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2.東アジア文化圏の形成
ア.隋の統一と唐の隆盛
A 隋 北朝の隋の文帝が、589年に南朝の陳を滅ぼし、中国を統一。これにより、後漢の滅亡以来、約380年続いた魏晋南北朝の分裂時代を終わらせ、隋とそれに続く唐の統一時代を出現させた。都は大興城(長安)。文帝の次の煬帝(ようだい)は大運河の建設を行い、中国の経済的統一の基盤を作ったが、高句麗遠征に失敗、内乱が起こって、隋は618年にわずか約30年で滅亡した。隋に始まる律令制科挙などの中央集権体制は唐に継承される。 
a 文帝(楊堅) 中国の統一王朝、隋をおこした人物。北朝の北周の宣帝の外戚として実権を握り、581年に北周に代わり隋王朝を創始し、華北を支配した。ついで589年、南朝のを滅ぼし、中国の統一支配を約380年ぶりに再現した。文帝は鮮卑系氏族の出身で、北朝の胡人と漢人の融合策を継承し、律令制を整備、科挙の創始、など官僚制的な中央集権体制の基礎を築いた。在位581〜604年。
b 大興城(長安) 隋の文帝は長安に大興城を建設し首都とした。周の鎬京、秦の咸陽もその付近にあった。漢の高祖が長安を首都として以来、晋、西魏、北周の都として続いたが、隋ではその近くに新たに都城を建設した。それが大興城である。それを継承した唐の都長安は、国際都市として繁栄した。現在の西安市がそれにあたる。なお、煬帝は長安を西京とし、東方の洛陽にさらに東京(とうけい)を建設した。
c 突厥  → ウ 唐と隣接諸国 突厥
d 均田制(隋)  
e 租庸調制(隋)  
f 府兵制(隋)  
g 科挙 (隋)科挙は隋の文帝が門閥貴族による高級官僚独占の弊害を改めるため九品中正制に代えて設けた官吏登用制度。実質的には唐で科挙制として整備され、宋で確立し、その後の王朝で継承され、元では一時停止されたが明でも大規模に行われ、清朝末期の1905年に廃止された。魏に始まる九品中正制は、地方の豪族層を貴族階級として固定化させ、門閥貴族を生み出した。中国を統一した隋の文帝は、世襲的な貴族の優先権を一切認めず、中央と地方の官僚を門閥にとらわれずに人材を登用することを目指し、試験による官吏登用制度を採用した。官吏登用は一般に「推挙された者を選抜する」意味で「選挙」と云われていたが、ここに初めて試験を導入したのが隋であった。「科挙」とは科目による選挙を略した言葉で、唐代に使われるようになるが、その始まりは隋の文帝の587年としてよい。ただ隋代では毎年の合格者は数名程度にすぎなかった。制度として完成するのは唐代を経て10世紀の宋代であり、元代に一時中止された時期を除き、各王朝で継承され、清朝の1904年を最後として、1905年に廃止が決定された。→ 唐の科挙制 <宮崎市定『科挙』1963 中公新書・中公文庫>
選挙 中国では官吏を選任することを「推挙された者を選挙する」意味で、「選挙」といった。漢の郷挙里選、魏の九品中正はいずれも選挙制度である。隋の文帝は九品中正制を廃止して、科目を設けて試験による選挙を始めた。それが唐代に「科目による選挙」の意味で「科挙」と云われるようになる。
律令の制定(隋) 隋の文帝は皇帝となった581年に、さっそく律令を制定した。これを開皇律令という。これそのものは残っていないが、唐の律令もこれをもとにして作られたと言われている。その原型は漢、三国時代の魏などにさかのぼるが明確な体系とされたのが隋以来のことであり、唐の律令制度で完成される。律とは刑罰規定であり、隋の開皇律令の律は国家体制の維持を目的とし、戸籍や婚姻などの規定を含んでいたらしい。また令は行政規定で、後の唐の三省六部制、科挙による官吏登用制のほか、均田制や租庸調制、府兵制など唐の律令のもとになる内容をすでに持っていたと推定されている。また、地方官制も漢の州・郡・県の三段階を改め、郡を廃止して州県制にした。これらはいずれも次の唐に継承される。
B 煬帝 ようだい、とよむ。隋の第2代皇帝(在位604〜618年)。文帝の次子で南朝の陳を滅ぼすのに功績を挙げ、強引に帝位を奪う。在位604〜618年。豪奢を好み、大土木工事を盛んに行った。特に大運河の建設は、中国の経済的な統一をもたらす大事業であった。対外的には北方の突厥との戦いでは勝利したが、三度にわたる朝鮮半島の高句麗遠征には失敗し、民衆が離反、内乱が起こって618年に離宮の揚州で暗殺され、隋は滅亡した。隋の煬帝の時、日本の聖徳太子が遣隋使を派遣した。 
a 大運河 (隋)中国全土を統一した隋は、首都圏の人口増加を支えるために、豊かな生産力のある江南地方と首都長安を結ぶ大運河の建設を行った。まず、文帝の584年、長安と黄河を結ぶ広通渠(こうつうきょ。渠→拡大とは溝と同じ。運河のこと。)、587年には淮水(わいすい)と長江を結ぶ山陽とく(トク→拡大)を建設した。煬帝はさらに、605年、黄河と淮河を結ぶ通済渠(つうさいきょ)を築き、これによって長江から長安に至る運河が貫通した。さらに、長江の南岸から杭州に至る江南河を完成させ、長江デルタ地帯と結びつけた。また608年には黄河と現在の北京付近を結ぶ永済渠を開いた。これは高句麗遠征に利するためのものであった。
大運河の建設には、多数の人民が徴発され、その負担が隋の支配への反発となり、早い滅亡の一因となったとされるが、これらの洛陽を中心点とした「横Y字形」の運河網が、長安・杭州・北京地方を結ぶ動脈となって中国の経済的統一に大きな役割を果たした。また後の元や明・清も運河の整備に力を入れ、現在においてもこれらの大運河網は活用されている。→ 元の大運河
広通渠
 渠→拡大
隋の文帝の584年に建設された、長安と黄河を結ぶ運河。隋代の運河建設の最初。隋の都長安を中心とした関中地方の人口増加に伴う食糧不足を解決するため、黄河とつながるこの運河を築き、中原(華北平原)で生産される穀物を輸送した。
山陽とく トク→拡大隋の文帝の587年に建設された、淮水(わいすい)と長江(下流の揚子江)を結ぶ運河。かん溝(かんこう)カン→拡大ともいう。
通済渠 隋の煬帝が605年に建設した、黄河と淮水を結ぶ運河。基点となるべん州(開封)は通済渠によって江南の物資も運ばれ、中原(華北地方)の経済の中心地として栄え、後の宋(北宋)の首都となる。
江南河 隋の煬帝が610年に建設した、長江(下流の揚子江)流域の揚州と浙江省の杭州を結ぶ運河。これによって長江デルタ地帯と遠く長安が水路で結ばれることとなった。 
永済渠 隋の煬帝が608年に建設した、黄河とたく(たく)タク→拡大郡(現在の北京)地方とを結ぶ運河で、高句麗遠征のための食料輸送用に建設された。通済渠を経て華北と江南地方とを結ぶ重要な役割を果たした。
b 聖徳太子 日本の飛鳥時代、推古天皇の摂政(593〜622年)。冠位十二階、憲法十七条の制定、法隆寺の建設などの仏教保護などを行い、北朝の西魏や隋に倣った国家建設を始めた。その最も象徴的な政策が、607年の遣隋使の派遣である。このときの使節が小野妹子であり、同行した留学生の高向玄理や僧旻らが、隋から唐への権力交替と、隋唐の律令制を目のあたりにして、帰国後、日本の大化の改新など、中央集権国家の建設に大きな役割を果たした。
Epi. 聖徳太子の隋との対等な外交 聖徳太子の隋への使節派遣は、『隋書』に記されており、その時の国書には「日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや」とあり、それを受け取った煬帝は「これを覧て悦ばず。鴻臚卿(外務大臣)にいっていわく、蛮夷の書、無礼なるものあり、また以聞(奏上)するなかれ」と言ったという。隋から見て東方の夷人の国にすぎない日本の聖徳太子が、対等なものの言い方で交渉に臨んできたので、無礼であると悦ばなかったわけである。しかし結局、煬帝は結局聖徳太子の国書を受け取り、翌年は裴世清を日本に使わしている。おそらく高句麗討伐をめざす煬帝はその背後にある日本と結ぶことを有利と考えたのであろう。
C 隋の滅亡 612年、613年と続いた隋の煬帝の高句麗遠征はいずれも失敗し、遠征に動員された農民の不満が爆発、613年から各地に農民反乱が起こるようになった。有力な反乱軍の一つであった李淵の軍団は617年7月に長安目指して進撃を開始し、11月に長安を占領した。南方の揚州(江都)で遊興にふけっていた煬帝は、長安陥落の報に追いつめられ毒を仰ごうとしたが、部下の宇文化及はそれを許さず煬帝を絞殺したので、隋は滅亡した(618年3月)。
a 隋の高句麗遠征 隋の高句麗遠征は、すでに文帝の時に始まり、百済の要請に応えたもの、突厥と高句麗が結ぶのをおそれたため、などの理由が挙げられている。煬帝は612年、113万の軍勢を動員して高句麗に遠征したが、高句麗の激しい抵抗に遭い、失敗した。その後も2回、大遠征軍を派遣したが、遠征中に各地で民衆反乱が始まり、隋の滅亡の一因となった。
D 唐 618年から907年までの中国の統一王朝。唐朝を起こした李淵は隋の官僚であったが、隋末の混乱に乗じて初代皇帝高祖となった。都は長安。次の李世民(太宗)が628年に全国を統一。唐は、隋の律令制を受け継ぎ、均田制、租庸調制、府兵制を基礎とする中央集権体制を整備し、科挙による官吏登用制を実施し、官僚政治を発達させ、約300年にわたって存続した。全盛期は太宗の時代(貞観の治)である。次の高宗は病弱であったため則天武后が実権を握り、さらに次の韋后と女性の支配が続く。8世紀に玄宗が政治の引き締めをはかる(開元の治)が、晩年は政治が乱れ、755〜763年の安史の乱が起こる。その後は各地の節度使の台頭、宮廷での宦官と官僚の争いなどが続くが、南方の穀倉地帯を抑えていたので、その支配はなおも1世紀ほど続いた。しかし、9世紀の後半に黄巣の乱が起こり南方の穀倉地帯が失われたため、唐は907年に滅亡した。
唐の時代は、西の突厥、東の高句麗という強敵を滅ぼし、東アジアの国際秩序に安定をもたらした。そのため、都長安は世界各地から商人や使節が集まり、国際的な繁栄がもたらされた。文化史上も唐文化はもっとも華やかで国際的な広がりを持つものであった。東アジアで唐帝国が勃興した7世紀初め、西アジアではムハンマドがイスラーム教を創始(622年がヒジュラ=イスラーム紀元元年)し、イスラーム帝国の隆盛が始まっている。751年には唐とアッバース朝イスラーム帝国がタラス河畔の戦いで直接戦っている。
a 李淵 618年、唐を建国した初代皇帝高祖。李氏はもともと鮮卑系で、西魏以来の八柱国(将軍)の家柄であった。李淵は隋の文帝に仕え、地方や中央の官僚を務めていた。隋末に反乱が起きると子の李世民(後の太宗)らとともに山西省の太原で挙兵し、まもなく長安を占領、煬帝の孫の恭帝をたて、煬帝が揚州で暗殺されると、禅譲(前皇帝から帝位を譲り受けること)によって皇帝となった(618年5月)。なお、唐の高祖李淵は、イスラームの創始者ムハンマドとほぼ同じ時期に当たる。→唐の高祖
b 高祖 もとの名は李淵。唐の初代の皇帝(在位618〜626年)。隋に代わって唐を建国し、長安を都とした。624年には唐の最初の律令である武徳律令を制定。しかし、高祖の時代にはまだ各地に群雄割拠し、唐朝の勢力は全土に及んでいなかった。また626年、「玄武門の変」が起こり、第2子の李世民によって退位させられ、幽閉されてしまった。
c 長安  → イ.唐代の制度と文化 長安
d 太宗(李世民) 父李淵に勧めて挙兵し、唐の建国に功績があった。第2子であったが、兄の李建成を殺害し、父の高祖を幽閉(626年の「玄武門の変」)して第2代の皇帝太宗(在位626〜649年)となった。このような異常な方法で権力を握った皇帝であるが、統治者としては中国史上でも有数の名君とされ、その統治は「貞観の治」と言われている。628年には陝西省の一部に残った独立政権も滅ぼされ、唐の全国統一が完成した。さらに630年には東突厥が唐に降伏し、遊牧民諸部族は太宗に「天可汗」(世界皇帝の意味)の称号を贈った。またチベットのソンツェン=ガンポ、遠くインドのヴァルダナ朝ハルシャ王とも使節の交流があった。さらに東方の高句麗、百済、新羅、日本と冊封関係を結び、多くの留学生や留学僧が都長安に来た。このように太宗の時代は唐が「世界帝国」として成立した時代である。内政でも、貞観律令を制定し、三省六部の整備が進み、『貞観氏族志』を編纂させて氏族の格付けを行った。この時代は玄奘のインドへの旅行などが行われ、東西の文化の交流が進み、その都長安は国際色豊かな文化が繁栄した。
e 貞観の治 626年即位した李世民(廟号を太宗)は翌年貞観と改元した。それ以後649年に至る太宗の統治を「貞観の治」という。太宗は、隋末の混乱以来残存していた各地の勢力を次々と破って統一を完成し、突厥、西域諸国などを服属させ、唐王朝の基礎を築いた。太宗は、房玄齢や杜如晦などの宰相をブレーンとして、安定した政治を行ったが、太宗とその臣下の問答を記録した『貞観政要』は、その後の各王朝でも参照され、日本でも平安時代から権力者(源頼朝や徳川家康)によって愛読され、刊行された。この7世紀前半の貞観の治は、8世紀前半の開元の治と並び、唐王朝が安定した時代とされる。
 天可汗 630年、唐の太宗(李世民)は軍隊を派遣してモンゴル高原の東突厥を攻撃した。唐軍は突厥と同じトルコ系の鉄勒と結び、東突厥の服属させた。このとき、鉄勒諸族は、太宗に対して、天可汗(テングリカガンの漢訳)という称号を贈った。この称号は遊牧民の最高君主、「世界皇帝」を意味するもので、これによって唐の太宗はまさに「世界帝国」の統治者として認知されたことになる。出題04年早大教育
f 高宗 太宗の子で、唐王朝第3代の皇帝(在位649〜683)。東は百済、高句麗を滅ぼし、西は西突厥を退け、南ではベトナムに進出し、唐王朝の最大領域が成立した。651年には永徽律令を制定、また律の官選注釈書である『律疎』と、儒家の根本文献である五経の注釈書『五経正義』が完成された。高宗は政治を臣下に任せる傾向が強く、晩年には皇后となった則天武后にその政治の実権をゆだねた。
g 都護府 漢が前59年に西域を統治するために置いた西域都護が始まりで、その後、後漢では光武帝の時、班超が亀茲に都護府を設置した。唐は帰属した異民族の地域に、六つの都護府を置き、その下の都督、州の刺史には現地の族長を任命した。このような異民族政策を羈縻政策という。唐の六都護府は、安東、安西、安南、安北、単于、北庭の六ヶ所に置かれた。唐中期以降は、府兵制の崩壊に伴い、辺境の防備は都護府に代わり節度使が管轄するようになる。
安東都護府 朝鮮および東北地方の統治のため、高句麗を滅ぼした後、平壌に設置された。後に朝鮮半島で新羅が自立すると、遼陽に移った。安史の乱で廃止された。
安西都護府 西域経営のため、高昌に置かれた。後に亀茲(クチャ)に移る。790年、吐蕃に占領された。
安南都護府 北部ベトナムのハノイに置かれた。後に南詔に占領され、さらにベトナムに大越国が成立して滅んだ。なお、遣唐使として唐にわたり、日本に帰れなくなって唐朝に使えた阿倍仲麻呂は、この安南都護として赴任したという。
安北都護府 外モンゴルの統治のために設けられた。
