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第11章 欧米における近代社会の成長
1.産業革命
ア.世界最初の産業革命
産業革命 産業革命(Industrial Revolution)は、18世紀後半のイギリスに始まる、綿工業(木綿工業)での手工業に替わる機械の発明、さらに蒸気機関の出現とそれにともなう石炭の利用という生産技術の革新とエネルギーの変革をいう。木綿工業から始まった技術革新は、機械工業鉄工業石炭業といった重工業に波及し、さらに鉄道や汽船の実用化という交通革命をもたらすこととなる。このような工場制機械工業の出現という技術革新が産業革命の一面であるが、それは激しい社会変動を生みだし、資本家と労働者という社会関係からなる資本主義社会を成立させた。このような技術革新から社会変動に至った一連の変動を、産業革命と言っている。
産業革命の時期:一般に18世紀後半と言うが、その始まりの時期については諸説ある。技術革新の最初であるジョン=ケイの飛び梭の発明は1730年代であるが、最も採用されているのは1760年代のハーグリーブスやアークライトの紡績機が現れ、ワットが蒸気機関の改良に成功した時期から、というものである(アシュトン『産業革命』など)。さらに、工業生産が飛躍的に増大した1780年代を産業革命という「離陸(テイクオフ)」した時期とする考えもある(ホブズボーム『市民革命と産業革命』など)。そして、1830年代に鉄道が急激に普及した時期までを産業革命の時代とすることが多い。なお、この軽工業での機械の出現と石炭エネルギーの開始を第1次産業革命というのに対して、19世紀末から20世紀初頭に起こった、重化学工業の成立と石油エネルギーへの転換を第2次産業革命という。
産業革命の展開:イギリスで始まった理由については、イギリスの産業革命の項を参照。18世紀後半、60年代から本格化したイギリスは発明家や産業資本家が自力で産業革命を達成したが、政府はその技術が他国に流出することを喜ばず、1774年には機械輸出禁止令を出し、他国や植民地への機械輸出と技術者の渡航を禁止した。翌年アメリカ独立戦争が勃発、続いてフランス革命とナポレオン戦争という激動の時代を経て、1825年にその一部を解除し、43年には全面廃止した。これによってほぼ1830年代からヨーロッパの他の国での産業革命が開始され、まず七月王政時代のフランス、同じく1830年に独立を達成したベルギーが続いた。ついで40年代にドイツが、60年代にアメリカが産業革命期を迎えた。ロシア日本はこのように、イギリス以外の国ではイギリスの技術を学びながら、また国家的な事業として展開されたという違いがある。
産業革命論争:「産業革命」という用語は、1880年代にイギリスのアーノルド=トインビー(20世紀の有名な歴史家トインビー−『歴史の研究』で知られる−ではなく、同名のその叔父さん)が用いたのが最初とされている。それ以来、歴史概念として定着してきたが、近年はその変化を「革命」と捉えるほど急激で断絶的なものではなく、それ以前の遺産を受け継いだ「加速的な変化」という程度のものであったとか、18世紀末のイギリスの経済成長率はそれほど高くなかったとか、イギリス以外の上からの保護によるものまでも産業革命に含めるべきではない、などの「産業革命」否定論が出ている。しかし、同時に展開されたフランス革命とともに、近代市民社会を生み出した両輪として革命的な役割を果たしたことは否定できないと思われる。
a 18世紀後半、イギリス 産業革命についての古典的著作である、T.S.アシュトン『産業革命』では、18世紀後半イギリス産業革命の時期の社会の変貌の状況を次のように説明している。
アシュトンの産業革命論:「ジョージ三世の即位(一七六〇年)からその子ウィリアム四世の即位(一八三〇年)に至る短い年月の間に、イングランドの相貌は一変した。幾世紀もの間、開放耕地(open field)として耕され、共同牧地(common pasture)として放置されていた土地は、すっかり囲い込まれてしまった。小さな村々は人口豊かな年に成長し、古い教会の尖塔は、林立する煙突の中で、もはやチッポケな存在でしかなくなった。……(道路は堅固で幅広いものになり、諸河川は運河で結ばれ)……北部では、新しい機関車が走るために最初の鉄製軌道が敷かれ、河口や海峡には定期蒸気船が通い始めた。
 それに平行して、社会の構造にも変化が生じた。人口は著しく増大し、児童や青年の占める割合が増加したように思われる。新しい社会の成長は、人口密度の重心を南東部から北部およびミッドランドに移行せしめた。企業心に富んだスコットランド人を先頭に、いまなおつづいているあの移入民の行列がやってきた。工業的熟練には乏しいがしかしたくましいアイルランド人の洪水のような流入は、イギリス人の健康や生活様式に影響を与えずにはおかなかった。農村に生まれ、農村に育った男女が、……工場における労働力の単位として、そのパンを稼ぐようになった。作業は一層特殊化され、新しい型の熟練が陶冶され、若干の旧い型の熟練は失われていった。……
 それと同時に、新しい原料源が開発され、新しい市場が開かれ、新しい商業手段が考え出された。資本の量も、その流動性も増大し、通貨は金をその基礎におくようになり、銀行制度が誕生した。多くの旧い特権や独占が一掃され、企業に対する法律上の制約は除去された。国家の果たす役割はますます消極的なものとなり、個人や任意団体がより積極的な役割をつとめるようになった。革新と進歩の思想が、伝統的諸観念を掘り崩した。人々は過去よりもむしろ未来に眼を注ぐようになり、社会生活に関する彼等の考え方はすっかり変わってしまった。……」<アシュトン『産業革命』岩波文庫 p.9>
b 工業生産技術の革新 産業革命における工業生産技術の革新は、まず18世紀後半に軽工業の綿工業(木綿工業)から始まり、紡績(綿花から綿糸を紡ぐ技術)と織布(綿糸を織って綿布を製造する)の部門で競合しながら進んだ。同時に新しい動力として蒸気機関が生まれた。綿工業に必要な機械や製鉄業が次に発展した。また原料としての鉄、燃料としての石炭の採掘が平行して開発され、次いで1830年代に原料の運搬や製品の積み出しに鉄道が造られ、交通革命に及んだ。これらが第1次産業革命のおよその推移である。
c 資本主義社会 資本主義経済:資本主義経済とは、一般に生産手段を所有する資本家が、労働者を雇用して商品を生産し利潤を追求する経済体制をいう。そのような経済体制はヨーロッパ(特にイギリス)で、16〜17世紀の絶対王政の時代に工場制手工業の形成という形で準備され、18世紀の産業革命によって成立したと考えるのが一般的である。
資本主義社会:資本主義社会とは資本家と労働者という利害の相容れない階級的対立が基本的な社会関係となる時代と考えられる。その経済理念は、自由な利潤競争による市場原理に則り、アダム=スミスの言う「神の見えざる手」にゆだねるというものである。 → 資本主義経済の形成
資本主義の展開:そのような資本主義は必然的に好況と不況を繰り返し、時として恐慌という急激な不況に見舞われる。不況と恐慌期に資本は淘汰され大資本に吸収され、独占資本が形成される。特に銀行などの金融資本が産業資本を配下に収めた段階に、国家権力と結びついて領土や植民地を拡大し、市場と原料供給地を確保しようという帝国主義段階に至る。それが19世紀末から20世紀の初めであり、帝国主義はついに第1次世界大戦をもたらすこととなる。
