用語データベース 03_3 用語データベースだけのウィンドウを開くことができます。 印刷しますがページ数が多いので時間がかかります。
3.東アジア諸地域の自立化
ア.東アジアの勢力交替
a 契丹  → イ.北方の諸勢力 契丹
b 高麗 新羅に代わって起こった朝鮮の王朝。高句麗の再興という意識から高麗という国号となった。918年、開城を根拠地に、王建が建国し、935年には新羅、936年に後百済を滅ぼして朝鮮半島を統一した。国家機構は宋にならい、中央に三省六官制、地方に郡県制をしいた。官僚制を整備する中で、文武の特権階級が形成され、文班と武班の両班といわれる貴族階級が形成された。この両班制は次の李氏の支配する朝鮮王国にも継承される。高麗は中国の五代〜宋に朝貢しながら、契丹(遼)・女真(金)から国土を守り、独立を維持し、11〜12世紀の安定した時期を迎えたが、12世紀末には武人である崔氏政権が成立した。13世紀にはいるとモンゴルの侵攻を受けるようになり、1231年には開城を明け渡し、江華島に逃れて抵抗した。フビライは高麗に対する懐柔策をとり、高麗は都を開城に戻してその従属国となることに合意した。フビライは日本遠征(元寇)の兵力を高麗に依存したため、高麗はその負担が大きかった。14世紀には倭寇の被害を受けて衰え、1392年に倭寇撃退に功績のあった李成桂が高麗を倒し朝鮮を建国する。高麗は、中国から儒教、仏教を学び、特に仏教では高麗版大蔵経が刊行されるなど国家的な保護が行われた。また高麗青磁や金属活字の発明など独自の文化を生み出した。現在、朝鮮のことを英語で Korea というのは、高麗(コリョ)から来ている。高麗は世界に知られた国家だった。
王建 新羅末期の地方政権の部将から身を起こして、918年に高麗を建国、開城を都とした。新羅を滅ぼし、936年に朝鮮半島を統一した、高麗の太祖。仏教を保護し、西京(現在のピョンヤン)を開いて北西部にも進出し、高麗繁栄の基礎を築いた。在位943年まで。 
開城 高麗の首都。開京ともいう。現在の朝鮮民主主義人民共和国の開城(ケソン)で、停戦ライン近くの重要な都市である。
c 大理 中国南部の雲南省にあった南詔が滅亡(902年)した後、タイ人の部将が挙兵して937年に建国した。その後、300年にわたって存続し、1253年、モンゴルの南・西アジア遠征のフビライ軍によって征服され滅ぼされた。
d 大越国  → 第2章 2節 イ.東南アジア世界の形成 大越国
遣唐使の廃止 遣唐使は、630年から894年の約250年間に19回任命され、そのうち15回実施され、そのもたらす情報は奈良時代から平安時代の初期に、日本の政治・社会・文化に対する大きな刺激となった。その間、日本は漢文化を受容して貴族文化を形成した。しかし、9世紀の後半になると、黄巣の乱が起きて唐は衰退、日本の律令政府にとっても遣唐使の派遣は負担となってきた。そこで宇多天皇の時、遣唐使に任命された菅原道真が遣唐使の廃止を建言し、その結果、廃止されることとなった。
e 国風文化 894年、菅原道真の建言で遣唐使が廃止され、日本の唐文化の受容の時代は終わり、10〜11世紀にかけて、日本独自の文化の形成が進んだ。とくに仮名文字がつくられ、文学でも漢詩・漢文より和文で記された随筆や物語が生まれた。その代表作が『枕草子』や『源氏物語』である。また建築でも寝殿造などの貴族の邸宅に独自の造形美が見られるようになり、仏像彫刻でも藤原時代の独自の日本風な作風の発達があった。この間、政治の実権は天皇から藤原氏の摂関家に移り、摂関政治が展開された。
平将門の乱 平将門は939年に関東地方で反乱を起こし、常陸・上野・下野の国府を占領、関東一円を支配して新皇を名乗った。同じ頃、瀬戸内海で起こった藤原純友の乱とともに、「承平・天慶の乱」とも言われる。940年、朝廷の派遣した藤原秀郷に平定されたが、これ以後関東には土着の武士団が成長し、封建社会への形成が進む。10世紀の日本に起こったこの内乱は、唐滅亡後の東アジア全体の変動のなかでとらえる必要がある。11世紀の摂関政治から院政の時期をへて武士階級は成長し、1156年の保元・平治の乱で平氏政権(1167〜80年)が成立、次いで源氏と平氏の争いである治承・寿永の内乱(1180〜85年)の結果、鎌倉幕府が成立することとなる。
f 鎌倉幕府 平氏政権を倒した源頼朝が開設した。1180年より侍所・公文所・問注所の幕府機能を設け、1185年には守護・地頭を各地において全国支配の体制を作り、1192年に征夷大将軍に任命された。その後、鎌倉幕府は日本最初の武家政権として、主として東国を基盤に、将軍と御家人の封建的主従関係を軸とした支配体制を作り上げ、1333年の滅亡まで続く。将軍の支配権力はまもなく名目化し、有力御家人の北条氏による執権政治が行われる。1274年の文永の役と、1281年の弘安の役という2度にわたる元寇を撃退したが、御家人間の対立とその没落(御家人の基盤である荘園が貨幣経済の浸透によって崩壊)などによって幕府の支配権力は動揺し、1333年、足利尊氏が幕府を滅ぼし、後醍醐天皇による建武の新政が始まる。
鎌倉時代には南宋との日宋貿易が活発でり、また禅宗の僧侶の往来が幕府の保護のもとに行われた。元寇後は、国交は途絶えたが、民間の貿易は継続し、また仏僧の往来も続いた。
日宋貿易 遣唐使廃止後も、九州沿岸の商人たちによる私貿易は続いていた。宋が中国の統一を回復すると、民間の交易はさらに増加し、宋からは大量の宋銭が輸入されるようになった。12世紀の南宋では日宋貿易はさらに盛んになった。1167年太政大臣となって権力を握った平清盛は、大輪田泊(現在の神戸)を築き、積極的に日宋貿易を行い、鎌倉幕府もその政策を継承した。宋からは宋銭の他、陶磁器・書籍・茶などが輸入され、唐物といわえて珍重された。日本からは砂金、硫黄、刀剣、漆器などが輸出された。また、宋との交流のなかで多くの仏僧、画家などが渡航し、新しい仏教や芸術をもたらした。
宋学 → 宋学(朱子学) 南宋の朱熹が大成した宋代の儒学の朱子学を宋学とも言った。鎌倉時代に宋に渡った禅僧によって伝えられ、鎌倉の五山僧によって研究が進んだ。
鎌倉仏教 日本の仏教の歴史のなかで、飛鳥・奈良時代からの南都仏教、平安時代の空海・最澄らの平安仏教に対し、鎌倉時代に一斉に起こった革新的な新仏教を総称して鎌倉仏教という。従来の貴族を対象とした経典の研究や鎮護国家の思想に対し、より個人の悟りや、社会の救済を目指し、また武士階級や庶民の成長という社会変動に対応した新しい仏教であった。鎌倉仏教には、念仏を第一とする浄土教系の浄土宗(法然が開祖)、浄土真宗(開祖は親鸞)、法華経を根本に掲げる日蓮宗などに加え、当時の宋から伝えられた禅宗系の臨済宗と曹洞宗がある。臨済宗を伝えた栄西は1168、1187年の2度渡宋し、曹洞宗を伝えた道元は1223年から27年まで宋に滞在している。そのほかに、幕府が招いた宋の禅僧に、蘭溪道隆(建長寺の創建)、無学祖元(円覚寺の創建)らがいる。 
g 宋  → 宋の統一
h 広州  → 第3章 2節 広州
i 泉州  → 第4章 3節 元 泉州
j 明州 浙江省の港市として宋代にさらに、元、明時代も南海貿易で栄えた。明代以降は、寧波(ニンポー)と言われ、日本からの貿易船(勘合貿易)が寄港し、日本の商館も置かれた。1523年に起こった寧波の乱は、室町時代の日本の細川氏と大内氏が勘合貿易の利益をめぐって争い、現地の寧波で大内氏側が細川氏の船を焼き討ちした事件である。 
市舶司 海外との貿易を管轄する役所で、唐の玄宗の時、714年に広州に市舶使(司ではなかった)が置かれ、宋代には市舶司が泉州、温州、明州、杭州などに設置された。宋代では貿易船の積荷の検査、輸入税の徴収などの貿易業務に当たった。元、明、清でも継承された。
イ.北方の諸勢力
A 契丹 きったんと読む。キタンとも表記する。キタイというのが本来で、契丹はその中国名である(なお、キタイという名は後にヨーロッパにも伝わり、中国を意味する Cathay の語源となる)。モンゴル高原東部、遼河上流のシラムレン川とラオハムレン川流域で活動していた遊牧狩猟民族。モンゴル系とされるがツングース系説もある。唐の時代、渤海を起こした靺鞨族と同じく有力となったが、はじめは渤海に押されていた。8つの部族に分かれていたがその一つの族長の耶律阿保機が内モンゴルの熱河地方にいた8部族を統一し、916年に契丹国を建国し太祖となった。 → 
契丹と遼 いずれもキタイが建国した国家の名称。契丹は民族名としても用いられるが、中国で用いられた国号でもあった。契丹は中国風の国号としては(正確には大遼)と称したが、それは後晋を滅ぼして都の開封(黄河中流域)を占領した翌年の947年が最初である。一時ではあるが中国全土を支配したので、中国風の王朝名が必要になってからのことであり、その後中国全土の支配を放棄して北方に戻ってからの983に再び契丹に戻し、さらに1066年にはまた遼(大遼)に復している。しかし煩雑さを避けて、916年から1125年に存在した契丹の国家を遼として説明することも多い。
a 耶律阿保機 やりつあぼき。916年に契丹(遼)を建国した太祖。契丹の8部族の一つ、迭刺(テツラ)部の族長。耶律が姓で阿保機が名。本名はチュエリだが、簒奪者を意味するアブーチと呼ばれるようにある。その漢名が阿保機である。他の7部族の族長を次々とだましうちにして契丹族を統一し、916年に皇帝(カーン)を称して、を建国(厳密には遼の国号が使われるのは後のこと)した。廟号を太祖という(在位916〜926)。耶律阿保機は中国風の文明と政治機構を取り入れ、周辺の征服に乗り出し、突厥、タングート、ウイグルなどの諸民族を制圧、さらに926年に渤海を滅ぼし、中国への進出を図ったがその年に病没した。 
b 遼 916年、耶律阿保機(太祖)が中国の東北辺、モンゴル高原東部に建国し、モンゴル高原から中国の北部を支配した征服王朝。唐末の混乱を逃れてきた漢人を受け入れ強大となり、926年に東の渤海を滅ぼし、さらに南下して漢民族の領域を脅かし、五代〜宋の王朝と抗争した。なお国号は本来契丹であり、遼と称したのは947年以降であり、その後も契丹という国号に戻っているるが、便宜上国号としては「遼」を使う。
