用語データベース 0504 用語データベースだけのウィンドウを開くことができます。 印刷しますがページ数が多いので時間がかかります。
4.イスラーム文明の発展
ア.イスラム文明の特徴
a イスラーム文明(文化)イスラーム文明(またはその具体的な内容であるイスラーム文化)は、7世紀のアラビア半島でのアラブ人社会の中に起こった、ムハンマドを始祖とするイスラーム教によって生み出された文明、文化である。その成立時期はヘレニズム文化、さらにオリエント文明やキリスト教文明よりもかなり後なので、先行する文化、文明の要素を多く取り入れてはいるが、それよりもイスラーム教の世界観と倫理観を基盤とした独自性の方が強い。
しかしイスラーム文明をキリスト教文明や東アジアの儒教文化圏との対立という面を強調したり、さらに西欧的近代合理主義との違いを強調して、現代世界をそのような「文明の衝突」として「解釈」することが行われている。たしかに世界史と現代世界の理解の上で、イスラーム文明の独自性を理解することは大切なことであるが、それを異質なもの、排除すべきものととらえるのではなく、その差異を受け入れ、むしろ近代的合理主義の絶対化ではなく、その相対化をはかる観点で見ていく必要がある。それはさておき、次のようにその特徴をまとめることが出来る。
1.融合文明であること:イスラーム文明は先行する西アジアのメソポタミア、エジプト、ヘレニズムの各文明と、征服者であるアラブ人のもたらしたイスラーム信仰、アラビア語とが融合して成立した。
2.普遍的文明であること:アラブ民族の民族宗教として始まったが、イスラームの教えが民族を請えた普遍性を持つゆえに、各地の地域的・民族的特徴を加え、普遍性を強めた。
3.世界的広がり:アラビア半島に起こり、西アジアに広がり、それにとどまらず周辺のヨーロッパや中国の文明にも大きな影響を与え、現在も様々な形で世界中に広がっている。
上の1,2,3は同じことを言っているようであるが、つまりイスラーム文明が現代においても総合的、普遍的、世界的なものであり、けっして「特殊」な「民族的」な現象ではないことを理解する上で指摘されるところである。
世界史的には初期のアラブ人を主体としたアラブ=イスラーム文化だけではなく、その拡大に伴い、イラン=イスラーム文化トルコ=イスラーム文化インド=イスラーム文化を内包することに十分に留意すること。
a 融合文明 イスラーム文明は、先行する西アジアのメソポタミア文明、エジプト文明、ヘレニズム文明と、征服者として登場したアラブ人のもたらしたイスラーム教とアラビア語が融合して成立した。またその融合文明は、バグダードやカイロなどの商業都市で発達し、都市の文明としての特徴も強い。
アラビア語 本来はアラブ人の言語で、南セム語に属する。イスラーム教が起こると、『コーラン』がアラビア語で書かれており、それは神の言葉とされて他の言語に翻訳することは禁止されていたので、アラブ人以外のイスラーム教徒(ムスリム)もコーランを通じてアラビア語を使うようになり、イスラーム世界の共通語として広まった。正式には695年にウマイヤ朝のカリフ、アブド=アルマリクが、アラビア語を公用語として使用することを定めた。
現在は北アフリカのモロッコから西アジアのイラクまでがアラビア語圏となっている。イスラーム世界でもトルコ語とペルシア語、インドネシア語は別に用いられている。アラビア語を表記する文字が6世紀ごろから使用され始めたアラビア文字で、これもイスラーム世界(トルコとインドネシアを除く)で広く用いられている。アラビア文字は右から左に横書きするのが特徴で、現在はいくつかの書体に分かれており、絵画が発達しなかったアラビア文明では、アラビア文字の「書道」がたいへん良く発達した。イスラームの信仰と結びついたアラビア語が、人種や民族を超えてイスラーム世界の共通語となったことにその普遍的文明としての特徴が現れている。
b 普遍的文明 イスラーム文明はイスラーム教を核として、民族文化を超えた普遍性をもつ。イスラームの拡大に伴い、各地の地域的・民族的特徴を加えてより普遍性を強めた。本来のイスラーム文化が、アラブ=イスラーム文化とすれば、各地の伝統文化と融合した文化としてはイラン=イスラーム文化トルコ=イスラーム文化インド=イスラーム文化があり、その他にも東南アジアやアフリカでも地域文化と融合しながら広がっていった。
c 世界的な広がり イスラーム文明はアラビア半島から起こって西アジアに広がったものであるが、西アジアにとどまらず、周辺のヨーロッパや中国の文明にも大きな影響を与えた。イベリア半島のトレドシチリア島を通してキリスト教世界である中世ヨーロッパ文化影響を与え、さらにルネサンスの展開の刺激となった。また中国文明に対しても、唐以来のムスリム商人の交易を通じて影響を与え、中国史の中でも明の鄭和のようなイスラーム教徒の活動も大きい。このようにイスラーム文明は世界的広がりを持つことが特徴としてあげることができる。 
トレド スペインの古都。507年、西ゴート王国の都となり、711年、アフリカから北上したイスラームの侵入をうけてた。その後イスラーム勢力の軍事基地とされたが、1085年にレコンキスタの途上のカスティリャ=レオン王国がキリスト教の支配を回復した。しかしイスラーム文化の西方での拠点として機能は続き、12〜13世紀にカスティリヤ王国のもとでこの地に翻訳学校が設立されでイスラームの文献がラテン語に翻訳され、中世ヨーロッパの文化に大きな影響を与えた。トレドにもたらされたイスラーム文献は、バグダードの「知恵の館」において古代ギリシアの文献がアラビア語に翻訳されたものであり、ヨーロッパの人々が古代ギリシア文明を学んだのは、イスラームを経由してであったのである。