単于都護府 唐の六都護府の一つで、内モンゴルの統治のために設けられた。唐に服属したトルコ系の突厥などがその支配に従っていた。
北庭都護府 中国西北部、現在の新疆ウイグル自治区に当たるジュンガリアの統治のために置かれた。790年、吐蕃に占領された。
h 羈縻政策  →拡大中国の各王朝が、周辺の異民族に対してとった懐柔策。羈縻(きび)とは、馬や牛をつなぎ止めておくこと。唐王朝はその支配領域に多くの異民族を組み入れたが、それらを治めるために、六都護府を置き、中央から官吏を派遣した。そしてその下に都督府、刺史をおいて監督したが、都督、刺史には異民族の族長を任命した。
イ.唐代の制度と文化
1 律令制度 中国の隋唐時代に行われた、律令・格式という法体系に基づいた国家の諸制度。三省六部制の国家機構、官吏登用、官僚制、土地制度、税制、軍事制度など政治上の規定とともに、法律による刑罰制度、身分制度や家族制度、社会規範などに及ぶ広範な法治国家体制を律令制度と言い、それによって維持展開される国家を律令国家という。法の制定は秦・漢帝国でもあったが、特に北魏や西魏で発達し、隋での律令の制定を唐が継承して完成させた。また新羅・渤海・日本などの周辺諸国にも律令制度は取り入れられ、広く東アジアで展開された。
a 律 律は一般に刑法にあたる。
b 令 令(リョウ、またはレイ)は行政法にあたる。
c 格 格(キャク)は臨時法にあたる。
d 式 式は施行細則にあたる。格とあわせて「格式」といい、唐時代に何度かまとめられている。
e 三省 唐の政治の中枢で皇帝に直属する三機関。中書省・門下省・尚書省をいう。
中書省 唐の皇帝の詔勅(皇帝の命令書)を起草する機関。唐以降の王朝でも中書省は最重要の官庁として存続したが、後に元朝では最高行政機関となり、六部も中書省の管轄に入った。後の元では長官を中書令といい、皇太子が兼ね、その下の左右の丞相が実質的な政治を行い、宰相としての地位にあった。明の太祖洪武帝の時、中書省は廃止され、六部は皇帝直属となる。
門下省 中書省で起案された唐の皇帝の詔勅を審議する機関。場合によっては修正や拒否をすることも出来た。門下省は単なる審議機関ではなく、北朝社会で成長してきた貴族たちの拠点となり、彼らに独占され、彼らにとって都合の悪い詔勅はここでチェックされ、実施されなかった。貴族が皇帝権力に制約を加える機関として重要だったのである。従って、唐以降の王朝で皇帝権力を強めていくためには、門下省は削減の対象となり、まず宋代になって門下省は廃止され中書省に吸収される。
尚書省 唐の皇帝の詔勅を実施する機関で、その下に六部という部門別の行政機関がある。尚書省はその後の王朝にも継承されるが、元に至って廃止されることとなる。 
f 六部 リクブ、とよむ。尚書省の管轄下にある六つの行政機関。吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部。隋代にほぼできあがる。それぞれの長官を○部尚書とい。六部の体制はその後も中国の中央行政機関として維持されるが、元代には中書省の管轄とされ、明代に六部は皇帝直属となり、清にも継承される。→ 明の六部
吏部 リブ。官吏の選任事務を管轄する。現代の日本で言えば、人事院。当初は科挙も担当していたが、736年に科挙(公務員資格試験)は教育部門を担当する礼部に移り、吏部は科挙合格者などを対象に官吏採用試験である吏部試を実施し実際の採用事務を行った。
戸部 コブ。戸籍及び財政事務を管轄する。現代日本の財務省兼総務省か。
礼部 レイブ。礼制、祭祀に関する事務を司る。官吏登用の前提の資格試験である科挙は当初吏部の担当であったが、736年からはこの礼部の管轄となった。教育部門も管轄したのでいわば現代の日本で言えば文部科学省が近い。
兵部 ヘイブ。軍事を担当し、全国の折衝府を管轄した。さしずめ防衛庁。
刑部 ケイブ。裁判(司法)を担当した。法務省と裁判所。
工部 コウブ。土木を管轄した。国土交通省。
御史台 ギョシダイ。官吏の監察機関。現在の人事院の機能の一部。
州県制 (隋・唐)漢代には郡県制の上に、郡を管轄する州が13州設置され、州−郡−県の三段階で地方が統治されていた。魏晋南北朝になると州の数が増え、その末期には300を越え、中央集権が困難になる一因となっていた。そこで隋では郡を廃止して州が直接県を管轄するように改め、中央集権体制の合理化を図った。唐もこの州県制を継承した。州の州刺史、県の県令という長官と次官は中央から派遣され、それ以下の官吏は現地で長官が任命した。なお唐では全国の州を10の道に分け、玄宗の時代にはさらに15道に分けて州を管轄させ、道州県制となった。
g 科挙制度 (唐)隋の文帝が選挙制度を改め、九品中正制を廃止して学科試験による官吏登用(隋の科挙制度)を始めた。その制度が唐で科目による選挙という意味で「科挙」と言われるようになった。科挙制度はその後、中国各王朝の基本的な官吏登用制度として継続し、宋で殿試が加えられて確立し(宋の科挙制度)、元では一時停止されたが明で復活し、清朝末期の1905年に科挙は廃止された。
科挙を受けるものはまず、地方の国子監が管轄する国子学以下の国立学校で学ぶ必要があったが、まもなく国子学は有名無実化し、地方官の推薦を受けたもの(郷貢)が受験するようになった。科目には秀才科、明経科、進士科などがあった。秀才科は時事問題についての小論文、明経科は経書の解釈が問われ、進士科は詩賦(詩文)の能力を問われるものであった。明経科の経書の解釈にああっては、はじめは様々な解釈が行われていて基準がなかったため、太宗孔穎達に命じて『五経正義』を編纂させ、基準とした。三科の中ではじめは秀才科が重視されたが、次第に行われなくなり、その名は科挙試験受験資格者を意味するようになった。明経科と進士科が残ったが特に進士科が官吏の登竜門とされて人気があり、競争率は明経科が10倍程度、進士科は百倍と言われた。官吏は科挙の合格者から選ばれるのを原則としたが、高級官吏の子供には一定の官位に任官するという蔭位の制があり、有利であったので、完全な試験による人材登用制度とは言い切れない面もあった。科挙は厳密に言えば官吏資格試験であり、省試といわれる本試験の実施事務は尚書省の礼部が管轄(736年より)していた。実際に官吏になるためには吏部の行う吏部試によって任用されなければならなかった。
Epi. 五〇歳で進士なるのは若い方 科挙に合格すること=進士なること、は「至難中の至難な業」と言われ、今度こそ、とがんばって試験勉強に明け暮れるうちに、歳月はいつとなく流れ去り、始めは紅顔の美少年であった者も、いつの間にか十年二十年と年月がたち、やがて五十、六十の老人になってしまう。唐代の諺(ことわざ)にすでに、「五十少進士」(五十歳で進士になるのは若い方)というのがあった。宋代には老年で進士となった人を「五十年前二十三」といって嘲笑した。「科挙」については、主として清代のことをとりあつかった本であるが、<宮崎市定『科挙』−中国の試験地獄− 1963 中公新書・中公文庫>がおもしろい。様々な不正受験(カンニングや替え玉受験など)の話などを知ることが出来る。
秀才科科挙の科目の一つで、時事問題に関する小論文を課すもの。隋唐より以前の六朝時代の九品中正制のもとでも秀才科と孝簾科という門閥出身者以外のものが意見書を提出して官吏に採用されるという道があったのが前身であった。隋唐の科挙においても明経科、進士科などとともに重要な科目とされ、その合格者が秀才と言われ尊敬されたが、最も困難な科目であったため次第に受験者が減少し、唐初の651年に科目として廃止された。
明経科めいけいか。科挙の科目の一つで、経書の解釈を主として出題される科目。唐では秀才科が廃止されてから、明経科と進士科の二科が受験者が多かったが、次第に進士科に押され、やがて科挙と言えば進士科のみを指すこととなる。
進士科しんしか。科挙の科目名であると共にその合格者。唐代には秀才科明経科などと並ぶ科目の一つで、詩文の作成能力を問う科目であったが、次第に中心的科目となり、合格者である進士が官僚としての栄達を約束されるエリートとされた。進士科が優位となった理由は、明経科は経書の丸暗記が中心であったのに対し、進士科は経書の暗記試験と詩と賦という二種類の韻文が課題とされ、「オールラウンドの士君子の教養」の優劣をきそった点でその合格者が単なる技能のみならず人格的にも優れていると考えられたからである。進士科の優位は宋代にさらに明確となり、王安石の改革の際についに進士科は科挙の唯一の科目とされ、その内容も詩文と散文の二本立てではなく、散文のみとなる。→ 宋代の科挙制度改革と進士科 <村上哲見『科挙の話』講談社学術文庫 p.62 など> → 唐詩
蔭位の制官吏登用にあたり、父祖の官位によって子の最初の官位が決まる制度。唐では五品以上の高官の子孫は自動的に官吏に登用された。任子とか、恩蔭制度とも言われる。 
2 均田制 (唐)魏の均田制を起源とし、隋を経て唐で完成された土地公有と均分の原則に基づく土地制度。農民に土地を等しく与えることによって生活を安定させ、同時に租庸調などの税と府兵制での兵役を農民に負担させて国家の財政と軍備を維持しようとすることがねらいであった。均田制・租庸調制・府兵制は、律令国家を支える三本の柱であると言える。唐の律令の田令に規定されている均田制の要点は次のようになる。
丁男(21歳〜59歳)・中男(16歳〜20歳)に口分田80畝、永業田20畝の計100畝を給田する。
・口分田は還授される(死ねば返還する)が、永業田は世襲できる。
・妻や奴婢には給田されない(魏の均田制との違い)。
・口分田の班給は毎年行われる(日本の班田収受法は6年に一度)。
・官吏には公田として職分田、公廨田(くがいでん)、官人永業田が支給された。
・口分田受給者に対し、租庸調・雑徭その他の税と兵役の義務が課せられる。
均田制が実際にはどのように実行されていたかはわからないことが多かったが、20世紀になって発見された敦煌文書やトルファン文書によってかなり厳密に実施されていることがわかった。また周辺諸国にも影響を与え、日本では班田収受法として取り入れられた。均田制は唐王朝の繁栄を支えたが、農民にとっての負担は重く、次第に逃亡や浮浪が多くなり、8世紀にはほとんど行われなくなり、貴族による土地私有制である荘園が増加してくる。
a 口分田 唐の均田制で還授される田地。還授とはその人一代だけに与えられ、死ねば返還しなければならないという意味。なお田地というのは水田のことではなく畑地のこと。給田額は丁男・中男に80畝、老男に40畝とされる。丁男とは成年男子のことで、唐では21歳〜59歳(後に25歳〜54歳)の男子。16歳〜20歳が中男、60歳以上が老男。北魏、隋では露田と言われた。唐代では口分田80畝と永業田20畝のあわせて100畝が給田されるが、100畝はおよそ5.5ヘクタールにあたる。
b 永業田 唐の均田制で世襲が認められた土地で、北魏と隋では桑田にあたる。丁男・中男に20畝支給され、桑・ナツメ・楡を植える規定であった。
c 班田収授法 均田制は律令制度の一つとして、日本でも取り入れられ、大宝律令では「班田収受法」として定められた。しかし、内容ではいくつかの違い、例えば、日本では永業田の規定がないが、奴婢への班給があること、唐では毎年班給であったが日本では六年に一回の班給であったことなど、がある。また班給されるのは6歳以上の男子で一人2反(約22.6アール)、女子にその3分の2であった。
3 租庸調制 律令の賦役令に定められている税制で、均田制の下で給田された丁男に対するものである。殷周以来、さまざまな税目が存在したが、漢代の租、三国時代の魏以来の調などを整備したもの。労役の変わりに現物を納めるという庸は西魏に見られた。北魏時代には租と調が夫婦単位で課税され、他に奴婢、耕牛にも掛けられた。隋で租庸調に整備され、煬帝の時婦人への課税は廃止された。唐の時代にそれぞれ、調の内容、および雑徭が律令の規定として確定した。均田制を模した班田収授法を採用した日本でも内容を多少変えた租庸調制が実施された。租庸調は均質な均田農民の家族労働に基盤を置き、その生産物を国家が直接収奪するという仕組みであり、そのために土地台帳である戸籍と、租税台帳である計帳が作成された。従って農民を戸籍と計帳に登録して掌握することで成り立ので、偽籍(戸籍を偽ること)や浮浪・逃亡(戸籍を離れること)は許されなかった。しかし、8世紀後半になると農民は重い負担を嫌って浮浪・逃亡するものも現れ、次第に戸籍と計帳が実態に合わなくなってきた。このような均田制の崩壊に伴って租庸調制も実態を失い、780年には両税法に変更される。
丁男唐の律令制の規定では、21歳〜59歳までの成年男子のこと。16歳〜20歳は中男という。丁男が均田制の口分田の給田対象であり、租庸調、役、雑徭、兵役などを負担した。
唐の均田制における税目の一つで、口分田を班給される丁男(成年男子)に対して、粟(アワ。ただし穀物を意味する。)2石(1石は約60kg)。日本の律令制の班田収授法では男子に2束2把。女子にその3分の2。
唐の均田制における税目の一つで、口分田を班給される丁男(成年男子)に対して、年に20日間の中央政府での労役(これを正役という)の代わりに、1日あたり絹3尺と布(麻布)3.75尺で換算した代償を納める。
調唐の均田制における税目の一つで、口分田を班給される丁男(成年男子)に対して、絹2丈綿(まわた)3両、または布2.5丈麻3斤。1丈は10尺、幅56cm、長さ約3m。1斤=16両=約688g。日本の律令制の班田収授法ではその地の特産物とされた。  
a 雑徭 丁男に科せられた労働のことで地方官庁の土木工事などに従事させられた。期間は最高50日(40日説もあり)であり、農民にとって大きな負担であった。
徭役 中国の税制度の中で、公権力に対して人民が負う、無償の労働提供(労働地代ともいう)のこと。隋唐の律令制のもとでは、均田農民(口分田を給付される農民=自作農)に対し、調などの現物(生産物地代)の他、中央官庁での年間20日間の労働である正役(通常は絹または麻布を代納する=)と、地方官庁での年間50日(40日説もあり)の労働である雑徭(代納なし)があり、農民の大きな負担であった。兵役も一種の労働地代であった。徭役はおそらく都市国家段階からの最もふるい税の形態であり、直接人民を使役する古代国家に広く見られる形態であり、都城や長城、運河などの造営はこのような労働でまかなわれたと思われる。税の主体は次第に生産物(現物納)に移り、さらに貨幣流通に応じて金銭納(貨幣地代)が始まり、現代においては基本的には徭役は無くなっている。中国史では、徭役が完全になくなるのは明の一条鞭法の時と考えられている。
4 府兵制 府兵制は、6世紀半ば頃から8世紀半ば頃まで中国で行われた軍事制度であり、土地公有制である均田制を基盤として、公有地を給与された自営農民の中から兵士を徴発する徴兵制度である。その起源は北朝の西魏にさかのぼり、北方系の遊牧民であった北朝の王朝が、農耕民を軍事力に組織する制度として始まり、隋および唐に継承され、唐の律令制度の一環として完成した。