社会主義の出現と資本主義の修正:資本主義の矛盾による崩壊を歴史的な必然と考え、資本主義に替わる社会体制を創出して労働者の解放をはかる思想として社会主義が19世紀中頃に生まれた。労働者の権利拡大を目ざす労働組合運動と社会主義運動は帝国主義段階に至って最も活発となり、大戦中の1917年にロシア革命という社会主義革命を成功させ、計画経済を進め、世界恐慌ではその影響を受けず、社会主義の優位を示すかに見えた。一方、大戦後、恐慌や失業者の増大という資本主義のリスクを回避するために、イギリスの経済学者ケインズなどは国家の財政運用による経済への介入を強める修正資本主義を打ち出し、アメリカのニューディール政策に大きな影響を与えた。第2次大戦後はそれが主流となった。
現代の資本主義:第2次世界大戦では資本主義陣営と社会主義陣営はファシズムに対する共同戦線を作って戦ったが、戦後はイデオロギー的な対立を表面化させ、東西冷戦の時代をもたらした。戦後の1970年代になると資本主義陣営ではケインズ的な財政出動や公共事業による経済運営は「大きな政府」として批判されるようになり、1980年代からはイギリスのサッチャーやアメリカのレーガンに見られる新自由主義の経済運営(規制緩和や「小さい政府」がキャッチフレーズ)がもてはやされるようになった。一方、社会主義はソ連型の官僚統制がゆきづまり、1980年代末に崩壊し、残る中国も政治権力は社会主義体制を維持しているものの経済はまったく市場経済化した。こうして資本主義経済はマルクスの予想に反して崩壊することなく21世紀を迎え、市場経済万能の様相を呈している。現在は世界恐慌の再発は避けられているが、多極化が進み、また南北の対立や環境問題、資源問題という世界共通の問題を抱えており、より困難な段階に来ているとも考えられる。 
c 二重革命 「二重革命」とは、イギリスの歴史家ホブズボームの著作『市民革命と産業革命』(1962)で用いられた概念である。ホブズボームは1789年のフランス革命と同時代の産業革命を「二重革命」ととらえ、その後の1848年革命までの60年間の意義を次のように要約している。
ホブズボームの二重革命論:「1789年−1848年の大革命は、「産業」そのものではなく資本主義産業の、勝利なのであった。自由と平等一般のではなく中産階級すなわち「ブルジョワ」の自由な社会の、勝利なのであった。「近代経済」あるいは「近代国家」の勝利ではなく、世界の特定の地域(ヨーロッパの一部と北アメリカの二、三の小区画)にある諸経済と諸国家の勝利であって、その地域の中心は、イギリスとフランスという隣接しながら敵対する国家であった。1789年−1848年の変化は、本質的には、それらの両国に生じそこから全世界にわたってひろがった一対の大変動なのである。」
さらにホブズボームは二重革命をイギリスとフランスという一対の噴火口から爆発した火山帯にたとえており、その噴火は「ブルジョワ自由主義的資本主義」の勝利であり、「必然的にまた、その革命は、世界の他の部分における、ヨーロッパの拡張とヨーロッパによる征服という形態を、最初はとったのである。・・・世界史にとって、もっとも顕著な二重革命の帰結は、少数の西洋政治体制による(とくにイギリスによる)地球の支配を確立することであって、・・・西洋の商人、蒸気機関、船舶、鉄砲のまえに、−そして西洋の思想のまえに−古代以来の世界の諸文明と諸帝国とは降伏し、崩壊したのである。」と述べ、世界史的な意義付けをしている。
また二重革命はブルジョワ社会の勝利の歴史であっただけではなく、「それはまた、1848年から1世紀のうちに、拡張を縮小に転換させてしまう諸勢力の、出現の歴史でもある。そのうえ、1848年ごろには、このおどろくべき未来の運命の逆転が、すでにあるていどまで目にみえていた。」と述べている。その諸勢力とは中国や、イスラム世界における「西洋への世界的規模での反抗」であり、またヨーロッパ内部であらわれた「共産主義」であった。
二重革命の時代は、「ランカシャーにおける近代世界の最初の工場制度の建設と1789年のフランス革命」とではじまり、「近代世界初めての鉄道網の建設と『共産党宣言』の出版(1848年)とでおわるのである。」<ホブズボーム『市民革命と産業革命』安川悦子/水田洋訳 岩波書店 序説p.3〜7>
イギリス産業革命 産業革命がイギリス以外の地で起こり得なかったことは確かである。なぜイギリスで起こったかについては、さまざまな条件が考えられるが、
 1.海外植民地をすでに広く所有し、工業製品の市場をすでに持っていたこと。
 2.農村毛織物工業、三角貿易(その中の奴隷貿易)などによって、すでに資本の蓄積が進んでいたこと。
 3.囲い込み運動と農業革命の進行によって、賃金労働者が生まれる素地が出来ていたこと。
 4.イギリス革命以来、議会制度が定着し、市民の自由な活動が認められる社会であったこと。
の4点がイギリス独自の原因と考えられる。また、背景となったこととして、
 5.石炭と鉄鉱石という資源に恵まれていたこと。(イギリスだけが地下資源に恵まれていたわけではない。)
 6.イギリス経験論哲学の系譜の中で、科学的知識が普及していたこと。(ただし多くの発明家は学者ではなく、職人から生まれた。)
 7.重商主義時代以来のロンドンのシティでの金融市場が発達していたこと。
などが考えられる。いずれにせよイギリスは18世紀後半から19世紀は、「世界の工場」と言われて、世界の工業生産力の中で大きな地位を占めることとなった。 
1. 海外市場の獲得  
2. 資本の蓄積  
a 毛織物工業  → 毛織物工業
a イングランド銀行  
g シティ  
3. 労働力の蓄積  
a 第1次囲い込み  → 第9章 4節 囲い込み=エンクロージャー(第1次)
b 第2次囲い込み 1760年頃からはげしくなり、1800から20年頃まで絶頂期を迎えた土地囲い込み運動。第2次農業革命ともいう。人口の増加、及びナポレオン戦争のための食糧需要増大によって穀物価格が騰貴したのを受けて、地主・農業資本家が小生産者の開放農地を囲い込み、土地を独占し、資本主義的農業経営を行おうとしたこと。第1次エンクロージャーに較べ、地主層が多数を占める議会が法令によって推進した。この結果、イギリスの農業は、広大な土地を所有する地主が、農業資本家に土地を貸与し、資本家は農業労働者を雇用するという資本主義的農業経営が一般化した。
c 農業革命  18世紀後半、産業革命と平行して起こった農村社会の変革のことで、技術面では三圃制農業に替わって輪作法が普及し、農業経営ではジェントリーによる経営に替わって資本主義的農場経営中心に変化したことを言う。
産業革命の産業経済の発展は都市人口を増加させ、その食糧供給のために農村でも穀物増産にせまられた。その過程で起こった第2次囲い込み(エンクロージャー)の進行に伴い、さらに農民の賃金労働者かが進み、地主から広大な土地を借りた資本家がその賃金労働者を雇って、利益を上げるために穀物生産を行う資本主義的農場経営が広がった。農業技術も、それまでの伝統的な三圃制農業に変わって、ノーフォーク農法と言われる、四圃制農業(かぶ、大麦、クローバー、小麦を輪作する輪作法)が行われるようになり、穀物生産が増大し、産業革命による人口増加を支えることが可能となった
ジェントリーなどの保守層は自己の権益と農村社会の維持を図って、1815年に穀物法を制定したが、産業資本家は自由貿易を要求し、ついに1846年に穀物法は廃止される。これは農業革命を完成を意味し、これによってイギリス農村は、中世的な共同体的自給自足経営や非商業的な体質は一掃され、大土地所有者は減少し、基本的には商業的借地農業経営者(農業資本家)と雇用労働者からなる農村社会に変質した。  
