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3.西ヨーロッパ中世世界の変容
ア.十字軍とその影響
A 農業技術の進歩11世紀の西ヨーロッパで、「中世農業革命」とも呼ばれる一連の農業技術の革新が起こった。紀元1000年前後からフランスのピレネー地方東部やラインラントで鉄の生産が盛んになり、12世紀にはヨーロッパ全体に広がり、13世紀には農村で鍛冶屋が農機具の刃や斧などを供給するようになった。この鉄器具は新たに登場した大型の重量有輪犂に用いられた。12世紀には、犂を引かせる家畜として、牛から馬に代わりスピードが向上した。また、カロリング朝の大所領に見られた三年輪作システムが各地に普及して、13世紀前半には村の耕地を区画整理して全体を三つの部分に分けて、村落共同体として共同耕作する三圃制が出現し、農民は自分の分地で重量有輪犂を家畜に引かせて耕作するようになった。水車も11世紀以降飛躍的に普及し、粉ひきだけでなくいろいろな動力として用いられた。12世紀末には風車も現れ、それまで人力や畜力に頼っていた作業に取って代わり、農民の生活を一変させた。このような技術革新は穀物の収穫高を、およそ3〜4倍向上させ、農民の可処分所得を増大させ、またブドウなどの商品作物の栽培も可能にして、多角的な農業が展開されるようになった。<堀越浩一『中世ヨーロッパの農村世界』1997 世界史リブレット> 
西ヨーロッパ世界の膨張運動11世紀の後半から、ヨーロッパ世界では外敵の侵入も終わり、封建社会の仕組みが出来上がって、社会の安定期を迎えた。あわせて気候の温暖化という自然条件にも恵まれた結果、人口は増加し、人口の増加は耕地の拡大をもたらした。11世紀後半から13世紀前半までの約2世紀間は、大開墾時代といわれ、森林や原野が開かれ、低湿地は埋め立てられていった。この時期以降は、封建社会のあり方もそれ以前の前期封建社会に対し、後期封建社会として区分される。
このような人口増加・耕地拡大は、三圃制農業の普及という生産力の発展を背景としていた。さらに生産力の発展は、封建社会の農業中心の自給自足経済のあり方を変え、都市の商工業を発展させ、貨幣経済を復興させることとなる。
また、ヨーロッパの人口増加は、その周辺への進出や植民の運動を引き起こした。11世紀末に始まる十字軍運動や、同じ時代に展開されるドイツ人の東方植民、イベリア半島でのレコンキスタなどの動きがそれである。
a 三圃制 ヨーロッパ中世の荘園制下の農村では、個々の農民の耕地が個別に存在するのではなく、村落全体で耕地を何分割かし、それをさらに帯状の耕地に細分して農民が耕作するという開放耕地制がとられていた。初めは村落全体の耕地は二分され、一方は作付地、一方は休耕地として一年ごとに入れ替える「二圃制」をとっていたが、10〜11世紀にかけて、耕地を三分割し、一つは春耕地(春蒔き、夏畑、秋収穫)として豆・燕麦・大麦を、一つは秋耕地(秋蒔き、冬畑、春収穫)として小麦・ライ麦を栽培し、一つを休耕地とし、それを年ごとに替えていく「三圃制」three fields system が普及した。休耕地は農民の家畜の共同放牧に利用された。この方法によって人工的な肥料を用いなくとも地味を維持することが出来、生産は著しく増えた。この生産力の向上は、キリスト教世界の膨張運動である十字軍運動の背景となり、貨幣経済の復活商業ルネサンスをもたらし、さらに農民の自立を促し、中世社会を変質させることとなった。特にイギリスにおいては、ヨーマン(独立自営農民)を成長させ、イギリス革命の原動力となっていく。三圃制農法はその後も続いたが、18世紀のイギリス産業革命期には新たにノーフォーク農法という四輪作法が生まれ、19世紀以降は三圃制は姿を消す。 → 農業革命
重量有輪犂 犂(すき)は土地を耕す農具。11〜12世紀のヨーロッパでは、犂を重量にして車輪を付けて牛に引かせ、土地を深く耕すことを可能にした重量有輪犂が工夫され、普及した。アルプス以北のしめった重い土壌を耕すのに適していたので、これによって農業生産力は向上した。また重量有輪犂は大型であるので方向転換が難しく、耕地は細長い形態をとるようになった。
b 修道院  
c オランダ  
d 東方植民  → 6章3節 コ ドイツの状況 東方植民
e 国土回復運動  → 6章3節 ケ スペインとポルトガル レコンキスタ
f イェルサレム  → 1章1節 イェルサレム
巡礼 中世ヨーロッパでキリスト教信者の民衆が、イェルサレムなどの聖地を訪ねる旅にでることが盛んに行われた。それは聖遺物(イエスの遺物)を得ることや、新しい土地に移住して生活の基盤としようという現実的な欲求と結びついていた。聖地イェルサレムはすでにイスラームの支配下に入っていたが、はじめイスラーム教徒は異教徒であるキリスト教徒の巡礼を容認していたので、自由に巡礼できたが、セルジューク朝が進出しイェルサレムがその支配下にはいると、自由な巡礼が阻害されるようになり、十字軍運動の要因となった。
Epi. 聖遺物を求めて イエスが生まれて1000年以上経った時代のヨーロッパの人々は、巡礼や十字軍に参加し、イエスの生きた聖地イェルサレムに巡礼してその証に触れ、イエスの遺物を持ち帰ることが願いであった。十字軍時代にはそのような「聖遺物」と称されるものが多数ヨーロッパにもたらされた。イエスが架けられた十字架の断片(現存するものを合計すると約1000万立方センチになる)、イエスの衣(聖衣)、汗を拭いた手ぬぐい、はてはイエスを刺した槍……などが聖遺物とされた。コンスタンティノープルの商人の中にはにせものの聖遺物をつくり、巡礼や十字軍兵士に高く売りつけるものもいたという。<鯖田豊之『世界の歴史9 ヨーロッパ中世』河出書房新社などによる>
なお、巡礼にはイェルサレムだけでなく、ローマや、スペインのサンチャゴ・デ・コンポストラ(9世紀に奇跡的に十二使徒の一人ヤコブの遺骨が発見されたとされ、聖地となった)が目的地とされ、それらに向かう道路が整備され、途中の都市には立派なロマネスク建築の教会や修道院が次々と建てられた。<同上>
B 十字軍運動 11世紀末から13世紀末まで、約200年間にわたって展開された、西ヨーロッパのキリスト教勢力による、西アジアのイスラーム圏などに向けての軍事活動。直接の動機は、聖地イェルサレムがイスラーム教徒のセルジューク朝に支配されたことに対しての「聖地回復」の運動であり、共通する動機は宗教的情熱であった(少なくとも当初は)が、それを呼びかけたローマ教皇、運動に参加した国王、諸侯、商人、一般民衆はそれぞれ違った思惑をもって参加した(下で説明)。また、この運動の背景は、11世紀から始まる三圃制農業などに見られる農業生産力の向上による人口増加に伴う、キリスト教世界の膨張運動であったこと、また「商業ルネサンス」にともなう交易圏の拡大の要求があったことをあげることが出来る。
a セルジューク朝  → 5章2節 セルジューク朝
ビザンツ皇帝 (と十字軍)このビザンツ皇帝とはアレクシオス1世。アレクシオス1世がローマ教皇に援助を要請した理由は、セルジューク朝からの聖地奪回であったが、実際にはイェルサレムは637年にイスラーム勢力の支配下に入っており、キリスト教徒の巡礼も認められていたので、それは支援要請の口実にすぎなかった。ビザンツ皇帝のねらいは自国領の小アジアに侵入したセルジューク朝の勢力を排除するために西ヨーロッパキリスト教軍の支援を得ることにあった。アレクシオス1世の要請を受けて十字軍の派遣を呼びかけたウルバヌス2世のねらいも、聖地奪回にあるよりは、この機会に東西教会を統一し、ローマ教会の主導権を回復することであった。両者の思惑の違いは、早くも第1回十字軍で表面化した。コンスタンティノープルに到着した十字軍に対してアレクシオス1世は臣従の礼をとることを要求し、十字軍が回復する領土はすべてビザンツ帝国に返還せよと命じたのである。十字軍は反発したがビザンツ軍の協力は必要だったので渋々その要求に屈した。しかしその後は十字軍とビザンツ軍は共同歩調がとれずにことごとく反目し、やがてビザンツ軍は戦線を離脱し、十字軍は単独で戦わざるをえなかった。<鯖田豊之『世界の歴史9・ヨーロッパ中世』1969 河出書房>
b ウルバヌス2世 11世紀末のローマ教皇(在位1088年〜99年)で、1095年のクレルモン宗教会議で、ヨーロッパの国王、諸侯に対し、十字軍派遣を呼びかけた。ウルバン2世ともいう。フランス人で、クリュニー修道院の出身。グレゴリウス7世の信任厚く、その補佐を務め、改革派の中心となる。当時、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世との叙任権闘争はさらに継続中であり、教皇となったウルバヌス2世は、ハインリッヒ4世が立てた対立教皇クレメンス3世を廃し(1093年)、教皇権の強化に努めた。1095年、フランスのクレルモン宗教会議で十字軍の派遣を呼びかけたが、それは皇帝から奪った西ヨーロッパの主導権を確実にし、同時にビザンツ皇帝の要請に応えて十字軍を派遣することによって、1054年以来の教会の東西分裂を再統合しようという意図もあった。そして彼の熱狂的な演説は、西ヨーロッパのキリスト教徒を十字軍運動に奮い立たせ、その当初の成功は教皇権の確立をもたらすこととなった。
ウルバヌス2世の演説 乳と蜜の流れる国 『おお、神の子らよ。あなた方はすでに同胞間の平和を保つこと、聖なる教会にそなわる諸権利を忠実に擁護することを、これまでにもまして誠実に神に約束したが、そのうえ新たに‥‥あなた方が奮起すべき緊急な任務が生じたのである。‥‥すなわち、あなた方は東方に住む同胞に大至急援軍を送らなければならないということである。かららはあなた方の援助を必要としており、かつしばしばそれを懇請しているのである。その理由はすでにあなた方の多くがご存じのように、ペルシアの住民なるトルコ人が彼らを攻撃し、またローマ領の奥深く、”聖グレゴリウスの腕”とよばれている地中海沿岸部(ボスフォラス海峡、マルモラ海沿岸をさす)まで進出したからである。キリスト教国をつぎつぎに占領した彼らは、すでに多くの戦闘で七たびもキリスト教徒を破り、多くの住民を殺しあるいは捕らえ、教会堂を破壊しつつ神の国を荒しまわっているのである。これ以上かれらの行為を続けさせるなら、かれらはもっと大々的に神の忠実な民を征服するであろう。されば、‥‥神はキリストの旗手たるあなた方に、騎士と歩卒をえらばず貧富を問わず、あらゆる階層の男たちを立ち上がらせるよう、そしてわたしたちの土地からあのいまわしい民族を根だやしにするよう‥‥くりかえし勧告しておられるのである。』これはシャルトルの修道士フーシェの年代記が伝えるクレルモン公会議における教皇ウルバヌス2世の演説の一説。さらに教皇は、『あなた方がいま住んでいる土地はけっして広くない。十分肥えてもいない。そのため人々はたがいに争い、たがいに傷ついているではないか。したがって、あなた方は隣人のなかから出かけようとする者をとめてはならない。かれらを聖墓への道行きに旅立たせようではないか。「乳と蜜の流れる国」は、神があなた方に与えたもうた土地である‥‥』と語り、『かの地、エルサレムこそ世界の中心にして、天の栄光の王国である。』と獅子吼した。それを聴いた民衆から『神のみ旨だ!!』というさけびが起こったという。このウルバヌスの演説の原典は失われたが、1905年発表のアメリカの歴史家ムンロの研究によってほぼ復元された。<橋口倫介『十字軍』 岩波新書 P.43-51>
