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第16章 冷戦とアジア・アフリカ世界の自立
1.東西対立の始まりとアジア諸地域の自立
ア.戦後構想と国際連合
 戦後構想の形成 大戦後の世界の枠組みをどのようにするかについて、連合国側の二人の首脳、F=ローズヴェルトとチャーチルによって、早くも1941年8月の大西洋上における会談において協議が始まった。その内容は大西洋憲章として発表された。それには領土の不拡大・不変更、すべての人民の主権と自治の実現、自由な貿易、労働条件や社会保障の改善、恐怖と欠乏からの解放、公海航行の自由とならんで、「一層広範かつ恒久的な全般的安全保障システムの確立」と軍備削減を実現させることを提唱した。ここでは具体的な国際連盟に替わる新たな国際組織が提案されたわけではないが、この合意にもとづいて1942年1月に出された連合国共同宣言、さらに1943年10月のモスクワ宣言で徐々に具体化され、同年11月のテヘラン会談で新組織設立のための国際会議開催が決まり、44年8月〜10月に専門家によるダンバートン=オークス会議で国際連合憲章草案が作成された。ここでは安全保障理事会の拒否権問題で米ソが対立したが、45年2月のヤルタ会談で解決、同年4月のサンフランシスコ会議国際連合憲章が採択されて発足が決まった。各国の批准によって1945年10月24日、正式に発足した。
※戦後構想が1941年12月の太平洋戦争勃発前に始まっていること、またサンフランシスコ会議で国際連合の発足が決まったのが、日本の敗戦(8月15日)よりも前であることに十分注意しよう。
a 大西洋憲章  第15章 5節 第2次世界大戦 大西洋憲章
 モスクワ宣言 1943年10月、モスクワで開催されたアメリカ、イギリス、ソ連の三国外相会談で合意された国際的平和機構樹立に関する合意。F=ローズヴェルトは大西洋憲章で国際的な平和機構の樹立を構想していたが、かつてウィルソン大統領が議会の反対で国際連盟に加盟できなかったことを踏まえて、その具体化には慎重を期した。国務省で原案を作成し、43年9月に上院で国際平和組織への参加支持が可決されるのを待ち、世論の動向も見た上で、同年10月モスクワ外相会談に原案を提案した。ソ連は消極的、イギリスは「地域評議会」形式を主張したが、討議の結果、主権平等原則に基づいて国際的な平和機構を樹立することで初めて合意した。このモスクワ宣言は中国も合意し国際連合樹立への第二歩となった。<油井大二郎/古田元夫『第二次世界大戦から米ソ対立へ』世界の歴史28 中央公論社>
 ダンバートン=オークス会議 1944年8月から10月にかけて、アメリカのワシントン郊外、ダンバートン=オークスで国際連合憲章草案作成のために開催された国際法の専門の法律家による会議。はじめアメリカ・イギリス・ソ連の三国代表で協議、次いでソ連にかわり中国代表が参加して協議がおこなわれた。大筋について合意したが、安全保障理事会の拒否権問題では意見が対立した。アメリカ、イギリスは拒否権を否定したが、ソ連は安全保障の実行力を高めるためには全会一致が必要である、つまり拒否権を認めるべきであると主張した。結局合意には至らず、安保理の採決については討議を続けるということにして、最終決定は1945年2月のヤルタ会談での米英ソ首脳会談に持ち越されることになった。
補足 国際連合とアメリカ 第2次世界大戦に途中から参戦し、太平洋戦線とヨーロッパ戦線で戦ったアメリカは、戦後の国際平和維持に並々ならぬ熱意と使命感を持った。国際連盟に代わる国際機構の設立は現在からみれば当然のことで順調に進んだだろうと思われるかもしれないが、実際にはアメリカはソ連の合意を取り付ける必要と同時に、国内の伝統的な孤立主義(モンロー主義)とも戦い、ウィルソンの失敗を繰り返さない必要があった。F=ローズヴェルトは国際連合のアイデアを出し、その実現に情熱を注いだ、ということになっているが、現実の動きを見ると必ずしもそうではなかった。大西洋憲章でも具体的な国際機関の設立を提唱したものではない。ローズヴェルトの構想は、「四人の警察官」つまり米・英・ソ・中の四大国が世界の安全保障を担うという構想であって、大国主義の色彩が強いものだった。平等な国家が強調して平和を維持するという構想は、むしろ国務長官コーデル=ハルおよび国務次官サムナー=ウェルズを代表とする国務省が推進した。国際連盟がウィルソン大統領が推進し、国務省は消極的だったことと比べて大きな違いであり、アメリカが国際連合の構成員となる上で大きな背景となった。ハルやウェルズはねばり強くソ連やイギリスとも交渉し、国内の反対派を説得し、国際連合憲章の原案を作成し、ダンバートン=オークス会議にかけるところまで漕ぎ着けた。ここでは拒否権問題で米英とソ連の間に対立が生じたが、ヤルタ会談で妥協点を見いだすことに成功し、次のサンフランシスコ会議でもアメリカは積極的な多数派工作を行い、多国間主義の立場にたち、国際連合の創設に成功した。しかし、多国間主義(マルチラテラリズム)は次第に弱まり、戦後の冷戦の中で次第に非多国間主義=単独行動主義(ユニラテラリズム)が台頭、80年代のレーガン政権、90年代・21世紀初頭のブッシュ父子政権が出現した。<最上敏樹『国連とアメリカ』2005 岩波新書 による>
 サンフランシスコ会議 まだ第2次世界大戦が終わっていない1945年4月から6月の2ヶ月間、アメリカのサンフランシスコで連合国50カ国が参加して開催された、国際連合設立に関する国際会議。6月25日に国際連合憲章を採択し、戦後世界の国際協力体制を作り上げる会議となった。
会期は4月25日から6月26日までの2ヶ月。会議はアメリカ・イギリス・フランス・中国・ソ連が招請国となって、50カ国の連合国代表(連合国は51カ国であったがポーランドは代表権をめぐって内部に争いがあったため参加できなかった)が参加して開催された。1944年のダンバートン=オークス会議、45年2月のヤルタ会談で検討された国際連合憲章原案について、テーマごとに12の小委員会に分かれて討議を行った。4大国、とくに米英ソがヤルタ会談でほぼ合意に達していたが、サンフランシスコ会議では初めて国際連合憲章に関して議論に加わった中小国から、様々の意見が出され、次のような点で激論が戦わされた。
1.拒否権問題 米英ソはヤルタ会談で5大国に拒否権を認めることで合意したが、オーストラリアやニュージーランドなど中小国が、拒否権が軍事的紛争だけでなく、平和的解決の場合も認められるのは不平等だとして反発した。
2.安全保障理事会は強制行動に関して唯一の権限を持つとされた点で、総会にその権限をゆだねるべきだという意見が強かった。最終的には国際の平和と安全の維持については総会は討議と勧告はできるが安保理優位は変更されなかった。
3.ラテンアメリカ諸国から地域的集団保障機構のもつ自衛権を認めよという声が上がった。その議論の中から個別的自衛権と併せて集団的自衛権を認めることが加えられ、ソ連の意見で、それは安保理の処理がなされるまで、という制限が加えられることとなった。
以上、いくつかの点で修正が加えられ、最終的に6月26日に全会一致で採択した。参加国は3ヶ月後までに批准を終え、正式に国際連合が成立することとなった。発足は日本降伏後の、10月25日となった。
補足 アメリカ議会の国連憲章承認 「国際連合はアメリカの強い願望と意志によって生まれた。もしその動因を、多国間主義的な秩序への理想と、単独行動主義的な支配への意欲とにあえて二分するなら、大西洋憲章からサンフランシスコ会議集結までの期間は、おおむね前者がまさっていたと言ってよい。・・・国内的には、国際連盟不参加の時ほどに声高な反対は形成されなかった。とはいえ、「アメリカの上に立つ超国家を作るのではないか」という反対論を常に警戒しなければならなかった・・・。」サンフランシスコ会議の後の7月9日から13日まで上院外交委員会で公聴会が開かれ、アメリカ合衆国の主権が侵されるのではないか、国家の自由のさまたげになるのではないか、再びイギリスの下風にたつか、ソ連に屈服することになるのではないか、などの反対論が出た。それに対してトルーマン大統領ら政府側は、国連加盟によってアメリカの自由が制限されることはない、と説明して乗り切った。7月28日の批准評決は賛成82、反対2で可決された。各国の批准書はアメリカ政府に寄託することになっていたので、アメリカは8月8日(日本時間9日)、自国政府に批准書を寄託する。その日、長崎に原爆が投下された。<最上敏樹『国連とアメリカ』2005 岩波新書 p.100-102>
 国際連合憲章 1945年6月26日、サンフランシスコ会議で調印。前文は次のようなものである。
資料:国際連合憲章 前文
「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること、並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互いに平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。よって、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機構を設ける。」
(憲章全文は、国連広報センター・ホームページで読むことができる。)
Epi. アメリカ合衆国憲法前文との類似 国連憲章の冒頭「われら連合国の人民は・・・」は、英文では We the peoples of the United Nations であるが、これはアメリカ合衆国憲法の前文「われら合衆国の人民は・・・」 We the peoples of the United States と似ている。「その意味で、アメリカにとって、国際連合の成立は、国際社会の組織化を希求したウィルソンの夢の成就であるばかりでなく、アメリカの建国と比較しうるものであった。」<西崎文子『アメリカ外交とは何か −歴史のなかの自画像』2004 岩波新書> 
 国際連合 国際連合(the United Nations 略称UN)という名称は、アメリカ合衆国のフランクリン=ローズベルト大統領が提案し、1942年、26カ国が「連合国共同宣言」(Declaration by United Nations)に調印した時に初めて用いられた。サンフランシスコ会議では、出席者全員が、国連憲章調印の数週間前に死去したローズベルト大統領の業績を称え、この名前を採用することで合意した。<国連広報センター・ホームページより>つまり、その母体は戦前の国際連盟なのではなく、第2次大戦での「連合国」であったことということである。
国際連盟との違い:国際連合は、大戦前の国際連盟と同様に、集団安全保障の理念のもとで、武力による紛争の解決をめざす国際平和機構として創設されたが、国際連盟を継承したものではなく(国際連盟は46年に解散)、第2次世界大戦での連合国が結集して組織したまったく新しい機関として発足した。国際連盟とは
・最初からアメリカとソ連の二大国が参加したこと、
・紛争解決のために国連としての武力行使を容認していること
・総会の評決を多数決として、決定を出しやすくしたこと
の三点で異なっており、より実効的な機関として、その約役割は国際連盟とははるかに大きくなっている。
また、国際平和の維持に特化した役割を持つ安全保障理事会が主要機関として設けられ、5大国一致の原則で解決にあたろうとしたことも、その後多くの問題を残すが、大きな特色である。
主要機関:全加盟国が1国1票で参加する総会、国際の平和と安全の維持にあたる安全保障理事会が最も重要であり、そ他に事務局(その長が事務総長)、経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所があり、さらに多くの専門機関、関連機関を有する。その本部はニューヨークに置かれている。
国際連合の現状:さまざまな問題を抱えながら第2次大戦後の様々な課題に取り組み、少なくとも冷戦時代を乗り切り、第3次大戦の危機を避けてくることができたことは評価しなければならない。2001年には、国際連合に対し、ノーベル平和賞が与えられているのもそのような評価が世界世論であることを示している。原加盟国51カ国でスタートしたが、現在は192カ国(2006年現在)に加盟国が増加している。その結果、旧来の大国主導の運営はできなくなり、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの小国群の動向が重要な意味を持つようになってきた。そのために国連とアメリカの世界戦略が必ずしも一致しないところから、最近のアメリカの国連離れ、国連批判の強まりという危険な兆候も見られる。また1975年から始まったいわゆる先進国首脳会談(サミット)も国連が多数の途上国に占められたことに対する先進国側の対応策と考えられ、国連中心主義が揺らいでいると言える。また安保理のあり方や財政負担、PKOのあり方など、さまざまな「国連改革」の必要が論じられるようになっている。国連の課題も平和維持だけでなく、人権、民族対立、人口、資源、環境と幅広くなっており、今後の世界の安定にとって重要な機関であることは確かである。 → 国連の活動(その変化)
補足 日本と国連 国際連合は「連合国」を継承しており、いわゆる敵国条項を持っている。敵国とは、第2次世界大戦に「連合国」の敵であった国、つまり日本、ドイツなど枢軸国であった諸国(ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、フィンランド)のことであり、国連憲章第53条と第107条ではこれらの国に対しては加盟国は国連決議によらなくても行動できる、と規定している。これがいわゆる敵国条項であるが、日本(1956年加盟)をはじめ、敵国とされるすべてが国連に加盟した現在では空文であるので、日本などが提案して1995年の国連総会で敵国条項を削除することが採決された。しかし、加盟国全部での批准が済んでいないため、この条文はまだ残っている。日本はいま、常任理事国入りをめざしているとされているが、その前に、かつて国際連盟を脱退した経緯、そして国連でも「敵国」とされていた経緯をふまえておく必要がある。  → 日本の国連加盟
Epi. なぜ「国際連合」と訳されたか? 国際連合は英文では the United Nations であり、直訳すれば「連合国」である。そこには「国際」という意味はなく、第2次世界大戦での「連合国」(United nations)を継承したものである。中国でもただ単に「連合国」といっている。日本ではどのような経緯で「国際連合」と言われるようになったのかについてはよくわからないようだ。ただ、「国際」という文字がつくことによって、「日本を敵国としていた連合国の組織」というイメージは日本国民の中に無くなったことは確かだ。そこに巧まざる意図があったのかも知れない。<参考 河辺一郎『国連と日本』1994 岩波新書 p.34〜>
 51ヵ国 サンフランシスコ会議参加国が50ヵ国なのに、国際連合発足時の原加盟国が51ヵ国となったのは、サンフランシスコ会議開催時点(45年4月)ではポーランドが会議参加できなかったからであった。ポーランドはドイツ軍に占領されてから亡命政府をロンドンにつくり、その立場で連合国に加わり、国内軍が抵抗を続けていたが、ソ連軍はポーランドのドイツ軍を東から排除すると共に解放地に共産党系のルブリン国民解放委員会を組織させた。解放後の主導権をめぐってロンドン亡命政府とルブリン委員会がそれぞれ米英とソ連の後押しを受けて対立している状態であった。そのためサンフランシスコ会議にどちらの代表を送るかで米英とソ連が対立し、結局代表を参加させることができなかった。6月末にようやくポーランド国民一致臨時政府が成立したので、国際連合加盟ができることとなり、原加盟国に加わることとなった。
 総会 規定:総会は国際連合の主要機関であり、その任務は国連憲章に「国際の平和及び安全の維持についての協力に関する一般原則を、軍備縮少及び軍備規制を律する原則も含めて、審議し、並びにこの様な原則について加盟国若しくは安全保障理事会又はこの両者に対して勧告をすることができる(第11条)」などとなっている最も重要な機関である。
採決:総会は、すべての国際連合加盟国で構成し、1国1票の表決権を持ち、重要事項は3分の2以上、通常は過半数で議決する。国際連盟では総会の決議は原則として全会一致であったため、なかなか決定できずに、その実行力が発揮できない原因となっていたが、国際連合では多数決で決定できるようになったので、総会決議を出しやすくなった。
権限:総会の権限は「審議」と「勧告」にとどまり、立法府ではないのでその決議には法的拘束力はない。しかし、世界のほぼ全国が加盟し、平等に議論をしたうえで民主的に決議されたことは、正当性があり、加盟国はその決議を尊重する義務がある(国際条約化されたものは批准されれば遵守義務が生じる)。
推移:国連の総会は原加盟国51カ国から始まり、現在(2007年)は192カ国まで増加している。安全保障理事会と異なり、拒否権は認められず、多数決で採決される。1950年の朝鮮戦争に際しては、ソ連の欠席や拒否権で安保理が機能しなくなることを恐れたアメリカの主導によって安全保障に関して安保理の採決が無くとも特別臨時総会において多数決で制裁行動をとることができるという「平和のための結集」決議が採択された。しかし、最近はアジア・アフリカ・ラテン=アメリカの小国家グループの動向が総会の意志決定に大きな影響力を持つようになり、アメリカはむしろ総会決議に縛られることを避けて、80年代から単独行動主義(ユニラテラリズム)をとることが多くなった。
 安全保障理事会 国際連合はその目的を国際連合憲章第1章第1条(目的)で「国際の平和及び安全を維持すること。そのために、平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること、並びに平和を破壊するに至る虞(おそれ)のある国際的の紛争又は事態の調整又は解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること。」をあげ、「集団安全保障による平和の維持」を理念として掲げた。また第2条(原則)の4項で「武力よる威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」と規定し、武力行使の禁止を原則として掲げている。この集団安全保障の任務を遂行する国連の機関として設置されたのが安全保障理事会で、固定的な常任理事国5カ国と加盟国から選出される非常任理事国から構成され、国際的な紛争の平和的解決に大きな役割を与えられている。
安全保障理事会に関する国連憲章の規定を要約すると次のようになる。
任務及び権限:(第6章〜7章)
・国際連合加盟国は、国際の平和及び安全の維持に関する主要な責任を安全保障理事会に負わせるものとする。
・国際の平和及び安全を維持し又は回復するために、勧告をし、次のいずれかの措置をとるか決定する。
 〔非軍事的措置〕:兵力の使用を伴わない措置。経済関係などの中断並びに外交関係の断絶をなど。
 〔軍事的措置〕:非軍事的措置では不十分であろうと認めた場合、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍又は陸軍の行動をとることができる。(この規定が「国連軍」創設の根拠となっている)
構成および選出、評決:(第5章)
・安全保障理事会は、15の国際連合加盟国で構成する。中華民国、フランス、ソヴィエト社会主義共和国連邦、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国は、安全保障理事会の常任理事国となる。(中華民国は、1971年に中華人民共和国に交替。ソ連は1991年にロシア連邦が継承。)
・総会は、地理的分配に特に妥当な考慮を払って、非常任理事国10カ国を選挙する。 非常任理事国の任期は2年。(非常任理事国は当初6ヵ国であったが、1966年から10カ国に拡大された。)
・評決は、常任理事国は大国一致の原則にのっとり、5カ国全体の同意が必要(従って1ヵ国でも拒否すれば案件は成立しない拒否権を持つ)であり、非常任理事国を含む15ヵ国中の9票以上で可決される。
集団安全保障 国際連合憲章第1章第1条に国際連合の目標として「国際の平和及び安全を維持すること。そのために、平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること。」とあるように、集団的安全保障の理念に基づく国際平和機関として設立された。
集団的安全保障とは、国際連盟規約にも定められているように「戦争または戦争の脅威は、連盟加盟国のいずれかに直接の影響があるか否かを問わず、すべて連盟全体の利害関係事項」(連盟規約11条)であるとし、「約束を無視して戦争に訴える加盟国は、当然に他のすべての加盟国に対して戦争行為を為したものと見なす」(同16条)ということである。19世紀までの特に欧米近代ではそれぞれの国家が「国家の交戦権」(または「戦争の自由」)を当然の権利(自然権)として行使し、また「勢力均衡論」にもとづいて軍事同盟(しかも秘密外交によって)を結び構想しあうこととなり、第1次世界大戦の悲惨な戦禍をもたらしたことへの痛切な反省から、ウィルソンなどによって提唱されたものであった。国際連合もその精神を受け継ぎ、さらに集団安全保障の前提としての各国の個別の武力所持を「慎まなければならない」(憲章第2条4項)と言う表現ではあるが、原則禁止とした。
その上で、安全保障理事会に対し、国際平和に敵対する行動に対する武力的制裁を行う権利を義務を与えたのである。当然その行使にあたっては、紛争の平和的解決(交渉、仲介、調停など)をはかり(第33条)、処置も暫定処置(第40条)、非軍事的措置(第41条)、軍事的措置(第42条)という段階を踏まなければならない。
以上のような武力の所持・行使の禁止と集団的安全保障による紛争の解決という国際連合のもとで、なおも各国が軍備を所有し、しかも大国は核兵器という大量殺戮兵器を持ち、また軍事同盟が締結されつづけているのは、国連憲章第51条で各国の個別的および集団的自衛権が認められたからであった。個別的・集団的自衛権の規定は、武力行使禁止・集団的安全保障の規定とは矛盾するが、これはいわば現状との妥協的な規定であり、これをもって自衛権は国家固有の自然権として認められていると解釈するのは、第1次大戦後の世界が、国際連盟規約や不戦条約、ハーグ平和条約などで積み重ね、国際連合憲章で確定させた「戦争の違法性」の観点からみて誤っている。現状は過渡的に各国が武装していても、軍縮への努力を進めるべきであり、ましてや核武装して先制的な自衛権を行使することや集団的自衛権を強化するのは歴史に逆行する愚行であることは明らかである。
集団的自衛権 一般に自衛権とは、個別的自衛権のことであり、国家のもつ、自己防衛のため武装し、侵略や不当な攻撃に対して防衛的に戦う権利を意味する。第2次世界大戦までで国際法上は国家の「戦争の権利」や「戦争の自由」は違法であるという認識が形成されたが、自衛権は自明のこととして認められるというのが一般的であった。国際連合憲章ではその個別的自衛権を認め、さらに「集団的自衛権」という新しい権利を認めるという文面となった。この「集団的自衛権」とは、「共通の利害を持つニカ国間、または数カ国間で共同して国家防衛のために軍事行動を行う権利」ということであり、平たく言えば、「自分が攻撃されていなくとも、仲間が攻撃されたら助けるために行動する」ということである。国連憲章に規定されている、加盟国の自衛権に関する規定は次のようになっている。
第51条〔自衛権〕:この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。 
このように加盟国には個別的自衛権と集団的自衛権が認められているが、それらは無制限ではなく、安保理の措置がとられるまでの緊急時における対応としてのみ認められている。国連憲章では、前文で「共同の利益の場合を除く外は武力を用いないこと」を謳い、第2条(原則)4項で加盟国は「武力よる威嚇又は武力の行使を・・・慎まなければならない」と規定されている。国際連合の基本は集団安全保障による平和の維持が主眼であった。ところが、冷戦下においてアメリカ、イギリス、ソ連などの大国は自衛権の行使を口実に核武装を推進し、またNATOやワルシャワ条約機構にみられるような軍事同盟を集団的自衛権の行使という口実で結成した。そしてアメリカのベトナム戦争や、ソ連のアフガニスタン侵攻など、戦後の米ソの軍事行動は、(国際法上の戦争は違法とされたので)ほぼすべて「集団的自衛権」の行使として実行されてきた。国際連合の理念と現実の乖離と言わねばならない。
補足 アメリカの主張する集団的自衛権 アメリカには依然として国連によって自国の行動、特に自衛権の発動が制限されることに反対する意見もあったが、憲章51条で、安保理が有効な措置をとるまでに限り「個別的、集団的自衛権」の発動を容認することにして、加盟国の軍事行動を可能にした。これによってアメリカ議会内部の国連加盟反対論をおさせ、ともかくも国際連盟とは異なり、アメリカの参加が実現したとされている。しかし、国際連合の理念である「武力行使の禁止」「集団安全保障による平和と安全の維持」という原則は次第に色あせ、アメリカは1949年に北大西洋条約機構(NATO)という集団防衛機構を結成し、さらに朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争などの軍事行動を集団的自衛権の行使として「正当化」していった。さらに2003年のアメリカ軍のイラク侵攻は、イラクが大量破壊兵器を開発してアメリカを攻撃するかも知れないという予測にもとづき、先制的自衛権の発動として実行された。また、1999年のアメリカ軍を中心としたNATOによるセルビア空爆は、アルバニア系住民の人権を守るという「人道的介入」という名の「集団的自衛権」行使として、安全保障理事会の決議なしに行われた。「集団的自衛権」が暴走しているわけである。
補足 日本国憲法と集団的自衛権 日本国憲法は第9条の第1項で「戦争の放棄」を定め、第2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と明記している。政府解釈は「個別的自衛権」は否定されていないとして、自衛隊を設置し、現在に至っている。しかし「集団的自衛権」は憲法上認められないというのが従来の政府見解でもあり、一般的な了解事項であった。つまり、自衛隊はあくまで「専守防衛」のためのものであり、アメリカとは日米安保条約を結んでいるけれども、アメリカ軍と合同で外国と戦うことはできない、とされている。ところが安倍内閣になって「集団的自衛権」を認める動きが出ている。その論拠は、集団的自衛権は国連憲章で認められており、日本国憲法で認められなくとも、国家固有の権利として当然もっているものだ、という理屈になっている。また、日本国憲法第98条には、「日本国が締結した条約および確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」とあるから国連憲章に基づいて集団的自衛権を行使しても憲法違反にならない、という「解釈」を進めようとしてる。それによれば、日米安保条約を締結している同盟国であるアメリカを攻撃するミサイルを日本は黙って見過ごすのでなく、打ち落とすことができる、また打ち落とすべきだ、ということになる。このようなことが日本国憲法を改訂しなくともできるのか、あるいは憲法改正の理由としてあげられていくのか、今後大きな争点になると思われる。<参考 豊下楢彦『集団的自衛権とはなにか』2007 岩波新書 など>
 米・英・仏・ソ連・中国 国際連合の常任理事国は、1945年6月の国際連合憲章では、中華民国、フランス、ソヴィエト社会主義共和国連邦、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国とされていた。中華民国は、1971年に中華人民共和国に交替し(中華民国=台湾は国連から追放)、ソ連は1991年に崩壊した後、ロシア連邦が継承した。現在の米・英・仏・ロシア・中国を「P5」と言うこともある。このいずれもが核兵器所有国であり、核拡散防止条約で核保有が認められている。
 国連軍 国連憲章には「国連軍」という文言はなく、第42条の「安全保障理事会は、第41条に定める措置(注・経済的制裁などの非軍事的措置)では不十分であろうと認め、又は不十分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍又は陸軍の行動をとることができる。」とあるところの、強制力を伴う軍事力のことを一般に国連軍と言っている。また、第43条〔特別協定〕には「国際の平和及び安全の維持に貢献するため、すべての国際連合加盟国は、安全保障理事会の要請に基き且つ一つ又は二つ以上の特別協定に従って、国際の平和及び安全の維持に必要な兵力、援助及び便益を安全保障理事会に利用させることを約束する。・・・」とあり、安保理との特別協定に従って加盟国が兵力を出すことになっている。
国連の軍事活動の実際:以上のような国連憲章に基づいた「国連軍」はまた作られていない。常置の国連軍が存在するわけではない。国連創設後、5大国の参謀総長などが憲章規定に基づく軍事参謀委員会を開催したが、国連軍の規模(アメリカは強大な常設の国連軍の設置を主張、ソ連は小規模な軍事力の供出を主張)などで意見がまとまらず、1948年までで検討は打ち切られた。さらに冷戦以来、安全保障理事会の常任理事国である米ソの対立が続いたため、安保理常任理事国が全員一致で軍事行動を起こすことで合意した例はまだない。1950年の朝鮮戦争ではソ連が不参加の安保理で朝鮮国際連合軍が派遣されることが決定されたが、実質はアメリカ軍司令官の統一指揮下にあるアメリカ軍が国連軍の名称を使用したものであった。その後、1956年のスエズ戦争、60年のコンゴ動乱などの際の国連の指揮下で派遣された軍隊も「国連軍」と一般に言われることがあるが、それらは国連の「平和維持活動(PKO)」の一部を成す「国連平和維持軍(PKF)」である。また1991年の湾岸戦争では国連の安保理決議にもとづいて、アメリカ軍を中心とした多国籍軍がイラク軍のクェートからの排除ために戦闘を行った。冷戦終結後はPKOによる軍事行動が急増する一方、2001年の9.11同時多発テロ以降は、アフガニスタン空爆やイラク侵攻、あるいはNATO軍のセルビア空爆のように国連の統制外のアメリカ軍主体の軍事行動が多くなっている。これらは国際連合憲章に基づく集団安全保障の理念からはずれた、集団的自衛権(しかも先制攻撃的自衛権)の行使を口実とした軍事行動である。
 拒否権 国際連合の最重要機関である安全保障理事会の常任理事国の5カ国に認められている権利。安全保障理事会に付託された国際紛争の解決については、5大国の全員一致を原則として、1ヵ国でも反対すれば可決されないこととした。
安全保障理事会の決定に正当性を持たせ、実効力を強める措置として考案されたものであったが、ダンバートン=オークス会議での国際連合憲章を検討する過程で米ソ間に意見の違いが明確となった。アメリカ・イギリスは拒否権には否定的(拒否権を認めたとしても重要事項だけに限定しようとした)であったが、ソ連は拒否権の必要性を主張した(すべての事項で拒否権を認めよと主張した)。解決はヤルタ会談に持ち越され、イギリスは当初アメリカに同調していたが、チャーチルがソ連を引き込むには妥協すべきであるという意見に変化し、妥協点を見いだし最終合意した。妥協点は、自国が直接関わる紛争の場合は棄権する(棄権は評決に加わらず反対票とはならない)こと、手続き問題では拒否権を行使できないことの二点を認めたことである。この拒否権は、国際連合を成立させるための米ソの妥協の産物であったが、冷戦時代には米ソが互いに拒否権を行使したために安全保障理事会の機能がたびたびマヒしてしまうこととなり、大きな争点となった。<明石康『国際連合 軌跡と展望』2006 岩波新書などによる>
拒否権が認められた背景 安全保障理事会の常任理事国に拒否権を与える原案については、サンフランシスコ会議でも中小国から異論が出され、拒否権を制限する修正案が出されたが、大国間の協調なしには国連の存続自体が危うくなると言う現実的判断が大勢を占め、原案どおりで可決された。アメリカ・ソ連という二大国をつなぎ止めておく妥協の産物であったともいえる。
拒否権行使の実態 安全保障理事会における拒否権行使の実態は、国連創設から1969年まではその行使回数はのべ115回、うちソ連は108回で圧倒的多数を占める。アメリカはゼロだった。アメリカが初めて行使したのは1970年代、南ローデシア(現ジンバブエ)問題に関してである。次いで1972年、イスラエルによる67年の停戦協定違反を非難する決議に対してであった。このころから拒否権の行使が急増し、それも中東問題でアメリカがイスラエルを擁護するためのもの(2004年までにアメリカが行使した約80回のうち、中東問題で約40回以上となる)。これはアラブ系の多数が占める総会でのアメリカの孤立を深める結果となった。<最上敏樹『国連とアメリカ』2005 岩波新書 p.157>
事務総長国際連合の総会や各機関の決定事項を実施する機関が事務局。ニューヨークの国連本部で国際公務員がその実務にあたっている。事務局の長が事務総長。事務総長の職務は
(1)国連の行政職員の長として、また総会並びに三つの理事会において事務総長として行動する責任。
(2)総会、安全保障理事会、経済社会理事会などの機関から委託される任務。
(3)国際平和と安全を脅かすと思われる事項に、安全保障理事会の注意を喚起する権限。
とされ、特に安全保障理事会においては、「16番目のメンバー」とさえ呼ばれることがある。
事務総長は安全保障理事会の勧告により、総会で選出される。慣例で安保理理事国からは選ばれず、中小国から選ばれている。初代以降の歴代事務局長は次の通り。
 初代 トリグブ=リー(ノルウェー 1946〜52)
 2代 ダグ=ハマーショルド(スウェーデン 53〜61)
 3代 ウ=タント(ビルマ 61〜71)
 4代 クルト=ワルトハイム(オーストリア 72〜81)
 5代 ルビエル=ペレス=デクエヤル(ペルー 82〜91)
 6代 ブートロス=ブートロス=ガリ(エジプト 92〜96)
 7代 コフィ=アナン(ガーナ 97〜06)
 8代 潘基文(パン=ギムン)(韓国 2007.1.1〜)
国連事務総長は、総会や安保理の決定に従うだけでなく、自ら進んで紛争の調停にあたったり、世界平和の実現に指導的役割が期待されている。また現在は国連改革という大きなテーマを抱えている。しかし、アメリカの単独行動主義が強まる現在、その存在と力量が特に問われている。歴代の事務総長についての紹介と批評は、明石康『国際連合 軌跡と展望』2006 岩波新書 p.164-191 を参照してください。
経済社会理事会国際連合の主要機関の一つ。略称経社理。貿易、輸送、工業化、経済開発などの経済問題と、人口、子ども、住宅、女性の権利、人種差別、麻薬、犯罪、社会福祉、青少年、人間環境、食糧などの社会問題を担当する。また教育、保健、人権などの問題についても、勧告を行っている。経社理の構成国は54ヶ国で総会によって3年の任期で選ばれる。
経社理の補助を行うたくさんの委員会が設置されている。 
信託統治理事会国際連合の主要機関の一つであった。信託統治とは、国際連合がある地域に対して、その統治を特定の国に行わせることで、信託を受けた国は国連の監督の下に統治を行う。その管理を行うのが信託統治理事会で、理事国は安全保障理事会の常任理事国が兼任した。この制度は第1次世界大戦後の委任統治制度(ある地域の統治を特定の国に委ねること)を継承したもので、第2次大戦終了時点ではアフリカと太平洋に11カ所存在していた。信託統治理事会は、それらの地域の自治または独立を支援し、1994年に最後の信託統治領のパラオが自治を達成したので正式にその活動を終了した。
