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3 アメリカ合衆国の発展
ア.領土の拡大
 ジェファソン大統領 アメリカ合衆国第3代大統領(1801〜09年)。トマス=ジェファーソンはアメリカ独立戦争に際し、独立宣言の起草にあたったことで有名で、ワシントン大統領の下では初代の国務長官を務め、アンチ・フェデラリストの主要人物であった。1791年、フェデラリストに対抗してリパブリカン党を結成し、1800年の大統領選挙に出馬、フェデラリストの現職ジョン=アダムスが敗れ、リパブリカン党のジェファーソンとバーが同数で1位となり、当時の憲法の規定により、下院でジェファーソンが第3代大統領に選ばれた。選挙によってフェデラリスト政権から反フェデラリスト政権に交代したことは、ジェファーソン自身が「1800年の革命」といったほど重要なことであった。
ジェファソンは就任式で新しい首都ワシントンの議会に、歩いて登院するという庶民的な行動で大衆の支持を受けた。就任演説では、文官の武官に対する優位、少数意見の尊重、信仰の自由、言論出版の自由など、民主主義の原則を打ち出した。このような民主主義の高まりを「ジェファソニアン・デモクラシー」という。また連邦政府の権限の強化、巨大化には反対していたので、「連邦政府は国防と外交を、それ以外は州政府で」という「小さな政府」を実現しようとした。外交においても、当時のヨーロッパのナポレオン戦争で激しく対立していたイギリス・フランスに対しては中立を守った(アメリカの外交政策)。しかし、在任中次第に現実路線に傾き、フランスのナポレオンの申し出を受け、ルイジアナを購入し、ルイスとクラークを派遣して西部を探検させるなど領土拡張策をとった。大国としての歩みを始めたアメリカは、イギリスとの関係の悪化を招き、次のマディソン大統領のときアメリカ・イギリス戦争(1812年戦争)としてにつながっていく。ジェファソンは大統領を2期8年務めた後、ワシントンの前例にならい3選に出馬しなかった。
a 反連邦派  → 第11章 2節 合衆国憲法の制定 反連邦派
リパブリカン党 ワシントン大統領政権での、財務長官ハミルトンと国務長官ジェファソンの意見対立は、憲法制定時の連邦派(フェデラリスト)と反連邦派(アンチ=フェデラリスト)の対立から尾を引いており、第2代大統領ジョン=アダムズまで連邦派が優勢であったのに対抗して、ジェファーソンらの反連邦派が1791年に結成した党派がリパブリカン党である。1800年にフェデラリストを破って実現した第3代ジェファソン大統領以下、第4代ジェームズ=マディソン、第5代モンロー、第6代J.Q.アダムズと1801〜1829まで政権を担当する。その主張は反連邦主義を継承し、できるだけ「小さい政府」を維持する政策をとったが、その間、1812年のアメリカ=イギリス戦争という、第2次独立戦争とも言われる危機を乗り切らなければならなかった。
なお、現在の共和党(Republican Party 1854年成立)と同名だが、直接関係がないので注意しなければならない。むしろこのリパブリカン党の後身がジャクソン大統領の時、民主共和党(Democratic-Republican Party )となり、それが現在の民主党(Democratic Party)につながる。現在の共和党は反ジャクソン派が結成した国民共和党(National Repabulicans)の後身である。
b ルイジアナ購入1803年、アメリカ合衆国のジェファソン大統領がフランスのナポレオン(当時は統領)からミシシッピー川以西からロッキー山脈に及ぶ広大なルイジアナを買収した。ルイジアナ(ミシシッピ以西)は七年戦争(フレンチ=インディアン戦争)後のパリ条約(1763年)でフランスからスペインに割譲されていたが、ナポレオンがスペインを征服したため、1800年にフランス領となっていた。現在のルイジアナ州とはまったく異なり、ミシシッピ流域の西側からロッキー山脈に至る広大な土地で、広さは約214万平方kmあった。その売却価格は1500万ドルであったから、1平方kmあたりわずか約14セントという安値であった。これで合衆国の領土は一挙に倍増し、その領土拡張の第一歩となった。
ナポレオンがルイジアナを手放した理由:ジェファソンは反連邦派であり、連邦の拡大・強化には消極的であった。その彼がナポレオンの申し出を受けてルイジアナの購入に踏み切ったのは、広大な領土そのものではなく(当時はまだどんな土地か知られていなかった)、フランスによってニューオリンズに通じるミシシッピ川の自由航行が抑えられることを恐れていたからであった。それではナポレオンはなぜそれを手放すことに同意したのか。それはカリブ海のフランス領ハイチ(サン=ドマング)で1804年に黒人革命が成功し、黒人最初の共和国が誕生するという出来事が起きたことが影響している。ナポレオンはハイチでの砂糖生産を、ルイジアナからの穀物で補完するという殖民地帝国建設を計画していたが、ハイチ独立がその計画を破綻させることになり、ルイジアナ領有の意味も無くなり、差し迫ったイギリスとの全面対決に備えて資金を確保する方に転じたと考えられる。トウサン=ルヴェルチュールの蜂起がナポレオンの殖民地帝国の夢を壊し、想定外のジェファソンの「自由のための帝国」の建設の弓を膨らませたのである。<富田虎男「領土拡張期のアメリカ」−『概説アメリカ史』1979 有斐閣選書 p.66>
 アメリカ=イギリス戦争(1812年戦争)

1812年〜14年、ナポレオン戦争中に起こったアメリカ合衆国とイギリスの戦争で、1812年の戦争、第2次独立戦争とも言う。
戦争の原因:ヨーロッパの戦争に対し、アメリカは当初、中立政策を採り、貿易の利益を守っていたが、ナポレオンのベルリン勅令に対抗してイギリスも逆封鎖したためアメリカにとっても貿易が途絶え、大打撃を受けた。一方イギリス海軍がアメリカ人船員の強制徴用を行うなど、海上権の侵害が続いたため、国内で主戦論が台頭した。第4代マディソン大統領(リパブリカン党)は国内の主戦論に押され、一方的にイギリスに宣戦した。
戦争の経過:アメリカ側は五大湖方面のイギリス軍を攻撃するとともに南部のクリーク族などインディアンに対しても攻撃を行った。しかし、カナダを拠点とするイギリス軍の反撃を受け、イギリス軍は一時首都ワシントンを占領して大統領府を焼き討ちするなど、アメリカ軍は危機に陥った。しかし、1814年にヨーロッパでナポレオン軍が敗れたことを受けて同年12月クリスマスイブにベルギーのガンで講和条約締結となった。講和が知らせが本国に届く前の1815年1月、ジャクソン将軍のアメリカ軍がミシシッピ河口のニューオリンズに駐屯したイギリス軍を攻撃して大勝したため、アメリカ国民は戦争に勝利したと捉え、合衆国の危機を救ったジャクソン将軍の名声が高まった。
インディアンに対する征服戦争:またこの戦争中、アメリカ合衆国側はイギリスがインディアンを味方にして、連合して攻撃しているとして、大々的な征討作戦を展開している。1813年秋からジャクソン将軍の率いるアメリカ軍はクリーク族インディアン征討に向かい、多数の戦士を殺害し、翌年夏に講和条約を結び、約2300万エーカー(約9.2万平方km)におよぶ広大な土地を割譲させた。この土地は後に綿花栽培の中心地帯となる。)アメリカはインディアンに対する戦争でも勝利を占め、白人支配地を大きく拡大することとなった。
戦争の本質と結果:アメリカ=イギリス戦争の開戦に対して国内では無意味な戦争だとして反対する声も強く、国民も冷ややかで「マディソン氏の戦争」としか言わなかった。戦争の口実はイギリスによる貿易の妨害であるが、当時、タカ派(ウォー・ホークス)と言われた主戦派のもくろみは合衆国の領土の拡張であり、インディアンから土地を奪うことであった。無意味な戦争として始まったが、結果的に保護貿易政策が採られたためアメリカ産業の生産力が高まり、イギリス経済に依存しない産業力を身につけることとなった。また、首都を焼かれたことでの復讐心から愛国心が強まり、第2次独立戦争とも位置づけられるようになった。 → アメリカの外交政策
Epi. パールハーバーと9.11 話は飛ぶが、2001年9.11同時多発テロの時、ブッシュ大統領は、1941年12月7日のパールハーバーと同じショックを受けた、そして今度はハワイではなく、本土が初めて攻撃されたといって激怒した。しかしこれは厳密に言えばアメリカ合衆国が独立後、直接本土を攻撃された二度目のことだったといえる。その最初がこのアメリカ=イギリス戦争(1812年の戦争)でのイギリス軍によるワシントン攻撃であった。アメリカ合衆国はこの三度の攻撃(どちらかといえば先にしかけたのはアメリカ側と言えなくもないが)をバネにして、それぞれ愛国心と闘争心を駆り立てナショナリズムを高揚させた。

a ナポレオン戦争  
b 木綿工業(アメリカ)南部の綿花生産地帯では、1793年のホイットニーが考案した綿繰り機が使用され、大農園(プランテーション)が発達した。その綿花を原料として、米英戦争後、北部の大西洋岸のニューイングランドなどに、木綿紡績工業が起こり、ボストンはその中心地として栄えた。 → イギリス産業革命の綿工業
c 産業革命(アメリカ) 812年の米英戦争でイギリスとの貿易が中断し、工業製品の輸入が減少したので、自国の工業生産が増大し、産業革命のきっかけとなった。はじめ北部のも綿工業が起こり、1830年代から機械工業が急成長する。 
 モンロー教書  → 第12章 1節 ウィーン体制の動揺 モンロー教書
