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カ.イギリスの状況
A プランタジネット朝 1154年に始まるイギリスの王朝。ノルマン朝のヘンリ1世が1135年に死去すると、男子の後継者がいなかったので、王位継承をめぐり対立が起こり、18年にわたる内乱となった。最終的には、ヘンリの娘マティルダとフランスのアンジュー伯ジェフロワの間に生まれたアンリ(フランス名)が、ヘンリ2世(イギリス名)として1154年に即位し、プランタジネット朝を始めた。アンジュー家の家紋が「えにしだ」でそのラテン名が「プランタ=ゲニスタ」というので、後の人がこの王朝を「プランタジネット朝」と呼んだ。ヘンリ2世以来、イギリス本国に加え、フランス国内に広大な所領をもち、フランス国王と争いを続けた。ジョン王の時に、フランス内の領土の多くを失い、国内では議会制度による王権が制限され、王権は次第に衰退した。14〜15世紀にはフランスと百年戦争を戦い、さらに続けてランカスター家とヨーク家に別れて互いに争うバラ戦争の時代にいたり、1485年のヘンリ7世によるテューダー朝の創始によってプランタジネット朝は終わる。
アンジュー伯フランスのパリからみて南西部、ロワール川流域のアンジュー地方を領有する大領主(貴族)。とはフランク王国の地方行政官だった官職名(フランス語でコント)で地方豪族が任命され、その地位は代々世襲された。アンジュー伯であったアンリは母がイギリスのノルマン朝のヘンリ1世の娘であったので、イギリスの王位継承権を主張し、1154年にイギリス王ヘンリ2世となった。これがプランタジネット朝の始まりで、このイギリスの王朝はアンジュー伯としてはフランス国王の臣下であり、フランス国内に所領をもつかたちとなった。しかもヘンリ2世の妃エリアノールはギエンヌ地方(現アキテーヌ地方)を相続しており、ノルマン朝の領土としてノルマンディーも継承したので、フランス国内にアンジュー帝国とも言われる広大な領土をもつにいたった。しかし、1204年にヘンリ2世の子のジョン王はカペー朝フィリップ2世と争ってフランス国内の領土を失い、アンジュー家領はフランス王領となった。その後、ルイ9世の弟シャルルに与えられ、シャルルはアンジュー家を名乗り(シャルル=ダンジュー)、1266年シチリア王となってシチリア島のアンジュー家の支配が始まる。1282年にはシチリア島民の反フランス暴動のシチリアの晩祷の事件が起きる。
a ヘンリ2世 イギリスのプランタジネット朝初代の国王。在位1154〜89年。フランスのアンジュー伯で、母親がイギリスのノルマン朝ヘンリ1世の娘であったところから、ノルマン朝の断絶に伴い、1154年にイギリスの国王となった。ヘンリ2世は、母から引き継いだイングランドとフランスのノルマンディーに加え、父からフランスのアンジュー伯領を相続、さらにフランスのギエンヌ地方の豪族アキテーヌ伯の娘エリアノールと結婚し、アキテーヌ(ギエンヌ)地方を所有することとなった。つまりイギリス王ヘンリ2世はイングランドからフランスのピレネー山脈に至る、英仏海峡をまたぐ広大な領土を支配した(これをアンジュー帝国ともいう)。また、ノルマン朝のイギリス王と同じく、イギリス王としてはフランス王と同等であるが、同時にフランス国内の領主としてはフランス王の家臣であるという二重の関係を持った。実際、ヘンリ2世はフランスのアンジュー伯領で暮らすことの方が多かった。なお、ヘンリ2世と争ったカンタベリーー大司教トマス=ベケットがカンタベリー大聖堂で殺害された事件は有名。大司教任命権を国王として行使しようとしたヘンリ2世に、トマス=ベケットが抵抗したので、暗殺されたと言われている。
Epi. 過激な王妃、エリアノールの物語 フランス王ルイ7世は親のルイ6世が決めたエリアノール(エレオノーラ、アリエノールともいう)と結婚した。彼女はアキテーヌ公の娘で、フランス南西部の広大な領地を持参金として差し出した。当時ルイ7世は国王と言っても財力が無く、敬虔で素朴ではあったが貧しかった。しかし王妃のエリアノールは、故郷のアキテーヌのトゥルバドゥール(南仏の吟遊詩人)たちをなつかしがって、この夫を軽蔑し「あたしは王様じゃなくてお坊さんと結婚したのだわ」といっていた。ルイ7世は第2回十字軍に参加したとき、彼女を連れていくという過ちを犯した。彼女は聖地で極めて不浄なふるまいをし、サラセン人の美貌の奴隷にうつつをぬかし、送り返されてしまった。国王は離婚を決意しなければならなかった。「過激な気質の女だったエリアノールはアンジュー伯アンリに恋いこがれていた。この男は牛のような頸をし、短く刈った栗色の髪をした頑丈な若者で火山のような力と人を惹きつける物腰があった。彼女は彼と結婚して、アキテーヌ公領全部を彼のもとに持参した。封建的で個人的な繋累の馬鹿げた結果はこんなものだった。女の気まぐれで帝国が分断される始末だった。」<アンドレ・モロワ『フランス史』上 新潮文庫 p.74>
B 王政の動揺  
a  ジョン王 イギリス・プランタジネット朝のヘンリ2世の末子。リチャード1世の弟。在位1199〜1216年。リチャードがフランス王フィリップ2世との戦いで戦死し、王位を継承する。イギリス国王であったが、フランスに所領も継承し、フランス王の臣下でもあった。フランス国王フィリップ2世は、ジョン王のフランス内の所領を奪おうと、彼を結婚問題にかこつけて裁判にかけ、出廷を拒むジョン王から臣下の義務違反の理由で所領を取り上げようとした。ジョン王はそれと争ったが、結局フランス内のノルマンディーなどの領地を没収された。また1205年には、カンタベリー大司教の選任問題で教皇インノケンティウス3世と争い、破門にされたため、屈服して教皇の封建臣下としてイギリス王に封じられるという屈辱をうけた。1214年、フランス内の領地の回復をねらってフランスに出兵したが、ブーヴィーヌの戦いでフィリップ2世のフランス軍に敗れ、ギエンヌ地方を除き、フランス内の領地を失った。
このような失政の続いたジョン王に対し、貴族たちは彼らの権利の擁護を要求し、認めさせた。それが1215年の大憲章(マグナ=カルタ)である。ジョン王はいったん承認したが、その後その無効を主張、貴族と対立するうちに病死した。
Epi. 失地王ジョン ジョン王を失地王(Lackland)と呼ぶが、それはフランスとの争いで領地を失ったからではなく、まだ若かった時、父のヘンリ2世が「兄たちに土地を分けてしまったので、おまえにはもう無い。」と言われたことから、あだなが「無地王」といわれたことによる。彼は、イギリス史上最も人気のない国王で、その名を名乗る国王は二度と現れなかった(ヘンリやリチャードは何人もいるのに)。
b カンタベリー大司教 カンタベリーはイギリスのケント州にある宗教都市で、カトリックが初めてイングランドに伝えれたところとされ、大司教座が置かれた。カンタベリー大聖堂はイギリス各地からの巡礼が集まり、カンタベリー大司教はイギリスのカトリックの指導者として重きをなした。その地位はイギリス国王が任命することが続いたが、ヨーロッパで強大な教皇権を獲得した教皇インノケンティウス3世は、その叙任権を行使して、スティーヴン=ラングトンを大司教に任命した。ジョン王はその任命に反撥し、教会の所領を没収する措置に出たので、争いとなり、1208年教皇はジョン王を破門した。ジョン王は1213年に教皇に屈服し、イングランド全土を教皇に献上、改めて封土としてこれをうけざるを得なかった。
Epi. カンタベリー大司教殺人事件 1170年、カンタベリー大司教のトマス=ベケットがカンタベリ寺院の内部で殺害されるという事件が起こった。犯人は、イギリス国王ヘンリ2世(ジョン王の父)の腹心の家臣であった。もともと二人は親しい間柄であり、ヘンリ2世がベケットを大司教に任命したのだが、国王が聖職者の裁判を国家に移管しようとしたことに対して、ローマ教皇に従属すべきであると主張したベケットと対立するようになった。ヘンリ2世は大司教殺害を直接指示したのではなかった、と言われているが、ローマ教皇との関係は悪化し、次のジョン王と教皇インノケンティウス3世の対立の遠因となった。
c インノケンティウス3世  → 第6章 1節 インノケンティウス3世
d 大憲章(マグナ=カルタ)1215年、イギリス国王ジョンに対し、封建諸侯と市民が共同して認めさせたもので、王権を制限し、諸侯の既得権と、市民の自由を規定したイギリス憲法を構成する重要な憲章。当時、ジョン王はフランス王フィリップ2世と争い、フランスに出兵するため、諸侯や都市に莫大な軍役を賦課していた。諸侯と市民は出生を拒否、戦いを強行したジョンが敗北してイギリスに戻ると諸侯はジョン王への忠誠破棄を宣言、挙兵した。ロンドン市民もそれに呼応し、首都は反乱軍が制圧することとなった。ジョン王は妥協をはかり、1215年6月15日、テームズ河畔のラニミードで彼等の要求に従い、大憲章(マグナ=カルタ)に署名した。全文63ヶ条からなる長文な条文なので大憲章(マグナは「大」、カルタは「憲章」を意味するラテン語で英語で言えば、the Grate charter)と言われた。その主な内容は、国王の徴税権の制限、教会の自由、都市の自由、不当な逮捕の禁止などである。 → 資料 マグナ=カルタの内容
大憲章(マグナ=カルタ)の意義 封建社会で慣習的に認められていた諸侯(封建領主)の権利を国王が認めたもので、そのほかに、教会の自由、市民の自由、不当な逮捕の禁止など人権に関する規定を含んでいた。また、第12条で、国王が軍役金を賦課する場合は、諸侯の会議に承認を得る必要があるという事項は、後に、国王といえでも議会の議を経ずに課税は出来ない、と解釈されるようになり、法の支配と議会政治の原則を定めたものとされるようになり、後のイギリス革命の時の「権利の請願」「権利の章典」と並んで、イギリス憲法を構成する重要文書となった。
大憲章(マグナ=カルタ)の評価 マグナ=カルタは17世紀のイギリス革命に際して、絶対王政の専制に対する個人の人権を守る「武器」として用いられた。そのような見方は19世紀の自由主義的歴史学に受け継がれ、イギリス国政の礎石であるという評価が定着した。しかし20世紀の歴史学ではそのような評価は非歴史的・神話的であるとして斥けられ、これを諸侯の私的怨恨や私的利益の追求から生まれたもので、集権化に対する諸侯の封建的反動の文書であるという説が有力となった。たしかに大憲章を実現した主体は封建貴族の上層部であったが、それが王権の制限、自由人の権利の保障まで踏み込んでおり、農奴は含まれないから全イングランドとはいえないが、かなりのひろがりをもった社会的基盤の上に立っていたことは認めてよい。ただし、1215年の大憲章は簡単に法であると言うことはできない。中には慣行としてすでに確立していた部分や、法として確立しなかった部分もある。当時の諸侯が法として確立させたいと望んでいたところを述べたものが1215年の大憲章である。<城戸毅『マグナ・カルタの世紀』1980 東大出版会 p.77-78>
e マグナ=カルタの内容以下は、1215年のイギリス国王ジョンが定めた大憲章(マグナ=カルタ)の前文および主要な条項の抜粋である。〔 〕は趣旨の要約。<出典は、第12条・39条は『世界史史料5』(岩波書店)城戸毅訳、その他は『人権宣言集』(岩波文庫)田中英夫訳)>
  • 前文 神の恩寵により、イングランドの国王、アイルランドの王、ノルマンディおよびアキテーヌの公、アンジューの伯であるジョンは、諸々の大司教、司教、僧院長、伯、バロン、判官・・・およびすべての代官ならびに忠誠な人民にあいさつを送る。神の御旨を拝察し、朕および朕のすべての先祖ならびに子孫の霊魂の救済のため、神の栄光と神聖なる教会の頌栄のため、かつまた朕の国の改革のために、尊敬すべき諸師父すなわち・・・(人名略)・・・およびその他の朕の中正なる人民の忠言を入れて
  • 第1条 まず第一に、イングランドの教会が自由であり、その諸権利はこれを完全に保持し、その自由は侵されることがない旨を、朕は、朕および朕の相続人のために、永久に神に許容し、かつこの朕の特許状をもって確認する。・・・〔教会の自由〕
  • 第12条 いかなる軍役代納金(注1)も援助金(注2)も、わが王国の共同の助言(注3)によるのでなければ、わが王国では課せられてはならない。ただし、わが身代金払うため、わが長男を騎士とするため、およびわが長女をいつか嫁がせるための援助金は、この限りではない。・・・〔国王の課税権の制限、課税同意の原則〕
  • 第13条 ロンドン市は、そのすべての古来の自由と、陸路によると海路によるとを問わず自由な関税とを保有する。このほかなお、他のすべての都市、市邑、町、および港が、そのすべての自由と自由な関税とを保有すべきことを、朕は欲し許容する。〔都市の自由〕
  • 第14条 (軍役免除金、援助金の賦課に関して)王国の一般評議会を開催するためには、朕は、大僧正、僧正、僧院長、伯、および権勢のあるバロン達には、朕の書状に捺印して召集されるように手配する。・・・召集は一定の日に、すなわち少なくとも40日の期間をおき、一定の場所において行われるものとする。・・・〔課税同意の手続き〕