国際司法裁判所国際連合の主要機関で国家間の紛争を裁く裁判所。国際連盟の外部機関であった常設国際司法裁判所と同じく、オランダのハーグにおかれている。訴えを提起できるのは、個人ではなく国家だけで、裁判が行われるには訴えられた国の同意も必要とされる。またある国がある事件について国際司法裁判所の管轄権を認める場合、その国は、裁判所の判決に従うことを約束しなければならない。さらに国連のその他の機関も、国際司法裁判所に勧告的意見を求めることができる。裁判官は15名で、総会と安全保障理事会によって選ばれ、同じ国から2名を選ぶことはできない。判決を下すためには、9名の裁判官の賛成が必要とされる。
裁判係争例としては、1984年のニカラグア事件(アメリカのニカラグアへの介入を集団的自衛権の行使と判定しなかった)、1992年のエルサルバドルとホンジュラスの間の陸上・海上国境線画定に関する判決、デンマークとノルウェーの間の大陸棚と漁場を分ける海上境界線に関する紛争、1993年の旧ユーゴスラビア諸国での国連ジェノサイド条約適用の問題についての判決などがある。 
 ユネスコ UNESCO United Nation Education,Scientific and Cultural Organization 国際連合教育科学文化機関の略称。1946年に創設された国際連合の専門機関の一つ。本部はパリ。1972年にはユネスコ総会で、世界遺産条約を採択し、人類全体の世界の自然、および文化の遺産を保護、保存することをめざしている。
アメリカのユネスコ脱退 1980年代には発展途上国諸国が主導権を握ったことに対して、アメリカ合衆国が反発し、1984年に脱退した。アメリカの脱退理由は、ユネスコが(1)過度に政治化していること、(2)国家至上主義的な政策傾向があること、(3)事務局が不効率で予算が膨張していること、の三点であった。端的に言えば、ユネスコは第三世界およびソ連よりの機関になっているということだった。それらの批判は多くは事実に反し、アメリカの単独行動主義(ユニラテラリズム)の強まりからでたことであったが、ユネスコ側でも改善が進んだ結果、2003年に復帰した。<最上敏樹『国連とアメリカ』2005 岩波新書 p.167->
 国際労働機関(ILO) International Labour Organization 国際労働機関。各国の労働者の労働状況を改善するために設けられた国際組織で、1919年のヴェルサイユ条約の第13項に基づいて国際連盟の外部機関として設立された。当時から本部はスイスのジュネーブ。第2次世界大戦後は、国際連合の最初の専門機関となった。総会は各加盟国が政府代表2名と使用者代表1、労働者代表1の計4名の代表で構成する。
国際的な労働基準としてILO条約を締結し、また労働条件改善のためにILO勧告を行う。ILOはその条約と勧告の実施状況を監視する。ILO条約は、批准すればその拘束を受けるが、勧告は拘束力はない。ILOは1969年、創立50周年を記念して、ノーベル平和賞を授けられた。その趣旨は、国連組織のなかでももっとも古い機関として、半世紀にわたり、国際的・国内的な紛争の原因と取り組み、平和へ貢献しようと努力してきたということであった。
アメリカのILO脱退 アメリカ合衆国は、1977年から1980年の間、ILOから脱退した。理由は、(1)各国代表は政府代表2、使用者側代表1、労働者側1という比率であるのに、ソ連・東欧諸国はすべて政府代表になっていること、(2)人権侵害への対応が国によって異なりイスラエルなどアメリカの同盟国に対して厳しいこと、(3)政治化が進行しており、労働問題以外の議題が取り上げられていること、などであった。またソ連国民が事務局長になったこと、PLO代表を参加させたことなどが背景にあった。その後、アメリカはILOに機構の改善があったとして、1980年に復帰した。アメリカは1984年からはユネスコを脱退し、単独行動主義(ユニラテラリズム)の面が強くなる。<最上敏樹『国連とアメリカ』2005 岩波新書 p.165->
 世界保健機関(WHO) World Health Organization 世界保健機関。国際連合の専門機関の一つ。1948年設立、本部はスイスのジュネーブ。世界のすべての人々の身体的、精神的健康水準の向上、国際的保健事業の推進、調査・研究を行う機関。192ヵ国(2003年現在)。
 ユニセフ 国連児童基金。1946年の発足時は、国連国際児童緊急基金(UNICEF)という名称でヨーロッパの戦争遺児の救済にあたる基金であったが、1953年から、国連児童基金と改称(ユニセフの略称はそのまま)され、開発途上国の児童の救済に重点を移した。
 世界人権宣言 Universal Declaration of Human Rights 1948年12月10日、国際連合の第三回総会で賛成48反対なし(ソ連圏の六カ国および他の二カ国が棄権)で成立した宣言。第二次世界大戦における人権蹂躙(じゅうりん)への反省に立ち、人権の尊重と平和の深い関係にかんがみ、基本的人権の尊重をその重要な原則とし、また人権委員会を設けたが、その大きな成果として本宣言が生まれた。前文以下三○条にわたって、個人の諸種の基本的自由、さらに労働権、その他経済的、社会的、文化的な面における生存権的権利を、今日の各国の進歩的な憲法における人権保障の規定のように細かく規定している。条約のような拘束力はないが、人権保障の標準を示したものとして大きな意義がある。
世界人権宣言採択40周年目にあたる1988年に、国連総会はこれを記念し、人権尊重をさらに促進するため12月10日を世界人権デーとし各種記念行事を催すこと、人権確保のための公的機関設立を促進し、人権に関する教育活動を推進する等を定めた。
国際連合人権理事会の設立 世界人権宣言に基づく人権確保のための公的機関は、従来、国際連合人権委員会が担ってきたが、2006年3月15日、国連総会で新たに「国際連合人権理事会」(UNHRC)の設立が、賛成170、反対4、棄権3で採決された。これは2005年の世界首脳サミット(国連特別首脳会議)で勧告されたもので、旧人権委員会に比べ、国連総会が全理事国を直接選挙で選出すること、会期が年間6週間から10週間以上となったこと、加盟国すべての人権の状況が定期的に審査されることなど、より効果ある活動が期待されている。アメリカは人権理事会の設立は望んでいるが、交渉によって生じた妥協を嫌い、反対票を投じた。<明石康『国際連合 軌跡と展望』2006 岩波新書 p.22>
 国際金融・経済協力体制 1929年の世界恐慌に対し資本主義諸国はそれぞれ多様な対応をとり、イギリスのスターリング=ブロック経済圏やアメリカのニュー=ディールに伴う南北アメリカ経済圏の成立、ドイツの東方生存権の構想、日本の大東亜共栄圏などが出現した。これらの閉鎖的・孤立的なブロック経済の利害は互いに対立して、それぞれが独善的な保護貿易にもどってしまい、そのため国際金融・経済協力の基盤が破壊されて第2次世界大戦につながったことを反省し、国際連合の理念の下で戦後世界の平和維持と経済の安定を図る機構が構想された。早くも大戦中の1944年にブレトン=ウッズ会議で連合国通貨担当者による協議が行われ、46〜48年にかけて、国際通貨基金(IMF)国際復興開発銀行(IBRD)の設置を柱とするブレトン=ウッズ体制によって国際経済・金融の安定をはかり、さらに48年に関税と貿易に関する一般協定(GATT)が成立して自由貿易の原則を維持しすることが確認された。
戦後の世界経済は、唯一の戦場とならなかった大国であるアメリカ合衆国が主導することとなり、その経済力に依存しなければならなかったため、アメリカの意向が大きく反映するものとなった。冷戦が深刻になるに伴い、西側資本主義陣営の経済再建が最優先された。そのため、ソ連を中心とした社会主義陣営との対立、また戦後独立を達成し国内産業と資源の保護を必要とする新興独立国家(第三勢力)とも利害が対立する構図となっていく。
a ブレトン=ウッズ会議 第2次世界大戦中の1944年7月、アメリカのニューハンプシャー州、ブレトン=ウッズで、連合国44ヵ国の通貨担当者が集まって開催した会議。正式には連合国通貨金融会議。この会議においてブレトン=ウッズ協定が締結され、それに基づいて1945年に国際通貨基金(IMF)協定と国際復興開発銀行(IBRD)協定(通称が世界銀行)が制定された。なおソ連も代表団を派遣して会議に参加し、協定にも調印したが、最終的には批准しなかった。
通貨はドルを基軸とした固定相場制とし、IMFが通貨の安定に必要な資金を融資し、国際復興開発銀行が戦後復興と開発を目的とした資金供与を行うとされ、これによって国際連合の経済的強力の機構が整備されることとなった。この世界通貨のあり方(ドルを基軸とした固定相場制)を「ブレトン=ウッズ体制」と呼び、関税と貿易に関する一般協定(GATT)とともに戦後の世界経済を規定する体制となった。ブレトン=ウッズ体制は1970年代にアメリカの経済の動揺と共に揺らぎ、71年8月のドル=ショックによって崩壊し、同年末のスミソニアン協定を経て73年から変動相場制に移行し、役割を終えた。
b 国際通貨基金(IMF) 国際通貨基金(International Monetary Fund) ブレトン=ウッズ会議でのブレトン=ウッズ協定(1944)に基づき、1945年に成立したIMF協定により、46年3月に設立され、47年3月より業務を開始した、国際金融機関。国際連合の専門機関の一つ。本部はアメリカのワシントンDCにあり、現在の加盟国は184ヵ国。日本は1952年に加盟。
IMFは、大戦前の世界経済が各国の平価切り下げ競争によって崩壊したとの反省に立ち、為替の自由と安定化を課題とし国際復興開発銀行(IBRD)とともに大戦後の国際通貨・金融取引の枠組みであるブレトン=ウッズ体制の中核となった。具体的にはドルを基準とする固定相場制がとられた。金1オンス=35ドルが公定価格とされ、ドルはいつでも金と交換でき、各国通貨はそれぞれ定められた平価(たとえば日本では1ドル=360円)の上下1%以内で為替相場を維持することが義務づけられた。(相場の固定を各国間の協定と市場介入などによって維持する体制なので、「金本位制」とは言えない)設立資金88億ドルのうち、アメリカは27.5億、イギリス13億、ソ連12億、中国5.5億、フランス4.5億、インド4億であり、アメリカが全体の3分の1を占めていた。1973年に国際通貨制度が変動相場制に移行してからは、加盟国の国際収支の不均衡を是正したり、発展途上国への支援したりするための融資を主な任務としている。<石見徹『国際経済体制の再建から多極化へ』山川世界史リブレットなど>
c 国際復興開発銀行(IBRD) 国際復興開発銀行(International Bank for Reconstruction and Development) 一般に「世界銀行」と言われる。国際通貨基金(IMF)とともにブレトン=ウッズ会議によって設置が決まり、46年に営業を開始した、国連の専門機関の一つ。世界大戦後の戦後復興に必要な長期性の資金を融資する機関として設立された。その資金の多くはアメリカに依存した。実際には戦後復興よりも1960年代から開発途上国への融資などで役割を果たすようになった。日本と国際復興開発銀行(世銀):日本は1952年に国際復興開発銀行(世界銀行)に加盟した。そしてよく知られていないが、1953年から66年の間に合計31件、8億6290万ドルの融資を受け、電力・鉄鋼などの重工業の復興に充て、60年代には高速道路や新幹線の建設に充てた。1990年代には世銀借款を完済し、現在では日本は世銀に対するアメリカに次ぐ出資国となっている。<永田実『マーシャル・プラン』1990 中公新書 p.226>
d 関税と貿易に関する一般協定(GATT) GATT(ガット)は、General Agreement on Tariffs and Trade の略。1947年10月に23ヵ国が参加して調印され、48年1月に発効した。大戦前の資本主義諸国がブロック経済を形成して、互いに高関税政策をとって対立したことが大戦につながったという反省から、「自由・無差別」な世界貿易体制をつくり各国の雇用を安定させることが必要であると考えられるようになった。その理念に基づきGATTは関税障壁をなくし、貿易の自由化をめざし、「多角的交渉」を実現することを目指した協定である。当初、1948年にハバナ憲章で国際通貨制度におけるIMFに相当する機関として、国際貿易機構(ITO)が構想され、関税政策や雇用問題にも国際的な解決を図ることが目されたが、アメリカ議会が内政に関与しすぎるとして反対し批准されなかったため流産し、かわってGATTがその役割を担うこととなった。本部はジュネーヴに置かれており、関税に関する交渉(いわゆるラウンド)もほとんどジュネーヴで開催される。ラウンドは今まで8回開催されているが、当初は2国間、品目別交渉が行われていたが、1964〜67年のケネディ・ラウンドから一括関税引き下げ交渉が行われるようになった。現在は関税引き下げが一定の水準まで到達したとされ、1995年にGATTにかわり常設の機関として世界貿易機関(WTO)が設けられた。
e ブレトン=ウッズ体制 第2次世界大戦後の国際通貨体制。1944年の連合国44ヵ国が参加したブレトン=ウッズ会議におけるブレトン=ウッズ協定によって成立し、1973年まで続き、戦後の世界経済の復興を支えた。その特質は「アメリカのドルを基軸とした固定為替相場制」であり、金兌換によって裏うちされたアメリカのドルと各国の通貨の交換比率(為替相場)を一定に保つことによって貿易を発展させ、経済を安定させる仕組みであった。
ブレトン=ウッズ体制とソ連:ソ連は1944年のブレトン=ウッズ会議には代表団を派遣し、参加した。一時は積極的に動き、国際通貨基金への12億ドルの出資を表明するなど、会議に出席していたケインズを喜ばした。ソ連はブレトン=ウッズ協定に調印したが批准を行わず、アメリカなどの催促にもかかわらず、結局、IMFにも世銀にも参加しなかった。さらにIMFにいったん加盟したチェコスロヴァキアに対しては、圧力をかけて脱退させた。その上で、ソ連は東欧諸国を含むコメコン(経済相互援助会議)を創設し、ブレトン=ウッズ体制と張り合い、また外国貿易の国家独占(1918年から)をふまえてルーブル通貨の管理、外貨の国家独占、関税の強化など、世界経済からの分離を進めた。ようやく1987年にソ連は経済孤立主義を脱却し、世界経済との交流を始める。<永田実『マーシャル・プラン』1990 中公新書 p.21-23>
ブレトン=ウッズ体制の終焉:この体制はアメリカ経済が発展し、ドルが安定していることが前提であったが、1960年代にベトナム戦争などでアメリカ経済が深刻な打撃を受け、ドル危機が進行し、一方では日本や西ヨーロッパ経済が復興してきたためドルを基軸とした通貨体制は維持できなくなり、1971年にドルの金兌換停止、ドルの実質的切り下げというドル=ショックによって1973年から変動相場制に移行し、ブレトン=ウッズ体制は終わりを告げた。
f ドルを基軸通貨 ブレトン=ウッズ体制において、金1オンス=35ドルが公定価格とされ、ドルはいつでも金と交換でき、各国通貨はそれぞれ定められた平価(たとえば日本では1ドル=360円)の上下1%以内で為替相場を維持することが義務づけられた。
g 固定為替相場制 各国間の通貨の交換比率(為替相場)を一定にすること(または一定の範囲に収まるよう調整すること)。大戦後のブレトン=ウッズ体制では、ドルを基軸として固定相場制がとられ、例えば日本の円では1ドル=360円とされた。戦後はドルが唯一の安定した通貨であったことからブレトン=ウッズ体制がとられたが、1971年のドル=ショックが起こり、同年末のスミソニアン協定でドルが切り下げられて1ドル=308円の固定相場制とされた。それでもアメリカのインフレ、つまりドルの価値の低下は止まらず、アメリカ経済が停滞から減速に向かった1973年から変動相場制に移行し、激しく変動しながら現在は1ドル=100円強まで円高が進んだ。
 アメリカ合衆国(第2次世界大戦後) 
敗戦国に対する処置  
 ドイツの分割 ドイツ降伏前の1945年2月、ヤルタ会談において米・英・ソ三国首脳は、戦後のドイツをフランスを加えた4国で分割管理する基本方針を決定した。5月8日のナチス=ドイツの崩壊後、ベルリンに進駐した4国司令官によって、6月「四国宣言」がだされ、具体的な4ヵ国分割占領の分割区域と、ベルリンの分割が示された。続いて8月2日にポツダム協定が出されて、完全な非ナチ化、民主化がなされるまで分割占領することにした。このように、当初は分割管理は固定さされるとは考えられず、近い将来にドイツは一つの国家として主権を回復(当然その領土は縮小されるものとして)するものとされた。しかし、終戦前から明らかになった米英陣営とソ連の対立はドイツ問題に持ち込まれ、1948年のベルリン封鎖を機に対立が激化し、1849年には東西の国家が成立して分断国家となってしまった。
 4ヵ国分割占領 1945年6月5日、アメリカ(アイゼンハウアー)、イギリス(モントゴメリー)、フランス(タッシニ)、ソ連(ジューコフ)の四国司令官がベルリンで「四国宣言」(またはベルリン宣言)を発表した。そこで次のように表明された。
「ドイツは、1937年12月31日に存在した国境のなかで、占領目的のために四つの地区に分割され、四国のそれぞれに以下のように割り当てられる。東部地区はソビエト社会主義共和国連邦へ、北西地区は連合王国(イギリス)へ、南西地区はアメリカ合衆国へ、西部地区はフランスへ……大ベルリン地区は四国のそれぞれの軍隊によって占領される。この地区の行政の共通の指導のために、連合国間機関が設置され、この機関は四国最高司令官から任命された指揮官によって構成されるものとする。」<W.マーザー『現代ドイツ史入門』講談社現代新書 1995 p.19>
 共同管理 連合国4国=アメリカ、イギリス、フランス、ソ連は、ドイツの管理について、1945年6月の「四国宣言」(ベルリン宣言)でそれぞれ4地域に分けて分割占領した。同時それはドイツを消滅させることではなく、近い将来に主権を回復し講和条約を締結できるものと考え、統一性を維持するため、共通の指導を行う機関として管理理事会を設置することとした。その方針は8月のポツダム協定でも確認され、連合国共同の管理機関としてベルリンに管理理事会が設置された。しかし、民主化と自由主義経済を基本とする経済復興をめざす西側と、社会主義化をめざすソ連との理念の違いが次第に表面化し、1948年6月の西側の通貨改革強行を機にソ連がベルリン封鎖に踏み切ったときから管理理事会は機能しなくなり、ドイツの東西分裂が確定した。 
 ベルリンの分割管理 1945年6月5日の「四国宣言」で、「大ベルリン地区の行政は、連合国間機関によって指導される。この機関は、四国の司令官によって構成され、管理理事会の指導のもとに任務にあたり、四司令官の一人が交替で首席司令官の役を果たす。司令官は、事務官のスタッフによって補佐され、スタッフは地元のドイツ官庁を監督、管理する。」と定められた。
しかし直後の6月9日にはソ連はその占領地区に在独ソ連軍政部(SMAD)を設置し、管理理事会に諮らず独自の命令を発するようになった。アメリカ・イギリス軍は自国の管理区域外であるザクセンとチューリンゲンまで進出していた。チャーチルは対ソ発言力を維持するため、アイゼンハウアー司令官にその地域の兵力を残すように要請したがアメリカ兵の帰国を急ぎたいアイゼンハウアーは四国宣言を守り、撤退させることにした。しかし、ソ連軍がベルリンで独自の動きをしているので、急遽ベルリンに派兵し、西ベルリンを占領した。すでにソ連はベルリンの面積で45.6%、人口で36.8%をしめる地域を占拠、ソ連に亡命していたウルブリヒトなどドイツ共産党員を中心とした全ベルリン市政府を樹立した。<W.マーザー『現代ドイツ史入門』講談社現代新書 1995 p.20〜24> 
 ポツダム協定 1945年7〜8月に開催されたポツダム会談の結果、アメリカ(トルーマン大統領)、イギリス(アトリー首相)、ソ連(スターリン書記長)の連合国三国首脳によって取り決められた協定(議定書とも言う)。日本に対する「ポツダム宣言」とは別なので注意すること。内容は多岐にわたるが特にドイツの戦後処理に対する条項が重要であり、一般にポツダム協定はこの部分をさす。
・米英仏ソ四国の占領軍最高司令官が構成する管理委員会をベルリンに設け、できうるかぎり画一的に統治される。
・占領目的はドイツの完全な非軍事化と非ナチ化であり、ドイツは民主化されなければならない。
・そのため戦争犯罪人は裁判にかけられ、ナチはいっさいの公職および私企業内の重要な地位から追放され、ナチのすべての法律・制度は廃止される。
・当分の間、ドイツ人による中央政府は樹立されず、管理委員会の指揮下に若干の行政省がおかれるにとどまる。
・経済的にはドイツは単一の経済単位として取り扱われる。
・軍事産業は禁止、戦争関連産業は管理される。・・・経済力の過度な集中は排除される。
・ドイツ人の生活水準はヨーロッパ諸国の平均生活水準を超えてはならない。
・旧東プロイセン北半分は対ドイツ講和条約の締結まではソ連の管理下にある。
・ドイツとポーランドの国境は将来の対ドイツ講和条約で最終的に決定されるが、それまでは東プロイセン南半分とオーデル・ナイセ川以東の地域はポーランドの管理下に置かれる。
・4国はその占領地帯から賠償を取り立て、ソ連は自己の占領地帯から得るもののほか、追加として西側占領地帯から取り立てられるものの25%を受け取ること。
e オーデル・ナイセ線 オーデル川とその支流ナイセ川を結んだ線のことで、現在のドイツとポーランドの国境にあたる。第2次大戦前、1937年にはドイツ帝国はこの線よりも東のポーランド側に大きく食い込んでいた。また、飛び地という形で旧プロイセン領のダンツィヒ(現グダニスク)やケーニッヒスベルク(現カリーングラード)周辺もドイツ領であった。ついで全ポーランドを占領したナチスドイツに対し、東部戦線で接したソ連はスターリングラードの戦い以後反撃に移り、徐々に追いつめ、ポーランド領内に進軍した。それ以来、戦後のポーランド国境をどこに策定するかは、連合国、特にイギリスとソ連の間の大きな意見の相違点となり、テヘラン会談ヤルタ会談の主要な取引案件となった。その中で結局両陣営の妥協点となった、ポーランド西部国境がオーデル=ナイセ線であった。なおポーランド東部戦線は、ポーランドが1920年のソヴィエト=ポーランド戦争で獲得した西ウクライナや白ロシアをソ連に返還する形となった。
1945年のポツダム協定でドイツの東部国境は暫定的にオーデル・ナイセ線とされ、それはドイツとの講和条約が締結されるまでの暫定的な国境であった。しかし、オーデル・ナイセ線より東側に居住していた多数のドイツ人は強制的にドイツ領内に移住させられることになった。その数は最終的に1100万人にのぼるとされる。
しかしドイツが東西に分裂したため講和条約は締結されず、事実上のドイツ・ポーランドの国境として固定化された。戦後の西ドイツ政府は当初はこの国境線を認めず、統一後にさらに東に拡大(旧ドイツ領の復活)を実現すべきであるという意見も根強かった、1970年代の社会民主党ブラント首相は「東方外交」をかかげてソ連・ポーランドとの和解を実現した際、オーデル・ナイセ線を国境として認め、1972年の東西ドイツ基本条約でも確認された。1990年10月3日のドイツ統一に際しても、オーデル・ナイセ線を含むすべてのヨーロッパの現状の国境を尊重することを表明した。国際世論の一部にも統一ドイツが領土の復活を主張するのではないかという懸念があったが、今のところそのような気配はなく(一部ネオナチといわれる右翼にはそのような主張もあるようだが)、オーデル=ナイセ線がドイツ東部国境として安定している。
 国際軍事裁判所 連合国首脳は1943年10月30日「ドイツの残虐行為に関するモスクワ宣言」をローズヴェルト、チャーチル、スターリンの名で発表、「正義を貫徹するため、戦争犯罪者を限りなく追求、原告当該国に引き渡す」と表明し、ナチスドイツに占領された国々は自国でナチス戦争犯罪人を処罰する権限を持った。三国首脳はさらに45年2月のヤルタ会談で戦争犯罪人の処罰について再確認した。戦争裁判の手順にちては45年6月26日のロンドン会議に米英ソにフランス代表を加えて協議し、「枢軸諸国の主要戦争犯罪人に対する訴追と処罰に関する協定」(ロンドン協定)が成立、各国が裁き、犯罪行為地でで処罰されることが決まった。ただし「犯罪に地理的制限がなく、連合国の共同意志で処罰される主要な戦争犯罪人」は別に処理されることが確認された。ロンドン協定にはその後、ポーランド、オーストラリア、カナダなどが順次参加し、裁判を進めるため国際軍事裁判所規約が作られ、追求と処罰が本格化した。
国際軍事裁判所規約では、4人の裁判官と4人の予備裁判官で構成する法廷で、その裁判管轄権は、
1.侵略戦争、国際条約・規約違反などの・・・共同謀議をした「平和に対する罪」
2.占領地住民の殺害・虐待・奴隷労働・捕虜殺害・虐待などの・・・「戦争犯罪行為に対する罪」
3.戦前と戦中の民間人に対する殺人・抹殺・奴隷化・・・政治的・宗教的・人種的迫害行為など「人道に対する罪」
の三点を裁くことが明記された。
国際軍事裁判所とは別に、米英ソ仏それぞれの占領地内で各国別軍事裁判が行われた。また西ドイツではドイツ自身によるナチス裁判が行われ、時効が廃止されて追及が行われている。ポーランド、チェコ、フランスなどナチスドイツ占領地だった各国でも苛酷な追求と裁判が行われ、ナチス協力者も含めて多数が処刑された。またイスラエルは1950年に「ナチス及びナチス協力者処罰法」が作られ秘密情報機関モサドによる追求がなされ、1960年にはアルゼンチンに潜んでいたユダヤ人絶滅作業の現場責任者だったアイヒマンをとらえ、裁判にかけて死刑にした。<野村二郎『ナチス裁判』講談社現代新書 1993>
 ニュルンベルク裁判 ニュルンベルクはかつてナチスがユダヤ人弾圧を宣言したニュルンベルク法の制定されたところ。連合軍がこの地を選んだのはナチスの過去を断罪する強い決意表明であった。国際軍事裁判所の裁判長はイギリスのローレンス。1945年11月20日から7ヶ月間に合計403回の審理が重ねられ、46年10月1日に判決が言い渡された。死刑となった12名は次のような人々である。
ゲーリング(元帥、政治警察組織者)、カイテル(国防軍長官)、ヨードル(国防軍参謀長)、リッベントロープ(外務大臣)、カルテンブルンナー(国家保安本部長官)、ローゼンベルク(占領東方地区担当大臣)、フリック(内務大臣)、フランク(ポーランド総督)、シュトライヒャー(教育大臣。ユダヤ人殺害計画立案)、ザウケル(労働大臣、ユダヤ人強制連行)、インクヴァルト(オーストリアとオランダ総督、ユダヤ人強制連行)。このほか、ボルマン(ナチ党官房長)は逃亡中であったが死刑が宣告された。なお、ルドルフ=ヘス(副総裁)は終審禁固となった。また逮捕されたナチ指導者の中には裁判前に自殺した(ヒムラーなど)や、ボルマンのように逃亡したものもいた。<野村二郎『ナチス裁判』講談社現代新書 1993> → 極東国際軍事裁判所
 ナチス裁判 連合軍は国際軍事裁判で戦争犯罪を処罰しただけではなく、ポツダム協定で示された非ナチス化を徹底するため、西ドイツ自らがナチスを追求、処罰するよう指示した。西ドイツではそれによって「非ナチ化法」が制定されナチスの組織犯罪に関わった人物の追及を行った。また暴力的犯罪については既存の刑法で裁判を行った。「非ナチ化法」による裁判では、18以上の国民全員に、過去の所属政党歴、ナチス支持活動の有無などを申告させ、積極的な事実が証明されれば10年以下1年6ヶ月以上の禁固か罰金、公職就業禁止処分などが科せられた。この裁判によってニュルンベルクでは無罪となったシャハト(元国立銀行総裁)やパーペン(元首相)らが有罪となった。この裁判は虚偽の申告などが見抜けないなどのために形骸化し、1955年に敗死された。しかし、既存の刑法で裁く裁判はその後も継続され、1975年まで6411人が有罪とされた。
Epi. ナチス犯罪には時効はない ナチス追求は、東西冷戦が深刻化し、西ドイツの西側での地位が高まるにつれ、恩赦や減刑がなされ、次第に鈍ってきた。そして時効を理由にナチス裁判を終結させようと動きも出てきた。それに対して国内の社会民主党や、ポーランドなどから追求継続を要求する声も強まった。時効は1965年、69年にそれぞれ延長されてきたが、東ドイツではすでにナチス犯罪と戦争犯罪は時効無しとされていた。また国連でも1968年の総会で「戦争犯罪および人道に対する犯罪の時効不適用に関する条約」が成立していた。西ドイツでは1979年の国会で(ナチス犯罪を含む)すべての謀殺罪(計画的な殺人に対する罪)には時効を適用しない法律が可決され、よく年施行された。<野村二郎『ナチス裁判』講談社現代新書 1993 p.99-109>
 オーストリア(戦後)1938年3月、ナチス=ドイツのオーストリア併合によってドイツ第三帝国に組み込まれたオーストリアでは、ドイツと同様に国民の基本的人権と自由は奪われ、軍事優先の経済政策によって国民生活は圧迫され、また多数のユダヤ人が逮捕されてポーランドの強制収容所に送られた。第2次大戦の末期、東部からソ連軍が侵攻し45年4月にウィーンを解放、また西部には米英軍がドイツ軍を追って侵攻した。こうしてオーストリアはドイツの支配から解放されたが、戦後はドイツと同じく米英仏ソの連合国4ヵ国によって分割占領されることとなった。アメリカはザルツブルクと上オーストリア、イギリスはシュタイアーマルク、ケルンテルン、東ティロル、フランスは北ティロルとフォアアールベルク、ソ連が下オーストリアとブルゲンラント、ミュール地区を占領した。ウィーンはソ連占領地域に含まれたが、ベルリンと同じように都市自体がさらに4国によって分割された。ただドイツと違い、オーストリアでは社会党、人民党、共産党など復活した政党が連立してカール=レンナーを首相とする臨時政府が生まれ、ドイツとの合邦の解消を宣言し、連合国4ヵ国から中央政府として承認された。しかし、分割占領下で東西冷戦の境界線上にあることから、オーストリアをめぐる米ソの綱引きは厳しく、その完全な主権回復は(1951年の日本よりも遅く)1955年を待たねばならず、その年、連合国諸国とオーストリア国家条約を締結して主権回復を認められるとともに永世中立を宣言した。 → 現在のオーストリア
Epi. 『第三の男』 1849年に公開されたイギリス映画、キャロル=リード監督の『第三の男』は、あの主題曲とともに優れた映像美で知られる作品ですが、戦争直後の4ヵ国分割占領期のウィーンを舞台にしたサスペンスです。原作は数多くのスパイもので有名なグレアム=グリーン。ウィーンの中心部を管轄する国際警察が、闇市で違法なペニシリンを横流ししている男を追う話を軸にしていますが、古都の石畳や地下水道の映像が緊迫感を盛り上げます。まだ見ていない人はDVDでぜひ一度見てください。
 パリ講和条約 1947年2月10日、ドイツ、オーストリアを除く旧枢軸国であるイタリア、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、フィンランドと、英・米・仏・ソその他の連合国の間で成立した、第2次世界大戦の講和条約。イタリアは海外領土を放棄し、敗戦国の領土を削減してヨーロッパの国境線を1937年に戻すことを原則として画定した。また賠償についても規定した。このうちブルガリア、ルーマニア、ハンガリーはソ連の影響力が強かったので微妙だった。ドイツや日本と同じように軍備は全廃されるはずであったが、小幅な縮小に終わった。それはソ連がこの三国の軍備をソ連防衛体制に組み込もうと考えたからであった。<アンリ・ボグダン『東欧の歴史』1993 中央公論社 p.414>
 イタリア講和条約第2次世界大戦後、1946年のパリ講和会議の結果、イタリアと連合国の間で締結された講和条約。イタリアは、海外領土(アフリカ植民地)を放棄し、ドデカネス諸島をギリシアに割譲、フランス・ユーゴスラヴィアとの国境線の集成を認めた。ユーゴスラヴィアとの間で紛糾したトリエステについては、国際連合の管理下におかれる自由地域とされた。
 日本の民主化 日本は1945年8月14日、ポツダム宣言受諾を決定して連合国に通知し、翌15日放送で昭和天皇の詔勅が流され国民に告知された。8月30日に連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着、9月2日に東京湾上のアメリカ軍艦ミズーリ艦上で降伏文書に代表(政府代表重光葵、軍代表梅津美治郎)が署名し正式に降伏した。日本占領の機関として東京に連合国軍最高司令部(GHQ)が置かれ、占領行政が始まった。形式は連合国軍の占領であるが、実質はマッカーサー以下のアメリカ軍人および文官が主体の占領行政となった。1945年10月に、1.婦人解放、2.労働組合の助長、3.教育の自由化・民主化、4.秘密的弾圧機構の廃止、5.経済機構の民主化のいわゆる「5大改革指令」に始まり、以下のような分野で日本の民主化を実現した。その主な内容は次の通りである。
・選挙制度の改正:婦人参政権がはじめて認められた。
・財閥解体:三井、三菱、住友、安田の四大財閥などの解体、過度経済力集中排除法の制定。
・農地改革:地主制度の解体と小作農の解放、自作農の創設。
・教育改革:教育勅語の廃止。教育基本法の制定。6・3・3制の単線型教育。男女共学。
・国家神道の廃止:「神道指令」により神社は宗教法人となる。
これらの戦後改革のまとめとして日本国憲法が制定された。
GHQの日本占領方針は、当初、軍国主義の排除と民主化という面が強く、これはGHQ内の民政局内のニューディール政策を信奉する文民が中心となって推進されたが、東西冷戦が激しくなるに伴い、本国およびGHQ内部に日本を反共産主義というアメリカの先兵として利用しようという動きが強まり、レッドパージ(共産主義者の排除)や労働運動の弾圧(2.1ストの中止など)とともに警察予備隊の設置という再軍備に向かっていく。このような占領政策の変化は「逆コース」と言われた。1850年の朝鮮戦争の勃発に伴い、アメリカの反共世界戦略の一員として日本が位置づけようとしてサンフランシスコ講和会議で日本の主権回復を認めるとともに日米安保条約を締結することとなった。日本はソ連や中華人民共和国との講和を後回しに西側諸国との「片面講和」に応じることとなった。
Epi. 幻の日本分割占領案 結果的に日本本土はアメリカ軍の実質的占領下に置かれたが、敗戦直後にはドイツやオーストリアと同じように日本も分割占領しようという案があった。それによると、北海道・東北地方はソ連、関東・信越・東海・北陸・近畿はアメリカ、四国は中国、中国・九州はイギリスに分割され、東京は米・英・中・ソ4国の共同管理、大阪は米中が共同管理する、というものであった。これはアメリカ内部で占領費負担を他の連合国にも負担させるために考えられたものであるが、マッカーサーが反対し、また中国も内戦の再発の恐れがあって余裕がなく、実現しなかった。ソ連はその後アメリカに対し北海道の東半分の占領を要求したがアメリカが拒否、妥協点として歯舞・色丹を含む南千島4島の占領を認めた。こうして日本本土の分割統治は避けられたが、南千島は現在に至るまで事実上占領が続いている。<竹前栄治『GHQ』1983 岩波新書 p.66>
 連合国軍最高司令部 第2次世界大戦後の1945年から1852年まで、日本を占領し、統治にあたった連合国の機関。45年の8月14日、日本が降伏すると同時に連合国の同意の下にアメリカのマッカーサー元帥が最高司令官に任命された。一般にGHQ(General Headquarters)という。正確には、SCAP(Supreme Commander for the Allied Powers =連合国軍最高司令部)が略称。ポツダム宣言にもとづいて戦後日本を占領統治する機関であり、46年に出来た連合国の政策決定機関である極東委員会の下にあり、米英ソ中からなる対日理事会に諮問することが定められていたが、実質的にはGHQはアメリカ単独で組織され、アメリカの意向に添った政策が実施された。冷戦時代にはいると極東委員会、対日理事会はソ連が反発したため機能しなくなった。GHQには参謀部の他に民政局など多数の部局を持ち日本の民主化をすすめる改革の立案にあたった。形式はGHQによる間接統治であったが、その権限は強く、日本政府はその指示によって民主化政策の実施にあたった。連合国軍最高司令部による日本占領は、サンフランシスコ講和会議会議で講和が成立し、講和条約発効した1952年に終了する。
