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第6章 ヨーロッパ世界の形成と発展
1.西ヨーロッパ世界の成立
ア.ヨーロッパの風土と人びと
ヨーロッパ 
西岸海洋性気候 
地中海性気候 
ア.ゲルマン民族の大移動
A ゲルマン民族ゲルマン民族は、インド=ヨーロッパ語族に属し、長身、ブロンドの髪、碧眼、高い鼻などが特徴。
スカンジナヴィア半島南部からバルト海・北海の沿岸で多くの部族に別れて牧畜と農耕を営んでいた。しだいに東南部、西部に居住地域を拡大し、西ヨーロッパ地域全域に及んで先住民のケルト人を征服していった。紀元前5世紀頃からローマと接触し、たびたびその領域を侵しゲルマン人とローマ軍の戦いとなった。前1世紀にはガリアに進出したカエサルによって圧迫されたが、アウグストゥス時代の9年にはトイトブルクの戦いでローマ軍を破り、ローマ帝国の領土を、ライン川とドナウ川を結ぶ線でとどめることとなった。
その後もローマ領内に移住したゲルマン人は、傭兵やコロヌスとして定住した。4世紀以降の民族大移動期になると、東南部に広がった東ゲルマン系では、東ゴート・西ゴート・ヴァンダル・ブルグンド・ランゴバルドなど、西部に広がった西ゲルマン系では、フランク・アングロ−サクソン・スウェビ・アラマンなどが大移動を開始した。また現住地に残った北ゲルマン系がノルマンであり、彼らは第2次民族移動期の11世紀にヴァイキングとして移動を開始する。
トイトブルクの戦い紀元後9年、ローマ帝国の軍がゲルマン民族に敗れた戦い。皇帝アウグストゥスは将軍ウァールスに3軍団を率いさせて派遣したが、アルミニウスという首長に率いられたゲルマン部族連合軍に、トイトブルクの森で敗れてしまった。トイトブルクはドイツの北西部。この敗北によってローマのゲルマニアへの進出は阻止された。
Epi. 「ウァールスよ、余の軍団を返せ」 トイトブルクの戦いで大敗した知らせを聞いたアウグストゥスは、数ヶ月間髭も剃らず髪も伸ばし放題で、時々扉に頭をぶつけて「ウァールスよ、余の軍団を返せ!」と嘆いたという。この戦いのあった場所は長く不明であったが、1987年、イギリスのアマチュア考古学者が金属探知器でローマ時代のコインの団塊を発見し、89年から本格的な発掘が行われ、この時の戦場の位置がはっきりした。北西ドイツのオスナブリュック市の近郊のカルクリーゼという山村で、伝承の地トイトブルクの森からはすこし離れていた。現在はこの戦いは「ウァールスの戦い」というのが普通になっている。<坂井榮八郎『ドイツ史10講』岩波新書 による> 
a インド=ヨーロッパ語族 → 第1章 1節 インド=ヨーロッパ語族
b ケルト人前6世紀頃から、アルプス以北の西ヨーロッパに広く居住していたインド=ヨーロッパ語族の一派。彼らは精悍な騎馬民族で、大ブリテン島(イギリス)、イベリア半島(スペイン)、ギリシアにも進出したが、多くの部族に分かれ、対立をくり返していた。彼らは西ヨーロッパに鉄器文化をもたらし、高い農耕技術を持っていた。そのケルト文化はヨーロッパ各地に遺跡として残されている。キリスト教普及以前の彼らの信仰はドルイドという呪術的な宗教であった。ローマは現在のフランスに居住したケルト人を「ガリア人」と呼び、次第にその地を征服していった。ついで、ライン川以東から大移動してきたゲルマン民族に征服され、ローマ人やゲルマン人に同化していった。しかし、現在でもアイルランド・スコットランド・ウェールズ・ブルターニュなどにはケルト系の文化が残存している。
c 『ガリア戦記』ローマの将軍カエサルは、前58年から51年まで、ローマ軍を率いガリア遠征を行った。そのときの戦いの記録を、彼自身が残したとされるのが『ガリア戦記』である。たがいに争うケルト系部族(ガリア人)や、その争いに乗じてガリア進出をはかるゲルマン系部族との戦いの経緯が語られている。
手近に読むことの出来る古典であり、岩波文庫版と講談社学術文庫版がある。後者の訳注は、ゲルマン軍とローマ軍の城塞の構造や武器などについて図入りで解説されていて面白い。 
d 『ゲルマーニア』タキトゥスは、ローマを代表する歴史家。1世紀末から2世紀初めに活躍。政治家でもあり、元老院議員、執政官、アジア総督も務める。共和政を理想とし、専制政治を批判する立場から『歴史』、『年代記』などを著した。彼の最も有名な著作が『ゲルマーニア』であり、ローマ帝国にとって脅威であったゲルマン人社会を、若々しい力を持った民族として描いたのは、頽廃したローマを批判するものでもあった。この本も岩波文庫に収められているので、読むことが出来る。
e 民会部族(キヴィタスという)は、首長に率いられ、大事な決定は民会が行った。タキトゥスの『ゲルマーニア』は民会の様子を次のように伝えている。
「彼らは一定の時期、すなわち新月、あるいは満月の時を期して集会する。これが事を起こすに、最も多幸なるはじめの時と、彼らは信じているからである。……集まった彼らがよしと思ったとき、彼らは武装のまま着席する。……やがて王あるいは首長たちが、それぞれの年齢の多少、身分の高下、戦功の大小、弁舌の巧拙に相応して、いずれも命令の力よりは、説得の権威をもって傾聴される。もしその意見が意に適わないとき、聴衆はざわめきの下にこれを一蹴する。しかしもし、意にかなった場合、彼らはフラニア(小型の鉄製の手槍)を打ちならす。最も名誉ある賛成の仕方は、武器をもって称賛することである。」<タキトゥス『ゲルマーニア』泉井久之助訳・岩波文庫 p.65>
f 傭兵 → 傭兵
g コロヌス → コロヌス
B ゲルマン民族大移動4世紀から6世紀に及ぶ約200年に及ぶゲルマン民族の大移動は、一般に375年の西ゴート人のドナウ川越境から、568年のランゴバルド人の北イタリアでの建国までとされ、これを第1次ゲルマン民族大移動という。次いで8世紀に始まり、11世紀まで続いたゲルマン人の一派ノルマン人の移動第2次ゲルマン民族大移動という。
背景:西進してきたアジア系遊牧騎馬民族のフン人に圧迫されたのを契機に始まったとされるが、その本当の理由はまだ判らないことが多い。もともとゲルマン人の農耕は肥料を使わず、また後の三圃制などの耕地を休ませて交替に使うことも知らなかったので、生産力が低く、毎年耕地を変えなければならない移動性の強いものであった。そのため、耕地を獲得するには常に新しい土地を開拓する必要があった。徐々に増えてくる人口を維持するには、耕地の不足が問題となっていた。このような耕地不足の状況を解消する必要性が背景にあったものと思われる。
ユーラシア東部の民族移動:なお、4世紀にゲルマン民族の大移動が始まり、ヨーロッパ世界が成立していった頃、遠く東アジアでも五胡と言われる北方遊牧民の活動が活発となり、盛んに中国内部に侵入して華北に五胡十六国を形成する。東西のこのような動きには何らかの共通する要因があったかも知れない。
a フン人中国の歴史書に現れる匈奴が前1世紀に漢に討伐され、南北に分裂し、その北匈奴が西方に移動したのがフン人であると言われるが、不明なことも多い。実態はトルコ系・モンゴル系を含む遊牧・騎馬民族。2世紀頃、バイカル湖方面から西方に移動を開始し、4世紀には南ロシアのステップ地帯に入り、370年ごろ、ゲルマンの一部族東ゴート人の居住地に侵攻した。それを契機として東ゴート人はそれを逃れるためローマ領内に移動、ゲルマン民族の大移動の引き金となった。
フン人はその後、ハンガリー(当時はパンノニアといった)を中心に現在のドイツ、ポーランドを含む地位に帝国を建設、5世紀前半のアッティラ大王の時全盛期となる。アッティラは東ローマ、西ローマと戦って領土を拡大したが、451年のカタラウヌムの戦いで西ローマ・西ゴートの連合軍に敗れ、翌年イタリアに侵入したが疫病のため撤退、その死後は急速に衰え、滅亡した。
b 東ゴート人ゴート族はもとバルト海沿岸に居住していたが、2世紀頃、南下して黒海沿岸に移った。その過程で、東西に分裂した。東ゴート人は370年ごろ、西進してきたフン人に征服され、その支配下に入り、西ゴート人はフン人から逃れてドナウを超えてローマ領内に移住した。その後、東ゴート人は、フン人の衰退に乗じて自立し、457年ごろ、東ローマ領のパンノニア(現ハンガリー)に移住した。後に、テオドリック大王に率いられて、イタリアに移動し、オドアケルを追い、東ゴート王国を建設する。都はラヴェンナ。東ローマ帝国のユスティニアヌスの時、その遠征軍によって555年、征服される。 
c 西ゴート人ビシゴートともいう。東ゴート人がフン人に征服されたのを知った西ゴート人は、フン人を避けて、375年大挙してドナウ川を渡り(3万5千から4万と言われる。西ゴート人が、ミナゴーと移動を開始したわけです。)、ローマ帝国領に移動し、その保護を求めた。ローマは西ゴートの移住を認めたが、官吏による搾取と飢餓に苦しめられた西ゴート人は、378年、アドリアノープル(ハドリアノポリス)でローマ軍と戦った。ローマ側は皇帝ヴァレンスが戦死して大敗(アドリアノープルの戦い)し、382年改めて同盟関係を結んだ。このようなローマ軍の弱体化を見た他のゲルマン諸部族は、その後相次いでローマ領内に乱入してくることとなる。西ゴート人はその後、イタリア半島に侵入、ついで南ガリアからイベリア半島にかけてを支配し、西ゴート王国となる。
d 375西ゴート人がドナウ川を渡り、退去してローマ帝国内に移住を開始した年。一般に、この年をゲルマン民族の大移動の始まりとしている。かれが、皆で「ゴー!」と言ったわけではないが、「皆ゴーと、言って西ゴート人の移動始まる」と年代を暗記してください。
C ゲルマン諸国の建国ローマ帝国の分裂、西ローマ帝国の衰退という混乱に乗じて、4世紀にゲルマン民族の諸部族が次々とローマ領内に移住し、建国していった。その代表的なものが次にあげる国々であるが、他にも、ライン川・ドナウ川上流地位のアラマン王国、イスパニアの西北のスウェビ王国などがある。これらのゲルマン民族の侵入を受けて、西ローマ帝国は滅亡するが、その被害を受けることが少なかった東ローマ帝国はその後も存続する。また旧西ローマ領に建国されたこれらゲルマン諸国も、東ローマ皇帝の権威を認め、その同盟国となることで存続を可能にした。
これらゲルマン民族諸国は、政治的にはローマ人を支配したが、文化的にはローマ文化を取り入れざるを得ず、独自の社会を維持しながら、ローマ文化を同化いていった。しかし宗教的には、ゲルマン民族にはかつてニケーア宗教会議で異端とされたアリウス派が布教され、それと彼らの土俗的信仰とが結びついた宗教を信じており、ローマ人のアタナシウス派キリスト教(ローマ=カトリック)と相容れなかった。その宗教的対立が、結局多くのゲルマン諸国が短命に終わり、唯一カトリックに改宗したフランク王国のみが生き残っていく背景となる。
a 西ゴート王国375年、ドナウ川を超えてローマ領に移住、ゲルマン民族大移動の第1陣となった。378年アドリアノープルでローマ軍と戦って勝ち、帝国の同盟国として認められた。ローマの東西分裂後、国王アラリックに率いられて、西ローマ領内に侵攻、410年にはローマを占領し、3日間にわたって掠奪した。アラリックの死後、西進をつづけ、南ガリアを支配し、さらに415年にイスパニアに入り、ヴァンダル族を追い出して、西ゴート王国として定着した。451年には、西ローマと協力してアッティラの侵入をカタラウヌムの戦いで撃退した。507年以降、都をトレドに定めたが、ガリアをフランク族のクローヴィスに奪われる。711年、アフリカから北上したイスラームの侵入をうけて敗れ、713年に滅ぼされた。なお、ビシゴート王国という言い方もある。トレドは中世において、キリスト教世界におけるイスラーム文化への窓口となり、多くの学者が学ぶ文化都市として発展する。
 アラリックゲルマン人の諸国の一つ、西ゴート王国の王。西ゴート人を率い、マケドニア・ギリシアに南下して略奪し、一時東ローマ帝国の軍司令官に迎えられる。410年にはローマを攻略し、3日間にわたる略奪を行い、ローマ人に恐れられた。
b ヴァンダル王国ゲルマン民族の一部族ヴァンダル人が、北アフリカに建国した国。ヴァンダル人ははじめ現在のドイツ・ポーランドの国境地帯、オーデル川流域に居住していたが、フン人に圧迫されて406年に移動を開始、ガリア(現在のフランス)を通り、イスパニアに入った。さらに西ゴート人に追われて、429年ジブラルタル海峡を超え、北アフリカに逃れ、さらに現在のチュニジア、かつてカルタゴが繁栄したところに王国を建設した。地中海貿易に進出し繁栄、ガイセリック王の時の455年にはにローマを掠奪し、さらにシチリアなどの地中海の島も支配した。しかし6世紀に入り、東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝によって534年、滅ぼされた
Epi. ヴァンダリズム 英語で、「野蛮な行為」、「文明の破壊」を意味する vandalism ということばは、ヴァンダル族からきている。彼らがローマを破壊したことから、ありがたくない言葉が残ってしまった。
 ガイセリックゲルマン人の諸国の一つ、5世紀に北アフリカにヴァンダル王国を建国した王。455年にはローマを掠奪して西ローマ帝国の滅亡を早め、さらにサルデーニャ島とシチリア島にも征服した。
c ブルグンド王国オーデル川下流域にいたゲルマン民族の一派ブルグンド人が、406年にライン川を超え、ガリアに侵入、ライン川中流域から東ガリアにブルグンド王国を建設した。437年にフン人と戦って敗れ、国王グンテルを失った(この戦いを題材としたのが、中世ドイツの『ニーベルンゲンの歌』である)。後にサヴォイア地方に王国を再建、フランス東南部からスイスに及ぶ地域を支配した。ガリア北方で有力となったフランク族と争い、534年に滅ぼされ、フランク王国に征服された。ブルグンド王国のあった地域が後のブルゴーニュ地方である。 
d フランク人ライン川東岸にいたゲルマン民族の一派のフランク人は、5世紀に北ガリアに侵入した。フランク人はサリ族とリブアリ族という支族にわかれ、それぞれ『サリカ法典』、『リブアリ法典』というラテン語で書かれた部族の規則をもっていた。481年、サリ族のメロヴィング家のクローヴィスが統一、フランク王国メロヴィング朝)を建国した。
e アングロ=サクソン人アングロ人・サクソン人はともにエルベ川下流域の北海沿岸にいたが、5世紀中頃から北海を超えてブリテン島(現在のイギリス)に侵入し、先住のケルト人を征服し、そこに7つの王国をつくった(アングロ=サクソン七王国)。それが、ケント・サセックス・ヴェセックス・エセックス・イースト=アングリア・マーシア・ノーザンブリアの七王国である。 → イギリスの国家形成
D 西ローマ帝国の滅亡  
a フン人 → フン人 
b アッティラ大王5世紀前半に中部ヨーロッパに建国されたフン人の帝国(フン帝国)の王。西はライン川、東はカスピ海にいたる広大な領土を支配した。441年には東ローマ帝国と争い、ドナウ川を超えてバルカン半島に侵入した。次いで西ローマ侵入をはかり、451年ライン川を超えてガリアに侵入したが、カタラウヌムの戦いで西ローマ帝国と西ゴート王国の連合軍に敗れた。翌年も北イタリアに侵入、ミラノ、ヴェローナなどを掠奪し、ローマに入ったが、教皇レオ1世に説得されて退却、さらに疫病のために撤退した。453年、結婚の翌日、急死した。
c カタラウヌムの戦い451年、アッティラ大王の率いるフン帝国軍と、西ローマ帝国・西ゴートなどのゲルマン諸国の連合軍の戦闘。カタラウヌムはフランス・シャンパーニュ地方の一部と想定されている。
ドナウ川中流域(パンノニア)にいたアッティラは、年ラインを渡河、ガリアに侵入、さらに南方に向かい、ローマ中枢に迫る勢いを示した。迎え撃った西ローマと西ゴートの連合軍とカタラウヌムの原野で激突し、フン帝国軍は撃退された。さらに翌年もフン人は西ローマ領に侵入している。 
d 476まさに、シナム(死なん)とする西ローマ帝国でした。
e オドアケルドナウ川中流域出身のゲルマン人で、ローマの傭兵隊長。476年クーデターによって皇帝ロムルスをローマから追放し、西ローマ帝国を滅ぼした。しかしオドアケル自身はローマ皇帝を名乗らず、ゲルマン人の王と称し、東ローマ帝国に対しては服従の意思を表して、総督に任命された。しかし、東ゴートのテオドリック大王によって、493年に滅ぼされた。
f テオドリック大王フン人に支配されていた東ゴート人が、フン人の衰退後にパンノニア(現ハンガリー)に移動して自立した。471年、そのテオドリック王は東ローマ帝国の要請を受けてオドアケルの王国を攻撃するためイタリア半島に移動、493年、オドアケルを滅ぼしてイタリアに東ゴート王国を建設した。都はラヴェンナ。東ゴート王国は、555年、東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝によって滅ぼされた。
g 東ゴート王国東ゴート人を率いて北イタリアに入ったテオドリック大王によって建国されたゲルマン諸国の一つ。493年にオドアケルを暗殺したテオドリックが建国した。都はラヴェンナに置いた。その領域はほぼ全イタリアに及び、さらに西は南フランス、東は旧ユーゴスラヴィアに及び、フランク王国とならぶゲルマン諸国の大国となった。テオドリックは、ローマ人とローマ文化を保護し、ローマ人にはローマ法を、ゲルマン人にはゲルマン法を適用した。しかし、東ゴート王国はアリウス派キリスト教を信仰していたため、ローマ教会と結ぶことはなく、そのイタリア支配を完全にすることはできず、テオドリック大王の死(526年)によって次第に衰退し、555年には東ローマ(ビザンツ)帝国のユスティニアヌス大帝の派遣した軍隊によって滅ぼされた。→ 東ゴート王国の滅亡
