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4.西ヨーロッパの中世文化
ア.教会と修道院
A 教会  → 第1章 3節 キ.キリスト教迫害と国教化 教会
a キリスト教  → 第6章 1節 中世西ヨーロッパの成立 ローマ=カトリック教会
b 破門  → 第6章 1節 ク.教会の権威 破門
B 修道院 修道院とは俗界を離れて禁欲的規律を守り、宗教的共同生活をおくり、信仰を深める場所である。古くからシリアやエジプトのキリスト教徒の中にも見られたが、一つの運動となるのは、529年、ベネディクトゥスが中部イタリアのモンテ=カシノに修道院を建設、ベネディクト派の運動を始めてからである。ベネディクトゥスは、清貧・貞潔・服従を説き、「祈り、働け」をモットーとして純粋な信仰を深めようとした。修道士は毎日4〜5時間の祈りと、6〜7時間の労働(農耕、建築、書写など)に従事した。その運動は、ローマ教皇グレゴリウス1世に支持され、ヨーロッパ各地に広がり、ベネディクト派修道会が組織された。
中世の修道院・修道会を中心とした改革運動の波はいくつかあった。
・まず6世紀のベネディクトゥスによる修道院運動
・ついで9世紀に創建されたクリュニー修道院を中心に展開された11世紀の修道院運動
・次に12〜13世紀のシトー派修道会による大開墾時代の展開
・さらに13世紀の托鉢修道会による修道院運動
a ベネディクトゥス イタリアのヌルシア生まれの修道僧。529年ごろ、モンテ=カシノに修道院を建設し、ベネディクト派修道会を起こした。539年にベネディクトゥスが定めた会則は、その後の修道会の規範として大きな影響を与えた。
b モンテ=カシノ 529年ごろ、ベネディクトゥスが修道院を建設した場所。ローマの南方の標高500mの山上にある。現在の建物は17世紀に建設されたもの。なおこの地は、第2次世界大戦のさい、イタリアの降伏後、ドイツ軍が立て籠もってイタリア戦線の最大の激戦地となったところで、空襲のため修道院も破壊された。現在は修復されている。
c ベネディクト派 ベネディクトゥスが定めた戒律では、修道士は「祈り、働け」をモットーとし、「清貧・純潔・服従」を理想とする禁欲生活を送る。厳しい入所規定に合格したものが2ヶ月の試験期を経てから、さらに6ヶ月の修行の後に誓約して世紀の修道士となる。彼らは修道院長の統制のもとに共同生活を送り、日に4〜5時間の祈りと、6〜7時間の労働を行う。修道士は生涯をそこで過ごし、その年齢、技能に応じて農耕、園芸、建造、書写などの労働を分担する。
590年にローマ教皇となったグレゴリウス1世は、ローマ教会の首位権をコンスタンティノープル教会と争い、ゲルマン民族(特にアングロ=サクソン人)への布教を進める際に、このベネディクト派修道士を用いたので、ローマ教会とベネディクト派修道院は密接な関係を持つこととなった。
d 「清貧・純潔・服従」  
e 「祈り、働け」  
C 修道院運動(13世紀)ベネディクト派修道院による6世紀の修道院運動に始まり、クリュニー修道院を中心とした11世紀の修道院運動が全西ヨーロッパで展開され、叙任権闘争の基盤となって教皇権の最盛期をもたらした。さらに次に12〜13世紀にはシトー派修道会による大開墾時代の展開されたが、これらの修道院も広大な土地や商売による利益の蓄積などを通じて次第に堕落した。13世紀にはじまる新たな修道院運動は、フランチェスコ会やドミニコ会などの托鉢修道会の設立と活動としてあらわれ、教皇権の衰退という状況の中で、教会の権威をまもるべく、異端に対して対抗する形で展開された。しかし、托鉢修道会の活動は、修道院での修養よりも、該当での伝道活動に重きを置くようになったので、修道院は次第に衰退することとなった。
a クリュニー修道院  → 6章 1節 ク.教会の権威 クリュニー修道院
b グレゴリウス7世  → 6章 1節 ク.教会の権威 グレゴリウス7世