ドイツ占領との相違点:同じく連合国によって占領されたドイツと日本であるが、その違いもある。
1.日本本土は分割されることなく(計画には分割統治も含まれていたが実施されなかった)GHQの占領支配がなされたこと。ただし、沖縄は米軍の軍政下におかれ、南千島4島はソ連に占領され、ともに51年後も日本の主権が及ばなかったことを考えれば、日本もまた「分割統治」されたと言える。
2.ドイツではドイツ政府は解体させられたが、日本では日本政府の存在が認められ、GHQの間接統治とされた。
3.ドイツではナチスは徹底的に排除され、その後もドイツ人自身の手で追及が行われたが、日本では戦前の天皇制は象徴という形に変わったが存続し、日本人自身による戦犯の追及は行われなかった。
 マッカーサー

  Douglas MacArthur
  厚木飛行場に降り立つ
アメリカの陸軍軍人で、第2次大戦中は太平洋での日本軍との戦闘を指揮し、戦後は連合国軍最高司令部(GHQ)の最高司令官として日本占領にあたり、戦後改革の指揮を執った。また、朝鮮戦争でも国連軍最高司令官として仁川上陸作戦を決行、北朝鮮軍を鴨緑江まで後退させた。中国軍が参戦して押し戻され、中国領への爆撃と原爆投下を主張してトルーマン大統領と対立し解任された。
Epi. 「アイ・シャル・リターン」 マッカーサーは第2次世界大戦において、欧州戦線でのアイゼンハウアーと並んで、太平洋戦線での英雄であった。また、戦後の日本の方向性を決定づけた人物としても忘れがたい。太平洋戦争勃発時はアメリカ軍のフィリピン派遣軍司令官であったが、日本軍の攻撃を受け、"I shall return" の言葉を残して撤退したが、その約束通り、反撃に転じてフィリピンを奪回し、ついに日本を敗北に追い込んだ。
Epi. 朝鮮戦争で原爆使用を主張 マッカーサーは「1951年4月、北朝鮮の背後にある中ソを攻撃するために、中国大陸での原爆使用をトルーマン大統領に進言した。」しかし、当時の原爆は空中爆発型で、鉄道・トンネル・橋梁などの破壊には適していなかったのでその軍事的効果は小さく、政治的には中国・ソ連との全面戦争の危険が大きいこと、また日本に続いて中国で原爆を使用すれば、アジア人に対してのみ使うという人種偏見ととれれかねないことなどから、トルーマンは原爆使用を許可しなかった。「トルーマンが人道主義者だからというのではなく、原爆を使用できる条件にはなかったのである。こうして第三次世界大戦の危機は回避されたのであり、まさに危機一髪であった。」「これに対し、日本人の多くはほっとしたが、同時に天皇より偉いと思われていたマッカーサー元帥を解任できる、もっと上位の人物がアメリカ本土にいることを知って、驚いたものである。1951年4月16日、衆参両議院はマッカーサーに対する感謝決議案を可決、見送りの群衆二〇万人が羽田空港まで沿道を埋め尽くした。帰国後、マッカーサーは米上下院合同会議で退任の演説を行い、「老兵は死なず、消え去るのみ」という有名なことばを残した。」<中村政則『戦後史』2005 岩波新書 p.51-52>
この言葉は古い軍歌の一節。マッカーサーはその後も反共のシンボル、国民的英雄とされ続けた。
 極東国際軍事裁判所 ポツダム宣言にもとづき、連合国11ヵ国の裁判官によって構成され、日本の戦争犯罪を裁くために連合国軍最高司令部に属する形で設けられた国際裁判所。1946年5月から東京市ヶ谷の旧陸軍省で開廷、48年11月に結審した。満州事変以来の日本の軍事行動は侵略戦争であると断定され、国家指導者は平和に対する罪が適用されるとして、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決であった。ここで国家指導者として戦争犯罪に問われたのがいわゆるA級戦犯である。日本の最高責任者として昭和天皇を証人喚問する動きもあったが、結局実現せず、天皇の戦争責任は不問に付された。
なお、B級(通例の戦争犯罪)、C級(俘虜虐待など)戦犯の裁判は日本では横浜で開設されたほか、海外の旧日本軍占領地で約1000名、ソ連では約3000名が処刑されたという。しかし中国人民解放軍は日本人戦犯を一人も処刑せず、改悛させて日本に送還した。<竹前栄治『GHQ』1983 岩波新書 p.156 など> →ニュルンベルク裁判
このいわゆる東京裁判に対しては、当初から戦勝国が一方的に敗戦国を裁くもので不当であるとか、戦前にはなかった「平和に対する罪」で裁くのは方理論上おかしい、といった批判がある。しかし、そもそも戦犯の裁判は日本が(天皇の免責と引き替えに)受け入れた「ポツダム宣言」で定められていたことであり、裁判を拒否できることではなかった。この裁判を否定することは、日本の敗北を否定する(あるいは戦争を肯定する)ことであり、もう一度戦争をやって決着を付けようという暴論になりかねない。そのような歴史の経緯を無視した議論は無意味であると思われる。 
 東条英機 陸軍軍人で軍部内では統制派に近かった。満州事変後に関東軍憲兵司令官、参謀長を務め第2次近衛内閣で陸軍大臣となった。一貫して中国侵略拡大を進め、日米対立が深刻になると対米開戦を主張した。1941年10月首相となり、陸将・内相を兼任して、12月8日の太平洋戦争開戦に踏み切った。その後、文相・商工相・軍需相を兼ねて権力の集中を図り、44年には参謀総長も兼任、軍事独裁体制を強めた。この間、大東亜会議を開催し、戦時態勢の強化に努めたが戦局は次第に悪化、44年6月、サイパン島が陥落すると昭和天皇の周辺の重臣から見放され、辞任に追い込まれた。戦後は自決に失敗した後、A級戦犯として逮捕され、極東国際軍事裁判で死刑判決を受け、48年に処刑された。
 昭和天皇 天皇は大日本帝国憲法のもとでは国家主権者(元首)であり、陸海軍の統帥者(軍隊の指揮権の最終責任者)であった。実際の天皇は、機関として存在したに過ぎない(ということを学術的に論じた「天皇機関説」でさえ、戦前には不敬学説として葬り去られた)のであり、実際の国家統治は内閣が行い、戦争指導は軍部が行っていた。軍部はしばしば統帥権は独立して天皇にあり、天皇の命令で軍部は動くのであり、内閣の言うことを聞かないという理屈で戦争への道を突っ走ってきた。昭和天皇は開戦や終戦の経緯でも明らかなように、決定的な発言をしている。日本敗戦後、当然内外に天皇の戦争責任の追求がなされると考えられていた。しかし、終戦直後の9月27日には自らGHQ本部にマッカーサーを訪問、マッカーサーは天皇の率直な態度に天皇免責に傾き、極東国際軍事裁判(東京裁判)でも証人喚問さえされなかった。46年1月1日には「天皇の人間宣言」が出され、「日本国憲法」では象徴として位置づけられることとなった。
 日本国憲法成立1946年11月3日公布 47年5月3日に施行された。主権在民・基本的人権の尊重・平和主義(戦争放棄)を三本の柱とする戦後日本の基本法。戦前の大日本帝国憲法の天皇主権、不完全な三権分立制、貴族制度などを廃止し、天皇は国民統合の象徴とされ、男女平等の普通選挙によって国民の代表が選出された国会を国権の最高機関とし、内閣は国会に対して責任を負うとした。最も特徴的な規定は第9条の戦争放棄の規定であり、第2次世界大戦の悲痛な体験への反省から生まれた規定である。
イ.ヨーロッパの東・西分断
・西ヨーロッパ諸国の動向
 イギリス(戦後)第二次世界大戦後のイギリスは戦争での多大な犠牲からの回復と、イギリス海外植民地支配の再編という課題を持った。また国際政治ではアメリカの発言力が圧倒的に大きくなったとはいえ、イギリスも西側の要として対ソ強硬路線をとった。一方でフランス・西ドイツなどのヨーロッパ統合に対しては冷淡な態度を変えなかった。
ドイツ降伏直後の1945年7月に実施された総選挙では、国民は大戦を勝利に導いたチャーチルよりは、戦後の新しい課題に取り組むことを鮮明に打ち出した労働党を支持し、初の労働党単独内閣アトリー内閣が成立した。アトリー内閣は福祉国家の建設という戦後ビジョンを掲げ実践し、植民地問題でもインドの独立、パレスチナからの撤退など大きな転換を図った。しかし戦後の冷戦構造が深刻化し、否応なくNATOの創設など軍事費の増大が加速すると、対外債務と相まって国民生活を圧迫した。そのような局面での1951年10月総選挙では労働党は敗北し、50年代のイギリスは保守党長期政権の時代となる。   
 アトリー イギリス労働党の指導者。労働党党首として1940年のチャーチル戦時内閣に副首相として入閣した。1945年5月、ドイツ降伏に伴い連立を解消、同年7月の総選挙でチャーチルの保守党に圧勝して首相となり、当時開催中であったポツダム会談にチャーチルに代わり途中から参加した。アトリー内閣は初の労働党単独内閣として、産業国有化や社会保障制度の充実などに取り組み、イギリス「福祉国家」実現させた。1951年に選挙に敗れ、チャーチル(第2次)内閣に交替した。  
 アトリー内閣 1945〜51年、第2次大戦後に登場したイギリス最初の労働党単独内閣。ドイツ敗北後の1945年7月5日に行われた総選挙は、戦争を勝利に導いたチャーチルの名声に依存した保守党に対し、戦後再建にむけて大規模な社会改造を掲げたアトリーの率いる労働党が挑戦し、労働党393議席、保守党213議席(自由党はわずか12議席)という勝利を占めた。戦争に飽いた国民が社会保障の充実などの労働党の政策に大きな期待をかけた結果といえる。
アトリー内閣は国民の期待に応えて、労働党の年来の主張であった重要産業国有化社会保障制度の充実という政策を実施し、「福祉国家」を実現した。マルクス主義的な暴力革命によらずに社会改良を行おうという社会民主主義の思想、また経済理論としては財政支出によって完全雇用をめざすというケインズの思想が背景にあった。
産業革命期からの施設の老朽化と戦争による設備の破壊、および終戦によるアメリカの援助の打ち切りなどによって生産力が落ち込んでいる中でのアトリー内閣の「福祉国家」は社会保障制度を通じて所得を再分配する効果をもたらし、社会の平等感を回復した。しかし冷戦が深刻化し1950年に朝鮮戦争が勃発、再軍備のために社会保障費を減額せざるを得なくなると国民の支持を失い、51年10月の総選挙で保守党(チャーチル党首)に敗れて総辞職した。
アトリー内閣の時期に、イギリスはNATOの創設を主導して西側陣営の中心となったが、軍事的にはアメリカへの従属を強めた。またアトリーは課題であった植民地問題の解決にあたり、インド・パキスタンの独立、ビルマなどの独立を承認し、委任統治期間の終了に伴いパレスティナから撤退した。
b 重要産業国有化 第2次大戦後のイギリスのアトリー労働党内閣が公約し、実現させた。それは国民経済の根幹をなす重要産業が一部資本家に私物化されていることによって生じる資本主義のゆがみを是正し、国民全般の福祉を向上させることをめざしたもので、労働党結党以来の基本政策であった。1946年にまずイングランド銀行を国有化し、ついで石炭、通信、航空、電気、鉄道、ガス、鉄鋼などが次々と国有化された。保守党や財界からは強い反対があったが、社会保障の充実とセットとなった労働党の政策は国民の支持を受けた。国有化に際しては旧所有者や株主には公債という形で補償が行われた。これらの国有化はイギリス全産業では約20%にあたり、完全な社会主義となったとは言えず、市場経済と社会主義経済が混在した形態といえる。
c 社会保障制度(戦後イギリスの)イギリスの社会保障制度は1911年のアスキス自由党政権の社会保険法に始まる。第2次世界大戦中のイギリスで、戦後社会の復興の柱として社会保障制度の充実を掲げ、ベヴァリッジを委員長とする委員会を設置、1942年に「ベヴァリッジ報告」が出され、44年には国民保険省が新設され、家族手当法が制定された。1945年のアトリー労働党内閣によってベヴァリッジ・プランに基づく体系的な社会保障制度が実施され、医療費の無料化、雇用保険、救貧制度、公営住宅の建設などの「福祉国家」建設が本格化した。これによってイギリス国民は「ゆりかごから墓場まで」の最低生活が保障されることとなった。イギリスの社会保障制度は先進国のモデルとされ、その後の保守党政権でも継承されたが、1970年代後半になると福祉政策が財政を圧迫して経済発展が阻害され、また産業国有化政策による国民の労働意欲の低下などの問題が指摘されるようになり、「イギリス病」とさえ言われるようになった。そこで、1980年代のサッチャー保守党政権は、民営化と共に福祉国家の縮小を掲げ、「小さな政府」への方向転換を図った。サッチャー政権のもとで経済は活性化したが、一方で貧富の格差の拡大、若年層の失業の増加、犯罪の増加など社会の荒廃という弊害をもたらした。1997年からのブレア労働党政権は、福祉国家を掲げつつもそのモデルチェンジをはかり、従来の財政支出によって完全雇用を目指すというケインズ的経済政策を放棄し、政策経済活力を維持しつつ、格差の縮小、貧困の解消という社会正義に向けた政策を実現をかかげている。
d アイルランド共和国

緑はカトリック、オレンジはプロテスタント、白は両者の和解と友愛を象徴する。
北アイルランドを除くアイルランドが、1949年にエールから国号を変更した。アイルランド島はイギリスとは異なるケルト人を主体とした、カトリックが大勢を占める地域であるが、クロムウェルのアイルランド征服以来、長期にわたってイギリス人の支配を受けてきた。19世紀以来、イギリスにとってのいわゆるアイルランド問題が続き、シン=フェイン党の自治獲得の戦いが展開され、ようやく1922年に北アイルランド(アルスター地方)を除いてアイルランド自由国が成立した。1937年からはアイルランド共和党のデ=ヴァレラ首相に率いられ、憲法を制定して国号をエール(ゲール語=アイルランド語でアイルランドを意味する)と称した。エールは反英的な立場から第2次世界大戦中は中立の立場をとった。また戦後はNATOにも加盟せず独自路線をとり、1949年にイギリス連邦から脱退するとともに国号をアイルランド共和国とした。現在はイギリスとの関係も改善され、1973年にはECに加盟した。 → アイルランド問題(20世紀) 北アイルランド問題
 フランス(大戦後)1944年8月25日、パリはドイツ軍から解放され、ド=ゴール将軍が入城、臨時政府を組織した。翌46年総選挙が実施(フランスで始めて婦人参政権を行使)され、共産党人民共和派(MRP、キリスト教系保守中道政党で反共を掲げる)、社会党が大きく議席を伸ばし、両党を含む連立内閣が成立しド=ゴールが首相となった。同年10月には憲法が改正され、第四共和政が発足した。しかし、ド=ゴールは47年1月、軍事予算をめぐって議会と対立して辞任し、以後内閣は不安定な状態が続く。フランスは戦後復興の課題を抱えながら、政治的に安定せず、特にインドシナ戦争アルジェリア戦争、という海外領土問題は現地の独立運動の激化と、国内の独立容認と軍部保守派など海外領土維持の主張が対立し混乱が続いた。1958年、保守派の支持するド=ゴールが首相に復活、さらに大統領権限を強化した第五共和政憲法が成立してド=ゴールが大統領に当選し、69年までド=ゴール時代が続く。フランス経済はマーシャル=プランによって復興することが出来たが、ド=ゴール時代にはアメリカへの依存を脱却し、次第に独自色を強めていく。  → 現在のフランス
a ド=ゴール(戦後)第2次世界大戦中のド=ゴールはロンドンの亡命政府である自由フランスを率いてドイツへの抵抗を呼びかけ、戦後のフランスで、解放されたパリに英雄として迎えられた。ド=ゴールは国内でレジスタンスを続けた共産党系の勢力が力を付けることには警戒し、臨時政府の首相に就任した。しかし46年の総選挙でフランス共産党が躍進、議会で多数を占めるようになると対立を深め、第四共和政憲法の制定後の47年1月、首相を辞任した。その後は「フランス人民連合」(RPF)を結成して、憲法改正による大統領権限の強化を実現し集権的な権力の下でのフランスの再生を主張した。アルジェリア独立運動が深刻化し、現地のフランス人が強力な指導力を持つ政府を望み、58年に首相に返り咲き、さらに同年10月の国民投票で第五共和政下の大統領に当選した。 → ド=ゴール大統領
b 第四共和政 第2次世界大戦後の1946年10月に成立したフランスの政体。第四共和制憲法では、立法権は第一院の国民議会のみが持ち、第二院の共和国評議会は諮問機関とされた。大統領は国民議会と共和国評議会の両院合同会議で選出され、任期7年であるが、その権限は第三共和政よりも小さく、対外的に国を代表するほか、実質的な権限は無かった。第三共和制下での政治の不安定を反省し、内閣の権限は強化され、総理大臣(首相)は大統領によって指名されるが議会の絶対過半数の信任が必要で、閣僚を任免する権限が認められた。しかし、第四共和政下でも比例代表制の選挙の下で小党分立状態が続き、常に内閣は連立せざるを得ず、レジスタンスでの協力意識が薄れるにつれ、閣僚間の対立が始まり、常に不安定であった。またインドシナ、アルジェリアの植民地問題でも国内対立が深まり、1958年に崩壊、第五共和政に移行した。
c フランス共産党 1920年、フランス社会党から多数派が分裂して結成した。1930年代後半はコミンテルンの方針に従い反ファシズム人民戦線戦術をとり、1936年には人民戦線内閣を組織した。独ソ不可侵条約が締結されたため立場を失い孤立したが、大戦中はレジスタンス運動の中心となって活動し、戦後のフランスで46年総選挙で第1党に進出し、ド=ゴール内閣を支えた。しかし、憲法制定に関して対立し、ド=ゴールは辞任、また共産党(1947年にコミンフォルムに加盟)もそのソ連寄りの姿勢を中道諸党派から批判されるようになった。第四共和政下でストライキが多発し、共産党の指導に反発する勢力と対立し、47年5月、閣外に追われ、現在は低迷している。
 フランス社会党(戦後)  戦前のフランス社会党
 人民共和派 MRP(Mouvement Republicain Populaire 人民共和運動)とも言われる、戦後フランスの主要政党の一つ。1944年11月に、大戦中の対独レジスタンスを指導したビドーらを中心に結成された、キリスト教的民主主義にもとづく政党。非マルクス主義的左翼穏健派ともいえるが、同時に小ブルジョワ・農民を支持基盤とする保守的体質も併せ持っている。ブルジョワ層からは共産党の進出に対する防波堤としても期待された。45年10月の総選挙で躍進し、共産党・社会党との三党政治によるド=ゴール臨時政府の与党となった。ド=ゴールもMRPには親近感を持っていた。ヨーロッパ統合を進めたシューマンもMRP党員であり、ド=ゴール辞任後も何度か内閣を組織し、第四共和政の主要政党となった。しかし次第にアルジェリア問題などへの対応に失敗、ド=ゴール派に押されて60年代には低迷し消滅した。<渡辺啓貴『フランス現代史』1998 中公新書 など>
 イタリア(戦後)1944年6月、連合軍によってローマが解放され、バドリオ内閣に代わりパルチザン闘争の主体となった各政党の連立内閣が成立した。祖国再建のためには国王とも協力するという政策転換を行ったイタリア共産党も連立内閣に参加した。1946年6月に国民投票が行われて僅差であったが共和制支持が上回り、王政は廃止され「イタリア共和国」となった。また同年のパリ講和会議の結果、イタリア講和条約で海外領土をすべて放棄し、連合国との講和が成立、ドイツに比していち早く国際社会に復帰した。ファシスト党は解散させられたが、それに協力した官僚や財界人に対する責任追及は不徹底で、なお保守的な勢力は優勢で、共産党は連立政権から排除され、保守政党のキリスト教民主党がその後の政権を担当することとなる。 → 現在のイタリア
a キリスト教民主党 戦後イタリアで50年以上にわたって政権を担当した保守政党。1943年、カトリック教会を基盤として結成されたが、デ=ガスペリ党首の下でキリスト教的な博愛や平等を重視し、バチカンの直接支配には反対したので、広範な庶民層・農民の支持を受け、選挙では常に大きな支持を受け、戦後の長期政権を維持した。1973年にはモーロが党首となり、イタリア共産党のベルリングエルとの間で「歴史的妥協」を実現させ、連立を探ったが、78年極左組織「赤い旅団」によるともわれるテロによって誘拐殺害された。
b 王政廃止 イタリアでは開戦時の国王ヴィットリオ=エマヌエーレ3世はファシストを支持し、さらにドイツがローマを占領した1943年9月にはローマから逃亡したので国民の信頼を失い、46年5月に退位して皇太子ウンベルトが王位を継承した。その1ヶ月後の46年6月2日に憲法制定国民議会の選挙と同時に国民投票が行われ、共和制への賛成1270万票、反対1070万票のわずか200万票差で王政廃止が決まった。このとき、ローマや南部では王政支持票が圧倒的に多く(ナポリでは79%)、北部では共和制支持が圧倒的に多かった。こうして共和制は、1861年のイタリア王国と同様、南部と北部の分裂を放置したまま誕生した。<ダガン『イタリアの歴史』2005 ケンブリッジ版世界各国史 創土社 p.346 などによる> 
c イタリア共産党 1921年にアントニオ=グラムシトリアッティらイタリア社会党左派が、社会党から分裂して結成した。20年代には北イタリアを中心にストライキを指導し党勢を強めたが、危機感を持った資本家階級の支持を受けたファシスト党が急速に台頭すると弾圧を受けるようになった。第2次大戦中はファシスト党およびナチスの支配に対するレジスタンスを組織し抵抗を続けた。44年にに亡命先のモスクワから戻ったトリアッティ(トリアッチ)は、反ファシズムの立場でイタリア再建のために、戦後のイタリアで1945〜46年の連立内閣に参加した。トリアッティの指導するイタリア共産党は1947年にはコミンフォルムに参加したが、一方で保守政党のキリスト教民主党の支持基盤である教会組織に対抗できる民間組織の育成に努め、そのなかでソ連とは一線を画した柔軟路線を歩むようになり、構造改革論を展開した。1973年には書記長ベルリングエルはいわゆる「ユーロ=コミュミズム」といわれる現実路線をすすめ、カトリック勢力との「歴史的妥協」をなしとげ、キリスト教民主党などとの大連立内閣を模索したが失敗に終わり、91年のソ連の解体の余波によってイタリア共産党も分裂し衰退した。
・東ヨーロッパ諸国の動向
 東ヨーロッパ社会主義圏 東ヨーロッパ(東欧)は地理的な概念ではなく、世界史上の第二次世界大戦後に出現した、ソヴィエト連邦と連帯した社会主義政権(多くは共産党と称した)国家群を指す。具体的には東ドイツ・ポーランド・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・チェコスロヴァキア・ユーゴスラヴィア・アルバニアの諸国をさす。
東欧諸国の戦後政権成立事情の違い:ポーランド、ハンガリー、ルーマニアでは共産党の力が弱かったがソ連とソ連軍(赤軍)の後押しで、国民の反対を押し切って共産党政権が出来た。ユーゴスラヴィアとアルバニアでは共産党が独力でパルチザン闘争をこない権力を獲得した。ブルガリアもそれに近い。チェコスロヴァキア(現在はチェコとスロヴァキアに分かれている)は当初は社会主義政権ではなく、亡命政府がソ連との協定にもとづいて帰国し政権を形成した。チェコスロヴァキアが東側に加わるのは、1948年2月の共産党によるクーデタが成功してからである。またユーゴスラヴィア(現在は分解してしまった)は独自に解放を勝ちとった経緯からソ連の影響は弱く、社会主義国家とはなったが、ソ連の陣営には与せず、独自路線を歩むこととなる。
人民民主主義:第2次大戦時にはポーランド・チェコスロヴァキア・ユーゴスラヴィアは連合国側、その他は枢軸国側であったが、いずれもナチスドイツの侵攻・占領を受けるか、国内に成立した親ドイツのファシズムに支配されていた。戦後は各国とも反ファシズムに結集したいろいろな政党が協力する人民戦線的な政権を樹立し、人民民主主義を掲げて東欧型でもソ連型でもない国家を目ざしたと言える。しかし、戦後の自立の過程でソ連の支援を受け、その直接的指導による共産党(国によって名称は異なる)が指導権を握り、一党独裁体制を作り上げてゆき、1948年までには人民民主主義での複数政党制は形骸化した。
ソ連の衛星国化:これらの東ヨーロッパ諸国では、冷戦の進行に伴い次第にソ連およびソ連共産党の影響力が強まり、ソ連の「衛星国」としての性格を強めていった。1947年に結成されたコミンフォルム、49年のコメコン、結成などを経て、ソ連を中心とした「東ヨーロッパ社会主義圏」、いわゆる「東側諸国」を構成することとなった。この動きは1955年のワルシャワ条約機構の結成によって決定的となった。
東欧諸国の独自性:しかし、各国の歴史的・文化的性格は東ドイツ・ポーランド・ハンガリーはキリスト教文化、その他はギリシア正教文化に属するというように異なっており、また戦後過程においてもソ連との関係にも違いがある。ユーゴスラヴィアのように社会主義国家となりながら早くからソ連と一線を画して非同盟諸国の一つとして活動する国もあり、また1956年のソ連のスターリン批判以降は、ポーランド、ハンガリーにように異なった路線をとろうとしてソ連に押さえつけられたり、1960年代の中ソ論争でアルバニアが中国との関係を強めてソ連と対立したり、またルーマニアのように独自の経済政策をとった国も現れ、足並みはそろっていなかった。
社会主義独裁政権の長期化:総じてどの国も一党独裁体制の元で独裁的長期政権が維持された。東ドイツのウルブリヒトとホネカー、ポーランドのゴムウカとヤルゼルスキ、ハンガリーでのカーダール、ルーマニアのデジとチャウシェスク、ブルガリアのジフコフ、ユーゴスラヴィアのティトー、アルバニアのホッジャなどがそれにあたる。どの国も基本路線としては社会主義計画経済をとっていたが、1960年代から成長が停滞し、市場経済の導入を模索する動きも出てきた。ソ連はそれらの動きを封じるために、1968年のチェコ事件の時に制限主権論(ブレジネフ=ドクトリン)をかかげ、社会主義国全体の利益は一国の主権よりも優先するという原則を打ち出して東欧社会主義圏への統制を強めた。
東欧諸国の停滞とソ連離れの始まり:1070〜80年代には市場経済の導入と、それと平行して複数政党制による議会政治への転換も芽生えてきたが、多くは民主化は進まなかった。ところがソ連そのものが79年のアフガニスタン侵攻あたりからさまざまな国内体制の遅れが目立ち始め、1985年のゴルバチョフ政権は改革の必要に迫られ、ついに制限主権論を放棄する。それを受けて急速に東欧諸国のソ連離れ、民主化の動きが加速し、1989年に一斉に民衆エネルギーが噴出し、社会主義体制から市場経済の導入、複数政党制による議会政治導入などの民主化が実現した。この東欧革命にひょって東欧社会主義圏は解体され、コメコン、ワルシャワ条約機構も解散するここととなった。
<木戸蓊『激動の東欧史』1990 中公新書 などによる>
a ソ連(第2次大戦後)ソヴィエト社会主義共和国連邦は、第2次世界大戦の交戦国の中で最大の2060万人の死者を出した。特にナチスドイツの侵攻を受け、大きな犠牲を払って国家を守ったという自負から、ソ連では第2次世界大戦のことを大祖国戦争と言っていた。その戦争を一貫して指導した共産党スターリンは大戦後も強大な独裁権力を維持し、ソ連軍の力によってドイツ軍の支配から解放された東ヨーロッパ諸国との間で、1947年のコミンフォルム、49年のCOMECON、55年のワルシャワ条約機構などをを結んで社会主義陣営を作り上げ、アメリカを中心とした西側諸国のマーシャル==プラン、NATOと厳しく対立し、東西冷戦時代を出現させた。スターリン体制は1953年のその死まで続いたが、その非人間的な独裁政治は1956年のフルシチョフ第一書記によるスターリン批判によって否定されることとなった。その後のソ連の動きをまとめると次のようになる。
非スターリン化の時期:1956年〜64年 フルシチョフ政権。フルシチョフは西側との平和共存を図りつつ、核抑止論にたって核兵器の開発、宇宙開発をアメリカと競った。56年のスターリン批判を機に起こったポーランドハンガリーの反ソ暴動はには厳しく対処して弾圧した。一方でスターリン批判と平和共存への転換は、社会主義理論を巡って中国の毛沢東と対立することとなり、中ソ対立が始まった。ソ連内部では「雪どけ」といわれる自由化の端緒が見られたが、キューバ危機の不手際などの責任をとらされて64年にフルシチョフが失脚し、改革の機運は失われた。
ブレジネフ政権の時期:1964年〜82年 ブレジネフ共産党第一書記(66年から書記長)とコスイギン首相のコンビとなったが、実権はブレジネフが握り、その権力は18年間に及び、安定はしたが停滞した時代といわれた。特に経済面での立ち後れは著しく、官僚制の悪弊が社会の閉塞感を強め、反体制的な言論は厳しく弾圧された。68年のプラハの春に対する軍事介入のように社会主義圏をソ連が統制する姿勢は変えず、79年にはアフガニスタンに侵攻し、社会主義政権の維持を図った。一方で70年代はアメリカとの緊張緩和(デタント)を進めたが、80年代前半はアメリカにレーガン政権が登場し、再び冷戦の緊張が戻った(新冷戦)。
ゴルバチョフの改革とその失敗:1985〜91年 ブレジネフ時代の停滞を打破するために、ゴルバチョフ政権はグラスノスチとペレストロイカを掲げて改革にあたる。また外交政策を大胆に改め、アメリカとの対話に転じた。東欧諸国のポーランドに始まる改革の動きが加速し、89年のベルリンの壁の開放に至る東欧革命をうけ、同年末アメリカ大統領とのマルタ会談で冷戦の終結を宣言。さらにゴルバチョフ政権は市場経済と複数政党制の導入をめざし、90年に大統領制に移行したが、翌91年8月、共産党保守派のクーデターが発生、クーデターは鎮定されたがゴルバチョフがソ連共産党の解散を決定してソ連邦は解体され74年の歴史に幕を下ろした。
 共産党(全般)共産党の結成:一般にマルクス主義を発展させた共産主義(Communism)の実現をめざす政党。1918年にロシア社会民主労働党(の多数派であるボリシェヴィキ)がロシア共産党に改称したのが始まりで、同年末のドイツ共産党など各国に共産党が生まれた。その理念は1848年のマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』に源流がある。レーニンのボリシェヴィズムは共産党を大衆政党ではなく共産主義革命の最前線となる革命家集団と位置づけたので厳しい統制と民主集中制がとられる。また1919年にレーニンの指導で設立されたコミンテルン世界共産党ともいわれ、国境を越えた国際共産主義運動を展開し、各国共産党はコミンテルン支部の性格も持っていた。しかし、ソ連共産党はレーニン死後、世界同時革命を主張するトロツキーを失脚させ、一国社会主義をとるスターリンが権力を握り(1928年)、コミンテルンにおいてもソ連共産党の主導権が強まった。
第2次世界大戦前の共産党運動:1929年、世界恐慌が起こり、労働者の経済状態が悪化したことに伴い、ドイツ共産党を始めフランス共産党やイタリア共産党がそれぞれ勢力を伸ばすと、資本家や保守的大衆は共産党を危険視して、ファシズムの台頭がもたらされた。1935年にはコミンテルン第7回大会は人民戦線戦術に転換し、社会主義勢力やブルジョワ自由主義政党との連帯を打ち出した。しかし、1939年ソ連共産党のスターリンがヒトラーとの間に独ソ不可侵条約を締結したことは各国の共産党に衝撃を与え、国民的支持を拡大する障害となった。
戦後の共産党:第2次大戦後はコミンフォルムが作られ、東ヨーロッパ諸国はいずれもソ連共産党の指導を受け入れる立場となり、コメコンでの経済的結びつきを強めて東ヨーロッパ社会主義圏を形成、さらに1955年にはワルシャワ条約機構が組織されて東西冷戦時代の東側陣営を構成することとなった。またアジアにおける中国共産党の国共内戦での勝利に続く中華人民共和国の建設は、戦後世界の大きな衝撃として迎えられた。しかし次第に各国の共産党の連帯は薄れ、それぞれの地域事情から独自の行動をとる共産党も現れた。東欧の中にあってソ連と対立したユーゴスラヴィア共産党はコミンフォルムから除名され、独自の社会主義路線を構築した。1956年からスターリン批判が始まると、東欧の中にもソ連共産党から距離を置くものが現れたが、それに対してソ連共産党はチェコ事件に見られるような軍事介入をこない、同時に制限主権論(ブレジネフ=ドクトリン)を強調して指導権維持を図った。しかし70年代になると西欧の共産党の中には、議会政治との妥協を図るイタリア共産党などのユーロ=コミュミズムの路線などが現れ、多様化した。
各国の共産党:なお、共産党は東ドイツでは社会主義統一党、ポーランドでは統一労働者党、ブルガリア、ルーマニアでは労働者党、アルバニアでは労働党などと称した。アメリカ合衆国にも共産党は存在する。1919年にアメリカ社会党が分裂して左派がアメリカ共産党を称した。世界恐慌期に勢力を伸ばしたが、戦後のマッカーシズムによって弾圧され党勢は衰えた。アジアで最初の共産党は1920年結成のインドネシア共産党で、翌21年に中国共産党が発足した。日本共産党は1922年に結成されたが非合法とされた。朝鮮では1945年に金日成によって朝鮮労働党が結成された。
共産党の衰退:共産党一党支配を実現した諸国は資本主義社会に対抗して東側世界を形成し、その中でソ連共産党は官僚的機構が巨大化するとともに、スターリンに対する個人崇拝という本来の共産主義とは違った面が強くなり、また共産党同士の中ソ対立(中ソ論争)などから混迷し、20世紀末にはソ連共産党の崩壊を契機として各国の共産党も大きな転機を迎えてた。また西側各国にも議会政治の中で共産党はそれぞれ党勢をのばしたが、冷戦終結後はいずれも後退を余儀なくされ、共産党の名称を捨てるものも現れた。現在、共産党として政権を維持しているのは中国共産党、朝鮮労働党、キューバ共産党のみである。
b 人民民主主義 人民民主主義(people's democraby)とは、第2次世界大戦後の1945年から48年にかけて、東ヨーロッパ諸国にみられた政治理念で、共産党や社会主義政党、ブルジョワ民主主義政党などがファシズムと戦うために結成した人民戦線による政権運営を続けようとしたもの。これは当初は西欧型の議会制民主主義を批判しただけでなく、ソ連の共産党独裁体制も否定していた。同じころ、中国共産党の毛沢東が打ち出していた新民主主義に近い考え方であった。
しかし、初めは複数政党も認められていたが、ソ連(スターリン政権)の支援を背景とした共産党の力が強まり、多党制は形骸化していった。1847年にコミンフォルムが結成され、また48年にコメコンが成立すると、東欧各国ではソ連と同じように、実質的な共産党独裁(政党名は必ずしも共産党を名乗らなかったが)に移行していった。
そうなると人民民主主義の意味合いも変化し、すべての自由で自立した市民による西欧型民主政治は幻想であるととらえ、人民=労働者階級の解放という目的のために、人民の権力を集中さる体制を意味するようになった。このような意味での人民民主主義は社会主義国家建設の第一段とされていたが、党官僚組織の肥大化、硬直化や腐敗、人民の名の下で軍部が台頭するなどの弊害を生み、真の民主主義を実現することは出来なかった。
c ポーランド(第二次大戦後)ポーランドは第二次大戦勃発とともに、ナチス・ドイツとスターリン・ソ連によって分割占領された。大戦末期のポーランド亡命政府(ロンドン)とソ連および国内のソ連系国民解放委員会(ルブリン政府)の関係は、カチンの森事件や、ワルシャワ蜂起の失敗によって悪化し、1945年のヤルタ会談でのポーランド問題の話し合いによる調停も実を結ばなかった。そのため、連合国によるサンフランシスコ会議にポーランドは代表を送ることが出来なかった。ようやく6月、亡命政府のミコワイチクが帰国して国民連合政府樹立に合意、ポーランド労働者党(42年に共産党から名称変更)書記長のゴムウカとともに副首相となった(首相は社会党左派のモラフスキ、大統領代行は労働者党のビエルト)。そのもとで自由な総選挙が予定されていたが、労働者党のゴムウカはそのままでは敗北が予想されたので「民主主義ブロック」選挙という事前に各政党に候補者を割り振り、公認されたものだけの立候補を認めるという方法を国民投票で認めさせた上で選挙に踏み切り、他党の選挙運動を事実上不可能にして多数を確保した。ミコワイチクは絶望して再び亡命、事実上ポーランドは労働者党の一党独裁の下に置かれることになった。このような見かけは民主的な選挙だが、事実上は共産党だけが当選するようなしくみの「民主主義ブロック」選挙はブルガリアやアルバニア、ユーゴスラヴィアなどの東欧圏でしばしば行われた。1947年には労働者党と社会党が合同して統一労働者党が成立。次第にソ連の影響を受けたモスクワ派が台頭し、ゴムウカは民族主義的変更を批判されて逮捕され、その後はスターリン主義による国家運営が続くこととなる。 →ポーランド人 ポーランド反ソ暴動