c 中世ヨーロッパの文化 中世ヨーロッパのキリスト教文明は、イスラーム教を異教として激しく排除し、レコンキスタや十字軍運動のような敵対行動もあったが、近接するイベリア半島のトレドや南イタリアなどでは早くからイスラーム文明の影響を受け、学問が盛んであった。十字軍運動はイスラーム世界との接触が強まる契機となり、12世紀ごろからイスラーム文化と、イスラーム文化を通じてギリシアの古典古代の学問を取り入れる動きが活発になった。それが12世紀ルネサンスといわれる文化運動である。
d ルネッサンス  → 第9章 2節 ルネサンス
イ.イスラームの社会と文明
a 都市の文明 商業・交易の発展した都市を中心とした都市文明であることが、イスラーム文明の大きな特色である。メッカ、メディナなどの宗教都市を始め、各王朝の都、ダマスクス、バグダード、カイロ、イスファハーン、サマルカンド、グラナダなどが繁栄し、さらにミスル(軍営都市)として作られたバスラ、クーファ、フスタート(後にその近くにカイロが建設された)、などに集住した軍人・商人・知識人が文化の担い手となっていた。とくにアッバース朝のバグダード、10世紀のファーティマ朝以降のカイロが、イスラーム世界の中心都市として大いに繁栄した。 
b ウラマー コーランハディースを解釈し、イスラーム法(シャリーア)の維持にあたる神学・法学者。またひろくイスラーム法学を修めた知識人を言う。ウラマーの中でイスラーム法(シャリーア)による裁判を行う裁判官の役目を果たす人々はカーディと言われる。ウラマーは、一般信徒の礼拝の指導者ともなった。
彼らはシャリーアを厳密に解釈しようとするあまり、次第に形式的、律法主義的になっていっていき、それに飽き足りず、神との感覚的な一体化を目指す運動として起こったのが神秘主義運動である。
 カーディーイスラーム法の下で裁判にあたる裁判官。コーランとハディースに通じたウラマー(法学者、知識人)の中から選ばれる。裁判は民事と刑事に及び、あらゆる問題をシャリーアにもとづいて裁いたが、次第に形式的になった。裁判官であるとともに、ワクフの管理や結婚の証人などの役割も担った。 
c モスク イスラーム教徒の礼拝堂。一般信者の信仰だけでなく、学問・教育の場ともなった。中心部にはドーム(タマネギ型の丸屋根)の下に広い広間があり、信徒が集合してメッカの方角を向いて礼拝するところがある。その中には簡単な説教壇とメッカの方向(キブラ)を示すミフラーブがある。ミフラーブは壁につけられたくぼみで、アーチ型の装飾が施されている。モスクの中庭には礼拝の前に身を清める泉が準備されていることが多い。モスクの周囲には、ミナレット(光塔)が配されており、礼拝の時を告知するためのものである。モスク建築は、イスラーム教の広がったところではどこでも見られ、基本的には同じ構造を持っているが、時代と場所によっていくつかのバリエーションが見られる。<詳しくは、深見奈緒子『世界のイスラーム建築』講談社現代新書 2005>。
d マドラサ イスラーム教の指導者、学者であるウラマーを養成するための学校。中央アジアではメドレセともいう。イスラーム圏の各都市に建設され、ワクフ(寄付)によって運営された。学生は原則として寄宿舎に住み、教室はなく、モスクが教室となる。カリキュラムはアラビア語学、コーラン、ハディースなどのイスラーム法学など均一の内容で、イスラーム文化の画一化をもたらした。イスラームの都市には多数のマドラサが設けられていたが、特に有名なマドラサには、ファーティマ朝のアズハル学院(カイロに建設。現在は国立総合大学のアズハル大学となっている)と、セルジューク朝のニザーミーヤ学院(バグダード以来、各都市に多数建設)がある。また、現在のイスラーム圏でも、ウズベキスタンのサマルカンドブハラには多くのメドレセを見ることができる。
e スーク (バザール)アラビア語で市場のこと。ペルシア語ではバザール。イスラーム教圏の都市の中心部、モスクの近くの商業地域。イスラーム都市文明はイスラーム帝国の整備された交通路により、遠隔地に伝わった。現在でもイスラーム圏の都市にはスーク(バザール)があり、ありとあらゆる商品が取引され、市民生活に不可欠なものとして機能している。 中央アジア・ウズベキスタンのサマルカンドのバザールは世界史の旅を参照。 
f キャラバンサライイスラーム圏の都市のモスクやスーク(バザール)に隣接して設けられる商人宿。キャラバンは隊商のこと。
ワクフイスラーム世界で、イスラーム法の規定に基づき、公共の施設を運営するために行われる寄付のこと。モスクマドラサ(学校)、病院、キャラバンサライ(商人宿)などの施設を始め、公衆便所や水飲み場などもワクフで運営される。例えば一人の商人が経営する賃貸住宅の利益の半分を、特定のマドラサの運営費に充てることを公衆に約束する。そのマドラサの教授の給与や、学生の寄宿舎の費用はそのワクフから支出されることになる。現在でもイスラーム都市ではワクフが機能している。
