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3.フランス革命とナポレオン(1)
ア.フランス革命の構造
 旧制度(アンシャン=レジーム) フランス語でアンシャン=レジームとは「古い体制」の意味。通常は「旧制度」と訳し、フランス革命前の、絶対王政下のフランスの政治・社会のありかたをいう。ブルボン朝の国王を頂点とし、少数の貴族階級が権力を握り、経済的には彼らは封建領主として農民を支配し、免税特権を認められていた。国民の大多数である農民は農奴として重い負担に苦しめられていた。パリなどの都市にはブルジョアジーも成長してきたが、まだ力は弱く、農民と同じく思い課税に苦しみ、参政権も認められていなかった。
一方で18世紀のフランス絶対王政は、イギリスとの植民地抗争、ヨーロッパでの領土拡張戦争に明け暮れ、国王の贅沢な生活と共に、国家財政は危機に瀕してきた。そのため、ルイ16世は三部会を開催して貴族への課税を行おうとしたところから、貴族の反発が始まり、そこから一気に王制の打倒にまで到達するフランス革命へと展開していく。
a 絶対王政  → 第9章 4節 絶対王政
b 第一身分 フランスのアンシャン=レジーム下の特権階級である聖職者(司教、司祭などカトリック教会の僧族)。高位聖職者は貴族の出身であり、同時に封建領主であった。ただし、下級聖職者(司祭)の中には改革賛成者も多かった(アベ=シェイエスも聖職者であった)。フランス全土で約12万、人口比で約0.5%とされる。
c 第二身分 フランスのアンシャン=レジーム下で、第一身分の聖職者と並び、特権階級を構成する貴族のこと。貴族には、古くから宮廷に仕え、国王から年金を支給されている宮廷貴族、地方において領地を持ち農奴を使役して経営している地方貴族、新たに富裕になった商人などで国王に仕える官僚となった法服貴族、の三種類があり、利害は対立していた。当然、貴族の多くは王政維持に努め、改革に反対したが、中にはラ=ファイエットのように改革派の貴族もおり、フランス革命の最初の突破口を開いたのは彼らだった。 
d 免税  
e 第三身分 フランスのアンシャン=レジーム下で、第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)に次ぐ身分とされた、商工業工業者、都市民衆、農民など、人口の大部分を占める。大きく分けて、農民と市民(都市住民)とからなり、それぞれ富裕な層と貧困層(小作人や下層市民)に分かれる。少数の富裕な有産市民(商工業ブルジョアジー)として、絶対王政に反対したが、共和政への急進的な変革にも反発する存在であった。下層市民はサン=キュロットと言われ、革命の過程で急進派を形成することとなる。第三身分は、領主への貢租、国王への租税、教会への十分の一税などの負担を強いられたが、参政権その他の人権は認められなかったため、革命を起こす原動力となっていく。1788年、シェイエスは、『第三身分とは何か』を発表してアンシャン=レジームを批判し、フランス革命の口火を切る。
d 農民(18世紀フランス) 
g 十分の一税  → 第6章 1節 十分の一税
f 有産市民(ブルジョアワ)(18世紀フランス)フランスのアンシャン=レジーム下では商工業者は農民と共に第三身分に属し、人口の多数を占め、その生産と経済を担っていたが、政治的には無権利の状態に置かれていた。しかし、絶対王政のもとで、コルベール以来の重商主義政策による産業保護政策がとられるようになって次第に商工業が発達、1730年代(ルイ15世)になると、ようやく人口が増加傾向に転じ、経済成長も見られるようになった。その背景は、従来のギルド規制がくずれ、都市の親方層は分解し、農村に独自の農村工業が成長してきたことであった。特に、アルザス=ロレーヌ地方の金属工業、リヨンの絹織物、北フランス・ノルマンディ、フランドル、南フランスのラングドックなどの農村繊維工業(亜麻、羊毛、木綿)などが顕著な発展を見せた。この段階の生産方式はマニュファクチュアであり、問屋が産業資本家として資本を蓄積し始めた段階である。すでにイギリスが同じ時期に工業の機械化が開始され、1760年代の産業革命に突入したのに比べれば、フランスのブルジョアジーの成長は遅れていたと言わなければならないが、この18世紀のブルジョアジーの成長はアンシャン=レジームと矛盾し、世紀末のフランス革命をもたらす原動力となった。
h 「第三身分とはなにか」 シェイエスの発行した「第三身分とは何か。すべてである。今日まで何であったか。無である。何を要求するのか。それ相当のものに。」と題するパンフレット。 シェイエスは聖職者である(アベ=シェイエスともいわれた)が、第三身分の代表として三部会に参加していた。
資料:『第三身分とは何か』
「一つの国民が存続し、繁栄していくためには何が必要であろうか。私的労働と公的職務である。私的労働はすべて、四つの種類に概括できる。1.農耕‥‥2.製造業‥‥3.商業・卸売業‥‥4.学術・自由業から家事奉公まで‥‥。社会を支えているのは以上のような労働である。それらを担っているのは誰か。第三身分である。公的職務は、‥‥剣(軍事)、法服(法曹)、教会、行政(の四つに分類でき、)これらの職務のうちほとんど20分の19までを第三身分が占めており、‥‥したがって、第三身分とは何か。すべてである。ただし、足枷をはめられ、抑圧されたすべてである。特権身分がなくなれば、第三身分はどうなるであろうか。すべてである。ただし自由で活々としたすべてである。‥‥貴族身分は、その民事的、公的特権によって、われわれのなかの異邦人にほかならない。国民とは何か。共通の法の下に暮し、同一の立法府によって代表される協同体である。‥‥第三身分は国民に属するすべてのものを包含しており、第三身分でないものは国民とは見なされない。第三身分とは何か。すべてである。<『第三階級とは何か』岩波文庫 大岩誠訳>
シェイエス アベ=シェイエスともいう。アベとは名前ではなく、僧侶の意味で、彼が聖職者出身であったのでそう呼ばれた。シーエスとも表記。聖職者の出身ではあったが、第三身分の代表として三部会に選出され、1788年に『第三身分とは何か』を発表してアンシャン=レジームを批判し、フランス革命の口火を切った、と言える。国民議会の設立や1791年憲法の制定などに尽力した。しかし革命が激化すると次第に保守的となり、表舞台からは消えた。ロベスピエール失脚後に復活して総裁政府の一員となり、ナポレオンと結んでブリュメール18日のクーデタを行い、統領政府では第一統領ナポレオンに次いで第二統領となった。ナポレオン没落に伴って亡命したが、七月革命で帰国、1836年に88歳で死んだ。フランス革命の指導者はほとんど若死にだったが、このシェイエスはタレーランと並ぶ長命な革命家だった。彼は「ミラボーとともに革命を生み、ナポレオンとともに革命を葬った」と言われる。
 旧制度への不満の増大  
a 啓蒙思想  
b イギリスの立憲政治  → 第10章 1節 イギリス革命
c アメリカ独立革命  → 第11章 2節 アメリカ独立革命
フランス革命 1789年に勃発した、フランスのブルボン朝絶対王政を倒した市民革命(ブルジョア革命)。アメリカ独立革命に続いて大西洋をはさんで起こった一連の市民社会の形成をもたらし、19世紀以降の「西欧世界」主導の世界史の流れを作った、いわゆる「大西洋革命」の一環であり、また同時に展開されたイギリスの「産業革命」と並行する「市民革命」として、「近代資本主義社会」を完成させた動きととらえることが出来る。
フランス革命の時期を、いつまでととらえるかにはいろいろな考え方がある。一般にナポレオンの登場までを革命の時期として扱うが、ナポレオン時代も広くフランス革命の一部ととらえることも可能である。ここでは一応、ナポレオンの登場までをフランス革命の時期ととらえ、その展開をノートにまとめたとおり、4段階に整理した。各段階の要点は次の通り。
第1段階 <1789〜1791>=絶対王政から立憲君主政へ
18世紀のブルボン朝のアンシャン=レジーム下では対外戦争と宮廷の奢侈などによる財政難が進行し、ルイ16世は貴族に対しても新たな課税を必要とし、その同意を取るために三部会を招集したが、そこに結集した第三身分の代表は、国民議会の開催を要求、国王が拒否したことから1789年7月14日、パリの民衆のバスティーユ牢獄襲撃の暴動が起こり、革命に転化した。当初は開明的な貴族が指導して、人権宣言封建制の有償廃止などが行われ、イギリスと同じ立憲君主政に移行するかと思われたが、国王逃亡事件など国王側の失態が続いて国民の支持を失い、また革命への干渉を強めた外国勢力への反発から、国民の中の革命気運が盛り上がった。
第2段階 <1791〜92> =立憲君主政から共和政へ
