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3.17〜18世紀のヨーロッパ文化
ア.科学革命と近代的世界観
1.科学
a 科学革命 17世紀のヨーロッパにおいて、自然科学の研究は著しく変化した。それまでも自然科学と言われるものが存在していなかったわけではないが、それは錬金術のようなことからおこった即物的な技法や、せいぜいアリストテレス的な自然をそのまま観察して理屈を導く出すことに留まり、カトリック教会の超自然的な世界観を克服することは出来なかった。ところがルネサンス・宗教改革に伴ってそれまでの神中心の世界観の重しが取り除かれ、大航海時代の展開によって圧倒的な知識情報量の増大がもたらされ、また主権国家感の抗争は戦争を通じて新たな科学技術の開発に迫られたという背景もあって、17世紀の自然科学の革新がもたらされた。まさに「17世紀の危機」が「科学革命」の舞台となった、と言うことが出来る。
それ以前の科学に対し、何が変わったのか、というと、一つは望遠鏡、顕微鏡などの用具の発明に伴う観察・実験という方法論の精密さが実現したこと、数学が自然現象の理論付けに用いられるようになった、ということであろう。その先駆的な役割を果たしたのがガリレオ=ガリレイであり、デカルトであった。そして17世紀の科学を体系づけたのがニュートンであったといえる。ガリレオは望遠鏡による天体の観測によって地動説を証明し、物体落下の法則を実験と数学的公式化の道を開き、デカルトは真理の探究での数学的合理論の基礎を探求した。ニュートンは微分積分という新しい数学を創出し、ニュートン力学という、20世紀の原子物理学が出現するまでの自然科学の基本体系をつくりあげた。以下、科学史の記述は、主に小山慶太『科学史年表』中公新書を参照した。
望遠鏡 望遠鏡は、1608年、オランダの眼鏡職人リッペルスハイが考案したとされる。リッペルスハイは二つのレンズを組み合わせることによって遠方の物体を手元に引き寄せてみることが出来ることに気付き、望遠鏡を考案した。望遠鏡が発明されたことは衝撃をもって迎えられ、全ヨーロッパに知られた。ガリレオはその噂を頼りに、自分でも望遠鏡を自作して天体観測を行い、1610年にはやくも『星界の報告』を発表し、木星の4つの衛星などを発見した。<小山慶太『科学史年表』中公新書 p.20,21> 
b ニュートン ニュートンが生まれた1642年は、ガリレイが死んだ年であった。1665年にケンブリッジのトリニティ・カレッジを卒業したが、その年ペストの大流行で大学が閉鎖されたため、故郷に帰り、実家で思索するうちに微積分法の着想を得た。その論文は1671年に仲間内に公表したが、広く一般には公開されなかった。そのため、微積分法の創始者は誰か、をめぐって同じく先取権を主張するドイツのライプニッツとの間で、長い論争となる。その後は「光と色の新理論」、万有引力の法則など、次々と新しい知見を発表し、1687年にはそれらを統一的な理論としてまとめた『プリンキピア』を発表した。ニュートンの明らかにした数学的方法によって、ケプラーの惑星運動の法則が数学的に証明され、ニュートン力学という体系が生まれた。ニュートンはその後、ロンドンで造幣局長官などを務め、1703年から亡くなった1727年までロンドン王立協会の会長を務めた。
Epi. 「最後の魔術師ニュートン」 ずっと後の1936年、ニュートンの残した膨大な手稿が競売にかけられ、有名な経済学者ケインズがその半分を落札した。ケインズはその手稿に目を通して驚いた。それはほとんどが錬金術に関するノートだったからだ。ケインズは「人間ニュートン」という論文の中で、「数学と天文学とは、ニュートンの仕事のほんの一部にすぎず、最も興味を引いたものではなかった。」と書き、「ニュートンは理性の時代に属する最初の人ではなく、最後の魔術師である」と述べた。ニュートンの17世紀は、近代科学の始まった時代であるとともに、古代・中世の残滓を引きずっている時代でもあった。<小山慶太『科学史年表』中公新書 p.44>
ロンドン王立協会 1662年に、国王ジェームズ2世の勅許を得て、自然を研究する新しい学問を愛好する人々の団体としてロンドン王立協会が設立された。初期の会員には、気体の法則のボイルや、バネの法則のフックなどがいた。ニュートンは1672年に会員となり、1703〜1727年まで会長を務めた。1665年からは『哲学会報』を刊行し、研究者の研究発表の場とし、発見の先取権を認定する倍として機能するようになった。フランスでは1666年に、パリに王立科学アカデミーが創立された。
Epi. 王立協会と『経度への挑戦』 大航海時代以来、正確な経度を測定する方法がいろいろ試みられていたがいずれもうまくいかなかった。イギリスでもたびたび遭難事故があったので、1714年にニュートンら王立協会が、2万ポンドの賞金をかてて経度測定法を公募することとなった。正確な経度を測定するには、正確な時計が必要だったが、当時まだ誰も遠洋航海に仕えるような時計を作ることはできなかったが、1760年にヨークシャーの時計職人ジョン=ハリスンがクロノメーターと名付けたゼンマイ時計を考案した。しかし、王立協会は天文学的な方法で経度を測定できると考えていたので、ハリソンのクロノメーターを認めなかった。1775年にクックの第2回航海でハリソンのクロノメーターが正確であることがようやく証明された。こうして洋上で正確な時刻を計ることができ、経度の測定も正確にできるようになった。<デーヴァ・ソベル『経度への挑戦』1995 藤井留美訳 翔泳社>
c ガリレイ ガリレオ=ガリレイは1564年、イタリアのピサに生まれ、フィレンツェで活動した科学者。1610年、自作の望遠鏡を用いた観測結果をまとめて『星界の報告』を発表、木星の4つの衛星などを発見。1632年には『天文対話』を発表。その書で天動説を批判し、地動説を展開したため、翌年ローマで宗教裁判にかけられ、異端説であることを無理矢理自認させられた。同時に『天文対話』も禁書目録に入れられ出版が禁止された。ガリレイは、1642年に亡くなるまで、フィレンツェ郊外の自宅で幽閉生活を送ることとなった。この間、1638年には『新科学対話』を現し、物体の落下運動についての研究を発表した。(なお、ガリレイがピサの斜塔から玉を落下させる実験を行ったというのは伝説であり、実話ではない。)1642年の1月にガリレイは死ぬが、その年の12月にイギリスでニュートンが生まれる。