a モンロー 第5代大統領。ヴァージニア出身で大陸会議以来の独立革命に参加。ジェファソン大統領の下で駐仏大使としてルイジアナ買収に当たる。以後、リパブリカン党を継承した民主共和党(のちの民主党)に属する。米英戦争時には国務長官。1817年第5代大統領に就任、2期務める。その間、1823年にモンロー教書を発表、その他フロリダ買収、ミズーリ協定の制定などに当たる。(在職1817〜25年) 
b モンロー主義 1823年のモンロー大統領の「モンロー教書」に示された、アメリカ合衆国の外交理念。アメリカはヨーロッパ諸国に干渉しないが、同時にアメリカ大陸全域に対するヨーロッパ諸国の干渉にも反対する、という思想。初代のワシントン大統領も辞任に際する演説でいかなる国とも「永久的同盟」はむすぶべきでないと戒め、ジェファソン大統領も「紛糾的同盟」は結ばないと表明していたので、国際的な中立政策は、当初からのもと言えるが、モンローはさらに南北アメリカ大陸(つまり西半球)に対するアメリカ合衆国の排他的な支配権を打ち立てようとした点で新たなものといえる。19世紀を通じてモンロー主義はアメリカの外交政策の基本とされるが、19世紀末に帝国主義列強としてアメリカ自身も次第に植民地獲得競争に巻き込まれると、T=ローズヴェルト大統領は、モンロー主義を拡大解釈(「ローズヴェルトの系論」という)し、カリブ海域の「慢性的な不正と無能」に対してはアメリカが武力干渉することを正当であると表明し「棍棒外交」を展開する。帝国主義諸国の対立はついに第1次世界大戦を引き起こすことになり、中立策を採っていたアメリカも結局参戦することとなった。この後、大戦の終結から戦間期、第2次大戦まで、モンロー主義は孤立主義として根強く生き残り、一方の国際協調路線との間でアメリカの外交政策をめぐっての対立が続くこととなる。 → 孤立主義  アメリカ合衆国の国際連盟不参加  ユニラテラリズム
 ジャクソン民主主義 ジャクソニアン=デモクラシーという。ジャクソン大統領は産業資本家、金融資本家などの富裕な層ではなく、西部開拓を進める農民・産業革命で増加した労働者など大衆の利益を優先する政策を採ったので、民主主義が進展したとされる。アメリカのコミュニティーでの「草の根民主主義」の伝統が出来上がった。また、選挙で政権が交代すると、連邦政府・州政府などあらゆる機関で、役人が交替する「スポイルズ=システム」が慣行となったのもこの時代である。
a ジャクソン 第7代大統領(1829〜37年)。サウスカロライナ出身で14歳で孤児となり、苦学して弁護士、さらに代議士になる。米英戦争(1812年戦争)に際して、イギリス側についたインディアンの制圧、イギリス軍とのニューオリンズでの戦闘の勝利の立て役者となり、人気をはくす。1828年の大統領選挙で、西部の開拓農民、北東部の労働者、南部の奴隷農園主の支持を受けて当選。西部の農村出身の最初の大統領として人気が高かった。ジャクソン大領のもとで男子普通選挙制が実現するなど、民主的な改革が進められたが、一方でインディアン強制移住法も制定された。またこの大統領の時から、大統領交代に伴い公務員も交替するスポイルズ=システムが定着した。また、ジャクソン大統領の時期に民主主義が進展したことをジャクソン民主主義といい、それを支持した勢力は民主党と称するようになる。
Epi. OKのはじまり アンドリュー=ジャクソン大統領は、書類に許可を与えるとき、All Correct と書くつもりで、まちがって Oll Korrect と書いた。OKということばはここからきていると言われている。ジャクソンは無学ではあったが、決断力に富み、実効力があったので、民衆には絶大な人気があった。大統領になったときは61歳、白髪長身を黒い軍服を身につけ、就任演説で「この日こそ人民にとってほこるべき日である」とのべ、そのあとホワイトハウスを開放し、酔っぱらった西部人は泥靴のまま椅子の上に立ち上がり、カーペットをよごしたりしてお祝いをしたという。<中屋健一『世界の歴史』11 新大陸と太平洋 中央公論社 p.145>
 スポイルズ=システム 大統領選挙で勝った党派の者に連邦政府の官職をあたえる制度で、「猟官制度」とも訳される。ジャクソン大統領の時に始まる、アメリカ独自のシステムで、これによって公務員の交替を促し、政党政治が徹底する利点を持っている。この政党主導の論功行賞型の公務員任用制度も、行き過ぎると弊害が現れ、1881年第20代大統領ガーフィールドが就任後わずか4ヶ月で、猟官運動に失敗した人物の恨みを買って暗殺されるという事件が起き、1883年にペンドルトン法が制定されて、スポイルズ=システムを一定の官職に止め、基本は試験による公務員の採用という能力主義の原則がとられることとなった。
ホイッグ党(米)ジャクソン政権が絶大な国民的支持で強力になったことに対し、その政権独占を批判した人々が結集して、1834年頃「ホイッグ党」を結成した。名称はイギリスの王権に対抗したホイッグ党に倣ったものである。彼らの主張は、かつてのフェデラリストに近く、保護主義、連邦政府の強化、合衆国銀行の復活、最高裁判所や上院の権威の維持といった保守的な面が強かった。1854年結成の共和党に吸収されていく。 
 共和党 1854年、奴隷制反対論者が結成した政党(共和党の結成)。Republican Party 基盤は当初は北部の産業資本家層であり、その主張はフェデラリストホイッグ党の系列につながる。中央集権的な連邦政府の強化を基本的には支持すると同時に、経済の発展は自助精神をもつ個人による自由競争が必要という個人主義を理念としている。1860年の大統領選挙で共和党のリンカンが当選し、南北戦争に北部が勝利したことを受け、その後一時期を除いて20世紀初頭までの政権を維持した(グラント、ヘイズ、ガーフィールド、ハリソン、マッキンリー、セオドア=ローズベルト、タフト)。第1次大戦後の1920年代の共和党ハーディングクーリッジフーヴァーの三代の大統領の時期は、「アメリカの繁栄」の時代となったが、資本主義への自由放任の原則に固執し、1929年に起こった世界恐慌に対応できず、1932年の大統領選挙で民主党F=ローズヴェルトに敗れる。第2次大戦後は、民主党と交互に政権を担当、アイゼンハウアー、ニクソン、フォード、レーガン、ブッシュ(父)、ブッシュ(子)と続く。最近の共和党は、福祉の削減などによる小さな政府の主張、「強いアメリカ」の復活、宗教的保守主義(中絶反対など)との結びつきが強くなっている。
 民主党 ジャクソン大統領の二期の任期中、リパブリカン党は民主共和党を経て、民主党(デモクラット党)Democratic Party と称するようになり、正式には1828年に成立した。ジャクソンの支持基盤であった南部と西部の自営農民を中心に広い支持を集め、1829〜61年の間、8年間を除いて政権を独占した(バン=ビューレン、ポーク、ピアス、ブキャナン)。南部の綿花輸出の利益を守るため保護貿易に反対し、奴隷制度は維持を主張した。経済面では合衆国中央銀行の廃止、など自由放任主義をとった。しかし、北部の産業の発展は次第に民主党の経済政策に不満を持ち、産業の保護と奴隷解放による市場拡大と労働力の確保をもとめる声が強くなり、共和党の進出を見ることになる。また1860年には、奴隷制に対する見解で、新州がが連邦に加入する際、自由州か奴隷州かの選択を住民が決して良いと主張するグループと、連邦議会は州の奴隷制を制限することは出来ないと主張するグループが対立し、分裂状態となった。
南北戦争後、再建された民主党は、結党以来の州権主義とジャクソニアン=デモクラシーの伝統を維持して南部の保守主義を基盤とすると共に、北部の中下層市民の進歩派にも浸透し、幅広い支持を得て、議会特に下院では多数を制することが多い。大統領選では19世紀後半から第1次大戦までは共和党に押され、わずかにクリーブランドとウィルソンが登場しただけであったが、世界恐慌の時にフランクリン=ロースヴェルトが当選、その後大戦後も、トルーマン、ケネディ、ジョンソン、カーター、クリントン、オバマと続き、革新色を強めている。
 領土の拡大(アメリカ合衆国)東海岸の13州の連合国家として独立運動を開始したアメリカ合衆国は、1783年の独立達成時にはミシシッピ川以東をイギリスから獲得した。その後、1803年のフランスからルイジアナの買収に始まり、19世紀前半にミシシッピ以西への領土拡大が進み、ついに1848年に太平洋岸のカリフォルニアを併合し、北アメリカ大陸の東西海岸にまたがる国家となった。特に第11代大統領ポーク(民主党)の1845年から49年、テキサスオレゴンカリフォルニア・ニューメキシコを獲得する大膨張を行った。領土の西部への拡大に伴い、東部の農民は新たな土地を手に入れようし、また資本家は土地投機のためにミシシッピ川を超えて西部に移住した。また南部の綿花プランターは、綿花栽培に適した土地を求めて西部開拓を進めた。このようなアメリカ西部への移住運動を西漸運動という。この間、開拓の進む最前線をフロンティアと称し、またアメリカ合衆国の西部への膨張は神から与えられた当然の権利であるという「明白な天命」の考えが現れた。こうして広大な土地と資源を獲得し、19世紀後半には世界の列強の一員となったが、その背後にインディアンからの土地の収奪、メキシコとの戦争などがあったことも忘れてはならない。