立憲君主政体をとる1791年憲法に基づき、立法議会が成立し、穏健共和派のジロンド派主導によるブルジョア政権が、革命干渉軍に対する防衛戦争を開始した。その最初の戦いである92年のヴァルミーの戦いでプロイセン軍に勝利し、また同時に男子普通選挙による国民公会を成立させた。国民公会は王政を廃止し、第一共和政が始まった。しかし、革命のこれ以上の進行を望まないジロンド派ブルジョア政権と急進派である山岳派の対立が始まり、次第に急進派のジャコバン派が台頭して、国王16世の処刑が行われた。革命の深化に対してはイギリスなどの干渉が強まる(第1回対仏大同盟)とともに、国内でも反革命の暴動が各地に起きるなど、不安が広まった。
第3段階 <1793.1〜94.7>=急進的共和政の展開
急進的な共和政をめざすロベスピエール主導のジャコバン派独裁政権による、貴族や反革命派に対する過酷な弾圧が行われ、恐怖政治が展開されたが、その中で封建制の無償廃止などが実現した。日常生活の細部に及ぶ厳格な革命理念の強制は、次第に民衆の支持を失い、テルミドールのクーデタによってロベスピエールとジャコバン政府は倒された。
第4段階 <1794.7-99.11>=総裁政府からナポレオンの登場へ
穏健な共和派の主導する総裁政府が成立。しかし、革命前に戻そうという王党派の反乱や、社会改革を徹底させようという左派のバブーフの蜂起計画などが起こり、不安定であった。そのような中、政治の安定とフランスの膨張を望む、保守化した農民や都市の小市民の支持を受けて、軍人のナポレオンが登場し、イタリア遠征やエジプト遠征で名声を高めた後、1799年のブリュメール18日のクーデタで総裁政府を倒し、新たに統領政府を樹立、自ら第一統領となって、将来の独裁、皇帝への道を開いた。
英仏通商条約 1786年、アンシャン=レジーム期のフランス・ブルボン朝と、産業革命期のイギリス(トーリー党ピット内閣)が結んだ通商条約(イーデン条約)。
「1786年、自由貿易的色彩をもつ、英仏通商条約が重農主義者デュポンなどの活動によって結ばれたが、これはイギリスの工業製品とフランスの穀物・ブドウ酒などを結びつけたものであって、ルーアンの綿織物をはじめフランス産業は競争に敗れて衰退せざるを得ない結果となった。このことは、産業家のあいだで産業保護の要求をたかめ、労働者は不況をこの条約のせいにしたが、・・・この条約によって王権はかならずしも国民的利益を代表しないという考えが広く浸透しはじめたのである。」<河野健二『フランス革命小史』岩波新書 1959 p.65>
イ.立憲君主政の成立
 ルイ16世 フランス・ブルボン朝の国王(在位1774〜92年)。フランス革命の渦中の1793年に処刑された。ルイ15世の孫。即位当時フランスは、ヨーロッパでの領土拡張戦争、新大陸やインドでのイギリスとの植民地抗争などで深刻な財政難に見舞われていた。ルイ16世は、20歳で即位すると、テュルゴーなど有能な人物を採用してその財政再建にあたらしたが、自身は政治には関心を持たず、もっぱら狩猟や宮中の舞踏会に興じていた。1770年に結婚した、オーストリアの王女マリー=アントワネット(マリア=テレジアの娘)は贅沢な生活を送り、ますます財政を苦しくした。1789年5月、財政難を解決するため貴族に対する新たな課税を企て、三部会を召集したところ、一部の貴族と第三身分の反発を受け、フランス革命が勃発するきっかけとなった。革命が起こると立憲王政への移行をめざす動きもあったが、結局1791年6月21日、ルイ16世はマリ=アントワネットと国外逃亡を企て(ヴァレンヌ逃亡事件)て失敗し、全く国民の信頼を失って王権は停止され、翌92年に退位し、93年には国王として処刑された。
a 宮廷の奢侈生活  
b イギリスとの植民地戦争の敗北  
c アメリカ独立戦争への援助  → 第11章 2節 アメリカ独立革命 フランスの参戦 
財政改革 ルイ16世のもとで深刻となったフランスの財政難を解決するために、テュルゴーネッケルによる財政改革では、宮廷費の削減、貴族年金の停止などの支出削減とともに、重農主義の思想に立つ国内産業の保護育成策が採られた。また、歳入の増加のため、第1身分、第2身分の免税特権を無くし、課税を行うことも検討された。いずれも上位聖職者や宮廷貴族の反対によってテュルゴー、ネッケルとも罷免され、効果を上げることはできなかった。
d テュルゴー 1774年、ルイ16世によって財務総監職 controle general des finance すなわち宰相職に任命された。チュルゴーはリモージュ地方の地方総監 intendantであった。彼はケネーなどの重農主義者やエコノミストの思想を実現しようとし、国内関税の廃止、同業組合の廃止、などを行おうとしたが、飢饉を恐れる農民、職人、特権層の反対を受けた。1776年5月12日罷免される。
e ネッケル ルイ16世によって、1777年にテュルゴーに代わって財務総監督官に任命される。ネッケルはスイス人の銀行家。プロテスタントだったため総監の称号は与えられなかったが、今日の内務・大蔵・経済の各大臣に相当する権限を持っていた。アメリカ独立戦争の援助を増税でなく借入で行い、人気を得る。
ネッケルは、『国王への報告書』、つまりフランスの予算を公表した。それはフランス史上始めてであり、好評を得て、英語その他ににも翻訳された。彼は予算の均衡していることを示したが、それでも廷臣への手当が過大であること、アメリカへの援助支出が計上されず、臨時支出とされていたことから、自分達の手当を暴露された廷臣たち、いいかげんな予算書を公表して人気を博したと怒った財政官たちからの批判が強くなり、1781年5月辞任を余儀なくされた。その後、復帰して宮廷内での自由主義的な改革を進めたが、三部会が開催され、第三身分の動きが活発になると、ルイ16世は再びネッケルを罷免した。ネッケルの罷免がパリ民衆の国王への不満を爆発させ、1789年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃の引き金となった。
 三部会開催 フランス三部会は、フィリップ4世がローマ教皇と対立したとき、国内の貴族たちから新税を徴収することを認めさせるために召集した身分制議会。絶対王政が確立したルイ13世の時の1614年を最後に開催されなくなった。ルイ16世は財政難の解消のため、貴族にも課税しようとして、170数年ぶりに三部会を召集した。三部会は1789年5月、ヴェルサイユ宮殿で開催。聖職者291名、貴族270名、第3身分が578名で計1139名の代議員。ネッケルが召集の理由の国庫の赤字について触れた。しかし代議員の関心は、議決方法−身分ごとの投票か、頭数による投票か−であった。第3身分代表は翌日、イギリスに倣って庶民院とよぶことにし、個別身分の議院を構成する事を拒否。貴族もまた独自の議院を構成する事を宣言、聖職者は意見がまとまらなかった。こうして三部会は召集されたが議決できない状態に陥った。
a 議決方法 ルイ16世が召集した1789年の三部会において採決の方法で対立し審議に入れなかった。第一身分の聖職者と、第二身分の貴族は、身分ごとの投票(身分別議決法)を主張したのに対し、それでは2対1で不利になることの明らかなため、第三身分の議員は、議員一人一票を主張した(議員数では第一身分と第二身分の合計が561名、第三身分が578名であった)。約40日にわたって議決方法について議論したがまとまらず、ついに第三身分は独自に国民議会を開催することになった。 
b 国民議会 フランス革命初期、三部会から分離し第三身分を中心に発足した、憲法制定のための議会。封建的特権の廃止や人権宣言など重要な決定を行い、立憲君主政を柱とした1791年憲法を制定した上で解散した。
1789年6月17日、シェイエス『第三身分とは何か』の著者)の提案で第三身分部会は自らを「国民議会」Assemblee nationale となのった。6月19日には第1身分が149票対137票で国民議会に合流を決議。第2身分は拒否、国王ルイ16世に援助を求める。翌日、国王は国民議会に議場の使用を認めず、議場を閉鎖したので、議会側は球戯場に集まり、有名な「球戯場の誓い」を決めた。結局国王が譲歩して第一と第二身分の第三身分への合流を勧告、三部会は消滅し、国民議会が憲法制定の場として確定した。7月9日に憲法制定国民議会と改称し、憲法の制定に着手した。国民議会の党派は王政派から立憲派、共和派までさまざまであったが、主力はこの段階ではミラボー、ラファイエットら立憲君主主義者であった。1791年9月に91年憲法の制定によって役割を終えて解散、立法議会が成立した。
c 球戯場(テニスコート)の誓い
1789年6月20日、国王ルイ16世第三身分の議員が使用する事を認めず、議場を閉鎖したため、第三身分の議員はジュ−ド−ポム(球戯場)に集まり、議員ムニエの主導により、熱狂のうちにほぼ満場一致で「憲法が制定され、かつ堅固な基盤の上に確立されるまでは議会を解散せず、状況に応じていかなる場所でも議会を開く」ことを誓った。 6月23日、三部会にルイ16世が親臨。いくつかの保留事項以外の一般的利害に関する事項は頭数による投票とする、その他、租税負担の平等、個人の自由、出版の自由、農奴制の消滅などを宣言し、三部会の解散を要求したが、第三身分の議長バイイ、ミラボーらは無視、議場を動かず。国王は結局譲歩して特権二身分の第三身分への合流を勧告、三部会は消滅することとなった。その結果、7月9日に、憲法制定を任務とした国民議会が正式に発足した。