 シトー派修道会 1098年、中部フランスのシトーに設立された修道会。ベネディクトゥス修道会の戒律の厳格な励行をかかげ、クリュニー修道院にかわる修道院運動の中心となる。12世紀の半ばには修道院長ベルナルドゥスの指導のもとで発展し、修道士は清貧・服従・労働の生活を守った。13世紀にはドイツの東方植民とも結びつき未開地の開墾に従事した。しかし、そのころから次第に俗化し、托鉢修道会の出現によって衰退した。 
c 大開墾時代 11世紀後半から13世紀前半までの約2世紀間は、大開墾時代といわれ、森林や原野が開かれ、低湿地は埋め立てられていった。それを可能にしたのは、冶金術の発達による、金属製の斧や鎌の普及であった。切り開かれた耕地では牛馬に牽かせた有輪犂によって土地を耕し、三圃制で作物が生産された。このような開墾を進める原動力の一つが修道院であり、修道士たちは労働を喜び、盛んに周辺の森林の開拓と開墾を進めた。ベネディクト派やシトー派の修道院がとくに大開墾時代の推進役であった。
D 托鉢修道会 それまでの世俗から離れた山中に建設された修道院で、土地や富を蓄えることを否定して、都市や農村を歩き回り、信者からの寄付のみで生活しながらキリストの教えに忠実に生きようとする修道士たちの組織。13世紀のドミニコ会とフランチェスコ会がその代表的な組織であり、ともに教会・修道院の腐敗を批判し、異端の改宗の運動の先頭に立って活動した。
 フランチェスコ会 イタリアのアッシジ出身の修道士フランチェスコが1209年に創立した托鉢修道会。フランチェスコは豊かな商人の子であったが、あるとき信仰に目覚め、家を捨てて清貧の生活に入った。その仲間は「小さき兄弟会」といわれ、もいう。1210年にローマ教皇インノケンティウス3世に面会してその活動を承認された(正式認可は1223年)。フランチェスコ派修道会(フランチェスコ会)は次第に参加の修道士を増やし、大きな組織となったが、厳格な清貧生活を守ろうとするフランチェスコと、ローマ教皇に従って組織を拡大しようとする多くの修道士が対立し、フランチェスコの死(1226年)以後は厳格派と穏健派に分裂する。
アッシジのフランチェスコ ローマ教皇インノケンティウス3世の前に現れたフランチェスコたちは、裸足で痩せ細り、ぼろぼろの修道衣をまとい、ベルトの代わりに荒縄を締めていた。かれらはアッシジからやってきた修行者たちで、キリストの教えに従って清貧を守り、家族を捨て托鉢だけで命をつなぎながら、祈り、説教を続けていた。インノケンティウス3世は、一歩間違えば当時勢力を強めていたカタリ派などの異端につながりかねないと警戒したが、むしろ彼らの活動を公認して、異端の改宗にあたらせようと考えたのであろう。こうして、フランチェスコの活動は正式の修道会として認められ、13世紀以降の新修道院運動の中心となっていく。
Epi. 小鳥と話す聖フランチェスコ 修道会から離れた晩年のフランチェスコは、孤独な隠棲生活に入り、森の中の小屋に住み、小鳥たちに説教をしたと伝えられている。小鳥たちは枝から地上に降りてきて、さえずりをやめて彼の言葉に聞き入り、祝福をあててもらうまで飛び立たなかったという。また、晩年には天使が十字架をかかげている夢からさめたところ、両手両足と脇腹の五ヵ所に傷が出来ていた。それは、十字架上のキリストが受けた傷と同じ場所であったという、「聖痕の奇蹟」といわれている。<この項、藤沢道郎『物語イタリアの歴史』第3話 聖フランチェスコの物語 による>
 ドミニコ会 1206年、スペイン出身のドミニコ(ドミニクス)らが、インノケンティウス3世から南フランスの異端カタリ派の改宗のために派遣されたことに始まる。シトー派も異端改宗に派遣されたが、ドミニコらの活動は多くの改宗者を生み、1217年にローマ教皇から修道会として承認された。彼らは信者の寄付によって生活してたので「托鉢修道会」とか「乞食僧団」と言われた。ドミニコ派修道会(ドミニコ会)は、中央集権的な組織を持ち、異端の改宗と取り締まりの先頭に立って活動した。また、熱心な信仰の名から高名な神学者を排出し、パリ、ボローニャ、ケルン、オックスフォードなどの大学に神学教授を提供した。トマス=アクィナスもドミニコ派修道士から出発した。