 ノーフォーク農法 イギリスの中世以来の三圃制農法にかわって18世紀に普及した四輪作法による農業。ノーフォークはイングランド東部の州。内容は同一耕地でかぶ→大麦→クローバー→小麦を4年周期で輪作するもので、三圃制農業(春耕地→秋耕地→休耕地)の輪作法にくらべ、休耕地をおかない分、生産量が増大した。かぶとクローバーは家畜(牛)の餌とされ、冬越しで家畜を飼うヨーロッパ的な混合農業(穀物生産と家畜飼育を組み合わせた農業)が可能になった。この農法の普及と並行して第2次囲い込みが進行して農業革命と言われる変化が生じ、イギリス農村はかつてのヨーマン(独立自営農民)主体の三圃制というスタイルは姿を消し、土地を集積した地主による資本主義的な農場経営(農業労働者を賃金で雇って生産する)を行う近代農法が一般化した。
d 賃金労働者  
e 石炭 石炭は古代から暖房用の燃料や製鉄の原料として知られ、使われていたが、飛躍的にその使用量が増大したのは18世紀の産業革命からであった。しかし、主たる燃料は木炭であったので、工場も森林地帯の近くに設けられることが多かった。産業革命が始まると、木炭の需要が増えたこと、および造船業の需要が増えたことでまたたく間にイギリスの森林資源は枯渇することとなり、スウェーデンやロシアから木炭を輸入せざるを得なくなった。このような木炭にかわる燃料として石炭が注目されるようになった。石炭は家庭内の燃料としても用いられたが、ダービー父子のコークス製鉄法の発明と蒸気機関の燃料とされるようになって急速に増産され、石炭業が発展した。このような19世紀にエネルギー源の木炭から石炭への変化がエネルギー革命である。さらに第2次世界大戦後の20世紀後半には石炭から石油への急速な転換である、第2次エネルギー革命という。
炭坑での労働:18世紀始めには露天掘りや横穴ではない、200フィート以上の深さに達する竪穴を掘り、地下に坑道をめぐらす大規模な炭坑がロンドンに近いノーザンバランドやダーラムに出現した。しかし当時の技術では、「坑夫が一人の少年に助けられて掘り進む切羽(採掘現場)は、石炭の円柱で支えられていた」ので、半分から三分の二の石炭が掘られないままで残っていた。地下で石炭を運搬する方法は、1750年頃のニューカースル地方では「少年に付き添われた小馬が人間にとって代わり」、その他の地方では「石炭は青年や婦人により籠に入れて運ばれていた。ファイフシャーでは、坑夫の妻や娘たちが、石炭を背負い、弓なりになって重い荷物を支えながら、地下の通路を進んでいったのみではない、幾つかの梯子をよじて、竪坑を地表にまで昇っていった。」
「採炭に関する技術上の問題は、坑内にガスや水が存在したことから起こって来た。」ロウソクで灯りを採ることは非常に危険でったので「腐りかけた魚や青光りする木片」の光で間に合わそうとした炭坑もあった。また湧き水を抑えたり、排水するのも大変な仕事だった。1708年にニューコメンが発明した蒸気力で坑内水を排するするポンプは18世紀中頃までに広く普及した。しかし、採炭と採掘した石炭を引き揚げる作業は18世紀中は人力に依存し、そのため採炭量はそう増加しなかった。「石炭の時代」と言われるような採炭量が増大するのは、19世紀に入ってからである。<以上の説明は主にアシュトン『産業革命』1947 岩波文庫 p.45-56 による>
 鉄鉱石 鉄器は小アジアのヒッタイトからその使用が始まって西アジアでひろがり、南ロシア草原のスキタイ人の手で東方にも伝えられ、中国でも春秋・戦国時代に鉄製農具が普及した。原料は砂鉄など入手しやすく、また武器や農具に加工しやすく、青銅器に代わって鉄器時代を出現させた。
産業革命期になると製鉄業が急速に成長し、原料の鉄鉱石は、燃料の石炭と共に最重要の資源とされるようになった。  → 鉄工業
f イギリス革命  → 第10章 1節 イギリス革命
イ.機械の発明と交通機関の改良
 綿工業(木綿工業)繊維産業には、毛織物・絹織物・麻織物・綿織物がある。そのうち、綿花を原料とする綿織物は古代インドに始まり、十字軍時代にヨーロッパにも伝えられたが、そのころは麻や羊毛との混紡が主で質は良くなく、18世紀までイギリスで最も盛んだったのは毛織物工業であった。17世紀以来、質の良いインド産綿布が東インド会社によってもたらされるようになると毛織物にかわって需要が急増した。こうして18世紀後半に綿織物=綿工業からイギリス産業革命が始まることとなった。
綿工業(木綿工業)には、紡績=綿糸を紡ぐ工程と、織布=綿糸で布を織る工程とがある。織布機械(織機)が改良されると、綿糸が不足し、より大量に強い糸が必要となって紡績機の改良をうながし、紡績機の改良で造られた糸を大量に織る必要から織機の改良がなされる、というように、その両者はからみあって発達していく。ケイの飛び梭から始まるそのその技術革新はそのような経過をたどりながら、新しい動力として蒸気力を利用することで完成されていく。
イギリス綿工業の中心地として栄えたのがランカシャー地方マンチェスターだった。イギリス綿工業で生産された機械製綿布はアフリカに運ばれて奴隷貿易の交易品となり、さらにはインドに運ばれてインドの綿織物家内工業を破壊して、植民地支配を強めることとなった。→ イギリス産業革命のインドへの影響 
イギリスの木綿工業と奴隷貿易:「植民地貿易は木綿工業をつくりだし、それをずっと育成してきた。18世紀には、木綿工業は、主要な植民地むけ貿易港の、すなわち、ブリストル、グラスゴウ、だがとくに、奴隷貿易の大中心地であるリヴァプールの後背地で発展した。この非人間的ではあるが急速に発展する商業のあらゆる局面が、それに刺激をああえた。実際、・・・奴隷制と木綿とは、手をたずさえてすすんでいった。アフリカの奴隷は、すくなくとも一部は、インドの木綿製品で購入された。だがこえらの木綿の供給が、インドのなかや周辺で起きた戦争或いは反乱で、中断された場合には、ランカシャーが、そこにとびこむことができた。奴隷がうけいれられた西インド諸島の植民農園は、イギリスの産業に、大量の原綿を提供したし、そのかわりに、植民地農園主たちは、相当な量の、マンチェスター碁盤じま綿布を、買ったのである。・・・ランカシャーは、のちに、奴隷制にたいする債務を、奴隷制を保持することによって返済することになったのである。というのは、1790年代いご、南部アメリカ合衆国の奴隷制植民農園は、ランカシャーの諸工場に自分たちの原綿を大量に提供したのであるが、その農園はそれらの工場のあくことをしらずに突きすすむ需要によって、拡大、維持されたからである。」<ホブズボーム『市民革命と産業革命』安川悦子/水田洋訳 岩波書店 p.52>
a マンチェスター イギリスのランカシャー地方の中心にある商工業都市。中世以来、繊維産業が盛んであったが、特に産業革命が始まると綿工業(木綿工業)の一大産地となって繁栄した。綿織物で栄えたのでコットン・ポリスと言われた。また、マンチェスターは自由貿易を掲げる政治運動の拠点となり、19世紀前半の反穀物法同盟のメンバーである、コブデンとブライトなどがこの町から登場した。マンチェスターで作られた綿製品はリヴァプールに運ばれ、外国と植民地に運ばれイギリスの主要な輸出品となった。1830年にはリヴァプール・マンチェスター間に鉄道が開設され、初の鉄道営業路線となる。また、1819年には労働者が議会改革(選挙権の拡大)と穀物法反対を掲げて集会を開いたことに対し、政府が弾圧して死者を出したピータールー事件もマンチェスターで起こっている。
b インド産綿布 綿布は綿花を原料にした布で、木綿(もめん)ともいい、英語ではcotton。吸湿性がよくがよく高温多湿地帯に適した衣料である。綿花を栽培し綿織物をつくる技術はインダス文明がその起源であり、長くインドの特産品であった。十字軍時代にはヨーロッパにもたらされたが、本格的にヨーロッパで広がったのは16世紀にポルトガル商人によってインドからもたらされてからであり、綿織物(綿布)はその積み出し港の地名であるカリカットからキャラコ(キャリコ)といわれるようになった。17世紀にはイギリス東インド会社の主要な輸入品となり、イギリスでの需要がたかまった。そのため、毛織物産業を圧迫したので、キャラコ論争が起こった。結局、毛織物業は衰退し、イギリスは綿織物生産に乗り出し、原料の綿花をインドに求めることとなった。産業革命期になってイギリスの綿工業生産は爆発的に増加し、インドは原料の綿花の供給地となり、イギリス製綿布の市場となって逆転した。そのためインドでは農村の綿織物家内工業は破壊され、デカン高原は綿花のモノカルチャー地帯に転落し、貧困化が進んだ。