図解:左図はダヴィドの描く1789年6月20日の「球戯場の誓い」。1791年にダヴィドが国民議会の後援を受けて製作したもの。中央で手を挙げて宣誓文を読み上げているのが議長のバイイ。そのしたで座っている白い服の人物がシェイエス、その右二人目で黄色い服で胸に手を当てているのがロベスピエール、さらに二人目で黒い服を着て両足を踏ん張っているのがミラボー、その右がバウナーヴ。<柴生瑞和編『図説フランス革命』河出書房新社>
 国民議会(の党派)国民議会内の大まかな党派は次のようなものであった。(1789年9月ごろ)
王政派:マルーエ、ラリ=トランダルら
立憲派:ミラボーラ=ファイエットシェイエス、ル=シャプリエ、バレールら
三頭派:バルナーヴ、デュポール、ラメット兄弟ら
民主派:ロベスピエール、ペチヨン、ビュゾら
a 1789年7月14日 ルイ16世国民議会の成立に対抗し、第3身分の動きを封じようとして、全国から2万の軍隊をヴェルサイユに集めようとした。また宮廷内で自由主義的改革を進めていたネッケルを罷免した。それらの報せがパリ市民に伝わると、国民議会を支持する市民が武装蜂起した。この日の朝、民衆はアンヴァリッド(廃兵院)で武器を奪ったが、弾薬と火薬が不足していた。バスティーユ牢獄(リシュリュー時代から牢獄として使われていた要塞)に弾薬と火薬があるという噂で、群集が押し掛け、代表が受け渡しを交渉するが要塞司令官ロネーが拒否。何度かの交渉の後、午後1時半ごろ守備隊(退役兵とスイス兵)が発砲。5時、守備隊降伏、囚人は開放され、弾薬・火薬が奪われ、司令官は首をはねられた。攻撃側も100人ほどが死亡した。これがきっかけで全国の農民が領主の館を襲撃し始め、旧体制に対する不満が一斉に噴き出して、フランス革命が始まった。
Epi. 「陛下、騒乱ではございません。革命でございます。」 7月14日はルイ16世は一日中、狩猟をして疲れてしまい、夜はぐっすり寝た。翌朝、寝室で目覚めたルイ16世は、衣裳係のラ=ロシュフコ=アンクール公からヴェルサイユの事件の報告を受けた。ルイ16世は事態の切迫を理解できず、「それは騒乱かね?」と尋ねると、公は「いいえ、陛下、騒乱ではございません。革命でございます。」と答えた。
b バスティーユ牢獄 バスティーユ牢獄は、本来は要塞で、高さ30mの城壁と幅25mの濠でかこまれていた。このような要塞は全国に30ほどあり、王政に反対する政治犯を収容する牢獄としても用いられ、国民は裁判もなしでいつここに閉じこめられるか判らなかった。バスティーユ牢獄は専制政治の象徴であった。1789年7月14日、国王の専制に反対し、国民議会を支持して蜂起したパリ市民が、武器を手に入れようとしてバスティーユ牢獄を襲撃したことからフランス革命が勃発した。
三色旗
バスティーユ牢獄襲撃の翌日、その勝利によってパリの選挙人たちは市政を掌握し、バイイを市長に選出し、ラ=ファイエットを革命軍である国民衛兵(ガルド・ナショナル)の指揮官に任命した。ラ=ファイエットは、パリ市の色である赤と青のあいだに、国王をあらわす白を入れた三色の帽章を国民衛兵に与えた。その後三色旗が革命およびフランスの象徴となるが、これが新旧のフランスを結びつけることによって作られた点は注目される。ここには、この時期の世論とラ=ファイエットの立場とが同時に示されている。<河野健二『フランス革命小史』p.83などによる>
三色旗はその後、革命のシンボルとして広く用いられるようになり、国民公会は1794年に共和国の国旗とした。ナポレオン時代には三色旗がヨーロッパを駆けめぐった。1812年には竿側から青、白、赤の配列が確定し、王政復古期は用いられなかったが、1830年の七月革命で再び正式に国旗となった。現在では青は自由を、白は平等を、赤は博愛を表す、とされている。 → 現在のフランス共和国
大恐怖 フランス語でグランド・プールという。1789年の春以来、食糧不足と物価騰貴によって、農村は浮浪者が増加し、一種の恐怖状態の中にあった。パリ市民の7月14日のバスティーユ牢獄襲撃の報せが広まると、農民たちのあいだに貴族が外国人部隊や浮浪者をつかって農民を襲撃するという噂が急速に広まった。恐怖に駆られた農民は武器を取って貴族(封建領主として農園を持っている地方貴族)の屋敷を襲撃し、殺害や略奪などの暴行を行った。この農民反乱は7月から8月にかけてフランス中部を覆い、革命は全国的な社会変革へのエネルギーの爆発となった。危機感を感じた貴族、ブルジョワジーは妥協をはかることを考え、8月4日に国民議会で封建的特権の廃止の宣言を発した。革命の危機を避けて、多くの貴族が、プロイセンやオーストリアに亡命(エミグレ)した。
c 封建的特権の廃止 1789年8月4日、国民議会で可決され宣言された、フランス革命の中心的な成果である。農奴制領主裁判権、教会への十分の一税は無償で廃止され、貢租は20〜25年分の年貢を一括で支払えば免除されることとなった。つまり貢租は有償廃止と言うことであったので、実際に年貢を一括で支払って土地を自分のものにした農民は少なかった。それでもこの「封建的特権の廃止」は従来の貴族制と農奴制をなくする画期的なものであり、農村の暴動も鎮静化に向かった。
「農村の激しい反封建闘争の展開に対し、貴族の中にも譲歩の必要を感じて妥協点を見いだそうと言う動きが起こった。ノアイエ子爵が封建的特権を農民に買い戻させる事によって自然に消滅させることを提案、満場の興奮の中で、その他の特権の廃止も決定され、フランスは一つの国民しか存在しない国家となった。」<ニコル『フランス革命』文庫クセジュp.75>  
d 十分の一税  → 十分の一税
e 有償廃止 フランス革命期の国民議会で、1789年「8月4日の決議」による封建的特権の廃止のうち、領主の保有地の地代(貢租)は有償廃止とされた。領主の保有地を保有する農民は、貨幣地代の場合は20年分、生産物地代の場合は25年分を払い、所有権を得ることとなった。なお、領主の直営地(直接に小作農に耕作させている土地)はそのままであったし、領主保有地を保有する地主がその地を小作農に耕作させているのもそのままであった。(小作というのは、封建的な二重の所有ではなく、完全な所有権があり、近代的な契約とみなされていた。)<柴田三千雄『フランス革命』岩波セミナーブックス p.99> 
f フランス人権宣言 1789年8月26日、フランス国民議会で制定された。Declaration des Droits de l'Homme et du Citoyen 前文と7条から成る。ラ=ファイエットらが起草。国民の自由と平等、圧制への抵抗権、国民主権、法の支配、権力分立、私有財産の不可侵などを規定アメリカ独立宣言ルソーの啓蒙思想などの影響が認められる。
資料:フランス人権宣言抜粋
前文「国民議会を構成するフランス人民の代表者たちは、人権についての無知、忘却あるいは軽視のみが、公衆の不幸および政府の腐敗の原因であることにかんがみ、人間のもつ譲渡不可能かつ神聖な自然権を荘重な宣言によって提示することを決意した。それは、この宣言が社会体の全構成員の心にいつも残ることによって、彼らがその権利および義務をたえず想起するようにするためであり、立法権の行為および執行権の行為がたえずあらゆる政治制度の目的と対比されることをつうじていっそう尊重されるためであり、今後、簡潔にしてかつ誰の目にも明かな原理に基礎をおく市民の要求が常に憲法の維持と万人の幸福とに向かうようにするためである。‥‥
1.人間は自由で権利において平等なものとして生まれ、かつ生きつづける。社会的区別は共同の利益にもとづいてのみ設けることができる。
2.あらゆる政治的結合の目的は、人間のもつ絶対に取り消し不可能な自然権を保全することにある。これらの権利とは、自由、所有権、安全、および圧政への抵抗である。
3.すべて主権の根源は、本質的に国民のうちに存する。いかなる団体も、またいかなる個人も、明示的にその根源から発してはいない権限を行使することはできない。
4.自由は、他人に害を与えないすべてのことをなしうることに存する。‥‥これらの限界は法によってのみ定めることができる。
5.法は、社会に有害な行動しか禁止すること権利を有さない。
6.法は一般意思の表現である。‥‥
7.いかなる者も、法が明確に定めた場合について、しかも法が規定した手続きによるのでなければ、告発も、逮捕も、拘留もされえない。‥
8.法は必要最低限の刑罰しか定めてはならない。‥‥
9.いかなる者も、有罪を宣告されるまでは無罪である‥‥
10.いかなる者も、その主義主張について、たとえそれが宗教的なものであっても、‥‥その表明を妨げられてはならない。
11.思想および主義主張の自由な伝達は、人間のもっとも貴重な権利の一つである。‥‥
12.‥‥公安力は、万人の利益のために設けられるのであって、それがゆだねられる人々の‥‥ために設けられるのではない。
13.‥‥租税は、すべての市民のあいだでその資力に応じて平等に分担されなければならない。