a フロリダ 北米大陸東南のメキシコ湾に突き出し、キューバ島に対面する大きなフロリダ半島を中心とした一帯。1513年にスペイン人が占拠して領土とする。それ以来、ほぼスペイン領であった。途中、七年戦争(フレンチ=インディアン戦争)後のパリ条約(1763年)でイギリスに譲渡されたが、アメリカ独立戦争の1783年に締結された講和条約であるパリ条約とともに、独立軍を助けたスペインとの間でイギリスが結んだヴェルサイユ平和条約を締結し、ミノルカ島とともにフロリダをスペインに返還した。独立後のアメリカ合衆国では南部のプランテーション農園での綿花栽培が拡大し、その南にあるフロリダへの領土拡大が叫ばれるようになった。その要求は1812年のアメリカ=イギリス戦争によってさらに強まり、戦後の1819年、モンロー大統領の時、アメリカ合衆国はスペインから買収に成功した。その後フロリダは1845年、27番目の州となりった。
Epi. フロリダの不動産ブーム:アメリカ合衆国の1920年代の繁栄の時期に、フロリダで不動産ブームが起きた。好景気の高まりの中で株式投資と並んで不動産投資が盛んになったが、特に一年を通して温暖なフロリダは別荘やリタイア後の住まいとして大々的に宣伝され、急速に開発が進んだ。1920年には3万にすぎなかった人口が25年には7万5千に増加した。その背景には東部の都市から車で移動できるようになったことがあげられる。フロリダ・ブームは25年にピークとなり、人びとは熱帯での優雅なバカンスにあこがれて土地を買い、マイアミなどの都市にはいくつものホテルが立ち並んだ。しかし、1926年秋、大型ハリケーンがフロリダを襲い、急開発の粗雑な別荘地は見るかげもなく荒れ果ててしまい、ブームはあっけなく終わった。<F.L.アレン『オンリー・イエスタディ』1932 ちくま文庫 p.357-374>
b 「明白な天命」 アメリカ合衆国の西部への領土の拡大とそれに伴う西漸運動を、神から与えられた使命であるとして正当化する考え。マニフェスト=デスティニー Manifest Destiny という。1845年にジョン=オサリヴァンが自ら編集する雑誌『デモクラティック・レビュー』に発表した論文で提唱され、19世紀後半のアメリカ合衆国に広く受け入れられた。 オサリヴァンは「テキサス共和国」の独立宣言の翌1837年に「ジャクソニアン・デモクラシー」を文学や学問の側面から称揚することを意図し「デモクラティック・レビュー」誌を創刊した。そして1845年に直接的にはテキサス併合の正当性を訴えて「明白な天命」論文を発表し、次のように述べた。
「自由と自治政府とからなる連邦という偉大な実験を進展させるために、神が与え給うたこの大陸全体を、覆いつくし、所有するのは、われわれの明白な運命(マニフェスト=デスティニー)がさだめる権利なのである。」<『アメリカ外交とは何か −歴史のなかの自画像』西崎文子 2004 岩波新書 p.39-40> 
c テキサス アメリカ合衆国の南部に広がる広大な州で、1845年にアメリカ合衆国がテキサス共和国を併合し、テキサス州としたもの。テキサスは始め、スペインの支配下にあったが、1821年にメキシコが独立してその一部となった。その後、アメリカからの移住が相次ぎ、メキシコ政府と衝突を繰り返すようになり、1836年にアメリカ人入植者が独立を宣言してテキサス共和国と称し、アメリカ合衆国への併合を請願した。最初からアメリカ合衆国に編入されなかったのは、奴隷州にするかどうかという問題があったためで、奴隷州になることが確実なテキサスを州にすると、ミズーリ協定のもと奴隷州と非奴隷州の均衡が崩れる恐れがあったからであった。次第に隣接する南部の奴隷制農場主らによる併合運動が強まり、44年に領土拡張論者のポークが大統領に当選すると、翌1845年に奴隷州としてアメリカ合衆国に加わった。テキサス共和国の合衆国への併合に反発したメキシコとのあいだに、1846年からアメリカ=メキシコ戦争(米墨戦争)が起こる。現在のテキサス州は、日本の倍に近い面積を持ち、豊かな石油資源と、軍事産業の中心地としてアメリカを支えている。
Epi. アラモ砦とデヴィ=クロケット 1836年、テキサスのアラモ砦を守る182名のアメリカ守備隊が、メキシコ軍の攻撃を受け全滅した。「アラモを忘れるな」というさけびがアメリカにわき上がり、テキサス獲得の世論が強まった。アラモ砦の英雄がビーバー皮の帽子でおなじみのデヴィ=クロケットだった。クロケットはテネシーの丸木小屋で生まれた、生まれながらのフロンティア人で、冗談のつもりで立候補したら当選して下院議員となり、議会にも猟師のスタイルで現れ、人気者になった。次の選挙で落選して西部に戻り、アラモ砦に現れ、華々しく活躍して戦死したのだった。デヴィ=クロケットは「クロケット帽」とともに、いまでもアメリカ人に親しまれている。映画『アラモ』では、ジョン=ウェインが演じていた。
d オレゴン アメリカの北西部、コロンビア川流域の広大な土地はオレゴン地方と言われ、豊かな森林での毛皮を求めてイギリス人がスペイン人が太平洋岸から進出してきた。ジェファーソン大統領の時、ルイスとクラークの二人が陸路、北西部の探検に派遣され、1818年の米英協定で、共同領有とされた。1830年代には、ミズーリ州インディペンデンスからロッキー山脈を越えてオレゴンに達する「オレゴン街道」が開かれ、さらにこの地域へのアメリカ人の進出が多くなった。1844年の大統領選挙で民主党のポークは、テキサスの併合と共に、北西部でも北緯54度40分までを領土とすると主張して当選し、イギリスと交渉した。その結果、1846年に「オレゴン協定」が成立、国境は北緯49度の線(現在のアメリカとカナダの国境線)とすることで落ち着いた。このオレゴン地方が現在のワシントン州、オレゴン州、アイダホ州の北西部三州となる。
e アメリカ=メキシコ戦争 1846年、アメリカ合衆国は前年にテキサスを併合し、メキシコ側が合衆国の領土を侵犯したと口実をもうけ、戦争をしかけた。ニューメキシコとカリフォルニアを制圧し、合衆国軍はメキシコ=シティまで攻め込み、占領した。1848年の講和条約(グワダルペ=イダルゴ条約)でカリフォルニアとニュー=メキシコを獲得、テキサスとメキシコの国境はリオ=グランデ川とされた。 
f カリフォルニア アメリカ=メキシコ戦争の結果、アメリカがメキシコから奪った1848年に、すぐ金鉱が発見され、ゴールド=ラッシュが起こって多数の人々が移入した。人口が急増し、州への昇格が予定されたが、この新州を奴隷州にするか自由州にするかで南北の意見が激しく対立した。1820年のミズーリ協定で奴隷州と自由州の境界とされた北緯36度30分はカリフォルニアの真ん中を通っていたからである。結局1850年に自由州として連邦に加盟したが、南部が不満を持ったため、政府は南部からの奴隷の逃亡を防止する逃亡奴隷取締法を制定してその不満を和らげた(1850年の妥協)。カリフォルニアは西部最初の州となり、アメリカ合衆国の領土が太平洋岸に達することとなった。現在カリフォルニア州は、ロサンジェルスやサンフランシスコなどの大都市を擁し、シリコンバレーなどの最先端工業地帯や映画産業の中心地ハリウッドなどを含んでアメリカ最大の人口を有する州として繁栄している。 
 西漸運動   19世紀を通じて展開された、白人によるアメリカ大陸西部への進出(西部開拓)と、それに伴うアメリカ合衆国の西部への領土拡大運動のこと。東海岸のアメリカ人や、新たにヨーロッパから渡ってきた移民によって、フロンティア(辺境)が次第に西に押し広げられ、特に1848年、カリフォルニア金鉱の発見られてからは、西部への移住者が急増した。アメリカの白人はこの西漸運動を、マニフェスト・ディスティニー(「明白な天命」)と考え、正当化したが、広大な原野は彼らに占有され、原住民のインディアンは追い立てられていった。この運動はおよそ1890年代まで続いた。
a 1848年(アメリカ)1848年はまずアメリカ=メキシコ戦争(米墨戦争)の結果、グワダルペ=イダルゴ条約が締結され、カリフォルニアとニューメキシコを獲得した年である。アメリカが獲得した新領土、カリフォルニアで金鉱が発見され、それを契機として大規模な西部への人口移動が起こった。これは大西洋岸から太平洋岸に及ぶ北米大陸に巨大国家アメリカ合衆国が誕生したことを意味している。
この年は、世界史の上で大きな転換とった年であった。ヨーロッパではフランスの二月革命がベルリンとウィーンの三月革命に飛び火し、ウィーン体制が崩壊した。フランスでは第二共和制が成立したが、年末にはルイ=ナポレオンが大統領に当選、帝政復活の道が開かれた。イギリスではすでに産業革命を達成し資本主義社会を形成していたが、労働者階級は参政権などを求めてチャーティスト運動を展開していた。またこの年、マルクスとエンゲルスは共著で『共産党宣言』を発表、労働者階級の解放という政治目標を掲げた運動を開始した。 → 1848年 
b カリフォルニア金鉱 1848年1月24日、サクラメントの開拓拠点の一つであったサッター砦から、製材所のあったコロマに派遣されていたマーシャルは、朝食前の散歩に出かけ、近くの水路の中に輝くものを見つけた。ひろいあげてみるとエンドウ豆を半分にしたような金の塊だった。4日後、そのことを砦の責任者のサッター大尉に報告、大尉は実物を見て驚喜し、その報せはたちまちカリフォルニアの白人に広まり、多数の人間がこのシェラネヴァダ山脈の山中に殺到した。これが「ゴールド=ラッシュ」の始まりとなった。カリフォルニア金鉱の金はまもなく取り尽くされ、現在は廃墟が残っているだけである。翌1849年だけで約10万人が移住してきた。
