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4.主権国家体制の形成
ア.イタリア戦争と主権国家体制
A イタリア戦争(広義)15世紀末から16世紀中頃までの50年以上にわたって断続的に展開された、フランスと神聖ローマ帝国(スペイン・ドイツなど)との間のイタリアをめぐる戦争で、近代的な主権国家体制の形成を促したとされる、重要な歴史的意義を有する。
フランスはヴァロワ朝のもとで国家統一をとげ、王権を更に強化しようとしていたが、神聖ローマ帝国は婚姻政策を展開してネーデルラントなどのフランスの周辺に領土を獲得し、さらに北イタリアに進出してきたので、フランスにとって大きな脅威となった。当時北イタリアはミラノ、フィレンツェ、ジェノヴァなど高い経済力を持ち同時にルネサンス文化の舞台として繁栄していたが、政治的には分裂抗争を繰り返していた。さらにその背後にローマ教皇が政治勢力としてイタリア中部に存在し、フランス王、神聖ローマ皇帝の力を利用し、あやつりながら、権力の維持と強化を図っていた。そのような複雑な北イタリアの情勢に、フランス王が介入することによって始まったのがイタリア戦争である。
イタリア戦争は、広い意味では1494年のフランス王シャルル8世のイタリア侵入から、1559年の講和条約であるカトー=カンブレジ条約締結までをさすが、その後も数度にわたる戦闘が継続され、狭い意味では1521年から44年に展開された、フランス王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世の4回にわたる戦闘を「イタリア戦争」(またはイタリア戦役)という。
※イタリア戦争の経緯
(1)1494〜95 仏王シャルル8世のイタリア侵入 → イタリア戦争の勃発
(2)1499 仏王ルイ12世がミラノ公国の継承権を主張し介入。ミラノのルドヴィコ=イル=モロ(スフォルツァ家)を追放。北イタリアに進出。→1501年 フランスと結んだローマ教皇アレクサンドル6世チェーザレ=ボルジアに命じて教皇領の拡大を図る。→1503年、教皇アレクサンドル6生没。11月新教皇ユリウス2世即位し、ボルジア家没落。 →1508年、ユリウス2世はフランスの進出に対抗するため、スペイン、ヴェネティア、スイスと神聖同盟を結成。
(3)1512 仏王ルイ12世 教皇ユリウス2世の神聖同盟軍と戦い(ラヴェンナの戦い)敗れて北イタリアの領土をなくす。→13年、教皇ユリウス2世死去。メディチ家出身のレオ10世即位。
(4)1515 仏王フランソワ1世がミラノ攻略をめざし北イタリアに進出、マリニャーノの戦いでスイス傭兵を中心とした神聖同盟軍を破る。1517年、ドイツに宗教戦争始まる。1519年、ハプスブルク家のカールが神聖ローマ帝国皇帝に当選し仏王フランソワ1世との対立関係激しくなる。
(5)1521〜44年 仏王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世のドイツ・スペイン連合軍との戦闘。狭い意味でのイタリア戦争はこの間の戦闘を言う。この間並行して東方からオスマン帝国スレイマン1世の侵攻が脅威となる(1529年第1回ウィーン包囲)。
(6)1544年、クレピーの和約 カール5世とフランソワ1世の講和 → これを受けて翌年のトリエント公会議開催。→1547年フランソワ1世没、アンリ2世がフランス国王となる。カール5世も1555年に引退、フェリペ2世がスペイン王となる。
(7)1557年には、フェリペ2世がイギリスのメアリ1世に要請しフランスに出兵。翌年、アンリ2世、百年戦争以来フランス内に残っていたイギリス領のカレーを奪回。
(8)1559年 カトー=カンブレジ条約で和議成立する。
a シャルル8世 フランスのヴァロワ朝の国王(在位1483〜98)。ルイ11世の子。1491年、ブルターニュ公の娘アンヌと結婚し、ブルターニュをフランス領に編入し王領を拡大した。さらに1494年、ナポリ王国の王位継承権を主張してイタリアに侵入、イタリア戦争の勃発(広義のイタリア戦争)となった。一時ナポリに入城したが、ローマ教皇、ヴェネツィア、スペイン、神聖ローマ皇帝などの反フランス同盟が形成されたので、急遽撤退した。シャルル8世のイタリア遠征は、ルネサンス全盛期のフィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィアの三大都市国家、ローマ教皇、ナポリ王国などに大きな衝撃を与え、16世紀の激動をもたらす前触れとなった。
Epi. 「王妃の離婚」 イタリア遠征から帰国後、シャルル8世はまもなく事故死し、ついでルイ12世がフランス王となった。ルイ12世にはこんな話がある。アンドレ=モロワの『フランス史』から、その話を引用しよう。「一四九八年、僅か二十八歳で、彼(シャルル八世)はアンボワーズ城の、低い門の破損した石の角に額をぶつけて、数時間の後に死んだ。……従兄のオルレアン家のルイが後を継いだ。詩人、シャルル・ドルレアンの嫡子である新王は三十六歳の若者で、魅力あり、痩せ形で、人に愛され、また愛されるにふさわしい、良き騎士だった。……彼は密かに、先王妃アンヌ・ド・ブルターニュに恋していた。彼女が寡婦となった今、彼はアンヌのためにも、又、ブルターニュのためにも、彼女が自分の妻になってくれることを願った。不運な巡り合わせには、彼は既に、ルイ十一世の娘の『小柄で色黒で猫背の女』ジャヌ・ド・フランスと結婚していた。法王アレッサンドロ六世の子、チェーザレ・ボルジアは、金と土地との莫大な償いを受けて、その結婚を無効にする手続きをとってくれた。結婚はルイ十一世によって強制されたものであったから、取り消しの可能性はあった。かくしてブルターニュ地方はフランスの手中にとどまり、『華車なブルターニュ女』は最初の王同様に第二の王にも熱愛されて、王妃の位にとどまった。」<アンドレ=モロワ『フランス史』1947 新潮文庫 上p.172>
なお佐藤賢一の小説『王妃の離婚』は、この時の離婚裁判を、ジャンヌの側から描いている。
b 神聖ローマ皇帝(カール5世を選出)1519年、皇帝マクシミリアン1世が亡くなるに際し、神聖ローマ皇帝が選挙されることになった。神聖ローマ帝国皇帝(ドイツ王)は、金印勅書以来、七選帝侯によって選出されることになっていた。このとき、スペインのであったハプスブルク家のカールがマクシミリアンの孫として皇帝選挙に立候補したが、対抗してフランス国王フランソワ1世も立候補した。フランソワ1世は、ハプスブルク家のスペイン王がドイツ王を兼ねることになれば、フランスはそれに包囲されることになるのでなんとしても阻止しようと考えた。カールにとっても、フランス王が神聖ローマ皇帝になれば、スペインとネーデルラントなどのハプスブルク家領は分断されることになり、なによりも神聖ローマ皇帝のもとでのヨーロッパの統合を意図していたので、負けるわけにはいかない選挙戦となった。カールとフランソワはそれぞれ選帝侯の買収につとめたが、カールは豊かなネーデルラントを抑えており、またドイツの富豪フッガー家が資金援助を受け、皇帝に選出された。
Epi. 神聖ローマ皇帝選挙での買収合戦 「選挙は、明確にハプスブルク家とヴァロワ家の間で争われ、運動資金は湯水のように流れた。それは、名誉表彰の記念品の形で贈られたり、年金や贈賄の形で選帝侯たち自身や、影響を与えそうな顧問官たちに渡された。ハプスブルク家は、票の買収のために約八五万二〇〇〇グルデンを使ったが、このように巨額な貨幣は、フツガー家の銀行の授けを得てのみ調達されえたのであった。一五二〇年に作成された帝室財政の清算書によると、その六〇パーセント以上にあたる五四万グルデン余をフッガー家の融資に拠っていたのである。」<世界各国史『ドイツ史』旧版 p.164> 
B フランソワ1世 フランス・ヴァロワ朝の国王(在位1515〜47)。義父ルイ12世の外交政策を引き継ぎ、イタリア戦争を継続、神聖ローマ皇帝カール5世のハプスブルク家勢力との激しい戦いを続けながら、絶対王権の強化に努めた。またこの時期にフランス・ルネサンスを開花した。
イタリア戦争:1515年にはミラノを攻略し、スイス傭兵部隊を破った(マリニャーノの戦い)。1519年、ハプスブルク家のカール5世と神聖ローマ帝国皇帝選挙を争って敗れると、ハプスブルク勢力によってフランスが包囲されるのを恐れ、翌年にはイギリス王ヘンリ8世と会見して提携を探った。しかし、ヘンリ8世とは結局、同盟はならなかった。そこで1521年に再びイタリアに侵攻したが、1525年のパヴィアの戦いではハプスブルク家カール5世ののスペイン軍の捕虜となり、マドリッドに送られて幽閉された。屈辱的な条件でフランスに帰ったが、こんどはオスマン帝国のスレイマン1世と手を結び(カピチュレーションを認められた)、反カール5世の戦闘を続けた。1544年のクレピーの和約でいちおうの決着をつけたが、イタリア戦争は次のアンリ2世の時まで続いた。
フランス・ルネサンスの開花:国内政治では王権の強化に努め、コレージュ=ド=フランスを設立するなど、ルネサンス期の文化の保護にもあたった。レオナルド=ダ=ヴィンチをフランスに迎えたことでも知られている。また、ローマ教皇レオ10世との間でコンコルダート(政教和約。この時はボローニャ政教協約という)を締結し、フランス国内の教会の聖職者任命権をフランス国王に認めさせた(ガリカニスム)。
a カール5世 → 第9章 3節 カール5世
b イタリア戦争(狭義)  1521〜44年のフランス国王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世のドイツ・スペイン連合軍との戦闘。フランスと神聖ローマ帝国のイタリアをめぐる争いである広義のイタリア戦争は1494年から始まっていたが、1519年のカール5世の神聖ローマ皇帝選出によって両者の対立はより深刻、広範囲なものとなった。カールの神聖ローマ皇帝選出によってハプスブルク家領がドイツ、ネーデルラント、ミラノ、南イタリアなどにおよぶこととなり、フランスが包囲されることに危機感を持ったフランス王フランソワ1世が、ハプスブルク軍に対しピレネー方面とイタリア方面で全面的な戦争を挑んだことから狭義のイタリア戦争に突入した。しかし、皇帝側のドイツ・スペイン連合軍がイタリアを制圧し、1525年のパヴィアの戦いではフランソワ1世が捕虜となってしまう。フランソワ1世はマドリードで幽閉されたが、フランスはイタリアでの権益を放棄、領土の割譲を約束し、二人の息子を身代わりにして解放され、パリに戻った。この間、1527年に、カール5世はドイツ兵をローマに派遣、フランス側についた教皇クレメンス7世を圧迫するため、「ローマの劫略」を行う。ローマは灰燼に帰し、イタリア=ルネサンスが終末を迎える。その後両者は和解し、1530年カール5世はボローニャで正式にクレメンス7世から戴冠する。1544年、クレピーの和約でいったん戦闘を終わった。 
C カール5世  → 第9章 3節 カール5世
a 「ローマの劫略」 1527年、イタリア戦争の最中に、神聖ローマ皇帝カール5世がローマを攻撃し、破壊したこと。ローマ教皇クレメンス7世(メディチ家出身、在位1523〜34年)はハプスブルク家のカール5世が、ミラノ公国(神聖ローマ帝国の封地)とナポリ王国を領有したことに対し、教皇領が圧迫されることを恐れ、フランス王フランソワ1世と密かに手を結んだ。それを知ったカール5世は、ローマ教皇を懲罰するため、ドイツ兵・スペイン兵からなる皇帝軍をフランス人のブルボン将軍(フランソワと対立しカール側に寝返っていた)に指揮させて、ローマを攻撃させた(カール自身はマドリードにいて出陣しなかった)。皇帝軍は1527年5月6日からローマを総攻撃、指揮官ブルボン将軍が戦死すると、統制がとれなくなってローマで略奪、暴行など乱暴狼藉のかぎりをつくした。この時の皇帝軍のドイツ兵には、たくさんの新教徒が含まれており、彼らは「歓呼の声を挙げてルターを教皇に推戴し、ルターの名において、殺人と破壊のこの狂宴を祝福した」<モンタネッリ/ジェルヴァーゾ『ルネサンスの歴史 下』p.152>という。かつて「ローマの牝牛」として奪われた富を取り返すつもりであったのだろう。このキリスト教世界を震撼させた事件を「ローマの劫略」(または「ローマの略奪」、「サッコ・ディ・ローマ」)といい、イタリア=ルネサンスの「終わりの始まり」とされている。
Epi. ドイツ人傭兵部隊、ランツクネヒト イタリア戦争で、カール5世側の戦力として活躍したのは傭兵部隊であった。スイス傭兵が最強と言われていたが、このころはドイツ人傭兵「ランツクネヒト」も旺盛な戦闘力と厳格な軍律で力を伸ばしていた。1525年のパヴィアの戦いでフランソワ1世軍を破ったり、ドイツ農民戦争では皇帝軍として新教徒軍を苦しめた。しかしこのローマの劫略では、皇帝からの賃金支払いの遅配もあって統制がとれずに暴徒化し、略奪行為に走った。<菊池良生『傭兵の二千年史』講談社現代新書 p.85-117> ※古代の傭兵 → 第1章2節 ギリシアの傭兵
b ウィーン包囲   → 第8章 3節 ウィーン包囲
c スレイマン1世  → 第8章 3節 スレイマン1世
d ヘンリ8世  → 第9章 3節 ヘンリ8世
D イタリア戦争の講和  
a カトー=カンブレジ条約 1559年に締結されたイタリア戦争の講和条約。カトー=カンブレジは現在のフランスの地名。イタリア戦争の長期化は、ハプスブルク家(スペイン)、フランスのいずれにおいても財政の困窮を招き、とくにハプスブルク家はフッガー家からの負債が巨額に達し、返済が困難になってきた。そのような情勢を受けて、フランス王アンリ2世は、スペインのフェリペ2世、イギリス王エリザベス1世とのあいだでイタリア戦争の講和に同意、カトー=カンブレジ条約を締結した。この条約ではフランスはイタリアでの権益を放棄し、サヴォアとピエモンテも姉のマルグリットの婚資としてサヴォア公に与えた。ただし、カレー、サンカンタンなどはフランスの領有が認められた。またフランスとスペインの友好の証として、アンリ2世の娘をフェリペ2世の妻とすることが決められた。このカトー=カンブレジ条約で、イタリア戦争は終結したが、その背景には新教徒勢力の増大に対応しなければならない旧教勢力の事情があった。
※カトー=カンブレジ条約の意義 「ハプスブルク家とヴァロワ家は共倒れになった。1557年、スペインばかりかフランスもまた自ら破産を宣告する。・・・両国が破産したため戦火はたちまち消え、1559年にカトー=カンブレジ条約が締結された。この条約は、以後一〇〇年間に及ぶヨーロッパの政治の枠組みをつくりあげた。・・・それはまた、ヨーロッパのバランス・オブ・パワーが確立し、いわゆる国民国家をめざす諸国がその願望を満たし、なお繁栄を続ける「世界経済」をむさぼって利益を得ることができるようになった年でもあった。」<E.ウォーラーステイン『近代世界システム』U 川北稔訳 岩波現代選書 p.18>
b イタリア・ルネサンスの終焉  
c フランスとハプスブルク家の対立 16世紀のフランスのヴァロワ朝フランソワ1世と、スペイン・オーストリアなどを支配するハプスブルク家のカール5世の対立以来、両家の対立はヨーロッパの国際政治の基本的な対立軸として、18世紀中頃まで続く。特に18世紀前半のスペイン継承戦争、オーストリア継承戦争はその例である。1756年の七年戦争を前にして、「外交革命」によって提携することとなり、共通の敵であるイギリス・プロイセンとの対立へと変化する。
E 主権国家 主権国家とは、主権(当初は国王)と領土(国境で囲まれた領域)が明確となった国家の形態であり、近代国家の原型とされる。中世の封建国家は、神聖ローマ帝国やイギリス王国、フランス王国がそうであったように、皇帝や国王は封建領主の一人にすぎず、国土を統一的に支配していたのではなく、また国境も明確ではなく、互いに入り組んでいた(百年戦争の時のイギリスとフランスの関係を思い出すこと)。ヨーロッパ各国の生産力の向上、生産関係の変化に伴って封建社会が解体するにつれて、封建領主(貴族)は没落し、王権が強まってきたが、16世紀にはイタリア戦争から明確となったように王権のもとで統一された国家が形成された。そのような主権と領土が明確となった国家形態を「主権国家」といい、近代国家の最初の段階(または原型)とされている。16〜18世紀の主権国家は、主権を国王が持ち、国王に権力が集中する「絶対王政」という政治形態を持っていたが、産業革命と平行して市民革命が展開されて王権は倒され、国民が主権を獲得して「国民国家」を形成することとなる。「国民国家」の形成を目ざす運動がナショナリズム(国民主義)であり、「国民」概念が確立した段階が「近代国家」の完成と言うことができる。 → 主権国家体制
a 主権国家体制 16〜17世紀のヨーロッパに成立した、徴税機構を中心とした行政組織と、常備軍をもち、明確な国境内の領域を一個の主権者である君主(国王)が、一元的に(中央集権体制的に)支配する「主権国家」が形成されたこという。一般に、三十年戦争後の1648年のウェストファリア条約で確立したとされる。
主権国家体制の成立イタリア戦争などの領土獲得のための抗争、海外領土の獲得競争、宗教対立などが複雑に絡み合いながら展開され、イギリス・フランス・オランダ・スペイン・ポルトガルなどが主権国家体制を形成させた。ドイツは全体としての統一は遅れ、三十年戦争の後にプロイセンとオーストリアが分立する。三十年戦争の終結させた、1648年のウェストファリア条約によって、ヨーロッパの主権国家体制は確立した、とされている。
イタリアは最も統一が遅れ、外国勢力の支配と干渉を受け続け、主権国家の形成は最終的には18世紀中頃となる。また東方のロシアは17世紀に主権国家を形成した。 → 近代世界システム