14.市民はすべて、‥‥公の租税の‥‥使途を注意深く見守り、その分担額、基礎、徴収および期間を定める権利を有する。
15.社会は、すべての官公吏にたいしてその行政についての報告を求める権利を有する。
16.いかなる社会であれ、権利の保障が確保されておらず、また権力の分立が定められていない社会には、憲法はない。
17.所有権は、神聖かつ不可侵の権利であり、したがって、合法的に確認された公的必要性からそれが明白に要求されるときであって、かつ予め正当な補償金が支払われるという条件でなければ、いかなる者もその権利を剥奪されえない。<資料『フランス革命』 p.104>
g ラ=ファイエット 1777年、若いラ=ファイエット侯爵(20歳)は、国王ルイ16世の禁止にもかかわらず、フランスを離れ、スペインのパサヘス港から出航、合衆国に着いて、ワシントン将軍に合流した。7月31日アメリカ大陸会議によって陸軍少將に任命される。自費で部下の装備を補充し、兵士と苦楽をともにし、勇敢な将校として戦功をたて、ワシントンに次ぐ人気を得た。ラ=ファイエットの父は彼が2歳の時、七年戦争で戦死したので、それに対する復讐という反英感情があった。フランスに戻り、1789年、フランス革命が勃発すると、貴族の立場ながら改革を支持し、国民衛兵の司令官に任命された。1789年の人権宣言の起草にあたった。その後は国民軍総司令官として、革命干渉戦争からフランスを守る前線で戦った。しかし彼の理想は立憲王政の樹立であったので、国王処刑の報せを前線で聞くと、オーストリアに亡命した。しかしオーストリア軍は「立憲王政」と「共和政」の違いを理解できず、彼を革命の首魁として捕らえ、以後9月18日から5年間牢獄に繋いでしまった。ブリュメール18日のクーデタでナポレオンが権力を握ると帰国し、当初協力したが、皇帝就任には反対して遠ざかり、さらに復古王政にも協力せず、フランス革命の理念を象徴する人物として存在した。1830年に復古王政が倒された七月革命ではパリ国民軍司令官となった。1834年に77歳で没。息の長い革命家であった。
h 自由  
i 平等  
j 権利  
k 国民  
l 所有  
n ヴェルサイユ行進 1789年10月、秋から食糧不足が深刻になっていた。また10月1日、フランドル連隊の歓迎の宴会が開かれたヴェルサイユでは食糧がふんだんに出され、また士官達がパリ市民の三色記章を踏みにじり、マリー=アントワネットの色である黒のリボンを付けた。 5日、パリ市庁舎に集まった女性6〜7千がマイヤールの指揮のもと、ヴェルサイユに向かって行進、国王ルイ16世に封建的特権廃止宣言と人権宣言への署名を迫った。国王は署名とパンを約束した。6日、デモ隊は宮殿に侵入し、国王とその一家をつれてパリに戻った。群集は「パン屋の親方とその女房、小僧」を連れてきた、と叫んだ。この事件は10月事件とも言い、これによってフランス王室は、ルイ14世がヴェルサイユに宮廷を移してから100年ぶりにパリに帰り、テュイルリ宮殿に入ることとなった。それに伴い、議会もパリに移った。
o  ミラボー フランス革命初期の革命家で、雄弁で知られる。三部会に第三身分の代表として参加、球戯場の誓いで活躍し、国民議会の成立にかかわる。1789年11月には、議院外の政治クラブであるジャコバン=クラブを設立した。その政治的立ち場は、ラ=ファイエットらと同じく、立憲君主政であり、革命を終わらせ王権と妥協することであった。1791年4月に死去。毒殺の噂があったが実際には化膿性心膜炎または当時は診断も治療も不可能であった虫垂炎と思われる。遺体はこの機会にパンテオンと改称されたサント−ジュヌヴィエーヴ教会に移送された。ところが翌年の11月20日、テュイルリ宮で鉄戸棚が発見され、その中からミラボーが国王派に買収されていたことなどの証拠書類が発見され、後にミラボーの遺骸がパンテオンから運び出される。
ジャコバン=クラブ1789年11月にミラボーらがパリのジャコバン修道院に集まって結成した、議院外の政治クラブ(前身はヴェルサイユで第三身分のメンバーが作ったブルトン=クラブ)。正式には90年2月に「憲法友の会」、92年9月からは「ジャコバン協会」と称したが、一般にジャコバン=クラブと言われる。過激な革命家の集まりという印象が強いが、最初からそうだったわけではなく、当初の中心メンバーのミラボーやバルナーヴらは立憲君主政を志向していた。しかし革命の展開と共に、内部分裂を繰り返し、立憲君主派(フイヤン派)や穏健共和派(ジロンド派)は次第に脱退、もしくは排除され、最終的にはモンターニュ派(山岳派)という急進派がその主導権を握った。そこからジャコバン派イコール急進派というイメージができあがり、モンターニュ派のロベスピエールの独裁も「ジャコバン派独裁」と言われる。 →ジャコバン派
ジャコバン=クラブ内の主要党派の推移
 1789.11 設立 主流は立憲君主派
 1791.7  分裂 立憲君主派が脱退しフイヤン派を結成。主流はジロンド派(最初はブリソ派といわれた)が握る。
 1792.9〜 モンターニュ派が台頭 ジロンド派と抗争 → 国民公会期
 1794.7  モンターニュ派がジロンド派を追放 
 1794.11 テルミドールの反動でモンターニュ派敗北 11月12日、ジャコバン=クラブ閉鎖される。
          → ジロンド派はテルミドール派と言われ、総裁政府を支持
<柴田三千雄『フランス革命』岩波セミナーブックス p.106> 
 ヴァレンヌ逃亡事件 1791年6月、フランス部隊の若いスウェーデン人大佐アクセル=ド=フェルセン(噂ではマリー=アントワネットの恋人)が周到に準備し、20日深夜(正確には21日0時10分)国王ルイ16世は従僕に変装し、王妃・王の妹と共にテュイルリ宮殿を脱出、馬車で東に向かった。騎兵隊が途中ヴァレンヌで出迎えて護衛する予定だったが農民に脅されて退却してしまった。一行は途中の宿駅長に見破られ、21日深夜捕らえられた。国王でありながら国を離れようとしたルイ16世に対し、 6月25日議会は王権の停止を布告。同日6時、国王一家パリに連れ戻される。
a マリー=アントワネット オーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア=テレジアのあいだに生まれた。ウィーンで王女時代を過ごし、15歳でフランスの皇太子ルイ(後のルイ16世)と結婚した。ヴェルサイユ宮殿での奢侈は並はずれており、宮廷では王妃とは呼ばれず「オーストリア女」と陰口を言われていた。また優柔不断な夫ルイ16世に代わり、しばしば政治や人事にも口出しをして煙たがられていた。革命が勃発すると、母国オーストリアの兄レオポルド2世を頼り、反革命の陰謀を積極的に進たが、1791年ヴァレンヌ逃亡事件で捕らえられ、パリに幽閉される。93年、ルイ16世の処刑に続き、裁判が行われた後、同年10月に処刑された。
Epi. ロココの王妃 マリー・アントワネットといえば、贅沢の限りを尽くした軽薄な女、というイメージが強い。たしかに王妃という宮廷の最高位に位置した彼女が、庶民とはかけ離れた浪費生活を送ったことは間違いないことだろう。フランス革命が起こって彼女を絞首台に送るためには、この「ふしだらなオーストリア女」は国庫を顧みない浪費家としてだけでなく、「あらゆる悪、あらゆる不品行、あらゆる倒錯症の持主」に仕立て上げられた。ところが王政復古の時代になると、「ばけものじみていたこれまでの王妃の絵姿は、油もこってりとした極彩色で塗り込められ」、その「美徳が、憤懣やるかたない面持ちで弁護され、身を投げ打っておそれぬ彼女の勇気、心根のやさしさ、非のうちどころのない女丈夫ぶり」が描かれ、殉難の王妃とされることになる。ステファン=ツヴァイクのは、そのような毀誉褒貶から彼女を解放して、次のように言う。「マリー・アントワネットは王党派のたたえるような偉大な聖女でもなければ、革命が罵るような淫売でもなく、平凡な性格の持ち主であり、本来はありまえの女であって、とりたててかしこくもなければ、とりたてておろかでもなく、火でもなければ氷でもなく、・・・悲劇の対象にはなりそうもない女であった。」しかし、「歴史という、この偉大な創造者」が彼女を、18世紀の宮廷文化であるロココ文化のただ中におき、めぐりあわせから革命の渦中に投げ込むことになった。ツヴァイクはマリー・アントワネットの贅沢な生活を「ロココの王妃」として描き、ロココ文化の繊細優美な特色の典型をそこに見いだしている。彼女の浪費癖を彼女の責任とするのは酷で、多くの貴族に取り囲まれた宮廷社会しか知らない彼女が、衣装や髪型や装身具などで彼女の歓心を買おうとする側近や、儲けようとする商人たちに利用されていたのだった。<ステファン=ツヴァイク『マリー・アントワネットT』1935 全集13 みすず書房 p.1-3,p.151-172>
b ピルニッツ宣言 1791年8月、オーストリア皇帝レオポルド二世(マリ=アントワネットの兄)とプロイセン王フリードリッヒ=ヴィルヘルム二世がピルニッツ(ザクセンにある城)で会合、ヨーロッパの全ての君主に注意を喚起、「準備ができしだい緊急の行動を行う」ことを要請。この宣言は警告に過ぎなかったが、エミグレ(亡命貴族)の興奮をかきたて、フランスでは恐怖をよみがえらせ、革命の賛成派・反対派の緊張を高めた。