漢民族との抗争 太祖の次の太宗の時、中国の五代の一つ後晋を支援した見返りに、936年に燕雲十六州を獲得、華北に進出し、その後は五代の中国王朝と、その後に中国を統一したを圧迫する存在となった。646年には五代の後晋を攻撃して滅ぼし、開封に入城して一時中国全土を支配した。しかし、韓民族の抵抗を受けて中国全土の支配を放棄してモンゴル高原東部と華北を支配することに戻る。
遼の全盛期 10世紀末の聖宗は、黄河上流にタングート(西夏)が台頭するとそれを服属させて大夏王(宋は西夏といった)に封じ、後には友好関係を結んで宋に備えた。東方に進出して女真をうち、朝鮮半島の高麗を服属させた。その上で南下して宋の都開封に迫まり、1004年に淵の盟を結び、国境はそのままとしたが毎年絹と銀を贈らせるという有利な講和を行った。宋や西夏との交易で繁栄した10世紀末〜11世紀が遼の全盛期である。1922年に聖宗とその後の3代の陵墓が発見され(慶陵という)、遼の高度な文化の存在が明らかになった。
征服王朝としての遼の中国支配 遼は北方民族に対しては従来からの部族制によって支配したが、華北の支配下にある漢民族に対しては中国的な州県制で統治するという二重統治体制をとった。このような、遊牧民族の統治制度を維持し、漢文化に同化せずに中国を支配した王朝を征服王朝といい、遼はその最初の例である。遼は独自の契丹文字を制定するなど、文化面でも独自性の維持に務めた。
遼の滅亡と一族の移動 1125年、女真族のおこしたと宋の連合軍によって滅ぼされる。遼滅亡に際して、一族の耶律大石の率いる一部が西方に逃れ、トルキスタンで西遼(カラ=キタイ)を建国した。 
c 燕雲十六州 燕雲十六州とは、現在の中国の河北省と山西省にまたがる地域で、華北のうち、万里の長城の南側、北方民族の領域に接する地帯を言う。燕州は燕京(現在の北京)周辺、雲は大同周辺。長城の北側の遊牧諸民族を制圧した契丹の耶律阿保機(太祖)は、華北への侵入をめざしたがその実現を前にして病没し、子の耶律尭骨(太宗)がその意志を継ぐこととなった。そのころ中国では五代第2代の後唐に対してその配下の節度使が反乱を起こし、936年に後晋を建国した。その際、後晋は契丹の援軍を要請し、その見返りとして燕雲十六州の割譲と絹布30万匹の贈与を約束した。これ以後、漢民族の居住する農耕地域である燕雲十六州は、契丹(遼)の支配下に入ることとなった。
d せん淵の盟
 →センの拡大 
せんえんのめい。1004年に成立した、遼と宋の講和条約。燕雲十六州の割譲以来、後晋以後の漢民族の後漢・後周・宋の各王朝は、その奪回を試みたが、いずれも成功しなかった。また遼も、946年には後晋の都べん京(ベンの拡大)を陥れ(そのとき国号を遼と称した)たが、漢民族の抵抗を受け7ヶ月で撤退した。この争いは宋代となっても続き、宋にとっては遼との戦争による出費が大きな負担となっていた。1004年に遼の聖宗(第6代皇帝)は大軍を侵攻させ、黄河の北岸に迫った。宋の真宗は自ら黄河を渡って抵抗の姿勢を示すとともに、遼との和平交渉を行い、両国の講和を成立させた。それによって宋は三州を復帰させたが、残りの州の遼の支配を正式に認め、国境線を現状維持とし、また宋は毎年、銀10万両、絹布20万匹を遼に贈与することを約束した。外交文書の上で、年少の遼の聖宗が、年長の宋の真宗を兄と呼んだ。この和議によって、1122年までの119年間の平和が実現された。
征服王朝 中国史上に現れる、北方の非漢民族による中国統治様式。遊牧民族である北方民族が、広大な中国の本土の農耕地帯を征服し支配するさいに、北方の本拠地を抛棄するのではなく保ちながら中国を支配し、北方民族には独自の方式を適用し、漢民族には従来の方式を残して双方の統治方式を並立、または両用した王朝を征服王朝という。
ウィットフォーゲル(アメリカの歴史学者)が「征服王朝」と名付け、その最初が(契丹=キタイ帝国)である、とした。遼と女真族の王朝は二重統治体制をとった王朝がある。その後もモンゴル人の王朝、女真族の王朝も征服王朝とされる。ただし、それ以前に華北を支配した北方民族があったが、鮮卑族の建てた「北魏」は、都も平城から洛陽に移り、孝文帝以降に漢化政策がとられ、ほぼ完全に漢化したので、征服王朝には加えない。南北朝時代の北朝の各王朝も同様であり、隋唐や皇帝の血統は遊牧民系だが完全に漢文化に同化した王朝であった。
銀・絹 1004年のセン(せん)淵の盟で、宋が遼(契丹)に対して歳幣として毎年贈ることを約束したもの。宋は遼に対し、毎年、銀10万両(両は重さの単位で16分の1斤、古代中国では1両=約16g)、絹布20万匹(匹は布の長さの単位。1匹=4丈、約9.4m)を贈ることを約束した。また宋は大夏(西夏)との慶暦の和約(1044年)でも、銀5万両、絹13万匹、茶2万斤を毎年贈ることを約束した。
e 二重統治体制 征服王朝としてのは、本拠地であるモンゴル高原東部の草原地帯の北方民族(北人)と、征服地である長城以南の燕雲十六州の農耕地帯の漢民族(漢人)に対する支配体系を二本立てとした。官制では、北人に対しては北面官、漢人に対しては南面官が統治にあたり、地方統治は北人地域には遊牧民古来の部族制を維持し、漢人地域には州県制をしいた。また租税も、北人には家畜税、漢人には田税を課し、刑罰も両者で違う遼律を適用した。文字でも漢人の漢字に対し、北人には独自の契丹文字がつくられた。女真人のも華北を支配するにあたり、二重統治体制をとった。このように中国を支配した北方民族が、漢民族の制度を取り入れるのではなく、北方民族の独自の体制を維持した王朝を征服王朝という。
f 部族制 遼が北方民族の地域に対してとった行政制度で、遊牧民古来の部族制に基づき、部族の下に石烈(シュリ)−弥里(ミリ)という行政単位を置いた。漢民族地域の、州−県−郷に対応する。中央官庁では北面官が管轄した。
g 州県制 (遼・金) 遼が漢民族地域、および旧渤海の地域で実施した行政制度で、隋唐以来の州県制を維持し、州−県−郷の行政単位で統治した。中央官庁では南面官が管轄した。
またも女真人には猛安・謀克制で統治したが、華北の漢民族を支配する際には、州県制を用いた。なお金は州県の上に16の路をおいて管轄した。遼・金はいずれも二重統治体制をとった。 
北面官  
南面官  
h 契丹文字 920年、遼の太祖(耶律阿保機)が契丹大字を制定し、後に弟の迭刺が契丹小字をつくったとされている。突厥文字のアルファベットをもとに、漢字の楷書・篆書を模範として書体をつくったらしいが、まだ完全には解読されていない。1921年に都の上京の付近で慶陵と総称される遼の三代の皇帝の陵墓が発見されたが、そこに契丹文字を刻した皇帝を哀悼する文が発見されている。契丹文字は公式文字として使用されただけで、実用にはならなかったらしい。<貝塚茂樹『中国の歴史』中 岩波新書>
B タングート 四川から青海にかけて活動していたチベット系の遊牧民。中国史料では党項と書く。唐末に東北のオルドス地方に移動し、遼と宋の対立の間にあって次第に勢力を強めた。遼から国王の称号をうけた李元昊はオルドスの西の西域を勢力下に収めて東西交易路を抑え、1038年に大夏(西夏)を建国、皇帝を称し、興慶府を都とした。
李元昊 りげんこう、と読む。タングート(党項)族を率い、はじめ遼から国王の称号を受け、1038年に大夏(西夏)を建国、皇帝となる。廟号は景宗。在位1038〜1048年。の軍をたびたび破り、1044年には「慶暦の和」で有利な講和を勝ち取った。また、1036年に西夏文字を制定した。
a 大夏 たいか。西夏の正しい国号。1038年、タングート族の李元昊が自立して国号を大夏とした。中国側がそれを西夏と称した。 → 西夏 
b 西夏 1038年にタングート(党項)族の李元昊が建国。はじめ、契丹に服属し、夏国王に封じられ、独立してから自らは大夏と称し、中国(宋)からは西夏といわれた。現在も教科書によっては「西夏」(セイカ)と表記している場合もある。寧夏を興慶府と称してを都とした(現在の銀川市)。現在の中国の西部と西域地方を支配し、東西貿易のルートをさえて中継貿易の利益を上げ、11〜12世紀に繁栄した。遼と宋の間にあって主として遼とは友好関係にあり、にはしばしば侵攻して、1044年には「慶暦の和約」を結んで宋からを毎年銀や絹を受け取ることを約束させた。遼の滅亡後、東方に起こったに次第に圧迫され、ついでモンゴル高原に起こったチンギス=ハンによって1227年に滅ぼされる。
慶暦の和約 けいれきのわやく。1044年に締結された、大夏(西夏)の和約。西夏の李元昊は、たびたび宋の領土に侵攻し脅かしていたのに対し、宋は和平策を採り、李元昊は形式的には宋の臣下となるかわりに、歳賜(1年ごとの下賜品)として銀5万両、絹13万匹、茶2万斤を得ることとなった。また、西夏と宋は国境を確定し、それ以後は貿易を再開した。宋にとっては、遼に対するセン(せん)淵の盟とともに、大きな財政的負担となった。
b 内陸(東西)貿易路  
c 西夏文字 李元昊(景宗)が制定した、西夏の独自の文字。約6000字が知られ、日本の西田竜雄氏によって、その半分の発音が確定され、その三分の一の意味が明らかにされた。要素の字を上下左右に組み合わせた表意文字を主体に、表音的なものも混じっている。 西夏語はチベット=ビルマ語系で、その音を表すためにつくられた西夏文字は、漢字の「会意」「形声」の造字法でつくられたが、意味は漢字とは無関係である。西夏がモンゴルに滅ぼされたため、西夏文字も現在使われていないが、大量の経典や文書類が残されており(敦煌で発見された)、現在研究が進んでいる。
西夏文字の例   など<『今昔文字鏡』CD−ROM 紀伊國屋書店より>
C 女真 (12世紀) ツングース系に属する半農半狩猟民族。ツングース系の諸部族はかつて渤海国を建てたが、10世紀以降は契丹のに支配されていた。その中の東部の松花江中流域で、半農半狩猟生活を送っていた女真(ジュルチンの漢訳。女直ともいう)は、12世紀になって一族の完顔部の族長阿骨打(アグダ)によって統一され、1115年に隣接する遼と戦って勝ち、国号をとして即位した。さらに南下し、強大となった。遼の滅亡後、金は華北に侵入し、北宋を滅ぼし(靖康の変)、征服王朝として中国北半分を支配する。しかし1234年にモンゴルによって金が滅ぼされると女真は東北方面(後の満州)に後退した。その後、元、明に従属するが16世紀末にヌルハチが登場、再び強大となり、1616年に後金を建国した。1619年には明を破り、中国全土を支配する王朝となった。 →17世紀以降の女真族の統一
