用語データベース 12_4 | |
4 19世紀欧米の文化 | |
ア.ロマン主義と自然主義 | |
A 古典主義の完成 | 美術史上の古典主義:17世紀ヨーロッパ美術では、イタリア・フランドル・スペイン・ドイツではバロック美術と言われる躍動的な表現が主流となっていた。フランスの絵画ではバロックの影響も強かったが、ニコラ=プーサン(1594〜1665)のように、落ち着いた安定した古典主義的な様式を成立させ、ルイ14世の時に創設された芸術アカデミーが美術行政の中心となり「アカデミズム」を形成していった。18世紀末から19世紀のダヴィドは、特権的なアカデミーの権威に反発し、フランス革命が勃発すると革命派に身を置き、ナポレオンに心酔して写実的な作品を多数製作した。その画風はギリシアやローマの古典にみられる落ち着いた様式的な美を理想とし、フランス古典主義(新古典主義とも言う)を確立させた。ダヴィドの古典主義を継承したのが19世紀のアングルである。彼はサロンと言われた芸術アカデミーの展覧会を主催し、古典主義に批判的な作品に対しては冷淡であった。ドラクロワらのロマン主義は古典主義の形式的表現を批判し、より自由で個性的な作品を発表した。 |
a 「疾風怒涛」 | |
b ゲーテ | → ヴァルミーの戦いでのゲーテ |
c シラー | |
d ダヴィド | フランス革命からナポレオン時代の代表的な画家で、古典主義(新古典主義という場合もある)の様式を確立した。何よりも彼は革命派としてフランス革命の現場にかかわり、まるで記録写真のように多くの出来事や人物を描いている。「球戯場(テニスコート)の誓い」は革命の発端となった三部会の情景を伝えており、マリーアントワネットの処刑や、マラーの死などを題材として描いている。彼はロベスピエールに心酔して、自ら国民公会の議員に選出され、さらに1794年の協力して「最高存在の祭典」を演出している。テルミドールのクーデタで捕らえられ、入獄したが、ナポレオンに深く取り入ってその主席画家として「ナポレオン1世の戴冠式」その他の作品を残している。ナポレオンの没落によってダヴィドもベルギーに亡命したが、その古典主義の様式は弟子のアングルに継承された。 出題 07年 成城大(経) ダヴィドについて述べた次の文の空欄に入る語句を答えなさい。(一部改訂) 1791年に描かれたダヴィドの代表作のひとつ「( 1 )の誓い」は、1789年5月の歴史的事件を絵画として記録しようとした国民議会の後援を得たものであった。やがてダヴィドは、直接に政治の世界に足を踏み入れ、1792年9月、( 2 )の議員に選出されたのである。国王ルイ16世の裁判においても有罪とする投票を行った。また、ジャコバン派の( 3 )とも親しい間柄となり、公教育委員会の有力メンバーとして、93年の「8月10日の祭典」の総監督、94年6月の「最高存在の祭典」の演出をつとめるなど、さまざまな革命の祭典の準備に携わった。この間、ジャコバン派の指導者であった( 4 )が93年7月に暗殺されると、ダヴィドはその葬儀の責任者となり、同時に自らその死を描いた。テルミドール9日の反動によって( 3 )が失脚すると、ダヴィドは、処刑は免れたものの1年あまりの獄中生活を余儀なくされた。その後、王党派から命を狙われていたダヴィドは、( 5 )に接近し、その「アルプス越え」など、かれを称える絵画を制作し始めた。1804年、( 5 )が皇帝に即位すると、その主席画家の称号を与えられ、その戴冠式を描いた。しかし15年、復古王政の時代になると、ダヴィドはブリュッセルに亡命、この地に没した。 解答→ 1.球戯場(テニスコート) 2.国民公会 3.ロベスピエール 4.マラー 5.ナポレオン |
e アングル | |
f ハイドン | |
g モーツァルト | |
h ベートーヴェン | |
B ロマン主義 | ロマン主義は19世紀前半に、文学や絵画、音楽の領域を含めてヨーロッパ全体を風靡した芸術運動であった。絵画の分野ではダヴィドらの古典主義がギリシアやローマの美術を模範として、正確なデッサンと安定した構図にもとづく様式を持っていたのに対し、もっと自由な発想による高揚した感性の世界を表現しようとした。一言で言えば古典主義が「人間の理性に信頼を置いていた」とすれば、ロマン主義は「何よりも感受性を重んじた」と言ってよい。<高階秀爾『名画を見る眼』岩波新書 p.145> |
a ハイネ | |
b バイロン | 19世紀前半に活躍したイギリスの詩人。男爵家を相続し、自由奔放な生活で社交界の花形になる。作品は『チャイルド・ハロルドの遍歴』、『ドン・ジュアン』など。特にギリシア古典文明に傾倒し、「ギリシア愛護主義」をかかげ、さらにオスマン帝国支配下のギリシアの独立運動を支援、「ギリシアに自由を」運動をおこした。1842年、ギリシア独立戦争に参加するために自らギリシアに赴いたが、現地で客死した。 Epi. バイロン、ミソロンギでの詩的な最後 「1842年、バイロンは沼に囲まれたみすぼらしい町ミソロンギへ到着する。彼は二十一発の礼砲をもって正式に歓迎され、直ちに五千人の部下を持つ指揮官に任命された。しかしこの戦争好きの詩人は一度も部下を率いて戦場で活躍することはなかった。すぐに高熱を発して、死んでしまった……。」<テランス・ディックス『とびきり陽気なヨーロッパ史』竹内理訳 ちくま文庫 p.132> |
c ユーゴー | |
プーシキン | プーシキンは19世紀初頭のロシアの「国民詩人」と言われる。1799年、モスクワの貴族の子として生まれ、ナポレオンの侵入のころに少年時代を送り、民族的な誇りを呼び覚まされるとともに、ツァーリズムとそれをささえる農奴制への疑問を強めた。またバイロンの影響を受けロマン的な詩を作るようになり、その詩は広く受け入れられたが政府ににらまれ、南ロシアに追放になった。1825年にデカブリストの反乱が起こると、それに加わろうとしたが、モスクワに着く前に鎮圧され、果たせなかった。新しい皇帝ニコライ1世は、プーシキンの追放を解く代わりに宮廷詩人の地位を与え、皇帝が検閲する条件で彼に詩作を許した。彼は筆を曲げずに著作を続けたが、発表の機会は与えられなかった。宮廷の貴族たちは彼を笑いものにしようとして一人の青年をけしかけ、彼の美しい妻ナターーリヤに言い寄らせ、青年とプーシキンを決闘に追い込んだ。1837年2月の雪の中で決闘が行われ、その傷がもとで2日後にプーシキンは死んだ。わずか37歳だった。 作品:彼の作品は多くの詩の他に、歴史に素材をとった『エフゲニー・オネーギン』、『ボリス・ゴドーノフ』、『スペードの女王』などがあるが、代表作は、プガチョフの農民反乱を背景にした『大尉の娘』(1836年)であろう。 |