c  1791年憲法 1791年9月に制定されたフランス最初の憲法のブルジョワ憲法。フィヤン派(バルナーブ、デュポール、ラ=ファイエットら)に指導されるブルジョワ勢力は、民衆の協力で権力を握ったが、この91年憲法の選挙権の制限と、行政権の強化によって、民衆の急進化を抑え、ブルジョワジーの階級的支配の秩序をつくろうとした。
91年憲法の内容:前文として「人権宣言」を持つ。7編210条からなる。政体は立憲君主政。議会は一院制。内閣は国王が議会外から任命(議院内閣制ではない)。選挙は制限選挙で、選挙権は直接国税を一定額納めた「能動的」市民(25歳以上の男子のほぼ70%)が有しているが直接議員を選ぶのではなく、その中から裕福な者およそ5万人を選挙人として選び、選挙人が議員、県議会議員、郡議会議員および裁判官を選挙する二段階があった。国王は議会の立法権に対し拒否権を持っていた。
91年憲法によって同9月30日、憲法制定国民会議が解散。10月1日にこの憲法に基づく立法議会が成立した。
ウ.戦争と共和政
 立法議会 国民議会の次ぎに成立したフランス革命期のフランスの議会。1791年10月〜92年9月の約1年間存続した。1791年憲法の規定に従って実施された制限選挙がによって選出された議員からなる。その内訳はフイヤン派(立憲王政を主張)=264名、ジャコバン=クラブ(主流は共和政を主張するジロンド派)=136名、無所属345名。 無所属のうち過半数はほとんどいつもジャコバン=クラブに賛成の投票をした。この立法議会では、穏和な中間派を多数を占め、右翼としてフイヤン派、左翼としてジャコバン=クラブの中の共和派であるジロンド派が主導権を争った。フィヤン派はバルナーブ、デュポール、ラ=ファイエットら、ジロンド派はブリソー、コンドルセ、ロラン夫妻、ヴェルニョ、ジャンソネ、ガデ、イスナールなど。後のモンターニュ派につながるクートンらも活動始まる。1792年3月、ジロンド派が優勢となり、内閣を組織し、王政廃止・共和政の方向を明確にし、4月にはオーストリアに宣戦、外国の干渉に対する戦争を開始した。しかし、戦況は不利に動き、国内ではジャコバン=クラブの中に急進的な山岳(モンターニュ)派が下層市民の支持を受けて台頭するなど、混乱が続き、1792年8月10日事件をきっかけに立法議会は解散して、男子普通選挙による審議会である国民公会が発足した。
a 立憲君主派  → フイヤン派
b フイヤン派 1791年、ジャコバン=クラブから分離して結成された立憲君主政を主張する一派。国王のヴァレンヌ逃亡事件後、91年7月、ジャコバン=クラブは共和政問題で分裂。共和政を主張するジロンド派に対し、立憲王政の維持をはかる多数派が脱退、フイヤン派修道院の中に別なクラブをつくった。脱退したのはバルナーブ、デュポール、ラメット兄弟らの三頭派とも言われる人びと。かれらは先にジャコバン=クラブを離れた1789年クラブの面々、ラ=ファイエットらと合流してフイヤン=クラブをつくった。 かれらは共和政を要求する勢力に対し、合同して議会内多数派を形成して国王の受け皿を築き、立憲王政の憲法として1791年憲法を成立させた。
c ジロンド派 ジャコバン=クラブの中の穏健な共和政を主張するグループ。1792〜93年の国民公会で主導権を握り、オーストリア・プロイセンの干渉軍との戦争を主張し、共和政を実現させた。
1791年10月立法議会議員にジロンド県ボルドーから選出されたヴェルニョ、ジャンソネ、ガデ、デュコの四人がジャコバン=クラブに入会、ブリソに近づく。1792年1月なかば、パレ・ヴァンドームのヴェルニョの下宿でブリソのサロンが開かれ、開戦論を展開。参加したのはブリソを中心に、ヴェルニョなどのジロンド出身者グループ、コンドルセ一派(夫人中心)、ロラン夫人一派。いずれも「哲学者たち」の精神を受け継ぎ、政治的民主主義と経済上の自由競争を主張するブルジョワたち、マルセイユ、ナント、ボルドーなどの船舶所有者、貿易商、銀行家など戦争によって利益を得る人々の支持を受けていた。1792〜93年の国民公会ではオーストリア・プロイセンの干渉軍との戦争を主導、共和政の実現を図った。しかし、より革命を推進させようとする山岳(モンターニュ)派との対立が激化し、93年6月には敗れて国民公会から追放され、モンターニュ派がジャコバン=クラブの主導権を握ってジャコバン派と言われるようになる。
d オーストリアに宣戦 1792年3月25日にフランス政府が出した「エミグレを送還せよ」という最後通牒にオーストリア(皇帝フランツ二世。3月1日にレオポルド二世が死去、その息子がフランツだがまだ正式な即位をしていない。)が応えないため、立法議会が満場一致で宣戦布告。ルイ16世も承認。(ルイ及びマリー=アントワネットは戦争になればオーストリアが勝つだろうと期待した。)フランスは戦争の相手を「ボヘミア及びハンガリー王」としてプロイセンの中立を期待したが、プロイセンは同盟条約によってオーストリアを支援する。この戦争は1815年まで23年間続く、「近代」と「現代」をつなぐ結節点である。<ゴデショ『年代記』p.80>
e 義勇兵  
f ラ=マルセイエーズ フランス革命の中から生まれた革命歌であり、現在のフランス国歌。はじめ、1792年にオーストリアと戦うこととなったとき、国境の町ストラスブールの市長がライン部隊のために、ルジェ=ド=リールという大尉に作曲を依頼したもの。当初はほとんど反響はなかったが、遠く離れたマルセイユの義勇兵がパリに向かって行進した際、その勇壮な歌詞と心を鼓舞するメロディが人々の心を捕らえ、爆発的に歌われるようになった。そのため「ラ=マルセイェーズ」と言われるようになった。王政復古期には歌うことを禁止されたが、七月革命で再び革命歌として歌われ、1879年にフランス国歌に制定された。第1節は次のようなものである。
 ゆけ、祖国の民よ/時こそ至れり/正義の彼らに旗はひるがえる/聞かずや、野に山に敵の叫ぶを/悪魔の如く、敵は血に飢えたり/立て、国民よ、いざ武器を取れ/進め、進め、あだなす敵を倒さん・・・・
このような血なまぐさい歌詞に違和感を覚える人も多いが、いまだにフランス人の多くはこの革命から生まれた国歌を誇らしげに歌っている。
Epi. ラ=マルセイェーズの作者、反革命に走る ラ=マルセイェーズを作詩・作曲したルジェ=ド=リールはちょっと音楽の才はあったが、無名の人物であった。その彼が一晩で書き上げたという「ライン部隊の歌」が、フランス革命の中で革命歌としてもてはやされ、ましてやフランス国歌になるとは本人も考えてはいなかっただろう。彼の作った歌は彼の手を離れ、一人歩きしてしまった。ところがルジェ自身は、革命の進行には疑問を持っていた。ジャコバン派の独裁の時代になると、彼に作曲を依頼したストラスブール市長もギロチンにかけられ、彼自身も反革命の罪名で処刑されるところだったが、ぎりぎりでジャコバン派が失脚して刑を免れた。しかし彼はその後も革命と世間にそっぽを向き、孤独でひねくれた老人として、年金も与えられず、1836年にひっそりと息を引き取った。その死後、ようやく功績が認められて国立墓地に埋葬されたという。<ツヴァイク『歴史の決定的瞬間』「一夜の天才−ラ=マルセイェーズ」による>
g 8月10日事件 1792年8月10日、サンテール、アレクサンドルらの率いるパリのサン−キュロットが「蜂起コミューン」を組織し、国民衛兵と連盟兵を連携してテュイルリ宮殿に行進、宮殿で護衛兵(スイス傭兵)との銃撃戦となり、護衛兵側は600名、蜂起側は400名の死傷者がでた。正午に宮殿は陥落。議場に逃れようとした国王ルイ16世一家はただちに監禁される。蜂起コミューン議長ユグナンは議会で蜂起の意向を陳述、議会は王権の一時停止、男子普通選挙制によって選出され立法議会にかわる新しい「国民公会」の召集を布告。国王一家はコミューンの要求で8月13日から監視付きでタンプル塔に監禁される事になる。
 国民公会 フランス革命の過程で最も高揚した時期で、1792年9月に男子普通選挙によって選出された議会。1795年10月までの3年間にわたり、その間王政を廃止第一共和政を実現させた。前半は穏健共和派のジロンド派が主流をしめたが、1793年6月からは急進共和派のジャコバン派ロベスピエールによる独裁政治が展開され、1794年7月テルミドールの反動でジャコバン派が倒された後、95年10月に解散する。
1792年の8月10日事件で国王は幽閉され、普通選挙が実施されて成立したのが国民公会。革命が最も高揚した時期で、また干渉戦争の危機も強まり、危機でもあった。しかし9月20日、国民公会の開催されたその日に、ヴァルミーの戦いでフランス軍がプロイセン軍を破り、革命の勝利とされ、一挙に共和政の実現に向かい、9月21日に王政廃止を決議し、第一共和政となる。一方フランス国内では反革命派が外国干渉軍を呼び込んでいるという不信が増幅し、9月2日にはパリで反革命派と目された1300人が虐殺されるという事件(九月虐殺)も起こった。翌93年1月にはロベスピエールらの主張が通り、国王ルイ16世は処刑された。こうして国民公会におけるジロンド派(穏健な共和派)とモンターニュ派(山岳派)(急進的な共和派)の対立は、モンターニュ派の勝利となり、ジロンド派は追放されジャコバン派はモンターニュ派に独占されるにいたり、6月からはジャコバン派の独裁となる。国民公会は1793年憲法の制定(実施はされず)、封建制の無償廃止などの革命を推進する決定を続け、1794年7月のテルミドールの反動後の混乱を経て、1795年10月の総裁政府成立まで続く。