西魏の府兵制:550年頃、宇文泰によって整備された。全部で96の儀同府という軍団がおかれ、4儀同府ごとに「開府」という司令官が統率する。さらに24の開府を二人ずつ(つまり2軍)にわけ12人の「大将軍」が統括し、大将軍を二人ずつ(つまり4軍)を6人の「柱国」が指揮する。このように皇帝・丞相の下に、六柱国→十二大将軍→二十四開府→九十六儀同府という指揮系列があった。儀同府には、儀同将軍→大都督→帥都督→都督という指揮官が置かれ、その兵士は「府兵」と言われた。府兵は租庸調と力役を免除され、馬や食料は六軒の家が提供していた。
唐の府兵制:その起源は西魏の府兵制にあるが、直接的には隋の府兵制を継承した。唐の太宗は636年に中国全土平定のあとを受けて地方に兵部所管の折衝府を置き、兵力供給源と地方治安の中心とした。折衝府は全国でおよそ600前後あるが、その配置の中心は長安及び洛陽の周辺であった。各折衝府には千名程度の兵員が在駐し、長官の折衝都尉、次官の果毅都尉などが指揮した。それぞれの折衝府は首都の十二衛六率府に属していた。兵役の内容は次項の通り。府兵制は均田農民を徴発することで成り立っていたので、均田制が崩壊した8世紀の中頃には行われなくなり、749年に廃止され、兵士を募集する募兵制に移行していく。
兵役(府兵制)府兵は折衝府において農閑期に訓練を受けるほか、一年に一〜二ヶ月、衛士(えいし)として首都の防衛にあたった(番上という)。また府兵は在任中に三年間、防人として国境の鎮や戌で警備にあたった。府兵は折衝府の置かれた州(軍府州)の均田農民から徴発され、租庸調は免除されたが、武器・食料などは自弁とされた。折衝府の置かれていない州(非軍府州)もあったが、唐王朝は狭郷(耕地の少ない地方)から寛郷(耕地のゆとりある地方)への移住は認めたが、軍府州から非軍府州への移住は認めず、府兵の確保につとめた。しかし、周辺諸民族との戦争が続いたので、府兵となる農民負担は大きく、徴兵忌避が各地で起こっていた。
a 荘園 唐の中期頃から、土地公有の原則である均田制が崩壊する中で、貴族の大土地所有が広がってきた。それを荘園と言い、貴族や地方の有力者は、没落した均田農民の土地を併せ、さらに彼らを小作人として耕作させるようになる(そのような農民を佃戸と言い、宋代以降は小作人をひろく佃戸と言うようになる)。
開元通宝唐の高祖(李淵)が621年(武徳4年)以後、鋳造させた銅銭。漢の武帝の五銖銭以来の統一通貨として鋳造された。「開元」はこの場合は年号ではではなく(年号としての開元は後の玄宗の時)、「開国建元」の意味で、唐の建国を記念したもの。円銭で四角の穴は秦の始皇帝の半両銭、漢の五銖銭を継承しており、穴の四方に開元通宝の文字を鋳出している(開通元宝とも読める)。開元通宝はこの後の基準貨幣となり、1枚を一銭と数え、10銭で1両とされた。またその形、重さは中国だけではなく、周辺諸国の貨幣の手本ともされ、日本の和同開珎もそうである。以後は年号に「通宝」または「元宝」をつけた貨幣が鋳造されるようになる。
唐の文化唐の文化の特徴は、次の4点に要約される。特に前の二点は唐文化の最も重要な点として強調されている。
(1)豊かな国際性 世界帝国として繁栄した唐には、西域を通りササン朝ペルシアのイラン文化が伝えられ、ビザンツ帝国やイスラーム世界とも接触、シルクロード交易が行われ、ソグド人商人などが活躍した。また周辺諸国と冊封体制を築き、朝鮮や日本からも使節や留学生が来朝し、都の長安は国際都市としてのにぎわいを見せていた。 → 豊かな国際性
(2)貴族文化の繁栄 魏晋南北朝時代の北朝文化(遊牧民文化をもとにした質実剛健な文化)と南朝文化(漢文化を継承した華麗な文化)が融合し、中国文明の絶頂期といえる。それをささえたのは科挙によって選ばれ、律令体制を支える貴族たちであった。特に唐詩は貴族の教養とされたことにより優れた詩人、作品が排出した。
(3)儒教、仏教、道教の三教の展開 この三教は互いに競いながらそれぞれに発展した。唐王朝は李姓であったことから道教を国教とし(その始祖とされた老子が李姓であった)保護したが、仏教に対しても寛容であると同時に国家統制を加えた。その中で仏教には中国独自の教典研究が進み、独自の宗派も生まれた。儒教は王朝の統治理念として依然として科挙の試験科目とされた。
(4)周辺諸国への影響 唐文化は冊封体制のもとで周辺の諸民族に大きな影響を与えた。特に新羅、渤海、日本(奈良時代)などは遣唐使を派遣し、その政治体制や法制度だけでなく文化の吸収に努めた。
1 豊かな国際性 ここに、長安の豊かな国際性を描いた名文がある。石田幹之助博士の『長安の春』(1941)の一節である。長いが引用しよう。
「京城東壁の中門、春明門のあたりに立って見渡すと、西北にあたって遠く三省六部の甍を並べた「皇城」が見え、その北には最初の「宮城」(皇宮)が殿閣の頂を見せ、更にその東北にはその後の天子の居であった東内諸宮の屋頭が竜宮のように浮び、盛唐の頃ならば玄宗が新に営んでその常居となした興慶宮の一角が・・・・眉に迫る。西南には朱雀大路に沿うて薦福寺の小雁塔が民家の間に尖った頂を抜き、南の方の遙か遠くには慈恩寺の大雁塔が靉靆(あいたい)たる金霞の底に薄紫の影を包む。このあたりはこの上都長安と東都洛陽・北都太原等とを繋ぐ孔道の都に入ってくる処とて、馬車の往来は殊の外にはげしい。地方へ赴任の官吏も出てくれば駱駝を率いたキャラヴァンも出てくる。海東槿域の名産たる鷹を臂(ひじ)に載せて城東の郊野に一日の狩りを楽しむ銀鞍白馬の貴公子も来る。唐廷の儀仗に迎へられて、きらびやかな行列に・・・・歩みも緩く西に向ふのは、大和島根のすめらみことのみこともちて、遙に海を越えた藤原清河などの一行でもあらうか。外国の使臣の入朝するものもその東よりするものはすべてここから都へ入った。日本・新羅・渤海の如き遠き国々から、学を修め法を求めんとして山河万里笈を負うて至るものも皆この門をくぐる。我が空海も円仁も、円珍も宗叡も、みなここから都へ足を入れた。・・・・胡人の往来も亦稀ではない。春明門のほとりで西域の胡人に会ったという話は、唐の世には珍しい伝えではなかった。熱沓の区、東市の所在もすぐ近いこととて、たとへ西市に一籌を輸するとしても、流寓の外人はこのあたりにも少なくなかったらう。所謂タムガチの都クムダンの城(長安城の胡名)に大唐の天子を天河汗と仰いで、商販の利に集い寄る西胡の数はかなり多いものであった。・・・・往来の盛はまた路上ばかりでない。門の南には龍首渠の運河が繞(めぐ)り、江浙の米を運び南海の珍貨を山と積んだジャンクを浮べ、林立する檣(ほばしら)の間に錦帆が風を孕んで、水上の舟楫もまた賑はしいものであった。・・・・」<石田幹之助『長安の春』p.4 東洋文庫>
a 長安 (唐)唐の都。現在の陝西省西安。周の都鎬京、秦の都咸陽もこの付近にあった。漢が都として長安を建設、その後南北朝時代の西魏、北周の都となり、隋の文帝その南東に新しく大興城を建設した。唐はそれを継承し、完成させた。唐の長安城は南北が8651m、東西が9721m(それを模したと言われる日本の平城京は南北約4800m、東西約4300m。平安京は南北約5200m、東西約4500m)。北辺の中央に大極殿を中心とした宮城があり、碁盤目状の道路で東西南北に区画されていた。外側は城壁で囲まれ(日本の平城京、平安城にはなかった)、城門は日暮れから夜明けまでは閉じられている規則であった。宮城周辺の三省六部の官庁街の他に、東西に市があり、商人が住み、営業していた。盛唐の玄宗時代には人口100万と言われ、また周辺の世界から渡来するものも多く、国際都市として繁栄した。長安城内には、多数の仏教寺院(日本の円仁などが学んだ大興善寺、則天武后が建立した大薦福寺、玄奘のいた大慈恩寺などが有名。それぞれ、雁塔という多層の塔をもつ)や、道教の寺院である道観があった。その他、ネストリウス派キリスト教である景教の寺院(大秦寺)、ゾロアスター教の寺院であるけん(けん)祠があった。 → 豊かな国際性
b 景教 けいきょう。キリスト教の一派であり、431年のエフェソス公会議で異端とされたネストリウス派は、ローマ領内での布教を禁止され、東方に広まった。ササン朝ペルシアを通じ、唐の太宗の時代の635年に中国に伝わり、景教と言われた。745年にはそれまで波斯寺とといっていた寺院を大秦寺とした。景教の布教を記念した大秦景教流行中国碑も建てられた。けん(けん)教にくらべて、漢民族にも信仰するものが多かったらしく、漢訳された聖書もつくられた。景教はキリスト教と言っても、いちじるしくイラン化したものであった。唐の会昌の廃仏の時、景教も禁止されたため中国では衰えたが、中央アジアのモンゴル系ナイマン族などでもネストリウス派の信仰が継承され、西アジアにイスラーム教が勃興すると、西欧キリスト教世界の中に、中央アジアに存在するキリスト教国と手を結ぶために、使節を派遣しようと言う動きが起こる。それが13世紀のプラノ=カルピニルブルクなどの宣教師の東方派遣につながる。
大秦景教流行中国碑 781年、唐の都長安に建造された、景教の布教を記念する石碑。現存するこの石碑によって、唐における景教の盛んであった様子がわかる。
c けん →拡大けんきょう。イランのササン朝の国教であったゾロアスター教は、南北朝時代の北魏に西域から中国に入ってきたイラン系の商人によって伝えられた。唐ではけん(けん)教、または拝火教といった。拝火教というのは、ゾロアスター教が光明の神アフラ=マヅダを主神とし、聖火を絶やさなかったのでそういわれた。主としてイラン系の商人たちの間で信仰されており、中国人に広がることは少なかったらしいが、長安や洛陽にはその寺院がいくつもつくられていた。唐末の武宗の仏教弾圧(会昌の廃仏)の際、ゾロアスター教も禁止されたので、衰えた。
d 摩尼教 まにきょう。3世紀頃、ササン朝に始まるマニ教が、ソグド人などを通じて唐に伝わり、摩尼教(または明教)と言われた。中国で摩尼教の信者となった多くはウイグル人であった。768年には長安に大雲光明寺という摩尼教の寺院が建設されている。唐末の武宗の仏教弾圧(会昌の廃仏)の際、摩尼教も禁止されて、教は早く衰えたが、摩尼教は宋や元、明代まで信者が存在した。摩尼教徒はソグド人の間で用いられていた日月火水木金土の七曜を中国に伝えるなど、東西文化の交流に見るべきものがある。<石田幹之助『長安の春』東洋文庫 p.288>
摩尼教は元代には民間の仏教信仰と混合して、白蓮教などのもとになる。
e 回教 かいきょう。中国ではイスラーム教のことを回回教(フイフイ教)、その略称で回教(かいきょう)と言った。中国ではトルコ系の民族であるウイグル人であり、それを回こつ(こつ)→拡大と表記したが、それが広く西域のイスラーム教徒を意味するようになり、その宗教を回教と言うようになった。現在はあまり用いられておらず、中国では「清真教」と言うことが多い。その寺院(モスク)のことを清真寺という。現在の中国にも北西部の新疆ウイグル地区のみならず、北京市内などにもイスラーム教徒は多く、清真寺やイスラーム料理店が多数存在している。また中国史の中でもイスラーム教徒で活躍した人物も多く、その代表例が明の永楽帝の時の鄭和である。
f 揚州 長江下流(揚子江)北岸、江蘇省の商業都市。隋の煬帝は大運河に建設してこの地を洛陽、長安につなげ、離宮をおいた。煬帝は最後は長安を避けて揚州に移り、ここで部将に殺害された。唐時代には海上貿易の拠点として栄え、アラビア商人も来て取引が行われていた。アラビア商人はこの地を「カンツー」(江都の音訳)と言った。日本の遣唐使の中継地でもあった。明・清時代まで商業都市として栄えたが、清末の太平天国の乱で荒廃した。
g 広州 現在の広東省の省都。広東ともいう。珠江の河口にある。古くからの華南の最大の貿易港。特に唐時代には、陸路の絹の道に代わって、海路による東西交易が盛んになったが、その拠点が広州でり、貿易事務を担当する市舶司が置かれた。イスラーム教徒であるアラビア商人(ムスリム商人)が多数やってきて取引に従事していた。アラビア人は中国では大食(タージー)と言われ、蕃坊という外国人居住区に住んだ。その繁栄は、宋(北宋)に引き継がれたが、南宋では泉州が繁栄して、広州は衰退した。元代にはマルコ=ポーロによってカンフーと紹介されている。明の時、1517年にポルトガルの商人が来航、その南方のマカオを拠点としてアジア貿易に進出した。清代には1757年以来、外国船の来航はこの広州一港に限られることとなり、唯一の外国貿易港として栄え、イギリスなどの商館が立ち並んだ。1840〜42年のアヘン戦争は広州でのアヘン没収から始まる。→清代の広州
市舶司  → 第3章 3節 市舶司
大食 唐ではアラビア人をタージーと言い、大食の字をあてた。イラン人がアラビア人をタージ、あるいはタージクとよんだのが中国でタージーと言われるようになったという。または商人を意味するアラビア語のタージルから転訛したとの説もある。なおウマイヤ朝を白衣大食、アッバース朝を黒衣大食と言った。<『新編東洋史辞典』創元社>
大食といわれたアラビア商人は、唐代に広州揚州などの商業都市に渡来して交易を行い、居住地を設けていた。宋と南宋でもアラビア商人による南海貿易は続き、南宋末(13世紀)の泉州には、蒲寿庚というアラビア人が外国貿易を管轄する提挙市舶となったことが知られている。
2 仏教の隆盛(唐)隋唐時代に中国仏教が確立した。7世紀には玄奘がインドから仏典をもたらし、また義浄もインドに渡り、ともに多数の経典をもたらし、新たな経典の翻訳も行われた。唐王朝は道教を国教としていたが、仏教も貴族の信仰を受けていたので、保護されるとともに国家統制が加えられ、官寺や僧官が設けられてた。北朝以来の鎮護国家仏教が続いたと言うことができ、日本の国分寺制度や東大寺大仏建立もその制度を模倣したものであった。また唐代では経典の新訳が行われ、その研究が進んだ結果、どの経典を重視するかによっていくつもの宗派に分かれ、中国独自の発展をする宗派も現れた。まず7〜8世紀初めの則天武后の時代には華厳宗が盛んになり、大仏の造営などが行われた。その他、戒律に基づく宗派が律宗、玄奘のもたらした『成唯識論』にもとづいて成立したのが法相宗である。一方で中国独自に展開した天台宗末法思想から始まった浄土教も起こった。このころインドでは仏教の衰退期にあたり、密教化していたが、その密教も中国に伝えられ、独自に発展し、8世紀には加持祈祷が宮廷の貴族に流行し、真言宗が成立した。さらに6世紀にインドの達磨が伝えた坐禅の修行を中心とした禅宗も、唐代の中国で独自に発展した。これらの天台宗、密教(真言宗)、禅宗は平安時代から鎌倉時代にかけて日本に伝えられ、日本仏教が形成された。仏教は唐代では主として貴族に信仰される宗教であり、民間には道教が盛んであった。唐王朝のもとで仏教と道教は論争を繰り返し、たびたび対立した。道教側に立った時の政権によって、前代から総称して「三武一宗の法難」という弾圧があったが、特に武宗の廃仏(会昌の廃仏)によって仏教は打撃を受け、一時衰退した。復興してからの中国仏教はもはや鎮護国家的な経典研究中心の仏教ではなく、禅宗と浄土宗という実践を重んじ民衆に根をおろした仏教が中心となっていく。