  • 第30条 州長、朕の代官、その他の者は、運搬を行う目的で、自由人の馬または荷馬車を当該自由人の意志に反して徴発してはならない。〔自由人の権利〕
  • 第31条 朕も朕の代官も、城その他の朕の用のため、他人の材木をその材木の属する者の意志に反して徴発してはならない。〔自由人の権利〕
  • 第35条 朕の全王国を通じて、単一のぶどう酒の枡目、ならびに染色布、小豆色粗布おおびくさりかたびらの単一の幅が用いられるべきものとする。目方についても同様とする。〔度量衡の統一〕
  • 第39条 いかなる自由人も彼の同輩の法に適った判決か国法によるのでなければ、逮捕あるいは投獄され、または所持物を奪われ、または追放され、または何らかの方法で侵害されてはならない。・・・〔自由人の権利、適法手続きの原則〕
  • 第40条 朕は何びとに対しても正義と司法を売らず、何びとに対しても正義と司法を拒否または遅延せしめない。〔裁判の尊重〕
  • 第41条 すべての商人は・・・旧来の正当な関税によって、売買のために、安全にイングランドを出、イングランドに帰り、かつイングランド内に滞留し、陸路によると水路によるとを問わず国内を移動することが出来る。・・・朕の国の者が他国において安全ならば、朕の王国においても他の国の者を安全とする。〔商業活動の自由〕
  • 第63条 このように、朕は、イングランドの教会が自由であること、ならびに朕の王国内の民が前記の自由、権利および許容のすべてを、正しくかつ平和に、自由かつ平等に、かつ完全に、かれら自身のためおよびその相続人のために、朕と朕の相続人から、いかなる点についてもまたいかなる所においても、永久に保有保持することを、欲し、かつ確かに申付ける。・・・朕の治世第17年6月15日、朕の手より与えらる。〔マグナ=カルタの普遍化〕
注1 軍役代納金:中世封建制では家臣は年間40日の費用自弁の軍役の義務があったが、12世紀にはそれが貨幣で代納されるようになった。それが軍役代納金(楯金または軍役免除金ともいう)で、王や諸侯はその代納金で傭兵を雇うようになっていた。
注2 家臣の王、主君に対する義務の一つとしての献金。
注3 第14条に述べられている「王国の一般評議会」(全体の協議会)のこと。
f イギリス立憲政治の基礎  
C イギリス議会の始まり  
a ヘンリ3世 プランタジネット朝イギリス国王でジョン王の子(在位1216〜72年)。父のジョン王が失った領土の奪還もめざし、フランスに侵攻したが失敗、さらにローマ教皇の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の争いに加担した。これらの対外政策を遂行するため、マグナ=カルタの規定を無視して諸侯に重税を課した。そのためシモン=ド=モンフォールに率いられた貴族軍の反乱が起こり、1258年「オックスフォード条項」(貴族の代表による国王の政治に対する監視機関の設置)を承認した。しかしヘンリ3世はまもなくそれを破棄し、戦争を目指したため、再びモンフォールらが立ち上がり、64年王は捕虜となり、貴族・僧侶・都市代表からなる議会の開設を認めた。
b  シモン=ド=モンフォール 父はフランスのアルビジョア十字軍で活躍した同名のシモン=ド=モンフォール。その子のシモン=ド=モンフォールは、イギリス帰属として、マグナ=カルタを無視した国王ヘンリ3世の大陸政策と重税政策に反発して、「貴族の反乱」を組織、たびたび国王軍と戦い、1258年には「オックスフォード条項」(貴族の代表による国王の政治に対する監視機関の設置)を認めさせ、さらに1264年には国王を捕虜として議会の開設を認めさせた。それに基づき、1265年に聖職者・貴族・市民の代表をロンドンに召集し、議会(パーラメント)が開催された。シモン=ド=モンフォールは、皇太子エドワードの率いる軍と戦い、同年に戦死、議会も制度化されずに終わったが、この議会がイギリス議会の下院の始まりとされている。
c 身分制議会 13世紀末〜14世紀初め、1295年の模範議会からはじまるイギリスの議会、1302年のフランスの三部会に代表される、中世末期の国王が召集する議会。やや遅れるがドイツの帝国議会やスペインのコルテスなども身分制議会ということができる。国王が貴族・聖職者・庶民という封建社会の各身分の代表を召集し、主として国王の課税策を承認する役割をもっていた。近代以降の議会制度とは異なり、議員は選挙によって選ばれるのではなく、各身分の有力者が国王に任命された。つまり身分制議会は、国王の権力に法的な裏付けを与えるものとして機能し、その諮問機関としての性格が強く、国民主権のもとで選挙によって選出された国民の代表が立法にあたる、という近代の議会制度とは異なる。
d 模範議会 イギリス国王エドワード1世は、スコットランド征服の戦費調達のため、1295年、大貴族・高位聖職者・各州2名の騎士と各都市2名の代表を召集し、議会を開催した。これを「模範議会」(Model Parliament)という。シモン=ド=モンフォールの議会は国王に対立したが、エドワード1世は議会を利用して課税を認めさせ、戦費調達に成功した。以後、エドワード1世はスコットランド及びフランスとの戦争の戦費を得るため、たびたび議会を開催し、次第に議会制度が定着していく。このイギリスの模範議会はフランスの三部会と共に「身分制議会」の代表的な例である。
エドワード1世 イギリス・プランタジネット朝の国王エドワード1世(在位1272〜1307年)は、プランタジネット家のフランス貴族的要素を払拭してイギリス人として統治にあたり、貴族とも協調して法的な整備を行い、ブリテン島の統一を目指してウェールズを制圧してケルト人をイギリスに組み込み、さらに北のスコットランド征服を試みた。このスコットランド遠征の戦費としての増税を国家的に認めてもらうために、1295年の模範議会を召集した。スコットランド征服は激しい抵抗を受け失敗したが、国内政治上ではジョン王、ヘンリ3世の失政を挽回し、王権を安定させることに成功した。
Epi. プリンス・オブ・ウェールズの起源 現在でも、イギリス王室の皇太子のことをプリンス・オブ・ウェールズという。これは、エドワード1世が、ウェールズを併合した時、長男のエドワード(2世)にその称号を与え、ウェールズに対するイングランド王の権威を示したことに始まる。
D 議会制度の定着 イギリスの1330年代に、身分制議会として始まった議会が、国王の課税を承認するだけでなく、立法機関としての役割も担うようになった。州の代表(富裕なジェントリーが議員となった)と都市の市民の代表から構成される下院が、課税協賛の代償として一般国民の利益となる法律を請願し、それを大貴族と聖職者から構成される上院が承認し、国王が決定するという手続きが確定し、二院制議会が成立した。
a 上院 大貴族と高位聖職者からなる議院で、貴族院(House of Lords)ともいう。下院から請願された立法案を審議し、国王と共に決定する権限をもつ。
b 下院 各州の代表(騎士や富裕なジェントリーがなった)と都市の市民の代表からなる議院で、庶民院(House of Commons)ともいう。国王の課税を承認する代償として、法律を上院に請願する権限をもつ。
c イギリス議会の権限  法律の制定・新税の課税についての下院の承認
d ジェントリ (郷紳)イギリス中世末期、中小領主層であったものが地方に土着して「地主(gentry)」となったものをいう。gentry とは「郷紳」とも訳され、「貴族(nobility)」の下の階級で地方の名士である「地主」を意味する。農村の生産者層であるヨーマン(yeoman)の上の身分に位置する。13世紀に成長し、身分制議会に州代表として参加し、議会制が確立すると、下院の多数を占め、エリザベス女王の絶対王政期には大きな勢力となり、次のイギリス革命(ピューリタン革命および名誉革命)から産業革命に至るまでのイギリスの政治の中心勢力となっていく。特に彼らは無給の名誉職として地方の行政や裁判にあたる治安判事に任命され、王政を支えた。なお、ジェントリから生まれた言葉がジェントルマンであり、地方の名望家(名士)としての地位は現在も一部で継承されている。
キ.フランスの状況
A フィリップ2世 フランスのカペー朝の王。尊厳王(オーギュスト)と言われる。在位1180〜1223年。それまで弱体だったカペー朝の王権を強大にする基礎を築いた。イギリス王リチャード1世とともに第三回十字軍に参加したが、いち早く帰国し、一転してイギリス領ノルマンディーに侵入してリチャードの英軍と戦った。リチャードの死後もフランス国内のイギリス領(プランタジネット家領)の奪取をめざし、リチャードの弟ジョン王が立つとそれを挑発して反抗させ、封建義務の不履行を口実にギエンヌ地方を除くノルマンディーなどのジョンの知行地を奪った。怒ったジョン王が甥のドイツ王やフランドル伯とともにフランスに攻め入ると、1214年ブーヴィーヌの戦いで破り、フランスの国家統一を勝ちとった。この勝利は、フランスが一つの国家になったことを意味するとしてフランスでは記憶されている。このようにフィリップ2世はカペー朝フランスの王権の基盤を作ったが、再婚問題からローマ教皇インノケンティウス3世に破門の脅しをかけられ、再婚をあきらめた(1213年)ことがあり、全盛期のローマ教皇には逆らえなかった。
 ブーヴィーヌの戦い 1214年、フランス王国(カペー朝)のフィリップ2世が、神聖ローマ皇帝オットー4世、イギリス王ジョン、フランドル伯などの連合軍を破った戦い。ブーヴィーヌはリール近くの平野。これはカペー朝の強大化を警戒する神聖ローマ皇帝と、フランス内の領土の奪回を目ざすイギリス王ジョンなどが連合してフランス王フィリップ2世に挑んだ戦いであったが、フィリップ2世の勝利となった。これによって神聖ローマ帝国とイギリスに比べて弱体であったフランスがヨーロッパの強国として登場することとなった。一方の神聖ローマ帝国はその後、大空位時代となって皇帝権は低下し、イギリスもジョン王に対する貴族の反抗が始まり、翌年の1215年のマグナ=カルタ制定となる。ブーヴィーヌの戦いはフランスの国家統一の始まりとしてフランス史では自覚されている。
フランス国民意識の成立 「フランス国王の敵どもは結合した。英国王(失地王ジョン)、ドイツ皇帝(オットー四世)、フランドル伯フェランおよびその他の大諸侯がフランドルに集中した。この同盟に反対して、フィリップ・オギュストは教会と人民を味方につけた。一二一四年、ブヴィーヌ(北仏の小邑)で、当時としては大変新奇なものだったが、二万人の町民歩兵の力を借りて、彼は封建的反動と外国の侵略者にうち勝った。この勝利がカペェ王家の事業を固めることになった。それは自己の統一を意識した一国の解放に伴う異常な歓喜を持って全フランス人に迎えられた。いたるところに人民は踊り、僧侶は歌い、教会は綴織(壁布)を張りつめられ、道路は草花や枝葉に覆われた。パリでは、学生が七日七夜歌い、踊りつづけた。王は自分に対する陰謀を計ったものたちにすら恩赦を施した。かくて国民共同体が生まれたのである。」<アンドレ・モロワ『フランス史』新潮文庫 上 p.76>
b ジョン王  →カ.イギリスの状況 ジョン王
B ルイ9世 フランス・カペー朝の王で在位1226〜1270年。敬虔なキリスト教信者であったので聖王または敬虔王と言われる。祖父のフィリップ2世の時に始まった南フランスの異端アルビジョワ派に対するアルビジョワ十字軍を終わらせ、王権を南フランスまで及ぼした。国内政治では官吏の腐敗の防止に努め、裁判制度を整備してパルルマン(高等法院)の基をつくった。またキリスト教徒としての義務感から第6回と第7回の2度に渡って十字軍を起こしたが、第6回十字軍ではエジプトで捕虜となり、第7回十字軍にはチュニスでチブス(か赤痢)に罹って死んでしまった。弟アンジュー伯シャルルはシチリア王。また1253年には修道士ルブルックをモンゴル帝国に派遣し、東方のキリスト教勢力との提携の可能性を探ったことでも知られる。その信仰心と十字軍活動に対し、ローマ教会はルイ9世に「聖人」の称号を贈った。皇帝や国王で聖人としてまつられることになったのはこのルイ9世だけである。
a アルビジョワ派(カタリ派) 中世の異端には二つの流れがある。一つは12世紀の末にリヨンに現れたワルド派、一つがカタリ派(カタリとは清純者の意味)である。いずれもペルシア起源のマニ教の影響を受け、二元論的な世界観を持ち、教会の権力や富を否定し清貧を主張する共通性があった。ワルド派はリヨンからロンバルディア、ドイツ、スペイン、ボヘミアに広がったが、カタリ派は南フランスアルビを中心としたトゥールーズ伯領にかたまっていおり、アルビジョワ派とも言われるようになる。このアルビジョワ派はより過激に教会制度を否定したので、13世紀のローマ教皇インノケンティウス3世はフランス国王フィリップ2世に十字軍派遣を要請、1209年から20年にわたる「アルビジョワ十字軍」が行われ、ルイ9世の時、1229年に殲滅されて消滅した。
