はラテン=アメリカでの最初の反帝国主義の動きといえる。 
 メキシコの内乱  レフォルマ戦争という。
 マクシミリアン  → マクシミリアン
a ファレス  
b ディアス メキシコで1876年にクーデタで権力を握る。国内では地主階級、国外ではアメリカとイギリスの資本に依存し、大統領として独裁政治を行った(在位1877〜80、84〜1911)。1911年の革命で追放された。 
c マデロ マデロはメキシコのディアス独裁政権に対して立ち上がった革命運動の指導者。国民に武装蜂起を呼びかけ、革命を成功させてディアス大統領を追放し、1911年みずから大統領となった。1913年右派のウィルタ将軍のクーデタで倒される。 
d サパタ サパタは、メキシコ革命の指導者の一人で農民軍を指揮した。小農民、貧民の立場になって徹底した土地改革を主張し、革命主流派によって暗殺された。 
エ.列強の二極分化とバルカン危機
 ドイツの世界政策 ドイツはビスマルク時代までは外交政策の基本として、フランスを仮想敵国として、ロシア・イギリスとは協調する一方、オーストリア=ハンガリー・イタリアとは三国同盟を締結して安定を図る方策をとっていた。領土獲得競争でもビスマルクは調停役にまわることが多く、植民地の獲得も英仏に比べて遅くようやく1880年代に入ってからであった。しかし、1890年にビスマルクを辞任させて皇帝となったヴィルヘルム2世は、国内の重工業の発展を背景に、イギリス・フランスの先行する帝国主義に対抗して、海外領土獲得に積極的に乗りだした。ヴィルヘルム2世は自らその新政策を「新航路」と名付けた。その路線のもとで、フランスとの2度の渡るモロッコ事件での対立、その3B政策のイギリスとの3C政策との対立、ロシアとのバルカン方面での対立が深刻となり、ついに第1次世界大戦をもたらすことになる。 → 世界政策
a ヴィルヘルム2世  → 第14章 1節 ヴィルヘルム2世
b 露仏同盟 1891年から1904年にかけて、ロシアフランスのあいだで締結された政治協定・軍事協定の総称。ドイツとの再保障条約を解消したロシアがフランスに接近し、その金融援助を期待して締結した。フランスも独・墺・伊の三国同盟の脅威に備える意図があった。この同盟で、ロシアが独・墺から攻撃された場合、またはフランスが独・伊から攻撃された場合は、相互に援助しあうことを約束した。1904年の英仏協商、1907年の英露協商とともに、三国同盟に対抗する「三国協商」の一部となる。 
c バクダード鉄道  
d 3B政策 ドイツのヴィルヘルム2世のとった帝国主義政策で、ベルリン−イスタンブル−バグダードを結び、中東に進出しようとするもので、イギリスの3C政策(アフリカ〜インドへの帝国主義支配)に対抗するもの。英独の対立要因となり、第1次世界大戦をもたらした。
ヴィルヘルム2世は、1898年自ら聖地パレスチナを訪問、その途中にトルコの首都イスタンブールでトルコ皇帝と面会して、バグダッド鉄道の敷設権を要求した。翌年、トルコはバグダッドを経てペルシア湾頭のバスラに至る鉄道の敷設権をドイツに対して認めた。このバグダッド鉄道によってベルリン→イスタンブール(その古名がビザンティウム)→バグダッドを結ぶのが3B政策であり、イギリスの世界政策である3C政策に対する挑戦であった。 
e ベルリン・イスタンブール・バグダード  
f 3C政策  → イギリスの3C政策
g 建艦競争  
 日英同盟の成立  
a 日英同盟 日清戦争後に朝鮮で次第に勢力を強め、さらに義和団事変後も満州への居座りを続けるロシアに危機感を持つ日本と、三国干渉や中東におけるロシア・ドイツ・フランスの進出を脅威と感じているイギリスが接近し、1902年1月にロンドンで同盟を結んだ。内容は、戦争となった場合、他の一方は中立を守ることを約した防御同盟であった。日本はイギリスとの同盟を背景に、日露戦争を戦った。なお、1905年に改定された第2次日英同盟は、インドにおけるイギリスの、朝鮮における日本の優越権をそれぞれ認める攻守同盟となり、さらに1911年の第3次日英同盟ではドイツの脅威を対象に加えることとなった。第1次世界大戦後は、日本とアメリカの対立が深刻化し、アメリカは日英同盟の破棄を要求するようになり、1921年のワシントン軍縮会議の結果、1922年四か国条約が締結されるに伴って廃棄された。
b ”光栄ある孤立”  
 三国協商の成立  