a 男子普通選挙 普通選挙とは、財産制限のない選挙、という意味。世界最初の男子普通選挙はフランス革命中の1792年8月10日事件の翌日に制定され、9月に実施された。ただし、当時は特に断っていないが、当然のこととして男子だけに限定されていたのでここでは「男子普通選挙」とする。具体的には、「居住1年以上の男子で、貧民救助を受けず、また家僕でないものに等しく選挙権を認める」というものであったので、現在から見れば完全な普通選挙法とは言えないが、当時としては画期的なもので、世界最初の普通選挙実現といえる。この男子普通選挙は翌9月に直ちに実施され、国民公会が成立した。その後の反革命の動きで、フランスは再び制限選挙に戻される。
普通選挙の要求:政治的な主張としての普通選挙は、17世紀のイギリスのピューリタン革命で最左翼を形成した水平派(レヴェラーズ)が「選挙権に対するすべての制限は神の法則に反する」と主張していた。フランス革命では、1789年の人権宣言で平等の原則がうたわれたが、1791年憲法では財産による制限選挙とされ、この92年9月にはじめて男子普通選挙が実施され、国民公会が成立した。1793年憲法(ジャコバン憲法)にも盛り込まれたがこの憲法は施行されなかった。
フランスの近代選挙制度:フランス革命を推進したジャコバン派が追放された後に制定された1795年憲法では、男子普通選挙は廃止され、直接税納付者のみが選挙権を有するとされた。こうしてナポレオン時代、ウィーン体制かでは制限選挙に戻された。七月王政期にフランスで産業革命が進行し、労働者階級が形成されると、普通選挙を要求する選挙法改正運動が激しくなった。それにたいして首相ギゾーが、選挙権がほしければ「金持ちになりたまえ!」といったのは有名。七月王政が倒された1848年の二月革命の後、4月普通選挙が実施され、同年月の第二共和政憲法でも男子普通選挙制が規定された。
各国の普通選挙実施状況:各国で、フランスの二月革命で実現した男子普通選挙とほぼ同じ条件の選挙法が実現したのは次のような時期である。1820〜40年=アメリカ各州で実施、1874年=スイス、1890年=スペイン、1893年=ベルギー、1896年=ノルウェー、1912年=イタリア。日本は1925年に普通選挙法が成立(25歳以上の男子に選挙権)し、1928年に第1回普通選挙が実施された。
イギリスは1832年の第1回選挙法改正以来、徐々に選挙権を拡大しているが、完全な男子普通選挙となるのは、1918年の第4回改正の時である。 → イギリスの選挙法改正  女性参政権
b ヴァルミーの戦い 1792年9月20日、フランス革命軍が、革命に干渉したオーストリア・プロイセン同盟軍を破った戦い。フランス東北部の小村ヴァルミーで対陣した両軍は、フランス革命軍の砲兵隊が優位に立ち、墺・普同盟軍の将軍ブラウンシュヴァイクが退却命令を出した。悪天候、プロイセン軍の健康状態がよくなかったことなどが敗因とされる。思いがけないプロイセン軍の敗北に、ブラウンシュヴァイク将軍が買収されたのではないか、などの噂が立った。ゲーテ「この日ここから、世界史の新しい時代が始まった」 と述べた。この日は、国民公会に選出された議員が第1回会合を開いた日でもあり、フランス革命を外国の干渉から守り、共和政を実現させる戦いとなった。
c ゲーテ Epi. 疑わしいゲーテの革命賞賛の言葉 ゲーテがヴァルミーの戦いでのフランス国民軍の勝利を感動を以てて賞賛した、という通説は疑問が提出されている。
「ゲーテはザクセン=ワイマール公カール=アウグストに随行して、反革命連合軍の陣中にあった。まず、ゲーテはフランス革命に一貫して懐疑的であったし、なによりも反革命軍の一員として参戦している。彼自身の『滞仏陣中記』(1820〜22)をみても彼がこの戦いに感動したという形跡はどこにも見あたらない。……かれは醒めた保守主義者であり、およそ「革命精神に感動」する素朴さとはほど遠い人物なのである。」<北川 稔他『世界の歴史』21>
d 王政廃止 1792年9月21日、フランスの国民公会が、全会一致で王政の廃止を決議。共和政(第1共和政)が成立し、ブルボン王朝は消滅し、ルイ16世はこの日から一般人となった。続いて国民公会で前国王ルイ16世としての責任を追及する裁判が問題となり、ジャコバン派は有罪として国王処刑を主張、ジロンド派は王権神授説にもとづいて不起訴を主張した。結局、ジャコバン派の主張が通り、1793年1月にルイ16世は処刑された。なお、フランスの王政は、1814年にナポレオンの没落によってルイ18世(ルイ16世の弟)が即位して復古王政となる。
e 第一共和政 1792年9月21日、国民公会が王政の廃止を決議。翌22日から「フランス共和国第1年」と称することになった。 男子普通選挙で選ばれた国民公会のもとでロベスピエールらのジャコバン政府によって、1793年憲法の制定(実施はされず)、封建制の無償廃止などの革命的諸政策がうちだされたが、反面で農民層や小市民層が保守化し、革命の急進化を恐れようになったため、1794年7月のテルミドールのクーデタでジャコバン派は失脚、共和政は動揺した。その後、総裁政府が成立したが、左右からの揺さぶりが続き、国家の安定を求めるブルジョワジーもナポレオンの軍事独裁を承認し、1804年にその帝政が始まったため、第一共和政は終わる。
なお、第二共和政は二月革命(1848年)で成立しフランスで最初の大統領制を採用。ナポレオン3世の即位(1852年)で終わる。第三共和政は普仏戦争の敗北、パリ=コミューンの1970年から、第2次世界大戦の1940年まで。第四共和政は第2次世界大戦後の、1946年から1958年まで。現在は第五共和政
 ジャコバン派 ジャコバン=クラブは、1789年に、ジャコバン修道院で結成された「憲法友の会」が起源であるが、時期によってその中の主導権を握ったグループとその主張が異なるので注意を要する。当初は立憲君主政を主張する穏健なグループが中心であったが、91年夏頃に共和派が主導権を握り、共和政と対外戦争を主張する。彼らはジロンド派と言われるようになり、立憲君主政を主張するグループはクラブから脱退してフイヤン派を結成した。92年夏以降は、ジロンド派に代わって急進的な山岳(モンターニュ)派が台頭し、主導権を握る。このころから、ジャコバン派といえば、急進的な山岳派を指すこととなり、穏健派のジロンド派と対立する。1793年6月以降はロベスピエールによって指導されたジャコバン派の独裁政治が展開され、急進的な革命政策をつぎつぎと実行する。しかし次第に保守化した農民の支持を無くし、また独裁政治に不満を持つブルジョアジーの勢力によって94年7月のテルミドールのクーデタで失脚すると、同年11月にはジャコバン=クラブも閉鎖された。
a マラー
マラーはスイス生まれで、ボルドーで家庭教師のかたわら医学を学び、イギリスで医者として生活していた。1875年フランスに戻り、『奴隷の鎖』を書いて専制政治を批判し、革命勃発後は新聞『人民の友』を発刊した。92年9月から国民公会の議員となってその最左翼のモンターニュ派に属し、人民の直接行動を呼びかけ、穏健派のジロンド派と激しく論戦した。
マラーの暗殺:1793年7月13日、ノルマンディーの小貴族の生まれの25歳の女性シャルロット=コルデは、ジロンド派のマラー糾弾演説を聞いて、マラーが死ねば革命の行き過ぎを止めることができると考え、入浴中のマラーを襲って暗殺した。マラーはジロンド派から92年9月のプロイセン軍の進撃の知らせの中で行われたパリコミューン市民による反革命派約1300名に対する虐殺(九月虐殺)を扇動したと糾弾されていた。
左の図は、ダヴィドの描いた「マラーの死」。ダヴィドはロベスピエールなどジャコバン派に心酔しており、国民公会の議員にも選出されていた。マラーが暗殺されるとその葬儀の責任者となり、また自らこの絵を描いた。
b ロベスピエール

Maximilien Marie Isidore de Robespierre (1758-94)
北フランスのアラスの生まれで、弁護士として活動していた。三部会には第三身分の代表として参加。また国民公会が成立するとその議員に選出され、最左派であるモンターニュ派の指導者として頭角を現した。彼は革命を旧勢力との妥協に終わらせるべきではないと主張し、富裕な階層が権力を握ることを非難し、あらゆる階層の権利と富を保障しようとした。その政治政策は、彼の崇拝したルソーの精神に基づくものであった。ジロンド派との激しい論戦にうち勝ち、ルイ16世の処刑を実現させ、1793年6月からはジャコバン派独裁政権(この段階ではモンターニュ派のことをジャコバン派という)を樹立し、徹底した革命政策を展開し、王党派や反革命派をつぎつぎと処刑して恐れられ、恐怖政治と言われた。その政権下で封建的特権の無償廃止が行われ農奴は完全に解放されたが、かえって土地所有者となった農民は保守化し、革命のこれ以上の進行を望まなくなり、また都市の下層市民(サン=キュロット)もロベスピエールを支持しなくなった。
