用語データベース 04_2 | |
2.トルコ化とイスラーム化の進展 | |
ア.トルコ民族の進出 | |
A トルコ系民族(1) | トルコ系諸民族は古くから内陸アジアの東方(アルタイ山脈周辺)で活動した騎馬遊牧民であり、中央アジアのトルキスタンに定住してからはイスラーム化して広くイスラーム世界に広がり、現在でも中央アジアから西アジアにかけて広く分布する。 トルコ系民族の遊牧帝国:もともとトルコ系民族はアルタイ山脈付近で遊牧生活を送っていた。世界史上のトルコ系民族は、まず中国史料に現れる。前3世紀頃、匈奴に服属していた丁零(丁令、丁霊とも書く)が最初で、後に高車と言われるようになる。彼らはモンゴル系の柔然に服属していたが、552年にアルタイ山脈西南から出たトルコ系の突厥が柔然を滅ぼしてその王の称号である可汗を称し、モンゴル高原からカザフスタン草原・黒海北方までの広大な領土を持つ大帝国を築いた。突厥以外のトルコ系民族は中国史料では鉄勒と言われた。突厥は東西に分裂(583年)し、東突厥と西突厥はそれぞれ7世紀中ごろまでに唐に制圧され、中央アジアには唐の勢力が及ぶこととなった。突厥は一時復興し(第二帝国、682〜744)、突厥文字という北方アジア・トルコ系遊牧民最初の文字を持った。 トルコ系民族のまとめ:登場した民族と国家をあげると、丁零 →高車 →鉄勒 →突厥 →ウイグル →キルギス → カラ=ハン朝 → ガズニ朝 → セルジューク朝 →ホラズム朝 → ティムール朝 → オスマン帝国 → 現代のトルコ共和国となろう。これ以外にも中央アジアにはいくつかのトルコ系国家がある。また、現在の中央アジア5ヵ国のカザフスタン、キルギスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンの各共和国、アゼルバイジャンなどカフカス地方の国はトルコ系民族であり、ロシア連邦内のタタールとバシキールの自治共和国もトルコ系住民でイスラーム教徒が多い。トルコ系民族は以上のような長い歴史と広い活動範囲を持ち、ユーラシア大陸の東から西へ大移動を展開した民族として重要である。 → (2)西方への定着 (3)イスラーム化 (4)トルコ系国家 Ep.i トルコの建国は552年 現在のトルコ共和国でも、突厥の成立をもってトルコ国家の建国と意識されており、1952年には、トルコ共和国で「突厥建国1400年記念祝典」が盛大に催された。552年は、トルコ民族が世界史上で最初の遊牧騎馬民族国家を建国した年で、今日のトルコ共和国もその建国をそこまでさかのぼらせている。<護雅夫『古代遊牧帝国』1976 中公文庫 p.5> |
トルコ系民族(2) | トルコ系民族の西方への定着:突厥の衰退後、モンゴル高原ではトルコ系民族(鉄勒)の各部族が自立し、その中から744年に統一に成功して遊牧国家を作ったのがウイグルである。ウイグルは安史の乱で唐を支援して有力となり、西方にも進出したが、その影響を受けてトルコ化していた北方のキルギスによって840年に滅ぼされた。これを機にウイグル人は東トルキスタンに移住し、遊牧生活をやめて定住し、西ウイグル王国をつくった。定住したウイグル人はソグド商人の商業活動を保護してマニ教を受け容れ、ウイグル文字をつくるなど独自の文化を育てた。こうしてそれまで支配的であったイラン系民族(インド=ヨーロッパ語族)もトルコ人と共存してトルコ語を話すようになり、中央アジアはトルコ化し、「トルコ人の住む地域」という意味のペルシア語であるトルキスタンと言われるようになった。またこのころ、中央アジアから南ロシアの草原にかけて遊牧をつづけたトルコ系民族の生活圏が広がり、カルルク国やハザール国、ブルガール人の国などが建国された。 → (1)トルコ系民族 (3)イスラーム化 (4)トルコ系国家 |