戦後のポーランドの国境変更:ポーランドの国境は第2次世界大戦で大きく変更となった。戦前にはドイツ領が現在のポーランド内にかなり食い込んでおり、またポーランド領は現在のウクライナやベラルーシに食い込んでいた。戦後、ポーランド全体が西に移動したといえる。西ではオーデル=ナイセ線がポツダム協定で暫定的な国境とされていたが、1970年の西ドイツ=ポーランド国交正常化条約で確定した。
Epi. 『灰とダイヤモンド』 1945年5月8日、ドイツ軍の降伏、大戦の終結を知らせる放送が流れるポーランドのある街で、一人の若いテロリストが警察に追われ射殺された。彼の名はマチェク。ポーランド労働者党の幹部を殺し逃げていたのである。アジェイェフスキの小説『灰とダイヤモンド』はこのポーランドの「解放」された一日の出来事を濃厚に描いている。この日、ナチスドイツの崩壊は、ポーランドの新たな抑圧の始まりとなった。ドイツ軍を駆逐したソ連軍のバックアップによって、労働者党(共産党が改称)による支配が始まったのだ。ポーランド人の「自由」への願望はスターリン主義という新たな権力によって再び抑圧される。この作品は1957年、アンジェイ=ワイダ監督によって映画化され、その鮮烈なラストシーンは、ポーランドの戦後を暗示していた。
c 統一労働者党第二次世界大戦後のポーランドを支配したマルクス主義(共産主義)政党。戦前からの共産党が1942年に労働者党と改称、さらに戦後の1947年12月に社会党と合同して、統一労働者党を結成した。このころからソ連共産党(スターリン)の影響力の強いモスクワ派が主流を占めるようになり、戦前からの指導者であったゴムウカは民族派として失脚した。しかし、1956年にソ連でスターリン批判が始まり、ポーランド反ソ暴動が起きると、ゴムウカを復帰させた。ゴムウカはソ連軍の介入を拒否すると共にソ連共産党との関係の修復に努め、混乱を収束させた。その後、ゴムウカの指導する統一労働者党は一党独裁体制を強め、長期支配を維持したが、1970年の経済政策失敗を機に大規模なストライキが起きてゴムウカは第一書記を退陣し、ギエレクに代わった。しかし、その後も社会主義経済の停滞が続き、1989年のポーランド民主化によって「連帯」が進出、民主化勢力によって厳しく弾劾されて政権の座から降りた。 → 共産党(全般)
d ハンガリー(第二次大戦後)ホルティの権威主義体制の下にあったハンガリー王国は、第二次世界大戦にドイツ側に立って参戦した。44年にホルティが単独講和に動くとドイツはそれを阻止するために軍隊を派遣して占領下に置いた。44年末にソ連軍が東部を解放、小地主党・社会民主党・民族農民党・共産党から成る臨時政府が成立。戦後の45年11月に総選挙が行われたが、共産党は17%の得票に留まった。1946年2月にはハンガリー共和国となり、49年8月にはハンガリー帝国人民共和国となった。その後、ソ連の衛星国の一つとして社会主義政策を進めるが、ソ連でスターリンが死んだ1953年にナジ=イムレ首相が集団化の見直しなどを図った。しかし55年はソ連に歩調を合わせて再度、集団化が強化され、ナジ=イムレは失脚した。1956年のスターリン批判を機にハンガリー反ソ暴動が勃発、ナジ=イムレが改革派に推されて復帰したがソ連軍の直接介入によって鎮圧され、ナジも処刑された。→ 中世のハンガリー王国  1960〜80年代のハンガリー  1989年のハンガリー民主化  現在のハンガリー共和国
e ルーマニア(第二次大戦後)ルーマニア王国では第1次世界大戦後、カロル2世による王政が行われたが、左右両派の対立、周辺諸国の領土回復要求などで安定せず、第2次大戦では当初は中立策をとった。しかし「鉄衛団」というファイスト組織が台頭し、それと結んだアントネスク将軍は国王を退位させ、新国王ミハイをたて自らは首相となった。1941年にアントネスク軍部独裁政権が成立、アントネスクは、ヒトラーと結んでドイツの対ソ戦に参加し、最前線で戦わされて大きな損害を被った。1944年にソ連軍がドイツ軍を追ってルーマニアに入ると、国王は近衛師団と国民民主ブロックを結成した政党と協力し、アントネスク将軍を逮捕、ソ連と休戦協定を結んで対独宣戦を布告した。1945年に左派政権が成立し、1946年11月総選挙では共産党を中心とした統一ブロックが激しい選挙干渉で保守派を圧倒した。その後、共産党以外の政党は次々と解散させられ、1947年12月30日には国王ミハイが退位し、ルーマニア人民共和国の成立が宣言された。権力を独占した共産党はソ連に倣い集団化、重工業化、国有化、土地改革を推進した。
1947年2月の第2次世界大戦後のパリ講和会議ではソ連に対して賠償金とともにベッサラビア(現在のモルドバ)そのほかの移譲、ブルガリアへは南ドブルジャを移譲したため、360万以上の人口を失った。  → 現在のルーマニア
f ブルガリア(第二次大戦後)ブルガリア王国は1908年に独立、第1次世界大戦へ参戦したが敗れた。大戦間の時期のブルガリア王国もドイツとの提携を強め、枢軸国側に加わり第二次大戦に参戦した。国内では、コミンテルン書記長のディミトロフが指導した労働者党(共産党)の影響も強く、43年には対独抵抗組織として労働者党(38年に共産党から改称)を中心に祖国戦線が結成された。44年9月8日にソ連軍が領内に侵攻すると呼応したパルチザンと祖国戦線も一斉蜂起し、首都ソフィアで権力を掌握した。ただちに各党連立の新政権が生まれたが、労働者党は法相、内相のポストを得て、警察を握った。新政権の元で、ドイツ協力者は厳しく弾劾され、2138名が処刑された。45年の総選挙は労働者党は祖国戦線による統一候補者名簿方式に反発した保守派ボイコットしたため、労働者党側が88%の得票で圧勝した。46年9月8日、国民投票によって92%の賛成を得て王政は廃止され、ブルガリア人民共和国の成立が宣言された。国王シメオン2世はエジプトに亡命した。同年10月の総選挙によって労働者党のディミトロフが首相となり、47年からは反社会主義の政治家は次々と粛清され、農地改革、産業国有化が進められ、47年12月4日に新憲法が制定された。 → 現在のブルガリア
g ユーゴスラヴィア連邦(第二次大戦後)第2次世界大戦後1946年からバルカン半島西部を占めるた国家。6つの共和国から成る連邦国家であったが、1991年から次々と離脱し、セルビアとモンテネグロだけがユーゴスラヴィア連邦に残ったが、2006年6月、モンテネグロも分離独立し、ユーゴスラヴィア連邦は完全に消滅した。
ユーゴスラヴィア連邦の成立:戦前のユーゴスラヴィア王国(「第一のユーゴ」)は第2次世界大戦が始まるとナチスドイツなど枢軸側によって占領されて崩壊した。大戦中のユーゴスラヴィアでドイツおよびファシストとの戦ったパルチザン戦争の指導者ティトーは、42年にユーゴ人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)を組織し、共産党を中心に戦後政権を準備した。44年10月首都ベオグラードが解放され、翌年2月にはティトーを首班とした臨時政府が成立、11月に総選挙(単一候補者名簿方式)で共産党が圧勝、46年1月にスターリン憲法を範とした憲法を制定して、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国(「第二のユーゴ」)が発足した。しかしソ連共産党と一線を画すティトーの路線は次第にソ連との対立を強め、1948年にはコミンフォルムから除名され、連邦制・自主管理・非同盟という独自路線を進むこととなる。
自主管理社会主義:ユーゴでは企業の国有化と土地改革が進められ大企業や富農は一掃されたが、農業の集団化は行われなかった。48年のコミンフォルム追放後、ユーゴスラヴィアではソ連型の人民民主主義からの転換に迫られたが、新たな社会主義の理論として提起されたのが「自主管理」であった。自主管理とは、国有化された工場で、労働者が生産から分配にいたるすべての権限をもつことで、その機関として各工場に労働者評議会が設立された。また52年には共産党は指令を出すところではなく、説得とイニシアティヴを発揮するところであるという理念から「共産主義者同盟」と改称された。
非同盟政策:また外交面では非同盟政策を展開した。国際連合を舞台として西側諸国とも経済関係を結び、特に「積極的平和共存」を掲げて東西どちらの陣営にも属さない姿勢を貫いた。53年にスターリンが死去するとソ連との関係も改善され、55年にフルシチョフが訪問し国交を正常化させた。1961年には首都ベオグラードで第1回非同盟諸国首脳会議を開催、アジア・アフリカ諸国を中心に25ヵ国が参加した。
ユーゴ社会主義の転換:自主管理社会主義と非同盟政策は1964年の憲法で根拠が与えられ、同時に国名はユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国に変更された。65年からは「市場社会主義」を柱とした経済改革が始まり、経済分野での自由化が進められた。しかし、経済改革は思うようにあがらず、生活水準の低下、貿易収支の悪化を招き、地域と個人の経済格差が広がってしまった。なによりも自由化とは名ばかりで連邦政府の実権はセルビアが握っている状態は変わらなかった、次第に民衆の不満が鬱積していった。この間、1968年のチェコ事件ではチェコを支持し、ソ連の軍事介入を厳しく非難した。中国との関係では毛沢東はユーゴスラヴィアの改革を修正主義として批判したため、関係は悪化した。
1974年憲法:1970年にはクロアチアで市民、学生が自治を要求してストライキを行うなど、民族主義の動きが表面化した。ティトーの連邦政府は運動を抑えつけるとともに自由化を分権化を明確にした新憲法を1974年に制定したが、一方でティトーは議会において終身大統領に選出され、統合の象徴を強化する措置がとられた。しかしこの憲法は各共和国が自立する根拠を与えることとなる。
ティトー死後:ティトーの生存中は連邦政府の求心力も残されていたが、1980年に死去すると連邦内の共和国の民族主義が台頭し、連邦の中心として体制を維持しようとするセルビアに対する反発から、独立宣言が相次ぎ、1991年からユーゴスラヴィアの解体が始まり、その過程でスロヴェニアやクロアチア、ボスニア、コソヴォなどの地域で内戦が相次ぐこととなる。2006年6月に、セルビア=モンテネグロも解体し、モンテネグロが分離独立し、これによって旧ユーゴは完全に解体した。
Epi. 7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家 第2次世界大戦後に成立したユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国は、このように表現される複合国家であった。それぞれを確認すると次のようになる。
・7つの国境:イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニアの7ヵ国と国境を接している。
・6つの共和国:北から、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国から成る連邦国家である。
・5つの民族:スロヴェニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、マケドニアが主たる民族。これ以外にムスリム人(イスラーム教徒)、ドイツ人、ロマ、など少数民族が存在。
・4つの言語:スロヴェニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語がある。
・3つの宗教:キリスト教のカトリックとギリシア正教、それとイスラーム教。
・2つの文字:スロヴェニア語とクロアチア語はラテン文字を使用。他はロシア語と同じキリル文字を使用。
h アルバニア(3)ユーゴスラヴィアの南部に位置するアルバニアは、1939年4月にアドリア海の対岸から侵入したイタリア軍が占領し、その支配が続いていた。1941年11月にユーゴスラヴィア共産党の援助を得て、ホッジャを書記長とする共産党が結成され、パルチザン闘争が開始された。43年9月のイタリア降伏後はドイツが代わって支配者となったがパルチザンの抵抗は続き、44年ホッジャを首班とする臨時政府が樹立された。 → アルバニアのソ連批判
 衛星国衛星とは恒星の周りを周回する天体で、地球に対する月のような存在のこと。英語ではサテライト satellite 。衛星国とは戦後世界ではソヴィエト連邦を中心とした東欧社会主義諸国、東ドイツ・ポーランド・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・チェコスロヴァキア・ユーゴスラヴィア・アルバニアをいう。東西冷戦期にはソ連との強い軍事的・経済的結びつきを有し、西側陣営と厳しく対立した。ただし、このうち、ユーゴスラヴィアは早くから独自路線をとってソ連と一線を画し、アルバニアも中ソ論争で中国共産党を支持してソ連とは対立するに至る。1989年の東欧革命によって各国の共産党政権が倒れ、1991年にはソ連自体が消滅したことによってこのような言い方は無くなった。 
 ティトー ユーゴスラヴィア共産党の指導者で、第2次世界大戦ではパルチザンを率いてドイツ軍や国内のファシスト勢力と戦い、勝利に導いた。その勝利で圧倒的な人望を集め、戦後はユーゴスラヴィア連邦共和国の大統領として強力な指導力の下に、「モザイク国家」といわれたユーゴを一本にまとめた。
ティトーは本名をブローズといい、クロアチア人とスロヴェニア人を両親とするたたき上げの労働者で共産党員であったが、41年からはパルチザン闘争の最高司令官となり度々の苦難を乗り越えた。また戦後も48年のコミンフォルム除名という試練を独自の社会主義理論である自主管理社会を構築することで克服し、国際社会では非同盟政策を掲げ、エジプトのナセル、インドのネルー、中国の周恩来らとともに第三世界のリーダーとして活躍し1961年には第1回非同盟諸国首脳会議を主催した。国内では統合の象徴としての存在が際だつようになり、1974年には終身大統領に選出された。しかし、1980年に87歳で死去すると、重しがはずれたようにユーゴスラヴィア連邦内の共和国で民族主義が再燃し、1991年のスロヴェニア・クロアチアの独立宣言から一挙に解体に向かうことになる。 →ユーゴスラヴィアの解体  
 コミンフォルムから除名 ユーゴスラヴィアは1947年に結成されたコミンフォルムの主要メンバーとなったが、次第にティトーの独自路線がソ連共産党と対立するようになり、はやくも翌48年には民族主義的偏向があるとして48年のコミンフォルム第2回大会で除名された。1949年のコミンフォルム大会はユーゴスラヴィアを「人殺しとスパイに支配されるユーゴスラヴィア共産党」と非難した。ソ連共産党スターリンの絶対的権威のもと、「ティトー主義者」は他の共産党でも摘発され、追放された。
スターリンの死(53年)後、ソ連との関係改善が図られ、55年にはフルシチョフらがベオグラードを訪問、ティトーと会談し「ベオグラード宣言」を発表してティトー主義批判を撤回した。
 チェコスロヴァキア(戦後)独立の回復:チェコスロヴァキアは東ヨーロッパ圏にありながら、第2次大戦後にすぐに社会主義体制となることなく、西欧的な議会制民主主義国家となった。ミュンヘン協定によって解体され、ドイツの支配下におかれたが、ベネシュを首班とする亡命政府と共産党が協力してゲリラ的な抵抗を継続し、大戦後にはソ連軍の了解の元に、共産党・国民社会党・社会民主党・人民党などの6政党による政府を組織し、1946年の自由選挙でベネシュが大統領に選出され、首相は共産党のゴットワルトが就いた。こうしてチェコスロヴァキアは、周辺のポーランド、ハンガリーが社会主義化し、ソ連の圧力が強まる中、共産党も含む複数政党制の下での議会制民主主義を維持していた。
共産党によるクーデター:戦後復興をめざすチェコスロヴァキア政府は、アメリカ合衆国が1947年に打ち出した経済支援計画であるマーシャル=プランを歓迎し、その受け入れを決定した。ところが、ソ連は圧力をかけ、チェコスロヴァキア共産党も大々的な受け入れ反対のストライキを指導し、政府は立ち往生した。その結果、1948年に共産党のクーデター(二月事件)が成功し、共産党政権が成立しチェコスロヴァキア社会主義共和国となった。
チェコスロヴァキア社会主義国家の特色チェコスロヴァキア社会主義共和国はコメコン・ワルシャワ条約機構に加盟し、東欧社会主義陣営のメンバーとなったが、その中で次のような特色を有していた。
・工業が早くから発展し、地下資源も豊富であったこと。
・西欧的な議会制民主主義が、共産党政権成立以前に形成されていたこと。
チェコスロヴァキア社会主義共和国のその後
(1)1948〜1968年 スターリン体制の時代
1948年の2月事件で共産党政権が成立。大統領はゴットワルトからノヴォトニーに継承され、その間共産党はスターリン体制を受容して民族派やティトー派を粛清、次第に個人崇拝が強まり、経済は停滞した。1956年にソ連でスターリン批判が起こると、チェコスロヴァキアも同調したが非スターリン化は進まなかった。
(2)1968年の「プラハの春」と「チェコ事件
1960年代の経済停滞と言論抑圧に対して、まず知識人や学生の民主化運動が起こった。1968年に共産党第一書記となったドプチェクは大胆な展開を図り言論・結社の自由、市場経済の導入、チェコとスロヴァキアの対等な連邦制などを打ち出したが、チェコスロヴァキアの社会主義離脱を警戒したソ連と他のワルシャワ条約機構の5カ国軍の介入を受け、改革は実現できなかった。
(3)1969年〜1989年 フサーク「正常化」政権
チェコ事件後に共産党第一書記となったフサークはソ連の指示に従い、社会主義の本来の姿に戻る「正常化」であるとして民主化・自由化を否定、再び計画経済と一党独裁の体制に戻した。この体制下で知識人の自由化を求める運動は「憲章77」の運動などがあった、弾圧され続けた。
(4)1989年 チェコスロヴァキアの民主化、ビロード革命
ソ連におけるゴルバチョフのペレストロイカの始まりはチェコスロヴァキアのフサーク政権が「時代遅れ」になっていることを示した。1989年の一連の東欧革命が起こるとチェコスロヴァキアでも再び民主化と自由化を求める運動が起こり、大規模な市民集会が開催され、「憲章77」のメンバーを中心に「民主フォーラム」が結成され、政権交代が叫ばれた。フサークを継承していたヤケシュ共産党政権は「民主フォーラム」への政権移譲を承認、今回はソ連や他の社会主義国からの介入はなされず、社会主義の放棄が決定された。
(5)1992年 チェコとスロヴァキアの連邦解消
1989年の民主化が実現したが、その反動のような形で民族主義的な声が強まり、二民族の連邦国家を維持していたチェコとスロヴァキアに様々な対立が生じ、連邦制維持を掲げていたハヴェル大統領も辞任、1992年に両国はそれぞれ分離独立を議会で議決し、まったく別な国として再出発することとなった。こうして「チェコスロヴァキア共和国」は1918年から1992年までの1世紀に満たない歴史に幕を下ろした。 → 現在のチェコ スロヴァキア
 ベネシュ ベネシュは、チェコスロヴァキアの独立運動家、政治家。第1次世界大戦前のマサリクとともに独立運動に参加し、1918年独立とともに外相となった。その後、1935年に首相となる。ナチス=ドイツの領土分割の圧力に抗して外交活動を展開したが、イギリスの宥和政策によってミュンヘン協定が成立しチェコスロヴァキアは解体されたため、亡命した。大戦中は亡命政府首班としてドイツへの抵抗を指導。戦後チェコスロヴァキアに戻り、1946年に自由選挙で大統領に選出された。しかし、翌1947年、アメリカが打ち出したマーシャル=プランの受け入れを決定したが、共産党のゴットワルトを首班とする内閣はソ連の圧力受けて取り消してしまった。それに抗議した非共産党閣僚全員が辞表を提出、共産党はベネシュ大統領がそれを受理するように大規模なデモを組織した。ベネシュは内戦を恐れて辞表を受理し、共産党によるチェコスロヴァキアのクーデターは成功、5月には共産党主導で新憲法が制定され、ベネシュは署名を拒んで辞任し、直後に病死した。 
・東西対立の深刻化 
 ”二つの世界”の対立 第2次世界大戦の終了後、世界はおよそ二つの陣営に分かれ対立することになった。第一世界は経済体制では資本主義経済のもとで自由競争の市場経済をとる国々であり、アメリカ合衆国を始めとするイギリス、フランスなど西ヨーロッパの諸国であり、アメリカ占領下にあった日本も含まれる。第二世界は経済体制では社会主義経済(事情での自由競争を否定し、計画経済による国家統制をとる)、政治体制では共産主義政党の一党独裁が行われているソ連および東欧諸国。この”二つの世界”の対立は、「冷戦」と言われ、戦後の世界史の基軸となる。なお、戦後新たに台頭した、アジアやアフリカの独立国は「第三世界」と言われ、第一世界と第二世界の対立という軸に代わり新たな局面を開くことになる。この”二つの世界”に第三世界がからむというあり方は、1991年にソ連が崩壊したために解消された。20世紀末から21世紀初頭という現代は、新たな世界の態勢への転換期と考えることができる。
 チャーチル  → 第15章 5節 チャーチル
 「鉄のカーテン」 1946年3月、イギリスの前首相チャーチルがアメリカ合衆国ミズーリ州フルトンで演説した一節の「バルト海のステッテンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸に鉄のカーテンが降ろされた」からきたもので、ソ連が東ヨーロッパ諸国の共産主義政権と結び、西側の資本主義陣営と敵対している状況を表したもの。その後、ソ連=共産圏の排他的な姿勢を非難する言葉として多用されるようになる。鉄のカーテンの位置は時期によって変動があるが、チャーチルの演説が行われた1946年の段階では、ドイツとオーストリアは連合国による分割占領下にあり、チェコスロヴァキアはまだ共産党単独政権はできていなかった。しかし、ドイツとオーストリアのソ連管理圏に対するソ連の「囲い込み」は強まっていた。そして1949年の東西ドイツの分離独立からは、東側の境界線は東ドイツ・チェコスロヴァキア・ハンガリー・ユーゴスラヴィアの西部国境を指すこととなり、実際に鉄条網と監視装置が設定されて国境の往来はできなくなった。この「鉄のカーテン」が開けけられるのは、1989年のハンガリー政府によるオーストリアとの国境の開放からであり、それが一気に東欧革命を誘発しすることになる。
資料 チャーチルの鉄のカーテン演説 
「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステにかけて、大陸を遮断する鉄のカーテンが降ろされたのであります。この一線を境に中部および東部ヨーロッパの古い諸国の首都が隠されてしまいました。ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィーン、ブダペスト、ベルグラード、ブカレスト、ソフィアという名高い首都とそれを中心にした住民がすべて、いわばソ連圏にはいり、いずれもなんらかの形でソ連の影響ばかりでなく、非常に強力な、しかも多くの場合ますます厳しさの加わるモスクワからの統制を受けているのであります。アテネだけが――不滅の栄誉をになうギリシアの首都とあって――英、米、仏の監視下の選挙で自由に将来を決定できることになっております。ソ連支配下のポーランド政府はドイツに対して大がかりな不法侵入を促され、現在数百万のドイツ人に対して無残な、予想もしなかったような集団追放が行なわれております。東ヨーロッパ諸国では、いずれもきわめて小規模であった共産党が、いまや優位に立ち、実力以上の権力を与えられて、いたるところで全体主義支配の確立をはかっております。ほとんどあらゆる場合に警察が幅をきかせ、これまでのところチェコスロバキア以外には、真の民主主義は見当たらないといった状況であります。」<チャーチル『第2次世界大戦回顧録』佐藤亮一訳 河出文庫W p.451>
 ステッテン またはシュテッツィン、シュチェチンなどと表記。オーデル川河口付近の都市で、ポンメルン地方にある。オーデル川はポツダム協定でで暫定的なドイツとポーランドの国境とされた。そのため、冷戦開始時には共産圏の最西端にあるところから、チャーチルの「鉄のカーテン」演説で取り上げられた。
 トリエステ  → トリエステ 
 冷たい戦争 冷たい戦争(冷戦) Cold War は、ジャーナリストのウォルター=リップマンが1947年に『冷たい戦争』刊行してベストセラーになったことから一般に使われるようになった。アメリカとソ連が直接交戦することはなかったが、西側=アメリカ、東側=ソ連にそれぞれ代表される「二つの世界」が、あらゆる面で厳しく対立した第2次大戦後の世界情勢を端的に言い表したもの。しかし両陣営の対立は共にドイツ・日本の枢軸陣営と戦っていた第2次大戦中に始まり、1945年のヤルタ会談での米ソの戦後世界のいわば分割協定から始まるとされる(ヤルタ体制)。ポーランド問題など大戦終結前から両者の対立は抜き差しならぬものがあったが、戦後はヨーロッパでのドイツ問題とアジアにおける朝鮮問題で深刻さの度合いを増していった。「冷戦」という言葉が生まれたのは1947年ごろからで、この年ソ連・東欧圏の共産主義勢力がギリシア、トルコ方面に伸張することを恐れたアメリカのトルーマン大統領は「封じ込め政策」を採ったあたりに始まる。同年のアメリカのマーシャルプランと、それに対抗する1949年のソ連・東欧圏のコメコンの発足は、経済面でも両陣営の対立を明確にした。さらに1948年頃からのソ連の核兵器開発によってさらに緊張は高まり、1949年の中華人民共和国の成立でアジアにおいても対立は深刻化、1950年の朝鮮戦争はソ連の正式な参戦はなかったが事実上両陣営の直接対立となった。日本も日米安保条約のもと再軍備させ、西側陣営に組み込まれた。西ドイツも1955年に再軍備を実現、東西対立はNATO対ワルシャワ条約機構という二大陣営の対立という図式となった。50年代後半、核兵器開発競争の激化が懸念されて核兵器反対の声が世界的に強まったこともあり、またソ連でもスターリンの死後の政策が転換して平和共存路線がとられ、一時「雪どけ」の時期があったが、その後も61年のベルリンの壁建設、62年のキューバ危機、65年からのベトナム戦争と局地的な対立が続く。この間を”冷たい平和”の時期とも言う。しかし米ソ両軍事大国の軍事費優勢の経済はそれぞれ行き詰まり、アメリカは貿易赤字・財政赤字に苦しみ、ソ連は硬直した共産党官僚支配のもとで経済が停滞し、さらに一方で欧州経済の復興と統合の進捗、日本経済の繁栄、中ソ対立、アジア・アフリカ諸国の台頭、アラブ・イスラエルの対立の深刻化など、米ソ二極構造を大きく揺るがすことなった。決定的な転換は、1989年に始まるソ連東欧圏の社会主義体制の崩壊であり、同年に開催されたアメリカのブッシュ大統領(父)とソ連のゴルバチョフ書記長のマルタ会談で冷静終結が宣言されることとなった。
 西側  アメリカ・イギリスなど、資本主義・議会制民主主義の陣営
 東側  ソヴィエト連邦・東欧諸国など、社会主義・共産党による一党独裁体制の陣営
 冷戦  → 冷たい戦争
a トルーマン=ドクトリン 1947年3月、アメリカ大統領トルーマンが議会に向けて出した宣言。第2次世界大戦後、東欧諸国が共産化し、その脅威がギリシア・トルコに及んだことに脅威を感じたアメリカが、ソ連を中心とした共産圏を明確に敵視し、その封じ込めをはかる世界政策(封じ込め政策)をとることを宣言したもの。具体的には、ギリシアに対する軍事支援をイギリスが断念したことを受けて、その肩代わりとして4億ドルの援助を提案した。トルーマン大統領は共産主義に脅威について、次のように述べている。
「世界の幾多の国民が最近自らの意志に反して全体主義的体制を強制されました。合衆国政府は、ポーランド、ルーマニア、ブルガリアにおいて、ヤルタ協定に違反しておこなわれている強制と脅迫に対して、しばしば抗議をおこないました。私はまた多数の他の国家においても同様の情勢があることを述べなければなりません。」
また、アメリカが支援しなければならないのは、「多数者の意志に基礎をおき、自由な諸制度、代議政府、自由な選挙、個人の自由の保障、言論と信教の自由、そして政治的圧政からの自由によって特徴付けられる」自由主義陣営であり、それに対してソ連は「多数者を力によって抑圧する抑圧する少数者の意志に基礎をおいている。それは恐怖と圧政、統制された出版と放送、仕組まれた選挙、そして個人の自由の圧迫の上に成り立っている」社会であると違いを鮮明にし、「武装した少数派や外部の圧力による征服の意図に抵抗している自由な諸国民を援助することこそが、合衆国の政策でなければならないと信じる」とした。<この部分、西崎文子『アメリカ外交とは何か −歴史のなかの自画像』2004 岩波新書 p.129 による>
この宣言は、いわばソ連に対する「冷たい戦争」開始を告げる宣戦布告となったもので、以後半世紀にわたる冷戦時代の幕開けをつげるものとなった。その具体化が、同年7月に発表されたマーシャル=プランであり、ヨーロッパにその態勢を作り上げたのが1949年のNATOの創設であった。
トルーマン=ドクトリンの意義 「この演説に示された世界認識は、モンロー大統領に遡るアメリカ外交伝統の思考様式を、冷戦の文脈の中で捉え直したものといえよう。かつて、モンロー大統領が世界を絶対王政のヨーロッパと共和制のアメリカとに二分したように、トルーマンは20世紀の世界を圧政と自由とに二分していたからである。・・・同時に、トルーマン=ドクトリンは、「二つの世界」という現実を見据えた上で」、民主主義のもとに「一つの世界」を作りだそうとしたウィルソンの理念を焼き直したものでもあった。アメリカはドイツ国民を含む世界の抑圧された人々の解放のために戦うのだと宣言したウィルソンと同様に、トルーマンは、圧政に抗う自由な諸国民を援助することこそがアメリカの政策であると訴えた。・・・ウィルソンの外交理念は、トルーマンによって共産主義に対する宣戦布告へと転化されたのであった。・・・・トルーマン=ドクトリンに見られる世界認識は、以後半世紀にわたってアメリカ外交を支配し続けることになった。・・・このような分かりやすい、しかし図式的な世界観は、アメリカ外交を著しく硬直化させる結果を招いた。」<西崎文子『アメリカ外交とは何か −歴史のなかの自画像』2004 岩波新書 p.127-131>  → アメリカの外交政策
b ギリシア(第2次大戦後)ギリシアは第2次世界大戦中、右翼軍事政権が成立、1940年にはイタリア軍の侵攻を撃退したが、ナチス・ドイツがバルカンに進出してくるとそれに屈服し、国王は亡命、国土はドイツ、イタリア、ブルガリアに三分された。国内では共産党のレジスタンスが組織され、当初イギリスもソ連もそれを支援した。44年にドイツ軍が撤退すると、10月、チャーチルとスターリンは「パーセンテージ協定」でルーマニアはソ連が、ギリシアはイギリスがそれぞれ90%支配、ユーゴスラヴィアとハンガリーは50%ずつ、という分割支配を約した。この協定に基づきギリシアを管理することとなったイギリスは、国王の復帰を策したが、共産党勢力などが抵抗し、1946〜49年までイギリスに後押しされた国王派と共産党勢力による激しい内戦となった。内戦に手を焼いたイギリスはギリシアから撤退、代わってトルーマン=ドクトリンを掲げたアメリカが介入し、共産党勢力を徹底的に弾圧し、内乱を終わらせ、国王を復帰させた。それ以後、ギリシアはトルコとともに東ヨーロッパのソ連圏に対峙する最前線の西側国家としてNATOに加盟し、軍事体制強化が続く。→ ギリシアの民主化  現在のギリシア
Epi. 映画『旅芸人の記録』 1975年に作られたギリシアの映画作家テオ=アンゲロプロスの『旅芸人の記録』は、旅芸人一座を通して、第2次大戦前後のドイツ、イギリス、アメリカの支配、軍部・王政派と共産党ゲリラの抗争といったギリシア現代史が描かれている。4時間を超える長大な作品で、描写も淡々としていて最後まで見るのはたいへんかもしれないが、1カットごとに時代を感じさせる見応えのある作品である。出てくる年代をメモしながら観ると、ギリシア現代史の勉強になる。
c トルコ(第2次大戦と戦後)第1次世界大戦後にオスマン帝国が崩壊してトルコ共和国が成立し、ケマル=パシャ(アタチュルク)のもとで近代化、世俗化(イスラーム教による宗教的統治の否定)が図られてきた。第2次世界大戦が勃発すると、はじめ中立策をとり、連合国の勝利が確実となった1945年2月に対ドイツ、対日本の宣戦布告を行い、連合国に加わった。
戦後はバルカン半島と東北方面でソ連に接していることから、アメリカはギリシアと共にトルコの共産化を恐れ、1947年にトルーマン=ドクトリンを発表して、ソ連に対する封じ込め政策にトルコを組み入れた。トルコ側にもロシア以来のソ連に対する敵対心が強いため、戦後トルコは西側の一員に組み込まれることとなった。さらにマーシャル=プランを受け入れて経済を再建し、朝鮮戦争にも軍を派遣したため、ソ連等の関係は悪化し、1952年にはギリシアと共に北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。さらに1955年にはバグダード(中東)条約機構に加盟し、ソ連包囲網を強化した。1959年にイラクが脱退して中央条約機構に改組されると、その本部を首都アンカラに置いた。 →  現在のトルコ共和国
d 「封じ込め政策」 アメリカの外交官のケナンがXの名で発表した論文で提唱したもので、トルーマン大統領が採用し、ソ連の勢力拡大による世界の共産主義化を恐れ、それを防止するために、ソ連=共産圏諸国に対して政治、経済、軍事などあらゆる面で封じ込めるべきであるという外交基本政策。1947年3月のトルーマン=ドクトリン、同年7月のマーシャル=プラン、49年の北大西洋条約機構の成立などの一連のアメリカ主導の政策を言う。 → 「巻き返し政策」  
Epi. アメリカ外交の方向を決めたミスターX アメリカの雑誌『フォーリンアフェアーズ』1947年6月号に掲載された、匿名Xの論文「ソヴィエトの行動の源泉」は、「われわれが、現に見ているソヴィエト権力に固有な政治的性格は、イデオロギーと環境とによって産み出されたものである。」と述べ、イデオロギーはマルクス=レーニン主義であり、その要点はプロレタリア革命による資本主義の死滅というものである、そして環境から産み出されたものがスターリンの独裁体制−秘密警察による抑圧体制−であるととらえた。そして「これらの事情からみてアメリカの対ソ政策の主たる要素は、ソ連邦の膨張傾向に対する長期の、辛抱強い、しかも確固として注意深い封じ込め(containment)でなければならない」と結論づけた。この論調は大きな反響を呼び、トルーマン大統領の「封じ込め政策」として実行された。このミスターXは、ジョージ=ケナンという国務省政策企画委員長を務める外交官だった。ケナンは戦前から外交官としてソ連・モスクワで勤務していた。この論文で脚光を浴びて1952年に駐ソ連大使として赴任したが、ソ連政府は”好ましからざる人物”であるとしてアグレマン(大使として承認すること)を撤回した。<ケナン『アメリカ外交50年』初版1951 岩波現代文庫2000 p.177>