a 英仏協商 1904年に成立したイギリスとフランスの協力関係で、内容はエジプトモロッコにおける権益を相互承認する勢力圏分割協定。これは露仏同盟および英露協定とともに、イギリス・フランス・ロシアの三国協商を構成する。
英仏協商の成立:帝国主義政策を採るイギリスとフランスは19世紀末にアフリカ分割で衝突し、ファショダ事件が起こったが、その後ドイツのヴィルヘルム2世が世界政策を推し進め、モロッコなどのアフリカや中東への進出を強めてきたことをともに警戒するようになり、20世紀に入り両国は急速に接近することとなった。それは1904年、極東では日露戦争の勃発直後であった。内容は、エジプト(ムハンマド=アリー朝のエジプト王国)におけるイギリスの権益と、モロッコにおけるフランスの権益を相互に認めるものなどであった。 
b 英露協商 1907年成立した、イギリスとロシアの支配地域分割協定。中東方面に進出してきたドイツに対抗するため、イラン・アフガニスタン・チベットにおける英露両国の対立を解消し、その勢力圏を調整したもの。露仏同盟、英仏協商とともに三国協商が成立し、三国同盟と対抗する協商国陣営が形成され、第1次世界大戦の遠因となった。ドイツのヴィルヘルム2世が世界政策を推し進め、3B政策にもとづいて中東方面に進出してきたことを受け、イギリスがロシアと提携してその阻止を狙った。またロシアは日露戦争の敗北により、極東でのイギリスとの対立が無くなっていた。そのため、それまでこの地域で対立をくり返していた両国が、急接近したもので、8月31日ペテルブルクで密かに調印した後、9月4日にイラン(当時はペルシア)のテヘランで突如世界に発表された。
英露協商の内容と意義:まずイランカージャール朝)では三地域に分け、北部をロシア、東部をイギリスそれぞれの勢力範囲とし、中部は中立地帯とした。アフガニスタンはイギリスの勢力圏とした(イギリスがロシアを攻撃する場合の基地とはしないことが条件)。チベットは中国(清朝)の支配権を認め相互に内政不干渉を決めた。この英露協商によって、露仏同盟、英仏協商と組み合わされて「三国協商」が成立し、三国同盟陣営と対立することとなる。
これは「帝国主義国どうしの国際的縄張り争いの調整」である。内容的にはロシアはイランの主要都市を含む広大な地域を得たのに対して、イギリスはアフガニスタンおよび東部イランを植民地インド支配の緩衝地帯として確保したにすぎず、ロシア側に有利であった。イギリスとしてはドイツの中東方面への進出を防ぐためロシアの力を利用しようとしたのである。<渡辺光一『アフガニスタン』 2003 岩波新書 p.71-72>
c 三国協商 19世紀末から20世紀初頭に成立したイギリス・フランス・ロシア三国の協力関係で、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と対立して第1次世界大戦をもたらした。三国の関係は1891年〜1904年の露仏同盟、1904年の英仏協商、1907年の英露協商によるブリッジで結ばれた。露仏同盟は軍事同盟であるが、二つの協商は本来は軍事同盟ではなく勢力圏分割協定である。後の1912年に、英仏間には軍事協定が成立して補強される。この陣営を協商国、または連合国といい、三国同盟国側と世界を二分することとなった。帝国主義の時代における安全保障の考え方の主流はこのような、列強間の勢力均衡政策に基づいていたが、それが破綻したのが第1次世界大戦であった。
協商と同盟:三国協商 Triple Entente の協商(Entente)とは、協定と同じく複数国間の取り決めの意味で、「商議の上、協定する」ことである。商業上の協定に限定されるわけではなく、領土や勢力圏の相互承認など、幅広い内容で用いられる。ただし、「条約」(Treaty)ほど強い強制力はないとされる。つまり三国協商はよりゆるやかな協力関係であったが、それに対して三国同盟 Triple Alliance は三国間の軍事的な相互援助条約であった。 
d イギリス・フランス・ロシア  
e 三国同盟  → 第12章 2節 ヨーロッパの再編 三国同盟
f ドイツ・オーストリア・イタリア  
g 「未回収のイタリア」  