c クレルモン宗教会議 1095年11月28日、フランス東部のクレルモン(現在のクレルモン=フェラン市)で、ローマ教皇ウルバヌス2世が主催したローマ=カトリック教会聖職者の宗教会議(公会議)。ウルバヌス2世が十字運派遣を提唱したことで有名であるが、会議そのものの主題は聖職売買の禁止や聖職者妻帯の禁止、聖職叙任権の奪回などの教会改革についてであった。この会議の最後に、集まった数千人の聖職者や民衆の前で大演説を行ったウルバヌス2世は、熱烈な調子で異教徒トルコ人に奪われた聖地イェルサレムの奪回とともに、「乳と蜜の流れる国」への移住を呼びかけた。熱狂した民衆は、「いますぐイェルサレムへ!」と自ら十字軍先発隊を結成したという。<橋口倫介『十字軍』岩波新書>
d 叙任権闘争 → 6章 1節 聖職叙任権闘争
C 十字軍運動の展開 1095年のローマ教皇ウルバヌス2世クレルモン宗教会議で提唱した、西ヨーロッパのキリスト教勢力による聖地回復運動。1096年の第1回から1270年の第7回までに前後7回(8回と数える場合もある)にわたって展開された。最終的には1291年の十字軍の拠点アッコンが陥落した時までの約200年間が「十字軍時代」である。
十字軍の意味 「十字軍(Crusades)」とは、参加した兵士が胸に十字架の印を付け「聖戦」と考えられたからである。第1回十字軍は聖地の回復に成功し、その地にイェルサレム王国を建設し、キリスト教徒も多数移住した。ローマ教皇の権威は絶大なものとなり、12〜13世紀の教皇権の最盛期を出現させた。しかしまもなくイェルサレムはイスラーム側に奪回され、さらに13世紀初めの第4回十字軍は商業的な目的からコンスタンティノープルを攻撃、占領し、本来の目的から大きく外れ、それ以後の十字軍はは一時を除いていずれも聖地回復に失敗した。その結果、教皇権の衰退につながっていく。
西ヨーロッパ世界の膨張運動 十字軍運動は、ドイツの東方植民、イベリア半島のレコンキスタなどとともに、西ヨーロッパ世界の農業生産力の向上と人口増加を背景とした膨張運動ととらえることが出来る。特に8世紀からイスラーム勢力に支配されていた地中海世界で、十字軍運動とともに東方貿易が活発になったことは、ヨーロッパの封建社会を変質させる背景となり、またイスラーム世界との接触は、新しい文化を生み出すきっかけともなってルネサンスを準備することとなる。
イスラーム世界の情勢 十字軍を迎えたイスラーム世界の情勢はどうであったか。セルジューク朝はアッバース朝カリフからスルタンの地位を認められバグダードを治めていたが、1077年には小アジアのアナトリア地方にルーム=セルジューク朝が分立、その他の内紛が生じ、12世紀には衰退が始まっていた。またエジプトのファーティマ朝は同じイスラームでもシーア派の中のイスマーイール派を信奉するエジプト人の王朝で、スンナ派のセルジューク朝とは対立していた。このようなイスラーム世界の内部対立は、十字軍にとって有利に働き、第1回十字軍が成功したのもそのような理由があっと考えられる。しかし、12世紀後半になるとエジプトにアイユーブ朝が台頭、スンナ派の統一政権を樹立したサラーフ=アッディーンによって1187年にイェルサレムが奪還されてからは、イスラーム勢力による反撃の本格化する。十字軍はなおも13世紀まで7回(または8回)起こされるが、いずれも聖地奪回は果たせず、1291年のマムルーク朝によるアッコンの陥落をもって終わる。
十字軍とモンゴル帝国 なお、13世紀にはユーラシアの東方からモンゴル帝国が勃興し、1236年のバトゥのヨーロッパ遠征、1253年のフラグの西アジア遠征が、それぞれキリスト教世界とイスラーム教世界に大きな衝撃を与え、キリスト教世界・イスラーム世界・モンゴル遊牧世界という3つの大きな文明圏が抗争する情勢となった。そのような中で、にキリスト教側がモンゴルとの提携を真剣に模索することとなった。1243年のローマ教皇インノケンティウス4世によるプラノ=カルピニの派遣、53〜55年のフランスのルイ9世ルブルックの派遣などがそれである。
第1回十字軍 1096年秋、前年のクレルモン宗教会議でのウルバヌス2世の呼びかけに応じたフランス・ドイツ・南イタリアのノルマンの諸侯たちが参加して、第1回十字軍が編制された。ロレーヌ地方のゴドフロワとボードワンの兄弟の率いる軍団はドイツから陸路ハンガリーを通り、フランドル地方を中心としたフランス軍団とノルマン騎士たちはイタリアから船でバルカン半島にわたり、ローマ教皇特使アデマールを戴く南フランスの騎士たちはアドリア海岸を南下して、それぞれコンスタンティノープルに向かい、そこでビザンツ皇帝アレクシオス1世に臣従の形式をとり、ビザンツ軍と合同して、1097年にボスフォラス海峡を渡り小アジアに入りトルコ軍と相対した。総勢は研究によると騎士4200〜4500、歩兵約3万という。まずルーム=セルジューク(セルジューク朝の地方政権)軍の守るニケーアを落とし、1098年6月苦戦の末アンティオキアを占領、シリアに入った。この間十字軍は、ビザンツ軍との意志疎通を欠き、さらにドイツ諸侯とフランス諸侯の対立もあり、苦戦を続けたが、1099年ついにイェルサレムに達し、7月15日それを陥落させた。その地を占領した十字軍はゴドフロワを国王としてイェルサレム王国を建てた。
Epi. 十字軍によるイェルサレムの大虐殺 イェルサレムの城内に突入した十字軍兵士は街路に逃げまどう非戦闘員も含めて大虐殺を行い、略奪をほしいままにした。アラブ側の史料に拠れば虐殺・略奪は1週間に及び、7万人以上の人が殺され、岩のドームの財宝は空になった。キリスト教側の年代記類もこれらの残虐行為を別に隠そうともせず淡々と語っている。サラセン人という総称で、アラブ人・トルコ人・エジプト人・エチオピア人などのイスラーム教徒が殺されただけでなく、ユダヤ人も例外でなかった。7月16日の朝、十字軍士は市内の東北地区で多数のユダヤ人を駆り出し、中心街のシナゴーグにとじこめ、扉を外から密閉して火を放ち、全員を焼き殺した。また、イスラーム教徒は金貨を飲み込んで隠しているといううわさがあり、十字軍兵士は捕らえたイスラーム教徒の腹を割いてしらべたり、殺したうえで死体を山のように積み上げ、火をつけて灰にして金貨を探そうとしたという。<橋口倫介『十字軍』岩波新書 P.99-107、アミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』などによる> 
Epi. 民衆十字軍 正規の第1回十字軍と並行して、民衆の自発的な十字軍が組織された。その指導者は隠者ピエールといい、宗教的情熱からイェルサレムを目指した。その実態は新たな生活の糧を求めて巡礼熱に動かされた農民や都市の貧民であった。イェルサレムを目指して小アジアを進むうち、統制のない彼らはトルコ軍に討たれ、残ったわずかが正規軍に合流してイェルサレムに入った。この動きは、十字軍運動が民衆の自発的運動であった側面を示している。
a 1096 第1回十字軍が派遣され、十字軍運動が開始された年。第1回十字軍は1099年まで展開され、ルーム=セルジューク朝軍と戦い、イェルサレムを占領した。
b イェルサレム王国 1099年 第1回十字軍がイェルサレムを占領した時に建国された国。ロレーヌ侯ゴドフロワを「聖墳墓の守護者」として成立したが、実態は世俗的な王国である。イェルサレムを中心に、エデッサ、アンティオキア、トリポリにそれぞれ諸侯を封じ、十字軍騎士たちに土地を与えて封建国家を建設し、一時はシリアに領土を広げた。次第にイスラーム側の反撃を受け、1187年にはヒッティーンの戦いに敗れ、アイユーブ朝のサラディンによってイェルサレムを奪われてしまう。その後、拠点をアッコンに移す。その後、1291年にアッコンがイスラーム勢力のマムルーク朝によって陥落するまで存続する。
第2回十字軍 イェルサレム王国のエデッサ伯領がトルコに奪われたことを受け、聖ベルナールが呼びかけ、フランス王ルイ7世とドイツ王コンラート3世が、それぞれ国王として初めて十字軍を組織した。また南イタリアとシチリアに建国されてまもないノルマン王国(後の両シチリア王国)のルッジェーロ2世も参加した。1147年に出発し、テンプル騎士団が騎士団として初めて十字軍に参加、トルコ側の拠点ダマスクスを攻撃することとなった。1148年ダマスクスを総攻撃したが、トルコ側の激しい反撃を受け、コンスタンティノープルに撤退し、遠征は失敗した。 
c サラディン→ 第5章 2節 イスラーム世界の発展 サラーフ=アッディーン
第3回十字軍 1187年、イェルサレムをサラディン(サラーフ=アッディーン)に奪われた悲報が西ヨーロッパにとどくと、ローマ教皇はただちに十字軍の派遣を呼びかけ、毎回と同じく民衆の巡礼団と封建領主軍が編成されたが、今回は英・独・仏三国の君主、イギリスの「獅子心王(クール=ド=リオン、ライオン=ハーテッド)」リチャード1世、ドイツの「赤ひげ帝(バルバロッサ)」フリードリヒ1世、フランスの「尊厳王(オーギュスト)」フィリップ2世がそろって参加した。また主力の大半が海路イェルサレムに向かったのも従来と異なる。1189年、遠征が開始されたが、フリードリヒ1世(バルバロッサ)は小アジアで事故死、ドイツ兵も大半が引き揚げた。仏王と英王は本国で対立していたので仲が悪く、ようやくアッコンを奪回した後、フィリップ2世は本国に引き揚げてしまった。単独で戦うこととなったリチャード1世は、サラディンとの間で3年間の休戦協定を結び、1192年遠征を終えた。聖地奪回は出来なかったが、平穏に聖地を巡礼することを可能にした。 
d フリードリヒ1世  → キ.フランスの状況 フリードリヒ1世
e フィリップ2世  → キ.フランスの状況 フィリップ2世