 → イギリス産業革命のインドへの影響 綿製品輸出国から輸入国へ
キャラコ論争 東インド会社からもたらされたインド産綿布はキャラコと言われ、その吸湿性の良さ、肌触り、染色が容易なこと、などからイギリス社会に急速に普及した(はじめはカーテンやテーブルクロスに、麻布(リンネル)の代用として用いられていた)。1690年頃からインド産の安価なキャラコの輸入によって打撃を受けた毛織物業者がその輸入を禁止するように運動を始めた。このころから1720年頃まで続いた、東インド会社のキャラコ輸入を認めるかどうかの毛織物業者と東インド会社の激しい論争を「キャラコ論争」といい、両者は多数のパンフレットを発行してコーヒーハウスにばらまき、国民的な議論が巻き起こった。重商主義者は国内産業の保護の立場からキャラコ輸入を禁止することを主張し、弁護論者は安価なキャラコの輸入によってイギリス製品全体も価格が下がり、競争力をつけることになると主張した。毛織物業者の運動が実り1700年にはキャラコ輸入禁止法、さらに1720年にはキャラコ使用禁止法が制定されたが効果はなく、産業革命期の綿工業の勃興をとどめることはできなかった。
Epi. キャラコ輸入禁止法と使用禁止法の抜け道 イギリスで1700年に制定されたキャラコ輸入禁止法は染色されたものが対象だったので、対象外の白地キャラコの輸入は続き、染色・捺染業がかえって栄えることとなった。そのため毛織物業や絹織物業には失業者が増大した。業を煮やした織布工は1719年6月、ロンドンに押し寄せ、町でキャラコを着ている人を襲い、「シャコの羽根をむしるように」はぎ取って裸にするとか、家の中に押し入ってキャラコを摘発するなどの実力行使にでた。そのため1720年には「キャラコ使用禁止法」が制定され、キャラコの使用そのものが禁止されることになったが、その法にも木綿と麻、毛の混紡や藍色染めのキャリコは例外とされたので、綿糸、綿布の輸入は減少しなかった。東インド会社が議会に手を回していたわけだ。結局イギリスの毛織物、絹織物は18世紀には衰退し、かわって綿織物業が勃興して産業革命の展開となる。<浅田実『東インド会社』講談社現代新書1989 p.50-60> 
c ジョン=ケイ イギリス産業革命の初期の1733年頃、飛び杼を発明し、織機の能力を大幅に改良した。
「1733年、ランカシャーの時計師ジョン・ケイは、織機について簡単なしかし重要な改良を行い、それにより、車の上にのせられた杼(ひ)が弾機で叩かれて経糸の間を駆け抜けるようになった。この飛杼(fly shuttle)は労働力節約のための工夫であった。すなわちそれにより、織機の前に坐し弾機に結びつけられた紐を手にした一人の職工が、以前は男二人の働きを必要とした広幅の布を織りうるようになった。しかしこの考案はランカシャーの職工たちの反抗に遭った。それにおそらく、徐々にしか克服できない機会上の難点もあったのであろう、飛杼が一般的に用いられるようになったのは漸く1760年代以後のことであった。」<アシュトン『産業革命』 岩波文庫 p.44> 
 飛び杼 ジョン=ケイが発明した「飛び杼」の杼(ひ)とは、綿織機の縦糸に横糸を通す道具。飛び杼は杼の内部に糸を巻き付けて、自動的に縦糸の間を通すように工夫したもの。この飛び杼の発明によって、布を織る速度がそれまでの2倍になったという。そのために綿糸が不足し、糸の生産(紡績)能力の向上の必要が出てきて、紡績機の改良を促した。
d  ハーグリーブス
イギリス産業革命での発明者の一人で、1764年にジェニー(多軸)紡績機を発明し、紡績業に大きな発展をもたらした。
「変革の最も急激であったのは織物工業においてであった。すでに、紡績業では重要な諸変化が起こっており、永いあいだ織布業の発展を阻止してきた糸不足の問題は解決されていた。すなわちまず、1764年から1767年に至るあいだのある時、ブラックバーンの大工であったジェイムズ・ハーグリーブズが、ジェニー(jenny)と呼ばれる簡単な手動機械を発明した。この機械によって、一人の女が、最初は六本ないし七本の、後には八〇本もの糸を一度に紡ぐことができた。ハーグリーブズにとっては不幸なことであったが、1770年に特許をとる前に彼が多くのジェニーを制作し販売していたため、後年の法廷で、この事が理由となって彼の権利は無効の判決をうけた。このジェニーは、最初はノッティンガムで、のちにはランカシャーで熱狂的に採用された。」<アシュトン『産業革命』p.83> 
 ジェニー(多軸)紡績機 1764年にイギリスのハーグリーブスが発明した紡績機。従来の紡績機と比べて、同時に6〜8本の糸を紡ぐことができ、紡績能力を飛躍的に増大させた。ジェニーというのはハーグリーブスの妻(娘という説もある)の名前といわれている。
多軸式の紡績機はさらに改良され、紡錘(糸の先につけるおもり)はやがて16本に増え、さらに最終的には80本にまで増える。このため綿糸生産が急増したが、こんどは織機の能力が追いつかなくなり、その改良を促すことになった。
ただ、ジェニー紡績機は動力は弾み車を使うものの、人力であったので糸そのものの強さが不足し、切れやすいという欠点があり、紡績機はより強い糸を作ることが課題となった。
e  アークライト イギリス産業革命の中で、1769年に水力紡績機を発明した人物。
「リチャード・アークライト(1732-92)はプレストンの床屋であり、かつら製造業者であった。彼自身はなんら偉大な発明的才能のある人物ではなかったようであるが、彼は、その生まれ故郷の州と伝統的に結びついている性格の強さと分別の逞しさとを持ち合わせていた。……ジェニーと異なり、この紡績機は、それを動かすのに人間の筋力よりも大きい力を必要とした。このことからこの紡績機での紡績作業は最初から工場(mills or factories)で行われた。馬を動力とする小規模な設備で生産を試みたあと、アークライトは、富裕なメリヤス業者たち、すなわちノッティンガムのサミュエル・ニードおよびダービイのジュデダイア・ストラットの援助を求めた。1771年彼はクロムファドに水力で動く大きな工場を設立し、−−これは同じくダービイにあったロムの絹工場にかたどって建設されたといわれる−−そこで彼はごく短期間ではあったが、その大部分が子供である約六百人の労働者を雇用していた。」<アシュトン『産業革命』 岩波文庫 p.34-35> 
 水力紡績機 アークライトが発明した紡績機で、動力に水力を用いるとともに、糸の撚りと巻き取りを同時に行い、作業を連続してできるようにしたもの。従来のジェニー紡績機よりも太くて強い糸を大量に生産できるようになり、生産の量を急速に伸ばした。 
f クロンプトン イギリス産業革命のなかで、1779年にミュール紡績機を発明し、良質の綿糸の大量生産を可能にした。
「80年代のなかば頃、紡績におけるもう一つの発明によって事情は再変した。ボウルトンの織布工サミュエル・クランプトンは、Hall-i'-th'-Wood のその「魔法の部屋」conjuring room で七年にわたる試作をつづけたのち、丈夫で細くて太さが平均していて、経糸にも緯糸にも適し、従ってあらゆる種類の織物の生産に、なかでも、それまで東洋から奢侈品として輸入していた上等のモスリンの生産に適した糸を製造することに成功した。この機械はジェニーおよびウォーター・フレーム<アークライトの水力紡績機>の双方の特徴をそなえており、雑種的な素性のものと考えられたところからミュール(mule)という名で知られるようになった。」<アシュトン『産業革命』 岩波文庫 p.86> 
