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第4章 内陸アジア世界の変遷
1.遊牧民とオアシス民の活動
ア.遊牧民の生活と国家
a 乾燥気候  
b 遊牧民 遊牧というのは、牧畜の一形態で、家畜の飼育に適した環境を求めて、季節ごとに移動を繰り返す牧畜形態を言う。けして無計画に移動するのではなく、ほぼ一定の地域を一定のサイクル(夏営地と冬営地)で移動するのが通常であるが、農耕民や定住牧畜民と違って都市や村落を形成せず、常に移動に便利なテント式の住居(ゲルとか、パオという)を用いる。家畜は羊、山羊、馬、牛、ラクダが主なもので、食料、住居などあらゆるものを家畜に依存する。通常は部族ごとの集団で行動し、血縁的原理が重視される社会である。遊牧社会では富の蓄積には適さず、自然条件の変化に左右されやすい生活を送っているので、農耕民との交易による物資の調達は重要であり、時として略奪行為に及ぶことが多かった。交易と略奪の境界はあいまいだったようである。彼らは騎馬技術に優れているので、それを軍事力に活用して征服活動を行ったのが騎馬遊牧民である。
世界史上、重要な遊牧民は、西アジア・中央アジアの乾燥・草原地帯で活動した、アラビア人、トルコ人、モンゴル人である。現在ではほぼ定住化しているが、少数の遊牧生活を送る部族が西アジア、中央アジアの他、アフリカなどに存在している。彼らはユーラシア大陸の各地で遊牧国家をつくりだしてきた。
c 騎馬遊牧民 特に騎馬戦術を取り入れて、周辺の農耕民族を従えて強大な国家を作った遊牧民。遊牧民にとって馬は最も重要な移動用家畜であっただけでなく、農耕民との戦闘に際してその騎馬技術が大きな戦力となった。そのような騎馬技術に優れた遊牧民を騎馬遊牧民、あるいは遊牧騎馬民族、単に騎馬民族ともいう。彼らは、ユーラシア大陸の東西を結ぶ草原の道(ステップ=ロード)で活動し、時としてオアシスの道(シルクロード)に侵出して、オアシス農耕民や商業民族を支配下に置き、強大な国家を作ることがあった。騎馬遊牧民が作った国家は遊牧国家という。世界史上に登場する主要な騎馬遊牧民には、前7世紀頃の南ロシア草原のスキタイがその最初であり、ついで匈奴五胡イラン系トルコ系モンゴル系の騎馬遊牧民がほぼ15〜16世紀頃まで興亡した。
遊牧民の定住地帯への移動 9〜10世紀、内陸アジアでは遊牧民が定住地帯に移動して定住民化した。それはウイグル人の東トルキスタンへの定住、カルルク人のカラ=ハン朝の建国、セルジューク族の定住化などの動きであり、それに伴って中央アジアのトルコ化が進み、並行してイスラーム化も進んだ。一方、中国では契丹の遼を初めとして金、元、清という騎馬民族系の征服王朝が生まれていく。これらは、かつての匈奴帝国や突厥帝国が草原を本拠にして農耕地帯を支配したのに比べ、農耕地帯に移住して定住するようになったことが異なる。遊牧世界の大きな変化であるが、その変化が何故起こったかはまだよく分かっていないが、ウイグル人のマニ教や、セルジューク人のイスラーム教のような都市的な宗教を受容したこととの関係を指摘する説もある。<間野英二ら『地域からの世界史8 内陸アジア』1992 p.57-60>