c フロンティア 東部の連邦領土の西端に接する未開の地をフロンティア(辺境)といった。東部13州から始まり、1776年に独立宣言をしたアメリカ合衆国が、1803年のルイジアナの購入以来、次々と西部に進出して領土の拡大を進め、フロンティアを西に移動させていった。1848年にカリフォルニアを獲得して太平洋岸に到達し、最終的には1890年代にはフロンティアは消滅したと言われる。
フロンティア学説 1893年、アメリカ合衆国のシカゴで、コロンブスのアメリカ大陸到達400周年を記念する世界博覧会が開催された。同じシカゴでその年、アメリカ歴史学会が開かれ32歳の新進気鋭の歴史家の発表が注目を集め、後のアメリカの歴史観に大きな影響を与えた。それはフレデリック=J=ターナーの「アメリカ史におけるフロンティアの意味」という発表だった。それは後に「フロンティア学説」と言われるもので、要旨は、まず当時主流だったアメリカ史をヨーロッパ史の延長として分析するのではなく、つまりアメリカ史における北東部重視を否定し、アメリカの歴史の特質は西部へのフロンティアの拡大に伴って民主主義が増進したことにある、と主張した。彼に拠れば、フロンティアの個人主義が民主主義を促進し、粗野ではあるがたくましい精神力、自由から生まれる快活さなどの特性もそこから生まれた、という。ターナーはアメリカ史における西部開拓の重要性を強調したが、同時に1890年の国勢調査が「フロンティアの消滅」を告げている、と述べた。そしてそれは南北戦争後のアメリカ合衆国が産業化、工業力が進み、すでにフロンティア時代の生活様式は失われ「フロンティアは過ぎ去り、それとともにアメリカ史の最初の時代が終わった」と結論づけた。<『アメリカ外交とは何か −歴史のなかの自画像』西崎文子 2004 岩波新書 p.51-56> 
d ゴールドラッシュ カリフォルニア金鉱発見の翌年、1849年の1年だけで約10万もの人が移住してきた。これらの人々を「49年度の人たち」(フォーティーナイナーズ)という。彼らの多くは東部から海路、南アメリカ南端を帆船で6〜9ヶ月かかり、サンフランシスコに上陸した。陸路で大陸を横断する旅はさらに困難な、冒険を伴っていた。このゴールド=ラッシュによってカリフォルニアの人口は急増し、1860年には36万以上になった。
e インディアン 北米大陸に白人が入植した当初は原住民のインディアンは約100万人と推定されている。白人の西漸運動の結果、しだいに追いつめられた。またインディアンによる組織的な抵抗は、1890年のサウス・ダコタ、ウーンデッド・ニーでスー・インディアン300人近くが殺されたことで終わり、その時点でのインディアン人口は、約25万に減少したと言われる。現在ではインディアンという呼称はせず、ネイティヴ=アメリカンと言っている。
f 強制移住法 1830年、ジャクソン大統領の時制定された法律で、アメリカ大陸の先住民であるインディアンを、ミシシッピー川以西の辺境地帯の居留地に移住させることを定めたもの。これによってインディアンのオクラホマ州を中心とした居留地への移住が強制的、合法的にすすめられた。
Epi. 涙の旅路 1838年、アメリカ東南部のジョージアから、西部のオクラホマまで、インディアンのチェロキー族は移住を強制された。移住を拒否した部族は騎兵隊に追い立てられていった。この悲惨な旅路で、約4分の1が命を落としたという。
g 保留地 インディアン(現在はネイティブ=アメリカンというのが一般的)の居住として指定された地区で、ミシシッピ以西のオクラホマなどに約22万平方キロ。そのほとんどは耕作不能な荒れ地である。リザヴェイションといわれる居留地は現在286あり、アリゾナやニューメキシコを除くと、あとは細かくひっそりとしている。彼らに市民権が与えられるのは1924年のことであり、投票権に至っては第2次大戦後の1948年を待たなければならなかった。
イ.南北戦争
 南部と北部の対立 アメリカ合衆国の南部と北部の相違と、主張の対立点を要約すると次のようになる。
南           部 北           部
地   域 11州 人口 白人550万人・黒人350万人 23州 人口2100万人  
産   業 奴隷制綿花栽培を中心とした農業地域 商工業を中心に発展  
政治体制 連邦政府の権限を制限し、州の自治権を拡大する 連邦政府の権限を拡大し、国家統一を強める
貿易政策 主産物の綿花の輸出を増やすため自由貿易を主張 イギリス製工業製品と競争するため保護貿易を主張
奴隷制度 綿花大農園を維持するためには奴隷制は必要 奴隷制拡大に反対 労働力・購買力として期待
a 綿花プランテーション 南部の中心産業は、綿花栽培の大農園であった。本来プランテーションは、植民地に入植したヨーロッパの白人が、現地人を安価な賃金で労働力として雇用し、輸出用の商品作物を大規模に生産する大農園のことであるが、この時期のアメリカ南部の綿花農園における、黒人奴隷労働による経営もプランテーションと言われる。なお、18世紀末にホイットニーの綿繰機が発明されて、綿花栽培が盛んになってからは、綿花プランテーションが圧倒的に多くなり「綿花王国」が形成されたが、それ以外にも、藍、米、たばこなどのプランテーションも地域のよっては大規模に経営されていた。このようなプランターを主体とした南部は、黒人奴隷制を維持し、綿花その他の輸出を増やすために自由貿易を主張し、連邦政府による統制の強化には反対した。
b 奴隷制の存続 南部の綿花プランテーション生産が本格化するに伴い、経営者(プランター)は、黒人奴隷労働力が不可欠であったので、その存続を強く主張するようになった。なお、彼らの憲法上の根拠は、アメリカ合衆国憲法の第1条第2節第3項で、黒人とインディアンは「その他全ての人々」という表現のもとに、下院議員の選出と直接税の改税基準において白人一人に対して5分の3人と数えられ(いわゆる5分の3条項)ており、また第1条9節1項には「入国を適当と認められる人々の移住および輸入」という言葉があり、黒人奴隷貿易が公認されている、というものであった。1808年に奴隷貿易は禁止されたが、奴隷売買は依然として認められていた。また、1857年のドレッド=スコット判決に代表されるように、最高裁判所の判断は、黒人奴隷は財産であり、財産は憲法修正第5条のいわゆる権利宣言で適正な手続き(デュー・プロセス)がなされないかぎり侵害されないのだから、連邦政府は奴隷解放を命令することはできない、というものであった。
c 自由貿易 南部の綿花プランテーションの作物である綿花は、イギリスへの輸出によって成り立っていたので、イギリスとの貿易関係は南部にとっては重要であった。イギリスへの綿花輸出の見返りとしてのイギリス工業製品の輸入の拡大は彼らの利益に結びつくことなので自由貿易による貿易の拡大を主張した。
d 州の自治権の強化 南部のプランテーション経営主たちは自立した個人主義を信奉していたので、連邦政府を強化してその力にすがろうという北部産業資本家たちを貴族階級として嫌っていた。そのような心情からも南部では連邦政府に反対し、州の権限を強化することを主張する、アンチフェデラリストの流れをくむ共和党の勢力が強かった。
e 資本主義 アメリカ北部ではニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアなど、19世紀に入って産業革命段階に入り、ヨーロッパからの移民も増えて人口が増加していた。このようなアメリカ資本主義は、1812年の米英戦争でイギリスに敗れなかったところから自信を強め、イギリスに対抗してアメリカ国内産業を発展させようとしていた。そのためには、保護関税政策をとり、強い連邦政府のもとでの金融制度や経済の保護が必要であると主張した。また、黒人奴隷の解放は、人道上の当然であると共に、安価な労働力を提供するものとして期待された。
f 保護関税政策 北部の産業資本家は、発展途中であるアメリカの工業力を、先進国であるイギリスの製品から守るためには、保護関税政策が必要であると主張した。
g 連邦主義 北部の産業資本家は、産業の発展のためには、連邦政府による統一的な貨幣制度、金融制度、産業育成政策が不可欠であるとして、連邦政府の強化を支持した。党派としては共和党がその主張に近かったので、共和党を支持した。
h 奴隷制度反対 北部では早くから黒人奴隷制度に対し、キリスト教的な人道主義の見地から反対する意見も多かった。もっともプランター出身のワシントンやジェファソンも、早くから奴隷制には反対していた。黒人奴隷制を不可欠とする意見は、19世紀の中頃、綿花プランテーションが急速に拡大した頃から強まってくる。北部の産業資本家は、人道的に反対すると共に、資本主義にとって必要な国内の労働力して黒人奴隷の解放を期待する面もあった。
1830年代からは黒人自身による解放運動も活発になる。南部の黒人の逃亡を助ける組織も作られた。白人の中でも奴隷解放を主張する人々が現れ、その中のには1859年のジョン・ブラウンの蜂起のような実力を行使し、弾圧されたものもあった。
Epi. 黒人奴隷の逃亡を助ける地下鉄道 黒人奴隷の逃亡を助ける奴隷制廃止論者(アボリショニスト)は、「地下鉄道」(アンダーグラウンド・レイルロード)といわれる非合法組織を作った。その組織で「停車場」というのは逃亡奴隷が一夜の宿を取るところであり、「終着駅」は奴隷制度のない北部か、カナダであった。彼らの輸送には「車掌」がつき、勇敢な指揮官に導かれて北極星を頼りに北への長い旅を続けた。<本田創造『アメリカ黒人の歴史 新編』p.90 1991>