Epi. ベルナルド=ブレヒトの『ガリレイの生涯』 ドイツの劇作家で、『三文オペラ』や『肝っ玉母さん』などで知られるブレヒトの戯曲に『ガリレイの生涯』がある。この作品はナチスの支配を避けてアメリカに亡命していたアメリカで発表されたが、1945年8月の広島への原爆投下を知り、大幅に書き換えられて戦後に上演された。ブレヒトはこの作品で、科学と政治権力の問題をとりあげ、ガリレイの地動説の証明から始まった近代科学が原爆を生み出したことを痛烈に批判し、科学の持つ意味を問いかけたのだった。近代科学が原爆に象徴されるような人間の不幸を生み出したことも現実であり、「科学の進歩」を手放しで礼讃できないことが明らかになったのが20世紀であった。<ブレヒト/岩淵達治訳『ガリレイの生涯』岩波文庫>
d ケプラー ドイツ人であるが、プラハで活動していた天文学者ティコ=ブラーエ(デンマーク人)の名声に惹かれ、その弟子となるが、1年後の1601年(17世紀の最初の年!)にブラーエが死んだため、その観測データを引き継ぎ「ケプラーの法則」を導き出した。ブラーエは望遠鏡の亡かった時代に四分儀などを使って肉眼で天体を観測し高い精度のデータを残していた。
「ケプラーの法則」とは、1609年の『新天文学』で発表した、「すべての惑星は太陽を焦点とする楕円軌道上を運動し、太陽と惑星を結ぶ線分が均しい時間に描く扇形の面積は一定である」という第一、第二法則、1619年の『世界の調和』で発表した、「惑星の公転周期の2乗は、楕円軌道の長径の3乗に比例する」という第三法則である。このようなデータの基づいて、数学的な法則を明らかにする方法が、17世紀の科学の特徴として鮮明に出てくる。ケプラーの法則は後のニュートン力学の土壌となった。
Epi. 魔女裁判にかけられたケプラーの母 ケプラーの母は「小さな、やせた、色の浅黒い、口ぎたなくて、けんか好きで、心のひねくれた、粗野でおしゃべりの老婆」とケプラー自身が描いているが、1615年70歳の時に魔女狩り役人の手で告発され、裁判にかけられた。ケプラーは母親の入牢を免じてもらおうと奔走したが無駄だった。4年間の獄中生活の後に裁判が始まったが、彼女は自白しなかった。裁判所は拷問道具を見せつけて自白を迫ったが、彼女はすべてを否定したまま気絶してしまった。やがて彼女は釈放されたが、その裁判の進行中にケプラーの三法則の第三法則が発表されている。まさに17世紀は、科学と迷信が交錯していた時代なのだった。<森島恒雄『魔女狩り』1970 岩波新書 p.180>
 ホイヘンス  
e リンネ  
f ラヴォワジェ 18世紀のフランスの化学者。17世紀はニュートン力学に見られるように物理分野では大きな進歩があったが、物質観に関しては依然として”土、水、空気、火”という4つの基本物質からなっているという理解に留まり、錬金術の段階を脱していなかった。18世後半になってようやく水素の発見(1766年、イギリスのキャヴェンディッシュ)、酸素の発見(1772年、スウェーデンのシェーレ)があり、フランスのラヴォワジェによって元素と化学反応の原理がが燃焼実験の結果明らかになった。定量的研究を重ねたラヴォワジェは1777年に燃焼とは空気の一成分と物質の結合であることを発見し、ついに空気が酸素と窒素からなることを明らかにした。1785年に水の分解実験に成功し、1789年にそれらの知見をまとめて『化学原論』を発表し、物質の究極的な構成要素を「元素」と名付け、水素、酸素、窒素など33種類の元素を列挙し、あわせて「質量保存の原則」を明らかにした。このラヴォワジェの業績は、錬金術から化学に変化させ、近代科学を真に成立させたと言える。
Epi. フランス革命で処刑されたラヴォワジェ ラヴォワジェの本業は徴税請負人(間接税を国に代行して徴収する役職)であたため、フランス革命が起こると反民衆的な右派として捕らえられ、1794年にギロチンにかけられて処刑されてしまった。このとき数学者のラグランジェは「この頭を斬り落とすのは一瞬の出来事であるが、これほどの頭脳を得るには、1世紀あっても足りない」と叫んだ逸話は有名である。<小山慶太『科学史年表』中公新書 p.85>
g ラプラース  
h ジェンナー 1796年、種痘法を発見したイギリスの医師。
Epi. 種痘の原理の発見 イギリスのグロスターシャー州では乳搾り女たちがよく牛痘にかかったが、彼女たちはけして天然痘にはかからないことが知られていた。ジェンナーは、りんごの頬をしたグロスターシャーの乳搾り女が牛乳桶ごしに、「いいえ、めっそうもありません。私は牛痘に罹っているので天然痘に罹ることはできません」と彼に言った時、種痘の原理を発見した。1796年5月14日の土曜日に、セバーン河畔の村バークレーのエドワード・ジェンナー医師は、牛痘に罹っている百姓の娘サラ・ネルムスから膿をとり、8歳の少年ジェイムズ・フィプスの腕に半インチ(1.3p)の軽い二本の擦り傷をつけて膿を移した。7月1日にジェンナーは人痘の膿をフィプスにつけて皮膚を引っ掻いたが、フィプスは天然痘に罹らなかった。数ヶ月後に人痘膿による接種を繰り返したが、何も起こらなかった。ジェンナーは種痘予防接種を発明したのである。ジェンナーは、この膿を接種する考えを実行に移すまで20年間熟考した。彼は医師懇親会でその話しばかりして皆にうんざりさせ、嘲笑され続けていた。<ゴードン『歴史は病気で作られる』p.72-77>
i ボイル  
j ハーヴェー  
k フランクリン ベンジャミン=フランクリンは、1752年、凧の実験で雷の正体が電気であることを証明したことで有名。雷雨の中、針金をつけた凧を揚げたところ、針金が電気を引き、凧糸が毛羽立ち、凧糸の下に取り付けた鍵を通してライデンびん(蓄電池が発明される前の電気を蓄える装置)に電気を蓄えることができた。フランクリンはこの実験で有名であるが、化学者としてだけではなく、アメリカ独立革命の指導者のひとりとしても重要な人物であった。哲学協会の設立、奴隷制反対協会の設立(1775)などの活動の他、独立戦争のときにはアメリカ大使としてフランスに赴き、フランスの参戦を取り付けた。また、憲法制定会議にも参加した。生まれはボストンの貧しい職人の子であり、フィラデルフィアで印刷出版業として成功したひとであり、その『フランクリン自伝』も広く読まれている。フィラデルフィアには彼の住居が記念館として残っている。