アルビジョワ十字軍1209年から始まり、フランス国王フィリップ2世の時に始まった、南フランスのキリスト教異端派のひとつアルビジョワ派(カタリ派ともいう)を殲滅するための十字軍。ローマ教皇インノケンティウス3世の要請で始まり、北フランスの諸侯の多くが参加し、指揮官がシモン=ド=モンフォール(イギリスで国王に反旗を翻し議会の開設に貢献した同名の人物の父親)のもとで激しい攻撃が行われた。アルビジョワ派は20年にわたって抵抗を続けたが、ルイ9世の時の1229年にアルビジョワ十字軍の勝利に終わった。これによってフランス国内の異端は殲滅され、また南フランスの独自の文化も失われた。そして南フランスまでフランス王権が拡大され、フランスの統一が進んだ。 
C フィリップ4世 フランス・カペー朝の国王(在位1285〜1314年)。美王(ル=ベル)。フランス絶対王政の基礎をつくった国王として重要。婚姻・相続によってシャンパーニュ、ナヴァール、フランシュ=コンテなど領土を拡大。さらにフランドル、ギエンヌの獲得を目指し、軍備の増強を進めた。戦費調達のため教会・修道院に課税しようとしてローマ教皇ボニファティウス8世と対立、1302年にフランス最初の三部会を開催してその支持を取りつけた。1303年、アナーニ事件でボニファティウス8世が憤死すると、ローマ教皇庁への圧力を強め、1309年からはローマ教皇をフランスのアヴィニヨンに移した。これを「教皇のバビロン捕囚」(または「教皇のアヴィニヨン捕囚」)という。また、国内で独立した勢力となっていた宗教騎士団の一つ、テンプル騎士団を弾圧、1312年に解散させ、その所領・財産を没収し、総長ド=モレーらを処刑した。
a ボニファティウス8世  → オ.教皇権の衰退 ボニファティウス8世
b  三部会 1302年、フランス・カペー朝のフィリップ4世はローマ教皇ボニファティウス8世と対立した際、聖職者・貴族・都市の商人代表を召集し、新税の課税を承認させたのが三部会の始まりである。イギリスの模範議会と並んで、身分制議会の典型的な例である。はじめは国王の新税課税を承認するための諮問機関として、国王の意志のもとで召集されるに過ぎなかったが、百年戦争期にはその権威も高まった。しかし、百年戦争後、ヴァロワ朝のもとで王権は強大となり、次のブルボン朝では、三部会はルイ13世の1614年を最後に開催されなくなる。再び三部会が召集されるのはフランス革命の勃発した1789年のことである。
c 聖職者、貴族、都市の商人  
d 身分制議会  →カ.身分制議会
▲e テンプル騎士団  →ア.十字軍とその影響 テンプル騎士団
ク.百年戦争とバラ戦争
A 英仏の対立 ノルマン朝からプランタジネット朝まで、イギリス国王はフランス国内に領地をもち、その面ではフランス国王に臣従しなければならない立場であったことが重要。フランス内のイギリス領はノルマンディーギエンヌ(ギュイエンヌ、アキテーヌとも)などがあったが、13世紀初めのジョン王の時、ノルマンディーなどをフランスに奪われていた。イギリス側からはそれを奪回しさらに拡大すること、フランス側からは、国内のギエンヌ地方など残るイギリス領をなくし、国土を統一することがそれぞれ課題となっていた。またフランドル(フランドル伯が治める地域)をめぐる争い、イギリスが征服しようとしていたスコットランドの反対勢力がフランスの支援を求めていた問題などが両国の間の対立要因として存在していた。フランスのカペー朝の王朝が途絶え、王位継承問題が起こったが、それは百年戦争勃発の契機となったものである。
a フランドル地方 現在のベルギーとフランス北部にまたがる地方。フランス語表記ではフランドル、ベルギー語表記ではフランデレン。英語ではフランダースという。ローマ時代には属州ベルギカとなり、5世紀以降はフランク族が支配、フランク王国のなかのフランドル伯領となった。古くから羊毛の産地で毛織物が生産されていたが、11世紀以降はイングランド産の羊毛を原料とした毛織物産業が大いに栄えた。その中心地がブリュージュ(現在のブルッヘ)で、ハンザ同盟の商館も置かれた。またガン(現在のヘント)も商業都市として栄えた。後の大航海時代の商業革命によってよー路派経済の中心が大西洋岸に移るとアントワープ(アントウェルペン、アンベルス)は貿易港として栄えた。1328年には、フランス王の重税に反撥した都市の商工業者の反乱が起き、フィリップ6世による厳しい弾圧が行われた。そのため、毛織物業者がイギリスに移り、イギリス毛織物業が盛んになる原因となった。また百年戦争直前にはガンの大商人ジャック=ファン=アルテフェルデが中心となってイギリスと同盟する動きがあり、フランスは強く警戒した。また1384年に婚姻の結果ブルゴーニュ公の領地となり、ブルゴーニュ公はイギリスと結んだ。このようにフランドル地方はイギリス・フランス間の抗争地となり、百年戦争の一因となった。15世紀からは北部のネーデルラントとともにハプスブルク家領となった。そのためカトリック信仰心が強く、1648年、北部のネーデルラントが独立(オランダ)してもスペイン領に留まった(その後オーストリア領となる)。ナポレオン時代にはフランスに編入されたが、ウィーン会議でオランダに併合される。1830年、ベルギーがオランダから独立する際、フランドルは北部をベルギー、南部をフランスに分割された。 → ベルギー独立  現在のベルギー王国 
フランドル地方は絵画が盛んで、ルネサンス時代にフランドル派といわれるファン=アイク、ブリューゲルなどの画家が輩出した。その伝統は、17世紀のルーベンス、ファン=ダイクなどバロック美術にも継承される。
b ギエンヌ地方 ギュエンヌとも書く。現在はアキテーヌという。フランス南西部の地方で大西洋に面し、ロワール川からピレネー山脈にかけての一帯。中心地はボルドーで、古来ブドウ酒の産地として知られ、ボルドーからイギリスに大量に輸送されていた。この地は、イギリス・プランタジネット朝の始祖ヘンリ2世がギエンヌ公の娘エレオノーラ(アリエノール)と結婚して以来、イギリス国王の領地となった。そのため、イギリス王はギエンヌの領主としてはフランス国王の臣下であるというい状態であった。フランス国王はこの地の奪回をめざし、フィリップ2世以後紛争が続いていた。
c 王位継承 中世ヨーロッパでは、イギリス・フランス・ドイツ各国の王家や有力諸侯の間で広範囲な婚姻関係が結ばれていた。そのため、例えばフランスの王位が断絶すると、イギリスの国王が王位継承を主張することがあり得た。百年戦争のきっかけとなった王位継承問題の場合は、フランスのカペー家の王位が断絶した際、ヴァロワ家のフィリップが立ったのに対し、カペー家出身の母をもつイギリス王エドワード3世が王位継承を主張した。17〜18世紀の絶対王政時代のヨーロッパ各国でも王位継承をめぐって国際紛争が起こる。その代表例がスペイン継承戦争(1701〜13年)やオーストリア継承戦争(1740〜48年)などである。
d ヴァロワ朝 1328年〜1589年の約260年間、フランスのカペー朝に続く、中世から近世にかけての王朝。百年戦争を経て、次第に王権を強化し、16世紀のフランソワ1世の時代には神聖ローマ帝国とヨーロッパの覇権を争う。その後宗教戦争であるユグノー戦争が激化し、その中でブルボン朝に代わる。
ヴァロワ朝の成立と百年戦争カペー朝のシャルル4世が死去したが、息子がなく、兄弟も死んでいたので王位継承の問題が起こった。イギリス王エドワード3世(母がフィリップ4世の娘)と、シャルル4世のいとこにあたるフィリップ=デヴルー、フィリップ=ド=ヴァロワの三人が候補者となり王位を要求した。諮問を受けた三部会は『フランス王国に生まれた』という理由でフィリップ=ド=ヴァロワを選び、フィリップ6世として即位した。これがヴァロワ朝の始まりである。これに対してエドワード3世はなおも王位継承権を主張して百年戦争が勃発する。
Epi. 拾われっ子の国王 ヴァロワ朝初代のフィリップ6世は、カペー朝の断絶の結果、三部会の推薦で国王となったので、「拾われっ子の国王」といわれた。ヴァロワ朝の王権はこのように弱かったので、百年戦争を通じて王権の強化に苦心する。 
主なヴァロワ朝の国王
百年戦争中は、フィリップ6世−ジャン2世−シャルル5世−シャルル6世と続き、シャルル7世の時、百年戦争が終結。王権強化が始まる。
シャルル8世(1483-1498):ナポリ王位継承権を主張してイタリアに侵攻し、広義のイタリア戦争を始めた。事故死したためオルレアン公ルイが王位継承。このルイ12世もイタリア遠征を続け、学芸・商工業を保護して王権の強化に努めた。その娘婿がフランソワ1世。
フランソワ1世(1515-1547):ヴァロワ朝で最も重要な国王。イタリア戦争を継続して神聖ローマ皇帝カール5世と死闘をくり返す。その間、王権強化に努め、またレオナルド=ダ=ヴィンチを招いたり、古典学者を保護したりしてフランス・ルネサンスを開花させた。
次の、アンリ2世(1547-1559)の王妃はイタリア・フィレンツェのメディチ家出身のカトリーヌ=ド=メディシス。アンリ2世の事故死後、フランソワ2世(1559-60)、シャルル9世(1560-74)、アンリ3世(1574-1589)と続く三代は母后カトリーヌ=ド=メディシスが実権を握った。その間、1562年にユグノー戦争の混乱が始まり、1589年ヴァロワ朝最後の王アンリ3世が暗殺され、ブルボン家のアンリ4世が即位してブルボン朝に代わる。
e エドワード3世 プランタジネット朝イギリスの国王(在位1327〜77年)。父はエドワード2世で母がフランスのフィリップ4世の娘(イザベル・ド・フランス)であったので、カペー朝断絶に際して、フランス王位の継承権を主張した。1328年にヴァロワ朝初代の新フランス国王フィリップ6世が即位すると、いったんそれを認めたものの、1337年10月7日それをとり消し、その約二ヶ月後にフランス国王に挑戦状を発した。1339年、フランスに侵入し、フィリップ6世軍と戦闘を開始、百年戦争が勃発する。 
B 百年戦争 1337年、イギリス国王エドワード3世が、フランス王位の継承権を主張してヴァロワ朝フィリップ6世に挑戦状を発し、両国の戦争となる。戦争は断続的に約100年間続き、1453年に終結した。
百年戦争の原因:両国間の対立の原因は、フランドル地方(イギリス産の羊毛を原料とした毛織物の産地)をめぐる両国の争い、さらに当時イギリス領であったギエンヌ地方(イギリス本国向けのぶどう酒の産地)を奪回しようとするフランスと、領土維持と拡大を目指すイギリスの対立、また、スコットランドの反イングランド勢力がフランスと結んでいたことなどがあげられる。つまり、イギリス国王は英仏合体王国を作らんとし、フランス王は国内のイギリス勢力を駆逐し、統一支配を確立することをめざした戦いであった。
百年戦争の経過:実際に戦闘が始まるのは1339年9月末、エドワード3世は北フランスに侵入してからで、以後百年にわたり、途中中断しながら、フランスを戦場として戦争が展開される。戦争の初期には、イギリスがそのヨーマンを中核とした長弓隊が活躍し、陸上でフランス軍を圧倒、制海権も獲得して有利に戦いを進めた。1346年のクレシーの戦いではイギリスの歩兵部隊がフランスの騎士軍を破り、戦術の転換が明白となった。しかし1347年に始まる黒死病(ペスト)の大流行は、英仏両国に大きな打撃を与え、また1358年にはフランスでジャックリーの乱、1381年にはイギリスでワット=タイラーの乱という農民の反封建闘争が激化し、両国とも社会不安を増し、戦争は長期化した。  → 百年戦争の長期化
フランスの内乱:戦争の中期には一時フランスが盛り返したが、1400年代に入り、フランス側は内部分裂もあって再びイギリス軍の攻勢が強まった。「ヴァロワ朝のシャルル6世が脳神経疾患が昂じ、その弟オルレアン公ルイと従兄弟のブルゴーニュ公ジャンが権力を競い合った。1407年、ブルゴーニュ公がルイを暗殺したため、「ブルゴーニュ派」(東部・北部が基盤)と「オルレアン・アルマニャック派」(西部・南部が基盤)の内乱となった。フランスの内乱に乗じてイギリスのランカスター家のヘンリ5世がノルマンディに侵入、アザンクールの戦いで大勝した。ブルゴーニュ派はイギリスと結び、シャルル6世を担いでその娘とヘンリ5世と結婚させ、その間に生まれたヘンリ6世が1422年に英仏両国の王として即位する。オルレアン・アルマニャック派はシャルル6世の弟をシャルル7世として即位させフランス王位は分裂する。」<柴田三千雄『フランス史10講』2006 p.51-53 岩波新書 によるまとめ>
ジャンヌ=ダルクの登場:1428年、イギリス軍がオルレアン・アルマニャック派とシャルル7世の拠点オルレアンに対する総攻撃を開始、シャルル7世は包囲されるという危機に陥った。フランスの危機を救ったのはジャンヌ=ダルクであった。1429年、ジャンヌに鼓舞されたフランス軍が反撃に転じ、オルレアンを解放、シャルルもランスで戴冠式を行った。シャルル7世はフランス内のイギリス支配地を次々と奪回、1453年までにカレーを除いて解放、フランスの統合を達成し百年戦争を終結させた。 → 百年戦争の終結
百年戦争の影響:百年戦争は、フランスでもイギリスでも、封建領主の没落をもたらし、王権の強化とともに、統一的な国家が形成され、いわゆる絶対主義体制を出現させる契機となった。大きく見れば、封建社会から近代的な主権国家への移行の契機となったと考えられる。