i ランゴバルド王国現ドイツのエルベ川上流域にいたゲルマン民族の一部族。ドナウ川流域などに移動した後、東ローマ帝国領内に居住していた。6世紀に東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝が次々と地中海岸のゲルマン諸国を滅ぼしす中、ランゴバルド族は東ローマが東ゴート王国を滅ぼすのに協力した。しかし大帝の死後、東ローマが衰退すると反旗をひるがえし、北イタリアに侵入、568年にパヴィアを首都としてランゴバルド王国を建国した。これが(第1次)民族大移動の終幕と言われている。ランゴバルド王国はその後、北イタリアを支配し、751年にはビザンツ帝国の総督府ラヴェンナを征服してイタリア半島からビザンツ帝国を追い出し、ほぼ半島全域を支配し、ローマ教会を圧迫した。しかし、そのころからカロリング朝のフランク王国が有力となり、754年にはピピンによってラヴェンナを奪われ、さらに774年にはカール大帝によって征服され、併合された。ランゴバルド王国は、ロンバルド王国とも言い、その支配領域が現在のロンバルディアである。
イ.フランク王国の発展とイスラームの侵入
 フランク王国ゲルマン民族の中の有力な一派であったフランク人が、ガリア(現在のフランス)北部に移動し、481年にクローヴィスによって統一されて成立したメロヴィング朝から始まる国家。他のゲルマン諸民族がアリウス派のキリスト教を受け入れたの対し、496年クローヴィスがアタナシウス派に改宗してローマ教会と関係を深めてから、急速に勢いを増し、ブルグンド王国を滅ぼしてガリアを統一、さらに8世紀に宮宰カロリング家のカール=マルテルが活躍してイスラームの侵入トゥール=ポワティエ間の戦いで撃退、その子ピピンが751年にカロリング朝を建て、次のカール大帝の時代に全盛期を迎えた。この間、ピピンは北イタリアのロンバルド国から奪った土地(ラヴェンナ地方)をローマ教皇に寄進し(ピピンの寄進)、さらにカールは800年ローマ帝国皇帝の冠をローマ教皇から授けられ(カールの戴冠)、ローマ教会との関係を深め、西ヨーロッパ全域を支配する王国であると同時に、キリスト教世界の保護者となった。カール大帝は現在のフランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・北イタリアを合わせた地域に加えて、東方ではハンガリーに侵入したアヴァール人を撃退し、イベリア半島ではイスラーム勢力と戦った。その支配は現在の西ヨーロッパ世界と同じ広範囲におよび、アーヘンの宮廷にはイギリスから神学者アルクィンを招くなど、カロリング=ルネサンスと言われる古典文明の復興に努めた。しかし、地中海はイスラーム勢力によって抑えられたため遠隔地貿易は行われなくなり、貨幣経済も衰えて農業生産を基盤とした封建社会が始まることとなった。そのためフランク王国は統一性が弱く、カール大帝の死後は分割相続というゲルマン社会の相続制度もあって、その領土はヴェルダン条約メルセン条約をへて西フランク、東フランク、中部フランクの三国に分割され、それぞれが後のフランス、ドイツ、イタリアの起源となる。
A メロヴィング朝フランク王国最初の王朝。481〜751年。メロヴィングの名は、フランク人の一部族サリ族の首長メローヴィスの祖父、メロヴィクスの名に由来する。481年にクローヴィスがフランク諸部族を統合して王位についた。その後、領土を拡張し、496年にクローヴィスのカトリックへの改宗によってローマ教会と提携し、他のゲルマン諸国に対し優位に立つようになった。しかし、部族連合としての国家形態では王の支配権は弱く、次第に実権は宮宰カロリング家に奪われていき、751年にメロヴィング朝は終わる。 
a クローヴィス現在のフランス北西部に入ったゲルマン民族フランク人をはじめて統一し、481年にフランク王国を築き、初代の国王としてメロヴィング朝を創始した。486年までにガリアの地を統一し、さらに周辺に領土を広げる。496年、アラマン族を破ってアルプス方面に進出後、カトリックに改宗し、フランク王国発展の基礎を築いた。
b クローヴィスの改宗ゲルマン民族の多くは、すでにキリスト教の異端であるアリウス派を信仰していたが、フランク人は依然として古くからの多神教信仰のままであった。そのフランクを統一したフランク王国メロヴィング朝の王クローヴィスが、496年アタナシウス派の三位一体説を正統とするローマ教会の大司教であるランスの大司教の手で洗礼を受け、一足飛びにアタナシウス派キリスト教(カトリック)に改宗した。3000人のフランク人が王と同じく洗礼を受けたという。その理由は、王妃がすでに熱心なカトリックの信者で、彼女に説得されたという説などがあるが不明である。フランク王国内のローマ系文化人を取り込むことが目的であったとも考えられる。いずれにせよ、この「クローヴィスの改宗」によって、フランク王国はローマ=カトリック教会と結んで、異端である他のゲルマン諸国に対する「聖戦」を行い、国内のローマ人との融合(同じカトリックとなり通婚出来るようになった)を実現することが出来た。
クローヴィスの改宗のローマ=カトリック側の事情:キリスト教は4世紀初めにローマ帝国の国教となったが、帝国が東西に分裂するに伴い、キリスト教の首位の座をめぐって東のコンスタンティノープル教会と西のローマ教会が対立するようになった。その後476年に西ローマ帝国が滅亡したため、ローマ教会はその政治的後ろ盾を失い、東に対して劣勢に立たされていた。そこでローマ教会はまだキリスト教化していないフランク王国に目を付け、クローヴィスに接近、その改宗に成功し、新たな保護者として迎えることとした。
フランク王国にとってのカトリック改宗:「ゲルマン人の移住者はガロ・ローマ人(ガリアのローマ系)の住民に対して5%程度の数にすぎなかったといわれ、そのため、ゲルマン人の王が部族の従士たちをこえて住民全体に支配を拡げるには、統治の知識と経験を持つ既存のガロ・ローマ貴族の協力を得て、その組織を利用することが不可欠だった。とくに、貴族は主要都市の司教職を占め、この教会機構が行政機構以上に地方生活に大きな影響力をもっているため、ゲルマン人の王たちにとっては、キリスト教徒の関係が重要な意味を持った。・・・・おそらく496年、クローヴィスはランスの司教レミ(レミギウス)の強いすすめで洗礼を受けて、従士とともにアタナシウス派キリスト教に改宗し、ゲルマンの部族王の中で唯一のカトリックの王となった。教会の権威と貴族の後押しを得たクローヴィスは、異端からの解放という正統性をもって征服を容易にすすめることができたのである。」<柴田三千雄『フランス史10講』2006 岩波新書 p.10-11>
c 宮宰マヨール・ドムスと言われ、メロヴィング朝フランク王国において、王の権力の有名無実化にともなって実権を握った。もとは王家の「執事」のようなものであったが、次第に国家の「摂政」のような役割を担い、権力の伴う地位となった。メロヴィング朝におけるカロリング家がそれにあたり、カール=マルテルやピピンがその例である。 
B イスラームの侵入610年にアラビアでムハンマドが起こしたイスラーム教団は、またたくまに西アジアを征服、661年からはウマイヤ朝のもとで勢力を北アフリカに進出、ついに711年には(つまりムハンマドがイスラームを始めてほぼ100年目で)ジブラルタルを超えてイベリア半島を征服し、ヨーロッパのキリスト教世界は深刻な脅威を受けることとなった。イスラーム勢力は713年に西ゴート王国を滅ぼし、さらにピレネー山脈を越えてフランク王国の領土に侵入したが、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いで宮宰カール=マルテルの率いるフランク軍に敗れ、撤退した。しかしその後もイベリア半島を占領し続け、756年からはコルドバを都に後ウマイヤ朝が支配する。さらに827年以降はシチリア島をビザンツ帝国から奪い、南イタリアの海岸部を部分的に占拠した。こうして地中海はイスラーム勢力下にはいることになる。このイスラーム勢力の地中海(特に西地中海)制圧は、カロリング朝フランク王国の支配圏を内陸だけにとじこめ、西ヨーロッパの商業活動を著しく停滞させた。
重要 「マホメットなくしてシュルルマーニュなし」 14世紀のイスラームの歴史家イブン=ハルドゥーンはそのありあまを、キリスト教徒は「もはや地中海上に板子一枚浮かべることは出来ない。」と表現した。また、イスラーム勢力の地中海への進出という情勢のもとでフランク王国が成立したことを、20世紀初めのベルギーの歴史家アンリ=ピレンヌは、「マホメット(ムハンマド)なくしてシュルルマーニュ(カール大帝)なし」と評した。
a トゥール・ポワティエ間の戦い711年にイベリア半島に侵入したウマイヤ朝のイスラーム勢力は、713年には西ゴート王国を滅ぼし、720年にはピレネー山脈を越えてガリア侵入を開始した。アキテーヌ公のユードはフランク王国に救援を依頼したが、混乱の続いていたメロヴィング朝の王には抵抗を組織する力はなく、その中心となったのは、宮宰であるカロリング家のカール=マルテルだった。カール=マルテルはフランクの騎士を動員し、732年、中部フランスのトゥールとポワティエの間で、7日間にわたりイスラーム軍と戦い、撃退することに成功した。
Epi. イスラーム側から見たトゥール=ポワティエ間の戦い なお、この戦いは、イスラーム側ではアブド=アッラフマーン=アルガーフィキーの率いるムスリム軍が、ローマがかつて築いた敷石道の近くで多数の死者を出した戦いとして「ビラート=アッシュハダー(殉教者たちの敷石道)の戦い」とよんでいる。キリスト教側は大勝利として記録も豊富だが、イスラーム側は数多くの戦闘のなかの一つとしてしか捉えていず、記録は簡潔である。イスラーム側にはそれ以上の侵入の意図はなく、戦利品を獲て撤退すればよ いと考えていたらしい。<『新書イスラームの歴史1』講談社現代新書 p.197 などによる>
 トゥールフランス中部、ロアール川の中流にある都市。732年、南方のポワティエから北上したイスラーム軍をフランク王国の宮宰カール=マルテルがトゥールの南方で破ったトゥール=ポワティエの戦いがあった。
 ポワティエフランス中部の一都市。トゥールの南方にあり、732年のイスラーム軍とフランク軍のトゥール=ポワティエの戦いの戦場となった。 
b カール=マルテルメロヴィング朝フランク王国の宮宰カロリング家のピピン(中ピピン)の子。714年から741年までフランク王国の宮宰を勤め、732年にはイベリア半島からピレネー山脈を超えてフランク王国領内に侵入したイスラーム軍(ウマイヤ朝)をトゥール・ポワティエ間の戦いで撃退し、その名声を高めた。後に、ヨーロッパのキリスト教世界を守ったと評価される。その子、ピピン(小ピピン)は、さらに権勢を高め、ついにメロヴィング朝にかわり王位につき、カロリング朝を創始する。
C カロリング朝751年からメロヴィング朝にかわりフランク王国を支配したカロリング家の王朝。初代ピピン(3世。小ピピン)がローマ教皇の同意を得て即位、かわりに領地を寄進してローマ教皇との結びつきを強くした。ピピンの子カール大帝(1世)は領土を周辺に広げ、現在の西ヨーロッパほぼ全域を支配し、800年にローマ教皇からローマ帝国皇帝に戴冠された。しかし、その死後はゲルマン民族固有の分割相続原則によって領土分割が相次ぎ、870年に東フランク、西フランク、中部フランクの三国に分裂する。カロリング家の王はそれぞれを継承したが、10世紀までにいずれも断絶する。
a ピピンフランク王国カロリング朝初代の国王。751年、ピピン3世として即位。小ピピンとも言う。メロヴィング家の宮宰であるカロリング家のカール=マルテルの子。祖父を中ピピン、中ピピンの祖父を大ピピンというのに対し、小ピピンという。また彼はたいへん小柄であったためともいう。父に続いてフランク王国の宮宰であったピピンは、ローマに使節を送り、実力のあるものが王となることの可否を問うたところ、ローマ教皇ザカリアスは、それを正当であると認めた。それを聞いたピピンは、メロヴィング朝の王を追放し、みずからフランク王国の王位についた。これがカロリング朝の創始である。その即位式で、彼は大司教ボニファティウスから塗油を受けた。これはピピンが聖なる王として君臨し、ローマ教皇を守護することを任務とするキリスト教国家として出発したことをたことを意味している。ピピンは北イタリアに進出し、ローマ教会を圧迫していたランゴバルト王国からラヴェンナ地方を奪い、754年にローマ教皇に寄進(ピピンの寄進)した。これによってカロリング朝フランク王国とローマ教会が完全に結びつくこととなる。
ウ.ローマ=カトリック教会の成立
A 五本山の成立 キリスト教が西アジアから地中海各地に広がり、ローマ帝国によって公認されると、5つの管区に別けて教会と信徒を管理した。その5管区の大司教がおかれた教会を五本山といい、ローマコンスタンティノープルアレクサンドリアイェルサレムアンティオキアがそれである。
7世紀以降になるとアレクサンドリア、イェルサレム、アンティオキアの三教会がイスラームの支配下に入って衰え、残ったローマとコンスタンティノープルの二教会が激しく首位権を争うようになり、8〜10世紀の対立を経て、ローマ=カトリック教会とギリシア正教として分離する。
a ローマ教会イエスの十二使徒の一人、ペテロが創建したとされるローマ教会(聖ペテロ教会)の司教は、キリスト教信仰の中でペテロの後継者という特別の地位が与えられていた。しかしはじめは、五本山の一つにすぎず、またローマ帝国の国教となってからは、ローマ皇帝が教会に対する命令権を持っていたため、その保護を受けながら、皇帝に服さなければならなかった。 → ローマ教会の成立 ローマ=カトリック教会 
b コンスタンティノープル教会五本山の一つで、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の保護の下に発展。キリスト教を国教としたローマ帝国の伝統を引継ぎ、皇帝が教会の首長を兼ねる政教一致の形態をとる。8世紀以降、聖像崇拝問題をめぐってローマ教会と対立し、1054年に完全に分離し、こちらは「ギリシア正教会」の総本山となる。なお、コンスタンティノープルは1453年にオスマン=トルコに征服され、イスラーム化するが、教会はギリシア正教の総首座として残る。
B ローマ教会の成立ローマ帝国の国教として、その保護を受けながら、ローマ皇帝の命令に服さなければならなかったローマ教会であったが、西ローマ帝国滅亡後は、その保護者を失い、孤立無援となった。またローマも西ゴートのアラリックや、フン人のアッティラなどの掠奪を受けたが、教会も存亡の危機に立たされたが、ローマ司教の努力(アラリックの侵略の際はインノケンティウス1世が、アッティラの侵入の際はレオ1世がそれぞれ彼らを説得して平和を守ったと伝えられる)によって危機を脱し、ローマ司教の名声は上がった。しかし、東ローマ帝国の繁栄を背景にしたコンスタンティノープル教会とは、次第に対立の構図が出来上がっていく。496年にクローヴィスの改宗があり、フランク王国との結びつきを深め、6世紀にベネディクトゥスによる修道院運動が始まり、それを支持したグレゴリウス1世の時代にゲルマン民族への布教をひろげた。 → ローマ=カトリック教会
a グレゴリウス1世実質的な最初のローマ教皇(在位590〜604年)であり、ローマ司教を西ヨーロッパの全キリスト教世界の最高の指導者としての教皇の地位を築いたとされる。みずからを「神の僕(しもべ)のなかの僕」と称したグレゴリウス1世は、ローマ貴族の名門に生まれ、東ローマ帝国治下のローマ市の長官となったが、父の死を契機に、自宅をベネティクト派の修道院に造り替え、自ら修道士として信仰の道に入った。ローマ教会の使者としてコンスタンティノープル教会に派遣されるなどの体験から、ローマ教皇は独自の道を行く必要を痛感し、そのためにはランゴバルドや西ゴートなどのゲルマン民族の改宗(彼らはアリウス派を信仰していた)を進めることが大切であると考え、その布教に努めた。590年、教皇になると、ベネティクト派の修道士をアングロ=サクソン王国(七王国)に派遣してその改宗に成功した。このようにゲルマン民族の改宗に成功し、ローマ教会の支持基盤を作りだしたところから、グレゴリウス1世は大教皇と言われるのである。また彼は、中世教会音楽である「グレゴリアン聖歌」を作曲したことでも知られる。 
b 修道院運動(6世紀)529年、ベネディクトゥスモンテ=カシノに修道院を建設、ベネディクト派の運動を始めて教会の腐敗堕落からイエスの精神にたち帰ってキリスト教の権威を高める運動を開始した。その運動は、ローマ教皇グレゴリウス1世に支持され、ヨーロッパ各地に広がり、ベネディクト派修道会が組織された。後には修道院自身も領主化し、腐敗するが、クリュニー修道院を中心とした11世紀の修道院運動が起こり、その権威を回復、ローマ教会の全盛期を出現させる。さらにドミニコ会フランチェスコ会などの托鉢修道会による13世紀の修道院運動も展開される。
c ローマ教皇(法王)ローマ教皇(Pope)は「ローマ法王」とも言われ、ローマ=カトリック教会(キリスト教の「旧教」)の最高指導者。現在では正式には「ローマ司教・イエス=キリストの代理・使徒の頭(ペテロのこと)の後継者・全カトリック教会の首長・西ヨーロッパ総大司教・イタリア首座大司教・ローマ管区大司教かつ首都大司教・ヴァティカン市国主権者」という肩書きになっている。
教皇権力の強大化:ローマ教皇は6世紀の末にローマ出身のグレゴリウス1世が厳しい修道院での信仰生活によって権威を高め、さらに聖像崇拝論争でのビザンツ教会との対立を経て、フランク王国のカール大帝と結びつき、西ヨーロッパのキリスト教世界の「聖界」を代表する権威をもつようになった。次第に皇帝・国王という「俗界」の権力とも対立するようになり聖職叙任権闘争を通じて世俗権力を圧倒し、十字軍時代を経て13世紀には絶大な権利と権力を持つこととなる。その頂点にあったインノケンティウス3世は、「教皇は太陽、皇帝は月」と称し、世俗の権力者(フランスのフィリップ2世やイギリスのジョン王など)を抑えてヨーロッパに君臨した。