a 玄奘げんじょう、またはげんぞうとよむ。かの『西遊記』の主人公三蔵法師である。7世紀初めに現在の河南省に生まれた。ちょうど隋が倒れが建国した618年、17歳で長安に上り仏教の学ぶこととなった。しかし建国したばかりの唐の都にはまだ落ち着いて仏教を学ぶ環境が無く、戦乱の及んでいなかった四川に赴く。その後各地で仏教を学ぶが、飽き足らないものを感じ、ブッダの生国インドで直接仏典を学びたいという欲求が強くなる。当時、唐は個人が外国に出ることを禁じていたので、やむなく玄奘は秘密裏に長安を出発した。唐の太宗の貞観3年(629年)、玄奘26歳であった。昼間は隠れ、夜間に西を目指すという苦労をしながら唐域を抜け、高昌国、クチャなど西域を抜けて西トルキスタンに入り、タラス、サマルカンド、バーミヤンなどを通り、インドに達しガンダーラに入った。さらに北インドを旅して仏跡を尋ねた。そのころのインドは、ヴァルダナ朝のハルシャ王の時代で、仏教は保護されていたが、ヒンドゥー教も盛んになりつつあった。玄奘はナーランダ寺付属の学校(ナーランダー僧院)で5年間、仏典の研究を行った。帰路は多くの仏典を背負い、同じく中央アジア経由で645年に長安に帰った。16年にわたる大旅行であった。彼は長安の大慈恩寺でインドの仏典の漢訳に従事した。その旅行は弟子たちがまとめた『大唐西域記』がある。後に元の時代にそれを種本にしておもしろく読み物にしたのが呉承恩の『西遊記』である。玄奘はインドから仏典をもたらし、法相宗を起こしたが、この時期の仏教の隆盛は、天台宗・浄土教・密教・禅宗など中国独自の仏教展開によってもたらされた面がある。
b 『大唐西域記』  
c 義浄 玄奘より遅れて、7世紀の末、インドに渡った中国唐の僧。玄奘が陸路を利用したのに対し、義浄は海路を利用し、671年に出発、695年に帰国した。その旅行記が『南海寄帰内法伝』である。義浄も玄奘と同じ、ナーランダ僧院に学び、多くの仏典を中国にもたらした。また、インドに到達する前、東南アジアのスマトラ島にあったシュリーヴィジャヤ王国に4年間滞在し、その国の大乗仏教が盛んであった様子を伝えている。
d 『南海寄帰内法伝』  
華厳宗 けごんしゅう。華厳宗は「華厳経」を重視する宗派である。「華厳経」は、法華経と共に大乗仏教を代表する経典で、無限に大いなる仏を説いたもの。「光明遍照」(仏の光があまねく世を照らす)を意味する毘盧舎那仏(サンスクリット語のバイローチャナの音訳)を最高の仏とする。唐の初めに杜順が開祖であり、7世紀末から8世紀初めの法蔵が教理を大成した。
Epi. 東大寺大仏のモデル 華厳宗は朝鮮を経て日本にも伝えられた。日本の華厳宗の総本山は奈良の東大寺であり、奈良の大仏といわれるのも正しくは「毘盧舎那仏」で華厳宗の本尊である。唐の高宗と皇后の武氏(後の則天武后)は、竜門に毘盧舎那仏の大仏造営を発願し、武后は自らの脂粉銭(お化粧代)二万貫を寄付し、大仏の顔は武后に似せて造られたという。恐らくこの時唐に留学していた玄ムはこの像を見ていたであろう。帰国後聖武天皇によって僧正に任じられた玄ムが光明皇后に大仏造営を進言したのかもしれない。いずれにせよ、大仏造営と諸国に国分寺を造る仏教政策は、則天武后を真似たものであった。<鎌田茂雄『仏教の来た道』講談社学術文庫 p.170>
天台宗 南朝の最後の陳朝で、江南の五台山を中心に活動した天台大師智(ちぎ)を開祖とする宗派。彼は隋の煬帝から「智者」の称号を与えられた。大乗仏典の中の『法華経』を最も重視する。法華経は正式には妙法蓮華経といい、サンスクリットの意味は「正しい教えの白蓮」である。その教えは、どんな人でも救済できると説くもので、諸経の王とも言われ、鳩摩羅什の翻訳以来、多くの人の信仰の拠り所となった。唐の中頃から特に盛んになり、その中心地天台山には各地から学僧が集まった。日本の最澄(伝教大師)も天台宗を学び、日本に比叡山延暦寺を建て、平安仏教の中心地となった。その後も円珍、円仁を初め、宋代には重源、栄西、成尋などの多くの日本僧が天台山で学んでいる。
真言宗 インドで7世紀頃、仏教が衰退したなかで、民間のヒンドゥー教と結びついて生まれた密教が中国に伝えられ、真言宗となった。顕教(経典によって教義が明らかになっている仏教)にたいして呪術的要素が強く、師から弟子への秘伝として8世紀に善無畏、金剛智などのインド僧が中国に伝えた。大日如来(華厳宗の毘盧舎那仏にあたる)を中心とした曼荼羅という世界観を特徴としている。その教義は唐の恵果から日本の留学僧空海に伝えられ、空海は帰国後、812年に高野山金剛峯寺を開き、密教修行の拠点とした。
末法思想 大乗仏教には歴史観として、未来を含めて歴史を三段階で分ける考えがあった。正法五百年、像法千年、末法万年といい、正法は仏陀の死後五百年でその教えが正しく実行されている時代、次の像法千年は教えは守られているが、それを実行し悟りを開くことが困難な時代(像とは似ているという意味)であり、末法は仏陀の教えが行われなくなる時代であるという。中国の南北朝時代にたびたび廃仏が行われたことは末法の時代が到来したと認識する末法思想が生まれてきた。6世紀の慧思(えし)は554年に末法入りしたと考えた。このような末法の世に、阿弥陀仏の名を唱える(称名)によって浄土に往生することができるという、浄土信仰が興った。 → 浄土宗
阿弥陀信仰  
会昌の廃仏 唐の後期、武宗の時(845〜846年)に行われた仏教弾圧。三武一宗の法難の一つ。会昌(かいしょう、またはえしょう)とは時の年号。武宗は4600の寺院を破壊し、26万5百人の僧尼を還俗(僧籍を離れ一般人になること)させ、寺院に隷属していた奴婢15万を解放した。背景には武宗が道教を厚く信仰していたことと、当時の寺院の中に腐敗堕落したものがあったことなどもあるが、財政難に苦しむ唐王朝が寺院の財産を没収し、税収を増加させようとしたねらいもあった。事実、この時破壊された寺院の荘園などの財産は国家に没収され、還俗僧と解放された奴婢は一般農民に編入され両税法の負担戸とされた。また没収された仏具は銅銭と農具の材料に回された。このようにこの廃仏は経済的な理由によるものであり、仏教そのものが否定されたわけではなく、長安と洛陽にはそれぞれ4寺院、各州に1寺院は残された。それにしても仏教にとっては大打撃であり、これにより鎮護国家仏教の時代は終わったと言える。また、仏教のみならず、景教(ネストリウス派キリスト教)、ゾロアスター教摩尼教の三夷教も弾圧され、唐文化の国際性という特徴も終わりを告げることとなった。なお、このときの仏教弾圧に直面した日本からの留学僧円仁は、『入唐求法巡礼行記』に詳しく記録している。<布目・栗原『隋唐帝国』講談社学術文庫 p.401-405>
Epi. 道士にだまされた?武宗 「武宗は仏教排斥をおこなったことで有名であるが、排仏の裏にはつねに道教派の策動があり、道士が天子に取り入る手段は、常に不老不死の強壮薬を進めることであった。しかるにこの強壮薬ははなはだ危険な代物で、これまで何人の帝王がそのために精神錯乱におちいったり、死期を早めたりしたか知れなかった。武宗もまたその愚かな犠牲者のひとりであり、薬をのんで身体の異状を感じたが、道士らは「それは陛下の骨に仙人の骨が入れかわったためで、なが生きの証拠です」とあざむいた。しかし現実はあざむくことができず、まもなく天子が病没すると、宦官らはその叔父に当たる宣宗をかつぎ出して天子の位につけた。」<宮崎市定『大唐帝国』中公文庫版 p.397 1968>
3 儒教(唐)唐代の儒教は、その学説が科挙の試験科目の基礎教養として重んじられ、太宗の時、五経の官選の教科書として孔穎達によって『五経正義』が編纂された。そのため経典の解釈の統一が必要となり、後漢の訓詁学が復興した。しかし訓詁学は次第に枝葉末節にこだわる解釈だけに落ち込み、思想的な発展は見られなくなった。また科挙においても、経典を丸暗記する明経科は次第に受験者が減り、創造的な詩文の創作能力を競う進士科が人気がたかまったため、訓詁学は次第に衰え、文学の隆盛に向かうこととなった。次の宋代には儒教の革新が行われ朱子学(宋学)が成立する。
a 科挙  → 科挙(唐)
b 孔穎達 くようだつ、または、こうえいたつ、とよむ。孔子の32代の子孫と称する。隋の煬帝の時に科挙の明経科に合格し、唐では国子監の長官となり太宗の信任を得た。太宗は科挙制度を充実させるにあたり、儒教の経典である五経について、さまざまな解釈がなされ、合格基準があいまいであることから、その一本化をはかり、孔穎達に命じて統一的な解釈書の編纂を命じた。それによって完成したのが『五経正義』であり、以後、この書が五経の国定教科書として科挙の基準とされた。
『五経正義』 唐の太宗の時、儒学者の孔穎達に命じて編纂させた、五経(書経、詩経、易経、礼記、春秋)の官選教科書。科挙制度で五経の教養を問う際に、解釈の基準を定める必要があり、いわば官選の国定教科書として編纂された。
4 貴族文化 唐の文化の特徴として貴族文化と言われることが多いが、唐代の貴族とは魏晋南北朝期の特権的貴族階級ではなく、科挙に合格して国家の高級官僚となった、官僚貴族である。かれらは律令制度の完成の中で、科挙合格者として国家の中枢となったばかりでなく、知識人として余力を詩作や絵画に打ち込み、数々の作品をものした。それは玄宗皇帝時代の盛唐期を頂点として、華やかな宮廷文化として生み出された。一般庶民はそれらの文化とは隔絶していたから、唐の文化は貴族文化であると言うことができる。
唐詩『詩経』・『楚辞』以来、発展した詩は、魏晋南北朝時代の六朝文化において陶淵明などが出現して中国文学の最も発展した分野となった。そして中国文学史の柱として、「唐詩」・「宋詞」・「元曲」と言われるように、唐時代には詩が他のジャンルを圧倒して質量ともに黄金時代を迎えた。『全唐詩』所載の作品は5万首に近く、作家の数は二千三百余名に達する。唐詩の隆盛の理由は、科挙の進士科の試験科目に詩の創作が課せられていたからであり、その作家の多くは、六朝時代の特権的貴族階級ではなく進士出身の知識人官僚であった。
唐の三百年間の詩の歴史は、初唐・盛唐・中唐・晩唐の四期に分けられのが通説となっている。
・初唐:唐成立(618年)から太宗の貞観の治を中心に、高宗・則天武后の時代の約100年(ほぼ7世紀)
・盛唐:玄宗の開元元年(713年)から安史の乱の終了後の765年まで約50年間(ほぼ8世紀前半)
・中唐:安史の乱終了後(766年)から敬宗の宝暦2年(826年)まで約60年間(8世紀後半〜9世紀初頭)
・晩唐:文宗の太和元年(827年)から唐の滅亡(907年)まで約80年間(ほぼ9世紀)
<松枝茂夫編『中国名詩選』中 p.25-26 岩波文庫 1984>
a 王維 盛唐の詩人であるとともに画家。「王維は李白・杜甫とちがって山西の名家に生れ、早くから宮廷詩人として名を成した。静寂な自然を詠んで禅味のただよった五言絶句はまことに絶品というべきだ。また不世出の画家でもあって、「詩中画あり、画中詩あり」とはまさに適評である。」<松枝茂夫編『中国名詩選』中 p.28 岩波文庫 1984>
画家としての王維は「山水画」に新境地を開き、後に南宗画(南画)の祖とされるようになる。
代表作には、西域に赴く友人を送別した時の「渭城曲」。“君に勧む、更に尽くせよ、一杯の酒を。西のかた陽関を出づれば故人無からん。(さあ、もう一杯飲みたまえ。陽関を出ればもう友達もいないのだから)”の一節が有名。
Epi. 安禄山・王維・阿倍仲麻呂 王維は科挙に好成績で合格して官僚となり、玄宗に仕え累進したが、安禄山の乱の時、賊軍に捕らえられ、脅迫されてやむなく安禄山政権に仕えた。そのため乱後処罰の対象となったが、危うく逃れて尚書右丞として没した。なお、王維の作品には、阿倍仲麻呂(中国名は朝衡)−遣唐使に従って入唐し、詩才によって玄宗の寵愛を受けた日本人−の帰国に際して送った歌がある。もっともこのとき仲麻呂は嵐にあって帰国を果たさず、その地で没した。
b 李白 りはく。盛唐の詩人。「詩仙」と称せられる、中国を代表する詩人である。以下その紹介文の例。
「杜甫をして“酒一斗、詩百編”と嘆ぜしめた李白こそは、まことに天成の詩人というべきであった。性あくまで合法闊達で何事にも捉われず、若くして遊侠のむれに交り、神仙を慕い、長生不死を願って、進んで仕官を求めることをしなかった。浪漫的で好んで夢幻の境に遊び、酒と女を歌った。また六朝の綺麗を唾棄して漢魏の古えにかえれと主張した。その詩は行くとして可ならざるはなく、長編の楽府詩はもとより、とくに五・七言絶句の絶妙さは余人の追随をゆるさない。」<松枝茂夫編『中国名詩選』中 p.28 岩波文庫 1984 一部文字を改めた> 
c 杜甫 とほ。盛唐の詩人で、李白と並び称されれ、「詩聖」と言われる。以下はその紹介文。「杜甫は李白より十一歳後輩で、たがいに友として善かったが、生まれも性格もちがい、また詩風もまったく対照的であった。彼とても李白に劣らず生まれながらの天才詩人ではあったが、彼の場合はさらに積極的に骨身をけずって詩作に打ちこみ、「句、人を驚かさずんば死すともやまず」の概があった。君国のため大いに成すあらんとして仕官に執心し、君を尭舜の上に致さんと願ったが、事は志とたがった。誠実な生活者として家族を愛し、大勢の家族を従えて長い漂泊の旅をつづけた。その間、乱離にあえぐ人民の苦悩に直面して、これに対する同情はおのずと為政者への激しい政治批判の詩となった。その詩風は沈鬱で、頓坐抑揚の妙を得ている。漢代以来の旧題によらぬ新題楽府や、首尾一貫した連作詩もみな彼の創始にかかる。とくに彼の律詩に至っては格律森厳、一字も動かせない、匠心の驚くべきものがある。」<松枝茂夫編『中国名詩選』中 p.28 岩波文庫 1984>
代表作「春望」の“国破れて山河あり、城春にして草木深し。時に感じて花にも涙をそそぎ、別れを恨んで鳥にも心を驚かす。烽火三月に連り、家書万金にあたる。白頭掻けば更に短く、すべて簪に勝えざらんと欲す。”という安史の乱の最中に長安の荒廃を詠んだ歌は、日本で最も知られた唐詩であろう。
d 白居易(白楽天) はくきょい。中唐を代表する詩人。玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を歌った『長恨歌』であまりにも有名である。楽天は字(あざな)。二十九歳で進士に合格、官僚として過ごし、多くの詩を残した。代表作は『長恨歌』と『琵琶行』。彼の詩は、平易な言葉でわかりやすく、広く大衆に受け入れられた。中国のみならず、日本にも早くから知られ、平安時代にはその詩集『白氏文集』が熱狂的に受け入れれられた。 
e 韓愈(韓退之)
→愈は正しくはだがここでは書換字を使用。→拡大
かんゆ。韓退之(かんたいし)の退之は字(あざな)。中唐の人で、貴族階級のでではなく24歳で科挙に合格した。官僚としては不遇であったが、詩人としては白居易と並び称され、文章家としては柳宗元とともに古文復興運動の中心人物として活躍した。その文章は四六駢儷体の形骸化を批判して、漢や魏の古文の復興に努め、後に唐宋八大家の一人とされる。また儒学者としては、仏教や道教の空論を激しく否定して、儒学の復興に努めた。『原道』などの書物では、儒教の新しい解釈をほどこし、後の周敦頤などの宋学の先駆となったとされる。