参考:百年戦争の年代とその名称 「もちろん、この戦争は当初から百年戦争と言われたわけではない。戦争の開始の時期も、フランスのフィリップ4世がギエンヌの押収を行った1294年とする説もあり、両国が断絶状態になった1337年か、実際に戦闘が始まった1339年とする場合もあるし、終結の年も一般にはフランスがギエンヌを奪還し戦闘が終わった1453年とされるが、1475年に両国の間で条約が結ばれたことを終結とする意見もある。1337〜1453年なら116年、1294〜1475年までとすれば181年続いたことになる。この断続的な両国の戦争を「百年戦争」と言うようになったのは、19世紀初頭のフランスの学校教育のなかでのことだと言われている。」<この項 フィリップ・コンタミーヌ『百年戦争』文庫クセジュ 坂巻昭二訳 による>
a 1339 百年戦争の、実際の戦闘が始まった年。一般に百年戦争の始まりとされているが、エドワード3世の、フィリップ6世に対する宣戦布告は1337年に出されている。
b 1453 イギリスとフランスの百年戦争が終結した年。フランス軍がイギリスの拠点、ギエンヌ地方を奪還して戦闘が終わった。この年、東ヨーロッパでは、オスマン帝国コンスタンチノープルを征服し、ビザンツ帝国が滅亡した年である。また、この時代は北部イタリアでルネサンスが展開されていた時期であり、ビザンツ帝国が滅亡したため、多くのギリシア人の古典学者が、イタリアに逃れたことによって、フィレンツェなどのイタリアの都市文明がビザンツ・イスラーム文化と接触し、ルネサンスの興隆に大きな役割を果たしたことも忘れてはならない。百年戦争およびイギリスで続いて起こったばら戦争によって封建諸侯は没落し、国王への権力集中がはじまり、ヨーロッパに主権国家体制が成立することとなるが、その背景には、オスマン帝国の東ヨーロッパへの進出という脅威があった。
c エドワード黒太子 イギリスのエドワード3世の長男。黒い鎧を着用して戦ったので、黒太子(the Black Prince)と言われた。百年戦争の前半期にイギリス軍を率いて活躍、とくに1356年のポワティエの戦いでは4倍のフランス軍を破り、国王ジャン2世と捕虜とした。この時黒太子は、ジャン2世に対して臣従の礼をもって遇したことは有名。百年戦争期の騎士の典型とされた。
C 百年戦争の長期化  
a 黒死病流行  → エ.封建社会の衰退 黒死病流行
b ジャックリーの乱  → エ.封建社会の衰退 ジャックリーの乱
c ワット=タイラーの乱  → エ.封建社会の衰退 ワット=タイラーの乱
ブルゴーニュ公 ブルゴーニュ地方はフランスの東南部の山間地帯で、5世紀にゲルマン民族のブルグンド王国があった地域を言う。フランク王国に併合された後、ヴェルダン条約で西フランクに属し、その後フランス領として続く。その間、11世紀からはカペー家の一族が封じられてブルゴーニュ公となった。1363年にはヴァロワ王家のフィリップ豪胆公の所領となり、その子ジャンは無畏公と言われて百年戦争でブルゴーニュ派の頭領となり、オルレアン・アルマニャック派(オルレアン公ルイ)と対立した。ブルゴーニュ派はイギリスと結び、オルレアン・アルマニャック派に押されたシャルル7世をオルレアンに包囲し、ジャンヌ=ダルクを捕らえてイギリスに売り渡した。しかしシャルル7世がイギリス軍に勝利したことにより、勢力が衰え、1477年には王領に編入された。ブルゴーニュ地方は独立傾向が強く、クリュニー修道院やシトー修道院など修道院運動の中心地でもあった。
d ジャンヌ=ダルク 百年戦争の後半にあらわれ、劣勢のフランス軍を救ったとされるオルレアンの少女。天の啓示を受けたというジャンヌ=ダルクは1429年、フランス軍の先頭に立ち、ついにオルレアンの囲みを解き、フランス王シャルル7世を救出した。さらにシャルルに勧めて、ランスでの戴冠式を実現させ、フランスの統一を再現した。しかし1430年、コンピエーニュで反国王のブルゴーニュ派に捕らえられ、1万エキュでイギリス軍に売り渡され、ルーアンで宗教裁判にかけられた結果、翌年、異端であるとの判決によって火刑に処せられた。1456年、名誉が回復され、聖人とされた。
Epi. アンドレ=モロワの描くジャンヌ=ダルク:「1429年3月、ロレーヌからシノンにやって来た一人の若い娘が王太子(シャルル)にお目にかかりたいと申し出た。その女は『たくましく、肌がやや栗色をし、背力衆にすぐれていたが、態度物腰はつつましく、女らしい声をしていた。』……非常に敬虔なジャンヌは、羊の番をしている間に、天の声を聞き、『大きな光明の中に』大天使聖ミカエルと聖女カテリナと聖女マルガレ−タが現われるのを見たが、それらはジャンヌに王太子に会いに行き、オルレアンを救うようにとすすめた。……彼女は結局、一番近くの衛戌部隊長ヴォクルールから、男の鎧甲で身を固めてから、シヤルルのいるシノンに連れて行ってもらえることになった。……彼女は、第一に、王太子にその出生に対する自信を取り戻させようと思った。彼女にそれができるというのは、彼自身極めて信心ふかく、天から降った声を恐らく信ずるだろうから。第二にはオルレアンを解放しようと思った。というのはこの象徴的な勝利はフランス国民に信念を与えるだろうから。第三には、王太子をランス(大寺院)で祝聖させたいと思った。というのは聖アンプール(ランスにある聖油瓶で国王の抹油礼に用う)の聖油がすべての信者の眼に、権力の正統性を確証するだろうから。」<アンドレ=モロワ『フランス史』新潮文庫> 
D 百年戦争の終結 一般に1453年、フランス軍がイギリス領のギエンヌ地方の中心地ボルドーを占領し、フランス国内にカレーを除いてイギリス領が無くなった時をもって百年戦争の終結とする。戦後は、フランスは国土の統一的な支配を実現してヴァロワ朝のもとで王権による支配が強化されていき、イギリスではランカスター家とヨーク家の王位継承争いから諸侯が二陣営に分かれて争うばら戦争に突入し、さらに封建諸侯の没落が加速して、テューダー朝の絶対王政へと向かっていく。
百年戦争の終わった年、1453年には、ヨーロッパの東で、ビザンツ帝国の滅亡という大きな変動が起こっている。時代の大きな変わり目にあることを感じさせる出来事であった。
カレー フランス北部のドーヴァー海峡に面した要地。百年戦争の際、1346年イギリスのエドワード3世軍に11ヶ月の包囲の末、占領された。百年戦争後も、カレーだけはイギリス軍が占拠していたが、1558年にフランスが奪回した。
Epi. カレーの市民 現在、カレー市の市庁舎の前に、著名な彫刻家ロダンの作品「カレーの市民」がおかれている(複製は上野の近代美術館の前庭で見ることが出来る)。これは、エドワード3世がカレーを攻撃した時、降伏の交渉に当たった6名の市民代表を捕らえて殺そうとしたのを、懐妊中だった王の妃が懇願して許された出来事を題材とし、勇気ある6名の市民を群像として表現したものである。
a 諸侯・騎士(貴族)の没落百年戦争を通じて戦闘に明け暮れた諸侯・騎士階級は、領地から離れざるを得ず、また出費もかさみ、所領経営に苦しむこととなった。またその支配下にある農村では、11世紀以降の商業の復活にともなる貨幣経済が浸透して、土地を捨てて都市に移住する農民が増え、人口減少に伴って農奴身分から解放されるものも増えてきた。領主階級である諸侯・騎士は、「封建反動」を強めたが、農民一揆が起こり、その流れを抑えることはできなかった。没落した諸侯・騎士は、領主は、次第に「地主」(単に地代をとる存在)に転化していく。
b シャルル7世 1422年、百年戦争後期にフランス王位(ヴァロワ朝)を継承したが、国王としては無能で、イギリス軍とシャルルの王位を認めないブルゴーニュ派によってオルレアンに包囲され、苦境に陥った。そこをジャンヌ=ダルクによって救出され、1329年、フランク王国のクローヴィスが即位式をあげたランス大聖堂で正式に戴冠式を挙行、自信を得て攻勢に転じ、1430年、パリに入城、その後1453年までにカレーを除くイギリス支配地を奪回して、百年戦争を終結させ、勝利王といわれることとなる。百年戦争を通じて没落した諸侯を抑え、王権の確立に努め、大商人ジャック=クールを登用して財政の整備にあたり、さらに国王軍の創設などを行い、絶対王政への道を開いた。
E バラ戦争 1455年から1485年に至る、イギリスの内乱。王位継承をめぐる、ランカスター家ヨーク家の争いで、前者が紅バラ、後者が白バラをそれぞれ家紋にしていたので、「バラ戦争」と言われる。戦争の直接の原因は王位継承問題であったが、それぞれ2派にわかれた封建貴族の私闘というのが実質である。30年にわたり血腥い暗闘が繰り広げられたが、結局、ランカスター家の一族のテューダー家のヘンリが、ヨーク家のリチャード3世を倒し、テューダー朝を開いてヘンリ7世として即位、ヨーク家のエリザベスと結婚することで両家の争いに終止符を打った。百年戦争に続く内乱によって、封建貴族は相打ちとなって没落し、テューダー朝の王権は強大となり、絶対王政を実現する。
a ランカスター家 プランタジネット朝エドワード3世の次男ジョンがランカスター公を名乗る。その子ヘンリ4世が百年戦争の最中、1399年、人望を無くしたリチャード2世を廃位して王位に就く。その後、ヘンリ5世、6世と続く。これをランカスター朝と言う場合もある。ヘンリ6世に対し、同じプランタジネット朝の系統であるヨーク家のエドワードが王位継承を要求したところから、1455年のバラ戦争が始まる。後に王朝を開くテューダー家はランカスター家の分家。家紋は紅バラ。
b ヨーク家 同じエドワード3世の三男エドマンドがヨーク家を名乗る。家紋は白バラ。1455年、ランカスター家のヘンリ6世に対し、ヨーク家のエドワードが王位継承を要求、バラ戦争が起きる。彼は1461年エドワード4世として即位(ヨーク朝という場合もある)、その子エドワード5世が継承するが、叔父のリチャードが新王とその子たちを殺害してリチャード3世となる。リチャードは人望無く、1485年テューダー家のヘンリに攻められて敗死、バラ戦争は終わり、テューダー朝となる。
c ヘンリ7世 ランカスター家の出身で、テューダー家を継承。ヨーク朝のリチャード3世を破り、1485年即位し、テューダー朝を開く。ヨーク家のエリザベスと結婚して両家の争いを終わらせ、封建貴族の没落に乗じて強大な王権を築いた。即位の年、国王直属の裁判所として星室庁裁判所を開設した。在位1509年まで。次の長男ヘンリ8世以後のテューダー朝がイギリス絶対王政の全盛期となる。
d テューダー朝 バラ戦争に勝利して即位したヘンリ7世に始まり、ヘンリ8世エドワード6世メアリ1世エリザベス1世と続く、15世紀末から16世紀のイギリスの王朝。特にエリザベス1世時代はイギリス絶対王政の全盛期であり、強大な王権を持ち、またイギリスが海外に進出しはじめる時代であった。なお、テューダー朝はエリザベス1世が未婚であったため王位継承者が無く、1603年ヘンリ7世の娘につながるスコットランドのステュアート王家からジェームズ1世を迎え、ステュアート朝に代わる。 
e 星室庁裁判所 テューダー朝ヘンリ7世の時、1485年に設けられた、国王直属の裁判所。ウェストミンスター宮殿の星の間(天井に星が描かれていた)で開催されたので、このように言われる。主に王権に反抗した貴族を裁くために開かれ、王権の強化の手段とされた。後のピューリタン革命の長期議会で1641年に廃止される。
f 絶対王政  → 第9章 4節 絶対王政
g ウェールズ 大ブリテン島の西部地方。アングロ=サクソン人の侵入以前からブリテン島に居住していたケルト人の一派ブリトゥン人住民が独自の言語と文化をもって存在していた。イングランド王国のプランタジネット朝エドワード1世は、大ブリテン島の統一支配をねらって、1282年にウェールズに侵入したが、激しい抵抗を受け、結局は長男をプリンス・オブ・ウェールズに任命することを認めさせた。これ以後、イギリスの皇太子はプリンス・オブ・ウェールズと呼ばれるようになる。ついで1536年、ヘンリー8世の時にイングランド王国に併合されてしまった。
現在も独自のケルト的な文化の伝統を保っており、政治的にも分離独立の要求も強い。1999年には住民投票の結果、独自の地方議会が設置されることとなった。
h アイルランド 大ブリテン島の西側にある大きな島。ケルト人系の住民が居住し、独自の文化をもつ。特に5世紀以来、カトリック信仰が根強く、現在でもイングランドの新教徒(国教会)とは対立している。プランタジネット朝初代のヘンリ2世が1171年に上陸して主権を主張して以来、イングランドの勢力が及んでいるが、完全な支配はできないでいた。ピューリタン革命後、1649年にクロムウェルは、アイルランドが王党派の拠点になっているとの口実でアイルランドを征服、植民地とされた。その後、アイルランドでは、イギリスからの独立運動が激しく展開されることとなる。 → アイルランド問題(19世紀) アイルランド問題(20世紀) アイルランド共和国