 ミズーリ協定 1819年段階で合衆国には22の州があり、11が奴隷州、11が自由州であった。北部では奴隷制度反対の感情が強まりつつありすでに禁止されたか、急速に絶滅に向かっていたが、他方南部では綿花栽培が広まるにつれて、奴隷制支持の感情が強まってきた。ワシントンやジェファーソンら古い南部出身の政治家は奴隷制度を害悪と見なしていたが、若い世代の南部人はそれを白人にとっても黒人にとっても利益なものと考えるようになっていた。そのような情勢で、ミズーリが奴隷州として加入を申請してきたので、議会は大問題となり、北部諸州は激しく加入に反対した。結局妥協が成立しミズーリの加盟を認める代わりに、マサチューセッツ州からメイン州を自由州として独立させることとし、均衡を保った。また合衆国がルイジアナとして獲得した地域でミズーリを除く北緯36度30分以北は奴隷制度が禁止された。(1820年)<ビーアド『新編アメリカ合衆国史』p.191>
その後奴隷制をめぐる対立はさらに激しくなり、1850年にカリフォルニアが州に昇格したときはそれを自由州とするかわりに逃亡奴隷取締法を強化するという妥協(「1850年の妥協」と言われる)が成立したが、1854年のカンザス=ネブラスカ法、また57年のドレッド=スコット判決での最高裁の見解などでミズーリ協定は否定される。
a 奴隷州 南北戦争以前に、奴隷制を認めていたアメリアの州。1820年のミズーリ協定の時期には、南部の11州が奴隷州だった。1860年には奴隷州は15州、そのうち11州が合衆国から脱退し南北戦争に突入した。
b 自由州 奴隷制を禁止していたアメリカの州。1820年、ミズーリ協定の時期には、北部の11州。1860年には18州であった。
c カンザス・ネブラスカ法 1854年、議会が制定したカンザス及びレブラスカ両准州を設立する法律で、この両州は(本来ルイジアナ購入地域の一部だったので1820年のミズーリ協定で奴隷制が廃止された地域であったが)彼らの憲法が定めるところに従って奴隷州としてあるいは自由州として連邦に加入しうるもの、とされた。それにともない、ミズーリ協定は否定された。これに反発した北部の奴隷制反対派は共和党を結成した。
d 共和党の結成1854年、カンザス・ネブラスカ法の成立を見て、奴隷制反対論者が結集し、フィラデルフィアで結成大会を開催。奴隷制度の拡大に反対すること、連邦の土地を貧しい農民に自営農地として与えること、関税率を引き上げ製造業者の利益を守ること、などを掲げた。名称は「リパブリカン党」であるが、かつてジェファソンが結成したリパブリカン党とはつながっていず、どちらかというと、フェデラリストの主張に近い。次第に、民主党支持であった農民層や、ホイッグ党支持であった北部の製造業者の支持を受けるようになる。1860年にリンカンを大統領候補として当選させ、以後全国政党として発展する。  → 共和党
アンクル=トムの小屋 1852年に完成したストウ夫人の小説。主人公の黒人奴隷トムは、はじめケンタッキー州の優しい主人の下で暮らしていたが、奴隷商人に売られ、最後はニューオリンズで鞭打たれて死ぬという過酷な運命にさらされる。この人道主義の立場からの奴隷制批判を込めた作品は、奴隷制反対の機運を大いに盛り上げた。ストウ夫人はコネティカットのカルバン派牧師の娘として生まれ、夫も牧師であった。19世紀後半に『アンクル=トムの小屋』や『ドレッド』など、黒人奴隷の悲惨な生活を題材にした作品を発表した女流作家。
ドレッド=スコット判決 1857年、アメリカの連邦最高裁判所が黒人奴隷制度を合憲とした判決。奴隷制をめぐる賛成派と反対派の激しい論争となり、南北戦争への引き金の一つとなった。ドレッド=スコットとは黒人奴隷の名で、彼は所有者に連れられて自由州であるイリノイや、ミズーリ協定で奴隷制が禁止されたミネソタ准州に住んだことがあることにより自由の身となったとして、裁判に訴え、最終的には最高裁判所まで持ち込まれた。最高裁の判決は、合衆国憲法はもともと黒人を市民と認めていないから黒人には提訴権がないし、ミズーリ協定は財産権を侵害するもので憲法違反であるとして、スコットの訴えを全面的に否定して自由を認めなかった。ミズーリ協定を否定された共和党を中心とする北部はこの判決に強く反発した。<本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波新書など>
ジョン=ブラウンの蜂起 白人の奴隷制廃止論者ジョン=ブラウンは、1859年10月、ヴァージニア州の連邦武器庫ハーパーズフェリーを襲撃した。ブラウンは自分の息子三人を含む、白人と黒人あわせて二二人からなる小人数で、この地を二日間にわたって占領した。「彼は、自分たちのこの壮挙が奴隷暴動の狼煙となって、全南部の奴隷がいっせいに蜂起することを期待していたのである。しかし、そのことにかんするかぎり、彼の計画は失敗に帰した。・・・・彼の二人の息子は戦死し、ブラウン自身も重傷を負って捕えられた。結局、彼の蜂起は失敗した・・・北部の各地で大衆的な追悼集会が開催され、ソローやエマソンやホイッティアなどの著名な知識人も心からブラウンの死を悼んだが、フランスの作家のヴィクトル・ユゴーが「奴隷制度は如何なるものも消滅する。南部が殺害したのは、ジョン・ブラウンではなくて奴隷制度であった」と、いみじくも予言したように、それから一年数カ月後には、北部の農民や労働者たちは、「ジョン・ブラウンの遺骸は墓の下に朽ちるとも、彼の魂は進軍する」と歌いながら、大挙して奴隷制打倒の戦争に立ち上がっていたのである。」<本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波新書 p.95>
 南北戦争 1861〜65年におよぶ、アメリカ合衆国(USA)とそこから分離したアメリカ連合国(CSA)と間の戦争。アメリカを南北に分断した内戦であるが形式的には二国間の戦争。建国以来の南部と北部の性格の違いに、奴隷制問題が加わり、西漸運動で西部に新しい州が出来るに従い、ぬきさしならぬ対立に至った。当時、北部は23州、人口約2200万、南部は11州人口900万(うち奴隷が3分の1以上)であった。4年にわたる戦闘の結果、北部が勝利したことによって、産業資本を中心とした近代国家としての統一は保たれ、また奴隷制廃止によって市民社会としての体裁が整えられたので、Civil War と言われる。しかし、南北の対立、黒人差別問題はその後もアメリカ合衆国の抱える最大の問題として継承されることとなる。
戦争の経過:1861年4月、南軍が北軍のサムター要塞を攻撃して戦争が始まる。はじめリー将軍などの指揮する南軍が優勢であり、イギリス・フランスも南軍に肩入れし、北軍は押されていた。しかし、経済力に勝る北部が次第に挽回し、1863年1月に出されたリンカンの奴隷解放宣言は、国際的に北部に理があると受け取られて英仏の干渉を失敗させ、ホームステッド法の施行が西部の農民の支持を受けて情勢は逆転、最後は北軍のグラント将軍が南軍を降服させ、1865年3月に終結した。
南北戦争の死者:南北戦争の計62万という死者の数は、第1次大戦の約11万、第2次大戦の約32万と比べてあまりも大きい。<猿谷要『物語アメリカ史』p.99>
戦争の意義:「南北戦争は、アメリカ史上最大の犠牲をもたらした戦争であった。また、中国での太平天国の乱(1851〜64)と並んで、19世紀最大の戦争であった。・・・アメリカが分裂の危機に陥ったこの戦争を乗り越えて、ようやく本格的な国民意識が芽生えた。この戦争以前は、アメリカ人も外国人も、この国を「The United States are ....」と複数形で呼んでいたという。戦後は、これが単数形になるのである。以後、1960年代に国家としてのアイデンティティーが大きく動揺するまで、アメリカ史は1世紀にわたってナショナリズムの時代を過ごした。いわば思春期である。」<村田晃嗣『アメリカ外交 希望と苦悩』2005 講談社現代新書 p.62-63>
a リンカン ケンタッキーに生まれ、川船乗り、製粉業、郵便局長などをしながら独学で学び、1834年ホイッグ党員として代議士となる。46年アメリカ=メキシコ戦争では戦争反対の演説をしたが、戦勝に沸く世論から無視された。56年共和党に入党。奴隷制拡大に反対する論陣を張り注目される。60年、共和党から大統領に立候補し当選、第16代大統領となる。翌年、南部諸州が合衆国から離脱し、南北戦争が勃発したが、62年のホームステッド法などで難局を乗り切った。1863年1月、奴隷解放宣言を発表し、「偉大な解放者」the Grate Emancipator と言われる。64年大統領に再選され、翌年戦争を終わらせたが、65年4月14日、熱狂的な南部派の俳優ブースによって暗殺された。
 → ケネディ大統領の暗殺との類似 
b アメリカ連合国 1861年に結成された南部諸州の連合。南部連合、アメリカ諸州連合ともいう。Confedelate States of America で略称CSA。前年の11月リンカンの当選のしらせは、サウス・カロライナの連邦離脱への合図となった。12月、連邦離脱を決するための州大会が開かれ、満場一致で脱退を決定した。フロリダ、ジョージア、アラバマ、ミシシッピ、ルイジアナ、テキサスの各州が同調した。61年2月、アラバマのモンゴメリで会合した6州の代表は、「アメリカ諸州連合」の組織を結成した。ミシシッピのプランターとして、合衆国の公務に従事して令名のあったジェファソン=デイヴィスを大統領に選出した。南部諸州は、北部が分離を認めるだろうこと、認めないときに戦争になっても勝てる、と考えた。それは、イギリスが紡績工業の原料としての綿花を必要としたから南部を応援し、フランスのナポレオン3世もプランテーション貴族に好意を寄せている、と思っていたからである。<ビーアド『新編アメリカ合衆国史』p.269> 