Epi. イスラーム都市に市長はいない、市役所もない 「イスラーム世界の都市には、市長もいなければ市役所もない。権力が都市の秩序を維持したのではなかった。制度化された、閉鎖的な自治組織が都市を維持したのでもなかった。さまざまなワクフが維持したのである。そしてワクフによって維持された施設は、特定の「市民」だけが利用したのではなく、誰でもが自由に利用できたのである。」<『都市の文明イスラーム』新書イスラームの世界史1 講談社現代新書 後藤明 p.98>
a 製紙法 は中国の後漢の宦官蔡倫が発明改良し、唐で普及し、751年のタラス河畔の戦いの時、唐軍の捕虜からアッバース朝のイスラーム世界に伝えられたとされている。このときの捕虜の中に含まれていた紙漉工などが、まもなくできたサマルカンドの製紙工場での中心的な技術者となり、麻を原料にした紙の生産が始まった。製紙法は次第に西方にひろがり、ダマスクス、エジプトを経てアフリカ北岸沿いに西に伝わり、12世紀にイスラームの支配下にあったスペインに伝わり、バレンシア地方に製紙工場が建てられた。ついで13世紀にイタリアで製紙工場がつくられ、14世紀にはヨーロッパ全域で紙の製造が始まった。
エジプトではパピルス(Paperの語源)の茎を使った紙が使われていたが扱いや保存に適さず、ローマ時代からは羊の皮をなめした羊皮紙が使われるようになり、ヨーロッパ中世にはほとんどそれが使用されていた。羊皮紙は価格が高く一般の庶民に書物が普及することはなかったが、製紙法が伝わり、印刷術が知られるようになった14世紀には、書物が普及し、知的水準を一挙に高めた。<以上 藪内清『中国の科学文明』岩波新書1970> → ルネッサンスの三大発明
b タラス河畔の戦い  → 第3章 2節 エ 唐の動揺 タラス河畔の戦い
a 神秘主義(スーフィズム) イスラーム世界で8世紀の中頃にはじまり、9世紀に流行した、踊りや神への賛美を唱えることで神との一体感を求める思想。そのような神秘主義をスーフィズムという。スーフィーとは、神秘主義の修行者が、贖罪と懺悔の徴として羊毛の粗衣(スーフ)を身にまとって禁欲と苦行の中に生きていたことから起こった言葉であると考えられている。その思想は、自我の意識を脱却して神と一体となることを説き、形式的なイスラーム法の遵守を主張するウラマーの律法主義を批判した。代表的なスーフィズムの理論家に、ガザーリー(1111年没)がいる。12世紀ごろから、各地に神秘主義の修行者を崇拝する、神秘主義教団が生まれ、その活動が、イスラームの大衆化を進め、同時にアフリカやインド、東南アジア、中国に広がる背景となった。
ガザーリー セルジューク朝のイスラーム神学者(ウラマー)で11世紀末に活躍。はじめバクダードのニザーミーヤ学院の教授で著名なスンナ派神学者であった。1095年、その地位を棄てて放浪の旅に出、独自の神秘主義思想を生み出した。彼は神と信仰者が一体化することによって真理に至ることができると説き、単なる合理的な「解釈」を排除し、神秘的な瞑想を続けた。彼の思想は、イブン=シーナーのギリシア哲学と融合させた合理主義的な考えを批判し、世俗的な安逸から離れて瞑想することによって神と一体化をはかるという神秘主義(スーフィズム)の最初の理論となり、その後のイスラーム教に大きな影響を与えた。12世紀のコルドバで活躍したイブン=ルシュドはガザーリーのスーフィズムに反対して、アリストテレスによるイスラーム神学の体系化を図った。
神秘主義教団12世紀頃からスーフィズム(神秘主義)の修行の指導者である聖者を崇拝する教団(ターリカ)が各地に生まれていった。この神秘主義教団は、神の愛を説き、踊りなどを通じて神との一体化を体感するとして都市の庶民や農村に広がり、イスラーム教の布教につながった。イスラーム教がインド、東南アジア、アフリカに広がったのは、イスラーム商人の活動とこの神秘主義教団の活動に負うところが多い。オスマン帝国の時代には、舞踏によって忘我の境地に入ることを目指す教団もあらわれ、民衆に広く受け入れられるようになった。イランでは神秘主義教団の中からサファヴィー朝が生まれた。スーフィズムの修行者をデルヴィーシュといい、イランやトルコでは托鉢を意味する。神秘主義教団(スーフィー教団)には、代表的なものとして、カーディリー教団(12世紀、バグダードで組織された最古のスーフィー教団)、メヴレヴィー教団・ベクタシュ教団(いずれもアナトリアで生まれた教団で、オスマン帝国時代に強大になる)などがある。
ウ.学問と文化活動
a 固有の学問 コーラン』と『ハディース』(ムハンマドの言行録)を根拠とするアラブ人の伝統的学問。アラビア語の言語学とコーランの解釈から発達した神学法学がおこる。ついでムハンマドの伝承研究から歴史学が発達した。
言語学イスラーム固有の学問の言語学とは、主としてアラブ人以外の人々がコーランを理解するために必要であり、また彼らが役人になるためにはアラビア語の理解が必須だったので、アラビア語の文法書などが多数作られた。特に、アラブ人がミスル(軍営都市)として築いたバスラとクーファ(いずれも現在のイラク)で、イラン系の人々の中でアラビア言語学の研究が盛んになった。
神学イスラーム教の教理を研究する「固有の学問」がイスラーム神学で、代表的な神学者には、11世紀末セルジューク朝のバグダードのニザーミーヤ学院の教授ガザーリーなどがいる。外来の学問であるギリシア哲学と結びついて、イスラーム哲学を発展させたイブン=ルシュドなどもヨーロッパ中世のスコラ哲学に大きな影響を与えた。