 ミュール紡績機 1779年、クロンプトンが発明した紡績機。先行するハーグリーブスのジェニー紡績機とアークライトの水力紡績機の両方の技術を取り入れていたので、ミュール紡績機と名付けられた。ミュール(mule)とは、ラバ、つまり雄ロバと雌馬との雑種のこと。
これによって、 細くて強い綿糸を作ることができるようになり、さらに織機の改良を促すことと担った。
g  カートライト 「1784年、牧師であり詩人でもあったエドマンド・カートライトが、アークライトの特許権の消滅につづいて織布業の繁栄がおとずれることを予見し、馬や水車や蒸気機関で動かすことの出来る力織機を発明していた。もっとも紡績に関する発明とは異なり、この力織機は比較的緩慢に進歩した。この力織機が工場生産の有効な手段となりうるまでには、それについて多くの改良が為されねばならなかった。」<アシュトン『産業革命』p.87>
 力織機  
h ホイットニー 1793年、ニューイングランドの名門イエール大学を出たばかりのイーライ・ホイットニーが陸軍の故ナサニエル・グリーン将軍夫人の後援の下で、ジョージアのプランテーションで綿花の種子と繊維を分離する綿繰り機を発明した。 それによってアメリカ南部の綿花プランテーションでの綿花の栽培が盛んになり、当時イギリスで綿工業をベースに産業革命が起こっていたことから、南部はそのための原綿の主たる供給地となった。南部の綿花の生産高は1790年に約710トンであったが、1800年までに一挙に約1万6千トンと20倍以上になり、1810年には4万トンに達した。その結果、共和政の樹立という政治的な目標とは裏腹に、黒人奴隷制はむしろ強化された。奴隷の数は1790年に70万弱だったのが、1800年に89万人に増え、1810年には119万人に達した。<五十嵐武士『世界の歴史』21(中公)p.192> → 三角貿易
 綿繰り機  
 蒸気機関の発明   
a ニューコメン 産業革命によって新たな燃料源として石炭の需要が大きくなってきたが、18世紀初めまでの炭坑では、坑内に発生する史地下水をくみ上げるのに莫大な労力と費用がかかり、採算が合わない勝った。蒸気によって真空をつくりだし、地下水をくみ上げる揚水機が発明されたが、いずれも熱量の損失が大きく実用にならなかった。
「ダートマスの鉄器商トマス・ニューコメン(1663〜1729年)が、一七〇八年全く異った型の自動式気圧機関を発明したのは、まさにこの損失を避けるためであった。地上高くガッチリと建てられた石造りの柱の上にその枢軸をおいた大きな木製の横桿は、円弧を描いて上下に自由に振揺しうるようになっている。その横桿は一端においてピストンに連結しており、ピストンは、蒸気がまずシリンダーの中に注入され、ついで凝縮されるにともなって上下に運動する。この運動は横桿に、したがってまた横桿の他の端に結びつけられたポンプ桿に伝わり、そのポンプ桿の運動によって水は竪坑中のパイプを昇って汲み出される。」<アシュトン『産業革命』 岩波文庫 p.48> 
b ワット ニューコメンの蒸気機関は、1760年代までは、水をポンプで汲み出すという限られた目的で炭坑で使われているだけであった。数学器具製造業者ジェイムズ・ワットは、スコットランドのグラスゴウ大学からその模型を修理するよう依頼された。彼は気圧機関の主な欠陥が、蒸気の注入と凝縮が交互に行われることに原因しているのを知り、その改良に取り組んだ。
「そして1765年のある日曜日の午後グラスゴウの緑地を散歩していた時、彼は、突然あるインスピレーションのひらめきを覚えた。彼は別に一つコンデンサーを用いることによって、そのコンデンサーをいつも冷たくしておくと同時にシリンダーを常時熱くしておくことができるという解決法に思い当たったのである。数週間のうちに一つの模型が作られた。しかし、それを構造の完全な機関に仕上げるための技術的諸困難が克服されるまでには、なお多くの歳月が経過した。」<アシュトン『産業革命』 岩波文庫 p.79>
d エネルギー革命(第1次) 18世紀のイギリス産業革命の時期に始まり、19世紀に進行した、燃料(エネルギー源)の中心が、それまでの木炭から、石炭に移行した変革のこと。ワットによって改良された蒸気機関が普及し、その燃料として石炭が使われたこととと、ダービー父子などの発明したコークス製鉄法によって、石炭が製鉄業の燃料とされたことが石炭の需要が急増した理由である。さらに鉄道や汽船の交通革命によっても需要が増えた。石炭は近代社会を作り上げる上で最も重要なエネルギー源となったが、第2次世界大戦後の1950年代以降は石油がより高いエネルギー効率と多面的な利用価値によって急速に利用されるようになり、石炭から石油へという第2次エネルギー革命が起こり、石炭はエネルギー主役の座から降りた。しかし、中国など発展途次にある地域では依然として使用されている。なお、石炭も石油も化石燃料としては共通しており、その大量の使用は、二酸化炭素を発生させ、地球温暖化など環境問題をもたらしたとして、現在は脱石油、脱化石燃料の必要が強くなっている。 
c 機械制工場  
d  資本主義  → 資本主義社会
 重工業部門の発達  
a 機械工業  
b 鉄工業 製鉄の工程には、鉄鉱石を高炉(溶鉱炉)で溶解して銑鉄をつくる製銑工程と、その銑鉄を鋳鉄や鋼に鍛えて鉄材にする精錬工程とからなっている。イギリスは幸い鉄鉱石には恵まれていたが、製銑には昔からどこでも木炭が使われていた。そのため、17世紀に製鉄業が盛んになると、木材の需要が増え、森林の枯渇が問題となってきた。この問題は18世紀前半にシュロップシャーの製鉄業者ダービー親子が石炭からコークスをつくり、コークスで溶解する方法が工夫されて解決し、イギリスの豊富な石炭資源が利用されることとなった。さらに、製銑工程の生産能力が上がると精錬工程の革新が必要となり、ヘンリー=コートが1783〜84年に反射炉を用いる攪拌式精錬法(パドル法)を開発し、あわせて鉄塊を直ちに圧延して鉄材に仕上げる新工法を編み出し、これによってイギリスの製鉄業は急速に発達した。<村岡健次執筆『世界の歴史』22 近代ヨーロッパの苦悩と情熱 1999 p.362> 
c 石炭業 製鉄には昔から木炭が使われていた。17世紀にイギリスで製鉄業が盛んになると鉄鉱石を溶解して銑鉄をつくるための木炭が大量に使用されるようになり、くわえて建築・造船用材としても木材の需要が高まったため、イギリスで急速な森林の枯渇が進んだ。木材の不足を補うことが大きな問題となってきたが、ダービー父子が1709年に石炭からコークスをつくり、それを木炭にかえて製銑工程に用いる方法を開発したため、石炭が利用されるようになって問題が解決した。こうして石炭は製銑用のコークスとして、および蒸気機関の燃料として需要が高まり、産業革命のエネルギー源となった。また、都市化に伴い、都市住宅の家庭用燃料としても需要が増えた。イギリスは需要にこたえることのできる豊かな炭田があり、石炭業は急速に成長した。しかし19世紀には、採炭技術は女性や児童の労働に依存するもので劣悪な条件におかれ、また石炭の運搬は当初は馬に頼っていたので大量に運ぶことができず、供給力に限界があったが、次第に採炭技術が改良され、さらに鉄道輸送が始まることによって、石炭業は飛躍的に増大することとなった。こうして石炭業は20世紀前半までの工業化社会を支えるエネルギー源として繁栄が続いたが、第2次世界大戦の前後から石油が登場してエネルギー革命が起こり、急速にその役割を低下させている。 