ジェファーソン=デヴィス アメリカ連合国(南部連合)の大統領。ミシシッピの大プランターであった。連邦上院議員であったが、ミシシッピ州が連邦を離脱したので、辞任。1861年、アメリカ連合国の大統領に選出される。南部は彼のもとで統一されていたわけではなく、戦争中はその反対派に苦しめられた。敗戦後は2年間、その責任を問われ獄中生活を送った。
c 1861 アメリカの南北戦争の勃発の年。4月13日、北軍のサムター要塞が攻撃され、戦争が始まった。フランスのナポレオン3世が、南北戦争の勃発に乗じて、メキシコに出兵。イタリアではヴットリオ=エマニュエレ2世を国王とするイタリア王国が成立。ロシアでは農奴解放令が出された。南北戦争でアメリカの綿花輸出がストップしたため、インドの綿花生産は急増した。清では前年にアロー戦争が終わり、太平天国の乱が続くなかで西太后がクーデタで権力を握った。日本は幕末の混乱が深刻化し攘夷事件がさかんに起こっていた。日本を開国させることに成功したアメリカだったが、南北戦争のため、いったんアジアから後退し、代わってイギリスの日本への進出が強まる。
d リー将軍 南北戦争での南軍の陸軍総司令官。バージニア出身で、ウェストポイント陸軍士官学校校長を務めた著名な軍人であった。北軍を苦しめたのち、1865年アポマトックスの戦いで北軍のグラント将軍に降服した。
 ホームステッド法 1862年、南北戦争中にリンカン大統領が公布。家長ないし21歳以上の者はだれでも、男女をとわず、たとえ外国人でも将来アメリカ市民となる意志を表明した者は、160エイカーの公有地の貸与を請求することができる。そしてその土地に一定の改良を加えた上、5年間定住すれば、その土地の完全な所有権を得ることが出来る。ただし、合衆国に対して武器をとった者、または外敵に援助や便宜を与えた者は除外される、というもの。これによって西部の農民は北部を支持することとなり、南北戦争で北軍を有利にし、また西漸運動をさらに促進することとなった。 
 奴隷解放宣言 リンカン大統領は、まず1862年9月に奴隷解放予備宣言を出し、翌63年1月1日までに南部諸州が連邦に復帰しなければ、その日を期して黒人奴隷を解放すると宣言した。しかし南部諸州の動きはなかったので、予定通り63年1月1日、奴隷解放宣言を発表した。その文面はの一部は以下の通りである。
(前略)本日、1863年1月1日現在、合衆国に対して反乱の状態にある人民のいる州と州内部の特定の地域を以下のように指令し、かつ指定する。(以下、反乱州の具体名を列挙)
(中略)(合衆国大統領の陸海軍総司令官としての)権限と目的のために、以上に特定した州および州内部の地域において奴隷として所有されているすべての人びとは、自由であり、また以後自由であるべきことを、私はここに命令し宣言する。また、合衆国陸海軍を統括する合衆国政府が、上記の人びとの自由を承認しかつそれを保護することを命令し宣言する。そして私は、このようにして解放を宣言された人びとに、自己防衛のために避けられない場合を除いてすべての暴力行為を回避することを命令する。(以下略)
リンカンの奴隷制反対論 しかし、1860年に大統領となったリンカンが、最初から奴隷制度反対論者だったとは言えない。彼は、当初は南部の現状では黒人奴隷の存在はやむを得ないが、その拡大には反対する、というものであった。また大統領には州の奴隷制度を廃止する権限はないと考えていた。しかし、南北戦争が進行する中で、連邦の維持のためには北軍の勝利が必要であり、そのためには国際的な支援を得るためにも、黒人奴隷の解放を宣言せざるを得なくなったのであった。 
g ゲティスバーグの戦い 1863年7月1日〜3日、南北戦争での最大の戦闘となった戦い。ペンシルヴェニア州ゲティスバークで、北軍が南軍を破り、戦局を逆転させた。両軍の戦闘員16万3千人、その4分の1が死傷したとされる。この地で4ヶ月後に行われた戦没者墓地奉献式でリンカンが行った演説がよく知られている。
h  人民の、人民による、人民のための政治 1863年11月19日、南北戦争の最中、激戦地であったゲティスバークでの戦没者墓地奉献式で、大統領リンカンが行った演説の一部。民主政治の本質を語るものとして人口に膾炙している。 
i グラント 北軍を勝利に導いた将軍として有名。その名声によって、戦後共和党から立候補して大統領となる。第18代(在職1869〜77年)。南北戦争後のアメリカ経済発展期にあたっていたが、大統領としては無能だったとされ、在任中は汚職事件が多発し、金銭万能の風潮が顕著となり、金ぴか時代といわれた。なお、退任後、1879年に世界旅行の途中に日本に立ち寄り、琉球問題で紛糾していた日本と清の仲介し、列強のアジア侵略に対して、日本と清の同盟が必要であると勧告したことでも知られる。
j アメリカの統一の強化、資本主義経済の発展の基盤できる  
ウ.工業国アメリカの誕生
 奴隷制の廃止 1863年のアメリカ大統領リンカン奴隷解放宣言は、65年の憲法修正第13条で確定した。これによってアメリカ合衆国は黒人奴隷制を否定し、黒人奴隷は解放された。さらに66年には初めて市民権法(公民権法)すなわち、一般アメリカ市民が有すると同じく、黒人に対しても法律の前に完全な市民的平等を保証する法律が成立した。また解放された奴隷の生活支援のため、解放奴隷黒人事務局(Freedmen's Bureau )が設立された。
制度は廃止されたが・・・ 「しかし、経済的な点から見ると、この全般的な奴隷解放は、黒人からプランテイションにおける安定した生活をうばい、周囲のはげしい生存競争に入るだけの準備もなく、しかも隷属を示す皮膚の色をしたまま、ちょうど17世紀の土地を追われたイギリス農民のように、家も道具もたくわえもないままで、かれらをうき世にほうり出したという結果になったのである。」<ビーアド『新編アメリカ合衆国史』 P.290>
差別の復活と公民権運動 さらに1870年代以降になると、南部諸州において、黒人差別はさらに強化され、公民権が制限ないし剥奪されていった(南部の黒人差別復活)。黒人による差別に対する抵抗はしだいに組織的となり、大きな運動となっていくが、その成果を見るのは第2次世界大戦後、1950年代の公民権運動を経た1960年代、つまりリンカンの奴隷解放宣言から1世紀も過ぎてからのことであった。奴隷解放宣言からちょうど百年後の1963年、キング牧師の指導する公民権運動が盛り上がり、ワシントン大行進が行われた。
a 憲法修正第13条 南北戦争後の1865年に連邦議会で成立した憲法修正で、奴隷制度を禁止し、意に反する苦役を犯罪に対する刑罰以外に禁止するというもの。
b 投票権 1870年3月、憲法修正第15条によって黒人にも選挙権が認められ、さらに黒人の公民権侵害に対する処罰法ともいうべき強制法が制定された。こうした数年間は、アメリカ黒人の歴史において画期的な一時期となった。このとき、大部分の黒人は、初めてこの国で選挙権を行使することができた。州議会に選ばれて黒人が自分の生活について自分の口でものを言ったのも、このときが初めてである。いくつかの州では、州議会の下院議員の半数近くが黒人議員によって占められた。また、州政府の各種機関に多数の黒人が進出した。そればかりか、国の政治にも直接関与し、1869年から1876年の時期に、14人の黒人下院議員と二人の黒人上院議員がワシントンの国会に送られた。<本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波新書 p.132>
 南部諸州の復帰連邦議会は1868年、修正第14条を制定した。これは、1.合衆国市民権は出生または帰化によって取得される。各州は合衆国市民に保障されている権利を制限してはならない。2.南部が黒人男子に投票権を認めない場合は、その数が男子総人口に占める割合に比例させて、その州から選出される下院議員数を削減する。3.南北戦争で南部連合を支持した元公務員から選挙権と公職就任権を剥奪する、などの内容を持ち、南部諸州に対し、その批准を連邦復帰の条件とした。南部諸州では1868年にアーカンソ、ルイジアナなど7州がこの条件を満たし、連邦に復帰し、70年にはテキサス、ミシシッピ、ヴァジニアが復帰した。
a シェアクロッパー Sharecroppers 地主が土地と生産用具(住居・家畜・農具など)を小作人に貸し、耕作させて、収穫をあらかじめ決められた割合で分割する制度。南北戦争に際して、奴隷制が廃止され、黒人は解放されたけれども、経済的に自立できず、シェアクロッパーになることが多く、貧困から抜け出すことは出来なかった。その貧困が差別をさらに呼ぶこととなった。  → 分益小作人
 南部での黒人差別復活 南北戦争後に南部諸州が連合に復帰し、駐屯していた連邦軍が北部に引き揚げると、黒人に対する露骨な差別感情が復活し、それは州議会で州法という形で合法化されていった。まず、黒人選挙権の剥奪は、1890年から20世紀初頭にかけて、ミシシッピ州に始まり、南部諸州に広まった。そのやりかたは、憲法修正第一五条に抵触しないように、黒人選挙権の剥奪は、州憲法の中に「人頭税」や「読み書き試験」を取り入れることによって行なわれた。すなわち、有権者登録をする者は誰でも選挙係官に人頭税納入の受取りを見せ、また指示された州憲法や州法などの一節を読解しなければならなかった。これは「ミシシッピ・プラン」と呼ばれるものであるが、その他の南部諸州も、これに類似した方法で黒人選挙権の剥奪を行なった。人頭税や読み書き試験は黒人だけを対象にしたものではないが、当時の黒人の状態を考えれば、それが巧妙な黒人選挙権の剥奪方法であることはすぐわかる。一方で黒人に対する凄惨なリンチが行われるようになった。これら一連の黒人差別に根拠をあたえる法律は黒人取締法であり、それによって黒人分離策がすすめられ、またKKKなどの人種主義者による公然としたリンチなどの虐待が行われた。第2次世界大戦後の1950年代から60年代に黒人公民権運動が始まり、1964年に公民権法が成立し、法的な不平等は解消されたが、その後も黒人に対する人種差別問題はアメリカ合衆国の深刻な課題となっている。