f 柳宗元 りゅうそうげん。中唐の詩人、文章家。特に韓愈とともに、四六駢儷体の技巧を排し、質実な漢・魏の古文を復興させる運動(古文復興運動)の中心人物のひとりとなった。やはり科挙の合格者で官吏となった人だが、中央での改革運動に加わり、にらまれて南方の広西省に左遷され、官吏としては地方官に終わった。 
古文の復興 古文とは漢代以前の文章を意味する。魏晋南北朝時代に流行した四六駢儷体は、文を四字か六字で区切り、対句を用い、韻を踏み、また故事成句を多用するのが良いとされたため、華麗ではあるが約束事が多く閉鎖的で、貴族たちに独占されてきた。そのような心のこもらない形式的な技巧だけの美文を避け、漢代の自由な文章を復興させようという運動が唐代に起こった。それを唱えた韓愈(韓退之)とその友人柳宗元はともに貴族階級の出身ではなく、進士科合格の官僚であった。この古文復興運動は、黄巣の乱後の貴族階級の没落にともなって活発となり、同時に仏教の排斥、儒学の復興とも結びついていた。古文復興運動は宋代の文化にも継承され、欧陽脩・蘇軾などが現れ、彼らを総称して唐宋八大家という。
山水画 六朝時代に始まり、唐で大成された中国の絵画の画法。人物画・花鳥画に対して、山や川、渓谷など自然の風景を題材として、幽玄な雰囲気を描くことが流行した。盛唐の王維呉道玄李思訓らが代表的な山水画の作者であった。その後、山水画は中国の代表的な画題として継承され、宋代に宮廷画家の系統の院画に対し、士大夫が好んで描いたのが山水画が文人画と言われるようになる。文人画は元末四大家を経て、明の董其昌によって南宗画(南画)として大成される。
g 呉道玄 唐の玄宗の開元年間(8世紀前半)に活躍した宮廷画家。画才を玄宗に認められて宮廷画家となった呉道玄は、人物・仏像・山水などあらゆる分野で活躍、六朝時代の顧ト之などの繊細な筆法から脱却して、力強く変化に富んだ大型画面を生き生きと描いた。仏教寺院や道教の道観の壁画を三百余間描き、同じものは一つとしてなかったという。また自然描写では山や岩の立体感を表す画法を創出し、山水画の基本を築いた。中国絵画の様式を著しく進展させ亜画家であるといえる。
李思訓 りしくん。7世紀後半の初唐の人。李という姓からわかるように、唐王朝の皇族。山水画に優れていた。李思訓の画風は宮廷の画院の職業的画工に継承され、宋代には院体画(院画)と言われるようになり、後の北宗画の源流とされる。 
閻立本 えんりっぽん。初唐(太宗の時代)の画家。宰相でもあった。中国の伝統的な画法を継承した人物画に優れ、『歴代帝王図巻』を作った。現在、アメリカのボストン美術館に所蔵されているが、残念ながら後代の模作である。
欧陽詢 おうようじゅん。隋から唐にかけて活躍した書家。楷書に優れていた。初唐三大書家のひとり。
ちょ遂良  チョ→拡大ちょすいりょう。7世紀前半、唐の太宗・高宗に仕え宰相ともなった。書家としても著名で、欧陽詢・虞世南(ぐせいなん)とともに初唐三大書家とされる。
Epi. 則天武后の立后に反対し左遷される ちょ遂良は、太宗と高宗に仕え、有能な宰相として知られていた。高宗が則天武后を皇后にたてようとしたとき、武后が高宗の父太宗にも仕えていたことから、猛烈に反対し、もっていた笏(しゃく。高級役人が手に持つ細長い板。)で自分の頭を叩いて血を流し、「この笏は陛下におかえしし、私は郷里に隠棲したい」といい張った。高宗と武后の不興を買い、地方官に左遷されてしまった。<布目潮ふう(ふう)→拡大・栗原益男『隋唐帝国』講談社学術文庫 p.113>
h 顔真卿 がんしんけい。8世紀の盛唐(玄宗の時代)の書家。魏晋南北朝時代(4世紀)の東晋の王羲之の貴族的な書風に対し、雄勁な書風をつくりだした。安史の乱では唐朝側で奮戦し、戦死した。
唐三彩 唐代の特徴的な陶器で、緑、褐色、白の三色で彩色し、器や人物、動物などさまざまな造形を、低温で焼いた。主として葬儀に用いられていた。唐三彩は盛唐の貴族文化を背景としており、長安・洛陽の都付近だけに見られるものだった。唐の貴族文化が衰えると唐三彩も見られなくなり、中国の陶磁器は青磁・白磁の隆盛となり、次の宋磁に引き継がれる。 → 陶磁器
ウ.唐と隣接諸国
A 突厥 「とっけつ」、または「とっくつ」とよむ。テュルクの音を漢字に写したもので、トルコ人のこと。モンゴル高原で活動していたトルコ系の遊牧民で、6世紀中頃にアルタイ山脈西南地方を中心に部族を統合し、柔然(モンゴル系)を滅ぼして552年に独立し、有力となった。その王を柔然と同じく可汗(カガン、ハガン)という。西方のトルキスタンにも進出、ササン朝ペルシアと結んで、エフタルを滅ぼした。中国の北朝に隋が興ると、それに圧迫され、583年に東西に分裂した。隋末には東突厥が唐の建国を援助し、有力となる。しかし唐の勢力が西方に及ぶと、630年に東突厥はそれに服属して羈縻政策によって支配され、657年西突厥は滅亡した。7世紀末に東突厥が再建され(第二帝国)、8世紀には独自の突厥文字を持つなど有力となったが、744年同じトルコ系民族のウイグルに滅ぼされた。  → 東突厥 西突厥
ポイント:突厥は6世紀のユーラシア東西にわたる大遊牧帝国を建設したトルコ系民族として重要。現在の小アジアのトルコ共和国を構成している民族の遠い源流がモンゴル高原にあり、東では隋・唐、西ではエフタル、ササン朝、ビザンツ帝国と関わりを持っていた。この世界史学習のスケールの大きさを味わってほしい。また、突厥は北方アジア民族(トルコ系)として最初の独自の文字として突厥文字をもったことも重要。
突厥帝国の成立:はじめアルタイ山脈の南西にあり、トルコ系諸部族を統一した阿史那部の伊利可汗(可汗が王の称号)が、552年に柔然から独立しモンゴル高原一帯を支配した。背景にはその地域が鉄鉱石に恵まれ、鉄製武器の製作にすぐれていたからという。伊利可汗は中国北朝の西魏に使節を派遣して通婚した。まもなく北朝は北斉・北周が対立したことに乗じて突厥は勢力を伸ばした。また弟のディザブロスを西方に派遣し、、ササン朝ペルシアと結んで、エフタルを滅ぼしし、ディザブロスは西面可汗として中央アジアを支配し、カスピ海方面まで及んだ。かれはササン朝に中国の絹の市場を開こうとしたが、拒否されたためビザンツ帝国と結び、中国の絹を直接売り込むのに成功した。突厥帝国の保護を受けて、東西交易にあたったのがソグド人の商人であった。
突厥の分裂:突厥帝国の大可汗は、地位相続の明確な規定がなかったためか、583年(ご破算!)にディザブロスの子が独立して可汗を称し、西突厥をたて、ここに帝国は東西に分裂した。東突厥はモンゴル高原、西突厥はトルキスタンから西を支配した。そのころ中国では隋(581年建国)が中国統一(589年)に成功、さらに内紛の続く東突厥を臣従させた。しかし、隋末の反乱が起こると東突厥は李淵を援助し、唐の建国(618年)を実現させた。これを突厥第一帝国とも言う。
東西突厥の唐への服属:東西分裂後、東西の両突厥はそれぞれしばらく国力を維持したが、唐の支配を確立した太宗(李世民)の630年、唐は北方のトルコ系民族である鉄勒と結んで東突厥を攻撃して服属させた。このとき太宗は「天可汗」の称号を贈られた。これは世界皇帝を意味しており、唐の支配権が遊牧世界まで及んだこととなる。唐はこの地域に対して羈縻政策で臨んだ。また西突厥の支配するトルキスタン地方にも唐の勢力が及んで657年に西突厥は滅亡した。
突厥第二帝国の興亡: まもなく東突厥は反乱を起こして682年に突厥を復興し、8世紀には唐とも友好関係を持つに至った。しかし、新たに起こったウイグルに攻められ、744年に滅ぼされた。これを突厥第二王朝とも言う。この第二王朝の時期に、突厥文字がつくられた。
東突厥 突厥は隋に圧迫されて583年に分裂した後、ウチュケン山とオルホン川流域に拠ってモンゴル草原を支配したのが東突厥。西突厥は西方のトルキスタンに移動した。東突厥は一時強大となり、唐の建国期にはそれを援助したが、後に唐の太宗の征討を受けていったん滅亡した(630年)。これを突厥第一王朝という。その後東突厥は内モンゴルで唐の羈縻政策のもとで支配された。
東突厥の再興(第二帝国):内モンゴルの単于都護府の支配下にあった東突厥は、682年クトゥルグが唐に対する反乱を成功させて独立し、突厥帝国を再興した。これを突厥第二帝国とも言う。則天武后の時に唐と和議を結び、その後、玄宗のころ、ビルゲ可汗(在位716〜734年)の時、東の契丹や、党項などと戦って有力となった。このとき、ビルゲ可汗などの功績を称えた石碑を建立、それが突厥文字の彫られたオルホン碑文で、北アジア民族が自分の文字で残した最古の記録である。しかし再び内紛が激しくなってカルルク(後にカラ=ハン朝を建国)やウイグルなどの他のトルコ系遊牧民が台頭し、744年にウイグルのクトルクボイラが自立して可汗を称し、突厥第二帝国は瓦解した。
西突厥 突厥が分裂した後、モンゴル高原を支配した東突厥に対し、西突厥は中央アジア西方のオアシス地帯であるトルキスタンを支配した。東突厥と同じく唐の支配を受け、唐はその地にトゥルファンなどの州を置いて統治したが、657年に滅亡した。唐の玄奘がインドに赴く途中、西突厥の都スーイ=アーブで、時のトンヤブグウ=カガンの歓待を受けたことが『大唐西域記』に描かれている。可汗は金色の花模様で飾られた天幕に、多数の兵を従え、美しい綾の衣装をまとい威厳があったという。西突厥は7世紀末に、その支配下にあったトルコ系部族のテュルギシュ(突騎施)が自立したために衰えた。
a 突厥文字

732年に建てられた突厥のキョル・テギン碑の一部。この図では下から上へ、各行は右から左へと読む。<『地域からの世界史8 内陸アジア』朝日新聞社 p.43>
中央アジアで活動した古代トルコ民族の突厥が、8世紀頃の東突厥の時代に作り上げた文字で、北アジアの遊牧民族が用いた最初の文字と言われる。西方のソグド人が用いたソグド文字、さらに西方のセム語族アラム人のアラム文字が伝わり、それを改良したとされる。突厥文字は19世紀末に発見されたオルホン碑文によって存在が知られ、1893年にデンマークのトムセンによって解読された。オルホン碑文は東突厥のビルゲ可汗などの業績を称えたもので8世紀につくられたもので、モンゴル高原北部、バイカル湖に注ぐオルホン河畔にある。他に突厥文字の史料としてはイェニセイ碑文などがある。
Epi.  オルホン碑文の発見と突厥文字の解読 オルホン碑文を発見して世界を驚かせたのは1890年、フィンランド人のヘイケルという言語学者だった。なぜフィンランド人がモンゴル高原まで出かけたのか。当時、フィンランドは帝政ロシアの支配を受けていた。民族の独立を願うフィンランド人にとって、民族のルーツがどこにあるのかという問は切実なものがあった。シベリウスが『フィンランディア』を作曲したのもそのような民族意識に根ざしていた。フィン人ウラル語族に属し、ウラル語族はアルタイ語族と近親関係があると考えられ、トルコ語やモンゴル語はアルタイ語に属している。そこでフィンランドの学者は熱心にトルコ語やモンゴル語の原型を探ろうとしていたのだった。ヘイケルは謎めいた文字が彫られた三つの石碑をオルホン河畔で発見し拓本をヘルシンキに持ち帰ったが解読には至らず、発表された資料を利用して解読に成功したのは、1893年、フィンランドと関係の深いデンマークの学者トムセンだった。それは8世紀の突厥帝国の可汗たちを顕彰するもので、ソグド文字に由来するルーン文字で記された、トルコ系民族の使用したもっとも古い文字であることが判明した。<坂本勉『トルコ民族の世界史』2006 慶応義塾大学出版会 p.22-26 による>
出題 04年 京都大学 730年代にオルホン河畔に立てられた碑文は突厥の復興を称揚したものである。この碑文を書き送った、当時の中国の皇帝は誰か。  解答 →  
B ウイグル 中央アジアで活動したトルコ系の遊牧民。モンゴル草原から中国西部のオアシス地帯で活動し、はじめ同じトルコ系の突厥に服属していた鉄勒の9部族(トクズ=オグズ)の中の一部族であった。8世紀に突厥(第二帝国)が衰退した後、744年に自立して可汗を称し、建国した。中国では回、のちに回鶻(いずれも訓はかいこつ)などと表記される。おりから唐で、755年安史の乱が起きると唐の求めに応じて援軍を送った。このとき、ウイグル人で唐の都に行った者も多く、草原の遊牧民が中国貴族文化に接することとなった。その後、ウイグルは西アジアに進出して定住を試み、またソグド商人を保護して東西貿易に従事させ、マニ教を受け入れて独自の文化を築いたが、9世紀には北方のキルギス人の侵入を受けて衰退し、840年に滅亡した。そのうち西ウイグル王国は、独自のウイグル文字を生み出しなど高い文化を誇ったが、13世紀はじめにはチンギス=ハンのモンゴル帝国に服属する。16世紀以降はイスラーム化し、現在は中国の新疆ウイグル自治区の主要住民となっている。 → 西ウイグル王国
ウイグル人の定住化の歴史的意義:9世紀にモンゴル高原を中心としたトルコ系民族ウイグル人の遊牧帝国が崩壊し、ウイグル人の一部がタリム盆地に移住し、オアシス都市に混じって定着して都市の商人や都市周辺の農耕民となったことによって、それまでソグド人などのイラン系民族が住民であった中央アジア地域がトルコ民族が主体となる、いわゆるトルコ化がすすむ第一歩となり、トルコ化した中央アジアをトルキスタンと言うようになる。(パミール高原の東の天山山脈・崑崙山脈に南北をはさまれたタリム盆地、タクラマカン砂漠一帯が東トルキスタン、パミール高原の西のシル川・アム川にはさまれた地域が西トルキスタン)。 → 中央アジアのトルコ化
a 安史の乱  → 安史の乱
b ウイグル文字
中央アジアのトルコ系遊牧民のウイグル人が作った文字。表音文字で、左の行から縦書きする。アラム文字ソグド人のソグド文字に影響を与え、さらにウイグル文字となった。ウイグル文字が主に使用されたのは西ウイグル王国の時代だった。このウイグル文字からさらにモンゴル族モンゴル文字となってモンゴル帝国で使用され、さらに清朝で用いられた満州文字のもととなった。
ウイグルとウイグル文字に関する出題 04年 明治大学(文)(改) 次の文の空欄を埋めよ。
「8世紀半ば過ぎの安史の乱で、皇帝( 1 )が都の長安を追われた唐朝は、これを倒すために北方モンゴル高原に拠っていたウイグルに援軍を求め、かろうじて反乱を鎮めることが出来た。しかしこのあと、唐は引き入れたこれらの横暴に苦しめられることになり、長安の街ではウイグル人が大手を振るって闊歩し、中国の産する絹が彼らの持ち込む( 2 )と交換され、大きな利潤をウイグル側にもたらした。ウイグルはこうした中で遊牧騎馬民族から商業定住民への道を歩み始めるが、これには長安からもたらされた( 3 )という宗教が、広く浸透したことの影響も大きかった。また、トルコ系遊牧民最初の文字である( 4 )文字につづいて、ソグド文字を改良してウイグル文字も用いられた。そして、8世紀末から9世紀初めに最盛期を迎えた後、国政を動かすソグド人への反発が引き起こした内紛、それに天災などが重なって衰退し、840年にキルギスに急襲されて分解するに至った。ウイグルと時を同じくして唐朝周辺の( 5 )も命脈を絶った。」
  解答 →  1.   2.   3.   4.   5.