b 軍事革命 イタリア戦争(15世紀末〜16世紀前半)は、実戦に小銃と大砲という火砲が大量に使われるようになった、「近代的」戦争の最初のものであった。それは、戦術として中世以来の騎士を中心とした戦闘を終わらせ、騎士階級(封建領主)を完全に没落させ、歩兵が小銃を持って集団を構成して進撃し、大砲がそれを援護する戦争形態を一般化させた。当初はそのような歩兵集団として各国の君主は傭兵(特にスイス傭兵が有名)に依存していたが、次第に徴兵制による国民軍を持つに至る。マキアヴェッリの『君主論』は君主にとって有用な兵力として傭兵制に代わる国民軍の創設を主張している。
Epi. 織田信長の鉄砲隊は世界最初? 小銃が実戦に使われるようになったのは16世紀に入ってからであるが、この初期の小銃は「火縄銃」であるので、装填に時間がかかり、はじめはヨーロッパではこの限界を克服できないでいた。小銃の技術的限界を、戦術で克服する方法を世界で初めて発見したのが織田信長である。1575年の長篠の戦いで、火縄銃の斉射戦術を用いたかどうかは最近疑問視されているが、1560年代に信長が射手に隊列を組ませ列ごとに交互に斉射する方法は信長が考案した戦法と考えられている。ヨーロッパでこのような戦法がとられたのはそれより20年遅い1594年、オランダ独立戦争の時、連合軍の司令官マウリッツが最初だったという。また盛んに取り入れられたのは17世紀の三十年戦争からだという。そこでヨーロッパでは小銃の斉射戦術を「スウェーデン戦法」とよんだ。いずれにせよ、世界で最初の鉄砲戦術は日本で始まったと言えるが、その日本では戦国時代が終わって17世紀にはいると、長い「泰平の世」に入り、鉄砲を使わなくともいい社会になったといえる。<『世界の歴史』17 ヨーロッパ近世の開花 大久保桂子 1997 p.176->
c 国内の一元的支配  
d 近代国家  
F 絶対王政 16〜17世紀に形成された主権国家における君主が絶対的な支配権力をもつ政治体制を「絶対王政」(または絶対主義体制)という。絶対王政の出現は、封建社会から近代社会への過渡期の西ヨーロッパに見られるもので、18世紀の市民革命によって倒される体制と考えてよい。国王の絶対的権力の基盤となったものは、没落しつつある封建領主層(貴族、上位聖職者)は国王に依存して免税特権などを認めてもらい、国王権力を支える官僚や軍人となった人びとであり、一方では勃興しつつある有産市民階級(ブルジョアジー)もまだ国王権力に依存して独占権などを保証してもらった人びとであった。これらの上位身分に支えられ、国王が官僚組織と常備軍制度をもって「国民」を一元的に直接統治するのが主権国家の形態が絶対王政であった。典型的な絶対王制国家として、15世紀から16世紀にかけての早い時期のポルトガル、スペイン、16〜17世紀のテューダー朝のイギリス、17〜18世紀のブルボン朝のフランスなどがある。ドイツやロシアの絶対王政の形成は18世紀と遅れ、イタリアには成立しなかった。絶対王政のもとでは、官僚制常備軍の形成が進み、それらを維持する財源を得るため、重商主義の経済政策がとられていた。また絶対王政を理論づける思想が王権神授説であり、イギリス・フランスで展開された。
a スペイン  
b フランス  
c イギリス  
d 領主階級  
e 有産市民階級  
f 問屋制 商人が蓄えた資本(商業資本)を手工業者に投資して生産する経済制度。商人が道具と原料を手工業者に前貸しして生産させ、製品を独占的に販売するシステム。絶対王政期の西ヨーロッパ、特にイギリスで発展し、毛織物業などで問屋制がとられた。資本主義生産に先行する生産システムと考えられる。
g マニュファクチュア 工場制手工業。資本家が工場を設け、賃金労働者を集め、分業と協業による手工業で製品を生産する方式。まだ機械は使われていない段階で、資本規模も小さい(商業資本)が、資本と賃労働という「資本主義経済」の基本的要素がみられ、資本主義の最初の形態と考えられる。マニュファクチュアが形成されるには、資本の蓄積と、賃労働者、さらに原料の供給と製品の市場、あるいは資本の確保のための金融制度などが必要である。賃労働者の出現は、イギリスでの「囲い込み」(エンクロージャー)によって農民が離村していったように、農村の大きな変化が背景にあった。
イ.スペインの全盛期
A カルロス1世 ハプスブルク家のスペイン王。神聖ローマ帝国皇帝としてはカール5世となる。 → 第9章 3節 カール5世
a ハプスブルク家  → 第6章 3節 ハプスブルク家
マクシミリアン1世 ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝(在位1493〜1519)。父はフリードリヒ3世(在位1452〜1493)、母はポルトガルの王女エレオノーレ(莫大な持参金をハプスブルク家にもたらしたという)の間に生まれ、ハプスブルク家の領土を全ヨーロッパに及ぼす基礎を築いた。ブルゴーニュ公国(ブルグンド公国)の王女マリアと結婚、マリアの父シャルル大胆王がフランス・スイスと戦って(ブルゴーニュ戦争1474〜77)戦死したため、その領地はハプスブルク家のものとなった。ブルゴーニュ公国とは、534年にフランク王国に滅ぼされたゲルマン人の国ブルグンド王国に起源を発し、フランス王家の分家のブルゴーニュ公がフランスの東南部のブルゴーニュ地方から現在のベネルクス3国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)を含む地域を支配していた。ブリュッセル、アントワープ、ブリュージュなどの商業都市を含み、毛織物業の盛んな地域であった。ブルゴーニュを獲得したことによってフランスとの対立せざるを得なくなったマクシミリアン1世は、王宮をウィーンからチロル地方のインスブルックに移し、イタリア方面への進出にもそなえた。1494年、フランス王シャルル8世がイタリアに侵入しイタリア戦争が始まると、ドイツ諸侯の援助を受けるため、諸侯に有利な帝国改革を実施した。一方でルネサンス期の君主として文芸の保護にもあたり、中世から近世の過渡期の皇帝として「片足を中世につっこみ、他の足で近代にも踏み込もうとしている」あるいは、「中世最後の騎士」とも言われている。マクシミリアン1世の孫、スペイン王カルロス1世が神聖ローマ皇帝カール5世となり、ハプスブルク帝国は空前の領土誇ることとなる。
Epi. ハプスブルク家の家訓 ハプスブルク家は「幸いなるオーストリアよ。戦いは他のものに任せるがよい。汝、結婚せよ。」ということばを家訓にしていたという。つまり、戦いによってではなく、婚姻政策によって領地を広げよ、ということであり、これはまさにマクシミリアン1世がとった政策そのものであった。彼自身もブルゴーニュ公国のマリアと結婚してネーデルラントを領有しただけでなく、その子フィリップをスペイン王女ファナと結婚させ(その子がカルロス1世、つまりカール5世)、孫たちをベーメンやハンガリーの王子・王女と結婚させ、その婚姻政策が、現在の国名で言えばオーストリア、スペイン、ベルギー、オランダ、イタリア南部、チェコ、ハンガリーに及ぶ、ハプスブルク帝国を生み出した。
b フッガー家  → 第6章 3節 フッガー家
c カール5世  → 第9章 3節 カール5世
d オーストリア オーストリアの地名は、フランク王国のカール大帝がおいた東部辺境領(オストマルク)に由来する。中心都市のウィーンは、ローマ帝国の国境におかれた軍団都市ウィンドボナが起源である。後に神聖ローマ帝国に属し、1156年独立の公国(エステルライヒ)となった。1278年ハプスブルク家のルドルフがマイヒフェルトの戦いでベーメン王オタカル2世と戦って勝利しからはハプスブルク家の所領となり、以後1918年まで続く。カール5世の後、ハプスブルク家が分裂するとオーストリア=ハプスブルク家が神聖ローマ帝国皇帝として統治した(ハプスブルク帝国を継承)。この間、ハプスブルク家はイタリア戦争などでフランス王家と対立を続け、北イタリアへの支配権を維持した。しかしハプスブルク家は三十年戦争(1618〜48年)に介入したフランスに敗れ、ウェストファリア条約でオーストリア以外の西ヨーロッパの領土の大半を失い、ドイツに対する統治権も無くなって神聖ローマ帝国は事実上終わりを告げた。その後はハプスブルク家はオーストリア皇帝として存続するが、一方東方では1529年の第1次ウィーン包囲と、1683年の第2次ウィーン包囲というオスマン帝国の脅威をはねのけ、1699年のカルロヴィッツ条約でオスマン帝国からハンガリーを獲得し、支配領域を中欧(ドナウ地域)全域にひろげた。18世紀初頭のスペイン継承戦争ではスペイン領ネーデルラントなどを手に入れた。18世紀中期にはマリア=テレジアが即位するとプロイセンのフリードリヒ2世が介入してオーストリア継承戦争となり敗れた。マリア=テレジアは、外交革命によって仇敵フランスと結び、七年戦争で再びプロイセンと戦った。結局シュレジェンを奪われたが一方でポーランド分割にも参加した。次のヨーゼフ2世は啓蒙専制君主政治を行い、1781年に農奴解放令と宗教寛容令を発布したが、改革は不十分なまま終わった。フランス革命が起きるとレオポルト2世(マリー=アントワネットの兄)はピルニッツ宣言を発してフランス王権の復活を策したが失敗した。革命後台頭したナポレオンに征服され、1806年に神聖ローマ帝国は滅亡、ハプスブルク家はオーストリア皇帝として留まり、オーストリア帝国となった。ウィーン体制下では宰相メッテルニヒが国際政治をリードしたが、1848年に憲法制定とハンガリーの独立を求める三月革命が勃発して失脚した。ドイツ統一問題では主導権をプロイセンに握られて後退し、またベーメン(チェコ)、ハンガリー、北イタリアの民族運動にも悩むようにになった。1859年のイタリア統一戦争ではフランスとサルデーニャの連合軍に敗れ、北イタリアのロンバルディアを放棄することとなった。さらに1867年普墺戦争の敗北を機にハンガリーの独立を認めオーストリア=ハンガリー帝国という二重帝国の体制をとらざるを得なくなった(アウスグライヒ)。19世紀末から20世紀にかけて汎ゲルマン主義をとりバルカン半島への進出を強め、1878年のベルリン条約で統治権を得たボスニア=ヘルツェゴヴィナを1908年には完全併合し、スラブ人および汎スラブ主義をとるロシアとの対立が激しくなった。1914年のオーストリア皇太子がセルビア人によって暗殺されたサライェヴォ事件が起こるとただちにセルビアに宣戦布告し、第1次世界大戦を勃発させた。大戦ではドイツとともに戦ったが敗北し、1918年ハプスブルク家は退位し、翌年共和国となった。旧帝国領から、ハンガリー、ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアが分離独立し、オーストリア共和国は旧帝国の領土の26.6%に削減された。またサン=ジェルマン条約ではオーストリアとドイツの併合は禁止された。ヴェルサイユ体制を否定するオーストリア出身のヒトラーのナチスがドイツに生まれると、オーストリアでもファシズムが台頭、当初はムッソリーニのイタリアに近かったが、1938年にヒトラーの脅迫に屈してドイツに併合された。第2次大戦後はアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の分割占領を受け、1955年に永世中立を宣言して共和国の独立を再現した。
e ネーデルラント → ネーデルラント
ハプスブルク帝国ハプスブルク家は、スイスの小領主から頭角を現し、ドイツ有数の領邦としてのオーストリアを領有し、13世紀に神聖ローマ帝国皇帝(ドイツ王)となった家系。特に、15世紀のアルブレヒト2世(1438〜39)・フリードリヒ3世(1440〜93)以降は皇帝位を世襲、独占し、1806年まで存続する。この間、積極的な婚姻政策を展開、ネーデルラント(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルク)、スペイン、南イタリア(ナポリ、シチリア)、ハンガリー、ボヘミアに及ぶ空前の領土をヨーロッパ大陸に持ったのみならず、スペイン領の新大陸やフィリピンなどの海外領土も支配した。16世紀前半のカール5世の時がその最盛期であり、彼は神聖ローマ帝国皇帝として全ヨーロッパの統合をめざしてフランスやオスマン帝国と積極的に戦った。その死後1556年以降は、ハプスブルクの家系は弟のフェルディナンドの継承したオーストリア=ハプスブルク家と、子のフェリペ2世が継承したスペイン=ハプスブルク家の分かれることとなるが、スペインのハプスブルク家は1580年にはポルトガルを併合してさらに領土を広げ、「太陽のしずまぬ国」と言われた。このころがハプスブルク帝国の全盛期であり、17世紀にはいるとその支配下のベーメン(ボヘミア)での新教徒の反乱から始まった三十年戦争(1618年から1848年)では介入してきたフランス軍との戦いに敗れ、アルザスを放棄した。戦争後のウェストファリア条約ではドイツ諸侯の自立が明確となって、神聖ローマ帝国のドイツ統治は実質的に終わった。さらに18世紀初めにスペイン・ハプスブルク家が断絶すると、「ハプスブルク帝国」の名称は、オーストリア・ハプスブルク家の所領の、オーストリア・ベーメン(ボヘミア)・ハンガリー・北イタリア・南部ネーデルラントを総称することとなった(都はウィーン)。このような多民族国家としてのハプスブルク帝国は、「主権国家」の形成、さらに「国民国家」へという大きな流れ、民族運動の高揚という動きの中で維持することは困難となり、ナポレオンが1806年にライン同盟を結成すると、西南ドイツの16邦が神聖ローマ帝国からの脱退を表明したため、ハプスブルク家のフランツ2世は皇帝退位を表明し、神聖ローマ帝国は名実共に消滅した。ハプスブルク家はオーストリア皇帝として生き残り、なおもハンガリーなどを含む中欧に大きな勢力を維持したが、1866年には普墺戦争に敗れ、オーストリア=ハンガリー二重帝国に転換し、ハプスブルク家のフランツ=ヨゼフ2世はハンガリー王を兼ねることとなった。第1次世界大戦に敗れて1918年にオーストリア=ハンガリー帝国帝国が解体され、ハプスブルク家の帝位も完全に消滅する。
f フランス王国  
g オスマン帝国  
h 銀  → 第9章 1節 
スペイン=ハプルブルク家 スペイン=ハプスブルク家はカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)とその子フェリペ2世の16世紀に「太陽の沈まぬ国」と言われた全盛期のスペインを統治した。フェリペ2世のあと、フェリペ3世・4世と続いたが、17世紀に急速に衰退する。それは、スペインが新大陸からもたらされた銀などの富を、宮廷の奢侈生活に浪費するだけで、ヨーロッパの他の領土や植民地からの資源に依存するのみで毛織物以外の国内産業を育てるなどの努力を怠ったためであると考えられている。ハプスブルク家もカルロス2世を最後に1700年に断絶。その王位継承をめぐってフランス王ルイ14世が介入し、スペイン継承戦争が起き、結果的にスペインにはスペイン・ブルボン王朝が成立することとなる。
オーストリア=ハプスブルク家 神聖ローマ帝国としては1273年から続くハプスブルク家の本流。オーストリアを領有し、ドイツ王も兼ねていたが、カール5世が1516年スペイン王(カルロス1世)となってからはスペインも支配下においた。1556年、カール5世の死後、オーストリアはカールの弟フェルディナンド1世が継承し、スペインはカールの子フェリペ2世が継承したのでハプスブルク家はオーストリア=ハプスブルク家とスペイン=ハプスブルク家に分かれた。
オーストリア=ハプスブルク家は、フェルディナント1世の後、フェルディナント2世の時の三十年戦争で領土を失うが、一方で1699年のカルロヴィッツ条約でオスマン帝国からハンガリーを獲得、1740年に男系が絶えてマリア=テレジアが即位したときはそれに異議を唱えるプロイセン王国のフリードリヒ2世との間でオーストリア継承戦争となる。ハプスブルク家は一貫してフランスのブルボン家とヨーロッパの覇権を争い、それがヨーロッパ国際政治の対立軸となってきたが、これ以後新たにプロイセンという強力な敵対勢力が出現したため、マリア=テレジアは、一転してブルボン朝と結び(外交革命)、七年戦争でプロイセンと再戦した。その結果、シュレージェンを失うが、その後もハンガリー、ベーメンなどを中欧に広大な領土を維持、ヨーゼフ2世はポーランド分割にも加わり領土を広げる。しかしナポレオン戦争に敗北してついに神聖ローマ帝国は消滅(1806)、それ以後はハプスブルク家はオーストリア皇帝(フランツ1世)として続いた。1866年には普墺戦争でプロイセンに敗れ、翌年オーストリア=ハンガリー二重帝国に移行し、ハプスブルク家はハンガリー王位を兼ねた。第一次世界大戦のフランツ=ヨゼフ1世を経て、大戦の終結によって最後の皇帝カール1世が退位するまで続く。
Epi. ハプスブルク家の終末 19世紀中頃から第1次大戦勃発まで、フランツ=ヨゼフ1世(在位1848〜1916年)は68年間という驚異的な在位記録を持つハプスブルク家の皇帝であるが、弟のマクシミリアンはメキシコ皇帝となって統治に失敗して銃殺され、長男ルドルフは父と意見が合わす愛人と一緒に自殺、妻のエリーザベトはアナーキストに暗殺されるという悲劇的な晩年であった。さらにルドルフに代わって皇太子となったフランツ=フェルディナンド(皇帝の甥)は1914年セルビアのサライェヴォで銃弾に倒れ、第1次世界大戦のきっかけとなった。1918年、大戦の終了とともに最後の皇帝カール1世(フランツ=フェルディナンドの甥)が退位して長いハプスブルク家の歴史を閉じた。なお、カール1世の長男のオットーは現在ドイツ在住で、欧州議会の議員をしているそうです。<加藤雅彦『図説ハプスブルク帝国』1995 河出書房新書 などによる>
B スペインの全盛期 