2.哲学(認識論)
1. 経験論  
a 帰納法  
b フランシス=ベーコン イギリス国王ジェームズ1世の側近で、大法官(最高裁判所長官にあたる)まで務めた。当時台頭してきた科学に強い関心を持ち、実験を用いた科学研究の重要性を説き(1605年『学問の発達』、1620年『新オルガヌム(機関)』などを著した。没後1267年に発表された遺作『ニュー・アトランティス』は、プラトンの言う海底に沈んだというアトランティス大陸になぞらえて、自然研究のユートピアを描いたもの。彼の観察・実験で得られたことから真理を演繹的に引き出すという認識の方法は、経験論哲学の出発点として、イギリスのホッブズやロックに引き継がれていく。
Epi. 冷凍実験で風邪をひいて死んだフランシス=ベーコン フランシス=ベーコンはジェームズ1世に寵愛され大法官までつとめ、子爵となったが、収賄の疑いがかけられ失脚した。彼の死にはこんな話が伝わっている。あるとき動物の肉を雪の中に置いて保存出来ないだろうか、という考えの浮かんだベーコンは、さっそく実験してみようと、雌鳥の内臓を抜いて雪に埋めた。その雪で体を冷やしたため不快になり、近くの家のベッドで休んだが、そのベッドが1年ほど誰も寝ていない湿ったベッドだったので、ひどい風邪をひき、2、3日後に、息が詰まって亡くなった。<オーブリー『名士小伝』冨山房百科文庫 p.195>
2. 合理論  
a 演繹法  
b デカルト 1637年、『方法序説』(または方法叙説)を現し、17世紀の科学と同時に、哲学の上で大きな影響を残した。この書は、『屈折光学』、『気象学』、『幾何学』の科学書三部作の序文であり、すべてのものを徹底的に疑ったうえで、それを考えている自分の存在だけが確かなことであるとして「われ思う、故にわれあり」(コギト・エルゴ・スム)といいう根源に立ち至った。彼の自己存在から真理を演繹的に認識していく方法は、合理論哲学の潮流として、ライプニッツやパスカルなどヨーロッパ大陸で継承されていく。彼の合理的認識の根幹にあるのは数学的合理性であり、x軸とy軸によって現すデカルト座標を導入し、直線や曲線を代数方程式で現す新しい数学を生み出し、次の微積分法の基礎を築いた、といえる。さらに1644年には『哲学原理』を発表した。
デカルトはフランスで生まれ、教育を受けたが、22歳になったときオランダに渡り、軍隊に入った。ちょうどその時、ドイツに三十年戦争が勃発し、デカルトは旧教軍の一員としてドイツに渡った。戦争の合間にウルムというところで部屋にこもって思索するうち、霊感に撃たれて自己の学問の指針を得て、軍隊を辞め、しばらくフランスやイタリアを旅しながら数学や光学の研究をつつけた。1628年からはまたオランダに戻り、そこで21年間研究する。最後はスウェーデンの女王クリスチーナに招かれてストックホルムに渡り、その地で肺炎をこじらせて1650年に没した。
c パスカル  
スピノザ  
ライプニッツ 数学者としても重要で、1684年に微積分法の論文を発表し、ニュートンとその先取権をめぐって争うこととなった。ライプニッツは1676年頃その方法を創出し、ニュートンは71年にすでにその着想を得ていたので、ニュートンの方が早かったとされているが、ライプニッツはニュートンとは全く別にその体系をつくりあげた。現在用いられている微積分の記号はライプニッツが考案したものである。
3. ドイツ観念論  
a カント  
3.思想
a 自然法思想  
b グロティウス

  Hugo Grotius(1583-1645)
17世紀前半、三十年戦争期のオランダの法学者。三十年戦争の災禍を見て、戦争の防止や収束のためには、自然法の理念に基づいた国際法での最低が必要とする『戦争と平和の法』を発表し、後の国際法の成立に大きな影響を与えた。また、『海洋自由論』もその主著である。グロティウスは、「自然法・国際法の父」と言われている。
Epi. 14歳で大学を卒業した神童グロティウス グロティウスはオランダのライデン市の名門グロート家に生まれ、名前はフーゴーといった。たいへんな神童で、八歳の時ラテン語の詩を書き、11歳で当地の大学に入学した。ギリシア語も学び、数学、哲学、法律の論文を書いて、14歳で大学を卒業。名前もラテン風にグロティウスと名乗った。15歳でオランダの首相の随員としてパリを訪れ、アンリ4世はその才能に驚嘆し、「オランダの奇蹟だ」といったという。16歳で弁護士として自立し、名声を博した。22歳で東インド会社を弁護して『海洋自由論』を発表。その後も歴史学者、詩人としても活躍、万能人であった。このような天才であったグロティウスだが、36歳の時、オランダの政争に巻き込まれ、投獄される。後に脱獄してパリに亡命し、そこで1625年に『戦争と平和の法』を書き上げた。
c 『戦争と平和の法』 1625年に刊行されたオランダの思想家グロティウスの主著。三十年戦争の最中、その惨禍を見たグロティウスが、人類の平和の維持の方策を模索し、自然法の理念にもとづいた正義の法によって為政者や軍人の規制する必要があると考え、また国家間の紛争にも適用される国際法の必要を説いた。これは世界で最初の国際法の提唱となった。
d ホッブズ 17世紀前半のピューリタン革命期のイギリスで活動した思想家。オックスフォード大学を出て貴族の家庭教師となり、ヨーロッパ旅行(グランド・ツアー)を行う。彼はイギリスの経験論の視点を国家と社会の観察にあてはめ、社会契約説という近代政治論の第一歩を築いた。ホッブズは国家成立以前の自然状態では、個人が自然権(生存権)を行使し「万人の万人に対する闘争」となるととらえ、そのような状態から脱却するために人々は社会契約を結び、自然権を国家君主に委譲している、と考えていた。その立場から言えば、人民は君主に反抗することは許されないこととなり、絶対王政を擁護するものであったので、ピューリタン革命が起こるとフランスに亡命した。亡命中の1651年にその思想を大著『リヴァイアサン』にまとめて発表した。王政復古後イギリスに戻り、思索に専念した。ホッブズの社会契約説は絶対王政を擁護するものであり、次のロックの人民主権を認める社会契約説によって克服された。