教皇権力の低下:しかし、広大なローマ教皇領を支配する封建領主となり、その生活は贅を尽くすようになると、たびたびその選出をめぐって政争が行われ、腐敗堕落した面も出てきた。14世紀のアナーニ事件や「教皇のバビロン捕囚」を機に教皇の権威が動揺し、教会の大分裂ではローマ教皇が同時に二人から三人存在するという事態となった。このような状況に批判が強まると、ローマ教会はたびたび宗教会議を開催して教皇の権威を守ろうとした。さらにルネサンスの風潮とともにドイツなどで宗教改革が始まり、教皇は厳しい批判にさらされた(ルネサンス期のローマ教皇)。16世紀にはルターとカルヴァンによる宗教改革が始まり、新教勢力が大きくなると、ローマ教皇はヨーロッパでの絶対的権力を失い、中部イタリアの教皇領を支配する一君主という存在となった。
宗教改革後の教皇:しかしローマ教皇はイエズス会など反宗教改革の運動もあって力を盛り返し、ヨーロッパではスペイン・フランスや南ドイツ、ポーランドなどで影響力を強め、さらにラテンアメリカやフィリピンなどに布教され、勢力を盛り返した。
現代のローマ教皇:カトリック信者は現在では約10億を数え、ローマ教皇はその最高指導者として重きをなしている。ローマ教皇の居所はローマのサン=ピエトロ大聖堂に隣接するヴァチカンであり、1929年のイタリアとのラテラン条約により一個の主権国家ヴァチカン市国となった。東西冷戦期に世界平和に強いメッセージを送ったヨハネ=パウロ2世が2005年に死去し、現在はベネディクト16世が継承している。
Epi. 教皇選出は根比べ? ローマ教皇の地位は世襲はあり得ず、聖職の最高位として信仰の厚いものから選ばれたが、11世紀以降はその諮問機関である枢機卿(Cardinal)の秘密会で選出されることが原則となった。教皇を選出する枢機卿の秘密会議をコンクラーベという(もちろん日本語ではなくラテン語で)。枢機卿(カージナル)は、教皇の最高顧問団であり、教皇庁の元老院にあたるものとされる。1179年から教皇選挙権は枢機卿だけが持つ、とされたので教皇に次いで最も重要な役職であり、彼らがかぶる赤い帽子はその権威の象徴となっている。その人数は時代によって違うが現在は164名(2003年9月現在)である。枢機卿は教皇が選任する。教皇選出の会議のコンクラーベという言葉は、「鍵で」を意味し、その選出会場が外部から一切干渉されない秘密会であるところからきている。選出は現在では参加した枢機卿の中から多数決で選ばれることになっており、当選には3分の2プラス1票が必要である。当選が決まると投票用紙をストーブで焼き、しめった藁を混ぜて煙が黒ならば未決、白ならば選出された印とされる。<小林珍雄『法王庁』岩波新書による>
C 東西教会の対立 
a ビザンツ帝国東ローマ帝国は西ローマ帝国滅亡、正当なローマ帝国の後継となったが、その支配する地域はギリシア人地域であったため次第にローマ的伝統は弱まり、独自の国家形態と文化をもつようになった。そのため、「ローマ帝国」の名称にかわって「ビザンツ帝国」と言われるようになった。ビザンツとは、コンスタンティノープルの以前の名前であるビザンティウムに由来し、あるいは「ビザンチン帝国」とも言われる。
ビザンツ帝国は3世紀以来の東方のササン朝ペルシアとの抗争を続けたが、西ローマ帝国のようにゲルマン民族の直接的な流入と定着は少なく、4〜5世紀の民族異動期の混乱を乗り切り、6世紀にはスラブ民族の南下に悩まされながらも、ユスティニアヌス大帝の時国力を増し、西方に進出、ゲルマン諸国を征服してかつてのローマ帝国の領土を一時回復した。しかし、7世紀になるとアラビアに起こったイスラームの侵攻を受けるようになり、西アジア・北アフリカ・イベリア半島を奪われ、ふたたびバルカン半島と小アジアのギリシア世界のみにその支配領域を縮小せざるを得なくなった。
そのような中でビザンツ帝国はローマ帝国を継承しながらギリシア的性格を強め、折から西方で勢力を強めてきたゲルマン人の国フランク王国と対立するようになり、またコンスタンティノープル教会とローマ教会は五本山の中の首位権をめぐって争うようになる。726年のレオ3世による「聖像禁止令」を機に、教会の東西分裂は決定的となり、ビザンツ帝国は皇帝教皇主義をとるギリシア正教会の保護者として続くこととなる。 → その後のビザンツ帝国
b 聖像キリスト教の信仰のためにつくられた、イエスやマリア、その他の聖人の像。ローマ教会でも東方教会でも、さかんに聖像の立体像や、画像が作れられた。しかし、キリスト教の教えでは、偶像崇拝は否定されており、聖像をめぐって論争があった。ビザンツ帝国では、イスラームの攻勢を受ける中で、徹底した偶像崇拝否定であるイスラーム側からたびたび嘲笑される事態があった。そのため、ビザンツ帝国内の東方教会の聖職者の中で、聖像を認めるか否定するかという「聖像崇拝論争」が起こった。
D 聖像禁止令726年、ビザンツ帝国の皇帝レオン3世(レオ3世)が発布した、教会において聖像を崇拝することを禁止し、それを破壊することを命じたもの。聖像破壊令、偶像禁止令とも言う。一切の偶像を否定するイスラームに対抗するため、キリスト教の原則に戻ることを目指したものであり、また反対する教会・修道院領の没収が狙いだったとも言われている。この強行策は全キリスト教世界に大きな動揺と混乱をもたらし、「聖像崇拝論争」は東西教会の対立に発展した。とくにローマ教会では、ゲルマン人への布教のため、聖画像を用いてたため、この聖像禁止令に激しく反発し、聖像破壊者を破門にした。ビザンツ皇帝は、北イタリアのランゴバルド王国をてなずけてローマ教会に圧力を加えた。こうして東西教会の対立は激しさを増していった。ビザンツ帝国はその後も787年にも禁止令を発布したが、9世紀には聖像を認める動きも出てきて、843年には皇太后テオドラによって聖像崇拝が認められた。しかし、ギリシア正教会での聖像は、立像は認められず、イコンという平面の聖像のみが認められた。
a レオン(レオ)3世ビザンツ皇帝(717〜741年)。シリア系の人物でテマ(軍管区)の長官として活躍し、皇帝となる。718年のイスラーム軍(ウマイヤ朝)がコンスタンティノープル攻撃を撃退し、さらに740年には小アジアの中央部のアクロイノンでイスラーム軍に大勝、ビザンツ帝国を救った。イスラームの脅威を受けていた小アジアの教会から、本来のキリスト教信仰に帰り、聖像崇拝を止めるべきだという訴えを受け、726年に聖像禁止令を出し、聖像の破壊を命じた。それが出発点となって東西教会の聖像崇拝論争が起き、教会の東西分裂に行き着く。勇敢な軍人だったので皇帝になると自ら「獅子」の意味のレオンを名乗った。同名のローマ教皇レオ3世とはまったく別人なので混同しないように。
b ローマ教会 → ローマ教会
E ローマ教皇領の成立キリスト教の総本山、ローマ=カトリック教会の頂点に立つ、ローマ教皇の所領を教皇領という。教会は、イエスは何も財産を持たなかったわけであるから、本来、土地や所領を持っておらず、信者たちの信仰の拠り所にすぎなかった。しかし、ローマ教皇の権威が確立すると、世俗の権力者の中に帰依するものが現れ、領地(土地所有だけではなく、年貢を取ったり裁判をしたりする権利も含む封建領主としての支配権)を寄付するようになった。最初の教皇領は754年の「ピピンの寄進」によるラヴェンナ地方であり、その後もカロリング朝の寄進が続き、最盛期には中部イタリアに広大なローマ教皇領を形成した。教皇領に対しローマ教皇は、世俗の国王や領主と同じ政治上、経済上の支配権も行使し、その権力の基盤とした。近代に入り、イタリア統一運動の過程でイタリアの統一を阻害するものとして次第に縮小され、1970年にはイタリア王国がローマ教皇領を占領、併合して、消滅した。現在では1929年ムッソリーニとの間で締結されたラテラン条約によってローマ市内のサン=ピエトロ大寺院周辺のみがヴァティカン市国として独立している。
a ピピンの寄進ランゴバルド王国がラヴェンナを落とし(751年)、さらにローマに迫り、ローマ教皇が危機にさらされると、754年、フランク国王のピピンはただちに大軍を率いてアルプスを超え、ランゴバルド王国からラヴェンナ地方を奪った。ピピンはその地をローマ教皇に寄進、これがローマ教皇領の始まりとなった。 
b ラヴェンナラヴェンナはイタリア北部でアドリア海に面した港。西ローマ帝国でミラノについで都となる。その後、軍港として栄え、西ローマ滅亡後はオドアケル東ゴート王国の都となった。540年ビザンツ帝国のユスティニアヌス大帝が奪回、ラヴェンナ総督府を置いた。ラヴェンナのサン=ヴィターレ聖堂は大帝の肖像などのモザイク壁画で有名である。その後、ランゴバルド王国に征服されさらに、それを奪ったフランク王国のピピンが、754年にその地をローマ教皇に寄進し、ローマ教皇領の始まりとなった。
エ.カール大帝
A カール大帝 ピピンの跡を継いだカロリング朝フランク王国の全盛期の国王。在位768〜814年。次々と周辺に遠征し、フランク王国の領土拡大。南方では774年にランゴバルド王国を征服、北イタリアを併合し、西方ではイベリア半島のイスラームと戦い、ピレネーを越えてエブロ川まで領土を広げ、スペイン辺境伯を設置した。東方ではドイツのザクセン、バイエルンなどを従え、さらにアヴァール人のハンガリー付近まで進出した。その最大領土は、大陸の西ヨーロッパほぼ全域に及んだ。その支配域の地方豪族を(コムス)に任命して行政を任せ、それを監督する役職として巡察使を派遣した。また多数の勅令(カピトゥラリア)を制定し、全国を統制した。晩年に王宮をアーヘンにおいたが、生涯を通じ王国の各地を巡幸し続けた。800年、ローマ教皇レオ3世からローマ帝国皇帝の冠を授けられ(カールの戴冠)、ローマ帝国の後継者であると同時に西ヨーロッパのキリスト教世界の守護者となり、それらとゲルマンの封建社会を結びつけた「西ヨーロッパ世界」を出現させた。また、ラテン文芸の復興に努め、アーヘンにアルクィンなどの学者を招いて「カロリング=ルネサンス」といわれた。
a シャルルマーニュカール(Karl)のフランス語読みがシャルル。シュルルマーニュで「カール大帝」Charlemagne
b チャールズ大帝カールの英語読みがチャールズ(Charles the Grate)。ちなみにラテン語ではカロルス(Carolus)、スペイン語ではカルロス(Carlos)
c ザクセン人ゲルマン人の一部族。現在のドイツの北部、エルベ川流域に居住していた。その一部は5世紀にイングランドに移住、アングロ=サクソン王朝を立てる。サクソンはザクセンの英語読み。なおも一部は北ドイツにとどまっていたが、8世紀にフランク王国のカール大帝に征服され、同時にカトリックに改宗した。なお、ザクセンは北ドイツの地名としても残り、この地の有力者ザクセン家から東フランク王国のオットー大帝がでてザクセン朝となる。
フランク王国の地方行政官。ラテン語でコムス、フランス語でコント、ドイツ語でグラーフ。地方の行政・軍事・司法を統括した官職で約300人にのぼった。おおむね地方の有力者が任命され、国王の派遣する巡察使の監督を受けたが、彼らは役職の代償で得た土地を世襲化して次第に自立性を強め、封建社会の領主となっていく。コントやグラーフは爵位(貴族の血統の上下をあらわす位)として名称が残る。
辺境伯 フランク王国の地方行政官の一種。ドイツ語でマルクグラーフ。マルクが「辺境」の意味。フランス語ではマルキ。国境地帯を防衛するために植民して設けたのがマルク(辺境区)で、その指揮官兼行政官が辺境伯。カール大帝は778年、ピレネー山脈を越えてイスラーム領に侵攻、エブロ川まで進出して辺境伯を置いた(そのときの話を題材にしたのが『ローランの歌』)。この官職は神聖ローマ帝国に引き継がれ、有力な諸侯に成長した者もあった。ブランデンブルクオーストリアがその例である。またマルキはフランスの爵位の一つ「侯爵」になる。マルキ=ド=サド(サド侯爵)のマルキである。
巡察使 国王の代理人として派遣され、地方の伯や辺境伯を監督する官職。按察使ともいう。802年、カール大帝が制度として設けた。彼は全国を巡察使管区に分け、毎年聖職者一人と俗人一人の巡察使を巡回させ、地方政治を監督、また民衆の役人への不満を聞き、裁判を行い、康応に報告させた。カールの死後は制度は形骸化し、巡察使は地方に居着いてその地方の諸侯となる者もあった。
アーヘン カール大帝が王宮を建てたところ。現在のベルギーの国境に近いドイツにある。王宮と言っても人口2〜3000の小都市にすぎなかった。以前から温泉地として有名で、カール大帝は晩年を死ぬまでこの地で暮らし、浴場に貴族や友人を招き、ときには100人以上と一緒に入浴したという。<エインハルドゥス『カルロス大帝伝』p。33> なおアーヘンにはカール大帝が創建したという大聖堂が現存する。
c アヴァール人中央アジアのモンゴル系騎馬民族。5世紀頃から南ロシアに現れ、6世紀にはパンノニア(現ハンガリー)に入り、ビザンツ帝国をたびたび脅かした。8世紀にはフランク王国のカール大帝に圧迫されて衰退、次いで東方から進出してきた同じアジア系のマジャール人に同化されていく。
d カロリング=ルネサンスフランク王国のカール大帝アーヘン宮廷を中心に、聖職者に正しいラテン語の知識を与えることなどを目的として始まった文化復興の運動。中世のゲルマン社会で衰退した古典文芸を復活させようとした面を捕らえ、後のルネサンスの先駆けとして、カロリング=ルネサンスと言われる。中心になったのはイギリス生まれの神学者でカール大帝に招かれたアルクィンである。 
B カールの戴冠800年のクリスマスの日に、フランク王国国王のカール(1世)が、ローマ教皇(レオ3世)から「西ローマ帝国皇帝」の帝冠を与えられたこと。
ローマ=カトリック教会教皇レオ3世の要請で、大軍を率いてローマに来ていたフランク国王カールは、800年のクリスマスを祝うためサン=ピエトロ大聖堂におもむいたところ、思いがけず、レオ3世が突然祭壇にひざまずいているカールに近づき、皇帝の冠を彼の頭上においた。教会にいた群衆は、いっせいにカールの戴冠を祝った。このようにカールの戴冠はハプニングとして演出されていたが、両者にとっては深い意味があり、また「西ヨーロッパ世界の成立」という歴史的重大事件となった。
ゲルマン人の王が、ローマ帝国皇帝を名乗ることに対しては、ビザンツ帝国は不愉快なこととして認めなかったが、カールはビザンツ領ヴェネチアに圧力を加えるなどの手を打ちながら交渉し、812年にようやく、ビザンツ皇帝の了解を取りつけ、西ヨーロッパ地域の皇帝権を揺るぎないものとした。
カールの戴冠の歴史的意義
 1.西ヨーロッパの安定、ビザンツ帝国に対抗する政治勢力の成立
 2.古典古代・キリスト教・ゲルマン民族からなる文化圏の成立
 3.ローマ教会がビザンツ皇帝から独立した地位を獲得したこと
さらに総合すれば、カールの戴冠によって「西ヨーロッパ世界」が成立したと言える。
a ローマ教皇 → ローマ教皇
b レオ3世ローマ教皇レオ3世はローマ教会の保護者としてフランク王国のカールに期待を寄せていたが、ビザンツ皇帝からの干渉に苦しんでいた。彼自身、799年には、ローマの街頭でビザンツに組みする一派に襲撃され、傷つけられている。ただちにレオ3世はカールに救援を要請、ローマを訪れたカールに対し、800年クリスマスの日にローマ帝国皇帝の冠を授け(カールの戴冠)、フランク王国との関係を決定的なものにした。 
c ローマ皇帝 
C キリスト教世界の分離726年のビザンツ皇帝レオ3世の聖像禁止令に始まった、ローマ教会(西方教会)とコンスタンティノープル教会(東方教会)の対立は、その後もさらに深刻となり、ローマ教会がフランク王国と結んだことによって決定的となった。両者の対立はさらに首位権(首位教会としての権利)をめぐる争いが続き、ついに1054年に、違いに相手を破門することで決裂した。両者は同じキリスト教とはいえ、まったく別個な信仰内容と形式、教会組織を発展させていく。ローマ教会は、西ヨーロッパを中心に「ローマ=カトリック教会」として、コンスタンティノープル教会は、ギリシアを中心に東ヨーロッパ、ロシアに広がり「ギリシア正教会」として発展していく。 
Epi. 9百年目の和解 1054年に決裂し、その後東西の教会は対立を続ける。東方教会がセルジューク=トルコやオスマン=トルコの脅威を受けた時に西方教会に歩み寄り、和解の動きは出たが、結局は和解は成立しなかった。両者の和解が成立したのはなんと9百年以上たった現代の1965年。この年、教皇パウルス6世と総主教アテナゴラスは「互いを正当に認め合い赦免し合う」ことを合意、和解への道が切り開かれた。もちろん、両者の実質的な合同は行われていない。<『ローマ教皇』「知の再発見」双書(創元社)による。>
a ギリシア正教会 → 6章 2節 ギリシア正教会
b ローマ=カトリック教会カトリックという言葉は、普遍的とか世界的とかを意味するギリシア語のカトリコスからきたもの。ローマ教会(聖ペテロ教会)はイエスの使徒のリーダーだったペテロが建てたものとされ、キリスト教の五本山の中でも特別な地位が与えられ、その司教はローマ教皇(法王)と言われるようになった。その教義は325年にアタナシウスの唱える三位一体説が正統とされた。次第に東ローマ帝国のコンスタンティノープル教会との間で、教会の首位権を争うようになり、西ローマ帝国滅亡後はイタリアがオドアケルの国、東ゴート王国、ランゴバルト王国というゲルマン諸国の支配を受けて苦境に立ったが、496年クローヴィスの改宗にはじまってフランク王国との結びつきを強め、それを新たな政治的保護者としてビザンツ帝国およびコンスタンティノープル教会と対抗した。両者の対立は726年の聖像禁止令を頂点とした聖像崇拝問題でさらに激しくなり、800年には教皇レオ3世によるカールの戴冠によってフランク王国との結びつきを寄り強め、ついに1054年にキリスト教教会は東西に分裂、ローマ教会はカトリック教会として東方教会から分離した。その後ローマ=カトリック教会は、西ヨーロッパ世界の政治・社会・文化の上で重要な存在となり、叙任権闘争を通じて世俗の皇帝権力を上回る権威を確立した。そのような権威を背景に11世紀末から十字軍運動を展開、13世紀にその全盛期を迎える。 → ローマ=カトリック教会(の衰退)