法学コーランハディース(ムハンマドの言行録、伝承)を根拠とするイスラーム法学は、神学と並んで固有の学問の中心となるもので、シャリーア(イスラーム法)を研究し、新たな判断を加えるために専門の学者、知識人がウラマーとして大きな権威を持っていた。しかし、シャリーアの解釈のあり方をめぐって、いくつかの学派に別れ、スンナ派にはハナフィー派、シャーフィイー派、マーリキー派、ハンバリー派の4つの学派が形成された。
シャリーア イスラーム法のこと。神が人間に示した「正しい生き方」を意味することばで、もとの意味は「水場への道」であった。コーランハディース(ムハンマドの言行録)に基づき、イスラームの信仰内容、儀礼から、国家の行政、家族、身分、商取引などあらゆる分野で体系化されている。しかし、コーランとハディースをどう解釈し、正しいシャリーアを引き出すかについてはウラマー(法学者)によって異なり、いくつかの学派が生じることとなった。現在まで続いているのはスンナ派の正統四法学派といわれるハナフィー派、シャーフィイー派、マーリキー派、ハンバリー派である。これらの法学派はお互いの学派を認め合っており、論争を継続してきた。<黒田壽郎編『イスラーム辞典』p.173 などによる>
ハディース ムハンマドの言行録とされるもので、コーランと並んでシャリーア(イスラーム法)の基準となる。9世紀にブハラ出身のブハーリーが、16年の歳月を費やし、60万のハディースを収集し、このなかから信頼度の高い3700余の伝承を選んで『真正ハディース集』にまとめた。この後も多くのハディース集が編まれたが、いずれもブハーリーの伝承集を基本にしている。<佐藤次高『イスラーム世界の興隆』世界の歴史8 中央公論社 1997 p.167> 
ブハーリー イスラーム教スンニ派の神学者で、中央アジアのブハラ出身。イスラーム教スンナ派が『コーラン』に次いで重視する、ムハンマドのさまざまな言行のうち真正なものを選んだハディースを編纂した。ブハラで曾祖父の代からのムスリムに生まれ、16歳でメッカに巡礼し、さらに各地を遍歴して60万とも90万ともいわれるハディースを収集した。かれはムハンマドやその弟子達が生きていた時代の人から聞いて「真正のもの」のみを厳選し、97巻3450章にまとめた。それが現在の『ハディース』の6種類のうちの『真正伝承集』と言われるものである。<濱田正美『中央アジアのイスラーム』2008 世界史リブレット70 p.12 などによる>
世界遺産 ブハラのブハーリー廟 ブハーリーはブハラの王から、王子の教育を頼まれたが、自分の研究は王のためではないと言って断り、サマルカンドに亡命した。サマルカンドで780年に没したので、その墓廟は現在サマルカンドにあり、イマーム=アル=ブハーリー廟として整備されている。 → 世界史の旅 ウズベキスタン・ブハラ
歴史学 イスラームの歴史学は、ムハンマドの伝承を記録する伝承学から発達した「固有の学問」である。イスラームの征服地が広がり、アラビア帝国からイスラム帝国に進展するに従い、複雑な歴史的事象に筋道をつけて叙述する必要が出てきた。歴史学でも大木の業績を上げたのはイラン系の人々が多く、『予言者と諸王の歴史』をまとめたタバリーなどがそうである。14世に西方イスラーム世界の北アフリカにイブン=ハルドゥーンが現れ、イスラーム歴史哲学の最大の著作『世界史序説』を著した。
タバリー 9世紀のイラン系神学者、歴史学者。コーランの注釈書『タフシール』、年代記的世界史『預言者と諸王の歴史』を著す。カスピ海南部のタバリスタンに生まれ、7歳でコーランを暗記し、9歳でハディースを自由に書くことができたという。<佐藤次高『イスラーム世界の興隆』世界の歴史8 中央公論社 1997 p.167> 
b イブン=ハルドゥーン 14世紀のアラブ世界で活躍した歴史家で、『世界史序説』で知られる独自の歴史哲学を展開した。1332年に北アフリカのチュニスで、ベルベル人ではなくアラブ人の貴族の子として生まれ、法学を学びんだ。チュニスで政争に巻き込まれてその地を去り、イベリア半島(アンダルス)のグラナダナスル朝のスルタンに仕えた。その後、モロッコのフェスやアルジェリアのトレムセンなどをへて故郷のチュニスに帰り、カーディー(法官)として活躍し、実際の行政にもあたった。この間、その主著であるイスラーム世界を通観した『世界史序説』を著し、イスラームを代表する歴史家とされている。その著では都市と遊牧民の交渉を中心に王朝興亡の法則性を探っている。晩年はマムルーク朝のカーディーとしてカイロに招かれ、1406年、その地で没した。 
現在のチュニジアの首都チュニスの旧市街には、イブン=ハルドゥーンの銅像が建っている。彼は現在もチュニジアの誇りとされている。<樺山紘一『地中海』2006 岩波新書 p.41>
世界史序説 イブン=ハルドゥーンが1377年に著した歴史書で、正確には『省察すべき実例の書、アラブ人、ペルシア人、ベルベル人および彼らと同時代の偉大な支配者たちの初期と後期の歴史に関する集成』という題名も長いが、本文も長大な歴史書のまさに序論にあたる部分をさしている。岩波文庫に翻訳(森本公誠訳、全4冊)があるが、そこでは『歴史序説』という題名になっている。