d ドラクロワ | Eugène Delacroix 1798-1863 19世紀前半のフランス・ロマン主義絵画の代表的作家。1822年の『ダンテの船』、1824年の『キオス島の虐殺』(シオ島の虐殺)を発表し、ダヴィドやアングルなどの古典派が主流を占めていたサロンを驚かせ、賛否両論の論争を巻き起こした。その荒々しい色彩とタッチは、端正で安定的な古典派からは「狂気の作品」として非難され、若い作家からは新しい時代を開くものとして賞賛された。「世にドラクロワほど烈しい論争をまき起こした作家は、古往今来恐らく類がないであろう」<坂崎坦『ドラクロワ』1967 朝日選書>と言われている。 作品:題材に歴史的なものも多いので、よく教科書に採られており、ギリシア独立戦争の際の『キオス島の虐殺』(『シオの虐殺』)、あまりにも有名な1830年の七月革命を描いた『民衆を率いる自由の女神』がある。7月王政のもとで、外交使節に随行してモロッコ・アルジェリアを旅行し、1834年に『アルジェの女たち』などを発表した。それらの作品は、生き生きとした色彩を用いた個性豊かな描写で、後の印象派にも強い影響を与えた。またショパンやその愛人であった作家のジョルジュ=サンドとも交流があり、『ショパンの肖像』の作品もある。他に、ルーブル美術館の天井画など、65年の生涯で9182点の作品を残している。<同上> |
『キオス島の虐殺』 | ドラクロワ(26歳)の1824年の絵画作品。ギリシア独立戦争を支援するという情熱を絵画であらわしたロマン主義絵画の代表的な例。1822年に起こったオスマン帝国のトルコ軍がエーゲ海のキオス島のギリシア人住民の多数を虐殺した事件を描いている。この事件はヨーロッパに広く知られ、ギリシア愛護主義が盛り上がった。イギリスの詩人バイロンは自ら義勇兵の一人としてギリシアに赴いたが、1824年の4月に現地で病死した。バイロンの詩に心酔していたドラクロワはただちにこの惨劇を主題として取り上げた。画面は濃い青色の海を遠景に、騎馬のトルコ兵とその足下の死骸、呆然としたギリシアの男女を描いており、その荒々しい筆致は当時の見る人を驚かし、批評家は激しく非難された。<坂崎坦『ドラクロワ』1967 朝日選書p.11-14> 出題 07年 成蹊大(法) 「左の図の主題は、ある国の独立運動の過程でおこった出来事である。この国の独立の過程についての記述として不適切なものは次のどれか。 1.イギリスの詩人バイロンは、この独立運動に義勇兵として参加した。 2.エジプトや、この独立運動の鎮圧をめざす側に立って参戦した。 3.ナヴァリノの海戦では、この独立運動を支援するイギリス・オーストリア・ロシアの連合艦隊が勝利を収めた。 4.ロンドンで開かれた国際会議において、この国の独立が国際的に承認された。 → 解答 3 ギリシア独立を支援したのはオーストリアではなくフランス。 |
『民衆を率いる自由の女神』 | 出題 05年 早大(一文) 「左図は、シャルル10世の反動政治に対し蜂起したパリ市民が、自由の女神に導かれ闘う様子を、躍動感のある動きのうちにとらえ、革命の精神をあらわしている。」 問1 この図を描いた画家は、ショパンやサンドと交流し、ロマン派の画風を確立した。それは誰か。 問2 ここで描かれている革命の名称を記しなさい。 問3 A=この作品 B=マネの『マクシミリアンの処刑』 C=ダヴィドの『ナポレオンのアルプス越え』 の三点で描かれている出来事を年代順に並べなさい。 → 解答 問1 ドラクロワ 問2 七月革命 問3 C−A−B |
e シューベルト | |
f シューマン | |
g ショパン | |
h ワグナー | |
ベルリオーズ | |
リスト | |
ヴェルディ | |
C 写実主義 | |
a スタンダール | Stendhal 1783〜1842 フランスの写実主義の代表的な文学者。彼が活躍したのは、19世紀前半の復古王政から七月王政の時代だった。 作品:『赤と黒』、『パルムの僧院』が代表作。その他に自伝『アンリ・ブリュラールの生涯』、紀行文、ナポレオンの伝記、モーツァルトの音楽論などなど、多くの作品があり、日本でも最もよく読まれている作者の一人であろう。 |
『赤と黒』 | スタンダールの代表作である『赤と黒』(1830年)は、復古王政のシャルル10世時代を舞台とした恋愛小説であるが、野心に突き動かされ立身出世を遂げようという青年ジュリアン=ソレルが、貴族社会の女性との間の激しい愛憎関係から、ついに破滅していくという、革命後の社会変動という背景を抜きには成り立たない作品となっている。ジュリアン=ソレルは田舎の貧しい木工所の息子として生まれたが、ナポレオンを尊敬し、自分の力で出世したいと願っている。聖書をすべてそらんじてみせるという抜群の暗記力を発揮して村の神父に認められ、学費を得るために有力者の家庭教師に紹介される。やがてその家のレナール夫人と密通する。ジュリアンにとっては「木挽きの子」にすぎない自分が貴婦人の愛を得ることは「自分の義務、しかも英雄的な義務を果たしたのだ」と思う。危険を感じた神父のすすめで、神学校で学ぶことになるが、「仲間に言わせると、ジュリアンは、権威とか模範とかに、盲目的に従おうとせず、自分で考え、自分で判断するというとんでもない悪癖に染まっている、というのだ」。神学校をやめてパリに出て、こんどは軍人をめざし、貴族ラ=モール伯爵家の秘書となる。その家の娘マチルダと恋の駆け引きを演じる。レナール夫人は嫉妬に燃えて復讐を誓う・・・・。といったあらすじであるが、ジュリアンの野心とレナール夫人とマチルダとの恋の駆け引きがスリリングに展開する。しかし何よりもそこで描かれているのは、フランス革命とナポレオンによって生み出された「自分で考え、自分で判断」しようとする近代的な自我が、反動期の社会の中で押しつぶされていくという歴史であるとも言える。<桑原武夫・生島遼一訳 人文書院 スタンダール全集> |
『パルムの僧院』 | 1838年に書かれた、スタンダールの『赤と黒』に並ぶ作品。ナポレオンのイタリア遠征で大きく転換した北イタリアを舞台とした作品であり、19世紀初頭の北イタリアの状況が描かれている。パルムとはイタリアのパルマのフランス語読み。パルマ公国は北イタリアの公国のひとつであるがオーストリアの支配を受けていたが、ナポレオンによって解放され、同時に自由を求める民衆運動が起こってきた。主人公のファブリス=デル=ドンゴは貴族の青年(その出生はパルムの貴族の女性とナポレオン軍の青年将校の間に生まれたという秘密がある)であるが、ナポレオンにあこがれ、パルムを抜け出してワーテルローの戦いに参加する。ナポレオン軍が敗れ、パルムに戻るがもはやオーストリアの支配と封建社会に復してしまったので、ファブリスは追われる身となる。その彼を熱心に護ってくれたのが美しい叔母のサンセヴェリナ公爵夫人であった。夫人はいつしかファブリスを恋するようになる。しかしファブリスを慕うもうひとりの女性、パルム公国の監獄長コンチ将軍の娘クレリアがいる。ファブリスは自ら入獄するが、夫人やクレリアがその脱獄の手助けをする・・・・。話は北イタリアのコモ湖やポー川周辺の風景を背景に、ファブリスの冒険譚として展開するが、『赤と黒』のような緊張感や悲劇性は希薄であり、またその結末も淡々としており、一抹の寂寥感がある。大人の作品といえるだろう。冒頭のファブリスが参加したワーテルローの戦いの描写は、ユゴーの『レ・ミゼラブル』での描写とともに、その情況をみごとに捉えた部分として知られている。<生島遼一訳 人文書院 スタンダール全集> |
