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第10章 ヨーロッパ主権国家体制の展開
1.重商主義と啓蒙専制主義
ア.重商主義
1.17世紀のヨーロッパ
a 17世紀の危機 16世紀のヨーロッパは、宗教改革が始まる混乱の時代でもあったが、一方で前世紀末以来の大航海時代が展開し、新大陸からの金・銀が大量にもたらされて商工業が発展し、経済上の好況を背景に人口も増加した。そのようなヨーロッパの繁栄は、1620年代に急速に後退した。その背景には、経済成長の停滞から下降、天候不順による凶作などがあり、人口も減少した。そのような状況を「17世紀の危機」ととらえることができる。ヨーロッパ各国を巻き込んだ三十年戦争、イギリスのピューリタン革命、フランスのフロンドの乱、スペインのカタルーニャの反乱、ロシアのステンカ=ラージンの反乱、ヨーロッパ全土に見られた「魔女狩り」などは、この危機の現れと考えられている。
b 人口の停滞  
c 三十年戦争  → 第9章 4節 オ.17世紀の危機と三十年戦争 三十年戦争
d フロンドの乱  → 第9章 4節 エ.フランスの宗教内乱と絶対王政 フロンドの乱
e ピューリタン革命  → ピューリタン革命
ステンカ=ラージンの反乱  → 第9章 4節 カ.東方の新しい動き ステンカ=ラージン
カタルーニャの反乱 カタルーニャはカタロニアとも表記する。地中海に面したフランスと国境を接する地域で、中心都市はバルセロナ。現在はスペインの一部だが、歴史的・文化的に独自の歩みを持っており、固有の言語カタルーニャ語を持つ。もとはフランク王国の辺境伯からおこり、ピレネー山脈の南北にカタルーニャ公国を形成し、1137年、アラゴンと連立王国となる。15世紀にカスティーリャ主導のスペイン王国が成立するとその一部を構成していたが、17世紀にカスティーリャのスペイン政府が宰相オリバレスの三十年戦争の軍費の確保のため、カタルーニャなどにも課税などの統制を強めるとそれに反発し、1640年から52年まで、カタルーニャの農民反乱が勃発(収穫用の大鎌を持って戦ったので「収穫人戦争」という)、スペイン王国を動揺をもたらした。反乱は鎮圧され、同時に介入したフランスによってピレネー以北の地を奪われた。<田澤耕『物語カタルーニャの歴史』 2000 中公新書 参照>
※ポルトガルの独立 この反乱と同時に、1580年以来、スペインに併合されていたポルトガルでも独立運動が起き、こちらはブラガンサ家を中心に結束したポルトガル人が、1640年に独立の回復を実現した。独立再開後のポルトガルは、イギリスとの提携を強めていく。
魔女狩り (17世紀)「17世紀の危機」の現れに、魔女狩りの流行があげられる。魔女狩りはもともとカトリック教会が中世において、異端を取り締まるための魔女裁判として行われていたものであったが、16世紀に宗教改革が始まると、新旧両派がそれぞれ敵対する宗派を魔女として告発するようになり、それは1600年頃を最盛期に、17世紀まで持ち込まれる。ルネサンスの終わる時期まで続いたのであり、また新教徒側も盛んに魔女狩りを行ったのである。特にイギリスではエリザベス1世やジェームズ2世の時、「魔女狩り令」がたびたび出されている。国王の側近には哲学者フランシス=ベーコンや科学者ウィリアム=ハーベイ(血液の循環の発見者)がいたにもかかわらず、まだ魔女の存在は信じられ、恐れられていたわけである。最後の魔女裁判は、イングランドが1717年、スコットランドが1722年、フランスが1745年、ドイツが1775年、スペインが1781年、イタリアが1791年・・・であった。<森島恒雄『魔女狩り』1970 岩波新書 による>
Epi. アメリカでの魔女狩り「セーレムの魔女」事件 イギリスで盛んだった魔女狩りは、その植民地北米大陸のニューイングランドでも行われた。有名な事件が「セーレムの魔女」事件である。1692年、ニューイングランドのセーレムという町の牧師の娘たちが魔女の疑いで逮捕された。使っていた黒人奴隷から密かにブードゥー教の魔術を授けられたというのだ。父の牧師サムエル=パリスが魔女狩りの先頭に立ち、近くのボストンなどで一斉に魔女狩りが始まり、容疑者は弁明が許されずに有罪となり、20名が絞殺された。しかし世論が魔女裁判の不合理を批判するようになり、陪審員も誤りに気付いた。最初に魔女だとされたのはただのヒステリー娘にすぎなかったのだ。アメリカではこれが最後の魔女狩りとなった。<森島恒雄『魔女狩り』1970 岩波新書 p.185>
2.絶対王政国家の経済政策 
a 重商主義 マーカンテリズム(mercantilism)。一般的に、16〜18世紀のヨーロッパの絶対王政国家にみられる経済政策およびその理論で、国家の冨の源泉を貨幣の量になると考え、貨幣獲得を経済政策の主眼とするもので、絶対王政のもとで官僚や軍隊の給与、宮廷生活の維持などの財源が必要となった国王が、商業を重視して国家統制を加え、あるいは特権的な商人を保護すること。マニュファクチュア生産様式による生産力の向上を前提とし、また先進的な商工業の発達がみられる地域の国家が、後進地域や植民地を経済的に支配する構造を伴う。また、重商主義の形態として、金銀の獲得を主とする重金主義という最初の形態から、輸出を増大させ輸入を抑えてその差額を得る貿易差額主義に移行し、さらに国内の産業の保護育成に力を入れる産業保護主義がとられる。また重商主義には、絶対王政段階の宮廷(国王)が特権的な大商人を保護する宮廷的重商主義(スペインやフランスの重商主義)と、市民階級の進出に対応して自国の産業資本の保護育成を国家政策とする国民的重商主義(イギリスのウォルポールの経済政策など)の違いが見られる。重商主義に対する批判は18世紀の後半、フランスのケネー重農主義や、イギリスのアダム=スミスの『諸国民の富』による自由放任主義の主張などが現れてくる。19世紀の資本主義の全面展開の時期になると、重商主義は自由な競争による経済の発展を阻害するとして否定されるようになり、自由主義貿易に移行するようになる。
b 官僚制 ビューロクラシー(bureaucracy)。中世封建社会の貴族制のもとでの世襲的な封建家臣団に対し、国家のさまざまな機構の業務を各人の能力で選抜された官僚が、組織的に行うシステム。中国では古代・中世を通じて科挙制による官僚制が維持されたが、ヨーロッパでは主権国家体制(絶対王政)の形成とともに、没落しつつあった封建領主層がまず官僚として絶対王政を支えた。近代国家では官僚制が急速に発展し、職務権限の明確化、給与体系、採用や昇級の制度、文書による業務処理などを特徴としている。官僚制が成立し、その組織が膨大になると、官僚を支える国家財政が必要となり、税制・軍事制度、さらに官僚の育成のための教育制度など、近代国家のさまざまなシステムが連動して形成されてくる。
c 常備軍 中世封建社会(さらに古代国家の解体期でもそうであったが)における軍事力の主体は傭兵制度であった。傭兵は必要なときに雇用されるものであって常備軍ではなかったが、主権国家の形成とともに領土抗争を展開したヨーロッパ諸国は、次第に常に一定の兵力を維持する必要が生じ、そのために国民から徴兵することによって兵力を得る(徴兵制)システムが作られるようになった。このような常備軍は「国民軍」として絶対王政をとる諸国どうしの戦争の主力となるようになった。常備軍は職業的軍人と、国民から徴兵される兵士から成り、歩兵が火砲をもつ兵力が中心となる。当初職業的軍人には旧貴族階級がなる場合が多かった(ドイツにおけるユンカー階級など)。なお完全な徴兵制への移行は、市民革命後に進行したと考えられる。
3.その諸形態
a 重金主義 重商主義の初期の形態として現れる経済政策で、金銀貨幣の蓄積をはかるため、国内の鉱山の開発に努めたり、海外からの金銀の獲得につとめ、またその国外流出を抑える政策。16世紀のスペインに典型的に見られる。
b 貿易差額主義 輸出を輸入より多くして(出超)、貿易差額によって国家の貨幣収入を増大させようとする、重商主義の発展した段階の形態。輸出を増加させるためにはそれぞれ特徴のある輸出産業を保護育成する必要が出てきて、次第に産業保護主義に移行する。また輸入の抑制には、高関税政策(保護貿易政策)がとられる。産業革命前のイギリスの毛織物業などに典型的に見られ、フランスの絶対王政のもとでもコルベールによる重商主義政策は貿易差額主義であった。 
c 産業保護主義 国家が自国の産業資本の成長をはかるため、さまざまな保護を加える経済政策。後進的な産業革命を展開させた、ドイツや日本で典型的に見られる。イギリスのアダム=スミスやリカードに始まる自由貿易主義に対して、ドイツの経済学者リスト(1789〜1846)は、保護関税制の導入、中農保護政策、国内鉄道網の整備など産業保護主義を主張した。
4.英仏の重商主義
a コルベール フランス・ブルボン王朝全盛期のルイ14世の絶対王政を支えた財務長官(大蔵大臣)。ラシャ商人の息子にすぎなかったがマザランに仕えて頭角を現し、その死後、1662年前任者フーケが国費乱用と収賄の罪で失脚した後の財務長官となった。コルベールは輸出を奨励して国内産業を保護する、典型的な重商主義政策を推進し、ブルボン絶対王政の繁栄をもたらした。具体的には従来の毛織物・絹織物・絨毯・ゴブラン織などの産業に加えて、ガラス・レース・陶器などの産業を起こし、国立工場を設立した。一方では労働者の同盟とストライキは禁止された。インド、北アメリカ、中米、アフリカなどに植民地を獲得した。北アメリカにはミシシッピ川流域に広大なルイジアナ植民地を開発した(ミシシッピ川は一時コルベール川といわれた)。中米ではアンティーユ諸島にタバコ、綿、さとうきびの栽培を黒人奴隷によって行った。またインド経営のために東インド会社が設立された。コルベールはこのように典型的な重商主義政策を推し進めたので、その経済政策をコルベール主義とも言う。
b 東インド会社(フランス)フランスの東インド会社はイギリス、オランダに続いて、1604年にアンリ4世の勅許状によって設立されたが、実際にインドへとの貿易は行われず、会社は停止状態となった。実際に活動が始まるのは、1664年に財務長官コルベールルイ14世の勅許状を得て再建してからである。コルベールは重商主義政策を推し進め、同年にはアメリカ大陸との交易にあたる西インド会社も設立した。フランスの本格的なインド進出は、1667年、フランソワ=カロンがインド西北部のスラート、ベンガルなどに商館を建設し、キャラコ(木綿)・胡椒などを輸入してからである。その後、ポンディシェリシャンデルナゴルを拠点にオランダ・イギリスとインド貿易を競争した。しかし後発組であったため、オランダ・イギリスの妨害も激しく、国内の商業資本の成長も十分でなかく弱小株主しか存在しなかったため資本が集まらずに経営が悪化し、1796年に解散した。<浅田実『東インド会社』講談社現代新書 などによる>
 → 第9章 4節 東インド会社  オランダ東ンド会社  イギリス東ンド会社
c 特権マニュファクチュア  
d 市場  
e 植民地  
イ.イギリス革命
a ジェントリ(郷紳)   → 第6章 3節 カ.イギリスの状況 ジェントリ
b 独立自営農民(ヨーマン)  → 第6章 3節 エ.封建社会の衰退 ヨーマン
A ジェームズ1世 スチュアート朝初代のイギリス王(在位1603〜25年)。スコットランド王(ジェームズ6世)の地位にあったが、朝のエリザベス女王が後継者なく死去した際、後継のイギリス王(厳密にはイングランド王)として迎えられた。その母のスコットランド女王メアリ=スチュアートの祖母がチューダー朝のヘンリ7世の娘であったため、イギリス王位を継承することとなった。これによって、イングランドとスコットランドは同君連合となった。ジェームズ1世は自ら『自由なる君主国の真の法』という著作を著すなど、自ら王権神授説を主張し、コモン・ロー(国王といえども法の支配に服すべきであるという思想)をかかげる議会と最初から対立した。王の側近で哲学者として名高いフランシス=ベーコンは、議会から収賄罪で告発され有罪とされている。宗教政策としては、イギリス国教会の立場からカトリック、プロテスタント(イングランドのピューリタンとスコットランドの長老派=プレスビテリアン)いずれも否定し、統一的な英語訳聖書『欽定訳聖書』を定めた。この聖書の英訳は、近代英語の成立に大きな契機となったとされている。また、ジェームズ1世の時代に、アメリカ大陸の最初の恒常的な植民地ヴァージニアが建設(1607年)され、また彼の国教会強制による迫害を逃れてピューリタンピルグリム=ファーザーズが北米に移住(1620年)して、ニューイングランドの建設が始まった。
Epi. メアリ=スチュアート ジェームズ1世の母、メアリ=スチュアートも波乱に富んだ生涯を送った女性であった。スコットランド王ジェームズ5世の娘であったがフランス宮廷で育てられ、フランソワ2世と結婚、その死後スコットランドに戻り王位を継承した。しかし不行跡から王位を追われ、息子のジェームズが後を継いだ。メアリ=スチュアートはイギリスに逃れたが、カトリック派の陰謀に加担したとして捕らえられ、19年間監禁された上で処刑された。
a ステュアート朝 イギリスのテューダー朝がエリザベス1世で途絶えた後、スコットランドから迎えられたステュアート家(1371年からスコットランド王家を継承。もともとはスコットランド王の財務長官であるステュワードという職掌からでた。)のジェームズ1世から始まる王朝。次のチャールズ1世がピューリタン革命で処刑されていったん途絶えるが、その子チャールズ2世の時に王政復古、ジェームズ2世が後を継ぐ。名誉革命ではジェームズ2世の娘のメアリとその夫のオランダ総督ウィリアム1世が共同統治。ウィリアム1世の次ぎにメアリの妹のアンが王位を継承し、1707年イングランドとスコットランドが合同する。アン女王が1714年に継嗣無く死去したのでドイツのハノーヴァー選帝侯ジョージ1世が迎えられ、ハノーヴァー朝となる。
b 王権神授説 国王の権力は神から与えられた神聖不可侵なものであり、反抗は許されないとする政治理念。主権国家体制の形成期の、いわゆる絶対王政国家において、国王およびそれに依存する貴族や聖職者によって体制維持の理論として展開された。イギリスでは国王ジェームズ1世自身が『自由なる君主国の真の法』を出版しており、またフィルマーはチャールズ1世に仕え、王権を旧約聖書で人類の祖とされるアダムに由来する家父長権であると論じた。フランスではユグノー戦争期のジャン=ボーダンは『国家論』で国王が立法権を持つ主権者であると位置づける「絶対王政」を理論づけた。また「朕は国家なり」と端的に言い表したルイ14世に仕えたボシュエは神学上の理念として王権神授説を説いた。封建社会から主権国家の出現の際には有効なイデオロギーであったが、市民階級が台頭すると自由と平等を抑圧する理念として否定され、18世紀後半には啓蒙思想の中で、社会契約説がロックやルソーによって唱えられ、近代的な権力を支える理念とされるようになる。
フィルマー 17世紀前半のイギリスの政治思想家。チャールズ1世に仕え、その著『家父長権論』(1680年)などで王権神授説を展開し、王権を旧約聖書で人類の祖とされるアダムに由来する家父長権であると論じた。ロックの『統治二論』は、フィルマーの王権神授説を批判している。
c 議会  → 第6章 3節 イギリス議会制度の定着
d 国教会  → 第9章 3節 イギリス国教会
e ピューリタン  → 第9章 3節 ピューリタン
B チャールズ1世 イギリス・ステュアート朝の国王(在位1625〜49年)。父ジェームズ1世の王権神授説を受け継ぎ、また信仰上は国教会の統制を強め、ピューリタンをきびしく弾圧し、ジェントリの多い議会と対立した。スペイン・フランスとの戦争(三十年戦争)の戦費を得るため、新たな課税を行おうとしたが、議会はそれに反対して1628年、権利の請願をチャールズ1世に提出した。彼は翌年議会を開催したが、それ以後は11年にわたって開催しなかった。スコットランドの反乱を鎮圧するための課税の必要に迫られると、1640年短期議会を召集、再び議会と激しい対立となり、王党派と議会派の内乱が1642年から勃発する。1945年にはネースビーの戦いで、クロムウェルの指揮する議会軍に敗れ、47年に捕らえられ、1649年1月に処刑された。