e マーシャル=プラン 1947年7月、トルーマン政権の国務長官マーシャルが発表した、ヨーロッパ経済復興援助計画。ヨーロッパ諸国の戦後復興にアメリカが大規模な援助を提供し、経済を安定させて共産主義勢力の浸透を防止する狙いであった。これは、トルーマン政権の「封じ込め政策」の一環であり、共産主義の脅威に対抗するものであった。その受入をめぐり、ヨーロッパ諸国は対応が二分され、西側諸国は受け入れ、東側諸国は拒否した。またチェコスロヴァキアはいったん受入を表明したがソ連の圧力で撤回し、それをきっかけに共産党政権が成立した。受け入れた西側諸国には1948年に受入機関としてヨーロッパ経済協力機構(OEEC)を組織し、総額100億ドル以上の援助を得て、イギリス、フランス、西ドイツ、イタリアなどが大戦での経済基盤の破壊を克服して、復興を成し遂げることができた。ソ連はマーシャル=プランの受入で動揺した東側諸国を引き締めるために、1947年9月にコミンフォルム(共産党情報局)を結成、さらに49年には経済相互援助会議(COMECON)を結成、こうして冷戦構造は本格化した。 → アメリカの外交政策
マーシャル=プランの意義:マーシャル=プランには次のような注目すべき意義がある。
ヨーロッパの復興をもたらす重要な要素となった。第2次世界大戦で大きな被害を受け、基盤が破壊されていたヨーロッパ経済を復興させることとなった。イギリスの外相ベヴィンは「溺れゆくものへの命綱」だといい、敗戦国であった西ドイツとイタリアがこの援助をバネにに「奇跡の復興」とげた。
東西冷戦体制を固定化させることとなった。支援の対象としてソ連と東欧諸国をも含んでいた。少なくとも建前は。結局、ソ連のスターリンはマーシャル=プランの本質はアメリカ帝国主義による世界支配の一環であると判断して、その受け入れを拒否し、東欧諸国にも圧力をかけて受け入れを拒否させた。結果的に、東西陣営の対いつを際立たせることとなった。
ヨーロッパ統合へのきっかけとなった。アメリカは支援を押しつけと捉えられることを恐れ、ヨーロッパ側が自主的な受け入れ体制を作ることを条件とした。そのために作られたのが、ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)であり、ヨーロッパ統合への動きにもつながった。
アメリカ合衆国の伝統的な孤立主義外交(モンロー主義)を完全に脱することとなった。第2次世界大戦中の武器貸与法や、国際連合加盟に対しても、アメリカ国内にはなおも反対する保守的な勢力(主として共和党)があったが、マーシャル=プランに対しても保守派の反対が予想された。しかし、マーシャルおよびトルーマンらは、このプランの人道的な復興支援という面を強調し、世論の支持を取り付けた。議会審議も難航が予測されたが、48年にチェコスロヴァキアの共産党クーデターが起きると共産主義への危機感が強まり、上院では賛成69、反対17、下院では賛成329、反対74という圧倒的な賛成で承認を受けた。こうしてアメリカ合衆国の戦後の世界政策が一歩踏み出された。
アメリカ経済へ環流するしくみであった。このプランで提供された資金の多くは使途を指定され、生産に必要な機械類や生活に必要な農作物に限定されており、それらはアメリカ産のものを買うことになるので、結果として資金はアメリカに環流する仕組みになっていた。ヨーロッパ経済が復興しなければ、ヨーロッパ各国がドル(外貨)準備ができず、アメリカの輸出もできなくなることになる。ヨーロッパを復興させることはアメリカ経済にとっても不可欠だった。
マーシャル=プランの援助金額:実際に援助が始まった1948年から、終了した1951年6月までの間の援助金額総額は、102億6000万ドルであり、そのうち91億2800万ドルが贈与(返済の義務がない)であった。国別では、イギリス(26億ドル)、フランス(20億ドル)、西ドイツ(11億ドル)、イタリア(10億ドル)が多く、次いでベルギー、オーストリアなどにトルコを含め、東欧諸国とフランコ独裁下のスペイン、中立国スイスを除いた国、地域すべてに及んだ(援助金額については136億ドル説や120億ドル説などもありはっきりしない)。
マーシャル=プランの終了朝鮮戦争が起こり、東西冷戦が激化するなか、アメリカの対外援助が経済援助と軍事援助を一体化させることとなった。1951年10月の相互安全保障法(MSA)の成立に伴い、MSAに統合されることとなり、1952年には終了した。MSAは経済援助の被援助国に防衛協力の義務を負わせるもので、より軍事色の強い援助体制と言うことができる。<以上この項、永田実『マーシャル=プラン』1990 中公新書 などによってまとめた>
 マーシャル マーシャル(G.C.Marshall)はもとは軍人で、アイゼンハウアーのもとで対ドイツ作戦に従事し元帥まで昇進した。戦後はトルーマン大統領の下で国務長官をつとめ、1947年にヨーロッパの経済復興計画であるマーシャル=プランを打ち出し、それが冷戦構造の枠組みを作ることとなった。朝鮮戦争期の50〜51年は国防長官を務め、トルーマンにマッカーサー解任を進言したと言われる。そのため一時マッカーシズムによる攻撃にさらされることとなった。1953年に、ヨーロッパ復興の功績により、ノーベル平和賞を受賞している。
f ヨーロッパ経済復興援助計画 1947年、アメリカ大統領トルーマンの下で国務長官であったマーシャルが提案したマーシャル=プランのこと。第2次大戦後のヨーロッパ経済の復興を支援する目的で、約100億ドル以上の資金、物資がヨーロッパ諸国に提供され、大きな成果を上げた。この復興計画の受け皿として、ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)が結成された。その一方で、反発したソ連は、49年に共産圏の経済協力をすすめるべく、コメコンを発足させた。
g ヨーロッパ経済協力機構(OEEC) ヨーロッパ経済協力機構。Organization for European Economic Cooperation 1948年4月、アメリカのマーシャル=プランの受入機関として、ヨーロッパ16ヵ国で結成された。これらのOEEC諸国はマーシャル=プラン受入によって経済復興をとげ、1951年頃ほぼ戦間期の最高水準を超えた。復興が一段落した1960年には役割を終えたとして解消し、翌61年に、社会主義圏との経済競争への対処を主目的とする経済協力開発機構(OECD)、Organization for Economic Co-operation and Divelopment に改組され、アメリカとカナダも加盟した。冷戦後は、途上国支援が主目的になってきている。
 ソ連・東欧圏の結束 第2次世界大戦末期の対ドイツ戦でソ連軍を侵攻させた地域を、大戦後にソ連が次々と社会主義政権を樹立させ、アメリカを中心とする資本主義陣営に対抗する形成となった。当時ソ連はスターリン独裁体制下にあり、これらの地域にも教条的なスターリン主義体制といわれる、一党独裁と官僚主義、監視国家、反対派に対する弾圧(当時はユーゴスラヴィアのティトーに追随する一派がティトー派として排除された)、国民の市民的自由の剥奪(言論弾圧、出版の検閲制度など)、統制的な計画経済、などが行われることとなった。また、西側の結束と攻勢に対して、コミンフォルムの結成、ワルシャワ条約機構の形成など、結束=ソ連共産党の統制の強化を図る措置がとられた。
これらの東欧諸国の結束もユーゴスラヴィアの脱退や、中国共産党との対立の余波でアルバニアが離脱するなど、必ずしも一枚岩ではなかった。また1953年のスターリンの死去、さらに56年のソ連でのスターリン批判後は、東欧諸国の中にも自由化を求めて立ち上がる動きが出てきて、そらは当初はいずれも抑圧されていたが、1989年に一気に東欧革命として爆発し、東欧社会主義圏は崩壊する。
a コミンフォルム 1947年に結成された共産党情報局(Cominform)の略称。正式には、Information Bureau of the Communist and Worker's Parties 従って、共産党・労働者党情報局となる。アメリカのマーシャル=プランによって東ヨーロッパ諸国が動揺することを防止し、統制を強めることを強めるためにソ連が結成した共産党の国際組織。当初参加したのは、ソ連・ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・ポーランド・チェコスロヴァキア・ユーゴスラヴィアの東欧諸国の共産党(党名は国によって異なる)と、フランス共産党イタリア共産党の西側諸国の共産党を加えて9国の共産党。事務局は最初最も急進的であったユーゴスラヴィアの首都ベオグラードに置かれたが、翌48年にはティトーの率いるユーゴスラヴィア共産党は民族主義的に変更していると批判され、除名された。ソ連のスターリン体制のもとで、コミンフォルムはソ連共産党の他国共産党への支配権を強める機関とされた。しかし、1953年のスターリンの死後、その力は弱まり、1956年2月にスターリン批判が行われた直後の4月に廃止された。
b 経済相互援助会議(コメコン) COMECON Council for Mutual Economic Assistance 1949年、ソ連、アルバニア、ブルガリア、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ポーランド、ルーマニアの東側社会主義圏諸国が結成した経済相互援助に関する会議。アメリカのマーシャル=プランに対抗して組織されたもの。1950年代を通じ、社会主義圏の工業化やインフラ整備をめざしたが、1953年のスターリン死後は、それまでソ連とそれぞれの国の二国間の経済関係の取り決めであったものを、多国間の経済協力、生産技術の交流、各国の五カ年計画の調整などを行う機構に変化した。またフルシチョフは、1958年の西側のヨーロッパ経済共同体(EEC)の成功に刺激されて、コメコンを超国家的な機構に格上げし、加盟国の分業によって生産性を上げる構想を打ち出したが、ルーマニアは独自の工業化を主張してその方針に反対するなど、足並みの乱れが始まった。また中ソ対立の余波から1962年にアルバニアが脱退し、次第に活動は停滞した。1989年の東欧革命の激発を受けてて事実上機能は停止し、1991年に正式に解散した。
 NATOの結成 アメリカの「封じ込め政策」が始まり、東西冷戦が深刻化する中、1948年2月、チェコスロヴァキアでクーデタが発生し、共産党政権が成立すると、それに衝撃を受けたイギリス(アトリー内閣)は3月、フランスおよびベネルクス三国と西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)を結び、共同防衛をとることとした。6月にはアメリカ、イギリス、フランスの西側が占領地域である西ドイツの経済統合をめざして通貨改革を実行すると、ソ連はベルリン封鎖を強行し、対立は頂点に達した。1949年1月には東側諸国はCOMECONを結成、ソ連の核開発が進み、またアジアでは国共内戦で共産党の優位が明らかになっていた。そのような情勢の中で、西欧同盟諸国(ブリュッセル条約加盟国)は西側の防衛力強化に迫られ、アメリカに働きかけて、北大西洋でソ連圏を包囲する軍事同盟網を結成する構想が生まれた。1949年4月、西欧同盟諸国にアメリカ合衆国、カナダ、ノルウェー、デンマーク、アイスランド、イタリア、ポルトガルが加わり、12ヵ国によって北大西洋条約を締結し、条約に基づいて北大西洋条約機構(NATO)が発足した。
a チェコスロヴァキア(クーデタ)1948年2月にチェコスロヴァキアでマーシャル=プラン拒否を掲げる共産党が権力を奪った一種のクーデタ。二月事件とも言う。チェコスロヴァキアは大統領ベネシュの下で議会制民主主義が守られ、共産党も含む連立内閣が成立していた。1947年6月にアメリカが発表したマーシャル=プランの援助計画に対し、7月にチェコスロヴァキア政府はその受入を決定した。しかし、ソ連の「助言」によってすぐにそれを取り消した。1948年2月、撤回に対する批判が強まると共産党は取り締まりを強化し内務省の人事に介入した。それにたいして共産党以外の閣僚が辞表を提出。共産党は大規模な街頭デモを組織して圧力をかけ、大統領ベネシュに辞表の受理を迫った。内戦を恐れたベネシュは辞表を受理、共産党単独政権となった。5月には共産党主導で新憲法が制定され、ベネシュは署名を拒んで辞任し、共産党のゴッドワルトが大統領となった。共産党政権を成立させた一種のクーデタが成功したといえる。
1948年のチェコスロヴァキア・クーデタの成功は、画一的なスターリン主義体制が東側諸国に導入される契機となった。また西側でもチェコスロヴァキアの共産化に大きな衝撃を受け、西ヨーロッパ連合条約による西欧同盟を結成し集団防衛体制を作り上げた。 → その後のチェコスロヴァキア  チェコ事件
Epi. 疑惑の外相自殺 1948年のチェコスロヴァキア=クーデター(二月事件)の時、外務大臣マサリクはプラハの執務室の窓の外で死体となって発見された。当初、自殺とされたがその真相は不明のままに終わった。後に、1968年のチェコ事件の時、マサリクの死にソ連の秘密警察の関与を示唆する記事が新聞に掲載されたが、「プラハの春」の自由化運動も弾圧され、結局はうやむやに終わった。このマサリクは、チェコスロヴァキア建国の父と言われたマサリクの子。
b 西ヨーロッパ連合条約 1948年3月、イギリス、フランスおよびベルギー、オランダ、ルクセンブルク(ベネルクス三国)の五ヵ国で締結された条約。ブリュッセル条約または西欧同盟条約ともいい、五ヵ国は西欧同盟(西ヨーロッパ連合)を結成し、各国の外相からなる理事会を設け、国防相、蔵相がそれぞれ防衛と財政について協議し、経済・社会・文化での協力と共に集団防衛をはかった。
第2次世界大戦後、ヨーロッパ諸国連合の必要を提唱したのは46年9月の前イギリス首相チャーチルの演説であった。48年2月にチェコスロヴァキア共産党クーデターが成功したことに衝撃を受けたイギリスが主導し、共産圏の武力侵攻に対抗する目的と同時に、ドイツ軍国主義の復活を阻止する目的もあって結成されたものであった。ソ連は自国を仮想敵国とする防衛同盟が結成されたことに反発して、ドイツ統治の連合国管理委員会から代表を引き上げ、ドイツ統一問題の解決は遠のき、分裂の事態がはっきりした。
 西欧同盟(西ヨーロッパ連合)(WEU) 1948年3月の西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)によって成立した、西ヨーロッパ5ヵ国による集団防衛のための同盟。当初は西欧同盟、または西方連合といわれた。同盟の目的は、
・共産圏(ソ連・東欧)からの武力侵攻に対する防衛。
・ドイツ軍国主義の再現の阻止。
西欧同盟は、翌年には対ソ防衛網を北大西洋に拡大し、アメリカを加えた北大西洋条約機構をさらに結成した。
冷戦の進行に伴い、西ドイツの加盟と再武装が問題になると、1950年に西ドイツを含めた「欧州軍」構想が浮上したが、いかなる形でも西ドイツの武装に不安を持つフランス議会で承認されず、その構想は不成功に終わった。ついでイギリスのイーデン首相の構想により、西ドイツをNATO軍の一員として再軍を認め、同時に西欧同盟に加盟させるという案が生まれ、アメリカも支持した結果、1954年10月にパリ協定が成立した。これによって西ドイツの加入を認めたので「ドイツ軍国主義の再現の阻止」という目的の一つが無くなり、性格が変化したため、ブリュッセル条約を修正し、NATOとの緊密な協力をかかげた。ドイツとともにイタリアも加盟することとなり、政道同盟は発展的に解消し、7ヵ国による西ヨーロッパ連合=WEU(Western European Union)が成立した。WEUはNATOの中のアメリカに対する西ヨーロッパ諸国を代表し、冷戦時代には重要な存在であったが、ヨーロッパの経済統合、政治統合が進む中で、2000年5月にEUに統合され、消滅した。 
c 北大西洋条約機構(NATO)1949年4月4日にアメリカのワシントンで締結された北大西洋条約(ワシントン条約とも呼ばれることがある)にもとづいて、当初12ヵ国が加盟して結成された軍事同盟。North Atlantic Treaty Organizasion 通称NATO。
アメリカの「封じ込め政策」の一環としてイギリス、フランスなど西ヨーロッパ諸国にアメリカ合衆国、カナダが加わったてい。北大西洋条約第5条に「(条約加盟国の)一国ないし二国以上に対する武装攻撃は全ての(加盟)国に対する攻撃と見なす」と規定しており、それにたいしては国連憲章第51条で認められた集団的自衛権を行使すると定めた。その目的は、名指しはされていないがソ連および共産圏(東側)を仮想敵勢力としてその武力侵攻から共同防衛をはかることにあった。1955年に西ドイツが加盟すると、ソ連は対抗してワルシャワ条約機構を結成した。NATO軍は冷戦期間はソ連=ワルシャワ条約機構と対峙する抑止力として機能したが、91年のソ連崩壊、冷戦終結を受けてその機能を変質させてヨーロッパ=北太平洋地域全体の安全保障機構に移行し、旧東ヨーロッパ諸国の加盟を進めた。ユーゴスラヴィア内戦では平和維持軍を派遣し、2002年5月にはロシアの準加盟を承認した。NATO本部は当初パリに置かれたが、66年にフランスが軍事部門から脱退(95年に部分的に復帰)したため、現在はベルギーのブリュッセルに置かれている。なお、フランスは2009年3月にサルコジ大統領がNATO軍事機構に完全復帰することを表明している。  → NATOの結成  NATOの目的  NATOの加盟国
冷戦終結後のNATO:1990年の東西ドイツの統一、同年のマルタ会談による冷戦の終結を受け、NATOは大きく変容し、1990年の7月「ロンドン宣言」で「ワルシャワ条約機構」と敵対することを放棄した。そのワルシャワ条約機構は91年3月に消滅した。にもかかわらず、NATOが存続しているのは、統一ドイツの「ひとり歩き」をさせず、NATOの枠組みの中に置いておくことが意図されている。<佐瀬昌盛『NATO』1999 文春新書 p.22> → 現在のNATOの変質
アメリカの孤立主義放棄:ファシズムから自由と民主主義を守るという名分によって第2次世界大戦に参戦(日本の真珠湾攻撃がその口実を与えた)したアメリカ合衆国は、その使命感から国際連合の設立をリードした。戦後の冷戦が深刻になると、共産主義との対決という名目のために、従来のアメリカ外交の国是であったモンロー主義(孤立主義)を放棄して集団的自衛権をかかげ、1949年の北大西洋条約機構(NATO)をはじめ、50年代には中華人民共和国、朝鮮戦争という情勢に対応してANZUS条約、日米安保条約、SEATO結成など、ソ連包囲網を形成する。この転換を国内的に承認したのが、1948年のヴァンデンバーグ決議だった。
ヴァンデンバーグ決議 1948年6月11日、アメリカ合衆国上院外交委員長ヴァンデンバーグが主導して上院で可決したもので、北大西洋条約を締結し、NATOに加盟する前提として、アメリカが孤立主義を捨てて集団防衛条約に参加すること、その際に締約国にはアメリカが攻撃された場合に集団的自衛権を行使する決意を表明することを条件としてあげた。以後、アメリカの相互防衛条約一般の基準とされている。<佐々木隆爾『新安保体制下の日米関係』2007 山川出版社 日本史リブレット67>
d NATOの目的 現実的には東側(ソ連および東欧諸国の共産圏)からの武力侵攻に対する共同防衛をはかる軍事同盟。しかし、冷戦終結後もNATOは存続し、その目的も大きく変化している。
北大西洋条約の前文には、「国際連合憲章の目的及び原則に対する信念並びにすべての国民及び政府とともに平和のうちに生きようとする願望を再確認」し、「民主主義、個人の自由及び法の支配の諸原則の上に築かれたその国民の自由、共同の遺産及び文明を擁護する」ことを掲げ、「北大西洋地域における安定及び福祉の助長に努力」し、「集団的防衛並びに平和及び安全の維持のためにその努力を結集する決意を有する。」と述べている。
また第5条には、「ヨーロッパ又は北アメリカにおける一又は二以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなすことに同意する。したがって、締約国は、そのような武力攻撃が行われたときは、各締約国が、国際連合憲章第51条の規定によって認められている個別的又は集団的自衛権を行使して、北大西洋地域の安全を回復し及び維持するためにその必要と認める行動(兵力の使用を含む。)を個別的に及び他の締約国と共同して直ちに執ることにより、その攻撃を受けた締約国を援助することに同意する。」とある。
結成時の目的:あきらかにソ連および東欧圏の武力侵攻に対する西側の共同防衛が目的であったが、すでに存在した西欧同盟に加えてアメリカが加わったのは、西欧諸国としてもアメリカの軍事力に依存せざるを得ず、アメリカをヨーロッパ防衛の盾としてつなぎ止めておく必要があったからである(アメリカ国内には伝統的な孤立主義が上院などに根強く、NATO加盟反対の意見もあったが、トルーマン、アイゼンハウアー政権はいずれもNATOを支持した)。
西ドイツ加盟による目的の変化:1955年、西ドイツがNATO加盟を条件として再軍備を認められたことは、NATOの目的の中にドイツを西側陣営にひきとめておくという目的が含まれることになった。(そのため冷戦後もNATOは続いたと言える)。1952年からNATO初代事務局長を務めたイギリスのイスメイ卿はNATOの目的を「アメリカ人を引っ張り込み、ロシア人を閉め出し、ドイツ人を押さえ込んでおく(keep the American in,the Russian out and the Germens down)」ことだと喝破した。<佐瀬昌盛『NATO』1999 文春新書 など>
 → 冷戦終結後のNATOの変質
e NATOの加盟国 1949年の発足時にはアメリカ合衆国・イギリス・フランス・イタリア・ベルギー・オランダ・ルクセンブルク・ポルトガル・デンマーク・ノルウェー・アイスランド・カナダの12ヵ国が原加盟国。北太平洋に位置し、ソ連東欧圏を包囲する位置にある諸国が加盟した。朝鮮戦争後の1952年にギリシア・トルコが加盟し、地中海東部にも地域が広がる。さらに1955年には西ドイツが加盟し、ヨーロッパで東西陣営が直接対峙することとなった。ただし66年にはフランスが軍事部門から脱退した。(フランスは北大西洋条約から脱退したのではない。また95年には国防相会議参加などの形で部分復帰した。2009年3月には完全復帰した。)その後、85年にスペインが加盟し、16ヵ国体制となった。冷戦終結後には旧東欧圏の加盟が始まり、NATOの東方拡大が進んだ。1999年のポーランド・チェコ・ハンガリー、2004年にルーマニア・ブルガリア・スロヴァキア・スロヴェニア・エストニア・ラトヴィア・リトアニアを加えて現在は26ヵ国となっている。 → NATOの東方拡大
Epi. ポルトガルはよし、スペインはだめ NATO加盟国の中に小国が含まれているが、それぞれ加盟理由がある。デンマークはグリーンランドがその領土であり、北極海をはさんでソ連と対峙する位置にあるからであった。デンマークは加盟には踏み切ったが平時での他国軍の駐留は認めていない。カナダ、アイスランドやノルウェーも北極海をはなんでソ連の直接の脅威に対抗するには必要な地域であった。イタリアは北大西洋とは離れているが、将来NATOの東地中海方面への拡大が予定されていたので加盟した。意外なのがポルトガルだが、同じく大西洋に面したスペインは加盟しないにもかかわらず、加盟することとなった。その理由は、ポルトガル領のアゾレス諸島が大西洋上の重要な戦略基地であったからである。スペインは当時、フランコ独裁下にあって、NATOの掲げる「自由と民主主義」の理念に合致しないので除外された。もっともポルトガルも当時はサラザール政権という独裁政治が行われていたが、軍事的な理由を優先して加盟を認めた。当時はポルトガルはNATOの恥部といわれたのである。<佐瀬昌盛『NATO』1999 文春新書 p.51>
 カナダ(戦後〜現在)


カナダで最も一般的な樹木のカエデの葉(メイプルリーフ)を図案化したもの。国旗制定委員会での審議を経て、1964年12月に決定され、1965年2月15日に国旗としてはじめて掲揚された。
第2次世界大戦でカナダはイギリス連邦の一員として直ちに参戦し、ヨーロッパ戦線に派兵、ノルマンディー作戦にも参加した。アジアではイギリス領香港の防衛に参加し、日本軍の攻撃を受け、捕虜となったものもいる。
戦後のカナダは連合国の一員であったことから国際連合には当初から参加した。米ソ冷戦が決定的になると、カナダは北極海をはさんでソ連と対峙するという最も直接的にソ連の脅威を受ける位置にあったので、、1949年に北大西洋条約機構(NATO)が結成されるとその当初から加盟し、西側軍事同盟の一員に組み込まれた。また朝鮮戦争にも軍を派遣し、アメリカ合衆国との連携を強めた。
カナダの真の独立:カナダは1931年のウェストミンスター憲章でイギリスと対等な主権国家となり、実質的に独立していたが、形式的にはイギリス連邦の一員であり、依然としてイギリス国王を君主と仰ぎ、首相とは別に総督(イギリス国王の代理)も存在している。しかし、1952年にはカナダ人の総督が初めて任命され、また1965年にはユニオンジャックを配した国旗に代わって、現在のカエデを図案化したカナダ国旗を制定し、1980年には国歌「オー・カナダ」を選定して独自色を強め、1982年にイギリスの北アメリカ法の改正と、カナダ憲法の成立により、カナダは真の独立国家としての地位を確立した。
二言語主義と多文化主義:カナダはイギリスとフランスの二国によって植民地とされた地域を併せて形成されたという歴史的な背景があり、その二国の文化や伝統はそれぞれ根強く残っている。イギリスは1763年のパリ条約でフランス領を併合したが、フランス語とカトリック信仰に対しては寛容で、その維持を認めたので特にフランス植民地であったケベック地方は現在でもフランス語が使われカトリック信者が多い。1965年のモントリオール万博の頃からケベック民族主義の傾向が顕著になったことをうけ、1969年には英語とフランス語の両語を対等な公用語とする事が定められた。1970年代にはケベック分離主義者のテロ活動が活発になったが、1980年と1992年の住民投票の結果では、いずれも分離独立は否決された。 → ケベック問題
先住民と移民:人権意識が強まるにつれて、先住民族であるインディアンやイヌイットの権利も問題となり、カナダ政府は1999年に先住民の自治権を承認した。またカナダはアメリカと同じように移民を積極的に受け入れたが、1997年の香港返還に伴って、特にバンクーバー周辺では広東語系中国人移民が激増している。カナダはアメリカ合衆国のように国籍を与える条件に英語を話すことなどの条件を付けることなく、移民がそれぞれの独自の文化を維持しながら協力し合う社会の構築を目ざしており、多文化主義がとられている。
 → カナダ(英仏の進出〜イギリス植民地時代)   カナダ(イギリスの自治国〜独立)
・ドイツの分裂
 ベルリン封鎖 1948年6月、西側(アメリカ・イギリス・フランス)が、ドイツの三国占領地域の通貨改革を実施したことに対して反発したソ連が、西ベルリンを封鎖した東西冷戦の象徴的事件
ソ連は西ベルリンに新通貨ドイツマルクが導入されるとだたちに西ドイツからベルリンにつながるすべての道路・鉄道・水路を閉鎖した。ベルリンは4ヵ国の共同管理とされていたが、全体ではソ連占領地域内にあるので、スターリンは閉鎖によって西側三国管理地区(西ベルリン)への食糧・石炭・医療用品・生活用品をストップしてアメリカ軍など西側の占領部隊が撤退せざるを得なくなると考えた。これに対して米軍司令官クレイ将軍は、物資の空輸による補給を決意、「陸の孤島」西ベルリンへの空輸を実施した。このアメリカ空軍による「大空輸作戦」は6月末より15ヶ月にわたり延べ27万回、総輸送量183万トンに達し、西ベルリンの市民生活と占領軍を守った。世界は米ソの全面対決への展開を恐れたが、ソ連のスターリンが譲歩し、国連の場で両国外相による交渉が行われ、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が創立された直後の49年5月11日、ベルリン封鎖を解除した。
a 通貨改革 1948年6月20日、ドイツの西側三国占領地域で新通貨ドイツマルクが発行され、同時に自由価格制がしかれたこと。当時ドイツ全域で流通していた旧通貨(ライヒスマルク)は戦時に膨張して価値が下落していたため経済の復興のためには新通貨の発行が不可欠と考えられていた。ポツダム宣言でも「ドイツを経済的に一体とみなす」とされていたが、西側はソ連が占領地域で土地改革を実施し、社会主義化を進めていることに不信感を持ち、西側占領地域だけの通貨改革に踏み切った。ドイツ・マルクは前年からアメリカで印刷され、暗号名「バード・ドッグ作戦」と呼ばれる輸送作戦で密かに西側地区に運ばれたものであった。ソ連占領地域内にあり4国共同管理下のベルリンでは、6月25日になって西側管理下のベルリン(西ベルリン)で新通貨の流通が始まった。ソ連はこの措置に対し、ドイツを分裂させる暴挙であり、ポツダム宣言違反であるとして抗議し、対抗措置としてベルリン閉鎖を実行した。
実は、同時にソ連占領圏でも新通貨(オストマルク)の発行が行われたが、経済政策上は全く違っていた。西側地域では新通貨発行と同時に、それまでの経済統制をやめ、自由価格制にもどし市場経済を復活させた。このことが西側地域の経済活動を刺激し、「ドイツ経済の奇跡」を実現させた。東側では新通貨は発行されたが統制経済はそのままだったので経済活動は停滞した。<『世界各国史(旧版)ドイツ史』p.472 山川出版社>
b 西ベルリン ベルリンはドイツのソ連占領地域に含まれていたが、1945年6月の4国宣言で、ドイツ全体と同じように4国で分割され、共同管理されることになった。そのうち、ソ連管理地域が東ベルリンで、西側三国の管理地域が西ベルリン。1948年には西側の通貨改革を機に、ソ連によって封鎖されベルリン封鎖がおこった。また1961年には東ベルリン市民が西ベルリンに逃れることが激増し、ソ連は「ベルリンの壁」を築いてそれを防ごうとした。ベルリンの壁が開放されたのは1989年であった。 
 東西ドイツの分離 ベルリン封鎖によって決定的となった西側とソ連の対立は、結局それぞれがドイツで別個な国家の成立をもたらすことになった。1949年、西側地域にはドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連管理地域にはドイツ民主共和国(東ドイツ)がそれぞれ成立し、西は資本主義市場経済、東は社会主義計画経済というまったく違った経済システムとイデオロギーを持った国家が分立、ドイツ民族は二つの国家に分断されることになった。 
 西ドイツ基本法 西ドイツ基本法はボン基本法とも言い、1949年5月に公布された、西ドイツの憲法にあたる最高法規。将来的にはドイツ全域に適用されるべきであると考えられ、それまでは最終的な憲法出はないという意味で「基本法」とされた。西側三国の要請を受けて、三国管理下の各州議会が承認して成立した。特徴は以下のようにまとめられる。
・大統領は連邦議会と各州議会代表の連邦総会で選ばれる間接選挙。
・大統領権限は制限され、首相の権限が強い。(ヴァイマル憲法を反省し、政権の安定を図った)
・民主的かつ社会的連邦国家と規定。
・連邦主義をとる。(連合国の意図で、プロイセン的中央集権国家は否定された)
この基本法によりボンを暫定首都とするドイツ連邦共和国が成立した。1990年にドイツは統一されるが、この「基本法」が憲法として機能している。
a ドイツ連邦共和国 1949年5月に成立した西ドイツ基本法にもとづいて成立した国家。略称西ドイツ。5月に公布された基本法により、8月14日に第1回連邦議会総選挙が行われ、キリスト教民主同盟(CDU)・キリスト教社会同盟(CSU)連合が社会民主党(SPD)を抑え第一党となった。ついで9月12日、連邦議会がデオドール=ホイスを初代大統領に選出、さらに15日にCDU党首のアデナウアーを初代首相に選出した。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)はその後、資本主義市場経済と議会制民主主義、連邦制を原則とした西側諸国の一員として、アデナウアー政権のもと、マーシャル=プランによる援助を受けて経済の復興に取り組み、奇跡といわれる復興を成し遂げた。その間、社会主義体制をとる東ドイツとの関係は次第に悪化、1954年のパリ協定にもとづいて1955年に主権を回復すると共に再軍備を西側諸国から認められ、NATOに加盟した。1961年には東ドイツがベルリンの壁を建設、両者の分離は決定的となった。70年代からは方向転換し社会民主党のブラント政権が誕生、東方外交というソ連・東欧圏との関係改善が始まり、東西ドイツが相互承認、さらに同時に国連加盟を実現させた。この間東ドイツの経済悪化が進み、秘かに西ドイツに脱出する人々が増え、ついに1989年にベルリンの壁が開放され、一気に翌1990年10月3日の東西ドイツの統一実現となった。
b 西ドイツ 1949年に西側管理区域に成立したドイツ連邦共和国のこと。
 キリスト教民主同盟 戦後のドイツに生まれた新しい政党。略称CDU。1945年9月、アデナウアーを党首に結成された。キリスト教という名称は、カトリックとプロテスタントが協力し、キリスト教の精神をバックボーンにするということで、必ずしも宗教的保守派ではない。政策的にはリベラルな議会制法治国家、社会的市場経済、西側との結束を重視する外交を柱としており、自営業、農民、穏健なキリスト教的社会主義者などの幅広い支持を受け、教会組織のネットワークを持つことが力であった。同様のもに「キリスト教社会同盟(CSU)」があるが、これはバイエルン地方のカトリック勢力を中心としており、CDUの姉妹政党という性格があり、ほぼCDU/CSU連合として活動した。CDUはライバルの社会民主党をおさえ、戦後西ドイツの政権を担当し、アデナウアーの指導のもとで奇跡と言われた経済復興を成功させた。その引退後はエアハルトが継承し内閣を組織したが、次のキージンガーは単独では政権が維持できず、社会民主党との大連立内閣となった。その後、1970年代はブラントおよびシュミットと社会民主党主体の連立が続き、1982年に久しぶりにCDUのコールが首相となり、1990年に東西ドイツの統一を実現させた。コール政権の次は社会民主党のシュレーダーに交代し、2005年、CDU党首メルケルが政権を奪回した。
c アデナウアー 戦後西ドイツの首相(在任1949〜63年)として、その「奇跡の経済復興」を指導した政治家。キリスト教民主同盟の指導者。戦前にはケルン市長を務めたがナチスには反対し度々投獄された。ドイツが東西に分離独立するとドイツ連邦共和国(西ドイツ)の初代首相(わずか1票差で選出された。キリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟連合と自由民主党など小政党の連立内閣)となり、アメリカのマーシャル=プランなどの経済援助によってドイツ経済を復興させ、さらにNATO加盟とともに再軍備を認めさせるなど、50年代の冷戦時代のドイツをリードした。彼は一貫して東ドイツを国家として認めず、対話を拒み、西側の一員として西ドイツを繁栄させることを最優先した。その政策は統一に冷淡であると次第に人気を失い、1963年のド=ゴールのフランスと間で独仏友好条約を成立させたのを花道にして引退した。
d パリ協定 1954年10月、パリで開催された米英仏および西ドイツの4ヵ国会議(パリ会議)で成立した、西ドイツの主権回復と再軍備NATOへの加盟を承認した協定。パリ条約とも言う。イギリスのイーデン首相が推進したもので、その要点は、次の三点である。
・西側三国による西ドイツの占領の終了と西ドイツの主権回復。
・従来の西欧同盟(ドイツ軍国主義を警戒して組織された)の解散と、新西欧同盟(旧加盟国に、西ドイツ・イタリアが加盟した「西ヨーロッパ連合」)の結成。
・西ドイツのNATO加盟(およびそれに付随するドイツ再軍備の諸条件)。
西ドイツは、ドイツ連邦議会で批准し、1955年5月5日に発効した。これによって西ドイツは敗戦以来10年で主権を回復し、再軍備を実現させたこととなる。フランスではドイツの再軍備に対する不安が根強く、ようやく僅差(賛成287票、反対260票)で批准された。
また、西ドイツの再軍備とNATO加盟に反発したソ連と東側諸国は、5月5日からわずか9日後に、ワルシャワ条約機構を結成し、西ドイツ・西欧同盟・NATOを仮想敵国とした軍事同盟を立ち上げ、東西冷戦が構造化された。