b バルザック | |
c フローベール | Gustave Flaubert 1821〜1880 19世紀後半フランスの文学者。『ボヴァリー夫人』などの作品で、当時の社会と人間のあり方をありのままに描く写実主義(リアリズム)の文学を大成させた。『ボヴァリー夫人』は、発表当時はその内容が良俗に反するものとして起訴され裁判となった。ナポレオン3世の第二帝政のもとで、他にも官憲によるボードレールの『悪の華』に対する発禁処分や、美術ではクールベやマネの新しい画風が激しい非難にさらされていた時期であった。 作品:『ボヴァリー夫人』(1857年)は、田舎の医者夫人が平凡な日常と夫から逃れようと、若い男を恋したり、色事師に引っかかったりして堕落していく様を描いている。露骨な性愛が描かれているわけではないが、妻の不倫というテーマを正面から取り上げたこと、随所に見られる第2帝政期の商人や僧侶などに対するあからさまな非難が人々を驚かした。のほかに『サランボー』(1862年)、『感情教育』(1869年)などがある。 |
『ボヴァリー夫人』 | 1857年発表のフローベールの代表作。19世紀前半を支配したロマン主義の文学に対する、写実主義(リアリズム)の最初の傑作として称賛されている。発表されるとすぐ、第二帝政政府によって「良俗を害し、宗教を汚すもの」として起訴され裁判となったが、裁判の結果無罪となった。かえってそのことで話題となり、フローベールの名とこの作品が有名になった。あるときボヴァリー夫人のモデルは誰かと聞かれてフローベールは「ボヴァリー夫人は私だ」と答えた。また、あるときは「いまこのとき、フランスの多くの村々で、ボヴァリー夫人が泣いている」といったことも有名である。<岩波文庫 伊吹武彦の解説より> 内容:主人公のエンマは田舎町の医者の夫人。夫シャルルは「歩道のように平板で、そこには月なみな思想が、感動も笑いも夢もそそらずに、普段着のままでぞろぞろ歩いていた。」<p.64>エンマは「夫の胸にちょっと火打ち石をたたいてみて火花一つ出すことができず・・・」恋することを知らずに過ごすことに飽いていた。熱心に読書をし、「エンマはその頃メり・スチュアートを崇拝し、有名な女、薄幸な女に熱烈な尊敬の情をささげていた。ジャンヌ・ダルク、エロイーズ、アニェス・ソレル・・・などが無辺際の歴史の闇に、彗星のように浮かんで見えた。またそこには、かしの木陰に裁判する聖ルイ王や、死んで行くバイヤール将軍やルイ11世の暴虐や、聖バルテレミー祭大虐殺のひとくさりや、アンリ4世の兜の前立、そしていつもきまったように、ルイ14世をたたえたあの絵皿の記憶が、・・・ひとしお深い闇にまぎれて浮き出ていた」<p.59>のだった。やがてレオンという青年と密会するようになり、恋の冒険を楽しむようになる。しかし深入りを恐れたレオンは街を離れる。そんなエンマの美貌に目を付けた色事師ロナルドが近づいてくる・・・。物語の後半はこのようなロマンチックな主人公の夢が、「世間」という現実世界の中で次々と壊されていくありさまが残酷に描かれていく。<『ボヴァリー夫人』伊吹武彦訳 上・下 岩波文庫> |
『感情教育』 | フローベールが1864〜69年に発表した文学作品。時代は七月王政の1840年に始まり、山場に1848年の二月革命のパリが舞台となっている。副題が「ある青年の物語」とあるように、主人公フレデリックとその周辺の青年たちの、いわば青春群像であり、彼らの出世欲と正義感、愛欲と克己心などの葛藤が描かれている。フレデリックは弁護士として世に出るため田舎から出てきた。そのたびの途中の船乗り場で美しい人妻アルヌー夫人にあう。パリで、その夫の画商のアルヌーと知り合いになり、そこに出入りする人たちと知り合う。しかしアルヌー夫人に対する思いを遂げることが出来ない。そのうち、アルヌーの情婦ロザネットと知り合う。二人で過ごした夜が明けると、パリは二月革命の勃発の日であった。フレデリックは街に飛び出す・・・・。激動の中でもフレデリックは遂げられない思いに虚無的になり革命から離れていく。ロザネットとの間に子どもが出来るが、その子はあっけなく死んでしまう。田舎に帰り、母の進める縁談に気持が揺れていく。結局田舎に戻ったフレデリックは土地の街の有職者のサロンに出入りしてその家の夫人の愛人になる。パリではアルヌーが事業に失敗し、夫人も苦労をしているらしい。何年かの後、パリに戻ったフレデリックはアルヌー夫人に再会するが・・・。 フレデリックは野心と欲望をに燃えた、自信たっぷりの青年であったが、激動のパリで革命に翻弄される。仲間もブルジョワ派や王政復古派、社会主義派へと分かれていくなかで、彼自身も挫折していく。フレデリックの人物像にはフローベール自身が反映していると言われているが、近代社会の青年が味わった「青春の蹉跌」の最初の典型といえるだろう。<『感情教育』生島遼一訳 上・下 岩波文庫> 二月革命の史料としての『感情教育』:この作品でフローベールは自ら体験した二月革命からルイ=ナポレオンのクーデターに至る過程を、さらに厳密に史料にあたって再現している。特に第2部6章から第3部1章はよく引用される。<岩波文庫 下 p.24〜163> また、フローベールの社会批判は作中人物にこんなことを言わせている。「農業の保護をもっとよくし、あらゆることを自由競争や無秩序にまかしておかず、あの<laissez faire,laissez passer>(なすにまかせよ=レッセフェール)の悲しむべき格言にまかしておかなかったら、あんなこと(1846〜47年、ビュザンセ地方で飢饉のため農民と官憲が衝突した)は一切起こらずにすんだのだ。だからこそ、も一つの封建制度より悪質な金銭の封建制度が出来上がった。」<同 上 p.219> |
d ディッケンズ | |
e ドストエフスキー | |
f トルストイ | |