a 権利の請願 1628年、イギリス議会が国王に対し、不当な課税や人身を不当に拘束することなどの禁止を請願し、承認させた文書。ピューリタン革命をもたらし、イギリス近代国家の重要な法典となった。Petition of Right 
1628年、チャールズ1世がスペイン・フランスとの戦争で生じた財政難を救うため、人民から法律によらないで強制的に金銭を集めようとし、さらにそれに反対する者を理由を示さず逮捕する、という措置に出た。大いに不満をもった議会、特に下院は、1627年フランスのラ−ロシェル付近のレ島でチャールズ1世軍が敗れたのを機に、それらの政策に反対の決議をしたが、上院が反対し、国王が認めないことも明らかなので撤回し、あらためて、エドワード=コークの提案で、国王が法律を無視したとき個人が救済を求める手段である「請願」という形式をとることにし、両院で採決された。6月2日に国王に提出され、7日に国王もこれを呑んだ。正式には、「本国会に召集された僧俗の貴族および庶民により、国王陛下に捧呈され、これに対して陛下が国会全体に勅答を給うた請願」全11章。マグナ−カルタなどの過去の法律での国王の不当な課税の禁止、不当な人身拘束の禁止などを確認し、先王ジェームス1世の過ちを列挙、そのうえで国債の強制、恣意的な課税、不法な投獄、軍法裁判の濫用等に反対した。マグナ−カルタ・権利の章典とともにイギリスの3大法典といわれる。そこではイギリス国民の権利が13世紀以来の歴史的権利であるコモン−ロウの精神がつらぬかれている。<浜林正夫『イギリス市民革命史』P.73 >  
b「権利の請願」の内容 要点は、「議会の承認なしに課税しないこと・国民を法律によらず逮捕しないこと」など。 
※資料 権利の請願 第10章(まとめの章)「したがって、国会に召集された僧俗の貴族および庶民は、謹んで至尊なる陛下に次のことを請願したてまつる。すなわち、今後何人も、国会制定法による一般的同意なしには、いかなる贈与、貸与、上納金、税金、その他同種の負担をなし、またはそれに応ずるよう強制されないこと。何人も、このことに関し、またはこれを拒否したことに関して、答弁、宣誓、もしくは出頭を求められること、拘留されること、その他いろいろな方法で、苦痛を加えられ、心の平静を奪われること、はないこと。自由人は、前記のような(理由を示さずに逮捕される)ことによって拘禁または拘留されないこと。陛下がかしこくも前記(第6章)陸海軍兵士を立退かせたまい、陛下の人民が将来それによってわずらわされることのがないこと。軍法による裁判(を命ずる)前記(第7章)のような授権状が撤回されること。今後同様の性質をもつ授権状が、前記のように執行されることを目的として発給されることは−それがいかなる人に対してであるにせよ−ないこと。というのは、それを口実に、陛下の臣民が、国の法律および特権に反して、危害を加えられたり、死にいたらしめられたりしないためである。<『人権宣言集』岩波文庫P.60>
c スコットランドの内乱 スコットランドには長老派(プレスヴィテリアン)というカルヴァン派の一派のプロテスタントが多く、イギリス国教会の信仰を強制するチャールズ1世に対し反発していた。特にスコットランド教会は司教制度を認めず、一般信者のなかから長老を選んで指導者とする長老制度をとっていた。1637年、チャールズ1世はスコットランドの長老派教会に対し、国教会の祈祷書を守るよう強制した。それに対してスコットランドの長老派は盟約を結び、イギリス国教会と対決すべく兵力を集め始めた。
▲d 長老派(プレスビテリアン)   → 第9章 3節 プレスビテリアン
C イギリス革命 イギリスのステュアート朝の絶対王政を倒し、立憲君主政を実現させた変革。一般に、1642年からのピューリタン革命と、1688年の名誉革命とを総称して、イギリス革命といっている。
チューダー朝国王の国教会による教会または信仰の統制に対する、スコットランドのプレスビテリアン(長老派)、イングランドのピューリタン(清教徒)が信仰の自由を求める戦いを起こしたことに始まり、王党派と議会派の内戦となった。いったんクロムウェルの指導のもとで国王チャールズ1世が処刑されるという事態まで突き進み、共和政が実現した。これがピューリタン革命である。クロムウェルの独裁は、そのカルヴァン派的な厳格な政治が国民の支持を亡くし、その反動が現れてクロムウェル死後は王政復古した。王政復古後、再び王と議会は対立し、結局議会は国王を追放し、オランダから国王を迎えて権利章典を公布して、立憲王政を実現させた。これが名誉革命である。一方で、土地均分を求める農民の運動は弾圧され、アイルランド・スコットランドはイングランドの植民地的支配を受けるようになるなど、禍根を残した。
イギリス革命の背景には、マニュファクチュア生産の発展に伴うジェントリ(地主)とヨーマン(独立自営農民)の成長があり、旧来の貴族階級は没落したが、都市の市民層の成長はまだ十分ではなく、封建的特権の廃止なども徹底していなかったので、「市民革命」としては不十分なものである(市民革命の項を参照)が、次の18世紀のイギリス産業革命の前提として絶対王政が倒されたことは重要である。
また、イギリス革命では、カトリック(旧教)・イギリス国教会・ピューリタン(清教徒)・プレスビテリアン(長老派)というキリスト教の宗教各派の対立も重要な軸であった。おおよそを色分けすると、長期議会の段階では国王(ジェームズ1世・チャールズ1世)は国教会、議会主力は長老派、革命を推進したクロムウェルらはピューリタン。王政復古期では国王(チャールズ2世・ジェームズ2世)はカトリック、名誉革命を推進した議会は国教会が中心、と整理できる。
a 短期議会 スコットランドとの再戦を決意したチャールズ1世は、腹心のアイルランド総督代理ウェントワース(ストラフォード伯)の進言を入れて議会を開く決意をし、1639年12月、議会召集を告示、40年3月総選挙、4月13日議会を開催した。1629年、権利請願を無視して議会を解散してから、11年目であった。議会ではまず国王の臨時課税の承認が議題とされたがジョン=ピムがチャールズ1世の腹心カンタベリー大司教ロードのカトリック寄りの姿勢や不当な課税、長期の無議会政治などを非難、圧倒的な支持を受けたので、チャールズは5月5日解散させる。こうしてわずか3週間で解散させられたので短期議会という。<浜林正夫『イギリス市民革命史』p.89>
b 長期議会 1640年10月総選挙実施。議員に選ばれることはエリザベスのころまでは名誉であるよりは負担と考えられていたので、それまでは無競争で選ばれることが多かったが、この選挙ではかつてない激戦となった。上院は100名たらずの貴族と主教以上の僧職で選挙とは無関係。下院は選挙区259(州・自治市・大学)で定員493名。41年までに追加された定員総計547の議員の出身階層内訳はジェントリ333名、法律家74名、商工業者55名、官吏27名、廷臣22名など。選挙権は年収40シリング以上の自由土地所有者と一定の市民税を納める都市の自由民。1653年、クロムウェルによって解散されるまで、13年間続いたので長期議会といわれた。41年にはつぎつぎと王権を制限する立法を成立させ、41年11月にはクロムウェルらの提案で国王に対する大抗議書が採択され、議会多数派と国王の対立は決定的となり、ピューリタン革命に突入することとなった。
※長期議会における、王権を制限する立法
 41年2月 三年議会法:国王の召集が無くとも少なくとも三年に一回は議会を開催すること(無議会政治の再現をふせぐ)
 41年5月 解散反対法:国王の一方的な解散を阻止するため、議会自身の決定によらなければ議会を解散し得ないとした
 41年6月 トン税、ポンド税法:議会の同意無しに輸出入関税を課すことはできない
 41年7月 星室庁裁判所・高等宗教裁判所を廃止 など<浜林正夫『イギリス市民革命史』 p.92-95>
▲大抗議文1641年11月、イギリス長期議会で決議された国王チャールズ2世に対する抗議文。大諫義(かんぎ)書ともいう。その裁決をめぐり議会は議会派と王党派に分裂し、ピューリタン革命の内乱に突入した。議案はジョン=ピム、クロムウェルらによって原案が作成され、悪政の首謀者としてカトリック教徒、主教と堕落した僧侶、腐敗した重臣や廷臣をあげ、彼らの悪政の内容を、
 1.国王と国民の間の不信と争いの増大
 2.純粋な宗教の抑圧
 3.カトリック・アルミニウス主義者・異端者の育成
 4.議会によらざる国王財政の確保
の4点にまとめ、ついで204条にわたって悪政の具体例と長期議会の成果を列挙している。11月9日から審議が始まり、国教会に対する非難、上院を無視して直接国民に訴えることの可否をめぐって紛糾、賛成159票、反対148票の11票差で可決された。<浜林『イギリス市民革命史』p.107-108>
イギリスの宗教各派 イギリス革命の理解では、宗教的な対立軸がどのようであったかを抑えることが必要である。イギリス宗教改革の結果、イギリス国教会による宗教統制が確立したが、なおも宗教対立は続いていた。まず、大きな対立軸としてカトリック教会と新教各派(プロテスタント)の対立がある。さらにプロテスタントの中にも国教会(アングリカン=チャーチ)とそれ以外の非国教徒(ノンコンフォーミスト Noncomformists )の違いがある。非国教徒はさらに独立派(清教徒、ピューリタン)・長老派(プレスビテリアン)の二派があり、対立していた。以上のイギリスのキリスト教4派の違いはおよそ、次のようにまとめることができる。
(1)カトリック:イギリス宗教革命で国教会が成立してからも、メアリ1世のようにカトリックを捨てない国王もいた(カトリック反動)。エリザベス1世とチューダー朝のジェームズ1世・チャールズ1世は国教会の立場をとり、カトリック・非国教徒のいずれをも弾圧した。カトリックは最右翼(保守的)の勢力で、保守的な貴族や大商人に多く、地域的にはアイルランドはカトリックが多い。また王政復古で国王となったチャールズ2世はフランスとの関係が深く(ルイ14世とのドーヴァーの密約など)、その弟のジェームズ2世とともにイギリスにカトリックを復興させようとし、議会と対立した。1673年に議会で成立した審査法によってカトリック信者はイギリスの公職から追放され、宗教的差別が続き、ようやく1828年の審査法廃止、翌年のカトリック教徒解放法で信仰の自由を回復する。
(2)国教会(アングリカンチャーチ)ヘンリ8世に始まる、国王が首長となっているイギリスの国家的な教会組織。国教会は反カトリックで、大きくくくれば新教(プロテスタント)にはいるが、ピューリタンと違い、教会での主教制度(カトリックでの司教制度、階層的な聖職者組織にあたる)を認め、儀式もカトリック的な面が強く残っていた。イギリス一般国民の多数派は国教会の信者=国教徒と考えてよい。ジェームズ1世、チャールズ1世は国教会の立場に立ち、絶対王政を強化しようとした。ピューリタン革命で非国教徒の独立派クロムウェルが権力を握ったので、国教会は一時抑えられたが、クロムウェルの独裁が倒れてからは国教会が宗教的な指導権を握った。王政復古期のチャールズ2世・ジェームズ2世のカトリック復興策にも強く反発し、1673年に議会は審査法を制定し、カトリック教徒および非国教徒の公職につくことを禁止した。さらに名誉革命によってイギリスでは国教会の宗教的支配が確立する。
(3)ピューリタン(清教徒)=独立派:非国教徒の一つで、イングランドでのカルヴァン派の流れをくむ新教徒。国教会の主教制度と長老派(プレスヴィテリアン)の長老の管理をいずれも否定し、教会は同等の信者の集まる独立したものであるべきであると主張したので独立派とも言う。イングランドのジェントリヨーマン(独立自営農民)に多かった。ジェームズ1世の時代には国教会の立場に立つ王政から弾圧され、その一部がピルグリム=ファーザーズとしてアメリカ移住した。ピューリタン革命ではクロムウェルの指導する独立派が権力を握ったが、王政復古後は衰えていった。
(4)プレスヴィテリアン(長老派):非国教徒の一つで、ピューリタンと同じく同じくカルヴァン派の流れをくみ、スコットランドで発展した。彼らは長老制度(聖職者である司教ではなく、経験の豊かな信者を教会の指導者とする制度)による教会組織の運営を主張した点が異なる。スコットランドの長老派教会がジェームズ1世やチャールズ1世による国教会の強制に反発して反乱を起こし、イギリス革命の出発点となった。革命が進行する中で、イングランドでは長老派は王権との妥協をはかる穏健な立憲王政の主張を展開したため、クロムウェルの独立派によって議会から一時排除されたが、その死後に勢力を盛り返し、王政復古を実現する。しかしチャールズ2世、ジェームズ2世がカトリックを復興させると再び弾圧され、アイルランドなどに移住する者も多かった。
※その他の非国教徒 イギリスのプロテスタントはその後も分裂を続け、バプティスト、クエーカー、メソディスト、ユニテリアンなどの教派が多数生まれている。
D ピューリタン革命 1642年から49年に至る、イギリスのステュアート朝絶対王政を倒した革命をいう。革命の主体となった議会派のジェントリやヨーマンにピューリタンが多かったので、ピューリタン革命(清教徒革命)という。この革命によって国王チャールズ1世は処刑され、共和政が実現した。しかし、指導者クロムウェル自身が独裁政治を行うようになって民心が離れ、その死後は王政復古となる。次の名誉革命とともに、イギリス革命と一部を構成する。
a 議会派 国王チャールズ1世の絶対王政、国教会強制に反発し、ピューリタン革命の中心となった勢力。別名を円頂党という。新興勢力であるジェントリを中核とし、進歩的な貴族とヨーマン(独立自営農民)、手工業者が支持勢力であった。また信仰の上ではピューリタンが多かった。また地域的には商工業の発達したロンドンを中心にイングランドの東南部にを基盤としていた。しかし、ピューリタンであるクロムウェルを中心として共和政の実現をかかげる急進的な独立派が台頭すると、議会派内の穏健派は穏健な立憲君主政を志向する長老派があり、次第にその両者は対立するようになった。
b 王党派  → 王党派
c 独立派 カルヴァン派の流れをくむピューリタンからなり、長老派のような、長老による教会の統制に反対し、各教会の独立を尊重する考えを持っていた。独立派を支持したのは中程度のジェントリとヨーマン(自由農民)、それに都市の商工業者たちであった。議会内では少数派であったが、この派のクロムウェルが新型軍を組織し、軍事力を握っていた。
d 長老派 ピューリタンと同じ、カルヴァン派の流れをくむプレスビテリアンのことで、イギリス革命の時期には議会派の中で長老主義(長老制度)による教会の統一(つまり国教会の強制には反対する)と穏健な立憲王政を主張する多数派となった。ロンドンの大商人や貴族層、上層のジェントリには長老派を支持するものも多く、国王に対してはこれ以上の追求には反対し、革命を収束させる方向に向いていた。議会では多数派であったが、1648年にはクロムウェルによって長期議会から追放されてしまう。その後、次第に勢力を盛り返し、王党派との妥協を図って王政復古を実現させた。
b 王党派 聖職者・特権的大商人・貴族・大地主などの国教会信徒が中心となった勢力で、国王チャールズ1世を支持し、議会と対立した。騎士党とも言われた。地域的には北西部に多く、当初はヨークを拠点とし、ロンドンを拠点とした議会派より優勢であった。 しかし、議会派にクロムウェルが現れ、鉄騎隊を編成して軍事的に優位に立つと、王党派は次第に劣勢になった。
ヨーク イングランド北部の都市。7世紀にカンタベリーと並んで大司教座がおかれ、宗教都市とて発展するが、ピューリタン革命の時代には、王党派の拠点となる。
E オリヴァ=クロムウェル
イギリスのピューリタン革命(1642〜49年)の指導者。王政を廃止し、共和政を実現して護国卿となり、独裁的な権力を握った。クロムウェルは自ら「私は生まれながらのジェントルマンである」といっているように、裕福なジェントリとして生まれ、熱心なピューリタンであった。1640年ケンブリッジ市から議員に選出され、1642年に内乱が勃発すると「鉄騎隊」を編成し議会派の軍事力の中心となり、1644年のマーストン=ムーアの戦いで勝利を収めた。そして1645年のネーズビーの戦いで決定的な勝利を勝ち取り、チャールズ1世は議会軍にひき渡された。1649年、クロムウェルは国王チャールズ1世を処刑、イギリスに最初で唯一の共和政を実現させた。 →クロムウェルの政治
a 鉄騎隊