d ダービー父子 イギリスの製鉄業者の父子。両者とも名前はエイブラハム。父のダービーはそれまでの木炭の代わりに石炭を燃料とする製鉄法を開発し、製鉄業を興した。その子のダービーがその事業を受けつぎ、石炭をコークス化して燃料とするコークス製鉄法を1735年に完成させた。これによってイギリス産業革命の基盤が確立した。
「1709年になってはじめて、クエーカー教徒の製鉄業者、シュロップシャーのコールブルックデイルのエイブラハム・ダービイ(父)が、コークスで熔鉱して、立派な銑鉄を作ることに成功した。彼のこの成功が、その熔鉱炉の丈が高く、その送風装置が例外的に強力であったことと関連していたことは疑うべくもない。しかしより重要なことは、彼は手近にシュロップシャーの塊炭をもっており、その石炭から他の石炭から出来るものとは異った、熔鉱炉用として好適なコークスを生産しえたということである。ダービイの発明は、その完全な収穫が得られたのはやっと十八世紀の後半であったけれども、工業国としての英国の将来にとってきわめて重大な結果をもたらした。」<アシュトン『産業革命』 岩波文庫 p.51>
 交通・運輸機関の発達  
a 運河 「ブリッジウォーター公フランシス・エジャートンは、ワースリの炭坑を起点とし数マイル離れた都市マンチェスターにまで通ずる運河を建設するという計画にとりかかったのは1759年のことであった。これは非常に困難な仕事であった。……しかし、古くから公に仕えていた無学な水車大工ジェイムズ・ブリンドリー(1716-72)の熟練がすべての障害を克服した。そして1761年の夏には、石炭が、以前道路でもたらされた時の半額の運賃でマンチェスターに届けられていた。」<アシュトン『産業革命』 岩波文庫 p.95>
出題 東京大学 2003 (交通手段の発達に関連して)「18〜19世紀は「運河の時代」と呼ばれるように、西ヨーロッパ各地で多くの運河が開削され、19世紀の鉄道時代の開幕まで産業の基礎をなしていた。ブリッジウォーター運河が、最初の近代的な運河である。それは、イギリス産業革命を代表するある都市へ石炭を運搬するために開削された。その都市の名を記せ。
  解答 →  
b 鉄道 鉄道以前にイギリスでは道路網が建設され、馬車による交通が発達していた。石炭が新しい燃料源として消費されるようになると、その大量輸送の需要が出てきたが、馬車ではそれが出来ないので、次いで運河が建設されるようになった。さらに運輸時間の短縮を目ざして開発されたのが、軌道の上を蒸気機関で牽引する車両をはしらせるというものであった。すでに早く1804年にトレヴィシックがその原理を考案したが、実用化には至らなかった。1825年にスティーブンソンの蒸気機関車が初めてストックトン・ダーリントンを走ったがそれも石炭輸送が目的であった。乗客を運ぶ最初の鉄道営業が開始されたのは1830年のリヴァプール・マンチェスター間の鉄道であった。その成功によって鉄道敷設は急速に延び、いわゆる「鉄道狂時代」が出現した。それは直ちにイギリス以外にも広がり、アメリカでは1827年、フランスでは1828年と35年、ドイツとベルギーでは1835年、ロシアでは1837年に建設が始まった。
「鉄の道路は、国々や諸大陸をよこぎって、風のような速さで、その巨大な煙の羽毛をつけたへびをはしらせ、その築堤や掘り割り、橋や駅は、一団の公共的建築物をつくりだし、それにくらべれば、ピラミッドやローマの水道や、中国の長城さえもが、身おとりがしていなかめいてものにみえた。そういう鉄の道路は、技術による人間の勝利の真の象徴であった。」<ホブズボーム『市民革命と産業革命』安川悦子/水田洋訳 岩波書店 p.67-68>
c 蒸気船 出題 東京大学 2003 (交通機関の発達に関連して)「1807年に、北米のハドソン川の定期商船として、世界で初めて商業用旅客輸送汽船が建造された。これを建造した人物の名を記せ。また1819年に、補助的ではあったが蒸気機関を用いてはじめて大西洋横断に成功した船舶の名称を記せ。
  解答 →  
  解説
d トレヴィシック 軌道の上に蒸気機関車を走らせることを思いつき、1804年に実現させた。しかし、輸送機関としては実用化されなかった。 
e スティーブンソン 1814年にはじめて実用的な蒸気機関車を製作した。実際の客車を乗せ、貨物輸送が可能な蒸気機関車が運行されたのは、1825年のストックトン−ダーリントン間が最初であった。
f ストックトン・ダーリントン1825年、スティーブンソンが実用化した蒸気機関車によって牽引された客車と貨車(35台)が、初めてストックトンとダーリントンの間の約17kmの鉄道の上を走った。時速は約18kmであったという。ストックトンとダーリントンはイギリス北東部の小都市。ただし、この軌道は、蒸気機関車だけでなく、馬でも牽けるものであった。
この最初の近代的鉄道が運んだものは何か。それは、石炭であった。イングランドのダラム炭田の石炭を海岸の港まで運ぶ交通手段としてこの鉄道が建設された。イギリスの鉄道の発達は、石炭業・鉄工業の発展の結果生み出され、鉄道が急速に広がると、車体やレールを製造する鉄工業と、燃料の石炭が大量に必要となり、さらに石炭業・鉄工業を発展させるという相乗効果を生んだ。
g リヴァプール・マンチェスター鉄道 綿製品の産地マンチェスターと輸出港リヴァプールを結ぶ鉄道。スティーブンソンが実用化した蒸気機関車による鉄道輸送の最初の営業区間として、1830年の9月に開通した。蒸気機関車のみで牽引する鉄道の世界最初の営業線であった。これを機会にイギリスは「鉄道狂時代」に突入、営業線の総延長は、1848年までに約8000kmを超え、19世紀中頃には全国の主要都市はすべて鉄道によって結ばれることとなった。
Epi. 鉄道事故死第1号 「トーリー党の政治家W.ハスキンソンは、歴史的な1830年9月のリヴァプール・マンチェスター間の鉄道開通式に来賓として招かれていた。だが鉄道の怖さを知らなかった彼は、その開通した鉄道にはねられてしまった。こうして将来首相になったかも知れない一人の政治家の命が失われた。」<村岡健次執筆『世界の歴史』22近代ヨーロッパの苦悩と情熱 p.379 1999>
h フルトン 1807年、ロバート・フルトンの汽船クラーモント号はニューヨーク市からハドソン川をさかのぼってオルバニーに達し、再びニューヨーク市に戻ってくる事に成功した。それまでの河川を利用した運送業は川を下るだけであったが、蒸気力と機械力によって川を遡ることができることが証明され、河川交通は両方面に可能になった。<ビーアド『新編アメリカ合衆国史』P.201>
i 交通革命  
j パクス=ブリタニカ  
 イギリス人の食生活の変化 参考 17世紀〜19世紀のイギリスの変化が、食生活の変化をもたらしている。次の文は、『路地裏の大英帝国』の角山栄氏の一文。
「イギリス料理の特色といわれる家庭料理の伝統ができ上がるのは、こうして主婦の料理への関心が高まったヴィクトリア中期のことではなかったかと思われる。
 またこの時代はイギリス近代における第二次食事革命の時代であった。第一次食事革命は、17世紀中ごろから18世紀はじめの商業革命によってアジア、アフリカ、新大陸から珍しい食べ物、飲物、果物が輸入されたことによって起こった。メキシコからはとうもろこし、トマト。ペルーからはじゃがいも、ピーナッツ。ブラジルについで西インド諸島からは砂糖。アジアからバナナ、米。18世紀初めからデザートに舶来の果物がつくようになった。たとえばいちじく(北アフリカ産)、レモン、オレンジ、ライム(西インド産)、すいか(エジプト、インド、中国産)、桃(インド、中国産)、いちご、パイナップルなど。またこの時代に新しく登場した飲料としては、アラビアのコーヒー、メキシコのココア、中国の茶があった。しかしこれらを口にすることのできたのは、上流階級だけであった。ただし、じゃがいもだけは、貧民のパンに代わる代替食糧となった。