トルコ系民族(3) | トルコ系民族のイスラーム化:中央アジアでは遊牧民であったトルコ民族がいくつかの部族ごとに定住するようになっていたが、8世紀はじめ以降、この地にイスラーム教勢力が及んできて次第にその影響を受け、イスラーム化していった。そのきっかけは、751年のアッバース朝と唐帝国が戦ったタラス河畔の戦いであった。またトルコ人は、アッバース朝以降のイスラーム諸王朝で、トルコ人奴隷や傭兵として用いられるよう1なり、マムルークと称された。それはトルコ人が騎馬遊牧民としての伝統と高い戦闘能力を持っていたからであった。9世紀にバグダードを中心としたアッバース朝イスラム帝国の統制が弱まり、西トルキスタンにイラン人の独立政権サーマーン朝が成立、つづいて10世紀末に最初のトルコ系イスラーム国家のカラ=ハン朝朝がサーマーン朝を滅ぼして東西トルキスタンを支配することによって、この地の「イスラーム化」がさらに進んだ。カラ=ハン朝時代にはカシュガリーの『トルコ語辞典』が編纂されており、トルコ=イスラーム文化の出発点となっている。カラ=ハン朝はその後、東西に分裂して衰え、12世紀中ごろ、東方から移動してきた契丹族のカラ=キタイ(西遼)に滅ぼされた。また、アフガニスタンにはサーマーン朝のマムルークが建国したガズニ(ガズナ)朝が成立、しばしばインドに進出し、インドのイスラーム化が進んだ。 → (1)トルコ系民族 (2)西方への定着 (4)トルコ系国家 |
トルコ系民族(4) |
トルコ系国家の隆盛と衰退:西トルキスタンに起こったトルコ系部族の一つセルジューク朝が11世紀に西アジアに進出、イスラーム化しながら小アジアのアナトリアに移住して国家を形成した。セルジューク朝時代はイラン人が官僚や知識人として活躍し、イラン=イスラーム文化が成立した(後のイル=ハン国時代に継承される)。ホラズム地方(アム川下流)にはセルジューク朝から分離独立したホラズムというトルコ人のイスラーム王朝も生まれた。キルギスやホラズムなど中央アジアから西アジアのトルコ系イスラーム国家は13世紀にいずれもモンゴルに征服され、中央アジアではチャガタイ=ハン国、西アジアではイル=ハン国の支配を受ける。14世紀にはモンゴル=トルコ系のティムール朝が成立、この時代にイラン人を通してイスラーム文化を受容し、トルコ=イスラーム文化が開花した。一方、小アジア(アナトリア)ではセルジューク朝の衰退に乗じてトルコ部族を率いたオスマンが建てた小国家が次第に強大となり、西アジアから東ヨーロッパにかけてオスマン帝国を建設し、14〜19世紀まで繁栄する。現在のトルコはその後身である。 中央アジアでは16世紀の初めのティムール朝の衰退と前後して、カザーフ、キルギス、ウズベク、新ウイグルという現在の中央アジア諸国につながるトルコ系民族社会が生まれた。ウズベク人はシャイバニ朝を建国し、その後、ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国に分かれて抗争するが、封建的な部族社会が続き、近隣のロシア人やイラン人、あるいはトルクメン人など捕虜を奴隷として売買することが盛んに行われていた。19世紀には、オスマン帝国の衰退は東方問題といわれるヨーロッパ列強の介入を強め、特にロシア帝国の南下政策はオスマン帝国、中央アジアの三ハン国にその目標が定められ、トルコ系民族国家の領域は次々と奪われていくこととなる。 → (1)トルコ系民族 (2)西方への定着 (3)イスラーム化 |
a イラン系 | 世界史上は現在のイランだけではなく、中央アジア、西アジア、北インドにかけて広く活動していた民族。前6世紀から西アジアでイラン文明を発展させ、大帝国を形成。7世紀からイスラーム化し、アラブ人、トルコ人、モンゴル人などの支配を受けるがそのもとでイラン=イスラーム文化を生み出す。16世紀のサファヴィー朝からはシーア派国家として独自の道を歩む。 イラン系国家の隆盛:インド=ヨーロッパ語族に属するイラン系民族は、ペルシア人とも言われ、紀元前2千年紀に南ロシアのステップ地帯から南下し、イラン高原に入ったらしい。アケメネス朝ペルシアとパルティアという帝国をつくり、ゾロアスター教の信仰などのイラン文明を作り上げた。ついでイラン高原ではササン朝ペルシアが起こった。一方、中央アジアで活動した月氏もイラン系とする説が強く、1世紀に北インドにクシャーナ朝を建てたのもイラン系と言われている。また中央アジアのソグディアナを拠点に5世紀ごろから活動が目立つようになるソグド人もイラン系である。 イラン系民族のイスラーム化:7世紀中頃、ササン朝ペルシアがイスラーム帝国に滅ぼされると、イラン人のイスラーム化が始まった。