イブン=ハルドゥーンの歴史論:山川出版社の教科書『詳説世界史』p.114に「都市と遊牧民の交渉を中心に、王朝興亡の歴史に法則性があることを論じた」とあるが、それはどういうことかというと、イブン=ハルドゥーンが言うには、イスラーム世界には、文明の進んだ都市(ハダル)と、そうでない砂漠(バドウ)とがあり、砂漠に暮らす人々が強い連帯感(アサビーヤ)を持って勃興し、都市を征服し強力な国家を建設するが、やがて都市生活の中で連帯感を失い、新たな集団に征服されるということを繰り返しているというのである。またその交替は3代120年で起こると言っている。人々を連帯させる砂漠の生活と、人々の連帯を希薄にする都市文明という対比は、現代の世界を考える際にも興味深い見解であると思う。
a 外来の学問 ギリシアインド、ペルシアなどアラビア以外から入ってきた学問。哲学・医学・天文学・幾何学・光学・地理学、など。特にギリシア語文献はバグダードの知恵の館でアラビア語に翻訳され、その研究から多くの学者が輩出した。 
知恵の館 バグダードに作られたギリシア語文献のアラビア語への翻訳を大規模に行った研究所で、イスラームの「外来の学問」の研究の中心となった。8世紀後半のアッバース朝全盛期のカリフ、ハールーン=アッラシードは、バグダードにギリシア語文献を中心とする図書館を建設し「知恵の宝庫」と名づけた。その息子マームーンはそれを拡充し、「知恵の館(バイト=アルヒクマ)」と改め、ギリシア語文献の組織的な翻訳を開始した。主任翻訳官はフナイン=ブン=イスハークは、ギリシア語、シリア語、アラビア語に堪能なネストリウス派キリスト教徒で、彼は同派の学者を招き、エウクレイデスの数学書、ヒポクラテスガレノスの医学書、プラトンアリストテレスの哲学書、さらにギリシア語の旧約聖書などを次々と翻訳した。この「知恵の館」から、イブン=シーナーフワーリズミーなどが輩出した。<佐藤次高『イスラーム世界の興隆』世界の歴史8 中央公論社 1997 p.165 などによる> 
b  ギリシア(文化とイスラーム文化)
古典古代のギリシアの学問は、ヘレニズム時代を経て、イスラーム世界に伝えられ、8〜9世紀にアッバース朝の都バグダードの「知恵の館」で組織的にギリシア語からアラビア語への翻訳が行われた。その間、ヨーロッパ中世社会ではギリシア文化と科学、哲学などの学問は忘れ去られていた。イスラーム世界と接するイベリア半島や南イタリアで、イスラーム教徒からすぐれた技術に刺激されたヨーロッパのキリスト教徒は、12〜13世紀に、トレドの翻訳学校などで盛んにアラビア語訳のギリシア文献を、ラテン語訳することが行われるようになった。このように、古代ギリシア文化が中世ヨーロッパに知られたのは、イスラーム世界を経てのことであったことは重要である。
a インド(文化とイスラーム文化)インドの文化は、インダス文明を基盤として、アーリヤ人が作り上げたものである。紀元前後からヘレニズムの影響を受けながら、高度な文化を発展させ、特に4〜6世紀のグプタ朝時代に、仏教やヒンドゥー教などの宗教の発展ともに医学・天文学・数学などの分野で進歩が見られた。特に、数学では十進法が取り入れられ、ゼロの概念がインドで生まれた。これらのインドの文化は、8世紀以降、イスラーム教がインドに浸透することによって、イスラーム世界にも大きな影響を与え、インド数字をもとにしてアラビア数字が造られ、また医学や天文学も伝えられた。13世紀ごろからイスラーム政権によるインド支配が恒常的となるに伴い、インドのヒンドゥー文化と外来のイスラーム文化の融合が進み、独自のインド=イスラーム文化が形成される。 
b アラビア数字 現在、一般に使用される、1,2,3・・・・0,という数字。最大の特徴は、ローマ数字や漢数字と違い、ゼロ記号があることで、このゼロの概念はインドからイスラーム世界に伝えられたとされる。ゼロ記号を用いたアラビア数字を用いることによって、フワーリズミーに代表されるアラビアの数学は世界の中で最も早く発展した。
c ゼロの概念  →第2章 1節 インド古典文化の黄金期 ゼロの概念の発見
d 錬金術 物質の中で最も純粋で価値があると考えられた金を、他の物質から作り出すことができないか、という試みは古くメソポタミアやギリシアにも見られたが、特にアラビアにおいて発展した。アラビア以前の錬金術は呪術的なもので、占星術などと結びついていたが、アラビアでは物質と物質を化合させる実験を繰り返すことによって、耐火性の蒸留器や濾過器、フラスコなどの器具が工夫され、炭素ソーダ、アルカリなどのが知られるようになったことは「錬金術から化学へ」一歩進めたと言える。アラビアにはラジーとか、ジュベルなどの錬金術師の名が伝わっており、また多くの化学用語もアラビア語起源であることが多い。
e フワーリズミー 9世紀前半、アッバース朝の都バグダードで活躍したアラビア数学の大家。ホラズム(フワーリズム)出身なのでアル=フワーリズミーという。イラン人。インド起源のゼロを初めて用いたことで知られ、その著書『代数学』は、後にラテン語に翻訳されてヨーロッパに伝えられ、教科書とされた。また天文学者でもあり、アラビアとインドの天文学を融合させて、より正確な天文表を作成た。なお代数学を意味する英語のアルジェブラもアラビア起源の言葉で、アルは定冠詞、ジェブラは「復元する」という意味からきた。また数学である種の問題を解くための計算の手順、方法を意味するアルゴリズムという用語はこのアル=フワーリズミーに由来する。現在、ウズベキスタンの西部の世界遺産ヒヴァのイチャンカラ(ヒヴァ=ハン国のハンの居城)入口に、フワーリズミーの記念像がある。 → 世界史の旅 ウズベキスタン・ヒヴァ