 再軍備(西ドイツ) 1955年、西ドイツが米英仏三国とのパリ協定を締結、主権回復とともにNATO加盟を条件に独自の軍事力を持つことが認められたこと。西ドイツが西側陣営にくく見込まれるとともに東側を硬化させ、東西冷戦を本格化させた。
ポツダム協定ではドイツは完全な非軍事化がはかられるはずであった。ところがアメリカなど西側諸国は冷戦が進行し、ついに1950年に朝鮮戦争が勃発したことを受け、ソ連=共産圏の西ヨーロッパへの武力侵攻を恐れるようになり、西ドイツを再武装し西側の軍事力に組み込むことを考え始めた(いわゆる「逆コース」が始まる)。また西ドイツのアデナウアーも東ドイツの警察部隊を警戒すると共に、国家主権を回復するために軍隊を持つことを熱望していた。その両者の思惑は50年10月、フランスのプレヴァン外相の「欧州軍」構想として立案され、52年に「欧州防衛共同体(EDC)条約」が締結された。しかし西ドイツは批准したが当のフランス議会がドイツの再軍備に反対して承認せず、「欧州軍」は実現しなかった。続いてイギリスのイーデン首相の構想として西ドイツを西欧同盟に加盟させ、そのもとで主権を回復させて再軍備を認め、ドイツ軍もNATO軍に加えるという案が浮上し、1954年10月、パリで開催された関係国会議でパリ協定が成立し、ドイツの主権回復と共に再軍備が承認された。ドイツ軍はNATOに加盟するにあたり軍備に上限を設け、ABC(A=原子・B=細菌・C=化学)兵器を所有しないことを誓約した。
ドイツの再軍に対し、国内では野党社会民主党は反対し、若者を中心として徴兵制に反対する運動が起きた。しかし主権回復を歓迎する意見が強く、NATO加盟は議会で多数で承認され、1955年5月5日にパリ協定が発効した。ついで国防省が設置され、基本法の国防関係規定も変更が行われて、翌年には一般兵役義務法が連邦議会で成立した。こうして西ドイツ軍は正式には連邦国防軍として再出発することとなった。このドイツ再軍備およびNATO加盟は、東西冷戦を先鋭化させ、55年同月にソ連と東欧諸国はワルシャワ条約機構を結成する。
Epi. 温存された旧ドイツ軍部隊 西側連合国は、ドイツの完全非軍事化に関するポツダム会談の決定を実行しなかったとしばしば批判される。事実、いくつかのドイツ軍部隊を解散しないでおいたのである。武装解除され、連合軍の軍服を着てであるが、将来のソ連との戦争に備えて、東部戦線で経験を積んでいたドイツ兵を「ドイツ労務部隊」として編成していたのである。さらに参謀本部の軍人でもアメリカ軍の情報収集に協力した者もいた。ベルリン封鎖の時に地上で空輸作戦に協力したのも彼らだと言われている。<マーザー『現代ドイツ史入門』1995 講談社現代新書p.131>
e ドイツ民主共和国 ソ連占領地域でもドイツ人の自主的政党が結成された。そのうちソ連と特別の関係があったのが共産党と社会民主党が合同した社会主義統一党であった。当初はその他の政党も存在し、人民議会は選挙で議員を選出すると担ったが、政党はあらかじめ「民主主義ブロック」に加盟させられ、候補者はブロック内で一定比率で割り振られており、有権者は候補者リストに賛否を投じるという選挙法であったので、民意が反映するものではなく、官制政党にとって必ず有利になるやりかたであった。当時、東ヨーロッパの人民民主主義国家では共通してこのような選挙法がとられ、形の上だけの「民主主義」にすぎなかった。1949年10月、人民議会は「ドイツ共和国憲法」を制定、ピーク(社会主義統一党委員長)を大統領、グローテヴォール(同副委員長)を首相に選出した。憲法でも政党ブロック・リスト方式によって議員選出する人民議会を最高機関とする人民民主主義国家となった。ドイツ民主共和国(東ドイツ)は以後、社会主義統一党が体制政党となり、ウルブリヒトが50年から総書記、53年から第一書記、60年から国家評議会議長として実権をふるった。この間社会主義化を推進したが、53年のベルリン暴動のように早くからその体制矛盾は深刻なものがあり、経済停滞が続いた。55年にはワルシャワ条約機構が成立すると翌年正式加盟し、国際政治上も西ドイツと厳しく対立を続ける。61年には東ベルリン市民の西ベルリンへの流出を防ぐため、境界にベルリンの壁を建設し東西冷戦の象徴となった。71年からはホネカーが第一書記として指導したが、経済政策に失敗し、1989年にベルリンの壁が開放され、東欧革命の中で東ドイツ社会主義体制も崩壊し、。翌1990年10月3日のドイツの統一によてドイツ民主共和国(東ドイツ)は実質的に西ドイツに吸収されて消滅した。
f 東ドイツ 1949年10月のドイツ共和国憲法によって成立したドイツ共和国を「東ドイツ」という。首都はベルリン。社会主義計画経済を基本とした人民民主主義国家で、ソ連の衛星国となり、東側陣営の中心勢力の一つであった。なお、戦前には「東ドイツ」は、オーデル・ナイセ川以東を言う地理的概念であったが、戦後はその地域はポーランドに事実上編入されたので、「東ドイツ」はエルベ川からオーデル・ナイセ川に至る、「ドイツ民主共和国」の支配する地域を指すようになった。 
 社会主義統一党 1946年、ドイツのソ連占領地区のドイツ共産党とドイツ社会民主党が合同して成立した政党(SED)。東西分裂後のドイツ民主共和国(東ドイツ)でソ連共産党と連携して権力を独占した政党。その中心的指導者は書記長ウルブリヒトや、東ドイツ首相グロテヴォール(社会民主党出身)ら。ドイツ共産党は単独では支持が得られないため、強制的に社会民主党を併合したとされる。その後東ドイツの権力を独占して次第に硬直化し、70年代はホネカー指導部が経済政策にも失敗して国民の支持を失い、1989年にベルリンの壁開放という社会主義体制の崩壊を招いた。ドイツ統一後は党名を民主社会主義党(PDS)と改称し、統一に対する旧東ドイツの不満を代弁して一定の勢力を維持している。
 ウルブリヒト 東ドイツの社会主義統一党の指導者。戦前からの共産党議員で、ナチス時代はソ連に亡命していた。戦後はドイツ民主共和国(東ドイツ)の党第一書記などを務め1960〜73年は国家評議会議長(国家元首)。東西冷戦時代の東欧社会主義圏の代表的指導者の一人で、常にソ連の同調し、東ドイツの「ソヴィエト化」を進めた。特に西側との強硬姿勢は1961年のベルリンの壁の設置に現れた。1968年のチェコ事件では、チェコスロヴァキアへの軍事介入を主張した。70年代には経済政策でソ連と距離を置くようになったが、その独裁権力を維持し、その政治は時代に硬直したものとなった。1971年に第一書記の地位を腹心のホネカーに移譲した。なお国家評議会議長にはとどまったが、実権はなくし、半ば失脚状態で73年に死去した。
 ベルリン暴動 1953年3月、ソ連のスターリンが死ぬと、東ドイツでもソ連の圧力が一時弱まる傾向が出てきた。しかし政府は5月に労働ノルマの10%引き上げを決定した。6月17日に東ベルリンのスターリン大通りで働いていた建設労働者がデモを行い政府の退陣を要求した。これをきっかけに東ドイツ全土で市民が蜂起、ソ連軍が出動し鎮圧した。およそ1400人が投獄され、約20人が処刑された。社会主義下の東ドイツで起こった最大の市民蜂起であったが、西側諸国はソ連との関係の悪化を恐れ、傍観するだけであった。しかし東ドイツの経済の行き詰まりがはっきりし始め、ソ連もドイツ政策に変更を加えざるを得なくなった。 
 オーストリア国家条約 1955年5月、第2次世界大戦後にアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国による分割占領されていたオーストリアに対し、その独立を承認した条約。かつてナチスドイツによって併合されたオーストリア国家を回復する条約という意味で、「国家条約」という。独立承認に際し、ドイツとの合併の禁止、核兵器など特殊兵器の禁止、などとともに永世中立が定められた。ドイツにように東西に分断されず、統一を維持して国家を回復できたのは、アメリカとソ連両国が、同国を永世中立国とすることで合意したからである。 → 現在のオーストリア
 永世中立国(オーストリア)1955年5月、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国との「オーストリア国家条約」によって独立(国家回復)が認められたオーストリアは、条約の規定に従い、同年10月、「永世中立に関する連邦憲法法規」を制定して、世界に向けて「永世中立国」であることを宣言した。同時に国際連合への加盟も果たした。
永世中立は、政治的、軍事的には永久に中立を守り、対立する陣営には加わらないということで、国連には加盟しているが、NATOには加盟していない。ただし、協力関係にある。EUには1995年に加盟したが、その共通外交安全保障政策(CFSP)と中立政策は両立するとの立場をとっている。
ウ.東アジア・東南アジアの解放と分断
・中国の激動
 国共内戦(大戦後)日中戦争に勝利した後の中国において、1946年6月から49年12月まで続いた、中国共産党(人民解放軍)と中国国民党(国民革命軍)の内戦。1927年の国共分裂から続いた最初の国共内戦は、抗日戦争のために1937年に第2次国共合作が成立して停止されたが、その後も多くの国共両軍事衝突が発生していた。1945年日本軍降伏後も、両軍は一触即発であったが、とりあえず軍事解決を棚上げして、8月末から蒋介石と毛沢東による重慶会談を開催し、ようやく10月に「双十協定」を締結して、「政治協商会議」を開催して統一の道筋を探ることとなった。1946年1月、国共両党および他の党派の代表が集まり、政治協商会議が開催され、統一政府の設立では合意が成立したがそれぞれの軍事力の統合では利害の対立が明確になった。共産党はその支配下の解放区で、「減租減息」(小作料と利息の減額)を実施して民衆の支持を広げていった。アメリカも国共内戦の勃発を恐れ、マーシャル特使を派遣して斡旋を試みた。しかし最終的な合意に至らず、ガラス細工のような国共協調路線も、ついに破綻を迎え、1946年6月26日、本格的な国共内戦が再び勃発した。当初は国民党が圧倒的に優位で(兵力は国民党430万、共産党120万、支配地域の人口は国民党約3億3千9百万、共産党約1億3千6百万)、おおむね共産党から見れば一対三であり、状況は厳しかった。47年6月には共産党の拠点延安も陥落した。しかし、共産党はソ連が支配している東北地方に勢力を移して反抗の準備を強化した。こうして48年9月から有名な、遼瀋戦役(9〜11月)、淮海戦役(11月〜49年1月)、平津戦役(北京と天津の攻防戦、11月〜49年1月)の三大戦役で人民解放軍が勝利し、49年1月31日、国民党の北京守備隊は自らの判断で降伏、共産党人民解放軍が無血入城した。さらに人民解放軍は、国民政府の首都南京に4月24日に入城、国民党首脳は広州、さらに重慶に逃れて抵抗したが、12月までにほぼ国民党軍を降伏させた。この間、毛沢東は49年10月1日、北京で中華人民共和国の樹立を宣言、国民政府要人は台湾に逃れ、蒋介石は50年3月1日台北で総統に復帰し中華民国を存続させた。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』岩波新書、横山宏章『中華民国』中公新書 p.286-291 などによる> 
 双十協定 1945年10月10日に成立した、中国の国民政府と中国共産党の協定。正式には「政府と中国共産党代表の会談紀要」として発表されたもので、8月末からの重慶における、国民政府蒋介石と共産党毛沢東、周恩来間の協議の結果に基づいている。内容は、「内戦を避け、独立・自由・富強の新中国を建設すること、政治協商会議を開催して平和的建国の方策を討議することなどであった。この合意に基づき、翌年1月、重慶で政治協商会議が開催されたが、結局国共の対立は解けず、国共内戦に突入することになる。
 政治協商会議 1946年1月、重慶において、国民党と共産党、他に民主同盟、中国青年党、無党派代表などが集まって開催された、抗日戦争勝利後の中国の統一をめざす会議(略称「政協」)。その前年の8月末から重慶で開かれていた国民党蒋介石と、共産党毛沢東の会談で統一問題を協議した両者は、ようやく10月に合に達し、双十協定を締結、「政治協商会議」の開催に至ったもの。会議では「和平建国綱領」など五項目決議が採択され、統一に前進するかに見えたが、国民党側はこの協定を無視し、共産党員や他の民主的党派に対するテロを継続した。結局同年6月、国共内戦に突入した。内戦に勝利した共産党は、1949年9月に新たに中国人民政治協商会議を招集し、共産党以外の党派も加えて、中華人民共和国の設立を決議した。政治協商会議は、1954年に全国人民代表会議が中華人民共和国憲法を制定するまで、国会の役割を持っていた。また、建国後は、政府に対する諮問機関として存続(文化大革命の時期には開催されなかったが)しており、現在も形の上では共産党以外の国民の諸団体の代表(民族代表、海外華僑代表を含む)による統一戦線の機関として機能している。
a 国民党(国共内戦の敗北)蒋介石の率いる中国国民党(略して国民党)は、日中戦争後の国共内戦において、軍事的には圧倒的に優位であったにもかかわらず敗北した。その原因について、次のような整理がある。<横山宏章『中華民国』中公新書 p.293-294>
(1)憲政の不徹底:憲法が制定され、民選国会が登場したが、国民党支配に固執して、共産党や民主諸党はの抱き込みに成功せず、旧態依然たる国民党支配に対する民衆の不満が続いたこと。
(2)戦後経済の再建に失敗:戦後アメリカ製品を中心とする輸入超過により急速なインフレが進んだが、蒋介石を頂点とする四大家族といわれる官僚資本の経済独占が続き、対応できなかった。
(3)権力の腐敗:共産党に対する恐怖心から、中央の四大家族から地方に至るまで、国民党権力の強化が図られ、その中で賄賂の横行、情実人事など腐敗が進行した。
(4)テロの横行:国民党独裁のもとで政権の腐敗が進み、政治的道徳律を喪失し、反対派の党派、知識人、学生運動などに対する手段としてテロが日常茶飯事となった。
b 蒋介石  → 第15章 3節 国民党と共産党 蒋介石
c 共産党  → 第15章 3節 国民党と共産党 中国共産党
d 毛沢東(建国後)毛沢東中国共産党の創設に加わり、その指導者として国民党との国共内戦、日本軍との抗日戦争を指導し、1949年に中華人民共和国を建国、その初代国家主席となった。1950年にはソ連のスターリンと会談し、中ソ友好同盟相互援助条約を締結、同年の朝鮮戦争では北朝鮮を支援し、冷戦構造の中のアジアでアメリカと対峙する姿勢を強めた。国内では当初は新民主主義論を継承して人民民主主義国家の建設を目標としたが、次第に共産党による独裁的な指導を強めた。1953年から「過渡期の総路線」を提唱し、ソ連の技術、資金面での全面的な援助のもとで、第1次五ヵ年計画によって社会主義国家建設をめざすようになった。その強力な指導力のもとで、工業化と農村の集団化が急激に進んだが、そのひずみも生じた。1858年からの「大躍進」政策は餓死者1600万から2700万と推定される大失敗となった。自己批判を迫られた毛沢東は 1959年国家主席の地位を劉少奇に譲り、党主席にとどまったがその権力を失う危機に至った。おりからソ連ではフルシチョフによるスターリン批判が始まり、毛沢東はその動きを資本主義への逆戻りと批判し、中ソ対立も始まった。そのような中で中国共産党内に台頭した劉少奇・ケ小平らの実務派が中国経済の復興を図る改革に着手し始めると、狂信的な毛沢東支持者であった林彪や四人組を動員して、その排除を策し、1966年から文化大革命を起こした。
 ←毛沢東(建国前)  → 文化大革命期の毛沢東 
e 新民主主義論 日中戦争中の1940年、中国共産党の毛沢東が発表した中国革命についての指針。毛沢東は中国革命を古い型のブルジョア民主主義革命でも、社会主義革命でもない、「新民主主義革命」と規定して、革命後の中国の目指す政権は、アメリカ型のブルジョア独裁でもソ連型のプロレタリア独裁でもない、第三の形態をとると位置づけた。さらに45年末には、「新民主主義論」をベースに、「連合政府論」を提起し、国民党中心の政権構想に対して、「幾つかの民主的諸階級の連合による新民主主義の国家形態と政権形態は長い期間を経て生まれるだろう」と述べた。
日中戦争を乗り切った後、飢餓の続く中国国民には内戦に反対し平和的な統一国家の実現を求める声が急速に強まり、45年8月末には蒋介石・毛沢東の重慶会談で統一国家の建設で同意したが、結局は決裂し、46年7月から国共内戦に入った。国共内戦に勝利した後の49年9月に開催された中国人民政治協商会議を経て、49年10月1日に建国された、中華人民共和国はこの「新民主主義論」に基づき、当初は幅広い民主勢力の連合政権として発足した。
このように、中華人民共和国が最初から共産党独裁政権ではなかったことに注意する必要がある。このような、複数政党による人民戦線的な民主主義が「新民主主義」であり、そのころ東ヨーロッパ諸国で掲げられていた人民民主主義に対応するものであった。しかし、まもなく冷戦が深刻化する中で、特に建国直後に朝鮮戦争をアメリカと戦うこととなった毛沢東は、急速にソ連に接近し、政権からもブルジョワ民主主義勢力と目される勢力を排除し、共産党独裁体制に移行し、事実上、新民主主義は継続されなかった。
f 人民解放軍 かつては紅軍、国共合作期には八路軍・新四軍などといわれた、中国共産党の日中戦争後の国共内戦期以降の軍隊。国共内戦では当初は国民党軍が優勢で、共産党は根拠地延安も奪われる状況であったが、その間共産党軍は反撃の態勢作りを行い、1947年3月24日、中国人民解放軍と改称し、西北・中原・華東・東北の4地区に野戦軍を編成した。一斉に反攻に転じた人民解放軍は、最初の1年間だけで兵力を280万に増強した。以後、1949年末までに中国本土を人民解放軍が制圧し、中華人民共和国の建国を実現した。人民解放軍の指揮官から中央政界で活躍した人物も多く、彭徳懐・ケ小平林彪・羅瑞卿などである。<平松茂雄『中国人民解放軍』1987 岩波新書>
g 台湾(解放と二・二八事件)日清戦争での下関条約によって日本に割譲された台湾は、1895年から50年にわたる植民地支配から解放され、1945年10月から国民政府(国民党政府)の支配下に入った。しかし本土から派遣された国民政府の役人は台湾人を搾取し、官憲の力でその自由を奪うことが多かった。1947年2月28日には、本国出身の警官が、台湾人の老婆をタバコ密売のかどで射殺したことから抗議行動が始まり、たちまち全島の蜂起となった。国民政府は本土から軍隊を派遣して暴動を鎮圧、抵抗する民衆を殺害した。このときの犠牲者は1万人以上、数万人に上るという(二・二八事件)。そこに1949年12月、本土での共産党の内戦に敗れた蒋介石の国民党軍50万が逃げ延びてきた。→中華民国(国民政府) 現代の台湾
Epi. 闇の中の二・二八事件 二・二八事件は本省人(台湾人)と外省人(中国本土出身者)の対立であり、国民政府統治下の現在の台湾では、その真相は今でも隠されているようだ。両者にとってふれたくない傷口というところであろう。以下は戴國W氏の報告。
「かつて日本人が台湾人を含む中国人に投げかけた「チャンコロ」という罵声を、本省人が同胞たるべき外省人に向けてどなりちらす。日本の軍刀を振り回し、鉢巻きをして日本の軍歌をわめきちらすものさえいた。私はこうした人心の荒廃ぶりを見てぞっとさせられた。本省人と外省人の識別のために「君が代」を歌わせ、いたいけな外省人の子どもに「チャンコロのバカ野郎め」とリンチを加えるに至っては、動乱の中とはいえ、何をかいわんやである。……「麗しき島」(フォルモサ)がやがて血塗られた悲劇の島となった。」<戴國W『台湾』1988 岩波新書 p.102>
h 中華民国政府(台湾政府)国民政府の台湾統治:国共内戦に敗れた国民政府は国民党軍とともに1949年12月7日に正式に台湾の台北に遷都した。当時蒋介石は敗戦の責任をとって総統を辞任していたが、翌年3月に総統に復帰し、台湾の統治者となった。同島には5月以来、共産党軍の侵攻に備えて戒厳令が敷かれており、この戒厳令は1987年まで実に38年間継続した。
朝鮮戦争の時期:国共内戦に惨めにも敗北した蒋介石を、アメリカは当初見捨てようとしたが、朝鮮戦争が勃発すると一転して全面的な支援策を講じ、社会主義中国に対する防衛の最前線と位置づけ、日本の再軍備と共にに国民政府との講和である日華平和条約も締結され、1954年には米華相互防衛条約が締結された。50年代以後、冷戦時代を通じて中国本土と台湾の間の海峡には緊張が続く。またアメリカの支援により、台湾は「中国」の国連代表権と安保理の常任理事国の地位を維持してきた。
米中接近と台湾の国連追放:冷戦体制が1970年代に入って米ソの緊張緩和と、一方での中ソ対立の深刻化という大きな変化が生じ、アメリカと中華人民共和国が急接近、1971年にキッシンジャー大統領補佐官が中国を訪問して世界を驚かした。同年10月、国連総会は中国代表権を中華人民共和国に与えることと台湾の国連追放を決議し、台湾は議席を失った。翌1972年にはニクソン大統領が訪中し、中華人民共和国を事実上承認し、同年には日本の田中角栄首相が訪中して日中共同声明を発表して、日華平和条約は破棄された。さらに1979年にはアメリカのカーター政権は米中国交正常化を実現して台湾と断交することとなった。
経済成長:1970年代に台湾は大きな苦境に立たされることとなったが、1975年に蒋介石が死去して子息の蒋経国が総統となり、アメリカや日本の民間との交易によって経済を発展させ、NIEsの一つに成長する。 → 現代の台湾
Epi. 金銀財宝も台湾へ 国民政府は台湾に移る際、蒋介石の指示で、中央銀行、中国銀行などを初めとする関係銀行が所蔵する国庫の金、銀、米ドルなどの財貨と外貨を秘密裏に台湾に搬入した。黄金390万オンス、米ドル7千万ドル、白銀7千万ドル相当、合計時価5億ドルにのぼったという。また北京が共産党軍に占領される前に、故宮博物館(旧清朝の紫禁城)にあった移動可能なほとんどの文化財を台湾に運び込んでいた。これらは現在、台北の故宮博物館に展示され、台湾の重要な観光資源になっている。<戴國W『台湾』1988 岩波新書 p.122,127>
 中華人民共和国の成立 国共内戦に勝利した中国共産党は、1949年6月、新たな国家を建設するため、国民党系を除く全国各界の重要人物を集めた新政治協商会議準備会議を開催して建国の基本方針を討議し、9月には正式に中国人民政治協商会議を招集、ここで国号を中華人民共和国、首都を北京と改名(それまでは北平といわれた)、中央の人民政府の基本的な構成として政府主席毛沢東、政務院総理周恩来などを決めた。この中華人民共和国の成立については次のような指摘がある。
「1949年10月1日の中華人民共和国の成立を二つの点で誤解しがちである。第一はこの時点で国家体制が確立したという誤解であり、第二はこの時点で社会主義国家もしくは共産主義国家になったという誤解である。中華人民共和国は「新民主主義国家」としてスタートしたのであり、国家体制では戦時体制が続き、暫定的な措置の色彩が強かった。最高権力機関として位置づけられた全国人民代表大会の設置もまだ実現しておらず、それに代わる機関として統一戦線的な「中国人民政治協商会議(略して政協)」が継続し、さらにまだ憲法も制定されていなかった。また、政協の党派代表のうち、142名のうち、共産党代表はわずか16名にすぎず、国民党革命委員会、民主同盟などという党派と同数だった。政府にあたる政務院にも多数の非共産党系指導者が参加していた。この段階の中国の基本理念は「新民主主義論」であり、人民民主主義を政治的基盤として、工業化を図り、近代国家を建設するというものであった。このような「新民主主義論」段階は当初、相当な年月の後に社会主義段階にいうすると考えられていたが、冷戦の深刻化の中で中国自身が朝鮮戦争をアメリカと戦うこととなったのを契機に、1952年から急速な社会主義国家建設へと毛沢東の方針が転換し、共産党独裁国家に変質する。」<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書などより要約> → 中華人民共和国憲法
a 毛沢東  → 毛沢東(建国後)
b 周恩来

周恩来(1898〜1976)
周恩来は1898年の生まれで毛沢東より5歳年下。戦前から共産党に参加して、長征中の遵義会議で毛沢東を支持してから、一貫してその信頼が厚く、時として牽制し合いながら、1976年の死去まで中国の指導者として活躍した。特に、中華人民共和国成立後は国務院総理として、1954年頃からインドのネルーなどと共に展開したアジア外交は米ソ冷戦のさなかの第三世界を台頭させる重要な役割を担った。
周恩来は江蘇省出身で比較的豊かな都市知識人の家庭に生まれ、1917年、日本に留学、五・四運動が起こったことを知って民族主義に目覚め、帰国して天津で学生運動に入った。1920年からフランスで働きながら学ぶという「勤工倹学」に加わり渡仏、共産主義にふれて共産党に入党した。帰国後、孫文の国共合作により国民党に協力することとなり、周恩来は黄埔軍官学校の教官となった。その校長は蒋介石であった。国共合作が破れたときは上海でストライキを指導したが、蒋介石の弾圧を受けて撤退、その後南昌での暴動などを指導した。国共内戦が激化して共産党が瑞金を放棄すると同行し、長征に参加した。その途次の遵義会議で共産党の路線をめぐる親ソ派と毛沢東派の対立では毛沢東を支持、その有力な同調者となった。延安の本拠地でも毛沢東に次ぐ指導力を発揮、1936年の西安事件では党を代表して蒋介石を説得、抗日民族統一戦線の結成を実現させた。1949年12月の中華人民共和国の成立により、国務院総理となり、朝鮮戦争後の米ソ冷戦の谷間で積極的な外交戦略を展開、54年のインドシナ・朝鮮問題のジュネーブ会議では優れた外交手腕を発揮、さらにインドのネルーとチベット問題で協議して、「平和五原則」の合意に達し、1955年はその理念を柱にインドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議を成功させた。以後、主として中国の外交面での活躍が続き、その開明的な姿勢と調整能力で国民の信頼を受けた。毛沢東がプロレタリア文化大革命を推進すると、それに同調したが、時にその行き過ぎを抑える役割を演じ、推進派の林彪や五人組からは批判された。林彪事件後は積極的に経済の立て直しに乗りだし、ケ小平を復権させ、「四つの現代化」を提起して国民生活の安定を図ろうとした。1976年、不倒翁といわれた周恩来が死去し、その追悼集会に集まった北京市民を四人組が実権を握っていた政府が弾圧したため、第1次天安門事件が起こった。
c 土地改革法 中華人民共和国の成立後の1950年、全国的に地主的土地所有を一掃する土地改革のために制定した者。国共内戦期に華北や東北の共産党の解放区では土地改革を実施し、「耕者有其田」(耕作する者は自らの土地を所有する)の原則で地主制から農民的土地所有に転換を図ってきたが、1949年に全土を統一した段階でも、華中・華南では地主的土地所有のもとで農村の90%を占める貧農・中農が、わずか20〜30%の土地しか所有していないという状況だった。そこで、1950年6月、「土地改革法」を発布し、2年半から3年をかけて、全国の土地改革を実施し、地主的土地所有の一掃を図った。この土地改革は、劉少奇をトップとする土地改革委員会が中央から各県に組織され、穏健な方法で実施され、開始後1年10ヶ月で基本的に完成した、と公式発表された。これによって中国の農業生産力は向上し、農村の旧来の権力者が一掃され、人民共和国の権力基盤を固めたと言える。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書> 
d 中ソ友好同盟相互援助条約 1950年2月に中華人民共和国とソビエト連邦の間で締結された軍事同盟。建国間もない中華人民共和国は、台湾の国民党政権がアメリカの支援を受けて「大陸反攻」をうかがうという情勢下でソ連との提携を強め、1949年12月、毛沢東がモスクワを訪問してスターリンと会談、翌50年2月、中ソ友好同盟相互援助条約を締結した。中ソ同盟は「日本軍国主義とその同盟者」を仮想敵国とし、アメリカが日本の軍事基地から中国を攻撃することを想定して共同防衛にあたること、3億ドルの借款協定などが内容であった。これによってソ連が蒋介石の国民政府と締結(1945年8月15日)していた中ソ友好同盟条約は破棄された。
東西冷戦が深刻化するなか、社会主義国である二国の軍事同盟として機能し、この条約の下で中国は1950年6月に勃発した朝鮮戦争に参戦し、アメリカ軍と対決することになる。しかし、1960年代から中ソ対立が始まったために次第に関係が悪化、ついに1979年の中越戦争でソ連がベトナムを支援したことから、定められた30年間の期間が終了した1980年には、延長されず破棄された。
e 第1次五カ年計画 1953年に開始された中華人民共和国の社会主義建設方針を具体化した政策。それは中国共産党の毛沢東によって提起された、「過渡期の総路線」の基本内容であり、53年からの3次にわたる五ヵ年計画によって「工業化と農業の集団化」を図るものであった。第1次五ヵ年計画はソ連を模範とし、またその技術と資金の全面的な援助で実施され、57年までにほぼ目標を達成した。しかし、その急速な重工業育成と、農業集団化は様々なひずみを生み出し、次の58年からの第2次五ヵ年計画「大躍進」政策として実施されたが失敗に終わった。「大躍進」政策の失敗によって指導力に陰りを生じた毛沢東が、それを挽回するために始めたのが文化大革命であると考えられる。
f 工業化と農業集団化中国の1953年に開始された第1次五ヵ年計画の主要な内容が「工業化と農業集団化」であった。当時中国は、農民が80%以上を占める農業国であり、重工業はほとんど存在しなかったので、全面的にソ連の工業技術・経済援助に依存して、武漢・包頭・鞍山の鉄鋼コンビナートを中心とした重工業優先の重点方式がとられた。その結果、中国の工業化は急速に進み、56年には総生産額で工業が農業を追い抜いた。一方の農業の集団化は、当初は土地その他の生産手段は各戸の私有が認められた上で集団で耕作する「合作社」(40戸程度までの自然村落に造られたのが初級合作社、平均160〜170戸からなるのが高級合作社)が急速に造られ、56年末までに96.3%が集団化された。なお、農業集団化と並行して、手工業者は手工業生産合作社に組織し、私企業に対しては公私合営として生産手段を国家が買い取り、実質的に国有国営化を図った。また商人も商業合作社に組織された。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』1986 岩波新書 p.208-212>
g 中華人民共和国憲法 1954年9月、中国の国会にあたる「全国人民代表大会」(全人代)で採択された、中華人民共和国の最初の憲法。全人代は、53年2月から1年以上の歳月をかけて全国で実施された普通選挙で選出された約1200名の代表から構成されていたが、選挙は自由立候補ではなく、あらかじめ推薦された候補者に対する、18歳以上の男女による信任投票であり、人民代表(議員)は各県の代表が選挙する間接選挙制であった。中華人民共和国憲法の内容は、新民主主義論の段階にありながら、五ヵ年計画による社会主義国家建設を盛り込んだ、過渡的なものであった。 
 中華人民共和国
1949年10月1日に建国された。同日、国旗は五星紅旗と定められた。五星紅旗は、革命と社会主義(そして将来の共産主義社会建設)を示す赤色の上に、中国共産党を象徴する大きな星と、勤労者・農民・知識人・愛国的資本家の人民4階級を表す小さな4つの星が配置されており、5つの星は同時に漢民族と満州人、モンゴル人、ウイグル人、チベット人の5民族の統合を意味するとも言われる。
それまでの北平を北京と改めて首都とし、「義勇兵行進曲」を国歌として制定した。国家主席には毛沢東、副主席には朱徳、劉少奇(以上共産党員)の他、共産党以外から3名が選ばれた。首相にあたる政務院総理には周恩来が就任した。
中華人民共和国の承認:1949年の建国直後に、ソ連・東欧諸国・インドが承認した。西側諸国で最初に承認したのは、1950年のイギリス。アメリカ・日本などは、台湾の国民政府を中国の正統な代表として、中華人民共和国を長く認めてこなかった。国連における代表権もソ連などは中華人民共和国に与えるよう主張していたが、アメリカの反対で実現しなかった。1971年に要約国連の代表権が認められ、アメリカも翌72年にニクソン大統領が訪中を実現し事実上承認、1979年にようやく正常化した。日本も72年に田中角栄首相が訪中して国交を正常化した。
・アジア諸民族の自立
 朝鮮の分断 1945年8月15日、太平洋戦争の終結、日本の敗北によって朝鮮は独立を回復し、人々は解放を祝っい、独立運動か呂運亨を中心に建国準備委員会を結成し、国号は「朝鮮人民共和国」を予定した。ところが直ちに米ソ両陣営の対立が持ち込まれ、民族分断国家となってしまった。まずソ連は満州から北朝鮮の国境を越え、8月24日に平城に入った。あわてたアメリカはソ連に北緯38度線で分割占領することを提案、9月8日にマッカーサーが仁川に上陸し、朝鮮を米軍の軍政下に置く(日本と同じく)との布告を出した。カイロ宣言で「朝鮮は適当な時期に独立する」とされていたが、ヤルタ会談ではアメリカは「適当な時期」を20〜30年間とし、その間は「信託統治領」とすると表明した。45年のモスクワでの米英ソ三国外相会議で、5年間の信託統治とされた。このような大国の勝手な取り決めに、朝鮮の民衆が反発、激しい反信託運動が起こった。朝鮮独立にかんする米ソ共同委員会が開かれたが、当時激しくなっていた中国の国民党と共産党の国共内戦の影響を受け決裂した。この間、北では抗日パルチザンで活躍した金日成が地歩をかため、社会主義改革に着手した。一方の南では米軍政のもとでインフレが進行し、ゼネストが起こり、48年4月、済州島では民衆の武装蜂起が起き、多数の島民が米軍と右派に殺されるという済州島四・三事件が起きた。統一政府を作る努力は呂運亨らによって「南北協商会議」の開催がすすめられたが、彼は右派の李承晩の手先によって暗殺された。南のアメリカと李承晩は単独選挙を強行し、李承晩を大統領に選出し、48年8月15日に「大韓民国」を成立させ、アメリカは軍政を停止した。これに北が対抗し、全朝鮮最高人民会議の議員選挙を(南での秘密投票も含めて)実施し、憲法を制定して、9月9日に朝鮮民主主義人民共和国を樹立し、金日成が首相に就任した。 → 朝鮮戦争
a カイロ会談  → 第15章 5節 カイロ宣言
b 北緯38度線 朝鮮半島を分断し、現在も続く、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と韓国(大韓民国)の境界線。現在休戦中である、朝鮮戦争の休戦ライン。日本にあてはめれば新潟市のやや北を通る緯線である。
1945年8月、ソ連軍はヤルタ会談での決定どおり、対日参戦し、朝鮮半島にも赤軍を進駐させた。アメリカは急遽ソ連軍との活動範囲を定める必要が出て、仮に北緯38度線を境界線として提示した。アメリカはそれより遅く9月に朝鮮南部に進駐した。その後、北緯38度線の北と南にそれぞれ朝鮮民主主義人民共和国(北)と大韓民国(南)が成立した。1950年6月25日、北朝鮮軍が北緯38度線を越えて南に侵攻し、朝鮮戦争が始まった。結局、ほぼ北緯38度線に沿って軍事境界線を設けて休戦協定が成立した。北緯38度線付近のイムジン河を境として幅2kmの非武装地帯が設けられれている。この境界線上にある板門店が南北協議の窓口となっている。
 済州島四・三事件 1948年4月、朝鮮分断の進行する済州島で起こった、アメリカ軍政下の南朝鮮単独選挙に反発した民衆蜂起(武装隊)が、アメリカ軍・警察・右翼などによって弾圧された事件。アメリカが軍政下の南朝鮮で単独選挙の強行を決定すると、南朝鮮労働党は北朝鮮との統一選挙を主張して反発、武装隊を組織して4月3日に済州島で蜂起した。アメリカ軍は警察と右翼を動員して鎮圧に当たり、8月の大韓民国成立後は韓国軍と武装隊の衝突となった。韓国軍の一部に反乱部隊も現れ、米軍と韓国軍は本格的な鎮圧に乗りだし、翌年6月頃に反乱は鎮定された。この事件は、朝鮮戦争の勃発とその後の韓国の反共路線の強化の中で、長い間、真相と実態が伏せられていたが、金大中大統領の下で2000年に「四・三特別法」が制定され、真相究明と犠牲者名誉回復がなされることとなった。調査の結果、犠牲者は約2万5千人から3万にと推定され、その深刻な事態が明らかになった。軍や右翼によって殺害されたのは武装隊だけではなく武器を持たない女性や子供もあったという。また武装隊によって殺害された住民もあった。現在も犠牲者の遺骨発掘が行われている。<文京洙『韓国現代史』2005 岩波新書 p.58-71 などによる>