ピューリタン革命の時、議会派のクロムウェルが組織した騎兵部隊。アイアンサイド (Ironsides)という。マーストン=ムーアの戦いなどの議会軍の勝利に大きな貢献をした。この鉄騎隊をモデルにして新型軍がつくられた。
「1642年12月、優勢であった国王軍に対抗するため、議会軍は州の民兵軍のローカリズムを打破して中部連合軍と東部連合軍を編成した。クロムウェルはその東部連合の中に自由農民を中核とする軍隊の育成に着手した。それは封建家臣団を中核とした国王軍とも、農村の自衛組織を母胎とする従来の議会軍ともまったく質的に違った革命軍であり、ピューリタニズムという精神的な支柱と鉄の規律をもつ精鋭であった。1643年5月リンカンシャーのグランシャム付近の戦闘で、2倍の兵力を持つ国王軍をやぶり、最初の戦果をあげた。」<浜林正夫『イギリス市民革命史』P.132>
▲b 新型軍 イギリスのピューリタン革命で、1945年に編成された議会軍の中枢部隊。新模範軍、ニュー−モデル軍(New Model Army)ともいう。クロムウェル鉄騎隊を範として、エセックス軍と東部連合軍、ウォラー軍の一部を集め、フェアファックスを総司令官とし、600人の騎兵隊を11,1000人の竜騎兵隊を1,1200人の歩兵隊を12,計22000人で編成。その経費を各州に割り当てる直接税で支払う。この軍隊は、ピューリタニズムを精神的な支柱とし、伝統的な社会階層を無視して、革命的・軍事的観点から編成され、靴屋や馬車引きが貴族と並んで部隊長となった。同年6月のネースビーの戦いで国王軍を破り、革命の勝利をもたらした。<浜林正夫『イギリス市民革命史』P.145 などによる>
▲c ネースビーの戦い 1645年6月のピューリタン革命での議会派の勝利。国王軍は7500に対し、議会軍は14000の兵力であったが、クロムウェルの編成した新型軍を軽蔑する国王軍のルパートは即決を期して攻撃したが、戦死1000、捕虜5000という敗北を喫し、国王軍は壊滅。 その後1年間、各地で国王軍の残存部隊の掃討が行われ、46年春までには国王軍の拠点の南西部ウェールズ地方も議会軍の手に落ちた。チャールズ1世は議会の和平派と交渉したが既に和平派には力がなく、4月には変装してオックスフォードの国王軍陣地を脱走しスコットランドに身を投じた。スコットランドとイングランドの協議が続けられ、47年2月、国王はようやく議会軍に下った。それでも国王は「意気揚々」であった。<浜林正夫『イギリス市民革命史』P.147 などによる> 
F 共和制  
a チャールズ1世の処刑 イギリスのピューリタン革命が進行するなか、1649年1月4日下院のみの決議で国王チャールズ1世処刑のための最高裁判所が設置され、20日から裁判が開始された。裁判委員は135名が任命されたが拒否する者が多く、実際には60名ぐらいで構成。27日国王に対する死刑の判決文が作成され、57名の委員が署名し−彼らは後に「国王殺し」とよばれた−、30日ホワイトホールで死刑が執行された。判決文には国王が「議会とそれに代表される国民に反逆し不正な戦いをしかけた」罪を追求し、「専制君主、反逆者、殺人者であり、国家に対する公敵」であるとしている。しかし、国王はむしろ「殉教者」として讃えられ、その遺著として売り出された書物は政府の禁止ににもかかわらず、50版を越える売れ行きだった。<浜林正夫『イギリス市民革命史』P.191> 
b 共和政 の成立イギリスのピューリタン革命によって、1649年2月6日と7日の下院決議で君主制と上院を廃止することを決定。3月17日、君主制廃止の条令が成立。 「国王という職は、‥‥不必要であり負担の多いものであり、国民の自由と安全と公けの利益に有害であって、国王の権力と特権は大ていの場合臣民を抑圧し、しいたげ、隷属せしめるのに利用された」と述べている。
「イングランドおよびそれに附属するすべての領土、地域の国民は、ここに共和国、自由国家となり‥‥、今後、共和国、自由国家として、この国の最高の権威である議会における国民の代表と、国民の福祉のために議会のもとに任命される行政者および官職者によって、国王や上院なしに、統治されるであろう。」 これによってイギリスは一院制の共和国となった。 <浜林正夫『イギリス市民革命史』P.193>
▲c コモンウェルス Commonwealth 本来は「公共の福祉」という意味であるが、イギリスのピューリタン革命で成立した共和制国家が1649年2月から1460年の王政復古までコモンウェルスと言われた。なお、後にイギリス連邦を指してコモンウェルスという場合もある。
G クロムウェルの政治 権力を握ったクロムウェルはしだいに独裁的となり、財産権と参政権の平等を要求する水平派や、土地均分を要求するディガーズの運動を弾圧するとともに、国内の王党派・カトリック勢力を厳しく取り締まった。また議会の穏健派である長老派を1648年には追放して、独立派のみで独占した(これ以後の長期議会を、ランプ議会という。ランプとは残部の意味)。また反革命運動を抑える口実で、アイルランド(1649年)とスコットランド(1650年)を征服した。1651年には貿易商の要求を入れて航海法を制定、オランダとの対立を深め、翌年から英蘭戦争が始まった。1653年には長期議会を解散させ、護国卿に就任した。クロムウェルは、イギリス絶対王政のもとで獲得された海外領土に対しても共和政支持を拡げようとし、艦隊を送った。同時に「西方政策」と称して、西インド諸島や北米大陸のスペイン殖民地に対して攻勢をかけ、ジャマイカ島、トリニダート=トバゴなどを征服し、これによってイギリス領西インド諸島が形成された。 → クロムウェルの独裁
a 水平派 イギリスのピューリタン革命期に登場した党派の一つで、レヴェラーズ Levellers 、平等派ともいう。独立派の急進的な人びとが結成した党派で、ジョン=リルバーンが指導し、小農民や手工業者、小商人が多かった。彼らは1647年、「人民協約」にその要求をまとめている。
 1.イギリスの人民は選挙のためには住民の数に応じていっそう公平に分配される。
 2.現議会は1648年9月末日に解散される。
 3.人民は二年に一度議員を自ら選挙する。
 4.議会の権力は、これを選挙する選挙民の権利に対してのみ劣るものである。
このように人民の権利を最大限に認めることを要求したものであり、独立派との対立点を明確にした。水平派ははじめはクロムウェルに協力したが、クロムウェルの独裁が強まり、その政策が保守的になるに従い、対立を深め、1649年に弾圧され、消滅した。 → 男子普通選挙
▲ディガーズディガーズ Diggers とは「穴掘り人」の意味で、真正水平派ともいう。「すべての人は生まれながらにして財産に貧富の差はなく、平等に神の被造物を享受する権利がある」と主張し、私有財産の否定、土地の均分を主張し、ロンドン郊外の荒れ地を開拓したのでこの名がある。ピューリタン革命で水平派のさらに左翼に位置する党派で、1649年にウィンスタンリーによって結成された。下層農民の支持を受けて急進的な活動を展開し、クロムウェル独裁政権によって弾圧された。 
b アイルランド征服 ピューリタン革命によって権力を握ったクロムウェルは、カトリック教徒が多く王党派の拠点となっているとしてアイルランドを征服した。1649年6月15日議会はクロムウェルをアイルランド総督に任命。アイルランドでは国王軍のオーモンド侯がカトリック軍と同盟、反議会の活動を展開していた。クロムウェルは8月13日ブリストルを出航、15日ダブリンに上陸、、12000名の新着の部隊と先任の5000名の部隊を合流させ、9月ドローエダ、10月ウェックスフォードなどを攻略、その間ミル−マウントの虐殺、寺院の焼き討ち、婦女子の乗ったボートを沈めるなど残虐行為を行った。クロムウェルはそれを「神のみちびき」と議会に報告している。50年5月26日「クロムウェルの恨み」を残し帰国。 <浜林『イギリス市民革命史』P.199-201> → アイルランド問題(19世紀)
c スコットランド征服 1650年6月27日、チャールズ1世の子のチャールズがスコットランドのアバディーンに上陸、反革命の策謀とスコットランドの反イングランド感情が結びついた。議会は6月26日スコットランド進撃を決議、クロムウェルを総司令官に任命した。16000の兵力はただちに行動を開始、7月22日にトウィード川をわたってスコットランドに侵入、国王支持派と長老派の内部対立のあるスコットランド軍を9月3日ダンバーの戦いで戦死3000、捕虜1万という損害を与えて大勝。チャールズは長老派の敗北を見て51年1月1日パース近郊のスコーンで戴冠式を挙行。しかし、9月3日クロムウェル軍はウースターで国王軍を破り、チャールズは樹上で一夜を過ごした後、フランスに亡命。チャールズはクロムウェル死後にイギリスに戻り、王政復古してチャールズ2世となる。<浜林前掲書 P.201-204>
d 重商主義  → 重商主義
e 航海法 航海条令ともいう。広義には14世紀以来のイギリスの伝統的貿易政策であるが、狭義にはピューリタン革命時の1651年のクロムウェルの時定められた航海法をいう。その後、1660年の第2次航海法(海上憲章)、63年には貿易促進条令(市場法)が制定された。 アジア・アフリカ・アメリカからの輸入はすべてイギリス船によること、ヨーロッパからの輸入はイギリス船かその生産国、あるいは最初の積出国の船によること、を定めたもので、競争相手となってきたオランダの中継貿易に打撃を与えようとしたものである。クロムウェルの政府の政策ではなく、レヴァント、東インド、イーストランドなどの貿易商人の要望で成立したもの。イギリスは航海法に基づいてオランダ船に対する臨検捜索権を行使しようとしたため、翌年反発したオランダとの間に英蘭戦争が始まり、3次にわたり展開され、イギリスはその戦争に勝利することによって世界の海上貿易の覇権を握った。その後も、イギリス重商主義の根幹をなす法律としてその海外進出を支えたが、19世紀には自由貿易主義が台頭し、1849年に廃止される。
f オランダ  
H イギリス=オランダ(英蘭)戦争 イギリスのクロムウェルの時から始まる、イギリスとオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の前後3回にわたる戦争。イギリスはオランダ独立戦争を援助し、特に1588年にはスペインの無敵艦隊を破るなど、側面からオランダの独立を実現させた。しかし、実質的な独立を達成した17世紀初頭年以降は、オランダはヨーロッパの中継貿易に進出して利益を上げ、また新大陸・東南アジアに進出して、イギリスと対立するようになった。1623年のアンボイナ事件もその一つである。そのような中で特にイギリスの貿易商の名から、オランダ勢力を抑えるよう要望が出され、それが実現したのが1651年のクロムウェルの時に出された航海法であった。これによって両国の対立は戦闘に転化し英蘭戦争となった。英蘭戦争は次ぎの3期に分けられる。
第1次:1652〜54年 イギリスが航海法にもとづき、オランダ船に対して臨検捜索権を主張したところから始まる。イギリスは航海法を認めさせ、勝利を得た(ウェストミンスター条約)。
第2次:1665〜67年 王政復古後イギリスは航海法を更新すると共に、64年には新大陸のニューネーデルラントを侵略、その中心ニューアムステルダムをニューヨークと改称した。1665年に第2次英蘭戦争がおこり、オランダ海軍は一時テムズ川をさかのぼりロンドン港を封鎖して優位であったが、フランスの脅威を感じたオランダが講和を急ぎ、1667年イギリスが南米スリナムを譲る代わりにニューネーデルラントを確保(ブレダ条約)して終結した。
第3次:1672〜74年 チャールズ2世がフランスのルイ14世のオランダ侵略に呼応してオランダと戦った。議会の支持を得ない戦争のため財政難となり、講和した。
両国はその後再接近し、1688年の名誉革命ではオランダ総督ウィレムがイギリス国王に迎えられることとなる。なお、いずれもほとんど海上での戦争に終始し、結果的にイギリス海軍が強化され、次の18〜19世紀のイギリス帝国を出現させることになった。
a ニューヨーク この地は、1609年に、オランダ政府の命を受けたヘンリー・ハドソンが探検し、その後オランダ人商人がたびたび訪れてインディアンと友好関係を結び、オランダ西インド会社がインディアンからマンハッタン島を安い価格(24ドル相当という)の品物と交換して、島の南端から植民地ニューアムステルダムを建設した。北の守りに張りめぐらした柵が「ウォール・ストリート」の地名の起こりである。1660年当時は、建物約300、人口約1300。ハドソン川周辺に広がったオランダ人植民地の中心になっていた。その後、フィンランド人、ドイツ人、スウェーデン人が渡来し、ニューイングランドからピューリタンも移住してきた。
第2次英蘭戦争(1665〜67年)の直前、1664年にイギリスの国王チャールズ2世の弟ヨーク侯の命令で派遣されたフリゲート艦4隻が現れると、抗戦を叫ぶ総督の命令を無視して、町の人びとはすぐに降伏してしまった。こうして同年、ニューアムステルダムの町は40年足らずの命を終わって、イギリス領となり、ニューヨークと改名される。以後、ニューヨークはイギリスの北米における13植民地の一つなる。はじめはヨーク公を領主とする領主植民地であったが、後にその南をニュージャージーに分離し、王領植民地となる。独立時の13州の一つ。
a 資本主義経済の成立 生産手段を所有する資本家が、労働者を雇用して商品を生産し利潤を追求する経済体制。一般に資本主義は、16〜17世紀のヨーロッパ絶対王政の時代に家内制手工業から工場制手工業(マニュファクチュア)の段階に、資本の形成と労働力の出現という原始的蓄積を経て準備され、18世紀後半から19世紀中頃までの産業革命で産業資本の成立をもって完成した、と説明されている。ただし、最近では資本主義的な世界経済の形成を、15〜16世紀のいわゆる大航海時代に求める見解も出されている。 → 資本主義社会
b 市民革命 市民革命とは、西ヨーロッパにおいて封建社会の末期に現れた絶対王政を倒し市民社会を出現させた変革をいう。17世紀のイギリス革命、18世紀末のアメリカ独立革命とフランス革命をその典型である。
市民革命の概念:「市民」とは、「貴族」や「領主」、「特権的大商人」、「大地主」などに対する階級概念であり、初期には手工業工場主、小地主などとして資本を蓄え、産業革命を経て資本家となった階級であり、有産階級「ブルジョワジー」(その単数形がブルジョワ)とも言われる。従って一般には市民革命は「ブルジョワ革命」の訳語として用いられる。ただし、日本では「市民」概念に混乱があるため、マルクス主義で言うブルジョワ革命の訳語として「市民革命」があてられたが、西欧のはそのままの「市民革命」ということばはなく、それは日本語だという指摘もある。(樺山紘一『世界史の知88』新書館 p.111)
いろいろな市民革命:「市民革命」は「市民社会」を出現させたというが、実際にはその通りであったのはアメリカ独立革命ぐらいのもので、その先駆とされるイギリス革命は17世紀に起こってイギリス立憲君主制を成立させたが、貴族や地主(ジェントリ)に替わる市民(ブルジョワ)の成長はまだ不十分であり、彼らが権力を握るのは産業革命を経た後の19世紀前半の自由主義的改革が展開された時期である。また、18世紀のフランス革命でもたしかに王政は倒され、封建的特権は廃止され、人権宣言も出されたが、一気に市民社会が実現したのではなく、ナポレオンの帝政、復古王政、七月王政などを経て、1848年の二月革命後にほぼ「市民社会」が成立するという複雑な課程をとっていることに十分注意しておこう。また、1917年のロシア革命は、その中の二月革命(三月革命)は市民革命的な意義付けができるが、その年のうちに起こった十月革命(十一月革命)では一気に社会主義革命に突きすすんでしまった。
アジアの市民革命:なお、「市民革命」をヨーロッパ以外の世界で当てはめようとすると、ズレが生じてくる。たとえば日本の明治維新は「市民革命」といえるのかどうか、「絶対主義」の成立と言うのが正しいのではないか、などの古くから議論があるが、単純に比較することは出来ない。中国でも「辛亥革命」は一般に市民革命とは捉えられず、1924〜27年の国民革命が市民革命に近い。それについても、毛沢東は不十分だと見ており、その「新民主主義論」では1949年の中華人民共和国の建国からの当面の課題が中国独自の市民革命であると捉えている。アジアにおける革命は、民族独立の要素が深くなっている。