i スコットランド 大ブリテン島の北部一帯をいう。ケルト人系の住民とアングロ=サクソン人が混血しながら、独自のスコットランドの文化を形成してきた。ウェールズと同じく、イングランド王国プランタジネット朝のエドワード1世が征服を試みたが、スコットランドは頑強に抵抗、1314年にはイングランド軍をバノックバーンの戦いで破り、1328年には独立王国であることが認められた。その後、長くイングランドと対等の王国として続き、1603年にイングランドのテューダー朝の男系が途絶えた際、スコットランド王ジェームス6世がイングランド王ジェームズ1世としてステュアート朝を開き、両国は一人の国王をもつ同君連合王国となる。ピューリタン革命が起こると、クロムウェル政権は王と派の拠点であるとしてスコットランド征服を行った。 → イングランドへの併合
a イタリアでの動き  14世紀 イタリアでルネサンスが始まる → 第9章 2節 ルネサンス
b ドイツでの動き  金印勅書と、領邦化の進行 → コ ドイツの状況 金印勅書
c カトリック教会の動き  大シスマと、教会批判の始まり(フス戦争) → オ 教皇権の衰退 教会の大分裂
d 東ヨーロッパの動き  ビザンツ帝国の衰退と滅亡(1453年) → 第6章 2節 ビザンツ帝国 コンスタンチノープルの陥落
ケ.スペインとポルトガル
A レコンキスタ (国土回復運動)8世紀に始まるイスラーム支配に対する、イベリア半島のキリスト教徒による反撃の動き。11世紀から活発となり、15世紀末まで続く。レコンキスタとはスペイン語で再征服の意味で、国土回復運動とも言われる。
711年、イベリア半島にイスラームの侵入ウマイヤ朝)が開始され、キリスト教国の西ゴート王国を滅ぼして以来、現在のスペインとポルトガルの地は、イスラーム教徒(ムーア人、モーロ人などといわれた)の支配を受けることとなった(イスラームといってもアラブ人はその支配者層だけで数は少なく、大部分は北アフリカのベルベル人であった)。イベリア半島のキリスト教徒に対して、イスラームの支配者(756年からは後ウマイヤ朝)は、ユダヤ教とともに「啓典の民」として容認していたので、キリスト教徒は地租と人頭税を納めれば、信仰と固有の法を認められていた。キリスト教徒のなかには8世紀からイスラームの支配に抵抗する者もあったが、多くは平和に共存し、後ウマイヤ朝の都コルドバは文化の中心としても栄えた。
しかし、1031年に後ウマイヤ朝が滅亡して、イスラーム勢力が分裂したことに乗じて、キリスト教徒によるレコンキスタの戦いが活発となった。1086年には北アフリカから新たなイスラーム勢力であるムラービト朝の侵攻が始まり(このころ活躍したのが英雄エル=シド)、さらに12世紀中頃からはムワッヒド朝の侵攻があってキリスト教軍の苦戦が続いた。このレコンキスタは、東方世界でのセルジューク朝の進出によるビザンツ帝国領の侵犯に対抗する十字軍運動や、北東ヨーロッパにおけるドイツ人の東方植民の運動などと同じく、西欧のキリスト教世界の膨張運動と捉えることができる。
レコンキスタは半島の北部に圧迫されていた二つのキリスト教国、カスティリャ王国アラゴン王国によって進められ、13世紀までには半島の大半を奪回した。カスティリャから分離したポルトガルでもレコンキスタが進められた。カスティリャのイサベル女王とアラゴンの王子フェルナンドが結婚(1469年)し、フェルナンドがアラゴン王に即位した1479年に統合してスペイン王国が成立するとともに、1492年にイスラーム教国ナスル朝の最後の拠点グラナダを陥落させ、イスラーム勢力は北アフリカに後退し、レコンキスタが完成する。この同じ年、スペイン王の命令でコロンブスが大西洋横断に成功した。
a イベリア半島 ヨーロッパの西に連なり、ピレネー山脈で区切られた地域。地中海に面する地域は古くから交易が盛んで、カルタゴの植民市(カルタヘナ、バレンシア、バルセロナ、アルメリアなど)が建設された。ローマ時代には属州イスパニアとなり、ゲルマン民族の移動期には西ゴートがこの地に入り西ゴート王国を築いた(都トレド)。711年、ジブラルタル海峡を渡って北アフリカからウマイヤ朝のイスラーム勢力が侵入、713年に西ゴート王国を滅ぼし、北方のアストゥリアス地方をのぞいたほぼ半島全域をイスラーム勢力が支配することとなった。イスラーム支配地域はアンダルス(かつてこの地を支配していたヴァンダル人の地、の意味。現在のスペイン南部の地方名アンダルシアの語源)と言われた。バグダッドにアッバース朝が成立すると、ウマイヤ朝の一族がイベリアに逃れ、後ウマイヤ朝を樹立し、都をコルドバとした。10世紀には、アブド=アッラフマーン3世がカリフを称し、その都コルドバは学問、文芸の中心地としてヨーロッパのキリスト教国からも人々が集まってきた。しかしカリフの地位をめぐって内紛が起こり、1031年には後ウマイヤ朝は滅亡し、半島各地のイスラーム王朝は分裂、交替することとなった。そのような状況を背景に11世紀中頃からキリスト教徒の勢力回復がであるレコンキスタ運動が活発になったが、11世紀末からはムラービト朝、12世紀にはムワッヒド朝というあらたなイスラーム勢力(ベルベル人=モーロといわれた)の侵攻を受け、それ以後も抗争が続き、ようやく1492年にイスラーム勢力最後のナスル朝の都グラナダが陥落によって完了する。8〜15世紀の約800年にわたるイスラーム支配の時期は、イベリア半島の文化に強い影響を残している。レコンキスタの過程で、半島にはカスティリヤアラゴンポルトガルなどのキリスト教の小国が生まれ、前二者が合同してイスパニア(スペイン)が生まれ、ポルトガルとともに主権国家体制を整え、大航海時代の先駆けとなっていく。これらのイベリア半島諸国は強固なカトリック信仰とともにイスラームの影響を受けた独自の文化を保ち、ヨーロッパでも特色のある地域となっている。
エル=シドレコンキスタ時代のスペインで、その武勇が言い伝えられた英雄。本名はロドリゴ=ディアズで、ビバール出身の騎士。11世紀後半、カスティリヤ王のアルフォンソ6世に仕えていたが王との確執から一時追放され、イスラーム側に傭兵として仕えた。その武勇を讃えたイスラーム教徒が彼を勇気ある者の意味のシッドと呼んだので、スペイン人は彼をエル=シドと言うようになった。後に王と和解し、おりから始まったムラービト朝のムーア人の侵攻に対し、1094年にバレンシアを奪回して名声を高めた。彼を主人公とした『わがシドの歌』は、中世の武勲詩の代表的なものとされ、17世紀フランスの劇作家コルネイユもこれを題材に悲劇『ル=シッド』を創作している。その他、スペインでのは国民的英雄として多くの文学作品や映画になっている。<参考『物語スペインの歴史−人物編』岩根圀和 中公新書 2004>
参考 映画『エル・シド』 1961年、チャールトン=ヘストン、ソフィア=ローレン主演。娯楽映画ではあるが、キリスト教徒とイスラーム教徒がなぜ憎み合うのか、と疑問を投げかけるような場面もある。またムラービト朝のイスラーム部隊がバレンシアを攻撃する場面は一見の価値あり。
c カスティリャイベリア半島の北西部に生まれたレオン王国から別れて10世紀に成立。レコンキスタ運動の中心勢力として次第にイベリア半島中部に進出し、13世紀には最も強大となってレオン王国も併合し、さらに1236年にコルドバを奪った。カスティリヤのトレドの翻訳学校はイスラーム文化を通じて伝えられたギリシア文献をラテン語に翻訳し、中世のヨーロッパ文化に大きな影響を与えた。アンダルシア地方も併合したカスティリャ王国のイサベル女王は、アラゴン王国の太子フェルナンドと結婚、フェルナンドが1479年、アラゴン王に即位したため、両国は統合され、スペイン王国となった。
Epi. カステラの故郷 日本でカステラと言っているのは、長崎出島にオランダ人によって伝えられた、カスティリャで作られていたお菓子。カスティリャがなまってカステーラになった。
d アラゴン イベリア半島北部のナヴァラ王国から別れ、11世紀に東北部に成立。レコンキスタ運動とともに勢力を南下させ、バルセロナなどを併せて強大となる。1282年の「シチリアの晩祷」の事件に際してはシチリアを手に入れ、さらに地中海のサルデーニャやマジョルカなどを領有する。アルフォンソ5世はナポリ王位も兼ね、地中海に一大勢力をもつ。1479年即位したフェルナンド王は、その妻がカスティリャ王国イサベル女王であったので、これによって両国は統合されスペイン王国が成立した。
e ポルトガル イベリア半島南西部の国。この地はやはりイスラームの支配を受けていたが、カスティリャの勢力が伸びてきてイスラームの支配を次第に排除していった。ついでカスティリャに従っていたフランス系のポルトゥカーレ伯が自立し、1143年、カスティリャ王国から分離しポルトガル王国を建国した。1249年までにはレコンキスタを完了し、いち早く王権を確立させた。1415年、ジブラルタルの対岸のアフリカ北端の港市セウタを占領し、以後、大西洋に面している地理上の優位さを発揮して大航海時代の先鞭を付ける。まず15世紀前半のエンリケ航海王子はアフリカ西岸の探検事業を行い、ついで1488年ジョアン2世が派遣したバルトロメウ=ディアスがアフリカ南端の喜望峰に到達、インド航路開拓を一歩進めた。また首都リスボンは大航海時代の最も栄えた都市の一つとなる。
→大航海時代のポルトガル  スペインによるポルトガル併合  ポルトガルのアジア進出 ナポレオンのポルトガル征服 19世紀のポルトガル サラザール政権 ポルトガルのアフリカ支配 ポルトガルの民主化
B スペイン(イスパニア)王国 1479年、アラゴン王国の王子フェルナンドが即位し、その妻(1469年に結婚)イサベル女王のカスティリャ王国と合同してスペイン王国となった。「イサベルとフェルナンドは同権」の王として二人で統治した。またこのふたりを「カトリック両王」という。1492年には、イスラームの最後の拠点グラナダを陥落させ、レコンキスタを完成した。同年、スペインの派遣したコロンブス艦隊がアメリカ新大陸を発見、海外に広大な領土をもつスペイン帝国の第一歩となった。カトリック両王のもと、スペインは絶対主義体制の成立に向かい、またカトリック教国としての統一性を強化するため、国内のユダヤ人やイスラーム教徒は国外追放した。スペイン王国では、聖職者、貴族、都市の代表からなる身分制議会であるコルテス(現在のスペインの国会もコルテスという)が開催されていたが、絶対王政が確立するとその機能を失う。
 → 大航海時代のスペイン スペインのアジア進出スペインの中南米植民地支配
 ナポレオンのスペイン征服 スペイン立憲革命 米西戦争 スペイン革命 スペイン内戦 スペインの民主化
a イサベル女王 カスティリャ王国の女王(1474年から)、後に夫フェルナンドとともにスペイン王(在位1479〜1504年)。アラゴンとの対立が解消されたので、カスティリャはイスラーム勢力のナスル朝に対する攻勢を強めることができ、1492年にはその都グラナダを陥落させ、レコンキスタを完了させた。また同年、イサベル女王がコロンブスの意見を採用して彼を西回りでインド航路の開発に派遣、新大陸の発見につながったことは有名。
b フェルナンド王 (5世)アラゴン王国の王子であった1469年に隣国カスティリャ王国の王女イサベルと結婚。74年、イサベルがカスティリャ国王となると共同統治。79年、フェルナンド2世としてアラゴン国王となり、これによってカスティリャとアラゴンは合同し、スペイン王国となった。イサベルとフェルナンドは同権の共同統治を行い、カトリック両王といわれた。なお、彼は統一スペインの王としてはフェルナンド5世と称し、アラゴン王であると同時にシチリア王でもあり、ナポリ王位も兼ねることになる。
カスティリャとの合同を成し遂げたので、地中海方面でのフランスとの抗争に力を注ぐことができるようになり、1494年にフランス王シャルル8世のナポリ王国への侵入によってイタリア戦争が勃発すると、ローマ教皇らと結びフランスに反撃、さらに1504年にはフランス王ルイ12世と戦い、ナポリ王国を併合した。イサベルの死(1504年)後は、2度カスティリャの摂政を務めた。1516年没。フェルナンド5世とイサベル女王のあいだには男子はなく、王位は娘ファナが嫁いだハプスブルク家のフィリップ(神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世の子)の子のカルロス1世が継承し(スペイン王として在位1516〜56年)、スペインはハプスブルク家の領土となる。このカルロス1世は1519年、マクシミリアン1世の次ぎに神聖ローマ帝国皇帝に選出され、カール5世となる。
c 1492 レコンキスタ完了の年であるとともに、コロンブスのアメリカ新大陸発見の年。いずれもスペイン関連で世界史上の重要年代。
d グラナダ  → 第5章 2節 グラナダ
C ポルトガル  → ポルトガル
a ジョアン2世 15世紀末の遠洋航海路の開拓を進めたポルトガル王(在位1481〜95年)。エンリケ航海王子(15世紀前半)に続いて、アフリカ西岸探検を進めた。1482年には黄金海岸にエル・ミナ要塞を建て、奴隷貿易を開始している。1488年に喜望峰に到達したバルトロメウ=ディアスを派遣したのもジョアン2世であった。
コ.ドイツ(神聖ローマ帝国)
A イタリア政策 → 6章 1節 神聖ローマ帝国のイタリア政策 