Epi. 封印された「民族の悲劇」 済州島は朝鮮半島の南に浮かぶ島。多数の火山が集まる「火山島」でもある。現在は観光地として知られ、韓流ドラマの「冬のソナタ」の舞台となったことで、多くの日本人観光客も訪れている。この風光明媚な島で、つい60年前に血なまぐさい虐殺事件が展開されたことはあまり知られていない。この島は「民族の悲劇」の島であり、しかもその悲劇は長い間封印されていたのだった。両親が済州島出身で大阪に生まれた在日朝鮮人の作家金石範(キムソッポム)は、この事件を題材に小説『火山島』を書いている。<朝日新聞 2008.6.22 記事などによる>
c 大韓民国 1948年8月に、朝鮮半島のほぼ北緯38度線以南に成立した国家。通称が韓国。首都はソウル。第2次世界大戦終結に伴い日本軍が撤退した後、この朝鮮半島南部にはただちにアメリカ軍が進駐し、北にはソ連軍が駐留してにらみ合う形となった。アメリカは国連の支持のもと、南で総選挙を強行し、議会を成立させ、初代大統領に李承晩を選出して国家の形態を整えた。北は対抗してソ連の支援の下で朝鮮民主主義人民共和国を建国、ここに朝鮮は南北に分断されることになった。1950年についに朝鮮戦争が勃発、一時は北朝鮮軍が釜山にせまり、大韓民国は危機に陥ったが、アメリカ軍が仁川に上陸して形勢を逆転させた。53年に休戦協定が成立したが、軍事境界線をはさんで南北の対立はその後も続いている。朝鮮戦争後の大韓民国は李承晩の独裁的な政治に対する民主化の動きが出てきて、60年には学生を中心とした暴動によって李承晩政権が倒れた。しかし、61年には軍人の朴正煕による軍事クーデターがおき、軍政下に置かれる。北朝鮮との対峙という厳しい状況の中で朴政権は開発独裁として一定の経済成長を実現させたが、民主化は遅れた。 → 現在の大韓民国 
d 李承晩 韓国の独立運動家として活動し、日本敗北後の1948年、大韓民国の初代大統領に選出された。独立運動家としてはアメリカを拠点に活動し、1919年の三・一運動直後に上海で結成された大韓民国臨時政府でも大統領に選出された。上海での活動が日本軍の弾圧を受けると再びアメリカに拠点を移し、日本敗北後に韓国に戻った。北朝鮮との統一による独立を目指した呂運亨と、反米的な独立運動家の金九を暗殺、反共親米路線を明確にした。次第に独裁色を強め、いわゆる開発独裁として韓国の復興を進めたが、1960年の学生運動から始まった民衆蜂起によって倒された。なお、日本との海上の領海をめぐって争い、一方的な李承晩ラインを設定したことでも有名である。
e 朝鮮民主主義人民共和国 1948年9月9日に設立宣言をした、いわゆる北朝鮮の正式国号。首相は金日成、首都はピョンヤン。朝鮮の北半分には大戦末期に日本に宣戦布告したソ連の赤軍が入り、日本軍撤退に伴い占領した。国内で留まっていた朴憲永、ソ連で活動していた許嘉誼(ホガイ)、中国系党員、満州で抗日ゲリラ戦を戦っていた金日成らを結集して、46年8月にソ連が朝鮮労働党(名誉議長はスターリン)が成立した。48年4月、モスクワ郊外の別荘でスターリン自ら筆を執ってソ連憲法を手本として憲法原案を作成、8月に形式的には南側も含み選挙を行い、9月2日に人民会議を開催、8日に憲法を採択、9日に朝鮮民主主義人民共和国の創建を宣言した。この国名はロシア語からの直訳であることから判るように、この国はソ連の強い指導でできたものであった。同年8月には南部に大韓民国が成立、朝鮮は分断国家として戦後を歩むこととなった。
1950年には、南北武力統一をめざして朝鮮戦争を起こし、中国の人民義勇軍の支援で戦ったが、アメリカを主体とした国連軍に押し戻され、北緯38度線を軍事境界線として大韓民国と休戦し、以後、南北分断国家として続いている。
1960年代には金日成が主体(チュチェ)思想を掲げ、ソ連・中国とも距離を置く独の社会主義国家建設を進めるとともに、金日成の個人崇拝が強められた。この間、南側に対するスパイ、テロ活動を続け、70年代には日本人などの拉致事件も引き起こした。
80年代には韓国の姿勢の変化にも対応して南北対話が始まり、1991年には南北同時に国連に加盟した。1994年に金日成が死去、息子の金正日が継承(98年より国家元首)したが、冷戦時代の終了にもかかわらず依然として反米姿勢を崩さず、「先軍政治」と称する軍事優先と個人崇拝を続けている。2000年には韓国の太陽政策を掲げる金大中大統領の働きかけに応じて、始めて南北首脳会談に応じ、2002年には日本の小泉首相が訪朝、拉致問題の解決にあたり、平壌宣言を締結して国交正常化(いまだに国交がない)をめざすこととなったが、そのご進展は見られず、むしろ北朝鮮の核開発が国際社会の脅威となっている。
f 金日成 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の建国時からの指導者。満州・朝鮮の国境地帯で、朝鮮人民革命軍を率い、抗日パルチザンの英雄とされる。1946年8月に朝鮮労働党に加わり、48年の建国で首相となる。50年には南北統一をめざして南に侵攻、朝鮮戦争を起こした。中国人民義勇軍の参戦を得て、アメリカ軍主体の国連軍と戦ったが、53年に停戦し、同国は半島の北半分を支配するだけとなった。戦争後は反対派(親ソ派、親中国派)を排除しながら労働党内の独裁的な地位を固め、独自の理念として主体(チュチェ)思想を打ち上げていった。ソ連、中国とも一線を画し、72年からは国家主席として個人崇拝を強いて権力を維持した。74年には息子の金正日を後継者に指定、94年に死去した。
Epi. 金日成はどこにいたか 金日成は1912年に平壌郊外の万峰台で生まれ、幼い頃満州に移住し、1930年代に満州で抗日パルチザンを指導したとされるが、その詳細は不明な点が多い。日本敗北直後はソ連のハバロフスク郊外でソ連軍の軍務に付き、息子の金正日にはユーラというロシア名を付けていたという証言もある。<下斗米伸夫『アジア冷戦史』2002 中公新書 p.73-74> 
 フィリピン共和国1946年7月4日、フィリピンはアメリカ合衆国から独立し、フィリピン共和国となった。初代大統領ロハス。ロハスはアメリカの意を受けて共産党系武装集団フクバラハップ(フク団)掃討に全力を挙げたが、48年心臓発作で急死、次のキリノ大統領はフク団との和平を進めた。その後国防長官マグサイサイは「アメとムチ」を使ってフクバラハップを鎮圧することに成功、人気を博して1953年に大統領に当選し、土地改革などを行った(57年まで)。次いでマカパガル大統領(57年〜65年)は積極的な外国資本の導入による開発路線をとるようになり、続いて1965年から大統領として開発独裁と言われる独裁政治を行ったのがマルコス。マルコスはイメルダ夫人とともに利権を操り、外国資本と結びついた開発を推し進め(開発独裁)、民主化を求める運動を戒厳令によって弾圧し長期政権を維持した(1965〜86年)。 → 現在のフィリピン
b フクバラハップ1942年3月、フィリピン共産党が組織した、フィリピンの抗日武装闘争の組織。ハップが日本を指し、抗日人民軍の意味。略称はフク団。共産党は当時アメリカの植民地支配とも戦っていたので、日本軍と戦うべきかどうか、むしろ協力すべきではないかという戦略論もあったが、コミンテルンの反ファシズム闘争路線をとり、日本軍と戦う戦略をとった。その戦術は、中国共産党軍の「三大規律、八項注意」が指針とされた。フク団はゲリラ戦をとったので、戦闘内容など不明な点が多いが、山岳部を実効支配し日本軍にも大きな損害を与えた。しかし日本軍を撤退させた後、アメリカ軍はフク団を反乱分子として厳しく弾圧したため、フク団は今度は抗米闘争である第2次闘争を展開した。治安の回復、共産勢力の排除を優先する米軍とフィリピン軍はフク団にタイする掃討作戦を展開、次のキリノ、マグサイサイ政権は硬軟交えての対策をとり、1955年までにフク団の活動を抑え込むことに成功した。
 インドネシア独立1945年8月から1950年8月までの5年間にわたるインドネシア共和国独立の歩みは複雑であるが、次のようにまとめることができる。
日本軍の降伏:1942年3月にインドネシアを占領した日本軍は、軍政を敷いて統治した。日本政府は当初は資源確保のためにインドネシアは独立させずに軍政を維持する予定であったが、戦局が悪化する中、民心をつなぎ止めておく必要から、1944年9月にインドネシアの独立を認め、日本の指導下での独立計画が立案された。独立準備委員会が設置されたが、その計画が実施される前に1945年8月15日に日本軍が降伏し、インドネシアは空白状態となった。
インドネシア共和国の成立:日本軍の降伏を受けてスカルノらが8月17日に独立を宣言した。翌日18日に発布された共和国憲法の第1条では「インドネシアは共和制をとる単一の国家」と定められ、スカルノ大統領、ハッタ副大統領が選出された。翌19日には地方行政区画として8州がおかれ、内閣制度の大要が決められた。9月5日にはスカルノ大統領が首相を兼務する内閣が発足した。
オランダとの独立戦争:戦後処理には9月末にイギリス軍が駐屯したが、戦後の混乱から回復すると、オランダは植民地の復活を策してきた。オランダはインドネシア共和国が脆弱であることにつけこみ、各地に傀儡政権を樹立し、分断を図った。話し合いは決裂し1947年1月、オランダは警察行動と称して攻勢に出て、インドネシア共和国軍はオランダ軍に対する独立戦争を展開した。48年1月には一旦停戦したが12月には再び戦闘が開始された。49年まではインドネシア共和国の領土はジャワ島の一部とスマトラ島に限られていた。
独立の達成:インドネシア独立戦争が激化すると、東南アジア情勢ののこれ以上の悪化を懸念したアメリカ(46年からインドシナ戦争が続いており、フィリピンではフクバラハップの抗米闘争が起こっていた)がオランダに撤退を要請、49年のハーグ協定でオランダはインドネシア連邦共和国への主権移譲に同意した。
連邦共和国から共和国へ:ハーグ協定で成立したインドネシア連邦共和国とは、ジャワとスマトラをに限定されたインドネシア共和国とオランダが後押しして樹立した地方政権の連合国家であり、真の統一と独立とはほど遠かったので、各地方政権の共和国への編入を進める交渉と戦いが続いた。その結果、1950年8月にインドネシア共和国への編入が終了し、ここに完全な独立と統一を実現した単一の国家としてインドネシア共和国が成立した。
 インドネシア共和国独立宣言インドネシアの独立に際し、1945年8月17日に、スカルノとハッタが署名して発布されたインドネシア共和国の独立宣言。
「宣言 我々インドネシア民族はここにインドネシアの独立を宣言する。政権の委譲その他は迅速かつ正確に行われるべし。2605年8月17日 ジャカルタにおいて インドネシア民族の名において スカルノ、ハッタ」という簡単なものだった。2605年とは日本の紀元。
Epi. 独立宣言のドラマ 日本軍政下で、スカルノやハッタは日本が将来の独立を容認した「小磯声明」(44年9月)に基づき、日本軍と協議の上で実現させようと考え、独立準備調査会を発足させていた。しかし、スカルニら急進派青年グループは自らの力で独立を勝ち取ろうとしてスカルノらの姿勢に不満を持っていた。8月15日、ジャカルタの一部の青年指導者が連合軍放送で日本軍の降伏を知った。急進派青年は16日、スカルノとハッタを拉致してレンガスデンロックの義勇軍中団に連行して独立宣言を迫り、条件付きながらそれを認めさせた。独立宣言文の作成はジャカルタの日本人海軍武官の家で、青年グループ、日本軍関係者立ち会いの下で作られた。独立宣言はジャカルタのスカルノ邸で、スカルノにより日本軍とは関係なく発布された。<『インドネシアの事典』同朋舎 p.291>
 スカルノ(2)

Sukarno 1901-1970
インドネシア独立の指導者であり、戦後の第三世界をリードした国際政治家。 → 第15章 3節 スカルノ
戦前からのインドネシア民族主義運動の指導者として活躍し、日本軍の敗北に伴い1945年8月17日にインドネシア共和国の独立宣言に署名、初代大統領となった。その後植民地を復活させようとしたオランダと戦い、1949年のハーグ協定でインドネシア連邦共和国として独立を承認され、さらに翌50年に単独のインドネシア共和国を実現させ、以後も大統領として改革に当たると共に、第三世界の指導者のひとりとして国際政治面で活動した。特に1955年にはインドネシアのバンドンで開催されたアジア=アフリカ会議では議長として活躍、61年には第1回非同盟諸国首脳会議に参加した。このように国際政治では華々しく活躍し、そのカリスマ的指導力が際だっていたが、実際の国内政治では国民に約束した「貧困からの解放」は進まず、多くの政党が乱立して不安定になっていた。議会制民主政治が危機を迎えると、スカルノは「指導される民主主義」を唱え、軍部と共産党の勢力を基盤に1963年から独裁権力を握り、憲法を改定して終身大統領に就任し、首相も兼ねることとなった。彼が提唱した民族主義(国民党)、宗教(イスラーム教)、共産主義(共産党)の三者の協力体制をナサコム(NASAKOM)という。またスカルノは、1963年にマラヤ連邦が北ボルネオのサラワクとサバを併合してマレーシア連邦が成立し、国連に加盟したことに反発して、1965年には国連を脱退した。しかし、1965年に共産党系の軍人が起こした九・三〇事件のクーデタ失敗を機にナサコム体制が崩れ、実権を軍を背景としたスハルトに奪われ、失脚した。1968年第2代大統領となったスハルトは、スカルノの社会改革路線と共産圏よりの外交を改め、「開発」路線と親米路線をとることとなる。なお、現在日本のテレビのバラエティ番組で活躍するデヴィ夫人は、その何番めかの夫人でした。
 オランダ  
 ハーグ協定 1949年8月〜11月、オランダのハーグで開かれたオランダ王国とインドネシア共和国などとのハーグ円卓会議の結果締結された協定。45年8月17日に独立を宣言したインドネシア共和国と、その独立を認めず植民地支配を継続しようとしたオランダの間に47年から続いたインドネシア独立戦争に対し、アメリカは東南アジア情勢の悪化を警戒し(46年からインドシナ戦争が始り、フィリピンでもフクバラハップの反米闘争が起こっていた)、オランダに妥協を働きかけたため、ハーグ円卓会議が開始され、この協定が成立した。
これによってインドネシア独立戦争は終結し、インドネシア共和国が承認されたが、妥協点として共和国以外のオランダの傀儡政権であった16カ国から構成されるインドネシア連邦共和国と言う形式の国家に主権が委譲されることとなった。また、オランダとインドネシア連邦共和国はオランダ=インドネシア連合を形成するとされた。
 インドネシア連邦共和国 1949年のハーグ協定によって成立した、旧オランダ領東インドの地域にオランダから主権を委譲されて成立した国家。その構成国は、インドネシア共和国と6国家、および9準国家、合計16カ国からなっていた。ここでいうインドネシア共和国とはジャワ島の一部とスマトラ島の一部だけであるが、人口は3100万を占めていた。それ以外の6国家とは、東インドネシア、パスンダン、東ジャワ、マドゥラ、東スマトラ、南スマトラの各国。準国家はカリマンタンなどの周辺の諸島であった。インドネシア共和国以外の諸国家は人口10万から1100万までふぞろいであるだけでなく、いずれもオランダの傀儡政権として存在するだけであった。つまりインドネシア連邦共和国とは、オランダとの停戦を実現するための暫定的な形態であった。連邦共和国大統領にはスカルノ、副大統領にはハッタが就任した。<『インドネシアの事典』同朋舎 p.83> → インドネシア共和国
 インドネシア共和国(1)1949年のハーグ協定で成立したインドネシア連邦共和国は、インドネシア共和国とオランダの傀儡政権である周辺諸国の連合体であったが、翌年の1950年までに次々とインドネシア共和国に編入を遂げ、単一の「インドネシア共和国」となった。同年、憲法が改正され(50年憲法)、連邦制は解消され、大統領権限を制限して政党政治と議会制度を基本とする民主主義体制が規定された。この憲法により改めてスカルノが大統領、ハッタが副大統領に選出された。インドネシア共和国のスカルノ政権時代は次の2つの時期に分けられる。
民主主義体制期:1950年〜1959年 独立を獲得し、民主国家を実現したインドネシアは、スカルノの指導で国内改革を進めると共に、国際社会で積極的な発言を行うようになり、1955年の第1回アジア=アフリカ会議をバンドンで開催して成功させ、スカルノは第三世界のリーダーとして国際的な脚光を浴びることとなった。国内では議会制民主主義の定着がはかられたが、国民党、共産党の他に、民族主義政党、イスラームを奉じる政党などが乱立し、「貧困からの解放」という経済課題を達成することができず、一方でスマトラなどの分離主義の動きも出てきて安定しなかった。スカルノ政権は次第に民主的な姿勢を後退させ、独裁を志向するようになった。
ナサコム体制期(スカルノ独裁期):1959年〜1965年 政情不安を打開するため、スカルノは1949年に、50年憲法を廃し、大統領権限がより強い45年憲法を復活させ「指導される民主主義」を掲げた。1963年には終身大統領に就任した。その体制を支えるものとして民族主義(国民党)、宗教(イスラーム教)、共産主義(共産党)の三者の協力体制であるナサコム(NASAKOM)を作り上げた。実質は、軍部と共産党のバランスをとりながら独裁的な政治を行うものであった。共産党の主張を取り入れて、反帝国主義の姿勢を鮮明にし、西イリアンのオランダからの解放とインドネシアへの編入を実現させ、イギリスの主導によるマラヤ連邦と北ボルネオの併合によるマレーシア連邦結成には強く反対して、マレーシアが国連に加盟すると国連を脱退し、中華人民共和国などと別個な国際組織の結成を目ざした。
しかし、このような共産党勢力の台頭を容認するスカルノ政権に対し、軍部や大資本、アメリカなどが警戒心を強め、1965年の九・三〇事件を期に軍を背景としたスハルト将軍によるスカルノ追い落としが行われ、ついに68年に大統領を辞任する。 → インドネシア共和国(2) インドネシア(3)
 ベトナム(独立)インドシナ半島の東側に南北に長い国土を持つベトナムは、1884年にフランスの保護国となり、カンボジア・ラオスとともにフランス領インドシナ連邦として植民地支配を受けていた。20世紀に入ってファン=ボイ=チャウらによる ベトナムの独立運動が活発となり、東遊運動が展開さ入れたが、抑え込まれていた。第2次世界大戦が勃発し、フランスがドイツに敗北したことは、ベトナムの独立の好機となったが、代わって日本軍が進駐すると、抗日ゲリラ戦を展開しなければならなくなった。日本軍が降伏ののち、ホー=チ=ミンの指導によるベトナム民主共和国が独立を宣言したが、植民地支配を復活させようとしたフランス軍がふたたび進駐してきたので、フランス軍との間に激しいインドシナ戦争を戦うこととなった。ベトナムはディエンビエンフーの戦いでの勝利を経てフランスを追い出すことに成功したが、今度はアメリカが南部に進駐してきた。1954年ジュネーヴ休戦協定で北緯17度を境に休戦が成立したが、南部にはアメリカの支援でゴ=ディン=ディエム政権が誕生し、南北ベトナムの分立という事態となり、南北の抗争に米ソの対立がからむこととなった。1960年代中頃から激しいベトナム戦争に突入していく。1973年にはアメリカ軍を撤退させ、75年には北ベトナムが勝利して統一を実現、1976年に現在のベトナム社会主義共和国が成立した。こうしてインドシナ戦争からベトナム戦争へと続いた苦難の歴史の中から、ようやくベトナムは真の独立と統一を達成した。しかしその後も、カンボジアへの侵攻や中国との戦争(中越戦争)などの対外戦争が続き、社会主義体制は次第に行き詰まり、現在はドイ=モイという自由化政策を推進し、1995年にはASEANにも加盟した。 → 現在のベトナム
a フランス  → 第13章 2節 フランス領インドシナ 
b ホー=チ=ミン  → 第15章 3節 ホー=チ=ミン
c ベトナム独立同盟(ベトミン)1941年、ホー=チ=ミンの指導するインドシナ共産党を中心として組織された、フランス、ついで日本の支配からのベトナムの独立を目指す民族統一戦線組織。幅広い組織・団体・個人が結集した。一般に「ベトミン」(ミンは同盟の盟)と言われる。1940年9月、フランスがドイツに敗北したことを受けて始まった日本軍のインドシナ進駐という情勢を受けて、反仏・反日闘争を展開した。45年3月、日本軍がフランス現地軍を攻撃して封じ込め、バオ=ダイ帝を擁立してフランスから独立(越南)させると、ベトミンはフランス残存部隊と協力して日本に抵抗した。1945年8月の日本降伏に伴い、各地で蜂起して政権を樹立(八月革命)し、9月2日、ベトナム民主共和国の独立宣言を出した。翌46年に始まるフランス植民地支配との戦いである第1次インドシナ戦争を戦い、ベトナムを勝利に導いた。
Epi. ベトミンに参加した旧日本兵 ベトミンが軍事面の幹部養成のために士官学校を造ったが、そのとき協力者の中にベトナムに残っていた日本陸軍の軍人がいた。彼らは実際の戦闘にも参加し、彼らが教えた戦術はディエンビエンフーの戦いでも生かされたという。「日本が焦土と化しているとの情報で絶望的になった若い兵士ら七百六十六人が、日本に心をのこしながらヴェトナムに留まった。ヴェトミン司令部にいた日本人幹部の調査にょると、ヴェトミンに入って戦病死したもの四十七人、一九五四年のジュネーブ協定締結後に日本に帰国したのは、百五十人。約四百五十人は、ヴェトナムで消息を断ったままだという。一九八六年十二月、八人の日本人の元ヴェトミン指揮官がヴェトナム政府から金星勲功章を授与された」<小倉貞男『ドキュメント・ヴェトナム戦争』岩波書店 1991>
d ベトナム民主共和国 1945年、日本軍の降伏にともない、ベトナム独立同盟(ベトミン)が一斉蜂起し、8月28日にハノイに臨時革命政府を樹立(主席ホー=チ=ミン。バオ=ダイ帝が退位し、八月革命という)、9月2日にベトナム民主共和国の独立宣言を行った。大統領にホー=チ=ミンが就任した。こうしてベトナムは独立を達成したが、フランスはインドシナに復帰して植民地支配を再現しようとしたので直ちに1946年11月から対仏戦争(インドシナ戦争)となり、1954年のディエンビエンフーの戦いでフランス軍を破った。ジュネーヴ休戦協定では南北の統一選挙が約束されたが、アメリカは協定を無視して北緯17度線の南にベトナム共和国を樹立、ベトナムは南北分断国家とされた。南ベトナムに対する軍事支援を強めるアメリカとは次第に対立が深刻となり、1960年に南ベトナム解放民族戦線が結成されるとそれを強く支援した。アメリカは1965年からベトナム民主共和国(北ベトナム)に対する空爆(北爆)を開始、ベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)に突入した。ベトナム民主共和国は第1次と第2次をあわせて「30年戦争」を経験した。激しい空爆に耐え、南ベトナムの解放を支援し、ついに1973年にアメリカ軍を撤退させ、1975年にサイゴンを陥落させて南北ベトナムの統一を達成し、翌76年に国号を現在のベトナム社会主義共和国に改称した。
e インドシナ戦争 日本の敗北後、支配を復活させようとしたフランス(第四共和政)とベトナム独立同盟(ベトミン)が戦った戦争。1946年11月に本格的な戦闘が始まり、12月にはベトナム全土、さらにカンボジア、ラオスのインドシナ三国に拡大し、1954年のジュネーブ協定での和平成立まで続いた。なおこの間の戦争(1945〜54年)を「第1次インドシナ戦争」といい、ベトナム戦争がカンボジアに拡大した1970〜75年を「第2次インドシナ戦争」、さらに1978〜79年のベトナムのカンボジア侵攻と中国との戦争を「第3次インドシナ戦争」という場合もある。
当初フランスは首都ハノイを抑え優位であったが、ベトミン軍のゲリラ攻撃に悩まされ農村部を支配できず、戦闘の長期化に国内にも厭戦気運がたかまってきた。49年にフランスはバイダイ帝を擁立してベトナム国を樹立した。アメリカ(トルーマン政権)は当初、フランスの植民地主義を批判し、援助に積極的でなかったが、1949年10月、中華人民共和国が成立するとアジアの共産主義化を恐れ(ドミノ理論)、ベトナムのフランス軍を全面支援することとなり、インドシナ戦争は一挙に国際的な問題と化した。ようやく1954年、停戦交渉がジュネーヴ会議として始まり、その最中の5月にフランス軍がディエンビエンフーで敗北し、7月にジュネーブ休戦協定が成立して和平が実現した。しかしアメリカは和平に反対して協定に参加せず、むしろ1955年には南ベトナムに傀儡政権ベトナム共和国を樹立して介入し、1960年代のベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)につながっていく。 
f バオ=ダイ ベトナムの阮朝阮朝の最後の皇帝(在位1926-45)だったが、1945年の日本軍敗北直後の8月革命でベトナム民主共和国が成立し、退位した。その後、香港に亡命した。1949年にフランスがベトナム民主共和国に対抗して建設した傀儡政権ベトナム国の元首として担ぎ出された。1955年、アメリカの後押しで南ベトナムにベトナム共和国が成立すると、今度は追放され、引退した。
 ベトナム国 インドシナ戦争が拡大する中、フランスはベトナム民主共和国に対抗するため、1949年にバオ=ダイ帝を擁してベトナム国を樹立した。バイ=ダイとはベトナム阮朝の最後の皇帝で、45年のベトナム民主共和国の建国に際し退位していた。ベトナム国は国家の体をなしていないフランスの傀儡政権であった。インドシナ戦争が終結し、フランスが撤退した後の1955年、バオ=ダイ帝は追放されてベトナム国は消滅し、かわってアメリカの支援を受けたベトナム共和国がサイゴンを首都に成立した。
 ディエンビエンフーの戦い 1954年5月、インドシナ戦争でフランスの敗北を決定づけた戦闘。フランス軍はベトミン軍をタイ−ラオス国境地帯に引きつけるため、空挺部隊をディエンビエンフーに降下させ、占領した。それに対してベトミン軍が包囲攻撃し、50日あまりの戦闘で陥落させた。このフランス軍の敗戦は、フランス国内でも停戦の声を強くし、6月停戦を主張するマンデス=フランス内閣に代わった。マンデス=フランス内閣はジュネーブでの交渉を再開し、同年7月21日、ジュネーブ停戦協定に調印した。
Epi. 赤いナポレオン 1万3千のフランス兵が、アメリカの武器援助を受けたにもかかわらず、ベトミンのゲリラ戦に敗れたことは世界中を驚かせた。もっともフランス兵と言っても、実態は大戦後に流れ込んできた旧ナチスも含む外人部隊が主力で、戦闘意欲は高くなかったとも言われる。ベトミンが勝利したのは、ジャングル内に張り巡らした補給路を使った人海戦術であった。その指揮を執ったボー=グェン=ザップはすぐれた将軍とされ、後のベトナム戦争でも象徴的存在で「赤いナポレオン」と言われた。彼は学校の教師から共産党員となってベトミンに加わり、ホー=チー=ミンの片腕となった人物。現在でもベトナムでは人望が高い。「ディエンビエンフー」の名もベトナムでは輝かしい勝利の記憶とされ、ハノイの大通りの名前にもなっている。
 ジュネーブ休戦協定 1954年4月からスイスのジュネーブでインドシナ戦争の休戦を協議するジュネーブ会議が開催された。当事国であるフランスとベトナム民主共和国、ベトナム国の代表と、アメリカ、イギリス、ソ連、それに成立間もない中国(中華人民共和国、代表が周恩来)などが参加した。フランスは当初会議の引き延ばしを図り、有利な休戦を探ったが、会議中の5月のディエンビエンフーでの敗北を受け、急速に停戦に傾き、7月に停戦協定が成立した。この協定では、
 1.北緯17度線を暫定軍事境界線とし、ベトナム人民軍はその北の部分に、フランス軍は以南に集結する、
 2.8月はじめまでにいっさいの軍事行動は停止される、
 3.以後、いっさいの増援部隊のベトナムへの導入は禁止される、
 4.協定履行のための合同委員会と国際監視委員会を設置する、などが定められた。
 ベトナムの統一に関しては、最終宣言で、「ベトナムの住民による自由な総選挙で決定される。総選挙は国際監視委員会の管理下で1956年7月に実施される」ことが約束された。
しかし、アメリカは最終宣言への参加を拒否し、ベトナム国(南ベトナム)は休戦協定にも反対した。このため、この休戦協定は実質的には拘束力を持たないことになった。また、2年後に約束された統一のための選挙も実施されなかった。
 北緯17度線 1954年のジュネーブ協定における、ベトナムでの休戦ライン。これは一時的なもので、56年7月までには統一選挙が実施され南北の統一をはかることになっていたが、アメリカはこの線の南側に親米政権(ゴ=ディン=ディエム政権)を樹立して、分断を固定化し、北の共産勢力の拡大を防ごうとした。これがベトナム戦争の原因である。
 ベトナム共和国 1955年、ベトナム国のバオダイ帝を追放し、親米派のゴ=ディン=ディエムを首班として成立した、アメリカの傀儡政権。この後、ベトナム戦争の時期を通じ北のベトナム民主共和国に対抗して南ベトナムを統治したが、ゴ=ディン=ディエムは親米反共政策を進めるものの、一族支配などで非民主的な運営のもとで腐敗した。1963年にはアメリカの黙認の下で、政府軍による軍事クーデターが発生、ゴ=ディン=ディエムは殺害された。その後、1965年からはグエン=バン=チューが大統領となったが政権は安定せず、めまぐるしくクーデターがくり返されて弱体化し、ついに1975年4月30日、南ベトナム解放民族戦線の総攻撃を受けてサイゴンが陥落し、ベトナム共和国は崩壊した。最後の大統領はズオン=ヴァン=ミン。
 カンボジア(独立)1863年以来、フランスの保護領であったが、1945年3月に日本軍がフランス領インドシナに侵攻した際にシハヌークを国王として独立を宣言した。しかし、8月の日本の敗戦とともにフランスが戻ってきて植民地支配が再開された。「自由クメール」による反仏闘争が起こり、フランスがベトナムでの戦い(インドシナ戦争)で苦戦する中、1953年11月9日にシハヌーク国王の名で独立を宣言した。54年のインドシナ戦争後のジュネーヴ会議で、カンボジアの独立が国際的に承認された。以後、シハヌークのもとで、しばらく安定した時代が続いたが、隣接するベトナムで南北の戦争が激化するとシハヌークは北ベトナム寄りとなって反米姿勢をとり、北の支援ルートや解放戦線の基地としてカンボジア領内を使うことを容認した。1970年、親米右派のロン=ノル将軍のクーデタでシハヌーク国王は退けられ、アメリカがカンボジアに侵攻してベトコンの拠点を攻撃、カンボジアもベトナム戦争の戦場となるとともに、政府軍と反政府解放勢力との間の激しいカンボジア内戦に突入した。この間、ロン=ノル政権→ポル=ポト政権→ヘン=サムリン政権(カンボジア人民共和国)→三派連立政権などめまぐるしく政権が交代し、多くの犠牲者が出たが、1991年から和平の気運が高まり、パリで国際会議をが開催された結果、国連カンボジア暫定行政機関のもとで93年に総選挙が実施され、その結果、カンボジア王国が復活しシハヌークが国王として復帰した。 → カンボジア(古代) クメール人 カンボジア王国(現代)
 シハヌーク
現代カンボジアの最重要人物。シアヌークとも表記。カンボジア王家の血を引き、フランス保護国時代の1941年に19歳で国王となった。当初フランスは年少のシハヌークを御しやすいと考えたようだが、その後ねばり強いカンボジア独立運動の中心人物として現在までしたたかにカンボジアの歴史に関わっている。まず日本軍の侵攻に際して独立宣言(45年3月)、フランス植民地支配が復活してからは、インドシナ戦争に乗じて独立をめざし、国際世論にも訴えて53年に独立を勝ち取った。その「カンボジア王国」の国王の地位を55年に退き(王位は父に譲ったので「シハヌーク殿下」と言われるようになる)、政治家として国家元首となり自ら仏教社会主義共同体(サンクム)という独自の政党を組織した。この時期、さかんに外交活動を行い、「赤いプリンス」と言われ中国、ソ連、北ベトナムなどと連携を強めた。ベトナム戦争が激化すると解放戦線を支援し、カンボジアを経由しての北ベトナム軍の南ベトナム支援を許容した。そのような反米姿勢を快く思わなかったアメリカは1970年、右派のロン=ノル将軍を動かし、クーデターを行ってカンボジアは共和国となった。シハヌークはおりから北京滞在中で、それ以後カンボジアに戻れなくなり、「流浪のプリンス」となった。カンボジア内戦が始まり、75年ロン=ノル政権が倒れるとカンボジアに戻ったが、左派ポル=ポト政権によって監禁状態にされた。今度は「囚われのプリンス」といったところである。79年、ベトナムに支援されたヘン=サムリン政権ができると、反ベトナムの「民主カンプチア」国家元首として国連などで代表権を主張した。1970年以来22年間に及んだカンボジア内戦は91年にようやく終結し、パリ国際協定で和平が実現し、カンボジア王国が復活、1993年にシハヌークが国王に復帰した。2004年10月シハモニ国王に王位を譲り引退したとされるが、現在も隠然たる影響力を持ち、カンボジアでは現国王とシハヌーク夫妻の肖像画があちこちに飾られている。
 ラオス(独立)フランス領インドシナ連邦の一つとして、フランスの植民地支配を受けていたラオスは、1953年に王家の一つルアンプラバンの王家を国王とするラオス王国として独立した。まもなく、王政反対を掲げるパテト=ラオ(ラオス愛国戦線)が台頭し、対立が激化した。一時、王政派、パテト=ラオらの三派連立政府が成立したが、長続きせず1962年から内戦状態になった。隣国でベトナム戦争が始まると連動してラオスも内戦が激化した。 → ラオス内戦  ラオス人民民主共和国
エ.南アジア・アラブ世界の自立
 インドの独立 イギリス植民地としてのインドでは、1857年の大反乱以来、インド民族の独立運動を展開してきた。特に第1次世界大戦後から反英闘争が激化し、ガンディーらを指導者とする非暴力・不服従による独立運動が行われたが、イギリスは大戦後の独立の約束を反故にし、第2次世界大戦後まで植民地支配を続けた。
第2次世界大戦中のインド:第2次世界大戦が起きると、イギリスはインドを自動的に連合国側に参戦させ兵力の供給地とするために、戦後の独立を認めたが、ガンディーら国民会議派は、帝国主義との戦いよりも、まず即時独立を認めよと迫った。ガンディーらはイギリスが即時独立を認めないならば、イギリスには協力できないとして、「インドを立ち去れ」(クウィット・インディア)運動を起こしたが、イギリスはガンディーらを逮捕し、運動を弾圧した。なお、インドの一部にはチャンドラ=ボースのように、日本軍に協力してイギリスを追い出す戦いに立ち上がり、日本軍とともにイギリス軍と戦った人々もいた。
ヒンドゥーとイスラームの対立:イギリスが独立運動を弱体化するためにとった分割統治の影響を受け、植民地側にヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の分離主義が生じてしまった。ガンディーらヒンドゥー教徒主体のインド国民会議派は、イスラーム教徒も含めてのインド一体となった独立を追求したが、必ずしも少数派のイスラーム教徒と協力することに徹底していなかった。またイスラーム教徒側は、ジンナーなど全インド=ムスリム連盟が途中から分離独立を主張するようになり、両者は一体化出来ないまま独立に踏み切らざるを得なかったと言える。