Epi. 「奇妙な果実」 エピソードとしては深刻な話だが、当時の黒人へのリンチでは、殺された黒人の死体が木につり下げられ、奇妙な果実(strange fruit)と言われた。「‥‥信じられないことだが、黒人に対するリンチがあらかじめ予告され、女性や子供まで見て楽しむために集まり、木に吊された「奇妙な果実」から心臓や肝臓の薄切りをみやげに持ち帰ったという。」<猿谷要『物語アメリカ史』p.116-118 1999>
ジャズ歌手のビリー・ホリディが1939年に歌った「奇妙な果実」は、その情景を抑制のきいた声で淡々と歌っている(CD『奇妙な果実』−ビリー・ホリディの伝説−で聞くことができる)。彼女の感動的な自伝も『奇妙な果実』というタイトルだった。
a 黒人取締法ブラックコードという。南部諸州が連合に復帰したのちに制定されていった、諸法律の総称。目的は白人社会の優位を維持し、黒人を不自由労働者として土地に緊縛することであった。その主な内容は、選挙権の実質的剥奪(人頭税納入や読み書きテストの実施という方法がとられた)、土地所有の制限、人種間の結婚禁止、武器の所持や夜間外出の禁止、陪審員になれないなど、多方面に及んでいた。これら南部での黒人差別復活を合法化した諸法は、最高裁判所の合法判決などを得て、20世紀中頃まで存続し、1950年代の公民権運動の高まりによって制定された1964年の公民権法でようやく廃止される。
b 民主党  → 民主党
c 共和党  → 共和党
d クー=クラックス=クラン(KKK) アメリカ合衆国に存在する、反黒人を主な主張とする秘密結社。主な活動期は、南北戦争後の1860年代後半から70年代と、第1次世界大戦後の1920年代であった。いずれも黒人や黒人に理解を示す白人に対する集団的なテロを行い恐れられた。現在も南部の一部にはその組織は残っていると言われている。
南北戦争後のKKK:南北戦争後の1860年代後半に、南部の黒人差別復活と共にKKKが組織され表だった活動を開始した。
「クー・クラックス・クラン」(KKK)は1865年にテネシー州のプラスキーで少数の旧南軍士官を中心に黒人抑圧を目的にして組織されたのが始まりである。その後、この組織はたちまち南部各地に広がり、「大魔法王」を総帥に、州には「大竜」、郡には「大巨人」、地区には「片目の巨人」という無気味な名称の各級指揮官を擁したピラミッド形の「見えない帝国」を打ち建てた。頭からすっぽり三角形の帽子のついた覆面で顔をおおい、幽霊のようなガウンを全身にまとって、深夜、馬にまたがり町や野原を疾走するかれらの白い姿は、迷信的な里人を威圧するために考案された奇妙な装束で、その効果は大きかった。かれらは黒人の家を襲い、解放民局やユニオン・リーグの仕事を妨害し、黒人の投票を暴力的に阻止したばかりか、投票しようとする黒人や、かれらを支持した白人の命さえ平気で奪った。黒人が自己解放のために教育に力を注げば注ぐほど、学校や教師がクランの攻撃目標になった。かれらの暴挙は1870年頃、頂点に達した。<本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波新書 p.135>
1920年代のKKK:最初のKKKは1870年と71年に制定されたクラン取締法で消滅した。1915年、シモンズ大佐というジョージア人が白人の優越と南部の理想主義を擁護する団体として復活させ、第1次世界大戦後の1920年代にシモンズは「魔術帝王」と称して組織を拡大させ、黒人やユダヤ人、非プロテスタントに対する陰惨な暴力行為をくり返し恐れられる存在となった。1924年には会員数450万を数え、南部から西部にかけて大きな政治勢力となったが、戦時の感情が後退する中でゆっくりと衰退していった。以下はF.L.アレンの著作『オンリー・イエスタディ』からの引用である。
「もし、白人の少女が黒人から言い寄られたと申し立てると − その訴えが誰にも相手にされぬもので、神経病的な想像から捏造されたものであっても −白衣をまとった一団が黒人を森にさらっていって、コールタールと羽根もしくは鞭で学習″(私刑)を行なっただろう。人種にまつわる紛争で、もし白人が黒人の肩をもったとしたら、彼は拉致きれ、殴打されるにちがいない。もし、黒人女性の土地が法外な安値をつけられ、その売却を拒否したとする。が、K・K・K団の団員がこの土地を欲しがっている場合には、彼女はK・K・K団の最後通牒 − 言い値で売るが、追い出されるか − を甘受しなければならない。団員はユダヤ人商人をボイコットし、カソリックの少年たちの雇用を邪魔し、カソリック教徒に家を貸すことを拒否した。五人の男が連れ去られ、針金で縛られて湖水で溺死させられたというルイジアナでの惨劇は、K・K・K団員の仕業にされた。R・A・ハットンは 『カレント・ヒストリー』誌上で、アラバマに起こった一連の陰惨な残虐事件を報告している。「背中の肉がずたずたに切り裂けるまで木の枝で打たれた若者。殴打され放置されて、風雨にさらされたため、肺炎を起こして死んだ黒人女性。離婚をしたために自宅で意識不明になるまで殴打された白人の娘。アメりカ女性と結婚したという理由で、背中がパルプ状にどろどろになるまで鞭打たれた帰化外国人。実際の値段のほんの何分の一かの費用で白人に土地を売るまで鞭打たれた黒人」。このような暴行が行われなかったところでも、人びとは彼らの威嚇におびやかされた。白服の一隊が行進し、火の十字架が丘の向こうに輝くとき、人びとは暗やみのなかで声をひそめていぶかった。「今度は誰を狙っているんだろう」。恐怖と疑惑が家から家へと走った。・・・」<F.L.アレン/藤久ミネ訳『オンリー・イエスタディ』1932 ちくま文庫  p.99-100>
※第2次世界大戦後の1960年代に、黒人公民権運動が活発になると、それに対する反動としてKKK団に似せた黒人に対する暴力的な差別と排除が始まった。その様子は映画『ミシシッピ・バーニング』に衝撃的に描かれている。 
e ジム=クロウ ジム=クロウ Jim Crow というのは、19世紀末から20世紀前半のアメリカの黒人が置かれた差別状況を言う場合に使われる。黒人分離政策によって、学校、交通機関、公園などあらゆる公共施設で、白人用と黒人用が分離され、共用することは許されなかった。例えば、ジム・クロウ・カーといえば、黒人専用車を意味する。このような公然とした差別も、1896年の最高裁判決で、隔離は差別ではない、という理屈で合法とされた。
f 黒人分離政策 1870年代後半から、南部諸州で黒人分離政策が推進された。黒人の市民権に対して、1883年の連邦最高裁判所が、「アメリカ国民に与えられたいろいろな特権(公民権)はそもそも州の市民にそなわるものであるから、これらは黒人の市民権付与を規定した憲法修正第一四条の適用は受けない」として、1875年の公民権法を否定して以来、南部諸州では交通機関、学校、レストラン、娯楽施設などにおける人種差別と隔離が、州法や市条例その他の法律によって法制化されていった。1896年5月18日に最高裁判所がルイジアナ州の列車内の黒人隔離にかんして下した判決(プレッシー対ファーガソン事件)では「隔離はしても平等」"separate but equal" なら差別ではないとする有名な原理を確立したことによって、あらゆる人種差別に法的支柱を与え、これを背後から助長したのである。<本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波新書 p.144>
g 公民権運動  
 フロンティアの消滅 アメリカ合衆国のフロンティアは、1890年に消滅したとされている。19世紀にアメリカ合衆国が西に向けて領土を拡大する過程で、開拓の最前線の「文明と未開の境界線」がフロンティアと言われた。19世紀の西漸運動を通じてフロンティア・スピリット「開拓者魂」がアメリカ民主主義を増進させたという考え方がある。しかし、19世紀中ごろには領土は太平洋岸に達して、領土の拡大の結果として南部と北部の対立が生じて南北戦争となり、その危機を克服した後は工業化が進んでゆき、並行して新たな移民も増加し、いわゆる開拓者精神は失われていった。1893年の歴史家F=J=ターナーは、アメリカ史におけるフロンティアの意義の強調すると共に、1890年の国勢調査がフロンティアの消滅を告げていると指摘した。
インディアンの抵抗の終わりとフロンティアの消滅 1890年の暮れ、サウス・ダコタのウーンデッド・ニーで、スー・インディアン約350人が軍隊に包囲され、武装解除されている間に争いが起って、300人近くが殺され、雪の中に横たわった。軍隊の側からは「戦闘」とよばれ、インディアンの側からは「虐殺」とよばれている事件だが、この時点で全米のインディアンは組織的抵抗のすべてを終わったのだ。有無を言わせぬ征服というのが実状であったろう。殺されずに運よく生き延びたインディアンは、荒野や山岳に指定されたリザヴェイションのなかに住まなければならなくなった。現在286もあるリザヴェイションは、アリゾナやニューメキシコを除くと、あとは細かくひっそりとしている。‥‥市民権を与えられたのは遙か後の1924年のことであり、投票権に至っては第2次大戦後の1948年なのである。インディアンの組織的抵抗がすべて終わった1890年、国勢調査の結果、フロンティア・ラインの消滅が報告された。<猿谷要『物語アメリカ史』中公新書 p.122-3>