a フェリペ2世 ハプスブルク家のスペイン王(在位1556〜98)でスペイン絶対王政の全盛期の王である。カルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝カール5世)の長男。母はポルトガル王女のイサベル。1556年、カルロス1世の引退によって、スペイン王となる(神聖ローマ皇帝位はカールの弟フェルディナンドが継承)。父から継承したスペイン、ネーデルラント、ナポリ、シチリアのヨーロッパ内の領地と、アメリカ新大陸、アジアのフィリピンなどの領土を支配し、「太陽のしずまぬ国」と言われた。また、1580年には、ポルトガル王位を兼ね、ポルトガルを併合してその国土と海外領土を獲得した。前代からのイタリア戦争でのフランスとの対立では57年、サン・カンタンでフランス軍を破り、59年のカトー=カンブレジ条約で講和した。1571年にはレパントの海戦でオスマン帝国海軍を破り、その海軍は無敵艦隊と称された。またカトリック世界の最高の保護者たらんとして、領内のカトリック以外の宗派には厳しい弾圧を加えた。それが原因となって、ネーデルラント独立戦争が始まり、ネーデルラントを支援するイギリスを討とうとしたが、1588年、無敵艦隊がイギリス海軍に敗れ、それを契機としてスペインの全盛期は終わりを告げることとなる。経済的基盤であったネーデルラントを失い、本国では基盤となる産業を持たなかったので、その経済は急速に衰退し、スペインは17世紀にはその地位をオランダ、イギリスに奪われ没落することとなる。フェリペ2世が造営した宮殿には、エル・エスコリアル宮殿がある。なお、フェリペ2世は生涯に、ポルトガルの王女マリア、イギリス女王のメアリ1世、フランス王アンリ2世の娘エリザベート、ローマ皇帝マクシミリアン2世の娘アンナと4回結婚した。次のフェリペ3世はアンナとの子供。
Epi. 日本の少年使節が謁見したフェリペ2世 1584年11月11日、フェリペ2世(57歳)が、フェリペ3世(6歳)の皇太子宣誓式をマドリッドのサン=ヘロニモ教会で挙行した。その式に列席した人びとの中に、日本の九州の大名がスペイン王・ローマ教皇に使節として派遣した4人の少年たち(天正少年使節)がいた。ついで14日には4人はフェリペ2世(この時期にはポルトガル王でもあった)に謁見、所期の目的の一つを果たした。彼らは1582年に宣教師のヴァリニャーノに伴われて長崎を出航、西回りでリスボンに上陸し、マドリッドに来たのだった。ついで85年3月にはローマに入り、教皇グレゴリウス13世に謁見している。彼らが帰国した1590年には日本の政権は豊臣秀吉に移り、キリスト教禁止に転じていた。<松田毅一『天正少年使節』講談社学術文庫 p.186,174>
1571年  
a レパントの海戦 1571年、スペインのフェリペ2世、ローマ教皇ピウス5世、ヴェネツィア共和国のキリスト教三国の連合艦隊が、オスマン帝国(スルタンはスレイマン大帝が既に亡く、セリム2世)の海軍を破った戦い。当時オスマン海軍は、フランスと同盟しており、バルセロナとイタリアを結ぶスペインの船舶を襲うなど、地中海の制海権を握っていた。またセリム2世は、ヴェネツィアの拠点となっていたキプロス島を攻略した。地中海におけるオスマン海軍の脅威を除く必要に迫られたスペインとヴェネツィアはローマ教皇に働きかけ、フェリペ2世の異母弟オーストリア大公ドン=ファンの指揮下に278隻の連合艦隊を編成した。オスマン海軍はアリ=パシャの指揮下の224隻、両軍はアドリア海に口を開いたギリシア本土とペロポネソス半島の間のレパント湾(コリントス湾とも言う)で対戦した。結果はオスマン海軍の大敗となり、約190隻が沈められるか捕らえられ、アリ=パシャも戦死した。この勝利は、キリスト教世界にとって、オスマン帝国に対する最初の勝利となり、大きく宣伝され、これによってただちに地中海の制海権がスペイン側に移ったわけではなく、オスマン帝国は翌年には海軍を再建し、その東地中海支配はさらに17世紀まで続く。
Epi. レパントの海戦とセルバンテス スペインの『ドン=キホーテ』の作者セルバンテスは若い頃このレパントの海戦に参加した。そのことは『ドン=キホーテ』の序文でも誇らしげに書いている。彼はこの戦闘で火縄銃の銃弾を左胸と左手に三発被弾した。左手はそのために切断したと本人は言っている。その後セルバンテスは海賊の捕虜となるという数奇な運命に見舞われる。
c ポルトガル(の併合)イベリア半島西南部をしめるポルトガルは、15世紀のエンリケ皇太子の時、他のヨーロッパ諸国に先駆けて新航路の開発に乗り出し、インド航路の開発に成功し、アフリカ、インド、東南アジア、南米のブラジルなどに領土を広げた。このポルトガルの進出は隣国のスペインを刺激し、激しいスペインとの新領土獲得競争が展開され、1493年の教皇子午線にはじまり、トルデシリャス条約、サラゴサ条約などでその勢力圏を分け合っていた。リスボンは香料貿易の集積地として繁栄した。しかし、16世紀にはいるとポルトガルの富は、西ヨーロッパに流出し、国力は衰退が始まった。同じような国力衰退に直面していたスペインは、ポルトガルの併合を策した。1578年、スペイン王フェリペ2世は、24歳のポルトガル王セバスティアンにモロッコ遠征をさせ、セバスティアンが戦死すると、1580年王妃がポルトガル出身であったことからフェリペ2世がポルトガル王を兼ねることとなった(ポルトガル王としてはフェリペ1世)。こうしてポルトガルはスペインと同君連合、実質的にスペインに併合され、1640年まで続く。
→ カタルーニャの反乱 
d 「太陽の沈まぬ国」  
e 国内産業  
ウ.オランダの独立とイギリスの海外進出
A スペインの支配  
a ネーデルラント ネーデルラントは、現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルクス3国の地域にほぼ一致する。ライン川、マース川、スヘルデ川などの下流にあたる「低地地方」のこと。ローマ時代はライン川がローマ領の境界となり、属州ガリア・ベルギカが置かれた。ゲルマン人の移動後、フランク人の居住地となったが、フランク王国の分裂の際は、スヘルデ川(ベルギーの中部を流れる)を境として西フランク(フランス)、東フランク(ドイツ)が分かれた。中世にはブラバンド公、ホラント、フランドル伯などの諸侯領、ユトレヒト司教領などの封建諸侯が分立した。その間、毛織物産業が盛んとなり、ブリュージュなど商業都市も興った。14世紀ごろからブルゴーニュ公が進出し、ブルゴーニュとあわせてブルゴーニュ公国となった。1477年、ブルゴーニュ公国の王女がハプスブルク家のマクシミリアンと結婚したため、ハプスブルク家の所領となりなった。大航海時代が始まると新大陸・アジアから運ばれる物資はリスボンを経てこの地のアントワープ(アントウェルペン)に運ばれ、ヨーロッパ経済圏の中心地となった(商業革命)。16世紀中期からは商人層にはゴイセンと言われるカルヴァン派の新教徒が増えてきた。1556年にハプスブルク家がスペイン系とオーストリア系に分かれてからは、スペインの領土となった。スペインは旧教政策を強めたため、経済的自立と宗教の自由を求めるネーデルラントの人びとが独立運動を始めた。 → オランダ独立戦争
独立戦争の結果、1581年は北部7州が独立してネーデルラント連邦共和国となった。南部はその後もスペイン、オーストリア、フランスの支配を受け、1830年にベルギー王国として独立した。1867年にはルクセンブルク公国が成立した。
b カルヴァン派  
c フェリペ2世  → フェリペ2世
B オランダ独立戦争 オランダ独立戦争(ネーデルラント独立戦争)は1568年から始まった、スペインからのオランダ(ネーデルラント)の独立戦争。途中12年間の休戦期間をはさんで80年間戦われ(八十年戦争とも言われる)、1648年のウェストファリア条約で最終的に北部7州がネーデルラント連邦共和国として独立が承認されて終わった。ネーデルラントは中世以来、毛織物業の盛んな商業地域であったため、17世紀からカルヴァン派の新教徒(この地ではゴイセンといわれた)が増えてきた。それにたいしてこの地を支配するスペインは、ハプスブルク家のカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)がカトリック教会の保護者として任じており、次いでフェリペ2世はネーデルラントの新教徒に対して厳しい弾圧を加えていた。1566年には、下級貴族が結成した「乞食党」(ゴイセン)が聖像破壊運動などを開始、それに対してスペインの執政アルバ公による弾圧が厳しくなると、多くのカルヴァン派は海外に亡命して「海乞食」と言われるようになり、彼らのゲリラ的な独立運動が展開され始めた。1568年、亡命していた指導者オラニエ公ウィレムが上陸し、彼を指導者とする本格的な独立戦争が始まった。しかしカルヴァン派が多い北部と、カトリックの勢力が残る南部との対立が次第に表面化し、スペイン側の離間工作もあって南部諸州は講和に踏み切り、北部7州のみがユトレヒト同盟を結んで独立をめざすこととなった。1581年、北部7州は「ネーデルラント連邦共和国」の独立を宣言、その後も戦闘が続き、ようやく1609年、十二年間休戦条約が成立し、事実上の独立が認められた。三十年戦争が始まると、ヨーロッパ全体での新教と旧教の対立の様相の中で1621年、再び戦端が開かれ、1648年のウェストファリア条約によって国際的に独立が認知され長い独立戦争が終わった。
a フランドル地方  → 第6章 3節 フランドル地方
b ユトレヒト同盟 オランダ独立戦争の際、1579年に成立した北部ネーデルラント7州の同盟で、スペインからの独立をめざし、戦闘を継続することを誓ったもの。7州とは、ホラント、ぜーラント、ユトレヒト、ヘルデルラント、オーフェルアイセル、フリースラント、フロニンゲン。この7州にフランドルとブラバントの若干の都市が参加した。なお、同年、カトリック擁護を掲げてスペインとの独立戦争中止で結束した南部諸州の同盟はアラス同盟という。この結果、北部はネーデルラント(オランダ)、南部は後のベルギーと二分されることとなった。
c オラニエ公ウィレム ドイツのナッサウ伯家に生まれ1544年からオラニエ(オランイェ)公となる。神聖ローマ皇帝カール5世、続いてスペイン王フェリペ2世に仕え、フェリペ2世からネーデルラントの中のホラント、ゼーラント、ユトレヒト3州の総督に任命される。しかし、1560年頃からフェリペ2世のネーデルラントにおける宗教政策に反対し、信仰の自由を求める下級貴族、商工業者と結ぶようにある。67年、ナッサウに亡命したが、1568年ネーデルラントに戻り、独立戦争を指導し始める。海外に亡命したカルヴァン派の海乞食を巧みに使ってスペインとカトリック側を苦しめ、一時は全ネーデルラントを結束して講和に至ったが、79年に南部諸州が脱落、北部7州のユトレヒト同盟が結成されその総督に推された。81年には「ネーデルラント連邦共和国」の独立を宣言、その国家元首となったが、84年にカトリック側の刺客によってデルフトで暗殺された。
C ネーデルラント連邦共和国 一般にオランダ共和国と言われている「ネーデルラント連邦共和国」は、ホラント州を中心とする北部7州の連合国家として1581年に独立を宣言した。その国家組織は「世界史上もっとも奇妙で、もっとも複雑である」と言われており、連邦共和国でありながら世襲の「総督」を君主として戴く形態であった。7州の代表で構成される連邦議会が最高議決機関であり、オランダ全体の行政、外交、軍事を統括するが、各州はそれに従う義務はなく独立性が強かった。事実上連邦議会を動かしていたのは他の州に対し圧倒的な経済力を持つホラント州であり、その中心がアムステルダムの実権を握る大商業ブルジョアジーである商人貴族(レヘンテン)であった。ネーデルラント連邦共和国の共和政はこのホラント州の商人貴族によって支えられていた。一方で、法的には連邦共和国の最高軍事司令官にすぎない「総督」(スタットハウダー)は独立戦争の指導者ウィレム以来、オラニエ家(英語ではオレンジ家)が独占し、1631年には総督職のオラニエ家の世襲が法制化され実質的なオランダ王家となった。オラニエ家を支持したのは、中小市民や農民層であった。オランダはスペインからの独立戦争(1568〜1609、1621〜48年)、次いでイギリスとの英蘭戦争(1652〜74)と断続的に戦争が続く中、海洋国家として繁栄したが、その間、共和制を志向する大商人層と、王権強化を志向するオランニェ派が対立し、前者は宗教的な寛容を主張し、後者はカルヴァン派による宗教の国家統制を主張するという宗教的対立もあって政治的混乱が続いていた。オラニエ家はウィレムの次ぎにマウリッツ、ウェレム2世という有能な人物が出たが、ウィレム2世が若死にしたため、一時総督不在期が出現、ヤン=デ=ウィットがホラント州首相として権力を握るが英蘭戦争で苦境に立ち、ウィレム3世(後にイギリス王ウィリアム3世を兼ねる)でオランニェ家が復活した。スペイン、ついでイギリスとの抗争を展開するなかで、新大陸とアジアに積極的に進出し、1602年には東インド会社を設立した。またネーデルラントでは、思想家のグロティウス、科学のレーウェンフック、画家のレンブラントなど、オランダ文化が発展したことも重要。
a オランダ 日本ではネーデルラント(オランダ語 Nederlanden 英語 Netherlands)のことを「オランダ」(Holland)という。オランダは「ホラント」のことでで、ネーデルラントの中心にある州の名前。日本にきたポルトガル人がオランダ(ポルトガル語 Olanda) と言っていたので、その言い方が定着した。
b 無敵艦隊 1585年、イギリス女王エリザベス1世は議会におされてオランダを救援するための大陸派兵を決定した。それを受けてスペインのフェリペ2世はイギリス(イングランド)に上陸しロンドンを占領する計画を立てた。スペインにとって大西洋貿易を脅かしているイギリスの私拿捕船を抑える好機ととらえたのであろう。スペイン軍は、リスボンで編成された130隻の大艦隊「無敵艦隊」(アルマダ Invincible Almada)を北上させ、フランドルで兵力1万7千を補充し、総勢3万でイギリスに上陸する作戦であった。1588年7月、ドーヴァー海峡で苦戦したスペイン艦隊は、いったん北海に待避して態勢を整えるつもりが、折からの嵐にあって大損害を被り、やむなくイギリス北岸を回って帰還した。
Epi. 無敵艦隊の呼称 なお、スペインの艦隊を「無敵艦隊」というのは、のちにこの艦隊と戦うことになったイギリスで「半ば皮肉混じりに恐怖と賞讃の意味を込めて奉った尊称」である。スペインの文献では単に艦隊あるいは大艦隊、あるいは「いとも壮大なる艦隊」と形容詞がつく程度である。<岩根圀和『物語スペインの歴史』2002 中公新書p.211>
D オランダの独立 スペインからの独立戦争のさなか、1581年、北部7州は「ネーデルラント連邦共和国」の独立を宣言した。その後も戦闘が続き、ようやく1609年、十二年間休戦条約が成立し、事実上の独立が認められた。三十年戦争が始まると、ヨーロッパ全体での新教と旧教の対立の様相の中で再び戦端が開かれ、1648年のウェストファリア条約によって国際的に独立が認知され、長い独立戦争が終わった。
a 東インド会社 (オランダ)オランダの東インド会社は、1600年のイギリス東インド会社に次いで、1602年に創建された。喜望峰からマゼラン海峡までの広大な地域の貿易独占権を与えられていた。主として東南アジアのポルトガル(当時はスペインに併合)の支配地域に食い込んでいき、イギリス東インド会社と競争し、より優勢となった。イギリスは東南アジアではオランダに敗れ、インド本土に拠点を移すことになる。オランダ東インド会社はジャワ島のバタヴィア(現在のジャカルタ)を中心に香辛料貿易を抑え、1623年にはアンボイナ事件でイギリス勢力を排除して東南アジアで優位を占め、「オランダ領東インド」を建設する。しかし18世紀にはいると香辛料貿易は不振となり、またフランス革命に続きナポレオンに征服されたため、1799年には東インド会社を解散し、直接支配形式に改める。 → オランダのインドネシア支配
Epi. 日本へのオランダ船の来航 1600年の関ヶ原の戦いの5ヶ月ほど前、豊後(大分県)の沖合に幽霊船のような黒船が現れた。船内から20数人のやせ衰えた船員が発見された。これはオランダ船リーフデ号で、1598年ロッテルダムから東アジアに派遣された5隻の船団のひとつで、当初は110人もの乗組員がいたという。これがオランダ船が日本にやってきた最初であった。乗組員の中のヤン=ヨーステンとウィリアム=アダムス(イギリス人)はその後江戸幕府に用いられ、その外交顧問として活躍した。ヤン=ヨーステンには江戸城近くに屋敷が与えられその地が「八重洲」と言われるようになった。アダムスは日本名三浦按針といい、三浦半島に領地を与えられた。その墓が横須賀の「安針塚」である。オランダはその後、東インド会社を設立、日本とも正式な貿易をはじめ、1609年には平戸にオランダ商館を建設した。鎖国後は長崎出島に商館を移されたが、日本の唯一のヨーロッパへの窓口になったことは知るとおりである。
なお、リーフデ号の船尾に飾られていた「エラスムス像」(この船はもとエラスムス号と言った)は現在東京国立博物館に保存され国宝とされている。
東インド会社1600年のイギリス東インド会社に始まり、1602年のオランダ、1604年のフランスと続いた、主権国家形成期の諸国の重商主義にもとづく特権的な株式会社。