c 普遍的 
オ.分裂するフランク王国
A フランク王国の分裂ゲルマン民族の社会の伝統に財産の兄弟による「分割相続」ということがあった。フランク王国でもカロリング朝の王の領土は財産と考えられ、その子たちに分割された。カールの次は、息子ルイ(敬虔王)が継承したが、ルイの死後は兄弟間に争いが起こり、フランク王国は三分割されることとなった。その結果、西ヨーロッパの現在の国家、フランス・ドイツ・イタリアが生まれることになる。
a ヴェルダン条約フランク王国はカール大帝の子ルイ(敬虔王、ルートヴィヒ1世)が死ぬと、その子たちは分割相続を主張し、843年のヴェルダン条約によって、中部フランク(イタリアおよびロレーヌ)、東フランク、西フランクに三分され、それぞれロタール1世、ルードヴィヒ、シャルル(禿頭王)が継承した。これ以後、フランク王国はふたたび統合することはなく、さらに870年のメルセン条約で再分割され、ドイツ・フランス・イタリアの三地域に分かれ、それぞれが独自の文化と国家を形成していくこととなる。現在進行しているヨーロッパ統合の試みは、ある意味では旧フランク王国であった地域を核とした統合の復活であるとも言える。
b メルセン条約ヴェルダン条約後も3者の争いが続き、ロタール1世が死ぬと、870年のメルセン条約でルードヴィヒとシャルルはその領土を二人で分割して、東フランクと西フランクに編入し、残ったところをイタリア王国とした。これによって、のちのドイツ・フランス・イタリアの三国の原型がつくられた。三国とも当初はカロリング家の王が続いたが、まず875年にイタリア王国でカロリング家が断絶し、10世紀には東西フランクでも断絶する。 
c ドイツ911年、東フランクのカロリング朝の王家が断絶した。フランケン家が王家を継承した。このときがドイツの起源とされているが、ドイツ王はその後、選挙で選ばれる伝統となり、王権は弱かった。
d フランス987年、西フランクでもカロリング朝の王家が断絶し、パリ伯ユーグ=カペーが王位を継承し、カペー朝が創始された。このときから、「フランス」と称するようになる。カペー朝の王位は世襲されたが、王権は周辺の諸侯に押されて、強くなかった。しかし、13〜14世紀には王権の強化がすすみ、フィリップ4世はローマ教皇とも争い、優位に立った。その後、ヴァロワ朝の成立とともにイギリスとの百年戦争が勃発、その間封建社会の矛盾も深くなり、農民反乱などが頻発、そのために封建領主層は没落しかわってヴァロワ朝のもとで絶対王政の基盤が築かれた。フランソワ1世はヴァロワ朝最盛期の国王であるが、そのころはじまった宗教改革の動きはフランスにも波及し、ヴァロワ朝末期は深刻な宗教戦争であるユグノー戦争が起こった。何との勅令を発して新教を認めながら自らは旧教に復して内乱を終結させたアンリ4世は、ブルボン朝を創始、そのもとで絶対王政が形成され、17世紀〜18世紀はじめのルイ14世の時にその権力は絶大となった。しかし絶対王政の支配の中でブルジョアジーも徐々に成長し、複雑な階級対立と国際情勢が結びついて、1789年にフランス革命が勃発する。ここから近代フランスの歩みがはじまり、その後、第1共和政(1792〜1804)→第1帝政(ナポレオン皇帝時代、1804〜1814)→ブルボン復古王政(1814〜1830)→七月王政(1830〜1848)→第2共和政(1848〜1852)→第2帝政(ナポレオン3世時代、1852〜1870)というめまぐるしい政体の変化を経ながら、産業革命を達成して次の第3共和政(1870〜1940)で共和政体を確固たるものにした。並行して、アフリカやアジアに植民地を獲得し帝国主義大国としても列強の一角に互していた。第1次世界大戦、第2次世界大戦という二度にわたる隣国ドイツの侵略を受けながら、戦後は経済の復興に成功し、第4共和政(1946〜1958)を経て、現在は第5共和政(1958〜)という政体をとっている。戦後は冷戦下の米ソ二大勢力に対抗すべく、ヨーロッパ統合の先頭にたち、国際政治にも大きな発言力を維持している。
e イタリアメルセン条約で中部ヨーロッパが東フランクと西フランクに再分割され、残った中部フランクのイタリア半島の地域がイタリアとなる。875年にはカロリング朝の王位は断絶したが、国家統一を保つことは出来ず、中世を通じて北イタリアは神聖ローマ帝国の支配を受け、南イタリアはイスラームの侵入、両シチリア王国の支配後、ヨーロッパの強国の支配を交互に受けることとなる。
B 東フランク 東フランクはヴェルダン条約で、ルートヴィヒの領地として成立したライン川以東の地。後のドイツのもととなった。メルセン条約で中部フランクの東半分を加える。911年、カロリング朝の王統が途絶え、ドイツ王国となる。ドイツ王国初代の国王は選挙によってフランケン家のコンラート1世(911〜918)、次いで前王の指名でザクセン家のハインリヒ1世がザクセン朝を開始、その子オットー1世が継承した。オットー1世は962年にローマ帝国皇帝の冠をさずかり(オットーの戴冠)、初代の神聖ローマ帝国皇帝となった。それが「神聖ローマ帝国」の起源とされている。以後、ドイツ王が神聖ローマ帝国皇帝となることが続いたが、同時に皇帝はローマにおもむいて教皇から皇帝の冠を受けることが必要となり、皇帝はドイツを離れることが多くなった。そのため、ドイツ国内では封建諸侯の力が強くなり、皇帝位は有力諸侯の選挙で決められることが多くなり、13世紀以降は完全な選挙制となる。ザクセン朝が絶えた後、選挙によってフランケン公領のザリエル朝(1024〜1125年、カノッサの屈辱の時のハインリヒ4世など)、シュヴァーヴェン大公領のシュタウフェン朝(1138〜1254年)と交替し、シュタウフェン朝のフリードリヒ2世(在位1212〜50年)の時に皇帝権は絶頂期を迎えたが、彼はドイツにほとんど滞在せず、シチリア王を兼ねてパレルモで王宮を営み、地中海帝国の再興をもくろんでいた。そのため東フランク(ドイツの地)では領邦君主たちの領域支配が強まり、フリードリヒ2世の死後は領邦君主が競合したため皇帝を選出できず、1254年から1373年の大空位時代となった。その後、皇帝選挙は復活したが、ドイツは大小数百の領邦君主領に分裂したまま固定される。神聖ローマ皇帝位はその後、ハプスブルク家が独占的に継承することとなり、16世紀からは正式国号は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」といわれるようになる。 
a ザクセン朝東フランク王国の王朝で、カロリング朝断絶後、フランケン朝に続いて919年に成立。ハインリッヒ1世に始まり、次のオットー1世(大帝)のとき、ローマ教皇からローマ皇帝の称号を与えられる。それが、神聖ローマ帝国の起源。ザクセン朝は1024年まで。
b オットー1世東フランク王国(ドイツ)ザクセン朝第2代の国王。オットー大帝と言われる。在位936〜973年。外敵の侵入を防止し、有力諸侯を抑え、国内統一につとめた。その際、教会勢力とは協力関係を結び、それを保護した。955年には、レヒフェルトの戦い(アウグルブルク近郊)で東方から侵入したアジア系のマジャール人を破り、さらに周辺のスラブ人に対して軍事植民を行い、征服活動と共にキリスト教の布教に努めた。961年にはローマに遠征し、北イタリアで教皇領を脅かしていたベレンガリオ2世を倒してイタリア王となり、翌962年、教皇ヨハネス12世から「皇帝」の称号と冠をうけ(オットーの戴冠)、初代の神聖ローマ帝国皇帝となった。これが後の「神聖ローマ帝国」の出発点となった。
 マジャール人現住地はウラル山脈南西部と推定されているフィン・ウラル語族。次第に西進し、黒海北岸を経て、アヴァール人がフランク王国のカール大帝に討たれて衰退したのに代わって9世紀にパンノニア(ハンガリー)入り、周辺の先住民であるスラブ系のチェック人などを征服しながら定住した。さらに西進の勢いを示したが955年にドイツのオットー大帝とのレヒフェルトの戦いに敗れて退いた。その後、国家統一を進め、後にハンガリー王国を形成する。なお、マジャールというのが自称で、ハンガリー人というのは他民族が彼らをそう呼んだものである。 → ハンガリーの項参照
 レヒフェルトの戦い955年、東フランク王国のオットー1世が、東方から侵入したアジア系民族のマジャール人を撃退した戦い。南ドイツのアウクスブルクの近郊。オットー1世はこの戦いで勝利して、キリスト教世界を守ったことになり、後のローマ皇帝への戴冠(オットーの戴冠)のもととなる。また敗れたマジャール人は、これ以上の西進ができず、ドナウ川中流域のハンガリー平原(パンノニア)に定住することとなる。 
b オットーの戴冠962年、ローマにおいて、ドイツ王・イタリア王であるオットー1世に対し、教皇ヨハネス12世が皇帝の冠を授けたこと。これによって神聖ローマ帝国が始まったとされる。かつての「カールの戴冠」の再現であり、ローマ=カトリックの保護者としての皇帝位を復活させたもの。以後、ドイツ王・イタリア王(後にブルゴーニュ王も含む)を兼ねるものが代々、ローマに行って皇帝の冠を教皇から受けるのが伝統となる。
c 神聖ローマ帝国962年に即位したオットー大帝に始まる中世ヨーロッパの国家だが、ドイツ王がその皇帝位を兼ね、かつてのローマ帝国の領域の支配権をもつことを表明する称号としての意味しかなかった。しかし最盛期の範囲はイギリス・フランスを除く西ヨーロッパに広がり、ローマ教皇に対抗する世俗の権力の頂点にあって中世から近世にいたる重要な政治的存在であった。17世紀の中ごろにはその支配権は実質を失いったが、その地位はハプスブルク家が継承してその後も続き、1806年に最後の皇帝フランツ2世が退位して、844年に及ぶ歴史に幕を下ろした。
成立とイタリア政策:最初から「神聖ローマ帝国」という国号が使われたわけではなく、初めは単に「帝国」または「ローマ帝国」といわれ、次いで1157年、フリードリヒ1世(バルバロッサ)が、皇帝の地位を教皇よりも上位にあり、神から与えられた聖なる地位であるという意味で「神聖帝国」の国号を使い、大空位時代の1254年から「神聖ローマ帝国」(Holy Roman Empire)が使われるようになった。この間の神聖ローマ帝国皇帝は、その名の通りイタリアへの関心を強く持ち、歴代の皇帝はいずれもイタリア政策と称して介入を続けた。
ハプスブルク朝の全盛期:この間、代々の皇帝はローマで戴冠するのを習わしとしたが、1508年のハプスブルク家マクシミリアン1世からはローマには行かず、自ら皇帝を名乗り、正式国号も「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」と言われるようになる。16世紀、その孫カール5世は本領のオーストリアの他、スペイン、ナポリ王国、ネーデルラントなどを領有し、またアメリカ新大陸などの海外領土を支配し、神聖ローマ帝国(ハプスブルク帝国)の全盛期を誇った。一方ではこのころバルカン半島に侵出したイスラーム勢力のオスマン帝国によるウィーン包囲を撃退し、ヨーロッパキリスト教世界を守った。
衰退と消滅:17世紀にはいると神聖ローマ帝国の領土はイタリアやブルゴーニュの支配権を無くし、その領域はドイツに限られるようになった。また、国内の諸侯の自立の傾向は強まり、実質的に多くの領邦国家に分裂した。三十年戦争を終結させた1648年のウェストファリア条約で実質的に帝国は解体し、オーストリアのハプスブルク家が継承した形式的な神聖ローマ帝国も、オーストリアがナポレオンにアウステルリッツの戦いで敗れた結果、1806年にナポレオンが「ライン同盟」を結成した際に消滅する。<菊池良生『神聖ローマ帝国』 講談社現代新書 などによる>
 イタリア政策 10〜13世紀の神聖ローマ帝国皇帝は、オットー大帝がイタリアを支配しローマで戴冠して以来、イタリアの支配を継続するため出兵することが多く、本国のドイツをおろそかにする傾向があった。皇帝にとっては北イタリアの豊かな経済力がねらいであったが、次第に自治都市の抵抗、反撃を受け、教皇とも対立するようになる。典型的なのはシュタウフェン朝のフリードリヒ2世(皇帝1220〜1250)で、彼はシチリア島に生まれ、ドイツ王としては8年間しかドイツに滞在せず、残りはシチリア島のパレルモを拠点に神聖ローマ皇帝としてイタリアを支配しようとした。これらの神聖ローマ皇帝はローマ皇帝を名乗る以上、イタリアを支配し、さらにかつてのローマ帝国のように地中海をわが海とすることを望んだのである。その伝統は、後のハプスブルク家やヒトラーに継承される、ドイツ・オーストリアの野望があったものと思われる。また、神聖ローマ皇帝は11世紀以来、ローマ教皇との間で聖職叙任権闘争を展開した。この対立が教皇党(ゲルフ)と皇帝党(ギベリン)というイタリアの分裂の要因となった。
神聖ローマ帝国皇帝神聖ローマ帝国の皇帝位はオットー大帝のザクセン朝に続いて、フランケン朝(ハインリッヒ4世など)、シュタウフェン家(フリードリヒ1世、フリードリヒ2世など)が継いだが原則は諸侯による選挙であり、歴代の皇帝も「イタリア政策」に熱中し、またローマ教皇とは叙任権闘争を激しくて展開したため、ドイツ国内では諸侯や都市が自立し、統一はとれなかった。13世紀の「大空位時代」を経て、1356年の金印勅書によって有力諸侯が選挙候として皇帝を選挙する形態となり、1438年以降はハプスブルク家が皇帝位を独占することになる。その全盛期である16世紀には、全ヨーロッパにまたがる広大な領土を有することとなる。 
C 西フランク王国 ヴェルダン条約でシャルル(カール)2世が継承した、フランク王国の西半分。後のフランスの原型となる。メルセン条約で中部フランクの西半分をさらに加える。9世紀になるとノルマンの侵攻に苦しむ。ノルマン人(イギリスで言うヴァイキング。西フランクでは北方の人の意味でノルマンといった)はスカンディナヴィアから海を渡って西フランクの海岸を荒らし、さらにセーヌ川やロワール川をさかのぼって内陸に侵攻した。911年、西フランク王はノルマン人の一部にキリスト教への改宗を条件にセーヌ河畔への定住を許さざるをえなかったが、その地がノルマンディー公国となる。この間、西フランク国王の権威は低下し、ブルゴーニュ公、アキテーヌ公、ノルマンディー公、プロヴァンス伯、フランドル伯など有力な封建領主がそれぞれ従士団を率いて分立するようになった。これを領邦権力とも言う。領邦君主や司教はカロリング家の王位世襲をやめさせ、一時選挙王制にしたが、987年にノルマン人の撃退に功績のあったロベール家の出身のユーグ=カペーが世襲王朝のカペー朝をひらいた。カペー朝の開始から、フランス王国といわれるようになる。
a ユーグ=カペー987年、フランスのカペー朝の始祖となった。もと西フランク王国の一地方領主であるパリ伯であったがその祖のネウストリア公ロベール家のウードはセーヌ川、ロワール川両河の間に基盤を持ち、ノルマン人の侵攻を撃退したことで名声を上げていた。西フランクのカロリング朝が途絶えた時、有力諸侯からロベール家のユーグ=カペーが王位に選出された後、王権を安定させるために生存中に長子を後継者に指名し、世襲王朝のカペー朝が始まった。
b カペー朝987年に始まるフランスの王朝。西フランク王国のカロリング家の王統が途絶え、パリ伯のユーグ=カペーが有力諸侯から推されて王位について始まった。カペー朝の成立によって「フランス」と称されるようになったが、地方の封建領主の力が強く、王権は弱体であった。
10〜12世紀のカペー朝フランス:王位は一応世襲されたが、カペー家の支配の及んだのはその所領のあるパリ周辺とオルレアン付近だけであり、実態は地方政権にすぎなかった。またノルマン人という外敵の侵入から身を守るべく、諸侯たちは城塞を築き、それぞれ主従関係を結んで自己の所領を護りながら自立を強め、フランス各地には、多くの封建領主が分立し、封建社会が形成された。また国土の約半分のノルマンディギエンヌ地方の領主であったアンジュー伯アンリがイギリス王位を継承し、1154年、プランタジネット朝のヘンリ2世となり、カペー家領をはるかにしのぐプランタジネット家国家が英仏海峡にまたがって出現した。このため、封建領主としてはフランス王に臣従するプランタジネット家が、イギリス王としてはフランス王と対等であるという、現代ではあり得ない両者の関係ができあがり、カペー朝は国内のイギリス領地を奪回することに心血を注ぐこととなった。
13〜14世紀のカペー王権の強化フィリップ2世(尊厳王、1180-1223)は第3回十字軍に参加。イギリス王ジョン王からフランス内の領地を奪い王権強化の第一歩を築いた。ルイ9世(聖王、1226-1270)は第6回、第7回の十字軍を主催。南仏のアルビジョワ派に対する征服を終わらせ、またルブルックを中国に派遣した。フィリップ4世(美王、1285-1314)はローマ教皇ボニファティウス8世と争い、1302年に三部会を召集、翌年はアナーニ事件で教皇を捕らえ、さらに教皇庁をアヴィニヨンに移した。このようにカペー朝末期にはイギリスとの抗争も優位にすすめ、王権は強大となり、フランス国家の基礎が築かれた。しかしフィリップ4世以降は短命な国王が続き、1328年シャルル4世を最後に断絶し、ヴァロワ朝に替わる。その際、フィリップ4世の娘イサベルを母としていたイギリスのプランタジネット朝エドワード3世がフランス王家王位継承権を主張して百年戦争が勃発する。