f リチャード1世 イギリスのプランタジネット朝2代目の王(在位1189〜99)。父はヘンリー2世。父から相続したフランス国内の領地に加え、母のエレオノールからもフランスのアキテーヌ地方を相続し、フランス王フィリップ2世にとって大きな脅威となった。二人は共に第3回十字軍を起こしたが、途中仲違いしてフィリップ2世は先に帰国。独力でイスラーム側と戦ってアッコンを奪回して勇名をとどろかし、サラディン(サラーフ=アッディーン)と講和して帰途につく。その途中、ドイツのハインリッヒ6世(フリードリヒ1世の子)に捕らえられ、身代金を払って釈放される。94年帰国するとフランスとの戦争に突入。フランスでフィリップ2世と交戦中99年に戦死。生涯を通じてイギリスにいたのはわずか6ヶ月、常に戦場で敵を求めて戦い、獅子心王(the Lion-hearted)と言われた。
D 十字軍運動の変質  
▲a モンゴル帝国  → 第4章 3節 モンゴル帝国
第4回十字軍 長く教皇権にとって敵対する存在だった神聖ローマ皇帝(ドイツ王)フリードリヒ1世(バルバロッサ)が第3回十字軍の途上に事故死したことで、ローマ教皇インノケンティウス3世の権威は最高のものとなった。その機会に教皇権のもとにヨーロッパを統合させることをめざし、十字軍の派遣を提唱した。それに応えたのはフランドルやシャンパーニュの北フランスの諸侯であった。こうして1202年に第4回十字軍が開始されたが、この十字軍は聖地イェルサレムではなく、コンスタンティノープルに向かうという驚くべき方向転換を行った。それは、北フランス諸侯軍の輸送を請け負ったヴェネツィアの商人たちが、その運賃を払えなかった諸侯たちに持ちかけたことであった。大義名分は東西教会の統一とか、コンスタンティノープルにおけるラテン人地区焼き討ち事件などへの報復とかがあったが、その背景には、当時100万の人口をほこり、東西貿易の要としてなおも繁栄していたこの町を占領しようと言う、ヴェネツィア商人の東方貿易独占欲にあった。インノケンティウス3世は激怒し、十字軍を破門するという前代未聞の事態となったが、十字軍は目前の利益をあきらめず、1204年コンスタンティノープルを攻撃し占領、掠奪した。さらに周辺の都市やエーゲ海の島々を占領した十字軍は、コンスタンティノープルを中心にラテン帝国を建設する。この成功を見たインノケンティウス3世は、破門を解いて十字軍を祝福した。
Epi. 第四回十字軍が持ち去ったもの 1204年4月13日、十字軍はコンスタンディノープルを占領し、教会の聖遺物(キリストの十字架の台木、その時流れた血痕など)が持ち去れた。現在、ヴェネツィアの聖マルコ寺院正面の四頭立ての馬車の銅像も、この時コンスタンティノープルから奪われたもの。 
b ヴェネツィア  → ヴェネツィア
c コンスタンティノープル  → 1章 3節 コンスタンティノープル
d ラテン帝国  → 6章 2節 ラテン帝国
e インノケンティウス3世  → 6章 1節 インノケンティウス3世
f 宗教騎士団 十字軍時代に組織された修道会で、騎士修道会ともいわれ、修道誓願するとともに騎士として聖地の防衛や巡礼の保護にあたったことに始まる。テンプル騎士団ヨハネ騎士団ドイツ騎士団が三大騎士団。この他、スペインなどにもいくつもの宗教騎士団があった。これらは十字軍時代以降も存続し、一つの政治的勢力として活動を継続する。
ドイツ騎士団 1190年、第3回十字軍の時、リューベックとブレーメンの商人が建てた病院が起源で、ドイツ諸侯が保護して発展させ、1199年、教皇の承認を受け宗教騎士団となった。1291年アッコンが陥落し、ドイツに帰国。ドイツを本拠として、バルト海沿岸のスラブ人居住地域に対する東方植民を展開し、特にポーランドの領域を侵すことになった。1410年にはリトアニア=ポーランド王国軍とタンネンベルクの戦い(グルンヴァルドの戦い)で戦い、敗れている。後のプロイセンのもととなる。
テンプル騎士団 1118年、フランスのシャンパーニュ伯領出身の騎士ユーグ=ド=パイヤンはイェルサレムに至る巡礼路の警備に挺身し、翌年騎士団を創設。イェルサレム王国のボードワン2世はかれらの宿舎として「ソロモン神殿(テンプル)跡」(「ソロモンの栄華」で有名な神殿跡)を与えた。ここから「テンプル騎士団」の名称が起こる。1128年、ローマ教皇から「キリストの貧しき騎士にしてイェルサレムなるテンプル騎士修道会」としてローマ教皇に直属する修道会として公認された。十字軍時代後も活動を続け、全ヨーロッパに支部を設け財産を蓄え、金融を通じてフランス国家にも食い込んでいった。フランス王フィリップ4世はその勢力を王権の障害と考え、財産を没収するため弾圧を加え、総長ド=モレーらを処刑、1312年解散させた。
ヨハネ騎士団 1070年代にエルサレム市内の聖墓教会に隣接するキリスト教徒居住区に、巡礼や居留民の医療を行う修道院として作られた聖ヨハネ病院がもととなった。第1回十字軍の時、ジェラールというフランス出身の修道士が十字軍に呼応して活躍し、一躍有名になった。1113年、教皇パスカリウス2世は教書を発布し、聖ヨハネ病院を独立の修道会とすることを認めた。この聖ヨハネ修道会をもとに結成されたのがヨハネ騎士団(聖ヨハネ騎士団)である。1271年、その拠点であったシリアのクラック=デ=シュヴァリエ城をマムルーク朝のバイバルスに奪われ、さらに1291年には十字軍の最後の拠点、アッコンが陥落したため聖地から撤退した。その後、地中海のロードス島を本拠として活動したが、1522年にオスマン帝国のスレイマン1世に追われ、クレタ島に逃れる。ついで1530年神聖ローマ帝国カール5世からマルタ島を与えられる。その後はマルタ騎士団ともいわれ、レパントの海戦などでも活躍。その後も騎士団国家として独立を維持、フランス革命で所領を没収され解体されたが、その残党は本部をローマに移し、現在でも活動を続けている。
g 少年十字軍 1212年、北フランスの羊飼いの少年エティエンヌは神のお告げを受け、子供たちだけの十字軍を呼びかけた。たちまち全国に広がり、それを支援する司祭も現れた。フランス王フィリップ2世はこの運動を禁止したが、インノケンティウス3世は第4回十字軍がコンスタンティノープルから動かないため、替わりの十字軍の派遣を提唱していたので、少年たちの十字軍には困惑したが放任した。ついにマルセイユの港から7艘の船に乗って、12歳以下の少年少女たちの十字軍が出発した。実際にはかなり多数の大人が加わっていたらしい。7艘のうち2艘は途中嵐で海に沈んだ。残りの5艘は船主がアレキサンドリアに運び、そこで奴隷に売り飛ばしてしまった。同じ年にドイツでもケルンのニコラウスという10歳の少年が神のお告げにより少年十字軍を起こし、イタリアから海を渡ろうとしたが、これはその地の司教が阻止して故郷に送り返された。
Epi. 少年十字軍の後日談 17年後に、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(両シチリア王)がアレキサンドリアのスルタンと和を結んだとき、何人かの少年十字軍に加わり奴隷として売られていたうちの何人かが解放された。それでも700人が奴隷としてアレキサンドリアに残っていたという。
「少年十字軍」の実態  「世上伝えられる少年十字軍のイメージはかなり史実と相違しており、その誤ったイメージにもとづいで不当な評価をうけでいろきらいがある。史料によると、この十字軍には非常に多くの大人か参加しており、そのうち不自由身分の便用人、家内労働に徒事する召使などは社会身分が低いというだけで年齢には成年である。「当然のことながら、その中には娼婦もいれば盗賊もいた」のであって、それらはもちろん大人である。つまり、少年十字軍とは、ある霊感をうけた一少年がリーダーとなり、仲間の同年配の末成年者を多数ひきつれで巡礼に出発したという、発生の時点での特色をとらえた表現であったのである。行列が進み、諸地方をへめぐるうちに後から加わった者は必ずしも子どもばかりではなかった。したがって、この十字軍の本質は末成年者にあるというより、むしろ貧しい席民にあると考えるべきであろう。」<橋口倫介『十字軍』 岩波新書 P.174-179>
ジャン=ド=ブリエンヌの十字軍1218年に起こされた、イェルサレム王ジャン=ド=ブリエンヌが提唱した十字軍。これを第5回十字軍とする場合もある。<ルネ=グルッセ『十字軍』角川文庫>
当時アッコンを拠点としてたイェルサレム王国の国王ジャン=ド=ブリエンヌは、イェルサレムの奪還には、アイユーブ朝の本拠であるエジプトを攻撃することが有効であると考え、ヨーロッパ諸国に呼びかけ、1218年エジプトの要港ダミエッタを攻撃し、それを占領した。しかし、キリスト教側の足並みがそろわず、1221年にはアイユーブ朝軍の反撃を受けダミエッタを奪回され、守兵はすべて捕虜となると言う敗北を被った。
第5回十字軍 1229年、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)フリードリヒ2世が起こした十字軍。(1218〜21年のジャン=ド=ブリエンヌの主唱した十字軍を第5回とする場合もあり、その場合はこれが第6回となる。)神聖ローマ皇帝であるがシュタウフェン朝シチリア王としてシチリア島生まれのフリードリヒ2世は、アラビア語も理解する開明的な王であった。彼はローマ教皇の度重なる十字軍派遣の要請を引き延ばしていたので破門されたが、1228年、イスラーム側アイユーブ朝の内紛が生じたのを機に十字軍を起こし、アッコンに上陸した。この十字軍は、戦うことなく1229年イスラーム側と条約を結び、イェルサレムを譲り受けた。フリードリヒ2世の十字軍は外交交渉で聖地を回復するという新しい方式を実現したが、ローマ教皇の主導権によるものではなかったので、「フリードリヒの十字軍」としか呼ばれないこともある。
h フリードリヒ2世  → コ.ドイツ フリードリヒ2世
第6回十字軍 聖王といわるほど敬虔なキリスト教信者であったフランス国王ルイ9世が主唱して、1248年に第6回十字軍が起こされた。ルイ9世軍はイスラーム側の拠点アイユーブ朝エジプトを攻撃したがマムルーク軍を主体とするイスラーム軍に押され、チブスの蔓延もあって敗北し、ルイ9世自身もマンスーラで捕虜となった。ちょうどその時、エジプトでバイバルスのクーデタが起こりマムルーク朝に交替、ルイ9世も身代金を払って釈放された。これを第7回と数える場合もある。
i ルイ9世  → キ.フランスの状況 ルイ9世