e 『リヴァイアサン』 1651年に発表されたイギリスの政治思想家ホッブスの主著。リヴァイアサンとは、旧約聖書に出てくる巨人の名で、ホッブズは人民の自然権を委譲された国家権力に喩えられている。有名な初版本の表紙にその巨人が描かれているが、よく見るとその体は無数の人間からできており、王冠を戴き、右手には剣を、左手には聖職者の持つ牧杖を持っている。剣は世俗的(非宗教的)権力を、牧杖は宗教的権力を象徴している。この巨人の下に国土と都市が描かれていて、国家権力に守られていることを意味している。この表紙が意味するように、『リヴァイアサン』でホッブズが主張したのは、人民の自然権の委譲を受けた君主が、聖俗の権力を独占し、国家を守護するという理念であった。この理念は、16〜17世紀ヨーロッパの主権国家体制の出現に対応するものであった。
f ロック 17世紀後半、名誉革命期のイギリスの哲学者、政治思想家。オックスフォード大学で学ぶ。王政復古の時期にジェームズ2世の王位継承に反対したため、オランダに亡命した。名誉革命後の1689年に帰国し、活発な諸作を展開、『人間悟性論』ではイギリス経験論哲学をさらに深め、『統治二論』(市民政府二論とも)では社会契約説にもとづく市民社会の政治原則として、人民の抵抗権・革命権を唱えた。その理念は、名誉革命を擁護し、さらにアメリカ独立宣言、フランス革命の理念として影響を与えた。
Epi.  内村鑑三の『後世への最大遺物』から 「イギリスに今からして二百年前に痩っこけて丈(たけ)の低いしじゅう病身な一人の学者がおった。それでこの人は世の中の人に知られないで、何も用のない者と思われて、しじゅう貧乏して裏店のようなところに住まって・・・何もできないような人であったが、しかし彼は一つの大思想を持っていた人でありました。その思想というのは人間というものは非常な価値のあるものである、また一個人というものは国家よりも大切なものである、という大思想を持っていた人であります。それで17世紀の中ごろにおいてはその説は社会にまったく容れられなかった。その時分にはヨーロッパでは主義は国家主義と定まっておった。イタリアなり、イギリスなり、フランスなり、ドイツなり、みな国家的精神を養わなければならぬとて、社会はあげて国家という団体に思想を傾けておった時でごさいました。その時に当ってどのような権力のある人であろうとも、彼の信ずるところの、個人は国家より大切であるという考えを世の中にいくら発表しても、実行できないことはわかりきっておった。そこでこの学者は私(ひそ)かに裏店に引っ込んで本を書いた。この人は、ご存じでありましょう。ジョン・ロックであります。その本は"Human Understanding"(『人間悟性論』)であります。しかるにこの本がフランスに往きまして、ルソーが読んだ、モンテスキューが読んだ、ミラボーが読んだ、そうしてその思想がフランス全国に行きわたって、ついに1790年(ママ)フランスの大革命が起ってきまして、フランスの二千八百万の国民を動かした。・・・それから合衆国が生まれた。それからフランスの共和国が生まれた。それからハンガリアの改革があった。それからイタリアの独立がった。実にジョン・ロックがヨーロッパの改革に及ぼした栄光は非常にあります。・・・」これは内村鑑三が、明治27年(1894)に講演した『後世への最大遺物』の一節。<内村鑑三『後世への最大遺物・デンマルク国の話』1946 岩波文庫 p.43-44>
g 『統治二論』 1690年、イギリスの名誉革命直後に出版された、ジョン=ロックの主著。フィルマーの王権神授説を批判した一編と、市民政府を論じた一編からなる。特に後者においてロックは、個人は相互に同意して自然権の一部を政府に委託して国家を作っているのであり、国家は人民の生命・財産・自由といった自然権を守る目的を持ち、その主権は人民にある。政府が人民の自然権を侵害することがあれば、人民には政府に抵抗し、それを覆す権利がある、と主張した。ホッブズの社会契約説を覆したロックの社会契約説は近代市民社会の原理となった。
h 社会契約説 絶対王政の政治理念であった王権神授説に対して、17〜18世紀の市民革命期に成立した、新たな政治理念。社会の基礎をここの人間におき、その個々の主体が互いに契約を結ぶことによって社会が成立すると考えるのは、ホッブズ、ロック、ルソーらに共通であるが、国家のあり方、政治権力と人民の関係ではこの三者でも違いがある。
17世紀前半のホッブズは、人民は政府に自然権を委譲していると考え、抵抗や革命は許されないと考えたが、ロックは人民は自然権の一部を政府に委託しているのであり、主権者である人民に抵抗権・革命権があることを認めた。18世紀中期のルソーは各個人は自由・平等であり、その集合体である人民の意志(一般意志)は最高絶対の権力(人民主権)であって、人々の契約の目的は国家ではなく人民の共同体にあるとした。一方で、18世紀前半のフランスのモンテスキューは、基本的人権の保障の観点から、国家権力を立法、司法、行政の三権分立という、より具体的な人民と国家のあり方を提唱した。
   
イ.啓蒙思想
1.a 啓蒙思想 18世紀フランスに起こった、従来の封建社会の中でのキリスト教的世界観に対して、経験的合理的な世界観を説き、人間性の解放を目指した思想。その世紀末のフランス革命を思想面で準備しただけでなく、「王権神授説」などにかわる新しい支配体制を模索した絶対主義諸国の君主の政治思想にも影響を与えた。
啓蒙の意味:「啓蒙」とは、「蒙(無知蒙昧の蒙。物事に暗いこと)」を「啓(ひら)く」ことで、無知を有知にする意味。18世紀フランスに起こった啓蒙思想での「無知」とは、封建社会の中で教会的な世界観の中に閉じこめられていた人々のことを言い、彼らに対して「人間」や「社会」、あるいは「世界」や「自然」の真実を教え、無知から解放することが「啓蒙」であった。その啓蒙思想は当時のフランスのブルボン朝ルイ15世の絶対王政と、そのもとでのアンシャンレジーム社会に対する攻撃という毒を含むこととなった。