E 神学 キリスト教の教理を学び、深化させる学問で、中世ヨーロッパの学問の中心となった。神学から発展した哲学がスコラ学であるが、中世においては「哲学は神学の婢」(トマス=アクィナス)と言われたとおり、あくまで神学に従属するものであった。中世の大学でも神学は4学部の一つとされ、重要であった。近代の思想はこの神学のしばりからの、哲学や科学の解放の過程であった。
a ラテン語 もとはイタリア半島のラテン人の言語であったものがローマ帝国の拡大に伴って地中海全域に広がった。中世以降はキリスト教教会に付属する学校での学問であった神学の用語となった。以後、中世ヨーロッパでは知識人は学術用語としてラテン語を学んだ。ラテン語が俗語化した言語が、ロマンス語系といわれるフランス語、イタリア語、スペイン語などである。
ヒエロニムス アンティオキア教会の教父で、聖書をラテン語訳した。ヒエロニュムスとも表記。382年頃、ローマ教皇の要請で、それまでのギリシア語聖書から新約聖書のラテン語の統一を行い、さらに旧約聖書もギリシア語およびヘブライ語の原点からラテン語訳した。ヒエロニムスのラテン語訳聖書は「ウルガータ(またはヴルガータ、一般の意味)」といわれ、中世を通じて広く用いられ、カトリック教会の標準となった。
Epi. 聖ヒエロニムスとライオン ある夕方、ヒエロニムスが修道士たちと聖書の朗読をしていると、一頭のライオンがが足を引きずりながら修道院に入ってきた。修道士たちは驚いて皆逃げ出したが、ヒエロニムスだけはまるで客人を迎えるようにライオンに近づいた。ライオンの足には茨のとげが突き刺さっていた。ヒエロニムスは修道士たちを呼び戻してライオンの手当をしてやった。ライオンはその後も家畜のように修道院に住みついたという。ヒエロニムスのライオンのエピソードは中世ではよく知られた聖者伝説であり、多くの絵画などに描かれている。<樺山紘一『地中海』2006 岩波新書 p.90>
イ.中世のルネサンス
A カロリング=ルネサンス  → 6章 1節 エ.カール大帝 カロリング=ルネサンス
a カール大帝  → 6章 1節 エ.カール大帝
b アルクィン イギリスのヨークに生まれ、教会で教育を受け神学者となる。781年、ローマからの帰路、パルマでフランク王国のカール大帝とあい、そのまま大陸にとどまり、そのアーヘンの宮廷でラテン語の教育や聖書の講義などに従事して、いわゆるカロリング=ルネサンスの中心人物となった。彼が目ざしたことは、ラテン文明(古典文明)とキリスト教を調和させることであり、その活動によってラテン文明・キリスト教・ゲルマン文化という中世ヨーロッパ文化の要素が統合され、後のルネサンスへの橋渡しの役割を担ったと言える。
カロリング小文字体  
B スコラ学 11〜12世紀に起こり、13〜14世紀の中世ヨーロッパにおける思想の主流となった哲学を「スコラ学(スコラ哲学)」という。中世においては、すべての学問は、カトリック教会およびその修道院に付属する「学校」(スコラ)において教えられ、研究されていた。中世ヨーロッパの哲学はこのような「スコラ」における哲学という意味で「スコラ学」と言われる。その内容は、主としてキリスト教の教義を、ギリシア哲学(特にアリストテレス哲学)によって理論化、体系化することであった。12世紀におけるスコラ学の隆盛は12世紀ルネサンスの中心的な事柄であり、13世紀のトマス=アクィナスによって大成されることとなる。
a スコラカトリック教会およびその修道院に付属する「学校」。スクールの語源となる。
Epi. 「暇」を意味する「学校(スコラ)」 ラテン語のこの「スコラ」から英語の school が生まれたが、もとはギリシア語から来ている。ギリシア語で「スコラ」というのは、もともと「暇(ひま)」を意味していた。働かない、ひまな人が集まるところが「スコラ」だった。