「インド」は、ヨーロッパではもともとインダス川の東にあるすべての土地を意味していた。コロンブスが到達した地域が「西インド」と言われるようになると、それにたいして、現在のインドから東の地域が「東インド」と区別されるようになった。従って「東インド」とは広い意味で現在のインドと東南アジアを指す。そのうちオランダでは「東インド会社」が東南アジアの島嶼部(インドネシア)を支配するようになったので「東インド」は狭い意味でその「オランダ領東インド」を指すようになった。なお、「東インド」に対して、コロンブスの発見した島々を「西インド諸島」といい、西インド諸島やアメリカ大陸とアフリカなどを含む貿易を扱う会社として「西インド会社」がオランダとフランスで作られる。
「会社」というのは出資者が資金を出し合って組織された企業と言うことだが、政府から東アジアの貿易独占権を認められた特権会社であり、政府が東インド会社を通して貿易の利益を独占する重商主義政策に基づいて作られたものである。従って単に貿易に従事するだけでなく、領土支配を行う政府機関であった。
西インド会社インド・東南アジアとの貿易を扱う東インド会社に対して、アメリカ大陸・アフリカとの交易を行う特権会社。オランダは1621年には「西インド会社」を設立、アメリカ大陸に進出し、スペインからの独立戦争の一環としてニューアムステルダム(後のニューヨーク)を建設した。またフランスは1664年、コルベール財務長官のもとで西インド会社を設立、カナダ方面やルイジアナへの進出をはかった。しかし、いずれも東インド会社にくらべて経営は奮わず、北米大陸ではイギリスの支配権が強まっていく。
株式会社 
b アムステルダム ネーデルラントが独立し、独自の経済活動を展開し始めると急速に発展した、商業都市。1585年、それまで繁栄していた南部ネーデルラントのアントワープが、スペイン軍によって破壊されて、多くの新教徒の商工業者がアムステルダムに移住した。これによってアムステルダムが世界経済の中心地となった。また、1580年にはスペインがポルトガルを併合し、リスボンへのオランダ船の入港を禁止したため、アムステルダムの商人は直接海外貿易に進出しなければならなくなった。またポルトガルがスペインに併合されたため、多数のユダヤ人が追放され、彼らがアムステルダムに移住してダイヤモンド加工業が始まった。その他、ユグノー戦争の難を避けたフランスの新教徒や、国教会による抑圧から逃れてイギリスから移住してきたピューリタンなどがアムステルダムの商工業の発展に大きな寄与をすることとなった。現在でも世界有数の商業都市。現在は法律上はオランダ王国の首都だが、実際の首都機能は王宮のあるハーグである。
Epi. オランダの地名 アムステルダムという地名は、アムルテル川の堤防(ダム)のうえにつくられた町、と言う意味。13世紀にギスプレスト2世という人が、アムステル川の河口の漁村に築城し、堤防を築いて都市を建設したのが起こりだという。なお、同じオランダのロッテルダムも、ロッテ川のダムのうえ、と言う意味。ユトレヒトという地名は、下(ユト)と渡船場(トレヒト)が一つになったもので「渡船場の川下」の意味。いずれも、堤防や運河が発達した低湿地帯らしい地名である。<牧英夫『世界地名ルーツ辞典』p.47>
A テューダー朝  → テューダー朝 絶対王政
a ジェントリ(郷紳)  → 第6章 3節 イギリスの状況 ジェントリ 
治安判事 治安判事(justice of the peace)は中世イギリスに起源を持つ、地方の有力者(ジェントリなど)が任命される名誉職で、無給で地方行政や裁判を行った。起源は14世紀の中頃のエドワード3世のとき、州裁判所の裁判長(シェリフ)を補佐するもとして設置され、その州の騎士であるジェントリが任命されたことにある。彼らは地域の有力者として、治安の維持にあたったので、ワット=タイラーの乱の時には農民一揆の攻撃目標とされたが、15世紀以降の王権が次第に強化されると、それを農村で支える存在となった。特に16世紀のチューダー朝では、実質的な地方行政官として国王の中央集権体制を支えた。エリザベス女王の時代には労働者の賃金の裁定などの任務もあった。イギリス革命の時期は王党派を構成したので一時その権限は小さくなったが、王政復古後は地主=地方名望家=ジェントルマンとして地方自治にあたり、トーリー党の支持基盤となった。近代においても保守権力の基盤とされ、1819年のピータールー事件(マンチェスターで穀物法に反対する労働者が官憲に襲撃された事件)の時には政府は治安判事に労働者の運動に対する違反者取り締まりの即決的権限などをあたえている。イギリスでは現在でも地方の名士に対する名誉職として治安判事が任命されている。
b ヘンリ8世  → 第9章 3節 イギリス国教会の成立 ヘンリ8世
c 議会政治  → 第6章 3節 イギリスの状況 議会政治の定着
B イギリスの絶対王政イギリスの絶対王政の全盛期は、テューダー朝の女王エリザベス1世(在位1558〜1603年)の時代に相当する。エリザベス1世はイギリスの宗教改革を完成させ、教会組織の頂点に立って国家を治めるという体制を完成させ、王権を確固たるものにした。エリザベス1世の時代はシェークスピアの活躍に代表される、イギリス・ルネサンスの開花した時代であった。このように、この時代は一見華やかに見えるが、イギリスの国家財政状況から言うと困難な時期であり、経済的な繁栄期と言うわけではなかった。社会の内部も、第1次エンクロージャーが進行し、農村の困窮と階層分化は深刻な状況であった。1601年の救貧法はそれに対する対応であった。一方で力をつけてきたジェントリ(郷紳)が次第に政治的にも進出してきた。
16世紀中頃まではイギリスは大国スペインに圧倒され、その力はまだ微弱なもにすぎなかったが、オランダのスペインからの独立戦争を助け、1588年にスペインの無敵艦隊を破ったのを転機として、海洋帝国としての第一歩を歩み出した。また東インド会社の設立ローリーを用いてヴァージニア植民地への進出を図るなど、積極的な発展策を開始した。このように16世紀後半から17世紀初頭のエリザベス1世時代は、イギリス絶対王政の全盛期あったが、同時に中世から近代へという社会の地殻変動が着実に進んだのであり、次の17世紀のピューリタン革命・名誉革命という変動を準備した時代であったと言える。
a 囲い込み=エンクロージャー(第1次) チューダー朝エリザベス1世のイギリスの絶対主義時代に典型的に見られる、領主および富農層(ジェントリー=地主)が、農民(小作人)から取り上げた畑や共有地だった野原を柵で囲い込んで、羊を飼うための牧場に転換したことをいう。15世紀末に始まり、16世紀を通じて続いたのこの動きを第1次エンクロージャー運動(enclosure は「囲い」という意味)という。
背景と影響:イギリスの海外市場が拡大したことによって毛織物の需要が増え、毛織物工業が盛んになり、その原料の羊毛が高騰し、領主および富裕層が羊毛の生産に転換して利益を上げようとしたことがあげらえる。これによって耕地を奪われた農民は離村し、工場制手工業(マニュファクチュア)での賃金労働者化していくこととなった。またその進行によって、失業、浮浪、犯罪などの社会不安が増大したので、社会的批判が強くなり、議会はしばしば囲い込みの禁止を議決したが効果はなかった。この状況を告発し、「羊が人間を食べている」と表現したのがトマス=モアであった。ただし、最近の研究では、実際に耕地が牧場化されたのは、全耕地面積の2%程度であり、また全国的な状況ではなかったとされている。しかし、このような農民の離村と賃金労働者化(原始的蓄積という)は15世紀末から16世紀を通して進行し、17世紀半から18世紀には農業革命に伴って商業的穀物生産が普及し、そのため農民の土地が囲い込まれるという第2次エンクロージャーが進行する。第1次エンクロージャーは議会で禁止決議が出されるなど、一定の抑止が図られていたが、第2次になると社会的な反対もなくなり、議会が立法によってそれを促進するようになり、資本主義かが一気に加速することになる。
b ”羊が人間を食べている” トマス=モアの『ユートピア』に次のような部分がある。トマス=モアが言いたいことがよくわかります。
※資料 『ユートピア』の一節
「・・・ほかでもありません。イギリスの羊です。以前は大変おとなしい、小食の動物だったそうですが、この頃では、なんでも途方もない大食いで、その上荒々しくなったそうで、そのため人間さえもさかんに食い潰されて、見るもむざんな荒廃ぶりです。そのわけは、もし国内のどこかで非常に良質の、したがって高価な羊毛がとれるというところがありますと、代々の祖先や前任者の懐にはいっていた年収や所得では満足できず、また悠々と安楽な生活を送ることにも満足できない、その土地の貴族や紳士やその上自他ともに許した聖職者である修道院長までが、国家の為になるどころか、とんでもない大きな害毒を及ぼすのもかまわないで、百姓たちの耕作地をとりあげてしまい、牧場としてすっかり囲い込んでしまうからです。家屋は壊す、町は取り壊す、後にぽつんと残るのはただ教会堂だけという有様、その教会堂も羊小屋にしようという魂胆からなのです。林地・猟場・荘園、そういったものをつくるのに相当土地を潰したにもかかわらず、まだ潰したりないとでもいうのか、この敬虔な人たちは住宅地や教会付属地までも、みなたたきこわし、廃墟にしてしまいます。・・・」(一部平易な表現に改めた)<平井正穂訳 岩波文庫 p.26>
 救貧法イギリスの絶対王政のエリザベス1世の時の1601年に制定された法律。当時イギリスでは、第1次エンクロージャーが進み、土地を無くした農民が年に流れ込み、その貧困が問題となっていた。エリザベス1世の政府は、救貧法を制定し、救貧税を設けてそれを基金とし、働く能力のある貧民に対し、亜麻・大麻・羊毛・糸・鉄などの原料を与えて就労させ、老人や身体障害のある人にはお金を支給してその生活を援助した。また貧民の子弟には技術を教えるために徒弟に出すことを奨励した。
Epi. 浮浪人乞食処罰法 エリザベス1世の時代にはさまざまな社会政策が打ち出されたが、1598年に制定された浮浪人乞食処罰法は、矯正院を設置し、浮浪人、乞食は「上半身を裸にして体が血で染まるまで公衆の面前で鞭打ちした」後に、生まれた教区に送還して労働に従事させるというものだった。<『世界各国史・イギリス史』旧版 山川出版社 p.142>
 グレシャムエリザベス1世に使えた役人で、グレシャムの法則−”悪貨は良貨を駆逐する”−を提唱したことで知られる。前代のヘンリ8世の時、財政窮乏のために貨幣の品質を落としてを濫発したのに対し、1860年にグレシャムの提言により、現行の低品質の貨幣を回収し、その名目価格よりも多少低い割合で新しい貨幣と引き換えた。また、金銀の交換比率を一定にして、通貨の取引を安定させた。 
c 毛織物工業  
d 無敵艦隊 → 無敵艦隊の敗北
e フランシス=ドレーク イギリスでは、エリザベス1世の時代に、私拿捕船(私掠船ともいう)といって、政府から免許状を受けて海賊行為を行う船があった。特にスペイン船で新大陸との貿易船を襲撃して略奪をする私拿捕船が多かった。この私拿捕船の船長として最も有名なのがフランシス=ドレークである。彼は西インド諸島でスペイン船を襲っていたが、1577〜80年には、マゼランに次ぐ2回目の(イギリス人としては初めて)世界周航を、途中スペイン船からの略奪をしながら、達成した。この航海は女王自身も出資し、ドレークのもたらした富は、60万ポンドという莫大な金額にのぼり、エリザベス女王は4700パーセントの配当金を得てたという。またスペインの無敵艦隊を迎え撃ったときはイギリス艦隊の指揮官として活躍した。<増田義郎『略奪の海カリブ』岩波新書 P.77-78>
※マゼランは太平洋に出るルートは自分たちの通った海峡だけしかないと信じていたが、ドレークはさらに南に、南米大陸(最南端のホーン岬)と南極大陸の間の広い海峡を発見し、狭いマゼラン海峡ではないルートを開くこととなった。この海峡は現在はドレーク海峡と言われている。
私拿捕船 16〜17世紀に、戦時に国王や地方長官が、特定の個人または団体に特許を与えて、敵国の艦船にかぎってこれを拿捕・略奪することを認めたもの。掠船(私略船)ともいう。英語では privateer 。戦利品の10%は委託者(国家または地方長官に納められた。イギリスだけでなく、ヨーロッパ各国で行われたが、有名なのは、16世紀イギリスのエリザベス1世時代のフランシス=ドレーク。彼はアメリカ植民地から帰航するスペインの財宝船をねらい、大きな利益を上げた。しかしその実態は、海賊そのものであった。
海賊 海上の交易船を襲撃して略奪する海賊は、古来、ヴァイキングの活動や、地中海の海賊(16世紀のプレヴェザの海戦の時の海賊バルバロッサが有名)、インド洋の海賊、そして東アジアの倭寇など数多いが、特に有名なのが、16世紀中頃から18世紀まで続いた、アメリカ新大陸に行き来するスペイン船をねらう、イギリスやフランスの「海賊」であった。またオランダがスペインから独立戦争を始めたときの、ゴイセン(「海乞食」)もスペイン船に対する海賊行為を展開した。それらの中で最も有名なのが、イギリスのフランシス=ドレークである。ドレークだけでなく、エリザベス1世の時代のイギリスは、ウォルター=ローリー、ハンフリー=ギルバート、ジョン=ホーキンズなど海賊、または海賊と同じ活動をした人々が多く、ヨーロッパではエリザベス女王のことを「海賊女王」と呼んでいた。イギリスは海賊からの上納金で、海軍の強化を図り、一流の海軍国となったと言われている。つまり、海賊と言っても、それらの多くは、国王や地方長官の免許状をもらって敵国の艦船を襲撃した「私拿捕船」であり、また海賊に襲われた被害者が国に訴え、報復が認められ「報復状」が交付されと堂々と海賊行為が認められる、など、公認のものであった。しかし、17世紀にはいり、主権国家体制が成立し、国際法の理念もひろがるにつれて国家が海賊行為を公認することはできなくなり、次第に海賊は私的な盗賊団に変質、取り締まりの対象となり、新大陸航路から世界各地の海域に散らばっていく。<別枝達夫『海事史の舞台』1979 みすず書房、武光誠『世界史に消えた海賊』2004 青春出版社 プレイブックス など>
Epi. カリブの海賊ヘンリー=モーガン カリブ海域で活躍した海賊のことをバッカニーア(buccaneer)という。17世紀の初めにこのスペインの勢力圏にヨーロッパ各地から流入してきた貧しい人々が、大陸に移動したスペイン植民者が見すてた西インド諸島の島々にもぐりこみ、テントや岩窟に住み、植民者が捨てていって野生化した牛や豚、山羊を食料にし、その乾し肉を作ることを覚え、それを食料に小舟に乗って海上にでて、本国との行き来をするスペイン船に売りつけた。そのついでに襲撃するようになると、スペインの官憲は彼らのことを「乾し肉売りども」(ブーカニエ)と呼んで憎んだ。その英語読みがバッカニーアである。彼らはフランス人、オランダ人、ドイツ人などさまざまだったが最も多かったのはイギリス人だった。はじめは海上の盗賊団にすぎなかったが、スペインの衰退に乗じて、カリブ海一帯に進出しようとしたイギリス、フランス、オランダなどは、それぞれ海賊を公認して私略船とし、島々を占拠させた。イギリスはアンティグア、バルバードス、トリニダッド=トバゴ、ジャマイカなどを領有し、フランスはグァダループ、マルティニクその他を、オランダはキュラソー、セント=クロアなどの島々を我がものにしてしまった。特に有名なのがヘンリー=モーガンで、彼はバッカニーアの頭目としてカリブ海を荒らし回り、最後は国王チャールズ2世からジャマイカ島副総督に任じられ、すると一転してバッカニーア取り締まりの先頭に立つことになった。<別枝達夫「カリブの海賊」他『海事史の舞台』所収 1976 みすず書房。>
f ヴァージニア植民地 イギリス商業資本家の中に、新大陸に「ニューイングランド」を建設しようという関心がたかまる。エリザベス女王はその寵臣サー=ウォルター=ローリーに対し、貴金属の発掘から得る利益の5分の1を国王に支払うという条件で、かれが植民し得る地域の全域に対する特許状(パテント)を与えた。ローリーは1584年、探検隊をノース・カロライナ海岸沖のロアノウク島に送り、翌年108名の開拓者を送ったが、彼らは植民に失敗。1587年、再度植民を試みたが失敗、全員行方不明となった。<ビーアド『新版アメリカ合衆国史』P.7-8>
その後、特許会社のロンドン会社によって再度入植が試みられ、エリザベス1世の死後の1607年のジェームズタウン(国王ジェームズ1世の名による)の建設に成功し、イギリス最初の北アメリカ植民地となり、そのもとを作った先代の処女王エリザベスにちなみヴァージニアと名付けられた。入植者ははじめはスペイン人と同じく、黄金とアジアへの水路の発見をめざしたが、それらを果たすことは出来ず、インディアンから学んだタバコの栽培に成功して本国に向けての輸出品として大きな収入が得られるようになると、入植定住してプランテーションを経営する形態が確立した。1619年、植民地最初の議会であるヴァージニア議会が設けられ、自治が始まる。同じ年に、アメリカ大陸最初の黒人奴隷がヴァージニアにもたらされ、黒人奴隷を労働力とする大農園経営(プランテーション)が開始された。
ローリー ウォルター=ローリーは、イギリス絶対王政全盛期のエリザベス1世の寵臣で、イギリスの海外発展に功績を挙げ、サーの称号を与えられた。北米大陸への最初の入植のこころみ(1584年と1587年)は失敗したが、スペインと対抗して新大陸への進出の先頭に立った。エリザベスの死後、ジェームズ1世は、反スペイン、反カトリックのローリーを嫌い、彼をロンドン塔に幽閉した。許された後、1616年に南米オリノコ川上流に黄金郷「エル・ドラド」探検を行うが失敗し、スペイン人を傷つけたと告訴されて死刑となった。