c 市民社会 生産力の発展を背景とし、自由と人権のが認められた個人が自立した社会。人間が封建的な社会関係や他律的な宗教に支配されていた封建社会に対して、自立した市民を中核とした社会が近代社会であある。「市民」概念は特に17〜19世紀のヨーロッパで形成されたものであり、次の三つの側面があると考えられる。
 1.理念的には啓蒙思想、特にロックやルソーなどの社会契約説に基づく基本的人権の主体。
 2.経済的には産業革命を通じて形成された資本主義社会を構成する資本家階級。
 3.政治的には議会政治などを通じて参政権を獲得し民主主義を実現した主体。
市民=ブルジョワジー:「市民」は「貴族」や「領主」と対する一つの階級、つまり特権や大土地の所有者ではなく、商業や小土地所有によって自立できる財産を持ち、産業の発展に伴って資本を蓄えた有産階級である「ブルジョワジー」bourgeoisie(その単数形がブルジョワ bourgeois)という概念があてはまる。マルクス主義の歴史観ではこのように階級として「ブルジョワジー」をとらえており、その訳語として「市民」を当てはめている。その理解で言えば、そのような「市民」が絶対王政や貴族、特権商人の権力を倒したのが「市民革命」(=ブルジョワ革命)であり、彼らが議会制度などを通じて国家権力を握った社会が「市民社会」であるといえる。この市民=ブルジョワジーが登場し、成長していくのは、生産力の発展、つまり農業社会から産業革命を経て工業社会になり、資本主義経済が成立していくことと重なっている。
さまざまな「市民」概念:「市民=ブルジョワジー」にも豊かな資本家層から、小商人、俸給生活者、下級官吏などの小市民階級(プチブルジョワなどという)も含まれる。それに対して、財産をほとんど持たず、労働力を商品として生きていくしかない階級を労働者階級=プロレタリアという。これはマルクス主義の初期資本主義分析で用いられた用語であり、現在ではこのような階級的な色分けは実態に合わなくなっており、あまり用いられない。
ただし、「市民」や「市民社会」の概念は幅が広く、また多面的であり、用いられる場面で意味が異なってくる。もう一つの「市民」概念は、現在でも一般に「市民運動」とか「市民会館」などのように使われているもので、英語のcivil の訳語に当たる。これは「国家権力」や「行政」に対する、一定の地域住民の集合を言う場合である。本来は都市の住民という言う意味であった市民概念であるが、このような意味合いでは現代では農村の住民も「市民」と言われる。civil という語はもとは聖職者に対する俗人を意味し、文明という意味もある。さらに、civilian とえいば文官、文民(武官、軍人に対して)となる。このように、幅広い用語であるが、世界史を学ぶ上では階級としての「市民」、つまりブルジョワジーを示すのもとして用いることが多い。
ウ.イギリス議会政治の確立
A クロムウェルの独裁 ピューリタン革命を勝利に導いたクロムウェルは1653年護国卿となってから、58年の死まで独裁者としてイギリスに君臨した。左には水平派の反体制運動、右には王党派の反革命陰謀、という左右両方からの攻撃に対し、クロムウェルは権力の維持のために軍事独裁体制を強化した。全国を10の軍区にわけ、各軍区に軍政長官を置き、軍事と行政の権限を与えた。この軍政長官には陸軍少将が当てられたので、この体制を「少将制」という。この軍政長官の下、ピューリタン道徳が国民に強要され、劇場や賭博、競馬などの娯楽は禁止された。
議会(下院のみの一院であった)はクロムウェルに国王の称号を与えようとしたが、さすがにそれは拒否した。しかし、殿下と呼ばれ、後継者を指名することができ、第二院を設けてクロムウェルが議員を任命できるようにした。まさに実質的な国王となったといえるが、インフルエンザにかかり1658年9月3日に死んでしまう。その子リチャードが護国卿に就任したが議会も混乱し、リチャードは人望が無く調停に失敗しわずか8ヶ月で辞任してしまった。その後、議会は王政復古に動く。 ← クロムウェルの政治
Epi. クロムウェルの首 クロムウェルの遺体はウェストミンスター寺院に鄭重に安置された。ところが王政復古となり、クロムウェルが国賊として非難されると、その棺はあばかれ、遺体はバラバラに切断され、首は鉄の棒の先に突き刺されて、その後24年間もロンドンでさらしものにされた。ところが1685年、大嵐がロンドンを襲い、クロムウェルの首は棒の先から落ちてしまった。守衛の一人がその首を自宅に持ち帰り、自宅の煙突のなかにかくし、娘にだけその秘密を明かして死んだ。どのような経緯か明らかではないが、1710年頃、この首が売りに出され、買い取ったものが見せ物にして金を稼いだという。その後も何人かの手を経て、1814年ウィルキンソンという人が買い取って、家宝として保存、1960年にウィルキンソン家の当主がクロムウェルの出身校であるシドニー・サセックス大学に贈ることとし、現在では同校構内に埋葬されているという。<この話は、ジョン・フォーマン『とびきり愉快なイギリス史』ちくま文庫 p.124 にも記載がある。>
a 護国卿 1653年12月16日士官会議で統治章典が成立。イギリス史上唯一の成文憲法となる。統治章典は全文42条、第1章で共和国の最高の立法権がプロテクターと議会にあると規定、行政権はプロテクターと国務会議がもち、プロテクターは官吏任免権、軍事権、外交権を持つ。その他、選挙は議会に反抗しなかったもので動産または不動産を200ポンド以上持つもの、議会は3年に1回開催、議会の可決した法律はプロテクターの承認がなくても法律として成立する、など。 同日、クロムウェルはプロテクターに就任。共和制は終わった。いつもの軍服を脱ぎ捨てたクロムウェルに対し、兵士や民衆は失望の色を隠さなかった。<浜林正夫『イギリス市民革命』P.277-8>
b 軍事的独裁体制  
B 王政復古 1660年、イギリスでチャールズ2世が国王となってステュアート朝の王政が復活したこと。これによってピューリタン革命で成立した共和政は約10年で終わりをつげた。クロムウェルの死後、その厳格な軍事独裁政権に不満を募らせた国民は、議会内の穏健な長老派を支持するようになった。長老派と王党派の妥協が成立した議会は、議会の権限の尊重を国王に約束させることを条件にチャールズ1世の子供でオランダに亡命していたチャールズ2世の国王復帰に同意し、王政復古が実現した。
「1660年、内戦中の行動についての大赦、土地購入の確認、信仰の自由の保証、の3点を約束、それ以外のすべても議会の決定による、という条件を呑んだチャールズ2世は、オランダから帰国、5月25日にドーヴァに上陸した。民衆は熱狂的な歓呼で国王を迎えた。 王政復古後、クロムウェルらの墓はあばかれ、30名の革命首謀者は死刑となり、王権神授説が復活した。」 <浜林正夫『イギリス市民革命史』P.310-312>
a チャールズ2世 イギリス・ステュアート朝の国王(在位1660〜85年)。チャールズ1世の子。ピューリタン革命で父が処刑されると、スコットランドにのがれて1651年スコットランド王を宣言。しかしクロムウェルのスコットランド遠征軍に敗れて、フランスに亡命。クロムウェル死後の1660年、ロンドンに戻り、「ブレダの宣言」を発して絶対王政の復活を否定したので議会は彼がチャールズ2世として即位することを承認し、王政復古となった。1665年からは第2次英蘭戦争を起こす。1670年にはフランスのルイ14世と「ドーヴァーの密約」を結び、カトリック信者としてその復興を策し、議会との対立を深める。議会はチャールズ2世のカトリック復興策に反発して、1673年に審査法を制定、また79年には人身保護法を制定して市民の権利の保護を図った。チャールズには継嗣がなく、同じくカトリックの弟ジェームズの王位継承を認めるかどうかで議会内に対立が生じ、それが名誉革命の要因となる。
▲ブレダの宣言1660年、フランス亡命から戻ったステュアート家のチャールズが発したもので、新しい土地所有者の所有権の保障、革命関係者の大赦、信仰の自由、軍隊給与の支払いの保証など、つまり絶対王政を復活させないことを約束したもの。議会はこの条件を入れてチャールズのイギリス国王即位を認め、王政復古となった。しかし即位後のチャールズ2世は、ブレダの宣言に反してカトリックの復興をはかるなど、議会に対立して絶対王政の復活を策した。
▲ドーヴァーの密約1670年、イギリスのチャールズ2世とフランスのルイ14世との間で結ばれた密約。カトリック信者であったチャールズが密かにフランスの援助を得ようとして締結した。しかし議会の知るところとなり、国王に対する反発が生じることとなった。
b 審査法 王政復古期の1673年、イギリス議会が制定した法律で、国教会信者以外の者は官職に就けないとして、カトリック勢力の排除をねらったもの。審査律(Test Act)ともいう。イギリス議会はチャールズ2世がカトリック勢力の復興をねらって72年に信仰自由宣言を出したのに対し、そのカトリック政策を阻止することを目的とし、国王宣言を撤回させてさらに審査法を制定した。すべて官職につく者は、国教会の儀式に従って聖餐をうけ、国王至上の誓いをし、化体説反対の宣言に署名しなければならないことを定めたもので、これによってカトリック信者とともに国教徒以外のプロテスタント(非国教徒という)もその対象とされた。しかしその目的はカトリック教徒を排除する目的であった。78年には両院の議員に対しても同じような審査を課すことが定められた。これによって国王に仕える数百人のカカトリック貴族が追放され、国教徒の政治支配が確立した。 名誉革命後の1689年に寛容法が制定され、非国教徒の排除は撤廃されたが、カトリックに対する排除は続き、ようやく自由主義の強まりと共に1828年に審査法は廃止され、カトリック教徒解法が制定される。
 非国教徒 ノンコンフォーミスト(Noncomfomists)といい、イギリスにおける、国教徒(国教会=アングリカン=チャーチの信者)以外のプロテスタント(新教)信者のこと。カトリック信者は含まれない。1673年の審査法ではカトリック教徒と同じく非国教徒も公職から追放されたが、名誉革命の翌年1689年の寛容法によって三位一体を否定する一部(ユニテリアン)を除いたプロテスタントの信仰の自由は認められる。  → イギリスの宗教各派
c 人身保護法 1679年、イギリス議会が制定した法律で、人民は理由なしに逮捕拘禁されることは無く、逮捕拘禁の場合は人身保護令状によらなければならいと定めたもの。この法令に反した裁判官は厳罰に処せられるとされた。王政復古期のチャールズ2世が、絶対王政を復活させようとしたことに対する、議会の抵抗として制定された。マグナ=カルタなど中世以来、定められてきた人権保護の立法を完成させたもので、現在でもイギリスの重要な法律として生きている。
C 政党の成立 チャールズ2世には嫡子が無く、憲法上の王位相続人の王弟ジェームズはカトリック教徒であった。ジェームスの王位継承を認めない一派は新教徒の庶子モンマス公を相続者とするため、1679年、王位継承排斥法案を提出した。それに対して合法的な相続者ジェームズの相続権を認め、その死後、新教徒であるメアリおよびアンを王位継承者としようとした。前者はシャフツベリを首領とする民権派で地方党、相手からはホィッグ(スコットランドの謀反人の意味)とよばれ、後者がダンビーを首領する騎士派で宮廷党、相手からはトーリ(アイルランドの無法者の意味)と呼ばれた。両党はジェームズ2世の王位継承では激しく争ったが、名誉革命では共同してオランダ総督ウイレムとその妻メアリの招聘をはかり、ウィリアム3世治下では両党から閣僚を出す連立内閣の形が続いたが、1694年からはホイッグに組閣させ、政党政治への道を開いた。 
a トーリ党 チャールズ2世の後継として合法的な相続者としてカトリック教徒の王弟ジェームズの即位を認めた一派のこと。ダンビーを首領とする、旧貴族階級が多く、宮廷を基盤としていた。対立する人びとからは「アイルランドの無法者」の意味のトーリ(Tory トーリーとも表記)と言われた。アイルランドにはカトリック教徒が多かったので、カトリックのジェームズを支持した一派がこのように言われ、本来は蔑称であったが、次第に自らをトーリと称するようになった。王権、国教会、旧騎士階級などの保守派を代表する勢力であったが、フランス革命期に小ピットなどの人材が現れ、ホィッグの改革に対する保守勢力として政党化が進み、1830年代に保守党へと転身し、20世紀前半までは自由党との、20世紀後半から現在までは労働党との二大政党制の一方の政権担当政党として続いている。
b ホイッグ党 カトリック教徒であるジェームズの王位継承を認めず、新教徒の庶子モンマス公を相続者とすることを主張し1670年に王位継承排斥法案(この法案は議会で否決された)に賛成した人びとで、シャフツベリーを首領として地方のジェントリーを中心とし王権よりも民権を重視する傾向があった。敵対する人びとから、「スコットランドの謀反人」という意味のホィッグ(Whig ウィッグとも表記)と言われた。スコットランドは反イングランド感情が強く、王室にも反抗的であったので、反王権の一派に対する蔑称として使われたが、やがて彼ら自らもホイッグと称するようになった。次第に非国教徒と都市の商工業者の利害を代表するようになり、18世紀のウォルポール内閣を出現させた。産業革命後は、選挙法改正などで自由主義の立場をとり、1820年〜30年代の一連の自由主義的改革を推進し、1832年にはホイッグ党のクレイ内閣で第1回選挙法改正を実現した。1830年ごろから自由党を称するようになり、ブルジョワ自由主義政党として、20世紀前半までは保守党と二大政党時代を形成する。
D 名誉革命 1688年、ジェームズ2世に男子が産まれると、新教徒である妹のメアリへの王位継承が望まれなくなった。イギリス議会のトーリ、ホィッグの両党はともにメアリの夫のオランダ総督ウィレムを招聘した。ウィレムは新教徒からなる軍隊をトーベイに上陸させたが、ジェームズ2世はフランスのルイ14世の支援を断り独力で対抗しようとした。しかし国王軍は分裂して抗戦することができず、各地に反国王の蜂起が始まり、ロンドン市民も国王排除に立ち上がった。ついに12月、ジェームズは妻子とともにフランスに亡命した。翌89年、議会は「権利の宣言」を提出し、ウィレムとメアリがこれを承認してウィリアム3世メアリ2世として即位した。さらに議会は「権利の章典」を制定、立憲君主制が成立した。これを「名誉革命」(Glorious Revolution)といっている。
「名誉」の意味について、イギリス史の第一人者といわれたトレヴェリアンは、次のように説明している。この名誉とは、何らかの武勲とか、英雄的行為とか、一国民が一丸となれば暗愚な国王を追放できることを実証したとかという事実に存するのではない。それどころか、イングランド人が気違いじみた党派間の反目の中で浪費してしまった自由の回復をはかるために、外国の軍隊を必要としたことは「不名誉」なことである。『イギリス革命の真の「名誉」は、それが無血であったこと、内乱も大虐殺も人権剥奪もなかったこと、そしてなかんずく、人々と党派をかくも久しく、かくもはげしく分裂された宗教上、政治上の意見の相違について、同意による解決に到達しえたという事実にこそ存するのである。』<トレヴェリアン『イギリス史』p.199>
a ジェームズ2世 名誉革命で王位を失ったスチュワート朝イギリス王(在位1685〜88)。フランス人を母とし、フランスで養育された熱烈なカトリック教徒で、父チャールズ1世以上の反動的な政策をとった。モンマス公の反乱(ジェームズ2世の即位に反対し、王位継承を主張したチャールズ2世の庶子モンマス公の反乱)を口実に常備軍を設置し、カトリック教徒の文武官任用を復活(審査法を事実上廃止)させ、87年には信仰自由宣言を発し、カトリック教徒の聖職就任を許可した。翌年、信仰自由宣言書を礼拝に2度読むことを強制、反対したカンタベリー大司教ら7名を逮捕するなど、国民の支持を失った。1688年、議会が招聘したオレンジ公ウィレムとその妻メアリ(ジェームズ2世の娘でプロテスタント)が上陸、もう一人の娘アンも議会側に走ったのでジェームズ2世は孤立し、12月23日イギリスを離れてフランスに亡命(名誉革命)、ルイ14世の提供してくれたサン=ジェルマンの隠れ家に身を寄せた。
b メアリ  → メアリ2世
c ウィレム  → ウィリアム3世