啓蒙思想の前提:17世紀の経験論(イギリスのニュートンやベーコンによって切り開かれた自然探求とロックの政治思想)と合理論(デカルトやスピノザなど大陸で始まった人間主体の思想)によって著しく発展した自然科学の影響を受け、社会や国家のあり方を探求したのが18世紀中頃のフランス啓蒙思想であった。
主な啓蒙思想家:モンテスキューの三権分立論などの国家論、ヴォルテールの宗教的寛容論、ルソーの社会契約説などが代表的な啓蒙思想。それらの新しい思想を集大成したものがディドロとダランベールが中心となって編纂した『百科全書』であった。フランスの多くの啓蒙思想家がその執筆にあたったので彼らを百科全書派ともいう。
啓蒙思想の影響と広がり:18世紀の西ヨーロッパは主権国家が形成され、各国は絶対王政の支配の下にあった。絶対主義国家は領土争いにやっきとなり、七年戦争が勃発した。それは新大陸やアジアでの植民地抗争と結びついた「世界大戦」の面があった。そしてイギリスでは産業革命が始まりつつあった。つまり封建社会の崩壊、貴族社会の崩壊とそれにかわる近代市民社会の胎動が始まった時期だったといえる。そのような中で啓蒙思想は、近代社会誕生の「産婆」役を担っていた。ルソーやディドロの思想はやがてフランス革命を生み出すことになる。同時に絶対王政を維持したい君主たちも、「上からの改革」の必要を察知し、啓蒙思想に学びながら支配を合理化するという「啓蒙専制君主」が現れた。プロイセンのフリードリッヒ2世(大王)、オーストリアのヨーゼフ2世などがその典型であった。
b モンテスキュー  
c ヴォルテール  
d ルソー  
e 人民主権  
f フランス革命  
g ディドロ 18世紀フランスの代表的な啓蒙思想家。『百科全書』の編集をダランベールの協力で行い、経験論的合理主義に基づく学問と技術の体系化を試み、時のアンシャンレジーム社会を批判した。ディドロは1713年生まれでルソー(12年生まれ)とほぼ同世代。『哲学随想』などの著作がカトリック教会から危険視され、1947年には逮捕されたが、出獄後に出版業のル=ブルトンの依頼で『百科全書』の編纂を開始した。ダランベールの協力の他に、当時の思想家、技術者を総動員し、幾度かの弾圧と意見の違いを乗り越え、全17巻の『百科全書』を完成させた。彼自身もその関心はあらゆる分野に及び、哲学、科学、文学、美学などに及ぶ著作を残している。
h ダランベール 18世紀フランスの啓蒙思想家で科学者。ディドロとともに『百科全書』の編纂に携わった。彼は数学者であったので、合理的な自然の探求に有用な知識の体系化を目指した。その思想は『百科全書』序論の他、執筆した「力学」など多数の綱目の中で展開されており、また「人間知識の系統図」を作っている。編纂途中でディドロとは意見の違いがでたため、最後には編集から降りた。
i 『百科全書』 18世紀フランス啓蒙思想を代表し、「フランス革命を準備した」と言われる著作。1751年から80年にかけて発刊され、ディドロダランベールが著作編集にあたった他、ルソーやヴォルテールなども執筆した。
ディドロ(当時は無名の哲学者だった)は「技術と学問のあらゆる領域にわたって参照されうるような、・・・自学する人々を啓蒙すると同時に他人の教育のために働く勇気を感じている人々を手引きするのにも役立つ辞典」の出版を心がけ、ダランベールの協力を得て、「知の体系化」をめざし『百科全書』(エンサイクロペディア)を編纂した。中世的なキリスト教世界観ではない、経験論に基づいた学問と技術を集大成する仕事は、新興のブルジョアジーに支持され歓迎されたが、カトリック教会はからは危険視され、保守勢力に動かされたブルボン王朝政府は『百科全書』の出版などの妨害が行われた。しかし、政府内部にも出版監督長官マルゼルブはディドロの原稿が没収されないよう手配するなど、理解者もいた。国王ルイ15世の寵姫パンパドゥール夫人もひそかにディドロたちを援助した。執筆には184人が協力し、世界で初めて「学問の壁」を越えた協力によって1972年までに全17巻が出版された(80年までに別人の手によって補巻も出された)。「百科全書」の出版は当時の思想状況を網羅的に含むこととなったので、フランス啓蒙思想家たちを百科全書派と言うこともある。<桑原武夫編訳『百科全書』岩波文庫 解説などによる>
2.経済思想(重商主義の克服)
a 重農主義 18世紀のフランスのケネーの主著『経済表』に始まる経済理論。フィジオクラシーという。絶対王政のもとでの重商主義(国家政策として輸入を抑え、輸出を増やすことよって国家の富を増やすという思想)を批判し、富の源泉を個人財産である土地にもとめ、その土地から財を生み出す農業を基本にすえ、その生産性を高めるには貿易や商業活動を自由に行わせるべきであるという考え。
b ケネー 18世紀フランスの経済学者。『経済表』(1758年)を著し、財が地主・生産者・商工業者によって生み出され、分配されていく経済構造を明らかにした。その主張は、当時の絶対王政の経済政策であった重商主義を、国家による経済統制の行き過ぎとして批判し、農業生産を基本とした自由な貿易によって経済を発展させることであった。そのようなケネーの経済思想は、自由放任(レッセ・フェール)主義、重農主義と言われ、次に現れるイギリスのアダム=スミスの『諸国民の富』とともに来るべき資本主義時代の自由主義経済理論の原点となった。ケネーは当時盛んになった啓蒙思想にも賛同し、『百科全書』にも執筆している。
c 自由放任(レッセ=フェール)  
d 古典派経済学 18世紀のイギリスで生まれた経済学で、1776年のアダム=スミスの『諸国民の富』によって体系化された。「古典派」というのは、資本主義経済を本格的に分析した最初の学説、という意味である。古典派経済学の中心思想は、自由主義経済理論であり、冨の源泉を人間の労働に求め(労働価値説)、その労働生産性を高めるためには市場における自由な競争が必要であり、国家は企業の経済活動に対し規制や介入を加えるべきではないというものである。このように古典派経済学は、自由な人間の活動や私有財産、利潤追求といった近代ブルジョワ民主主義社会の人間観と合致する経済思想であったといえる。