 これに対して19世紀中ごろに起こった第二次食事革命は、鉄道、蒸気船など近代的輸送機関の発達、瓶詰め、縫詰め、冷凍法を中心とする食糧保存法の発達によってもたらされた。人造バターが発明されたのは1860年代であり、冷凍船で初めて大量の牛肉と羊肉がオーストラリアからイギリスへ運ばれたのが1880年であった。また19世紀前半、都市労働者の手に入った魚といえば、塩漬けのにしんしかなかったが、6、70年代になると、冷凍装備のトロール船によって捕獲された新鮮な魚が、安い値段で庶民の台所に届くようになった。こうして新鮮な魚(とくにたら)がイギリスに入ってくるようになって登場したのが、フィッシュ・アンド・チップスである。フィッシュ・アンド・チップスというのは、ころもをつけて油で揚げた魚に、拍子木形に切って揚げたプライド・ポテトを添え、酢(といっても、日本のような米酢ではなく、多くは麦芽酢=モールト・ヴィニガー)をかけて食べるもので、新聞紙でつくった袋に入れて売っていた。誰が発明したのか、いまでも論争のあるところだが、労働者の食べ物として定着したのが、1864〜74年のころである。ともかく第二次食事革命は、産業革命の成果と七つの海の支配を背景に、労働者大衆の食卓まで包み込んだ大きな拡がりをもつものであった。」<角山栄・川北稔編『路地裏の大英帝国』1982 2.家庭と消費生活(角山栄執筆) p.52-53>  
ウ.産業革命の波及
a 「世界の工場」 イギリスの経済学者ジェヴォンズが最初に使ったようだが、特に有名になったのは、1838年にディズレーリが議会での演説で使ったからであった。産業革命を世界に先駆けて達成し、圧倒的な工業力を誇った19世紀前半のイギリスの繁栄を述べたもの。
b ベルギー 1830年代にオランダから独立すると共に、イギリスに次いで産業革命を達成した。ベルギーはかつてのネーデルラントの南部諸州のこと。北部ネーデルラントがスペインから独立した後もスペイン領としてとどまった。1815年、ウィーン会議の結果、オランダに併合された。ウィーン体制下で独立運動が始まり、フランスの七月革命の影響のもと、1830年にベルギーの独立を達成し、翌年国際的に承認され、立憲君主国となった。古くからの商業都市を有し、また石炭などの資源も豊富であったので、イギリスに次いで早く産業革命を達成した。ただ、ベルギーはその地理的立地から、ラテン系のワロン語圏(フランス語に近い)とゲルマン系のフラマン語圏(オランダ語に近い)とに分かれており、言語戦争が起こった。その結果1993年には連邦制を取り入れ、双方を公用語として決着した。
c フランスの産業革命フランスの産業革命は、1830年代の七月王政の時期。イギリスで産業革命が展開された18世紀末から19世紀初頭、フランスはフランス革命からナポレオン時代という革命の時期であった。この間、フランスはイギリスの工業製品に関税をかけて流入を防ぎ、自国の産業の発展を図ったが、フランス革命で自立した小農民はイギリスのように賃金労働者化することが亡く、また商業資本の蓄積も進んでいなかったので、産業革命は遅れることとなったと、説明されている。フランスで産業革命が始まるのは、1930年に復古王政が倒され、七月王政が成立してルイ=フィリップ(株屋の王と言われた)のもとで商業資本の育成がはかられた時期からである。 
d ドイツの産業革命ドイツは領邦分立であったため産業の発達も遅れ、1934年の関税同盟結成によってようやくその端緒につき、1840年代にラインラントを中心に工業化が進み、産業革命の段階となった。
e アメリカの産業革命アメリカ合衆国は第2次独立戦争とも言われる1812〜14年の米英戦争によって、独立後も続いたイギリス経済依存体質を払拭して産業の自立の端緒をつかみ、国土を西方に拡大した上で、南北戦争で工業中心の国作りを目ざした北部が勝利することによって、1860年代に産業革命を展開した。 
f ロシアの産業革命ロシアはクリミア戦争の敗北に衝撃を受けたアレクサンドル2世が農奴解放令を1961年に出し、上からの近代化が始まり、産業革命も上からの保護のもとに展開されることとなった。 
g 日本の産業革命日本は1868年に明治維新を達成、急速な近代化を「富国強兵」路線を軸として展開し、1894年の日清戦争後に清からの賠償金などを元手に第1次産業革命を展開させ、1904年の日露戦争によって一気に第2次産業革命に突入していった。 
e 世界市場の形成   
エ.資本主義体制の確立と社会問題
a 機械制工場  
b 産業資本家  
c 資本主義体制の確立  → 資本主義社会 
a 人口の都市集中  
b マンチェスター  → マンチェスター
c バーミンガム  
d リヴァプール イギリス(イングランド)の西海岸にある港湾都市。まず17世紀のイギリスの三角貿易の拠点として、奴隷貿易で繁栄した。18世紀の後半に産業革命が起きると、後背地であるランカシャー地方のマンチェスターを中心に木綿工業が勃興し、その機械製綿布の輸出港となった。1830年にはリヴァプールとマンチェスターを結ぶ鉄道が最初の鉄道営業を開始した。19世紀にはアメリカへの移民の出発地として利用された。その後もイギリスの主要な貿易港として続いたが、第2次世界大戦後はイギリス経済全体の落ち込みと共に貿易も不振となり、リヴァプールもかつての繁栄は見られなくなった。しかし、文化面では早くから新しいものを生み出す活力を持っていたのか、特にポピュラー音楽において「リヴァプール・サウンド」が若者の支持を受け、その中から1960年代に彗星のごとく出現したのがビートルズだった。なお、リヴァプールは2004年にその市街地が近代港湾都市の遺構として世界遺産に登録された。
a 労働者階級の形成  
b 労働問題・社会問題の発生 産業革命の進行によって資本家と労働者の関係という資本主義社会の基本的な関係が成立した。資本家は利潤を追求するため、労働者に対し、長時間の低賃金労働を求めた(つまり労働力という商品を安く買おうとする)し、労働者は短時間で高い賃金を得ようとする(つまり労働力という商品を高く売ろうとする)ので、その利害は相容れない。資本主義社会の初期には圧倒的に資本家(雇用者側)が有利であり、労働者(被雇用者)側には対抗する手段が無く、労働者の権利を保護する観点も具体的な法律も存在しなかったので、過酷な条件でも受け入れざるを得なかった。そのような中で労働者の貧困はその生命や健康をむしばんでいった。資本家は、より従順に低賃金でも労働する女性や子供を労働力として使うことが増え、悲惨な労働実態が工業都市で蔓延した。特に炭坑では狭い坑道で女性や子供が酷使されていた。教育の機会がないために能力を発揮することも出来ず、参政権もなかったので政治に訴える道も閉ざされ、社会不安が増大した。ロンドン、バーミンガム、マンチェスターなどの大都市には、スラム街(貧民街)が生まれ、不衛生な環境に多数の労働者家族が生活する状態であった。
アシュトンの産業革命の評価:産業革命の技術的・経済的変革そのものが社会的な惨禍の源泉であったという「産業革命の不幸」論に対して、アシュトンは『産業革命』(1947)の結論部分で次のように反論している。「この時代の中心問題は、それ以前の時代よりも遙かに多くなった幾世代かの児童を、いかにして食べさせ、着せ、雇傭するかということであった。アイルランドもそれと同じ問題に直面していた。そしてこの問題を解きえなかったアイルランドは、四〇年代にその国民の五分の一を移民と飢餓と疾病とで失った。もしイングランドが、耕作農民と手工業者の国にとどまっていたならば、イングランドもまず同じ運命をまぬがれなかったであろうし、またうまくいっても、増大する人口の重みがイングランドの活力の源泉を圧しつぶしてしまったに違いない。英国が救われたのは、その支配者によってではなく、疑いもなく、新しい生産器具と新しい工業経営方式を発明するだけの機知と資金とを持ち、自分自身の当面の目的を追求していた人々によってであった。・・・」<アシュトン『産業革命』1947 中川敬一郎訳 岩波文庫 p.178>