d 権利の宣言 Declaration of Rights 名誉革命の際、1689年2月、イギリス(イングランド)の国民協議会(仮議会)が、ウィレムとメアリに提出した宣言。二人がこれを承認してウィリアム3世とメアリ2世というイギリスの共同統治者として即位した。「権利の宣言」は13項目にわたり先王のジェームズ2世の政治を批判し、国民の権利と自由を確認したもの。「権利の章典」とほぼ同一内容で議会で制定され、国王の名で公布された法律が「権利の章典」。
e ウィリアム3世 ネーデルラント連邦共和国のオランダ総督の位(事実上のオランダ王位)を世襲するオラニエ家(オレンジ公)のウィレム3世。妻がイギリスのステュアート朝ジェームズ2世の娘メアリ。イギリス議会の要請により、イギリス国王としてメアリとともに1688年に1万4千の兵を率いてイギリスに上陸。ウィリアム3世となる(在位1689〜1702年)。これが名誉革命とされる。オランダはかつては海外貿易をめぐって衝突し、英蘭戦争を戦った相手であったが、この時期にはカトリック国フランスのルイ14世の領土的野心に脅かされており、イギリスとの提携に意味を見いだすことができた。内政では議会と協調して立憲君主政を推し進め、外政ではファルツ戦争および北米におけるフランスとの植民地戦争であるウィリアム王戦争(1689〜97年)を開始、フランスとの第2次百年戦争といわれる長期抗争に突入した。ウィリアム3世は、ルイ14世に後押しされたジェームズ2世がアイルランドに上陸するとそれを迎え撃ちって撃退(1690年ボイン川の戦い)し、さらに92年にはノルマンディ沖でフランス海軍を破り、制海権を確保した。ルイ14世はついにウィリアム3世をイギリス王として承認した。1701年スペイン継承戦争が起きると、イギリスはオランダ、オーストリアと三国同盟を結び、フランス・ルイ14世と対抗した。翌1702年、ウィリアム3世は乗馬中に馬が倒れ、肋骨を折ったのが原因で没した。メアリ2世との間に子供はなく、王位はメアリの妹のアンに継承された。
f メアリ2世 イギリス国王ジェームズ2世の娘であるが、プロテスタントの教育を受け、オランダ総督ウィレムと結婚した(1677年)。名誉革命によって、父ジェームズ2世がフランスに亡命した後、夫ウィレムとともにイギリスに渡り、夫はウィリアム3世、彼女はメアリ2世として共同統治にあたった(在位1689〜94年)。
g 権利の章典 Bill of Rights 1989年12月制定。正確には「臣民の権利及び自由を宣言し、王位継承を定める法律」。ジェームズ2世亡命後の善後処置として国民協議会を召集、そこで権利の宣言が起草され、ウィリアム3世とメアリ2世がそれを承認することを条件に共同統治として即位を認めた。さらにそれに法的効力を与えるため、「権利の章典」として制定した。 立法権・徴税権・軍事権の議会にあることを保障、かつ王を任免する権利も議会にあることを明らかにし、立憲君主制の基礎を据えた。国王は政府の執行権・大臣の任免権を保持した。この法律は、マグナ=カルタと並び、イギリス憲法を構成している。
「権利の章典」(Bill of Rights)の主な規定
 1.国王は、王権により、国会の承認なしに法律を停止、または法律の執行を停止しうることは不法である。
 2.議会の同意なくして、大権の名において王の使のために金を徴収することは不法である。
 3.王に請願することは人民の権利である。
 4.議会の同意なしに常備軍を募り、維持することはできない。
 5.議員の選挙は自由でなければならない。
 6.議会内の言論の自由は、議会外で弾劾されることはない。
以下略 <岩波文庫『人権宣言集』p.82>
h 立憲王政  
i イギリス革命  → イギリス革命
E 政党政治  
a 内閣中国の内閣制度:内閣という漢語は、1402年に明の永楽帝の設置した、皇帝の補佐役である内閣大学士の役所からはじまる。次の清朝でも皇帝政治を支える機関として内閣が設けられ、次第に重要な機関となった。清朝では雍正帝の時に軍機処が設けられて内閣は実権を失った。その後、近代日本や中華民国ではイギリス流の政治制度が導入されるが、その際、英語の Cabinet の訳語として復活し、現在まで用いられている。
イギリスの内閣制度:英語で Cabinet というのは密室の意味で、ピューリタン革命後の王政復古期(17世紀中頃)に国王の政治を補佐する長官会議を密室で開いたことに由来する。名誉革命後に政党政治が確立すると、内閣は議会の支持が不可欠となるので、議会の多数党から首相が選ばれて内閣を組織し、議会に対して責任を負う責任内閣制が始まる。その最初がジョージ1世のときのウォルポール内閣で、首相(Prime Minister =閣僚の第一人者の意味)という称号もも彼に始まる。その後内閣制度を中心としたイギリスの政治制度は近代国家のモデルとして他の国にも採用されていく。
b アン女王 イギリス・ステュアート朝の最後の女王(在位1702〜14年)。父のジェームズ2世と違い、姉のメアリとともにプロテスタントの教育を受け、名誉革命でも姉メアリを支持した。メアリとその夫ウィリアム3世に子がなかったので、王位を継承。この女王の時に、イギリスはヨーロッパでのスペイン継承戦争と北米植民地でのアン女王戦争で、フランスに対する勝利を占め、イギリス革命の混乱を克服して発展を継承させた。また1707年には、イングランド王国とスコットランド王国が合同し大ブリテン王国が成立し、名実ともにイギリス王となった。
Epi. 不幸なアン女王と王位継承令 ウィリアム3世とメアリの間には子供がいなかった。将来、王位継承で問題が起きることを懸念したウィリアム3世は、1701年に王位継承令を発布し、「今後の王位はステュアート王家の血を引くプロテスタント」でなければならないと決めた。それによってウィリアム3世の次は、メアリの妹のアンが即位した。アンはデンマーク王の次男ゲオルクと結婚し、18人もの子供が生まれたが、不幸にしてそのすべてが死産か、子供のうちに死んでしまい、「子供を次々と失った悲しみでアンは酒におぼれ、37歳で王位についたときも肥満ゆえに歩行がままならず、加えて痛風に悩まされるという惨憺たるありさまだった。」ウィリアム3世の懸念したとおり、王位継承が問題となってしまったが、王位継承令がうまく機能し、大きな混乱もなく、ジェームズ1世の孫のゾフィアの子であるハノーヴァー選帝侯ジョージが継承することとなった。<小林章夫『イギリス王室物語』1996 講談社現代新書 p.118>
c 大ブリテン王国(グレートブリテン) ステュアート朝アン女王の1707年、ホイッグ党の主導する政策として「合同法」が成立、イングランドとスコットランドが、それまでの二つの王国が共通の一人の王をいただく体制から、共通の議会と政府を持ち一人の国王をいただく連合王国という、より緊密な関係を結んだ。スコットランドは、長老派教会主義や独自の法律、裁判制度などを保ったが、政治的、経済的にはイングランドに併合されることとなった。→ 1801年 アイルランド併合と「グレート=ブリテンおよびアイルランド連合王国」成立
F 責任内閣制 内閣は議会の多数を占める党派の代表が構成し、国王に対してではなく議会に対して責任を負う、という政治の原則を言う。この制度では内閣は議会で承認された立法によって行政を担当するという権力分権がはかられることになる。イギリスのハノーヴァー朝ジョージ1世の時のウォルポール内閣から始まるとされている。
a ジョージ1世 イギリス・ハノーヴァー朝初代の国王(在位1714〜27年)。ドイツのハノーヴァー選帝侯であったが、ステュアート朝のアン女王が継嗣無く死去した後、イギリス国王として迎えられる。母のゾフィアがジェームズ1世の孫でステュアート家の血を引いていており、プロテスタントであったからであった。即位したときにすでに54歳、しかもほとんど英語が話せず、またハノーヴァー選帝侯の地位も兼ねたのでしばしばドイツに帰り、政務をほとんど見なかったため、ウォルポールの責任内閣制が発展する。即位翌年の1715年には、ステュアート家のジェームズ2世の男子系統を王位に建てようと言う一派のジャコバイトの乱が起こったが鎮圧された。ジャコバイトとは、ジェームズのラテン名ジェイコブスに由来する。
b ハノーヴァー朝 1701年制定された王位継承法に基づいて、ステュアート朝アン女王の没後、1714年にドイツのハノーヴァー選帝侯ジョージがイギリス王ジョージ1世として即位した。ジョージ1世はイギリス王位とハノーヴァー選帝侯の地位を兼ねた。ジョージ1世はイギリス国政をほとんど関与しなかったので、この間、イギリスの政党政治と責任内閣制が確立する。ハノーヴァー朝はその後、ジョージ2世、ジョージ3世(1760〜1820、アメリカの独立、フランス革命、産業革命の時代)、ジョージ4世と続き、19世紀後半のヴィクトリア女王時代(1837〜1901)に、大英帝国の繁栄期を迎える。なお、ヴィクトリア女王から、ハノーヴァー侯の地位は女性の相続が認められなかったのでイギリス国王単独となった。ヴィクトリア女王とアルバート公の間に生まれたエドワード7世の即位した1901年から王朝名はサックス=ゴバーグ=ゴータ朝に代わり、さらに第1次世界大戦が勃発するとドイツ系の王朝名をきらい、1917年にウィンザー朝と改称した。
ウィンザー朝 イギリスのハノーヴァー朝が1901年からのサックス=ゴバーグ=ゴータ朝を経て、1917年にこの王朝名に改称したもの。前の王朝名がドイツの家系を継承するものであったので、第一次世界大戦が始まったときに王宮の所在地にちなんだこの名称に変更された。ジョージ5世(第1次大戦期)、エドワード8世(1936年、愛人問題で王位を放棄した)、ジョージ6世(第2次大戦期)と続き、現在のエリザベス女王(1952〜)に至る。
c ウォルポール内閣 ウォルポールはイギリス・ハノーヴァー朝ジョージ1世の時の政治家。ケンブリッジ大学を卒業後、ホイッグに属する政治家として議会で活躍、1720年の「南海泡沫事件」の混乱を収拾して頭角を現し、1721年から第一大蔵卿を務め、内閣のメンバーとなった。国王ジョージ1世はあまり英語も話せず、国政をウォルポールに任せたので、彼は「閣僚の第一人者」という意味の、プライム・ミニスターと呼ばれるようになり、それが内閣総理大臣(首相)を意味するようになる(制度としては1907年から)。ウォルポールは対外戦争をできるだけ抑えて財政の安定を図り、重商主義政策(主として保護関税政策。原材料の輸入関税は低くし、茶などの奢侈品に対しては高く設定した。)をとってイギリス産業を保護し、大英帝国への発展を準備した。対外戦争では1740年のオーストリア継承戦争に際してオーストリアを支持(直接軍隊は送らなかった)、対スペインのジェンキンズの耳戦争と、対フランスのジョージ王戦争を戦った。1742年、議会(下院)内で反対派が多数を占めると、ウォルポールは王や上院の支持があったにもかかわらず潔く辞任した。これが、議会で多数を占める党派の党首が内閣を組織するという責任内閣制の先例が開かれることになった。こうして、内閣は国王に替わって国政の全般を掌握し、国民の代表である議会に対して責任を持つという責任内閣制が成立したとされる。
Epi. バブル経済の原点、南海泡沫事件 スペイン継承戦争が起こったとき、イギリス政府は戦費を得るために公債を発行しすぎたため、その利息の支払いに苦しんでいた。そこで「南海会社」という貿易会社を設立し、南米の東南海岸地帯との貿易特権を与え、その株式で公債を買い取ることを計画した。南海会社は人びとの投機心を刺激し、1720年1月の発足時の株価100ポンドが半年で1050ポンドまで値上がりした。それに刺激されて、民間にも次々と投機目的の会社が作られたが、それらは実体のない、泡沫(バブル)会社であった。6月をピークに株価は下がりはじめ、12月には125ポンドに暴落した。つまり、バブルがはじけてしまい、ピーク時に高値で買った一般の投資者は大損し、破産するものが続出した。この顛末を「南海泡沫事件」といい、日本の1986〜91年の株価と地価の高騰をバブル経済と言っているのはこの泡沫、つまりバブルからきている。ウォルポールは南海会社設立には反対し、その破綻が明らかになってから再建を託され、奴隷貿易と捕鯨を専業とする会社に縮小して再建に成功した。翌年首相となった彼はその体験を生かし、国内産業と海運の保護にあたり、国民的重商主義政策をとってイギリス経済を建て直した。
▲e 国王は君臨すれども統治せず  
f 参政権  
エ.ルイ14世の時代
A ルイ14世  →第9章 4節 エ.フランスの宗教内乱と絶対王政 ルイ14世
a 「朕は国家なり」  
b 太陽王  
c 王権神授説  → 王権神授説
ボシュエ モーの司教で、ルイ14世に仕え、王権神授説を理論づけた。「王位とは人身の位ではなく、神そのものの位である。それゆえに王者は地上における神の代理人として行動するものである。」
d ヴェルサイユ宮殿 ルイ14世が1661年から数十年をかけて造営した宮殿。パリの南西にある。もとはルイ13世が狩猟の際の宿泊のために作った小さな城であったところを、ルイ14世が改修・拡張した。宮殿の中心の「鏡の間」や、庭園が有名。広大な庭園はル=ノートルの設計、宮殿本館はル=ヴォー、鏡の間はルブランとマンサールが手がけた。なお、ブルボン朝の宮廷は、パリのサン=ジェルマン、フォンテーヌブローにもあったが、1682年からフランス革命の勃発する1789年までは、ヴェルサイユ宮殿に宮廷が置かれた。 →
e コルベール  → コルベール
B 侵略戦争の展開  
a 南ネーデルラント継承戦争  
b オランダ戦争  
c ファルツ戦争  
C ナントの勅令の廃止 1685年、ルイ14世はナントの勅令を廃止した。ユグノーをこの上なく残酷に迫害し、国外亡命すら禁止し、拷問にかけてミサに無理矢理出席させ、ニグロ奴隷の如くに家族を離散させ、男はガレイ船に送り、女子供には鞭打ちと虐待をもって彼女らの忌み嫌う宗教を教え込ませようとした。その結果、幾十万の人々が主にイングランド、オランダあるいはプロシアに亡命した。その大半は高潔な職人や商人であったのでフランスの商工業が没落した。また、イギリスでの教皇主義への憎悪を増大させ、ジェームズ2世のカトリック政策に対する議会の警戒を強めた。
a ユグノー  → 第9章 3節 ユグノー
D スペイン継承戦争 1701〜14年の、フランス対イギリス・オーストリア・オランダなどの戦争。スペイン・ハプスブルク家のカルロス2世に王位継承者が無かった事から、フランス王ルイ14世が孫アンジュー公フィリップをスペイン王フェリペ5世として実質上の支配を画策した。それに反対したイギリス(ウィリアム3世)・オーストリア・オランダが同盟し、戦争となった。ヨーロッパではイタリア・ネーデルラント・ドイツ・北イタリアが戦場となり、さらにアメリカ植民地でもイギリス・フランス間のアン女王戦争が展開された。フランス軍は各地で敗れ、植民地でも劣勢が続く。この間、1704年イギリスはジブラルタル占領。1712年からオランダのユトレヒトで和平会談、1713年ユトレヒト条約、14年のラシュタット条約(フランスとオーストリアの講和。オーストリアのスペイン領ネーデルラントの領有が認められた。)で終戦。フィリップの王位継承は認められ、フェリペ5世となった(スペイン・ブルボン朝の始まり)が、フランスとスペインの合同は永久に禁止され、フランスは同時に展開されたイギリスとのアン女王戦争でも敗れ、北アメリカ大陸の海外領土(現在のカナダの一部)をイギリスに奪われた。表面的な勝利者はオーストリアのハプスブルク家であったが、実質的に最も大きな利益を得たのはイギリスであり、その植民地帝国の基盤を築いたと言える。
a フェリペ5世  
b イギリス  
c アン女王戦争 スペイン継承戦争に並行して行われたイギリスとフランスのアメリカ植民地に於ける戦闘(1702〜13年)。スペイン植民地の継承が争点となる。西インドでの私拿捕船の戦闘、ニューイングランドでのフランス・インディアン連合軍のイギリス軍攻撃などがあった。1713年のユトレヒト条約でイギリスはハドソン湾地方、アカディア(ノヴァ−スコシア)、ニューファウンドランドを獲得したほか、スペインの持つアフリカ黒人奴隷専売権であるアシエントを獲得した。
d ユトレヒト条約 1713年、スペイン継承戦争ならびにアン女王戦争の講和条約として成立。
 1.フランスとスペインが合同しない事を条件にフェリペ5世のスペイン王位継承を承認