アダム=スミスの後、リカード(1772〜1823)が自由貿易の利点を具体的に明らかにすることによって、1830年代以降のイギリスの自由貿易政策を実現させた。また、マルサス(1766〜1834)は、『人口論』で人口増加にともなう食糧の不足を貧困の原因と捉えた。19世紀は古典派経済学の最盛期であったが、一方で古典派経済学に学びながら、資本主義そのものを批判的に分析したのがマルクス(1818〜1883)であり、その史的唯物論に基づいた学説が「マルクス主義経済学」である。 
e アダム=スミス

   Adam Smith 1723-1790
18世紀後半のイギリスの経済学者、思想家(1723〜1790)。産業革命進行中の1776年に『諸国民の富』(『国富論』)を発表、自由主義経済理論を体系化して「古典派経済学」の父と言われている。
自由主義経済思想:アダム=スミス以前の絶対王政国家の経済思想には、貨幣=金銀を富と考え国家による保護関税や産業保護などの経済政策を主張する重商主義と、農業が富を生み出す源泉であると考え、個人の自由な経済活動の自由放任(レッセフェール)を主張する重農主義とが対立しており、イギリス絶対主義政府は重商主義を採っていた。アダム=スミスはそのいずれをも批判して労働価値説を主張した。労働価値説とは、労働が価値を生み出す源泉であると考え、分業などによって労働の生産能率を高めることによって冨を増やすことができるというものである。労働価値を高めるためには、設備投資や資本の蓄積が必要であるとし、市場において自由に競争することによって生産性が高まり、社会全体の進歩の原動力であると考えた。これが自由主義経済思想である。このようにアダム=スミスは経済政策では国家の統制や介入を排除し、市場原理に任せるべきであると主張した。各人の利己心の追求に任せては市場における競争が経済秩序を破壊する恐れがあるので、国家が保護したり介入すべきだという批判に対しては、「市場の自動調節機能」(需要と供給の関係によって価格が自動的に決まる市場原理)という「神の見えざる手」によって価格はおのずと調整されると考えた。このアダム=スミスの経済学説は、イギリス産業革命の理論的支柱となり、資本主義の発展をもたらしたと言える。
アダム=スミス以後:このアダム=スミスの経済理論は、19世紀の30年代以降の自由貿易主義政策に取り入れられて、イギリス資本主義の繁栄を理論的に支えた。アダム=スミスの説く資本主義の自由競争は、やがて先進諸国による植民地や勢力圏獲得競争から帝国主義に転化し、一方で資本主義を否定する社会主義理論と厳しく対立することとなった。20世紀には資本主義の無制限な競争が世界恐慌という経済不安を産みだしたことから、古典派経済学の自由放任主義を、国家の介入・規制による雇用政策や社会福祉などによって修正する修正資本主義(あるいは社会主義的な要素を取り入れることから混合経済ともいう)を説くケインズ学派が有力となり、戦前のニューディール政策や戦後のイギリス労働党の福祉政策が主流になった。ところが1960年代になると先進諸国のケインズ主義的な経済政策は「大きな政府」となって財政を破綻させ、増税が経済成長を阻害するという批判がでてきて、ふたたび市場原理を優先して政府の規制や介入を極力排除するべきであるという新自由主義経済学が現れた。アメリカのシカゴ学派(ミルトン=フリードマン)らのこの思想は、経済調整はマネーサプライ(通貨供給)によって行うべきであると主張しており、マネタリストとも言われる。1980年代のアメリカのレーガン政権やイギリスのサッチャー政権はこの新自由主義経済政策を採用し、規制緩和や財政支出の削減、減税など、いわゆる「小さい政府」を目ざした。その流れは現在のアメリカ合衆国の市場原理主義まで続き、ブッシュ政権の下で大幅な金融自由化が行われた結果、投機的な金融商品が増大し、2007〜08年にかけてそのバブルがはじけるという事態となり、世界恐慌の危機が再現された。  
f 『諸国民の富』 1776年(アメリカ独立宣言の年)、イギリスで刊行されたアダム=スミス(1723-90)の主著。An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations 富の源泉は人間の労働であり(労働価値説)、個人の経済活動を自然のまま、自由に放任しておくこと(レッセ・フェール)が富を拡大するという自由主義経済理論を説き、古典派経済学の基本的文献となった。この書によって、それまで絶対主義政府が採っていた重商主義による保護貿易政策は見直されるようになり、1830年代の自由貿易主義への転換がもたらされた。 
   
ウ.宮廷文化と市民文化
a 絶対王政  → 第9章 4節 絶対王政
b 市民階級の成長  
 バロック美術 バロックとは「極端な」とか「誇張した」という意味を持つ言葉。芸術史上のバロックとは、17世紀の西欧における、絵画、建築さらに音楽などに見られる芸術様式。イタリアをはじめ、スペイン、フランドル、オランダ、ドイツなどで流行した、華麗でダイナミックな様式の美術を特にバロック美術という。絵画ではフランドルのルーベンスファン=ダイク、スペインのエル=グレコベラスケスなどがその代表的な作者である。また建築ではフランスのルイ14世の離宮として建造されたヴェルサイユ宮殿の豪壮華麗な様式を生み出した。
なお、フランスの絵画ではバロックの影響も強かったが、ニコラ=プーサン(1594〜1665)のように、落ち着いた安定した古典主義的な様式を成立させていた。その代表作は『アルカディアの牧人たち』である。フランスの絵画はルイ14世の時に創設された芸術アカデミーが美術行政の中心となり「アカデミズム」を形成していった。
a 豪壮華麗  
b ヴェルサイユ宮殿  → 第10章 1節 ヴェルサイユ宮殿
c ルーベンス  
d ファン=ダイク  
e エル=グレコ エル=グレコ El Greco (1541〜1614)は、スペインのトレドで活動した画家だが、名前からわかるように、ギリシア人でクレタ島の生まれ。ヴェネツィアで絵画修行をし、ローマでミケランジェロなどの作品に接してイタリア・ルネサンスの影響を受け、スペインに渡って1577年からトレドに定住して制作活動を行った。その作品は、激しい明暗の対比や色遣い、人物の長身化や顔のゆがみなど、バロック美術の先駆的な特色をよく表している。特にその宗教画は、神秘的、超現実的で、現代を予感させるものがある。主な作品は『オルガス伯の埋葬』、『聖母昇天』、『自画像』