Epi. イギリスにタバコをもたらしたローリー ウォルター=ローリーはエピソードの多い人物である。彼がエリザベス女王の寵愛を受けるきっかけとなったのは、テムズ川下流のグリニッジの宮殿の近くに行幸したとき、ちょうど雨上がりで道がぬかるみ、女王が立ち止まったのを見て、ローリーが着ていたビロードのマントを水の上にさっとひろげて汚れずにわたれたので、女王がその機転を喜んだことだったという。その時サー=ウォルター=ローリーが「さあ渡られい」(Sir Walter Raleigh)と言った、とうのは東大教授今井登志喜のジョーク。また、ヴァージニア植民地からイギリスにタバコジャガイモ(ポテト)を最初に輸入したのもローリーだと言われている。ローリーがイギリスで喫煙の風習を広めたのだが、「彼が初めて自分の部屋でタバコを吹かしているとき、彼の召使いは御主人の体が燃えていると、ビックリして彼の頭から水をかけた」というエピソードも伝えられている。<別枝達夫「ウォルター=ローリー」1974 『海事史の舞台』1979 みすす書房>
g 東インド会社 (イギリス)エリザベス女王は、1600年12月31日、正式に「イギリス東インド会社」、つまり「東インド諸地域に貿易するロンドン商人たちの総裁とその会社」を法人と認める特許状を下付した。東インド会社はここに始まるが、最初の東インド会社船4隻がロンドンを発ったのは1601年1月であった。翌年10月にスマトラのアチェンに到着、1603年9月にイギリスに戻り、103万ポンドの胡椒を持ち帰った。ロンドンに入荷した胡椒はそこからヨーロッパ各地に売りさばかれた。
この東インド会社は、一航海ごとに資金(株)を集め、船が帰国した後にその輸入品またはその販売代金を、投資額に比例して利益を分配するという、株式会社方式をとった最初であった。しかし、航海ごとに利益は分配され、恒常的・組織的な会社にはなっていなかった。イギリスより遅れたが1602年に発足したオランダ東インド会社は、1回の航海ごとではなく、永続的に資金を集め、組織的な会社を組織し、利益を配当する形式をとったので、イギリスの東ンド会社はその競争では後れをとることになる。イギリス東インド会社は一時、オランダ東インド会社との合同も考えたが、反対も強く、とくに1623年のアンボイナ事件での両国の対立から、イギリスは東インドから撤退し、インド亜大陸経営に方向を転じる。イギリスの東インド会社が、オランダと同じ配当方式になるのはクロムウェル時代の1657年で、それ以後イギリス東インド会社はオランダとの競争力をつけ、その香料貿易独占に食い込んでいき、18世紀にはオランダ東インド会社を追い抜き、巨大な利益を生み出すことになる。→イギリス東インド会社の隆盛  東インド会社(19世紀) 東インド会社の解散
エ.フランスの宗教内乱と絶対王政
A フランソワ1世  → フランソワ1世
コレージュ=ド=フランス 1530年、フランスのヴァロワ朝フランソワ1世が王宮内に開設した古典研究のための学院で、現在も続く高等教育機関。開設は、フランス・ルネサンスの開花の一つのあらわれであり、人文学者ギョーム=ビュデがフランソワ1世に進言して開設された「王立教授団」に始まる。これに対してパリ大学神学部(ソルボンヌ)は神学軽視であり、異教の学問であるとして強く反発し、しばしば対立したが、フランス王室はその後も保護を続け、17世紀には「王立学院」、18世紀からは「コレージュ=ド=フランス」としなって現在も続いている。現在は、約50ある講座の講師は教授会が選考し大統領が任命する。学位授与はないが、受講には試験がなく万人に開かれている。
人文学者ギョーム=ビュデ コレージュ=ド=フランスの基になった「王立教授団」設立をフランソワ1世に進言したギョーム=ビュデは、「フランスのエラスムス」ともいわれる人文学者(古典学者)でヒューマニズム(ユマニスム)の開祖の一人であった。ビュデはギリシア語を習得して聖書の原典研究をはじめたため、パリ大学神学部(ソルボンヌ)の神学者からは異端視され弾圧された。当時ちょうど隣国ドイツではルターの宗教改革が始まり、カトリック側は神経を高ぶらしていたためである。ビュデは旧教側の度重なる弾圧にもかかわらず、国王フランソワ1世に保護を求めた。フランソワ1世も当時、ハプスブルク家のカール5世と激しく対立していたので、非カトリックのビュデの意見を容れ、王室での古典学者の講義を認め、学院を創設した。学長にははじめエラスムスを招聘しようとしたがそれは実現しなかった。1530年3月ごろ、ギリシア語・ヘブライ語・数学・ラテン語の6教授からなる王立教授団が組織され、あまり目立たぬように開講されたという。また教授への俸給もわずかで、支払われなかったこともあるという。約束れていた専用の建物も完成したのは1778年のことだった。<渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』1971 岩波文庫 p.20-54 「ある古典学者の話―ギョームービュデの場合」> 
a カルヴァン派の成長  
b ユグノー  → 第9章 3節 ユグノー
B ユグノー戦争 1562年〜98年にフランスで展開された、新教派と旧教派の内戦。フランスでは単に「宗教戦争」(Guerres de religion)という。ジュネーヴで改革にあたったカルヴァンはフランス人であったので、早くからその思想はフランスに影響を与えていた。急成長した新教徒に対し、ヴァロワ朝アンリ2世(フランソワ1世の子)は厳しく弾圧したが、カルヴァン派は商工業者層を中心に、貴族にもその信者を広げていった。当時、貴族たちは商工業者の勃興、王権の強化の中で不安定な状態に置かれていたので、疑心暗鬼となり、互いに党派をつくって争っていたが、それに新旧両教派の対立が結びついたと言える。旧教派の中心となったのが大貴族ギーズ家、新教徒は新興貴族ブルボン家と結んだ。国王は王権強化の立場から両派のバランスをとろうとして策を弄したが、その実権を握ったのは、アンリ2世死後、幼帝が続いたため摂政となった母后カトリーヌ=ド=メディシスであった。両派の対立は1562年のヴァッシーの新教徒虐殺事件を機に勃発し、その間、サン=バルテルミ虐殺事件などが起こり、またイギリスやスペインなどが新旧両派の支援に介入し、国際紛争の様相も呈した。三アンリの戦いという戦いを経て、1589年にブルボン家のアンリが王位についてアンリ4世となり、1593年にカトリックに改宗して、旧教徒派を抱き込み、1598年にはナントの勅令を発布して新教徒の信仰の自由を保障し、ユグノー戦争は終結した。アンリ4世の改宗とナントの勅令によってフランスの分裂は回避された。 
三アンリの戦い 三アンリとは、ヴァロワ朝の国王アンリ3世、カトリック派の最有力者ギーズ家のアンリ、それに新教徒派のブルボン家のアンリ(後のアンリ4世)のこと。この3人は幼なじみでもあったが、ユグノー戦争の中で互いに戦う相手となっていた。国王アンリ3世はカトリックではあったが、新教徒との妥協をはかっていた。それに不満なカトリック強硬派のギーズ家のアンリ(「向う傷」とあだ名されるほど新教徒に恐れられていた)は、王位奪還をめざして1588年パリに入り、旧教徒の多いパリ市民に歓迎された。国王アンリ3世はパリからブロワに逃れた。翌年、アンリ3世は和解を装ってアンリをブロワに招いて暗殺し、一方で新教派ブルボン家のアンリと休戦した。その動きを警戒したカトリック側は刺客を送り、アンリ3世を襲撃した。国王アンリ3世は、子供がなかったので、臨終の床にブルボン家のアンリを呼び、王位を継承させた。こうして1589年に新教徒のフランス王ブルボン朝アンリ4世が誕生したが、こんどはスペインがカトリック側の応援を口実に介入し、フランスを支配しようという動きとなった。フランスの分裂はスペインの介入をもたらすこととなることを恐れたアンリ4世は、1593年カトリックに改宗し、1598年にはナントの勅令を出し、宗教対立を終わらせた。このアンリ4世も1610年、狂信的なカトリック信者によって暗殺された。三人のアンリはいずれも暗殺されるという血なまぐさい最後であった。 
a 宗教戦争  → 第9章 3節 宗教戦争
b カトリーヌ・ド・メディシス フィレンツェのメディチ家出身のイタリア女性で、ヴァロワ朝フランス王アンリ2世の王妃。フランス王フランソワ1世は、イタリア戦争を有利に展開するため、ローマ教皇クレメンス7世(メディチ家出身)と近づこうとした。そこで1533年、息子アンリの妃としてクレメンス7世の姪でウルビノ公ロレンツォ=ディ=メディチ2世の娘カトリーヌを迎えたのである。王妃としてアンリ2世との間に10人の子を生んだが、アンリ2世には愛人がいたのでその生存中は恵まれなかった。1559年、アンリ2世(槍試合に出場して事故死した)が死んで、フランソワ2世が即位するとその母后として発言力を強め、次第にメディチ家一流の権謀術数を揮い、場合によっては毒殺や呪術を使い、スパイを宮廷に張り巡らして隠然たる勢力を築いた。その後、シャルル9世、アンリ3世と3代にわたって摂政またはそれと同じ権限を持ち、政治にあたった。カトリーヌは宗教的には熱心なカトリック教徒ではなかったが、政治的にはカトリック派の諸侯と近かったため、新教徒をしばしば弾圧した。最も有名なものが1572年のサン=バルテルミの虐殺事件である。一方で娘のマルグリット(マルゴ)を新教派の中心人物アンリ=ド=ブルボン(後のアンリ4世)に嫁がせ、新旧両派の融和を図ろうとした。
c ボーダン 16世紀後半、ユグノー戦争時代のフランスの思想家、ジャン=ボーダン。ボダンとも表記。宗教対立がフランスの政治と社会を混乱させている現状を批判し、その現実的解決の道を探った。特にサンバルテルミの虐殺事件後は、増大ずる無秩序、混乱を解決するために強力な王権の必要を痛感するようになった。宮廷の官僚層を形成していた中小貴族はしだいにこの「ポリティーク派」を形成するようになり、彼らがアンリ4世の劇的改宗による事態の収拾というシナリオを支持したのである。ボーダンはその思想を『国家論』で展開したが、国王が立法権を持つ主権者であると位置づける「絶対王政」を理論づけ、後の王権神授説につながった。
d サンバルテルミの虐殺 1572年8月、ヴァロワ王家のマルグリット(カトリーヌ=ド=メディシスの娘)と、新教徒のブルボン家のアンリ(後のアンリ4世)の結婚式の日、パリに集まった新教徒(ユグノー)たちが、旧教徒によって虐殺された事件。パリでは約4000人が殺害され、さらに虐殺は全土に及んだ。ユグノー戦争の最中の新旧両派の争いの一つ。
「二十四日の深夜、一時半に、サン・ジェルマン・ロクセロワの半鐘が、虐殺の合図を与えた。人名表は、何びとも遁れ得ないように、整備されていた。ギュイーズ自身が提督のもとへ出掛け、提督は英雄的に死んだ。パリでは、三、四千人のユグノー派が、恐ろしい場景の中で死んだ。地方では、特にリヨンとオルレアンで、他の数千人が死んだ。最も高位の人々、ラ・ロシュフコー、コーモン・ラ・フォルスも免れなかった。『パリは征服された都市のようである。』とタヴァンヌはいっている。『血が止まると、掠奪が始まった。……親王や諸侯、貴族たち、射手、近衛兵が、あらゆる身分の人々と、民衆とに混じって、往来で掠奪し殺戮していた。……』ただ王統の親王たち、アンリ・ド・ナヴァールとコンデとが死を免れた。しかし、彼等はルーヴル宮に捕虜となり、『宗教を変えるように要請された。』外国では、エリザベス1世は喪に服し、フェリーペ2世は祝辞を送った。『それは我が生涯の最大の喜びの一つである。……』ローマでは、法王グレゴリウス13世は『謝恩賛美歌(テ・デウム)』をとなえさせた。正統性の争いが聖愛に打勝ったのである。」<アンドレ・モロワ『フランス史』上 新潮文庫 p.215 一部訂正>
Epi. フェリペ2世、生まれて初めて笑う 「この大虐殺の報知がローマに伝わりますと、時のローマ教皇グレゴリウス13世は、サン・タンジェロ宮から祝砲を撃たせ、ローマ市民にお祝いの松明をかかげさせて、記念のメダルを鋳造させたり、画家のヴァザリに命じて大虐殺事件を三幅の絵に描かせたりしたと伝えられています。」<渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』 岩波文庫 p.13>
「・・・アンリ・セーの記すところによりますと、聖バルトロメオの虐殺の報を得て、時のローマ教皇グレゴリウス13世は、祝賀の大祭を行い、「この報知は五十回レパントの海戦でトルコ軍を破ることよりも喜ばしい」と言ったそうですし、ギュイーズ家および旧教軍の後楯になっていたイスパニアのヘリーペ2世は、生まれて初めて、この報知を聞いて笑ったし、それ以後は笑わなかったと伝えられています。大虐殺の首謀者が誰だかわからないとしても、こうした大虐殺を祝賀したり喜んだりした権力者の名前はわかっているのです。」<同上 p.189>
C ブルボン王朝 フランスの王朝としてのブルボン朝はヴァロワ朝にかわり、1589年〜1792年のフランス革命までと、1814年〜1830年の七月革命まで存続した。フランス絶対王政期に絶大な権力を握り、特にルイ14世時代には広大な海外植民地も獲得し、盛んに征服戦争を展開した。しかしその絶対王政が行き詰まりフランス革命の勃発となり、ルイ16世は退位した後に処刑される。なお、ルイ16世の孫がフェリペ5世から始まるスペイン=ブルボン朝は、途中中段をはさみ、現在も王位を継承している。
ブルボン朝の成立:もともとブルボン家は、13世紀のカペー朝ルイ9世(聖王)の孫ルイが初代のブルボン公を名乗り、16世紀まで続いた。いったん途絶えたが傍流のアントワーヌが婚姻によってナヴァル王となってから再興された。その子のアンリが1589年にヴァロワ朝が断絶すると、王位を継承し、アンリ4世としてブルボン朝を創始した。アンリ4世以後、ルイ13世、ルイ14世、ルイ15世、と続きルイ16世にまで続くので、ルイ王朝の別名もある。
絶対王政全盛期から革命勃発へ:アンリ4世は1593年にカトリックに改宗し、1598年にナントの勅令を発して新教徒の信仰を認め、ユグノー戦争を終結させてた。その後、産業の保護、カナダへの進出など重商主義政策をとり、絶対王政の基盤を築いた。次の17世紀にはルイ13世のもとで宰相リシュリューが活躍、ルイ14世の前半では宰相マザランが出て、フロンドの乱の貴族の反乱を抑えることに成功して17世紀末から18世紀初頭のルイ14世時代のフランス絶対王政の全盛期を出現させた。この間、一貫してオーストリア・ハプスブルク家とヨーロッパの主権を争い、18世紀のルイ15世の時代にいたるまでイギリスとの間でアメリカ大陸、インドでの激しい植民地戦争を展開した。
ブルボン朝の断絶とその後:18世紀の後半、ルイ16世の時代には絶対王政の矛盾が急速に深刻化し、1789年にフランス革命が起き、1792年には王政も廃止され、ルイ16世が処刑される。ナポレオン没落後、1814年に復古王政となり、ルイ18世が即位、一時ナポレオンの百日天下となるが、1815年にブルボン朝に復帰、次のシャルル10世が1830年の七月革命によって倒され、ブルボン朝は終わりを告げる。なお、次の七月王政のルイ=フィリップは、ブルボン家の分家のオルレアン家の出身であった。また、スペインでは、ルイ14世の子のフェリペ5世がスペイン継承戦争でスペイン王となってスペイン=ブルボン朝が始まり、一時中断がありながら、現在までスペイン王室として存続している。
a アンリ4世 フランスのブルボン王朝を開いた国王(在位1589〜1610)。ヴァロワ家との血縁のあるブルボン家のナヴァル王であり、プロテスタント派の中心人物として人望を集めていた。摂政カトリーヌ=ド=メディシスの新旧融和策により、その娘マルグリット(マルゴ)と結婚したが、二人は生涯好意を持つことはなかった。二人の結婚式を祝して全国からパリに集まってきた新教徒を、旧教徒側が襲撃したのがサン=バルテルミの虐殺(1572年)であった。この時アンリは難を逃れたが王宮にとらわれの身となり、76年に脱走。その後、ユグノー戦争の中で新教派の柱として活動した。1589年、国王アンリ3世が暗殺され、ヴァロワ朝が途絶えると、王位を継承、ブルボン朝を開いた。しかし、国内には彼の王位を認めないものも多かったため、改宗を決意、1593年、サン=ドニ教会でカトリックに入信した。これによってカトリック派はアンリ4世を認め抵抗を停止、ついで1598年に「ナントの勅令」を出してプロテスタントの信仰を認めたため、ユグノー戦争を終結させることができた。その後王権の強化と国庫の再建、商工業の奨励(ユグノーの新教徒は商工業者が多かったので、平和の実現とともに生産力も上がった)、海外植民政策の開始(1608年、シャンプランがケベックを探検、植民地とした)などの政策を進めたが、1610年、狂信的なカトリック信者の青年によって暗殺された。その後継者はマルゴの次ぎに結婚したフィレンツェ(トスカナ公国)出身のマリ=ド=メディシスとの間に生まれたルイ13世であったが、まだ幼少だったためマリーが摂政となり、フランスは再び不安定な政治情勢となる。
Epi. アンリ4世の「とんぼがえり」 「1593年7月23日付で、アンリ4世がその寵姫ガブリエレ・デストレへ送った書簡が残っていますが、25日(日曜日)の改宗を前に目前に控えて、アンリは次のように書いています。『この日曜日に、私はひとつトンボかえりを打つことにしています。』 伝説ですが、アンリ4世は、「ひとつとんぼがえりをうつことにする。パリを手に入れられるのなら、ミサ聖祭(旧教の)ぐらい受けてやることにしてもよい」と言ったとも伝えられています。あまり穿ちすぎているようですが、アンリ4世の物を物と思わぬ不逞さが窺える言葉です。」<渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』 岩波文庫 p.193>