 2.イギリスはスペインからジブラルタルミノルカ島を獲得、フランスからアカディア(ノヴァ=スコシア)、ニューフアンドランドを獲得
 3.オランダはスペイン領ネーデルラントの数市を獲得
 4.プロイセンは王号を認められる
 5.サヴォイアはシチリア王国を獲得(後にサルデーニャ島と交換、サルデーニャ王国となる)
(フランスとオーストリアは別にラシュタット条約を締結)
この条約によって、イギリスは海外領土を拡大し、イギリス帝国繁栄の第1歩を築いたと言える。
しかし、領土獲得にもまして歴史的意味が大きかったのは、イギリスがフランスから、アフリカの黒人奴隷を新大陸のスペイン領に運ぶアシエント(奴隷供給契約)を譲渡され、かつ毎年五〇〇トンの船一隻を、貿易のためスペイン領アメリカに派遣する許可を取ったことであった。この結果、スペインのアメリカ大陸植民地支配は終わりを告げることとなった。
ユトレヒト条約の付帯条約:ユトレヒト条約が結ばれた翌年調印された付帯条約によって、イギリスはアシエント(奴隷供給契約)を承認され、むこう三〇年間にわたり、毎年一〇〇〇名ずつの黒人奴隷をスペインのアメリカ植民地に輸入することができるようになった。王室は、権利を1711年に設立された南海会社に委託した。それによると、会社は西アフリカに派船し、現地の王室アフリカ会社の代理人たちがそれらの船に奴隷を供給することが定められていた。この条約によって、イギリスは、事実上ガンビア川からコンゴまでの西アフリカ海岸の支配権を確保したのである。<増田義郎『略奪の海カリブ』p.157>
 ラシュタット条約 スペイン継承戦争後の1714年にフランス王国(ブルボン朝)と神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)の間で締結された講和条約。ユトレヒト条約とは別で、イギリスが加わっていないので、海外領土ではなく、ヨーロッパでの領土変更の取り決め。フランスとスペインが実質的に敗れたので、ルイ14世は、それまでスペイン=ハプスブルク家領であった南ネーデルラント(後のベルギー王国)・ミラノ・ヴェネツィア・サルデーニャをオーストリア=ハプスブルク家に譲ることとした。  
e  ルイ15世 フランス・ブルボン朝の国王(在位1715〜74年、ルイ14世の孫で、その次の王)。わずか5歳で国王となったので、はじめはオルレアン公フィリップが摂政として政治を執り、1723年から親政を開始。国内政治では比較的平穏であったが、対外的にはイギリスとの植民地戦争で敗れ、またヨーロッパではオーストリア継承戦争(1740〜48年)、七年戦争(1756〜63年)に介入したが、プロイセンの台頭を許すなど、困難な局面を迎えていた。次のルイ16世は彼の孫に当たる。ルイ15世が君臨した18世紀のフランスには、ヴォルテール、ルソー、ディドロなどの啓蒙思想が登場し、まず思想面から市民革命が準備された時代であった。
Epi. 「私が支配する時代」ポンパドゥール夫人 ルイ15世の宮廷で最も実力があったのは、その愛妾ポンパドゥール夫人であった。彼女は平民の出身であったがその美貌と才知でルイ15世の心をつかみ、1745年以来宮廷を牛耳る実力者として君臨した。政治に関心のないルイ15世は、ポンパドゥール夫人の政治にへの関与を許し、人事なども彼女に任せたという。フランスの外交方針を180°展開させた「外交革命」にも一役買っていた。彼女は啓蒙思想家の保護者でもあり、重農主義で知られるケネーは彼女の主治医であった。またディドロの百科全書の出版を助けたりもした。時代の先端を行く女性だったわけで、自ら「私が支配する時代」と言ったという。しかしその1年で香水100万フランを使うというけた外れの浪費は、ブルボン朝の財政を悪化さえ、フランス革命の要因のひとつとなった。
オ.プロイセンとオーストリア
1.プロイセン
A プロイセン王国  → 第9章 4節 プロイセン王国
a スペイン継承戦争  → スペイン継承戦争
b フリードリッヒ=ヴィルヘルム1世 プロイセン・ホーエンツォレルン家の国王(在位1713〜40年)。プロイセン王国の強力な軍隊を作り、官僚制を整備し、重商主義政策をとり、典型的な絶対王政を展開した。その大きな特徴は、「国全体を兵舎にする」といわれた軍国主義政策であった。
Epi. 巨人軍大好きな「兵隊王」 フリードリヒ=ウィルヘルム1世は、その乱暴な振る舞い、教養のなさから「兵隊王」とあだ名された。彼の軍隊の中核となる近衛兵は背の高い兵士をそろえ「巨人軍」と称し、自ら鞭を揮い号令をかけて訓練したという。体の大きい、屈強な若者がいると、警官が無理矢理に連れてきて(時には暴力で)近衛兵にしてしまったという。そのような暴力で集めた軍隊なので、規律も暴力的になり、脱走には「列間鞭打ち」の罰が与えられた。
c  絶対王政  →第9章 4節 絶対王政
B オーストリア継承戦争 1740〜48年までの、オーストリアとプロイセンの対立を軸として、イギリスが前者を、バイエルン公・フランス・スペインが後者を支援した、絶対王政国家間の領土をめぐる戦争。1713年、オーストリアの神聖ローマ皇帝カール6世は、ハプスブルク家の帝位継承の原則としてプラグマティッシェ=ザンクツィオン(重要な国事に関する君主の定めた「国事詔書」)を定めた。それにはハプスブルク家の領土の不可分と、男子のいないカール6世の次の皇帝を長女マリア=テレジアに継承させることを定めていた。ヨーロッパ諸国はこの原則をいったんは認めたが、カール6世が没すると、まずプロイセンのフリードリッヒ2世が異議をはさみ、次いでハプスブルク家の弱体化をねらうフランス、スペインがそれに同調し、バイエルン大公も帝位の継承権を主張して1740年に戦争を仕掛けた。フリードリヒ2世はオーストリア領のシュレジェン(機業・鉱産業が盛ん)の領有をねらって侵入したのでシュレジエン戦争とも言う。オーストリアのマリア=テレジアは孤立して苦戦したが、植民地でフランス・スペインと戦っていたイギリスが、オーストリア側についた(経済的援助にとどまり軍隊の派遣はなかった)ので盛り返し、1748年、アーヘン和約で講和が成立、オーストリアはシュレジェンをプロイセンに奪われたがその他の領土は確保し、帝位継承を承認させて終わった。復讐に燃えたマリア=テレジアは、フランスとの提携をはかり、1756年に外交革命に成功し、次の七年戦争へと展開する。オーストリア継承戦争と並行して、イギリスは、スペインと西インド諸島でジェンキンズの耳戦争、フランスとは北米大陸でのジョージ王戦争とインドでのカーナティック戦争を展開し、戦いを有利に進めていた。
a フリードリヒ2世 プロイセン・ホーエンツォレルン家の国王(在位1740〜86年)。典型的な啓蒙専制君主としてプロイセンの全盛期をもたらし「フリードリヒ大王」と言われた。対外政策ではオーストリアのマリア=テレジアの即位に異議を唱えてオーストリア継承戦争(1740〜48年)をしかけ、シュレジェンを奪い、その復讐戦である七年戦争(1756〜62年)では国際的に孤立しながらその領土を維持した。その結果、プロイセンはヨーロッパ最強の国家となり、ドイツ統一の主導権を握ることとなる。国内政策では軍隊と官僚制の整備、重商主義経済政策、いわゆる「富国強兵」を推進した。彼はフランスの啓蒙思想家ヴォルテールとも親交があり、啓蒙専制主義を採用して「君主は国家第一の僕(しもべ)」と言ったが、その本質はプロイセンのユンカー階級を基盤とした封建制の上に絶大な権力を行使した専制君主である。ベルリンの郊外ポツダムの離宮に、ロココ風の代表的建築であるサンスーシ宮殿を建造した。
Epi. 父に反抗したフリードリヒ2世 父のフリードリヒ=ウィルヘルム1世は暴力的な国王であったが、その子フリードリヒは哲学を好み、フルートを演奏する穏やかな青年だった。若い頃、父の暴力に嫌気がさし、フランスに逃れようとしたが捕らえられ、同行した友人が目の前で処刑されるというショッキングな事件もあった。その事件後、諦観したのか、国王への道を歩み、1740年に即位した。戦争に明け暮れる一方、学問と芸術に励み、父の「兵隊王」に対し、「哲人王」と言われた。フルートでは作曲をするほど腕を上げた。また学問ではヴォルテールに自ら手紙を書いて教えを請い、論文『反マキアヴェリ論』を書いて献呈した。ヴォルテールはその書を、君主の書いた最良の書として絶賛したが、その中でフリードリヒはマキアヴェリの権謀術数を否定し、君主は人民に対する第一の僕にすぎない、と論じた。1750年には自らの宮廷のあるポツダムの郊外の無憂宮(サン=スーシー)にヴォルテールを招いている。その親交は親密であったが、ヴォルテールは次第に弟子としての謙虚さと国王としての尊大さを使い分けるフリードリヒに嫌気がさすようになり、二人は些細なことからけんか別れをしてしまい、ヴォルテールはパリに帰る。
b マリア=テレジア  → 2.オーストリア マリア=テレジア
c シュレジエン 現在のポーランドのオーデル川中・上流地域。14世紀以来ボヘミア王国領となり、1526年にハプスブルク家の所領となった。鉄・石炭の産地であり、18世紀当時、機業・鉱業がさかんで、ドイツでは唯一の工業が発達している地域であり、人口も100万に達していた。プロイセンのフリードリヒ2世は、自己の貧弱な国土に、この地を加えることを熱望し、わずかな口実でその併合を策した。オーストリア継承戦争の結果1740年にプロイセンに占領され、アーヘンの和約でオーストリアは割譲を認めた。その後、オーストリアのマリア=テレジアはシュレジェン奪還を目ざし、再びプロイセンとの七年戦争となったが、再び敗れ、シュレジェンはプロイセン領として承認された。その後、プロイセン王国から発展したドイツ帝国領とり、ドイツ人の移住が続いた。1919年、第1次世界大戦でドイツ帝国が敗れて解体したので、ヴェルサイユ条約によってシュレジェンはポーランド、チェコに分割されるが、第2次大戦でドイツが再併合、大戦後に全シュレジェンがポーランド領となり、ドイツ系住民は撤退して現在にいたっている。中心都市ブレスラウ(ポーランド名ヴロツワフ)。近くにモンゴル軍とポーランド軍が戦ったワールシュタット(リーグニッツ)がある。
d バイエルン公 ドイツ諸侯のひとつバイエルン選帝侯(バイエルンはバヴァリアともいい、ドイツ南部のミュンヘンを中心とした地方)。妻がハプスブルク家の出身(マリア=テレジアのいとこ)であったので、ハプスブルク家の相続権を主張した。
e フランス  
f イギリス  
アーヘンの和約 1748年、オーストリア継承戦争の講和条約。フランス・スペインとオーストリアなどの間でむすばれた。オーストリア軍がフランス軍に敗れたたため、オーストリアはマリア=テレジアの帝位継承を諸外国に認めさせた代わりに、プロイセンが占領していたシュレジェンを割譲した。
g 外交革命  → 外交革命
C 七年戦争 1756〜63年のプロイセンとオーストリアの対立を軸に、プロイセンはイギリスと、オーストリアはフランス、ロシアと結び、全ヨーロッパに広がった戦争。イギリスとフランスの植民地における戦争と結びつき、世界的な広がりを持つ戦争となった。結果はプロイセンとイギリスの勝利となり、ヨーロッパでのプロイセンと地位を向上させ、イギリスの植民地帝国としての繁栄がもたらされた。同時にこの戦争は絶対王政各国の財政を圧迫し、イギリスからのアメリカ植民地の独立、およびフランス革命という市民革命を準備したことで重要である。
経緯:オーストリア継承戦争で敗れ領土を失ったオーストリアのマリア=テレジアは、大胆な外交政策の変更でフランスと提携することに成功(外交革命)し、プロイセンを孤立させらた。それに対してプロイセンのフリードリヒ2世が、形勢の逆転をねらってオーストリア領に侵入し、戦争が開始された。プロイセン軍はプラハ、ロスバハ、ロイテンなどの戦闘で勝利したが、フランス軍の本格介入によって59年のクネルスドルフの戦いに敗れ、一時ベルリンを占領され、危機に陥った。しかしロシアで1762年に女帝エリザヴェータ(ピョートル大帝の娘)が急死し、フリードリヒ2世を崇拝していたピョートル3世が高帝となったために単独講和に応じ、並行して行われた英仏植民地戦争のフレンチ・インディアン戦争プラッシーの戦いでフランスが敗れた事などから、プロイセンは戦争を耐え抜いた。1763年のフベルトゥスベルクの和議でシュレジェンの領有をオーストリアに認めさせた。
影響:戦後は、プロイセンの国際的地位が向上し、イギリスの世界植民地帝国が成立したが、北米植民地への課税を強化したため反発が強くなり、アメリカ独立戦争が始まる。オーストリアはヨーゼフ2世の啓蒙専制主義による改革に向かい、フランスは国庫の窮迫が深刻になり、ついにフランス革命が勃発する。七年戦争はそれらの18世紀後半の激動の引き金となった戦争であった。
※プロイセンの勝利の要因 プロイセンはオーストリア・フランス・ロシアさらにスウェーデンを同時に敵に回して戦った。イギリスはプロイセン側についたが兵力は送らず財政援助にとどまった。まさに人口的には30対1の戦いで、当時の常識からして勝てるわけのない戦いである(兵隊の数はプロイセン20万、連合軍40万ぐらい。)事実フリードリッヒ大王は勝たなかった。主要な戦闘は16回あって、その半分は負けたのである。しかし、最終的な平和条約においてシュレージェンとグラーツを得ることができた。フリードリッヒ大王とプロイセン軍が30対1の戦争をやりとうせた理由は次である。
 1.国王が常に戦場における最高司令官であり、ユンカー階級が将校団として定着していた。
 2.制限戦争のキーポイントとして敵の補給路を断つ戦略を実施した。そのために行軍速度を速める工夫をした。
 3.厳格な軍律と徹底した練兵の伝統。
 4.大王の「工夫の才」。大砲や銃の性能を高める工夫を自ら行った。
<渡部昇一『ドイツ参謀本部』中公新書 p.23-24>
a イギリス  
b フランス  
c ロシア  
フベルトゥスベルク条約 1763年、七年戦争の講和条約として、プロイセンとオーストリアの間で締結された講和条約。フベルトゥスベルクはライプツィヒの近郊。内容は次の二点。
・シュレジェンはプロイセン領でることをオーストリアは再承認する。
・プロイセン王フリードリヒ2世は、オーストリアのヨーゼフ(マリア=テレジアの息子。当時はオーストリア大公)が将来神聖ローマ帝国皇帝に選出されるときはそれに協力することを約束。 
D 啓蒙専制主義 18世紀後半のヨーロッパの絶対王制国家の君主に見られた統治理論。特にプロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世の政治が典型的な啓蒙専制主義であり、ロシアのエカチェリーナ2世もそれに近いと言える。これらの君主を啓蒙専制君主という。18世紀のフランスに起こった啓蒙思想は、自然法や社会契約説に基づき、人権や平等の思想を生み出したが、啓蒙専制君主はそれらの思想を、「王権神授説」にかわる君主の統治に利用し、君主の統一的支配の理念に取り入れた。それによれば、君主も国家の一機関として国民に奉仕するものであるが、その高い見識によって専断することができ、立法、司法、行政の三権を分立させたとしても、それらはあくまで君主の権力を補うものにすぎないとされた。また、国民の自由と平等も実現されておらず、彼らのさまざまな権利が認められるとしても、あくまで君主からの恩寵として与えられているものとされた。また経済活動も国家が管理してその保護統制のもとに国内産業が保護される重商主義政策がとられた。
a フリードリヒ大王  → フリードリヒ2世
b 「君主は国家第一の僕」プロイセン国王フリードリヒ2世の言葉で、啓蒙専制主義の理念を端的に端的に言い表している。
c ヴォルテール  → ヴォルテール
d 啓蒙専制君主 啓蒙専制主義を国家統治理念とした君主たちで、18世紀後半のプロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世、ロシアのエカチェリーナ2世などをあげることができる。彼らはイギリス、フランスなどの先進地域に対抗することを意識し、国家の発展を産業や貿易の振興、軍事力の強化などによって図ろうとした。それに必要な技術を取り入れ、国家機構の一定の「上からの改革」によって近代化を図るため啓蒙思想に学び、旧来の王権神授説に代わる統治理念としようとしたのであった。
e 市民層  
f 君主  
g ユンカー  → ユンカー 
h 農奴  
2.オーストリア
a オーストリア  → オーストリア