彼らはゾロアスター教、マニ教というイラン人固有の宗教や、外来の仏教、ネストリウス派キリスト教など、雑多な信仰を持っていたが、イスラーム教の強力なジハードによって急激にイスラーム化した。特にイラン高原東北部のホラーサーン地方は、アッバース家の拠点となり、その軍事力を支えて750年のアッバース朝の登場に大きな役割を占めるようになった。しかし、9世紀にアッバース朝が衰退して各地に地方政権が生まれるようになると、イラン東部でまずターヒル朝、次いでサッファール朝が自立した(これらはまだアッバース朝の強い宗主権化にあるので完全な独立国家とは言えない)。中央アジアでは9世紀にサーマーン朝がブハラを都に成立しイランの支配して999年まで続いた。一方、イランのカスピ海南岸から起こったブワイフ朝は946年、バグダードに入りアッバース朝カリフから大アミールの称号を与えられて軍事政権を樹立した。 トルコ系王朝・モンゴル系王朝とイラン人:一方、9〜10世紀にトルコ系民族がモンゴル高原周辺から移動して中央アジアに入って定住化すると、イラン人もトルコ語を話すなど中央アジアのトルコ化が進み、トルコ人支配層に同化してトルキスタンという呼称が成立した。こうしてイラン人はトルコ化したが、ガズナ朝やセルジューク朝などトルコ系国家ででも重要な役割を果たした。その後イランは12世紀末から13世紀にかけて、北方のホラズム王国に支配され、次いでモンゴルのフラグの遠征によってイル=ハン国が成立するとその支配下に入った。この間、イラン人は政治的には被支配民族に甘んじることとなったが、その文化的伝統から官僚や学者、芸術などでは依然として中心的な役割を果たし、イラン=イスラーム文化を生み出した。15世紀は、中央アジアから起こったティムール朝の支配下に入った。 イスラーム諸王朝におけるイラン系民族の役割:イスラーム化したイラン人は、イスラーム諸王朝のもとで、主として官僚やイスラーム法学者など知識人として遇された。それはイラン人はアケメネス朝以来の長い国家統治の経験を持ち、文化伝統を持っていたからであり、征服者であるアラブ人もイラン人をその方面で活用しようとした。同じくイスラーム化したトルコ人が、主として軍人(マムルーク)としてイスラーム諸王朝に活用されたのと好対照である。 シーア派国家の成立 ティムール朝(スンナ派)の衰退に従ってイランで台頭したのがイスラーム神秘主義のサファヴィー教団だった。1501年、サファヴィー朝を建国したイスマイール1世は、イラン人の伝統的な君主の称号であるシャーを称し、シーア派を国教とした。それは東方で隣接する有力なスンナ派のオスマン帝国やシャイバニ朝に対抗する意味もあった。16世紀末から17世紀初頭のアッバース1世の頃、全盛期となりその新都イスファハーンは「世界の半分」と言われる繁栄を誇った。しかし、このころからポルトガルなどヨーロッパ人の勢力が西アジアに及び始めた。 → イラン(18世紀以降) |
丁零 | 紀元前3世紀から前1世紀頃、匈奴の活動が盛んだった時期の外モンゴルにいた遊牧民で、トルコ系(テュルク)と推測されている。丁令、丁霊ともいう。匈奴が衰退した後のモンゴル高原ではモンゴル系の鮮卑が有力となったが、鮮卑が4世紀に華北に移動した後、丁零がモンゴル高原に入った。しかし、5世紀になるとモンゴル系の柔然が有力となり丁零の後身と思われる高車などを従えて外モンゴルに覇権を確立した。柔然に代わって登場し、6世紀に大帝国を建設したのがトルコ系の突厥である。 |
高車 | 5世紀頃に活動したトルコ系遊牧民で丁零の後裔と考えられ、中国史書には「高車丁零」として出てくる。おそらく「高車という丁零(テュルク)」の意味で、高大な車両を用いたことから高車といわれたらしい。モンゴル高原を支配した柔然に従っていたが、柔然が北魏に圧迫されるとその支配から脱し、西方に移動してタクラマカンのオアシス国家高昌の北方、天山山脈の北麓のジュンガル盆地に入り、485〜6年に建国した。柔然とは対抗し、北魏とは通交した。トルコ系民族の西方への進出がここから始まったらしく、次の隋唐時代の中国史料ではトルコ民族はより広い範囲に広がり、「鉄勒」として現れてくる。6世紀になると同じトルコ系の突厥が有力となり、高車などのトルコ系(鉄勒)も併合される。 |