f ウマル=ハイヤーム セルジューク朝時代のイラン人学者、文学者。オマル=ハイヤームとも表記(山川出版社の『詳説世界史』2006年版まではオマル=ハイヤームだったが2007年改訂版からウマル=ハイヤームとなった。どちらでもよい)。数学者、天文学者、文学者として広く知られる。マリク=シャー時代の名宰相ニザーム=アルムルクに招聘に招聘され、イラン暦を精密な数学で改良し、より正確なジャラーリー暦をつくった。またイスファハーンの天文台建設にかかわり、イラン=イスラーム文化を代表する学者であった。また文学者として著した詩集『ルバイヤート』(四行詩集)は、イラン文学史上の最も重要な作品として知られている。
ジャラーリー暦 セルジューク朝のマリク=シャー時代の宰相ニザーム=アルムルクに招聘されたウマル=ハイヤームが、メルヴの天文台で改定した暦法。イランにはアケメネス朝時代にバビロニアから太陽暦が伝わり、ゾロアスター教が国教となったササン朝ではその宗教儀礼と結びついたイラン暦が行われていたが、イスラーム化とともにヒジュラ暦(イスラーム暦)が導入された。イラン暦は太陽暦、ヒジュラ暦(イスラーム暦)は太陰暦なので両者の整合性を得るために制定されたのがジャラーリー暦であった。この暦法では33年に8回の閏年を置くもので、ヨーロッパで行われていたグレゴリウス暦よりも正確なものであったといわれている。
 出題 慶大文 2002 オマル=ハイヤームはセルジューク朝のスルタンに招かれて、非常に正確な太陽暦の作成を指導した。この暦は何と呼ばれているか。     解答 →    
『ルバイヤート』 ウマル=ハイヤームの著したとされる詩集。四行詩集とも言う。人の世の無常と愛の祝福を歌いイラン文学の最も重要な作品となっている。1859年にイギリスの詩人E.フィッツジェラルドが英訳し、広く世界に知られることとなった。
g アラビア語起源のことば アルコール、アルカリ、アルケミー、アルジェブラなどのほか、シャーベット、シロップ、パジャマ、シュガー、コットン、レモン、シャボンなどもアラビア語起源である。
a アリストテレス哲学  → アリストテレス
b イブン=シーナー 10〜11世紀のイスラーム世界を代表する医学者であり、哲学者。イラン人であるが、ラテン名のアヴィケンナの名でヨーロッパにも知られている。イブン=スィーナとも表記する。
980年、中央アジアのサーマーン朝が治めるブハラ近郊で生まれ、はじめアリストテレスの哲学を学び、16歳から医学の道に入った。999年サーマーン朝がカラ=ハン朝に滅ぼされ、またまもなくガズナ朝が侵攻してくるなどの混乱の中でブハラを離れ、のち中央アジアから西アジアの各地を放浪する。ホラズムを経てイランに移り、ブワイフ朝に仕え大臣を務めたりした。その間、古来のアラビア医学にギリシアやインドの医学知識を加えて、大著『医学典範』を著した。これは後にヨーロッパに伝えられ、長く医学の教科書としても用いられた。また医学だけでなく、哲学、数学などの著作もあり、詩の作品の残されている。1037年、イランのハマダーンで死去した。
Epi. 15歳のイブン=シーナー、アリストテレス『形而上学』に取り組む 15歳のイブン=シーナーは独学でアリストテレスの『形而上学』にとりくんだ。彼は40回読み返し、ほとんど暗記してしまった。しかしそれでも理解できなかった。絶望して「この本を理解する手だてはない」と自分自身に言ってあきらめかけた。そんなとき、ブハラのバザール(市場)で一人の商人に一冊の本を買わないかとすすめられた。買ってみるとそれは『形而上学』の注釈書だった。家に帰って急いで読んでみると、それまで難解で判らなかったところが理解できるようになった。うれしくなって翌日、神に祈り、貧しい人々に多くの施しをしたという。<加藤九祚『中央アジア歴史群像』岩波新書による>
『医学典範』イブン=シーナー(ラテン名アヴィケンナ)の著作で、アラビア医学にギリシアのヒポクラテスやローマのガレノスなどの医学を加え、さらにインド医学も取り入れて、完成させた大著。1000年頃から約20年の歳月をかけて書かれ、彼が40歳の頃完成した。アラビア語で約100万語からなり、第1巻では医学の概念、病気の原因とその発現、健康の保持と治療法が述べられ、第2巻から第4巻までは身体の器官の個々の病気と具体的な治療法、様々な薬品について網羅的に書かれている。この書で、はじめて非合理的な迷信や呪術から離れ、病気の原因を治療を科学的に結びつけた医学書が生まれたといえる。12世紀にラテン語にも翻訳され、ヨーロッパの医学にも大きな影響を与えた。1980年から、イブン=シーナー生誕1000年を記念事業としてソ連でロシア語とウズベク語の全訳が刊行され始めた。<加藤九祚『中央アジア歴史群像』岩波新書による>