a 東アジア文化圏  
b 冊封体制 さくほうたいせい。古代の東アジアにおいて、中国の王朝が周辺の諸民族と取り結んだ関係と、それによってできあがった国際秩序を冊封体制という。これは歴史学上の用語で、提唱したのは西嶋定生氏であるので、彼の定義を見てみよう。
「中国の皇帝が周辺諸国の首長を冊封して、これに王・侯の爵位を授け、その国を外藩国として統属させる体制を私は冊封体制と呼んでいる。冊封という形式は、本来は国内の王・侯に対する爵位授与を意味するものであるが、その形式が周辺諸国に対する中国王朝の統属形式に用いられたのである。そしてこの冊封体制を基軸として、周辺諸国と中国との政治的・文化的関係が形成され、そこに東アジア世界が出現すると考えるのである。」<西嶋定生『秦漢帝国』講談社学術文庫版>
具体的には、漢帝国の初期に、国内では郡国制をしき、朝鮮と南越をそれぞれ王と認めてたことに始まる。その後、漢の武帝は、朝鮮と南越に郡県制をしき、直轄領としたので、冊封体制は一時消滅したが、その後、儒教が国教化されると、周辺の夷狄(異民族)に対して中国の王道を及ぼすという中華思想、王化思想が強まり、高句麗との冊封関係が復活し、三韓諸国、倭国などもそれに組み込まれた。魏晋南北朝時代には、中国の王朝が分裂弱体化したが、高句麗・百済・新羅・日本などが成長し、いずれかの王朝と冊封関係を結ぶことで、東アジア世界は一体となって展開することとなる。その完成された形が、隋唐時代の東アジア世界である。ただし、隋唐の王朝と東アジア諸国の関係は、冊封関係ではなく、中国王朝の羈縻政策ととらえる学説もある。
1 新羅 の統一三国時代の新羅は、7世紀に朝鮮半島を統一した。新羅は唐と結んで660年に百済、668年には高句麗を滅ぼし、さらに676年には唐の勢力を排除して自立した。国家体制は唐の律令制を導入し、都の慶州を中心に、中央集権制をしいた。また、骨品制という独自の身分制度を持っていた。歴代の王はあつく仏教を信仰し、国内には仏教文化が栄えた。8世紀、新羅が統一して半島情勢が安定すると、日本の奈良朝政府は遣新羅使を派遣し、外交関係を再開したが、新羅が強大となるに従い、両国関係は悪化した時期もある。唐の衰退に従って新羅も衰退し、935年に王建に滅ぼされ、朝鮮半島は高麗が支配する。
a 白村江の戦い 663年にあった、日本と新羅の連合水軍と、唐・新羅連合水軍の戦い。日本では「はくすきえ」と読んでいる。660年に百済が滅亡したとき、日本は百済救援の軍を起こしたが、斉明天皇(女帝)が筑紫で没したので中止となった。(『万葉集』の額田王の有名な歌「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな」は、このとき斉明天皇に従って西に向かう船上で詠んだものである。)次に中大兄皇子が即位して天智天皇となると、663年、水軍を百済復興に向かわせ、朝鮮の錦江河口の白村江で唐・新羅の連合軍と戦って敗れほぼ全滅した。この敗戦で日本は朝鮮半島における足場を完全に失った。
Epi. 古代の復員兵 日本の奈良時代の史料『続日本紀』には、白村江の戦いから約40年たった、慶雲4年(704年)5月26日、唐の捕虜になっていた日本兵3人が、遣唐使の帰国に際して許されて帰国したという記事がある。太平洋戦争中にグァム島で27年ぶりに発見された横井庄一さんや、ルバング島の小野田寛郎さんたちは捕虜になったわけではないが、戦争は今も昔も同じような境遇の人間をつくってしまうわけだ。<『続日本紀』1 p.82 直木孝次郎ら校注 東洋文庫>
b 高句麗  → 第3章 1節 高句麗
c 骨品制 骨品(こっぴん)は単に骨、品ともいい、姓骨ともいう。朝鮮の新羅に独特な社会制度で、氏族をその出自によって聖骨・真骨・六頭品・五頭品・四頭品(別な分け方もある)の5等級に分けたもの。聖骨と真骨は王につながる一族。この骨品によって位階や官職が決まり、結婚などでも制限があった。日本の古代の氏姓制度に似ている。
慶州  → 慶州
仏教文化(朝鮮) 朝鮮への仏教伝来は、高句麗には372年中国の前秦の王苻堅が僧を使わしたのが始まりとされ、百済には384年に南朝の東晋から伝わったとされる。また新羅では法興王の時、527年に仏教を公認したとされる。三国時代には儒教も伝えられたが、三国とも国家鎮護のために仏教を保護するという政策を採った。また、日本への仏教伝来も、百済を通じて6世紀のころのことであった。統一新羅時代にも仏教は鎮護国家の宗教として重んじられ、その都の慶州には多くの寺院が建立され、仏教文化が花咲いた。特に、仏国寺(華麗な石造の多宝塔がある)、石窟庵、芬皇寺などが有名である。8世紀の新羅僧慧超はインドに赴き、帰路は長安で仏典を研究した。
d 仏国寺 韓国の慶州に残る新羅時代の仏教寺院。韓国語でプルグクサと読む。535年、三国時代の新羅の法興王の時に創建されたが、現在の建物は8世紀の新羅時代とされる。代表的仏教遺跡であり、現在も美しい石塔の多宝塔など、多くの石造建造物が残っていて世界遺産に指定されている。仏国寺は石造建築として有名だが、木造部分は豊臣秀吉の侵略の時に焼き払われてしまったという。
石窟庵 韓国の慶州の霊山とされる吐含山の東にある。その西側には仏国寺がある。新羅時代の751年に造営された仏教文化を代表する石造の仏像、本尊の釈迦如来座像などが有名。釈迦如来座像は高さ2m73cm。石仏は北魏時代から唐にかけて造営された中国の雲崗竜門の影響を受けている。さらにその流れの源流は、ガンダーラなどのインドの石窟寺院にさかのぼることができる。 
2 渤海 7世紀末、シベリア南部の日本海岸にツングース系靺鞨族の大祚栄が建国した。唐王朝が中国を統一した7世紀ごろ、その東北の満州地方には、契丹(モンゴル系)と靺鞨(ツングース系高句麗人)が台頭してきた。契丹は唐の太宗に服属し、その高句麗遠征に協力した。一方の靺鞨は大祚栄が出て696年、遼東地方に震国を建てた。大祚栄は713年に国号を渤海国と改め、唐から冊封を受け、その文化と律令制度を取り入れて、その支配領域は満州から朝鮮半島北部に及び、新羅と対立した。日本にも727年以来渤海使が来航し、交易が行われた。日本からも遣渤海使が派遣され、絹などを輸出した。渤海の都の上京竜泉府(東京城)も日本の平城京と同じく長安城を模したもので、その故地からは和同開珎などが出土する。武王、文王と三代にわたって続いたが926年に耶律阿保機の率いる契丹に滅ぼされた。9世紀には仏教文化が栄え、唐からは「海東の盛国」と言われていた。
靺鞨 まっかつ。中国東北地方のツングース系部族名。高句麗を建国した貊族などと同じ系統であるので、彼らは「高句麗の遺民」と称して698年に渤海国を建国した。
a 大祚栄 ツングース系の靺鞨族を率い、698年に震国を建て、さらに713年に唐の玄宗より渤海郡王に封じられたのを機に渤海国と改称した。668年に滅亡した高句麗の遺民を吸収して満州から朝鮮半島北部に大きな勢力を作り上げた。
上京竜泉府 渤海には五つの都があったが、その中で最も栄えたのが上京竜泉府である。その遺跡は発掘によると、唐の長安に倣った整然とした区画を持つ都城であったことがわかった。
「海東の盛国」渤海は8〜9世紀に朝鮮北部から中国東北部にかけての日本海岸に栄えたツングース系の国家。唐の文化を取り入れ、仏教文化が栄えており、唐では渤海を「海東の盛国」と呼んでいたという。
3 日本 (7〜8世紀)中国における隋・唐帝国の出現、朝鮮半島における新羅の統一という国際情勢の中で、東アジアの日本列島も政治的な統一体が出現した。豪族連合体であった大和政権の中心にあった天皇家には聖徳太子が現れ、遣隋使を派遣するなど中国の国家機構を学びながら中央集権体制への試行が始まった。一時蘇我氏の専横があったが、645年に中大兄皇子らによる大化の改新が断行され、豪族支配から脱する道が模索された。663年に白村江の戦いに敗れて朝鮮半島から完全に後退すると、天智天皇は近江令を制定(668年)するなど内政の強化に向かった。671年の壬申の乱で勝利した天武天皇は天皇を中心とした政治体制を強め、律令による官僚制度と統一的な土地制度、税制、兵制などの整備を進めた。その完成が701年の大宝律令の制定である。710年には唐の長安を模した平城京を建設し、そのほか貨幣の鋳造(和同開珎)、歴史書の編纂など唐を模範とした律令政治を展開させていく。8世紀の天平文化を中心とした日本の文化は遣唐使を通じて得られた唐の文化情報を最大限移植して成立していた。
a 遣隋使 607年の聖徳太子による小野妹子の派遣に始まり、608年、614年(犬上御田鍬)にも派遣された。(なお、『隋書』には600年にも日本からの使節が来航した記録があるが、『日本書紀』には見えていない。)遣隋使とともに留学生や留学僧が隋に派遣され、彼らが帰国後、大化の改新での中国風の国家形成の改革に寄与した。
b 遣唐使 630年、犬上御田鍬らが遣唐使として派遣されたのが第1回。このときは唐の太宗の貞観の治の時代にあたり、太宗は高表仁を日本に派遣している。遣唐使の派遣は、白村江の戦いなどの日本と唐・新羅の関係の悪化から、幾度か中断されながら、9世紀まで15回派遣されている。また当初は朝鮮半島沿いの北路がとられたが、新羅との関係が悪化してからは東シナ海を横断する南路をとるようになり、途中で難破することも多かった。遣唐使に従って吉備真備・僧玄ムなど留学生・留学僧が唐の文化を日本に持ち帰り、天平文化を開花させた。また754年には唐から高僧鑑真が日本に渡り、唐招提寺を建て日本の仏教に大きな役割を果たした。遣唐使を通じての日本と唐の関係は非常に密接であったといえる。(ただし、新羅は唐との冊封関係を結んだが、この時期の日本は唐の皇帝から官名を与えられることはなかった。)894年に菅原道真の建言により、遣唐使は廃止される。
Epi. 唐王朝に仕えた日本人 717年の第8回遣唐使とともに吉備真備らとともに唐に渡った阿倍仲麻呂は、そのまま唐に残り、朝衡(ちょうこう)と名乗って玄宗以降の唐王朝に仕え、昇進して安南都護になった。彼が望郷の念にかられて奈良の都を思って詠んだ歌が有名な「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」である。
また2004年10月には、中国の西安近郊で、日本人の「井真成」(イシンセイ、と読まれている)という人物の墓碑銘の存在が報道され、センセーションを巻き起こした。井真成は、阿倍仲麻呂とちがって、日本側の史料(『続日本紀』など)に見えない人物だったからである。墓碑銘に拠れば、彼は唐王朝に仕え、尚衣奉御という役職に就いたが、開元二十二年(734年)、36歳で亡くなったという。この「井」については、日本の葛井(ふじい)氏にあてる説と、井上氏にあてる説が出されていている。いずれにせよ、この墓碑銘の発見は、古代の日中関係の緊密さを示すものとして注目されている。<『遣唐使の見た中国と日本』専修大学・西北大学共同プロジェクト 2005 朝日選書>
c 大化の改新 645年、大和朝廷で、中大兄皇子と中臣鎌足らによる蘇我氏打倒のクーデタから始まった一連の政治改革をいう。奈良時代につくられた『日本書紀』によれば、このとき大化の改新の詔が出され、公地公民制、戸籍・計帳制度、班田収授の法、租庸調制など、唐に倣った中央集権体制への基礎がつくられたという。また645年を大化元年として中国にならって独自の年号を立て、独立した国家であることを鮮明にした。しかし、天皇権力が確立するのは、その後の壬申の乱(671年)に勝利した天武天皇とその皇后であった持統天皇の頃であった。
d 平城京 710年、日本の奈良盆地に建設された都。元明天皇の時、唐の都長安にならって、東西南北の街路で区画された都市計画に基づき造営された。以後、奈良時代の政治の中心として、天平文化の繁栄の舞台となるが、784年に長岡京に遷都され、さらに794年には平安京に都が移ったので荒廃する。1959年から発掘調査が進み、官庁や貴族の邸宅あとなどが発見され、多くの木簡などの記録も見つかっている。
和同開珎奈良時代の708年に、唐の開元通宝を手本として鋳造さた日本最初の貨幣。銀貨と銅銭がつくられた。わどうかいほうと読む(珎を宝の旧字体「寶」の略字体と見る)説と、わどうかいちんと読む(珎の字を珍の異体と見る)説がある。これ以後、10世紀までに12種類の銅銭が政府によって鋳造されるが、それを総称して皇朝十二銭という。なお、1999年、奈良県飛鳥池遺跡で富本銭という7世紀後半の銅銭が発見され、和同開珎に先立つ日本最古の貨幣であると話題になったが、これは一般に通用したものではないとされている。
e 天平文化 8世紀の日本の奈良時代、聖武天皇の天平年間を中心とした時代の文化。東大寺の造営、国分寺・国分尼寺の建設などにみられるように、唐の文化の影響のもと、仏教文化と貴族文化を開花させた。寺院建築、仏像などの他、漢文による歴史書、漢詩集の編纂などが行われた。また多くの留学生・留学僧が唐に渡り、その文化を直接もたらしたほか、唐からも鑑真など渡来した人もありその影響は圧倒的であった。