鉄勒 | 鉄勒とは丁零や突厥と同じく、トルコ民族をあらわすテュルク(Türk)の音を漢字に写したもので、隋・唐時代に中国史料に現れるトルコ系民族の総称である。6世紀にはトルコ系の中から突厥が有力となり、柔然を滅ぼしてモンゴル高原を支配するが、突厥に服属しなかったトルコ民族は鉄勒といわれて、突厥と対抗した。7世紀には一部族の薛延陀(せつえんだ)が有力となって、唐の太宗に協力して630年、東突厥を滅ぼし、北方遊牧民の最高位である天可汗の称号を太宗に贈った。突厥の再興後もその北方にあって対立が続いた。突厥第二帝国が衰えた8世紀には鉄勒は9の部族に分かれていたのでトクズオグズ(九つのオグズ=九姓鉄勒)と言われるようになり、その中の一部族ウイグルが有力となる。 |
B 突厥 | →第3章 2節 ウ.唐と隣接諸国 突厥 |
c 唐 | → 第3章 2節 唐 |
C ウィグル | → 第3章 2節 ウ.唐と隣接諸国 ウイグル |
a ソグド商人 | ソグド商人は、シルクロードの天山南北路の西端、パミール高原の西側のソグディアナ地方のオアシス国家を拠点として、東西の貿易にあたっていたソグド人の商人たち。彼らは運んだ品物は、中国から西へは主として絹、西方から中国へはイランの金銀器やガラス製品などであった。彼らは中継貿易に活躍するだけでなく、中国の洛陽まで来て商業活動を営んでいたことが知られている。 |
b 安史の乱 | → 第3章 2節 エ.唐の動揺 安史の乱 |
c キルギス | キルギス(クルグスとも表記)はモンゴル高原の北に広がる南シベリアの草原のエニセイ川流域で遊牧生活を送っていたトルコ系民族。匈奴の服属し、中国の漢代には結骨として出てくる。もともとは、コーカソイド族であったが、トルコ系の突厥の勢力下に入り、その文化的影響と人種的混合が進み、トルコ化した。イェニセイ川上流に残る突厥文字のイェニセイ碑文はトルコ化したキルギスが残したもの。突厥に次いでウイグルの支配を受けたが、840年、ウイグルの分裂に乗じてこれを滅ぼした。その後、キルギス国家は13世紀に、モンゴルのチンギス=ハンに滅ぼされる。その後、キルギス人は西方に移住するに従ってイスラーム教を受け入れ、ティムール朝がウズベク人の台頭によって滅亡した16世紀の初めに、ウズベク人の東に再びキルギスが登場してくる。このころはバルハシ湖の南東岸セミレチェ地方を根拠にした弱小集団で、モグーリスタン=ハン国やカザフ人の支配を受けていたが、彼らが現在のキルギス人の先祖にあたると考えられている。コーカンド=ハン国に服属した後、1876年にロシアの支配を受けることになった。この間、民族国家を作ることはなかったが、1936年にソ連邦の一つキルギス=ソヴィエト社会主義共和国となった。現在は、1991年にキルギス共和国として独立、中央アジア5ヵ国の一つとなっている。 Epi. キルギスの英雄叙事詩『マナス王』 キルギス民族には世界最長の民族叙事詩といわれるマナス王の物語がある。タラスにはマナス王の廟と言われる遺跡がある。草原の民キルギスを少年マナスが統一していく物語で、『オデッセイア』や『ラーマーヤナ』をしのぐ世界一の長さを持つ叙事詩である。現在のキルギス共和国でもマナス王は民族の英雄として顕彰されており、1995年には「マナス1000年祭」を祝い、首都ビシュケクにマナス公園を作った。『マナス王』は少年編と青年編が平凡社刊の東洋文庫で見ることが出来る。 |
西ウイグル王国 | 866年に成立し、13世紀末まで続いた、天山山脈南側のタクラマカン砂漠のオアシス都市を支配した、トルコ系民族ウイグル人の国家。9〜10世紀、トルコ系民族・ウイグル人は遊牧生活からこの地で定住生活に転換し、中央アジアのトルコ化が進んだ。 モンゴル高原で栄えていたトルコ系の遊牧国家ウイグルは、840年、キルギスによって滅ぼされ、その遺民は一部は中国西部に入って党項の支配を受け、一部は天山山脈南部のタクラマカン砂漠のオアシス地帯に移住し、そこで定住するようになった。これによって、9〜10世紀に、パミール高原の東側で北は天山山脈、南はクンルン山脈に囲まれた地域は、トルコ系民族のウイグル人の支配の下で、トルコ語がそれまでのインドヨーロッパ語に代わり、ウイグル語その他のトルコ文化を受け容れることになった。