a シュタウフェン朝 ホーエンシュタウフェン家ともいう。12〜13世紀のドイツ王家。6代にわたり神聖ローマ帝国の皇帝を出したが、有名なのが「赤髭王(バルバロッサ)」フリードリヒ1世とその孫で「最初の近代的人間」と言われるフリードリヒ2世。皇帝権の回復に努め、叙任権闘争後のローマ教皇と対抗する勢力となった。しかし、代々「イタリア政策」に重点を置いたため、本国ドイツは諸侯の分立が続き、統一はとれなかった。フリードリヒ2世の父の代に婚姻によりシチリア島と合わせて支配するようになり、フリードリヒ2世は神聖ローマ皇帝ではあるがシチリアで活動した。そのためドイツの分裂はさらに進み、その死後は「大空位時代」に入る。またシチリアのシュタウフェン朝も、1266年、マンフレディがフランスのアンジュー家のシャルルに敗れ、1268年に15歳の遺児コンラディンがシャルル=ダンジューに殺害され、断絶する。
▲b フリードリヒ1世 シュタウフェン朝神聖ローマ皇帝皇帝。在位1152〜1190年。赤髭王(バルバロッサ)というあだ名がある。中世で最も有名な皇帝の一人。ドイツ王としてオーストリア、ブルグンドなどに領土を拡大するとともに、神聖ローマ皇帝としてイタリアの支配を目指し、1158〜78年にかけて4回にわたってイタリア遠征を行った。しかしローマ教皇と、ロンバルディア同盟を結成した北イタリアの都市の抵抗を受け、76年のレニャーノの戦いでは敗北し、後に和解し、コムーネの自治を正式に承認した。長子ハインリッヒ6世をシチリア女王と結婚させてその相続権を得る。第3回十字軍に参加し、小アジアで事故死した。
Epi. 赤髭王の死因 フリードリヒ1世(バルバロッサ)は、第3回十字軍に参加し、小アジアに入ったが、1190年6月10日、東南海岸のセレウキアで水死した。その原因は現在でも明かでないが、水浴中におぼれたとか、67歳という年齢だったのでショック死したとか、騎馬の川に乗り入れ馬が躓いた弾みに落馬して、甲胄の重みで沈んでしまったとか、さまざまな説がある。
▲c フリードリヒ2世 シュタウフェン朝神聖ローマ皇帝。皇帝在位1220〜1250年。ドイツ王を兼ねながらシチリアを拠点にしてイタリア統一をめざし、北イタリアの都市同盟とローマ教皇と激しく対立、結局イタリア統一を実現することはできなかった。
フリードリヒ1世(赤髭王)の孫に当たり、母がシチリア王女であったのでシチリア島で生まれた。幼時に父が死にローマ教皇インノケンティウス3世を後見人として育つ。成人して1212年にドイツ王、ついで1220年に神聖ローマ皇帝となる。彼は9年間ドイツに滞在しただけで、ほとんどをシチリアの王宮パレルモで過ごす。イタリア名ではフェデリーコ2世という。このシュタウフェン朝のシチリア王国は、イタリア・ノルマン・ドイツ・ビザンツ・イスラームの要素が混在した国際的な環境があり、彼自身もアラビア語も含め9カ国語に通じ、動物学者でもあり、文芸を保護し、ナポリ大学を創建するなど、開明的な文化人であった。また、シチリア王国は官僚制度が整備され、貨幣制の整備が進むなどの優れた面を持ち、その合理的な政策で彼を「最初の近代的人間」(ブルクハルト)と評価されている。しかし、反面本国ドイツの統治は長子ハインリヒに任せていたので、諸侯を抑えることができず、その分裂傾向はさらに進んだ。また、彼がドイツと南イタリアを支配することに対して、北イタリア諸都市のロンバルディア同盟との対立が続いた。またローマ教皇もフリードリヒ2世のイタリア進出を喜ばず、十字軍の派遣を要請したが彼がなかなか実行に移さないことを理由に、破門にした。ようやく1228年、第5回十字軍を起こし、アイユーブ朝の内紛に乗じて外交交渉によってイェルサレムの奪回に成功し、自らイェルサレム王国の王位についた。帰国後破門を解かれたが、1234年に長子のドイツ王ハインリヒがロンバルディア同盟とローマ教皇の後押しを受けて反乱、フリードリヒ2世はそれを鎮圧した後に北イタリアの諸都市を攻撃、1237年11月のコルテノーヴァの戦いで都市連合軍を粉砕した。それに対して教皇インノケンティウス4世から再び破門され、皇帝を廃位される。彼の死後、シュタウフェン朝は衰退し、ローマ皇帝位は大空位時代に入り、1266年にシチリアはフランスのアンジュー伯シャルルに奪取される。
最初の近代的人間 彼を「最初の近代的人間」と評したのは、19世紀ドイツの文化史学者ブルクハルトである。「サラセン人(イスラーム教徒)たちのまぢかで、裏切りと危険の中に成長したフリードリヒ2世は、王座に位しながら早くから事物を完全に客観的に判断し処理することに慣れていた最初の近代的人間である。そのうえサラセン諸国家の内部とその行政に関するきわめて詳しい知識と、教皇たちを相手の存亡をかけた戦争が、これに拍車をかけた。その戦争たるや、双方をして、あらんかぎりの力と手段を戦場に持ち出させたものであった。」<ブルクハルト・柴田治三郎訳『イタリア・ルネサンスの文化』1860 上 中公文庫版 1974 p.9> 
Epi. 人体解剖を試み、動物園をつくる 「フェデリーコ(フリードリヒ2世のイタリアでの呼び方)自身は文学や美術よりも科学が好きだったようだ。・・・科学という点ではヨーロッパよりイスラム世界の方が遙かに進んでいたから、彼はますます異教文化に深入りすることとなり、それが教皇派の反感をいっそうそそった。この時代のイタリアを覆っていた神秘主義的な思考や感情に、彼ほど無縁な人はなく、超自然的な奇蹟や霊験などは頭から信じていなかったようだ。人間の生得の言語というものがあるのかどうか、あるとすればそれは何語なのかを調べるために、数百人の新生児を大きな部屋に集めて養育し、その世話をする人々にはいっさい言葉を使用することを禁止したという有名な話がある。その実験がどういう結果をもたらしたかはよくわからないが、もしこれが事実であったとすると、フェデリーコはレオナルド・ダ・ヴィンチに数世紀先立つ実験精神の持ち主だったことになる。人体解剖にも経験があったらしく、解剖学の細かい知識を披瀝してアラブの医者を瞠目させたし、動物学研究は本格的で、駱駝や麒麟を含む多種の動物を自分の手で飼育し、宮廷の庭の一部を小動物園と化し、遠征にも動物たちを伴った。・・・こんなフェデリーコを教皇は「神を信じぬもの」と決めつけ、反キリストと罵った。・・・」<藤沢道郎『物語イタリアの歴史』1991 中公新書 第四話 p.100-101 参照>
B 大空位時代 1254〜1273年の神聖ローマ帝国皇帝(ドイツ皇帝)が空位になっていた約20年間をいう。1254年シュタウフェン朝が断絶した後、オランダ伯ウィルヘルムが帝位に就いたが、その死(1256年)後、イギリス、フランスの介入によって非ドイツ人の皇帝が選ばれたが、実質的な支配は出来ず、その後も空位が続いた。1273年ハプスブルク家のルドルフ1世が選出され、大空位時代は終わるが、皇帝選出をめぐる混乱はなおも続き、1356年の金印勅書によってようやく安定する。
C 金印勅書 1356年、神聖ローマ皇帝カール4世の時に定められた、神聖ローマ帝国の帝国基本法。従来も神聖ローマ帝国皇帝(ドイツ王)は諸侯によって選出されていたが、その選出でしばしば紛争が生じ、とくに大空位時代のような異常事態が生まれていたため、カール4世は国王選挙手続きを成文化して混乱を避け、その権威を安定させる必要に迫られた。そこで、1855年のフランクフルトの帝国議会で原案が作成され、翌年のメッツの帝国議会で補足されて、公布されたのが「金印勅書」である。全31条からなる条項を持ち、黄金の印章が用いられていたので金印(黄金)勅書という。これによって「大空位時代」の政治的混乱、特に二重選挙の発生が回避されることとなった。その基幹となる条項は、
一、選帝侯はマインツ、トリーア、ケルンの三聖職諸侯、プフアルツ(ライン宮中伯)、ザクセン、ブランデンブルク、ボヘミアの四世俗諸侯の計七侯に定める。
一、選挙は公開投票により多数決原理に従って行われる。
一、選挙権はただ一回しか行使できず、選挙結果に従わない選帝侯は選帝侯位そのものを失う。
の三項目であり、特に二重選挙の可能性が除去されたことが重要である。また、以下の規定が続いた。
一、選挙はフランクフルト市で行い、戴冠式はアーへン市で行う。
一、選挙結果は教皇の承認を必要としない。
一、選帝侯は諸侯の最上位を占め、領内における完全な裁判権、鉱山採掘権、関税徴収権、貨幣鋳造権、ユダヤ人保護権を有する。
つまり、金印勅書は、神聖ローマ皇帝の選挙規定であると同時に帝国議会(諸侯会議)の規則であり、さらに選帝侯の領邦主権を認めたものであった。ここで認められた領邦主権は当初は選帝侯だけのものであったが、他の諸侯も同等の権利を主張するようになり、次第に認められていく。た。
a カール4世 神聖ローマ皇帝(在位1347〜78年)。ドイツ西部の名門貴族ルクセンブルク家の皇帝ハインリヒ7世の孫。父の領有したベーメン(ボヘミア)王位を継承。ローマ教皇に押されて神聖ローマ皇帝に選出される。彼は5カ国語に通じる知識人で、1348年には中部ヨーロッパでは最初の大学であるプラハ大学を創設した。歴代の皇帝と違ってイタリア政策に没頭することなく、本国のベーメンとドイツの統治にあたった。1356年に発した「金印勅書」は神聖ローマ帝国の大空位時代を終わらせ、新たに皇帝選挙の手続きを定めたものであった。これによって成立した帝国議会には都市の代表も加わり、ドイツにおける身分制議会の役割を果たすこととなる。諸侯が会議を開催するまたアヴィニヨンの教皇のローマ帰還に尽力し、1377年にはそれを実現させた。
b 七選帝侯 1356年、カール4世の金印勅書によって定めらた、神聖ローマ帝国皇帝の選挙権を持つ、有力な7つの諸侯をいう。マインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教の三聖職諸侯と、プファルツ、ザクセン、ブランデンブルク、ボヘミアの4世俗諸侯。
D ハプスブルク家の支配  
a ハプスブルク家 13世紀から19世紀に至る神聖ローマ帝国およびオーストリアの王朝。15〜16世紀にはヨーロッパから新大陸に及ぶ広大なハプスブルク帝国とも言われる支配権を持ち、全盛期を迎える。もとはライン川上流のスイスのアールガウ地方という山岳地帯のハプスブルク城(鷹の城の意味)の小領主として出発した。10世紀ごろにライン上流の南ドイツに領土を拡大して次第に頭角を現わし、1273年ルドルフが神聖ローマ皇帝(ドイツ王)に選出され、ついで1278年、マイヒフェルトの戦いでベーメン王オタカル2世と戦って勝利し、オーストリアを領地としてからである。その後一時皇帝位は他家にわたるが、1438年以降は帝位を独占、さらに積極的な婚姻政策を推し進め、その領地は全ヨーロッパに及ぶこととなる。一方、出身地のスイスでハプスブルク家からの独立運動が起き、1315年に独立を認めたので、ハプスブルク家はオーストリアを本国とすることとなる。その後、ハプスブルク家は積極的な婚姻政策でヨーロッパの有力な諸家と結びつきながら領土を拡大、特に15世紀末のマクシミリアン1世の時にはネーデルラントを獲得、さらにスペインもその支配下に置いて、広大なハプスブルク帝国を建設した。このハプスブルク家領に国土を夾まれる形になったフランスは、強い危機感を抱き、イタリアに進出することで活路を見いだそうとして両者の間にイタリア戦争が始まる。その間、ハプスブルク家にはカール5世(スペイン王としてはカルロス1世)が現れ、フランスとの抗争の他に、ドイツでのルターの宗教改革の開始、東方からのオスマン帝国軍の侵入といった危機に対応しながら全盛期を迎えた。カール5世の死後、ハプスブルク家は弟のフェルディナントがオーストリア=ハプスブルク家を、子のフェリペ2世がスペイン=ハプスブルク家を継承して二つの家系に分かれる。スペイン系は1700年に断絶するが、オーストリア系はその後も長く継承され、オーストリア皇帝として1918年までに及ぶ。
b オーストリア  → 第9章 4節 オーストリア 
c ウィーン 古くローマが進出し、ウィンドボナを建設、軍団を駐屯させた。それがウィーンの始まり。12世紀に東部辺境伯(オストマルク)のバーベンベルク家の居城がおかれる。13世紀以降はハプスブルク家が支配、15世紀にはハプスブルク家が神聖ローマ帝国皇帝位を世襲するようになり、ウィーンもその宮廷が置かれて繁栄する。16世紀以降は、バルカン半島に侵入したオスマン帝国の圧力を受け、1529年にはスレイマン1世の大軍による第1次ウィーン包囲があり、さらに1683年にも第2次ウィーン包囲を受けたが、いずれも撃退した。1806年神聖ローマ帝国消滅後は、オーストリア帝国の首都として、この地でウィーン会議が開催された。現在はオーストリア共和国の首都、中部ヨーロッパの中心都市として繁栄している。ハプスブルク家のシェーンブルン宮殿などの王宮が建設され、音楽の都として有名。 
E 領邦の分立  
a 領邦 13世紀以降、神聖ローマ帝国内に成立した、地方の独立政権。一般に「ラント」という。ドイツではドイツ王(神聖ローマ皇帝)が、イタリア政策などに専念したため、国家的な統一が進まず、各地に有力な聖俗の封建諸侯が分立し、領邦を形成していった。また、東方植民の過程で、東部辺境に有力な辺境伯が生まれ、それらも領邦を形成した。15世紀には、有力な領邦として、七選帝侯とバイエルン、オーストリアなどが存在した。 → ドイツの統一