出題 東京大学 1985 (ギリシアの独立戦争に関連した設問)「16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国は、ギリシア人の多く住む地中海の島々を征服していった。そのひとつであるクレタ島から、キュリアコス=テオトコプーロスという名の画家が出て、スペインに渡り、特異な作風の宗教画家として活躍した。この画家の通称を記せ。」
  解答 →  
f ベラスケス ディエゴ=ベラスケス(1599〜1660)はスペインの宮廷に仕えた宮廷画家であり、その作品のほとんどは公式の肖像画や戦争画であるが、その画法はそれまでの古典主義的な技法とは正反対であり、生き生きとした色調と奔放な筆致をみせており、「バロック美術」の代表的な作家となっている。その技法や作風は、後のロマン派のドラクロワや印象派のモネなどにも強い影響を及ぼした。代表的な作品に『宮廷の侍女たち』などがある。
 『宮廷の侍女たち』
スペインの画家ベラスケスの1656年の作品。油絵。マドリード・プラド美術館蔵。ベラスケス自身がそのアトリエで、フェリペ4世の王女マルガリータをモデルに肖像画を描いているところを描いている。じっとモデルをしていたのが飽きたのか、マルガリータはプイとよそを向いてしまう。それを取り巻きの侍女や、宮中の道化女がしきりに慰めている。画面の右端にはベラスケス自身も見える。そして中央の鏡には今し方部屋に入ってきたフェリペ2世の姿が映っている。・・・という生き生きした宮廷の一シーンがスナップ・ショット的に切り取られ、見るものにあたかもスペインの宮廷にいるような錯覚を起こさせる。マドリードのプラド美術館にはこの作品のためだけに特別室が設けられている。<高階秀爾『名画を見る眼』1969 岩波新書 p.63> 
g 古典主義  
h コルネイユ 17世紀フランスの劇作家。ラシーヌと並ぶ古典悲劇の大家とされる。代表作は、イスラーム教徒と戦った中世スペインの騎士エル=シドを主人公とした『ル=シッド』。
i ラシーヌ  
j モリエール  
k アカデミー=フランセーズ 1635年、フランス・ブルボン朝のルイ13世の時、宰相リシュリューによって設立された、「国語」としてのフランス語の洗練と完成にあった。1694年、フランス語辞典の編纂を終え、国王に献呈された。
 ロココ美術  
a 繊細優美 参考:ロココの王妃 ステファン=ツヴァイクの『マリー・アントワネット』を「ロココの王妃」と言っている。
マリー・アントワネットはその時代精神を承認することによってまさに、18世紀の典型的な代表者になたのである。古代文化を盛りそだて、こよなく優美に開花したロココ、繊細、怠惰な手、遊びほうけ、甘やかされた精神の世紀であるロココは、衰退のまえにひとつの姿をとってわらわれようとしたのである。いかなる王、いかなる男性も、歴史絵巻のなかのこの女性の世紀を代表することはできなかったろう、一女性の、一王妃の姿にのみ、この世紀は具象的に反映し得たのであって、マリー・アントワネットがこのロココ王妃の典型であったのだ。のんきなことこのうえなく、浪費にかけては足もとに及ぶものとてなく、優雅、嬌艶な女王のうちでもぬきんでて優雅であり意識的に優雅であり、嬌艶であった彼女は18世紀の礼節と芸術的生活様式とを自分自身のいついに記録として明瞭にしかも忘れがたい形で表現したのである。・・・」ステファン=ツヴァイク『マリー・アントワネットT』1932 全集13 藤本敦雄/森川俊夫訳 みすず書房 p.158>
b サンスーシ宮殿 ベルリンの南西郊外のポツダムに、ピロイセンのフリードリヒ大王(2世)が造営した離宮の宮殿。1745〜47年に造営され、ロココ美術の代表的な建造物である。なお、サンスーシ Sanssouci とは、フランス語で、「憂いの無い」ことの意味であるので、無憂宮とも言われる。
c ワトー アントワーヌ=ワトー(1684〜1721)は、フランスのルイ14世の晩年の時代と、その死後のルイ13世が幼少でオルレアン公フィリップが摂政を努めていた時代に活躍した。わずか37歳で世を去ったが、繊細優美なロココ美術を代表する作品を残している。
作品『愛の島の巡礼』1717年。油絵。パリ・ルーブル美術館蔵。この作品は長いこと「シテール島への船出」という題名で知られ、東地中海のキュテラ島の、海の水の泡から生まれた愛と美の女神ヴィーナスが流れ着いた島という伝説の島に、若い男女が船出していく姿が描かれていると考えられていた。しかし、この作品はワトーが33歳の時、アカデミー入会作品と描かれたものでワトー自身は「シテール島の巡礼」としていた。とすればこの絵は愛の島江への船出ではなく、愛の島からの船出である。画面では大勢の男女がにぎやかに語り合っていながらどことなく哀しみにもにた寂しさが感じられるのはそのためであろうか・・・・。<高階秀爾『名画を見る眼』1969 岩波新書 p.111->
d バッハ  
e ヘンデル  
 市民文化  
a 茶(の流行)中国原産の茶がヨーロッパで流行するのは17世紀前半のオランダが始めで、ついでイギリスでは17世紀後半から大流行した。ステュアート朝復古王政の時代の1662年、チャールズ2世に嫁いできたポルトガル王ブラガンザ家の王女キャサリンが、茶を飲む習慣をイギリス宮廷にもたらしたという。またその持参品には当時貴重品とされていた砂糖が含まれており、キャサリンはお茶に砂糖を入れる飲み方を広めたのだった。この飲茶の習慣はたちまちのうちに一般家庭にも広がり、イギリスでの茶と砂糖の需要が急速に増加し、茶は東インド会社の中国からの重要な輸入品となった。イギリスは中国茶に代わる茶の産地をインドで探した結果、1823年にアッサム地方で自生の茶が発見され、それをインド各地に移植してインドにおける茶の生産が始まり、やがて中国(および日本)の茶を圧倒するようになる。こうしてインドから大量の茶がイギリスにもたらされると、それに入れる砂糖と、器としての投機の需要も大幅に伸びた。<角山栄『茶の世界史』1980 中公新書> → イギリスの三角貿易(19世紀)