これによってこの地域は東トルキスタンと言われるようになる。また、中央アジアにいた他のトルコ族が、さらに西方に移動を開始することとなり、その結果、イスラーム教と接触を深めて、トルコ系民族のイスラーム化がはじまるという大きな影響を及ぼしている。 西ウイグル王国の文化:ウイグル人はモンゴル高原にいたときからマニ教を奉じていたが、東トルキスタンに入って定住すると共に、仏教の影響も受け、ウイグル語仏典も作成された。また、ソグド文字をもとに、ウイグル文字をつくって用いていた。こうして西ウイグル王国の下で、トルコ系民族は遊牧民から、オアシス都市の都市民およびその周辺の農耕民に変身していった。 西ウイグル王国のその後:12世紀前半にはカラ=キタイ(西遼)の支配を受けたが、13世紀初めにはチンギス=ハーンに帰属することによって王位を守ったが、元朝の滅亡と共に王統も消滅した。<梅村坦『内陸アジア史の展開』世界史リブレット 11 p.56-61> |
d 中央アジアのトルコ化 | 9〜10世紀のトルコ人の定住化によってもたらされた、中央アジアのソグド人などイラン系民族がトルコ語を話すようになり、トルコ化するという大きな変動が起こった。もともと内陸アジア東方のアルタイ山脈付近で遊牧生活を食っていたトルコ民族が、西方に移動し、中央アジアのオアシス地帯に入る先鞭を付けたのは6世紀の突厥であるが、かれらは依然として遊牧生活を送り、この地に定住したわけではなかった。トルコ人の西方定住のはじまりは9世紀のウイグルであったと思われる。かれらは東トルキスタンに定住して西ウィグル王国を建設した。これに押されて他のトルコ民族(カルルク人など)が西トルキスタンに移住すりようになり、先住民であるソグド人、サカ人、トハーラ人などのインドヨーロッパ語族のイラン系民族が、定住した支配者であるトルコ人の言語に同化されていった。並行してイラン系住民はそれまでのゾロアスター教、マニ教、仏教、ネストリウス派キリスト教などを捨てて、イスラーム化した。最初の西トルキスタンのイスラーム国家であるイラン系のサーマーン朝のもとで、トルコ人はマムルーク(奴隷兵士)として取り込まれながら次第に力を付け、10世紀に最初のトルコ民族国家であるカラ=ハン朝を建設した。こうして中央アジア(西トルキスタン)はトルコ系民族が優勢となり、その後チンギス=ハンのモンゴル民族に征服されるが、その後はモンゴル人、あるいは先住のイラン人との混血を続けながら、現在の中央アジア諸国のトルコ系民族を構成することとなる。現在のウズベク人、カザフ人、キルギス人、トルクメニスタン人はこのトルコ系に属するが、近代ではロシアの支配を受けたため、ロシア人との混血も進んでいる。なお、タジク人はイラン系の民族で言語もイラン系。 → トルコ系の諸国家 |
ハザール=カガン国 | ハザルともいう。6〜10世紀に、カスピ海と黒海北岸の南ロシア草原地帯にあった、トルコ系民族の遊牧国家。西突厥を宗主国としていたが、7世紀に自立して王は可汗(カガン)を称した。黒海をはさんで向かい合っていたビザンツ帝国と通交し、時に侵攻して恐れられた。10世紀にキエフ公国に圧迫されて衰退した。なおイスラーム教徒はカスピ海のことを「ハザールの海」というのは、かれらもはザール人とカスピ海を舞台に交易を行ったからである。 ロシアのユダヤ人:特筆すべきは、ハザール=カガン国は他のトルコ系諸民族がイスラーム教を受け容れたのに対してユダヤ教を受容したことである。ロシアにユダヤ教徒が多いのはこの時からであり、彼らは19世紀末の帝政ロシアで迫害され、戦後パレスチナにわたってイスラエル建国に加わった。 <坂本勉『トルコ民族の世界史』慶応義塾大学出版会 p.20> |
ブルガール人 | → ブルガール人 |
イ.トルキスタンの成立 | |