補足 アンリ4世の「国際連盟」計画 王の宰相として仕えたシュルリーの『覚書』によれば、アンリ4世は「大計画」といわれる<夢>をもっていた。王は、キリスト教国家間の国際連盟のようなものを夢想していた。即ち、新旧両教の差別はもちろん問題外とし、各国はお互いの領土や主権を尊重し合い、国際軍のごとき物を作り、この連盟全体の和平を乱す国を制裁し、永久平和を保とうという機構だった。この計画の裏には、神聖ローマ皇帝とスペイン王を出しているハプスブルク家の圧力に対して、フランスを中心とするヨーロッパ各国の連合という問題も含まれていた。6つの世襲王国(スペインを含む)と、6つの選挙制君主国(神聖ローマ帝国など)と、三つの共和国とが、国際裁判所と国際軍とを持ち、ヨーロッパの和平を保つというのが眼目であって、まさに国際連盟・国際連合の先駆といってよい。事実、1610年、弱小国を威圧していたハプスブルク家に対して、その他の諸国が兵力を出し合い、総計23万8千の国際軍を動かすところまでいったが、実行される前の5月14日に、アンリ4世が刺殺されて計画は水泡に帰した。<渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』 岩波文庫 p.197-198>
b ナントの勅令 1598年にフランスのブルボン朝アンリ4世がプロテスタントの信仰を認めた勅令。これによってユグノー戦争は終結した。これによって新教徒は礼拝の自由(ただし、パリなど宮廷所在地では禁止)、公職に就くことができるようになるなどの諸権利を獲得した。しかし、カトリック教徒に比べて不平等な内容であり、フランスのプロテスタントは次第に衰退し、60年後のルイ14世の時の1658年にはナントの勅令は廃止される。
「……旧教と新教の大部分は、尚、敵の絶滅を願っていた。アンリ四世は自分の回心が新教徒の多数に先例となることを願っていた。しかしそうしたことは全く起こらなかった。新教徒は彼の改宗を恨みに思い、相変わらず、カトリック教会を『ローマの野獣』と呼んでいた。王がユグノー派から得たものは、一種の休戦の受諾だけだった。即ちナントの勅令である。この法令は賢明な処置を含んでいた。国家のあらゆる公職への新教徒の権利、限定された場所と条件下での、礼拝の執行。遺言の権利。最高会議(シノード)や牧師会(コレージュ)や監督法院(コンシストワール)での新教の聖職者の任命。パリ高等法院に於ける勅令裁判所(新教両教徒によって構成)の設立。トゥールーズ高等法院に於ける二分裁判所(プロテスタントの訴訟事件を取り扱い、その判事の半分が新教徒より成るもの)の設立。或る秘密条項は危険だった。新教徒は百五十の城塞を維持することになった。それは国家の中に国家を作ることを止めなかった、過去の苦痛と経験とが、この安全保証の要求を非難させないようにするが、王国内に分派傾向の党を持つことは、フランスにとって危険だった。」<アンドレ・モロワ『フランス史』上 新潮文庫 p.227>
c ガリカニスム フランス教会自立主義のこと。フランスはカトリックであるが、ローマ教会からは独立すべきであるという思想が14世紀ごろから強くなってくる。カトリック側にあっても、統一王権と教皇権は並び立たず、教皇権が衰退してきた結果として出てきた思想である。1516年、フランソワ1世はレオ10世との「ボローニャの政教協約」で、国王は大司教・司教・大僧院長の指名権を持つことをローマ教皇に承認させた。ブルボン朝の絶対王政期には、ルイ14世はプロテスタントやジャンセニスト(オランダの神学者ヤンセンが説いた、神の恩寵を得るためには厳格な信仰が必要とする教派で、パリのポール=ロワイヤル修道院を拠点にかなりの信者を得ていた)を弾圧するためにローマ教皇とは妥協的であったので、ガリカニスムを主張する高等法院との対立の一因となった。
D ルイ13世 フランス・ブルボン朝の国王(在位1610〜1643年)。1610年、父アンリ4世が暗殺されたため、9歳で即位。母のマリー=ド=メディシスが摂政となった。14歳で、スペイン・ハプスブルク家の王女アンヌ=ドートリシュと結婚。はじめは、摂政のマリーとその一派(イタリア人コンチーニら)が実権を握ったが、1617年には摂政とその一派をクーデターで退ける。1624年からは、リシュリューを宰相として深く信任し、政治にあたらせ、ブルボン朝の絶対王政を展開した。その間、1635年からは三十年戦争に介入し、ハプスブルク家・スペインと戦い、最初は苦戦したが、最終的にはスペイン軍を破り、フランスの領土拡大をもたらした。
a リシュリュー 1624年から1642年の間、フランスのルイ13世の宰相を務めた政治家。聖職者として国王に仕え、母后マリー=ド=メディシスの信頼を得て、枢機卿となる。マリーらの退陣後の1624年からルイ13世の厚い信任を得て宰相となり実権を握る。彼はまず、イギリスの応援を受けていた新教徒の拠点ラ・ロシェルを攻撃して陥落させ(1629年)、また王権に対抗する貴族を抑え(サン=マール事件)、1636年には「ヴァ=ニュ=ピエの乱」(”素足で歩くジャン”といわれた僧侶が指導したノルマンディの農民反乱)を鎮圧した。1635年からはハプスブルク家との対抗上、ドイツの三十年戦争に介入し、新教徒を支援して出兵した。彼は「フランスを服従させ、イタリアを恐怖させ、ドイツを戦々恐々たらしめ、スペインを苦悩させた」と言われた。一方で、リシュリューは文化政策も重視し、アカデミー・フランセーズを設立し、フランス語の統一をはかり、文芸・学術を保護した。画家では近世フランス絵画の祖といわれるニコラ=プーサンや、風景画のクロード=ロラン、肖像画のル=ナン兄弟などを保護した。
b 三部会  → 第6章 3節 フランスの状況 三部会
c 三十年戦争  → 三十年戦争
E ルイ14世 フランス・ブルボン朝の国王(在位1643〜1715年)。「太陽王」といわれたフランス絶対王政の全盛期の国王。ルイ13世とアンヌ=ドートリシュ(スペイン・ハプスブルク家の王女)の間に生まれ、わずか5歳で即位、当初は母のアンヌが摂政となり、枢機卿マザランが政治にあたった。1651年にフロンドの乱が起こる。1661年、宰相マザランが死ぬと親政を宣言し、内政、外交にあたった。外交ではハプスブルク家との対抗というフランスの伝統的政策を維持しながら領土の拡張に努め、ネーデルラント戦争、オランダ戦争、ファルツ戦争、スペイン継承戦争という4度の対外戦争を起こした。また内政では、「朕は国家である」と称し、神権的絶対王政を展開し、ナントの勅令を廃止してカトリックによる宗教的統一をはかった。ルイ14世の絶対王政を支えたのがマザラン死後に1665年から財務長官となったコルベールで、典型的な重商主義政策が展開された。植民地政策としては北アメリカのミシシッピ川流域に広大な領土を獲得し、ルイジアナと命名した。しかし、たび重なる戦争、ベルサイユ宮殿の造営などに代表される宮廷の奢侈は次第に財政を苦しくさせ、次のルイ15世も同様な政治を継続したので、18世紀末のフランス革命をもたらすこととなった。
a マザラン もとはイタリア人で教皇庁に仕える聖職者であったが、外交官としてフランスに来て、宮廷に仕え、リシュリューに見いだされて枢機卿となった。ルイ13世の死後、摂政アンヌ=ドートリシュに用いられて主席顧問官となり、以後1661年の死までブルボン朝ルイ14世の絶対王政の実権を握る。まず、1648年のウェストファリア条約で三十年戦争をフランスにとって有利に決着をつけたが、同年、国内では彼の増税策に反発した貴族たちが挙兵してフロンドの乱が勃発した。マザランは一時は亡命を余儀なくされたが、巧みにフロンドの乱を鎮圧し、1653年に政権を回復した。その後マザランはフランスの中央集権化と、国際社会でのフランスの地位の向上に努め、1661年に死んだ。その後はルイ14世の親政が行われることとなる。
b フロンドの乱 1648〜53年、フランスのルイ14世と宰相マザランの政治に対し、その中央集権の強化策や重税策に反発した貴族層が起こしたフランスの内乱。フロンドというのは、子供の投石おもちゃのことで、この戦争を子供がこのおもちゃを使って遊ぶことにたとえて「フロンドの乱」というようになった。1848年の内乱の勃発には、マザランの三十年戦争の戦費をまかなうための重税策に対し、パリ市民が反発していたことが背景にある。それに貴族たちのよりどころであったパリ高等法院が同調し、マザラン批判の声を挙げた。政府が高等法院の法官を逮捕すると、激高した市民がバリケードを築いて抵抗した。しかしこの反乱は大貴族のコンデ公が王室側について反乱鎮圧に乗り出し、翌年鎮められた。これを「高等法院のフロンド」という。1650年、今度は大貴族コンデ公が恩賞の少なさに不満を持って王室に反旗を翻し、多くの貴族も同調した。ルイ14世、摂政アンヌ、宰相マザランはパリをすて亡命しなければならなかったが、貴族側も統一歩調がとれずに分裂しており、またコンデ公がスペインに援軍を頼んだことも民衆の反発を受けて反乱は尻すぼみになり、52年国王はパリに帰還、53年にはボルドー地方の抵抗も鎮圧されて終わった。これを「貴族のフロンド」という。フロンドの乱は、貴族を完全に没落させ、フランス絶対王政を確立させる契機となった。また、同時期にイギリスではピューリタン革命が起こり、一時共和政を実現させる革命となったが、フランスのフロンドの乱は市民や農民の蜂起も一部見られたが、中心は貴族の反乱であり、革命運動に結びつくことはなかった。 
オ.17世紀の危機と三十年戦争
A 三十年戦争 三十年戦争(1618〜48年)は、ドイツ内の新旧両派の対立から始まり、西ヨーロッパの新教国、旧教国それぞれの介入によって大規模な国際紛争となった、「最後で最大の宗教戦争」。
三十年戦争の経過:次の4段階に分けることができる。
第1段階 1618〜23年 ベーメンの新教徒の反乱に対し、支援する新教諸侯(ルター派とカルヴァン派が連合したので「連合」=ユニオンという)と、皇帝フェルディナンド2世とそれを支援する旧教諸侯(「同盟」=リガ)の内戦。旧教徒側の勝利に終わる。
第2段階 1625〜29年 デンマーク王クリスチャン4世が、イギリス・オランダの資金援助を受け、新教徒擁護を掲げてドイツに侵入。皇帝側は、ティリの指揮する旧教徒同盟軍やヴァレンシュタインの傭兵部隊の活躍でクリスチャン4世軍を撃退。
第3段階 1630〜35年 スウェーデングスタフ=アドルフが、フランスの資金援助を得て、新教徒擁護、神聖ローマ皇帝の北上阻止を名目にドイツに侵入した。31年リュッツェンの戦いでスウェーデン軍は勝利したが、グスタフ=アドルフ自身が戦死。皇帝側のヴァレンシュタインは謀反の疑いをかけられ暗殺され、新旧両派の和約が成立。
第4段階 1635〜48年 フランス(ルイ13世、宰相リシュリュー)がドイツ新教徒側の劣勢を挽回するため、直接ドイツに進撃。スウェーデンも同調した。それに対し、旧教側ではスペイン軍(フランドル軍)も直接介入。1643年にはフランス北部ロクロワの戦いでフランス軍とスペイン軍が直接交戦。戦況は一進一退で決着がつかず。1644年から、講和交渉が始まり、1648年のウェストファリア条約でようやく講和成立。
背景:三十年戦争は、ドイツの都市と農村を荒廃させ、それによってドイツの人口は1600万から約3分の1の600万まで減少したと言われる。当時の軍隊は国民軍ではなく、新教側も旧教側も傭兵に依存していたため、戦いは決着がつかず(勝敗が決まり、戦争が終われば傭兵は失業してしまうので)、傭兵の略奪行為が横行した。その戦争の惨禍は、文学では自ら体験したことを書いたグリュンメルスハウゼンの『阿呆物語』、絵画ではジャック=カロの『戦争の悲惨』などが伝えている。また、ドイツの文学者シラーは『三十年戦争史』を著している。三十年戦争のさなかの1625年に、オランダのグロティウスは『戦争と平和の法』を著し、自然法の思想に基づいた戦争の解決を説き、当時大きな反響を呼んだ。グスタフ=アドルフも戦陣でこの本を読んだという。
意義:三十年戦争は、ドイツの領邦の宗教戦争から始まったが、ヨーロッパの各国が介入することによって国際的な戦争となり、その結果、封建領主層は没落し、ドイツには神聖ローマ帝国という中世国家が解体され、プロイセンとオーストリアという主権国家が形成されることとなった。同時に、15世紀末に始まったヨーロッパの主権国家形成が確立したと言える。ウェストファリア条約は、主権国家間の条約という意味で最初の国際条約であった。
a ベーメン の反乱ベーメンは現在のチェコ西部でボヘミアとも表記(ベーメンはドイツ語)。10世紀以来、神聖ローマ帝国を構成するベーメン王国として存続。15世紀にはカトリック教会を批判したフスが現れ、農民戦争(フス戦争)が起こったが弾圧された。16世紀からはハプスブルク家の支配を受けていたが、宗教改革が起こるとフスの伝統もあって、新教徒が多くなり、ハプスブルク家もそれを容認していた。ところがあらたにベーメン王となったフェルディナンドは、ベーメンに対するカトリックの強制を強化しようとした。それに反発したベーメンの新教徒は、1618年、プラハで代官に抗議し、代官を役所の窓から投げ捨てた。ベーメンの新教徒はフェルディナンドを国王と認めず、カルヴァン派のファルツ選帝侯フリードリヒをあたらに国王に迎えた。これを機に新教諸侯の連合(ユニオン)と、カトリック諸侯の同盟(リガ)両軍の戦争となった。翌年、神聖ローマ皇帝となったフェルディナンド2世はスペインからの援助を受けて新教徒軍を攻撃し、1623年までに新教側はほぼ鎮圧された。しかし、1625年にデンマーク王クリスチャン4世が新教徒支援に介入してドイツに進軍し、国際紛争化、三十年戦争に拡大し1648年まで続くこととなった。
Epi. プラハの窓外投げ出し事件 1618年5月23日、ベーメンの首都プラハの王宮で、神聖ローマ皇帝の代官が、激高した新教徒たちによって、役所の窓から投げ出されたのが三十年戦争の発端であった。地上20mの窓から落とされた三人は、城の濠の中のゴミための上に落下し、命を取りとめて助けられた。新教徒たちは「皇帝の犬ども」ととののしりながら、窓から小銃の射撃を浴びかけた。
b ハプスブルク家  
c スペイン (17世紀)16世紀のスペインは「太陽の沈まぬ国」として繁栄の極致にあったが、17世紀には急速に衰退した。その一因は、三十年戦争に介入したことにある。それ以前からのうち続くイタリア戦争でも財政が破綻していたが、このころにはアメリカ新大陸の金銀の産出が減少し始めたため、さらに国家財政の危機が大きくなっていた。それにもかかわらず三十年戦争が起きると、旧教徒の応援のため、またフランスとの対抗のために、国王フェリペ4世は出兵した。政治の実権を握っていた宰相オリバレスは、それまでカスティーリャだけが負担していた戦費を、スペインの他の地域に課すようにしたが、それに反発したカタルーニャ(カタロニア)地方で1640年に農民反乱(収穫人戦争)が起き、さらにポルトガルもスペインから分離運動が起き、同年独立を回復した。また、三十年戦争ではフランス軍とのラクロワの戦いに敗北し、大きな痛手を被った。その講和条約のウェストファリア条約では、ついにオランダの独立を承認し、かつてスペインの富の源泉であったオランダはこれで完全にその手を離れ、スペインの没落は決定的となった。その後、スペイン・ハプスブルク家の断絶によってフランスのルイ14世が介入し、スペイン継承戦争(1701〜14年)が勃発、その結果ブルボン朝がスペインを支配することとなる。
d ヴァレンシュタイン 三十年戦争のときの、旧教徒=神聖ローマ皇帝側の総司令官。ベーメンの貧乏貴族に生まれ、若いときから皇帝に仕え、ベーメンの反乱の鎮圧に活躍、皇帝の信任を得て領地を拡大した。1624年、皇帝のために自分の費用で2万の軍隊を編成し、皇帝軍総司令官に任命された。デンマーク王クリスチャン4世がドイツに侵攻すると、それを迎え撃って撃退し大いに名声を高めた。彼は皇帝のもとにドイツの統一を進めようとしたが、その力が強くなることを恐れた諸侯が反発し、1630年には一時司令官を辞任した。しかし同年、スウェーデン王グスタフ=アドルフがドイツに侵攻すると、皇帝フェルディナント2世はヴァレンシュタインを再び総司令官に任命、1632年、リュッツェンの戦いでグスタフ=アドルフ軍と対決した。その戦闘ではグスタフ=アドルフを戦死させたものの、スウェーデン軍に押され、敗北した。ベーメンに帰ったヴァレンシュタインは、皇帝を無視して単独で新教側との和平をはかろうとしたが、1634年に部下にそむかれて暗殺された。
e グスタフ=アドルフ王 17世紀には北欧の大国であったスウェーデンの国王。16歳で即位。正式にはグスタフ2世アドルフ。スウェーデンはプロテスタントを国教としていたので、カトリックを奉じるポーランド、ギリシア正教を掲げるロシア(ロマノフ朝)と対立し、またバルト海の支配権をめぐってにらみ合っていた。そのような中、彼は財政の安定、法制の整備、軍制の改革、病院・郵便・教育の制度の整備などに努め、スウェーデンをプロテスタントの強国に成長させた。その上でポーランドに侵入し、ラトビア・リトアニアを支配下に置いた。こうしてスウェーデンはバルト海沿岸にフィンランドも含む広い領土をもち、ロシア、ポーランド、デンマークなどと勢力を分け合い、グスタフ=アドルフは「北方の獅子王」といわれた。
三十年戦争とグスタフ=アドルフ:ドイツで三十年戦争が長期化し、新教徒側が苦戦に陥ると、誠実なプロテスタントであったグスタフ=アドルフはその救援を決意した。あえてドイツの内戦に介入した背景には、カトリック勢力によってドイツが統一された場合、同じカトリック国であるポーランドと並んで、スウェーデンにとて大きな脅威になることを恐れたからであった。グスタフ=アドルフは1630年にドイツに侵攻し、自ら新式の銃や大砲をそなえた軍隊を率いて勝ち進んだ。1632年にはカトリック側の有力諸侯バイエルン選帝侯の都ミュンヘンを陥落させ、一転してハプスブルク家の本拠ウィーンに迫った。神聖ローマ皇帝フェルディナンド2世は急遽ヴァレンシュタインに再び指揮を執らせ、両軍はニュルンベルクの戦いで戦ったが決着がつかず、次いでリュッツェンで対決した。リュッツェンの戦いではグスタフ=アドルフは自ら騎馬で全軍の先頭に立ち、近視だったために敵に近づきすぎて小銃で射抜かれ戦死した。乱戦の中で国王の死体は死人の山に埋もれてしまったという。戦闘はスウェーデン軍の優勢に終わり、ヴァレンシュタインはプラハに後退したが、スウェーデンも国王を失い、苦境に立つこととなる。スウェーデンは王位を娘のクリスチーナが継承し、名宰相といわれたオクセンシェルナが補佐する体制をとり、さらに10数年の戦闘を経て、クリスチーナの判断で講和に応じ、ウェストファリア条約を締結することとなる。