b 普遍論争 スコラ学で中心的な解題となったのが11〜12世紀に起こった「普遍論争」だった。「普遍」とは「個」に対する概念で、たとえば「アリストテレスは人間である」といった場合、アリストテレスは個であり、人間は普遍である。そのような、「人間」とか、「動物」といったものは実際に存在するのかどうか、という論争であった。実在論(実念論ともいう。リアリズム。)は、「普遍は実在性をもち、個に先だって存在する」と主張し、唯名論(ノミナリズム)は「普遍はたんなる名辞に過ぎず、ただ個のみが実存する(普遍は個の後ろにある)」と主張した。両者を調停して、「普遍は実在性をもつが、ただ個の中に(個に即して)のみある」と主張したのがアベラルドゥスで、それ以後そのような「実在論」が正統派となり、13世紀のトマス=アクィナスもその立場だった。しかし、14世紀にウィリアム=オッカムなどの「唯名論」が復活し、近代思想の萌芽につながっていく。 
c 実在論  
d アンセルムス 11世紀イギリスのカンタベリー大司教を努めた神学者。「スコラ哲学の父」と言われ、キリスト教の信仰をプラトンやアリストテレスの哲学によって、理性的な論証を試みた。普遍論争における彼の「普遍は個に先だって実在する」という「実在論」は中世キリスト教の正統的な理論とされ、トマス=アクィナスに継承されていく。
e 唯名論  
f アベラール 12世紀のフランスのスコラ哲学者。ラテン名アベラルドゥス。唯名論者とされるが、厳密には実在論と唯名論を調停する説を主張した。(唯名論を主張した人物としてはロスケリヌスがいる。)アベラールは、「普遍は実在性をもつが、ただ個の中に(個に即して)のみある」と主張した。
Epi. アベラールとエロイーズの恋 アベラールはスコラ神学者として名高いが、実生活は波乱に富んだ一生であった。彼が家庭教師をしていたエロイーズと恋仲となり、子供が生まれ、密かに結婚したが発覚し、エロイーズは女子修道院に入れられ、アベラールは去勢されたうえでサン=ドニ修道院に入れられた。二人の間に交わされた書簡は、真実の愛の言葉を交わされており、古典文学の一つとなっている。 
C 12世紀ルネサンス 12世紀の西ヨーロッパ世界において、それまでのキリスト教とゲルマン文化の結びついた中世文化が大きく変化し発展したことを12世紀ルネサンスという。主な内容は、スコラ哲学の隆盛、大学の出現、ゴシック様式の建築の始まり、騎士道物語の発生などに現れている。
これらのヨーロッパ文化の新しい動きを、14世紀のルネサンスに先だつ動きとしてとらえ、12世紀ルネサンスと表現したのは1927年のハスキンズに始まるが、最近はその研究も深まり、内容も豊富となって「ヨーロッパの転換期」として重要性が増している。
12世紀ルネサンスの契機と背景:その契機となったのが、十字軍によってもたらされた、ビザンツやイスラームを経由して、ギリシア哲学の古典を学んだとであった。また新しい思想や芸術を受けいれた背景には、封建制の確立、農業生産力の向上(三圃制農業など)、人口増加とそれに伴って貨幣経済の発展(商業の復活)と都市の勃興(および知識人の登場)などがある。
西欧とイスラーム文化の遭遇:12世紀ルネサンスは、西欧世界がアラビア科学(イスラーム文化)と接触・遭遇し、その成果を取り入れ、消化し、その後の知的離陸の基盤とした大変革期であり、それなくして14世紀のルネサンスはなかったと考えられる。この時期にアラビア科学を通じて西欧に知られるようになったのは、ユークリッド幾何学、プトレマイオスの天動説、ヒポクラテスやガレノスの医学、アリストテレスの大部分の著作などである。これらギリシア文化やヘレニズム文化の最も優れた部分は、ローマを経て西欧に継承されていたのではなく、12世紀にアラビアやビザンティンを通じて西欧に知られたのである。またアラビア文化は媒介だけでなく、それ自体が独創的な内容をもっていた。またアラビア文化が西欧に入ってきたルートとして重要なのは、シチリア島、イベリア半島、北イタリア(ビザンツと関係の深いヴェネツィアなど)であり、それらで盛んにイスラーム語の文献(コーランも含めて)がラテン語に翻訳された。<伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス』 2006 講談社学術文庫>
a ビザンツ  