C トルキスタン | トルキスタンとは、イラン語で「トルコ人の地域」の意味で、中央アジアのパミール高原の東西に広がる広大な草原と砂漠地帯を言う。トルキスタンといわれる以前は、パミール高原の西のソグディアナのようにイラン系のソグド人などが活動していた地域であったが、東方内陸部のトルコ系遊牧民であるウイグルの勢力が及んできてから次第にトルコ人が移住してきた。8世紀以降、この地がイスラーム化し、さらに9〜10世紀に、カラ=ハン朝、セルジューク朝などのトルコ系イスラーム王朝が成立するとともに、先住民のイラン人もトルコ化すると、トルキスタンと言われるようになった。パミール高原を中心にして、その東を東トルキスタン、西を西トルキスタンという。その後、トルキスタンには契丹族のカラ=キタイ(西遼)やモンゴル人のモンゴル帝国の征服を受けた。モンゴル帝国ではチャガタイ=ハン国がトルキスタンを支配したが、その衰退後はおおよそ、西トルキスタンにティムール帝国からウズベク人国家、東トルキスタンにはモンゴル系のジュンガルが興亡した。近代ではおおよそ、西トルキスタンはロシア領、東トルキスタンは中国領(新疆)となり、一体化することはなかった。 |
a トルコ人の地域 | |
b 西トルキスタン | パミール高原を境に、トルキスタン地方の西半分を言い、およそアラル海・カスピ海までの地域。現在のキルギス、タジキスタン、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンの中央アジア5カ国と、アフガニスタンの北部の隣接地帯にあたる。古くはソグディアナといわれ、ソグド人などによる内陸交易が盛んで、東西交易のルートとなり、サマルカンド、ブハラ、タシケント、コーカンドなどの商業都市が栄えた。8世紀にはイスラーム教の勢力が及んできて、マー=ワラー=アンナフル(川の向こうの地の意味で、アム川以北のこと)と言われるようになり、9世紀にはイラン系イスラーム王朝であるサーマーン朝が成立した。そのもとでその地のトルコ系の定住が進み中央アジアのトルコ化の結果、トルキスタンと言われるようになった。さらにイスラーム化が進み、10世紀末にトルコ人イスラーム王朝カラ=ハン朝が成立し、最初のトルコ系イスラーム国家となった。13世紀にはモンゴルに征服されたが、イスラームの文化は根強く残り、モンゴルのチャガタイ=ハン国もイスラーム化した。14〜15世紀にはティムール帝国の支配をへて、ウズベク人のシャイバニ朝となり、さらにブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国の三国が鼎立するというイスラーム国家が興亡した。19世紀後半にはロシアの中央アジア侵出によってコーカンド=ハン国は滅ぼされ、タシケントに置かれたトルキスタン総督府の支配を受け、ブハラ=ハン国とヒヴァ=ハン国は保護国とされた。こうして西トルキスタンは「ロシア領トルキスタン」となったが、それはロシア直轄領とブハラ=ハン国・ヒヴァ=ハン国の二つの保護国から構成されることとなった。ロシア革命によって西トルキスタンの諸民族も自立の機会を迎え、1917年にムスリム自治運動によってコーカンド(ウズベキスタンのフェルガナ地方)にトルキスタン自治政府が成立した。しかし、ロシア人を主体としたソヴィエト政権と対立し、翌年2月には倒された。1918年4月にトルキスタン自治共和国を樹立した。しかし、ウズベクやキルギスなどのトルコ系民族の統一をめざす運動は、民族主義的に偏向した汎トルコ主義であるとして、ソ連共産党中央から弾圧されて、1924年にソ連中央は民族的境界画定と称して西トルキスタンを5つの社会主義共和国に分割した。それぞれソ連邦に組み込まれることとなった。ようやくソ連崩壊に伴い、現在は、中央アジア5カ国(タジキスタン、キルギス、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン)として独立した。 |