94年7月、テルミドールの反動で捕らえられ、翌日彼自身もギロチンにかけられて死んだ。ロベスピエールは、小柄で風采が上がらず、弁論もうまくなかったが、そのきまじめな性格と意志の力で革命をリードした、クロムウェルやレーニンと並ぶ革命家であった。
c ダントン

George Jacques Danton (1759-94)
ダントンは農民出身、2歳で父を失い、母は再婚するという中で育ち、パリに出て百科全書派の影響を受けて革命運動に投じるようになった。容貌魁偉で行動力にあふれ、たちまち頭角を現し、はじめジロンド派に近かったが次第にモンターニュ派として活動するようになり、8月10日事件の蜂起の翌日、議会はダントンを司法大臣に任命された。するとダントンは一転してジロンド派との妥協を策し、ロベスピエールらから批判され、94年4月、反革命に協力したとして処刑された。
Epi. ダントンの疑惑 人々はダントンこそ、8月10日の蜂起の成功の殊勲者であるとして、「8月10日の男」と名付けた。ジロンド派は民衆の人気があるダントンを利用して、過激分子を抑えさせるようとして、彼の入閣を支持した。一方では、マリー=アントワネットは「ダントンが蜂起に加わっているかぎり大丈夫です。」と言っており、ダントンが仲間のデグランチーヌを通じて宮廷に300リーブルの金を要求したと言う証拠が残されている。<桑原武夫編『フランス革命の指導者』P.190>
d 急進共和主義  
山岳(モンターニュ)派 ジャコバン派の中の最も急進的であった党派をいう。国民公会の議場で最も高い議席を占めていたので、山岳=モンターニュ派と言われた。指導者はダントンマラーロベスピエールらで、急進的共和主義を主張し、国王処刑、封建制の無償廃止、93年憲法の作成など、革命を推進した。1793年6月国民公会からジロンド派を追放して、権力を握る。そのころからはジャコバン派がすなわちモンターニュ派を意味するようになる。
 ルイ16世 処刑 1792年12月11日から始まった国民公会の法廷でのルイ16世の裁判は、サン=ジュスト、ロベスピエールなどの国王死刑の意見と反対論が激しく対立、1月17日の投票では死刑賛成387対反対334、修正投票では361対360の1票差で可決された。執行猶予提案は380対310で否決された。1月21日、ルイ16世はギロチンにかけられた。その前夜死刑に賛成したルペルチエが暗殺され、ロベスピエールはこの日の午後の国民公会でルペルチエの賞賛演説を行った。28日、ヴェストファーレンにいた王弟プロヴァンス伯(後のルイ18世)は摂政を名乗り、ルイ16世の王子(パリに幽閉されている)を国王ルイ17世とすると宣言した。
a ピット イギリス産業革命期とフランス革命・ナポレオン戦争の時期に、長期にわたって首相を務めたイギリスの政治家。同じトーリ党の父も首相を務めたので大ピットといい、こちらは小ピットという。在任は1783年〜1801年と1804年〜06年の二回。
父の大ピットは七年戦争の時の首相。小ピットは24歳の1783年、イギリスがパリ条約でアメリカ合衆国の独立を認めた後に、ジョージ3世によって首相に抜擢された。その長期にわたる在任中の主な事項は次の通り。
産業革命への対応:彼はトーリー党(保守党)であったあ、産業革命の進行という時勢に合わせてアダム=スミスの学説を容れて関税を軽減し自由貿易を推進した。1786年にはフランスとの間で自由貿易主義にもとづく英仏通商条約(イーデン条約)を締結した。またウィルバーフォースらトーリー党の人道的奴隷制反対論者の意見を容れ、1807年には奴隷貿易禁止法が制定される。しかし、資本主義の矛盾が深まり、労働者が権利要求を強めてくると、ブルジョワジーの立場から改革派に対する弾圧を強め、1799年、1800年の二度、団結禁止法を制定して、労働組合の結成を非合法化した。また当時はまだ地主階級の力は強く、ピット死後の1815年には穀物法が制定されイギリスは保護主義にもどる。
フランス革命・ナポレオンとの対抗フランス革命が起こると当初は傍観したが、革命が立憲君主政の枠を超えて、国王処刑、社会改革にまで進行することを恐れた。革命軍がベルギーを占領してオランダ進出をねらうようになると、1793年の第1回対仏大同盟を呼びかけた。同年、ついにナポレオン戦争が始まると、ピットは西インドに派兵して、その地のフランス植民地を攻撃した。さらに1799年に第2回対仏大同盟を締結した。首相辞任後、1802年にアミアンの和約が成立したが、すぐに和約が崩れると1804年に首相に復帰し、翌1805年の第3回対仏大同盟をそれぞれ結成し、ナポレオンのヨーロッパ制圧を抑えようとした。1805年のトラファルガーの海戦ではイギリス海軍がフランス海軍を破り、ナポレオンのイギリス侵攻を食い止めたが、同年のアウステルリッツの戦いでのプロイセン・ロシア連合軍の敗北にショックを受けて病に伏し、翌1806年に没した。
アイルランドとの合同:イギリスの半植民地状態におかれ、カトリック信仰の自由が制限されていたアイルランドで、フランス革命の影響を受けて反イギリスの気運が強まった。ピットはこの動きを警戒し、1800年にはアイルランドとの合同を実現させ、一つの国家に統合し翌1801年1月に「グレート=ブリテンおよびアイルランド連合王国」が生まれた。ピットはカトリック信仰も容認しようとしたが、ジョージ3世が拒否したため、1801年にピットは首相を辞任し、アイルランド問題はさらに継続されることとなる。
Epi. 24歳で首相になった実力派の「二世政治家」 ピットの父(大ピット)も首相を務めたので、こちらは小ピットというが、この「二世政治家」(ちなみにイギリスでは親子二代で首相になったのはこの例しかいない)は、どこかの国の二代目とは違い名声と実力を併せ持ち、ナポレオン戦争というイギリスの難局に当たったすぐれた政治家だった。彼はわずか23歳で大蔵大臣に抜擢され、イギリスが1783年パリ条約でアメリカ合衆国の独立を認めた後に、国王ジョージ3世によって24歳で首相に任命された。父と同じくエピソードの少ないまじめな政治家であったが、大酒飲みで有名で、あるとき飲み友達と一緒に酔っぱらって議場に入り、友人に「議長が見えんな」というと、友人は「馬鹿いうな。あそこに二人いるじゃないか」と答えたという。この二人、宿に泊まって一晩でワインを7本飲んだという逸話もある。<小林章夫『イギリス名宰相物語』1999 講談社現代新書 p.67>
b  第1回対仏大同盟 フランス革命の拡大を防止することやナポレオンの大陸侵略から防衛することを目的とした、フランス包囲網を形成するための軍事同盟。その最初が第1回対仏大同盟で、その後何度か結成されては解消することをくり返す。なお、重要なものとしては第4回までを数えるが、詳しく見ていくと7回結成されている。一般的には第1回(1793〜97)、第2回(1799〜1802)、第3回(1805)、第4回(1813〜14)とする(回数に関しては、7回と数える場合もある)。
結成:フランス革命政府によるベルギー侵攻とルイ16世処刑に対して、1793年に結成。
提唱者と同盟国:イギリスの首相ピットが提唱し、イギリス・スペイン・オーストリア・プロイセン・オランダ・ポルトガル・サルデーニャ・ロシア
主な戦闘:93年、イギリス軍が占領していたツーロン港を奪回(若きナポレオンが功績を挙げた)、94年フルーリュスの戦い(フランス軍がプロイセン軍に大勝)、1796年からのナポレオンのイタリア遠征(ロディの戦いでオーストリア軍に大勝)
解散:1797年10月、オーストリアがフランスに降伏しカンポ=フェルミオ条約が締結されたために瓦解。
経緯:フランス革命の時期にイギリスでは産業革命が進行していた。イギリスの政府とブルジョアジーは、フランス革命には当初傍観していたが、革命政府がベルギーやオランダへの進出する動きを示すと、イギリスにとって重要な市場であったので強い警戒感を抱くようになった。1792年4月フランス革命政府(国民公会)はヨーロッパ諸国の革命干渉に対する戦争を開始した。9月のオーストリア・プロイセンの連合軍とのヴァルミーの戦いの勝利に続き、11月にはベルギーのジェマップでもオーストリア軍を破り、オーストリアはベルギー支配を放棄した。イギリスの首相ピットはフランスがさらにオランダに侵攻することを恐れ、ルイ16世の処刑を口実にフランス向け商品の輸出を停止、それをうけて1793年2月フランス革命政府はイギリスに宣戦し、3月には占領地のライン左岸とベルギーを併合することを宣言した。イギリスはスペイン、オーストリア、プロイセン、サルデーニャなど大陸諸国と共に対フランス同盟を形成し革命フランスを包囲し、革命の進行を押しとどめる干渉を行った。この第1回対仏大同盟は、1797年まで継続するが、この間同盟諸国では、第2回ポーランド分割をめぐるプロイセンとオーストリアの対立もあって必ずしも足並みはそろわず、フランス国民軍の善戦もあって目的を達することはできなかった。ジャコバン派独裁政府は公安委員会(その中心人物がサン=ジュスト)が93年8月に徴兵制を施行し、国民総動員態勢を成立させた。