a 東方植民 11〜14世紀にヨーロッパの北東部で「ドイツ人の東方植民」の動きが展開された。これは地中海方面での十字軍運動、イベリア半島でのレコンキスタなどと並んで、西ヨーロッパの三圃制農業の普及などの農業生産力の向上、人口の増加に伴う、開拓・開墾の進行という、キリスト教世界の膨張運動の一環と見ることが出来る。特に12世紀のシュタウフェン朝時代に、ドイツ人はエルベ川を超えて東方に活発に植民活動をこない、その地域のスラブ人居住地域に進出してドイツ化を押し進めた。その過程で、ブランデンブルク辺境伯、マイセン辺境伯、オーストリアなどの有力なドイツ諸侯が登場した。また、バルト海沿岸では、十字軍運動のなかから生まれた宗教騎士団の一つであるドイツ騎士団が皇帝と教皇の勅許を得て植民活動を行い、原住民のプロイセン人をキリスト教化しつつ、広大なドイツ騎士団国家を建設した。<この項 坂井榮八郎『ドイツ史10講』による>
b スラブ人  →6章 2節 東ヨーロッパ世界 スラブ人
c ブランデンブルク辺境伯 ブランデンブルクはドイツ東北部のエルベ川とオーデル川の間の地方。ヴェント族という民族が居住していたが、次第にドイツ人が進出、11世紀以降の東方植民がこの地に行われた。1134年、アウカニア家のアルプレヒト熊公がブランデンブルク辺境伯に封じられる。その後、ヴィッテルスバハ家、ルクセンブルク家が辺境伯となるが、この時代は弱体であった。1415年からはホーエンツォレルン家が辺境伯となる。次第に有力となって選帝侯の一つに加えられ、神聖ローマ帝国内の有力な領邦(ラント)となる。1701年、ドイツ騎士団領から発展したプロイセン公国と合体してプロイセン王国となる。 → ブランデンブルク選帝侯国 プロイセン
d ドイツ騎士団ドイツ人の東方植民の動きのなかで13世紀にドイツ騎士団がバルト海沿岸のプロイセン人(スラブ系)居住地に進出し、征服してドイツ人の国家を作った。16世紀には騎士団長のホーエンツォレルン家がプロテスタントに改宗し、プロイセン公国となる。1701年、ブランデンブルク辺境伯領と合体して、プロイセン王国となる。 → プロイセン
a スイス アルプス山脈に囲まれた山岳地帯であるが、ヨーロッパの中心に位置するため、古くから重要な地域であった。ローマ時代にはケルト人の一派が居住していたが、カエサルのガリア進出の際にこの地もローマの属州とされた。ゲルマン民族の移動によって、ブルグンド族などの支配を受けた後、フランク王国の領土となった。
ハプスブルク家による支配:ついで神聖ローマ皇帝がイタリア政策を遂行するためには重要な交通路としたために、皇帝の直轄地とされた。特にサン・ゴタール峠はドイツとイタリアを結ぶルートとして重視された。スイスの出身であるハプスブルク家が皇帝位に付くと、本拠をウィーンに移してからもスイスを直轄地として支配し、圧政を加えた。
スイスの独立運動ハプスブルク家の支配に対して、1291年、ウリ・シュヴァイツ・ウンターリンデンの三州が協力して「自由と自治」を守るための「永久同盟」を結成した。この誓約はスイス国家の出発点とされ、8月1日は現在もスイスの建国記念日とされ、この三州は「原初三州」といわれている。1316年には皇帝ルートヴィヒ4世によって承認され、次第に周辺の州も同盟に加わり、1353年には8州による「盟約者団会議」が成立した。スイスに対する支配権を回復しようとするハプスブルクの騎士軍を1386年のゼンパハの戦いでスイス民兵が破り、その後の戦闘でもスイス側が勝利し、1389年には実質的独立が達成された。
スイスの宗教改革運動:16世紀の宗教革命の時期には、チューリッヒツヴィングリが現れ、またジュネーヴではフランス人のカルヴァンが福音主義を説いてその市政を握るなど、運動の中心地となった。その後カルヴァン派はフランスでユグノーといわれて増加し、1598年のナントの勅令で信仰を認められた。
スイスの独立:ドイツでの宗教戦争である三十年戦争でハプスブルク家の劣勢のまま講和となったため、スイスの独立が正式に承認されることとなり、1648年のウェストファリア条約によって確定した。その後、フランスでルイ14世がナントの勅令を廃止(1685年)したため、その多くがスイスに移住した。ユグノーは商工業者層に多く、その中の時計職人がスイスの時計産業を興したという。 → ウィーン議定書とスイス  現代のスイス
Epi. ウィリアム・テルの伝説 スイスの独立運動というとウィリアム・テルの話が有名である。ウリ州のアルトルフという村で圧政をしく神聖ローマ帝国ハプスブルク家の代官に反抗したテルが、自分の子供の頭にのせたリンゴをみごと射ぬき、代官をこらしめる話である。ただしこの話はまったくの伝説で、しかも15、6世紀にアイスランドから伝えられたものだった。それがシラーの戯曲やロッシーニのオペラで有名になったにすぎない。しかし、スイスのハプスブルク家からの独立運動の心情をよく現しているので、広く受け入れられたのであろう。
b ハプスブルク家  → ハプスブルク家
イタリアの分裂 フランク王国が分裂してできた中部フランクを母胎としてイタリア王国が成立したが、875年にカロリング家の王位が断絶してからはイタリア王は存在しなくなり、962年ドイツ王のオットー大帝が神聖ローマ皇帝となってからは神聖ローマ皇帝は代々イタリア経営に精力を注いだ(イタリア政策)。1075年からはローマ教皇と神聖ローマ皇帝の間で、聖職叙任権闘争が始まった。この両者の対立に乗じて北イタリアには都市共和国(コムーネ)が台頭した。このような情勢から11世紀から14世紀の間、イタリア(地域)はローマ教皇を支持する教皇党(ゲルフ)と、神聖ローマ皇帝を支持する皇帝党(ギベリン)に分かれて対立した。当初は、おおよそ北イタリアの都市共和国は教皇党であり、神聖ローマ皇帝の支配に反発してロンバルディア同盟を結成した。一方、農村部の封建領主層は皇帝党として都市と対立していた。しかし、この対立は都市の内部でも見られ、主として都市共和政の担い手であった新興商人層は教皇党であり、保守的な大商人たちは皇帝党であったといわれる。この対立は次第に明確さを欠くようになり、14世紀にはフィレンツェがローマ教皇と対立したように、政治情勢で対立関係がめまぐるしく変わり、対立のための対立という様相を呈してきた。皇帝党の全盛期はシュタウフェン朝が教皇の支援を受けたフランスのアンジュー家によって倒されるまでであり、それ以降は次第に衰退するが、複雑な対立はルネサンス時代まで継続する。 → イタリアの統一
a 両シチリア王国  → 両シチリア王国
b ローマ教皇領 754年、ローマ教皇に対するピピンの寄進によってローマ教皇領が成立、その後も教皇権の強化に伴って拡大し、ローマを中心に中部イタリアに広がった。しかし、1309〜76年の「教皇のバビロン捕囚」の間に、教皇領への教皇の支配力は弱まり、領内には封建勢力が生まれ不安定になった。15世紀にはいると、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ミラノ公国、ナポリ王国などのイタリアの有力な国々の対立を利用しながら、歴代のローマ教皇は巧みな領土経営を行い、また独自の傭兵軍を持ってその支配権を拡大した。特に、教皇アレクサンデル6世(在位1492〜1503)は息子のチェーザレ=ボルジアを使って教皇領の拡大をはかった。またユリウス2世(在位1503〜1513)も、ヴェネツィアと争って教皇領を北に広げ、ボローニャやフェラーラを獲得した。このころは教皇領は「教会国家」としてイタリア中部を支配する強国であったといえる。このユリウス2世はルネサンスの保護者の一人であった。なお、教皇領は16世紀以降は再び衰退するがそのまま存続し、近代ではイタリアの統一運動(リソルジメント)が始まるとその障害物とされることとなる。ローマ教皇はカトリック国フランスの支援を受けて、1861年のイタリア王国成立後も教皇領の独立した世俗権力を維持していたが、1870年に普仏戦争が起ってフランス軍が撤退したため、イタリア王国軍がローマ教皇領を占領し、併合した。こうしてローマ教皇領は消滅した。 → ヴァティカン
c ヴェネツィア共和国東方貿易(レヴァント貿易)で繁栄し「アドリア海の女王」と言われたヴェネツィアは、11世紀ごろ市民の中から統領(ドージェ)を選出し、共和国としての政治形態を整えた。13世紀末には上層市民が貴族として寡頭政治(少数の有力者が政権を独占する政治)を行う体制となった。1379年には競争国ジェノヴァ共和国を、キオッジアの海戦で破り、地中海の派遣を獲得し、大いに繁栄した。15世紀中頃から東地中海と東側の国境をオスマン帝国に脅かされるようになると、勢力を海上よりも内陸に向けるようになり、ローマ教皇やミラノ公国と争い、イタリアの強国の一つとなる。1571年にはスペインと協力してレパントの海戦でオスマン海軍を破ったが、15世紀末からの新航路の発見によって世界の貿易の中心が大西洋岸のリスボンなどに移るという、いわゆる商業革命に伴い、衰退する。16世紀にはオスマン帝国の侵出によって東地中海の領土と勢力圏を失った。1797年にイタリアに侵攻したナポレオン率いるフランス軍とオーストリア軍との間のカンポ=フェルミオの和約によってオーストリア領とされ、ヴェネツィア共和国は消滅した。ウィーン会議でもオーストリア領とされ、1866年の普墺戦争の結果、イタリア領に編入された。
d フィレンツェ共和国イタリアの内陸商業都市であるフィレンツェは、1115年に都市共和国(コムーネ)となり、13世紀以降は毛織物業と金融業で繁栄した。14世紀には黒死病の流行で打撃を受け、1378年には、下層労働者が毛梳き工が蜂起したチオンピの乱が起こった。反乱は鎮圧され、政権は上層市民が独占するようになった。1434年以降は金融業を営み有力となったメディチ家が政権を掌握し、最盛期を迎える。コジモ=ディ=メディチやその孫のロレンツォ=ディ=メディチは、ルネサンスの保護者として有名である。 → フィレンツェ(ルネサンス期)
1596年にメディチ家にトスカーナ大公の地位が与えられて世襲の君主となり、フィレンツェの共和政は終わりを告げる。メディチ家は1738年に断絶、トスカーナ大公の地位はハプスブルク家が継承する。1860年、サルデーニャ王国による統一の結果、イタリア王国に併合された。なお1865〜1871の間、フィレンツェがイタリア王国の首都であった。
e ジェノヴァ共和国ヴェネツィアと並んで十字軍時代に繁栄した港市のジェノヴァ共和国は、他の商業都市と同じく、新興の商人層と旧来の貴族層が、それぞれゲルフギベリンとに別れて対立していたが、1339年に中産市民が貴族政権を倒して統領(ドージェ)を選出するという共和政を樹立した。しかし、ヴェネツィア共和国との競争では、1379年のキオッジアの海戦で敗れて後退し、その後、ミラノやフランスの干渉を受けるようになる。ジェノヴァ商人はその後もスペイン王室などに食い込んで大航海時代に活躍した。コロンブスもジェノヴァ人であった。近代にはサルデーニャ王国に併合され、1860年成立のイタリア王国の一部となる。
f ミラノ公国北イタリアの要衝ミラノは、11世紀ごろから都市共和国(コムーネ)として繁栄し、神聖ローマ皇帝とも争ったが、14世紀の初めごろ都市貴族のヴィスコンティ家が権力を握り、そのジャン=ガレアッツォが神聖ローマ皇帝からミラノ公の地位を買収してミラノ公国となった。ヴィスコンティ家のミラノ公国は一時ロンバルディアから中部イタリアまで支配する大勢力となったが、1447年傭兵隊長であったスフォルツァ家が権力を奪取し、以後1535年まで専制君主としてミラノを支配する。この間、ミラノはフィレンツェと並ぶルネサンスの一つの中心地としても重要であった。その後はフランス、スペイン、オーストリアのハプスブルク家など外国の支配が続き、ナポレオンのイタリア遠征の際には、彼がつくったチザルピナ共和国の首都となった。その後はミラノを中心とするロンバルディアはオーストリア領に戻ったが、1848年には反オーストリアの市民暴動が起こった。イタリア統一戦争によって、1859年にサルデーニャ王国に併合される。
g 教皇党(ゲルフ) 12〜14世紀、イタリアを二分し対立した二つの勢力のうち、ローマ教皇を支持した勢力を教皇党(ゲルフ)という。
ゲルフ(またはグェルフ)は「ヴェルフェン」のイタリアなまり。ヴェルフェンとは、12世紀に神聖ローマ皇帝シュタウフェン朝(フリードリヒ1世バルバロッサ)のライバルだったザクセン公ヴェルフェン家(獅子公と言われたハインリヒが有名)に由来する。両者の争いの際、教皇がヴェルフェン家を支持したので、教皇党(派)をイタリアでゲルフというようになった。