 女子・子供の労働  
c 資本家  
d 労働者  
e 労働組合 労働組合は資本主義社会において、資本家によって搾取されている労働者が、主体的に「団結」することによって資本家と交渉し、労働条件の改善をめざす組織。イギリスの産業革命期には労働者は劣悪な条件(長時間の労働と低賃金、また女性や児童の苛酷な労働、不安定な雇用など)に置かれていた。資本家に対する戦いは当初はラダイト運動に見られるような非組織的な暴力行動が多かったが、次第に労働者の自覚が高まり、資本家やその立場に立つ政府と闘うために団結しようという労働運動が自然発生的に生まれた。初期においてはその活動は認められず、厳しく弾圧されたが、19世紀初めにイギリスで自由主義と社会主義の思想が生まれ、労働者を法的に保護するとともに労働組合を公認する動きが始まった。その後、労働組合は資本主義社会に広がり、その運動は国際的に連帯して大きな力をもつようになった。イギリスでは1824年の労働者団結法によって労働組合の結成が公認され、さらに1871年の労働組合法でストライキ権が保証されるなど、労働者の団結権・団体交渉権・ストライキ権が労働三権として確立していった。労働組合の活動が法的に認められるとともに職業別の労働組合の全国組織が結成されるようになり、イギリスでは1868年の労働組合会議、ドイツの自由労働組合、アメリカの労働総同盟などが生まれ、さらに国際的な労働組合運動も活動するようになり、三次にわたるインターナショナルの結成となる。
19世紀のイギリスにおける労働組合運動の略史
 1799年 団結禁止法を制定:資本家の意を受けた政府による労働運動に対する弾圧。 
 1811年 ラダイト運動起こる:熟練した手工業職人による機会打ちこわし運動。1819年にはピータールー事件起きる。
       この間、ロバート=オーウェンらの初期社会主義思想広まる。
 1824年 団結禁止法を廃止し、労働者団結法を制定:労働組合の結成が初めて法的に認められる。
 1833年 一般工場法を制定:世界最初の労働者保護法。児童労働の禁止、労働時間の制限など。
 1838年 チャーティスト運動起こる:労働者による参政権の要求運動。48年に最も盛んになる。
 1847年 10時間労働法:チャーティスト運動の成果として制定される。
 1868年 労働組合会議結成:労働組合の全国的連合組織。TUC
 1871年 労働組合法を制定:ストライキ権などを認める。
 1884年 フェビアン協会が結成される。穏健な社会主義による政治団体の始まる。
 1893年 独立労働党結成:ケア=ハーディが指導。
 1900年 労働代表委員会結成:TUC、フェビアン協会、独立労働党などで組織した最初の労働者政党。
 1906年 労働党結成:労働代表委員会が改称。マルクス主義派を排除した、議会主義を標榜した社会主義政党。
→ 主な国際労働運動とアメリカの労働組合運動は12章2節の国際労働運動を参照
労働組合の欧米と日本の違い:労働組合ははじめは同一職種の熟練工が組織する職業別組合から始まったが、次第に未熟練工も加えた同一産業の労働者が企業の枠を超えて組織した産業別組合が主流となってきた。欧米では特にその傾向が強く、労働者の自立意識が強く企業への帰属意識が弱い。それに対して日本の労働組合は終身雇用制という日本独自の雇用慣行があるために労働組合も企業別組合が主流である。企業別組合は往々にして労働者の利益より企業の利益を優先することがあり、「御用組合」などと揶揄されることもある。
労働組合の形態:労働組合は組合員の資格と企業の雇用との関係の違いで次の三つの形態がある。
 オープン=ショップ:労働組合の加入・脱退は自由で、企業は誰でも採用でき、解雇できる。従って企業側に有利な形態である。
 ユニオン=ショップ:企業が採用した労働者は必ず労働組合に加盟しなければならない。組合を脱退すれば企業も解雇される。労働組合にとっては有利であるが、全員加盟組合でも解雇規定がない場合も多く、「尻抜けユニオン」などと言われる。
 クローズド=ショップ:企業は労働組合の組合員から雇用しなければならない。この場合も組合を脱退すれば企業も解雇される。最も労働組合にとって有利な形態である。
※アメリカの労働組合制度 世界恐慌で失業者があふれた後、フランクリン=ローズヴェルトのニュー=ディールの一環で、ワグナー法が制定され、労働者の権利の保障が強化された。ところが戦後の反動期に制定されたタフト=ハートレー法では、クローズド=ショップは禁止され、ユニオン=ショップも制限された。
f 団結禁止法 1799年、イギリスで制定され、1800年から発効した労働者の労働組合結成を禁止する法律。当時イギリスでは産業革命が進行して、労働者階層が形成されたが、長時間労働・低賃金・一方的な解雇など苛酷な労働条件のもとにおかれていた。そのような中で、フランス革命の影響もあって人権思想にもとづく労働条件の改善要求が強まった。それに対してイギリス政府(ピット内閣)は、議会の多数を占める資本家階層の利益を守るため、団結禁止法を制定し、労働者の運動を取り締まった。19世紀に入り、自由主義政策に転換する中で、1824年に廃止されて、労働組合の結成が認められ、さらに1871年には労働組合法が制定されて、ストライキ権などの権利も保障されることとなる。
g 機械打ちこわし(ラダイト)運動 産業革命で繊維工業の機械が発明され使用されるようになると、多くの手工業職人は失業しなければならなかった。それへの反発から、産業革命の展開中から、機械破壊運動が起こっている。その指導者ネッド・ラッドの名前から、その運動はラダイト運動と言われているが、ラッドは実在の人物であるかどうか判らない。早くも1779年、当時イギリス最大の紡績工場であったアークライトのランカシャー工場が破壊され、1810年代には最高潮に達する。産業革命の発明家ハーグリーブス、アークライト、カートライトなどはいずれも工場も住宅も襲撃され、破壊されている。しかしこの運動は、怒りの矛先を機械に向けるだけであったため長続きせず、政府の弾圧をうけて下火になる。次に労働者の貧困と人権での戦いは労働組合運動という組織的な運動になっていく。 
h ピータールー事件 ラダイト運動が鎮圧されてから、労働者の運動は、議会を通じての合法的な改革に向かおうとした。そのためには選挙権を獲得する必要があるので、普通選挙を求める声が強くなった。当時の保守的なトーリ党政権はその運動も厳しく弾圧した。1819年には、マンチェスターで8万人の労働者が集まって議会改革と穀物法反対を訴えて、示威行動を行った。それに対して政府は軍隊を派遣して武力弾圧、12名の死者と多数の負傷者が出た。セント・ピーター広場で起こったこの事件を、ナポレオンが敗れた戦いのウォータールー(ワーテルロー)にひっかけて、ピータールー事件という。20年代にはいると、経済の好況もあって運動は穏健化し、30年代政権がホイッグ党にうつると選挙法改正の動きが急速に具体化した。
j 工場法 産業革命の進展に伴って制定された一連の労働条件に関する立法。その最初が1802年の工場法(徒弟法)。その後、1819年の工場法を経て、1833年の一般工場法に至り、労働者の保護の観点からの体系的なものとなる。