5 チベット(吐蕃)チベット(ティベット)は中国の西部、タクラマカン砂漠の南、ヒマラヤ山脈の北に広がる広大な高原地帯。チベット系の民族は中国では早くから、と言われていた。5世紀頃チベット高原にチベット王朝が成立、7世紀にソンツェン=ガンポが現れ、諸部族を統一して強大となり、唐では「吐蕃」と言われるようになった。ソンツェン=ガンポのもとには唐の太宗が文成公主(公主は皇帝の娘。中国の皇帝が娘を周辺諸国の妃とした場合を和蕃公主という)としてを嫁し、両国は友好関係にあった。649年にソンツェン=ガンポが死ぬとしばらくして唐と対立するようになり、安史の乱の混乱に乗じて、一時長安を占領した。9世紀以降は古代王朝である吐蕃は衰退。その後、独特のチベット仏教を発展させ、都ラサにはチベット仏教の中心としてポタラ宮がある。文化的には中国の影響も受けたが、チベット文字など、インドの影響の方が強い。13世紀にはサキャ派というチベット仏教の一派が有力となり、フビライによって征服されてからはのモンゴル宮廷で保護され、パスパ文字を作ったパスパはその国師となった。14世紀にチベット仏教の改革者ツォンカパが現れ、従来のサキャ派(紅帽派)の堕落を批判し、厳格なゲルクパ派(黄帽派)を起こし、その後継者が代々ダライ=ラマとパンチェン=ラマとなる。17世紀以降はダライ=ラマの支配する宗教国家となるが、清朝は藩部の一つとして支配した。チベットは現在、中華人民共和国の自治区(西蔵)となっているが、中国とは歴史的にも文化的にも、人種的にも異質なものがあり、独立の要求が強く、現在ダライ=ラマ14世は亡命してチベット独立運動を指導している。 → チベットの反乱
a ソンツェン=ガンポ チベット(吐蕃)を統一し、唐と対抗した王。チベットの諸部族を統一したソンツェン=ガンポは、唐と吐蕃のあいだにあった鮮卑系の吐谷渾(とよくこん)を滅ぼし、唐に対し公主(皇帝の娘)との婚姻を要求した。太宗がそれに応じなかったため638年唐の国境を攻撃、641年に唐の太宗はソンツェン=ガンポの実力を認め、文成公主をチベットに降嫁させた。文成公主は中国の仏教をチベットに伝えた。また、唐がインドのヴァルダナ朝に派遣した王玄策の求めに応じて、インドにも派兵した。伝承によるとインドに使者を派遣して文字を学ばせ、チベット文字を作らせたという。
Epi. チベット仏教の母 文成公主 公主とは皇帝のむすめの意味である。中国の王朝が北方の異民族の国を懐柔するために、黄金や絹などとともに、公主を嫁がせることがあった。烏孫王に嫁いだ漢の武帝の時の細君や、匈奴の単于に嫁いだ同じく漢の元帝の時の王昭君などが有名である。そのような公主を和蕃公主といった。文成公主も唐の太宗の吐蕃懐柔策としてチベットに向かった。ソンツェン=ガンポは王位を子のグンソンに譲っていたので、文成公主はグンソンの王妃となった。ところがグンソンは落馬がもとで若くして死んでしまい、ソンツェン=ガンポが復位した。チベットやモンゴルでは先代の王の妃は次の代の王の妃となる習わしがあったので、今度はソンツェン=ガンポの王妃となった。文成公主の降嫁に伴い、農作物の種子や養蚕、製粉、紙作り、酒造りなどの技術を持つ中国人職人がチベットに移り住んだので、中国の文物がチベットにもたらされた。とりわけ仏教を崇拝した文成公主はラサに寺院を建てチベットに仏教を伝えた。ソンツェン=ガンポが亡くなると実権を握った宰相が唐との対決姿勢をとったが、文成公主は唐との和親に努め、唐との全面対決を防いで吐蕃の存続を図った。現在にいたるまで、その尊像が崇拝されている。なお、ソンツェン=ガンポのもう一人の王妃はネパールから来た王女で、彼女はネパール(インド)の仏教を伝えた。こうしてチベットには中国とインドの仏教が混合した独自のチベット仏教が成立する。<山口修『中国史55話』山川出版社>
b 吐蕃 7世紀のソンツェン=ガンポ時代のチベットを中国で吐蕃と表記した。
c チベット文字 7世紀にソンツェン=ガンポが、サンスクリット仏典を翻訳するため、大臣をインドに派遣し、インド文字を学ばせ、それをもとに作ったという伝承がある。たしかに北インド系の文字に近い表音文字で、左から右に書く横文字。
d チベット仏教 チベットに伝わった大乗仏教がチベット固有のボン教という呪術的な宗教と融合して独自に発達した宗教。チベットを中心に、内モンゴル、ネパール、ブータンなどで現在も信者が多い。7世紀にチベット(唐で吐蕃と云われた)を統一したソンツェン=ガンポは仏教に帰依して重臣をインドに派遣し、仏典を求めた。後に吐蕃は仏教を国教とした。このようにして成立したチベット仏教は密教的な要素が強く、ラマの権威が高かった。13世紀には仏教を純化させようとしたサキャ派の指導者パスパが現れ、政治も仏教によって行われる仏教国家が成立した。パスパは元のフビライにも招かれ、モンゴル人にチベット仏教を広めた。14世紀末〜15世紀にツォンカパが現れ、従来の呪術的な現世利益を求めるチベット仏教を改革して厳しい戒律を守ることを説いて黄帽派を起こし、その後継者はダライ=ラマと云われて転生するものと信じられ現在に至っている。元滅亡後もモンゴル人はチベット仏教信仰を続け、16世紀のタタール部のアルタンの保護も受けた。チベット仏教はかつては「ラマ教」と言われたが、ラマとは「師匠」の意味で、チベット仏教の僧のこと。蔑称なので現在は使われない。
e 南詔 現在の中国の雲南省大理を中心に建国された国で、チベット・ビルマ系のロロ族(烏蛮)が、タイ系の白蛮を抑え、737年に皮羅閣(ヒロコー)が南詔を建国した。南詔の「詔」は王の意味。南詔は唐と吐蕃に挟まれながら自立の道を選び、751年には唐がタラス河畔でアッバース朝の大軍と戦っている間に勢力を強めた。754年、宰相楊国忠は玄宗の気を引こうとして南詔討伐軍を起こしたが、漢人の軍は多湿な気候になれずに行軍に苦渋し、失敗した。南詔は、安史の乱で唐が混乱するとこの地方の唐の勢力を一掃した。文化的には漢文化を取り入れ、仏教を奨励したたので唐の影響が強かった。902年、漢人宰相に実権を奪われ、滅亡。次いでこの地には大理が起こる。
エ.唐の動揺
A 則天武后の政治 唐の高宗の皇后として実権を握り、ついには国号をに代えて皇帝になった女性。中国史上、唯一の女帝である。
665年、高宗の皇后となり、高宗の病に乗じて664年からは政治の実権を握って「垂簾の政」(背後の簾(すだれ)の中から皇后が皇帝を操って行う政治)をった則天武后は、唐王室の李一族など北朝以来の貴族勢力(関隴集団。長安付近に土着した鮮卑系貴族で、関隴とは陝西省・甘粛省一帯を言う。)を一掃した。さらに高宗の死後の690年、自ら皇帝として即位、聖神皇帝と称し、国号を周に改めた(在位690〜705年)。則天武后は科挙制を強化(進士科の中心試験科目に詩賦を置き、官吏登用に文学的才能を重視した)し、官僚制を整備した。また律令制の官職名を『周礼』を手本としたものに改めた。さらに自ら漢字を創作し、則天文字と称した(国を圀とするなど)。また仏教を崇敬し、官寺を大雲寺として保護したり、畜類の殺生や魚の捕獲を禁止したりしている。これらの改革は武周革命とも言われる。
則天武后は太宗の「貞観の治」と玄宗の「開元の治」にはさまれた時代で、女性の身で政治を恣にしたとして非難される(『唐書』などの正史において)が、その統治のもとでは農民反乱もなく、文化的にも龍門石窟寺院の建造など優れたものも見られ、律令制が維持されていた時代として評価されている。しかし、その権力が異常な権力欲によって反対派を次々と排除して成り立ったものであり、彼女の死後は韋后の専制という混乱が続き、玄宗の出現によってようやく安定することとなる。<布目潮ふう・栗原益男『隋唐帝国』講談社学術文庫>
a 周 (則天武后の)690年、則天武后は、鳳凰や赤雀などの瑞祥(めでたい前触れ)が現れたとして、唐を周に改め、みずからは聖神皇帝と称し、武氏一族を王とした。この周は、古代の周と区別して武周という。705年、武后は年老いて病床についたため子の中宗に譲位され、国号も唐に復した。その年、則天武后は死去した。
b 武韋の禍 則天武后が死去して中宗の代となったが、こんどは中宗の皇后の韋后(いこう)が武后にならって実権を握ろうとし、710年に娘の安楽公主とはかって中宗を毒殺した。この武后と韋后という二代にわたり皇后が政治の実権を握って政治が混乱したことを武韋の禍(ぶいのか)という。その年のうちに中宗の兄の睿宗(武后に廃位された)の子の隆基(後の玄宗)が韋后と安楽公主らを殺害して父の睿宗を復位させた。
B 玄宗 唐の中興の祖といわれる皇帝。クーデターによって韋后とその一派を倒し、父の睿宗を復位させ、712年父から譲位されて皇帝となった。在位756年まで。その前半は引き締まった政治を行い、「開元の治」と言われたが、晩年は楊貴妃を溺愛して政治を顧みず、その一族楊国忠が実権を握り、それに反発した節度使安禄山などの反乱である安史の乱が勃発し、唐王朝を動揺させることとなった。
Epi. ポロの名手玄宗 若い頃の玄宗は、スポーツと音楽を愛する人間的な皇帝であった。特にポロは得意で、兄弟たちと楽しんでいた。吐蕃の使節との試合でも4人で10人を相手にして勝ったという。ポロは馬に乗って行うホッケーで、イランを起源とし吐蕃を通じて唐に伝わり、流行していたという<石田幹之助『長安の春』p.176,304>(山川出版社『詳説世界史』p.80の図を参照)。
また玄宗は音楽にも優れており、みずから管弦楽器を演奏し、「皇帝梨園弟子」という楽団を作った。日本で歌舞伎界のことを梨園(りえん)というのはこれによるという。このように玄宗は人間的な魅力のあった皇帝なので、晩年に楊貴妃を溺愛して唐朝を傾けたにもかかわらず、人気が高い。<布目潮ふう・栗原益男『隋唐帝国』p.145>
a 開元の治 7世紀前半、唐の玄宗の当時の前半の開元年間(713〜741)の政治は、「武韋の禍」の混乱を収束し、開元律令の制定、民政安定策の推進などが科挙出身の有能な官吏によって推進された。唐王朝でも7世紀前半の貞観の治と並んで、政治の安定した時代とされる。
b 募兵制 唐の徴兵制度である府兵制は、均田農民に対する兵役の義務をもたせ、そこから徴兵するシステムであったが、農民にとってはその負担は重く、特に首都の警備に当たる衛士と、辺境の防備にあたる防人は何十年も農民を拘束することとなったので、早くから徴兵を忌避する農民も多かった。また、その基盤である均田制の崩壊に伴って府兵によって軍備を充足させることができなくなったため、府兵制に代わってとられたのが募兵制である。723年に初めて兵士を募集し、749年には折衝府を廃止して全面的に募兵制に切り替えた。募兵制は、兵士を募り、その兵士に国家が給与を支払うので、傭兵制度である。
c 節度使 唐の中期以降、府兵による辺境の防備が出来なくなると、唐王朝は傭兵を募集して軍鎮をおいた。一定地域の軍鎮を統括する藩鎮を置き、その司令官として節度使を任命した。節度使は律令の規定にない令外官であり、それまでの都護府に代わり辺境の防備に責任を持つとともに行政権も与えられ、強大な地方権力に成長するようになる。710年に始まり、安西・北庭・河西・朔方・河東・范陽・平廬・隴右・剣南・嶺南の十節度使が設けられた。節度使には中央の上級官僚が兼任することが多く、次第に政争の具となり節度使同士が争うような事態となる。安史の乱を起こした安禄山は節度使として力を蓄えた人物であった。安史の乱後には、節度使は辺境のみならず、国内にも置かれるようになり、唐代には40〜50に及んだ。これらは唐末には独立した地方政権となり、黄巣の乱後弱体化した唐王朝に代わって、各地で自立した。その一つが後梁を建国した朱全忠である。五代十国はそのような節度使の抗争した時代であったが、宋の統一によってようやくその兵力を奪われ実権を失う。
d タラス河の戦い 751年、唐はタラス河畔の戦いで、アッバース朝イスラーム帝国の軍と戦い大敗を喫した。この戦いは東西の世界帝国が直接交戦した重要な出来事である。タラスは現在のキルギス共和国ジャンプイル付近。唐ではアラビア人またはイスラーム教徒を大食(タージー)と言った。これはイラン語でアラビア人をタージーと言っていたのが伝わったものと思われる。アッバース朝のことは黒衣大食と言っている。唐王朝の成立するころアラビアに登場したムハンマドは、アッラーの啓示を受けて以来、急速に教団の勢力を強め、イスラーム帝国を成立させた。その後、正統カリフ時代、ウマイヤ朝時代を経て、750年にアッバース朝が成立した。タラス河畔の戦いはその直後であった。この戦争の直接の原因は、唐の河西節度使高仙芝(こうせんし、高句麗出身)がタシュケントの王を捕虜として虐待し、脱走した王子がアッバース朝の応援を要請して唐軍を攻撃したもの。高仙芝は3万の兵でタラス城を守り、5日間持ちこたえたが、一部の現地のトルコ系部隊がアッバース軍に内通したため総崩れとなり、生還者わずか数千という敗北を喫した。なおこの戦いの時、唐軍の捕虜によって製紙法がアラビア人に伝えられたことは、文化の東西交流の一つとして興味深い。
e 楊貴妃 唐の玄宗皇帝の愛妃。古来、西のクレオパトラと並ぶ、東の美人の代表とされる。楊家の出で、はじめは玄宗の王子の妃であったが、玄宗の目にとまり、いったん女道士(道教の尼)と言うことにした上で744年、玄宗の後宮に入った。56歳の玄宗は22歳の楊貴妃を溺愛し、妃の最高位である貴妃の地位につけたので楊貴妃という。二人は政治をかえりみず、長安から離れた驪山(りざん)の温泉に入り浸るようになった。それにともなって一族の楊国忠が政界に進出し、宰相にまで上りつめた。楊一族の進出を悦ばない節度使安禄山が反旗を翻し、安史の乱が起こって反乱軍が長安を占領すると玄宗とともに西に逃れ、途中反乱軍に捕らえられて楊国忠とともに殺された。玄宗と楊貴妃の逃避行は白楽天の『長恨歌』にうたわれ、広く知られている。平安時代の日本にも伝えられ貴族たちに愛読された。
C 安史の乱 755年、唐の節度使安禄山が起こした反乱。反乱軍は一時都の長安を陥れ、唐は滅亡寸前まで行ったが、安禄山が内紛で殺され、その仲間の史思明が反乱軍を指揮したので、「安史の乱」という。ウイグルなどの支援を得た唐が立ち直り、763年、反乱軍を鎮圧し、収束された。乱の直接的原因は、節度使安禄山と唐の玄宗の寵愛をめぐって楊貴妃とそのおいの楊国忠一族との対立であったが、背景には唐の律令制の行き詰まりという社会不安があった。唐はその後も1世紀に渡って存続するが、安史の乱以後は各地の節度使(藩鎮)が自立し、朝廷の力は弱体化した。