第7回十字軍 1270年、フランス王ルイ9世が起こした最後の十字軍。すでにかつての民衆の十字軍への熱狂は消えており、彼の計画には反対も多かったが、ルイ9世は第6回の失敗の回復に燃え、アフリカ北岸のチュニスに向かった。チュニスに上陸し、イスラーム軍と交戦したが、チフス(または赤痢か)が蔓延、ルイ9世も感染し、現地で死去し、十字軍はなすすべなく帰国した。これが最後の十字軍で、第8回と数える場合がある。この翌年の1271年、イタリア人のマルコ=ポーロが、東方への旅行に出発したことを考えれば、東西交渉は新しい段階に入ったことが理解できる。
j アッコン 1270年に最後の第7回十字軍が派遣されたが、その後も残っていた十字軍の拠点は、テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団、ドイツ騎士団らが死守するいくつかの城と、イェルサレム王国(全盛期の10分の1以下の領土となっていた)の首都アッコンのみであった。カイロを拠点とするイスラーム勢力のマムルーク朝は1291年、アッコンに対して総攻撃を行い、まさに「海に掃き落とす」ように陥落させた。騎士団の一部はキプロス島に逃れたが、住民のほとんどは殺害された。これによって、11世紀末からはじまった十字軍運動は約200年で終わりを迎え、十字軍国家は完全に消滅した。
Epi. 十字軍の最後  マムルーク朝のバイバルスがヨハネ騎士団がたでこもる難攻不落の巨大な城クラック=デ=シュヴァリエを陥落(1271年)させてから20年、スルタンのカーリルはいよいよ十字軍国家を「海に掃き落とす」最後の仕上げにとりかかった。この時代のトルコ側の歴史家アブール・フィダーはその壮観な光景を細大もらさす記録している。「1291年、スルタンのカーリルはそのエジプト軍と北シリア軍とを率いてアッコンに進軍した。輸送に一○○台の車を要する巨大なカタパルト”勝利号”が軍団に配備された。・・・五月初めすさまじい戦闘がおこり、・・・シリア軍は正規の右翼陣(陸側)にあり、エジプト軍は海側から攻撃した」。三騎士団の勇戦空しく、最後の拠点は六月十七日陥落した(停戦は五月十八日)。
 「イスラム軍は住民多数を殺し、莫大な戦利品を得た。一人残らず降服させた後、最後の一人を城外で斬首し、市街を完全に破壊するよう命じた」。サラディンからこの都を奪い返したリチャード獅子心王に対する報復がおこなわれたのである。「こうして全パレスチナはイスラムの手に帰し・・・かくて全シリアと海岸地力はフランク人を帰き清めた・・・神は誉むべきかな!」と、アプール・ブィダーはむすんでいる。<橋口倫介『十字軍』岩波新書 P.202>
a 東西教会の統一  
b 領地と戦利品  
c イタリア諸都市  
d 負債の帳消し、農奴身分からの解放  
a 聖地回復に失敗 
b 教皇の権威の動揺  
c 国王の権威  
d 諸侯・騎士の没落  
e イタリア諸都市の繁栄  
f 東方貿易 (レヴァント貿易)11世紀の十字軍運動の開始に伴って展開された、北イタリア諸都市(ヴェネツィア、ジェノヴァなど)の商人による、地中海東岸のレヴァント地方との遠隔地貿易を「東方貿易」という。地中海東岸の小アジアやシリアは「東方」を意味するレヴァント地方といわれたので「レヴァント貿易」とも言われた。イタリア商人はレヴァント地方でムスリム商人(イスラーム教徒)によって南インドなどから運ばれた胡椒などの香辛料を買い取り、イタリアに持ち帰り、さらにフランスや北ドイツに運ばれ高値で売られた。この東方貿易は、15世紀になるとオスマン帝国が進出したため、次第に衰え、ヨーロッパの香辛料の需要は、アジアと直接取引できる新たなルートを開拓する必要を生み出した。それが15世紀末に活発になる、「大航海時代」のインド航路の開拓であった。
e ビザンツ、イスラーム文化の流入  
イ.商業の復活
A 商業の復活  
a 都市と商業 11世紀ごろから、新しい中世都市が形成されてくるが、実際の都市人口はどのぐらいであったか、不明なことが多い。
中世末期の14〜15世紀の資料では次のような数字がある。
 10万以上 パリ(24万)・ヴェネツィア(19万)
 6〜10万 フィレンツェ・ジェノヴァ・ミラノ・ガン・ブリュージュ
 3〜5万  ブリュッセル・ケルン・リューベック・ロンドン
<鯖田豊之『世界の歴史9・ヨーロッパ中世』河出書房新社> 
b 貨幣経済 (中世ヨーロッパ)カロリング朝フランク王国のカール大帝は、デナリウス銀貨といわれる銀貨を鋳造したが、フランク王国の分裂に伴い、国王の鋳造する貨幣にかわって、領主や教会が貨幣鋳造権を握り、粗悪な銀貨がつくられるようになった。中世では金貨はつくられなくなり、このような銀貨がわずかに流通するだけとなった。11世紀末に経済活動が復活すると、銀貨の需要も強まり、フライブルク銀山などが開かれたが、銀の不足は続いた。地中海貿易が復興すると、貨幣の需要も復活し、銀貨は1192年、ヴェネツィアで質の高いグロート銀貨が鋳造され、また金貨はシチリア王国(1231年)で鋳造されたのを初め、フィレンツェのフィオリーニ金貨(1252年)、ヴェネツィアのデュカット(1284年)などが生まれた。しかし中世では国家による貨幣の統一的な発行とその運用は行われなかった。<ピレンヌ『中世ヨーロッパ経済史』p.127〜144による> → 同時期の中国の宋代の商工業の発達を見よ。
c 遠隔地貿易 古代の地中海貿易がイスラーム勢力の進出で中断した後、11〜12世紀の北イタリアにはじまる商業の復活は、遠隔地貿易の刺激によって起こったと言える。ヴェネツィア商人による東方貿易では、地中海東岸のレヴァント地方からアジア原産の香料や織物を輸入してヨーロッパにもたらし、東方へは、初めの頃はスラブ人などを奴隷として売りさばいていたが、後にはイタリア産の羊毛製品を輸出した。さらに12世紀後半からは、フランドルや北フランス産の羊毛製品が、シャンパーニュ大市を経てジェノヴァの商人に渡り、彼らによって東方に輸出されるようになる。こうして地中海の遠隔地貿易をめぐって、北イタリアのヴェネツィアとジェノヴァの激烈な競争が展開されるようになる。このような、東方貿易や、北海・バルト海沿岸での貿易などが遠隔地貿易が最初に盛んになった例である。
d 商業ルネサンス カロリング朝フランク王国の時代以来、イスラームの西地中海進出によって貿易が途絶えたため、ヨーロッパの経済は衰え、農業中心の社会に後退した。次の11〜12世紀には、イスラーム勢力の後退、ノルマン人の侵攻の終了による平和の回復と、三圃制農業の普及などによる農業生産力の向上、人口増加などによって、衰えていた地中海貿易が再び活発となり、北イタリアのヴェネツィアを中心とした諸都市とフランドル地方を中心とした北海に面した北ヨーロッパ地域の諸都市が繁栄し、また両者を結ぶ内陸交通路の発達とシャンパーニュ大市などの内陸諸都市が発展、ヨーロッパの商業が復興した。このような経済史上の動きを「商業ルネサンス(商業の復活)」と呼んだのは二〇世紀初頭のベルギーの歴史家アンリ=ピレンヌであった。<ピレンヌ『中世ヨーロッパ経済史』1930年>
B 地中海商業圏  第1章 2節 古代の地中海貿易
a ヴェネツィア 英語の発音ではベニス。伝説では413年に創建されたと言うが、実際は6世紀中ごろ、ランゴバルド族のイタリア侵入の難をのがれ、パードヴァなどから移住した人々が、アドリア海沿岸の潟(ラグーナ)の島に都市を作ったところに始まる。ユスティニアヌス大帝時代以来、ビザンツ帝国の支配受け、その法的関係は長く続くが、次第に港市として発展し、独自に統領(ドージェ)を市民の中から選出して都市共和国(コムーネ)として自立していく。11世紀には強力な艦隊と商船を有し、アドリア海から東地中海、黒海の海上貿易を独占、東方貿易(レヴァント貿易)の中心地として栄えた。東方からは香料、織物などを輸入、ヨーロッパからは初めは奴隷、後には羊毛製品を主に輸出した。十字軍時代にはその出港地として船舶を提供、また多くのヴェネツィア商人が同行して利益を上げた。特に第4回十字軍ではヴェネツィアが主導してコンスタンティノープルを占領、その商業的特権を独占、さらにクレタ島、キプロス島などに植民地を獲得して繁栄の基礎を築いた。13世紀の後半、元朝の中国に大旅行を行い、『東方見聞録』を残したマルコ=ポーロもヴェネティアの人であった。14世紀にはジェノヴァとの抗争での勝利、15世紀には内陸部への進出などをはたし、全盛期を迎えるが、新航路の発見に伴い16世紀以降は衰退する。→ヴェネツィア共和国
b ジェノヴァ 地中海に面したローマ時代からの港市で中世には都市共和国として繁栄。10世紀末にはイスラームの脅威にさらされたが、城壁を修築して防衛に成功。12世紀の十字軍時代にはその出港地となり、フランドル地方の羊毛製品を輸出し、ピサやヴェネツィアと繁栄を競った。特に東地中海の通商権をめぐってヴェネツィアと激しく抗争、エーゲ海域のレスボス島、キオス島、黒海のクリミア半島などに進出した。国内ではゲルフギベリンの対立が続き、ヴェネツィアとの抗争でも1378〜80年のキオッジアの海戦で敗れ、衰退する。 → ジェノヴァ共和国
c ピサ イタリア・トスカナ地方の港市。10世紀にジェノヴァとともにイスラームの侵入に対して防戦に成功し、地中海貿易に進出。11世紀以来、都市共和国(コムーネ)として独立し、12世紀に最盛期となる。しかし1284年にジェノヴァとの抗争に敗れ、衰退。後にミラノやフィレンツェの支配を受ける。ピサ大聖堂はロマネスク様式の代表的な建築物として有名。
d 香辛料・絹織物 香辛料は、運送が容易な割に利益が大きかったので、貿易商人達は競ってその輸入を行った。香辛料には、胡椒、肉桂、丁子、肉ずくなどがあり、肉食主体のヨーロッパの上流社会で次第に多量に用いられるようになった。イタリア商人が東方から輸入したものには香辛料の他に、絹織物、生糸、木綿、などがあった。絹織物は12世紀から北イタリアの諸都市やフランスのリヨンで生産されるようになり、独自の発展をみせる。
e ミラノ 北イタリア・ロンバルディア地方の中心都市。ローマ時代にはガリアに属し、属州ガリア=キサルピナの州都メディオラヌムとされた。313年にはこの地でコンスタンティヌス大帝がミラノ勅令を出し、ミラノ司教アンブロシウス(アウグスティヌスの師)がテオドシウス帝に影響を与え、392年のキリスト教国教化に大きな役割を果たした。西ローマ帝国時代にはその首都となったが、帝国滅亡後はゲルマン諸族の支配を受けた。11世紀ごろから毛織物や武器の生産が発展し、北イタリアの中心的な都市共和国として栄えた。北イタリアの支配をねらう神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によって1162年に破壊されたが、後にロンバルディア同盟の支援で復興した。14世紀以降は共和政が衰え、ヴィスコンティ家、次いでスフォルツァ家の支配を受けてミラノ公国となる。 → ミラノ公国 → ロンバルディア