b プラグマティッシェ=ザンクティオン 1713年、神聖ローマ皇帝カール6世が定めた帝位継承に関する勅令。ハプスブルク家領の不可分と、女子の相続権を定めたもので、後のマリア=テレジアの帝位継承の根拠となり、それに異議を唱えたプロイセンなどとの間にオーストリア継承戦争が起こる。
プラグマティッシェ=ザンクチオンとは「国事に関する勅令(皇帝の命令)」という意味であるが、一般的にはこの時に出された、皇帝位継承法を指している。内容はハプスブルク家の家領の不可分(分割できないこと)と女性の相続権を認めたもの。本来はハプスブルク家の家訓であったものを神聖ローマ帝国の国制として国際的な承認を得ようとしたのがねらいである。その理由は、カール6世の長男が若死にし、この年女子のマリア=テレジアが生まれたので、将来この子が皇帝を継承すること帝国内外に認めさせることにあった。オーストリア支配下にあったボヘミア、クロアチア、ハンガリーなどの議会は、一定の自治を認めることを条件に承認した。しかしやがて1740年にカール6世が死去すると、この規定に従ってマリア=テレジアが帝位を継承すると、それぞれ承認を撤回し、プロイセンのフリードリヒ2世などが異議を申し立て、オーストリア継承戦争となった。
A マリア=テレジア オーストリア=ハプスブルク家の女帝(在位1740〜80年)。父カール6世の定めた帝位継承法プラグマティッシェ=ザンクツィオン)によってハプスブルク家の家督を相続した。その相続に異議をはさんだプロイセン王フリードリヒ2世やバイエルン公の干渉によって、1740年、オーストリア継承戦争が勃発、プロイセン軍にシュレジェンを占領された。フランスもプロイセンを支持し、唯一フランスと対立していたイギリスがオーストリアを支援したが、経済的援助にとどまり、軍隊の派遣はなかった。窮地に立ったマリア=テレジアは乳飲み子(後のヨーゼフ2世)を抱いてハンガリーに逃れ、黒い喪服に身を包んでハンガリー貴族たちに抵抗を呼びかけた。その後困難な闘いを切り抜けたマリア=テレジアは、シュレジェンは失ったものの、オーストリア皇帝の地位を夫のトスカナ大公フランツが継承する(フランツ1世)ことを承認させて、1748年にアーヘンの和約で戦争を終わらせた。敗戦後、オーストリアの軍制、政治機構の改革に乗り出し、外交ではフランスのブルボン家と結ぶ外交革命を実現してプロイセンを孤立させることに成功し、再びプロイセンのフリードリヒ2世との七年戦争(1756〜63年)を戦った。しかしシュレジェン奪回は失敗し、1765年以降は息子のヨーゼフ2世との共同統治となりその政治を助け、オーストリア帝国を存続させた。フランスのルイ16世の王妃となったマリ=アントワネットはマリア=テレジアの娘である。
Epi. マリア=テレジアの捨て身の訴え オーストリア継承戦争ではフランスの軍事介入でマリア=テレジアは絶体絶命の窮地に立たされた。彼女が最後に望みを託したのはハンガリーの貴族であった。ハンガリー貴族はオーストリアの支配から脱する好機と考え、反オーストリア蜂起を企てるのではないかと危惧されていたが、彼女はあえて逆の行動をとった。41年9月、彼女は現在のブラチスラヴァで開会中のハンガリー議会に、乳飲み子を長男ヨーゼフ(次の皇帝)をかかえて劇的に登場し、誇り高いハンガリー貴族に涙ながら支援を訴えた。それに感動した議員から「我らが女王、王冠、祖国に血と命を」の叫びが起こり、6万の出兵その他の支援を取り付けたのである。彼女もハンガリー国法の遵守、貴族の免税特権、行政的自治の保証などを約束した。<『ドナウ・ヨーロッパ史』新版世界各国史 山川出版社>
a オーストリア継承戦争  → オーストリア継承戦争
b 「外交革命」 オーストリア継承戦争後に、マリア=テレジアのオーストリア・ハプスブルク家が、それまでの外交方針を一変させて、フランスのブルボン朝と同盟したこと。これによって、18世紀後半のヨーロッパ国際政治の対立軸は、イギリスVSフランス、プロイセンVSオーストリアという二重対立に集約され、イギリスとプロイセン、フランスとオーストリアが同盟するという構図になった。この外交革命を推進したのは、マリア=テレジアの信任の厚いカウニッツ伯という人物で、彼はオーストリア継承戦争後に駐フランス大使として赴任し、ルイ15世の宮廷で「無冠の女王」と言われていた王の愛妾ポンパドゥール夫人を動かし、オーストリアとの同盟に踏み切らせた。フランスはイタリア戦争以来のハプスブルク家との対立から、その弱体化を図るためにプロイセンと結んでいたが、プロイセンがこれ以上強力になることを恐れたのであろう。またオーストリアはそれまでイギリスと結んでいたが、イギリスはフランスとの植民地戦争を重視し、経済的援助のみで軍隊を送ることはなかったので不信感を強めていた。そのような事情を背景に、劇的なヨーロッパ国際政治の転換がはかられたのだった。外交革命によって大陸内で孤立したプロイセンのフリードリヒ2世は、形勢逆転をねらって再びオーストリアと開戦する。それが七年戦争である。
d 七年戦争  → 七年戦争
B ヨーゼフ2世 1765年から、母マリア=テレジアと共同統治を行ったオーストリア・神聖ローマ皇帝(在位1765〜90年)。二人ははじめはうまくいっていたが、ヨーゼフ2世が次第に啓蒙思想の影響を受け、改革路線を強めていくと、啓蒙主義を嫌ったマリア=テレジアとの意見の違いが目立ち始めた。ヨーゼフ2世は啓蒙専制主義をとり、フリードリヒ2世に倣った上からの近代化政策を推し進め、信仰の自由、農奴制の廃止とともに司法制度、警察制度などで中央集権化を図った。しかし、その画一的で性急な改革は、オーストリア支配下のハンガリーやベーメン、ベルギーなどで反発が強まり、成功しなった。オーストリアは多民族国家であり、また国土もバラバラであることがなによりもその統一支配を困難なものにしていた。
a ハプスブルク  
▲b 複合民族国家  
c チェック人  → 第6章 2節 チェック人
d マジャール人  → 第6章 1節 マジャール人
カ.バルト海の覇者
ロシア帝国の発展  → ロシア国家
A ピョートル1世 ロシアのロマノフ朝の繁栄を出現させた皇帝(在位1682〜1725年)。ピョートル大帝と言われる。96年から単独統治を行い、97〜98年、皇帝でありながらヨーロッパ各国の視察を自ら行う。その旅行で刺激を受けて積極的な西欧化政策を推進、西欧の技術者を多数招聘し、産業の近代化を行った。南方ではオスマン帝国からアゾフを獲得、北方ではバルト海の覇権をめぐってスウェーデンとの北方戦争を戦い、一時は敗北を喫したがそれを機に軍備を整え、ポルタヴァの戦いに勝利してバルト海の覇者となった。バルト海沿岸に面して新都のペテルスブルクを建設した。また東方ではシベリア進出を推し進め、清の康煕帝との間でネルチンスク条約を締結した。またベーリングを派遣してカムチャッカ、アラスカ方面を探検させた。軍備では特に海軍の育成に努め、ペテルブルクの近くのクロンシュタット要塞を拠点にバルチック艦隊を創設した。
Epi. ピョートルのヨーロッパ歴訪 1697年、ロシアの西ヨーロッパ諸国への大使節団が編成された。ピョートルは「ピョートル=ミハイロフ」という変名で、一随員として加わった。まずプロイセンのケーニヒスベルクで砲術を習った。オランダにはいるとピョートルは単独行動をとり、造船所で一職工として働きハンマーをふるって造船技術を習得した。4ヶ月にわたるオランダ滞在で造船所に日参したほか、博物館、病院、裁判所を見学し、ライデン大学では解剖学の講義を聴いた。更に造船学を学ぶためイギリスに渡り、ウィリアム3世に歓迎され、造船所で技師見習いとして働き、砲弾工場なども見学した。このピョートルのプロイセン、オランダ、イギリス歴訪は、ロシアの西欧化政策の契機となり、また北方戦争を勝ち抜く力となった。<大野真弓編『世界の歴史』8 1961 中央公論社 などによる>
a ロマノフ朝  → 第9章 4節 ロマノフ朝
b 西欧化政策 17世紀はじめ(1613年)に成立したロシア・ロマノフ朝は、スウェーデン王国、ポーランド王国に圧迫され、東ヨーロッパでは弱小勢力にすぎなかった。国内には依然として農奴制を基盤とした有力貴族が存在し、産業も未熟であり、近代的な軍隊の創設が急がれていた。そこでロマノフ朝のツァーリは、西ヨーロッパ諸国に習った国家の創出をめざし、制度・産業の西欧化を進めた。特に急速に進めたのがピョートル1世(大帝)であった。ピョートル1世の時代に、産業・軍事・税制・官僚制などで特にプロイセンを手本とした改革が行われた。しかし、社会の根幹にある農奴制には基本的には手をつけず、「上からの改革」にとどまり、「ロシアの後進性」をぬぐい去ることはできなかった。
Epi. ピョートル、貴族の髭を切る ピョートルは外遊から帰国すると、その服装も西欧風に改めた。そして挨拶にきた貴族を捕まえては、そばに控えたこびとに羊毛用のハサミを持たせ、あごひげをちょん切ってしまった。ロシアの貴族は昔からあごひげを蓄えるのが習慣であったが、ピョートルは「新しいロシア」にはそぐわないと、貴族たちのあごひげを切ってしまったのである。右の絵は当時のピョートルの命令で貴族の髭を切るこびとを描いたもの。
c ネルチンスク条約  → 第8章 2節 ネルチンスク条約
d 康煕帝  → 第8章 2節 康煕帝
▲e ベーリング ピョートル大帝がベーリングにシベリア奥地の探検を命じたのは、科学者ライプニッツとの約束があったからであった。ライプニッツは1713年、ピルモントでピョートル1世と生活を共にし、アジア大陸とアメリカ大陸がつながっているのかどうかの疑問を解決できるのは皇帝をおいていない、と進言してた。その約束を思い出したピョートル大帝は、死の3週間前にシベリア奥地探検を命じる署名をした。隊長に選ばれたベーリングはデンマーク生まれで海員となりインド航海などで名を挙げ、皇帝によってロシア海軍に採用されていた。1725年2月ペテルブルグを出発、3年以上の日時をかけてニジネ・カムチャッカに着き、そこで探検船聖ガブリール号を建造し、1728年8月15日に北緯67度18分に達し船首を南に転じた。ベーリングはこれで海峡の存在は明らかになったと考えたが、アメリカ大陸を確認することなく帰路に着き、1730年3月1日にペテルブルグに帰還した。1741年、再びカムチャッカ探検を行ったベーリングの一隊がアメリカ大陸の一部に到達したが、ベーリングは近くの無人島で死んだ。<加藤九祚『シベリアに憑かれた人々』岩波新書P.31-52>
 アラスカ 1741年、ロシアのベーリングがベーリング海峡を渡って到達し、ロシア領となった。 → アメリカによるアラスカ買収
f オスマン帝国(ロシアの侵出)17世紀末〜18世紀初めのピョートル大帝以来、ロシアはバルカン半島および黒海方面への侵出を試み、オスマン帝国の領土を侵犯し始めた。この動きは19世紀以降さらに激しくなるロシアの南下政策の始まりであり、さらに東方問題につながっていく。
ロシアとオスマン帝国(トルコ)の戦争は、広い意味のロシア=トルコ戦争と言われるが、それは18〜19世紀に数次にわたって展開されている。1696年のピョートル大帝がアゾフを占領して起こした戦争(1769年に終結)、次いで1768年にエカチェリーナ2世が仕掛け、1774年のキュチュク=カイナルジャ条約で両海峡の航行権などを獲得した戦争によって足場をかためた。その後19世紀に入り、クリミア戦争(1853〜56)ではロシアは敗北し、さらに露土戦争(狭い意味のロシア=トルコ戦争、1877〜78年)でオスマン帝国を破ったが、ヨーロッパ各国の介入を招き、ベルリン会議で後退を余儀なくされた。
g 北方戦争 1700年〜1721年、当時の新興国ロシアのピョートル大帝が、ヨーロッパの大国スウェーデンが支配するバルト海方面に進出を企て起こした戦争。ロシアは苦戦の末、バルト海進出を果たし、18世紀の大国化の第一歩となった。
17世紀のスウェーデンは三十年戦争に介入し、ウェストファリア条約で北ドイツなどにも領土を得て、バルト海全域を支配するヨーロッパ有数の大国となっていた。ロシアのピョートル1世はバルト海への出口を求めてスウェーデンの支配するバルト海一帯に軍を進めたが、1700年のナルヴァの戦いで当時18歳の青年国王カール12世に率いられたスウェーデン軍に大敗する。ピョートル1世は壊滅した軍隊の再建に取りかかり、ロシアで最初に徴兵制度をしき、17万の常備軍を編成した。教会や修道院の鐘を集めて大砲を鋳造し、軍備を強化した。その上で9年後に再びスウェーデンに挑戦、1709年のポルタヴァの戦いで大勝利を得た。ピョートルは軍帽と靴を銃弾に射抜かれたが、一命を取りとめ、一方のカール12世は重傷を負い、トルコにのがれた。このポルタヴァの戦いは、強国スウェーデンの没落、新興国ロシアの台頭をもたらし、「ヨーロッパの転機」となった、と言われている。ポルタヴァの勝利によってヨーロッパへの道を開いたロシアは、バルト海に面してペテルブルクを建設し、新都とした。1721年、ニスタットの和約で講和した。
ニスタットの和約 1721年に締結された、ロシアとスウェーデンの北方戦争の講和条約。ニスタットは講和会議の開催されたフィンランドの地名。ロシアはリガを含みリヴォニア、エストニア、イングリア、カレリアの一部などバルト海沿岸の地域を獲得。スウェーデンはロシアに占拠されていたフィンランドを回復したが、賠償金の支払いの義務を負った。両国は商業の自由を約したが、ロシアは念願のバルト海進出を果たし、スウェーデンはその覇権を失った。ロシアの発展にとって重要な転機となる条約であった。
h カール12世 スウェーデンは17世紀を通じ、カール10世、カール11世と有能な君主が続き、宿敵デンマークとの戦争を有利に進めて領土を拡大、現在のスカンジナビア半島の大部分と、フィンランド、エストニア、ラトヴィアを領有し、「バルト帝国」と言われた。カール12世が王位を継承(在位1697〜1718年)したが、新王はわずか15歳、その機に乗じてロシアのピョートル1世がバルト海進出をもくろみ1700年、北方戦争が勃発した。当初のナルヴァの戦いでは勝利したが、態勢を立て直したロシア軍との1709年のポルタヴァの戦いに敗れ、スウェーデンは敗退し、バルト帝国は崩壊した。
Epi. 「戦乱の国王」スウェーデン王カール12世 カール12世は、結果的にスウェーデンを破滅に追いやったが、寡黙で性格が激しく、銃撃戦の音を「これぞわが音楽」と言い、その生涯を通じて戦陣から戦陣を生きた信念の人であった。18歳の国王としてナルヴァでロシアの大軍を迎え撃ち、わずか1万の兵力でロシア軍3万5千を粉砕した。戦史では少数の軍が大軍を破った数少ない例とされる。カールの軍は一気にロシア軍を追撃したが、ピョートルは後退策をとり(後のナポレオン戦争と同じ)、カールもモスクワ直撃をせずに迂回したため決定的な勝利には至らなかった。1709年、ポルタヴァの戦いでは、前回の敗北にこりたピョートルのロシア軍は火砲中心の装備に切り替え、カール自身も足に負傷したため敗北した。カールは南方に逃れ、オスマン帝国のスルタンの賓客となった。オスマン帝国はロシアの南下を阻止するためスウェーデンと結ぼうとしたのである。5年間トルコに滞在したカールは、トルコ軍を動かし一時ピョートル軍の包囲したが、ピョートルは大金をトルコに贈りその危機を脱した。意を決したカールは1714年冬、従者一人をつれて騎馬でヨーロッパを縦断、14日間かかってスウェーデンに帰った。再起をかけてノルウェーをデンマークから奪おうとしたカールは1718年、戦況視察中に頭部を打ち抜かれ戦死した。味方から撃たれたのではないかという説が根強かったので、1960年代に遺体を掘り出して調査したところ、前方わずか20mから撃たれたものであることが判明したという。現在ストックホルムのオペラ座裏の公園にあるカール12世の銅像は右手を遠くロシアの空を指している。<武田龍夫『物語北欧の歴史』1993 中公新書 p.61〜>
i バルト海  
j ペテルブルク 正式名称はサンクト=ペテルブルク。「聖なるペテロが守りたもう町」の意味。ロシア・ロマノフ朝のピョートル1世が、強敵スウェーデンとの北方戦争に際し、バルト海に進出して、西ヨーロッパへの窓口とするために1703年から建設を開始し、1712年にモスクワから遷都してロシアの「ヨーロッパへの窓」となった。それ以後、ロシア革命がおこり1918年に首都がモスクワに移されるまで、ロシア帝国の都として繁栄した。市の中心には宮廷の置かれた「冬宮」(エルミタージュ。エカチェリーナ2世が収集したヨーロッパ絵画を収蔵するために建設した離宮。エルミタージュとはフランス語で「隠れ家」の意味)など歴史的建造物が多い。その南方に夏の離宮ツァールスコエ・セローがあった。またペテルブルクの面したクロンシュタット湾内の島に、要塞を設け、それが後のバルチック艦隊の基地となった。