c イブン=ルシュド 12世紀のコルドバで活躍したイスラーム教徒の哲学者。 ラテン名アヴェロエスとしてもヨーロッパに広く知られ、アリストテレス哲学を紹介し、スコラ哲学に影響を与えた。1126年、コルドバの代々のカーディー(法官)の家に生まれ、医学、天文学、神学、哲学を研究した。1147年にコルドバに成立したムワッヒド朝の王アブー=ヤクブの侍医となって仕え(1169年頃)、国家的な事業としてアリストテレスの著作をアラビア語に翻訳する事業に従事した。アリストテレスの著作のアラビア語訳は10世紀末のイブン=シーナーの事業を受け継ぐものであったが、12世紀のイブン=ルシュドは「新プラトン主義」の影響を受け、プラトン的な神学理論による解釈を行ったものであった。また当時有力になっていた、ガザーリーによって始められた、理論を排し直感的に神を感じ取るというスーフィズムの思想に反対して、イスラーム神学の理論付けを行おうとしたものであった。しかし、北方のキリスト教徒のレコンキスタと戦っていたムワッヒド朝は次第に宗教的に不寛容となり、イブン=ルシュドの学説も受け入れられなくなった。1197年突然その著作は発禁とされ、地位も追われてコルドバを去り、1198年にモロッコのマラケシュで生涯を閉じた。イブン=ルシュドと同じ頃、コルドバでアリストテレス哲学を研究していたユダヤ人のマイモニデスもモロッコのフェスを経てエジプトに逃れた。
イブン=ルシュドからアヴェロエスへ:イブン=ルシュドのアリストテレス翻訳事業は上述のような事情でイスラーム世界では断絶したが、コルドバがレコンキスタの結果、キリスト教徒の手に落ちた1230年代以降に、彼の著作がラテン語訳されることによって、キリスト教世界に継承されることになった。特にパリ大学の神学者が熱心にその著作の研究を行った。こうしてイブン=ルシュドはラテン名でアヴェロエスとしてヨーロッパで知られるようになり、中世のスコラ哲学に大きな影響を与えた。しかし、イブン=ルシュドつまりアヴェロエスのもたらしたアリストテレス哲学は、その合理的解釈を推し進めれば宗教的真理と理性的真理の二元論に向かっていく。パリ大学の急進的なアヴェロエス派に特にそのような傾向が強まり、ローマ教皇庁はそれを危険視し、トマス=アクィナスをパリ大学に派遣しその学説の修正を求めた。ついに1270年に教皇庁はアヴェロエス主義を教授することを禁止した。<以上、樺山紘一『地中海』2006 岩波新書 第4章 p.114-145 による> 
トレドの翻訳学校 12〜13世紀、イベリア半島のトレド(カスティーリャ王国の都)に「翻訳学校」が作られ、アラビア語文献が多数ラテン語に翻訳された。バグダードの「知恵の館」でギリシア語からアラビア語に翻訳された文献が、ここでラテン語に翻訳されヨーロッパに知られた。 
a 『千夜一夜物語』(アラビアン=ナイト) アラビアン=ナイト。アッバース朝のハールーン=アッラシード時代を舞台にした説話集。インド・イラン・アラビア・ギリシアなどの説話を集大成したもの。有名な「アラジンと魔法のランプ」「アリ・ババ」「船乗りシンドバット」などの冒険物語の他に、多くは男女の恋愛物語であり、キリスト教社会では不道徳な書物とされてきた。また、「『千夜一夜』は真に正統的なアラビア文学ではない。それはアラビア語の外衣を着たインドとペルシアの物語文学にすぎない」<井筒俊彦『マホメット』1952 講談社学術文庫 p.48>という指摘もあることに注意しておこう。 
フィルドゥシー フェルドゥースィーとも表記。イランの国民的詩人といわれるガズナ朝時代(10世紀末〜11世紀初め)の人。その『シャー=ナーメ』(『王書』)は、約6万の対句からなるイランの神話、伝説、歴史を物語った大叙事詩。フィルドゥシーの墓廟がイラン東部の都市マシュハドにあり、内部には『シャー=ナーメ』を題材にしたレリーフが描かれてる。<宮田律『物語イランの歴史』中公新書 2002 p.70>
シャー=ナーメ イスラーム教国のガズナ朝時代のフィルドゥシーが著した、イラン人の神話、伝説、歴史を書いた大叙事詩。『王書』と訳す。ペルシア語で書かれており、イラン人の民族意識を高めるペルシア文学の最高峰とされている。 
b イブン=バットゥータ 1304年、モロッコのタンジールで、アラビア化したベルベル人として生まれる。22歳の時、イスラームの聖地メッカの巡礼を志して故郷を出、アフリカから西アジア、南ロシア、バルカン半島、中央アジア、インドをめぐり、さらにスマトラを経て中国の泉州に上陸、北京(大都)にまで行ったと伝えられる大旅行家。1349年、46歳でいったんモロッコに戻ったが、さらにその後もスペイン、西アフリカのマリ王国を訪ねている。その旅行記が『三大陸周遊記』である。<前島信次訳『三大陸周遊記』角川文庫>
三大陸周遊記 イブン=バットゥータの旅行記は、その最初の日本語訳を行った前島信次氏が『三大陸周遊記』として紹介したが、正式な題名は『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』というもので、一般に『イブン=バットゥータの旅』としても知られている。前島氏の翻訳は要約であるが現在は家島彦一氏による全訳が『大旅行記』として東洋文庫から全8冊で出版されている。わたしはまだ前島氏の要約本しか読んでいないが、それでもおもしろいこと請け合いである。マルコ=ポーロから遅れること50年ほどであるが、それを上回る大旅行のつぶさな記録(すべてが正確と言うことではないらしいが)は驚きにあたいする。以下、彼が訪れた主なところを列挙しておこう。それによって現代の私たちも14世紀の世界を俯瞰することができる。