f フランス(ブルボン朝)  
B ウェストファリア条約 1648年、ウェストファリア会議で成立した、三十年戦争の講和条約。世界最初の近代的な国際条約とされる。ウェストファリアは、ネーデルラントに接したドイツ西部の地方で、その中心の二つの都市、ミュンスター市とオスナブリュック市で講和会議が開かれた。会議は1642年に開催されることになったが、皇帝とカトリック諸侯の内輪もめや、フランスの参加が遅れたことなどのため、1644年にようやく始まった。会議の場所が二カ所になったのは、フランス(ミュンスター市)とスウェーデン(オスナブリュック市)という戦勝国を分離させ、それと個別に交渉して有利に講和しようと言うドイツ諸侯の策謀があったからであった。いずれにせよ、神聖ローマ皇帝、ドイツの66の諸侯、フランス、スウェーデン、スペイン、オランダなどの代表が参加した、世界で最初の大規模な国際会議であった。会議は45年から実質的な討議に入り、延々と3年を要して、1648年にようやくウェストファリア条約が締結され、三十年戦争を終結させた。
内容
 1.アウクスブルクの和議が再確認され、新教徒の信仰認められる。またカルヴァン派の信仰も認められた。(宗教戦争の終結)
 2.ドイツの約300の諸侯は独立した領邦となる(それぞれが立法権、課税権、外交権を持つ)。(神聖ローマ帝国の実質的解体)
 3.フランスは、ドイツからアルザス地方の大部分とその他の領土を獲得。
 4.スウェーデンは北ドイツのポンメルンその他の領土を獲得。
 5.オランダの独立の承認(オランダ独立戦争の終結)と、スイスの独立の承認
意義:この条約によって、神聖ローマ帝国は実質的にドイツ全土を支配する権力としての地位を失い、ハプスブルク家はオーストリアを領有するだけとなった。そのため、ウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡証明書」と言われている。また、神聖ローマ帝国の実質的解体に伴って、中世封建国家に代わって主権国家がヨーロッパの国家形態として確立したとされている。 → 主権国家体制
a 世界最初の国際条約  
b アウクスブルク和議  → 第9章 3節 宗教改革 アウクスブルクの和議
c 主権国家体制  → 主権国家体制
ドイツの停滞  
神聖ローマ帝国  → 神聖ローマ帝国
e アルザス アルザス地方(ドイツ名エルザス)はライン川中流の西岸で、その北のロレーヌ地方(ドイツ名ロートリンゲン)とともに、豊かな農作物、鉄・石炭の産地であり、フランスとドイツの1000年にわたる争奪戦が繰り広げられた地域である。フランク王国が分裂したメルセン条約では、東フランクの領土とされたが、その後、西フランク−フランスはこの地の奪回をめざした。17世紀の三十年戦争ではルイ13世とリシュリューの積極的な介入策によってフランスが占領、ウェストファリア条約でその大部分の領有が認められた。ルイ14世は、「自然国境」説を唱えて、ライン西岸の領有を主張し、1697年にはアルザス地方の全域を併合した。1776年にはロレーヌ地方がフランスに帰属した。その後は、普仏戦争でドイツ領となり、第1次大戦後にフランスに戻されるという複雑な変遷を遂げた。現在は、フランス領で、中心都市ストラスブールなど工業が発達している。
f スウェーデン スウェーデンはスカンジナヴィア半島の東側に位置する北欧三国の一つでプロテスタント派の王国。16世紀まではデンマークを盟主とするカルマル同盟を構成していたが、1523年にカルマル同盟から独立してバーサ王朝が成立した。
バーサ王朝のもとでスウェーデンはバルト海の覇権をめぐってロシア、ポーランド、デンマークと争うようになった。それは、ロシアのギリシア正教、ポーランドのカトリックに対してスウェーデンのプロテスタントという宗教戦争でもあった。このころからスウェーデンは鉄と銅の輸出で国力を充実させ、軍備を整え、17世紀前半にはグスタフ=アドルフ王のもと絶対王政を作り上げ、北欧の強国に成長していた。
三十年戦争とスウェーデン:1618年にドイツで三十年戦争が始まり、戦争が長期化して新教側が押されてくると、カトリック勢力のドイツ皇帝(ハプスブルク家神聖ローマ皇帝)によるドイツ支配と、同じカトリック国のポーランドが結び、バルト海でのスウェーデンの優位が崩れる恐れが出るので、グスタフ=アドルフは新教側の救援を決意し、1930年に介入しドイツに侵攻した。各地で奮戦したが、グスタフ=アドルフは1632年のリュッツェンの戦いで戦死。スウェーデン軍はドイツ国内に力を温存させた。1648年のウェストファリア条約ではポンメルンなど北ドイツに領土認められた。こうして、三十年戦争後は、スウェーデンは「バルト帝国」といわれるヨーロッパの強国となった。
17世紀後半以降のスウェーデン:名君といわれたグスタフ=アドルフの死後は娘クリスチーナが宰相オクセンシェルナの補佐で政治を執った。この間、バルト海沿岸を制圧し、バルト帝国と言われる繁栄期を迎えたが、18世紀初めにロシア(ロマノフ朝)が台頭、ピョートル大帝がバルト海方面に進出してくると、カール12世はそれを迎え撃ち北方戦争となった。カール12世はロシアに侵攻して戦ったが敗れ、スウェーデンは急速に大国の地位から後退することとなる。 → 19世紀のスウェーデン  現在のスウェーデン
クリスチーナ(スウェーデン女王) Epi. 新教国のカトリック女王クリスチーナ グスタフ=アドルフの娘でスウェーデン王となった彼女は、名宰相といわれたオクセンシェルナを次第に遠ざけていく。「しかも彼女は財政にほとんど無関心だった。例えば彼女は貴族の数を倍にした。このため国土の三分の二が貴族たちの手に移った。農民はその貴族に対する重税の負担に喘がねばならなかった。・・・国民の不平不満は高まった。こうしたなかで彼女は華やかな宮廷生活を送った。彼女は才女だった。ラテン語、フランス語、オランダ語などを話し、デカルトを始めとしてフランス、オランダの文化人をサロンに集めた。・・・」彼女は生涯結婚せず、「理由は言えない」と言い続け、従兄弟のカール=グスタフを後継者に指名し退位した。退位の理由は彼女がカトリック信仰を強く持っていたためだろうとされている。彼女は退位後ローマに向かい、インスブルックでカトリックに帰依してローマで死んだ。・・・<武田龍夫『物語北欧の歴史』1993 中公新書 p.53>
 詳しくは、下村寅太郎『スウェーデン女王クリスチナ バロック精神史の一肖像』1977 中公文庫に収録(1991) を参照。クリスチーナの墓碑はローマのサンピエトロ聖堂内に、ミケランジェロのピエタ像の隣に置かれている。 
g スイス  → 第6章 3節 スイス
h オランダ  → ネーデルラント
カ.東方の新しい動き
1.プロイセン プロイセン(英語発音ではプロシアと表記)は、北ドイツとポーランドにまたがる、バルト海に面した一帯で、もとはスラブ系プロイセン人が居住していたが、12世紀ごろからドイツ騎士団東方植民が始まり、ドイツ人がスラブ人を排除して居住し、土地貴族(ユンカー)が農場(グーツヘル)を直営する農場領主制(グーツヘルシャフト)を行うようになった。1525年、ドイツ騎士団領はプロイセン公国(宗主国はポーランド王国)となり、騎士団長のホーエンツォレルン家はプロテスタントに改宗した。1618年、同じくホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯国のヨハン=ジギスムントがプロイセン公を相続し、ここにプロイセン公国とブランデンブルク選帝侯国は同君連合となった。三十年戦争ではプロテスタント側として戦って疲弊したが、戦後の1657年、フリードリヒ=ウィルヘルム大選帝侯は国力の増強に努め、東ポンメルンを領土に加え、ポーランドとスウェーデンの対立を利用して1660年にプロイセンのポーランドの宗主権からの独立を勝ち取り、ドイツの中の最有力な領邦となった。1701年のスペイン継承戦争ではハプスブルク家側に立って参戦した功績により、王国に昇格し、以後、プロイセンとブランデンブルクをあわせてプロイセン王国と言うようになる。
a 東方植民  →6章 3節 ドイツ人の東方植民
b ブランデンブルク選帝侯国 ブランデンブルク辺境伯で1415年からホーエンツォレルン家が選帝侯として支配するようになり、ブランデンブルク選帝侯国といわれるようになった。1470年にはベルリンに宮廷を置いた。1539年にはルター派の信仰を取り入れ、新教派の有力諸侯となった。1618年ブランデンブルク選帝侯ヨハン=ジギスムントがプロイセン公を兼ねることとなり、両国は同君王国となった。1701年にプロイセン王国が成立し、ブランデンブルクはその一つの州となった。
c ドイツ騎士団領  → 第6章 3節 ドイツ騎士団
d プロイセン公国  → プロイセン
e ホーエンツォレルン家 ブランデンブルク選帝侯国、プロイセン王国の国王、さらにドイツ皇帝となった、ドイツの一族。はじめはシュヴァーベン地方の小貴族でツォレルン伯と称したが、1192年フリードリヒがニュルンベルク城伯に封じられ、その子コンラートとフリードリヒが分割相続で、前者のフランケン系と後者のシュヴァーベン系に分かれた。そのうちフランケン系のホーエンツォレルン家がブランデンブルク選帝侯となった。1701年からはプロイセン王国の国王となり、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世とフリードリヒ大王などの専制君主を出した。普仏戦争に勝利した後、1871年、ドイツ統一とともにプロイセン国王ヴィルヘルム1世が、ドイツ皇帝となった。次のヴィルヘルム2世は、ドイツ帝国の帝国主義的な世界政策を掲げ、イギリス・フランスとの全面戦争に突入、第1次世界大戦をもたらし、敗北の結果、1918年に退位し、ホーエンツォレルン家(フランケン系)は廃絶した。
d プロイセン公国  → プロイセン
f プロイセン王国 現在のポーランド北部からドイツにかけての広い範囲に成立した国家。前身はプロイセン公国で、1701年にプロイセン王国に昇格した。王位はホーエンツォレルン家が継承し、首都はベルリンにおかれ、フランス、オーストリア、ロシアなどと並ぶ大国に成長し、1871年に成立したドイツ帝国となるまで存続した。
プロイセン王国の絶対王政:1701年、公国から王国に昇格したのは、スペイン継承戦争に際し、プロイセンがオーストリアの神聖ローマ帝国皇帝ハプスブルク家側について戦ったことにたいする報償の意味があった。この地は東方植民以来のグーツヘルシャフトという封建的大土地所有制が根強く、土地貴族であるユンカー階級を基盤とした絶対王政が展開された。フリードリヒ=ウィルヘルム1世が基盤を築き、次のフリードリヒ2世(大王)はオーストリア継承戦争とそれに続く七年戦争でオーストリアからシュレージェンを奪い、プロイセン王国をヨーロッパの大国に育てた。また、ポーランド分割に加わり、東方への領土拡大に成功した。
フランス革命とナポレオン戦争:フランス革命が勃発すると、1792年にオーストリアとともに干渉軍を進めたがヴァルミーの戦いで敗れて失敗し、対仏大同盟に加わり革命の波及を防止しようとした。1806年、イエナの戦いでフランスのナポレオン軍に敗れ、ナポレオンのベルリン入城を許し、ティルジット条約でポーランドを失うなどの屈辱を受けた。この衝撃からプロイセン改革の気運が高まり、シュタインハルデンベルクの指導する近代化改革が行われ、農奴解放や軍政改革、教育改革が進んだ。この改革は不十分なものであったが、近代的な国民国家への準備であったと言える。1813年のライプチヒの戦い(諸国民戦争)でナポレオン軍を破り、さらに1815年のワーテルローの戦いで勝利してナポレオン戦争後の大国に復帰した。
ウィーン体制下のプロイセン王国ウィーン議定書ではラインラントなどを獲得し、新たに結成されたドイツ連邦を構成する有力国の一つとなった。1830年のフランスの七月革命の影響を受けてドイツ連邦でも自由主義を求めてドイツの反乱が起きたが、弾圧された。1848年、フランスの二月革命がベルリンに飛び火、憲法の制定などを求め三月革命が勃発した。国王は憲法制定を約束し、自由主義的な内閣も設立され、さらに同年開催されたフランクフルト国民議会でドイツ統一が目ざされたが、大ドイツ主義(オーストリアを含む統一を目ざす)と小ドイツ主義(プロイセン主導の統一を目ざす)が対立して失敗したことから、プロイセン王国でも保守勢力によって憲法制定は見送られ、かえってユンカー支配体制がさらに強化された。一方プロイセンは、ドイツ関税同盟を組織してドイツの経済的統一を進めていた。
ビスマルクの登場:1861年に首相となったビスマルクは「鉄血政策」という富国強兵策を進め、デンマーク戦争普墺戦争で領土を拡大し、1867年にはプロイセンを盟主として北ドイツ連邦を結成(これでドイツ連邦は消滅)した。ビスマルクはフランスのナポレオン3世を巧妙に挑発して戦争に持ち込み、普仏戦争でそれを破り、1871年にヴェルサイユ宮殿でプロイセン国王ヴィルヘルム1世のドイツ帝国初代皇帝としての即位式を挙行し、プロイセン王国はドイツ帝国(第2帝国)となった。
ベルリン 1134年、アウカニア家のアルプレヒト熊公がブランデンブルク辺境伯に封じられベルリンをその拠点としたことに始まる。つまり、ベルリンの起源は古代にさかのぼらず、中世に始まり、近代に政治都市として発展した都市である。その後1470年からはブランデンブルク選帝侯国の都、1701年からはプロイセン王国の首都として栄えた。ナポレオン戦争の時にはナポレオン軍に占領され、ベルリン勅令が出された。1871年に成立したドイツ帝国でも首都となり、ヨーロッパの中心都市との一つとなった。第2次大戦末期には市街戦が展開されて市街地は破壊され、戦後は連合国のアメリカ合衆国・イギリス・フランス・ソ連の4ヵ国によって分割占領されることとなった。1948年にはソ連占領地区の東ベルリンへの出入りを禁止するベルリン封鎖が行われ、東西冷戦の最も厳しく対峙する場所となった。東ベルリンは東ドイツの首都とされ、西ドイツはボンを首都とした。東ベルリンからの西ベルリンを通しての西側への亡命が増加すると、1961年に東ドイツ政府は東ベルリンの境界に「ベルリンの壁」を築き、ベルリンは東西に分断された。「ベルリンの壁」は長く東西冷戦の象徴となったが、1989年の東欧革命の激動の中でベルリンの壁が開放され、一挙にドイツ統一を加速させ、1990年のドイツ統一が実現し、ベルリンはドイツの唯一の首都となった。
g ユンカー ドイツのエルベ川以東の地域(プロイセン王国の領域)に存在した土地貴族。プロイセン王国からドイツ帝国までのドイツの支配階級となり、その絶対主義体制と帝国主義を支える基盤となった。
11〜13世紀ごろのドイツ人の東方植民のなかで大領地をもつようになった領主が、16世紀以降の西ヨーロッパの商工業の発達に伴って増大した穀物需要に対応して、輸出用の穀物栽培を行うようになった。そのため領主は農奴を労働力として直営する農場(グーツヘル)を拡張した。そのような体制を農場領主制(グーツヘルシャフト)といい、農場を経営する領主を土地貴族(ユンカー)という。ユンカー階級は、土地所有とともに世襲的なさまざまな権利を持ち、ユンカー同士でしか結婚せず、閉鎖的な特権階級として存続し、プロイセンの君主ホーエンツォレルン家に忠誠を誓い、18世紀のプロイセン王国の絶対王政を支える階級として、上級官僚や軍人となった。このユンカーは1871年にドイツ帝国が成立してからも大きな経済力と政治勢力を持ち続け、国家権力の中枢にいた。ビスマルクがユンカー出身の典型的な政治家である。第1次大戦後はその勢力は減退したが、ヒトラーが登場すると保守勢力として復活し、ナチス政権を支えた。第2次大戦後は消滅したとされている。
h グーツヘルシャフト  → 第9章 1節 グーツヘルシャフト
2.ロシア  → 第6章 2節 ロシア国家
a イヴァン4世(雷帝) モスクワ大公国のモスクワ大公にしてロシア皇帝(ツァーリ、在位1533〜84)。3歳で即位し、1547年から親政。雷帝(グロズヌイ)という称号で恐れられる、反対勢力に対するテロや、専制的な支配を行った。国内では大貴族の力を抑え、中央集権的な政治体制を作り上げ、農民の移動を厳しく取り締まる農奴制の強化など、ツァーリズム政策を推し進めた。領土面では、1552年にカザン=ハン国、56年にアストラハン=ハン国を征服し、ヴォルガ川流域に拡大した。またコサックのイェルマークシベリアに派遣し、進出を開始した。バルト海制圧をめぐっては、スウェーデン、ポーランドとの間でリヴォニア戦争を戦ったが決定的な勝敗はつかなかった。その死後は長子フョードルに統治能力が亡く、早世したためにロシア国家リューリク朝は断絶、貴族同士の内紛が起こり、ボリス=ゴドゥノフが一時皇帝になるなどの混乱が起き、次のロマノフ朝の成立を見る。