g クールベ | Gustave Courbet 1819〜1877 19世紀フランス美術のひとつの潮流である写実主義の代表的な画家。彼はフランスの第2共和制から第2帝政・第3共和政の時代に生き、「生まれながらの共和主義者」と自称し社会に強い関心を抱き続けた。最初フーリエの思想を知り、次いでプルードンの社会主義思想に共鳴して、絵画を通じてその思想を表現しようとした。彼が田舎町の貧しい農夫や労働者などをしばしば描くのはそのためであり、彼にとって理想であった1848年の革命とそれに続く第二共和政を無残にも踏みにじってしまったナポレオン3世に強い反感を抱いたのものそのためである。事実、第2帝政時代に時の政府が彼にレジオン・ドヌール勲章を授与しようとした時、彼は「それよりも私は自由がほしい」と言って公然と叙勲を拒否した。<高階秀爾『名画を見る眼』岩波新書 p.168> クールベは1870年に普仏戦争でナポレオン3世が退位し、パリ=コミューンが成立するとそれに参加し、コミューンが崩壊した後はスイスに亡命してその地で亡くなった。クールベは思想的には社会主義の立場で絵画に新しい題材を持ち込み、「写実主義」の画家とされるが、技法においては特に革新的であったわけではなかった。19世紀後半の新しい技法は、マネによって切り開かれ、印象派が生まれてくる。 作品 『石割り』山川の教科書で取り上げられている。第2次世界大戦のドレスデン爆撃で消失した。『オルナンの葬式』、『アトリエ』など多数。 |
『アトリエ』 | フランス19世紀の写実主義、クールベの代表作。1855年。361×598cmの巨大な画面の中央にカンバスに風景画を描いているクールベ自身がいる。それを裸体のモデルやこいつの連れた子どもが見ている。その左右にさまざまな群像が描かれていて、実際のアトリエの風景からはまったくはなれている異様な作品である。これは同年のパリ万国博への出品を拒絶されてしまったので、クールベは他の自作とともに会場の筋向かいに自費で場所を借りて個展を開き、公開した。彼が自ら「レアリスト(写実主義者)」と名乗ったのはこの時である。しかし観客にはさんざんで入場料を半額に下げても入場者は増えなかった。しかし、当時画壇の大家であったドラクロワは「異様な傑作だ」と評した。実はこの作品の本題は「現実的な寓意・わが7年間の芸術的生涯の一面を決定するわがアトリエの内部」という長いもので、描こうとしたのは「社会」の悲惨であり、左側の一群はブルジョワと商人のまわりに墓掘り人や娼婦、失業者などの底辺の人々を絵が着込み、右側の一群には彼の絵の数少ない理解者であるプルードンや詩人のボードレールなどが描かれている。 <高階秀爾『名画を見る眼』岩波新書 p.163-170> |
D 自然主義 | |
a ゾラ | |
b モーパッサン | |
c イプセン | |
d ミレー | |
e ドーミエ | |
a ボードレール | |
b ワイルド | |
c ヴェルレーヌ | |
d 印象派 | 19世紀後半のフランスに始まる、光と影を繊細な筆使いで色彩豊かに描く画法。その先駆的な画家にはマネがいるが、本格的な印象派に属するとされるのは、モネ、ルノワール、ドガなど、1874年にグループ展を開いたことに始まる。印象派はそれまでの古典主義の遠近法や画面構成の調和などからまったく脱却し、またロマン主義の精神性やテーマ主義、力強い表現とも異なり、写実主義の正確な表現や社会性とも違った、まったく新しい画風を出現させた。それは対象を形や奥行きで捉えるのではなく、また対象に固有の色彩ではなく、眼に映るままの輝かしい光として描くものであった。技法上は色彩分割といって、太陽の下での明るさをそのままあらわすために、絵の具を混ぜ合わせず、原色のまま細かく分割してならべ、明暗を表現しようというものである。その結果、対象の形態の輪郭線はあいまいとなり、立体感も重視されなくなった。印象派の出現はその後の美術に大きな影響を与え、近代絵画の出発点となった。なお、印象派の中から出てきたセザンヌや、ゴーガン、ゴッホは、後期印象派と言われる。 印象派の背景:印象派の出現に大きな刺激となったのが、フランスでも知られるようになった日本の浮世絵であった。日本文化に対する関心はジャポニズムと言われ、単なる異国趣味に留まらず、新しい芸術への刺激となっていたが、特に浮世絵は、それまでの西洋絵画に見られない、装飾的、平面的な構成に豊かな色彩などが画家の目を引いたのだった。印象派の先駆的な画家であったマネの『エミール・ゾラの肖像』の背景には相撲の錦絵が描かれており、ゴッホも浮世絵を題材に作品を残している。 印象派の登場の技術的背景には、絵の具の改良がある。画家はそれまで風景画もスケッチをもとにしてアトリエの中で制作していた。それは絵具の塊をやそれを溶かす容れ物を持ち運びできなかったからだ。19世紀の中ごろ、チューブ入りの絵具がアメリカの画家によって考案され、画家は戸外で直接にキャンバスに向かえるようになり、太陽の光のもとにあるものをそのまま油絵具で描くことが可能になった。<高階秀爾『続名画を見る眼』岩波新書 p.5> Epi. 美術記者の悪口だった「印象派」という命名 美術史上の印象派は、1874年のモネの「印象・日の出」をはじめとする、ルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌらの作品が展示された「画家彫刻家版画家協会展」から始まるとされる。これは当時の官展(サロン)に落選した若い画家たちが独自に開いたグループ展で、後に「印象派グループ第1回展」と言われるようになった。このグループ展を見た『シャリヴァリ』紙の美術記者がモネの作品『印象・日の出』に対し、「印象主義者の展覧会」という批評を行い、非難と嘲笑を加えた。そこからこのグループが「印象派」と言われるようになった。このように「印象派」というのはジャーナリスティックな非難をこめた命名だったが、かえって有名になり、近代絵画の最初のグループ名として定着してしまった。<高階秀爾『続名画を見る眼』岩波新書 p.8> |
e マネ | Edouard Manet 1832〜1883 19世紀後半の近代絵画への転換をもたらした画家のひとり。一般的に印象派の一人とされる。 「19世紀の絵画を近代絵画の方向に大きく推し進めた革新者であった。マネ以後、絵画の歴史は、それ以前とはっきり違った道を歩むようになる。クールベは市民社会に対する反逆者であり、革命的な思想家ではあったが、革命的な画家ではなかった。クールベの作品においては、伝統的な表現はそのまま受け継がれ、生き続けていた。しかし、マネの作品には、はっきりと伝統との断絶を示しているのである。・・・マネ以後、近代絵画が「オランピア」によって暗示された方向、すなわち、三次元的表現の否定と平面性の強調という方向に進むのは、よく知られている通りである。マネ自身、おそらく自分の作品の持っていた歴史的意義を十分に理解することができなかったに違いない。画家マネはそれほどまでに革新的であり、人間マネは逆にそれほどまで保守的であった。・・・」<高階秀爾『名画を見る眼』岩波新書 p.187-188> マネと印象派:教科書ではマネは印象派のひとりとされているが、美術史の一般的な分け方ではマネは「印象派」には入らない。印象派は、モネやルノワールらが共同展覧会を開いたときに批評家がそのグループに与えた名称であるが、マネはそのグループに属したことはなく、また自ら自分は印象派でない、と言っている。