 バルカン問題 バルカン半島は13世紀以降、オスマン帝国の進出によって、複雑な民族対立、キリスト教(ギリシア正教など)とイスラーム教の対立など複雑な歴史的環境に置かれた。19世紀には東方問題といわれるオスマン帝国支配下のギリシア人やスラブ系民族の独立運動に、オーストリアやロシアが絡んで対立するという図式が続いたが、それに決着を付けたのが露土戦争とそれに続くベルリン会議、および1878年のベルリン条約であった。セルビア、モンテネグロ、ブルガリアなどのスラブ系諸国にとってボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合したオーストリア=ハンガリー帝国の進出は脅威であり、またロシアはベルリン条約で阻止された南下政策を再び活発にし始めた。一方オスマン帝国もヨーロッパ内の領土を維持することに必死であった。このような情勢からバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と言われるようになった。1912年にスラブ系諸国がロシアの支援でバルカン同盟を結成したことはバルカンの安定を一気に破ることとなり、同年の第1次バルカン戦争(バルカン諸国対オスマン帝国の戦争)となってバルカン問題は火がついてしまった。ついでバルカン同盟国家間に対立が生じ、13年に第2次バルカン戦争(ブルガリア対セルビア・ギリシア・オスマン帝国などの戦争)となり、ブルガリアの敗北で終わったが、各国とも領土的な不満を残すこととなる。そして翌14年、オーストリア=ハンガリー帝国支配下のボスニアでサライェヴォ事件が勃発、第一次世界大戦に突入することとなる。
a 青年トルコ革命  → 第14章3節 青年トルコ革命
b ブルガリア王国(独立)ベルリン条約(1878年)でオスマン帝国領内の自治国として留められたブルガリアは、1908年にオスマン帝国で青年トルコ革命起きるとその混乱に乗じて独立を宣言した。自治が認められてからを、第1次ブルガリア王国(681年〜1018年)・第2次ブルガリア王国(1185〜1396年)についぐ、第3次ブルガリア王国(1879〜1944年)と言う場合もある。
ブルガリア王国は、ロシアとの結びつきを強めて1912年にはバルカン同盟を結成し、オスマン帝国と戦い(第1次バルカン戦争)、領土を拡張した。さらにマケドニア全域の獲得をめざしてセルビア・ギリシアと対立し、ブルガリアの領土拡張に反発した他のバルカン諸国とオスマン帝国もセルビア・ギリシア側に立ったので、翌13年に第2次バルカン戦争となった。そこでは孤立した戦いとなって、結局敗北した。8月のブカレスト講和条約でブルガリアはエデルネと東トラキアの一部をオスマン帝国に、南ドブルジャをルーマニアに割譲して領土を失い、マケドニアはセルビアとギリシアで分割されることになった。その後はドイツに接近、第1次世界大戦では同盟側に立って参戦し、再び敗れることとなる。 → ブルガリア(第1次世界大戦)
c ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合 バルカンの一角を占めるボスニアとヘルツェゴヴィナは、15世紀以来オスマン帝国の支配を受けていたが、1878年のベルリン会議の結果、オーストリア=ハンガリー帝国が統治権を獲得した。その後オーストリアは、汎ゲルマン主義を掲げ、エーゲ海に抜ける鉄道敷設を計画、ロシアの汎スラブ主義および、スラブ系民族のセルビアと対立した。1908年にオスマン帝国で青年トルコ革命が起きるとオーストリアは一方的にボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州の併合を宣言し、ロシアとセルビアはそれに反対したがドイツの後押しによってオーストリアによる併合が成立した。この両州にはセルビア人も多数居住していたので、セルビアの反発は強く、それがサライェヴォ事件をもたらす原因となった。 
d バルカン同盟 1912年、ロシアに支援されたバルカン半島の諸国家が、オスマン帝国(トルコ)に対する共同防御を目的としてに結成した。セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシアの間で個別に結ばれた。また付属の秘密協定で、戦争勝利後の領土分配を取り決めていた。ロシアがこれを支援したのは、オーストリアのバルカン進出を阻止するためであった。なお、セルビアとモンテネグロはともに南スラブ系民族で、1878年のベルリン会議でオスマン帝国からの独立を承認された。ブルガリアはベルリン条約で自治権を認められた後、1908年に青年トルコ革命の混乱に乗じて独立を宣言した。ギリシアはトルコからの独立戦争を闘い、1829年独立を達成していた。この4国の共通点はギリシア正教国であることである。 