騎馬遊牧民の時代の終わり ユーラシア内陸での騎馬遊牧民の活動は、13世紀のモンゴル帝国の成立をピークとして、16世紀頃まで続く。しかし騎馬遊牧民の活動は15世紀末に始まる「地理上の発見」による交易ルートの海上への移動したこと、さらに16世紀に戦闘形態が騎馬戦術かr鉄砲や大砲などの火器を利用されるようになったことによって、衰える。騎馬遊牧民の「陸上交易」と「騎馬戦術」という機能の価値を低下させたためである。かつてマムルークとして知られた騎馬遊牧民の代表であるトルコ系民族の後裔であるオスマン帝国が、従来の騎士に代わって、鉄砲を持った歩兵であるイエニチェリを新戦力にするという転換を行ったのも戦闘形態の変化に対応したことであった。またモンゴル高原では18世紀に最後の遊牧国家ジュンガルが清朝によって滅ぼされ、19世紀後半にロシアの南下政策によって中央アジアの三ハン国や遊牧民トルクメン人がロシアの支配下に入ったことが、騎馬遊牧民の時代が終わったことを示している。
d 遊牧国家 ユーラシア大陸内陸の広大な草原、砂漠地帯で遊牧生活を送っていた遊牧民の中の、すぐれた騎馬技術を持つ騎馬遊牧民が、騎馬戦術による武力と、交易ルートを抑えることによって獲得した富をもとに、周辺の遊牧部族や農耕民を征服して建設した国家。典型的な遊牧国家としてあげられるものは、匈奴帝国柔然突厥帝国ウイグル契丹セルジューク朝モンゴル帝国などである。
イ.スキタイと匈奴(遊牧国家の形成)
 スキタイ 紀元前7世紀から前3世紀ごろ、パミール高原の西部、ヴォルガ川までの黒海北岸で活動した騎馬遊牧民。スキタイはギリシアの歴史書に現れる。ペルシア人は彼らをサカ人と呼んだ。言語的にはイラン系に属するとされる。ユーラシア大陸の騎馬民族として最初に登場する民族であり、西アジアのヒッタイトなどから鉄器の製造をまなび、それを東方に伝え、他の遊牧騎馬民族に大きな影響を与えた。スキタイ人の存在は、ヘロドトスの『歴史』でも知られるが、黒海北岸の南ロシアから中央アジアにかけて、彼らの墳墓が多数発見されている。3世紀にゲルマン民族のゴート族に滅ぼされた。
a スキタイ文化 騎馬遊牧民であるスキタイ人の文化。騎馬の技術、馬具、武器に施された動物紋などが特徴。紀元前1000年紀に中央ユーラシアに広く影響を与えた。
 遊牧国家の形成  
a 匈奴  第2章 3節 カ.漢代の政治 匈奴
b 単于 匈奴国家の君主の称号で、「広く大きい」の意味のモンゴル語からきた。ぜんう、と読む。鮮卑、、羌でも単于が用いられた。柔然や突厥以後の民族では、王位は「可汗」(かがん)と称された。
c 漢民族  第2章 3節 漢民族(漢族) 
d 長城  第2章 3節 オ.秦の統一 万里の長城
e 秦の始皇帝  第2章 3節 オ.秦の統一 始皇帝
f 烏孫  第2章 3節 カ.漢代の政治 烏孫
g 月氏 民族名を月氏という遊牧民族であるが、その系統はイラン系ともトルコ系とも言われるが、モンゴル系説、チベット系説もあり、はっきりしない。中国の戦国時代頃に甘粛地方・タリム盆地東部で中継貿易に活動していたが、前2世紀の末に冒頓単于率いる匈奴に敗れ、その主力は西方に逃れ、天山山脈の北に移動し、さらに烏孫に圧迫されて西方のアム川下流から上流域に移った。その部族を大月氏と言い、河西地方(甘粛)に残ったのが小月氏と言われる。
h 中継貿易 自らの産出した物資ではなく、他から物資を仕入れ、それを遠隔地に運んで売却することによって利益を得る貿易形態。古くから内陸部の隊商貿易、海洋でのアラビア商人などによって行われていた。近代以降も、ポルトガルやオランダなどはも自国の産物を売りさばくのではなく、ヨーロッパ各地で仕入れたものをアジアやアメリカ大陸にもたらし、そこから原料を他のヨーロッパ諸国に提供するという中継貿易で利益を上げていた。