c ソグド人 | サマルカンドを中心とした一帯であるソグディアナ地方を原住地とするイラン系民族で、古くから内陸のシルクロード(オアシスの道)での交易に従事していた商業民族(ソグド商人)。東トルキスタンからモンゴル高原、西域諸国を通って中国にも進出した。匈奴帝国に従っていたが、6世紀に突厥帝国がモンゴル高原から中央アジアに及ぶ遊牧国家の大帝国を建設すると、その保護のもとで東西交易に活躍した。突厥とソグド人の関係は一方の軍事力と一方の経済力と文化が相互に依存しあう関係であったと考えられる。続くウイグルなど騎馬遊牧民の遊牧国家との関係も同様であった。7〜8世紀には唐の勢力が西域に及び、その保護のもとで東西交易に活躍し、唐の都長安には多数のソグド人商人が住んでいたことが知られている。彼らによって中央アジアから中国にかけて、マニ教やソグド文字などのイラン文化が広まった。またソグド文字からウイグル文字が生まれた。なお、唐の安史の乱を引き起こした節度使安禄山はソグド人であったという。 Epi. 密と膠(にかわ)の民 『旧唐書』などによると「(ソグド人は)子供が生まれると、かならず、その口中に石密(氷砂糖)をふくませ、掌中に明膠(よいにかわ)を握らせる。それは、その子供が成長したあかつきに、口に甘言を弄することを石密の甘きがごとく、掌に銭を握ること膠の粘着するがごとくであれ、という願いからである。人々は胡書を習い、商売上手で、分銖(わずか)の利益を争う。男子が二〇歳になると商売のために近隣の国へ旅立たせ、こういう連中が中国へもやって来る。およそ商利のあるところ、彼らの足跡のおよばぬところはない」という。彼らソグド人は、密と膠とに祝福された生まれながらの商人だったのである。<護雅夫『古代遊牧帝国』1976 中公新書 p.168> |
ソグド文字 | 中央アジアのソグディアナを中心に、内陸での東西貿易に活躍したソグド人が用いた文字。西アジアのアラム文字をもとにしていると考えられている。このソグド文字が、ソグド人の商業活動とともに、中央アジアから東アジアに広がり、ウイグル文字が生まれ、さらにウイグル文字からモンゴル文字、満州文字などが作られていくことは重要である。 |
d ゾロアスター教 | → 第1章 第1節 オ.オリエントの統一 ゾロアスター教 |
ソグディアナ | アラル海に注ぐ大河、アム川とシル川にはさまれた地方で、サマルカンドを中心とする一帯。現在はおよそウズベキスタン共和国にあたる。その住民がイラン系のソグド人で、古くからソグド商人といわれて東西交易に活躍していた。前4世紀の末にはアレクサンドロス大王がこの地まで遠征し、交易ルートを押さえるとともにギリシア人を入植させ、その帝国の崩壊後は、ギリシア系の人々はバクトリアを建国した。その後は大月氏国、クシャーナ朝、ササン朝、エフタル、突厥などの国々が興亡した。この地は中国にも知られ、「粟特」と表記されている。8世紀にトルコ系のウイグルの勢力が及んでからは次第にトルコ化し、西トルキスタンと言われるようになる。 また7世紀にササン朝を滅ぼしてイスラーム勢力は、8世紀初めのウマイヤ朝の時、アム川を超えてソグディアナにも進出してきた。さらに751年のアッバース朝は唐軍とタラス河の戦いで戦って勝利し、この地のトルコ人のイスラーム化が進んだ。アラブ人はこの地をアラビア語でマー=ワラー=アンナフル(川向こうの土地、の意味)と言うようになった。その後イラン系のサーマーン朝、トルコ系のカラ=ハン朝、セルジューク朝、ホラズムが興亡し、1220年にチンギス=ハンに征服され、チャガタイ=ハン国が成立、その東西分裂後、1370年にはティムールがサマルカンドを都に帝国を建設した。ティムール朝はトルコ系ウズベク人に滅ぼされ、16世紀以降はブハラを都とするブハラ=ハン国など、ウズベク人のイスラーム国家が分立する。近代にはいるとロシアの南下政策によって侵略され、ロシア領、ソ連領となり、現在ではほぼその地域はウズベキスタン共和国として独立した。 |
e サマルカンド | ソグディアナ地方の中心として栄えたオアシス都市で、現在のウズベキスタン共和国第2の都市。ユーラシア大陸の交易ルート上に位置し、東西文明の交流の上でも重要な都市である。 当初はマラカンダとして史料に現れ、前329年、アレクサンドロス大王の東方遠征軍がこの地に至ったことが知られている。また中国では唐代に康国という名前で史料に出てくる。古くからの交通の要衝で、イラン系のソグド人がここを拠点に東西交易に活躍し、この地方はソグディアナといわれていた。8世紀以降はトルコ系の活動が活発になるとともにイスラーム化も進みマー=ワラー=アンナフル(川向こうの土地、の意味)の中心地なった。10世紀にはカラ=ハン朝からは中央アジアのトルコ化が顕著となり、この地はトルキスタンと言われるようになった。