11世紀の叙任権闘争に始まるローマ教皇と神聖ローマ教皇の対立から、イタリア国内が教皇党(ゲルフ)と皇帝党(ギベリン)に別れて争った。皇帝による支配に反撥する北イタリアのロンバルディア同盟に加わった大都市は、そのよりどころとしてローマ教皇に依存したので、教皇党を形成した。またシュタウフェン朝の皇帝を追いだした南イタリアのアンジュー家のナポリ王国はまとまった教皇党(ゲルフ)である。しかし、教皇党と皇帝党の対立は、都市対封建領主という構図にとどまらず、個々の都市の内部でも対立があり、おおよそ富裕な新興市民層はゲルフに属したと見て良いが、その時とばあいによってさまざまな対立が生じ複雑であった。
h 皇帝党(ギベリン) ギベリンは、神聖ローマ皇帝シュタウフェン家の居城ヴァイブリンゲンに由来し、イタリアで皇帝派を意味するようになった。大都市に対抗する中小都市(ピサなど)や、農村部の封建諸侯(貴族)は強力な皇帝による統治を期待して皇帝党(ギベリン)となった。両者の対立は、都市間にもあり、また都市の内部でも、新興市民層はゲルフ、保守的な大商人層はギベリンに別れる傾向があった。イタリアでは1268年にシュタウフェン朝がフランスのアンジュー家(シャルル=ダンジュー)によって滅ぼされてから皇帝党は衰退するが、対立はなおも14、15世紀のルネサンス時代にも尾を引き、イタリアの分裂の一因となった。
シチリア島 シチリア島は地中海のほぼ中心に位置する最大の島で、古来交通と通商の要地として重要であった。紀元前1000年頃イタリア本土からシクリ人(シチリアの語源)が移住、その後フェニキア人ギリシア人の植民市が建設された。とくにシラクサはギリシア人の植民市として重要。その後カルタゴ(フェニキア人)が進出、その支配を受ける。ポエニ戦争でカルタゴが敗れ、シチリアはローマの最初の属州となり、その後ローマ属州としてのシチリアとして、ローマを支える穀物供給地として支配を受ける。前2世紀には2回にわたり奴隷反乱が起こっている。ローマ帝国滅亡後、一時ゲルマン人の支配を受け、さらに6世紀にユスティニアヌス大帝のビザンツ帝国領となる。652年からイスラーム(ウマイヤ朝)の来寇が始まり、827〜902年にはアラブ人(アッバース朝)とベルベル人からなるマグリブのイスラーム軍の襲撃を受け、シチリアを占領、イタリア本土にも襲撃を繰り返した。この侵入に衝撃を受けたキリスト教世界では、危機感を持ったローマ教皇の要請もあって1130年ノルマン人のルッジェーロ2世がシチリアと南イタリアのイスラーム勢力を排除して両シチリア王国を建設した。これがシチリアのノルマン朝であるが、その後1194年からは、神聖ローマ皇帝シュタウフェン朝の支配を受け、特にフリードリヒ(フェデリーコ)2世は官僚制を整備し、パレルモはその都として繁栄する。皇帝と対立する教皇の要請で、フランスのアンジュー伯シャルルが1266年にシチリアに侵攻、シュタウフェン家のマンフレディを破り、アンジュー家が両シチリアを支配する。シュタウフェン家は1268年に最後のコンラディンがシャルルに殺されて断絶。その後、フランスの支配を不満とした島民が1282年に蜂起(シチリアの晩祷)し、援軍スペインのアラゴン家がシチリアを支配し、1302年にシチリア王国が成立、一方のアンジュー家はナポリを中心とした南イタリアのみを支配するナポリ王国となる。近代に入っても外国支配が続き、1504年にスペイン領、1713年にサヴォイ家(ピエモンテ)領、1720年にオーストリア領、1734年に再びスペイン領、ナポレオン時代にはフランス領と目まぐるしく支配者が代わった。リソルジメントの過程で、1860年ガリバルディの率いる赤シャツ隊がシチリアを占領し、住民投票でイタリア王国に編入された。第2次世界大戦では、1943年7月連合軍がシチリア島に上陸、反撃を開始した。……と説明が長くなりましたが、近代以前のシチリア島の支配者の交代をまとめると次のようになる。
 ギリシア人植民市 → カルタゴの支配 → ローマの属州 → ゲルマン人の支配 → ビザンツ領 → イスラームの支配 → ノルマン朝 → シュタウフェン朝 → アンジュー家(フランス)の支配 → アラゴンの支配 → スペイン領 ・・・ → イタリア王国
Epi. シチリア島とマフィア アメリカで大きな力を持っているマフィアの故郷はシチリア島であるとされている。生産力が低く、しかも長い間他国の支配を受けてきたシチリア人は「オメルタ」ということを大切にしている。この翻訳不可能な言葉は、誠実とか信頼の意味に近く、その表現形態は「沈黙」であり、さらに国家や法の支配に対する不信と反抗の表明であるという。苛酷な自然と権力者の支配に抵抗するために自然発生的に生まれた組織がマフィアであったらしい。初めは農民が主体で、中に山賊などもいたということだったらしいが、20世紀に入ってアメリカに向かった多数のイタリア移民の中で犯罪に走った連中がコーザ=ノストラなど強固な秘密組織をつくっていった。彼らは麻薬の密売で得た利益を様々な分野に投資し、時には政治家とも闇で結びついてその組織を拡大していった。コッポラ監督の映画『ゴッド=ファーザー』に描かれた世界だが、本来のシチリア島のマフィアとは全く違ったものになった。<藤沢房俊『シチリア・マフィアの世界』1988 中公新書>
A ノルマン朝(シチリア)ノルマンディにいたノルマン人騎士は傭兵として南イタリアのイスラーム勢力との戦いに出向いていった。その指導者ロベルト=ギスカルドはローマ教皇から南イタリアの領有を認められ、さらにその弟ルッジェーロ2世はシチリア島を奪取し、1130年、南イタリア(ナポリが中心)とシチリア島にまたがる両シチリア王国の樹立をローマ教皇から認められ、パレルモ(シチリア島)で戴冠した。1194年、シュタウフェン朝のシチリア支配まで続く。 → ノルマン人の南イタリア進出
B シュタウフェン朝の支配(シチリア)神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は、イタリア全土の支配をめざし、息子ハインリヒをノルマン朝シチリア王国の王女と結婚させた。その間にシチリアのパレルモで生まれたのがフリードリヒ2世であり、彼が1194年シチリア王となり、シュタウフェン朝の支配が始まる。フリードリヒ2世(イタリア風の言い方ではフェデリーコ2世)はドイツ王、神聖ローマ皇帝でありながらほとんどシチリアを離れず、パレルモで政治を行い、その宮廷は当時ヨーロッパで最も進んだ文化を生み出した。また祖父の1世と同じく、ローマ教皇、ロンバルディア同盟と激しい対立をくり返し、イタリアを教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)の二派に別れての争いが続いた。1266年、ローマ教皇はシュタウフェン家を南イタリアから排除するため、フランス王ルイ9世に働きかけ、ルイ9世は弟のアンジュー伯シャルル(シャルル=ダンジュー)を派遣した。シャルルはシュタウフェン家のマンフレディ(病死したコンラート4世の弟)を倒してシチリア王となり、1268年にはコンラート4世の遺児コンラディンも殺害して、シュタウフェン家は断絶した。
▲a フリードリヒ2世 → フリードリヒ2世 
▲b パレルモシチリア島北岸の都市。もとはフェニキア人の植民市で、前5世紀にはカルタゴのシチリア島支配の中心となった。次いで、ローマ、ゲルマン人、ビザンツの支配を受け、831年にはイスラームが侵入した。1072年、ノルマン人のルッジェーロ2世がシチリアを支配しノルマン朝が成立するとその宮廷がおかれ、次のシュタウフェン朝でもフリードリヒ2世の宮廷として栄えた。このようにパレルモには、古代ローマ・ゲルマン・ビザンツ・イスラーム・キリスト教の文化が混在する、独特な文化が形成された。1282年には島を支配したフランス人に対して反撃したシチリアの晩祷事件が起きている。近代でもシチリア島を支配したスペインやフランスの統治期間がおかれたが、1860年にはガリバルディの赤シャツ隊がシチリアに上陸、パレルモを市街戦を制してブルボン軍を撃退して、シチリアを解放しイタリアの統一(リソルジメント)を決定づけた。
C アンジュー家の支配(シチリア)シチリアのシュタウフェン朝支配を覆そうとしたローマ教皇は、フランスのルイ9世の弟アンジュー伯シャルル(シャルル=ダンジュー)に攻撃を依頼。シャルルは1266年シチリアに侵攻しシュタウフェン家の王マンフレディを破り、シチリア王となった。シャルルはシチリアを拠点に地中海支配をねらったが、1282年、フランスの支配に反撥する島民が蜂起したシチリアの晩祷事件が起き、スペインのアラゴン家(マンフレートの女婿)の介入を招き、シチリア島を失う。
▲a シチリアの晩祷  イタリアのシチリア島で1282年、フランスのアンジュー伯シャルルの支配に対して起こった反乱。1282年の3月30日、復活祭の月曜日の夕方でにぎわうシチリア島のパレルモで、アンジュー家のシャルルの家来たちが女性にちょっかいを出し、いざこざが起こった。激怒した住民は「フランス人に死を!」の叫びをあげて襲いかかった。ちょうどそのとき、タベのミサの鐘が鳴りはじめた。鐘の響きに送られるかのように、暴動は瞬く間に島全体に広がり、多くのフランス兵が虐殺された。これを「シチリアの晩祷」(またはシチリアの晩鐘、シシリアン・ヴェスパー)という。背景には、フランス人の支配に対するシチリア島民の反撥、また当時、シャルルがローマ教皇と結んで、十字軍と称してビザンツ遠征を行おうとして島民に課税をしたことへの反撥もあった。メッシナに集結していたシャルルの艦隊も破壊された。シャルルも反撃に出て、態勢を立て直すかにみえたが、8月末にアラゴン王ペドロ三世の艦隊が到着し、シャルルの軍を撃破した。アラゴン王はシャルルに追われた前シチリア王マンフレートの女婿であったので、シチリア島民に乞われて来援したのである。その後も両者の争い続き、ようやく1302年、アラゴン王がシチリア王を兼ね、アンジュー家はナポリ王国を支配することで和議が成立、両シチリア王国は分離することとなった。「シチリアの晩祷」事件は、イタリア人のフランス人に対する反撥と、そのナショナリズムを高揚させた事件として、その後も文学や音楽に取り上げられている。
D 両シチリア王国の分離  
a シチリア王国 1282年のシチリアの晩祷事件以後に、1302年、アラゴン王が王位を兼ねるシチリア王国が成立した。→シチリア島
b ナポリ王国 同じくシチリアの晩祷事件後、フランスのアンジュー家の支配が続いたのがナポリ王国である。アンジュー家のもとで、ゲルフ(教皇党)の中心勢力となった。1435年、アンジュー家の家系が断絶し、アラゴン家が継承し、両シチリア王国が復活する。アラゴン王国がカスティリャ王国と合同した1479年からは、両シチリア王国もスペイン領となる。しかし翌1480年には南部のオトラントをオスマン帝国軍に1年間占領されることもあった。1494年にはアラゴン家の王位が絶えたことから、フランスのシャルル8世が王位継承権を主張して自ら遠征し、イタリア戦争が勃発したが、ローマ教皇とスペイン王フェルナンド5世などが結束し撤退させた。1504年にはフェルナンド5世はフランス王ルイ12世と戦い、ナポリ王国を併合した。その後、1806年にはナポレオンの兄ジョセフが、次いで08年から14年まで部将のミュラーがナポリ王として統治した。この間、一定の近代化が進んだ。ナポレオンの没落により、スペイン系ブルボン朝が復活した。その後もシチリア王国とは別個の国家であるが同一の君主をいただく王国として推移する。イタリア統一の気運が強まるなか、1860年にはガリバルディ軍に占領され、また北からはサルデーニャ国王ヴィットリオ=ーエマヌエーレ2世軍に攻められて、イタリア王国に併合される。
サ.北欧諸国
a デンマーク  → 6章 1節 カ.ヴァイキングの活動 デンマーク
b スウェーデン  → 6章 1節 カ.ヴァイキングの活動 スウェーデン
c ノルウェー  → 6章 1節 カ.ヴァイキングの活動 ノルウェー
d マルグレーテ デンマーク王女でノルウェーのホーコン6世と結婚、1387年両国の実質的女王となる。スウェーデンに勢力を伸ばし、1397年カルマル同盟を結成して三国の実質的合同君主となる。国王は妹の孫エーリックをつけるが事実上の国王としての支配を1412年まで続ける。マルグレーテは息子のオーラフを国王とするため、王位継承権を放棄していた。そのため国王にはなれなかったので、エーリックを名目上の国王にし、自らは摂政として統治にあたった。実質的に国王として権力を持っていたので、一般に「マルグレーテ女王」と言われている。
e カルマル同盟 1397年、デンマーク・ノルウェー・スウェーデンの北欧三国が結成した同盟で、三国はデンマークのマルグレーテを実質的女王とする同君連合となった。建前は三国は対等であったが、実体はデンマークを盟主とする。カルマルはスウェーデンの都市。1523年、スウェーデンがグスタブ=バーサを指導者とした独立運動を起こして離脱し、解体した。
f フィン人バルト海北岸に居住するアジア系ウラル語族に属すると言われる民族。700年ごろ、ヴォルガ川方面から移住したと言われる。スウェーデンに隣接して一部はそれに同化する。フィンランドは13世紀にスウェーデンに併合され、その一州となる。ナポレオン戦争時代に民族意識が芽生えるが、1809年ロシアに割譲され、フィンランド大公国となる。その後もロシアの支配に対する抵抗を続けることとなる。 → フィンランド  現代のフィンランド