e 第1次バルカン戦争 1912年春、アルバニアの反乱を契機に、セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシアバルカン同盟諸国がオスマン帝国(トルコ)に宣戦布告。その前年に、イタリア=トルコ戦争が起こり、イタリアがアフリカ北岸のトルコ領を侵略したことに刺激され、青年トルコ革命後のトルコの混乱に乗じて戦争を起こした。またオスマン帝国によるボスフォラス=ダーダネルス海峡封鎖を恐れるロシアがバルカン同盟諸国を応援した。戦闘はバルカン同盟側の勝利に終わり、翌13年5月に講和(ロンドン条約)が成立した。
戦後の領土分割(ロンドン条約)オスマン帝国はイスタンブルを除くヨーロッパ領土とクレタ島を失い、500年に及ぶバルカン半島全土支配が終わりを告げた。またアルバニアの独立が承認された。民族運動が遅れていたマケドニアはセルビア・ブルガリア・ギリシアの近隣三国によって分割され、それぞれの領土的野心の対象となってしまった。この戦争でブルガリアが勢力を伸ばし、戦後はセルビアと対立が生じ、ロシアもブルガリアを警戒するようになる。それがもとでバルカン同盟は崩壊して第2次バルカン戦争が勃発する。 
g アルバニア(1)アルバニア人は先住民イリリア人の末裔と考えられておりバルカン半島に広がっていたが、6世紀以来南スラブ人の侵攻を受けて現在のアルバニアの山岳地帯に追われてきた。その後、ビザンツ帝国や、ブルガリア王国、セルビア王国の支配を受け、15世紀からはオスマン帝国の支配下に入った。オスマン帝国領としてのアルバニアは中心はプリズレンを中心としたコソヴォ地方(現在、セルビアとの間で紛争になっている地域)だった。17世紀には大量改宗があり70%がムスリム(イスラーム教徒)となったが、北部にはカトリック教徒(10%)、南部にはギリシア正教徒(20%)も存在した。アルバニア人は、バルカン諸民族の中では民族的覚醒は遅かったが、それでも1878年にはアルバニア語の使用や自治を求める運動が始まった。1908年の青年トルコ革命以後は、独立運動に発展し、1911〜12年にかけて、アルバニア独立を目指す武装蜂起が起こった。オスマン帝国の青年トルコ政権は、アルバニア人に譲歩し自治権を認めた。それを機に、セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシアのバルカン同盟がオスマン帝国に宣戦し、12年10月に第1次バルカン戦争が始まった。11月にはアルバニア独立運動の代表はヴローラで国民会議を開き、独立を宣言した。アルバニアの独立は、13年5月のロンドン条約で正式に認められた。しかし、アルバニア人の居住区であるコソヴォ地方はアルバニアに編入されずセルビアの領有とされ、アルバニア人の不満が残った。これが、現在に続くコソヴォ問題につながっている。また、アルバニアの独立はイタリア、イギリスなどがセルビアのアドリア海への進出を押さえるために認めたものであったので、セルビアにも不満が残り、南部のマケドニアへの進出を強めることとなり、それがブルガリアとの対立を呼び、第2次バルカン戦争へと発展する。 →イタリアのアルバニア侵略(2)  第2次世界大戦後のアルバニア(3)  ソ連とアルバニアの対立(4)  東欧革命と現代のアルバニア(5)
f 第2次バルカン戦争 第1次バルカン戦争の後、オスマン帝国領であったマケドニア地方は、セルビア・ブルガリア・ギリシアで分割することになったが、その分配をめぐって不満であったブルガリアが、1913年6月にセルビア・ギリシアに侵攻して戦争となった。ブルガリアの強大化を恐れたオスマン帝国、モンテネグロ、ルーマニアがセルビア・ギリシア側についたためブルガリアの孤立した戦いとなった。エンヴェル=パシャの指揮するオスマン帝国軍が1ヶ月の戦闘でブルガリアを破り、戦争はブルガリアの敗北で終わり、8月にブカレスト講和条約が締結された。
ブルガリア領の縮小:ブカレスト講和条約でブルガリアは、エデルネと東トラキアの一部をオスマン帝国に、南ドブロジャ(黒海沿岸)をルーマニアに、マケドニアの北部をセルビアに、マケドニア南部をギリシアに割譲した。またセルビアのコソヴォ支配は確定し、ギリシアはオスマン帝国からエーゲ海東岸の島々から獲得した。
ここで領土を縮小したブルガリアはドイツ・オーストリア陣営に接近する。勝った側のセルビア、モンテネグロなども領土的不満を残し、第一次世界大戦でもバルカンは対立する陣営に分かれて戦うこととなる。 
g パン=スラブ主義  
h パン=ゲルマン主義  
i ”ヨーロッパの火薬庫 ”