Epi. 日本にも現れた女真 平安時代の中頃、1019年に九州の太宰府から、海を渡った賊船50艘が対馬・壱岐・博多湾に来襲したという知らせが朝廷に届いた。太宰権帥藤原隆家らが奮戦し、撃退することが出来た。これは当時、「刀伊の入寇」といわれたが、刀伊とは北朝鮮の海岸部に活動する女真族であると考えられている。
ツングース系 トゥングースとも表記。アルタイ語族に属するツングース語を用いる諸民族をツングース系と総称する。現在の中国の東北地方(旧満州)から南シベリアにかけての森林地帯で、部族に分かれて半農半狩猟生活を送っていた。古くは高句麗を建国した貊族、7世紀末の渤海国を建国した靺鞨族もツングース系とされる。最も有力となったのは女真で、12世紀にを建国し、中国の北半分を支配した。金は1234年にモンゴルに滅ぼされたが、後の17世紀に満州族と称してを建国した。
a 完顔阿骨打 わんやんあぐだ。女真族の完顔部の族長。女真族を統一し、遼からの独立を目指し、1115年に遼軍を破り国号を金として皇帝となった。金の太祖(在位1115〜1123)。その後領土を拡大、華北に進出し、宋と結んで遼を攻撃した。その支配した領域では猛安謀克制をしき、また女真文字を制定した。
b 金 女真人の完顔阿骨打が1115年に満州に建国。都は上京会寧府(1153年に燕京、1214年に京に遷都)。次第に強大となり、は、遼を倒す好機と考え、金と同盟し、1125年を滅ぼした。金は中国本土への侵出を始め、1127年にはついに宋の都開封を攻め、徽宗と欽宗の親子を捕らえて滅亡させた(靖康の変)。江南に逃れた宋は、高宗が南宋を建て、華北の金と江南の南宋の対立が続く。金は女真族の軍事組織である猛安・謀克制を女真族の統治に適用し、支配下の華北の漢民族には州県制を適用するという二重統治体制をとった。文化的には女真文字の制定など独自の文化を維持したが、次第に漢文化に同化された。1142年、南宋に多大な貢納を約束させ、淮水を国境として華北を金、江南を南宋が統治する第2次南北朝の状況となった(紹興の和)。1153年、都を燕京(中都と称す。現在の北京)に遷すとさらに漢化が進み、逆に北辺を遊牧民から守る必要が生じた。13世紀に急速に勢力を伸ばしたモンゴルのチンギス=ハンが1211年から金への侵攻を開始、1214年、都を南の京(開封)に遷さなければならなかった(貞祐の南遷)。その後、北のモンゴルと南の南宋が連合して挟撃され、1234年に滅亡する。→ 金の滅亡
c 遼  → 
d 耶律大石 やりつたいせき。遼の皇帝の一族の契丹人。遼が宋・金の連合軍に攻撃されて滅亡する前の1122年に一部の契丹人を引き連れて、外モンゴルに脱出し、山西省の北辺の回復を図った。それには成功せず、さらに西進し、カラ=ハン朝を倒して1133年にベラサグンを都に西遼(カラ=キタイ)を建国。さらに西トルキスタンに入り、ウイグル人を服属させ、サマルカンドを攻略し、ブハラも支配した。
カラ=キタイ(西遼) 黒契丹ともいわれ、中国では西遼と言われる。契丹族の遼の皇帝の一族耶律大石が、遼が滅亡する際に脱出し、外モンゴルを経て西進し、中央アジアに入り、カラ=ハン朝を倒して1133年に建国。都はカラ=ハン朝に続きベラサグン。さらに1141年にはセルジューク朝軍を破り、サマルカンド、ブハラなどの西トルキスタンの主要な交易都市を支配した。中央アジアの西トルキスタンに漢文化の影響を受けた国家が存在したことは東西交渉史上興味深い。その西に起こったホラズムに次第に圧迫され、1209年ホラズム王のムハンマドに敗れ、東方に移動し、さらにチンギス=ハンに敗れて逃れてきたナイマン部のタヤン=ハンの息子クチュルクによって、1211年王位を奪われ、滅亡した。その後、ナイマンはチンギス=ハンに滅ぼされ、カラ=キタイの遺領と遺民はモンゴル帝国に支配されることとなった。モンゴル帝国はカラ=キタイから中国風の統治制度を採り入れたと言われている。
中央アジアの中国文化 カラ=キタイ(西遼)は現在のキルギスを中心にトルキスタン全域を支配した国で、王族は仏教徒であり、中国式の廟号や年号、貨幣の使用など中国征服王朝である遼の文化の伝統を重んじていた。しかしその文化は中央アジアのトルコ=イスラーム文化にはほとんど影響を及ぼさなかった。国家が存在したのが1133年から1211年までの約80年間だけであったためであろう。<間野英二『地域からの世界史8 内陸アジア』1996 朝日新聞社 p.62-63>
Epi.  プレスター=ジョン伝説とカラ=キタイ イスラーム教国ではなかったカラ=キタイ(西遼)が、1141年にサマルカンド郊外の草原で一大決戦の末、イスラーム教国のセルジューク朝軍を破った。このことが西方世界に伝えられ、プレスター=ジョンの伝説が生まれたという見解もある。また、カラ=キタイの人々はモンゴル帝国に服することとなったが、それには次のような意義があった。「モンゴルは文字通り無傷のままで、輝かしい帝国の伝統と、モンゴルに対する強い類似性をもった人々によって支配されていた大国家を獲得した」こととなり、「カラ=キタイを征服したことで、モンゴルは制度上の枠組みを利用できるようになり、実際それを活用したのであった。より大きなスケールで見れば、ある意味でモンゴル帝国はカラ=キタイ帝国の継承国家だったのである。」<D.モーガン『モンゴル帝国の歴史』1986 角川選書 p.31-34>
e 猛安・謀克制 もうあん、ぼうこく。金の軍事・行政組織。女真の言葉ではミンガンとムーケといい、本来は軍事制度であったが、完顔阿骨打が中国華北を支配してからは、行政組織とし拡大され、金の支配組織となった。300戸を単位とする謀克、10謀克を猛安として組織、平時は狩猟と農耕に従事するが、戦時にはすべての壮丁(成年男子)が兵士として従軍する制度。
f 女真文字 金の太祖(完顔阿骨打)が1119年にまず大字を制定し、20年後の三代熙宗の時に小字がつくられたという。漢字契丹文字をもとにつくられたと言われ、現在解読が進んでいる。
燕京 えんけい。現在の北京。古くは薊(けい)といわれ、戦国時代のが都城を築いて以来、華北の要地となった。936年にこの地を含む燕雲十六州が契丹(遼)に割譲され、北方民族の支配を受けることとなった。その後は副都として南京とよび、1153年からはの首都となり中都と言われた。中国全土を支配したはこの地を都として大都と称し、新しい都城を建設し、国際都市として繁栄した。明が成立すると北平と言われ、一時都ではなくなったが、この地を拠点としていた永楽帝が即位すると1421年、首都に返り咲いた。このときから北京と称された。以後、清、中華民国(初期)、中華人民共和国の首都として現在に至っている。
盧溝橋 現在の北京(燕京)の南西、永定河にかかる石橋。の章宗の時、1189年に架橋されたたものが現存する。橋の長さは212m(たもとの部分をふくむと266m。幅は8m。橋を11のアーチが支えている。洪水と氷塊に備え、橋脚は上流と下流をとがらせ、水の衝撃を少なくする工夫がなされている。しかも三角の哲柱が氷塊をくだくように立ててある。斬竜剣と呼ばれている。欄干の柱には様々な姿をした獅子がおかれている。総計499あるという。西詰では象があたまで欄干を支えている。北京と南方の交通にはこの橋を通らなければならない。元代にマルコ=ポーロがこの橋に驚嘆したこと『東方見聞録』にもある。西洋の人々はマルコ=ポーロ橋と呼んだ。橋のたもとに乾隆帝の筆になる「盧溝暁月」の石碑がある。<竹内実『北京』世界の都市の物語 文芸春秋社 p.122>  → 盧溝橋事件  世界史の旅・中国、北京周辺の旅 
ウ.宋の統治
A 宋(北宋)の統一 960年に後周の部将であった趙匡胤が宋を建国、唐以来の節度使藩鎮)勢力を抑え、皇帝の独裁制を樹立することに成功し、五代十国の混乱を終わらせ、中国の統一を回復した。都は開封べん京)。しかし、華北の一部はなおに支配され、その圧迫を常に受けていた。五代十国の武断政治にかわって文治主義をとり、尚書省・中書省・門下省の三省を改めて中書省と門下省を合体させ中書門下省(政事堂)とし、軍事行政機関としては枢密院が重要な機関となった。また皇帝権力を支える官僚を得るために科挙を整備して殿試を設けるなどの改革を行った。1004年には遼との淵の盟を結び、和平を実現したが、遼への贈与の負担は財政を圧迫した。また西方に起こった西夏にも圧迫され、1044年には慶暦の和約で同じく毎年の贈与を約束した。神宗のとき、王安石を登用して財政改革を行ったが、新法派旧法派の対立が生じ改革は失敗した。12世紀には東北方面にが勃興、宋は金と同盟して1125年に遼を滅ぼしたが、金が華北に侵入するとそれを撃退することが出来ず、1126〜2年の靖康の変で都を金軍に蹂躙され、上帝徽宗と皇帝欽宗以下の皇族が連行されて滅亡した。ここまでを北宋という。その難を逃れた皇族の一人高宗が江南に逃れ、宋を再建するが、それは南宋と言って北宋と区別する。宋代の10〜11世紀は、交子・会子という紙幣が作られたことに見られるように、経済が発展し、それを背景に中国商人による盛んな海外との交易が行われ、彼らのジャンク船は遠くインド洋まで活動をしていた。この海外との交易は江南の開発が進んだ南宋、中国の統一が回復された元の時代にも引き継がれ、ムスリム商人が広州、泉州、広州などの港市に往来した。
a 趙匡胤 後周で7歳の皇帝が即位したとき、遼の侵攻をおそれた軍部が、人望の高かった部将趙匡胤を推して960年に帝位につけた。これが宋の太祖(在位960〜976年)。藩鎮勢力の力を抑えることに務め、皇帝権力の強化を図ることに成功、五代十国の混乱を終わらせ、漢民族による統一的な支配を回復した。科挙の最終試験に殿試をおくなど官僚制の整備を行い、文治政治を進め、安定した宋王朝の基礎をつくった。