またその作風も、モネやルノアールのように全てを色彩に分解して、感性をそのまま筆致に乗せていくという印象派とは明らかに違っており、対象ははっきりと形を持っている。しかし、マネ以前のクールベや同時代のミレーのような写実性、立体的、遠近法的描写はくずれ、平面的で色彩が多彩であるという点でまったく新しい画風と言える。そこでマネは印象派の始祖のひとりに加えることも行われている。 作品 『草上の昼食』1863年、続いて 『オランピア』1865年を発表したが、いずれも大変なスキャンダラスな騒ぎを引き起こした。『草上の昼食』は木々の中で男女が昼食を拡げているが、男性は紳士然とした服装なのに、女性は裸体で横たわっている。生々しい女性の裸体が、日常性の中に現れたことに、当時の市民は驚き、批評家は憤激した。『オランピア』は、ベッドの上で悠然と横たわる裸婦を描いているが、新聞や批評はこぞって「卑しく、恥知らずな」作品に嘲弄と罵声を浴びせた。「お腹の黄色い娼婦」、「雌のゴリラ」とか、「湯上がりの後のスペードの女王」(クールベの評。トランプの絵のように平面的だ、という意味。)などと酷評され、ステッキでこの作品になぐりかかるものも少なくなかった。<高階秀爾『名画を見る眼』岩波新書 p.177-183> マネの作品は他に、『笛を吹く少年』1866、『マクシミリアンの処刑』1867(ナポレオン3世によってメキシコ皇帝にされ、現地の反乱軍に捕らえられて処刑されたマクシミリアンの悲劇を描いている)、『エミール=ゾラの肖像』1868(背景に日本の浮世絵が描かれている)、『バルコニー』1868、などがある。 |
『マクシミリアンの処刑』 | 出題 05年 早大(一文) 右図はメキシコ皇帝となったオーストリア大公のマクシミリアンが処刑された事件をとりあげ、その悲惨な出来事を告発している。 問1 この画家は『草上の昼食』など印象派の先駆的作例を示した作家である。その名前を答えなさい。 問2 A−ドラクロワの『民衆を率いる自由の女神』 B−この作品 C−ダヴィドの『ナポレオンのアルプス越え』 以上の三作品で描かれている出来事を年代順に並べなさい。 → 解答 問1 マネ 問2 C−A−B |
f モネ | Claude Monet 1840〜1926 印象派を代表する画家。少年時代を港町ル=アーブルですごす。18歳でパリに出て画家になり、ほとんど独力で新しい画風をつくりだし、1874年に仲間のルノアールやピサロとともに官展(サロン)落選者だけで展覧会を開き、『印象・日の出』を発表。それが「印象派」グループの結成の始まりとなった。彼の絵は批評家からは非難されたが、それまでの美術史の流れを変える影響力をもって、近代絵画の出発点となった。 作品:『印象・日の出』の他に、『パラソルをさす女』(1886)など。晩年はパリ郊外で庭の睡蓮を描き続けた。 |
g ルノワール | Auguste Renoir 1841〜1919 モネとともに印象派を創出した画家の一人。フランス中部のリモージュの生まれ。13歳でパリに出て陶磁器の絵付け職人となった。陶器工場が機械による大量生産商品の出現によって潰れ、ルノワールは21歳で画家になると決意し、パリ国立美術学校に入学。そこでモネと知り合う。この時の仲間が印象派運動の中心となった。1870年代に印象派を代表する画家として清潔な明るい色彩で数多くの名品を残した。81年から82年にかけてアルジェリアやイタリアを旅行し、ルネサンス期の古典作品に触れて、印象派に疑問を持つようになり、後半生は印象派の技法にとらわれない独自の豊麗な様式に移っていく。晩年は南フランスのカーニュに住み、最後まで制作を続けた。<高階秀爾『続名画を見る眼』 岩波新書 p.25-26> 作品:『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1876)、『ピアノの前の少女たち』(1892) など多数。 |
h 後期印象派 | |
i セザンヌ | Paul Cézanne 1839〜1906 19世紀後半、フランスの後期印象派に属する画家。印象派から出発し、新たな平面構成を重視した画風が現代絵画に大きな影響を与えた。南フランスのエクス・アン・プロヴァンスの生まれで父は帽子屋。画家を志しパリに出て国立美術学校の受験に何回も失敗し、サロンにも常に落選、生存中は世に知られることはなかった。ピサロを通じて印象派に加わり、新しい色彩世界を発見し、その影響を受けた。しかし彼は豊かな色彩と厳しい画面の構成的秩序を調和させることに努力するようになり、独自の画風を切り開いた。それは自然の形態を円錐と円筒と球体で構成する幾何学的な構成に集約されていく。晩年は故郷に引きこもりごく少数の友人としか交際しなかった。世を去ってから1年後にパリで開かれた回顧展は、直接にはキュビスムの運動の出発点となり、ひいては現代絵画全体の重要な原動力となった。<高階秀爾『続名画を見る眼』 岩波新書 p.43> 作品:セザンヌの作品の主題はほとんど風景と静物と肖像である。肖像画も自画像か『温室の中のセザンヌ夫人』(1880年)などの妻を描いたもがほとんど。セザンヌは30歳の時、モデルとなった18歳のオルタンスと結婚した。風景画では『松の木のあるサント・ヴィクトワール山』(1887年)など故郷の山を何度も描いている。静物画では果物や花瓶などをさまざまな角度で描いている。そのいずれにおいても、セザンヌは写実ではなく、形の本質をとらえるということをテーマとした。古典主義の遠近法でもなく、印象派の色彩とタッチだけでもなく、平面に「色彩を構成する」ことによって新しい絵画の地平を開いた。このような造形法はキュビスムに影響を与えた。 Epi. ゾラとセザンヌ 同郷の作家エミール=ゾラはセザンヌの2歳下で、子どもの頃からの仲良しだった。セザンヌはひ弱ないじめられっ子だったゾラを、自分の弟のようにかわいがり固い友情で結ばれた。ゾラがセザンヌにお礼として差し出したのがリンゴだった。セザンヌはよくリンゴをモチーフに使うようになる。人嫌いなセザンヌを励まし、パリに出ることを進めたのもゾラで、逆に有名になってからのゾラは無名のセザンヌを保護したという。ところが1886年にゾラがセザンヌをモデルに書いた小説『作品』がもとで絶交してしまう。<佐藤晃子『世界の絵画50』 KAWADE夢新書 p.98> |