b イスラーム文化(西欧に与えた影響)12世紀以降、西ヨーロッパの学問、文化にはイスラーム文化の影響が強く表れた。特に、イベリア半島のトレドに作られた翻訳学校で、アラビア語文献に翻訳されていたアリストテレスなどの哲学書やエウクレイデス、プトレマイオスなどの科学書、ヒポクラテスやガレノスらの医学書などのギリシアやヘレニズム時代の書物がラテン語に翻訳され、またイブン=ルシュド(ラテン名アヴェロエス)、イブン=シーナー(ラテン名アヴィケンナ)などのイスラームの学者の書物が伝えられたことが、大きな刺激となった。 → 12世紀ルネサンス 
c ギリシア  
d トマス=アクィナス 13世紀のスコラ学の代表的な神学者。イタリアに生まれ、ドミニコ会修道士からパリ大学教授となる。アリストテレス哲学をキリスト教信仰に調和させて解釈し、信仰と理性の一致をめざした。「普遍論争」では正統的な実在論をさらに発展させ、スコラ学を大成したと言われる。その代表的な著作が『神学大全』(1265〜73年ごろ)で、神の存在と教会の正当性を論証する大著として、攻勢のキリスト教に大きな影響を与えた。
e 神学大全  
f ”哲学は神学の婢(はしため)”  
D 近代合理思想の萌芽  
a ロジャー=ベーコン 13世紀イギリスの自然科学者。事実上のオックスフォード大学の創始者といわれるロバート=グロステストの弟子。数学の重要性を主張し、経験的な監察・実験を重んじた研究法をとった。そこで彼はイギリス経験論哲学の祖とされるが、一方で錬金術を信じるなど、なお中世的な枠組みの中にあった。
b ウィリアム=オブ=オッカム 14世紀イギリスのスコラ哲学者。フランチェスコ会修道士。オックスフォード、パリで神学を学ぶ。彼は、「個が唯一の実在、説明されるべきは個体のみ。」と説いて実在論を批判し、普遍は精神の外でなんら実在性をもたず、観念は事物の記号に過ぎないという徹底した唯名論を主張した。そして、信仰と理性、神学と哲学の区別を説き、さらに教皇権と世俗の権力の区別も厳格にすべきであると主張した。彼の説はローマ教会からは否定されたが、近代的な経験論哲学の出発点をなしたものとして重要である。
a 大学 大学の起源は、中世ヨーロッパにある。中世のイタリア、フランス、イギリス、ドイツ、スペインなどで、ローマ以来の自由民の一般教養とされた七自由学科と、神学を中心とした教会付属の学校を基礎とし、十字軍以来流入したアラビア文明の影響を受けて医学や哲学の研究を行う組織として生まれた。13世紀には自治権を獲得し、教師と学生の組合として運営された。そのような大学を意味するユニベスシタスというラテン語も、同業組合(ギルド)を意味していた。当初は教会に属する研究が主体であったが、中世後期になると王権の伸長に伴い、国家の官吏や法律の専門家の養成も必要とされて、主要な政治都市に大学が建設されるようになった。→ 12世紀ルネサンス 
a 教授と学生のギルド  
b ユニベルシタス もとは同業組合(ギルド)を意味するラテン語で、現在の大学の起源となった。現在では、University は「総合大学」(複数の学部をもつ大学)、College は単科大学、というように使われる。 
c 自治権  
d 七自由学科自由七科ともいい、中世ヨーロッパの大学で教養課程とされた、下級3学の文法、修辞、論理、上級4学の数学、音楽、幾何、天文、あわせて計7教科のこと。起源はローマ末期の5世紀頃の自由民に必要な教養とされた科目にさかのぼるが、7〜8世紀に確立し、10世紀には各地の大学に普及した。一般にこれらの教養課程を治めた学生が、専門課程である神学・医学・法学の三上級学部に分かれて進学した。