Epi. カペーの奇跡 カペー朝の王権は、はじめは東フランク王国に比べても微弱であったが、12世紀頃から次第に強大なものになっていった。「その理由としてよく指摘されるのが、「カペーの奇跡」ともいわれる生物学的要因である。カペー朝の歴代の王は比較的長命で個人的資質もあり、そのうえ、すべて男子後継者に恵まれていたため、生前中に後継者を決めることができた、というのである。これは単純な要因ではあるが、王位の継承問題は諸侯がつけ込む最大のチャンスであるから、たしかに重要な点である。しかし、理由はそればかりではない。カペー家の本拠地であるイル−ドゥ−フランスが経済的に豊かなため、都市から貨幣を調達することが容易なこと、また経済力があるからこそ可能なのだが、法律の専門訓練をうけ「レジスト」(法曹家)と呼ばれる新しい知識人を王の側近として登用し、イデオローグとして、またテクノクラートとして王政の発展に貢献させたことも見逃せない。歴代の王はこれらの有利な条件を生かし、武力だけでなく、封建法を楯に結婚、相続、領地の交換などあらゆる手段に訴えて、勢力の拡大につとめた。とくにフィリップ2世、ルイ9世、フィリップ4世の三人が王権の拡大に大きな功績がある。」<柴田三千雄『フランス史10講』2006 岩波新書 p.41-42>
B 中部フランクヴェルダン条約で、ロタール1世の領地となった中部フランクには、現在のほぼオランダ、ベルギー、フランス東部と北イタリア。ロタールの死後、メルセン条約で北イタリア以外が、ルートヴィヒとシャルルに分割される。早くも875年にはカロリング家の王位は断絶。その後、北イタリアは神聖ローマ帝国に組み入れられ、中部にはローマ教会領が存在、南イタリアへはイスラームの進出(827年、シチリア島を奪われる)などがあり不安定で、統一国家は形成されなかった。後には北イタリアには都市が発達し、南イタリアにはノルマン人の両シチリア王国が建設される。 
a 教皇庁6世紀のはじめ教皇シンマクスのとき、聖ペテロの殉教の地ローマの西北の一角に建設され、教皇の居住区となった。数回にわたって拡張され、現在は聖ペテロ教会を含みヴァティカン市国として独立した国家となっている。
カ.ヴァイキングの活動
A ノルマン人の活動 8世紀に始まり、9世紀に活発になって、11世紀まで続いたノルマン人の移動は、4〜6世紀の第1次ゲルマン民族大移動に対して、第2次ゲルマン民族大移動といわれる。ノルマン人は、北ゲルマン民族に属し、スカンジナヴィア半島やユトランド半島(デンマーク)で、狩猟や漁労に従事し、造船や航海術にたけた民族だった。8世紀ごろから人口増加は始まり、9世紀になると、さかんに海上に進出して海賊を兼ねながら交易に従事するようになった。そのような一面から彼らはヴァイキング(入り江の民、の意味)と言われた。彼らは、フランク王国の分裂に乗じて、海岸を荒らし回り、さらにそこの平らな船で川を遡り、内陸深く侵入して掠奪を重ね、恐れられた。西フランク王国から奪った女性や子供を、遠くイスラームに奴隷として売り飛ばし、イスラームから多量の貨幣を得ていた。(現在もバルチック海の島々の遺跡から、アッバース朝のバグダードで鋳造された貨幣が大量に出土する。) → 北欧諸国
ノルマン人の活動範囲:主として次のようにまとめることができる。
・スカンジナヴィア半島南部にいたノルマン人はフランク王国の地に侵攻してノルマンディを建設。さらにそこからイギリスを征服したノルマンディ公ウィリアム、南イタリアに進出したロロなどが出た。
・ユトランド半島(現在のデンマーク)にいたノルマン人(イギリスではデーン人といわれた)はイングランドに侵入。デーン朝を建てる。
・スカンジナヴィア西側、現在のノルウェーにいたノルマン人は北大西洋を横断してアイスランド、グリーンランドに進出、一部は北アメリカ大陸にも達していた。
・スカンジナヴィア東側、現在のスウェーデンにいたノルマン人は、バルト海を渡ってスラブ人地域に移動し、スラブ民族と同化しながらロシア国家のもとをつくる。
ノルマン人は征服活動を展開したが、その地の先住民の文化と同化し、ノルマン人としての個性を維持することはなかった。
a スカンディナヴィア 
b ユトランド 
a ヴァイキング 9〜12世紀にかけて、現在のイギリスやフランスなどに民族移動を行うとともに、西ヨーロッパ各地の海岸地帯で海賊活動を行ったノルマン人のこと。彼らは入り江(ヴィーク)に住む人々、という意味から、ヴァイキングと言われるようになった。彼らは、入り江を拠点に盛んに外洋を航行する船舶を襲うようになり、さらにおそらく人口増加の圧力から各地への植民に乗り出した。フランク王国の分裂で弱体化していた海岸や、ブリテン島の海岸を襲い、一部はフランスのノルマンディに定住、イングランドでは征服王朝のデーン朝、ノルマン朝を作った。またノルウェーのヴァイキングはアイスランド、グリーンランドからさらにアメリカ大陸にまで到達していたらしい。
Epi. ヴァイキング料理 日本でいう「ヴァイキング料理」とは、彼らとはまったく関係がない。昭和50年代に、日本のあるホテルで、料理を好きなだけ取り分ける方式の食事形式を取り入れた時、たまたま上映されていたアメリカ映画カーク・ダグラス主演の「バイキング」の食事シーンをヒントにして名付けただという。欧米で同様の形式の食事はブッフェスタイルという。
 北フランス進出 
a ロロ 
b ノルマンディー公国 911年、ロロに率いられたノルマン人の一派は、フランク王国に侵攻、フランク国王は、キリスト教への改宗などを条件に、彼らにセーヌ川下流域の定住を認めなければならなかった。その地はその後、ノルマンディーと言われ、ロロの子孫はノルマン貴族としてフランク王(後にカペー朝のフランス)の家臣となった。さらに1066年にはノルマンディ公ウィリアムがイングランドを征服(ノルマン=コンクェスト)し、ノルマンディーとイングランドを併せたノルマン朝イギリスが成立した。ノルマンディーのノルマン人はさらに、南イタリアに進出し、1130年には両シチリア王国を建設する。
 南イタリア進出(ノルマン人の)ノルマン人が南イタリアに進出した事情は次のようなことである。
ノルマン人の進出事情:11世紀の初め、たまたま聖地巡礼の途中に南イタリアを訪れたていたノルマンディの騎士たちは、おりからイスラーム軍(ヨーロッパの人々はサラセンといった)の攻撃に苦しむサレルノ市に請われて力を貸すことになった。ノルマン騎士の働きでイスラーム軍を撃退することに成功した南イタリアの諸都市は相次いで彼らを傭兵として招くことになった。おりから本国ノルマンディでは領地不足から新天地を求めていた騎士が多かったので、次々と南イタリアに移住していった。
当時の南イタリア:当時の南イタリア(イタリア半島南部とシチリア島)は、イスラーム軍の侵攻だけでなく、かつての支配者ビザンツ帝国、全イタリアの統治権を主張して進出を図る神聖ローマ帝国(ドイツ王)、世俗の権力と同じような権力を南イタリアでも行使しようとするローマ教皇、そして商業圏拡大のみならず領土的野心も持ち始めたヴェネツィアなどの都市共和国、などが入り乱れて争奪戦を繰り返していた。南イタリア及びシチリア島は地中海の中央部に位置するので、ローマとカルタゴの争い以来、地中海世界の最も政治的に重要な地域だったといえる。
ノルマン朝の成立:そのような地域に進出したノルマン人が、はじめは傭兵として登場したものだったが、結局、漁夫の利を占める形でその覇権を握ることとなる。それは次のような経緯であった。
南イタリアに進出したノルマン人の中で最も頭角を現したのはノルマンディのアルタヴィラの領主タンクレディ家の息子たちで、長子鉄腕グリエルモがサレルノ侯より封土を与えられたのに続き、弟のロベルト=グイスカルドは実力で南イタリア一帯を制圧し、ローマ教皇から「公」の称号を許され、次弟のルッジェロはシチリアをイスラーム勢力から奪取してシチリア伯となった。そのルッジェロの子のルッジェロ2世が南イタリアとシチリアにまたがる主権を確立してローマ教皇から「シチリア王」と「アプリア公」、さらにカプアとナポリの宗主権などを認められ、1130年に国王となった。これが南イタリアとシチリアにまたがる「ノルマン朝」(ノルマン王国)である。<井上幸治編『南欧史』1957 世界各国史旧版 山川出版社 p.72-75 などによる> → 両シチリア王国
a ルッジェーロ2世南イタリア・シチリア島のノルマン王国(後の両シチリア王国)を建国したノルマン人の王。父の代に南イタリアに進出したノルマンディ出身のノルマン騎士で、父ルッジェロがシチリアをイスラーム勢力から奪ってシチリア伯となった後、ルッジェーロ2世として南イタリアとシチリア島の両方を制圧し、ローマ教皇から王位を認められた。1130年のクリスマスにパレルモ(シチリアの都市)で戴冠式を挙行した
彼は、ビザンツ帝国、神聖ローマ帝国、ローマ教皇、ヴェネツィア、イスラーム勢力など南イタリア・シチリアをねらう勢力を実力で撃退しながら巧みに操り、覇権を確立した。第2回十字軍に参加して北アフリカ進出の足場を築き、トリポリやチュニスにも進出した。ノルマンディを故郷とするノルマン人の騎士であるが、彼の統治下の南イタリア・シチリア島にはギリシア、ローマ、イスラームの各民族が混在し、文化も重層的に重なり合っていた。彼はノルマンディー式の集権的封建体制で統治したが、宗教や風俗に対しては寛容政策をとった。パレルモに残るサン=ジョバンニ=デリ=エレミィティ寺院附属の僧院は彼の時に建造された。<井上幸治編『南欧史』1957 世界各国史旧版 山川出版社 p.74 などによる>
b 両シチリア王国 1130年、ノルマン人のルッジェーロ2世が建国した南イタリアとシチリアにまたがる王国。その後、支配者はたびたび交替し、盛衰を繰り返しながら、1320年にはナポリ王国とシチリア王国と分離。その後も分離統合が続いたが、最終的には1860年にイタリア王国に統合される。
南イタリアはビザンツ帝国や神聖ローマ帝国、さらにローマ教皇、ランゴバルド系の豪族などの勢力が入り乱れ、さらにイスラーム勢力の侵略を受け、混乱していた。11世紀の初め、この地に姿を現した最初のノルマン人は、ノルマンディーから聖地巡礼の途中に立ち寄った騎士たちだった(→ノルマン人の南イタリア進出)。彼らは、イスラームの攻撃に悩むサレルノを助けて定住し、それをきっかけとしてノルマンディーから多数のノルマン人が南イタリアにやってきた。やがてその指導者ロベルト=ギスカルドはローマ教皇から南イタリアの領有を認められ、さらにその弟ルッジェーロは827年からにイスラームによって占領されていたシチリア島を奪取し、その子のルッジェーロ2世が1130年、南イタリア(ナポリが中心)とシチリア島にまたがるノルマン王国(ノルマン朝シチリア)の樹立をローマ教皇から認められた。これが「両シチリア王国」の起源である。両シチリア王国はキリスト教文化とともにイスラーム文化を受容し、独特の文化を形成した。しかし、地中海の海上貿易の要衝に当たるこの地は、教皇・ドイツ・フランス・スペインなどの諸勢力の利害が対立し、19世紀にイタリアに編入されるまでさまざまな権力が交替する。→シチリア島(中世)
またノルマン朝の次には、神聖ローマ帝国のシュタウフェン家が統治するシュタウフェン朝(フリードリッヒ2世の時、パレルモが繁栄)を経て、フランスのアンジュー家の支配、スペインのアラゴン家の支配など、複雑に交替する。 → シチリアの晩鐘
なお、一般に1130年のルッジェーロ2世の建国から「両シチリア王国」というが、実際にこの国号が使われたのは、ずっと後の
 ・1442〜58年 アラゴン家のフェルディナンド4世の統治
 ・1816〜60年 スペイン=ブルボン家のフェルディナンド1世の統治
の二つの時期のみである。 → ナポリ王国  シチリア王国  イタリアの統一
・イギリスの国家形成
 大ブリテン島ヨーロッパ大陸からドーバー海峡を夾んで横たわる大きな島で、西隣のアイルランドの北部と共にイギリスの本体を構成する。氷河期には大陸と地続きで、約6000年前に大陸から分離して島になった。
ブリテン島はアングロ=サクソン人の侵入以前にこの島に居住していたケルト人の一派ブリトゥン人に由来する。また、ブリトゥン人がアングロ=サクソン人に圧迫されて、島の辺境に追いやられ、さらにドーバー海峡を越えて現フランスに至り、その地がブリトゥン人の地(フランス語でブルターニュ)といわれるようになると、その地と区別して、この島の方をグレート=ブリテン(大ブリテン)と言うようになった。
大ブリテンは、南西部のイングランド(アングロ人の土地、の意味)・北部のスコットランド・西部のウェールズからなり、現在では北アイルランドと併せて、「大ブリテンおよび北アイルランド連合王国 United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland 」が現在のイギリス王国の正式な呼称となっている。
「イギリス」と「ブリテン」 本来「ブリテンの」を意味する「British」は、日本ではEnglish と同じく、「イギリスの」を意味しており、British Empire は「イギリス帝国」、Brithish Musiam は「大英博物館」となる。「イギリス」は本来、「イングランドの」を意味する English が、オランダ人を通して江戸時代の日本でイギリス全体を示す言葉として定着したもの。もっともこの国の言葉は、English =英語、という。そして、本国で使われている生粋の「イギリス英語」のことは British English (または、現在なら、Queen's English)という。ややこしい話です。
 イギリス(国家の形成)大ブリテン島で国家が形成されるまでの経過は次のようにまとめられる。
巨石文化の時代:大ブリテン島は氷河期には大陸と地続きであったのでネアンデルタール人など旧人が居住したことが遺跡で判っている。約1万年前には新人が大型獣を追ってやってくるようになり、約6000年前に大陸から分離して島になった。前2200年前から前1300年前の時期に、有名なストーンヘンジという巨石文化を残したのは、ビーカ人と呼ばれる人びとで、青銅器と農耕文明をもっていた。
ケルト人(ブリトゥン人)の時代:前7世紀頃から、大陸から鉄器文明をもたらしたのがケルト人であった。彼らのもたらした鉄器文明で生産力が上がり、人口も増えたが、同時に部族間の抗争が激化し、奴隷制が広がった。その部族の中で最も有力だったのがブリトゥン人であり、この地を支配したローマによって、この地はブリタニアと言われた。前55年と前54年にはカエサルがガリア遠征の足を伸ばしてブリタニアに出兵したが、ブリトゥン人は戦車戦法で抵抗し、征服を免れた。その一部は圧迫されてドーバーを渡って大陸に移り、その地が「ブルターニュ」と言われるようになる。
ローマの属州ブリタニア時代:後1世紀に再びローマ軍の侵攻を受けて属州となり、122年には五賢帝の一人ハドリアヌス帝が有名な長城を築き、北方のスコット人などに備えた。ロンドン(ローマ名はロンディニウム)ローマが建設した都市である。また、マンチェスター、ランカシャー、ランカスターのような地名は軍団駐屯地を意味するラテン語のカストルムに由来している。キリスト教もローマ時代に持ち込まれ、公認以後は急速に広まった。
アングロ=サクソン人の移住:3世紀頃からローマの支配が弱くなるとブリトゥン人が自立したが、5世紀頃から大陸にゲルマン民族の大移動が始まり、その一派のアングロ=サクソン人はブリテン島に盛んに移住するようになった。アーサー王伝説は、アングロ=サクソン人の侵入と戦ったブリトゥン人の英雄の物語である。アングロ=サクソン人の移住・征服活動は長期にわたり、その間、ブリトゥン人などのケルト系氏族も同化され、6世紀末にはブリテン島の東南部から中部を占領し、この地は「アングル人の土地」を意味する「イングランド」と言われるようになった。6世紀後半ローマ教皇グレゴリウス1世がカトリックの布教に努め、大陸よりも早く、カトリック信仰が広がり、カンタベリーには大司教がおかれた。
イングランドの統一:イングランドには8〜9世紀にかけて7つの王国が成立、アングロ=サクソン七王国となった。アングロ=サクソン七王国は、829年にウェセックス王エグバートによって統一され、ブリテン島の北部と西部を除く地域を支配し、後のイギリス国家の基本となるここにイングランド王国が成立した。9世紀末のアルフレッド大王はデーン人の侵攻に苦しみながらもイングランドの統一的支配を強めた。
デーン人の侵攻:ゲルマン民族の大移動の第二波であるノルマン人の移住活動が始まり、ブリテン島の海岸各地には、大陸のユランド半島を原住地とするデーン人が、いわゆるヴァイキング活動を展開した。アルフレッド大王の死後もデーン人の大規模な移住が続き、ついにその王クヌートは1016年、イングランド王位についてデーン朝を開き、さらにデンマーク王、ノルウェーー王を兼ねて北海帝国といわれる広範な海上王国を築いた。
ノルマンディー公ウィリアムのイングランド征服:デーン朝はクヌートの死後、急に衰え、代わってイングランド王国にはアングロ=サクソン系の王ハロルドが復位した。その王位継承権を主張したノルマンディー公ウィリアムは、1066年ドーバー海峡を渡ってイングランドに侵攻、ヘースティングスの戦いでハロルドの軍を破り征服した。これがイングランド王国のノルマン朝ウィリアム1世である。このノルマン=コンクェストによって、イギリスにフランス風(ラテン風)の国家統治と宮廷文化がもたらされ、それ以後のイギリスとフランスの密接な(というより一体の)関係が始まる。
※イギリス国家と文化の特徴:ノルマン朝の成立によって形成されたイギリス国家の特徴は、その重層性にある。ケルト以前の文化・ケルト(ブリトゥン人)文化・ローマ文化・アングロ=サクソン文化・ノルマン文化・フランス文化が重層的に影響し合っている。基本はアングロ=サクソン文化を基層としてノルマン=コンクェスト以来の支配層のフランス文化が強く影響を与えたものといえるが、それ以前のケルト文化やローマ文化の影響も色濃く残っている。その言語である英語にもそれらの文化要素の混合した跡を見ることができるという。
a 七王国大ブリテン島にゲルマン系のアングロ=サクソン人が建てた、ケント・サセックス・ウェセックス・エセックス・イースト=アングリア・マーシア・ノーザンブリアの七王国。
829年、ウェセックス王エグバートが全イングランドを統一したが、すでにそのころからノルマン人の一派、デーン人の侵攻が始まっていた。 