j ゴーガン | Paul Gauguin 1848〜1903 19世紀後半フランスの後期印象派の画家。1848年の二月革命で騒然とするパリに生まれ、父は共和派のジャーナリスト、クーデターでナポレオン3世が権力を握ると故国を捨てて南米にむかい、船上で死んだ。子どものゴーガンはそのまま4年間、南米のペルーにとどまった。17歳の時船乗りとなって各地をまわり、その後パリに落ち着き株の仲買人となって家族も持ったが、1883年、35歳でにわかに画家の道を歩むことになった。絵が売れるはずがなく怒った妻は実家のデンマークに帰ってしまう。1888年にはゴッホに誘われてアルルで共同生活にはいるが、わずか2ヶ月で破綻。その後1891年から南太平洋のタヒチに行き、その地で製作に没頭する。このようにゴーガンの絵はヨーロッパの伝統をはみ出した画家であったが、その作品は現代の絵画に大きな影響を与えた。 作品:『イア・オラナ・マリア』(1891年)など、タヒチでの作品がよく知られている。その表現は豊かな色彩が用いられているが、印象派とは異なり、明確な輪郭線を持っている。 Epi. 『月と六ペンス』 イギリスの小説家モーム(William Somerset Maugham 1874-1965)は、ゴーガンの生き方に強いインスピレーションを得て、『月と六ペンス』(the Moon and Sixpence 1919)を書いた。この小説ではイギリス人のチャールズ=ストリックランドとなっているが、そのモデルがゴーガンとされている。ストリックランドは株の仲買人であったが40歳を過ぎて画家になることを決意し、妻子を捨ててパリに行く。名誉や金銭には頓着せず、ひたすら創作に励むが、ある時は友人の画家の妻を奪い、同棲したあげくその女が自殺する騒ぎを起こす。そんな奔放な生活を小説の語り手の「私」もついて行けず、いつしか疎遠になる。後になってストリックランドが南太平洋のタヒチに渡ったと知り、「私」はその後を訪ねると、彼はすでに死んでおり、島の人々から、現地で妻となったアタとのはじめて安楽な生活を送ったこと、壮絶な最期とを知る。そして島に残されたその作品に、その創造性をみるのだった。『月と六ペンス』の月とは「人間を狂気に導く芸術的創造熱」を意味し、六ペンスとは「家庭とか社会とかいう世俗的なつながりの無意味さ」を示しているのであろう。<モーム/中野好夫訳『月と六ペンス』 新潮文庫> |
k ゴッホ | Vincent van Goch 1853〜1890 19世紀末の後期印象派の画家。オランダのブラバンド州で牧師の子として生まれ、さまざまな職業に就いた後、伝道師をへて1880年頃画家になる決意をした。オランダ、ベルギー時代の作品は暗い陰鬱な色調で農民や織工を描いたものが多く、86年にパリにやってきてから印象派を知り、日本の浮世絵の影響も受けて、激しい色彩表現をするようになる。88年に南仏アルルに移り、ゴーガンとの共同生活にはいるが、精神に異常を来して「耳切事件」を起こし、1890年7月、カラスの群れ飛ぶオーヴェルの丘の上でピストル自殺を試み、数日後に世を去った。<高階秀爾『続名画を見る眼』 岩波新書 p.58-59> 作品:『ひまわり』(1888年)、『アルルの寝室』(1889年)など、代表作はほとんどアルル滞在中の数年間に集中している。左の絵は、ゴッホの自画像。 参考 映画『炎の人ゴッホ』 1956年 アメリカ ヴィンセント・ミネリ監督。ゴッホをカーク・ダグラス、ゴーガンをアンソニー・クインが演じた。ゴッホは伝道師として悩み、恋に破れ、画家の道をめざす。しかし結婚も破綻。画商として成功していた弟を頼ってパリに出て、当時の印象派の洗礼を受け、ゴーガンらと知り合う。そしてアルルでのゴーガンとの共同生活が始まるが、その頃から狂気が頭をもたげ、耳切事件を起こしてゴーガンも去っていく。そして孤独のうちに狂気をつのらせていく・・・・。鮮烈な南仏の風景と、ゴッホの作品が明るい色彩で見ることできる。 |
l ロダン | |
ブラームス | |
ムソログスキー | |
チャイコフスキー | |
スメタナ | |
イ.哲学と人文・社会科学 | |
a ドイツ観念論 | |
b ヘーゲル | |
a 唯物論 | |
b フォイエルバッハ | |
c マルクス | → 第12章 1節 マルクス |
d エンゲルス | → 第12章 1節 エンゲルス |
e 『共産党宣言』 | → 第12章 1節 『共産党宣言』 |
d 『資本論』 | |
a 実存主義 | |
b ショーペンハウエル | |
c キェルケゴール | |
d ニーチェ | |
a 功利主義 | |
b ベンサム | |
c ジョン=ステュワート=ミル | |
d ハーバート=スペンサー | |
a 実証主義 | |
b コント | |
a 古典派経済学 | → 古典派経済学 |
b マルサス | イギリスの古典派経済学の一人(1766〜1834)。イギリス国教会の牧師であったマルサスは、産業革命期の人口増加に直面してその動向を分析し、1798年に『人口論』を発表し、「人口は幾何級数的に増加するが、食糧は算術級数的にしか増加しない」という命題を打ち出した。人口増加がこのまま進めば、イギリス社会の貧困が深刻になると危機感を持ち、人口抑制の必要を説いた。マルサスは牧師らしく、人々に自己の性的欲望を抑えて結婚年齢を遅らせることを訴え、イギリスの将来に不安の影を投げかけた。このような思想は「マルサス主義」とも言われ、産児制限などが始まった。しかし、イギリス経済は19世紀を通じて加速度的な成長を遂げ、その工業化のおかげで、その間の3.5倍に増加した人口をみごとに支えることができた。ただし、アイルランドでは1840年代にジャガイモ飢饉が起き、イギリスによって半植民地されたこともあって工業化が遅れ、貧困が続いた。<村岡健次『世界の歴史』22 1999 p.348> |
c リカード | イギリスの古典派経済学者(1772〜1823)で、アダム=スミスの自由貿易主義を発展させ、イギリス資本主義発展の理論的支柱となった。 リカードの比較生産費説:彼は、主著『経済学及び課税の原理』(1819年)で、イギリスとポルトガルの例を取り上げて、毛織物とぶどう酒を両国が貿易を行わず生産した場合と、両国がいずれかの生産に特化し、自由に貿易を行った場合を比較して論じた。 A・両国が毛織物とぶどう酒をそれぞれ生産する場合(当時はいずれもポルトガルがその生産技術が上回っていた) イギリスは毛織物を100人で100単位を、ぶどう酒を120人で100単位を生産し、ポルトガルは毛織物を90人で100単位を、ぶどう酒を80人で100単位を生産する。両国合計では、毛織物は190人で200単位、ぶどう酒は200人で200単位生産することになる。 B・両国が毛織物かぶどう酒のいずれかに特化して生産する場合 イギリスは毛織物を220人で220単位を生産でき、ポルトガルはぶどう酒を170人で212.5単位生産できる。つまり、Aの場合より毛織物は20単位、ぶどう酒は12.5単位多く生産できることになる。 このように、各国がそれぞれの生産性の高い分野に産業を「特化」しするという「国際分業」を行い、自由な貿易を行うことが、全体の利益をもたらすことを明らかにした。また自由貿易が行われれば、相対的に生産性の高い商品に生産が特化していくという、比較優位の原理があることを明らかにした。リカードはこの考えに基づき、19世紀前半までのイギリスの保護貿易政策を批判し、自由貿易を主張した。産業資本家の中にも自由貿易を主張する人々が増え、その運動が功を奏して1846年に「穀物法」の廃止に現れている自由貿易政策に転換することとなった。 |