Epi. 無理やり皇帝にさせられた(?)趙匡胤 趙匡胤は後周の近衛軍(皇帝の親衛隊)の将軍で人望が高かった。趙匡胤が出陣の祝い酒に酔って首都開封の北の陳橋駅で寝込んでいると、夜明けごろ、弟の趙匡義をはじめ将士の群が突然に手に抜身の大刀をたずさえ、寝所に押しこんできて、無理やりに天子の黄色の上衣をきせられて皇帝になった。趙匡胤は一度は拒絶したが、「兵士に後周の朝廷や都で略奪にするものは厳罰に処する」ことを認めさせて帝位に上った。という話になっているが、これは弟らが趙匡胤の野望をよんでしくんだ芝居だったのだろう。<貝塚茂樹『中国の歴史』中 岩波新書 1969 p.128>
b 開封(べん京) かいほう、とよむ。現地の読みではカイフォン。現在の地名は河南省開封市。隋の煬帝が建設した大運河の拠点の一つであり、華北と江南地方を結ぶ交通の要地で物資の集散地となって大いに繁栄した。後梁を建国した朱全忠べん(べん)を首都と定め、東都開封府として以来、五代(後唐を除く)の各王朝の都であった。引き続きの都となり東京開封府といわれた。この地は古くべん(べん)州といわれたのでべん京(べんけい)とも言われる。唐の長安や洛陽などの都市は、官営の「市」だけで取引が行われ、それに参加できる商人も「行」という同業組合に属していなければならず、また市での営業は昼間しか認められなかったが、宋代の都市では同業組合の支配力は衰え、市以外にも自由に商店を開くことが出来るようになり、また盛んに夜市も開かれるようになった。そのような都市には人口が集中し、貨幣経済が発展した。その代表的な都市が開封である。その栄華を物語った書物が『東京夢華録』(とうけいむかろく)であり、絵画が張択端の描いた『清明上河図』(清明とは3月3日のこと。市民たちが街に出て春を祝う日)である。靖康の変で金軍に占領され、北宋が滅亡してから開封も衰退し、元代には運河も江南と北京を直接結ぶようになったので経済の繁栄から取り残され、明末には黄河の大洪水で泥土の下に埋もれてしまった。現在の開封市は宋の時代のものではなく、清代に建設されたものである。
c 太宗 太祖趙匡胤の弟、趙匡義が兄の死後、第2代皇帝となった。それが太宗(在位976〜997年)。南方の呉越、北方の北漢などを滅ぼして、中国の統一を完成した。太祖の政策を引き継ぎ、藩鎮(節度使)の武人勢力の削減に努め、また皇帝中心の官僚制の整備に努めるなど文治主義を推し進めた。
d 文治主義 五代十国の混乱を収めて中国を統一した宋は、太祖趙匡胤以来、藩鎮勢力の削減に努め、軍の指揮権を皇帝に直属する文官である枢密院に与え、文官(事務系官僚)による国家統治の方法をとった。それを文治主義といい、第2代の太宗のときにさらに整備された。それによって権力の分散は避けられ、皇帝の独裁権力が生まれたが、それを支える多数の官僚(その登用法として整備されたのが科挙)に対する俸給は国家財政を圧迫するようになる。また軍事力を削減したため、漢〜唐まで続いた漢民族の王朝を中心とした東アジア国際社会は崩壊して周辺の異民族である契丹や西夏、高麗、大理、そして日本などが自立することとなった。
中書門下省  宋の中央官制で唐以来の門下省を中書省に吸収して作られた官庁。単に中書省とも言った。軍事を司る枢密院と並んで両府といわれる重要な中央官庁であり、その下に実務担当の六部が置かれたが、別に財務を担当する三司(塩鉄・度支・戸部)が独立したため、六部の多くは官名だけが残り実態は無くなった。
枢密院 宋の皇帝直属軍である禁軍を管轄する役所。枢密院は唐に始まるが、宋で軍事統制機関として重要になった。宋では行政担当の中書省(門下省を吸収した)と枢密院が、両府(二府)と言われて国家の重要政務機関として機能していた。宋では文治主義がとられたため、枢密院は文官であり、直接指揮権を持つことはなかった。以後の遼、金、元の王朝でも軍制機関として枢密院が置かれた。 
禁軍  宋(北宋)の皇帝直属軍(近衛軍)で、枢密院の管轄下にあった軍隊。五代十国の混乱を収めた宋の太祖趙匡胤は、なによりもまず唐末以来の節度使の軍事・政治上の権限と力を解体することをめざした。そのために軍事力は皇帝直属の禁軍に一本化し、枢密院の管轄とした。趙匡胤自身も節度使出身で後周の近衛軍指揮官を兼ねることによって中央で権力を獲得できたのであるが、今度はそのようなことが起きないように、まず節度使と禁軍指揮官の兼任を解き、節度使指揮下の軍人を禁軍に引き抜き、機会あるごとに節度使を辞めさせ、かわりに文官を派遣して地方政治にあたらせた。こうして節度使の力を奪っていった。禁軍のなかで辺境の防備にあたるものを屯駐禁軍・駐泊禁軍などといったが、その兵力は民兵の募集したもので、数は増えたが外敵に対抗できるものではなかった。<周藤吉之/中嶋敏『五代と宋の興亡』講談社学術文庫 1974 p.75-82>
e 科挙 (宋) 科挙は漢の郷挙里選、魏の九品中正制に続く官吏登用(選挙)制度である。587年、文帝が創始した隋の科挙制は、唐に継承された。唐の科挙制も家門や財力に拠らずに人材を登用し、貴族勢力を抑え、皇帝の政治を支える官僚制の強化をねらったものであったが、まだ不十分であった。科挙が、誰でも受験でき(といってももちろん男性だけだが)、公平で客観的な官吏登用制度としての形態を整えたのはこの宋の時代であった。宋の科挙制の特徴をまとめると次の4点である。<平田茂樹『科挙と官僚制』世界史リブレット9 p.10>
 1.それまでの諸科を廃止し、進士科に一本化したこと。(王安石の改革
 2.最終試験として殿試を設置(太祖趙匡胤のとき)し、州試(解試)→省試→殿試の三段階選抜方式が完成したこと。
 3.試験科目が経義(経書の解釈)・詩賦(作詩)・論策(論文)の三科目となったこと。
 4.厳格な試験体制の整備(不正防止の徹底)がなされたこと。
この機会均等・実力主義に貫かれた科挙で選抜されて国家の上級官僚となったものは地位と名誉を得ることが出来たので、受験競争は激烈なものがあった。官僚身分は一代限りであったので、試験次第で家の没落、上昇が生じ、官僚層の固定化が避けられた。しかし科挙に合格するための教育費・受験費用は多額に上り、経済的に有利なもの(士大夫層)の子弟が合格する傾向が強かった。この宋で完成された科挙制は、元の時代の一時的な中断(元の科挙制度)をへて、明清時代には科挙の前に学校試が組み込まれるという改革(明清の科挙制度)があった程度でその基本システムは継承され、清末の1905年(科挙の廃止)まで続く。
州試 州の科挙制度での第1段階の試験。解試ともいう。明清時代は郷試と言う。科挙は3年に1回行われ、その第1段階である州試は、子年・卯年・午年・酉年に、地方の州(明清では省)ごとに一斉に、3日間かけて行われた。倍率は北宋では10〜50%であったが、南宋の12世紀になると1%以下という狭き門であった。これに合格したものは挙人といわれ、省試の受験資格が与えられた。
省試 州試の翌年、都で行われる科挙の第2段階の試験。明清時代は会試という。礼部の管轄下で、3日連続で行われた。合格者は最終試験である殿試を受験し、序列をつけられて「進士」=官吏候補生となる。
f 殿試 明の太祖趙匡胤は、973年の省試で不正事件が発覚し、皇帝自らが出題して省試をやり直したことがきっかけとなり、975年から制度化された。科挙の最終段階の試験として、皇帝が問題を作問し、皇帝の面前で試験を行うのが殿試である。はじめは選抜試験としての意味があったが、1057年からは不合格者は出さず、省試合格者に序列をつけることが目的となった。殿試の第1位を状元といった。殿試によって官僚は皇帝と直結するという意識を持たせることがねらいであった。
進士科 王安石の改革の一環として行われた科挙の改革で、それまでの明経科などの諸科が廃止され、進士科に統一された。また進士科の試験では従来課せられていた詩文の作成試験はなくなり、経義(経書の解釈)・論策(時事問題の小論文)が課せられることとなった。詩作のような文学的な才能より、官僚に必要な能力を重視したためであろう。 → 唐代の科挙制度の進士科
g 形勢戸 宋代に、地方の有力地主で大土地所有者を形勢戸と言った。唐の後半から、没落した貴族層に代わって成長した地主層が五代から宋にかけてさらに有力となったものを、税制上形勢戸と言った。彼らは私有地を小作人の佃戸に耕作させ地代をとっていた。彼らの中から科挙の合格者で官吏となるものも多く、官吏となって徭役の免除になった戸を官戸という。また知識人としては文化の担い手となり、士大夫と言われた。
官戸 科挙に合格して、官吏となったものへの特権として、租税免除などがあった。そのような一般の編戸と区別された戸を官戸といった。官戸は本来、官吏となったその一代限りであるが、しばしば三から四代に継承されることもあった。もともと有力で豊かな戸である形勢戸から官吏が出ることが多かったので、官戸・形勢戸と並び称され、一体化していた。
h せん淵の盟  →せん淵の盟
B 王安石の改革 宋の神宗の時、1070年に始まる宰相王安石による改革。宋では文治主義を取ったために生じた官吏への俸給の増加、遼と西夏との和平のための贈物のための出費、傭兵を維持するための費用などがかさみ、慢性的な財政難に悩まされていた。神宗に登用された王安石は大胆な富国強兵策をたて、その財政難と兵力の弱体化と解決し、宋の再建を目指した。また王安石は、有能な官吏を育成し、選抜するために、官吏養成のための学校を整備し、科挙の改革も行った。王安石の改革を支持する一派を新法党と言ったが、その改革に反対する旧法党との対立が激しくなった。王安石の改革によって一時的に宋の財政は回復し、西夏遠征が行われたが、1076年には王安石は宰相を辞任し改革は失敗した。
Epi. 有能であったが敵も多かった王安石 王安石は一度目を通したことは終身忘れず、飛ぶような速さで筆を運びながらその文章は精妙を極めたという。19歳の若さで即位した神宗はそのような王安石を信任し、王安石もそれに応えて改革を断行した。しかし、自分の才能をたのみ、先輩・同輩の忠告をいれない態度はいたって不人気だった。王安石は「天変畏(おそ)るるに足らず、祖宗法(のっ)とるに足らず、人言恤(うれ)うるに足らず」と非難された。天変地異も畏れず、太祖以来の宋の法律を守ろうとせず、時の人の批判に耳をかさなかった、というのである。<貝塚茂樹『中国の歴史』中 岩波新書 p.152>