f フィレンツェ 英語の発音ではフローレンス。北イタリア、トスカナ地方の内陸都市で、11世紀にはカノッサのトスカナ伯マティルダの支配を受け、その死後1115年に独立して都市共和国(コムーネ)となった。13世紀以降は毛織物業と金融業で繁栄し、独自の金貨フィオリーニを鋳造し、有力なギルドが形成された。共和国内部ではゲルフギベリンの対立、市民層の上層と下層民の争いなどを経て、14世紀に上層市民による共和政が確立し、ルネサンスの時代を迎える。15世紀からは金融業者として有力となったメディチ家が政権を掌握し、最盛期を迎える。 → フィレンツェ共和国の繁栄 
C 北ヨーロッパ商業圏  
a ハンブルク 北海に面し、エルベ川の河口に位置するドイツの港市。13世紀から発展し、北海貿易の中心地となる。またハンザ同盟の主要都市ともなる。宗教改革期にはルター派の拠点。現在でもヨーロッパ有数の貿易港として栄えている。
Epi. ハンバーガー・ステーキの故郷 ハンブルクは古来挽き肉料理で有名。そのため牛挽き肉のステーキをハンバーガー・ステーキという。なお、○○ブルクのブルクは「城」の意味で、ヨーロッパの地名には多数見られる。
b リューベック バルト海に面したドイツの港市で、1158年、ドイツ諸侯の一人ザクセン・バイエルン公ハインリヒ(獅子公)が、建設した、いわゆる建設都市。建設都市とは東方植民の一環として、エルベ川以東のスラブ人居住地域に新たに建設され、ドイツ人が移住した都市で、商工業者を誘致するために広範な自治権が与えれた。リューベックはそのような建設都市の先鞭をつけたもので、その成功によって、その後次々とバルト海沿岸にドイツ人の都市か建設された。リューベックはその後、ハンザ同盟の盟主として繁栄した。
c ブレーメン ヴェーゼル川を通って北海に出ることの出来るドイツの港市。ハンザ同盟の有力都市の一つ。
d フランドル地方  → フランドル地方
e ガン(ヘント) 現在のベルギーの都市。ヘントとも表記。フランドル地方の東の中心地で毛織物業が盛ん。1053年、フランドル伯が城塞化し、中世都市の典型的な景観が現在でも見られる。
f ブリュージュ 現在のベルギーの都市。ブルッヘとも表記。水路が入り組み橋が多く、地名は「橋」を意味する。フランドルの中心地で毛織物業が盛ん。ハンザ同盟の商館も置かれた。
g ロンドン(中世) ローマ時代のロンディニウムに起源を持つイギリスの首都。テムス川の中流にあり水運が発達。イングランドの首都としてのみならず、北海商業圏の一角の商業としても繁栄。
Epi. 中世のロンドン 「テムズ・ストリートと河の間の小さな路地に、蜂の巣のようにひしめいている倉庫が、海外からの輸入品や食料品の落ち着き先だった。香料の商人、雑貨屋、石炭商人、酒類輸入業者、絹商人などがここに集まっていた。・・・製造業についていえば、造るものによってすべて通りに名前がつけられた。たとえば材木通り、ミルク通り、鍛冶屋小路、携帯電話小路(冗談)といったぐあい。・・・ロンドン市は二重の仕組みで運営された。一つは時の王、もう一つは市長を中心とした自治体制だった(1200年から)。市長というのは、いわば王と市の長老たちとの取り持ち役みたいなものだったが、王の代理人といった役目も果たした。・・・」<ジョン・フォーマン『とびきり不埒なロンドン史』1999 筑摩書房 p.60>
D 内陸交通路上の都市  
a シャンパーニュ地方 フランスのパリ東部に位置する地方。北方の北海商業圏と南の地中海商業圏を結ぶ商業ルートに位置し、12〜13世紀に「シャンパーニュの大市」といわれて繁栄した。中心地はランス。6つの町でそれぞれ7週間ずつ、毎年定期市が開かれ、フランドルの毛織物、フランスのブドウ酒、イタリアの絹織物、ドイツの亜麻布、東方からの香辛料などが取り引きされた。14世紀以降は、北イタリアとフランドルやイギリスを直接結ぶ航路が発達したことと、百年戦争(1339〜1453年)によってうけた打撃によって衰退した。
Epi. シャンパンの故郷 シャンパーニュ地方もワインの産地で、特にこの地方独特の炭酸ガスを含有する発泡性ブドウ酒がシャンパン(シャンペン)である。
b ニュルンベルク ドイツ内陸部のバイエルン州の都市。内陸交通路の要衝にあり、1219年に帝国都市となって自治権を得る。中世後期に南ドイツの商業の中心地として栄え、「ニュルンベルク市民なきところ大市なし」と言われた。なお、第2次世界大戦後にニュルンベルク国際軍事裁判が行われたことでも有名。
c アウクスブルク ドイツ内陸部のバイエルン州の都市。初代ローマ皇帝アウグストゥスが紀元15年に設置した要塞が起源。近郊に銀山があり、鉱工業が発達、また内陸の交易の中心として繁栄し、1276年、帝国都市となる。15世紀末にフッガー家がこの地に起こり、大きな富を築く。しかし、16世紀以降は新大陸の銀が大量に輸入されるようになって、衰退する。
d ノヴゴロド 現在のロシア連邦の北西部の内陸にある都市。ロシアの『原初年代記』に現れる、ロシア最古の都市の一つで、862年、ノルマン人のルーシ族のリューリクにがこの地を占領し、ノヴゴロド国を建設、ロシア国家の起源とされている。その後政治の中心はキエフに移ったが、ノヴゴロドはロシア内陸の毛皮や木材をバルト海交易圏にもたらし、また南のキエフを経て黒海方面とを結ぶ商業都市として栄えた。ハンザ同盟はノヴゴロドに商館をおき商人を常駐させていた(ハンザ同盟の4大在外商館所在地の一つ)。このような商業の繁栄を背景に市民層が成長し、12〜14世紀には「ノヴゴロド共和国」といわれる都市共和国が成立した。しかし15世紀にはモスクワ大公が有力となり、1748年にイヴァン3世によってモスクワ大公国に併合された。現在、ノヴゴロドの旧市街は世界遺産に登録されている。
e キエフ  
ウ.中世都市の自治
A 自治都市の成立  
a 司教座都市 ローマ帝国末期以来、キリスト教の大司教司教のおかれた都市。司教都市とも言う。キリスト教の教区である司教区の中心として、宗教的・政治的な中心地となった。司教座都市には周辺の荘園から人と物資が集まり、中世の都市の起源となった。代表的な司教座都市はドイツのケルンで、もとはローマの植民市(植民市を意味するコロニアがケルンの語源)に始まり、795年にケルン大司教座が置かれ、13世紀にはケルン大司教は選帝侯にも選ばれて繁栄した。1288年に帝国都市として自治権を獲得した。ほかに同じくドイツのマインツ、トリーア、フランスのボルドー、トゥール、ルーアン、などが司教座都市から発展した都市である。
b 特許状  
c 北イタリア  
d コムーネ(都市共和国)イタリア中世の自治都市から発達した都市共和国をコムーネ(Comune)という。イタリアの都市はその地域の領主に服し、行政は教会の司教が行うことが多かったが、10世から11世紀にかけて、北イタリアでの都市の商工業の発展を背景に、ミラノなどの市民(その中心が商人ギルド)が自治権を獲得していった。大商人は封建領主と抗争する際、ローマ教皇の支持を受けることが多かった。都市の権力を握ると大商人層は新たな都市貴族となっていく。また周辺の農村で解放された農奴が都市に流入し、都市人口も増加する。手工業者の同職ギルドの親方など中産階級は、都市貴族と対立するようになり、13世紀ごろには一定の共和政を実現させるが、両者の対立からくる混乱を武力と財力で抑えた独裁者が出現するようになる。15世紀のフィレンツェのメディチ家はその典型である。また北イタリアのコムーネ(自治都市)は12〜13世紀、神聖ローマ皇帝のイタリア政策による攻撃にさらされ、ロンバルディア同盟という都市同盟を結成する。一方、皇帝と教皇の争いは、都市同士、または都市の内部に、教皇党(ゲルフ)皇帝党(ギベリン)の対立をもたらす。神聖ローマ皇帝の支配に対抗しようとした大都市は教皇党となり、中小都市や封建領主層は皇帝となることが多かったが、都市内部においても新興の有力商人層は教皇党、保守的な大商人層は皇帝党を支持していたとされる。
e ドイツ  
f 帝国都市 はじめ、都市は近傍の封建領主の支配を受けていたが、その支配から逃れるため、皇帝に直属し、その直轄領となることで自治を認めてもらうところが出てきた。中世のドイツのいて、そのような都市を帝国都市といい、自治都市の一般的な形態となった。帝国都市は皇帝に対し忠誠を誓い、軍役(皇帝のために軍事費を出す)と税を負担するかわりに、政治・経済上の自治と裁判権を認められ、帝国議会に出席する権利を要した。代表的な帝国都市はハンブルク、ブレーメン、リューベック、フランクフルト、ニュルンベルク、アウグスブルク。
B 都市同盟の形成  
a ロンバルディア同盟 ロンバルディアは北イタリアのポー川流域の一帯を指し、かつてランゴバルド王国が支配した地域を言う。この地には11世紀ごろからミラノをはじめとする自治都市(コムーネ)が形成されていたが、12世紀には神聖ローマ皇帝(ドイツ)のイタリア政策による干渉が激しくなり、特にフリードリヒ1世(赤髯王、バルバロッサ)は1158〜78年にかけて4回イタリア遠征を行い、1162年にはミラノを破壊した。ロンバルディア同盟はこのような神聖ローマ皇帝の攻撃から防衛するために結成された北イタリアの都市同盟である。それは2度結成されており、最初はフリードリヒ1世に対抗して、1167年クレモナ市が提唱し、ペルガモ、ブレシア、マントヴァ、フェラーラなどが加わり、20年間継続した。同盟軍は1176年のレニャーノの戦いでフリードリヒ1世のドイツ軍を破り、1183年のコンスタンツの和議で皇帝に自治を認めさせた。2度目は、13世紀前半、南イタリアを足場に、北イタリアの支配を目指した皇帝フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ2世)に対抗し、ローマ教皇の支援を受け、ミラノ、ボローニャなどが結成した。
 レニャーノの戦い 1176年、北イタリアの都市同盟ロンバルディア同盟軍が、神聖ローマ帝国皇帝のフリードリヒ1世フリードリヒ1世(赤髯王)を破った戦い。イタリア政策を展開し、イタリアの支配を強化しようミラノを破壊したフリードリヒ1世に対して、イタリアの都市同盟軍が結束して戦って勝利した。皇帝は1183年のコンスタンツの和議でロンバルディア同盟都市の自治を認めた。後世のイタリアで統一と独立が叫ばれるリソルジメントの時代となると、この勝利が国民意識を高める出来事として称揚された。ヴェルディが1849年に作曲した「レニャーノの戦い」の初日、「永遠なるイタリアよ! 汝の男児らは、聖なる使命のもとに団結せり!」と歌う幕開きの合唱が始まると、歓喜した観客は口々に「イタリア万歳!」という熱狂的叫び声を上げた。<クリストファー・ダカン『イタリア史』1994 ケンブリッジ版世界各国史 創土社 p.14>