d 反革命  
 ジャコバン派の独裁  
a 1793年の憲法 1793年6月24日、フランス革命の進行中、国民公会において採決、制定された憲法。人権宣言を前文とする全35条の憲法。1793年の人権宣言、モンターニュ派(山岳派)憲法、ジャコバン憲法ともいわれる。8月4日国民投票にかけられ、180万票対1万票(棄権430万)で承認された。しかし、干渉戦争の激化などを理由に10月10日に実施は延期され、結局は実施されなかった。
最初の徹底した民主的な憲法:主権在民を明確にし、初めて労働の権利(21条)、社会保障(22条)、反乱の権利(35条)などが盛り込まれた。 また男子普通選挙も盛り込まれた。
意義と影響:史上最初の徹底した民主的憲法であった。実施は延期されたが、憲法の理念を支持する18 96年のバブーフの陰謀事件が起きた。また後の1848年の二月革命などに大きな指針となった。<『資料フランス革命』 P.431、 ゴデショ『年代記』 P.115>
b  封建地代の無償廃止 1793年7月17日、国民公会で採決された。第一条で「以前の領主的貢租、定期的および臨時的な封建的、貢租的な諸権利のすべては、‥‥無償で廃止される。」と規定された。1789年の人身的諸権利の無償廃止、物的諸権利(領主地代徴収権)の有償廃止に続いて出されたもの。フランス革命の最も重要な業績の一つ。これによって革命前の全国の土地の約三分の一を占めていた農民保有地が近代的な意味での農民所有地に転化した。 <『資料フランス革命』P.385>
d 亡命貴族(エミグレ)  
e 最高価格令  
f 徴兵制 1793年2月22目、国民公会は三十万人募兵の法令を通過させ、それから半年後の8月23日には「国民総徴兵法」が成立、十八歳から二十五歳までの青年壮丁で実に百万人が動員される国民皆兵の熊勢に入った。そして実際、翌1794年までにフラソス革命政府は百万以上の軍隊を擁していた。この国民皆兵体制の創設に当たったのは、公安委員会のサン=ジュストとカルノーであった。革命政府は国民軍内部の体罰や身分差別を撤廃し、革命軍としての戦闘意欲を高めることに成功した。また能力本意で将軍を抜擢し、貴族出身の将校は退けられ、兵士の選挙で才能あるものが昇進し、有能な下士官から公安委員会が将軍に抜擢した。その中から、オシュ、ジュルダン、ネイ、そしてナポレオンなどの名称が出現することになる。<『世界の歴史』10 中央公論社旧版 p.264>
g 革命暦 1793年10月、フランス革命中の国民公会で、反キリスト教の立場から制定された新たな暦。共和暦とも言う。アンシャンレジームに王権と結びついて民衆を抑圧していたカトリック教会の定めていたグレゴリウス暦を否定し、あらたな合理的な暦を作成するという理念であった。新暦は1月を30日、5日(または6日)の閏日、月の名前は次の12ヶ月とする。
 月名:秋=葡萄月・霧月・霜月 冬=雪月・雨月・風月 春=芽月・花月・牧月 夏=収穫月・熱月・実月
 閏日=9月17日〜21日
実施を1792年9月22日(共和政樹立記念日)にさかのぼらせ、その日を共和暦第1年第1日とされた。その後、革命期に継続して用いられ、歴史的出来事も革命暦の月名で言われる。この革命暦は、革命思想の普及と、教会の支配力の排除をめざすものであったが、使われたのはわずかに13年に終わり、ナポレオンが皇帝となった後の1806年に廃止された。
補足 「フランス革命のときに召集された国民公会は改暦のための委員会を組織した。何人かの数学者、教育者と詩人が各一名に大天文学者のラプラスが加わったこの委員会は、合理的な考えにもとづく、みごとに均整のとれた新しい暦を作った。1792年、7日間を一週間とするこれまでの暦にかわって、デカードと呼ばれる10日を一週間とする暦が採り入れられた。それぞれの曜日はラテン語の数字で呼ばれ、10日間の週が3つで1ヶ月となった。1日は10時間に分けられ、1時間は100分、1分は100秒だった。12ヶ月の360日に加え、余った5日ないし6日は徳日、才能日、労働日、言論日、報酬日とそれぞれ啓発的な名をつけられ、閏日は共和暦閏日とよばれて休日とされ、娯楽にあてらる一日となった。」<ダニエル・ブアスティン『どうして一週間は7日なのか』大発見1 集英社文庫 p.37>
h メートル法   
i 理性の崇拝 フランス革命が進行し、ジャコバン派独裁政権が成立した時期の1793年に、左派のエベールによって進められた神に代わり人間の「理性」を崇拝しようという非キリスト教化運動。アンシャンレジームのもとで王権と結びついていたカトリック教会に対しては、革命当初から批判が強められており、特にジャコバン派の中の急進派であるエベール派がキリスト教否定の立場をとっていた。1793年に国民公会でカトリック暦が廃止されて共和暦とされたことで非キリスト教運動は盛り上がり、教会の破壊や聖職者の妻帯を進め、その一方で「理性の祭典」が組織されていった。しかし、ロベスピエールを中心とする公安委員会は、「理性の崇拝」の強要は無神論であり、またその強要は信仰の自由に反するとして、エベール派を批判、またダントンらの右派も反対した。その結果、94年3月にロベスピエールによってエベールが反革命として処刑され、理性の崇拝は廃止された。ロベスピエールはキリスト教の神に代わる「最高存在」を革命のシンボルとしてつくりあげて、それを祝う祭典を計画し、同年6月に「最高存在の祭典」を挙行する。
j 公安委員会  
k 保安委員会  
l 革命裁判所  
j 恐怖政治  
m ギロチン  
n サン=キュロット  
エベール 王政廃止の誓願や、8月10日事件で活躍し、パリ市民の人気を得る。ジャコバン派の独裁政権下で、さらに徹底した改革を主張、非キリスト教化を推進して「理性の崇拝」を進めたり、貧困の追放などを主張するなど、急進派として台頭した。ロベスピエールの公安委員会は、エベールとその一派の主張を、革命理念に反するとして批判して対立した。その結果、94年3月、ロベスピエールによって民衆暴動を企てたという理由で告発され、処刑された。
最高存在の祭典 1794年6月8日に挙行されたフランス革命を祝う市民祭典。ロベスピエールが構想し、画家ダヴィドがその演出にあたった。左派のエベールらが進めた「理性の崇拝」を否定したロベスピエールは、革命の共和政と自由の理念を「最高存在」、つまり神として崇拝し、祭典を挙行することを国民公会に提案し、採択された。祭典はパリを中心に全国で実施されたが、この祭典を強行したことでロベスピエールの独裁に対する反発が強まり、50日後のテルミドールのクーデタでの失脚となる。ダヴィドの演出は古代ギリシアの祭典を模範としたものであったが、シンボルの多用、音楽、マスゲームなど、大衆動員による集団芸術の先駆といえるものであった。
「6月8日、最高存在の祭典は行われた。朝8時、パリのセクションはチュイルリにむかうように要請されていた。儀式は、画家でロベスピエールの心酔者ダヴィッドによって演出された。クライマックスでは、ロベスピエールが「心理の松明」を手に、「無神論」や「エゴイズム」などの偶像を燃やす。するとそのあとに「知恵」の女神があらわれる。ついで会場はシャン・ド・マルスに移される。セクションがアルファベット順に並んで進み、8頭の牛が曳く自由の凱旋車がつづく。広場の中心には「自由の木」のたつ人工の丘、その脇にはギリシア風寺院と、人民を象徴するヘラクレス像をいただく円柱。国民公会議員と市民とが讃歌をうたい、共和国への忠誠を誓う。」<『世界の歴史』新版21 p.340 中央公論新社>
 テルミドールのクーデタ   1794年7月、フランス革命の過程で独裁権力を握っていたジャコバン派のロベスピエールが、穏健共和派などによって倒された政権交替。「テルミドール9日のクーデタ(反動)」ともいう。テルミドール9日は革命暦の熱月で、7月27日にあたる。その日、国民公会の開会中、「暴君を倒せ!」の叫び声と共にロベスピエール逮捕の採決がなされ、多数で可決された。弟、サン=ジュストらと共に逮捕され、自殺を試みたようだが失敗し、28日革命広場(現コンコルド広場)でギロチンにかけられた。 彼は国土が解放され、勝利を占めた後には恐怖政治など必要なかった事を理解できなかった。また彼の政策は時間がたたないと効果が現れないもの(封建制度の無償廃止)だったので大衆的支持を集められず、農民は満足しても、労働者(サン=キュロット)は最高賃金法に激しい怒りを覚えていた。 また6月の「最高存在の祭典」の強行も独裁者ロベスピエールという印象を強め、国民公会も独裁者排除に急速に動くこととなった。 
a 1794 
b ロベスピエール処刑