a 財政難の解消と富国強兵 王安石の改革「新法」のねらい。財政難の解消としては、青苗法・均輸法・市易法・募役法があり、強兵策としては保甲法・保馬法がある。
b 新法 王安石の改革を「新法」といい、それを支持する一派を新法党と言った。
c 青苗法 春の植え付け時期に政府が資金を農民に貸し出し、秋の収穫期に2割または3割の利子を付けて返還させる貸付制度。農民の生産力を高めるとともに政府の財源確保をねらった。
d 均輸法 農民の生産する物資を都に運ぶ際、輸送費・中間費用がかさんで値が上がることを防ぐため、その地で価の安いときに買い入れ、値の高いときに売ること。物価の安定と流通を図ったものだが、旧来からの大商人は転売の中間利益を得られなくなるので反対した。
e 市易法 政府が中小商人に資金を貸し付け、物資を購入させ、値が上がったときに売り出させて利益を還元させる方式。それまで物資を独占して価格を操っていた大商人を抑え、中小商人の保護と物価の安定をねらったもの。
f 募役法 農民に対する労役を免除する代わりに免役銭を納めさせ、それをもとに労役(差役)に従事するものを募集するもの。それまで免役の特権のあった官戸や寺院・観(道教の道場)からも助役銭を徴収した。
g 保甲法 宋の軍事力は傭兵に依存したため、その出費が多かった。王安石は傭兵をやめ、民兵による軍事力の編成を試みた。10家を1保、50家を大保、500家を都保とし、各家から成年男子を保丁としてださせて、共同責任による治安維持にあたらせ、農閑期には軍事教練を行った。
h 保馬法 保丁に対し、政府が馬を貸し与え、戦時には軍馬として、平時には農耕馬として飼育させ、軍馬の不足を補おうとした策。
方田均税法 北宋の王安石の改革で、1072年に実施された大土地所有者と貧農との租税負担の不均衡を是正しようとした税制。土地を一定の区画(方田)に区画し、それぞれの生産力の違いを5段階に分けて税(両税法による)を課すとした。これは有力者が土地を兼併する際に売り手が早く売ろうとして地価を下げるので、土地を買い占めて大土地を所有するものが実際の地価よりも低い税を納めれているという不均衡を是正するねらいであった。また課税を逃れている土地を方田に組み込むことも目的の一つであった。官戸形勢戸として大土地を所有していたのはおよそ旧法党に属していたので、この税制には抵抗も強く、神宗が死去すると廃止された。<周藤吉之/中嶋敏『五代と宋の興亡』講談社学術文庫>
C 党争の継続  
a 新法党 王安石の改革=新法を支持する官僚たち(士大夫)。王安石没後も、旧法党と争い、哲宗や徽宗の親政期には政権を握った。 
b 旧法党 王安石の改革を、宋の祖法に反するもとして反対した保守派の官僚や学者。中心人物は詩人として名高い蘇軾や、歴史家として知られる司馬光などがいる。特に司馬光は王安石の辞任後に宰相となり、その新法をすべて廃棄した。王安石や司馬光らの死後も、両派の党争は続いた。
c 司馬光 王安石と同時代の学者として名高く、人望も厚かった。彼は、王安石の改革は政府が営利的な事業に手を出して人民と利益を争うこととなり、かえって人民の生活を圧迫するものとして反対した。1086年、宰相となり、新法を廃してすべて旧法に戻した。そこで旧法党の中心人物とされる。編年体の歴史書の名著である『資治通鑑』を著した。その思想は中国古来の価値観である儒教の理念にたち、大義名分を明らかにし、また中華思想にもとづいて華夷の別強調した。
D 南宋  → 南宋
a 金  → 
b 靖康の変 1127年、金軍がの都開封京)を占領し、宋の上皇(前皇帝)徽宗・皇帝欽宗などを捕らえ、拉致したこと。これによって宋(北宋)はいったん滅亡。難を逃れた欽宗の弟の高宗が南方に逃れて南宋を建てることになる。その経過は、次の通りである。1125年には大軍を南下させ、の都開封を包囲した。驚いた宋の徽宗は、責任を負って位を子の欽宗に譲った。欽宗は金との講和を図り、多額の金銀の支払いと領土の割譲を約束したので、金軍はいったん北に帰った。しかし宋がその約束を守らなかったので、翌1126年、金は再び開封を攻撃、戦備を怠っていた都城はたちまち陥落し、翌年金軍は上皇の徽宗、皇帝の欽宗の他、皇后・皇族以下三千余人を捕らえ、金銀財宝を略奪して北の上京(会寧府)に引き上げた。これをその年号を取って靖康の変と言い、宋は建国以来168年でいったん滅亡することとなった。
徽宗  
 →正しい文字拡大
きそう。宋の第8代皇帝。神宗の子。親政を行って新法を採用したが、次第に政治は臣下に任せ、自らは絵画などの風流の遊びに浸る生活を送った。そのため、方臘の乱などの農民反乱が起き、宋は弱体化し、1125年、金軍による首都包囲を受けて退位した。1127年の靖康の変では金に捕らえられ、その都に連行され、その地で没した。
Epi. 「風流天子」徽宗 靖難の変で金の捕虜となり、北方に連行され、その地で死んだ宋の徽宗は、皇帝としては無能な人だったが芸術家としては一流の人物であった。若いときから書や絵画に優れ、また芸術家を保護し、風流天子と言われた。彼のもとで画院に集められた一流の画家たちが作り上げた写実的で当時に装飾性の強い画風を院体画という。徽宗自身の作品も残っており、その代表作「桃鳩図」は日本の某家に所蔵されている。
欽宗 宋の徽宗の子で第9代皇帝。1127年、靖康の変で金軍に捕らえられ、北方に連行されて現地で死んだ。北宋最後の皇帝。
高宗 靖康の変を逃れた徽宗の子の高宗は、金軍の追跡を逃れながら、1138年に臨安(杭州)に入った。南宋では金に対する和平派の秦檜と主戦論の岳飛が対立したが、高宗は和平論をとり、1142年紹興の和といわれる和平を成立させ、淮河を境に境界を定め、多額の貢納と、金の皇帝に臣礼をとることを約束した。しかしすでに父徽宗と兄欽宗は死に、金の都から生還したのは母の皇后だけであった。
c 南宋 1127年、靖康の変で滅亡した北宋の皇族の一人高宗が宋を再建した王朝で北朝と区別して南宋という。1138年からは臨安(杭州)を都とし、1279年まで中国の南半分、江南地方を支配した。も江南地方までは侵入してこなかったので、臨安を中心にした南宋は漢文化の伝統を持ちながら、さらに高度な経済力を成長させ、繁栄する。南宋では、華北を支配する金に対して、和平論を主張する秦檜と、主戦論を説く岳飛の二陣営が対立し激しい政争となった。高宗は和平論を採り、1142年、金に対して多大な貢納を約束し和平を実現(紹興の和)、淮河を国境として両国は対峙することとなった。和平を実現した後、南宋は江南の開発に努め、米・茶・甘藷などの農作物の他、景徳鎮の陶磁器をはじめ、絹織物、製紙業、木版印刷などの産業が盛んになった。紙幣も使用され、遠隔地との取引も盛んになった。陶磁器、織物、書籍などは金、朝鮮、日本などに輸出され、また東南アジア、インドをへて西アジア、アフリカ、地中海諸国とも交易が行われた。その都臨安は世界的な大都市として発展した。日本の平清盛、鎌倉幕府も南宋との日宋貿易を行い、宋銭を輸入し、多くの僧侶が宋に学んで帰国後に鎌倉仏教の創始に加わった。また南宋で発達した朱子学は、日本でも受容され、宋学と言われた。しかし13世紀にはモンゴル帝国が強大となり、1234年モンゴル軍によって金が滅亡すると直接モンゴル軍と相対することとなり、1276年には首都臨安府が陥落、1279年に滅ぼされる。→ 南宋の滅亡
d 臨安(杭州) 中国浙江省の中心都市。杭州は、杭州湾にそそぐ銭塘江(せんとうこう)河口の北岸にあり、秦漢時代から江南地方の物資の集積地として栄えていた。隋の煬帝はこの地から長江につながる江南河を築き、大運河の終点とった。遣隋使、遣唐使の上陸地点でもあった。靖康の変で北宋が滅亡した後、南宋を建てた高宗がこの地に逃れ、1138年から都として、臨安または行在(仮の都の意味)と呼んだ。その後、江南地方の豊かな経済力を背景に大都市として発展し、広州、泉州などと並んで外国貿易の拠点ともなり、元代の杭州にはマルコ=ポーロも訪れ、世界最大の都市と賞賛している。マルコ=ポーロの東方見聞録ではキンザイと書かれているが、それは杭州(臨安)が南宋の都となったが、公式には一時的な皇帝の滞在地、つまり行在所(あんざいしょ)といわれていたところからくる。
e 秦檜 しんかい。宋の官吏であったが靖康の変で金に連行された。金で太宗が死に、熙宗の代となって淮水までの領土を確保し、それ以上の南進はとらないという方針変更があり、捕虜の秦檜も許されて南宋に戻った。秦檜は金の意図を高宗に伝え、宰相となって主戦論を採る岳飛らを抑えて、和平を実現することに成功した(1142年紹興の和)。和平後もそれに対する批判が強かったので、秦檜は岳飛を捕らえ、無実の罪で告発して獄死させてしまった。
f 岳飛 がくひ。南宋の将軍で、主戦論を展開し、金への抗戦を主張した。秦檜によって無実の罪を着せられ、獄死した。そこで岳飛を漢民族を救おうとした英雄であると評価する見方が出てきた。
Epi. 中国の歴史教科書問題 2002年、中国教育省直属の中国教育出版社が出した『高校歴史』とその『指導要領』のなかで、南宋に迫ってきた女真(現在の満州族)と戦った岳飛を「民族的英雄」と呼ぶべきでない、なぜなら中国は多民族国家であり、満州族は中国の少数民族なのであるから、彼らとの戦いは内戦にすぎないからである、とした。ところがこれに対して、インターネットを通じて全国から非難が殺到し、この教科書の編集者は岳飛の殺害を企んだ秦檜と同じであると罵倒された。批判者の発言はますます激しくなり、教育省は岳飛が漢族の民族的英雄であることを否定しないと弁明したことでようやく論争は収まった。多くの、若い世代が中国=漢民族国家と考え、あるいは勘違いしていることが、この論争を通じて端的に示された。<王柯『多民族国家 中国』岩波新書 2005 p.24-25>
g 淮河 わいが。黄河と長江の間で西から東に流れる川。淮水とも言う。1142年の紹興の和で金と南宋の国境線とされた。
エ.宋代の社会