e ボローニャ大学 イタリアで最古の大学とされる。ボローニャは法学で有名だが、一般教養(七自由科)から医学、神学などの専門科目も持つ総合的な教育機関であった。ここで法学の研究が盛んになったのは、11世紀の後半、聖職叙任権闘争に際してグレゴリウス7世がローマ教皇の主張の根拠をローマ法に求めようとして研究させたからであった。ボローニャにあつまった学生は、生活の安定と相互扶助のため団体を作った。それがユニベルシタスであり、当時はギルドと同じ意味に使われていた。学生のギルド、つまりユニベルシタスは、ボローニャ市当局と交渉して下宿の部屋代の値下げを交渉したり、教授たちに対して「講義を休むな」とか、「難問を説明しないで退出するな」などの要求を突きつけ、自治を行っていた。「学長」も学生のなかから選ばれていた。ルネサンス時代のペトラルカはここで学んだ。
f サレルノ大学 南イタリアのナポリに近いサレルノで開設された最古の学校の一つ。11世紀の半ばにギリシアの医学者ヒポクラテスが講義をしていたことが知られる。しかし、サレルノは医学専門の学校であって、総合的な大学ではなかった。大学として整備されるのは13世紀以降。
g パリ大学 1200年に、ノートルダム寺院の付属学校から出発した、とされる。イタリアのボローニャ大学などと違い、パリ大学は教師の組合(ユニヴァーシティ)が中心で、アベラールなどの学者が輩出したことで有名。13世紀には四学部(人文、法律、医学、神学)をもち、その中の神学部の別名をソルボンヌとして発展する。特に1230年代にイベリア半島のレコンキスタが進み、コルドバがイスラーム教徒の手からキリスト教徒の手に帰ったとき、その地のイブン=ルシュド(アヴェロエス)がギリシア語からアラビア語に翻訳していたアリストテレスの著作がもたらされ、アリストテレス学説によるキリスト教神学の合理的解釈が盛行した。しかし、アリストテレス的な合理論が宗教的な真理と理性的な真理を分離する傾向を生み出したため、その両面を統合させる必要のあったローマ教皇庁はトマス=アクィナスをパリ大学の教授として送り込み、トマスの説くスコラ哲学を正統な学問とし、アヴェロエス派を禁止することとなった。
Epi. ソルボンヌといわれる理由 ソルボンヌとは、パリ大学神学部に学寮をつくった人物に由来する。1253年にルイ9世に仕えた聖職者ロベール=ド=ソルボンが神学部の学寮を設立し、それがソルボンヌ学寮と言われたことによる。トマス=アクィナスの他、インノケンティウス3世、ドゥンス=スコトス、ロジャー=ベーコンなどもここで学び、たいへん有名になった。後にはソルボンヌがパリ大学全体を意味するようになる。
h オックスフォード大学 イギリス最古の大学。オックスフォードはロンドンの北西約80kmにある。12世紀の後半、ヘンリー2世の時に大学として形を整え、13世紀にカレッジ(学寮)が形成された。そのころの総長ロバート・グロステストのもとで、自然科学が隆盛し、ロジャー=ベーコンなどが出た。唯名論者トゥンス=スコトス、宗教改革者ウィクリフなどもオックスフォードに学んだ。
i ケンブリッジ大学 1209年、オックスフォードから教師、学生が移ってきたことから大学が成立した。神学、自然科学の研究で、オックスフォードと並ぶ学問研究の中心となる。13世紀末にオックスフォードと同じく学寮制度が整備された。なお、イギリスでは両校を併せて Oxbridge といい、伝統的な大学を意味し、それに対して近代以降に出来た大学を Redbrick と言うそうです。
j プラハ大学  
ウ.美術と文学
a 教会建築  
A ロマネスク様式 11〜12世紀に、ビザンツ様式についでヨーロッパで広がった建築とそれに付随する彫刻・絵画などの美術様式。ロマネスク建築は修道院の建築様式として発達したもので、ローマ風の円形アーチを特色とする。建材は木材と煉瓦であり、厚い石屋根を支えるために太い柱と厚い壁を必要とし、窓も必然的に小さい。全体的に重厚で安定している。装飾も少なく、内部にフレスコ画で壁画が描かれる程度である。代表的なロマネスク様式の建築は、クリュニー修道院、ピサ大聖堂、ヴォルムス教会堂など。13世紀にはゴシック様式に移行する。
a ピサ大聖堂 ピサは、地中海に面した港市。ジェノヴァなどと並び、地中海貿易で繁栄した。ピサ大聖堂は、イタリアを代表するロマネスク建築。11〜12世紀に建造されたもので、大聖堂と付属する斜塔が有名。