インドとパキスタンの分離独立:1947年7月イギリスのアトリー内閣のもとで、イギリス議会がインド独立法が可決されると、それを受けて同年8月15日、ヒンドゥー教徒の国であるインド連邦と、イスラーム教徒の国であるパキスタン(インドの東西の二地域から成り立っていた)に分離独立という形となった。こうして200年に及ぶ植民地支配が終わり、独立を達成したが、ガンディーは分離独立に強く反対したが、両派(政治的には国民会議派と全インド=ムスリム連盟)の対立は修復できず、分離独立となった。そのため、インドにいたイスラーム教徒はパキスタンへ、パキスタンに含まれることになったヒンドゥー教徒はインドへ、それぞれ迫害を逃れて大移動することとなり、その過程で各地で衝突が起きた。しかも独立直後にカシミール帰属問題から起こったインド=パキスタン戦争は、その後三次まで続き、現在も解決がついておらず、互いに核開発を競うなど憎しみを深めていることは憂うべきことであろう。 → インド連邦  インド共和国
Epi. 日本軍に協力したチャンドラ=ボースとインド国民軍:日本軍がインドに迫ってきたとき、インド人の中で、直接日本軍に協力してイギリスと戦おうとした人たちがいた。その指導者がチャンドラ=ボースである。彼は社会主義者であったが、イギリス植民地主義と戦うには日本軍の力を借りる必要があると考え、インド国民軍を組織し、1943年10月にはインド仮政府を組織してその首班となり、44年2月からのインパール作戦では日本軍とともにイギリス軍と戦った。しかし、日本軍とともに敗れ、タイに撤退した。ボースはその後、ソ連亡命を図ったが、途中の45年8月18日、台北で飛行機事故により死亡した。
a ガンディー  → ガンディー
 「インドを立ち去れ」運動1942年8月、インド国民会議派のガンディー、ネルーらが開始した、反英闘争。「クウィット・インディア」「インドを出て行け」ともいう。1939年、第2次世界大戦が始まり、イギリスはドイツに宣戦布告すると、植民地インドに対しても戦争協力を要請した。特に兵士の供給源としてイギリスにはインドが欠かせなかったからである。それに対してガンディーらインド国民会議派は、ドイツのファシズムと戦う必要は認めたが、そのためには直ちにインドの独立を認めるべきであると主張し、独立が認められなければ戦争には協力できないという姿勢をとった。
1941年12月に太平洋戦争が始まり、翌年2月には日本軍がイギリスの拠点シンガポールを攻略し、さらに5月にはビルマを占領、インドに迫ってきた。アメリカと中国(蒋介石政権)はイギリスにインドを参戦させるよう強く迫った。そこでイギリスはクリップスを特使として派遣して、戦後の自治を約束し、戦争協力を再度要請したが、ガンディー、ネルーら国民会議派は「即時独立」を参戦の条件とする主張を変えず、8月からイギリスに対する抗議活動として「インドを立ち去れ」というスローガンをかかげ、大衆行動を呼びかけた。イギリスはそれを激しく弾圧、指導者のガンディーとネルーら以下、約2万人を逮捕し沈静化を図った。1944年2月から日本軍のインド侵攻作戦であるインパール作戦が始まったが、日本軍はイギリス軍に敗れ、多くの犠牲を出して撤退した。日本軍の敗退とともにガンディーは「インドを立ち去れ」運動の終結宣言を行った。「インドを立ち去れ」運動はインド独立運動の最後の高揚となったが、このときはムスリム勢力は参加せず、むしろイギリスの対独、対日戦争に協力した。イギリスは大戦中の約束を果たす形で独立を承認、ようやく1947年に独立を達成するが、それはインドとパキスタンの分離独立という、ガンディーらの理想とした独立とは異なった形になってしまった。
b 全インド=ムスリム連盟  → 全インド=ムスリム連盟
c ジンナー イスラーム教徒のインド独立運動の指導者で、始め国民会議派に属したが、1913年から全インド=ムスリム連盟に加わり、16年からはその議長となった。はじめガンディーらの国民会議派と協調したが、次第にガンディーの非非協力運動と距離を置くようになり、20年代には協力関係は消えた。1935年頃から、再びイスラーム教徒の独立国家実現のためにその結集を呼びかけ、1947年にインドと同時にパキスタンの独立を実現させた。47年から初代総督となったが翌年病死した。パキスタン建国の父とされる。
d インド国民会議派  → 国民会議派
e インド独立法 1947年7月、イギリスのアトリー内閣の時、議会で成立した、インドの独立を認める法律。
f ヒンドゥー教徒  → 第14章 3節 ヒンドゥー教徒
g インド連邦 1947年8月にイギリスから独立したインド亜大陸のヒンドゥー教徒を多数派とする国家。イスラーム教徒はインダス川流域とガンジス川下流域にパキスタンとして分離した。イギリスからは独立をはたしたが、イギリス連邦にはとどまった。1950年に「インド共和国憲法」が施行され、大統領制が導入された。そこで47〜50年までを「インド連邦」、50年以降をその政体から「インド共和国」と言って区別するのが一般的であるが、正式な国号は英語表記では単に「india」のみなので、「インド」だけでよい。 → インド共和国
h イスラーム教徒  → 第14章 3節 イスラーム教徒 
i パキスタン
かつてはインドと一体であったが、1947年に分離独立したイスラーム教国。現在は人口1億5千万、言語はウルドゥー語
パキスタンの独立:1947年8月、インドと同時にイギリスから独立したイスラーム教徒が多数を占める国家。当初はイギリス国王を元首とする、イギリス連邦の一員であったので、最高位は形式的にイギリスから任命される総督であり、建国の父ジンナーが就任した。建国時は西部のパンジャブやシンド、バルチスタンを中心とした西部と、ベンガル地方を中心とした東部の、二つの地域から成立していた。首都はイスラマバード。1956年にイギリス連邦から脱して、パキスタン=イスラーム共和国となり、大統領制となった。1971年に東部パキスタンは分離独立してバングラデシュとなった。
パキスタンの外交:建国以来、政治は安定せず、ヒンドゥー教との国インドとは、建国時から対立が始まり、藩王国カシミールの帰属をめぐって起こったインド=パキスタン戦争はその後3次にわたって続き、いまだに最終決着は着いていない。インドが中立政策をとり、中華人民共和国を承認するなど、反米的な第三勢力結集に向かうと、パキスタンはアメリカ寄りの姿勢を強め、対ソ包囲軍事同盟網である1954年の東南アジア条約機構(SEATO)、55年の中東条約機構(MATO)のいずれもにも加わった。(当時は東パキスタンを領有していたので、東南アジアの範疇にも入っていた。)
現在のパキスタン:インドとの対立は現在も深刻で、1898年にはインドが核実験を行ったことに対抗して同じく核実験を強行して国際的な非難を浴びた。そのような状況から、たびたび軍事政権が成立、現在のムシャラフ政権も軍部を基盤としている。また国内にはイスラーム原理主義勢力も強く、北部のアフガニスタン国境はターリバーンの活動拠点となっている。
最新情報:ムシャラフ政権は親米の立場からイスラーム原理主義弾圧を強め、反発を受けた。また、アメリカは国内の民主化を求める勢力に人気のある前首相ブット女史を帰国させ、ムシャラフ政権との協力を図ったが、2007年12月27日、選挙遊説中にイスラーム原理主義者と思われるもののテロによって殺害され、パキスタン情勢は混沌としている。
Epi. 「パキスタン」の意味 「パキスタン」という名称は、1933年イギリス留学中のイスラーム教徒の学生たちが言い出したもの。パンジャーブのP、アフガンのA、カシミールのK、シンド(インダス川下流域)のS、バルチスタン(現在の南西部)の tan を組み合わせて、Pakistan としてムスリムの清浄な国土(パクには神聖な、清浄なという意味もある)を作ろうという考えがもとになっている。
j カシミール  → 第17章 3節 カシミール
 第1次インド=パキスタン戦争  
 ガンディー暗殺 1948年1月、狂信的なヒンドゥー教徒の青年によって暗殺された。青年は、ガンディーがあまりにイスラーム教側に譲歩しすぎると不満だったという。
 ネルー  → ネルー 戦後のネルー
 インド憲法  
 インド共和国

上の黄色(サフラン色)はヒンドゥー教、下の緑はイスラーム教、中の白は両宗派の融和を象徴し、中央は仏教の教えである法輪をかたどっていおり、アショーカ王のサールナート石柱碑からとっている。
1950年、インド連邦で「インド共和国憲法」が成立、それ以後を一般的にインド共和国という。英語表記の国名は単に India なので、「インド」という表記でよい。首都はニューデリー。 → インドの独立
多数はヒンドゥー教徒(約83%)であるが、仏教徒、ジャイナ教、シク教、ゾロアスター教などの少数派も含み、民族的にもアーリア系の他、南インドにはドラヴィダ系が多い。
80年代までは国民会議派が政権を独占していたが、その後インド人民党、インド共産党など多党化が進んでいる。50〜60年代はネルー首相がアジア・アフリカ非同盟諸国をリードして第三世界の中心勢力として戦後国際社会でも大きな発言権を持つ一方、インド=パキスタン戦争、中国との国境紛争なども続いた。74年、98年には核実験を行い、またIT革命を進めるなど技術立国の道を歩んでいるが、他方カースト制の残存、人口問題、貧富の格差など依然として解消されていない面もある。
インドのアイデンティティ:10億の国民を抱え、多数の言語と地域文化に分かれているインド(面積だけでは全ヨーロッパに匹敵する広さがある)にとって、独立達成までは国民会議派が掲げる政教分離を理念とした民族独立運動がナショナルアイデンティティのよりどころであったものが、独立達成後は、国民会議派に代わって台頭したインド人民党の主張するようにヒンドゥー至上主義がそれに代わるものとされてきた、といえる。  
a セイロン(独立)現在は本来の地名であるスリランカという。セイロンというのは、この地を植民地支配したヨーロッパ人の呼称で、シンハラ語の「獅子の子孫の島」を意味するシンハラ・ディーバが、アラビア語を経てポルトガル語で「セイラーン」と言われるようになったことによる。ポルトガル、ついでオランダの侵出をうけ、スリランカの植民地化が進み、1815年からイギリスの植民地となり、セイロンという呼称が定着した。1948年にイギリス連邦内の自治領として一応の独立を達成したときも、イギリスのことばでセイロンとされた。1972年に完全独立を達成したときに、本来の民族的呼称であるスリランカに改めた。
 → 現在のスリランカ 
b ビルマ  → ビルマ(独立運動)
b アウンサン  → アウンサン
d マラヤ連邦 1957年、イギリス領マラヤが独立した国家。「マラヤ」という呼称は、イギリス植民地下のマレー半島の、原住民としてのマレー人と、中国系の華人、さらにインド人という三つの人種を越えた、新たな独立した統一国家を形成する国民という意味で用いられた。マラヤ連邦の独立は、三つの民族の妥協によって成立した面があり、「国民無き国家」などとも言われることがあり、現在でも複雑な民族問題を抱えている。マラヤ連邦は1963年にシンガポールとボルネオ島の二州(サラワクとサバ)が加わってマレーシア連邦へと版とを拡大した。しかし、中国系住民の多いシンガポールはマレーシア連邦のマレー人優勢に反発して、1965年に分離した。
独立の経緯とマレーシアの民族問題:1945年8月15日に日本軍が降伏してから、9月にイギリス軍が進駐してくるまで、実質的にマレー半島を管理したのは華人の抗日人民軍であった。日本軍政下で大虐殺の犠牲となった華人は、戦後になると日本軍に協力したマレー人に対する報復する暴動を起こした。一方イギリスは、1941年の大西洋憲章で戦後の民族独立を約束しながら、マレー半島はすぐには手放そうとしなかった。イギリスは独立に替わって、シンガポールを分離し、その他を連合州としてイギリス人総督が統治するマラヤ連合案を提示したが、1万人のマラヤ人(マレー人だけでなく華人やインド人を含んだ植民地人を総称するときに使用する)がデモを行って反発した。マレー系はマラヤ人の結束を訴え、46年5月に統一マラヤ国民組織(UMNO)を組織、それに対抗して華人はマラヤ華人協会(MCA)を、インド人はマラヤ・インド人会議(MIC)を組織し、独立運動は三つどもえとなった。三すくみとなった三つの人種組織は、共産党の武装蜂起が起きたのを期に結束して、1957年にマラヤ連邦を成立させた。マレー系の旧支配階層はイスラーム教を国教とし、旧小首長国のスルタンが交互に国家元首となると言う妥協案で満足した。しかしマレー系原住民は半島の東部の農村部に多く、貧しい。華人とインド人は半島西部の商業や工業地帯に多く、豊かであり、官僚層を占めている。<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.310-313 などによる>
e マレーシア連邦 1963年、マラヤ連邦とシンガポール、ボルネオの二州(サラワクとサバ)で構成することとなった新たな連合国家。いずれも旧イギリス領であったところ。首都はマレー半島の西側のクアラルンプール。
f シンガポール  → シンガポール  シンガポール占領  現在のシンガポール
 イラン(第2次大戦)第2次世界大戦中、パフレヴィー朝イランは首都テヘランを中立地帯として、北方の5州をソ連が、南方の諸州をイギリスが管理するという、南北分割下にあった。連合国はイランを通ってソ連に援助物資を送って、その対独戦争を支援していた。戦争が終わるとイギリス軍は撤退したが、スターリンのソ連は撤退せずに居座って北部イランでの共同の石油開発事業をイランに強要した。それに対してモサデグを中心として民族主義運動が高揚し、石油国有化を求める声が強まり、ソ連も撤退、その後はイギリス資本のアングロ=イラニアン石油会社(AIOC)がイラン油田の利権を独占した。首相に就任したモサデグは1951年に石油国有化を断行し、中東で初めて植民地会社を追放し自国資源を自国が受益することに成功した。しかしモサデグ政権はイギリスによる国際市場でのイラン原油締めだしと内部対立のため、1953年にクーデターで倒され、パフレヴィー2世が復権し、石油資源も国際資本の合弁会社で管理されることになった。パフレヴィー2世は極端な親英米政策をとり、「白色革命」という急激な近代化政策を進めた結果、国民の信望を失い、1979年イスラム教シーア派の指導者ホメイニの指導するイラン革命で倒される。
Epi. イランを助けた日本の石油会社 −日章丸事件− イランが石油国有化を宣言し、イギリスがイラン原油を世界市場から閉め出そうとしたとき、イランから原油を買い付けようとした日本人がいた。出光興産の出光佐三は、日本独自のエネルギー源確保は戦後日本の経済復興にとって不可欠であると考えた。そこで国際石油資本(メジャー)から閉め出され、格安でも原油の輸出先を探していたイラン国営石油会社と直接交渉し、両者は合意に達し契約を交わした。こうして出光佐三はタンカー日章丸をイランに派遣、1853年5月、当時シンガポールはイギリスが統治していたのでマラッカ海峡は通らず、住んだ海峡を経由して川崎港に帰ってきた。これは独立を回復した直後の日本と、真の独立を目指すイランの両国の心意気を示すものとして賞賛され、その後の日本とイランの有効な関係のきっかけとなった。<宮田律『物語イランの歴史』2002 中公新書 p.159-164>
f アングロ=イラニアン石油会社 1909年に、イギリス人ダーシーによって設立されたイランにおける油田開発と石油精製販売を一手に独占したイギリスの国策会社。通称AIOC(Anglo-Iranian Oil Company)。イランのカージャール朝から石油開発の一切の権限を譲渡されて、利益を独占していたが、第2次大戦後の1951年、パフレヴィー朝のモサデグ首相が石油国有化を宣言、アングロ=イラニアン石油の操業は停止された。その後、アメリカの介入によってモサデグ政権が倒されると、アングロ=イラニアン石油など七大石油会社(メジャーズ)が国際石油合弁会社を設立してイラン石油を支配することとなった。
a 石油国有化イランの油田は中東で最初に、1908年に発見された。その当初から開発にあたったのはイギリスの国策会社であるアングロ=イラニアン石油会社(AIOC)であった。AIOCはパフレヴィー朝イランの皇帝や貴族を懐柔し、そこから上がる利益(配当金)を独占する植民地会社であった。1950年、サウジアラビアで石油開発が始まると、新参のアメリカのアラムコ石油会社はサウジアラビアのサウド国王とその利益を折半する契約を結んだ。イランでもAIOCの利権独占に対して石油国有化を要求する民族主義的な要求が強まり、聖職者から共産党までを含む民族主義者の支持を受けたモサデグ首相が、1951年に石油国有化を断行、戒厳令をしいてAIOCの操業を停止させた。イギリスは国際裁判所に提訴したが、国連も国際裁判所も国有化問題を審理する権限を持たないとイギリスの提訴を棄却し、イランの石油国有化は成功した。しかしイギリスは世界石油資本と共同してイラン原油の締め出しを行い、減産に追い込まれたイラン財政は困窮することとなった。1953年軍部のクーデターによってモサデグ政権が倒れ、パフレヴィー2世の専制政治が復活、国際石油資本(七大石油会社=メジャーズ)の合弁会社がイランの油田を管理することとなった。モサデグの石油国有化は結局失敗したが、エジプトのナセルによるスエズ運河国有化などの中東諸国の自立の先鞭をつけたものとして重要である。
b モサデグ 1880〜1967 またはモサッデグと表記。1951年、イランの首相として、石油国有化を断行した政治家。大地主の家に生まれ、パフレヴィー朝の前のカージャール朝に仕えていた貴族の出身。イラン国民議会を指導し、イギリスとソ連の圧力に抵抗、石油資源はイラン自身の力で開発しようという決議を成立させた。高揚する民族主義運動に押されて首相となったモサデグは、イランの石油資源を支配しているアングロ=イラニアン石油会社(AIOC)の資産の接収を通告、戒厳令をしいてその操業を停止させた。モサデグ政権はイスラム聖職者から共産主義者までを含む民族統一政権であったため、次第に内部分裂し、モサデグは独裁者として非難されるようになり、1953年軍部のクーデターによって失権した。
c イラン=クーデター 1953年、イランのモサデグ政権を倒した軍部クーデター。これによっていったん実権を失い海外に亡命していたパフレヴィー2世が帰国、パフレヴィー朝を復活させ、イランの石油国有化を中心とする民族主義政策は挫折した。このクーデターはイギリスの石油資本(アングロ=イラニアン石油会社)とアメリカのCIAが仕組んだものとされている。これ以後は石油市場を安定させるため七大石油会社の合弁会社がパフレヴィー2世と協定を結びイランの石油生産を支配することとなった。
Epi. イラン=クーデターの黒幕CIA アメリカはモサデグ政権まではイランの石油資源に対して権益を有していなかった。1953年のモサデグ政権を転覆させるクーデターは、アメリカのイラン進出の好機であり、事実その黒幕となったのがアメリカの諜報機関CIAだった。アメリカの国務長官ジョン=フォスター=ダレスは、弟のCIA長官アレン=ダレスとともにクーデター計画を練り、駐イラン大使に実行させた。CIAの資金でテヘランの貧民層を買収して暴動を起こさせたのである。アメリカはクーデター成功によってイギリスからイランの石油資源の40%を得ることを約束されていたという。後になってイランでのアメリカ外交政策への反発が強くなり、1979年のイラン革命ではアメリカ大使館占拠事件が起こった。イラン革命の指導者ホメイニはアメリカを「大悪魔」と呼び、アメリカ大統領ブッシュはイランを「悪の枢軸」の一員と呼んで憎悪し合う。この遠因の一つは1953年のアメリカの介入によるクーデターにある。<宮田律『物語イランの歴史』2002 中公新書>
 パレスチナ問題(原因)パレスチナにおけるユダヤ人国家イスラエルと、アラブ系パレスチナ人およびアラブ諸国の対立を軸とした国際紛争。1948年のイスラエル建国時のパレスチナ戦争(第1次中東戦争)から始まる4次にわたる中東戦争が続き、なおも対立を続けている。
パレスチナ問題の原因:ユダヤ人とアラブ人は、ユダヤ教とイスラーム教という宗教でも対立するが、本来はこの両者はともにセム系民族であり、ともに一神教という共通点があり、イスラームではユダヤ教を「啓典の民」として認めているので、共存していたものである。この両者の対立が始まったのは、もっぱら19世紀末に始まるユダヤ人のパレスチナへの帰還を進めるシオニズムと、それを利用して第1次世界大戦において対トルコ(ドイツ・オーストリアの同盟側に参戦していた)戦略を有利に進め、中東に足場をかためて「インドへの道」を確保しようとする帝国主義下のイギリスの外交政策によるものであった。イギリスは大戦中にユダヤ人に対しパレスチナでの「ホームランド」の建設を認めるバルフォア宣言とともに、アラブ人には対トルコ反乱を条件に独立を認めるフセイン=マクマホン協定を結ぶという「二枚舌外交」(大戦後の中東をフランスと分割することを約束したサイクス=ピコ協定を加えれば「三枚舌外交」)を行い、パレスチナでのユダヤ人とアラブ人双方の権益に口実を与えたのだった。大戦後、パレスチナは委任統治となりイギリスが統治したが、ユダヤ人の移住が多くなりアラブ人との紛争が激しくなり、アトリー内閣は委任統治期限の終了と共に撤退し、問題解決を国際連合に預けることとなった。国連はパレスチナ分割案を提示し、解決を図りイスラエルを建国させたが、アラブ側に不利であったため、パレスチナ戦争が勃発することとなった。
a アラブ諸国連盟 アラブ諸国連盟の結成:「アラブ連盟」ともいう。イスラーム教徒でありアラビア語を使用するという共通項のあるアラブ人諸民族諸国の共通利害を守り、関係強化をめざし、アラブ諸国への欧米からの干渉を排除し、アラブ人の未独立国家の独立を支援する組織。1945年3月、エジプト王国が提唱し、エジプト、イラク、トランスヨルダン、サウジアラビア、イエメン、シリア、レバノンの7ヵ国が最初の加盟国。ただし、この段階では王制国家が中心であった点で、現在のアラブ諸国連盟と異なる。エジプトはムハンマド=アリー朝のファルーク国王、イラクヨルダンはともにハーシム家の国王、サウジアラビアサウード家の国王の支配する王国、イエメン王国(北イエメン)もシーア派イマームを国王とする王国であった。これらの王家間の対立は激しく、特にハーシム家はもとはメッカの太守であったものがサウード家に追われた過去があるので、両王家の関係は悪かった。本部はエジプトのカイロに置かれた。
パレスチナ戦争での敗北とエジプト革命:アラブ諸国連盟は内部対立と王国内の腐敗などから力を結集することができず1948年のパレスチナ戦争(第1次中東戦争)ではイスラエル軍に敗北してその建国を許した。戦後の1952年にイギリス寄りの王政が倒されるというエジプト革命が起こり、アラブ世界は一変した。エジプト革命はアラブ世界に大きな影響を与え、民族社会主義をとなえ、第三世界のリーダーとなったナセルの指導力が強まった。1958年にはイラク革命がおき、王政が倒され共和政となった。その後の中東戦争でも足並みがそろわず、パレスチナ問題を複雑化させている。
現在のアラブ諸国連盟:現在はアラブ諸国の国際機関として22ヵ国が加盟している。1945年の創立時の7ヵ国に、リビア、スーダン、チュニジア、モロッコ、クウェート、アルジェリア、南イエメン、バーレーン、カタール、オマーン、アラブ首長国連邦、モーリタニア、ソマリア、ジブチ、およびパレスチナ解放戦線(PLO)が加わった。中東和平でも重要な役割を担っている。本部はエジプトがイスラエルを承認したときに、一時チュニジアのチュニスに置かれたが、現在はカイロに戻っている。
 イエメン王国 アラビア半島の南西端にあり、紅海とインド洋を結ぶ位置を抑える交通の要衝であったので、早くから綱領貿易などで栄えた。ギリシア人やローマ人はこの地を「幸福なアラビア」と呼んだ。19世紀以降の発掘でサバ王国などの遺跡が発掘されている。6世紀にササン朝の支配を受けた後、7世紀にはイスラーム化した。16世紀にはオスマン帝国の支配を受けるようになったが、シーア派のザイド派が台頭し、第1次世界大戦でオスマン帝国が弱体化した際、1918年に独立してイエメン王国となった。1945年にはアラブ諸国連合に加盟した。その後王政が続いたが、1962年9月にサッラール大佐によるクーデターが起こり、国王は追放され共和政のイエメン=アラブ共和国となった。なお、現在のイエメンはこのイエメン王国の後身であるイエメン=アラブ共和国(北イエメンとも言う)と、その南に位置するイギリスの保護下にあった南イエメンが独立し、ソ連よりの共産政権であったイエメン人民民主共和国(南イエメンともいう)が、1990年に合体した国である。 → 現在のイエメン共和国
b パレスチナ分割案 第1次世界大戦後、イギリスの委任統治とされたパレスチナでは、移住したユダヤ人と先住のパレスチナ人との間の激しい衝突が相次ぎ、時にはイギリスの機関もテロの標的となっていた。手を焼いたイギリスは第2次世界大戦後、アトリー労働党内閣はついにパレスチナ放棄を決意し、成立したばかりの国際連盟に「丸投げ」することとした。国連はパレスチナ問題の解決をめざし、勧告案を作成、1947年11月の総会にかけた。国連勧告案は、パレスチナを分割して、ユダヤ人とパレスチナ人の二つの国家を建設し、聖地イェルサレムは国際管理下におく、というものであった。アラブ諸国は反対、ユダヤ人側とアメリカ・ソ連の対立する2大国は賛成、という状況の中で採決された結果、賛成33、反対13、棄権10で可決された。この分割案は、パレスチナの全人口197万人中の約3分の1の60万人にすぎないユダヤ人に、パレスチナの56.5%を与えるもので、ユダヤ人にとって有利なものであった。
Epi. レークサクセスの奇蹟 国連のパレスチナ分割案採決の際、前日まで反対を表明していた12の中小国が当日賛成に回り、「レークサクセスの奇蹟」と言われた(当時国連本部はニューヨーク郊外のレークサクセスにおかれていた)。この裏には、ニューヨークを拠点としたシオニストグループ(その中心人物がベングリオン)のロビー活動があったといわれている。<藤村信『中東現代史』1997 岩波新書 p.19 などによる>
※アメリカがイスラエル支持に踏み切ったとき、トルーマン大統領は、「イスラエルは票になるが、アラブは票にならない」と言ったという。大統領選挙でアメリカ国内のユダヤ人票を期待していたのだ。
c イスラエル(建国)

国連のパレスチナ分割勧告の決議に基づいて、1948年5月14日に独立宣言を行ったパレスチナのユダヤ人国家。初代首相はベングリオン。イスラエルの建国は、19世紀後半に起こったシオニズムの帰結であった。イスラエルの独立宣言とともに、周辺のアラブ諸国はそれを認めず、一斉にイスラエル領内に侵攻し、パレスチナ戦争(第1次中東戦争)が勃発した。イスラエル側はこの戦争を「独立戦争」と称している。イスラエル軍はアラブ諸国の歩調の乱れに乗じて個別に休戦協定を結び、国連のパレスチナ分割案よりも広い領土を獲得し、独立を確保、さらに国際連合に加盟して国際社会に承認された。ユダヤ人は国を失ってから2000年を経て、ようやく民族の国家を再建したこととなり、そのことを旧約聖書の「出エジプト」(エクソダス)に喩えている。首都は聖地イェルサレムに定められたが、旧市街を含む東イェルサレムはヨルダンの支配下に置かれ、「嘆きの壁」に近づくことはできなかった。 → 建国後のイスラエル
 ベングリオン ベン=グリオンと表記するのが正しい。イスラエルの初代首相。ポーランド生まれのユダヤ人で、シオニズムの指導者として活動し、イスラエルの建国を実現した。
d パレスチナ戦争(第1次中東戦争) 1948年5月、イスラエルの独立宣言を受け、それを承認しない周辺のアラブ諸国、シリア、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプトの軍が一斉に侵攻し、パレスチナ戦争(第1次中東戦争。イスラエル側は「独立戦争」という。)が開始された。二度の停戦を経て1949年初めまで戦闘が続けられた。この戦争は国際連合が成立して最初の国際紛争であったが、国連調停官のベルナドッテ伯がイェルサレムでユダヤ人武装集団に暗殺されるなど、困難が伴った。アラブ諸王国側はそれぞれ領土欲にかられて連携が無く、イスラエル軍に分断され、それぞれ別個の休戦協定を結んで終結した。その結果、イスラエルは国連分割案よりも広い土地を占領したまま、独立を確保した。1949年の休戦協定で定められた境界線を「グリーンライン」といい、これが現在まで国際的に認知されているイスラエルの領土である。一方では、国連分割案ではパレスチナ人地区とされたヨルダン川西岸はヨルダン、ガザ地区はエジプトが獲得し、パレスチナ人の国家は実現しなかった。かえってこの戦争の過程で戦場となったパレスチナの地から多数のパレスチナ人住民がパレスチナ難民としてヨルダン、レバノンなど周辺地域に流出し、この後の大きな問題となる。パレスチナ戦争のアラブ側の敗北はアラブ諸国に深刻な影響を及ぼし、まず1952年のナセルらによるエジプト革命が勃発した。 → スエズ戦争(第2次中東戦争)
e パレスチナ難民 パレスチナ戦争の始まる直前の1948年にパレスチナに住むアラブ系住民の人口は約130万人、ユダヤ人は66万人であった。ユダヤ人はパレスチナの土地の5〜6%を所有していたにすぎない。パレスチナ戦争によって流出したアラブ難民は、1949年国連報告によると70〜90万人を数える。イスラエル国内にとどまったアラブ人もおり、彼らはイスラエル市民権が与えられ、現在では約70万人(イスラエル総人口の15%)を数え、さらに現在では400万人にのぼっている。<藤村信『中東現代史』p.24 などによる>
ユダヤ国家  1947年の国際連合総会で議決された、パレスチナ分割案のユダヤ人国家が予定された地域。
アラブ国家  1947年の国際連合総会で議決された、パレスチナ分割案のアラブ人国家が予定された地域。 
国際連合管理  国際連合のパレスチナ分割決議で、国際連合の管理下におかれることとなったイェルサレム地区。 
イスラエル領土  第1次中東戦争(パレスチナ戦争)でイスラエルが占領し、1949年の休戦協定でその領土となった範囲。国連のパレスチナ分割決議案よりも広くなっている。
ヨルダンの占領  国連のパレスチナ分割決議ではパレスチナ人国家地域とされたが、第1次中東戦争(パレスチナ戦争)でヨルダンが占領した、ヨルダン川西岸地域。1967年の第3次中東戦争でイスラエルが軍事占領、イスラエル人の入植が進んでいる。
エジプトの占領  国連のパレスチナ分割決議ではパレスチナ人国家地域とされたが、第1次中東戦争でエジプト軍が占領した、ガザ地区。1967年の第3次中東戦争でイスラエルが軍事占領。
 エジプト革命 1952年7月23日にナギブとナセルの指導する自由将校団によってファルーク国王が追放され、ムハンマド=アリー朝のエジプト王国が倒れ、53年にエジプト共和国が樹立された革命。初代大統領はナギブで、革命政府は農地改革法などを制定し、社会改革を断行した。
革命前のエジプト王国では、パレスチナ戦争での敗北後、ファルーク国王が反英運動勢力であったワフド党を起用して再建を図り、ワフド党はスエズ駐留のイギリス軍を挑発したが失敗し、信望を無くしていた。また貴族と大地主の支配が続き、政界は腐敗していたので、革命は民衆の支持を受け成功した。エジプト革命は中東における王制打倒、民族主権の確立をもたらした最初の社会革命であり、アラブ世界に大きな衝撃を与え、指導者ナセルは「アラブの英雄」として脚光を浴びることとなる。
a ナギブ ナギーブとも表記する。エジプトの軍人で、ナセルらと自由将校団を組織し、ムハンマド=アリー朝の王制打倒に起ち上がり、1952年のエジプト革命を指導した。革命政府で首相を務めた後、1953年、エジプト共和国の初代大統領となった。しかし、ナセルと対立し、1954年には失脚した。
c 自由将校団 エジプト王国の軍人の中で、パレスチナ戦争でイスラエルに敗北したことに衝撃を受けた青年将校の中に生まれた、軍事の改革、ひいては社会改革、王制打倒を目指す運動。指導者はナギブで、1952年にエジプト革命を成功させてムハンマド=アリー朝のファルーク国王を追放、翌53年にエジプト共和国を樹立し、初代大統領となった。しかし、次第に台頭した同じく自由将校団の一人、ナセルが54年にナギブを失脚させ、権力を握る。ナセルは革命の時34歳、自由将校団の平均年齢も34歳だった。
d エジプト共和国 1952年のエジプト革命によって成立した共和国。1953年から正式に共和制に移行し、初代大統領はナギブであった。1956年からナセル大統領となり、独自のナセル主義を掲げスエズ運河国有化を勝ち取るなど、アラブ世界の盟主となった。1958年2月にはシリアと合同して「アラブ連合共和国」を結成、アラブ世界の統合に乗り出したが、61年にはシリアが離脱し、アラブ連合は事実上解体した。1970年にナセルが急死したあとはサダト大統領が就任し、71年9月から国名をエジプト=アラブ共和国に改称した。サダトはナセルの路線を継承しながら独自の外交を展開、1979年にはイスラエルと平和条約を締結して世界を驚かせたが、アラブ世界からは反発を受け、サダト大統領も1981年に暗殺され、ナセル時代のようなアラブ世界のリーダーシップは失われている。
b ナセル 1952年のエジプト革命を成功させ、大統領(在位1956〜70年)としてアラブ民族主義にたち、スエズ戦争を戦い、さらに非同盟主義を唱え、60年代の冷戦時代に第三勢力の指導者として大きな役割を果たした。
正確には、アブド=アンナースィル。ナーセルとも表記する。パレスチナ戦争(第1次中東戦争)に軍人として従軍し、エジプト軍の敗北を体験、ムハンマド=アリー朝の王政の腐敗を断つ必要を痛感し、士官学校の仲間と語らって青年将校を中心とした自由将校団を組織、年長のナギブ中将をその団長とした。1952年クーデターを実行してファルーク国王を追放してエジプト革命を成功させ、エジプト共和国を成立させた(大統領はナギブ)。政権を握ると直ちに社会改革政策を打ち出し、穏健派のナギブを追放、独裁的な権力を打ちたてた。1954年にはスエズ運河のイギリス軍を撤退させることに成功、55年インドネシアのバンドン会議(アジア=アフリカ会議)に参加し、ネルー、チトー、スカルノ、周恩来と並び、第三世界の指導者として知られるようになった。またイスラエルに武器援助を続けるアメリカを牽制してソ連から武器を買い付け、中国とも国交を樹立してアメリカの「封じ込め政策」を妨害した。1956年にはスエズ運河国有化を宣言、その利益でナイル川上流にアスワン=ハイダムを建設すると発表した。これに反発したイギリス・フランスはイスラエルを動かしてスエズ運河を目指して侵攻させ、スエズ戦争(第2次中東戦争)が始まった。ナセルは圧倒的な国際世論の支持を受けて英仏イスラエルの進撃を食い止め、エジプトを勝利に導き、スエズ運河はエジプトが管理することとなった。この勝利によってナセルは「アラブの英雄」として一躍有名となる。 → ナセル大統領
e イラク革命 1958年7月14日、イラク王国(ハーシム家のファイサル2世)が倒され、イラク共和国が成立した革命。52年のナセルらのエジプト革命の成功、56年のスエズ戦争、58年のアラブ連合共和国の成立と続くアラブ民族主義の高揚の中で、王政をとっていたイラクでも、カセム将軍、アレフ大佐らに指導された軍人グループがバグダードで蜂起、親イギリス政策を続けるハーシム王家のファイサル2世らを殺害した。バグダードに反英米政権が成立したことは、同年のナセルによるエジプトとシリアの合同「アラブ連合共和国」の成立とともに、大きな脅威となった。さらにイラクは翌59年にはバグダード条約機構(METO)を脱退した。
しかし成立したイラク共和国は、アラブ民族主義、共産党、クルド人勢力など方向性の違う勢力によって構成されていたため、間もなくエジプトへの対抗心の強いカセム政権は親エジプト的でナセルとバース党に近いアレフ大佐と対立、アレフ大佐を逮捕し、バース党を弾圧した。カセムはイラクの石油資源をエジプトに支配されるのをきらった。1961年、イギリスの支援でクウェートが独立すると、その領有を主張し軍を国境に集結させたが、イギリス軍が増強されたため併合に失敗した。カセム政権は軍からも見放され、63年2月、バース党のクーデターによって捕らえられ、処刑されて終わった。イラクにはバース党政権が続き、1979年にサダム=フセインが大統領となる。 → イラク共和国