この都市は、政治情勢によって何度も都市名を変更している。1914年、第1次世界大戦が起こると、・・・ブルクというドイツ風の名前をきらい、ペトログラードと改称された。ロシア革命ではその中心地となったので、1924年、レーニンの死後、その名前を冠してレニングラードとなった。ソ連の崩壊後、1991年にもとのサンクト=ペテルブルク(通称ペテルブルク)に戻された。
B エカチェリーナ2世 ロシア・ロマノフ朝の女帝(在位1762〜96年)。ドイツ生まれで、ピョートル3世の皇后となり、近衛連隊のクーデタによって女帝となった。当時西ヨーロッパはアメリカの独立戦争(1780年、武装中立同盟を提唱してアメリカを助けた)、フランス革命、イギリスの産業革命が展開した時期で、ヨーロッパの東の端に位置するロシアでも近代化を急がなければならない状況であった。しかし、革命の勃発は避けねばならず、エカチェリーナはもっぱら上からの改革、つまり啓蒙専制君主としての改革を進めることとなった。まず各身分の代表を召集して新法典編纂委員会を設立して「訓令」を発し、国家機構の整備に努めた。また、ロシア−トルコ戦争、ポーランド分割によって領土の拡張を図った。1773年にはフランスから啓蒙思想家ディドロを招いたが、その年に、プガチョフの大農民反乱が勃発している。それを鎮圧してからはエカチェリーナ2世の政策はさらに反動的になる。また日本人漂流民大黒屋光太夫を送還するため1792年にラクスマンを根室に派遣、江戸幕府に開国を迫った。
Epi. クーデタで夫を追放して皇帝となったエカチェリーナ エカチェリーナ2世には詳細な『回顧録』がある。ソ連解体後の情報公開でその全文が明らかになったが、そこには夫ピョートル3世との不幸な結婚生活や、自ら皇帝となった経緯など、詳しく書かれている。彼女との仲が悪かったピョートル3世は、かんしゃく持ちで病弱、危機的な財政状態をかかえるロシアの皇帝としてはその統治能力にも疑問を持たれていた。1762年、公開の席上でピョートル3世から「バカ」呼ばわりされたエカチェリーナはクーデタを決意し、反ピョートル派の貴族と近衛部隊と結んで皇帝即位を宣言、ピョートルに退位を迫った。臆病なピョートルは泣く泣く同意し、退位した。白馬にまたがりロシアの近衛連隊の制服に身を包み軍の先頭に立ったエカチェリーナ2世は、「ドイツ女」というハンディにもかかわらず、国民の支持を受け、また皇帝としても国家財政の再建に努め、「大帝」と言われるようになった。退位したピョートルは数日後に亡くなったが、エカチェリーナの謀殺の噂が絶えなかった。<小野理子『女帝のロシア』1994 岩波新書による。>
a プガチョフの農民反乱 1773年、エカチェリーナ2世統治下のロシアで起こった大農民反乱。農奴制の強化、重税などのロマノフ朝絶対王政に対する農民反乱であった。その指導者プガチョフは、生きている「ピョートル3世」(エカチェリーナ2世によって廃され、直後に死亡したとされている)であると自称し、エカチェリーナ2世を帝位簒奪者として非難した。彼はドン・コサックであったので、呼びかけに応じて各地のコサックが蜂起、さらに帝国内のロシア人以外の民族や工場労働者まで支持を広げ、大反乱となった。1774年、オレンブルクで政府軍はプガチョフ軍に打撃を与え、プガチョフは捕らえられ、75年処刑された。
なお、このプガチョフの反乱を題材とした小説が、プーシキンの『大尉の娘』(1836)である。
b 農奴制  → 第9章 4節 農奴制(ロシア)
c クリミア半島 黒海に突き出た半島で、18世紀を通じ、ロシアとオスマン帝国の争奪の対象となった。15世紀にキプチャク=ハン国の分国のクリム=ハン国が成立し、その後同じイスラーム教国のオスマン帝国の保護下に入った。しかし、エカチェリーナ2世の時にロシアはオスマン帝国と戦い、1774年にキュチュク=カイナルジャ条約でクリム=ハン国の保護権を獲得した。1783年にはクリム=ハン国はロシアによって滅ぼされ、クリミア半島はロシア領となった。さらに1853年にクリミア戦争が勃発、この地のロシアのセヴァストポリ要塞の攻防を主戦場としてロシアとトルコ、イギリス、フランスなどの諸国との間の激戦となった。現在はウクライナ共和国に属する。ヤルタ会談が開催された保養地として有名なヤルタはクリミア半島の先端にある。
 クリム=ハン国  
d ラクスマン 日本の漂流民である大黒屋光太夫を保護し、ペテルブルクまで同道してその帰国に尽力したキリル=ラクスマンの次男で海軍の軍人。1792年、エカチェリーナ2世の命を受け大黒屋光太夫らを伴って根室に行き、江戸幕府に交易を申し入れた。松前で幕府代表と交渉したが、時の老中松平定信は、鎖国を理由に交渉を拒否、長崎であれば交渉は可能であると回答、ラクスマンは目的を達することができず帰国した。江戸幕府に対する欧米諸国による開国要求の最初のものであった。その後ロシアは、この時の約束に基づき、1804年使節レザノフを長崎に派遣、開国を要求したが幕府はそれを撃退、報復のためロシア艦隊が樺太、択促を襲撃するという事件が起こった。
大黒屋光太夫 伊勢出身の日本人漁民で、嵐にあって太平洋を漂流し、千島列島に漂着、ロシア人に救助されて1791年にペテルブルクに連行され、ロマノフ朝のエカチェリーナ2世に謁見した。エカチェリーナ2世は、日本に興味を持ち、翌年、ラクスマンに命じて大黒屋光太夫を送り届け、あわせて江戸幕府に開国を要求した。
Epi. エカチェリーナ2世に謁見した日本人 江戸時代の日本人で太平洋を漂流し、アリューシャン列島に漂着してロシア人に救助され、ペテルスブルクまで行って時のロシア皇帝エカチェリーナ2世に謁見した日本人がいる。伊勢(三重県)出身の船頭大黒屋光太夫である。彼らは1782年12月、伊勢白子港から江戸に向けての物資を運ぶ神昌丸で船出したが、遠州沖で嵐に遭い、漂流したのである。アムチトカ島に漂着した後、ロシア人に伴われてシベリアを横断し、9年後の1791年にペテルブルクにたどりつく。白子港を出たときの乗組員は全部で17人と猫が1匹であったが、途中壊血病で死んだり、イスクーツクでロシアに帰化したりして、ペテルブルクに着いたのは船頭の大黒屋光太夫と船乗磯吉の二人だけになっていた。二人をペテルブルクに連れてきたのはキリル=ラクスマンで、この二人を日本に帰すことで鎖国中の日本と交易の機会を作ることをエカチェリーナに進言しようとして二人を連れてきたのである。光太夫と親しく接見したエカチェリーナ(その時62歳)、鄭重に彼を扱い、帰国を認めた。光太夫たちはアダム=ラクスマン(キリルの子供)と同道して日本に戻ることになった。これがラクスマンの日本来航の理由である。ラクスマンといっしょに日本に戻った光太夫と磯吉は1793年に江戸に入り、将軍徳川家斉に謁見、その体験を報告した。その報告を聞き出し、記録したのが桂川周甫の『北槎聞略』である。二人は江戸に屋敷を与えられたが、日露の交易の開始には役立つことができなかった。<山下恒夫『大黒屋光太夫』−帝政ロシア漂流の物語− 2004 岩波新書>
※なおこの大黒屋光太夫を主人公にした小説が、井上靖『オロシア国酔夢譚』や吉村昭『大黒屋光太夫』である。 
e ポーランド分割  → ポーランド分割
キ.ポーランド分割
a ポーランド  → 第6章 2節 ウ.スラブ人と周辺諸民族の自立 ポーランド
b ヤゲウォ朝  → 第6章 2節 ウ.スラブ人と周辺諸民族の自立 ヤゲウォ朝
c 選挙王制 ポーランド王国(ポーランド=リトアニア連合王国を継承したもので、現在のポーランドよりも東のリトアニアやベラルーシ、ウクライナの一部を含む広大な領土をもっていた)では、1572年にヤゲウォ朝の王位継承者が無く断絶してから、領主階級(貴族)や小貴族などの支配層(シュラフタという)が構成する議会で国王を選挙するという選挙王制が行われた。選挙は有力貴族の争い、外国の介入を招くことになり、ポーランド国家滅亡の一因となった。シュラフタによって構成される議会は一種の身分制議会であり、この議会で国王が選出される体制をシュラフタ民主制という場合もある。王はハプスブルク家と対抗する必要から、フランスのヴァロア家やスェーデンの王家から出身者が選出された。選挙王制時代の17〜18世紀は、大国であったポーランドが急速に衰退した時期であり、18世紀末にはポーランド分割による国家消滅を迎えることとなる。
ポーランドの「大洪水」:1648年、ポーランド王国に属するウクライナでコサックが反乱を起こした。彼らはかつて、モンゴルの侵入などと戦った草原の騎馬軍団の子孫であったが、ロシア人と同じくギリシア正教会の信仰を持っていたので、カトリックの多いポーランド帰属の支配には反感を持っていた。そこでコサックはウクライナの自治を求めて反乱を起こし、ロシアの支援を仰いだ。1654年、ロシアが援軍を送ると、翌年スウェーデンも北方から侵入、ポーランドは「大洪水」といわれる、スウェーデン軍とロシア軍の侵略を受けて、滅亡の危機に立たされた。1660年に講和となったが、ポーランドの国土の荒廃が進み、中小のシュラフタも没落、少数の貴族の支配する状態となった。この「大洪水」がポーランド衰退のきっかけとなった。
17世紀後半には、オスマン帝国のウィーン包囲の際、ポーランド王ヤン3世(久しぶりにポーランド人で王に選出された)は3万の軍勢を率いてウィーンを救出し、キリスト教世界の賞賛を受け、王の死後のカルロヴィッツ条約ではオスマン帝国から右岸ウクライナを奪回した。
シュラフタ ポーランド語で「貴族」の意味。ほぼ人口の10%を占める支配者階級。1572年以降の選挙王制では、シュラフタが国王選挙の選挙権など、多くの権限を持ち、議員は「自由拒否権」の特権を認められていた。自由拒否権とは議員が一人でも拒否権を発動すると決議できないというもので、多数決で決定することができないこととなった。ポーランドの議会制度はヨーロッパの中でも古い伝統を持つが、このような特殊なルールのため、次第に形骸化し、国家の分割を受け入れざるを得なくなったといわれる。
d ポーランド分割 18世紀末、ポーランドが隣接するロシア、プロイセン、オーストリアによって分割され、国家を消滅させたこと。
ポーランド王国の衰退:ポーランド王国では選挙王制が続いていたが、1700年に始まった北方戦争はロシアとスウェーデンが主たる対立国であったが、ポーランドもロシアと結んで戦った。開戦当初、ロシアが敗北するとスウェーデン軍がポーランドに侵入、親ロシアのポーランド国王は追放され、親スウェーデンの国王が即位した。それ以後、国内ではシュラフタが議会で自由拒否権を行使した権力争いに終始し、また国王の選出をめぐっては周辺のロシア、プロイセン、オーストリア、フランスなどの有力国の介入を受け(ポーランド継承戦争と言われる)、国家の統一の維持が次第に困難となっていった。このようにポーランド王国政府自体が当事者能力を失っていき、周辺の絶対王政を強化した諸国の餌食とされてしまった。
分割の経緯:ポーランド国王スタヌスワフ王は議会での自由拒否権の制限や軍事、財政の改革などを図ったが、エカチェリーナ2世はプロイセンのフリードリヒ2世とともにポーランドに介入した。その口実はポーランドにおいてカトリック教徒以外のギリシア正教徒とプロテスタントにも政治的平等を認めよというものであった。
弱体化したポーランドに対し、まず、ロシアのエカチェリーナ2世がその全土の保護領かを狙った。それを恐れたプロイセンのフリードリヒ2世が、オーストリアのヨーゼフ2世(実権はマリア=テレジア)をさそい、1772年に第1回の分割をポーランドに認めさせた。第1回分割はポーランド国内に深刻な危機感を呼び起こし、国王による改革が行われ、憲法も制定された。しかし、ロシアのエカチェリーナ2世は、フランス革命が進行して西欧諸国が忙殺されている間に残りのポーランドの領有を狙い、プロイセンのフリードリヒ=ウィルヘルム2世とともに、1793年に第2回分割をポーランドに迫り、承認させた。第1回対仏大同盟に加わっていたプロイセンとオーストリアのうち、オーストリアはフランス革命軍に敗れたため、ポーランドには関与できなかった。この第2回分割に対して、翌年、ポーランドのコシューシコは農民を組織して蜂起し、ロシア軍と戦ったが敗れ、1795年に第3回分割が、ロシア、プロイセン、オーストリアの3国によって行われて、ポーランドは国家としては地図上から消滅する。
A 第1回分割 1772年、まずロシア(エカチェリーナ2世)とプロイセン(フリードリヒ2世)との間で条約が締結され、オーストリア(ヨーゼフ2世)がそれに加わった。三国から領土分割を迫られたポーランド議会は、若干の反対はあったが、翌年領土割譲を承認した。プロイセンは「王領プロイセン」(1466年ドイツ騎士団がポーランドに譲った土地)を領有(中心都市グダニスクは除く)、ロシアはリヴォニアとベラルーシの一部を、オーストリアはガリツィア地方の一部をそれぞれ獲得した。これによってポーランドは領土の30%と、人口の35%を失った。
a プロイセン(フリードリヒ2世)  → フリードリヒ2世
b オーストリア(ヨーゼフ2世)  → ヨーゼフ2世
c ロシア(エカチェリーナ2世)  → エカチェリーナ2世
B 第2回分割 第1回ポーランド分割の後、ポーランド王国では危機感を強め、国政改革を行い、国家の独立を維持しようと言う努力がなされた。1791年には「5月3日憲法」が制定され、シュラフタによる国王選挙と自由拒否権は廃止され、立憲君主制・三権分立・義務兵役制などが定められた。この憲法は、アメリカ憲法に次ぐ早い時期の近代的憲法であった。また、ポーランドの身分制議会の悪弊であった「自由拒否権」を否定して、多数決で議決できるとした。また王位も不安定な選挙王制をやめ、ザクセン家の世襲とされた。さらに土地を持たぬシュラフタは議席を失い、代わりに都市代表が加わった。しかし、この憲法は1年しか持たなかった。ロシアのエカチェリーナ2世は、新憲法をフランス革命の悪影響であるから排除するとして軍隊を送り、ポーランド軍を破った。それに対抗したプロイセンも西方から侵攻しポーランド軍を破った。こうして1793年、ロシア軍の監視下の議会は、ロシアとプロイセンへの領土割譲を承認した。ポーランドはロシアにベラルーシ東半とウクライナの大部分を、プロイセンにポーゼンとダンツィヒ(グダニスク)を譲った。この第2回分割でポーランドは事実上国家機能を失った。国家消滅の危機に対して、翌1794年、コシューシコらが蜂起したが、期待したフランスの救援が無く鎮圧された。
a フランス革命  
b コシューシコ コシチューシコがより原音に近い表記。ロシア、プロイセン、オーストリアによる分割に抵抗したポーランドの英雄。ワルシャワとパリの士官学校を卒業した軍人で、アメリカに渡り、独立戦争に参加。1784年に帰国して、1792年の第2回ポーランド分割でロシア軍と戦う。降服に反対して除隊し、1794年に農民を組織して立ち上がった。これをコシューシコ蜂起という。ロシア軍との緒戦に勝利したコシューシコは農民の自由を宣言、さらに勝利を重ね、第2回分割前のポーランドをほぼ回復し、ワルシャワに臨時政府をたてた。しかし、フランスの支援が得られず、国内でもシュラフタ層が農奴解放への不満から協力しないようになり、6月にプロイセン軍にクラクフを奪われ、8月にはロシア軍にヴィルノを奪われ、10月の戦闘ではみずからも負傷して捕虜となってしまい、11月にはワルシャワがロシア軍に占領され、蜂起は鎮圧された。翌1795年に三国による第3回分割が行われ、ポーランドは完全に消滅する。コシューシコは1796年に釈放されてからパリに移住、ポーランドの再興をめざしながら果たすことができず没した(1817年)。
C 第3回分割 1795年、コシューシコ蜂起が鎮圧された後、プロイセン・オーストリア・ロシアでポーランド分割を確認し、ポーランドは完全に滅亡した。その後、ナポレオンによるワルシャワ大公国の建国、ナポレオン没落後はロシアの実質支配の下におかれたポーランド立憲王国の時代を経て、ポーランドが独立を回復するのは、123年後の第1次世界大戦後の1918年のことである。
a ポーランド滅亡  → ワルシャワ大公国  ポーランド立憲王国  ポーランド独立