ロング=ドライブ 南北戦争後に、大陸横断鉄道が開通すると、テキサスやニュー・メキシコで放牧されいる牛を東部市場に送るために、南部から北部の鉄道の駅までの長い距離をカウボーイたちが牛を追い立てて進む長距離輸送(ロング=ドライブ)がはじまった。
Epi. テキサス・ロングホーン テキサス・ロングホーン(長角牛)はスペイン人の探検家や伝道者がもたらしたものだが、長い間に迷いだして野生化した。1830年代にアメリカ人がテキサスに進出したときには沢山の野生のロングホーンが生息しており、彼らはそれを捕獲して家畜化していった。テキサス・ロングホーンは厳しい風土に順化し、草や水を自分で見つけ出す能力を持っていたので、広大な牧場で放し飼いにされ、年に一度のラウンドアップ(春、放牧された牛を集め、生まれた仔牛に持ち主の焼き印を捺す作業)が行われた。それに熟達していった牛飼いの男たちが「カウボーイ」である。鉄道が開通すると、牧畜業者にとって、突如東部の大市場が出現した。テキサスやニュー・メキシコの牧畜業者は、牛を北部の鉄道の駅まで連れて行くというロング・ドライブを行うようになった。数千頭のロングホーンを移動させるのは大変な作業で、カウボーイたちをうまく統率する必要があった。牛の暴走というもっとも恐ろしい事故や、牛泥棒、盗賊の襲来など危険もいっぱいであったが、その利益は莫大なものがあった。<ダニエル・J・ブアステイン『アメリカ人』* 1973 などによる>
a 小麦  
b 大陸横断鉄道 南北戦争の最中、62年、議会は太平洋岸まで鉄道を通ずるための特許会社を作る法律を制定した。ユニオン・パシフィック会社はネブラスカのある地点(後にオマハと決定)から西方に鉄道を建設し、セントラルパシフィック会社はサン・フランシスコあるいはサクラメント川沿いのある地点から東方に鉄道を建設し、いずれかの地点でこの2線は出会って、大陸横断鉄道が完成されることになっていた。<ビーアド『新編アメリカ合衆国史』P.286-7>
Epi. 大陸横断鉄道建設に動員された華僑たち 1865年に黒人奴隷制度が廃止され、代わってアメリカ大陸に労働力として移住したのが中国人、つまり華僑であった。1863年にサクラメントからオレゴンにむかう300マイルのセントラル・パシフィック鉄道の工事は花崗岩でなる海抜2000mのネヴァダ山脈の峡谷を抜け、ドナー峠を超える難工事であった。会社の首脳は長城や運河の土木、平地や山地の開墾に老練な、中国人労働者の動員しようとし、広東地方から延べ1万2千人を雇った。全労務者の9割にあたる。白人労働者には宿舎と食料が支給されたが、華僑労働者はテントで野営し食費を自弁するという待遇の中で、精鋭さを発揮して、68年9月に完成させた。<斯波義信『華僑』岩波新書 1995 p.151>
 工業の発展 南北戦争の終結から19世紀末にかけて、アメリカでは鉄道建設を始め、ロックフェラーによる石油産業、カーネギーによる製鉄業など、工業化が著しく進み、急速に資本の統合が進んだ。またその労働力として、ヨーロッパからの大量の移民が移住してきた。その結果、東部のニューヨークを始め、中西部のシカゴ、西部のサンフランシスコ、ロサンジェルスなどの大都市が出現した。
a 工業国  
b 移民(19世紀)北米大陸への移民は、独立以前はイギリス人(アングロ=サクソン)を中心に、オランダ人、スウェーデン人、ドイツ人、フランス人など西欧からの移民であった。また移民ではなく、強制的にアフリカ大陸から連行されたアフリカ人が多かった。独立からナポレオン戦争の時期は減少したが、1810年代以降に増えだし、1840年代からは主にアイルランドから年間100万単位での移民が行われる(その契機となったのは1845年からアイルランドで起こったジャガイモ飢饉であった)。19世紀末からはイタリア人、ポーランド人、東欧のスラブ系の人々、それにユダヤ人が多くなった。20世紀初頭にはアメリカの工業化の進行にともなう労働力として、アジアからも多くの移民(その中の中国人が華僑)が合衆国にわたった。独立から移民制限が本格的に始まる1920年代までに、およそ3700万人が流入したとされる。<紀平英作編『新版世界各国史・アメリカ史』p.18> → 移民(20世紀)
c アメリカ労働総同盟 1886年、オハイオ州コラムバスに集まった労働組合諸団体の代表は、今までの彼らの団体を解消してアメリカ労働総同盟 the American Federation of Labor (AFL)という団体を造り、既にできていた全国的職業諸組合、各州の組合連合会、おおび組合都市連合会の上に置くこととした。ただの一年間だけを除いて1924年に死ぬまで会長を努めたのがサミュエル・ゴンパースである。彼は「単純な」労働組合主義を進め、社会主義者の影響力を抑え、労働時間と賃金、労働条件、団体交渉権、共済基金の積立、など実利のみを追求した。それは階級闘争を宣言することをさけ、資本主義体制を是認しその範囲内で労働者とくに熟練労働者の地位を改善しようとするものであった。<ビーアド『新編アメリカ合衆国史』 P.313>  → 産業別労働者組織委員会(CIO)  産業別組織会議(CIO)
金ぴか時代 (南北戦争後の1860年代後半から70年代)鉄道業で進んでいた企業の吸収合併は、他のどの産業の分野でも急速に進展した。ダーウィンの進化論が、社会に適用され、(適者生存という)ソーシャル・ダーヴィニズムの考えが時代の潮流となった。当時の共和党政権は産業界に自由放任の態度をとったので、カルテルやトラストなどをおしすすめた独占資本家たちは、政界に対しても介入し、いつでもポケットに議員を10人ぐらい入れて歩いている、と豪語した。また、南北戦争後の議会は産業界を保護するため、くり返し関税率の引き上げを行った。アメリカが自由貿易の国になったのは第2次大戦からのことに過ぎない。こうして産業界は急激に膨張し、政界は腐敗して汚職が続発する。南北戦争の後半に北軍の司令官となったため、戦後一躍国民的ヒーローに祭りあげられたグラントは、1869年から77年までに二期大統領の職についたが、彼の周辺は汚職にまみれ、今では史上最低の大統領と評価されている。彼の在任中の1873年、マーク・トウェインはチャールズ・ウォーナーとの共著で『金ピカ時代』という小説を発表し、議員やロビイストを描きいた。このタイトルは、南北戦争から世紀末までの物質万能、趣味俗悪、政治腐敗などを象徴するようになった。<猿谷要『物語アメリカ史』中公新書 p.109-110> 
 太平洋への進出  
a ペリー アメリカ海軍軍人。1853年、東インド艦隊司令官として「黒船」サスケハナ号など4隻を率いて浦賀沖に来航、日本に開国を迫り、翌54年日米和親条約(神奈川条約)を締結した。その記録は『ペリー提督日本遠征記』として公刊されている。
b 日本の開国 1853年、ペリー艦隊を日本に派遣したのは、ホイッグ党フィルモア大統領の時である。ペリーはフィルモアの国書を持参して江戸幕府に迫り、翌54年、日米和親条約を締結し開国を実現した。北太平洋の捕鯨業にとって日本に補給用の港を確保する必要があった。また、当時、クリミア戦争の最中であり、イギリス、フランス、ロシアには東アジア進出の余裕がなかった。開国後は下田に初代総領事ハリスが着任し、1858年日米修好通商条約の締結となり、貿易が開始される。しかしまもなく南北戦争が勃発したため、アメリカは後退し、幕末から明治にかけてはイギリス(パークス)とフランス(レオン=ロッシュ)の力が強く及んでくる。特にイギリスは自由貿易による世界市場の拡大に積極的であり、保護貿易体制である鎖国政策の廃棄を江戸幕府に強く迫った。いずれにせよ、日本が開国したことは、日本が世界経済に巻き込まれることとなっただけでなく、資本主義の経済圏が地球を一周したことになり、世界史的な意義があることであった。
日本開国の意義:「ブルジョア社会の固有の任務は、世界市場及びその基礎の上に立つ生産を作り出すことである。世界は円形であるから、このことはカリフォルニア並びにオーストラリアの植民地化と支那並びに日本の開放によって結末に至ってきたと考えられる。」1858年のエンゲルス宛マルクスの書簡。<羽仁五郎『明治維新史研究』1956 p.94> 
c ナポレオン3世  → 第12章 2節 ナポレオン3世
d メキシコの内乱  
e アラスカ買収 アラスカは1741年にロシアのベーリングが海峡を横断して到達し、ロシア領となった。その後、ロシアはアメリカ大陸西岸を南下し、太平洋方面に領土を拡張しつつあったアメリカ合衆国にとって一つの脅威となり、1823年にモンロー大統領はモンロー教書を発して、ヨーロッパ諸国のアメリカ大陸への干渉を排除しようとした。しかしその後、1867年にはロシアアレクサンドル2世は、財政難から自国領であったアラスカをアメリカに売却した。その直後にアラスカでも金鉱が発見され、ロシアは大いに悔やむこととなった。アラスカはさらに石油・天然ガスなどの豊富な地下資源が発見され、重要度を増し、1959年にアメリカ合衆国の49番目の州に昇格した。冷戦時代には対ソ戦略でも重要な位置にあった。