その後、カラ=キタイ(西遼)、ホラズムなどの支配を受けるが西トルキスタンの最も栄えた交易都市であった。1220年にチンギス=ハンの征服を受けて廃墟となったが、1370年にはティムール帝国の都としてティムールが復興させ、モスクやマドラサ(学校)を建設した。その後も商業と学芸の中心として栄え、トルコ=イスラーム文化が花咲いた。特にティムールの中央モスクの壮大な建築、ウルグ=ベクによって建設された天文台やマドラサなどが有名。ティムール帝国滅亡後はウズベク人のブハラ=ハン国に属することとなった。1868年、サマルカンドはロシア軍に攻略され、講和城や禹によってサマルカンドはロシアに割譲され、ブハラ=ハン国は事実上ロシアの保護国となった。 世界遺産 サマルカンド ソグド人以来栄えていたサマルカンドはチンギス=ハンの征服の際に破壊されてしまった。ソグド人時代の都市遺跡はその北西にアフラシャブの丘の地下に埋まっており、発掘品を博物館で見ることが出来る。現在の市街はその後、ティムールによってその隣に再建されたもの。ティムール朝の都としてサマルカンドには多くのティムール一族関係のモスク、マドラサ、バザールなどが建設され、郊外にはウルグ=ベクの建造した天文台跡も発掘されている。多くはその後変動で破壊されたが、現在は中心部のレギスタン広場に面したモスク、マドラサ群、ビビハニム・モスク、ティムール廟などが復興され、「サマルカンド・ブルー」と言われる青色のタイルで覆われた建物を見ることが出来る。 → 世界史の旅 参照 |
f 東トルキスタン | パミール高原の東側、テンシャン山脈とクンルン山脈に南北を挟まれた広大なタリム盆地のタクラマカン砂漠とその周辺のオアシス地帯をいう。現在は大部分が中華人民共和国の、新疆ウイグル自治区に属する。古来、イラン系オアシス商業民族のソグド人、モンゴル系の遊牧民が活動していたが、漢の武帝以来、中国の王朝も進出し、西域と言われるようになった。その後、突厥、ついでウイグルなどトルコ系の遊牧国家が相次ぎ、10世紀以降は契丹(遼)の支配下に入った。13世紀からはモンゴル帝国、ついで明に支配され、17世紀にはモンゴル系のジュンガルが有力となったが清の康煕帝以来の侵攻を受けて、乾隆帝の時の1758年、清朝に組み込まれ藩部に統治される新疆と言われるようになる。中華民国、中華人民共和国もこの地を領土として継承し、現在は新疆ウイグル自治区となっているが、漢民族の支配に対するウイグルの反発は現在も続いている。 |
g ウイグル人 | → 第3章 2節 ウ.唐と隣接諸国 ウイグル |
h マニ教 | → 第1章 第1節 キ.イラン文明の特徴 マニ教 |
i 仏教 | |
ウ.トルコ人とイスラームの出あい | |
A タラス河畔の戦い | →第3章 2節 エ.唐の動揺 タラス河畔の戦い |
a 唐 | |
b 製紙法 | →第5章 4節 イ.イスラームの社会と文明 製紙法の伝播 |
B サーマーン朝 | →第5章 1節 エ.イスラーム帝国の分裂 サーマーン朝 |
a イラン系 | → イラン系 |
b ブハラ | →第5章 1節 エ.イスラーム帝国の分裂 ブハラ |
C カラ=ハン朝 | →第5章 2節 ア.東方イスラーム世界 カラ=ハン朝 |
a トルコ系 | → トルコ系 |
b カシュガリー | カラ=ハン朝の1077年に世界最初のアラビア語で書かれたトルコ語辞典を完成させた。東トルキスタン(現在の中国領新疆)のカシュガルに生まれたアル=カシュガリーは、カラ=ハン朝の王族の一員で、若くして政争に巻き込まれカシュガルから逃れて諸国を歩き回り、セルジューク朝支配下のバグダードでトルコ語やトルコ人についての知識の重要性に気づき、およそ5年の歳月をかけて、1077年に『トルコ語辞典』(ディーワーン・ルガート・アッテュルク)を完成した。この辞典は彼が亡命旅行中に収集したトルコ系諸民族のトルコ語方言を、アラビア語で説明したもので、辞書としてだけではなく、当時のトルコ人の生活や各地の地名、地図、民族名、さらに地図まで含む「11世紀トルコ民族百科全書」と呼ぶことも可能であり、世界で最初のトルコ語辞典であった。トルコ学者の間では「カシュガリーを知らずしてトルコ民族について語るな」とさえ言われている。 |