b ハンザ同盟 ドイツの中世後期に、北海・バルト海沿岸の商業都市が結成した都市同盟。ハンザとは「商人の仲間」の意味。リューベックが盟主となり、ハンブルク、ブレーメン、ロストクなどの都市が加盟した。11世紀ごろから海外に進出したこれらの都市の商人は、はじめ外地での共同利益を守るため外地ハンザを結成、13世紀には本国の都市の同盟に発展、14世紀の最盛期には加盟都市70前後を数えた。同盟は、通商権の保護のため、3年ごとにリューベックで会議を開き、共通の貨幣、陸海軍の保持などを共通規定で運用した。またロンドン、ブリュージュ(現在のベルギーのブルッヘ)、ノヴゴロド(ロシア)、ベルゲン(ノルウェー)などに在外商館をおいき、戦争も辞さずに商権を拡大した。とくに1368年のデンマークとの戦争など、北欧諸国とは商権をめぐって対立し、北欧諸国はハンザ同盟に対抗するためにカルマル同盟を結成した。
ドイツにおいてこのような強力な都市同盟が形成された背景は、イギリス・フランス・スペインなどに比べて、ドイツの王権は弱く、国家統一が遅れていたことがあげられる。15世紀以降、近代国家の形成に伴って衰退し、最終的には1648年のウェストファリア条約によって解散する。 
A ギルドの結成  
▲a 「都市の空気は自由にする」 ヨーロッパの都市は周囲を城壁に囲まれ、まわりの農村部と隔離されていた。農村部は封建社会もと、農奴には自由は認められていなかったが、都市に移り住めば農奴から解放され、自由民となることが出来た。この「都市の空気は自由にする」(このことばそのものはドイツのことわざ)ことが中世ヨーロッパの原則とされていた。初めは都市に移り住めばすぐに自由民となることが出来たが、次第に封建領主はそれを認めなくなり、12世紀ごろには、一定期間、例えば「1年と1日」などが過ぎれば自由民となれるが、それまでは封建領主の連れ戻し権が認められるようになった。それでも都市の自由民が増加し、新しい市民階級を形成することが次の時代を準備することになる。
b ギルド 11世紀ごろから西ヨーロッパで形成されてきた都市において、その中核となって都市に定住した商人たちが結成した相互扶助のための団体から始まる。初めは都市の有力な商人が中心となってつくられた「商人ギルド」が、都市の自治を獲得する上で大きな働きをし、次第に彼らは都市貴族として支配層を形成する。13世紀以降は、手工業者が職種別に「同職ギルド」を結成し営業権を独占するようになった。同職ギルドの手工業者は、都市の支配権をめぐって商人ギルドと対立し、ツンフト闘争を展開する。以後、ギルドは中世都市の中核として続くが、中世末期には生産力の高まりから資本主義的な生産が始まると、自由な生産と流通の障害となるギルドは次第に衰退し、市民革命期に廃止される。
B 商人ギルド 11世紀の商人の都市定住に伴って形成された商人の相互扶助のための団体(組合)。営業権の防衛と、遠隔地取引の安全などをめざし、結束を強め、次第に都市自治の中核となっていく。初めは商人だけでなく、手工業者なども含んでいたが、13世紀以降は、その中から生産者である手工業者が分離し、同職ギルドを形成し、両者は対立するようになる。
a 大商人  
C 同職ギルド 13世紀ごろから都市の商人ギルドの中から、生産者である手工業者の親方たちが分離して、職種ごとに団体(組合)を結成し、商人ギルドに対抗するようになった。それが同職ギルド(ツンフト)である。商人ギルドと同職ギルドの利害が対立し、特に大陸諸国では、同職ギルドが発展するに伴い、両者の間でツンフト闘争といわれる抗争が起こった。
同職ギルドの構成員は、熟練した技術を持ち独立した親方たちであり、職種ごとに原料の確保、技術の共有、販路の確保、価格の協定、技術水準の維持、などを通じて結束を強め、営業権の確保を共同で進めた。組織と規約、場合によっては軍隊や自警団を持ち、中世末期には都市の政治に参画した。同職ギルドは、加盟していない者の営業権を拒否する権利(ツンフト強制)を持ち、技術水準の維持に努めたが、その閉鎖性が強まることによって、自由競争の欠如がかえって技術の停滞をもたらし、ギルドの規制の及ばない農村部などに新しい技術が生まれてくると急速に衰退する。
a 手工業者  
b ツンフト闘争 ツンフトとはもとは南西ドイツの同職ギルドをさす言葉だったが、次第に一般に同職ギルドを意味するようになった。13世紀ごろから、商人ギルドから別れた手工業者の同職ギルドが、その生産者としての利益を守るため、権力を握っていた商人ギルドと対立し、その権利を認めさせるための闘争を行った。それをツンフト闘争という。この闘争を通じて、職人層も市政に参画するようになる。
c 親方 技術に習熟し、独立した仕事場の持ち主であり、原料と道具を所有し、製品を販売した利益は彼のものになる。そのような親方が同職ギルドの組合員となる資格を有する。親方になるには徒弟、職人として修行を積み、ギルドへの加入金を納め、市民権を得るなどの条件があり、かなり困難なものであった。また親方になってからはギルドの規制を受け、徒弟と職人の数も決められていた。ギルドの一員となれば生活は安定したが、自由に競争して利益を上げることはできなかった。
d 職人、徒弟 独立した営業権を持つ親方に対し、その下で働くのが職人と徒弟。彼らは同職ギルドの組合員になる資格はない。職人は一定の徒弟期間を終え、一定の賃金で親方の仕事場で仕事をする。多くは3〜5年、各地を遍歴して腕を磨く。完全に技術を取得すれば親方に昇格できるが、次第に親方の同職ギルドが閉鎖的となり、14世紀以降になると、一生を職人で終えることが多くなり、そうすると職人は、その利益擁護のため職人ギルド(組合)を結成して、同職ギルドと対抗するようになる。徒弟は職人になる前の見習い段階を言う。無賃金で働き、技術を身につける期間で通常は7年。
ギルドの機能 自由競争の禁止、商品の品質・規格・価格の統制、市場の独占など 
D 有力市民の登場  
a フッガー家 15世紀、ドイツのアウクスブルクで繁栄した豪商。ヤコブ=フッガーが、ヴェネツィアとの香料や木綿、麻織物などの交易で在を築き、近くのチロル銀山の経営権を独占して銀を保有、さらにハンガリーなどの銅山の経営も行った。それらの資金を基に金融業にのりだし、神聖ローマ帝国のマクシミリアン1世や、カール5世(カルロス1世)、さらにローマ教皇庁などにも多大な融資を行った。いわゆる商業高利貸資本の典型である。この時代の南ドイツの商業の繁栄を「フッガー時代」ともいう。しかし16世紀に大航海時代が始まり、商業の中心が大西洋岸のリスボンやアントワープにうつるいわゆる商業革命が起こると、カール5世のマゼラン船団への資金貸し付けなどもおこなったが、次第に没落せざるを得なかった。とくに融資先であった神聖ローマ帝国の財政破綻は、フッガー家の没落を決定づけた。同じく南ドイツの商人にヴェルザー家があるが、こちらは高利貸資本よりも遠隔地貿易に積極的のりだしリスボンに進出したが、やはり16世紀末には没落した。
b メディチ家  → 第9章 2節 ルネサンス メディチ家
エ.封建社会の衰退
A 荘園制の崩壊 西ヨーロッパ中世封建社会では、領主(貴族、高位聖職者、騎士たち)が荘園を所有し、農民を農奴として支配する荘園制を基礎としていた。農民は荘園に居住し家族生活を営み、保有地を耕作することが出来たが、職業選択や移動の自由が無く、また領主に対し重い地代(主として労働地代と生産物地代)と結婚税や死亡税、教会への十分の一税などを負担し、領主裁判権に服する「農奴身分」におかれていた。13世紀ごろから、生産力の向上を背景とした貨幣経済が荘園のなかにも浸透し、領主も貨幣で地代を取る必要が出てくると、直営地を農奴の賦役によって経営したり、農奴の保有地から生産物地代を取る形態から、土地を農民に貸し、農民が余剰生産物を商品化して得た貨幣を地代としてとるという形態、つまり貨幣地代に移行していった。その過程で荘園制は崩壊し、農奴が自由になり、賦役や生産物地代、結婚税、死亡税などを賦課されず、貨幣地代のみを納めるようになっていった。このことを農奴解放という。多くは有償(一定の金額を支払って自由になる)で解放され、農村で独立自営農民となっていったが、農民が自ら都市に逃げ込んで自由人になることもあった。この農奴の解放は、一挙に起こったのではなく、農民一揆を起こすなどの領主との戦いを通じ、多くの犠牲を払いながら、少しずつ進んだ。イギリスやフランスでは17〜18世紀の市民革命で、農奴の解放(封建地代の廃止)が最終的に実現する。しかし他の地域では農奴解放は19世紀まで持ち越されるところも多い。
a 貨幣経済  → イ.商業の復活 貨幣経済
b 賦役  → 第6章 1節 封建社会 賦役
c 地代 (貨幣地代)中世の荘園制では、領主に対する農奴の地代は労働地代(賦役)と生産物地代(貢納)であったが、12〜13世紀には、三圃制農業の普及、鉄製農具の改良などによる生産力の向上の結果、貨幣経済が復活、領主も貨幣を必要とするようになり、農奴も余剰の生産物を貨幣化することによって、貨幣地代へと変化した。 
B 農奴の解放 農奴身分のものが自由になり、賦役や結婚税、死亡税または領主裁判権などが課せられなくなること。農奴制は中世封建社会の柱の一つであったが、13〜14世紀の荘園制の崩壊のなかで農奴の解放が進んだ。その背景には黒死病の流行による人口減があった。また、農奴解放を目指す、フランスのジャックリーの乱、イギリスのワット=タイラーの乱に代表される農民一揆の戦いによって勝ち取られたものであった。解放された農奴は、農村では独立自営農民となり、あるいは都市に流入して市民層を形成して、広い意味で近代社会の市民階級を形成していく。
a 英仏百年戦争  →ク.百年戦争
b 黒死病(ペスト) 1347年、コンスタンティノープルから地中海各地に広がったペストの流行は、マルセイユ、ヴェネツィアに上陸、48年にはアヴィニヨン、4月にはフィレンツェ、11月にロンドン、翌年には北欧からポーランドに、1351年にはロシアに達した。ペストの大流行の発生源は解っていないが、ペスト菌を媒介するノミがクマネズミから人間に移り、伝染させるのだが、クマネズミはもともとヨーロッパにいなかったものが、十字軍の船にまぎれ込んで西アジアからヨーロッパに移り住んできたのだという。発病すると最後は体中に黒い斑点が出来て死んでいくので「黒死病(black death)」と言われた。
黒死病の大流行による人口の激減は、生き残った農民の待遇を良くすることとなり、農奴解放がさらに進むこととなる。