a ランケ | |
b サビニー | |
c リスト | |
ウ.科学・技術と市民生活 | |
a ファラデー | 1831年、イギリスのファラデーは、2組のコイルを用いた実験を行い、磁気の作用によって電流が誘導されること、つまり電磁誘導を発見した。さらに1833年に、電気分解の法則を発見。 Epi. 心霊現象を否定したファラデー 19世紀後半になると、イギリスでは心霊主義が台頭し、霊能力を持つと称する人を囲み、不思議な現象を体験する交霊会が各地で開かれるようになった。心霊現象の中でポピュラーなものだった「テーブル・ターニング」(テーブルをかこんだ人間が手をのせると霊の力でテーブルが動く、という)を、まやかしだと考えたファラデーは、力学実験によってそれは参加者の無意識な手の動きがテーブルに作用した現象にすぎないと指摘した。このようなファラデーの努力にもかかわらず、心霊現象や超常現象に対する人々の関心は衰えず、現在でもTVでも盛んに取り上げられている。「科学の発展が加速するにつれ、逆に、科学では説明がつかない神秘的な事柄に関心を深める人々もふえてきたのであろう。」<小山慶太『科学史年表』中公新書 p.136> |
b マイヤー | 1842年、ドイツのマイヤーは、電気、磁気、熱、機械的な仕事、化学反応、光などのすべての現象、作用を、熱の仕事当量(熱と仕事量の変換率)として算定した。またその総量は不変であるとという「エネルギー保存則」を見いだした(エネルギーという概念はまだ使っていなかったが)。これは物理学の基本法則の確立の上で重要な出来事であった。 |
ヘルムホルツ | マイヤーの熱の仕事当量の計算は大まかなものであったので、イギリスのジュールがさらに正確な測定を行った。さらに1847年に、ドイツのヘルムホルツが『力の保存について』という論文で、様々な形態の力(エネルギー)が仕事を行う能力のうえで等価であることを、数学を用いて論じた。1850年、ヘルムホルツによって定式化されたエネルギー保存則は、熱力学の第1法則として認められた。 |
c レントゲン | 1895年11月8日、ドイツのレントゲンは、陰極線の実験をするうちに、X線を発見した。 |
d キュリー夫妻 | |
e リービヒ | それまでの大学での化学教育は、先生が少人数の生徒に知識や技術を伝える徒弟制度の形態であったが、1824年にドイツのギーゼン大学のリービヒは、体系立ったカリキュラムに沿って大勢の学生を同時に指導できる実験室を大学内に設置した。この方式の実験教室はヨーロッパに広まり化学の発展を促した。<小山慶太『科学史年表』中公新書 p.108> |
f パストゥール | |
g コッホ | |
h ダーウィン | 1831年12月27日、イギリスのダーウィンは、軍艦ビーグル号に乗船し、世界周航に出発した。ビーグル号の目的は、南アメリカ海岸の測量であったが、同行したダーウィンはガラパゴス諸島などで未知の動物を観察することにより、進化論という副産物を得ることとなった。5年に及んだビーグル号の航海は彼の『ビーグル号航海記』(岩波文庫)で知ることができる。しかし、彼が進化論を『種の起源』で発表したのは、航海を終えてから23年後の1859年であった。 |
i 進化論 | |
j 『種の起源』 | |
k メンデル | |
l 電気 | |
m モールス | |
海底電信ケーブル | 海底電信ケーブルで離れた陸地間を結ぼうというこころみは、ゴムを絶縁体にすることで可能となり、1851年のイギリス・フランス間のドーヴァー海峡に敷設されたことから始まった。続いて、ヨーロッパとアメリカ大陸を隔てる大西洋に電信ケーブルを敷設する計画が、ニューヨークの若い実業家サイラス=W=フィールドという人物によって始められた。1857年に事情は開始され、何度かの失敗の後、1858年7月28日、大西洋上で両側から引かれてきたケーブルをつなぎ、敷設に成功した。翌月にはエリザベス女王からのメッセージが電信でアメリカに届き、アメリカ中が沸き返り、フィールドは一躍時の人となった。しかしまもなく電信は途絶えてしまった。全く面目を亡くしたフィールドだったが、数年の沈黙の後、大型の敷設用の船を建設して再びケーブルの敷設に乗り出し、1866年に成功させた。<ツヴァイク『歴史の決定的瞬間』「大洋をわたった最初の言葉」に詳しい。> |
n ベル | |
o エディソン | |
p マルコーニ | |
q 石油 | → 14章1節 石油 |
r ダイムラー | 1885年にドイツのヴュルテンベルクで内燃機関を改良し、空気と燃料を混ぜた混合気を機関に送り込む気化器を考案し、さらにその三分の二ほどにガソリンを入れ、ガソリンの濃度の濃い空気ができるようにした。 マンハイムのK.ベンツは同じ1885年に自動車を作ったが、それに蓄電池と誘導コイルをつないだ回路によって点火栓に火花を起こすようにした。翌1886年にダイムラーはガソリン機関をのせた4輪の自動車を製造した。1897年にイギリスのダイムラー社が自動車の製造を始めたときには、さまざまなガソリン機関が使わるようになり、自動車時代が始まることとなる。1903年のライト兄弟の飛行機にもガソリン機関がとりつけられ、ガソリン機関が内燃機関の中で最も多く用いられるようになった。 |
s ディーゼル | ディーゼルはパリ生まれのドイツ人。1892年に内燃機関を発明した。内燃機関はガスが使われていたが、ガスが手に入りにくいところでは不便だったので、1873年にフィラデルフィアのブレイトンが、石油のしみこんだ吸収剤を通した空気をシリンダーへ送り燃焼させる機関を発明した。石油機関の決定的改良を行ったのがディーゼルだった。彼は熱の無駄を無くすために、燃料を少しずつ注いで最高温度を調節し、排気の温度を低くしようとして、一定量の石油が圧縮空気にふれると自然に着火できるようにした。ディーゼル=エンジンは潜水艦の動力としても注目され、第1次世界大戦が近づくとドイツはその特許を国家に提供するようディーゼルに迫ったが、彼はそれを拒否し、イギリスに協力しようとした。ディーゼルは1913年になぞの死を遂げる。 → 潜水艦 Epi. ディーゼルの悲劇 |