Epi. イヴァン雷帝の恐怖政治 イヴァン4世の周辺では常に貴族たちの陰謀が渦巻いていたので彼自身も猜疑心の強い君主に育った。イヴァンは政策に反対する貴族を捕らえ処刑し、その世襲領を没収した。そのテロルをささえた秘密警察が、オプリーチニキという特別親衛隊で、黒装束に身を包み鞭の柄にほうきの形をした獣毛をくくりつけ、馬の首に犬の頭を結びつけていた。ツァーリに反対する裏切り貴族を「掃き出して、かみ殺す」ことを任務としたのである。晩年のイヴァン雷帝の行動も常軌を逸しており、子供を殴り殺したり、イギリスに近づこうとしてエリザベス女王に求婚の手紙を送ったりした。心身共に病み、毛は抜け、手はぶるぶる震え、目は充血し、体はむくむという状態だったという。<土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社 p.123 1997>
 カザン=ハン国 モンゴル帝国の4ハン国の一つキプチャク=ハン国の分国の一つで、15世紀中ごろ成立しロシア南部のヴォルガ上〜中流地域を支配し、首都カザン市は交易の中心として繁栄した。1552年、ロシアのイヴァン4世は、このカザン=ハン国を併合したことが、ロシアの東方進出の第一歩となった。カザン=ハン国があったヴォルガ中流域は、現在はロシア連邦内のタタールスタン共和国となっており、人種的にはトルコ系のタタール人が多く、彼らの多くはイスラーム教徒である。
カザン=ハン国と「タタール人」 カザン=ハン国が栄えていたヴォルガ中流域には民族分布としてはタタール人とそれに近いバシキール人が多い。彼らの民族的起源は詳しくは分からないが、先住民のフィン=ウゴール系民族を基層として、そこに紀元後7〜8世紀頃、トルコ系のブルガール人がこの地域の森林地帯に移住してきて定住(トルコ系遊牧民で定住に踏み切った最初とされる)し、さらに11〜12世紀にキプチャクという同じくトルコ系民族集団が渡来して支配しながら、混交を深めた。ブルガール人はヴォルガの水運を利用して交易活動を活発に行うようになり、取引相手のアラブ人を通じてイスラーム教を受け入れ、922年5月12日にブルガール国家としてイスラーム教を受け入れ、アニミズムと訣別した。このブルガール国家は1230年代にモンゴルの征服を受けたが、モンゴル国家を構成するキプチャク=ハン国の内部で自治を認められ、毛皮貿易で中東・ヨーロッパとつながって繁栄した。この国家は支配層のモンゴル人がトルコ系ブルガール、キプチャクの言語・文化に同化したもので、1273年のキプチャク=ハン国自身のイスラームの国教化によって促進された。そして、ロシアで征服者のモンゴル人を意味した「タタール」がブルガールの名にとってかわり、彼らは自らもタタール人と言うようになった。
カザン=ハン国の成立 ブルガール国家は1395年にティムールの侵略を受け、それまでの中心地カマ川沿岸を捨ててヴォルガ川右岸に移り、そこにカザンを建設した。1438年、ウル=ムハンメドの時に中央集権化が進み、カザンを首都とするカザン=ハン国となった。園芸や家畜飼育と結びついた三圃耕作を行う農民からヤサクという現物貢納を納めながら、狩猟による毛皮が主要産物となった。タタール商人は毛皮・魚・奴隷などをモスクワ大公国クリム=ハン国と交易し、15〜16世紀のカザンはヴォルガ流域最大の経済中心地となり、東欧・北欧とアジアとの毛皮貿易で栄えた。16世紀中ごろのスユム=ビケ女王の時代はメドレセやモスクが建ち並び、イスラーム学術の中心でもあった。
カザン=ハン国の衰亡とロシア化 大航海時代の開始による通商パターンの変動はユーラシア内陸ルートを衰退させ、カザン=ハン国の衰亡ももたらした。折りからモスクワ大公国とクリム=ハン国による介入もあって内紛が激しくなり、1552年のイヴァン4世に征服され、滅亡した。その後、ロシア帝国によるロシア化が進められ、カザンは行政の中心都市として完全にロシア人の都市となり、タタール人のヤサク農民の土地はロシアから移住したロシア人に奪われていった。ロシア正教の強制も行われ、改宗したタタール人もいたが、多くはイスラームの信仰を守るために中央アジアなどに離散していった。  <カザン=ハン国については、山内昌之『スルタンガリエフの夢』1986 岩波現代文庫再刊 2008 第1章による> → タタール人
世界遺産 カザン=クレムリン ヴォルガ中流の大都市カザンは、イスラーム教徒トルコ系ブルガール人が城塞都市として築き、カザン=ハン国の都として栄えていたが、1552年、ロシアのイヴァン4世に征服された時に破壊された。その後、16世紀後半にカザンがヴォルガ方面の大都市となるに伴いロシア正教会などの建築が盛んに造られた。代表的な建造物であるブラゴヴェシェンスキー大聖堂これらはロシア革命で破壊されたが、ソ連崩壊後に再建された。1995年にはカザン=ハン国時代のクル=シャーリフ=モスクの再建が着手され、2005年に完成した。これらの建造物群はカザン=クレムリンと言われて2000年に世界遺産に登録された。ロシア正教とイスラーム教の平和的な共存が評価されたと言うが、クレムリンの再建を強引に進めたのは、タタールスタン共和国のシャイミーエフ大統領である。大統領は1992年にはロシア連邦からの独立を宣言、94年には撤回したが、なおも独立問題はくすぶっている。世界遺産に登録された文化財はタタールスタン独立のデモンストレーションの一つでもあるようだ。  
 タタール人 「タタール」という語はいくつかの違った意味を持つ使い方がされるので注意すること。中国でモンゴル人の一部である韃靼を指す言葉にあてられたタタールと、ロシアでモンゴル人一般を意味するタタールと、同じくロシアでトルコ系のタタール人を指す場合の3つの違いがある。
中国での韃靼人 まず、中国ではモンゴル人の一部族である韃靼人をタタールと言っている。具体的には明代にモンゴル高原東部のモンゴル人(有名なダヤン=ハンやアルタン=ハンが出た部族)を指していた。これは西部のモンゴル人(その一部がオイラトで、エセン=ハンが率いた)と区別するために用いられていたが、本来は「タタル」という北方騎馬民を全体を意味する言葉が使われただけであり、東部モンゴル人がタタールと自称していたのではない。
ロシアでの「タタール」 ロシア語ではタタールとは本来は遊牧民を意味したが、ロシア人はモンゴル人への恐怖をこめて、モンゴル人をタタールと言うようになった。そのため、モンゴル人のキプチャク=ハン国によるロシア支配のことを「タタールのくびき」と言っている。ところが、もう一つ、タタール人というトルコ系民族が存在するので注意を要する。タタール人は、ヴォルガ中流域に定住するトルコ系民族である。彼らは、もともとはトルコ系の遊牧民ブルガール人の一部であったが、ヴォルガ中流域に定住するようになって国家を形成し、商業活動を通じてイスラーム教徒となった。モンゴルの征服を受けてからはキプチャク=ハン国に服属していたが、やがてカザンを中心に自治を認められてカザン=ハン国を形成すると、彼らは征服者モンゴル人の一部族の名前であったタタールを自称するようになる。タタール人は周辺に広がって行き、ヴォルガ=タタールクリミア=タタールと言われるようになる。カザン=ハン国やクリム=ハン国はタタール人の国家であったが、ロシアのイヴァン4世(雷帝)以来、次々とロシアに征服され、ロシア化が進められた。現在はロシア連邦内のタタールスタン共和国となっているが、あくまでロシア内の自治領に止まり、主権国家としての独立は認められていない。現在も完全独立を求める運動がくすぶっている。
タタール人の民族的自覚 ロマノフ朝のピョートル1世も厳しいロシア化、正教化をおしつけたが、啓蒙君主としてのエカチェリーナ2世はイスラーム信仰を容認する寛容策に転じ、タタール人の経済活動を保護したので、19世紀にはカザンの経済は復興し、タタール商人は中央アジア方面に盛んに進出するようになった。そのような中で、トルコ系民族であるタタール人としての自覚を軸としてイスラーム教の改革という文化運動も起こり、ガスプリンスキーによるジャディード(新方式による教育)の運動も起こった。ロシア革命によってタタール人(ヴォルガ=タタール)も1920年5月、タタール自治共和国を樹立するが、その指導者スルタンガリエフは次第に「民族共産主義」に傾いてロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央のスターリンらから反革命として弾圧されることとなる。<ロシアでのタタール人については、山内昌之『スルタンガリエフの夢』1986 岩波現代文庫再刊 2008 第1章による>
 アストラハン=ハン国 15世紀中ごろ成立したキプチャク=ハン国の分国の一つで、ヴォルガ川下流のカスピ海北岸を支配したイスラーム教国。首都アストラハンは、カスピ海を経由したイラン方面や、中央アジアとの交易路の拠点として経済が発展した。1556年、ロシアのイヴァン4世は、カザン=ハン国の征服に続いて、アストラハン=ハン国も征服し、ロシアの南下政策の第一歩となった。1670年に起こったドン=コサックの農民反乱であるステンカ=ラージンの反乱はアストラハンを拠点としていた。
b ツァーリ  → 第6章 2節 ツァーリ
c コサック コサック(ロシア語ではカザーク。コサックは英語の発音)は、14〜16世紀に、ロシアの農奴制の強化に伴い、流亡する農民が増え、南ロシアの草原地帯で、半農半牧の生活を送る者が多くなった人びとをいう。彼らは騎馬生活に長じ、牧畜・狩猟の他、漁業、交易などで自治的な集団生活を送り、16世紀ごろからはロシアが国境防備にコサック兵として利用し、隊長(アタマン)に指導されたドン・コサックザポロージェ・コサック、ヤイク・コサック、シベリア・コサックなどの戦士集団を形成するようになった。シベリア征服を行ったイェルマーク、農民反乱の指導者となったステンカ=ラージン、プガチョーフなどがコサックの出身である。後のロシア革命では反革命勢力の中心となった。20世紀のロシア文学の大作、ショーロホフの『静かなドン』は、ロシア革命にほんろうされるドン・コサックを描いている。
d イェルマーク コサックの隊長。モスクワ大公国のイヴァン4世の時、1582年に遠征隊を組織し、シベリア遠征を開始、シビル・ハン国を征服して、イヴァン4世に献上した。これによってシベリアはモスクワ大公国の支配下に入り、ロシア人の毛皮商人がさらに東を目指して進出することになった。
Epi. 溺死したイェルマーク・シベリアの毛皮納税制度 イェルマーク(エルマークとも表記)は、ストロガノフ家という大富豪の計画したシベリア遠征隊の隊長として雇われた。コサック兵その他の兵士1650名を従え、1582年にシビル=ハン国の本営クチュームを陥れた。イヴァン雷帝は初めはコサックのシベリア遠征を認めていなかったが、この勝利に感激してさらに援軍500人を送った。しかしシベリア側の抵抗も激しく、1585年8月には突如イェルマーク軍の襲い、逃げようとしたイェルマークはヴァラス川で溺死した。鎖帷子が重すぎて舟まで泳ぎ着くことができなかったためであた。残った遠征隊はモスクワに帰り、大歓迎を受けた。このイェルマークの遠征以来、シベリアはモスクワの支配下に入った。原住民はヤサークと呼ばれる毛皮による貢租を毎年納めなければならなくなったが、それは酋長一人に付き、クロテン426枚、キツネ300枚、ビーバー61枚、リス1000枚と定められ、1605年には総計6万枚以上になったという。<外川継男『ロシアとソ連邦』1991 講談社学術文庫 p.105>
e シベリア ウラル山脈の東部、オホーツク海に至る広大な土地。ほとんどが寒冷な土地で北部はツンドラ地帯、他は大部分が針葉樹林帯で豊かな毛皮の産地であり、南部に農耕可能地があった。13世紀以降、モンゴル帝国の領土となり、15世紀には西シベリアはキプチャク=ハン国、ついでシビル=ハン国が支配していた。シベリアの名は、この国名に由来する。16世紀からロシア(モスクワ大公国)の進出が始まり、主として毛皮を求めて、エニセイ河口まで到達した。1582年にはイェルマークの率いるコサック部隊がシビル=ハン国を滅ぼした。17世紀以降はさらにロシア人の東シベリアへの進出が盛んとなり、アムール川を越えたので中国の清王朝と衝突することとなった。1689年、ロシアのピョートル大帝と清の康煕帝は、初めての国境協定であるネルチンスク条約を締結し、スタノヴォイ山脈からアルグン川の線を国境とした。しかし1858年のアイグン条約で、アムール川北岸はすべてロシア領とされ、ロシアのシベリア全域の支配が確定した。1860年、ロシアはウラジヴォストーク(東方を支配せよ、の意味)を建設、日本海進出の足場とした。
 シビル=ハン国  
ボリス=ゴドゥノフ 1584年、イヴァン雷帝の死後、皇帝となったその子フョードルは統治能力が亡く、貴族勢力が復活し、妃の兄のボリス=ゴドゥノフが台頭した。1598年、フョードルが死ぬと後継者がなくリューリク朝は断絶、急遽開かれた全国会議でボリス=ゴドゥノフが皇帝に選出された(在位1598〜1605年)。ボリス=ゴドゥノフは、実権を持ってから、モスクワ主教座をコンスタンティノープルから独立させ総主教座に昇格させ、白海のアルハンゲリスク港を拠点として外国貿易を開始したり、ヨーロッパから技術者を招いたり、留学生を送ったり、大学を設立するなどの開明的な政策をとった。しかし、1601年から始まるヨーロッパの冷害による大飢饉にみまわれ、社会不安が広がる中、ボリス=ゴドゥノフは皇帝フョードルの弟ドミトリーを暗殺した権力の簒奪者であるという汚名を浴びることとなり、1605年に失意のうちに亡くなった。モスクワではドミトリーを名のる偽者が皇帝となり(偽ドミトリー)ロシアは10年近い「動乱時代」に入る。
f ロマノフ朝 1613年から約300年続いたロシア国家の王朝。リューリク朝の断絶(1598年)から10数年続いた動乱時代の後に、ミハエル=ロマノフが全国会議でツァーリに選出された。以後、1817年のロシア革命で倒されるまでロシアを統治した。17世紀後半のステンカ=ラージンの反乱などの農民叛乱を鎮圧して農奴制をかため、王権が強大となり、ピョートル1世(大帝、在位1682〜1725)や、エカチェリーナ2世(女帝、在位1762〜96)の時代に啓蒙専制君主として全盛期を迎える。ナポレオンの侵入を撃退したアレクサンドル1世(在位1801〜25)なども出て、ヨーロッパ東部に大きな力をもつにいたり、「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれる保守勢力の中心となった。19世紀にはバルカン半島、イラン方面への南下政策を積極的に展開した。しかし西欧諸国が市民革命後の国民国家の形成と産業革命を進めていったのに対して、ロシアは絶対王政と封建制が維持され、産業の近代化も遅れた。ニコライ1世(在位1825〜55)はクリミア戦争で西欧諸国と戦ったが敗れ、次のアレクサンドル2世農奴解放などの改革を実施する一方、ナロードニキ運動などを弾圧して国力の回復を図り、露土戦争など南下政策を再開させた。しかしその強攻策は東方問題として列強との対立を強め、国内の矛盾も強まって革命運動も激化し、アレクサンドル2世自身がテロで倒された。19世紀末から20世紀にかけて、帝国主義の抗争が激しくなると、ニコライ2世は極東への進出を強め、満州をめぐって日露戦争を戦ったが敗れ、その最中に第1次ロシア革命が起こった。しかし改革も不十分なまま第1次世界大戦に参戦し、その長期化とともに社会矛盾が激化して大戦中の1917年に第2次ロシア革命が起こり、ニコライ2世は家族とともに処刑されてロマノフ朝は滅亡する。
g ミハエル=ロマノフ ロマノフ朝の初代の皇帝(ツァーリ)(在位1613〜45)。ロシアはリューリク朝イヴァン4世が死んだ後、ボリス=ゴドゥノフなどがツァーリの地位につくが、政治が安定せず、動乱時代に突入していた。ロシア全国会議は、リューリク家の遠縁で、当時父のフョードルがポーランドの捕虜となっていたミハエル=ロマノフを、わずか16歳であったが新しいツァーリに選出した。
h 農奴制 (ロシア)モスクワ大公国イヴァン3世のころ(15世紀後半)、ロシア人農民の中の階層分化が進み、地主と地主に地代を払う農民に分けれ、農民は土地に縛り付けられて恒久的に地代を治めなければならない農奴に転化したと思われる。16世紀のイヴァン雷帝の時代には法令として農民の移動の禁止や逃亡農奴をかくまうことが罰せられるようになり、農奴制が強化された。さらに1723年、ピョートル1世は、税収入をあげるために人頭税を導入した。その際、農奴の人数分は地主の責任で徴収するとされたので、地主は農奴の掌握を強める必要があり、農奴は地主の許可なしにその土地を離れることができなくなった。このように、西欧の農奴制では14、5世紀から農奴の解放が進み、18世紀末のフランス革命で封建的特権の廃止が行われ、法的には農奴は存在しなくなった。しかし、ロシアではむしろ強化が進み、18世紀後半のプガチョフの乱に代表される農奴の反乱にもかかわらず、農奴の待遇はむしろ奴隷に近い状態に逆行した。ロシアの農奴制はロマノフ朝の専制政治(ツァーリズム)を支える社会的基盤であった。しかし、19世紀半ばのクリミア戦争の敗北を機に、近代化の必要に迫られ、アレクサンドル2世によって1861年に農奴解放令が出されることになる。
i ステンカ=ラージン 1670年、ロシアのロマノフ朝(ツァーリはミハエルの次のアレクセイの時)に起こった農民反乱を指導したドン=コサックの首領。正しくはステパン=ラージン。ドン=コサックとは南ロシアのドン川流域で活動していた自治的な戦士集団であり、たびたび黒海沿岸やカスピ海沿岸に遠征し、略奪行為を繰り返していた。ラージンの率いるドン=コサックは、ヴォルガ川中下流でロシアからの独立をめざして反乱を起こし、アストラハンを拠点としてロシア帝国に抵抗した。ロシアはそれまで、コサックに自治権を与え、トルコなどからの国境防備などに利用していたが、ラージンの反乱に対しては弾圧に転じた。ステンカ=ラージンは捕らえられ、翌年モスクワの赤の広場で、四つ裂きの刑で殺され、反乱後すべてのコサックはツァーリへの忠誠を誓わされ、その自治権は大幅に奪われた。ステンカ=ラージンの記憶は民衆の中に長く記憶され、約百年後の農民反乱のプガチョフの乱につながっている。