宋代の商工業 の発達 北宋・南宋を通じて宋代には、文治主義がとられたこと、江南の開発が進んだことなどを背景に、商工業が著しく発展した。またそれを支える貨幣経済も一段と活発となり、大量の宋銭の発行でも通貨は不足し、世界で最初の紙幣の発行が始まった。中国の宋の時代にあたる10世紀末から13世紀のヨーロッパは、封建社会の全盛期で、商工業・貨幣経済は衰え、ようやく十字軍運動を経てヨーロッパの貨幣経済が復活する。中世を通じヨーロッパでは国家による統一的な貨幣鋳造も、紙幣の発行もなかったことにくらべれば、アジア文明圏の経済と文化の優位性が認められる。宋代の商工業と貨幣経済は、元代にも受け継がれ、13世紀に始めて中国に渡来したマルコ=ポーロなどヨーロッパ人をして感嘆させることになる。
a 開封  → 開封
b 草市・鎮  → 草市
c 行 行には時代によって違う意味がある。古代の漢代までは、都市内の商業区域内で同業商店ごとに区画されて営業が認められていたが、そのような区画を行といった。古代においては市制によって縛られ、自由な営業はできず、夜間営業などもできなかった。それにたいして唐宋以後になると、市制は崩れ、新しい商業都市も発達してくるのに伴い、行は商人の同業組合を意味するようになった。行に加わった商人は営業権を独占し、相互の利益保護に努めた。行は業種ごとに作られたが、銀の両替などにあたる商人の組合が銀行と言われ、現在の銀行という言葉の起源となっている。清になると、政府から外国貿易を独占的に認められた広州の公行のような一種のギルドが出現する。
d 作 行が商人の同業組合であるのに対し、作は手工業の同業組合であった。唐末から宋にかけて、手工業が発達し、社会的分業が進む中で形成された。
宋銭 宋代では商業の発展を背景に大量の銅銭が鋳造され、流通した。日宋貿易で日本にももたらされ、貨幣を鋳造しなくなった日本では宋銭が広く流通した。中国でも、元、明時代を通じて流通した。宋の銅銭(宋銭)は、中国商人のジャンク船による交易活動によって、東アジア、東南アジア諸地域にひろがり、世界通貨として使用された。日本各地から大量の宋銭が発掘されているが、そればかりでなく、アフリカの東海岸のザンジバルなどでも宋銭が発掘されていることが、その広がりを示している。その結果、11世紀の中頃には銅銭の不足が深刻となり、その不足を補うため、紙幣(会子・交子)が使われるようになった。
e 交子 (北宋)に始まる、世界最古の紙幣。唐の後期に、飛銭という遠隔地どうしの貨幣の交換に使われた送金手形が現れたが、交子は宋代になって四川の成都の富商組合が約束手形として発行し、北宋の政府が1023年以降、引き継いで発行したもの。交子を扱う商人を交子鋪といった。南宋では会子と言われた。交子・会子はいずれも銅銭(宋銭)の不足を補って流通した。
中国での紙幣は宋の交子にはじまり、南宋で会子が発行され、金・元では交鈔が流通した。特に元の交鈔は大量に発行された。明では宝鈔と言われるようになる。宋、金では銀と交換ができたが、元になると乱発されたため、銀と交換できない不換紙幣となり、インフレをもたらす。
会子 南宋で発行された紙幣。北宋の大都市の金融業者が利用していた手形が発達し、南宋になってから1160年に政府が紙幣として発行した。まもなく不換紙幣となり、四川を除く全土で流通した。
四川  
f 佃戸 佃戸は土地の所有権を持たず、地主の土地を耕作して地代を納める小作農のことを言う。中国には古くから存在したが、一般化したのは宋代で、唐代の均田制下の農民が階層分化し、五代十国の時期に、地主層と佃戸が形成され、前者は宋代に形勢戸官戸などの富裕な農民となり、佃戸はさらに増大していったものと考えられる。宋以後の元、明、清でも大土地所有制の発展と並行して佃戸も増加した。佃戸は本来は奴隷ではなく、法的には自由民であったが、宋代には自由を制限され土地に縛られた隷属的な佃戸が多くなった。西欧封建制でのコロヌスから農奴への変化と対比することができる。佃戸の負担も時代と地域によって違うが、収穫の半分を小作料として負担することが通常であった。明代になると佃戸(小作農)による地主に対する小作農軽減を要求する闘争が始まる。明末清初に展開されたこの小作農の闘争を抗租運動という。
佃戸制 唐の後半の8世紀頃から、均田制が崩壊して大土地所収制度である荘園制が形成され、没落した均田農民は荘園の小作人である佃戸となっていった。宋代には荘園領主である貴族や大寺院に代わり地方に富裕な農民層が現れ、彼らは官戸形勢戸といわれ、地主として佃戸に土地を貸し与え、小作料を取るという土地経営を行った。そのような宋代以降、明清まで続く地主と小作人の関係を佃戸制という。この地主−佃戸関係については、佃戸の権利をめぐって封建的な農奴制と見るか、近代に近い契約的な関係と見るかという見解の対立がある。前者の見解では佃戸は地主から土地だけでなく住居、耕牛、種子を借りている隷属性の強い存在とし、後者は独立性の強い自由な小作人と見る。宋代にはその両面があり、次第に後者の面が強くなると考えるのが妥当であろうか。このような土地制度の枠組みは南宋、元を経て、明代には自立性を強めて小作料の減免を求め地主と争うようになった(抗租運動)。
g 江南の開発 江南とは、長江の南の意味で、広くは華南一帯をさすが、狭い意味では現在の江蘇省、浙江省の長江下流の三角州地帯を言う。この地域に漢民族が移住してきたのは、後漢から三国時代にかけてのことで、建業(現在の南京)を都とした呉の時代に開発が始まり、特に5世紀の南北朝時代、南朝のもとで開発が進んだ。隋代には大運河が造られ、江南は華北の政治的中心地域の穀物需要にとって重要な地域となった。宋代には湿地帯を堤防を造って干拓した囲田(その種類にう田、湖田などがあった)が現れ、さらにベトナムから旱に強い占城稲(チャンパ米)が伝わって生産力が高まり、「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」(「蘇湖」とは中心都市蘇州と湖州のこと。省名の江蘇と浙江の一字をとって「江浙」とも言う)と言われるようになった。 → 蘇湖(江浙)  →湖広
h 囲田 宋から南宋にかけて長江下流、江南地方の湿地帯に見られる、低湿地に堤防を築いて囲みこんで干拓し、耕作可能な土地にしたところを囲田という。河の一部や池を干拓したものをう、湖を干拓したものを湖田といい、囲田の一種である。これらの囲田が造営されたことで、江南地方の耕地は拡大され、穀物生産力が増大した。
う →う文字拡大 うでん。囲田とともに江南地方に見られる、河の一部や池を堤防で囲って干拓し、田地にしたところ。他に、湖の一部を干拓した田を湖田という。いずれも江南地方の稲作を支えた。
i 占城稲 現在のベトナム中部にあたるチャンパー(中国で占城と表記した)原産の稲の種類。宋の10世紀末に、干ばつがあった際、チャンパーから導入された。早稲種であったので、この導入により、従来の晩稲にあわせて、江南地方で二期作が可能になった。この結果、長江下流の江南地方は豊かな生産力をもつにいたり、宋代には「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」と言われるようになった。
蘇湖(江浙) 蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」とは、長江下流の蘇湖(江浙ともいう)地方が実れば中国全土の食料は足りる」という意味で、宋から南宋時代にかけての長江下流域の生産力と経済力が中国の中心となったことを意味する流行語。蘇湖(そこ)というのは、江蘇省の中心都市蘇州と、浙江省の湖州をいう。江浙(こうせつ)とは、江が江蘇省、浙が浙江省のことでいずれも長江下流の地域。この長江下流の江南の開発は、後漢末から始まり、三国時代、南北朝時代にすすみ、特に宋時代の10世紀末にチャンパー(ベトナム中部)から占城稲が導入され二期作が行われるようになってから生産力が向上した。しかし、15,6世紀以降は米作に代わって綿業の中心地帯となり、水田は桑畑に変じたため、穀物生産の中心は長江中流の湖広(ここう)地方に移り、「湖広熟すれば天下足る」と言われるようになる。 
j 景徳鎮 (宋) 北宋の皇帝真宗が、1004年、年号「景徳」を地名として授けた、と伝えられている。そこから起算すると、2004年で1000年目となる。良質な土と窯の燃料になる松が豊富であり、製品を搬出する水運が盛んだったことなどから、製陶業が発達し、世界的に有数な陶磁器の産地となった。現在は人口150万、市街地人口50万のうち、約8万人が陶磁器関連の仕事をしているという。長く各王朝の「官窯」として保護を受け、革命後は国営工場として運営されてきたが、最近は民間工場が進出し、国営工場の民営化がはかられている。<朝日新聞 2004年6月17日の記事による> → 景徳鎮(明)
纏足  → 13章 3節 纏足
方臘の乱
→ 文字拡大
北宋の末、1120年代には農民反乱が相次いだ。華北では宋江の乱、江南では方臘の乱が起こっている。宋江の乱は後の『水滸伝』のモデルとなったもので、宋江ら36人の豪傑が山東省の梁山泊に集まり、宋朝に反旗を翻したもの。方臘の乱は1120年、蘇州で起こった反乱。当時宋の徽宗(風流天子といわれた)は宮廷で贅沢な生活を送り、江南地方から銘木や珍石を集め楽しんでいたが、その徴発と運搬は農民の大きな負担となっていた。そんなとき、一種の宗教秘密結社を作っていた方臘が反乱を起こすと、たちまち農民が同調して江南一帯の反乱となった。驚いた徽宗は、遼との戦争に備えて15万の軍を鎮圧に差し向け、また山東の宋江を討伐軍に加えて鎮圧した。
Epi. カルト教団の教祖方臘 方臘という人物は、「喫茶魔事」という菜食して魔に仕える教団の首領であった。この教徒は肉食せず、神仏を拝まず、ただ日月を拝して真仏としており、「平等をむねとして、高下あることなし」という平等思想をもっていた。しかし、その教祖方臘は魔王、これを助けるものを魔母といって教徒は銭を献げて焼香していた。また人生は苦であるから、人を殺すのはその苦を救うことになので、これを度人といい、度人が多ければ成仏できるなどと説いていた。<周藤吉之/中嶋敏『五代と宋の興亡』1974 講談社学術文庫 p.318>
なお、方臘の乱の平定に参加した宋江と、『水滸伝』の主人公の宋江は別人との説もある。
オ.宋代の文化
宋代の文化 宋代(北宋から南宋まで)の文化をまとめると次のような特徴がある。