t ノーベル | 1867年にダイナマイトを発明したスウェーデン人。それまでニトログリセリンという爆発力が強大な薬品が作られていたが、それを安全に利用する方法はまだ開発されていなかった。ノーベルの父がニトログリセリンを使って鉱山の爆破などに利用しようと考え、ストックホルムに工場を造り、ノーベルもそこで働いていた。ところがまもなく爆発事故が起こり彼の弟や職人が死に、工場は閉鎖された。ノーベルはくじけず、湖の上で実験を続け、あるとき漏れたニトログリセリンが詰め物に使っていたケイ藻土に吸収されているのをみつけた。こうしてケイ藻土にニトログリセリンをしみこませれば持ち運び出来、火をつけなければ爆発せず、また爆発力は変わらないことが解った。彼はニトロとケイ藻土の混合比を3:1にし、ダイナマイトと名づけて売り出した。さらに改良を重ね、ダイナマイトは平和産業だけでなく銃砲、機雷、爆弾など広く使われるようになった。彼自身がダイナマイトを武器として各国に売り込み富を築き、「地上で最も危険な男」と言われた。また、ロシアのバクー油田を経営し利益を上げた。1896年に63歳で死去。その遺言でノーベル賞が創設された。<平田寛編『歴史を動かした発明』岩波ジュニア新書 p.22> |
ノーベル賞 | 1901年に始まる、ダイナマイトを発明して巨額の富を得たスウェーデンのノーベルが、遺言によって設けた賞。彼は遺産の3138万74クローネをもとに基金を作り、その利子を物理学、化学、医学生理学、文学、平和運動の5分野で、その年に最も重要な貢献をした人物に、賞の形で分配するように遺言した。またその受賞者は、国籍を一切問わないことを明記していた。1901年に第1回のノーベル賞が授与された。第1回ノーベル物理学賞はレントゲンが受賞した。 |
u 近代都市 | |
v オスマン | |
w 地下鉄 | 出題 東京大学 2003年 (交通手段の発展に関連して)ロンドンの地下鉄は1863年に開通したが、蒸気機関を使っていたためにその経路は地表すれすれの浅い路線に限られていた。1890年に画期的な新技術が採用され、テムズ川の川底を横切る新路線が開通した。ひきつづき同じ技術を用いてパリに1900年、ベルリンに1902年、ニューヨークに1904年にそれぞれ地下鉄が設けられた。その画期的な新技術とは何か。その名称を記せ。 → 解答 電気機関車(電車) |
x トマス=クック | |
y ロイター通信 | |
エ.地理上の探検 | |
a オーストラリア | オーストラリアの名は、17世紀初めにスペインの探検家キロスが南半球に大陸の存在を認め「テラ・オーストラリス・デル・スピルツ・サントウ」(聖なる南の大地)と名づけたのに始まる。キロスの副官だったトレスはニューギニアと新大陸(まだ新大陸だと気付かなかったが)の間の海峡を通過した。それが現在のトレス海峡である。1642年にオランダの東インド会社はタスマンに南方大陸の探査を命じ、タスマンはタスマニア島とニュージーランドを発見した。しかし彼はこれらの陸地と貿易の利益はないと報告したため、オランダはそれ以上探検を続けることはなかった。その後この未知の大陸は100年以上忘れられていたが、1770年イギリスのクックが東海岸を測量。新たな大陸であることを発見してニューサウスウェールズと名付けた。その後、イギリスの流刑植民地となり、19世紀には牧羊業が盛んになる。1829年にイギリスは大陸全土の領有を宣言した。1851年にニューサウスウェールズなどで金鉱が発見され、移民が激増した。それに対してヨーロッパ系移民の反発が強まり、1880年代からはアジア系移民の受け入れを制限する白濠主義がとられた。1901年にイギリスからの自治が認められ、オーストラリア連邦となった。 → オセアニアへの人類拡散 アボリジニー → オーストラリア連邦 |
b タスマン | 17世紀のオランダの東インド会社の探検家。東インド会社の命令で、1638年に日本沿岸で金銀の探査にあたった後、1642年から南半球の探検を行い、現在のタスマン海を航行し、タスマニアとニュージーランドを発見した。 |
c クック | 18世紀、イギリスの航海者。七年戦争後もフランスとの植民地抗争を続けていたイギリスは、著名な航海者であったクックに1769年、タヒチで金星が太陽面を通過するのを観測するための学術調査隊を送り届けるとともに南太平洋の「未知の大陸」の探索を命じた。クックの艦隊は1796年にニュージーランドを探検しその領有を宣言した後の1770年4月、新大陸の東海岸ボタニー湾に上陸、その地をニューサウスウェールズと名付け、イギリス領であることを宣言した。この大陸は後にオーストラリアと呼ばれるようになった。クックはその後も数回にわたり南太平洋を探検、1779年にハワイで原住民とのトラブルがもとで殺害された。 |
a 太平洋探険 | 太平洋諸島、つまりオーストラリア大陸を除くオセアニアは伝統的に三地域に分けられる。 メラネシア(黒い島々、の意味)…… ニューギニア・ビスマルク諸島・フィジー・ニューカレドニアなど ミクロネシア(小さい島々、の意味)…… マリアナ諸島(グァム、サイパン)、カロリン諸島、パラオ諸島など ポリネシア(多くの島々、の意味)…… ハワイ、ニュージーランド、イースター島を結ぶ三角形内の島々(タヒチ、サモア、トンガなど) これは19世紀前半に太平洋を探検したフランス人デュモン=デュルヴィルが分けたものを継承している。 それより前、1768〜1780年にかけてイギリス人クックが三度にわたって探険し、海図制作と自然や天然資源の探索を行った。 |
d アフリカ探検 | |
e リヴィングストン | |
f スタンリー | |
g ヘディン | |
h ピアリ | |
i アムンゼン | ノルウェーの探検家。1903〜06年、北極を探検したが、北極点到達は、アメリカのピアリに後れを取った。その後、南極探検に向かい、イギリスのスコット隊と競争となり、1911年12月に最初に南極点に達した。1928年、北極探検の遭難者の救助に向かい、遭難して行方不明となった。 |
j スコット | イギリスの海軍大佐で南極探検家、ロバート=スコット。1912年1月18日に南極点に達したが、その1ヶ月前にアムンゼン隊がすでに到達していた。スコット隊は失意のうちにキャンプに戻ろうとしたが、途中嵐に遭い、スコットと4人の隊員が遭難死した。その年の11月に捜索隊がスコット隊の遺体と記録・写真を発見、極点到達が証明された。スコットの悲劇は、ツヴァイクの『歴史の決定的瞬間』に詳しく述べられている。 |
k グリニッジ天文台 | ロンドン郊外のグリニッジに1675年に建設された王立天文台。1884年、ワシントンで開催された国際会議で、ここを通る子午線を本初子午線(つまり経線0°)=世界標準時子午線として、世界の時刻の基準とすることが決められた。列国の中では、フランスが自国のパリを通る子午線を本初子午線とすることを主張し、事実しばらくはフランスで作られる地図はパリを通る線が経度0°としていた。結局、現在の本初子午線に落ち着いたが、それは19世紀のイギリスの世界帝国としての威信、科学技術の水準がものを言ったと言える。なお、グリニッジ天文台は現在では閉鎖され、博物館となっている。また、日本の標準時が明石を通る東経135°と決められたのは1888年のことであった。 |