b 砂糖  → 第10章 2節 砂糖
c コーヒー  → 第10章 2節 コーヒー
d レンブラント  
オランダは16世紀の末に、スペインからの長い独立戦争の結果、やっと独立した共和国となった。「このようにして生まれた新興オランダは、何よりも商人の国であった。土地が狭く、資源にも恵まれないオランダにとっては、貿易こそが何よりの繁栄の手段であった。・・・したがって、芸術の担い手も、君主や教会ではなく、もっぱら富裕な市民階級であった。レンブラントが最初画家として大きな成功を収めることができたのは、絢爛たる衣装や豪奢な金銀飾りなどの描写が、劇的な構図とともに市民たちの趣味に叶ったからにほかならない。しかしながら、まさに同じような理由によって、レンブラントがいっそう内面的なものの表現に向かって行った時、市民たちは彼の芸術に背を向けたのである。レンブラントは、そのような市民たちの趣味をよく知っていたに違いない。それでも彼は、自己の表現を変えようとはしなかった。・・・」<高階秀爾『名画を見る眼』岩波新書 p.84>
 『夜警』  
 フェルメール ヤン=フェルメール=ファン=デルフト(1632〜1675)。17世紀後半のネーデルラントの画家。職業的な画家ではあったが、寡作であった上にほとんど絵を売ることがなかったので死後は急速に忘れ去られ、死後2世紀ほどたった19世紀に再発見され、最近も人気が高い画家の一人となっている。彼の作品の魅力は、すべてが落ち着いた静寂さを持ち、微妙な光を繊細に描いた室内画であった。代表的な作品に『画家のアトリエ』1666などがある。<高階秀爾『名画を見る眼』岩波新書 p.108>
e ミルトン ミルトンは「革命詩人」と言われるように、ピューリタン革命のときに革命派として活躍し、チャールズ1世処刑についてもそれを当然のことと支持し、革命政府のためにパンフレットを書いたりした。
 『失楽園』  
f バンヤン 「ジョン・バンヤンという人はチットモ学問のない人でありました。・・・彼は申しました。「私はプラトンの本もまたアリストテレスの本も読んだことはない。ただ、イエス・キリストの恩恵にあずかった憐れな罪人であるから、ただわが思うそのままを書くのである」といって、"Pilgrim's Progress"(『天路歴程』)という有名なる本を書いた。・・・フランス人、テーヌは・・・(バンヤンの英文は)最も純粋な英語である・・・と申しました。」<内村鑑三『後世への最大遺物・デンマルク国の話』1946 岩波文庫 p.50-52>
John Bunyan(1628-88) 貧しい鋳掛屋の子として生まれ、父業をついだが、ピューリタン革命のさい、クロムウェルの率いる議会軍の兵士となる。除隊後、信仰にめざめ、聖書に親しみ、牧師となった。王政復古期に逮捕されて、1660年から12年間獄中にあり、その間、『溢るる恩寵』(1666)等を書き、75年に再投獄されたさい、主著『天路歴程』を構想した。<上掲書の鈴木俊郎氏の註を拝借>
 『天路歴程』  
g デフォー  
 『ロビンソン=クルーソー』 「ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソゥ』がロンドンで出版されたのは1719年4月25日である。小説としてではなく、匿名の著者の体験談として書かれた。当時は、ウィリアム・ダンビアの『新世界周航記』以来、航海記が流行しており、デフォーの本は爆発的に売れたわけではなく、当時はふつうの航海記として読まれ、ベストセラーになったのは19世紀に入ってからである。デフォーは、船乗りアレグザンダー・セルカークが‥‥太平洋上の孤島で置き去りとなり、1709年2月、海賊ウッズ・ロジャーズに救われてイギリスに帰ったことをモデルとしたと言われるが、デフォーが材料としたのはそれだけではない。また、ロビンソンの島が「絶海の孤島」であると強調されるのも誤りである。デフォーはロビンソンの島を、南アメリカ大陸北部のオリノコ河口の近くに設定している。彼が難破したした航海も、出発点はブラジルのバイーアで、目的地のアフリカにむけて北上する途中、嵐にあって西に流され、バルバドス島近くの通商路からはずれた無人島に到着する、という設定であった。この地方は当時、エスパニャの領土であった。そこに1620年頃からイギリスが進出し、イギリス人の海賊が活動していた海域であった。海賊の背後には、海賊船に出資する商人や政治家の、虎視眈々たる眼があった。18世紀はじめにおいて小アンティル諸島は、イギリス人がもっとも大きな関心を寄せる地域の一つだった。このことをふまえて、デフォーはロビンスン・クルーソゥの島を、オリノコ河口に位置させたのである。」<増田義郎『略奪の海カリブ』 岩波新書 p.8-9> 
h スウィフト  
 『ガリヴァー旅行記』  
i コーヒーハウス 16世紀ごろからヨーロッパにも知られるようになった、アラビア半島先端イエメン産のモカから積み出されるコーヒーはイギリスでも新奇な飲み物として広がった。ロンドンにコーヒーハウスが登場したのは1652年であった。レヴァント商人のダニエル・エドワーズがトルコから帰国する際に連れてきたシチリア出身の召使いパスカ・ロゼにコーヒーを出す店を開かせたのが最初という。その後ロンドンのコーヒーハウスは数を増やし、1683年には3000、1714年には約8000に達した。コーヒーハウスにはロンドンの市民たちが集まってきて、世界中の植民地から集まる情報の交換、そして情報の発信地となった。さらにコーヒーハウスを利用して手紙を交換する郵便の役割や、株式取引、保険などの役割も果たした。1688年頃始まるロイズ・コーヒー・ハウスが有名である。さらにピューリタン革命から王政復古期にかけて、政治議論が戦わされ、「世論」が形成される場となった。王政復古期には閉鎖令が出されたが、税を払うことで存続し、コーヒーへの課税は政府の収入にもなった。しかし、18世紀後半になると、コーヒーハウスに代わって各種のクラブが誕生し、また人々の嗜好も紅茶に移り、イギリスのコーヒーハウスは急速に衰退した。<臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』1992 中公新書>