(1)革新的な文化 唐までの漢文化の伝統を継承しながら様々な分野で革新的な動きが見られる。その最も顕著なものが儒教に置ける朱子学(宋学)の登場である。絵画では文人画がそれにあたる。
(2)国際性の希薄化 宋代では唐の文化の国際性は希薄となり、より民族主義的、国粋的な傾向が強まり、唐後半から興った古文復興運動もそのような傾向に合致していた。
(3)士大夫を担い手とした文化 唐までの文化を支えた貴族階級は没落し、代わって台頭した士大夫と言われる新興地主層で儒教を身につけた知識人が科挙に合格して官僚となり、文治主義のもとで政治・経済・文化の中核となった。
(4)庶民文化の始まり 宋文化の主な担い手は士大夫であるが、宋詞や雑劇のような庶民文化が興った。また仏教では浄土宗が民間に広がり、木版印刷による出版など文化の受容は庶民層にまでひろがった。生産力の発展、経済の成長を背景として、実用的な文化が起こり、羅針盤・火薬・活版印刷の三大発明がもたらされた。
a 士大夫 したいふ。宋代の支配者階級を形成した階層。士大夫には次の三つの性格を持つと説明される事が多い。
 ・政治的には科挙に合格して上級官僚となったもの。
 ・経済的には新興地主形勢戸)であることが多い。
 ・文化的には儒教的教養を身につけた「読書人」。
明清では郷紳と言われるようになる。士大夫が、宋学の担い手になったことについて次のような説明がある。
「宋学の主体は誰であるか。それは「士大夫」にほかならない。宋学とは、士大夫の学なのであり、士大夫の思想なのである。士大夫とは何か。唐代、科挙制度の確立とともにおこり、宋代にいたって確乎不動の勢力となったところの独特の支配階級である。経済的には地主であることを例としたが、しかし、それは必ずも必須の条件ではない。士大夫の特徴は、なによりもまず、知識階級である点に、いいかえれば、儒教経典の教養の保持者たる点に、すなわち「読書人」たる点に求められる。いま少し周到にいえば、その儒教的教養(それは同時に道徳能力をも意味する)のゆえに、その十全なあり方としては科挙を通過して為政者(官僚)となるべき者と期待されるように、そのような人々の階級である。」<島田虔次『朱子学と陽明学』岩波新書1967 p.14>
b 宋学(朱子学) 宋代(北宋から南宋にかけて)に形成された、新しい儒教(儒学)を宋学という。宋学を大成したのが朱子(朱熹)であったので一般に朱子学ともいう。宋学の成立は、中国思想の中でも革新的なものであり、仏教・道教と並ぶ体系的な世界観を確立したことを意味し、朝鮮および日本を含む東アジア圏に影響を与え、儒教文化圏を形成することとなる。その革新性とは、古文の解釈を行う訓詁学が主流であった後漢の鄭玄以来の儒教(儒学)を、哲学あるいは実践倫理にまで高めたことにある。その点から、宋以前の儒学を訓詁学、宋以降の儒学を、その主張するところから性理学ともいう。
宋学の系譜:宋学の源流は唐の韓愈(韓退之)の思想にも見られるが、宋代のには次のような経過で形成された。
・北宋の周敦頤:宋学の始祖と言われ、仏教・道教の理論を導入して『太極図説』という宇宙論を展開し、聖人の道を示して士大夫に支持された。
(ていこう、程明道とも)・程頤(ていい、程伊川とも)の兄弟。二人で二程ともいう。:宋の神宗(王安石の改革の時期)。同時代の張横渠とともに、理気二元論、「性即理」を理論化した。
・南宋の朱熹(朱子):宋学を大成したとされる。朱子が大成した宋学のキーワードは、理気二元論、性即理、格物致知、大義名分論などである。<以下、宋学については主として島田虔次『朱子学と陽明学』岩波新書による>
理気二元論 宇宙万物の形成を、理(宇宙の根本原理)と気(物質を形成する原理)の一致として説明する存在論。古来の中国の思想を発展させ、北宋の程頤、張横渠が組み立て、南宋の朱熹が完成させた、宋学の存在論にあたる考え方。
性即理 朱子学(宋学)が人間の生き方(倫理)として最も重視したことで、性とは個別の人間に内在する本質であり、その内容は仁、義、礼、知、信の五常にほかならない。人間の心はこの性と情(感情、欲望)から成り立つが、情に動かされず、性に従って生きることが宇宙の根本原理である理に即することである、という考えを「性即理」という。この考えに対立したのが陸九淵や王陽明の「心即理」の考えである。 
格物致知 かくぶつちち、と読む。朱子学(宋学)の重視する方法論。「格」は至る、「物」はあらゆる物事を意味し、「格物致知」とは事物の真理を究明することを意味する。この言葉は『大学』に、「知を致すは、物に格(いた)るに在り、物に格り、しかるのち知、至る。知、至り、しかるのち意(こころ)、誠なり。意、誠にして、しかるのち心、正し。心、正しくして、しかるのち身、修まる。身、修まりて、しかるのち家、斉(とと)のう。家、斉のいて、しかるのち国、治まる。国、治まりてのち、天下平らかなり。」とあり、格物→致知→誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下という、最後に治国平天下にいたる方法論の第一歩とされた。 
大義名分論 北宋の政治家であり歴史家であった司馬光の歴史書『資治通鑑』で展開された、長幼の別、君臣の別、華夷の別(中華民族と周辺民族を区別し、漢民族を中国の正統とする考え)を明らかにした歴史論をもとに、南宋の朱熹『資治通鑑綱目』において論じた歴史論。その核心にある理念がである。本来の孔子の説く孝は家族の親和、忠は君臣の信頼関係を重視するものであったが、朱子学においては為政者にとって秩序維持に必要な理念として説かれるようになり、封建道徳に変質した。朝鮮、特に日本に伝えられた朱子学はその面だけが強調され、江戸幕府の統治理念とされた。しかし、大義名分論は幕末になると、反幕府勢力により、尊王攘夷論のバックボーンとされ、倒幕の理念となるという二面性があった。
華夷の別 中国古来の中華思想大義名分論と共に、宋の政治家司馬光『資治通鑑』において強調した理念であった。その背景には、北宋が北方民族の両によって燕雲十六州を奪われ、屈辱的なせん淵の盟を締結せざるを得なかったことことがあった。
c 周敦頤 しゅうとんい。周濂渓は号。11世紀、北宋の学者・思想家。特に、後に大きな影響を与える宋学の創始者の一人として重要。儒教のテキストとしては『易経』と『中庸』をもとにし、老荘以来の道家の思想も取り入れ、また仏教の理念との統合も試みた。主著の『太極図説』で陰陽五行説を展開させた宇宙論を提示した。これは単なる形式論ではなく、儒教の理念を宇宙観、哲学に高める役割を果たした。
d 朱熹(朱子) 12世紀の南宋の儒学者で宋学を大成した、中国思想史上の最も重要な人物。朱熹(しゅき)が名前で、朱子は尊称。朱熹は福建省に生まれ、科挙に合格したが、その新思想が当時は受け入れられず、ほとんどを地方の下級官僚ですごした。その間思索を深め、北宋の周敦頤に始まる宋学を体系的な宇宙哲学として完成させた。そこで宋学を「朱子学」ともいう。「朱子学」の内容は大きく四つに分かれる。
・存在論:程頤、張横渠の説を発展させた理気二元論。万物は理と気からなるというもので、それまでの儒教に欠けていた宇宙観、物質観を組み立てた。
・倫理学:人間の生き方を論じる。「性即理」の説。人間の本性と宇宙の根源を一致させた生き方によって聖人たることを目指した。
・方法論:聖人になる方法を説くことで、窮理(理を窮める)の説という。朱子は『大学』からとった格物致知をその方法論とした。
・古典注釈学:『四書集注』で、『大学』『中庸』『論語』『孟子』を四書として儒教の新しい基本文献とした。また、『資治通鑑綱目』で大義名分論を強調した。
他にも科挙の改正や、社会政策論などでも多面的に議論を展開している。
四書 五経と並ぶ儒教の経典の総称で、『大学』・『中庸』・『論語』・『孟子』の四つを言う。宋以前は、漢の武帝の時に定められた五経が儒教の基本経典として重んじられていたが、南宋の朱熹(朱子)によって孔子の存在が強調されて儒教の教祖として定着したことにより、孔子がまとめたとされる『礼記』から抜粋した古典である大学中庸、孔子の言行録の論語、孔子の説を発展させた孟子の言行録である孟子、の四書が加えられることとなった。五経に比べ、孔子・孟子の思想を発展させたのが儒教の思想であることをより明確にした。
『大学』 本来は『礼記』の中の一編であったが、南宋の朱子が特に重視して取り出し、四書の一つに加えて宋学の基本文献とした。特に「格物致知」から「治国平天下」にいたる宋学の基本となる方法論を含むため、最も重要な文献とされた。
『中庸』 本来は『礼記』の中の一編であったが、南宋の朱子が独立した書として取り出し、四書の一つに加えた。『中庸』は性善説に基づく人間観を展開しており、朱子の理念に合致するところが重視された。 
e 『資治通鑑』 しじつがん。宋の政治家、司馬光の書いた歴史書。周から五代までの生起した事柄を年月順に記述する編年体のスタイルの歴史書の代表的なもの。その著述は厳格な君臣の別、華夷の別を明らかにすることで貫かれており、為政者としての君主の範となる事例に豊富である。そのため南宋の朱熹(朱子)はこの書をもとに『資治通鑑綱目』を著し、大義名分論を完成させた。司馬光が華夷の別を特に強調した背景には、北宋が北方民族の両によって燕雲十六州を奪われ、屈辱的なせん淵の盟を締結せざるを得なかったことに対する悲憤があった。
陸九淵 りくきゅうえん。陸象山ともいう。12世紀後半、南宋の朱子と同時代の儒学者で、その論争相手として有名。陸九淵の思想は「心即理」に集約される。かれは朱子の「性即理」が心を「性」と「情」の二面からなり、そのうちの性を重視したのに対し、性と情は分析できず、渾然一体の物として理解すべきであり、それがそのまま理(宇宙の根本原理)であると主張した。その思想は、朱子の学説に対する反論として重要であったが、宋学の主流が朱子の学説によって占められることとなり、ようやく明代に王陽明よって取り上げられる。
f 欧陽脩 おうようしゅう。11世紀中頃の北宋の政治家、文章家として著名である。科挙に合格して官僚として神宗に仕え、重職を歴任しながら、同時代の王安石や司馬光と政策論を戦わし、また古文の復興につとめた名文家として、唐宋八大家の一人とされる。また、仕えた政治家でもあり、王安石の新法に対しては批判的で、王安石が権力を握ると辞任した。