b イングランド王国イングランドとは「アングル(アングロ)人の島」、という意味で、大ブリテン島の南西部の広い範囲をさす地名。その地は、ローマ帝国が消滅した後、アングロ=サクソン人による七王国が形成され、829年にその一つのウェセックス王エグバートによってはじめて統一されてイングランド王国が成立した。そのころからヴァイキング(デーン人)の侵攻が激しくなり、アルフレッド大王が一時それを撃退したが、1016年にはデーン人クヌート王の征服を受けてデーン朝が成立、その後いったんアングロ=サクソン王朝が復活したが、1066年にはノルマン=コンクェストによるノルマン朝が成立した。ノルマン朝はフランス王家とも姻戚関係があったためノルマン朝が断絶するとフランスのアンジュー家から王を迎え、プランタジネット朝となった。その結果イギリスとフランスの王位継承の争いである百年戦争の時代を迎える。百年戦争でフランス内のイギリス領をほぼ失った。ヨーク家とランカスター家が争ったばら戦争を経て、チューダー朝が成立、そのもとで絶対王権を強化した。1714年からはハノーヴァー朝、1901年からはサックス=コーヴァーグ=ゴータ朝(第1次大戦勃発によりウィンザー朝に改名)となり、現在に至っている。
スコットランド・ウェールズとの関係:ブリテン島には北方のスコットランド、西方のウェールズが独立した王国を形成していた。次第にイングランドの優位が確立し、1536年にはウェールズを併合し、1603年にはスチュアート朝のもとでスコットランドと同君連合の形をとり、1707年に両国は合同して「グレート=ブリテン王国」となった。1801年1月1日をもってグレート=ブリテンおよびアイルランド連合王国が成立、イギリスの国旗に「ユニオン・ジャック」が用いられるようになった。なお、1922年、北アイルランドを除いたアイルランドが独立し、アイルランド自由国が成立したため、「グレート=ブリテンおよび北アイルランド連合王国」となる。つまり現在もイングランドはスコットランドとの連合王国(United Kingdom)の形式をとっており、スコットランドおよびウェールズの分離独立要求を抱えている。国際的な主権国家としては「イギリス」として一つの国家を形成しているが、サッカーやラグビーなど、この地で発達したスポーツの国際試合は、あいかわらず「イングランド」「スコットランド」「ウェールズ」は個別のチームとして参加しているのは周知のことである。
b エグバートアングロ=サクソン七王国の一つ、ブリテン島南西部のウェセックス王であったが、829年にはじめてイングランド王国の王として認められた国王。当時、ブリテン島の海岸部は各地でヴァイキング(デーン人)の海賊活動に悩まされており、七王国はまとまってイングランド防衛に当たる必要が強くなっていた。ヴァイキングとの戦いの先頭に立っていたエグバートは、他の国王から宗主として受け入れられ、ここにイングランド王国の統一が実現した。しかし、まだ中央集権的な統治機構は生まれておらず、地方には有力な首長(王)と小首長(伯)が分立しており、ヴァイキングとの戦いでも十分な軍団を持つことはできなかった。エグバートの孫のアルフレッド大王は、イングランド王国の統一的王権の確立に努めたが、デーン人の侵攻と移住はさらに続くこととなる。 
c デーン人広くヴァイキングといわれるノルマン人を、イギリスではデーン人という。現在のデンマークを本拠として、8世紀の末頃からブリテン島の海岸に侵攻を開始し、アングロサクソン七王国を脅かした。9世紀末にはイングランド王国のアフルレッド大王によって撃退されたが、イングランドの一部に支配地を残した(デーンロー地方)。11世紀にはデーン人のデンマーク王クヌートがイングランドを征服し、デーン朝(1016〜1042年)を立てた。しかしこの間、キリスト教化すると共に次第にアングロ=サクソン人に同化した。
d アルフレッド大王イングランド王国の国王(在位871〜899年)でエグバートの孫。当時強まっていたデーン人(ヴァイキング)の侵攻に対して、死闘を繰り返し、一部を除いてデーン人を撃退し、イングランドの統一を守った。そこでアルフレッドを「イギリスのカール大帝」と言うこともある。
e クヌート王カヌート、またはクヌーズとも表記。11世紀にイングランドを支配したデーン人の王。8世紀末に始まったデーン人(ヴァイキング)のイングランド侵攻は、アルフレッド大王によって一時撃退されたが、11世紀にふたたび活発になった。1017年にはデンマーククヌートが来襲し、アングロ=サクソン王朝を倒し、イギリス王位についてデーン朝を開始、デンマークとイングランドの双方を支配し、さらにノルウェーも含む北海帝国を建設した。クヌートはキリスト教に改宗し、戦乱によって荒廃したイングランドの復興に努めたため、デーン人もアングロ=サクソンとの同化が進んだ。しかし、クヌートが死ぬとデーン朝は内紛のため瓦解し、イングランドでは1042年エドワード懺悔王がイギリス王となってアングロ=サクソン王朝が復活した。
b デーン朝1017年、デーン人クヌート王の征服によって成立したイングランド(イギリス)の王朝。デーン人はアングロ=サクソンを征服したが、キリスト教を受容しながら次第にアングロサクソンに同化した。クヌート王の死後、後継者が対立して衰退し、1042年にアングロ=サクソン人の王位(エドワード懺悔王)が復活した。
f ノルマンディー公ウィリアム1066年、イングランド王国のエドワード懺悔王が死に、ハロルド2世が即位したが、ノルマンディー公のウィリアムがエドワードの従兄弟に当たることから王位継承を主張、イングランドに侵入した。ヘースティングスの戦いでハロルドの軍を破ったウィリアムは、1066年のクリスマスに、ウェストミンスター教会で戴冠式を挙げノルマン朝ウィリアム1世となった。このことを「ノルマン=コンクェスト(ノルマンの征服)」という。
彼はノルマンディー公としてはフランス王の家臣であるが、同時にイギリスの国王であることとなった。ここから、中世を通じてのフランスとイギリスの複雑な関係が始まるので、注意を要する。
彼は抵抗するアングロ=サクソン貴族の土地を取り上げ、ノルマン人で手柄を立てた者に与えた。また、征服地の全土に徴税の目的で土地調査(検地)を実施し、ドゥムズディ=ブック(Domesday Book)という土地台帳をつくった(1086年)。これは現存しており、イギリス中世の社会を研究する上の重要な史料となっている。
g ヘースティングスの戦い 1066年、ノルマンディー公ウィリアムの軍がイングランドに侵入、ヘースティングスの戦いで、アングロ=サクソン王国のハロルドの軍を破り、イングランドを征服した。この「ノルマン=コンケスト」でノルマン朝が成立。ヘースティングスはイギリスのサセックス州の地名。
h ノルマン=コンクェスト1066年、ノルマンディー公ウィリアムがドーバー海峡を超えてイングランドに侵入し、ヘースティングスの戦いでアングロ=サクソン王朝ハロルドの軍を破り、その年クリスマスにイギリス王として即位、ノルマン朝を開いたこと。ウィリアム1世は各地で抵抗するアングロ=サクソン系の貴族を服属させ、イングランドを完全に統一し、強固な征服王朝をうち立てた。
i ノルマン朝1066年、ノルマンディー公ウィリアムの「ノルマン=コンクェスト」によって成立した王朝。フランスやドイツの中世の王権に比べ、征服王朝として諸侯に対して強大であったことが特徴。またノルマン朝の領土はフランスのノルマンディーと、ドーバー海峡を夾んだイングランドに及んでおり、むしろ本拠はノルマンディーに残していた。またイギリス王は同時にフランス国王の家臣としてのノルマンディー公の立場でもあった。また、このときウィリアムと一緒にイギリスに渡ったノルマン人の貴族たちによってイギリスにラテン語文化がもたらされ、アングロ=サクソン文化と融合することとなった。1135年にヘンリー1世が死去すると、男子の後継者がいなかったので、王位継承をめぐって内紛が起こり、1154年にフランスのアンジュー伯ヘンリー2世が王位を継承、プランタジネット朝となる。
 ドゥムズディ=ブック 
・ロシアの国家形成
 スラブ人  → スラブ民族
a リューリク862年、ノルマン人を率いてロシアに上陸、スラブ族を圧倒してノブゴロドを中心にノルマン人の国を建設した。以後、その配下のルーシ人がロシア国家を建設したと伝承されていくので、リューリク朝ともいう。リューリク朝はノブゴロド国の次のキエフ公国時代はスラブ人との同化が進み、モスクワ大公国の時代の16世紀末、イヴァン4世の死後、その系統は断絶し、ロマノフ朝に交代する。
b ノヴゴロド国またはノブゴロド国。公国と言うこともある。ゴロドは「城塞」の意味。862年、ノルマン人のルーシ(ルス)族が、リューリクに率いられてロシアに侵入、ノヴゴロドを占領し、スラブ人を支配する国家を建設した。これがロシア国家の起源とされている。ノヴゴロド国は後にキエフに建国されたキエフ公国に併合される。その後、都市ノヴゴロドは毛皮や木材などの森林資源をバルト海交易圏と交易し、さらに南方のドニェプル川中流キエフを経て黒海方面との交易の中継地として繁栄する。 → ノヴゴロド 
c ルーシまたはルスという。スウェーデンからロシアに移住したノルマン人と考えられている。「船を漕ぐ人」の意味とも言われるが、定説はない。また「ルーシ」が「ロシア」の語源という。彼らが先住民のスラブ人と混血し、現在のロシア人となったと考えられる。彼らは9世紀中頃、バルト海沿岸から北ロシアに入り、ノヴゴロドに拠点を設けて毛皮、蜜蝋、琥珀、奴隷などを重要な商品とし、水路を伝って南下してドニェプル川に出て黒海方面等の交易を行うようになり、ビザンツ帝国とも接触し、ロシア国家を形成していくことになる。
毛皮 現在のロシア北部に進出したスウェーデン系ヴァイキングのルーシは、森林の小動物を捉え、その毛皮を商品として交易を行った。毛皮とはクロテン(黒貂)、テン、オコジョ、リス、カワウソ、キツネなどのもので、中でもクロテンの毛皮は最高級品として高価だった。クロテンの毛皮はロシアでは後にも貨幣と同等に扱われたという。ノヴゴロドは毛皮の集積地として栄え、さらにドニェプル川中流のキエフは毛皮の中継基地だった。9世紀ごろには、ロシアのクロテンの毛皮はバルト海からヨーロッパに運ばれ(フランク王国のカール大帝もクロテンの毛皮を着ていたという)、一方では黒海を経てコンスタンティノープルへ、さらにムスリム商人の手で、バグダードにも運ばれた。イスラーム世界でも毛皮は絹と並んで富と地位の象徴として珍重されたという。イスラーム世界とロシアが交易関係にあったことは、現在でもバルト海沿岸から大量のアラブ銀貨が発掘されているので明らかになっている。琥珀はバルト海沿岸の特産で、イスラーム世界にもたらされていた。
毛皮はこのようにロシアの重要な国際商品だったので、次のモスクワ大公国は、イェルマークの派遣に代表されるような積極的なシベリア進出を行いった。またロマノフ朝のピョートル大帝時代に清朝とのあいだに国境紛争が起きネルチンスク条約を締結したが、それもクロテンを追って毛皮商人がシベリアの東端に達したために起こったことであった。ロシア以外にも、女真もシベリア東南部で毛皮を重要な産物としていた。北米大陸ではフランスによるカナダの開拓の先頭に立ったのは毛皮商人であった。
d キエフ公国9世紀末、ノヴゴロド国が南下して、ドニェプル川中流のキエフを占領、912年リューリクの子のイーゴリが大公として治め、キエフ公国という。またこの間のことをロシア史では「キエフ=ルーシ」といっている。ロシアといってもほぼ現在のウクライナにあたる。キエフ公国はドニェプルから黒海に出て盛んに南方に進出、何度かコンスタンティノープルを攻撃するなど、ビザンツ帝国に脅威を与える。988年大公ウラディミル1世ギリシア正教を公認の宗教として取り入れ、ビザンツ文化を受容、「ビザンツ化」を推進した。次のヤロスラフ賢公とともにキエフ公国の全盛期となった。しかし、1240年、モンゴル帝国のバトゥの率いる遠征軍によって滅ぼされ、ロシアは長い「タタールのくびき」の時代にはいることとなる。 
キエフ現在のウクライナ共和国の首都。ドニェプル川中流の交通の要地にあり、北のノヴゴロドと並んでバルト海と黒海を結ぶ商業ルートの中心都市として発達。9世紀末からキエフ公国の都となる。ロシアの森林から産するクロテンなどの毛皮が重要な輸出品となっていたが、キエフはその中継地として栄えた。1240年、バトゥの率いるモンゴル軍の攻撃を受け、キエフ公国は滅亡、キエフも大きな打撃を受けた。
・その他のノルマン人の活動
B 北欧諸国北ヨーロッパは、スカンジナヴィア半島、ユトランド半島、アイスランドを含み、現在の国家で言うと、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、アイスランドの五ヵ国がある地域。
このうち、特にデンマーク・スウェーデン・ノルウェーの三国は共に民族的にはゲルマン民族の一系統のノルマン人(かつてのヴァイキングといわれた人々の子孫)であり、かつては連合王国でもあって関係が深く、とくに北欧三国ということもある。フィンランドはやや系統が異なり、民族的にはウラル方面から移住したアジア系とされている(しかし長い間ノルマン系、スラブ系との混血が続いたので、風貌ではわからない)。
北欧諸国の歴史は8世紀頃のヴァイキングの活動から内容が豊富になるが、北欧神話として知られる『エッダ』で物語られている。またアイスランドにはノルウェー人との関わりの深い、中世説話である『サガ』が残されている。
それらにはゲルマン人と同じく、自然崇拝や呪術信仰とともに、さまざまな英雄譚が含まれていて、キリスト教化する以前の社会を反映している。ヴァイキングとして周辺のゲルマン人やスラブ人社会と接触しながら、11世紀頃までにキリスト教を取り入れ、同時に国家の形成の段階にはいる。
北欧史の概略:北欧諸国の歴史を見ると、現在のような5ヵ国の枠組みになったのは20世紀のことであり、それ以前は国境も含めて現在の国家を固定的に見ると誤解してしまうので注意を要する。また現在では北欧諸国はいずれも「小国」「中立国」というイメージが強いが、過去にはそうではなく、ヨーロッパの大国として強大な力を振るった時期もあった。ごくおおざっぱに見ると、北欧三国ではデンマークが最も強大であり、他の二つを実質的に従えていた時期(カルマル同盟=1397年〜16世紀)があり、ついでそこから1523年にスウェーデンが独立し、次第に有力となってデンマークと争い優位に立ち、バルト帝国として東欧の大国となった時期がある。ノルウェーはデンマークに、フィンランドはスウェーデンに(後にはロシアに)、アイスランドはノルウェーにそれぞれ従属していた時期が長く、近代にいたって独立した地域である。従っ北欧史はデンマークとスウェーデンを軸にまとめるのがわかりやすい。
現代の「北欧モデル」:現在、北欧諸国はいずれも高い教育程度、行き届いた社会福祉などで注目されている。社会福祉や教育、行政サービスの充実は高い税負担に支えられている。60%に達する所得税に対しても、国民は不満をもたず、豊かな社会生活を享受しているといえる。女性の就業率も高いが、充実した保育制度によって少子化には歯止めがかかり、そして経済成長率も3〜5%を維持している。この「北欧モデル」は、グローバリゼーション時代に応じた自由競争と称して弱者切り捨てを進める日本とは対極にある考えとして注目されている。
a デンマークユトランド半島とその東側の島々に拠ったノルマン人の一派のデーン人がが建てた国。9世紀頃から有力となり、キリスト教を受け入れ、10世紀には神聖ローマ帝国に臣下の礼をとった。11世紀のクヌート王はイングランド(1016年)・ノルウェーを征服して北海沿岸を支配下に収める大国(北海帝国)をつくった。デーン人のイングランド支配は1042年まで続いたが、その後衰退し、イングランドではアングロ=サクソン王朝が復活した。
デンマークの全盛期。カルマル同盟:デンマークは、13世紀ごろ塩漬けにしんなどの特産品を輸出し、北海とバルト海の貿易で繁栄、バルト海で最も優勢となり、現スウェーデン南部のスコーネ地方やバルト海中央のゴットランドを領土とし、エストニアにも進出した。これは同じくバルト海で活動していた北ドイツのハンザ同盟諸都市と対立することとなり、14世紀にはドイツのハンザ同盟と争った。1397年、女王マルグレーテが出て、ノルウェー、スウェーデンを同君連合とるすカルマル同盟を結成、勢力を回復する。デンマークはカルマル同盟の盟主として15世紀に最も栄えたが、次第に分離独立の要求を強くしたスウェーデンで反乱が起き、1523年にグスタフ=バーサが国王となったため、カルマル同盟は実質的に崩壊した。その後は、デンマーク=ノルウェー連合王国として実質的にノルウェーを従属させてなおもヨーロッパの有力国として存続した。
デンマークの衰退:17世紀には、クリスチャン4世が首都コペンハーゲンの建設などを進め、なお繁栄が続いていたが、ドイツに三十年戦争がおると1625年に新教徒側でドイツに介入したが失敗した。またスウェーデンのグスタフ=アドルフが新教徒軍の盟主として軍事的成功を重ねると、それを妨害しようとして出兵し、逆に敗北して1645年の講和で国土のかなりの部分を失い、デンマークの衰退が決定的となった。 → 19世紀のデンマーク王国 現代のデンマーク
b スウェーデン スカンディナビア半島東側に、10世紀頃勃興したノルマン人の国で北欧諸国の一つ。11世紀ごろキリスト教を受容、12世紀には当方に進出、フィンランド地方を併合した。13世紀には法整備が進み、首都ストックホルムも建設された。しかし、14世紀には黒死病の流行による生産力の減少(北欧三国いずれでも起こった)し、王権をめぐっても争いが生じ、貴族の対立も加わり混乱した。