a 安禄山 安禄山は父が突厥の武将であったイラン系のソグド人、母は突厥人という、漢民族の出身ではなかった。平廬と范陽の節度使を兼ねていた張守珪に認められ、さらに時の宰相李林甫によって彼自身も平廬の節度使となった。李林甫を通じて玄宗とその妃楊貴妃に取り入り権勢をふるうようになった。楊貴妃に気に入られた安禄山は、その養子となった。751年までに平廬の他に范陽と河東の三節度使を兼ね18万ほどの兵力を持つに至った。しかし翌年宰相李林甫が死に、楊貴妃のいとこの楊国忠が宰相になると安禄山の権勢も脅かされるようになり、755年、安禄山は「君側の奸」楊国忠を除く、という口実で反乱を起こした。反乱軍は都の長安を陥れ、安禄山は大燕皇帝を名乗ったが、まもなく失明、その子の安慶緒に殺された。反乱軍は禄山の友人史思明が代わって指揮したが、彼も子の史朝義と対立、殺された。このように反乱軍は内紛があいついで、763年自壊した。
Epi. 体重200kの安禄山 安禄山は大変な肥満体で、体重は約197kgとも209kgともいわれ、腹が膝の下まで垂れ下がっていたという。ふとりすぎて従者に両脇を支えてられてやっと歩けたが、玄宗の前ではソグド人の舞を風の如く軽やかに舞った。
b 『長恨歌』  
c ウィグル  → ウイグル
c 藩鎮 節度使が統治する地域の軍鎮を示す言葉だが、節度使そのものを意味するようになる。節度使は、自己の管轄下の数州の軍事、民政、財政の権力を握り、独立した地方政権となった。唐末から五代にかけて、多数の藩鎮が分立した。五代十国の建国者は多くこの藩鎮であった。
D 唐の衰退  
a 両税法 780年、唐の宰相楊炎が皇帝の徳宗に建言して成立した、租庸調制に代わる唐の中期以降の税制。均田制の行き詰まり、節度使(藩鎮)の自立などによって税収入が減少したため、財政の回復をねらって施行した。
 1.主戸(土地所有者)・客戸(小作人)の別なく、現住地で課税する。
 2.資産額に応じて(丁男数を加味し)戸等を決め、戸税(貨幣納)を徴収する。
 3.別に耕地面積に応じて地税(穀物の現物納)を徴収。
 4.戸税と地税は、6月と11月の2期に分納(二期作、二毛作の普及に対応)。
 5.租庸調雑徭など従来の税目は廃止するが労役(無償労働)は残る。
ねらいは、当時本籍を離れて脱税を図っていた有産者にも課税しようとしたことにある。他に商人にも課税された。この両税法によって、大土地所有と商業は公認されたこととなり、税制の大きな変わり目となった。両税法はその後、土地税としての性格が強くなるが人頭税の要素も残り、宋代には貨幣納はなくなり現物納となるとともに雑多な雑税も加えられるようになる。両税法は基本的には約800年間続き、16世紀の明の一条鞭法の採用によって銀納に一本化される。
楊炎 唐の徳宗(8世紀末から9世紀初め)に仕えた宰相。780年、それまでの税制を改める両税法を献策した。 
草市 中国の都市は、城郭にかこまれた市が一般的であったが、唐末から宋にかけて、城壁外の交通の要地に、人びとが集まり住み、定期市を開くうちに小都市が形成されてきた。そのような城壁をもたない小都市を、粗末な市の意味で「草市」といった。そのような草市から発達して、宋代には、鎮とか市とよばれる商業都市が発達、それらの新しい商業都市では、従来の市制に縛られず、夜間営業も認められ、役人の規制も少なかったのでますます活動が活発になっていった。 
唐末から五代、宋にかけて、商業の発達を背景にして生まれた、従来の政治都市とは異なった商業都市「草市」が発達したもので、市や鎮と言った。市は、定期市を開催するところから起こったもの。 
唐末から五代、宋にかけて新たに生まれた商業都市で、市と同じもの。鎮は元来は節度使の駐屯地であり、藩鎮が置かれた場所であったが、節度使は軍事面だけではなく、民政一般と租税徴収権も持っていたので、人々の集まるところに置かれた。宋の文治政治で節度使は解体されたが、その駐屯地の鎮は都市を意味する言葉として残った。 
飛銭 唐の後半の経済の発展の中から生まれた、遠隔地取引に使われた手形。唐では開元通宝など代々の貨幣が鋳造されたが、貨幣の流通はさほど多くはなく、ものの価値を絹で表すなど現物経済の面が強かった。飛銭も中国で最初の手形であるが、紙幣としては流通していない。本格的な貨幣経済になるのは次の宋代の銅銭、交子・会子の発行からである。 
塩専売制(唐)安史の乱の最中の761年、唐は困窮する財政を補うため、塩の専売制に踏み切った。かつて漢の武帝は塩・鉄・酒専売制を敷いたが、その後も各王朝は財政が苦しくなると塩を専売として切り抜けており、唐もそれに倣ったものである。淮河と長江の間の海岸(江淮地方)からとれる海塩が主であるが、他に山西省の塩池のように塩分の濃い湖水からとる池塩、四川省のように地下水から塩分をとる井塩などがある。唐ではそれまでは製塩業者と塩商人が自由に取引していたが、756年に江淮地方で専売とし、さらに761年に全国に拡大、さらに塩価に10倍の専売税(塩税)をつけて売り、中央歳出の半分以上を塩専売の利益でまかなうほどになった。塩専売制は、781年からの両税法施行とともに唐王朝をなお1世紀以上存続させる財政安定策となった。しかし、農民が働くために補給しなければならない塩に課税するという間接税政策は、悪法でしかなく、闇で安価な塩が出回り、また塩の密売人が利益を上げることとなった。政府は塩の密売を厳しく取り締まったが、そのような中から875年に塩の密売人であった黄巣が反乱を起こすことになる。
b 黄巣の乱 唐末の875年夏、黄河下流の山東省・河南省一帯で相次いで農民反乱が起こった。一つは、王仙芝の反乱、もう一つは黄巣の反乱であった。その年、この地方にイナゴが大発生し、その大群がとぶと日中も暗く、飛び去ったあとは青いものはすべて食べ尽くされ赤土だけが残ったという。そのような中で唐朝が草賊とよんだ群盗が発生した。王仙芝も黄巣もそのような草賊の一つにすぎなかったが、反乱を起こすと急激に膨張し反乱集団は大きな勢力となった。878年王仙芝が戦死するとその勢力を併せた黄巣は、江北の節度使との対決を避けて南下し、広州に入った。さらに北上を目指し、880年には長安を陥れ、黄巣は皇帝の位につき、大斉と言う国号を称した。しかし藩鎮勢力によって長安を追われ、883年に鎮圧された。唐末に10年近くにわたり、中国全土を巻き込んだ大乱となり、唐は滅亡、五代十国の分裂期に入るきっかけとなった。
王仙芝 山東省出身と言われる塩の密売人。塩の密売グループの指導者となり、875年、唐末の社会混乱と自然災害で苦しむ農民の支持を受けて反乱を起こす。仲間の黄巣の反乱グループとともに、華北を荒らし回ったが878年敗死した。
黄巣 唐末の塩の密売人。当時塩専売制のもとで、その密売は利益を上げたが、官憲の弾圧に抵抗して武装するようになり、たくさんの任侠を集め秘密結社をつくった。875年、仲間の王仙芝が反乱を起こしたのに呼応して挙兵。唐末の大反乱「黄巣の乱」を起こす。彼は各地を転戦、「天補平均大将軍」(天から任命されて、世の中の貧富を無くし、平均を図る大将軍、の意味)と称し、世直しを掲げて、ついに長安を陥れ、最後はみずから皇帝を称し、大斉という国号を建てた。しかし、藩鎮勢力によって長安を追われ、故郷の山東に向かう途中、884年泰山の麓の狼虎谷で甥の林言に首を打たせて死んだ。
Epi. 科挙の落第生 黄巣は山西省の富裕な家に生まれたが、科挙に落第し、官吏になる道をあきらめ、塩の密売人になった。後に反乱の首謀者となったのは、そのときの恨みがあったのだろうか。また、黄巣を裏切った朱全忠の部下で、その参謀であった李振と言う人も科挙落第生だった。彼は特に科挙合格者である朝廷の上級官僚を憎む気持ちが強かったらしく、朱全忠が唐を滅ぼした際、上級官僚30名を殺して黄河に投げ込み、自らは大臣となって権勢を振るった。しかし李振は後梁が滅ぼされたとき一族とともに殺されてしまった。
c 朱全忠 はじめ朱温といい、若い頃父に死なれ、無頼の徒となり、黄巣の乱が起こると反乱軍に加わった。次第に頭角を現して部将となったが、黄巣を裏切って唐に降伏し、皇帝から朱全忠の名を与えられ節度使となる。901年、梁王を名乗り、907年に唐の哀帝を廃してみずから皇帝となり、唐を滅ぼして後梁を建国した。唐の宮廷ではびこっていた宦官を処刑してその勢力を一掃し、また貴族勢力を一掃するため長安を棄てて新都を開封に定め、武断政治を開始した。これらは新しい時代を切り開いたことになるが、李克用など対抗勢力も多く、政治は不安定であり、彼自身もその子に殺されてしまった。
オ.五代の分裂時代
E 五代十国の争乱 907年の唐滅亡から、979年の宋の中国統一までのほぼ10世紀前半の分裂期を五代十国という。五代とは、華北におよそ10数年ずつ交替した、後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五王朝のこと、十国とはその他の地域に興亡した、呉越・南唐・前蜀・後蜀・呉・びん(びん)→拡大・荊南・楚・南漢・北漢などの十王朝をいう。
五代十国の社会変動 この時代は、律令制の崩壊後、唐の貴族階級が没落し、新興地主層が成長するという社会的変動の中で、各地の軍事勢力である節度使(藩鎮)が自立し、抗争した。各王朝では節度使となった武人が武力を持って権力を奪い、また武力を背景に強権的な政治を行うという武断政治が行われた。また、唐を中心とした東アジアの国際秩序もこの時代に崩壊し、中国の周辺でも大きな変動が起こった。そのいくつかを挙げれば次の通りである。
 ・916年 モンゴル草原東部の契丹族を統一した耶律阿保機が遼を建国。
 ・918年 新羅の部将王建が、高麗を建国。
 ・926年 契丹が、渤海を滅ぼす。
 ・935年 高麗が新羅を滅ぼし、朝鮮半島を統一。
 ・936年 契丹(遼)が、中国の後晋から長城以南の燕雲十六州を獲得。
 ・937年 雲南に大理国が成立。
 ・939年 日本に承平・天慶の乱(平将門・藤原純友の反乱)が起きる。
a べん州(開封)
  ベン→拡大
戦国時代の魏の都大梁として始まり、洛陽の東の中原(華北平原)の中心地。現在は河南省。後にべん(べん)と言われるようになる。煬帝が建設した通済渠の基点にあたり、黄河流域と江南を結ぶ経済の中心として栄えた。五代十国では後唐を除く後梁・後晋・後漢・後周の都となり、さらに宋(北宋)の首都開封となった。
b 節度使  → 節度使 藩鎮
c 後梁 907年、唐を滅ぼした朱全忠が建国した王朝。都はべん(べん)州(開封)。923年、後唐に滅ぼされた。 
c 後唐 923年、トルコ系遊牧民である突厥系の李存勗(りそんきょく)が後梁を滅ぼし建国。都は洛陽。もとは山西地方を根拠地とするトルコ系遊牧民の沙陀族で、実質的初代の李克用の時に台頭し、たびたび開封の朱全忠政権を攻撃したが、失敗した。その子の李存勗の時に後梁を滅ぼし、ほぼ中国の中央部を支配した。しかし、936年、節度使の石敬とう(とう)→拡大が、反乱を起こし、契丹の太宗の援助を受けて後唐を滅ぼした。それが後晋である。
d 後晋 936年、後唐の臣下の石敬とう(とう)→拡大(せきけいとう。やはり突厥=トルコ系の人)が、契丹の援助を受けて建国。その際、後晋は、見返りとして契丹に燕雲十六州を割譲し、年ごとに金と絹布の贈与を約束した。次の出帝はその約束を守らなかったので、契丹の太宗は後晋の都のべん京(開封)を攻撃し946年、後晋を滅ぼした。その翌年、契丹は国号を中国風の遼に改めた。
e 後漢 遼(契丹)の太宗が後晋を滅ぼし、中国を支配したが、遊牧民の遼(契丹)には租税を徴収する制度がなく、漢民族から略奪を続けるのみであったので反発が強くなり、遼は北方に引き上げた。そのすきに、後晋の節度使であった劉知遠(これも突厥=トルコ系の人)が947年に後漢を建国。しかしわずか4年後の951年に、同じく節度使の郭威によって帝位を奪われた。それが後周。
f 後周 951年、後漢の節度使郭威が建国。五代の中では唯一漢民族出身。2代の世宗は仏教の弾圧(廃仏)を行い、財政改革に取り組み、契丹を破って燕雲十六州の一部を回復したが、次の代の960年に宋に滅ぼされた。
g 五代 907年の唐滅亡から、960年まで華北におよそ10数年ずつ交替した、後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五王朝のこと。いずれも武断政治を行い、安定しなかった。都は後唐が洛陽であった以外はいずれもべん州(開封)に置かれた。
h 十国 十国とは華北以外の地域に興亡した、呉越・南唐・前蜀・後蜀・呉・びん(びん)→拡大・荊南・楚・南漢・北漢などの十王朝をいう。 
武断政治 唐末から各地に置かれた節度使は、管轄する州の軍事にとどまらず、民政全般の権限を付与されたため、次第に独立政権として力を蓄え、唐滅亡後の五代十国ではそれぞれが独立した王国を建てて対立した。このような本来軍事上の官職に過ぎない立場のものが、政治権力を握り、その武力を背景に統治することを武断政治という。唐末の節度使から五代十国がそれにあたり、その混乱を平定した宋の太祖趙匡胤は、いわゆる文治主義に切り替え、官僚統治を復活させることに主眼を置いた。また現代では日本の朝鮮植民地支配の総督府による統治も現役の軍人が総督となったので、武断政治と言われる。
i 地主層 唐の末期から五代十国の争乱によって中央集権体制も崩れ、律令制を支えていた貴族階級もその経済的基盤である荘園を失って没落した。かわって地方社会で私有地を拡大した地主階級が有力となった。彼らは集積した私有地を小作人に耕作させ、小作料を取り立てた。そのような小作人を佃戸といった。またこのような新興貴族層は形勢戸とも言われた。 → 士大夫
j 佃戸  → 第3章 3節 エ.宋代の社会 佃戸