その主著は歴史書として『新唐書』、『新五代史』があり、大義名分論に基づいて華夷の別を明らかにすることに努めた。
g 蘇軾 そしょく。11世紀後半の北宋の政治家、文章家。号を蘇東坡(そとうば)という。科挙に合格した士大夫として中央政界に入り、王安石に反対して旧法党の中心人物としても知られ、新法党によって二度の流刑に処せられた。その詩文は格調が高く、古文の復興をめざし唐宋八大家の一人に数えられている。
唐宋八大家 唐と宋で活躍した8名の文筆家。いずれも四六駢儷体のような技巧を排し、漢時代の古文の復興を唱え、それを実践した。唐の韓愈・柳宗元、宋の欧陽脩・蘇洵・蘇軾・蘇轍・王安石・曾鞏の八人を言う。
h 院体画 中国の各王朝では、唐の玄宗の時に創設された画院、正式には翰林図画院(かんりんとがいん)という宮廷の絵画制作を行う機関が置かれた。ここから多くの専門的な宮廷画家が生まれた。この画院で発達した画風が、花鳥を主な題材として写実と色彩を重んじる院体画であり、特に宋代では北宋の徽宗皇帝や南宋の夏珪馬遠などが現れた。宮廷画家の院体画に対し、在野の士大夫層出身者の画風を文人画という。文人画が元末から明にかけて流行し、南宗画(または南画)と言われるようになると、院体画は北宗画(北画)と言われるようになる。 → 明末の董其昌
i 文人画 宋代に盛んになった、士大夫層出身の文人たちの画を文人画という。文人とは儒教の学問と文学の教養を備えたシチキ人の意味。彼らは余技として書と画を好み、作画に親しんだ。このように文人画は専門の宮廷画家である院体画に対して、絵画を専門としない文人が余技として描いたもので、主として山水を自由なタッチで描いていた。北宋の蘇軾李公麟、米ふつ(べいふつ)→フツの拡大、南宋の梁楷牧谿(もっけい)が名高い。元末四大家が現れ、山水画の様式が確立され、明末の董其昌によって南宗画(南画)と言われるようになる。
宋磁 宋代は中国の陶磁器の歴史の中で、最も変化に富んだ、また盛んになった時代だった。唐代に盛んになった磁器の白磁青磁がさらに洗練され、形も壺や花瓶だけでなく、飲茶用の茶碗や食器用の皿などに広がり、後の窯業の中心地の一つである景徳鎮もこの時代(1004年)に始まった。これらを総称して宋磁と言っている。宋代の陶磁器は朝鮮・日本など周辺諸国にももたらされ、大きな影響を与えた。宋代の陶磁器は白磁・青磁が有名であるが、他に飲茶用の黒釉の椀、建盞(けんさん。日本にも輸入され、茶人が愛好し、天目茶碗と言った)も知られている。
 白磁 中国の陶磁器の中の磁器の一種類で、白色の素地に透明な釉薬をかけて高温で焼いたもの。「雪のように柔らかい感じの白い肌」と言われ、透き通った白一色が端正な美しさを持っている。白磁は南北朝の終わり頃に始まるが、唐代に発達し、次の宋代に最盛期を迎え、青磁とあわせて宋磁と言われる。宋代の白磁の産地としては河北省の定窯が名高い。華南地方の景徳鎮では青みを帯びた白磁が作られるようになり、それは影青(いんちん)と呼ばれている。
 青磁 中国の陶磁器の中の一種類で、釉薬として鉄分を含む灰を用いて高熱で焼いて、独特の明るさのある青緑色の色調を出している。青磁は三国時代に始まり、唐代に発達し、宋の時代には白磁と共に最盛期を迎えて宋磁と言われている。宋代の青磁の産地としては浙江省の竜泉窯が有名である。また青磁は朝鮮にも伝わり、特に高麗で発達し、高麗青磁という独特の磁器が生まれた。
k 詞 中国の民間に発達した韻文の様式の一つで、唐ではじまり、五代を経て宋で完成された。琴を伴奏に、長短の詩を歌うもので、西域の旋律の影響を受け、異国的な情緒の中で可憐な女性の姿を歌ったものが多いという。
雑劇 北宋で生まれた中国の古典演劇。歌と台詞つきで演じる歌劇。金の時代にも民間で発達し、「院本」とよばれ、さらに元代に元曲(または北曲)として盛んになる。
l 禅宗 仏教の一派である禅宗は、中国独自に発展したものである。大乗仏典の『般若経』にある空の思想に中国の老荘思想が融合して、独自の精神文化を形成した、ということができる。経典などを学ぶよりもひたすら瞑想することによって悟りを開く(不立文字)ことを説く自力仏教として発展した。中国に禅を伝えたのは6世紀の初め、インドから来た達磨であるが、8世紀の唐代に慧能が独自の発展させた。中国禅宗の有名な寺が河南省の少林寺で、唐王朝との特別なつながりが強い。さらに宋代には禅宗は士大夫層に受け入れられ、民間に広がった浄土教と共に中国仏教の主流となった。禅宗は奈良時代には日本に伝えられることが無く、鎌倉時代に宋にわたった道元、英才らによって伝えられた。道元は曹洞宗を開き、栄西は臨済宗を開いた。
浄土宗 南北朝時代に始まった末法思想の中から、苦難に満ちた現世から離れて極楽浄土に往生しようという浄土思想が起こった。このような仏教の一派を浄土教といい、宗派としては浄土宗という。浄土教の思想は東晋の慧遠に始まり、6〜7世紀の曇鸞(どんらん)、道綽(どうしゃく)をへて、唐時代の善導によってその信仰は深められ、禅宗などの難行に対して、一切を阿弥陀仏によって救済されることを信じる他力本願であり、誰でもできる易行を説いて民衆に広がった。特に宋代にはいると民間の仏教として浄土宗が主流となった。浄土宗の系統は、蓮教とか白蓮教といわれ、南宋末には弥勒仏信仰と結びついて民間教団を作っていく。また日本では平安時代の源信の往生要集などによって始まり、法然が専従念仏を説いて浄土宗の開祖となり、さらに鎌倉時代の親鸞が悪人正機説などを体系化して浄土真宗(一向宗)を開いた。日本でも浄土教系の宗派は度々弾圧され、また一向一揆のように民衆蜂起の精神的紐帯となったが、中国においても、元の紅巾の乱にとどまらず、明代にも白蓮教徒の乱が起こっている。  
漢訳『大蔵経』 大蔵経とは一切経とも言われ、仏教の経(釈尊の教え)、律(僧侶の生活規範)、論(経の注釈書)の「三蔵」と、仏教の解説書などをすべて含む仏教典籍の総称である。宋の太祖(趙匡胤)の時、国家的事業として漢訳『大蔵経』の刊行が始まった。『大蔵経』刊行は膨大な版木を作り、木版印刷するもので「宋版」という。宋版は1239年に完成したが、それより前の1236年には朝鮮で高麗版大蔵経が刊行され、現在も韓国の海印寺に保存されている。  
m 全真教 12世紀中頃、金代の華北で王重陽が起こした、道教の改革をかかげた新道教の一派。道教は宋王朝でも唐代に続き保護されたため、道観は仏教寺院とともに大土地所有を進め、多くの佃戸を抱えて豊かになり、中には高利貸しを営むところも現れ、民衆から離れ堕落していった。そのような道教の革新を唱えたのが金に支配された時代に現れた王重陽であり、不老長寿などの現世利益には重点を置かず、禅宗色を強めて、さらに儒教の教義も取り入れた。このような三教融合によって成立した新道教が全真教である。以後この全真教は、華南の旧来の道教を継承した正一教と勢力を二分していく。
王重陽 おうじゅうよう。王てつ(おうてつ)→テツの拡大とも言う。12世紀中頃、金の支配下の華北で、道教の改革を唱え、全真教を起こした道士。道教に仏教(特に禅宗)・儒教の教義を取り入れ、新道教と言われる改革を行った。 
正一教 せいいつきょう。華北の新道教である全真教に対して、江南地方で従来の天師道系の道教を継承したのが正一教。 
n 木版印刷 印刷術も最初は木版印刷として中国で始まった。木版印刷は、一枚の木版に数行の漢字の文章を凸版で彫り、一枚の紙に印刷する「一枚刷り」で、8世紀後半に唐代に広く行われるようになった。製紙法の普及と共に、暦や経典が大量に印刷されるようになった。宋の時代には文治主義のもとで、民間の印刷業が発達した。特に漢訳『大蔵経』が宋代に刊行が始まった。
Epi. 現存する最古の印刷物は日本にある 印刷物として現存する最古のものは、中国ではなく、日本に残っている。孝謙天皇の勅願で百万の三重小塔を作ることが計画され、六年の歳月を経てこれが完成され、奈良を中心とした諸寺に寄進された。それは770年のことで、現在法隆寺に三百基が残っている。この小塔の中には災厄をはらう呪言を印刷した陀羅尼が納められており、これが最古の印刷物である(百万塔陀羅尼)。この印刷技術は唐から伝わったものと考えあれるが、中国で現存する最古の印刷物は敦煌出土の868年に印刷された金剛般若波羅密経である。<藪内清『中国の科学文明』岩波新書p.114>
o 活字印刷術 11世紀の半ば、北宋の慶暦年間に畢昇(ひっしょう)という工人が活字印刷を発明した。この活字は土を固めたもので、鉄板の上に蝋を流し、その上に活字を並べ、上から紙をあてて印刷した。やがて木活字がつくられ、13世紀はじめには朝鮮(高麗)で金属(銅)活字が使用されるようになった。
印刷術は製紙法の伝播と違い、すぐには西方に伝わらなかった。それは中国に来ていたイスラーム教徒には、コーランを印刷することは神を冒涜することと思われていたためである。ようやく、モンゴルが中国を支配した13世紀になって、直接に元時代の中国にやってくるようになったヨーロッパの商人や宣教師によって、中国では紙幣を印刷していることが知られ、14世紀の末にイタリアで印刷業が起こった。中国では漢字の性格上、木版印刷が盛んであったが、文字数の少ないアルファベットを使用するヨーロッパでは活字印刷が急速に普及した。<藪内清『中国の科学文明』岩波新書p.114-118> 
p 羅針盤 磁石が南北を指すことを発見したのは中国人が最初である。すでに後漢で、運勢を占う道具として使われており、六朝時代には方角を知るのに役立てられるようになり、木でつくった魚の腹に磁針をはめこみ水に浮かべて方角を知る指南魚というものがつくられた。宋時代の11世紀になると外洋用の大型船ジャンク船にも使われるようになり、中国商人の「海の道」での活躍をもたらし、それが中国に来航していたアラビア人(ムスリム商人)によって知られ、さらにヨーロッパに伝わった。ヨーロッパで磁針をピボットに支えるように改良され、羅針盤が発明された。明の鄭和の大航海でも羅針盤が使われた。<藪内清『中国の科学文明』岩波新書p.85-87などによる>
q 火薬 宋は、遼や西夏など異民族との戦争が絶えなかったので、多数の兵力を得るとともに、軍事技術の改良に努めた。その中で、火薬が兵器に使われるようになった。