カルマル同盟とスウェーデン:そのような中でデンマークのマルグレーテの主導のもとで1397年に形成されたカルマル同盟に加わり、実質的なデンマークの支配を受けることになった。15世紀に入り、次第にカルマル同盟からの分離独立を要求するようになったが、本国デンマーク側の軍隊によって抑えられた。独立の願いを実現したのは1523年のグスタフ=バーサの反乱からだった。農民を組織し、巧みな戦術で独立を達成したグスタフ=バーサは同年、国王に推戴され、バーサ王朝が成立した。そのもとで17世紀の国王グスタフ=アドルフの時代にはバルト帝国といわれる全盛期を迎えた。 → スウェーデン(三十年戦争期) 19世紀のスウェーデン 現代のスウェーデン
Epi. バーサ・ロッペット 1523年冬、スウェーデンのデンマークからの独立運動を起こすとしたグスタフ=バーサは、モーラの農民たちに決起を促したが、衆議が一決しない。絶望したバーサはがノルウェーへの亡命に向かった。ようやく決起を決議した農民は急ぎ2人の使者をスキーで追わせた。使者がバーサに追いつくまでスキーで走った距離が約82キロだった。これを記念して1922年から始まったのがスキー大会がバーサ・ロッペット(競走)で、毎年3月初旬の日曜日、モーラとセーレン間の約82キロで行われている。外国からの参加者もあり、一大行事となっている。今までの記録は4時間45分だそうだ。旭川ではそのまま借りてバーサスキー大会が催されている。<武田龍夫『物語北欧の歴史』1993 中公新書 p.35>
c ノルウェー スカンディナビア半島西側の大西洋に面してリアス式海岸が延々と続き、その入り江を拠点としたノルマン人は盛んにヴァイキングとして活動した。彼らはヨーロッパ各地やアイスアンドグリーンランドに入植、一部はアメリカ大陸にも到達した。一方、本拠地に残っていたノルマン人は、9世紀末に統一国家への歩みを始め、11世紀初めにキリスト教を受容して国家体制を作り上げた。11世紀後半にはデンマークのクヌート王の支配を受ける。その後自立して13世紀には法整備が進み、首都オスロが建設され、大西洋側のベルゲンは商業都市として、ハンザ同盟の在外商館が置かれた。
カルマル同盟とノルウェー:1397年にはデンマークを上位国とする北欧三国のカルマル同盟が成立し、実質的にはデンマークのマルグレーテの支配を受ける。カルマル同盟は1523年にスウェーデンが分離して実質的に解体したが、ノルウェーはその後も長くデンマークとの連合王国として実質的なデンマークの宗主権下におかれる。
 → 19世紀のノルウェー  現代のノルウェー
 北アメリカ(ヴァイキングの入植)860年頃、ノルウェーを拠点としたヴァイキングがアイスランドに進出、入植を開始した。さらに982年頃アイスランドからグリーンランド植民を開始した。北欧古代文学の「グリーンランド人のサガ」の中で語られていることによれば、ビャルニという男が985年に、アイスランドからグリーンランドに向かう途中、舟を流されて遠く南西に漂流して、見知らぬ土地を目にしが、グリーンランドの一部だと思い上陸せず、また海流に流されてグリーンランドに戻った。ついで992年(1000年説も有力)、ライフ=エリクソンがビャルニの見た土地への探検を思い立ち、35人の仲間と出発、北米大陸を目にして、海岸線を何百キロか南下し、最初に上陸したところをヘルランド(板石の地。バフィン湾近くらしい)、さらに南下して上陸した地をマルクランド(森林の地。ラブラドールらしいと呼び、もっと南下して上陸したところをヴィンランド(葡萄の地。ニューファウンドランドらしい))と命名した。彼らは葡萄と木材を積んでグリーンランドに戻った。これが事実であればコロンブスの大陸発見の500年前のことである。その後も大陸には何回かヴァイキングの植民が試みられたがすべて失敗した。グリーンランドのヴァイキング立ちもその後、本国との連絡も途絶えてしまい、全滅してしまった。その後もときどき「白いエスキモー」や「金髪のエスキモー」と会ったという難破船の船乗りの話が北欧に面得られている。<武田龍夫『物語北欧の歴史』1993 中公新書 p.13-14>
 アイスランドアイスランドはグリーンランドとスカンジナビア半島の中間、北極圏のすぐ南に位置する。氷河が多数残っている一方、火山が現在も盛んに活動している。まずアイルランドから修道士たちが移り住んでいたが、9世紀にノルウェーヴァイキングの入植が始まった。現在首都レイキャヴィークにそのリーダーだったインゴルフ=アーナソンの記念像が建っている。その後の930年から1030年頃までは古伝説であるサガが盛んに作られた時代だった。
ヴァイキングは政治集会で物事を決めていたが、930年から毎年夏の二週間、この地に全島のヴァイキングが集まって市場やスポーツを兼ねて政治集会(アルシンギ)を開くようになった。これは世界最古の議会でもある。12、3世紀頃はノルウェーとの頻繁な往来があったらしく、エッダ(いわゆる北欧神話)を記録したスノリ=スチュールルソンが現れた。1262年からはノルウェーの支配を受けるが、1380年からはデンマークの統治に服することになった。17〜18世紀には火山の爆発による気候不順のため人口が減少し、デンマーク政府は島民のデンマーク移住を計画したほどであった(実施はされず、やがて回復した。)<武田龍夫『物語北欧の歴史』1993 中公新書 p.213〜>  → 現在のアイスランド
 グリーンランド北米大陸の東北の南北に長い世界最大の島。ほとんどが氷に覆われているが南部に漁業中心の居住区があり、現在はデンマークの主権のもとに、自治政府が統治している。先住民はカナダなどと同じイヌイットであったが、10世紀頃からノルウェーヴァイキングアイスランドを経て移住。14世紀末にノルウェーがデンマークと同君王国(カルマル同盟)となったので、それ以降はデンマーク領。16〜18世紀はデンマークによる探検、入植、キリスト教(ルター派プロテスタント)の布教が行われた。ノルウェー独立(1905年)後はグリーンランドの帰属問題が起こったが、国際連盟の調停でデンマーク領と確定した(1933年)。第2次世界大戦後の冷戦下で、北極海を隔ててソ連と相対する位置にあるところから戦略上の重要度が増し、デンマークがNATOに加盟したため、1951年にアメリカとデンマークの間でグリーンラド防衛協定が成立し、アメリカ軍が基地を設置している。なお、1979年に自治政府が設置されたが、主権は依然としてデンマークが確保している。 → 現代のデンマーク
キ.封建社会の成立
A 封建社会封建社会とは、封建制度のもとでの社会を言うが、封建制度の理解には注意を要する。まず西ヨーロッパ中世における封建制度は<heudalism>の訳語であるが、その用語自体は、古代中国の周の封建制でも使われる。また、日本のいわゆる中世(鎌倉幕府から戦国時代、または江戸時代を含める場合もある)も封建制度の時代とされている。ここでは西ヨーロッパ中世の封建制度について説明する。封建制度とは、広い意味では農奴制を基盤とした荘園制という生産の仕組みと、そのような生産の仕組みの上に成り立っている、領主間の主従関係を指す歴史用語であるが、狭い意味では封建的主従関係の面だけをいうこともある。
a 商業・都市の衰退中世封建社会の荘園制度のもとでは、農業による食糧生産と家内制手工業による衣類、農具などが自給自足されたなおで、貨幣の流通はあったがきわめて量は少なくなり、商人の活動も少なくなり、商業と都市は衰退した。財産は貨幣や動産ではなく、土地(不動産)という形で蓄えられた。さらに、ローマ時代には盛んに行われていた東方との遠隔地取引も、7世紀からのイスラームの進出によって行われなくなり、9〜10世紀の商業活動の衰退をさらにうながした。商業の衰退には、キリスト教の教会が、利子を取ることを禁止していたことも原因となっていた。キリスト教徒の中には商人となったり貨幣を蓄えたりすることをさげすむ風潮があった。そのような中にあって、商業活動はわずかにユダヤ人の手によってになわれていた。
b 外敵の侵入8世紀以降のイスラーム勢力の侵入、9世紀以降のノルマン人の侵入、また8世紀のアヴァール人、10世紀のマジャール人の東方からの侵入などをいう。
B 封建的主従関係中世西ヨーロッパの封建社会において、領主層のなかに成立していた、主君と家臣の関係。家臣は主君に対して隷従し、従軍などの軍役を奉仕する。主君は家臣に封土を与え、保護する義務を負う。このような、土地を仲立ちとした主従関係を封建的主従関係という。この関係は双務的な関係であり、また重層的である。国王は最大の封建領主として有力な家臣を諸侯として広大な土地を与え、諸侯もそれぞれ家臣(騎士)を持つ。家臣もさらに下級の家臣と主従関係を結んでいる。主君と家臣は主従関係を結ぶ際、叙任式(オマージュ)という儀式を行った。家臣はひざまずいて忠誠を誓い、主君は家臣に剣をあたる、という儀式で主従関係を象徴させていた。このような封建的主従関係(レーエン制ともいう)は、ローマ時代の恩貸地制度と、ゲルマン社会の従士制度が結びついて形成されたと考えられ、国家による保護と言うことがなくなった中世社会に特有の社会関係である。日本でも鎌倉幕府の御家人制度以降の武家社会に見られた。
a 封土(領地) 
b 軍役 
c 双務契約的な関係双務的とは、主君と家臣とがいずれも義務を負うことであり、その関係がそれぞれの利害にあったとき、契約として結ばれることを言う。つまり、家臣は一方的に主君に対して従軍などの義務を負うのではなく、主君も家臣を保護するという義務を負っている。家臣は主君が十分自己を保護することが出来ないと考えれば、契約を解除することも出来る。契約がある以上、双方ともその義務を守る誠意を持たなければならない。またその関係は一対一ではなく、一人の家臣が複数の主君と契約することもあり得た。日本の「家臣は二君にまみえず」というのとはちがい、ドライな契約関係であった。
d 恩貸地制度もとはローマでベネフィキウムと言われた制度で、土地所有権を有力な人物に贈与してその保護下に入り、改めて御恩としてその土地を貸し与えられる形をとってその実質的な用益を確保すること。
e 従士制度ゲルマン社会に見られた、貴族や自由民の子弟が、有力者の従者となり、奉仕するかわりに馬や衣食を支給される制度。ここでは土地の給与はなかったが、フランク王国の時代に、恩貸地制度と結びついて、土地を仲立ちとする封建的主従関係(レーエン制)が形成されてたと考えられる。
f 騎士一般に中世封建社会で、領主階級の最下級の人々を言う。彼らは領主(貴族)を主君として仕えるかわりに馬や衣食を提供され、事あれば主君のため人武器を取り戦う。いわゆるナイト(knight)である。彼らは中世社会で、独特の文化を形成し、勇気・礼儀・名誉を重んじ、弱者特に女性を守ることを最上の道徳とする「騎士道」を作り上げた。
C 荘園制度英語では manor 、ドイツ語では Grundherrshaft 。中世封建社会での領主の経営する私有地で、その経営の単位となった土地。およそ一つの集落をもち、教会や水車などをもち、自給自足的な閉鎖的経済が行われていた。8〜9世紀にヨーロッパにおいて「古典荘園」が形成され、しだいに一つの荘園の中に異なる領主をもつ保有地が混在するようになる。12〜13世紀には、三圃制農業の普及、鉄製農具の改良などによる生産力の向上の結果、次第に領主直営地は減少し、地代も現物から貨幣地代へと変化した。このような、農奴の保有地と貨幣地代に変化した13世紀(フランス)、14世紀(イギリス)以降の荘園を「純粋荘園」ともいう。その中で農奴は次第に独立自営農民に成長し、荘園は解体期を迎え、市民革命によって封建的土地所有制度である荘園制度は消滅する。 → 荘園制の崩壊
a 領主一定の土地の租税徴収権を認められている人々。その領地内の農民から賦役や地代をとりたて、またその地の通行税を取ることも出来る。領主はその支配する土地(荘園の形態をとるのが一般的)の規模はさまざまで、国王もその直轄地に対しては領主である。多くは領主とは、諸侯であり教会であり、修道院であった。また領主の間には、有力なものと弱小なものとの間に、土地を仲立ちとした封建的主従関係が何重にも存在していた。彼らは封建社会における「貴族」であり、少数の支配階級であった。
b 直営地領主が領地(その単位は一般的には荘園)の中に設けている土地で、その生産物はすべて領主のものとなる。領主は、農奴を一定期間、直営地で耕作させて経営する。
c 保有地荘園の中の農奴が耕作する土地。その収穫物から農奴は生産物地代を領主に支払う。
d 共同利用地農村の周辺の牧草地や森林は、共同管理地(入会地)とされた。 
e 賦役(労働地代)農奴が領主に支払う、労働地代を言う。(labour service)内容は、領主直営地の耕作、道路や用水などの工事など。 
f 貢租(生産物地代)いわゆる年貢。農奴が保有地の生産物から、一定の率で領主に納入する税。現物地代である。
g 農奴一般に中世封建社会での農村の中核となった生産者階級を農奴という。農奴は荘園村落に縛り付けられ、完全な自由は認められてはいないが、家族をもち、身の回りの生産用具と若干の保有地をもつことが出来た。また重い生産物地代(貢租)を負担する以外にも、領主に対して結婚税、死亡税などさまざまな負担や、領主裁判権に服することなどを強いられていた。領主が生産物地代以外を農奴から収奪することを「経済外敵強制」という。このような農奴制は、領主間の主従関係とともに、封建制度の内実を構成している。11世紀頃から、三圃制農業が普及し、農業生産力が向上したことによって、農奴の生活も向上したが、貨幣経済が荘園に浸透したため領主は農奴に対する貨幣地代の負担を増やす封建反動が起き、14世紀のイギリスのワット=タイラーの乱、フランスのジャックリーの乱のような農奴の反乱が起こる。反乱そのものは鎮圧されるが、ペストの流行による農奴人口の減少も相まって農奴の待遇を改めざるを得なくなり、その地位は次第に向上する。その身分的な解放の要求は、18世紀末のまずフランス革命での封建的特権の廃止によって実現し、農奴制は崩壊、封建社会から資本主義社会に移行した。しかし、ドイツやロシアの農奴制のように、19世紀まで存続した地域もあった。
結婚税 農奴が結婚する時に領主に納める税。少額の貨幣で納めるのが通常であった。同じ荘園内の農奴同士でないと結婚できず、田の荘園の農奴との結婚は禁止されていた。
死亡税 農奴が死亡した場合、その相続人が納める税。本来その土地は領主のものなので、いったん領主に返し、死亡税を納めることによって保有地として認められるとされた。税率は通常、地価の2〜10%であったが、馬や牛などで納める場合もあった。
上記の結婚税や死亡税だけではなく、農奴の負担する税は様々であった。
h 十分の一税 → ク.教会の権威 十分の一税
i 自給自足の現物経済荘園の中では、領主が所有する水車小屋で小麦粉をひき、鍛冶屋が農具をつくるなどほとんど自給自足でまかなわれた。荘園で産出されない物は、近隣の荘園との物々交換によって手に入れた。
j 不輸不入権インムニテートという。封建制度のもとで、貴族・教会・修道院などの封建領主は、その領地(荘園)に対して課税されない(不輸)特権、国家の官吏(警察や裁判なども含め)の立入を拒否できる(不入)特権を認められていた。このように中世の領主階級は、領地の治外法権を認められていたといえる。さらに領主は、領内の農民に対する、さまざまな課税権、裁判権、警察権を持っていた。
領主裁判権 荘園領主が荘園内のさまざまな問題を裁定する裁判を行う権利を持っていること。領主の経済外的強制(生産物地代を取り立てる以外の領主の農民に対する強制力)の一つである。それぞれの荘園に領主の定める荘園法があり、領主の開催する荘園裁判所で裁判が行われた。通常は領主は都市に住んでいるので、現地の執事や荘司が判事となり、一部の農民が陪審員となった。農奴は荘園裁判所の決定に服さなければならないが、自由民は不服がある場合は国王裁判所に告訴することができた。領主裁判権は、荘園制度が崩壊すると、国王の裁判権に取って代わられるようになるが、独立的な地域裁判所として存続する場合もあった。
ク.教会の権威
A ローマ=カトリック教会 → ローマ=カトリック教会
a 十分の一税本来は村の教会の維持費に充てた教会税であったが、次第に租税として西ヨーロッパの農民に広く賦課されようになり、その権利を回って領主と教会が争うようになった。農民の生産する穀物や家畜すべてにかかり、実際には20分の1程度であることが多かった。10世紀頃には教会を通じて領主が徴収する権利となり、権利自体が売買されるようになった。フランス革命など市民革命の結果、廃止された。
b 聖界諸侯中世ヨーロッパで10世紀頃、キリスト教ローマ=カトリック教会の高位聖職者である大司教や修道院長などが、皇帝や国王から土地の寄進を受け、また自らが耕地を開墾して農民に耕作させて地代を取るようになり、大領主化した。このような聖職者の領主を聖界諸侯という(通常の領主は世俗諸侯という)。かれらは封建領主として農民から地代を取り、またそれとは別に十分の一税を徴集し、領内の農民に対しては裁判権を行使した。 
c 階層制ローマ=カトリック教会の教会組織が西ヨーロッパに広がる過程で、形成された聖職者の位階制度。ヒエラルキア(ヒエラルヒー)という。ローマ教皇を頂点に、大司教→司教→司祭というピラミッド型の階層が形成された。大司教や修道院長は高位聖職者として、大きな宗教的権威とともに、皇帝や国王から土地を寄進され、領地を経営する封建領主でもあった。また司教は司教座都市に置かれた教会で教区を管理し、司祭は村々の教会で村人を管理し、十分の一税を徴集した。
聖職者は結婚しないのが原則であるから、その地位は世襲されることはなく、信仰の深さに応じてそれぞれの地位が選挙で選ばれるのが建前であったが、実際には国王や領主が自己の所領の教会の聖職者任命権を持っており、時として自己の一族を任命したり、その地位が売買されたりするようになった。
d ローマ教皇 → ウ.ローマ=カトリック教会の成立 ローマ教皇