Epi. 黒死病の死者数 フィレンツェにおける流行の様子は、ボッカチォの『デカメロン』にくわしく描かれている。大流行は1370年ごろまで続いたが、ヨーロッパ全体での犠牲者は、総人口の3分の1とか4分の1と言われているが、正確な数字は不明である。ある説によると、当時のヨーロッパの総人口約1億として、死者は2500万程度と推定されている。このペストについては、当時の人々は流行の原因がわからず、一部ではユダヤ人が井戸に毒をまいたからだ、などという噂からユダヤ人に対する虐殺が起こったりした。<この項、村上陽一郎『ペスト大流行』岩波新書 による> 
c 独立自営農民  → 次項 ヨーマン
d ヨーマン ヨーマンリーともいう。中世末期のイギリスで、三圃制農法の普及などを背景に生産力が向上し、貨幣経済の復興した。貨幣経済の浸透は、百年戦争・ばら戦争などで出費のかさんだ騎士階級=封建貴族(領主)を没落させ、それまで農奴身分であった農民も解放されて自立していった。イギリスの農村は中世末期から、没落した封建貴族と農民でも豊かな層は、ジェントリ(郷紳)となり、中間層の独立自営農民がヨーマン(ヨーマンリ)、その下に零細な農民というように分化した。ヨーマンは三圃制農法を基盤にして16世紀の絶対王政期には国王の軍事力を支え、またその中のピューリタン信仰に燃えた人々は、ピューリタン革命の中心勢力となっていく。しかし、18世紀の産業革命期までには三圃制農法を基盤としたヨーマンの農業経営は終わりを迎え、イギリスは地主による資本主義的な膿瘍経営の近代農法に転換した。
C 農民一揆の発生 中世末期、封建社会の矛盾が深まり、領主層による封建反動が強まると、農民(農奴)が負担の軽減、農奴身分の解放などを要求して立ち上がり、領主や教会を襲撃するようになった。百年戦争中の14〜15世紀に起こった、フランスのジャックリーの乱、イギリスのワット=タイラーの乱、ボヘミアのフス戦争、などがその例である。また16世紀のドイツ農民戦争や、日本の江戸時代の百姓一揆、18世紀ロシアのプガチョフの乱など、各地で封建社会の末期に広く見ることが出来る。このようにいずれも権力によって弾圧されてしまい、また発生の時期には大きなずれがあるが、いずれも農民一揆が農奴の解放につながり、封建社会を動揺させ、近代資本主義社会を生み出す力の一つになっていたことは間違いない。
a 封建反動 14世紀ごろの中世末期のヨーロッパでは、商品経済の農村への浸透によって地代の金納化が進み、農奴の解放も進んだ。また百年戦争と黒死病の流行による人口の減少は、農業労働力の価値を高め、領主の封建的支配は危機的状態に陥った。このような封建制の危機に当たり、領主は農民への支配権と収奪をさらに強化し、地代の引き上げをはかった。このような動きを「封建反動」という。この封建反動は、農民の反撥を招き、フランスでのジャックリーの乱、イギリスのワット=タイラーの乱、16世紀のドイツの農民戦争などの「農民一揆」が14〜15世紀にかけて起こることとなる。
b ジャックリーの乱 フランスの農民は、農村が百年戦争の戦場となって荒廃する中、貴族(封建領主)の封建反動がさらに強まってくることに対し、強い反撥を感じるようになっていた。
「一揆は1358年5月21日、ボーヴェの郊外からはじまつた。農民は棒のさきに刃物をつけ、隊をつくつて、領主の家屋敷をめがけて殺到した。貴族の家では女・子供までが殺害され、邸館(シャトー)は掠奪され、焼かれもした。叛乱はボーヴェからアミアン、ラン、ソワソソ、ヴァロアの各地区に及び、イール・ド・フランスのすべての地方に拡った。最初農民は衝動約な情熱に駆られたまま、暴行を行つたが、やがて、ギョーム・カール(彼の経歴は今なお明らかになし得ない。農民か職人か、いずれにせよ平民出身の男で、マルロという村落に住み、早く平和を保つ努力をした。)をはじめ幾人かの指導者によつて統率され、腐敗しかつ裏切の主謀者である貴族を打倒することに目標が定められた。」<金沢誠『フランス史』>
当時、王権に反撥して反乱を起こしていたパリ市長エチエンヌ=マルセルも、ジャックリーの反乱に合流したが、ギヨーム・カールがナヴァル王に殺害されると一揆軍は総崩れとなり、貴族の反撃が始まり、2万にのぼる農民が殺され、エチエンヌ=マルセルも殺害されて反乱は失敗に終わった。 
c ワット=タイラーの乱 イギリス国王(リチャード2世)が百年戦争中のフランス及びスコットランドとの戦争の戦費に充てるため、12歳以上のすべての人に人頭税を課税することを決め、厳しく徴税を行うようになると、富裕な農民から貧農にいたるまで、また都市の住民にも不満が強まった。そのような中で、ジョン=ボールが作ったという「アダムが耕しイブが紡いでいた時、だれが領主だったか」という歌詞の歌が流行し、1381年6月、まず農民一揆として反乱が始まった。イングランドの南東部のエシックスやケント州に始まった一揆は、たちまちほぼ全土に拡がり、指導者ワット=タイラーのもと反乱軍を組織し、ロンドンに迫った。ロンドンの市民は反乱軍を受け入れ、ロンドンは反乱軍の手におち、大司教や大蔵大臣は殺害され、大商人の屋敷は焼き討ちされた。国王リチャード2世はロンドン塔に避難したが、そこも反乱軍に包囲され、やむなくタイラーと会談し、ワット=タイラーが要求した農奴制の即時撤廃、小作料の軽減、一揆参加者の大赦などを認めた。この勝利で大半の反乱軍がロンドンから撤退したが、翌日再び王と面談した際、タイラーは国王の臣下にだまし討ちにされてしまった。それを機に国王軍は次々と反乱軍を鎮圧、一揆は失敗に終わった。この反乱後、国王と領主階級の支配は強化されたが、農奴の解放の流れは進み、各地で自由を獲得した農民はヨーマン(独立自営農民)となっていった。
ジョン=ボール “アダムが耕しイブが紡いだとき、だれが領主だったか。”は、ウィクリフの教えを広めようとした僧侶ジョン=ボールが説いた言葉。人間の平等を説き、封建社会を批判し、農奴の解放を主張したかれの教えは、イギリスの農民に広がり、ワット=タイラーの乱の引き金となった。気狂い僧とされて捕らえられていたが一揆軍によって救出され、その先頭に立って農民を励ました。反乱軍が離散した後、捕らえられて処刑された。
D 騎士(中小領主)の没落  
a 国王・大領主  
b 火砲の使用百年戦争(14世紀中頃から15世紀中頃)ではまだ鉄砲は使われていなかったが、火薬で砲弾をとばす大砲が出現した。しかし命中率は低く、もっぱらその大音響で敵を驚かすものであったと思われる。この時期の戦術の変化は、重装備で騎馬で戦う騎士たちを主力とした戦いではなく、弓矢や弩(おおゆみ)を持った歩兵が集団で戦う戦法に変化したことである。百年戦争の前半でイギリス軍が有利に戦いを進めたのは、フランス軍が旧来の騎士の騎馬戦で戦おうとしたのに対し、長弓を持った歩兵の集団戦で戦い、勝利を占めたことにあると言われている。このような戦術の変化も、騎士(中小領主)の没落の背景であり、英仏とも封建的軍隊から国民的軍隊に編成替えする必要が出てきたことを意味している。 → 第9章 2節 ルネサンス 火砲(鉄砲)の発達
c 市民  
d 廷臣  
e 地主  
f 中央集権化国家  
E 社会不安の拡大  
a ユダヤ人の迫害ローマ帝国に征服されたユダヤ人は、イエスが処刑された後、ローマからの独立を試み、2度にわたるユダヤ戦争(第1次66〜73年、第2次132〜135年)を戦ったが、その結果イェルサレムのユダヤ教の神殿は破壊され、完全にローマ化されてしまった。ユダヤ人の故郷パレスチナはローマ帝国の後、ビザンツ帝国、セルジューク朝、十字軍、オスマン帝国などの支配を受け、現代にたるまで祖国を失った民として、世界中に離散(ディアスポラ)していった。中世ヨーロッパでは各地を移動する商人として活動したが、キリスト教社会の中では異教徒として迫害された。特にキリスト教徒が「利子をとってはいけない」という教えに縛られていたのに対して、ユダヤ人は「金貸し」(金融業)を行っていたので、貧しいキリスト教徒から恨まれることとなり、十字軍時代からしばしば激しい迫害、時として集団的な虐殺(ポグロム)が行われた。またスペインやイギリス、フランスでは国外追放にされたり、一定の居住地(ゲットー)への強制移住を強いられることとなった。 → 反ユダヤ主義
Epi. 黒死病とユダヤ人迫害 ヨーロッパで黒死病が大流行したとき、キリスト教世界で偏見を持たれていたユダヤ教徒であるユダヤ人がその「犯人」ではないかと疑われた。ユダヤ教徒が井戸に毒を投げ込んだのだという噂がまことしやかに語られたという。それでなくともユダヤ人への迫害は激しくなっており、1287年にはイギリスのエドワード1世は国内のユダヤ人をすべて捉え、身代金を払わせた上で国外追放にした。黒死病の流行が始まると、ドイツやスイス、フランス、スペインなど各地でユダヤ人が捉えられ、私刑にあって殺害されたり、ゲットーが襲われたりした。<村上陽一郎『ペスト大流行』1983 岩波新書 p.139-147>
▲b ゲットー 1555年教皇パウル4世が教書を発し、中世以来続いていたユダヤ人に対する抑圧的立法を復活させ、ユダヤ人は今後彼等だけの居住地に、キリスト教徒と隔離されて住まわされることとなった。このユダヤ人居住区をゲットーという。ゲットーの語はヴェネツィアのユダヤ人街が鋳造所=ジェットーの近くに設けられたことによる。はじめイタリアに広がり、次第にヨーロッパ各地のユダヤ人に適用された。ゲットーは高い壁をめぐらし、夜とキリスト教の祭日には門は閉ざされ、ユダヤ人は知的職業からは閉め出せれ、商業活動は制限され、最も卑しい仕事しか与えられず、外出時は目印として「黄色い帽子」をかぶり、バッジをつけなければならなかった。<シーセル=ロス『ユダヤ人の歴史』p.178〜>
オ.教皇権の衰退
A 教皇権と王権の対立  
a ボニファティウス8世 十字軍時代が終わり、ローマ教皇の権威は下降線を取り始めていたが、ローマ教皇ボニファティウス8世(在位1294〜1303年)は、あいかわらず国王たちを自由に動かせると過信していた。フランス王フィリップ4世が財政難から国内の教会、修道院領に課税する方針を固めると、聖職者の訴えを受けた教皇はただちにフィリップ4世に厳重に抗議した。両者の対立はエスカレートし、フィリップ4世は初めての三部会を開催して国内の支持を取りつけ、ボニファティウス8世はローマに聖職者会議を開いて教皇権の絶対を決議した。ボニファティウス8世は1303年、アナーニ事件でショックを受けて1ヶ月後に急死した。彼の死後、ローマ教皇庁はフランスの支配を受けることとなり、教皇権の衰退は明確なこととなった。