イブン=バットゥータのたどった道 1325年(22歳) モロッコのタンジールを出発、チュニスなどのマグリブ地方 → マムルーク朝のエジプトのアレクサンドリア(有名な灯台を見ている)と当時最も栄えていたカイロ(ピラミッドの秘話など)へ → パレスチナのイェルサレム →シリアのダマスクス → アラビアの二大聖地メディナメッカ → イル=ハン国治下イラクのバクダード(”バクダードは荒れたり”)、クーファバスラなど。イランのイスファハーン、シーラーズなど(スンナ派とシーア派の争いの話がある) → メッカに戻りそこから海路ダウ船で南下してアフリカ東岸のモガディシュ、キルワまで → 北上してアラビア東端のオマーンへ → 次いで小アジアのアナトリア高原をつぶさに廻り、イスタンブルも訪問 → 黒海を渡りキプチャクの大草原へ、キプチャク=ハン国の都サライ →  中央アジアに入り、チャガタイ=ハン国治下のブハラサマルカンドなどを訪ね、アフガニスタンからインドに入る → 1334年頃から8年間、トゥグルク朝(デリー=スルタン朝の三番目)インドのデリーに滞在(遭遇した寡婦殉死いわゆるサティの情景、国王ムハンマド=イブン=トゥグルクの暴政などインドでの見聞が生き生きとしている → トゥグルク朝のスルタンが、元の皇帝に使節を送ることになり、それに加わる → 途中インドの西海岸で盗賊団に捕まる → 南インド、マラバール地方のカーリクート(カリカット、中国のジャンク船が多数来航していることが出てくる) → インド洋上のモルジブ諸島(女王が統治している国でのいろいろな体験) → セイロン島(現スリランカ) → ビルマ、スマトラなど東南アジアを経て、女王ウルドシャーの治めるタワーリスィーという国の話(これは安南、トンキン、フィリピンなど諸説あって今のどこか解らない) → 元朝治下の中国に入り、泉州(ザイトゥーン)に上陸、そこにはイスラーム教徒の役人や商人がたくさんいた → 杭州(ハンサー)をへて、元の都大都(ハン=バリーク)に1345年に到着、時に45歳。
その後、1350年に故郷モロッコのタンジールに戻り、翌年はアンダルス(イベリア半島)を旅行、さらに52〜53年はサハラを縦断してマリ王国など黒人王国を訪ねその記録を残す。モロッコに戻り、フェズで旅行記の口述筆記をイブン=ジャザイイの協力で行う。死んだ年は68年、77年などいくつかの説がある。 
ミナレット イスラーム教のモスクに附属する塔。訳して「光塔」という。これはイスラームの五行の一つである礼拝の際にそれを告知するためのもので、その告知をアザーンという。アザーンはコーランの朗唱ではなく、礼拝の始まりを告げる定型の文句であり、「神は偉大なり(4回)、神は唯一であることを証言する、ムハンマドは神の使徒であることを証言する、礼拝にきたれ、繁栄にきたれ、神は至大なり(以上2回ずつ)、神は唯一である(1回)」という内容である。朝のアザーンでは最後の「神は至大なり」の前に「礼拝は睡眠より良い」の文句が入り、シーア派では「善行にきたれ」(2回)が加えられる。<中村廣治郎『イスラム教入門』岩波新書 p.116>
c 岩のドーム イェルサレムにある、イスラーム教のモスク。「ウマル=モスク」ともいう。イェルサレム旧市街の「神殿の丘」(ユダヤ教の聖地ヤハウェ神殿跡でもある)にあり、ドームの中央にある岩は、ムハンマドが天国に旅立った場所とされ、イスラーム教ではメッカ、メディナに次いで第三の聖地とされている。7世紀、ウマイヤ朝カリフのアブド=アルマリクがその岩を覆うモスクを建設し、その後何度か改修されているが、イスラーム世界最古の建造物である。8角形のプランを持ち一辺の長さは20m、ドームの高さは35m。黄金にかがやくドームの屋根が、ひときわ目立っている。
Epi. ムハンマドの「夜の旅」 「コーラン」第17章1節に見られるムスリムの伝承によれば、ムハンマドはある夜、メッカからイェルサレムまで、天馬ブラークに乗って旅をし、そこから天にのぼって神の声を聞き、その玉座の前にひれ伏したという。天に昇るときに足をかけた石が、ドームに覆われている聖石であり、その表面にはムハンマドの足跡が残っていると信じられている。この伝承によってイェルサレムはイスラーム教徒にとって、メッカ、メディナにつぐ第三の聖地と定められた。アブド=アルマリクによる岩のドームの建設は、カリフの権威を高めるだけでなく、信仰の新しい中心を生み出す役割も果たした。<佐藤次高『イスラーム世界の興隆』世界の歴史8 中央公論社 p.114> 
d ミニアチュール  → 第4章 3節 ミニアチュール
e アラベスク アラビアで発達した、蔓草や葉っぱをモチーフに組み合わせた細密な模様。モスクやマドラサなど、イスラーム建築の壁面にはタイルなどで美しいアラベスク模様が施されている。
イスラム美術の特徴 イスラーム教は偶像崇拝を厳しく否定しているので、アッラーやムハンマドを描いたり、像を造ると言うことは許されなかった。仏教やキリスト教も本来は同じように偶像崇拝を否定していたので、仏像やキリスト像などはなかったのであるが、ギリシア彫刻やヘレニズムの影響を受け、また布教上の便法からそれらが作られるようになり、美術的にも価値ある作品が生み出されたのにくらべて、イスラーム教ではそのようなことがなかったのが大きな特徴である。そのため一般的に絵画と彫刻は発達しなかったと言われる。美術の面では『コーラン』を書き写す際に美しく描こうとする中でアラビア文字の書道が発達し、いろいろな書体が生まれた。また絵画は書物の装飾的な挿絵として細密画(ミニアチュール)が発達した。またモスク建築は独特の美しさを発揮している。それらはイラン=イスラーム文化、トルコ=イスラーム文化、インド=イスラーム文化というバリエーションを生んでいく。