i 大月氏  → 第2章 3節 漢代の政治 大月氏
トハラ(大夏) トハラは中央アジアの地名で現在のアフガニスタン北部。トカラとも表記。中心都市はバルフ(現在はクンドゥーズ)。この地は東西貿易で栄え、前3世紀にはバクトリア王国の支配を受けた。やがてトハラは自立しバクトリアを滅ぼしたが、前2世紀に大月氏が進出し、征服された。中国側の史料「大夏」として現れるのがトハラであると考えられている。
 匈奴帝国の全盛期  
a 冒頓単于 ぼくとつぜんう。前3世紀末から前2世紀初頭の匈奴帝国最盛期の単于。父の頭曼単于を殺して単于の位につき、秦に奪われた地を回復し、月氏を討って西方に敗走させ、広大な帝国を完成させた。モンゴル草原の中央に本営を置き、それより東を左、西を右として、左賢王・右賢王などを置いて分治させ、騎馬と騎射にすぐれた30万以上の騎兵兵力を有していた。前200年、漢の高祖の軍を平城付近の平登という丘で7日間に渡って包囲し、高祖の軍を破った。敗れた高祖は、特使を冒頓単于のもとに送り、王室の女性の公主(天子の娘)を単于の妻としてさしだし、毎年、絹、まわた、酒、米などを贈りもとする和議を結んだ。
b 月氏  → 月氏
c 漢の高祖(劉邦)  → 第2章 3節 カ.漢代の政治 高祖
 匈奴の衰退  → 第2章 3節 カ.漢代の政治 匈奴
a 武帝  → 第2章 3節 カ.漢代の政治 武帝の統治
b 西域 さいいき、またはせいいきとよむ。中国から見て、西方の地域という意味だが、狭い意味では東トルキスタン(現在の中国の新疆ウイグル自治区)をさす。北を天山山脈、南を崑崙山脈に挟まれたタリム盆地に広大な乾燥地帯が広がり、古来、遊牧民の活動舞台であり、隊商が行き交うシルク=ロードが東西に延びていた。漢代にはタリム盆地のオアシス都市国家を西域三十六国と称し、前59年、この地を支配するために西域都護を設置した。さらに、唐は北庭都護府・安西都護府を置いて西域を経営した。西域の入り口にあたる要衝が敦煌で、その西に玉門関と陽関があった。長安から敦煌にいたるまでを河西回廊といい、匈奴と漢民族の抗争の場となったところである。
 五胡の活動  → 第3章 1節 ア.北方民族の動向 五胡
a 鮮卑  → 第3章 1節 ア.北方民族の動向 鮮卑
b フン人  → 第6章 1節 ア.ゲルマン民族の大移動 フン族
a 柔然 5世紀以降、モンゴル高原で活動した遊牧民族で、モンゴル系と言われる。その王は可汗と称する。東トルキスタンに進出し、タリム盆地の東西交易路を抑えて有力となる。5世紀には、北魏と対抗したが、太武帝によって討たれてから衰え、6世紀中頃、トルコ系の突厥に滅ぼされる。
可汗 
b エフタル  → 第1章 1節 古代オリエント世界 パルティアとササン朝 エフタル
ウ.オアシスの生活
a オアシス 砂漠地帯で、地下水が地表に湧き出る場所がオアシスである。広大な砂漠の地下にも、遠く離れた降雨地帯の雨水が地下水となって地下水脈を流れ、ところどころで地表に湧き出ている。そのようなオアシスは砂漠を旅する人々にとって命をつなぐ場所であり、人々は砂漠の島のようなオアシスをたどりながら移動した。大きなオアシスには周辺にナツメヤシなどの作物を耕作することもでき、農耕民や商人が定住して、オアシス都市を形成した。
例題 08年 早稲田大文化構想  オアシスに関連する次の文章のうち、誤りを含むものはどれか。