Epi. ピサの斜塔 有名なピサの斜塔は、ロマネスク建築の代表例であるピサ大聖堂の一部。1063年、パレルモ沖の海戦でピサ艦隊がイスラーム艦隊に大勝したのを記念して着工、1118年に完成、その後も増改築を続けた。その結果、8階建ての塔となったが、増改築中に土台が地面にめり込んで傾いたが、学者たちが計算した結果、そのまま完成させても倒れないというので、建造を続けたという。高さ59m、直径17m。<庄司浅水『世界の七不思議』現代教養文庫による>
B ゴシック式 西洋美術史において、ロマネスク様式に次いで、12世紀に始まり、13〜14世紀に西ヨーロッパに広がったキリスト教聖堂建築様式と、それに伴う絵画、彫刻などの美術様式。
ゴシック様式の特色:都市の勃興を背景として、都市民の経済力による大規模な教会堂の建築が始まり、高い尖塔アーチとそれを支える肋骨(リブ)が特徴。天井が高くなったために、窓を広く取ることが出来るようになり、ステンドグラスで装飾されるようになった。15世紀からはイタリアを中心にルネサンス様式に移行していく。
「ゴシック」の意味:ゴシック gothic とは「ゴート人風の」(つまりゲルマン人的、ドイツ的ともとれる)という意味で、16世紀のイタリアにおいて、「ゴート人風の粗野な建築」という軽蔑的な意味をこめて使われた。ルネサンス以降のイタリア人の人間主義、合理主義からみれば、天をつくようなゴシック聖堂は非合理的な、粗野なものと写ったのである。
ゴシック様式建築の具体例:最も古いゴシック様式建築はパリのサン=ドニ修道院に見られ、その他、フランスではアミアン、ランスシャルトル、パリのノートル=ダム、イタリアではシエナ、アッシジ、ミラノ、イギリスではカンタベリー、ウェストミンスター、ドイツではケルン、シュトラスブルク、フライブルクなどが有名。
Epi.  ケン=フォレットの歴史小説 『大聖堂』:イギリスのスパイ小説作家、ケン=フォレットが1989年に発表した『大聖堂』(The Pillars of the Earth )はめずらしい中世イギリスを舞台にした歴史小説。12世紀イギリスノルマン朝のマチルダとスティーヴン王の王位継承の争いという史実を背景に、大聖堂の建築に命をかける親子二代にわたる物語である。ヨーロッパを放浪して、特にパリのサン=ドニ修道院の大聖堂(最初のゴシック建築とされる)に感嘆し、その新しい建築技術である尖塔アーチの技法をイギリスに持ち帰る。作中にくわしくゴシック建築の技法について言及があるので、(やや長いが)一読をおすすめする。<ケン=フォレット/矢野浩三郎訳『大聖堂』 上・中・下 新潮文庫>
a ステンドグラス 様々な色ガラスを切断し、鉛の枠で組み立てて画像をつくり、内部から見た時、外光が射し込んで神秘的に見える特殊な窓。中世キリスト教建築のゴシック様式(特にフランス)に見られる。フランスのシャルトル聖堂のステンドグラスが最も有名。
b ノートル=ダム寺院 パリ司教座のおかれた聖堂。パリ中心部のシテ島にあり、1245年ごろ完成したと言われるゴシック式建設の代表作。フランス革命の時には一部破壊されたりしたが、現在は修復されている。シャルトルやケルンのような尖塔はなく、正面に四角形の双塔を持つ。
ランス大聖堂 ランスはフランス東北部の司教座都市。その大聖堂は、496年にカトリックに改宗したクローヴィスが洗礼を受けたところとして、後のフランス王国の各王朝にとっても特別の意味を持っていた。クローヴィス以後のフランス王は、ランス大聖堂で戴冠式を挙行し、聖なる王としてフランスに君臨することが許されると考えられ、百年戦争の時のシャルル7世もジャンヌ=ダルクに導かれてこの大聖堂で戴冠式をあげ、正式な王位が認められた。現在のランス大聖堂は、1211年に創建されたゴシック式建設の代表的な建造物で世界遺産に登録されている。
c ケルン大聖堂 ケルン教会はドイツにおけるカトリックの中心地で大司教座がおかれた。その大聖堂は1248年に起工され、建築が継続され、16世紀に中断され、フランスの支配以降は荒廃が進んだ。現在のケルン大聖堂は、1842年、プロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム4世が工事を再開し、1880年に完成させたものである。中世のゴシック様式による尖塔は、高さ157mに達し、ドイツの統一を象徴するものであった。パリのエッフェル塔が完成するまでは、ケルン大聖堂が世界で最も高い建造物だった