Epi. ボニファティウスの悪名 ボニファティウス8世は、ルネサンス期に出現する、悪名高いローマ教皇のはじまりとされる。「シニカルで精力的で専制的、後生のことなど考えたこともなく、大向うを唸らせる派手なポーズの大好きなボニファティウスは、ルネサンス型、ボルジア型教皇の先駆であった。かれはあらゆる種類の罪悪を一つ一つ丹念に実行した。まず大食の罪。断食の日に六種類しか料理を出さなかったといって料理人を叱責した。つぎに食欲と贅沢の罪。衣服に宝石をいっぱいに縫いつけ、食卓には十五本の純金の棒を使っていた。その上かれは迷信家で妖術を信じていた。ナイフの柄に蛇を彫らせ、ポケットに常にエジプト金の円盤を持ち、指には皇子マンフレデイの死屍から奪った指輪をはめていたが、いずれも厄除けのまじないである。賭博も好きで、黄金のさいころを常用し、その性急さで相手を辟易させていた。だが、この教皇がもっとも渇望していたのは、もちろん権力である。教皇に選出された日、教皇帽を冠るとすぐ、私を地上における神の代理人と認めるかと、なみいる枢機卿に尋ねた。皆がそれを認めると、今度は王冠を冠り抜き身の剣を持って、では私を皇帝と認めるか、と聞いた。人柄が人柄だけに、だれもあえて否とは答えなかった。かれの政治はこのジェスチュアで始まった。」<モンタネッリ/ジェルヴァーゾ『ルネサンスの歴史』藤沢道郎訳 中公文庫 上p.35>
b アナーニ事件 1303年9月、フランスの強硬な反教皇派であったモンペリエ大学教授のギヨーム=ド=ノガレは、部下を連れてアルプスを越え、ローマ郊外のアナーニに滞在していたボニファティウス8世を急襲して捕らえ、退位を迫った。ボニファティウス8世は頑固に拒否を続けるうち、ローマからの援軍に救出された。しかし1ヶ月後に急死した。死因は持病の結石だったが、最後は精神錯乱状態で、アナーニの屈辱がショックであったらしい。ノガレがボニファティウス8世を襲撃したのは、フィリップ4世には知らせていなかったと言われているが、結果的にフランス王フィリップ4世がローマ教皇との抗争に勝利したこととなり、教皇権の衰退を象徴する事件となった。
c フィリップ4世  → キ.フランスの状況 フィリップ4世
d  教皇のバビロン捕囚 アナーニ事件でボニファティウス8世が憤死した後、フランス人でボルドー司教だったクレメンス5世が教皇となった。1309年、フランス王フィリップ4世はクレメンス5世に圧力をかけ、南フランスのアヴィニヨンに教皇庁を移させた。それ以後、1377年まで約70年間、ローマ教皇はローマを離れ、アヴィニヨンに居ることとなる。このことを旧約聖書に出てくるユダヤ人のバビロン捕囚になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚」とか、「教皇のアヴィニヨン捕囚」と呼んでいる。これは次に起こる教会の大分裂と共に、ローマ教皇権の衰退を示すものである。
e アヴィニョン 南フランスのローヌ川下流の都市。13世紀末にはアンジュー伯領となっていた。1309年、ローマ教皇クレメンス5世がここに教皇庁を移してから、1377年まで教皇所在地となり、教皇はフランス王の監視下におかれた。1377年、教皇グレゴリウス11世がローマに帰還し、教皇のバビロン捕囚は終わりを告げたが、その後の大分裂時代にも、アヴィニヨンにはローマに対抗する教皇が居住し、一方の教皇庁の所在地となった。1378年から1417年まで大分裂(シスマ)が続く。
B 教会の大分裂 1377年、ローマ教皇グレゴリウス11世がローマに帰還して教皇のバビロン捕囚は終わりを告げたが、翌年教皇が死ぬと、ローマの貴族と、フランス出身の枢機卿が激しく対立、それぞれがローマとアヴィニヨンに自派の教皇をたてた。こうして同時にローマ教皇が二人存在するという「教会大分裂」(シスマ)となった。この状態は、1378年から1417年まで続き、教皇のヨーロッパでの政治的影響力がまったく低下したことを示す。この間何度か修復の試みが行われたが、一時は三人の教皇が存在するなどの混乱が続いた。1414〜18年のコンスタンツ宗教会議でようやく解消される。
a 大シスマ シスマとは教皇の選出などをめぐって教会に分裂が生じることをいい、1054年の東西教会の分離もシスマといわれた。それ以外にも対立教皇が存在したことは何度かあるが、最も有名なのが百年戦争の時期の1378〜1417年のローマとアヴィニヨンの大分裂ので、これを特に大シスマという。
c ローマ=カトリック教会(権威の衰え) ローマ=カトリック教会
d 異端審問 中世のローマ=カトリック教会では異端は厳しく取り締まられていたが、13世紀の教皇権が最も強大になった時期に、一方でワルド派やカタリ派(アルビジョワ派)の異端が増加したところから、インノケンティウス3世らは対策を強化し、人々には異端告発の義務が課せられ、専門の異端審問官(教皇直属)がおかれ、非公開、弁護なし、密告、拷問という手段で審理された。疑いをかけられるとほとんど有罪となり、最高刑は火刑とされた。この異端審問の先頭に立って活動したのがドメニコ会修道会の修道士たちでった。彼等は熱心で敬虔なキリスト教徒信者であったが、こと異端に対する態度は狂信的で、徹底的な撲滅をめざして活動した。
Epi. 恐るべき異端審問官 異端審問の制度は、全キリスト教世界に広がったが、もっとも徹底されてたのは15世紀のスペインだった。1483年に成立したスペインの異端審問中央本部長官トルケマダは、在職18年間に9万人を終身禁固に、8000人を火刑に処したと伝えられる。<森島恒雄『魔女狩り』岩波新書>
e 魔女裁判 魔女は呪術を使って人々に害を及ぼすと古い時代から信じられていた存在であったが、急激にそれに対する恐怖心が煽られ、多くの人が魔女として迫害されるようになったのは、11世紀からで、ちょうどヨーロッパのキリスト教社会での教皇権が絶頂に向かう反面、ローマ教会の権威を否定する「異端」各派の運動(ワルド派やカタリ派など)が活発になった時期であった。特に13世紀の初め、「アルビジョア十字軍」の後、「異端審問」が強化され、異端に対する徹底的な撲滅がめざされるなかで、異端は魔女と結びついているとされ、14世紀には魔女そのものを取り締まる「魔女裁判」が行われるようになった。魔女とされたのは、「悪魔と通じて未来を占い人を破滅に導く者」とされ、社会の中で孤立している弱者を魔女に仕立て上げて、社会の不満をそらす意味合いがあった。一般の民衆は、魔女が摘発され、火刑にされるのを見て、自分達の社会の安全が得られると考えたのであろう。また百年戦争の最中にイギリス軍によって捕らえられて魔女として焼き殺されたジャンヌ=ダルクのように、魔女裁判はしばしば政治的に利用された。また、黒死病の流行した時代には、魔女の仕業として、ユダヤ人が捕らえられた。
Epi. 17世紀アメリカの「サレムの魔女」 魔女裁判で、密告によって魔女だと訴えられると拷問にかけられ、自白させられて魔女と断定されると、火刑などに処せられる(イングランドでは絞首刑が多かった)。魔女といっても女性だけでなく男性の魔女もた。また、魔女狩りは中世末期にさらに多くなり、ルネサンス時代にもなくならずに頻発し、1600年前後がその最盛期であった。またアメリカ大陸でも、1692年に有名な「セーレム(サレム)の魔女」の裁判が行われている。魔女狩りは17世紀まで続いたのである。<この項、森島恒雄『魔女狩り』岩波書店 1970 による> → 17世紀の魔女狩り
C 教会改革の開始  
a 宗教改革  
b ウィクリフ 14世紀、百年戦争期に現れたイギリスの先駆的宗教改革者。オックスフォード大学の神学教授であったが、ローマ教皇の豪奢な生活ぶりを見て疑問を感じ、教会財産を否定し、聖書に立ち返ることを主張するようになる。彼は初めてラテン語の聖書を英語に翻訳したことで知られる。ローマ教会は彼を異端として弾劾していたが、1384年に死去。コンスタンツの公会議で改めて異端であると断罪され、墓を暴かれて遺体を火刑にされた。かれの思想はフスに影響を与え、その支持者はロラード派として残り、弾圧されるが、16世紀の宗教改革とは関連はない。
c 聖書の英語訳  
d フス ベーメン(ボヘミア、チェコ)の宗教改革の先駆者ヤン=フス。プラハ大学で神学を学び、ウィクリフの教説を知ってその影響を受け、カトリック教会の世俗化を厳しく批判し始めた。1411年、ローマ教皇の贖宥状の発売を批判して破門される。1414年にコンスタンツ公会議に召還され、審問の結果、異端と断罪され、翌年火刑に処せられた。かれの思想は、ドイツ人や教会の抑圧を受けていたチェク人の民族意識と自由への要求を呼び起こし、農民戦争(一揆)となって爆発する。その戦争はフス戦争とも呼ばれる。
D コンスタンツ公会議 1414年から1418年まで、ドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝、兼ハンガリー王・ボヘミア王)ジギスムントの提唱で開催された宗教会議で、大分裂の解消、教会の合同の問題と、改革派に対する対応が話し合われた。まず大分裂の解消では、順次3教皇が退位し、1417年マルティヌス5世が唯一の教皇となり、教会の統一に成功した。また教皇権よりも公会議の決定が優先することも決められた。教義問題では、ボヘミアのフスを異端として有罪とし、火刑に処した。また聖書の英語訳を行ったイギリスのウィクリフも異端であると断定され、すでに死んでいたウィクリフの遺体を掘り出し、改めて火刑にした。 
ジギスムント神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)としてコンスタンツ公会議を召集した。在位1411〜37年。彼はハンガリー王およびボヘミア王を兼ねていた。神聖ローマ皇帝即位前のハンガリー王であったとき、オスマン帝国のバヤジット1世の侵攻を受け、1396年のニコポリスの戦いで敗れた。これ以後オスマン帝国のバルカン侵入は活発となり、ジギスムントはキリスト教世界の防衛のためにも教皇権の統一を望んだ。 
a 教会大分裂  → 教会の大分裂
b 農民戦争(フス戦争) カトリック教会はフスを異端として火刑にした後、さらにプラハ市を破門、プラハ大学を弾圧した。フスの説を支持したプラハ市民はそれに反撥して修道院を襲撃、1419年からドイツ皇帝ジギスムントの派遣したドイツ軍との戦争となる。ジギスムントはフス派に対して「十字軍」と称して鎮圧にあたったが、チェク人の農民が広汎に戦争に参加し、民族の自立を目指して戦ったので鎮圧に失敗、1433年両者は和平し、教会はフス派の主張の一部を認め、フス派はジギスムントをボヘミア王として承認することで妥協が成立した。
c 宗教改革 → 第9章 3節 宗教改革