 ア.オアシスには河川の雪どけ水や地下水を耕地の灌漑に利用するものが多い。
 イ.オアシスは、ふつう、寺院やバザールのある市街地と農業が営まれる農村部からなる。
 ウ.オアシスは隊商交易の中継地として、東西交易に重要な役割を果たした。
 エ.オアシスの民は、東西交易路の支配権をいつも保持し、東西交易の利益を享受した。
   解答 →    
b オアシス都市 砂漠地帯のオアシスに形成された都市。中央アジアの東西トルキスタン、西アジアのアラビア半島、アフリカのサハラ砂漠など広大な砂漠のなかにもオアシス都市が見られる。特に、中央アジアではシルク=ロードの交易路であるタリム盆地に多くのオアシス都市が点在している。それらオアシス都市は、東西貿易の拠点となるので、常に周辺の民族の興亡の影響を受け、政治的には不安であった。 
c タリム盆地 現在の中国の新疆ウイグル自治区にあたる、パミール高原の西、天山山脈と崑崙山脈に南北を挟まれた、広大な盆地。ほとんどが砂漠(タクラマカン砂漠という)であり、人間は居住できないが、北の天山山脈の南側、南の崑崙山脈の北側はそれぞれシルク=ロードの東西交易ルートとなっており、多くのオアシス都市が生まれた。これらのオアシス都市民はソグド人などイラン系民族であった。やがてモンゴル高原から南下する遊牧民の匈奴に支配されていたが、漢の武帝の時、張騫が派遣されてから西域と言われるようになり中国人が進出した。次いで柔然や突厥などの遊牧帝国もこの地に進出し、唐との争奪戦が展開された。唐はこの地のクチャ(亀茲)、ホータン、カシュガル、カラシャフルに安西四鎮といわれる都督府を置いて統治した。突厥につづいてモンゴル高原を支配したトルコ系民族のウイグル帝国がキルギスによって滅ぼされた後、ウイグル人がこの地に入りオアシス都市に定住するようになった。トルコ系遊牧民であったウイグル人がこの地に定住するようになってトルコ化が進み、この地は東トルキスタンと言われるようになった。ウイグル人が進出したパミール高原の西、アム川・シル川にはさまれた一帯は西トルキスタンという。
例題 08年 早稲田大文化構想  次の都市のうちタリム盆地に存在するオアシス都市はどれか。
 ア.カシュガル   イ.カーブル   ウ.サマルカンド   エ.ブハラ
   解答 →  
敦煌 → 第2章 3節 カ.漢代の政治 敦煌
高昌 
楼蘭 
クチャ(亀茲) タリム盆地の北辺に位置するオアシス都市で、シルク=ロードの重要な中継地。漢代以来の西域経営の拠点の一つで、漢代には西域都護府、唐代には安西都護府が置かれた。また東西交流の要地としても重用で、仏教が早くから伝えられ、4世紀に中国で仏教布教にあたった仏図澄はクチャの出身者の西域の人であった。また鳩摩羅什は父はインド人で、母は亀茲王の妹という。また仏教の石窟寺院も造られている。
ホータン 
カシュガル東トルキスタン・タリム盆地の西の端にあるオアシス都市で、中国では疏勒という。現在は新疆ウイグル自治区の一都市。かつてはシルクロードの天山南路にあって最も栄えた都市の一つ。唐の時代には都護府が置かれ、安西四鎮の一つといわれた。
e 隊商交易 中央アジアの草原や砂漠地帯のオアシスをたどりながら、広範囲な東西の交易に従事した商人たちは、ラクダや馬に乗り、荷物を運んだ。そのような商人たちの交易を隊商交易という。隊商を意味する言葉であるキャラバンはペルシア語に由来する。そのルート沿いのオアシス都市につくられた隊商宿をキャラバン=サライという。