e 大司教 キリスト教(ローマ=カトリック教会)での高位聖職者 archbishop 。自らも司教として司教区を管轄するほかにいくつかの司教区を併せて管轄する。一国や一地方など広い地域を代表する。ドイツのケルン、マインツ、トリーア、フランスのトゥール、ルーアン、ローマのミラノなどがそれである。大司教はまた、世俗の国王や諸侯と並ぶ封建領主としてそれぞれの所領を支配した。ケルン、マインツ、トリーアのドイツの三大司教は、神聖ローマ帝国の選帝侯ともなった。
f 司教 キリスト教(ローマ=カトリック教会)の聖職者の地位 bishop 。司教とか僧正と訳し、聖職者の高位である。それぞれ司教区を管理し、司教座の置かれた都市の教会で司教区の信徒の指導に当たった。その地位は高く、その地位を示す杖や指輪、冠などを身につけていた。中世では司教は司教区の領主として存在するようになると、その任免権は世俗の国王や諸侯に握られるようになり、聖職叙任権問題が起こることとなる。また司教のいる教会を司教座といい、司教座のある都市を司教座都市(または司教都市)といい、中世の都市の起源となった。なお、イギリス国教会では司教とは言わず、監督といい、ギリシア正教会では主教という。
g 司祭 西ヨーロッパの都市や村のあらゆる共同体に設けられたキリスト教(ローマ=カトリック教会)の教会で、直接に信徒を教える下位の聖職者 presbyter 。洗礼、堅信、聖餐、告解、終油、叙階、婚姻の7つの秘蹟(サクラメント)を人に与える特権を持つ。なお、カトリックでは神父とも言う。プロテスタントでは牧師にあたる。
h 修道院長  
i 教会の腐敗・堕落教会の腐敗・堕落とは、主として聖職の売買と、聖職者の妻帯の二つである。
i 神の平和10世紀末に始まった中世のキリスト教教会の改革運動の一つ。中世では封建領主間の私闘(フェーデという)は「自力救済権の行使」と考えられ、それによって農民に危害が加えられるなどが日常化していたが、それにたいして教会の権威によって領主に戦闘行為をやめさせ、農民などの安全を守る動きがでてきた。この運動は修道院改革運動叙任権闘争とともに西ヨーロッパにおける教会の権威を高める要因となった。
「10世紀末に王権の弱い南フランスにはじまり、北にも広がった。領主(貴族)たちの戦闘・暴力行為を制限するため、司教が中心となって教会会議を開き、特定の場所、特定の社会層(聖職者、農民、商人、巡礼者など)を戦闘から保護するよう領主に宣誓を求めたもので、拒否した領主には破門などの制裁をおこなった。11世紀はじめには、特定期間の戦闘行為の停止を求める「神の休戦」運動に発展したが、この運動の独自性は、全住民による誓約団体がつくられたことあった。修道院改革運動が領主からの宗教機関の独立を目的としたのにたいして、この運動は、教会が魂の問題だけでなく、王権や城主権力にかわって公共秩序の維持にかかわりはじめた点で、きわめて大きな意味を持っている。しかし、教会自身が武力をもたないため、運動は永続きしなかった。」<柴田三千雄『フランス史10講』2006 岩波新書 p.33>
 神の休戦中世ヨーロッパで、カトリック教会の提唱によって一定期間、戦闘行為を禁止すること。10世紀末の南フランスに始まった「神の平和」運動が発展し、1027年にカトリック教会が「神の休戦」を提唱し、12世紀にたびたび開催されたラテラノ教会会議で教会法として公布された。一定期間とは、水曜日の夜から月曜日の朝までと教会祝祭日とその前日とされた。「神の平和」運動や「神の休戦」は、国際法などの規範が未発達だった段階で、キリスト教の教会が平和実現のために働いたものであり、13世紀以降に各国の王権が強化されるに従い実効力を失った。
B 修道院運動(11世紀)10世紀に始まり、11〜12世紀に展開されたクリュニー修道院による修道院改革運動修道院ベネディクトゥスによる6世紀の修道院運動に始まり、ローマ=カトリック教会の発展に大いに寄与したが、本来、清貧を旨とすべき修道院も、9世紀以降は教会と同じく領主化し、規律も守られなくなってきた。そこで本来の信仰主体の修道院運動を回復しようとして、10世紀にクリュニー修道院による修道院の改革運動が始まった。一般に「修道院運動」とは、このクリュニー修道院による修道院改革運動をいう。クリュニー修道院は、全西ヨーロッパの修道院を組織し、11〜12世紀に展開された皇帝との叙任権闘争のバックボーンとなった。叙任権闘争でローマ教会は世俗の権力からの独立を勝ち取った。しかし、修道院の修道士の生活も次第に贅沢になってゆき、それに反発する新しい修道院運動がおこった。その中心となったのが、1098年にクリュニーと同じブルゴーニュではじまったシトー派修道会であった。シトー派修道会は人里離れた地で苦行と瞑想の共同生活を送り信仰の純化を求め、修道士が自力で開墾をすすめ、大開墾時代をもたらした。やがてシトー修道会も羊毛や家畜などの生産物を売って莫大な冨を有するようになり、堕落したために12世紀以降は急速に衰退した。かわって13世紀の修道院運動が始まる。それはイタリアに起こったフランチェスコ会と南フランスに起こったドミニコ会などで、徹底した清貧を説き、労働と托鉢を重視する托鉢修道会であった。彼らは、当時民衆に広まっていた異端と戦うことに情熱を燃やし、魔女狩りの先兵となって活動するようになる。しかし、次第に修道士の活動は修道院を離れて街頭での布教が重視されるようになり、修道院そのものは次第に衰退する。
a クリュニー修道院910年、フランスのブルゴーニュ地方に建てられ、修道院改革運動の中心となったローマ=カトリックの修道院。この修道院を中心に世俗の権力から離れてローマ教皇に直結する修道院組織をつくった。クリュニー修道院では厳格な戒律の厳守、霊性の向上などをかかげ、本来の修道院のあり方を回復させた。その改革の主張は「クリュニー精神」と言われ、クリュニー出身者が上位聖職者として改革の先頭に立つようになった。その改革の矛先は、俗権の最高峰である教皇に向けられ、それのもつ聖職叙任権を教会側が奪回することを目指すものであった。11〜12世紀にはクリュニー修道院が2000以上の修道院を組織化し、大きな勢力となった。神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ4世を、カノッサの屈辱で屈服させ叙任権闘争を展開したローマ教皇グレゴリウス7世は、クリュニー修道院出身であった。
C 叙任権闘争1075年から1122年まで、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝との間で展開された、聖職叙任権をめぐる対立。ヨーロッパ中世の皇帝は教皇によって戴冠され、国王は教会によって塗油されることによって聖なる存在として権威を得ていた。しかし、教皇や教会は皇帝、国王あるいは諸侯の任免権は持っていない。逆に、皇帝や国王は教皇選出に干渉し、司教以下の聖職者の任免権も皇帝・国王・諸侯などの世俗の権力に握られていた。特に神聖ローマ帝国では、オットー大帝以来、帝国教会政策をとり、帝国内の教会は皇帝に服すべきものとしてその聖職者を皇帝が任免し、官僚化を進めていた。また他の世俗の諸侯も、自分の領内の教会を「私教会」として聖職の任免権を行使した。ローマ教会は教会法に基づき、帝国教会政策や私教会を否認したが、事実上、聖職叙任権は皇帝や国王、諸侯らの世俗権力に握られることとなった。その結果、俗人が聖職者に任用され、聖職が売買されたり、妻帯者が聖職に就くことが一般化し、教会の権威が著しく低下してきた。
それに対して、10世紀に教会側に改革運動が盛り上がり、聖職者の叙任権(位を与えたり、聖職を任命したりする権利)は教会(とその頂点の教皇)がもつべきであるという考えた起こってきた。それは聖職者の腐敗の一つである聖職売買が、聖職叙任権が世俗の権力に握られているために起こると考えられたからだ。特にクリュニー修道院を中心とした改革派は強くそのことを主張するようになった。聖職叙任権を重要な権力の行使と考えている世俗の政治権力(その頂点が神聖ローマ皇帝)側は、それを手放すことは認められないことなので、この対立は中世ヨーロッパの政治的対立軸となっていく。
1049年に教皇となったレオ9世は、教皇庁をクリュニー出身の改革派(後のグレゴリー7世も含む)で堅め、自ら宗教会議をランスで開催し(皇帝主催ではなく)、聖職売買と聖職者の結婚の禁止と、禁を犯した聖職者の追放を決議した。彼の死後、改革派は1059年に教皇選挙法を定め、教皇は直属の諮問機関である枢機卿会議で選出されるべきものとして、俗権の介入を排除しようとした。さらに1075年、同じくクリュニー修道院出身の教皇グレゴリウス7世は皇帝以下の俗人の聖職叙任権を否定、それを拒否した神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世を破門し、聖職叙任権闘争が開始された。1077年、「カノッサの屈辱」事件以後、両者の対立は武力衝突を引き起こし、激しく対立、形勢は一進一退したが、1095年、グレゴリウス7世の後継者ウルバヌス2世が十字軍運動を提唱し、西ヨーロッパの主導権を握ると一挙に教皇側に有利に展開するようになり、ハインリッヒ4世の子ハインリッヒ5世は一転して教皇側と妥協、1122年、両者の間でウォルムス協約が成立、皇帝が教皇の聖職叙任権を認めることによって叙任権闘争は終わりを告げた。
a グレゴリウス7世11世紀後半のローマ教皇クリュニー修道院出身の教皇として、神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世をカノッサの屈辱で屈服させるなど、叙任権闘争をすすめ、教皇権の確立に大きな役割を担った。
1073年、前教皇アレクサンドル2世が死去した時、葬儀を取り仕切っていたヒルデブラントに対し、突然民衆が「ヒルデブラントを教皇にしろ!」という声が起こり、熱狂した民衆によって聖ペテロ教会につれこまれたヒルデブラントは教皇になることを承諾した。彼がグレゴリウス7世であり、レオ9世以来の教皇に使えてきたクリュニー修道院出身の改革派であった。1075年、グレゴリウス7世は、いかなる俗人による聖職叙任も、聖職売買と同じであるとして禁止し、その旨を神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世に伝えた。これに対して当時23歳のハインリッヒは承伏せず、逆にドイツの司教たちを集め、グレゴリウス7世は選挙法の規定に従っていないとしてその廃位を決議した。こうして、聖職叙任権をめぐる教皇と皇帝の争いは、決定的な対立となった。1076年、ハインリッヒ4世を破門して窮地に追い込み、翌年、「カノッサの屈辱」で屈服させたが、その後、勢いを盛り返したハインリッヒ4世によって1082年ローマを追われ、南イタリアのノルマン侯ロベルト=ギスカルド(ルッジェーロ2世の兄)を頼り、サレルノで失意のうちに亡くなる。
Epi. グレゴリウス7世とカノッサの女領主との疑惑 グレゴリウス7世が、ハインリヒ4世を迎えたカノッサは、北イタリアのトスカナ伯マティルダという女領主の居城であった。カノッサの女領主マティルダは女傑として知られ、父の代から神聖ローマ皇帝とは対立しており、一方、当時離婚問題を抱えており、教皇グレゴリウス7世にすがってその離婚を認めてもらい、両者の関係は深いものがあった。両者は不倫の関係にあるといううわささえあった。グレゴリウス7世に破門されたハインリッヒ4世は、当然その関係を非難した。<藤沢道郎『物語イタリア史』中公文庫>
b 聖職売買「聖職売買」は、聖職者の地位を金銭で売買することで、シモニアといわれた。聖職者の任命権ははじめ国王や諸侯の「俗人」が握られていたので、任命される際に金銭を納めることが一般に行われていた。俗人が金銭で聖職を買うことが普通に行われていたのである。また、聖職者の中には、俗人と同じように妻を持ち、信仰心が深くなくとも高い地位を買うことがあった。聖職売買や聖職者の妻帯は11世紀には誰も疑問に思わない普通の状態であったが、クリュニー修道院出身の教皇レオ9世やグレゴリウス7世は、そのれらをキリスト教の危機と考え、厳しく取り締まり、そしてそのような腐敗・堕落が起きる原因が、俗人が聖職叙任権を持っているところにあると考え、それを教皇に取り戻すべく、叙任権闘争に突入する。
 聖職者の妻帯 
c 聖職叙任権 
d ハインリッヒ4世1054年、ハインリッヒ3世の後継として、わずか6歳で神聖ローマ帝国皇帝となった。この間、教会側は叙任権闘争を有利に進め、教皇グレゴリウス7世は改革の基盤をつくっていった。グレゴリウス7世が1075年、俗人による聖職叙任の禁止を通告してきた時、ハインリッヒ4世は23歳の成年になっていた。彼はただちにドイツの司教たちを集めて反撃し、グレゴリウス7世の廃位を決議した。それに対し、グレゴリウス7世は破門を通告してきた。窮地に立ったハインリッヒは、カノッサで教皇にわびを入れ、破門を解かれる(「カノッサの屈辱」)。しかし、その後ドイツ諸侯を味方につけたハインリッヒ4世は、1082年ローマに軍勢を率いて遠征し、グレゴリウス7世を追放してしまう。しかし、グレゴリウス7世の後継者である改革派の教皇ウルバヌス2世が、1096年に十字軍運動を提唱、ヨーロッパ政治の主導権を握るとハインリッヒ4世は孤立し、1106年失意のうちに死ぬ。
e 破門ローマ教会が、信者に対して与える最大の罰。破門されることによって信者としての諸権利は認められず、キリスト教世界から追放されることを意味していた。1076年2月、グレゴリウス7世は公会議を開いてハインリッヒ4世の破門を決議、キリスト教徒との交際を禁止し、封建家臣の彼に対する中世義務を解除した。これでドイツ中は大騒ぎとなり、ドイツの司教も諸侯もハインリッヒ4世の皇帝位からの退位を要求した。これはハインリッヒ4世にとって決定的な危機となるので、「カノッサの屈辱」を忍んで、許しを乞うこととなった。これ以外にも、インノケンティウス3世によるイギリスのジョン王の破門など、枚挙にいとまがない。
f 「カノッサの屈辱」ローマ教皇グレゴリウス7世によって破門され窮地に立った神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世は、厳冬のアルプスを超え、1077年の正月、おりから教皇の滞在するカノッサ城で教皇に面会を求めた。グレゴリウスは会おうとしなかったが、カノッサ城主トスカナ伯マチルダやクリュニー修道院長ユーグのとりなしで会うこととなった。この間、ハインリッヒ4世は3日間、雪の中にわずかな修道衣のみの素足で立ちつくし、やっと破門を解いてもらうことが出来た。これが「カノッサの屈辱」と言われる事件で、ローマ教皇権の強大化を示す事例とされている。
Epi. カノッサの屈辱の後日談 ハインリッヒ4世とグレゴリウス7世の争いには後日談がある。破門を解いてもらったハインリッヒはドイツに戻って反撃のチャンスを探り、自派の諸侯や都市、司教を固め、1080年にはふたたびグレゴリウスの廃位を決議、別にクレメンス3世を教皇として擁立、さらに82年には軍隊を要してローマに遠征してグレゴリウスをサレルノに追放することに成功した。それ以後、ローマ教皇はグレゴリウス以下の改革派教皇と、クレメンス3世以下の皇帝派教皇が同時に存在する分裂状態となる。このように短期的には教皇は反撃に成功したが、その後、改革派教皇ウルバヌス2世によって十字軍運動が起こされ、教皇の権威は皇帝を上回るようになっていく。
g 十字軍運動 
h ヴォルムス協約1122年に成立した、神聖ローマ皇帝とローマ教皇の間の叙任権闘争を終わらせた宗教和議。聖職者叙任権はドイツを除いて認められたローマ教皇の権威が確立した。11世紀末、改革派教皇ウルバヌス2世の提唱で十字軍運動が始まり、改革派教皇の権威が高まる中、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ5世(ハインリッヒ4世の子)は、対立教皇への支持を止め、改革派教皇カリクストゥス2世との交渉をはじめ、行き詰まった聖職叙任権問題の打開をはかった。背景にはイギリス・フランスでは宗教上の権能の授与は教皇が叙任し、領地の付与は俗権が叙任する、という妥協が成立していたことがある。1122年に皇帝ハインリッヒ5世と教皇カリクストゥス2世の間で成立したヴォルムス協約は形式的なさまざまな取り決めがあったが、基本的には皇帝側がドイツ以外での司教任命権を放棄することを認めた。これによって長く続いた聖職叙任権闘争は終わりを告げ、神聖ローマ帝国の帝国教会政策は破綻し、ローマ教皇権は全盛期を迎えることとなる。
ヴォルムスはライン川中流左岸にあり、ローマ時代に建設され、4世紀以来司教座が置かれている。1521年には、神聖ローマ皇帝カール5世がこの地に帝国議会を召集し、ルターに自説の撤回を迫ったが、ルターが拒否したことで知られる。 → ヴォルムスの帝国議会
D 教皇権の全盛期 
a インノケンティウス3世全盛期のローマ教皇。在位1198〜1216年。イノセント3世とも言う。ドイツ国王の選出に干渉し、ローマ教皇による採決権を主張、意のままにならないドイツ王(神聖ローマ皇帝オットー4世)を破門にしてしまった。また、王妃離婚問題からフランスのフィリップ2世を、さらにカンタベリー大司教叙任問題でイギリス王ジョンをそれぞれ破門し、屈服させた。ローマ教皇のもとで、英独仏の君主が破門されたり、意のままに操られる事態となり、教皇権は最高潮に達したと言える。このような事態を示す言葉が、「教皇は太陽、皇帝は月」という彼自身の言葉である。また1202年には第4回十字軍を提唱したが、教皇の意に反しコンスタンティノープルに向かうに及んでそれを破門した。
b ジョン → 第6章 3節 カ.イギリスの状況 ジョン王
c 教皇は太陽、皇帝は月13世紀はじめ、ローマ教皇の最盛期を出現させた、インノケンティウス3世が自ら述べた言葉で、ローマ教皇の教皇権と世俗の権力の皇帝権の関係を比喩で述べたもの。ローマ教皇が世俗の皇帝権に優越することを意味しており、叙任権闘争などを通じて強化された教皇権が、頂点に達したことを示している。この言葉は、1215年、ラテラン公会議(第4回)の演説でインノケンティウス3世が演説した中にあった。