d シャルトル大聖堂 1260年に落成式を行った、ゴシック建築の代表的な建築。パリの南西約150kmの司教都市シャルトルにある。正面に高さ120mの双塔をもつ。また内部には直径9mのバラ窓をはじめとする大小様々のステンドグラス(絵ガラス)が見られる。このステンドグラスはヨーロッパ第一の美しさと言われている。ただし、詳細に見るとロマネスク様式も所々に見られ、ロマネスクからゴシックへの過渡期の建造物とされる。
a 騎士道物語 中世ヨーロッパで発達した騎士道を奉じる騎士たちの英雄的な戦いや恋愛を題材にした口承文学。フランスのカール大帝時代を舞台にした「ローランの歌」、イギリスの「アーサー王物語」が代表的な騎士道物語。これらの物語は、フランスのトゥルバドゥールのような吟遊詩人によって語り伝えられた。
b 『ニーベルンゲンの歌』 1204年ごろ完成。ドイツ中世騎士文学の代表作。5世紀の民族移動期、ライン河中流のブルグンド族がフン族と戦ったことを舞台としている。ニーベルンゲンの宝を手に入れた勇士ジークフリートはだまし討ちにあって死ぬ。その妻ブルグンド族の王女クリームヒルトはフン族の王エッツェル(アッチラ大王がモデル)と結婚し、復讐する。美しい乙女が復讐にもえる話であるが、ゲルマン民族の心情や社会が反映している。 
c 『ローランの歌』 11世紀にできたフランスの武勲詩。カール大帝がスペインに遠征しイスラーム軍と戦ったことを舞台に、大帝の甥ローランの活躍とその死を詠う。
d 『アーサー王物語』 12世紀に形成された、イギリスの中世騎士文学。アーサー王はブリトゥン人やケルト人の中の英雄として早くから物語られていたが、その物語に、「円卓の騎士」、「聖杯探索」、「ランスロット」、「パルシファル」などの物語が加わって出来上がった一連の物語を言う。
e 吟遊詩人 11世紀の南フランスに生まれたトゥルバドゥール、その影響で生まれたドイツのミンネジンガーなどが吟遊詩人と言われる。12世紀から13世紀が最盛期で、地方貴族の邸宅をめぐり、騎士道的な愛を歌い上げた。南フランスのトゥルバドゥールは、アルビジョア十字軍によって南フランスが鎮圧されるとともに消滅した。詩作は14世紀のイタリアの初期ルネサンスで再び盛んになる。
トゥルバドゥール 12世紀の南フランス、ラングドックやプロヴァンス地方に現れた、「女性を高貴な存在として認め、彼女に熱烈なロマンティックな愛を捧げる」叙情詩を奏でる芸術家。一般に中世の各地を遍歴した吟遊詩人の一つで、12世紀ルネサンスの一面でもある。宮廷や貴族館で騎士たちの恋愛沙汰を題材に、即興の詩をおもしろおかしく、ときにもの悲しく歌い上げ、後の文学の一つの源流となるが、アルビジョア十字軍によって南フランスが王権に服属したことにより衰えていく。
「このトゥルバドゥールが歌い上げる愛というのはだいたい宮廷においてなされる、身分の高い貴婦人に対する恋愛です。未婚の女性に対する恋愛ではなく、たとえば領主の奥方とか、既婚の、身分の高い貴婦人に対して、その名を告げずに、一方的に秘めて、そして熱烈な愛を捧げる、そういう騎士的な愛です。これが「宮廷風恋愛」で、それを歌ったものがトゥルバドゥールの愛の叙情詩です。」<伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス』 2006 講談社学術文庫 p.249>
Epi. トゥルバドゥールを愛好した王妃 12世紀のフランス王ルイ7世の王妃で、後に離婚してアンジュー伯アンリ(後のイギリス王プランタジネット朝初代のヘンリ2世)と再婚するエリアノールが、故郷アキテーヌ地方のトゥルバドゥールを愛好し、パリやアンジュー伯の宮廷でもそれが大流行するようになったという。(エリアノールについてはヘンリ2世の項を参照)